メッセージ14 2005/9/28
主の来られる時
1、はじめに
なぜ、私がこのことを語ろうとしたのは、聖書がクリスチャンに語っている基本的な歩みがあまりにも無視されているからです。
キリストの来臨(空中再臨)が私たちの贖いの時であり、私たちの救いの完成の日です。もし、空中再臨を期待することを、クリスチャンの歩みから外すのであれば、その答えは明白です。
聖霊がクリスチャンに二つの矛盾したことを教えないからです。
2、違う教え
何月何日にキリストが来られる。
このような「みつげ」を受けた。
このような知らせ、ニュースを何回も見たことがあります。
これらの事柄は実際に決められた日に何も起きないのでいい加減な発言であることが暴露されます。
そして、このような「みこころ」や「みつげ」というものが個人的に与えられ宣言したいうことを知っています。
その多くの現象は「精神病の症状」が見られますので、「うそ」というよりも、あきらかに精神病者が悪魔に用いられたというほかありません。
その度にキリストの再臨を待ち望む者たちはおかしな人たちだ!
だまされている人たちだ!という印象が植え付けられてきました。
悪魔が良く使う方法で、魂の救いを常に妨害してきた方法です。
そして、極端に、キリストはいつ来るのかわからないのだから、再臨を待ち望むことがおかしい、このようなことを言い出す教会を多く見てきました。
では、実際にクリスチャンが聖書のみことばを見て、再臨が本当に近いと思って、もしくは理解して歩むことはおかしなことでしょうか?
聖書はキリストがいつ来られるかわからない、だから、いますぐだと期待することは純粋なクリスチャンの歩みではない、これはおかしなことではないでしょうか?
確かに聖書にはキリストがいつ、もしくは、前兆が起きてから空中再臨が起きるとは書いていません。
(正確に言うのであれば、生き残っている私たちが上げられる前にある前兆について書いてあります。
これは後に語ることとします。)
逆に否定的なことを言うのであれば、いつ来るかわからないという表現もありません。
(あると言われる方はキリストの地上再臨と空中再臨が混乱していると思います。)
しかし、私は歴史的に見て、空中再臨がいつ起きるのかわからないというのはみことばから見て間違いないと考えます。
また、いつ起きるかわからない、つまり、何月何日という表現によって空中再臨がいつ起きるか断言するのは、聖書にはない表現ですからそれは確実に間違っています。
そして、反対に最初に断言しておきますが、光の中を歩む(聖書のみことばを持っている)私たちには決して見えないものではないということを知っています。
私は期待度という表現の元にキリストの再臨が近いことを主張します。
3、キリストの再臨を期待する。
実はこれはクリスチャンにとって、明日を決めるとても大切な内容です。
まず、使徒たちの態度から見てみましょう。
使徒たちは手紙の中で終わりの時、もしくは終わりの時が近づいたことを状況を見て判断していることを知ります。
「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章18節
「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。」
新改訳聖書 テモテの手紙3章1節
「彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現われる。」」
新改訳聖書 ユダの手紙18節
確かに教会時代全体は、終わりの時と言うこともできます。
しかし、「現われています」、「やって来る」、「現われる」という表現に目をとめてください。
未来の出来事、もしくは、未来に進んでくるという意味を含んでいます。
明らかに、使徒たち時代が進むにつれて、ますますこのような時代になるということを示しています。
4、キリストの教えから
「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」
新改訳聖書 マタイの福音書24章32〜39節
この箇所は直接的には地上再臨のことを言っていると信じています。
(あえて、この箇所から話す人がいますので、ここから引用します。)
キリストの空中再臨後、この地上は大患難時代になります。
その時のことを言っています。
多くの人たちは「だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます」という箇所だけを読んでいます。
しかし、私たちはこの箇所から何を言おうとしているかを読み取らなければなりません。
では、全体的に何を言おうとしているのでしょうか?
1)先に「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります」と言っています。
その日が正確にはわからないが、学びなさいと言っています。
2)後にノアが紹介されています。
注意しなければならないのは、ノアは準備していたということです。
ノアは滅びが近いとの啓示を受け、箱舟を作りました。
知らないのはノアの時代の滅び行く者たちです。
地上再臨の時が不信仰な者たちにとってわからないことについて、主イエスはいくつものたとえを使って話しています。
「しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、「夕焼けだから晴れる。」と言うし、
朝には、「朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。」と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。」
新改訳聖書 マタイの福音書26章2、3節
「そのあとで、ほかの娘たちも来て、「ご主人さま、ご主人さま。あけてください。」と言った。
しかし、彼は答えて、「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」と言った。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」
新改訳聖書 マタイの福音書25章11〜13節
「しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」
新改訳聖書 マタイの福音書24章43〜44節
また、主はサルデスの目をさまそうとしない者たちに対してこのように言っています。
「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章3節
パウロも手紙の中で同じ事を言っています。
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、(彼らにとって)盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二3章9、10節
上記の箇所から、明らかに期待しない者、目をさまそうとしない者、主を望まない者たちに対して、その日が盗人のように来ると言っています。
3)時代区分的(Dispensational)な見解から、マタイの福音書24章の主の日は分かっているはずです。
この箇所は主の日の直前のことを指しており、患難時代の時の描写と見ることができます。
この患難時代は反キリストの契約から始まります。
その三年半後に反キリストによって一方的にこの契約は廃棄されます。
その三年半後、つまり、はじめの契約から七年後にキリストは地上に再臨されます。
「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」
新改訳聖書 ダニエル書 9章27節
「常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。
幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。
あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」
新改訳聖書 ダニエル書12章11〜13節
つまり、マタイの福音書24章には二つの要素が含んでいることが分かります。
主が来られることは全体的に、もしくは歴史的には誰も知らないことが記されています。「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」
しかし、そこを通る者たち、もしくは、聖書のみことばを信じる者にとっては、逆に「分かるはずでしょう」と問いかけているのです。
もちろん、私はこの箇所が直接的に空中再臨のことを指していないことを知っています。この箇所の「知りません」というのは歴史的なことを言っていると私は信じています。
しかし、サルデスの教会についてのことばは十分に空中再臨について語っていると考えます。
(サルデスの教会はキリストの十字架を信じてなく、患難時代に入るという極端な解釈はしない方が良いと考えます。)
4、空中再臨では何が起きるのか?
ある日、世界中に集団失踪事件として紹介されるでしょう。
突然、クリスチャンと呼ばれる人たちが行方不明になるのです。
しかし、あるクリスチャンたちはそのまま地上で生活をしているのです。
彼らは教会に所属していても、新しく生まれていなく、救いを得ていないのです。
そして、彼らは行方不明になったクリスチャンたちのことをいろいろと言うでしょう。
もしくは、大きなテロリストのような事件のニュースが世界中に巡り、その失踪事件は影に隠れて何か不可思議な事件として扱われ、すぐに風化するかも知れません。
それは、小説「レフトビハインド」のように突然に起こるでしょう。
しかし、私たちクリスチャンにとって、予告無しに突然行方不明になることはありません。
前兆があります。
このようなことを言うと、極端な解釈をしていると言われがちですが、再臨について書かれている聖書箇所を読んで見ましょう。
「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一4章15〜17節
まず、「ご自身天から下って来られます」、それから、「キリストにある死者が、まず初めによみがえり」ます。
多くの著書は瞬間的な出来事として、描いています。
確かに引き上げられる瞬間は瞬きのようです。
しかし、「初めに」ということばに注目してください。
時間差があるのです。
つまり、引き上げられる前に「死者の復活」が目に認められる状態で起きるのです。
では、この死者の復活が「霊的」とか、「目に見えない世界」で起こることではなく、明らかに物理的に起きるのです。
キリストが肉体を持ってよみがえられたようにです。
「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章24節
これはみことばに記されているように、目で認められるはずです。
もし、同時に起きるとか、目に見えないところで起きるのなら、聖書でこの地上にいる聖徒たちに記されることはなかったはずです。
そして、この再臨の時こそ、私たちの救い、贖いの完成の時です。
私たちの死ぬべきからだが、栄光ある永遠のからだに変えられる時なのです。
救いを語る多くのクリスチャンであっても、このことを理解していないのは残念です。
おそらく、理解していないゆえに、再臨待望について、興味を持てないとしか言いようがないのです。
「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章42〜44節
「兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章50〜53節
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章23節
「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙3章21節
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一5章1〜4節
このようにクリスチャンにとって、空中再臨が私たちの希望そのものであることが分かるはずです。
もし、待っていないというのなら、救い自身を期待していないことになります。
天国という場所は霊的で、形のないところではありません。
また、手でつかめないような場所でもありません。
この地上の物理とは違うかも知れませんが、明らかに形にあるものです。
私たちは天にある物理的存在となるのです。
確かに、歴史的、時期的に見るのであれば、空中再臨はいつ来るかは分かりません。
しかし、再臨を体験する私たちにとって心から待望するものであり、期待するものであり、すぐに来るものであることが理解できるものなのです。
5、聖書の預言から見た、空中再臨の待望
もし、ここで預言を神が預言者を通して未来に起きることを示したものと定義するのならば、聖書には預言で満ちています。
それは不信仰な人間たちに、このことばが神から出たものであることを御自身が証明するために用いられました。
そして、神を信じる者たちに希望を与えるためでした。
かつて、イスラエルは神を捨て、律法に失敗し、結果として捕囚され、バビロンに連れて行かれました。まさに絶望的でした。
イスラエルに対する王国の約束、祝福はどこに行ったのでしょうか?
絶望的です。
しかし、神はその絶望的な時に、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルという預言者を通して、その祝福が必ず成就することを約束しました。
絶望的な中で神はイスラエルに預言者を通して希望を与えたのです。
そして、その終末的な預言の多くはその預言者たちの時代には成就していません。
では、希望という面以外から見るのであれば、その預言の成就を見て、確信するのは誰でしょうか?
それは終末の信仰者です。
特に大患難時代の神を信じる者たちです。
その多くはダニエル書の預言を信じ、反キリストの契約の時から日数を数え、じっと忍耐する者たちでしょう。
つまり、無駄な預言など存在しないということです。
旧約聖書の約束はユダヤ人に関する者です。
彼らは患難時代に反キリストの存在を見て、次々と起こる災害、状況を見て、キリストの支配する地上の王国が来るのをじっと待っているのです。
新約聖書は特にキリストの十字架の贖いを信じる一つの教会に属する者たちに書かれています。
彼らは天に行く日、キリストの再臨を待っています。
では、その聖書では何と言っているのでしょうか?
「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二1章19節
現在の神を知らない暗い時代を歩む神の子供たちに、希望を与えるために預言を与えているのです。
この預言ということばは素直に神のみことば、特に未来に起きるべきことと理解すべきです。
英訳聖書によってはギリシャ語"Proefhth"を「預言--prophecy(KJV)」、もしくは「神のメッセージ--prophetic
message、もしくはGod's message(TEV)」などに訳しています。
おそらく、KJVなどでは未来の出来事を語る言葉という意味を強く出すために「預言--prophecy」と訳し、TEVでは神の御前にある言葉という意味を強く出すために「神のメッセージ--God's
message」と訳したのでしょう。
ある注解者たちはこれは神の御前にある言葉であり、未来のことを言ったことばではないと言いました。
ギリシャ語"Proefhth"の"Pro"は前置詞的な役割があり、時間的に、位置的に前という意味があります。
では、なぜ、聖書で「神のみことば」という表現がたくさん出てくるのでしょうか?
これを使わずになぜ、ギリシャ語"Proefhth"なのでしょうか?
十分に未来を表す言葉として用いられるはずです。
もちろん、語句として「神の御前にある言葉」として単語は読めるでしょう。
しかし、その人が新約聖書全体をギリシャ語で読んだことがあるのなら、もしくは70人訳聖書を読んだことがあるのなら、このような新約聖書の"預言"は未来のことを語る言葉ではないと主張し、断言できるはずがありません。
他の箇所ほとんどが、旧約の預言同様、未来をことを語ることを指しています。
また、この預言という定義するにも、救いと非常に関連しています。
現在、私たちは完全な救いを持っていません。
もちろん、キリストの救いが不完全ということを言っているのではありません。
現在、私たちは新しい命を持っていますが、新しい体を持っていません。
その新しい体を得る時は、まさにキリストの来臨の時です。
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章23節
何を言おうとしているのでしょうか。
つまり、すべてが先のことを神のことばは預言しているのです。
私たちの救いに関するみことばがすべて預言なのです。
ですから、預言を信じ歩むことが信仰と言っても過言ではありません。
私たちは神の存在を信じ、そして、この方のことばを受け入れたのです。
私たちがこの世の生涯の後に、天国に行くことも同じです。
私たちはまだ死んでいません。
しかし、みことばを信じ、それが成就すると信じているのです。
つまり、みことばの約束、すべてが預言なのです。
主イエスは十字架の上で犯罪者に言いました。
「イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」」
新改訳聖書 ルカの福音書23章24節
神のことばを信じることが信仰です。
そして、神のことばである預言を信じること信仰です。
もし、聖書の預言を文字通り受け入れない、また、受け入れることに否定的なことを言うのであれば、神御自身のことばを否定することになります。
6、聖書は再臨を待望するように神の子供に問いかけています。
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙3章20節
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章27、28節
私は聖書が私たちに語る救いはこの世の生涯の後に入る天よりも、キリストの再臨に希望を置くように勧めていることを知っています。
また、世の終わりの特徴として、主を待つのを否定する人たちが出てくることがペテロの手紙第二に記されています。
彼らはおそらく、教会内にいるユダヤ人でしょう。
しかし、主の来られる時代の私たちにとっても、教会内の人(クリスチャンと言われる人)たちなのです。
彼らは主の存在については否定していません。
聖書も読みます。
祈ります。
彼らは信仰者に見えるでしょう。
教会の中で主要な人物かも知れません。
メッセージを語ることもあるでしょう。
しかし、彼らは聖書のみことばに対して不信仰な者たちです。
「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二3章3、4節
また、前にも書きましたが、黙示録の中でサルデスの教会について、主はこのように言っています。
「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章3節
主を待ち望まない者が教会内にいる、これは世の終わりに特徴なのです。
7、来臨を待ちわびる者たちへの態度としてどのように書かれているのでしょうか?
「そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章28節
「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。」
新改訳聖書 ヤコブの手紙5章8節
「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章28節
「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。」」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章36、37節
「また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一1章10節
「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一2章19節
「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一4章5節
聖書はこのように再臨を待ち望みなさいと言っています。
そして、世の終わりには「来臨の約束はどうなった」という人たちが出てくるのです。
このように、来臨を主張しない動きは現在存在しているのです。
8、結論
聖書は間違いなく、キリストの来臨を待望するように勧めています。
そして、預言のみことばは「暗い所を照らすともしび」です。
また、使徒たちも状況を見て、主の日が近づいてきたことを主張しています。
その日が来た時、恥じ入らないように勧めています。
私たちがこの地上の生涯を終えて、死を通して天に行く以上にクリスチャンは再臨を待ちわびるはずなのです。
死は私たちの天に行く唯一のゲートではありません。
死を見ないで天に行く、これが最高の天へのゲートなのです。
「キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙6章9節
「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。」」
新改訳聖書 コリント人人への手紙第一15章51〜54節
では、次に聖書になぜ、預言があるのでしょうか。
なぜ、黙示録で詳細に裁きの数々を語る必要があったのでしょうか?
おそらく、患難時代の聖徒たちに励ましを与えるためでもあります。
そして、これが偽りのない、神のことばであることを示すためだったのも事実です。
また、現在のクリスチャンにとって、忍耐の時の終わりを期待させるためでもあるのです。
「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙15章4節
もし、この世の教えの流れ(時には聖書的と呼ばれる流れかも知れません)によってながされていないのであれば、他の人に主の再臨を待つのはおかしい、そのように教えてさえいなければ、私たちの多くは純粋に主の再臨を期待したはずです。
地震のうわさを聞けば、主のことばを思い出し、主の再臨が近づいたと思うはずです。
大きな雹がふったと聞けば、忍耐の終わりを思い、清く歩もうと考えるはずです。
これが自然な信仰ではないでしょうか?
もちろん、極端にいつ再臨が来るのか、主のことば以上のことは誰も言えません。
もし、言うのであれば、その人は神よりも自分のことばを上にしたのです。
また、多くの人が興味本位に走り、これは原子爆弾のことだ、あれなニューヨークのテロのことだと創造力を働かせます。
しかし、彼らは神のことばへの冒涜ということを知りません。
もちろん、私たちは推測もしますし、より、聖書の言っている意味を追求します。
真実は一つであり、神の語った意味以上に違う意味はありません。
「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二1章21節
何が彼らを変えたのでしょうか?
私は知っています。
神のことばの権威がなくなったからです。
他の権威が入ってきたからです。
教会の権威、組織の権威、牧師の権威、派閥の権威、これらは主イエスがこの地上にいた時、ユダヤ人を攻撃した内容です。
では本題に戻ってキリストの再臨はいつなのでしょうか?
答えはもうすぐです。
私は今日、明日の問題として取り上げているのです。
黙示録、ダニエル書、エゼキエル書、イザヤ書、それだけではありません。
私はこれらの預言、特に患難時代の状態を見るならば、その直前、再臨が今としか言えない預言で満ちています。
もちろん、推測も入ってくるでしょう。
推測は推測です。間違えることもあるし、読み違いも起きるかもしれません。
私は極端に読み変えて聖書を読んでも良いと主張しているのではありません。
文字通り、読んで理解しなさいと言っているのです。
しかし、神のことばを読む時、期待しませんか?
そうかも、知れないと思いませんか?
もちろん、断言もできません。
でも、それが2つ重なったら偶然ですか?
それが3つ、5つ、10あるならば、正常な人ならばすぐにでも再臨の準備をしませんか?
なぜ、待たないのですか、それは「待たない理由」があるからです。
私はここで、クリスチャンがこの地上でどのような歩むべきかということを言っているのではありません。
なぜ、待てないのですか?
神のみことばである聖書は待ち望みなさいとはっきりと勧めています。
聖書はテサロニケの間違った考えを持ったクリスチャンたちにこのように書いています。
(クリスチャンたちが患難時代にいないから、主の日(地上再臨)が盗人のように来ないというだけ意味ですか?
もう一度書きますが、患難時代の信者たちは地上再臨の日を知っているはずです。
患難時代の不信仰な者たち、もしくは神のみことばを持たない者が暗やみの者なのです。
光の子どもという表現はクリスチャン、もしくは神のみことばを持つ者を指します。
では、光のこどもについて何を勧めているのですか?)
「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一5章1〜5節
あなたは昼の子どもでしょうか?
その日があなたに災いにならないように。
その日があなたの最も期待した日になりますように。
「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星(キリストの再臨)があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それ(預言)に目を留めているとよいのです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二1章19節