メッセージ11 2001/7/13
律法と恵みについて


1章 歩みにおいて律法を求める肉

多くの著名なクリスチャンがこのテーマについて書いているので、あえて私が書くなどは思いませんでした。
でも、今日においてこの律法をクリスチャンに置き、適用させようとする人間の性質が存在することを知っています。
これは恵みの中に生きようとする私の中にも存在しているのです。

最近、教会にもうすぐ20歳になろうとする女性が訪れてきました。
彼女はクリスチャンです。(彼女は福音を告白しています。)
ところが、生活面においては語りきれないほどだらしないのです。
金銭の面、生活の面、交わりの面、特に教会の集会を守ろうとはしません。
なのに、集会外の交わりには顔を出し、自分をアピールする行為に出るのです。
彼女のクリスチャンとしての歩みは決して神の栄光を現すものではありません。
ある者たちは彼女と話をするのもいやになり、その者に注意を与えようと声を掛けました。
しかし、人間の肉は彼女に与えられた素晴らしい立場というよりは「〜をしなさい」、「〜であるべきだ」という言葉しか出てこないのです。
もちろん、彼女が救われているとの前提です。
この私の肉は彼女の歩みの責任を彼女の中に見つけようとしているのです。
自分が恵みの中にいることを忘れ、他人には「自分で歩け」なのです。
悲しきながら、私の中にも律法の種があり、私自身は御言葉によって修正されていかなければならないのです。
そして、この律法に傾きやすい多くの人間は、聖書の恵みに満ちた教えを理解しようとせずに、律法を教え続けているのです。

「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章12節

また、神は彼女を「神の子」として選びました。
感謝することに「選び」とは選んだ側に責任があります。

「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙1章4節

「御前で聖く、傷のない者にしよう」とされたのは誰でしょうか?
あなたですか?それとも私自身でしょうか?
それとも、あなたの牧師でしょうか?
いいえ、神ご自身です。

神は私たちの歩みの力を私たちには置かずに神御自身が負っています。
私たちに与えられた聖霊が私たちの力なのです。
これはクリスチャンにとってとても大切なことです。
しかし、ある人たちが言うでしょう。
「では、何をやってもいいんだ」ということになってしまう。
(聖書を読んでいる者なら、すぐに私が何処の箇所から語ろうとしているのか判ると思います。
しかし、驚くべきことに聖書の教職についている者たちがこの質問をしてくるのです。)

「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙6章15節

多くに牧会者、もしくは聖書を読んでいるはずの者たちが同じ質問をし、恵みを否定してきます。
「罪を犯すクリスチャンには戒めて歩ませるべきだ!」
これは神の子としての戒め(個人的)としては正しいことです。
しかし、結果が違うのです。
クリスチャンに律法を適応しさせよう。
このようにして聖霊の働きを否定します。
神は私たちの人生の最後まで、導き通せる方です。


2章 救いが恵みならば

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙2章8、9節

救いが恵み(与えられるもの)であることは強調しすぎて、強調しすぎたということはありません。
ある女性の方にキリストの福音を伝道していた時のことです。
「なぜ、神はキリストの十字架が私の罪のために死なれたという、単純なことを信じるだけで救われるということを定められたのですか?
もっと、難しいことを求められたのなら、人間は喜んでそれをするんじゃないのですか?
そして、確信をもって喜ぶじゃないのですか?」
まさにナアマン将軍のように単純に信じることに疑問を抱いたのです。
(第二列王記5章)
私はこのように答えました。
「神は信仰を求めています。
あなたは信用する人の言葉に従います。
もし、あなたの信用する人が「何かをしたら、永遠の命が与えられます」と言ったらそれをするでしょう。
神はあなたに永遠の命を与えたいのです。
ですから、もっとも簡単な方法を示したのです。
そして、もし、そのもっとも単純なことをあなたがするのなら、そのことにより、あなたが神を信用しているかがはっきりするのです。」

神は私たちに言っています。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章16節
ここに「信じる者が---永遠の命を持つ」と書いてあります。
あなたはこの御言葉を受け取りましたか?
その通りだと信じましたか?
この約束は取り消されることはありません。
この約束の条件は「信じる」だけです。
ここで私が「どのような者であるか、過去にどんなことをしたか、もしくはこれからどんな罪を犯すか」などの条件はまったく含まれていません。
ただ、「信じる」だけなのです。

これはクリスチャンの基礎です。
ある人に「聖書を読んでいると信じるだけで救われないと書いてあるという箇所がある。」
もしくは「信じたいっても、救いをなくすと聖書に書いてある」との質問を受けたことがあります。
一つの箇所から、多くの教理を作らないで下さい。
私はこのような人が何処の箇所からこのようなことを言っているのか推測できます。
しかし、神は聖書の中で矛盾していることを言っているのでしょうか。
片面においては「信じるだけ」、そしてもう片面においては「行ないも必要」、神はそのようなことをなさるでしょうか?
神は私たちを惑わしているのでしょうか?
もし、そのようなことを考えているのであれば信仰とは何なのでしょうか?
私たちはあいまいな証言を信じているのでしょうか?
確かに、聖書を読んでゆくのなら、わからないこともあるでしょう。
理解しにくいところもあるかもしれません。
しかし、神の御言葉は完全です。
注意深く読んでゆくのなら、そのような矛盾が解けるはずです。
神は私たちを信じるだけの信仰によって、救われたのです。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙10章9節


3章 ほかの福音

「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。
ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。
しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」

新改訳聖書 ガラテア人への手紙1章6〜9節

この箇所でパウロは別の福音について語っています。
つまり、看板は福音と書いてあります。
しかし、中身が違うのです。
ある人が教会の牧会者に「これは神のみことばです」と紹介されます。
しかし、「中身は悪魔のことばであり。それを実行しても天国に入れない」ということがありえるからです。

「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二11章14節

救いと言う面において、いくつかの実例を挙げて見ましょう。

現在の傾向としては、キリストとの働きとは無関係な福音です。
律法というテーマから離れてしまいますが、律法主義より悪いものです。
ある教会において(非常にたくさん)、死後における神の裁きについて語られません。
それらの教会は確かに天国に語るようですが、死後の行き先を語るよりも現在をいかに充実して歩むかが教会のテーマになっているようです。
山上の垂訓でイエスは何と言ったでしょうか。

「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」

新改訳聖書 マタイの福音書5章29、30節

この箇所は何を教えているのでしょうか?
間違ってもゲヘナ(神の裁き)に入ってはいけないということを教えていないでしょうか?
神を知らない者たちへの聖書の主要テーマは地獄に入ってはいけないということです。
私は地獄を語らないクリスチャンに質問します。
「あなたはイエスキリストがあなたの罪のために十字架の死なれたことを信じていますか?」
彼らは「信じています」と答えます。
教会にいる者たちは彼らがクリスチャンとして救われている者として受け入れようとします。
そして、その証しを聞きます。
「私はイエスキリストを信じるまで、自分には悪い思いがあって、心が咎めていました。
でも、今は私の罪が赦され、今私の心には咎める思いがありません。
私は明るく人生を過ごすことが出来るようになったのです。」
そして、彼らに尋ねます。
「では、あなたは神の前にある現実問題として、罪のゆえの裁きから救われ、罪赦され天国に入れる者となったのですね。」
すると彼らは「私の教会では、裁きなど語っていませんでした。それよりも罪赦されて生きる思いが必要なのです。」
つまり、彼らは「罪の赦し」が「神の前にある現実」として信じていないのです。
罪とは神に対する罪です。
決して自分の心に対するものだけではありません。
神は罪ある者を処罰され、地獄に落とされます。
すると彼らの中には「愛なる神様がそのようなことをなさるなんて信じられません」と答える者もいるでしょう。
しかし、神の愛は十分すぎるほど十字架に示され、それを受け取ることが要求されています。
彼らは現実にはキリストの完成された十字架の働きが罪の赦しを与えることを信じていません。
キリストの福音が単なる「精神剤」にしかなっていないのです。
キリスト教の看板を挙げていますが、彼らは救われていません。

次は律法主義です。

「人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」
新改訳聖書 ヤコブの手紙2章24節

この箇所から「クリスチャンは十字架の御業を信じるだけではだめだ!
行いがなければ救われない!」、もしくは「救いをなくすことがある。」と説く人たちがいます。
特にこの行いを旧約にある律法と結びつけ、律法を行わなければならないと主張します。
ですから、教会の中に十戒があちこちに貼られ、メッセージでは呪いが語られます。
しかし、彼らは非常に熱心です。(私はこの点においては非難できません。しかし、力の源が正しくないということがあります。)

では、そのような人たちに尋ねて見ましょう。
「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙2章16節

ここに「律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」と断言されています。
これは旧約のイスラエルから共通して言えることなのです。
旧約の時代においても、律法によって義とされ、救われたものはいないのです。
それどころかこの律法は呪いをもたらすと宣言しています。

「律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙3章10節

つまり、律法を行うのなら祝福があるかも知れません。
でも、律法を一つでも破るのなら、律法全体を破ることになります。
聖書は律法の行いによっては誰も義と認められず、そこにのろいがあると言っているのです。
律法は救いに至るところか、のろいに導くのです。
私たちは「律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」のです。

「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙1章14節

そして、この罪の赦しは完全です。
行いや律法を入れる隙間がありません。
「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章25節

キリストの御業は完成されています。
その御業によって救われているのです。
そこに何かを付け加えることはキリストの御業に対する冒涜です。

次にクリスチャンの立場(歩み)について考えて見ましょう。

クリスチャンがもし、律法によって歩まなければならないのならクリスチャンはのろいの下にあるのでしょうか?
つまり、主イエスを信じ、神の子供された者がのろいの下にあるのでしょうか?
絶対にそんなことはありません。

「罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙6章14節

もう一度復習します。
恵みとは何でしょうか?
恵みとは「無条件に与える」ということという意味があります。
私たち罪人は与えられる立場にはいませんでした。
しかし、主イエスを私の個人的な救い主として信じた今は、私たちは神の子供とされたのです。

「私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章1節

そして、私たちは神を御父とする新しい関係が与えられたのです。
これからは律法の下で使用人のように働くのでありません。
神という社長の持つ会社の社員として、報酬を気にしてがむしゃらに働くのではなく、神を御父として子供の立場が与えられたのです。
御父との関係は律法を基準とするのろいの関係ではありません。
ですからパウロはこのように言っています。

「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章15節

ですから、クリスチャンになってからも、私たちは律法によって戒められて生きるのではありません。
神を御父として、聖霊に導かれて歩むのです。
また、御父は子供を叱ったり、喜んだりします。
イエスもこのように言っています。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章26節

では先に書いたヤコブの手紙2章24節には何が書いてあったのでしょうか?
必ずいうことなのですか、聖書は前後関係を正しく読まなければなりません。
悲しいことに、聖書を語る著名な者たちの書いた文章が、驚くべきことにこの単純なことを忘れているのです。
どのように彼らは中学生レベルの国語のテストに受かったのでしょうか?

「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」
あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。
あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、
そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
「人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」

新改訳聖書 ヤコブの手紙2章14〜24節

信仰は神のみことばを信じることを言います。
それだけです。
例えば、私が「あなたの住む家が30分後に壊れます。
あなたはそこから逃げなさい」と言ったとしましょう。
もし、あなたが私のことばを信じるのなら、あなたはその家から逃げるはずです。
もし、信じているのなら行動が伴うはずです。
神が生きておられ、私たちの心の中すべてを知っておられると信じているでしょうか?
では、あなたの行いはそのようになるはずです。


4章 新生

今も、説明してきたように、わたしたちは律法という関係によって歩んでいるのではありません。
御父と子供という関係において、歩んでいるのです。
私たちは主イエスを救い主として信じた時、古い私たちは(罪に、律法に、悪魔に対して)死に、今はイエスにあって新しく生きる者とされたと聖書によって宣言されています。

「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙6章8節

「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙6章11節

このように聖書は私たちが主イエスを個人的な救い主と信じ、受け入れた時に新しく生まれ、神に仕えることを喜びとする新しい性質を持ったことが知るされています。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙1章3節

あなたは神に逆らい、絶望的な者でありながら、今は神に従い、生ける望みを持つものとされたのです。
これは私たちの努力ではありません。
神の行為です。
「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって」なされた神の御業です。

イエスはニコデモに言いました。

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章3節

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書3章5、6節

ここで言われている「水」とは御言葉を指しています。
バプテスマを指していません。
このニコデモとの会話は十字架以前であり、クリスチャンに対して言われた「キリストの死にあずかるバプテスマ」ではないからです。(ローマ人への手紙6章4節)
この箇所をバプテスマと解釈し、「バプテスマを受けなければ救われない、教会員になれない」と言う人たちがいますがそれは間違いです。
聖書は水を神の御言葉として、使っている箇所が複数あります。

コリントの教会に対して
「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
新改訳聖書 コリント人への手紙第一3章6節

「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、...。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙5章6節

新生について聖霊を通してヨハネも同じ事を言っています。

「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一5章1節

ここにイエスを信じる者の性質が書かれています。
私たちの内なる人の性質です。
私たちの外なる人は年老いて衰いてゆくでしょう。
しかし、内なる人は日々成長し、日々新たにされるのです。

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二 4章16節

信じる前の私たちは神に逆らう者であり、偶像崇拝者です。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙2章1、2節

神に従うどころか、逆らい、裁かれるものだったのです。
しかし、今は感謝すべきことに「生んでくださった方を愛する者」とされたのです。
これはすべてのクリスチャンの中に見つけられることであり、事実です。
もし、これは何年たってもクリスチャンの中に見つけることができないのなら、まずその人の信仰から疑って見るべきです。
ここにあなたという個人の性質の変化がなかったでしょうか?
あるはずです。
あなたは喜んで主に仕えたいという願望が与えられました。
神は速やかにそれをお与えになるでしょう?

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

新改訳聖書 マタイの福音書7章7〜11節

ですから、新しく生まれた内なる人にとっては、主に従うことは喜びとなるはずなのです。
そこには律法による罰則における呪いはありません。

しかし、クリスチャンの中には神に従いたくないという性質「肉」があります。
これは古い外なる私たちの性質であり、新しい命を持った今でも私たちの中にこの肉と新しい命が同居しているのです。

パウロは主イエスを信じた後、このように叫んでいます。

「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙7章19節

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙7章24節

パウロは神に仕えようと思いました。
しかし、肉が邪魔をするのです。
それも、良き物である「律法」がこの肉に反応するのです。

「それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。

新改訳聖書 ローマ人への手紙7章10、11節

このパウロは律法は良きものであることを十分に理解していたはずです。
パウロも主イエスを信じ、新しく生まれました。
神に従おうと願いました。
しかし、パウロの肉には神に従う力がなかったのです。
この戒めがパウロの神に従おうとするからだを殺したのです。

まさにイエス御自身が次のたとえをもって語っている通りです。

「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。
新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。」

新改訳聖書 ルカによる福音書 5章37〜38節

まさにパウロは裂かれそうな思いだったのです。
もし、パウロが新しく生まれていないのであれば、このような葛藤が起こるはずがないのです。
しかし、パウロの中にある、新しいぶどう酒は、古い皮袋との間に、このような葛藤を生んでいたのです。

ですから、パウロはその後、このように言っています。

「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙 8章10〜11節

ここでは、古い皮袋のことを「死ぬべきからだ」と呼んでいます。
私たち、空中再臨にて天に引き上げられる者以外の者は、「死ぬべき」なのです。
そして、天に引き上げられる者であっても、現在「死ぬべきからだ」を持っているのです。
「死ぬべきからだ」に何かの可能性を見つけることができるでしょうか?
「死ぬべきからだ」を神に捧げることが出来るでしょうか?
出来ません。
しかし、「死ぬべきからだ」を生かす方がいます。
それは神です。
私たちの「死ぬべきからだ」を御霊によって生かすことが出来るのです。
神のために用いることができるのです。
これは神の奇跡です。
私たちの行為ではありません。
私たちはそれを信じ、信仰によって生きるのです。

今、私たちクリスチャンには、新しい性質が与えられました。
そして、信仰によってその性質を実践する者とならされたのです。
決してのろいに導く「律法」によるのではありません。


6章 結論---では新約聖書におけるクリスチャンへの勧め(戒め)とは何でしょうか?

エペソ人への手紙を開いて見てください。
最初にクリスチャンに与えられた素晴らしい立場についてかかれています。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙 1章3〜5節

この箇所はこの地上では理解できないほどの素晴らしい祝福が描かれています。
クリスチャンは「天にあるすべての霊的祝福をもって祝福されてしまいました」。
「天にあるすべての霊的祝福」とは何でしょうか?
天とは神の住まわれる場所です。
つまり、神の持っているすべての祝福を持って、私たちを祝福してくださった(過去形)ことをいっているのです。
太陽が輝いています。
太陽は巨大な火の球であり、膨大な熱を持ち、その熱が地球を暖め、ゆえにすべての動植物がこの地球にて生きているのです。
多くのクリスチャンは自分に与えられた祝福とこの太陽の持つ力との比較するのなら、太陽の偉大さに票を投じるでしょう。
しかし、私たちに注がれた神の御力の方が比較にならないほど偉大な力を持つことを忘れてはならないのです。
その太陽のために、神の御子イエスは死なれたでしょうか?
神の御子が死なれたのはあなたのためです。
私たちに注がれた力は太陽など比較にならないほど偉大なものなのです。
太陽は神の栄光を現わすように、人間のために作られた被造物に過ぎないのです。
太陽はこの自然界全体(宇宙)から見たとき、小さなものでしかすぎないのです。

そして、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」
まさに、御自分の責任において、私たちを実際の歩みにおいても「御前で聖く、傷のない者にしよう」とされています。
私たちはこれに逆らうべきでしょうか?
聖霊なる神様は私たちを日々、このように導いているのです。
しかし、その導きに従わないように悪魔は「教理」、「誘惑」、「無関心」を用いて神の子を惑わしているのです。

ですから、エペソ人への手紙の後半では、この素晴らしい立場をわきまえた上でこのような勧めがなされています。
この論法はエペソ人への手紙だけではありません。
聖書の他の書簡においてもなされていることです。

「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙 4章1節

あなたの中にある内なる人は喜んでこの勧めに耳を傾けないでしょうか?
これは律法ではありません。
私たちの喜びです。

あなたのために神の御子イエスキリストが死なれたというのに、あなたは無関心なのですか。あなたはそれで満足できるでしょうか?
できないはずです。
私は私のためにキリストが死なれたという召しにふさわしく歩みたくないのですか?
あなたはキリストのために生きるということがあなたの喜びではないのですか?
多くの人が今、神の裁きである地獄に向かっているのに、あなたは黙って見ているのですか?

これは何も律法ではありません。
あなたの神の子供としての性質です。
それに逆らわずに生きることがあなたの喜びであり、快感となるのです。
あなたの肉は逆らうかもしれません。
しかし、あなたはあなたの死ぬべきからだをも生かすことの出来る方に委ねることが出来るのです。
その方はあなたの父なるお方です。


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