メッセージ22 2024/9/24
ピリピ人への手紙
信仰の衝突に対する、新約聖書の驚くべき暗示
「そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。
ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。
ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。
彼女たちを助けてやってください。
この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」
(ピリピ人への手紙4章1~5節)
ピリピ人への手紙は喜びの書として、多くのメッセンジャーによって語られることがあります。
始めて聞く人には、初めて聞く人としての霊的で新鮮なインパクト与えることができます。
何回も聞いてきた者には、常に新しい霊的な教えが入ってきます。
何回も聞いているいるはずですが、今回も人のメッセージを聞き、新しいインパクトを得ることができました。
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
(へブル人への手紙4章12節)
ピリピの教会はピリピ人への手紙で知られるように、喜びの書として紹介されることがあります。
ずばり、純粋な信仰ある教会として、紹介されています。
しかし、パウロの祈りから聞くのであれば、全体的には幼い教会のように見受け取られます。
「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。」
(ピリピ人への手紙1章9~11節)
しかし、信仰には純粋さが必要です。
詩篇を見るのであればこのように記されています。
「正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。」
(詩篇32章11節)
この直ぐと訳された言葉こそが純粋という意味です。
信仰にはこどものように純粋な思いが必要なのです。
「しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。
「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」
(ルカの福音書18章16節)
ここでパウロは二人の兄弟を紹介しています。
この二人をパウロは「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ」と言っています。
「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。
あなたがたではありませんか。」
(テサロニケへの手紙第一2章19節)
この二人も、テサロニケへの手紙にある兄弟たちのように、パウロにとって主イエスが再び来られるときに冠、誇り、栄光となる人たちなのです。
そして、この喜びの教会、パウロの冠となる人たちに、まさに成績優秀な信仰者たちにも問題が起きていたのです。
ユウオデヤと、スントケという兄弟たちが一致していないと記されています。
公に書かれていますので、衝突があったのかも知れません。
この教会は健全で喜ばしい教会なのです。
しかしながら、健全だからと言って、信仰的に問題が起きないわけではありません。
特に内心的に、克服されないといけない問題が起きるのです。
神のみことばが優先されるべきか?
もしくは、自分の心、良心が優先されるかです。
まず、絶対的な答えを言うのであれば、神のみことばが優先されるべきです。
著者がかつて、集っていた教会ではこのように語ることもありました。
神の言葉は絶対です。
偽りがありません。
青い空の色を見て、神の御言葉が赤と言えば、赤なのです。
つまり、聖書の言葉、もしくは教理が絶対であり、それに完全に従えです。
それは事実です。
しかし、問題は神が青い空を赤と言うかなのです!
そんな理不尽なことを神との交わりの中にある者が言うかなのです。
もっと、極端な実例を上げてみましょう。
私が信仰に入って、数年もしない時にある他の知り合いの教会に集う姉妹が私にこのように言いました。
「私は死ぬことを怖いとは、思ったことがない。
それは不信仰です。
死んだら、すぐに天国だから、怖いと思ったことがありません。」
聖書には確かにこのように書かれています。
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
ヨハネの福音書3章36節
そして、自分を吟味してみました。
自分は神の約束を信じているのなら、怖くないはずだ!
いや、怖い!
自分は信じていないのか?
カッターナイフを目の前に置き、時には喉元にもあててみました。
怖くないか?
怖いのです。
自分は死んだら「絶対、天国に行けるか?」
それは信じている!
でも、その直前までその信仰を保てるか?
自信がありません。
ヨハネの黙示録にはこのようにあります。
「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。
また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」
(ヨハネの黙示録20章4、5節)
その時、この御言葉を思い出せるほどの知力がありました。
患難時代では信仰が試されます。
しかし、自分の首が切られ、殺されることを知って、恐怖感が起きないのでしょうか?
自分が若かったからもあります。
正直怖かったのを覚えています。
著者はこの時から、様々人たちの正直な生死感を聞いてきました。
死が近くなり、歳を取るほどに薄らいでいるようです。
また、病の中にいる兄弟、姉妹たちも死の恐怖が和らいでいます。
私も病になった時「こんな状態なら、死を与えてください」と願ったことがあります。
若い人ほど、体が健康な人ほど、この生死感が強いと感じています。
自分にとって、もう一つの課題は死ぬまでこの信仰が保てるかです。
自分が斬首刑になるか、信仰を捨てるかという場所に立った時に最後まで信仰を保てるかです。
正直、自信がありません。
しかしながら、神の言葉は私たちに希望と喜びを与えています。
「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」
(テモテへの手紙第二1章12節)
自分の信仰力ではありません。
神が最後まで守ってくださるのです。
ここに神の御言葉による平安、良心との一致あります。
しかし、もし、神の御言葉の不完全な理解、もしくは不完全な教理、不完全なメッセージと自分の良心が一致しないのであれば、真面目な人から順番に不合格になって行くのは当然です。
残念ながら、このような環境でも、弱さがまったくなく、弱者に対しても、「何にも怖くない」と言い切れてしまうほうが怖いのです。
つまり、教理だけの教理主義者です。
ここからは驚くべき新約聖書の暗示です。
もちろん、絶対だと宣言できるものではありませんが、神の言葉は私たちに驚くべきことを教えていると確信しています。
ここに二人、もしくは三人の名前が出てきます。
三人と書きましたが、その理由は後に説明します。
彼らはピリピにいた実在した人物です。
あまりに出来過ぎていますが、それが聖書の奥深さであり、信仰者によって読まれて解き明かされるものです。
信じていない者には解き明かすことが不可能です。
まず、最初は「ユウオデヤ」です。
その意味は「良き方法、好ましい道」です。
つまり、理屈、もしくは教理だとも言えるかもしれません。
もう一人は「スントケ」です。
その意味は「喜びが共にある」です。
つまり、感情です。
この純粋な喜びの教会において衝突が起きました。
ユウオデヤとスントケの衝突です。
ここに暗示があります。
繰り返しますが、これは絶対真理ではありません。
あえて言えば、信仰の糧です。
正しい信仰に立つのであれば、確かに心の中に衝突や戸惑いを感じることは少なくなると思います。
しかしながら、正しい信仰ならではの衝突もあり得るのです。
つまり、聖書の宣言と自分の良心が一致しないという問題です。
中には、そんな問題感じたことが無いと言う人がいるかも知れません。
私はすべての人の心を知っているわけではありません。
しかしながら、多くの人たちにこのことを問いかけるのであれば、素直に衝突が感じたことがあると聞きました。
「自分は信じている」、だけど「将来が不安だ!」
「自分は信じている」、だけど「死ぬのがこわい!」
おそらく、多くの人が言われたままではないでしょうか?
悪魔に機会を与えるな!
それは不信仰だ!
このように自分を抑え込んでいるのではないでしょうか?
しかし、パウロは勧めています。
「主にあって一致してください。」
また、このようにあります。
「ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。
彼女たちを助けてやってください。」
この「真の協力者(suzuge)」を固有名詞であり、個人名だとする意見もあります。
意味としては「共にくびきを負う」こと、名詞ならば「同僚、パートナー」を指します。
お判りでしょうか?
喜ばしい、正しい信仰において、内的な戦いが起きます。
下記の両者は戦うのです。
神のみことば、教理です。
神のみことばは絶対ですが、理解する人間は不完全です。
もう一つは、内的な自分、人間の良心です。
教理だけでは人間に対応できません。
無理やり押し込めば、教理主義者、時には律法主義者、ロボットを作り上げるでしょう。
彼らは自分では真面目だと考えるかも知れません。
もう一つは感情主義です。
聖書から、感情だけを抜き取って、自分に適応させているのです。
この二つは私たちの中で衝突するかもしれません。
「理屈、教理と感情は同居できないと言うかもしれません。」
衝突している時は誰でもこのように言うのです。
しかし、ともにくびきを負う必要があるのです。
くびきというのは畑作などで、2匹の牛を木などつなぎ使うことです。
自動車に例えるなら、1台の自動車にエンジンを二つ付けて、パワーアップさせるようなものです。
では、二つのエンジンのうち、一つが故障してしまったら、どうなるでしょうか?
そのダブルエンジンの自動車は使い物になりません。
牛のくびきに戻るのであれば、2匹の牛のうち、どちらかが暴走したらどうなるでしょうか?
その一くびきの牛は使い物にならず、追い出されます。
どちらかが完璧でも、どちらかが正常に機能していなければ、使い物にならないのです。
そうです。
ともに、苦労を共にし、共に働くということです。
ともに、機能していなければ使い物になりません。
そして、正常にくびきを負うことができれば、2倍のパワー、いやそれ以上に機能が発揮されることが期待できるのです。
信仰に必要なのは教理と感謝、感情です。
教義主義者だけの成りの果ては「パリサイ人」です。
感情主義者だけの成りの果ては「悪魔崇拝であり、サドカイ人」です。
共に押しこむことはできません。
喜ばしい、純粋な信仰だからと衝突がないわけではありません。
同じくびきを負うのです。
共に戦い、共に理解しあい、共にくびきを負うのです。。
そして、最終的にすべてが神によって、創造されたものです。
一致できるように出来ているのです。
この喜ばしい、まさに正常と思われる教会にも、問題が訪れます。
この二つが一致してからこそ、正しい信仰だと終着点なのかも知れません。
もう一度くりかえしますが、正常にくびきを負うことができれば、2倍のパワー、いやそれ以上に機能が発揮されることが期待できるのです。