メッセージAI 2004/1/25
サムエル記 注解 by ウォーレン.W.ワーズビー
(FROM Notes to the Historical Books)
サムエル記第一 1〜3章
サムエル記の始めの章の出来事で、主に三人の人物が現れています。
1、ハンナ
神を敬う母(1章1節〜2章11節)
A、ハンナの悲しみ(1章1節〜1章10節)
神には、一人の夫と一人の妻という家族を始めから完全な形として示していました。
「イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。
」
新改訳聖書 マタイの福音書19章8節
しかし、神はここで一夫多妻を許可していますが、申命記には次のように書かれています。
「ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりはきらわれており、愛されている者も、きらわれている者も、その人に男の子を産み、長子はきらわれている妻の子である場合、その人が自分の息子たちに財産を譲る日に、長子である、そのきらわれている者の子をさしおいて、愛されている者の子を長子として扱うことはできない。
きらわれている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から、二倍の分け前を彼に与えなければならない。彼は、その人の力の初めであるから、長子の権利は、彼のものである。
」
新改訳聖書 申命記21章15〜17節
エルカナは敬虔な人でした。
しかし、彼は二つの家を持っていたのです。
一人は愛する妻、ハンナ(恵み)、しかし愛されているにもかかわらず、悲しい重荷を持っていました、
ハンナは不妊の女であり、もう一人の妻より迫害を受けていました。
B、彼女の願い(1章11節〜1章19節)
ハンナは祈りの人でもありました。
ハンナの息子である偉大な祈りの人であるサムエルを見るのなら、特に驚くべきことはありません。
彼女はそのこころに重荷があるゆえに、食事を食べることなく、幕屋に祈りを捧げにゆきました。
1章9節にある「宮」という言葉は単に「公な大きい建物」という意味で、まだ建てられていないソロモンの神殿のことを述べているわけではありません。
ゆえに、ハンナは特別な祈りの場所に祈りを捧げに行ったのではありません。
むしろ、ハンナの最高の霊的状態が喜んで捧げることによって証明されます。
そのように、彼女は最初に生まれた子供を捧げました。
21、22節において、ハンナの夫も、ハンナのこのような懇願をも受け入れたことが証明されます。
「夫のエルカナは、家族そろって、年ごとのいけにえを主にささげ、自分の誓願を果たすために上って行こうとしたが、ハンナは夫に、「この子が乳離れし、私がこの子を連れて行き、この子が主の御顔を拝し、いつまでも、そこにとどまるようになるまでは。」と言って、上って行かなかった。」
新改訳聖書 サムエル記第一1章21、22節
民数記30章6〜16節にも同様に書かれていますので参照にしてください。
「夫がそれを聞いて、彼女に何も言わず、しかも彼女に禁じないならば、彼女の誓願はすべて有効となる。彼女の物断ちもすべて有効としなければならない。」
新改訳聖書 民数記30章11節
民数記6章にはナジル人に対する要求が記されています。
エリは大祭司です。
確かにハンナを激しく裁きました。
「エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」
新改訳聖書 サムエル記第一1章14節
しかし、エリがどのような状態であったか、特別に考えて見ましょう。
彼にはよこしまな息子たちを持っていたのです。
「さて、エリの息子たちは、よこしまな者で、主を知らず、民にかかわる祭司の定めについてもそうであった。」
新改訳聖書 サムエル記第一2章12、13節
「さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」
新改訳聖書 マタイの福音書7章1〜5節
C、彼女の自己放棄(1章20節〜1章28節)
神はハンナの祈りに答え、子供を与えました。
ハンナはその子にサムエルと名付けました。
その意味は「主が答えて下さいました」です。
ユダヤ人の女性は約3歳で、子供を乳離れさせました。
その時、ハンナは主への懇願を成就させるために、エリへとサムエルに渡したのです。
この時、捧げられた三匹の雄牛はおそらく、罪のためのささげ物だったのでしょう。
ナジル人の懇願の捧げ物として、ささげ物は焼かれ、特別に捧げられたものだったのです。
民数記15章8節を見てください。
「また、あなたが特別な誓願を果たすため、あるいは、和解のいけにえとして、若い牛を全焼のいけにえ、または、ほかのいけにえとして主にささげるときは、....。」
新改訳聖書 民数記15章8節
敬虔な母により、なんという告白でしょうか!
同様なことがテモテの手紙第二1章5節にも書かれています。
「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。」
新改訳聖書 テモテの手紙第二1章5節
もし、私たちにエルカナとハンナのような両親を持つのであれば、より多くの人たちがサムエルのように敬虔な人になったのではないでしょうか。
28節にある「渡された」という意味は「与えた」です。
つまり、サムエルの残りの人生は主に属しているのです。
ハンナの子(2章1〜11節)
エルカナが礼拝を捧げ、エルカナの妻は神に祈り、賛美を捧げていました。
ルカの福音書1章46〜55節にあるマリアの賛美と比べてみてください。
両方とも、女性がその謙遜な祈りにおいて、神の勝利と誉れを賛美しています。
2章10節にはキリストの名が二つ出て来ます。
一つは王であり、もう一つは油注がれた者です(メシア、キリスト)。
ゆえに、ハンナの重荷はイスラエルにおいて、神の栄光となりました。
ハンナは明らかに、敬虔な母でした。
ハンナは神を先に置き、祈りにおいて神を信じていました。
彼女は懇願し、彼女は神の栄光を得たのです。
2、エリは軽率な父親ではないでしょうか?
(2章12〜36節)
A、エリの罪深い子供たち
(12〜21節)
主のしもべが、その大祭司が自分の子供を主のために用いることに失敗するは、なんという悲劇ではないでしょうか!
エリの子供たちは自己中心的な人物でした。
なぜならば、彼らは神のみことばよりも、そして、民の必要よりも自分の欲望を前に出したからです。
彼らは横暴な者であり、好色な者でした。
「エリは非常に年をとっていた。彼は自分の息子たちがイスラエル全体に行なっていることの一部始終、それに彼らが会見の天幕の入口で仕えている女たちと寝ているということを聞いた。」
新改訳聖書 サムエル記第一2章22節
ピリピ人への手紙3章17〜19節はこれら不敬虔な祭司たちに対して書かれた、完璧な描写です。
「兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙3章17〜19節
肉的なことばの繰り返しに注意してください。」
18節にあるエリの子供たちと若きサムエルの対照的な描写に注意してください。
「サムエルはまだ幼く、亜麻布のエポデを身にまとい、主の前に仕えていた。」
新改訳聖書 サムエル記第一2章18節
疑うことなく、エリの子供たちは若きサムエルを笑い、彼の忠実な働きに対して見下していました。
しかし、神はすぐにその結論に至らせました。
B、エリの自己中心的な不従順
(22〜26節)
エリは、素直に真実を直面し、神のみことばに従うことを拒否しました。
申命記2章18〜21節、17章12、13節を見てください。
「あなたは、きょう、モアブの領土、アルを通ろうとしている。
それで、アモン人に近づくが、彼らに敵対してはならない。彼らに争いをしかけてはならない。あなたには、アモン人の地を所有地としては与えない。ロトの子孫に、それを所有地として与えているからである。
−そこもまたレファイムの国とみなされている。以前は、レファイムがそこに住んでいた。アモン人は、彼らをザムズミム人と呼んでいた。
これは強大な民であって数も多く、アナク人のように背も高かった。主がこれを根絶やしにされたので、アモン人がこれを追い払い、彼らに代わって住んでいた。」
新改訳聖書 申命記2章18〜21節
「もし人が、あなたの神、主に仕えてそこに立つ祭司やさばきつかさに聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その者は死ななければならない。あなたがイスラエルのうちから悪を除き去るなら、
民はみな、聞いて恐れ、不遜なふるまいをすることはもうないであろう。」
新改訳聖書 申命記17章12、13節
3章13節において、はっきりと神はエリ自身が自分の子供たちの回復を拒んだことを宣言しています。
それどころが、エリは彼らを満足させようとしていたのです。
「わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。
」
新改訳聖書 サムエル記第一3章13節
2章23〜25節において、エリの弱さは警告されています。
エリは子供たちに訓練すべきこととは違うことをしているからです。
「それでエリは息子たちに言った。「なぜ、おまえたちはこんなことをするのだ。私はこの民全部から、おまえたちのした悪いことについて聞いている。
子たちよ。そういうことをしてはいけない。私が主の民の言いふらしているのを聞くそのうわさは良いものではない。
人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。だが、人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころであったからである。
」
新改訳聖書 サムエル記第一2章23〜25節
2章26節とルカの福音書2章52節を比較してみてください。
「一方、少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された。」
新改訳聖書 サムエル記第一2章26節
「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」
新改訳聖書 ルカの福音書2章52節
C、神の激しいさばき
(27〜36節)
神は神の知られぬ人の口を通して、さまざまなメッセージを恵みをもってエリに送られました。
エリの家族が苦しみに会うことを、神はエリに警告していました。
それはエリの子供たちの罪と、エリの不注意のゆえでした。
エリは主よりも子供たちに栄誉を与えていました。
「なぜ、あなたがたは、わたしが命じたわたしへのいけにえ、わたしへのささげ物を、わたしの住む所で軽くあしらい、またあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうち最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。
」
新改訳聖書 サムエル記第一2章29節
これは、まさに偶像崇拝でした。
神はエリを押し出しましたが、エリは主の栄光をねたむようなことはしていません。
後の時代にサウルはエリの子孫を多く殺しました。
「それから、王はそばに立っていた近衛兵たちに言った。「近寄って、主の祭司たちを殺せ。彼らはダビデにくみし、彼が逃げているのを知りながら、それを私の耳に入れなかったからだ。」しかし王の家来たちは、主の祭司たちに手を出して撃ちかかろうとはしなかった。」
新改訳聖書 サムエル記第一22章17節
そして、後にソロモンはエリの一族とツァドクの一族を入れ替えました。
「こうして、ソロモン王は、エホヤダの子ベナヤを遣わしてアドニヤを打ち取らせたので、彼は死んだ。
それから、王は祭司エブヤタルに言った。「アナトテの自分の地所に帰りなさい。あなたは死に値する者であるが、きょうは、あなたを殺さない。あなたは私の父ダビデの前で神である主の箱をかつぎ、父といつも苦しみを共にしたからだ。」
こうして、ソロモンはエブヤタルを主の祭司の職から罷免した。シロでエリの家族について語られた主のことばはこうして成就した。」
新改訳聖書 列王記第一2章25〜27節
「王はエホヤダの子ベナヤを彼の代わりに軍団長とし、王は祭司ツァドクをエブヤタルの代わりとした。」
新改訳聖書 列王記第一2章35節
もちろん、35節に述べられているようにサムエルのためには忠実な祭司でした。
しかし、究極的にはキリストのことを語っています。
「わたしは、わたしの心と思いの中で事を行なう忠実な祭司を、わたしのために起こそう。わたしは彼のために長く続く家を建てよう。彼は、いつまでもわたしに油そそがれた者の前を歩むであろう。」
新改訳聖書 サムエル記第一2章35節
34節にはエリの二人の子供の死が預言されています。
「あなたのふたりの息子、ホフニとピネハスの身にふりかかることが、あなたへのしるしである。ふたりとも一日のうちに死ぬ。
」
新改訳聖書 サムエル記第一2章34節
その成就については4章17、18節に記されています。
「「この知らせを持って来た者は答えて言った。「イスラエルはペリシテ人の前から逃げ、民のうちに打たれた者が多く出ました。それにあなたのふたりの子息、ホフニとピネハスも死に、神の箱は奪われました。」
彼が神の箱のことを告げたとき、エリはその席から門のそばにあおむけに落ち、首を折って死んだ。年寄りで、からだが重かったからである。彼は四十年間、イスラエルをさばいた。
」
新改訳聖書 サムエル記第一4章17、18節
3、サムエルとは献身的な子なのでしょうか?
(3章)
A、主からの召し
(1〜10節)
言い伝えによると、サムエルはこの時、およそ12才だったと記されています。サムエルは主の前に成長し、主の幕屋に仕えることを学びました。
しかし、主はサムエルに個人的に現れるようなことはありませんでした。
「サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった。」
新改訳聖書 サムエル記第一3章7節
最初、サムエルは目が見えなくなったエリが助けが必要で、サムエルを呼んだと思い、サムエルはエリの所へ走って行きました。
(サムエルがどのようにエリに仕えていたのか、サムエルがすぐに走っていった姿を見れば分かります。)
10節にはサムエルの会話が記録されています。
「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた」
新改訳聖書 サムエル記第一3章10節
キリストのために個人的な判断力を養い、クリスチャンの家において成長することはなんとも重要なことではないでしょうか?
サムエルは燭台を油で満たしました。
それは日が暮れ、燭台が必用になるということです。
サムエルは眠りましたが、主はサムエルを呼びました。
「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。
新改訳聖書 サムエル記第一3章10節
その後、神はサムエルにこのように話しています。
「お話しください。しもべは聞いております。」
新改訳聖書 サムエル記第一3章10節
これはサムエルが偉大な祈りの人になった結果です。
B、主からサムエルへのメッセージ
(11〜14節)
サムエルは主の前に自分を低くし、神のみこころを常に学ぶことを喜びとしていました。
しかし、エリは主に対して不従順であり、自分の家族を第一にしていました。
神は直接、エリに話してはいません。
サムエルに語られたのはエリの家に対する裁きのメッセージでした。
そのメッセージはサムエルのこころに重く、圧し掛かりました。
サムエルはエリを愛しており、エリから多くを学んでいました。
しかし、サムエルは自分の願いとは別に、主に対して真実でなければならないことを知っていました。
C、サムエルのエリへのメッセージ
(15〜21節)
この驚くべき霊的体験は、日々繰り返される翌朝の仕事から、サムエルを守ってはくれませんでした。
サムエルは人々の前で自分を誇示するようなことはしませんでした。
サムエルは大きな謙遜を持って歩みました。
主の重荷を自分の心に置いて歩んでいました。
ちょうど、サムエルが「はい。ここにおります」と主に言ったように、サムエルはエリに呼ばれた時も「はい。ここにおります」と答えています。
サムエルが主に栄光を帰したように長老にも栄光を帰しました。
しかし、サムエルは自分の心に秘めた悲しいメッセージを守ろうとしましたが、エリがサムエルに尋ねた時、彼はすべてを語りました。
そのように、私たちも長老を尊敬しますが、エリとエリの家族の失敗を尊敬することはしません。
神のみこころによって、エリの祭司が終わること、つまり、エリとエリの息子たちの死が正しいことを私たちは尊重します。
この出来事は歴史の転換点です。
この時まで、神は民に繰り返し、広く、幻によって語ってはいませんでした。
しかし、今は、誰でも、サムエルが神の預言者であること、そして、サムエルに主がおられることを知っています。
主はもう一度現れることができたのは、そのしもべが主に信頼できたからでした。
確かに今日においても、神は献身的なしもべを見つけ、よろこんでご自身をより多く現わすことができます。
これらの章において、私たちはさまざまな実際的なレッスンを見つけることができます。
1、家族においても、罪の力を過小評価してはならない。
エリの息子たちにも訓練が必要でした。
それどころか、エリはその息子たちを甘やかしてしまいました。
これはエリの人生を無駄に過ごさせることになり、最後には、その家族の祭司職をも失ってしまいました。
2、その家における祈りの力を過小評価してはいけません。
ハンナとエルカナは祈りの人で、神は彼らの祈りに答えました。
私たちは今日、ハンナの献身的な歩みにおいて、祝福されています。
それはハンナを通して、神はサムエルをこの世に与えられたからです。
サムエルこそが、最後の士師(さばきつかさ)であり、イスラエルの最初の預言者なのです。
3、神は子供、若者に語りました。
しかし、大人は神の言葉と信仰において簡単に反応しなければならない者でした。
神がまだ、若いサムエルを呼んでいると、エリが理解したのは、エリが賢い者だったからです。
霊的な事柄における、子供の訓練は、私たちが怠ってはならない大きな責任です。
サムエル記第一 4〜7章において、三つの大きな出来事がイスラエルの歴史において関連付けられています。
1、神の栄光が離れていった。
(4章)
A、大きな罪
(1〜5節)
最初の戦いにおいて、イスラエルは4000人の人を失いました。
これは、この戦いが、神が怒られているという証拠となるのです。
イスラエルは祈りと告白をもって、神に悔い改め、立ち返ったでしょうか?
いいえ!
それどころか、イスラエルは盲信に訴え、契約の箱を戦場に持っていったのです。
彼らが信仰を持っているのなら、契約の箱を持ち出しことはできなかったのです。
神はみことばを持って、イスラエルにこのようなことを命じていません。
彼らイスラエルは信仰によらず、ただ機会を狙って行動していました。
ゆえに、契約の箱は荒野でこのイスラエルの国の前に持ち出されました。
かつて、この契約の箱はエリコの町の外を勝利の行進をして周りました。
そして、今はペレシテ人に対して勝利を確信させています。
イスラエルは神の存在の象徴である契約の箱を崇める代わりにこの契約の箱を宗教的な遺物に変えてしまったのです。
民数記10章35節を見てください。
「契約の箱が出発するときには、モーセはこう言っていた。「主よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。」
新改訳聖書 民数記10章35節
B、大きな虐殺
(6〜10節)
ペレステ人は最初は恐れていました。
しかし、その後彼らは確信しました。
たとえ、イスラエルの神がイスラエルの陣営の中にいようと、勇敢な兵士として振舞おうとしたのです。
しかし、その時、神はイスラエルの民を見捨て、ペレステ人はいとも簡単に勝利をおさめたのです。
詩篇78章56、57節にはこの悲劇が鮮明に描かれています。
「それなのに、彼らはいと高き神を試み、神に逆らって、神のさとしを守らず、もとに戻って、彼らの先祖たちのように裏切りをし、たるんだ弓の矢のようにそれてしまった。
」
新改訳聖書 詩篇78章56、57節
イスラエルは神のみことばに頼り、これらのことをするならば、神の存在がそこにあることを知っていました。
ホフニとピネハスは不忠実な祭司でした。
彼らはイスラエルを祝福ではなく、さばきへと導きました。
C、大きな悲しみ
(11〜22節)
エリは98歳の年老いた盲目な祭司で、道のそばに設けた席に座っていました。
彼はシホンからの悲しいメッセージを聞きました。
しかし、そのメッセンジャーは彼を無視し、町の中に入り、その悲しい報告をしました。
町では騒動が起き、エリには好奇心が起きましたが何が起きたのかエリは知りませんでした。
しかし、疑うことなく、エリはサムエルの預言の成就を予期していました。
「主はサムエルに仰せられた。「見よ。わたしは、イスラエルに一つの事をしようとしている。それを聞く者はみな、二つの耳が鳴るであろう。
その日には、エリの家についてわたしが語ったことをすべて、初めから終わりまでエリに果たそう。
わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。
だから、わたしはエリの家について誓った。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に償うことはできない。」
新改訳聖書 サムエル記第一3章11〜14節
「あなたのふたりの息子、ホフニとピネハスの身にふりかかることが、あなたへのしるしである。ふたりとも一日のうちに死ぬ。
わたしは、わたしの心と思いの中で事を行なう忠実な祭司を、わたしのために起こそう。わたしは彼のために長く続く家を建てよう。彼は、いつまでもわたしに油そそがれた者の前を歩むであろう。
」
新改訳聖書 サムエル記第一3章34〜35節
いかにメッセンジャーが彼らにとって重要なメッセージを悪い順に4つに分けて話したかを見てください。
1、イスラエルは逃げた。
2、イスラエルが虐殺された。
3、エリの二人の息子は殺された。
4、そして、契約の箱は敵によって奪われた。
13節において、エリが契約の箱が安全かどうか、大きな懸念を持っていたことがわかります。
「彼が着いたとき、エリは道のそばに設けた席にすわって、見張っていた。神の箱のことを気づかっていたからである。」
新改訳聖書 サムエル記第一4章13節
今、私たちは悲しみの上に悲しみが訪れたことを知ります。
エリは悲しみのあまり椅子から落ち、首の骨を折って死にました。
そして、エリの息子の嫁はその知らせが聞き、陣痛が起こり、死にそうにながらもその子供を産みました。
その子の名前の意味は「イ・カボデ」、「栄光がイスラエルから去った。」
という意味です。
出エジプト記40章34節にはこのようにあります。
「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。」
新改訳聖書 出エジプト記40章34節
この「去った」という言葉は「追放した」とも訳される言葉です。
イスラエルの歴史は神の栄光を受け取り、そして失うという歴史です。
2、神の御名は守られた。
(5、6節)
A、偶像の前で 5章
神はご自分の、しかし、罪を犯し続ける民の行いに対して、ご自分の力を現すことはありません。
しかし、神の栄光をあざ笑う、そして、神の御名を汚す敵をそのままにされることを許しません。
ペレステ人は彼らの偶像の宮は他の宗教品を持ち込むことを許していません。
しかし、彼らはこの契約の箱をこの宮の中に持ち込み、このイスラエルの神を魚の神であるダゴンと同じレベルにしてしまったのです。
もちろん、イスラエルの神は他の神々よりもはるかに優れた存在です。
偶像の神がこの契約の箱に向かって頭を下げることは何も驚く必要がありません。
イザヤ書19章1節を見てください。
「エジプトに対する宣告。見よ。主は速い雲に乗ってエジプトに来る。エジプトの偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も真底からしなえる。」
新改訳聖書 イザヤ書19章1節
人々がダゴンを足元から、元の場所に戻しました。
それはダゴンが自分自身の力では立ち上がることの出来ない、力のない存在であることが分かります。
しかし、その翌日、彼らの愛する偶像に頭と手がないことを見つけます。
イスラエルの神はダゴンが偽の神であることを証明したのです。
神は御自分の御名を証明しました。
ダゴンは手を失いました。
しかし、主の御手はアシュドデの町の上に重くのしかかり、彼らを裁きました。
「さらに主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人々とを腫物で打って脅かした。
」
新改訳聖書 サムエル記第一5章6節
神はその民を悩ます「腫物」(痔、腫れ物)そしてねずみを送りました。
「人々は言った。「私たちの返す罪過のためのいけにえとは何ですか。」彼らは言った。「ペリシテ人の領主の数によって、五つの金の腫物と、五つの金のねずみです。あなたがたみなと、あなたがたの領主へのわざわいは同じであったからです。
」
新改訳聖書 サムエル記第一6章4節
ねずみは彼らの収穫を滅ぼし、病気を持ち込みました。
契約の箱はアシュドデからエクロンに移されました。
しかし、その住民は契約の箱を取り除くように願っています。
神はもう一度、御自分の御名を守ったのです。
B、イスラエル人たちの前で
(6章)
ペリステ人は契約の箱をイスラエルに返すことを決断しました。
しかし、誰もこの職務を受け入れようとする者はいません。
ついにペリステ人たちは誰の手も借りずに新しい車と雌牛を使って町を下り、この契約の箱を置いて来ようと決断したのです。
この子羊が親の雌牛を探すことはごく自然なことです。
「人々はそのようにした。彼らは乳を飲ませている二頭の雌牛を取り、それを車につないだ。子牛は牛小屋に閉じ込めた。
」
新改訳聖書 サムエル記第一6章10節
しかし、もし、彼らがベテ・シェメシュに上ってゆくならば、神が彼らを打たずに、それゆえにこれらの病気を送ったのが、神であるまさにその証明となるのです。
ペリステ人は罪過のための捧げ物も付け加えました。
この捧げ物は五つの腫物の像と、この地を荒らした五つのねずみの像です。
神は牛に命令し、彼らはベテ・シェメシュ人の住むヨシュアの平原へと車を引いてゆきました。
イスラエル人たちは収穫時の平野において、契約の箱が帰って来たのを見て喜びました。
しかしながら、彼らが興味心で契約の箱の中を見て。神は彼らを裁きました。
「主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。そのとき主は、その民五万七十人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。
ベテ・シェメシュの人々は言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立ちえよう。私たちのところから、だれのところへ上って行かれるのか。」
」
新改訳聖書 サムエル記第一6章19、20節
19節にある数字は問題となります。
そんな小さな町には5万人の人がいなかったはずです。
ヘブライ語では手紙に数字を付けることがあります。
ならば、聖書写本をする者たちが間違って写したり、読み間違えをしたと考えるのもおかしくはありません。
その小さな村において、70人の人々がその時に裁かれたのならば、はげしく打たれたというのもおかしくない表現です。
この問題は語ろうとしている事柄について、何も影響を与えません。
重要なことは、神が彼らの罪を裁かれたということを私たちが知ることです。
人の数の大小は重要な問題にはならないはずです。
ホフニとピネハスは契約の箱に信頼を置き、勝利を勝ち取りました。
しかし、その時の彼らの邪悪な歩みをし、神は彼らを殺しました。
エリが死んだのは息子を訓練せず、その結果、主に栄光を帰さなかったからです。
ペレステ人たちが死んだのは主を彼らの持つ偶像のように扱ったからです。
神を軽率に扱うことはその報いを得ます。
3、神の民は救われました。
(7章)
契約の箱はシロには帰って来ていません。
契約の箱は20年間アビナダブの家にありました。
神はこの時間、何をしていたのでしょうか?
神は神のしもべサムエルが敵を打ち破り、王国を建てるために準備していたのです
疑うことなく、サムエルはあらゆる場所で民に仕えるために働いていました。
そして、神のみことばが人々に伝えられたのです。
3節にはサムエルは悔い改め、主に立ち返るように民に求めていたことが示されています。
「サムエルはイスラエルの全家に次のように言った。「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」」
新改訳聖書 サムエル記第一7章3節
この意味は民に偶像の神から離れなさいということです。
民には主に仕える準備が必要だったのです。
イスラエルの罪の結果、イスラエルという大国が敗北と悪評の中に落ちていったことは何とも悲劇ではないでしょうか!
エリは信仰的な父だったでしょうか?
エリの子供たちは信仰的な祭司だったでしょうか?
この敗北は単なる偶然だったのでしょうか?
バアルやアシュタロテは男と女の神を代表していました。
彼らの偶像の礼拝は非常に不潔な腐敗の中で行われました。
サムエルはイスラエルに祈りのためミツパに集まるように呼びかけました。
サムエルは常に祈りのための集まりを持っています。
「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。」
新改訳聖書 サムエル記第一12章23節
サムエル自身も彼の母の祈りに答えられて生まれたのです。(1章参照)
サムエルはイスラエルの国のために、そして、敵に負けないように祈っています。
「こうしてペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領内に、はいって来なかった。サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいた。
」
新改訳聖書 サムエル記第一7章13節
イスラエルが主を拒み、王を求めた時、サムエルは祈りました。
「彼らが、「私たちをさばく王を与えてください。」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。
」
新改訳聖書 サムエル記第一8章6節
そして、サムエルはサウル王のために祈り、さらのサムエルは神がサウルを拒んだ時も祈ったのです。
「「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ。
」
新改訳聖書 サムエル記第一15章11節
ある人がサムエルを神の緊急人と呼びました。
まさに、その名が似合います。
サムエルがこの場面に現れた時、イスラエルの祭司職は腐り果てていました。
イスラエルの国は負け、神の栄光は離れていました。
神がハンナの息子をどのくらいすばらしく取り扱ったのか、確かにハンナ自身が理解しなければなりません。
2章9〜10節にある、ハンナの預言を含んだ歌を見てください。
「主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅びうせます。まことに人は、おのれの力によっては勝てません。
主は、はむかう者を打ち砕き、その者に、天から雷鳴を響かせられます。主は地の果て果てまでさばき、ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます。」
」
新改訳聖書 サムエル記第一2章9、10節
ミツパにおいてこれらの出来事がありました。
(1)サムエルはイスラエルの国が悔い改めた象徴として主の前に水を注ぎ出しました。
イスラエルの民のこころにある、罪の悲しみを注ぎ出しました。
(2)サムエルは神への完全な献身を表すために全焼のいけにえを捧げました。
(3)サムエルはペリシテ人が来るのではないかと恐れているイスラエルのために祈りました。
神はその日イスラエルに偉大な勝利を与えました。
その日はなんと言う日だったのでしょうか!
サムソンがリーダシップを取った20年間の間には勝利を収めることが出来ませんでしたが、サムエルは一つの祈りをもって勝利を収めました。
その日から、ダビテがペレステ人に対して偉大な勝利を収めるまで、敵はイスラエルと距離を置き続けています。
このように、献身的な歩み、祈りの力がここにあります。
ヤコブの手紙5章16節にはこのように書かれています。
「義人の祈りは働くと、大きな力があります。
」
新改訳聖書 ヤコブの手紙5章16節
サムエルは預言者として、そして、裁き司としての働きがありました。
彼は人々の問題を解決するために、町々を旅していました。
サムエルは最初にイスラエルの預言者として、預言し、最後に裁いていました。
(モーセの預言者としての働きとは違った性質を持っています。)
しかし、サムエルの息子たちが、父親の信仰的な歩みに従わなかったのは悲しいことです。
「彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」
」
新改訳聖書 サムエル記第一8章5節
おそらく、サムエルはイスラエルの民を導くことで忙しかったのかも知れません。
エリ、同様、同じ過ちを犯してしまいました。
これらの出来事は信仰的な家庭を作る大切さを教えています。
イスラエルの国が罪に堕落し、敗北に帰したのは、エリが自分の家を導けなかったからです。
しかし、信仰的な母、ハンナと神によって彼女に与えられたその子の祈りによって、神はイスラエルを救ったのです。
人が家に帰るように、その国に平和が訪れました。
サムエル記第一8〜15章において、サウル王の地上の歩みと、サウロの罪ゆえに、主によってサウロが拒むように導かれたことが記録されています。
1、要求(イスラエルの王の存在)
(8〜10章)
ヤハゥエ、神である主こそ、イスラエルの王です。
神は始めからイスラエルを導き、守って来たのです。
しかし、今、イスラエルの長老たちは彼らを導く王を欲しがっています。
彼らの動機はいくつかの要因から来ています。
(1)サムエルの息子たちは信仰的な歩みをしていませんでした。
ゆえに、長老たちはそれを恐れ、サムエルが死んだときに彼らがイスラエルを間違って導くのではないかと思っていたのです。
(2)イスラエルの国は、士師記の時代、一時的に裁く者続けて現れ、この国を守り、裁きました。
しかし、今、長老たちはより継続する支配者欲しかったのです。
(3)そして、彼らは他の国のように、誉ある王が欲しかったのです。
イスラエルの国の周りには多くの強国があり、常に彼らにとって脅威となる存在でした。
長老たちはより安全を得るために、力強い王の存在を求めていたのです。
サムエルはイスラエルの民の不信仰と反抗をよく理解していました。
ですから、サムエルの行動はその要求に答える行動を取っていたのです。
イスラエルは主を拒否していたのです。
サウルと選ぶ時、イスラエルは御父を拒否していたのです。
イスラエルはそのはるか後で、バラバを選び、御子を拒みます。
そして、イスラエルは使徒たちの告白の変わりに自分たちの指導者を選び、聖霊を拒んだのです。
「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。
」
新改訳聖書 使徒の働き7章51節
しかし、神の寛大なみこころの現れがここにあります。
神は彼らの要求を飲みました。
しかし、神は彼らの損失をも警告しています。
申命記17章14〜20節を見てください。
この出来事はすでに、モーセの預言の中で記されていたのです。
「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私もあなたの神、主があなたに与えようとして
あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。
王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。「二度とこの道を帰ってはならない。」と主はあなたがたに言われた。
多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。
彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、
自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。
それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。」
新改訳聖書 申命記17章14〜20節
イスラエルはサムエルから聞きました。
その時、申命記に記されている通りに王を求めたのです。
イスラエルは他の国と同じようになってはならないと警告を受けました。
そして、神は他の国から離れないとイスラエルに要求しています。
9章において、どのようにサウルがサムエルのところに連れて来られ、個人的に王位を受けるために油が注がれたかが記されています。
9章21節において、サウルは謙遜でした。
そして、同様にサウルは民の前に出ることをためらっていることに注意してください。
神はサウルを確信さえるために三つの特別なしるしを与えています。
(10章1〜7節まで参照。)
サムエルもギルガルに滞在し、サウルの来るのを待ち、彼を教えています。
8節ではこのように言われています。
「あなたは私より先にギルガルに下りなさい。」
新改訳聖書 サムエル記第一10章8節
これは未来の出来事であり、サウル王が戦いの準備のために軍隊を備えに行くときのことです。
この出来事は数年先のことです。
13章を参照にしてください。
サウルはあらゆる面において、支持を得ました。
(1)力強いからだ
「人々は走って行って、そこから彼を連れて来た。サウルが民の中に立つと、民のだれよりも、肩から上だけ高かった。
」
新改訳聖書 サムエル記第一10章23節
(2)謙遜な態度
「サウルは答えて言った。「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか。どうしてあなたはこのようなことを私に言われるのですか。」
」
新改訳聖書 サムエル記第一9章21節
(3)新しい心
「サウルがサムエルをあとにして去って行ったとき、神はサウルの心を変えて新しくされた。こうして、これらすべてのしるしは、その日に起こった。
」
新改訳聖書 サムエル記第一10章9節
(4)霊的な力
「彼らがそこ、ギブアに着くと、なんと、預言者の一団が彼に出会い、神の霊が彼の上に激しく下った。それで彼も彼らの間で預言を始めた。
」
新改訳聖書 サムエル記第一10章10節
(5)忠実な友人たち
「サウルもまた、ギブアの自分の家へ帰った。神に心を動かされた勇者は、彼について行った。」
新改訳聖書 サムエル記第一10章26節
(6)サムエルの導きと祈り、これが一番優れた理由です。
しかし、このような素晴らしく優れた点を持っていながらサウルは惨めにも失敗してしまいました。
なぜでしょうか?
それはサウルが人生の主として、神に従おうとしなかったからです。
2、王国の復興
(11、12章)
サウルは家に帰り、彼が体験した大きな出来事を語ろうとしましたが、サウルはためらいました。
すべてが新しくなった時、王国が始まったことを心にとめてください。
サムエルはイスラエルの霊的な支配者でした。
そして、サムエルとサウルは未来において、神が導いて下さると期待していました。
現在のような交通手段も、通信もない時代において、サウルとサムエルのために民が集まるということは何ヶ月もかかるでしょう。
ナハシュがイスラエルを脅した時にサウルにとって最初の機会が訪れました。
確かに、この国家的な勝利はサウルを選び、サウルに権威を与えた民に与えられました。
サウルと交わりを持つ者たちは、サウルの支配に反抗するイスラエル人たちを殺すことを望んでいました。
「しかし、よこしまな者たちは、「この者がどうしてわれわれを救えよう。」と言って軽蔑し、彼に贈り物を持って来なかった。しかしサウルは黙っていた。
」
新改訳聖書 サムエル記第一10章27節
しかし、サウルは謙遜にも、王として栄光が与えられることにより自制し、他の者たちに対する復習をも拒みました。
この勝利こそが王国の新生の時であり、国家の再建の時だったのです。
サムエルは自分の働きを再び民に示し、思い出させました。
サムエルは忠実に主とイスラエルに仕えたのです。
サムエルはイスラエルの歴史を思い起こさせました。
また、彼らが王を求めることによって、彼ら自身が主に対して反抗する、おおいなる罪人であることを示したのです。
そして、サムエルは信仰の力によって雨を降らしまた、収穫の時期に突然の嵐を起こし(当時、イスラエルでは普通では考えられないような出来事です)、神の力を人々に示し、彼らは恐れを感じました。
イスラエルは自分たちの罪を認め、神の恵みを彼らにもう一度確信させたのです。
そして、イスラエルは自分たちを守るのは、王の力ではないことを認識する必要がありました。
彼らの主への信仰と従順だけが、彼らに神の祝福を確信させたのです。
彼らは失敗をしました。
しかし、もし、彼らが神に従うのであれば、神は彼らを支配します。
3、王の拒絶
(13〜15章)
この三つの章では王サウルの三つの罪が記録されています。
これらの罪はサウルによってイスラエルの王国に大きな負担をかける結果となりました。
A、短気(13章)
サムエルとサウルは何カ月も前からギルガルにイスラエルが集まることに同意しており、今、その時が来ました。
サウルはギルアデにおいて、サウルの息子が勝利を収めたことをまるで自分の手柄のごとく、人々に印象付けているか、その方法に注意して読んで下さい。
膨大なペレステの軍隊が集まり始めています。
サウルはそれを待ち続け、サウルの立場はより危険なところに立たされています。
もし、サウルがすぐに立ち上がったのなら、サウルは敵に負けてしますでしょう。
しかし、時を延ばすということは単に敵を強くすることになります。
サウルの忍耐と不信仰はサムエル無しに立ち上がるように彼を導きました。
サウルはささげものを捧げてしまい、その後で預言者が現れました。
11、12節においてサウルの言い訳が記録されています。
サウルは預言者と民のせいにしようとしています。
「サムエルは言った。「あなたは、なんということをしたのか。」サウルは答えた。「民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。
今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」
新改訳聖書 サムエル記第一13章11、12節
サウルは「思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」とサムエルに言いました。
預言者はそれが本当のことであることも知っていました。
これは終わりの始まりにすぎません。
もし、神がこの小さな問題においてサムエルを信頼していたのなら、どのように神はサウルに王国を委ねることができたでしょうか?
サウルの短気は王国に大きな負担をかけることになりました。
B、プライド(14章)
サウルの息子であるヨナタンは信仰的な人であることが証明されています。
主はヨナタンと彼の従者にパレステ人に対する勝利を与えました。
サウルは単に見学者だったのです。
しかし、サウルは自分の勝利のごとく、軍隊を集め、勝利を祝いました。
「ベニヤミンのギブアにいるサウルのために見張りをしていた者たちが見ると、群集は震えおののいて右往左往していた。
サウルは彼とともにいる民に言った。「だれがわれわれのところから出て行ったかを、調べて、見なさい。」そこで彼らが調べると、ヨナタンと道具持ちがそこにいなかった。
サウルはアヒヤに言った。「エポデを持って来なさい。」当時、彼がイスラエルの前にエポデを取ったのである」
新改訳聖書 サムエル記第一14章16〜18節
さらに、サウルは愚かな誓いをしました。
なんと、サウルの兵士たちにその日、何も食べてはならないと誓わせたのです。
サウルに勝利が与えられているのに、ささげものの犠牲についてなんとも愚かな考えです。
その時、サウルのこころは神に対して正しい態度ではなかったのです。
サウルはこの後学んでいます。
「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
新改訳聖書 サムエル記第二15章22節
ヨナタンはこの不従順の愚かさについて何も知りませんでした。
しかし、彼は先に進んで行き、蜂蜜を食べ、力づけられました。
「ヨナタンは、父が民に誓わせていることを聞いていなかった。それで手にあった杖の先を伸ばして、それを蜜蜂の巣に浸し、それを手につけて口に入れた。すると彼の目が輝いた。
」
新改訳聖書 サムエル記第一14章27節
そして、実際に彼は軍隊を力付け、先に進んで行き、勝利の後で食事をし、奨励した、その見本となったのです。
「そこで民は分捕り物に飛びかかり、羊、牛、若い牛を取り、その場でほふった。民は血のままで、それを食べた。
すると、「民が血のままで食べて、主に罪を犯しています。」と言って、サウルに告げる者がいた。サウルは言った。「あなたがたは裏切った。今ここに大きな石をころがして来なさい。」
」
新改訳聖書 サムエル記第一14章32、33節
ユダヤ人は空腹だったのです。
しかし、彼らは血とともに肉を食べたのです。
「また、イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。
なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。
それゆえ、わたしはイスラエル人に言った。「あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間の在留異国人もまた、だれも血を食べてはならない。」
イスラエル人や彼らの間の在留異国人のだれかが、食べることのできる獣や鳥を狩りで捕えるなら、その者はその血を注ぎ出し、それを土でおおわなければならない。
すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエル人に言っている。「あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られなければならない。」
」
新改訳聖書 レビ記17章11〜14節
これは誓いを破ることよりも悪いことなのです。
サウルは戦利品を神へのささげものとして捧げることにより、悔い改めようと試みました。
軍隊が次の約束へと進んだ時、彼らは神の導きを求めました。
しかし、その答えを得ることに失敗しました。
しかし、そのことによりサウルはヨナタンの不従順を発見しました。
この愚かな王は自分の息子を殺そうと考えたのです。
他の者の罪を見つけることは何とも容易いことではないでしょうか!
民はヨナタンを助けました。
しかし、サウロの行動はサウルのこころの闇を明らかにします。
問題はすぐにやって来ました。
サウルのプライドは彼を低いところへ連れて行きます。
C、不従順(15章)
神はサウルの信仰を証しさせるために、もう一度サウルにチャンスを与えます。
この時、昔からのイスラエルを滅ぼそうしていた敵、アマレク人が現れます。
「あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。
彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである。
あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたの神、主が、周囲のすべての敵からあなたを解放して、休息を与えられるようになったときには、あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない。
」
新改訳聖書 申命記25章17〜19節
「「それは「主の御座の上の手」のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。
」
新改訳聖書 出エジプト記17章16節
しかし、サウルは主に従いませんでした。
サウルは戦利品の最高のものを自分のためにとって置き、王であるアガグを殺すことに失敗しました。
神はサムエルにサウルが何をしたか語り、その重荷を感じた預言者は一晩中祈りました。
サムエルはサウルに近づいた時、サウルはサムエルにうそをつきました。
サウルは神のみことばに従ったとサムエルに言ったのです。
その時、動物たちが鳴き出し、サウルの罪はサウルを捕らえました。
サウルはもう一度いい訳をします。
彼ら(イスラエルの民)は動物を取って置きました。
しかし、主は残りすべてを滅ぼせと言ったのです。
サムエルは神のメッセージをこの不従順な王に送りました。
サウルはプライドと不従順ゆえに始めの謙遜を失ってしまったのです。
「サウルは答えて言った。「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか。どうしてあなたはこのようなことを私に言われるのですか。」」
新改訳聖書 サムエル記第一9章21節
サムエルは主のみことばを無視し、反抗したのです。
そして、彼はささげものによって、不従順を埋め合わせようと主を試みたのです。
「しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」
するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」」
新改訳聖書 サムエル記第一15章21〜23節
サウルはその行動ゆえに言うことを変えました。
「サムエルがサウルのところに行くと、サウルは彼に言った。「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」
」
新改訳聖書 サムエル記第一15章13節
しかし、まるで従順のゆえにささげものをするようにこのようなことを言い、いい訳します。
「サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しました。」
」
新改訳聖書 サムエル記第一15章15節
「しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」」
新改訳聖書 サムエル記第一15章21節
サウルはすぐに他の者に汚名を着せ、批判をします。
サウルは自分の罪に直面し、裁く気がありません。
サムエルがサウルのところから離れようとした時、王であるサウルは自分の罪を告白しました。
しかし、その告白は預言者であるサムエルの心を動かすことはできませんでした。
「サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。
どうか今、私の罪を赦し、私といっしょに帰ってください。私は主を礼拝いたします。」
すると、サムエルはサウルに言った。「私はあなたといっしょに帰りません。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたをイスラエルの王位から退けたからです。」
サムエルが引き返して行こうとしたとき、サウルはサムエルの上着のすそをつかんだので、それが裂けた。
」
新改訳聖書 サムエル記第一15章24〜27節
真実な告白は「私は罪を犯した」ことを言い表します。
それは罪のゆえの悔い改めと悲しみを意味しています。
サムエルが帰っていったので、サウルは王服を引き裂きました。
そこでサムエルは、この王服のように王国が引き裂かれ、別の者(ダビテ)に渡されることを預言しました。
30節においてサウルが神の考えよりも民に心を引かせることに興味を持っているかが明らかにされます。
「サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。」」
新改訳聖書 サムエル記第一15章30節
サウルは民の評判を気にしていました。
しかし、真実な評判は何であるかサウルは知りません。
サムエルはサウルとともに礼拝し、主の命じられた通りにアガグを殺しました。
しかし、この場面はサムエルがサウルとともに歩んだ最後の場面となるのです。
サウルは最高も友を無くしました。
サウルは主の祝福を失いました。
サウルは王国を失いました。
この時から、サウルは闇の中、そして険しい道を歩むことになるのです。
サウルは漂流者になり、まさにサウルが滅ぼすのを拒んだアマレク人の一人に殺されるのです。
「ダビデは自分に報告した若者に言った。「おまえはどこの者か。」若者は答えた。「私はアマレク人で、在留異国人の子です。」
」
新改訳聖書 サムエル記第二1章13節
第一サムエル記16、17章でダビテの生涯についての学びに入ることができます。
この人は神のみこころを求める人と言われています。
サウルが肉的な生き方を描写しているのならば、ダビテは神を信じる者の行き方を描写していると言う事ができます。
まさにその人は神に対する信仰によって歩む者です。
ダビテが罪を犯したのは真実です。
しかし、サウルのような結果には至りませんでした。
ダビテは自分の罪を告白し、神との交わりを取り戻そうと試みました。
私たちはこれらの章からダビテの若き日における三つの場面を見ることができます。
1、従順な子
16章1〜13節
「私はサウルを拒んだ」という厳粛な宣言がされました。
この悲劇はイスラエルの民には知られていません。
そして、いまだにサウルはイスラエルの王として君臨していました。
サウルはこのように神には拒まれていましたが、民には受け入れられていました。
しかし、ついには神の裁きがサウルの上に下るのです。
サウルは危険な人物となっていました。
サムエルがベツレヘムを訪問した時、サウルの怒りから逃れる計画をしなければなりませんでした。
22章17〜19節を見るのなら、サウルのねたみに満ちた怒りの実例を見ることができます。
この時、神の命令があり、サムエルが祝宴に招かれエッサイの家に着きましたが、ダビテはそこにはいませんでした。
ダビテは羊の世話をするために野原にいました。
私たちはこの場面を見るのなら、ダビテの謙遜さと従順さに感動せずにはいられないでしょう。
まるでエッサイの家族の幼子のように、ダビテにはそのような地位しかありませんでした。
しかし、ダビテは自分の父と主に対してとても忠実に歩んでいたのです。
ダビテの生き方はまさにマタイの福音書25章21節に描写されているのではないでしょうか?
「その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」
新改訳聖書 マタイの福音書25章21節
ダビテはしもべとして始め、その国全体を治めるようになりました。
ダビテは数匹の羊にも忠実であり、国全体に対しても忠実だったのです。
ダビテはどのように働くべきかを知っていました。
その結果、神はダビテを喜ばしたのです。
ルカの福音書15章放蕩息子と比べて見てください。
彼は指導者(息子)として始め、しもべになったのです。
彼は多くの物を持っていましたが、貧しくなったのです。
彼は喜びを持っていましたが、気がついてみると貧しく奴隷のような生き方をしていました。
マタイの福音書25章21節は神の成功の方法を記したものです。
そして、私たちはダビテの生涯を学ぶ時、このことが証明されていることを知ります。
24節にあるようにサムエルは目に見える贈り物によって人間の評価を受け、過ちを犯そうとしていました。
その時、神は重要なことをサムエルのこころに思い起こさせようとしていました。
箴言4章23節にはこのようにあります。
「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。
」
新改訳聖書 箴言4章23節
ダビテが野原から召集され、現れた時神はサムエルに語りました。
「この者がそれだ。」
新改訳聖書 サムエル記第一16章12節
また、ダビテについてこのように記されています。
「血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱ
…。」
新改訳聖書 サムエル記第一16章12節
ダビテはまさにハンサムだったのです。
そして、その謙遜なこころはその姿と非常にマッチしていました。
ダビテは8人目の息子です。
8は新しい始まりを意味する数字です。
ダビテに神の聖霊から特別な油が注がれました。
その時から、彼は神の人となったのです。
その日、ダビテとその家族がこの重要な油の注ぎを理解したとは思えません。
サムエルは確かにこの時ダビテに、そのことを表したのです。
2、謙遜なしもべ
16章14〜23節
ここに悲劇的でありながら、対象的な出来事があります。
ダビテに聖霊が注がれ、サウルから離れて行きました。
サウルには悪い霊が注がれ、サウルを悩まし、この時から、サウルは狂人のようになりました。
18章10節と19章9節を見てみましょう。
「その翌日、神からの悪い霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。」
新改訳聖書 サムエル記第一18章10節
「ときに主からの悪い霊がサウルに臨んだ。サウルは自分の家にすわっており、その手には槍を持っていた。ダビデは琴を手にしてひいていた。」
新改訳聖書 サムエル記第一19章9節
サウルの奇妙な行動は、音楽の演奏家を呼んでサウルをなだめようとするサウルをしもべの姿に現れています。
サウルのしもべはその兆候を見ました。
しもべはサウルをののしるようなことをせずに音楽を使い、サウルをなざめようとしたのです。
しかし、サウルの罪深いこころを変えるようなことはできませんでした。
確かに、サウルの気分はすぐれたかも知れません。
しかし、それは一時的な偽りの平安です。
しもべたちはサウルが神の御前で正しく歩むように祈りました。
ダビテはまさにサウルに必要な人物であり、しもべの一人はおそらくそのことを提案したのでしょう。
すでに私たちはダビテにはそのような能力のあることを知っています。
ダビテがあえて自分からそれを望んだのではないでしょう。
神が導いたのです。
箴言22章29節、ペテロの手紙第一5章6節を注意深く読んでください。
「じょうずな仕事をする人を見たことがあるか。その人は王の前には立つが、身分の卑しい人の前には立たない。」
新改訳聖書 箴言22章29節
「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一5章6節
今日において、何か問題が起きた時、あまりに多くの人たちが、最初に自宅で考え、解決を目指すことをせずに、何か違う場所に自分を置き、現実逃避に走ろうとしているのではないでしょうか?
ダビテは王庭に行き、すぐにサウルに気に入られました。
もちろん、サウルは神がダビテを選んでいることを知っていました。
ゆえに、サウルはすぐにダビテを殺そうと考え、すぐにダビテを打った始めました。
サウルはその後、ダビテをイスラエルの荒野に探しに出てゆきました。
ダビテはいつまでも王庭にとどまっていませんでした。
17章15節にはこのように書かれています。
「ダビデは、サウルのところへ行ったり、帰ったりしていた。ベツレヘムの父の羊を飼うためであった。」
新改訳聖書 サムエル記第一17章15節
ダビテは必要に応じて、王庭を訪ねていましたが、家にある仕事を放棄していたのではありません。
なんという謙遜でしょうか!
ここにある賜物を持つ若者は王として選ばれました。
神の香油を受け、さらに羊の世話までもし、しもべとして働いていたのです。
ダビテには可能性があることを神は知っていたのです。
3、勝利を得た兵士
17章
ダビテとゴリアテの物語はよく知られた話で、クリスチャンの実践的な歩みにおける多くの教えに満ちています。
すべてのクリスチャンはなんらかの形でこの巨人に直面することがあります。
しかし、神の力によってこれらのものに勝利を収めるのです。
ゴリアテはおそらく10フィートの背丈があり、150ポンドを超えるかぶとに身を包んでいたはずです。
ゴリアテはペリシテ人で、彼はペリシテ人のチャンピオンともいえる存在でした。
彼の存在はまさに恐怖であり、ユダヤ人に混乱を起こさせたのです。
サウルは敬虔なリーダでした。
神は申命記20章の中で自分の兵士たちを勝利に導くように要求しています。
しかし、その時、イスラエルの民は神との交わりを持っていませんでした。
彼らは多くの者たちを敗北へと導いていたのです。
ダビテは自分の兄弟たちの食事を持ってここに来ました。
しかし、ダビテはこの巨人の挑戦に興味を持ちました。
ここで兄弟たちはダビテを訴え、ダビテの勇気をなくすようなことを言っています。
悪魔は常に私たちに「これをするな!」と言う人を準備しています。
さらにサウルはこのようなことを言っています。
「あれと戦うことはできない。」
新改訳聖書 サムエル記第一17章33節
そのように、ダビテには戦うことはできません。
しかし、主の力において、ダビテは敵に対して勝利を得ることができるのです。
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙4章13節
「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。 」
新改訳聖書 エペソ人への手紙3章20、21節
次にサウルはダビテによろいを与えようとします。
しかし、ダビテはそのよろいが着れなかったため、ダビテはそのよろいを拒みました。
サウルが他に何か勝利を得る方法があるか、話しているか想像してください。
ダビテは牧場で羊の世話をしているその場面において、サウルに神の力を証明しました。
今、ダビテは神の栄光を公に、日々の歩みにおける神の力を証明したのです。
今、この出来事全体を通して、ダビテはどのように主に栄光を帰したかがわかります。
また、実際的なレッスンとして、私たちは信仰の応答とダビテに勝利を与えたことがわかります。
神は個人的なテストとしてダビテに獅子や熊と戦わせてその信仰を試しました。
そして、今、公にこの巨人と戦わせることによりダビテをテストしたのです。
もし、私たちに個人的な戦いにおいて、信仰がなければ、神は公に私たちの信仰をテストすることはできません。
何回も、信仰的幼い神の民が、歩みにおいて小さな戦いに出会うでしょう。
そして、私たちはこの小さな戦いが、確かに来ようとしている大きな戦いの準備であることを知るようになるのです。
「あなたは徒歩の人たちと走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競走できよう。あなたは平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせよう。」
新改訳聖書 エレミヤ書12章5節
ダビテは、単純なみずぼらしい武器を使いました。
杖と5つの石です。
「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一1章27、28節
「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二10章4〜6節
ダビテはギデオンがどのように弱々しい武器で勝利を得てきたか、そしてギデオンの神が死んでいないということも知っていました。
また、ダビテの兄弟が批判的であったことも、ダビテに神が勝利を与えるということをサウルが信じていなかったことも十分にダビテは理解していました。
しかし、ダビテの投げた石は目標に見事に当たりました。
巨人は倒れ、ダビテはその巨人の持っていた剣を使ってその巨人の首を切り落としました。
このひとつの勝利がきっかけになり、イスラエルはぺリシテ人に対して勝利を収め、彼らの宿営に打撃を加えました。
私たちの信仰はこのように書かれています。
「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一5章4節
私たちは征服者以上に勝利者です。
同様に型としてのレッスンがここにあります。
ダビテはイエスキリストの型です。
ダビテの名前は「愛されている者」という意味があります。
そして、イエスキリストは愛されている御子です。
ともにベツレヘムで生まれました。
ともに自分の兄弟から裏切られました。
(もちろん、ダビテは王になり、彼の兄弟はダビテを受け入れました。
まさに、キリストの支配が始まった時、ユダヤ人がキリストを受け入れるのと同じです。)
ダビテは彼の支配が許される前もずっと油注がれた王だったのです。
ちょうど、現在、直接、キリストがこの地上を支配していません。
しかし、悪魔はやがて滅ぼされますが、それまで悪魔はこの地上を支配しています。
それでも、現在もキリストは王なのです。
サウル王はこの時代において、型として悪魔を表しています。
サウルは拒まれ、敗北者です。
それでも、ダビテが王座に着くまで王としての支配が許されています。
悪魔には神の民を迫害することが許されています。
しかし、この時代においても、悪魔は敗北者です。
まさにイエスはダビテのように父によってこの戦場に送られました。
キリストは御父によってこの世に送られたのです。
ゴリアテは悪魔のプライドと力を表現しています。
ルカの福音書11章14〜23節を注意深く呼んで見て下さい。
「イエスは悪霊、それもおしの悪霊を追い出しておられた。悪霊が出て行くと、おしがものを言い始めたので、群衆は驚いた。
しかし、彼らのうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言う者もいた。
また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。
しかし、イエスは、彼らの心を見抜いて言われた。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。
サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。
もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。
しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。
強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。
しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。
わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」
新改訳聖書 ルカの福音書11章14〜23節
悪魔は強い人であり、自分の財産を守っています。
(その国の民は悪魔の支配化にあります。)
そして、キリストは悪魔に勝利得た、もっと強い人なのです。)
キリストは悪魔の王国に侵入し、悪魔の力に対して勝利を得ます。
悪魔のよろいを奪い、今、失われたたましいを救い、神の子供たちを得ることにより悪魔の戦利品を分け合っています。
この日、ダビテは何をしたのでしょうか?
ダビテは強い人に勝利を収め、戦利品をイスラエルの中で分け合っています。
「イスラエルとユダの人々は立ち上がり、ときの声をあげて、ペリシテ人をガテに至るまで、エクロンの門まで追った。それでペリシテ人は、シャアライムからガテとエクロンに至る途上で刺し殺されて倒れた。
イスラエル人はペリシテ人追撃から引き返して、ペリシテ人の陣営を略奪した。
ダビデは、あのペリシテ人の首を取って、エルサレムに持ち帰った。武具は彼の天幕に置いた。
」
新改訳聖書 サムエル記第一17章52〜54節
私たち、クリスチャンは単純に勝利を得るために戦っているのではありません。
私たちは十字架の上でキリストが勝利されたから、今、戦って勝利を得ているのです。
「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。
」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙2章15節
イエスはヨハネの福音書16章33節でこのように言いました。
「勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書16章33節
なぜ、サウルはダビテを認めようとはしなかったのでしょうか?
ダビテは単なる「よろい持ち」だったからでしょうか?
いいえ違います。
それはサウルが悪霊の下にいて、ダビテを見ていたからです。
もう一つの要因として考えられることは、ダビテはサウロの宮廷にいた多くのしもべの中の一人に過ぎないと言うことです。
サウロがダビテをこれらのしもべたちと同じ存在と考えていたとしてもおかしくはありません。
サウルは勝利を得た者に自分の娘を与える約束をし、その時、確かに少年ダビテの家族について尋ねています。
サムエル記第一18〜21章ではダビテが逃亡者としてサウルの宮廷から逃げてゆく様子が描かれています。
ここではダビテがどのようにサウルのお気に入りから敵となってゆくかが描かれています。
ここでのメインテーマはダビテの信仰です。
そして、いかに神の人が神からの信頼を失ってゆくかを、私たちはこれらの章で見ることができます。
神はサウルの人生において試みを与えたのです。
1、ダビテは主を信頼した。
18章
ダビテに対する信仰の大きなテストはゴリアテに直面したときではありません。
おそらく、このもっとも大きなテストとは、毎日、サウルの宮廷でサウルに仕えていた時のはずです。
よく、注意して見ていてください。
ダビテはいろいろな方法で信仰のテストを受けています
A、人気を得ることによって
(18章1〜11節)
ダビテはサウルの息子である、ヨナタンに愛されていました。
しかし、このこと自身がダビテにとって試みの時となったのです。
ダビテは次の王です。
しかし、正論ではヨナタンには次の王になる権利を持っていました。
この二人の神の人の関係を見るならば、これは私たちのために示された大いなる模範として見ることができます。
確かにダビテには明らかな誉れがあったので、二人の間にはねたみなど存在していません。
しかしながら、ダビテには人々からの支持がありました。
ゆえに、サウルはダビテをねたんでいたのは事実です。
そして、女性たちはダビテを賛美していましたが、ダビテの神を賛美していたわけでもありません。
ダビテは賢かったかも知れませんが、彼らの言葉をいちいち心に留めていたわけでもありません。
サウルは自分よりもはるかに賞賛を得ているのを聞いて、サウルの心はねたみに満ちていました。
「るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる。
」
新改訳聖書 箴言27章21節
まさに賞賛とは熱い炉のようなものです。
それは人のこころが本当に何で出来ているかは現します。
その賞賛はダビテをより謙遜へと導きましたが、サウルの心にはプライドと自分の栄光に帰す欲望に満ちていました。
B、降格
(18章12〜16節)
5節において、ダビテがサウルの個人的なボディガードのかしらになったと書かれています。
しかし、今、ダビテは普通の千人の長に降格されています。
このことがダビテを変えたでしょうか?
いいえ!
ダビテの信仰は主にありました。
そして、ダビテは自分の王であるサウルに仕え続けています。
このことは逆にサウルを恐怖へと導きました。
王サウルは神が自分から離れて、ダビテに祝福を与えたことを知っていました。
サウルには民の目の前で王として欠落したことを現実の信仰として認め、謙遜になり主に仕える必要があったのです。
C、失望 (17〜30節)
サウルはゴリアテを破った者に自分の娘の一人を与える約束をしていました。
「イスラエルの人たちは言った。「あの上って来た男を見たか。イスラエルをなぶるために上って来たのだ。あれを殺す者がいれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」
」
新改訳聖書 サムエル記第一17章25節
そして、サウルは今、その約束を成就しようとしています。
18節において、ダビテが王サウルの前で謙遜であることに注意してください。
「ダビデはサウルに言った。「私は何者なのでしょう。私の家族、私の父の氏族もイスラエルでは何者なのでしょう。私が王の婿になるなどとは。」
」
新改訳聖書 サムエル記第一18章18節
しかし、サウルはその約束を実行したでしょうか?
いいえ!
その女性は他の者に与えられました。
そして、サウルはダビテを殺す道具として、娘ミカルを使おうとしました。
サウルは不可能と思われる花嫁料を要求しました。
ダビテがミカルを得るためには「ペリシテ人の陽の皮百」が必要だったのです。
しかし、主はダビテとともにおられ、その職務は見事に遂行されました。
そして、ダビテがミカルが結びつくことは決して幸せにはなれないことは分かっていました。
ゆえに、この結婚は不幸な結果となりました。
ダビテが逃亡している間、このミカルは他の者に嫁ぎました。
そして、ダビテがヘブロンで王位に着くと彼女を取り返しに行きます。
「サウルはダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリムの出のライシュの子パルティに与えていた。」
新改訳聖書 サムエル記第一25章44節
「ダビデは言った。「よろしい。あなたと契約を結ぼう。しかし、それには一つの条件がある。というのは、あなたが私に会いに来るとき、まずサウルの娘ミカルを連れて来なければ、あなたは私に会えないだろう。」
それからダビデはサウルの子イシュ・ボシェテに使いをやって言わせた。「私がペリシテ人の陽の皮百をもってめとった私の妻ミカルを返していただきたい。」
それでイシュ・ボシェテは人をやり、彼女をその夫、ライシュの子パルティエルから取り返した。
その夫は泣きながら彼女についてバフリムまで来たが、アブネルが、「もう帰りなさい。」と言ったので、彼は帰った。
」
新改訳聖書 サムエル記第二3章13〜16節
彼女のダビテに対する態度は後に、ダビテとは完全に分かれていました。
「ダビデが自分の家族を祝福するために戻ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えに出て来て言った。「イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前で裸におなりになって。」
ダビデはミカルに言った。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで主の民イスラエルの君主に任じられた主の前なのだ。私はその主の前で喜び踊るのだ。
私はこれより、もっと卑しめられよう。あなたの目に卑しく見えても、あなたの言うそのはしためたちに、敬われたいのだ。」
サウルの娘ミカルには死ぬまで子どもがなかった。
」
新改訳聖書 サムエル記第二6章20〜23節
2、ダビテの信頼した人たち
(19章)
ダビデを殺害するサウルの計画はもはや秘密ではありません。
すでにサウルのしもべたちはダビテを殺すという命令を受けています。
しかし、サウルは前にダビテを殺そうと試みましたが、その時は失敗に終わりました。
「サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。しかしダビデは二度も身をかわした。」
新改訳聖書 サムエル記第一18章11節
そして、今、サウルは自分の怒りのままにダビテを宮廷に帰らせています。
ここで、ダビテは神に信頼を置く代わりに、信仰が揺らいでいるのです。
ダビテは神のみこころを求める代わりに人の信頼を求めています。
A、ダビテはヨナタンを信頼した。
(1〜10節)
確かにサウル王の息子、ヨナタンはダビテとの間を仲介することができました。
そして、サウルはダビテを守るという約束さえしましたが、この約束は守られることはありませんでした。
サウルはやがて、ねたみに返り、戦いを仕掛けます。
しかし、もう一度サウルは槍を投げ出し、ダビテは偉大な勝利を収めます。
ダビテはヨナタンの言葉を信頼し続けることが出来ず、サウルとの関係を修復することに失敗します。
しかし、サウルの言葉を信頼する価値は無く、サウルの心は変わることはありません。
B、ダビテはミカルを信頼する。
(11〜17節)
ミカルはダビテを愛していました。
しかしながら、ミカルとダビテとの関係には強い結びつきはありません。
ミカルは後に、それを行動で証明します。
ミカルはダビテにサウルがダビテを見張っていることを警告します。
この二人は互いにうそをつくことを企てます。
これはダビテにとって深刻な問題の始まりとなります。
偽りが義の始まりではなく、正しいことによって始まるからです。
「「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。――私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。
」
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章8節
ミカルは偶像を使い、ダビテが病気でベットで寝ているように見せました。
彼女は自分の父をだましますが、その結果、悪い状況を生み出すことになりました。
詩篇59編を読むのなら、このような状況において信仰者が歩むべき道について書いてあります。
C、ダビテはサムエルを信頼しました。
(18〜24節)
これは、おそらく、ダビテが取ったもっとも賢い行動だったでしょう。
サムエルはダビテのために祈り、ダビテと相談できる神の人だからです。
サムエルはサウルを負かしました。
うそをついたのでもなく、何か武器を使ったのでもなく、神の霊によったのです。
サムエルは霊的な武器を使って、サウルにダビテを捕まえる機会を与えなかったのです。
3、ダビテは自分自身に信頼しました。
(20、21節)
ダビテは信仰という面において、ぐらつき、失敗しました。
私たちはこれらの章に記されていることが、とても美しい描写とは思えないはずです。
しかし、私たちは主のみこころを待ち続けます。
ダビテは恐れて逃げました。
ダビテは策略をもって、自分の問題から逃げたのです。
ダビテがうそをついていることに注意してください。
A、ダビテはサウルにうそをつきました。
(20章)
20章1節において、ダビテはヨナタンにこのように語っています。
「ダビデはラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て言った。「私がどんなことをし、私にどんな咎があり、私があなたの父上に対してどんな罪を犯したというので、父上は私のいのちを求めておられるのでしょうか。」
」
新改訳聖書 第一サムエル記20章1節
ここでは、ダビテの自己中心と、気の短さが描かれています。
ここには確かに二人の友が祈るために会っています。
しかし、彼らはここで策略を練っています。
ヨナタンは6、28節で自分の父にダビテがどこにいるのかうそをついています。
「もし、父上が私のことをとがめられたら、おっしゃってください。『ダビデは自分の町ベツレヘムへ急いで行きたいと、しきりに頼みました。あそこで彼の氏族全体のために、年ごとのいけにえをささげることになっているからです。』と。」
新改訳聖書 第一サムエル記20章6節
「ヨナタンはサウルに答えた。「ベツレヘムへ行かせてくれと、ダビデが私にしきりに頼みました。
」
新改訳聖書 第一サムエル記20章28節
しかし、ヨナタンはこの問題がどのような結末になるかを、数日の間、待たなければなりませんでした。
そして、ヨナタンとダビテはともに契約を結びました。
ダビテが王になった時、ダビテがヨナタンの家族を守ることです。
その契約は第二サムエル記9章において成就されました。
(ヨナタンの子メフィボシェテ)
サウルはヨナタンの話した話を信じました。
(24〜33節)
しかしながら、ヨナタンはその話によって、自分の人生の結果を決定付けてしまったのです。
神がその人を見捨てた時、悪魔はその人を拾います。
そこにある結末は、偽り以外ありえません。
ヨナタンはテーブルから離れ、翌朝、ダビテと会いました。
彼らはともに泣き、別れを言ったのです。
B、ダビテはアヒメレクにうそを言いました。
(21章1〜9節)
ダビテは再び、逃げ、ノブに逃れました。
そこには幕屋が建っていました。
ダビテは常に神の家に対して、大きな愛を持っています。
ダビテは、おそらく、隠れる前から何度も幕屋に訪れたかったのでしょう。
しかし、ダビテはサウルの用でここに来たと主張し、うそをつきました。
「ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、ある事を命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じた事については、何事も人に知らせてはならない。』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。」
新改訳聖書 サムエル記第一21章2節
祭司はダビテと仲間の男たちにささげもののパンを与え、彼らはそのパンを食べました。
そして、同様にダビテたちはダビテを守るためにゴリアテの剣をも受け取りました。
この計画全体は成功したと思われましたが、サウルのスパイ「ドエグ」がその出来事すべてを見ていました。
そして、最後にドエグは裏切りと流血へと導くことになるのです。
(詩篇52編とその題名を見てください。)
「すると、サウルの家来のそばに立っていたエドム人ドエグが答えて言った。「私は、エッサイの子が、ノブのアヒトブの子アヒメレクのところに来たのを見ました」
新改訳聖書 サムエル記第一22章9節
C、ダビテはアキシュにうそをつきました。
(21章10〜15節)
問題はますます、悪くなるばかりです。
私たちは神の知恵の代わりに自分自身に信頼を置いてしまうものです。
まさにダビテたちはそのように自分自身に信頼を置いていました。
ダビテは今、敵の手の中に逃げています。
まさに「人は人の恐れによって、わなにはまるのです。」
ダビテにとって敵の領地に入ることがわなになるはずでしたが、今のダビテにとってはこれが正しいことだとダビテは考えられました。
確かに、この国の王は自分の国に入ってきたユダヤ人のヒーロを簡単に取り扱うことはしません。
ダビテは逃げてきたことを言う前に、自分が気違いのふりをしたのです。
「私たちが最初に欺いた時に編んだ織物は、なんともひどい織物ではないでしょうか!」ということばの通りです。
まさしく、ダビテの生涯の終わりだったともいえる場面です。
しかし、主はこの場面に介入し、ダビテを取り除く方向へと王のこころを変えたのです。
ダビテはアドラムのほら穴に逃げ、無法者たちが集まりました。
詩篇の34編と詩篇54編を見てください。
この不信仰で恐れを持った人たちが、徐々にダビテの周りで信仰の人たちへと変えられていったことはなんとも驚くべきことです。
もし、私たちが信仰的な人たちと、私たちが計画を持つことを急ぐなら....。
すぐに私たちはそのすべてを失うことになるでしょう。
しかし、その崩壊する前に、私たちは神の祝福と守りを見つけだすことができるのです。
私たちは後の章で、ダビテが神のみこころと待ち、主を待ち望むことを学んでいるのです。
ダビテとヨナタンの間にある友情は非常に特殊なものでした。
実際、どちらも、互いの関係において、何かを得るということはありません。
ヨナタンは王冠をなくし、ダビテはその命さえも与えることができました。
これは悪環境の中にある試みに対して、非自己的な、そして、絶えることのない、美しいクリスチャンの愛を表現しています。
サムエル記第一22〜24章において、ダビテは完全にサウルの宮廷から身を引いています。
ダビテは完全に無法者、反乱者と考えられています。
詩篇34編において、間一髪でアキシュから逃げてきたことが記されています。
(サムエル記第一21章10〜15節)
ダビテが逃げている期間における、試みと勝利をもっとも印象付ける箇所です。
「正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。
」
新改訳聖書 詩篇34編19節
神はダビテとともにおられ、神はダビテを助けました。
I、ダビデの歩みは神によって導かれた。
(22章)
ダビデが王になった時の王宮のメンバーはこのアドラムの洞穴にあって結成されました。
400人の人たちが集まり、ついには600人の人たちに膨れ上がりました。
「そこでダビデとその部下およそ六百人はすぐに、ケイラから出て行き、そこここと、さまよった。ダビデがケイラからのがれたことがサウルに告げられると、サウルは討伐をやめた。
」
新改訳聖書 サムエル記第一23章13節
詩篇54編、142編において、ダビテのアドラムの洞穴における経験が記されています。
サウルはダビテ同様にこのダビテに従う者たちをも殺そうと考えていました。
ゆえにダビテは彼らをも守りたいと願っていたのです。
確かに、このさまざまな人たちはキリストの元へ逃げてきた人々を描写しています。
彼らは自分の罪のゆえに「困窮している者、負債のある者、不満のある者」だったのです。
ダビテに従った者たちの集まりは小さく、軽蔑されていました。
しかし、彼らは王国を所有するものとなったのです。
ダビテは自分を家族が守られたいことを願っていました。
ダビテの家族はこの洞穴から出てくることによって、モアブにおいてその保護が実現しました。
ダビテの愛する者への配慮はなんとも考え深いものがあります。
イエスの配慮も同じようなものがあります。
「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書19章26、27節
ダビテの生涯において、この迫害を受けた期間は、なんと王座を受けるための準備期間だったのです。
ダビテは常に偉大な兵士でした。
今、ダビテは人間ではなく、主に信頼することを学ぶために荒野において苦しみを必要としていたのです。
私たちすべてにこの荒野における試練が必要です。
これは主により近く、そして主に従う必要性をより学ぶためなのです。
ダビテに対するサウルの迫害は肉と霊の衝突を描いています。
そして、同様に今日において、悪魔が教会を迫害している姿を描写しているのです。
ダビテは王でしたが、まだ、彼は王座にはいません。
悪魔は今日において、支配しています。
しかし、キリストは王なのです。
そして、その日が来たのなら、キリストは王座につきます。
サウルは罪無き祭司をノブにおいて殺しました。
それはかつて、彼らが主を拒んだことがどんなことだったのかを示しています。
サウルはまさに、悪魔のように嘘つきであり、人殺しです。
「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
」
新改訳聖書 ヨハネの福音書8章44節
ドエグはエドム人であり、エサウの子孫です。
ドエグはダビテと祭司たちを憎んでいました。
しかし、それはいまだにヤコブとエサウの間にある戦いを場面でもあったのです。
「エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。
」
新改訳聖書 創世記82章30節
ダビテがノブに現れたことにより、これらの人々に死が訪れました。
ダビテの行った偽装が、この悲劇の結果を生んだのです。
サウルはアマレク人を殺す気がありませんでした。
(15章)
しかし、サウルはこの罪無き祭司を殺すことを問題視していません。
この虐殺はサムエル記第一2章30〜36節における、エリの家に対する裁きの預言の成就となりました。
サウルは祭司たちを殺すことが出来たかも知れませんが、
しかし、ダビテを守ろうとし、エポデともにエブヤタルが逃げ、サウルはこれを防ぐことができませんでした。
エポデは神のみこころを実行するための道具だったのです。
サウルはエポデを何に使ったのでしょうか?
サウルは自分の意思で神のみこころを決めるのに必要なエポデを着た祭司を殺しました。
しかし、祭司としてエポデを着たエブヤタルは後にダビテの助けになっています。
「ダビデはサウルが自分に害を加えようとしているのを知り、祭司エブヤタルに言った。「エポデを持って来なさい。」
」
新改訳聖書 サムエル記第一23章9節
「ダビデが、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに、「エポデを持って来なさい。」と言ったので、エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。
」
新改訳聖書 サムエル記第一30章7節
II、神はダビテの命を守りました。
(23章)
これはダビテの生涯、命にとって重要なことでした。
ダビテは栄光にあって王国を設立するためにイスラエルに渡されました。
そして、ダビテは肉においてキリストの祖先となったのです。
「御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
」
新改訳聖書 ローマ人への手紙1章3,4節
悪魔はダビテを見つけ、殺すためにサウルを使いました。
しかし、神はその敵に対して、もっと強い御方です。
ダビテが主のみこころを追い求めていましたが、それ以上に神はダビテを守り、勝利を与えました。
A、ケイラにおける勝利
(1〜13節)
ペリシテ人はダビテの敵であり、イスラエルの敵です。
ダビテがペリシテ人と戦うことは正しいことなのです。
神のこどもが神のみこころの中にいる時、神の子供は神の助けに期待します。
サウルの憎しみは激しく、ダビテが勝利を得たとしてのサウルは神に感謝しようとはしていません。
それどころか、サウル自身も勝利を得るために熱心になっています。
ケイラの人たちは彼らを守ってくれた救助者を守ろうともせずに、サウルにダビテを引き渡そうとしています。
神の恵みに触れることの無い人間の心はなんとも醜いものがあります。
B、荒野における勝利
(14〜18節)
ダビテはなんという忍耐を持っていたのでしょうか!
ダビテは日々、危険と迫害に耐え、忍耐していたのです。
彼は戦略家でもあり、サウルを欺き。敗北に至らせる事ができました。
それでも、ダビテは神が与える勝利を期待することを望みました。
ヨナタンは危険を冒してまでも、荒野でダビテに会い、ダビテに安心を与え、彼を勇気付けました。
しかし、悲しいことにヨナタンはダビテとともに支配する側に回ろうとはしませんでした。
残念なことに、ヨナタンは父とともに殺されてしまいます。
正義を歩む者は、他の罪のためにたびたび苦しみを受けるのです。
C、ジフの勝利
(19〜29節)
ジフはユダにあり、住民はダビテに対して忠実であるべきでした。
しかし、住民は、王であるサウルのゆえにダビテを裏切りました。
詩篇54編を見てください。
助けを得るために祈った、ダビテの祈りが記されています。
ダビテとサウルとの間に岩がありました。
まさに、イスラエルとエジプトとの間にある雲のようです。
「サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山の他の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃げようとしていた。サウルとその部下が、ダビデとその部下を捕えようと迫って来ていたからである。
」
新改訳聖書 サムエル記第一23章26節
サウルはついにダビテを捕まえたかのように思えました。
しかし、パリサイ人の軍隊が侵入してきてサウルは陣に帰ってゆきます。
確かに、神は状況をコントロールし、正しい時にダビテを救い出すのです。
III、神はダビテに恵みを与えました。
(24章)
「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。
」
新改訳聖書 箴言16章32節
神は敵に対する優しさを示す必要のあるという「恵み」をダビテに与えました。
これは巨人であるゴリアテを倒すことよりも偉大なことなのです。
サウルのしもべはダビテの周りをうろついていました。
ダビテはサウルに話しかけました。
「そしてダビデはサウルに言った。「あなたはなぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている。』と言う人のうわさを信じられるのですか。
」
新改訳聖書 サムエル記第一24章9節
多くのクリスチャンが信じているように、もし、詩篇の7編がこのことに一致しているのなら、ベニヤミン人クシュは嘘つきのかしらです。
この経験がダビテにサウルとしもべのリーダに対する証の時を与えました。
ダビテはサウルを殺そうとしていなかったのです。
神のみこころに沿わない王にダビテは誉れを与えていました。
A、誘惑
(1〜7節)
サウルは洞穴の中に休むために入ってきました。
おそらく、王衣を外に脱ぎ、入ってきたのでしょう。
その洞穴は大きく、とても暗かったかも知れません。
サウルはダビテを見つけることなく、逆にダビテとその仲間たちは岩に隠れてサウルを見ていました。
確かに、これは敵を殺すもっともよいチャンスです。
事実、ダビテの仲間たちの何人かは、ダビテがサウルを殺すこの状況を神が作ったと主張しました。
「ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。
」
新改訳聖書 サムエル記第一24章4節
常に、私たちは神のみことばによって、状況を判断することは大切なことです。
大胆にも、サウルの王衣を切ったというダビテの軽率な行為を悔い改めたダビテの行為は大変、柔和なものでした。
別に、ダビテは主から油注がれた者への思いを適切に現したからではありません。
ダビテはまさに「神の思い」を求める者だったからです。
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙12章19〜21節
B、弁解
(8〜15節)
ダビテとその仲間は洞穴において、守られました。
そして、サウルの仲間たちはあえて、攻撃を加えようともしていません。
ダビテは大胆にも、サウルに距離を置きながらも進み出て、話しかけたのです。
サウルにとって、義理の息子の声を聞くことはショックを受けたのではないでしょうか?
ダビテはサウルがうそを聞いていたことを説明しました。
「そしてダビデはサウルに言った。「あなたはなぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている。』と言う人のうわさを信じられるのですか。」
新改訳聖書 サムエル記第一24章9節
そして、サウルはダビテの配慮がなければ、その洞穴の中で命を失っていたことを説明しました。
「実はきょう、いましがた、主があのほら穴で私の手にあなたをお渡しになったのを、あなたはご覧になったのです。ある者はあなたを殺そうと言ったのですが、私は、あなたを思って、『私の主君に手を下すまい。あの方は主に油そそがれた方だから。』と申しました。
わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着のすそをよくご覧ください。私はあなたの上着のすそを切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。それによって私に悪いこともそむきの罪もないことを、確かに認めてください。私はあなたに罪を犯さなかったのに、あなたは私のいのちを取ろうとつけねらっておられます。」
新改訳聖書 サムエル記第一24章10、11節
ダビテの話していることが真実であることは、切られた王衣で十分証明されています。
しかし、ダビテはこのように言いました。
「イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。あなたはだれを追いかけておられるのですか。それは死んだ犬のあとを追い、一匹の蚤を追っておられるのにすぎません。
どうか主が、さばき人となり、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて、これを弁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。」
新改訳聖書 サムエル記第一24章24、25節
このように勇敢な霊を神はダビテに与えたのです。
今日において、私たちが敵に対して、同じ態度を持つことができますように...。
C、懇願
(16〜22節)
サウルはかつて、選れた者でしたが、ここでは哀れな者として描かれています。
サウルの泣き、若干、感情的になっていますが、罪の意識は薄いのです。
これは実際にはその思いから来ているのではありません。
単に、サウルはダビテの優しさを知って喜んでいるだけです。
結論的に、ダビテはサウルの命を助けました。
ここでサウルは自分の家族について心配しています。
「さあ、主にかけて私に誓ってくれ。私のあとの私の子孫を断たず、私の名を私の父の家から根絶やしにしないことを。」
新改訳聖書 サムエル記第一24章21節
事実、ダビテが王になった時、ダビテはサウルの家族を殺そうとはしていません。
20節において、サウルのひねくれた心が示されています。
「あなたが必ず王になり、あなたの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。」
新改訳聖書 サムエル記第一24章20節
サウルはここでダビテが王になることを認めていました。
しかし、サウルは自分の反抗心を弁護し、「今、知った」と言っています。
ダビテはサウルに対する約束を守り、サウルの死後、サウルの栄誉を主張しました。
これはマタイの福音書5章10〜12節にあるキリストのことばを美しく描写しています。
「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。
」
新改訳聖書 マタイの福音書5章10〜12節
ダビテはサウルの家族を優しく扱い、サウルのために祈っています。
これはパリサイ人に対する勝利よりもさらに偉大な勝利となったのです。
主も良き時に、私たちの敵に対して、私たちのために良きことをなさるのです。
サムエル記第一26〜31章において、サウルの生涯の終わりが来るという悲劇を私たちは知ることができます。
サウルについてこのように書かれていました。
「サウルが民の中に立つと、民のだれよりも、肩から上だけ高かった。」
新改訳聖書 サムエル記第一10章23節
しかし、今は霊媒女の家でこのように落ちぶれています。
「すると、サウルは突然、倒れて地上に棒のようになった。サムエルのことばを非常に恐れたからである。それに、その日、一昼夜、何の食事もしていなかったので、彼の力がうせていたからである。
」
新改訳聖書 サムエル記第一28章20節
そして、彼の最後について、このように書かれています。
「サウルが、『さあ、近寄って、私を殺してくれ。まだ息があるのに、ひどいけいれんが起こった。』と言いました。
」
新改訳聖書 サムエル記第二1章9節
おそらく、ダビテとサウルとの間には大きな違いがあり、これらの悲しい出来事を学ぶのに最もよい学習方法だったのでしょう。
I、愛と憎しみ
(26章)
ダビテはかつていくつかの問題を経験したジフの荒野に、なぜ、帰って行ったか、理解することは難しいことです?
「さて、ジフ人たちがギブアのサウルのところに上って来て言った。「ダビデは私たちのところに隠れているではありませんか。」
新改訳聖書 サムエル記第一23章19節
ダビテは妻をたくさん持っていたことが示されています。
おそらく、ダビテは失敗を犯しやすい、粘土のような人物であるからでしょう。
「アビガイルは急いで用意をして、ろばに乗り、彼女の五人の侍女をあとに従え、ダビデの使いたちのあとに従って行った。こうして彼女はダビデの妻となった。
ダビデはイズレエルの出のアヒノアムをめとっていたので、ふたりともダビデの妻となった。
サウルはダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリムの出のライシュの子パルティに与えていた。」
新改訳聖書 サムエル記第一25章42〜44節
これは明らかにダビテの主との親密な交わりを邪魔するものでした。
ゆえに、ダビテのような結婚は神のみこころではなかったのです。
もちろん、サウルはダビテを追い続けました。
24章17〜21節には、サウルの涙ながらの告白があります。
「そしてダビデに言った。「あなたは私より正しい。あなたは私に良くしてくれたのに、私はあなたに悪いしうちをした。
あなたが私に良いことをしていたことを、きょう、あなたは知らせてくれた。主が私をあなたの手に渡されたのに、私を殺さなかったからだ。
人が自分の敵を見つけたとき、無事にその敵を去らせるであろうか。あなたがきょう、私にしてくれた事の報いとして、主があなたに幸いを与えられるように。
あなたが必ず王になり、あなたの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。
さあ、主にかけて私に誓ってくれ。私のあとの私の子孫を断たず、私の名を私の父の家から根絶やしにしないことを。」
」
新改訳聖書 サムエル記第一24章17〜21節
サウルの心に持続するものではありません。
彼の心から出たものではなかったからです。
アビシャイは、ダビデの甥であり、勇敢な兵士でした。
「六男オツェム、七男ダビデを生んだ
彼らの姉妹はツェルヤとアビガイルであり、ツェルヤの子は、アブシャイ、ヨアブ、アサエルの三人であった。」
新改訳聖書 歴代誌第一2章15、16節
「民の残りの者は彼の兄弟アブシャイの手に託して、アモン人に立ち向かう陣ぞなえをした。
」
新改訳聖書 サムエル記第二10章10節
後に、アビシャイは巨人からダビテの命を救うのです。
「しかし、ツェルヤの子アビシャイはダビデを助け、このペリシテ人を打ち殺した。そのとき、ダビデの部下たちは彼に誓って言った。「あなたは、もうこれから、われわれといっしょに、戦いに出ないでください。あなたがイスラエルのともしびを消さないために。」
」
新改訳聖書 サムエル記第二21章17節
しかしながら、アビシャイはアブネルを殺すことに関与しました。
「ヨアブとその兄弟アビシャイがアブネルを殺したのは、アブネルが彼らの兄弟アサエルをギブオンでの戦いで殺したからであった。」
新改訳聖書 サムエル記第二3章30節
宿営において、神はダビテと甥であるアビシャイを遣わし、そこにいる者たちを深く眠らせました。
しかし、この二人は危険の中にいません。
「こうしてダビデはサウルの枕もとの槍と水差しとを取り、ふたりは立ち去ったが、だれひとりとしてこれを見た者も、気づいた者も、目をさました者もなかった。主が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠りこけていたからである。
」
新改訳聖書 サムエル記第一26章12節
7節にある「幕営」という言葉は荷物と戦車を守るための柵を示しています。
もう一度、悪魔はダビテにサウルを殺すように誘惑を仕掛けます。
しかし、ダビテはこの誘惑を拒みました。
「アビシャイはダビデに言った。「神はきょう、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうぞ私に、あの槍で彼を一気に地に刺し殺させてください。二度することはいりません。」
」
新改訳聖書 サムエル記第一26章8節
復習は主の御手によるのです。
ダビテのサウルへのメッセージは実際に、サウルが主のもとに帰るように勧める懇願でした。
「そして言った。「なぜ、わが君はこのしもべのあとを追われるのですか。私が何をしたというのですか。私の手に、どんな悪があるというのですか。
王さま。どうか今、このしもべの言うことを聞いてください。もし私にはむかうようにあなたに誘いかけられたのが主であれば、主はあなたのささげ物を受け入れられるでしょう。」
新改訳聖書 サムエル記第一26章18、19節
サウルは言いました。
「私は罪を犯した。わが子ダビデ。帰って来なさい。私はもう、おまえに害を加えない。きょう、私のいのちがおまえによって助けられたからだ。ほんとうに私は愚かなことをして、たいへんなまちがいを犯した。」
」
新改訳聖書 サムエル記第一26章21節
サウルの言ったことは本当です。
しかし、悔い改めてはいません。
私たちは愚かな事をしている時(13章)、主に従うのに失敗した時(15章)、敬虔な友人に背を向ける時(ダビテとサムエル)、悪魔の導きを求める時(28章)、悔い改めを拒む時、さらに悪事を考える時、私たちが主の前に走ります。
あなた自身があなたの罪を見出してください。
2、光と闇
(27〜30章)
27章、そして29〜30章においてダビテの勝利を扱っています。
ダビテは主のみこころを求めたのです。
その反面、28章ではサウルの恐ろしい敗北を描写しています。
サウルは霊媒の女の家に助けを求めたからです。
もちろん、ダビテはいつも主のみこころに従って歩んでいたわけではありません。
27章において、ダビテは信仰によって歩むことに失敗し、敵の守りを求めてガテに戻って行きました。
21章10〜15節において、ダビテはかつて問題を起こした場所です。
しかし、今、ダビテは600人の強力な戦団のリーダーです。
今、ダビテはより受け入れやすい存在となりました。
しかし、今だにダビテは敵の領地内において、敵の王にうそをついてそこに滞在しているのです。
「アキシュが、「きょうは、どこを襲ったのか。」と尋ねると、ダビデはいつも、ユダのネゲブとか、エラフメエル人のネゲブとか、ケニ人のネゲブとか答えていた。
ダビデは男も女も生かしておかず、ガテにひとりも連れて来なかった。彼らが、「ダビデはこういうことをした。」と言って、自分たちのことを告げるといけない、と思ったからである。ダビデはペリシテ人の地に住んでいる間、いつも、このようなやり方をしていた。
アキシュはダビデを信用して、こう思った。「ダビデは進んで自分の同胞イスラエル人に忌みきらわれるようなことをしている。彼はいつまでも私のしもべになっていよう。」
」
新改訳聖書 サムエル記第一27章10〜12節
ダビテが滞在しているとき、ペリシテ人が集まり、ダビテがイスラエルに対して戦いを挑むように強制しています。
「さて、ペリシテ人は全軍をアフェクに集結し、イスラエル人はイズレエルにある泉のほとりに陣を敷いた。
ペリシテ人の領主たちは、百人隊、あるいは千人隊を率いて進み、ダビデとその部下は、アキシュといっしょに、そのあとに続いた。」
新改訳聖書 サムエル記第一29章1、2節
私たちは肉の知恵の結末が常に問題であることを学びます。
ダビテがイスラエルの民を殺さずにいられたのは、ただ神の恵みとしか言いようがありません。
28章と30章には対照的な出来事が描かれています。
サウルは主から離れ、神なき導きにより頼んでいます。
「それで、サウルは主に伺ったが、主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかったので、
サウルは自分の家来たちに言った。「霊媒をする女を捜して来い。私がその女のところに行って、その女に尋ねてみよう。」家来たちはサウルに言った。「エン・ドルに霊媒をする女がいます。」
」
新改訳聖書 サムエル記第一28章6、7節
その反面、ダビテは主からの勇気と導きに目を止めています。
「ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。
ダビデが、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに、「エポデを持って来なさい。」と言ったので、エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。
ダビデは主に伺って言った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」するとお答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」
そこでダビデは六百人の部下とともに出て行き、ベソル川まで来た。残された者は、そこにとどまった。
」
新改訳聖書 サムエル記第一30章6〜9節
「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
」
新改訳聖書 イザヤ書55章6節
これはサウルに対して警告でありながら、サウルは気にもとめていません。
単に、ダビテに対して、神が自分の財産と民を回復させただけではありません。
敵によって集められた盗品を集めさせたのです。
私たちはダビテの恵み深い聖霊に感激します。
ダビテはダビテとともに留まる者たちに必要な物を供給し、戦利品をともに分け合ったのです。
そして、ユダの長老たちをダビテは思いやり、贈り物をしています。
おそらく、ダビテの後の行動を見ると、その行動にはいくらか政治的な意味合いがあったのでしょう。
28章でサウルが深夜、霊媒の女の家を訪れたました。
その時、それは私たちにとってまったく考えることのできない別の場面だと言うことができます。
サムエルは死にました。
しかし、サムエルはそれでも生きています。
サムエルの働きはサウルによって理解されています。
しかし、現実の友とこのような場面で出会うとはなんとも悲しいことではないでしょうか。
サウルにとって、唯一の頼みは霊媒の女の家を訪ねることでした。
これは律法によって禁じられていることです。
「霊媒や口寄せのところにおもむき、彼らを慕って淫行を行なう者があれば、わたしはその者から顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。
」
新改訳聖書 レビ記20章6節
これはイスラエルの民が主へと帰らなければならないという警告です。
霊媒の女に呼び出しに答えたサムエルの出現については、終わりの無い議論が起きるでしょう。
この問題は次のように列記できます。
1)サムエルが現れたのは、霊媒の女の呼び出しというよりも、主のために現れたのです。
2)サムエルが現れた時、霊媒の女は驚きました。
3)サムエルが現れたのは、主から王への特別なメッセージを持っていたからです。
霊媒の女はサウルの目的を知りませんでした。
悪魔はこのような妙技はいとも簡単にこなすことができます。
神は悪魔にこのような重要なメッセージを送らせることを許したのかも知れません。
もしくは、神は悪魔にこのような特別なメッセージを送るように命じたのかも知れません。
この場面において、サムエルが現れた以上、霊媒の女は単なる観客となりました。
サウルはサムエルの言葉を聞きました。
「すると、サウルは突然、倒れて地上に棒のようになった。サムエルのことばを非常に恐れたからである。それに、その日、一昼夜、何の食事もしていなかったので、彼の力がうせていたからである。
」
新改訳聖書 サムエル記第一28章20節
しかし、サウルはサムエルの姿を見ていません。
「この女がサムエルを見たとき、大声で叫んだ。そしてこの女はサウルに次のように言った。「あなたはなぜ、私を欺いたのですか。あなたはサウルではありませんか。」
王は彼女に言った。「恐れることはない。何が見えるのか。」この女はサウルに言った。「こうごうしい方が地から上って来られるのが見えます。」
サウルは彼女に尋ねた。「どんな様子をしておられるか。」彼女は言った。「年老いた方が上って来られます。外套を着ておられます。」サウルは、その人がサムエルであることがわかって、地にひれ伏して、おじぎをした。
」
新改訳聖書 サムエル記第一28章12〜14節
15章35節と16章1節に戻ってください。
サムエルはサウルから離れて行き、王は二度とサムエルを見ていません。
「サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。
」
新改訳聖書 サムエル記第一15章35節
「主はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」
」
新改訳聖書 サムエル記第一16章1節
ここには神によって選ばれましたが、不信仰な王サウルがいます。
彼は邪悪な行いをしたにもかかわらず、神によって選ばれたのです。
コリント人への手紙第一10章12節にはこのようなことが記されています。
「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一10章12節
サウルは光ではなく、闇の中を歩んでいました。
サウルは自分自身を欺いていたのです。
しかし、実際には自分の真実な姿をあらわにしていました。
サウルは女に律法を破ることを許しました。
サウルは自分の国に、自分の軍隊に、自分の家族に、そして、自分自身に恥と敗北を与えたのです。
3、命と死
(31章)
ダビテが友人たちに分捕り物のいくらかを送りました。
しかし、その一方ではサウルとサウルの家族が戦場において撃ち殺されています。
「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章6節
デボラ(士師記4、5章)とギデオン(士師記7章)の時代において、ギルボアはいくつかの勝利の場面を生んだ場所です。
しかし、この時代において、敗北の悲劇の場面がありました。
神はサウルを捨て、主に対して反抗的な王のために残された唯一な事柄はただ死のみでした。
サウルの罪無き子、ヨナタンも、父、サウルの罪ゆえに苦しみにあうことはなんとも悲劇ではないでしょうか!
サムエル記第二1章1〜10節にはサウルの死には別の説明がされています。
二つの説明を理解することは別に難しいことではありません。
サウルは自分が破られることを知っていました。
サウルは生きながら敵の手の中に陥る事を望んでいたわけではありません。
しかし、敵はサウルに恥を与えたいだけです。
ゆえに、自分の剣によって自分の命を絶とうとしました。
しかし、この剣はサウルを殺すことはできません。
サウルはまだ、生きていました、
そして、サウルは自分の槍のうえに倒れました。
「報告をもたらした若者は言った。「私は、たまたま、ギルボア山にいましたが、ちょうどその時、サウルは槍にもたれ、戦車と騎兵があの方に押し迫っていました。」
新改訳聖書 サムエル記第二1章6節
その時、アマレク人がやって来て、その働きをしたのです。
しかし、サムエル記第二1章の中で、アマレク人を信じる人々を注意しなければなりません。
彼らは真実を語っていません。
しかし、なぜ、サウルの王冠と腕輪を持っていたのか明白にするために、ダビテに対して真実を語っています。
おそらく、サウルを殺したことにより、ダビテに気に入られ、報いを受けようとしていたのでしょう。
サウルの死を通して学ぶべき重要なレッスンがあります。
15章において、サウルはアマレク人のすべてを殺すことを拒みました。
彼らの生き残った者がサウルを殺すことになりました。
最後に、その罪は私たちを破滅へと導きました。
サウルは王位を失いました。
黙示録には次のように書かれています。
「わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
」
新改訳聖書 黙示録3章11節
敵はサウルの死を本当に喜んだのではないでしょうか!
どのような勝利が、彼ら偽の神の宮にもたらされたのではないでしょうか!
サウルの人生、もしくは死のどちらにおいても、神の栄光にはなりませんでした。
「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙1章20、21節
ヤベシ-ギレアデの人たちは勇敢にもサウルの家族をふさわしく葬むりました。
これは王家の不敬な人たちの体を救った行為は感心すべき行為です。
彼らはサウルの家族たちの死体を辱めから守るために焼いたのです。
サウルは11章において、ヤベシ-ギレアデの人たちを助けました。
彼らは同様にサウルを助けました。
やがて、ダビテは彼らの骨を墓の中に置きました。
「すると、ダビデは行って、サウルの骨とその子ヨナタンの骨を、ヤベシュ・ギルアデの者たちのところから取って来た。これは、ペリシテ人がサウルをギルボアで殺した日に、ペリシテ人が彼らをさらしたベテ・シャンの広場から、彼らが盗んで行ったものであった。
ダビデがサウルの骨とその子ヨナタンの骨をそこから携えて上ると、人々は、さらし者にされた者たちの骨を集めた。
こうして、彼らはサウルとその子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬り、すべて王が命じたとおりにした。その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。
」
新改訳聖書 サムエル記第二21章12〜14節
ダビテがヘブロンの王になった時、かつての王の誉れをおおいに示しました。
「ダビデはヤベシュ・ギルアデの人々に使いを送り、彼らに言った。「あなたがたの主君サウルに、このような真実を尽くして、彼を葬ったあなたがたに、主の祝福があるように。
今、主があなたがたに恵みとまことを施してくださるように。この私も、あなたがたがこのようなことをしたので、善をもって報いよう。
さあ、強くあれ。勇気のある者となれ。あなたがたの主君サウルは死んだが、ユダの家は私に油をそそいで、彼らの王としたのだ。」
」
新改訳聖書 サムエル記第二2章5〜7節
サウルの悲劇的な歩みと死は、私たちに実際的なレッスンを教えています。
1)大きな罪が小さな問題から起きています。
短気、不完全な従順、弁解などです。
2)一度、罪は人々を捕まえると、彼らはますますひどくなってゆきます。
3)もし、私たちが神に対して正しくないのであれば、神の民とともに正しく歩むことはできません。
4)弁解は告白を代わりにはなりません。
5)生まれつきの才能と能力は神の力なしでは何の意味も持ちません。
6)そこには従順の代わりなどありません。
サムエル記第二1〜5章において、ダビテがイスラエルの王としてイスラエルの国を導くことが描写されています。
私はあなたに第一列王記を10章1〜14節、11章1〜19節、そして14章1〜8節と比べて読んでほしいと思っています。
1、サウルの死に対する、ダビテの悲しみ。
小さき聖徒はダビテの敵が死んだことを喜んだでしょう。
しかし、神の思いを持ち続けた人、ダビテはサウルの罪の結果に謙遜になりました。
もちろん、ダビテの信愛した友人であるヨナタンが死んだということもありました。
不従順な父親の罪は罪無き人たちの上にも裁きをもたらしました。
私たちはすでにサムエル記第一における、サウルの死について学んできました。
しかし、他の詳細ないくつかの事柄について考えるのなら、より多くの利益を得ることができます。
アマレク人はサウルの命を奪ったという知らせを持ってきました。
サウルは第一サムエル記15章において主に従い、すべてのアマレク人を殺しましたか?
いいえ、サウルはそれに従わなかったのです。
私たちも一つの罪に従わなかったゆえに、殺されることもありえるのです。
申命記25章17〜19節にはこのようなことが記されています。
「あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。
彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである。
あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたの神、主が、周囲のすべての敵からあなたを解放して、休息を与えられるようになったときには、あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない。
」
新改訳聖書 申命記25章17〜19節
箴言24章17節にはダビテの嘆きの歌が記されているようです。
「あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。
」
新改訳聖書 箴言24章17節
このあいさつの歌はヨナタンに対する挨拶に関連して使われています。
サムエル記第一20章20〜23節を見てください。
この歌に歌われているのはサウルのことというのは不適切です。
ダビテの主な関心事は、主が油注がれた者を殺したということと主の栄光が曇らされてしまうことでした。
ダビテの心配事は、信仰の無い敵が喜び、勝利を得ることです。
19節、25節、27節にはこのように書かれています。
「イスラエルの誉れは、おまえの高き所で殺された。ああ、勇士たちは倒れた。
」
新改訳聖書 サムエル記第二1章19節
「ああ、勇士たちは戦いのさなかに倒れた。ヨナタンはおまえの高き所で殺された。
」
新改訳聖書 サムエル記第二1章25節
「ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器はうせた。」
新改訳聖書 サムエル記第二1章27節
これがダビテのテーマだったのです。
サムエル記第一10章23節において、サウルは他のだれよりも高く立っていました。
「サウルが民の中に立つと、民のだれよりも、肩から上だけ高かった。」
新改訳聖書 サムエル記第一10章23節
しかし、今、サウルは敵よりも低く身を落としました。
2、ダビテとサウルの家族との戦い
(2〜4章)
私たちは今、これらの政治的な陰謀が始まったことを知ります。
これはダビテの生涯すべてにおいて、彼を悩ましました。
それでも、ダビテは神のみこころを探しました。
ダビテは何か策略に走ったり、誰かの計画に乗ろうとはしません。
それは、ダビテはこれらの人々に借りがあるので、これら反対する人たちにはむかうのは難しいことだったからです。
ダビテが王として歩むことは実に難しいことだったのです。
2、アサエルの殺人
ヨアブ、アビシャイとアサエルはすべて、ダビテの異母姉妹ツェルヤの子でした。
「エッサイは、長子エリアブ、次男アビナダブ、三男シムア、
四男ネタヌエル、五男ラダイ、六男オツェム、七男ダビデを生んだ。
彼らの姉妹はツェルヤとアビガイルであり、ツェルヤの子は、アブシャイ、ヨアブ、アサエルの三人であった。」
新改訳聖書 歴代誌第一2章13〜16節
「アマサは、ヨアブの母ツェルヤの妹ナハシュの娘アビガルと結婚したイシュマエル人イテラという人の息子であった。
」
新改訳聖書 サムエル記第二17章25節
このように、ダビテにとって彼らは甥であり、ダビテの軍隊においても価値ある存在です。
ダビテは最初、ダビテの部族であるユダを支配し、ヘブロンに陣営を置きました。
しかしながら、アブネルはかつてのサウルの軍隊の指揮官であり、サウルの子イシュ・ボシェテは他の部側を支配していました。
アブネルはマハナイムにあるヨルダン川の首都を置き、新しい王であるダビテから自分を守りました。
もちろん、アブネルは個人的にもサウルの家族に興味を持っていたでしょう。
アブネルはサウルのいとこだからです。
「サウルの妻の名はアヒノアムで、アヒマアツの娘であった。将軍の名はアブネルでサウルのおじネルの子であった。
」
新改訳聖書 サムエル記第一14章50節
イシュ・ボシェテの支配はアブネルに有益でした。
ゆえに、アブネルは神のみことばに反抗し、イシュ・ボシェテを王にしたのです。
神がダビテを唯一の真実なイスラエルの王にしたのは明白です。
それは、まさしく、その時代のユダヤ人と、今日におけるクリスチャンと比較することができます。
私たちは、この世に王を作り、私たちの生き方を支配する方として受け入れることがあります。
しかし、その結果は衝突と悲しみです。
訳者注)人間を教会の支配者、もしくは、クリスチャンの人生の支配者として私たちは受け入れるでしょう。
確かに、この地上において、いろんな人物があり、賜物もあり、働きがもあります。
しかし、もし、私たちが神のみことば以外に支配されるならば、その結果は衝突と悲しみです。
聖書には何が書かれているのでしょうか?
誰かに教えられたからではなく、聖書を自分の目で読み、調べ、文字とおりに読んで下さい。
難しくしているのは、人間の教理です。
アサエルのアブネルを殺した事件は、これから起きる二人の王の間の長い戦争の序曲にしかすぎません。
「サウルの家とダビデの家との間には、長く戦いが続いた。ダビデはますます強くなり、サウルの家はますます弱くなった。
」
新改訳聖書 サムエル記第二3章1節
私たちが見るように、この死を残った二人の兄弟が復習し、これがダビテの多くの悲しみになるのです。
B、殺されたアブネル(3章)
ダビテの多くの妻を得たということは、申命記17章15〜17節の明らかな違反です。
「あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。
王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。「二度とこの道を帰ってはならない。」と主はあなたがたに言われた。
多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。
」
新改訳聖書 申命記17章15〜17節
多くの聖書を学ぶ者たちがダビテの欲望の現れが、最後にダビテの家族の問題に導いたと信じています。
ダビテはこれらの問題に悩まされたのです。
アムノンは異母姉妹をタマルを襲った。(13章)
アブシャロムはダビテに反抗し、王座を奪おうとした。
(13〜18章)
アドニヤはソロモンから王座を奪おうと試みた。
(列王記第一1章5節)
アブネルはまさに欲望という問題を持っていました。
アブネルはサウルの妾の一人を奪い、この見せ掛けの王イシュ・ボシェテの不快を得ました。
これはアブネルとイシュ・ボシェテの間の分裂を生みました。
アブネルはダビテと平和的和解を試みました。
しかし、ツェルヤの子のアブネルに対する反抗は、アブネルを殺しました。
「アブネルがヘブロンに戻ったとき、ヨアブは彼とひそかに話すと見せかけて、彼を門のとびらの内側に連れ込み、そこで、下腹を突いて死なせ、自分の兄弟アサエルの血に報いた。
あとになって、ダビデはそのことを聞いて言った。「私にも私の王国にも、ネルの子アブネルの血については、主の前にとこしえまでも罪はない。
それは、ヨアブの頭と彼の父の全家にふりかかるように。またヨアブの家に、漏出を病む者、らい病人、糸巻きをつかむ者、剣で倒れる者、食に飢える者が絶えないように。」
ヨアブとその兄弟アビシャイがアブネルを殺したのは、アブネルが彼らの兄弟アサエルをギブオンでの戦いで殺したからであった。
」
新改訳聖書 サムエル記第二3章27〜30節
実際、ヨアブは直接、手を下しました。
まるで、ヨアブの兄弟の計画にそのまま陥ったようです。
ヨアブが死ぬ前に、ヨアブの手がその血によって汚されました。
ヨアブはアブネルを殺しただけではありません。
アブシャロムをも殺すからです。
「ヨアブは、「こうしておまえとぐずぐずしてはおられない。」と言って、手に三本の槍を取り、まだ樫の木の真中に引っ掛かったまま生きていたアブシャロムの心臓を突き通した。」
新改訳聖書 サムエル記第二18章40節
そして、アマサをも殺します。
「アマサはヨアブの手にある剣に気をつけていなかった。ヨアブが彼の下腹を刺したので、はらわたが地面に流れ出た。この一突きでアマサは死んだ。それからヨアブとその兄弟アビシャイは、ビクリの子シェバのあとを追った。」
新改訳聖書 サムエル記第二20章10節
ダビテは自分の子、ソロモンにヨアブをどのように扱うかを尋ねました。
そして、ダビテはそのように扱いました。
「また、あなたはツェルヤの子ヨアブが私にしたこと、すなわち、彼がイスラエルのふたりの将軍、ネルの子アブネルとエテルの子アマサとにしたことを知っている。彼は彼らを虐殺し、平和な時に、戦いの血を流し、自分の腰の帯と足のくつに戦いの血をつけたのだ。
だから、あなたは自分の知恵に従って行動しなさい。彼のしらが頭を安らかによみに下らせてはならない。
」
新改訳聖書 列王記第一2章5、6節
「王は彼に言った。「では、彼が言ったとおりにして、彼を打ち取って、葬りなさい。こうして、ヨアブが理由もなく流した血を、私と、私の父の家から取り除きなさい。
主は、彼が流した血を彼の頭に注ぎ返されるであろう。彼は自分よりも正しく善良なふたりの者に撃ちかかり、剣で彼らを虐殺したからだ。彼は私の父ダビデが知らないうちに、ネルの子、イスラエルの将軍アブネルと、エテルの子、ユダの将軍アマサを虐殺した。
ふたりの血は永遠にヨアブの頭と彼の子孫の頭とに注ぎ返されよう。しかし、ダビデとその子孫、およびその家と王座にはとこしえまで、主から平安が下されよう。」
エホヤダの子ベナヤは上って行って、彼を打ち取った。彼は荒野にある自分の家に葬られた。」
新改訳聖書 列王記第一2章31、34節
アブネルの歩んだ人生はなんと複雑な人生ではないでしょうか!
それを語ることは難しいことです。
確かに、ヨアブはダビテより変わった力を持っています。
後に、ヨアブは罪無きウリヤに対して殺人の計画を立てた王を助けました。
「朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、ウリヤに持たせた。
」
新改訳聖書 サムエル記第二11章14節
しかしながら、注意してください。
ダビテのアブネルに対する態度は健全な態度であったことは間違いありません。
C、殺されたイシュ・ボシェテ
(4章)
イシュ・ボシェテを殺す事は、ダビテにとって大きな分岐点でした。
そしてこの選択はダビテにその道は大きく開かれていたはずです。
しかし、国全体としては完全なルール違反です。
また、ダビテがリモンの子を使う方法に賛成していなかったことに注意すべきです。
彼らは自分の利得のゆえに人を殺す殺人者だったからです。
ダビテは神が自分を王座に着かせる事を知っていました。
ダビテは悪しき事から良きことが来ない事を信じていました。
ゆえに、ダビテは悪しき事を行わなかったのです。
「「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。――私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。
」
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章8節
ここには三つの殺人があり、これらによってダビテの王座への道を血で染められたことは明白です。
私たちの主が流された血と、ダビテが王座を得るために流された血は、とても対称的に描かれています。
歴代誌第一22章7、8節を見てください。
そこではダビテは自分の生涯を評価しています。
「ダビデはソロモンに言った。「わが子よ。私は、わが神、主の御名のために宮を建てようとする志を持ち続けてきた。
22:8 ある時、私に次のような主のことばがあった。『あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは、わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。
」
新改訳聖書 歴代誌第一22章7、8節
III、サウルの王座のダビテの継承
(5章)
7年間、ダビテはヘブロンにおいて、ユダ部族を支配しました。
これから、ダビテは33年間、イスラエル全体を支配し、全部で40年間、王座に着くことになります。
ダビテは3回、油が注がれる必要があったのでしょうか?
サムエルはベツレヘムの家でダビテに油を注ぎました。
そして、ヘブロンにおいて、ユダの人々がダビテに油を注ぎました。
「そこへユダの人々がやって来て、ダビデに油をそそいでユダの家の王とした。」
新改訳聖書 サムエル記第二2章4節
詩篇18編を見るならば、ダビテの勝利の歌があります。
神はダビテの敵、すべてに敗北を与え、ダビテに平和を与えた後で歌った物です。
この歌は、私たちが問題の中にある時に読むならば、とても良いい歌です。
どのように、神が私たちを偉大な祝福なる平安に連れ出し、導くのかが示されています。
確かに、ダビテは多くの試みの中においても喜んでいました。
しかも、ダビテはこれらの試みを思い出し、神に感謝することができました。
王ダビテには、今、首都なる都市が必要でした。
ダビテはエルサレムを選んだのです。
まだ、その拠点は占領されていません。
「ユダ族は、エルサレムの住民エブス人を追い払うことができなかった。それで、エブス人はユダ族とともにエルサレムに住んでいた。今日もそうである。
」
新改訳聖書 ヨシュア記15章63節
「ベニヤミン族はエルサレムに住んでいたエブス人を追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族といっしょにエルサレムに住んでいる。
」
新改訳聖書 士師記1章21節
そして、エブス人は傲慢であり。ダビテの攻撃にも挑んできました。
なんとめしいや足なえが敵を破るのです!
彼らはあざけられたでしょう。
しかし、ダビテはこれらの人たちに振り返り、彼らの受けたあざけりを敵の叫びへと変えたのです。
列王記第一11章5〜8節では私たちに「ヨアブはその町を開くために用いられた人」だと語っています。
「エブスの住民はダビデに言った。「あなたはここに来ることはできない。」しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これがダビデの町である。
そのとき、ダビデは言った。「だれでも真先にエブス人を打つ者をかしらとし、つかさとしよう。」ツェルヤの子ヨアブが真先に上って行ったので、彼がかしらとなった。
こうしてダビデはこの要害を住まいとした。このため、これはダビデの町と呼ばれた。
彼は、ミロから周辺に至るまで、町の周囲を建て上げ、町の他の部分はヨアブが再建した。
」
新改訳聖書 列王記第一11章5〜8節
聖書を学ぶ人たちの中には、ダビテがその町の上下水道を使ってこっそりその町の中へ入ったと感じている人たちがいますが、考古学者たちはその町のその位置に上下水道は存在していなかったと主張しています。
しかしながら、ダビテが水汲みの地下道を使ったのはこの文章から明白なことですが、その全体的な意味は王の計画した基本計画をヨアブが実行したという意味です。
古くからの敵、パリサイ人が帰って行ったことよりも、すぐに、ダビテの町が建てられたとことを言っています。
では、私たちの個人的な歩みについて、どのようにこの真実を適応すればよいのでしょうか?
悪魔は私たちを何度も攻撃するために「嵐の後の平和」を待っています。
ダビテは主のみこころのみが「勝利の道」であることを知っていました。
注意してください。
第二の攻撃が最初と違った方法で仕掛けられています。
「ところがペリシテ人は、なおもまた上って来て、レファイムの谷間に展開した。
そこで、ダビデが主に伺ったところ、主は仰せられた。「上って行くな。彼らのうしろに回って行き、バルサム樹の林の前から彼らに向かえ。
バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえたら、そのとき、あなたは攻め上れ。そのとき、主はすでに、ペリシテ人の陣営を打つために、あなたより先に出ているから。」
ダビデは、主が彼に命じたとおりにし、ゲバからゲゼルに至るまでのペリシテ人を打った。
」
新改訳聖書 サムエル記第二5章22〜25節
ダビテは、知恵を使い、十分に神の導きを求めています。
神はダビテを新しい道へと導きました。
私たちは歩みにおいて、物事を、神のみこころを単純なコピーとして見てはいけません。
私たちは神を求め、それぞれに新しい決定を求められています。
確かに、ダビテがイスラエルの国全体を支配することは、神のみこころでした。
まさに、私たちにとって、キリストがわたしたちの歩み全体を支配することは、神のみこころなのです。
たしかに、いくつかの場面において、反抗する者たちと起こるべき問題に立ち向かうという神のみこころから外れてしまいます。
私たちはキリストの骨肉です。
骨の骨です。
「イスラエルの全部族は、ヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「ご覧のとおり、私たちはあなたの骨肉です。」
新改訳聖書 サムエル記第二5章1節
「私たちはキリストのからだの部分だからです。
」
新改訳聖書 エペソ人への手紙5章30節
そして、私たちはキリストに導かれ、私たちはその支配にいるのです。
単に、その時だけ、私たちは完全な平和と勝利を持つのです。
ダビテの王座への道は長い間、隠されて、多くの試みがありました。
しかし、ダビテはその道のりにあった、サウルへの復習と報復を求めていません。
ダビテが神の時と計画に従って、守られ、進んで来たことを知っていました。
また、神はダビテの認識を見ていました。
もし、私たちが神に信頼しないのであれば、神は私たちに対しても同じ事を行います。
サムエル記第二6章を読むならば、私たちは歴代誌第一13、15、16章をも学びたくなるはずです。
これらの箇所は、ダビテの生涯に起きた出来事に、重要な教訓を加えることができるからです。
詩篇132編1〜6節において、ダビテの主の栄光に対する強い願望が記されています。
契約の箱が適切な場所に戻されるべきだということです
およそ20年間の間、契約の箱はキルヤテ・エアリムにありました。
(ユダのバール、サムエル記第一6章21節〜7章2節参照)
ダビテは契約の箱のためにエルサレムに特別な幕屋を準備し、
神聖なる箱が適切な場所に戻されるのための準備をしました。
「彼はダビデの町に自分のために家を造り、また、神の箱のために場所を定め、そのために天幕を張った。」
新改訳聖書 歴代誌第一15章1節
その仕事を完了するために3ヶ月以上の月日がかかりました。
「こうして、主の箱はガテ人オベデ・エドムの家に三か月とどまった。主はオベデ・エドムと彼の全家を祝福された。」
新改訳聖書 サムエル記第二6章11節
1、ダビテが主を怒らせる。
(6章1〜11節)
確かに、エルサレムに契約の箱を持ってくるということは、ダビテの請け負った仕事として、非常に尊いことでした。
しかし、「知識のない熱意」、つまり、悪しき方法で、良きことは出来ません。
ダビテは最初に主にことばを求めていません。
ダビテは政治的な指導者たちに意見を求めました。
「ここに、ダビデは千人隊の長、百人隊の長たち、すべての隊長と合議し、イスラエルの全集団に向かって、言った。「もしも、このことが、あなたがたによく、私たちの神、主の御旨から出たことなら、イスラエル全土に残っている私たちの同胞にいっせいに使者を送ろう。彼らのうちには、放牧地のある町々の祭司やレビ人もいる。彼らを私たちのもとに集めよう。
私たちの神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう。私たちは、サウルの時代には、これを顧みなかったから。」
すると全集団は、そうしようと言った。すべての民がそのことを正しいと見たからである。
」
新改訳聖書 歴代誌第一13章1〜4節
「そこで、ダビデは主に伺って言った。「ペリシテ人を攻めに上るべきでしょうか。彼らを私の手に渡してくださるでしょうか。」すると主はダビデに仰せられた。「上れ。わたしは必ず、ペリシテ人をあなたの手に渡すから。」
」
新改訳聖書 サムエル記第二5章19節
「そこで、ダビデが主に伺ったところ、主は仰せられた。「上って行くな。彼らのうしろに回って行き、バルサム樹の林の前から彼らに向かえ。
」
新改訳聖書 サムエル記第二5章23節
ダビテのこころにある動機の一つが現されました。
神の栄光よりも、自分の支配において、国を一つにまとめることです。
歴代誌第一13章3節でサウルが神の箱を顧みなかったから、我々は顧みようと言っているのに注意してください。
「私たちの神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう。私たちは、サウルの時代には、これを顧みなかったから。」
新改訳聖書 歴代誌第一13章3節
おそらく、この発言はサウルの娘であるミカルの振る舞いと何か関係があるようです。
6章20節にはこのように記されています。
「「イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前で裸におなりになって。」
」
新改訳聖書 サムエル記第二6章20節
すべての指導者たちとこの集まりはダビテの計画に賛成しました。
しかし、これは続けて正しい行動へと移してはいません。
ダビテの次の失敗は神のことばを無視したことです。
神のことばの代わりに、ダビテは契約の箱を肩に背負ったレビ人たちに尋ねています。
「ケハテ人諸氏族の、一族の長は、ウジエルの子エリツァファンであった。
彼らの任務は、契約の箱、机、燭台、祭壇、およびこれらに用いる聖なる用具と垂れ幕と、それに関するすべての奉仕である。」
新改訳聖書 民数記3章30、31節
「宿営が進むときは、アロンとその子らが聖なるものと聖所のすべての器具をおおい終わって、その後にケハテ族がはいって来て、これらを運ばなければならない。彼らが聖なるものに触れて死なないためである。これらは会見の天幕で、ケハテ族のになうものである。
」
新改訳聖書 民数記4章15節
他に、民数記7章9節、民数記10章21節を参照してください。
ダビテは世的なサンプルとも言えるペリシテ人に従って、新しい車に神の箱を乗せたのです。
サムエル記第一6章を参照にしてください。
神はペリシテ人にこの方法を許しました。
それはペリシテ人が神のみことばによって教えられていない者たちであり、神の契約の外にいる者たちだったからです。
しかし、ユダヤ人が神の命令を無視し、異教の国々を真似ることを神は許しません。
神は彼らに疫病を送りました。
今日において、どのくらい多くのクリスチャンと教会がこの世界と調子を合わせているのではないでしょうか!
このようなことは天から従うべき型として、私たちに与えられているのです。
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
」
新改訳聖書 ローマ人への手紙12章2節
「よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ。」
新改訳聖書 出エジプト記25章40節
すべての人々は勇気付けられ、喜びに満たされます。
しかし、これは神の目から見て正しい方法ではありません。
イスラエルの民は他の国々のように欲しがりましたが、それが悲劇を生みました。
「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」
新改訳聖書 サムエル記第一8章5節
当然のごとく、人間の方法は最後に神の方法を失敗に終わらせます。
牛はつまずき、神の箱は落ちてしまう可能性が起きたのです。
このことは三つ目の間違いに至らせました。
レビ人は契約の箱に触ってはならないのです。
「その後にケハテ族がはいって来て、これらを運ばなければならない。彼らが聖なるものに触れて死なないためである。」
新改訳聖書 民数記4章15節
神はすぐに彼を裁きました。
もし、神が彼を裁かないのなら、神の栄光と神のみことばを破ることを許すことになります。
この突然の裁きが下ったゆえに、ダビテの行動は神とともに決して正しいと言える行動を起こしてはいません。
ダビテは最初に怒り、すぐに恐れました。
そして、立ち止まり、その裁かれた理由を見出すために神のみこころを求めました。
ダビテはしていることを止め、すぐに神の箱を迎えることができないと判断しました。
歴代誌第一26章1〜4節でオベデ・エドムの家系について記されています。
彼らはレビ族の家系に続き、箱舟を安全に世話をすることが出来ました。
しかし、一つの間違いが別の失敗を導きました。
神のみこころに従い、その思いに従おうする時、そのみこころを確信することは大変、重要なことです。
II、ダビテは自分の熱意を表現しました。
(6章11〜19節)
ダビテは3ヶ月間、猶予を持ち、その間に自分のこころを探り、自分の罪を告白しました。
ダビテは確かに、神の箱を運ぶために神の教えを見つけようと、律法に帰りました。
「彼はダビデの町に自分のために家を造り、また、神の箱のために場所を定め、そのために天幕を張った。
そのとき、ダビデは言った。「レビ人でなければ、神の箱をかついではならない。主は、主の箱をかつがせ、とこしえまでも、ご自身に仕えさせるために、彼らを選ばれたからである。」
」
新改訳聖書 歴代誌第一15章1〜2節
「彼らに言った。「あなたがたはレビ人の家のかしらです。あなたがた自身も、あなたがたの同族の者たちも、身を聖別し、イスラエルの神、主の箱を、私がそのために定めておいた所に運び上りなさい。
最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、主が、私たちに怒りを発せられたのです。私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったからです。」
」
新改訳聖書 歴代誌第一15章12〜13節
神はオベデ・エドムの家を祝福しました。
そして、ダビテはその祝福を国全体の祝福として欲しかったのです。
その時、天幕が準備され、レビ人たちには適切な仕事が準備されていることを確認しました。
詩篇24編を見るならば、この出来事が儀式として構成されていたと考えられます。
歴代誌第一16章7節から、私たちは詩篇105編がこの楽しい時に歌われたものだと言うことが出来ます。
ダビテは神のこころを楽しむことを表現するために、神によって用いられたのです。
彼の歌は主の栄光に帰しています。
この王は王位を脱いで、粗末なレビ人の衣服を着て、この行進を導きました。
レビ人は六歩進んで、一回休みました。
神が彼らを受け入れているかどうかを、見ながら待っているのです。
もし、裁きが来なければ、レビ人たちはささげ物を捧げ、エルサレムまでの残りの道程を進みました。
神の箱がイスラエルのために元の場所に戻された喜びのゆえに、ダビテは無意識に主の前で踊ったことは明らかな事実です。
このような方法は主の前において、好ましい行動と言えるでしょうか。
主に従う私たちのとって、ダビテの行動は従うべき行動として、与えられた行動とも言えます。
しかし、私たちは決して極端に走るべきではありません。
私たちの礼拝において、賛美において、無法な、もしくは論外な表現にあえて走るような行為は好ましくありません。
あるクリスチャンたちがこのような外部への行動を起こすことがあります。
しかし、他のクリスチャンたちはこのような偽りの熱心によって聖霊を悲しませる罪だと思うでしょう。
結論を言うのであれば、ダビテの踊りは現在の「ダンス」だというのは言い訳にしかなりません。
ダビテは栄光を主に帰せる踊りだったのです。
ダビテはイスラエルの民を祝福しました。
ダビテは神の箱が帰って来た儀式のために民に贈り物を与えました。
多くの年月の間、主の栄光が離れていたからです。
今、軍陣の神、主のイスラエルの民の真ん中に帰って来たのです。
ダビテが喜んだことに、何の不思議もありません。
III、ダビテは自分の妻に訓戒します。
(6章20〜23節)
私たちはダビテにはふさわしくはないサウルの娘ミカルに注目します。
彼女はサウルの家に属する者で、決してイスラエルの神に信仰を示したことがありません。
サムエル記第一19章13節で彼女が偶像を礼拝していたことが示されています。
「ミカルはテラフィムを取って、それを寝床の上に置き、やぎの毛で編んだものを枕のところに置き、それを着物でおおった。
」
新改訳聖書 サムエル記第一19章13節
ダビテは主の導きによって、妻ミカルを受け入れていません。
ダビテはゴリアテに勝利することによって、そして、サウルのペリシテ人を打ち殺すという要求に対して妻ミカルを勝ち取ったのです。
サムエル記第一17章25節、18章17〜27を参照してください。
ダビテの生涯において、サウルの家族との結びつきが問題になりました。
まさに、すべて神にふさわしくない結びつきが、始めからあったのです。
「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二6章14〜18節
ダビテとサウルとの戦いは、まさに霊と肉との戦いを描写しています。
ダビテがミカルと結びつくということは、肉に対して許しているということを表しています。
なぜ、ミカルが夫であるダビテを見下したのか?それは肉が霊によって歩むことを見下しているということを表しているのではないでしょうか。
確かに、ミカルの罪深い態度は年が経つほどに成長しています。
ミカルは、父の従者であったダビテに勝利のほうびとして自分が使われたことに憤慨していたのかも知れません。
また、ミカルはダビテと結婚した後に、ダビテが複数の妻を持ったことにも憤慨していたのでしょう。
これらの妻はダビテによって選ばれたのですが、ミカルはそうではなかったのです。
「ヘブロンでダビデに子どもが生まれた。長子はイズレエル人アヒノアムによるアムノン。
次男はカルメル人でナバルの妻であったアビガイルによるキルアブ。三男はゲシュルの王タルマイの娘マアカの子アブシャロム。
四男はハギテの子アドニヤ。五男はアビタルの子シェファテヤ。
六男はダビデの妻エグラによるイテレアム。これらはヘブロンでダビデに生まれた子どもである。
」
新改訳聖書 サムエル記第二3章2〜5節
「ダビデは言った。「よろしい。あなたと契約を結ぼう。しかし、それには一つの条件がある。というのは、あなたが私に会いに来るとき、まずサウルの娘ミカルを連れて来なければ、あなたは私に会えないだろう。」
それからダビデはサウルの子イシュ・ボシェテに使いをやって言わせた。「私がペリシテ人の陽の皮百をもってめとった私の妻ミカルを返していただきたい。」
それでイシュ・ボシェテは人をやり、彼女をその夫、ライシュの子パルティエルから取り返した。
その夫は泣きながら彼女についてバフリムまで来たが、アブネルが、「もう帰りなさい。」と言ったので、彼は帰った。
」
新改訳聖書 サムエル記第二5章13〜16節
また、ミカルの父は惨めな死に方をし、父の敵が今、この国を支配していたのです。
もちろん、これらの理由が根本にはあったのでしょうが、ミカルの憤慨していた理由は主の事柄について、不信仰であり、理解もしていなかったからです。
「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。
いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。
」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一2章14〜16節
ミカルはダビテに偉大で華麗な儀式をもって、王としての力を現して欲しかったのです。
しかし、ダビテは同じ民として、主の栄光をともに喜ぼうとしたのです。
ミカルのダビテへの激しいことばはこの後、非常に多くの時間、ダビテのこころを深く傷つけることになりました。
おそらく、悪魔はミカルを使うのは事実でしょう。
私たちも神を喜び、神の栄光を求めます。
しかし、悪魔は私たちにもミカルを使うのです。
ミカルの邪悪なことばはミカルの邪悪なこころの表れです。
そして、ダビテはミカルの邪悪な者として扱わなければならないことを知っていました。
「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。」
新改訳聖書 マタイの福音書5章30節
ダビテは主の御技において、ミカルが決してダビテを助けようとはしないことを理解していました。
ゆえに、ダビテはミカルを遠ざけ、妻としての特権を与えていません。
ユダヤ人女性が子供なしに死ぬことは、その女性にとって大きな恥になることです。
ダビテはこのようなミカルの惨めさを表現し、その愚かさを表現しています。
「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。」
新改訳聖書 箴言26章5節
人は私たちを非難するでしょう。
しかし、私たちの私たちのこころと動機が正しいことを知っています。
私たちは勇気を失ってはいけません。
ダビテは多くの聖徒たちのようにこのように言うかも知れません。
「私は、もうこれ以上主に仕えたくありません。
私の妻さえも主に仕えることに賛成していません。」
しかし、私たちは次の章で、ダビテが主のために宮を建てるという計画を見ることができます。
悪魔の邪魔を振り払い、主からの報い無しに主の誉れのために働く、これはまさにクリスチャンのために適応できる行動です。
サムエル記第二7章では主に二つのレッスンが要約され、述べられています。
「あなたの身から出る世継ぎの子」(12節)と「あなたの王座」(16節)です。
このダビテへの契約(歴代誌第一17章でも同様に与えられている)は神のプログラムにとって大切な内容です。
ダビテを通して成させるユダヤ人への特別な神の祝福は、確かに神からの約束です。
創世記15章でのアブラハムへの約束において、神は一人の子孫、一つの国によって、イスラエルを通して世界中の国々が祝福されるというものでした。
この契約において、ダビテの子孫を通してメシアが来るという約束を現しています。
「御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙1章3〜4節
そして、ダビテの王座がこのメシアの王国を支配するというものです。
I、王になった時の願い
逃亡と危険の日々は過ぎ去りました。
ダビテは祝福された家で、安らぎを楽しんでいました。
王は預言者と交わりを持ち、主の事柄について議論しています。
ダビテは常に神の家を愛しています。(詩篇132編)
ダビテは主のために美しい神殿を建てようと願っています。
しかし、神はそれを許そうとはしません。
「ある時、私に次のような主のことばがあった。「あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは、わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。
」
新改訳聖書 歴代誌第一22章8節
しかし、神はダビテの心にこの願望があり、その愛を知っていました。
ナタンはこの問題について、神の明らかな意思を知りません。
ナタンはダビテを誉め、勇気付けましたが、ダビテの心の中で何をすべきは知りません。
ダビテとナタンは神の導きが明らかになることを待ちました。
そして、その時、主は語り、彼らは聞き、従いました。
私たちは互いに霊的な問題について、勇気を与え、良き働きへと促したりします。
「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙10章24〜25節
ダビテは真実に神の求める心を持つ人でした。
ダビテは神のみこころを持ち、ダビテの心は神の家を第一としていました。
神の民はよりダビテのようになるべきなのです。
II、素晴らしき約束(7章4〜17節)
ナタンは神が彼に話した「夜には」ということばについて考えなければなりませんでした。
「主よ。私は、夜には、あなたの御名を思い出し、また、あなたのみおしえを守っています。
」
新改訳聖書 詩篇119編55節
闇の中にいる時、神は何度の私たちに話しているのです。
創世記15章では神はアブラハムに語っています。
詩篇17章3節では次のように書かれています。
「あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。あなたは私をためされましたが、何も見つけ出されません。私は、口のあやまちをしまいと心がけました。
」
新改訳聖書 詩篇17編3節
神はナタンに王へのメッセージを与え、このメッセージは重要なさまざまな要因を含んでいます。
A、神の恵み(5〜10節)
恵み深い神はこの国がエジプトを出て以来、長い間、幕屋の中に住んでいました。
神はエジプトの神々の神殿のような、精巧な神殿など求めていません。
しかし、神は謙遜にも幕屋の中に住んでいました。
神は民とともに旅をし、民の前に道を開くために進んでくださいました。
ヨハネの福音書1章14節ではこのように書かれています。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章14節
また、ダビテを復帰させるために神の恵みがあったとも言えます。
神は牧草地からダビテを召し、王座に置きました。
神はすべての敵からダビテに勝利を与えました。
神はイスラエルに祝福の場所を与え、イスラエルはその祝福を二度と失うことはありません。
「わたしが、わたしの民イスラエルのために一つの場所を定め、民を住みつかせ、民がその所に住むなら、もはや民は恐れおののくことはない。不正な者たちも、初めのころのように重ねて民を苦しめることはない。
」
新改訳聖書 サムエル記第二7章10節
ここにある「場所を定め」という時制は過去形で、すでに与えられたということが示されています。
B、神の目的
注意すべき点があります。
この章にある「家」という意味には、二つの意味があります。
(1)目に見える物質的な家
「彼はわたしの名のために一つの家を建て.....
」
新改訳聖書 サムエル記第二7章13節
(2)もう一つはダビテの家族を「家」と呼んでいます。
「主はあなたのために一つの家を造る。」
新改訳聖書 サムエル記第二7章11節
「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」
」
新改訳聖書 サムエル記第二7章16節
他に19、25、27、29節を参照してください。
習慣的に王家のことを「家」と呼んでいます。
現在のイギリスにおいては「ウィンザー家」(英国の王家)のことを呼んでいるのと同じです。
ダビテは神の家を石で作ることを願いました。
しかし、神はダビテの王家を建てるのです。
ダビテの家は王座において、支配するのです。
契約にある単語は非常に重要です。
これらの単語にはこの世界にイエスキリストを送るという神の目的が含まれているからです。
いくつかの契約がダビテの後継者であるソロモンの時代に成就します。
最初に私たちはこのことに注意しなければなりません。
歴代誌第一22章6〜16節を参照にしてください。
他の家族の邪悪な計画にもかかわらず、神はソロモンを王座に就けました。
そして、神はソロモンに美しい神殿を建てることを可能にしたのです。
ソロモンとソロモンの子孫たちは罪を犯しました。
それでも、神は約束を守り、彼らを懲らしめました。
「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。」
新改訳聖書 サムエル記第二7章14節
詩篇89編20〜37節までを参照にしてください。
この契約の中にはいくつか問題があることに注意しなければなりません。
これはイエスキリストにだけ適応できる事柄です。
神はこの王座を永遠に建てると宣言しました。
ダビテの家と王国は永遠に建つのです。
「彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」
新改訳聖書 サムエル記第二7章13節
「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」
新改訳聖書 サムエル記第二7章16節
しかし、今日において、ダビテに王座を持つ子孫などいません。
事実、エルサレムには王座などありません。
神はこの約束を成就させないのでしょうか?
神は詩篇89編33〜37節で宣言しています。
「しかし、わたしは恵みを彼からもぎ取らず、わたしの真実を偽らない。
わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。
わたしは、かつて、わが聖によって誓った。わたしは決してダビデに偽りを言わない。
彼の子孫はとこしえまでも続き、彼の王座は、太陽のようにわたしの前にあろう。
それは月のようにとこしえに、堅く立てられる。雲の中の証人は真実である。」セラ
」
新改訳聖書 詩篇89編33〜37節
神は決してダビテに与えた約束を破ったわけではありません。
そして、いまだに神はダビテの子孫たちを懲らしめているのです。
ここにある究極的な成就はイエスキリストによって成就されます。
ルカの福音書1章28〜33節で御使いがマリアに送ったメッセージを注意深く読んでみてください。
そこにはダビテの王座と王国がキリストにおいて成就されることが記されています。
「御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
新改訳聖書 ルカの福音書1章28〜33節
ある「霊化」と言われる者(派閥)たちは今日において、教会で成就されると言っています。
しかし、この御使いのメッセージを文字通りに読むのなら、霊的な王座と王国とは今日の教会のことだと理解できるでしょうか?
聖霊によって導かれたザカリアは祖先たちになされた契約がキリストにおいて成就されたことを宣言しています。
「「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。
古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。
この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。
主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。
」
新改訳聖書 ルカの福音書1章68〜75節
私たちはこのダビテの契約にある、王座と支配が千年王国において成就すると確信しています。
「また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。
彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。
また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」
新改訳聖書 黙示録20章1〜6節
その時、旧約聖書によって記された偉大な王国の約束が成就されるのです。
使徒の働き15章13〜18節において、使徒たちが神が再びダビテの家を建てると理解しています。
それは神が主の御名によって呼ばれる異邦人たちの訪れの時の終わりに成就するのです。
「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。
それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。
大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。」
新改訳聖書 使徒の働き15章16〜18節
III 謙遜な祈り(7章18〜29節)
ダビデはナタンからメッセージを受け取り、祈りへと向かい、神にみことばの成就を求めました。
「今、神、主よ。あなたこそ神であられます。あなたのおことばはまことです。あなたは、このしもべに、この良いことを約束してくださいました。
今、どうぞあなたのしもべの家を祝福して、とこしえに御前に続くようにしてください。神、主よ。あなたが、約束されました。あなたの祝福によって、あなたのしもべの家はとこしえに祝福されるのです。」
新改訳聖書 サムエル記第二7章28、29節
常にメッセージの中には祈りが含まれており、私たちは神とともに過ごすでしょう。
しかし、日々、私たちはたくさんのレッスンと教訓との受取っているのです。
私たちはより多くを神に求め、そして、考え、豊かに与えられます。
神は私たち神の子供にこのように与えられるのです。
ダビテはこの地上に神殿を建てることを求めました。
しかし、神は永遠の王国を建てることを示しました。
この素晴らしい恵みの反応は主の前にダビテを謙遜にさせました。
そして、王ダビテは祈りにおいて、主の偉大さを賛美したのです。
ダビテはイスラエルの置かれた立場を理解していました。
「それゆえ、神、主よ。あなたは大いなる方です。私たちの耳にはいるすべてについて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はありません。
また、地上のどの国民があなたの民のよう、イスラエルのようでしょう。神ご自身が来られて、この民を贖い、これをご自身の民とし、これにご自身の名を置かれました。あなたは、ご自身の国のために、あなたの民の前で、大いなる恐るべきことを行ない、この民をあなたのためにエジプトから、そして国々とその神々から贖ってくださいました。
こうして、あなたの民イスラエルをとこしえまでもあなたの民として立てられました。主よ。あなたは彼らの神となられました。
」
新改訳聖書 サムエル記第二7章22、24節
今日、イスラエルはどのように神が偉大な方であるかを、御自分の民になんと偉大なことを成している方かを理解しているのでしょうか!
ダビテは主の御名が賛美されないのではないかと心配しています。
しかし、主の御名は偉大なのなのです。
「あなたの御名がとこしえまでもあがめられ、『万軍の主はイスラエルの神。』と言われますように。あなたのしもべダビデの家が御前に堅く立つことができますように。
」
新改訳聖書 サムエル記第二7章26節
「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙1章20、21節
ダビテはアブラハムのように祈っています。
「あなたの約束どおりに行なってください。」
新改訳聖書 サムエル記第二7章24節
サムエル記第二9章において、キリストにあって私たちが持つ感動的な救いの描写が現されています。
ダビテのメシュボシュテに対する処置は確かに、神のこころを持つ者の態度です。
I、失われた罪人としてのメフィボシェテ
A、メフィボシェテはヨナタンの息子として反逆した家の中に生まれてきました。
メフィボシェテは王子の息子です。
それも、メフィボシェテはエルサレムの町から離れ、他の人に依存して生きているものでした。
すべての失われた罪人はみな、罪の中に生まれ、アダムの家族です。
そして、すべての罪人がさばきの下にいます。
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。
」
新改訳聖書 ローマ人への手紙5章12節
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
」
新改訳聖書 エペソ人への手紙2章1〜3節
B、メフィボシェテはまさに堕落(馬から落ち)を経験し、そして両足ともなえ、歩くことができません。
「王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないのか。私はその者に神の恵みを施したい。」ツィバは王に言った。「まだ、ヨナタンの子で足の不自由な方がおられます。」
新改訳聖書 サムエル記第二9章3節
今日、すべての人はアダムの子孫のゆえに、罪人であり、神を喜ばすために歩くことはできません。
従順に歩むどころか、罪人の歩むは下記に記されています。
「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
」
新改訳聖書 エペソ人への手紙2章2節
ある時、罪人でも神を喜ばして歩もうとするかも知れません。
しかし、自分の努力、良き働きによっては誰も救われることは出来ません。
ロ・デバルの意味は「牧草地がない」という意味です。
そこはメフィボシェテが生きるには良い場所ではありません。
まさに現在のこの世界を表しています。
牧草地ではない場所は、たましいを満足させる場所ではありません。
D、メフィボシェテはダビテの助け無しでは滅んでしまう存在でした。
私たちはメフィボシェテに何か素晴らしいところがあったとは聞いていません。
ダビテがメフィボシェテを救ったのです。
メフィボシェテの名前は神のみことばに書かれています。
ダビテがメフィボシェテのところへ、連絡し、メフィボシェテを助けたのです。
失われた罪人は悲惨な状態の中を生きています。
罪人は堕落しています。
罪人は神を喜ばして歩むことが出来ません。
罪人は天という生きるべき場所から離れて生きています。
罪人は裁きの下を歩んでいます。
罪人は自分自身を救うことが出来ません。
サムエル記第二9章において、キリストにあって私たちが持つ感動的な救いの描写が現されているのです。
ダビテのメシュボシュテに対する処置は確かに、神のこころを持つ者の態度です。
I、失われた罪人としてのメフィボシェテ
A、メフィボシェテはヨナタンの息子として反逆した家の中に生まれてきました。
メフィボシェテは王子の息子です。
それも、メフィボシェテはエルサレムの町から離れ、他の人に依存して生きているものでした。
すべての失われた罪人はみな、罪の中に生まれ、アダムの家族です。
そして、すべての罪人がさばきの下にいます。
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。
」
新改訳聖書 ローマ人への手紙5章12節
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
」
新改訳聖書 エペソ人への手紙2章1〜3節
B、メフィボシェテはまさに堕落(馬から落ち)を経験し、そして両足ともなえ、歩くことができません。
「王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないのか。私はその者に神の恵みを施したい。」ツィバは王に言った。「まだ、ヨナタンの子で足の不自由な方がおられます。」
新改訳聖書 サムエル記第二9章3節
今日、すべての人はアダムの子孫のゆえに、罪人であり、神を喜ばすために歩くことはできません。
従順に歩むどころか、罪人の歩むは下記に記されています。
「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
」
新改訳聖書 エペソ人への手紙2章2節
ある時、罪人でも神を喜ばして歩もうとするかも知れません。
しかし、自分の努力、良き働きによっては誰も救われることは出来ません。
C、メフィボシェテのメッセージは最高のものです。
ロ・デバルの意味は「牧草地がない」という意味です。
そこはメフィボシェテが生きるには良い場所ではありません。
まさに現在のこの世界を表しています。
牧草地ではない場所は、たましいを満足させる場所ではありません。
D、メフィボシェテはダビテの助け無しでは滅んでしまう存在でした。
私たちはメフィボシェテに何か素晴らしいところがあったとは聞いていません。
ダビテがメフィボシェテを救ったのです。
メフィボシェテの名前は神のみことばに書かれています。
ダビテがメフィボシェテのところへ、連絡し、メフィボシェテを助けたのです。
失われた罪人は悲惨な状態の中を生きています。
罪人は堕落しています。
罪人は神を喜ばして歩むことが出来ません。
罪人は天という生きるべき場所から離れて生きています。
罪人は裁きの下を歩んでいます。
罪人は自分自身を救うことが出来ません。
II、ダビテは恵み深い救い主でしょうか?
ダビテの最初の行動
A、救いは主にある!
ダビテは最初に失われた罪人の性質は神を求めないことを知らなければなりませんでした。
「それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章10〜12節
まさに神がキリストをこの地上に送ったように、ダビテは哀れなメフィボシェテに使いを送りました。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
新改訳聖書 ルカの福音書19章10節
B、ダビテはヨナタンのために取った行動です。
これは数年前に、ダビテがヨナタンと交わした愛なる契約から起きたことです。
サムエル記第一20章11〜23節参照
いままでダビテはメフィボシェテと会おうとはしていません。
そうです、ダビテはヨナタンのためにメフィボシェテを愛したのです。
私たちは自分に何か良いところがあって救われたわけではありません。
私たちはキリストのゆえに救われたのです。
私たちはキリストのゆえに赦されたのです。
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
」
新改訳聖書 エペソ人への手紙4章32節
私たちは愛される方において受け入れられたのです。
「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
」
新改訳聖書 エペソ人への手紙1章6節
それは永遠の契約の一部です。
それは御父がキリストのゆえ、キリストを信頼するすべての者を救われるからです。
「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、
イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章20、21節
C、それは愛なる行動でした。
3節において、神の「神の恵みを施したい」と言っています。
キリストは私たちへの愛によって、私たちを救ったのです。
「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙2章7節
「しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
」
新改訳聖書 テトスへの手紙3章4〜7節
ダビテの王座は恵みの王座です。
裁きの王座ではありません。
メフィボシェテはダビテはに何の要求もしていません。
メフィボシェテはダビテの前に現れることなどできません。
もし、メフィボシェテがダビテの前に裁かれることを要求したのなら、メフィボシェテは有罪になったでしょう。
D、ダビテは個人的にメフィボシェテを呼びました。
そして、ダビテはメフィボシェテにしもべを送り、しもべによってメフィボシェテはやって来たのです。
「そこでダビデ王は人をやり、ロ・デバルのアミエルの子マキルの家から彼を連れて来させた。
」
新改訳聖書 サムエル記第二9章5節
しもべは王のために働くために出て行ったのです。
誰も説教者や福音伝道者によって救われた人はいません。
すべてのしもべはキリストの御前に罪人を案内するのです。
メフィボシェテはダビテの前に出て行ったとき、どのくらい惨めな思いをしたのでしょうか!
メフィボシェテは自分が裁かれる者だと知っていたからです。
ダビテは「メフィボシェテ」の名を呼ぶ声は、なんとやさしく聞こえたのではないでしょうか?
E、ダビテはメフィボシェテを自分の家族として受け入れました。
これは、今日の罪人が救いを受け入れ、神の家族とされるの同じです。
メフィボシェテは自分の方法で赦しを得ようとしましたが、ダビテはメフィボシェテを自分の息子にしたのです。
「サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテは、ダビデのところに来て、ひれ伏して礼をした。ダビデは言った。「メフィボシェテか。」彼は答えた。「はい、このしもべです。」----
彼は礼をして言った。「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。」----
ツィバは王に言った。「王さま。あなたが、このしもべに申しつけられたとおりに、このしもべはいたします。」こうして、メフィボシェテは王の息子たちのひとりのように、王の食卓で食事をすることになった。
」
新改訳聖書 サムエル記第二9章6〜11節 中略
ルカの福音書にある、放蕩息子は自分をしもべにして欲しいと願いました。
しかし、誰も自分で救いを得る者はいません。
「立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」
新改訳聖書 ルカの福音書15章18、19節
また、ヨハネはこのように書かれています。
「私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章1、2節
「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章11〜13節
F、ダビテはメフィボシェテに平和を語っています。
「恐れることはない。」
新改訳聖書 サムエル記第二9章7節
このダビテのことばは震える、障害あるものへの恵みのことばです。
そして、この「恐れることはない」ということばはキリストがすべて罪人に語っていることばです。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
新改訳聖書 ローマへの手紙8章1節
神のみことばと私たちの内にある神の聖霊が、私たちに平和を経験させてくださるのです。
G、ダビテはメフィボシェテに必要なすべてを提供しています。
もう、メフィボシェテはダビテという羊飼い無しでは生きられない存在です。
毎日、メフィボシェテは王の食卓で食事をしています。
さらに、ダビテのしもべツィバとその息子たちはメフィボシェテのしもべとなりました。
そして、ダビテはメフィボシェテにメフィボシェテが受け継ぐはずであったすべてのものを受け継ぐようにしたのです。
キリストは私たちに霊的な、そして、物質的に必要なすべてのものを、しもべとその家族にお与えになったのです。
キリストは私たちに永遠の相続物をお与えになりました。
「私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。
」
新改訳聖書 エペソ人への手紙1章11節
「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
」
新改訳聖書 エペソ人への手紙1章18、19節
「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
」
新改訳聖書 ペテロ人の手紙第一1章4節
「また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。
」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙1章12節
もし、キリストが私たちに永遠の相続に預かることができなかったのならば、私たちは地獄に行っていたのです。
しかし、キリストの恵みにおいて、キリストは私たちを選び、私たちとキリスト御自身へと相続物を分けました。
それは次のように書かれている通りです。
「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章17節
H、ダビテはサムエル記第二21章1〜11節にある裁きからメフィボシェテを守りました。
神はイスラエルに飢饉を送りました。
神はイスラエルの民を懲らしめたのだと、私たちは知っています。
ダビテはその時、神のみこころを求めました。
そして、この飢饉がサウルのギブオン人への邪悪な扱いによることが判明しました。
聖書の中にはサウルがどのようにギブオン人たちを扱ったのか正確な記録がありません。
ヨシュア記9章を見るとイスラエルがギブオン人たちと契約を結んだことが記されています。
「ヨシュアが彼らと和を講じ、彼らを生かしてやるとの盟約を結んだとき、会衆の上に立つ族長たちは、彼らに誓った。」
新改訳聖書 ヨシュア記9章15節
サウルの行動は真実に対する直接的な違反行為であり、神に対する罪です。
神は長い年月、その罪は現されるのを待っていましたが、この時、この裁きを送ったのです。
出エジプト記にはこのように書かれています。
「しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。
目には目。歯には歯。手には手。足には足。
やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。
」
新改訳聖書 出エジプト記21章23〜25節
このみことばは恵みの時代にある私たちが裁かれるために書かれたことばではありません。
人々はサウルの子孫、7人を捧げるように求めました。
神がこの事件を許したのは事実です。
ダビテがメフィボシェテを意図的に分けた点に注意してください。
サウルの子孫には別のメフィボシェテがいました。
しかし、ダビテはそのメフィボシェテが違うことを知っていました。
「王は、アヤの娘リツパがサウルに産んだふたりの子アルモニとメフィボシェテ、それに、サウルの娘メラブがメホラ人バルジライの子アデリエルに産んだ五人の子を取って、彼らをギブオン人の手に渡した。」
新改訳聖書 サムエル記第二21章8、9節
注意)ダビテが恵みをもって扱ったメフィボシェテはヨナタンの子です。
「さて、サウルの子ヨナタンに、足の不自由な息子がひとりいた。その子は、サウルとヨナタンの悲報がイズレエルからもたらされたとき五歳であった。うばがこの子を抱いて逃げるとき、あまり急いで逃げたので、この子を落とし、そのためにこの子は足なえになった。この子の名はメフィボシェテといった。」
新改訳聖書 サムエル記第二4章4節
今日、信仰を告白する多くの神の子供と呼ばれる人たちがいます。
しかし。真実に神の側に付くものたちは、神の裁きが来た時はっきりさせられます。
もちろん、私たちがこの描写を学んでいるように、キリストにより多く満たされ、その救いをその内側にとどめられているはずなのです。
ダビテは目に見える危険からメフィボシェテを救いました。
そして、目に見える必要を与えたのです。
しかし、キリストは私たちを永遠の地獄から救い、目に見える必要と霊的な必要を、日々与えているのです。
私たちは、地上の王の息子ではありません。
私たちはまさに、神の子供なのです。
サムエル記第二16章1〜4節では、違った方面からこのことが描写されています。
「ダビデは山の頂から少し下った。見ると、メフィボシェテに仕える若い者ツィバが、王を迎えに来ていた。彼は、鞍を置いた一くびきのろばに、パン二百個、干しぶどう百ふさ、夏のくだもの百個、ぶどう酒一袋を載せていた。
王はツィバに尋ねた。「これらは何のためか。」ツィバは答えた。「二頭のろばは王の家族がお乗りになるため、パンと夏のくだものは若い者たちが食べるため、ぶどう酒は荒野で疲れた者が飲むためです。」
王は言った。「あなたの主人の息子はどこにいるか。」ツィバは王に言った。「今、エルサレムにおられます。あの人は、『きょう、イスラエルの家は、私の父の王国を私に返してくれる。』と言っていました。」
すると王はツィバに言った。「メフィボシェテのものはみな、今、あなたのものだ。」ツィバが言った。「王さま。あなたのご好意にあずかることができますように、伏してお願いいたします。」
新改訳聖書 サムエル記第二16章1〜4節
ダビテの息子、アブシャロムが反乱を起こし、ダビテはエルサレムから逃げていた間、しもべであるツィバはダビテに会い、メフィボシェテを訴えました。
ダビテはその訴えを信じ、軽率にもメフィボシェテの財産すべてをツィバに与えてしまったのです。
しかしながら、ダビテはエルサレムに戻った時、メフィボシェテに会い、真実を学びます。
「サウルの子メフィボシェテは、王を迎えに下って来た。彼は、王が出て行った日から無事に帰って来た日まで、自分の足の手入れもせず、爪も切らず、ひげもそらず、着物も洗っていなかった。
彼が王を迎えにエルサレムから来たとき、王は彼に言った。「メフィボシェテよ。あなたはなぜ、私といっしょに来なかったのか。」
彼は答えた。「王さま。私の家来が、私を欺いたのです。このしもべは『私のろばに鞍をつけ、それに乗って、王といっしょに行こう。』と思ったのです。しもべは足なえですから。
ところが彼は、このしもべのことを、王さまに中傷しました。しかし、王さまは、神の使いのような方です。あなたのお気に召すようにしてください。
私の父の家の者はみな、王さまから見れば、死刑に当たる者に過ぎなかったのですが、あなたは、このしもべをあなたの食卓で食事をする者のうちに入れてくださいました。ですから、この私に、どうして重ねて王さまに訴える権利がありましょう。」
王は彼に言った。「あなたはなぜ、自分の弁解をくり返しているのか。私は決めている。あなたとツィバとで、地所を分けなければならない。」
メフィボシェテは王に言った。「王さまが無事に王宮に帰られて後なら、彼が全部でも取ってよいのです。」
新改訳聖書 サムエル記第二19章24〜30節
ツィバがうそをついたのです。
ツィバはメフィボシェテにダビテと一緒に逃げるためにロバを提供すると約束をしますが、ツィバはその約束を守りませんでした。
ツィバは罪なき人を中傷し、ダビテはその中傷を信じました。
もちろん、これはクリスチャンとキリストの間で起きる事はありえません。
「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章33〜39節
悪魔は私たちを訴え、中傷します。
しかし、キリストの私たちへの愛と約束は決して変わることがありません。
私たちは王に帰ろうとするメフィボシェテの態度に、クリスチャンの態度を見ることができます。
この追放されたあしなえは王が帰る日のために生きていたのです。
メフィボシェテは自分に何か快適さを求めようとはしませんでした。
むしろ、メフィボシェテは王の帰る日を待ち、祈っていたのです。
この王はメフィボシェテを愛し、メフィボシェテを死から救ったのです。
メフィボシェテは土地を失いながらも、ダビテが帰ってきた時、心から王の帰還を喜びました。
サムエル記第二11〜12章では、神の民が罪を犯したことが書かれています。
このように、聖書は正直に書かれているのです。
しかし、このような罪は決して、許されるべきではありません。
聖書は今日、多くの人々が単に「真実な生き方」と呼んでいるものではありません。
聖書は事実を宣言し、学ぶべきことを描かれています。
想像して読むようなことは何もないのです。
たしかにエペソ人への手紙5章12節に書かれているように「口にするのも恥ずかしい」こともあります。
「なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
」
新改訳聖書 エペソ人への手紙5章12節
しかし、この章の中に書かれている出来事は聖霊によって直接学ばなければならない出来事であり、
自分自身も誘惑に陥らないよう心を持つためなのです。
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙6章1節
I、ダビデとバテ・シェバ(11章1〜4節)
「年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。
ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。
ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか。」との報告を受けた。
ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。――その女は月のものの汚れをきよめていた。――それから女は自分の家へ帰った。」
新改訳聖書 サムエル記第二11章1〜4節
これはもはや、情熱に酔った若い時の過ちではありません。
ダビテは罪の中を歩んでいたのです。
神の人、ダビテは今、中年とも言える年になっていました。
ダビテがどうして、罪の中に行ったのか?
それは簡単なことです。
(1)ダビテは勝利と繁栄を楽しんだ後、自信を得たのです。
(2)ダビテは戦場で戦かうべきなのに家にいて、不従順になっていました。
(3)ダビテは夕方になって、ベッドの上で暇な状態でした。
(4)ダビテはまず、最初に自分を訓練すべきだったのに、欲望に身をまかせ、自分を甘やかせました。
(5)ダビテには注意深さが欠乏し、目の欲しがるまま、肉の欲のままに物事を行ったのです。
「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章16節
キリストの兵士はよろいかぶとを脱いではいけません。
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
」
新改訳聖書 エペソ人への手紙6章11節
ヤコブの手紙1章13〜15節にダビテの例が完璧に描かれています。
「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
」
新改訳聖書 ヤコブの手紙1章13〜15節
(1)ダビテの欲望は見ることによって行動に移されまた。
ゆえに、ダビテはこの欲望を抑えることが出来ませんでした。
(2)ダビテは想像し、欲望が罪となりました。
(3)ダビテの意思が負け、罪へと導かれました。
(4)ダビテの行動が死へと導きました。
ダビテはマタイの福音書26章41節にある命令のように見て、そして、祈っていません。
「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
新改訳聖書 マタイの福音書26章41節
もしくは、ダビテは目の見るままに、行ってはならないことを行いました。
「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
」
新改訳聖書 マタイの福音書5章29節
ダビテは神のみことばによって、この誘惑に打ち勝つことが出来たはずです。
注意)これは罪ではなく、誘惑です。
「姦淫してはならない。」
新改訳聖書 出エジプト記20章14節
また、ダビテはバテ・シェバが人の娘であり、妻であることを考えることにより、勝利することができたはずです。
「ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか。」との報告を受けた。」
新改訳聖書 サムエル記第二11章3節
事実、彼女の結婚した相手はダビテの軍の最も勇敢な兵士でした。
そして、彼女はアヒトフェルの孫娘であり、後にアブシャロムの側に付き、ダビテに反乱を起こした者です。
「マアカ人アハスバイの子エリフェレテ。ギロ人アヒトフェルの子エリアム。」
新改訳聖書 サムエル記第二23章34節
ダビテはすでに多くの妻たちを持っていました。
そして、神はもっと多くを与えようとしていたのです。
「さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。
」
新改訳聖書 サムエル記第二12章8節
もちろん、私たちは罪を犯して、女性たちを得ることは許されていません。
ダビテは王ですが、このような行為にはより多くの責任が生じます。
II。ダビテとウリア
(11章5〜27節)
ヤコブの手紙11章15節でこのような警告があります。
「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
」
新改訳聖書 ヤコブの手紙1章15節
ダビテの経験から見れば、このことばはより真実であることが解ります。
そして、自分の罪を告白するように、主からの要求がそこにあります。
この王はバテ・シェバの夫にだまして、家に帰るように試みます。
もちろん、この行為は自分の罪をおおうために行ったことです。
しかし、ウリアはこの王よりも優れた人物でした。
ウリアは自分の家に帰ることを拒みました。
1、2節にあるダビテの身勝手と11節にあるウリアの態度を比較して見てください。
「ウリヤはダビデに言った。「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。」
新改訳聖書 サムエル記第二11章11節
ダビテの最初の計画は失敗しました。
そして、ダビテは新しい計画を立て、ウリアに飲ませました。
しかし、ウリアはワインに酔わせようとしましたが、シラフであるダビテよりはるかに訓練された人でした!
しかし、罪はまだ実行されていませんでした。
ダビテはウリアの妻を奪うために、ウリアを殺すように計画しました。
ヨアブはこの計画に喜んで協力しました。
後に、このヨアブは王を利用することを覚えました。
その日、ウリアは自分の死の宣告状を持って戦場へと向かいました。
この計画によって、この勇敢な兵士はその戦場で死にました。
ダビテは動揺もせずに、喪が明けるのを待ち、未亡人であるバテ・シェバと結婚しました。
王宮の中にいるある者たちはダビテはバテ・シェバを慰めようとしていると考えたでしょう。
しかし、主はすべてを見ていました。
III、ダビテと主(12章)
A、ダビテの告白(1〜14節)
ダビテが自分の罪を隠し、少なくとも一年が過ぎました。
詩篇の32編と42編には、この困難な期間のダビテの感覚が描写されています。
ダビテは身体的に弱く、病気になりました。
ダビテは喜びを無くしました。
ダビテは証する力を無くしました。
ダビテは力を無くしました。
神はダビテに義とは何かを理解する時間を与えましたが、ダビテは自分の罪を隠していました。
偽りのない悔い改めをもって、ダビテは主のところへ来たでしょうか?
これらの出来事は、やがて違った形で現れてきます。
ついに、神はナタンを送りました。
7章にある、祝福のメッセージを持ってきたのではありません。
ダビテを訴えるためのメッセージを持ってきたのです。
他の人々の罪を宣言することはなんとも容易いことです。
それでも、ナタンは恐れることなくダビテに語りました。
「あなたがその男です。」
新改訳聖書 サムエル記第二12章7節
私たちは確かに、ダビテが神のみことばの権威にひざをかがめ、自分の罪を認めたことは賞賛すべきことです。
また、ダビテはキリストの直系に入れられた、自分の子にナタンという名を付けたことにも注意してください。
「メレヤの子、メナの子、マタタの子、ナタンの子、ダビデの子、...」
新改訳聖書 ルカの福音書3章5節
しかし、ダビテはナタンを殺すことができました。
すでに、神にはダビテの罪を赦す準備が出来ていたのです。
しかし、死を生む罪からダビテを保護することは出来ませんでした。
「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」
新改訳聖書 ヤコブの手紙1章15節
神の恵みは赦します。
しかし、神の政治において、罪人たちの撒いた刈り取りを見逃すことはできません。
詩篇99編8節には次のように書かれいます。
「われらの神、主。あなたは、彼らに答えられた。あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。」
新改訳聖書 詩篇99編8節
ダビテは次のように言っています。
「その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」
新改訳聖書 サムエル記第二12章6節
ダビテはナタンの語った男が裁かれるべきだと宣言しています。
神はダビテの宣告を受け取ったのです。
剣は決して、ダビテの家から離れることはありませんでした。
生まれてきた子供は死にました。
タマルを汚したアムノンは、アブシャロムによって殺されました。
(13章)
ヨアブはアブシャロムを殺しました。
(18章9〜17節)
ベナヤによって、アドニヤは殺されました。
「私の父ダビデの王座に着かせて、私を堅く立て、お約束どおりに、王朝を建ててくださった主は生きておられる。アドニヤは、きょう、殺されなければなりません。」
こうして、ソロモン王は、エホヤダの子ベナヤを遣わしてアドニヤを打ち取らせたので、彼は死んだ。
」
新改訳聖書 列王記第一2章24、25節
C、ダビデの克服(26〜31節)
この悲劇的なエピソードはダビテが家にいて、自分自身を喜ばそうと行為から始まりました。
しかし、その結果はダビテは自分のいるべき戦場に出てゆき、イスラエルの国を導き、重要な勝利を収めることに終わるのです。
ダビテの罪を犯したのにもかかわらず、再び、ダビテを用いることを喜ぶ神を知るのなら、私たちはとても勇気付けられます。
ダビテは自分の罪を告白しました。
神はダビテの罪を赦し、今、ダビテは主のために再び戦うことが出来るのです。
もちろん、クリスチャンが罪を犯すこと悪いことです。
もちろん、過ぎた時代において生きてきた彼らにとっても悪いことです。
そして、彼らが罪を犯し、告白し、その後、もう自分が使い物にならないと考えることも悪いことです。
神はすでに彼らの罪を赦しているのに、悪魔は神の民を罪の記憶とともに縛り付けてしまうことを喜びとしています。
悪魔は告発者です。
ゼカリヤ書3章参照
「そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
」
新改訳聖書 黙示録12章10節
しかし、イエスは弁護人です。
「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章1、2節
神の恵みの光が、24、25節でどのくらい輝いているのでしょうか!
バテ・シェバは次の王の母親として、神は選んでいたのです。
「ダビデは妻バテ・シェバを慰め、彼女のところにはいり、彼女と寝た。彼女が男の子を産んだとき、彼はその名をソロモンと名づけた。主はその子を愛されたので、
預言者ナタンを遣わして、主のために、その名をエディデヤと名づけさせた。」
新改訳聖書 サムエル記第二12章24、25節
ダビテの生涯において、この出来事はすべてのクリスチャンに対する警告となります。
コリント人への手紙第一10章12節にはこのように書かれています。
「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一10章12節
私たちが誘惑に直面した時。私たちの逃げ道について、コリント人への手紙第一10章13節にはこのように書かれています。
「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一10章13節
しかしながら、ダビテを例にするのなら、私たちは私たちの欲望のなすがままにするのなら、誘惑に打ち勝つことはできません。
私たちは罪は始まることに注意し、私たちの想像力を清潔に歩むように心がけるべきなのです。
使徒パウロはかつての私たちの命に「死を置く」ということを語っています。
ローマ人への手紙6章、コロサイ人への手紙3章を参照にしてください。
すべてのクリスチャンには、見て、祈ることは必要なことです。
肉に何かを与えるようなことはしてはいけません。
「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。
」
新改訳聖書 ローマ人への手紙13章14節
サムエル記第二15〜19章で、ダビテは自分の罪ゆえに、続けて悲しい刈り取りをしています。
「今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。」
主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。
あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。」」
新改訳聖書 サムエル記第二12章10〜12節
それでも、私たちの神は私たちが罪の告白をするのであれば、豊かに罪の赦しを与えているのです。
神は私たちの悲しい罪の結果という仲裁によって、私たちの聖さを壊そうとしているのではありません。
I、王子の反逆(15章1〜12節)
この結末を知るために13、14章を読んでください。
アブシャロムの美しい妹タマルは、アブシャロムの腹違いの兄弟アムノンによって、汚されました。
アムノはダビテにとって長男です。
「ヘブロンでダビデに子どもが生まれた。長子はイズレエル人アヒノアムによるアムノン。
」
新改訳聖書 サムエル記第二3章2節
ダビテはテ・シェバと不適切な関係を持ち、今、同じことがダビテの家に入ってきたのです。
アブシャロムはアムノンが何をしたかを、知った時、心の中に二つの目的を持ちました。
一つはアブシャロムはアムノンを殺し、タマルの復習をしたかったのです。
そして、同時にアムノンの持つ、受け継ぐべき王座を自分のところへ持って来たかったのです。
それはダビテが自分の家族に、何も訓戒して来なかった結果のように見えます。
13章21節で、私たちはダビテの怒りを見ることができます。
「ダビデ王は、事の一部始終を聞いて激しく怒った。
」
新改訳聖書 サムエル記第二13章21節
そして、私たちはダビテが適切な時に何もしていなかったことも知ります。
おそらく、ダビテの記憶の中にある、罪の意識がダビテ自信をとがめさせたのでしょう。
アブシャロムは心の中にある問題を実行に移し、アムノンを殺しました。
そして、自分の母と親戚から、身を隠すために異邦人の領地に逃げ込みました。
14章を読むならば、ヨアブはダビテをだまし、アブシャロムのために願い出て、自分がってな息子を家に帰らせました。
その後、アブシャロムはわずかな時間で自分に忠実なものたちを建て上げたのです。
アブシャロムは大胆に、自分の父のやり方を非難し、ひさかに民の心を盗んだのです。
4年間の間に、アブシャロムは十分に危険な反乱者たちを引き連れていたのです。
ダビテの相談役であるアヒトフェルが反乱軍の側についたことは驚くべきことではありません。
アヒトフェルはバテシェバのおじにあたります。
ダビテはバテシェバをむりやり取りました。
人ははアブシャロムが成功し、アブシャロムの父、ダビテの王位を盗んだように見えたでしょう。
II、民の反応(15章13節〜16章23節)
ダビテが力を持って支配している反面、ダビテの敵は現実にはまだ、ダビテに反抗はしていませんでした。
しかし、アブシャロムは、反抗する最高の時を、ダビテの敵に与え、王位を取り去ったように見せました。
しかし、それは本物と偽りを振り分けるためにふるいにかける時となったのです。
ダビテの友たち(15章13〜37節)
エルサレムを離れることはダビテにとって賢い選択でした。
エルサレムの宮殿にいる者たちを囚人として捕まえるには多くの力が必要だったからです。
ダビテの軍隊の中の、異邦人たちはガテ人イタイによって導かれました。
異邦人たちは自分たちの王に忠実だった事に注意してください。
疑うことも無く、ダビテが数年間の逃亡生活において、これらの人たちはともに試みを受けた、ともに立った人たちです。
二人の祭司、ツァドクとエブヤタルはともに、王ダビテに従い始めましたが、ダビテは彼らにエルサレムに帰らせました。
この行為自身、信仰による歩みでした。
ダビテが神に信頼し、ダビテに勝利を与え、ダビテが王座に帰ることを信じていたゆえです。
ダビテはエリの子供たちの犯した失敗を犯してはいません。
エリの子供たちは軽率にも、契約の箱を戦場へと持って行ったのです。
サムエル記第一4、5章参照
ダビテは祭司と契約の箱をエルサレムに返しました。
もちろん、祭司たちはダビテのスパイとなり、彼らの息子たちは情報をもたらせました。
フシャイも同様にエルサレムに送られ、アブシャロムと同盟を結んでいるふりをしました。
しかし、フシャイの助言はアヒトフェルゆえに、変えられたのでしょう。
ダビテのダビテの小さな軍隊がエルサレムから逃げ出し、キデロン川を渡って風景はなんとも悲しい描写ではないでしょうか!
それは私たちの主がエルサレムから離れ、拒まれて、キデロン川を渡り、園において祈っている様子を思い出させます。
「イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこにはいられた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書18章1節
イエスを裏切ったユダは、ダビテの場合、まさに「アヒトフェル」ではないでしょうか!
おそらく。詩篇55編12〜15節はこの時に書かれたものでしょう。
「まことに、私をそしる者が敵ではありません。それなら私は忍べたでしょう。私に向かって高ぶる者が私を憎む者ではありません。それなら私は、彼から身を隠したでしょう。
そうではなくて、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえが。
私たちは、いっしょに仲良く語り合い、神の家に群れといっしょに歩いて行ったのに。
死が、彼らをつかめばよい。彼らが生きたまま、よみに下るがよい。悪が、彼らの住まいの中、彼らのただ中にあるから。
」
新改訳聖書 詩篇55編12〜15節
詩篇3、4編はこの反乱の間の出来事によって構成されているのでしょう。
この時、ダビテは信仰を持っていたことがわかります。
B、ダビテの敵たち(16章)
この反乱の時は、暴露される時でもあります。
あなたはどんな人たちが実際に信仰を持ち、どこにいるのかを見る事ができます。
ツィバはメフィボシェテのことをダビテにうそをついたのです。
ダビテの判断はあまりにも早すぎました。
「サウルの子メフィボシェテは、王を迎えに下って来た。彼は、王が出て行った日から無事に帰って来た日まで、自分の足の手入れもせず、爪も切らず、ひげもそらず、着物も洗っていなかった。
彼が王を迎えにエルサレムから来たとき、王は彼に言った。「メフィボシェテよ。あなたはなぜ、私といっしょに来なかったのか。」
彼は答えた。「王さま。私の家来が、私を欺いたのです。このしもべは『私のろばに鞍をつけ、それに乗って、王といっしょに行こう。』と思ったのです。しもべは足なえですから。
ところが彼は、このしもべのことを、王さまに中傷しました。しかし、王さまは、神の使いのような方です。あなたのお気に召すようにしてください。
王は彼に言った。「あなたはなぜ、自分の弁解をくり返しているのか。私は決めている。あなたとツィバとで、地所を分けなければならない。」
メフィボシェテは王に言った。「王さまが無事に王宮に帰られて後なら、彼が全部でも取ってよいのです。」」
新改訳聖書 サムエル記第二19章24〜30節
シムイはサウルの一族と関係があり、大胆にもダビテへの憎しみを現しました。
この試みにあって、ダビテの忍耐はすばらしいものでした。
ダビテは正しい時に主がシムイに復習してくださることを知っていました。
アビシャイは単に人の頭を切り落としたかったのです。
しかし、ダビテは彼を止めています。
主の弟子たちにも見られるものです。
「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」」
新改訳聖書 ルカの福音書9章54節
しかし、ダビテは主のように忍耐されたのです。
「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一2章23節
単に、ダビテは荒野においてのみ、辱められたのはなく、自分の宮殿に戻っても同様に辱めを受けました。
アヒトフェルはアブシャロムに助言し、ダビテのめかけたちを自分自身のために、大胆に父にはずかしめを負わせたのです。
これは12章11、12節の預言の成就です。
「主はこう仰せられる。「聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。
あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。」」
新改訳聖書 サムエル記第二12章11、12節
私たちの主は人々に拒まれ、侮辱を受けました。
まさに、ダビテが反乱の時に味わったものと同じです。
王に対して、忠誠を誓うことは勇気のいることです。
しかし、私たちの主が来られる時、その忠誠に必ず報いてくださることを私たちは確信しています。
III.主の報い(17〜19章)
神はダビテの罪の結果である、その報いの代価として、この反乱を許しました。
この罪はダビテがウリアとバテ・シェバに対して行ったものです。
神はダビテの王国を清めるためにこの出来事を支配し、不忠実な者と忠実な者を分けたのです。
ついにその清算すべき日がやって来ました。
神の裁きが突然、すぐにやって来ることがあります。
その反面、神はゆっくりと待って、事を行うこともあります。
A、アヒトフェルの死(17章)
アヒトフェルの計画は二つの計画のうち、よい計画だったのは間違いありません。
しかし、アブシャロムがその計画を拒むことを知っていました。
アブシャロム自身が戦場で軍隊を導くように提案したのは、フシャイの心理学的アプローチであることに注意してください。
このアプローチは人間のうぬぼれに対してされたのです。
しかし、このうぬぼれはついに、アブシャロムを死へと導いたのです。
アヒトフェルは自分の助言が拒まれるのを見た時、アヒトフェルは自分の命を捨てました。
これは新約聖書の中でキリストの体験したものと比べることができます。
ユダは出て行って、自分で木にかかりました。
B、アブシャロムの死(18章1節〜19章15節)
このうぬぼれた王子はフシャイのアドバイスに従い、エフライムの森へと自分の軍隊を導きいれました。
確かに、アブシャロムは戦争を遂行する力など持っていませんでした。
箴言16章18節にはこのように書かれています。
「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。
」
新改訳聖書 箴言16章18節
アブシャロムは自分の頭と長い髪を木の枝に引っ掛けてしまい、降りてくることができなくなりました。
「さて、イスラエルのどこにも、アブシャロムほど、その美しさをほめはやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで彼には非の打ちどころがなかった。
彼が頭を刈るとき、――毎年、年の終わりには、それが重いので刈っていた。――その髪の毛を量ると、王のはかりで二百シェケルもあった。」
新改訳聖書 サムエル記第二14章25、26節
また、ヨブ記20章1〜7節でこのように言われています。
「そこでナアマ人ツォファルは答えて言った。
それで、いらだつ思いが私に答えを促し、そのため、私は心あせる。
私の侮辱となる訓戒を聞いて、私の悟りの霊が私に答えさせる。
あなたはこのことを知っているはずだ。昔から、地の上に人が置かれてから、悪者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみはつかのまだ。
彼は自分の糞のようにとこしえに滅びる。彼を見たことのある者たちは言う。彼はどこにいるのかと」
新改訳聖書 ヨブ記20章1〜7節
また、ヨアブはダビテの命令に聞き従わず、反乱者を殺しました。
「王はヨアブ、アビシャイ、イタイに命じて言った。「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ。」民はみな、王が隊長たち全部にアブシャロムのことについて命じているのを聞いていた。
」
新改訳聖書 サムエル記第二18章5節
ヨアブは王ダビテのところへ、使いに知らせを持たせました。
ダビテがその知らせを聞いたとき、ダビテは激しく泣いたのです。
ダビテは神のこころを持つ者です。
邪悪な者の死を、決して喜びません。
「彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。神である主の御告げ。
わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」
新改訳聖書 エゼキエル書33章11節
ダビテの悲しみは普通ではありません。
それはこれらの出来事を通して、ダビテは支配する多くのものを失ったからです。
C、シムイへの恩赦(19章16〜23節)
ダビテの王国が戻って来た時、多くの反乱者たちがダビテに帰ろうと試みました。
ダビテはばらばらになった、王国を元に戻そうと試みました。
ダビテはいくつかの部族に気を払う余裕などありませんでした。
しかし、後にソロモンがシムイに報いを与えています。
「王はエホヤダの子ベナヤに命じた。彼は出て行って、シムイを打ち取った。こうして、王国はソロモンによって確立した。」
新改訳聖書 列王記第一2章46節
D、ツィバとメフィボシェテの和解(19章24〜30節)
ツィバがシムイの仲間にのところへ着いた時のことを良い事として話されていません。
「バフリムの出のベニヤミン人、ゲラの子シムイは、ダビデ王を迎えようと、急いでユダの人々といっしょに下って来た。
彼は千人のベニヤミン人を連れていた。サウル家の若い者ツィバも、十五人の息子、二十人のしもべを連れて、王が渡る前にヨルダン川に駆けつけた。
」
新改訳聖書 サムエル記第二19章16、17節
確かに、ツィバは自分の主人に嘘をつきました。
そして、ダビテは公平な裁きをしようと考えていました。
残念なことに、ツィバの軽率な決断をし、決断する前にこの問題の解決を難しくしてしまいました。
しかし、ダビテの態度に感謝することができます。
私たちは王の不在を心配した良い実例をメフィボシェテの中に見ることができます。
E、バルジライは報いを受けます。
(19章31節〜43節)
バルジライはダビテの仲間が困った時に、ダビテの仲間を助けました。
「ダビデがマハナイムに来たとき、アモン人でラバの出のナハシュの子ショビと、ロ・デバルの出のアミエルの子マキルと、ログリムの出のギルアデ人バルジライとは、寝台、鉢、土器、小麦、大麦、小麦粉、炒り麦、そら豆、レンズ豆、炒り麦、蜂蜜、凝乳、羊、牛酪を、ダビデとその一行の食糧として持って来た。彼らは民が荒野で飢えて疲れ、渇いていると思ったからである。
」
新改訳聖書 サムエル記第二17章27〜29節
この親切な行為は疑うことなく、多くの友人たちをも犠牲にしたでしょう。
しかし、バルジライのすばらしい行為は王が帰って来た時に報いを受けます。
バルジライは家を離れることを願っていたのではありません。
また、バルジライは愛しているものから離れたくもありません。
バルジライはキムハム(おそらく、息子か、孫)が祝福を受けることを望みました。
エレミヤ書41章17節には、ダビテがキムハムにベツレヘムの近くの土地を与えたと私たちに語っています。
キムハムの家族はそこに長い間、住んだのです。
「エジプトに行こうとして、ベツレヘムのかたわらにあるゲルテ・キムハムへ行って、そこにとどまった。」
新改訳聖書 エレミヤ書41章17節
ダビテの拒絶と帰還という全体のエピソードは、今日において。確かにキリストの御前にあるクリスチャンたちの態度を描写しています。
そこには王が不在の間、忠実だったわずかな者たちの姿を見ることができます。
そして、同時に反乱を好む、利己主義な多くの人たちをも見ることができます。
しかし、王が帰って来た時、何が起きたでしょうか?
そして、私たちにとって。キリストの帰還を早めるために、キリストに従う者たちは何をすればよいのでしょうか?
「そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
」
新改訳聖書 ペテロの手第二紙3章12節
サムエル記第二24章
あなたは歴代志第一21章を読みたくなるでしょう。
ダビテの生涯におけるこの大きな罪についてのたとえ話が説明されています。
ここでは神の許しのもとに悪魔が働いてもう一つの実例があります。
この神の許しは主の目的が成就されるために行われるのです。
ルカの福音書22章31〜34節を見てください。
「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
新改訳聖書 ルカの福音書22章31〜34節
I、罪(24章1〜9節)
ダビテがイスラエルの国の人口調査をしようとするその影にはどのような欲望があるのでしょうか?
おそらく、ダビテのプライドでしょう。
ダビテは大きな戦いにおいて、たくさんの勝利を得てきました。
(歴代志第一18〜20章を参照してください。)
そうです。
おそらく、ダビテは成功してきた栄光に浸りたかったです。
たしかに、イスラエルの国の人口調査には何も悪いことはありません。
イスラエルの歴史において、何度も人口調査がなされてきました。
しかし、私たちには覚えなければならないことがあります。
それはこの人口調査をするということは、神の栄光ではなく、人間の栄光に帰するということです。
別の要因について、考えて見ましょう。
出エジプト記30章11〜16節にはこのようにあります。
「主はモーセに告げて仰せられた。
「あなたがイスラエル人の登録のため、人口調査をするとき、その登録にあたり、各人は自分自身の贖い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録によって、彼らにわざわいが起こらないためである。
登録される者はみな、聖所のシェケルで半シェケルを払わなければならない。一シェケルは二十ゲラであって、おのおの半シェケルを主への奉納物とする。
二十歳、またそれ以上の者で登録される者はみな、主にこの奉納物を納めなければならない。
あなたがた自身を贖うために、主に奉納物を納めるとき、富んだ者も半シェケルより多く払ってはならず、貧しい者もそれより少なく払ってはならない。
イスラエル人から、贖いの銀を受け取ったなら、それは会見の天幕の用に当てる。これは、あなたがた自身の贖いのために、主の前で、イスラエル人のための記念となる。」
」
新改訳聖書 出エジプト記30章11〜16節
これらの人口調査には「贖いの銀」の問題において、つながりがあります。
それぞれの者は収めました。
それは、主が代価を払って、民は主の所有となったからです。
出エジプト記30章12節は購いの銀を収めることを無視するのならば、神はこの国を悩ますという警告がありました。
まさに、そのことが起きたのです。
神はダビテに、ダビテに思いとやろうとしていることを避けるために、およそ10ヶ月という時間を与えました。
「こうして彼らは全土を行き巡り、九か月と二十日の後にエルサレムに帰って来た。」
新改訳聖書 サムエル記第二24章8節
神はさらに、ダビテのやる気をなくさせるために、相談役としてヨアブを使いました。
しかし、ダビテは聞こうとはしません。
神の子供が聞くことに頑固になり、自分の道を主張することは非常に悪いことです。
ダビテの罪は軽率なものではありません。
ダビテはさりげなく、実行に移しましたが、じつに細かく計算されたものでした。
単に、ダビテは神に反抗していたのです。
ここに、この罪とバテ・シェバに関連した罪を一連の興味深い比較をすることができます。
(1)この罪はプライドという罪であり、バテ・シェバとの罪は肉の罪です。
(2)ここでダビテは執着して、罪を行い続けています。
しかし、バテ・シェバとの罪は肉の欲によって、突然、覆われる結果になりました。
(3)この罪は国に関することであり、7万人の民が死にました。
バテ・シェバとの罪はダビテの家族に関する罪であり、4人の人が死にました。
(4)また、この両方の罪はともに、神によって悔い改めの時が与えられていました。
神はダビテの悔い改めをずっと待っていたのです。
私たちはプライドを持ったり、神のみことばに対して反逆しようと考えてはいけません。
それは激しい罪です。
しかし、ダビテの生涯において、バテ・シェバとの関係における罪よりも、大きな悲しみと悲劇になりました。
私たちは肉とプライドの罪に気を払わなければなりません。
「ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。また、弁明、憤り、恐れ、慕う心、熱意を起こさせ、処罰を断行させたことでしょう。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二7章1節
II、苦しみ(20章10〜17節)
「罪から来る報酬は死です。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙6章23節
ダビテが裁きが来る前に、ダビテの思いの中で確信したことに注意してください。
ダビテは確かに、自分と主に対して素直でした。
しかし、罪を確信し、悔い改めるのに時間が掛かり過ぎたのです。
12章13節でダビテはこのように言っています。
「私は主に対して罪を犯した。」
新改訳聖書 サムエル記第二12章13節
しかし、ここでダビテあこのように言っています。
「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。」
新改訳聖書 サムエル記第二24章10節
人間の目から見るのであれば、姦淫と人殺しの罪よりも、民を数えたという罪の方が軽いように見えます。
しかし、神の目から見るのであれば、不従順と重要性の点において、民を数えるという罪の方が重たいのです。
イエスがこの地上にいた時、収税人と罪人に対して寛大でしたが、プライドを持つ者と反逆する者たちを激しく取り扱いました。
確かに、罪は肉にも、霊にも属していて、ともに悪です。
そして、人はそのどちらにも属そうとはしません。
しかし、私たちはプライドと頑固な不従順の恐ろしい結果に対して、あえて過小評価などしません。
神はダビテが学ぶ道を選び、それを許したのです。
そして、神はその選択を通して、神の思いと哀れみを示したのです。
(13節にある7年の飢饉はその他の二つの裁き、つまり三ヶ月、そして、三日と比較するのなら、おそらく3年が正しいのではないでしょうか。
おそらく、写本のミスによって記されたのではないでしょうか。
70人訳、及び、歴代史第一31章12節では3年です。)
ダビテは人間の手によって裁かれるよりは、哀れみある主の手によって裁かれる方を選びました。
朝早く、神の御使いは民を疫病で打ち始めました。
御使いは7万人の人々を疫病で打ち殺しました。
そして、ダビテは夕方にささげ物を捧げたのです。
ダビテと長老たちは裁きをしている御使いを見ました。
ダビテはすぐに民のために、仲介を願いました。
ダビテはこのように叫んだのです。
「この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。
どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。」
新改訳聖書 サムエル記第二24章17節
神はこの国全体に対して、決められた裁きをしていることを私たちは思い出さなければなりません。
「さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。」
新改訳聖書 サムエル記第二24章1節
神は民を裁く機会を得るために、ダビテの罪を利用したのです。
おそらく、イスラエルの多くの者がアブシャロムに従い、ダビテに反抗したゆえに、神はこの国を裁こうとしたのでしょう。
ここに、権威ある者として、高い権威を持つ者して、良きも、悪くも、影響力を持つ者として、実際的な警告を与えているのです。
レビ記4章において、もし、大祭司が罪を犯して、雄の子牛をささげます。
「もし油そそがれた祭司が、罪を犯して、民に罪過をもたらすなら、その人は、自分の犯した罪のために、傷のない若い雄牛を、罪のためのいけにえとして主にささげなければならない。
」
新改訳聖書 レビ記4章3節
しかし、この会衆全体が罪を犯しても、同じささげ物を捧げるのです。
「また、もしイスラエルの全会衆があやまちを犯した場合、集団はそのことに気づかなくても、主がするなと命じられたことの一つでも行なって、罪に定められる場合には、彼らが犯したその罪が明らかになったときに、集団は罪のためのいけにえとして若い雄牛をささげ、会見の天幕の前にそれを連れて来なさい。
」
新改訳聖書 レビ記4章13、14節
ダビテの罪はその時代において、国全体としての罪が含まれていました。
まさに、「私の一家」と叫んだように、ダビテの家族全体の罪でもあるのです。
III、ささげ物(24章18〜25節)
その裁きを止めた二つの要因があります。
一つは主の哀れみです。
「御使いが、エルサレムに手を伸べて、これを滅ぼそうとしたとき、主はわざわいを下すことを思い直し、民を滅ぼしている御使いに仰せられた。「もう十分だ。あなたの手を引け。」主の使いは、エブス人アラウナの打ち場のかたわらにいた。
」
新改訳聖書 サムエル記第二24章16節
もう一つは、罪人の告白とささげ物です。
「この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。
どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。」
新改訳聖書 サムエル記第二24章17節
神は祭壇を建てるためにメッセージをしもべに送りました。
ダビテはエブス人アラウナの打ち場のかたわらで御使いを見て、その場所に祭壇を建てたのです。
ダビテと長老たちは行ってすぐにその土地を購入しました。
歴代史第一21章25節を見るのなら、その場所全体を購入するのに、ダビテは金600シュケルを払ったことが分かります。
「そしてダビデは、その地所代として、金のシェケルで重さ六百シェケルに当たるものを、オルナンに与えた。」
新改訳聖書 歴代史第一21章25節
サムエル記第二24章24節に書かれている、50シュケルの銀は「打ち場と牛」を買うために支払ったものです。
「しかし王はアラウナに言った。「いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。」そしてダビデは、打ち場と牛とを銀五十シェケルで買った。」
新改訳聖書 サムエル記第二24章24節
オルナンは惜しげもなく、王のためにそのずべてを与えようとしました。
しかし、ダビテはそれを受け取ろうとはしません。
もし、ダビテがそれを受け取って捧げたのであれば、他人の物を捧げたことになり、ダビテが捧げたことにはなりません。
安物のささげ物はささげ物をしないよりも悪いのです。
これはクリスチャンの歩みをしようとする私たちに良き原則となります。
ダビテはすぐに、主への全焼のいけにえと血を注ぎ、罪のためのいけにえを捧げました。
歴代史第二3章1節を見るならば、この場所がソロモンの神殿の場所になったことが私たちに知らされています。
「こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現わされた所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。」
新改訳聖書 歴代史第二3章1節
神は災いを祝福に変えることが可能です。
また、ソロモンがバテ・シェバから生まれたことを注意して見るならば面白いことです。
バテ・シェバはダビテと不自然な関係における罪を犯しました。
そして、ソロモンは次の王になり、ダビテが民の数を数えたという大きな罪を犯した場所を平和の土台として、実際に神殿を建てたのです。
このように神の驚くべき恵みの働きがあります。
私たちはローマ人への手紙3章8節に書いてあるように言うべきではありません。
「「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章8節
しかし私たちはローマ人への手紙8章28節に書いてあるように確信し、安らぐことができます。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章28節
この章から私たちはいくつかの実際的なレッスンを学ぶことができます。
A、私たちは決して誘惑を内側に秘め、大きくさせてはいけません。
ダビテがこの罪を起こした時、彼は未熟な若者ではなかったのです。
ダビテは見て、祈りました。
ダビテは簡単に誘惑と罪の中に入ったわけではありません。
B、恵み深い神はダビテに悔い改めの時を与えました。
神はダビテに9ヶ月以上、どのように自分の罪を扱うのか、そして、この問題をどのように正しく扱うべきか、考える時を与えたのです。
ダビテは主のみこころを求め、ダビテは見つけてのです。」
C、霊の罪は大きな損害を与えます。
どんな罪であろうと邪悪なものには変わりなく、避けるべきです。
しかしながら、最も大きな問題とは、聖書が繰り返して頑固なプライドに対して警告していることを、私たちは理解しなければなりません。
ダビテは邪悪な道を歩みました、
しかし、その道から帰ってくることをダビテのプライドが許さなかったのです。
ダビテの前任者、サウルも同じ間違いを犯しました。
私たちは、おそらく、人殺しでもなく、姦淫するものでもありません。
しかし、おそらく、頑なな心とプライドは私たちを大きな悪へと導くのです。
D、私たちの罪は他の7万人の人たちを巻き添えにするのです。
ダビテが主に不従順だったゆえに、彼らは死んだのです。
E、告白は高くつくというのは本当のことでしょう。
私たちは罪を犯すということが高くつくということを理解しなければなりません。
また、真実な告白とは容易い祈り以上の力があります。
ヨハネの手紙第一1章9節にこのように書かれています。
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一1章9節
真実な告白とは罪を素直に認めるということが含まれています。
神のみことばに従い、私たちは報いなしに代価を支払わなければなりません。
F、神は赦し、祝福に導きます。
私たちは私たち自身を主の御手の中に置こうではありませんか!
その偉大さは私たちに向けられた神の哀れみです。
2004/7/30終了