メッセージ13 2004/9/13
健全な信仰とは?


健全な信仰とは

「違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、
その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、
また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」

新改訳聖書 テモテの手紙第一6章3〜6節

1、メキシコの片田舎にて

最近、私はある理由があり、メキシコのある片田舎の町に身を寄せることがありました。
そこでは、カトリックが盛んで、町の多くの者がその教会に集い、町のあらゆる場所でマリア像やキリストの十字架の像が売られていました。
タクシーなど乗るのであれば、そのような像が必ずと言えるほど、飾られていました。
その町を見るのであれば、多くの人がこの町が非常に信仰熱心であると感じられるでしょう。
キリスト教が非常に盛んな町だと言うかも知れません。
今回のテーマはカトリック教会(特にこの地方の信仰)がどのように誤った信仰を持っているかがテーマではないので、詳しいことは書きませんが、この町では明らかに土着の宗教(マヤ宗教)とカトリック教会の教えが交じり合い、死神とマリア像、キリストの十字架とカーニバルが交じり合うことによって、人々に受け入れられているのを見ることが出来ました。
未信者である同行者たちでさえ、不気味さを口にしていました。
ある研究家が「教会とオカルトが混合している」と言っているのを思い出しました。
まさにその通りに見えます。

ある人はこの国の人たちは非常に熱情的だと言うかもしれませんが、教会を中心として行われる祭り、カーニバル(日本の縁日、祭りと驚くぐらいそっくりです)によって、感情的になり(祭り騒ぎになり)、明らかな不道徳が習慣的になっているようにさえ、感じられました。
(笑い話ですが、日曜日の翌日の月曜日には2割以上の人たちが二日酔いや、遊び疲れで仕事を休んでいました。)

彼らは自分たちの信仰こそ、正統的、普遍的だと主張するかも知れません。
しかし、健全な教えが彼らをそのようにさせているのでしょうか?
絶対に違います。

ある人たちは、このような信仰を受け入れてあげなければならないものだと主張するかも知れません。
しかし、それも絶対に違います。

神はいつの時代にも、このような宗教を責め、裁き、私たちはそのような滅び行くものから完全な分離を要求しているのです。
信仰なら、何でも良いというは、無神論者、偶像崇拝者の言うことです。

「するとモーセは言った。「それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声である。」
宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。
-----中略------
そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」」
新改訳聖書 出エジプト記32章18〜27節中略

「なお、ヨシヤはイスラエルの王たちが造って主の怒りを引き起こした、サマリヤの町々の高き所の宮をすべて取り除き、彼がベテルでしたと全く同じように、それらに対してもした。
それから、彼は、そこにいた高き所の祭司たちをみな、祭壇の上でほふり、その祭壇の上で人間の骨を焼いた。こうして、彼はエルサレムに帰った。」

新改訳聖書 列王記第二23章19、20節

モーセは子牛を拝み、その祭りに参加した者を殺すように命じています。

また、ヨシヤ王は高き所の宮をすべて取り除いたと記されています。
イスラエルは主へと礼拝を捧げるために選ばれた民でした。
そして、高き宮とは主へ礼拝を捧げる場所でした。
しかし、中身が入れ替わってしまったのです。
高き宮が、主へ礼拝する場所から、偶像を礼拝する場所に変わってしまったのです。

ヨシヤ王はそのような宗教に対して、完全な拒否を行いました。
そのような偶像崇拝者をすべて、殺し、その骨を焼いたと聖書は記しています。

この記事はたとえ、時代が違ったとしても、私たちに多くの教訓を残しています。
今回はカトリック教会について、語っているのではありません。
しかし、現在の神の民であるはずのキリスト教会(救われているかではありません)において、悪魔はまったく同じことを行っているのです。
教会はまことに、キリストの十字架を覚え、主への礼拝を捧げるところでした。
しかし、あのマリア像のマリアは誰なのか?
明らかにイエスの肉の母親のマリアではありません。
毎週のごとく、繰り返す儀式、祭り、聖書で教えられたものではありません。
悪魔は看板は正統的だと人を安心させ、その中身を見事に入れ替えています。
悪魔は人々を理論に訴え、時には感情に酔わせ、人々を引き込んでいます。
通常の理解で見るのであれば、単純にわかるはずなのに、わからなくなっているのです。


2、健全な信仰の必要性

このように多くの人たちを虜にしてしまう、偶像崇拝、不健全な教えに対して、本物、健全な信仰とは何かを私たちは正しく理解する必要があります。
また、このようなテーマを並べると、多くの人たちは難しい教理や、神学を思い浮かべるかも知れません。
いや、逆にこのような考えによって、教理によって、神のみこころである聖書を難しくなっているのではないでしょうか?
もし、健全な信仰がむずかしい教理によって成り立つのなら、この2000年間の多くの者たちには健全な信仰とほど遠いものになってしまいます。
しかし、安心してください。
神は私たちにこのようなみことばを与えています。

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」
新改訳聖書 ヤコブの手紙1章5節

ではいったい、健全な信仰とは何でしょうか?
先にも書いた通り、必要なことは信仰の中身だということです。
聖書、真実なる神に対しても信仰であり、偶像崇拝も信仰であり、
また、曲がった教えに対して信頼を置くことも信仰であり、人間に対しても信仰なのです。

つまり、何に、どのような信仰を持つか、それが大切だということです。
先に、間違ったものから語ってしまったのですが、間違ったものの反対が真理ではありません。
反面教師の反対が真理でもありません。
正しいことが信仰であり、冷静になれば真理が理解できるはずなのです。
私たちは神、御自身が真理であり、約束を成就される方であることを信じます。
神は偽りを語る方ではありません。
聖書は神のことばです。

「絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙3章4節


3、彼女は何を曲げたのか?

かつて、私はある姉妹と話す機会がありました。
彼女の主張は、誰が救われているか、救われていないのか、そんなことを言うのは高慢だ!!
人の心の中は誰にもわからない、その人が福音を信じているか、いないかもわからない。
だから、人が神の裁きに会い、地獄に行くというのは高慢だ!!
また、このようなことを言うあなた方はおかしい」という内容でした。
その時、私は彼女を非難をしたい思いは確かにあったのですが、口を押さえ、しばらくは聞いていました。
よほど、彼女は感情に訴えられたようで、私を非難し続けました。

しかし、聖書の宣言はこれです。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章36節

もし、冷静な読者であれば、彼女の主張がどのくらい矛盾しているかが理解できるはずです。

彼女は心の中のことを論じているのではなく、「福音を信じているか、いない」かにかかわらず、「救い、もしくは、裁きに会うか、会わない」かを決定付けるのはおかしいと入れ替えています。
明らかに、神のことばを置き換えています。
彼女は私を言葉で負かすことが出来るとでも考えたのでしょうか?

私は彼女に聖書を読んでいるかを問いかけました。
「最近は読んでいない、でも、神様について分かってきた」と言ったのを覚えています。
彼女は聖書以外の信仰を得たのです。

彼女はかつて、福音伝道に熱心でした。
時には、滅びに向かう者たちに涙さえも浮かべていました。
何が、彼女を変えたのでしょうか?
まず、第一に形はともあれ、聖書のことばに対する不従順によるものだと断言できます。
聖書は神のみことばです。
神のみことばに従おうとする者たちを神は明らかにわかる矛盾、不従順へと導くことはありません。
彼女は神のみことばを曲げたのです。


4、絶え間ない紛争

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」

新改訳聖書 テモテの手紙第二3章16、17節

次に続く、みことばに注意してください。

「違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、
その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、
また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」

新改訳聖書 テモテの手紙第一6章3〜6節

ここに二つの態度が記されています。
高慢と敬虔です。
そして、私たちは二つの道と結果を選ぶことができます。
先に結果を言うのであれば、「絶え間ない紛争」と「大きな利益」です。

もちろん、神の側につくのであれば、滅び行く世との間には問題も起こるでしょう。
しかし、ここでは「理性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には」と付け加えられています。
明らかに内乱です。

この2000年間の教会の歴史を見てください。
分派、派閥、教派、各派の信仰告白、どれもが対立しています。
もし、聖書を文字通り理解しようとする努力があれば、少なからずここまで激しいものにはならなかったはずです。

テモテの手紙第二ではその悪い結果を得た二人の個人名が永遠の書物である聖書に記されました。
彼らは救われているかも知れません。
しかし、永遠の損害を得たのです。

「私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。
そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。
あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。
そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。
あなたの知っているとおり、アジヤにいる人々はみな、私を離れて行きました。その中には、フゲロとヘルモゲネがいます。」

新改訳聖書 テモテの手紙第二1章11〜15節


5、高慢な者

では高慢な者とは誰でしょう。
この者はパウロに対して、高慢な主張を繰り返したと思うかも知れません。
いいえ、神に対して高慢な態度を取っているのです。
そして、その人の特徴は「違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人」なのです。
「主イエス・キリストの健全なことば」とは何ですか?
もちろん、聖書です。
健全とは何ですか?
健全な態度とは何ですか?
それは、聖書のことばをそのまま、素直に受け取るということです。
高慢な者たちはこれをしなかったのです。
いや、彼らには高慢ゆえにそのことができないのです。
特に、新約聖書において、違ったことを教えていた者たちは哲学者であり、宗教家であり、教養のある者、権威のある者たちでした。
彼らは人の心をつかむプロフェッショナルでした。
しかし、パウロはそのような手段を使いません。
パウロはこのように宣言しています。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

新改訳聖書 コリント人の手紙第一1章18、19節

ゆえに、パウロは攻撃されたのです。

「彼らは言います。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいの彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。」」
新改訳聖書 コリント人の手紙第一10章10節

また、私たちの主もこのように攻撃されています。

「人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」
新改訳聖書 マタイの福音書11章19節

そして、高慢な者の状態は
1)何一つ悟らず、
2)疑いをかけたり、
3)ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。

1)彼らは悟っていません。
自分こそ、知者あると宣言するでしょう。
おそらく、この世にあって、律法学者であり、哲学者であり、教師だったでしょう。
しかし、パウロは彼らは「悟っていません」と宣言しています。
「露骨な非難です。」
彼らの多くはプライドが傷つけられ、怒ったかも知れません。
しかし、実際に悟っていません。
私たちには神の知恵以外誇るものはありません。

「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。」

新改訳聖書 コリント人の手紙第一1章30、31節

2)彼らは疑いをかけます。
主が御自身の命を差し出して、行われた約束に対しても疑いをかけるのです。
人に対してではありません。
主に対してそれを行っているのです。

「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」
新改訳聖書 ヘブル人の手紙10章31節

3)ことばの争いをします。
彼らは言いたいことを語ります。
神のみことばに対して、攻撃するチャンスを狙っています。
最初はまっすぐに聖書を攻撃はしないでしょう。
しかし、時が来れば、露骨に否定します。
現在において、まさに教理の論争をします。
もし、私たちが健全に歩みたいと思うなら、聖書を語る時、神のみことばとして慎重に、大胆に語るべきです。


6、主の祭り、主の教え

かつて、旧約聖書の時代において、神はイスラエルを主の民と呼び、彼らに「主の祭り」を行うように命じました。

「特に、あなたがたがその土地の収穫をし終わった第七月の十五日には、七日間にわたる主の祭りを祝わなければならない。」
新改訳聖書 レビ記23章39節

しかし、新約聖書において、ユダヤ人たちの行う祭りに対して、神のことばである聖書はその状態を正しく記しています。

「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書5章1節

ここで、主を祝うべき(所有する)祭りが、ユダヤ人の祭りになっています。
主人公が変わってしまい、ユダヤ人たちは主に与えられた律法に多くの慣習を付け加えました。
主はこれを非難しています。

「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。
神は『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言われたのです。
それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、
その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。」

新改訳聖書 マタイの福音書15章3〜6節

確かに、正しい教理や教えは聖書を理解するうえに大切な役割を果たします。
ですから、聖書自身が教理であるはずなのです。
しかし、現在において、このような言葉を聞くことがあります。
私たちの教会の教理、**先生の教理、**派の教理。
私たちの救いはこれらの教会や、人間の教理によって保証されているものではありません。
単純な主のみことばによって保証され、何の難しいこともありません。
人間の主張が難しくしているのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章16節

ですから、私たちの信仰は聖書(主)のみことばによって保証され、私たちの信仰の対象は人ではなく、神であるべきなのです。
しかし、もし、私たちの信仰の対象を人間に置いたのであれば、その結果は明白です。

「そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、
また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。」

新改訳聖書 テモテの手紙第一6章4、5節

私は言うまでもありません。
実際に彼らは、この道を選び、信仰の破船に会っているのを見てきました。
実際に彼らの間には絶え間ない紛争で満ちています。
永遠の財産を得るべき人たちが、高慢になったゆえに、大損をしているのです。
彼らの冠は取り去られました。
フゲロとヘルモゲネのようにその失態を永遠の書物に記されるような損害を得たのです。
彼らは自分では道を得たと言うでしょう。
しかし、その心の中には主に対する平安がなく、歩み道において、不安定です。
そして、高慢ゆえに、負けたくないゆえに、平安だ!真理だ!と叫ぶのです。
自分自身がそれをよく知っているはずです。


7、正しい信仰の態度

では、正しい、健全な信仰の態度とは何でしょうか?
ずばり、「満ち足りる心を伴う敬虔」です。
そして、それは「大きな利益を受ける道です。」
主の臨在の前に、みことばの前に身をかがめることです。
そして、実際に主の御技を味わい、賛美することです。
主は私たちを愛しておられ、すべてを与える方です。
私たちは満ち足りているのです。
そのことを忘れた時、私たちは主の御恵みを不満に置き換えてしまいます。
高慢に置き換えてしまいます。
新しい歩みを忘れ、古い歩みへと帰ってゆきます。

時代はますます、悪くなってゆきます。
世はますます、クリスチャンと手を結ぼうとしてきます。
教えを多く、持ち込んできます。
多くの者たちが世との聖別(セパレート)を忘れ、主とともにある平安を忘れ、世との平和を求めています。
だからと言って、あなたがその道を歩む必要はありません。
多くの者たちが信仰から離れてゆきました。
パウロはこのように言っています。

「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」

新改訳聖書 テモテの手紙第二4章1〜4節

健全な教え、信仰とは何でしょうか?
それは、聖書に立ち返ること、聖書を神のみことばとして信じ、神のみを礼拝することなのです。
聖書をそのまま、神のみことばとして読み、理解し、受け入れることなのです。
もし、私たちがそのことをしないのなら、もし、自分の都合や、主張によってそれを変えるのなら、現在のカトリック教会のように多くの者たちはその救いから漏れ、主の側に立つどころか、逆に主の御名に傷を付ける事になります。
最初はすべて、小さい反逆から始まっているのです。
私たちは主の御前に、身をかがめ、より多くの利益を得ようではありませんか!


8、最後に、

最後にパウロの書簡において、多くの者が正しい信仰から離れていったことをパウロは記しています。
神の言葉は彼らには無益だったのでしょうか?

私は思います。
教会に集まった人たちは、ユダヤ人であり、異邦人であり、さまざなな職業の人たちだったでしょう。
たしかに、その地方において盛んな偶像崇拝や、教えを持ってきた者たちもいたでしょう。
しかし、当時のクリスチャンたちは偶像崇拝から真の神を信じ、救われたことをユダヤ人たちは律法から、恵みへと移されたこと非常に喜んでしました。
しかし、再び、彼らはこの偶像崇拝に戻ろうとしていたのです。
ヨハネの手紙第一は次のことばで終わっています。

「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一5章21節

なぜでしょうか?
彼らは新しい命(性質)で生きることを忘れたのです。
ある者は日々の生活に疲れたかも知れません。
また、ある者はクリスチャンゆえの迫害に耐えられなくなったかも知れません。
あらゆる、言い訳ができるでしょう。

そんな時、偶像崇拝、新しい教えが彼らにとって魅力的に見えるのです。
彼らの心を動かしたのです。
イスラエルが金の子牛を拝んだように....。

では、神のみことばを私たちはどのように信じれば良いのでしょうか?
ある人が「愛」という言葉を聞いて、涙ぐむかもしれません。
しかし、ある人が「愛」という言葉を聞いて何とも思わないかも知れません。
では、ある人にだけ神様の働きがあって、ある人にはなかったのでしょうか?
絶対に違います。

ある女性がある男性から好かれていると思ったとしましょう。
その女性は非常に感情的になり、うれしく感じています。
しかし、実際はその男性はその女性のことが嫌いだったのです。
では、その女性の感情は正しい感情なのでしょうか?
本当のことを知ったら、その女性はどのように思うでしょうか?

感情が信仰ではありません。
その人がどのくらい感銘を受けたかによって真実が決まるのではありません。
神御自身が真理なのです。
道なのです。
いのちなのです。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章6節

また、この男性はその女性のことが嫌いでした。
主は私たちを愛しています。
そのことを私たちが知ったのならばどのくらい喜ぶでしょうか?
それは真理です。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書15章13節

では、なぜ、多くの人がパウロから離れて行ったのでしょうか?
神のみことばは彼らに効果は無かったのでしょうか?

パウロは語っています。

「反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。」
新改訳聖書 テモテの手紙第二2章25節

パウロはこのように期待して語ったのです。
しかし、それでも多くの人たちが離れて行きました。
なぜでしょうか?

それは「悔い改め」は他人のすることではなく、その人自身がするものだからです。
神はすべての人が悔い改めることを望んでいます。
神が悔い改めるのではありません。
あなたの隣人が、あなたの師が、もしくはあなたの友人が悔い改めるのではありません。
あなたが悔い改める(考えを変える)のです。
あなたが(その人が)悔い改めない限り、復興は不可能なのです。

ある人はこう言うかもしれません。
「私には悔い改めができない。」
しかし、悔い改めは不可能なことではありません。
不可能にしているのはあなたです。
不可能であれば、主は私たちに命じることはありません。

また、神は悔い改めない者たちをそのままにしているのでしょうか?
いや、その人が悔い改めるように導いているのです。
そして、神の恵みは今まで以上に、その人に降り注ぐことを知っています。

「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙2章4節

「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙5章20節


INDEXに戻る⇒