メッセージAA 2000/10/1

どのように神の道を見つけるべきか! by C.H.マッキントッシュ
(God's Way and How to Find It )


「その通り道は猛禽も知らず、はやぶさの目もこれをねらったことがない。
誇り高い獣もこれを踏まず、たける獅子もここを通ったことがない。」

新改訳聖書 ヨブ記28章7〜8節

そこにある神の歩む方法を知ることは、神とともに歩くことを望む者にとっては言葉にはならないほどに哀れみに満ちた言葉です。
私たちが静かに、そして動かされることなく歩むことは確実に出来ることです。
神はそれらを取り戻すために小道を準備しておられます。
それは、神のすべての子とキリストのすべての僕の特権であり、その人のたましいが救われなければならないのと同様に確かなことなのです。
これは強気な発言のように思えるかも知れません。
しかし、この問題は真実なのでしょうか?
もし、それが真実ならば、決して強気な発言ではありません。

疑うことなく、私たちがわずかな自身過剰と、主帳する教理の味わいを扱う時にその問題を扱います。。
私たちは私たちが生きているこのように扱う日にあって、私たちがその小道を通るこのような場面の途中でこのように神とともに歩むのです。
その時、私たちは神の小道にいることを確信しています。

しかし、聖書はなんと言っているのでしょうか?
それは「神の方法」であると宣言しています。
そして、それは同様に「私たちがその方法にて歩むべきかを」私たちに尋ねているのです。
「その通りです」。
それ自身が--同じ声が私たちのたましいために神の救いが私たちに語っています。--私たちの足のために神の方法を同様に私たちに語っているのです。
私たちは保証されていて、その権限は全く同じものです。
「神の御子を信じる者は、永遠のいのちを持っています。」(ヨハネ第一5章11〜12節参照)
それはとてもはっきりとした方法であることを私たちに保証しています。

「旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。」
新改訳聖書 イザヤ書35章8節

これは繰り返し、いつの時も哀れみの信号を繰り返し知らせています。
しかし、現在のような混乱と混迷の日にあって特にこのことは必要な事柄なのです。
そのことを現在のこの瞬間に見つけることのできる神に親しい人々の多くが、不確定な状態に気が付き深く心に刻みつけるでしょう。
私たちは救いの問題を今述べているのではなく、私たちは特に他の事柄について述べているのです。
しかし、私たちがそのことを述べる前に私たちはクリスチャンでなければいけません。---私たちは何を今すべきか---私たちは教会の真中にて告白に至らすべき方法を---ここで私たちは見つけようとしています。
主の多くの人々がこれらの事柄に対して間違って判断している時にも、そのことは必ず真実だったと言える事しょうか?
それらの者たちは多くはありませんが、彼らは彼らの心に現実に語りだされるはずでした。
それは彼ら自身が全然未解決と言わざるをえない状態であり--彼らが何もしていないことを、どこにゆくのか、何を信じるのかさえも知らないでいることを認めなければならないのです。

今、このような暗く、混乱した時代において、この問題を神は神の子供に、神の僕に残しておくでしょうか?
いいえ
私の親愛なる主よ、この暗く先の見えない中をあなたのあとをついてゆきます。
この足はそのためによく動きます。
子供は父のみこころを知らないでしょうか?
僕は主人のみこころを知らないでしょうか?
そして、このことがもしわたしたちに地上的な関係をもたらすなら、どのくらい、より完全に私たちは私たちの父、そして天の先生を参考にして考えてゆくべきなのでしょうか?

昔のイスラエルが紅海を渡り、約束の地と巨大な恐ろしい荒野の間に置かれ、彼らはその片隅に立たされていました。
彼らの道を彼らはどのくらい理解していたでしょうか?
彼らのまわりには砂漠の足跡のない砂が満ちていました。
そこにどんな足跡も探すことは無益なことです。
それは猛禽の目もその経路を見出すことできず、ただ無駄に衰えさせるのです。
モーセがホバブに言った時、モーセはそれを感じました。

「どうか私たちを見捨てないでください。あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じであり、私たちにとって目なのですから。」
新改訳聖書 民数記10章31節

なんてよく、私たちの貧しき疑う心はこの人の心を動かす訴えを理解することが出来るのでしょうか。
それはこの方法が戸惑う場面の真中で人間の導きを求めることなのです。
そこで、私たちは「何がモーセにホバブの目で何を望ませたのですか?」と尋ねることが出来ます。
エホバ(主)は彼らを導くことを親切に引き受けないでしょうか?
はい、そのとおりです。
そのために私たちには次のように語られています。

「幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。
いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。
雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。
主の命令によって、イスラエル人は旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。
長い間、雲が幕屋の上にとどまるときには、イスラエル人は主の戒めを守って、旅立たなかった。
また雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。
雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立った。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立った。
二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立たなかった。ただ雲が上ったときだけ旅立った。
彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命令によって、主の戒めを守った。」

新改訳聖書 民数記9章15〜23節

神の導きがここにあります。
この導きは私たちに確かに「このことが彼らの目、もしくはホバブの目と他の死ぬべき者の目が神から離れていることを示すには十分なことでした」と言うでしょう。
それは民数記の中にある面白い記事です。
この記事は契約の箱に整えられ、会衆のとてもやすらぐ場所を見つけることができたのです。

10章の中で私たちは「こうして、彼らは主の山を出て、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した」ときのことを語ります
新改訳聖書 民数記10章33節

彼らの代わりにエホバ(主)が休む場所を探しました。
主が買い戻した民の安らぐ場所をです。
主は彼らの旅の導き手になりました。
なんと恵みに触れる場所がここにあるのです!

なんと、神は私たちに忠実なのでしょうか!
雲、さらに銀のラッパが神が用意していながらも、モーセはホバブに導きを頼みました。
それでも、その時エホバ(主)はイスラエル部族の真中に主の場所を置きました。
そして安らぐ場所を探すためにその場所を出て彼らの前を進みました。
主は十分に荒野を知らなかったのでしょうか?
主は一万のホバブより荒野をしらなかったのでしょうか?

あなたは主に十分信頼を置かないかもしれません。
確かに主は誤った道に彼らを導きません。
もし彼の恵みがエジプトの束縛から彼らを買い戻したのなら、
そして、もし主の恵みによって彼らが紅海の中を通ったのなら、
確かに、彼らは巨大な恐ろしい荒野を横切り、彼らを導くために同じ恵みにあって彼らに主の恵みを信頼させようとしているのです。
そして、彼らを乳と蜜のあふれている土地へ無事に連れてゆくのです。
もし、神の導きの恩恵を受けることを念頭において、そのことを耐えなければなりません。
それらは自分の持つ意思と、私たちの持つ理屈に対するあらゆる信頼と、同じように他人の理屈と考えに対するあらゆる信頼を放棄しなければなりないということです。
もし、私が私の導き手としてエホバ(主)をもつならば、私は私自身の目、もしくはホバブの目のどちらも欲することはありません。

神で十分なのです。
私は神に信頼することができます。
神は荒野を横切るすべての道を知っています。
ゆえに、もし私が主に私の目を向き続けるのならば、私は正しく導かれます。

けれどもこのことは私たちの二つ目の主題の上に私たちを導きます、すなわち、どのように私は神の方法を見いだせるかです?
確かにこれは非常に大切な質問です。

そして、ここで、私は神の小道に立ち入るためにはどこに立ち返ればよいのでしょうか?

もし猛禽の目が、とても鋭く、とても力強く、とても遠くを見渡しても、それを見つけることはできません。
もし獅子はとても動きが活発で、とても威厳がある態度を持っていても、それを踏みつけることはできません。
もし人はその評価ができずに。それを生ける者の地では見つけられないなら(ヨブ記28章13節参照)
もし深い淵が「私の中にはそれはない。」と言い、海が「私のところにはない。」と言わないなら(ヨブ記28章14節参照)、もしそれが金のためにもしくは貴重な石のために得ることが出来なくても、もし宇宙の富がそれに等しくないなら、そしてそれが人間のあらゆる知力によって発見できないなら、その時そこへ、私はそこへ立ち返るでしょうか?
私はそれをどこで見つけるでしょうか?

告白された教会の至る所にある、信仰的と呼ばれる多くの考えと感覚の規格化された、偉大な標準的正統的信仰に私は立ち返るべきでしょうか?
これが神の方法を見つけることの出来る知恵に満ちた素晴らしい小道なのでしょうか?
彼らがおおいなるものに、大まかに、ヨブ記28章のすさまじい法則に対していくつかの例外を形作るでしょうか?
確実ではありません。

その時に、私は何をすればよいのでしょうか。
私は一つの道があることを知っています。
神にはうそをつくことが出来ません。
神はこれを宣言し、私はそれを信じています。
しかし、どこに私はそれを見つけるでしょうか?

「では、知恵はどこから来るのか。悟りのある所はどこか。
それはすべての生き物の目に隠され、空の鳥にもわからない。
滅びの淵も、死も言う。「私たちはそのうわさをこの耳で聞いたことがある。」」

新改訳聖書 ヨブ記28章20〜22節

それがこの素晴らしい小道を探すことが、貧しく無知な死ぬべき人間たちの希望なき言い分のようにしか聞こえないでしょうか?
いいえ、祝福された神。それは希望なき言い分では決してありえないのです。

「しかし、神はその道をわきまえておられ、神はその所を知っておられる。
神は地の隅々まで見渡し、天の下をことごとく見られるからだ。
神は風を重くし、水のはかりで量られる。
神は、雨のためにその降り方を決め、いなびかりのために道を決められた。
そのとき、神は知恵を見て、これを見積もり、これを定めて、調べ上げられた。
こうして、神は人に仰せられた。「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」」

新改訳聖書 ヨブ記28章23〜28節

ここに神の知恵の秘密があります。
「主を恐れること」
神は現在、良心に直接語りかけます。
そして、それは真実な場面においてのみです。

サタンの目的は、この場面の外に良心を追い出すことです。--人間の権威と力に至らすことです。--人間の戒めと教理に支配されるように導くことです。--キリストの権威と力の間に何か他のものを挿入させることです。--それが何であるかは重要ではありません。
それは真実に等しい信条または告白かも知れません。--それは人間の意見、人間の据えたものかも知れません。--お気に入りの先生からの評価かも知れません。--何かが、すぐに、入ってきて奪うのです。心の中で、神のことばだけに属するものを...。
これは恐ろしい罠であり、障害物なのです。

主の道を前進する私たちにとって、もっとも危険な妨害です。
神のことばは私を支配しなければなりません。
神のことばは純粋で単純です。人間がそれを解釈してはいけません。
間違いなく、私の魂に神のことばを説明するために人間を使うでしょう。
だが、それが神のことばによる人間の教えが私を支配するのではなく、人間に教えられることによって神のことばが私を支配するのです。
これは全て大切なことです。

私たちは生きている神のことばによって、排他的に支配されることを排他的に教えられなければならないのです。
他のことは何も私たちを私たちのクリスチャンのしての個性、方向性のために、正しく、もしくは堅実さと一貫性を保たないでしょう。
そこには人間の考えと意見によって--もしくは人間が設定した偉大な教理の基準によって--支配されるための強い傾向が私たちの中にも外にも存在しているのです。
これらの基準と意見は彼らが進む限り、すべて真実かもしれません。
それは今ある問題のポイントではありません。

私たちはクリスチャンの読者にこのことを印象づけたいのです。
それは彼が彼をフォローする人間の考えによって支配されてはならないのです。
それは単純に、そして厳粛に神のことばによるのです。
それが人間から教えられた真実ならばそこに価値はないのです。
神ご自身から直接それを教えられなければなりません。
神は神の真実を伝える人間を使うかもしれません。

しかし、神よりそれを教えられない限り、私は神の力を私のこころと良心の上に持ちえないのです。
もし私の魂と神の聖い権威との間に何かを挿入させるのならば、現実に神との交わりを妨げ、神との生きている交わりの中に私をもたらすことは出来ません。
私たちはこの偉大な原則を実施し、広げることを大いに好むべきです。
しかし、私たちはルカの福音書11章に記されている1つの、もしくは2つの厳粛な、そして実際的なポイントを読者が表明するために、今すぐに耐え忍ばなければならないのです。
そのポイントとは、私たちは神の方法をどのようにより良く見つけるかを理解できるようになることです。
ようやく私たちはこの節を引用することができます。

「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。
だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。
もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」

新改訳聖書 ルカの福音書11章34〜36節

その時ここで、神の「しかり」を見分ける真実な秘訣が私たちに備わっていることを知ります。
それはキリスト教世界の困惑した真中ではとても難しく思えるかもしれません。
それは先見者が正しく道を歩むためなのです。
とても多くの矛盾する声が聞こえてきます。
とても多くの反対する意見が私たちの注目を引きます。
神の人は完全に異なる判断をし、その評価の影は伸びてゆきます。
それは健全な結論にたどり着くことは不可能に見えます。

私たちはある一人の人のところへ行きます。
私たちは判断する限りでは、その人は健全な目を持っています。
そしてその人は私たちにあることを語ります。
私たちは別の人のところへ行き、同じようにその人も別の健全な目を持っているように思えます。

今度はその人は全く逆のことを私たちに語るのです。
誰が、その時、私たちはそのことを考えたでしょうか?
いいでしょう、確実なことが一つあります。
私たちはある人から別の人へと答えを求め、不安と困惑の中を走っている時は,私たちの持っている目は健全な目ではありません。
健全な目はキリストだけに集中し、このように全身は光で輝きます。

昔のイスラエル人は、正しい方法について仲間に相談するためにあちこち走り回ることはしませんでした。
それぞれが同じ神の導きを持ちました。
すなわち、それは昼は雲の柱、そして夜は火の柱という導きです。
その意味するところは、エホバ(主)ご自身が会衆一人一人の絶対確実な導き手だということです。

彼らは最も知的で懸命な人に、もしくは会衆の中の経験豊かな人を導き手として委ねはしませんでした。
むしろ、彼らは彼らの方法に委ねました。
それは一人一人が主のあとに続くことでした。

そして銀のラッパは神の考えをすべてを表わしているようです。
そして、耳を開いて、どんな損失も出さないように注意する者がそこにはいないのです。
それぞれの目と耳は、死ぬべき人間ではなく、直接神のみに直接つながっています。
イスラエルにとって昔の足跡のない砂漠での導く方法は秘密でした。
そして、今通っている試練からの神の回復方法も、広大な教訓としての荒野の導く方法と同様に秘密なのです。

ある人は「私のために聞かせてください」言うでしょう。そして、第三者は「一人一人が自分自身の方法を得ましょう」と言うかもしれません。
服従すると言った者はすべてに反抗して「私は私の主に従わなければならない」と言うでしょう。
しかし、これはすべてを単純にします。
それはどのような手段であっても、きわめて逆に傲慢な孤立した精神を育て上げてしまいます。
より私は神だけに頼ることが導きであると教えられるなら、より私は私自身を疑い、私自身から離れてゆきます。
そしてこのことは確かに孤立ではないのです。

それは真実です。それはどんな人であろうと盲目的に従うことから私を解放します。
しかし、キリストにのみに私の責任を感じるようにと私を教えます。
そして、この瞬間において、とても多くの必要が私にとって貴重なことなのです。
私たちはより注意して、教会を告白の中に広くその要素を調べてゆくと、神の権威の目的の中に個人的な必要を私たちはより深く確信することができるのです。
それは別の言い方をすると、ただ「主への恐れ」、もしくは「健全な目」と呼ばれています。

「使徒による働き」の冒頭にある短い宣言があります。
その宣言は私たちの周りに知らずに広がっている自分の意志による、そして盲目的に人間の恐れることに対して、完全な対策を与えていえます。
それは「私たちは従わなければならない」です。
これは自分の意志のための治療方法です。
「私たちは神に従わなければならない」
これは人間の教理と戒めのために感じる「盲目的な服従」に対する治療方法です。
そこでは服従しなければなりません。しかし、何のために服従するのですか?
神の権威に、ただそれだけに
このように魂はこの方法にて不信仰の影響力から、他方では迷信から守られているのです。

不信仰は言います -- 好きなように行います。
迷信は言います -- 人間があなたに言ったので行います。
信仰が言います--私たちは神に従わなければならない。
ここで、この私たちの時にあって、矛盾と混乱が私たちの周りに影響を及ぼし、その真中で魂の聖いバランスを保つのです。
しもべとして、私は主に仕えることなのです。

子供として、私は私の父の戒めに耳を傾けることなのです。
あるいは、私が従うことを行なわないのならば、しもべ、そして私の兄弟は私を理解しないかも知れません。
私は私の魂の直接の取引先が神御自身であることをを覚えていなければなりません。
主の前で長老が頭を下げても、主は私にとって今、すべての取引先なのです。
私は、私の魂の保証する神のことばを持つように、私の小道についての確かな先生を持っていることは私の特権なのです。
もしそうでなければ、私はどこにいるのでしょうか?
健全な目を持つことは私の特権ではないでしょうか?

はい、そのとおりです。
そして、何をその時に...。
「全身は明るく輝きます」
いま、もし私の全身は明るく輝くならば、私の思いは困惑で満ちるでしょうか?
不可能です。
二つのことは完全に両立しません。

そして、それゆえにある者は不明瞭な疑惑の中に飛び込みました。
それはとても単純ですが、彼の目は健全ではありません。
彼はとても正直のように思えます。そして彼は正しく導かれることを切に求めているのかも知れません。
しかし、彼は健全な目が欠如していることを安心しても良いのです。
それが言葉にならないほどの神の導きの前提条件なのです。
言葉は簡単です。

「目が健全なら、あなたの全身も明るい」のです。
神はいままで従順な謙虚な魂を導いてきました。
しかし、別の方法では、もし私たちが光の交わりへと一致して歩まないのなら、私たちは闇の中にゆくでしょう。
それは「なんと偉大な暗闇でしょうか」。
神が与える光をむやみの変更することほど危険なことは何もありません。
それは遅かれ早かれ最も悲惨な結果に至るのです。

「耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。
あなたがたの神、主に、栄光を帰せよ。まだ主がやみを送らないうちに、まだあなたがたの足が、暗い山でつまずかないうちに。そのとき、あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗やみとされる。」

新改訳聖書 エレミヤ書13章15〜16節

これはもっとも厳粛なことです。
人間の持つ健全な目と、神が人間に与えた光に従って行なわない人との間に大きな違いがあるのです!
その者は光で満ちた身体を持ち、もう一人は闇で満ちているのです。
その者は暗いところがありません。
もう一人は闇全体の中に落ちているのです。
その者はもう一人のために光を運ぶ人です。
もう一人は道にある障害物です。

神の判断力のある行動は実際に闇の中にある私たちの光を立ち返せることの出来ます。
また、私たちはそのことほど厳粛なことは何も知りません。
神は「光に従って行う」ということを与え喜んでいました。
しかし、私たちが拒否していたのです。
クリスチャンの読者よ、あなたはあなたの光に従って行っていますか?
神はあなたの魂に一本の光を送りましたか?
神はあなたにあなたの道、もしくは交わりの中で何か悪いことを示しましたか?
あなたの先生と完全に一致せずに、良心があなたに知らせる行動方針をあなたは主張するのですか?

捜しなさい、そして見なさい。
「あなたがたの神、主に、栄光を帰せよ。」
光に従って行動しなさい。
ためらってはいけません。
結果は考えてはいけません。
服従し、私たちはあなたに、あなたの主の言葉に懇願します。
すぐに--あなたの目がこれらの一本の光を調べるので--どこかであなたがそれを見つけるなら邪悪なことからわたしの魂を離れさせてくださることを表わしてください。
私がどこへ行くべきか、言えません。
私が次に何をすべきか?
悪が至る所にあります。
他のものに飛び込むことは、1つの悪から逃げているだけです。
これらのことについて論じもしないし、推理もしません。
結果も見ません。
教会があなたについてなんと言おうと--世が何であるか、もしくは世のことを考えません。
教会があなたについてなんと言おうと、これらすべての上に上り、光の小道を踏み歩きます。
そしてこの小道は栄光の完全な日の上にますます輝いています。

覚えてください。二つのステップのために一度に光を決して与えません。
もし、神があなたに一つのステップのために光を与えられるならば、その時、主の名のために恐れと愛の中にいます。
そして、一つのステップを上がるのです。
そして、あなたは衰え、より光を得ます。--そうです。ますます光を得ます。

しかし、もし行うことを拒否するなら、あなたの中にある光は暗闇になります。
彼らの足は間違いという山に闇の中でつまづき、服従のまっすぐで狭い小道の両脇に横たわります。
そしてあなたは衰え、他の人の小道においてつまづきとなるのです。
この瞬間に、求める懇願者の小道では最も悲しいつまづきがいくつか横たわっています。
彼らは一度、真実を持っていた人々の中に見出されます。
しかし、それから立ち返ったのです。
そして、なんとこの闇は大きく、恐ろしいものなのか...。
これらの光を持つものに会うことがなんと悲しいことか、若くて熱心なクリスチャンそれを認めることを妨害していることを...。
その方法は簡単です。

「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」
新改訳聖書 ヨブ記28章28節

それぞれが主御自身のために主の声を聞いて、そして従わせてください。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書10章27節

主はこの価値ある言葉を誉められています!
それはキリストに対する直接の責任の場所をそれぞれに置いているのです。
それは、はっきりと、神の方法で何であるかを私たちに話しています。--明らかに--それをどのように見つけるかを--。


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