メッセージTT 2003/10/6
ヘブル人への手紙 注解 by ウォーレン.W.ワーズビー
(A Suggested Outline of HEBREWS)
1、優れたキリストの神格(1〜6章)
A、キリストは預言者たちと比較される。(1章1〜3節)
B、キリストは天使たちと比較される。(1章4節〜2章18節)
C、勧告:私たちはみことばから離れるべきではない。
D、キリストはモーセと比較される。(4章14節〜6章20節)
E、勧告:私たちはみことばを疑うべきではない。(3章7節〜4章13節)
F、キリストはアロンと比較される。(4章14節〜6章20節)
G、勧告:私たちはみことばに向かって鋭く歩もうではないか。(3章7節〜4章13節)
2、キリストの優れた祭司職
A、キリストとメルキゼデク(7〜10章):メルキゼデクよりも、アロンよりも優れた目的を持つ(7章)。
B、新しい契約、古い契約ではない(8章)。
C、聖所よりも優れている。地上ではなく、天の聖所(9章)。
D、動物ではない、神の御子のささげ物(10章)。
E、勧告:私たちはみことばを軽く見てはいけない(10章26節〜39節)。
3、優れた原則:信仰(11〜13章)
A、信仰の見本(11章)
B、信仰の忍耐(12章1節〜13節)
C、勧告:みことばに対する不従順への警告(12章14節〜19節)。
D、信仰の証拠(13章)。
ヘブル人への手紙 注解の前書き
ヘブル人への手紙は学ぶ者に対してさまざまな興味を示してくれます。
この手紙は説教として始まり、手紙として終わっています(13章22節〜25節)。
著者と思われる名前も、何のために書かれたのかその目的もはっきりと記されていません。
この手紙の中のある節を、誤ったクリスチャンたちによって誤解されているのは事実です。
私たちはこの手紙が神の民に勧めをなし、勇気付けをなすために書かれたことを思い出すべきです。
神のみことばの光にあって、私たちはこのヘブル人への手紙を学ぶことが重要です。
神のみことばであることを忘れてはいけません。
1、メッセージ
この手紙の重要なメッセージは6章1節に要約されています。
「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙6章1節
この手紙の宛てられたヘブル人たちは霊的に成長していなく、衰弱していたのです。
神は彼らに語ったのです。
しかし、彼らは神に忠実ではなかったのです。
彼らは神の教えに否定的であり、神の祝福から漂い離れていたのです。
この手紙の著者はキリストのより優れた祝福をヘブル人たちに示すことにより、彼らを勇気づけようと試みていたのです。
聖書はイエスに対してこのように書いています。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章2節
クリスチャンの持つ信仰といのちは、ユダヤ教よりも、どの宗教的な組織よりも優れているのです。
優れたキリストの神格(1〜6章)
アロンよりも優れたキリストの祭司職(7〜10章)
律法よりも優れた信仰の原則(11〜13章)
2、著者
この手紙に著者が記されていないので、多くの聖書を学ぶ者たちが何世紀にも渡っていったい著者が誰なのか論議を重ねてきました。
最初に指摘された著者はパウロです。
その他に上げられた著者はアポロ、ルカ、ピリピ、マルコ、さらにピリスクラとアクラです。
はっきりしていることはこの手紙の著者はユダヤ人であることです。
それはこの著者がユダヤ人たちに、彼がユダヤ人であることが認識されていたからです。
1章1節、2章1、3節、4章1節など
そして、この著者はテモテとともにいた者です。
「私たちの兄弟テモテが釈放されたことをお知らせします。もし彼が早く来れば、私は彼といっしょにあなたがたに会えるでしょう。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章23節
このようなことを言えるのはパウロしかありえません。
そして、パウロはいつもこのような形で恵みのことばを書いて手紙を閉じているのです。
テサロニケ人への手紙第二3章17、18節参照
そして、この手紙の著者は牢屋の中にいたことがあります。
「あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章34節
「また、もっと祈ってくださるよう特にお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章19節
そして、この問題はペテロの手紙第二3章15〜18節で解決されます。
「また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。
その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。
」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二3章15、16節
ここで、ペテロははっきりとパウロはある分散したユダヤ人に手紙を書いていることを示しています。
ペテロの手紙第一1章1節、ペテロの手紙第二3章1節参照。
そして、さらにここでペテロはパウロの手紙を聖書と呼んでいます。
今、もし、ここでパウロが海外に散ったユダヤ人に対して、霊感に満ちた手紙を書いたのであれば、すでにその手紙は失われているということになります。
ならば、神の霊感に満ちた、永遠のみことばは滅んでしまったことになります。
これは考えられないことです。
この手紙はユダヤ人だけに書かれた手紙であり、ユダヤ人ではない者がこの手紙の著者ではありません。
結論から言えば、パウロ以外にこの手紙の著者は考えられません。
この手紙の著者は、ヘブル人たち読者たちに、記事、言葉使い、形式などを当てはめて書くことのできるものです。
多くの者がこの手紙の言葉使い、形式がパウロのものだと考えています。
3、警告
ペテロはある人たちがヘブル人たちを獲得するために、聖書の中で堅いと言われていることを誤って教え、彼らを滅びへと導いていることを知らせています。
「その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。
」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二3章16節
これはその人たちがヘブル人たちから聖書を奪い取り、ゆがんで引用し、本当に聖書が何を私たちに教えているのかを曲解した結果です。
私たちはヘブル人のように人たちに、神のみことばの光の中に入るように導かなければなりません。
この手紙の中には5つの進みゆくべき勧めがあり、私たちははっきりとそれを見ることができるはずです。
「兄弟たち。このような勧めのことばを受けてください。私はただ手短に書きました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章22節
私たちはこれらの勧めがヘブル人だけではなく、私たちクリスチャンへと書かれたものだと信じています。
ゆえに、この手紙の著者は人々に自分が誰だかわかるように、自分も含めこのように書いているのです。
「私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章1節
「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章3節
「私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章1節
また、ヘブル人への手紙6章4、5節に書かれていることを多くのクリスチャンに当てはめようとするのは、この節の言わんとしている意味を悪用することです。
あるクリスチャンたちは神の恵みを間違って理解した結果、永遠に保障された神に与えられた教理を、罪を犯したときの懲らしめと曲解してしまい、人々を失望へと導いているのです。
私たちは神のみことばに対する態度の悪さのゆえに、ヘブル人たちが霊的に未熟な状態のまま生きてゆくことの危険性を学びのなら、この手紙が現在の私たちクリスチャンに書かれたものであると主張することができます。
このような不従順を、パウロは警告し、神は彼らを懲らしめて良き方向へと導こうとしていることを教えようとしていたのです。
その結果、ヘブル人たちの報いはキリストのさばきの座においてありえないのです。
(これは罪が裁かれることを言っていません。
すべての罪は十字架の上で裁かれました。
報いが無いと言っているのです。)
「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章35、36節
「彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章26節
ヘブル人たちの罪は自分たちの罪を訴えているのです。
ヘブル人たちはクリスチャンたちを警告することはできません。
ゆえに、真実なるクリスチャンは決して失われることはないのです。
5、キーワード
キーワードは「さらにすぐれた」です。
「御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章4節
6章9節、7章7節、19節、22節、8章6節、9章23節、10章34節、11章16節、35節、40節、12章24節
もう一つのキーワードは「全う」です。
「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章10節
5章9節、6章1節、7章11節、19節、28節、9章9節、11節、10章1節、14節、11章40節、12章2節、23節
ヘブル人への手紙 1章
「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章1、2節
「神が語られた」これはヘブル人への手紙におけるなんと偉大なメッセージではないでしょうか!
もし、この「神が語られた」このみことばを聞くのなら、あなたはどのようにこころを向ければよいのでしょうか!
つまり、これは私たちが神のみことばに対してどのように応答するか、その方法について語られているのです。
このヘブル人への手紙第一章で私たちは預言者たちよりも、御使いよりもすぐれた、キリストの素晴らしさを知ることができます。
1、キリストは預言者たちよりも優れた者である。(1章1〜3節)
A、人格において
キリストは神の御子です。
預言者たちは単にしもべと呼ばれている人間です。
キリストはこの世界を造り(もしくはこれらの時代を形成し)、この世界を支えています。
キリストのみことばには力があります。
キリストのみことばによってこの世界が存在し、キリストのみことばによって私たちの世界がコントロールされ、維持されているのです。
そして、キリストはすべての物の後継者です。
「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙1章16節
キリストはこの世の罪のためのささげ物です。
キリストは十字架の死によって私たちの罪を清めました。
今、キリストは栄光において王として、祭司として座しています。
キリストの働きは完了したのです。
キリストは着座されています。
B、メッセージにおいて
「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました
この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章1、2節
預言者たちの中で誰も、完全な啓示を明かした者はいません。
神は、幻をもって、夢をもって、象徴的に、出来事を通して、そして、人間の唇を通して語られました。
これらの啓示はキリストをついて証したものでしたが、ついに神からキリスト御自身が現れてくださったのです。
キリストは世に対して、最後のことばなのです。
すべての旧約聖書の啓示はキリストについてですが、いまや神は最後に、そして、十分にそのすべてを現してくださったのです。
誰も、「神からの新しい啓示」だと言って人をだまし、自慢するものはいないはずです。
神は今日において、啓示も、みこころと呼ばれる特別な応答も行っていません。
神はかつて、完全に、すべてをキリストにおいて啓示し、現してくださったのです。
2、キリストは御使いよりも優れた者である。
「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章3、4節
御使いはユダヤ教において必要不可欠な働きをしてきました。
御使いを通して律法が与えられたからです。
「では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。
」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙3章19節
「あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」
新改訳聖書 使徒の働き7章53節
「まことに国々の民を愛する方、あなたの御手のうちに、すべての聖徒たちがいる。彼らはあなたの足もとに集められ、あなたの御告げを受ける。」
新改訳聖書 申命記33章3節
聖徒の意味は「聖なる者、もしくは御使い」です。
もし、ユダヤ人が御使いを通して与えられた律法にこころを向けるのならば、キリストによって与えられたより偉大なメッセージにこころを向けるべきなのです。
なぜなら、キリストは御使いよりも偉大な方だからです。
キリストが御使いより偉大な方であることを旧約聖書から7箇所、引用しています。
A、5、6節
「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」
さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章5、6節
詩篇2編7節、第二サムエル記7章14節からの引用です。
「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章5節
「「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。
」
新改訳聖書 詩篇2編7節
「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。」
新改訳聖書 第二サムエル記7章14節
キリストはすべての物を引き継ぐ者として、キリストはより偉大な御名を引き継ぎました。
詩篇2編7節において、神はキリストを「わたしの子」と呼んでいます。
このように呼ばれた御使いはいません。
(旧約聖書において、御使いたちの集まりのことを神の子供たちと呼んでいる箇所があります。
しかし、これは御使いに個人的に与えたものではありません。)
詩篇の2編7節での内容は復活についてです。
これはキリストがベツレヘムで生まれたことを言っているのではありません。
「神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と書いてあるとおりです。
」
新改訳聖書 使徒の働き13章33節
キリストは死者の中からよみがえったのは、誰も葬られたことのない処女である墓から生まれ出たのです。
コロサイ人への手紙1章18節ではこのように書かれています。
「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙1章18節
次にソロモンについて引用されたサムエル記第二全体を読み、そして7章を注意深く読んでみましょう。
なぜ、ヘブル人への手紙の中で再び、ダビテの家として取り上げられているのかが判るはずです。
ダビテは神の家を建てたいと願いました。
しかし、神はダビテではなく、ソロモンに神の家を建てることを許しました。
神はソロモンの父であるダビテに約束したのです。
そして、それがヘブル人への手紙1章5節において、キリストへの約束に適応されています。
キリストはソロモンよりも偉大な方です。
「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章5節
「しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。
」
新改訳聖書 マタイの福音書12章42節
B、6節は詩篇97編7節からの引用です。
(もしくは、70人訳聖書と言われているギリシャ語聖書申命記32章43節からの引用と思われます。)
「さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章6節
「偶像に仕える者、むなしいものを誇りとする者は、みな恥を見よう。すべての神々よ。主にひれ伏せ。」
新改訳聖書 詩篇97編7節
この引用はこの地上に再びキリストが帰って来られることを述べています。
最初にキリストがこの地上にお生まれになった時、御使いたちがキリストを礼拝しました。
キリストが再び、この地上に来られ支配する時、多くの者がキリストを礼拝するのです。
C、7節は詩篇104編4節からの引用です。
「また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」と言われましたが、...」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章7節
御使いは霊的な存在で、神のしもべとして創造されました。
次の引用によって、キリストがしもべではなく、支配者であることが証明されす。
D、8,9節は詩篇45編6、7節からの引用です。
「御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。
あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章8、9節
詩篇45編はキリストとイスラエルの結婚を描写した、結婚の詩篇です。
神ははっきりとキリストが王座を持つことを宣言しています。
そして、父が子を神と呼んでいます。
キリストの神性を否定しようとする者たちがこれらの箇所を使って自分たちの主張を証明しようとします。
ある聖書の訳は「あなたの御座は神の御座です」と訳し、キリストの神性を否定しています。
しかし、よく読んでみてください。
キリストを神と呼んでいます。
キリストが神なのです。
E、10、11節は詩篇102編25〜27節からの引用です。
「またこう言われます。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。
これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは着物のように古びます。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章10、11節
「あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。
これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。
しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。
」
新改訳聖書 詩篇102編25〜27節
ここで再びキリストを主と呼んでいます。
キリストは宇宙の創造される始めから存在されていた方です。
被造物は衣服のようにすり切れ、腐敗し、崩壊して行きます、
しかし、キリストは変わることがありません。
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章13節
御使いは造られた存在です。
しかし、キリストは永遠の御子です。
F、13節は詩篇110編1節からの引用です。
「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章13節
「主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」」
新改訳聖書 詩篇110編1節
ヘブル人への手紙を読む鍵は詩篇110編4節の中にあります。
メルキゼデクの祭司の目的を持つ祭司は、キリストの祭司職にあるということです。
今、キリストは神の右の座に、祭司として、王として座っています。
ペテロは同じ箇所を使徒の働き2章34、35節で引用しています。
「ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』
」
新改訳聖書 使徒の働き2章34、35節
キリストの敵はいまだに、キリストの足台にはなっていません。
しかし、すぐにその日はやってきます。
14節は御使いの立場について語られています。
「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章14節
御使いは仕える霊です。
王座についた御子ではありません。
キリストの素晴らしい御業にあって救われた相続人である私たちに仕えるのが御使いの職務です。
もし、あなたがこれらの引用箇所を見るのならば、神の御子の偉大さと栄光を見ることができます。
4節で宣言されているように、キリストは御使いよりも優れたお方です。
キリストが成したように、御使いには苦しみと死を通してこのような偉大なものを受け継ぐことはできません。
性格、働き、そしてより優れた職務と対場は他の者よりもはるかに優れた方なのです。
けれども、今日の地上において、キリストの栄光に満ちた王国を見ることはできません。
キリストはいまだに、王として王座を確立していません。
ある日、キリストはこの地上に帰って来られ、この地上に義をお建てになるのです。
ヘブル人への手紙 2章
この章は、キリストが天使より優れているという論議が前章より続けられています。
そして、この著者はヘブル人への手紙の中にある5つの勧めのうち、最初の勧めの論議をここで中断しています。
1、勧め(2章1〜4節)
「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。
もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章1〜4節
この勧めは御使いによってみことばが語られたのは事実です。
そして、今は神の御子によってみことばが語られたのはより堅い土台にある真実です。
もし、旧約聖書の時代に神のみことばに不従順な者たちを記されているように取り扱ったとすれば、この終わりの時に神の御子によって与えられた神のみことばに対して、興味を持たなかったり、拒否したりする者がいるのであれば、神はどのようにこれらの者たちを取り扱うのでしょうか?
ここで述べられている拒絶の中に漂う者は非常に危険な状態にいます。
1節に述べられていることは非常にすばらしいことばです。
しかし、3節を注意して読んで見てください。
このように書かれています。
「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章3節
著者注)直訳「どうしたら、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにし、逃げることができるでしょうか!」
つまり、「出来ないでしょう」と言っているのです。
たしかに教会の信仰の悪化(形だけの信仰化)は、クリスチャンという告白がなされる時に、この偉大な救いが拒否されている状態から始まります。
ヘブル人への手紙10章19〜25節の警告を見るのなら、ここに書かれているユダヤ人たちは祈りに対して否定的であったり、教会の人たちとの交わりを拒否してように思えるかもしれません。
しかし、不従順の意味は聞くことに対して不本意なことを示します。
つまり、聖徒たちの中で神のみことばを聞くことに、そして、注意を払うことをしない者がいるのです。
これらの者たちは神の懲らしめから、逃げることはできないと言っているのです。
訳者注)クリスチャンの救いは他の手紙で記されているように、キリストの完成された御業により、失われることがありません。
ここで、言わんとしてことは、「もし、クリスチャンであるのならば、そして、もし、旧約聖書を知っているのならば、みことばに対して忠実に耳を傾けることができます。
そして、もし、拒否し続けるのなら、神はあなたを追いかけ、捕まえます。
時には、愛ゆえに懲らしめをも与えます」ということを作者は書いています。
つまり、神は「しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより」確信を与えているのです。
「そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章4節
「イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。」
新改訳聖書 使徒の働き2章22節
「そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。」
新改訳聖書 使徒の働き2章43節
神のことばはないがしろされてはいけません。
実際に、このマタイの福音書22章5節では同じことばが「気にもかけず」と訳されています。
「ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。」
新改訳聖書 マタイの福音書22章5節
2、弁解(2章5〜18節)
この手紙の著者は1章においてなされた「キリストが御使いよりも優れた存在」と言う問題に対して、どうして人間のからだを持つことが出来たのか?」という新しい問題をここで提示しています。
キリストが御使いよりも優れた存在ならば、制限を持つ人間のからだは持つことができないのでは?
「なぜ、イエスが肉のからだを持ったのか?」、この質問に対する答えがここにあるのです。
A、最後のアダム
「神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。
むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。
あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、
万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章5〜13節
聖書のどこを見ても、神が御使いたちに来ようとしている世界を支配させるとは約束していません。
神はアダムにこの世界を支配するように言ったのです。
「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」」
新改訳聖書 創世記1章28節
この手紙の著者は詩篇の8編4〜6節を引用しています。
「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」
新改訳聖書 詩篇8編4〜6節
ここで神は創世記にある祝福を繰り返し語っています。
神は、天使より低く人間を創造しました。
文字通りに「人を、神よりいくらか劣るもの」として創造しました。
これはある時が来るまでのアダムとイブのことを指しているのでしょう。
また、彼らは罪を拒否する者として創造されたのでもありませんが、神よりも小さき者として創造されたのでもありません。
この素晴らしい方法を通して、最終的に人間を神の栄光を分かち合う者とされたのです。
悪魔は人間がある期間だけ「神よりも劣るもの」とされていることを知っていました。
その時が来る前に、悪魔は急いでアダムとイブに栄光を与える約束をしたのです。
このように人間に罪が入り、アダムからこの地球の支配権が奪われました。
アダムは王ではなく、奴隷となったのです。
では、なぜ、2章8節にこのようなことが書かれているのでしょう。
「それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章8節
私たちはこの節で何を言っているのか知る必要があります。
これはイエスのことを言っているのです。
彼は死と復活による最後のアダムです。
キリストはアダムの不従順によってなされた滅びを元通りにしたのです。
「しばらくの間」、キリストは天使たちよりも低くされました。
カルバリの深さまでも....。
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙2章6〜8節
キリストはこの世界の罪の身代わりに死ぬために肉のからだを持ったのです。
人間はキリストにいばらの冠を与えましたが、キリストは栄光と誉れの冠を得たのです。
「キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」
」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二2章17節
この世界に新しい家族が出来たのです。
キリストは栄光へと多くの子供たちを導き入れています。
アダムは罪を犯し、罪と死の中へ自分の子孫たちとともに突っ込んで行ったのです。
キリストは、今、アダムの子供たちを、神の子供たちへと変えてくれたのです。
キリストは私たちの救いの開拓者です。
私たちはキリストの切り開いた道を歩んでいるのです。
私たちは「兄弟」です。
私たちは一つの家族です。
キリストの死を通して、私たちは神の性質を受け取る者となり、神の前に置かれたのです。
「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章10節
12節は詩篇22編22節の引用です。
詩篇22編はカルバリの詩篇であり、キリストの復活について話されています。
「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章12節
「私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。」
新改訳聖書 詩篇22編22節
また、13節はイザヤ書8章17〜18節からの引用です。
「またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章13節
「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。
見よ。私と、主が私に下さった子たちとは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、不思議となっている。」
新改訳聖書 イザヤ書8章17〜18節
イザヤの二人の息子はイスラエルの国へのしるしとなりました。
一人はイザヤ書7章3節にあるように「シェアル・ヤシュブ」と名づけられ、「残りの民は帰ってくる」という意味です。
もう一人の名前はイザヤ書8章1節にあるように「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と名づけられました。
その意味は「ためらわずに略奪し、急いで盗め」です。
彼らはこの国に訪れたさばきから救われたのです。
これらの人々をイザヤの子供たちと呼んでいます。
このように、キリストはユダヤ人と異邦人の中においてクリスチャンという家族を持ちました。
彼らは来ようしている神の怒りから救われたのです。
B、悪魔に打ち勝ったキリスト
「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章14、15節
死とその恐れはアダムの罪の結果です。
「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
新改訳聖書 創世記2章17節
「彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
新改訳聖書 創世記3章10節
死への恐れは悪魔のもっとも強い武器です。
悪魔は完全な死の力を持つことはできませんでした。
私たちはヨブ記から悪魔は神の許しがなければ何もできないことを知っています。
14節に書かれている力の意味は「権威」という意味よりも「脅威」です。
悪魔は罪人を、力(脅威)と闇をもっておおうのです。
「あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」
新改訳聖書 ルカの福音書22章53節
そして、キリストはその闇の力から私たちを救ってくださったのです。
「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙1章13節
悪魔は神から、神の被造物に対して「死の脅威」を得たのです。
しかし、キリストの十字架の死を通して、その力の効力を失って(滅ぼして)しまったのです。
キリストは死の恐怖に縛られていた者たちを開放してくださったのです。
キリストが人間のからだを持ったのは、このように死を滅ぼし、悪魔を負かすためであったことがわかります。
また、同様にヨハネの手紙第一3章8節を見てください。
「罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。
」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章8節
16節を見ると、この手紙の著者はキリスト御自身が御使いの性質を取っていないということの証拠なのです。
「主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章16節
別の言い方をするならば、キリストは御使いにはなっていないのです。
キリストは人間になられたのです。
それもユダヤ人の...。
キリストは御使いのために死なれていません。
キリストは人間のために死なれたのです。
堕落した御使いは決して救われません。
しかし、堕落した男女、人間は救われたのです。
C、キリストはあわれみ深い祭司になられました。
「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章17、18節
ここにキリストが人間のからだを持った三つ目の理由が記されています。
神は神の子供たちの弱さを助けるあわれみ深い祭司が必要であることを知っていました。
神は神の子供たちが苦しみに会うことをお許しになりました。
そして、この神の子供たちが味わう苦しみのために、キリストの祭司としての働きを準備しておられたのです。
「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章10節
キリストは神なので人格が完全という表現は不必要です。
しかし、人となられた神は、私たちの必要を知るために苦しみに会い、その必要を知ったのです。
キリストはベツレヘムで肉のからだを持ちました。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章14節
キリストはこの地上の生涯をすべての点で兄弟たちと同じように歩まれたのです。
「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章17節
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二5章21節
今、キリストは私たちのより頼む、あわれみ深い、忠実な大祭司なのです。
キリストに助けを求めに行くのなら、キリストは私たちを助けることが出来るのです。
「試みられている者たちを助けることがおできになる」ということばは医者が使うことばです。
私たちがキリストに助けを求める時、キリストは私たちを助けに走ってくるのです。
この箇所でなされたキリストは御使いよりも優れた方であると論議はここに完了します。
この手紙の著者はキリストが人格においても、働きにおいても、そして、御父が彼に与えた「すべてにまさる御名」においても、超越していることを記しています。
この結論は明らかです。
そして、キリストが何よりも優れているゆえに、私たちは神のみことばに耳を傾け、みことばに従うのです。
私たちは否定的になり、漂うことをやめなければなりません。
ヘブル人への手紙3章
今、私たちはキリストの「優位性」について三番目の論議に移ろうとしています。
キリストはモーセより優れています。
もちろん、モーセはユダヤ人の国家において偉大な英雄です。
キリストはモーセより、優れた存在であるということは、ユダヤ教においてキリストに信仰を置くことはモーセに期待することよりもはるかに優れているということを証明しています。
モーセがイスラエルにもたらしたものよりも、キリストの捧げられたもののほうがより偉大なものであると分かるのならば、どうしてこれらの人々はユダヤ教に帰っていったのでしょうか?
1、神の家においてキリストは偉大です。
「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙3章1、2節
モーセは主要な預言者でしたが、次のようにやがて来る優れた預言者について預言しました。
「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。
わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。
」
新改訳聖書 申命記18章18、19節
「モーセはこう言いました。「神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。
その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。」
新改訳聖書 使徒の働き3章22、3節
しかしながら、モーセに祭司としての働きがあります。
「モーセとアロンは主の祭司の中に、サムエルは御名を呼ぶ者の中にいた。彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた。」
新改訳聖書 詩篇99篇6節
さらに王としての働きもあります。
「モーセは、みおしえを私たちに命じ、ヤコブの会衆の所有とした。
民のかしらたちが、イスラエルの部族とともに集まったとき、主はエシュルンで王となられた。」
新改訳聖書 申命記33章4、5節
しかしながら、モーセは神の召しを受け、キリストは神によって送られたのです。
キリストは使者であり、送られた者です。
「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章17節
「しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。
」
新改訳聖書 ヨハネの福音書5章36節
「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章57節
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章3節
「それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。
」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章8節
「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章21節
「わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。
」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章23節
「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章25節
そして、キリストは大祭司であり、モーセでは占めることのできない役目を担っています。
さらに、キリストの職務は天的な召しを持ち、地上のイスラエルのためだけの職務ではありません。
モーセの職務は主に地上的な約束に基づくものであり、地上の人々のために職務です。
キリストの使者としての、大祭司としての職務は天的な人たちのためであり、彼らにとってこの地上は単に一時的な天への道でしかありません。
私たちはモーセが律法の預言者であると付け加えるかもしれませんが、キリストは恵みの使者です。
「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章17節
モーセは罪を犯しましたが、キリストは罪無き歩みをしました。
1節で語られたように。イエスキリストをよく考え、注意深く考えるということは何も驚くことはありません。
2、キリストはその職務において偉大です。
「家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。
家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。
モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。
しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙3章3〜6節
神はモーセが忠実な者でありことを宣言しています。
「しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。
」
新改訳聖書 民数記12章7節
モーセがキリストのごとく忠実であることがこの手紙に宣言されています。
「モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙3章2節
直訳)「モーセが神の家の中で忠実であったのと同様に、キリストは家全体に対して忠実なのです。」
しかし、この忠実という意味はこの点において区別されます。
1)モーセはしもべでしたが、キリストは神の御子です。
2)モーセが神の家の中で忠実でしたが、キリストは家全体に対して忠実なのです。
この「家」という意味はもちろん、神の家族です。
神殿でも、幕屋でもありません。
モーセはイスラエル(旧約聖書の神の家族)の中のしもべにしかありません。
しかし、キリストは神の家族全体に対して御子なのです。
今日において教会です。
「しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙3章6節
「また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章21節
「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一2章5節
「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。
」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一4章17節
「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙2章19節
この「家」ということばの例としてあげるのならば、サムエル記第二7章11節を上げることができます。
「それは、わたしが、わたしの民イスラエルの上にさばきつかさを任命したころのことである。わたしはあなたをすべての敵から守って、安息を与える。さらに主はあなたに告げる。「主はあなたのために一つの家を造る。」
新改訳聖書 サムエル記第二7章11節
この箇所で神はダビテに「ダビテの家を建てる」ことを約束しました。
これはダビテの天的な家族、その王座が永遠に立て上げられることを示しています。
イスラエルは地上的な神の家です。
そして、教会は天的な神の家です。
私たちは神の家が常に信仰によって、特徴付けられることを覚えておくべきです。
旧約聖書の時代にも、今日と同じように信仰によって人々が救われたのです。
両方の契約の下に、神の人々がともに信仰によって結ばれ続けているのです。
なぜ、ガラテア人への手紙3章7節において、真実なるクリスチャンがアブラハムの子孫と呼ばれているのでしょうか?
アブラハムが信仰の父と呼ばれています。
「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。
ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙3章6、7節
ここにモーセとキリストを対照的に見た別の二つの問題が残されいます。
A、モーセはしもべですが、キリストは御子です。
これは旧約聖書の働き、職務が民を奴隷状態にし、束縛することであることが分かります。
その反面、キリストの職務は新しい契約における自由と喜びです。
旧約聖書の律法は「重いくびき」だと呼ばれています。
「実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。
」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙2章4節
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙5章1節
「それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。
」
新改訳聖書 使徒の働き15章10節
神の子供としての権利とは、信仰によって神の家族であることを楽しみことです。
これは旧約聖書の時代には知られていないことです。
3章5節を見てください。
「モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙3章5節
私たちはキリストにおいて輝く真実なる光を持つのです。
モーセの中にいるのなら、私たちは影の中にいるのです。
もし、モーセを支持する者たちがいるのなら、彼らはユダヤ教に戻ることを意味し、成就した影と型と真実なる神の御子を入れ替えているのです。
3、キリストは神の与える安息よりも偉大です。
「ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、
荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。
あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。
だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。
わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」
兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。
「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。
聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。
神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。
また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙3章7〜19節
安息ということばは4章では12回使われています。
しかし、これは常に同じ意味を表しているのではありません。
私たちは次の章において、この言葉の意味を詳細に学びたいと思います。
しかし、私たちはここでこの言葉の意味あらましをここで学びたいと思います。
この手紙の著者は霊的な真実を説明するためにイスラエルの国家に適応して語っています。
コリント人への手紙第一10章1〜13節を参照することができます。
ユダヤ人はエジプトにおいて、奴隷でした。
まさに、この世の奴隷である罪人を表しています。
神は子羊の血をもって、イスラエルを贖ったのです。
まさに、キリストの血をもって罪人を贖うことを表しています。
神はユダヤ人たちに祝福の地を約束しました。
そして、今、私たちにはキリストにおいて霊的なゆずりの地、御自分の持つ祝福のいのちを約束したのです。
しかし、この祝福はこの世から分離した者たち、信仰によって神に従う者たちにだけ約束されたのです。
神はイスラエルを紅海を中を通しました。
エジプトからの分離は、世からの分離を表しています。
そして、神はイスラエルをカナンの地の境界線まで導きました。
申命記1章2節ではこの道のりが11日であることを私たちに知らせいます。
「ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。」
新改訳聖書 申命記1章2節
しかし、この点について語るのなら、イスラエルには不信仰にも神を信じることに反抗し、拒んだのです。
(民数記14章参照)
神はヨシュアとカルブを除いてこの集まりをさばきました。
人々の言うことに無視し、ヨシュアとカルブは神を信頼しました。
ゆえに、ユダヤ人は40年間荒野をさまよい、約束の地にスパイとしていた時も1年間を一日と数え、40日間さまよいました。
「あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。」
新改訳聖書 民数記14章34節
イスラエルの国は安息の地に入ることは出来なかったのです。
「あなたがたがまだ、あなたの神、主のあなたに与えようとしておられる相続の安住地に行っていないからである。
」
新改訳聖書 申命記12章9節
「「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主は、あなたがたに安住の地を与え、あなたがたにこの地を与える。』と言ったことばを思い出しなさい。
あなたがたの妻子と家畜とは、モーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側の地に、とどまらなければならない。しかし、あなたがたのうちの勇士は、みな編隊を組んで、あなたがたの同族よりも先に渡って、彼らを助けなければならない。
主が、あなたがたと同様、あなたがたの同族にも安住の地を与え、彼らもまた、あなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側、日の上る方にある、あなたがたの所有地に帰って、それを所有することができる。」
新改訳聖書 ヨシュア記1章13〜15節
ここでこの手紙の著者は読者に警告しています。
この者たちはキリストの血によって贖われ、この世から自由とされ、開放されたのです。
しかし、今、クリスチャンたちがこの世に戻ろうと誘惑されているのです。
もし、イスラエルとクリスチャンをこの箇所で同じと見るのなら、クリスチャンに与えられた満たされたいのち、そして、神の祝福に入ることを意味しないことになります。
3章と4章に三つの違った「安息」があります。
これらの「安息」は神の計画に関係した事柄です。
1)救いの安息
「信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章3節
「神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章10節
2)試練の中における勝利の安息、これは約束されたカナンの地によって象徴されています。
「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章11節
3)未来にある永遠の安息、天国の安息。
「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章9節
この違いについて私たちは次の章で詳細に学んでゆきたいと思います。
ここに記されている神に信頼する神の人々に対する勧めはヨシュアやカリブのように難しいもので、安息にとどまりなさいというものです。
ここでカナンは天国のことを示しているのではないことをこころにとめておいてください。
ここで言おうとしていることはカナンが祝福と戦い、そして勝利の歩みを象徴的に描かれていることです。
これこそ、私たちがキリストに従い、キリストに信頼し、キリストにあって得ている歩みなのです。
今、私たちは試練と試みの中を歩んでいることがこのカナンに表されています。
しかし、この安息はモーセによっても、ヨシュアよっても与えられることがありませんでした。
この手紙の著者は詩篇95編を引用に、イスラエルのこころのかたくなを読者に思い出させています。
イスラエルの民が困難にあった時、彼らがどのように神を怒らせ、試みたのかをあなたは出エジプト記17章を読み思い出す必要があります。
クリスチャンは試練と試みの中にある時、この日のイスラエルのようではいけないということです。
そして、ここに私たちはヘブル人への手紙のテーマを見出すことができます。
さあ、私たちは成熟を目指し、敵に打ち勝ち、キリストにあって私たちの受け継ぐべきものを求めてゆこうではありませんか!
さあ、私たちはヨルダン川を渡り(ローマ人への手紙6章に記されているように古い私たちは死んだのです)、私たちのために計画された神の与えられる財産(エペソ人への手紙2章10節)を求めてゆきましょう!
「死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙6章7、8節
訳者注)イスラエルの民が渡った水は二つあります。
一つは紅海であり、一つはヨルダン川です。
前者は世(エジプト)から、不思議なる力をもって分離させられたことを示し、後者はカナンの地に入り新しい命にあって、勝利の歩みを始める事を表しています。
クリスチャンはこのようにヨルダン川を渡り、勝利の歩みをしているはずです。
では12節にある警告はクリスチャンに適応されるのでしょうか?
「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙3章12節
もちろんです。
クリスチャンの中にも常に付きまとう不信仰の罪があります。
この不信仰はみことばを拒否するという悪いこころからでています。
その一つに救いに対する神への信頼という問題があります。
そして、もう一つ、私たちが日々、人々を導き、そして、私たちの意志と礼拝してゆくゆえの問題があります。
多くのクリスチャンがいまだに敗北の中を生き、不信仰の荒野の中をさまよっているのです。
彼らはすでのエジプトから救い出されているのです。
しかし、彼らはキリストにあって受け継ぐべきものを受け継ぐためにヨルダン川を渡り、カナンの地に入っていないのです。
ユダヤ人たちは血によって贖われ、雲によって覆われました。
しかし、多くの者が荒野で死んだのです。
では、ここで言われている問題とは。救いを失うという問題でしょうか?
もちろん、それは違います。
ここで言われている問題は勝利の人生を失い、神への信頼できずに祝福の人生を失うということです。
そして、この不信仰の悪いこころの原因とはいったい何なのでしょうか?
(1)7節と15節にあるように神の声に聞き従わなかったということです。
「ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙3章7、8節
(2)13節にあるように罪によって欺かれることを私たち自身が許していることです。
「「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙3章13節
神のみことばを聞くということはとても大切なことなのです。
もし、私たちがここで失敗するのなら、私たちはみことばから外れ始めているのです。
(ヘブル人への手紙2章1〜4節)
そして、その時、私たちは神のみことばを疑っているのです。
「また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙3章18、19節
そして、私たちはこれらの助けを必要としている者たちへの勧めをも拒んでいます。
(ヘブル人への手紙3章13節)
また、私たちはみことばに対して鈍くなってしまうまで、かたくなな不従順になってしまうのです。
(ヘブル人への手紙5章11節〜6章20節)
クリスチャンの歩みにおける罪は私たちをだますのでしょう。
始めは小さいものかもしれませんが、徐々に大きく成長してゆきます。
神を疑うことは小さいな点は、私たちを不信仰の悪いこころへと導きます。
このことをこころにとめる者はすばやく確信を手に入れるでしょう。
それは彼らが真実に救われている証拠なのです。
(ヘブル人への手紙3章6、7節)
神はクリスチャンを懲らしめ、そして、この歩みにおいてさばくことをなさいます。
しかし、私たちは神を軽んじてはいけないのです。
不信仰とはなんと重大な問題ではないでしょうか!
ヘブル人への手紙4章
この章は3章11節で始まった安息のテーマの続きです。
この箇所においてこの安息ということばが五つの違った意味で使っています。
1)創世記2章22節、ヘブル人への手紙4章4節、10節の神の安息日はまだ残っています。
「それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
」
新改訳聖書 創世記2章22節
「というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章4節
「神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章10節
2)荒野をさまよった50年間の後のカナンはイスラエルにとって本当の安息ではなかった。
「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙3章11節
3)キリストにあってクリスチャンにある安息はまだ残っています。
ヘブル人への手紙4章3節、10節
「信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章3節
4)現在、勝利者の安息はこれからあるのです。
「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章11節
5)そして、その安息は未来において、天で永遠に続くのです。
「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章9節
神の安息は私たちの救いの安息の型であり、十字架の上で完成されたキリストの働きに基づいているのです。
そして、栄光に満ちた永遠の安息日を描写しているのです。
イスラエルのカナン安息は勝利と祝福に満ちたクリスチャンの歩みに似ています。
私たちはキリストにおいて受け継ぐべき財産と、信仰による歩みに力を与えます。
この章には安息の歩みに関係した4つの勧めがあります。
1)私たちは恐れるべきです。
(4章1〜8節)
神はイスラエルの人々に安息の約束を与えました。
彼らは不信仰のゆえに不従順となり、安息に入ることに失敗したのです。
神は今日において、安息を約束しました。
試練の中にある平安、解決不可能に見える問題における勝利、その中においても勝利があるのです。
このように私たちが霊的な意味におけるカナンは安息における歩みを示しています。
下記の歩みこそが霊的なカナンなのです。
「成熟を目ざして進もうではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙6章1節
「私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙6章11節
「約束のものを相続する。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙6章12節
また、ヘブル人の読者に試みの中を進むことを覚えておくように勧めています。
(ヘブル人への手紙10章32〜39節、12章3〜14節、13章13節)
そして、私たちも旧約のイスラエルのように、古いいのちにある歩みに戻らないように試みられるのです。
神は彼らに勝利の安息を約束しました。
しかし、彼らは旧約のイスラエルのようにそこに陥る可能性を持っていたのです。
神は彼らにみことばを与えましたが、彼らは信仰によって結びつけられませんでした。
そして、彼らの歩みにも適応されませんでした。
再び、ここでクリスチャンの歩みにおいて、神のみことばの重要性が語られています。
そして、この手紙の著者このように話を進めています。
神は神の民に安息の約束をしています。
しかし、イスラエルは安息に入ることに失敗してしまいました。
ヨシュアは国としては安息の地にイスラエルを導くことができましたが、霊的な安息を与えることができませんでした。
ゆえに神の約束はいまだに有効です。
「もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章8節
「主が周囲のすべての敵から守って、イスラエルに安住を許されて後、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。
」
新改訳聖書 ヨシュア記23章1節
このように、ダビテは詩篇95編において、この安息を得るとは語っていません。
「メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。
あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。
わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない。」と。
それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、はいれない。」と。」
新改訳聖書 詩篇95編8〜11節
結論
「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章9節
このように、この手紙の著者は神の安息日の休みを未来にの入るべき安息と結び付けています。
この安息は私たちが努力し疲れて果てて入る安息ではなく、私たちに満足を与える安息です。」
神はこの万物を創造した後で疲れて安息を必要とされるような方ではありません。
では、創世記2章2節の安息は何を語っているのでしょうか?
それは神の完成と満足を語っているのです。
「たましいの安息」とは「信仰の安息」であり、キリストがマタイの福音書11章28〜30節において約束された安息です。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
新改訳聖書 マタイの福音書11章28〜30節
マタイの福音書11章28節において語られている安息は救いのことです。
そして、私たちが信仰によって受け取るべきギフトです。
マタイの福音書11章29、30節にあるように、私たちは日々、キリストのくびきを見つけ、追い詰められることもあるでしょう。
「私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章1節
上の句は警告です。
多くの神の子供たちが安息と勝利の歩みの中において、失敗しているのです。
2、力を尽くして努めるべきです。
「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章9〜12節
私たちはこの安息にはいるよう努力すべきです。
そして、この努力という言葉は2章1節に語られている「押し流される」という言葉の反対の意味を持ちます。
クリスチャンであれば、注意もせずに、不精に成長する者はありません。
ペテロの手紙1章4〜12節、そして、3章11〜18節までを注意深く読んで見て下さい。
ペテロはクリスチャンに対して、そこで努力することについて3回、勧めをなしています。
もし、私たちが努力を失ってしまったら、私たちも失敗を繰り返すのなら、イスラエルのように約束の安息と受け継ぐべき地に入ることに失敗してしまいます。
(ここで、もう一度繰り返しますが、この箇所は救いについて言っているのではなく、勝利のクリスチャンの歩みについて言っているのです。)
では、その安息に入るための秘訣とは何でしょうか?
それは神のみことばです。
そして、ヘブル人への手紙4章12節はあらゆる者の霊的な状態に対する答えです。
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章12節
もし、私たちが私たちと私たちのこころの奥にあるものを示すものの基準になるのであれば、その時、私たちは私たちの受け継ぐべき祝福に対して、失敗者となることはありません。
イスラエルは神のみことばに逆らい、神のことばを聞かなかったのです。
「メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。
」
新改訳聖書 詩篇95編8節
それゆえ、イスラエルは40年間の荒野をさまよったのです。
神のみことばは剣です。
「また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
」
新改訳聖書 黙示録1章16節
「「また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。
2:13 「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。
--中略--
だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」
新改訳聖書 黙示録2章12〜16節
「その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。
」
新改訳聖書 黙示録19章13節
「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
」
新改訳聖書 エペソ人への手紙6章17節
みことばはこころを刺し通します。
使徒による働き5章33節、及び、7章54節を見てください。
そこでイスラエルの人たちはみことばに従うことを拒んでいます。
「彼らはこれを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうと計った。
」
新改訳聖書 使徒による働き5章33節
「人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。」
新改訳聖書 使徒による働き7章54節
多くのクリスチャンが神のみことばを聞くことに、そして、こころにとめることに失敗しています。
このように多くのクリスチャンたちの祝福が奪われているのです。
霊的な成長には努力も必要です。
そして、信仰をもって神のみことばを自分自身に適応してゆく必要があるのです。
3、「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章14節
14節は「私たちは救いを堅く保とう」と言っているのではありません。
このみことばは「告白」と言っています。
「私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙3章1節
「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章23節
「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章13節
告白とはキリストに対する信仰によるクリスチャンの証言であり、キリストに対して忠実に歩むこと、約束された祝福を得たという証をも含まれています。
ヘブル人への手紙10章34、35節を読んで見てください。
「あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。
ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章34、35節
荒野をさまよっていたユダヤ人はこの告白を失ってしまいました。
彼らはエジプトから贖われ、今だに雲も下にいるのです。
神の力を信じない何ともあわれな告白です。
神は彼らを導いているのに、彼らは神を信頼せず、告白に至っていません。
彼らの不信仰は彼らから祝福を奪ってしまいました。
なぜ、11章において、ユダヤ人読者に偉大な信仰者たちの名前をあげて思い出させているのでしょうか?
これらの人たちは困難な試練に直面しました。
そして、彼らはその中においてもこの良き告白を勝ち取り、信仰を維持したのです。
ヘブル人への手紙11章13節にて、これら信仰の人々の告白があります。
「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章13節
エノクが天に移される前にエノクの告白が記されています。
「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章15節
この章の終わりまで、手紙の著者はこれら信仰の人々の告白に対してこのように言っています。
「この人々はみな、その信仰によってあかし(告白)されましたが、約束されたものは得ませんでした。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章39節
どこに信仰が必要なのでしょうか?
どこに良き告白が必要なのでしょうか?
何が不信仰なのでしょうか?
そこには告白があったでしょうか?
どこから信仰がやってくるのでしょうか?
「昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章2節
ローマ人への手紙10章17節にこのようにあります。
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
」
新改訳聖書 ローマ人への手紙10章17節
旧約聖書において、イスラエルは神のみことばを聞くことに失敗しました。
ゆえに、彼らは信仰を持つことが出来なかったのです。
ヘブル人への手紙3章7節、11節、そして、4章7節に同じ警告が繰り返されています。
「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章7節
今日において、クリスチャンは良き告白を維持するために神のことばを聞き、心にとめるべきです。
クリスチャンはこの世に対する告白を失ってはいけません。
4.私たちは大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章15、16節
これらの章で証明されていることはクリスチャンは決して救いを失うことがないということです。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
この方は私たちが耐えなければならない試練をすべて試みみられた方です。
私たちに試みが来た時、私たちは恵みの御座に立ち返り、キリストによってのみ助けを得ることが出来ます。
この手紙の著者はこの後にある章のテーマをすでに確信しているのです。
しかし、この著者は勇気を失い、これ以上私たちが進むことができないと言う事がないように勧めをなしているのですが、私たちは簡単に次のようなことを言うべきではありません。
クリスチャンでヨルダン川を渡り、敵に打ち勝つ力など持つ者もいません。
ゆえに、私たちには大祭司がいるのです。
キリストの大祭司は哀れみと恵みに満ちています。
また、必要な時に私たちを助けることの出来るお方です。
なぜ、この手紙の著者はここで「御座」について述べているのでしょうか?
それは出エジプト記25章17〜22節において述べられていることです。
「また、純金の『贖いのふた』を作る。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。
槌で打って作った二つの金のケルビムを『贖いのふた』の両端に作る。
一つのケルブは一方の端に、他のケルブは他方の端に作る。ケルビムを『贖いのふた』の一部としてそれの両端に作らなければならない。
ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で『贖いのふた』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『贖いのふた』に向かうようにしなければならない。
その『贖いのふた』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。
わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。」
新改訳聖書 出エジプト記25章17〜22節
ここで記述されているのは金の哀れみの座(贖罪)についてです。
契約の箱は金で包まれた木の箱でした。
契約の箱の一番上の両端にモーセは金の哀れみの座(贖罪)をケルビムといっしょに置きました。
しかしながら、旧約の時代この場所は恵みの御座ではありませんでした。
律法の束縛のくびきによってイスラエルの国家が縛られていたからです。
ヨハネの福音書1章17節にこのようにあります。
「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章17節
キリストは私たちにとって哀れみ(贖罪)の御座です。
私たちがキリストのところへ行くとき、そこはさばきの座ではなく、そこは恵みの御座です。
そして、私たちはそこでキリストと会い、私たちはそこで強くされるのです。
訳者注)ギリシャ言語"ilasmos"はヨハネの手紙第一2章2節では「なだめの供え物」と訳され、他では「贖いのふた」とも訳されています。
この章を繰り返し読んでください。
あなたはこの章に書かれていることが救いをなくすということを書いていないことに気が付くはずです。
むしろ、あなたは勇気付けられ、神のみことばに生き、祈りに励むはずです。
そして、キリストは私たちを安息と祝福に満ちた霊的なカナンに入れてくださったことが分かるはずです。
霊的な訓練は霊的に進めませることができます。
ヘブル人への手紙5章
ヘブル人への手紙の最初の2章において、キリストが預言者よりも、御使いよりも偉大であることをこの手紙の著者は示しています。
また、3、4章においてキリストはモーセよりも偉大な方であることが示されました。
今、この著者はアロンに対して目を向けています。
イスラエルの最初の大祭司です。
しかし、キリストはアロンよりも偉大な大祭司なのです。
もし、この手紙の読者がユダヤ教に目を向けて、キリストを捨てるのならば、彼らは偉大な大祭司とより低い大祭司とを入れ替えることになります。
この手紙の著者は少なくとも、三つの方法を通してキリストがアロンよりも優れた大祭司であることを示しています。
1、キリストはより偉大な任命を受けています。
「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙5章1節
「まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。
同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われた方が、それをお与えになったのです。
別の個所で、こうも言われます。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙5章4〜6節
アロンは人々の中から選ばれ、大祭司としての地位を得ました。
そして、大祭司としての地位は長子によって継がれてきました。
アロンはレビの部族に属しています。
このレビ部族はイスラエルの国のために祭司の部族として置かれているのです。
しかし、キリストの任命はこのアロンよりも優れているのです。
まず、最初に言えることはキリストは単なる人間ではありません。
キリストは人のからだを持った神であり、神の御子であり、神の人です。
キリストはこの大祭司の務めの誉れを自分自身で得たのではありません。
コラの子たちは祭司の務めを自ら得ようとし、その罪のために死んだのです。
(民数記16章参照)
しかし、神御自身が神の御子を任命したのです。
ここでこの手紙の著者は詩篇110編4節を引用しています。
神はここで神の御子を永遠の大祭司の務めに任命しているのです。
「主は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」
新改訳聖書 詩篇110編4節
ヘブル人への手紙5章5節にある詩篇2章7節の引用はキリストに結び付けられています。
詩篇2章7節はキリストの復活のことが述べられ、キリストの祭司としての務めが描かれているのです。
「「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。
」」
新改訳聖書 詩篇2章7節
使徒の働き13章33節にも同様に引用されています。
「神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と書いてあるとおりです。」
新改訳聖書 使徒の働き13章33節
ヘブル人への手紙7〜10章のメインテーマはメルキゼデクの祭司の務めについてであり、私たちのその詳細に入ろうとしています。
あなたはこの箇所を学ぶ前に、創世記14章17〜20節を読んで見たいと思いませんか?
ヘブル人への手紙7〜10章の議論点は、キリストの祭司職はアロンではなく、メルキゼデクに属する祭司職よりも偉大だということです。
「メルキゼデク」の言葉の意味は「義の王」という意味です。
同様にメルキゼデクはサレムの祭司であり、「サレム」の意味は「平和」です。
アロンは祭司であり、王ではありませんでしたが、メルキゼデクは王であり、祭司でした。
そして、キリストも同様に王であり、祭司である方です。
キリストは王座に座った祭司です。
そして、キリストの務めは平和であり、安息、平和は3、4章で論議されたテーマです。
キリストはユダ族の出身であり、王の部族です。
祭司の部族である、レビ部族の出身ではありません。
メルキゼデクは突然、創世記14章に現れ、話の途中で突然消えます。
メルキゼデクには始めも、終わりも記されていません。
このようにメルキゼデクはキリストの永遠の御子としての存在と比較することができます。
キリストには始めも、終わりも存在しません。
アロンは死んで、その祭司職も他の者と入れ替わってしまいました。
キリストは決して死ぬことのない、永遠の祭司の務めを持っています。
アロンの部族は地上の大祭司の部族です。
しかし、キリストは天国の国民のための永遠の大祭司です。
2、キリストはおおいに「思いやる」ことのできる方です。
「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。
そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙5章2、3節
「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。
キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び...。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙5章7、8節
キリストはただ、神に選ばれた大祭司だというのではありません。
キリストは神の民を助けるために「思いやる」ことができなければなりません。
もちろん、アロン自身もただの人間なので、個人的にはイスラエルの民を弱さを思いやるを知っていました。
現実に、アロンは彼自身にためにも、自分の家族のためにも捧げ物を捧げていました。
しかし、キリストは神の民の必要と問題の中に入り、より確実な助けをなすことが出来ます。
7、8節では私たちにキリストの受けられた試みについて語られています。
キリストは地上にいる間、苦しみに耐えられたのです。
私たちは覚えておく必要があります。
キリストは神として試みに会う必要などありませんでした。
しかし、人として、キリストは哀れみに満ちた大祭司になるためにキリストが試みと苦しみに会う必要があったのです。
ヘブル人への手紙2章9、10節で議論されたテーマはキリストが試みに会う必要があったということでした。
「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章9、10節
キリストが苦しみを耐えられたゆえに、ユダヤ人たちはキリストを見下げ、キリストの神性に疑問を問いかけるかもしれません。
しかし、この苦しみこそがキリストの神性のしるしなのです。
神は神の御子をイスラエルの民の大祭司と比較しています。
7節を見てください。
ここではゲッセマネでの祈りについて述べています。
(マタイの福音書26章36〜46節)
注意してください。
ここでキリストは「死から」救い出してくださいと祈っているのではなく、死の外へと救ってくださいと祈っているのです。
キリストは御父に十字架から救い出してくださいと祈っているのではなく、墓の中からよみがえらせてくださいと祈っているのです。
そして、この祈りの答えられました。
確かに、キリストは十字架に向かうことを喜びとし、神の注がれた杯の飲む準備ができていました。
(ヨハネの福音書12章23〜34節)
ある人はこのように言うかもしれません。
「神の御子ならば、他の人間よりも私たちクリスチャンの受ける試みについてよく知ることができるはずだ!
アロンだってわかったんだから!」
このように言うのであれば、まず最初に知るべきことがあります。
キリストは完璧に私たち一人、一人が受ける試みについて経験する必要がありました。
キリストはすべての人の受ける誘惑と、サタンの与える試みを味わい。十分にテストされたのです。
私たち死ぬべき人間が受けるあらゆる困難な試みを私たちが受ける前から、キリストが私たちの受ける困難を現実に乗り越えられることを証明されているのです。
50トンの重さに耐えられる橋が1トン多く耐えられるかテストをするならば、その1トンが2トンのように感じられるかもしれません。
しかし、キリストは私たちよりも多くの試みを味わったのです。
3)キリストはささげ物よりも偉大な存在です。
「そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙5章4節
「完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。
この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。
あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙5章9〜14節
アロンの主な職務はイスラエルの国家のためにささげ物を捧げることです。
贖いの日は特にです(レビ記16章)。
祭司とレビ人たちはその年のイスラエルの民のためにその職務を果たします。
贖いの日、多くの者たちが大祭司を見上げますが、血を携えて聖所に入れるのは祭司だけです。
これらのことを始める、一番最初に祭司は自分自身のためにささげ物を捧げます。
注意してください。
キリストにはこの必要がありません。
罪なき神の子羊には、罪のためのささげ物は不要です。
キリストの民のためのささげ物は、動物ではなく、キリスト御自身です。
それ以上に、キリストは何回もささげ物を繰り返す必要がありません。
キリストは御自身を捧げる必要があり、問題すべては解決されたのです。
キリストはアロンよりも、その子孫たちよりも偉大なのです。
キリストは「とこしえの救いを与える者」なのです。
アロンはこのようなことは出来ませんでした。
雄牛とヤギの血は、罪をおおうだけでしたが、キリストの血は罪を取り除きました。
この手紙の著者はキリストの天的な祭司職をより深く学ぶことを欲しています。
しかし、この著者はある問題に気が付きました。
この問題とは、著者の学びが難しいという問題ではなく、もしくは難しいことを学ぶいう問題ではありません。
それは聞き手が鋭さを所有していないということです。
彼は乳から離れて欲しかったのです(6章1、2節に掲げられているリストはクリスチャンにとって基礎的なことです)。
そして肉を与えたかったのです(天におけるキリストの祭司職)。
もし、これをなさなかったのならこの手紙の読者はそれ以上に目を覚ますことや、成長は不可能なのです。
「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙6章1、2節
どのくらい多くのクリスチャンたちがこのミルクによって生きているでしょうか?
彼らは福音のABCとキリストの地上にあった働きとを理解しているかもしれません。
しかし、現在、キリストが天においてなされている働き、つまり、肉からの栄養を取ることをしません。
彼らはキリストを救い主として知っているでしょう。
しかし、キリストが彼らのために、大祭司として何をしているのか理解していません。
これらの人々は誰かに導かれ、人の教えによって十分に救いを知っていたでしょう。
しかし、霊的な老衰に入って行ったのです。
誰かが、彼らが忘れてしまったことをもう一度教えなければならない状態でした。
この手紙の読者にとって、みことばは経験なしであり、単なる教理でした。
(13節には「通じてはいません」となっています。)
私たちにとって神のみことばは必要、不可欠なものであることを思い出すべきです。
私たちにとって神のみことばは私たちの霊的な成長を決定付けます。
多くの人々が神のみことばから離れて、押し流されてしまったのです。
「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章1節
神のみことばを疑ったのです。
(ヘブル人への手紙3、4章)
そして、みことばに対して鈍くなったのです。
彼らはみことばと世における日々の歩みとを混ぜ合わせて教理としました。
彼らは「見分ける感覚を訓練」することをしなかったのです。
彼らの成長は鈍くなり、霊的な生き方から離れてしまったのです。
彼らは前に進む代わりに後退してしまいました。
「私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙6章1節
クリスチャンは知識において成長を促し、恵みにおいて実際に成長するのです。
「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二3章18節
私たちは私たち自身とキリストについてより知ろうではありませんか!
私たちは霊的により進むことができます。
あなたはどのように霊的な成長を促していますか?
あなたはまだ、幼子で、乳を飲んで成長しているのですか?
不信仰で荒野をさまよいたいのですか?
あなたはみことばを肉として成長していますか?
あなたは神のみことばを実践することを習慣といていますか?
これは頭の中の単なる教理ではありません。
神における現実です。
ヘブル人への手紙6章
他の聖書箇所と比べて、多くの人がこのヘブル人への手紙6章をゆがめて読んできました。
純粋なクリスチャンでさえ、信仰から「離れる」という聖書の教えを、信仰から落ちる(堕落)と置き換えているのはなんとも不運なことです。
この章における、解釈を学者たちにおいてさまざまな意見を述べましたが、この必要もないと思います。
しかしながら、これらの意見を聞いてみるのを正しい信仰を持つ秘訣だと考えます。
1)もし、クリスチャンが背教化してしまうなら、救いを無くす可能性がある。
2)ほぼ救われた状態だが、彼らはキリストを信頼して歩むことから離れてしまった。
つまり、救われていなかった。
3)ユダヤ人の神殿がまだ建っており、このことはユダヤ人たちに語られたのです。
つまり、ユダヤ人にだけ適応される罪のことを言っている。
4)これは現実に起こるはずの無い予想を述べているだけである。
その他にも、さまざまな見方がありますが、私たちはこのような考えを拒まなければなりません。
私はヘブル人への手紙6章がクリスチャンたちに安息を与えるために書かれたものと感じています。
しかし、この章は「救いを失う」というクリスチャンに起こるべき罪の結果を描写しているのではありません。
もし、私たちがこの思いを持って聖書のこの箇所を引用するならば、もし、私たちがみことばに対してこのような態度を取るのならば、この章が悔い改めと救いの確信を持つために与えられていることを知り、それを疑う者たちへのメインレッスンを受けなければならなくなるのです。
1、訴え
「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。
神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙6章1〜3節
この手紙の著者はこの手紙の霊的に鈍感になってしまったことについて、さまざまな非難をしました。
(5章11〜14節参照)
今、この著者は読者に成熟(完全)を促しています。
これはこの手紙のメインテーマです。
「成熟(完全)」という言葉はルカの福音書8章14節にある、いばらのたとえに使われている「実が熟するまでにならない(実が完全ではない)」という言葉と同じ言葉です。
「いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。」
新改訳聖書 ルカの福音書8章14節
これはこの後のヘブル人への手紙6章7、8節に使われている土地を例えのイメージと結びついています。
「土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。
しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙6章7、8節
「目ざして進もうではありませんか」という訴えは文字通りに「続ける」もしくは「至る」という意味です。
同じ言葉がヘブル人への手紙1章3節では「保っておられます」と訳されています。
言い換えるなら、この著者は自分の努力で前進しようとは言っていないのです。
彼はヘブル人への手紙の読者に神の力によって進もうと言っているのです。
その力はこの世界全体を支えている神の力なのです。
では、どのように私たちは神の力により頼めばよいのでしょうか?
私たちが先に進む代わりに、2、3節に描写されているような土台を置こうとユダヤ人クリスチャンたちが試みたのでしょうか?
このようなクリスチャンの信仰の土台とは違った6つの教義がありました。
むしろ、これらはユダヤ教の教義と言った方が良いでしょう。
ヘブル人クリスチャンたちには火のような迫害が迫っていました。
彼らはクリスチャンと告白することにより迫害され、落伍者になるという恐怖心を抱いていました。
「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙4章14節
「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章23節
このユダヤ人クリスチャンたちはすでに幼子になっていたのです。
「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙5章12節
今、彼らはユダヤ教に戻りたかったのです。
このように、彼らにはキリストの足跡と、クリスチャンとしての歩みの十分な光の土台を教えられる必要がありました。
彼らには死んだ行いからの悔い改めが必要です。
この死んだ行いとは律法の下にある働きのことを述べています。
彼らは確かに神に対する信仰を持っていました。
彼らは確かに洗いに対する教義を信じていました。
これはバプテスマのことではありません。
レビ人たちの儀式についてです。
マルコの福音書7章4、5節とヘブル人への手紙9章10節を見てください。
「また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。
パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」
新改訳聖書 マルコの福音書7章4、5節
「それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章10節
レビ記16章21節では、贖いの日に手を置く儀式については述べられています。
「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。」
新改訳聖書 レビ記16章21節
これを信じることは、真実なユダヤ人たちは未来における復活とさばきについて語っていると理解していたからです。
もし、彼らクリスチャンユダヤ人たちが前へ進もうとしないのなら、彼らは後戻りするでしょう。
これはクリスチャンである光を捨て、ユダヤ教の影を追い続けることなのです。
2)議論
「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。
しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙6章4〜8節
ここで言われて問題は最初から救いではなく、悔い改めであることに気を付けて下さい。
もし、これらの節が救いについて語っているのなら、クリスチャンは救いを無くすという教理がここにあることになり、クリスチャンの回復はありえません。
ならば、救いは私たちの働きの一部に依存していることになり、もし、私たちが救いを失ったのならばもう一度立ち返ることはできません。
しかし、もしこの章の主題が神のみことばに対するクリスチャンの態度の悔い改めならば、4、5節に描写されているのは現実のクリスチャンのことを言っているのであり、9節でこの手紙の著者が言ってことは彼らが真実に救われていることを信じています。
「だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙6章9節
私たちはここで述べられているほとんど人たちが救われているとは言っていません。
しかし、ここでは現実にクリスチャンと呼ばれている人たちでしょう。
6節には「堕落して」と「十字架にかけて」という二つのキーワードがあります。
最初の「堕落して」という単語は、英語で"apostasy"、ギリシャ語で
"parapipto"ギリシャ語の意味は「背教」という意味で、「脇から落ちる」、「さまよう」という意味もあります。
ガラテア人への手紙6章1節では「陥る」という訳がされています。
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙6章1節
6節は、神の霊的な祝福を経験したクリスチャンが、不信仰ゆえに脇から落ち、もしくは過ちに陥ったことを言っているのです。
つまり、ヘブル人クリスチャンたちが神の懲らしめに会う危険性について語っている箇所です。
(ヘブル人への手紙12章5〜12節参照)
そして、彼らは信仰からさまよう危険性をも語っています。
(コリント人への手紙第一9章24〜27節参照)
これは報いを失い、神を見失った結果であり、救いを失ったということを言っているのではありません。
「自分で神の子をもう一度十字架にかける」人たちは、「十字架にかけている人たち」と訳されるべきです。
つまり、ヘブル人への手紙6章4〜6節で言っている「そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません」というのは罪を犯したクリスチャンが悔い改めることができないと言っているのではありません。
そのようなことをしているのであれば、キリストを十字架にかけているのあり、悔い改めることもできない状態であることを言っています。
つまり、罪を犯し続けているクリスチャンは悔い改めずにいるのだと言っているのです。
訳者注)このユダヤ人クリスチャンたちはユダヤ教に戻ろうとしていました。
このユダヤ教がメシアを拒み、キリストを十字架に架けたのです。
今、彼らはキリストにある恵みから落ちて、キリストを十字架に架けたユダヤ教に戻ろうとしていました。
まさに、彼らはユダヤ教に戻って、「自分で神の子をもう一度十字架にかけ」ようとしていたのです。
サムソンとサウルがその適例です。
同様に、ヘブル人への手紙12章14〜17節はエサウを例にあげています。
また、7、8節は神の炎の試みに対する、真実なイメージを関連付け、その具体例が述べられています。
そして、コリント人への手紙3章10〜15節とヘブル人への手紙12章28、29節は上記の節、同様に私たちに真理を投げかけられています。
神は私たちが実を結ぶように私たちを救ったのです。
ゆえに、ある時、神は私たちを試みに会わせます。
もし、私たちが不適合ならば、火によって試みられます。
注意してください。
燃やされるのは本人ではなく、その実です。
その者は救われるでしょう。
しかし、その実は焼かれるのです。
「もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一3章15節
確かに、これらの節は難しい節です。
クリスチャンは自分たちの霊的な生き方にあって、堕落し、キリストに恥をかかせる事があるかもしれません。
この者たちが罪の中を生きているならば、彼らは悔い改めに至ることはありません。
そのように、彼らは神の懲らしめに会う危険性を秘めているのです。
そして、ヘブル人への手紙10章30節に書かれているように、恵みを言い訳にしてはいけないことをクリスチャンは思い出すべきです。
「「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章30節
3、保証 ヘブル人への手紙6章9〜20節
この手紙の著者は聖書のあらゆる個所で教えられているように、永遠の保証について、固い確信を私たちに教え、この章を閉じようとしています。
この著者が彼らに示そうと思った点は、その歩みにおいて、真実なクリスチャンとはどのようなものかを、あらゆる証拠を持って彼らに思い出させようとしています。
私たちは、信仰、希望、愛がこの節の中に描かれていることを知るべきです。
そして、これらの性質によって、真実なクリスチャンの姿が証明されるのです。
「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一1章5節
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
」
新改訳聖書 ローマ人への手紙5章1〜5節
しかし、このヘブル人クリスチャンたちにこの著者は聞くことに鈍くなってはいけないことを警告しています。
神は彼らに約束を与えています。
彼らに与えられたのは、単に信仰を働かせるというだけではなく、祝福を受け取るために忍耐が必要だということです。
この著者は忍耐ある信仰を描くためにアブラハムを例にしました。
アブラハムは確かに罪を犯しました。
それも、2回も繰り返したのです。
それでも、神はアブラハムに約束を与え、その約束を守り通したのです。
そのように、神の契約は彼の信仰の忠実さによらず、神がその約束を守り通したのです。
神の聖徒たちは神の忠実さによって守られているのです。
神は創世記22章16、17節の約束によって、神が御自身によって誓うことを通して、その事実を証明しています。
「仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。」
新改訳聖書 創世記22章16、17節
アブラハムは自分の良さとか、忠実さをもって、祝福された神の約束を受け取ったのでありません。
神の忠実さを信じたのです。
17節において、この著者はアブラハムが約束のものを受け取ったのは、彼が神の勧告と約束の相続人になったゆえであることを語っています。
「そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙6章17節
では、これらの相続人とは誰のことを言っているのでしょうか?
この相続人とは真実なるクリスチャンであることが18節に記されているのです。
「それは、変えることのできない二つの事がらによって、――神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。――前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙6章18節
同様にガラテア人への手紙3章も参照にしてください。
ここには「変えることのできない二つの事がら」があります。
神の約束(決して神は偽ることができません)と神の誓い(神は決して変わることがありません)です。
神の変わることのないみことば、そして、神の変わることのない性質は、私たちにあらゆる必要と与え、私たちが永遠に救われて、守られているという確信を与えるのです。
私たちは私たちに平安を与える希望を持っています。
そして、この希望こそがキリスト御自身であることを知るのです。
「――律法は何事も全うしなかったのです。――他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。
また、そのためには、 はっきりと誓いがなされています。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章19、20節
「私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエスとの命令による、キリスト・イエスの使徒パウロから、信仰による真実のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。」
新改訳聖書 テモテへの手紙第一1章1、2節
キリストが私たちに平安を与える船の「いかり」の役割を果たしているのなら、どのように私たちは霊的に漂ようことができるのでしょうか!
私たちには先駆者であるキリストがいます。
キリストは私たちに道を開き、その日、私たちはキリストと連なり、キリストの栄光を見ることになります。
この章で語らえていることは、クリスチャンのたましいが失われるどころか、不信仰と悔い改めないこころに警告を与え、キリストにあって永遠に平安を持っていることを彼らに確信を与えているのです。
ヘブル人への手紙7章
この章はへブル人への手紙の中にある二つ目の大きな区分の入り口です。
キリストの大祭司はアロンよりも優れているということが、この手紙の著者がこの区分において示そうとしていることです。
(8章4節ではアロンの子孫たちによって引き継がれていることが示されています。)
キリストが大祭司になった目的はアロンよりも優れた目的を持っているゆえです(7章参照)。
また、キリストはさらに優れた契約の下にいるのです(8章参照)。
キリストは優れた幕屋です(9章参照)。
さらに、キリストは優れた捧げ物なのです。
7章の鍵は、アロンよりも優れた、王であり、祭司である、不思議なる人物、メルキゼデクについて語られています。
メルキゼデクは旧約聖書に2回現れています。
「こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。
また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。
彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。
あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。」
新改訳聖書 創世記14章17〜20節
「主は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」
」
新改訳聖書 詩篇110編4節
この手紙の著者はアロンよりも優れたメルキゼデクを証明しようと、論議し、私たちに語りかけています。
1、歴史的な論議
この手紙の著者は最初にメルキゼデクとアブラハムを紹介しています。
そして、メルキゼデクがキリストの型である事を証明しているのです。
メルキゼデクは、キリスト同様、王であり、祭司です。
アロンの家系は祭司の家系であり、王座に座ることはありませんでした。
事実、アロンの祭司職は座ることがありません。
彼らの仕事はいまだに終えていないからです。
幕屋にも、神殿にもいすがありません。
ヘブル人への手紙10章11〜14節にはこのように書かれています。
「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。
しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章11〜14節
さらに、メルキゼデクはサレムの王であり、「サレム」の意味は平和です。
そして、イエスは平和の王であり、私たちにとって平和の君主です。
「メルキゼデク」の意味は義の王であり、キリストに適応されるべき名です。
キリストは神の義の王なのです。
メルキゼデクの名と職務に現されているように、メルキゼデクはキリストを美しく表現しています。
もちろん、キリストは肉においては処女マリアから生まれましたが、神としてはメルキゼデクに起源も記されていないように、キリストにもその起源が存在しません。
そして、聖書にはメルキゼデクの死の記録が記されていません。
もちろん、メルキゼデクには両親がいなかったとか、死ななかったと言っているのではありません。
単に、旧約聖書にはその記録がされていないということです。
このようにメルキゼデクはキリストに似たものであり、メルキゼデクの祭司職は永遠なのです。
「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章3節
メルキゼデクの祭司職は地上で引き継がれるものではありません。
その反面、アロンの祭司職はその部族によって守られています。
ネヘミヤ記7章64節を見てください。
彼らの祭司職が守られなかったことが記されています。
「これらの人々は、自分たちの系図書きを捜してみたが、見つからなかったので、彼らは祭司職を果たす資格がない者とされた。
」
新改訳聖書 ネヘミヤ記7章64節
アロンから出たあらゆる大祭司が死んでゆきました。
しかし、キリストはメルキゼデクのように、祭司職を永遠に持っています。
「一方では、死ぬべき人間が十分の一を受けていますが、他のばあいは、彼は生きているとあかしされている者が受けるのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章8節
「その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章16節
「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章24、25節
つまり、この手紙の著者はメルキゼデクの祭司職がアロンよりも優れていると言っているのです。
メルキゼデクの祭司職によって、キリストの祭司職を確認しているのです。
アロンがまだ、アブラハムの腰の中にいた時に、すでにメルキゼデクの祭司職が存在していたのです。
メルキゼデクがアブラハムを祝福した時、メルキゼデクはレビの家をも祝福したことになったのです。
「いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章7節
ユダヤ人の神殿において、アロンの家は十分の一を受け取りました。
創世記の14章を見るならば、アブラハムの腰の中にいた祭司はメルキゼデクに十分の一を捧げているのです。
この記事を通して、アロンの祭司職がメルキゼデクよりも劣っていることが証明されています。
2.教理的な論議
キリストとアロンははっきりとアロンよりもメルキゼデクが優れているという歴史的根拠路を打ち建てました。
この手紙の著者は教理的な面から見ても、メルキゼデクが優れていることを示しています。
ここで著者は詩篇の110編4節を引用しています。
「主は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」」
新改訳聖書 詩篇の110編4節
これがこの論議の基礎であり、三つの事実を私たちに示しています。
A、アロンはメルキゼデクと入れ替わる存在です。
「さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、――民はそれを基礎として律法を与えられたのです。――それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。
祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、
私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。
私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。
もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。
その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。
この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」
一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、
律法は何事も全うしなかったのです。他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章11〜19節
詩篇110編4節で神はキリストについて語っています。
神は実際にアロンの祭司職を除いてしまったのです。
神に対して、二つの祭司職が存在することは不可能です。
アロンの古い目的を持った祭司職は弱く、効果がありませんでした。
神は現実に新しい祭司職を打ち建てたのです。
それは同様に、律法の下にあるアロンの祭司職という機能は廃止されたことを意味しています。
19節にこのように書かれています。
「律法は何事も全うしなかったのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章19節
それは「もしレビ系の祭司職によって完全に到達」できなかったことを示し、ささげ物によっては「完全にすることができない」ことを教えています。
もちろん、ヘブル人にとって完全ということばは神の前に立ちことのできる、罪の無い状態を「完全」と言っています。
アロンは肉についての戒めである律法によって祭司となりましたが、キリストは「朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。」
それはキリストはアロンのように死ぬべき存在ではなかったからです。
B、アロンは誓いによって祭司になったのではない。
「また、そのためには、 はっきりと誓いがなされています。
彼らのばあいは、誓いなしに祭司となるのですが、主のばあいには、主に対して次のように言われた方の誓いがあります。「主は誓ってこう言われ、みこころを変えられることはない。「あなたはとこしえに祭司である。」」
そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章20〜22節
アロンとアロンの後継者たちは出エジプト記28〜30章に描かれているように、念入りに計画された儀式において、神に認識された者たちでした。
しかしながら、彼らの祭司職は誓いを持ってなされたものではありません。
事実、彼らの祭司としての任命には誓いが伴うことはありませんでした。
彼らの祭司職は、任命された時からある期間まで間続けられたのですが、キリストが祭司職は、キリストの変わらない誓いによって確認されているのです。
C、アロンとアロンの後継者たちは死にました。
しかし、キリストは永遠に生きる方です。
「また、彼らのばあいは、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。
しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章23〜24節
律法は聖であり、正しいものです。
しかし、律法は肉の弱さゆえに限界があります。
アロンは死にました。
彼の子供たちも、彼の死後、同様に死んでゆきました。
しかし、キリストはこれ以上死ぬことはありません。
キリストは終わりなきいのちの力ゆえに生きています。
その力によって変わらない祭司職を持っているのです。
キリストは永遠に生き続ける方であり、神の民の永遠の仲介者となったのです。
このようにキリストは神の民を最後まで救い続けることができるのです。
(たましいの救いではありません。クリスチャンの日々の歩みにおける救いです。)
たびたび、私たちは25節を失われることだと考えます。
しかし、ここで中心として考えられていることは日々、キリストの仲介によって神の民が救われ続けているということを語っているのです。
「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章25節
キリストはどのような所からも、私たちを救うことができます。
どのような罪人であっても、永遠に、完全に救い出すことができるのです。
その通り、ここで言おうとしていることは私たちを永遠に、完全に救い出すことができるということです。
3、現実的な論争
キリストとクリスチャンについて、このように書いています。
「また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。
ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章26、27節
キリストの祭司職は、私たちにふさわしいものであり、私たちの必要を満たします。
これらの節で言われていることはキリストに言われるべきことであり、アロンの子孫に適した言葉ではありません。
アロンの子孫たちは「聖なる、傷のない、汚れのない」と言われる人々ではなく、アロンはイスラエルに偶像崇拝を持ち込み、金の小牛を造った者です。
そして、エリの子供たちは欲望によって、ささげものを汚し、不道徳を行った者たちです。
「さて、エリの息子たちは、よこしまな者で、主を知らず、民にかかわる祭司の定めについてもそうであった。」
新改訳聖書 サムエル記第一 2章12、13節
しかし、私たちは完全な大祭司を持ちます。
キリストは地上のどの祭司よりも、もっとも聖く、もっとも高い方です。
キリストはまさに今、天にある神の幕屋に仕えています。
アロンとその子孫たちは日々、ささげ物を捧げていました。
最初に自分自身のために、それから民のために...。
しかし、キリストは罪なき方です。
そして、キリストは罪の問題すべてを永遠に解決するために、一つの捧げものを捧げました。
アロンの捧げた小牛やヤギの血ではありません。
キリストは御自身を捧げたのです。
もし、このことを理解するのならば、メルキゼデクの祭司職の方がアロンの祭司職よりも優れていると理解することは簡単です。
アブラハムが賞賛した、メルキゼデクの方がレビよりも上です。
これは歴史的、聖書的にも証明されることです。
詩篇110編4節に書かれていることを教理的に証明することも簡単です。
律法において、神は新しい祭司職を創造されていることがはっきりと宣言されています。
人間にはキリストと等しい大祭司になることは不可能です。
キリスト以上に私たちの必要を満たす方はいません。
ヘブル人への手紙8章
キリストがより優れた天的な大祭司である証明がここに記されています。
この手紙の著者は優れた契約を通して、キリストが祭司の職務についていることを示しています。
レビ人の祭司の職務はシナイにおいてイスラエルになされた古い契約を土台にしています。
新しい契約がなされることにより、この契約が古い契約とされました。
それは十字架によってレビ人たちの祭司職が取り除かれたことを証明しています。
そして、この手紙の著者は8章に示した新しい契約の素晴らしさによって、読者がアロンと古い契約に戻ろうとする者たちに歯止めをかけようとしているのです。
では、どのように新しい契約が、古い契約よりも優れているのでしょうか?
1、新しい契約の優れた大祭司
「以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙8章1、2節
1節は前の章の要約と言えるでしょう。
私たちにはこのような大祭司がいます。
この大祭司はアロンよりもはるかに優れた存在であることが証明されています。
私たちの大祭司キリストは贖いの御業を終えて、すでに着座されています。
アロンの子孫で着座した祭司はいまだ存在していません。
というよりも、レビ人の祭司でいまだ王座に着座したものはいません。
キリストは私たちにより優れた契約の仲介者であるゆえに、より優れた大祭司です。
そして、キリストは天における王であり、祭司である方です。
ゆえに、キリストが天から古い契約に仕えるようなことはないとはっきり言えます。
新しい大祭司は新しい契約を要求しているのです。
2、新しい契約の優れた立場
「すべて、大祭司は、ささげ物といけにえとをささげるために立てられます。したがって、この大祭司も何かささげる物を持っていなければなりません。
もしキリストが地上におられるのであったら、決して祭司とはなられないでしょう。律法に従ってささげ物をする人たちがいるからです。
その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙8章3〜5節
このようにキリストは肉によれば、レビではなく、ユダの部族から出ました。
キリストが地上で祭司の職務につくことは設定されていませんでした。
私たちは地上で、キリストが神殿で仕えていたとは聖書に見出すことは出来ません。
キリストは聖所や至聖所にいたとは聖書に記録されていません。
しかし、私たちは新しい契約が優れていることを知っています。
キリストは地上ではなく、天にある聖所に仕えているのです。
この手紙の著者は違う面からこのことを主張しています。
それは地上に示されたもののオリジナルがあるということです。
この地上の幕屋、神殿は天にある幕屋の写しだと言っています。
モーセは山の上で神が彼に示したひな形を写したのです。
「幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。」
新改訳聖書 出エジプト記25章9節
「よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ。
」
新改訳聖書 出エジプト記25章40節
ユダヤ人たちはこれらの神殿、装飾品、儀式を尊びました。
しかし、これらのものは天にあるものの影にしかすぎないのです。
古い契約に戻るということは、天にある現実を捨てて、地上にある模造品に戻ることを意味していました。
天にある聖所に仕える天的な大祭司を持つということは、古い契約よりはるかに優れていることです。
3、新しい契約はより優れた約束となるのです。
「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。
もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。
しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。
それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。
それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。
なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」
神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。」」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙8章6〜13節
この節はこの章の鍵となる議論を含んでいます。
新しい契約の約束は古い契約よりもはるかに優れています。
結論から言えば、キリストの祭司職は優れた約束を土台として成り立っています。
キリストの祭司職自身がはるかに優れていなければなりません。
エレミヤ書31章31〜34節まで読んで見てください。
このように書かれています。
「見よ。その日が来る。主の御告げ。その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。主の御告げ。
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。主の御告げ。わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」
」
新改訳聖書 エレミヤ書31章31〜34節
ここで書かれているより優れた約束とはいったいなんでしょうか?
A、恵みの約束(6〜9節)
8〜13節の中で神は何かをすると6回言っています。
何という恵みでしょうか!
古い契約は重いくびきであり、完全な従順が要求されました。
しかし、新しい契約は神の民のためにキリストが何をしてくださったかであり、民が神のために何をするかではありません。
古い契約において、神は何も失敗などしていません。
失敗したのは民です。
律法は霊的なものであり、人間は肉的です。
ローマ人への手紙7章14節にはこのように書かれています。
「しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙7章14節
そして、ローマ人への手紙8章3節ではこのように書かれています。
「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章3節
言い換えるのならば、イスラエルの失敗は古い契約の弱さではなく、人間の性質の弱さに原因があったからゆえです。
しかし、それがここでは恵みへの階段へと向かったのです。
肉の弱さのゆえに律法では出来ないことを、神は十字架を通して完成されたのです。
B、内なる人の変化(入れ替え)の約束。
「それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙8章10節
エレミヤ書31章31節を読んで下さい。
新しい契約について、このように書かれています。
「見よ。その日が来る。主の御告げ。その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
」
新改訳聖書 エレミヤ書31章31節
これはこころの内部変化(入れ替え)を伴っています。
コリント人への手紙第二3章には新しい光を照らす、すばらしいテーマが書かれいます。
古い契約は石板の上に神の指によって書かれたものです。
しかし、新しい契約は聖霊によって、人のこころと思いに書き込まれたものです。
外面的な律法は決して人を変えることはできません。
もし、人の外面を変えるなら、まず、人の内側から変えなければなりません。
申命記6章6〜9節を見てください。
これはローマ人への手紙8章4節で言っていることを神が私たちになさったのです。
「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。
これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。
これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。
」
新改訳聖書 申命記6章6〜9節
「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章4節
C、無制限な神の恵みの約束
「また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙8章11節
その日にはもう、個人的な証しなど必要なくなります。
なぜなら、すべての人が主を知るようになるからです。
もちろん、この節は究極的に千年王国が成就した時のことを言っています。
「彼らはみな、わたしを知るようになるからである」という句は旧約聖書のイザヤ書11節9節の約束が繰り返され、ユダヤ人と異邦人の比較される必要性があります。
「わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」
新改訳聖書 イザヤ書11節9節
D、罪の赦しの約束
「なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙8章12節
ヘブル人への手紙10章を読むならば、あなたは古い契約の下にある者は、確かに罪を思い出すかも知れません。
しかし、そこに罪の赦しが存在していないことに気が付くはずです。
子羊と山羊の血は罪をおおう(COVER)ことが出来たかも知れません。
しかし、神の子羊の血だけが罪を取り去ることが出来るのです。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章29節
新しい契約は罪の重荷に苦しむ罪人に何と素晴らしい約束を与えるのではないでしょうか!
罪人の罪は永遠に赦されたのです。
E,永遠の祝福の約束
「神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙8章13節
古い契約を古びたものであり、過ぎ去って行くものならば、神はキリストを新しい契約と呼ぶのは当然のことです。
ヘブル人への手紙が書かれた時代は、ローマ人支配者たちはパレスチナへの侵入を準備して時代であり、それがAD70年に実行されました。
おそらく、「すぐに消えて行きます」という言葉の中には、エルサレムの崩壊までの短い時代において、神殿が存在し、祭司の行動が行われていましたが、それらが過ぎ去ってゆくことを含んでいたのでしょう。
しかし、新しい契約、キリストの祭司職は永遠に存在します。
では、この新しい契約はいつから存在するようになったのでしょうか?
ルカの福音書22章20節とコリント人への手紙第一11章23〜25節には、新しい契約が十字架で流されたキリストの血によって建てられたことがはっきりと記されています。
「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」
新改訳聖書 ルカの福音書22章20節
「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一11章23〜25節
これはヘブル人への手紙12章24節と一致しています。
「さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章24節
また、前記のエレミヤ書31章31節になされた神の宣言はユダヤ人に対する新しい契約について述べています。
では、私たちは教会に適応させるならば何を適応すればよいでしょうか?
その答えは使徒の働きの中にある記事において、教会をはっきりとユダヤ人と区別して読んだ時にその答えを見出すことができます。
私たちは使徒の働きの1〜7章までが神がユダヤ人に対する王国への宣告であることを思い出します。
ペンテコステの日に聖霊がクリスチャンたちの上に来られた時、その新しい契約が強行されました。
イスラエルの国としてはキリストをメシアとして受け取り、悔い改めてはいません。
すべての祝福と新しい契約の約束はイスラエルの上にもやって来たのですが、イスラエルは新しい契約のメッセージと聖霊を拒み、イスラエルの国は脇へ置かれたのです。
このように、神は新しい契約を通して、異邦人を導きいれ、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと信じる者によってキリストの教会を建てあげたのです。
私たちクリスチャンが、新しい契約において、キリストのからだに参加している者となったのです。
やがて、来る未来において、イスラエルもこの同じ祝福を楽しむ時がやって来ます。
ゼカリヤ書12章10節にその日のことがこのように記されています。
「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。
」
新改訳聖書 ゼカリヤ書12章10節
ヘブル人への手紙9章
私たちはキリストがより優れた目的を持っているゆえに、アロンよりも優れた祭司職を持っていると言うことができます。
7章で語られているようにキリストはメルキゼデクの祭司職を(型として)持っており、そのようにより優れた聖所に仕えています。
1、古い契約の下にある聖所は新しいものよりも劣っています。
この手紙の著者は古い契約の下にある聖所は新しいものよりも劣っている理由を五つあげています。
A、古い聖所は地上にあります。
「初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章1節
この地上ということばは「世のために」、もしくは「地球上の」という意味です。
神は天からモーセにこの型を与えました。
しかし、モーセは幕屋を、ソロモンは神殿をこの地上のものを使って建てたのです。
この聖所は神によって示され、神によって直接、礼拝が指示されました。
そして、いまだにこの聖所がこの地上に存在していたのです。
私たちはこの章の後で示されているように、天にある新しい聖所に入るのです。
B、それは来ようしているものの影です。
「幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。
また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。
また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章2〜5節
ここでこの手紙の著者は旧約聖書の時代の幕屋に備えられた配置と、備品について説明をしています。
2節と6節にある「前部の」ということばに注目してください。
これは幕屋の前部という意味で、聖なる場所という意味です。
これはモーセが最初に建てた幕屋に対して、最初の幕屋という意味ではありません。
訳者注)新改訳では正しく訳されています。
幕屋は二つの部分によって構成されています。
一つは至聖所と呼ばれる部分、そこには真鍮でできた祭壇と内庭の外側には洗盤が設置されていました。
最初の垂れ幕はこの内庭と聖所の間を仕切っています。
また、燭台とパンを乗せた机と香壇がこの聖所に置かれています。
二つ目の垂れ幕の中に至聖所が隠れており、油を注ぐために贖い日に大祭司だけがそこに入ることができました。
(レビ記16章を参照。)
この至聖所の中に契約の箱が置かれています。
しかし、ここで言われていることは、これらの聖所はキリストの影であり、神は新約聖書においてこの偉大な霊的な本体を現しているということです。
C、古い聖所は民にとって近づけるものではありません。
祭司だけが聖所の中庭と聖所で仕えることができました。
そして、大祭司だけが至聖所に入ることができました。
私たちが知っているように、天の聖所にはすべての神の民が入ることができます。
D、地上の聖所は仮のものです。
「これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章8節
民が神の御前に行く道は、神と人との間にある幕によって仕切られており、いまだ開かれていません。
9節において、この幕が残っている限り、幕屋は二つに区切られているのです。
象徴的に見るのであれば、イスラエルと神との関係はいまだに区切られているのです。
キリストが死なれた時、この幕が引き裂かれ、地上の聖所が廃止される必要が証明されました。
E、古い聖所は人の心を変えることが出来ませんでした。
「この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章9、10節
日々、祭司は同じささげ物を捧げました。
ささげ物の血は罪をおおう事ができても、取り去ることはできません。
動物の血は礼拝者たちの心や良心を変えることはできません。
これらは肉的な儀式でしかないのです。
この儀式は外なる人によるもので、内なる人によって行われてはいません。
イスラエルは一時的に地上でこれらのことを行い続けますが、十字架の上でイエスキリストにあってなされた神の恵みが十分には現されてまでのことです。
2、新しい契約の下にあるより優れた聖所
11節において描写が変わっています。
この手紙の著者は古い聖所よりも新しい聖所の方が優れているということを表現しようとしているのです。
なぜ、キリストの祭司職の方が、アロンの祭司職よりも優れているのかをはっきりさせています。
A、天にある聖所
「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章11、12節
大祭司としてのキリストが天にある聖所を通ったことはすばらしいことです。
人間の手によって造られたのではない、より偉大な、より完全な聖所をキリストが通ったのです。
この聖所は建てられたのではなく、造られた(創造)ものです。
地上の幕屋は古い契約、古い創造に属しています。
しかし、キリストの聖所は新しい契約、新しい創造に属しているのです。
(同様に24節も参照にしてください。)
B、新しい聖所はいのちをも変えます。
(12〜23節参照)
何と対照的ではないでしょうか!
大祭司は彼が生きている間、何回も至聖所に別の被造物の血を捧げていました。
しかし、キリストは神の御前に完全に、一度だけ、御自分の血を捧げたのです。
旧約時代のささげ物はからだを清めるための儀式でしたが、心と良心までたどり着くことがありません。
しかし、キリストの血は一度、完全に流されました。
キリストの血は、私たちの良心を清め、クリスチャンを神の御前に変わることなく、永遠に立たせることができるのです。
ユダヤ人の儀式すべてが死んだ行いです。
これを新しい契約の下にある、神の交わりに生きることと比較してみてください。
15〜23節では遺言と遺書について、描写されています。
人は自分の財産をどのように分けるか決断し、意思を伝えようとします。
しかし、財産はその人が死ぬまで誰の手にも渡りません。
キリストは永遠の財産を御自分の教会にお与えになりました。
そして、この財産を新しい契約の中に記したのです。
新しい契約はキリストの「遺言または遺書」でもあるのです。
キリストが死んだゆえに、このキリストの「遺言」には効果があるのです。
しかし、驚くべきことがあります。
キリストは死んでこの意思を作られたのです。
キリストが死からよみがえらえた時、御自分の意思で御自分の財産に仕えられたのです。
さらに、最初の契約の時も、モーセの下にあった者たちは血によって確証されました。
「それで、モーセは主のことばを、ことごとく書きしるした。そうしてモーセは、翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、またイスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。
それから、彼はイスラエル人の若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のいけにえをささげ、また、和解のいけにえとして雄牛を主にささげた。
モーセはその血の半分を取って、鉢に入れ、残りの半分を祭壇に注ぎかけた。
」
新改訳聖書 出エジプト記24章6〜8節
地上の聖所が建てられた時、血によって捧げられました。
しかし、この動物の血は儀式においてのみ、清めることができたのですが、決して人の内側を清めることができませんでした。
23節でこのように記しています。
「ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章23節
これらは天にいる神の民について書かれたものでしょう。
次の箇所においてもこのように証明されます。
「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章22節
「このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章22節
この者たちはキリストの血によって清められたのです。
ヘブル人への手紙9章23節は、同時に天にいる悪魔の存在に対する清めとも言えます。
天にある聖所は特別な清めが必要になるはずです。
「また、別のしるしが天に現われた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録12章3節
C、新しい契約は影ではなく、成就したものです。
「さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章24節
アロンの祭司職は地上の一時的な幕屋に仕えただけです。
そして、そして、強調すべき点はキリストはすでに来られたということです。
キリストは天にある聖所に仕えており、この聖所は旧約聖書において民が守っていた聖所が実現したものです。
大祭司は民のために贖いの座に血を振り掛けます。
しかし、キリストは神の御前にある私たちの代表です。
人々が今だに、これらの宗教的な儀式にしがみついていることはどうしようもない悲劇です。
理解して、失敗をしないで下さい。
私たちは信仰によって知ることができます。
天において偉大なる祭司の職務に仕えているキリストによって私たちに手が置かれたのです。
D、ささげ物が完了(終了)したことを土台としています。
「それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章25〜28節
10章の主題はキリストの聖所は優れているということです。
その前に、ここでも同じことが述べられています。
最後のささげ物がなされるまで、祭司の働きは終わることがありません。
キリストの死が最後のささげ物となりました。
キリストはまさに、この時代のクライマックスに現れ、罪を取り除いてくださったのです。
単に罪をおおったのではありません。
垂れ幕は引き裂かれ、神の御前に進む道は開かれました。
また、キリストは天において私たちのために存在しています。
同様に、私たちは神の御前に進むことが出来るのです。
旧約聖書のユダヤ人たちは神の御前に近づくことは出来ません。
その者は恐れずに至聖所に入ることはできません。
しかし、キリストは十字架の上で働きを完成(終了)してくださいました。
私たちはキリストを通して、神の御前に進むことができるのです。
24〜28節の間に来られる(現れる)という言葉が三回使われていることに注意してください。
キリストは罪を取り除くために過去に現れました。(26節)
キリストは私たちのために天において働いておられます。(24節)
キリストは未来に私たちを栄光に入れるために来られます。(28節)
贖いの日に大祭司が幕屋の中に姿を消した時、民は大祭司が再び現れることを期待し、待ちました。
民は神が血を拒み、大祭司が殺されるのではないかと不安がるかもしれません。
しかし、大祭司が再び出てきたとき、民は大喜びをします。
天にある永遠の至聖所に私たちの大祭司がキリストともに永遠を生きるために私たちを連れてゆく時、私たちには激しいほどの喜びが起きるでしょう。
ヘブル人への手紙10章
この章は7〜10章にある「優れた祭司職」についての教えの最後の箇所です。
優れたささげ物(キリスト御自身)を土台とした、イエスキリストの祭司職が描かれています。
この手紙の著者はキリスト御自身というささげ物が旧約聖書で描かれているささげ物より優れている理由を三つ挙げています。
1)キリストのささげ物は罪を取り除きます。(ヘブル人への手紙10章1〜10節)
A、旧約聖書のささげ物には効果がありませんでした。
「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。
もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。
ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。
雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章1〜4節
その理由の一つには、ユダヤ人たちは古い時代の型と影に頼っていたからです。
ゆえにユダヤ人たちのこころを変える事ができませんでした。
彼らは年ごとに、そして、日々、ささげ物を繰り返しましたが、罪を取り除くことが出来ませんでした。
言い換えるのならば、大祭司とその周りの者たちはこれらのささげ物を繰り返し捧げる必要がありませんでした。
ヘブル人への手紙9章10〜14節に記されているように、旧約聖書の律法に従った外なる働きと儀式は何をも清めることができなかったことが説明されています。
ささげ物は罪の悔い改めを生じますが、罪の赦しが存在していなかったのです。
主の晩餐において、私たちはキリストを覚えますが、私たちの罪を覚える必要はありません。
「感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一11章24節
「それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」」
新改訳聖書 ルカの福音書22章19節
その理由は私たちの罪の赦されたからです。
「なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙8章12節
B、キリストのささげ物には効果がありません。
「ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章5節
そして、ここで詩篇40編6〜8節が引用されています。
「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。
そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。
わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」」
新改訳聖書 詩篇40編6〜8節
詩篇では「私の耳を開いてくださいました」となっているのに、ヘブル人への手紙では「わたしのために、からだを造ってくださいました」と変わっています。
出エジプト記21章1〜6節にそのことを知る鍵があります。
「あなたが彼らの前に立てる定めは次のとおりである。
あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。
もし彼が独身で来たのなら、独身で去り、もし彼に妻があれば、その妻は彼とともに去ることができる。
もし彼の主人が彼に妻を与えて、妻が彼に男の子、または女の子を産んだのなら、この妻とその子どもたちは、その主人のものとなり、彼は独身で去らなければならない。
しかし、もし、その奴隷が、「私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。」と、はっきり言うなら、その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」
新改訳聖書 出エジプト記21章1〜6節
開放される年、ユダヤ人には奴隷を自由とすることが要求されました。
しかし、奴隷が主人を愛し、主人の所に残ることを求めるのなら、主人は奴隷の耳たぶに穴を開けました。
その瞬間から、その奴隷のからだはその主人のからだに属する者となったのです。
キリストがこの世に来られた時、聖霊はキリストのためにからだを用意したのです。
キリストは完全に御父のみこころにより頼り、身を捧げたのです。
そして、キリストは世の罪のために十字架の上で御自身のからだを捧げてくださったのです。
詩篇51章10節、サムエル記第一15章22節、そして、イザヤ書1章11節に記されているように動物の血によって救いの働きが完了いていないことははっきりしています。
神はクリスチャンの思いが欲しいのです。
「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」
新改訳聖書 詩篇51章10節
「するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
」
新改訳聖書 15章22節
「「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう。」と、主は仰せられる。「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。」
新改訳聖書 イザヤ書1章11節
ヘブル人への手紙10章8〜9節にこのようにあります。
「すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした。」と言い、また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章8〜9節
神はキリストに対してこのようなことば使いました。
神はキリストを通して、動物を捧げるという最初を契約を退け、キリストの血において新しい契約を建てられたのです。
神のみこころはキリストが引き渡され、私たちのためにキリストが完全に、一度だけ捧げられるために御父から引き離されることでした。
2、キリストのささげ物は繰り返して捧げられる必要がない。
(ヘブル人への手紙10章11〜18節参照)
旧約聖書の祭司は毎日、立って、同じささげ物を何回も捧げています。
しかし、キリストは御自身を一度だけ捧げて座っています。
この対照的な姿に注意してください。
キリストは一つのささげ物を神に捧げられたので、キリストを信じるものは正しい立場を持っています。
これらの者はキリストにある信仰を通して、永遠に、そして完全な立場を持っているのです。
「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章10節
「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章14節
上記の二つの句には注意点があります。
10節には「聖なるものとされている」(過去形)が強調されています。
しかし、14節「聖なるものとされる人々」は日々です。
つまり、クリスチャンの立場キリストの十字架によっては完全に聖なる者とされました。
しかし、現実の日々の生活において、外なる人は聖められてゆく必要があるのです。
旧約聖書のささげ物は罪を思い出させました。
しかし、キリストのささげ物は積極的に罪の赦しを生じたのです。
ここでいう赦し"Remission"の意味は「送り去る」という意味があります。
詩篇103編12節、ミカ書7章19節にはこのように書かれています。
「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」
新改訳聖書 詩篇103編12節
「もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。」
新改訳聖書 、ミカ書7章19節
年に一度の贖いの日(レビ記16章)に大祭司は身代りの山羊の頭の上に手を置き、イスラエルの国の罪を告白しました。
そして、山羊は遠い荒野に解き放されました。
これはキリストが私たちの罪のために何をしたのかを教えています。
ここでは、もうこれ以上罪の苦しみは存在しません。
もう罪は思い出されることがないからです。
私たちのこころにおいて、聖霊が証言しています。
私たちは新しい契約の約束のゆえに、このような祝福を持っていることを宣言しているのです。
3、キリストのささげ物は神の道を開きました。
(ヘブル人への手紙10章19〜39節参照)
A、説明
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章19〜21節
この手紙の著者はクリスチャンがキリストが一度、完全に死なれたという祝福を持っていることを思い出させています。
ゆえに私たちはキリストの中に完全に立つことが出来るのです。
私たちは大胆に(言葉の意味は「はっきりと言うことができる」ギリシャ原語では"parhsiva")神の御前に行くことができるのです。
神と私たちの間にある垂れ幕はすでに取り除かれています。
キリストのからだが裂かれた時、その垂れ幕も裂かれました。
私たちは新しい契約を土台として進むことが出来るのです。
私たちは生きている大祭司を持っているゆえに、いのちの道を持っています。
神の家、教会は栄光に満ちた偉大な大祭司を持っているのです。
「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章25節
B、招待
「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章22〜25節
ここには三つの私たちへの勧めがなされています。
(ヘブル人への手紙6章1節 同様)
1)私たちが「押し流される」代わりに近づくことが勧められています。
2)私たちに「動揺する」代わりにしっかりと信仰(もしくは希望)を告白(証言)することが勧められています。
3)私たちを実例として、他の兄弟へ、キリストのところに行くように勇気つけ、促すことが勧められています。
もし、私たちがあらゆる点で他人を怒ることがあるならば、愛を持って行うべきです。
コリント人への手紙第一13章4〜7節にはこのように書かれています。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一13章4〜7節
私たちは大胆に天に向かって成長し、そして、地上においてはこの身を捧げて歩みます。
もし、クリスチャンが試みに会うのなら、その人はクリスチャンの交わりに、また、互いの必要を担うための励ましに否定的になるでしょう。
ゆえにキリストの大祭司が必要なのです。
そして、私たちは王国の祭司です。
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一2章9節
そして、私たちは一つの交わり、教え、礼拝に組み合わせられます。
旧約聖書のユダヤたちは幕屋の中に入ることが出来ません。
そして、大祭司であろうと、好きな時に至聖所に入ることはできません。
しかし、キリストのささげ物を通して、私たちは天への生きた道を持ているのです。
私たちはいつだろうと、神の元へ行くことができます。
私たちはこの特権を教理の問題とせずに、実際に利用することができるのです。
C、勧め(ヘブル人への手紙10章26〜39節参照)
これは5つのうちの4番目の勧めです。
この勧めは故意に犯した罪に対するものです。
この勧めはクリスチャンに対する勧めです。
決して救われていない者たちへの勧めではないことを思い出してください。
また、この前に記された3つの勧めにも関係していることです。
注意深さを失ったクリスチャンたちは否定的になり、押し流され始めました。
彼らはみことばを疑い始めたのです。
彼らのみことばに対する成長が鈍くなりました。
そして、次のステップにおいて、彼らは罪に渡され、霊的に受け継ぐ財産を軽蔑し始めたのです。
注意すべき点があります。
ここで、ある特定の罪に対して書かれた重要な事実があります。
その罪は一度犯した、罪のことを言っているわけではありません。
「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙7章26節
26節にある「ことさらに罪を犯し続けるならば」ということばは「喜んで罪を犯し続ける」という意味で継続時制です。
同じような表現がヨハネの手紙第一3章4〜10節においてなされています。
「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章9節
この節は死に至る罪(赦されない罪)について、言っているのではありません。
この罪は故意に神に反逆する、神のみことばに対する態度について話しているのです。
このような計画的な罪、かたくなな罪にはもはや、罪のためにいけにえは存在していないのです。
レビ記4章に記されているように、無知の罪、一時的な感情の罪はおおわれました。
しかし、故意的な罪には滅びだけが適応されました。
29節は私たちの(キリストの流された血によって贖われた)救いを達成し、神が報いて下さったことを私たちは覚えさせられます。
御父は御子に評価しました。
御子が御自分の血を流されたからです。
聖霊はクリスチャンに十字架の力を示しました。
御父と御子と聖霊に逆らう罪は私たちにとって故意に犯す罪なのです。
この手紙の著者は申命記32章35、36節を引用しています。
「復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」
主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。彼らの力が去って行き、奴隷も、自由の者も、いなくなるのを見られるときに。」
新改訳聖書 申命記32章35、36節
神は旧約聖書の時代のイスラエルの民に(彼らは決して信じていないわけではない)、種を撒いたものは刈り取ること、故意に不従順な者が裁かれることを示しました。
イスラエルの民は神の契約の民でした。
しかし、このことによって、より多くの義務が生じたのは事実です。
「わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。」
新改訳聖書 アモス書3章2節
神は御自分の民を裁きます。
「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。
」
新改訳聖書 ローマ人への手紙2章6節
「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。
しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。
」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一11章31、32節
「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一1章17節
もちろん、これは永遠の裁きのことを言っているのではありません。
これは次に述べられるように、歩みにおける懲らしめと損失です。
ヘブル人への手紙10章34、35節にはこのように書かれています。
ここで著者は忠実さに対する報いを強調しています。
救いのことを言ってるのではありません。
「あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。
ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章34、35節
同様な箇所を引用します。
「もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一3章14、15節
「このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一5章5節
「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一9章27節
「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一11章30節
ヘブル人への手紙10章32〜39節において(同様にヘブル人への手紙6章9〜12節)、この手紙の著者はこのユダヤ人クリスチャンたちに真実に新生しているという素晴らしい確信を与えています。
彼らはキリストに信仰を置いているのです。
その中において、救われていない者と同じ道を歩まないように、堕落という道を歩まないように勧めているのです。
彼らは完全な存在です。
滅びはありえません。
彼らは思いをもってキリストをあがめ、キリストの帰りを待ちわびています。
ヘブル人への手紙11章
この章はヘブル人への手紙10章32〜39節に記されたことを、ユダヤ人の歴史を通して、不可能なことを信仰によって可能してきた信仰の人たち、そして女性たちを紹介しています。
ヘブル人への手紙10章38節にはこのような宣言がなされています。
「わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章38節
この章は信仰はどのような状況をも征服することができるということです。
1、信仰の描写
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章1〜3節
真実なる聖書的な信仰は単なる希望ではなく、もしくは感情的になることでもありません。
その信仰は神のみことばを土台とし、内なる確信を得ることなのです。
聖霊はみことばを通して信仰を私たちにお与えになりました。
それは私たちに必要なすべての確信とその保障が私たちの中において、信仰のために備えられているのです。
オズワルド・サンダース博士の言葉がここにあります。
「信仰の可能性とは、未来にあることを現在あるかのように、見えないものを見えるかのようにクリスチャンの魂が歩むことです。」
信仰を通して、私たちは他の人たちが出来ないことを見るのです。
(1、3、7、13、27節を参照にしてください。)
私たちのこころに真実な信仰がある時、聖霊によって神はその心に証しを与えます。
「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章39節
信仰によってノアはさばきが来ることを知りました。
アブラハムは将来の来るべき町を信仰によって知りました。
ヨセフはエジプトから救い出されることを信仰によって知りました。
そして、モーセは信仰によって神を見たのです。
信仰は神のみことばに力があることを実現のものとします。
3節にある創世のみわざによって、私たちに神を知ることが信仰によることが示されています。
「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章3節
神は話され、それを行いました。
そして、神はすでに私たちに話されたのです。
その時、私たちは神の言われたことを信じます。
神のみことばは私たちの中に実現されるのです。
同じみことばをもって、古い被造物の中に新しい創造の御業が働くのです。
2、信仰の実証
(ヘブル人への手紙11章4〜40節)
A、アベル
「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章4節
「ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。」
新改訳聖書 創世記4章3節
神はささげ物の血ゆえに尋ねました。
「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙9章22節
アベルはみことばに信仰を置きました。
カインは信仰を見ていません。
それゆえにカインは拒まれました。
B、エノク
「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章5、6節
「エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。
エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。
エノクの一生は三百六十五年であった。
エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
」
新改訳聖書 創世記5章21〜24節
邪悪な時代において、エノク身を捧げて歩みました。
エノクは神のみことばに信頼したのです。
ユダの手紙14、15節にはこのように書かれています。
「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。
すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」」
新改訳聖書 ユダの手紙14、15節
エノクは神が信仰に報いてくださることを信じていました。
そして、エノクは死ぬことなく、神は彼を天へと捕らえあげてくださったのです。
信仰に報いてくださるということはヘブル人への手紙の中で重要なテーマです。
「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章35節
「彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章26節
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章11節
C、ノア
(創世記6〜9章参照)
「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章7節
誰も洪水よってさばかれるなど予想もしていません。
しかし、ノアは信仰によって見ていました。
信仰によってノアは働いたのです。
ノアの態度と行動は不信仰な者たちと、彼の生きていた邪悪な時代を訴えました。
D、アブラハム
(ヘブル人への手紙11章8〜19節、創世記12〜25章参照)
ここで私たちは偉大なる信仰の父の姿を見ることができます。
アブラハムは旧約聖書におけるもっとも偉大な信仰の見本です。
アブラハムが神を信じた時、彼はどこへ行くべきか知りませんでした。
「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章8〜10節
また、アブラハムはどのようなことなのか知りませんでした。
「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章11、12節
そして、アブラハムはいつのことなのか知りませんでした。
「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章13〜16節
そして、アブラハムはなぜなのかも知りませんでした。
「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章17〜19節
神のみことばにある信仰がアブラハムを天の家へと導いたのです。
この世を旅人として、神の導きに従ったのです。
信仰はアブラハムとサラに子供が与えられる力を与えました。
その時、彼らは「死んだも同様」な者だったのです。
ユダヤ人指導者たちはユダヤ教に戻ろうとしていましたが、アブラハムとアブラハムに従った者たちは引き返してはいません。
しかし、アブラハムたちの目は神から目を離そうとはしていません。
勝利は彼らにあるのです。
(ヘブル人への手紙11章13〜16節参照)
「わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章38、39節
D、イサク
(創世記27章参照)
「信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章20節
イサクはみことばを信じ、アブラハムから祝福を受け継ぎました。
そして、ヤコブへとその祝福を伝えたのです。
F、ヤコブ
(創世記48章参照)
「信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章21節
ヤコブは失敗を通して、神に信仰を置くことを学ばされました。
そして、ヤコブは死ぬ前にエフライムとマナセを祝福したのです。
G、ヨセフ
「信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章22節
「ヨセフは兄弟たちに言った。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」」
新改訳聖書 創世記50章24節
「モーセはヨセフの遺骸を携えて来た。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない。」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせたからである。
」
新改訳聖書 出エジプト記13章19節
「イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画に、葬った。そのとき、そこはヨセフ族の相続地となっていた。」
新改訳聖書 ヨシュア記24章32節
ヨセフはその日が来たら、イスラエルの民がエジプトから救い出されることを知っていました。
ヨセフは神がアブラハムにされた約束を知っていたからです。
(創世記15章13〜16節参照)
異邦の偶像の国、エジプトでヨセフは過ごし、多くの試みをヨセフは受け、その後で彼はこのような信仰を持っていたことは驚くべきことです。
H、モーセ
(出エジプト記1〜15章参照)
「信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。
信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。
信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行ないました。
信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章23〜29節
モーセの両親は知られてはいませんが、神はある方法を通して彼らに語り、信仰を持っていました。
モーセは特別な子であることは明白だったのです。
「このようなときに、モーセが生まれたのです。彼は神の目にかなった、かわいらしい子で、三か月の間、父の家で育てられましたが、ついに捨てられたのをパロの娘が拾い上げ、自分の子として育てたのです。
」
新改訳聖書 使徒の働き7章20節
モーセの持つ信仰はエジプトを拒み、イスラエルを認めるように彼を導きました。
モーセは「はかない罪の楽しみを受ける」ことよりと反対に、信仰は報われるということを学びました。
(ヘブル人への手紙11章26節参照)
みことばにおいて、信仰は過越へと彼らを導き、紅海を渡らせました。
エジプト人は愚かにも、扉の外で血をあざけ笑っていたのです。
I、ヨシュア
(ヨシュア記1〜6章参照)
「信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章30節
神はヨシュアにエリコをヨシュアに渡すと約束しました。
信仰の約束は彼らに勝利へと導いたのです。
イスラエルはエリコの町を7日間周りました。
エリコの町の人々は彼らを愚か者と呼んだでしょう。
しかし、ユダヤ人の信仰は報われたのです。
J、ラハブ
(ヨシュア記6章22〜27節参照)
「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章31節
彼女の信仰告白はヨシュア記2章11節においてなされています。
「私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。」
新改訳聖書 ヨシュア記2章11節
ラハブはイスラエルのスパイを守るために彼女の命に危険を感じながらも、信仰は彼女にその働きをするように導いたのです。
「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。」
新改訳聖書 ヤコブの手紙2章25節
彼女が娼婦だとしても、信仰によって彼女は救われ、彼女はキリストの家系へと入れられたのです。
「サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、...」
新改訳聖書 マタイの福音書1章5節
ラハブは信仰によって、家族を得て、その信仰が伝えられているのです。
K、その他の人々
(ヘブル人への手紙11章32〜40節参照)
ある人たちはその名前が挙げられているかもしれませんが、名前の記されていない者もいます。
しかしながら、これらすべての人たちが信仰の巨人なのです。
この手紙の著者はイスラエルの歴史全体を通して、信仰が勝利であることを記録しています。
ある勝利は公に行われ、ある勝利は奇跡を伴いました。
このように、彼らは死から守られてきたのです。
その他の人たちは特別というよりも普通の人であり、彼らは弱い者なのに強くされたのです。
そして、彼らは義を至ったのです。
でも、ある人たちは信仰のゆえに引き渡され、ある人は信仰のゆえに逃げることができなかったのです。
しかし、苦しみに至ること自身が恵みなのです。
この不信仰な世界はクリスチャンたちを「変人」、「伝染病」として拒むかもしれません。
彼らのことをこのように言うでしょう。
「この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章38節
彼ら一人一人に神からの信仰告白が与えられ、それを受け取るのです。
信仰を通して、これらの人々は約束(複数)を受け取ることを可能としたのです。
しかし、彼らは今だに、その約束を受け取っていません。
「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章39節
しかし、今、キリストは彼らの約束を成就したのです。
13節を注意して見てください。
ペテロの手紙第一1章11、12節と同様なことが書かれいます。
「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章13節
「彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。
彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。
」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一1章11、12節
40節にはこれら旧約聖書の神の計画が新約聖書のクリスチャンに至ることが記されています。
今日、私たちはキリストを通して、新しい契約において、それらを分かち合うことができるのです。
「神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章40節
ヘブル人への手紙の中で「さらにすぐれたもの」ということが描写されています。
さらにすぐれたもの祭司、ささげ物、そして契約。
正しい理解をするならば、今日、クリスチャンはキリストに対しる信仰を通して、約束を受け継ぐものです。
それは私たちの霊的祝福がアブラハム、ダビテになされた神の約束の結果であるからです。
(ローマ人への手紙11章13〜29節参照)
「そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。
それは、変えることのできない二つの事がらによって、神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙6章17、18節
これらの約束はキリストにおいて、霊的に成就されています。
(ガラテア人への手紙3章参照)
しかし、その時が来たのなら、イスラエルにおいて、彼らは文字通りの祝福を受けるのです。
「神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。
むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。
あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙2章5〜9節
この章で学んだことはたくさんありますが、まさに適した助けになるものはわずかかも知れません。
1)神の働きは信仰を通して、信仰だけによって働かれる。
信仰を働かせることが神を喜ばせる唯一の方法であり、神の祝福を受け取る唯一の道なのです。
2)信仰はみことばと聖霊による神からの賜物です。
それは私たちが何かを築き上げることではありません。
3)信仰は常にテストです。
神に信仰を置くことが愚かに見えるかもしれませんが、信仰は常に勝利であり、私たちは最後まで征服者です。
ヘブル人への手紙12章
この章のキーポイントは「忍耐」です。
そのことばに1、2、3、7、20節で見つけることができます。
そのことばの意味は「試みの下に至る」という意味でたくましく歩み続けるということです。
クリスチャンは試みと、絶えられないという誘惑の中を歩み続けます。
(ヘブル人への手紙10章32〜39節参照)
「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章3節
このユダヤ人たちクリスチャンたちの多くはまだ、キリストのゆえに死ぬほどの試みにあったことがありません。
しかし、その状況はそんな簡単な状況ではありません。
彼らはキリストに信頼を置いて、勇気づけられる必要があったのです。
この手紙の著者は三つの勇気づけによって、前進し、成長することをユダヤ人クリスチャンたちに思い出させようとしているのです。
1、神の御子の例に従って
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章1〜4節
11章においては、この手紙の読者に信仰を通していのちのレースを勝ち取ることを、旧約聖書の偉大なる聖徒たちがどのように歩みをしたか、思い出させようとしています。
今、著者は「イエスから目を離さないで」いるように、そして、信仰と希望を強く持つように促しています。
ここでは競技場が描かれています。
この章で描かれている見学人は前章で挙げられた旧約聖書の信仰のヒーロです。
そして、ランナーは試みを中を進んでいるクリスチャンです。
ここにあるイメージは天国における民が私たちを見学していると考える必要はありません。
もしくは、この地上で何が起きているかを考える必要もありません。
これは啓示ではなく、イメージです。
もし、このレースの勝利者がクリスチャンならば、彼らが走るのに邪魔な重りと罪を取り除かなければなりません。
そして、もっとも大切なことは、クリスチャンはゴールに目を向けるように、キリストに目を向けなければなりません。
ピリピ人への手紙3章12〜16節と比較することができます。
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。
それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙3章12〜16節
キリストはすでに信仰のレースを勝ち、私たちを支配してくださったのです。
キリストは権威者です。
(支配者であり、先駆者です。)
そして、私たちの信仰の完成者です。
キリストはアルファであり、オメガです。
そして、始めであり、終わりである方です。
キリストは勝利を通して私たちを見ることができます。
私たちの主はこの地上にいる間、多くの試みを味わった方です。
では、勝利に至るためにキリストが得た助けとはいったい何だったでしょうか?
2節にはこのように書かれています。
「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章2節
これはキリストのゴールです。
キリストは教会をユダの手紙24節に描かれているように導くことを喜びにしています。
「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、...」
新改訳聖書 ユダの手紙24節
同様にヨハネの福音書15章11節、16章20〜24節、そして、17章13節を見てください。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
」
新改訳聖書 ヨハネの福音書15章11節
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。
その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書16章20〜24節
「わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。
」
新改訳聖書 ヨハネの福音書17章13節
キリストの戦いは罪に対するもので、罪はキリストを十字架に架け、彼のいのちを飲み干しました。
しかしながら、私たちの多くがその足跡を歩んではいません。
もちろん、私たちの歩みはおそらく、キリストのために死ぬことではなく、キリストのために生きることに目的があるからです。
キリストのことを考え、キリストを見上げる。
このことばは私たちが困難なレースを走り続けるために、私たちを強くし、私たちを勇気づける秘訣だと言うことができます。
2、神の愛を確信する。
「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。
また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章5〜13節
ここに描かれているクリスチャンはみことばの真理を土台にするということを忘れているのです。
そして、5節において私たちに語られている「懲らしめ」について神がどのように言われているかをも忘れてしまっています。
この手紙の著者は箴言3章11、12節を引用し、クリスチャンの歩みにおける、苦しみが滅びではなく、懲らしめであることをここにいるクリスチャンたちに思い出させています。
「わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。
3:12 父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。」
新改訳聖書 箴言3章11、12節
この「懲らしめ」ということばは文字通り、子供を訓練するという意味です。
彼らは霊的な幼子です。
一つの方法として、神は試みを彼らに与え、彼らを成長させようとしているのです。
滅びとはさばきの結果です。
懲らしめとは父親の仕事です。
滅びを語ることは律法を語ることです。
懲らしめは私たちをよりよく歩ませるために愛を証明させます。
そして、私たちは謙遜になり、成長するのです。
悪魔は私たちに試みは神の愛を証明していないと言うでしょう。
しかし、神のみことばは苦しみこそが私たちに対する神の愛を証明していると言っています。
彼らはこのような状況に反抗し、神のみこころに戦いさえも抱くでしょう。
よりよく育つことよりも、苦さを刈り取るのです。
「では、私たちにこのようなことがおきたのはどのような理由があるからでしょうか?
神はわたしをこころに止めていません。
クリスチャンであることに何も犠牲を払いたくありません。」
この手紙の著者は「私たちの尊敬している初代のクリスチャンたちは私たちを懲らしめています。
私たちは天にいる御父を尊敬したくありません。
本当に、御父は私たちを愛し、私たちを成長させようと願っているのでしょうか?
結局、それが神の愛の最高の証拠となるのです。
私生児ではありません。
神は私たちを成長させようとしているのです。
9節で言われていることは懲らしめを軽んじてはいけないということです。
もし、私たちがそのように軽んじるのなら、私たちはおそらく、死にます。
神は私たちが神を軽んぜずに生きるために懲らしめを与えるのです。
その時、私たちはギブアップし、静まるのです。
これは非常に悪い態度なのです。
(ヘブル人への手紙12章3、12〜13節参照)
神は私たちを成長させるために懲らしめを与えるのです。
私たちを叩いて、黙らせるためではありません。
私たちが信仰によって耐える姿、そして、神の完全な計画を働き出すことを認めることが、クリスチャンとして正しい態度なのです。
[「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章7節
11節にはこのように書かれています。
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章11節
ここに「 後になると」とされる祝福があります。
これは私たちが受けるべきものです。
懲らしめは私たちが神の聖さを分け合い、その得は私たちのためにあるのです。
そして、私たちが服従を学ぶ時それは神の御名を栄光へと至らせるのです。
3、神の栄光の力
(ヘブル人への手紙12章14〜29節参照)
このことについてヘブル人への手紙では5つの勧めがなされています。
そして、そのキーポイントは恵みです。
「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、...」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章15節
モーセとキリスト、シナイあとシオンの山、古い契約と新しい契約は非常に対象的に描かれています。
律法はシナイで与えられました。
そこには、恐れと恐怖は支配し、、山は煙と火でおおわれていました。
神は話され、民は震えました。
しかし、私たちはシナイにおいてイスラエルは経験したことよりすばらしい霊的経験を持っています。
それは、私たちが天の大祭司、天の家、天の交わり、そして、もっとも高いところより。恵みと愛にメッセージを語った声を持っているからです。
ヘブル人への手紙12章22〜24節に描写されているのは、キリストにあって新しい契約にある祝福があるということです。
「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。
また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章22〜24節
シオンの山は天にある町です。
「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章14節
「しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。
」
新改訳聖書 ガラテヤ人への手紙4章26節
対照的に、地上にあるエルサレムは破壊されようとしていました。
天にある三つのグループがここで記されています。
1)無数の御使いたち、彼らは聖徒たちに仕えています。
2)天に登録されている長子たちの教会
3)全うされた義人たちの霊(旧約聖書の聖徒たち)
「全うされた」という言葉は栄光に入ったクリスチャンを意味していません。
この時、彼らは復活した完全なからだを持っています
これは旧約聖書の時代の聖徒たちがキリストの死と復活のゆえに、神の御前に完全に立つことが出来ていることを示すのでしょう。
「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章14節
「神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章40節
旧約聖書の時代であっても、神のみことばを信じている者は天へ行くのです。
しかし、それはキリストが十字架の上で死なれるまでは、神の御業は完全には実現されることはありません。
(新しい契約の仲介者であるイエスはこのリストの一番上に記載されています。)
どのようにしたら、これらの人たちが地上の町、地上の神殿、地上の祭司職、地上のささげ物に戻ることが出来るでしょうか?
訳者注)ここでアイアンサイド氏は「この町は現在、滅んでいます」と付け加えています。
しかし、1948年イスラエルは再建され、エルサレムの町は再建されています。
また、地上の神殿は現在、存在していません。
その場所には、イスラム教のモスクが立っています。
しかし、やがて、イスラエルが再建されたように、終末にはユダヤ教の神殿も再建されるでしょう。
キリストの血はすべてのことに有益な利益を与えているのです。
アベルの血は復習のために地は叫びました。
「今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。
」
新改訳聖書 創世記4章10節
しかし、キリストの血は天から救いと赦しについて語っています。
これが恵みです。
キリストは恵みに仕えて下さったのです。
そして、新しい契約は恵みの契約なのです。
神の恵みは失敗することがありません。
ゆえに、私たちは神の恵みに失敗を味わうことはありません。
私たちは神の恵みを自分のものとすることに失敗するのです。
「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、...」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章15節
エサウは霊的な事柄を軽蔑し、祝福を失った者として描かれています。
「また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章16節
ここにある「俗悪な者」ということばの意味は「神殿の外側」もしくは「世の側」という意味です。
エサウは悔い改めなかったゆえに、神の恵みを受け取ることに失敗したのです。
「しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙6章6節
次に神は人を「震う」というのが、この章の最後の主題です。
震えるということを好む者は誰もいません。
私たちは堅く、安全な場所で楽しみます。
しかし、神はユダヤ人社会を震えさせ、エルサレムにある神殿を打ち砕いたのです。
霊的なユダヤ人の状態を現すために、神は現実のユダヤ人の取るべき場所を打ち砕きました。
神は新しい神殿、神の教会を建てました。
そして、古い神殿は取り除かれなければなりません。
この手紙の著者はやがて神はこの世界を震わし、新しい天と地を導くことを預言したハガイ書2章6節を引用しています。
「まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。
」
新改訳聖書 ハガイ書2章6節
また、28節にはこのように書いています。
「こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章28節
「こういうわけで」ということばによって、実際に適用するために勧めの導入であることがわかります。
私たちが実際に恵みを持つために、私たちはどのように恵みを受け取ればよいのでしょうか?
恵みの御座において、私たちの大祭司は私たちのために永遠にとりなしをしているのです。
私たちは古い律法や習慣ではなく、神に仕えなければなりません。
私たちが王国の一部であり、決して振られたり、取り除かれることはありません。
私たちは永遠に生きるように建てられたのです。
神は変わらない、霊的な現実を私たちに与え、私たちはキリストにあってこの恵みを持っているのです。
さあ、私たちは神に仕えようではありませんか!
私たちは神のみことばにこころをとめ、学ぶことを拒んではいけません。
その恵みは神のみことばに記されており、私たちの必要を担ういのちのです。
25節にある警告は私たちの永遠の行き先について書かれているものではありません。
他にあるヘブル人への手紙の勧めのように、私たちの人生において神が私たちを懲らしめるという事実を書いているのです。
それは次の章に書かれているさばきのことを言っているのではありません。
ヘブル人への手紙13章
ここで私たちはこの手紙の最後の訴えを読むことができます。
この手紙の著者は教理的な真実を説明してきました。
今、彼はこの手紙の終わりに、すべてのクリスチャンに対する、実際的な警告をもって終わろうとしています。
私たちの敵はこのように言うでしょう。
「もし、あなたが真実にキリストにとどまっているのなら、あなたはすべてのものを失うのです。
友人、現実にある幸せ、神殿にある歴史的な遺産、ささげ物、そして、祭司!
しかし、この手紙の著者はキリストに信頼するのなら、失うものは何も無いことを主張しています。
信仰によって歩むなら、クリスチャンたちはこの世(この場合ユダヤ教)の宗教的組織に戻ることは出来ません。
彼らはキリストにあって、霊的に神を礼拝し、目とこころはしっかりと据えられているからです。
この章で記されていることは、彼らがクリスチャンの持つ霊的な祝福を持っていながら、この世にあってすべてのものを失ってしまうということです。
A、愛による霊的な交わり。
「兄弟愛をいつも持っていなさい。
旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。
牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。
結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章1〜4節
神の民のための愛はキリストにある真実なクリスチャンにある印です。
「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書13章35節
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章16節
「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一4章9節
クリスチャンはこの世から憎まれています。
(ヨハネの福音書15章17〜27節参照)
ゆえに、ともに励まし、ともに強くするために、お互いに愛する必要があります。
試みにあるクリスチャンたち同情し、もてなすという愛は実際的な歩みです。
「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一12章26節
この手紙の著者は旧約聖書において、アブラハム(創世記18章)、ギデオン(士師記6章11節)、マノア(士師記13章)について述べています。
もちろん、クリスチャンの愛は最初に家、そして、家族に見せられるべきです。
また、彼は結婚を滅ぼすことのできる、性的な罪について警告しています。
今日において(おそらく19世紀)、結婚の誓いが軽くなってしまいました。
私たちはすべての不道徳な人たちに、クリスチャンであろうと、なかろうと、さばきが下されることを知っています。
2、霊的な宝
「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章5〜6節
新約聖書の書かれた時代において、クリスチャンになるために何かを犠牲にしなければなりませんでした。
彼らは自分の持ち物を取りあげられて苦しみ、彼らの証のゆえに代価を支払いました。
このような状況にあるクリスチャンが、この世のことに貪欲になり、欲望を満たす者となることは簡単なことです。
しかし、このような勧めと警告があることを覚えて置くべきです。
「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。
」
新改訳聖書 テモテの手紙第一6章6節
「そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」」
新改訳聖書 ルカの福音書12章15節
満足すること、理解することは簡単かも知れませんが、実際には難しいものです。
真実な満足は多くを所有することにより得るものではありません。
その満足は私たちがキリストにすべてを置いた時に来るのです。
この手紙の著者は神がモーセとヨシュアに与えた旧約聖書の約束を引用しています。
申命記31章6〜8節、及びヨシュア記1章5節にはこのように書かれています。
そして、今日においても神の民に適応できることです。
「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目の前で、彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともにはいるのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。
主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」
」
新改訳聖書 申命記31章6〜8節
「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」
新改訳聖書 ヨシュア記1章5節
このようにキリストは常に私たちと共にいます。
私たちは私たちの必要すべてを持っているのです。
私たちは目に見えることを必要とはしていません。
キリストが私たちの必要なのです。
「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙4章19節
私たちは人の攻撃を恐れる必要はありません。
キリストが私たちの助け手です。
私たちは恐れる必要が無いのです。
「主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。
」
新改訳聖書 詩篇118篇6節
神のみこころの中にいる神の子供は、神のみことばに従います。
彼らには不足しているものはなく、辱めを受け続けることはありません。
これは私たちが頼ることのできる約束なのです。
3、みことばは霊的な食物です。
(新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章7〜10節参照)
この章に3つの命令があります。
この命令は地方教会とそこにいる牧者、及びそこに集う人たちに言われていることです。
A、思い出しなさい。
「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章7節
おそらく、この手紙の著者は彼らにみことばを話し、彼らを導いた牧者たちのことを言っています。
おそらく、殉教し、彼らから去っていったのです。
指導者という意味は、導く者という意味です。
牧者とは,群れの霊的に導ける者です。
どのように牧者は群れを導くのでしょうか?
神のみことばを通して、神の所有する羊に霊的な食物を与えるのです。
そして、クリスチャンたちは彼らの信仰を実例として、従うのです。
しかしながら、牧者の指は自分ではなく、キリストを指さなければならないのです。
ヘブル人への手紙13章7〜8節はこのように読むべきです。
「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちの生活(歩み)の結末(目的)をよく見て考えなさい。
それは、イエス・キリストと同じです。 」
多くの牧者は現れ、消えてゆくでしょう。
彼らは主によって、任された(立てられた)者にすぎません。
しかし、彼らの歩みはキリストと同じ道を歩むのです。
B、あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。
「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章17節
クリスチャンは霊的な指導者(導き手)を通して、教えられ、歩み、神のみことばに従います。
たましいの見張りが委ねられていることは牧者にとって厳粛なことです。
牧者は主に自分の職務について説明をしなければなりません。
もし、この牧舎の群れが神のみことばに不従順ならば、牧者ではなく、その群れにとって悲しいことなのです。
神のことばに従い、指導者たちを尊敬することは非常に重要なことなのです。
訳者注)この箇所は勧めです。
「さまざまの異なった教え」に耳を傾ける者たちに対して、正しい教えを語る指導者たちに従いなさいと言っているのです。
教会は牧者の持ち物ではありません。
牧者によって、勝手に教えを吹き込んではいけないのです。
聖書は明らかに、教会のかしら(頭、頭脳)はキリストであり、私たちはからだであることを教えています。
ですから、神のみことばのゆえに、そして、信仰ゆえに、反抗さえもあるのです。
事実、他の教師たちに対して、パウロの態度もはっきりしています。
また、神に立てられたと自称する牧者に対して絶対服従が信仰ならば、この手紙は無意味です。
人間の支配になった教会はなんとも惨めではないでしょうか!
C、「すべてのあなたがたの指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく言ってください。」
「すべてのあなたがたの指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく言ってください。イタリヤから来た人たちが、あなたがたによろしくと言っています。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章24節
ここに出てくる人たちは自分たちの指導者と交わりを持り、言葉を交わしていました。
しかし、悲劇が起きたのです。
クリスチャンが怒り、彼らの指導者たちの話していることに反抗したのです。
これは神のみことばに対する不従順ゆえでした。
クリスチャンは「さまざまの異なった教え」を食してはいけないのです。
もしくは霊的な病気になってはいけません。
エペソ人への手紙4章14、15節、ヘブル人への手紙5章11〜14節を見てください。
「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
」
新改訳聖書 エペソ人への手紙4章14、15節
「この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。
あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙5章11〜14節
私たちの思いは恵みによって建てあげられます。
律法でもなく、地上の宗教組織でもありません。
クリスチャンの祭壇はキリスト御自身です。
キリストは一度、完全に罪のために御自身を御ささげになりました。
私たちはキリストのみことばを食することにより、キリストを食しているのです。
それは、まさに、旧約聖書の祭司たちが肉と穀物をささげものから食したように、私たちはキリストを食するのです。
キリストは生きているささげ物です。
5、霊的なささげ物
「動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。
ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。
ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。
善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章11〜16節
キリストに立ち返ったユダヤ人たちは神殿、祭司、ささげ物を失いました。
キリストはこの神殿を拒み、強盗の巣と呼びました。
そして、キリストはエルサレムの町で拒まれ、その門の外側で十字架に架けられました。
「それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。
」
新改訳聖書 ヨハネの福音書19章20節
この手紙の著者はキリストの死と、贖いの日に捧げられ、燃やされたささげ物と比較しています。
「彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。
」
新改訳聖書 レビ記16章20節
ともに、この両方は宿営の外で苦しみを受け、キリストは辱めを受けたのです。
この手紙の読者はユダヤ教に戻ろうとしていました。
「戻ってはいけない!」とこの手紙の著者は警告しています。
ユダヤ教に戻る代わりに、宿営の外に出て、キリストとともに辱めを受けようではありませんか!」
あなたはおそらく、二つの面からヘブル人への手紙を強調点を見つけるかもしれません。
幕の内側、そこはキリストと交わりを持つ場所です。
宿営の外、キリストとともに苦しみを受ける。
クリスチャンは二度とこの地上の町に目を向けることはありません。
クリスチャンは旧約の信仰のヒーロたちのように天の都市を待ちわびているからです。
「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章14節
「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章10節
「この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章27節
王国の祭司として、クリスチャンは霊的なささげものを捧げます。
「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一2章5節
霊的なささげ物とはキリストの栄光のために、そして、キリストの御名のために、何かを行い、何を与えることです。
ヘブル人への手紙13章15節において、賛美のささげ物について述べています。
「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章15節
同様にエペソ人への手紙5章18、19節
詩篇27編6節、69編30、31編にも同じことが書かれています。
「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
」
新改訳聖書 エペソ人への手紙5章18、19節
「今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。
」
新改訳聖書 詩篇27編6節
「私は神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。
それは雄牛、角と割れたひずめのある若い雄牛にまさって主に喜ばれるでしょう。
」
新改訳聖書 詩篇69編30、31編
良き働きと、物質的な物を分かち合うという祝福は霊的な祝福です。
「善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章16節
また、他の霊的ささげ物にはクリスチャンのからだも含まれています。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙12章1、2節
また、贈り物。
「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙4章18節
祈り。
「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。
」
新改訳聖書 詩篇141編2節
砕かれたたましい。
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」
新改訳聖書 詩篇51編17節
勝ち取ったたましい。
「それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。
」
新改訳聖書 ローマ人への手紙15章16節
5、霊的な力
「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。
私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。
また、もっと祈ってくださるよう特にお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。
永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、
イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
兄弟たち。このような勧めのことばを受けてください。私はただ手短に書きました。
私たちの兄弟テモテが釈放されたことをお知らせします。もし彼が早く来れば、私は彼といっしょにあなたがたに会えるでしょう。
すべてのあなたがたの指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく言ってください。イタリヤから来た人たちが、あなたがたによろしくと言っています。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章17〜24節
20〜21節にある祝福は、クリスチャンがどのようにこの邪悪な世界にあって生きてゆけるのかをはっきりと示しています。
キリストの働きが天にある御座から私たちに働きかけているからです。
羊飼いである、キリストに与えられた三つのタイトルがあります。
1)良き羊飼い、良き羊飼いは羊のためにいのちを捨てます。
(詩篇22編参照)
「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書11章10節
2)永遠の契約の血による羊の大牧者。
(ヘブル人への手紙13章10節、詩篇23編参照)
3)大牧者
(詩篇24編参照)
「そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一5章4節
私たちの大祭司は羊飼いであり、助け手です。
私たちのうちで働く、キリストの働きは私たちに恵みを与え、キリストのために生きる力、そして、キリストに仕える力を与えます。
「あなたを完成させる」、これがヘブル人への手紙の主題です。
私たちは「成熟を目ざして進もうではありませんか。」
(ヘブル人への手紙6章1節参照)
私たちの成熟は私たちの努力や、私たちの強さによっては得られません。
それは神のみことばを通して、私たちの内に働くキリストの働きによって得られるものなのです。
次の箇所と比較してみてください。
「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。
すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。
それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙2章12〜16節
「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙3章20、21節
神は最初から私たちの内で働くことはしません。
それは、神はみことばを通して、私たちの内に働かれるからです。
「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。
」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一2章13節
ここにこの手紙を閉じる挨拶があります。
「恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章25節
これは初代教会においてクリスチャンたちを結びつけた愛を示しています。
この恵みに満ちた祝福をもって手紙を閉じる方法によって、この手紙の著者がパウロであることが確認できます。
(テサロニケ人への手紙第二3章17〜18節参照)
2003/11/30 終了