メッセージ15 2023/7/24 8/26修正
主が備えられる二つの道-ヨブ記とローマ人への手紙から
1、はじめに
2、ローマ人への手紙の紹介
3、ヨブ記の紹介
4、ヨブの罪
5、ヨブと3人の友
6、ヨブの応答、答え
7、救霊のための祈り
8、北海道フェリーの中で、、
9、あるキリスト教会で、、
10、聖書的と呼ばれる教会で、、
11、御言葉を収納すべき心の図書棚
12、聖書から知る福音とは!
13、聖書の語る滅びの場所
14、絶対的な救い
15、神の御国、新天新地
16、キリストの復活
17、クリスチャンとして、現実を知ろうではありませんか!
18、ヨブの場合
19、あるクリスチャンへの試練
20、試練の結果
21、ヨブの試練はどうして起きたか?
1、はじめに
今回の学びは、非常にハードルが高く、苦いものです。
もし、自分はまだ自分の信仰が幼いと思っておられるのなら、他の学びによって豊かになってください。
しかし、このことは苦い分だけ、受けるものも多く、主に愛されるしもべとして、心から推薦したい内容だと感じています。
経験によるものなので、結論に導くために、関係ないと思われる多くの事柄が語られてゆきます。
ご了承ください。
2、ローマ人への手紙の紹介
私は、ローマ人への手紙8章にある御霊にある勝利を信仰に入った初期に学ぶ、それを実践してきました。
「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」
ローマ人への手紙8章11〜13節
「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
ローマ人への手紙8章37〜39節
神には不可能がありません。
御霊によって、歩みなさい。
神には不可能が無いのです。
あなた方の死ぬべき肉の性質、罪の性質からもキリストは勝利され、よりキリストに近いものとされ生きることができるのです。
残念ながら、人はどうしてもローマ人への手紙7章に戻ってしまうことがあるのです。
「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」
ローマ人への手紙7章18節
ある教理に熱心な方々は、信仰によって、クリスチャンはローマ人への手紙8章の勝利の道が正常なクリスチャンの歩みで、7章は単なる通過点である罪に敗北した姿で必要ないと考えています。
果たして、パウロは無駄なことを語っているのでしょうか?
そもそも、クリスチャンが完璧なものであれば、どのような試練も、辛いと感じることなく、8章を理解したクリスチャンは常に勝利をしているはずです。
神の求めているものは、現状の勝利した姿だけなのでしょうか?
では、なぜ?7章が存在しているのでしょうか?
はたして?かつてのパウロの経験を書いただけのものだったのでしょうか?
3、ヨブ記の紹介
ここに旧約のヨブを紹介します。
ヨブ記は旧約のローマ人への手紙です。
主人公のヨブはこのように紹介されています。
「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」
ヨブ記1章1節
ここでは、ヨブ記の内容について紹介しなければなりません。
ヨブ記は難解な個所として、神学者、哲学者などの多くの著名な方々によって解釈がなされてきました。
しかし、このヨブ記自身が最初の疑問の答えを出していないように、ヨブ記の登場人物同様に迷走しています。
ヨブ記は「旧約のローマ人への手紙」というキーワードで読めば、その答えが明白であり、ヨブ記が明確な答えを出していないことが神の知恵だとわかってくるのです。
ある日、ヨブに突如としてあらゆる災難が降りかかってきます。
「ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、
使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、
シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。
そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです」
ヨブ記1章13〜19節
信仰者ヨブに災難が降りかかったのです。
それでも、ヨブは神を賛美してこのように言いました。
「そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。」
ヨブ記1章21〜22節
さらに、ヨブに災難が降りかかりますが、ヨブはそれでも罪を犯すようなことはしませんでした。
「サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。
ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。」
ヨブ記2章7〜8節
「すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」
しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。」
ヨブ記2章9〜10節
そこに3人の友が訪れ、嘆きました。
「そのうちに、ヨブの三人の友は、ヨブに降りかかったこのすべてのわざわいのことを聞き、それぞれ自分の所からたずねて来た。すなわち、テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルである。彼らはヨブに悔やみを言って慰めようと互いに打ち合わせて来た。
彼らは遠くから目を上げて彼を見たが、それがヨブであることが見分けられないほどだった。彼らは声をあげて泣き、おのおの、自分の上着を引き裂き、ちりを天に向かって投げ、自分の頭の上にまき散らした。
こうして、彼らは彼とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。
ヨブ記2章11〜13節
4、ヨブの罪
ここまえ、神に罪を犯さなかったヨブは、ここで声を上げてしまうのです。
「その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。」
ヨブ記3章1節
「神に不平を言うな!」
このヨブは自分に起きたことを呪わず、心に秘めていたのでしょう!
しかし、それが肉なのです。
この肉は3人の友が来ることによって、目覚めたのです。
「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」
ローマ人への手紙7章18、19節
5、ヨブと3人の友
3人の友の願いはヨブの復旧です。
3人はヨブの友であり、決して、悪気があったわけではありません。
また、不信仰な者でもなく、天地万物を造られた方を信じていました。
彼らが不信仰と呼ばれる要因は別にあったからです。
エリファズはヨブに次のように言いました。
「さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。」
ヨブ記4章7節
エリファズにヨブは答えました。
「いつまで、あなたは私から目をそらされないのですか。つばをのみこむ間も、私を捨てておかれないのですか。
私が罪を犯したといっても、人を見張るあなたに、私は何ができましょう。なぜ、私をあなたの的とされるのですか。私が重荷を負わなければならないのですか。
どうして、あなたは私のそむきの罪を赦さず、私の不義を除かれないのですか。今、私はちりの中に横たわります。あなたが私を捜されても、私はもうおりません。」
ヨブ記7章19〜21節
ビルダデは次のように言います。
「もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。」
ヨブ記8章5、6節
ビルダデにヨブは答えました。
「まことに、そのとおりであることを私は知っている。しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。
たとい神と言い争おうと思っても、千に一つも答えられまい。」
ヨブ記9章2、3節
ツオファルは次のように言います。
「 ――あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせるな。――
そうすれば、あなたは必ず、汚れのないあなたの顔を上げることができ、堅く立って恐れることがない。」
ヨブ記11章14、15節
ツオファルにヨブは答えました。
「確かにあなたがたは人だ。あなたがたが死ぬと、知恵も共に死ぬ。
私にも、あなたがたと同様に、悟りがある。私はあなたがたに劣らない。だれかこれくらいのことを知らない者があろうか。」
ヨブ記12章2、3節
3人の友は「どうしてこのようなことになったのか?」原因を追究し始めたのです。
多くの注解、解釈者たちはこの3人の友の「性質、言い分」に囚われています。
もちろん、この3人の思想、信仰に問題がないわけではありません。
しかし、彼らの言っていることは根本的に間違っていたとか、まったくの不信仰だったわけでもないのです。
時には、このような神学は、神を知るために有益なこともあります。
この3人の不信仰な点は別にあるのですが、それも明確にヨブ記では説明していません。
根本的に本題が違うのです。
また、3人の「どうしてこのようなことになったのか?」という疑問に対して、ここでもその明確な答えはヨブ記には出てきません。
ヨブも、同様にどうして「私が重荷を負わなければならないのですか?」という疑問を持ったのです。
「自分にも問題はあるかも知れないが、こんな悲惨な目にあう理由がない」と主張したのです。
ヨブにはそのような欠陥はありません。
ここでも、その疑問に対する、明確な答えはヨブ記には出てきません。
しかし、その答えは、信仰者には導かれるのであれば、はっきり見えてくる神の御業なのです。
6、ヨブの応答、答え
ヨブは自分に起きた運命を呪いました。
「しかし今は、私よりも若い者たちが、私をあざ笑う。彼らの父は、私が軽く見て、私の群れの番犬とともにいさせたものだ。」
ヨブ記30章1節
4人の意見は交わることがありません。
「この三人の者はヨブに答えるのをやめた。それはヨブが自分は正しいと思っていたからである。」
ヨブ記32章1節
事実、ヨブは彼らよりも正しい存在だったのです。
「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」
ヨブ記1章1節
そこに現れたのが、エリフです。
「すると、ラム族のブズ人、バラクエルの子エリフが怒りを燃やした。彼がヨブに向かって怒りを燃やしたのは、ヨブが神よりもむしろ自分自身を義としたからである。」
ヨブ記32章2節
ここに今回のメッセージの答えが、見え隠れしています。
ヨブは正しい人だったのです。
ただ、神をまだ十分、知らなかったのです。
エリフの弁明が続きます。
「ブズ人、バラクエルの子エリフは答えて言った。私は若く、あなたがたは年寄りだ。だから、わきに控えて、遠慮し、あなたがたに私の意見を述べなかった。」
ヨブ記32章6節
彼はこの4人よりも若い、若者です。
エリフは神を紹介し続けています。
「私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない。
だから、人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしい者を決して顧みない。」
ヨブ記37章23、24節
ここから、主御自身がヨブにヨブ自身の知識はいかに足りないものなのかを語っています。
「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。」
ヨブ記38章4節
「主はさらに、ヨブに答えて仰せられた。
非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。
ヨブは主に答えて言った。
ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。
一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません。」
ヨブ記40章1〜5節
ヨブの中にある本性は肉でだったのです。
ヨブは神を恐れ、神を敬い、信仰者として歩んでいました。
そこに災難がやってきた時に、ヨブの本性、肉が動き出したのです。
「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」
ローマ人への手紙7章18節
ヨブはエリフの弁論、主御自身からの言葉を聞いて、神の全能の力を知ることにより、より優れた一歩をヨブは踏み出すことができたのです。
「ヨブは主に答えて言った。
あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。
知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。
どうか聞いてください。私が申し上げます。私はあなたにお尋ねします。私にお示しください。
私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」
ヨブ記42章1〜6節
このようにヨブは悔い改め、新しい歩みをする者になったのです。
神には不可能がない、神は計画を持っており、どんな計画も成し遂げられることを、ヨブは知ったのです。
ヨブは神の御力を知り、信じたのです。
「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
ローマ人への手紙8章37〜39節
読者の方々はまだ気づいていませんか?
最初の疑問です。
3人の「どうしてヨブがこのようなことになったのか?」という疑問に対して、具体的な答えが出てきません。
エリフさえも、明確に答えていません。
7、救霊のための祈り
一旦、ヨブ記から離れて語りたいと思います。
あなたは、主イエスを救い主と受け入れずに死んだ者が、どこへ行くか知ってますか?
もし、知らないと言うのであれば、すぐにでも、至急、信じる必要があります。
強制ですか?
強制であって欲しいと思うほど、私は、強く、あなたに勧めます。
おそらく、クリスチャン、教会に行っている人なら誰でも、信じ、わかっていると思うかもしれません。
これからは説教者の経験、証し、現実を通して、読者、一人一人に問いかけていきたいと思います。
自分の立場は聖書根本主義と呼ばれるかもしれませんが、救霊のためなら、多少の妥協はかまわないと考えています。
つまり、救霊のためなら、超教派とも言えます。
(現実には、妥協できない場合がほとんどです。)
そうです。
救霊のために祈りましょう。
求めましょう。
そのために、我々は今、現状、現実を見なくてはいけないのです。
私はこれから、いくつかの非難を含めて、語ります。
このように非難すること自体、非難されるでしょう。
しかし、私の基点は聖書であり、もし、聖書的でありたいと思うのなら、この非難にも同意されるはずです。
もちろん、非難される価値があればの話です。
そして、一番非難されるべきなのは、私自身だと言うことです。
8、北海道フェリーの中で、、
この説教者には、霊的ダウンの時がありました。
行く教会のあてもなく、北海道からのフェリーの中で教会の青年会と思われる、あるクリスチャンたちの集りと境遇する場面がありました。
彼らは、相部屋とも言えるフェリーの休憩室で、堂々と集り、祈りを捧げていました。
このように大衆の前で、祈りを捧げるというのはなかなか根性のいるものです。
私は彼らの祈りを聞いていました。
彼らのリーダーと思われる人が声をあげて祈りました。
「イエス様、私たちの毎日の食事(ごはん)のために、十字架で命を捨ててくださいまして、ありがとうございます。」
行くべき教会がない状態の、霊的なダウンを感じている私にとっても、痛烈な言葉でした。
きっと、その前後に何か出来事があって、それに関連した祈りの可能性もあります。
しかし、その後の祈りの言葉を聞いてもその様子はありません。
もしくは教会での教えがしっかりしているのに、彼だけがこのように祈りの言葉を発している可能性も否定しませんが、それは弁護的に無理な理解になると思います。!
「すべてのことに感謝しなさい」から導かれたとしても、無理な表現です。
広い意味で、ものすごく広い意味で積極的に受け入れるにしても、受け入れることができません。
なぜなら、私たちのキリストが十字架で架かられたのは、我々が日々の食事を得るために死なれたわけではありません。
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
ペテロの手紙第一2章24節
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
ローマ人への手紙3章24節
「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」
へブル人への手紙2章18節
悪魔は教会で成功しています。
イエスキリストの十字架の御業の意味をスリ替えています。
私たちの主が呪われる者として、十字架に架かったのは永遠の罪の裁きから私たちを救い出すために、ご自分を私たちの罪のためのささげ物として、お捧げになったのです。
解釈の問題ではありません。
もし、彼らが非難される価値があればの話ですが、私は彼らを非難します。
キリストの偉大なる贖いの御業である十字架を、食事のレベルまで価値を落としたのです。
彼らが救われているのか疑問です。
救われた一般のクリスチャンであっても、人前で言葉を出して祈るということに抵抗を持つのは悲しきながら日本の現実です。
彼らの原動力は、一体何なのでしょうか?
正直、私には理解できません。
9、あるキリスト教会で、、
私は行くべき教会を探して、いくつかの教会を巡った時のことです。
理想は高く持たずに、とりあえず、主に礼拝を捧げることのできることを目標に、私はある教会の礼拝に参加しました。
礼拝の参加者は10数人でした。
自分の記憶違いで、教会の名称からして、福音的だと教会だと思っていましたが、残念な結果でした。
説教者のメッセージが始まり、聖書個所を開くのですが、まったく関係のない世間話が始まりました。
愛とか、悲しいとか単語は出てくるのですが、無意味と言おうか、何を言っているのかさえ、わかりません。
メッセージも終わり、司会者兼、説教者は集ってきている兄弟姉妹を指名して、祈りを捧げるのですが、出てくる言葉は「世には戦争、争いがある、悲しい」、「世の中を良くしてください」というものでした。
私は悪い意味で確信したのです。
「まず、この人たちに福音メッセージがされるべき」だと、彼らは救われていないと見ました。
主も、十字架もないのです。
集会の最後に聖餐式を行ったのですが、何をテーマに行ったのかわかりません。
ぶどうジュースが回ってきて「私はこの人たちと同じ杯を交わしてはいけない」と感じたほどです。
パンも回ってきたのですが、驚くべきことに「種無しパン」をわざわざ焼いて、ちぎって回すのです。
私は、この中に本当の信者がいて「つまずきになってはいけない」と思い、パンをちぎったのですが、今になれば、ちぎらずに回せばよかったと思っています。
儀式的に何を行っても、無駄です。
ラオデキアの教会のように、彼らにはイエス・キリストが必要なのです。
「見よ。わたしは、(教会の)戸の外に立ってたたく。」
黙示録3章20節
社会人であれば、日曜日に少ない時間を割くと言うことは大きな負担になるはずです。
フェリーの中で出会った、集り同様、ここに集う人たちの原動力は一体何なのでしょうか?
正直、ここでも私には理解できませんでした。
10、聖書的と呼ばれる教会で、、
教会の現状、そして、世の現状を理解するように、主は、私を導かれたように思うことがあります。
上記の二つの集まりは、救われたクリスチャンにとっては明白なものであり、すぐにわかることです。
聖書説教者、ウォーレン・W.ワーズビーのメッセージの中にこのようなものがあります。
ある人が卵を買いに行きました。
すると、「新鮮な卵あります」という看板に出会いました。
そこを通りすぎ、今度は「すごく新鮮な卵あります」という看板に出会うのです。
再び、そこを通りすぎ「とっても新鮮な卵あります」という看板に出会うのです。
作者は「新鮮」という言葉の意味を問いて、聖書の御言葉を正しく読むことを教えています。
ところが「新鮮な卵」という看板を信じて、卵を買うとなんとその卵は腐っていて、それを買った客はそれを新鮮な卵と思い込み、食べていたとしたら、恐ろしいことです。
「福音」、「恵み」、「真理」という看板を見て、もしくは信仰告白として掲げていても、実は中身が違うということがありえるのです。
「神学」、「教理」を主張していながら、実際の教会生活とは全く関係ないということが実際にありえるのです。
私の信仰生活の始まり方は特殊で、初めから開拓伝道というものでした。
仲間の母教会の牧師が、時々、説教を行うために来て、まさにローマ人への手紙7、8章を教えていました。
私はその時、これらの御言葉は知りましたが、その時は知識として蓄えたかも知れませんが、それを習得したのは、後のことだと思っています。
私にとって、私はその教会組織の人間でなかったのが幸いだと思っています。
その教会組織ではたくさんの問題が起きましたが、多くは私にとって、明白でした。
組織の中にいると盲目になりますが、外から見ているとはっきり見えることが多いのです。
常に、私は誰にもつまずきを与えてはいけないという立場を取ってきました。
もう、数十年前の話ですが、バレてしまうかもしれませんので、若干、省略させていただきます。
ある時、その組織の牧師が言ったのです。
「あるその国に、伝道に行く御心が与えられました。」
あるその国の宣教師と連絡がつき、自分と同意したとのことです。
単純に私は、あるその国にに伝道しに行くことを決意したことだと理解したのですが、違ったのです。
クリスチャンには聖霊によって「志」が与えられることを信じています。
もしくは「聖霊のうめき」です。
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」
ピりピへの手紙2章13節
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」
ローマ人への手紙8章26節
人間、クリスチャンの感じる「志」はどこから来たのか、正確に理解することが出来ないと思いますが、感じることがあるのは事実です。
ところがこの場合、意味が違ったのです。
その教会では、ある人生のテーマにぶつかった時、一生懸命祈れば「御心、確信」というものが聖霊、神御自身から与えられるということを教えていたのです。
この牧師は、それに従って、この御心が与えられたと主張していました。
その牧師は、知り合いのいくつかの教会に連絡を取り、献金を集めることを指示しました。
当時、私は子供が出来たばかりで、貧しかった記憶がありますが、わずかですが、持ち金の半分近くを献金した記憶があります。
若く、信仰に入って、年数も少なかったので、きっと、信仰の先輩方には、このような御心が与えられるのかと思いました。
しかし、自分が学び、感じていた「信仰によって生きる」という原則とは、ほど遠いと自分は理解しました。
信仰とは「絶対者の言葉は必ず成就する」、その言葉が聖書だということです。
事実、その教会では女性がお見合いなどで、結婚を決める時など、同じ手法で御心、確信が与えられたかを判断基準にしていたのです。
教理、教えられていることが茶番のごとく、無視され、その御心がクリスチャンの歩みとされていたのです。
私が確信という言葉を使うのであれば、文字通り、自分の確信で、思い込みもあります。
しかし、彼らの使う確信という言葉は、神からの思い、メッセージ、確信だったのです。
なので、彼らと同じ単語を使って話していても、通じることはありません。
予想通り、あるその国の宣教師の素性がばれたと説明されていましたが、実際はわかりません。
どうやら、同意できなくなったようです。
そこで、その牧師は言ったのです。
「御心は違った!」
そうです。
その御心を示した神とされる方は「言っていることが変わるのです」!
彼らの信じている方は「結果によって」言うことが変わってしまうのです。
その教会の牧師は、自分はパウロと同様に召された者だと主張していましたので、同意しないということは不信仰です。
それも、その教会内では、それがおかしなことだと気づかずに消化されてしまうのです。
「ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」
あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。」と言うような場合は、
預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」
申命記18章20〜22節
説教壇の上からメッセージは、神学、教理を教え、具体的な歩みは「御心、確信」でした。
感謝なことにその教会では福音という意味での伝道の必要性は説かれていました。
しかし、言うことが変わる神の声を聞いて、どうして死後自分がどこに行けるのか、何を根拠に言えるのでしょうか?
それを言える力がどこにあるのですか?
「御心、確信」と言いながら、同時に「神の約束」だからと言えてしまうのです。
私には理解できません。
笑い話のように思われるかもしれませんが、組織の中にいるということで、多くの宗教団体、カルト同様に盲目になることがありえるのです。
真理を持っていながら、牧師自身も自分に適応できていないのです。
私は多くの信仰者が行っているように、デボーションをお勧めします。
一人、一人が御言葉と自分を照らし合わせ、どのように自分に適応して行くべきかを求めながら、祈ることです。
これは、歩きながらでも、電車の中でも、余裕のある時に行うことができます。
クリスチャンは同じ聖霊に導かれていますが、適応という意味では一人一人食い違って当然です。
逆に、牧師の言う通りなどと一致していることの方が怪しいのです。
彼らは、かつてのイスラエル人たちのように、神の言葉だけの信仰で進めば、信仰的に歩めたかもしれません。
現在の教会において、聖書だけならば「義人は信仰によって生きる」ことが容易だったかもしれません。
いつからか、イスラエル人はミシュナー(口伝律法)を持つようになりました。
ミシュナーは聖書を研究した教えでしたが、聖書に付け加えたものです。
イスラエル人たちは聖書を持っていながら、自分たちこそが神のみことばに忠実で正統派と思いつつ、心は神の御言葉から神学に移ってしまったのです。
ここで紹介した、この教会の問題点の一つでしたが、いくつか確認できています。
教理主義者、一見、教理を重視した者だと思えますが、中身が違うことがあるのです。
聖書を信じると言いながら、神学を手にして、その歩みは全く関係ない歩みをしていることにさえ、気が付かないのです。
なんであろうと、教会も人間組織です。
通うクリスチャンたちの霊的な認識力を維持させる必要性があり、教会は人間の所有物、支配下にないということを理解すべきです。
世の会社、社会、宗教、カルト、組織がうまく機能していればメリットもあると思いますが、その限られた社会に生きる時、悪魔は価値を入れ替え、現実を見せなくさせることができるのです。
11、御言葉を収納すべき心の図書棚
私は神学や、教理書を読み、知識によって信仰を守ることが必要だと感じています。
しかし、読む者、受け止める者に、適切な心の場所、本棚に入っていない場合があるのです。
有益な真理も、置かれるべき場所に入っていないと信仰には結びついていないことがあるのです。
私はこれを教訓にして、人に語る時、主張する時は次のことを明確にしています。
1)明確にわかる神の御言葉、絶対的な約束。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
ヨハネの福音書3章16節
ここでは、「御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」と断言しています。
何の解釈も要りません。
特にクリスチャンの方々が読み落とす可能性があるのは、神は神の御子を信じるクリスチャンだけを愛されたのではないのです。
世を愛されたです。
神を信じない、神に反逆し、滅びに向かっている世を、神は御子を与えるほどに愛されたのです。
ゆえに、すべての救いの御業は神側で完了しており、御子を受け入れるだけで人は救われることが出来るのです。
2)言葉の意味を正確に知るための注解。
「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
ヨハネの福音書3章17節
ここに神が御子を世に遣わされた目的について語っています。
では、聖書のいう「さばき」とは、「救い」とは何かを聖書の他の個所から知る必要性があります。
文字通り読み、手紙として、物語として、前後関係を理解しながら、時系列に読んでゆくことが必要です。
もしくは、聖書の書かれた時代の理解するために、聖書のバックグランドの理解することも必要です。
これは聖書を聖書の他の個所から説明するもので、解釈(解き明かし)ではなく、注解です。
3)御言葉を我々に適応するための理解。
「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。
ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」
ガラテア人への手紙3章1、2節
はっきり言えることは、これは使徒パウロがガラテア人に書いた手紙です。
ガラテアの教会には律法に関する問題がありましたが、私たち日本人にはモーセの律法は、初めから与えられていません。
なので、直接、関係はありません。
しかしながら、このパウロの手紙の中でクリスチャンたちがおちいり易い教訓、真理を読む取ることができるのです。
クリスチャンの救い、信仰生活すべてが神側で準備されており、信仰によってクリスチャンは歩むのです。
それが、律法、もしくは、行い、儀式に入れ替わってしまう可能性があるのです。
このように、使徒パウロがガラテア人に書いた手紙の中に、我々に適応できる真理を読む取ることができるのです。
4)我々がより多く神を知るための手法として、聖書個所を解釈して読む。
「そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。
わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。」
黙示録1章19、20節
黙示録の初頭で、使徒ヨハネは神からの直接啓示を受けます。
これはヨハネだけ、特別に与えられた啓示であり、現在のクリスチャンが経験するものではありません。
神はヨハネに「あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事」を示したのです。
あなたの見たこと「イエス・キリストの生涯、十字架、復活」、
今あること「教会の誕生、現在のキリスト教界」、
この後に起こる事「教会が地上からなくなったあとの神の世に対する裁き」。
神はここで「今あること」として、7つの教会を紹介しています。
ここにある7つの教会は、実際、当時に存在していた教会で文字通りの問題が起きていたと私は信じています。
ですが、象徴的にこの7つの教会は、預言的に教会時代の7つの時代を指している解釈を私は支持しています。。
ただし、これは人間の深読み、もしくは人間の解釈です。
この解釈が、他の聖書の絶対的な約束と、同じこころの本棚にしまってはいけないのです。
聖書を知るうえで必要な解釈もありますが、ここははっきりと線を引く必要があるのです。
一人一人が聖書の御言葉から学び、これは牧師の解釈、神学、信仰書の著者の意見、もしくは、聖書の絶対的な約束を区別して心の別の本棚にしまわなければ、信仰上の混乱になるのは間違いないです。
もし、最初に書いたように、神の絶対的な断言と同じ書棚に入れるのであれば、この解釈が違っていた場合、あなたの救いもいい加減になるのです。
(多くの信者の方々が、混乱さえせずに、消化しているようですが、不思議です。
というより、それほど信仰がいい加減になっている証拠です。)
このように、自分は聖書的だ!と納得していながら、、
まったく、別のものに仕えていることが、実際にありえるのです。
その実例がパリサイ人であり、彼らは自分たちのメシアとして来られた方を十字架に架けたのです。
12、聖書から知る福音とは!
私は、これ以上に、現在の教会の様子を見てきました。
私は他の教会を非難している偏見者でしょうか?
これらの教会が非難できる価値があるのであれば、非難したいです。
非難できる価値さえもない、キリストが存在していない教会があるのは事実です。
あなたの通う教会がそのようでないことを願いますが、まずは満点である教会は存在せず、まず、礼拝が守られることを願います。
望むのであれば、あなたが奉仕し、満足できる教会であることを願います。
これからは聖書から語る世の現状について、話したいと思います。
先に書いたように、この聖書個所は解釈することなく、神の宣言です。
言葉ですので、十分とは言えませんが、単語の意味を一つ一つ丁寧に説明してゆきたいと思います。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
ヨハネの福音書3章16節
神とはどのような方でしょうか?
日本語で神というと、神仏というイメージがありますが、聖書のいう神は、天地万物を創造され、今もこの世界を維持されていられる方です。
つまり、この世界について権限を持つ方です。
絶対者とも言われ、聖書の中で神の性質が描かれています。
神は有言実行、言われたことは必ず成就します。
ひとり子とは誰のことでしょうか?
イエス・キリストのことです。
彼は聖書の予言通り、つまり、絶対者の言葉の通りにこの世に来られました。
彼は多くの予言の通りに、ご自身を全人類の罪のためのささげ物と十字架の上で死なれたのです。
このように、天地万物を創造された方が、世のために、世を愛するゆえに、御子イエスキリストをお与えになったのです。
クリスチャンのためだけではなく、世全体のために、御子をお与えになりました。
「ひとりとして滅びることなく」。
これが神の願いなのです。
どうして、人は滅びないといけないのでしょうか?
聖書の他の個所でこのようなに書かれています。
「それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
「彼らの足は血を流すのに速く、
彼らの道には破壊と悲惨がある。
また、彼らは平和の道を知らない。」
「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」」
ローマ人への手紙3章10〜18節
すべての人は生まれつきの罪人なのです。
人類は罪人の集まりで、戦争を起こし、殺し合いをします。
あなたも例外ではなく、今の環境が変われば、すぐにでも犯罪を犯す素質を持っているのです。
神はこの罪人にさばきを下すのです。
もともと、人間は永遠に生きるものとして創造されたのですが、人類が罪を犯したため、死ぬ者になってしまったのです。
進化論は言います。
「人間は偶然の産物、DNAの塊に過ぎないと、、
あなたの人生に目的など持つことがおかしいのだ、偶然の産物に目的など存在しない!
ならば、種として考えるのなら、人間は子孫を作り、子孫をつくり死んでゆくのならば、喜びになるはずだ!」
あなたという存在は偶然の産物でしょうか?
進化論は種として、子孫を作れば、死んで無になることで満足できる。
それは喜びでしょうか?
違うはずです。
無になることは、死は絶望で、希望ではありません。
本来、神はあなたをそのように創造されてはいません。
しかし、人類は罪を犯し、神から離れ、神にとって無用な存在になってしまったのです。
あなたの机の上にゴミがあるなら、それをゴミ箱に入れて、捨ててしまうはずです。
神も、罪人を滅びに引き渡されますが、人間には理解できないほどの愛を持たれる神は違いました。
神の御子でであるキリストは、あなたのために、あなたの罪、すべてを神御自身が背負って、十字架に架かって死んでくださったのです。
神御自身が創造された人間に、罪の責任を負わせることなく、罪の責任をご自分で背負ってくださったのです。
キリストは、自分でそんなことを言って死んだだけで、信用に値しないと言われるかも知れません。
ユダヤ人の信じる旧約聖書のほとんどが、いや、すべてがそのために書かれたと思われるほど、旧約聖書のテーマは「メシア、救い主が来る」なのです。
21世紀になっても、ユダヤ人たちをこれを信じ、中東でこれが原因で争いが続いているのです。
神の御言葉の預言、宣言通りにイエスキリストは処女マリアを通し、生まれ、十字架に向かって、命を御捨てになられたのです。
その証拠に、預言通りにイエスは3日目によみがえり、弟子たち、多くの人たちに御現われになり、彼らは命を張って、それを宣べ伝えたのです。
イエスキリストの十字架を、自分の罪の身代わりと受け入れた者は、神の御元、日本語でいう天国に入ることができるのです。
このように「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」であると神の宣言がされています。
解釈など必要ない、これは絶対偽りのない、言ったことは必ず実行する、完全者の完全な宣言です。
また、これは人間の努力、行い、儀式、聖さなどによって与えられるものではありません。
神側ですべて完結しています。
人間側は何もすることはありません。
ただ、認め(信じ)受け取ることです。
聖書には神の御元である天国がどのような場所であるか、十分に記されていますが、、
ここでは、聖書のいう滅びの場所について、綴ってみたいと思います。
13、聖書の語る滅びの場所
イエスは多くの個所でたとえ話でお話になっています。
必ず、たとえ話を語る前に、イエスはこれはたとえ話だと言ったうえで、お話になっています。
ここでは、イエスはたとえ話とは言っていません。
イエスはこのように語っています。
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、
金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』」
ルカの福音書16章19〜26節
人間は死後、永遠の時があると聖書は語っています。
神の御子、私たちの救い主である、イエスキリストはこの個所で金持ちと貧乏人のラザロを紹介しています。
この金持ちは名前で呼ばれていませんが、この貧乏人はラザロと呼ばれていますので、おそらくエルサレムでも知られた人物だと想定します。
イエスキリストは天地を作られた神に預言されたメシアです。
聖書の中ではイエスキリストは多くのたとえを使って、真理を解き明かしましたがここでは個人名を挙げて説明しています。
(金持ちだから炎の中にいたのではありません。ラザロは貧乏人だから哀れにを受けていたのではありません。)
これは、「たとえ話」ではないのなく、現実の話として紹介されているのです。
この金持ちは地上では哀れむ心を持っていませんでした。
門前に飢えて死んでしまうような人間がいるのに食べ物を与えませんでした。
しかし、金持ちは「私をあわれんでください。」と叫んでいるのです。
また、約2000年の昔から今も「私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」と叫び、今もこの炎の中で苦しんでいるのです。
楽しむべきものは何もなく、ただ、苦しんでいるのです。
この場所は聖書は「ハデス」と呼んでいます。
このハデス(ギリシャ語)は二つに分かれており、一つはアブラハムの懐と呼ばれる哀れみの場所、もう一つは最終的な神のさばきを行うまでの留置所(仮の苦しみの場所)です。
このように神の救いの提供を無視した罪人は、このような場所に一時的に入れられます。
やがて、時が来て、黙示録の時代に入り、この地上の罪も裁かれます。
その後に、この「ハデス」は別の場所に入れられます。
「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
黙示録20章11節
イエスはこの場所を「ゲヘナ」と呼んでいます。
「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」
ルカの福音書12章5節
罪人の一時的な留置は終了します。
ゲヘナとは神の怒りの現れの場所、刑の執行場所です。
その炎は赤くなく、暗い闇です。
「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」
ペテロ第二の手紙 2章4節
現在の物理通りであれば、太陽の黒点、8000℃以上です。
皆、永遠に歯ぎしりします。
「火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」
マタイによる福音書 13章42節
うじもいます。
罪人は死なない体を持ちますが、その死なない体を餌にして永遠に食いつくす「うじ」をあなたは飼うのです。
「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」
マルコによる福音書 16章24節
終わりがありません。
イエスキリスト、そして聖書は繰り返して、永遠という言葉を使っています。
「もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」
マタイによる福音書 18章8〜9節
多くの教会が、信者がこのことを前に出したくない、一般ウケしない、もしくは信じたくないという現状をどのように私たちは受け取るべきでしょうか?
14、絶対的な救い
このように、聖書を信じるということは精神論の話ではないことが解ってくると思います。
確かに、この世界を歩んでいると、悩み、苦しみが追いかけてきます。
神は、クリスチャンがこの世界で悩むことを望んでいません。
しかし、それ以上の問題があることを知ってください。
キリストは我々の罪の身代わりに十字架上で死んでくださったのです。
もし、罪ゆえに、罪を持った人間が裁かれるのであれば、、
あの罪の責めを知っている者ならば、その罪の力がどのように強大なのか知っていたとしても、
それは死の力のほんの一部です。
「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」
へブル人への手紙9章29節
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
ヨハネによる福音書 3章36節
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」
ヨハネによる福音書 3章16〜18節
聖書では繰り返し述べられていますが、この個所を引用します。
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」と断言しています。
「持っているかも知れない」、「頑張れば持てるぞ!」、「持てるような人間になりましょう!」ではありません。
「持っているのです!」
使徒パウロはこのように書いています。
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」
コリント人への手紙第一15章3〜5節
もう一度、新約聖書の初頭での、バプテスマのヨハネを引用します。
「見よ、神の小羊。」
ヨハネの福音書1章36節
イエスキリストの生まれる1300年前に、神はユダヤ人たちにある儀式を要求しました。
それは、罪の身代わりのささげ物を捧げることです。
祭司は人間で、それを捧げる人も人間でした。
それは完全に罪を取り除くことはできずに、単なる予表でしかなかったのです。
「律法(儀式)には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。」
へブル人への手紙11章1節
もう一度、繰り返しますが、イエスキリストはあなたがたの罪、天地万物の創造主である神との関係を阻害する罪の問題を、すべて御自身に背負って十字架に架かって死なれたのです。
「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」
エペソ人への手紙1章7節
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
コリント人への手紙第二5章12節
そして、罪の問題が解決されていない者は滅びが定まっています。
では、救われた者たちはどこに向かうのでしょうか?
15、神の御国、新天新地
私たちキリストを信じた者には、天に行き、物理的な新しい体が与えられます。
天とは、神のおられる物理的な場所です。
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」
コリント人への手紙第二5章1〜4節
地上にいる間、死、罪の性質を持った人間はもがき苦しんでいるのです。
キリストが十字架の上で、我々の罪の問題すべてを解決してくださったので、我々の新しい体には罪の性質が存在していません。
そこに行く手段は「死を通して」だけではありません。
世の終わりの直前に、キリストが直接、我々を迎えに来るのです。
私は死など通りたくありません。
もちろん、主がそれを定めておられるのであれば、平安にそれを迎えることができると信じています。
生きたまま、直接、天に行くのです。
私はそれを心から待望しています。
この世の中の傾向が、まさに、聖書の語る終末に向かっているのは明白だからです。
「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。」
コリント人への手紙第一15章52〜54節
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」
ピリピへの手紙3章20節
最初にキリストにあって、死んだ者がよみがえります。
そして、この地上で生きているクリスチャンは新しい体に変えられるのです。
先に、我々は神の御元である天に行きます。
そして、神が黙示録にあるサタンへの裁きが完了した後に、天は新天新地に移され、私たちはそこに行くのです。
「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」
テモテへの手紙第二3章13節
このように、私たちは新しい天と新しい地を待ち望んでいるのです。
たとえ、この私の生涯の終わりが死で終ろうと、それとも、時が満ちてその時が来ようと、私たちは新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、
私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」
エペソへの手紙1章10、11節
黙示録には、より鮮明に書かれています。
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」」
黙示録21章1〜4節
16、キリストの復活
ここで、新約聖書の福音書に戻ってみたいと思います。
キリストはユダヤ人の策略によって、異邦人(ローマ人)に渡され、総督ポンテオ・ピラトの裁判にて死刑判決を受け、十字架刑にさせられました。
まさに、ユダヤ人が過ぎ越しの祭りで、罪のため(身代わり)のささげ物が捧げられている、その同時間にキリストは十字架刑にさせられていたのです。
そのささげ物は、かつてユダヤ人がエジプトで奴隷だった時に、預言者モーゼを通して、神がユダヤ人にエジプトからの開放、脱出を記念し、そして罪のため(身代わり)のささげ物を行いなさいと命じたのです。
まことのささげ物になれらた「神の子羊」は十字架にかかり、最後にこのように言われました。
「完了した。」
ヨハネの福音書19章30節
何が、完了したのでしょうか?
まことの「神の子羊」による、罪の身代わり、贖いが完全に完了したのです。
もう一度、ヘブル人への手紙の引用を見て見ましょう!
「律法(儀式)には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。」
へブル人への手紙11章1節
「キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」
へブル人への手紙7章27節
神の提供した、神御自身が捧げる完全な小羊によって、完全な罪の贖いが完成されたのです。
神と受け入れた者との間にあるすべての罪の問題が解決されたのです。
この個所はキリストの完全な贖いを主張するのに、何度でも語られるべきだと思っています。
そして、キリストはそのまま死に留まることはしません。
キリストは、聖書の預言通りに死からよみがえりました。
死の力を突き破ったのです。
「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
はいって見ると、主イエスのからだはなかった。
そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
ルカの福音書24章1〜7節
現実にイエスがよみがえられた時の描写です。
そして、よみがえったイエスに会った者は500人を超えていると使徒パウロは伝えています。
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」
コリント人への手紙第一15章1〜8節
その復活を見た者たちは、のちに迫害され、殺されようとも、このキリストをのべ伝え、当時のローマ帝国をひっくり返すほどの影響力を持ったのです。
では、なぜ、キリストの復活の必要性があったのでしょうか?
「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
コリント人への手紙第一15章20節
「主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。」
コリント人への手紙第二4章14節
「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」
ペテロの手紙第一1章3節
「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」
ローマ人への手紙4章24、25節
復活の意義に関しては、聖書には多くの個所に記されています。
まず、復活は眠った者の初穂、死んだ者は必ず、物理的な復活を果たすという保証になります。
最初の者がよみがえったのなら、キリストに続く、キリストを信じ受け入れた、私たちもよみがえるという保証になります。
その保証によって、知識、理解の上においても、クリスチャンは死の恐怖から解放されているのです。
「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」
へブル人への手紙2章14、15節
復活後のからだは物理的なからだなのです。
天に行くということは、霊的と言われるふわふわした世界を指していません。
「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」
コリント人への手紙第一15章42〜44節
そして、イエスキリストの復活は旧約聖書の預言が成就することであり、イエスこそがユダヤ人の待ち望むメシアである証拠だったのです。
この苦しみのメシアに対してこのように書かれています。
「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」
詩編16編10節
「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」
イザヤ書53章8節
ここで苦しみのメシアは絶たれます。
「もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」
イザヤ書53章10節
メシアは自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、子孫を見ることができると言っています。
いのちを捧げ、死に至ったのに、その後に祝福があると言って言います。
イエスキリストの生涯について、この他にも多くの預言がなされています。
当時のユダヤ人には、否定しようがないものでしたが、人間の不信仰は何を見ても、何が起きても、信じることが出来ない罪人なのです。
このように、イエスキリストを自分の救い主として信じ、十字架の上で私たちの罪すべての身代わりとして信じた者には永遠の天国に入ることが保証されているのです。
17、クリスチャンとして、現実を知ろうではありませんか!
このように主イエスキリストを信じた者は、永遠に失われることはありません。
天に入れるのです。
完全に安全です。
たとえ、この地上で苦しみの生活を過ごそうとも、迫害されようとも、このことが確定していれば、一次的には安心です。
もちろん、人間はその場の苦しみ、悩みの解決が、目の前の宿題になりますので、神はそのことを守り通してくださいます。
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
ピりピの手紙4章6、7節
そうです。
あなたと、私は安全なところに移されました。
それだけでいいんですか?
それで満足していますか?
何か、忘れていませんか?
朝、起きて、公園を通って、仕事に行こうとする人がいます。
公園で通り過ぎる人は、滅びに行きます。
永遠の地獄の火で焼かれます。
電車に乗って、仕事に向かいます。
電車に乗っている人はいっぱいですが、ほぼ、全員、地獄に向かいます。
仕事先の人もほとんどが地獄です。
いや、この町のほとんど、この国のほとんどの人がまっすぐに地獄に向かっているのです。
あなたの親しい友人、親戚、もしくは家族も地獄です。
永遠の火の池で焼かれます。
あなたは何をやっているんですか?
平然といつものように、このことに黙って、仕事をするのですか?
どうして、できるのですか?
日本人のクリスチャンである割合が、カトリックなどを含めて1%と言われています。
先に書いたように、救われている人1%もいないです。
おそらく、クリスチャンと言われる人の10人に一人が救われていれば良いのではないでしょうか?
つまり、良くて0.1%だと考えています。
多くの教会が機能していません。
それでも、機能している教会があることは、何よりも感謝です。
多くのクリスチャンに対して、言いたいんです。
「あなたは何をやっているんですか?」
なぜ?このことに対して狂気になって、宣べ伝えないのですか?
日本人のほぼ全員、滅びです。
否定している方に言わせれば、進化論によって、永遠の消滅です。
否定しても絶望、肯定しても絶望なのです。
このように、救いはキリスト以外にはありえません。
「あなたは何をやっているんですか?
平然といつものように、このことに黙って、毎日の仕事ができるのですか?
どうして狂気になって、宣べ伝えないのですか?」
そうです。
現実を見るならば、自然とローマ人への手紙7章に戻るしかないのです。
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。」
ローマ人への手紙7章15節
「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」
ローマ人への手紙7章18節
この救霊の思いが肉の性質から来るものですか?
それとも、聖霊によって導かれているのでしょうか?
私はこの地上で、この苦しみを味わって、救われる者が起こされるのなら、あえて味わいたいとも思います。
日本中の多くの牧会者、信者たちからこの思いが消え去っているように見えます。
パウロも同胞のユダヤ人対する同様な思いをこのように綴っています。
それも、8章のすぐ後にです。
「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」
ローマ人への手紙9章2、3節
18、ヨブの場合
ヨブの場合に戻って考えてみましょう。
最初に災いが訪れた時、ヨブは不平を言わずに感謝をしています。
「そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。」
ヨブ記1章21〜22節
さらに、ヨブに災難が降りかかりますが、ヨブはそれでも罪を犯すようなことはしませんでした。
「すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」
しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。」
ヨブ記2章9〜10節
そこに3人の友が訪れ、その時、ヨブの中にある性質が動いたのです。
いや、主がその状態まで持って行き、そこからヨブ記がスタートしたのです。
1、2章は導入だったのです。
「その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。」
ヨブ記3章1節
19、あるクリスチャンへの試練
私はあるクリスチャンの激しい試練の話を知っています。
その人物は、救霊に熱心であり、聖書が神の絶対なる言葉だと信じていました。
毎日のように、自分の無力さに嘆き、滅びゆく世に涙さえもしていました。
仕事もきつかったのですが、幸せな家族があり、睡眠を削ってまでも、教会の奉仕に参加していました。
その人が求める夢は、昼間、太陽の当たる時に家にいて、横になることだったのです。
ある土曜日、教会で日曜学校の一環として、子供たちを河原に連れてゆく企画に子供たちとその人の妻は出かけました。
本人は仕事がきつかったので、家で休んでいましたが、その人の妻からの悲痛な電話がありました。
子供がおぼれたのです。
その人は必死になって、現場に向かい、そして、病院に行き、そこにあったのは子供の遺体でした。
その教会では、福音が語られていましたので、すぐに子供が天国に行ったので、喜ぼうというムードです。
人が人生を全うして天に行くのあれば、それは通じるかも知れません。
しかし、その家の主人公とも言える子供が、突然いなくなって、遺体になって帰ってきて、喜べはありえないのです。
あまりに理解しなさすぎです。
連れて行った本人たちは、毎年、何人も命を落としている場所に連れてゆき、幼い子供をほっといて事故だと流していたのです。
日曜学校に行っていたその子の兄は「教会の喜べムード」に嫌気を差したのでしょうか?
その時から教会への完全な拒否を始め、その人に対し、二度と父だと呼ばなくなったのです。
その人が力を失っているのを見ると、他の教会員たちはその人に「あなたの信仰が弱すぎる」などの非難を始めました。
その人は気力を失い、仕事などできなくなり、会社を辞め、今、自分にできることはなにかと問い、ひたすらに伝道しました。
何十人という多くの人が教会に足を運び、主の御技を見ましたが、それでも救われる魂が起こされません。
その人は、やがて、これが主の与えられた試練だと受け入れ、地に足が着きました。
その人はその教会の欠陥も知っていました。
その人は、上記のような反応をすることも予想していました。
その通りに教会が反応したのです。
どんな組織にも欠陥がありますので、流しておくべきところは流しておくものです。
このような状態の時、明らかに牧師視線の露骨な曲解に対して、敏感になり、怒りの態度にもでるようになったのです。
悪魔はその人の怒りに対し、罠を仕掛けていたのです。
その後、その人は直接、牧師から電話一本で、事実上家族ごと除名宣言を受けました。
「聖書にどこにそんなことが書いてあるのか?」との問いに、
「そんなことよりも、僕たちの組織に従えないのなら、出て行ってくれ!」でした。
その教会のどこに問題があるのか?この言葉だけで充分です。
その人に追従する人が起こされ、数人の人が集まって来たので、その人は教会としました。
古い2階部屋を借り、教会の看板をあげ、礼拝を捧げることができたのです。
主の導きだと思っていたのですが、そんな簡単ではありません。
仕事もしていなかったので、やがて、財政的な問題が降りかかってきます。
時代は不景気、就職難、その人はタクシー運転手を試みましたが、免許を取るにも資金が必要でした。
派遣社員などをしますが、賃金が安すぎて、生活もできません。
やがて、その人はうつ病になりました。
病院に行くにもお金がかかります。
やもえなく、その人は、子供のいたころの昔の会社に、頭を下げて戻してもらいました。
社内事情が変わっていました。
かつての仲間が、上司になり、不景気な時代の製造業!
まさに、いじめ真っただ中です。
お願いして戻ったので、日曜日も仕事をやるしかなく、教会に集う仲間からは不平を言われ、彼らはやがて去って行きます。
これほど、何をやっても無駄、落胆を感じたことはありません。
住んでいた団地も、収入制限があるので、出てゆく羽目になり、頭金の少ないマンションを購入して住みだします。
ところが、知識もなくマンションを買ったので、出費の半分近くが管理費、いくら払っても元金は減る気配はありません。
借りていた教会の部屋も出てゆくことにしましたが、その人に限界がやってきたのです。
悪魔は人を罠にかけます。
露骨にわかる罠ではありません。
長い時間をかけて、一枚一枚、その人の守りを剥いでゆきます。
時には、これは神の導きではないかと思うことさえもあるのです。
その人は、家族と別れ、不動産を売り飛ばし、借金をなくし、世話になった会社を強制的に辞め、縛っていた物をすべて無くし、他国へと旅立ったのです。
放蕩息子のように、、
守っていた信仰が一挙に吹っ飛んだのです。
ヨブのように、、
「その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。」
ヨブ記3章1節
年月が過ぎ、その人は日本に帰ってきます。
その間も、導きがあったことを本人は知っています。
家族に連絡を取ろうとしますが、電話番号も、住所もわからずに連絡が取れません。
古い電話番号は受信拒否になっていましたが、どうやら、みんな、電話も、住所も変えていたようです。
子供に連絡が付きましたが、家出状態で、今だに口など聞いてくれません。
その人は、何かを得ようと異国に行ったのですが、すべてを失くしたのです。
自分の行った罪に対して、悔やみ、自分はどこで落ちたのかを考えていました。
「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。」
黙示録2章5節
自分は主に対して、滅びゆく魂に対して、熱心であったのは間違いない。
でも、どこで?
また、歳月が過ぎ、偶然にも、他人の携帯電話から妻の電話番号が見つかったのです。
その人はとんとん拍子で話が進むので、これは神の導きに違いないと思い、携帯のメールを送ります。
メールの返事が返ってきましたが、まるで、他人のようなメールでした。
やがて、電話がかかってきました。
妻からの電話です。
どうやら、お金に困って、人の世話になり、奴属的な仕事につき、信仰生活も捨てていたのです。
その人の妻はその人を呪う言葉で嫌いました。
その人は黙って、電話を切りました。
その時、その人は、自分の考えでもなく、自分の感情でもなく、勝手に口からこの言葉を発したのです。
「神はいない」
その人は、自分の置かれた現状よりも「この言葉に驚いて」涙したのです。
「なんてことを言ってしまったのだ!
自分はここまでもひどい罪人なのか?」
同時に、その人は多くのことに目が開かれたのです。
「私は、多くの人たちを許せないと思っていた。
しかし、この世界で一番の罪人は私だ!
赦してほしいのは自分の方だ!
こんな罪人が何かしても、無駄だ!
お前のような罪人が働いても、何も利益になることはない!
お前が伝道しても、滅びゆく魂に語り掛けても、結果が出るはずがない!」
多くのクリスチャンが、自分の行いには結果が出ると思っているのです。
材料を買ってきて、調理をすれば、料理ができると思っているのです。
頭の中では理解しているかも知れませんが、神が許可されなければ、結果などでないのです。
クリスチャンであっても、日本語でいう「体で覚える」ということができていないのです。
「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」
ヨハネの福音書3章27節
「また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」
コリント人への手紙第一12章13節
「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」
ローマ人への手紙11章36節
そして、その人は気が付きました。
「主がなさった」と、、
20、試練の結果
多くのクリスチャンが滅びゆく魂に対して、現実から目をそらしているのは事実です。
もし、直視するのであれば、耐えきれない苦しみに会います。
「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」
ローマ人への手紙7章18節
あなたに日本人1億2千万人の魂を導く、能力も、力もないのです。
もし、その責任をあなたが背負うというのなら、あなたは潰れるだけです。
同時に、何も感じないクリスチャンがいるのであれば、それも悲劇です。
我々には「何か結果が出る行動など」起こすことは不可能なのです。
何回も頭の中に入れても、この人間は何か結果を出そうと頑張るのです。
無駄です。
そうです。
ローマ人への手紙7章というのは、8章へ行く通過点であり、必ず、通らなければならない道なのです。
クリスチャンは、頭でっかちになり、何回も失敗します。
御言葉に根差し、体が覚えるまで、主は我々を何回でもこの7章に引き戻されるのです。
では、我々は何をすべきでしょうか?
家でじっとしていればいいのでしょうか?
違います。
祭壇をつくるのです。
主の栄光を待ち望み、ただ、祭壇を作るのです。
そして、イエスキリストを覚え、贖い主イエスキリストが何をしてくださったのかを覚えるのです。
旧約の時代、モーセは仕事を終えた時、主の栄光が幕屋に満ちました。
「また、幕屋と祭壇の回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうして、モーセはその仕事を終えた。
そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。」
出エジプト記40章33、34節
「あなたにできることは何ですか?
何もできません。
あなたの肉の体の行いなど神には不必要です。
神が物事を成すとき、あなたの行いなど必要ないのです。
恵みによって、完全に神側の用意された救いに預かった我々が、行いによって結果をだすことは不可能です。
救いが恵みであれば、クリスチャンの歩み、行いも恵みなのです。
「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」
ガラテア人への手紙3章3節
「肉にある者は神を喜ばせることができません。」
ローマ人への手紙8章8節
しかし、今、私たちは同時にこのように言うことができます。
「もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」
ローマ人への手紙8章13節
今、我々が幕屋であり、私たちの内には聖霊が宿り、クリスチャンの歩みとは、主の栄光を期待して、祭壇をつくることです。
(神との関係においては、すでに、捧げものは捧げられているのです。)
「確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」
コリント人への手紙第二5章4節
そして、自分自身を神の御栄光のために捧げるのです。
すべて、神の栄光で満たすためです。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
ローマ人への手紙12章1節
あなたの重荷をすべて、主の差し出しなさい!
目に見える物理的な結果を求めるのではなく、ただ、主の栄光を求め、今、できることからを行動を起こすのです。
あなたがキリストの御名によって祈る時、その祈りは御子が父に捧げる祈りになるのです。」
「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。」
ヨハネの福音書16章26、27節
我々は現実を見た時、自分の無力さに気が付きます。
そして、どうにかしようともだえるのです。
もし、一人の人が救われるのなら「自分にどんな苦しみが来てもいい!」
その思いが悪でしょうか?
肉でしょうか?
御霊の働きと信じています。
そうです。
導かれているのです。
「あなたには何も出来ないと言うこと」を体で覚えないといけないのです。
いまはただ「主の栄光を待ち望んでいる」だけで、目の前のできることをやるだけです。
行動を起こして、結果を起こすのではありません。
「ただ、主の栄光を見せてください。」
(ここでの表現「体で覚える」は聖書的ではないと言われるかもしれません。
日本人には「心に刻む」より、「体で覚える」の方が的確な表現だと思います。
表現が悪いですが、調教されるでもいいと思います。)
そうです。
今、我々に必要なのは、この地上にいる間、何が出来るのでなく!
主御自身を求めることです。
主は、まもなく、この地上に来られます。
その間に、私たちはこの地上で主の栄光を探し続けるのです!
クリスチャンは御言葉の知識によって、その試練を超えることが求められます。
現実には、御言葉の知識と主が直接与えられる試練によって、我々はさらに主に似た者にされる必要があるのです。
光の子として、それ以上にキリストの弟子としてです。
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」
ローマ人への手紙8章14節
何よりも、あなたは自分自身で、自分自身を罪人に定めることも、もしくは自分自身でキリストの愛から引き離すことさえできないのです。
「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
ローマ人への手紙8章14節
21、ヨブの試練はどうして起きたか?
ヨブの3人の友の「どうしてこのようなことになったのか?」との原因追究、およびヨブ自身も「どうして私が重荷を負わなければならないのですか?」という疑問に対して、ヨブ記の中で具体的な答えが書かれていません。
最後に主を知り、ヨブは無知な者であったと自覚していますが、明確な理由が記されていません。
この3人の友に対して、どのように不信仰だったのか記されていません。
その答えは、、
「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」
ローマ人への手紙11章36節
人は苦しみの中にある時、原因を探します。
人が困難や不幸に会う時、どうして、自分がこのようになったのか?原因追及を始めます。
どこで落ちたのか?
自分の行いが悪かったのか?
どこかで、見間違えたのか?
もしくは、自分の思い、どこかに罪があったのか、不純だったのか?
あらゆる可能性を追いかけます。
しかし、神の目から見た時、もしくは信仰の目で見た時、原因は全く違うのです。
驚くべきことに、ヨブの試練は、神御自身が計画したものであり、神がお与えになったものだからです。
神の求めているものは信仰者です。
神は信仰者をも、創造し、純度の高いものに変えようとしているのです。
神御自身が原因なのです。
非常に初歩的です。
そして、神をより多く知らなければたどり着かない真理です。
その原因追及をして、らしき知恵を並べ、すべてのことが神から発していることをこの3人は理解できなかったのです。
神の前では、この三人の神学は無知だったのです。
神の前では「意味の無いこと」を言い並べているにすぎず、この3人は神から非難されています。
あえて、言うのであれば、原因は、
「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」
ヨブ記1章1節
ヨブは「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」信仰者ゆえに、この試練が与えられたのです。
そして、より優れた信仰を得るように導かれたのです。
そして、このことを前提にヨブ記の結末を読むのであれば、私たちはより優れた神の知恵への感謝と、ヨブの改心を読み取れることができるのです。
「ヨブは主に答えて言った。
あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。
知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。
どうか聞いてください。私が申し上げます。私はあなたにお尋ねします。私にお示しください。
私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」
ヨブ記42章1〜6節
今、私たち、クリスチャンの歩みはこのように栄光から栄光へと変えられてゆくものです。
「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
コリント人への手紙第二3章17、18節
しかし、神は時々、愛する者たちを、現実の世界をみるために、ローマ人への手紙7章に連れてゆくことがあるのです。
そして、より確実にローマ人への手紙8章にいるべきことを学び、主の愛の中に留まる必要性を学ぶことになるのです。
主題に戻るなら、神は二つの道が用意されています。
一つは信仰に満ちた光の子としての勝利の道です。
もう一つは勝利を得るための道、
キリストが通られた十字架への道です。
神は信仰者を求めておられます。
主を求める者を求めています。
最後にもう一点、ヨブ記に戻って、サタンの訴えについて見てみましょう。
ここから、神の御性質と信者の祈りを学ぶことができます。
「サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。
しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」
主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。」
ヨブ記1章9〜12節
サタンは主に問いかけています。
ここで、注意深く見ないといけない事柄として、、
主はサタンの問いに答えています。
主は、すべての問いに対して、答えているのです。
サタンにでさえ、無視していないのです。
愚かな問いになりますが、神の救いを得たクリスチャンに対して、神は祈りに答えずに無視することが出来るのでしょうか?
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
ピリピ人への手紙4章6、7節
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」
ヨハネの手紙第一5章14〜15節
サタンの言うことさえ、無視していない神は、光の子の言うことを無視することができるのでしょうか?
ありません。
神はサタンの訴えを無視することをしないのです。
ここに、多くのクリスチャンの疑問、「なぜ、クリスチャンなのに、このような問題が起こるのですか?」という疑問の答えがありますが、それ以上に我々は神の子、光の子なのです。
知識だけで、神を求められる信仰は本当に素晴らしいです。
しかし、時には、人は知識だけでは、心から主を求めることが、出来ないのかも知れません。
人は苦難の中を通ることにより、より精錬されてゆくのです。
神は万能の力、知識によって、人を計画的に試練の中に入れるのです。
苦難の中にいる人は、苦しさゆえに悟ることは少なく、神の民はそれに気づいたときに、主を賛美するのです。
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」
マタイの福音書5章4節
聖書のこの原則はイスラエルの人たちだけに語られたのではなく、普遍的な神の真理なのです。
慰められるために悲しみの中に置かれることがあるのです。
アーメン!