メッセージ18 2023/9/7

礼拝とはなんでしょうか?


1、前述

2、礼拝の対象 PART1

3、礼拝の対象 PART2

4、旧約の時代の礼拝 PART1

5、旧約の時代の礼拝ーカインとアベル PART2

6、旧約の時代の礼拝―信仰の父、アブラハム PART3

7、黙示録の中の礼拝

8、サマリヤの女に語られた礼拝とは。

9、結論

10、後記


1、前述

クリスチャンの多くは、主日礼拝として、日曜日に教会に行き、礼拝を捧げます。
多くの教会は、日曜日をキリストの復活を記念して主日礼拝を捧げますが、クリスマス同様、主日を特別な日として、クリスチャンが守るべき日だとは聖書には記されていません。
では、イエスを救い主として信じるクリスチャンは、どのような礼拝を捧げる必要があるのでしょうか?

「偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。
『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」
マタイの福音書15章7~8節


ここで、イエスキリストはパリサイ人に対して、正しい礼拝が捧げられていないことを非難しています。
日曜日、もしくは他の日であっても、時間を費やし、お金を費やしたとしても、賛美がされ、メッセージが語られたとしても、正しい礼拝が捧げられていなければ無駄だと言っているのです。
当時のユダヤ人たちは、ユダヤの儀式を守るために、多くの費用を費やしていました。
礼拝儀式のために、子羊、雄牛などを捧げていたのです。
お金の無い人は子羊、雄牛など捧げることも出来ずに、律法には鳩などを捧げることが赦されていましたが、多くの負担です。
しかし、イエスはむだだと宣言しています。

彼らのこころは神が言わんとしている律法の精神から離れ、タルムードなどの口伝律法に執着していました。
率直に、彼らの自己満足だけで、むだなのです。
もったいないのです。

では、私たちの礼拝はどのようなものであるのでしょうか?
現在の福音的な教会の礼拝スタイルは、19、20世紀の教会で構築された形式を引き継いだもので、現在のネット時代においては形が変わってきています。
多種多様な礼拝スタイルが存在しており、特に新型コロナの流行により、大きく変化しています。
また、集会の場所など来られない人もおり、彼らを考慮することも必要だと感じます。
しかし、もし、正しい礼拝が行われていなければ、むだなのです。

もし、礼拝をはっきり定義したのであれば、すでに現在の教会から消え失せてしまっているようにさえ、見えます。


2、礼拝の対象 PART1

このテキストの筆頭から、聖書同様に警告から始めることになります。
ユダヤ人の出エジプトの際に、神は、あの「煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた」シナイ山より、十戒の第一戒に、神を礼拝する規定を提示しました。

「「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」
出エジプト記20章2~5節


神は最初の戒めを提示しましたが、そこにはすでに破られることが前提で、罰則がついていました。
神は礼拝すべき対象がすでに、無視されることを承知していたのです。

現在の教会において、創造主、キリストへの礼拝の対象が確実に備え付けられていることを確認することは、常に我々に与えられた責務であることを覚えておくべきです。

建物、人間への賞賛、人間の権威、所属する組織、もしくは人間そのもの、、
誰かの賛美、祈りさえも、そこに含まれる可能性もあります。
そして、創造主以外のものを物理的に、もしくは心の中で形作ってゆくのです。

確かに賞賛を受けるべきものが、この地上にはあるのかもしれませんが、我々が神への礼拝を捧げるとき、礼拝の対象が創造主なる神であることに心が奪われる必要性があります。

サタンは巧みに私たちの心に語りかけ、誘惑し続けているのです。
私たちの主も、公の生涯を始める時、サタンによって、試みられました。

「また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、
こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。
ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」
イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」」
ルカの福音書4章5~8節


ここで、主イエスはこのサタンの問いかけに対して「苦しまれた」ということを聞きます。
罪なき方が、この問いに対して悩みも、苦しみもしません。
ただ、主も人間と同じように、試みに会う必要があったのです。

このようにサタンは自分を礼拝するように要求してきます。
我々も、主と同じように罪がなければ『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と返答も、当然のごとくできるはずです。
しかし、ペテン師、巧妙に我々、価値観を入れ替えようとしているサタンは、常に働いていることを忘れてはいけません。
もし、サタンを拝むのなら、神以外のものを拝むなら、そこには豪華な景品がついてくるのです。

名声、富、権力、栄光、時にはすべてがセットになってついてくることもあるでしょう。
そして、もし、神に属する者であれば、神の子供たちであれば、神はそんなことをおゆるしなりません。
神は力ずくで、神の子供たちを奪い返し、時には、大きな痛みを伴うこともあります。
主がお許しになるのであれば、すぐにでも、サタンの攻撃が始まるのです。

クリスチャンは礼拝の対象、方法をしっかりと守っていなければならないのです。
自由な礼拝という言葉の中に、もっとも大きな罠があるのです。
自由ということはなんでもありということを指していません。


3、礼拝の対象 PART2

聖書の中で、父なる神を礼拝することは理解できます。
父なる神は礼拝者を求めておられるのです。

「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」
ヨハネの福音書4章21節


では、子・聖霊の神に対する礼拝をどのように受け止めるべきでしょうか?
子・キリストに対して礼拝される対象であることが、下記の聖句によって証明されます。

「さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」」
へブル人への手紙1章6節

「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」」
マタイの福音書2章1、2節


「しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。」
マタイの福音書28章16、17節


「二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」」
黙示録4章10、11節


聖書は御子が礼拝されることを否定していません。
黙示録の天の風景によっても、証明されます。

では、聖霊を礼拝することは聖書に記されているのでしょうか?
聖霊は聖書の中で神と呼ばれています。

「そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」」
使徒の働き5章3、4節


また、御父、子と同等に置かれています。

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」
マタイの福音書28章19、20節


「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」
コリント人への手紙第二13章13節


私たちの中に聖霊が内住し、聖霊の存在を十分に感じるように勧められながらも、聖霊を礼拝対象にするような記事が聖書には見当たらないのです。
聖霊の働きは、私たちを御父、子の礼拝へと導く役割を担っており、自らを礼拝対象にはしていません。
まさに、聖霊は我々の助け手となって下さっているのです。

ここに脅威べき、イエスの言葉があります。

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。
その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」
ヨハネの福音書14章16節


聖霊は神です。
なんと、イエスは神をクリスチャンにお与えになると言っているのです。
その方はしもべのようであり、礼拝されることを要求していません。
その方は、私たちのうちにおいて、働いておられるのです。
その方は、我々の助け手です。
我々は何を恐れているのでしょうか?

このように聖霊なる神は、しもべのように助け手となり、自らを礼拝対象にはしていません。
しかし、感謝を感じることの必要性は否定できません。


4、旧約の時代の礼拝 PART1

「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。」
ローマ人への手紙9章4節


神はイスラエルの民に礼拝する方法を示しました。
「子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも」と書かれている通り、イスラエルにとっての特権でした。
ここでは、詳細に語ることをしませんが、その礼拝規定は細かく規定されていました。

「初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。」
へブル人への手紙9章1節

「よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ。」
レビ記25章40節

「その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。
「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」」
へブル人への手紙8章5節


その礼拝所、幕屋は「天にあるものの写しと影」であって、天の礼拝所の影、型であったのです。

その聖所は2つに区切られています。

「幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。
また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、
そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。」
へブル人への手紙9章2~4節

常時、礼拝する者は、ささげ物を持参し、祭司によって、罪の身代わりのささげ物が捧げられます。
また、祭司は祭りの時に、年に一度だけ、奥の至聖所に入ることができました。
つまり、ともに礼拝者が直接、礼拝することが不可能だったのです。

また、汚れのある者などは礼拝が許可されていませんでした。

「もし死体によって身を汚しているか、遠い旅路にあるなら、その人は主に過越のいけにえをささげなければならない。」
民数記9章10節


つまり、自由な礼拝が赦されていないのです。
そして、この礼拝の規定を守らないところに死がありました。

「さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。
すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。」
レビ記10章1、2節


そして、礼拝、ささげ物には多くの負担があります。

「もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。」
レビ記1章2節


通常、ユダヤ人の生活費の3割近くがささげ物などの礼拝に使われていたとされます。
それも、エルサレムにいかないといけませんので、仕事を休み、旅費も必要になります。
ここでは、イエスの両親がエルサレムに上っていたこと記されています。

「さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。」
ルカの福音書2章41節


神の御配慮は厳しいながら、貧しい者への配慮がありました。
牛も羊も買えな者には代替えのささげ物が許可されていました。

「しかし、もし彼が羊を買う余裕がなければ、その犯した罪過のために、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を主のところに持って来なさい。一羽は罪のためのいけにえとし、他の一羽は全焼のいけにえとする。」
レビ記5章7節


鳩さえ、買えない者には更なる配慮があります。
「もしその人が山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽さえも手に入れることができなければ、その犯した罪のためのささげ物として、十分の一エパの小麦粉を罪のためのいけにえとして持って来なさい。その人はその上に油を加えたり、その上に乳香を添えたりしてはならない。これは罪のためのいけにえであるから。」
レビ記5章11節


しかし、礼拝をするには大きな負担が必要だったのです。
また、規定を守らないのであれば、呪いがあったのです。
イエスの両親は貧しい部類の人たちであったことが記されています。

「さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。
――それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない。」と書いてあるとおりであった。――
また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽。」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。」
ルカの福音書2章22~24節


つまり、イスラエルの礼拝は、直接の礼拝も出来ず、大きな負担があったのです。
しかし、これが神がイスラエルに与えられた大きな特権だったのです。
このささげ物、祭りにはすべて、意味があります。
それは、キリストを現わすもので、重点として、ささげ物は罪の身代わり、代替えであったことを示しています。
今回はテーマが違いますので、省略しますが、最も偉大な預言者であるバプテスマのヨハネが叫びを強調しすぎることはないと思います。

「ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」」
ヨハネの福音書1章29節


しかし、バプテスマのヨハネが「おそらく本人に指を指して」叫んでいます。
あの人こそが「見よ、神の小羊」と言っています。
人間が提供した、人間の捧げる小羊ではありません。
神の提供した、神御自身が捧げる完全な小羊なのです。
聖書は言っています。

「律法(儀式)には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。」
へブル人への手紙11章1節

ユダヤ人たちは、イエスキリストが十字架に架かっている同時間に、彼らは罪のためのささげ物、子羊を捧げていました。
それは、後に来るすばらしいものの影です。
ここに本物の神の子羊が捧げられたのです。

「キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」
へブル人への手紙7章27節


神の提供した、神御自身が捧げる完全な小羊によって、完全な罪の贖いが完成されたのです。
神と受け入れた者との間にあるすべての罪の問題が解決されたのです。
その時、神殿の聖所と至聖所を仕切る幕が上から下へと割けました。

「それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」
マタイの福音書15章37、38節


キリストの十字架の御業が終えた時、至聖所を仕切る幕が上から下へと裂けたのです。
神と個人を遮る幕が裂けました
神と個人を遮る罪の問題すべてが解決したのです。
神殿の幕であるキリストが私たちの罪、そのものとなられ、裂かれてくださったのです。
もう、神と個人を遮るものはありません。
正々堂々と神と交わることができるのです。
キリストの血を通して、私たちは礼拝を捧げることができるのです。

型として、年に一回、大祭司しか入れなかった至聖所に、今はキリストを信じる者は誰でも行くことが出来るようになったのです。
救い、礼拝に至る方法は信仰です。
もちろん、外面的な問題は起きるでしょうが、負担ではありません。
フリーです。
ささげものを捧げる必要がありません。
イエスご自身が捧げものになってくださったからです。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
ローマ人への手紙10章9、10節


もはや、規定はキリストの血を信じるだけです。
アロンの子たちの犯したような、詳細なものはありません。
知識の上でも複雑なものは存在していません。
それを犯す恐怖もありません。

「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。」
ローマ人への手紙8章15節


ただ、私たちの知る最大の罪は聖霊に対する罪ですが、信じない者にはそれも理解できません。

「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。」
マタイの福音書12章31節

「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」
コリント人への手紙第一12章3節


言うまでもなく、救いに導く聖霊の働きに逆らうのであれば、救いに至ることはなく、滅びが待っているだけです。
感じることも、赦されることもありません。
このように、旧約のイスラエルの礼拝には、神に対する「畏怖の念」、「経済的負担」、「時間的負担」、そして、多くの「規定」がありました。
しかし、いまや、イエスキリストの十字架はすべてを取り去り、「私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼ぶことができるのです。」

ただし、この旧約の記録が無視されてはいけません。
旧約の時代の礼拝には、必ず、犠牲が必要だったのです。
主は、正しい犠牲を喜びとします。

我々には、もっと優れた祝福を味わうために、特別なオプションが用意されているのです。
この旧約の記事が儀式に基づいているように、特に教会の儀式としての礼拝には、各個人の負担ということは無視はできないのです。

ここで礼拝の精神を学ぶことができます。
自由な礼拝とともに、神に対する「畏怖の念」、「経済的負担」、「時間的負担」、そして、「規定」をも忘れてはいけません。
主にこれらのものを差し出すことは、主に喜ばれる行為なのです。
献金は礼拝ではありませんが、主はささげる者を喜んでおられます。
主に対する負担を、主は決して無駄にはしません。

「そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」
エペソへの手紙5章10節

「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」
コリント人への手紙第二9章6、7節


個人的な意見として、主催する側は、このように集まる者に対して軽度の負担を与えることが信者の成長となることを知っています。
主に対して負担を出すこと、この世のことよりも、主を礼拝することを優先するように仕向けるのが、主催者の務めです。
もちろん、個人、一人一人の礼拝にはこれを規定することはありません。


5、旧約の時代の礼拝ーカインとアベル PART2

礼拝とは何か?
旧約の時代の信仰者の具体例をあげてみたいと思います。

人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。
彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。
また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。
だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
創世記4章1~5節


ここでは、記録によると人類最初の礼拝、ささげものが記されています。
アダムとエバが罪を犯し、エデンの園から追放され、彼らは土を耕すようになったのです。
罪の結果、労働が人類に入ってきました。
彼らの子供たち、カインは土を耕す者、アベルは羊を飼う者となったのです。
そして、その労働の結果であるささげものを、彼らは神にささげたのです。
カインは地から取れたものを、アベルは羊の初子をささげました。

注意すべき点は、彼らは共に神に捧げたのです。
神を無視したのではありません。
ささげものをして、礼拝を捧げたのです。
アベルは受け入れられ、カインは受け入れられません。
どうしてでしょうか?
方法が間違っていたのです。

アベルの両親はサタンによって騙され、罪を犯しました。
神はすぐに、彼らに救いを、メシアの約束をされたのです。

「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
創世記3章15節


単数の女の子孫はサタンに打ち勝つのです。
まさに、男性家系ではなく、処女マリアを通して、お生まれになったキリストが十字架にかけられ、傷を負うが、サタンに致命傷を与えるという預言が与えられたのです。

そして、神は罪は血を流されることによって、覆われる象徴として皮の衣をお与えになったのです。

「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」
創世記3章21節


聖書には、神がアベルの両親にどれほどの知識をお与えになったのかが記されていません。
罪を覆うためには、血が流されることが必要だという知識から、アベルは自分の身代わりとなるべき、ささげものを持ってきたのです。
血が無ければ、礼拝は受け入れられないのです。

そして、カインは呪われた地から自分の努力である作物を持ってきました。
礼拝は犠牲を払えばよいという問題ではありません。

ヘブル人への手紙の著者は、アベルは信仰によって、このささげ物を行ったと記しています。

「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」
へブル人への手紙11章4節


しかし、それは型(模型)であり、さらに優れているのが実物の血なのです。

「新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」
へブル人への手紙12章24節


現在の礼拝において、キリストの血が存在していますか?
教会で、キリストの人格から道徳を語ることもあるでしょう!
そして、聖書預言から人々に興味を与えることもできるでしょう!
聖書の記事から、ビジネスに必要なことを語る人がいるかもしれません。
しかし、そこに血があるのでしょうか?
血が無ければ礼拝は成立しません。

礼拝は正しく行なうことなしに、受け入れられないのです。
まさしく、カインの犠牲はむだだったのです。


6、旧約の時代の礼拝―信仰の父、アブラハム PART3

若干、今回のテーマから外れるかも知れませんが、ここで私たちの信仰の父、アブラハムの礼拝を外すわけにはいきません。

先にアブラハムが、まだアブラムと呼ばれていた時代、神はアブラムにこのように言いました。

「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。」
創世記17章1~3節


神はご自分を「全能の神」として、アブラムに示しました。
この神の前にアブラムは「ひれ伏した」のです。
ここに礼拝の姿があることを前述しておきましょう。

ここでは、神はアブラハムを試み、アブラハムの行動によって、神への信仰を試されたのです。
結果は言うまでもなく、最高の祝福がそこに準備されていました。

「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。

イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。
それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、
仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、
わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。
あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
創世記22章1~18節


神はアブラハムに自分の子イサクを全焼のいけにえとして捧げることを要求しました。
つまり、アブラハムにイサクを殺せという要求です。
ここで、アブラハムはイサクを失ってもいいから、神にささげ物をしたと想定されますが、そうではありません。

アブラハムはイサクを失うことを想定していなかったはずです。
もともと、イサクは神によって預言され、高齢のアブラハム夫妻に与えられた奇跡の子供です。

「また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。
わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」
アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」

すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」
創世記17章15~19節


そして、イサクの子孫は神と契約をし、祝福されることを宣言しています。
では、このイサクのささげ物によって、イサクが実際に殺されるのであれば、この宣言は成就されません。
絶対者である神の約束が成就できなくなるのです。

ここに信仰があります。
アブラハムは神はイサクを甦させることができることを信じたのです。
この神こそが、創造主であり、人の死と命を支配しておられる方と信じたのです。

「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、
彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」
へブル人への手紙11章17~19節


「信仰」によってと書かれていますが、信仰とは何でしょうか?
それは神の預言を信じることです。
現在に起きていること、未来に起きることを神は預言しておられます。
アブラハムは将来、イサクの子孫(単数)により、世界が祝福されることを信じていたのです。
ゆえに、彼の信仰が義と認められたのです。

言うまでもなく、この出来事は、御父がこの世にイエスキリストを送り、十字架にかけてくださったことの予兆、型なのです。
モリヤの地とは、まさにエルサレムのゴルゴダの地であり、イサクは抵抗することなく、アブラハムの意思のままに屠られようとしました。
しかし、ここで神はストップをかけられたのです。
「あなたの手を、その子に下してはならない。」
神はアブラハムの信仰を試みていたのです。

我々、クリスチャンの人生もすべてが試み、世の出来事はすべて私たちの益になるための試みの場所であることを忘れてはいけません。
神はアブラハムの手を止めたのです。

でも、私たちは神御自身が御子イエスキリストに対して、ストップをかけなかったことを覚えます。
イエスは最後まで、十字架の上で苦しまれ、その御業を完了させました。

そして、アブラハムには、ささげものが準備されていたのです。

「アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。」
創世記22章13節


いかなる困難があろうとも、試みには神の備えがあることを私たちは忘れてはいけないのです。

この神の試みにチャレンジに合格したアブラハムには更なる約束の祝福が待っていたのです。
通常、物事を誓うとき、下の者が上の者に誓うのですが、神は下の者の立場を取り、そして、自分より上の者が存在しないゆえにこのように誓ってくださったのです。

「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。」
創世記22章16節


そして、宣言したのです。

「あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、
わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。
あなたの子孫(単数)によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」」
創世記22章16~18節


アブラハムの子孫によって、イスラエル民族が祝福されるという預言です。
その子孫とはイエスキリストです。
契約神学を唄っているように、イエスキリストはイスラエルを呪いに来たのではありません。
祝福しに来たのです。

このようにアブラハムは試みられましたが、正しい礼拝の結果には、すばらしい祝福が待っていることを忘れてはいけません。
主に喜ばれる、正しい礼拝こそが、祝福の秘訣と言っても過言ではないのです。


7、黙示録の中の礼拝

ここでは、天における礼拝の姿があります。

「また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。」
黙示録4章4節


この24人の長老が誰なのか?聖書には記されていません。
もう一度書きます。
聖書には記されていません。
もしくは、世の終わりに24人の長老と言われる存在が出てくる可能性もゼロではありません。
(これが聖書解釈の在り方です。
解釈は解釈であり、聖書の他の個所にある絶対事項と同じ場所においてはいけません。
もし、この解釈が間違っていた時(そんなことはよくあります。)、この救いという絶対事項が揺るがないためです。)

しかし、これは天における教会の姿だと著者は強く推測します。
この4章の手前の2、3章でヨハネは7つの教会へ、神からのメッセージを伝えています。
この長老たちは「白い衣」を着ています。
サルデスの教会の勝利を得る者には白い衣が着せられています。

「しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。」
黙示録3章4、5節

ラオデキアの教会へのメッセージです。
長老たちは御座のまわりにある座に座っています。

「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」

ヤコブの手紙にはこのように書かれています。
長老たちは冠をかぶっているのです。

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」
ヤコブの手紙1章12節

このように著者はこの24人の長老たちが教会だと推測する根拠です。
これが12の教会の長老と、12弟子だという主張もありますが、誰が座っているかは、天に行ってから知ることになります。

この24人の長老たちが教会の姿だとするのであれば、罪、贖われた私たちの礼拝の姿が見事に描き出されてくるのです。

「また、これらの生き物(御使い)が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、
二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。
あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」」
黙示録4章9~11節


神を礼拝するとき、長老たちは「自分の冠」を御座の前に投げ出したのです。
「自分」という言葉に注目してください。
自分の所有物です。
先ほどのヤコブの手紙1章12節の引用から推測するのであれば、それはこの地上で彼らが主のために苦労したゆえに頂いた冠です。
彼らは、主を礼拝する時、それを投げ出したのです。
彼らの宝を放り出したのです。
そんなものより、主御自身を賛美、礼拝することの方が素晴らしいのです。

ここに教えられることがあります。
皆さんの礼拝は、あなたの宝を放り出しても優先しますか?
それが教会のため、信者のため、自分のため、主から頂いた宝物だとしてもです。
神、キリストこそが我々の宝であり、神から頂いた祝福だとしても、神御自身と比べれば放り出す対象なのです。

厳しい問題かもしれませんが、自由な礼拝を約束されたクリスチャンに対する問いです。
礼拝、それは時間が空いたら、自由に行うものですか?
あなたを救い出すために、主がどれだけの苦労をされたか覚えていますか?
礼拝は単なる楽しいサークルなのでしょうか?

私は皆様方に重たい荷物を載せる気はありません。
神と私たちの間の重たい幕、カーテンは神によって引き裂かれたのです。
価値観の問題を言っているのです。

この神が裂いてくださった幕と、私たちの持つ価値観と負担は両立しているのです。
ともに感謝して、礼拝に望むのです。
長老たちには放り出す冠がありました。
その時、あなたは放り出すものがありますか?
礼拝が、どれだけ厳粛なものか、覚えていく必要があると感じます。

「彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。
彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。」
黙示録5章8~14節


ここでは礼拝式全体の様子が描かれています。
注意すべき点は、賛美とひれ伏して拝んだ(礼拝)が別の枠でくくられていることです。
礼拝式としては、賛美、祈り、御言葉の学びが必要だとわかりますが、多くの教会において、主にひれ伏して拝んでいないのです。
これは、現在の教会において、大きな問題です。
答えから言うのであれば、この「ひれ伏して拝む」行為こそが、聖書のいう礼拝だからです。

あなたは主の前にひれ伏していますか?
主の存在の偉大さにひれ伏していますか?
もちろん、物理的な行為だけで正しいとは言いませんが、霊的(肉体的ではない)にあなたは主の前にひれ伏していますか?
これこそが礼拝式の主題でなければならないのです。


8、サマリヤの女に語られた礼拝とは。

主によって、神の求める礼拝者が説明されています。
それは純粋なユダヤ人にではなく、当時、異端としてみなされていたサマリヤ人信仰の元にあるサマリアの女の元に、創造主なる神が訪れ、彼女を導き、神の求める礼拝者とは何かを教えたのです。

「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。
ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。」
ヨハネの福音書4章3~7節


ユダヤ人と異邦人の混血であるサマリヤ人はユダヤ人から軽蔑されていました。
彼らはエルサレムには登って行かずに、独自の信仰を保っていました。

「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
ヨハネの福音書4章20節


時は6時、通常、女性が水をくみに来るような時間ではありませんでした。
彼女には、人の目を避けなければならない理由があったのです。

「イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」」
ヨハネの福音書4章16~18節


彼女も初婚の時は、夢を持っていたでしょう。
しかし、現実は離婚歴5回、今、同棲中の男性は、まだ夫ではなかったのです。

イエスはその女に言ったのです。
「わたしに水を飲ませてください。」

イエスはその女のこころを知っていたのです。
彼女の方が霊的に(精神的に)に乾ききっていたのです。

イエスの方から、彼女の心が乾ききっていることを知っていながら、主は彼女に「わたしに水を飲ませてください」と問いかけたのです。

「イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」」
ヨハネの福音書4章10節


驚くべきことに、この世から価値を認められない。
そして、この世に自分を現わすこともできない女のところへ、この生ける水の存在を知らせるために、神でありメシアであるキリストが訪れたのです。

「あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。」

これは神の私たちへの礼拝の要請であり、もし、神が誰であるかを知っているのなら、私たちの方から礼拝を求めるという宣言です。

私たちは神がどのような方であるか知っているでしょうか?
もちろん、創造主である方、そして、我々の罪を贖った方です。
それを理解しているでしょうか?
我々は、その方がどのような方であるか?知識を増すたびに神と交わることを求めるのです。
神の存在の奥深さ、その知恵、聖書を通し、学びを繰り返すたび、我々は礼拝を求めるのです。
この神の存在を知るならば、日常生活と礼拝の重要レベルが変わってくるのです。

彼女が自分の目の前にいる方がどんな方なのかを信じるのであれば、彼女は命の水を飲むことになるのです。

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
ヨハネの福音書4章14節


これはイエスキリストが語った約束です。
対象は「わたしが与える水を飲む者はだれでも」、決して、渇くことがありません。
これは、いつなのかということ以外、教理も、説明もいりません。
具体的に起きるのです。
新天新地において、物理的な世界で実際に起きるのです。

「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」
黙示録21章6節


そして、今、それが神を求める人たちの心の中でも起きているのです。

そして、希望を持たない、乾ききった、それもユダヤ人から異端視扱いされていた女に礼拝とは何かが語られるのです。

「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
ヨハネの福音書4章20~24節


イエスは女に言われました。
「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」
新天新地においては、神御自身が幕屋であり、我々とともにおられるのです。

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
黙示録20章3、4節

そのような時が来るのです。
その時の礼拝者の姿は「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する」のです。

偽り、誤魔化しのない真実な礼拝者は、偽り、誤魔化しのないこころの霊(肉体的ではない、もしくは精神)で礼拝するのです。
そして、父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

注)今がその時です。
新天新地の王が目の前にいることを示します。

ここで、礼拝という言葉に戻ってみましょう。

礼拝と聞くと、特に礼拝式と聞くと何を創造しますか?
賛美、祈り、それとも、御言葉の購読、メッセージ、、
それらは、礼拝式を構成するうえで必要なものですが、それらは礼拝の付属品なのです。

礼拝という日本語は、礼して、拝するとわかりやすい表現をしているのです。

礼拝という言葉の言語であるギリシャ語は
"προσκυνέω"(ポロスクネオー)であり、
深い敬意の表現としてひざまずき、額を地面につける行為を言っています。
もしくは、元の意味は「飼い主の手を犬のようになめる、キスする」という意味から発祥しています。

これで分かったと思いますが、礼拝は「神がどのような方であるかを認識し、ひざまずく行為」なのです。
そこには、教理も、知恵も、賛美も関係ありません。
それらは付属品です。
今、私たちは主を良く知り、主の前にひざまついているでしょうか?
それを神を求めているということを認識しているでしょうか?

思い出してください。
神はご自分を「全能の神」として、アブラムに示めた時、ただ、アブラムは神の前にアブラムは「ひれ伏した」のです。
ここに礼拝の姿があるのです。

「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。」
創世記17章1~3節


ダビテの礼拝からも、礼拝の定義を拾いだすことができます。、礼拝の定義を拾いだすことができます。
ソロモンが王に就任するときの様子です。

「ダビデは全集団に向かって、「あなたがたの神、主をほめたたえなさい。」と言った。すると全集団は、父祖の神、主をほめたたえ、ひざまずいて、主と王とを礼拝した。」
第一歴代誌29章20節


主をほめたたえ(賛美して)、ひざまずいて、主と王とを礼拝した。
現在、多くの教会において、賛美をします。
祈ります。
御言葉が語られます。
なぜ、主の前にひざまずくことをしないのですか?
これこそが、礼拝なのです。

神の前にひざまずくことのない礼拝式はありえないのです。
もちろん、肉体的にひざまづくことを言っていません。
霊的にです。
そして、もし、正しい礼拝が行われているのであれば、多くの信仰者のように多くの祝福を得ることができるのです。

さらにパウロは神の前にひざまづく同様に、自分の身を神の前に、聖い、生きた供え物としてささげることを勧めています。
全能なる神の前に自分を聖いものとしなさいと言っているのです。

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
ローマ人への手紙12章1節


ここで、聖い、生きた供え物とするために努力しなさいととは言っていません。
ならば、この直前に書かれた御霊の法則が台無しになってしまいます。
これは、主に用いられるために、世と分離しなさい(聖別)を促しているのです。
世の汚れのままでは、ささげ物にはならないのです。
ただ、主の栄光を求めなさい。

これは、神の側に聖別(区別)しなさいということです。
そうすれば、受け入れられるのです。
もちろん、決意という心構えも必要となってきますが、自分(の性質)を諦めて、ささげ物として差し出すことで、神の御前にふれ伏すことになるのです。
これが礼拝なのです。
この私たちの礼拝が、私たちの喜びとなるのを知っています。
賛美、祈りもとても大切な付属品ですが、ふれ伏すことが礼拝の主題なのです。
ただ、主、全知全能の神の前にひれ伏すのです。

「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」
ヨブ記28章28節


9、結論

神を求める者に対して、聖書はこの礼拝の定義をわずかな個所で示しています。
旧約の時代、イスラエルに対して、罪の問題が解決していないときには詳細に記していますが、それ以外の記述が少なすぎます。
新約の時代において、サマリヤの女に対するやりとりが、もっとも大きな記述ではないでしょうか?

このユダヤ人から嫌われた、サマリヤの望みを失くした女のところへ、神が来て、礼拝とは何かを説いたのです。
驚くべき、神の御業です。
一つは礼拝の自由性、そして、 抜かしてはいけない、最も必要なこと、「霊と真」で礼拝を捧げるべきだと言うことです。
「霊と真」で主の前にひざまずくことなのです。

礼拝の勧め

「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」
へブル人への手紙10章22~25節


かの日、キリストの来られる日が近づいています。
著者は、健康、金銭的な理由ならばやもえない選択もありますが、このインターネット時代においても、録音技術が普及したとしても、キリストにある集まりは、物理的に、同じ時間に行うべきだと主張します。
神はこの世界を物理的に、時間の概念の中に創造され、そこに人間を置かれているからです。
より、かの日を思って、集まっていこうと思います。


10、後記

この後記は時系列から言えば、先になります。
個人的に著者はこの日を覚えていたいと思います。
神経質な内容なので、できるだけ正確に書くことに努めます。

私は、しるしや奇跡は、神のみことばである聖書を持つ私たちには不必要であると認識しています。
昨夜は礼拝について、誰かの意見をまとめてみようと考えました。
以外にも、クリスチャンのメインイベントである礼拝について、書かれた著書の少なさに驚きました。

書ききれないと感じ、諦めようとしていましたが、朝になり、なぜか、意欲が増し、諸処の聖書記事を拾い集ました。
公園に行き、思いめぐらせ、答えを得ました。
礼拝とは、「霊とまことによって、ひざまつき、拝する」ことという、まったく単純な原則にたどり着いたのです。
そして、心の中で「あなたと同じ道を歩みたい」と捧歌を唱えたのです。

すると、知らずに、右の手首から、虫か?もしくは切り傷があり、若干多めの血が滴り落ちていたのです。
こんなことは初めてです。
そして、私は公園内の静かな場所に行き、その時において、可能な限り「霊とまことによって、ひざまつき、拝する」ことを行いました。
「イエスは私のために十字架に架かられ、釘打たれた、手首からも多量の血が流された」ことを感謝しました。
不十分は承知ですが、これが私の礼拝でした。

繰り返しますが、私はしるしや奇跡は、神のみことばである聖書を持つ私たちには不必要であると認識しています。
しかし、神は時折、不信仰な私たちに、ビジュアル的に訴えかけてくることがあり、励まし続けています。
神は生きて働いています。

偶然といえば、偶然ですが、わたしにとってはそうではありません。
神は私の目の前のあることと、地の果てにある砂粒もリンクさせ、シンクロさせているのです。
すべてが有益になるため、もはや、地球、人生は私の信仰の教育機材なのです。

私は神を知るために、聖書を文字通りに、正しく学ぶということを強調してきた者です。
でも、一つの考えや、神学に囚われないでください。
神は、人の考えに定義されるような方ではありません。
このことは、誰も読まないかも知れませんが、まとめることに意義を感じ、ここに記します。

私が若かったころならば、このようなデボーションを兼ねた礼拝は感情に訴えるだけ、宗教的な思いになるだけで、利益がないと言ったかもしれません。
その根拠は、どこにあるんだというかも知れません。
明らかに、否定する側だったと思います。

しかし、これが詩編作者、多くの信仰者たちが語ってきた、主の前にひれ伏す喜びだと知りました。
同様な記事は聖書に多数あります。

罪の後悔が過ぎ去った後の、もっとも、絶望的で、孤独こそが、神の最高の教育現場だと認識させられました。

試練によって得るものは、試練に関する内容です。
それ以上に、試練の中にいる時に、クリスチャンは知識とともに、知識以上のものを多く学ぶのです。

自分にやるべきことがあったり、物事がうまくいっている時にはわかりません。
何もかも無くし、孤独で苦しい時にこそ、自分は、より高く、主を礼拝できるのです。

苦難の中にいることが、クリスチャンの醍醐味とも思える喜びです。
主を見上げ、より多くを学び、礼拝を捧げ、最高の喜びを感じることができるのです。


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