メッセージ7 2000.8.21
聖書は文字とおりに読むべきです。 


このホームページを開いてから、多くのメールや質問を受けました。
本当にありがとうございます。
私がこのホームページを開いた理由の中には、まず最初に聖書の言葉が文字通りに解釈されていないということにありました。
もちろん、イエスキリストにある救いを入れていない方に対しては条件なく救いを提示していたつもりです。
また、このホームページを始めるとき、時間的な都合もあり中身を吟味せずに始めたことを心からおわびすると同時に、聖書を理性をもって、文字通りに解釈するということに一歩たりとも譲歩するつもりがないことを宣言いたします。

特に終末論に対しては、中世から多くの間違いや、また興味本位に内容を入れ替えてきた、聖書解釈の歴史があります。
聖書を読むときのまず第一原則は「文字通りに読む」ということにあります。
聖書にはこのようにあります。

私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

新改訳聖書 ペテロ第二の手紙 1章19〜21節

注1)明けの明星----イエスキリストの空中再臨を示す言葉。

聖書を信じると告白している、キリスト教団体においても悲しきながらすべてが一致しているわけではありません。
クリスチャンではない人で「キリスト教はすべてキリストを神と信じている」という認識がある方が多いと思いますが、決してそうではありません。
エホバの証人、統一教会、事実的にはモルモン教などはキリストを神と信じていません。

祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。
新改訳聖書 テトスの手紙 2章13節

ある団体は上記の原語の翻訳が間違っているとと主張していますが。
私自身、多くのギリシャ原語教本から、ギリシャ語解釈について学んでいますが、この翻訳はキリストが神であるという翻訳は間違っていません。
もし間違っているいるのであれば、当然のごとく他の個所にも矛盾が起きてくるはずですが、私はそのような矛盾を知りません。

なぜ、そのように聖書を読む人たちの中においても矛盾が起きてくるのでしょうか。
それは読み方が違うのです。
最近、あるお年寄りのクリスチャンと話すことがあります。
彼は最近、イエスキリストを信じ救われ喜んでいます。
しかし、彼には聖書の読み方に問題がありました。
その問題とは「これはこのことを言ってるはずだ!!」という読み方です。
そのため「キリストの血による無償の贖いの業」を「人間の努力によって救われる」に置き換えてしまい、救いに達するすることが出来なかったのです。
特に「私はいままでこの御言葉によって励まされてきた」と言われると人情的に弱いところですが、主の御心を変えるわけにはいかないのです。

偏見をもって読む。文字どおりに読まない。
それは神の意思に対しては、信頼を置かず、自分の主張を出していることになるのです。

特に未来預言に関しては、海外のキリスト教団体同様、多くの人たちが興味本位に聖書を解釈しているのを見かけます。
1980年代ある作家の本が教会に影響を及ぼしました。
「ユダヤが見えると.....」など一連の聖書関係の本を出した方です。
その作家は初期のうちは聖書にあるキリストにある無償の救いを宣べ伝えていました。
しかし、後半の本の中には聖書の言葉さえも出ていません。
(この作家は若い時、私の知る教会の牧師によって洗礼を受け、キリストに仕えていました。)

そして問題はその作家本人だけではなく、多くの教会にも影響を及ぼしました。

今から10年ほど前、多くの教会が生きていました。
彼らはイエスキリストを愛しており、そのために多くの犠牲を払っていました。
私はその目撃者です。
しかし、悪魔は彼らが「聖書を文字どおり読むこと」と「興味本位」を置き換え、多くの信者、もしくは多くの同意者を求めさせたのです。
特に、黙示録の解釈においては非常に間違っていました。
これは中性子爆弾、核爆弾のことだ、これは戦車だ、これは......。
また、ヨーロッパの何々という町では密かにクリスチャンの首を切る時ためのギロチンが持ち込まれているそうだ.....。(どうして、密かなことが日本人の一人にわかるのでしょうか。)
また勝手に、何が起きたら空中再臨だとか、これから中東問題はこのように発展していくなどと勝手な預言を始めました。
確かに彼らは多くの同意者を得ました。
と同時に聖書にある真実から離れてしまったのです。
イエスキリストを自分の興味本位と置き換えてしまったのです。
まるでイスカリオテのユダがイエスキリストを銀30シュケルで裏切ったかのように....。

そのため、その教会からは多くの者が離れ、その後の礼拝メッセージにおいてもキリスト教会と言えるような話がされたということはなかったようです。
(追い風が追うように、他の新しい教えと言うものが日本にたくさん入ってきました。)
それが、一つの教会ではなく、多数あるのです。

また、湾岸戦争のときです。
私もこの湾岸戦争のとき、イエスキリストの来臨を意識したものです。
(この意識に関しては私は何も間違っていないと確信しています。)
しかし、この時も多くの教会がこの状況に対して、間違った判断をしたのです。
過去のとき同様、彼らは湾岸戦争がどのように発展してゆくと勝手な預言を繰り返しました。
それどころか、彼らの預言を小冊子にして家々に配ろうとしました。もしくは配ってしまったのかもしれません。

確かに私も、初めのうちは興味本位で語っていたのも事実です。
でも、この勝手な預言に対しては私は反感を持っていました。
どこまでが聖書の約束(預言)であり、どこまでが推測なるであるかが聞き手に全くわからない状態であり、説教者も自分の主張ゆえに、あいまいにしているとしか思えない状態でした。
しかし、湾岸戦争はすぐに終わってしまい、その小冊子が廃棄処分になったのもいうまでもありません。
その後、それぞれの教会では聖書預言から冷めてしまい、聖書預言(終末)という言葉さえも聞かなくなってしまいました。

その間さえも、私はクリスチャンの希望がイエスキリストの再臨であることを否定したり、ぼやかしたりしたことはありません。
単に最近あまり聞かなくなったとしか思っていませんでした。

ところがある日、ある教会の牧師とイエスキリストの再臨について話すときを持つました。
その方は湾岸戦争の時に騒いだ一人です。
私が「クリスチャンの希望はこの地上ではなく、イエスキリストの再臨だけですね」と言うと次のような答えが返ってきたのです。
私はその方の本を読んでおり、最終的に何が言いたいのか予想していました。
いいえ、予想が外れてほしかったのです。
その答えは「最近、僕の書いた何々という本を読んでくれたかな!、そこでこれこれという真理を見いだしたので、状況を見てイエスキリストの再臨を待つことよりも、この地上でイエスキリストに仕えてゆくほうがいいな。」と言われました。
もちろんその方はキリストの再臨を否定してないし、希望を置くことに関しては正しいことというでしょう。
しかし、その方の主張することには状況を見て、キリストの再臨を待つことは興味本位であり、肉的なのでそれはおかしい。そのようにしてキリストの再臨を待つことはおかしいはずだ!。
という前提で、すべてを語っていたのです。(このことも確認しました。)
私はその場でもう一度尋ね直し、このように聞きなおしました。
心の中で正しい答えが返ってくることを願いながら「私はこの地上で何々をすることよりも、来られようとするイエスキリストを求めます。」と言うと、「前と同じような答えが返って来ました。

もちろん、状況のみを見て、キリストの再臨を待ち望むのは反対です。
状況を見て、信仰を判断するのは危険です。いや、間違っています。
それは興味本位で終わってしまうからです。
(私は状況のみを見て、再臨を判断していると攻撃されます。彼らは異常に敏感になっていますがそのことにさえ気が付いていません。
冷静ぶって反論をしてくるかもしれません。しかし主の御言葉は完全です。)

しかし、御言葉に心を留めるのであれば、私たちの内なる人はキリストの再臨を待ち望み、再臨が近いことを知ります。
私は現在の社会、学問、宗教、中東問題を見たとき、イエスキリストの再臨は目の前であると知っています。(特に患難時代の様子が聖書には詳しく書かれています。中東問題と終末を切り離すことは出来ません。なぜなら終末の地上の主人公はイスラエルだからです。)
それは聖書の御言葉から知っているのです。
状況が変わるたびに、キリストの再臨が来ることが近くなったと感じ、真実に主に仕えようと思います。
もちろん、その時に自分の不適格性を感じ、吟味させられます。

私は聖書(信仰)を持って状況を判断します。
それは主の御言葉だからです。
多くの旧約の預言者たちは神に与えられた未来預言を信じ、義とされ、神に喜ばれたのです。
もし、神の約束を待つと言うことと、現状を切り離すのであれば、聖徒たちは何をもって主の約束の成就を知ることができたのでしょうか?
「私の経験上、そんなはずがない。」それによって、多くのクリスチャンの希望が変えられてはならないことです。
私の経験と神の宣言とどちらが優れているのでしょうか。
私はキリストの再臨を待ち望みます。

誰が、天地を造られた神であり、私のために死なれたのでしょうか?
誰が、私を地上に置き、日々導いておられるのでしょうか?
私を愛し、私の罪のために死なれたイエスキリストです。
何がイエスキリストの代わりになるでしょうか。
自分の行いですか、自分の決意ですか。
「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙 3章17節

ですから、私がこの地上を歩んでいるのは天に行くまでの間であり、私はこの地上が目標ではありません。
この地上でどのように有意義に暮らすかという問題より、天に意義を求めます。
また、来られようとされる方は絶大です。
多くの説教者がこのことを語っていました。
自殺をしようとする人に希望を与え、
病院に死を待っているクリスチャンに喜びと希望を与えたのです。
彼らは聖書の言葉よって「救い」を確信しました。
人間の約束は簡単に破られます。
しかし、神の約束は絶対に破られることがありません。
もし、その人が救われていると宣言されるのであれば、救われているのです。
もし、救われていないと宣言されるのであれば、救われていないのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章16〜18節

そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます
新改訳聖書 ルカによる福音書 3章13節

今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
新改訳聖書 ローマ人への手紙 5章9節

どうでしょうか、あなたは今、神の怒り(永遠に燃える火の地獄)から救われているでしょうか。
そして、永遠の命を持っているでしょうか。
「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」と宣言されています。
神はうそをつきません。
あなたの罪の代価はあなたには払い切れません。
地獄の火の中で永遠に払い続けるのです。
しかし、イエスキリストがあなたの罪のために十字架の上で死なれたのです9。
あなたの罪の代価はすべて十字架の上で払われたのです。

これが聖書を文字通りに読むということです。
もし、ここに感情を入れるとしたらあなたはこのように言うでしょう。
「私は救われた感じがしない、救われたという実感がない。」
その言葉に対して、努力家は次のように答えるでしょう。
「しっかり祈りなさい。祈りが多ければ聞かれます。」
それは神の宣言を無視し、侮辱していることなのです。

主は私たちの願いを聞いてくれます。
それは私たちが聖書の御言葉の宣言を前提としているからです。

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

新改訳聖書 ピリピ人への手紙 4章6〜7節

ここでも同じように、もし、あなたがこの聖書の御言葉の宣言を信じているのなら、あなたに平安があるでしょう。
しかし、この約束を信じていないのなら、また感情によって「そんなはずがない」と断言するなら、あなたには神の平安はないでしょう。
あなたは神との交わりの中にいないです。
あなたは神に逆らっているのです。

私たちは主がともにおられるので、多くの問題が解決されますが、すぐに次の問題がやってきます。
われわれがこの地上にいる限り、悩みが繰り返し、喜びが消えうせるでしょう。
(もちろん、私たちはそのたびにイエスキリストに助けを求め、そして助けを受けます。)
私はイエスキリストを待ち望みます。

今まで書いてきたことは、確かに私の経験も含まれています。
しかし、ここで主張してきたことは、聖書の言葉を文字通りに理解し、その通りに信じるということです。
神には、人格があり、理性があります。
ですから、聖書は文字とおり理性をもって読むべきです。
そしてそれは神の宣言であり、私たちへの約束です。
そこに単に預言が成就しただけの興味本位で終わるものではないのです。
確かに難解な個所もありますが、決して難しくて「チンプンカンプン」なものではないのです。
手紙、文章は文字通りに読むものです。
モーセがエジプトに10の裁きを宣言した時、モーセの言葉とおりに文字通りに行われたのです。
多くの方が信じたくないゆえに解釈を加えますが、そのとおりに起きたのです。
現在、聖書に関して(特に黙示録、ダニエル、エゼキエル)無理な解釈を加え、文字とおりのことだと解釈していない本があまりにも多くあるのです。(彼らは霊的解釈と言っています。)

現在において、正当派といわれる人たちでさえ、その日適当に聖書を開いて今日の神様のみこころはといって適当に出てきた言葉を自分にあてはめ、占い状態になっているものもいます。
また、一生懸命みこころを求めれば、神様から啓示があって、みこころが(聖書以外に)個人的に与えられると思って祈り続けている者たちさえいる状態です。
そして、ある者たちはみこころが与えられたと言い、その通りならないとそれはみこころではなかったと言います。
彼らは全く主を恐れていません。

聖書を信じるということは神の意志を信じるということです。
文字の配列の中に意味があるということを信じる方々がいます。
私はこの「バイブルコード(聖書の暗号)」というものを実際には海外のホームページの中で知りました。
彼らに対して、聖書の歴史に対する知識があるなら、簡単にいくらでも否定できます。
しかし、もし彼らが神の子供でなければいくら言っても無駄でしょう。
多くの興味本位の予言が世の中を騒がせました。
また多くのキリスト教団体が偽預言をして、問題を起こしました。
私は何を動揺するところか、より確信します。
しかし、彼らについていうなら聖書は次のように語っています。

あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、
あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、
その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。
あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。
その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない。その者は、あなたがたをエジプトの国から連れ出し、奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、主に、あなたがたを反逆させようとそそのかし、あなたの神、主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。

新改訳聖書 申命記 13章1〜5節

もう一度書きますが、聖書を信じるということは神の意志を信じるということです。
多くの方々は罪の意識がないかもしれませんが、彼らは聖書の文意(一点一角と言う意味文字配列をさしていません。明らかに神の意志です。)以外にこれがみこころ(神の意志)と簡単に発言し、宣言しているのです。
もし彼らが、神の子供ならばそれに気づき許されるでしょう。
しかしもし、主のみこころでないのなら、律法によれば彼は死刑です。
彼は単に興味本位に走り、主の救いをないがしろにし、地獄の底で泣き叫ぶのです。
この文章を読むすべての方々に聖書にあるイエスキリストの救いを受けて下さい。
それは十字架の上にて、私たちの罪の代価すべてを払ってくださったイエスキリストの血を信じることです。
それは聖書にはっきりと記されていることであり、理性を持って読むのであればだれでもわかることはなのです。

ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
新改訳聖書 エペソ人の手紙 5章17節


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