メッセージ3 1999/12/9
アブラハムの信仰
それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。
もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。
聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。
働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
ローマ人への手紙 4章1〜5節
今日は信仰とは何だろうかを語ってみたいと思います。
ここにアブラハムという人物が描かれています。
アブラハムはイスラエル民族の先祖であり、アブラハムの信仰の故にイスラエル民族は神に選ばれ、祝福されました。
ここで創世記よりこのアブラハムが義と認められた場面を読んでみましょう。
これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」
さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。
すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
創世記 15章1〜6節
この個所ではまず最初に主が「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」と言っているのですが、神の言葉を疑問視をする言葉をアブラハムは主に向かって言っているのです。
「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」
さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」
私たちクリスチャンは神から「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(エペソ1章3節)と言った神の言葉を疑うでしょう。
神は天にある(天とは神様の存在する場所)すべての霊的祝福(霊とは目に見えない人格ある存在ここいう霊的とは物理的ではないという意味)にて私たちを祝福(つまり神の持っているすべての祝福)されたことに疑問を持ちます。
それはあまりにも非現実的であるからです。
この地上を歩んでいるとあまりにもクリスチャンの回りには問題が多すぎます。
「犬も歩けば棒に当たる」と言いますが「クリスチャンが歩けば問題に突き当たります。」
もし、ここにいる方々に問題がないというのがあれば、その方は妥協しているか無神経です。
私は無神経であるほうがどのぐらい幸せかと思いことがありますが、主の恵みを味わうには現実を見ることも必要かもしれません。
とは言え、私たちは感覚的に非現実的あろうと、なかろうと天地万物を造られた真の神の全力投球にて私たちを愛し続けていることを忘れてはいけないのです。
天地万物を造られ、維持されている神の御力によって私たちは愛されているのです。
目の見えるところに頼っているのであれば、非常に不安です。
この肉による性質は悪魔の建てたバベルの塔に頼る性質を持っているので、神の力よりも目に見えるものに安心を求めようとするのです。
それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。
いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。
烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。
あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。
ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。
何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。
これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。
何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。
ルカによる福音書 12章22〜31節
ユダヤ人に与えられた御言葉でさえ、私たちに地上での平安を約束しています。
なおさら、キリストの花嫁である私たちはなおさら愛されているのです。
人間関係がうまくいかないからと言って、知り合いの子供を殺すような時代です。
私たちの肉の性質も神の御言葉に目がいっていないなら同じことをする才能があることを忘れないで下さい。
話しを元に戻しまして、今話したように、神に従わない肉の性質がアブラハムにもありました。
神が「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。」と言っているのにアブラハムの言葉は「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と今の自分の現状が神のセイだといっているのです。
これが肉の本性です。
しかし、このようなアブラハムの反抗にかかわらず神の恵みは超越していました。
「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」と神の約束が増し加わりアブラハムは無言のまま外に連れ出され神はこう言いました。
「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
神はアブラハムに未来の預言を与えられました。
アブラハムはそれを信じ、義とされました。
ところで現在、未来の預言を語ることは肉体的な欲求を満足させるだけで霊的な価値がないと言われています。
確かに未来預言に走った教会は異端的な考えに走っていったとされています。
しかしそうでしょうか。神の御言葉が悪いのでしょうか。
聖書は間違ってもそのようなことは語っていません。アブラハムの信仰にしろ、ダビデの信仰、ダニエルの信仰、旧約聖書における信仰者はすべてこの未来預言を信じて神に喜ばれているのです。
では何が悪いんでしょうか。人間が悪いんです。
神の御言葉を興味本位に変えて、神の権威を自分の主張に変えて悪魔に乗っ取られてしまったのです。
私たちは確かにこの肉の性質を持っています。
でも現在、この未来預言を信じることが私たちの信仰なのです。
たとえば、「イエスキリストの十字架を信じたものが天国に入る。」これは立派な未来預言です。
そして「この世が滅びる」これも立派な未来預言です。多くの教会がこのこと看板にして多くの者が救われました。これは悪魔の業ではなく、神の御力です。
へブル書11章に書かれている多くの信仰者たちを見てください。すべてが神の言葉、もしくは未来預言を信じて神に喜ばれています。
信仰とは何ですか、どうしたら神に喜ばれるんですか。それは私たちに与えられた神の御言葉を信じ、その通りになることを前提に生きるということです。
もちろんその中にあって、神に与えられた多くの祝福を感謝して歩むことの必要が聖書では語られています。
信仰、信仰と言いながらこの単純な信仰を難しい哲学にして、また違うものに置き換えようとしている悪魔の方法を受け入れてはいけません。
多くの教会の看板は天国と滅びを語りますが、もうすでにその中身が入れ換えられているのです。
天国、それは良いことをしたら、もしくはイエスキリストを信じたらこの地上が天国になる。
また、悪いことをしたら、もしくはイエスキリストを信じなかったら警察に捕まってつらい人生を送るそれが滅びと言っている福音的だと自称する教会が多いのです。
看板はイエスキリストの十字架を語り、滅びと救いが書いてありますが中身が違うのです。
私たちは神の御言葉をそのまま受け取り、興味本位ではなくその通りになると信じることが神に喜ばれるということを知るべきです。
また、私たちに与えられた未来預言として、聖書の黙示録のことがよく言われますが私たちは神の言葉としてそれを受け取るべきです。
興味本位で受け取る人たちはこれは核爆弾、これは隕石が空から降ってくるなどと確定した解釈を加えてしまいますが
これはアブラハムが「私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と言っていることと同じなのです。
もちろん、黙示録の記事がどのようなことか私たちには推測の範囲であれば問題はないと考えています。
そしてなによりも最後に新約聖書の最も多くのページを割いて描かれている、この地上にいるクリスチャンの最大の望みについて語ります。このことの抜きでは新約聖書は読めません。もしこのことの抜きで新約聖書を理解しているというのならその人は何も読んではいません。
新約聖書の中では何十回もそのことについて書かれています。
イエスキリストはすぐにこの地上に私たちを迎えに来ます。もうそこに立っておられます。教会の中にイエスキリストを待ち望む者がいなくて、扉をたたいています。
私たちの主人が今来ようとしているのに誰も出迎えようとはしないのですか。
イエスキリストはいつ行くかわからないご自分のことをたとえの中で盗人といいました。
別に泥棒でなくても、宅配便でも、NHKの集金でも何でもよかったとも思います。
しかしイエスキリストがこられるときにあえてなぜ、ご自分を泥棒としたのかそれは出迎える人たちにとって来ては困る存在になってしまったからです。
私たちのために命を捨て十字架につけられたイエスキリストを迷惑がっているのです。
私たちの国籍は天にあります。そこから私たちの救い主であるイエスキリストが来られるのを私たちは待ち望んでいるのです。