メッセージ9 2000/11/30
新生:クリスチャンの最も大切な教え


1章 新生の教えを理解する必要性

多くのクリスチャンが「新生」を意識せずに歩んでいます。
ある者は非常に律法的になり、「あれこれしなければ救われない」と教えます。
しかし、私たちの中には「神を愛する力も、神に従う力もありません」。
パウロはこのような状況について、クリスチャンとしてこのように語っています。
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 7章24節
そして、律法主義的なことを教える多くの者は「自分が救われているか、どうかも確信できず」に努力すれば救われると言います。
彼らは非常に謙遜そうに見えますが、彼らにとって「救い」と言う問題を軽視しており、御言葉に対して不信仰です。
何よりもヨハネが言っています。
「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。
そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 5章11〜12節
つまり、私たちはこの御言葉の宣言をもって、この御言葉の「水の洗い」(エペソ5章28節)をもって、救われていることが確信できるのです。

また、あるクリスチャンは「私たちは律法の下にいない、さあ自由にされたのだ!何も私たちを縛るものはない!」と宣言するでしょう。
確かに律法の下にはいません。
しかし、律法を神に従うことすべてと解釈しています。
彼らの歩みをみると、明らかに聖く歩もうとはしていません。
そこには、何から自由にされたのかということが全く無視されています。
はっきり言うのであれば、彼らの多くは聖書の御言葉を読むことさえもせず、自分の哲学をもって、もしくは自分の教団、教会の教えをそのまま語っているだけです。

ユダヤ人には「律法の下」から救い出されました。
聖書にはこのように書かれています。
「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙 3章13節
これはユダヤ人に対して書かれたのです。
私たちに一次的に適用することではありません。
私たち、異邦人は律法のもとに育ったことはありません。
また、律法を行い、その結果救われるという教えを受け取った記憶はありません。
律法主義をガラテアの教会に持ち込んだ者たちがいて、パウロは反発しているのです。

異邦人は偶像の下から救い出されました。
「私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」

新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一 1章9〜10節
私たち異邦人はこのように悪魔の支配する偶像世界の中から救われたのです。
これは過去形であり、悪魔の支配の中からすでに自由にされたのです。
コリントいう異邦人教会に対して、パウロは強く語っています。
私を含め、多くのクリスチャンが凶器のように偶像崇拝を避けるように「警戒」するように語ります。
それは、私たちクリスチャンがこの偶像の世から救われた者でありながら、そこに戻るということは何を意味することか知っているからです。
つまり、神を汚すことになるのです。
「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 5章21節

旧約のエリヤの時代から現在に至るまで、神は語り続けており、現在においても通じることです。
「そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕えよ。ひとりものがすな。」彼らがバアルの預言者たちを捕えると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。」
新改訳聖書 第一列王記 18章40節

もし、あなたが天地創造の神を信じ、交わっていながら、私たちは自由だと言い、もしくは勝手な判断により、神様はそのような方ではないと言い、偶像崇拝を行ったり、勧めたりするのであれば、神はあなたの主人でも、父親でもありません。
神はあなたの奴隷です。
その人は、神は愛なる方だと言いながら、あなたの方が主人であり、聖書の言わんとしていることさえ読んでいません。
「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」
新改訳聖書 マタイの福音書 5章29節

すべてのクリスチャンはすべて「今の悪の世からすくわれました。」
「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙 1章4節
私たちはこの悪魔の支配している世から救われてしましました。
このことはキリストの十字架の御業の結果であり、私たちの側にある問題ではありません。
もはや、国籍は天にあるのです。
ですから、この地上と交わる必要がなく、私たちは世に対して証をする者となったのです。

また、すべてのクリスチャンは罪と死の原理から救い出されました。
「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 8章4節

私たちは上記の四つの事柄から、自由にされたのです。
多くの者たちは、世から分離されたのでなく、神の束縛から逃げています。
もちろん、神は束縛しているのではなく、神は神の子としての自由を与えようとしているのです。
聖書の中で、一度も「神の子」もしくは「神に従うこと」から自由された、開放されたとは書いていません。
まったく自由だと主張している者たちはキリスト教という宗教心に酔っているだけです。
実際に彼らは聖書の勧めとは、まったく逆の歩みをし、聖書を文字通りに読んでいません。

しかし、これだけのことを主張したのであれば、パウロの叫びは何でしょうか!
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 7章24節
これはパウロのクリスチャンとしての叫びです。
パウロの中には神に従う力も、神を愛する愛もないのです。
「 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 7章21節
多くのクリスチャンが、現在同じ叫びを持っているのを知っています。
だからと言い、聖書の勧めを無視し、聖書の一部分だけを取って、「私たちは自由にされた...(何から?)」。
もしくは、私たちの中には神に従う力がない、そのことは神様が一番知っているから、神様に任せよう(なら、なぜ勧めがある?)」。
聖書の通りに、行っていたら、律法主義ですよ。(あなたは神ですか?)

これは、この新生という「教え」を無視し、信じようとしていない者たちの歩みです。
もし、上記の事柄を主張する者たちの言っていることが正しいのなら、聖書の中に出てくる主に仕える者たちは、律法主義か、聖書の言っていることを知らない馬鹿でしかありません。
これから、語る「新生」とは「私たちがイエスキリストを信じたときに神によって生まれた」ということを信じることです。
私たちは神の子供であり、神に似た者になったのです。
この肉という中にあって、神に従う者、神を愛する者とされてしまったということを、信じて歩むということなのです。


2章 ニコデモ

「 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。

新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章1〜5節

ここにニコデモという人が出てきます
彼はここに書いてあるように「パリサイ人」であり、「ユダヤ人の指導者」でした。
当時、彼のような人物はまさに、まじめに良い行いをしていた人物に違いありません。
しかし、彼は「夜」、恐らく、他の人に知れると立場上大変なことになるので、お忍びでイエスのもとにきました。
ところがニコデモから話しだして、本題に入る前に、すべてを知っている神であるイエスの方からその本題を語りだしたのです。
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモはどのようにして、神の国に入れるのか知りたかったのです。
彼はパリサイ人であり、律法、つまり行いによって神の国に入れると信じていたはずです。
そして、ニコデモは表面的には律法を行うような振りができても、内面的には律法を行うことが出来ないということに気が付いていたのでしょう。
ところがイエスは新しい条件を出してきたのです。
つまり、「新しく生まれる」ということです。

直接的にはイスラエルの救いに対して、霊的に死んだイスラエルが神の奇跡によって甦らなければ(エゼキエル書37章)決して救われることがないということを語っていますが、ニコデモはイエスの言葉を理解できずに「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」とチンピンカンプンな答えをしています。

聖書を教えていたニコデモは当然のごとくそれを理解していなければならなかったのです。

多くのクリスチャンが同じように言うでしょう。
「私は新しく生まれたということを経験していない。」と言い、また逆に、「この新しく生まれるという行為を、聖霊の体験として「第二の祝福(イエスキリストを信じた後に起こる聖霊体験」として置き換えるかもしれません。
しかし、聖書ははっきりとこのように宣言しています。
「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一 1章3節

十字架にて私たちの救い、罪の贖いは完成されました。
私たちは天国に入れる者になったのです。
私たちはどのようにいつ、新しく生まれさせれたのでしょう。
それは「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって」なのです。
完成された救いの後の復活の結果である、「新しく生まれる」ということが、クリスチャンの歩みについて深く関与しているのがわかります。
そして、一部の派の者たちが言っているように「第二の祝福」でも、後の聖霊体験を示しているのではないことがわかります。

後のイエスは答えています。
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」
ここに出てくる水とはバプテスマのことを指していません。
ある人たちはこの箇所からバプテスマを受けなければ救われないと言います。
もっとひどくなれば、教会に来て無条件にバプテスマをうければ、その者もその家族も救われると主張し、それを実行しています。

わたしは偏見を持たずに聖書全体を読むのであれば、その者にこのことを説明する必要もないと信じます。
しかし、あえてわかりやすく逆から説明するのであれば、私たちの救いは十字架の上でイエスキリストが完成されたのではないのでしょうか?
もし、イエスキリストの罪の贖いを信じることによらずに、バプテスマ、もしくは行いによるのであれば、イエスキリストの十字架は不必要なことです。
彼らは神に仕えていると主張していますが、このように言うことができます。
「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。」
新改訳聖書 マタイによる福音書 23章15節

私たちがもしそのことを理解しているのなら、もし、天国と地獄を知っているのなら、そのことに妥協できるでしょうか?
もし、キリストの十字架の意味を知り、イエスを愛しているのなら、その価値を落とすことに許せるでしょうか?

ではここで言う「水と御霊」とは何を指しているのでしょうか。
ここでいう水はバプテスマを指していません。
聖書を読むとき、直感的に読むのではなく、聖書全体が何を言っているのかということに心をとめるべきです。
この水とは「神のことば」、つまりみことばを指しているのです。
ではその根拠は!
私は多くの人たちに追及されました。
しかし、もし耳があるのであれば聞いてください。

「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」

新改訳聖書 エペソ人への手紙 5章26〜27節
ここで、はっきりと「みことばにより、水の洗いをもって」と書かれ、クリスチャンの歩みがみことばによってきよめて聖なるものとなることが描かれています。

もし、水がみことばを意味するものならば次の箇所を読むことは容易になります。
「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」

新改訳聖書 コリント人への手紙第一 3章6〜7節
この水がみことばなら、パウロが伝道し、アポロがみことばを教えたということがわかります。
そして、成長させてくださったのは神です。

つまり、ニコデモに言われた「水と御霊」とは明らかに、みことばにより、聖霊の働きによらなければ救われることがないということわかります。
人は、聖霊の導きにより、みことばを聞いて、自分が失われていて、救われる必要を知り、十字架へと導かれ、贖いを信じるのです。
これはエゼキエル書37章に書かれているように、神の奇跡なのです。
「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
新改訳聖書 ルカによる福音書 18章25節

しかし、イエスキリストを自分の救い主と信じた者は新しく生まれたのです。
「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 5章1節

神であるイエスの宣言は「十字架以外の救い」すべてを否定します。
バプテスマを受ければ救われる、行いによって救われる、子供には罪の意識がないから救われている、キリストは全人類のために死なれただから全人類は救われている、これらすべてが否定されます。
これは、私たちの教理や主張ではなく、服従すべき神の宣言です。
しかし、もし受けいれるのなら、私たちにとって神の祝福となるのです。

イエスのニコデモへの答えは律法の行いによらずに、新しく生まれる必要を説いたのです。


3章 神の子になること

私たちの中にイエスキリストを救い主と信じたとき、私たちの中に新しい命が生まれたのです。
その命には神の子という立場が与えられました。

「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一 1章3節

「私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙 5章6〜7節

「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」

新改訳聖書 ガラテア人への手紙 3章26〜27節

「キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」
これは私たちの信仰生活すべてを変える事のできるみことばです。

わたしたちはかつて失われていました。
わたしたちは神から遠く離れた異邦人です。
わたしたちは罪と罪科の中に死んでいた者であり、私たちには悔い改める力も、神を知る力もない、霊的に死んだ者だったのです。
そして、神に裁かれ、永遠の火の池の中に落とされる者だったのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」

新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章16〜18節

神は世を愛しました。
また多くの教会が「世を愛された」という箇所だけを語り、「信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」の箇所に関連付けようとはしません。
「この世」と言うのは、この神の創造された被造物全体を指します。
神は自分のお造りになった世を愛しておられます。
ですから、神は常にご自分の世界を裁こうとするとき、悔やんでいるのです。
ノアの時代に、神がこの世を裁く時もそうでした。
「それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

新改訳聖書 創世記 6章6〜7節
ですから、「世を愛された」という言葉は神に逆らい続ける者たちには適用できません。
彼らには「ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです」という御言葉が適用されます。
多くの教会が聖書を無視して、語っています。
「あなたは、神に愛されている、だから神を信じなさい。」
何回この言葉を聞いたことでしょうか。
彼らの多くは最初は真実な福音を語っていたでしょう。
しかし、聞こえが悪いのです。
そして、次に「あなたは、神に愛されている、だからキリストの救いを信じましょう」
と変わり、最後には「あなたは、神に愛されている、だから神を信じなさい」となってゆくのです。
そこには、キリストの必要性も、また魂の問題も語られていません。
また、彼らの救いは地上的な救いです。
つまり、「神を信じれば、明るい人生が過ごせる」、もしくは「人間性の向上」、また「体験」を語っているのであり、「魂」の問題ではなくなっているのです。

もし、聖書の言わんとしているテーマを理解しようとするならば、必然的に裁きを強く語らなければならないのです。
ある人は「教派によって」、もしくは「考え方の違い」と言うかもしれません。
また、実際にはキリスト教会にも、いろんな考え方があるし、好きな考え方をすればいいじゃないかと聞きます。
しかし、私たちの根本は聖書であり、もし、それを抜きに考えるのなら、もはや教会ではありません。
また、非常に心を痛めることですか、現在ある程度の教会は「聖書は神の言葉」ですと告白しています。
しかし、神の創造、また、奇跡(処女降誕)などを並べたとき、おそらく9割以上の教会が「聖書には間違いがある」、もしくは「聖書はすべて正しいわけではない」という返事が返ってくるのです。
そこで霊的に学ぶことができるでしょうか?
そこに「好きな考え」を選ぶ余地があるでしょうか?

聖書は罪の下にあり、神に逆らい続ける者(個別)には子としての愛は示されていません。
彼らには「信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」という御言葉が適用されるのです。
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 3章18節
もちろん、神は忍耐をもってこれらの者たちが悔い改めるのを日々待っておられます。
ですから、これらの者たちが、今日、生かされていることを知るのです。
ですから、今日、これらの者たちに御言葉を述べるのです。
ある人は、この福音を述べるのに時があって今は必要ない、もしくはあたまもなしに伝道するのは失礼だと主張するでしょう。
しかし、神が忍耐しておられるのに、それを述べ伝えないしもべはもっと失礼です。

もちろん、地の基が置かれる前から選ばれた者は別です。
彼らには「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」という御言葉が適用されます。
新改訳聖書 ローマ人への手紙 5章8節

ですから、私たちの語る福音とは、
「あなたは神から失われています。
あなたにはさばきがあります。
あなたは見出される必要(救われる必要)があります。
神の救いを受け取りなさい」なのです。

これは気分の問題ではありません。
神の前にある現実です。

聖書ではこの罪が借金にたとえられています。
(正確に言うのであれば、すべての人の贖いの代価)
私たちの罪は日々、増え続けています。
この借金はもう払いきれません。
私にはこの借金を一円たりとも返す力、方法がないのです。
この借金をどこで返すのでしょうか。
永遠の火の池の中で返さなければなりません。
その中で、終わりなく返してゆくのです。
ローンならいつかは返せるでしょう。
しかし、その苦痛は永遠に続くのです。
しかし、神の御子イエスキリストが十字架の上で、私の借金、いや全人類分の借金すべてを払ってくださったのです。
キリストは私たちの罪の身代わりに十字架の上で死なれたのです。
ですから、この借金をイエスキリストが払ってくださったと信じる者は、罪が赦されるのです。
そして、始めて、罪赦された者は現在、神の子として新しく生まれたのです。

神の子として生まれたということは「もちろん、神との関係を示します」。
私たちは「子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ」ことができます。
そして、子であれば親に似た者として「生まれた」ことを示します。
私たちはこの肉の体の中に、イエスキリストを信じたときに「神に似た者として新しく生まれた」のです。
肉の体は神に逆らいます。
しかし、新しい命は神に従順です。
そして、この命は日々成長します。
食べ物は御言葉です。
「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一 3章18節
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二 4章16節
また、この命は非常にばい菌が嫌いです。
このばい菌は「世」です。
成長を妨げるかも知れません。
ですから、前章でも書いたように「御言葉による水の洗いが必要なのです」。
イエスはゆえにお互いの足を洗うことを勧めました。
足とは「地上と交わる」ところです。
弟子たちは体全体が清いのです。
すでに清いものとされたからです。
この世の汚れを、お互いに御言葉をもって洗いあうのです。
私たちも御言葉によって聖めれらて歩むのです。


4章 聖別とは

コリント人への手紙第一の始めにある、パウロの手紙には興味のある表現があります。
「コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一 1章2節

このコリントという場所は、哲学の町でもあり、非常に世俗的な町でした。
そして、このコリントの教会には、派閥、不道徳、そして神の事柄について不従順でした。
決して聖徒とか、聖いという言葉が適しているとは思えません。
しかし、あえてパウロは彼らを「聖徒として」紹介しています。
これは何を言わんとしているのでしょうか?
それは、まず私たちの「聖い」という言葉の理解に問題があるのです。
英語では聖徒という言葉を「SAINT」と言います。
しかし、この称号は多くの学者たちも言っているように恐らく、死人に対する称号であることをわかっています。
多くの偶像崇拝の中で死んだら神になるという思想があります。
日本の宗教においても、成仏(仏になる)と言われています。
これは恐らく、この2000年間のキリスト教の歴史の中で取り組まれたものであり、聖書の言わんとしてことではありません。
しかし、言語に近い表現をするのなら、「聖い」という言葉は「agios-別けられる」という意味があります。
昔、イスラエルの幕屋において、神のために使われる物は聖別されました。
「幕屋とその中のすべてのものにそそぎ、それと、そのすべての用具とを聖別する。それは聖なるものとなる」
新改訳聖書 出エジプト記 40章9節

これは洗うとか、磨くことを示していません。
明らかに、神のために別ける(分離)ことです。
神用のものとして扱うことです。

私たち、すべて救いを受け取ったクリスチャンである、聖徒は神のものとして別けられてしまったのです。
ですから、ここでは、聖い、もしくは聖徒という言葉は、きれいになったとか、罪がなくなったとかの意味を直接、示していません。
また、聖別は私たちの行為ではありません。
なぜなら、召してくださったのは、神だからです。
十字架の贖いを通して、私たちを召してくださったのです。
わたしたちは神のものとして、代価を払って買い取られ、世から分離させられてしまったのです。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一 6章20節

ここで問題になってくることは、この教理と私たちの歩みとどのように関連してくるかです。
では今まで書いてきたことをまとめてみたいと思います。

1、私たちはイエスキリストの贖いによって、新しく生まれた者である。
2、新しく生まれた者は神の子という関係に入れられました。
3、新しく生まれた者は聖徒です。
 そして、「聖い」という言葉には別けられたという意味があり、私たちクリスチャンは別けられたのです。
4、これらの行為は、私たちの努力や行為ではなく、神側の行為である。

このことを踏まえた上で、次の聖句を読んで見てください。
「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 5章3節

私たちの語ってきた福音の中で、「私たちの中には神に従う力も、神を愛する愛もないゆえに、神の恵みによって救われたのではないのですか?」と尋ねるでしょう。
ならなぜ、ここで神の命令は重荷にならないのでしょうか?
この肉の体に神に従う力あるのでしょうか?
答えは「ノー」です。
神の命令は肉に対しては重荷です。
また、肉に反応し、ますます悪くなってゆくでしょう。
では、なぜ私たちにこの御言葉が与えられたのでしょうか?
新生を理解しなければ、そこに答えはありません。
ある人たちは、確かに救いは「恵み」によることを理解するでしょう。
また、クリスチャンの歩みも「恵み」という言葉を使うでしょう。
たしかに、聖霊なる神が私たちに与えられ、私たちの歩みを守っていて下さります。
しかし、問題は私たちに神の命令を、もしくは神の事柄を受け入れる力あるかです。
彼らの多くは恵みと語りながら、肉の邪悪性を強調したいゆえに、肉を抑制したいがゆえに、戒めにて管理をしようとします。
現実的に彼らの多くは、外面的な行為、告白に心を奪われ、自分自身を洗おうとはしません。
どのように戒めようと、彼らには苦痛しか残りません。

では、現実的に私たちはどうすれば良いのでしょうか?
私を含め、多くのクリスチャンが神の救いを受けたあの日に戻ってください。
あなたはイエスキリストを信じたあの日、神に従うことが、教会に来ることが重荷でしたか?
あなたの救い主に何かすることが、つらかったですか?
あなたに対してそれらのことは喜びだったはずです。

もう一度次の御言葉を読んでください。
「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 5章1節

イエスがキリストであると信じる者は神によって生まれ、その性質が描かれています。
「生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」
つまり、神とキリストを信じる兄弟を愛するという性質です。
これは、私たちの中から出てきたことではありません。
私たちは救いを受け入れたとき新しく生まれたのです。
生まれたその瞬間は、まだ幼い命かもしれません。
しかし、御言葉を食料として、その命は成長するのです。
私たちはこの古い体、肉、生まれつきの性質の中に新しい命を入れているのです。

「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。
新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。」

新改訳聖書 ルカによる福音書 5章37〜38節
この箇所は私は直接的には、律法と恵みについて語っていると信じています。
つまり、律法とキリストの十字架の救いは一緒にならないということです。
でも、このことは同時に私たちの肉の体の中にある新しい命について語っているとも思えます。
この状態がまさにパウロの「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています」と言った状態だとも言えます。
新改訳聖書 ローマ人への手紙 7章19節

もし、パウロが新しく生まれていないのであれば、このような葛藤が起こるはずがないのです。
しかし、パウロの中にある、新しいぶどう酒は、古い皮袋との間に、このような葛藤を生んでいたのです。

ですから、パウロはその後、このように言っています。
「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙 8章10〜11節

ここでは、古い皮袋のことを「死ぬべきからだ」と呼んでいます。
私たち、空中再臨にて天に引き上げられる者以外の者は、「死ぬべき」なのです。
そして、天に引き上げられる者であっても、現在「死ぬべきからだ」を持っているのです。
「死ぬべきからだ」に何かの可能性を見つけることができるでしょうか?
「死ぬべきからだ」を神に捧げることが出来るでしょうか?
出来ません。
しかし、「死ぬべきからだ」を生かす方がいます。
それは神です。
私たちの「死ぬべきからだ」を御霊によって生かすことが出来るのです。
神のために用いることができるのです。
これは神の奇跡です。
私たちの行為ではありません。
私たちはそれを信じ、信仰によって生きるのです。

その後、パウロは言っています。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 12章1節

死んだものを捧げられるでしょうか?
ここでは「聖い、生きた供え物」として描かれています。
私たちの「死ぬべきからだ」を神の用事のために聖い(別けられた)、生きた(聖霊によって)供え物であるゆえにささげるのです。
それは、神の行為の結果、信仰による行為です。
もちろん、そのすべてが神側の行為です。

では、次に新しい命の性質をあげてみましょう。
特にヨハネの手紙第一に列挙されていることに目をとめます。
「義を行なう者がみな神から生まれたこともわかるはずです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 2章29節
「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。
キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 3章2〜3節
「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 3章9節
「神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 3章24節
「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 4章4節
「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 4章13節
「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。
私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 5章1〜3節
「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。
そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 5章10〜12節
「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 5章18節

聖書の他の箇所をあげるなら、このページでは足りないでしょう。
特に注意していただきたいのは「罪のうちを歩むことができないのです」という表現です。
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 3章9節
直訳すると「罪を犯しません」です。
ここで示す罪は現在形の罪であり、常習的な罪を示します。
私たちは神の子供です。
神は私たちが常習的な罪の中を歩むことを許しことはできません。
つまり、泥棒という職業は、一回盗みをした者には適用されません。
それは常習的に盗みを繰り返す者に適用されます。
すべてのクリスチャンは罪を犯すことがあります。
しかし、その罪は告白することにより許されます。
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 1章19節
しかし、神は御自分の愛する子を罪の中に置きっぱなしにはしません。

また同様に聖書は、御霊の実についても書かれています。
これは、聖霊によって生まれた私たちの性質です。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙 5章22〜23節
私たちにはこの実を実らす性質を持っています。
この箇所の前には次のように書かれています。

「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」

新改訳聖書 ガラテア人への手紙 5章19〜21節

もし、先ほどのヨハネの手紙第一でなされた宣言を読み、また、私たちの救いが完全であることを理解するならば、この箇所は明らかに完全なるキリストの救いを受け入れていない、未信者について書かれたと理解することは容易なことです。

一度救われた私たちが、救いをなくすことは有り得ないことであり、神は私たちがこのような罪の中に(常習的に)いることを許しません。

つまり、私たちの中にある新しい命は神の性質を受け継ぐ命なのです。
神に従うことのできる命であり、それを喜びとします。
私たちはこの肉のからだの中に、この命を持っているのです。
何も、妨げることなく、主に仕えよう、聖書を学ぼうと思ったあの日にように、あなたの性質は神に従うことことは喜びなのです。

「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一 2章1節


5章 結論:では新生をどのように適用するか!

1章で書かれていたことを思い出してください。
律法主義者、放縦仕儀者が確かにいます。
また、何も問題なく、考えずに神に仕えている者もおり、仕えていない者もいます。

ある者たちは前にも書いたように、私たちは自由にされたことを強調します。
問題は何から自由にされたかです。
聖書のどこにも、神に従うことから開放された、自由にされたと言う言葉はありません。

私はそのような人たちに言うことはできます。
あなたはイエスキリストの十字架に贖いの結果である、新生を無視して生きています。
あなたは神のために、仕えるために新しく生まれたことを信じていないのですか。
恐らく、次のように返事が返ってくるでしょう。
「私にとって、神に仕えることは苦痛です。それならば仕えたくありません。」
その人に対して、考えられることは二つです。

一つは「神に仕えることを経験していない、もしくは忘れている」。
この人に大切なことは信仰です。
あなたが神のために生きる者になったという信仰が必要です。
「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙 2章10節
「こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一 4章2節
あなたはこの御言葉を信じるでしょうか?
もし、自由だと言う者がいるのであれば、信仰を捨てているのです。
「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 1章7節

次に考えられることは「その人は救いを受け入れていない」ということです。
これは、ずっと語り続けていることですが、神の子であればその現われもあるのです。
これは私たち側の出来事ではなく、神の行う御業です。
なぜなら、キリストの羊はキリストのあとをついてゆくからです。
「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 10章27節
もし、従おうとする意思がないのであれば、まず救いから疑うべきです。
でも、もし信じているのなら、あなたの中にある信仰をもう一度再び燃え立たせてください。(テモテ第二1章6節)

よく、神の恵みを放縦に変えて、キリストに従うことをやめてしまった者がいるという表現を良く聞きます。
つまり、神に従うことが賜物であることを、理解し、その上で放縦に走っていったのでしょうか?
答えはノーです。
彼らは明らかに始めから、神に従うことが賜物であるとは理解していない、もしくは信仰を捨ててしまったのです。
新生の教え、信仰は人を放縦へと導きません。
献身的な思いへと導きます。

次に律法的に歩むことを主張する人たちにこの新生は必要なことです。
私たちの肉は神に従うことができません。
神に逆らい、罪の中を歩みたがる性質を持っています。
私たちはその中に新しい命を持っているのです。
そして、私たちが新しい命を働かせようとするとき、古い肉のからだが反応します。
ですから、御霊によってそれを生かすことができます。
「キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙 8章11節
もう一度書きますが、それは自分の力によらず、御霊によってです。
ですから、私たちに直接に肉に対して反応させるように戒めをもってくるのなら、私たちは死ぬのです。
従うことが出来ないのです。
しかし、何と自分のプライドや、栄光のためにはそのことをたやすく行うのではないのでしょうか。
もし、あなたが自発的に、御霊によって、御霊の性質、もしくは新しい命の性質によって生きる、仕えようとするのなら、あなたは生きるのです。
もはや、神に仕えることは、新しい命の性質によって動いていますので、あなたの喜びとなります。
「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 5章3節
新生なしにこの御言葉を読むのであれば、苦痛と矛盾しか残りません。

また、新生した者は神に用いられるために聖別(別けられた)者なのです。
世から、もしくは、律法から、罪から聖別(別けられた)されたのです。
また、御言葉を食して、新しい命は成長し、主と同じ姿へと変えられてゆくのを知ります。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二 3章18節

しかし、私たちは古いからだの中にいることも忘れてはいけません。
「確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二 5章4節

私たちが新しい皮袋を着る日、それはイエスキリストの再臨の時です。
私たちは主のもとに引き上げられます。
そこでわたしたちは新しいからだを着て、もはやその苦しみを味わうことはありません。
ですから、私たちはイエスの来られる日を待ち望んでいます。

そして、このような問題を味わったことのない人たちに言います。
悪魔は決してあなたを神に従うことに賛成していません。必ず問題が起こります。
この新生と言う教理は、すべてのクリスチャンが知るべき教理です。
それは、正しく、自分の置かれた立場、状態を理解し、神との交わりを喜ぶために必要なことだからです。


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