黙示録―七つの教会
預言的な要素
「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。
私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。
その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」
そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。
それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。
また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。
わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 1章9〜20節
ヨハネはパトモスという島にいたと記されています。
黙示録の啓示が与えられた時、使徒ヨハネは「神のことばとイエスのあかし」のゆえにパトモス島へ流刑になっていました。
そして、ダニエル同様、神の恵み(祈りの答え)は絶望的な時に啓示が与えられ、望み(希望)へと変えられるのです。
その時の声に「七つの教会」への啓示が示されました。
つまり、聖書にある預言は絶望の中にある聖徒たちへの希望の言葉であることを示しています。
教会時代においては、それはキリストの携挙です。
クリスチャンにとって、死は益です。
とても、微妙な宣言です。
確かに生きることにおいて、サタンの勝利があったとしても、希望はキリストの現れ、携挙なのです。
地上で幸せに暮らすことは聖書の教えでもあります。
しかし、サタンの支配する世界でクリスチャンには試練、苦難があります。
その時、死が希望ではありません。
今、キリストが来られ、罪のからだを新しいからだにされ、私の持つこの地上の問題すべてが解決され、聖書に約束されたクリスチャンの祝福が成就されることを心から願っているのです。
ゆえに、苦難の中にいる者たちはキリストの現れをひたすら待つのです。
残念ながら、著者には現在のキリスト教社会がまったく逆の状態であることを知っています。
やがて、現在のイスラエル問題が、政治的ヒーローによって解決され、ユダヤ人は一安心するでしょう!
しかし、そのヒーローこそがユダヤ人を滅ぼそうとする反キリストだとわかると彼らは絶望するのです。
世界は混沌とした時代に入り、ユダヤ人は迫害され、異邦人は絶望の中を入れられます。
その時、信仰を持つ者は、黙示録、そして旧約聖書の預言が希望となります。
「彼らは、主よ来てください」と希望を持って。待ち続けるのです。
その声の主は燭台の真中におられるイエスキリストです。(御使いとは書かれていません。)
七つの金の燭台とは、七つの教会の灯、証です。
灯は闇を照らす光です。
それは教会のイエスキリストの証です。
イエスは「私は世の光です。」と言われました。
またこの燭台は金でできています。
どのような教会であってもその証は非常に価値がある金です。
足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めたとは裁判官、裁き主の姿です。
人の子のような方とはメシヤとしてのイエスキリストのことです。
その頭と髪の毛は「白い羊毛のように、また雪のように白く」と記されています。
白髪、つまり年をとった方。永遠に生きておられる方のことです。
「その目は、燃える炎のようであった」、この表現は罪に対する燃えるねたみの目です。
「炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり」、精錬されつくしているしんちゅう、罪を裁くための行動力を表す足を現わしています。
現在のように工業が進んだ時代において、精錬されている金属は珍しくありません。
この時代において、精錬されている金属は高価で、おもに武器に使われています。
「炉で精練されて光り輝くしんちゅうのよう」を足に持っていることに恐怖感さえも覚えます
このように、ここでは神の威光を現わしています。
右手に七つの星を持ち、右手は権威を示しています。
七つの教会の権威はイエスキリストが持っています。
口からは鋭い両刃の剣が出ており、とは御言葉の剣のことです。
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
新改訳聖書 へブル人への手紙 4章12節
太陽は天の中心、栄光を現わしています。
キリストの顔はまさに「顔は強く照り輝く太陽」なのです。
キリストは「最初であり、最後である」方です。
神は時間に支配されていません。
時間を創造し、支配されている方です。
我々が遅いと思っていても、神はすべてを知っており、すべてベストな時に事を成就するのです。
生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きています。
イエスキリストは救いのために十字架にかかり、私たちの身代わりとなってくださいました。
そして、3日目に復活してくださりました。
ここでは人としてのイエスが語られています。
しかし、神としては永遠に生きています。
神を辞めたことは一度もありません。
死とハデスとのかぎを持っています。
永遠の裁きへの鍵を持っています。
その扉を開ける権威を持っており、キリストの十字架を信じない者はそこに入ることが宣言されています。
この黙示録にでてくる七つの教会は小アジアといわれる地域にあり、街道で結ばれていて地理的に円状に結ばれています。
この記事はヨハネの時代、実際にあった教会「御使い」に対して送られています。
また、黙示録全体で見るのであれば、「終末」の前に書かれている出来事で「教会時代」(イエスキリストの十字架(正確に言うのであればペンテコステ)から空中再臨)の預言的な要素を含んでいると言われています。
ここには絶対にそのことを示していると宣言できる箇所はありません。
著者はそれを支持しています。
また、このように絶対宣言のないところで、預言的な要素を含んで読むことは「信仰の糧」として有益なことを理解し、手にすることが出来ています。
エペソにある教会 − 初代教会
エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。
「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 2章1〜7節
初代教会(1〜3世紀)の姿が預言されているとされています。
かつて、エペソの街は新約聖書にあるように繁栄した街でした。
やがて、時代が過ぎ衰退して行くのです。
街の衰退とともに、エペソの教会への衰退も宣言されています。
しかし、その理由も宣言され、救助策がないわけではありません。
イエスキリストの自分のことを「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」と言っています。
「エペソの教会は成長し教会自身が権威(名声)を主張したので真の権威者は誰なのかを現したとも言われています。」
御使いとは「使わされた者(angel)」という意味があります。
この個所から教会に教会責任者(単数)が与えられていると言う教理を聞きます.
しかし、聖書は他の個所でそのような事は語っていません。
この御使いという言葉だけで教理を作るのは危険です。
この教会にはいくつかの長所があります。
最初にこのように記されています。
「「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」
二つ目にこのように記されています。
「しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。」
ニコライ派が、どのような派閥か詳しくは解っていません
「民に勝つ」と言う意味があります。
つまり聖職主義者(平信者層との区別化)の階級があったと予想されます。
初代教会において、悪魔は芽を出した教会に「偽者(独麦)」を送り込みました。
育つ前につぶしてしまおうと言う作戦を打ちだしたのです。
その反面、迫害下ゆえの次のような短所が指摘されています。
「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。---あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」
神の子供たちには愛が必要です。
個別な事柄から言えば「許しあう」ことが必要なのです。
神の観点から物事を見る習慣が必要です。
それは所詮、すべての人間が罪人であり、少しだけ芽生えた「善」の知識で裁き合っているだけだからです。
ゆえに、赦された罪人にとっては個人的な罪の告白が必要であり、善を行っていたとしても「罪を犯した者」に対して「許す」という行為が必要なのです。
これは御父の御前で働く仲介者「キリスト」の働きを助ける行為なのです。
キリストにとって、すべての者が子供だからです。
「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。」
新改訳聖書 へブル人への手紙7章24〜26節
この教会はかつては愛の教会と言われてました。
しかし、愛から離れ、裁き合う「律法主義的要素」を持ってしまったのです。
教義、教理は信仰に役立つ武器になります。
しかし、教義、教理は信仰ではありません。
残念ながら、保守的な教会においても、教義、教理をもって愛なしに霊的に「殺しあう」姿を見ることがありました。
「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一13章1〜3節
しかし、彼らに神はこのように言われています。
「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 2章5節
教会に「悔い改めなさい」と言っています。
これは重要なことなのです。
カトリック教会は「普遍教会」ですから、「悔い改める」必要がありません。
教皇が「過去の過ちを認める」という宣言は不思議です。
しかし、教会には「悔い改める」ことが必要です。
例えば、かつて「キリストの福音」に立っていなかった教会が「悔い改めて」、福音主義に立ったとしましょう。
これは立派な悔い改めです。
同様に教会に会計上の不祥事があり、発覚し、悔い改めるのなら立派な教会の「悔い改め」です。
問題は意地を張って、認めないという行為なのです。
キリストをかしらとする一つのからだである教会も、聖霊に支配され完全です。
すべてのクリスチャンはそこに属して言います。
しかし、黙示録の7つの教会は不完全です。
時にはサタンの座さえもあります。
ここに描かれている教会はキリスト教、もしくはキリスト教社会(クリスチャリティー)を現わしています。
時には地方教会、ローカルチャーチの姿とも言えます。
一つのからだである教会はキリストにつながっており、失敗はありません。
つまり、この世の教会は失敗し、悔い改める必要があるのです。
そうです。
悪いキリスト教、もしくはキリスト教社会の習慣から離れる必要があります。
ここでキリスト教、もしくはキリスト教社会がすべて悪だとは言っていません。
それは世を生きてゆくクリスチャンにとって、必要なコミュティーだからです。
しかし、それが悪だと知ったのならば、正しい信仰を保つために、キリスト教、もしくはキリスト教社会から離れる必要性さえもあるのです。
ここで悔い改めというテーマに戻ります。
ここで「悔い改めない」のであれば、結果が待っています。
間違いがあれば、悔い改めて、「正せ」ば良いだけです。
そうです。
愛がなければ、それを正せば良いのです。
もちろん、教会内の公言も必要になると思います。
悔い改めたことを知らない、信者はいてはいけません。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 13章34、35節
ここにキリストの戒めがあります。
神の観点から見る必要があります。
悔い改めないのであれば、愛がないのであれば「燭台取りはずしてしまおう」と神は言っているのです。
愛を中心に置かないということは「教会」自身の存続に値する重さがあると言っているのです。
この教会に対して神は初めの愛(原点)に戻ることを勧めています。
20世紀に、福音的な多くの教会が、教理、教義に熱心であり、前進しました。
そして、衰退期が来ました。
サタンは元気な時に致命傷を与えません。
多くの福音的な教会が福音から離れ、教会員を増やすことに躍起になりますが、何も成功しません。
燭台が外されているのです。
集会に来た信者でない人たちキリスト、福音を語ったら、心を開かなくなると真剣に言っているのです。
たましいの救いよりも、教会員を増やすことに注目しています。
これを牧会と呼んでいるのです。
残念ながら、エペソの教会同様に衰退が待っています。
教会員のもっとも優れた教育方法は、たましいの救いの価値を教えることです。
まさに、現在はサタンの思惑通りの教会になってしまっています。
元気な時代もあったかも知れません。
時代のせいにするかも知れません。
教会員のせいにするかも知れません。
それは倒産間近の中小企業の社長と同じで、消滅してゆくのを待っているだけです。
聖書は言っています。
「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。」
ここには復活計画があります。
世のものとは違います。
残念ながら、もう一度、燭台を元に戻すとは言っていません。
この宣言はエペソ全体の教会に対して言われています。
もちろん、個人的には例外もあると考えます。
悔い改め、愛をもって、正しい教理に戻り、「ニコライ派」の教えを憎む者に、素晴らしい宣言がされています。
「神のパラダイスにあるいのちの木の実食べさせよう。」
天の風景を聖書は次のように書いています。
「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 22章14節
勝利を得るものには天の祝福が待っていることを語っています。
あとに、述べますが、この段階では携挙のことは記されてせん。
希望は天です。
このように、初代教会は迫害と偽使徒の混乱の時代でした。
スミルナにある教会 − 宗教的迫害下の教会
スミルナの街はエペソの北、約56キロにある港町。商業都市として栄え、ローマの女神の神殿がありました。
「スミルナ」ということばの意味は「死人に塗る没薬」です。
直訳なら「死人」です。
そして、偶像崇拝には薬物が使われました。
古代において、戦勝国は植民国を支配するために様々な手法が取られました。
戦勝国は宗教を使い、植民国を奴属的に支配することを目的としました。
ある程度、おびき寄せた信者に薬物を使い、宗教儀式に呼び込みます。
その儀式では薬物が使われ、参加した者は不思議な体験をさせられます。
彼らは、この異体験を通し、この異教的な信仰の奴隷とされたのです。
これらの偶像崇拝者たちは、奇跡的な異体験を通して、偶像崇拝に確信が与えられ、より奴隷化されてゆきます。
これをイニシエーションと呼ばれ、最近ではオウム真理教がこれを利用し、信者拡大を図りました。
あきらかにオウム真理教はこの知識を知り、利用し、かつ、政治的な目的があったことを示しています。
同様に、古代の宗教的な街の名前が「スミルナ」という薬物の名前であることからも明白です。
そして、「死人」つまり、人として死んだような街だったのです。
また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。
「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。・・しかしあなたは実際は富んでいる。・・またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 2章8〜11節
「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方」とは、キリストのことです。
この教会は迫害下の教会であり、長所のみしか記されていません。
「あなたの苦しみと貧しさとを知っている」、つまり迫害されている現状です
「しかしあなたは実際は富んでいる」、その人はイエスキリストにあって天的に富んでるのです。
歴史や世界中の信仰者を見るのであれば、ある法則を見出すことができます。
もちろん、これは聖書に通じているものです。
貧しいところには真の信仰が宿ります。
豊かなところにはサタンが宿るのです。
ここで注意していただきたいのでは、富が悪なのではありません。
また、この世の名声、立場が悪なのではありません。
それが使えるのなら、使うべきです。
しかし、人間は豊かなところに立って、信仰を貫くことができるほど強い者ではないことも理解しておくべきです。
豊かになれば、人付き合いも多くなり、自分の立場を維持することが必要になります。
妥協することを日常としていないでしょうか?
それよりも、貧しい者、迫害されている者の方が幸せなこともあるのです。
「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。」
新改訳聖書 ヤコブの手紙 2章5節
ここで注意すべき点はヤコブは富んでいる者たちに貧しくなれと言っているのはありません。
もしくは、富は悪だと言っているのでもありません。
この世の地位、立場、特技は使えるものは使うべきです。
献金も同様です。
貧しい者たちの方が信仰に有利な場所にいることです。
「世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一 7章31節
現在における、富む者たちへの最大の問題はこれらの聖句を無視することなのです。
そして、世はサタンの支配下、そこには罠があることを注意深く観察して歩む必要があるのです。
これらを無視することの危険性は聖書が語っているとおりです。
特にクリスチャン経営者の社員への扱いなども、あり得る話です。
地上で富んでいる者たちの方よりも、貧しい者たちは天的に富んでいるのかもしれません。
「あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。
あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。」
新改訳聖書 ヤコブの手紙 5章3節
あなたがたの貯め込んだ富は終わりの時にあなたがたを責める証言となり、あなたがたを食い尽くします。
ヤコブは言っています。
「あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。」
多くのメッセンジャーが富は悪くないと表現したいゆえにこの聖句を無視します。
無視しないでください。
確かに富は悪くないのです。
富には罪はありません。
逆に貧しいものに食べさせ、永遠の事柄に使うことができます。
人間が罪人なのです。
富のある者は、貧しい者たちよりも険しい道を歩んでいるのです。
この聖句を無視しないでください。
黙示録の7つの教会をこの2000年間の教会時代の預言と見るのであれば、このスミルナの教会は使徒時代のあとに来た、宗教的迫害の時代と言えると思います。
特にローマをピックアップして見るのであれば、ローマは異教の街です。
ローマ神話、ギリシャ神話などがありますが、主流は中東から流れてきたさまざまな異教です。
それらは現在のように混在していました。
仏教なのにクリスマスを行い、神道と仏教の違いさえ分からずに共にお参りに行くような状態です。
それぞれに慣習があり、それを守ろうとしています。
クリスマスやイースターも内容的に見るのであれば、あきらかに異教です。
ローマはキリスト教で統一しようとしましたが、異教の慣習をキリスト教に押し込もうとしました。
もともと、真理と異教の混在はありえません。
ゆえに迫害が起きたのです。
しかし、多くの聖徒たちが死に至るまで信仰を保ったのです。
この時代、スミルナの教会にはクリスチャンに対して、激しく憎悪していた人々とはユダヤ人たちのことです。
ユダヤ人とはメシアなしのユダヤ教のカラに閉じこもって、イエスキリストの話を聞いても拒否する人たちです。
もちろん、神を信じており、旧約聖書の知識を十分に持っていたはずです。
そうです。
神に熱心だったかもしれません。
律法を守り、献金をして、儀式を行っていたのかも知れません。
しかし、黙示録のこの個所では、彼らのことを「サタンの会衆」と呼んでいます。
つまり、悪魔教会です。
「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。
神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一 12章3節
主イエスを受け取っていない者には、聖霊が内住していません。
開拓伝道をしていた時代に、多くのクリスチャンと名乗る人たちが教会を訪れました。
残念ながら、ほとんどの方が「キリストが永遠の裁きから私たちを救うために、十字架の上で身代わりになった」ことを信じていませんでした。
確かに、私たちの働きの場となり、何人かの人々は救いを受け取りました。
ここで覚えてほしいことは、クリスチャンと名乗っていたからと決して、救われて聖霊を受け取っているわけではないということです。
また、私はある時、行くべき教会を探していた時代もありました。
教会に行って、確かに聖書は開くのですが、まったく関係の無い政治や、世界情勢の話で礼拝式が終っていました。
ここはキリストの教会で、キリストを礼拝するために集まって来たのではないのでしょうか?
多く人たちが、礼拝に参加し、賛美をして、献金までします。
キリストという名前は時々、出しますが、まさにおまけです。
彼らはキリスト教という宗教をやっているのです。
メッセージも語られます。
しかし、そこにはキリストがおられません。
その内容は聖書の教えではありません
場面が代われば、すぐに本性が現われます。
おそらく、彼らはキリストの携挙で残されます。
そして、宗教的反キリストと手を結ぶのです。
悲しいことにキリスト無き教会、聖霊のいない集まりは「サタンの会衆」なのです。
そして、患難時代には聖徒を迫害する方となるのです。
ここで読者に、基本的なことをお尋ねしたいと思います。
あなたは本物のクリスチャンですか?
厳しい表現をします。
まず、天地創造の神の存在を信じていますか?
次に。あなたはイエスキリストが自分の罪の身代わりに十字架に架かって死んでくださったことを信じていますか?
罪人であるあなたは、永遠の裁きから救われて、天に入れる者となったことを信じていますか?
もし、このことを信じていない集まりであれば、あなたの通っている教会はサタンの会衆、悪魔教会なのです。
熱心さではありません。
持っているか?
持っていないかです!
スミルナの教会を迫害したユダヤ人も同様です。
街自体が偶像崇拝を土台にした街です。
ユダヤ人は宗教に熱心で、聖書を知っていたはずです。
しかし、キリストを受け入れずに独自の教理をもって、多くの犠牲を払って、悪魔教会に集っていた者たちです。
彼らは本物を迫害しました。
彼ら自身が別物であり、偽物である証拠です。
「十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい」と記されています。
この時代の迫害者はクリスチャンを期限付きで苦しめます。
十日間です。
しかし、その十日間の後に彼らの多くは殺されます。
そうです。
苦しみが終ったのです。
彼らは天に行って、慰められるのです。
彼らには「いのちの冠」が与えられるのです。
耳のある者(聞く意思のある者)は聞くべきです。
このような話があります。
使徒ヨハネの弟分といわれるスミルナ教会の司教ポリカーブは捕らえられました。
役人である知事から信仰してるなら放免するといわれました。
しかし彼は「私は八十六年間、主につ仕えてましたが、主は常に私を助けて恵んでくださいました。どうして、主を裏切ることができましょうか」と答え、ついに火やぶりの刑に処せられたのです。」
「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。---
「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 20章13〜14節
迫害者を恐れてはいけません。
殺すことまでしか出来ないからです。
わたしたたちは恐れる方を知っています。
この教会は迫害下のクリスチャンの歴史なのです。
迫害する者たちの行き先は火の池です。
そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。
恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。
新改訳聖書 ルカによる福音書 12章4〜5節
しかし、同時にこの宣告が教会内にされたということは、先に書いたように教会内でキリストの福音が曲げられていたからです。
繰り返しますが、この普遍的な一つのからだであるキリストの教会に言われたのではありません。
この地上の形のある教会、キリスト教、もしくはキリスト教社会(クリスチャリティー)に対して言われているのです。
一つのからだである教会には失敗がありません。
福音を持っている者は第二の死に対して勝利してます。
彼らにはこのようにいう必要があったのです。
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。
勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 2章11節
福音を表現している聖句にはこのようになものがあります。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章16、17節
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章36節
あえて、主は教会に「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない」と語られているのです。
つまり、このことを語らないと行けない状況だったのです。
教会にとって、キリスト、そして福音を前面に出すということは大事なことです。
こころを開かせるために、キリスト、そして福音を語らない、前面に出さないというのはサタンの罠です。
そして、答えがでます。
キリストにある者は、世の迫害者によって、殺されても、敗北者ではありません。
私たちは勝利者なのです。
ペルガモにある教会 − 初代カトリック教
スミルナの北約72キロの丘の上の町、皇帝礼拝の中心地でした。
ペルガモとは「結婚」という意味があります。
預言的に見るのであれば、サタンの王座を受け入れ、サタンと結婚してしまった教会で、初代のカトリック教会と見ることができます。
このカトリック教会は後に女と表現されるようになり、やがて大淫婦と呼ばれるようになります。
また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。
「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。
しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。
バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。
それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。
だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 2章12〜17節
イエスキリスト御自身が自己紹介をしています。
聖書の中でイエスキリストが自己紹介をするとき、必ず相手に必要な重要なポイントを指摘しています。
「鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる」と書かれています。
先ほども書きましたがこのペルガモにある教会には御言葉の剣(芯までえぐる力のある両刃)が必要なのです。
そして、これは「両刃の剣」です。
正しく、使わないと自分自身、傷つける可能性があります。
実際、多くの教会、派閥が独自の教理を作りだし、思いのままに教会を動かそうとしているのを見てきました。
「みことば」は正しく使われないと自分自身を傷つける可能性があるのです。
後ほどまとめますが、この教会は初代カトリック教会を預言的に描いていると考えます。
このように、彼らは聖書の言葉を使って、独自教理により、人々を騙しているのです。
ペルガモの教会はスミルナにある教会と逆に短所を中心に記されています。
つまり、深刻な欠点があるということです。
「あなたの住んでいる所を知っています。そこにはサタンの王座がある」と述べられています。
サタンの王座とは、預言的にカトリック教会の事だと見るのであれば、恐らく皇帝崇拝の王座のことを指しています。
ここで私たちは学ぶべきことがあります。
ここでは教会にサタンの王座が置かれました。
そこで、多くの者たちは祈るかも知れません。
賛美を捧げるでしょう!
そして、主に感謝します。
しかし、これらはサタンの王座に対して行われているのです。
いつの間にか、教会の主人が代わってしまったのです。
ある時はその教会の名誉牧師かも知れません。
もしくは、聖書を曲げ、教会は牧師の管理化、支配下にあり、現実的には牧師の持ち物になっているかも知れません。
国によっては国家のもの、共産党のもの、もしくは財政的に支配され、人間のもしくは金銭のものになっているかも知れません。
もし、教会の主人がキリストでなければ、祈りも、賛美も、願いも意味がないのです。
酷い表現なら、サタンに捧げられているのです。
ペルガモの教会の長所として次のように書かれています。
「わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」
迫害を目の前にしながら信仰を捨てなかったのです。
ペルガモの教会においては、直接「わたしの忠実な証人アンテパス」が紹介されています。
しかし、いつの時代にも真の信仰者が存在しています。
ここで預言されていると思われる2000年間の信仰的な暗黒時代においても、神は教会における残された民を準備しておられるのです。
バラムとは、バラムは旧約聖書に出てくる偽預言者です。
旧約聖書の民数記22〜26章に記されています。
彼はモアブの王バラクに頼まれ、イスラエルをの呪うように頼まれましたが、神はこの偽預言者にイスラエルを呪うことをお許しになりませんでした。
ところがこれを見て王バラクはバラムを追放しました。
しかし、バラムは王バラクに悪を勧め、イスラエルに罪を犯させます。その結果大勢のイスラエルが死ぬことにあります。
新約聖書では次のように記しています。
彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。
----- この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。
彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、
その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。
新改訳聖書 ペテロ第二の手紙 2章15〜19節 抜粋
ペテロ第二の手紙においてバラムとは、意図的に不道徳に導く教えと見ることができます。
聖書は偶像崇拝を姦淫として攻撃しています。
この不道徳は我々を奴隷とする力を持っているのです。
旧約聖書の時代、神の聖所の中に偶像崇拝の場所が設けられました。
「ついでこの方は私を、主の宮の北の門の入口へ連れて行った。するとそこには、女たちがタンムズのために泣きながらすわっていた。」
新改訳聖書 エゼキエル書8章14節
注意してください。
そこは主の宮の門です。
タンムズは中東の宗教のメシアで「悲劇の死」を告げたと言われています。
そこで偶像崇拝「タンムズ」のために女たちは泣いていたのです。
この泣くという行為は「タンムズ」への礼拝の姿です。
彼は幼いころ、母親の腕に抱かれた子供のように表現されていました。
あえて言うのであれば、彼の誕生日は12月25日です。
イスラエルは偶像崇拝に陥ってしまいました。
主の宮は表面上はヤハウェの宮です。
しかし、主の宮にタンムズを持ち込まれていました。
イスラエルはその後に、主の裁きをうけバビロン捕囚になりました。
40年以上経って、イスラエルは主の手により、奇跡的に国を再建しました。
イスラエルはそれ以降、歴史的には偶像崇拝の罪を犯していません。
近年においては別です。
しかしながら、教会に設置されたサタンの王座はそのままです。
教会で行われているクリスマス、イースターもそのままです。
彼らはキリストの誕生を祝っているのだから、構わない!
もしくは良心の問題だと片付けるかも知れません。
しかしながら、王座が入れ替わっているのです。
もともと、クリスマスとはカトリックのキリストの儀式(マス)という意味でプロテスタントの儀式ではありません。
クリスマスツリーなどの飾り物も、17世紀以降に(サタンによって)持ち込まれた恐ろしい飾り物です。
このカトリックと思われる教会のさばきは終わりの時にとっておかれています。
常に、神は裁きの対象を救われた者たちの教訓とするため、最後までとっておかれているからです。
ここでも、ニコライ派がでてきます。
エペソにある教会でも述べましたが、詳細は不明です。
ニコライという意味から、教会の階級制度も考えられます。
ここではバラムの教えと同等なものだということがわかります。
悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 2章16節
ここでイエスキリスト御自身が御言葉を持って戦おうと述べています。
「わたしの口の剣」とは主の言葉です。
本当なら、私たちが聖霊の力を得て戦うべきなのです。
ここでは教会には御言葉がないのです。
「もし、悔い改めないのであれば」、感謝すべきことに先に裁きが述べられていません。
この危機的な時に、イエスキリスト御自身が戦って下さるのです。
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。
わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。
その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 2章17節
隠れたマナとは出エジプト記でイスラエルに与えられた食物のことです。
ここでは勝利を得た者、神に従うものには「より多く」(霊的な食物)が与えられると言っています。
白い石の、白さは神の聖さを表わしています。
石自体はイエスキリストを表わしています。
ギリシャの裁判では無罪を証するのに白い石を用いたと言われています。
この意味はこの個所に適用されるかは解りませんが、支持したい考えです。
新しい名について、ヨハネの黙示録の小羊の婚縁にあるキリストの栄冠の場面で次の様に記されています。
「その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 19章12節
勝利を得るものには、キリストの花嫁の立場で呼ばれる最大の報いがあります。
ペルガモの教会を預言的に見るのであれば、ローマ皇帝テオドシウス(AD378〜395年)によってキリスト教をローマ帝国の国教とした時代と見ることが出来ます。
スミルナの教会の項でもかきましたが、国民を強制的に教会会員とした歴史があり、異教徒まですべて無理やり教会員とされた時代です。
もちろん、彼らは新しく生まれてはいません。
これが悪魔の手段です。
テオドシウスは他の宗教と偶像崇拝を禁止しましたが、異教徒の儀式はいろいろな形で教会に取り入れられました。
教会の性格は代わり、初期のローマカトリックと変わっていったのです。
スミルナの教会の迫害の時代から、妥協への時代変化の過程である教会とも言えます。
そこには純真なクリスチャンへの迫害も含まれていたのは言うまでもありません。
テアテラにある教会 − カトリック教会
テアテラの意味は「継続」です。
預言的に見るのであればカトリック教会のことを指します。
キリストの贖いの御業は一度だけ、完全に行われました。
しかし、カトリック教会の儀式ではくり返して。「継続して」主イエスの贖いが捧げられます。
私たちの聖餐式は「主の御業を覚える」ためですが、カトリック教会の聖餐式はキリストの体「聖体」が血とからだになり、信者がくり返して、継続して食しているのです。
また、「主の祈り」「アヴェマリアの祈り」をくり返して、継続して唱えるのも特徴です。
また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。
「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。
しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。
わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。
見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。
また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。
しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。
ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。
勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。
わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。
また、彼に明けの明星を与えよう。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 2章18〜29節
ペルガモの教会では、先に主御自身が戦ってくださっていることが述べられています。
悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 2章16節
テアテラにある教会では先に裁きが語られています。
預言的に見て、この教会をカトリック教会と見るのであれば、この教会、この女に対するさばきはこの世の終わり、患難時代に行われます。
「彼女が焼かれる煙を見て、叫んで言いました。『このすばらしい都のような所がほかにあろうか。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 18章18節
この女はこの個所でわかるように、堕落した教会であり、都です。
「あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 17章18節
「地上の王たちを支配する」とは現在形ですので、ヨハネの生きていた時代に支配をしていた国のことです。
つまり、ローマです。
都であり、ローマであり、堕落した教会とは何を指しているのでしょうか?
言うまでもありません。
「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる」という表現はまさに裁判官としての姿を思い起こすことができます。
ここでは、裁き主、裁判官としてのキリストが描かれています。
通常、裁判官は私感によらず、法律によって裁かなければなりません。
しかし、ここでキリストは燃える炎のような目で、罪に対する燃えるねたみの目が表現されています。
主御自身が御言葉であり、法律だからです。
「その足は光り輝くしんちゅう」とは罪を裁くための行動力を表す足を表現しています。
前にも書いていますが、現在のように工業が進んだ時代において、精錬されている金属は珍しくありません。
この時代において、精錬されている金属は高価で、おもに武器に使われています。
「炉で精練されて光り輝くしんちゅうのよう」を足に持っていることに恐怖感さえも覚えます
このように、ここでは神の威光を現わしています。
「神の子が言われる」、人の子という表現ではありません。
イエスキリストの神としての地位が強調されています。
この教会にはキリストの地位を主張しなければいけない理由があったのです。
別の者が、その地位を奪っていたからです。
「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。」
この教会はカトリック教会を示していると考えられています。
確かに、カトリック教会は偶像崇拝に満ちています。
しかし、キリスト教として見て、行いでは「近ごろの行ないが初めの行ないにまさっている」と長所を語られています。
これは真理の中に生きる私たちにも大きな事を教えています。
クリスチャンには良き行いをするように求められています。
「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」
新改訳聖書 ヤコブの手紙2章14〜17節
多くの教会では恵みである福音を強調するゆえに、良い行いをおごそかにします。
特に教義、教理主義者はこのようなみことばを軽んじています。
常に私たちの前に置かれた環境を見るならば、二つの選択肢があることを知っています。
「やるか」、「やらないか」です。
イゼベルという女に支配された、つまりサタン的な教会の行いが褒められているのです。
預言的に見るのであれば、カトリック教会は多くの信徒たちを殺し、偶像崇拝を行って、聖書から離れてしまっています。
これらは許されるべきではなく、彼らには報いがあるはずです。
私たちがそのような教会の良い行いを見て、「どうせ、裏があるのだろう」、「なにか、思惑があるのだろう」と悪い採点をしてしまいがちです。
しかし、行いだけという見方でするのであれば主はこのように言うのです。。
「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。」
私たちは良い行いから離れていないでしょうか?
ある時、教会に中年の男性が訪れてきました。
聖書の話をした後に、お金を恵んでくれと言い出したのです。
つまり、教会目的の物貰いです。
私は自分の出せる範囲で、適当と思われる金額を渡しました。
騙されてもいいのです。
最低限、その人の頭には福音が撒かれました。
神はこの教会の行いを覚えています。
そのことを忘れてはいけません。
当然、この教会には短所があります。
「イゼベルという女をなすがままにさせている」
実際にイゼベルという女性がいたと思われます。
先に書きましたが、この教会を堕落させているのは女です。
この女は黙示録の宗教的反キリストである女に通じるものだと確信しています。
まさに、カトリック教会です。
この女は預言者だと自称し、教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせ、不品行を行っています。
神はこの女に「悔い改める機会」を与えたが悔い改めを拒みました。
患難時代において、神は反キリストにさえも悔い改めのチャンスを与えています。
「第五の御使いが鉢を獣の座にぶちまけた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。
そして、その苦しみと、はれものとのゆえに、天の神に対してけがしごとを言い、自分の行ないを悔い改めようとしなかった。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 16章10、11節
神の素晴らしい寛容を褒めたたえます。
同名の女性が旧約聖書に出てきます
イスラエルの王アハブの妻である。シドン人の王エテバアルの娘のイゼベルです。
彼女はイスラエルに偶像崇拝を行わさせ、主の預言者たちを殺しました。
ここで出てくるイゼベルも同じイメージがあります。
この女の結末はこのようになります。
「この女を病の床に投げ込もう。」
「この女の子どもたちをも死病によって殺す」のです。
私たちは多くのこと偶然と片付けます。しかし神のを行うことには偶然はありません。
また逆に自分たちに目を向けさせるためにすべてを奇跡といいます。
しかし、「この女の行ないを離れて悔い改める」必要を覚えるべきです。
また、「わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。
ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい」と語られています。
主は、テアテラにある教会の苦しみの中にある信者には、更なる重荷を与えないと約束しています。
すべての苦しみの中にある信者に適応できるかは別ですが、主はもがき苦しませるのが目的ではありません。
天に行く神の子には、すべてが教育なのです。
主を信じ、目的を理解するのであれば、信頼を生む出すことができます。
このような環境の中で「持っている者はさらに与えられて豊かになる」という原則ではなく、「持っているものをしっかりと保ちなさい」と勧めています。
サタンは持っているを奪うのが目的です。
かつて、熱心なクリスチャンが力を失くしたという残念な話を聞くことがあります。
その反面、福音を語らずにキリスト教というありがたい話の布教に取り組んでいる教会がそのまま残っているのを見ることがあります。
このような状況を見て、熱心であることが悪のように語るメッセンジャーもいるぐらいです。
熱心なのが悪いのでありません。
サタンの狡猾に人の弱さを攻撃してくるのです。
もちろん、すべてが主の摂理と許しの中で行われます。
今は悪い時代です。
再臨のキリストと千年王国が語られています。
「あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。」
「ここでわたしが行くまで」と語られています。
つまり、キリストの再臨、携挙です。
テアテラにある教会(カトリック教会)はイエスキリストの再臨時に存在することを示しています。
それどころか千年王国をキリストと共に支配する信者として描かれています。
「また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。
わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 2章26節
これをキリストの空中再臨にて、新しいからだが与えられ、よみがえり、その結果、千年王国においてキリストと共に支配することを指しています。
もしくは、預言的に患難時代において、カトリック教会であるこの女の教会から離れて、斬首刑にされ、千年王国の終わりによみがえり、キリストと共に支配することを指しているのかはわかりません。
「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。
また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 20章4節
どちらにしても、この女から離れた者には特別な祝福が与えられるのです。
「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。」
その反対に、この女の教えに従い、悔い改めない者は患難時代に入ると言っています。
「女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。」
最後に、イエスキリストの再臨が「明けの明星」として描かれています。
「明けの明星」とは夜明け前(地上再臨)、義の太陽が昇る前に輝く明るい星(空中再臨)を言っています。
つまり、空中再臨は人が寝ている間に明るく輝く星として描かれ、空中再臨が前兆なく起きること示しています。
しかしながら、信仰を持って起きている者には夜明けが近いことは明白なのです。
「気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。」
マルコの福音書13章33節
上記の聖句も警告の文章です。
「その定めの時がいつだか、あなたがたは知らない」と書かれています。
つまり、目を覚ましているのであれば、その時に気づくはずなのです。
預言的に見るのであれば、テアテラにある教会は中世のカトリック教会を表しています。
サルデスにある教会 − プロテスタント教会
サルデスという意味は「逃れる者」という意味です。
プロテスタントの意味は「反抗する者」という意味です。
預言的な意味において、サルデスの教会はカトリックに対して「逃れる者」です。
歴史的な意味から見るのであれば「プロテスタント」の意味はカトリックに対して反抗する者なのです。
また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。
もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。
しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。
彼らはそれにふさわしい者だからである。
勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。
わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 3章1〜6節
ここでも、主は御自身のことを「神の七つの御霊、および七つの星を持つ方」と語っています。
ここで主は「七つの御霊」を持つ方として御自身を紹介しています。
ここで霊という存在について考えてみましょう。
もう一度、確認しておきます。
霊という存在があります。
これは重要なことです。
時には、御霊、神から来た霊を聖霊、もしくは悪魔に従う霊を表すこともあります。
言葉の意味としては、物理的、人間的の反対語として「目にみえないもの」という理解ができる箇所もあります。
しかし、霊は存在は堕落した古い人間には理解しにくいものであることは間違いありません。
その役割、機能はもともと、神とたましいを結びつける存在です。
先に神は人を神に似せて創られました。
「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」
新改訳聖書 創世記1章27節
神はご自身のかたちに創られたというのは、同じ三位一体に創られたと解釈されています。
つまり、唯一の神は御父、御子、聖霊で構成されています。
三位一体を人間の知能で完全に理解することは不可能だと思われます。
しかし、神は、人間をたましい(自己)、霊(神を知るための器官)、からだを一つにして創造されたのです。
その違いの多くは詩篇で語られています。
しかし、日本語の聖書では霊が思い、こころなどの別の訳になっている場合があります。
唯物論者に言わせると、人間の機能は脳に意識、知識があり、内臓などの機能によって、人は生きているとされています。
しかし、人間にはたましいという存在があることは誰でも理解できると思います。
別に霊という存在があるのです。
元々、霊とは神を知るための器官なのです。
器官と言っても別の存在ですが、我々の一部です。
もともと人間は神と共に歩み、自然界のように、そして、私たちの臓器のように、いやそれ以上にはっきりとした目的を持ち、神と共に永遠に生きる存在でした。
しかし、人間は罪を犯し、霊は機能しなくなりました。
人間は神に背き、サタンの声を聞いて、人間と神の断絶が始まったのです。
神はエデンの園で唯一の命令を与えました。
難しいものではありません。
「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
新改訳聖書 創世記 2章16、17節
そこに反抗者であるサタンがきて、わざわざ丁寧に人間はその命令を破りました。
「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。
それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」
新改訳聖書 創世記 3章6節
その結果、人間に呪いが入って来たのです。
「また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」」
新改訳聖書 創世記 3章17〜19節
人間に罪が入ってきました。
その様子が新約聖書に説明されています。
聖書にはこのように書かれています。
「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」
「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
「彼らの足は血を流すのに速く、
彼らの道には破壊と悲惨がある。
また、彼らは平和の道を知らない。」
「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章10〜18節
今日も、霊的に死んだ人間は。利得のために戦争を起こし、人が死に、人の不幸にかかわらず金儲けに走り、多くの者が生活に困り、犯罪で満ち溢れています。
そして、なによりもあなたはその人類の一人です。
もし、人類を一つとして考えるなら、あなたには罪が宣告されます。
事実、人類は一つであり、その古い人類からあなたは脱出しなければなりません。
この世と共に、罪の宣告を受けなければなりません。
これが霊的に神との交わりが絶たれた結果なのです。
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、」
新改訳聖書 エペソへの手紙2章1節
そう、霊的に死んだのです。
神との交わりの外に追い出されたのです。
このように、人間を構成する霊という機能が停止してしました。
霊の持つ機能とは神との交わりの中を生きるという機能です。
神との交わりはもともとアダムの中に存在し、人間が創造された目的であったのです。
人間側から言えば、存在の目的があり、満足し、何の不足、悩みもない状態だったのです。
罪の機能の停止により、その喜びすべてが機能しなくなったのです。
この霊の存在は動物や他の生物に中には存在しません。
そのように創造された人間にだけ存在するのです。
しかし、今、神の御子、私たちの救い主が私たちの罪の身代わりに十字架にかかって下さり、罪の問題がすべて解決しました。
神と私たちの間にある闇は払しょくされたのです。
旧約聖書の時代、神の宮が設置されました。
至聖所と言われる神の臨在される場所に入れるのは祭司だけで、その間には厚い天幕(カーテン)が施されていました。
これは象徴的に神と人間の間には、厚い天幕があり、自由に行き来できないことを象徴していました。
イエスキリストが十字架に架かられ、罪の贖いが完了した時、奇跡が起きたのです。
「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。」
(マタイの福音書27章50〜52節)
そうです。
象徴的に施されていた「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」のです。
神と人間の間の交わりを妨げる幕は、裂けたのです。
神御自身が霊、聖霊を与え、神と人間との交わりが自由にできるようになったのです。
神は、天地創造の神でした。
時には神はイスラエルの神でした。
また、罪人には裁きの神でした。
しかし、今や、あなたの神になったのです。
神とあなたの交わりが復旧されたのです。
あなたは自分の悩み、苦しみ、そして永遠の問題を自由に神の御前に出すことができるのです。
ここで黙示録にある「神の七つの御霊」の意味に戻ってみましょう。
このように、神は7つの教会の交わり、信者たちが神を知る権限さえも握っていることが理解されるのです。
これは霊の意味、機能を知らないのであれば、この聖句は出来ません。
また、ここで霊の機能を語ったのは、多くの信者にも理解されていないことを著者は知っているからです。
また、星は聖書の中で「御使い」を現すことが多くあります。
太陽や月とは別に、宇宙に散らばっている星は太陽や月を際立てさせるために輝いています。
まさに仕えているのです。
「七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 1章23節
つまり、主は7つの教会の霊と星を持った方。権威を持つ方とした御自身を示しています。
この教会を預言的に見て、この2000年間の教会として見るのであれば、このキリスト教社会、キリスト教界を主はご覧になり、教え、時には介入されていることがわかります。
しかしながら、この2000年間の教会は人間のコミュニュティの失敗があり、堕落のくり返して行っています。
時には、成功については、主からのお褒めのことばがありますが、失敗の方が多いのは事実なのです。
それでも、多くの更なる祝福の言葉が羅列されています。
時には、健全な信仰を保つためにこのキリスト教社会から離れる必要さえもあります。
もちろん、教会に結びつくことが聖書から要求されていることも知ります。
預言的に見るのであれば、このサルデスにある教会はプロテスタント教会のことです。
カトリック教会が普遍的教会という意味に対して、プロテスタント教会は反抗者です。
サタンに王座を引き渡した、堕落した教会に聖書の権威を取り戻すために彼らは反抗したのです。
そして、福音を手に入れました。
彼らは自分たちこそが生きていると考えました。
主はこのように宣言しておられます。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる」。
この教会の看板は「生きている」でした。
カトリック教会に対して生きていると思ったのです。
しかし行いは「死んでいる」です。
カトリック教会の暗黒時代が過ぎ、プロテスタント教会が出現し、確かに福音は語られるようになりました。
しかし、サタンはすぐに入ってきたのです。
カルビンやルターの功績は認めますが、すぐに聖書が曲げられました。
また、カトリック教会の習慣がプロテスタント教会に引き継がれました。
プロテスタント教会で、クリスマス、イースターなどが祝われ、洗礼では幼児洗礼、滴礼が行われるようになりました。
福音の内容も、教派によっては怪しいものもたくさんあります。
しかしながら、世界史には出てこない信仰者を神は常に残されています。
15世紀にアナバプテストと言われる信仰者の集まりが起きました。
「聖書のみ」を信仰の基準としたこと、信仰そのものが大事だと説いたこと、万人祭司説を説いたことはルターと変わらありませんでしたが、様々な信仰的な相違がありました。
彼らはバプテスマのヨハネと初代教会から続く正統性を主張していました。
しかし、歴史に埋もれてしまった関係上、詳しくは残っておりません。
ただし、幼稚洗礼と滴礼を否定し、もう一度、洗礼を行うことによって、アナ(もう一度)バプテスト(洗礼をする)派と言われました。
現在でもその流れを組む教会が存在しています。
彼らはカトリックとプロテスタントの両方の教理を否定したので、アナバプテスト教会はその両方から迫害を受け、多数の人が処刑されました。
ちなみに著者は、この幼稚洗礼と滴礼さえも、中東の偶像崇拝から引き継いだものと認識しています。
他にもいろいろな歴史、伝承が残っていますが、このようにプロテスタント教会の行いは「生きているとされているが、実は死んでいる」のです。
後に「わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない」とも言われています。
しかしながら、神の目から見て、決してこの教会は否定的ではありません。
このようなことがありながらも、もしくはプロテスタント教会にこのように語っているのです。
「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい」
この教会の中には2種類の人たちがいたことがわかります。
眠っている人と死にかけた人たちです。
そして、眠っている人たちが目を覚まし、。死にかけた人たちに力を与えなさいと語っているのです。
この教会には、まだ、可能性が残っているのです。
そして、「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい」と語っています。
つまり、始めの教えに戻りなさいと言っているのです。
著者は「Back to the bible(聖書に戻れ)」という言葉は大好きです。
さまざまな神学、教理があります。
そして、何が正しいのか多くの者たちが彷徨っています。
「誰々先生の話は本当に分かりやすい」とか、「自分は何々主義に立っている」という人がいます。
聖書の原則はそんな人や主義に立たないと分からないものなのですか?
そのような先生や、主義が聖書を曲げたなら、素直についてゆくのではありませんか?
残念ながら、著者はそのような信者、牧師など何人も見てきました。
もう一度書きます。
著者は「Back to the bible」という言葉は大好きです。
キリストの再臨が語られています。
「もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」
ここでも「目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る」と語られています。
繰り返しますが、これは警告の言葉です。
注意する点はプロテスタント教会の多くはルター、カルビンの教えを引き継いだものです。
面白いのは、彼らの多くは「患難前再臨主義者」、患難時代の前に携挙によって、クリスチャンたちが引き抜かれるという教義に立っていません。
私たちは確かに聖書の中に、携挙、再臨は何月何日に来るとは書かれていません。
しかし、聖書をなじんでいる者たちにとって、その日が近いことは明白です。
神はキリストの再臨のために「目を覚ましていなさい」と勧めているのです。
彼らの教理に従えば、予想もしない時に突然来るのです。
著者は「目が覚めている」と自覚し、「患難前再臨主義者」、患難時代の前に携挙によって、クリスチャンたちが引き抜かれるという教義に立っています。
携挙が間近であることを自覚しています。
また、預言的に見るのであれば、この教会は中世からのプロテスタント教会を示していると考えます。
そして、この教会には再臨、携挙のが語られています。
つまり、預言的に見るならば、携挙の時代にプロテスタント教会が存在することになります。
このように聖書になじんでいる者なら、携挙の時期に関するヒントがあちこちに聖書に埋め込んであることがわかるのです。
フィラデルフィヤにある教会で説明していますので、そちらをご覧ください。
プロテスタント教会は確かに福音を信じる教会が多くあります。
これは感謝すべきことです。
しかし、歴史的に見たのならカトリック同様非常に残虐に自分たちと合わない教会を抹消してきました。
注意する点はプロテスタント教会の多くはルター、カルビンの教えを引き継いだものです。
彼らの多くは「患難前再臨主義者」、患難時代の前に携挙によって、クリスチャンたちが引き抜かれるという教義に立っていません。
詳しくは、フィラデルフィヤにある教会で説明していますので、そちらをご覧ください。
最後に「しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる」と述べられています。
衣は人間を覆い、生活すべてを表しています。つまり衣を汚さなかった者とは「この世」という汚れで汚さない、キリストに忠実さを表しています。
そして天では「白い衣」を着せられます。
この衣こそ「義の衣」です。
「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 7章9節
ある福音的教会では、自由を主張したいあまりに「世との分離」を蔑ろにしているという話を聞きます。
この衣は汚してはいけないことを教えず、理解できないのです。
事実、黙示録の注解などで、神に犠牲を払うこと、世との分離での単純な教理を飛ばして話しているのを聞くことがあります。
彼らには都合が悪いからです。
自由という言葉は何でもしても良いということではありません。
聖書の言葉を借りるのであれば、それは市民権を得たということです。
ローマで奴隷だった者が買い取られ、自由とされ、ローマの市民権を得たと言うことです。
ローマの市民権を得たのであれば、何をしても良いという意味ではありません。
ローマの市民であれば、ローマの法律を守り、ローマ市民として生きる義務が生じるのです。
それこそ、自由を味わう方法なのです。
私たちは天に国籍を持っています。
死と罪の奴隷から解放され、今や、天に国籍を持つ者とされたのです。
キリストの血にによって、買い取られたのです。
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」
新改訳聖書 ピリピへの手紙 3章20節
そして、彼らにはこのように語られています。
「彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。
彼らはそれにふさわしい者だからである。
勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。
そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。」
世の汚れから衣を汚さなかった者たちは、主と共に歩むのです。
例え、その教会が死にかけていたとしても、あなたは生きるのです。
その衣は勝利の衣なのです。
その人の名前は「いのちの書から消すようなことは」ありません。
つまり、彼らはキリストの贖いを信じるクリスチャンなのです。
繰り返しますが、この7つの教会は一つのからだであるキリストの完全なからだのことを語っているのではありません。
人間のコミュティとしての教会です。
なので、救われた人も、救われていない人もいるのです。
救われている人は目を覚ますのです。
そして救われていない死にかけた人たちを起こして、救う必要があるのです。
現在のキリスト教界にも、同じ事が言えます。
キリストの福音を語らない、もしくは受け入れていない教会が存在しているのも事実です。
目を覚ますのです。
そして、目を覚ましてキリストが来られるのを期待するのです。s
フィラデルフィヤにある教会 − 18〜19世紀の聖書根本主義教会
また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。
なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。
見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。
あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。
わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 3章7〜13節
フィラデルフィヤの意味は(φιλοs)「フィロス」と(αδιλφοs)「アデルフォス」の合成語で兄弟愛を意味します。
その言葉の意味の通り、この教会には短所は指摘されていません。
「聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方」
これはヒルキヤの子エルヤキムに言われたイザヤ書から引用です。
聖書は「ヒルキヤの子エルヤキム」と、この聖句の真意を多くは語っていません。
イザヤ書を見ると、彼は宮内長官でなったことがわかります。
「そこで、ヒルキヤの子である宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、および、アサフの子である参議ヨアフが、彼のもとに出て行った。」
新改訳聖書 イザヤ書36章3節
ヒゼキヤ王の時代、預言者イザヤから、宮廷をつかさどるあの執事シェブナに主の言葉がありました。
「わたしはあなたをその職から追放し、あなたの地位から引き降ろす。」
新改訳聖書 イザヤ書22章19節
シェブナの地位、権限が「ヒルキヤの子エルヤキム」に与えられました。
「その日、わたしは、わたしのしもべ、ヒルキヤの子エルヤキムを召し、
あなたの長服を彼に着せ、あなたの飾り帯を彼に締め、あなたの権威を彼の手にゆだねる。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。
わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。
わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。」
新改訳聖書 イザヤ書22章20〜23節
ゆえに、「ヒルキヤの子エルヤキム」はイエスキリストの型となります。
「わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる」とあります。
しかしながら、「ヒルキヤの子エルヤキム」について、聖書からこの聖句が成就したことを示す場所はありません。
単なるイエスキリストの型として、「ヒルキヤの子エルヤキム」を参照にされたのか?
もしくは千年王国で成就するのかは不明です。
ただし、言えることがいくつかあります。
マタイの福音書では主が弟子のペテロに対してこのように言っています。
「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。
新改訳聖書 マタイの福音書16章19節
この個所は使徒にある働きにあるように、使徒ペテロを通して異邦人伝道が始まることを預言的に示しています。
カトリック教会の言うようにペテロに法王として権威を授けたという意味ではないのは明白です。
もし、ペテロに「天国のかぎ」を授けるというのであれば、「ダビテのかぎ」とは王としてのかぎです。
つまり、主が黙示録の中で語られている「ダビデのかぎ」は王としての支配者のかぎであることは明白です。
著者はそれ以上に千年王国で成就すべき内容が含まれていると見ています。
ここでは、天と永遠の裁きとのかぎをもっているおり、開けると閉じること出来ず、閉じたら開けることができない、福音の主催者であるイエスキリストが強調されています。
「わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた」イエスキリストは福音伝道の門を開けておられた時代です。
やがて、閉じられる時代がやってきます。
この教会には短所が述べられていません。
そして、長所としてこのように述べられています。
「わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」
この時代は現在の異端の種が蒔かれた時代です。エホバの証人、モルモン教、また、クリスマス、イースター、ハロウィンなどの習慣も蒔かれましたがこの時代には芽が出ませんでした。
クリスマスという中東の宗教の習慣は古くからあったようですが、現在のクリスマスツリーなどを飾って祝う習慣は18世紀ごろから始まり、広まったのはごく最近の19、20世紀に入ってからです。
このように、これらの異端、宗教の芽が出たのは次の時代でした。
フィラデルフィヤにある教会の聖書根本主義者がそれを拒んだからです。
この教会には主の御名を否まなかったゆえに特別な祝福が語られています。
「わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」
新改訳聖書では「全世界に来ようとしている試練の時には」となっていますが、原語であるギリシャ語では前置詞に(εκ)「エク」が使用されています。
正確な意味で理解するのならば、「試練のうちから外へ」という表現になります。
もし、「全世界に来ようとしている試練の時」患難時代と理解するのであれば、患難時代の中から教会が救われることを現わしています。
キリストの再臨、携挙が語られています。
「わたしは、すぐに来る」このように責める場所、短所のない教会にはこのように語られています。
この教会の存在する時代にキリストが来られることが預言的に示されています。
思い出してください。
サルデスの教会、預言的に見るのであればプロテスタントの教会にはこのように語られていました。
「もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 3章3節
サルデスの教会は「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる」と言われた教会です。
その教会への警告の後で「わたしは盗人のように来る」と書かれています。
この個所を使って、キリストの携挙はいつ来るのかわからない、携挙が来るときに対して構える必要が無いというのは愚かな主張です。
主のしもべは主が来られるのをひたすら待っているのです。
しかし、熱心なフィラデルフィヤにある教会にはこのように書かれています。
「わたしは、すぐに来る」です。
主を待つことを否定的、肯定的、目的と取らない教会はこの聖句をどのように理解しているのでしょうか?
続けてこのように書かれています。
「あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」
キリストが現れを慕う者たちに与えられる冠があります。
「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。
かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。
私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」
新改訳聖書 テモテへの手紙第二 4章8節
フィラデルフィヤにある教会にはわずかながら警告があります。
キリストが現れを慕う者たちに与えられる栄冠を奪い取られないようにいうのものです。
預言的に見ることができます。
つまり、キリストが来られるのを慕う、もしくは期待することから離れてゆく警告です。
実際に著者はこのようにいうのを聞いています。
福音的で主の来られるのを下っていた教会の牧師がこのようにいうのを聞いています。
「キリストはいつ来られるか聖書には書かれていない。
そんなことよりも、クリスチャンとしての人生を全うすることが大切だ!」
最近まで、主の来られるのを期待することが信仰だった教会に異変が起きたのです。
間違いながら、牧師がこのように言うことはそれほど恐れはありません。
その牧師の教会の多くの信者、及び関係者までがそれに追従したのです。
最近まで信仰だった事柄、ある日、不信仰になったのです。
最近まで、聖書に書かれている事柄が、ある日からまったく語れなくなったのです。
恐ろしいのは、誰もがそれに追従したということです。
果たして、彼らは何を信じているのでしょうか?
最近の保守的な教会の神学、教会の傾向がその方向に向かっています。
冠は奪われてはいけないのです。
「持っているものをしっかり持っていなさい」と勧められているのです。
主は言われています。
「わたしは、すぐに来る」
そして、勝利を得る者について書かれています。
神の聖所の柱とは、天での聖所(礼拝をする場所)の支えている柱のことです。
天において、彼らは重要な職につくということを現わしています。
彼らは天において栄誉ある「新しい名」が与えられるのです。
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 21章1〜2節
アーメン!
ラオデキヤにある教会 − 現在の教会
また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 3章14〜22節
「ラオデキヤ」の意味は民(λαοs)「ラオス」と(δικια)「デキア」の合成語で民の主張(民主主義)と言う意味です。
預言的に見るのであれば、聖書は1900年前からこの時代が民主主義の時代になることが解っていたのです。
また、この時代が民が中心であり、神がいなくなっている時代です。
イエスキリストはこの時代の教会に御自分を「神に造られたものの根源」と語っておられます。
神はご自身のことを「神に造られたものの根源である方」として紹介しておられます。
この時代、つまり、現在において、進化論が主流の考えであるからだと考えます。
つまり、地球上の人間、生物が偶然に出来たという考えです。
それだけではありません。
この宇宙さえも「無から有が起きた」という学説を多くの人たちが信じています。
また、現在、教会が「神がこの天地を造られたこと」を語ることさえ危うくなってきました。
キリスト教関係の印刷工場では、工場内で進化論は間違っていると主張することも危うくなってきたという話も耳にしています。
著者の経験からいうのであれば、クリスチャン書店の椅子の横にあった書き込みノートの中に「進化論を信じているクリスチャンはいるのか?」という書き込みしたことがあります。
その書き込みに対して、多くの方々が反応していましたが「進化論を信じるか?信じないかでクリスチャンであるのか?ないのか?決めるのか!」など否定的なものが多くありました。
十一献金をささげ、賛美し、祈りを捧げている教会でさえ、聖書に書いてある創造主を主張することが出来なくなっているのです。
ゆえに、神はご自身を「神に造られたものの根源である方」として紹介しておられるのです。
ラオデキヤにある教会の特徴は信仰に対して「冷たくもなく」また「熱くもない」のです。
最近もある牧師のメッセージの中で「私はいろいろと苦労してきた。
私は最近、祝福され、私の働きを通して、クリスチャンが起こされた。
かつての私の努力は無駄でした。
主がなさったのです。
熱心は要りません」というメッセージを聞きました。
言いたいことはわかります。
本人ではないので、本音は分かりませんが、著者は思います。
主がすべてのことを行ったのは理解できます。
主はあなたをお使いになりました。
かつての努力が無駄ではありません。
今、実ったのです。
結論が間違っています。
熱心であることは無駄ではありません。
主がこの聖句で語っています。
「わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」
ここでならば私は「冷たくなる」のが主のみこころではありません。
あなたに熱くなっていてほしいのです。
そして、「熱くも冷たくもない」もない世との分離が行わない者に対して主はこのように言っています。
「わたしの口からあなたを吐き出そう。」
これは恐ろしい宣言です。
現在、多くの教会でキリストの福音から離れてしまったのは今まで書いてきた通りです。
キリストの福音を最初から語るのであれば、心を閉ざしてしまう、まず、こころを開かせること必要だとするカウンセリングは他の宗教の方が得意です。
私たちがストレートにの語るのはキリストの福音です。
この教会の看板はなおさら大きくなってきます。
「富んでいる、豊かになった、乏しいもの」と言っています。
しかし、神は天にはふさわしくない者として教会を吐き出します。
キリスト教界への預言として見るのであれば、彼らは救われていないのです。
神の目から見た姿は「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」です。
それも、3つの返答に対して答えが5つもあります。
イエスキリストは忠告しています。
いくつかの者をお金を払って買いなさいと明白に宣言しています。
教会への配慮かも知れませんが、ある伝道者のメッセージの中でこの個所を明らかに飛ばして語っているのを聞いたことがあります。
まさにこの時代へのメッセージです。
神に対する犠牲をためらうのです。
最初に「豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい」です。
火で精練された金とは、イエスキリストご自身のことです。
金の精錬はラオデキヤの大きな産業でした。
2番目に「あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい」です。
白い衣もラオデキヤの大きな産業の一つです。
そして、白い衣は聖書で神の国の礼服として紹介されています」
3番目に「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」です。
つまり、霊的に見えるようになるために犠牲を払いなさい。
それはあなたがたにとって、薬なのです。
聖書にはこのように書かれています。
「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙 1章18〜19節
この三つの項の共通のことは「買いなさい」ということです。
この教会は「豊かになった。」と自分では言っているのですが、イエスキリストのために犠牲は払われていないのがラオデキアの教会の特徴なのです。
ここに警告があります。
この教会の戸をイエスキリストが外に立って叩いています。
いよいよ、イエスキリストの再臨は目の前であることを表現しています。
ここで教会の主であるイエスキリストが教会の中にいなくてて教会の外から叩いています。
教会の中にイエスキリストがいません。
教会がイエスキリストを礼拝すべき場所でなくなっています。
しかしながら、驚くべきことにこの生ぬるくなった教会に対して、他の教会にない特別な祝福が啓示されています。
教会の中にイエスキリストがいません。
でも、もし、戸をたたいて「戸を開けるなら」と疑問形が述べられています。
「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」
ここでは、教会単位ではなく、個人レベルにあって交わりをすると宣言されています。
また、現在において来られようとしているイエスキリストを迎える教会の姿とも言えます。
教会が再臨を語らなくなった事実をも暗示しています。
勝利者とは誰でしょうか。
「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。
それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」
七つの教会の中で最も優れた勝利者への言葉があります。
それはイエスキリストが語られた「ブドウ園のたとえ」にもあるように最後の者への神の恩恵でかも知れません。
他の教会にはこれだけ素晴らしい約束はありません。
イエスキリストの来臨を待たなくなった教会において、個人的にイエスキリストを待つ者に対しての特別な恵みと理解しています。
七つの教会のまとめ
1、イエスキリストの再臨について語られているのは「テアテラ(カトリック)、サルデス(プロテスタント)、フィラデルフィヤ(18〜19世紀の聖書根本主義教会)、ラオデキヤ(現在の教会)だと考えられます。
これらは再臨の時に存在する教会と考えられています。
2、最後はラオデキヤ(現在の教会)です。
このラオデキヤの時代にイエスキリストの再臨があるのではないかと多くの聖書研究者たちは意見を述べています。
3、神はこれら七つの教会の行いをすべて知っておられます。
エペソにある教会---「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。」
スミルナにある教会---「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。」
ペルガモにある教会---「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。」
テアテラにある教会---「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、」
サルデスにある教会---「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」
フィラデルフィヤにある教会--- 「わたしは、あなたの行ないを知っている。---わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」
ラオデキヤにある教会---「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、」
4、神はこれら七つの教会のすべてに勝利を与えています。
エペソにある教会---「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」
スミルナにある教会---「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」
ペルガモにある教会---「勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」
テアテラにある教会---「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。---
また、彼に明けの明星を与えよう。」
サルデスにある教会---「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。」
フィラデルフィヤにある教会---「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。」
ラオデキヤにある教会---「 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。」
神は教会、もしくはキリスト教界を全体、すべてを見ています。
世にある教会は偶像崇拝にあふれ、愚かな罪人が争って、殺しあっています。
何よりも、私たちは罪人の集まりで、聖霊によって得たわずかな善行で誇っています。
そして、神はそのわずかな善行を見て、勝利を与えて下さっています。
驚くべき恵みです。
今こそ、主を迎い入れる準備が我々に必要です。
論外篇
私たちはクリスチャンは教会に集まることが勧められています。
地方教会は、キリストをかしらにする一つのからだの教会の現れです。
しかしながら、地方教会、もしくは7つの教会は一つのからだの教会、そのものでありません。
悪い時代、もしくは後の時代になるほど教会されも離れること、もしくは個人のレベルの祝福を語っています。
すべてのクリスチャンは地方教会に集うべきです。
しかし、なんであっても教会に集えば良いという問題でもないのは明白です。
まず、個人的な神との交わりを確立させるべきです。
そして、教会の主人はあくまでもキリストであり、人間の人間の支配にすべきではありません。
一人、一人が祭司であり、主はその一人、一人の神です。
多くの牧会者たちが御言葉に従うよりも、やりやすさを考えます。
後退や苦難は簡単なものではないことは述べておきます。
そして、多くの羊が犠牲になることも述べておきます。
著者は多くの羊が教会から離れた時、その関係の牧会者が変な人たちがいなくなってセイセイしたという言葉を聞きました。
それは誰の羊なのでしょうか?
現在はラオデキアの教会と言われています。
しかし、ラオデキアと別の動きが世界中で起きているように見えます。
地方教会、ローカルチャーチとは文字通り、物理的にその地域に集まる教会を指します。
現在、ネット社会が新しい形の教会を形成しています。
つまり、物理的に集まらず、その地域だけにこだわらず、世界のどこからでもその礼拝に参加できるのです。
このようなネット教会の主催者は、単純に主を覚える為なら手段はどうでも良いという考えかも知れません。
また、情報があふれだし、聖書に関する知識も調べようと思えば、自分で吟味するのであればいくらでも拾いだすことができます。
また、簡単に参加でき、主催者側の負担も少なくて済みます。
あきらかに7つの教会とは別の流れです。
ラオデキアの教会にネット教会も含まれると言われれば、その通りかもしれません。
著者はこの現在のネット教会を否定しないという立場です。
主を覚えるという点では肯定しますが、頭もなしにすべて認めるのも納得できません。
たしかに、ネットは20世紀に現れ、21世紀に発達しました。
他の時代には存在していません。
また、黙示録の中にはネットを思わせる患難時代の様子などもいくつかあります。
患難時代に二人の証人がエルサレムで殺されます。
「彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 11章7、8節)
また、マタイの福音書の山上の垂訓の中でも、このようなことが暗示されています。
この聖句は患難時代のユダヤ人たちに語られているとされます。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」
新改訳聖書 マタイの福音書 7章7節
有名な聖句ですが、ユダヤ人は患難時代に反キリストに追い詰められ、多くのユダヤ人は情報を共有します。
現在、多くのマスコミ、メディアは情報操作され、正確な情報を得ることができません。
それでも、ネットからはフェイクニュースに気を付けながらも、吟味して正しい情報を拾える状態だと認識しています。
まさしく「捜しなさい。そうすれば見つかります」という状態です。
おそらく、患難時代のユダヤ人のためにネットには情報統制ができなくさせていると見ています。
患難時代、もちろんフェイクニュースだらけです。
このように書かれています。
「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」
新改訳聖書 マタイの福音書 24章4、5節
このようにネットも主によって用いられると考えますが、ネット礼拝が正しいのかは判断できません。
7つの教会以外の新しい教会の形であることはわかります。
推論ですが、著者は素直に、現在、ラオデキアから空中再臨までの過渡期ではないのかと考えています。
誰もが、主を覚えるという意味において、ネット礼拝を認めても良いという立場です。
可能なら、物理的に集まるべきです。
最後に
その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録 4章1節
これらの教会の預言の後、ヨハネに「ここに登れ」と言ってます。
著者はこれはイエスキリストの空中再臨のことだと考えています。