メッセージA 2000/1/18
聖書の学びかた。 C.H.マッキントシュ
(How to Study Scripture By C.H.Mackintosh)
それは、誰かが誰かに聖書を適切な方法で学ぶように規定し計画することはとても難しいことです。
絶対的な栄光なるキリストの人格と神としての限りのない資産のように、聖書は無限の深さを持っているからです。
しかし、このことを知り、聖書を学ぶことをよって、才能でも、私たちにある知力でもなく、とても単純に幼子が理解するように聖書を簡単にするのです。
聖書を作られた唯一な方は聖書の貴重な教えを理解させるために、我々の理解力をも開拓しなければなりません。
もし、単に私たちの思いが現実に十分準備が出来ているのなら、神は応答することができます。
私たちは、私たちの行動が私たちの知識を増やそうとすることを知っているます。
ゆえに、この重大な事実を見失なうことはなく、、単に聖書を読む読書家のようにけして座っているようなこともありません。
私たちは自分の頭を聖書の知識で一杯にするかもしれません。
また、我々は、慰めになる御言葉、聖霊の力のない私たちの指先にある聖書の手紙と聖書の教義を持っているかもしれません。
そのように、乾いている人が飲むように、空腹なものが食べるように、航海士が海図をみるように、私たちは聖書なしに何もできないのです。
私たちは学ぶことだけではなく、食事をするでしょう。
生まれたばかりの乳飲み子が成長するためのミルクを望むように、新しい命の性質は我々を神の御言葉に導くでしょう。
生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。 新改訳聖書 第一ペテロ 2章2節 |
クリスチャンは御言葉を食べることによって新しい人が育つのです。
ゆえに、私たちは聖書をどのように学べばよいかと!現実的で実際的な方法を質問されるもあります。
それは完全な道徳心(聖書に基づく)と霊の確信、そして日々の歩む、実際の習慣と歩みとに深く関係しています。
神は私たちの行いを支配し、道を備えるために私たちの性格を作り、神の御言葉私たちにを与えられたのです。
そうゆうわけで、もし御言葉が人を形作る影響力と人知を超えて治める力を持っていないというのならば、知者という人間の中に聖書の知識量を蓄えてゆくという愚かな高慢にしかなりません。
それは単に興味本位で、私たちを高く上げ、私たちをだますでしょう。
経験していない真実を語ることは大変危険な取引となります。
それはまじめで敬虔な人々への恐ろしい無情な無関心、軽率な精神、とがめのない良心を生むことになります。
そこには何もなく、ただやさしい良心、真実な心、正しい精神のない最高の真理の知識量は、私たちを完全に敵の手の中へと投げ入れてしまうでしょう。
その単なる告白(裏腹に真実な)は、良心上では働かず、信仰生活の中から出てゆきます。それら一つでも私たちに神から今日分けられた役割(奉仕)にあって大変な危険行為になるのです。
ただ、命を形作らないようにしている理解力の欠片の中にある無力な状態の量(知識量)を公言(自慢)しているよりも、神の現実と力の中のわずかを知っているという方がはるかに好ましい状態なのです。
私は偽ってローマ書の8章にいるよりは正直にローマ書の7章にいるほうがましなのです。
前者(8章)の中にあっては私の行くべき事(道)が示されてはいないが
後者(7章)では私は真実に行くべき道が示されている。
最終 --- 訳者 注)参照
この質問に大切な警告を含み、聖書を学んでいる私たちを助けために人間の書物を利用しています。
間違いなく、使徒が口述にてこれら牧師たちを私たちを教育、そして設立のために使用したように、神は僕の書物(聖書)を使用して私たちに教えています。
現在、壊され、分裂してしまった教会の状態にあって、神の僕の書物で神の豊かな恵みとキリストの最愛の人々を養い、世話をして養育することに興味をおくことはとてもすばらしいことです。
しかし、大切な警告は繰り返され、神は本気で応答し、それは私たちは悪用してはならない贈り物であり、借り物(メッセージ)にて人を取引に導くことはしません。
もし、私たちが本当に神に従っていれば、神はその正しさを私たちに与えるだろう。
神は我々の手の中に戦う本(聖書)をおきます。
神は私たちに私たちにふさわしい食物を与えます。
このように私たちは神ご自身から、神ご自身からの交わりとそれを守ることを受け取ります。
それはとても新鮮だ。
生きている。
力強い。
形作られている。
それは心に語りかけられ、生涯輝いている。
そして、私たちは私たちの神および救い主のイエスキリストの恵み、および知識にあって成長します。
大切な成長、それはより多くに成長させます。
最後に
私たちは聖書が神の声であることを覚えておく必要があり、書かれた言葉は生きている言葉の写しでしかないのです。
私たちが本当に聖書を理解することが出来るのは聖霊の教えのみなのです。
そして、神が信仰と必要への信仰の深さを明らかにしています。
私たちは決してこのことを忘れてはいけません。
訳者 注) 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。 新改訳聖書 ローマ人への手紙 7章19〜25節 ここでは私たちの肉の性質が、神の絶対なる義である律法に対応できないことが描かれています。 自分の力によって神に近づこうとするのであれば私たちの中に戦いが起きるのです。 それは水と油のように混ざろうとすれば濁ります。 しかし聖霊の力に頼って歩むものにはこの濁りは存在しません。 (肉の性質(私のからだの中には異なった律法)はそれを邪魔します。) ですから聖書は私たちに信仰(神側に立つ)の純粋性を要求しておられます。 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。 新改訳聖書 ローマ人への手紙 8章9〜12節 7章とは逆にここではパウロはクリスチャンには御霊が住んでいるという宣言がされています。 この御霊は私たちの肉に従って歩む責任(律法を守る)を 肉に対して負ってはいません。(律法を守ろうとする努力をしてはいけません。)と断言しています。これは聖書が言っているのです。 もし、私たちがとがめを感じているのなら、その問題を聖霊に任せるべきなのです。 私たちのからだは罪のゆえに死んでいるのです。 死んでるものに何をゆだねても返事がありません。(落ち込むだけです。) 生きている方にゆだねるべきであり、聖霊は最後までどんな場所にいても導き通せる方です。 しかし、この信仰書の著者は自分にうそをついてまで自分が8章にいると突っ張ることが利益を生むとは言ってません。 完全な答え(8章)の先には道はないのです。 7章の状態に自分がいるのであれば、そこには答えがあり、道があるのです。 ただ、正直に自分が7章にいるか、8章にいるかを理解することに答えがあるのです。 |