メッセージAC 2003/5/30

教会を襲う背教
by アルノ・C・ギャバライン
(The Apostasy Sweeping Over the Churches By Arno C. Gaebelein)


人は悪い心と堕落した性質を持っていることははっきりと証明されることです。
ここで言う堕落した性質とは、賭け事に身をまかすことでもなく、不道徳な場所に行くことでもありません。
これは不信仰という性質です。
人の心ははっきりと神の声を聞くことを拒むことに積極的です。
人の心は光を憎み、闇を愛します。
また、人の心はこの偉大なる光を拒み、受け取ろうとはしません。
人は闇を愛しました。
愛なる、哀れみを持つ神はそこでは何もすることは出来ないのです。
人が神の声を聞かなかったゆえに、神は人にさばきを下さなければならなかったのです。
その時から、人類の歴史が始まったのです。
人が罪を犯し、光を持たないのであれば、神は人にたどり着くことができません。
人は創造の光を持ちましたが、何もそこには書かれた人の言葉がありません。
しかし、神のことばがあったのです。
あなたは神の記録に目を止めるべきです。
あなたはこの神の光によって、また、光に立ちかえることによって、人の性質が悪いことが証明されるのです。
この地上の最初の1650年において、彼らはこの地上に街々を建て上げました。
道具を発明し、芸術と音楽を愛し、人類は神から離れ去りました。
この地上は暴力と不道徳にあふれ、神の声から離れ、この地上は神のさばきに至ったのです。
誰も、洪水など来るとは想像もしなかったでしょう。
さばきなど、神話だと思ったでしょう。
それは違います。
聖書に書かれた出来事は、科学によって、地質学によって、また、伝承によって確かめられます。
あなたはこの人類が素晴らしいと思うでしょうか?
イスラエルの人々こそが人類が暗い思いを持ち、堕落した性質を持っているという証しとなるのです。
イスラエルの国は神の恵みと哀れみの印を受け取りました。
エジプトにおいて、奇跡によって敵の手から救い出されました。
私たちは神の力をそこで見ることができます。
神は彼らに天からのパンを与え、岩から水を湧き出させました。
彼らは奇跡につぐ、奇跡のあとでシナイ山において神の声を聞きました。
そのすぐ後で、イスラエルの民は耳輪をし、金の子牛を作り、この子牛の周りで踊りました。
しかし、神に感謝します。

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」
新改訳聖書 出エジプト記20章2節

このように神は御自身の存在の証拠、神の力、神の哀れみを明確に神の民に示したのです。
しかし、私たちがイスラエルの歴史を追いかけてみるのなら、彼らは背教に落ち込んでいったことを知ります。
あなたはイスラエルの歴史を見る時、それが背教と回復の歴史であることがわかるはずです。
彼らは常に最後には、神に対して、また、神のみことばに立ち返るのです。
そして、彼らは歴代史第二36章15、16節に記された神の記録を見つけるまで、光に対して罪を犯し続けたのです。

「彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。
ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。 」

新改訳聖書 歴代史第二36章15、16節

ついに、主の栄光がその国に現われ、彼らはまさに神の学校において教育されたのです。
奇跡の歴史の影には神の栄光なる約束がありました。
彼らは主の栄光を拒否し、その代わりに主に十字架という王座を与えたのです。
しかし、これらの歴史の証言は、私たちの生きている時代においても何を証言しようとしているのでしょうか?
何か、人間の性質が変わったでしょうか?
洪水の前、もしくはイスラエルの人々の中に起きたことと、今日において起きていることと何が違いがあるでしょうか?
聖書のみことばはそのことについて何と言っているのでしょうか?
聖書的ではありませんが、私たちはこの時代を「クリスチャン時代」と呼び、偉大なる光、偉大なる奥義、そして神が人に最も偉大な捧げものが与えられた時代であることを知ることができます。
ついに、神は御自身の愛なる万能の力を使い、神の唯一なる一人子を私たちに与えた時代なのです。
神はもっとも純粋な、汚れない光を輝かせ、他の奥義にまさる奥義を与えたのです。
神は造られた被造物、人間のために来られたのです。
その条件とは何かを払うことではなく、何かをすることでもなく、ただ単純にこの捧げものを受け取ることだけです。
この捧げものは、人が非常に悲惨な、惨めな状態から、神の子供、神の後継者になったことを証ししています。
人がこのことのために何かすることが出来たでしょうか?
人がこの光、この奥義、この恵みの捧げもの、そしてこの神の愛のために何かすることが出来たでしょうか?
新約聖書はその答えを与えています。
新約聖書において、聖霊は、そして、イエスキリストはこの時代において光について、奥義について、神の捧げものについて何をすれば良いか、私たちにその答えを与えています。
私はあなたにこの予見を示したいのです。
まさに5000年前に予見されたように、今日において堕落した人類ここにいることを実証したいのです。
私たちは主イエスの言われたことを聞こうではありませんか!
いつも、私たちはイエスを前に置かなければなりません。
イエスはこの時代の、この人類についてどのようなことを言っているのでしょうか?
たとえ話において、キリストはこのように話しています。

「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。
それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

新改訳聖書 マタイの福音書13章24〜30節

もう一つ同様なたとえ話をしています。

「イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」
新改訳聖書 マタイの福音書13章33節

今の終りの時代について、イエスは2回過去の時代を使って語っています。

「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。」
新改訳聖書 マタイの福音書24章37節

「また、ロトの時代にあったことと同様です。」
新改訳聖書 ルカの福音書17章38節

そして、次のような問題が起きてきます。

「あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
新改訳聖書 ルカの福音書18章8節

神の言われた偉大な預言を聞いてください。
キリストの来られる前に起きる出来事が描写されています。
この終りの時代の最後には大患難の時が訪れることが記され、人がより不義に、不法になってゆくことが記されています。
この預言のことばは神学的な教えではなく、むしろどのように展開されてゆくか詳細に記されているのです。
また、義とか平和とかについてのことばでもなく、ノアの時代、ロトの時代のように背教の時代になると預言されているのです。
どこであっても私たちの知らない、背教化されたメッセージを人々は学びます。
これらのメッセージは神のみことばから、もしくはイエスキリストの口から出てきたものではありません。
もう一度、使徒たちがこのような時代の状況についてどのようなことを言ったのでしょうか?
終りの時代にはどのようなことが起きると言ったのでしょうか?
この使徒たちとは誰のことでしょうか?
もし、今日、私たちが人から伝えられたように、この使徒たちが人間から霊感を受けてのなら(使徒たちのことばはソクラテスよりも、ラスキンやシェークスピア以上に優れています)、また、もし、使徒たちが神からの霊感を受けずに、新しい宗教、もしくは新しい組織だった神学を発案したのだったのなら、彼らは人々に受け入れられる、美しいことを語ったはずです。
使徒たちのメッセージは最終的に世界全体が福音を受け入れ、世界全体から悪が取り除かれるというメッセージになったでしょう。
しかし、生まれつきの人間はまったく神のことばを受け入れないという事実を預言することにより、使徒たちのメッセージが霊感を受けたものであることが証明されるのです。
使徒パウロのことばに感謝します。
使徒の働き20章28、29節のエペソの長老たちへ別れのことばでパウロは何と言ったでしょうか?

「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。
私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。 」

新改訳聖書 使徒の働き20章28、29節

パウロは「あなたがたにはおおきなリバイバルが起き、誰もが信じ、誰もが教会につながります」とは言っていません。」
しかし、「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています」と言っています。
続いてパウロは言っています。

「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」
新改訳聖書 使徒の働き20章30節

これは悲観的な内容ですか、それともその逆ですか?
神は大きなリバイバルがあるとは言っていません。
エペソにおいて何が起こるのでしょうか。
悪いことが起きようとしていたのです。
また、パウロはテサロニケの手紙第二2章3節においてこのように書かれているのを私たちは知っています。

「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。」
新改訳聖書 テサロニケの手紙第二2章3節

注意して読んで下さい。
パウロはキリストの来られる前にこのような堕落が起き、罪の人が現われることを言っています。
また、私はテモテの手紙第一からもこのように読むことができます。

「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」
新改訳聖書 テモテの手紙第一4章1節

そして、テモテの手紙第二3章1〜5節

「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。
そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。 」

新改訳聖書 テモテの手紙第二3章1〜5節

そして、もう一度テモテの手紙第一4章3、4節を読んでください。

「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」
新改訳聖書 テモテの手紙第一4章3、4節

このような人たちは時々、パウロは単なる悲観主義者だったと私に語ってきます。
しかし、パウロは新約聖書の単なる悲観主義者だったわけではありません。
聖書ははっきりとこの時代の状態について語っています。
ヤコブの手紙5章4節では金持ちについて話していることを私たちは聞くべきです。

「見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。」
新改訳聖書 ヤコブの手紙5章4節

ここであなたは高い生活費を掛けて生きるという問題の根を見つけるでしょう。
この人は単純に執事の一人、そして教会の長老でしょう。
そして、この人は貧しい人から繰り返しだましとっていたのです。
ペテロもこのように言っています。

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。 」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二2章1節

では、ヨハネは何と言っているのでしょうか?

「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。 」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章18節

ユダは使徒の一人ではありませんでしたが、イエスキリストのしもべの一人でした。
彼はこのように書いています。

「忌まわしいことです。彼らは、カインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。 」
新改訳聖書 ユダの手紙1章11節

そして、もし、あなたがヨハネの黙示録を読むのなら、預言的にこの地上で最後に公に示されたラオデキヤの教会を見つけることが出来るでしょう。
ラオデキヤの教会は最終的にこの世と連合を造り、娼婦であるローマによって世界教会を支配するようになるからです。
ローマは神の真実を現われを片っ端から拒否するでしょう。
これらのことは新約聖書において、予見されたことであり、聖書を信じる者にとって、白い紙の上に黒く書かれた文字のごとく誰も拒否することはできません。
人間の性質は神の書かれた一欠けらも変えることはできません。
これと同じ不信仰が存在し、同じように光を憎んでいます。
この偉大な光は偉大な闇を拒否しています。
そして、この日親しい友がやってきて、私たちは居るべき場所としてこの闇の中に導くのです。
カナダにあっても、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、そして、中国、インドにおいて伝道された場所、どこにおいてもこの預言されたみことばが証明され、成就しているのです。
「あー何ていう事だ!」と誰かが言うかもしれません。
また、これは「時より、起こることだ」と言うかもしれません。
もし、あなたがこのように言うのならば、あなたは何が起ころうとしているのかわずかながらでも知っているのです。
キリストを否定するということは常にどこにでも(教会と呼ばれるものの中にも)存在することであり、私たちが教会史の中の出来事だけではありません。
背教は、神を拒否し、神のことばを拒否し、神が人として現われた最も尊いことを拒否し、忌み嫌っているのです。
これから、私に背教について語らせてください。
この書を拒むことはつまずきの石となります
しかし、神の権威を知るならば、神によって救われた人は真実を知ることにより、励まされます。
神のみことばである霊感に満ちた聖書を拒むことは、昔からあることですが、むしろ、現在のものだということができます。
もちろん、悪魔はいつも、聖書を拒んできました。
悪魔自身がそのことをよりよく知っているのです。
そして、冒涜者、異教者、異端者たちはいつも同じ事をしているのです。
宗教改革を学ぶのなら、聖書の権威という問題がよりはっきりとしてくるでしょう。
事実、聖書信仰が宗教改革、プロテスタントを作り上げてきたのです。
宗教改革は、わずか50年ほどの間に起きたことです。
しかし、神のことばの権威に対して攻撃を仕掛けてくる悪魔の方法をあなたは追いかけることができるでしょう。
悪魔は聖書が神のみことばである権威を奪おうとしているのです。
そして、すぐにその権威は失われてしまいました。
すべてのことはこの基礎の上に基づくべきです。
聖書の啓示は、永遠の神のみことばです。
この基礎は破壊され、すべてが崩されました。
これはキリスト教世界において、非常に一般的なことであり、悪魔はこれらの間違いを主張させ、聖書の権威を奪うために聖書を攻撃し、神のことばを過小評価をさせるのです。

数ヶ月ほど前に、ニューヨークである人が私を捕まえ、このように言いました。
私はこの瞬間までこの人が誰だか知りませんでした。
「ギャバラインさん、この本の過去からあることを知っていますか?」
私が振り返って見ると、その人は私の友人のバレル博士でした。
彼は大学の教会の牧師です。
彼はこのように言いました。
「あなたはあなたと私がその本の断固なる立場が時代から来るものだとはを信じていません。
その時、博士はこれらのことを主張している者たちが、博士のことについて何を言っているのかを私に語ってくれました。
また、彼らはその異端的な本の霊感をいまだに信じて者たちについても言ってくれました。
そして、この他の者たちは博士の信仰、勇気を得て、この本から離れました。
そして、あなたは知っているはずです。
この重要人物と呼ばれる人々の学んでいることは、ごく普通のメッセージだと言うでしょう。
また、このメッセージはクリスチャン組織と呼ばれ、かつ背教の出発点でありながら、多くの聖書を信じる者たちの金銭によってサポートされ、支持されているのです。

この不信仰の拠点はこれらの組織にあるのです。
私はこの旅行を例にしてみましょう。
私たちはボストンにその出発するとします。
私はこの街をよく知っています。
それは少なくても20年間、冬の間一ヶ月はそこにいたからです。
この街は福音と神のみことばを語られたことにより、有名となった街です。
そこにはボストン大学にあるメソジスト教会があり、もっとも新しいことが語られていますが、神のことばを拒む寝床となっています。
ハーバードも聖書の絶対性を拒む別の組織であり、聖書を別の良き文学のレベルで見ています。
そこではバプテスト教会のニュートン神学校が等しい間違いを教えています。
神の権威は地に落ち、あなたはそれらの大学の中に同じ物語を見つけることが出来るでしょう。
創世記の教えていることは神話だと言い、宇宙の存在した理由は進化論だと言っています。
また、ニューヨークにある長老派教会、ユニオン神学校では卒業者である説教者が帰ってきて長老と教会聖職に受任する時、イエスキリストは処女から生まれたかどうか、もしくは肉体を持ってキリストが復活されたか、わからないと言う者がいます。
彼らの信仰告白はいまだに形成されていないのです。
そして、ハドソンから上って、ポーキプシーに行ってみましょう。
一人の父親が私に向かって涙をもって語りました。
自分の娘がバサールに参加したというのです。
彼女は主イエスキリストに対する信仰を持っていながら異端へと向かったというのです。
シカゴへ行って見てください。
シカゴ大学において、最悪の種類の堕落をあなたは見つけることができます。
何てことでしょう!
悪質な聖書研究はそこから送り出されているのです。
私はたくさんの明らかになった情報を持つことを望んでいます。
また、私だけではなく、説教者やその他の者たちが私のところへ来て「神のために、これらの冒涜を止めて欲しい」と求めてきます。
ギャレット、もしくはノースウェスタン、もしくは西に行きサンフランシスコを上り、カナダまで沿って行ってください。
組織に次ぐ組織がこれらの教えから出てきた理由付けの神学を主張し、彼らは神のみことばの絶対性を主張していません。
これらの組織の主張は人により説教台からのメッセージに立っていますが、クリスチャンの信仰を否定しています。
今、私はあなたに最悪のことを知らせましょう。
これらは終りの時にあって神のみことばが成就しているのです。
それは、エール大学のチャールズ・フォスター・ケントによる「より短い聖書--"The Shorter Bible"」です。
今日において、メソジストの説教者は、聖職につく前にチャールズ・フォスター・ケントの本を読むように強いられます。
この本は冒涜の本です。
私はこの彼らの教典とも言えるこの本を調べました。
この本は多くの偉人、新聞などのこの世界全体から支持されているのです。
私はこの推薦文を読み、見つけました。
「イエスの生涯はもっとも社会的であり、経済的な教えに富んでいます。」
そして、私は血について、贖いについて、十字架の救いについて、永遠の命について、あらゆることが切り捨てられていることに気がついたのです。
その本は小さなかけらのような本です。
その本はあなたの空っぽのポケットに入れることができます。
しかし、友よ!
これはエホヤキムがエレミヤの巻物を切り捨てた時依頼の大冒涜です。
彼らはイエスキリストの福音、イエスキリストの十字架、クリスチャンとしてのこころを捨ててしまったのです。
私は背教が導いているものが何かをあなたに語りたいと思います。
これらは悪魔の戦術です。
最初に神を知るための神のみことばを破壊し、次に神の人格を攻撃してくるのです。
その結果、そこには処女降誕を否定する、多くの派閥の何百もの説教者が存在するようになったのです。
彼らはこの恵みの確かな贈り物である救いを信じていません。
彼らは素晴らしい人格を求め、この生きている時を救いと信じているかもしれませんが、肉体的な復活など信じていません。
将来、訪れようとしているさばきを否定します。
一言で言うのならば、彼らはこのような信仰の一欠けらをもすべてのページから払い去ったのです。
このことは一つの結果としかありません。

次の結果として言えることは、教会自身が堕落に至ったということです。
この戦争がその結果とも言えます。
この戦争はキリスト教会の将来の進もうとしている未来の状態、この本の語られた結果生じた背教的宗教の結果を生じさせるのです。
キリスト教会は今日にあるこの世のプログラムに飲み込まれ、適応させられるのです。
この哀れなプログラムは民主主義の安全を主張するためのうそをもって始まり。人間性を積み上げようとします。
より、この世を作り上げ、宗教的兄弟愛によって結び合おうとするのです。

次にことをよく観察してください。
私たちはニューヨークの町にさまざまな教会を見ることができます
しかし、あなたは狙われています。
ニューヨークだけではありません。
私はカンザス、ネブラスカ、ルイジアナ、テキサスから手紙をもらいました。
そこではすでに、似たようなことが団体が起きています。
ニューヨークにある有名な牧師が言っています。
「前進すべき霊はすべての教会において目覚めました。
しかし、すべての教会において明白にされているのではありません。
私はクリスチャンです。
しかし、私はクリスチャンとして最高のことはユダヤ教において、最高なことと同一だと信じています。
私たちの集まりにはおよそ15人のユダヤ人とヒンズー教の信者が数人います。
中国人は信仰に関係なく歓迎します。
あなたはキリスト教の信仰が教理を述べることではないと解かるはずです。
しかし、すべての者を私たちの礼拝に歓迎します。」
このことは私はまさに教会の堕落だと言っているのです。
それはすでに来ています。
それは神のみことばを否定した結果です。
これは今日、ここで始まっていることで、神の真実なる教会と神のみことばとキリストを汚す者たちのとの間に分裂があることをあなたは理解するでしょう。
しかし、まだ、別の結果があります。

キリストと福音を拒むことを導く背教としての出発点は聖書を拒むことです。
そして、不道徳をも導いています。
誰がそのことに責任を持つでしょうか?
これらの背教は神のみことばである聖書の力を奪い取っています。
あなたはこれらの聖句に気を払わずに読むかもしれませんが、私はそれを読むように勧めます。

「このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。」

新改訳聖書 第一列代記10章13、14節

サウロは神のみことばを拒み、それを守りませんでした。
サウロは霊媒の女のところへ行き、そのメッセージを得ました。
そして、あなたをも操ります。
その霊媒の女は偽の霊媒師ではありません。
その女は受け入れやすい霊を持っていたでしょう。
その女は悪魔を持っていたのです。
その後、ある者たちは信仰から離れました。
その霊にこころを奪われたからです。
その時、彼らは健全な教えに耐えられなくなったのです。
彼らの耳は真実から離れ去り、偽りへと向かって行ったのです。
ここに背教が起きるのです。
人々は神のみことばを拒み、この霊媒の女の後ろをついて行くのです。

メリー・ベーカー・エディ夫人はまさに、この背教組織の霊媒師です。
見事に、神のみことばを操り、神のみことばを曲解しています。
私はある程度、これらの組織が成長して行くと思っています。
もし、あなたがこの大陸に1000人の住人を見つけ、彼らが神の聖書を知っているのなら、そこにクリスチャンサイエンス(異端)の教会は建て上げられることは決してありえないことです。
しかし、常に神のみことばを拒否するという結果があるのです。
神は霊媒の女の姿でこの間違いが来ることを許しています。
しかし、新しい考えは常に霊媒の女の姿をして来るわけではありません。
ある時には、聖書の中に見つけられるいくつかのことを主張しながら人々を試みて来るのです。
しかし、現実には神学的な哲学、ヒンズー哲学は明確に聖書と離れた見解を持っています。

私はもっとも際立った心霊主義を指摘しましょう。
これは悪魔の霊媒女です。
今日のイギリスにおいて、非常に多くの人々がこの心霊主義の女に同意しています。
ほとんどの者がオリバー・ロッジ、そして、コナン・ドイルの魔術を受け入れたのです。
聖書と聖書の真理は常に拒まれているからです。
コナン・ドイルは「新しい啓示」という本を書きました。
しかし、彼はかばんから猫を出すように、このように言いました。
古い啓示は多くの十字架上のキリストの血に至りました。
しかし、新しい啓示は福音を受け入れること無しに、栄光に満ちた少年を発見したのです。
これが教会の中で教えられるべきなのです。
あなたは神のみことばの代わりに受け入れられた霊媒の女を見つけなければなりません。
私は世界があらゆる悪魔崇拝が成功に至ることを知っています。
栄光に満ちた終りが来る時、主イエスが来られ、確かにすべてがそのようになるのです。
今、私は最も厳粛なことを語らなければなりません。
神の召しとは何でしょうか?
私は聖書の中に書かれているようにあなたにその答えを与えることができます。
モーセは山から降りてきました。
モーセが祭壇と金の子牛を見ました。
そして、多くの者が裸で、ぶどう酒に酔いしれていました。
冒涜のことばがそこにありました。
そこでモーセは言ったのです。

「そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに。」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。 」
新改訳聖書 出エジプト記32章26節

誰が主のところへ行くのでしょうか?
さあ、私自身のところから主のところへ行きましょう。
この次に言ったモーセの言葉はこれです。

「そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。」
新改訳聖書 出エジプト記32章29節

そして、三番目に剣を取って、これらの冒涜を切り捨てるべきなのです。

「そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」
新改訳聖書 出エジプト記32章27節

神の召しは今日においても同じものです。
もし、あなたがキリストの尊い血によって洗われたのなら、もし、あなたがキリストの側に立っているのなら、あなたは自分自身を神に捧げるべきです。
そして、今、多くの者が永遠のさばきに定められていますが、その側から、神の御子の福音の側へと彼らを導くべきです。
もう一度聞いてください。
オホリアブと250人の者たちはアロンに対して謀反を起こしました。
彼らはアロンと祭司を拒み、このように言いました。

「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」
新改訳聖書 民数記16章3節

つまり、私たちは聖なる者であって、アロンなどいらないという事です。
今日のキリスト教会が同じことを言っているのです。
「私たちはキリストを必要としない。
私たち自身の中に良いものを持っている。
私たちに祭司などいらない。」
モーセはどのように言ったでしょうか?

「そして会衆に告げて言った。「さあ、この悪者どもの天幕から離れ、彼らのものには何にもさわるな。彼らのすべての罪のために、あなたがたが滅ぼし尽くされるといけないから。」
新改訳聖書 民数記16章26節

モーセは「離れ」、そして「さわるな」と言ったのです。
彼らの天幕から離れるべきなのです。
たとえ、兄弟、もしくは姉妹であっても彼らから離れるべきなのです。
彼らから離れ、このように言うべきです。
それは律法(神のことば)で言われていることです。
誰であろうと言われることは耳ざわりなことでしょう。
そして、おそらく、その人クリスチャンではないからです。
主に愛された弟子がこのように言っています。

「だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。
あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。
そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります。 」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第二 1章9〜11節

このことはモーセと同じ事を言っているのです。
そして、律法においても、福音においても同じ事が言われています。
神は神を信じる者、神のみことばを信じる者のところへ来られる時、神御自身が求められる要求を何一つ変えられてはいません。
「離れなさい」は神の召しであり、要求です。
これらから離れなけばなりません。
彼らの本に触れてはいけません。
彼らの文献を買ってはいけません。
彼らの組織をサポートしてはいけません。
もし、彼らの伝道者が真実を語らないなら、援助などしてはいけません。
パウロはもう一度言っています。

「こういう人々を避けなさい。」
新改訳聖書 テモテの手紙第二3章6節

「ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」
新改訳聖書 テモテの手紙第二2章21節

あるクリスチャンが私に言いました。
「彼らは主が離れるように要求されるまで、そこにとどまるラオデキアの残りの者です。」
彼はその召し(要求)を得ました。
世の教会、背教の教会、ラオデキアの教会から離れるために何が起こり、何が起ころうとしているのでしょうか!
しかし、あなたは言うでしょう。
「どこへ私はどうしたらよいのでしょうか?」
神はあなたを最初に主と、後に真実な神の聖徒たちの交わりを持つように導かれます。
あなたが真実なる神の聖徒たちと交わりを持つ時、あなたは力を得て、祝福され、主を実際に持ち、神はあなたを用いるのです。

2003/5/30 終了


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