メッセージ17 2023/8/27
後悔と悔い改め
1、前述
2、後悔と悔い改め
3、ユダの後悔
4、罪の力
5、解決への道
6、罪からの解放
7、現在の教会において
8、聖書の語る救い
9、絶対的な救い
10、神の御国、新天新地
11、キリストの復活
12、悔い改めとクリスチャンの罪
13、神のアダムへの扱い
14、ペテロの悔い改め
15、ペテロとイスカリオテのユダの後悔の違い
16、パウロの苦痛
17、いのちの御霊の原理
18、結論
1、前述
他のテキストをまとめていて、これはテーマを決めて書くべきだと思い、まとめてみました。
最近のいくつかのテキストとだぶると思いますが、ご承知ください。
このテーマについて、救いに至っていない人向けと、クリスチャン向けの両方を書いてみたいと考えています。
今回はクリスチャン向けとして書きますが、この内容は「人生を歩む」という点で非常に大事な点です。
教会ですら、まともに語られることがなく、濁されているのではないでしょうか?
2、後悔と悔い改め
単刀直入に言うのであれば、後悔、悔やむこと、罪の責め、罪悪感を持つことは、最終形として人を殺します。
ここで言う後悔とは「悔い改め」ではありません。
悔い改め、考えを変えることは救いへと至ります。
この両者は同じものとみられることがありますが、まったく逆のことであり、逆の結果を生み出すことになります。
これは、まだ救いに至っていない人にも、救いを得ている者にも、罪の後悔が適切に処理されていなければ、同じように人に働きかけます。
救いに至っていない人に、直接、働きかけるのであれば、そこには死があります。
自殺者の原因には「将来に対する不安」、もしくは「後悔」です。
神はこの二つを現実的に、完全に解決してくださります。
しかし、人間の性質として、後悔で、罪悪感を持つこと、苦しんでいる人がいるのであれば、その人の感覚は正常なのかも知れません。
逆に、何も感じることがないのであれば、感覚が麻痺しているのかも知れません。
罪を犯したことのない人はいません。
アダムによって、罪がこの世界に入ってきて、すべての人が罪を犯したのです。
今、この瞬間、あなたが罪を起こしていないのは、環境が良いからです。
あなたを今、戦場の真ん中に連れてゆき、命が危険な場所に置いたのなら、、
あなたは十分に人を殺す性質があることが証明されるでしょう。
それが、人間の本質だからです。
「「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
「彼らの足は血を流すのに速く、
彼らの道には破壊と悲惨がある。
また、彼らは平和の道を知らない。」」
ローマ人への手紙3章10~17節
神は、救われる必要性をわからせるため、後悔する時を作るかも知れません。
しかし、私は、間違いなく、後悔の危険性について語る必要を感じました。
そして、何よりも、無感覚、誤魔化すことによりその場を逃げ去るのではなく、本質的な救い、イエスキリストの完全なる罪の贖いを信じてほしいのです。
罪のもたらす呪いとも言える後悔は人を死に落とし入れます。
聖書の宣言同様に、この世を眺めたとしても、この御業以外に助かる方法はないのです。
3、ユダの後悔
聖書にある死に至った、後悔の代表例がイスカリオテのユダです。
「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、
「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。
それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。」
マタイの福音書27章3~5節
ユダはイエスの居場所を知らせるために、銀貨三十枚で祭司長、長老たちに売ったのです。
ユダは「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言って、後悔したのです。
悔やんだのです。
そして、その罪の重荷はユダを押しつぶしました。
もう金は要らない「彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった」のです。
これが後悔の結果なのです。
これと同じ事が、現在、あちこちで起きています。
あなたの中で起きる可能性もあるのです。
旧約聖書の時代にも同じようなことが記録されています。
栄華を誇ったソロモン王でさえこのように言っています
「私は生きていることを憎んだ。日の下で行なわれるわざは、私にとってはわざわいだ。すべてはむなしく、風を追うようなものだから。」
伝道者の書2章17節
この世の地位も、富も、賞賛も、知恵もすべてを得たソロモン王も悔やんで、死を選ぼうとしています。
私たちはなおさらです。
4、罪の力
悔やんでも、悔やんでも、何も解決しません。
感覚が正常であれば、時間が罪の重荷はますます重たくしてゆきます。
罪の攻めがあなたを襲うのです。
症状が軽ければ、時には、人は何か誤魔化すことによって、逃げることが出来るかも知れません。
仕事、娯楽は時には麻薬のように、快感を与えるかも知れません。
しかし、あなたの感覚が正常ならば、また、来ます。
罪の重荷があなたを襲います。
なぜ、感受性の高い人ほど、死を選ぶのか?そこに答えがあるのかも知れません!
つまり、罪の後悔に対する解決策は、考えるな!であり、現在の自殺者への助けの対策と一致しています。
罪の後悔への過剰反応は、再び、その人を襲うことになります。
あなたの精神は炎症を起こすのです。
また、逆に罪に対して無感覚の場合があります。
大なり、小なり、必ず、人は生きている以上、罪悪感を味わったことがあるはずです。
忘れている、もしくは、苦しいことを避ける技能を得ているのかも知れません。
これは、救いを得ている者、もしくは、まだ、救いを得ていない者の両方に存在しています。
彼らはこのようなこと言います。
「自分は罪の下に生きた記憶もないし、罪の重荷を負ったことがない、もしくは、罪の束縛を受けたことはありません!」
本当なのでしょうか?
確かに罪は、神と人間の交わり、交流を壊すものですが、これは神学的な問題であり、この地上では力を持っていないのでしょうか?
いいえ、現実に、とげであり、実際に私たちを支配し、落とし入れるのです。
もし、罪の力がないのであれば、このように書かれることはありません。
「死のとげは罪であり、」
コリント人への手紙第一15章16節
「罪が死によって支配したように、」
ローマ人への手紙5章21節
人は軽はずみに罪を犯すことがあるでしょう。
やがて、その罪は成熟し、熟するのです。
そして、その人を責め始めます。
もし、その時、逃げたとしても、また、やって来ます。
時には、誤魔化す方法を探ります。
このように人生とは、長い坂道を上り続けるようなものなのでしょうか?
「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」
ヤコブの手紙1章14、15節
このように、すべての人に対して、この罪の問題が解決しない限り、罪悪感、後悔、罪の責めからも解放されることはないのです。
5、解決への道
このように、人は罪を犯した時、正常な良心であれば、罪悪感が生まれ、後悔するのです。
この罪悪感のパワーを、人は時間がたてば忘れています。
時には、自分の罪悪感に打たれ、息ができないほど、食事も出来なくなったという経験があるはずです。
(堕落した人間には、人を殺しても、だましても罪悪感を持たない人もいるのは事実ですが、神は必要であれば、そのような人をも、罪悪感のどん底に突き落とすこともあります。)
その罪悪感が「後悔」と同意語なのです。
その後悔を治療する方法を人間は持っていません。
外科の治療法で温存療法と言われるものがあります。
腰や膝などで、手術ではなく、運動、マッサージなどを用いて、時間の経過とともに、腫れていた神経が落着き、痛みが治まるので、そのままにしておこうという手法です。
しかし、これは治療ではありません、
腫れ物に触るな、そうすれば、落ち着いてくるというものです。
そして、時間がたてば、再発もありえます。
我々の罪という問題についても、多くの心理カウンセラーは行っています。
後悔、邪悪感について、皆さんもWEB上で検索してみてください。
下記がそのHPのアドレスです。
適当に抜粋したものですが、読んでくだされば、解決策ではなく、温存療法だということに気が付くと思います。
それぞれの分野には、それなりの専門家がいて、納得させてくれます。
彼らは、自分たちが出来る限りの最善の解決策を提供しています。
私は、彼らの努力に感謝し、犠牲者を抑えてきた事実を褒めたたえます。
しかし、真実な解決策は、確かな真理、知恵がなければ最終的な解決はできないのです。
https://trauma-free.com/psychopathology/guilt/
https://cocoropedia.net/yakudatsu052/
https://toyokeizai.net/articles/-/295059
かつて、伝道手法として、心理カウンセリングが教会においても、流行することがありました。
私の知る30代の牧師たちの多くはこぞって、そのようなセミナーなどに参加していたのを覚えています。
保守的な、というより流行に乗り遅れた牧師たちが、キリスト以外のものに頼るのは良くないと反論してしていたのを覚えています。
当時の彼らの両方の主張をよく覚えていますが「的を得たもの」ではありませんでした。
確かに炎症を起こした人間の精神に対して「炎症を抑える薬」は効果があると思いますが、このことに対する知識、弁証がなかったことは驚くべき過去です。
流行とか、伝道方法の問題ではないのです。
キリスト御自身以外の方法での効力を認めますが、根本的な問題が解決されない限り、無力であり、繰り返します。
この罪の問題を解決する方法を人間は持っていないのです。
そして、人間の罪悪感は「イスカリオテのユダ」の時と同様に死に至る病気なのです。
(著者は、ここで本当の罪の結果については書いていません。)
人間は時より、罪に対して過剰反応になることがあります。
いや、罪に対して過剰反応と思われる状態こそが人間の正常な状態かも知れません。
そして、心、精神がより弱まってきて、最後にとどめを打たれます。
たとえ、温存療法で逃げられたとしても、同じことがまたやってきます。
本当の治療が必要なのです。
6、罪からの解放
あなたをこの罪悪感から解放させるには、罪から解放される必要があるのです。
「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」
エペソ人への手紙1章7節
人間の創造者である神のみがその解決策を持っています。
ここでは、一挙に解決策へと飛びますが、この解決策には予兆、前兆、予告、そして、歴史があり、ここではその解決策のみを語ります。
メシア、キリストの預言、必要性は聖書に十分記されています。
キリストは罪の問題、すべてを解決してくださったのです。
神には罪の下にある人間を救い出すための計画がありました。
今から2000年ほど前、神は、神であり、人間でもある神の御子イエスキリストを、この世に送ってくださいました。
イエスは処女マリアを通して、イスラエルのベツレヘムで生まれ、罪の無い御方でした。
ご自分が聖書に預言されたメシアである証拠に、罪の象徴である病気、障害のあるたくさんの人を癒したのです。
聖書には求める人、すべてを癒したと記録されています。
その噂は一挙に広がり、イスラエル中、隣国、当時のヨーロッパ世界にまで広がりました。
しかし、それを見て、異変を感じた、当時の政治家、宗教家は疑い、イエスを信じることはせずに、イエスを拒んだのです。
「それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。
パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。
イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、
そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。」
マタイの福音書12章13~16節
愚かな人間は、何を見ても、何を証拠づけられても、信じることができないのです。
ただ、助けを求めに来た、この罪の象徴である手の萎えた人に神の恵みが現れたのです。
今、罪の力によって、ズタズタにされた人たちにも同様なことが起きることを願います。
イエスの時代より、700年ほど前、イザヤという人がやがて来られるメシアについてこのように書いています。
「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
イザヤ書53章6、7節
メシアは「私たちのそむきの罪のために刺し通され」るのです。
イエスキリストの現れる前に書かれた旧約聖書の二つテーマは、罪には身代わりが必要なこと、もう一つは救い主、メシアが来られることです。
神はかつて、ユダヤ人に対して、罪の贖いの祭り、過ぎ越しの祭りを行うように命じました。
自分の罪の身代わりに子羊を捧げるのです。
その同じ時間にイエスキリストは、イスカリオテのユダの裏切りを通して、ユダヤ人によって、ローマの手に引き渡されました。
当時のローマの総督ピラトは、ユダヤ人の強い要求に負け、イエスキリストをローマ式の死刑、十字架刑にしたのです。
イエスキリストはエルサレム郊外のゴルゴダという場所で、その十字架刑にされたのです。
十字架刑とは、生きたまま、十字架にくぎ付けされ、死ぬまでほっておかれる刑です。
イエスキリストは5時間ほどで息絶えました。
その時、イエスは「完了した」と言ったのです。
何が完了したのでしょうか?
同じ、時間にユダヤ人たちは過ぎ越しの祭りをささげていたのです。
さて、イエスが公の生涯が始まった時、荒野にバプテスマのヨハネと呼ばれる人物が現れました。
彼はメシアの先駆けとして彼は現れ、このように語っていました。
「バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。」
マルコの福音書1章4節
罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを語っています。
バプテスマとは、ユダヤ教の儀式で本来の意味は、「一体化」です。
つまり、民はヨハネの語る悔い改めのメッセージを受け入れ、同意したしるしとして受けていました。
「罪が赦されるために、後悔しなさい!
罪の告白をしなさい!
あなたは罪人なのです、もっと悔やみなさい。
そうすれば、許してくれるでしょう!」とは語っていないのです。
悔い改めとは「いままでの考えを変えなさい」という意味です。
バプテスマのヨハネが叫んでいます。
「ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」」
ヨハネの福音書1章29節
しかし、バプテスマのヨハネが「おそらく本人に指を指して」叫んでいます。
あの人こそが「見よ、神の小羊」と言っています。
人間が提供した、人間の捧げる小羊ではありません。
神の提供した、神御自身が捧げる完全な小羊なのです。
聖書は言っています。
「律法(儀式)には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。」
へブル人への手紙11章1節
ユダヤ人たちは、イエスキリストが十字架に架かっている同時間に、彼らは罪のためのささげ物、子羊を捧げていました。
それは、後に来るすばらしいものの影です。
ここに本物の神の子羊が捧げられたのです。
「キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」
へブル人への手紙7章27節
神の提供した、神御自身が捧げる完全な小羊によって、完全な罪の贖いが完成されたのです。
神と受け入れた者との間にあるすべての罪の問題が解決されたのです。
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
ペテロの手紙第一2章24節
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
ローマ人への手紙3章24節
もう、あなたは罪の責め、後悔、罪悪感を持つ必要性がないのです。
あなたを責め立てるものは、すべて十字架の上で処理されたのです。
「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」
コロサイ人への手紙1章14節
7、現在の教会において
現在の多くの福音的と呼ばれている教会で、後悔と悔い改めの意味が混同している状態を見ることがあります。
説教者は語ります。
我々は罪を犯すと心が痛みます。
良心に責めを感じます。
さあ、神の御前で罪を告白しましょう!
ならば、神は私たちを交わりに戻し、悪からきよめてくださるのです。
私たちは悔いて、悔いて、悔い続けるのであれば、神は許してくださるのです。
集会の祈りの中で、悔いている祈りを聞きます。
一人、二人ではありません。
非常に多くのクリスチャンたちが自分たちを責めているのです。
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
ヨハネの手紙第一1章9節
このように、聖書を引用して、良心の責めを要求します。
いうのであれば、自殺行為です。
いうのであれば「私たちの罪はすべて、十字架の上でイエスキリストが葬り去ってくださいました。
私たちは罪に死んだ者で、罪とは関係ありません。
この罪も、あの十字架の上で葬り去られています。
私は良心の呵責を感じません」と言うべきです。
そして、人間の良心と責任感がこのように言うでしょう。
「自分の犯した罪を真摯に受け止め、反省し、悔やむ必要があります。
あなたが罪を犯しておいて、あなたが悔いて、報わないなんて理不尽です。
あなたの罪の結果ですので、悔やんで、悔やんで、悔やみ続ける責任があなたにはあるのです。」
これはサタンの言葉です。
あなたに罪の問題を解決することも、背負うこともできないのです。
そのためにイエスキリストは十字架の上で死なれたのです。
そうです。
確かに、反省はしますが、もう悔やむことはないのです。
あなたの罪の問題はすべて解決されたのです。
解決されたのだから、もう、罪悪感をもって、後悔する必要はないのです。
後悔はあなたを殺します。
あなたが死んでもいいと思っているのは、あなたを訴える人たちです。
このように、あなたの持つ罪に対する後悔、悔やむこと、罪の責め、罪悪感は、イエスキリストにおいて、すべて解決しているのです。
人は、後悔ではなく「悔い改め」に進むのです。
「悔い改め」とは、考えを変えることであり、イエスキリストを自分の救い主として信じることです。
罪が人間の心に与えるイメージは、どれだけ強大か?
経験したことのある人なら、十分に理解できると思います。
しかし、この罪からの解放も、人間が本当の救いを得るために序曲、付属品でしかないのです。
「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」
ローマ人への手紙8章21、22節
このうめきは、罪と死が支配するあなたの姿(性質)であり、あなたはこの性質と具体的な死から解放されたのです。
そうです、本当に人間に必要な救いとは、死後の裁きからの救いです。
あなたの精神状態の問題と、あなたの魂の問題ではどちらが比重が重たいのでしょうか?
神は、この地上で、自分の羊たちが迷うことを願っていません。
しかし、の地上での罪からの解放は、まことの救いに対する副産物なのです。
同時に、神はこれを用いります。
この救いの輪の中に、失われた魂を導く手段といて、人を陥れるかも知れません。
まことの救いを私たちは何度でも、語り続ける必要があるのです。
8、聖書の語る救い
「罪から来る報酬は死です。」
ローマ人への手紙6章23節
聖書は罪を持った人間の行く末を語っています。
生きている時でさえ、このようにパワーがあるのです。
死後には恐ろしい結果を生み出すことになるのです。
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」
へブル人への手紙9章27節
聖書は人間には死後に裁きがあることを繰り返して警告しています。
救い主イエスキリストはこの地上におられる時に、多くの個所でたとえ話でお話になりました。
必ず、たとえ話を語る前に、イエスはこれはたとえ話だと言ったうえで、お話になっています。
ここでは、イエスはたとえ話とは言っていません。
イエスはこのように語っています。
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、
金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』」
ルカの福音書16章19~26節
人間は死後、永遠の時があると聖書は語っています。
神の御子、私たちの救い主である、イエスキリストはこの個所で金持ちと貧乏人のラザロを紹介しています。
この金持ちは名前で呼ばれていませんが、この貧乏人はラザロと呼ばれていますので、おそらくエルサレムでも知られた人物だと想定します。
イエスキリストは天地を作られた神に預言されたメシアです。
聖書の中ではイエスキリストは多くのたとえを使って、真理を解き明かしましたがここでは個人名を挙げて説明しています。
(金持ちだから炎の中にいたのではありません。ラザロは貧乏人だから哀れにを受けていたのではありません。)
これは、「たとえ話」ではないのなく、現実の話として紹介されているのです。
この金持ちは地上では哀れむ心を持っていませんでした。
門前に飢えて死んでしまうような人間がいるのに食べ物を与えませんでした。
しかし、金持ちは「私をあわれんでください。」と叫んでいるのです。
また、約2000年の昔から今も「私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」と叫び、今もこの炎の中で苦しんでいるのです。
楽しむべきものは何もなく、ただ、苦しんでいるのです。
この場所は聖書は「ハデス」と呼んでいます。
このハデス(ギリシャ語)は二つに分かれており、一つはアブラハムの懐と呼ばれる哀れみの場所、もう一つは最終的な神のさばきを行うまでの留置所(仮の苦しみの場所)です。
このように神の救いの提供を無視した罪人は、このような場所に一時的に入れられます。
やがて、時が来て、黙示録の時代に入り、この地上の罪も裁かれます。
その後に、この「ハデス」は別の場所に入れられます。
「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
黙示録20章11節
イエスはこの場所を「ゲヘナ」と呼んでいます。
「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」
ルカの福音書12章5節
罪人の一時的な留置は終了します。
ゲヘナとは神の怒りの現れの場所、刑の執行場所です。
その炎は赤くなく、暗い闇です。
「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」
ペテロ第二の手紙 2章4節
現在の物理通りであれば、太陽の黒点、8000℃以上です。
皆、永遠に歯ぎしりします。
「火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」
マタイによる福音書 13章42節
うじもいます。
罪人は死なないからだを持ちますが、その死なないからだを餌にして永遠に食いつくす「うじ」をあなたは飼うのです。
「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」
マルコによる福音書 16章24節
終わりがありません。
イエスキリスト、そして聖書は繰り返して、永遠という言葉を使っています。
「もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」
マタイによる福音書 18章8~9節
これが罪の結果です。
間違っても行ってはいけないところです。
今回、もし、あなたが罪からの、罪悪感からの、後悔からの解放で苦しまれたのなら、
もし、その解決を得たのなら、、
その苦しみは、この死後のさばきから、あなたを救うために仕向けられた神の御業かも知れません。
9、絶対的な救い
このように、聖書を信じるということは精神論の話ではないことが解ってくると思います。
確かに、この世界を歩んでいると、悩み、苦しみが追いかけてきます。
神は、クリスチャンがこの世界で悩むことを望んでいません。
しかし、それ以上の問題があることを知ってください。
キリストは我々の罪の身代わりに十字架上で死んでくださったのです。
もし、罪ゆえに、罪を持った人間が裁かれるのであれば、、
あの罪の責めを知っている者ならば、その罪の力がどのように強大なのか知っていたとしても、
それは死の力のほんの一部です。
「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」
へブル人への手紙9章29節
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
ヨハネによる福音書 3章36節
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」
ヨハネによる福音書 3章16~18節
聖書では繰り返し述べられていますが、この個所を引用します。
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」と断言しています。
「持っているかも知れない」、「頑張れば持てるぞ!」、「持てるような人間になりましょう!」ではありません。
「持っているのです!」
使徒パウロはこのように書いています。
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」
コリント人への手紙第一15章3~5節
もう一度、新約聖書の初頭での、バプテスマのヨハネを引用します。
「見よ、神の小羊。」
ヨハネの福音書1章36節
イエスキリストの生まれる1300年前に、神はユダヤ人たちにある儀式を要求しました。
それは、罪の身代わりのささげ物を捧げることです。
祭司は人間で、それを捧げる人も人間でした。
それは完全に罪を取り除くことはできずに、単なる予表でしかなかったのです。
「律法(儀式)には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。」
へブル人への手紙11章1節
もう一度、繰り返しますが、イエスキリストはあなたがたの罪、天地万物の創造主である神との関係を阻害する罪の問題を、すべて御自身に背負って十字架に架かって死なれたのです。
「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」
エペソ人への手紙1章7節
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
コリント人への手紙第二5章12節
そして、罪の問題が解決されていない者は滅びが定まっています。
では、救われた者たちはどこに向かうのでしょうか?
10、神の御国、新天新地
私たちキリストを信じた者には、天に行き、物理的な新しいからだが与えられます。
天とは、神のおられる物理的な場所です。
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」
コリント人への手紙第二5章1~4節
地上にいる間、死、罪の性質を持った人間はもがき苦しんでいるのです。
キリストが十字架の上で、我々の罪の問題すべてを解決してくださったので、我々の新しいからだには罪の性質が存在していません。
そこに行く手段は「死を通して」だけではありません。
世の終わりの直前に、キリストが直接、我々を迎えに来るのです。
私は死など通りたくありません。
もちろん、主がそれを定めておられるのであれば、平安にそれを迎えることができると信じています。
生きたまま、直接、天に行くのです。
私はそれを心から待望しています。
この世の中の傾向が、まさに、聖書の語る終末に向かっているのは明白だからです。
「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。」
コリント人への手紙第一15章52~54節
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」
ピリピへの手紙3章20節
最初にキリストにあって、死んだ者がよみがえります。
そして、この地上で生きているクリスチャンは新しいからだに変えられるのです。
先に、我々は神の御元である天に行きます。
そして、神が黙示録にあるサタンへの裁きが完了した後に、天は新天新地に移され、私たちはそこに行くのです。
「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」
テモテへの手紙第二3章13節
このように、私たちは新しい天と新しい地を待ち望んでいるのです。
たとえ、この私の生涯の終わりが死で終ろうと、それとも、時が満ちてその時が来ようと、私たちは新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、
私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」
エペソへの手紙1章10、11節
黙示録には、より鮮明に書かれています。
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」」
黙示録21章1~4節
11、キリストの復活
ここで、新約聖書の福音書に戻ってみたいと思います。
キリストはユダヤ人の策略によって、異邦人(ローマ人)に渡され、総督ポンテオ・ピラトの裁判にて死刑判決を受け、十字架刑にさせられました。
まさに、ユダヤ人が過ぎ越しの祭りで、罪のため(身代わり)のささげ物が捧げられている、その同時間にキリストは十字架刑にさせられていたのです。
そのささげ物は、かつてユダヤ人がエジプトで奴隷だった時に、預言者モーゼを通して、神がユダヤ人にエジプトからの開放、脱出を記念し、そして罪のため(身代わり)のささげ物を行いなさいと命じたのです。
まことのささげ物になれらた「神の子羊」は十字架にかかり、最後にこのように言われました。
「完了した。」
ヨハネの福音書19章30節
何が、完了したのでしょうか?
まことの「神の子羊」による、罪の身代わり、贖いが完全に完了したのです。
もう一度、へブル人への手紙の引用を見て見ましょう!
「律法(儀式)には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。」
へブル人への手紙11章1節
「キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」
へブル人への手紙7章27節
神の提供した、神御自身が捧げる完全な小羊によって、完全な罪の贖いが完成されたのです。
神と受け入れた者との間にあるすべての罪の問題が解決されたのです。
この個所はキリストの完全な贖いを主張するのに、何度でも語られるべきだと思っています。
そして、キリストはそのまま死に留まることはしません。
キリストは、聖書の預言通りに死からよみがえりました。
死の力を突き破ったのです。
「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
はいって見ると、主イエスのからだはなかった。
そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
ルカの福音書24章1~7節
現実にイエスがよみがえられた時の描写です。
そして、よみがえったイエスに会った者は500人を超えていると使徒パウロは伝えています。
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」
コリント人への手紙第一15章1~8節
その復活を見た者たちは、のちに迫害され、殺されようとも、このキリストをのべ伝え、当時のローマ帝国をひっくり返すほどの影響力を持ったのです。
では、なぜ、キリストの復活の必要性があったのでしょうか?
「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
コリント人への手紙第一15章20節
「主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。」
コリント人への手紙第二4章14節
「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」
ペテロの手紙第一1章3節
「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」
ローマ人への手紙4章24、25節
復活の意義に関しては、聖書には多くの個所に記されています。
まず、復活は眠った者の初穂、死んだ者は必ず、物理的な復活を果たすという保証になります。
最初の者がよみがえったのなら、キリストに続く、キリストを信じ受け入れた、私たちもよみがえるという保証になります。
その保証によって、知識、理解の上においても、クリスチャンは死の恐怖から解放されているのです。
「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」
へブル人への手紙2章14、15節
復活後のからだは物理的なからだなのです。
天に行くということは、霊的と言われるふわふわした世界を指していません。
「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」
コリント人への手紙第一15章42~44節
そして、イエスキリストの復活は旧約聖書の預言が成就することであり、イエスこそがユダヤ人の待ち望むメシアである証拠だったのです。
この苦しみのメシアに対してこのように書かれています。
「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」
詩編16編10節
「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」
イザヤ書53章8節
ここで苦しみのメシアは絶たれます。
「もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」
イザヤ書53章10節
メシアは自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、子孫を見ることができると言っています。
いのちを捧げ、死に至ったのに、その後に祝福があると言って言います。
イエスキリストの生涯について、この他にも多くの預言がなされています。
当時のユダヤ人には、否定しようがないものでしたが、人間の不信仰は何を見ても、何が起きても、信じることが出来ない罪人なのです。
12、悔い改めとクリスチャンの罪
このように、後悔と悔い改めはまったく逆のことなのです。
数々の教会の祈りの中でも、自分の罪を悔やむ祈りが多く存在しています。
時には、私たちのこころが、キリストの御業から離れ、自ら、その責任を背負おうとすることがあるのは事実です。
確かに、私たちは罪を反省し、神からの教訓として、罪に対してからだで覚えさせらえることも多くあります。
しかし、神はそのような時を利用し、私たちを教育し続けていることを知っています。
後悔とは、自分の精神に罪からの威圧を受けさせることであり、悔い改めとは自分で自分の罪の問題をどうにかしようとする努力ではなく、私たちの主であり、救い主であるイエスキリストの身代わりの十字架のささげ物を信じるということに考え方を変えると言うことで。
これは知識だけではなく、思考、考え方が含まれており、キリストを実際に自分の救い主と受け入れることを指しています。
我々を責める罪の問題すべてが、キリストにあって許されたのです。
「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
エペソへの手紙2章4~6節
しかし、我々の古いからだには罪が存在しています。
古いからだに、新しい命を宿しており、衝突することさえあるのです。
クリスチャンであっても、時には道を外すことがあります。
「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」
ヨハネの手紙第一1章5~10節
ここでは、使徒ヨハネがクリスチャンが罪に対しても警告と、罪を犯してしまった時の復旧方法について記しています。
繰り返しますが、ここでの神との関係の復旧方法とは、罪を悔やむことではないのです。
私たちの罪はすべて、十字架の上でイエスキリストが葬り去ってくださいました。
私たちは罪に死んだ者で、罪とは関係ありません。
この罪も、あの十字架の上で葬り去られています。
私は良心の呵責を感じません」と言うべきです。
そのうえで、神の御前で自分の行ったことが罪であると認めることなのです。
ならば、具体的にどのような悪の中にその人がいたとしても「その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と神は約束しています。
このようにキリストにあって、クリスチャンは罪の問題が完全に解決されているのです。
13、神のアダムへの扱い
聖書は罪はアダムから侵入したことを伝えています。
初めに、神が天と地を創造し、その後に二人の人間を創造し、そのすぐ後に人間はサタンによって罪を犯すのです。
「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
創世記3章1~5節
先に神がアダムにこのように言われています。
「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」」
創世記2章16、17節
神は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」、ただ「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と言っているのに、サタンは「園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか」と言葉を入れ替えています。
つまり、神の言葉に疑問を造ったのです。
しかし、女はサタンによって、造られた疑問に導かれ「園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せに」なったと神の言葉を曲げたのです。
神は食べてはいけないと言ったのですが、触れてはいけないとは言っていません。
そして、サタンは露骨に女を騙したのです。
「あなたがたは決して死にません。
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」とペテンにかけたのです。
そして、これがサタンが造った、世界最初の宗教であり、今も続いているのです。
「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」
創世記3章6、7節
その実は「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くする」ように見えたのです。
「善悪を知るようになる」ということは目に麗しいことです。
この実はサタンが創造したものではありません。
神が創造したのです。
つまり、この実がここに置かれたのは、最初は二人の人に対しての罠ではなく、神の試みだったのです。
また、サタンの「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知る」という言葉はすべてが嘘だったわけではないのです。
真実を嘘に置き換える、真実から誤った行動を起こさせる、これがサタンの手法です。
まったくの嘘をはじめから使うのではないのです。
「それで彼らは自分たちが裸であることを知った。」
この裸である状態は二つの方向から見ることが出来ます。
一つは、物理的に裸であること、、
もう一つは、霊的、立場的に裸であることが彼らにわかったのです。
神の言葉を無視し、罪を犯し、そして、善悪を知った今、この二人は自分が裸である惨めな状態であることを知ったのです。
彼らは善悪を行う力が無いのに、善悪を知ってしまったのです。
罪の束縛がその時から始まったと考えます。
罪の責め、後悔、罪悪感が人間に入ってきたのです。
そして、その裸を覆うために哀れな「腰のおおい」を作りました。
裸のすべてを隠せるものではありません。
「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」」
創世記3章8~13節
二人は園を歩き回られる神である主の声を聞きました。
さきにこの二人に「取って食べてはならない」と言われたのは「神」です。
ここで物理的に歩いておられる方は「主、神である主」です。
歩いているので、物理的なからだをもっておられたのは明白です。
この主は地上に来られる前のキリストだと、考えられています。
この人類のために命を御捨てになる前に、二人が罪を犯した瞬間に、物理的に出会うとはまさしく、すべてが神の計画の御手の中にあるのです。
二人は「神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠し」ました。
罪人は罪を犯した時に「身を隠す」のです。
神から遠く離れようとするのです。
しかし、そこには救いはありません。
創造主から離れると言うことは闇です。
神である主は彼らを探しました。
「あなたは、どこにいるのか。」
いつの時代にも、神は罪人を探しておられます。
そして、救いを提供しているのです。
罪人は答えました。
「私は裸なので、恐れて、隠れました。」
ここに罪の性質には恐れを感じさせることが記されています。
主は尋ねました。
「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
もちろん、主はすべてを知っています。
このように、主はすべてを知っていながら、悔い改めに導くために、現在でも我々の罪を指摘しているのです。
「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
現在、男女平等が大きく取り扱われていますが、立場的には女性は男性から取られた者で、男性が女性を導くものです。
しかし、ここでは、男性が女性に責任を押し付けています。
また、女性は男性のために、神が与えた者です。
女性のせいにしているということは、神の与えた者に対してケチをつけていることにもなります。
「食べてはいけない」ものを食べた以上、二人とも、同罪なのです。
人が罪というものを語る時、理由や状態を考慮します。
しかし、食べた以上は罪なのです。
言い訳は効かないのです。
そして、女も同様に答えています。
「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
サタンは人を欺きます。
現在でも、同じです。
ここでも、食べた以上は罪です。
言い訳は効きません。
「神はまた、彼らを祝福し」
創世記1章28節
彼らは神に祝福された立場だったのに、最悪なものとなりました。
サタンはアダムとエバに与えられたこの地上の支配権を奪い取ったのです。
この支配権は黙示録にて、キリストによって取り戻すことが出来るのです。
すぐに主は蛇に対する裁きと、人類への救済方法を提示したのです。
注意すべき点は「すぐに」、「速攻」にです。
「神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
創世記3章14、15節
前半は、蛇の生態について語っています。
後半は最初のメシア預言としてかたっているのです。
もし、メシア預言とみなされなければ、意味不明な文句になってしまいます。
ここにでてくる子孫"זַרְ עָ ה"(zro·e)は単数形です。
歴史的に見ても、特にユダヤ人の歴史から見ても、通常は男性の系図で示すのが通常です。
しかし、ここで女の単数の子孫を指して、彼がおまえ(サタン)の頭を踏み砕く(致命傷)と宣言しています。
また、サタンは「彼(女の子孫)のかかとにかみつく」と言っています。
キリストは処女マリアを通して、お生まれになったのです。
つまり、婚約者のヨセフの子供ではないのです。
ゆえに、この預言は女の単数の子孫(人物)のことを語っているのです。
「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」
黙示録20章10節
キリストは世の終わりにサタンを奈落の底に突き落とすのです。
しかし、サタンもかみつき、キリストを十字架につけるのです。
主は二人にこのような宣言をしました。
これは神が呪ったのではなく、罪の結果であることに注意してください。
「女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」
創世記3章16~19節
彼らには祝福が与えられたはずです。
今は「女の単数の子孫」、メシアを待ち望むものとなったのです。
「さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。
神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」
創世記3章20~21節
罪を犯した二人は「いちじくの葉をつづり合わせた、自分たちの腰のおおいを作」りました。
それは哀れで、からだ全体を隠せるものではありません。
神は彼らに「皮の衣」を作ったのです。
「皮の衣」は命あるものを殺し、その皮でからだを覆いました。
これも「キリストの予表」なのです。
ユダヤ人たちの罪の許しとは覆われることです。
しかし、キリストの贖いは覆うことではなく「取り去られる」ことなのです。
キリストは十字架の上で完全に私たちの罪を取り去り、もう良心の責めも必要ないのです。
主は罪を犯した二人を見つけ次第、救済計画を宣言しています。
「女の単数の子孫」、メシアの到来です。
すべてがここに記されているわけではありませんので、彼らは救済計画を知り、受け入れ、救われたと考えられています。
もし、滅びの対象であれば、救済計画を宣言する必要はありません。
もし、すぐに、速攻に神の救済計画が発表されていなければ、彼らは罪の重荷に耐え切ることはなかったのです。
「神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
創世記3章22~24節
神は今、罪あるままで、人が永遠に生きないように、彼らから「いのちの木」を遠ざける必要があったのです。
彼らは善悪を行う力が無いのに、善悪を知ってしまったのです。
罪の責め、後悔、罪悪感が人間に入ってきたのです。
罪あるままで、人間が永遠に後悔、悔やみの中に生きないように、エデンの園から追放し、「いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビム(御使い)と輪を描いて回る炎の剣を置かれた」のです。
これは神が人を呪ったのではありません。
彼らへの考慮です。
黙示録の中で、ここで現れた主、ご自身がこのように宣言しています。
「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。」
黙示録22章13、14節
イエスキリストの血によって、着物がきれいになった罪が贖われた、罪のない人たちには「いのちの木の実を食べる権利」があるのです。
そこには、罪のからだはありません。
罪の束縛も、後悔も、なやみもありません。
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。」
コリント人への手紙第一5章1~3節
14、ペテロの悔い改め
先に書いた、後悔によって、自害したイスカリオテのユダとほぼ同時期に、もう一人、後悔した人がいます。
イエスの弟子、ペテロです。
ペテロは自身に満ちてイエスに答えています。
「すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。」
マタイの福音書26章33~35節
ここではペテロが代表で答えていますが、弟子たち全員が同意しています。
苦難の無い時の決心とは、このようなものです。
「死が訪れたとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と宣言しています。
しかし、イエスはペテロに宣言します。
「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います」
これがペテロに対する宣言でした。
イエスが捕まると、ペテロはイエスのあとをこっそりとついてゆきました。
「ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」
しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。
そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」
それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。
しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。
すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。」
マタイの福音書26章69~75節
ペテロは悔やんで泣いたのです。
キリストの十字架後、彼は落ち込んでいました。
イエスがいなくなり、もう、メシアとか、王国とかの話を聞きたくもなかったかもしれません。
自分の仕事に帰っていたのです。
「シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」」
ヨハネの福音書21章3節
しかし、主はペテロに復旧の時を設けて下さったのです。
復活されたイエスは、そう、イエスの方から、この漁師のペテロに会いに来てくれたのです。
天地万物の創造主であり、十字架の御業を完成されたばかりの主がペテロに会いに来てくれたのです。
「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。」
ヨハネの福音書21章4~7節
この神である主が愛された、漁師のペテロが羨ましく思えます。
「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。
「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」」
ヨハネの福音書21章15~17節
復活したイエスと弟子たちが食事をしています。
ここでも、復活のからだが霊的な存在ではなく、物理的に存在していることがわかります。
イエスがペテロに「この人たち以上に、わたしを愛しますか」と質問しています。
しかし、これはペテロに対する試験です。
言葉を変えれば「試練」です・
最初の2回のイエスの「愛しますか?」はギリシャ語で"αγάπη"(アガペー)です。
これは絶対的な愛であり、神の愛を示す場合に多く使われます。
いのちをかけても愛するという愛です。
しかし、ペテロの「私があなたを愛すること」の愛は"φιλέω"(フィレオ―)なのです。
これは、友情愛とも訳され、イエスの問いかけの愛とは格の違う愛です。
しかし、3回目のイエスの問いには、この"φιλέω"(フィレオ―)が使われているのです。
ペテロは「私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と宣言したのですが、、
彼はイエスの予告通りに3回、イエスを、それも呪いをかけて、知らないと言ったのです。
ペテロは自分が失格者であることを知ったのです。
これは我々も、たびたび経験させられることで、主に用いられる者には必ず通る道です。
つまり、イエスはペテロに「あなたは絶対的に私を愛しますか?」と質問しておられるのです。
ペテロは心を痛めながらも「そんな愛など私にはありません。
私にはこの友情愛しか持てないのです」と答えているのです。
それを2回繰り返し、のちにイエスの方から「あなたは私をその友情愛で愛せますが?」と問いを変えているのです。
ペテロは3回「私にはこんな友情愛しかありません、でもその友情愛であなたを愛します」と答えているのです。
すると、イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と答えています。
ペテロはこれから、多くのイエスを羊を飼うことになりますが、イエスはペテロの友情愛を受け入れて下さったのです。
クリスチャンに必要なのは、大きなこと言う看板ではなく、実際に主に心を向けると言うことです。
これからのペテロの人生において、ペテロが主を絶対愛で愛したことを聖書と歴史が証明しています。
15、ペテロとイスカリオテのユダの後悔の違い
では、ペテロとイスカリオテのユダの後悔の違いは一体何なのでしょうか?
イスカリオテのユダの場合を見て見ましょう。
彼は自ら、祭司長のところへイエスを売りに行っています。
「そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。」
マタイの福音書26章14、15節
そして、ペテロと同じようにイエスに裏切りが宣言されます。
「みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。
すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。」
マタイの福音書26章21、22節
弟子たちは皆、それが自分ではないかと疑いだします。
自分というものを知っているのなら、自分に条件さえ整えば、どんな悪事でも行えるのが人間の罪です。
我々は常にこの可能性を秘めていることを知る必要があります。
そして、イエスはユダに問い詰めます。
「すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。」
マタイの福音書26章25節
このようにユダもペテロも同じように、裏切りを前もって宣告されていたのです。
ユダはすでにイエスを売っていたので、とぼけるしか方法が無かったのでしょう。
ここで言えることは、ユダも弟子だったので、奇跡や癒しを行ったはずです。
「イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。
イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。
行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。
病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
マタイの福音書10章5~8節
しかし、ユダはイエスを売ったのです。
「イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。
剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。
群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。」
マタイの福音書26章47節
このようにイエスは祭司長たちに売られ、このユダヤ人のささげ物を捧げる金曜日に十字架刑になったのです。
ここでユダに罪への過剰反応が発生します。
ユダはこの罪の責めに勝ちようがなかったのです。
「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、
「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。
それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。」
マタイの福音書27章3~5節
では、ペテロとイスカリオテのユダとの違いは何だったのでしょうか?
多くの説教者が、この二人の違いを定義しようとします。
しかし、ともにイエスに裏切りを宣言されています。
ユダは良心の呵責によって、自害しました。
しかし、ペテロは期待を失い、落ち込んで漁師に戻っていたのです。
もし、後悔が、特に後悔の大きさが赦しへとつながるのなら、イスカリオテのユダの後悔の方がはるかに大きかったことを示しています。
後悔が救いへとは導かないのです。
この二人に大差はないというのが、著者の見解です。
一つだけの違いは、ペテロはイエスを信じていたと言うことです。
イスカリオテのユダについて、イエスは言っています。
「しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
マタイの福音書26章24節
ユダは信じていなかったのです。
ゆえに、彼の良心は、守られることなく、罪の責めに勝つことが出来なかったのです。
しかし、ペテロに関しては、
「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。」
ヨハネの福音書21章4~7節
イエス御自身が、ペテロの復旧のために、ペテロのところへ来ています。
ペテロとイスカリオテのユダと共に、後悔が訪れたのです。
彼らの違いは、単純に主を信じているか?
主の守りがあったかの違いだけなのです。
16、パウロの苦痛
罪の責め、もしくは、自分への責任という形で、クリスチャンは重荷を担ぐことがたびたびあります。
パウロはローマ人への手紙7、8章で、その経験と解決方法を語っています。
内容としてはいままで語って来たものと同類だと見ていますが、クリスチャンの生活に襲い掛かる過剰反応です。
パウロはこのように語っています。
「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。
しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
私には、自分のしていることがわかりません。
私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。」
ローマ人への手紙7章8~15節
ここで注意しなけばならないことは、これはパウロの経験であり、このまま、すべてのクリスチャンに適応することは出来ないと言うことです。
パウロはユダヤ人であり、ユダヤ教の下にいた者です。
つまり、ユダヤ教の戒めである律法を持っていたのです。
その戒めが、機会を捉え、罪が過剰反応を起こしたと言っているのです。
また、この経験は「私はかつて律法なしに生きていました」と書かれていますので、ユダヤ教からクリスチャンになって、律法から解放、律法なしに生きていた時代のことを指しています。
つまり、クリスチャンとしての体験です。
しかし、私たちはユダヤ人ではありません。
次の聖句から適応して、読んでいきたいと思います。
「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。
それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。
律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。
彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。」
ローマ人への手紙2章12~15節
つまり、律法をあっても、なくても、律法に守れば律法を守ることになり、破れば律法を破ることになります。
たとえ、律法がなくても、自分自身の心の中に律法が書かれており、それを守れば、律法を守ったことになりますと言っています。
神は人間を創造された時に、善悪の基準を心に置いたのです。
もしくは、エデンの園でその実を食べたゆえに、この善悪の基準が心に書かれた可能性もあります。
人はそれぞれ、心の中に善悪の基準があり、それを守ろうとしています。
では、パウロが前の聖句で言っていることを、私たちに適応するのであれば、
律法を心の中に書かれた善悪の基準と読み替えて、適応して行くのが正しいと思われます。
そうです。
後悔、罪悪感を遂行しようしたり、、正しいことを遂行しようとすると、自分には無理だと言うことがわかることがあります。
ますます、無理だという思い強くなりが、自分を落とし入れ、かえって死に導くのです。
人間には後悔に耐え抜く力も、完全に正しい人などにはなれないのです。
その思いが、私に絶望を与えるのでしょうか?
絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。
この絶望感によって、この基準が罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなるのです。
より、罪悪感の中に入ってゆくのです。
私たちは、この基準が霊的なものであることを知っています。
しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
私には、自分のしていることがわかりません。
私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。」
このように人間の努力、善悪の基準は、我々に適応すると絶望という言葉にしか達することができないのです。
パウロは自分を「極度に罪深いもの」と呼び、「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」と宣言しています。
そうです。
クリスチャンであっても、罪の問題が正しく解決されていなければ、、
肉の責任(善悪の基準を持つ、もしくは罪の問題を自分で解決しなければならないという良心)を自分で取ろうとするのであれば、そこには絶望しかなく、守り、救いがなければ、過剰反応を起こし、イスカリオテのユダのように死に至ることもありえるのです。
パウロの叫びを聞いてください。
「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」
ローマ人への手紙7章23、24節
この善悪の基準は、私たちのからだでは適応できないのです。
完全な人にはなれないのです。
「私は、ほんとうにみじめな人間です。
だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」
ここで、突然場面が変わります。
この苦痛から、突然、喜びの解決へと向かいます。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。
神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」
ローマ人への手紙8章1~3節
「罪と死の原理」については十分に語ってきています。
また、この「罪と死の原理」は、すでにキリストの十字架によって完全に罪赦された私たちには無力になっていることも学びました。
しかし、私たちはキリストから目を離すのであれば、パウロのように「だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」という叫びをあげることもありえるのです。
私たちは、常にキリストから目を離さずにいる必要があります。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」
へブル人への手紙12章2節
17、いのちの御霊の原理
このテキストでは、始めて出てくるワードがあります。
「いのちの御霊の原理」です。
この地上にイエスがおられる時、このように約束をしてくださいました。
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。
その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。
世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。
その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。
わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」
ヨハネの福音書14章16~18節
キリストは私たちを孤児にせず、御父にもう一人の助け主である御霊をお与えになると約束しています。
聖書は御霊、もしくは聖霊と訳していますが、同意語です。
この方は神である人、イエスによってその方と呼ばれています。
その方は三位一体の一神格の神です。
なんと、驚くべきことに、私たちに神を与えるとイエスは言われているのです。
その方は私たちの助け主です。
なんとも言えない人間の愚かさを感じます。
我々には助け主として神が与えられたのです。
それなのに、明日のこと、無力さ、罪悪感で悩んでいるのです。
そして、父なる神と御子と聖霊は一体です。
ゆえに、聖霊が私たちの中に住まわれるとは、イエスも我々と共におられることを示しています。
「戻って来るのです」"ερχομαι"と訳されていますが、原文では現在進行形です。
直訳なら来続けている、意訳ならば、常にともにいるなのです。
携挙のことを述べているのではありません。
この御霊の存在が、キリストの臨在と一つなのです。
復活されたイエスは、弟子たちに聖霊が与えられるのでエルサレムにとどまるように言っていました。
「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
使徒の働き1章4、5節
これが実行されたのが使徒の働きのペンテコステ(五旬節)の日の出来事です。
「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。」
使徒の働き2章1~6節
ユダヤ人の祭りである五旬節の日に、信者の集合体である教会が生まれました。
建物のこと指しているのではありません。
聖霊の常駐は目に見えるものではありませんので、最初は目に見える形で行われ、約束が実行されたことを示すためにこのような形で行われたと考えられています。
クリスチャン一人一人に聖霊(神)が与えられたのです。
聖霊の事はは書簡の中で、何度も説明され、教えられています。
「私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、
神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」
テトスの手紙3章8、9節
聖霊によって、人が新生と更新との洗いによって救われるのです。
「またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。」
エペソへの手紙1章13節
聖霊が与えられていることは、救われている証印だと言われています。
「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」
エペソへの手紙5章18節
酒ではなく、聖霊に満たされなさいと勧めています。
聖霊が内住されているので、聖霊の働く場面、環境を作りなさいと言っているのです。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
コリント人への手紙第一6章19節
「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。
悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」
エペソへの手紙4章28~30節
クリスチャンのからだは、聖霊の宮なのです。
ゆえに、罪の中にいきることは、聖霊の働きを邪魔することです。
聖霊に満たされるとは、神の御性質にあった環境を作ることなのです。
罪から離れ、御言葉に満たされ、祈り求める姿がそこにあります。
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
ローマ人への手紙5章3~5節
与えられた聖霊によって、患難さえも喜こぶことができると書いています。
個人的に説明するときはドラマの水戸黄門を例えに出すことが多いです。
正式の公表では、キリストの来臨は世の終わりに行われます。
しかし、その間、聖霊を通して、キリストが身を隠して、隠密に働いておられるのです。
「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、
知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」
ヨハネの福音書14章17節
信仰によって、クリスチャンの中で神の臨在は認められる者ですが、救いを受け入れていない者には、キリストは認められないのです。
見えないのです。
わからないのです。
しかし、我々にとっては助け主、神の御臨在、そのものです。
聖霊は神です。
神が我々の中に住み、働いているのです。
18、結論
この地上に置かれたクリスチャンの状態は、ぶどう酒と皮袋にたとえられています。
「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」
マルコの福音書2章22節
古いからだに新しい命が宿っているのです。
罪は古い性質に責めを負わせます。
それが現在の地上にいるクリスチャンの姿なのです。
しかし、キリストの十字架の御業により、その負わせるべき罪の責めは取り除かれました。
サタンは語るでしょう。
「罪を犯したのだから、その責任を取って、罪の重さを十分に味わうことが、良い方法です。
もっと、悔やみなさい。
何が悪かったか、針の穴を探すほどに悔やみなさい。」
しかし、そこには人間の精神への威圧のみで、その人はつぶれてしまうこともあるのです。
過剰反応を起こすのであれば、死さえも選択します。
しかし、聖書の宣言はこうです。
「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」
ローマ人への手紙8章9、10節
我々には神である御霊、聖霊を持っているのです。
たとえ、からだがどのような罪のゆえに死んでいたとしても、聖霊が義のゆえに(通して、よって)生きていると宣言されています。
あなたが、キリストを救い主として信じているのなら、あなたの状態がどのような状態であったとしても、あなたのからだが(霊的に)死んでいるとしても、聖霊は義を行うことが出来るのです。
「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」
ローマ人への手紙8章12、13節
肉の責任(善悪の基準を持つ、もしくは罪の問題を自分で解決しなければならないという良心)を自分で取ろうとするのであれば、そこには絶望しかないのです。
もし肉に従って生きるなら、イスカリオテのユダのように、あなたがたは死ぬのです。
でも、御霊の働ける環境を整え(御霊に満たされ)、御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
具体的に何が起きるかは書かれていません。
ただ、我々の主は私たちの古いからだより強いです。
「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」
ローマ人への手紙6章6節
すでに古い私たちはあの十字架の上で葬り去られているのです。
古い私たちは十字架の上で死んでいるのです。
主はすでに、罪と死に対して勝利しており、古いからだは一時的にここに存在しているだけです。
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。」
ローマ人への手紙8章14、15節
その御霊は恐怖をもたらす方ではありません。
「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」
ローマ人への手紙8章23節
新しいからだが与えられます。
もはや、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れている状態ではなくなるのです。
新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。
「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
ローマ人への手紙8章34、39節
ここで宣言されています。
「死も、いのちも、御使いも、権威ある者(サタン)も、今あるものも(現在の地上にある権威)、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
できないのです。
サタンであろうと、古いからだであろうと、のちに来る時代であっても、神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
そう、キリストは一度だけ、完全に罪のささげ物となり、永遠に神との関係において、罪の問題を解決しているのです。
「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。
しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」
へブル人への手紙10章10~14節
「キリストの一つのささげ物」によって、永遠に全う(完成)されたのです。
そして、今はその敵(サタン)がご自分の足台となるのを待っておられる状態です。
私たちの救いの完成は、サタンがご自分の足台の時であり、キリストの花嫁として婚宴が開かれる時です。
そして、現在、キリストはすべての救いの御業を終了して(完成して)座して、私たちのためにとりなしを行っているのです。
旧約の時代、、祭司は立って奉仕をし、くりかえし、罪のためのささげ物をしていました。
キリストの祭司は贖いの御業をすべて完了し、座っています。
もう、罪の問題を解決して、とりなしをしているのです。
また、人間の行い、努力では、罪の問題、罪の意識、懸念を取り除くことができません。
しかし、キリストは十字架を通し、それらを取り除くことが出来ているはずなのです。
しかし、サタンは語ります。
「お前は罪を起こした」と言って、神の恵みから引き離そうとします。
そして、私の肉(神から離れようとする性質)と同調するのです。
時には、クリスチャンであっても、罪の告白がなされずに「神との交わり」から疎遠になっていることもあります。
ゆえに、神は人に罪を教えなければならないこともあります。
おそらく、サタンの訴えに対しての許可も利用するかもしれません。
クリスチャンは罪の問題を適切に処理してしなければ、なりません。
それは、恐ろしい結果をも生みだす可能性もあります。
「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」
ローマ人への手紙5章20節
神の恵みはさらに高く、神に教育されて、より、聖くなっていゆくのです。
すべての出来事は神が私たちを教育するための材料です。
そして、天の星さえも、天の星の砂一粒さえも、神の御前で、私という個人とシンクロ(同期)しているのです。
クリスチャンが祈り、必要であれば、神は目の前で星を降らすことも出来ます。
祈った瞬間に地震を起こすことも出来ます。
すべてが神の御前においては、シンクロされており、私たちを聖くするための材料としているのです。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
ローマ人への手紙8章28節
私たちはよりキリストに似た者とされるのです。
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」
ピリピへの手紙3章20、21節
このように、後悔は罪に向かうことであり、、
悔い改めとは、罪がすでに贖われたと考え方を変えることなのです。
また、どのように歩みが苦しい場面だとしても、
新しい命と古いからだにおいて、葛藤があったとしても、
我々はすでに罪に勝った者であり、より強い神の御手の中を歩んでいるのです。
私たちは罪の問題が自分では解決できないということを知ったからこそ、イエスキリストを救い主として信じたのです。
そして、私たちの救いが完全なる恵みであると同時に、
私たちの人生、クリスチャンとしての歩みも完全なる恵みなのです。
この人生は、より、キリストに似た者とされるための教育の舞台であることを忘れてはいけません。
そして、最後に神は人を導くために、後悔をたびたび用いります。
それは、後悔という恐怖の場面に持って行くことにより、悔い改めの必要性を教える為です。
同様に、神はクリスチャンも、後悔する場所に連れてゆくことがあります。
それは、クリスチャンにとって、教育の場所であり、より御霊に頼る者とするためなのです。
神を信じる者、神に愛される者には、一つのサイクルがあります。
もちろん、罪を犯すようなことは神は求めていません。
人は失敗をします。
後悔します。
悔い改めによって、神の許しに導かれます。
そして、神の慰めが訪れるのです。
ローマ人の手紙7章はクリスチャンにとって不健康とも言える状態です。
しかし、神は時々、私たちをそこに置きます。
神の哀れみを私たちが味わうためです。