メッセージAH 2003/12/11

山上の垂訓
マタイの福音書 5〜7章
by H.A.アイアンサイド


訳者による前書き

多くの教会において、山上の垂訓がクリスチャンの守るべき命令として教えられています。
たしかに、聖書は神のことばであり、もらすところなどありません。
しかし、神は私たちに目的をもって、聖書を与えたということを信じ、神のみことばは神のみこころであると理解するのなら、この箇所だけ抜粋して読むことは危険です。
この山上の垂訓が聖書のどこに書かれているのか、何が成就され、何が起きていないのか、その順番を知らなければこの素晴らしい山上の垂訓によって、私たちは奴隷の身分に落とされるでしょう。

1、イエスキリストの十字架以前である。


「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章17節

恵みとまことが実現したのはいつでしょうか?
それはキリストが十字架に架けられ、罪の贖いの御業が完成したときです。
では、恵みとは何でしょうか?
それは贈り物であり、無条件に与えられるものです。

聖書にはこのように書かれています。


「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章3節

救いは律法によっては出来なかったのです。
しかし、今、キリストは私たちのすべての罪を背負って十字架の上で死んでくださいました。
それを、信じる(受け入れる)だけで救われるのです。

律法を守ることによっては救いは達成されず、救いはイエスキリストの十字架によって完成されたのです。

つまり、この山上の垂訓は律法の説明です。
たしかに、クリスチャンにとって学ぶことがたくさんあります。
しかし、これを守ることによって、祝福を得ようとするならば、ここに書いてある呪い、刑罰をも受けてもいいという宣言になります。
教会でクリスチャンの守るべき戒めと宣言されようと、伝統的になんであろうとこの事実はかわりません。


「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第二5章9節

2、御国(千年王国)に入る者の説明、また、その状況。

やがて、神はユダヤ人に約束された千年王国を実現されるでしょう。
その直前に羊と山羊を分けるように千年王国に入る者と、裁かれる者を分けます。
誰が幸いでしょうか?
その説明がなされ、その状況について、山上の垂訓の中に描かれています。


「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」

新改訳聖書 マタイの福音書25章31〜33節


第5章 御国の原則 PART1 by H..A.IRONSIDE

私たちの主の山上の垂訓と呼ばれていますが、この箇所は福音が語られているのではありません。
ここではキリストの十字架ではなく、メシアの弟子と告白するユダヤ人たちを導くためにキリストの王国の原則を語っているのです。
別の言い方をするならば、御国の法律(律法)について語っているのです。
この内容は律法を守るということについて、そして、御国の目的に対して忠実になるということについて、どのようなものかを説明していることなのです。
それはメシアを待つユダヤ人たちの生きる目的となることです。
したがって、ここで語られている説教はキリストの支配にはっきりと反対して者たちの存在が認識できます。
しかし、この地上でキリストが人間のからだをもって歩んでいる時に、ここにいる者たちはこの地上で弱く、低い身分を持つ者たちであり、キリストの支配を受け入れられる者たちです。
生まれつきの人に対してはこの山上の垂訓はいのちを得る方法ではありません。
それどころか、人を有罪に定める根源です。
また、この垂訓は高く、聖なる基準であり、救われていない人が目を向けても何の意味もありません。
もし、誰かがこの垂訓に目を向けるのならば、この者が正直に良心に問いかけるのなら、その人はすぐに助けの必要性を訴えるでしょう。
その人は聖書の中にある福音に目を向けなければなりません。
福音はすべて信じる者にとって神の力です。

「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙1章16節

この地上において、謙遜で知的な人はこの山上の垂訓をもっとも高い道徳の教えであることを認識します。
そして、その者は書かれた基準に従って歩むことが不可能であることを良心で感じ、その神の基準を知り、神に賛美します。
しかしながら、これらのことは救われていない人に対して言われることであり、信じる者にとって、この戒めを実際に行うことに意義があるのです。
C・I・スコフィールド「律法は何かしらの力を起こす」言っています。
その通りに律法には義の要求がなされており、信じる私たちに成就するものです。
この律法の中にその原則が置かれています。
そして、キリストが歩まれたようにすべての者が歩むことが証明されるのです。

「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。 」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章4節

この律法と原則を、終わりの時代にある残りのユダヤ人のためだけ、もしくはキリストが十字架にかかる前の弟子たちにだけ書かれたものとしてはいけません。
しかしながら、直接的にはその両者に書かれたものです。
しかしながら、私たちは神のことばを拒むように歩んではいません。
テモテの手紙第一6章3〜5節にはこのようにあります。

「違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。」
新改訳聖書 テモテの手紙第一6章3〜5節

その人は神に従うということを拒んでいます。
私たちは天国の住民として覚えておくべきことがあり、私たちには地上で歩むゆえの責任が与えられているのです。
そして責任は人の行いに対して、この垂訓の中で示されていて、私たちのためにはっきりと定義されています。

1、幸い

「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」

新改訳聖書 マタイの福音書5章1〜12節

「心の貧しい者は幸いです。」
訳者注)直訳:霊において貧しいことは幸いな者たちです。
イエスがここで語っている人たちは実際に霊的に貧乏な者たちであり、はっきりと彼らは自分たちの貧しさを理解していました。
彼らは自分たちが失われた状態であることを告白し、神の恵みにより頼まなければならない者でした。
「悲しむ者は幸いです。」
もし、悲しみの中にいる人が「神がすべてにおいて哀れみ深い方であることを、砕かれたこころを解き放す方である事を知るのなら、その人は祝福を経験するためにそこに置かれていることを知るのです。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二2章3節

「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。 」
新改訳聖書 詩篇34編18節

神は私たちが恵みにおいて成長するために私たちに悲しみを与える時があります。
その時、私たちは神の愛に、そして、すべてのことを神の利益のために働く方に信頼するのです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章28節

この世界は自己主張するものを賞賛します。
キリストはその心の中に柔和で謙遜な思いがありました。
柔和な者たちはキリストの霊を分かち合い者となり、ついにキリストのいのちを十分に活用します。
彼らは「地を相続し」、彼らの性質において、神の愛と導きが証明されるのです。

「義に飢え渇いている者は幸いです。」
飢え渇いている者は深く、より熱心に新しい命が与えられたことを証明するでしょう。
彼らは私たちをあざけようとはしません。
神を求めるすべての者は義を求め、神の約束によって満足します。

「あわれみ深い者は幸いです。」
彼らはあわれみを示すことにより、そのあわれみが地上に広がるでしょう。
これは王国の法律なのです。
かたくなで、無情な人は歩みにおいて、満足することから捨てられています、
そして、いつも同じ歩みを繰り返します。

「心のきよい者は幸いです。」
きよさは重要な目的です。
(きよいということばは二心がないという意味です。)
こころのきよい人たちはすべてのことにおいて、神の栄光を見るのです。
このように神御自身が、現れてくださいます。
多くの者たちは神の摂理によってのみ神を見ることができますが、ここにいるきよい者たちはいつも神の顔を見ているのです。

「平和をつくる者は幸いです。」
争いと分裂は肉の働きです。
(ガラテア人への手紙5章19〜21節)
兄弟に不一致をまく者は主の嫌われるものの一つです。
(箴言6章16〜19節)
私たちには平和を作ることが命じられています。

「そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙14章19節

私たちが神の子供として歩む時、私たちは神の性質を現わします。

「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙15章33節

「義のために迫害されている者は幸いです。」
多くの人が主張しているように、ここで言おうとしていることキリストの千年王国のことを言っているのではありません。
千年王国では義のために迫害させられることはありません。
(患難時代では迫害されます。)
むしろ、キリストの拒まれている間、キリストの弟子たちを対象にした教えです。
キリストに従う者たちは神の支配されることを嫌う世界から迫害を受けるのです。

「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 」
私たちは偽りの訴えにしりごみをするかもしれません。
しかし、私たちの主も同じ道を歩み、赦されていないことを思い出します。
私たちにはキリストと同じ道を歩むという祝福があるのです。
私たちは自分自身が正しいと主張するのではありません。
しかし、神は神の方法と時を私たちにはっきりと示し、私たちはこの神により頼むのです。

「喜びなさい。喜びおどりなさい。」
しかし、地上で意気消沈してしまうのはなぜでしょうか?

「天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」
これがその答えなのです。
神は神無きこの世界で、神の民がことばにおいて、また、行動において、苦しみ受けることを宣言していることに気が付いてください。
しかし、私たちが神の顔を見て歩む時、神の方法をもってその穴埋めをしてくださるのです。
すべての時代の神の預言者たちは同じような苦しみを受け、その報いを受けてきました。
しかし、神はこのような者たちを御自分の愛なるみこころに従ってどのような報いが与えられたかを聖書から学ぶべきです。
次の箇所において、キリストの弟子がさまざななたとえを通して語られています。
すべて語られていることは神が私たちに約束されたことです。
そして、私たちが神に信頼して信仰をもって歩むことが求められています。

2、塩と光

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 」

新改訳聖書 マタイの福音書5章13〜16節

「あなたがたは、地の塩です」
塩とは防腐剤です。
私たちの主の弟子はこの世に対して、世の外から罪を告発し、義の標本とされた者たちです。
味の無い塩は、良きところの何も無い、矛盾したクリスチャンのようです。

「あなたがたは、世界の光です」

キリストは御自身が世にいる限り、御自身が世の光であることを表明しました。

「わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書9章5節

キリストがこの地上からいなくなった今、弟子たちはキリストの代わりとしてこの闇の世界に対する光となるのです。

「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙2章15、16節

光は闇の中に隠れている悪を現します。

「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。 」
新改訳聖書 エペソ人への手紙5章13節

「また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。」

キリストを告白する者たちはこのように告白を置きます。
しかし、告白を「枡の下に置く者」がいるのです。
その者は告白する時間がありながら、恐れを持ち、キリストの証を隠しているのです。
キリストとの交わりにおいて、その者は現実に良き結果を得ることはできません。
しかし、燭台の上にあかりを置く者は、常に一貫してキリストを証しています。
その者は家全体を照らしているからです。

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 」
単に告白しているだけでは十分とは言えません。
歩みにおいて、神のために話しているでしょうか?
私たちは人前にキリストを送り出し、私たちは光輝くのです。
このように私たちは主にある良き働きを理解し、これらの働きにおいて主の誠実さが証明されるのです。
私たちのたましいにおける神の働きが現実に理解されることにより、神の栄光が現れます。
また、彼らは行動と告白において忠実さが証明されます。
私たちは主が単に告白だけにおいて、光り輝かせようとしているのではないことを思い出すべきです。
しかし、私たちの主について、このように言っています。

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章4節

キリストはこのように宣言され、その忠実な歩みにおいて、他の多くの者たちに光を与えるのです。

次に私たちは主がどのように律法の言っていることを適用するかについて語っています。
むしろ、ここにいる者たちに律法を無視したり、軽んじてはいけないことについて語っているのです。
律法を表面的にみることよりも、その中にある深い意味を主は示したのです。

3、律法の成就

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。 」

新改訳聖書 マタイの福音書5章17〜20節

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」
私たちの主はここで三つの方法でこのことを証明しました。
1)キリストは完全に律法に従ったのです。
キリストは律法の強く主張し、尊敬すべきことを語りました。

「主は、ご自分の義のために、みおしえを広め、これを輝かすことを望まれた。」
新改訳聖書 イザヤ書42章21節

2)キリストの死は律法を壊すものたちの要求をすべて満たすものでした。
そして、信じるものすべてを義にすることにより、律法を終わりにするのです。

「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙10章4節

3)聖霊によって、律法の要求する義がクリスチャンに対して、成就することが可能となりました。

「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章4節

「律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。」

この点(英語で"jot")は"yodh"のことで、ヘブル語での最もちいさなアルファベットです。
そして画(英語で"tittle")はヘブル語で文面の意味を変えるときに使われる小さなしるしのことです。
私たちの主は聖書の完全性を示しています。

「これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。 」
ある人は神の命令に記された道徳的な影響力を甘くみるでしょう。
しかし、その神のみこころの現れを無視する人は神の権威に対して無知なのです。
それによって、彼らは神に対する義務に無関心になり、神の王国に価値さえ置かなくなります。

「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。 」
律法学者とパリサイ人は最高の律法主義であり、自分たちの義に信頼しているものです。
しかし、彼らは自分たちに神の義を持つことを許しませんでした。

「というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙10章3節

神の義は最高の特質を持っています。
下の節にこの高い義が示されています。

4、人殺し

「昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。
あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。
まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。 」

新改訳聖書 マタイの福音書5章21〜26節

律法は人殺しを禁じています。
イエスは不当な怒り自身が、聖霊の与えた命令を打ち壊すものであることを示しました。
「人を殺してはならない。」
ここで人殺しにつながるこのような思いが、人殺しという結果を生みだすことを語っています。
また、別の者に悪口を言い行為が憎しみであることをはっきりと語っており、これが人を殺すという行為であることを示しています。
そして、そこには永遠の火の池に行かなければならないという危険が待っています。
神の礼拝者であることを告白し、故意に別のものに対して悪いことを行い、また、神に嫌がる悪意をこころに秘めておく者がいるならば、その者はささげ物を捧げるために祭壇に行く前に、兄弟との誤解を解いてから祭壇に近づくべきです。
もし、お互いの敵対関係を赦しあえるのならば合意すべきなのです。
罪は年をとっても死にません。
しかし、時が進めば悪くなるのです。
多くの者が苦しんでいます。
もし、その人がこれらのみことばにこころをとめているのであれば、その答えははっきりとしているのです。

5、姦淫と離婚

これらの節でイエスはみだらに不貞を求める思い、色目つかい、女性を好色的に見つめることなどは律法の第七戒を破ることだと私たちに示しています。
このような律法の基準を持つ者は「私は無実」だと叫ぶことが出来るかもしれません。
また、このような言う者はもっと大きな罪に至ることです。
その人はこれらの罪に至らないように自分をだましているのです。
このようにこの警告は重要なものとなります。
その人がもし、悔い改めないのであれば、永遠の火の地獄に至ることになります。
次に書かれていることは、私たちに結婚に関する威厳ある絶対的な宣言を持たせます。
マタイの福音書19章8節、5章31、32節には次のように書かれています。

「イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。」
新改訳聖書 マタイの福音書19章8節

旧約において、人のこころがかたくなゆえに神が許したことを、イエスの弟子には禁じたことがありました。
また、つぎのようにも書かれています。

「また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。』と言われています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。 」

新改訳聖書 マタイの福音書5章31、32節

「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」
新改訳聖書 マタイの福音書19章9節

これらのことは神が人の歩み対する意思をはっきりと表しています。
それは結婚に関することであり、夫、または妻が姦淫の重大な罪を犯したのなら、その夫婦の関係は解消されるということです。
罪の無いままの人は再び結婚することができます。
しかし、コリント人への手紙第一の7章ではこのようなことが書かれています。

「妻は夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、もし夫が死んだなら、自分の願う人と結婚する自由があります。ただ主にあってのみ、そうなのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一7章39節

「姦淫が結婚する前の、そして、結婚後に見つかった不道徳な罪が同じように適応される」、これはとても不合理なことだとある人が言うかもしれません。
しかし、結婚後に犯した罪は結婚前に犯した罪と同じだとは言っていません。
独身の時にふけった性的な罪よりも、結婚の誓いを打ち壊す罪となり、それは非常に重たい罪なのです。
この節によってはっきりと理解できるです。
姦淫を犯した夫、もしくは妻はその結婚の結びはとかれるのです。
離婚は法廷で法律的に分かられることです。
無実な者は神の御前において自由です。
しかしながら、結婚は決してできません。

6、誓い

「さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。
だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。 」

新改訳聖書 マタイの福音書5章33〜37節

これらの節から見出される神との交わりという高い標準によって裁かれます。
どのくらい多くの主をテーマとする会話でありながら、その価値を無くしてしまっているのではないでしょうか?
クリスチャンが口にしたがる決まり文句な告白はなんと不注意な、おろかなものではないでしょうか!
そのようなことをイエスは口にしていないことを知っておくべきです。

7、敵を愛すること

「目には目で、歯には歯で。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。
「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

新改訳聖書 マタイの福音書5章38〜48節

この部分全体をバランスよく読むように、この箇所をバランスよく読むべきです。
キリストの弟子が生きてゆくのに神の恵みの現われが証明されるのです。
「目には目で」これは純粋な律法です。
絶対的な義です。

「目には目。歯には歯。手には手。足には足。 」
新改訳聖書 出エジプト記21章24節

この基準によって裁かれますが、ほとんどの人の場合、そこには希望がありません。
ゆえに、神は弟子たちに他の者に対して、同じ恵みを示すことを期待しています。

「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」
これは律法の要求から離れていることです。
怒ることなく、これらすべてのことを失う苦しむこころを制御できることは神の恵みとしか、言いようがありません。

「いっしょに二ミリオン行きなさい。 」
当時、通常の礼儀は直接、もしくはさまよう者の導く時、もしくは遅れた旅行者といっしょに行くものでした。
しかし、恵みは二倍進むものなのです。
「借りようとする者は断わらないようにしなさい。 」
キリストの弟子は師のようでなければなりません。
喜んで交わりを持つべきです。
その人はその人に求めるすべてを与える立場にいるわけではありません。
もしくは、その人の欲しがるすべてを貸すべき者でもありません。
しかし、その人は可能な限り、与え、支援の出来る限り、それに応じる準備が出来ている人なのです。

「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
旧約聖書において「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と命じているでしょうか?
申命記23章6節、そして、詩篇137編9節の祈りに書かれていることを基礎としていますが、これはユダヤ人ラビの慣習によるもので後に加えられたものです。

「あなたは一生、彼らのために決して平安も、しあわせも求めてはならない。」
新改訳聖書 申命記23章6節

「おまえの子どもたちを捕え、岩に打ちつける人は、なんと幸いなことよ。 」
新改訳聖書 詩篇137編9節

「しかし、わたしはあなたがたに言います。」
この言葉は父の御もとから来られた方。イエスキリストが言われたのです。
不完全なラビの言ったことを修正し、敵に対する完全な愛の律法を示したのです。
敵のために良いことを行い、祈ることによって、私たちはクリスチャンの歩みにおいて悪に圧倒的な勝利者となるのです。
他の人が私たちをどのように悪く扱ったとしても、私たちは彼らを助けようと試みるのです。
私たちを呪う者たちを私たちは祝福するのです。
そして、私たちを憎む者に親切にし、私たちを迫害し、偏見を持つ者たちにために祈るのです。
彼らはキリストの御霊によって支配されたクリスチャンたちを見て、その行いの中に、キリストの恵みがあることを知るのです。
これらの高い標準に、罪深い人間が達成することが可能でしょうか?
出来るのです。
新しく生まれた人には生まれつきの人間に出来ないことが可能なのです。

「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」
ここで与えられている私たちの主の命令に従うのは、私たちの天の御父の子供たちであることを現します。
神は私たちを模範とし、正しいこと、正しくないことを判断させ、神の哀れみを神の子供たちを通して現そうとしているのです。
神の御性質はクリスチャン一人一人に分け与えられているのです。

「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二1章4節

この垂訓の中に描写された神の御性質を預かることを知るのなら、神によって可能なこととなるのです。

「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。」
人間の持つもっともずうずうしい世的な愛でさえ、納得できる人ならばその人たちを受け入れます。
世の人たちが苦い反抗することによって哀れな生き方をしています。
しかし、主に従う人たちはすべての人に愛を示します。

「また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。」
これは小さなことかもしれませんが、もし、キリストの弟子に他の人と同じように同じ関心を寄せるのならば、キリストの弟子と結ばれた証明となります。
収税人はユダヤ人によって嫌われていました。
彼らはローマ政府の支配者からつ仕わされ、イスラエルにおいて税金を集めていました。
収税人たちは可能な限り、自分の同国人から税金を取るように専念しました。
それは国家から指名された査定人に仕えなければなず、イスラエルに対して背を向け、収益を上げることにより、自分の財産を増やしていたのです。
しかし、このような収税人を自分の兄弟として受け入れることをここでは要求しているのです。

「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
ここでいう完璧は偏見のない完成です。
このように神を真似る者はえこひいきなどありえません。
その者は正しい者も好みますが、正しくない者をも好みます。
神の最高の祝福は神を現そうとする同じ御霊によって、他の弱く哀れみを必要としている者に実行されるのです。

「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。 」
新改訳聖書 使徒の働き10章34、35節

私たちが肉のからだを持って地上を歩まれた私たちの主の歩みを見る時、ここに描かれている祝福が幸いなる主の中に満たされているのがわかります。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。 」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙5章7節

この御霊は私たちの肉の性質の反対側にあるもので、私たちの救い主に信頼することを通して、新しい歩みを受け取った者に満たされた性質なのです。
悪い環境になったからといって、主を信じる者は落ち着きをなくしたりする者はいません。
クリスチャンの歩みにおいて、主が支配してくださることを知っているからです。
たしかにすべて正しいことを考える者とは、私たちの主によって義が教え込まれた者であることがこの比類なき垂訓に示されています。
(これはどこであろうと、知識のある人によって賞賛されていることです。)
そして、これは肉なる人が達成できることとは程遠い標準です。
クリスチャンは単に新しく生まれた者ではありません。
この高い標準に従って生きることのできる者なのです。
人がこの山上の垂訓に話された歩みをする時、この垂訓によって宗教的(道徳的)な存在となるでしょう。
しかし、私たちの師の教えられたことを理解度はわずかなものだと知らされます。
キリストの超自然的な力によってのみ、超自然的な歩みができる事を主は語っています。
その力は聖霊の力であり、福音を信じる者に与えられた力なのです。


第6章 御国の原則 PART2

1、貧しい者に与える。

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

新改訳聖書 マタイの福音書6章1〜4節

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。」
人が人に仕える義務において、この行為が実行に移される時に、私たちは義(善行)について、特別な見方をしなければなりません。
それはすべてのことが自分を誇示することなく、行われなければならないということです。

「報いが受けられません。 」
人の賞賛と栄誉が求められ、与えられた時、私たちはさらに栄誉を得ようとするでしょう。
しかし、私たちはキリストのさばき(報い)の座の前に立つのです。

「施しをするときには」
自己宣伝のための慈善行為より、反論されるべきものは何もありません。
このような行為は極端な屈辱されるべきものであり、有害な存在です。

「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
神の目は神のこどもすべてに注がれています。
神の栄光のためになされた正しいことすべてに、神は報いて下さいます。
主が認められる範囲において、隠れて良い事を行うことは、ある人にとっては喜ばしいことであり、、ある人にとっては苦悩でかも知れません。
しかし、神は真実な神の子供たちに十分に報いて下さいます。
神は、いつも、神の御名において行うすべてのことを知っておられます。
神が私たちを見て、私たちが神を見上げて歩む時、神が見忘れていたということはありえないことなのです。

2、祈り

「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
だから、こう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」

新改訳聖書 マタイの福音書6章5〜15節

これらの節において、私たちは祈りにおいて、主が報いてくださることを教えています。
この主の祈りが神の恵みである現在の時代において真実であり、維持されるべきものであると主張するのなら、それは無知としか言いようがありません。
神のみことばのすべてが教えてる、もっとも尊い、そして重要な教えの結果であるたましいのいくつかが盗まれてしまうという結果になるでしょう。
私たちはどのように祈るべきか主御自身から聞くことができる特権を、偉大な仲介者の足元に置かれていることに感謝します。
しかし、私たちはイエスキリストを通して、天における霊的祝福を持って新しく祝福されたことを思い出さなければなりません。
ここにある聖書箇所の中に、私たちの持つ祝福の道徳的、もしくは霊的な性格は存在してなく、私たちの受けつぐ祝福ではありません。
でも、私たちにはこれを警告として受け入れることができます。
神の栄光を現すよりも、形式的な祈り、敬虔を装うこと、これは警告です。
神は現実を要求しているのです。
パリサイ人たちは自分自身に利得があるように見せかけの祈りをしていました。
まさに、現在のイスラム教徒、ローマカトリック教徒、もしくは他の宗教のようです。
形式的な祈りは公の場所でされており、彼らはより熱心に見せることを求めていました。
長い祈りを捧げることによって、自分が宗教熱心な人間であると人に認めさせていました。
イエスは御自分の弟子たちにこのように祈りをしてはいけないと警告したのです。
イエスは公の場所で弟子たちが祈ることを許してはいません。
テモテの手紙第一2章8節に記されていることも同じことを意味しています。

「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」
新改訳聖書 テモテの手紙第一2章8節

しかし、イエスはここで、人に見せるための祈り、また他の宗教にも見られるような見栄に結びつくような行為を痛烈に非難しました。
それは個人的に隠れてされる祈り、隠れた部屋で神へ捧げられる祈りに価値を置いているゆえです。
そこには他の人の目や耳が存在していないからです。
神は隠れて見ています。
そして、神のみこころに従って聞いて下さり、その答えをも与えてくださるのです。
神のみことばが色あせてしまうようなことはありません。

「あなたがたは、あなたがたのことばで主を煩わした。しかし、あなたがたは言う。「どのようにして、私たちは煩わしたのか。」「悪を行なう者もみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのか。」とあなたがたは言っているのだ。 」
新改訳聖書 マラキ書2章17節

無駄な繰り返し、意味のないことば、からっぽのフレーズが繰り返し続けられるような祈りははっきりと禁じられるべき行為です。
もし、あなたがこの聖書に照らし合わせて物事を見るのなら、狂気的な叫びとはなんとも不適切なものだと分かるはずです。
私たちは多くを聞いてもらいために多くのことばが必要ないことを知っています。
神は私たちの必要を私たち以上に知っているのです。
私たちは神の子供として、率直に神の御前に聞いていただくのです。
神は私たちが常に喜んでいることをみこころをしているからです。

「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。 」
これは真実です。
聖書の他の箇所においても、私たちの主は祈ることの大切さを語っています。
しかし、それは意味の無い言葉で繰り返すことでも、また、決まり文句を繰り返すことでもありません。
マタイの福音書6章9〜13節において、 一般に主の祈りと呼ばれる美しく、その大筋が教えられていることを私たちは知っています。

それは主が与えたゆえにこのように呼ばれていますが、主の祈りとは間違った呼ばれ方です。
これは実際には弟子の祈りです。
イエスはこのようには祈っていません。
イエスは罪無き方でした。
しかし、この祈りには罪の赦しという要求がなされています。
主は、ここで祈りが何回も繰り返すべきではないと教えています。
ですから、今日、一般に言われているように、主の祈りが唱えられるべきだという有効な理由にはなりません。
また、主の祈りが礼拝や祈りの場において唱えられるべきではありません。
また、使徒の働きを見るのなら、その初代の集まりにおいて、主の祈りが唱えられたという記録はなく、手紙においても同様に見られます。
では、私たちはどのように主の祈りを見ればよいのでしょうか。
それはどのように祈るべきか、もしくは祈りとは何かを教えるために主が語られたことを私たち、そして、弟子たちが知るためです。
私たち自身がキリストへと与えられた主題であり、神は私たちに求めさせようとしているのです。
そして、これが神の方法であることが示されています。
その反面に、福音書以降において祈りについて説明された箇所はなく、祈りに強調される箇所が見当たりません。
ある程度、祈りについて書かれることが制限されているからでしょう。
現在、聖書自身がみことばを形式ではなく、正確に扱うようにと私たちを求めるように導いています。
私たちは形式ではなく、個人的に祈り、現実に神の元へゆく必要があるのです。
私たちには求める目的があることに目をとめてください。

「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 」
このことばは礼拝を表現しています。
神と交わりを持つこと側に立ち、神の御名をあがめるのです。
神を父として知ることは、新生した者たちのみに適応されることです。

「御国が来ますように。」
これはキリストの地上再臨を示しています。
神の王国がこの世界全体において、力に満ちて建てられます。

「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 」
その時、天では神のみこころに逆らおうとする者はいません。
しかし、地上において、多くの苦悩が引き起こされました。
その時、人々は聖徒として神のみこころを学び、天において天使はみこころを実行します。
黄金のような日々が実際にやってくるのです。

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」
日々の必要のために、生きている神に頼ることをこのみことばは表現しています。
神が私たちの必要を与えてくださるということ抜きに、私たちは明日という日を期待することはできません。

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 」
新約聖書の手紙の中で私たちがすでに得ている罪の赦しが書かれています。

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。 」
新改訳聖書 エペソ人への手紙4章32節

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。 」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙3章13節

これらはすでに私たちが赦されたことを記しています。
神は父として私たちを支配し、私たちは神の子供なのです。
私たちは毎日のように私たちを怒らす者に対して罪を犯してしまいます。
もし、私たちが失敗をした兄弟を拒むのならば、神は私たちが罪や失敗を犯した時に対する許し、つまり、子供としての回復をむやみにおこなうことはありません。
失敗を犯した神の子供としての許しは、他の家族のメンバーに対する許しとして表現できるものなのです。
これは、もちろん、キリストが来られる時に私たちに受け取る永遠の罪の赦しについて、語っているのではありません。

「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
これは私たちの持つ弱さを認識させることばです。
私たちは誘惑者の声によって圧制されそうな環境に置かれるかもしれません。
しかし、神に対する叫びは私たちを守ります。
13節の最後の部分は良いとされる原本は見つかっていません。
多くの翻訳された聖書において省略されています。
儀式的な礼拝における祈りにおいて習慣的に用いられた結果、おそらく、後に加えられたものなのでしょう。

3、断食

「断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」

新改訳聖書 マタイの福音書6章16〜18節

この節はマタイの福音書1〜4節でイエスが言われたことに戻っています。
あらゆる偽りと偽善は激しく非難されています。
クリスチャンは暗い存在だ!と言われることによって、信仰深いという外見を見せる事と、率直な信仰を持つと言うことはまったく無関係です。
素直な信仰とは、神を信じて歩むというその中に形成されてゆくものです。
イエスはあらゆる歩みにおいて罪無きお方でした。
イエスは彼の弟子たちに対する振る舞いにおいても、完全な率直さを持っておられました。
イエスは食べ物を控えようとしていました。
イエスはより神とともにいる時間を持つために他においてもそのようにしていました。
イエスは御父とともに交わり、楽しみを得る者となるために喜ぶ方法を開拓していたのです。

4、宝を蓄えること

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。
だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。 」

新改訳聖書 マタイの福音書6章19〜24節

この世の、仮の宝についての正しい態度について、これらの節において教えられています。
すべての宝は神が目的をもって維持され、神が直接、それを使われるのです。
神は永遠の目的のためにこの世の宝を所有し、この地上でその手をゆるめその宝を永遠のために使用するのです。
この地上の富は過ぎ去り、神の目の前から過ぎ去ります。
神はそのような価値の無いものを永遠に所有などしていません。
この世では価値のない宝が豊かな信仰によって、神のために用いられ、天の宝となるのです。
クリスチャンがこの地上の生涯を終える時、彼らは天に蓄えられた宝を見るのです。
主によって導かれ、他の人に祝福を分かち合うものは、より天に宝を蓄えるものとなります。
このようにして、私たちのこころは天に置かれ、私たちは信仰によって豊かになるのです。
この地上の宝はこの地上において価値を持つでしょう。
しかし、永遠には何の価値もありません。
天に希望を置くクリスチャンは実際にはこの地上の宝には乏しい者でしょう。
しかし、神の御前においては豊かな者なのです。
では、このようになるために何が必要なのでしょうか?
それは神の栄光を見るための健全な目、それは私たちがその豊かさの中を歩むために神のみこころを見分ける目です。
もし、私たちは自分勝手な道を歩むのなら、私たちは自分から闇の中に進み、私たちの歩むべき道を失ってしまいます。
私たちは神に仕えるか、もしくはこの世の富に仕えるか選ばなければなりません。
私たちはその両方に仕えることはできません。
片方を愛するのなら、もう一方の愛する愛は押し出されてしまいます。
ですから健全な目が必要なのです。

「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。
だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。
もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」 」

新改訳聖書 ルカの福音書11章34〜36節

5、心配

「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

新改訳聖書 マタイの福音書6章25〜34節

神のみこころは神の子供たちが心配や悩みを持たずに歩むことです。
イエスは「心配するのはやめなさい」と言っています。
しかし、その意味はキリストの弟子が軽率に生きろとか、将来のことを考えるなと言っているのではありません。
しかしながら、キリストは弟子たちに心配することを禁じています。
それは、彼らが将来、苦しんだり、困惑してしまうことのないためです。
神は私たちを守り、心配してくださいます。
このように、最後まで神は私たちを受け入れて下さり、私たちは神に頼るのです。
私たちの主は私たちの目を空を飛ぶ鳥に向けさせています。
この鳥は天におられる御父によって養われているのです。
そして、野に咲く花が美しく咲いているのは慈愛にとんだ創造主によるのです。
私たちは悩んだからといって、私たちの背は伸びません。
どうして、いつ、このように私たちは未来に起こるべき問題によって悩むが与えられるかわかりません。
野の草に豊かに着させた神は神の子供にも豊かに着させると約束しています。
いつ、どのように、小さな信仰しか持てないのに?
この世の国々は、この一時的な人生の本題を追求しました。
私たちはこの世の国々のように歩んではいけません。
むしろ、最初に神を喜ばして歩み、神の王国の原則に従って行動することを求めるべきです。
イエスは私たちの歩みにおける責任を要約してこのように言っています。
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」
これは「王国のために求めなさい」ではありません。
「あなたの歩みにおいて、神の王国に価値を置きなさい」と言っているのです。
このメッセージはすでにキリストの弟子である者たちに言われています。
このように、私たちにあって王国の義が満たされます。
これは私たちの祝福された主が私たちに与えられた目的であり、私たちにとっては義務なのです。
もし、私たちが神の王国を最初に求めるのなら、私たちはこの世の一時的に必要な恵みが与えられることを確信することができるのです。
6章の終わりにこのような勧めがあります。
それは明日に向かう前に、私たちは今日という日に主に喜ばれることを求めるべきことです。
今日という日に私たちは主の栄光を求めます。

6、山上の垂訓の目的

多くの熱心なクリスチャンは極端な律法主義を避けるでしょう。
すると、極端な道徳不要論が登場し、危険な状態に陥いります。
私たちはわずかな間、5章で述べられた問題に戻ろうと思います。
二つの問題が繰り返し、述べられています。
この現在の神の恵みの時代においてのみ、聖霊によって、キリストと結び合わされるまで、正しく、クリスチャンと呼ばれることはありません。

エペソ人への手紙3章5、6節にはこのように書かれています。

「この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。
その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。 」

新改訳聖書 エペソ人への手紙3章5、6節

初めて、弟子たちはアンテオケにてクリスチャンと呼ばれました。
しかし、彼らはすべてのクリスチャンが弟子であるように、彼らも単なる弟子だったのです。

「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」
新改訳聖書 使徒の働き11章26節

私たちの主が地上で働いていた間、弟子たちはイエスのことばを受け取り、初めて弟子となったのです。
弟子たちに王国についての宣言がされ、彼らにこの王国の原則が置かれました。
これらの原則は、この後に教会に十分に与えられた奥義と敵対しているものではありません。
いままで、述べてきたように、律法の義は私たちにおいて成就されるのです。
肉に従って歩むのではなく、御霊によって歩む結果です。

「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。 」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章4節

このすばらしい山上の垂訓のレベルの高い義には、聖霊によって新生された者たちに性質が記されているのです。
次の問題として「山上の垂訓には救いの方法が記されているのでしょうか?」
答えは「ノー」です。
それは目的ではありません。
これは救われた者に対して、その行動原理が示されているのです。
もし、人が人間の努力によって、救いを求めるのなら、この山上の垂訓はその人を罪に定めるでしょう。
この現された義の標準はモーセの律法よりもはるかに高いものなのです。
人がこの山上の垂訓に目を向けるのなら、希望なき罪人の姿を浮き彫りにさせるでしょう。
しかし、その者が罪人であることを告白し、キリストに信仰を置き、この山上に垂訓に教えられていることに従う人は岩の上に建てられて人であり、揺るがされることはありません。


第7章 御国の原則 PART3

1、兄弟をさばくこと

「さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
兄弟に向かって、「あなたの目のちりを取らせてください。」などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。
聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。 」

新改訳聖書 マタイの福音書7章1〜6節

この箇所の最初の5節で無意識にしてしまう偽善について、主は人のこころを摘発しています。
これはすべての人に共通して言えることですが、私たちは私たちの兄弟をひどくさばく内容です。

「さばいてはいけません。」
神は教会の交わりにおいて神の民をクリスチャンとして道徳的常識に違反した者たちを「さばきなさい」と神は命じています。

「私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一5章3節

「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。
外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。 」

新改訳聖書 コリント人への手紙第一5章12、13節

しかし、私たちは隠れた動機をもって、人をさばいてはいけません。
私たちは単純に偏見を持ち、たびたび誤って人をさばきがちです。
私たちは人のこころを読んだり、人の考えを見抜くことはできません。
このようなことができるのは、神の大能だけです。
もし、私たちがこの命令に従わないのであれば、他人が私たちを同様な方法でさばいたからと驚く必要がありません。

「あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」
私たちは私たちが他人をさばくのと同じものさしでさばかれるです。

「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」
ここに鋭い皮肉がはっきりと込められています。
ここにある二つのことば「ちり」と「梁」ははっきりと対照的に比較されています。
ここにある「ちり」ということばの原語は乾いた小枝か、麦わらという意味です。
地上に主がいた時代において、このことばは口語的に小さなとげという意味で使われていました。
つまり、それ自身が小さいものですが、痛みのゆえにまさに「梁」のような痛さがあると言われていました。
エジプトにおいて、パピルスに記録された記録の一つに、数年前、ある若者が自分の母親に釘を親指に打ち込み、この「梁」を耐えて苦しいと書き送ったと記されています。
これははっきりと主の言われたことを教えています。

ある人が人を叱ったとしましょう。
しかし、叱った人は他人の悪い点を見つけるかもしれませんが、歩みにおいて自分の方が優れていると言いきれる者はいません。
「兄弟に向かって、「あなたの目のちりを取らせてください。」などとどうして言うのですか。」
この世でさえ、あなたは宝石のような存在だと言うでしょう。
でも、もし、ある人がよりひどい歩みをしている者を見たとしても、その人はひどい人生を送っている者の過ちを直すことはできません

「偽善者たち。」
このことばのギリシャ語の原語は「俳優」を表すことばでした。
そのことばの意味は「二つ目の顔」であり、その俳優は演じるキャラクタのマスクを着けるのです。
ですから、神は「偽善」という二つの顔を持つ者を訴えているのです。
そして、私たちの主はこのように主張しています。
浅さかな、空っぽの宗教心は神に対して何の役にも立ちません。
私たちは素直に神に目を向けない限り、恵みと哀れみをもって私たちの必要を満たし、私たちを愛する御父として神を知ることはできません。
私たちは他人を傲慢にもさばき、その時、私たち自身は罪の中を歩んでいます。
それは神の目から見て非常に不愉快なことです。
もし、私たちが素直に神を知ろうとするのなら、もし、私たちが神のみこころを行う準備が出来ているのなら、自己中心ではなく、私たちは神へ祈りを捧げ、そして、キリストが死なれたその兄弟のためにも祈りを求めます。
神は私たちをその道へと導くのです。
これが実際のいのちの道なのです。

「豚の前に、真珠を投げてはなりません。」
私たちに与えられた神の奥義である深く、尊い事柄を聖さを求めない人に語ろうとし忍耐することは愚かなことです。

2、熱心に祈る。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。
それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。 」

新改訳聖書 マタイの福音書7章7〜12節

「捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。」
このことばは常に祈る重要性を強調しています。
これは習慣的に意識せずに祈るということでも、考えもせずに決められたことばを繰り返して祈るということでもありません。

私たちは求めるように勧められています。
つまり、私たちの要求を神に知っていただくことです。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。 」

新改訳聖書 ピリピ人への手紙4章6、7節

もし、祈りが答えられないのなら、その問題において私たちは神のみこころを忍耐してさらに学ぶ必要があります。
そうです。私たちは知識の光(聖書)をもって祈る必要があるのです。

「私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地に行なわれるとき、世界の住民は義を学んだからです。」
新改訳聖書 イザヤ書26章9節

私たちは誠実に、そして、信仰をもってしつこいほどに神に求める必要があります。
このように神に求める時に答えがあるのです。

「また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。
すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 」

新改訳聖書 ルカの福音書11章5〜10節

このように神は答えてくださるのです。

ある人は人間の作った哲学で、一般に啓示宗教と呼ぶものだというかも知れません。
しかし、神が働いているという一つの証明となるものです。
たしかに「信心深さ」という宗教的な言葉はキリスト教において広く使われている言葉かもしれません。
また、新約聖書と旧約聖書の両方に使われている神と人間の関係を示す便利な言葉として使われるかもしれません。
しかし、祈りが聞かれるということは、新約聖書の時代に使われているように、すでに旧約聖書の時代においてすでに現されていることなのです。

「祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。」
新改訳聖書 詩篇65編2節

「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。 」
新改訳聖書 イザヤ書56章7節

「そして彼らに言われた。「「わたしの家は祈りの家と呼ばれる。」と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
新改訳聖書 マタイの福音書21章13節

訳者注)非常によい問題に突き当たりました。
神は私たちに直接啓示をするかという問題です。
ある人は神からみこころが与えられたと言います。
そして、その様子を聞いて怪しいことを言い出したと言う人もいれば、まじめに神からみこころや確信が与えられたという人もいます。
私もこのようなことを主張する多くの人と会ってきました。
そして、その後、与えられたみこころと現実が違った時、ある人はだまり込み、また、ある人は神のみこころが変わったとまで言う人もいました。
しかし、私はそのような人と私たちの信じている信仰について冷静に話し、そのようなみこころを求めることが信仰ではなく、聖書という変わることのない堅い基礎のうえに信仰を置くことを教えた時から、立ち返り、そのような啓示はなかったと言いました。
私もまったく同意見であり、信仰を持っていなかった時の自分のようです。
それよりも、次のみことばに耳を傾けてください。
そして、神から来たと宣言し、それがその通りにならないのなら、律法ではそのような者をどのように扱うべきかが書かれています。


「ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」
あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。」と言うような場合は、
預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」

新改訳聖書 申命記18章20〜22節

ただし、神の全能な力、聖書を見るのであれば、まったく神からの直接啓示がないとは断言できません。
神は弱い人間の感情も用いることもあるでしょう。
しかし、現在の完成された神のみことばである聖書を学ぶ者ならば、直接啓示の必要性がないということも断言できます。
このような啓示を求めることが正常なクリスチャンの歩みではないことは明白です。
また、「みこころ」という言葉の定義は「神の意思」ということです。
つまり、私たちにとって聖書です。
また、「確信」をどのように持つべきか、それは神のことばを信じ、受け入れることです。
神は偽ることができません。
人は神のことばだけに信頼を置くことができす、他のもので補強したがります。
しかし、神のことばに補強などいりません。
それは不信仰です。

つまり、祈りが聞かれるということは、精神論や感情的な動きではなく、聖霊の働きによって聖書のみことばから、そして、現実の結果から得られるものなのです。
(もちろん、特別な例外もあるでしょう。)

また、ヨハネやパウロ、そして、預言者たちはこのような夢や語りかけによって神のみこころを受けたではないかという人がいます。
これらの人たちは聖書が完成されていない時代の特別な職務をもった使徒であり、預言者です。(私たちは使徒でも、預言者でもありません。)
どうして、完全な神のみこころ(聖書)がありながら、声や啓示を求めるのでしょうか?
(患難時代のユダヤ人はこのように預言するでしょう。)
また、どうして、そのような声を聞いた、与えられた人(特に女性)がこんなにたくさんいるのでしょうか?
何が不安なのでしょうか?


「イエスは答えて言われた。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と書いてある。」
新改訳聖書 マタイの福音書4章4節

「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙6章17節

神は私たちが願いを持って神のみもとに来るように導いています。
そして、私たちの必要に応じて与えることを約束しています。

「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙4章19節

「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」
神の与える情況は確かな答えをもっています。
何か不確かなものではなく、神に近づくすべての者に神のみこころが何かを与えます。
私たちの求めるものはいつも真実であるとは限りません。
神は私たちが神の知恵を正しい答えとして常に受け取るようにしておられます。
そして、神は神の子供たちの要求に対して無知ではありません。

「だれが石を与えるでしょう。 」
石は一見、パンのかたまりのように見えるかもしれません。
しかし、食べることはできません。
地上の父親たちは自分たちの子供の必要を考えます。
普通なら、食事に対する子供たちの要求を無視したり、子供たちの健康を維持するために不必要なものをあえて与え、子供たちをあざけったりしません。

「また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。」
魚は食物であり、健康を建てあげます。
しかし、片方は毒であり、死に至らせます。
本当の父親なら、そのような恐ろしい物を子供に与える者はだれもいません。
むしろ、良い物を与えるはずです。
むしろ、人間の親とは弱い父親を表しています。
神のみこころは神の子供たちに良い物を与えることを喜びとしているからです。
父親の存在は家族において、家族への愛の見本とならなければなりません。
そして、天の御父は終わることの無い利益を子供たちに与えることにより、祝福を喜び、前もって計画されている方です。
祈りが答えられるということは哀れみと受け取るということを教え、説明することになります。

「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」
新改訳聖書 マタイの福音書7章13節

これが本当の黄金律です。
そして、これは祈りと連なり、その人は実際に自分の兄弟たちに哀れみを掛け、特徴付けらて、正しく祈ることが始めてできます。
だれも実際の行動なしに正しく祈ることはできません。

「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。
それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。
たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。
愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。 」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章17〜22節

しかし、これは福音ではありません。
福音の実です。
人は何度もこの黄金律をもっともらしく話すことがあります。
この黄金律は比較的小さな問題に関して、もしくはキリスト教全体に関する問題として、これを守るように語るでしょう。
何回も、私たちは「この黄金律は私にとって良いものでした。そして、信心を持つ者すべてに必要なものです」と聞いてきたでしょう。
しかし、その者はこの自己中心を告発するこの戒めによって裁かれます。
神の聖なる法廷の前を通り過ぎることはありません。
しかしこれは、律法の要求を別の方法にて述べているのです。
私たちの幸いなる主は迫害され、裏切られこの外に生きていたのは明白です。
誰も救われる者はいません。
結論から言うのであれば、この黄金律は私たちへの訴えを増やすことになります。
そして、私たちが恵みによって救われるという必要を強調するのです。
キリストを受け取り、聖霊によって私たちの内に聖霊が住んで下さること以外に、この高く、聖なる標準にたどり着くことができません。
主イエスと主イエスの教えを軽んじる者たちによって繰り返し言われていることがあります。
この黄金律のオリジナルはイエスが語ったものではなく、イエス以前の他の者の教えを適応したのだと主張するものがいます。
孔子は紀元前数百年前にすでにこのことを語っていたと主張します。
しかし、主イエスキリストの明確に教えられた内容とは大きな違いがあります。
イエスは弟子たちに他の者たちに教え、実行するために肯定的に弟子たちに教えられたのです。
中国の賢人である孔子の教えは否定的であり、このように教えています。
「あなたがしたくないないことを他人にもしてはいけない。」
しかし、黄金律ははっきりとした神の愛です。
しかしながら、孔子の教えは一般的な人間のアドバイスにしか過ぎません。
聖書はこのように書かれています。

「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」
新改訳聖書 ルカの福音書6章31節

また、これは狭い道であることも記されています。

3、狭い門

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。 」
新改訳聖書 マタイの福音書7章13、14節

最初の道(孔子)はキリストにあって現された神の恵みに対して無知であるすべての者が求める道であり、すべての人に要求されています。
他方はキリストの神への献身の道です。

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
新改訳聖書 マタイの福音書20章28節

狭い門はいのちへ至る道です。
それは単に人生の終わりに天国に行けるという事を言っているのではありません。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。」
この道は自己中心、神のみことばに対する不従順の道です。
この広い道を通るすべての者は、自分の哀れな状態を認めるのを拒み、キリストの要求に対して無知です。
この広い門から入り、ここを通るすべての者たちは生まれつきの性質によってこの道を選ぶのです。
「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」
キリストを知る知識から離れては、現実のいのちを得る者は誰もいません。

「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。 」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一5章12節

私たちは神のみこころに委ね、狭き門から入り、この小道を歩むのです。
この道はいのちに至る道です。
この地上において狭い道ですが、このいのちは豊かさの中にあり、十分に受け入れられるものです。
そして、永遠の祝福において、満ち、その中にいるすべての者が楽しむのです。

4、偽の預言者に対する警告

「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」 」

新改訳聖書 マタイの福音書7章15〜23節

この比喩はとてもはっきりしています。
疑うことの知らない羊や小羊の周りをうろつき、その群れへと飛び掛る機会をうかがっている羊の皮を身にかぶった凶暴な狼がいると言っています。
この狼は偽の教師です。
しかしながら、彼らは最初から真実な色を外には出しません
彼らの実際の正体と目的は隠されており、彼らは弟子たちを奪い取ろうと考えているのです。

「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。 」
新改訳聖書 使徒の働き20章30節

私たちにはこの教師たちをみことばによって、そして、実際にキリストの教えによて試みる、唯一で安全な手段を持っています。
これはヨハネの手紙第二に記されているとおりです。

「だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第二9節

「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。」
これは教理システムに対するテスト、そして、その教理を宣伝してるかのです。
これらの教理の実が神の栄光に帰しているかのテストです。

「同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。」
明確にこの二つは反対のものです。
神によって新しく生まれた者と今だに悔い改めていない者を描写しています。
私たちのこころに印象つけるために、この木のように二つの種類の人を例えています。
良いか、悪いか、もしくは、その人たちの振るまいが暴かれるか、または真実な性質を持っているかです。
良い性質、悪い性質がここで使われています。
まさに、この感覚によって箴言が書かれているのです。

「善人は主から恵みをいただき、悪をたくらむ者は罰を受ける。 」
新改訳聖書 箴言12章2節

「善良な人は子孫にゆずりの地を残す。罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。 」
新改訳聖書 箴言13章22節

「心の堕落している者は自分の道に甘んじる。善良な人は彼から離れる。 」
新改訳聖書 箴言14章14節

悔い改め、新しく生まれるまで、実際には何も良いことはそこにはありません。

「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章12節

口から出てくる告白はこころの状態を示しています。

「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。」
神に対して反行しているこころは、その者の生活において神に誉れを帰すことを造り出すことができません。
しかしながら、神のみこころの支配の中にある者でさえ罪の中へと進むことができ、神の御名に不名誉を与えることもできるのです。

「良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」
神は邪悪な罪人を忍耐し続けています。

「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。 」
新改訳聖書 ヤコブの手紙5章7節

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二3章9節

このさばきの日は近づいています。
この悔い改めない人たちはこのさばきを納得しながら受けるのです。
バプテスマのヨハネも同様な宣言をしています。

「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。 」
新改訳聖書 マタイの福音書3章10節

しかしながら、救いを告白している者たちは、このように語られた歩みをするでしょう。

「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。 」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一1章5節

「また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。 」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一2章10節

良き人は清さと義の中を歩むことを喜びとします。
悪しき人は罪と堕落を味わうのです。
そこにある恵みは私たちたましいの中で働き、聖霊において良い実に至らせるのです。
その人の歩みにおいて、明らかにされるのです。

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙5章22、23節

これは神の性質を受け取ることにより、その人の中において現実となってゆくのです。

「わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」
単なる口だけの告白は何の効果もありません。
もし、このような信仰なら、その人の心と歩みにおいて、神のみことばは何の目的も持つことはありません。
私たちは私たちの働きによって、救われたのではありません。
しかし、良い働きはその人の信仰を実際にテストします。
神から生まれたものは御父のみこころに服従することを喜びとします。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。 」

新改訳聖書 エペソ人への手紙2章8〜10節

「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」
多くの人たちが表側だけを見せ、礼拝すること、奉仕することと、キリスト無き告白と結びつけ成功することを示しています。
その日が明らかにします。
このようなことは何も効果を持たないのです。
しかし、個人的にキリストに信仰を置き、私たちの主として告白する者たちだけが認められるのです。

「私はあなたを知っていました。
しかし、あなたのやって来たことは何も知らない。」
このように言われる者は誰もいません。

「わたしはあなたがたを全然知らない。」
このみことばは失われた者たちに言われているのです。
しかし、御自分の所有される者たちにはこのように言われています。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。 」
新改訳聖書 ヨハネの福音書10章27節

5、賢くて建てる者

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

新改訳聖書 マタイの福音書7章24〜27節

このキリストの偉大な垂訓も終わりに近づいています。
最も描写的に、そして、最も厳粛な方法で私たちの主がこの永遠の結末について語っています。
私たちの態度をより、主のメッセージへと向けなければなりません。
キリストのみことばに耳を傾け、こころに置く者は本物のクリスチャンであることが証明されます。
その者はキリスト御自身という岩の上に自分の家を建てます。
この時代の岩を土台とする家を打ち壊すことのできる敵にはこの状況を吹き飛ばす嵐などありません。
空中の力を持つ君には攻撃などできません。
ある者は外側の耳で聞くでしょう。
しかし、真実に従うことにこころを置きません。
その者は沈む砂の上に家を建てる者のようです。
試みの時が来た時、ある者はキリストのためにわずかな時間を永遠のために希望を持って耐えます。
その者にとって、イエスは主です。
ゆえにキリストのみことばに無条件に従います。
キリストの王国に土台を据え、この原則の上に清く、良心を置く者に、キリストは王として語っているからです。
そして、この地上の支配者と国々の自己主義は神への最高の反抗となります。
このみことばは「この世で問題を持ち、この世が崩壊してゆく」中において家を建てた者がキリストを主として持ち、神のみことばに従う者となるために書かれたのです。
神のみことばにこころを置くことに失敗することは、地上の一時的な場面において、そして、永遠に失われるという両方の意味において失うことを教えています。
教会の建てられた土台については、聖書の多くの箇所で示されています。
キリストはこのように岩です。
そして、クリスチャン一人一人においても同様に建てられているのです。
キリストという真実なる岩の上に建てられているからです。
このような者は決して失敗することはありません。

「だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」
新改訳聖書 イザヤ書28章16節

「それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙9章33節

ある人は希望を他の人や、組織、功績のある行動に希望を置くかも知れません。
しかし、その者は自分自身が永遠に失われ、希望なき者であることを知りません。

6、キリストの教師としての権威

「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。 」
新改訳聖書 マタイの福音書7章28、29節

キリストは最初に身近な弟子たちに語り掛けました。
そして、群集は聞くために近づき、この偉大な垂訓はよりドラマチックな結論にたどりつきました。
群集はキリストの明確で、深い教えに驚きました。
彼らはイスラエルにおいて、このような教えは聞いたことがありません。
聞き手が深い感銘を受けるようなはっきりとした権威がそこにあることを彼らは知っています。
通常はイスラエルにおいて律法学者や他の教師たちがラビから教えられたという権威をもとに語ります。
しかし、イエスは自分の目的に従って、完成され、決定付けられた言葉として彼らに語っています。
このようにここにいる聞き手を驚かしているのです。
この垂訓は基準線として、ここにいる聞き手の偽善者ぶりをテストしているのです。
ここにいる者たちは神の御前に直接、素直になり、自分が罪人であり、救い主が必要であることを認識したでしょうか?
私たちにはその結果が記されていません。
しかし、私たちは彼らの前にこの偉大な真実が置かれ、彼らはこの真実を持って家に帰り、この真実について考えたということが推測され、確信されます。

結論

イエスはこの道徳的な律法を過小評価したでしょうか?
いいえ、イエスはそのようにはしていません。
イエスは神の権威ある者として、古きことを語ったのです。
しかし、イエスは深い霊的な意義を表現し、付け加えています。
それは人々が真実に適応するために理解されるべきものです。
道徳的原則は変わることがありません。
これらの原則はあらゆる時代においても、同じものです。
しかし、現在の神の子供たちには、キリストのへの愛、そして、聖霊に影響されコントロールされることを通して実現されています。
キリストの王国は外面的においては、実現されていないかもしれません。
キリストは王国を受け取るために天という遠い国へ行きました。
しかし、帰って来るのです。

「それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。 」
新改訳聖書 ルカの福音書19章12節

キリストが二度目にこの地上に来られる時、私たちのキリストの、そして、神の王国は実現します。
しかし、現在、聖霊を通して、私たちのうちに王国は実現されているのです。
これは人間の目には見えないかも知れません。
すべてのクリスチャンが神の王国において、生まれたのです。
この反抗的な世界の真ん中において、偽の略奪者である悪魔が現在、王であり、この世の君主として救われて無い人たちによって認識されています。

「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。 」
新改訳聖書 ヨハネの福音書12章31節

「わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章30節

地上の義の王への忠誠はその者のことばに対する従順という行為が含まれています。

「違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。 」
新改訳聖書 テモテへの手紙第一6章3〜5節

キリストの弟子はみことばに対する服従を通して、王国の実現を知るのです。
これらは一時的な飲み食いのことではありません。
しかし、義と平和と喜びは聖霊によるのです。

「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。 」
新改訳聖書 ローマ人への手紙14章17節

これは王国のある一面を語っているのです。
私たちの主は復活と昇天との間、40日間、弟子たちに教えられました。

「お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。
イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。 」

新改訳聖書 使徒の働き1章2、3節

これは使徒たちがメッセージを語るために、キリストとの交わりを持つ人々と認識されるために背負った重荷です。

「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」 」
新改訳聖書 使徒の働き2章36節

「皆さん。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています。 」
新改訳聖書 使徒の働き20章25節

そして、これはパウロが最後まで語った主題です。
復活されたキリストはキリストの御名を信じて罪の赦しを受けたすべての者の主です。
彼らは神の御前において、この純粋な恵みによって新しい立場へと入れられました。
今、すべての事柄について、キリストとの交わりの中に加えられた者と呼ばれるようになりました。
彼らはキリストを証しするためにこの世界に残されたのです。
失われた者に神の恵みは知られるようになるためです。
彼らはすべての人々に良きものを求めさせるようにします。
彼らがこのように歩むのなら、彼らは理解されずに容赦のない迫害と恨みに満ちた扱いを受けるのです。
しかし、彼らは本質的に復讐することはありません。
キリストの聖霊の現われによって、悪を良き事によって征服するのです。
彼らは王国の法律を守る者として自分自身を見せるでしょう。
さらに彼らは自分たちの兄弟たちの祝福を求めます。

「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。 」
新改訳聖書 ローマ人への手紙12章21節

私たちの主が帰って来られる時、神の王国、この垂訓の中にある主張された原則がこの地上に完全に示されるでしょう。
この垂訓は現在、あらゆる場所において、前もって現されているのです。
義と賛美がすべての国々の中において注ぎ出るのです。

「地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽生えさせるからだ。」
新改訳聖書 イザヤ書61章11節

これはこの地上の回復の時です。

「そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。 」
新改訳聖書 マタイの福音書19章28節

個人的においても回復の時があります。

「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。 」
新改訳聖書 テトスの手紙3章5節

しかし、今、クリスチャンは聖さと義の中で、神の御前において、力を得て歩むのです。

「子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。
罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。
だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。
そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。 」

新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章7〜10節

私たちは自己中心的に祈りによらず、よりキリストの垂訓を身近に感じ、この垂訓の教えている高さにまで達する必要があることを求めるのです。
聖霊が私たちのこころに力をもって教えているように、私たちは厳粛なキリストの教えをより深く理解することを求めるべきです。
クリスチャンは内側において、真理を求める者です。
彼はクリスチャンという隠れた性質から湧き出た思いによって、神の御子によって実現されるのです。

「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。 」
新改訳聖書 詩篇51編6節

神は恵みにおいて、そして神を知る知識において、いかに成長する必要があるかを理解する素直なたましいを求めています。
世はキリストを拒みました。
そこで、クリスチャンは正しく神を代表して歩むことが求められているのです。

2004/1/8終了


INDEXに戻る⇒