Amazing Grace!---驚くばかりの恵み
世界中で放映されるオリンピック競技のTV中継から、この曲が流れてきます。
アメリカの大統領が始会式のスピーチにおいて、地方のもっとも小さい教会にて、そして、世界のあらゆる場所において「アメージング・グレース」という名の曲が流れてきます。
あなたにこの曲はどのように聞こえてくるでしょうか?
「アメージング・グレース」作者であるジョン・ニュートンの生き様はあまり知られてはいません。
しかし、そこに想像しがたい真実な物語が存在しています。
人に語りつくせないほどの不純な人生を、青年時代のジョン・ニュートンは過ごしていました。
このジョン・ニュートンを知っている人が、ジョン・ニュートン自身によって書かれたとは信じがたい自伝を紹介したいと思います。
しかし、私はこの自伝を読むとつらくなることさえありました。
ジョンが7歳の誕生日を13日過ぎた1732年7月のその日、死はただ正直に生きていた彼の母をためらいもなく彼から奪い取ってしまいました。
ジョンはその母についてこのように書いています。
「私の母の仕事といえば、ただ、私に対する教育だけでした。
私が三歳を過ぎるまで、私の母は私に英語を教え続け、四歳になると私はたいていの本を読むことはできました。
そして、私の母は聖書のいろいろな箇所を、いろいろな箇所に分けて私に覚えさせました。
私の母が死ぬと、私は3年間だけ正規の学校へ行っていました。
しかし、ある時、私の父は私を海へ連れて行き、奴隷船の船長と会わせました。
その時から、ジョン・ニュートンにとって反乱と堕落の人生が始まり、彼は24歳までそこで人生を過ごすことになりました。
正しさと聖さとを教えられながら、彼の中にある残忍さと無慈悲は絶望に満ちた人生へと彼を導いたのです。
海には危険がありました。
奴隷船ゆえの虐待、公然における体罰、欠乏、意気消沈、おぼれかかったことさえもありました。
そして、ジョンは奇跡的な脱出を果たしたのです。
彼の奇跡的な脱出以外は、この不幸な人生において良き結果と呼べるものはなかったでしょう。
ある時、ニュートンは北アフリカにて奴隷商人に雇われました。
まもなく、ジョンは病気になり、自分自身のことさえ何もできなくなり、食物が口に入らず死ぬのではないかと思うことさえありました。
その時、鎖につながれた奴隷が彼を哀れんだのです。
その奴隷はジョンと苦しみを分け合ったのです。
ジョンは自分の激しい強情さに気付き、このような堕落した生き方にあってもその奴隷がしてくれたように他人のために生きようと試みました。
その数年間に、何回もジョンは本当の生き方に目を覚まそうとしましたが、気が付くとより邪悪に、そして、より陰険な生き方をしていたのです。
さらに、ジョンの青年時代には、不可解なことが記録として残っています。
この奴隷船は南カルフォルニアのチャールストンにおいて、少なくとも一つの奴隷を乗せた人かごを陸揚げしました。
その時のジョンは、まさに哀れな非道な人間であり、船の乗組員さえもがジョンという人間が動物よりも残酷な存在と感じたと記録しています。
また、ある時、ジョンは船の甲板からボートに落ちてしまいました。
ジョンの船の乗組員は彼をボートから引き上げることを反対しましたが、彼らは思い直して、船の乗組員は彼に船の碇を投げ付け、ジョンを船の中に引き連れこみました。
しばらく、ジョンは船の闇の中につながれていましたが、自分が哀れな悲惨な状態にいることにさえ気が付かない有様だったようです。
このように神は海上における恐ろしいさまざまな危険が、若き日のニュートンに聖い、神の御前に立つべきことを熱心に求めるようにさせたのです。
それから、数ヶ月の後に、彼の船は、多くの材木、家畜、蜂蜜を積んで、彼は激しい嵐の中に入ってゆきました。
嵐に耐えるように設計された船さえも、沈む危険にさらされ、大嵐は激しく彼らを襲いました。
家畜は波に洗われ、乗組員たちは家畜がさらわれないように家畜を船に縛り付け、四週間の間、船はダメージを受け続けたのです。
船員たちは助かるなどとは考えていなかったようです。
ほとんどの船員たちが起きている間、船を軽くするために船から水をくみ出す仕事に費やしましたが、やがて、食料も少なくなり、今度は彼らに飢餓の恐れが始まりました。
彼らは助かり、アイルランドの港に着き、ニュートンは神の御前に正しく生きることを覚え始めたのです。
やがて、23歳になったジョンは北アフリカの海岸近くにある小さな小島を見つけ、その小島に住みました。
その後、ジョンは激しい熱病に犯され、哀れな姿になってゆきました。
神に立ち返ったニュートンがこのように書いています。
「島の港から離れた場所に来て、私は今、ベットから立ち上がることも出来ずに、弱く、錯乱状態になることもあります。
でも、私は新たに祈ることを覚えました。
私にはもはや、決断することは何もありません。
私は今、自分を主の前にさらけ出します。
主である神はこのような私をも受け入れてくださったからです。
私には十字架についた救い主に希望を置き、信じることができます。
私の重荷は私から取り除かれました。」
その時から、ニュートンは肉体的においても、信仰の面から見ても、前進するようになったのです。
ニュートンの経験を通して、聖書から教えられた4つの教えが証明されます。
1)私の今の状態が、神の御前において罪人であることを理解しなければなりません。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章23節
「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章10節
2)私は死後の地獄の永遠のさばきから、自分自身の力によって救われることはできません。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙6章23節
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章27節
人は自分の罪ゆえにさばきが定まっています。
3)キリストは私の罪の代価を払ってくださいました。
キリストが十字架の上で私の地獄で受けるべき刑罰をすべて受けてくださったからです。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙5章8節
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章16節
4)私はキリストの十字架の死が私の罪のためであったと個人的に信じなければなりません。
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。
」
新改訳聖書 ローマ人への手紙10章13節
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章12節
二年後にジョン・ニュートンは十代の女性と結婚しました。
また、彼は後に14年間、聖書を勉強し、39歳でイギリスのオルニーの地にて牧師になったことが伝えられています。
1779年に教会聖歌集である「オルニー聖歌集」(The
Olney Hymns)を発刊し、その中の281曲が彼の作品でした。
その中に「アメージング・グレース」が含まれています。
そのなじみやすいメロディーを持つこの曲は、1831年にアメリカの伝統的なメロディーとして発刊されました。
あなたがこの美しいメロディーを持つ「アメージング・グレース」を聞くときに、ジョン・ニュートンと同じ救いを経験すべきことを知ってください。
実際に、あなたはそれを得ることができるのです。
このトラクトには聖書の箇所が記されています。
その箇所を読み返してください。
そして、あなたは神の前にへりくだり、キリストがあなたの心の中に来てくださることを信じ、あなたの救い主として受け入れてください。
Amazing Grace!---驚くばかりの恵み
(意味を強調するために直訳です。)
「なんとすばらしい響きではないでしょうか!
私のような惨めな者を救いとは...。
私はかつて失われていましたが、今は見つけました。
かつて、私は盲目でしたが、今は見えています。
恵みは私のこころに恐れを教え、恵みは私の恐れを和らげます。
恵みが現れたことはなんという恵みでしょうか!
最初、私は信じた時に、私には多くの危険が、労苦と罠が訪れました。
恵みはこれらから私を遠ざけ、恵みは私を私の家へと導きました。」
ジョン・ニュートンは1807年に82歳で天に召されました。
彼は死ぬ前に、遺言として大理石の墓石の石面にこのように書くように命じました。
「ジョン・ニュートン牧師は、かつては不信仰な者であり、放蕩者でした。
アフリカにおいては奴隷の使用人でした。
しかし、主であり、救い主であるイエスキリストの豊かな恵みによって守られ、回復され、赦され、その者が滅ぼして尽くそうと思った信仰によってキリストを宣ベ伝える者とされたのです
もし、あなたがこのトラクトを読み、個人的な救い主としてキリストに信頼を寄せるのならば、ぜひ、あなたに教会へと足を向けて欲しいのです。
たとえ、そうでなくても、私たちはあなたをこころから歓迎します。