メッセージ19 2023/9/13

御言葉を読む


1、前述

2、サタンの試み

3、苦しみの後のサタンの言葉

4、二度目の試み

5、三度目の試み

6、ある教会での出来事

7、結論

8、後記


1、前述

先日、あるクリスチャンとお話しすることがありました。
その方は、他の教会から、私の尋ねた教会に移ってきたとのことです。
お話をしていると、○○先生の「聖書を御言葉をそのまま理解して読む」ということに感銘を受けて、私の尋ねた教会に来たとのことでした。
もちろん、私はそのことに共感していましたので、素直に「それは良かったですね」と答えました。

「聖書の御言葉をそのまま読む」、契約神学を含め、それが多くの教会でできていないというのは事実です。
しかし、その前に不思議だと思いませんか?
「聖書の御言葉」、つまり、「文章をそのまま読む」ということを勧めるのですが、それは小学生の子供に言っていることですか?
まさか、日々、神を求め、聖書を熟読しているクリスチャンに言っているわけでは、、
そうです。

「文章をそのまま読む」ということは、当たり前のことなのです。
二人の待ち合わせを記した手紙はそのまま読むのです。
もし、そのまま読まなければ、この二人は会うことができないのです。
法律書であっても、文学であっても、文章はそのまま読むのが通常なのです。

では、なぜ?この当たり前が出来なくなっているのか?
子供にもわかることがなぜ?できなくなっているのか、それを知らなければ、サタンは手段だけを変えて、また、同じ罠にかけようとします。
たまたま、聖書の御言葉をそのまま読む、理解するということが斬新に見えてだけで、自分の立場をはっきりしていなければ、また、あなたも同じ罠にかかり、同じ所へ帰ってゆくことになります。
もしかして、あなたは、今の教会に反抗し、党派を組むかも知れません。
この罠は、教会指導者にも、また、ご存じのように一般信徒の上にものしかかってきます。
逆に、教会の方があなたに反抗する立場にもなります。
人間は自分こそが、もっとも信用できない罪人であることも忘れてはいけないのです。
サタンの罠に再びかからないために、はっきりとした自分の信仰の不動なポジションを得ることが必要です。


2、サタンの試み

「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」
マタイの福音書4章1~11節


イエスの公の生涯が始まる前に、わが主はサタンの試みにあっておられます。
よく動画等で、苦しみ、悩むイエスの姿が描かれていますが、肉体的な苦しみがあったのはまちがいありません。
しかし。罪なき方がサタンの誘惑に対して苦しみ、悩むことはありません。
ただ、私たちの主は、私たちのためにサタンの試みに会う必要性があったのです。

「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」
へブル人への手紙2章18節


主は私たちの悩みを知っておられます。
私たちの祈りに対する、主からの回答は空論ではありません。
今や、私たちの大祭司は、実際に試みの体験値を知っておられる方で、全能の神の知識、力で答えて下さるのです。

「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
へブル人への手紙7章24、25節


日本語の聖書は、日本人に聖書を正しく読ませようとしています。
これを翻訳した人たちに感謝します。
ここに「とりなし」という言葉でてきます。
ローマ人への手紙においても、キリストは天の神の右の座に着席して、私たちのためにとりなしをしておられると書かれています。

「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」
ローマ人への手紙8章34節


キリストがサタンの試みに会われることは、私たちのためにとりなしをするためにふさわしいことだったのです。
キリストが天において、私たちのために何をしているのか正しく学ぶためにこの言葉を追及してゆきましょう。

日本語辞書では「とりなし」はこのようにでてきます。
「対立する二者の間に入って、うまく折り合いをつけること。仲裁。また、仲介」

つまり、キリストは御父なる神と私たちの仲介をしていることになります。
かつて、主は山上の垂訓の中でこのように言われました。

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」
マタイの福音書6章12~15節


イエスは人に「他の人の罪を許す」ようにとりなしを求めています。
今や、キリストが神の右の座に着き、キリスト御自身が私たちのためにとりなしをしてくださるのは驚くべきことです。
私たちの主、イエスの生涯は常に仲介者でした。
常にイエスは、人々にこの地上の人間関係において、仲介者であり、仲介することを勧めているのです。

「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。
かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
ルカの福音書17章3、4節


もし、私たちが神のみこころを知り、主と同じ道を歩もうとするのなら、私たちは人の罪を訴えるような歩みをしてはならないということです。
また、サタンに隙を与えるような、訴えられる歩みもするべきではありません。
そして、何よりも、成熟した信仰を求めるのであれば、自分に対する訴えでさえ、とりなすことを目指すべきなのです。

私たちの良心はこのように語ります。
「犯した罪の責任は取られるべきだ!
それが大人としての責任の取り方だ!
他人に関してもそうだが、自分にとっても責任を負うべきだ!」

しかし、神の目からはそうではありません。
すべての人が罪を悔い改め(罪に対する考えを変えて)、許されるべきなのです。
今も、キリストは仲介者として働いておられるのです。
すべての罪の責任は神が最終的に行うものです。
今は、私たちも見習うべきです。

これは神学でも、教理でもありません。
全知全能なる神の勧めです。
人を許せない人、仲介者を目指さない者は人の上に立ってはいけません。
神のみこころを知らないからです。

聖霊も私たちのためにとりなしを行っています。

「人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」
ローマ人への手紙8章27節


では、聖書の言語であるギリシャ語の直訳はなんでしょうか?
εντυγχάνω(エンツグカノー)、とりなし、仲介、懇願する、嘆願書を作る、などの意味があります。
英語のKJV、日本の口語訳聖書も「とりなし」という言葉を使っています。

また、キリスト御自身もわたしたちのために「とりなし」を行っていると書かれています。

「よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」
ローマ人への手紙8章34節

このように、聖霊は私たちのうちにおいて、天ではキリストが神の右の座において、私たちのために、私たちの失敗のために、もしくは私たち一人一人の歩みのために「とりなし」をしてくださっているのです。
御父の前で「懇願」、お願いだから、あの人は失敗を犯してしまったから、より良き道に導いてくださいと願い求めているのです。


3、苦しみの後のサタンの言葉

話を元に戻しましょう。
イエスの公の生涯が始まる前に、わが主はサタンの試みにあわれました。

「そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」」
マタイの福音書4章3、4節


サタンの攻撃は計画性があります。
策を練り、自分はあなたの敵ではないと言って、弱い時に攻撃を仕掛けてくるのです。
イエスは40日断食をしたのです。
聖書では40という数字が試みの時を現わしていることがあります。
イエスの出エジプトのイスラエルの民のように、同じ試みにあったことを象徴的に語っています。

また、人間の肉体に対して、物理的に可能か?不可能か?の論議もありますが、聖書の記す限り、人間の限界までイエスは断食されたことが記されています。
出エジプトの荒野ではマナが降り、水が湧きました。
しかし、イエスにはそのようなものがありません。
この断食がどのようなもの?記されていません。
いや、イエスはそのような肉体的な状態になって、サタンをおびき出したかも知れません。

サタンは人間のもっとも弱い時に、それを打開することを勧めるのです。
さりげなく、真実を嘘に入れ替えようとするのです。

「あなたが神の子なら」、イエスは神の子です。
これはエデンの園での問いかけと同じです。

「蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」」
創世記3章1節

もっとも、苦しい時に疑問を問いかけてくるのです。
もちろん。イエスは石をパンにする力を持っています。
実際に彼は、荒野でイスラエルの民にマナを降らせたのです。

「神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」
ルカの福音書3章8節

最初のアダムは失敗しましたが、最後のアダムでおられる、罪なき御方は御言葉によって勝利したのです。

「イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」」
マタイの福音書4章4節


これは申命記からの引用であり、主はイスラエルを苦しめ、そして、恵みのマナを食べさせたのは、主御自身であることを語っています。
そして、その試練と恵みの最終的な目的は「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」ことを体で覚えさせるためだと言っているのです。

「私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。
あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。
それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。
それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。
この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。
あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。
あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。」
申命記8章1~6節


しかし、サタンは自分を無にして、救いを与える救い主に対して、自分の欲を満足させるために、奇跡を行えとイエスに要求しているのです。
これから、人類のために、他人のために奇跡を行おうとしているのに、自分のために働けと誘惑しているのです。

イエスは御言葉によって、しもべの立場を取り、サタンの誘惑を排斥しました。
『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』

もちろん、イエスは神の子なので、一言、「サタンを退け」という言葉だけで排斥することができました。
しかし、イエスはしもべとして、兄弟たちと同じ立場で御言葉によって、サタンに勝利したのです。

「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」
へブル人への手紙2章18節


もう一つ、言うのであれば荒野で、イスラエルの民にこの御言葉を語ったのは、イエスキリスト御自身なのです。


4、二度目の試み

このようにイエスが御言葉によって、勝利したのを見て、今度はサタンの方が御言葉で誘惑してきたのです。
これは今回のテーマに関わるもの、結論は後に語るとしますが、サタンは詩編から誘惑してきています。

「すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」」
マタイの福音書4章5、6節


荒野の次の場面は神殿の頂です。
もちろん、ここはエルサレムの神殿の頂上だと考えられます。
そこから、イエスが身を投じて、神殿の中庭にいる礼拝者たちが「御使いの登場とイエスが無傷な姿」目撃したのなら、メシアとして登場としては最高の舞台になったはずです。
このように、荒野が試みの場所を示すのであれば、神殿の頂は権威を現わすには最高の場所です。
この神殿の頂は、象徴的に宗教の頂点を現わしています。
最高のスターの登場です。

サタンの言葉は詩編からの引用です。

「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。
彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。」
詩編92編11、12節


これは、イエスの立場です。
イエスは神であり、世界中から崇拝される立場です。
しかし、イエスはこの立場をおとりになりませんでした。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」
ピリピへの手紙2章6~8節

イザヤ書にも預言を通して、このように書かれています。

「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」
イザヤ書53章2節


イエスはスーパースターとして現れずに、しもべとして、この世に来られ、私たちの罪を贖うために十字架に向かっていったのです。
もし、このサタンの誘惑に、イエスが耳を傾けたのなら、聖書の言葉は無効になり、人類への贖いが不可能になっていたのかも知れません。

もちろん、罪なき御方は苦しみもがくことなく、サタンの誘惑を排斥しています。

「イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」」
マタイの福音書4章7節


これも、申命記からの引用です。

「あなたのうちにおられるあなたの神、主は、ねたむ神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の面から根絶やしにされないようにしなさい。
あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。」
申命記6章15、16節


試みは主が私たちに与えるものです。
テスト、試験は上の者が下の者を試すために使われるのです。
下の者が上の者を試すことは、自分の地位を高めることです。

神の子供たちに与えられら、私たちの特権は願うのです。
求めるのです。

「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。
その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。」
マルコの福音書16章24~26節


イエスキリストが十字架に架かれた時、救い主は「完了した」という言葉を発し、死なれ、罪の贖いを完了させてくださいました。
その時、至聖所に至る神殿の幕が、上から下に割かれたのです。
救われたクリスチャンは直接、至聖所に行く道が開かれたのです。
私たちと神を隔たるものは、すでに存在していないのです。

私たちはキリストの御名によって、御父に直接、求めます。
下の者が上のものに、願い求めるのです。

祈りには大きく二つあります。
一つは感謝の祈り、過去に頂いたものを「ありがとう」と言うことです。
もう一つは、未来に対して「求める」祈りです。

また、キリストの御名によって祈ります。
名前はその者を現わし、御名によってとはその者になって、代わりにという意味です。
我々のささげる祈りは、イエスの代わりに直接、御父に捧げることです。
聞かれないわけがないのです。
聞かれないのなら、信者はその理由をも、尋ね、自身で答えを探求すべきです。

サタンがイエスに要求したものは、試みです。
それも御言葉を乱用したのです。
詩編では神殿で祈る敬虔な人に約束された神の守りを歌ったものですが、その内容を意味のないものにしようとしました。
正しい神学でも、単に文字だけを追いかけているのでは、主の御心が何であるか行方不明になってしまうことがあります。
サタンは意味のない試み、もしくは、イエスのスーパースター的な出場を求めていたのです。
ならば、人として歩まれた、主の人性を否定させることになるのです。

この個所で学ぶべきことは、サタンは聖書の御言葉を使うのです。
時には、学んだ教理さえも使います。
私たちは、正しい聖書理解と、個人的な主とのつながりが常にある必要性があります。

「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
マタイの福音書4章8~10節


サタンの試みの場所は荒野、神殿の頂に続き、高い山です。
おそらく、山頂ではないでしょうか?
そして、「この世のすべての国々とその栄華」を見せたのです。

ルカの福音書と試みの順番が違いますが、試みの羅列であり、順番ではないと見るべきです。
マタイの福音書のイエスに関する記述の目的は王としてのイエスなので、最後にこの権威について書かれたと想定できます。

「「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。
ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」
ルカの福音書4章6、7節


ルカの福音書ではサタンはこの地上の栄華を「それは私に任されている」と語っています。
この天地万物を造った神に対してです。
アダムの罪によって、この世の権威がサタンに移ってしまいました。
イエスが十字架に架かったのは、この地上の権威を取り戻すためでもあったことを覚えておくべきです。

今の世の終わりに、サタンは裁かれ、人間の罪の許しと裁きが実現し、この地上にキリストを中心とした千年王国が設立されるのです。
サタンは、神が人となられた瞬間を利用して、露骨に宣言しました。
「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

十字架によって、キリストはこの権威を取り戻すのに、「私を拝むなら」という条件で誘惑したのです。
そうすれば、「キリストは十字架の苦しみを味あわずに、この権威を得られるのだと提案してきたのです。

ここでも、イエスは申命記からの引用でサタンから勝利しています。


5、三度目の試み

「あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。
ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。」
申命記6章13、14節


ここで覚えなければならないのは、サタンは自分を礼拝してくることを要求してきます。
それも、この世の富、権威をセットにしてプレゼントすると言っているのです。
主を知らない者は当然、その要求を飲むことになります。

私が若い日に、宗教心というものを嫌っていました。
多くの偶像崇拝を見て、何のために、そこまで犠牲を払って、宗教に集うのか、その力がどこから出てくるのか理解できなかったからです。
きっと、この宗教心が人の心を騙し、見えなくさせていると見ていました。
この答えは正解なのです。

しかし、宗教心の最大の問題は何を対象に礼拝しているか?なのであり、宗教心自身は悪ではないのです。
神は人を創造された時、神を礼拝するように創造されたのです。
サタンは崇拝されるべき神を、別のものに置き換えたのです。

「彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」
「ローマ人への手紙1章25節


人間が神を崇拝しようとする宗教心の存在は正しいのです。
問題は何を礼拝しているか?なのです。
もし、私たちの礼拝が正しいものであれば、私たちの創造目的の一つを完成させるものであり、喜びになるのです。
ゆえに、宗教心は正しいものであり、問題は何を礼拝しているか?であり、神の人々は常に吟味する必要があるのです。

ここで、人間が創造主なる神を礼拝すべきものと創造されたのに、サタンはこの礼拝対象を自分に置き換えようとしていることを覚えるべきです。
イエスは「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」と御言葉によって、勝利をしたのです。

ここで本題に戻っていきましょう。

インターネットの普及により、情報を得るのが容易になってきています。
2〜30年前、聖書の語句の意味を知るには、自分で調べ、クリスチャン書店に足を運び、良書を選ぶのに苦労をしました。
真理を得るには、相当な時間と費用が必要でした。

この情報の溢れる時代において、偽りの情報も溢れています。
しかし、新しい命を持った人たちには真実に向かうことは容易ですが、逆に騙されることも多くなっています。
今や、数週間かかっていた情報の収集が、数分で、それも溢れるほどに収集可能になってきています。

個人的にはラオデキアの時代の終了と呼んでいますが、20世紀の情報が少ないゆえに、生ぬるい教会の減速を見ることがあります。
かつて、人数、経済力、影響力のあった教会の衰弱を感じます。
逆に、この情報量を生かして、多くの人たちが真理にたどり着いているのを見ます。
21世紀の教会は衰弱だけではありません。
あきらかに、ある人たちが成長しているのを見ることが出来ます。

しかし、サタンがここで諦めているわけではありません。
起きていることは、以前と変わりないことを知りました。


6、ある教会での出来事

ある教会での出来事です。
著者は救われている教会、福音の語られている教会で、出来るだけ肯定的に礼拝に参加することだけを求め、ある教会の礼拝に集まりました。
強調しますが、主に対する礼拝だけを求めてのことです。
その教会は、最近のネット伝道の一環で、最近、いろんな教会から人が集まってきて、急速に伸びてきています。

その集りの主張は、かつてから著者が主張しているものと同じで、「聖書は文章通りに読む」です。
人は「信仰」という看板を出します。
もしくは「聖書が神の言葉」だというメッセージをだします。
ともに、中身が看板通りなのかは別です。
ここに罠があります。
ネットの時代になろうと、人間の失敗は同じです。
現時点から見れば、典型的なパターンです。

その教会の礼拝への参加は数回目でしたのでしたが、今回はネットを使ってのゲストメッセンジャーのメッセージでした。
古い人間なので、ネットのフル使用には抵抗がありましたが、これも肯定的に受け止めることにしました。

メッセージの内容は「聖霊の内住」で、携挙を含め、順調に進んでいきます。
クリスチャンの基本原理を礼拝式を使って、日曜学校のように語ってゆくというのがやり方のようです。

これから二つの問題が起きます。
自分の経験上、何回も起きていることです。
初心者を除き、彼らは十分に学んでいるはずなのです。
何回も、しつこく、学んでいるはずなのです。
サタンは御言葉をすり替えます。

記憶なので正確な記述ではありませんが、内容はこのようです。
「聖霊はこのように私たちの教会生活を助けてくれます。
だけではなく、私たちの日々の生活も助けてくれます。
私は学生時代、勉強もしないで試験を受けて、聖霊によって、高得点を取ることができたのです。
このように、聖霊は神に関することだけでなく、日常生活においても働かれ、助けてくれるのです。」

このようにメッセンジャーは自分の経験を語ったのです。
果たして、このような聖書記述があるのでしょうか?
聖書ソフトウェア、コンゴルダンスでもいいですが、聖霊、御霊がこのように日常生活の助けとして働かれている箇所を見つけることができますか?

肯定的に捉えることは不可能です。
確かに神は野に咲く花でさえ、鮮やかに支えておられる方です。

「しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。
何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。」
ルカの福音書12章28、29節


救いに預かっていない人たちでさえ、神に反逆し、滅びに定められている人たちでさえ、神は彼らを支えているのです。
これは、間違いありません。
適応するのであれば、この聖句だと考えますが、聖霊、御霊は私たちを主に導くために働いておられるのです。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
ヨハネの福音書14章26節

「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」
ヨハネの福音書16章18節

「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」
エペソへの手紙1章14節


いくらでも、書くことができます。
聖霊は私たちを信仰に導く、助け手なのです。

つまり、このメッセンジャーは聖霊なる神を「受験の神」にしたのです。

ここでもう一つの問題を提起しましょう。
一つはこのようなメッセージが語られたということです。
もう一つは、誰も気が付かずに、それを消化しているということです。

その礼拝式の後で、グループ別に分かれ、ディスカッションが行われました。
私のような、外部の人間が、その集りに益にならないことを言わないように決心しました。
たとえ、正義であっても、受け入れる者には益ですが、それ以外の者には悪であり、かき回すものです。

今日のメッセージからの感想を一人一人が言うのですが、否定どころか、肯定し、私も仕事の上で、聖霊に助けられたという経験談が頻発しました。
ただ、「聖霊が助け手」という単語だけで、中身が違うのです。
「私は自分は何も言わない」、「仕事のことはここでは言わない」と強調しましたが、誰も気が付く人はいないでしょう!
二つ目の問題は、この問題が教会の人々に消化されてしまったことです。

サタンは見事に教会全体に、御言葉を入れ替えさせたのです。
特に強調すべきなのは、御言葉自身はそこにあるのです。
中身が違うのです。
イエスが受けられた試みと比較してください。
著者が、何度も経験した、教会のトラブル、崩壊と一致した現象です。

まだ、この教会はここにあります。
サタンはいとも簡単に、トラブルの中にこの教会を落とし入れます。


7、結論

ここで一番最初に提起した問題に帰ってきてみましょう。

「聖書の御言葉」、つまり、「文章をそのまま読む」ということを勧めるのですが、それは小学生の子供に言っていることですか?
まさか、日々、神を求め、聖書を熟読しているクリスチャンに言っているわけではないのでしょうね?

文章をそのまま読むと言うことは当たり前のことです。
個人的には、法律書のように読むのが適当だと思うのですが、そんな難しい話をしているのではありません。

非常に厳しいことをいいます。
一言でいうのであれば、直接の神の御言葉として読んだことがないからです。
もちろん、著者にも、重く、のしかかってくる言葉です。

自分で聖書を神の御言葉として、認識して読んでいるのであれば、そのことは最初に気づくことです。

もし、あなたが誰か権威のある人から、手紙をもらったとしましょう。
著名な人、もしくは政治家、日本の首相、米国大統領、イギリス国王、、
偉くなればなるほど、その手紙を正確に読むことに励むでしょう。
それが蔑ろにされていれば、その人がその手紙の価値を知らないからです。
私たちは、創造主、救い主からの手紙を受け取っているのです。

確かに聖書を教え、導く者は必要です。
始めは、理解するにも、スタートするにも、教えてもらう必要があります。
「通っていた教会では、そのようなことは教えてもらっていない!」
確かに語る者の影響は大きいです。

「聖書は難しい?」
確かにボリュームもあるし、難解なことも多いです。
でも、それを導く書物、Web、メッセンジャーも決して、無ではありません。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」
マタイの福音書7章7節


この聖句は患難時代の信者、ユダヤ人たちに語られたものだと解釈しますが、これはネットの事ではないかと思わされることもあります。
現在では、間違った情報10割の中にある1割の真実を見つけることが容易になってきています。

いつも、繰り返しますが、創造主なる神が求めているのは礼拝者です。
信仰者であり、神は今、あなたを育てているのです。
神学は、あなたが神の前にひれ伏せることを教えません。
神は、あなたを御自身の前にひれ伏せる信仰をお与えになりたいのです。

あなたは、自分で聖書を理解し、読もうとしたことがありますか?
もちろん、多くの人はあると答えるでしょう。

神の言葉を直接、自分のものとして聞く、理解する。
それが、神の前にふれ伏す、広い意味での礼拝とも言えます。
誰かの権威ある人のメッセージ、語る者が自分で権威あると言わなくてもいいのです。
聞く人にとって、権威があれば、同じです。
権威ある人間のものとして、聞いてしまいます。

神と人間の仲介者は誰でしょうか?
教会ですか?
著名な神学者の神学ですか?
それとも、権威ある人の意見ですか?

イエスは試みの中で神のみ言葉で勝利をしたのです。
あなたにとって、聖書は神の御言葉でしょうか?
もし、あなたにとって聖書が、このような地位になければ「聖書は文字通り読む」というのは斬新な神学であり、また、目新しいものを見つければそこに移動するだけです。

そんなことは無いというかもしれませんが、いくつかの教会では、聖書的だと言い、牧師制をなくしたり、献金制度が自由だとキャッチフレーズで多くの教会から人が集まり、また、散って行った事実を著者は見ているのです。
単純に新しいところに一時的に集まり、そして散って行ったのです。

このように多くのクリスチャンが途上で迷ったのです。
正直、彼らは犠牲者です。
守られるべき存在だったのです。
サタンが巧妙にしかけたのです。

神学、教理、それが正しいか、間違っているかの問題ではありません。
それを読んで理解すれば、訂正されます。

あなたは神御自身を求めているのでしょうか?
神の前で忙しく働くことを優先していませんか?
そんな冠は、主の前では、放り投げるものです。
もう誰かの権威、先生、牧師、前に立つメッセンジャー、著名な人が語ったものではなく、
聖書の御言葉を、神からのメッセージとして、自分の頭で理解し、受け止めることをお勧めします。

「聖書の御言葉」、つまり、「文章をそのまま読む」ということが出来なかった原因は、
創造主のなる、救い主なる、人生の助け手、いや、私のすべてである神の御言葉として、読んでいなかったからということを認識すべきです。
このことを認識しなければ、サタンはすぐにでも、あなたを騙しにかかります。
聖書は、正確に読むべき神の御言葉なのです。

まず、聖書は神の御言葉であることを認識し、権威を認め、読むことをお勧めします。
その助けに神学があるのです。


8、後記

今回も、主との交わりの中で学んだことがあり、時系列で言えば、この記事を書く前にあったことです。
神経質な内容なので、今回も正確に書くことに努めます。
何回も書きますが、私は信仰で歩むことを目的としており、しるしや奇跡は必要ないと主張しています。
しかし、主の交わりの中で、主との会話が成立することがあります。

私は朝早く起き、日曜礼拝の前に山の上にある牧場で、主を覚え、礼拝をしていました。
賛美もなく、ただ、主の前に心でふれ伏すことを目指しました。
祈りもなく、あえて言えば「心静かに、あなたの存在を認め、ただ、ふれ伏させてください」と思っていました。
「今、集っている教会に私は行く続けるべきでしょうか?」

ふと横を見ると、牧場には大きな木があり、そこには多数のカラスが泣き声をあげて、止まっていました。
カラスが木の上にいるのは、あまり見たことがありません。
朝だからでしょう。
明らかに、ビジュアルが先でしたが、ふと、御言葉が私の頭に浮かんできました。

「また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。
それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、
それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」」
マルコの福音書4章30~32節


預言でも、啓示でもありません。
私の心に問いかけてきたのです。

私は主に答えました。
「また、これですか?」

主はまた、わたしをここに置くようです。
私は医者でも、導き手でもありません。
ただ、主を礼拝したくて、探していただけです。、
でも、今度こそ、効くワクチンだけは用意しておくつもりです。
もう、そんなことは見たくありません。

その日の礼拝の前の出来事をここに記し、記録しておきます。


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