メッセージAF 2003/7/30

キリストがすべてを満足させた。
by C.H.マッキントッシュ
(THE ALL - SUFFICIENCY OF CHRIST)


Part 1

いつか、私たちの神の御前にある、たましいの状態がどのようなものか、その現実に気がついた時、その深い絶望と邪悪さ、そして、哀れさを感じるでしょう。
まったく、希望なき破産状態がそこにあるのです。
聖霊によってキリストにこころが完全に、そして、十分に満たされるまで、そこには安らぎなど存在しません。
その私たちの絶望に対する、積極的な答えとは、完全なキリストによる治療なのです。
このことはとても単純であり、もっとも重要な真実です。
おそらく、私たちはこのことについて積極的に賛成すると言うでしょう。
そして、読者がより深く学び、考えることは本人に利益をもたらすことを促すでしょう。
平安を保つ真実な秘訣、邪悪な、破産した、希望のない、価値のない自分の中を歩むことを終結し、私たちの深い必要を得るために、神が与えられる、キリストによってすべてが満足しているという事実を見つけるためなのです。
ここに決して妨げられることにない、真実なる安らぎにとどまる秘訣があるのです。
そこには悲しみ、プレッシャー、衝突、たましいの働き、さまざまな誘惑を通したつらさ、浮き沈み、いろいろな試練や困難があるでしょう。
しかし、私たちは神の聖霊によって導かれたたましいの結果を見た時、すべてを納得することを知っています。
そして、私たちはキリストの中に安らぎを得て、遮られることのない安らぎに至るのです。
神の親愛なる人々の多くの動揺する状態は、彼らのこころにキリストを十分に受け入れていない結果とも言えるのです。
彼らのために神が準備されたものは使われずに置かれているのです。
疑うことなく、そこには悲しい、痛みの伴う結果が、がさまざまな要因によって起きるでしょう。
その要因は、律法的な思いかもしれません。
もしくは、病的な状態になった良心かも知れません。
自分ことでいっぱいになったこころかも知れません。
悪い教え、こころの中にこの世を愛する思いが隠れたいたからかも知れません。
神の、キリストの、そして、永遠にために備えられるべき要求が私たちのこころの中に届くのです。
しかし、やがて、どのような場合においても、このような神の要求が私たち、主の民の中で作り出され、私たちはそれを信じるようになるのです。
見つからない、信じないという結果は存在しません。
神はキリストを主の民のために、主の民へと永遠に与えたのです。
今、私たちはこの文章から読者への悩みの解決方法として、尊い神のみことばから何を提案すべきなのでしょうか?
神はキリストの中に出来る限りの必要を蓄えました。
ゆえに、そこには神のみこころ、神の願い、時には険しい神の道による要求が秘められています。
神の働きによって、私たちは神の恵みによって求め、キリストだけが私たちの良心の本当の安らぎであることが証明されるのです。

キリストの人格:キリストの人格は、私たちのこころが真実なる対象であり、私たちへと向けられています。
キリストのことば:私たちの人生に対して真実なる導き手です。
最初に、私たちは唯一良心の安らぎの場所として、キリストの働きの上にわずかな間、住処とするでしょう。
ここに私たちに向けられた二つの目的、二つの要求があることを熟視してください。
最初に、キリストは私たちのために何をしてくださったかを知る必要があります!
二つ目に、キリストは私たちのために何をしているかを知る必要があります!
前者について言うならば、私たちはすでに贖いを持っています。
後者について言うならば、弁護されて(守られて)います。
キリストは私たちのために十字架の上で死なれました。
そして、キリストは私たちのために王座の上で生きています。
キリストの尊い贖いの死によって、彼は私たちの罪人として状態の必要すべてを満たしました。
キリストは私たちの罪を取り除き、永遠に葬り去りました。
キリストの御名を信じるすべての者の罪はキリストが受けてくださったのです。

「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
新改訳聖書 イザヤ書53章6節

「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。 」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一3章18節

これが土台であり、すべてなのです。
悩むたましいに向けられた重要な真実です。
この真実はクリスチャンという立場を取るすべての土台の上に据えられました。
この尊い真実が単純な信仰によって据えられるまでは、神の平和を楽しみことはありえません。
どんな霊的な光に照らされようとも、真実に目覚めたたましいであろうとも、不可能なことなのです。
私は神の権威に従って知らなければならないことがあります。
すべての私の罪の問題は神の側から見て、永遠に取り除かれました。
神の御性質に従って、神の王座からの要求すべてを満足される方法を取って、神、御自身がこの罪すべてを処分されたのです。
それは神、御自身の栄光のために、はるかに高く、よりすばらしい方法によって、私たちの罪を取り除きました。
私を地獄に追いやることよりも、罪を赦すことの方がはるかに神の栄光になることなのです。
そのように、神がすべてを行ないました。
これこそが本題であり、真髄です。
また、私たちのこころの中心にある問題でもありました。
神は私たちの罪すべてをキリストの上に置きました。
そして、神は私たちに聖書のみことばをもって語り掛けています。
私たちが神の権威に従って、その権威は決して偽ることができません。
神がそれを計画し、それを行ないました。
また、神がそのことを語っています。
神がすべてであり、始めであり最後なのです。
私たちは単純に子供のようにそこにとどまればよいのです。
すべての罪が取り除かれたことを、その同じ権威によって語られています。
神の驚くべき、比類なき愛が私の救いを保障しています。
哀れな、地獄にふさわしい罪人を神御自身が私の罪の問題すべてを解決し、受け取って下さったのです。
そして、神の持つ永遠の御名のために、栄光のある豊かな実を結ぶように罪の問題すべてを解決してくださったのです。
この御業はこの無限の宇宙の中で、この造られた被造物によって現される神の知恵によって賛美される事柄なのです。
この生きた信仰のために良心を落ちつかせる必要があります。
もし、神がこの罪の問題を満足しているのなら、私は同様に満足するはずです。
私は私が罪人であることを知っています。
私はおそらく罪人のかしらでしょう。
私は私の頭の髪の毛以上に罪があることを私は知っています。
そして、地獄自身が暗黒の闇であるようにこれらの罪は黒いのです。
私はこれらの罪、一つを取りあげても、少なくとも、永遠の地獄の火にふさわしいものであることを知っています。
私は神のみことばが語っているように、私に罪のひとかけらが存在している限り、神の聖い天国に入ることは出来ません。
ゆえに、私に関して言うのであれば、私は神から永遠に聖別され、救われる可能性などありません。
私の知っていることはこれですべてです。
この救いの神のみことばの権威は天国において、永遠に据えられ、疑問視などされる理由はありません。
しかし、私は十字架の奥義の深さ、栄光ある贖いの愛の奥義を知り、驚くばかりです。
私は神御自身が私のすべての罪について語っていることを知っています。
私の罪すべては黒く、恐ろしい部類のものでありながらも、神御自身がこれらの罪を扱って下さるのです。
私は神の義の怒りといううねりと波を見ました。
神の怒りは私の罪に対して向けられています。
地獄において神の怒りは恐ろしい永遠を通して私のたましいと体を焼き尽くします。

私は私の代わりに立ち尽くした一人の人を見ました。
その人は神の御前に私を代表する者です。
その人は私の支払うべきものを払ってくださいました。
その人は私を御自身とともに聖い神にある者として取り扱ってくださいました。
私は曲げられることのない公義、聖さ、真実、そして、義を見ました。
これらは私の罪を永遠に除去し、白くしてくださいました。
誰も、これを満足させることは出来ません。
ここには黙認も、弁解も、不明解も、無関心もありません。
神御自身が、その手を持ってすべてを解決してくださり、不可能などありません。
神の栄光がかかっています。
神の聖さ、永遠の神の偉大さ、神の支配のそびえたつ要求が汚されることはありません。
すべて、これらのことは御使いたちの、人々の、そして悪魔の目から見ても明白であるように、神自身の栄光がこのように知恵をもって提供されました。
神は義をもって、正しく、私を地獄に送り込もうとしました。
それは私が地獄に送られるべき罪人だからです。
私自身にはそれ以外の価値は見出すことはできません。
道徳的なレベルで私を深く見下ろすのなら、地獄に行かなければならない存在なのです。
私はこの一つの罪深い考えを働かせてこのように言っているのではありません。
私は罪に対して何もいうことはできません。
最初から最後まで汚点だらけの生き方をしています。
私は罪人ゆえに反抗的な生き方、引き渡され、なおさらに罪を犯すように生きていました。
誰かが罪を犯して歩む生き方のゆえに永遠の滅びへ向かうことにこのように言い訳をするでしょう。
「この数年の間に犯した罪と、終わりなき火の池の苦痛では割が合わない。」
また、彼らはこのようなに言うかもしれません。
私は神の存在に反抗して罪を犯したということを告白し、完全に信じます。
私は十字架を見ました。
私は深く、暗く、そして、陰気な地獄の穴に大いに価値するものです。
私は神学者として書いているのではありません。
もし、私が神学者ならば、単に容易い仕事をしているだけで、聖書が何を言おうとしているのか、答えてはいません。
永遠の滅びがあるということは厳粛な真実です。
しかし、それは違います。
私は神の考えとしての真実な罪のひどさを語っている方について書いているのです。
そのように、罪は荒野のようで、私は静かに慎重に、そして厳粛に宣言します。
何事においても、神と神の子羊の備えられたものより、永遠に締め出される以上の悲しみはありません。
火と硫黄の燃える池で永遠に苦しまなければならないのです。
しかし、私たちはすべての恵みにおいて、神に永遠のハレルヤを歌い続けるのです。
罪ゆえに、永遠に私たちを地獄に落とす代わりに、神は神の御子を私たちの罪のために贖いへと行かせました。
そして、おどろくべき贖いの計画の中で述べられている通りに、聖い神は私たちの罪の問題を取り扱ってくださいました。
神のみこころにかなう愛する御子の上に、これらのすべての罪のさばきが実行されました。
そして、神は私たちのこころにその最高の愛を流し込んでいるのです。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一4章10節

もし、今、単純な信仰において受け取るのなら、その方法によってのみ、あなたの良心に平安を与えることが出来るのです。
神、御自身が罪に対して、満足しない限り、平安を持つことはありません。
そして、神御自身がキリストを信じることをどのように可能にしたのでしょうか?
もし、神が私たちに「私はあなたの罪と邪悪さを決して思い出さない」と言うのなら、私たちは私たちの良心に対して、何をこれ以上言う必要があるでしょうか?
神は私に厚い雲のようなすべての罪が消え去ったことを私に確信させることができるのなら、キリストの影に私は永遠に隠れ、私の罪は神の目から見えなくなりました。
ならば、私が平安を持たないわけがあるでしょうか?
もし、神が私を十字架の上で死なれた人、天において偉大な右の座に就かれた人に見せることができるのなら、私のたましいは完全なる安らぎの中にとどまらずにいることがあるでしょうか?
はっきりと確信できることです。

どのように、私は尋ねてみたらよいのでしょうか?
キリストは今、すべてを満たす場所にやっとたどり着いたのでしょうか?
その時、神はすべてを覆って、キリストを祝福されたのでしょうか?
いいえ、神は常にキリストを祝福されていたのです。
キリストはやっと神の御子になったのでしょうか?
いいえ、キリストはずっと神のふところにいたのです。
キリストは御父の永遠の消えることのない喜びのテーマだったのです。
キリストはシミなき、聖い、完全な人でした。
キリストは完全に純潔であり、完全に罪とは無関係でした。
その通り、キリストの中にはそのような人格を持ち、そのような土台の上に立っていました。
キリストは飼い葉おけで生まれた時から、十字架に至るまで神の右の座につく権利を持っていたのです。
どのような時にキリストは神の右の座についたのでしょうか?
すべての恵みにおいて永遠の神への賛美がなされる時、それはキリストの死によって、栄光ある贖いの働きが完了した時です。
キリストのその働きにおいて、私たちのすべての罪の重さを担ってくださり、神はすべてを完全に満足されました。
それゆえに、キリストは今、神の右の座に座っておられるのです。
この土台こそが、今、悩む読者のこころを完全につかむことのできる基本的なポイントなのです。
そして、これは読者のこころを開放し、良心を落ち着かせることができる唯一の方法であり、失敗することがありません。
私たちは信仰によって、十字架に釘付けになったキリストを、そして、神の右の座についたキリストを見なければ、神にある平安を持つことはできません。

主イエスキリストは私たちの罪のために御自身を渡されたのです。
これらの罪のために裁かれる必要があったのです。
もし、罪のために贖いが一つのでもなされていないのなら、キリストはそこに座ることはできなかったのです。
罪を持ち去った者が、今、栄光とともに王座についているのです。
私たちの罪は永遠に神の御前から消え去ったのです。
私たちの罪はどこにあるでしょうか?
これらの罪は消え去ったのです。
どのように私たちはこのことを知ればよいのでしょうか?
私たちの罪すべてを背おられた方は、この天を通り抜け、もっとも高い、栄光の座に座れたのです。
私たちの罪を持ち去り、私たちの贖いを達成された方は栄光ある王座につき、その勝利者としての、永遠の義を持つ者としての顔を持っているのです。
神の目の前から永遠に、完全に私たちの罪を取り除き、その問題について疑う余地さえも取り除き、すべてが提供されたのです。
王座についたキリストこそが私たちの良心を清め、恵みの摂理を私たちに与えます。
そして、私たちはこの二つの事実を切り離さなさずに覚える必要があるのです。
なんとすばらしい神の御業ではないでしょうか!
私たちはさまざまな力を得て、贖いの愛を元気よく賛美することができるでしょう。
しかし、私たちはそれ以上に、もっとも慰めを受ける真実を聖書から学ぶ必要があります。
ローマ人への手紙3章に次のように書かれています。

「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。」

新改訳聖書 ローマ人への手紙3章22〜25節

再び、使徒パウロによって、アブラハムの信仰から彼がなぜ、義とされたのかについて説明されています。

「「しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。」」

新改訳聖書 ローマ人への手紙4章23、24節

ここで私たちの罪を持ち去り、死者の中から復活された方と同様に私たちのたましいを神が見ておられていることを私たちは知ることができます。
なぜ、神はそのようにされたのでしょうか?
それはこの方が私たちへと向けられる神の怒りを受けたゆえに、完全な栄光を彼に与えたのです。
キリストがこの怒りをすべて受け、これらの罪を永遠に持ち去ったのです。
神はその一人子をこの世界に送りました。
しかし、彼は私たちの罪のために葬られました。
そして、彼は死者の中からよみがえったのです。
それは神が無限の終わりなき栄光をキリストに与えられるという方法を通して、私たちの罪の問題が解決され、そして、その方法を私たちが信じ、知るためだったのです。
キリストの御名に永遠の、無限の誉れがありますように...。
しかし、さらに、この基本的な真実な基礎の上に立った証言を私たちは持っています。
ヘブル人への手紙1章において、私たちはたましいの揺さぶられるみことばを読むことができます。

「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章1〜3節

主イエスキリスト、それは祝福された御名です。
そして、キリストの人格は明確なものです。
キリストの御力である、聖書によってすべてのことが説明されています。
キリストは私たちの罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれたのです。
神の右の座に着座されたキリストが栄光に満たされたということが、私たちの罪、すべてが過ぎ去ったという証明となるのです。
私たちの罪が一つでも残っているのなら、キリストはそこに着座していることは不可能です。
神はキリストに私たちの罪の重さをすべてを背負わせ、その同じキリストを死者の中からよみがえらさせたのです。
このように、すべてが神によって、永遠に設定されました。
キリストを信じるクリスチャンの上に一つの罪を、キリスト御自身のものとして、扱うことは不可能のように思えます。
このように言うことは素晴らしいことのように思えますが、聖書の中で神の真実は、はっきりと、固く建てられています。
そして、クリスチャンのたましいは確実な平安を得ています。
世はこの平安を奪うことも、取りあげることも出来ません。


Part 2

Part1では私たちはキリストの働きという側面にこころ奪われてきました。
私たちの罪が赦されるという問題は解決したのです。
そして、私たちはより熱心に真理を求め、この偉大なポイントについて読者の考えをはっきりとしたものにしたいのです。
読者はこの幸いなる特権を確信し、みことばにおいて、神をはっきりと知るべきです。

「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章28節

もし、キリストが私たちの罪のために苦しまれたなら、私たちはこの罪の重荷から永遠に解放された、この深い祝福を知らずにいられるでしょうか?
終わりなき重荷を残したまま、キリストは十字架で苦しむことが出来たでしょうか?
キリストは罪の鎖につながれたままでしょうか?
クリスチャンが、キリストがまだ罪を残しているので、日々、毎週、ずっと耐え切れない罪の束縛の中を生きてゆくことが神のみこころだと言うことができるのですか?
もし、このような状況がクリスチャンにふさわしい立場だと言うのであれば、キリストは私たちのために何をしたのでしょうか?
キリストが私たちの罪の重荷を天に持って行ったというのが真実なのでしょうか?
それは、いまだに私たちが耐え切れない罪の重りに縛られ苦しんでいるということになります。
ある者たちは私たちの罪のすべてを赦すなんて不可能だと一生懸命、説得させようとするかも知れません。
ならば、私たちは人生の終わりまで、この重要な問題の中で、もっとも最悪な状態で、完全には解決されずに、不確かな状態で歩むことになります。
もし、そうならば、私たちにとって、この喜ばしい知らせである尊い神の恵みの福音がいったい何であるか解らなくなってしまいます。
もし、このような思いで見るのなら、アンテオケのシナゴーグにおいて幸いなる使徒パウロによって激しく語られたこのみことばにはどのような意味があるというのでしょうか?

「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。
モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。 」

新改訳聖書 使徒の働き13章38、39節

もし、私たちがモーセの律法にとどまるのならば、この戒めを私たちは守らなければなりません。
それが私たちの義務であり、私たちはそれを行うと思うべきです。
私たちは闇の中を、確信せずに歩みながらも、キリストに価値を置くこと、神を愛することを律法によってなされなければなりません。
そこで、私たちが確信をして歩むことは不可能です。
もし、私たちがこのような問題に巻き込まれ、瞬きのように多くの変動に飲み込まれてゆくのなら、十字架の上で死なれ、墓に葬られ、死者の中から復活し、栄光において着座された、神の愛する御子を通して与えられた喜ばしい便りに耳を傾けるように主張しなければなりません。
キリストによってのみ、キリストを通して、私たちの側には何もなく、キリストが御自身を捧げることにより、一度だけ、そして、永遠に有効で、十分な、そして途絶えることのない罪の赦しが語られたのです。
その赦しは神の記録に記されているように、現在、単純に信じるすべての者が楽しむことが許されています。
どのように、この赦しを疑い、不確かなものとし続けることが出来るのでしょうか?
キリストの働きは完了したのでしょうか?
キリストは「完了した」と言ったのです。
キリストは私たちの罪を除き去ったのです。
これらの罪は除き去られたのでしょうか?
それとも、今だに私たちの上にとどまっているのでしょうか?
読者のみなさん、どちらだと思いますか?
どこにこれらの罪があるのでしょうか?
このことは厚い雲が覆いかぶさったように不明確にされています。
この不明解さは、あなたの良心にあなたを訴え、あなたを重税で支配し、いまだにあなたの上にあるのでしょうか?
もし、これらの罪が贖いのキリストの十字架によって取り除かれていないなら、あなたの良心の重荷もいまだに取り除かれていないはずです。
もし、キリストが十字架によって私たちの罪すべてを贖っていないのなら、あなたは苦痛な地獄の火の中で永遠に過ごさなければなりません。
その通りです。
罪の赦しを確信してください。
この重大な、厳粛な問題を解決する方法は他にはありえないのです。
もし、キリストが十字架の上でこの問題を解決していないのなら、あなたは地獄に行くのです。
もし、神のみことばが真実なら、そうです。
しかし、神は栄光のために、神は私たちに確信させてくださいました。
キリストは一度、私たちの罪のために苦しみ会われました。
正しい方が正しくない者として裁かれたのです。
キリストは私たちを神の御元へと連れて行ったのです。
単に私たちを天に連れてゆくのではありません。
私たちは死んで、今、神の御元に連れて行かれたのです。
どのようにキリストは私たちを神の御元へと連れて行ったのでしょうか?
私たちのたましいは罪の耐え切れない重荷の鎖に縛られ、つながれているのでしょうか?
絶対にありえません。
キリストは私たちをしみなき、汚れなき、そして、責められるところのない者として、神の御元に導きました。
キリストは私たちをすべて受け入れられた者として、神の御元に連れて行ったのです。
キリストにあって罪の意識がありますか?
ありません。
その幸いなる御名を持つキリストは私たちの代わりに罪人の立場をとりました。
キリストは永遠に計り知れない神の赦しの海の中に至ったのです。
キリストは私たちの訴える罪を担って十字架に至ったのです。
神はキリストの上に私たちの罪過のすべてを置きました。
神は私たちの罪をキリストとともに扱いました。
私たちの罪の問題すべてが、神のさばきにふさわしい刑量を担って、完全に解決されたのです。
恐ろしいカルバリの影の真ん中で、神とキリストの間に、神にふさわしい方法をもって罪の問題を解決したのです。
どのようにそのことを私たちは知ればよいのでしょうか?
真実なる神の権威によってのみ、そのことを知ることが出来ます。
神のみことばはキリストの血を通して私たちが贖われたことを私たちに確信させます。
神の恵みの豊かさと一致した罪の赦しです。
神は私たちにもっとも甘く、もっとも豊かな深い哀れみを持った口調で、私たちの罪と罪過はもう思い出すことがないと宣言しています。
これで十分なはずです。
私たちは私たちの罪の鎖に縛られて、つながれているといまだに叫び続けているのでしょうか?
私たちはキリストの完全は御働きにケチを投げかけるのでしょうか?
私たちに神の恵みの輝きを曇らすことができません。
聖書の真実の中に記された聖霊の宣言を偽りと言う事はできません。
そのように確信すべきです。
さあ、私たちはキリストの尊い血を通して、神の愛によって私たちに無料で与えられた幸いなる恵みを感謝とともに受け入れようではありませんか!
私たちの罪の赦しは神を喜ばせるものです。
その通り。神は罪と罪過の赦しを喜んでいるのです。
ですから、私たちが神の持つ哀れみと赦しへの愛の中に尊い慰めを得るために、私たちの砕けた、そして、悔い改めたこころを注ぎだすことは神を満足させ、神の栄光を満たすことになります。
神は呪われた木の上で殺されるために御自分の御子を惜しまずに渡されました。
その目的は神の持つ巨大な恵みであり、愛の流れの中に私たちを導くためであり、完全な神の義が成立するためでした。
その流れが今、私たちの貧しい、邪悪な、自分自身を滅ぼそうとし、自分の良心を責めようとしている罪人に注がれたのです。
しかし。読者のみなさんは自分がどのくらい罪人であるかを感情で受け止めることができるでしょうか?
どのくらい、神は私たちへの罪の赦しを確信させてくださるでしょうか?
キリストの完全な働きの実はあなたに適応されるのです。
救い主であるキリストは神の恵みの熱心な先駆者として、復活され、この偉大な働きを完成しました。

「こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。 」
新改訳聖書 ルカの福音書24章46、47節

ここにキリストの偉大な、栄光に満ちた赦しを見ることができます。
これが基礎であり、権威であり、すべてなのです。
キリストは苦しみを受けました。
これが価値のある罪の赦しの土台なのです。
血が流されることなしに罪の赦しはありません。
しかし、血が流されることにより、血が流されることだけによって、罪の赦しがあるのです。
キリストの十分な、完全な尊い血によってのみ適応され、罪の赦しが成り立つのです。

しかし、どこにその権威があるのでしょうか?
それははっきりと聖書に書かれた権威です。
だれも揺さぶることのない事実です。
私は神のみことばによって堅く建てられた権威であることを知っています。
私の罪はすべて赦されました。
すべてが永遠に消え失せました。
神の後ろに隠されました。
私を訴えることは不可能です。

最後に誰に適応されるかです。
それはあらゆる国々のためであり、疑うことなく私も含まれます。
そこには例外も、状態も、資格も問題にされません。
この幸いなる知らせは愛の羽に乗せられ、運ばれたのです。
世界中のあらゆる国々へ、天の下にあるすべての造られた者へと....。
どのようにしたら、私という存在をこの世界から締め出すことができるでしょうか?
不可能です。
そして、私はこれ以上、罪の赦しという事実を問題視して歩むことができるでしょうか?
この瞬間においても不可能です。
たとえ、天の下に罪人が私一人であったとしても、私は確信させられます。
常識で考えるのならば、私のために計画されたという問題を問いかけるのなら確信することは不可能でしょう。
しかし、さらに神は私たちを勇気付ける必要を知っています。
私たちはこの地上でもっとも邪悪な場所であるエルサレムにおいて始まった、幸いなる務めを持った大使について知ることができます。
彼らは神の御子を殺した者たちに熱心に罪の赦しを提供しました。
聖書の驚くべき、すばらしいみことばの中で使徒ペテロがこのように語っています。

「神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」
新改訳聖書 使徒の働き3章26節

このみことば以上に私たちを偉大に、より豊かに確信させるみことばはないでしょう。
この救いは神の御子を殺した者に届き、すべての者に届くことができたのです。
この血は神の御子を殺した罪を清め、もっとも下劣な罪人を赦し、地獄の外に置かれたのです。
どうして、あなたはこれ以上、罪の赦しを受け取ることにためらっているのでしょうか?
キリストは罪のために苦しみを受けました。
神は罪の赦しを語りました。
神はその天をみことばを持って宣言しています。

「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
新改訳聖書 使徒の働き10章43節

どのようにあなたは疑い続けることができるのですか?
あなたは何を待っているのですか?
あなたはキリストの完全な働きと、神の忠実なみことばを持っています。
みことばはあなたのこころを満足させ、あなたのこころに平安を与えます。
さあ、今、私たちは永遠の罪の赦しを十分に、完璧に受け止めようではありませんか?
神の愛と哀れみに満ちた甘い便りをあなたのこころで受け止めてください。
そして、あなたは喜びで満たされるはずです。
天の御座から話される復活された救い主の声を聞いてください。
あなたはあなたの罪がすべて赦されたことを確信すべきです。
神、御自身の口からこぼれる柔らかな口調を聞いてください。
あなたの荒れた罪に縛られたこころの上に降りかかるでしょう。

「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章47節

もし、神が私にこのように語っているのなら、神は私を確信させることができます。
神はわたしの罪を決して思い出すことはしません。
私は罪の赦しを十分に、永遠に確信し、満足でいないでしょうか?
神の話されたことを疑うように、けちを付けるように私は論じ続けなければならないのでしょうか?
確かに言えることは、神のみことばは永遠に生きて、とどまるということです。
そして、唯一の真理は、人であろうと悪魔であろうと、天であろうと地獄であろうと、神のみことばを揺るがす力は存在していません。
完成されたキリストの働きは神の忠実なことばであり、約束です。
そして、神は罪の赦しの十分な権威を持つ方であり、土台なのです。

しかし、あらゆる恵みに満ちた神は永遠に祝福されました。
キリストの贖いの死を通して、私たちへ知らされた罪の赦しのみならず、このこと自身が非常に高い目的を持つ恵みと祝福となるのです。
そして、私たちが見ているように神のみこころの寛大さに従って、そして、キリストの死の有効性の価値に従って喜びを持つことができます。
また、それ自身が神の提供された恵みの価値なのです。
しかし、十分な、そして、完全な罪の贖いのほかに、罪の力から完全に解放されたという事実を知ります。
これは聖めされたという真実な愛のおおいに示される点なのです。
また、栄光ある恵みの法則に一致しており、この同じ完成された罪の贖いの働きによって、罪の力を永遠に打ち砕き、私たちはこの立場を手に入れたのです。
単に生きるうえにおいて罪が消えたのではありません。
しかし、私たちの性質においての罪は私たちを訴えます。
クリスチャンは罪に対して死んだので、自分自身に報いるという特権に預かっています。
私は自分の意思によって、喜ばしく歌うことができます。
私のために主イエスは死なれたのです。
そして、私はキリストにおいて死にました。
復活を通して、私はキリストに結ばれ、そして、今、キリストが私の中にあるのです。
私の上に御父の顔の輝かしい恵みの光が照らします。
これこそがクリスチャンの本当の姿なのです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙2章20節

これがクリスチャンなのです。
クリスチャンは新しい創造なのです。
古いものは通り過ぎました。
キリストの死は古い私とともに永遠に閉じられました。
クリスチャンの中に罪はあるかもしれません。
しかし、その力は打ち砕かれ、永遠に過ぎ去ったのです。
それだけではなく、神の御前にある罪の意識さえも消え去り、恐ろしい罪の支配は完全に覆われてしまいました。
これがローマ人への手紙6〜8章にある素晴らしい教えです。
このもっとも偉大な手紙を注意深く学ぼうとするのなら、3章21節から5章11節までキリストの働きが罪の問題に適応されていることを私たちは注意深く学ぶことができます。
そして、5章12節から8章の終わりまでキリストの働きが別の側面から描かれていることを私たちは知ることができます。
単に罪の問題に適応されているのではなく、私たちの古い人、罪のからだ、肉の中にある罪について書かれています。
そこでは罪の赦しの問題としては書かれていません。
神は罪を訴えています。
赦されることはありません。
特別に区別されることもありません。
神はキリストの十字架に罪への憎しみを永遠に置いてしまいました。

神は罪がさばかれることを表わし、そして、実行しました。
そして、今、クリスチャンは十字架の上で死なれ、死者の中からよみがえった方と結ばれ、そして、一つとみなされることができるのです。
神は罪の支配をも通り越し、今、新しい、そして、義を通して恵みによって支配される幸いなる場所に入ったのです。
使徒はこのように言っています。

「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて(単に罪は赦されただけではなく)、義の奴隷となったのです。
あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。
罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。 」

新改訳聖書 ローマ人への手紙6章17〜22節

ここに聖い生活の尊い秘訣があります。
私たちは罪に対して死に、神に対して生きているのです。
罪の支配は終わったのです。
罪に対して死んだ人がどのように罪に対して生きることができるでしょうか?
ありえません!
そのとおり、クリスチャンはキリストとともに死んだのです。
そして、クリスチャンはキリストともによみがえったのです。
キリストともに新しい歩みをするために...。
クリスチャンは尊い恵みの支配の下を生きています。
そして、クリスチャンは聖さをもって実を得ることができます。
罪の中に生きていながら、膨大な神の恵みから何かを得ようとする者は、根本的にクリスチャンの歩みを否定するものです。

「絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙6章2節

絶対に不可能です。
もし、罪の中を歩み続けるのなら、クリスチャンの立つ土台を根本的に否定することになります。
日々ごとに、毎週のように、毎月のように、そして、いつまでも、罪を犯し、悔い改める、それがクリスチャンとしてのイメージとして持つのなら、それは喜びに満ちたクリスチャンの歩みの格下げし、クリスチャンとしての歩みの偽りとすることです。
クリスチャンの肉の中に罪が存在する限り、クリスチャンは罪を犯さなければならないというのは、キリストが死なれた理由の偉大な一面を無視することになります。
そして、ローマ人への手紙6章から8章までに書かれている使徒の教えを偽りであると言っているのです。
神に感謝します。
なぜ、クリスチャンが罪を犯すか?そのような運命であるとはここには書かれていません。

「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」
新改訳聖書 ヨハネ人の手紙第一2章1節

私たちは自分が罪を犯すことについて、正当化する理由は何もありません。
神が光の中にいるように、私たちが光の中を歩むことは私たちにとって甘い特権であり、もっとも確かな道です。
私たちが光の中を歩むとき、私たちは罪を犯し続けることはありません。
それでも、私たちが罪を犯す時、光の外を歩んでいるのです。
しかし、残念ながらそれが肉であり、真実です。
光の中を歩み時、神に従い、そして、罪を犯す時、光の外を歩んでいるのが、クリスチャンに与えられた神の考えなのです。
私たちが体を持ち限り、私たちの中には罪があります。
しかし、罪に満ちた考えは真実なキリストを信じるクリスチャンとは何の関係もありません。
もし、私たちが聖霊によって歩むのなら、私たちの歩みの中に罪が現れることはありません。
私たちに罪は必要なというのがクリスチャンの特権であり、権限です。
しかし、私たちが罪を犯さないというのは偽りであり妄想です。


Part 3

私たちの今まで何を学んできたのでしょうか?
私たちに与えられた大いなるキリストの過去の完成された働きについて学びました。
これは神の前に完全なものであり、神によって与えられたのです。

「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章14節

キリストの御名の力と利得、そして、人格、その完全な働きにおいて、すべてを完全に準備し、私たちを神の御前に導き入れました。
使徒ヨハネがこのように宣言しています。

「私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。 」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一4章17節

このようにキリストの血によってキリストの群れに入れられ、私たちはもっとも弱い羊であることを知ったのです。
もしくはこのようにいうことができます。
この罪と滅びの中において、私たちは神の絶対的な完全さの前において、髪の毛の幅のゆとりさえも持つことが許されてなかったのです。
私たちには永遠の破滅が待っていただけです。
しかし、今は私たちは復活されたキリスト、もしくは罪の中を生きるか、どちらかの中にいるのです。
その真ん中はありません。

私たちは罪の意識を持ち続けるか、もしくはキリストにあって完全にされたかです。
しかし、クリスチャンは聖書にある聖霊の権威あるみことばにおいて宣言することができます。

「あなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙2章10節

私たちはキリストと結びつき、永遠に完全なのです。
すべてにおいて清くされ、愛するものにおいて受け取られたのです。
私たちはキリストにあって神の義となり、十字架を通して、すべてが神に満足されたのです。
その尊いキリストの死という贖いは堅く建てられ、クリスチャンの立場の基礎を揺るがすことはありません。

「しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、...。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章12節

キリストが着座されたことこそ、神が与えられたクリスチャンの完全なる立場の定義であり、栄光の証明なのです。
私たちの主キリストは私たちの罪に対して、神の栄光を持っています。
私たちの罪人としての立場すべてをキリストは御自身の上に至らせ、罪のための一つの捧げ物となってくださったのです。
罪の赦しのためだけではありません、
神に受け入れられるためだけではありません。
神との平和だけではありません。
私たちは罪の支配から救われたのです。
私たちがすべてのことから勝利することを可能としたのです。
罪の支配、悪魔からの恐怖、律法、もしくはこの悪の世界から、私たちは勝利したのです。
私たちは繰り返し訴えます。
私たちが聖書によって教えられるのなら、クリスチャンはこのように絶対的な勝利を持っています。
私たちはクリスチャンの読者に熱心に尋ねます。
このこと以外の何ものによっても満足するべきではないと願います。
私たちはもはやキリスト教の教えに混乱させられているのではなく、儀式的な礼拝にとどまっていてはいけません、
これらのものは神から離れ、暗闇の中に、ユダヤ教の教えの中にたましいを引き戻ことになります。
ユダヤ教という組織は神を偽って教え、永遠に廃止されたのです。
ユダヤ教は神の聖いみこころに出会うことなく、神の慈愛を満足させることはできません。
これらの組織にあっては礼拝も、完全な平安も、完全な勝利も、神に対する完全な必要さえも永遠に満たすことはありません。
私たちは主の民に厳粛に問いかけます。
たしかに教会にはたくさんの、さまざまな宗派、考えがあります。
そして、それぞれがクリスチャンとしての立場をどの程度、理解し、楽しんでいるかを見ることができます。
彼らはさまざま私たちが普段引用している聖書箇所を主張しているでしょう。
彼らは非常に熱心で、神のみことばに対してキリスト教の教師と言われる人たちと比べても信仰的な歩みをしています。
私たちは彼らに同意する点を多く持っています。
しかしながら、今日のキリスト教の告白を聞くならば、彼らは生きている新約聖書の教えとは対照的に歩んでいるのを見ることができます。
結論として見るならば、クリスチャンとして与えられた尊い特権が奪われ、聖書の教えがモザイク化され、道徳的な教えにこころを傾けているのです。
これはもっとも嘆かわしいことなのです。
これは聖霊に悲しみを与え、キリストのこころを傷つける行為です。
神の栄光を傷つけ、単純な聖書の宣言を否定しています。
この瞬間において、傷ついたこころを持つ何千もの尊いたましいの状態について、彼らに私たちは完璧に説得しなければならないのです。
そして、すべてにおいて、ひも解いてゆくのなら、その原因は信仰告白と呼ばれるキリスト教の教え、教理にあるからです。
キリスト教会と言われる中に信仰告白を持つ中クラス者の中で、聖霊と結ばれ、神の平和を持ち、完全なる良心の清めを持つ者をあなたは見つけることができるでしょうか?
公に、組織だって教えられた者の中で「私の罪はすべて赦されました」、「永遠の命を持っています」、「神はすべてのことを義として下さいました」、「神の愛の中に入れられました」、「聖霊によって印が押されました」、「私のうちに聖霊が宿られて私はキリストと結び付けられてしまい、私は失われることはありません」と十分に納得する者がいるしょうか?
彼らは真実にこれらのことを受け入れていません。
キリスト教世界において、これらのクリスチャンの特権は否定され、無知です。
その人々は非常に危険な教えを持っています。
道徳的に疑いと恐れの中を生きています。
そこに私たちが死ぬとき、天国に行けるという希望をどのくらいの人が持っているのでしょうか?
どこでたましいは新しい創造に結び付けられたという真理を学べば良いのでしょうか?
彼らは天における昇られた、そして、栄光あるかしらに結びつく知識をどこで、探しだし、基礎とすることができるでしょうか?
彼らは神の愛する者へと与えられた、無代価の贈り物を楽しむように、どこで教えられれば良いのでしょうか?
私たちはこのように尋ねられ、与えることのできる唯一なる真実なる答えが持つことのない事実を嘆きます。
キリストの群れは暗い山と荒涼とした荒野に散らばったままです。
神の民のたましいはユダヤ教的な組織に形作られた教理の上に残されたままでいます。
彼らは神に近づくために引き裂かれた幕を知りません。
彼らの良心は神に受けいれらえたという意識がないのです。
主の食卓は闇と迷信としう恐ろしい霧で包まれ、不快な暗い壁と律法という圧力に押されています。
贖いが完成されました。
完全な罪の赦しです。
神の前に完全に義とされ、復活されたキリストにおいて受け入れ、聖霊が与えられました。
花婿が来られるという輝く、幸いな希望を持ち、すべてが壮大な栄光ある現実です。
神のキリストの特権を受けることが許されました。
しかし、宗教的な組織、そして、キリスト教という教えによって、すべてが除かれてしまいました。
おそらく、ある者たちは私たちが曇よりとしゃがみこんでしまうのではないかと想像するかもしれません。
しかし、私たちは善意を込め、このように言うことができます。
神がそのことを許されたのです。
私たちはその現実を見て、恐れるかもしれません。
その様子というよりも、現実に何が教えられているのかを知った時、ぞっとするかも知れません。
私たちは現実の状態を見て痛く、印象付けられるでしょう。
単に教会と呼ばれるものだけではなく、何千もの真実なキリストの群れがこのような状態にいるのです。
もし、私たちが神がこの状態を嘆いていることを知るのなら、私たちのこころも痛むはずです。
しかし、私たちは私たちの目的を追求しなければなりません。
私たちはこのような嘆かわしい状態でいる多くの主の民にベストを尽くして、可能な限りの治療法を提示すべきです。
私たちは私たちのために完成された主イエスキリストの尊い働きの上にとどまっています。
私たちの罪と罪の訴えは取り除かれ、前者においては罪の完全な贖いが与えられ、後者においては支配者としての権威によって、完全に罪の支配から救われました。
クリスチャンは単に罪が赦された者ではありません。
罪から救い出された者です。
キリストはクリスチャンのために死なれました。
クリスチャンはキリストにおいて助けを持っています。
ゆえに、クリスチャンは自由なのです。
クリスチャンは死からよみがえり、私たちの主イエスキリストを通して神にあって生きている者です。
クリスチャンは新しい創造です。
クリスチャンは死から命へと移されました。
死と裁きはクリスチャンには隠されたものです。
クリスチャンを訴えるものは何もなく、クリスチャンの前には栄光があるのみです。
クリスチャンは崩されることのない栄誉と曇りのない希望に満ちています。
今、これらすべてのことがあらゆる神の子供にあって、真実ならば、聖書の言うとおり、私たちはこれ以上何を求めたらよいのですか?
これ以上の栄誉は何もないはずです。
これ以上求める点は何もありません。
これ以上の希望は何もないはずです。
これらすべてにおいて、私たちは神の絶対性を信じます。
しかし、私たち自身を見るのなら、完全ではないと言うでしょう。
私たちの歩みは完全ではありません。
私たちは今だにこのからだの中にいます。
私たちはいろいろな欠陥を持ちます。
あらゆる誘惑にさらされ、つまずきやすく、さまようものです。
私たちは正しい考えを持つことは不可能です。
この瞬間においても、私たちは恵みによって導きいれられた幸いなる立場を持ち続けることはできません。
私たちに与えられた聖霊によって、私たちは永遠の命を持っていることは真実です。
私たちは天にあるかしらに結び付けられているのも真実です。
私たちは永遠に保証された立場を持っています。
私たちの命に触れるものは何もありません。
もし、そうならば私たちのいのちはキリストによって隠されたものなのです。
私たちのいのちに触れるものなく、私たちの立場を邪魔するものもありません。
しかし、私たちの状態も、私たちの歩みも完全ではないのを私たちは見ることができます。
私たちの交わりは邪魔されやすく、私たちはここで現在においてのキリストの働きの必要性を見つけることができます。
イエスは今、神の右の座に生きています。
私たちのために仲介者としてのキリストの働きは決して止むことはありません。
キリストは完成された贖いによって、天を通り抜け、私たちの神の御前において、完全な弁護者、助ける者として働いています。

私たちのために仲介者としてのキリストの働きは決して止むことはありません。
キリストは完成された贖いによって、天を通り抜け、私たちの神の御前において、完全な弁護者、助ける者として働いています。

キリストは義なる者として存在し、御自身の行われた贖いの死を通して、私たちを聖なる者として交わりを保っています。
私たちはローマ人への手紙5章10節において、このように読みました。

「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙5章10節

同様にヘブル人への手紙4章にはこのように書かれています。

「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章14〜16節

また、7章ではこのように書かれています。

「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章24、25節

そして、9章では次のように書かれています。

「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章24節

そして、ヨハネの手紙では違う側面から同じテーマについて書かれているのを私たちは知っています。

「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。
この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章1、2節

これらすべての聖句はなんと尊く、クリスチャンの真実なるこころに訴えてくるものではないでしょうか!
私たちはいままで、深く良心に痛みを感じながら歩んでいました。
私たちは弱く、必要を感じ、堅く立つこともなく、失敗の多い者です。
そして、私たちの不信仰な思いは問いかけるかもしれません。
「キリストはこのような聖句に書かれているように、私たち一人一人に目を止めることはできない。
キリストが、みこころに従って、キリストの持つ立場に私たちを導く入れるなんて不可能だ!
クリスチャンの必要を満たすためにキリストが働きを持ち続けることはできない。」
私たちはこのように問いかけるかも知れません。
しかし、このような問題はへブル人への手紙を読む者たちにとって何も不思議ではありません。
これらのことは教理としてではなく、クリスチャンとしてみことばを実践する者にはキリストの祭司職、弁護者として当たり前の話なのです。
さあ、今、私たちは生き、神の右の座に座られ働いているキリストに尋ねようではありませんか?
キリストは世のために働いているのでしょうか?
それは明らかに違います。
ヨハネの福音書17章でキリストは言われています。

「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです 」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章9節

彼らとは誰ですか?
ユダヤ人の残りの民ですか?
いいえ!
残りの民はまだこの場面には現れていません。
彼らは誰でしょうか?
神の子供、クリスチャンたちです。
彼らはこの罪深い世の中を生きています。
彼らは失敗しやすく、歩みにおいて常に汚れを持っています。
そして、ここにキリストの祭司としての働きの目的があるのです。
神は御自分の子供たちを清めたくてしょうがないのです。
キリストは神の子供たちを清めるために働いているのです。
キリストの死によって、私たちの罪をあがない、
キリストの命によって、私たちを清めているのです。
聖霊の力によって、みことばの働きによってその力が働いています。

「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章13節

私たちは十字架で死なれたキリストを通して、購われ、清められたのです。
この二つの流れが私たちのために死なれ、刺し通されたキリストから流れ出ているのです。
すべてのことがキリストの御名に栄光を帰させます。
尊い、キリストの死によって私たちはすべてを持ちます。
これは飛んでもない質問でしょうか?
これはキリストの贖いの力を無効にするようなことでしょうか?
これは私たちの日々の失敗に対する問題でしょうか?
私たちは御父とともにいる弁護者を知っています。
神とともにおられる大祭司です。
「もしだれかが罪を犯したなら」、だれかが悔い改めたならとは言っていません。
確かに、罪を犯したなら、自分自身を裁き、考え直す必要があります。
しかし、この者たちは何をすればよいのでしょうか?
ゆえに何かを得ることが出来るのでしょうか?
このように書かれています。

「私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章1節

キリストはすべてのとりなしにおいて優れた方です。
罪を犯した者には悔い改め、自己審判、そして告白という恵みを与えます。
これはクリスチャンの読者に対して大変重要なことであり、キリストの弁護、祭司としてはっきりすべき事柄です。
私たちは時より、私たちが間違った行いをする時、失敗し、間違った考えを持つことがあります。
あることにおいては、神と私たちのたましいとの間にはっきりさせなければならない問題もあります。
私たちが失敗し、良心が痛む前に私たちは幸いなる弁護者が御父に働きかけている事実を実際に認識すべきであり、忘れるべきではありません。
そして、キリストの仲介は私たちに悔い改め、告白、回復という恵みという与えるのです。
「もしだれかが罪を犯したなら」、その時人は何をすればよいのでしょうか?
贖いの血に戻るべきでしょうか?
答えは「ノー」です。
聖霊が宣言していることを注意深く読んで見てください。

「私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章1節

聖霊はキリストをなんと呼んでいるでしょうか?
「義」です。
なぜここで、「恵み」だとか、「哀れみ深い」とか、「驚くべき」と言われていないのでしょうか?
キリストはこれらすべてに当てはまらないのでしょうか?
たしかにキリストはこられすべてに適応される方です。
しかし、私たちの間違いすべてにおいて、私たちの罪すべてにおいて、そして、私たちの失敗すべてにおいて、私たちの前に哀れみをもって真実なる使者である限り、ここではこれらひとつにキリストを適応させてはいません。
キリストは「義なる」方であり、私たちは聖い神の御前において代表されるこの「義」を持っています。
聖なる父は決して失敗する方ではないのです。

「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」

新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章25節

そのようにキリストはいままでずっと生きています。

「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章25節

キリストはご自分によって神に近づく人々をを最後まで正しく導き通すことができるのです。
ここに書かれている内容は神の民にために多くの確信を与えるのです。
また、知識とこの事実を知る思いにおいて、私たちのたましいのために多くの必要を与えているのです。
いろいろな場所において、クリスチャンの真実に立つべき立場に知る知識において不完全なままでいるのです。
それはキリストが過去において私たちのために何をしてくださったかを理解せずにいる結果です。
そして、まったく逆に、クリスチャンの立場について偏った見方をする者たちがいます。
今、私たちの必要を満たすためにキリストが何をしてくださったか、彼らは知ることができないのです。
その両方を修正しなければなりません。
前者はキリストの贖いの広さと価値を知らないのです。
後者は弁護者であるキリストの適応と立場を理解していません。
使徒がこのように私たちの立場が完全であることを語っています。

「このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一4章17節

もし、このことがすべてだと言うのなら、私たちは祭司の必用も、弁護者の必用もありません。
しかし、この時に私たちは宣言することができます。
使徒はこのように宣言しています。

「もしだれかが罪を犯したなら...。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章1節

これは私たちが常に弁護者を必要としている証明です。
私たちは主を褒め称えます。
私たちにはキリストを持ち続ける必用があります。
キリストは私たちのために生き続けています。
キリストは今も天において、生きて、仕えてくださるのです。
キリストは天の右の座に着いて、私たちを守るために生きているのです。
私たちが地上において、過ちを犯す時も、私たちを右の座に着かせて下さるのです。
キリストは神であり、私たちのたましいと神との間にある解除できないつながりとなられたのです。


PART4

このシリーズにおいて、前の3章は私たちのために完成されたキリストの働きに関連した真理について、大いなる基礎を求めてきました。
過去において、現在においてのキリストの働き、そして、キリストの贖い、キリストの弁護、これらは私たちの学ぶべき大いなる基礎です。
なお、私たちは神の聖霊の恵みに従って求めてゆきたいと思います。
聖書は現在の読者に何を教えているのでしょうか?
私たちは次の目的に向かって学んでゆきたいと思います。
つまり、キリストは私たちのこころに何を求めているかです。
このことを語れるということはなんとも祝福に満ちたことです。
「私は私のこころを完全に満足させることを知りました。
それは私がキリストを知ったということです。」
もし、このように言うことが出来るのなら、あなたはこの世でもっとも高い真理を知り得たのです。
私たちの神に立ち返ろうとはしない思いは打ち砕かれ、私たちの信仰の源は完全にそれぞれが成長し独立された者とされてゆくのです。
そして、その時、安らぎを得るのです。
この世が理解できない聖霊による静けさと安らぎが分け与えれ、世を信じる哀れな信仰者は真実なクリスチャンの歩みをのろまな、鈍い、非常に馬鹿げたことだと考えるでしょう。
彼らが娯楽、レクリエーション、道楽、映画館、野球、コンサート、トランプ、ビリヤード、狩猟、レース、集まり、ニュース、パーティと呼ばれるものなしにクリスチャンたちがどのように喜びを得ているのかとても不思議がるかも知れません。
神を求めない人からこれらの事柄を奪い去るということは絶望であり、愚かな事に見えるでしょう。
しかし、クリスチャンはこれらのことを持ってもいないし、求めてもいません。
クリスチャンにとってこれらのことがらはつまらないものであるはずです。
もちろん、真実なクリスチャンとは単に名前だけのクリスチャンのことを言っているのではなく、現実に信仰を持ち、クリスチャンとして歩む者たちのことを言っているのです。
なんと多くの告白を持つクリスチャンたちが、そして、とても高いレベルの告白をするクリスチャンたちが、この世の人々の追及する無益な、くだらないものを真理と混ぜて歩んでいるのを私は見るのです。
彼らは主の日に交わりのテーブルに付き、月曜日には映画館やコンサートへ行くのです。
日曜日にはクリスチャンとして、キリストのからだの一部として働きますが、そのほかの日は野球、もしくはレース、もしくは愚かで無益な番組に心奪われているのを私は知っています。
これらの人々にとって、キリストがその人のこころの目的として据えられていないということは明白です。
その人のたましいにおいて神のかがやきがどのように輝いているのか非常に疑問です。
そのたましいがよろこびを見つけるでしょうか?
虚空の神を求める世界が追い求めているのは虚しい喜びであることを知るべきなのです。
真実なクリスチャンはこのような事柄から本能的に離れてゆくものなのです。
そして、このようなことは単に積極的に間違っているとか、悪だからというだけではありません。
彼らは永遠に喜び、新しい性質の欲望をすべて満たす完全な満足を味わっていないのです。
私たちは野球場や、劇場、レース場において御使いが天から喜びに満ちて話すのだと誰が言うでしょうか?
少しでも考えれば、それはおかしな話であることがわかります。
このような場面にいる者たちはおそらく完全に天的なことを忘れているに違いありません。
では、クリスチャンとは何でしょうか?
その人は天的な人でしょうか?
その人は神の性質に預かる者です。
クリスチャンとは世に対して死んで、罪に対して死んで、神に対して生きている者です。
クリスチャンは世と結びつくものは何もないはずです。
クリスチャンは天に属している者です。
クリスチャンにとって、主であるキリストよりも愛するものがないはずです。
キリストがこの世の娯楽に、馬鹿笑いに、世のくだらなさに参加することなど考えることもできません。
その考え自体が完全な冒涜なのです。
では、その時、クリスチャンとは何でしょうか?
クリスチャンの集まるところに主を見つけることが出来るでしょうか?
その人の中にキリストとはまったく逆の思いが常にあるのではないでしょうか?
その人の救い主であり、主であるキリストの参加出来ないような場所、環境にその人は行くことが出来るでしょうか?
クリスチャンにはあらゆる場所において信仰告白をするように求められています。
そして、世はキリストを憎みました。
その方を知っていながら私たちは世と交わりを持つことが出来るでしょうか?
私たちのリーダのある者たちはこれらのことはとても高いレベルの歩みだと思うかもしれません。
では、私たちの持つべき基準とはいったい何でしょうか?
確かに、私たちがクリスチャンであることがクリスチャンのスタート点でしょう。
しかし、私たちがクリスチャンとして歩みだした時、どのようにそのクリスチャンの歩みの基準を知り、それを実行すればよいのでしょうか?
確実に言える事は新約聖書から教えられていることを学ぶべきです。
自分自身をいろんなものとミックスしながら、それはクリスチャンであることの証明になりえるでしょうか?
現在のこの世における娯楽や、無益な追及が形作るその中において何か鋭さを得ることが出来るでしょうか?
ヨハネの福音書17章において、幸いなる私たちの主が重々しいみことばを聞かせてくださっています。
さあ、私たちは私たちの受け継ぐべき、分け前、立場、この世にある私たちの歩みについて語らえたキリストの真実なることばに耳を傾けようではありませんか!
イエスは父に宛ててこのように言いました。

「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書17章14〜18節

これらのみことばにおいて、私たちは以前の私たちよりもより自分自身をこの世から離して歩むように決心すべきです。
この短い節において、二回以上、私たちがこの世の者でないこと、キリストをもこの世の者でないことを私たちの主ははっきりと宣言しました。
私たちの幸いなる主はこの世とともに何が出来るのでしょうか?
何もありません。
この世はキリストを拒み、捨てたのです。
キリストを憎むべき十字架に二人の強盗の間に釘付けにしました。
この世は完全に、そして、何の咎めもなく、過去においてキリストを十字架に掛けた行動を通して、すべての訴えをキリストに負わせたのです。
この人間文明の中心地とでも言えるエルサレムの町において、キリストは十字架に掛けられ、すべての者がこれに同意したのです。
キリストとこの世の間にはわずかな道徳的なつながりなどありません。
そのとおり、世はキリストを人殺しとして扱い、この犯罪のゆえに神に対してこの世はその答えを出さなければならないのです。
なんと厳粛な事実ではないでしょうか!
なんというクリスチャンに対する重々しい答えではないでしょうか!
私たちは私たちの主であり、師であるキリストを十字架に掛けたこの世に生きているのです。
そして、キリストは自分がこの世の者でないこと、そして、私たちがこの世の者でないことを宣言しています。
もし、私たちがこの世と交わりと持とうとするのなら、私たちはキリストを偽り者とするのです。
私たちはある人の妻がそこで座り、笑い、ジョークを語る相手が、その人の夫を殺した相手であると想像できるでしょうか?
それ以上に、クリスチャンであると告白する者が自分自身を現在の悪の世とミックスし、自分自身をこの世の者、世の中心に置くことが出来るでしょうか?
「では、私たちはどうすればよいのでしょうか?
私たちはこの世から出て行かなければならないでしょう。」
このように言う者がいるかも知れません。
そのようなことを言っているのではありません。
私たちの主がはっきりと言っています。

「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章15節

クリスチャンとしての原則はおそらく、その中にあります。
たとえを使うのであれば、この世にいるクリスチャンはのダイバーのようです。
このダイバーは彼を滅ぼそうとする嵐の真中にいます。
そうですこの嵐は彼を打ちのめそうとしているのです。
彼はこの場面にある嵐から助かる方法は何もありません。
しかし、このダイバーには決して切れることのないロープによって結ばれており、決して溺れるようなことはありません。
では、クリスチャンはこの世にあって何をすれば良いのでしょうか?
クリスチャンの任務とは何でしょうか?
聖書はこのように言っています。

「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書17章18節

そして、ヨハネの福音書20章21節ではこのように書いています。

「イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

新改訳聖書 ヨハネの福音書20章21節

これがクリスチャンの職務なのです。
クリスチャンの職務とは修道院の壁の中に閉じこまることではありません。
キリストを信じる信仰によって歩むということは兄弟、姉妹の交わりに参加することではありません。
それだけでクリスチャンとは言えません。
私たちは確かに浮き沈みと呼ばれるものが生活の中にあるかもしれません。
そして、私たちはこの地上において、神の栄光のために神にふさわしい者として歩むのです。
私たちがこの地上で何をするかが問題ではありません。
この地上でどのように過ごすかが問題なのです。
私たちのこころを支配する目的に従って歩むことが必用なのです。
もし、クリスチャンがこの目的を達成し、理解できるのならば、それは正しいことと言えます。
もし、クリスチャンがその目的を無視するのなら、何も正しいことはありません。
二人の人が食事をするために同じテーブルに着いたとします。
一人の者は自分の食欲を満足させるために座り、もう一人の者は神の栄光のために食べます。
その食事は単純に神の器として適切に働くための体が維持されるために用いられるでしょう。
その体は聖霊の宮であり、キリストを礼拝するための道具です。
そのようにすべての事柄について、神のために行うことができます。
後者こそが私たちの見本とする者です。
彼がこの世界に送られてきたように、私たちもこの世界に送られてきたのです。
彼は何をするためにこの世界に送られて来たのでしょうか?
神の栄光のためです。
どのように彼は暮らしているのでしょうか?
御父によるのです。

「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。 」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章57節

このようにすべてのことが単純に見えてくるはずです。
キリストこそがすべての事柄における、標準であり、試金石なのです。
もはや、人間の規則に従って、何が悪いとか、正しいとかそのような問題ではありません。
単純にキリストを基準として考えた時、キリストにこそ価値があることを知って歩むことです。
彼は「あれこれ」をしようかと考えるでしょう。
もしくはどこかへ行こうと思うこともあるでしょう。
キリストは私たちを見本を残しました。
私たちはキリストの足跡に従うべきです。
そして、もっとも確信して言えることですが、私たちはキリストの歩まれた足跡を無視して歩むことが出来ないということです。
もし、私たちがあちらこちらに行くことを喜びとして歩むのなら、私たちはキリストの足跡を歩んではなく、私たちは私たちにキリストが与えられた喜びを期待して歩んでいません。
ここにある問題すべての秘訣のうそと現実があります。
これこそが大きな問題なのです。
キリストこそが私にとって唯一の目的でしょうか?
私は今このように言うことができるでしょうか?

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙2章20節

クリスチャンの価値でこれ以上のものはありません。
この世の中で生きてゆくこと、自分を喜ばして生きてゆくこと、キリストの働きをもって、熱意をもって生きること、自分自身のことは考えずに歩むこと、これらを時にはつまらないことにもなりかねます。
神の子供として考えてください。
神の子供は単純に父の手から与えられた良き事だけにこころが奪われます。
神の子供は父の友人を探そうとはしません。
神の子供はそのよそ者に興味をもたれようとはしません。
私たちはその者こそを警戒すべきことがあります。
父は私たちにあらゆる物を与えるでしょう。
しかし、それがキリストと置き換わることもあるのです。
クリスチャンの持つ神からプレゼント、キリストの永遠に価値ある働きを軽く考えがちではないでしょうか?
私たちの歩みにおいて、この幸いなるキリストの人格から離れているのではないでしょうか?
キリストの持つ目的から離れて歩んでいないでしょうか?
キリストの栄光を求めずに歩んでいないでしょうか?


Part 5

もし、読者が恵みによって可能ならば、このメッセージを通して私たちの思いをどのように神の御前に差し出すことができるか考えてください。
キリストこそが完全な私たちの心配と良心と安らぎのない思いに対する治療をなすことができるのです。
もし、私たちが純真な信仰をもって、先に書かれたことを幸いなる必用として理解するのならば、キリストの働きですべてが完了されたのです。
そして、後者を健全な目を持ち理解できるのならば、キリストの人格は私たちの必用を満たすことが出来るのです。
そして、もし、私たちのこころが平安でないのなら、私たちはキリストで満足していないことが証明されるのです。
しかしながら、主に愛される者たちの多くの者たちがどちらかであることを私は知っています。
そして、真実な平和を楽しみ、こころの安らぎを持つ者がなんと少ないことでしょうか。
クリスチャンとは旧約聖書の聖徒たちの立場が少しばかり進んだものだと考えているのが一般的です。
彼らは祝福に満ちた完成された贖いの御業を知りません。
彼らは良心が清められたという喜びに満ちてはいません。
彼らは真実な喜びに満ちた思いを持っていません。
聖書を信じる信仰の確信を持っていません。
彼らは感情に基づく邪悪な良心に従っています。
そのからだが御言葉である清い水で洗われていません。
彼らには聖霊が内住されていると偉大なる真実が明らかにされていません。
彼らはこのように呼ぶことができるはずです。

「アバ、父。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章15節

彼らの多くは律法の下にいます。
もしくは、律法の下にいるとうすうす気がついているはずです。
彼らは実際には祝福された恵みの支配の下に入ったことを実際に味わうことはできません。
彼らは偽りを信じています。
しかしながら、この真実を疑うことは不可能です。
彼らは神を愛しています。
彼らの感覚、彼らの習慣、彼らの熱意、それは彼らは礼拝に現れています。
さらに、彼らの対立、心配、疑い、恐れ、すべてのものが神を求めていることを証明しています。
彼らはある一面、世から分離されて歩んでいることがわかります。
しかしながら、肯定的に世から分離して歩んでいるというよりも、むしろ否定的です。
彼らはこの世の虚飾を多く見ているのです。
彼らはキリストを目的として生きるということよりも、この世を満足しようとしますが、満足することはできません。
彼らにはこの世を味わうことができません。
彼らはこの地上に神の御子のいる場所を見つけようとするでしょうが、見つけることはできません。
キリストは今、神の右の座に着座されているからです。
この世は彼らを満足させることができません。
この世が天国のような場所になり、目的においても、希望においても、この世で楽しむことはありえません。
ゆえに、多くのクリスチャンがどっちにもつかずにいるのです。
彼らには確かなものなどなく、安らぎもなく、安定も目的もありません。
彼らは幸せではありません。
彼らは真実に行くべき方向について知りません。
彼らはどっちつかずでいるのです。
今、あなたはそうですか?
私たちは真実を望むでしょうか?
私たちは永遠の恵みなる方に信頼します。

「それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二2章12節

キリストは死を通り抜けいのちへ至ったことを私たちは知っています。
クリスチャンとは永遠の命を持った者であり、聖霊の尊い証を楽しむ者です。
そして、現実に天において復活された栄こうなる頭であるキリストとの交わりを持つものとされたのです。
その方は幸いなる永遠の救いと神との平和の基礎を築き、御業を完成された方です。
そして、その方を私たちは人生の目的として歩むことを見出すのです。
私たちはこの幸いなるこの瞬間においても、熱心にその方を見上げます。
イエス御自身が私たちを受け取りに来るのです。
これがクリスチャンです。
そのほかの名は何も入りません。

その反面、今日において、まったく対照的に偽の信仰が起き、強調されています。
それは純粋なユダヤ教でも、純粋なキリスト教、もしくは、そのほかのそれぞれの教会が主張する信仰と呼ばれるものではありません。
すべてが哀れにもミックスされています。
あることに関しては正しいかも知れませんが、それぞれ違う要素が混ぜられ、信仰とは程遠いものになっています。
神にこころの向いていない人たちはこれらのことを適応し、進もうとします。
それは肉の欲望に許可を得て、教会を、信仰を自分のままに教理を置き換えています。
そこに喜びなどありえません。
そして、彼らはこころの許す限り、この世の虚偽、そして喜びを楽しもうとしているのです。

キリストの、そしてたましいの本当の敵は、宗教という支配されたシステムを作ることです。
半分はユダヤ教、半分はキリスト教、もっとも恐ろしい方法でキリストにあって自由を語り、ユダヤ教という支配を教会に持ち込むのです。
この世と肉は、確かに聖書の多くを使います。
しかし、それはクリスチャンを道徳的に崩壊させ、真理を適応させることを邪魔させることにさえなるのです。
この組織という罠にたましいは希望を亡くし、巻き込まれてゆくのです。
本当に良いクリスチャンはどのようなものかという概念に神にこころを向けていない人たちはだまされてしまいます。
言い方を換えるのであれば、クリスチャンのいるべき場所、その特権は奪われてしまうのです。
彼らは宗教的な雰囲気に飲み込まれ、闇によって引っ張り込み、彼らを信仰を窒息死させてしますのです。
それは、私たちの信じていることではありません。
人間の言葉という計りは神の民をかき乱し、恐ろしい結果へと導くでしょう。
そうです。この世の人々は一つの共通した組織を持っており、それを神学的に信じようとしています。
前者は新約聖書に書かれている真実なるクリスチャンの栄光が見えなくなった結果であり、このように広がっているのです。
もし、誰かが、この見解に対して明かされた数々の栄光に目を向けようとするならば、その者は幻想的な狂信者か、危険な宗教家だと思われるでしょう。
彼らは真実なる状態、その性質、そして、将来において、むしろ、後者の組織の方が人々をだましてゆくでしょう。
しかしながら、その両者をも同じ集会を、同じ告白を、同じ祈りを、同じ交わりを多く持ち、同じ儀式を繰り返します。
要するに教会的に、神学的に、宗教的なものとしか見ることができないのです。

これらの答えがマタイの福音書13章にある素晴らしき主の会話の中にあります。
麦と毒麦のたとえの中ではっきりと語られた内容です。

「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。
それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

新改訳聖書 マタイの福音書13章24〜30節

これは教会のことを言われたのでしょうか?
いいえ、「畑です。」
しかし、イエスは言われました。
この畑とは「世」です。

「畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。 」
新改訳聖書 マタイの福音書13章38節

そうです。
偽りのクリスチャンの集まり全体と、主に従おうとする神の教会が混在しているのです。
主がマタイの福音書13章によって教えられていることが、聖霊によってコリント人への手紙第一5章において教えられています。
しかしながら、私たちは今、追及していることで納得はしようとはしません。
このテーマはとても重要で、また、広範囲な内容です。
現在のような手短な記事で解決することはできません。
多くの時をもって、さらなる議論が必要となってくるでしょう。
読者である熱心なクリスチャンたちの要求、より確信に満ちたものとなるはずです。
私たちはキリストの民の真実なる興味が示され、福音が前進し、よりクリスチャンの証が、そして礼拝が完全とされ、キリストの栄光が明らかにされることを望みます。
これを実現可能かどうか、疑うことは止めましょう。
それでも、私たちは現実へと向かわなければなりません。
この私たちの持つ目的は三章で、そして最後の章で手短に述べて終わりにします。
単に、キリストのみことばは私たちの歩みの導き手として、すべてを満足させるということです。
もし、キリストの働きがクリスチャンの良心を満足させるのなら、もし、キリストの幸いなる人格があなたのこころを満足させるのなら、あなたは確信すべきです。
キリストの尊いみことばはあなたの歩みを満足させます。
私たちはすべての可能性を断言してこのように言うことができます。
私たちは聖書にある神のみことばを持つ必要があることを知っています。

この世に置かれた神の教会の歴史においてさまざまな必要がそこにはあったでしょう。
しかし、一人一人のクリスチャンが神により頼もうとするその瞬間にだけ、聖書を読むのでは必要が満たされるはずがありません。
私たちが聖書を開くということは、この時代において軽蔑と反対を受けることを私たちは良く知っています。
そして、私たちが慣習を捨てることにより、そして人間の決意と意思によって戦う時、その必要に出会うことをよく知っています。
しかしながら、この事実は私たちにわずかながらにも不安を与えるかも知れません。
私たちは人間の慣習という報いを受けるでしょう。
もし、私たちが父たち、兄弟たち、もしくは医者、それが信仰のバランスを取るためのわずかなものであっても、それが、どのような人間の道理だとしても、これを神の権威と置き換えるのなら、その報いを受け取ることになります。
太陽の光の中にいるこうもりと比べてみてください。
その光によって目がくらみ、目的を見ることなく、盲目的にぶつかってしまうはずです。
聖書の穏やかな光の中にいる人間の習慣、教理の衝突から逃げることをしなければ、クリスチャンとしての深い喜びはありえません。
もし、私たちが不信者の厚かましい理屈だけの教理、懐疑論に直面するのなら、素直に神のみことばの力の前に、聖書の清い権威の前にひざまずいてみてください。

聖書が教理であり、教えであり、そこに立つことができるのであれば、私たちは神のみことばを感謝することができます。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」

新改訳聖書 テモテの手紙第二3章16、17節

私たちにはそれ以上に何か必要なことがあるでしょか?
何もないはずです。
もし、聖書が神の子供に救いに至る知恵を与えているのなら、もし、人を十分に整えた者とすることができるのなら、もし、聖書が人にすべての良い働きを備えることができるのなら、私たちは人間の慣習、もしくは人間の主張するあらゆる教理など必要がないはずなのです。

もし、神が私たちに聖書を書いたのであれば、もし、神が私たちに恵みをもって私たちに聖書を与えたのであれば、もし、神がご自身のみこころを現したのであれば、私たちはそれを知り、考えるべきです。
そして、感じ、信じ、実行すべきです。
では、その時、私たちは何をすべきでしょうか?
私たちは滅び行く哀れな者たち、儀式主義、人間の論じる教理だけの合理主義者に立ち返りべきでしょうか?
遠く離れていても考えるべきです。
私たちはキリストの働きがすでに完了されたことを、私たちは私たちの兄弟に知らせるべきです。
キリストの完了した働きは私たちの良心を満足させ、キリストの人格は良心にある不信仰をも確信で満たし、私たちのこころの方向性さえをも示し満足させてくださるのです。
私たちは人間の慣習、そして、聖書が神が私たちに現すために何か不足でもあるかのように考える何かの道理から立ち返ろうではありませんか!
すべての光栄と感謝を神に捧げようではありませんか!
神は私たちの良心のために、思いのために、歩みのために、この瞬間のために、私たちの永遠を天で過ごすために、私たちに愛する御子を与えました。
私たちはこのように言うことができます。
私たちはこのように言うことが出来ます。
「主キリスト、私たちはあなたを求めます。
今、私たちが持っている以上に私たちはあなたを求めます。
もし、私たちがあなたを求めるのなら、そこには何の欠乏もありません。
あなたの贖い、そして、あなたの守りは私たちの深いこころの奥に働き、すべてを満足させます。
そして、あなたの栄光、あなたの神としての人格は力強く働き、私たちのこころに激しい思いと願望を起こさせます。
そして、あなたの汚れなき現われである尊い聖書はクリスチャンとしての人生の初めから終わりに至るまで、私たちのすべての必要を与えます。
クリスチャンである読者に尋ねたいと思います。
そこに何か足りないものがありますか?
あなたはクリスチャンの歩みのまさにその真ん中にいるのであれば、その真実を持っていますか?
もし、あなたがキリストの完成された働きの上で安らぎを得たいのであれば、キリストの人格にあって喜びを得たいと思うのならば、あなたにはそれを味わうことが許されているのです。
すべてにおいて、神のみことばにこころを向けるべきです。
キリストの御名を告白するすべての者に、神は喜ぶに満ちて歩むことを求めています。
神はキリストが来られるその日まで、キリストがすべてを満足されたという告白をより決断するために、十分に、はっきりと、あなたがその中のとどまることを求めています。

終了


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