メッセージ20 2024/1/6
キリストの携挙の前兆(すぐにでも起きる)
1、始めに
2、携挙について
3、キリストの現われの時
4、死者の復活
5、キリストの現れ、死者の復活の期間
6、期間の終わり
7、患難時代とイスラエル
8、このイベントを見ても神を受け入れない人たちへ
9、クリスチャンたちへの勧め
10、最後に
1、始めに
もし、このことが現実に起きた時のために、記録に残しておきます。
教会時代の終わりのイベント、つまり、我々の時代、願わくは自分の生きている間に起きるべき、最大級のイベントが何かを知らないクリスチャンがほとんどではないでしょうか?
正統的な教えを持つキリスト教会ならば、携挙が教えられていると思います。
その携挙は映画「レフト・ビハインド」に描かれているように、突然クリスチャンと呼ばれる人たちが行方不明になるのではありません。
(「レフト・ビハインド」の原作者が伝道目的にこの作品を描かれたことは敬意にあたります。)
明確な、いや、人類始まって以来、広範囲で最大規模の大イベントである前兆が起きるのです。
携挙に前兆がないというのは不明確な表現です。
はっきり言うのであれば、聖書に不忠実です。
現在、聖書とキリストの贖いを信じる私たちがこのことを語るなら、世の人からは狂気と呼ばれます。
しかし、もし、このことが現実が起きたのであれば、人類全体に激しい衝撃が走るでしょう。
聖書を知らない者であれば無知はやもえないとしても、悲しきことながら、おそらく聖書を信じるクリスチャンのほとんどが何が起きたのさえも理解できないのではないでしょうか?
多くの正統的なクリスチャンが聖書を研究し、これから起きようとしている患難時代の真ん中で何が起きるのかを探ろうとして研究しています。
しかし、これからすぐに起ころうとしていることについて無知なのです。
まさに的外れとしか言いようがありません。
また、多くの聖書研究家、神学者も携挙について書いていますが、このイベントだけは避けています。
教会時代が奥義であり、携挙も奥義であれば、奥義の中に奥義になるのかもしれません。
聖書に明確にこのことが書かれています。
いい加減にではなく、はっきりと、多くの個所で私たちの希望として書かれています。
自分の目で追いかけてください。
個人的に言うのであれば、まさに覆いがかぶされていると思います。
おそらく、この出来事を目撃しても、多くの者は福音を信じることなく、裁きの時代である患難時代に入ることが決定されるのではないでしょうか?
聖書の語る時代の切れ目には必ずこのようなイベントが起きています。
このイベントは決定的です。
同時に、このイベントによって多くの人が救われるのではないかと推測します。
初穂であるイエスキリストの時と同じようにです。
2、携挙について
では携挙について書かれている有名な聖書箇所を引用してみましょう。
意識して読めばわかるはずです。
「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」
テサロニケ人への手紙第一4章13~18節
テサロニケの教会では十分な教えがなされておらず、死んでしまった死者についての知識がなかったのです。
そこで、パウロは彼らに励ましを与えるために主が来られることを述べました。
ここで、注意してほしいのは死んだら天国に入れるということではありません。
福音的な教会ではキリストの十字架が語られ、贖いと赦しが語られます。
そして私は多くの人がこのように語るのを聞きました。
キリストが来られることを期待するよりは、キリストにあって人生を全うすることが大切だ!
もしくは、携挙を期待するよりも地に足をつけて、生きることが大切だ!
彼らは聖書の勧めを否定していることに気が付いていません。
確かにパウロは死に対して、勝利をおさめたことを宣言しています。
しかし、聖書のどこに死によって天に入ることが希望だと書いてあるのでしょうか?
確かに、パウロは死が近いことを知って、主から与えられる義の栄冠に期待しています。
でも、パウロは最後の最後まで主が現われの時を期待していたのです。
「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」
ペテロの手紙第一1章13節
「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。」
テトスへの手紙2章13節
3、キリストの現われの時
イエス・キリストの現われの時とはいつのことでしょうか?
では、テサロニケ人への手紙に記されている携挙の前兆であるイベントについて読んでみましょう!
まず「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。」
ある人は、これは目に見えないところで、こっそり起きると思っているかもしれませんが、聖書の預言は霊界とか、こっそり起きるようなことを預言していません。
確かに、黙示録などを見るならば、天での礼拝の姿が描かれていますが、これも天にゆけば、目で見える形で公に行われると思われます。
神のラッパが響き渡り、主は空中まで降りてこられます。
おそらく、このことは多くのカメラ、テレビ、ネットで確認され、ニュースでも放映されると信じています。
人目に隠れて、こっそり起きることではありません。
常に聖書の預言が明確に起きてきたように、宣言された以上は明確に、認められる形でイエスが空中まで降りてくるのです。
神の住む天が宇宙の向こうにある物理的な世界ではないとすれば、この空中は宇宙です。
大気圏の外か、内側か?わかりませんが確認できるはずです。
しかし、世は、何が起きたのか知らないのです。
「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。」
ヨハネの福音書17章25節
4、死者の復活
次に地上で、この地球であることが起きます。
キリストが天からこの2000年間の間にキリストにあって死んだ者たちを連れてくるのです。
そして、この地上で新しい物理的なからだをもってよみがえさせられるのです。
キリストを信じて入る天国とは、何か浮いたようなふわふわした霊的な場所ではありません。
現在と物理的同じ、もしくは現在以上にはっきりした場所です。
そして、天上のからだとは、同じように霊的な存在ではなく、物理的、具体的な存在です。
このことが現在の地上で起きます。
これが聖書のいう死者の復活です。
この地球に、かつて、キリストにあって死んだ者が新しいからだをもって、よみがえるのです。
これが携挙の前兆で、カウントダウンに入りました。
テサロニケ人への手紙第二を見るならば、この時に生きている私たちにも新しいからだが与えられます。
「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」
コリント人への手紙第一15章52節
世界中にラッパが鳴り響きます。
この2000年間に亡くなったクリスチャンたちがよみがえるのです。
この話だけを聞くならば、キリスト教のおめでたい話だと思われるかもしれません。
世界中は大パニックになります。
この2000年間にどれほどの人がイエスキリストを信じたのかはわかりません。
もちろん、キリスト教と言われる人たち全員が救われるわけではありません。
イエスキリストを自分の身代わり、救い主として信じた者たちがここでよみがえります。
あざけ笑っていた世の人は「絶対に神を否定できないもの」として、このイベントを見てしまったからです。
常に歴史は繰り返します。
復活した聖徒たちと新しいからだをもった私たちはしばらくこの地上にとどまるのです。
誰も否定できません。
もし、イエスの復活と同じ期間と仮定でするのであれば40日間と推定します。
これはイエスの復活が初穂ならば、同じように死者が復活するという仮定ですが、的は外していないと考えます。
この期間に何が信者にできるのか明確には書かれていません。
仮定が入ってしまうのは事実です。
しかし、イエスキリストが私たちの初穂として描かれ、私たちも同じようになり、もしくは歩むとすれば当然の結果となります。
そんなことはどこに書いてあるのかという人がいるかも知れませんがよく読んでください。
「それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」
「初めに」、「次に」と書かれているように順番があり、プロセスがあります。
もし、瞬間的ならば、このようなプロセスは書かれていないはずで、すぐにとか、いっしょにとか書かれているはずです。
私たちの救い主が我々の初穂してよみがえった時と同じです。
まったく、同じになるとは考えていませんが、多くの共通点があるはずです。
繰り返しますが、パウロは最後の最後まで主が現われの時、そう、この死者の復活を期待していたのです。
ここで書かれている死者の中からの復活とは、この携挙の前に起こる、この死者の復活の事です。
「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」
ピリピへの手紙3章10、11節
このようにパウロは必死に死者の復活の時に生きていることを望んだのです。
しかし、この教会時代の終ろうとしているこの時に、まさに、このことを体験しようとしているクリスチャンが、まったく興味を示さず、知らず、聞かされずにいるのは、信者としても耐えきれないのです。
パウロが強く訴えていたのは、まさにこの時のことです。
「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。」
コリント人への手紙第一15章12節
また、このように言うかもしれません。
死者の復活は信じるが、今ではない!
そう、今ではないかもしれませんが、もし、本当にそのことが起きたのならば、クリスチャンであるあなたは大恥をかきます。
あなたは教会に熱心かも知れませんが、喜び踊る瞬間を無視することになります。
5、キリストの現れ、死者の復活の期間
このプロセスについて、コリント人への手紙第一ではこのように書かれています。
「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。」
コリント人への手紙第一15章23、24節
イエスキリストは十字架の上で苦しまれ、私たちの罪の身代わりとしてささげものとなり死んでくださいました。
そして、3日後の日曜日の朝、墓は空になっており、弟子たちの前に、500人以上の者たちの前に現れました。
イエスキリストは40日間、この地上でおられて証しされたのです。
「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」
使徒の働き1章4節
今回もそのようになると信じています。
イエスキリストは初穂として、我々すくわれた者の運命の手本として描かれています。
「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
コリント人への手紙第一15章20節
イエスが復活し、弟子たちに教えたように、今回も復活した聖徒たちとその時代に生きて、新しいからだを持った人たちも福音を延べ伝えるはずです。
それもイスラエルの一地方の一つのからだではなく(もちろん、イエスの復活の方がはるかに価値があります。)、世界全範囲で億とも言える復活が起きるのです。
個人的にはイエスの復活時と同じなら、大リバイバルが起きると考えています。
この時に救われた者たちの救いはどのような形で完了するかは不明ですが、どの時代にあってもキリストの十字架の血は有効です。
この期間内に新しいからだが与えられるのではないかと想定します。
同時にそれでも信じることができない者も大勢現れると推定しています。
そして、神のさばきの時代である大患難時代へと入ることが決定されるのではないでしょうか?
6、期間の終わりに
我々の初穂であるイエスキリストは40日間地上で復活の証、弟子たちの訓練、宣教しました。
そこで多くの人たちが救われたのです。
今回もおなじようになると見ています。
その後、イエスは目で見える形で天に昇って行きました。
つまり、イエスが天という行き先が確認でき、天に昇ったことが目撃され、確認させるための光景です。
ゆえに、目で見える形で天に昇って行く必要がありました。
「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
使徒の働き1章9~11節
しかし、我々は瞬間的に天に引き上げられます。
すでに聖書に宣言されているからです。
「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」
テサロニケ人への手紙第一4章17節
7、患難時代とイスラエル
もう一度、コリント人への手紙第一を見て見ましょう。
「「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。」
コリント人への手紙第一15章23、24節
この死者の復活と再臨(携挙)が起きた後に、終わりが来るのです。
つまり、患難時代です。
この患難時代のスタートは反キリストと呼ばれる軍隊を持つ国のリーダーとイスラエルの平和条約から始まり、3年半後に一方的に条約が破棄されます。
現在、繰り返す戦争を体験し、イスラエルは平和を求めているのです。
おそらく、この条約の内容はイスラエルの武力解除です。
つじつまが合わないとして、この携挙と患難時代にが長期な期間があるとする説もありますが、上記の聖句から言えば、そう長くはありません。
かつて、ユダヤ人はイエスに預言されたように、メシアであるイエスを拒んだ結果として、AD70年にローマによって崩壊させられました。
ユダヤ人はこれにより、呪われた民族として世界中を放浪するのです。
「あなたは、朝には、「ああ夕方であればよいのに。」と言い、夕方には、「ああ朝であればよいのに。」と言う。あなたの心が恐れる恐れと、あなたの目が見る光景とのためである。」
申命記28章67節
しかし、最後は神によってユダヤ人は祝福されるのです。
旧約聖書のすべてがイスラエル民族についての預言であると言えます。
イスラエルについての代表的な預言にイスラエルを骨に例えている個所があります。
「主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。』と言っている。
それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。
わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
エゼキエル書37章11~13節
その呪われた民族は必ず、もう一度集まられ、国家をつくることが預言されていました。
世界に散らされていった民族はたくさんありますが、多くがその土地の民族とまじりあい、消滅して行きました。
ユダヤ人は違ったのです。
離散後1900年経って、イスラエルは1948年に再建されました。
まさに奇跡の民族です。
最終的にすべてのユダヤ人が集められます。
おそらく、すべてのユダヤ人が別の時に救われることが預言されていますので、この戦争状態でこの大イベントを見逃すような状態になっているのではないかと推測します。
ユダヤ人たちはこのように患難時代に入り、精錬されるのはないでしょうか?
8、このイベントを見ても神を受け入れない人たちへ
多くの人たちがこれだけのイベントを見ても信じないのです。
ここまで見ても、経験しても、神を否定するのです。
我々は集団ヒステリーだ状態に陥っていたのだ、もしくは神を敵としてみなし、いままでの生活を繰り返そうとします。
多くの人がいなくなり、戸籍が消滅しても、何かしらの理由をつけるでしょう。
イエスキリストを十字架につけた時と同じように、、
こうして、彼らは福音を信じることなく、裁きの時代である患難時代に入ることが決定されます。
このイベントによって、信じない者たちに対して、神は無慈悲でないことが十分に証明されるのです。
ユダの手紙にはこのように書かれています。
「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。
すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」」
ユダの手紙14、15節
このエノクこそが、旧約聖書の中で生きたまま天に引き上げられた聖徒の一人であり、旧約聖書での携挙の型とされています。
患難時代に入った人たちには黙示録に預言された多くの災いが文字通りに襲い掛かります。
出エジプト記に記された10の災いのように、例えや象徴的にではなく文字通り、星が天から落ち、2億の馬に乗った騎兵隊が中東に向かいます。
そして、患難時代の苦しみの中にいる人たちはこれらの災いが来た理由を知っているのです。
「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」
黙示録6章15~17節
しかし、患難時代はさばきの時代です。
それでも、彼らはどこからこのさばきが来たのかを知っていながら、神の救いを拒否するのです。
(現在の世界は、このような人たちによって構成されていることを忘れてはいけません。)
この時代が起こされ、入るにも、神の哀れみが証明され、入る者がそれを拒否したことが証明されなければなりません。
イエスキリストを十字架にかけて、ユダヤ人のように、、
イエスキリストはイスラエルの王として、救い主としてイスラエルへ来ました。
イエスキリストは神が彼らに無慈悲でなく、神の哀れみを証明しようとしたのです。
イスラエルはそれを拒否しました。
そして、御国が彼らの時代から取り除かれ、次の世代のイスラエルに渡されたのです。
その結果、AD70年にローマのテトォス将軍により、エルサレムは没落させられ、ユダヤ人は放浪の民族になりました。
彼らの時代から神の御国が取り上げられて当然なのです。
今回も同じようになると見ています。
ここまでしても、彼らは神を拒否するのです。
神の御前では、人間の最初の死までが選択の期間であり、患難時代であろうと望みがなくなったわけではありません
聖書にはこのように書かれています。
「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」
マタイの福音書10章22節
この聖句は直接的にはユダヤ人のことですが、その他の異邦人も十分適応することができます。
どちらの場合もまだ、望みが残っています。
患難時代はさばきの時代でもありますが、ラストチャンスの時代でもあり、多くの者たちが救われることが描かれています。
「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、
言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」
黙示録7章9~12節
また、考察にすぎませんが、この聖句に書かれている大勢の群衆とは、同時に携挙の時に救われる人たちでもあるとも考えています。
なぜなら、ユダの手紙には「主が千万の聖徒を引き連れて来られる時、すべての者にさばきを行なう」ことが記されています。
聖書の歴史を見る時。地上のさばきの時には常に救いの場所が備えられてきたからです。
9、クリスチャンたちへの勧め
最初の問題に戻ってみます。
はたして、これらの大イベントをどれほどのクリスチャンは理解しているのでしょうか?
ほとんど、皆無だと思います。
もう一度繰り返します。
聖書の中では、死は勝利だと書かれていますが、最初にある望みとは書いていません。
それはやもえない望みであり、人生最大の試練です。
クリスチャンの最大の希望は生きたまま天に行くことです。
はっきりと聖書はそのことを主張しています。
この期間はクリスチャンへのさばきの時になると考えています。
もちろん、このさばきは罪の罰のことを言っているのではありません。
神からの報いの時です。
ただこの報いが、この地上でキリストのために働いて満足していた者と、そうでない者が逆転する可能性を語っています。
「各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」
コリント人への手紙第一3章13~15節
では、この聖句は何を語っているのでしょうか?
その日とはいつのことですか?
天に引き上げられてから、働きの真価が試されるのですか?
新約聖書のそれぞれの箇所で、その日がクリスチャンにとってさばき、報いの時のことを語っています。
キリストが来られることを待ちわびた者にとっては、この時は歓喜の時になります。
そうでない者たちには動揺の時となります。
この時が来たのなら、救われたクリスチャンたちは慌ててはいけません。
では、新しいからだなのだから、その時、完全な知恵も与えられるのではないかと考える人もいるかも知れません。
しかし、聖書の知恵は必ず誰かに教えられなければ、与えられません。
もしくは、自ら聖書から知識を学ぶしかありません。
もしくは、聖霊によって教えられ、悟ることができてても、自動的に知恵がつくことはありません。
新約聖書では、キリストの現れの時に一定の期間があることをほのめかすいくつかの聖句があります。
確かに日本語に翻訳される上で「~までに」が「の時に」と翻訳されていますが、文脈を読んでゆくのであれば、ある期間を指しているように著者は考えます。
「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」
ペテロの手紙第一4章13節
もし、天に引き上げられることが瞬間で、いつかわからないとするならば、いつ、喜びおどるのですか?
天上でですか?
その時は、天には着いたことで喜んでいるはずで、この地上のことで喜び踊るとはなんとも不可解です。
おなじような箇所がいくつもあります。
「私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。」
コロサイ人への手紙3章4節
「そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。」
ヨハネの手紙第一2章28節
「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」
ヨハネの手紙第一3章2節
ヨハネの手紙第一3章2節はクリスチャンが携挙の時に、キリストと似た者になることが明確に語られていま。
そして、待ちわびるように勧めています。
地上のクリスチャンの生涯を終りは死が希望ではありません。
ある人はこのように言うかもしれません。
キリストの十字架以降、2000年間も携挙は起きていないんだと、、
哀れな主張です。
同じようなことがこのように書かれています。
皮肉を書きますが、保守的なクリスチャンたちがこのように言っています。
「次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」」
ペテロの手紙第二3章4節
この携挙が過ぎ、時代は患難時代、そして、キリストは地上に再臨され、1000年間王として支配されます。
この時代を通して、クリスチャンたちは地上にいません。
そしてその時代も終わり、すべての人類はよみがえり、神の裁きを受けることになります。
そして、サタンと神を受け入れない人たちは生きたまま火の池に投げ込まれます。
サタンがいなくなり、新しい創造が再スタートします。
そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
ペテロの手紙第二3章12節
これらの流れをすべて把握したのなら、クリスチャンの望みは死によって勝利すること以上に、神の摂理が進行するのを心から待ちわびるはずです。
我々の希望は死でありません。
生きたまま天に行くことです。
そして、キリストと会い、神の勝利の一歩、サタンの敗北の一手を心から待ちわびるのです。
これを生きている時に、体験し、喜び踊るのです。
今、苦難の中、病気も者、何もできずに悔やんでいる者たちが、ただ待ちわびて、その瞬間に歓喜をあげるのです。
我々の救いが、死を通さずに完成されるのです。
まだ、来ないから、このようなキリスト者はおかしい、散々なことを言われてきました。
多くのキリスト者が何が起きたのか理解できないと思いますが、私は聖書を信じ、キリストを目前として、待ちわびています。
聖書には次のように、多くの個所で携挙について書かれています。
手紙の最後の方で述べられたものが多く、どの聖句も引用では何を期待し、警戒しているのか示し切れていません。
はっきりと言えることは、ヨハネ、ペテロ、パウロともに自分の生きているうちに、携挙され、キリストの現れの時を期待するように勧めています。
しかし、ヨハネ、ペテロ、パウロも体験できなかったことを、我々は体験し、喜び踊りまわるのです。
聖書はクリスチャンに主が来られるのを待ち望むように勧めています。
「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。」
テトスへの手紙2章13節
「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」
ペテロの手紙第一1章13節
「そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」
ペテロの手紙第一5章4節
聖書はクリスチャンに主が来られるまで慎み深くあるように勧めています。
「その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。
主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。」
コリント人への手紙第一1章7、8節
「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。
主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」
コリント人への手紙第一4章5節
「私たちの主イエス・キリストの現われの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。」
テモテへの手紙第一6章14節
「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」
ペテロの手紙第一第一1章7節
ペテロは、自分が携挙に預かる者として認識していました。
「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。」
ペテロの手紙第一5章1節
テサロニケの教会は携挙を待ち望んでいました。
「また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」
テサロニケ人への手紙第一1章10節
しかし、彼らはこの携挙を体験できませんでした。
なのに、携挙を味わう我々の時代はこの知識さえも知りません。
もしくは期待していません。
この時、聖餐式を行うことが終了します。
「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」
コリント人への手紙第一11章26節
10、最後に
最後にもう一度書きます。
何も知らないでいてほしくないのです。
死者の復活が起きたなら、救われた者は何が起きたのか慌てたり、動転してはいけません。
はっきりと何が起きたのか認識し、終わりの時へのカウントダウンが始まったことを認識してください。
まさに、備えをするべきなのです。
キリストの現れ、携挙が新約聖書にここまでしつこく書いてあるのに、誰も重要課題にはしません。
あえて言えば、参考意見です。
失礼ながら、信仰がみことばに対してアクティブでない証拠です。
看板だけの教義主義者になってはいけません。
すでに1948年にイスラエルは再建され、イスラエルは戦争中です。
それでも、まだ、キリストの携挙は来ないと思っているのですか?
もし、信者であるのなら、この時が来た時、あなたは動揺してうろたえる者なのか?
もしくは歓喜する者なのか?
どちらかです。
まず、あなた自身がこの救いに預かっていることの確認です。
あなたは神にとって、罪人であり、さばかれて当然な存在として認めることです。
次に、このさばきに対して身代わりが必要であることです。
その身代わりは今から2000年前にエルサレムで十字架に架かったイエスキリストを受け入れることです。
そして、その証拠としてイエスキリストは上記のように具体的によみがえってくださりました。
この方は我々の初穂です。
この通りに、ここで書かれた通りに我々はよみがえります。
そして、今、学ぶべきことはこのことなのです。
その準備ができていますか?
問いてみたいです。
「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。
見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。」
ヤコブの手紙5章7節
「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。」
へブル人への手紙10章37節