メッセージ1 1999/12/8
天へのあこがれ
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
コリント人への手紙 第二 5章1節
私たちが未信者にこの福音を宣べ伝える時、地獄を強調します。
それは決して入ってはいけない場所であるからです。
そしてイエスキリストを信じる信仰により私たちはその魂が救われたことを知るでしょう。
それは私たちクリスチャンが経験してきた道であり、私たちはその喜びを十分に知っています。
もし、私たちがその地獄からの救いのみを基準として歩んでいるのであればそれは冷めてきます。
その基準だけで歩んでいる人が冷めてくるのは、その人が霊的に歩んでいない証拠だと言いますがそれだけではなく。やがて冷めてくることを経験するでしょう。
イエスキリスト信じたばかりの時は非常に喜んでいるのかですが、時間がたつと斬新さがなくなり、冷めてきた結果、律法的なり、分裂がおきてくるでしょう。
そしてその律法的な状態を恵みと呼んでみたり、世俗的でありながらそれを隠し二重生活を始めます。
表面的には祈りとか、交わりとかを強調しますが価値観が根本的に違うのです。
またすぐに新しい教えに心を奪われてしまうのです。
その新しい刺激とはこの地上でいかに充実した生活を送れるかまた、この地上でクリスチャンらしい生活をすることが中心になるでしょう。
(私はこの2000年間のクリスチャンの歴史というものを読みますが、現在でいうクリスチャンらしい生活を送ったものは少ないことに気がつきます。彼らは迫害され、飢え、乾き、寝る場所もなかったのです。)
刺激としては偽の教えと言うものがあるのではないでしょうか。
最近は宗教人口が少なくなってきているといわれます。
しかし、密室的な体験をするオカルト人口は明らかに増えています。
私は最近ある事情があってアメリカのクリスチャンのホームページをよく見ることがあります。
そこでは現在騒がれているのは、エホバの証人でも、モルモン教でも、統一協会でもありません。
フリーメーソンと言われるオカルトです。
これは最高の刺激です。(これを攻撃するのも、入るのも。)
この内容については時間があったらしたいと思いますが、すでに日本に入ってきていて次に多くのクリスチャンを食い物にするでしょう。
ではクリスチャンが喜んで希望を持って歩むということはどういうことでしょうか。
それは天国に希望を置いて歩むということです。
天国にあこがれて入りたいという思いこがれることです。
私たちはイエスキリストを信じた瞬間に新しく生まれるという喜びを経験します。
「新しく生まれる」という経験は一度だけですので、それ以降は「新しい命の中に生きる」という中に生きて行くのです。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
ローマ人への手紙 6章10節
ですからこれは地獄からの救い、天国に入れる望みとは違います。
天国にあこがれ続けて(神に対して)歩むということです。
実際、多くの方々が地獄から救われることのみを強調して、天国に入れるという喜びを薄くしているいるのではないでしょうか。
それはこの地上で安住しきっている結果かもしれません。
また、安住しきっている結果として「死がいつ訪れるか解らない」ということを頭の中から取り除いて、死は年をとって始めてくるものと感じているのかもしれません。
ですから、クリスチャン生活において、地獄から救われた、老後にくる人間の死のみを強調しているのであれば、当然の結果としてこの地上でどのように過ごすかがテーマになってきます。
この天国民がこの地上でどのように歩めばいいのかがテーマになってしまいますので「カウンセリング」や「デボーション」と言われる特殊な方法に頼らなければならなくなってしまうのです。
特に「カウンセリング」は最悪です。
カウンセリングの主題はその人の精神的な状態をいかに克服させるかがテーマになってきますがその方法は「人間にいかに信頼を置かせるかです。」
私たちはすべての問題を解決することのできる神にのみ信頼を持たせるべきはのです。
カウンセリング自身は人間の作った方法です。実際、重度の精神病院ではカウンセリングなど使ってません。
また、カウンセリングを行っている人たちは非常に自信があります。神様に信頼しようとしているクリスチャンがカウンセリングを受けるとそれは苦痛です。
彼らは「やめてくれ」と言っていいるのにしつこくそれを行います。
それほどカウンセリングに信仰を置いているのです。
また、デボーションというものに固執していることもあります。
日本では明らかにデボーションを主張している派があります。
私個人はそのような特殊な方法、手段にてデボーションを実行することは教えませんし、そのような派を支持する気もありません。
ではもう一度読んでみて天に希望を置くとはどのようなことか見てみましょう。
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
コリント人への手紙 第二 5章1節
聖書には天国の風景は地獄の様子よりも深く書いてはありません。
天国が文章や人間の理解範囲ではないほど素晴らしい場所なので多くは書かれていないと考えています。(人間に与えられた最高の場所だと考えています。
描かれているのは黙示録の後半ぐらいでしょうか。
その中で天国は「もはや悲しみも苦しみもない場所」として描かれています。
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
黙示録21章1〜4節
この地上では問題がどんどん来ます。
神様はそのたびに私たちを導き守ってくださいます。
しかし、問題はもっともっと来ます。
終わることはありません。
しかし天国では私たちはそれらの問題から全て解放されます。
私たちの救い主イエスキリストが私たちのこの地上の苦しみの涙をすべて拭き取ってくれます。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイによる福音書 11章28〜30節
ここで書かれている「休ませる」という言葉はギリシャ語で「アナパウオー」という言葉が使われてます。これは永久的な休みを示していません。
一時休暇です。それは高速道路であるパーキングみたいなもので最終目的地に行くまでの一時的な休憩場所でしかないのです。
私たちはこの地上で問題が起きたときにイエスキリストにこの問題の解決をお願いします。
イエスキリストは私たちに問題の解決を与えてくれます。
しかし、問題は尽きることがありません。
もし私たちが地獄からの救いのみを心に留めているのであればその人の中には喜びはないのです。
最終目的地の天国に入れるという期待を胸に秘めて歩むべきだと聖書は教えているのです。
もちろん、教会の中においても一致は見出されないでしょう。
あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。
コロサイ人への手紙 3章2〜4節
ここではイエスキリストの再臨について語っています。
ある人に私たちの希望はイエスキリストの再臨にあるというと「そんなに急ぐことはありませんよ」とかへそを曲げたりする人もいますが私たちは天国に希望を置いて、それも老後に来るものではなく目の前の出来事として私たちは歩む必要性があるのです。
それがクリスチャンが地上で喜んで生きるということです。
ローマ時代カタコンベといわれる。墓地の中に穴を掘ってクリスチャンたちが隠れ通したという歴史があります。
歴史は語っています。彼らはすぐにメシヤが私たちを救いに来てくださるという信仰を持ち続けた。
彼らは再臨に希望をおいたからこそ耐え抜いたのです。
その他の時代の迫害されてきたクリスチャンたちの歴史には必ず同じことが記されています。
ヨハネもパウロも同じです。
ですから、この地上で天国に希望をおかずに喜んでいると言っているクリスチャンには私は疑問をおきます。
実際、「喜んで喜んでいる」と言いながら、実際は「喜んでいなかった」といって教会から離れた人たちを私は知っています。
毎日毎日、文句を言いながら人前だけ「喜んでいる」という人も知っています。
イエスキリストは近いのです。
私たちの救いも近いのです。
クリスチャンはイエスキリストを信じた時に喜びを知ります。
しかし、大人になっていく過程においてそれを忘れてしまうことがあります。
もちろん、私たちはその喜びさえも心に留めておく必要性があるのですが、私たちは大人の喜びを知るべきなのです。
古いものを脱ぎたいと思うのではなく、新しいものを着たいなのです。
ぜひ覚えていきたいと思います。
最後に神様の私たちへのすすめです。
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
マタイによる福音書 6章33節
私たちは何を戸惑っているのでしょうか。
神の国を求めていきたいと思います。