メッセージ8 2000/9/26
ちがう種 マタイによる福音書 13章24〜30節
ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。
それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
新改訳聖書 マタイによる福音書 13章24〜30節
この個所はよく聖書の終末預言のメッセージで使われる場所です。
よく言われるのは、教会とキリスト教背教の出現、そして終末時に神がその二つをどのように取り扱うかについて書かれたものとされています。
つまり、良い麦しか蒔かれていないはずなのに、いつのまにか悪魔によってこの地上に毒麦が蒔かれしまい、その家の主人のしもべたちは良い麦の収穫について心配しました。
良い麦と毒麦の区別がつかなかったからです。
主人はしもべたちにその麦をそのままにしておくように命じました。
それは、世の終末時(収穫の時期)にその麦が成長し、はっきりと区別できるようになってから刈り取り、良い麦と毒麦を区別して収穫をするためでした。
そして、良い麦(教会)は主のもとに集められ(空中再臨)、悪い麦(キリスト教背教)は束にして(注1)火の中に焼くために入れられるのです。
注1)世の終わりにキリスト教背教は一つに集められます。
現在、カトリック、一部のプロテスタント、社会的福音主義者、そしてエホバの証人、統一協会、モルモン教など支離滅裂な闘争があるかもしれませんが一つになるのです。
すべての教会を一致させようとしているエキュメニカル運動(宗教合同運動)などはその現れだと思っています。
まさにイエスキリストはこの地上に教会をお作りになるまえに世の終わりの教会地図をすでに語っているのです。
多くの教会は自分の教会は正統的、もしくは福音主義的であり、聖書に立っているという看板を持つでしょう。
注意してください。それがラオデキアの教会なのです。
「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」
新改訳聖書 黙示録 3章17節
つまり、看板(主張)と中身が違うのです。
聖書はすべて神のことばと信じていると多くの教会が宣言しています。
しかし、聖書には間違いがあるかという質問をすると、多くの者たちはあると答えます。
また、文字とおり読むべきかと聞くと、文意以外の霊的解釈を加えなければならないと答えます。
彼らの看板と中身が違うのです。
私は昔、ある本を読みました。
それはイエスキリストの十字架後の使徒たちの歩む、そしてその歴史関するものでした。
私は信仰者たちの迫害の歴史に感動して、その本を2、3日で読み終わろうとしていました。
しかし、テモテの手紙、テトスの手紙、一般に牧会書簡と言われているものは偽作だという記事があったのです。
私はがっくりしてしまい、あと10ページほどで読みきれるものをそこでやめてしまったのです。
多くの信仰者たちが聖書のみことばを信じ、励まされてきたというのにその根本をその本は否定していたのです。
私たちは何を根拠に天に行けると確信しているのでしょうか?
イエスキリストの十字架の御業によるのです。
では、何によって私たちに知らされ保証されているのでしょうか?
それは聖書です。
聖書に「御子を信じる者は永遠の命を持つ」と約束されているから天に行けることを確信できるのです。
神は偽るを言うことが出来るでしょうか?
出来ません。
ですから、私たちの信仰すべては聖書にかかっているのです。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
新改訳聖書 テモテ第二の手紙 3章16節
なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
新改訳聖書 ペテロ第二の手紙 1章21節
また、多くの教会が神の存在について信じています。
この神は偶像のように造られた神ではなく、天地を創造された創造主です。
「初めに、神が天と地を創造した。」
新改訳聖書 創世記1章1節
進化論はその神の存在を否定しています。
私たちは進化論を否定し、神の創造の御業が聖書の記事の通り行われたと信じています。
ある教会では神が天地を作られたという聖書の記事を否定し、神を信じるといいながら進化論を肯定しています。
また、他の教会では聖書の記事をそのまま信じるのではなく、また、否定するのでもなく、進化という過程に神が介入してきたという進化創造論たるものを作り上げ信じています。
私がまだクリスチャンになって数年たった時、クリスチャン書店を訪れ、休憩室に置かれているノートに目が止まり、そのノートに一言「進化論を信じている者はクリスチャンでしょうか?」と書き込みました。
そのノートはその書店に訪れた者たちが自由に書き込めるものです。
それから数ヶ月してそのノートを見て驚きました。
次の行に「どうして、進化論を信じるか、信じないかによってクリスチャンであるか、ないかを判断するのか」と書き込まれていました。
それどころか、そのあとそのノートが終わり、次のノートに至るまでその論争は繰り広げられていたのです。
確かに、進化論を否定し、聖書の記事を信じている者は多くいます。
しかし、進化論を受け入れてる教会が実に多く存在しているのです。
この熱くも(聖書に立つ)、冷たく(聖書に立たない)もない教会がまさにラオデキアの教会なのです。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
新改訳聖書 黙示録 3章15節
彼らは自分たちこそが正統的(よく見えている)といい、他の教会を非難します。
実は何も見えていないのです。
柵の中にいるので、柵の中だけが正しいと信仰しているのです。
そして、何よりも恐れているのは彼らのたましいの救いの問題です。
私は彼らが救われていないのではないのかと恐れているのです。
もう10年近く立つでしょうか。
私にとって忘れられない出来事がありました。
教会に耳に障害のある二人の女性が友人に連れられ訪れてきました。
彼女は私はクリスチャンと言っていたので、あえて回りの姉妹たちは彼女たちに福音を確認することもしませんでした。
数ヶ月立って、集会で世話をする姉妹方がいなかったので、メッセージが始まると私は紙とえんぴつを持って彼女にメッセージの内容を書いて伝えていました。
しかし、えんぴつの方が語られることよりも遅いので私は独自の福音メッセージを書き始めました。
「あなたは自分が罪人だということがわかりますか?」
彼女たちの一人は「なぜ、そんなことを聞くの?」と不思議がっていました。
「では、あなたの罪のためイエスキリストが十字架の上で死なれたことを信じていますか?そして、信じないのなら神によって地獄に行き、もし信じるのならあなたの罪は赦されて天国に入れます。」
彼女たちはとまどってしまいました。
しかし、彼女のうちの一人は戸惑いながらも「信じないとだめ」かと尋ねてきました。
わたしは「そうです、今日信じるべきです。」と言うと彼女は「では、信じる」告白しました。
ここでわたしは「彼女が天国に入れるということを宣言し、主に感謝をささげました。
しかし、そこにいたもう一人は「私はだめなのか」と言い、受け入れることの必要さえも気が付きはしませんでした。
告白した彼女はそれから数年、浮き沈みがありましたが教会で学び明らかに成長し、そして喜んでいました。
しばらくして、彼女がこなくなったので、教会の婦人が彼女の実家に電話をして確認したところ、彼女は病院に入院していました。
私たちは彼女を見舞い、みことばによって励ましました。
彼女はただ「わかっている」と言っているのを確認し、私たちは帰ってゆきました。
それから1週間後、彼女は主のもとにゆきました。
彼女はこの地上にいる間、障害のゆえに苦しんできました。
しかし、今ではその耳の障害も感じることはないでしょう。
彼女は福音を聞くまで自分はクリスチャンと信じていました。
しかし、彼女の中にあったは種は「良い麦の種」ではなく、「毒麦の種」だったのです。
そして、「朽ちない種」を受け取り、彼女は「良い麦」として収穫されたのです。
現実に悪魔はイエスキリストが十字架に掛かり、よみがえった時以来、毒麦を蒔き続けています。
私たちの良い麦である福音とは次のみことばにあるように「滅び」と「救い」に関することなのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
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御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章16〜36節中略
ここで書かれている滅びとは「永遠の滅びの刑罰を受ける」(テサロニケ第二1章9節)ことであり、「ゲヘナに投げ込まれる」(マタイ5章22節、30節、18章9節、23章33節、マルコ9章43〜45節、ルカ12章5節)ことであり、それは「死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」という聖書のみことばが実現することなのです。
そして「救い」とは
私たちが「神の子」(ヨハネ第一3章2節)とされることであり、神と共に永遠に住まうことであり(テサロニケ第一4章17節、ヨハネ14章3節)であり、新しい創造、新天新地に入ること(黙示録21章1節〜22章6節)なのです。
そして、その条件は
「御子を信じる」こと(ヨハネ3章16節)で、罪のためのささげものとなったイエスを信じること(ヘブル7〜9章)であり、わかりやすく言うとキリストは「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。」(ペテロ第一2章24節)ことを信じることなのです。
そしてイエスは十字架の上で「完了した。」と言われ、救いの御業を完了されたのです。
まとめますと、
わたしたちは神を知らないと言い、罪を持っているので、神に裁きを受けなければなりません。
その裁きとは永遠に燃える火の中に入れられることです。
そこに入ったのなら、そこから免れる方法はありません。
しかし、イエスキリストがその罪の身代わりに十字架の上で死んでくださったのです。
すべての罪の贖いの御業が十字架の上で完了しました。
その結果、信じる者は罪が赦され、天国(新しい創造)に入れるのです。
これが良い麦の種なのです。
そしてこのことを明らかにするため、イエス御自身が3日目に初穂としてよみがえられたのです。
つまり、救われた者の初穂(その年の最初の収穫)としてよみがえり、信じた者すべてが初穂と同じようによみがえることを証したのです。
いったいどのくらいの教会がこのことを現実の問題として、福音の種を蒔きつづけているのでしょうか。
悪魔は違う種、毒麦の種を蒔きつづけています。
確かに彼らの多くは最近まで良い麦を蒔きつづけてきた教会があります。
でも、彼らの傾向は明らかでした。
よく覚えているのは先ほど述べた次の個所です。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章16節
ここに「世」ということばがあります。
この「世」と言うことばは原語で世界という意味があり、神が造られた全体を表わします。
神は「神が造られた全体」を愛しています。
しかし、個人的には神を信じていない者は「いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」と書いているのです。
しかし、彼らのメッセージはこの「世」ということばを神を信じていない個人にあてはめ、「あなたは神様の愛されています。ですから神様を信じなさい」とすり替えています。
上記の解釈がどのくらい救いの必要性を無に変えているのではないでしょうか?
そして、この救いのメッセージから「あなたは神様に愛されていますから素晴らしい人生を歩むことが出来る」というメッセージに入れ替わるまで時間はかからないのです。
私たちのメッセージは「あなたは神の裁きの下にあり、神の救いを必要としています。ですから、神の救いを受け取りなさい」なのです。
また、裁きの内容においても同じです。
裁きのメッセージは裁きの下にあるものに対しては受け入れらないものであり、逆に憤慨される方も多いのです。
また、なぜ自分の人生においてつらいことばかり起きるのかという人生相談される方も多くいます。
もちろん、私は神の子として歩み人生を語らないわけにはいきませんが、そのことが聖書の語るメインの裁きではないのです。
多くの教会が「自分の人生において、自ら招くものだ」と語っています。
理解しにくい言葉ですか、それは「悪い行いをすれば、自分の人生の中で悪い結果が待っている。」という、泥棒は刑務所に入るという教えです。
これも「毒麦の種」なのです。
たしかに人は人間には嫌われたくありません。
受け入れやすいメッセージを語りたいのです。
また、そのメッセージにクリームを入れてなめらかにして語りたいのです。
ある意味、彼らにプロ意識が目覚めてくるでしょう。
しかし、私はそのことを実行するのと同時に堕落が始まるのを多く見てきました。
彼らの心にはすぐに真理を語ることに妥協します。
真理よりも受け入れやすいメッセージにこころが動きます。
プロ意識やテクニックがなしに、真理を語ることに非常に攻撃的になり、すぐに「良い麦の種」はそこから失ってしまいます。
わたしは決して「プロ意識やテクニック」を否定しているわけではありません。
それがなければ「伝道」することや「奉仕」することに失格者だとすることの危険性、そして行為に「力」があると信じる、神への不信仰です。
私自身の証になることですが、私たちの教会がまだ小さい時、教会員と呼ばれるほどの人が集まっていないときです。
今から思うと、20代前半の人間が真理を語っても常識では決して信じる者が起こされることなどは想像もできません。
しかし、多くの者が救いに導かれたのです。
わたしに決して何か良い点があるとは決して思えません。
まさに神の力だと自覚していました。
しかし、私の中に一つの思いが湧いてきたのです。
「どのように教会員を増やすか」。
当時まだ、世にカウンセリングが出回っていなかった時に、わたしは精神学に興味を持ち、どのように導くかについて研究しました。
もっとはっきり言うのであれば、どのように信じさせることができるかの方法論です。
話し方から、身振りまでそれを実践しました。
過去は神に救われるたましいのために祈って、ただ不器用にそれを行っていたときにこそ、わたしは神の働きを見ました。
しかし、今は集会に来た人々をなごますことは出来ても、実がないのです。
それどころか、自分の歩みの中で傷となり、自分を不信仰へと導くものだとわかりました。
わたしが意識してそれらのものを捨てるように至ったのは言うまでもありません。
また、私は多くの教会が、神の力より「プロ意識やテクニック」に頼り、「良い麦を蒔く者」から「毒麦を蒔く者」になったのを見てきました。
聖書にはこのように書かれています。
「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一1章17〜19節
このように、「良い麦を蒔く者」から「毒麦を蒔く者」になったものたちのことを聖書はなんと言っているのでしょうか。
彼らは真理を捨ててしまい、神の子から悪魔の子に変わってしまったのでしょうか。
また、彼らの持っている救いを拒否する者もいます。彼らは救いをなくしてしまったのでしょうか。
いいえ。はっきりと断言しますが、そんなことは絶対にありません。
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 10章27節
聖書はこのようにキリストの羊は決して奪い去るようなことがないと宣言しています。
これはキリストによって保証されているのです。
では、どうして彼らがそのように変わってしまったのでしょうか?
いいえ、はじめから彼らはそのような者だったのです。
「でも、彼らはイエスキリストを告白していて、教会で奉仕をしていて、熱心だったのです」というかもしれません。
しかし、彼らはキリストの贖いを受け取ってなく、滅びの中にいるのです。
「そんなことがあるのですか」と疑問視するかもしれません。
実例はこの地上にあふれています。
多くの教会では「良き麦の種」が蒔かれてなく、彼らは熱心です。
彼らは世をよくするために熱心ですが、キリストにはつながろうとはしていません。
宗教としてのキリスト教は存在し、多くのものがそれに仕えているのです。
また、彼らは自分たちのまとめた信仰告白の文面とおりに告白するでしょう。
そこには真理が書かれているかも知れません。
しかし、彼らは明らかに新しく生まれていないのです。
ある信仰書にこのような例がありました。
二つのクリスチャンホームに同じ頃に二人の子供が生まれました。
彼らは同じよう育ち、同じように日曜学校に参加し、同じようにイエスキリストを告白しました。
彼らは同じように成長し、同じように告白をし、同じようにバプテスマを受けました。
しかし、迫害が同じように彼らを襲った時、一人はそれに耐えよりキリストに仕え、一人は幼いときより聞いていた福音を拒みました。
彼らは何が違ったのでしょうか。
蒔かれた種が違ったのです。
一人には「良き麦の種」が蒔かれ、そして信じ、もう一人は「毒麦の種」が蒔かれて歩んでいたのです。
多くの人たちがこの記事を読んだ時こころがうたれるでしょう。
「はたして、自分が救われているのだろうか?」
この思いに達した人は幸いです。
もし、あなたが聖書に基づいて、あなたの救い主としてイエスキリストを受け入れているのなら、何も恐れる必要はありません。
しかし、自分の救いに対して疑問を持つのなら次のようなみことばが聖書に準備されているのです。
「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章2節
私はよくこのみことばが始めて福音を聞く人のために語られることを聞きますが、正確にいうのであれば、このように一回「毒麦の種」、もしくは間違って福音を理解した者たちに書かれたみことばです。
もちろん、攻撃者のために言いますが、福音ははっきり考えて信じることが理にかなっています。
しかし、罪人は神から遠く離れ、霊的に死んでいて、神の事柄を理解することができません。
聖書には、人がみことばを信じ、救われるために、聖霊の働きとしてはっきり語ることが求められています。
そして、この次の日ではなく今日信じなさいと強く責めています。
それは十分に聖書のすべてを疑いなく理解して信じなさいではなく、今日語られた福音が信じられるのなら信じるべきなのです。
拒もうとする気持ちではなく、素直に受け取りなさいなのです。
理解してとは意味が違ってきます。
「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙3章7〜8節
私たち主を信じる者はキリストの羊です。
私たちはキリストのあとを追うように新しく生まれた者です。
聖書を開いてみましょう。
「彼(イエス)は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 10章3〜5節
私たちはキリストを信じる前は「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙2章5節
しかし、今は「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」と書かれているとおりの者になったのです。
これはまさに豚が羊になることであり、性質が変わったことを示します。
もちろん、私たちの中には罪と言う豚の性質が残っていますが、私たちの上に神を愛する性質が加わったのです。
ですから、私たちは自分の意志で神に従うのです。
誰に強制されるのでもなく、自分の喜びとして神に従うのです。
これがキリストの羊の性質なのです。
しかし、この地方教会という集まりの中にキリストの羊ではない、別の羊が入ってきたのです。
彼らはある時まで、いっしょに集まりをなし、みことばを学び、救いの告白をなし、伝道さえしたでしょう。
この別の羊は動機が違うので、逆に熱心に見えるかもしれません。
しかし、性質が違うため彼らは疲れ果ててしまうのです。
キリストのあとを追いつづけることが出来なくなってゆくのです。
彼らは群れを離れます。
そして、ある者は別の集まりを造るかもしれません。
私たちは自分が神様に対して不忠実なんだろうと日々思いますが、彼らはキリストのあとを追いつづけることがつらかったので、私たちを律法主義と呼ぶでしょう。
こうして、彼らがキリストの羊ではないことを自ら告白しているのです。
このことは厳粛な問題です。
彼らに蒔かれていたものは「毒麦の種」だったのです。
でも、私たちはある意味このような者であっても確信することができます。
もし、彼らに言うのであれば「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」というみことばです。
そして、聖書は世の終わりにある毒麦たる背教が成長し、キリストの空中再臨(携挙)にて良い麦が取り去られた後、彼らは集められ、裁きに服する前に今日という日に「良い麦の種」を植えることが出来ますように。
悪い麦の代表であるイスカリオテのユダに対しては「しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」と書かれています。
新改訳聖書 マタイによる福音書 26章24節
彼は今も裁きのもっとも深いところで苦しんでいるはずです。
人間のこころにうえられた「毒麦の種」は簡単には抜けないかも知れません。
また、それらは大きくなるまでわからないかも知れません。
しかし、もし気づいたのなら「毒麦」を抜き、「良い麦の種」を植えることは可能なのです。
わたしはその目撃者です。
過去に毒麦を植えられた多くの者たちがそれを抜き、「良い麦の種」を植えたのです。
ヘブル人への手紙にはこのように勧められています。
「あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章1節
教会に行き、奉仕をし、キリストの福音を聞きながらこの救いに預からない者が今日、目を覚ますことが出来ますように。