メッセージ21 2024/1/8 3/2修正
イスラエル学
組織神学のミッシング・リング
アーノルド・G・フルクテンバーム著を読んでみました。
ISRAELOLOGY:THE MISSING LINK IN SYSTEMATIC THEOLOGY
ご存じだと思いますが、中川健一氏の勧める一冊であり、一部は日本語になっているとのことです。
ボリュームのある一冊で、英語は読むのですが、堪能ではない自分にとっては数カ月の時間がかかりました。
特に、最初の部分は契約神学について書かれています。
正直、私はここまで契約神学には興味はなく、頓挫しかけていました。
一時的に、全文日本語にしてあります。
著作権のあるものなので、ネットで配布することはできませんが、整形し読みやすくするつもりです。
元本の所有などを確認したうえで、読むのを手助けする立場として、配布も考えています。
感想としていうのであれば、たしかにフルクテンバーム氏は伝統的なディスペンテーションを理解し、他の神学と比較し結論を出しています。
特に、契約神学等、私にもわずかに知識がありましたが、ここまで丹念に読み込まれたことは尊敬の念に駆られます。
ただし、この本を読むにはいくつかの注意点があります。
この本はイスラエル学であり、教会学の本ではないということです。
フルクテンバーム氏はもともとユダヤ人であり、ユダヤ教であり、のちに改心し、今はメシアニック・ジューとしての組織のトップであり、弁護する立場です。
我々、異邦人クリスチャンとは立場が違います。
一つの真実を見るにも、見る方向によって見方も変わります。
我々、異邦人クリスチャンはもともと、神から離れ、神の御元にはいません。
「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」
エペソへの手紙2章12、13節
1、キリスト者の自由
全体的に、フルクテンバーム氏は自由と言う言葉を強調しています。
フルクテンバーム氏はもともとユダヤ人で、モーセの律法という支配から自由にされた立場です。
我々、異邦人クリスチャンはもともとそのようなものの下にはいません。
そして、ユダヤ人は、真の神を知っていました。
残念ながら、異邦人である私たちは真の神の下にはいませんでした。
「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」
エペソへの手紙2章2節
「私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。」
使徒の働き17章23節
私たちはユダヤ人とは違い、真の神を知らず、偶像の神、悪霊に従って生きていたのです。
そこから、私たちは救われたのです。
なので、自由というのは好き勝手ではありません。
特にフルクテンバーム氏は聖書に違反しなければ自由という言葉を強調しますが、我々の立場から言えば解放されたという意味合いが強くなります。
つまり、奴隷からの解放です。
ローマ世界では自由にされたという言葉は、奴隷からの解放にも使われています。
もう、奴隷ではなく、ローマ市民として生きてい行くことを指します。
私たちは死という主人の奴隷ではなく、もはや、天国民としての義務を担うものになったのです。
その比較として、ユダヤ教では収入の数分の一を儀式のささげ物にささげなければなりません。
実物であるイエスキリストがその贖いを成してくださり、ユダヤ人としてはその負担がなくなりました。
しかし、異邦人にはその負担が始めから存在していません。
むしろ、自由になったのだから、市民としての義務を果たさなければなりません。
ゆえに、教会組織や、上に立つものは信者に強制的な負担を求めてはいけません。
同時に、負担の必要性を主張しなければなりません。
フルクテンバーム氏にしてみれば聖書に違反しなければ自由なのですが、我々異邦人クリスチャンにしてみれば、聖書に従うべき義務を負ったのです。
2、本当にミッシングリングなのか?
個人的な感想で言うのであれば、伝統的なディスペンテーション主義的な組織神学との違いはほとんどないと言って間違いないと思います。
確かに組織神学と言われる書物は多数存在しており、正直、バラバラです。
それに比べて言うのであれば、ほぼ伝統的なものとくらべ、一致しています。
しかし、いくつかの点でフルクテンバーム氏は主張しています。
A)新しい契約は二つあるのか?
結論、新しい契約は一つの契約としてイスラエルを通して教会とユダヤ人に与えられています。
自身の本の中で完結しています。
B)現在のユダヤ人の立場を伝統的なディスペンテーション主義的な組織神学を無視しているか?
正直、難しい内容ですが、、
かつての組織神学が書かれた時代、70~80年以前にはメシアニック・ジューという存在が広く伝えられていなかっただけではないでしょうか?
私はコーヒーを飲みますが、特に米国においてコーヒーを飲まないことで信仰を現わすクリスチャンを多く知っています。
実際に、メシアニック・ジューではない、ユダヤ人クリスチャン団体がユダヤ的ではないが、ユダヤ教の儀式などに注目しているクリスチャン的な組織を知っています。
私はどちらも支持しますが、マイノリティな組織を弁護するのは難しいことです。
逆にメジャーな考えを前に持って行きます。
私は彼らの存在を知っていますので弁護しますが、知らなかったら弁護することができません。
各自が自分たちの主張を持って主を礼拝しています。
このように、立場が違い、両者の方向から見れば、物事が極端化する可能性があります。
しかし、日本人である私は偶像の宮や、墓参りなどを強く否定します。
同じ事ではないでしょうか?
ただし、異邦人である私はユダヤ人としての信仰表現を羨ましく思います。
ユダヤ人としては無視しているように見えるかも知れませんが、異邦人クリスチャンとしては無視しているようには見えません。
C)現在のユダヤ人信者の立場は?
アブラハム契約、モーセ契約等、伝統的なディスペンテーション主義においても同様な説明がされています。
民族的ユダヤ人に対して、アブラハム契約の有効性は現在にもあることは同意します。
私も参加したいです。
ところで、フルクテンバーム氏はこの世の生涯を全うし、死を迎える時、千年王国で支配される側なのでしょうか?
それとも、異邦人と共に天に入るのでしょうか?
確かに著作の中では異邦人と共に天に入ることが書かれていますが、わずかです。
特に気にかかるのは、この本に付録としてペテロの手紙第二の説教が添付されています。 その中で、「私たちは患難時代を待ち望みます。 どの理由は、患難時代を経て、その後に千年王国が設立されます。 この地上の歩みが私たちの千年王国の立場を決定するのです」と締めくくられています。 |
極端な弁護はする気はありませんが、救いに関する上ではフルクテンバーム氏はユダヤ人も異邦人も区別はなくなったことに同意しています。
それでも、ユダヤ人がユダヤ人でなくなったわけではありません。
問題は、携挙の時、メシアを受け入れたユダヤ教は天に引き上げられるのでしょうか?
それとも、患難時代を通り、千年王国に入るのでしょうか?
天に入り、なおかつ、千年王国の住人になれるのでしょうか?
確かに、12弟子は12部族をさばきますが、それ以上のことが書かれているのでしょうか?
個人的にここが読み取れていません。
フルクテンバーム氏の立場はユダヤ人であり、そして、クリスチャンです。
ゆえにフルクテンバーム氏の立場から言えば、メシアを受け入れた立場は、天的でもあり、地的でもあるのです。
この教会時代にメシアの身代わりを信じた者は天に入ります。
地上に残るのではありません。
天からキリストと共に支配するのです。
確かに救いはユダヤ人から来ますが、教会に与えられた祝福は、ユダヤ人に与えられたものより偉大です。
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」
エペソへの手紙1章3節
残念ながら、これだけのボリュームの本にこの教会の立場がもっとも強く強調されたこの聖句がありません。
天は神の住まわれる場所、天にあるすべての霊的祝福とは神の持つすべての霊的祝福、霊的祝福とは物理的とは反対でこの世界では目に見えないという解釈ならば、、
教会は天的な存在なのです。
またこのようにも書かれています。
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
ピリピへの手紙3章20節
教会の国籍は天です。
ゆえに、教会は天的な存在です?
我々は異邦人です。
ユダヤ人の要素を持つからこそ、天的でもあり、地的でもあるという表現が通じます。
自分も神学者の主張を並べて見たことはありませんが、初期のディスペンセーション主義は地上的な祝福はイスラエル、天的な祝福は教会とはっきりと線を引く傾向があったと記憶しています。 残念ながら、逆張りしているように見えます。 線を引いているわけではありません。 教会がなぜ天的なのか?つまりタイトルです。 教会が天的なのは、天にあるすべての霊的祝福で祝福されているからです。 そして、教会の国籍は天です。 なぜ?イスラエルが地上的なのか?つまり、千年王国の国民だからです。 |
神の持つすべての祝福によって教会の祝福は完了しています。
ゆえに私たちへの神の愛を疑う余地はないのです。
「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
ローマ人への手紙8章37~39節
また、ユダヤ人の祝福の目標はこの地上で完成される千年王国です。
ゆえに、ユダヤ人祝福は地的なのです。
確かに、はっきりと線引きされない部分もありますが、全体として複合されるものでもありません。
ゆえに、この本はイスラエル学の本であり、教会学ではないのです。
ゆえに、フルクテンバーム氏の現在の欲している立場はユダヤ人としてのタイトルだと認識します。
我々、異邦人クリスチャンはぶどう園で夕方5時に雇われた図々しい労務者なのです。
「また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。」
マタイの福音書20章6~9節
そして、朝から働いていた真面目なユダヤ人にはこのように言われています。
「最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」
マタイの福音書20章10~16節
ここで異邦人クリスチャンは高慢になってはいけません。
朝から働き、救いの基礎を立ち上げたユダヤ人たちに敬意を払う必要があるのです。
しかしながら、この個所は両者におなじ賃金を払ったことが記されています。
ユダヤ人として救われた方が価値があるのか?
それとも、5時に雇われたクリスチャンの救いに価値があるのか?
このたとえ話から見るのであれば、同じ賃金であることがわかります。
もちろん、ここでは個々の信者の報いのことを話しているのではありません。
D)残された民はメシアニック・ジューという団体を指すのか?
おそらく、フルクテンバーム氏自身もノーだと答えると思います。
確かに、ユダヤ人の中に残された民が残されたのは事実であり、どの時代にも適用されるべきです。
しかし、これはユダヤ人の中だけの話なのでしょうか?
これは、すべて、救いに預かる信者にも適応される話ではないのでしょうか?
話が脱線してしまいますが、クリスマスの季節なのでここで介入します。
特に、クリスマスなどの異教の儀式の残影を持ち込んで礼拝しているキリスト教会においても、残された民がいることを信じています。
教会の中に異教や悪習慣を持ち込んではいけません。
まさか、このクリスマスツリーやブーケ、松ぼっくりが背教したイスラエルが崇拝していた偶像の残影だとしたら、、
ブーケや松ぼっくりが男性、女性の性器を象徴していることを誰が信じてくれるのでしょうか?
天体崇拝はニムロデによって取り入れられ、神の怒りによって、人類は地上に散り、もみの木などの崇拝が始まり、人身が捧げられました。
クリスマスツリーであるもみの木には、何が飾られています?
古代の記録には露骨にモールのように蛇も巻き付けられています。
実際に背教したイスラエルは神殿娼婦の元に通い、偶像に子供たちが捧げられたことが聖書に記されています。
「子どもたちはたきぎを集め、父たちは火をたき、女たちは麦粉をこねて、『天の女王』のための供えのパン菓子を作り、わたしの怒りを引き起こすために、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いでいる。」
エレミヤ書7章18節
この女王は繁栄と子だくさんの女王です。
たきぎは古代エジプトでは"YULE LOG"と呼ばれ、もみの木はローマではバールタマルと呼ばれています。
そして、このパン菓子は女王の形をしており、小麦粉から焼いたケーキです。
「私たち女が、天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぐとき、女王にかたどった供えのパン菓子を作り、注ぎのぶどう酒を注いだのは、私たちの夫と相談せずにしたことでしょうか。」
エレミヤ書44章19節
YULEを現在の辞書で引くとクリスマス、そのものです。
つまり、クリスマスとはイスラエルの背教をした偶像崇拝、そのものなのです。
ここまで、この3000年近い時間が経っているのに、原形をとどめているのは人間の業とは思えません。
キリストが来られた時に、街と教会がこのクリスマスグッズでいっぱいだったら、キリストはどのようにご自分の民を救うことができるのでしょうか?
これを礼拝会場の前に飾り、キリストがこの世に来られたことを感謝し、祝うことができますか?
明らかに、主人公が入れ替わっています。
もともとクリスマスという言葉自体、カトリックのミサを示しており、聖書にはそれを祝うような支持はありません。
世と共に同じキリストを祝っていること自体、おかしいと思わないのでしょうか?
教会がそれを主張しているのは、自分たちが行っているからです。
信者の行動原理が聖書だと主張しながら、聖書にないクリスマスを主張しているのであれば、もはやギャグです。
クリスチャン、教会は、すべて「聖書に従って行動すべきである」と旗を上げ、聖書にないクリスマスを教会で行っています。 挙句の果てに否定した人たちをキリストの誕生を祝うことを拒否しています。 彼らは単に良心の問題に悩んでいるだけだと、口走ります。 クリスマスは、かつて背教したイスラエルは神の神殿の中に偶像礼拝する場所を作って、偶像礼拝をしている姿そのものです。 どのようにキリストが来ることが出来るのですか? 救いを完成させるためですか? それとも、さばきを望みますか? 真実なる神と、異教はっきり言うのであればイスラエルを背教化させたサタンによる偶像崇拝とは同居できません。 そして、この旗は彼らの罪を増大させています。 これを企画したのはサタンであり、現在、サタンはこの成功に笑いが止まらないはずです。 (個人的なWeb上の発言よりは、著名である「The Two Babylon’s By Alexander Hislop」を日本語に翻訳して配布する予定です。) |
でも、確かにまだ、ユダヤ人だけでなく、まだバールの前に膝まづいていない残された民がいることを信じています。
クリスマスを祝う者たちは、このような意味では祝っていないと主張するかもしれません。
偶像の宮で、主を賛美することができますか?
私個人で言えば、確実にノーです。
もちろん、残された民がこのこと一点のことを指しているのではないことは認識しています。
残された民はユダヤ人に限定することではないと見ています。
E)話が脱線していますが、結論としてミッシングリングではないと認識しています。
3、「聖とされる」の意味
当然、フルクテンバーム氏はこの言葉の意味を十分に知っているはずです。
しかし、聖化という意味で使われているようですが、「聖別」という意味として捕えているようには思えません。
もう一回言います。
フルクテンバーム氏はユダヤ人なので、この言葉の意味を十分に知っているはずです。
もしくは、余りにも承知されたことなので、私個人がそのように捉えていないのかも知れません。
後記;読み返すのであれば、このことはライリー氏とのやり取りの中で、ライリー氏の主張として取り上げられています。
「聖とされる」という意味はクリーンとか、ピュアという意味合いは弱く、神の側に分けられたという意味合いが強いです。
ギリシャ原語では"agios"(ハギオス)であり、神に受け入れられたという意味合いです。
つまり、律法を行って聖とされるとは、行いの道徳性によって、クリーンにされるという意味合いではなく、、
律法という儀式を行って、神に受け入れられるという意味合いなのです。
そして、フルクテンバーム氏の言うように、613あるすべての律法を行うことによって、聖とされるのです。
つまり、神に受け入れられた、神の側に分けられたということになります。
イエスはパリサイ人などが行っている口頭伝授の律法に対して、神の性質を反映した律法の道徳性を無視していることについて、強烈に批判しています。
なので、間接的には道徳性が関与しています。
このことを表現するのに、よく出エジプトと民数記のコラの反乱が例として上げられます。
もちろん、出エジプトは「二本の門柱と、かもいにつけた子羊の血」です。
「レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、
会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。」
民数記16章1、2節
「それでみなは、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去った。ダタンとアビラムは、その妻子、幼子たちといっしょに出て来て、自分たちの天幕の入口に立った。
モーセは言った。「私を遣わして、これらのしわざをさせたのは主であって、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたにわかるであろう。
もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の会う運命に彼らも会えば、私を遣わされたのは主ではない。
しかし、もし主がこれまでにないことを行なわれて、地がその口を開き、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとくのみこみ、彼らが生きながらよみに下るなら、あなたがたは、これらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」
モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。
地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。
彼らとすべて彼らに属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。」
民数記16章27~33節
こちらの方をわざわざ引用したのは、コラの子たちが「生きながら、よみに下った」のです。
聖書の中で生きたまま、黄泉に下った例はここにしかありません。
モーセはイスラエルの民に反乱したコラたちの住まいから離れるように命令しました。
すると、地面が割れて、彼らを飲み込みコラの子たちは生きながら、よみに下ったのです。
つまり、聖別とは滅びゆく世界から離れ、神の側につくという意味合いを持っているのです。
では、教会はどうでしょうか?
「コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。」
コリント人への手紙第一1章2節
コリントの教会はこの手紙を見るならば、道徳的にはアウトでした。
しかし、パウロは彼らを「聖なるものとされた」と述べています。
クリスチャンはすでに、神に受け入れられているのです。
神の側にすでにいるのです。
もう地面が割れて、黄泉にいくことはないのです。
これは道徳的な基準を指していません。
つまり、聖とされるとは単に聖化のことでなく、神の側に立っていることを指しています。
滅びゆく世界から離れて、神の側にいるということです。
ゆえに、神の性質に従って、間接的に道徳的にも清くなければならないのです。
聖別とは、道徳的にもしくはキリスト教的に完成をめざすのではなく、人格(神格)をもったヤハウェの旗の元にいるものだと理解することです。
クリスチャンの歩みとは、聖とされたのだから、聖とされた歩むをする性質をもってしまったということです。
そして、日々、より聖として歩むことです。
この性質に逆らうことは、本人にとってもつらい結果になり、利益にはなりません。
犬は「ワン」と鳴くことが喜びであり、犬に「ニャン」と鳴かせることは苦痛なのです。
フルクテンバーム氏はユダヤ人なので、もともとヤハウェに愛された民です。
異邦人クリスチャンとは違います。
ゆえに、私たちは異教や偶像礼拝から離れます。
自由な礼拝と言うよりも、ヤハウェへの服従を求めます。
聖霊なる神を通して、ヤハウェなる神、贖い主キリストの前にひれ伏すことを求めます。
4、結論
この本を読み終わった時の時の違和感を感じた理由がわかった気がします。
詳しいのですが、何かが語られていないのは気が付いていました。
この本の詳細な記述には感謝し、多くのことを学びました。
非常に有益な神学書です。
フルクテンバーム氏はユダヤ人であり、ユダヤ教出身であり、改心者です。
もともと、真の神の元にいました。
そして、モーセの律法、もしくはトーラーの下にありました。
フルクテンバーム氏は生まれた時から、神に従順という立場だったのです。
彼は自由にされたのです。
言わば、生まれつきのイスラエルの子らです。
しかし、私たち異邦人クリスチャンはもともとは真の神を知らず、律法も持っておらず、神の子ではありません。
信じる前は従順の下にはいなかったのです。
ユダヤ人信者とはスタート地点が違います。
確かにサタンの支配からは自由になり、解放されました。
もしくは死の支配から解放されたのは事実です。
我々は神の子であり、自発的なしもべです。
しもべの意味は奴隷です。
自ら、喜んで神のしもべとなったのです。
笑い話のようですが、神のしもべが自由、なすがままでは困るのです。
くり返して、この本を読んでいて気が付いたことがあります。 ユダヤ人が安息日をどのように過ごしているかです? ユダヤ人は安息日に家にいて、家族と共に楽しい時を過ごします。 平日の仕事、人間関係から解放され、自由になります。 (正確にいうのであれば、安息日は礼拝の時ではありません。 特に、集まって礼拝するということではありません。) この意識が強いのではないのでしょうか? しかし、クリスチャンには安息日は存在しません。 常にキリストは神の右の座にあって、働いておられます。 また、日曜日、もしくは礼拝の時が自由な、開放された時ではありません。 聖書ではクリスチャンたちが集まっていたことが記録され、パウロは教会について提議していますが、集まって礼拝することが命令されていません。 (世の終わりにあって集まることは推薦されています。) また、礼拝という言葉を集まりには使っていません。 アブラハム、ダビテを含め、礼拝は単独で主の前にふれ伏した状態を指しています。 新約においても、同様です。 礼拝の意味はただ、主の前にふれ伏すことです。 人によってはデボーションと呼ぶこともあります。 礼拝は賛美と感謝で現わされる喜びの時であることには、反対ではなく、推奨する者です。 しかし、主の前にこころ沈めて、ふれ伏すことのなく集う礼拝式は、どんなに感謝しつつも意味がありません。 |
事実、この著作に影響を受けた集まりで、自分は墓参りなどをしないなどと発言するならば、驚きを見せた者もいます。
また、主の前にこころ沈めて、礼拝を捧げる時間よりも、賛美、喜びを強調します。
また、教会の将来のプランなども多く語られ、議論されています。
愚か者と言われないように気を付けなければなりません。
また、教会に人が居座らないのは、ネット時代のせいだと思われる発言もありましたが、服従がなきところに定着もありません。
我々には神への従順、犠牲が要求されています。
それも、自発的にです。
(聖霊の内住によって成就されました。このことを、あえて拒否してはいけません。)
確かに、教会の会員制度、献金制度、牧師制度をなくすことには反対ではなく、賛成することがあります。
(個人的な見解として、上記の制度は十一献金を別にして、存在はあるべきなのです。
問題は現在の多くの教会で違うことが行われていることです。)
聖書に従ったクリスチャンの行動を唄いながら、自由を強調して、従順、義務を教えないのであれば、もはや、牧会ではありません。
サークルです。
律法的な、もしくは経営的な教会と比較して、自由だと表現もあります。
確かに、それらの教会では苦しかったということを聞きます。
しかし、反面教師の反対が真理ではありません。
キリストにある自由、開放は「なすがまま」ではありません。
この著作は非常に聖書を研究されており、多くのことを学びました。
でも、あなたがユダヤ人ならば問題はないのですが、異邦人である私にとって、初めから律法とは関係の無い存在なのです。
そして、私たちは始めはヤハウェの元にはいない存在です。
異邦人ならではの聖別があるのです。