メッセージ5 2000/8/23
死後の救いはあるか?

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。
その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。
昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。
そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。

新改訳聖書 ペテロの手紙第二 3章18〜21節

ある考えをお持ちの方々でこの個所をとり、人間が黄泉に下ったあと、キリストの宣教においてもう一度救われる可能性あると説く方がいます。
難解な聖書の個所を判断する時、まず聖書全体が何を言っているのか吟味する必要があります。
神の書かれた聖書には矛盾がなく、神は考えを変えたり、悔い改めたりする方ではないからです。

神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。
見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。

新改訳聖書 民数記 23章19〜20節

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
新改訳聖書 ヨハネによる福音書  3章18節
そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
新改訳聖書 ルカによる福音書  16章26節
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

新改訳聖書 黙示録  20章13〜14節
御子を信じないものは裁かれているのです。
明らかに、ハデスに行った者が途中でアブラハムのふもとに行くこともなければ、ハデスに行った者が天国に行ったという記録はありません。
「また、死とハデスとは、火の池に投げ込まれました」と書かれており、神が途中で考え直すことはありません。
(非人情的であり、愛なる神がそのようなことをするはずがないというかもしれません。しかし、覚えていてさい。神の選ばれた者、神の子供たちに対して神は愛なる神であるが、神を信じない、神に敵対する者に対しては裁きの神なのです。もちろん神はそのような者たちに対して忍耐強く、悔い改めを要求しておられます。)

では、ペテロの手紙第二 3章18〜21節は何のことを言っているのでしょうか。
確かにこの個所は難解であり、聖書を読む人のなかにおいても意見が分かれますが、前にも言ったように決して、人間の死後、裁きに定まったものが天国に入るということはなく、このことを説いているものたちは神の無償の福音さえも否定してのです。
「その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。」と書かれています。
「霊」ということばが2回出てきますが、前に出てくる「霊」と後に出てくる「霊」とは意味が違います。
前に出てくる「霊」とは前節にかかっており、「霊においては生かされて」(御霊により復活し、と言う意味)の霊です。
(「その霊において、キリスト...」のおいてとはギリシャ原語で「en」を使っています。他の個所では「御霊にあって」と訳されています。」
つまり、神側の霊(聖霊)を示します。
次に後に出てくる「霊」とは何でしょうか。
この「霊」は後節にかかってきており、「ノアの時代に....従わなかった霊たち」を指しています。
そして彼らは今も悔い改めることなく、捕われの身なのです。
ではいつ、キリストは彼らのところへ行ったのでしょうか?
ここで「みことばを宣べられたのです」と書かれています。
このギリシャ原語は「ekhruxen」という言葉を使用しています。
khrussw」は述べ伝える、宣言するという意味であり、みことばでなければならないわけではありません。
また、アオリスト能動態という形をで使われていて「過去に一回従わなかった霊は宣言された」と言う意味です。

ではこの説に詳しく説明を加えてみましょう。
「御霊にあって、キリストはノアの時代に従わなかった現在捕われの身であるの霊たちのところに過去に行って宣言されたことがあります。」
そして次の節にはこうあります。
「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。」
そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」

明らかにノアの時代にキリストが御霊によって(ノアを通して)、この悪の世が滅びることを、ノアを通して(御霊によって)語られ、聞き従わなかった者たちは現在、捕われの身であると言うことを示しています。

ですから、このことが御言葉に聞き従い、箱舟に入ることによってこの裁きから救われるという「あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型」なのです。
このキリストという箱舟にいるものは皆、救われるのです。
そして次に「バプテスマ」という儀式はこのことを表す、信仰告白であり、それ自体には何の力もありませんがそれは「肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるもの」なのです。
箱舟に入ったものは古い世界において、死んで、箱舟によって水の中をとおり、新しい世界において復活したのです。
その箱舟とはイエス・キリストです。

ですから、この個所より人間が黄泉に下ったあと、キリストの宣教においてもう一度救われる可能性あるとすることは出来ません。
それどころかこの個所を正しく読むのであれば、イエスキリストの救いの御業によってのみ救われることが強調されます。
どんな極悪人であっても、この箱舟の中にいる者は救われるのです。
福音書の時代、らい病人シモンの家にイエスの回りに集まってきた人はだれでしょうか。
収税人、娼婦、らい病人彼らはイエスを礼拝し、天は彼らのために用意されています。
では祭司長の家でイエスを殺そうと計画していたのは誰でしょうか。
宗教家、政治家、哲学者。彼らに用意されているのは裁きです。
だれでも、箱舟の中にいるのなら救われるのです。
なぜなら、私たちの罪の代価はキリストの十字架の上ですべて払われたからです。
それは完全です。
取り消しがありません。
もし、それを受け取らないのであれば、箱舟に乗らないのであれば、古い世界とともに滅びます。
それはこの世に悪が満ちたときです。そう今です。
もし、キリストがあなたに今日、箱舟に乗りなさい。
私は今日にでもこの箱舟の後ろの扉を閉めようとしている。
「だから、今日信じなさい」ということばをあなたにわかるなら否定してはいけません。
「「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 3章15節


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