メッセージ6 2000/8/9
エマオの途上にて
週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。 はいって見ると、主イエスのからだはなかった。 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」 女たちはイエスのみことばを思い出した。 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。 この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。 ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。 〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」 イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」 新改訳聖書 ルカによる福音書 24章1〜32節 |
イエスキリストが十字架の上で救いの御業を完成させ、イエスご自身と旧約聖書の預言に従い3日目に復活してくださいました。
まず、この点から説明をしていかなければならないと思います。
救いの御業は、十字架の上ですべてを完了されたのです。
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 19章30節
このときイエスキリストはなざめの供え物として父なる神様の要求を完全に満足させたのです。
現在、悪魔は福音的と呼ばれる教会において、イエスキリストの十字架の御業の完全性を否定するために次のような教えを吹き込んでいます。
「イエスキリストが十字架で死なれた後、黄泉に下り、死を処罰され、その結果、私たちが救いに至ったという教え」です。
この教えをを受け取るということは全く異端的であり、救われていない者たちを地獄に追いやることです。
イエスキリストの御業は完全であり、聖書に基づいて(神の宣言に基づいて)私たちが地獄へ行く罪人であることを認め、十字架の上でイエスキリストが私たちの罪のために(身代わりに)死んで下さったと信じるだけの信仰により救われているのです。
(復活を信じなければ救われていないという人もいますが、十字架の上ですべての御業が完了したことを覚えてください。復活は私たちの歩み、未来にかかっている内容なのです。
弟子たちも復活を含め、イエスキリストの御業を十分に理解してなく、信じていなかったようです。
女たちも墓に収められて3日たったので、死体の処理をするために香料を持って墓に来たのです。
そこで女たちは御使いに出会い、イエスキリストの復活を知らされたのです。
「人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない。」
先ほども言いましたが、救いは十字架だけです。
しかしなぜ、御使いは復活をはっきりしなければならなかったのでしょうか。
彼らは十字架のことも十分に信じていなかったからです。
復活をはっきりさせることにより、イエスキリストの地位を理解させ、この十字架の御業をはっきりさせようとしているのです。
女たちはこの出来事を弟子たちに知らせましたが、だれも信じませんでした。
ところがここで書かれているエマオの途上にて、イエスキリストご自身が彼らに非常に霊的な教訓を含めて現れてくださったのです。
「ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。」と書かれています。
彼らには十分な知識があったのです。
「「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。
それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた」
そこに「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」のです。
彼らにはこれほどの知識がありながら、イエスキリストが見えていないのです。
なんと、信仰のない目は盲目なのではないでしょうか。
また彼らには次のような約束がありました。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 14章18〜19節
イエスキリストは十字架の死によって上げられ「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります」と言われましたが、「あなたがたを捨てて孤児にはしない」という約束があったのです。
では私たちクリスチャン1人1人に適応していくとすれば、どうなるのでしょうか。
「イエスキリストを信じました。地獄より救われて天国に行く者とされました。
ですから、あなた方は1人で、だれの手も借りずに、自分の力で、あなたの人生において神さまの栄光を現しなさい」とは言っていないのです。
イエスキリストを信じる者は信じた瞬間に古い私たちは死に、新しく生まれた者であること、また、私たちの中に聖霊なる神様が住んでくださり、聖霊がある神様を通してイエスキリストが私たちの中に生きておられることが宣言されているのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
新改訳聖書 ローマ人への手紙 6章8〜9節
もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
新改訳聖書 ローマ人への手紙 8章10〜11節
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
新改訳聖書 ペテロへの手紙第一 8章1〜3節
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
新改訳聖書 コリント人への手紙第二 5章17節
もし私たちが信仰の目を持って、今この人生をイエスキリストとともに歩んでいると信じるのであれば私たちはイエスキリストが見えるのです。
もちろん、肉の目によっては見ることはできません。
また私たちはこの地上において、苦難や試練に会うときに、いや、たとえ苦難や試練がなくとも聖霊が私の助け手としてそこにいて、イエスキリストご自身が「あなたがたを捨てて孤児にはしない」という約束を成就してくださるのです。
そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。
新改訳聖書 テモテへの手紙第二 1章12節
多くの教会が神の言葉を信じる信仰よりも、多くの体験主義に陥ってしまったことを聞かされます。
奇怪な体験(彼らはそれを神から来ていると信じています)をすることにより霊的な水準が上がっていくと教えられています。
その半面、この体験という言葉を聞いただけで激しく攻撃をする者たちもいます。
しかし、聖書は私たちに「神を知る」という言葉を残しています。
それは単に知識によって知ることではなく、具体的に実際的に神を知るということなのです。
皆様方は私たちの救いイエスキリストを知っているでしょうか。
私たちを愛し、私たちのために十字架の上で死なれた方です。
この方は、一人ひとりの、いや、あなた一人の霊的な状態を心から心配しているんです。
それは放蕩息子の父親のようにあなたを祝福したしてくてしょうがないのです。
ですから、ある時はあなたをムチ打つかもしれません。
またある時はあなたの足が傷つかないように、あなたの道を守るでしょう。
あなたはあなたの信じてきた方を知っているでしょうか。
それはあなたの信仰生活において非常に大切なことなのです。
あなたは何に信仰を置いているのでしょうか。
もしあなたがあなたの信じてきた方を十分に知らなければ、あなたはすぐにこの世の手段に身を任せるでしょう。
するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
イエスキリストはこの二人の弟子たちに「ああ、愚かな人たち」と語っていますが、信仰のない者たちの目は開かれることはありません。
しかし、次の場所で彼らはイエスを認識するのでした。
それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。
彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
彼らの目はイエスを認識したとたん、その方の姿が見えなくなりました。
イエスはどこへいったのでしょうか?
彼らから遠く離れたのでしょうか?
それとも、彼らにあきれて見捨ててしまったのでしょうか?
いいえ、彼らの中にいるのです。
彼らを導くために彼らと共に生きているのです
そして、今もなお、皆様方の中に生きているんです。
皆様方の前に起きている事は、あなたを教育するための手段です。
あなたは、あなたの前にある信仰を求めるべきです。
あなたの行い、あなたのからだは「死ぬべき」ものです。
この「死ぬべき」ものに何の期待があるでしょうか。
私たちの中に生きておられる「イエスキリストにこそ、私たちの期待」であるのです。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
新改訳聖書 マタイによる福音書 6章33節
そしてふたりは次のように言っています。
「そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」」
知恵と熱心が信仰ではないのです。
聖書を学ぶことが信仰ではないのです。
熱心になることが信仰ではありません。
もちろん、これらのことは信仰に基づくのであれば、非常に有益なものです。
私たちの主の前にある態度は信仰なしではいけないのです。
ふたりの弟子は「熱心」だったのです。
「知恵」があったのです。
しかし、信じていなかったのです。
多くの信仰者が多くの同胞を見て、錯覚しています。
本当に隠れた者のみが実は信仰者だったということが近い将来に知らされるでしょう。
私たちもその失格者にならないように心掛ける必要があるのです。
皆様方とともに歩んでくださっておられるイエスキリストに、心を留めてくださいますに心からお勧めいたします。