メッセージ10 2001/6/9
選びについて


1、選びを正しく理解する必要性

奉仕に対して

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、...」

新改訳聖書 エペソ人への手紙4章11〜12節

ある時、私はこの箇所からのある教会のメッセージを聞きました。
その教会は過去においては聖書から正しく、「クリスチャンはすべての者が兵士であり、悪魔に対して勝利を得るために戦いに行くべき」だと語っておりました。

「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。」
新改訳聖書 テモテへの手紙第二2章3節

「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一5章19節

「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一5章4節

私たちは信仰によって悪魔に勝利し、滅びへと向かっている悪魔の虜を戦利品として得るための戦いへ行く必要があるのです。
そして、「罪と罪過の中に死んでいる者たち」を、神の子供として生かし、神の栄光のために歩ませることができるのです。
悪魔はクリスチャンを誘惑し、気落ちさせ、まず戦いへ行かないように仕向けるのです。
なぜなら、クリスチャンが信仰を持って戦いに行けば、悪魔は敗北し、クリスチャンは勝利を得るからです。
そして、クリスチャンは救われたたましいという戦利品を得るのです。

「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」
新改訳聖書 ペテロへの手紙第二5章9節

しかし、ある時、過去に語っていたこのようなメッセージを先のエペソ人への手紙4章11〜12節からすべてのクリスチャンが兵士であることを否定するようなことを言い出したのです。

「神は選びによってそれぞれ牧師や伝道者を立てました。
ですから、何か賜物を得ようとすることは不信仰です。
クリスチャンすべては、これが立てられた人に無条件に服従すべきです。」

私の知るその教会の牧師は毎週のごとく、そのことを語り続けました。
「賜物!賜物!、牧師に従え、従え!」
他の聖書にある重要な真理が置き去りにされていたように思われました。
その教会が後に聖書の真理から外れてしまったことは言うまでもありません。

ある人が教会に来てイエスキリストを救い主としてして信じたとしましょう。
そして、幼い子供たちのたましいに興味を持ち、日曜学校に参加します。
それから後、その人は日曜学校の教師を目指します。
しかし、この理論からいえばそれは不信仰です。

私はそれから、このメッセンジャーがいう賜物が何かを知るために他のメッセージも聞いてみることにしました。
どうも、奉仕者の賜物は見ていればわかるとのことです.
教会の利益になるものが賜物であり、不利益なものが賜物ではないとのことです。
(ある意味、これは正しいことだと思います。)
しかし、ある牧師がいたとしましょう。
この者は信じたその瞬間から牧師だったのでしょうか?
教会の権限はすべて個人である牧師あるでしょうか?

ですから、その理論に従っている者たちは進んで奉仕に参加することはありません。
特に、伝道、フォローについては一部の人たちの特権だと信じ込んでいますから、進んで動くこと(賜物を得ようとすること)を悪だと理解しているようです。

教会に新しい人が来たとしましょう。
誰も進んであいさつをしようともしないし、話しかけようともしません。
その人たちは自分に人に伝道するという賜物があるか、ないか確信がないからです。
それどころか、人に話しかけ、自分が不信仰になることを恐れているからです。
確かに、賜物があると言われている人たちからチラシ配りに行こうといえば、それに従います。
しかし、その賜物があると言われてる人たちに従うことだけを求め、常に人間を恐れています。
そのように実践を否定するような環境にいれば、クリスチャンもすぐに否定的な歩みになり、妥協的になるでしょう。
彼らはみことばを部分的に持ってきて都合よく解釈してます。
その結果、実際に多くの者が悪魔に対して戦うことをやめています。

もちろん私は、ここで教会の秩序ということを論じているのではありません。
もちろん教会の秩序という面に関してはその立てられた人たちに従うべきです。
立てられた人は教会の秩序を意識して、監督してゆくべきです。
しかし、個人的な神様との交わり抜きに神の教会は成り立ちません。

「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。」
新改訳聖書 コリントへの手紙第一14章30節

そして、私は次のみことばにこころをとめてもらいたいのです。

「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」
新改訳聖書 コリントへの手紙第一12章31節

明らかにこのようなメッセージに対して矛盾したみことばがあります。
これは原則であり、真実です。
聖書に立とうとするのであれば、ぜひ、すぐれた賜物を熱心に求める者でありますように...。


救いに対して

私は過去に教会に何回か足を運んだことがある求道者の方とお話しをしたことがあります。
その人は、たましいの救いである福音を理解してくださいましたが、どうも最後にその決心がつかないようです。
信じたいという意思がありながら、どうも、「私は選ばれていないから」と、言って逃げています。
誰かが、うかつにも、その求道者に「選ばれている人たちだけが救われる」と語ったようです。

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙1章4節

確かにこのみことばは真実です。
しかし、私がいつもながら語ることですが。
新約聖書の手紙はすべてイエスキリストを救い主と信じたクリスチャンに書かれたものであり、その観点から見なければ大きな間違いを犯すことになります。
(もちろん、救われていない者がこの手紙を読んで理解してはいけないということを言っているのではありません。)
聖書の何処にも、「あなたは選ばれていないから救われない」という表現はなく、逆に次のように言われています。

「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

新改訳聖書 ローマへの手紙3章22〜24節

すべての人は罪を犯したのです。
つまり、このみことばの上では、すべての人が選ばれていないのです。
しかし、何の差別もなく「キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
ここに「私は選ばれていないから」という言い訳があるでしょうか。
ありません。
もし、自分が神の目の前に罪人であり、失われ、永遠の滅びへと向かう者であることがわかるなら、あなたは素直に「価なしに義と認められる」ために主イエスを自分の救い主として信じるべきです。

いくつかのことを書いてみたのですが、実際にこの「選び」ということを正しく理解していないゆえに、大きな混乱が起きています。
ある教会では、選ばれたというひとりの教会指導者が原因になり、実際に教会が分裂するということをよく聞きます。
確かに本物と偽物は明らかにされるために、分裂が起きることもやむをえないでしょう。
また、本物が偽者に惑わされて分裂が起きることもあるでしょう。
しかし、聖書に立ち返った時、その原因がはっきりすることもあるのです。

そして何よりも、否定的なこと言うよりも、その「選び」を知ることにより、クリスチャンの職務、恵み、責任(立場)をより理解し、感謝することができます。


2、神の目的のゆえに「選び」"eklogh""aforizw "

「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」

新改訳聖書 使徒の働き9章15節

"eklogh"--「エクロゲー」--神のみこころによる、特別な選び。
神の知恵により、計画性がある。

「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」
新改訳聖書 ローマへの手紙1章1節

"aforizw "--「アフォリゾー」--囲いを設けて分ける。
分離する、聖別する。

この上記の2つの適用はパウロ個人に対して、使われています。
パウロは神の知恵により、異邦人、王たち、イスラエルの子孫、及び、福音のために召されたことを示しています。
では、パウロとはどのような人物だったのでしょう。
彼はまず、パリサイ人であり、聖書のみことばを学んでいました。

「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。」
新改訳聖書 使徒の働き23章16節

また、その熱心は教会を迫害したほどです。

「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」

新改訳聖書 ピリピ人への手紙3章5〜6節

聖書を完成させるに至っては、無秩序に文字を「られつ」するようなことをせずに、解き明かす者を使ったのです。
もちろん、すべての聖書の著作者は神です。
しかし、神はパウロ、ヨハネ、ヤコブなどの新約著者を通して、聖書を書かれました。
新約著者個人の性格、知恵を使ったのです。
ローマ人への手紙、コロサイ人への手紙、ヘブル人への手紙を見ると哲学、律法などの特定の知識が強調されているものがあります。
誰が適していたでしょうか。
簡単です。哲学を学び、律法を学んだ者です。
神はクリスチャンを迫害していたパウロを選んだのです。(分けられたのです)
これには神の知恵が反映されています。

「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」
新改訳聖書 ローマへの手紙11章33節

神はパウロがイエスを救い主と認める前に学んできた知恵を用いたのです。
私たちは神に聖なるものを捧げる祭司です。

「聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一2章5節

ある人たちが言います。
未信者の聖別されていないものは捧げられない。
これは正しいことです。
ですから、未信者の献金は受け取れないし、未信者に奉仕をさせるわけはいかない。
ケース・バイ・ケースですが、これも正しいことです。
では具体例から先にあげてみましょう。
ある人が救いを受け入れていない時に、ピアノを習っていた。
ある日、主イエスキリストを個人的な救い主と信じ、その人は祭司としての立場を得ました。
では、未信者の時、学んでいたピアノを改心後、神のために教会の奏楽に用いるのは聖ではないものを捧げることにあり、神への冒涜なのでしょうか?

献金についても同じ事が言えます。
この世では、お金は人殺しの原因になることが多いようです。
この世の象徴であり、多くの者がお金のために生きています。
では、これを神に捧げてはいけないのでしょうか?
神のために聖別するのなら、捧げることができるのです。
この世に属するものではなく、神に属するものとして分けて捧げるのです。

聖という言葉の意味は「きれいにする」、「清潔にする」ではありません。
「分ける」、「分別」するという意味があります。
それを主のものとして捧げるのが献金、献品なのです。
神はこのようなお金さえも、聖いものとして取り扱うことができます。
ですから、私たちの死ぬべき体さえを主の側に聖くする(分ける)なら、その体を生かし主のために使うことが出来ます。

「キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
新改訳聖書 ローマへの手紙8章11節

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
新改訳聖書 ローマへの手紙12章1節

私たちの肉の死ぬべきからだは主に反抗し、時にはパウロのように「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫ぶことがあるかも知れません。
新改訳聖書 ローマへの手紙7章24節

しかし、生かす方は主です。
御霊によって、私たちは主に対して生きることが出来るのです。
ゆえに、私たちは聖く(世と分けて)歩むことが要求されています。

「ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」
新改訳聖書 テモテへの手紙第一2章21節

私たちは何をしようではなく、聖く歩むことを求めるべきなのです。
そして、それが神の私たちへのみこころです。

「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」
新改訳聖書 テサロニケへの手紙第一4章3節

正しく聖別されたものは主に受け取られます。
しかし、聖別されないものは受け取られることはありません。
それが、元は何であるかは、良心が痛まない限り大きな問題ではありません。

それは、キリストの完全な血によって、私たち自身は完全に聖くされた、聖なる祭司となったからです。

「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」
新改訳聖書 ヘブルへの手紙10章10節

「聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一2章5節

主題に戻りますが、パウロ個人は主により目的をもって、単独的に、聖別され、分けられ、選ばれたのです。
そして、神はこの福音の奥義を解き明かすのに、無秩序に誰でも良いからと無理な選びを行わいませんでした。
この福音の奥義はパウロ単独ではなく、他の多くの使徒たちにも知られていたことです。
しかし、福音の奥義を解き明かすのにふさわしいパウロを選んだのです。

「この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。」
新改訳聖書 エペソへの手紙3章5節

「これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。」
新改訳聖書 コロサイへの手紙1章26節

これが神の「選び」"eklogh"(選び)"aforizw "(選び分け)の目的でした。
もちろん、神の知恵がこれだけで説明できるものではないことが聖書によって明白となります。

同じような例がテモテへを適用されます。

「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」
新改訳聖書 テモテへの手紙第一1章33節

「預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。
これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。」

新改訳聖書 テモテへの手紙第一4章14、15節

この預言はテモテ個人へと与えられました。
テモテはエペソの教会を建て上げるためにそこに残されたのです。

「あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、
果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。」

新改訳聖書 テモテへの手紙第一1章3、4節

テモテは決して地方教会(キリストのからだ)の構成員(賜物)となるために召されたのではありません。
ただ、教会を建て上げるためにテモテ個人がそこに選ばれたのです。

同じ牧会書簡である、テモテへの手紙おいても同じ事が言えます。

「私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。」
新改訳聖書 テトスへの手紙1章5節

テトス個人が地方教会を建て上げるために任命されたのです。

そして、テモテ、テトス個人への選び(職務)は地方教会のからだの中に立てられた賜物とは別です。
つまり、職務上という観点からみればこの二人はこの地方教会の職務には含まれず、地方教会のために召されたのです。
(このことについては別記します。)

このように神は特別な選びを教会の賜物とは別に、もしくは教会を建てあげるために、働きを起こされることがありますが、それは単独的であり、教会としての働きとして見るよりも、個人的です。

パウロ自身もこのように言っています。

「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。」
新改訳聖書 コロサイへの手紙1章25節


3、教会の秩序のための選び「立てる、任命する」"tiyhmi"

「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」
新改訳聖書 コリントへの手紙第一12章28節

"tiyhmi"--「テセーミ」--権威をもって、立てる、任命する。

神は教会の中に順番をもって賜物をお与えになりました。
「第一に使徒、次に預言者、次に...」と書いてある通りです。
それはキリストのからだである教会を立て上げるためです。

では最初にキリストのからだとは何かについて語る必要があります。

「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

新改訳聖書 エペソへの手紙1章23節

つまり、キリストのからだとは教会です。
教会という言葉の意味は
"ekklhvia"--「エクレーシア」--召されたものの集まりを示しています。
つまり、イエスキリストを個人的な救い主として信じたすべての者の集まりを指しています。

ここでいう教会は単数形であり、それぞれの場所にある教会、集まりを指していません。
つまり、建物でも、教派でもなく、すべての信者はそのキリストのからだ、教会に救われた時に、バプテスマされたのです。(浸される、一つになる)

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」
新改訳聖書 ローマへの手紙6章3節

「キリスト・イエスにつくバプテスマ」---"ebaptisyhmen eiv criston ihsoun"--直訳「イエスキリストの中にバプテスマされた。」

「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」
新改訳聖書 ガラテアへの手紙3章27節

「バプテスマを受けてキリストにつく者と」---" eiv criston ebaptisyhte"--直訳「キリストの中にバプテスマされた。」

そして、そのことをよく表しているのが次の箇所です。

「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
私たちはキリストのからだの部分だからです。
「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」

新改訳聖書 エペソへの手紙5章22〜32節

キリストと教会という関係が夫婦に表されています。
これはすべて、単数形の教会であり、その祝福です。

キリストは教会を自分の身のように愛しています。
それは、キリストが教会のために命を捨てたことに表れています。
何よりも驚くことに、すべての権威を持つキリストを教会にお与えにお与えになったのです。
例えば、私にペンをくれるのなら、意味が通じるでしょう。
それは、ペンは私より価値のないものだからです。
では、私にアメリカ大統領をくれるといったらどうでしょうか?
下位の者に、とてつもなく上位の者が与えられるのです。
被造物に創造主が与えられるという表現は、驚くべき教会の祝福された立場を表しています。

そして、そのかしらはキリストです。

「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。」
新改訳聖書 エペソへの手紙5章23節

かしらとは何でしょう?
それは頭脳のある場所です。
それぞれの器官へと指令を出し、痛みを感じる場所です。
キリストは私たちの痛み、喜びをすべて知っておられ、まさに、教会の中心です。
現在、多くの教会のかしらが人間に入れ替わっています。
人間の教え、神学、権威が教会の中心になっているのではないでしょうか!
聖書から救いについて、もしくは摂理について説明し、あなたのような一般の信徒がそのような解釈をしてもよいのか(もちろん、解釈などしていません。)と、私はいままで、何回言われたことがあるでしょうか!
「誰々先生のメッセージは素晴らしい」と何回も繰り返しますが、一度として、聖書は素晴らしい。
神は素晴らしいという言葉が出てこないのはなぜでしょうか?

しかし、感謝すべきことに教会を通して、神の栄光を現してくださるのです。
「教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」
新改訳聖書 エペソへの手紙3章21節

次に複数形の教会について説明しなければなりません。
それぞれの地方に教会が置かれました。
例えば、エペソなら、エペソに教会が置かれ、コリントにはコリントに教会がそれぞれの場所に立っています。
そして、それぞれの教会が、単数形の教会同様にキリストのからだを表してゆくべきことが聖書によって勧められています。

「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一12章27〜28節

「そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」
――この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。
この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。――
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

新改訳聖書 エペソへの手紙4章8〜13節

明らかに、複数形の教会(地方教会)が、一つの単数形の教会(キリストの花嫁なる教会)と同じ扱いがされていることがわかります。
つまり、地方教会において、キリストのからだを建て上げることが、単数形のキリストのからだなる教会を表すことになるのです。

キリストはまず人となってこの地上に降りてくださりました。
つまり、「この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた」ということです。
そして、すべての人の罪のために十字架に架かり、その贖いを完成してくださいました。
キリストは多くの救われたたましいを捕虜として引き連れ、人々に賜物を分け与えられたのです。
つまり、十字架の贖いを基礎として、この教会が成り立ち、ゆえに教会の賜物(奉仕)が存在しているのです。

次に必要なことは「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった」ということです。
これは人間が定めたものではありません。
キリストご自身がその権威に従って、その人たちに信仰に働きかけ、立てたのです。"tiyhmi"

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙2章13節

どんな教会組織であっても、著名な牧師であって「立てる」権威を持っていません。
キリストご自身が持っているのです。
逆にどんな人間の権威であっても、それを否定することはできません。
キリストご自身が立てたからです。
ある人はその人の人格を見るでしょう。
また、他の人はその人の熟練さを見るでしょう。
しかし、感謝すべきことに聖書に登場している、多くの召された者たちは召されてから訓練されているのです。
アブラハム、ヤコブ、ダビテ、ヨハネ、ペテロ、パウロ、彼らは神に召されてから、神に従うように訓練されたのです。
私たちはそのことを忘れてはいけません。

「どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一1章11節

私たちは主に仕えるために、大胆により優れた賜物を求めるべきです。
「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第一12章31節

神は必ず、あなたの思いを実行してくださいます。
私たちのうちに働いて志を立てさせ、「はい、さよなら!」ということはありません。
必ず、事を行なわせてくださるのです。
実行してくさるのです。

しかし、次に注意すべき点があります。

1、賜物は教会の徳を高めるものです。

「あなたがたのばあいも同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一14章12節

2、教会には秩序が必要です。

「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一14章40節

3、教会のかしらはキリストです。

「また、御子はそのからだである教会のかしらです。」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙1章18節

教会内の出来事はキリストの知恵、判断が必要です。
つまり、聖霊を通して、祈りをもって、聖書のみことばに照らし合わせた判断が必要なのです。

4、立てられた賜物はすべて複数形であり、順番があります。

「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一12章28節

まず、賜物には順位があります。
これは権威の順番というよりは、教会の徳を高める順番なのです。
そして、この項目を見ると、現在の教会において、どのような奉仕が必要か?おそらく、かなりの賜物が必要ではなくなっているのではないでしょうか?
しかし、異言が最下位に置かれていることは、現在、異言を主張するする人たちはどのように言い訳をするのでしょうか?

「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」
新改訳聖書 エペソへの手紙4章11節

日本語では翻訳されない部分ですが、すべての賜物の種類が複数形です。
これは何を意味するのでしょうか?
これは明らかに一人の人によって、教会が支配されるべきではないことを表しているのです。
特に、伝道を始めた人間によって、その教会が支配されやすいのが現状ではないでしょうか?
その者が確かに信仰的であり、聖書を解き明かすのに素晴らしい賜物を持っていたとしても、その者が昇天されたり、もしくは最悪の場合、始めの愛から離れ、聖書の真理から離れた時、その教会は全滅します。
それは、教会員の一人一人が聖書に立って聖霊に導かれようとしているのではなく、単に目に見える人間の支配の下にいたということがありえるのです。

前章でも語ったことですが、パウロも、テモテも、テトスも、教会の中の働きというよりも、教会をサポートするために特別に選ばれた者なのです。
特別に教会の中に立てられた、責任牧師や、神父的な働きを持つ者は聖書では主張されていません。

とはいえ、私、個人としては、教会の秩序のために、そのような働きをする者が全く不必要であると主張したくありません。
しかし、要注意項目であることは間違いありません。

人間は間違いを犯す可能性があります。
ですから、これらの賜物を持つもの同士、お互いを認め、尊びあい、独断の権威を振ることのないように次のような勧めがあります。

「確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。
みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。
みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第一12章14〜30節

もし、私たちが肉にあってお互いを攻撃し始めたら、その教会の機能はどうなるでしょうか?
かしらなるキリストの判断はどこかに消えてしまうのではないでしょうか?
他の人の賜物を認めないということは、キリストのからだの機能を止めることです。
確かに、無秩序によって動くことは好ましくありません。
しかし、伝道や奉仕を否定するのなら(たとえ教理的には否定してなくても)、キリストのからだの働きはどうなるのでしょうか?
キリストのために戦いに行く兵士の息の根を止めることにはならないでしょうか?

それとも、私は教会の無秩序を言わんとしているのでしょうか?
集まりはするが、司会者も、メッセンジャーも、決まっておらず、無秩序に集会をするべきだと言っているのでしょうか?

確かにある者は、肉の働きによって、もしくは悪魔が教会の働きをつぶすために、教会の賜物(地位)を要求してくることがあるでしょう。
でも、その時、人間の判断によらず、賜物のある者たちが、互いに認め合い、互いに間違った歩みをしないように励ましあうのなら、かしらなるキリストに求めることが始めてできるのではないでしょうか!
それが人間の判断によらない、教会の政治であるはずです。

神が立てられたゆえに、お互いに認め合うこと、もしくは従うこと、これが「"tiyhmi"--「テセーミ」--権威をもって、立てる、任命する。」ということです。
これは神に立てられた権威です。
立てられた立場に順番がありますが、人間の権威を主張しているのではありません。
かしらなるキリストと、聖霊の働く場所を主張しているのです。
教会は神の働く場所です。
へそを曲げた一部の人たちの働く場所ではありません。

そして、何よりも立てられた者たち「責任」が要求されています。

「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、
酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、
自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。
――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。――
また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。」

新改訳聖書 テモテへの手紙第一3章2〜6節

「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章15節

教会については新約聖書の中でいろいろな方向から書かれているのは事実です。
時には、非常に痛いこともあります。
しかし、神の目的に耳を傾けて下さい。

「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
新改訳聖書 エペソへの手紙5章22節


4、神の救いについての「選び」"exelkw"

"exelkw"--「エクセェルコー」--多くのものの中から引っ張り出す。
先の"eklogh"に比べ、動作者の判断よりも、動作が強調されている。

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙1章4節

神は世界の基の置かれる前から、救われる者を選ばれていたということが宣言されています。
ここで使われている「選び」は"exelkw"です。
つまり、私たちは救われた者はえり好みというよりは、無秩序に選ばれたという表現の方が近いのです。
まるで、抽選箱の中に手を入れて、「当たりのくじ」を取り出すようなものです。
もちろん、神は全知全能ですから、そこに知恵がなかったとは言えません。
しかしながら、この表現を使っているということは、人間の側に何もよい点(利点)がなかったことを強調できるです。

前にも書きましたが、「自分は選ばれていないから信じることができない」と言われる方がいます。
なぜ、そのような判断をするのでしょうか?
何か、人間に救われるような利点があり、特にその人にそのような利点がないとでも思っているのでしょうか?
人間の側には何もないのです。
ゆえに、イエスキリストは私たちのために死なれたのです。

私たちが救われる理由(利点)はキリストの側にあるのです。
ですから、このような不敬虔が者が救われるのです。

「キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」
新改訳聖書 ローマへの手紙5章6節

また、救われるべきの者がいないことを神は宣言しています。

「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

新改訳聖書 ローマへの手紙3章10〜12節

これらのみことばだけを読むのであれば、誰も選ばれていないのです。
そして、神はすべての人の罪を責めています。

「ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。」
新改訳聖書 ローマへの手紙3章9節

神の恵みでなければ誰も救われないのです。
そして、その責めを人々には負わせないで、御子の十字架の上に負わせたのです。

「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一5章19節

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一2章24節

その十字架はすべての人のためでした。

「キリストがすべての人のために死なれた」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二5章15節

「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一5章20節

では、皆様にお聞きしたいのです。
キリストはすべての人のために死なれたのです。
これは事実です。
あなたの罪の赦しのためにも、死なれたのです。
では、あなたは選ばれていない、だから神を信じられない!
もしくは、信じることはできない!
このような理論が通じるでしょうか?
選ばれているから信じることができて、選ばれていないから信じることができないなら、神は神の和解を受け入れるように私たちを通して懇願するでしょうか?
ありえません。

今日、もし、あなたが罪を自覚し、その赦しの必要性を認めるのなら、キリストの十字架を信じるべきです。
キリストはあなたの罪の身代わりに死なれたのです。
もし、キリストを受け入れないのなら、あなたは「選ばれている、選ばれていない」と言って逃げているだけです。

では、なぜこの「選び」が聖書に何回も述べられているのでしょうか?
それは引用箇所を見れば容易にわかることです。

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙1章4節

「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一1章27節

他にもありますが、ここで使われている選びは"exelkw"です。
先にも述べたように「価値のない者が選ばれた」ということが強調されています。
つまり、恵みに対する感謝です。

その他の選びについての用途ですが、先ほどの"eklogh"(神のみこころによる、特別な選び)が多数のクリスチャンに対して使われていることがあります。

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」

新改訳聖書 ローマへの手紙8章32、33節

「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一1章14節

「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二1章10節

この選びは聖徒が神に選ばれているゆえに確信を持ちなさいとの勧めに使われています。

「神の賜物と召命とは変わることがありません。」
新改訳聖書 ローマへの手紙11章29節

これこそ神への確信なのです。

"eklektov"--エクレクトス--えり抜きの、特別に選ばれた、という「選び」があります。
これも"eklogh"と同様に選ばれているゆえの神への確信に使われています。

「神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ――私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。」
新改訳聖書 テトスへの手紙1章1節

「イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、
父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」

新改訳聖書 ペテロの手紙第一1章1、2節

どうでしょうか、エペソ人への手紙1章4節などの救いへの感謝以外の箇所では、すでに信じたクリスチャンの確信、動かされることのない立場について使われていることがわかるはずです。
神は全知全能であり、すべてをご存知です。
そして、すべてが神の計画の中を進み、それがクリスチャンの確信となるのです。

選ばれていないから救われないとの理論は成り立ちません。
新約聖書の書簡はすでに救いを受け入れたクリスチャン宛てに書かれたものです。
もちろん、神を求める者に対して無効ではありませんが、すべてがそのまま適応されるわけではありません。
もし、救いの必要性がわかるのなら、あなたは救いを受け入れるべきです。
神はあなたに救いを受け入れるように懇願しておられるからです。


5、結論

確かに、人知によって、すべての神の「選び」について語ることは不可能です。

「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」
新改訳聖書 ローマへの手紙11章33節

しかし、いままで述べてきた「選び」がすべてのクリスチャンに適応されることを覚えてください。
主はすべてを知っておられ、パウロのようにその人にしかできない職務を与え、選びます。
この選びによって「職務」が与えられます。
また、神はキリストのからだを建て上げるためにその人を立てるでしょう。
そこには教会の秩序を守る責任があります。
この選びは「責任」が与えられます。
そして、お互いに認め合い、従うのであればキリストのみたけまで成長するという特権に預かることができます。
また、すべてのクリスチャンは何の救われる価値もないのに選ばれたのです。
この選びによって「感謝」が生まれます。
また、歩みにおいて、神の計画が変わることのないゆえに「選び」によって確信が生まれます。

「主は誓い、そしてみこころを変えない。」
詩篇110編4節

あなたは神に選ばれました。
あなたにはあなたの職務があります。
あなたはキリストのからだの一部であり、神の権威によって立てられた責任があります。
あなたには救われるべき良い箇所がなく、恵みによって救われ、感謝があります。
あなたには歩みにおいて、確信があります。


あなたがこの選びを知った時、その歩みも確信に満ちたものとなりますように....。


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