2024年9月において、主が来られることを期待しつつ、そのことが起きた時のために書き記します。
簡単というよりも、求める者に納得していただくことを目標にしています。
今、自分が持っているものをお出しします。
素直に聞いてください。
その日は、今日かも知れません。
目次
第一部 初めに
1章、その日、何かが起こった!
2章、その日はすぐに来ます。
A)携挙の前兆
B)携挙とラッパ
3章、その日にすぐに起きるのでしょうか?
(神学的証論)
A)否定的主張
B)患難時代前再臨主義(患難の前に取り去られる。)
C)イスラエルとオリーブの木
D)イスラエルの拒否
E)イスラエルの再建
F)反キリストの出現
G)イエスキリストの復活の預言
第二部 あなたは救われているか?
4章、神の存在
5章、人間の存在目的
6章、人間の罪
7章、罪のさばき
8章、神からの救いの提供
9章、キリストの預言について
第三部 終末と希望(これから起きること)
1)患難時代は携挙の後すぐに来ます。
2)患難時代が近いことを考えさせる要因
3)患難時代に起きること
11章、黙示録にある患難時代、裁き
11−1)封印の裁き
A)最初の封印
B)第二の封印
C)第三の封印
D)第四の封印
E)第五の封印
F)第六の封印
G)第七の封印
11−2)十四万四千人のイスラエル
11−3)ラッパの裁き
A)第一のラッパ
B)第二のラッパ
C)第三のラッパ
D)第四のラッパ
E)第五のラッパ
F)第六のラッパ
G)第七のラッパ
11−4)口には甘く、腹には苦い巻き物
11−5)聖所と礼拝者を測る
11−6)二人の預言者
11−7)イスラエルの回復
11−8)イエスキリストの誕生とイスラエルの保護
11−9)ミカエルと悪魔との戦い
11−10)イスラエルの保護
11−11)獣
11−12)もう一匹の獣
11−13)天での賛美
11−14)混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒
11−15)地上再臨時の諸国への裁き
11−16)鉢のさばき
A)第一の鉢
B)第ニの鉢
C)第三の鉢
D)第四の鉢
E)第五の鉢
F)第六の鉢
G)第七の鉢
11−17)鉢のさばき御使いによる「獣」の注解
10本の角について
女について
宗教的な女のさばき
12章、小羊の婚宴
13章、キリストの地上再臨
14章、ユダヤ人の中心とした、患難時代、キリストの地上再臨
15章、千年王国への導入、サタンの1000年間捕獲
16章、千年王国
17章、解放されたサタン
18章、白い御座のさばき
19章、新しい天と地
第四部 結論
第一部、初めに
「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。
あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。」
(ローマ人への手紙13章11節)
以下の文章は著者が聖書に書かれている「その日」について、聖書から引用してのフィクションです。
フィクションながらも、私は聖書に忠実にありたいと思います。
1章、その日、何かが起こった!
その日は、いつもと同じように訪れた。
その日、私は仕事に追われて、食事もまともに取れない状態でした。
それでも、報道を見れば、世界では戦争が起き、後進国では飢餓の噂され、人身売買、臓器販売の報道がされています。
イスラエルは中東諸国との緊張が深まり、いつ戦争が起きてもおかしくない状態です。
先日もイスラエルに向けて、ミサイルが打たれ、その報復として中東側にも犠牲者がでたと報道されていました。
戦争が起きている国があると思えば、一見、平和そうに見える国では人種差別やグローバリズムを叫ぶ政治家の声が大きく響いています。
どうして、人が不幸になる法律や協定を結ぼうとするのか?
政治に詳しくなくても疑問に感じる報道ばかりです。
最近はネット環境も進み、世界で何が起きても、政治家が何を叫んでも、即座に各自の携帯端末で見ることができます。
また、最近の気候は暑くなる傾向で、水不足も懸念されています。
それでも、太陽、月、星は維持され、神の造られた世界には正確に時が流れていました。
その日の夜、私がテレビをつけていると、メインのニュースとは別に何やら不思議なニュースが流れてきました。
なにやら、未知の流星群が地球に向かっているという報道です。
均一された大きさの流星の集まりのようで、数日以内に地球付近まで到達し、地上に降り注ぎ、流れ星による天体ショーがくりひろがれるとのこと、暗いニュースばかりでしたが、少しは明るさを取り戻したように感じます。
そして、その翌日、奇妙なことが起きたのです。
なんと、この流星群は地球の近くまで来て停止したというのです。
専門家たちは各メディアを使って、さまざまな発信を行っていますが、まともな応答がありません。
まさか、人間の造った宇宙船でもない限り、そのようなことはありえません。
私もネットで色々調べてみました。
SNSでは宇宙人の到来だとか、怪奇現象だとか発信されています。
どれも正常を装っていますが、正常とは言えない応答です。
私はネット検索で、その流星群を地球から撮影したという画像を見つけました。
なにか、普通の流星群というには違和感を感じます。
白い粒のような集まりで、先頭の一粒の粒に誘導されているようにも見えます。
いったい、何なのか?
わからずに世界中から注目されていました。
その時、世界に吹奏楽と思われる音が鳴り渡ります。
人々はその音色を聞いて本能的に理解しますが、なんだかわかりせん。
私も「王がやってくる」と本能的に感じました。
人間に備えられた本能ではわかるのですが、からだが認めたくないのです。
ネットでは世界中の人々がパニック状態になったと発信していますが、何が起きているのかわからないのです。
ラッパです。
王が来られるのです。
部屋の中にいると次にもっと、わけのわからない話が入ってきます。
「ネットでは墓の中から人がでてきた」と騒いでいますが、同じような投稿が何百、何千とあるのです。
墓だけではありません。
道や畑、山林の中から人が白い服を着た人が現れたというのです。
さっきのパニック的な音といい、世界中が何かに集団催眠のようなもので騙されているととっさに感じた私はベットに逃げ込みました。
「きっと、夢だ!
これは夢だ!
目が覚めれば、元の世界に戻っている。」
そのように祈りながら、朝がやってきました。
一夜開けると、パニック的な衝動もおさまり、町は平穏を取り戻しているかと思いました。
その時、家のチャイムがなり、玄関に出てみると二人組の白い服を着た人が立っています。
一人は見覚えのある顔ですが、思い出そうとしているのですが、思い出せません。
そのはずです。
私はその顔は忘れたはずの人、思い出してはいけない人だったのです。
「お久しぶりです。
この家の斜め前に3年前まで住んでいた田中です。
覚えていますか?
なんか、町が汚くなっていますね!」
私は答えました。
「田中?3年前って?
あの田中さんですか?
たしか、病気で亡くなったって聞きましたけど?」
「はい、3年前に死にました。
しかし、今日、このからだでよみがえってきました。
となりにいるのは、この先のキリスト教会の伊藤さんです。」
「はじめまして、伊藤です。
あなたにあえて、とてもうれしいのです。
私も、ずっと闘病生活で自分の足で歩くなんて半年ぶりで、とてもすがすがしい感じです。
私も新しい体をいただき、このように立っていることができるのです。」
私は何を言っているかさえ理解できずに立っていました。
きっと、夢だろう!
幻なんだ、集団パニック状態が起きたなんてネットで騒いでいたし、、
すると田中さんが言いました。
「きっと、驚いていると思いますよ!
実は、信じてはいたのですが、私もこの日が来る迄、実感するとは想像もできませんでした。
今日、あなたに伝えたいことがあります。
キリストが来られ、死者が復活したのです。」
「何を夢みたいなことを言っているのですか?
そんな宗教の話には興味がありません。
第一、神なんかいるはずないでしょう!」
「では、今、あなたの見ているものは何ですか?
私は死んだはず、となりにいる人は闘病生活で歩けなかった人です。
今、このようにここに立っているのです。
そうです。
聖書の言う、死者の復活が起きたのです。
これは天地を造られた神が、天地創造以上の出来事を行っているのです。
まさに、新しい創造なのです。」
「何を言っているのですか?
この地球と人間は進化してここにいるんだ、天地創造という神話なんかに興味はないんだ!
第一、いままで、この地球は何も変わっていないでしょう!
きっと、僕は何か夢でも見ているんだろう!
帰ってくれ、少し休めば、この気持ちの動乱も落ち着くかもしれない」
このようにして、私は部屋に帰りました。
しかし、テレビをつけると世界中が混乱しています。
番組では大きな見出しで「キリストの再臨?」といった番組が組まれていました。
この間、多くの人たちが復活した人たちによって、彼らの語る救いを受け入れましたが、多くが私のように頑なにこの救いを拒否し続けました。
数日すると、復活した彼らはそのまま行動していましたが、町は落ち着きを取り戻してきました。
そして、次のショックが地上を襲ったのです。
あの復活したした二人がもう一度私のところに訪れてきました。
前回と同じようにチャイムが鳴り、私は玄関に出ていきました。
彼らは言いました。
「神はあなたにこの救いを受け取って欲しいのです。
もうすぐ、時間が来ます。
我々は天に引き上げられます。
私たちはこの新しい体をもって、キリストの御元に帰ります。
今にでも、救いを受け取って欲しいのですが、これから恐ろしい時代がやってきます。
神がここまで見せても信じない者たちに裁きをくだすのです。
その時代になったとしても、私たちの言葉を思い出して救いに受け取ってください。」
すると彼らは目の前で突然、消えたのです。
すでに姿はどこにもありません。
部屋に帰り、テレビをつけると世界中で同じように彼らが姿を消したと報道されていました。
しかし、1週間もすると街はすぐに平穏を取り戻しました。
今日も、テレビでは専門家たちは私たちが見たのは集団ヒステリーによるパニック障害だったと説明しています。
しかし、戸籍から消えた多くの人たちのことは証明されずに、集団失踪として戸籍から抹消されました。
そして、その日、ニュースではイスラエルとの平和条約を結んだ英雄について報道がされました。
あれだけ混乱し、戦争だったイスラエル国家に平和がやってくるのです。
2章、その日はすぐに来ます。
1章ではその日に起きることを推測を含めて書いてみました。
教会時代の終わりのイベント、つまり、我々の時代、願わくは自分の生きている間に起きるべき、最大級のイベントが何かを知らないクリスチャンがほとんどではないでしょうか?
正統的な教えを持つキリスト教会ならば、携挙が教えられていると思います。
その携挙は映画「レフト・ビハインド」に描かれているように、突然クリスチャンと呼ばれる人たちが行方不明になるのではありません。
(「レフト・ビハインド」の原作者が伝道目的にこの作品を描かれたことは敬意にあたります。)
明確な、いや、人類始まって以来、広範囲で最大規模の大イベントである前兆が起きるのです。
携挙に前兆がないというのは不明確な表現です。
はっきり言うのであれば、聖書に不忠実です。
多くの正統的なクリスチャンが聖書を研究し、これから起きようとしている患難時代の真ん中で何が起きるのかを探ろうとして研究しています。
しかし、これからすぐに起ころうとしていることについて無知なのです。
まさに的外れとしか言いようがありません。
1、聖書はその日についてどのように語っているか?
もし、今、いままで書いてきたようなことが起きたのであれば、聖書はこの日について、このように語っています。
この日とは「イエス・キリストの現われの時」、「携挙の時」のことです。
では携挙について書かれている有名な聖書箇所を引用してみましょう。
意識して読めばわかるはずです。
「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。
あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。
それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」
(テサロニケ人への手紙第一4章13〜18節)
テサロニケの教会では十分な教えがなされておらず、死んでしまった死者についての知識がなかったのです。
そこで、パウロは彼らに励ましを与えるために主が来られることを述べました。
では、イエス・キリストの現われの時とはいつのことでしょうか?
A)携挙の前兆
では、テサロニケ人への手紙に記されている携挙の前兆であるイベントについて読んでみましょう!
まず「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。」
ある人は、これは目に見えないところで、こっそり起きると思っているかもしれませんが、聖書の預言は霊界とか、こっそり起きるようなことを預言していません。
確かに、黙示録などを見るならば、天での礼拝の姿が描かれていますが、これも天にゆけば、目で見える形で公に行われると思われます。
神のラッパが響き渡り、主は空中まで降りてこられます。
おそらく、このことは多くのカメラ、テレビ、ネットで確認され、ニュースでも放映されると信じています。
人目に隠れて、こっそり起きることではありません。
常に聖書の預言が明確に起きてきたように、宣言された以上は明確に、認められる形でイエスが空中まで降りてくるのです。
神の住む天が宇宙の向こうにある物理的な世界ではないとすれば、この空中は宇宙です。
大気圏の外か、内側か?わかりませんが確認できるはずです。
しかし、世は、何が起きたのか知らないのです。
「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。」
(ヨハネの福音書17章25節)
次に地上で、この地球であることが起きます。
キリストが天からこの2000年間の間にキリストにあって死んだ者たちを連れてくるのです。
そして、この地上で新しい物理的なからだをもってよみがえらせられるのです。
キリストを信じて入る天国とは、何か浮いたようなふわふわした霊的な場所ではありません。
現在と物理的同じ、もしくは現在以上にはっきりした場所です。
そして、天上のからだとは、同じように霊的な存在ではなく、物理的、具体的な存在です。
このことが現在の地上で起きます。
これが聖書のいう死者の復活です。
この地球に、かつて、キリストにあって死んだ者が新しいからだをもって、よみがえるのです。
これが携挙の前兆で、カウントダウンに入りました。
テサロニケ人への手紙第二を見るならば、この時に生きている私たちにも新しいからだが与えられます。
「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」
(コリント人への手紙第一15章52節)
この個所を引用して、携挙自体が秘密時に行われると主張する方々おられます。
ここでは、私たちが変えられるのが一瞬のうちに行われると書いてあるだけで、携挙全体のイベントが瞬間的に行われることを言っているのではありません。
あきらかに順番があり、時間があります。
また、ここでは前兆ということばを使って強調していますが、その日はクリスチャンが地上で認識できる日です。
後に説明しますが、この携挙のイベント全体はこれから来ようとしてしている患難時代、そして、イスラエルの国家としての建国と時間的な関係があります。
突然、クリスチャンも、世の人も気づかないで携挙が起き、終了するという考えは他の個所、もしくは教理的な問題が衝突しての主張です。
聖書から読み取りましょう。
B)携挙とラッパ
世界中にラッパが鳴り響きます。
この2000年間に亡くなったクリスチャンたちがよみがえるのです。
この話だけを聞くならば、キリスト教のおめでたい話だと思われるかもしれません。
世界中は大パニックになります。
この2000年間にどれほどの人がイエスキリストを信じたのかはわかりません。
もちろん、キリスト教と言われる人たち全員が救われるわけではありません。
イエスキリストを自分の身代わり、救い主として信じた者たちがここでよみがえります。
あざけ笑っていた世の人は「絶対に神を否定できないもの」として、このイベントを見てしまったからです。
常に歴史は繰り返します。
復活した聖徒たちと新しいからだをもった私たちはしばらくこの地上にとどまるのです。
誰も否定できません。
もし、イエスの復活と同じ期間と仮定するのであれば40日間と推定します。
これはイエスの復活が初穂ならば、同じように死者が復活するという仮定ですが、的は外していないと考えます。
この期間に何が信者にできるのか明確には書かれていません。
仮定が入ってしまうのは事実です。
しかし、イエスキリストが私たちの初穂として描かれ、私たちも同じようになり、もしくは歩むとすれば当然の結果となります。
そんなことはどこに書いてあるのかという人がいるかも知れませんがよく読んでください。
「それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」
(テサロニケ人への手紙第一4章17節)
「初めに」、「次に」と書かれているように順番があり、プロセスがあります。
もし、瞬間的ならば、このようなプロセスは書かれていないはずで、すぐにとか、いっしょにとか書かれているはずです。
私たちの救い主が我々の初穂してよみがえった時と同じです。
まったく、同じになるとは考えていませんが、多くの共通点があるはずです。
このプロセスについて、コリント人への手紙第一ではこのように書かれています。
「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。」
(コリント人への手紙第一15章23、24節)
このように順番があり、時間差があることが以上の2つの御言葉によって証明されます。
もし、いくらかの時間が存在していなければ、「すぐに」とか「その後に続いて」などのシーケンス的な言葉が存在するはずです。
イエスキリストは十字架の上で苦しまれ、私たちの罪の身代わりとしてささげものとなり死んでくださいました。
そして、3日後の日曜日の朝、墓は空になっており、弟子たちの前に、500人以上の者たちの前に現れました。
イエスキリストは40日間、この地上でおられて証しされたのです。
「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」
(使徒の働き1章4節)
今回もそのようになると信じています。
イエスキリストは初穂として、我々すくわれた者の運命の手本として描かれています。
「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
(コリント人への手紙第一15章20節)
イエスが復活し、弟子たちに教えたように、今回も復活した聖徒たちとその時代に生きて、新しいからだを持った人たちも福音を延べ伝えるはずです。
それもイスラエルの一地方の一つのからだではなく(もちろん、イエスの復活の方がはるかに価値があります。)、世界全範囲で億とも言える復活が起きるのです。
個人的にはイエスの復活時と同じなら、大リバイバルが起きると考えています。
この時に救われた者たちの救いはどのような形で完了するかは不明ですが、どの時代にあってもキリストの十字架の血は有効です。
この期間内に新しいからだが与えられるのではないかと想定します。
同時にそれでも信じることができない者も大勢現れると推定しています。
我々の初穂であるイエスキリストは40日間地上で復活の証、弟子たちの訓練、宣教しました。
そこで多くの人たちが救われたのです。
今回もおなじようになると見ています。
その後、イエスは目で見える形で天に昇って行きました。
つまり、イエスが天という行き先が確認でき、天に昇ったことが目撃され、確認させるための光景です。
ゆえに、目で見える形で天に昇って行く必要がありました。
「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
(使徒の働き1章9〜11節)
しかし、我々は瞬間的に天に引き上げられます。
すでに聖書に宣言されているからです。
「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」
(テサロニケ人への手紙第一4章17節)
このようにキリストの携挙、来臨はまさにクリスチャンの希望とも言える出来事なのです。
その時、クリスチャンの持つ、人間的なデメリット、悩みはすべて解決されます。
まさに生まれ変わるのです。
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
(ヨハネの福音書14章1〜3節)
3章、その日にすぐに起きるのでしょうか?
(神学的証論)
この章では、今すぐにでも来ようとしてしている携挙を期待して歩むことを神学的な議論をしています。
いや、すでに起こったものとして、書き送ります。
今、死人の復活が起き、携挙を間に当たりにしている人がいるのであれば、この章は割愛して後にしてください。
今、必要なのは救われることです。
A)否定的主張
まずは神学的な否定的主張から始めてゆきます。
キリストの携挙がいつ来るかわからないことを前提にして、キリストが来られるを待ちわびて、構えてクリスチャンが生きてゆくのことは好ましくないという主張です。
後ほど語りますが、キリストの来臨は2度にわたって行われます。
まずは、最初に述べたようにキリストが空中まで降りてくる「空中再臨」と呼ばれるものです。
このことについては前の章で述べています。
最終形として、キリストはもう一度完全な形でこの地上に再臨されます。
その時は、イスラエル、そして、地上の王として地上を支配します。
それは、空中再臨後、イスラエル、世界に恐ろしい7年間の患難時代が訪れます。
反キリストという支配者(政治家)が現れ、神に敵対します。
イスラエルは旧約聖書に書かれている時代になったことを悟り、旧約聖書に書かれたメシアの到来を心から期待します。
この時、イスラエルはキリストを完全な形で救い主と理解していません。
この時、メシアはこの地上に再臨され、反キリストを倒し、この地上に王国を建立されるのです。
この内容は多くの小説、漫画などに引用され、ネタとされていますが、多くは聖書から引用です。
この地上再臨について、書かれている代表的な聖書箇所を引用してみましょう。
まず、御使いは弟子たちに目に見える形で地上へのキリストの来臨を約束しました。
「そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
(使徒の働き1章11節)
イスラエルの人々が反キリストの軍隊に囲まれ、危機に追い込まれている時、イスラエルのメシアとしてキリストはこの地上にイスラエルを救うために再臨されます。
「主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」
(ゼカリヤ書14章3、4節)
先ほども引用したように、この患難時代には7年が定められており、反キリストの平和条約(おそらく、イスラエルの武力解除、もしくは反キリストによるイスラエル軍の支配)によって始まります。
個人的にはイスラエルの武力解除が行われると考えています。
それができるほど、反キリストは素晴らしい人物だと評価されるのです。
現状ではありえません。
なので、イスラエルの多くの者が(神も)愚かな契約だと確信するのです。
「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」
(ダニエル書9章27節)
預言者ダニエルには復活して、約束された土地に立つことが約束されています。
「常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。
幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。
あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」
(ダニエル書12章11〜13節)
つまり、患難時代においても、聖書を知る人であれば終わりがいつなのか?
キリストはいつ来られるのか?
その日を知っているのです。
しかしながら、次のような聖句があります。
「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。
天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」
(マタイの福音書24章35、36節)
この文脈で44節にはこのようにあります。
「だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」
(マタイの福音書24章44節)
イエスは御自身のことを「人の子」と呼んでおられます。
この呼称は人として生まれたキリストを現しています。
キリストは永遠にわたって神です。
しかし、この地上に降りてこられた時、一人の人として、信仰者として歩んでくださったのです。
ゆえに、聖書に書かれている以上のことは地上生涯では多くは語っていません。
ゆえに、「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません」と語られたのです。
でも、神としてはその日がいつなのかは、当然、知っておられます。
この箇所は地上再臨のことを述べています。
ゆえに、患難時代がいつ来るのかは知りませんと答えています。
やがて、反キリストが現れ、和平条約を結びます。
その段階ではユダヤ人も気づかないかもしれません。
神殿から「常供のささげ物」が取り除かれ、ユダヤ人に対する大迫害が起きた時、はっきりと認識するはずです。
その者は自分をユダヤ人の神に代わって、自分こそが神だと宣言するのです。
ユダヤ人たちが自分の状態を理解した時、当然、キリストの地上再臨までの時間がカウントされていることを知るのです。
「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。」
(マタイの福音書24章21節)
しかし、多くの人たちがこの箇所を使い、空中再臨はいつ来るかわからないとしています。
確かに大きなイベントですが、いつ来るかは正確にはわかりません。
しかし、聖書を知る私たちにはそれを予感させる出来事が多く起きていることを知るのです。
キリストの空中携挙も同じです。
全体としては、いつ来るかわかりません。
しかし、時が近づくに連れて、聖書の御言葉が近いことを予感し、証明しているのです。
B)患難時代前再臨主義(患難の前に取り去られる。)
聖書の言う携挙、もしくは、キリストの再臨がどのようなタイミングで来るのか?
神学的にも論争されていますが、私たちは聖書から神が世界へと下す御怒りの時代の直前に来ると主張しています。
下記の聖句はその証明です。
「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」
(ヨハネの黙示録3章10節)
この言葉は黙示録の中に記されているフィラデルフィヤ教会に送られたものです。
預言的にも意味があるとされ、終末に存在する教会の一つとされています。
「全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」
それは、やがて来る患難時代から、あなたを守ろう。取り出そうと言っているのです。
「また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」
(テサロニケ人への手紙第一1章10節)
つまり、私たちは携挙は患難時代の前に起こることを主張します。
ゆえに、ヨハネの黙示録には患難時代の様子が描かれています。
ヨハネの黙示録はまだ、起きていないことが記されており、ヨハネの黙示録と現実に起こることには文章という中間的な干渉があります。
ゆえに、ヨハネの黙示録を理解するのには、絶対的なこととは言い切れない箇所が多く存在するのは事実です。
しかし、聖書を知り、神を知る私たちにはそれが間近であることを予感させ、患難時代前再臨主義は黙示録を見て、再臨が近いということを実感することは神学的にも正しいことを証明しています。
C)イスラエルとオリーブの木
「もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、
あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。」
(ローマ人への手紙11章17、18節)
ローマ人への手紙の中で使徒パウロはイスラエルと教会を例えてこのように言っています。
祝福の場からイスラエルは折られて、教会がつき木されたと述べているのです。
この例えの中に重大な真理が記されています。
イスラエルと教会が同時に根に繋がっていないということです。
そして、パウロは教会への警告、そしてイスラエルの復興をこめて、このように書いています。
「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。
彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。」
(ローマ人への手紙11章22、23節)
ここには、もし信仰から外れるのであればあなた方も切り落とされる可能性があることと、イスラエルから再びつぎ合わされることが述べられているのです。
ここにある「切り落とされる」とは、キリストにある最終的な救いが失われることを指しているのではありません。
救いは他の聖書の個所でも十分に保証されています。
前後関係から見て、信者も信仰によって歩まなければ、この地上にあって、イスラエル崩壊、エルサレム没落のように悲惨な結果になることを指しています。
事実、私たちはイスラエルは再び、つぎ合わされイスラエル国家を建国した事実を見ています。
D)イスラエルの拒否
イエスキリストはイスラエルのメシアとして来られました。
キリストはこのように預言されていました。
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。
今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
(イザヤ書9章6、7節)
ユダヤ人たちはキリストが生まれた時、彼らが受け入れ祝福しなければなりませんでした。
なんと、キリストを祝福したのはユダヤ人や、当時の支配者ではなく外国人である東方の博士たちでした。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
(マタイの福音書2章8節)
その時、その土地の王であるヘロデは王として来られた方を阻止しようとして、博士たちを呼びつけます。
「そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」」
(マタイの福音書2章2節)
ヘロデは嘘を言っていたのです。
ヘロデはキリストを殺そうと考えていたのです。
「その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。
その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。」
(マタイの福音書2章16節)
イエスは大きくなり、自分がキリストだと宣言しましたがユダヤ人たちは拒みました。
イエスがはっきり答えても信じないのです。
「それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。
しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。」
(ヨハネの福音書10章24〜26節)
そして、最終的に当時、ユダヤ人はエルサレムを支配していたローマに強引に引き渡し、十字架刑を要求したのです。
ローマの総督であったピラトはイエスの十字架刑をさけるために、さまざまな努力をしましたが、ユダヤ人はメシアを拒否したのです。
「しかし、彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ。」と言った。
しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」
ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。」
(ルカの福音書23章21〜23節)
ユダヤ人がキリストを拒否したピンポイントのタイミングについては、いくつか説がありますが、この箇所で十分だと思います。
そして、キリストは全人類の罪の身代わりに十字架で死なれたのです。
「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」
(ヨハネの福音書19章30節)
ここで何か完了したのでしょうか?
それは全人類の罪の身代わり、贖いが完了したのです。
旧約聖書にはキリストについて、約300の預言があり、すべて成就しました。
イエスキリストのエルサレム入場の期日はこのように預言されていました。
「それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週(49年)。
また六十二週(434年)の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。」
(ダニエル書9章25,26節)
引き揚げてエルサレムを再建せよ」という命令は紀元前四百四十五年三月十四日に、ペルシャのアルタクセルクセス王によって出されたことが判明しています。
英国の著名な聖書学者、ロバート・アンダーソンは「来るべき君主」という著書の中でこの預言を詳しく解説しましたが、その概略は次の通りです。
当時のユダヤ暦の一年は三百六十日であるから、四百八十三年を日数に直すと、483×360=173880(日)
つまり紀元前四百四十五年三月十四日から173880日目とは紀元三十年四月六日です。
驚くべきことに、キリストがロバに乗って王としてエルサレムにいかれた日である。
聖書はその日をこのように語っている
エルサレムに近くなったころ、都を見たイエスは、その都のために泣いて、言われました。
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。
わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。
それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。
あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません」
(マタイの福音書23章37〜38)
イエスはユダヤ人のキリスト拒否の結果であるエルサレムの崩壊を嘆いておられたのです。
エルサレムの崩壊はローマ帝国によって行われました。
ローマに対抗したユダヤ人は紀元70年、ロ−マ将軍ティトスによってエルサレムを包囲され、ついに陥落しました。
100万人の住民が虐殺され、大量のユダヤ人奴隷が市場に流出したので奴隷の値段が大暴落したと言われています。
このように、キリストを拒否したユダヤ人に裁きが下ったのです。
イエスキリストの十字架、キリストの拒否が西暦30年、もしくは33年だとするのであれば、エルサレムの没落まで40年、まさに過渡期だったのです。
後に書きますが、今は逆にイスラエルの再建から見るのであれば、患難時代、もしくは携挙までの過渡期にいると言えるのです。
E)イスラエルの再建
イスラエル民族はイエスキリストを十字架に架けてしまいましたが、決して呪いだけの民族ではありません。
イスラエル民族は神に祝福された民族なのです。
イスラエルの祖先であるアブラハムに与えられた祝福よれば、イスラエルは祝福の民族なのです。
「わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。
わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」
(創世記17章6〜8節)
この約束は絶対で無条件です。
ゆえにイスラエルがどんな失敗をしても祝福されるのです。
イスラエル民族の多くは滅ぼされ、世界中に奴隷として売られて行きましたが、彼らは世の終わりに必ず集められるのです。
「彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、イスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く。
わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。」
(エゼキエル書37章21、22節)
「神である主はこう仰せられる。
わたしがイスラエルの家を、散らされていた国々の民の中から集めるとき(バビロンだけではない)、わたしは諸国の民の目のまえで、わたしの聖なることを示そう。
彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた土地(イスラエル)に住みつこう。」
(エゼキエル書28章25節)
「わたしは彼らに合図して、彼らを集める。わたしが彼らを贖ったからだ。彼らは以前のように数がふえる。」
(ゼカリヤ書10章8節)
イスラエル民族は聖書の預言している通りに、世界中から迫害を受けました。
特に19世紀末の当時のヨーロッパでは、反ユダヤ主義が吹き荒れていました。
しかし、ユダヤ人の故郷であるイスラエル(パレスチナ)の地にユダヤ人の国家を建設しようとする「シオニズム運動」がヨーロッパで始まったのです。
過程において、様々な国、様々な人物が関わりましたが、アブラハムに与えられた約束の初期段階として、ユダヤ人はパレスチナに集まり、イスラエル国家が建立されました。
クリスチャンと呼ばれる人たちでさえ、イスラエルの再建など、ありえない話だとしていました。
しかし、一部の聖書を信じる信仰者はこのありえない話を主張し、このありえない話を実現するのを目撃するのです。
なんと、2000年前ローマによって滅ぼされた国、国民は虐殺され、奴隷として売られていった国が再建されるのです。
それも、聖書の言う通り、彼らは2000年間、国民性を維持してきたのです。
しかし、イスラエル国家の樹立という奇跡が1948年5月15日に起きました。
AD1900年前後からシオニズム運動(ユダヤ帰還運動)が活発になりユダヤ人の町「テル・アビブ」が建設されました。
その後に第二次世界大戦が起き、ホロコースト(大量虐殺)による300万〜600万人のユダヤ人犠牲者がでたことは有名なことです。
それを引きがねにしてシオイズム運動(ユダヤ帰還運動)が活発になりイスラエル民族はパレスチナに入って来たのです
パレスチナには1900年の間にアラブ人たちが住み着いてきました
他人の土地(神の目から見ればイスラエルの土地だが)アラブ人たちが激怒したのも無理もありません。
そして、同時にアラブの18の国々が団結してイスラエルに総攻撃をかけてきたのです。
イスラエルにいたパレスチナ・アラブ人にこう通告しました。
「あなた方は直ちにヨルダン川西岸地域およびガザに避難せよ。避難が終わりました。
われわれはイスラエルに総攻撃をかけ彼らをパレスチナから一掃します。
この作戦は一週間で終了するから、その後あなた方はパレスチナに戻ることができます。」
結局、彼らはヨルダン川西岸地域より帰ってくることはなくパレスチナ難民としてそこにとどまることになりました。
こうして第一次中東戦争(パレスチナ戦争)が始まりました。
それは1948年のことであった。人口わずか60万のイスラエルが人口8000万のアラブ連合軍と闘い、イスラエルが圧倒的な勝利を収めました。
その結果、イスラエルは共和国の独立を宣言したのです。
その後、イスラエルとパレスチナは第二次、第三次、第四次と戦争を繰り返します。
そして、現在(2024年9月)においては、過激派であるハマスとの戦いの果てにイランとの戦いの危険の中にあります。
聖書はイスラエルの国家的な状態について、預言しています。
「その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来よう。」
(ゼカリヤ書12章3節)
そうです。
イスラエルは世界の重荷になっています。
誰か、この状態を解決してほしいと願っています。
イスラエル国民も、常に戦争状態です。
この状態を解決して欲しい、政治的なリーダーを望んでいます。
F)反キリストの出現
イスラエル、そして、世界に襲い掛かる恐ろしい裁きの時代(患難時代)は7年間に定められています。
もし、この期間が神によって定められていなければ、人類は自滅するかもしれません。
世間では、この時をハルマゲドン、世界最終戦争とか呼ぶことがあります。
実際、そのような題名の映画や小説は多数あります。
直接的には「ハルマゲドン」とはイスラエルにあるメキドの丘と呼ばれる地名を指しています。
最終的に反キリストの軍隊はそこに集められるからです。
これは最終戦争と呼ぶよりは、神が最終戦争を阻止するという表現の方法が正しいのです。
明らかに罪によって汚された人間、自然界、そして、政治は劣化して行きます。
ある時は神の介入によって、その劣化が阻止され、蘇生も試みられますが、歴史は原則的に物理世界、道徳世界は劣化して行きます。
その頂点がまさにこの患難時代なのです。
そこに一人の政治的リーダが出現し、数々の難題をクリアして行きます。
政治と信仰を結び付けて考える傾向があります。
しかし、世の終わりは政治の問題が発展して終わりを迎えるのです。
ゆえに、米国で起きている数々の問題にも信仰者たちは気をとめています。
もちろん、まだ、起きていないことについて結論付けるのは危険なことです。
しかし、米国の不正選挙、トランプ前大統領の暗殺未遂事件、LGBT、グローバル化など明らかにサタンの関与を感じさせる出来事と、神の介入について、クリスチャンは興味を持っているのです。
この政治的な反キリストは最初は英雄としてイスラエルに対して、平和的な条約(よみと同盟)を結ぶのです。
「あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」
だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。
わたしは公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする。雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。
あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。」
(イザヤ書28章15〜18節)
その反キリストは3年半の契約をイスラエルとそして、多くの国々と結びます。
「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」
(ダニエル書9章27節)
そして、契約の3年半後にこの反キリストはイスラエルを裏切ります。
ここで注意すべきことがあります。
彼はイスラエル国家と契約を結び、破棄するのです。
最終的にユダヤ人が世界から確実にイスラエルの国を再興しますが、この段階でもイスラエル国家が存在していなければなりません。
それが今のイスラエル国家なのです。
現在、イスラエルの国はユダヤ教の神殿を持っていません。
最初の神殿はソロモンによって建てられ、バビロン捕囚時に破壊されました。
二つ目の神殿はアッシリアのクロス王の命令によって、ゼルバベルによって建設され、紀元70年にローマによって破壊されました。
現在、エルサレムの神殿の位置にはイスラム教のモスク、岩のドームが建っています。
この岩のドームはイスラム教の三大聖地の一つで普通に考えれば、ここにユダヤ教の神殿が建つことは許されません。
しかし、患難時代中期には反キリストが神殿に建ちます。
つまり、神殿が存在しなければなりません。
そして、現在、イスラエル国家が1948年に再建され、もう一度イスラエルが神の御手の中で患難に会うまでの過渡期ということになります。
そして、患難時代の前に携挙が行われるとすれば、私たちはこの過渡期に生きていることになります。
すでに、イスラエルが再建され、2024年段階で76年が経過しています。
イスラエルがイエスキリストを十字架にかけて、エルサレム没落まで30年、そして、今、核保有国であるイランとイスラエルは戦争をしようとして、多くの犠牲者を出しています。
誰か、政治的に助けてくれる人をイスラエルは求めています。
G)イエスキリストの復活の預言
キリストに関する預言が聖書には300あると言われています。
終末に対する預言は1700あるとされ、多くが反キリストと言われる政治家に対するものです。
イエスキリストに対する預言はすべて成就しました。
かならず、終末に対する預言もすべてが成就します。
なぜ、世界政治を見て携挙が近いと考えるのがおかしいのでしょうか?
いや、聖書自身が世の終わりの政治について語っています。
今が、緊急状態で携挙に対して構えていけないといけないことがわかります。
これは聖書がクリスチャンに勧めている生き方なのです。
「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」
(ペテロの手紙第一1章13節)
「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。」
(テトスへの手紙2章13節)
そうです。
パウロはキリストを待つように、教えさとしたのです。
教えただけではありません。
教えさとしたのです。
第二部 あなたは救われているか?
前章ではクリスチャンの歩みはキリストの携挙を期待して歩むべきであり、直近まで近づいていることを論証しました。
しかし、死者の復活、もしくは携挙後の人たちへのメッセージ、ずばり、救われる方法について語ります。
死人の復活から実際的な携挙の時間に救われた者たちへの扱いは聖書には記されていません。
個人的には教会時代と同じ扱いになり、聖書で言われる「異邦人の完成」の時と考えています。
しかしながら、携挙後の救いについての扱いは教会時代のクリスチャンたちとは違い、若干、つらいものになっています。
しかし、永遠の目から見るのであれば、まずは救われることであり、最重要項目なのです。
ここからは、死人の復活から携挙までに語られるべきメッセージをまとめてみたいと思います。
もちろん、内容は教会時代のものと同じものとなります。
また、この文章の目的はわかりやすさというよりも、上記の携挙が起きた今、切羽詰まったあなたに書くものです。
納得していただくことを目的にしています。
4章、神の存在
今、死者の復活を見たのであれば、神の存在を無視しないでください。
現在、起きていることは天地創造以来の大イベントだからです。
もしかして、あなたは天地創造自体を信じていないのかも知れません、
人間は創造の産物、物質、もしくはサルから進化した動物だと考えているかもしれません。
神は天地万物、宇宙、地球、自然界、そして人間を創造したのです。
つまり、何も無いところから設計し、組み立て、命を与え、生活させて下さっているのです。
夜空を見上げてみてください。
天気の良い日には無数の星たちを見ることができます。
高い山などに行き、夜空を見上げると天の川を含む、壮大が芸術を見ることができます。
あなたは、これらの星がすべて秒単位で正確に動いていることを知っていますか?
それは地球が自転しているからでしょうと言われるかもしれません。
その時点さえもライン工場以上に正確に動いているのですが、時点を考えなくても宇宙の果てで計算通りに動いているのです。
「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」
(詩編19編1節)
昼間に太陽が空を通過するのを見るならば、この宇宙の背後には太陽を導き、その動きを制御する意思が存在するはずだと考える人がいるはずです!
夜になって、あなたがたが天を見上げるならば、これらすべてのものを造られた神の存在を、どうして信じないのでしょうか?
「昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。」
(詩編19編2節)
そこには壮大な知恵があります。
理性があり、秩序、摂理があります。
宇宙と地球は人間のためにあります。
もしかして、あなたはこのように聞くかも知れません。
宇宙に人間しかいないなんて、高慢だ!
宇宙のどこかに生命があり、人間と同じように生活しているはずだ!
果たして宇宙人はいるのでしょうか?
そこには、神がいない!人間は偶然の産物だというのが前提に成り立っている物語、仮想ではないのでしょうか?
もし、知能の高い宇宙人がいるのであれば、なぜ、人間の前に現れないのですか?
それは幽霊などと同じ、人間の空想の産物であることを証明しています。
「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」」
(創世記1章27、28節)
この聖書箇所が語っているように、自然界すべては人間を中心に造られたのです。
星も、太陽も、風も、海も、すべてが法則に従って、神の造られた世界を賛美しています。
美しい絵画を見ることがあります。
それは美しい自然のコピーでしかありません。
絵画が人間の著作であれば、この自然界はさらに人間の知能を超えた方の産物だと理解できるはずです。
宇宙の法則も、DNAも、万有引力さえも神の創作品です。
進化論、突然変異、それらは人間が偶然の産物であることが前提で作り上げられた仮説でしかありません。
5章、人間の存在目的
人間の体にはさまざまな機能が整っています。
目は見ることができ、口は話し、息をすることができます。
鼻は匂いをかぎ、口同様に息をします。
足は歩き、手で作業します。
すべてが目的を持って作られています。
人間の内臓のひとつの器官「じん臓」でさえ、非常に大きな作業をしています。
体の中の不必要な物質、または有害な物質を体に必要な物質に作り変えるという作業をしています。
その作業を人間の作った設備に置き換えると、何十兆円というお金と東京二十三区と同じ広さの敷地が必要です。
そのような工場は見たことがありません。
そのような工場をつくるには大変優秀な頭脳と優秀な作業員たちが必要です。
もし、この工場が偶然にできた、自然の摂理によって誕生したといったら、その人は正常な人と認めることができないの
ではないでしょうか。
そこで質問です。
あなたの存在にはどんな目的があるのですか?
仕事?趣味?それとも家族でしょうか?
しかし、それらが自分の生きている理由として数えられるのでしょうか?
多くの人が目的を無くし、失望しています。
ひどくなれば、自ら命を落としています。
人間がもし、目的を持って創られ、維持されているのであれば、、
なぜ、あなたの存在には目的がないのでしょうか?
なぜ、多くの人が失望しているのでしょうか?
それは機能を失っているからです。
「彼らはまっすぐな道を捨て、やみの道に歩み、
悪を行なうことを喜び、悪いねじれごとを楽しむ。
彼らの道は曲がり、その道筋は曲がりくねっている。」
(箴言2章13〜15節)
創造主を忘れ、神から離れた人間の姿です。
一時的には、良心が働き、学識によって人生がサポートされるかも知れません。
しかし、本性が変わったわけではありません。
人間は偶然の産物であり、死んでおしまい、神などいないという考えを追及するのであれば、この聖書の言葉のようになると考えています。
つまり、「悪を行なうことを喜び、悪いねじれごとを楽しむ」ような存在だと言うことです。
6章、人間の罪
若干、深く理解してもらうために聖書の神学的に語らせていただきます。
先ほども書いたように、創世記にはこのように書かれています。
「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」
(創世記1章27節)
よく、映画などを見ると「神」が表現され、人間の姿をしていることがあります。
おそらく、この聖句から想像されたと思います。
しかし、「人をご自身のかたちに創造された」というのは、姿、カッコではありません。
神は、人間をたましい(自己)、霊(神を知るための器官)、からだを一つにして創造されたのです。
つまり、三位一体です。
もともと人間は神と共に歩み、自然界のように、そして、私たちの臓器のように、いやそれ以上にはっきりとした目的を持ち、神と共に永遠に生きる存在でした。
しかし、人間は罪を犯し、霊は機能しなくなりました。
人間は神に背き、サタンの声を聞いて、人間と神の断絶が始まったのです。
神はエデンの園で唯一の命令を与えました。
難しいものではありません。
「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」」
(創世記2章16、17節)
そこに反抗者であるサタンがきて、わざわざ丁寧に人間はその命令を破りました。
「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。
それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」
(創世記3章6節)
その結果、人間に呪いが入って来たのです。
「また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」」
(創世記3章17〜19節)
人間に罪が入ってきました。
その様子が新約聖書に説明されています。
聖書にはこのように書かれています。
「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」
「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
「彼らの足は血を流すのに速く、
彼らの道には破壊と悲惨がある。
また、彼らは平和の道を知らない。」
「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
(ローマ人への手紙3章10〜18節)
今日も、霊的に死んだ人間は。利得のために戦争を起こし、人が死に、人の不幸にかかわらず金儲けに走り、多くの者が生活に困り、犯罪で満ち溢れています。
そして、なによりもあなたはその人類の一人です。
もし、人類を一つとして考えるなら、あなたには罪が宣告されます。
事実、人類は一つであり、その古い人類からあなたは脱出しなければなりません。
この世と共に、罪の宣告を受けなければなりません。
これが霊的に神との交わりが絶たれた結果なのです。
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、」
(エペソへの手紙2章1節)
そう、霊的に死んでいたのです。
神との交わりの外にいたのです。
7章、罪のさばき
そうです。
罪は裁かれなければなりません。
もともと、神との交わりの中を生きるように作られた人間です。
その人間が、目的もなく好き勝手に生きているのです。
何事も目的があり、達成されることによって満足感を得ます。
ここにも、神の創造の御業があります。
しかし、人間はその外にいるのです。
あなたの部屋にゴミ、いや、汚物で一杯だったら、どうしますか?
それを集めて、掃除し、ゴミ箱に入れます。
そのゴミが臭いのなら、すぐにゴミ捨て場に持って行くでしょう。
そして、そのゴミはゴミ収集車によって集められ、焼却場で燃やされます。
そうです。
不要物は始末されなければいけません。
ストレートに述べるのであれば、聖書にはこのようにあります。
「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
(ヨハネの黙示録20章13〜15節)
人間は死んで終わりではありません。
これが神と断絶した、人間の永遠に行く場所です。
これが、私たち人間が創られた理由を無視した結果なのです。
間違っても、そこに行ってはいけません。
「もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」
(マルコの福音書9章47、48節)
もともと、この場所は神に敵対した被造物でサタンが行く場所でした。
人間がサタンの言うことに追従し、そこにともに入れられることになったのです。
「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」
(マタイの福音書25章41節)
神がおられ、そんなことをするなんて信じられないと言うかもしれません。
聖書、とくに新約聖書はこのことについて、繰り返し述べています。
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、
金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが
見えた。
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。
しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
(ルカの福音書16章19〜31節)
これはたとえ話ではありません。
個人名が記されています。
おそらく、語られた当時、ラザロという貧乏人が認識できた知られた人物だったのだと推測できます。
そして、もし、このテキストを読んだ時が、死者の復活が起き、携挙を見たあとならばこの言葉に注目してください。
「たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」
天地万物を創られた神の言葉である聖書を無視したのであれば、どんな奇跡を見ても人間は信じることはないのです。
人間には救いが必要です。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」
(ヨハネの福音書5章24、25節)
8章、神からの救いの提供
先に答えを書いておきます。
この救いは受け取らなければなりません。
天地創造の神は人間を裁かなければなりません。
被造物である人間は処分されるゴミであってはいけないのです。
神と人間はもともとの立場、いや、それ以上の立場を手に入れなければなりません。
まず、下記の聖書の言葉を読んでみてください。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」
(ヨハネの福音書3章16〜18節)
御子を信じることによって、救われることが記されています。
この救いは、神が人間、自然界を創造したのとおなじように、神によって提供されたのです。
神の御子、いや、神であるキリストは私たちの罪の身代わりに十字架に架かって死んだ下さりました。
神の怒りがすべて十字架の上に下されたのです。
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
(マタイの福音書20章28節)
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
(コリント人への手紙第二5章21節)
その十字架の様子が福音書ではこのように描かれています。
「彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王。」と書いてあった。
また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。」
(マルコの福音書15章25〜27節)
なんと、人間は天地を創造した神を強盗とならべて、十字架に架けてしまったのです。
しかし、それは神の救いの計画でした。
「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。
そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」
(ヨハネの福音書19章30節)
ここでイエスは「完了した」と言う言葉を残して、息絶えました。
何が完成したのでしょうか?
そうです。
私たちの罪の身代わりに十字架で死なれるという、御業が完成されたのです。
そして、死に勝利し、打ち勝ったという証拠を見せるために御自身がよみがえって、500人以上の弟子たちの前に現れました。
単に十字架の上で死なれただけでは、根拠もなく、死に至るまでの狂信者とそれに従う弟子たちが大げさに言い広げたのかも知れません。
弟子たちは見ました。
このように歴史に残ったのです。
「私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
というのは、死がひとりの人(アダム)を通して来たように、死者の復活もひとりの人(キリスト)を通して来たからです。」
(コリント人への手紙第一15章19〜21節)
弟子たちが命を張って、世界中に宣べ伝えたのは言うまでもありません。
ここに「眠った者の初穂」という言葉があります。
死んだ者の長子として、初穂として、キリストはよみがえったのです。
もし、長子がよみがえったのなら、残りの者も約束通りによみがえるのです。
何よりも、この十字架の身代わりを信じた者にはこのような約束がされています。
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
(ヨハネの福音書3章36節)
ここで先に述べた霊について語ります。
先の項「人間の罪」によって、人間を構成する霊という機能が停止してしました。
霊の持つ機能とは神との交わりの中を生きるという機能です。
神との交わりはもともとアダムの中に存在し、人間が創造された目的であったのです。
人間側から言えば、存在の目的があり、満足し、何の不足、悩みもない状態だったのです。
罪の機能の停止により、その喜びすべてが機能しなくなったのです。
この霊の存在は動物や他の生物の中には存在しません。
そのように創造された人間にだけ存在するのです。
しかし、今、神の御子、私たちの救い主が私たちの罪の身代わりに十字架にかかって下さり、罪の問題がすべて解決しました。
神と私たちの間にある闇は払拭されたのです。
旧約聖書の時代、神の宮が設置されました。
至聖所と言われる神の臨在される場所に入れるのは祭司だけで、その間には厚い天幕(カーテン)が施されていました。
これは象徴的に神と人間の間には、厚い天幕があり、自由に行き来できないことを象徴しています。
イエスキリストが十字架に架かられ、罪の贖いが完了した時、奇跡が起きたのです。
「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。」
(マタイの福音書27章50〜52節)
そうです。
象徴的に施されていた「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」のです。
神と人間の間の交わりを妨げる幕は、裂けたのです。
神御自身が霊、聖霊を与え、神と人間との交わりが自由にできるようになったのです。
神は、天地創造の神でした。
時には神はイスラエルの神でした。
また、罪人に対しては裁きの神でした。
しかし、今や、あなたの神になったのです。
神とあなたの交わりが復旧されたのです。
しかしながら、救いのない者についてはこのように宣言されています。
「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
(ヨハネの黙示録20章14、15節)
しかし、キリストの十字架の身代わり、罪の贖いを持つ者にはこのように宣言されています。
これはこれから起きる患難時代、千王国後にサタンが捕らえられた後に起きることです。
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」
(ヨハネの黙示録21章1節)
「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
(ヨハネの黙示録21章4節)
「小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。」
(ヨハネの黙示録21章27節)
ここでこの福音を要約します。
今回は簡単にわかりやすくをテーマにしていません。
いかに、納得し、深く理解していただくことを目的にしています。
もし、死者の復活、多数の人たちの失踪事件を見たのなら、もはや、否定してはいけません。
できるだけ、単純な心で、しがみついてでもこの救いに預からなければなりません。
1、この天地は偶然の産物ではありません。
神によって、創造されました。
2、人間はこの天地創造の目的だったのです。
3、しかし、人間は罪を犯しました。
アダムはサタンに騙され、神に背いたのです。
4、その結果、人類に罪が入って来たのです。
ゆえに、人類には、あらゆる犯罪、戦争がはびこっているのです。
5、人間は神にとって、価値のない存在になりました。
価値の無いものは捨てられるのです。
人間には、死後、永遠の火の池という裁きが設定されました。
6、しかし、神は救いの道を用意されました。
今から2000年ほど前に、イスラエルのエルサレムにおいて、私たちの罪の身代わりに、神の御子イエスキリストを十字架に架けてくださいました。
その罪の身代わりを信じる(受け入れた)者には、裁きではなく、救いが与えられました。
7、その救いが確実であることを証し(証明)するために、イエスキリストは死からよみがえりました。
墓は空っぽになり、それを見た500人以上の弟子たちは世界伝道をはじめ、死に至るまでも否定しませんでした。
8、その救いとは、人間の創られた時の祝福、いや、それ以上の場所に私たちを迎え入れてくださることです。
9、そして、神は人類にここまでという時間を設定されました。
もし、先に書いたような信じられないことが起きているのであれば、これから、世界は裁きの時代へと突入します。
あなたは、キリストの十字架を信じなければならないのです。
9章、キリストの預言について
キリストが来られることについては、聖書に数々の預言があります。
旧約聖書のすべてがキリストと終末の預言の書と言っても過言ではありません。
「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
(創世記3章15節)
1)サタンはアダムを騙して、罪を犯させました。
そして、神はすぐにある人物についての預言をしました。
「わたしは、おまえ(サタン)と女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫(単数形の人物)との間に、敵意を置く。」
彼(女の子孫)は、おまえ(サタン)の頭を踏み砕き、おまえ(サタン)は、彼(女の子孫)のかかとにかみつく。」
ここで述べられている女の子孫とは単数形の人物です。
つまり、キリストです。
サタンはキリストのかかとにかみつきます。
つまり、傷を負わせます。
しかし、キリストはサタンの頭を踏み砕くのです。
キリストはサタンに勝利し、死は力を失うのです。
「最後の敵である死も滅ぼされます。」
(コリント人への手紙第一15章26節)
「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。
それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」
(ペテロへの手紙第一3章18節)
2)イスラエルの祖先、アブラハムの家系から、キリストが生まれることを預言されました。
「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。」
(創世記13章15〜16節)
(イエスキリスト誕生以前の聖書個所)
「ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。」
(ガラテア人の手紙3章16節)
3)アブラハムの子孫、王ダビデの家系からキリストが生まれることが預言されています。
ダビデの子孫からメシヤが現れる。
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。」
(サムエル記第二7章12〜14節)
(イエスキリスト誕生以前の聖書個所)
「わたしは、わたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデに誓っている。
わたしは、おまえのすえを、とこしえに堅く立て、おまえの王座を代々限りなく建てる。」
(詩篇89章3〜4節)
(イエスキリスト誕生以前の聖書個所)
このようにイスラエルの家系からキリストが生まれることが預言されていました。
しかし、イスラエルのためにキリストが来られたのに、彼らはキリストを十字架に架けたのです。
しかし、それは神の計画であり、救いが成就されるためでした。
4)メシアは処女から生まれる。
「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」
(イザヤ書7章14節)
(イエスキリスト誕生以前の聖書個所)
「「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」
(マタイの福音書1章23〜25節)
(成就したことを示す聖書個所)
5)メシアはベツレヘムで生まれる。
イエスキリストはユダの氏族より生まれる。
「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」
(ミカ書5章2節)
(イエスキリスト誕生以前の聖書個所)
「ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」
(ルカの福音書2章4〜7節)
(成就したことを示す聖書個所)
ユダヤ人たちはメシアの到来を信じていましたが、キリストの誕生を出迎えたのは羊飼いと3人の博士でした。
待つべき人たちが待っていなかったのです。
6)イエスキリストは弟子のユダによって銀三十シェケルで裏切られ、陶器師に投げ与えられた。
(陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。)
「私は彼らに言った。「あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでないなら、やめなさい。」すると彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った。
主は私に仰せられた。「彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。」そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。」
(ゼカリヤ書11章12〜13節)
(イエスキリスト誕生以前の聖書個所)
「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、
「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。
それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。
祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから。」と言った。
彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。」
(マタイの福音書27章3〜7節)
(成就したことを示す聖書個所)
7)イエスキリストの十字架の預言
「犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。
私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。
彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」
(詩篇22章16〜18節)
(イエスキリスト誕生以前の聖書個所)
「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」
(イザヤ書52章2〜11節)
(イエスキリスト誕生以前の聖書個所)
イザヤ書52章2〜11節はイエスキリストの聖書預言として非常に有名です。
キリストの福音、十字架の姿、苦しみが見事に神はイザヤを通して預言を与えられています。
イエスキリストをメシアだと認めないユダヤ人たちは聖書を読むとき、この個所を飛ばして読むことがあると聞いています。
「「彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。
こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、
そこにすわって、イエスの見張りをした。
また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。
そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。」」
(マタイの福音書27章34〜39節)
(成就したことを示す聖書個所)
8)イエスキリストの復活の預言
「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」
(詩篇16章10節)
(イエスキリスト誕生以前の聖書個所)
「イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」」
(ヨハネの福音書2章19節)
(イエスキリスト十字架以前の聖書個所)
「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」
(マタイの福音書16章21節)
(イエスキリスト十字架以前の聖書個所)
「それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」と話しておられたからである。
しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。」
(マルコの福音書9章31〜32節)
(イエスキリスト十字架以前の聖書個所)
「「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
女たちはイエスのみことばを思い出した。」
(ルカの福音書24章5〜8節)
(成就したことを示す聖書個所)
9)このようにイエスキリストの出現は預言され、イスラエル民族は期待に、期待した存在としてお生まれになってくださいました。
しかし、彼らはイエスキリストを十字架に架けてしまったのです。
聖書にはこのように書かれています。
「彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。」
(ローマ人への手紙11章11節)
すべてが神の御計画だったのです。
「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」
(ローマ人への手紙11章36節)
第三部 終末と希望(これから起きること)
読者がどのタイミングでこの文章を読まれているのかわかりません。
まだ、何も起きずに理屈っぽいキリスト教と理屈っぽい文章を読まれているのか?
もしくは、幻か?集団ヒステリーと呼ばれた集団失踪事件の後なのか?
それとも、その後の恐ろしい時代の中で過去に起きたことは何なのか?
そして、何がこれから起きようとしているのか探索しているのかも知れません。
ここでは、終末と言われている出来事が何も起きていない段階で、聖書のテキストから読み取れている内容をまとめておきます。
まだ、起きていない事柄なので絶対とは言えませんが、その状況に応じて適応させ、神の御言葉が何と言っているのか理解してください。
10章、患難時代
まず、最初に先にも書いた空中携挙と呼ばれる死者の復活、集団失踪事件が起きます。
著者はキリストが目に見える形で登場すると理解しています。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」
(テサロニケ人への手紙第一4章16、17節)
聖書の中で地上に対して宣言された預言が、信者、未信者にかかわらず、目に見えないところで誰にもわからないところで成就することはありえません。
もちろん、地球上にはメディアが存在するところ、情報の収集できる場所、できない場所がありますので、常に全員とは言い切れません。
しかし、その情報を求めている人には届けられると考えています。
おそらく、「ご自身天から下って来られます」という言葉を見るのであれば、空中、宇宙を監視している者たちキリストの来臨を確認するはずだと認識しています。
その時「令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響き」が鳴り響きます。
つまり、認識できる者には誰にでも確認できる事柄です。
ただし、何が起きたのか?その時代の人々は正しく理解できないと考えています。
そして、多くの死者がよみがえり、クリスチャンと呼ばれる人たちの一部(正しく救われた者全員)が集団失踪して行方不明になります。
これは先に書いた内容ですが、ここで注意していただきたいのは、キリスト教と呼ばれる人が全員ではありません。
多くが残されます。
そして、ローマに所属する者、それに協力する者たちも、これから起きる恐ろしい時代の反キリストと呼ばれる政治的リーダーに協力して行くことになります。
その時代にいる者たちは騙されないように注意してください。
おそらく、その時代のキリスト教全体がそのようになり、彼らに裁きが下されます。
ただし、注意しておくべき聖書のことばがあります。
患難時代の人たちはどうして、自分たちの患難が降りかかっているのか知っているからです。
「山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。」
(ヨハネの黙示録6章16節)
彼らは原因を知っていながら、神を信ぜず、裁きを受けているのです。
1)患難時代は携挙の後すぐに来ます。
先にも書いたように携挙の直接的なタイミングには聖書には書かれていません。
ただし、ここで書いてきたように、多くのヒントが聖書には潜んでいます。
聖書には書いていないのだから、それが近いと考えてはいけない。
もしくは、「キリストの現れ」に構えて生きるべきではないというのは戯言であり、聖書無視の言葉です。
そして、患難時代と携挙の起こるタイミングには非常に密接した関係があります。
まず、患難時代は携挙の直前に起きるということです。
「また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」
(テサロニケへの手紙第一1章10節)
「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」
(テサロニケへの手紙第一2章7節)
テサロニケへの手紙の中では死者の復活、携挙について語られています。
ここでも「御怒り」とは時であり、患難時代を示していると考えられます。
つまり、患難時代に信者は入らないということを教えていると考えられます。
もう一度、コリント人への手紙第一を見て見ましょう。
「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。」
(コリント人への手紙第一15章23、24節)
この個所を地上再臨を指すという指摘がありますが、前後を読んでください。
この死者の復活はキリストの復活の目撃者、弟子たちに対しての死者の復活です。
つまり、クリスチャンに対して書かれています。
つまり、空中携挙のことだと理解するのが通常です。
つまり、この死者の復活と再臨(携挙)が起きた後に、患難時代を含めての終わりが来るのです。
この患難時代のスタートは反キリストと呼ばれる軍隊を持つ国のリーダーとイスラエルの平和条約から始まり、3年半後に一方的に条約が破棄されます。
現在、繰り返す戦争を体験し、イスラエルは平和を求めているのです。
おそらく、この条約の内容はイスラエルの武力解除です。
つじつまが合わないとして、この携挙と患難時代の間には長期な期間があるとする説もありますが、上記の聖句から言えば、そう長くはありません。
「彼は一週(7年)の間、多くの者と堅い契約を結び、半週(3年半)の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」
(ダニエル書9章27節)
これだけのことを目撃しておきながら、人類の多くは神を否定します。
聖書の歴史から見ても、神は裁きを下される前に必ず大きなメッセージを残しています。
死者の復活、そして、携挙は恐ろしい患難時代に入ったとしても、彼らのこころに強く残るものとなるのです。
2)患難時代が近いことを考えさせる要因
携挙同様、患難時代に対して直接的な前兆を聖書から見出すことは出来ません。
しかしながら、黙示録にある、患難時代の様子を見るのであれば、それが身近であることを確信することができるのです。
黙示録は7つの教会、患難時代の出来事、キリストの地上再臨、死者の裁きと信者の救い、新天新地、天上の礼拝がいくつかパートに分かれて書かれています。
黙示録を解釈するのに必要なことがあります。
最初に、多くの人たちが黙示録に書かれている内容について、多くの推測をします。
ある人たちは「チェルノブイリ」の意味が「苦よもぎ」だということで、黙示録の8章にある「第三のラッパ」の時に川々に落ちた星(苦よもぎと呼ばれる。)が放射能汚染だとする解釈があります。
また、終末には核爆弾が使用されると黙示録に書いてあるとする人たちがいます。
完全否定はしないとしても、それらは推測や想像でしかなく、神の言葉の解釈ではありません。
「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。」
(ペテロ第二の手紙1章20節)
もし、具体的に黙示録の書かれた内容を理解(解釈)したいのであれば、旧約聖書の具体例があります。
「十戒」の映画でも有名な旧約聖書、出エジプト記で神がモーセを通してエジプト(パロ)に下される神の裁きについて語りました。
主はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知るようになる。』ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、
ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水をもう飲むことを忌みきらうようになります。」
主はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」
モーセとアロンは主が命じられたとおりに行なった。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。
ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。
(出エジプト記7章17〜21節)
ここで学ぶべき点は神の言われた通りにエジプトの地で裁きが行われたということです。
この後もモーセは「かえる」「ぶよ」「あぶ」「家畜の疫病」「腫物」「いなご」「暗闇」「過越し(長子の死)」と神の裁きを警告し、それを実行しています。
例えも、解釈もありません。そのままです。
二つ目に、多くのキリスト教神学では、書かれていることはキリストの十字架から、現在までに至る過去に起きたことと解釈する傾向があります。
確かに、神の成さることには一次的、二次的にみることもでき、サタンのすることにもパターンがあるので、完全に否定することはできません。
特にプロテスタントは、カトリックと反抗する立場にいますので、サタン的な存在であるカトリックをそのように見えてしまうのかも知れません。
しかしながら、一次的に黙示録に書かれていることは携挙以降、つまり、患難時代、新天新地に関する未来についてです。
三つ目に黙示録に書かれていることはまだ起きていないことが文章化されているということです。
黙示録の著者であるヨハネはある箇所に「幻」を見たとされています。
もちろん、黙示録は神の霊感による書物であり、書かれていることが現実になった時、それが文字通りに成就するということです。
しかし、残念ながら、携挙前の不完全な人間にはこれを完全に解き明かすことが不可能です。
四つ目に黙示録の解釈の中にはどのようなイベントが起きたとしても、私たちに致命的なダメージを与えるものではありません。
ここで、決して、神の霊感を捨てたとか、絶対性を無視しているということではありません。
人間の理解力には限界があります。
同時に、私たちは黙示録での出来事がなんであるのか、追及し、近づけることが必要です。
特に終末直前の私たちにとってはそのはずです。
聖書は私たちに希望を与え、神に目を向けさせるものなのです。
例を上げてみましょう。
患難時代の神は二人の証人を1260日間、つまり患難時代の前期に立てます。
この時代にあって、神の裁きは第七の封印の裁きの前に十四万四千人のイスラエルを起こし、救いを宣べ伝え救われる魂を起こします。
そして、二人の証人は神について証します。
「そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。
また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。
しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。」
(ヨハネの黙示録11章6〜12節)
「そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す」のです。
この二人の証人を打ち殺す獣が反キリストとするのであれば、彼はユダヤ人でもなく、異邦人でもなく、聖書でいう地獄から上って来た者になります。
ある神学者によれば、反キリストは異邦人だと主張します。
「また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。」
(ヨハネの黙示録13章1節)
海というのは波があり、海流が流れ、落ち着くことがありません。
ユダヤ人と反対に落ち着くことがないので、異邦人のことを指すと主張されています。
その反面、他の神学者は反キリストはユダヤ人だと主張します。
キリストという呼称は「ユダヤ人」以外を指すことはないからだとされています。
反キリストがどこから出てくるのか?三つの解釈があります。
もし、反キリストがユダヤ人ならば、異邦人だと主張した神学者の言うことはすべてデタラメなんでしょうか?
その逆で異邦人ならば、ユダヤ人だと主張した神学者の言うことはすべてデタラメになるのですか?
この箇所では、ユダヤ人でも、異邦人でもなく、地獄から上って来た者だとされています。
おそらく、これを支持する人は理知的ではないので少数だと思いますが、ここではそのように述べられています。
反キリストはどこから出てくるのか?
まだ未来のことで、正直何も確定できませんが、推測することができます。
しかし、患難時代には、この聖書個所を見て、反キリストを見た者は、文字通りだったと理解できるはずです。
現在の我々にはまだ、わからないのです。
この二人の証人の死体はエルサレムの大通りにさらしものになります。
「彼らの主もその都で十字架につけられたのである」とある言葉によって理解できます。
旧約聖書では固有名詞を避けていますが、はっきりと示している地名がいくつかあります。
反キリストの三位一体はサタン、政治的反キリスト、宗教的反キリストだと言われています。
宗教的反キリストのことをこのように紹介しています。
「あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」
(ヨハネの黙示録17章18節)
宗教的反キリストは「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母」として紹介されています。
キリストを信じる教会は「花嫁」として紹介されていますので、対照的です。
そう、この宗教的反キリストはもともと「花嫁」だったのです。
堕落して淫婦となり「あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のこと」なのです。
ここにある「支配する」は現在形です。
つまり、ヨハネの黙示録が書かれた当時の世界を支配していた都を指します。
つまり、ローマです。
ローマで堕落した教会とはどこでしょうか?
このように黙示録では固有名詞を避けていますが、明言できる箇所がいくつもあります。
黙示録には明言できる箇所と、まだ起きていないので確定的ではない箇所が混在しています。
二人の証人の死体はエルサレムの大通りにさらされますが、2000年前、いや、19世紀までありえない表現がされています。
「もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。」
三日半の間の間、世界中が同時に二人の証人の死体を眺めます。
21世紀の現在では、これは簡単なことです。
インターネットがあり、衛星放送も可能です。
しかしながら、神はこのことさえも利用し、世界中の人々が見ている前で、彼らを復活させます。
そして、見ている前で、天に昇って行くのです。
私はこの現象がインターネット、もしくは衛星放送だと主張します。
しかし、反キリストの超能力的な力をもって、世界中の人が二人の証人の死体を眺めるかも知れません。
個人的にはインターネット、衛星放送などで世界中に配信されると確信しています。
しかし、それは未来のことで確定できません。
文字通り成就します。
結論はわからないものはわからないのです。
しかし、わかることはわかるのです。
確かにいくつもの解釈、推測があります。
確かに絶対ではありませんが、十分に期待させるものです。
そして、なによりも聖書を信じる信仰によって、これらのことを見てゆくのであれば、間違いなく、時が迫っていることがわかります。
ここで、黙示録がこの教会時代に与えられた理由を探求してみましょう。
黙示録以前に救いに関する教理はすべて教えられました。
救われるための教理としては十分です。
しかし、聖書は創世記が始まり、黙示録が与えられたことによって、古い被造物の時代のすべてが描かれることになります。
そして、何よりも黙示録は最後の書物であり、この時代がどうなってゆくのか、その結末が記されています。
つまり、信じる私たちには希望があることを知るのです。
このこともは文字通り、そのまま成就します。
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
(ヨハネの黙示録21章1〜4節)
そして、黙示録の最後には私がこのテキストの中でもっとも言いたい聖句があります。
「これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」
(ヨハネの黙示録22章21、22節)
この信仰にたどり着けない者は、自分の信仰を吟味する必要があります。
この終わりの時代に、多くの信者がこのように言えないという異常事態に気が付く必要があります。
黙示録の書かれた目的はクリスチャンたちにキリストが近い、天の御国が近いということを確信させるために書かれたと著者は信じています。
現在の世界状況を見るのであれば、当時よりも、いや、患難時代の出来事は今すぐにでも起きてもおかしくないと直感させるのです。
「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。
というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。」
ローマ人への手紙13章11節
3)患難時代に起きること
黙示録にある患難時代では6章から18章まで多くのページをさいて、災難、裁きが「七つの封印の裁き」、「七つのラッパの裁き」、「七つの鉢の裁き」として描写されています。
注意する点として「第七のラッパ」の裁きの中に「鉢の裁き」が含まれ、「第七の封印」の裁きの中に「ラッパの裁き」が含まれています。
また、「御使い」という言葉の定義を正しく知る必要があります。
「御使い」とは、神の被造物(創られた存在)です。
人格を持った霊的存在です。
彼らは知性、感情、意志を持っています。
もともとは神の栄光を表現し、神の御前で神を賛美し、仕えています。
しかし、サタンに従った「御使い」もいます。
しかし、サタン同様、これらの「御使い」は神の許可なしに動くことはできません。
まさに、黙示録は神に仕える「御使い」とサタンに使える「御使い」との攻防戦なのです。
この関係は現在においてもそうなのです。
サタンは現在においても、思想、政治、娯楽の中で働いているのは明白です。
しかし、神の許可なしでは動けません。
現在、多くのクリスチャンがこの神の「御使い」とサタンの「御使い」との攻防戦を見ることができています。
良く使う表現なのですが、聖書は40人の著者が神について語っています。
もし、あなたの思う神を自由に表現しなさいと言うのであれば、全員がバラバラなことを書くはずです。
聖書は明らかに神の霊感によって。一つの意思の元に書かれたことが証明されます。
同様に、世界の神に反抗する思想は統一されています。
それも、数万人、数十万人、いや、それ以上かもしれません。
無神論の陰謀論者(極端な者は否定しますが、全面的には否定できません)は裏に大きな財閥を持つ者が支配していると言っています。
そうなのかもしれません。
しかし、私はその根源がサタンであり、サタンに従って(神に反抗している)者たちであることを知っています。
LGBT、グローバリスト、共産主義、これらに共通して一致しているのは説明できません。
理屈では、これだけの人間を一つの理不尽な思想でまとめることは不可能だと考えます。
もちろん、断言はしませんが「トランプ元大統領の暗殺未遂事件」なども神の介入があったと感じています。
そして、黙示録の時代、患難時代にはこのことがピークに達します。
死人がよみがえり、多くの人が失踪し、世界では自然災害、飢饉が起き、政治は独裁者によって支配されます。
それでも、多くは神を信じることなく、サタンに従うのです。
神に従う者は「平安」を持ちますが、サタンに従う者は「恐れ、苦しみ」の中に生きます。
それでも、彼らはその「恐れ」から抜け出そうとして反抗に、反抗を重ねます。
もし、患難時代に入ったと確信してから、このテキストを読むのであれば、聖書の黙示録を直接読んでください。
そして、ここで書かれている内容と一致している注解書を探し、熟読してください。
あなたとあなたの家族のためです。
11章、黙示録にある患難時代、裁き
11−1)封印の裁き
A)最初の封印
「また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。
私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。」
(ヨハネの黙示録6章1〜2節)
最初に白い馬に乗り、弓を手にしている軍事的、政治的ヒーローです。
確かに象徴的な表現を黙示録の著者ヨハネは見ています。
白い馬とは、人の目には汚れが無く、戦争の雄姿、手には武器を持っています。
その者は勝利者として冠を持ち、「勝利の上にさらに勝利を得よう」としています。
多くの人は彼こそが聖書にある「メシア」、「キリスト」だと考えるかも知れません。
ここで注目する言葉は「得よう」です。
その者は「勝利の上にさらに勝利」をたくらんでいますが、あらゆる邪魔が入り、実現しません。
そうです。
反キリストが権力を握ります。
黙示録後半でキリストの婚宴の後で次のように書かれています。
また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 19章11〜13節
黙示録19章に描かれている方は「神の言葉」です。
その者はイエスキリストです。
しかし、6章に書かれている「白い馬の乗り主」はイエスキリストではありません。
地上で勝利をおさめ続け、最後に滅ぼされる「反キリスト」です。
なぜなら、彼が勝利をおさめたとたん、世界は恐怖に包まれるのです。
彼はキリストの来臨を真似ています。地上の人たちを自分がメシアだとだまします。(良く見るように)
白は勝利を示し、弓は武器、冠は権力です。
彼はあらゆる問題を解決し平和と権力もって支配に乗り出すでしょう。
突然、彼は世界の政治的ヒーローとして出てきます。
多くの聖書研究者は「この人物が出てくる時間」の問題を語ります。
先に書いたように、反キリストはこの患難時代の最初に突然現われ、すべての問題を解決してイスラエルと7年の期限付き契約を結びます。
反キリストはイスラエルにある戦争などの問題を一挙に解決します。
この反キリストはイスラエルの人たちから大いに信頼されます。
著者は、この時の条約にイスラエルの武力解除、もしくはそれに近いものが含まれていると考えています。
それほど、彼は魅力的に見え、信頼されるのです。
しかし、イスラエルの真の信仰者はそのように見ていません。
「あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。」
(イザヤ書28章15節)
新約聖書にもこのように書かれています。
「不法の秘密はすでに働いています。」
(テサロニケ人への手紙第二 2章7節
世界にはさまざまな災害や戦争が起きますが、3年半の間、彼は世界中の問題を解決しつづけます。
ここでは、彼はメシアのようです。
でも、ここですぐに化けの皮がはがされヒトラー以上の独裁者として現われます。
B)第二の封印
「小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。
人々が、互いに殺し合うようになるためであった。
また、彼に大きな剣が与えられた。」
(ヨハネの黙示録6章3〜4節)
ここに赤い馬とそれに乗る者が現れます。
黙示録の中では「赤い」という言葉がたびたび現れ、強調されています。
ある人はこの「赤」が共産主義だと主張する人もいます。
福音主義、もしくは聖書を文字通り読もうとする者たちでさえ、意見をいうことをためらっています。
断定することを恐れています。
しかし、断定する必要はありません。
個人的に黙示録の解釈には100点満点で点数をつけるようにしています。
この赤が共産主義を現している可能性はゼロではないと考えています。
逆に共産主義ではないと断言してしまうことに問題があります。
その時が来れば、この「赤」が何であるか、明白になります。
確かに、聖書の中ではサタンは「赤」を好んでいます。
もし、共産主義だとすれば、彼らは「地上から平和を奪い取り」、互いに殺し合う(おそらく共産主義国同士)戦争します。
もし、共産主義ではないとすると、最初の白い馬に乗った政治的ヒーローが別の馬に乗り換えたという解釈も成り立ちます。
ならば、この政治的ヒーローが共産主義を主張して出てくるとも読めます。
彼は「勝利の上にさらに勝利」をたくらむのですが、予想通りにならずに暴走状態になり、独裁者になろうとするのです。
そして、地上から平和を奪い取られ、戦争下でない者も互いに殺し合うようになるのです。
その者が誰であったとしても、彼には大きな剣(武器)が与えられています。
それは核かも知れません。
何事を否定せずに、可能性を追求して行くとより見えるようになります。
確かに黙示録の解釈には文字通りの解釈が必要であり、その時になれば文字通りに解釈されたと理解できるはずです。
しかし、まだ、起きていない段階では、想像もつかずに、断言は到底できません。
それでも、この黙示録の記事はまだ起きていない事柄さえも、信者にとって、黙示録の出来事が近いということを期待させます。
そして、同時にこのタイミングで、自然界もより劣化し、暴走をし始めます。
C)第三の封印
小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。
すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」
(ヨハネの黙示録6章5〜6節)
地球の各地で飢饉が起こります。
黒い馬は飢饉を表すと言われています。
一デナリは一日の当時の賃金であり、一枡は1リットルです。
つまり、小麦粉1リットルはおそらく現在では200円以下で買えます。
当時、一デナリで15〜20枡の小麦が買えたそうです。
つまり、一挙に食糧の値段が二十倍になるということです。
また当時の高価品だった、オリーブ油とぶどう酒(医薬品とも言える)には害を与えるなと述べられています。
高価品を手に入れる裕福な階級と飢えで苦しむ階級がはっきりと分かれ、異常な経済的な状態に陥ります。
まさに「貧富の格差」です。
D)第四の封印
小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。
(ヨハネの黙示録6章7〜8節)
地球人口の四分の一が死にます。
青ざめた馬とは病と死を表すと言われています。
現在の人口が80億人として四分の一が戦争とききんと死病と地上の獣によって殺す権威によって死にます。単に戦争とききんと死病だけではありません。
注意点は「戦争、獣によって殺す権威」と「ききんと死病」、つまり「権力によるもの要因」と「死病とききんという結果」があることです。
戦争の兵器として、ウイルス兵器が作られています。
一度に大勢の人を爆薬や銃をつかわずに抹消するものです。
また、食料は第三の封印のとき高価なものになってしまいました。
なおさら、この時代にあって権力は食料を使って人間の支配をするでしょう。
反キリスト(地上の獣)に従わないものもここで殺されます。
E)第五の封印
小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。
彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」
すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。
(ヨハネの黙示録6章9〜10節)
次に宗教的な大迫害が起こります。
この場面は地上ではなく天です。
第四の封印の時、患難時代に殺された殉教者たちだと思われます。
彼らは殺されたのです、携挙によって上げられたのではありません。
このあとの黙示録の聖徒と比較してください。
「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」
(ヨハネの黙示録7章14節)
この殺された人々のたましいは、小羊の血を基にしていません。
反キリストを拒んだ「ユダヤ人」だと思われます。
彼らは患難時代の終わりに十字架についたキリストを受け入れます。
彼らはメシア(キリスト)を拒み、まだこれから来るメシアを期待しているのです。
彼らには白い衣(聖い、勝利)が与えられます。
また、「殺されるはずの人々の数が満ちるまで」と書いてありますのでより多くの殉教者が起きるです。
F)第六の封印
私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。
そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。
天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。
地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」
(ヨハネの黙示録6章12〜17節)
大地震が起こり、太陽が暗くなり、月が血のように変わります。
文字通り、大きな地震、太陽が暗くなり、月が血のように変わるでしょう。
解釈はいりません。
「天の星が地上に落ちた」書いてあります。
懐疑論者はこれをつつきます。
宇宙にある星が地上に落ちるわけがないと言います。
実際、どのようなことを表すのか私にもわかりませんが、神はこれを行うのです。
最近、ある動画を見ました。
もちろん、私は物理学の専門家でもありませんし、宇宙論に詳しい者でもありません。
そして、この情報が正しいものか?間違っているのかもわかりません。
宇宙のある方向に3つの恒星が重なるように存在が確認できていたとのことです。
ところがある日、50分ほどでこの三つの恒星が消えてしまったとのことです。
恒星とは言わば太陽です。
太陽からみれば、人間はチリにもならないほど小さな存在です。
そして、地球から見れば、これらの星は近く見えるのですが実は距離的に何光年も離れており、近くにある存在ではなかったのです。
その星が50分ほどで痕跡が消えてしまったのです。
星が生まれたり、消えたりする現象はブラックホール、超新星などで説明してきましたが、何光年も離れた地球から見てほぼ同じ方向の星がわずかな時間に消え去るとは物理的に不可能です。
そのことはシロートの私にでも理解できます。
ブラックホールでもありえません。
専門家たちはこれを宇宙での未知、理解できない現象として処理していますが、物理的にありえないのです。
現在の物理学をひっくり返してもありえないのです。
この宇宙のことを人間が理解できない別の存在である可能性があります。
「天の星が地上に落ちた」という現象が起きた時、人類は物理的に理解できないことが起きたと処理するのでしょうか?
彼らはそれでも神を信じません。
そして、地上のあらゆる人たちがこれは聖書にある神からの怒りであることを理解してます。
それでも悔い改めようとせず、山や岩に救いを求める愚かな人間の姿があります。
山や岩に人間を救う力があるでしょうか。
彼らは天地を造った神に助けを求めるべきなのです。
「だれがそれに耐えられよう。」と哀れに叫んでいるのです。
でも、患難時代のわざわいはこれからです。
もしこのテキストが患難の時代に残るのであれば、キリストにある救いを受け入れてください。
この世の権力者や宗教(物を言わない偶像)に救いを求めても、岩や石に救いを求めても助けてはくれません。
この時代にあって主にあって死ぬものは幸いです。
生き残る可能性が少ないのですが、患難時代を生き残るという方法で救われることもできます。
ユダヤ人に恵みを施すのです。
そして、生き残るのであれば、彼は千年王国に入ることができます。
ユダヤ人に水一杯でもいいので差し入れてください。
わたし(メシアとしてのキリスト)の弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報い(千年王国の祝福)からもれることはない」。
(マタイの福音書10章42節)
G)第七の封印
「小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。
それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。」
(ヨハネの黙示録8章1〜2節)
第七の封印は7つのラッパのさばきです。
11−2)十四万四千人のイスラエル
「この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。
また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。
「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」
それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。
ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、
アセルの部族で一万二千人、ナフタリの部族で一万二千人、マナセの部族で一万二千人、
シメオンの部族で一万二千人、レビの部族で一万二千人、イッサカルの部族で一万二千人、
ゼブルンの部族で一万二千人、ヨセフの部族で一万二千人、ベニヤミンの部族で一万二千人、印を押された者がいた。」
(ヨハネの黙示録7章1〜9節)
患難時代においても神の救いの御業は行われます。
この記事は第六の封印と第七の封印との間に起きます。
第六の封印にて世界の人口の四分の一が死に絶えた後、絶望的な人類に神の哀れみが示されます。
ここに出てくる、十四万四千人は文字通りユダヤ人です。
まず神はこの十四万四千人に神の印を額に押します。
神は四人の御使いにこのことが終わるまで、風(神の怒り)が吹かないように命じております。
それはこの時代にある神のあわれみです。
それから彼らは神の印を額に押されて世界中に神の言葉を宣べ伝えるのです。
彼らを旧約聖書の記者は次のように記しています。
「ヤコブよ。わたしはあなたをことごとく必ず集める。わたしはイスラエルの残りの者を必ず集める。わたしは彼らを、おりの中の羊のように、牧場の中の群れのように一つに集める。こうして人々のざわめきが起ころう。」
(ミカ書2章12節)
「彼らは、わたしのものとなる。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」
(ミカ書3章17節)
彼らはヤコブの残りの民と言われ彼らは神に喜ばれます。
「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、
言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」
長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。
そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」
(ヨハネの黙示録7章9〜17節)
イスラエルの十四万四千人が選ばれました。
次の場面ではあらゆる国民、部族、民族、国語の聖徒たちが御座と小羊の前で礼拝をしています。
彼らはどこからきたのでしょう。主は「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」と言いました。
彼らはイスラエルの十四万四千人の伝道者によって救われた世界中の人たちです。
小羊の血にて洗われています。
彼らはイエスキリストの血の贖いを持っているのです。
彼らは「飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはない」と言われていますので、彼らは「飢えて、乾いて、炎熱の中にいた」のです。
「彼らにはもう悲しみはなく、イエスキリスト彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」
11−3)ラッパの裁き
「小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。
それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。
また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。
香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。
それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。
すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。」
(ヨハネの黙示録8章1〜6節)
第七の封印を解くと祈りのときが与えられ、天において六カ月間の静けさがあります。
御使いにはたくさんの香(祈りをあらわす)が与えられます。
御使いと聖徒たちは神の御前に立ち上がる香にて祈りをささげています。(この香は神の前に立ち上っていた。)
そして、御使いは祈り(香炉)に祭壇の火(神の怒りを示す。)とで満たし地に投げつけます。
雷鳴と声といなずまと地震(神の怒り)が起こります。
静けさが終わり、神の怒り(七つのラッパのさばき)の嵐が地上に吹き荒れるのです。
A)第一のラッパ
「第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。
そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。」
(ヨハネの黙示録8章7節)
核爆弾が使用されたという説があります。
たしかにヨハネの時代には核爆弾などなありません。
もしヨハネが核爆弾を見たのであればこのような表現をするかもしれません。
確かに個人的な理解力の不測の可能性もあります。
しかし、これでは神のことばの解釈としては不適格です。
なぜなら、聖書は2000年間多くのクリスチャンに読まれ霊的な糧になってきました。
そこには核爆弾の知識などありません。
ここでは地球の三分の一が火で焼かれる。
「血の混じった雹と火が現れ、地上の三分の一そして、青草が全部焼けた。」と記されています。
核戦争後の様子とは思えません。
これも文字通りにとるべきです。
B)第二のラッパ
「第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。
そして海の三分の一が血となった。
すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。」
(ヨハネの黙示録8章8〜9節)
ヨハネの目には何が写っていたのでしょうか。
このような説があります。
「火の燃えている大きな山」とは政治、経済、思想であり。海とは大群衆(または異邦人)に投げ込まれた。」
しかし、これでは海(大群集)が争って、たくさんの死亡者をだすかもしれないが、「海の中にいた、いのちあるもの」の意味がなりたたなります。
このような解釈ではなく、ここでも文字通りに解釈をしましょう。
としても、神の激しい怒りは海の中の生物が死に、海の船の三分の一が壊されたのです。
C)第三のラッパ
「第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。
すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。
この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。」
(ヨハネの黙示録8章10〜11節)
星が空から降っています。
映画の中には空からすい星が落ちてくるという映画がいくつかあります。
どれもが地上に悲惨な結果を及ぼすものです。
そのような光景かもしれません。
「たいまつのように燃えている」とは神の怒りを表しています。
苦よもぎ自身には毒性がないと聞きます。
ということは、乾いて人が死ぬぐらい水が苦いということです。
ここで多くの人という数が死んだとされています。
また解るとおり食料もないでしょう。
もし、あったとしても後には「666」の刻印のないものは食料の供給はされなくなります。
先に書いたように、ある人たちは「チェルノブイリ」の意味が「苦よもぎ」だということです。
確かに、原子力発電所のメルトダウンの代名詞は「チェルノブイリ」、もしくは「福島」になっています。
この川々に落ちた星(苦よもぎと呼ばれる。)が放射能汚染だとする解釈があります。
また、終末には核爆弾が使用されると黙示録に書いてあるとする人たちがいます。
黙示録の時代、このような状況になることは否定しませんが、推測や想像でしかなく、神の言葉の解釈ではありません。
D)第四のラッパ
「第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。
すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。
また私は見た。一羽のわしが中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。
「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」
(ヨハネの黙示録8章12〜13節)
太陽の光が現在の三分の二になります。
わしが「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。」と言っています。
つまり、これまでの黙示録の出来事は、これだけの犠牲者がありながら、わざわいではなかったのです。
残りの御使いがわざわいのためのラッパを吹き鳴らそうとしています。
E)第五のラッパ
「第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。
その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。
その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。
そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。
しかし、人間を殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された。その与えた苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。
その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行くのである。
そのいなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間の顔のようであった。
また女の髪のような毛があり、歯は、ししの歯のようであった。
また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その翼の音は、多くの馬に引かれた戦車が、戦いに馳せつけるときの響きのようであった。
そのうえ彼らは、さそりのような尾と針とを持っており、尾には、五か月間人間に害を加える力があった。
彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシヤ語でアポリュオンという。
第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。この後なお二つのわざわいが来る。」
(ヨハネの黙示録9章1〜12節)
ヘブル語で「アバドン」、ギリシヤ語で「アポリュオン」どちらも破壊という意味です。
底知れぬところとは聖書のペテロの手紙第二ではまさに地獄のことを指しています。
「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」
(ペテロの手紙第二2章4節)
この底知れぬところに天から星がおち、煙の中からイナゴのような生物が現れ世界中を襲います。
この個所はいろいろ想像されて説明されますが、これらは文字通り解釈すべきです。
この生物は神の印のない人間だけを襲い、殺すこともせず、ただ苦痛だけを与える神の裁きです。
5ヶ月間というのはイナゴの活動期間と言われています。
神を拒む人たちは「明らかに神の印の押された者には害が与えられていないのを知っていながら神に逆らうでしょう。
苦しくて、死を求めても死を与えられないのを味わいながらも神に逆らうでしょう。
モーセの警告を無視したエジプトのパロのようです。
F)第六のラッパ
「第六の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は神の御前にある金の祭壇の四隅から出る声を聞いた。
その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」
すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。
騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。
私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、ししの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。
これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。
馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。
これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、
その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。」
(ヨハネの黙示録9章13〜21節)
この個所については、正統派の中でも様々な意見があります。
先にも書いたように、これは未来に起きることです。
このことが成就した時に、すべてがこの聖句通りでしたと、私たちは言うことができるはずです。
しかし、今では、このテキストから読み取れるものと、読み取れないものがあります。
つまり、わかることはわかりますが、わからないものはわからないのです。
しかしながら、神のことばです。
「四人の御使いを解き放せ(自由にされ)、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使い人類の三分の一を殺すために解き放されます。
気になる言葉が「日、月、年のために用意されていた四人の御使い」という言葉です。
単純に「時が満ちた(成就した)」ということができますが、あきらかに「四人の御使い」と「日、月、年」の数字的な関係を示しています。
聖書にある月日などと関係を示しているようにも考えますが、断言することができません。
ここでは二つの解釈を述べます。
一つは正統的な解釈、もう一つは極端な解釈です。
繰り返しますが、個人的には極端な解釈をも否定しません。
否定できるものは否定しますが、受け入れられる可能性のあるものは拒否しません。
まずは「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ」となっています。
この御使いはサタンに従う御使いです。
つまり、悪霊です。
この悪霊が大川ユーフラテスの周り、付近で働くことを示しています。
世界地図を見るとユーフラテス川はティグリス川と並列に流れており、トルコ、シリア、イラク(バビロン)を流れ、イランをかすめ、ペルシャ湾に注がれます。
現在、アラブ・イスラム諸国の中で現在イスラエルと外交関係を有しているのは、エジプト、ヨルダンの2か国のみです。
特に2023年10月にイスラエル軍は、シリアで活動していたイランの革命防衛隊の幹部を殺害しており、現在は2024年9月段階でいつ中東戦争が起きてもおかしくない状態です。
そのイスラム国家の中心から、四人の御使いから、突然、人類の三分の一を殺すために騎兵が解放されるのです。
さて、この騎兵はどこから現れたのでしょうか?
先のイナゴと同様に地獄から解き放されたんのです。
つまり、地獄には奇妙なイナゴと奇妙な馬と騎兵がいることになります。
しかしながら、この2億の騎兵についての記録はここでなくなっています。
もし、地獄から人類を殺傷するために地上に上って来たのであればこの後にも記録が残るはずです。
あまりに見えなさすぎですが、そのまま起きると信じるべきです。
患難時代ではこのようなありえないことが起こるのです。
そして、人類はそれでも神を信じないのです。
これが肯定的な解釈です。
個人的には黙示録をできるだけ空想的、極端な解釈を避けて理解しようと努力しましたが限界があります。
理解できないし、頭にも想像できない、絵にもならない状況が続きました。
これを目にした時、私たちはこれが文字通りに起きたと理解できるはずです。
ヨハネはここで「私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった」と述べています。
ヨハネが幻の中で「実物」を見た可能性のあります。
しかし、ダニエル書にあるネブカデネザル王の見た夢にある巨大な像のように「釈義的」に現わされた可能性もゼロではないということです。
ここで極端な解釈を紹介します。
積極的に紹介しませんが、否定はしません。
先ほどの解釈通りに物事が進むことを前提としますが、人間の理解には限界があります。
現時点では理解できないことがその時代、その時になり、理解できるかも知れません。
時が進み、何かしらヒントになればと紹介します。
先の解釈で疑問になるのは、なぜ、イスラム教国のど真ん中、戦争に向かうその中でこの騎兵たちが現れるのかということです。
もちろん、サタンに従う御使いによるのですが、人間的に見て、これらの騎兵は意図的に発生させられた可能性です。
「騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、ししの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。
これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。
馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。」
(ヨハネの黙示録9章17〜19節)
ある者はこれをヨハネが自動車を見た表現だと言う人もいます。
これも完全否定はしません。
個人的に何かのDNA改変による生物兵器のような気がしないでもありません。
それも「その頭で害を加えるのである」とあり、人間を殺戮するために造られたようにも見えます。
サタンが地獄でDNAを改変して作り上げた生物のように見えます。
神が天地創造の時、このような生物を創造したとは思えません。
たとえ、この地上が堕落した結果だとしても、ノアの時代の前にいた生物と創造するのは難しいのです。
つまり、イスラム教国によって開発された生物兵器の可能性です。
それも、研究所などで漏洩し、世界中にばら撒かれるのです。
これ以上語れば、空想的な話になります。
結論はその時が来れば、これが文字通りに起きたと理解できるということです。
完全否定するものは否定し、わずかな可能性があれば土俵に残しておきます。
まだ、起きていないことです。
もし、違ったとしても、我々の希望が遠ざかるわけではありません。
現時点で想像もつかないということです。
「また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。
その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、
ししがほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。
七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。」と言うのを聞いた。
それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、
永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。」」
(ヨハネの黙示録10章1〜6節)
この御使いがイエスキリストだという説があります。
しかし、新約聖書の中でイエスキリストが「御使い」という表現をされた個所はありません。
文字どおり御使いと取るべきです。
この御使いは雲に包まれ(イスラエルと共にある神の栄光)、頭上には虹があり(神の約束とその不変性)を示しています。
太陽のような顔はすべてを照らし出す洞察力(義の太陽)をもち、火のような足は容赦ない裁きを執行する力をあらわします。
そして、あらたな小さな巻物をもち左足は海(異邦人、ユダヤ人と対照的に民族として波のように落ち着いていません)右足を地(ユダヤ人、民族が動いていない)に置いていました。
七つの雷についてもここに「ステップ」があること示していますが、それ以上のことは解りません。
七つの雷は書き記すなとありますが、その存在だけはこの黙示録に記録されています。
その時代になれば、明白になるということです。
他の黙示録の解釈同様、文字(霊感)だけでは理解できませんが、その時になると文字通りだったと理解できると考えています。
患難時代に黙示録を読む地上の人たちに託しましょう。(雷は聖書のなかで「神の怒り、権限などをあらわしています。)
御使いは「もはや「もはや時が延ばされることはない。」と宣言されました。
神の裁きは速やかに行われ神の義が実現します。
G)第七のラッパ
「第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」
(ヨハネの黙示録10章7節)
11−4)口には甘く、腹には苦い巻き物
「第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」
それから、前に私が天から聞いた声が、また私に話しかけて言った。「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」
それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい。」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」
そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。
そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」」
(ヨハネの黙示録10章7〜11節)
ここに神の裁きを語る預言者の姿が語られています。
御使いによって第七のラッパの裁きが行われようとしているとき、ヨハネは小さな巻き物を受け取りそれを食べたのです。
これは神の救いと裁きを語る者の姿です。
救いを食すると口には甘いがそれを腹の中に入れると苦くなるのです。
神の救いは非常に甘い、しかしそれを語るのは非常に苦い。なぜなら裁きを語らなければならないからです。
神の甘い救いを受け入れたクリスチャンであれば、無神論の世界で神の裁きを語るということはいかに苦いか解ると思います。
ヨハネは「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」と言われ、神の裁きを語らなければなりません。
11−5)聖所と礼拝者を測る
「それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。
聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。」
(ヨハネの黙示録11章1〜2節)
神はヨハネに「神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。」と命じました。
裁きの時代にあって、神は礼拝者を忘れてはいません。
聖所の外の庭は測ることはないと神は言いました。
それはダニエル書で記されています
「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」
(ダニエル書9章27節)
半週=42ヶ月の間、聖所の庭は異邦人に荒されます。
異邦人はヨハネに測るなといいました。
神が測り、そのさばきを行います。
「罪のためのいけにえをささげる祭司はそれを食べなければならない。それは、聖なる所、会見の天幕の庭で食べなければならない。」
(レビ記6章26節)
レビ記にも書いてあるように聖所の庭が荒されている以上、いけにえとささげ物は捧げることはできない状態なのです。
11−6)二人の預言者
先の項でも書いています。
そちらも参考にしてください。
患難時代の前半分の時代に神は二人の証人をお送りになります。
死者の復活、携挙同様に人類にダメージを与えるほどの証しをします。
それでも、人類は何も認めないのです。
「それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。
この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。」
(ヨハネの黙示録11章3〜6節)
「神はこのような時にも二人の預言者を使わして警告を与え神を求める者を起こす御業を行おうとしています。
神の裁きは第七の封印の裁きの前に十四万四千人のイスラエルを起こしました。
この第七のラッパの裁きの前に神は二人の預言者をつかわして警告を与えようとしています。
「彼らは二本のオリーブの木、また二つの燭台である。」と言われています。
また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」
(ゼカリヤ書4章3節)
「私は再び尋ねて言った。「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか。」
彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」」
(ゼカリヤ書4章12〜14節抜粋)
彼らはゼカリヤ書に預言されていた二人の預言者です。
二つの燭台とは暗闇を照らす光源です。
オリーブの木とは燭台にオリーブ油を供給する源です。
彼らは患難時代を照らす光を発します。
彼らはバプテスマのヨハネのように荒布を着て預言します。
エリヤのように雨が降らせないような力を持ち、モーセのように水を血に変え、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っていました。
この時代に証をするために神は「火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。」という力を与えていました。
彼らが直接、モーセとエリヤだという人がいますが彼らがモーセとエリヤだと書いていません。
モーセ、エリヤ自身ではなくその力、権威を持つものと解釈すべきでしょう。
「そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。
また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。
しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。」
(ヨハネの黙示録11章6〜12節)
底知れぬ所から上って来る獣とは、反キリストのことです。
霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都とは、エルサレムのことです。
彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
二人の預言者の働きは守られていましたが彼らは反キリストに捕まり殺されます。
そして、エルサレムの大通りに死体がさらされて世界中の人がその姿を見ます。
これはおそらく衛星中継、ネット配信にて、世界中のメディアが映し出すと考えています。
神を知らない者たちは喜び互いに贈り物を贈り合います。
ところが二人の預言者は三日半の後よみがえり世界中は恐怖に襲われます。
この二人の預言者の働く期間は患難時代の前半分の時代です。
なぜなら、反キリストがエルサレムに入場後、彼らは反キリストに証しをします。
まるで、エジプトのパロの前にモーセが証をしたようです。
そして、彼らの奇跡は患難時代後半の災害に関連しており、反キリストの民は彼らに苦しめられています。
そして、最後まで悔い改めを問いつづけるのです。
それでも、彼らは神を認めず、反キリストに従うのです。
(2024年、書いていて思いました。
どちらかと言えば、私は福音派です。
米国では民主党が米国を混乱させています。
移民問題、インフレ、共産主義傾向を感じさせる出来事が起き、いくつかの州では人口が減りはじめ、共和党支配の州に人が流れ込んでいます。
メディアの誘導があるとしても、それだけ、露骨なことが起きているのに民主党支持者が多いのには疑問を感じていました。
そうです。
患難時代には、これだけのことが起きても、この恐怖の中に生きていても、人間は反キリストに従うのです。)
「そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。」
(ヨハネの黙示録11章13節)
二人の預言者がよみがえった時、エルサレムは大地震になり十分の一が倒れ七千人が死にます。
驚くべきかな、この時代にあって生き残った人びとは神をあがめました。
彼らは彼らを敵の前で雲に乗って天に引き上げられました。
「第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。
第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、
言った。「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。
諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。
死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」
(ヨハネの黙示録11章14〜18節)
第七の御使いがラッパを吹き鳴らすとどんな災害が来るかと思えば、天ではキリストの地上再臨(キリストが地上に降りてきて、支配する)の宣言がされています。
このままでは人類は滅んでしまうからです。
11−7)イスラエルの回復
「それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。
また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。」
(ヨハネの黙示録11章19節)
神殿の中に契約の箱(律法の石板、マナの壷、アロンの杖)はイエスキリストを表すものです。
神はイスラエルとの約束を思い出しました。
それは律法による呪いです。
律法を行わないものは呪われるのです。
いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹はシナイ山を思い出させます。
神の怒りです。
神は忘れてはいないのです。
また、イスラエルをかならず祝福するという約束(千年王国)も必ず守ってくださいます。
11−8)イエスキリストの誕生とイスラエルの保護
ここで、イエスキリストの誕生とイスラエルの保護が回想されています。
黙示録は幻によって、与えられた預言だと主張する要因でもあります。
もちろん、すべてが霊的に与えられ、文字通りに成就され、成就します。
「また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。
この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
また、別のしるしが天に現われた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。
その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。」
(ヨハネの黙示録12章1〜6節)
女とは、イスラエル民族のことです。
十二の星とは、イスラエルの12部族、もしくは十二の栄光です。
産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。 ― イスラエル民族は神の計画に用いられるため聖くなる必要がありました。
不信仰、偶像崇拝がイスラエルを襲い、彼らにとって痛みとなったのです。
大きな赤い竜(七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。)とはサタンのことです。
また、患難時代に現れる反キリストのことです。
天の星とは、サタンに従う御使いのことです。
悪魔は御使いの三分の一を引き寄せ僕としてこの地上に働かせました。
イエスキリストがお生まれになった時代、福音書にもあるようにたくさんのサタンのしもべたちが働いていました。
その数は星の数、サタンに従う御使いの三分の一です。
(世の終わりにはすべてです。)
それはイスラエルが悪魔を踏み砕くメシアを生もうとしていたからです。
イエスキリストが地上に生まれたとき、ヘロデ王は、キリストを殺そうとしてベツレヘムの二歳以下の子供すべて殺しました。
また、悪魔は十字架によってイエスキリストを食い尽くすはずでした。
「この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。」 ― 千年王国の王としての支配者。
「その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」 ― イエスキリストの昇天
「女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。」 ― イスラエルは荒野で千二百六十日間、神によって備えられた場所で養われるのです。
ここで注意すべき点は内容からして、あきらかに過去の出来事から、イエスキリストを紹介し、未来に結び付けています。
この個所でイエスキリストを紹介し、イスラエルの王としての存在を明確にしているのです。
11−9)ミカエルと悪魔との戦い
ここで、サタンのことが回想されています。
黙示録での出場する者たちが紹介され、彼らは永遠の裁きを受けます。
「さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。
それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。」
(ヨハネの黙示録12章7〜9節)
ミカエルとは、御使いの頭です。
竜は、悪魔のことです。
このとき、ミカエルと彼の使いたちにより、悪魔とその使いたちは地上に投げ落とされた。
イザヤ書では次のように書かれています。
「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。
密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』
しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」
(イザヤ書14章12〜15節)
悪魔は「暁の子、明けの明星」と呼ばれていたほど素晴らしい御使いだったのです。
しかしこの中で『私は天に上ろう。〜いと高き方のようになろう。』と思ったのです。
つまり「神のようになろう。」ということです。
彼の行動は地上でよく表れています。
これが偶像崇拝です。
神は人間が神を礼拝するように創造されました。
悪魔はこの人間を神から取って自分に仕えさせたのです。
父なる神の面目はありません。
父なる神の栄光のために、悪魔に奪われた面白のためにイエスキリストは十字架にかかって神の栄光を取り戻したのです。
ですから詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と書かれているのです。
わたしは、父なる神です。
あなたは、イエスキリストです。
きょうとは、イエスキリストの十字架の時の時のことです。
生んだという表現は、父なる神とイエスキリストがより深い関係になることです。
また、この御使いの堕落(悪魔の起源)がいつ起きたのか論議の中心になります。
聖書の中の記事で最も古い悪魔についての記事はアダムとエバへの誘惑の記事となります。
ここではそれ以前だったのみ記しておきます。
「そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」
(ヨハネの黙示録12章10〜12節)
天に住む聖徒たちは悪魔の墜落を喜び、小羊の血とあかしのことばのゆえの勝利を喜んでいます。
しかし地上では悪魔が自分の時の短いのを知り、激しく怒ることになります。
11−10)イスラエルの保護
「自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。
しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。
ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。
しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。
すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。
そして、彼は海ベの砂の上に立った。」
(ヨハネの黙示録12章13〜18節)
回想から戻り、また場面は1〜6節の続きに戻ります。
悪魔はキリストを生んだイスラエルを追いかけます。
(キリストはユダヤ人として生まれました。)
患難時代にイスラエルは翼(注1)が与えられ、荒野で三年半守られます。
悪魔は大勢の軍隊を用いてイスラエルを押しながらそうと命令します。
「口から」情報誘導かも知れません。
聖書の中で、たびたび大きな攻撃を洪水とか水で表現をしています。
その時、大地震が起きて地面が裂け軍隊を飲み込んでしまいます。
また、「彼は海の砂の上に立った」(直訳)と記しています。
神を信じない異邦人のリーダとして、最終戦線(ハルマゲドン)に出かけると考えています。
(注1)翼と言う表現は聖書の中で神の特別な導きによって守られることを示しています。
エジプトで奴隷だったイスラエルを神は特別な方法を使って導き出した記事について、聖書はこのように記しています。
「あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。」
(出エジプト記19章4節)
11−11)獣
ここから大きなテーマについて語ります。
黙示録にある獣とは何者かという問題です。
「また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。
これには十本の角と七つの頭とがあった。
その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。」
(ヨハネの黙示録13章1節)
海 − 異邦人、異邦人社会を指します。
海とは地とは対照的に波があり、流れがあり落ち着かない場所です。
その反面、地は固定されています。
ユダヤ民族と同じように消え失せないのと同じです。
ここから、反キリストの姿が描き出されています。
ここでは、異邦人の国から反キリストは現われることとします。
(正統的な神学者の中にも、反キリストはユダヤ人と主張する人もいます。)
聖書は黙示録17章7〜18節でこの獣について詳しく解説をしています。
この野獣、ダニエル書2章の「ダニエルの預言」に預言されていたローマ帝国の延長(復興ローマ帝国)です。
この野獣は人手によらずに切り出された石(イエスキリスト)によって滅ぼされ、火の池に投げ込まれます。
ここでダニエル書を引用し、紹介します。
ダニエルは紀元前606年エルサレムからバビロンへ移された捕囚後、三年間彼は王宮で教育を受けました。
ネブカデネダルの治世の二年、紀元前603年ダニエルはバビロンの教育の影響(哲学、偶像教育)されずに時を過ごし、王ネブカデネダルの夢を説き明かすことになります。
年は恐らく17〜18歳の青年であったと考えられています。
「ネブカデネザルの治世の第二年に、ネブカデネザルは、幾つかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなかった。」
(ダニエル書2章1節)
「ダニエルは王に答えて言った。「王が求められる秘密は、知者、呪文師、呪法師、星占いも王に示すことはできません。
しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです。
王さま。あなたは寝床で、この後、何が起こるのかと思い巡らされましたが、秘密をあらわされる方が、後に起こることをあなたにお示しになったのです。
この秘密が私にあらわされたのは、ほかのどの人よりも私に知恵があるからではなく、その解き明かしが王に知らされることによって、あなたの心の思いをあなたがお知りになるためです。
王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。
その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、
すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。
あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。
そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。
これがその夢でした。私たちはその解き明かしを王さまの前に申し上げましょう。
王の王である王さま。天の神はあなたに国と権威と力と光栄とを賜い、
また人の子ら、野の獣、空の鳥がどこに住んでいても、これをことごとく治めるようにあなたの手に与えられました。あなたはあの金の頭です。
あなたの後に、あなたより劣るもう一つの国が起こります。次に青銅の第三の国が起こって、全土を治めるようになります。
第四の国は鉄のように強い国です。鉄はすべてのものを打ち砕いて粉々にするからです。その国は鉄が打ち砕くように、先の国々を粉々に打ち砕いてしまいます。
あなたがご覧になった足と足の指は、その一部が陶器師の粘土、一部が鉄でしたが、それは分裂した国のことです。その国には鉄の強さがあるでしょうが、あなたがご覧になったように、その鉄はどろどろの粘土と混じり合っているのです。
その足の指が一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。
鉄とどろどろの粘土が混じり合っているのをあなたがご覧になったように、それらは人間の種によって、互いに混じり合うでしょう。しかし鉄が粘土と混じり合わないように、それらが互いに団結することはありません。
この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。
あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」
それで、ネブカデネザル王はひれ伏してダニエルに礼をし、彼に、穀物のささげ物となだめのかおりとをささげるように命じた。」
(ダニエル書2章27〜46節)
ダニエルはネブカデネザルに「終わりの日に起こること」を前提に神が示されたことを語りました。
歴史はバビロニア―メド・ペルシャ―ギリシャ―ローマと流れてゆきます。
材質も金(繁栄と権力)―銀(金より劣る)―青銅―鉄(強い)と質を落としてゆきます。
人間の支配する世界は常に劣化してゆくのです。
1)金であるバビロニアは繁栄と権力優れた国です。
しかし役70年で廃れてしまいます。
2)また、胸と両腕と描かれているメド・ペルシャはメディヤとペルシャの連合国です。(右腕、左腕)
紀元前700年ごろメディヤによって始めて組織され、紀元前550年ペルシャの優勢になりました。
3)銀より劣る、青銅の国ギリシャ
ギリシャはアレクサンドロス王に代表されるようなすばやい国でしたがアレクサンドロス王一代(30歳)にて実質的には4つの国に分裂し廃れました。
4)鉄、青銅よりも劣るが強い。
鉄の国、ローマは世界は非常に強い国になりました。
そして、東ローマ、西ローマと分裂して行きまます。
これは歴史の教科書にも書いてあるはずです、確認してください。
後に足は「鉄、陶器師の粘土」で造られた国(10本の指)になるのです。
人間の種によって、互いに混じり合います。
(2024年、移民問題を見てください。)
「しかし鉄が粘土と混じり合わないように、それらが互いに団結することはありません」とある通り人種は交じり合うが一つの国にはなりません。
このように、弱さと強さを持っています。
この国は終末に起きる反キリストを中心とする国です。
天とは対照的に地に接触しています。
一つの石が人手によらずに切り出された(神の手により切り出された)石、(イエスキリスト)がこの像を壊します。
王であるイエスキリストがこの世の国すべてを壊し、永遠の御国を建て上げるのです。
そして、この最後の国がこの黙示録で述べられている獣なのです。
ダニエル書では10本の指となっていますが、黙示録では十本の角となっています。
そして、この国には過去の3つの国の特徴をも備えているのです。
「私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。」
(ヨハネの黙示録13章2節)
ひょうは、ギリシャのように、すばやいです。
熊は、メゾ・ペルシャなような強大な国です。
ししは、ローマのように強い国です。
竜とは、サタンのことです。
ここに10本の角、7つの頭、女については17章で説明されています。
この獣、反キリストの特徴としてこの世を支配してきた国の特徴をすべて持っています。
サタンは自分の権威をこの獣、反キリストに与えています。
「その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、
そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。」と言った。
この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。
そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。
彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。
地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。
耳のある者は聞きなさい。
とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。」
(ヨハネの黙示録13章3〜9節)
この獣(反キリスト)は常にイエスキリストを真似していることがわかります。
ここでも「頭の一つは打ち殺された思われた。」という事件を起こしているが、14節を見るとこれが「剣の傷」(戦争または武器による傷)であることがわかります。
獣は「致命的な傷も直った。」と記してあります。
キリストの復活の真似であり、その結果人々は獣に従い、竜(サタン)を拝むのです。
出エジプト記にあるモーセの奇跡を真似をした、偽預言者のようです。
この獣は四十二か月間(後患難時代)活動する権威を持っていました。
神はイナゴにでも、獣でも必ず行動が制限され神の権限の中にあることを知ります。
この場面では神に従わず、獣に従うものは獣に逃げるのです。
ここにこの時代にあって神の勧めがある。「耳のあるものは聞きなさい。」
この原則はすべての時代に有効である。
「信仰は聞くことから始まり、口で告白することにより救われるのです。」
聖徒はキリストを待つ忍耐が必要です。
忘れていけないことは神は答えてくださるということです。
そして、サタンは必ず裏切るということです。
神を待つ信仰者の姿は現在においても同じなのです。
11−12)もう一匹の獣
「また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。
それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。
この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。
また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。
また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。
それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。」
(ヨハネの黙示録13章11〜15節)
小羊ような − 小羊とは聖書の中で教会、もしくはイエスキリストのことを示しています。
注意すべき点は「小羊のような」となっています。
教会のようで教会ではない宗教団体であります。
それは、二本の王(角)もしくは二つの団体から成り立っています。
カトリック教会とキリスト系の団体が結びつくと考えられます。
最近カトリックとルター派が合意をしたというニュースが入ってきています。
カトリックと英国国教会はともに、異教の影響を受けています。
露骨に分かるのは、滴礼による洗礼です。
滴礼は異教の儀式です。
クリスチャンの洗礼は体全体を浸すというものであり、聖書に記されています。
そして、キリスト世界全体に影響を与えているクリスマスとイースターです。
この獣と前の獣と非常に親しい。この獣は前の獣を拝ませ、奇跡を行います。
彼は像を作らさせて(自分で作っていない)、それにものを言わせるようにし、従わなものを殺します。
像がものをいうことは最近まで不可能でした。
注意する点は反キリストの意図を崩すことなく、この像は自分で言ったのです。
2024年の段階でAIは急速にコンピュータ、ネットの世界に入ってきました。
多くのデータを蓄積に、そこから必要なデータを抜き取り、表現するという手法です。
この数年で人間の道徳、秩序等は急速に劣化しているのに、像にものを言わせる技術が急速に進歩してきています。
(悪魔は特別にこの像に超自然的な力(息を吹き込んで---命が与えられるのは神のみです)を加えるのかもしれません。)
恐ろしい時代である。
像を拝まないだけで殺されるのです。
「また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。」
(ヨハネの黙示録13章16〜18節)
この獣は経済を握りました。
その右の手かその額かに刻印がないとものを買うことも、売ることもできないようにしました。
また、これにかかわってくる、獣の数字は六百六十六であり、それは人間を指していると書いてあります。
「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、
そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。」
(ヨハネの黙示録14章9〜10節)
「さあ大変です!。」神に従うには物が買えません。
ただでさえ食糧のない時代です、重大な選択をしなければなりません。
神に従わず、獣に従い、刻印を受けて、獣を拝みつづけるのならそのものは地獄へ行くと書いてあります。
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
(マタイの福音書1章28節)
この獣のシステムは多くの聖書研究家が想像してしましたが、最近の情報はけしてピントが外れたとは思いません。
インターネットやクレジットカードが発達して世界中の人たちがキャッシュレスで買い物することが多くなりました。
そこで問題になってくるのが本人の確認方法です。
現在、世界中の店にバーコードの端末が置かれるとは想像もしていませんでした。
すべての商品にバーコードが印刷されています。
世界中の人間の情報がコンピューターに入っていて、必要になればそこから引き出せるのが現実です。
本人だと確認する方法に印鑑やサイン、身分証明書を使いますがいくらでも偽造できます。
今年なって世界中でその方法が現実化されています。(商品化されています。)
「マイクロチップ」という米粒サイズのICを体に埋め込み、そこから発信される電波にて本人であることを確認する方法です。
経済はコンピューターによって支配されているからです。
コンピューターが壊れると経済が壊れるからです。
人がもしマイクロチップを体に埋め込むとしたらどこでしょうか?。
それは右手(利き手)です。
キャシュ・デスペンサーの前にゆき、右手はキーボードを押しながらキーボードの上には端末(センサー)があります。キャシュカードはもういりません。
それ以外に埋め込むとしたら額です。
顔と照合するためです。
強盗は二度とでません。彼らは現場にあるセンサーで犯人が確定されて売り買いはコンピュータ上でカットです。
もし、いま反キリストが現れ、自分に従わせるにはこれを使わずにはいないでしょう。
獣の数字は六百六十六、七という数字は完全数です。そこから一足りないのは不完全であることを示しています。
「コンピューターシステム(バーコード)に関係しているという人がいますが私にはわかりません。
ヒントとしては「獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々」と言う表現が「黙示録15章2節」にある。
これは数字は打ち勝てるものであることが解ります。
ここで最近(2024年)、騒がれているニュースがあります。
2021年世界経済フォーラム、ダボス会議にて、「グレートリセット」と呼ばれる内容が議論されました。
ダボス会議とは、毎年、世界を代表する政治家や実業家などが集まり、世界経済や環境問題など幅広いテーマで討議する場で世界中が注目しています。
つまり、これは陰謀論とか、どこかの国が勝手に言い出していることではありません。
また、グレートリセットとは「現在の社会全体を構成する金融や社会経済などのさまざまなシステムを、一度すべてリセットする」ことと定義されています。
項目的には上から見てゆくのであれば、
1、公平性のある市場を目指す。
2、新しく拡張された投資プログラムを活用する。
3、各専門分野を超えた協力と革新する。
などとなっています。
人は上から読んで行き、その順位で理解してゆきますが、サタンは狡猾です。
しかし、その中は貧富の差を無くすため、不均衡を是正するため既存の金融システムをリセットしてより良いものに再構築することが含まれています。
これには「富の再分配」が含まれています。
つまり、お金のある人も、ない人もすべて金融的に集め、それを均等にわけて、平等に扱おうというものであり、いわば、共産主義です。
アメリカでは下位50%の世帯は、国全体の富の2%しか持たず、上位1%がアメリカの資産の3分の1を保有しているとされています。
それを是正して、すべての人が平等に持とうというのですから、素晴らしいように聞こえるかも知れません。
しかし、それが共産主義であり、その結果は現在の共産国を見れば明白です。
均等にばら撒くことができず、権力が集中します。
第一、現在の富豪たちがこのグレートリセットを主張しており、富豪たち全員が自分たちの財産、権力を捨ててこれを行うはずがありません。
個人的に意見ですが、これが反キリストの「だれも、買うことも、売ることもできないようにした」につながると予想しています。
おそらく、現在の紙幣制度はなくなり、すべてがデジタル決算になると考えています。
つまり、その時に本人確認がされます。
すでに、先進国、および、共産国では、一部の後進国では人間に番号が振り分けられております。
つまり、反キリストに従わない者には決算機能から外されるのです。
クレジットカードで言えば、使用不可能にされるのです。
この独裁者である反キリストは、世界の富を集中させるために金融リセットを行います。
反キリストは世界の富を手に入れ、人類に刻印を受けさせ、奴隷化してゆくのです。
そして、反キリストに反抗する者たちはこのシステムを打破します。
つまり、壊してしまうのです。
「その名を示す数字とに打ち勝った人々」という言葉が15章2節にあります。
そして、殉教して行くのです。
11−13)天での賛美
ここでまだ起きていませんが、確定されたキリストの勝利を祝って、天での礼拝が記されています。
「また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。
私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。
彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。
彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。
彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。
また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。
彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」」
(ヨハネの黙示録14章1〜7節)
ここでは「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」という黙示録11章15節の第七のラッパの裁きからの続きです。
天国でのイエスキリストの勝利(地上再臨)の喜びの様子です。
実際的に地上再臨は黙示録の19章になります。
ここではその喜びを前もってかみしめています。
シオンの山とは、天国のエルサレム(礼拝する場所)です。
十四万四千人の人たちとは、 黙示録第7章4節の患難時代に選ばれたユダヤ人のことです。
四つの生き物とは、イエスキリストの栄光を表す被造物です。
この永遠の福音には、定冠詞がありません。
つまり、終わりない良い知らせ(教会時代の福音だけではありません。)
「第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。
この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」」
(ヨハネの黙示録4章7、8節)
第一の生き物は、ししのようです。
野の獣の王としてのイエスキリストを表現しています。
第二の生き物は雄牛のようのようです。
しもべとしてのイエスキリストを表現しています。
第三の生き物は人間のような顔を持っています。
人としてのイエスキリストを表現しています。
第四の生き物は空飛ぶわしのようです。
天の王(神)としてのイエスキリストを表します。
長老たちとは、教会時代に救われた者です。
「また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。」
(ヨハネの黙示録4章4節)
白い衣 − キリストの血によって白くされ、贖われたものの特徴です。
金の冠 −
説1)冠(στεφανοs)は教会時代キリストに従うものに与えられたものです。
この冠は王座に与えられるものではありません。
まさに栄冠です。
この単語はローマ時代競技の勝利者に与えられるものです。
新約聖書ではこの冠という単語を用いて(忍耐の結果、)勝利を得たクリスチャンに与えられると記されています。
使徒の働きでは殉教したステファノの名前がこの「冠」という意味です。
まさに、彼はこの冠を受けたのです。
通常、この冠は花輪です。
しかし、ここでは金でできています。
二十四人の長老たちは教会時代のクリスチャンであると言われています。
「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」
(ヤコブの手紙1章12節)
説2)
19章に花嫁の婚宴の前に24人の長老の賛美があります。
婚宴の花嫁は教会であり、婚宴の前に教会の賛美というのは変だと思う。
同じく19章でユダヤ人が14万4千人と数えられています。
患難時代に救われた者を大群衆となっているのに教会が数えられずに24人となっているのは不自然です。
つまり24人は御使いもしくは特別な聖徒となります。
個人的には説2)の特別な(白い衣を着ている)聖徒だと考えます。
新しい歌 − 黙示録5章9〜10節「彼らは新しい歌を歌って言った、〜あなたはほふられ、その血によって、〜彼らは地上を支配するに至るでしょう」とかたられています。
千年王国での賛美歌です。
女 − 淫婦(教会のような宗教)
彼らは女によって汚されたことのない人々 − 淫婦を拝まなかった人たちです。
彼らはイエスキリストに従うことを喜びとするために贖われた人たちなのです。
永遠の福音 − 「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」この裁きの時代に述べ伝えられる福音のことです。
神は裁きを行うとき、これでもか!と思うほど悔い改めを求めています。
11−14)混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒
また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」
(ヨハネの黙示録14章8節)
旧約時代のイスラエル同様にまず神は勝利宣言をした後、裁き(勝利)を行っています。
大バビロン − 女、後の章で説明します。
不品行のぶどう酒をすべての国々の民に飲ませる、つまり、偶像崇拝によって酔わせるのです。
「また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、
そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。」
(ヨハネの黙示録14章9〜11節)
反キリストに従い反キリストの刻印を受けた者たちの報いが描かれています。
「混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒」、「彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。---昼も夜も休みを得ない。」
ここに「激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒」と「混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒」という2種類のぶどう酒がでてきます。
詳しくは著者の紹介している「二つのバビロン(ALEXANDER HISLOP著)」の中で意義ある説が述べられています。
この著作は私とは別の神学を主張していますが、素晴らしい指摘をしています。
抜粋して取り入れてゆくのであれば、価値のある著作です。
この内容を要約します。
「不品行のぶどう酒」と「混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒」が対照的に述べられています。
つまり、「不品行のぶどう酒」とは混ぜ物があるぶどう酒であることがわかります。
古代において、戦勝国は植民国を支配するために様々な手法が取られました。
戦勝国は宗教を使い、植民国を奴属的に支配することを目的としました。
その手法はニムロデの時代に考案されたとされ、多くの考古学的な発掘によっても証明されています。
ノアの時代に神によって、裁かれた人類は神に敵対して、集結することを求めたのです。
「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
(創世記11章4節)
この手法は最近ではオウム真理教に利用されました。
彼らが信者獲得のために、この方法を相手を支配するためにこの手法は利用され、彼らに政治的な目的があったことが証明されます。
彼らは歴史から、考古学からこのことを学び、獲得したのです。
秘儀、つまり、イニシエーションです。
秘儀自身は秘密の儀式とされ、参加できるものは限られます。
つまり、ネタバレを防ぐためでしたが、何かしらの形で、受け継がれる必要があります。
ゆえに、歴史に残ったのです。
この秘儀に参加できるものは限られた、認定された者です。
一般的な記録では「ぶどう酒に混ぜ物」がされたものを飲み、不思議な体験をさせられたようです。
彼らは、この異体験を通し、この異教的な信仰の奴隷とされたのです。
これらの偶像崇拝者たちは、奇跡的な異体験を通して、偶像崇拝に確信が与えられ、より奴隷化されてゆきます。
このことをオウム真理教を利用し、信者拡大を図りました。
すべては悪なのですが、私たちにはそれが実際的に効果があることを証明しています。
このぶどう酒にある混ぜ物が、薬物であることが明白です。
ゆえに、宗教儀式にはこのような飲み物が付き物なのです。
このような習慣、偶像儀式はおそらくヨハネの時代後も続き、ヨハネも認識を持っていた可能性も捨てきれません。
それを前提に混ぜ物がある「不品行のぶどう酒」について読んでみてください。
「激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」
ここでは仮説であることを前提に述べます。
反キリストはあらゆる国民に対して、薬物を使い、自分に従えさせます。
それに対して「神の怒りの杯」には混ぜ物によって誤魔化されること無く、ストレートに神の怒りを体験することになるのです。
「神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」
「また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」
(ヨハネの黙示録14章12〜13節)
患難時代にあって救われることは二者選択であり、妥協はありません。
患難時代に死ぬものは永遠の命を持ち、生きる者はそれをなくします。
確かに信じて、患難時代を生きとおした者は千年王国に直接入ることができます。
これは携挙同様に死を通さずに約束の場所に入る方法です。
教会時代のクリスチャンたちは千年王国で住むことはありません。
彼らは千年王国において、天において千年王国を支配します。
天と地が物理的に近くなることを示しています。
11−15)地上再臨時の諸国への裁き
世界中の軍隊がエルサレムを攻めに来ます。
その時にイエスキリストは地上に降りてこられ諸国の民を裁かれます。
「また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。
すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」
そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。
また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。
すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」
そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。
その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。」
(ヨハネの黙示録14章14〜20節)
人の子のような方とは、イエスキリストのことです。
この方は御使いによって呼ばれています。
つまり、御使いでないのことは明白です。
金の冠は王がかぶるものです
手には鋭いかまを持っておられるのは、刈り取りをするためです
「毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。」
(マタイによる福音書13章39、40節)
麦と毒麦は成長してからでないと区別がつかないといわれています。
神は神に従うものとサタンに従うものを世の終わりに刈り取ります。
麦は蔵(天国)に収められ、毒麦は焼かれます。
「諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。
かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ。」
(ヨエル書3章12、13節)
ヨエル書は患難時代の裁きを語っています。
神様の怒りは酒ぶねに表されています。
ぶどう酒を作るために酒ぶねにぶどうを入れて足で踏むのです。
イザヤ書にこのように預言されています。
「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。
わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。
わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。
わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。」
(イザヤ書63章3〜6節)
イエスキリストがかまをもち、裁きを行います。
キリストの集めたものは集められます。
御使いもそれを手伝い、御使いの刈り集めたものは激しい怒りの酒ぶねに入れられ踏まれます。
上の二つに違い、集められる者と裁かれるものです。
患難時代ではイエスキリストが十字架にかかった都の外で、今度はイエスキリストに従わないものたちの血で満ち溢れます。
深さは20センチメートルくらい(馬のくつわ)でしょうか、その距離は三百キロメートル(六百スタディオン)ほどになります。
聖地の幅は250kmで300という数字は当てはまりません。
天変地異があって大きくなるなるのかもしれません。
まさに、聖地の周りが血のプールとなるのです。
11−16)鉢のさばき
「また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。」
(ヨハネの黙示録15章1節)
最後の七つの災害とは、神の激しい怒りの鉢のさばきことです。
「私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。」
(ヨハネの黙示録15章2節)
ガラスの海について、次のように書かれています。
「御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。」(ヨハネの黙示録4章6節)
海とは、神殿の内庭に置かれる、水のきよめの儀式の大水盤を海と言われています。(列王記第一7章)
これは捧げものを捧げる前に祭司が水のきよめをする場所です。
ガラス、つまり、水ではありません。
もう洗う必要がないでのす。
火の混じったとは、小羊が捧げられたすぐ後です。
火が残っています。
その名を示す数字とに打ち勝った、つまり、666の数字は打ち勝てるものです。
患難時代に反キリストを拒否し、殺された聖徒たちはほふられたばかりのキリスト(もちろん海の上には小羊はいない)の御業を覚えて、神への賛美を捧げるために立っていました。
彼らは患難の中を抜けてきたが今は非常に静かな中にいます。
「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。
主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」
その後、また私は見た。天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた。
そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。
また、四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使いに渡した。
聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその聖所に、はいることができなかった。」
(ヨハネの黙示録15章3〜8節
モーセの歌とは出エジプト記の十五章にあります。
それはエジプトから救われたイスラエルの詩であります。
彼らは主を賛美し、異邦の国々が主の栄光を驚嘆し神の統治を賛美しています。
小羊の歌とは、イエスキリストを賛美しています。
前者がイスラエルの賛美であれば、後者は十字架の賛美です。
あかしの幕屋とは、至聖所、神のおられる場所です。
光り輝く亜麻布とは、血で聖められた者の象徴です。
胸には金の帯を締めていとは、戦う姿です。
煙で満たされ、つまり、イザヤ書6章4節では神の御臨在、怒りの象徴です。
「その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。」
(イザヤ書6章4節)
また、四つの生き物の一つとは「第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった」のどの生き物なのでしょうか?
ここには記録がありません。
鉢のさばきの始まようとしているときの賛美です。
神の怒りは至聖所に満たされています。
患難時代を抜けてきた聖徒たちの賛美に答えるように裁きを行われるのです。
A)第一の鉢
「また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」
そこで、第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。」
(ヨハネの黙示録16章1〜2節)
反キリストに従うものにひどい悪性のはれ物がまん延します。
申命記28章に神に従わないものは疫病に犯されることが書かれています。
鉢のさばきの特徴は「神の超自然的な理屈なしの裁き」だということです。
直感的には、上記の「666」の数字の刻印(ICなどのチップが埋め込められるため)によって、引き起こされた生理的な拒否による病気にも見えます。
「主は、疫病をあなたの身にまといつかせ、ついには、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地から、あなたを絶滅される。
主は、肺病と熱病と高熱病と悪性熱病と、水枯れと、立ち枯れと、黒穂病とで、あなたを打たれる。これらのものは、あなたが滅びうせるまで、あなたを追いかける。」
(申命記28章21、22節)
B)第ニの鉢
「第二の御使いが鉢を海にぶちまけた。すると、海は死者の血のような血になった。海の中のいのちのあるものは、みな死んだ。」
(ヨハネの黙示録16章3節)
海の中の生き物が全部死に絶えます。
黙示録8章8〜9節の第二のラッパのさばきで「火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった〜いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。」とあります。
ここでは、海の中の生物がすべて死にます。
もう、魚にクジラも、微生物もいなくなります。
地球にある酸素の半分ほどが海にある「植物プランクトンの光合成」によってできるとされています。
もはや、地上の生物が生きるために必要な酸素も欠乏の危機に陥っています。
C)第三の鉢
「第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。
また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。「常にいまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。
彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは、その血を彼らに飲ませました。彼らは、そうされるにふさわしい者たちです。」
また私は、祭壇がこう言うのを聞いた。「しかり。主よ。万物の支配者である神よ。あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」」
(ヨハネの黙示録16章4〜7節)
川と水の源が血になります。
「常にいまし、昔います聖なる方」とは、イエスキリストのことです。
ヨハネの黙示録8章10〜11節の第三のラッパのさばきで「川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。」とあります。
ラッパのさばきはこの鉢のさばきの準備ともいえるさばきであったことが解ります。
これが最後、本番のさばきなのです。
また、これはエジプトのパロに行われた裁きと一致しています。
神の裁きはパロに対して行われました。
しかし、その被害は一見関係ないようにみえる、すべてのエジプト国民に下ったのです。
これはパロに付くものには裁きが下ることを示しており、この時代においては一見関係ない、反キリストに付く者に裁きがくだるのです。
「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」
(ヨハネの黙示録18章4節)
また、神は報復の神です。
かならず、聖徒たちに行った悪行に対して報復を行われます。
「聖徒たち、預言者たちの死の報復として反キリストに従うものたちに聖徒たちや預言者たちの血を飲ませた」とあります。
具体的に血を飲ませるのかは不明ですが、文字通りの報いを与えるのです。
これは現在の教会時代のクリスチャンにも同じ事が言えます。
職場や学校、もしくはコミュティの中でクリスチャンゆえに理不尽な経験をするかも知れません。
神はすべてのことを覚えておられ、かならず報復されます。
あえて、言うのであれば、私たちは無条件に神の報復を求める者であってはいけません。
最初に神はすべての人に悔い改めを求めておられます。
神の目から見ればすべてが罪人の悪人です。
問題は赦されているか?いないか?だけです。
その視線で見ることが必要なのです。
D)第四の鉢
「第四の御使いが鉢を太陽に向けてぶちまけた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。
こうして、人々は激しい炎熱によって焼かれた。しかも、彼らは、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった。」
(ヨハネの黙示録16章8〜9節)
地上は灼熱地獄となり、太陽の熱によって多くの者が死むのです。
彼らの入る「火と硫黄の池」に比べればたやすいことでしょう。
しかし、神に従わないもの(神を知りながら、神を退けるもの)はけがしごとを言い続けるのです。
死者の復活から始まり、様々な奇跡、裁きをこの時代の人々は経験します。
ここまで来るとおそらく、すべての人は神の存在について信じていると思います。
それでも彼らは悔い改めないのです。
神の御元に行こうとはせずに、反キリストの配下にいるのです。
サタンの配下にいますので、彼らは悩み、苦しみ、希望のない状態です。
それでも、神の御元に行こうとはしません。
それが人類の姿であり、人類の性質なのです。
ただ、私が救われたのは一方的な神の恵みと知ります。
「アーメン」
E)第五の鉢
「第五の御使いが鉢を獣の座にぶちまけた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。
そして、その苦しみと、はれものとのゆえに、天の神に対してけがしごとを言い、自分の行ないを悔い改めようとしなかった。」
(ヨハネの黙示録16章10〜11節)
さばきはついに獣の座にやってきました。
女がローマだとするのであれば、獣の座もローマだと考えます。
「あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」
(ヨハネの黙示録17章18節)
獣の国の住人は舌をかんだのです。
つまり、あまりの苦しみに死を選んだのです。
しかし、彼らには死ぬことさえも許されていません。
永遠の行き先も知らずに死を願いますが、苦しみが彼らについてゆくのです。
「その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行くのである。」
(ヨハネの黙示録9章6節)
神が彼らに悔い改めの道を備えたことを知ります。
そうです。
患難時代はただの裁きの時代ではありません。
神は神を呪い、反キリストに従う者たちに、悔い改めを求めているのです。
教会時代においても、神は苦しみを通して、人々に悔い改めを要求しています。
なぜ、自分がこのような苦しみに会う必要あるのか?
人はさまざまな憶測します。
それが神に導かれるためであることを知ることは幸いです。
F)第六の鉢
「第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。
すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。
また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。
彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。
見よ。わたしは盗人のように来る。
目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。
こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。」
(ヨハネの黙示録16章12〜16節)
かえるとは、汚れた動物です。
大いなる日とは、最終戦争ハルマゲドンのことです。
私は盗人のように来るとは、キリストの地上再臨を示しています。
「第六の御使い」がユーフラテス川を枯らし、「日の出るほうから来る王たち」に道を備えてしまいます。
「日の出るほうから来る王たち」とはイラン、イラク付近のことを指していますが、「王たち」とは複数形です。
イラン、イラクを含む、ユーフラテス川の向こう側にある独裁国家と見るのが適していると考えています。
つまり、世界の国々、特にアジアの国々がイスラエル北方のメギドの平野(ハルマゲドン)に軍隊を派遣するのです。
もう一つ注意すべき点は「ハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた」と書かれている通りに、イスラエルを攻撃する前準備として「王たちを集めた」のです。
ハルマゲドンでは戦争は行われません。
後に書かれているように、イスラエルを攻める前に神はこの軍隊を処分してしまいます。
第六の御使いがラッパを吹き鳴らした時(黙示録9章13〜21節)、大川ユーフラテスでは2億の騎兵が解き放されています。
彼らは人類の三分の一を殺すのです。
この騎兵がどこに消えたのか記録がありません。
もし、地獄から上って来たのであれば、戻って行ったのでしょうか?
それとも、自然消滅したのです。
もしくは人間によって、滅ぼされた可能性もなくはありません。
しかし、ここで「日の出るほうから来る王たち」は別の存在です。
これらの王たちは悪霊によるしるしによって、導かれるのです。
ここに「見よ。わたしは盗人のように来る」という言葉が挿入されています。
これはキリストがこの地上の王として、君臨されるための地上再臨のことです。
黙示録を読んで、期待する者たちにはキリストがどのタイミングで再臨されるのか理解しているはずです。
ここで使われているのはこの王たち、神を信じていない者たちに語っているのです。
おそらく、この王たちはこの世の王であるキリストが来られることが近いことを悟っているのでしょう?
しかし、彼らはいつ来るのか?
理解できないのです。
また、この言葉を使って、教会時代のキリストの空中携挙がいつ起こるかわからない、秘密裏に行われると主張することをよく聞きます。
しかし、神は神の付く者たち、信仰者にはこの地上再臨を待つ、信者同様にこのように言っています。
「目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。」
(ヨハネの黙示録16章15節)
不信仰な教義主義者は言います。
「キリストはいつ来られるか?聖書には記されていない!
そんなものを期待するよりも、今を生きるべきだ!」
それは聞こえはいいですが、聖書の言葉ではありません。
しかし、信仰者は日々、今日、キリストが来られることを意識して「目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないよう」に歩むべきなのです。
「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。」
(テトスへの手紙2章13節)
まだ、その日が来ていないのであれば、このテキストを見て、今日にでもキリストが来られることを理解し、期待できるはずです。
G)第七の鉢
「第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した。」と言った。
すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。
また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。
島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。
また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。」
(ヨハネの黙示録16章17〜21節)
地球は文字どおりに震え、世界の都市は破壊されます。
島々は消えてなくなり、山々は平らにされ、地形の大変動が起こります
一タラントの大きな雹、およそ35キログラムの雹です。
人々は地殻変動のため逃げる場所がないのです。
人類を起こした出来事、神の裁き、そして、天と地では災害が並列して、プログラムのように起きてきました。
偶然ではありません。
彼らはそれでも「神にけがしごとを言った」のです。
すべてがストーリとして成り立ち、それでも、神は人類に悔い改めを求めているのです。
あの大きな都 − ローマのことかも知れません。
著者はカトリックがバビロンの宗教のコピーであることに注目していますが、一般的には知られていません。
常に聖書は一部のマニアにしかわからないような表現はしていませんので、現時点の認識ではありえません。
しかし、将来的にこの知識が公になる可能性も述べておきます。
つまり、この解釈には可能性があり、否定していないということです。
「大きな都よ、力強い都、バビロンよ」
(ヨハネの黙示録18章11節)
聖書解釈は文字通りの解釈が原則ですがバビロンという地名を文字通りに取るかに議論があります。
黙示録、特に終末では固有名詞の使用が避けられています。
黙示録では二人の証人の場面で、エルサレムのことを次のように表現しています。
「彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。
彼らの主もその都で十字架につけられたのである。」
(ヨハネの黙示録11章8節)
わざわざ、直接的な言及を避けていますが、あきらかにエルサレムのことです。
バビロンとは現在のイランのあたりになります。
状況から聖書を解釈してはいけないのが前提ですが、現状ではイランがこのような国になるとは現時点では考えられません。
バビロンは反キリストが立ち上げたこの世の富、権力を象徴する場所だと考えます。
アメリカ、イギリス、上記ではローマだと書きましたが、ここでも否定はしないという立場です。
11−17)鉢のさばき御使いによる「獣」の注解
この17章、18章は御使いがヨハネに対して獣の説明をしています。
黙示録全体の時間的経過と見るのであれば混乱が生じます。
18章と第七の鉢のさばきが時期が同一と見るのがいいでしょう。
「また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。」
(ヨハネの黙示録17章1節)
七つの鉢(最終的なさばき)を持つ七人の御使いが大淫婦の裁きを見せています。
これは、大淫婦のさばきが最終的なことを示しています。
「地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」
(ヨハネの黙示録17章1節)
さて、この女とは誰でしょうか?
前にも十分に書いてきましたが、著者はずばり、カトリック教会だと認識しています。
人によっては、カトリック教会を中心としたエキュメニカル運動(宗教合同体)だと主張しますが、ずばり、ローマです。
この女は大淫婦教会のことです。
そして、バビロンの宗教を引き継いでいます。
カトリックの使う教会暦にある祭りはバビロンの宗教のコピーです。
宗教考古学では十分に証明されていますが、詳しくは著者の紹介している「二つのバビロン(ALEXANDER HISLOP著)」の中でまとめています。
それらは「クリスマス」、「聖母の日」、「イースター」、「聖ヨハネの降誕」、「昇天の祭り」などです。
ゆえに、著者は多くの教会で行われている「クリスマス」こそが最大の偶像儀式であり、教会の中にサタンの座があることを示していると主張します。
「また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。
「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。」」
(ヨハネの黙示録2章12、13節)
教会のかしらはキリスト御自身であることは新約聖書の教える大きな教理です。
決して、キリストの教会の座にサタンは住むことができません。
「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。
こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」
(コロサイ人への手紙1章18節)
しかし、ペルガモの教会にはサタンの王座があったのです。
住んでいるのではありません。
サタンの王座、つまり、崇拝対象が存在していたのです。
黙示録の7つの教会はキリストの十字架から、携挙までの教会が象徴的に描かれているとされています。
著者のこの見解を支持しています。
つまり、この7つの教会こそが、地上にあるキリスト教(クリスチャリティー)だと認識します。
教会のかしらはキリストです。
しかし、物理的な教会にはサタンの座を置くことができます。
そして、地上の教会に属する限り、目に見えるキリスト教(クリスチャリティー)は必要なことは支持します。
しかし、すべての信仰者はこのことを覚えておかなければなりません。
クリスチャリティーは正しい信仰に必要なものです。
正しい信仰を保つために、間違ったクリスチャリティーを排斥する必要もあるのです。
クリスマスを祝いなさいとは聖書には記されていません。
キリストが誕生したのは12月25日の冬ではありえません。
「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。」
(ルカの福音書2章8節)
イスラエルの12月から2月にかけての夜の寒さは非常に厳しいものです。
ユダヤの羊飼いは10月の終わりごろから野原で羊の群れを見守る習慣はありません。
ずばり、12月25日はバビロンの宗教のメシアの誕生日です。
「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。」
(ヨハネの黙示録17章1節)
この女は水(動くもの)に座っていた。
水とは、異邦人社会のことです。
「この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。
その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。
そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見たとき、非常に驚いた。」
(ヨハネの黙示録17章4〜6節)
「あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」
(ヨハネの黙示録17章18節)
繰り返しますが、直訳すると「現在支配している都」となりヨハネの時代の支配している都はローマです。
教会(キリスト信者の集まり)は聖書でキリストの花嫁とされています。
この女は大淫婦です。つまり花嫁が堕落して大淫婦になったのです。
この女の姿に注目してください。
法王もしくは祭司の姿を思い浮かべます。
バビロンの偶像崇拝と一体化した教会です。
教会の中にバビロンの偶像崇拝が入り込んでいます。
「この女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っています。」
カトリックは中世時代と宗教改革時代の初期だけで5000万人のカトリック外のクリスチャンを殺したといわれています。
ここでは患難時代中に殺された聖徒たちと判断すべきです。
ローマカトリックは地上の王たちを支配します。
地の王たちはこの女との不品行(偶像崇拝)を行い、この女の偶像崇拝のぶどう酒に酔ったと書かれています。
先にも書いたように、酔ったとはおそらくカルト的な、薬物を使ったものと考えらます。
彼らは酔っているため人を殺したことでさえわからなくなっています。
いや、聖書が否定しても、彼らの教理がそれを肯定しているのです。
ここにサタンの罠があります。
聖書の教理とは聖書から神の言わんとしていることをまとめたものです。
人間の主張を聖書から強引に引っ張る物ではありません。
現在の教会において、そのようなことが起きていないでしょうか?
教理、教理と言いながら、まったく別の事を信じ、正当化していないでしょうか?
ある異端のように、自分の子供に輸血をしないと死んだとしても、天に行ったのだから喜びなさいと人間の教理で示せば、それが正義になっていないでしょうか?
誰のみこころかさえも分からなくなっています。
現在は情報が満ち溢れ、様々な意見が飛び交っています。
一人一人が聖書に馴染み、神のみこころ、摂理を学ぶ必要があるのです。
しかし、このような宗教が患難時代では世界中にまん延するのです。
「それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。
その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。
この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。
その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。
そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見たとき、非常に驚いた。」
(ヨハネの黙示録17章3〜6節)
10本の角について
「あなたが見た十本の角は、十人の王たちで、彼らは、まだ国を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます。」
(ヨハネの黙示録17章12節)
ダニエル書に2通りの幻によって、ダニエルの時代から終末につづく支配王国が預言されています。
これらの幻によって、終末の王国の姿が10の指、もしくは十本の角で表現されています。
ゆえに、このヨハネの黙示録17章で紹介されている十本の角、十人の王たちは同じ者たちのことであり、関連性があります。
先には「獣」の項で一つの幻について紹介していますので、ここでももう一つの幻について紹介します。
「バビロンの王ベルシャツァルの元年に、ダニエルは寝床で、一つの夢、頭に浮かんだ幻を見て、その夢を書きしるし、そのあらましを語った。
ダニエルは言った。「私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた。
第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた。
また突然、熊に似たほかの第二の獣が現われた。その獣は横ざまに寝ていて、その口のきばの間には三本の肋骨があった。するとそれに、『起き上がって、多くの肉を食らえ。』との声がかかった。
この後、見ていると、また突然、ひょうのようなほかの獣が現われた。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。
その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現われた。それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。
これは前に現われたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。
私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。」
(ダニエル書7章1〜8節)
ダニエルにネブカデネザルの夢によって、より深い啓示が与えられました。
「天の四方の風が大海をかき立て」とは、異邦人世界において神の権威(怒り)が吹き荒れていることです。
四頭の大きな獣とは、地から起こる四人の王です。(ダニエル書7章17節)
前にも書きましたが、ここでは詳細に書いてゆきます。
1、第一のものは獅子のようとは、バビロニアのことです。
とても、強い国でした。
2、熊に似たほかの第二の獣とは、メディヤとペルシャの連合国のことです。
食い尽くす熊のようです。
その様相は、横ざまに寝ています。
片腕(メディア)は下で、利き腕(ペルシャ)は上になっている。2つの国の強さの差を現わしています。
3、ひょうのようなほかの獣とは、ギリシャのことです。
西から猛然と襲ってくる足の速い軍隊です。
まさにひょうのようです。
ギリシャのアレクサンドロス王は考えられないような速さで国を占領しギリシャ帝国を築きました。
四つの頭とは四つの王のことです。
ギリシャのアレクサンドロス王が死ぬとすぐに国は4つに分裂してしまいお互いに戦争を始めています。
4:第四の獣が現われました。
それは恐ろしく、強くて、鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いたのです。
他の獣と異なり、十本の角を持っています。
一本の小さな角が出て来て、初めの角のうち三本が引き抜かれます。
これはローマ帝国です。
この国は鉄の国で非常に強かった。
足の指が10本であるようにこの国の角(王)は10人です。
そこから一本の小さな角が現れます。
患難時代に現われる反キリストのことです。
反キリストによって、初めの角のうち三本が引き抜かれます。
反キリストによって3つの国が滅ぼされるのです。
「私が見ていると、幾つかの御座が備えられ、年を経た方が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、
火の流れがこの方の前から流れ出ていた。幾千のものがこの方に仕え、幾万のものがその前に立っていた。さばく方が座に着き、幾つかの文書が開かれた。
私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た。
残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた。
私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」
(ダニエル書7章9〜14節)
ここでは、裁く方(イエスキリスト)による御国が語られています。
その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見ることができます。
まさに、黙示録に語られている反キリストの最後です。
残りの獣の主権を奪われます、
しかし、いのちはその時と季節まで延ばされています。
それは、千年王国の終わりです。
ダニエル書ではともに神の御国で終っています。
それは患難時代の次に来るものです。
私たちクリスチャンは直接の希望ではありません。
私たちは患難の前に引き揚げられるからです。
ここで黙示録に戻ります。
ダニエル書によるとローマ帝国の延長上にある、復興したローマ帝国の形であることが記されています。
女に支配されている、同時(同時刻)に出現する国々です。
10本の角、冠(地の王たち)ダニエル書によると彼らは「人間の種によって混じり合うが互いに団結することはありません。(鉄と粘土)」と記されています。
「あなたがご覧になった足と足の指は、その一部が陶器師の粘土、一部が鉄でしたが、それは分裂した国のことです。その国には鉄の強さがあるでしょうが、あなたがご覧になったように、その鉄はどろどろの粘土と混じり合っているので」
(ダニエル書2章41節)
これは人種、経済、政治が交じり合うが国としては強弱があり、交じることない共同体であることを示しています。
もしくは、もともとは独立した民族でありながら、移民によってまじりあった国とも言えます。
近年のEUによる移民推進によって弱体化した国々とも言えます。
これは現在のヨーロッパ共同体(EU)だと思われます。
作者は再臨を待ち望むゆえこのようなことを書きますが、確定したことは言えませんが、未来形で変化して行くように思われます。
ヨーロッパ共同体が、自らローマ帝国の復興をめざしていると主張しているのも事実です。
ヨーロッパ共同体がローマ帝国の領土と近い形になり、10か国連合として、反キリストに支配されると考えています。
著者は20年以上前(2024年から数えて)に、EUからローマが離脱することを主張していました。
なぜなら、イギリスはローマ帝国の支配ではなかったからです。
七つの頭について
「ここに知恵の心があります。七つの頭とは、この女がすわっている七つの山で、七人の王たちのことです。
五人はすでに倒れたが、ひとりは今おり、ほかのひとりは、まだ来ていません。しかし彼が来れば、しばらくの間とどまるはずです。
また、昔いたが今はいない獣について言えば、彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです。そして彼はついには滅びます。」
(ヨハネの黙示録17章9〜11節)
七つの頭はヨハネの時代の連続した(時間)国または、王の再来という見解があります。
説1)カトリックによる支配階級
この考えはプロテスト教会の標準的な教理です。
なぜなら、プロテスト教会はカトリックに対して反抗して(プロテスト)からです。
確かに、プロテスト教会はカトリックに対して反抗し、カトリックの本質を見抜いていることもあります。
彼らはサタンの教会だからです。
ここでは七つの頭とはローマのことだとする主張を紹介します。
七つの山とは、バチカンはティベル川のほとりの7つの山(丘)と言われています。
これらはパラティオ、アヴェンティネ、カエリア、エスクリネ、ヴィミナル、クイリナル、カピトリネという丘々です。
そして、カトリックには七つの座という階級があるとされています。
今の時代にあって聖書を読むとき、著者は女がカトリックとして判断しています。
勝手な判断を防ぐためにカトリックのような宗教団体が起こされる可能性も「0」ではないと記しておきます。
「五人はすでに倒れたが、ひとりは今おり、ほかのひとりは、まだ来ていません。」と意味が判らなくなります。
ある聖書学者は七つの山をヨハネの時代に継続して支配している王たち(ローマ帝国)と解釈し、当時のローマ皇帝とカトリックの七つの座をからませた解釈をしています。
想像の域を脱出してないが、終末にはカトリックの七つの座が過去のローマ皇帝を名乗り、支配に乗り出すということです。
だから、七つの頭の獣の上に法王が乗るということです。
説2)世界を支配した国の歴史は
エジプト―アッシリア―バビロニア―メゾ・ペルシャ―ギリシャ―ローマ―復興ローマ帝国と流れて行きます。
当時ヨハネの時代を支配していた国はローマです。
つまり、ローマ以前の国「五人はすでに倒れた」ということになります。
ひとりは今おり(現在形)「ローマ」です。
まだ来ていないのが「復興ローマ帝国」ということになります。
また、「昔いたが今はいない獣について言えば、彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです。そして彼はついには滅びます。」は「バビロニア(バビロン)」だと主張する人もいます。
説3)七人のローマ皇帝ことです。
当時のローマ帝国を支配した王を支配していた(ヨハネの時代)、霊(御使い)の一つが底知れぬところから出てきて反キリストを支配するという考えです。
彼らのうち5人はヨハネより昔、ヨハネの時代で一人、またその後で一人ということになります。
特にこれがクリスチャンを迫害したネロ皇帝を支配したの霊(御使い)の再来という説です。
ユリウス・カエサル―アウグスト―テベリオ―カリグラ―クラウデオ―ネロ―ガルバ―つづく
ローマ皇帝6代目がネロです。
この皇帝はローマに火をつけてクリスチャンを迫害した有名な皇帝です。
この七つの頭の啓示は天であり、地上の様子ではありません。
地上のことではなく見ることは出来ません。
つまし、聖書にて解釈が必要となるからここに記されたとのことです。
結論
7つの頭についてはいろいろな解釈があるが、正直言って不明であるが、どの説もローマであると言う解釈になります。
患難時代にあって始めて解き明かされるものかもしれません。
解釈上のヒント
1、「あなたが見た十本の角は、十人の王たちで、彼らは、まだ国を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます」と書かれています。
十本の角には国の受けることが書かれていますが、7つの頭にはこの記述がありません。
2、10の角の王と7つの頭の王が共存する可能性があります。
つまり17カ国ということになります。
七とは完全数で完全な支配を示しています。
彼らは王であり、女(恐らくカトリック)と親密な関係になります。
「昔いたが今はいない獣について言えば、彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです。そして彼はついには滅びます。」
滅びるものは反キリストです。
女について
この女について、先に書いていますので省略します。
この堕落した教会、宗教団体は、聖徒たちの血とイエスの証人たちを殺し喜び酔っています。
罪悪感などありません。
第二次世界大戦中、ヒトラーに属する人たちはユダヤ人を殺すことに喜びを感じていたそうです。
人間の本性がそのようなものでしょう。
ユダヤ人たちは鍵十字と十字架を比較し、カトリック、及び、ユダヤ人に敵対するキリスト教徒に恐怖を感じていました。
「すると、御使いは私にこう言った。「なぜ驚くのですか。私は、あなたに、この女の秘義と、この女を乗せた、七つの頭と十本の角とを持つ獣の秘義とを話してあげましょう。
あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れぬ所から上って来ます。そして彼は、ついには滅びます。地上に住む者たちで、世の初めからいのちの書に名を書きしるされていない者は、その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて現われるのを見て驚きます。
ここに知恵の心があります。七つの頭とは、この女がすわっている七つの山で、七人の王たちのことです。
五人はすでに倒れたが、ひとりは今おり、ほかのひとりは、まだ来ていません。しかし彼が来れば、しばらくの間とどまるはずです。
また、昔いたが今はいない獣について言えば、彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです。そして彼はついには滅びます。
あなたが見た十本の角は、十人の王たちで、彼らは、まだ国を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます。
この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威とをその獣に与えます。
この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」」
(ヨハネの黙示録17章7〜14節)
この女は「羊のような二本の角を持つ獣」と同じだと考えます。
なぜなら、17章には出て来ていません。
この者どもは心を一つにして、つまり、七つの頭と十本の角(連合国)とは一人の獣に全力をそそぎます。
小羊はイエスキリストのことです。
小羊は勝利します。
宗教的な女のさばき
「御使いはまた私に言った。「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です。
あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。
それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行なう思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。
あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」
(ヨハネの黙示録17章15〜18節)
ここで獣に乗っていた女(淫婦)は獣に焼き尽くされます。
神は政治的な獣を使って、宗教的な女(カトリック)をつぶします。
ここでも「彼ら」は一致します。
この女は地上の王たちを支配する都とは直接的には「バビロン(イラク)」です。
また、この聖書の流れからいうと「ローマ」のことです。
地理的なことを言うのではなく後者の「バビロンの宗教を得たローマ」と解釈したいと考えます。
バビロン(政治的反キリスト)の崩壊
「この後、私は、もうひとりの御使いが、大きな権威を帯びて、天から下って来るのを見た。地はその栄光のために明るくなった。
彼は力強い声で叫んで言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。」
(ヨハネの黙示録18章1〜2節)
もうひとりの御使いとは、17章と違う御使いです。
ここで御使いは「バビロン」の崩壊を宣言しています。
「倒れた」という動詞は不定過去形で記されています。
しかし、この個所は未来ので出来事である。それは確定的な宣言と突然の出来事であることを示しています。
言うまでもないが「バビロン」は悪霊の住まいとなったのです
「それは、すべての国々の民が、彼女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女と不品行を行ない、地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得たからである。」
それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。
なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。
あなたがたは、彼女が支払ったものをそのまま彼女に返し、彼女の行ないに応じて二倍にして戻しなさい。彼女が混ぜ合わせた杯の中には、彼女のために二倍の量を混ぜ合わせなさい。
彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。」
(ヨハネの黙示録18章3〜6節)
この人口の半分以上の人が死んでいる状態において、反キリストの周りは非常に富んでいることが理解できます。
社会が混乱すると貧富の差が大きくなるといいますが、まさに極めです。
この国はこのさばきの時までとっておかれたのです。
よく、世界中に患難が訪れているのになぜ、この国だけ栄えているのかと言って、黙示録に書かれている順番、内容を置き換えるのを聞きますが、この国は裁きのためにとって置かれているのです。
彼らの偶像崇拝とは商売と密接に関係し、地上の王たち偶像崇拝に酔い多くの利益を得ていました。
ここで患難時代にいる聖徒たちへの勧めが書いてあります。
この女から離れなさい。
神はあらゆる時代のすべての聖徒にこの勧めをしています。
この堕落した教会である女から離れなさいと勧めています。
この女は裁かれるのです。
神はこの女の罪をその女に返しました。神はすべてを見ていたのです。
「彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。
それゆえ一日のうちに、さまざまの災害、すなわち死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は力の強い方だからです。
彼女と不品行を行ない、好色にふけった地上の王たちは、彼女が火で焼かれる煙を見ると、彼女のことで泣き、悲しみます。
彼らは、彼女の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っていて、こう言います。『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。力強い都、バビロンよ。あなたのさばきは、一瞬のうちに来た。』
また、地上の商人たちは彼女のことで泣き悲しみます。もはや彼らの商品を買う者がだれもいないからです。
商品とは、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布、香木、さまざまの象牙細工、高価な木や銅や鉄や大理石で造ったあらゆる種類の器具、
また、肉桂、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、麦粉、麦、牛、羊、それに馬、車、奴隷、また人のいのちです。
また、あなたの心の望みである熟したくだものは、あなたから遠ざかってしまい、あらゆるはでな物、はなやかな物は消えうせて、もはや、決してそれらの物を見いだすことができません。
これらの物を商って彼女から富を得ていた商人たちは、彼女の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っていて、泣き悲しんで、
言います。『わざわいが来た。わざわいが来た。麻布、紫布、緋布を着て、金、宝石、真珠を飾りにしていた大きな都よ。
あれほどの富が、一瞬のうちに荒れすたれてしまった。』また、すべての船長、すべての船客、水夫、海で働く者たちも、遠く離れて立っていて、
彼女が焼かれる煙を見て、叫んで言いました。『このすばらしい都のような所がほかにあろうか。』
それから、彼らは、頭にちりをかぶって、泣き悲しみ、叫んで言いました。『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。海に舟を持つ者はみな、この都のおごりによって富を得ていたのに、それが一瞬のうちに荒れすたれるとは。』
おお、天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都のことで喜びなさい。神は、あなたがたのために、この都にさばきを宣告されたからです。」
また、ひとりの強い御使いが、大きい、ひき臼のような石を取り上げ、海に投げ入れて言った。「大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、もはやなくなって消えうせてしまう。
立て琴をひく者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを鳴らす者の声は、もうおまえのうちに聞かれなくなる。あらゆる技術を持った職人たちも、もうおまえのうちに見られなくなる。ひき臼の音も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。
ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。
また、預言者や聖徒たちの血、および地上で殺されたすべての人々の血が、この都の中に見いだされたからだ。」
(ヨハネの黙示録18章7〜24節)
大きい、ひき臼とは、神の怒りを表してます。
「エレミヤはセラヤに言った。「あなたがバビロンにはいったときに、これらすべてのことばをよく注意して読み、
『主よ。あなたはこの所について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てさせる、と語られました。』と言い、
この書物を読み終わったなら、それに石を結びつけて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、
『このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいのためだ。彼らは疲れ果てる。』と言いなさい。」
(エレミヤ書51章61〜64節)
黙示録の中でこのバビロンの崩壊に多くのページが割かれています。
詳しく説明されているということは、それだけ信仰的な利益があるということです。
心の中で「私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。」と自分の地位に頼りました。
しかし、人間の地位が自分を守ってくれないのです。
神に反抗したバビロンが一瞬のうちにされてしまいます。
神の裁きは出エジプト記のエジプトへの裁きと同様に短い期間に行われます。
また、ダニエル記でのバビロニアの崩壊も一晩でした。
地上のものたちはもうこの都が滅びて、もはや商売が出来ないのを知って嘆きました。
彼らは神のさばきより目の前の富が無くなることを予測して嘆いたのです。
喜びはこの都から消えました。
商人たちは国々の民を魔術でだましていたと書かれています。
所詮、富とは魔術なんだと言う表現も出来ます。
天では聖徒たちが喜び、地上で神は聖徒たちの血の報復がなされていました。
12章、小羊の婚宴
御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。
(ヨハネの黙示録19章9節)
天では、キリストの地上再臨、つまり勝利が祝われ、賛美されています。
招かれた者は幸いです。
ユダヤ人は幸いなのです。
しかし、最も幸いなのはキリストの花嫁(教会)です。
この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。
神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」
彼らは再び言った。「ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。」
(ヨハネの黙示録19章1〜3節)
大群衆は、患難時代に殉教したものと思われます。
彼らは血の報復を賛美しています。
神の裁きがなされたこと、この群衆はバビロンの倒れたことを賛美していました。
すると、二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座についておられる神を拝んで、「アーメン。ハレルヤ。」と言った。
また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」
また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。」
(ヨハネの黙示録19章4〜6節)
二十四人の長老たちとは教会の長老たちだと思われます。(4章)
しかし、この後、花嫁の婚宴があります。
この後、婚宴で花嫁と呼ばれているのに、ここで長老というには疑問が残ります。
もし、教会とすれば大群衆(患難時代の殉教者)の賛美とは明らかに別内容になります。
四つの生き物とは、キリストの栄光を表す動物です。(4章)
御座からの声とは、御使いたちの声です
神に仕えるものたちは皆、神を賛美しました。
それはイエスキリストが勝利をした瞬間です。
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。
御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。」
(ヨハネの黙示録19章6〜9節)
花嫁とは、現在の教会です。
天では婚宴が行われ、その後すぐにキリストは地上に勝利を治めにゆくのです。
ここでルカの福音書の宴会に招かれた人たちのことを思い出してみましょう。
「するとイエスはこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。
宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。
ところが、みな同じように断わり始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』
しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。』
しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』
主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。
言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』」」
(ルカの福音書14章16〜24節)
ここでの宴会はユダヤ人のために催されました。
そして、多くのユダヤ人たちがその参加を断ったのです。
招待されたはずの人たちにはこのような結論が与えられました。
「あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。」
連れてこられたのは「貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえ」でした。
もしくは「患難時代のユダヤ人」とも言えます。
しかし、ただの宴会ではなく、天では婚宴が開かれます。
この婚宴の主人公はもちろん、イエスキリストであり、花嫁である教会なのです。
ここで、ユダヤ人の祝福と教会との祝福の比較はする気はありません。
しかし、教会にはこのような聖句が与えられています。
「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」
(エペソ人への手紙1章3節)
天とは神のおられる場所です。
つまり、「天にあるすべての霊的祝福」とは神の持つすべての霊的祝福をもって、教会が祝福されているということです。
そのようなことばは教会以外の、何者にも語られていません。
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
(エペソ人への手紙5章25〜27節)
現在、イエスキリストを信じるものが持つ最終的な望みです。
私たちはこの地上で悩みを持つかも知れません。
この地上で主にあって解決を頂くこともあるでしょう。
しかし、また問題が繰り返します。
地上には私たちに解決がありません。
しかし、このときすべてが解決されます。
人間は、あらゆるしるし(奇跡)を神に求めるだろう。
神は、時にはしるしも与えてくれるかもしれません。
しかし、しるしがあって感動があってもまた覚めてしまいます。
神は無駄なしるしは与えません。
私たちがこの地上にあって絶望を味わったときに、私たちは「主よ、来て下さい」と願うだけです。
いや、イエスキリストはすぐに来るのです。アーメン
13章、キリストの地上再臨
そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。
「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」
(ヨハネの黙示録19章10節)
ヨハネは多くのことを学んだ神の使徒です。
ヨハネはこの啓示を受けたときに御使いを拝んでしまいました。
もちろん、これはヨハネの失敗であるがあまりにも啓示が素晴らしかったからです。
しかし、地上ではキリストによる地上への裁きが行われようとしていました。
最初に黙示録に書かれていることから述べてゆきます。
「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。」
(ヨハネの黙示録19章10〜13節)
黙示録6章では反キリストがメシアのまねをして白い馬に乗ってきました。
ここでは、すべてを勝利したイエスキリストの姿です。
白い馬とは勝利者の乗る馬です。
目は燃える炎とは、罪に対して怒りの炎、ねたみの炎です。
多くの王冠とは、多くの勝利を得た証拠です。
血に染まった衣、十字架で流された血によって染まった衣を着ていました。
ヨハネの福音書の冒頭でキリストのことをこのように紹介しています。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」
(ヨハネの福音書1章1〜4節)
「神のことば」とはキリストのことです。
「天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。」
(ヨハネの黙示録19章14節)
イエスキリストの衣は血に染まっていました。
しかし、イエスキリストに従うものの衣は白かったのです。
彼らもイエスキリストと同じ白い馬(勝利)に乗っていました。
「この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。
この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。」」
(ヨハネの黙示録19章15〜16節)
千年王国を支配する王イエスキリストを表しています。
教会に対しては恵みと哀れみの杖を持って私たちを導きます。
千年王国の国民に対しては鉄の杖を使い支配されます。
それは千年王国の国民のからだが贖われていないからです。
罪を犯した者に対してむちを持って支配します。
この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれます。
イエスキリストははこの地上をさばくためについに来られるのです。
「また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、
王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」
また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。
すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。
残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。」
(ヨハネの黙示録19章17〜21節)
イエスキリストの地上再臨の時です。
獣は捕えられた、つまり反キリストのことです。
獣の刻印を受けた人々とは、反キリストに従った人々のことです。
にせ預言者とは、宗教的反キリストのことです。
「硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた」
彼らは死を通ることなく地獄へと入れられました。
14章、ユダヤ人の中心とした、患難時代、キリストの地上再臨
地上再臨までの出来事を地上の観点から見るのであれば、旧約、ユダヤ人への約束の歴史を見る必要があります。
神は全知全能です。
創造の神であり、ユダヤ人の神であり、異邦人の神です。
何よりも、あなた個人の神なのです。
全知全能だからこそ、できる神の御業でどんな立場であっても、神を信じる者すべての個別事情においても神なのです。
神はイスラエルの祖先アブラハムを偶像崇拝の街、ウルから選び、無条件の祝福をお与えになりました。
「その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
(創世記12章1〜3節)
信仰によって歩んだアブラハムには次のような言葉が与えられました。
「主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」
(創世記13章14、15節)
アブラハムには「なぜ私に?」と思わされる「無条件に差し上げる」という約束が与えられました。
ここが重要になってきますので、覚えておいてください。
しかし、アブラハムはその地を与えられることなく死にました。
アブラハムは後の時代に必ずよみがえり、必ず、中東にある約束の地を引き継ぐことになります。
そして、アブラハムには100歳で、妻サラによって奇跡的に生まれたイサクによって、祝福が引き継がれました。
「すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。
わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」
(創世記17章19節)
イサクの息子、ヤコブはこの祝福を引き継ぐものとなり、神によりイスラエルと命名されました。
「神は彼に仰せられた。
「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」
それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。」
(創世記35章10節)
ヤコブの時代、イスラエルの地に飢饉がおきました。
神はヤコブの子、ヨセフを用いて、イスラエルはエジプトの地へと逃げ、偉大な国民となったのです。
しかし、偉大な国民となったイスラエルはエジプトの王、パロによって虐待を受けていました。
神は偉大な国民となったイスラエルを、預言者モーセを通して、約束の地に戻したのです。
これが映画「十戒」にもあった出エジプトなのです。
神はその時、映画の題名にもなっている10の戒めである「十戒」、そして多くの戒めをお与えになりました。
この内容はアブラハムへの無条件の祝福と違い、これを守るなら祝福され、守らないのであれば、呪われるというものでした。
「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。
あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」
(申命記28章1、2節)
「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。
あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。」
(申命記28章15、16節)
イスラエルの民は「アーメン」といい、その約束を受け取りました。
この約束の条件は守るなら祝福され、守らないのであれば、呪われるというものです。
ここでイスラエルには二つの約束が与えられたのです。
つまり、無条件と条件付きの両方の約束がされたのです。
しかし、この条件付きの約束にはもう一つ裏がありました。
始めからこの約束が破られ、そしてイスラエルには信仰が与えられ、祝福されることが網羅されていたのです。
「あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、
あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。」
(申命記30章2、3節)
神は無条件の約束の上に、イスラエルに信仰の中を歩むという祝福をさらに与えてくださるのです。
この信仰を与えるのに、もっともふさわしい場所は苦難の中なのです。
イスラエルは約束の地に戻り、王国を立ち上げます。
ダビデ、ソロモンの時代は繁栄しますが、すぐに不信仰になり衰退して行きます。
やがて、イスラエルの国の中には、約束された神以外の別の神を崇拝するほど堕落して行くのです。
神はイスラエルをバビロンとアッシリアの国に捕囚させました。
イスラエルが神に従わず、呪いを受けたのです。
「ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。
彼はその神、主の目の前に悪を行ない、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。
彼はまた、ネブカデネザルが、彼に、神にかけて誓わせたにもかかわらず、この王に反逆した。このように、彼はうなじのこわい者となり、心を閉ざして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。
そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の、忌みきらうべきすべてのならわしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。
彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。
ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。
そこで、主は、彼らのもとにカルデヤ人の王を攻め上らせた。彼は、剣で、彼らのうちの若い男たちを、その聖所の家の中で殺した。若い男も若い女も、年寄りも老衰の者も容赦しなかった。主は、すべての者を彼の手に渡された。
彼は、神の宮のすべての大小の器具、主の宮の財宝と、王とそのつかさたちの財宝、これらすべてをバビロンへ持ち去った。
彼らは神の宮を焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。その高殿を全部火で燃やし、その中の宝としていた器具を一つ残らず破壊した。
彼は、剣をのがれた残りの者たちをバビロンへ捕え移した。こうして、彼らは、ペルシヤ王国が支配権を握るまで、彼とその子たちの奴隷となった。」
(歴代記第二36章11〜20節)
ここでもう一度、思い出してください。
この呪いの約束には始めから破られ、そしてイスラエルには信仰が与えられ、祝福されることが網羅されていたのです。
「あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、
あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。」
(申命記30章2、3節)
通常、世界に捕囚された国はその国に吸収され、消滅してゆきます。
ユダヤ民族は違ったのです。
預言者エゼキエルにこのような預言が与えられました。
「主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」
主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。
神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。
わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」
(エゼキエル書37章3〜6節)
しかし、捕囚の40年後、この40年を長いとみるか?短いとみるかが感覚で変わってきますが、まさに風化されようとしていた時に世界史ではありえないことが起きたのです。
「ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。
「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。
あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。
残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」
そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。」
(エズラ記1章1〜5節)
つまり、ペルシヤの王クロスはこのように言ったのです。
「神に啓示を受けた。
イスラエルは財産をもって、自分の国に帰って、主の宮を建てなさい」なのです。
イスラエルの最初の苦難は過ぎ去りました。
彼らは自分の国に戻り、国を再建しました。
後にローマの支配下に入ることになりました。
この以降、イスラエルにはまことの神以外を拝む、偶像崇拝は存在しなくなったと言われます。
しかし、それでもイスラエルは不信仰を続けたのです。
神はイスラエルに王であり、救い主であるキリストが来られる約束、預言をお与えになりました。
詳しくは前章の中で語られています。
300の預言があるとされていますが、ここではアブラハムに与えられた預言から紹介します。
「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」
(創世記13章15節)
(イエスキリスト誕生以前の聖書個所)
「ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。」
(ガラテア人の手紙3章16節)
しかし、イスラエルはキリストであるメシアを拒否したのです。
「しかし、彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ。」と言った。
しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」
ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。」
(ルカの福音書23章21〜23節)
聖書はその日をこのように語っています。
エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われました。
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。
わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。
それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。
あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません」
(マタイの福音書23章37〜38節)
イスラエルは再び、世界に奴隷として売られて行くことになりました。
イエスはユダヤ人のキリスト拒否の結果であるエルサレムの崩壊を嘆いておられたのです。
エルサレムの崩壊はローマ帝国によって行われました。
ローマに対抗したユダヤ人は紀元70年、ロ−マ将軍ティトスによってエルサレムは包囲され、ついに陥落しました。
100万人の住民が虐殺され、大量のユダヤ人奴隷が市場に流出したので奴隷の値段が大暴落と言われています。
このように、キリストを拒否したユダヤ人に裁きが下ったのです。
先の捕囚では70年間、イスラエルは捕囚状態でした。
しかし、この離散は2000年間でした。
この不信仰の結果がいかに大きなものかを示しています。
しかし、再び、彼らは自分の国を手にしたのです。
イスラエルの最終的な招集についてこのように書かれています。
イスラエルは一人残らず集まられます。
「わたしが彼らを国々の民の間から帰らせ、彼らの敵の地から集め、多くの国々が見ている前で、彼らのうちにわたしの聖なることを示すとき、
彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知ろう。わたしは彼らを国々に引いて行ったが、また彼らを彼らの地に集め、そこにひとりも残しておかないようにするからだ。」
(エゼキエル書39章27、28節)
しかし、これは患難時代の最後に主によって行われます。
しかし、その前に不完全な形で集まり、国を作る必要があるのです。
なぜなら、反キリストと契約を結ぶ必要があるからです。
イスラエルは不信仰な状態で、キリストをメシアとして信じない状況で集まっている必要があるのです。
「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。
荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」
(ダニエル書9章27節)
国としての状況も説明されています。
「多くの日が過ぎて、あなたは命令を受け、終わりの年に、一つの国に侵入する。
その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。
その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる。」
(エゼキエル書38章8節)
上記のエゼキエル書は直接、反キリストと結び付けて書かれていませんが、同時期に起こる「ロシア」と「ウクライナ近郊の国々」のイスラエル攻撃について書かれています。
イスラエルは「その国は剣の災害から立ち直り」、そして、「その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる」状態です。
そして、彼らはみな安心して住んでいます。
現在、イスラエルは戦争状態なのでこのような表現ができません。
おそらく、反キリストとの契約によって、安心して住んでいる状態だと考えます。
そして、この契約の直前に携挙が起き、イスラエルは患難時代へと突入するのです。
おそらく、読者は気が付いていると思いますが、この患難時代は世界の裁きの時であるとともに、イスラエルを精錬するための時なのです。
かつて、イスラエルは捕囚によって偶像崇拝から清められてきました。
しかし、再び集まられた後、メシアであるキリストを十字架にかけてしまいます。
後にイスラエルは結果として、ローマによって、世界中に奴隷として散らされますが、奇跡的に集められ、1948年にイスラエル国家が再建されました。
そして患難時代に突入し、反キリストとの契約によって、イスラエルはかつてない迫害を受けることになります。
その苦難の中で、イスラエルはメシアを呼び求めます。
すると、メシアが地上に降りてくるのです。
「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」
(ヨハネの黙示録1章7節)
イスラエルはメシアが来られるのを目撃し、助かったことを神に感謝します。
ところがメシアの手にはくぎの跡、まさに突き刺された痕跡をメシアの体に見るのです。
そして、イスラエル民族は、自分たちの期待していたメシアこそが2000年前に祖先が十字架にかけてイエス・キリストだと悟り、悔い改めるのです。
「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。
その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう。
この地はあの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。
レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。
残りのすべての氏族はあの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。」
(ゼカリヤ書12章10〜14節)
イスラエルは先の捕囚では偶像崇拝から清められ、今度はイエス・キリストを信じる信仰が与えられ、悔い改めるのです。
「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」
(ゼカリヤ書14章4節)
「その日、彼らの神、主は、彼らを主の民の群れとして救われる。彼らはその地で、きらめく王冠の宝石となる。」
(ゼカリヤ書9章16節)
このようにイスラエル民族は、神によって清められ、神の宝とされたのです。
患難時代はイスラエル民族にとって、精錬の時、悔い改めの時、そして、神により信仰が与えられる時なのです。
15章、千年王国への導入、サタンの1000年間捕獲
キリストの地上再臨により、政治的反キリストと宗教的反キリストが捕らえられました。
彼らは人間でありながら、特別扱いの裁きを受けます。
彼らは「硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。」のです。
すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。
(ヨハネの黙示録19章20節)
悪魔でありサタンである竜はついに捕まり、千年の間閉じ込められます。
サタンは二人の反キリストはとは違うところに落とされます。
サタンは囚人のように鎖で縛られ、「底知れぬ所」に鍵を付けて入れられます。
また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。
彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、
底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。
サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。
(ヨハネの黙示録20章1〜3節)
サタンにはまだ役割があります。
サタンの存在の目的には様々な議論がありますが、人を欺き、時には人に試練となります。
神はこのサタンを利用し、信仰者を精錬して行くのです。
たとえ、神がサタンを利用し、サタンの願いを聞いたとしても、神の摂理には闇がありません。
ヨブ記にはこのようにあります。
「ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。
主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」
主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。
しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」
主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。」
(ヨブ記1章6〜12節)
神はサタンの願い事を聞いて、いや、利用してヨブの信仰を試しているのです。
多くの信者が悩みを持ち、信仰に入ることを聞きます。
それはこの世にサタンがいます。
あらゆる人々に悲しみや苦しみを与えることがあります。
なぜ、あなたにこのような苦しみが来たのでしょうか?
それはあなたがこのような苦しみがなければ、神を知ることが無かったからです。
クリスチャンにも、悲しみ、苦しみ、そして死が訪れるかも知れません。
そして、このテキストを読んでいるのは、教会時代、もしくは死者の復活のあと、患難時代の真ん中かも知れません。
しかし、それはあなたが神に、主に目を向け、「助けてください」というためなのです。
つまり、あなたが「あなたの神である」主との交わりを得る為なのです。
古い人間はほっておけば、神との交わりから離れるようにできています。
常に聖霊の監視、神から手がなければ、神との交わりに留まることができません。
患難、苦しみが神の手段であることをおぼえてください。
「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。
また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」
(ヨハネの黙示録20章4、5節)
天には多くの座、つまり、座席、椅子が用意されています。
彼らがここに座りました。
問題はここでいう「彼ら」です。
前から見てゆくのであれば「底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持った御使い」になりますが、単数形です。
しかし、座る場所は「多く」となっています。
ここには解釈が必要になりますが、個人的にこの座に着くのはすぐ後にある「生き返った人」とするのが好ましいと考えます。
直訳ならば「彼らに裁きが与えられた」となりますが、裁かれるための座が与えられたというのも不可解です。
ならば、患難時代に反キリストに従わず、殉教していった者たちには始めから特別な「座席」が用意されていたことになります。
彼らは千年王国で王となり、民をさばくのです。
ここに千年王国での迫害、殉教の仕方について記されています。
「イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たち」です。
彼らは「獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たち」です。
地上では差別され、理不尽な扱いを受け、買うことも売ることも出来ずに、飢え、閉じ込められ、そして、斬首刑という最後が与えられます。
つまり、信者にとって、反キリストは信仰のために試金石となっているのです。
ここで考えていただきたいことがあります。
一つは私たちにこの根性、これを成し遂げるだけの信仰があるかです。
多くの方々が自分に適合できないと思うのではないでしょうか?
この聖句にも試練があります。
個人的には教義主義者と呼んでいますが、福音的な教会においてもこのように言う人が多くいます。
「死は怖くない、だって死んだらすぐ天国だから」、確かに真理です。
しかし、私たちにそのまますぐに適応できるでしょうか?
もともと、創造時に設定されていなかった死を通り過ぎることが楽しいことなのでしょうか?
おそらく、この聖句を読み自分がギロチン台の前で順番待ちになっている時、この言葉が適応できないことを知るはずです。
もし、死がクリスチャンの希望だと言うのであれば、なぜ、あなたは毎日小さなことで悩むのですか?
私はかつて、この言葉を克服し、理解するために目の前にナイフを起き、祈りました。
「主よ、私は死を通り過ぎることの恐怖を克服するために、今、ナイフを喉元に置きます。
そして、死など怖くないと言わせてください。」
答えはありませんでした。
死んだ後にキリストの御元に行けるという知識、教義がないのでありません。
そのまま、死は生きている私にとって恐怖には代わりがありません。
患難時代の信者はこの試練に立ち向かわなければなりません。
最後に自分が斬首刑になるという試練です。
ただでさえ、様々な苦しみを味わってきました。
「もう十分だ!ここで反キリストに従えば、食べることはできる!
もう十分だ!」
と考えるかも知れません。
そうです。
失格者になる道です。
おそらく、古いからだ、古い人類はその道を選ぶはずです。
しかし、私たちは聖霊によって、そう、聖霊によらなければこのように言うことができません。
「私たちには天に特別な座席が用意されている。
死んだら、その座席に座ることができるのだ!」
患難時代の聖徒たちは聖霊によってこのようにいうことができるのです。
ここで斬首刑に会うすべての者は教会時代のクリスチャンのように聖霊が住んでいません。
すべての者がキリストを救い主として信じていないからです。
しかし、一時的に聖霊が彼らに注がれます。
教会時代の私たちは自分を吟味せずに、自分に信仰があり、決まり文句の信仰を言うかもしれません。
私は患難時代の「イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましい」と思います。
最後まで勇敢に、主の道を歩めることを祈ります。
そして、病床にあるクリスチャンについて感謝します。
多くのクリスチャンが間近に近づいている死について勝利しているのを見ることができます。
もちろん内心、さまざまな思いがあることも知っています。
最後まで聖霊がただしく、主への信仰を保たせてくださることを感謝します。
そして、教会時代において御言葉を語る時、特に未信者に語る時、聖霊が注がれることを期待します。
聖霊なしには誰も信じることができないからです。
多くの人たちが未信者をどうしたらクリスチャンにすることが出来るのかを考えます。
教会になじんだら、始めからまっすぐに語っても拒否されるだけだとか考えるかも知れません。
しかし、聖霊に有無を感じて、人はメッセージを伝えることをしているでしょうか?
奇跡を待つ者は神が行うことを期待するはずです。
「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」
(ヨハネの黙示録20章5、6節)
患難時代に斬首刑になり、もしくは反キリストを拝まなかった者たちは千年王国で祭司となり、キリストとともに、千年の間王となります。
「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である」とあります。
逆に患難時代で反キリストに従った者たちは「千年の終わるまでは、生き返らなかった」とあります。
ここに千年の差が生まれています。
後に書きますが、彼らは千年後によみがえっても、永遠の裁きを受けるだけなのです。
16章、千年王国
キリストの地上再臨により、サタンと反キリストは裁かれ、地獄へと落とされます。
そして、地上では信仰をもったイスラエルの祖先たちが新しいからだでよみがえり、かつての契約を成就させるのです。
アブラハム、イサク、ヤコブには約束の土地が与えられ、ダビデは永遠の王座を手に入れます。
この千年王国は神のイスラエルへの約束を成就させるためであり、クリスチャンはこの地上には住んでいません。
キリストと共に支配します。
「あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。
それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。」
(コリント人への手紙第二6章2、3節)
まさに、キリストが王なのです。
王国の期間、新生されていない人々は異邦人だけに存在します。
王国の期間中は、救われていないユダヤ人は存在しません。
ユダヤ人が他のユダヤ人に「主を知りなさい」と言う必要がないのです。
なによりも、最終的に世界中に離散したユダヤ人たちが集められます。
「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。
主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる」。
(イザヤ書11章11、12節)
ここでは多くを書くことができませんが、旧約聖書にはこの千年王国の姿が多く描かれています。
これはイスラエル、ユダヤ人たちへの祝福なのです。
そこに異邦人が付帯されています。
まさに、アブラハム、ダビデ、そして旧約の預言者たちに与えられた契約の成就です。
神は言われたことを必ず文字通りに成就させます。
そこには罪の許しが含まれています。
「そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。
それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――
わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」」
(エレミヤ書31章34節)
迫害されてきたユダヤ人は祝福の対象であることが世界中から認められます。
「彼らの子孫は国々のうちで、彼らのすえは国々の民のうちで知れ渡る。
彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。」
(イザヤ書61章9節)
神によって、ユダヤ人たちが立てられた目的が達成されます。
神がすべての人と共に歩むために、ユダヤ人は人間と神との仲介者としての祭司となることが成就されます。
「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである」。
(出エジプト19章6節)
イスラエルは完全な形で再建され、エルサレムに主が帰ります。
「私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。
しかし、安逸をむさぼっている諸国の民に対しては大いに怒る。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らはほしいままに悪事を行なった。』
それゆえ、主はこう仰せられる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。――万軍の主の御告げ。――測りなわはエルサレムの上に張られる。』
もう一度叫んで言え。万軍の主はこう仰せられる。『わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる。主は、再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ。』」」
(ゼカリヤ書1章14〜17節)
大きな地殻変動が起き、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ちます。
主が世界を支配していますので、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習いません。
「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう」。それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。
主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」。
(イザヤ書2章2〜4節)
「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。
弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。
心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。
そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。
焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。
そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。
主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。」
(イザヤ書35章1〜10節)
イスラエルは主のために神殿を建てます。
「彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。
わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。
わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう。」」
(エゼキエル書37章25〜28節)
世界中の国民から、イスラエルは祝福を受けるのです。
「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。
地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムへ上って来ない氏族の上には、雨が降らない。
もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主が打つその災害が彼らに下る。
これが、エジプトへの刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々への刑罰となる。」
(ゼカリヤ書14章16〜19節)
しかし、その千年王国のすべての住民の罪が贖われ、罪の性質が取り除かれたわけではありません。
過去の罪が赦されたのみかかわらず、彼らは再び、サタンが解放され、多くの者たちがサタンに従うことになるのです。
17章、解放されたサタン
「しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」
(ヨハネの黙示録20章7〜10節)
この平和な千年王国が終わりにもう一度悪魔は解き放たれます。
前にも書きましたがこの千年王国に入ったものはすべて信仰者ではありません。
偶然に反キリストに従わずユダヤ人を助けたという理由で千年王国に入った者もいます。
信仰のないものは悪魔に従います。
そして悪魔は最終的に捕まえられ火と硫黄との池に投げ込まれます。
この個所をエゼキエル書38章の「ゴグとマゴグ」といっしょにする方がおりますが、著者は別の出来事としてみています。
なぜなら、イスラエルの状況が違うからです。
エゼキエル書にはこのように書かれています。
「その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。
その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる。」
(エゼキエル書38章8節)
しかし、黙示録の場面は集まられて1000年経っています。
「久しく廃墟であったイスラエルの山々」ではなく、地殻変動により美しいエルサレムの街に住んでいます。
ゆえに、エゼキエル書38章は終わりの年と書かれていますので、患難時代の後期の出来事と見ています。
ともあれ、ゴグとマゴグというのはエルサレムの北部、ロシアとウクライナを指しているのは言うまでもありません。
ウクライナ戦争の結末がどのようになろうとも、ロシアとウクライナは手を結んでイスラエルを襲うのです。
黙示録の記事に戻りましょう。
千年王国の終わりにサタンはその牢から解き放されます。
これは神の計画なのです。
「底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。
サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。」
(ヨハネの黙示録20章2、3節)
始めから神はサタンを千年王国の終わりに解き放す計画だったのです。
それは再び、聖徒たちを精錬するためです。
その対象が「聖徒たちの陣営と愛された都」であり、サタンが惑わしたのは「地の四方にある諸国の民」であることは明白です。
結論は「天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした」のです。
すでに獣とにせ預言者は「火と硫黄との池」に投げ込まれています。
そこにサタンも投げ込まれるのです。
18章、白い御座のさばき
「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。
そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。
死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
(ヨハネの黙示録20章11〜15節)
ついにすべての人々が裁かれる時が来ました。
千年王国の後に「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった」様子が描かれています。
そこには「大きな白い御座と、そこに着座しておられる方」がおられます。
サタンと獣、偽預言者はすでに裁かれ、「火と硫黄との池」の中にいます。
救いを無視したすべての人類が復活してここに立ちます。
たとえ、救いを得ていないとしてもすべての者がよみがえります。
裁かれるためによみがえるのです。
彼らは悪魔に従い、神を無視した者たちです。
彼らは何も弁解することができず神の書物が開かれます。
それぞれ、自分の行いに応じて裁かれます。
死もハデス(人間が死んだ後、仮に置かれている裁きの場所)も死者を出し、神に従わなかった者(命の書に名の記されていない者)は永遠の火の池に投げ込まれました。
ルカによる福音書16章に出てくる「金持ちとラザロの話」で金持ちは苦しんでいます。
実はハデスは本当の苦しみの場所ではないのです。
本当の裁きは火の池(ゲヘナ)なのです。
いのちの書に名のしるされていない者(救われていない者)はみな、この火の池に投げ込まれるのです。
人間ならば、絶対に行ってはいけない場所です。
もし、このことがわかるのであれば、「イエスキリストが自分の罪の身代わりに死んでくださった救い主であることを信じてください。」
ここで考えてほしいことがあります。
イスエキリストを自分の罪の身代わりと信じない者も「火と硫黄との池」に入ることになります。
そこには神の支配はありません。
信者であっても、なくても人生には浮き沈みがあり、どん底で死んでしまおうかと思ったことがある人はいると思います。
報道を見れば、あれだけの有名人、資産家なども自殺したという記事もよく見ます。
でも、多くの人たちには回復があり、幸せに暮らしている者も多くいます。
サタンはこの世の人たちに悲しみ、苦しみ、そして、死を与えようとします。
しかし、神は人に回復を与え、生きることの素晴らしさを与えています。
「火と硫黄との池」とは物理的に焼き尽くされるだけではありません。
そこには神はいません。
心も精神もサタンに食い尽くされるのです。
もう、回復することはありません。
永遠に続くのです。
私たち救われた者は、間違ってもそこに入ってはいけないことを必然的に語る必要があるのです。
信じるも、信じないのも自由ですよと言っているようなものではありません。
信じなければならないのです。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
(ローマ人への手紙6章23節)
19章、新しい天と地
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。
勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
(ヨハネの黙示録21章1〜7節)
この新しい天と地が現在の教会、イスラエル、患難時代の信徒たちの最終目標です。
もはや、ユダヤ人と異邦人には何の仕切りもありません。
もともと、人間は神の祝福の中に生きるように創造されたのです。
人間はサタンに惑わされて、罪を犯し、祝福にあずかれなくなってしまったのです。
この時、人間への祝福が復旧され、さらにキリストによる祝福が増し加わっています。
「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるもの(教会)も地にあるもの(イスラエル)も、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。」
(エペソ人への手紙1章10節)
神の幕屋とは、イエスキリスト自身のことです。
何の注解も入りません。私が何か文章で介入すればこの素晴らしい天と地の価値が落ちてしまいます。
「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」これは地上にいる私たちクリスチャンの現在を生きるための希望です。
「死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」ただ、待ち望むのみです。
ここに突然、思い出すかのようにその反対側の者たちのことが上記の聖句に続きます。
「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」
(ヨハネの黙示録21章8節)
つまり、現在、この聖句を読む者たちに思い起こせということなのです。
最後に新天新地の様子を書いている聖書の個所にて終わりにしたいと思います。
小羊の妻である花嫁とは、教会(イエスキリストを信じる者の集まり)のことです。
「また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。
都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。
都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。
東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。
都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。
その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。
都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、
第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。
私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。
都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。
諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。
都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。
こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。
しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。
御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。
------ 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。
------ これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」
(ヨハネの黙示録21章9節〜22章抜粋)
第四部 結論
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」
(ピリピ人への手紙3章20節)