メッセージAJ 2004/9/13
列王記 注解 by ウォーレン.W.ワーズビー
(FROM Notes to the Historical Books)
列王記第一
(1〜4章)
今、私たちはソロモンの生涯とその支配について、学び始めようとしています。
ソロモンはダビテの息子であり、イスラエルの王座を継承した者です。
ダビテの受けた屈辱、逃亡、そして、拒否はまさにキリストの型であることを私たちは知っています。
しかし、私たちはソロモンが平和の君主として見ることができます。
ソロモンの名前に意味は平和的という意味です。
ソロモンはイスラエルの民を栄光と栄華をもって支配したのです。
ダビテはソロモンが平和をもって生き、支配し、そして、大いに繁栄する、その土台を築き上げたのです。
I、ソロモンは神のみことばの成就です。
この時、ダビテは王としての勤めを果たすことができなくなりました。
ダビテの息子アドニアがそのような状況を利用して、自分こそがイスラエルの王であると宣言しました。
「私が王になろう。」
新改訳聖書 列王記第一1章5節
しかし、その間に神はダビテの後継者として、ソロモンを任命していました。
「彼女は答えた。「わが君。あなたは、あなたの神、主にかけて「必ず、あなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私の王座に着く。」と、このはしためにお誓いになりました。
」
新改訳聖書 列王記第一1章17節
「あるとき、ハギテの子アドニヤがソロモンの母バテ・シェバのところにやって来た。彼女は、「平和なことで来たのですか。」と尋ねた。彼は、「平和なことです。」と答えて、さらに言った。「あなたにお話ししたいことがあるのですが。」すると彼女は言った。「話してごらんなさい。」
彼は言った。「ご存じのように、王位は私のものであるはずですし、すべてのイスラエルは私が王となるのを期待していました。それなのに、王位は転じて、私の弟のものとなりました。主によって彼のものとなったからです。
」
新改訳聖書 列王記第一2章13〜15節
アドニアは故意に神のみこころに反抗していたのです。
悲しいことに、ダビテの親しい相談役も邪悪な策略に落ちてしまいました。
その中にはダビテがかつて、相談役から降ろそうとしたヨアブと祭司エブヤタルも含まれています。
「ダビデ王は祭司ツァドクとエブヤタルに人をやって言わせた。「ユダの長老たちにこう言って告げなさい。「全イスラエルの言っていることが、ここの家にいる王の耳に届いたのに、あなたがたは、なぜ王をその王宮に連れ戻すのをためらっているのか。
あなたがたは、私の兄弟、私の骨肉だ。それなのに、なぜ王を連れ戻すのをためらっているのか。」
またアマサにも言わなければならない。
「あなたは、私の骨肉ではないか。もしあなたが、ヨアブに代わってこれからいつまでも、私の将軍にならないなら、神がこの私を幾重にも罰せられるように。」」
こうしてダビデは、すべてのユダの人々を、あたかもひとりの人の心のように自分になびかせた。ユダの人々は王のもとに人をやって、「あなたも、あなたの家来たちもみな、お帰りください。」と言った。
そこで王は帰途につき、ヨルダン川に着くと、ユダの人々は、王を迎えてヨルダン川を渡らせるためにギルガルに来た。
」
新改訳聖書 サムエル記第二19章11〜15節
「さて、王はアマサに言った。「私のために、ユダの人々を三日のうちに召集し、あなたも、ここに帰って来なさい。」
そこでアマサは、ユダの人々を召集するために出て行ったが、指定された期限に間に合わなかった。
ダビデはアビシャイに言った。「今や、ビクリの子シェバは、アブシャロムよりも、もっとひどいわざわいを、われわれにしかけるに違いない。あなたは、私の家来を引き連れて彼を追いなさい。でないと彼は城壁のある町にはいって、のがれてしまうだろう。」
それで、ヨアブの部下と、ケレテ人と、ペレテ人と、すべての勇士たちとは、アビシャイのあとに続いて出て行った。彼らはエルサレムを出て、ビクリの子シェバのあとを追った。
彼らがギブオンにある大きな石のそばに来たとき、アマサが彼らの前にやって来た。ヨアブは自分のよろいを身に着け、さやに納めた剣を腰の上に帯で結びつけていた。彼が進み出ると、剣が落ちた。
ヨアブはアマサに、「兄弟。おまえは元気か。」と言って、アマサに口づけしようとして、右手でアマサのひげをつかんだ。
アマサはヨアブの手にある剣に気をつけていなかった。ヨアブが彼の下腹を刺したので、はらわたが地面に流れ出た。この一突きでアマサは死んだ。それからヨアブとその兄弟アビシャイは、ビクリの子シェバのあとを追った。
そのとき、ヨアブに仕える若い者のひとりがアマサのそばに立って言った。「ヨアブにつく者、ダビデに味方する者は、ヨアブに従え。」
アマサは大路の真中で、血まみれになってころがっていた。この若い者は、民がみな立ち止まるのを見て、アマサを大路から野原に運んだ。そのかたわらを通る者がみな、立ち止まるのを見ると、彼の上に着物を掛けた。
アマサが大路から移されると、みなヨアブのあとについて進み、ビクリの子シェバを追った。」
新改訳聖書 サムエル記第二20章4〜13節
この不忠実な王子はアブシャロムの礼に従って、戦車を準備し、イスラエルの民に印象づけようと試みました。
「その後、アブシャロムは自分のために戦車と馬、それに自分の前を走る者五十人を手に入れた。」
新改訳聖書 サムエル記第二15章1節
しかし、三人の忠実なしもべたちはこの問題を把握し、バテ・シェバに伝えました。
バテ・シェバはすぐに、ダビテ王にこのメッセージを伝えました。
ダビテ王は次の王が、バテ・シェバの子、ソロモンになるという誓いが変えられないことを理解していました。
この全体の計画が滑らかに進み、ダビテはとてもはっきりと、すぐに、ソロモンが王座につくことを願いました。
ツァドク、ナタンとバテ・シェバはソロモンを王の雌騾馬に乗せ、
ソロモンこそがイスラエルの新しい王であると宣言しました。
40節を見るならば、イスラエルの民によって大きな喜びが伝えられる知らせがあったことがわかります。
「民はみな、彼のあとに従って上って来た。民が笛を吹き鳴らしながら、大いに喜んで歌ったので、地がその声で裂けた。」
新改訳聖書 列王記第一1章40節
しかしながら、アドニアとその知らせを支持しない者たちはその知らせを聞き、恐れの中に放り込まれました。
なぜなら、彼らの反逆はすでに、知られていたからです。
反逆の王子はすぐに自分の身を守るために神の祭壇へと走って行きました。
ソロモンが自分を殺さないと約束を得るためです。
多くの邪悪な者たちが自分のこころに悔い改めを持たないままで、神の御元に逃げ込んで行くのではないでしょうか!
II、ソロモンは神の怒りを実行に移します。
A、ダビテの最後の相談役
(1〜11節)
歴代史第一22〜29章を見てください。
ダビテは政治に対して、霊的な力を強調しました。
ダビテはソロモンが主の道を歩んでほしいと願っていたからです。
ダビテはソロモンに律法を学び、従うように警告しました。
申命記17章14〜20節、ヨシュア記1章8節を見てください。
「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。」と言うなら、
あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。
王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。「二度とこの道を帰ってはならない。」と主はあなたがたに言われた。
多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。
彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、
自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。
それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。」
新改訳聖書 申命記17章14〜20節
「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。
」
新改訳聖書 ヨシュア記1章8節
神はソロモンについて、すばらしい約束を与えました。
「今、わたしのしもべダビデにこう言え。万軍の主はこう仰せられる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場からとり、わたしの民イスラエルの君主とした。
そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにおり、あなたの前であなたのすべての敵を断ち滅ぼした。わたしは地上の大いなる者の名に等しい大いなる名をあなたに与える。
わたしが、わたしの民イスラエルのために一つの場所を定め、民を住みつかせ、民がその所に住むなら、もはや民は恐れおののくことはない。不正な者たちも、初めのころのように重ねて民を苦しめることはない。
それは、わたしが、わたしの民イスラエルの上にさばきつかさを任命したころのことである。わたしはあなたをすべての敵から守って、安息を与える。さらに主はあなたに告げる。「主はあなたのために一つの家を造る。」
あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。
しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。
あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」
ナタンはこれらすべてのことばと、これらすべての幻とを、そのままダビデに告げた。」
新改訳聖書 サムエル記第二7章8〜17節
しかし、ソロモンが信仰と従順から離れ、これらの約束を成就することはありませんでした。
また、ダビテはソロモンに敵対する者たちとソロモンを助ける友人たちを覚えていました。
B、アドニアに対するさばき
(12〜25節)
アドニアは自分にいるべき場所を忘れてしまいました。
アドニアは生きることができました。
しかし、彼は頑固にも拒んで、自分を主張していたのです。
ダビテのものは、すべてソロモンの権限へと移されていたのに、ダビテの最後の妻、アビシャグに対してアドニアは軽率な主張をしました。
「ダビデ王は年を重ねて老人になっていた。それで夜着をいくら着せても暖まらなかった。
そこで、彼の家来たちは彼に言った。「王さまのためにひとりの若い処女を捜して来て、王さまにはべらせ、王さまの世話をさせ、あなたのふところに寝させ、王さまを暖めるようにいたしましょう。」
こうして、彼らは、イスラエルの国中に美しい娘を捜し求め、シュネム人の女アビシャグを見つけて、王のもとに連れて来た。
この娘は非常に美しかった。彼女は王の世話をするようになり、彼に仕えたが、王は彼女を知ろうとしなかった。
」
新改訳聖書 列王記第一1章1〜4節
ダビテのものは、すべてソロモンの権限へと移されていたのに、
バテ・シェバはこの出来事において、罪のない存在のように思われます。
しかし、ソロモンはこの兄弟の要求には危険な要素が含まれていることを理解していました。
また、この裏切りにはエブヤタルとヨアブも関連していることもソロモンははっきりと理解していました。
「ソロモン王は母に答えて言った。「なぜ、あなたはアドニヤのためにシュネム人の女アビシャグを求めるのですか。彼は私の兄ですから、彼のために、王位を求めたほうがよいのではありませんか。彼のためにも祭司エブヤタルやツェルヤの子ヨアブのためにも。」
新改訳聖書 列王記第一2章22節
アドニアは行き過ぎて、死んだのです。
C、エブヤタルとヨアブへのさばき
(22〜35節)
ソロモンは祭司エブヤタルを殺さずに栄誉を与えました。
しかし、ソロモンは彼をその職務から外しました。
これはサムエル記第一2章30〜36節に記されたことの成就です。
ヨアブは友が逃げたことを聞いた時、自分にさばきがすぐに来ることを知りました。
彼はアドニアの様に自分を守るために祭壇へと逃げました。
ヨアブはさまざまな人を殺してきた邪悪な人物です。
彼は自分の罪の代価を払ったのです。
ベナヤは軍の新しい将軍となり、ツァドクは大祭司になりました。
ベナヤが祭司にだったことは注意すべき興味ある事です。
彼は将軍に戻ったのです。
「第三の月、第三軍団の長は祭司エホヤダの子ベナヤ。」
新改訳聖書 歴代史第一27章5節
D、シムイのさばき
シムイはダビテがアブシャロムから逃げている時にダビテを呪った男です。
「ダビデ王がバフリムまで来ると、ちょうど、サウルの家の一族のひとりが、そこから出て来た。その名はシムイといってゲラの子で、盛んにのろいのことばを吐きながら出て来た。
」
新改訳聖書 サムエル記第二16章5節
ソロモンはシムイにエルサレムに残るように命令しました。
そこソロモンはシムイが受けるべきさばきより、哀れみに満ちた宣告を下しました。。
シムイはどのような状態であったにしろ、王に不従順になり、王をののしったのは事実です。
これは彼の人生において、大きな負担になりました。
最後にあるソロモンのさばきは残酷のように見えるかもしれません。
しかし、王の敵は主の敵であることを忘れてはいけません。
III、ソロモンは神の知恵を受ける。(3章)
ソロモンはエジプトの王の娘と結婚しました。
これは完全に政治的なものです。
後に、ソロモンは別の異邦人の女性と結婚します。
そして、ソロモンは主に対する礼拝から遠ざかってしまいます。
「ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。
」
新改訳聖書 列王記第一11章1節
しかし、ソロモンの公生涯の初めは、主を真実な愛を持って愛していました。
ソロモンはかつて、その生涯の初めに主の御前を歩んでいたのです。
神はソロモンに、ソロモンに欲しいものを与えるという、素晴らしい特権をお与えになり、ソロモンは知恵と心を理解する力を求めました。
神はその祈りを聞いたのです。
さらに、神は、あらゆるすべての点において、ソロモンを祝福したのです。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
」
新改訳聖書 マタイの福音書6章33節
もちろん、もし、ソロモンがこれらの祝福を楽しむことを望んでいたのでなら、ソロモンはみことばに対して従順に歩んだでしょう。
「そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。
また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう。」
新改訳聖書 列王記第一3章13、14節
ここに二人の母親の訴えがあります。
これは多くのソロモンの知恵を一つに過ぎません。
二人の女性がソロモンの王座に近づいてきたのでは事実です。
ソロモンは多くのイスラエルの民を愛し、彼らに仕えたのです。
私たちにはソロモンの王座よりも優れた王座があり、そこに近づくことができるのです。
これはすべてのクリスチャンに与えられた素晴らしい特権なのです。
「南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。
」
新改訳聖書 マタイの福音書12章42節
そして、クリスチャンには知恵と、すべての必要が与えられるという約束があるのです。
その通り、私たちクリスチャンのすべては世の知恵ではなく、神の知恵により頼んで生きています。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一1章18節
「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。
」
新改訳聖書 ヤコブの手紙3章13節
これはクリスチャンに対する、貴重な真実です。
神は私たちの要求のために備えをしています。
神はソロモンを王にしました。
そして、神は仕えるために必要なものすべてを与えているのです。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
」
新改訳聖書 マタイの福音書6章33節
IV、ソロモンは神の富を楽しみます。(4章)
1〜6節において、私たちはソロモンの持つ高官たちの名前が列記されていることを知ります。
また、7〜19節において、私たちはイスラエルの各地方を守る守護の名前を知ることができます。
サムエルははっきりと王について警告をしています。
まさにその通りになったのです。
サムエル記第一8章10〜18節と申命記17章14〜20節を読んでみてください。
「そこでサムエルは、彼に王を求めるこの民に、主のことばを残らず話した。
そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。
自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。
あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。
あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。
あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。
あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。
あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。
その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」
」
新改訳聖書 サムエル記第一8章10〜18節
「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。」と言うなら、
あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。
王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。「二度とこの道を帰ってはならない。」と主はあなたがたに言われた。
多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。
彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、
自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。
それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。」
新改訳聖書 申命記17章14〜20節
それは国の物質的な繁栄は霊的な繁栄とマッチしていないことが明らかにされています。
数年の間に王国は分けられ、ソロモンの栄華は消えうせてゆきます。
民は飲み食いして楽しんでいました。(4章20節)
しかし、民は主の律法に興味を示していません。
アブラハムのように人は物質的な繁栄を楽しみ、かつ、霊的なこと味わうこともできるでしょう。
しかし、ほとんどの人がそのようではありません。
ソロモンの王国はイスラエルの歴史で、もっとも大きな王国となりました。
「ソロモンは、大河からペリシテ人の地、さらには、エジプトの国境に至るすべての王国を支配した。これらの王国は、ソロモンの一生の間みつぎものを持って来て、彼に仕えた。」
新改訳聖書 列王記第一4章21節
「その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。
」
新改訳聖書 創世記15章18節
この王国はまさに、繁栄と平和の時代でしたが、罪と背教の種が蒔かれた時代でした。
ソロモンは馬をエジプトから得ました。
それはまさに主の律法に対して直接の不従順でした。
「ソロモンは戦車と騎兵を集めたが、戦車一千四百台、騎兵一万二千人が彼のもとに集まった。そこで、彼はこれらを戦車の町々に配置し、また、エルサレムの王のもとにも置いた。
王は銀をエルサレムで石のように用い、杉の木を低地のいちじく桑の木のように大量に用いた。
ソロモンの所有していた馬は、エジプトとケベの輸出品であった。それは王の御用達が代価を払って、ケベから手に入れたものであった。
エジプトから買い上げられ、輸入された戦車は銀六百、馬は銀百五十であった。同様に、ヘテ人のすべての王も、アラムの王たちも、彼らの仲買で輸入した。
」
新改訳聖書 列王記第一10章26〜29節
「王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。「二度とこの道を帰ってはならない。」と主はあなたがたに言われた。」
新改訳聖書 申命記17章16節
ソロモンは多くの妻を得ました。
これも、律法に反していることです。
「ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。
」
新改訳聖書 列王記第一11章1節
「多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。
」
新改訳聖書 申命記17章17節
これらの罪は最後に王国を滅びへと導きました。
あなたは箴言、伝道者の書と雅歌をよく読んでみてください。
ソロモンはあなたが注意して学ばなければならない肉の性質についての最高の教材です。
私たちはソロモンの3000の箴言すべてを経験することはできません。雅歌は私たちにとって単なる歌にしかすぎないでしょう。
はっきりと神が肉の性質を見る神の方法について、多くを学ぶことが出来るかもしれません。
イエスは野のゆり、たね、すずめから、私たちに神について自然のさまざまな事柄を教えています。
そして、イエス・キリストはソロモンより偉大な者なのです。
イエスはソロモンよりも偉大な存在です。
まさに神の御子なのです。
ソロモンの知恵よりも優れた知恵を持っています。
「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙2章3節
ソロモンより優れた富を持っています。
「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ...。」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙1章19節
「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙2章9節
ソロモンは多くの外国の妻たちを得ました。
さらに言うならば、イエスキリストはある日、彼の花嫁、教会と結婚します。
彼の花嫁はあらゆる民族、国民から血をもって贖われた罪人です。
キリストは力と栄光にあって偉大な存在であり、その日、キリストは永遠から永遠に渡って、偉大な王国を支配するのです。
列王記第一5〜8章に渡って、神の約束が成就したことが記録されています。
ソロモンは神の栄光の宮を建設しました。
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。
しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。
あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」
」
新改訳聖書 サムエル記第二7章12〜16節
「彼は言った。「イスラエルの神、主はほむべきかな。主は御口をもって私の父ダビデに語り、御手をもってこれを成し遂げて言われた。
「わたしの民イスラエルを、エジプトから連れ出した日からこのかた、わたしはわたしの名を置く宮を建てるために、イスラエルの全部族のうちのどの町をも選ばなかった。わたしはダビデを選び、わたしの民イスラエルの上に立てた。」
それで私の父ダビデは、イスラエルの神、主の名のために宮を建てることをいつも心がけていた。
ところが、主は、私の父ダビデにこう仰せられた。「あなたは、わたしの名のために宮を建てることを心がけていたために、あなたはよくやった。あなたは確かに、そう心がけていた。
しかし、あなたがその宮を建ててはならない。あなたの腰から出るあなたの子どもが、わたしの名のために宮を建てる。」
主は、お告げになった約束を果たされたので、私は父ダビデに代わって立ち、主の約束どおりイスラエルの王座に着いた。そして、イスラエルの神、主の名のために、この宮を建て、
主の契約が納められている箱のために、そこに一つの場所を設けた。その契約は、主が、私たちの先祖をエジプトの地から連れ出されたときに、彼らと結ばれたものである。」」
新改訳聖書 列王記第一8章15〜21節
これは若い王に対して非常に大きな事業であることは間違いありません。
しかし、主はソロモンに確信を与え、ソロモンは主に信頼しました。
「そのとき、ソロモンに次のような主のことばがあった。
「あなたが建てているこの神殿については、もし、あなたがわたしのおきてに歩み、わたしの定めを行ない、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしがあなたの父ダビデにあなたについて約束したことを成就しよう。
わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」
こうして、ソロモンは神殿を建て、これを完成した。
」
新改訳聖書 列王記第一6章11〜14節
この節と比較できる箇所が歴代史第一22章、歴代史第一7章にあります。
T、準備(5章)
ダビテはこの全事業を始めた人でした。
神はこの事業に承認しましたが、それを明確に実際の働きにしたのはソロモンでした。
ダビテがこの計画を準備したのです。
「ダビデはその子ソロモンに、玄関広間、その神殿、宝物室、屋上の間、内部屋、贖いの間などの仕様書を授けた。
御霊により彼が示されていたすべてのものの仕様書であった。すなわち、主の宮の庭のこと、回りにあるすべての脇部屋のこと、神の宮の宝物倉のこと、聖なるささげ物の宝物倉のこと、
祭司とレビ人の組分けのこと、主の宮の奉仕のすべての仕事のこと、主の宮の奉仕に用いるすべての器具のことである。
金については、各種の奉仕に用いるすべての器具に使う金の目方が、すべての銀の器具については、各種の奉仕に用いるすべての器具の目方が示され、
金の燭台とその上にある金のともしび皿の目方は、一つ一つの燭台とその上にあるともしび皿の目方が、銀の燭台については、一つ一つの燭台の用途別に燭台とその上にあるともしび皿の目方が示されていた。
また、並べ供えるパンの机、一つ一つの机に使う金の目方、銀の机に使うその銀、
純金の、肉刺し、鉢、びん、金の杯については、それぞれの杯の目方、銀の杯について、それぞれの杯の目方、
精金の香の壇についてはその目方、主の契約の箱の上で翼を伸べ、防ぎ守っているケルビムの車のひな型の金のことが示されていた。
「これらすべては、私に与えられた主の手による書き物にある。彼は、この仕様書のすべての仕事を賢く行なう。」
それから、ダビデはその子ソロモンに言った。「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだから――。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。
見なさい。神の宮のあらゆる奉仕のために祭司とレビ人の各組がいる。あらゆる奉仕のために知恵のある、進んで事に当たるすべての人が、どんな仕事にも、あなたとともにいる。つかさたちとすべての民は、あなたのすべての命令に従う。」」
新改訳聖書 歴代史第一28章11〜28節
「ダビデは言った。「わが子ソロモンは、まだ若く力もない。主のために建てる宮は、全地の名となり栄えとなるように大いなるものとしなければならない。それで私は、そのために用意をしておく。」こうして、ダビデは彼が死ぬ前に多くの用意をしておいた。
」
新改訳聖書 歴代史第一22章5節
「見なさい。私は困難な中にも主の家のために、金十万タラント、銀百万タラントを用意した。また、青銅と鉄はあまりに多くて量りきれない。それに、木材と石材も用意した。あなたが、これらにもっと加えてほしい。
あなたのもとには、石を切り出す者、石や木に細工する者、各種の仕事に熟練した者など、多くの仕事をする者がいて、金、銀、青銅、鉄を扱うが、その人数は数えきれない。立ち上がって、行ないなさい。主があなたとともにおられるように。」
」
新改訳聖書 歴代史第一22章14〜16節
ダビテは自分の息子であるソロモンをその働きにおいて勇気付け、確信させました。
神は忠実にソロモンを助けたのです。
歴代史第一28章を読んでください。
ヒラムは異邦人の王の型です。
ヒラムは熟練した者と木材を供給することに同意しました。
すると、ソロモンはその見返りとして、小麦二万コルを与え、また、上質のオリーブ油二十コルを与えました。
列王記第一9章10〜4節も同様に見てください。
イスラエルは非常勤ながら、役務者を徴用しました。
その重い重労働は15万人のカナン人たちによってなされました。
「ソロモンには荷役人夫が七万人、山で石を切り出す者が八万人あった。
」
新改訳聖書 列王記第一5章15節
「イスラエル人でないエモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の生き残りの民全員。
すなわち、イスラエル人が聖絶することのできなかった人々の跡を継いで、この地に生き残った彼らの子孫を、ソロモンは奴隷の苦役に徴用した。今日もそうである。
しかし、ソロモンはイスラエル人を奴隷にはしなかった。彼らは戦士であり、彼の家来であり、隊長であり、補佐官であり、戦車隊と騎兵隊の長であったからである。
」
新改訳聖書 列王記第一9章20〜22節
その反面、3万人のユダヤ人は他の働きをしていました。
彼らのうち。一万人の者がその働きを一ヶ月間なし、家に二ヶ月間帰り、それを交代で行っていました。
イスラエルにおいて、この徴兵に携わる者はおよそ四十分の一の者です。
その通り、これは強制されるものではなく、一時的に仕えるものだったのです。
この神殿の建設には多くの人々、ユダヤ人と異邦人の協力と努力によってなされたのです。
材料の確保は非常に大切なことでした。
持ちこたえる、大きく、重たい石、高価な金属、神の家に栄光をもたらせました。
私たちはパウロの警告を思い出させます。
地方教会は金、銀、宝石によって、私たちが建てるものです。
木、草、わらなどで建ててはいけません。
「だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一3章11〜13節
しかしながら、今日において、神は物質的な神殿などに住んでいません。
「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
」
新改訳聖書 使徒の働き17章24節
神は価値のない、目に見える方ではなく、私たちの働きにおいて建てられた神殿などには住まわれません。
U、建設(6〜7章)
神殿の平面図を理解するために聖書辞書で調べてください。
あなたは建てられた正確な神殿の位置が、書かれた領域のどこに位置するか注意して見てください。
「ソロモンは自分の宮殿を建て、十三年かかって宮殿全部を完成した。
彼はレバノンの森の宮殿を建てた。その長さは百キュビト、幅は五十キュビト、高さは三十キュビトで、それは四列の杉材の柱の上にあり、その柱の上には杉材の梁があった。
また四十五本の柱――一列に十五本ずつ――の上の階段式脇間の屋根は杉材でふかれていた。
戸口は三列、三階になって、向かい合っていた。
戸口のとびらと戸口の柱とはすべて四辺形で、三階になって向かい合っていた。
彼はまた、柱の広間を造った。その長さは五十キュビト、その幅は三十キュビトであった。その前に玄関があり、その前に柱とひさしとがあった。
彼はまた、さばきをするための王座の広間、さばきの広間を造り、床の隅々から天井まで杉材を張りつめた。
彼の住む家は、その広間のうしろの庭にあり、同じ造作であった。また、ソロモンは、彼がめとったパロの娘のためにも、この広間と同じような家を建てた。
これらはすべて、内側も外側も、寸法どおりにのこぎりで切りそろえた切り石、高価な石で造られていた。礎から頂上に至るまで、さらに外庭から大庭に至るまでそうであった。
礎は高価な石、大きな石で、十キュビトも八キュビトもあった。
その上には寸法どおりの切り石、高価な石と杉材が使われていた。
大庭の周囲には、三段の切り石と一段の杉角材とが使われ、主の宮の内庭や、神殿の玄関広間と同じであった。」
新改訳聖書 列王記第一7章1〜12節
ソロモンは最初に神殿を建てました。
これには七年の月日が必要でした。
「第十一年目のブルの月、すなわち第八の月に、神殿のすべての部分が、その明細どおりに完成した。これを建てるのに七年かかった。
」
新改訳聖書 列王記第一6章38節
それから、ソロモンは自分の家を建て、他の構造物と中庭をこの領域に造りました。
この全体の計画に20年かかりました。
神殿の構造を詳細に計画し、すべてを進ませる必要はありませんでした。
あなたは本来の神殿、幕屋の寸法の倍であることに気が付くでしょう。
神殿自身はそれほど大きな構造物ではありません。
神殿は切石で造られていて、木や金で覆われ、宝石によって装飾されていました。
6章7節において、私たちは建てられる切石が石切り場で切られ、その石を持って来るならば、そのまま指定された場所に置かれることに注意すべきです。
その石を切るということは神の計画に従っているのです。
すべての石は共に合致するのです。
このことは今日において、働き人であるクリスチャンにとって、良い実例になります。
私たちは神の神殿を建てるための協力者です。
その神殿とは教会です。
「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。
あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙2章19〜22節
「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。
」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一2章5〜8節
その神殿は幕屋よりも大きく、精密です。
一時的な幕と覆いではなく、むしろ、動かすことのないように大きな石材によって建てられました。
神殿には窓と床があり、幕屋には存在していないものです。
「神殿には格子を取りつけた窓を作った。」
新改訳聖書 列王記第一6章4節
「彼は神殿の内側の壁を杉の板で張り、神殿の床から天井の壁に至るまで、内側を板で張った。なお神殿の床はもみの木の板で張った。
」
新改訳聖書 列王記第一6章15節
ソロモンは至聖所に二つのケルビムを追加しました。
そして、このケルビムの下に契約の箱を置きました。
「内堂の中に二つのオリーブ材のケルビムを作った。その高さは十キュビトであった。
そのケルブの一方の翼は五キュビト、もう一方の翼も五キュビト。一方の翼の端からもう一方の翼の端まで十キュビトあった。
他のケルブも十キュビトあり、両方のケルビムは全く同じ寸法、同じ形であった。
一方のケルブは高さ十キュビト、他方のケルブも同じであった。
そのケルビムは奥の神殿の中に置かれた。ケルビムの翼は広がって、一つのケルブの翼は一方の壁に届き、もう一つのケルブの翼はもう一方の壁に届き、また彼らの翼は神殿の真中に届いて翼と翼が触れ合っていた。
彼はこのケルビムに金をかぶせた。
神殿の周囲の壁には、すべて、奥の間も外の間も、ケルビムの彫刻、なつめやしの木と花模様の彫り物を彫った。
神殿の床には、奥の間も外の間も、金をかぶせた。
」
新改訳聖書 列王記第一6章23〜30節
また、幕屋の汚れやすい外側の中庭の代わりに、神殿では美しい玄関を置きました。
「ソロモンは自分の宮殿を建て、十三年かかって宮殿全部を完成した。
彼はレバノンの森の宮殿を建てた。その長さは百キュビト、幅は五十キュビト、高さは三十キュビトで、それは四列の杉材の柱の上にあり、その柱の上には杉材の梁があった。
また四十五本の柱――一列に十五本ずつ――の上の階段式脇間の屋根は杉材でふかれていた。
戸口は三列、三階になって、向かい合っていた。
戸口のとびらと戸口の柱とはすべて四辺形で、三階になって向かい合っていた。
彼はまた、柱の広間を造った。その長さは五十キュビト、その幅は三十キュビトであった。その前に玄関があり、その前に柱とひさしとがあった。
彼はまた、さばきをするための王座の広間、さばきの広間を造り、床の隅々から天井まで杉材を張りつめた。
彼の住む家は、その広間のうしろの庭にあり、同じ造作であった。また、ソロモンは、彼がめとったパロの娘のためにも、この広間と同じような家を建てた。
これらはすべて、内側も外側も、寸法どおりにのこぎりで切りそろえた切り石、高価な石で造られていた。礎から頂上に至るまで、さらに外庭から大庭に至るまでそうであった。
礎は高価な石、大きな石で、十キュビトも八キュビトもあった。
その上には寸法どおりの切り石、高価な石と杉材が使われていた。
大庭の周囲には、三段の切り石と一段の杉角材とが使われ、主の宮の内庭や、神殿の玄関広間と同じであった。」
新改訳聖書 列王記第一7章1〜12節
また、二本の柱を置き、ヤキンとボアズという名を付けました。
「ソロモン王は人をやって、ツロからヒラムを呼んで来た。
彼はナフタリ族のやもめの子であった。彼の父はツロの人で、青銅の細工師であった。それでヒラムは青銅の細工物全般に関する知恵と、英知と、知識とに満ちていた。彼はソロモン王のもとにやって来て、そのいっさいの細工を行なった。
彼は青銅で二本の柱を鋳造した。その一本の柱の高さは十八キュビト。周囲は他の柱といっしょに、ひもで測って十二キュビトであった。
彼は青銅で鋳造した二つの柱頭を作り、柱の頂に載せた。一つの柱頭の高さは五キュビト、もう一つの柱頭の高さも五キュビトであった。
柱の頂の柱頭に取りつけて、鎖で編んだ、ふさになった格子細工の網を、一方の柱頭に七つ、他の柱頭に七つ作った。
こうして彼は柱を作り、柱の頂にある柱頭をおおうために、青銅のざくろが格子網の上を二段に取り巻くようにし、他の柱頭にも同じようにした。
この玄関広間にある柱の頂の上の柱頭は、ゆりの花の細工であって、それは四キュビトであった。
二本の柱の上にある柱頭の格子網のあたりで丸い突出部の回りには、二百個のざくろが、両方の柱頭に段をなして並んでいた。
この柱を本堂の玄関広間の前に立てた。彼は右側に立てた柱にヤキンという名をつけ、左側に立てた柱にボアズという名をつけた。
この柱の頂の上には、ゆりの花の細工があり、このようにして、柱の造作を完成した。」
新改訳聖書 列王記第一7章13〜22節
その神殿には主に属する強さと安定性がありました。
そして、今、神殿はイスラエルのために存在し、イスラエルの国に据えられたのです。
小さな洗盤の代わりに、彼らは大きな「鋳物の海」を作りました。
これは十二頭の牛の上に据えられていました。
「それから、鋳物の海を作った。縁から縁まで十キュビト。円形で、その高さは五キュビト。その周囲は測りなわで巻いて三十キュビトであった。
その縁の下に沿って、ひょうたん模様が回りを取り巻いていた。すなわち、一キュビトにつき十ずつの割りでその海の周囲を取り巻いていた。このひょうたん模様は二段になっており、海を鋳たときに鋳込んだものである。
これは十二頭の牛の上に据えられていた。三頭は北を向き、三頭は西を向き、三頭は南を向き、三頭は東を向いていた。この海は、これらの牛の上に載せられており、牛の後部はすべて内側に向いていた。
その海の厚さは一手幅あり、その縁は、杯の縁のようにゆりの花の形をしていた。その容量は二千バテであった。
」
新改訳聖書 列王記第一7章23〜26節
また、彼らは移動の出来る10個の青銅の洗盤を作りました。
神殿の中において、どこにおいても使えるようにしたのです。
「彼は青銅で十個の台を作った。おのおのの台は長さ四キュビト、幅四キュビト、高さ三キュビトであった。
この台の構造は次のとおり。台には鏡板があり、鏡板はわくにはまっていた。
わくにはめられている鏡板の上には、雄獅子と牛とケルビムとがあり、雄獅子と牛の上と下にあるわくの表面には花模様が鋳込んであった。
それぞれ台には青銅の車輪四つと、青銅の軸がついており、台の四隅には洗盤のささえがあり、そのささえは洗盤の下にあって、各表面が花模様に鋳られていた。
洗盤の口はささえの内側にあって、一キュビト上に出ており、その口は丸く、花模様の細工があって、一キュビト半あり、また、その口の上にも彫刻がしてあり、わくの鏡板は四角で、丸くなかった。
鏡板の下には四つの車輪があり、車軸は台に取りつけられ、一つの車輪の高さは一キュビト半であった。
その車輪の作りは戦車の車輪の作りと同じで、車軸も、輪縁も、輻も、こしきもみな、鋳物であった。
それぞれ台の四隅には四本のささえがあり、ささえと台とは一体をなしていた。
台の上部には高さ半キュビトの丸い部分が取り巻いており、その台の上のささえと鏡板とは一体をなしていた。
そのささえの表面と鏡板には、それぞれの場所に、ケルビムと、雄獅子と、なつめやしの木を刻み、その周囲には花模様を刻んだ。
彼は、以上のように、十個の台を作った。それらは全部、同じ鋳方、同じ寸法、同じ形であった。
ついで、彼は青銅で十個の洗盤を作った。洗盤の容量はそれぞれ四十バテ、それぞれ直径四キュビトであった。洗盤は、一つの台の上に一つずつ、十個の台の上にあった。
彼はその台の五個を神殿の右側に、五個を神殿の左側に置き、海を神殿の右側、すなわち、東南の方角に置いた。」
新改訳聖書 列王記第一7章27〜39節
歴代史第二4章1節において、青銅の祭壇が至聖所のためにまったく同じ大きさであると私たちに語られています。
「さらに、青銅の祭壇を作った。その長さは二十キュビト、幅も二十キュビト、高さは十キュビトであった。
」
新改訳聖書 歴代史第二4章1節
そこには一本ではなく、十本のろうそくがあり、パンのために10個の机がありました。
「さらに、金の燭台十個を、規格どおりに作って、本堂の中に置き、五個を右側に、五個を左側に置いた。
机を十個作り、本堂の中に置き、五個を右側に、五個を左側に置いた。それから、金の鉢を百個作った。
」
新改訳聖書 歴代史第二4章7、8節
それは新約聖書において、神殿にとってどのような意味があるのか、幕屋同様、多くは語られていません。
幕屋はキリストの地上の謙遜な歩みを描写し、そして、神殿は現在の栄光あるキリストの働きの型だと、ある人は言っています。
まさにキリストは生きている神殿の石であり、建てられた神殿自身とも言えます。
もしくは、幕屋は現在、この地上を歩んでいるクリスチャンの型であり、恒久的に建てられた神殿はキリストの再臨の時にキリストとともに栄光にあって支配する私たちの型であるとも言えます。
ユダヤ人たちが主に与えられた約束よりも、目に見える神殿に信頼しようとしているのは、なんとも悲劇としか言いようがありません。
この500年以内にこの神殿はユダヤ人の罪ゆえに破壊され、彼らは囚われの身になります。
6章11〜13節において、神はソロモンにこの偉大な神殿よりも、神のみことばに従うことの方が重要なことであることを思い出させています。
「そのとき、ソロモンに次のような主のことばがあった。
「あなたが建てているこの神殿については、もし、あなたがわたしのおきてに歩み、わたしの定めを行ない、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしがあなたの父ダビデにあなたについて約束したことを成就しよう。
わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」
」
新改訳聖書 列王記第一6章11〜13節
III、献納(8章)
契約の箱が神殿に持ち込まれた時、神の栄光が神殿に満ちました。
「そのとき、ソロモンはイスラエルの長老たち、およびイスラエル人の部族のかしらたちと一族の長たちをすべて、エルサレムのソロモン王のもとに召集した。ダビデの町シオンから主の契約の箱を運び上るためであった。
イスラエルのすべての人々は、エタニムの月、すなわち第七の新月の祭りに、ソロモン王のもとに集まった。
こうして、イスラエルの長老全員が到着したところで、祭司たちは箱をにない、
8主の箱と、会見の天幕と、天幕にあったすべての聖なる用具とを運び上った。これらの物を祭司たちとレビ人たちが運び上った。
ソロモン王、そして彼のところに集まったイスラエルの全会衆が彼とともに、箱の前に行き、羊や牛をいけにえとしてささげたが、その数があまりに多くて数えることも調べることもできなかった。
それから、祭司たちは主の契約の箱を、定めの場所、すなわち神殿の内堂である至聖所のケルビムの翼の下に運び入れた。
ケルビムは箱の所の上に翼を広げた。ケルビムは箱とそのかつぎ棒とを上からおおった。
そのかつぎ棒は長かったので、棒の先が内堂の前の聖所から見えていたが、外からは見えなかった。それは今日までそこにある。
箱の中には、二枚の石の板のほかには何もはいっていなかった。これは、イスラエル人がエジプトの地から出て来たとき、主が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブでそこに納めたものである。
祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。
祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。」
新改訳聖書 列王記第一8章1〜11節
後に、エゼキエルは神の栄光が神殿から離れてゆくのを見ています。
エゼキエル書8〜11章を見てください。
ソロモンは民に語り、神は約束されたことを忠実に行われたことを思い出させました。
「そのとき、ソロモンは言った。「主は、暗やみの中に住む、と仰せられました。
そこで私はあなたのお治めになる宮を、あなたがとこしえにお住みになる所を確かに建てました。」
それから王は振り向いて、イスラエルの全集団を祝福した。イスラエルの全集団は起立していた。
彼は言った。「イスラエルの神、主はほむべきかな。主は御口をもって私の父ダビデに語り、御手をもってこれを成し遂げて言われた。
「わたしの民イスラエルを、エジプトから連れ出した日からこのかた、わたしはわたしの名を置く宮を建てるために、イスラエルの全部族のうちのどの町をも選ばなかった。わたしはダビデを選び、わたしの民イスラエルの上に立てた。」
それで私の父ダビデは、イスラエルの神、主の名のために宮を建てることをいつも心がけていた。
ところが、主は、私の父ダビデにこう仰せられた。「あなたは、わたしの名のために宮を建てることを心がけていたために、あなたはよくやった。あなたは確かに、そう心がけていた。
しかし、あなたがその宮を建ててはならない。あなたの腰から出るあなたの子どもが、わたしの名のために宮を建てる。」
主は、お告げになった約束を果たされたので、私は父ダビデに代わって立ち、主の約束どおりイスラエルの王座に着いた。そして、イスラエルの神、主の名のために、この宮を建て、
主の契約が納められている箱のために、そこに一つの場所を設けた。その契約は、主が、私たちの先祖をエジプトの地から連れ出されたときに、彼らと結ばれたものである。」
新改訳聖書 列王記第一8章12〜21節
それから、ソロモンは自分の家族のために祈りました、
「ソロモンはイスラエルの全集団の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に差し伸べて、
言った。「イスラエルの神、主。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です。
あなたは、約束されたことを、あなたのしもべ、私の父ダビデのために守られました。それゆえ、あなたは御口をもって語られました。また御手をもって、これを今日のように、成し遂げられました。
それで今、イスラエルの神、主よ。あなたのしもべ、私の父ダビデに約束して、「あなたがわたしの前に歩んだように、もしあなたの子孫がその道を守り、わたしの前に歩みさえするなら、あなたには、イスラエルの王座に着く人が、わたしの前から断たれない。」と仰せられたことを、ダビデのために守ってください。
今、イスラエルの神。どうかあなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたみことばが堅く立てられますように。
それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。
けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、きょう、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。
そして、この宮、すなわち、あなたが「わたしの名をそこに置く。」と仰せられたこの所に、夜も昼も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。
あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたのお住まいになる所、天にいまして、これを聞いてください。聞いて、お赦しください。」
新改訳聖書 列王記第一8章22〜30節
また、罪を犯した民のためにも祈りました。
「ある人が隣人に罪を犯し、のろいの誓いを立てさせられることになって、この宮の中にあるあなたの祭壇の前に来て誓うとき、
あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたちにさばきを行なって、悪者にはその生き方への報いとして、その頭上に悪を下し、正しい者にはその正しさにしたがって義を報いてください。
また、あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したために敵に打ち負かされたとき、彼らがあなたのもとに立ち返り、御名をほめたたえ、この宮で、あなたに祈り願ったなら、
あなたご自身が天でこれを聞き、あなたの民イスラエルの罪を赦し、あなたが彼らの先祖たちにお与えになった地に、彼らを帰らせてください。
彼らがあなたに罪を犯したため、天が閉ざされて雨が降らない場合、彼らがこの所に向かって祈り、御名をほめたたえ、あなたの懲らしめによって彼らがその罪から立ち返るなら、
あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたち、あなたの民イスラエルの罪を赦し、彼らの歩むべき良い道を彼らに教え、あなたの民に相続地としてお与えになったあなたの地に雨を降らせてください。
もし、この地に、ききんが起こり、疫病や立ち枯れや、黒穂病、いなごや油虫が発生した場合、また、敵がこの地の町々を攻め囲んだ場合、どんなわざわい、どんな病気の場合にも、
だれでも、あなたの民イスラエルがおのおの自分の心の悩みを知り、この宮に向かって両手を差し伸べて祈るとき、どのような祈り、願いも、
あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天で聞いて、赦し、またかなえてください。ひとりひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心を知っておられます。あなただけがすべての人の子の心を知っておられるからです。
それは、あなたが私たちの先祖に賜わった地の上で彼らが生きながらえる間、いつも彼らがあなたを恐れるためです。」
新改訳聖書 列王記第一8章31〜40節
他の国から来た異邦人のためにも祈りました。
「 また、あなたの民イスラエルの者でない外国人についても、彼があなたの御名のゆえに、遠方の地から来て、
――彼らは、あなたの大いなる御名と、力強い御手と、伸べられた腕について聞きますから。――この宮に来て祈るとき、
あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天でこれを聞き、その外国人があなたに向かって願うことをすべてかなえてください。そうすれば、この地のすべての民が御名を知り、あなたの民イスラエルと同じように、あなたを恐れるようになり、私の建てたこの宮では、御名が呼び求められなくてはならないことを知るようになるでしょう。」
新改訳聖書 列王記第一8章41〜43節
イスラエルがさすらう時が来ます。
その時のためにも祈りました。
「あなたの民が、敵に立ち向かい、あなたが遣わされる道に出て戦いに臨むとき、あなたの選ばれた町、私が御名のために建てた宮の方向に向かって、主に祈るなら、天で、彼らの祈りと願いを聞いて、彼らの言い分を聞き入れてやってください。
」
新改訳聖書 列王記第一8章44〜45節
祈りについての主な考え方は神がイスラエルの祈りを聞かれていること、そして、イスラエルは罪を犯したとしても神は哀れみ深いということです。
神殿が存在することよりも、イスラエルのこころの状態の方が重要だということを、ソロモンは祈りにおいて、そのことを明確にさせました。
ソロモンは罪は懲らしめに至る事を知っていました。
しかし、その後、赦しと祝福に至るものであることもよく知っていました。
それは神殿が建てられたことよりも、人々が捧げたということの方がもっと重要だったからです。
44〜53節において、イスラエルの罪ゆえに奴隷とされるという事実がはっきりと書かれています。
そして、神は再び、神殿を建て、神に仕えるために自分たちの国に帰ってくることが示されています。
「あなたの民が、敵に立ち向かい、あなたが遣わされる道に出て戦いに臨むとき、あなたの選ばれた町、私が御名のために建てた宮の方向に向かって、主に祈るなら、
天で、彼らの祈りと願いを聞いて、彼らの言い分を聞き入れてやってください。
彼らがあなたに対して罪を犯したため――罪を犯さない人間はひとりもいないのですから――あなたが彼らに対して怒られ、彼らを敵に渡し、彼らが、遠い、あるいは近い敵国に捕虜として捕われていった場合、
彼らが捕われていった地で、みずから反省して悔い改め、捕われていった地で、あなたに願い、「私たちは罪を犯しました。悪を行なって、咎ある者となりました。」と言って、
捕われていった敵国で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて、あなたに祈るなら、
あなたの御住まいの所である天で、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、
あなたに対して罪を犯したあなたの民を赦し、あなたにそむいて犯したすべてのそむきの罪を赦し、彼らを捕えていった者たちが、あわれみの心を起こし、彼らをあわれむようにしてください。
彼らは、あなたの民であり、あなたがエジプトから、すなわち鉄の炉の中から連れ出されたあなたご自身のものであるからです。
どうか、あなたのしもべの願いと、あなたの民イスラエルの願いとに、御目を開き、彼らがあなたに叫び求めるとき、いつも彼らの願いを聞き入れてください。
あなたが彼らを地上のすべての国々の民から区別してご自身のものとされたのです。神、主よ。あなたが私たちの先祖をエジプトから連れ出されたとき、あなたのしもべモーセを通して告げられたとおりです。」」
新改訳聖書 列王記第一8章44〜53節
この祈りと約束はイスラエルの歴史において、成就されます。
イスラエルは不信仰のまま、イスラエルの国に帰って来るのです。
祈りの後で、ソロモンがイスラエルの民を祝福しました。
そして、神と共に歩むという正しい心を持つように、イスラエルを励ましています。
「こうして、ソロモンは、この祈りと願いをことごとく主にささげ終わった。彼はそれまで、ひざまずいて、両手を天に差し伸ばしていた主の祭壇の前から立ち上がり、
まっすぐ立って、イスラエルの全集団を大声で祝福して言った。
「約束どおり、ご自分の民イスラエルに安住の地をお与えになった主はほむべきかな。しもべモーセを通して告げられた良い約束はみな、一つもたがわなかった。
私たちの神、主は、私たちの先祖とともにおられたように、私たちとともにいて、私たちを見放さず、私たちを見捨てられませんように。
私たちの心を主に傾けさせ、私たちが主のすべての道に歩み、私たちの先祖にお命じになった命令と、おきてと、定めとを守るようにさせてください。
私が主の御前で願ったことばが、昼も夜も、私たちの神、主のみそば近くにあって、日常のことにおいても、しもべの言い分や、御民イスラエルの言い分を正しく聞き入れてくださいますように。
地上のすべての国々の民が、主こそ神であり、ほかに神はないことを知るようになるためです。
あなたがたは、私たちの神、主と心を全く一つにし、主のおきてに歩み、今日のように、主の命令を守らなければならない。」」
新改訳聖書 列王記第一8章54〜61節
ここで、注意して欲しいのは、他の国々が主の真実を知ることと、王が関係していることです。
異邦人が真実を得るように導く使命を、イスラエルが忘れてしまっていることは悪いことです。
この式典は40日間続き、最初の週に捧げ物、祝宴、また、公の捧げ物の儀式がされました。
そして、その次の週にイスラエルは自分たちの幕屋に帰り、主にあって喜びを分かち合いました。
「ソロモンは、このとき、彼とともにいた全イスラエル、すなわち、レボ・ハマテからエジプト川に至るまでの大集団といっしょに、七日と七日、すなわち十四日間、私たちの神、主の前で祭りを行なった。
」
新改訳聖書 列王記第一8章65節
9章1〜9節において、神はソロモンにソロモンがいかに素晴らしい特権を得たのと、同時にいかに大きな責任があるのかを思い出させました。
もし、イスラエルの民が従順に主に従うのなら、ソロモンの王座は永遠に建てられたのです。
しかし、もし、イスラエルが罪を犯すのなら、ソロモンもイスラエルから断ち切られるのです。
残念ながら、イスラエルは罪と不信仰に落ちてゆきました。
9章6〜9節にある預言が成就されたのです。
「もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしにそむいて従わず、あなたがたに授けたわたしの命令とわたしのおきてとを守らず、行ってほかの神々に仕え、これを拝むなら、わたしが彼らに与えた地の面から、イスラエルを断ち、わたしがわたしの名のために聖別した宮を、わたしの前から投げ捨てよう。こうして、イスラエルはすべての国々の民の間で、物笑いとなり、なぶりものとなろう。
この宮も廃墟となり、そのそばを通り過ぎる者はみな、驚いて、ささやき、「なぜ、主はこの地とこの宮とに、このような仕打ちをされたのだろう。」と言うであろう。
すると人々は、「あの人たちは、エジプトの地から自分たちの先祖を連れ出した彼らの神、主を捨てて、ほかの神々にたより、これを拝み、これに仕えた。そのために、主はこのすべてのわざわいをこの人たちに下されたのだ。」と言うようになる。」
」
新改訳聖書 列王記第一9章6〜9節
この美しく、高価な神殿は紀元前586年にバビロンによって、略奪され、滅ぼされてしまいます。
バビロンはイスラエルの民を捕虜として連れて行ったのです。
本来、神は幕屋の中に住んでいました。
後にソロモンの神殿が建てられたのです。
「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。
」
新改訳聖書 出エジプト記40章34節
そして、神の栄光は人としてのキリストが地上に来られることにより成就しました。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
よってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章12〜14節
現在において、すべての真実なクリスチャンが神の神殿なのです。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。
」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一6章19、20節
教会全体も神の神殿です。
「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙2章21節
そして、地方教会も神の神殿です。
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一3章16節
未来の艱難時代において、イスラエルは神殿を持ちます。
不信仰な世界によって、反キリストが礼拝されます。
「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。
霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。
だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。
彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。
私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。
あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。
不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第二2章1〜12節
また、キリストの支配する千年王国において、栄光ある神殿が存在します。
エゼキエル書40〜48章を参照してください。
第一歴王記9〜10章
歴代史第二7〜9章と見比べて下さい。
これらの章はこの後にソロモンが建て上げ完成させた人生に花を添えているようです。
これらは忠実、かつ、知恵に満ちた王が、除々に霊的に落ちぶれ、そして神の王国が荒んでいったのかが示されています。
I、神の警告(9章1〜9節)
神はソロモンが王座に着いた後、すぐに現われました。
「その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現われた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」
ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。それは、彼が誠実と正義と真心とをもって、あなたの御前を歩んだからです。あなたは、この大いなる恵みを彼のために取っておき、きょう、その王座に着く子を彼にお与えになりました。
わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。
そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。
善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。
神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、
今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。
そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。
また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう。」
ソロモンが目をさますと、なんと、それは夢であった。そこで、彼はエルサレムに行き、主の契約の箱の前に立って、全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげ、すべての家来たちを招いて祝宴を開いた。」
新改訳聖書 歴王記第一3章5〜15節
その時、ソロモンは自分の負うべき義務を負うために神の知恵に求めました。
神は同様に、ソロモンが神殿を建てるという難しい職務をこなそうとする間、ソロモン王を勇気付けるために、メッセージを送りました。
「「そのとき、ソロモンに次のような主のことばがあった。
「あなたが建てているこの神殿については、もし、あなたがわたしのおきてに歩み、わたしの定めを行ない、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしがあなたの父ダビデにあなたについて約束したことを成就しよう。
わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」」
新改訳聖書 歴王記第一6章11〜13節
今、この巨大なプロジェクトは完成しました。
ソロモンは主より、また別のメッセージを受け取りました。
神はソロモンに神のみことばに従うべきだという警告を受けました。
私たちは度々、成功した働きをした後に大きな試みに直面することがあります。
神はソロモンをダビテ同様に改心したときを思い出させました。
そして、心に輝きを保つ責任のあることと神のみことばに従うことを思いださせました
「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」
新改訳聖書 箴言4章23節
もし、ソロモンが神のみことばに従ったのならば、ソロモンの王国は建て上げられ、神は祝福を導き入れたはずです。
しかし、もし、ソロモンが神のみことばに不従順であり、続くソロモンの子供たちも不従順ならば、その祝福は取り除かれ、イスラエルから良き国は取り除かれます。
その時、イスラエルの家は滅びを刈り取り、その不信仰は記録として残されることになります。
そこで、もし聖書に戻るなら、同じ原則を持って真理を得ることができます。
従順は祝福を導き、不信仰は懲らしめを導きます。
ここで、私たちは王ソロモンがこのような警告を心に受け止めずに、主から離れてしまったことを学ぶことができます。
ソロモンは罪無き人を殺そうとしています。
「ソロモンはヤロブアムを殺そうとしたが、ヤロブアムは立ち去り、エジプトにのがれ、エジプトの王シシャクのもとに行き、ソロモンが死ぬまでエジプトにいた。」
新改訳聖書 歴王記第一11章40節
II、危険な侵入者たち
9章10節〜10章13節
A、ヒラムとともにいる者たち
9章10節〜14節
すでに、私たちはソロモンがヒラムに頼っていることを見ています。
神殿を建てるために、木材と働き人の知恵が欲しかったからです。
「さて、ツロの王ヒラムは、ソロモンが油をそそがれ、彼の父に代わって王となったことを聞いて、自分の家来たちをソロモンのところへ遣わした。ヒラムはダビデといつも友情を保っていたからである。
そこで、ソロモンはヒラムのもとに人をやって言わせた。
「あなたがご存じのように、私の父ダビデは、彼の回りからいつも戦いをいどまれていたため、主が彼らを私の足の裏の下に置かれるまで、彼の神、主の名のために宮を建てることができませんでした。
ところが、今、私の神、主は、周囲の者から守って、私に安息を与えてくださり、敵対する者もなく、わざわいを起こす者もありません。
今、私は、私の神、主の名のために宮を建てようと思っています。主が私の父ダビデに「わたしが、あなたの代わりに、あなたの王座に着かせるあなたの子、彼がわたしの名のために宮を建てる。」と言われたとおりです。
どうか、私のために、レバノンから杉の木を切り出すように命じてください。私のしもべたちも、あなたのしもべたちといっしょに働きます。私はあなたのしもべたちに、あなたが言われるとおりの賃金を払います。ご存じのように、私たちの中にはシドン人のように木を切ることに熟練した者がいないのです。」
ヒラムはソロモンの申し出を聞いて、非常に喜んで言った。「きょう、主はほむべきかな。このおびただしい民を治める知恵ある子をダビデに授けられたとは。」
そして、ヒラムはソロモンのもとに人をやって言わせた。「あなたの申し送られたことを聞きました。私は、杉の木材ともみの木材なら、何なりとあなたのお望みどおりにいたしましょう。
私のしもべたちはそれをレバノンから海へ下らせます。私はそれをいかだに組んで、海路、あなたが指定される場所まで送り、そこで、それを解かせましょう。あなたはそれを受け取ってください。それから、あなたは、私の一族に食物を与え、私の願いをかなえてください。」
こうしてヒラムは、ソロモンに杉の木材ともみの木材とを彼の望むだけ与えた。
そこで、ソロモンはヒラムに、その一族の食糧として、小麦二万コルを与え、また、上質のオリーブ油二十コルを与えた。ソロモンはこれだけの物を毎年ヒラムに与えた。
主は約束どおり、ソロモンに知恵を賜わったので、ヒラムとソロモンとの間には平和が保たれ、ふたりは契約を結んだ。」
新改訳聖書 歴王記第一5章1〜12節
大胆にも、数年後に、ソロモンはより多くのお金が必要になりました。
ソロモンはヒラムからそれを借りたのです。
そして、その代償として、ヒラムにガラテアの20の町を与えました。
これは、まさにマタイの福音書4章15節に書かれているように、異邦人のガラテアになってしまいました。
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。」
新改訳聖書 マタイの福音書4章15節
ヒラムがこの街々を見た時、ヒラムはこれらが価値がないと考えました。
ゆえに、これらの街々は「カブル」(価値がない)と名付けました。
歴代史第二8章1、2節で同様にヒラムはソロモンに契約の一部としていくつかの街々を与えています。
「ソロモンが主の宮と自分の宮殿を二十年かかって建て終わったとき、
ソロモンは、フラムがソロモンに返した町々を建て直し、そこにイスラエル人を住ませた。」
新改訳聖書 歴代史第二8章1、2節
このように、いくつかの出来事において、異邦人とともにあった侵入者たちは律法によって禁じられていることを行いました。
この侵入者たちは、単にソロモンを深い問題へと導いたにすぎません。
「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二 6章14節〜7章1節
B、エジプトとともに
9章15〜24節
ソロモンははっきりとした政治的な手段のために、エジプトの王妃と結婚しました。
ソロモンにはエジプトから、馬や宝石を輸入するという目的があったからです。
これは神のユダヤ人に対するみこころと反して、エジプトに戻るということになります。
「ソロモンの所有していた馬は、エジプトとケベの輸出品であった。それは王の御用達が代価を払って、ケベから手に入れたものであった。
エジプトから買い上げられ、輸入された戦車は銀六百、馬は銀百五十であった。同様に、ヘテ人のすべての王も、アラムの王たちも、彼らの仲買で輸入した。」
新改訳聖書 歴王記第一10章28、29節
イザヤ書31章1節にはこのように書かれています。
「ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。」
新改訳聖書 イザヤ書31章1節
結婚によって連れて来られた異邦人女性において、イスラエルには不必要であり、かつ、異邦人に関する悪い習慣が入って来ました。
C、他の国々とともに
9章25節〜10章13節
ソロモンの海軍ははるかインドの方まで、宝石を得るために出て行かなければならくなり、ソロモンに王国に大きなダメージを与えることになります。
シェバの女王の訪れは個人的な訪れ以上のものとなりました。
これは彼女だけではなく、他の多くの国々との行き来に同意するものとなりました。
ソロモンとシェバの女王は多くの高価な贈り物をし合いました。
そして、彼女は自分の国に帰り、ソロモンの知恵と財産を驚き果てました。
イエスはマタイの福音書12章42節で、彼女について述べています。
「南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」
新改訳聖書 マタイの福音書12章42節
これはイエスの時代において、ユダヤ人に対する警告として使われました。
もし、シェバの女王がソロモンの知恵を聞くために努力し、多くを費やしたのなら、ユダヤ人に来ようとしている偉大なるさばきに彼らは何を支払えばよいのでしょう。
「ソロモンよりももまさった者」がこの時、ユダヤ人の真ん中にいました。
そして、ユダヤ人たちはこのイエスを拒んだのです。
また、これらのソロモンに対する説明はまさに、ソロモンの名声と未来について、大きな危険性を含んでいました。
10章7節において、私たちはつぎのように読みました。
「あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。」
新改訳聖書 歴王記第一10章7節
しかし、10章23節には次のように書かれています。
「ソロモン王は、富と知恵とにおいて、地上のどの王よりもまさっていた。」
そうです。
「富」の方が先に来ています。
確かに、ソロモンは物質的な事柄の方がより重要度を増して来て、霊的な事柄が、徐々に落ちぶれてきました。
III、欲望の崩壊
10章12節〜10章29節
テモテの手紙第一6章9節には次のような警告があります。
「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。」
新改訳聖書 テモテの手紙第一6章9節
これがソロモンの歩みにおいて現実なものとなりました。
神がソロモンに与えた豊かな恵みにはこのような誘惑は存在しません。
ソロモンは豊かな財産を自分のこころを満足させるために使いました。
そのことが、ソロモンが後に書いた伝道者の書に表現されています。
また、ここではこのような記述があります。
「一年間にソロモンのところにはいって来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントであった。」
新改訳聖書 歴王記第一10章14節
ここで書かれている666の金の目方も決して偶然の数字ではないはずです。
「ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。」
新改訳聖書 黙示録13章18節
ソロモンはテモテの手紙第二2章20、21節に記されているように主が金の器を使うように、器を使おうとしたのではありません。
ソロモンは自分の栄光と富のために使ったのです。
その通り、ソロモンは栄光と富の中を生きたのですが、イエスは神によって咲いている野のゆりほど美しくないとマタイの福音書の中で語っています。
「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」
新改訳聖書 マタイの福音書6章28、29節
申命記17章16〜20節において、神は王について教えています。
「王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。「二度とこの道を帰ってはならない。」と主はあなたがたに言われた。
多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。
彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、
自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。
それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。」
新改訳聖書 申命記17章16〜20節
しかしながら、ソロモンはこの神の教えに対し、不従順だったのです。
ソロモンは馬と戦車を増やし、多くを富をも増やしました。
また、多くの妻たちを得ました。
おそらく、ソロモンは自分が神の御前に霊的だと考え、神の神殿を建て、満足してしまったのです。
ソロモンは自分の祝福が通り過ぎた今でさえ、まだ、余裕を持つことができたのです。
伝道者の書2章を見てください。
ソロモンが物質的なものに興味を持っていたことがわかります。
「私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、
庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。
木の茂った森を潤すために池も造った。
私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。
私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。」
新改訳聖書 伝道者の書2章4〜8節
IV、背教への道
箴言5章20〜23節、6章20〜24節に書かれているように、それは不信仰への道です。
「わが子よ。あなたはどうして他国の女に夢中になり、見知らぬ女の胸を抱くのか。
人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。
悪者は自分の咎に捕えられ、自分の罪のなわにつながれる。
彼は懲らしめがないために死に、その愚かさが大きいためにあやまちを犯す。」
新改訳聖書 箴言5章20〜23節
「わが子よ。あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨てるな。
それをいつも、あなたの心に結び、あなたの首の回りに結びつけよ。
これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける。
命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。
これはあなたを悪い女から守り、見知らぬ女のなめらかな舌から守る。」
新改訳聖書 6章20〜24節
このように異邦の外国から、多くの妻たちやめかけを得ることは不信仰の結果です。
一夫多妻自信が十分に悪いことなのです。
申命記7章1〜14節にはこのように書かれています。
「あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民を、あなたの前から追い払われる。
あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。
また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。
彼はあなたの息子を私から引き離すであろう。彼らがほかの神々に仕えるなら、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主はあなたをたちどころに根絶やしにしてしまわれる。
むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。
あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。
しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。
あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、
主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。
私が、きょう、あなたに命じる命令――おきてと定め――を守り行なわなければならない。
それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、これを守り行なうならば、あなたの神、主は、あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、
あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、新しいぶどう酒、油、またあなたの群れのうちの子牛、群れのうちの雌羊をも祝福される。
あなたはすべての国々の民の中で、最も祝福された者となる。あなたのうちには、子のない男、子のない女はいないであろう。あなたの家畜も同様である。」
新改訳聖書 申命記7章1〜14節
罪の悔い改めの結果とは何でしょうか?
ソロモンのこころは神の御前に正しくはありません。
「ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。」
新改訳聖書 歴王記第一11章4節
神は歴王記第一9章4節に書かれているように「全き心」が欲しかったのです。
この意味は神の栄光に単純に一本でつながっているこころを指しています。
ソロモンはこのように清い、全き心を持っていたでしょうか?
かつて、ソロモンは神に仕えたいと試みていましたが、今は同じ思いでこの世を愛しています。
唯一なる真実な神のために神殿を建てたソロモンが、異邦の神の神殿で礼拝し始めるとは何たる悲劇ではないでしょうか!
信仰に戻らせ、間違いを悟らせるために、神はソロモンにさまざまなしもべたちを送りました。
しかし、神の怒りがここに起きたのです。
A、警告のメッセージ
1〜13節
神はソロモンに王国を取り上げ、他の者に与えるという警告を与えました。
あなたはこの警告がソロモンにショックを与え、正しい感覚に戻るだろうと考えるか
もしれません。
しかし、明らかにソロモンは違いました。
人が神のみことばを聞かないならば、神はより、罪を明らかにするために徹底してそ
の者を試みにあわせるのです。
B、エドムの出現
14〜22節
ソロモンの王国におけるやすらぎは戦争によってなくなりました。
ヤコブの手紙4章を見るならば、霊的にこのことが説明されています。
明らかにとパロとともにいた、ソロモンへの侵略者たちはソロモンと常に同意していたのではありません。
エジプトはエドム人たちと同盟を結んでいたのです。
C、レゾンからの問題
23〜25節
ソロモンにとってこの悩みの集まりは多くの年月に渡って、ソロモンにまとわり付きました。
このようにして、背教と化した王は休息に居場所をなくしていったのです。
D、ヤロブアムの意地
26〜43節
ソロモンはヤロブアムを良き立場へと昇進させました。
それはヤロブアムが勇気を持ち、勤勉であったからです。
しかし、神はこのはっきりとしない若者を10の部族の王に選んだのです。
部族の一つはユダに残りましたが、南の王国は小さなベニヤミンに含まれました。
「レハブアムはエルサレムに帰り、ユダの全家とベニヤミンの部族から選抜戦闘員十八万を召集し、王位をソロモンの子レハブアムのもとに取り戻すため、イスラエルの家と戦おうとした。」
新改訳聖書 歴王記第一12章21節
ソロモンがヤロブアムがライバルだと知った時、ヤロブアムを殺そうとしました。
でも、王は民が重税と重い労働に直面していることを知らなければなりませんでした。
「レハブアム王は、父ソロモンが生きている間ソロモンに仕えていた長老たちに相談して、「この民にどう答えたらよいと思うか。」と言った。
彼らは王に答えて言った。「きょう、あなたが、この民のしもべとなって彼らに仕え、彼らに答え、彼らに親切なことばをかけてやってくださるなら、彼らはいつまでもあなたのしもべとなるでしょう。」
しかし、彼はこの長老たちの与えた助言を退け、彼とともに育ち、彼に仕えている若者たちに相談して、
彼らに言った。「この民に何と返答したらよいと思うか。彼らは私に「あなたの父上が私たちに負わせたくびきを軽くしてください。」と言って来たのだが。」
彼とともに育った若者たちは答えて言った。「「あなたの父上は私たちのくびきを重くした。だから、あなたは、それを私たちの肩から、軽くしてください。」と言ってあなたに申し出たこの民に、こう答えたらいいでしょう。あなたは彼らにこう言ってやりなさい。「私の小指は父の腰よりも太い。
私の父はおまえたちに重いくびきを負わせたが、私はおまえたちのくびきをもっと重くしよう。私の父はおまえたちをむちで懲らしめたが、私はさそりでおまえたちを懲らしめよう。」と。」」
新改訳聖書 歴王記第一12章6〜11節
12章18節を見るならば、事実、アドラムは民に重労働を負わせ、人々に石打ちに会いました。
「レハブアム王は役務長官アドラムを遣わしたが、全イスラエルは、彼を石で打ち殺した。それで、レハブアム王は、ようやくの思いで戦車に乗り込み、エルサレムに逃げた。」
新改訳聖書 歴王記第一12章18節
ソロモンは死に、その子、レハブアムがその王座に座り、民を支配しました。
ソロモンは主に対して、真実を思い出したでしょうか?
この後のソロモンの生涯は懲らしめと敗北の変わりに、祝福と勝利に満ちていたでしょうか?
ソロモンの残した息子は民への愛を取り戻すという問題を解決したでしょうか?
彼はソロモンの得た財産を使い、民への重税を無くしたでしょうか?
その通りに、イスラエルは偉大な栄光と輝きの恩恵を受けたでしょうか?
いいえ。すべてにおいてそれは違いました。
最後まで、それは中身の無い栄光だったのです。
黙示録3章17、18節にある状況の描写ととてもよく似ています。
「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」
新改訳聖書 黙示録3章17、18節
歴王記第一12〜16章において、ソロモンの死によって終わりが始まったことが記録されています。
イスラエルの栄光が衰え始めたのです。
歴王記第一では約125年間、王国の歴史を守り、そのうち、40年間、ソロモンが王国を支配しました。
そして、85年間、王国はユダとイスラエルに分裂状態を描いています。
5人の王だけがその期間、ユダ王国を支配し、8人の王がイスラエル王国を支配しました。
イスラエル王国の王家はすべての王たちは邪悪な王たちです。
歴王記第二ではアッシリアがイスラエル(北王国)を囚われと、バビロンがユダ王国(南王国)を囚われたことが記されています。
I、王国の分裂
12章1節〜14章20節
A、愚かなヤロブアム
12章1〜15節
ソロモンの広大なプログラムは実行され、広げられてゆきました。
そして、イスラエルは名声と栄光に至ったのです。
しかし、重税は重く民にのしかかりました。
民はこの重税から少しでも助かりたいという希望を抱いたのです。
ソロモンの後の生涯において、ソロモンは霊的な祝福よりも物質的な富に興味を持つように変わってゆきました。
(伝道者の書1章12節〜2章26節を見てください。)
ソロモンの子であるヤロブアムは長老たちのリーダから知恵を学びました。
ヤロブアムは民のこころを勝ち取ろうとしたのです。
しかし、ヤロブアムは民に仕えることに失敗しました。
ヤロブアムは若者の言うことを聞きました。
その若者は経験不足でした。
愚かなだまし事は長続きしないのです。
支配者の道はしもべとして仕えることです。
「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」」
新改訳聖書 マルコの福音書10章42〜45節
B、ヤロブアムの反抗
12章16節〜13章34節
神はすでにソロモンの罪のゆえに、10部族を支配する王としてヤロブアムを選んでいました。
「主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現われ、
このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。
それゆえ、主はソロモンに仰せられた。「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いてしかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、あなたの子の手からそれを引き裂こう。
ただし、王国全部を引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与えよう。」」
新改訳聖書 歴王記第一11章9〜13節
「ツェレダの出のエフライム人ネバテの子ヤロブアムはソロモンの家来であった。彼の母の名はツェルアといい、やもめであった。ところが彼も王に反逆した。
彼が王に反逆するようになった事情はこうである。ソロモンはミロを建て、彼の父ダビデの町の破れ口をふさいでいた。
ヤロブアムは手腕家であった。ソロモンはこの若者の働きぶりを見て、ヨセフの家のすべての役務を管理させた。
そのころ、ヤロブアムがエルサレムから出て来ると、シロ人で預言者であるアヒヤが道で彼に会った。アヒヤは新しい外套を着ていた。そして彼らふたりだけが野原にいた。
アヒヤは着ていた新しい外套をつかみ、それを十二切れに引き裂き、
ヤロブアムに言った。「十切れを取りなさい。イスラエルの神、主は、こう仰せられます。「見よ。わたしはソロモンの手から王国を引き裂き、十部族をあなたに与える。
しかし、彼には一つの部族だけが残る。それは、わたしのしもべダビデと、わたしがイスラエルの全部族の中から選んだ町、エルサレムに免じてのことである。
というのは、彼がわたしを捨て、シドン人の神アシュタロテや、モアブの神ケモシュや、アモン人の神ミルコムを拝み、彼の父ダビデのようには、彼は、わたしの見る目にかなうことを行なわず、わたしのおきてと定めを守らず、わたしの道を歩まなかったからである。
しかし、わたしは、彼の手から、王国全部は取り上げない。わたしが選び、わたしの命令とおきてとを守ったわたしのしもべダビデに免じて、ソロモンが生きている間は、彼を君主としておこう。
しかし、わたしは彼の子の手から王位を取り上げ、十部族をあなたに与える。
彼の子には一つの部族を与える。それはわたしの名を置くために選んだ町、エルサレムで、わたしのしもべダビデがわたしの前にいつも一つのともしびを保つためである。
わたしがあなたを召したなら、あなたは自分の望むとおりに王となり、イスラエルを治める王とならなければならない。
もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行なったように、わたしのおきてと命令とを守って、わたしの見る目にかなうことを行なうなら、わたしはあなたとともにおり、わたしがダビデのために建てたように、長く続く家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与えよう。
このために、わたしはダビデの子孫を苦しめる。しかし、それを永久に続けはしない。」」
ソロモンはヤロブアムを殺そうとしたが、ヤロブアムは立ち去り、エジプトにのがれ、エジプトの王シシャクのもとに行き、ソロモンが死ぬまでエジプトにいた。」
新改訳聖書 歴王記第一11章26〜40節
罪は偉大な分割者であり、破壊者です。
ユダとベニアミンだけがヤロブアムに残されました。
これはダビテのために残されたのです。
また、イスラエルの王であるレハブアムは自分の機会を生かすために失敗してしまいました。
レハブアムはこの10部族を偶像崇拝へと導いてしまいました。
レハブアムは民が毎年行われるエルサレムの祭りに上ってゆくのを恐れました。
エルサレムにはレハブアムに対する反乱があったからです。
彼は自分の領地の中に手軽に礼拝する場所を設けたのです。
レハブアムはアロンの罪を繰り返したのです。
「民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」
それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」
そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。
彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。
アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」
そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。」
新改訳聖書 出エジプト記32章1〜6節
彼は金の子牛を作り、ダンに一つ、もう一つをべテルに置きました。
そして、レハブアムは偶像礼拝の場所を作り、自分のために祭司制度を作りました。
それは人によって作られた宗教です。
民に便利な宗教が構成されたのです。
ゆえに、この宗教には神の力もなく、神の祝福もありません。
もちろん、神はこのような背教を許し続けることはありません。
13章で神は王に警告とさばきのメッセージを送りました。
「ひとりの神の人が、主の命令によって、ユダからベテルにやって来た。ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた。
すると、この人は、主の命令によって祭壇に向かい、これに呼ばわって言った。「祭壇よ。祭壇よ。主はこう仰せられる。「見よ。ひとりの男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちをいけにえとしておまえの上にささげ、人の骨がおまえの上で焼かれる。」」
新改訳聖書 歴王記第一13章1、2節
その王は祭司のように祭壇で香をたくことに注意してください。
その不思議な神の人は将来、ヨシア王が生まれることを宣言しています。
同様に人によって作られた宗教はさばかれ、壊されるのです。
「なお彼は、ベテルにある祭壇と、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの造った高き所、すなわち、その祭壇も高き所もこわした。高き所を焼き、粉々に砕いて灰にし、アシェラ像を焼いた。
ヨシヤが向き直ると、山の中に墓があるのが見えた。そこで彼は人をやってその墓から骨を取り出し、それを祭壇の上で焼き、祭壇を汚れたものとした。かつて、神の人がこのことを預言して呼ばわった主のことばのとおりであった。
彼は言った。「あそこに見える石碑は何か。」すると、町の人々は彼に答えた。「ユダから出て来て、あなたがベテルの祭壇に対してされた、あのことを預言した神の人の墓です。」
王は言った。「そのままにしておきなさい。だれも彼の骨を移してはならない。」それで人々は彼の骨を、サマリヤから出て来たあの預言者の骨といっしょにそのままにしておいた。」
新改訳聖書 歴王記第二23章15〜18節
ヤロブアムはその預言者を捕まえようと試みます。
しかし、その王が広げた手は乾き果て、その祭壇は壊されます。
まさに預言者が預言した通りです。
王は癒されるように懇願し、預言者は王のために祈りました。
王は預言者を王宮に誘い、預言者を罠にはめます。
神の人はその罠にはまることを拒みました。
しかし、神の人は預言者仲間のうそを聞き、不運にも命を落としたのです。
13章11〜34節には学ぶべき、一つの教訓があります。
あなたの命の問題を、他の人に導かれ、神のみこころを確信してはならないということです。
犠牲を惜しむことなく、あなたに言われた神のみこころに従うことです。
C、神のさばき
14章1〜20節
アビヤが運命的な病気になった時、彼はまだ若者でした。
後にアビヤの父、ヤロブアムは22年間イスラエルを支配しました。
ヤロブアムは自分が王座に着き、自分に王座を継ぐ子がいなくなるのではないか心配していました。
そして、ヤロブアム王は助けを得るために、偽りの神の所へ行くことをせずに、預言者アヒヤの所へ導きを求めて、出かけました。
預言者はヤロブアム王に最初に語ったのは、ヤロブアムが新しい王になったことでした
ヤロブアムはあえて、預言者に会おうとしているのではありません。
ヤロブアムは失望して、自分の妻を預言者のところへ送ったのです。
しかし、この盲目な預言者は目で見る以上に、霊的な目で見たのです。
ヤロブアムの肉体の目よりもはるかに優れた目で見たのです。
預言者アヒヤはヤロブアムが失望していることを見通し、この邪悪な王にさばきが来ることを語りました。
このメッセージが真実となる時がやってきました。
この王の妻は家に帰り、家に入った時に、この息子は死にました。
ヤロブアムが主から離れたことが悲劇を生んだのです。
ヤロブアム王はこの10部族を素晴らしい祝福と勝利に導くことができました。
しかし、この王は他の王のために、主に従わない者はどのようになるか、その実例を作る者となったのです。
II、ユダの堕落
14章21節〜15章24節
A、レハブアム
14章21節〜31節
17年間、ソロモンの子であるこの邪悪な王は主の律法を守るようにイスラエルの民を導いたのではなく、恐ろしい罪の中へと導きました。
レハブアムは、他の邪悪な国々をまねて、イスラエルを敗北へと導きました。
神は彼をエジプトに登らせて、イスラエルを敗北させ、罰したのです。
イスラエルの民は自分たちの霊的な価値を失ってしまいました。
民は高価な金の盾を奪われ、安価な青銅の盾に置き換えました。
この盾は同じ盾に見えたかも知れません。
しかし、神は彼らがもう同じではないことを知っていました。
B、アビヤム
15章1節〜8節
父親に似て、子は罪を行いました。
神は彼に3年間しかこの国を支配を許していません。
「ネバテの子ヤロブアム王の第十八年に、アビヤムはユダの王となり、
エルサレムで三年間、王であった。彼の母の名はマアカといい、アブシャロムの娘であった。
彼は父がかつて犯したすべての罪を行ない、彼の心は父ダビデの心のようには、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。」
新改訳聖書 歴王記第一15章1〜3節
アビヤムの母はアブシャロムとつながりがあることに注意してください。
アビヤムはヤロブアムに戦争を宣言し、ダビテゆえに神は彼に勝利を与えました。
「イスラエル人は、このとき征服され、ユダ人は、勝利を得た。彼らがその父祖の神、主に拠り頼んだからである。
アビヤはヤロブアムのあとを追い、ベテルとそれに属する村落、エシャナとそれに属する村落、エフラインとそれに属する村落など、幾つかの町々を彼から取った。」
新改訳聖書 歴代史第二13章18、19節
しかし、この勝利は単純に軍事的な勝利と見ることができます。
ユダには霊的な復興など存在していないからです。
C、アサ
15章9節〜24節
歴代史第二14〜16章を読むならば、アサは良き王です。
数年間、悪しき支配者であった後に来るべき変化があったのです。
レハブアムによって建てあげられた罪を取り除こうと試みました。
アサがリーダシップを取る中で、安らぎと復興の短い時間がありました。
アサの母は偶像崇拝者でしたが、その罪を暴露しました。
「 アサ王の母マアカがアシェラのために憎むべき像を造ったので、彼は王母の位から彼女を退けた。アサはその憎むべき像を切り倒し、粉々に砕いて、キデロン川で焼いた。」
新改訳聖書 歴代史第二15章16節
悲しいことに、アサは始めに悪しき支配者であったように、その終わりも悪しきところへ帰ってゆきました。
アサは自分を守るために人に信頼し、主に信頼することからも失敗してしまいました。
アサは神殿の富をシリアが戦い、力を付ける為に使い、シリアを雇いました。
この不信仰な外国人はイスラエルに多くの出費をさせることになりました。
D、ヨシャパテ
15章24節
22章41〜50節、そして、歴代史第二17章1節〜21章3節を見てください。
この良き王は偶像を取り除き、神のみことばを民に教えましたが、そこにはそのような歴史が記載されていません
神はヨシャパテに多くの勝利を与えました。
それはヨシャパテについて次のように書かれている王だったです。
「彼がアハズヤを捜したので、人々は彼を捕えた。彼はサマリヤに身を隠していたのである。こうして、人々は、彼をエフーのもとに引いて来て殺したが、これは心を尽くして主を求めたヨシャパテの子であると言って、彼を葬った。アハズヤの家は王国を治める力を失った。」
新改訳聖書 歴代史第二22章9節
III、イスラエルの腐敗
15章25節〜16章34節
ここで6人の王の名が記されています。
始めにナダブ、そして、終わりにアハブの名が記されています。
このすべての王が邪悪な王です。
ナダブは父の邪悪な偶像崇拝を守っています。
ナダブはペリステ人との戦いに間にバシャによって殺されました。
バシャは24年間イスラエルを支配し、14章14、15節にある預言を成就しました。
「主はご自分のためにイスラエルの上にひとりの王を起こされます。彼は、その日、そしてただちに、ヤロブアムの家を断ち滅ぼします。
主は、イスラエルを打って、水に揺らぐ葦のようにし、彼らの先祖たちに与えられたこの良い地からイスラエルを引き抜き、ユーフラテス川の向こうに散らされるでしょう。彼らがアシェラ像を造って主の怒りを引き起こしたからです。」
新改訳聖書 歴王記第一14章14、15節
このことにより、ヤロブアムの子孫がすべて、滅ぼされたのです。
預言者エフーはバシャに対するメッセージを持ってきました。
それはバシャの家の滅亡の預言です。
バシャの子エラは二年弱イスラエルを支配しました。
エラはティルツァの王の家のつかさアルツァの家で酒を飲んで酔っていたとき、戦車隊の半分の長であるジムリによって殺されました。
「彼がティルツァにいて、ティルツァの王の家のつかさアルツァの家で酒を飲んで酔っていたとき、彼の家来で、戦車隊の半分の長であるジムリが彼に謀反を企てた。
ユダの王アサの第二十七年に、ジムリははいって来て、彼を打ち殺し、彼に代わって王となった。」
新改訳聖書 歴王記第一16章9、10節
ジムリは一週間だけイスラエルの国を支配しました。
「ユダの王アサの第二十七年に、ジムリが七日間ティルツァで王となった。」
新改訳聖書 歴王記第一16章15節
その間、ジムリはバシャの家を消し去り、エフーの預言は成就したのです。
「そのとき、ハナニの子エフーにバシャに対する次のような主のことばがあった。
「わたしはあなたをちりから引き上げ、わたしの民イスラエルの君主としたが、あなたはヤロブアムの道に歩み、わたしの民イスラエルに罪を犯させ、その罪によってわたしの怒りを引き起こした。
それで今、わたしはバシャとその家族とを除き去り、あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにする。
バシャに属する者で、町で死ぬ者は犬がこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。」」
新改訳聖書 歴王記第一16章1〜4節
しかし、イスラエルの陣営はオムリをイスラエルの王としました。
「陣を敷いていたこの民は、「ジムリが謀反を起こして王を打ち殺した。」と言うことを聞いた。すると、全イスラエルがその日、その陣営で将軍オムリをイスラエルの王とした。」
新改訳聖書 歴王記第一16章16節
オムリはジムリに反抗し、戻って町を攻めました。
ジムリは宮廷に火を付け、自殺をし、炎の中で滅んでゆきました。
オムリは12年間、イスラエルを支配し、民を更なる罪へと導いています。
(その前に、短い期間ですが、民の反乱に会っています。)
オムリの子、アハブはイゼベルと結婚し、王国に偶像崇拝であるバール崇拝を公に持ち込みました。
オムリは自分の名誉だけを要求し、北王国の首都としてサマリアを建てあげました。
オムリが死に、彼の子アハブが王座に付き、アハブのリーダシップの元、10部族は更なる偶像崇拝と罪の中に落ちてゆきました。
イスラエルの国が偶像崇拝に流れていった時、神は預言者に民の前に出て行き語るように要求していることに注意してください。
私たちは13章において、無名の預言者がいたことを知ります。
そして、やがて、私たちは神がイスラエルにエリヤとエリシャを送られたことをも知ります。
もちろん、エフーとアハブも同様に語られています。
この時、神の民は罪を犯しています。
これは単に神のしもべによって、神のことばが主張されたのではなく、神の民が立ち返り、神のみことばに使えることが要求されています。
「正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。」
新改訳聖書 箴言14章34節
神に忠実な王が支配する時、神はその民を祝福しました。
神に不忠実な王が支配する時、神はその民をさばきと敗北を送りました。
このような偉大な王国が、主によって、霊的な堕落と真理から離れたことを宣言されました。
その通り、これらの王国は物質的な繁栄を得るでしょう。
しかし、神が彼らの行動を喜んでいるわけではなく、このような物質的な繁栄が祝福のしるしとはかぎりません。
事実、何度もこのような物質的な繁栄が民を神から離れさせています。
ベストな道とは神に忠実な国を打ち建てることです。
現在において、忠実な教会の中に忠実な市民を得ることです。
「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。
そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」
新改訳聖書 テモテの手紙第一2章1〜6節
列王記第一17〜18章において、この国は罪と偶像崇拝の中に落ちて行き、神は真実なる信仰に立ち返るように、神の預言者を送りました。
この預言者は単に、来るべき未来を語ったのではありません。
彼は来るべき未来を語る者でしたが、同様に、神のさばきを語り、民の罪を示す者でした。
この預言者はギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤです。
ヤコブの手紙5章17節にはこのように書かれています。
「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。」
新改訳聖書 ヤコブの手紙5章17節
しかし、このような人が勇気と信仰の人となったのです。
この二つの章において、エリヤは主からの二つの命令に従いました。
一つは「身を隠せ」です。
「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。」
新改訳聖書 歴王記第一17章3節
もう一つは「会いに行け」です。
「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」
新改訳聖書 歴王記第一18章1節
I、エリヤの人目に触れない働き
「身を隠せ」
17章
ルカの福音書4章25節において、この干害が3年間続いたことが私たちに語らています。
しかし、歴王記第一18章1節において、私たちはカルメル山での争いが三年目に起きたということを知ります
「わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、
エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。」
新改訳聖書 ルカの福音書4章25、26節
「それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。」
新改訳聖書 歴王記第一18章1節
この干害はエリヤが現れる6ヶ月前から始まっていたことが分かります。
そして、アハブの宮に突然、エリヤが現れたのです。
そして、それ以外に3年間干害があったことが分かります。
雨が降らなくなるということが、民の罪ゆえにたびたび起きていたことが旧約聖書には記されています。
「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、
「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。
また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」
気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。
主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざされないように。そうなると、雨は降らず、地はその産物を出さず、あなたがたは、主が与えようとしておられるその良い地から、すぐに滅び去ってしまおう。」
新改訳聖書 申命記11章13〜17節
「すると、主が夜ソロモンに現われ、彼に仰せられた。「わたしはあなたの祈りを聞いた。また、わたしのために、この所をいけにえをささげる宮として選んだ。
もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、
わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。
今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。」
新改訳聖書 歴代史第二7章12〜15節
アハブのその邪悪な異邦人妻、イゼベルは民をバール崇拝へと導きました。
その不潔な崇拝については、あえて、私たちはそれを描写しません。
それ以外の干害の三年間はエリヤの祈りの結果です。
「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。」
新改訳聖書 ヤコブの手紙5章17節
エリヤのメッセージが伝えられ、預言者は三年間の間、公の舞台からリタイヤしてしまいました。
しかし、この期間、主はこの預言者に対して、恵み深く世話をするのです。
従順なしもべは常に、主の忠実な世話を受けることができます。
エリヤが三つの訓練を経験していることに注意してください。
A、乾いた小川
2〜7節
神はエリヤにどこへ行き、何をすべきかを正確に語りました。
箴言3章5,6節、詩篇37編3〜6節
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
新改訳聖書 箴言3章5,6節
「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。
主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」
新改訳聖書 詩篇37編3〜6節
神は他のイスラエルの罪の結果であるさばきが来た時のように、エリヤをイスラエルから引き出し、働きを止めさせました。
「あなたの聖所に火を放ち、あなたの御名の住まいを、その地まで汚しました。
彼らは心の中で、「彼らを、ことごとく征服しよう。」と言い、国中の神の集会所をみな、焼き払いました。
もう私たちのしるしは見られません。もはや預言者もいません。いつまでそうなのかを知っている者も、私たちの間にはいません。」
新改訳聖書 詩篇74編7〜9節
主はエリヤに小川の水を飲むことを許され、毎日、パンと肉を与え続けました。
後に、主はカラスによって、預言者を養わせることをします。
聖書の次の箇所にカラスという名前が最初に出てきます。
「烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。」
新改訳聖書 創世記8編7節
カラスは清くない鳥です。
神はしもべを助けるのにこのカラスを使いました。
それでも、エリヤは神の示された場所で、パンと肉を喜んでいました。
また、100人の預言者が洞穴の中に隠れていましたが、彼らにはパンと水だけが与えられていたことに注意してください。
「イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、オバデヤは百人の預言者を救い出し、五十人ずつほら穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養った。」
新改訳聖書 歴王記第一18章4節
しかし、この小川も乾ききる時が来たのです。
これはエリヤが罪を犯した結果でしょうか?
それとも、神のみこころに沿わなかった結果でしょうか?
いいえ!
それは、単純に神がエリヤを別の場所に送ろうとしていたからです。
そして、エリヤが小川ではなく、主に信頼させることを思い出させるためです。
B、空っぽのつぼ
8〜16節
いつも、神のみことばは神のしもべを試みの時へと導きます。
しかしながら、なんとも不思議な命令です。
「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」
新改訳聖書 歴王記第一17章9節
そして、ルカの福音書4章22〜26節を見てください。
「みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか。」と彼らは言った。
イエスは言われた。「きっとあなたがたは、「医者よ。自分を直せ。」というたとえを引いて、カペナウムで行なわれたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」
また、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。
わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、
エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。」
新改訳聖書 ルカの福音書4章22〜26節
「ツァレファテ」の意味は「精製される」という意味です。
確かに、神はしもべを激しい試練の中に置きます。
この時、エリヤはこの貧しいやもめをどのように見たのか想像してみてください。
そして、このやもめがこの最後の食事をどのように準備したのかを考えてみてください。しかし、神の命令は何も間違ったことを言っていません。
このやもめはエリヤの命令を守ることにより、神をまず第一に置いたのです。
神は彼女と、彼女の息子と、彼女の家族に食事を提供したのです。
14節を見るならば、エリヤもこの異邦人のやもめをどうするかではなく、イスラエルの神に誉れを帰しています。
「イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。「主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。」」
新改訳聖書 歴王記第一17章14節
私たちは私たちの所有する何かを神に差し出すべきかを、神御自身が私たちに問いかけてきます。
そして、神は私たちの残り物にも気をかけてくださるのです。
神はわずかなパンと魚で多くの人を養うことが出来る方です。
C、少年の死
17〜24節
乾いた小川はエリヤへの試みになりました。
そして、少年の死はやもめへの試みになりました。
大きな祝福は大きな試みによって、導かれるものです。
やもめの信仰は18節に示されているように、失敗に終わる不運なものでしょうか?
詩篇119編75節、そして、サムエル記第一3章18節には、失望と試みに対応するための正しい方法について、記されています。
「主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。」
新改訳聖書 詩篇119編75節
「それでサムエルは、すべてのことを話して、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。」」
新改訳聖書 サムエル記第一3章18節
エリヤはこのやもめにこのように言いました。
「あなたの息子を私によこしなさい。」
新改訳聖書 歴王記第一17章19節
エリヤは神が再び、この少年に命を与え、死からよみがえることを知っていました。
これは聖書の中で、一番最初の復活の実例です。
この預言者はこの少年の死体を自分のいる客間(屋根裏部屋)に持ってゆき、この少年の命のために祈りました。
彼はこの少年の死んだ体の上に自分の身を伏せて、苦しんだのです。
今日において、霊的に死んだからだが復活するという、私たちにとっての良い実例となっています。
この奇跡はこの女によって、信仰の証に至りました。
U、エリヤの公な働き
18章1節にこのように書かれています。
「アハブに会いに行け。」
新改訳聖書 歴王記第一18章1節
人目につかずに、訓練と試みがなされました。
預言者は今、公にその職務につくことができます。
神は、今、エリヤに邪悪な王、アハブに会いに行くように命令しました。
「アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前のイスラエルのすべての王たちにまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行なった。」
新改訳聖書 歴王記第一16章33節
私たちは一つのメッセージを語るために、エリヤが三年間忍耐したことを学ばなければなりません。
A、エリヤとオバデヤ
1〜16節
オバデヤは妥協したしたクリスチャンを描写しています。
オバデヤの生き方はエリヤとは対照的です。
エリヤは恐れなく、人前で主に仕えました。
オバデヤはアハブに仕えていました。
「オバデヤがその道にいたところ、そこへ、エリヤが彼に会いに来た。彼にはそれがエリヤだとわかったので、ひれ伏して言った。「あなたは私の主人エリヤではありませんか。」
エリヤは彼に答えた。「そうです。行って、あなたの主人に「エリヤがここにいます。」と言いなさい。」
新改訳聖書 歴王記第一18章7、8節
そして、ひそかにエホバに仕えようと試みていました。
「アハブは王宮をつかさどるオバデヤを呼び寄せた。――オバデヤは非常に主を恐れていた。
イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、オバデヤは百人の預言者を救い出し、五十人ずつほら穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養った。」
新改訳聖書 歴王記第一18章3、4節
エリヤは幕屋の外にいたのです。
「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章13節
オバデヤは宮の中にいました。
エリヤは神のみこころを知っていました。
オバデヤはどこへ行くべきか知りませんでした。
エリヤはイスラエルの国を救うために働いていました。
オバデヤは馬とラバを救うために草を探していました。
エリヤがオバデヤに直面した時、この恐れおののくしもべはエリヤを信頼していませんでした。
オバデヤはエリヤに印象付けるために、隠れているしもべたちと一緒に祈っていることについて、自慢をしていることに注意してください。
「あなたさまには、イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、私のしたことが知らされていないのですか。私は主の預言者百人を五十人ずつほら穴に隠し、パンと水で彼らを養いました。」
新改訳聖書 歴王記第一18章13節
私たちは十分にエリヤとして歩んでいるのではなく、多く時においてオバデヤのように歩んではいないでしょうか!
B、エリヤとバール
30〜46節
この預言者の王アハブと会うことを恐れてはいません。
もしくは、この王に真実を語ることを恐れてもいません。
この邪悪な王はこの世にあって、神を信じる者たちを苦しめ、非難してきた者です。
この邪悪な王は自分の罪を恥とは思っていません。
エリヤとアハブは何かを競い合っているのではありません。
この争いは神とバールとの争いです
17〜29節
イスラエルはこの二つの道の間でしなび果て、ゆらいでいます。
その結果、この国は欺きの中を歩んでいます。
「そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに。」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。」
新改訳聖書 出エジプト記32章26節
「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」」
新改訳聖書 ヨハネの福音書24章15節
「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」
新改訳聖書 マタイの福音書12章30節
民は罪と直面し、この民は何も答えることができません。
「エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。」
新改訳聖書 歴王記第一18章21節
エリヤはこの大切な状況のために尋ねました。
また、真実なる神は火とともに答えられました。
もちろん、エリヤは主はたびたび、歴史の中で、火とともに答えてきたことを知っていました。
「主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。」
新改訳聖書 レビ記9章24節
「こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげて、主に呼ばわった。すると、主は全焼のいけにえの祭壇の上に天から火を下して、彼に答えられた。」
新改訳聖書 歴代史第一21章26節
神のしもべは仕え、神のみことばに信頼しました。
しもべには失敗という恐れる必要はありません。
もちろん、バールは働くことができませんので、答えることなどできません。
悪魔には火を送り、民をだますこともできました。
しかし、神はそれを許しませんでした。
エリヤはバールの預言者を非難しています。
「天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。」
新改訳聖書 詩篇 2章4節
この偶像崇拝者たちは偽りの神への祈りの答えを得ようとしています。
これは最高の偽りごとであり、おどろくべきことです。
詩篇115編をみてください。
「彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。
口があっても語れず、目があっても見えない。
耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。
手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。」
新改訳聖書 詩篇 115章4〜7節
夕方のささげものを捧げる時(午後3時)でした。
その時、バールは偽りの神であり、答えることができないことがはっきりしたのです。
C、エリヤとイスラエル
バール崇拝の罪とおろかさが明らかにされました。
しかし、それはエリヤにとって、その日の半分の仕事が終わったにすぎません。
イスラエルを真実なる神に立ち返らすことはもっと重要な仕事だからです。
エリヤは単にイスラエルを改修させようとしたのではありません。
エリヤはイスラエルを真の神に回復させたかったのです。
最初に、エリヤは祭壇を建て直しました。
これは、これ以上、イスラエルの民が堕落しないようにです。
これは祝福への最初のステップだったのでしょうか?
祈りの祭壇は個人的に建て直すものです。
また、家族の祭壇、ささげ物の祭壇、神と交わりの祭壇はそれぞれが建て直すものです。12の石を使うことによって、エリヤはイスラエルが一つであることを思い出させました。
それは長い間、この国は分かれていたからです。
誰もが、火が付くなど不可能と考えていたでしょう。
木の上でエリヤは「四つのかめに水を満たし」、3回、このたきぎの上に注ぎました。
「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ。」と命じた。ついで「それを二度せよ。」と言ったので、彼らは二度そうした。そのうえに、彼は、「三度せよ。」と言ったので、彼らは三度そうした。」
新改訳聖書 歴王記第一18章34節
これで12個分の水かめに水を満たしたことになります。
この預言者は単純な信仰の祈りをしました。
この炎の神は木、水、祭壇を焼きつくしました。
しかし、エリヤはいまだに働くべきことがありました。
この四百五十人の偽りの預言者たちを殺すことです。
「あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、
あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、
その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。
あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。
その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない。その者は、あなたがたをエジプトの国から連れ出し、奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、主に、あなたがたを反逆させようとそそのかし、あなたの神、主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。」
新改訳聖書 申命記13章1〜5節
「主こそ神です。主こそ神です。」
新改訳聖書 歴王記第一18章39節
この告白は私たちにとって、十分な知識ではありません。
この告白は憎むべき、邪悪で、私たちのいのちを取り去る告白です。
また、いつも、さばきは祝福への道です。
この預言者は王に自分の家に帰るように言い、その途中、雨が降ってきました。
バールは雨の神と言われていました。
しかし、バールは火も、雨も送ることは出来ません。
この王は自分のやるべきことを始めたように、エリヤは雨のために祈り始めました。
まさに、三年半前、エリヤが雨が降らないように祈ったようにです。
「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。」
新改訳聖書 ヤコブの手紙5章17節
エリヤはどのように見て、どのように祈るべきか知っていました。
そして、神が祈りの答えを送るまで、どのように貫くべきかを知っていました。
「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙4章2節
神は罪がさばかれるまでの、祝福のシャワーを送っていたのではありません。
その前に、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となりました。
神は王と王の戦車がイズレエルに走りよって来る前に、エリヤの超人的な強さを与えました。
私たちにとって、人前で神とともにいることよりも、個人的に神とともに歩むことの方がはるかに優れていることを知ります。
そうです。
私たちの隠れた歩みは、私たちの公の歩みのためにあるのです。
私たちのクリスチャンとしても訓練は、このように乾いた大地、もしくは、からのつぼ、死んだ少年のようであり、このような訓練が無い限り、カルメル山の勝利はありえないのです。
「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
新改訳聖書 イザヤ書40章31節
歴王記第一19章において、18章にある勝利の場面とはまったく、反対の場面を見ることができます。
このような偉大な祝福の後に、私たちはこのような試みに出会うことをよく知っています。
ここで、この信仰の人は主から目が離れてしまい、人の目を恐れるようになりました。
エリヤはこの成功から、失敗に移ってしまったのです。
しかし、神はこのしもべをやさしく、取り扱っています。
I、神によるエリヤの再生
19章1〜8節
ヤコブの手紙5章17節は私たちに感情的な人であることを思い出せます。
エリヤは私たちと同じように粘土つくりの人であり、同じ試みと失敗を経験した人なのです。
「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。」
新改訳聖書 ヤコブの手紙5章17節
エリヤは恐れず、850もの怒りに燃えた預言に直面したとはなんとも強い人でした。
しかし、エリヤは一人の女の脅かしから逃げていたのです。
たしかに、そこには彼の失敗から来る、目に見えた原因がありました。
カルメル山であった、この大きな争いは、疑うことなく、エリヤを恐れさせ、彼を感情的へと流してしまいました。
クリスチャンは強烈な働きと犠牲の後に特別な時を持ちます。
これらの出来事のようにこの時を気をつけなければなりません。
「そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。」
新改訳聖書 マルコの福音書6章31節
しかし、この主な要因はエリヤの霊的な失敗にあります。
エリヤはイゼベルを見て、主を見ることに失敗してしまったのです。
エリヤはイゼベルの脅しを見て、神の約束を待つということに失敗し、これらを学びました。
しかしながら、すべてのエリヤの歩みにおいて、エリヤは神の命令を待ちました。
「それから、彼に次のような主のことばがあった。
「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」
新改訳聖書 歴王記第一17章2〜4節
「すると、彼に次のような主のことばがあった。
「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」」
新改訳聖書 歴王記第一17章8、9節
「それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」」
新改訳聖書 歴王記第一18章1節
「ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。」
新改訳聖書 歴王記第一18章36節
しかし、今、エリヤは恐れ、短気へと導いています。
そして、短気は不従順へと導きます。
「だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」
新改訳聖書 イザヤ書28章16節
もはや、エリヤは神の栄光のために自分のいのちに危険を願っていません。
むしろ、エリヤは自分のために自分のいのちを守ろうと試みています。
良き人の歩みは神の栄光のために生きようとします。
「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。」
新改訳聖書 詩篇37篇23節
しかし、この不信仰と不従順な歩みをする預言者は単に、自分を悪い問題の中に導いているのです。
エリヤはアハブの娘がヨラムともに支配するユダへと逃げました。
「イスラエルの王アハブの子ヨラムの第五年に――ヨシャパテがユダの王であったが――ユダの王ヨシャパテの子ヨラムが王となった。
彼は三十二歳で王となり、エルサレムで八年間、王であった。
彼はアハブの家の者がしたように、イスラエルの王たちの道に歩んだ。アハブの娘が彼の妻であったからである。」
新改訳聖書 歴王記第二8章16〜18節
エリヤはより大きな危険の中へと80マイル以上の旅をしたのです。
待っていたのは落胆だけでした。
エリヤは自分のしもべをそこに残し、荒野の中へと旅をしました。
他の誰かと歩むことは良き道です。
一人でいることは良くないことです。
しかし、孤独と落胆は時々、共に歩むことがあります。
目に見えることと、感情は共に助け合うでしょう。
エリヤは眠りに付き、横になる前に祈りこのように言いました。
「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。」
新改訳聖書 歴王記第一19章4節
モーセも落胆したときにこの祈りを捧げました。
「私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」
新改訳聖書 民数記11章15節
また、ヨナも同じ祈りをしました。
「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」
新改訳聖書 ヨナ書4章3節
エリヤは食事をし、再び眠りに付きました。
私たちは罪の告白、悔い改めをここで見ることはできません。
単に、エリヤがここで降参しただけに見えます。
そうです。
神はエリヤに次のチャンスを与えました。
エリヤは、この時、立ち上がり、この旅を再び始めました。
主の手はエリヤをホレブ山に導きました。
そこで、モーセは神からの要求と律法を受け取ったのです。
出エジプト記3章を見てください。
神の子供が信仰を無くし、落胆した時に知るべきことによって、エリヤは力づけられました。
神は恵みをもって、エリヤを取り扱ったのです。
II、神のエリヤに対する叱責
19章9〜18節
神のみことばはほら穴にいるエリヤに送られました。
「彼はそこにあるほら穴にはいり、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と仰せられた。」
新改訳聖書 歴王記第一19章9節
いつの時であっても「ここで何をしているのか」、私たち自身に対して、もっとも良き質問です。
エリヤの答えはエリヤの落胆した状態を良く現しています。
エリヤはイスラエルで主に対して忠実なのは自分だけではないかと感じていました。
そして、エリヤは自分を弁護して、プライドと願望が告白されています。
エリヤはここで、自分が主と共に歩んできたことを主張しています。
しかし、主はエリヤに他の方法で教えなければなりませんでした。
エリヤは主に降参しなければなりません。
主はなぜ、風を送ったのでしょう。
なぜ、地震を送ったのでしょう。
なぜ、火を送ったのでしょう。
神は困惑した預言者を教え、その者に自分の価値を知らせる有効な多くの道具を持っています。
神のその性質において、従順なしもべに教えるために足りないことなどありえません。
「ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ。
主をほめたたえよ。すべての御使いよ。主をほめたたえよ。主の万軍よ。
主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。
彼らに主の名をほめたたえさせよ。主が命じて、彼らが造られた。
主は彼らを、世々限りなく立てられた。主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。
地において主をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。
火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行なうあらしよ。
山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。
獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。」
新改訳聖書 詩篇148編1〜10節
神は人を自分に似させて造りました。
ですから、神に従わないものなど存在しないはずです。
この不信仰になってしまった預言者は神の叱責を受けなければなりません。
さらに、小さな声が嵐の後に来ました。
神はエリヤの働きが常に大きく、騒がしいことだけではないことを彼に示しました。
カルメル山でのエリヤの働きは素晴らしいものです。
しかし、イスラエルにおいて、民の心において、霊的な働きが成就し続けなければなりません。
エリヤは主のみことばによって、激しく、大きな事件が起きる事を期待していました。
しかし、時には、神は小さきことを述べています。
これは私たちに「神に用いる道」について指示を受けているのではなく、単に神に信頼し、従うための私たちの義務です。
「帰って行け」、神のみことばが預言者に伝えられました。
エリヤは自分自身を守るために、二回目の時が与えられたのです。
主はエリヤに、主に仕えるため別の時を与え、次のようなチャンスを与えました。
「主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。
また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ」
新改訳聖書 歴王記第一19章15、16節
つまり、主はエリヤに「もう、不満を言ったり、自分の失敗を見て悔やんでいるのはやめ、自分の職務に帰りなさい」と言われているのです。
本当にこれは良き答えです。
III、神によるエリヤの復興
19章19〜21節
神がエリヤにイスラエルに七千人の忠実な者がいることを確信させ、エリヤを勇気付けたことは素晴らしい方法だと言えます。
「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」
新改訳聖書 歴王記第一19章18節
しかし、私たちは驚くべきことがあります。
七千人の忠実な者がいながら、エリヤだけがカルメル山に立ったのです。
私たちは彼らがどこで良き働きをしていたのか、知ることができません。
しかし、神はそのすべての働きが重要だったことを知っていました。
エリヤの働きはここで閉じようとしています。
エリヤは自分の後継者を選び、神のみことばを宣言する働きを続ける準備をしています。エリヤが離れても、自分の仕事が続けられることを知った今、エリヤは非常に勇気付けられました。
ここには私たちに対する実際的な訓練があります。
もし、主からのみことばによってメッセージを待ち、かつ、そこにとどまるのなら、主は私たちに必要な勇気付けをしてくださるでしょう。
このように、エリヤの最初のステップはエリシャを自分の後継者として指名することでした。
これはエリヤが平原で働いていたことを示す、外套をエリヤからエリシャに着させることによって行われました。
エリヤと同じ力と権威によって、預言がエリシャによって行われるという事実を象徴的に行ったのです。
エリシャは愛する者に手短な別れを言いました。
彼にこのような別れを言うことが許されましたが、このような別れはすでに過ぎ去った時に対して行うものです。
エリシャには新しい職務が待っていました。
「別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」
するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」」
新改訳聖書 ルカの福音書9章61、62節
神は私たちに要求しています。
私たちはすぐに神に従い、自分に関することを最初に置かないということです。
しかし、エリシャは牛の用具で調理し(燃やし)、自分の過去に決着を付けています。
つまり、牛の用具はもう使わないということです。
エリシャは自分の過去を燃やしたのです。
そして、この食事はエリヤの家族に食べさせたと書いてありますが、それ以上にいままでの自分の人生に別れを告げているのです。
「エリシャは引き返して来て、一くびきの牛を取り、それを殺し、牛の用具でその肉を調理し、家族の者たちに与えてそれを食べさせた。それから、彼は立って、エリヤについて行って、彼に仕えた。」
新改訳聖書 歴王記第一19章21節
そして、すぐにこの食事を終わりにして、エリシャは起き上がり、自分の主人に従い、自分の職務に付きました。
エリヤはすぐにハザエルに油を注がず、後にエリシャがこれを行っています。
「王はハザエルに言った。「贈り物を持って行って、神の人を迎え、私のこの病気が直るかどうか、あの人を通して主のみこころを求めてくれ。」
そこで、ハザエルはダマスコのあらゆる良い物をらくだ四十頭に載せ、贈り物として携えて、彼を迎えに行った。彼は神の人の前に行って立ち、そして言った。「あなたの子、アラムの王ベン・ハダデが、「この病気は直るであろうか。」と言ってあなたのところへ私をよこしました。」
エリシャは彼に言った。「行って、「あなたは必ず直る。」と彼に告げなさい。しかし、主は私に、彼が必ず死ぬことも示された。」
神の人は、彼が恥じるほど、じっと彼を見つめ、そして泣き出したので、
ハザエルは尋ねた。「あなたさまは、なぜ泣くのですか。」エリシャは答えた。「私は、あなたがイスラエルの人々に害を加えようとしていることを知っているからだ。あなたは、彼らの要塞に火を放ち、その若い男たちを剣で切り殺し、幼子たちを八裂にし、妊婦たちを切り裂くだろう。」
ハザエルは言った。「しもべは犬にすぎないのに、どうして、そんなだいそれたことができましょう。」しかし、エリシャは言った。「主は私に、あなたがアラムの王になると、示されたのだ。」
彼はエリシャのもとを去り、自分の主君のところに帰った。王が彼に、「エリシャはあなたに何と言ったか。」と尋ねると、彼は、「あなたは必ず直る、と彼は言いました。」と答えた。
しかし、翌日、ハザエルは毛布を取って、それを水に浸し、王の顔にかぶせたので、王は死んだ。こうして、ハザエルは彼に代わって王となった。」
新改訳聖書 歴王記第二8章8〜15節
同じようにエリシャはエフーにも油を注いでいます。
「預言者エリシャは預言者のともがらのひとりを呼んで言った。「腰に帯を引き締め、手にこの油のつぼを持って、ラモテ・ギルアデに行きなさい。
そこに行ったら、ニムシの子ヨシャパテの子エフーを見つけ、家にはいって、その同僚たちの中から彼を立たせ、奥の間に連れて行き、
油のつぼを取って、彼の頭の上に油をそそいで言いなさい。「主はこう仰せられる。わたしはあなたに油をそそいでイスラエルの王とする。」それから、戸をあけて、ぐずぐずしていないで逃げなさい。」」
新改訳聖書 歴王記第二9章1〜3節
どうであろうと、エリヤがエリシャに油を注いたので、エリシャはエリヤの職務を引き継ぎ、間接的にエリヤがこれらの者に油注いだことになります。
事実、エリシャは11人の他の者たち(おそらく、父親のしもべたち。十二くびきの牛がいたので、世話をしている他の者たちがいたはず)によって、手伝いをされていたのです。
つまり、エリシャは裕福な家に生まれた者でした。
あなたが聖書を読むのなら、神がこのように忙しい人たちを召していることに気が付きませんか?
モーセは羊の世話をしていました。
ギデオンは脱穀をしていました。
ペテロ、ヤコブ、そして、ヨハネは忙しい漁師でした。
ネヘミヤは王に杯を持って行く仕事をしていました。
神は怠惰な生活をして者たちを使いません。
エリシャは自分の家族、自分の家と財産をあきらめ、確かに彼は自分の信仰に従い、自分自身を捨てたのです。
エリシャはエリヤが天に昇るまで、自分を潜めていましたが、その時からエリシャの働きが始まりました。
「主がエリヤをたつまきに乗せて天に上げられるとき、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った。」
新改訳聖書 歴王記第二2章1節
エリヤの働きはまさに「地震であり、火であり、風」でした。
しかし、エリシャの働きはまさに「小さな声」なのです。
もちろん、エリシャの働きにはさばきが語られていました。
それは罪はさばかれなければならないからです。
エリヤの生涯において、エリヤは責任と落胆を繰り返し経験し、良き警告がなされました。
しかし、私たちはエリシャが何も完成したとは感じることができません。
神は私たちに理解させることより、私たちを用いようとしているのです。
そして、私たちは真実だけを得ようと考えることは危険なことであることを学ぶことができます。
もちろん、預言者と共に立つ7千人の隠れた者を知ることは良いことです。
このエリヤの苦い態度はエリヤの働きを邪魔するものでした。
勇気を無くした時の最高の決断はイザヤ書40章31節に書かれている通りに、主を待つことです。
「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
新改訳聖書 イザヤ書40章31節
歴王記第一20〜22章
アハブはイスラエルの邪悪な王としてその歴史から姿を消しました。
「オムリの子アハブは、ユダの王アサの第三十八年に、イスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリヤで二十二年間、イスラエルの王であった。
オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行なった。
彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。
さらに彼は、サマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。
アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前のイスラエルのすべての王たちにまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行なった。」
新改訳聖書 歴王記第一16章29〜33節
「彼は偶像につき従い、主がイスラエル人の前から追い払われたエモリ人がしたとおりのことをして、忌みきらうべきことを大いに行なった。」
新改訳聖書 歴王記第一25章26節
アハブの異邦の妻、イゼベルはアハブの影でアハブを支配し、イスラエルで公にバール崇拝をするように言った女です。
アハブは自分自身を邪悪な働きへと売り飛ばしたのです。
「アハブがエリヤに、「あなたはまた、私を見つけたのか。わが敵よ。」と言うと、エリヤは答えた。「あなたが裏切って主の目の前に悪を行なったので、私は見つけたのだ。」
新改訳聖書 歴王記第一21章20節
「アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行なった者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである」
新改訳聖書 歴王記第一25章25節
これらの章において、私たちはアハブの罪と神からのアハブに対する最後のさばきを見ました。
I、アハブの防衛
20章
A、挑戦
1〜12節
シリアの王は膨大な軍隊を三十二人の王を従えて、サマリヤを脅しました。
この王は王の財産と家族を求めました。
そして、アハブはそれに従おうとしました。
しかし、彼らは王宮を戦利品として求めましたが、その時、アハブはこれを拒みました。アハブは勇気を出そうと試みましたが、彼は終わりが近いことを知りました。
アハブは主と共に歩んでいたのなら、この王か自分の問題を解決することができたでしょう。
しかし、バール信仰はアハブから取り去ることができませんでした。
B、征服
13〜30節
主はこの王とイスラエルの民を救うためのステップを踏みました。
もちろん、アハブにその価値があったからではありません。
しかし、神はシリアに対して、さばきの時を待っていたのです。
ある無名な預言者がその恐ろしい王にメッセージを伝えました。
アハブはそのメッセージにすぐに答え、彼はそのメッセージを信じたのです。
「ちょうどそのころ、ひとりの預言者がイスラエルの王アハブに近づいて言った。「主はこう仰せられる。「あなたはこのおびただしい大軍をみな見たか。見よ。わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主であることを知ろう。」」
アハブが、「それはだれによってでしょうか。」と尋ねると、その預言者は言った。「主はこう仰せられる。「諸国の首長に属する若い者たちによって。」」アハブが、「だれが戦いをしかけるのでしょうか。」と尋ねると、「あなただ。」と答えた。」
新改訳聖書 歴王記第一20章13、14節
アハブはファイトを持つ人ではありませんが、アハブに与えられた最後の希望に頼ったのです。
アハブはすぐに主のみことばに従いました。
そして、このシリアの膨大な軍隊の前にこの王は小さな軍隊を送りました。
神はイスラエル人に大きな勝利を与えたのです。
この王は戦いを導くために自分自身で出て行き、大きな栄光を持って戦いは終了しました。
シリヤはイスラエルの神は山だと勝利ができ、平野や丘では勝利ができないと結論付けました。
シリヤは他のチャンスを狙い、侵略しようと考えたのです。
もう一度、神は哀れみをもって、この邪悪な王にメッセージを送りました。
そして、主はイスラエルに別の大きな勝利を与えました。
C、妥協
31〜43節
なんと、悪魔はこの戦いを終わらせるのではなく、同盟を結ばせたのです。
悪魔はアハブを敵と邪悪な妥協へと導いたのです。
敵の王とそのしもべたちは悔い改めたふりをしました。
また、彼らは誇り高ぶったアハブの前で謙遜を装い、うぬぼれた王はだまされたのです。
「ベン・ハダデはあなたの兄弟です。」
新改訳聖書 歴王記第一20章33節
このようにイスラエルの敵であるベン・ハダデは言いました。
この二人の王は平和の契約を結び、アハブはベン・ハダデに生きることを許しました。
これは直接的な、主のみことばに対する不従順です。
無名な預言者は自分のともがらに殺してくれと頼みました。
しかし、彼はこの王に宣告された神のさばきの判決を見ようとしました。
この預言者は逃げた囚人の話をすることによって、王の犯した罪と罪はさばかれるべきだという告白を聞くことができました。
「王が通りかかったとき、彼は王に叫んで言った。「しもべが戦場に出て行くと、ちょうどそこに、ある人がひとりの者を連れてやって来て、こう言いました。「この者を見張れ。もし、この者を逃がしでもしたら、この者のいのちの代わりにあなたのいのちを取るか、または、銀一タラントを払わせるぞ。」
ところが、しもべが何やかやしているうちに、その者はいなくなってしまいました。」すると、イスラエルの王が彼に言った。「あなたはそのとおりにさばかれる。あなた自身が決めたとおりに。」
新改訳聖書 歴王記第一20章39、40節
サムエル記第二でナタンがダビテに対して、同じ方法を使いました。
「すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。
その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」
ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。」
新改訳聖書 サムエル記第二12章5〜7節
アハブは多くの民と共に死にました。
彼は愚かにも、神のみことばに従わなかったからです。
神は神の恵みによって、イスラエルは全体的には敵から守られたことを覚えていてください。
この王は守られる価値などありません。
むしろ、その価値があったのは民の方でした。
神はすでにアハブが死ぬことに同意していました。
ベン・ハダデによらずして、ハザエルによるのです。
今はまだ、その時ではないのです。
「主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。
また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。」
新改訳聖書 歴王記第一19章15、16節
神はそのみことばを実行に移します。
神はみこころを成就させるのに急いでいるのではありません。
神は哀れみを持って悔い改めの時を人に与え続けているのです。
II、アハブのだましごと
21節
A、罪
1〜16節
邪悪なこころは続き、後に欲望に変わってゆきました。
さらに、この王は自分のこころの渇きを偶像崇拝で満足させようとしました。
今、彼は自分の目の前にあるぶどう園を欲しがり、愚痴をこぼしています。
それはこのぶどう園の持ち主は神のみことばに対して、不従順な者ではなかったからです。
神がこのぶどう園の持ち主にぶどう園を与えたからです。
「地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。」
新改訳聖書 レビ記25章23節
「イスラエル人の相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人は、おのおのその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからである。」
新改訳聖書 民数記36章7節
女王であるイゼベルは、このぶどう園の持ち主であるナボテを偽りの告発者によって告発させ、この問題を解決しようしました。
彼女は自分の夫の名前を使い、手紙を偽造し、宗教的な問題を装い、その問題を扱いました。
ナボテにはそのような罪がありませんでした。
王アハブとバール崇拝の妻の欲望をかなえる為に石投げによって殺されたのです。
エレミヤ書17章9節にはこのように書かれています。
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」
新改訳聖書 エレミヤ書17章9節
B、さばき
17〜29節
神は何が起きたのかを知っていました。
神はこの問題を解決するためにこの邪悪な王にエリシャを送りました。
もちろん、盲目的な異邦人の預言者は二人の王への欲望を満たし、勝利を約束しました
しかし、これらの約束は恐ろしいものとして聞こえたのです。
ヨシャパテは主の預言者から聞きたかったのです。
ミカヤだけが認められた預言者でしたが、彼は囚人でした。
彼らはミカヤに人を送り、彼のメッセージを求めました。
神は皮肉にも、ミカヤに異邦人預言者の約束を繰り返して言わせました。
王は単にまねていることも知っていました。
失われた者が主からの聞くことを欲していますが、真実を聞き、従う気がありません。
これは特に変わった出来事ではありません。
ミカヤは真実を語っています。
異邦人預言者たちはうそを語ることが通常です。
王アハブはその戦いで死に、イスラエルは散らされるからです。
忠実な預言者は自分の働きのために何を受け取ったのでしょうか?
牢屋の中で、パンと水を受け取りました。
しかし、彼は主に対して忠実であり、すべてが見られていました。
アハブは自分で偽装し、無益に死にました。
兵隊たちが王を最初に殺そうとしていたからです。
(パウロはエペソ人への手紙6章において、この考えについて語っています。
パウロは肉と血に対して戦ってはならないこと、そして、いのりとみことばによって悪魔と戦うことを語っています。
一度、王を負かしたのなら、後は簡単なはずです。)
「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙6章18節)
ヨシャパテは王服を着て戦いに出て行き、主は彼を守りました。
しかし、アハブは変装し、殺されてしまいました。
34節において、兵隊が十分に目標を定めないまま打たれた矢によって、命中し、打たれたことが記されています。
主がアハブを適切なターゲットにしたのです。
主のさばきが来たのです。
道具も変装も、罪人を守ることは出来ません。
イスラエルは戦いに負け、王を失いました。
その王はサマリヤに葬られました。
血のついた戦車は池で洗われ、犬がその血をなめました。
神の約束が成就しました。
「彼は王に言った。「主はこう仰せられる。「わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたから、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は彼の民の代わりとなる。」」
新改訳聖書 歴王記第一20章42節
「彼にこう言え。「主はこう仰せられる。あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ。」また、彼に言え。「主はこう仰せられる。犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。」」
新改訳聖書 歴王記第一21章19節
アハブの邪悪な子、アハズヤがアハブの後を支配しました。
イスラエルは罪に満ちた道を歩み続けることになります。
アハブ王は偉大な兵士として、イスラエルを勝利と平和へと導きました。
真実をもって、主に従いました。
しかし、アハブのもとへやってきた、バール崇拝を持った侵入者たち、そして、悪に満ちた神無き妻であるイゼベルが、アハブを敗北に導いたのです。
アハブは軍隊を神の力をもって勝利へと導きました。
しかし、自分自身は律法に従うことことを拒みました。
アハブはさばきが宣言された時、外見においては謙遜であり、さばきの執行さえも停止されました。
しかし、最後には悔い改めたことさえも忘れるようになったのでしょう。
三年半の間、干害が起き、カルメル山において、偉大な神の栄光が実行されました。
アハブは自分自身を悪に売り飛ばしたのです。
彼は悔い改めていません。
アハブは旧約聖書の偉大な預言者であるエリやから聞きましたが、それでも、彼は悔い改めていません。
アハブは22年間、神から離れ、このイスラエルの国を支配しました。
列王記第二 1〜4章
エリヤとエリシャの何度も対照的な面が見られました。
エリヤは劇的な時代に突然現れ、まさに火のような預言者でした。
その反面、エリシャは教師的な預言者で、民のために、個人的に現われ仕えて行きました。
エリヤは騒ぎの真っ只中の山々に現われ、エリシャは平和な山々へと行きました。
エリヤは兵士的なしもべでしたが、エリシャは民との交わりを楽しむしもべでした。
広い意味で話すのであれば、エリヤはイスラエルが神の元へ帰るように、さばきの預言者でしたが、エリシャは滅びたイスラエルの残りの民の元に使わされた恵みの預言者なのです。
I、エリヤの後を継いだエリシャ
1〜2章
A、火のさばき
1章
列王記第一22章の最後の3節において、アハズヤ王の邪悪なこころは、いくつかの神のさばきによって動かされたことがなかったことが私たちに知らされています。
「アハブの子アハズヤは、ユダの王ヨシャパテの第十七年にサマリヤでイスラエルの王となり、二年間、イスラエルの王であった。
彼は主の目の前に悪を行ない、彼の父の道と彼の母の道、それに、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの道に歩んだ。
すなわち、彼はバアルに仕え、それを拝み、彼の父が行なったと全く同じように行なって、イスラエルの神、主の怒りを引き起こした。」
新改訳聖書 歴王記第一22章51〜53節
私たちはモアブの反乱、もしくは、転落による怪我によっても、アハズヤへ悔い改めを起こさせなかったことを知ることができます。
事実、アハズヤは異国の神々に、自分の病気が直るか、直らないかを伺いを立てるために使いを送っています。
主はエリヤに主からの真実なメッセージを送り返すように命じています。
「そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに告げた。「さあ、上って行って、サマリヤの王の使者たちに会い、彼らに言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。
それゆえ、主はこう仰せられる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」それで、エリヤは出て行った。」
新改訳聖書 歴王記第二1章3、4節
その王は死ぬのです。
そして、エリヤは離れて行きました。
新約聖書のヨハネの福音書12章35、36節にはこのようなたとえ話があります。
「イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書12章35、36節
むしろ、エリヤの神に服従したというよりも、この王は預言者を殺そうとしていたのです。
しかし、天からの火がこの王の使いたちを滅ぼしたのです。
「そこで、アハズヤは五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。彼がエリヤのところに上って行くと、そのとき、エリヤは山の頂にすわっていた。彼はエリヤに、「神の人よ。王のお告げです。降りて来てください。」と言った。
エリヤはその五十人隊の長に答えて言った。「もし、私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたと、あなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から火が下って来て、彼と、その部下五十人を焼き尽くした。
王はまた、もうひとりの五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。彼はエリヤに答えて言った。「神の人よ。王がこう申しております。急いで降りて来てください。」
エリヤは彼らに答えて言った。「もし、私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたと、あなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から神の火が下って来て、彼と、その部下五十人を焼き尽くした。
王はまた、第三の五十人隊の長と、その部下五十人を遣わした。この三人目の五十人隊の長は上って行き、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。「神の人よ。どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちとをお助けください。
ご承知のように、天から火が下って来て、先のふたりの五十人隊の長と、彼らの部下五十人ずつとを、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちはお助けください。」
主の使いがエリヤに、「彼といっしょに降りて行け。彼を恐れてはならない。」と言ったので、エリヤは立って、彼といっしょに王のところに下って行き、
王に言った。「主はこう仰せられる。『あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てにやったのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは、上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」
新改訳聖書 歴王記第二1章9〜16節
このさばきは主からのさばきです。
エリヤが行ったのではありません。
この預言者の動機は単に、主の栄光のためです。
ルカの福音書9章51〜56節までをこの出来事を間違って使っています。
「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、
ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町にはいり、イエスのために準備した。
しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。
弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」
しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。
そして一行は別の村に行った。」
新改訳聖書 ルカの福音書9章51〜56節
三つ目の兵士たちの集まりは謙遜にやってきました。
もちろん、信仰ではなく、単に恐れからです。
神は彼らを受け取りました。
恐れることなく、エリヤは王にさばきのメッセージを伝え、その王はその通りに死にました。
B、火の戦車
2章
列王記第一19章20節において、エリシャはエリヤに忠実に従ってゆくことを約束しています。
「エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。「私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」
新改訳聖書 列王記第一19章20節
しかし、エリヤが離れて行く時が来て、この約束が遂行できなくなりました。
エリシャは自分の師に10年間仕えてきました。
エリヤはこの時、自分が離れてゆくことをエリシャに語りました。
エリシャは手短な手段を取り、そこに残り、9〜15節にあるすべての祝福、分け前を手にすることは出来ていません。
「渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。
エリヤは言った。「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」
こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。
エリシャはこれを見て、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。」と叫んでいたが、彼はもう見えなかった。そこで、彼は自分の着物をつかみ、それを二つに引き裂いた。
それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。
彼はエリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主は、どこにおられるのですか。」と言い、彼が再び水を打つと、水が両側に分かれたので、エリシャは渡った。
エリコの預言者のともがらは、遠くから彼を見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている。」と言い、彼を迎えに行って、地に伏して彼に礼をした。」
新改訳聖書 歴王記第二2章9〜15節
二つの分け前というエリシャの要求は、忠実であった分け前だったのです。
申命記21章17節を見てください。
「きらわれている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から、二倍の分け前を彼に与えなければならない。彼は、その人の力の初めであるから、長子の権利は、彼のものである。」
新改訳聖書 申命記21章17節
何年も前に、エリヤは荒野で死ぬことを願っていました。
何とも素晴らしいことです。
神はその要求に答えていません。
それどころか、この預言者は嵐をもって、天へと運ばれてゆくのです。
いつも、神は選ばれ、残されてゆく者たちに最高の道を与えられます。
エリシャは昇天、栄光を受けた師、申命記のようではなく、霊的にこの二つの分け前を受け取ったのです。
12節をみると、エリヤがイスラエルの軍隊を相手にしていたのと違いがエリシャに現れているのを見ることができます。
エリシャの働きは馬や戦車よりもイスラエルの安全のためにはるかに安全のための働きです。
13章14節にはこのように書かれています。
「エリシャが死の病をわずらっていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュは、彼のところに下って行き、彼の上に泣き伏して、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。」と叫んだ。」
新改訳聖書 歴王記第二13章14節
エリアはエリシャの外套を取り、不可能なことを行う神の力を大胆にも信頼しました。
「エリヤはそこを立って行って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎて自分の外套を彼に掛けたので、」
新改訳聖書 歴王記第一19章19節
エリアがヨルダン川を渡るということも不可能なことの一つです。
しかし、エリア自身が信仰を持って歩むということとは、まったく別のステップです。
あなたはエリヤの神を信じる時、エリヤ自身を必要とはしていないはずです。
最初の奇跡は預言者の学校とも言える場所で若者たちに行われました。
エリシャは真実に神の預言者であり、若者たちは彼を誉れを帰しました。
しかしながら、若者たちにとっては、エリヤがいなくなったという事実は明確ではありませんでした。
16〜18節において、私たちは彼らが不信仰と愚かさについての記録を読むことができます。
「彼らはエリシャに言った。「しもべたちのところに五十人の力ある者がいます。どうか彼らをあなたのご主人を捜しに行かせてください。主の霊が彼を運んで、どこかの山か谷に彼を投げられたのかもしれません。」するとエリシャは、「人をやってはいけません。」と言った。
しかし、彼らがしつこく彼に願ったので、ついにエリシャは、「やりなさい。」と言った。それで、彼らは五十人を遣わした。彼らは、三日間、捜したが、彼を見つけることはできなかった。
彼らはエリシャがエリコにとどまっているところへ帰って来た。エリシャは彼らに言った。「行かないようにと、あなたがたに言ったではありませんか。」」
新改訳聖書 歴王記第二2章16〜18節
これは今日の疑いを持った人々を描写しています。
彼らはキリストの復活と肉体的な昇天を疑っています。
さらに、彼らは将来、起きるべき聖徒の空中再臨さえも疑問視しています。
エリシャの塩による水の癒しは、エリアの3年半の間、雨が降らないという奇跡と対照的です。
23〜25節では、ある人たちが困惑しました。
「エリシャはそこからベテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、この町から小さい子どもたちが出て来て、彼をからかって、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭。」と言ったので、
彼は振り向いて、彼らをにらみ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、彼らのうち、四十二人の子どもをかき裂いた。
こうして彼は、そこからカルメル山に行き、そこからさらに、サマリヤへ帰った。」
新改訳聖書 歴王記第二2章23〜25節
ここにいるのは単に小さい子供というよりも、若者です。(訳の問題でしょう。)
ゆえに、彼らの行いには責任があったのです。
ベテルは偶像崇拝の本拠地です。
「そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」
それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。
このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンにまで行った。
それから、彼は高き所の宮を建て、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。
そのうえ、ヤロブアムはユダでの祭りにならって、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でいけにえをささげた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえをささげた。また、彼が任命した高き所の祭司たちをベテルに常住させた。
彼は自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえをささげ、イスラエル人のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえをささげ、香をたいた。」
新改訳聖書 歴王記第一12章28〜33節
この高き所は冒涜の場所で、この若者たちは実際に神のみことばとしもべに対してばかげたことをしたのです。
事実、42人の人たちが共に集まり、組織的な計画であったことが示されています。
預言者のことを「はげ頭」と呼んだのは、見下した侮辱のことばです。
そして、「上ってこい」という表現は、エリアの昇天がばかげているということを示しています。
熊が彼らを襲いました。
しかし、その結果、私たちは若者たちが死んだかどうかは知ることができません。
これが、単に、人の軽率な態度に対する神の叱責であると理解するのが良いでしょう。
II、エリシャがイスラエルを救う
これはヨシャパテに対するユダの罪でした、
ユダはアハブの邪悪な子と共に同盟を結び、このことを行いました。
この二人はエドム人(もう一つの敵)と共にモアブ人と戦いました、
イスラエルのヨラムはユダとエドムと結びつきました。
それはヨラムの軍隊がモアブを攻撃するために、これらの国々が交わる必要があったからです。
彼らの旅は失敗し、水を使い果たしてしまいました。
ヨシャパテは主とエリシャのところへ立ち返り、その預言者はヨシャパテこそがダビテの末裔であることを確認しました。
しかし、ヨシャパテが神なき歩みをしていることは拒否しました。
「エリシャはイスラエルの王に言った。「私とあなたとの間に何のかかわりがありましょうか。あなたの父上の預言者たちと、あなたの母上の預言者たちのところにおいでください。」すると、イスラエルの王は彼に言った。「いや、主がこの三人の王を召されたのは、モアブの手に渡すためだから。」
エリシャは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられる。もし私がユダの王ヨシャパテのためにするのでなかったなら、私は決してあなたに目も留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう。」
新改訳聖書 歴王記第二3章13〜14節
神は奇跡をもって、彼らが掘った溝に水を満たし、提供しました。
そして、その溝は敵の前に結ばれていました。
この記録の最後に奇妙なことが記されています。
モアブの助けが無い王は自分の子供を火で焼いて捧げるために提供しています。
また、イスラエルが戦いから出て、帰ってゆき、ユダとエドムはイスラエル(ヨラム)に対して、憤慨しています。
彼らは始めからイスラエル(ヨラム)と同盟を結ぼうとはしていません。
III、エリシャは民に仕える
4章
エリシャが表面には出てこない数年間の間、エリシャは民を助けていました。
しかし、これはエリシャの主な働きではありません。
エリヤは主に火の預言者でした。
エリシャは民に仕える羊飼い的な預言者でした。
私たちは彼がさまざまな奇跡を通して、民の必要を満たしていたことを知ることができます。
A、預言者のやもめ
1〜7節
レビ記25章39〜46節までを見てください。
「もし、あなたのもとにいるあなたの兄弟が貧しくなり、あなたに身売りしても、彼を奴隷として仕えさせてはならない。
あなたのもとで住み込みの雇い人としておらせ、ヨベルの年まであなたのもとで仕えるようにしなさい。
そして、彼とその子どもたちがあなたのもとから出て行き、自分の一族のところに帰るようにしなさい。そうすれば彼は自分の先祖の所有地に帰ることができる。
彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。彼らは奴隷の身分として売られてはならない。
あなたは彼をしいたげてはならない。あなたの神を恐れなさい。
あなたのものとなる男女の奴隷は、あなたがたの周囲の国々から男女の奴隷を買い取るのでなければならない。
または、あなたがたのところに居留している異国人の子どもたちのうちから、あるいは、あなたがたの間にいる彼らの家族で、あなたがたの国で生まれた者のうちから買い取ることができる。このような者はあなたがたの所有にできる。
あなたがたは、彼らを後の子孫にゆずりとして与え、永遠の所有として受け継がせることができる。このような者は奴隷とすることができる。しかし、あなたがたの兄弟であるイスラエル人は互いに酷使し合ってはならない。」
新改訳聖書 レビ記25章39〜46節
ユダヤ人は哀れみを見せなければなりません。
もしくは、旧約聖書に書かれているように借金に関する律法を守らなければなりません。神は私たちが神を信じ歩んでいく上で、私たちが必要なものを持ち、使うようにしてくださいます。
4章4節にこのような表現があります。
「戸を閉じなさい。」
新改訳聖書 歴王記第二4章4節
私たちはマタイの福音書6章6節を思い出します。
「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
新改訳聖書 マタイの福音書6章6節
エリシャは神の助けを求める時、たびたび戸を閉めています。
「彼女は屋上に上がって行って、神の人の寝台にその子を寝かし、戸をしめて出て来た。」
新改訳聖書 歴王記第二4章21節
「エリシャは中にはいり、戸をしめて、ふたりだけになって、主に祈った。」
新改訳聖書 歴王記第二4章33節
やもめが信仰に従って持ってきた分の多くの器を、神は満たしました。
そして、これは彼女の借金分をも満たしたのです。
ピリピ人への手紙4章19節にはこのように書かれています。
「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙4章19節
B、シュネムの女
8〜37節
二つの奇跡がここに記録されています。
このシュネムの女の夫は年を取っていました。
しかし、神はこの女に子供を与えました。
そして、この少年が打たれた時、神はこの子をよみがえらせ彼女に返しました。
シュネムはカルメル山より約7マイル離れています。
エリシャは何度もこの家を通り過ぎたはずです。
エリシャはついにこの女とその夫の食事に招待されたのです。
これはエリシャだからというわけではないでしょう。
私たちはここで預言者が社会的な立場を持っているように見えます。
私たちはバプテスマのヨハネとキリストとを比較することができるでしょう。
ヨハネはエリヤのように生きていただけです。
しかし、キリストはエリシャのように、家を訪問し、人々と食事を楽しみました。
その女は真実な価値を知りました。
彼女は尋ねてきた預言者のために、屋根裏部屋に特別な部屋を作りました。
預言者の部屋です。
彼女に報いるために、神は彼女に子供を与えました。
しかし、その子は野原で打たれ、その家で死にました。
(日射病でしょうか?)
しかし、その母は失望していません。
彼女はすぐにカルメル山に出かけ、預言者を見つけました。
また、彼女は預言者のしもべゲハジに解決を求めていません。
ゲハジはこの少年をよみがえらせようと試みましたが失敗しました。
おそらく、これはゲハジのこころにあった欲望が原因ではないでしょうか。
その欲望は後に明らかになります。
「そのとき、神の人エリシャに仕える若い者ゲハジはこう考えた。「なんとしたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。主は生きておられる。私は彼のあとを追いかけて行き、必ず何かをもらって来よう。」」
新改訳聖書 歴王記第二5章20節
ゲハジは27節で彼女を追い払おうとしていることに注意してください。
「それから、彼女は山の上の神の人のところに来て、彼の足にすがりついた。ゲハジが彼女を追い払おうと近寄ると、神の人は言った。「そのままにしておきなさい。」
新改訳聖書 歴王記第二4章27節
また、マタイの福音書では弟子たちが下の節のように追い払おうとしています。
「夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」」
新改訳聖書 マタイの福音書14章15節
「しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。」
新改訳聖書 マタイの福音書15章23節
エリシャはその少年を復活させるために、女のところへ旅に出ました。
34節にはたましいを勝ち取るための努力と愛とが美しく描写されています。
「それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口を子どもの口の上に、自分の目を子どもの目の上に、自分の両手を子どもの両手の上に重ねて、子どもの上に身をかがめると、子どものからだが暖かくなってきた。」
新改訳聖書 歴王記第二4章34節
エリシャはその少年のために祈り、この少年とともに死んだのです。
列王記第一17章21節にはこのように書かれていました。
「そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈って言った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」」
新改訳聖書 列王記第一17章21節
C、預言者の学校
38〜44節
これはおそらく、サムエルの始め、エリヤによって続けられたのでしょう。
「彼らがそこ、ギブアに着くと、なんと、預言者の一団が彼に出会い、神の霊が彼の上に激しく下った。それで彼も彼らの間で預言を始めた。」
新改訳聖書 サムエル記第一10章10節
「預言者のともがらのひとりが、主の命令によって、自分の仲間に、「私を打ってくれ。」と言った。しかし、その人は彼を打つことを拒んだ。」
新改訳聖書 列王記第一20章35節
すべての若者が信仰的な歩みをしているわけではありません。
たとえ、イスラエルの国の中に背教の学校があったとしても、信仰の再興は可能なのです。
列王記第二2章23〜25節にはこのように書かれています。
この子供たちはおそらく背教の学校の生徒でしょう。
「エリシャはそこからベテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、この町から小さい子どもたちが出て来て、彼をからかって、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭。」と言ったので、
彼は振り向いて、彼らをにらみ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二こうして彼は、そこからカルメル山に行き、そこからさらに、サマリヤへ帰った。」
新改訳聖書 列王記第二2章23〜25節
イスラエルの国の飢饉、つまり、食料の不足がありました。
この若者は煮物を作りました。
生徒の一人はこのメニューに満足しませんでした。
彼は出て行き、煮物をおいしくさせるためにいくらかのうりを見つけました。
そして、この若者の持ってきた毒うりを拒みべきこと、そしてこの煮物にその毒が入っていることを十分知りませんでした。
しかし、この味は彼らに危険であることを知らせました。
彼らの祈りはエリヤの行動へと移させました。
エリシャはこの煮物に他の穀物を加え、この煮物をいやしました。
多くの神大学において、預言者の学校とも言える場所、さらにいくつかの教会において、悲しいことに、なべの中に「死」があります。
毒に対する、唯一の治療法は、神のみことばの純粋な食べ物です。
42〜44節で私たちはもう一つの問題を見ることができます。
そこには良き食べ物が手にありました。
しかし、それを行き渡らせるには十分ではありません。
エリシャはすべての人の必要のためにその食べ物を増やしました。
ヨハネの福音書6章を見てください。
イエスも同じように奇跡を行いました。
「そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章11節
確かに預言者エリシャは奇跡の人でした。
神はそのみわざは行い、その必要を満たすことができ、それを行うために何の問題もありません。
神にとって、昨日も、今日も、永遠に同じです。
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙13章8節
さあ、私たちは神に信頼しましょう!
列王記第二 5章
ナアマンの癒し
5章1〜19節
私たちはこの奇跡の中に、神のみことばを信じ、救いを得る、その美しい描写を見ることができます。
すべての罪人がナアマンの中に自分自身を見ることができます。
そして、信仰による救いの力を知ることができます。
A、ナアマンへの判決
ナアマンはらい病でした。
彼の服装と彼の偉大な勝利はその事実を隠しおおせるものではありません。
ナアマンはすでに死んだ人なのです。
彼が癒されることは容易いことではありません。
レビ記13章を読むならば、どのようにらい病が罪を描写しているかがわかります。
「「ある人のからだの皮膚にはれもの、あるいはかさぶた、あるいは光る斑点ができ、からだの皮膚でらい病の患部のようになったときは、その人を、祭司アロンか、祭司である彼の子らのひとりのところに連れて来る。
祭司はそのからだの皮膚の患部を調べる。その患部の毛が白く変わり、その患部がそのからだの皮膚よりも深く見えているなら、それはらい病の患部である。祭司はそれを調べ、彼を汚れていると宣言する。」
新改訳聖書 レビ記13章2、3節
B、ナアマンは敵でした。
ナアマンの家にはユダヤ人女中がいました。
その若い娘はナアマンが侵入し、誘拐してきた子供でしょう。
ナアマンは異邦人で、イスラエルの祝福の外にいたものです。
「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、
そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙2章11、12節
また、ローマ人への手紙にはこのように書かれています。
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙5章6〜10節
C、ナアマンの証し
その若き娘は自分の主を愛していました。
しかしながら、彼女は自分の家から遠く離れていたのです。
彼女は自分の神を忘れてはいません、
彼女はすぐに自分の神の偉大な力を証しました。
彼女はナアマンの家で働く、忠実な働き手ではなかったでしょう。
彼女は努力して証しする存在でもなかったでしょう。
しかし、彼女の信仰が報われたのです。
今日において、彼女のような信仰告白を神は必要としているのです。
D、ナアマンは自分の力で救いを得ようとしています。
自分の力でこのらい病をいやそうとする努力は完全な失敗です。
最初に、ナアマンはシリアの王の所へ行きました。
もちろん、そこには何もありません。
それから、ナアマンはイスラエルの王のところへ行きました、
同様に、彼は何もすることができません。
何と、多くの失われた罪人たちがあらゆる人のところへ、救いを求めてさまようのでしょうか?
それでも、キリストはすべての人の必要を与えるために待っています。
ナアマンは多くの財産を持っていたゆえに、恵みについて無知であったのも事実です。
「アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。」
新改訳聖書 列王記第二5章5節
失われた罪人は救いを買おうとか、稼ごうと考えるでしょう。
しかし、それは不可能なことです。
E、ナアマンは神によって召されました。
エリシャはナアマンのありさまを聞き、ナアマンのところへ使いをやりました。
救いを得るのにふさわしい罪人はいません。
救いを得るには、聖霊の恵みに満ちた召ししかありません。
そして、その者はキリストへと行くのです。
ヨハネの福音書6章37節を見てください。
「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書6章37節
ルカの福音書4章27節において、ナアマンは多くのらい病人の一人であり、主が彼を選び、彼を癒したことが記されています。
「また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」
新改訳聖書 ルカの福音書4章27節
これは恵みです。
F、ナアマンは神の単純な救いの方法に抵抗しました。
エリシャはナアマンに会いに出てきていません。
当時は、通常、らい病人は汚れたものとされていました。
エリシャは罪人のナアマンに拒んで欲しかったのです。
エリシャはナアマンを普通の罪人のように大胆に扱いました。
そして、ナアマンはこの扱いに対して憤慨したのです。
5章11、12節にはこのように書かれています。
「しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。
ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。」
新改訳聖書 列王記第二5章11、12節
今日の罪人のように、預言者が何かを驚くべきことを行ってくれると期待したのです。
ナアマンは自分を謙遜にして、死の川であるヨルダン川に行こうとはしません。
ナアマンははるか遠くの自分のふるさとにある川のほうが優れていると考えたのです。
G、ナアマンは信仰の従順によって、癒されました。
13節において、ナアマンは偉大な将軍というよりも、謙遜なしもべとして見ることができます。
神の単純な救いの方法を拒む理由などありません。
ナアマンが信仰を持って従った時、ナアマンは新しく生まれたのです。
幼子のように清い肉を持って、ナアマンは水から出てきました。
ナアマンは7たびヨルダン川に身を浸しました。
しかし、これはバプテスマを描写しているのではありません。
だれも、バプテスマを受けることによって救われた者はいないからです。
ただ、ナアマンは7回繰り返しただけです。
ナアマンは神のみことばに信頼して、それを行ったからです。
H、ナアマンは確信しました。
ナアマンはこのように言いました。
「このらい病を直してくれると思っていたのに。」
新改訳聖書 列王記第二5章11節
しかし、今、ナアマンはこのように言っています。
「世界のどこにも神はおられないことを知りました。」
新改訳聖書 列王記第二5章15節
ナアマンはエホバのみが真の神であるという事実と神の力の存在を理解し、人前でこのような告白をしたのです。
彼は喜びをもって、エリシャに富を送りましたが、もちろん、エリシャはこの贈り物を受け取るのを拒みました。
もし、エリシャは富を受け取ったのならば、恵みによって救いが得られるという教えを台無しにしてしまいます。
そして、神から栄光を奪い取ることになります。
I、ナアマンは平安を得て、家に帰って行きました。
「エリシャは彼に言った。「安心して行きなさい。」そこでナアマンは彼から離れて、かなりの道のりを進んで行った。」
新改訳聖書 列王記第二5章19節
ナアマンは問題をもってシリアに帰ることは十分に知っていました。
ナアマンの王は偶像崇拝を行っています。
しかし、ナアマンは主に従うことを覚え、主に栄光を帰すことを求めました。
すべての真実なクリスチャンは神の平和を持っています。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙5章1節
II、ゲハジの願望
5章20〜27節
ゲハジは神のみことばに同意していませんでした。
これがゲハジの問題と罪の始まりでした。
彼の心は神のみことばを認めたでしょうか?
そして、心の中にある欲望を裁いたでしょうか?
ならば、ゲハジは決してらい病になることは無かったでしょう。
クリスチャンが心の中にある罪を正直に裁くということは大切なことです。
ゲハジの態度は「私はこうしよう」です。
彼は神のみことばに従わない人々に対して即効的な影響力を持っていたことに注意してください。
ゲハジは4章29〜31節で死んだ少年の所へ走っていません。
しかし、彼はナアマンの物質的な富の所へ走っています。
「そこで、彼はゲハジに言った。「腰に帯を引き締め、手に私の杖を持って行きなさい。たといだれに会っても、あいさつしてはならない。また、たといだれがあいさつしても、答えてはならない。そして、私の杖をあの子の顔の上に置きなさい。」
その子の母親は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」そこで、彼は立ち上がり、彼女のあとについて行った。
ゲハジは、ふたりより先に行って、その杖を子どもの顔の上に置いたが、何の声もなく、何の応答もなかったので、引き返して、エリシャに会い、「子どもは目をさましませんでした。」と言って彼に報告した。」
新改訳聖書 列王記第二4章29〜31節
もし、クリスチャンだけが、霊的なものを求めていると言いながら、物質的なものを求めているのなら、私たちは二つのうそをつくことになります。
A、ゲハジはナアマンにうそをつきました。
21〜23節
「ゲハジはナアマンのあとを追って行った。ナアマンは、うしろから駆けて来る者を見つけると、戦車から降りて、彼を迎え、「何か変わったことでも。」と尋ねた。
そこで、ゲハジは言った。「変わったことはありませんが、私の主人は私にこう言ってよこしました。『たった今、エフライムの山地から、預言者のともがらのふたりの若い者が私のところにやって来ましたから、どうぞ、彼らに銀一タラントと、晴れ着二着をやってください。』」
するとナアマンは、「どうぞ。思い切って二タラントを取ってください。」と言って、しきりに勧め、二つの袋に入れた銀二タラントと、晴れ着二着を、自分のふたりの若い者に渡した。それで彼らはそれを背負ってゲハジの先に立って進んだ。」
新改訳聖書 列王記第二5章21〜23節
「私の主人は私にこう言ってよこしました。
」
その将軍にゲハジはこのように話しました。
エリシャ自身のためではなく、預言者の学校の生徒の一人のために、金が必要なのです。ユダの様に、ゲハジは貧しい者のためではなく、自分自身の興味のためにこのように言ったのです。
「イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書12章1〜7節
もちろん、金銭を得たからではなく、ゲハジは神の栄光を盗んだのです。
まったく、預言者のことばと矛盾しています。
このことにより、神の救いが金銭と良い行いが必要であると印象付けています。
ゲハジの自己中心的な行為はこの描写すべてを無益なものに変えています。
彼はナアマンの二人のしもべから多くの富を受け取り、自分のためにそれを得たのです。
B、ゲハジはエリシャにうそをつきました。
25〜27節
ゲハジはまるで何も無かったかのように、エリシャのところへ入ってゆきました。
しかし、預言者は真実を知っていました。
エリシャはゲハジにどこへ行っていたのかを尋ねました。
「エリシャは彼に言った。「ゲハジ。あなたはどこへ行って来たのか。」彼は答えた。「しもべはどこへも行きませんでした。」
新改訳聖書 列王記第二5章25節
26節を見るのなら、ゲハジは自分の持つ畑のために、自分自身のために、富を使おうと計画していたことがわかります。
「エリシャは彼に言った。「あの人があなたを迎えに戦車から降りて来たとき、私の心もあなたといっしょに行っていたではないか。今は銀を受け、着物を受け、オリーブ畑やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。」
新改訳聖書 列王記第二5章26節
4章にあった出来事以前から、ずっとゲハジの欲望は、彼のこころの中にあったようです。
どうして、私たちは死んだ少年がゲハジによって、よみがえらなかったのかを知ることができます。
ゲハジには力がなかったのです。
神はゲハジをさばきました。
それはゲハジが自分自身をさばかなかったからです。
ナアマンのらい病はゲハジとゲハジの子供たちに移りました。
8章1〜6節において、王が贈り物をしようとした時、もう一度、私たちはゲハジを見ました。
その時、ある者たちは、ゲハジは悔い改め、癒されたと思うかも知れません。
しかし、そのようなことは聖書から読み取ることはできません。
さらに、病はゲハジの子供たちにも移りました。
答えは簡単です。
列王記第二の中で記録されて出来事は、必ずしも歴史順ではありません。
この王は民の苦情を聞いていたように、このゲハジと王の会話は、おそらく、この町の門で交わされました。
神のしもべが自分の欲望のために、神に拒まれ、みにくい姿へとなったことは何とも悲しい出来事です。
それはペテロのように冒涜ではなく、また、ダビテのような姦淫でもありません。
しかし、それは隠れた欲望の罪なのです。
もちろん、欲望はすべての罪の原因なのです。
もし、民が何かを欲していながら、自分たちの欲しがっている物が何かを知らないのなら、そこには罪がありません。
エリシャは主のしもべです。
エリシャは物質的な力を得て、生きているのではありません。
彼は神の栄光のために生きているのです。
金銭か、主か?ゲハジは二人の主人に仕えているのでしょうか?
コロサイ人への手紙3章5節にこのようにあります。
「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙3章5節
欲望と偶像崇拝は同じものとみなされています。
イエスは欲望と恐ろしい肉の罪を結び付けています。
「また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」
新改訳聖書 マルコの福音書7章20〜23節
そして、パウロはローマ人への手紙1章29〜31節の中で異邦人の罪の中に、この欲望を挙げています。
「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙1章29〜31節
ルカの福音書12章13〜15節、16章13節では、イエスははっきりと欲望の危険性を警告しています。
「群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。
すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」
そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
新改訳聖書 ルカの福音書12章13〜15節
「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
新改訳聖書 ルカの福音書16章13節
イエスはこの欲望の罪が人々を地獄に至らせることを示しました。
エペソ人への手紙5章3節にはこのように書かれています。
「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙5章3節
2、3節に出てくるしもべの若い娘とゲハジは対照的であることは興味深いものです。
彼女はしもべでしたが、主を証しすることに喜びを感じていたでしょう。
しかし、ゲハジはイスラエルに住む、かつ、自由であり、自分自身のことだけに興味を持っていました。
彼女はナアマンに救いの場所を提供しました。
ゲハジは自分の罪ゆえに、恵みのメッセージを台無しにしました。
彼女は目に見えるものを得ていませんが、主の祝福を得ることができました。
ゲハジは富を家に持ち帰りましたが、すべてを失いました。
列王記第二6〜8章
これらの章において、私たちはエリシャのさまざまな働きと奇跡を見ることができます。あるものは神の民に個人的に行われ、あるものはイスラエルに対して公に行われました。しかし、どの場合においても、神の人が神のみこころを知るということを見失ったり、神の力を働かせるということを無視していないことを私たちははっきりと見なければなりません。
Iエリシャは斧の頭を取り戻しました。
6章1〜7節
預言者の学校の一人が成長し、より働く場所を得るということは私たちにとっても、喜ばしいものです。
これらの人たちは、ある意味において、各自の家で主に仕える者たちであり、エリシャによって人々にみことばを得させるということを訓練されている者たちです。
福音伝道者の学校は、私たちを働き手として訓練し、神の民に仕えることの素晴らしさとその重要性を教える場所です。
エリシャは働く場所を作り、分け合うことを誇りとしたり、そのことに時間を割いていたのではないことに注意すべきです。
確かに、エリシャは若い者たちを励ましていました。
生徒は貧しい者たちです。
少なくとも、生徒の一人は道具を借りなければならない者でした。
しかし、斧の頭は水の中に落ちてしまいました。
その生徒は恐れましたが、エリシャはそれを取り戻しました。
借りるということは罪ではありません。
それを取り戻すために何を提供すれば良いでしょうか?
神は神の人々の個人的な必要のために面白いことしました。
これらの問題は小さい問題かもしれませんが、私たちの心に重荷になることです。
II、エリシャはシリヤの侵入者たちを捕まえました。
6章8〜23節
シリアの王はイスラエルに侵入した兵士たちの一団に使いを送りました。
「アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕えて来ていた。」
新改訳聖書 列王記第二5章2節
しかし、神はエリシャにすべての敵の動きを明らかにしました。
詩篇25編14節にはこのように書かれています。
「主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。」
新改訳聖書 詩篇25編14節
しかしながら、エリシャは邪悪な王ヨシャパテを誉めようとはしません。
「エリシャはイスラエルの王に言った。「私とあなたとの間に何のかかわりがありましょうか。あなたの父上の預言者たちと、あなたの母上の預言者たちのところにおいでください。」すると、イスラエルの王は彼に言った。「いや、主がこの三人の王を召されたのは、モアブの手に渡すためだから。」
エリシャは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられる。もし私がユダの王ヨシャパテのためにするのでなかったなら、私は決してあなたに目も留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう。」
新改訳聖書 列王記第二3章13、14節
預言者エリシャはイスラエルの民の支持を得ようともせずに、彼らが守られることを求めてもいません。
また、この王は神の人から十分に聞いており、賢く歩むことができました。
神はイスラエルを守ることができました。
シリアの王にエリシャが隠れたスパイであることが知らされました。
彼は預言者エリシャを捕まえるために、この兵士の一団を送ったのです。
エリシャのしもべ(明らかにゲハジの代わりに置かれた別の者です)は自分たちの町の周りにいる軍隊を見て、終わりが来たと考えました。
しかし、神はそのしもべにエリシャを守る準備をした、御使いの軍隊を見させました。
16節は当時のユダヤ人のために書かれたものですが、今日における真実なクリスチャンの姿を現しています。
「すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。」
新改訳聖書 列王記第二6章16節
また、ローマ人の手紙にはこのように書いています。
「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」
新改訳聖書 ローマ人の手紙8章31節
エリシャはここで二つの奇跡を見せています・
彼はしもべの目を開けました。
しかし、エリシャは侵入者たちの目は盲目にしました。
それはサマリアへこの一団が連れてゆくことは容易いことでした。
シリア人たちの驚きを想像して見てください。
彼らの目は敵の町を見るために開かれたのです。
エリシャはイスラエルの王に兵士たちを殺すことを禁じました。
ただ、神の栄光のためだけに神が彼らを捕まえたのです。
エリシャは善意を持ちながら、彼らに勝ったのです。
「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」
新改訳聖書 ローマ人の手紙12章20、21節
「もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。
あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる。」
新改訳聖書 箴言25章21、22節
「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」
新改訳聖書 マタイの福音書5章43〜45節
この時以来、イスラエルの部落に進入するために、シリアの略奪隊を送っていません。
神の民が、もし、神のみことばに従うのなら、決して敵を恐れる必要などないのです。
詩篇46編を見てください。
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」
新改訳聖書 詩篇46編1節
III、エリシャはその町を救いました。
6章24節〜7章20節
私たちは23節と24節にどのぐらいの年月があったのか知ることはできません。
「そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。
この後、アラムの王ベン・ハダデは全軍を召集し、サマリヤに上って来て、これを包囲した。」
新改訳聖書 列王記第二6章23、24節
ベン・ハダデがイスラエルと戦うことを決断した時、ベン・ハダデは軍隊を集めました。
この進入してきた集まりは決して小さな集まりではありません。
この主要都市は包囲され、そこにはわずかな食物しかありません。
価値の無いような食物はとても法外な値段で売られていました。
25節にある「はとの糞」というのはおそらく、穀物のかすという意味でしょう。
たとえそのような意味でなかったとしても、動物の糞さえも飢えた人々が食べていたというありえないような事実がそこにあります。
さらに、この民の中には人を食べるということさえも行っていたのです。
邪悪な王ヨラムは彼の父アハブの言葉を胸にとどめていました。
ヨラムはエリシャにあってなされた飢饉を非難しました。
「彼は言った。「きょう、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。」
新改訳聖書 列王記第二6章31節
「アハブがエリヤを見るや、アハブは彼に言った。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」」
新改訳聖書 列王記第一18章17節
この王はメッセージを神の人からの奇妙な預言のを受け取るために送りました。
エリシャはこのメッセージが誰から来たか知っていました。
その翌日、サマリヤは救われ、多くの食べ物がそこにありました。
7章1節において、エリシャはこのように預言しました。
「エリシャは言った。「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」
新改訳聖書 列王記第二7章1節
王の侍従の一人ははっきりとそのことを信じません。
彼はエリシャによってさばかれると預言されました。
7章17〜20節を見てください。
「王は例の侍従、その腕に王が寄りかかっていた侍従を門の管理に当たらせたが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。王が神の人のところに下って行ったとき話した神の人のことばのとおりであった。
神の人が王に、「あすの今ごろ、サマリヤの門で、大麦二セアが一シェケルで、上等の小麦粉一セアが一シェケルで売られるようになる。」と言ったとき、
侍従は神の人に答えて、「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」と言った。そこで、彼は、「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」と言った。
そのとおりのことが彼に実現した。民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。」
新改訳聖書 列王記第二7章17〜20節
神の武器は溝を掘って、陣を張るシリアの軍隊を負けさせたのです。
騒音と4人のらい病人がそこにいただけです。
雇われた軍隊はイスラエルに迫っていました。
シリアの軍隊は富と食べ物をキャンプに残して逃げていったことを考えてみてください。四人のらい病人に良き考えがひらめきました。
自由で飢えるよりは、囚人として食べ物を得る(もしくは、すぐに死ぬ)方が良いと考えたのです。
9節は確実な福音文章であり、意義のある文章です。
今日において、どのくらいのクリスチャンたちがこのような癒しを必要としているのではないでしょうか!
サマリヤの牢獄のような生活をしていた人たちはこの良き知らせを聞きました。
彼らは急いで出てゆき、その不信仰な侍従を踏みつけました。
その侍従は良き知らせを聞いたのです。
そして、そのメッセージが現実になったのを見ました。
しかし、彼はそれを楽しむ前に死んだのです。
キリストを信じ送れた罪人の哀れな悲劇です。
IV、エリシャはシュネムの女を守りました。
8章1〜6節
1節にはこのように書かれています。
「エリシャは、かつて子どもを生き返らせてやったあの女に言った。」
新改訳聖書 列王記第二8章1節
7年前に、神の人は彼女にイスラエル全体に飢饉が来ることを知らせ、警告しました。
4章38節にはこのように書かれています。
「エリシャがギルガルに帰って来たとき、この地にききんがあった。預言者のともがらが彼の前にすわっていたので、彼は若い者に命じた。「大きなかまを火にかけ、預言者のともがらのために、煮物を作りなさい。」」
新改訳聖書 列王記第二4章38節
6章で書かれているサマリヤの町の飢饉は一地方で起きたことではありません。
5章を見ると、ゲハジは王にナアマンの癒しの前にこの飢饉が起きたことを示したのは事実です。
エリシャに従ったこの女は自分の財産を捧げました。
ペリシテの国で彼女は一時的な助けを見出しました。
しかし、イスラエルに帰った時、誰かが、彼女の財産を没収していたのでしょう。
彼女がゲハジが王に彼女に起きたことを話しているのを見つけました。
彼女の驚いている姿を想像してください。
神は彼女の息子が死に、よみがえる前に年月を定められていたのです。
4章18〜37節を参照してください。
しかし、その奇跡は、彼女の失われた場所を取り戻すことのできるように、彼女のために行われたのです。
私たちは今ある、試練のその理由を決して知ることは出来ません。
しかし、これらの試練は確かに私たちの良きものに働いているのです。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章28節
クリスチャンが決して取られることの無いものを受け継ぐことは、とても素晴らしいことです。
V、エリシャは王をさばきました。
8章7〜29節
エリシャの時代に戻るなら、神はハザエルに油を注ぎ、シリアの王にするように預言者に語りました。
「主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。」
新改訳聖書 列王記第一19章15節
エリシャはエリヤに預言者として引き継ぐように油を注ぎました。
しかし、エリシャにハザエルに王座を立てあげることを思い出させました。
クリスチャンの失敗や不信仰な計画があったとしても、神のみことばは成就するするのです。
ベン・ハダデはイスラエルの敵でした。
さらに、その時、危機がやってきた時、ベン・ハダデは助けを得るために神の人のところへ戻って行きました。
この時代においても、世の人たちはこのような行動に出るのです。
ベン・ハダデはエリシャに精巧で高価な贈り物を贈りました。
私たちはエリシャがこのような贈り物を受け取ったとは記録されていないことを知っています。
もし、彼がそれを受け取ったのなら、エリシャは間違いなく、預言者の学校のために使われたでしょう。
エリシャがハザエルに返事には不可解なものがあることに注意してください。
(1)エリシャに彼に言いました。
「あなたは必ず直る。」
新改訳聖書 列王記第二8章10節
(2)しかしながら、主はエリヤに示しました。
「彼が必ず死ぬことも示された。」
新改訳聖書 列王記第二8章10節
最初にハザエルに宣言されたのは14節にある王へのことばです。
どのようであろうと、王が確かに治ると賢く語りました。
「彼はエリシャのもとを去り、自分の主君のところに帰った。王が彼に、「エリシャはあなたに何と言ったか。」と尋ねると、彼は、「あなたは必ず直る、と彼は言いました。」と答えた。」
新改訳聖書 列王記第二8章14節
次の宣言はこのことが王を殺すことによって、ハザエルが成就させると言うことです。
「しかし、翌日、ハザエルは毛布を取って、それを水に浸し、王の顔にかぶせたので、王は死んだ。こうして、ハザエルは彼に代わって王となった。」
新改訳聖書 列王記第二8章15節
11〜13節において、確かに学ばなければならないことがあります。
「神の人は、彼が恥じるほど、じっと彼を見つめ、そして泣き出したので、
ハザエルは尋ねた。「あなたさまは、なぜ泣くのですか。」エリシャは答えた。「私は、あなたがイスラエルの人々に害を加えようとしていることを知っているからだ。あなたは、彼らの要塞に火を放ち、その若い男たちを剣で切り殺し、幼子たちを八裂にし、妊婦たちを切り裂くだろう。」
ハザエルは言った。「しもべは犬にすぎないのに、どうして、そんなだいそれたことができましょう。」しかし、エリシャは言った。「主は私に、あなたがアラムの王になると、示されたのだ。」」
新改訳聖書 列王記第二8章11〜13節
エリシャが不思議な返事をハザエル答えた後、神の人は長い間、彼の訪問者とじっと見つめました。
実際、エリシャはハザエルの邪悪なこころの考えを読んでいました。
エリシャは王の従者が王を殺す計画を見ていたのです。
ハザエルはこのエリシャが恥じ入るほど自分を見つめ泣き出すという奇妙な振る舞いによって困ってしまいました。この邪悪な訪問者は自分の心の中にある罪を見出そうと試みました。
しかし、エリシャの十分にそのことを知っていたのです。
「私は、あなたがイスラエルの人々に害を加えようとしていることを知っているからだ。」
新改訳聖書 列王記第二8章12節
エリシャがこのことを言った時、エリシャはこの恐ろしい犯罪行為を知らせました。
この宣言はハザエルはショックを受けました。
自分のこころの邪悪さを聞いてショックを受ける人は誰もいません。
ハザエルはショックを受けたのは、あまりにも激しい罪だからです。
エリシャの別れのことばはこれです。
「主は私に、あなたがアラムの王になると、示されたのだ。」
新改訳聖書 列王記第二8章13節
主がその預言を現実とされる代わりに、ハザエルは自分自身でその問題を実行しました。彼はベットにいる病弱な王の息を止めたのです。
ハザエルの後の歴史で明らかにされますがエリシャのことばは真実なものでした。
ハザエルの支配は恐ろしく悪意に満ちた行動にでます。
「そのころ、主はイスラエルを少しずつ削り始めておられた。ハザエルがイスラエルの全領土を打ち破ったのである。
すなわち、ヨルダン川の東側、ガド人、ルベン人、マナセ人のギルアデ全土、つまり、アルノン川のほとりにあるアロエルからギルアデ、バシャンの地方を打ち破った。」
新改訳聖書 列王記第二10章32、33節
「それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラムの王ハザエル、および、ハザエルの子ベン・ハダデの手にいつまでも渡しておられた。
しかし、エホアハズが主に願ったので、主はこれを聞き入れられた。アラムの王のしいたげによって、イスラエルがしいたげられているのを見られたからである。
主がイスラエル人にひとりの救い手を与えられたとき、イスラエルの人々はアラムの支配を脱し、以前のように、自分たちの天幕に住むようになった。
それにもかかわらず、彼らはイスラエルに罪を犯させたヤロブアム家の罪を離れず、なおそれを行ない続け、アシェラ像もサマリヤに立ったままであった。
また、アラムの王が彼らを滅ぼして、打穀のときのちりのようにしたので、エホアハズには騎兵五十、戦車十台、歩兵一万だけの軍隊しか残されていなかった。」
新改訳聖書 列王記第二13章3〜7節
「アラムの王ハザエルは、エホアハズの生きている間中、イスラエル人をしいたげたが、....」
新改訳聖書 列王記第二13章22節
この章の残りの章はイスラエルとユダに何が起きたかを私たちに知らせています。
ヨシャパテの支配の終わりにヨラムとヨシャパテがお互いに抑制しあっています。
二つの国の王がヤロブアムとアハブから悪い例を学んで、従っているとは何とも悲しいことです。
これらの時代に町は腐敗し、国家的な罪に至りました。
神はエリシャを使い、神に従う残りの民を召していたのです。
これらの国は救いに至ろうとはしていません。
さらに言うのであれば、今の時代において、この世界は救いに至ろうとはしていません。現在、神は御名を信じる者たちを召しているのです。
クリスチャンとしての私たちの責任とは神のみことばが真実なものであると証することであり、キリストへと人々を勝ち取ることなのです。
列王記第二9、10章
これらの章は暴力に満ちています。
私たちは神に失望した者たちや、神のみことばに不従順な者たちに神は怒っているからです。
王エフーは主の手にあって、復讐の道具です。
「あなたは、主君アハブの家の者を打ち殺さなければならない。こうしてわたしは、わたしのしもべである預言者たちの血、イゼベルによって流された主のすべてのしもべたちの血の復讐をする。」
新改訳聖書 列王記第二9章7節
しかしながら、私たちは彼に主への熱意があったということを告白しなければなりません。
「私といっしょに来て、私の主に対する熱心さを見なさい。」と言った。」
新改訳聖書 列王記第二10章16節
おそらく、それは狂信的でした。
ホセア書1章4節にはこのように書かれています。
「主は彼に仰せられた。「あなたはその子をイズレエルと名づけよ。しばらくして、わたしはイズレエルの血をエフーの家に報い、イスラエルの家の王国を取り除くからだ。」
新改訳聖書 ホセア書1章4節
そこで神はエフーの家がさばかれることを宣言しています。
それは彼の情けのない人殺しゆえです。
エフーは主のために熱心であった行動にでました。
しかし、私たちはエフーの残虐な殺人を見るならば、それは肉的な動機と罪に満ちた動機によってなされたことを知ることができます。
決して、神の栄光のために行われたのではありません。
I、油が注がれました。
9章1〜13節
アハブの子ヨラムはイスラエルを支配し、アハズヤはユダを支配しました。
この二人の王は互いに同盟を結び、シリアの王ハザエルに対して戦いを挑みました。
「イスラエルの王アハブの子ヨラムの第十二年に、ユダの王ヨラムの子アハズヤが王となった。
アハズヤは二十二歳で王となり、エルサレムで一年間、王であった。彼の母の名はアタルヤといい、イスラエルの王オムリの孫娘であった。
彼はアハブの家の道に歩み、アハブの家にならって主の目の前に悪を行なった。彼自身アハブ家の婿になっていたからである。
彼はアハブの子ヨラムとともに、アラムの王ハザエルと戦うため、ラモテ・ギルアデに行ったが、アラム人はヨラムに傷を負わせた。
ヨラム王は、アラムの王ハザエルと戦ったときにラマでアラム人に負わされた傷をいやすため、イズレエルに帰って来た。ユダの王ヨラムの子アハズヤは、アハブの子ヨラムが病気であったので、彼を見舞いにイズレエルに下って行った。」
新改訳聖書 列王記第二8章25〜29節
ヨラムは荒野をさまよい、イズレエルに滞在していました。
そこにアハズヤが会いに行きました。
エフーはイスラエルの軍隊の隊長に期待していました。
おそらく、その者はこの戦いのキーとなる指導者だったのでしょう。
彼は邪悪な王アハブがナボテのぶどう園を取りあげた時、彼は王のボディガードでした。
「エフーは侍従のビデカルに命じた。「これを運んで行き、イズレエル人ナボテの所有地であった畑に投げ捨てよ。私とあなたが馬に乗って彼の父アハブのあとに並んで従って行ったとき、主が彼にこの宣告を下されたことを思い出すがよい。
『わたしは、きのう、ナボテの血とその子らの血とを確かに見届けた。――主の御告げだ――わたしは、この地所であなたに報復する。――主の御告げだ――』それで今、彼を運んで行って、主のことばのとおり、あの地所に彼を投げ捨てよ。」」
新改訳聖書 列王記第二9章25、26節
エリシャはエフーには油を注いでいません。
エリシャはそのことを認識していましたが、おそらく、反抗的にそれをしなかったのでしょう。
それどころか、彼はラモテ・ギルアデに走らせるために、預言者の子の一人に選んでいました。
そして、エフーをイスラエルの王として油を注いだのです。
これは数年前に主によって命令されていたことです。
「主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。
また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。
ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺す。」
新改訳聖書 列王記第一19章15〜17節
若い預言者はすぐに従いました。
彼は戦いの議会に突然現れました。
そして、若い預言者はエフーを奥の間に入れ、語り、そこで彼に油を注ぎました。
そして、神のメッセージを与えました。
そして、彼が訪れた時のように、すぐに彼は離れてゆきました。
エフーは自分の任務を知っていたのです。
アハブの家を拭い去ること、そして、アハブとイゼベルとその子供たちによって流された罪の無い血の報復を行うことです。
9節と列王記第一15章29節、そして、列王記第一16章3〜11節を比較して見てください。
「アハブの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。」
新改訳聖書 列王記第二9章9節
「彼は、王となったとき、ヤロブアムの全家を打ち、ヤロブアムに属する息のある者をひとりも残さず、根絶やしにした。主がそのしもべ、シロ人アヒヤを通して言われたことばのとおりであった。」
新改訳聖書 列王記第一15章29節
「それで今、わたしはバシャとその家族とを除き去り、あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにする。
バシャに属する者で、町で死ぬ者は犬がこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。」
バシャのその他の業績、彼の行なった事、およびその功績、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。
バシャは彼の先祖たちとともに眠り、ティルツァに葬られた。彼の子エラが代わって王となった。
主のことばはまた、ハナニの子、預言者エフーを通して、バシャとその家とに向けられた。それは、彼が主の目の前にあらゆる悪を行ない、その手のわざによって主の怒りを引き起こし、ヤロブアムの家のようになり、また、彼がヤロブアムを打ち殺したからである。
ユダの王アサの第二十六年に、バシャの子エラがティルツァで、イスラエルの王となった。治世は二年である。
彼がティルツァにいて、ティルツァの王の家のつかさアルツァの家で酒を飲んで酔っていたとき、彼の家来で、戦車隊の半分の長であるジムリが彼に謀反を企てた。
ユダの王アサの第二十七年に、ジムリははいって来て、彼を打ち殺し、彼に代わって王となった。
彼が王となり、王座に着くとすぐ、彼はバシャの全家を打ち、小わっぱから、親類、友人に至るまで、ひとりも残さなかった。」
新改訳聖書 列王記第一16章3〜11節
その兵士たちはその預言者が狂人だと思いました。
エフーはその兵士たちによってこの出来事全体を準備されていると考えました。
また、彼自身は神からの職務を受けた人であることも知っていました。
きっと、彼らは王に対しての反乱軍をひそかに準備しているのあろうと考えたのでしょう。
しかし、その長は彼らが何も知らないままにさせたのです。
エフーは彼らに主の職務を受けた人から聞いたと言ったのです。
彼らはすぐにエフーに服従し、彼を王と宣言したのです。
15節には、新しい王エフーが重要な仕事を完了させるまで、ひそかに油注がれたままで準備されていることが記されています。
「ヨラム王は、アラムの王ハザエルと戦ったときにアラム人に負わされた傷をいやすため、イズレエルに帰って来ていた。――エフーは言った。「もし、これがあなたがたの本心であれば、だれもこの町からのがれ出て、イズレエルに知らせに行ってはならない。」」
新改訳聖書 列王記第二9章15節
そのことばはイズレエルにいる二人の王に知らされました。
エフーは突然、奇襲をかけるのです。
II、復讐
9章14節〜10章28節
A、ヨラムの殺害
9章14節〜9章26節
イズレエルで王ヨラムは傷ついてしまいました。
アハズヤは彼を尋ねました。
神はこの二人の王が共にさばかれる時を準備していました。
その王はエフーが来るのを妨げるために使いを送りました。
しかし、エフーは止まることを拒み、この使いに何のメッセージも送りませんでした。
信頼される兵士はエフーの戦車が勢いよく突進してくることを知っていました。
見張りも、また、彼を遠くから見ていました。
彼らがいくつかの防御策を持つ町で待つ代わりに、この二人の王は出て行ってエフーと会いました。
おそらく、彼らはエフー自分たちのキャプテンと考え、戦場からの良き知らせを伝えようとしたのでしょう。
エフーは最初にヨラムに注目しましたが、そのことばは邪悪な君主エフーから逃げるためにきっかけとなるだけでした。
エフーの矢はいとも簡単にヨラムを後ろから打ちました。
ヨラムはアハブの地所の一部で死に、神のみことばは成就しました。
この土地はナボテから20年以上前に盗んだものです。
「そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。
「さあ、サマリヤにいるイスラエルの王アハブに会いに下って行け。今、彼はナボテのぶどう畑を取り上げようと、そこに下って来ている。
彼にこう言え。『主はこう仰せられる。あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ。』また、彼に言え。『主はこう仰せられる。犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。』」
アハブがエリヤに、「あなたはまた、私を見つけたのか。わが敵よ。」と言うと、エリヤは答えた。「あなたが裏切って主の目の前に悪を行なったので、私は見つけたのだ。
今、わたしはあなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、アハブに属する小わっぱも奴隷も、自由の者も、イスラエルで絶ち滅ぼし、
あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。それは、あなたがわたしの怒りを引き起こしたその怒りのため、イスラエルに罪を犯させたためだ。
また、イゼベルについても主はこう仰せられる。『犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。』
アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬どもがこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。」」
新改訳聖書 列王記第一21章17〜24節
B、アハズヤの殺害
9章27〜29節
アハズヤは逃げようとしました。
しかし、エフーのしもべはサマリヤの王のところまで、彼を追いかけました。
(町ではありません。)
ここはメギドの中にあり、そこで彼は殺されたのです。
「彼がアハズヤを捜したので、人々は彼を捕えた。彼はサマリヤに身を隠していたのである。こうして、人々は、彼をエフーのもとに引いて来て殺したが、これは心を尽くして主を求めたヨシャパテの子であると言って、彼を葬った。アハズヤの家は王国を治める力を失った。」
新改訳聖書 歴代史第二22章9節
彼をせめて人並みに葬りたいゆえに、彼のしもべはエルサレムにからだを持ってゆきたいと願いました。
アハズヤはヨラムの義理の兄弟です。
このようにして、アハブの家に対するさばきの一部が行われました
C、イゼベルの死
9章30〜37節
いまだに、その王母はイスラエルの中で大きな力を働かせていました。
しかし、彼女にさばきの時が訪れ、彼女を守るものは何もありません。
彼女はエフーが着たことを聞き、大胆に自分を美しく見せ、新しい王と会いました。
「イゼベルはこれを聞いて、目の縁を塗り、髪を結い直し、窓から見おろしていた。」
新改訳聖書 歴代史第二9章30節
イゼベルは女王として、死のうとしたのです。
31節に彼女の言葉があります。
「元気かね。主君殺しのジムリ。」
新改訳聖書 歴代史第二9章31節
歴代史第一16章9〜20節にはこのようにあります。
「彼がティルツァにいて、ティルツァの王の家のつかさアルツァの家で酒を飲んで酔っていたとき、彼の家来で、戦車隊の半分の長であるジムリが彼に謀反を企てた。
ユダの王アサの第二十七年に、ジムリははいって来て、彼を打ち殺し、彼に代わって王となった。
彼が王となり、王座に着くとすぐ、彼はバシャの全家を打ち、小わっぱから、親類、友人に至るまで、ひとりも残さなかった。
こうして、ジムリはバシャの全家を根絶やしにした。預言者エフーによってバシャに言われた主のことばのとおりであった。
これは、バシャのすべての罪と、その子エラの罪のためであって、彼らが罪を犯し、また、彼らがイスラエルに罪を犯させ、彼らのむなしい神々によって、イスラエルの神、主の怒りを引き起こしたためである。
エラのその他の業績、彼の行なったすべての事、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。
ユダの王アサの第二十七年に、ジムリが七日間ティルツァで王となった。そのとき、民はペリシテ人のギベトンに対して陣を敷いていた。
陣を敷いていたこの民は、「ジムリが謀反を起こして王を打ち殺した。」と言うことを聞いた。すると、全イスラエルがその日、その陣営で将軍オムリをイスラエルの王とした。
オムリは全イスラエルとともにギベトンから上って来て、ティルツァを包囲した。
ジムリは町が攻め取られるのを見ると、王宮の高殿にはいり、みずから王宮に火を放って死んだ。
これは、彼が罪を犯して主の目の前に悪を行ない、ヤロブアムの道に歩んだその罪のためであり、イスラエルに罪を犯させた彼の罪のためであった。
ジムリのその他の業績、彼の企てた謀反、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。」
新改訳聖書 歴代史第一16章9〜20節
そこでジムリは王を殺し、7日間だけ王位に付きました。
イゼベルはエフーと買収して手を組もうと試み、自分の王位を守ろうとしました。
しかし、何人かのイゼベルのしもべがエフーの側に着き、窓からその女王を落としました。
そして、エフーは戦車で彼女のからだの上に乗り、その職務を終らせたのです。
エフーは王宮に入り、こころから勝利を感じ、食事をしました。
彼は死んだ女王を葬るように男たちに言いました。
列王記第一21章23節にある預言がここに成就したのです。
「また、イゼベルについても主はこう仰せられる。「犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。」
新改訳聖書 列王記第一21章23節
D、アハブの子孫たちの死
10章1〜17節
アハブには70人のサマリアに住む子孫たちがいました。
エフーは彼らに目を止めたのです。
彼はイゼベルが列王記第一21章8〜14節でしたように、公に長老たちに手紙を書きました。
「彼女はアハブの名で手紙を書き、彼の印で封印し、ナボテの町に住む長老たちとおもだった人々にその手紙を送った。
手紙にはこう書いていた。「断食を布告し、ナボテを民の前に引き出してすわらせ、
彼の前にふたりのよこしまな者をすわらせ、彼らに『おまえは神と王をのろった。』と言って証言させなさい。そして、彼を外に引き出し、石打ちにして殺しなさい。」
そこで、その町の人々、つまり、その町に住んでいる長老たちとおもだった人々は、イゼベルが彼らに言いつけたとおり、彼女が手紙に書き送ったとおりを行なった。
彼らは断食を布告し、ナボテを民の前に引き出してすわらせた。
そこに、ふたりのよこしまな者がはいって来て、彼の前にすわった。よこしまな者たちは民の前で、ナボテが神と王をのろった、と言って証言した。そこで人々は彼を町の外に引き出し、石打ちにして殺した。
こうして、彼らはイゼベルに、「ナボテは石打ちにされて殺された。」と言ってよこした。」
新改訳聖書 列王記第一21章8〜14節
アハブの一族からのチャンピオンを選び、エフーと戦うように長老たちに求めました。
長老たちはこれを恐れ、すぐに平和を訴えました。
エフーの二つ目の手紙は、長老たちにアハブの707人の子供たちの頭だけを持ってくるように求めたものでした。
その夕方、男たちはその頭を持ってやってきました。
次の朝、エフーは町の門に行くと、恐ろしい場面を見ることになります。
9節において、エフーは彼らには罪が無いようなことを示します。
10節を見るならば、この死は、単に、主のみことばが成就したことを宣言しています。
「朝になると、エフーは出て行って立ち、すべての民に言った。「あなたがたには罪はない。聞け。私が主君に対して謀反を起こして、彼を殺したのだ。しかしこれらの者を皆殺しにしたのはだれか。
だから知れ。主がアハブの家について告げられた主のことばは一つも地に落ちないことを。主は、そのしもべエリヤによってお告げになったことをなされたのだ。」
新改訳聖書 歴代史第二10章9、10節
もちろん、ある意味において、エフーは真理を語ったのです。
しかし、私たちはエフーが主の栄光よりも、アハブの家を殺すことを目的としていたと考えるべきでしょう。
12〜14節において、42人のアハズヤの身内の者を殺しました。
そして、17節において、エフーが地方都市であるサマリヤにいた残りのアハブの家の者を滅ぼしたことを私たちに語られています。
実際、エフーは主に対する熱意を持っていたのかも知れません。
E、バール崇拝者の殺害
10章18〜28節
最後に、エフーの心の中にはこれは正しいと言えるものがありました。
彼は戸惑いを感じることなく、人々にうそを言い、自分はアハブよりも熱心にバールを崇拝すると言いました。
エフーはヨナダブに企てられた計画に参加しました。
この計画はイスラエルから偶像崇拝を取り除くという思いのある者たちのために立てられたのです。
エレミヤ書35章を見るならば、レカブの家についてより詳しく記されています。
「エレミヤはレカブ人の家の者に言った。「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「あなたがたは、先祖ヨナダブの命令に聞き従い、そのすべての命令を守り、すべて彼があなたがたに命じたとおりに行なった。」
それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「レカブの子、ヨナダブには、いつも、わたしの前に立つ人が絶えることはない。」」
新改訳聖書 エレミヤ書35章18、19節
サマリヤに着くとエフーはバール崇拝の宮を建てることを宣言し、人々はエフーを信用します。
エフーはバールに従う忠実な者たちをバールの宮に集め、彼は兵士たちで囲いました。
そして、注意深く、主に従わない者たちとを区別し、誤って、異邦人の宮に入らないようにしました、
エフー自身はこの崇拝に参加してはいません。
この偶像崇拝が終った時、ここを守っていた者たちはバールに従う者たちを殺し、宮と偶像を破壊しました。
それは糞の山(公衆便所)となり、ゆえに永遠に汚されました。
私たちはこれらの出来事を読んだ時、何ということかと言うかも知れません。
しかし、私たちは神がアハブの家に多くの悔い改めの時と、さばきから逃げる道を与え続けていたのです。
また、エフーの熱心はコントロールが出来なくなったのでしょう。
彼の動機は常に霊的であったのではありません。
私たちはエフーがこの邪悪な家に対する神の怒りの道具であったという事実を受け入れなければなりません。
神は長い年月、殺害というさばきをためらっていました。
神の哀れみはさばきを受けてはならないイスラエルの国へ向けられていたのです。
罪人は神の忍耐を試みてはいけません。
罪は恵みの日に取り除かれるでしょう。
III、見捨てる。
10章29〜36節
神はエフーに彼の従順と、約束のゆえに彼の子孫が4世代に渡って王座を得ることを保障したゆえに語りました。
「イスラエルの王ヤロブアムの第二十七年に、ユダの王アマツヤの子アザルヤが王となった。
彼は十六歳で王となり、エルサレムで五十二年間、王であった。彼の母の名はエコルヤといい、エルサレムの出であった。
彼はすべて父アマツヤが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。
ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。
主が王を打たれたので、彼は死ぬ日までらい病に冒され、隔離された家に住んだ。王の子ヨタムが宮殿を管理し、この国の人々をさばいていた。
アザルヤのその他の業績、彼の行なったすべての事、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。
アザルヤが彼の先祖たちとともに眠ったとき、人々は彼をダビデの町に先祖たちといっしょに葬った。彼の子ヨタムが代わって王となった。
ユダの王アザルヤの第三十八年に、ヤロブアムの子ゼカリヤがサマリヤでイスラエルの王となり、六か月間、王であった。
彼は先祖たちがしたように、主の目の前に悪を行ない、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を離れなかった。
ヤベシュの子シャルムは、彼に対して謀反を企て、民の前で彼を打ち、彼を殺して、彼に代わって王となった。
ゼカリヤのその他の業績は、イスラエルの王たちの年代記の書にまさしくしるされている。
主がかつてエフーに告げて仰せられたことばは、「あなたの子孫は四代までイスラエルの王座に着く。」ということであったが、はたして、そのとおりになった。」
新改訳聖書 歴代史第二15章1〜12節
どちらにせよ、エフーは神のみことばに従おうとはせずに、偶像のところへ戻ってゆきました。
彼は金の子牛を拝んだのです。
私たちは他の人々に対する罪をさばかなければなりません。
同様に、私たちも自分の人生において同じ罪をさばかなければなりません。
マタイの福音書7章1〜5節にはこのように書かれています。
「さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」
新改訳聖書 マタイの福音書7章1〜5節
神はシリアの王ハザエルが起こそうとした領土を奪う行為によって、エフーを懲らしめました。
エフーは23年間、支配しました。
預言者ホセア(1章4節)は神はエフーの家にイズレエルの血の復讐をすると語り、彼は死にました。
エフーは神を捨てました。
そして、今、神はエフーを捨て、彼の子孫は4世代で終わりました。
私たちはこの説明の中にいくつかの基本的なレッスンを得ることができます。
(1)エフーの働きに対するさばきは神が成就させました。
しかしながら、神の哀れみは長く留まりました。
たびたび、罪人は偽りの平安の中に沈むことがあります。
それは、さばきの剣が来る事を見落としてしまうからです。
しかし、このさばきの剣が必ず来る事を確信できるでしょう。
(2)神を持たないこの世の指導者たちは、たびたび罪や罪過の中に自分の子供たちを導くことがあるでしょう。
アハブの結婚した異邦人の女と彼女の持つバール崇拝に従ったアハブの従者たちはイスラエルの国とその家を暗い、さばきの中へと導きました。
罪に導いた一人の男のゆえに、どのくらい多くの人が死んだのでしょうか!
(3)しもべは神のみことばを成就させましたが、彼自身は完全にみことばに従うことに失敗しました。
エフーは主に熱心であり続け、彼の支配は特別に祝福されたものとなりました。
しかし、エフーの偶像崇拝は彼と彼の家を訴えました。
列王記第二11〜16章で13人の違った王たちが語られています。
5人がユダの王で、8人がイスラエルの王です。
この王たちがそれぞれ分けて違った歩みをしたか私たちは確かめる必要はありません。
私たちは5人の王に注目して、それぞれ彼らの歩みから学んで見たいと思います。
I、幼い王、ヨアシュ(11、12章)
歴代史第二22〜24章
王女であるアタルヤはその子アハズヤが死ぬのを見た時、これ以上王座を奪い合うようなことがないように彼女は王家全体を拭い去ろうと決心しました。
彼女は神のみこころにおいて、7年間、小さな少年を助けだし、彼を守りました。
このようにして、神はユダからダビテの子孫が守られるという約束を成就させました。
A、守り(11章1〜3節)
歴代史第二22章11節は私たちに敬虔な女性がヨアシュの命を救ったことを語っています。
その女性はヨアシュのおばであり、アハズヤの妹であり、大祭司エホヤダの妻です。
サタンの子供たちは神の定めた子供たちが広がることを防ごうと試みています。
B、王の宣言
11章4〜21節
エホヤダは女王の母の策略無しにこの計画全体を練っていました。
アハズヤが邪悪な罪を犯し、この女王が現れる前から彼は王宮でレビ人であり、百人隊長を使い守っていました。
この女王の死には意義があったのです。
この百人隊長は主の宮にあった武器を使い、この武器はダビテによって昔からそこにあったことは注意すべきことです。
「祭司は百人隊の長たちに、主の宮にあったダビデ王の槍と丸い小盾を与えた。」
新改訳聖書 歴代史第二11章10節
これは支配が変わったということよりも大きなことであり、宗教的なリバイバルとも言えます。
若きヨアシュには律法が与えられました。
「こうしてエホヤダは、王の子を連れ出し、彼に王冠をかぶらせ、さとしの書を渡した。彼らは彼を王と宣言した。そして、彼に油をそそぎ、手をたたいて、「王さま。ばんざい。」と叫んだ。」
新改訳聖書 歴代史第二11章12節
「彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、
自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。」
新改訳聖書 申命記17章18、19節
彼の王座は守られました。
また、彼はエホヤダに神の家が清めることを許し、バールと偶像崇拝を排斥しました。
リバイバルはさばきという面から見て否定的です。
同様に献身的に歩むという面から見るならば、非常に肯定的です。
C、神による祝福
12章1〜16節
大祭司エホヤダは若き王の霊的な導き手です。
この支配の始める時に、ヨアシュは喜んでこれに従いました。
アハズヤは破滅に導くバール崇拝は許しました。
しかし、エホヤダと王は出て行き、主の宮を回復し、それを使い、神の家を建て直しました。
彼らの最初の計画は民に懇願を立てさせ、ささげものを持ってこさせ、祭司によって民からこれらを集めさせるように計画しました。
しかし、その後にその考えは断念することになりました。
それは祭司たちがささげものと懇願のための金銭によって生活をしていたからです。
民の自由意思によって、より多くの金銭を得るとことはむずかしいことです。
また、民は一般的に仕事が終った時、その金銭を持ってくるのが一般的です。
素直で忠実な働き手が特別な理由なく、財産を使うことになります。
D、罪よる滅び
12章17〜21節
歴代史第二24章15〜27節は私たちに忠実なエホヤダが死んだことを知らせています。
(エホヤダが130歳の時です。)
その王は背教に進み、実際に偶像崇拝を行いました。
疑うことなく、その指導者の信仰は別の指導者に縛られ、主を直接、見上げていたわけではありません。
神はその王に警告として、預言者を送りましたが、彼には何のレッスンにはなりませんでした。
その預言者の一人にゼカリヤがいました。
彼は大祭司エホヤダの子であり、ヨラムのいとこです。
(歴代史第二22章11節参照)
彼が学ぶ代わりに、ヨアシュは彼に命令し、神殿の中庭に石を投げ入れさせました。
イエスはマタイの福音書23章34、35節において、彼がした人殺しについて語っています。
「だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。
それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。」
新改訳聖書 マタイの福音書23章34、35節
ここに霊的な背教があります。
ヨアシュはシリアの侵入の手助けをし、ハザエルを買収し、神の家の宝物をハザエルに与えました。
神の民は自分たちの問題を解決するために、主に信仰を告白するどころか、逆に主のものを奪い取るようなことを何度もしてきました。
なんと、その結果はヨアシュ自身は自分のしもべたちに殺されてしまいました。
彼らは罪の無いエホヤダの子供たちの死の復讐を考えていたのです。
II、ヨアシュ、最後の反抗者
13章
最初の9節において、ヨアシュの父、エホヤダのことを読みました。
11、12章にあるユダの若き王、エホヤダと混合してはいけません。
このエホヤダはイスラエルの王ですが、神の目から見て邪悪なことを行いました。
14章8〜14節において、私たちはこの王がユダの王アマツヤに敗北したことを知ります。
ヨアシュが支配している間、ヨアシュは神の人エリシャが死ぬ直前に彼のところへと来ていました。
エリシャは彼にシリアの王に敗北するために、一度限りの金の機会を与えました。
しかし、彼はこの機会を使うことに失敗しています。
25節を見ると、私たちはエホヤダは3回だけ勝利を得たことを知ります。
「エホアハズの子ヨアシュは、その父エホアハズの手からハザエルが戦い取った町々を、ハザエルの子ベン・ハダデの手から取り返した。すなわち、ヨアシュは三度彼を打ち破って、イスラエルの町々を取り返した。」
新改訳聖書 列王記第二13章35節
しかし、なんという悲劇でしょうか、ヨアシュは主が私たちに与える大きな機会を得ることに失敗しています。
今日において、明日を得ることに失敗し、何度の悪い決断をすることが私たちにもあります。
20、21節にこの不確かな奇跡が、神の人に対して力強い影響を与えたことが述べられています。
また、そのことが彼の死の跡にさえ、影響を与えています。
「こうして、エリシャは死んで葬られた。モアブの略奪隊は、年が改まるたびにこの国に侵入していた。
人々が、ひとりの人を葬ろうとしていたちょうどその時、略奪隊を見たので、その人をエリシャの墓に投げ入れて去って行った。その人がエリシャの骨に触れるや、その人は生き返り、自分の足で立ち上がった。」
新改訳聖書 列王記第二13章20、21節
III、アマツヤ、プライドによって敗北した王
14章(歴代史第二25章)
この王は主に従い、良いスタートで始め、殺された自分の父ヨアシュの復讐を果たしました。
「 王国が彼の手によって強くなると、彼は自分の父、王を打った家来たちを打ち殺した。」
新改訳聖書 列王記第二14章5節
「ヨアシュの家来たちは立ち上がって謀反を起こし、シラに下って行くヨアシュをミロの家で打ち殺した。」
新改訳聖書 列王記第二12章20節
彼のした行為は申命記24章16節に従ったものです。
「しかし、その殺害者の子どもたちは殺さなかった。モーセの律法の書にしるされているところによったのである。主はこう命じておられた。「父親が子どものために殺されてはならない。子どもが父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、ただ、自分の罪のためにでなければならない。」」
新改訳聖書 列王記第二14章6節
「父親が子どものために殺されてはならない。子どもが父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならない。」
新改訳聖書 申命記24章16節
神は彼にエドム人に対して偉大な勝利を与えました、
しかし、歴代史第二25章14〜16節ではこの敗北した異邦人エドム人の神々を持ち帰り、これらの神々を崇拝したことが私たちに語られています。
「アマツヤは、エドム人を打ち殺して帰って来て後、セイルの者たちの神々を持ち帰り、これを自分の神々として立て、その前に伏し拝み、これに香をたいた。
そこで、主はアマツヤに向かって怒りを燃やし、彼のもとに預言者を遣わして、彼に仰せられた。「なぜ、あなたは、あなたの手からその民を救い出すこともできないような神々を求めたのか。」
彼が王に語っているうちに、王は彼に言った。「私たちはあなたを王の議官に任じたのか。身のため思ってやめなさい。なぜ、打ち殺されるようなことをするのか。」そこで、預言者はやめて言った。「私は神があなたを滅ぼそうと計画しておられるのを知りました。あなたがこれを行ない、私の勧めを聞かなかったからです。」」
新改訳聖書 歴代史第二25章14〜16節
この偶像との結びつきと彼を導いたプライドはイスラエルの王ヨアシュのとともにその歩むがかき回され、彼を戦争へと向かいました。
「ユダの王ヨアシュの第三十七年に、エホアハズの子ヨアシュがサマリヤでイスラエルの王となり、十六年間、王であった。
彼は主の目の前に悪を行ない、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れず、なおそれを行ない続けた。
ヨアシュのその他の業績、彼の行なったすべての事、およびユダの王アマツヤと戦ったその功績、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。
ヨアシュは彼の先祖たちとともに眠り、ヤロブアムがその王座に着いた。ヨアシュはイスラエルの王たちとともにサマリヤに葬られた。」
新改訳聖書 列王記第二13章10〜13節
イスラエルの王ヨアシュは騙されることを恐れ、賢く歩みました。
9〜10節において、彼の賢いたとえにおいて示されています。
「すると、イスラエルの王ヨアシュは、ユダの王アマツヤに使者を送って言った。「レバノンのあざみが、レバノンの杉に使者を送って、『あなたの娘を私の息子の嫁にくれないか。』と言ったが、レバノンの野の獣が通り過ぎて、そのあざみを踏みにじった。
あなたは、エドムを打ちに打って、それであなたの心は高ぶっている。誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、争いをしかけてわざわいを求め、あなたもユダも共に倒れようとするのか。」」
新改訳聖書 列王記第二13章9〜10節
アマツヤはこの小さなあざみです。
箴言16章18節にはこのようにあります。
「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」
新改訳聖書 箴言16章18節
ユダはイスラエルに敗北して当然だったのです。
エルサレムは部分的に崩壊し、主の宝物はからっぽです。
アマツヤは自分の国に残り、神は彼に勝利の栄光を与えました。
彼がイスラエルの捕われの身にはなっていません。
私たちにはアマツヤが陰謀によって殺されたとは語られていません。
「ユダの王ヨアシュの子アマツヤは、イスラエルの王エホアハズの子ヨアシュの死んで後、なお十五年生きながらえた。
アマツヤのその他の業績は、最初から最後まで、ユダとイスラエルの王たちの書にまさしくしるされているではないか。
アマツヤが主から離れた時、エルサレムで人々が彼に対して謀反を企てたので、彼はラキシュに逃げた。しかし、彼らはラキシュまで追いかけて、そこで彼を殺した。
彼らは、彼を馬にのせて行って、ユダの町に先祖たちといっしょに葬った。」
新改訳聖書 歴代史第二25章25〜28節
IV、ウジヤはユダの偉大な王だったでしょうか?
15章(歴代史第二26章)
ウジヤの名前の意味は主の強さです。
彼にはもうひとつの名前がありました。
それはアザルヤで、エホバの助けです。
彼は16歳で王座に上り、彼の健全な支配の下にこの国は新しい歩みと繁栄を得ました。
彼の霊的な導き手はゼカリヤでした。
「彼は神を認めることを教えたゼカリヤの存命中は、神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を栄えさせた。」
新改訳聖書 歴代史第二26章5節
彼はヨアシュに仕えた預言者ではありません。
神はウジヤにペリシテ人とアラビヤの国々に対して偉大な勝利を与えました。
また、彼は大きなプログラムを計画し、自分の国を導きました。
特に水を供給する地域を特別に取り扱いました。
彼の軍隊が建てられたことは注意すべき点です。
また、彼は戦争にわずかであるが機械的な武器を使用しました。
預言者イザヤは彼の召しに答え、ウジヤが死ぬ年に彼に仕えました。
イザヤ書6章を参照にしてください。
プライドが彼を滅びに導きました。
「 しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿にはいった」
新改訳聖書 歴代史第二26章16節
彼は神殿に入り、香をたきました。
しかし、主は彼をらい病で打ちました。
彼の子ヨタムが彼が死ぬまで、長い間、彼ともにその国を支配しました。
彼の死はユダの国に大きな悲しみとなりました。
ウジヤは22年間ユダの国を支配し、ソロモン以来の大きな安全と繁栄を楽しんだのです。
15章8〜31節で5人のイスラエルの王の短い記録を読むことができます。
ゼカリヤは6ヵ月間だけイスラエルを支配しました。
しかし、シャルムの謀反によって暗殺されます。
シャルムは1ヵ月間だけイスラエルを支配しました。
しかし、メナヘムが彼を殺します。
メナヘムは10年間支配します。
異邦人を超える邪悪な行いをし、アハズ王の時までペカフヤに支配を2年間引き継がせました。
イスラエルにとって、主から離れたゆえに、これらの時代はとても困難な時代になりました。
V、アハズ、妥協の代償の結果
16章(歴代史第二28章)
ユダの王の邪悪はさらにモレクの神に自分の子供を捧げてしまいました。
アハズは6年間だけユダを支配しました。
彼の結果のひとつにヒノムの丘(ベン・ヒノム)に捧げものを捧げたことがあります。
後に、ヨシュア王がその丘を崩壊させ、ごみの山にしました。
そのことばのヒノムの丘(ベン・ヒノム)という意味は、後に、ギリシャ語で地獄と言う意味になりました。
神はシリアをアハズに向かわせ、彼を滅ぼし、前任の王のようにしました。
アハズは主の家からアッシリアへの賄賂とするために宝物を奪い取りましたが、アッシリアはイスラエルへと戦いを挑んできました。
アハズの友好はますますアッシリアの王とのトラブルを生んで行きます。
アハズはダマスカスで異邦の神の祭壇を見て、それをもうひとつエルサレムに作ろうと試みました。
実際に、アハズは命令して新しい祭壇を神殿に作らせました。
この世を見習うことは簡単なことなのです。
歴代史第二28章20〜27節でアッシリアとの友好関係がアハズを偶像崇拝へと導いていることを私たちに教えています。
確かに、アッシリアの王は金銭を受け取りましたが、最後までユダを助けることに失敗しています。
「アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルは、彼を攻め、彼を悩ました。彼の力にはならなかった。
アハズは主の宮と王およびつかさたちの家から物を取って、アッシリヤの王に贈ったが、何の助けにもならなかったのである。
アッシリヤの王が彼を悩ましたとき、このアハズ王は、ますます主に対して不信の罪を犯した。
彼は自分を打ったダマスコの神々にいけにえをささげて言った。「アラムの王たちの神々は彼らを助けている。この神々に私もいけにえをささげよう。そうすれば私を助けてくれるだろう。」この神々が彼を、また全イスラエルをつまずかせるものとなった。
ついで、アハズは神の宮の器具を集めた。彼は神の宮の器具を断ち切ってから、主の宮の戸を閉じ、エルサレムの町かどの至る所に祭壇を造った。
ユダの町という町にはすべて、ほかの神々に香をたくため高き所を造り、彼の父祖の神、主の怒りをひき起こした。
彼のその他の業績と彼のすべての行ないは、最初から最後まで、ユダとイスラエルの王たちの書にまさしくしるされている。
アハズは彼の先祖たちとともに眠り、人々は彼をエルサレムの町に葬った。彼をイスラエルの王たちの墓に運び入れなかったからである。彼の子ヒゼキヤが代わって王となった。」
新改訳聖書 歴代史第二28章20〜27節
17、18節において、アハズはアッシリアの王に取られないように別の金の飾り物をアッシリアの王から隠しておいたことが私たちに語られています。
アハズが死んで彼の子ヒゼキヤが王座を取った時、信仰を持った人が神の祝福を探し求めました。
アハズは約束を成就させるために勝利のために自分を売ったのです。
しかし、その結果は恥と敗北でした。
列王記第二17章
この長い章ではイスラエルの最後の王について記録されています。
この王はどのように北王国を捕囚されるように導いたのでしょうか!
アッシリアは紀元前722年にサマリヤを支配に入れました。
サマリヤは北王国の首都です。
アッシリアは、後にこの国さえも征服してしまいます。
かつて、神の栄光ある勝利がどのようにして実現できたでしょうか?
この国を敗北してしまったのです。
勝利は、最低限、真実なる神を礼拝することによって実現するのです。
I、サマリヤの崩壊
17章1〜6節
ホセアはアッシリアの協力を得てイスラエルの王になりました。
ホセアはアッシリアにみつぎものを納める約束をしました。
歴代史第二15章27〜31節を見るならば、ホセア王の陰謀の物語があります。
「ユダの王アザルヤの第五十二年に、レマルヤの子ペカがサマリヤでイスラエルの王となり、二十年間、王であった。
彼は主の目の前に悪を行ない、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を離れなかった。
イスラエルの王ペカの時代に、アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルが来て、イヨン、アベル・ベテ・マアカ、ヤノアハ、ケデシュ、ハツォル、ギルアデ、ガリラヤ、ナフタリの全土を占領し、その住民をアッシリヤへ捕え移した。
そのとき、エラの子ホセアは、レマルヤの子ペカに対して謀反を企て、彼を打って、彼を殺し、ウジヤの子ヨタムの第二十年に、彼に代わって王となった。
ペカのその他の業績、彼の行なったすべての事は、イスラエルの王たちの年代記の書にまさしくしるされている。」
新改訳聖書 列王記第二15章27〜31節
私たちにはホセアが邪悪な王であることが語られています。
彼はイスラエルの邪悪な21人の王の一人なのです。
しかし、彼の罪は彼の前任者たちの王と同じ罪ではありません。
2節において、ホセアはこの国を良い方向へと導こうとしています。
「彼は主の目の前に悪を行なったが、彼以前のイスラエルの王たちのようではなかった。」
新改訳聖書 列王記第二17章2節
歴代史第二30章6〜11節において、ホセアが大きな過ぎ越しの祭りを町の人々が分かつ合うことを認めていたことがわかります。
これはヒゼキヤによって呼びかけられたものです。
「そこで、近衛兵は、王とそのつかさたちの手紙を携えて、イスラエルとユダの全土を行き巡り、王の命令のとおりに言った。「イスラエルの人たちよ。アブラハム、イサク、イスラエルの神、主に立ち返りなさい。そうすれば、主は、あなたがたに残された、アッシリヤの王たちの手をのがれた者たちのところに、帰って来てくださいます。
あなたがたは、父祖の神、主に対して不信の罪を犯したあなたがたの父たち、兄弟たちのようになってはいけません。あなたがたが自分の目で見ているとおり、主は彼らを恐怖に渡されたのです。
今、あなたがたは、自分の父たちのようにうなじのこわい者であってはなりません。主に服従しなさい。主がとこしえに聖別された聖所にはいり、あなたがたの神、主に仕えなさい。そうすれば、主の燃える怒りがあなたがたから離れるでしょう。
あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたの兄弟や子たちは、彼らをとりこにした人々のあわれみを受け、この地に帰って来るでしょう。あなたがたの神、主は、情け深く、あわれみ深い方であり、もし、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔をそむけるようなことは決してなさいません。」
こうして、近衛兵は、エフライムとマナセから、ゼブルンの地に至るまで、町から町へと行き巡ったが、人々は彼らを物笑いにし、あざけった。
ただ、アシェル、マナセおよびゼブルンのある人々はへりくだって、エルサレムに上って来た。」
新改訳聖書 歴代史第二30章6〜11節
しかし、この王は自分自身をアッシリアに売り、このことに気づくのは遅すぎました。
悲しいことが記されています。
ホセアは毎年払うみつぎものを拒み、アッシリアに反抗し、ひそかにエジプトと契約を結びました。
イスラエルはエジプトに助けを求めようとしたのです。
神の民がこの世にサポートを求めているようです。
エレミヤ記17章5〜7節、ホセア書7章11〜13節を見てください。
預言者の目が侵入者エジプトへと向けられています。
「主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。
そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。
主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。」
新改訳聖書 エレミヤ記17章5〜7節
「エフライムは、愚かで思慮のない鳩のようになった。彼らはエジプトを呼び立て、アッシリヤへ行く。
彼らが行くとき、わたしは彼らの上に網を張り、空の鳥のように彼らを引き落とし、その群れが騒々しくなるとき、わたしはこれを懲らす。
ああ、彼らは。彼らはわたしから逃げ去ったからだ。彼らは踏みにじられよ。彼らはわたしにそむいたからだ。わたしは彼らを贖おうとするが彼らはわたしにまやかしを言う。」
新改訳聖書 ホセア書7章11〜13節
アッシリアはホセアの謀反を正しいとは見ていません。
彼らの軍隊は北王国を覆い、ついに首都サマリアの町を覆ってしまいました。
サマリヤは強く、要塞化された町です。
サマリヤは三年間、アッシリアの軍隊に囲まれてしまいました。
まさに、希望なき状態です。
この国は主を捨てました。
神はこの国が捨てられることに同意したのです。
アッシリアの考えはイスラエルが持つ最高の環境を得ることであり、他の外国の捕虜たちとともにイスラエルを殖民地として囚われの身とすることなのです。
それは250年間、罪と反逆が続き、イスラエルの国(北王国)は敵によって捕虜とされ、不毛の荒野に残され、敗北したのです。
イスラエルの最初の王ヤロブアムは主の道を歩み、イスラエルを律法に従うように導いたでしょうか?
イスラエルの歴史はそれとは違っていました。
それどころか、ヤロブアムは主に従わず、神から離れてイスラエルを導きました。
彼の後継者はヤロブアムの罪を歩み、イスラエルを罪に定めました。
「これは、彼が罪を犯して主の目の前に悪を行ない、ヤロブアムの道に歩んだその罪のためであり、イスラエルに罪を犯させた彼の罪のためであった。」
新改訳聖書 列王記第一16章19節
「彼はネバテの子ヤロブアムのすべての道に歩み、イスラエルに罪を犯させ、彼らのむなしい神々によってイスラエルの神、主の怒りを引き起こした。」
新改訳聖書 列王記第一16章26節
「しかし、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を彼も犯し続け、それをやめようとはしなかった。」
新改訳聖書 列王記第二3章3節
ダンとベテルにあるヤロブアムの金の小牛はイスラエルを背教へと導いたのです。
「ヤロブアムはエフライムの山地にシェケムを再建し、そこに住んだ。さらに、彼はそこから出て、ペヌエルを再建した。
ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はダビデの家に戻るだろう。
この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」
そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」
それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。
このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンにまで行った。
それから、彼は高き所の宮を建て、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。
そのうえ、ヤロブアムはユダでの祭りにならって、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でいけにえをささげた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえをささげた。また、彼が任命した高き所の祭司たちをベテルに常住させた。
彼は自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえをささげ、イスラエル人のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえをささげ、香をたいた。」
新改訳聖書 列王記第一12章25〜33節
II、捕虜となった要因
17章7〜23節
歴史はいつも、単に連なった出来事の繰り返しではありません。
その影には神の目的と計画と潜んでいるのです。
これらの章において、聖霊はなぜ、サマリヤが捕虜となったのかその理由を明らかにしています。
今日、神はすべての国々を平等に見ており、私たちはより良い方向へと物事を考えます。もし、神は御自身の所有する国イスラエルを懲らしめたのなら、今日において、神は神に反逆した国々をどのように扱うかを私たちは知らなければなりません。
"History is His story."歴史とは神の物語なのです。
A、神を忘れた国
7節
神はイスラエルをエジプトの奴隷の身から購い、彼らを買ったのです。
その結果、イスラエルは神の所有の民となったのです。
毎年行われる過ぎ越しの祭りは彼らが神の恵みを思い出すためのものです。
しかし、イスラエルは神がイスラエルにしたことすべてを忘れたのです。
申命記に何回も、モーセはイスラエルの民に神を思い出し、神の御業を忘れてはならないように促しています。
「あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、
あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、
あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。」
新改訳聖書 申命記6章10〜12節
「私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。
あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」
新改訳聖書 申命記8章1、2節
B、イスラエルの隠れた不従順
8、9節
神はイスラエルにカナンの地において、異邦の国と混じってはならないと警告していました。
(申命記7章)
しかし、イスラエルには隠れた不従順がありました。
彼らの心の中には欲望があり、彼らの周りにある異邦の神々を礼拝することを許したのです。
C、イスラエルは大胆に反逆したのです、
10〜12節
ついに、彼らの隠れた罪は大胆な罪となり、イスラエルは神に対して怒りを現すようになりました。
「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。」
新改訳聖書 出エジプト記20章4節
「堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。」
新改訳聖書 申命記4章16節
「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。」
新改訳聖書 申命記5章8節
D、イスラエルは神の召しを拒みました。
13〜15節
主は忠実な預言者たちをイスラエルに送り、彼らに警告を与え、弁護しました。
しかし、イスラエルはかたくなになり、頑固にも反逆しました。
「主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。」
新改訳聖書 出エジプト記32章9節
「乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。」」
新改訳聖書 出エジプト記33章3節
「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」
新改訳聖書 使徒の働き7章51節
彼らは自分たちの祝福のために主の書かれ、主が与えられた律法に反逆しました。
15節にあることは恐ろしいことです。
「彼らは主のおきてと、彼らの先祖たちと結ばれた主の契約と、彼らに与えられた主の警告とをさげすみ、むなしいものに従って歩んだので、自分たちもむなしいものとなり、主が、ならってはならないと命じられた周囲の異邦人にならって歩んだ。」
新改訳聖書 列王記第二17章15節
私たちの礼拝もそのようになりかねません。
「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。
なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」と。
私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。
彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。
口があっても語れず、目があっても見えない。
耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。
手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。
これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」
新改訳聖書 詩篇115章1〜8節
E、イスラエルは自分自身を悪に売ったのです。
16〜23節
イスラエルは罪の奴隷となったのです。
ヤロブアムは金の小牛を建てました。
しかしながら、これだけでは欲望に満ちたイスラエルのこころを満たすことは出来ませんでした。
イスラエルはカナン人たちの神々を礼拝しただけではなく、その他の国々からも神々を仕入れてきました。
神は王国を裂きました。
「そこで、主はイスラエルに対して激しく怒り、彼らを御前から取り除いた。ただユダの部族だけしか残されなかった。」
新改訳聖書 列王記第二17章18節
ダビテの一族だけが残され、ユダを支配しました。
しかし、ユダも罪へと向かって行きました。
神はイスラエルを略奪者の手に渡しました。
「そこで、主はイスラエルのすべての子孫をさげすみ、彼らを苦しめ、略奪者たちの手に渡し、ついに彼らを御前から投げ捨てられた。」
新改訳聖書 列王記第二17章20節
イスラエルは国の中から、及び、外からも略奪されたのです。
王たちはイスラエルから多くを奪い、敵たちはイスラエルと戦いました。
神は預言者を通し、さばきが来る事をイスラエルに警告しました。
しかし、民は盲目的になり、罪から罪へと向かって行きました。
旧約聖書はイスラエルの国の20人の王の名を記しています。
すべてが邪悪な王です。
イスラエルの王国は250年かけて滅びへと向かって行ったのです。
イスラエルはエリヤ、エリシャ、アモス、ホセア、そしてイザヤの語ることを聞いたのですが、主の前にひざをかがめることを拒みました。
ここにある背信を助けることは出来ません。
神はすべてをさばくことができます。
神はもう一度、始めから始めるために「信仰を持った残りの民」を持っているのです。
III、サマリヤの植民地化
17章24〜41節
イスラエルにいるべき民を退去させた後、アッシリアの王は自分の支配にある他の国々の市民をそこに住まわせました。
王はそれによって、イスラエルが何か組織を組んだり、反乱を起こすことを防ぎました。これらの章はサマリア人の起源を記しています。
サマリア人は混ぜ合わされた民であり、ヨハネの福音書4章、及び使徒の働き8章で読むことができます。
後に信仰を持ったユダヤ人が帰って来ます。
しかし、正統的なユダヤ人は半分血の混じった国をユダヤ人として取り扱おうとはしません。
イエスははっきりとサマリヤの女に言いました。
サマリヤ人は自分たちが何を礼拝しているのか知らないし、救いはユダヤ人から来るものだと語りました。
「救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書4章22節
最初は、サマリヤには信じるような信仰も、宗教もありませんでした。
神は民のこころに恐れを生じさせるような獅子を送ったのです。
「彼らがそこに住み始めたとき、彼らは主を恐れなかったので、主は彼らのうちに獅子を送られた。獅子は彼らの幾人かを殺した。」
新改訳聖書 列王記第二17章25節
しかしながら、指導者はこの問題を特別な方法にて解決しました。
彼らはユダヤの祭司制度を取り入れ、彼らはエホバと自分たちの国々の持つ神々の両方を礼拝したのです。
29節でこのように言われています。
「しかし、それぞれの民は、めいめい自分たちの神々を造り、サマリヤ人が造った高き所の宮にそれを安置した。それぞれの民は自分たちの住んでいる町々でそのようにした。」
新改訳聖書 列王記第二17章29節
これは旧約聖書の時代におけるエキュメニカル運動です。
彼らが主を恐れたということが繰り返されていることに注意してください。
(25、28、32〜34、41節)
また、27節において、イスラエルの神として(多くの神々の一つとして)彼らは恐れています。
「そこで、アッシリヤの王は命じて言った。「あなたがたがそこから捕え移した祭司のひとりを、そこに連れて行きなさい。行かせて、そこに住ませ、その国の神に関するならわしを教えさせなさい。」」
新改訳聖書 列王記第二17章27節
彼らはイスラエルの神を礼拝し、自分たちの持つ神々をも礼拝しています。
彼らのエホバ礼拝は無駄な形式的なものでした。
単に外観だけ、献身的に見せていたのです。
彼らが本当に礼拝していたのでは異邦の神々です。
エホバは彼らにとって、一つの神であり、彼らの神々のコレクションの一つに過ぎなかったのです。
言い換えれば、サマリヤに対する重たい「さばきの手」を見ることができます。
サマリヤの民は主に不従順であることが理解できるまで、そこに残りました。
最後には偶像崇拝という「がん」はユダから切り離されました。
BC584年にバビロンはエルサレムを滅ぼし、民は捕囚されました。
残りの民はエズラとネヘミヤの指導の上、自分の国に帰って来て、再び、その国は咲き始めたのです。
しかし、神はその時、自分の一人子をその民に送りました。
彼らは彼を拒んだのです。
そして、再びもう一度、神のさばきが彼らに来たのです。
AD70年にエルサレムは崩壊しました。
そして、この国は世界中に散らされて行ったのです。
「幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。」
新改訳聖書 詩篇33章12節
これらイスラエルの悲劇的な歴史の出来事は、イスラエルを見て恐れ、指導者のために祈るというクリスチャンの権利を思い起こさせるものとなります。
神無き指導者は神無き時代の民を造りだすのです。
「このようにして、これらの民は主を恐れ、同時に、彼らの刻んだ像に仕えた。その子たちも、孫たちも、その先祖たちがしたとおりに行なった。今日もそうである。」
新改訳聖書 列王記第二17章41節
妥協した祭司たちは、ますます主から離れた礼拝を導いています。
その時、主のみことばは拒絶され、この国の未来には希望はありませんでした。
「彼らは今日まで、最初のならわしのとおりに行なっている。彼らは主を恐れているのでもなく、主が、その名をイスラエルと名づけたヤコブの子らに命じたおきてや、定めや、律法や、命令のとおりに行なっているのでもない。
主は、イスラエル人と契約を結び、命じて言われた。「ほかの神々を恐れてはならない。これを拝みこれに仕えてはならない。これにいけにえをささげてはならない。
大きな力と、差し伸べた腕とをもって、あなたがたをエジプトの地から連れ上った主だけを恐れ、主を礼拝し、主にいけにえをささげなければならない。
主があなたがたのために書きしるしたおきてと、定めと、律法と、命令をいつも守り行なわなければならない。ほかの神々を恐れてはならない。
わたしがあなたがたと結んだ契約を忘れてはならない。ほかの神々を恐れてはならない。」
新改訳聖書 列王記第二17章34〜38節
しかしながら、ここには神の広い哀れみがあります。
神はイスラエルを250年間、耐えていたのですが、最後にはさばきがその国を襲いました。
背信に対して、治療方法はありません。
神の民は主から遠く離れて行きました。
神はさばかなければならなかったのです。
神は御自身のために信仰的な残りの民を救い、神を告白する者を再び準備したのです。
しかし、神は神のことばを拒否する者と召しを拒否する者を祝福していません。
列王記第二18〜20章
(イザヤ書36〜39章、歴代史第二29〜32章もいっしょに読んでください。)
私たちはユダの歴史のもっとも激しい時代を学ぼうとしています。
それは忠実なヒゼキヤ王の支配の時代です。
サマリヤはアッシリアの手の中に落ちてゆき、今、敵の目はユダに向けられています。
アハズはその数年前にアッシリアと契約を結びました。
「アハズは使者たちをアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに遣わして言った。「私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか上って来て、私を攻めているアラムの王とイスラエルの王の手から私を救ってください。」
アハズが主の宮と王宮の宝物倉にある銀と金を取り出して、それを贈り物として、アッシリヤの王に送ったので、
アッシリヤの王は彼の願いを聞き入れた。そこでアッシリヤの王はダマスコに攻め上り、これを取り、その住民をキルへ捕え移した。彼はレツィンを殺した。」
新改訳聖書 列王記第二16章7〜9節
しかし、ヒゼキヤはそれに反対しました。
その結果、敵からの侵入者たちは侵入してきたのです。
「主は彼とともにおられた。彼はどこへ出陣しても勝利を収めた。彼はアッシリヤの王に反逆し、彼に仕えなかった。」
新改訳聖書 列王記第二18章7節
「ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。
そこでユダの王ヒゼキヤはラキシュのアッシリヤの王のところに人をやって、言った。「私は罪を犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。」そこで、アッシリヤの王は銀三百タラントと、金三十タラントを、ユダの王ヒゼキヤに要求した。
ヒゼキヤは主の宮と王宮の宝物倉にある銀を全部渡した。
そのとき、ヒゼキヤは、ユダの王が金を張りつけた主の本堂のとびらと柱から金をはぎ取り、これをアッシリヤの王に渡した。」
新改訳聖書 列王記第二18章13〜16節
現実にこれらの章で書かれていることは他の箇所では正確に記録されていません。
ヒゼキヤの病気がこの攻撃の期間に起きたからです。
「そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」」
---中略---
わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。」
新改訳聖書 列王記第二20章1〜6節 中略
そして、バビロンからの指導者が彼を助けるふりをして、やってきたのです。
ヒゼキヤの支配は29年間でした。
「彼は二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はアビといい、ゼカリヤの娘であった。」
新改訳聖書 列王記第二18章2節
ヒゼキヤは国を修復し、14年間国を支配しましたが、15年間は侵入者が侵入した状態で彼は支配していました。
「ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。」
新改訳聖書 列王記第二18章13節
彼の人生で病気と修復が同じ期間に起きたのです。
私たちはヒゼキヤが直面した三つの敵に対して、彼がどのように扱ったかを注意してみる必要があります。
I、アッシリアの侵入
18、19章
ヒゼキヤの修復
18章1〜8節(歴代史第二29〜32章)
この信仰的な王はすぐに罪と偶像崇拝を国から追い出しました。
ヒゼキヤは神殿を開き、修復しました。
ごみを掃き、集め、礼拝を建て直したのです。
ヒゼキヤが特に目を引いたのは歌い手と捧げものです。
彼はイスラエルを含む、国全体でこのことをおおいなる過越と呼びました。
まさにその時はリバイバルとも言える時です。
しかし、不運にも彼は民のこころを得ることは出来ませんでした。
この変化は単に表面的なものです。
しかしながら、ヒゼキヤが主を愛していることが証明されます。
神はヒゼキヤの礼拝ゆえに、彼を祝福しました。
B、反逆
18章9〜37節
この国は数年間、アッシリヤの植民地状態でした。
しかし、ヒゼキヤはアッシリヤに金銭を払うことを拒みました。
ゆえに、アッシリヤの軍隊はエルサレムに来たのです。
ヒゼキヤは神に立ち返る代わりに、敵を恐れ、敵の手の中に陥り、アッシリヤに要求され、神殿さえも奪い取られました。
「ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。
そこでユダの王ヒゼキヤはラキシュのアッシリヤの王のところに人をやって、言った。「私は罪を犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。」そこで、アッシリヤの王は銀三百タラントと、金三十タラントを、ユダの王ヒゼキヤに要求した。
ヒゼキヤは主の宮と王宮の宝物倉にある銀を全部渡した。
そのとき、ヒゼキヤは、ユダの王が金を張りつけた主の本堂のとびらと柱から金をはぎ取り、これをアッシリヤの王に渡した。」
新改訳聖書 列王記第二18章13〜16節
この時代において、実際、ユダ王国には三つの集まりがありました。
ひとつはアッシリヤに捕囚されて欲しい集まりです。
もう一つはエジプトに助けを求める集まりです。
三つはイザヤに導かれる救いを求める主に信頼する国として集まりです。
イザヤはこの集まりを「踏みにじられる者」と呼んでいます。
アッシリヤはこのような約束を守りはしません。
「 ああ。自分は踏みにじられなかったのに、人を踏みにじり、自分は裏切られなかったのに、人を裏切るあなたは。あなたが踏みにじることを終えるとき、あなたは踏みにじられ、あなたが裏切りをやめるとき、あなたは裏切られる。
主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。
騒ぎの声に国々の民は逃げ、あなたが立ち上がると、国は散らされます。
あなたがたの分捕り物は、油虫が物を集めるように集められ、いなごの群れが飛びつくように飛びつかれる。
主はいと高き方で、高い所に住み、シオンを公正と正義で満たされる。
あなたの時代は堅く立つ。知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である。
見よ。彼らの勇士はちまたで叫び、平和の使者たちは激しく泣く。
大路は荒れ果て、道行く者はとだえ、契約は破られ、町々は捨てられ、人は顧みられない。」
新改訳聖書 イザヤ書33章1〜8節
アッシリヤの三つの集まりはユダヤ人を責めています。
(17節にある3つのタイトルは集まりで、個人名ではありません。)
「アッシリヤの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところに送った。彼らはエルサレムに上って来た。彼らはエルサレムに上って来たとき、布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った。」
新改訳聖書 列王記第二18章17節
彼らはヒゼキヤの信仰と指導力を損なおうと試みます。
31、32節を見ると罪の欺きが表現されています。
「ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリヤの王はこう言っておられるからだ。私と和を結び、私に降参せよ。そうすれば、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、また、自分の井戸の水を飲めるのだ。
その後、私が来て、おまえたちの国と同じような国におまえたちを連れて行こう。そこは穀物とぶどう酒の地、パンとぶどう畑の地、オリーブの木と蜜の地である。それはおまえたちが生きながらえて死なないためである。たとい、ヒゼキヤが、主がわれわれを救い出してくださると言って、おまえたちをそそのかしても、ヒゼキヤに聞き従ってはならない。」
新改訳聖書 列王記第二18章31、32節
この者はこの国が捕囚されるまで、平和が来ないと言っています。
ここにあるのは常に「...するまで」不従順になれです。
C、要求
19章1〜19節
王は自分自身さえも救われることは不可能なことを知り、神殿に行き、祈りました。
2節を見るのなら、聖書で最初の預言者イザヤの弁明が記されています。
「彼は、宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに、荒布をまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。」
新改訳聖書 列王記第二19章2節
預言者は王に平和の答えを送りました。
神はアッシリヤにユダ王国の敗北を与えようとしているのです。
他の国々はアッシリヤを責め、アッシリヤはイスラエルから撃退することになりました。しかし、ラブ・シャケはヒゼキヤに高慢な手紙を送り、彼は恐れ、彼は委ねたのです。
その王は手紙を取り、神殿に行き、主の前で広げました。
19節で主の栄光が強調されていることに注意してください。
この祈りは実際に基礎となるべき祈りです。
D、報い
19章20〜37節
主のみことばと祈り、なんとすばらしい組み合わせではないでしょうか?
ヒゼキヤは祈り、神はイザヤを通して答えを与えました。
神はアッシリヤをさばき、彼らは他の国々と同じようにたどって行ったのです。
神はヒゼキヤに2年後に、再び収穫の時が来ることを約束しました。
アッシリヤの国は荒れすさんだのです。
「あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。」
新改訳聖書 列王記第二19章29節
しかし、注意すべき点があります。
神はダビテゆえに、この祈りに答えられたのです。
ユダ王国のため、もしくは王を哀れんで答えられたのではありません。
「わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」
新改訳聖書 列王記第二19章34節
神は18万5千人の兵士を一夜のうちに殺しました。
後にセナケリブの子供たちがセナケリブを暗殺しました。
神はエジプトの助けなしで敵を負かすことができるのです。
イザヤ書30、31節を読んでください。
II、死
20章1〜11節
聖書には死は最後の敵であると書かれています。
「最後の敵である死も滅ぼされます。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一15章26節
それはまさに病気の中にいる王に試みられているものでした。
また、アッシリヤは侵入しようと脅しをかけています。
多くの時に、二つの問題が来ようとしていました。
しかし、神はこのような試みを彼らに与え、満足しているのです。
私たちはこのような病気を、なぜ神は与えたのかを問うかも知れません。
それは、おそらく、ヒゼキヤの不信仰と喜んでアッシリヤに金銭を払ったことに関係しているのです。
「ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。
そこでユダの王ヒゼキヤはラキシュのアッシリヤの王のところに人をやって、言った。「私は罪を犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。」そこで、アッシリヤの王は銀三百タラントと、金三十タラントを、ユダの王ヒゼキヤに要求した。
ヒゼキヤは主の宮と王宮の宝物倉にある銀を全部渡した。
そのとき、ヒゼキヤは、ユダの王が金を張りつけた主の本堂のとびらと柱から金をはぎ取り、これをアッシリヤの王に渡した。」
新改訳聖書 列王記第二18章13〜16節
もしくは、そこに隠れた罪があるのかも知れません。
「ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。」
新改訳聖書 イザヤ書38章17節
確かに、イザヤ書38章9〜20節を読むならば、王の賛美があります。
そこでは、王は死を恐れています。
また、王は自分の回復の働きが完了するまで生きることを望んでします。
いずれにせよ、彼は祈りを広げ、神は彼の祈りに答えています。
神は彼の汚れを癒すという手段を使っています。
しかし、それは助けを得るために医者の所へ行ったということで、この不信仰が癒されたという証明にはなりません。
神はこの王に15年間の生きることを与えました。
神はこの王の信仰に答え、日時計を影を戻すことによって、そのことを証明しました。
おそらく、この日時計は石の階段に時間が刻まれたもので、王は宮の窓からそれを見ることができたのでしょう。)
長い間、聖書を学ぶ者たちはこのことを論議してきました。
ヒゼキヤ癒されるために祈り、そして、神の完全なみこころ、もしくは、神が認めたみこころを回復させるために祈ったのです。
時より、神は祈りに答えられます。
その答えは、私たちがもっとも良いと考えた方法ではないかも知れません。
「そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた。
新改訳聖書 詩篇106編15節
これらの者たちはヒゼキヤが悪いと感じたでしょう。
この王の最後の15年間はバビロン人とともに来た罪深い侵入者に傾きました。
(20章12〜21節参照)
そのような時にマナセが生まれ、彼は開き直り、ユダ王国のもっとも邪悪な王になったのです。
(21章)
しかしながら、マナセは悔い改め、主に仕えたのです。
(歴代史第二33章11〜19節)
ヒゼキヤは死にました。
ユダ王国はバビロンとの妥協を寛大に扱い。マナセの悪い支配が始まりました。
言い換えれば、他の者たちが指摘しているように、ヒゼキヤの王座を継ぐ者はいなかったとの言えます。
イザヤはその運命について預言しました。
「そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」
新改訳聖書 列王記第二20章1節
ヒゼキヤの祈りは彼自身のためと言うよりも、その国自身のためだけに祈ったのです。
「あなたの家を整理せよ」という文字通りの意味は「あなたの王座を引き継ぐ者を選び出せ」という意味です。
神はユダ王国が常にダビテの子孫によって王座が引き継がれると約束しました。
ヒゼキヤは神の約束を信じていたのです。
ヒゼキヤのすべての子供たちはその15年が終ろうとしている時に生まれました。
「また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕えられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。」
新改訳聖書 列王記第二20章18節
マナセが信仰的な王でなかったのは真実でしょう。
(彼の父の誉れは別として)
しかし、私たちは、その時に偉大な神の人であるヨシュアが現れたことを認めなければなりません。
さらに、ヒゼキヤの支配の最後の15年間に彼とともにいた者たちが、とても忙しかったことが聖書の中で記されいます。
彼らは旧約聖書をまとめていたのです。
「次もまたソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤの人々が書き写したものである。」
新改訳聖書 箴言25章1節
多くの信頼ある学者たちが都上りの歌(詩篇120〜134編)がヒゼキヤの病気と回復を記念して特別にまとめられたものだと信じています。
同様に、ヘブル文字の"H Z K"が旧約聖書の多くの書簡の最後に記録されていることにあなたは気が付くかも知れません。
おそらく、ヒゼキヤの最後の15年間に民のために旧約聖書をまとめ、彼の献身的な歩みを神に感謝しているように思えます。
マナセのように、彼の多くの子供たちは罪を犯したました。
しかし、むしろ、そのために彼は死ななければなりません。
ダビテの息子たちはソロモンを含め邪悪な者たちです。
なぜ、神はダビテに生きることを許したのでしょう。
神は将来、生まれてくる子供たちの罪のために人は死ななければならないのでしょうか?そのように確信できるでしょうか?
それ以上に、その王は癒されたのです。
そして、その同じ時にエルサレムが守られました。
「「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。
わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。」」
新改訳聖書 列王記第二20章5、6節
エルサレムが救われるということが神の栄光になったからでしょうか?
彼らの王が殺されるということが神の栄光になるからでしょうか?
III、バビロンの訪れ
20章12〜21節
アッシリアは軍隊を使って、何を果たそうとしていたのでしょうか?
バビロンは策略を使って、目的を果たしたのです。
悪魔はライオンか、もしくは蛇です。
ヒゼキヤは癒され、エルサレムは救われましたが、その後に、ヒゼキヤはプライドによってバビロンの邪悪な信頼関係へと入って行きました。
「ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた。そこで、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。
しかしヒゼキヤが、その心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼およびエルサレムの住民もそうしたので、主の怒りは、ヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。」
新改訳聖書 歴代史第二32章25、26節
「バビロンのつかさたちが彼のもとに代言者を遣わし、この地に示されたしるしについて説明を求めたとき、神は彼を試みて、その心にあることをことごとく知るために彼を捨て置かれた。」
新改訳聖書 歴代史第二32章31節
ここにはヒゼキヤが癒された後に、プライドによって彼が懲らしめられたことが記されています。
王は敵に自分の富と武器を見せ、おろかにもそれは持ち去られます。
その国は最後に、そのことゆえに苦しむのです。
15節にある王のプライドを読んでください。
「イザヤはまた言った。「彼らは、あなたの家で何を見たのですか。」ヒゼキヤは答えた。「私の家の中のすべての物を見ました。私の宝物倉の中で彼らに見せなかった物は一つもありません。」」
新改訳聖書 列王記第二20章15節
同じ預言者がヒゼキヤに癒しのメッセージを送りましたが、今はさばきの悲しいメッセージを送っています。
その宝はバビロンに向かいます。
同じようにヒゼキヤの息子たちもバビロンに向かいます。
神はこれらのヒゼキヤの経験を通して、本当にヒゼキヤのこころが自分の宝、自分の強さではなく、神を信じ、神に栄光を帰しているか、どうかを、確かめていたのです。
「バビロンのつかさたちが彼のもとに代言者を遣わし、この地に示されたしるしについて説明を求めたとき、神は彼を試みて、その心にあることをことごとく知るために彼を捨て置かれた。」
新改訳聖書 歴代史第二32章31節
マナセはバビロンに連れて行かれ、牢屋に入れられました。
しかし、彼は自分自身を哀れに思い、神は彼を救いました。
「そこで、主はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕え、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った。
しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、
神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。
その後、彼はダビデの町に外側の城壁を築いた。それはギホンの西側の谷の中に、さらには、魚の門の入口に達し、オフェルを取り巻いた。彼はこれを非常に高く築き上げた。そして、彼はすべてのユダの城壁のある町々に将校を置いた。
さらに、彼は主の宮から外国の神々と偶像、および、彼が主の宮のある山とエルサレムに築いたすべての祭壇を取り除いて、町の外に投げ捨てた。
そして、主の祭壇を築き、その上で和解のいけにえと感謝のいけにえをささげ、ユダに命じてイスラエルの神、主に仕えさせた。
しかし、民は、彼らの神、主にではあったが、高き所でなおいけにえをささげていた。
マナセのその他の業績、彼が神にささげたその祈り、イスラエルの神、主の名によって彼に語った先見者たちのことばは、まさしくイスラエルの王たちの言行録にある。
彼の祈り、その願いが聞き入れられたこと、および、彼がへりくだる前に犯したその罪、その不信の罪、高き所を築き、アシェラ像と刻んだ像を立てた場所については、ホザイの言行録にまさしくしるされている。」
新改訳聖書 歴代史第二33章11〜19節
これはユダ王国の未来よりも、マナセの時代の方がより悲しく思えてきます。
一時的な平安は曲がり角に来た時、最後には敗北となり、もっとも賢くない結果となります。
しかし、彼と失敗と罪の代わりに、ヒゼキヤは偉大な王として、ユダヤ人の歴史に名を残しました。
ヒゼキヤは町を補強し、水路を整えました。
偶像の国を清め、主に立ち返るように民を導きました。
ヒゼキヤは祈りの人であり、どのように主の前に注ぎだすか、その方法を知っていました。
列王記第二21〜23章
これらの章において、5人の王が述べられています。
しかし、主にこの二人が私たちと関連していると考えます。
マナセとヨシュアです。
アモンは王になりましたが、二年のみ支配しました。
「アモンは二十二歳で王となり、エルサレムで二年間、王であった。彼の母の名はメシュレメテといい、ヨテバの出のハルツの娘であった。
彼は、その父マナセが行なったように、主の目の前に悪を行なった。
彼は、父の歩んだすべての道に歩み、父が仕えた偶像に仕え、それらを拝み、
彼の父祖の神、主を捨てて、主の道に歩もうとはしなかった。
アモンの家来たちは彼に謀反を起こし、その宮殿の中でこの王を殺した。
しかし、民衆はアモン王に謀反を起こした者をみな打ち殺した。民衆はアモンの子ヨシヤを代わりに王とした。
アモンの行なったその他の業績、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。
人々は彼をウザの園にある彼の墓に葬った。彼の子ヨシヤが代わって王となった。」
新改訳聖書 列王記第二21章19〜26節
エホアハズが王であったのはわずか三ヶ月です。
「エホアハズは二十三歳で王となり、エルサレムで三か月間、王であった。彼の母の名はハムタルといい、リブナの出のエレミヤの娘であった。
彼は、その先祖たちがしたように、主の目の前に悪を行なった。
パロ・ネコは、彼をエルサレムで王であったときに、ハマテの地リブラに幽閉し、この国に銀百タラントと金一タラントの科料を課した。
ついで、パロ・ネコは、ヨシヤの子エルヤキムをその父ヨシヤに代えて王とし、その名をエホヤキムと改めさせ、エホアハズを捕えて、エジプトへ連れて行った。エホアハズはそこで死んだ。」
新改訳聖書 列王記第二23章31〜34節
エホヤキムについては次の章で学んでみましょう。
マナセとヨシュアについて興味のあることがあります。
彼らの霊的な歩みを見るならば、彼らの歩みはまったく反対です。
マナセは罪の中で支配を始めましたが、最後は謙遜になり、悔い改めました。
その反面はヨシュアは始め主を求め、最後は不従順になりました。
I、マナセの支配
21章
A、マナセの反乱
21章1〜9節
歴史家たちはマナセの支配と信仰者であるヒゼキヤが少なくとも10年間はいっしょであったと計算しています。
マナセは邪悪な人でした。
彼の後にも、前にもそのような邪悪な人はいません。
なんとも奇妙なことがあります。
ヒゼキヤは29年間支配しました。
しかし、マナセは55年間支配したのです。
しかし、神は民のまさに欲しがっているもの、価値のあるものを与えました。
やがて、ヒゼキヤは場面から消え、マナセの本当の姿が現れて来ます。
マナセはヒゼキヤの取り壊した物を建て上げ、ヒゼキヤの建てあげた物を取り壊しました。
創世記26章18節にあるイサクと対照的です。
「ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。」
新改訳聖書 創世記26章18節
信仰的なヒゼキヤを真似る代わりにマナセはアハブ王を見習いました。
言い伝えではイザヤはマナセによって二つのことを見たと伝えています。
ヘブル人への手紙11章37節にはこのように書かれています。
「また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、
――この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。――荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙11章37、38節
さらに、マナセは神殿の中庭に偶像を持って来ました。
彼は信仰的な自分の父と主の律法に反抗したのです。
B、マナセの解任
21章10〜15節
ここで私たちは十分に理解するために歴代史第二33章11〜20節を読まなければなりません。
「そこで、主はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕え、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った。
しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、
神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。
その後、彼はダビデの町に外側の城壁を築いた。それはギホンの西側の谷の中に、さらには、魚の門の入口に達し、オフェルを取り巻いた。彼はこれを非常に高く築き上げた。そして、彼はすべてのユダの城壁のある町々に将校を置いた。
さらに、彼は主の宮から外国の神々と偶像、および、彼が主の宮のある山とエルサレムに築いたすべての祭壇を取り除いて、町の外に投げ捨てた。
そして、主の祭壇を築き、その上で和解のいけにえと感謝のいけにえをささげ、ユダに命じてイスラエルの神、主に仕えさせた。
しかし、民は、彼らの神、主にではあったが、高き所でなおいけにえをささげていた。
マナセのその他の業績、彼が神にささげたその祈り、イスラエルの神、主の名によって彼に語った先見者たちのことばは、まさしくイスラエルの王たちの言行録にある。
彼の祈り、その願いが聞き入れられたこと、および、彼がへりくだる前に犯したその罪、その不信の罪、高き所を築き、アシェラ像と刻んだ像を立てた場所については、ホザイの言行録にまさしくしるされている。
マナセは彼の先祖たちとともに眠り、人々は彼をその家に葬った。彼の子アモンが代わって王となった。」
新改訳聖書 歴代史第二33章11〜20節
神は王に警告を与えるために預言者を送りました。
しかし、王は何も学ぼうとはしません。
神はその国にさばきち捕囚が来る事を宣言していました。
ユダはサマリヤにおける神のさばきを見たのです。
しかし、そのことは民に悔い改めに至らせることはできませんでした。
神の約束はダビテの家を取り扱うことですが、アハブの家を取り扱うことでもあります。アッシリヤの将軍はマナセをバビロンに連れて行き、彼を牢屋の中に入れました。
C、悔い改め
歴代史第二33章12節
多くの人にどのくらい教訓になることではないでしょうか!
マナセは苦難の中で主を求めたのです。
神は恵みを持って邪悪な王を赦し、その王座に戻すことを許されたのです。
神の働きは自分を低くし、祈る者のためにあるのです。
D、マナセの回復
歴代史第二33章11〜20節
列王記第二21章17〜26節
マナセの悔い改めは浅さかなものではありませんでした。
ゆえに一度は王座に戻されたのです。
彼はすぐに自分の与えた損害を回復させようとしました。
マナセは敵に対してエルサレムを強化しました。
また、偶像と違う祭壇を除去しました。
彼は自分の国を主に立ち返らせようとしたのです。
もちろん、マナセが与えた損害を建て直すのは不可能なことです。
彼は自分が死ぬ前に何をを完成させたかを、私たちは彼を見て学ぶ点があります。
悲しいことに彼は何も完成させてはいません。
しかし、神は彼に他のどんなヘブル人の王よりも長い支配を与えています。
事実、彼は悔い改めによって、どのような神のさばきも下ってはいません。
しかし、それでも、マナセの罪によって、神はその国を捕囚に送ったのです。
「それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。
主は仰せられた。「わたしがイスラエルを移したと同じように、ユダもまた、わたしの前から移す。わたしが選んだこの町エルサレムも、わたしの名を置く、と言ったこの宮も、わたしは退ける。」
新改訳聖書 列王記第二23章26〜27節
マナセ王は信仰的な生活を送り、主に仕え、民が信仰を持つという機会を得ました。
彼は父もユダにおいてもっとも偉大な王でした(ダビテを抜かして)。
預言者イザヤは彼の時代に活躍したのです。
マナセは自分の生涯が閉じるまで、主を見つけることに失敗しました。
私たちは彼の改心後にしたことを賞賛します。
しかし、彼が改心前の初期に行った損害の方が、改心後に行った回復よりも大きいと理解することができます。
マナセは他の王たちと一緒に葬られたのではありません。
彼は自分のプライベートな庭に葬られました。
彼の息子のアモンは父マナセの改心の影響を受けていません。
アモンは父の正しい行いではなく、罪を真似ました。
アモンの支配は2年間で、陰謀によって殺されました。
そして、父の近くに葬られました。
II、ヨシヤの支配
22、23章
アモンの殺害はヨシヤを王座に着かせました。
ヨシヤは8歳の子供です。
4つの出来事が忠実な王の短い人生と支配に要約されています。
A、救い
歴代史第二34章3節
列王記第二22章1〜2節
8年間のヨシアの支配において、彼は16歳で主を求め始めました
大祭司ヒルキヤは疑いなく、神のみことばをその若者である王に教えました。
彼の母の名前エディダには興味深いものがあります。
この名前は神がソロモンに与えた子供の名前と同じです。
「預言者ナタンを遣わして、主のために、その名をエディデヤと名づけさせた。」
新改訳聖書 サムエル記第二12章25節
その名前の意味は主に愛される者です。
それは同様にヨシアの母はヨシアの人生に信仰という影響を強く与えたことが示されます。
同様に、この時代にエレミヤとゼカリヤは働いたのです。
B、回復
歴代史第二34章3〜7節
王は今、20歳で、エルサレムをきよめるために十分な年齢です。
この町はマナセとアモンによって偶像崇拝によって汚されています。
ヨシアの究極的なゴールは神殿を回復し、主への礼拝へ立ち返らせることです。
ヨシアは新しく従う前に、古い罪を滅ぼす必要があることを知っていました。
不運にも、ヨシアの回復は表面だけでした。
この回復は民のこころを得ることはできませんでした。
また、預言者エレミヤはヨシアの死をはげしく悲しみました。
「エレミヤはヨシヤのために哀歌を作った。そして、男女の歌うたいはみな、今日に至るまで、彼らの哀歌の中でヨシヤのことを語り、これをイスラエルのために慣例としている。これらは哀歌にまさしくしるされている。」
新改訳聖書 歴代史第二35章25節
「死んだ者のために泣くな。彼のために嘆くな。去って行く者のために、大いに泣け。彼は二度と、帰って、故郷を見ることがないからだ。
父ヨシヤに代わって王となり、この所から出て行った、ヨシヤの子、ユダの王シャルムについて、主はまことにこう仰せられる。「彼は二度とここには帰らない。
彼は引いて行かれた所で死に、二度とこの国を見ることはない。」」
新改訳聖書 エレミヤ書22章10〜12節
私たちはエレミヤがこの若きヨシア王の回復のために嘆いていたと読むことができません。
確かにこの王と王の周りにいた者たちは回復に対して誠実に物事を行っていました。
しかし、民は彼らに従おうとはしませんでした。
彼らのこころには偶像崇拝がそのこころに残っていたのです。
C、修復
列王記第二22章3節〜23章28節
偶像をきよめ去るために、ヨシヤはエホバに対する真実な礼拝を建て直す事に集中していました。
しかし、取り壊すだけでは十分ではありません。
同様に私たちは建て上げなければなりません。
ヨシヤは祭司たちに金銭を集め、神殿を改修するように命じました。
歴代史第二34章8節〜35章19節を見てください。
神殿を改修とすると同時に、大祭司はモーセの律法の写しを見つけました。
この偶像の国において、長い間、モーセの律法が放棄されていたのです。
ヨシヤがモーセの律法の朗読を聞いた時、彼はすぐに大きな危険を知りました。
そして、ヨシヤは主が何を求めているのかを調べさせました。
エルサレムの第二区に住んでいた女預言者フルダは神の苦悩を伝えました。
(1)ユダとエルサレムに自分たちの罪ゆえにさばかれます。
(2)しかし、ヨシア王これらのさばきを見ていません。
それは、ヨシア王が主の前に自分を低くしたからです。
ヨシアはすぐに主のみことばをユダの長老たちと分かち合いました。
そして、彼は献身的に大きな礼拝をするように導き、神の契約を回復させたのです。
ヨシアはさらにユダの国をきよめ続けました。
ユダの国はトフェテ(ベン・ヒノムの谷)がそのきよめに含まれています。
そこで民は自分の子供たちをモレクにささげていました。
私たちが先に見たように、王はこれをごみの山にし、ゲ・ヘナにしました。
このゲ・ヘナは地獄をはっきりと描写しています。
オリーブの山はすべに朽ちていました。
「王は、イスラエルの王ソロモンがシドン人の、忌むべき、アシュタロテ、モアブの、忌むべきケモシュ、アモン人の、忌みきらうべきミルコムのためにエルサレムの東、破壊の山の南に築いた高き所を汚した。」
新改訳聖書 列王記第二23章13節
しかし、ヨシヤはそれを回復させました。
このきよめを行っている期間に、ヨシヤは邪悪なヤロブアム王の祭壇を覆いました。
そこには預言者の墓がありました。
この預言者はヤロブアム王に警告を与えた通りになったのです。
その通り、ヨシヤは列王記第一13章1〜5節にある預言の成就となったのです。
「ひとりの神の人が、主の命令によって、ユダからベテルにやって来た。ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた。
すると、この人は、主の命令によって祭壇に向かい、これに呼ばわって言った。「祭壇よ。祭壇よ。主はこう仰せられる。「見よ。ひとりの男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちをいけにえとしておまえの上にささげ、人の骨がおまえの上で焼かれる。」」
その日、彼は次のように言って一つのしるしを与えた。「これが、主の告げられたしるしである。見よ。祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る。」
ヤロブアム王は、ベテルの祭壇に向かって叫んでいる神の人のことばを聞いたとき、祭壇から手を伸ばして、「彼を捕えよ。」と言った。すると、彼に向けて伸ばした手はしなび、戻すことができなくなった。
神の人が主のことばによって与えたしるしのとおり、祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれ出た。」
新改訳聖書 列王記第一13章1〜5節
決して、神のみことばは無に帰することはありません。
王は単に、神殿と律法を回復させただけではありません。
彼は過越しの祭りを回復させました。
この祭りは長い間、この国によって否定されてきたのです。
ヨシヤ王は民に「代価を払って買われた」ということを思い出させたかったのです。
ヨシヤ王の回復と改修は完了したのでしょうか?
ヨシヤが支配している間、そこには平和と祝福がありました。
しかし、神はただ、神が約束したさばきの約束をそこに持ち出していないだけです。
それはマナセの罪ゆえです。
「それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。
主は仰せられた。「わたしがイスラエルを移したと同じように、ユダもまた、わたしの前から移す。わたしが選んだこの町エルサレムも、わたしの名を置く、と言ったこの宮も、わたしは退ける。」」
新改訳聖書 列王記第二23章26、27節
ヨシヤの信仰的な歩みと働きはわすかな間、さばきの手を止まらせました。
しかし、捕囚は来るのです。
それを止めるものはありません。
D、殺害
23章29〜37節
歴代史第二35章20〜27節
おそらく、エジプト人は海と陸地の間のパレスチナの海岸線を来たのでしょう。
パロはユダに対して敵対していないことを明確に示しました。
彼はアッシリアと戦うために出てきただけなのです。
しかし、ヨシヤは主のみこころを求めていません。
事実、ヨシヤは意図的に主のみこころに不従順です。
歴代史第二35章22節を見てください。
「しかし、ヨシヤは身を引かず、かえって、彼と戦おうとして変装し、神の御口から出たネコのことばを聞かなかった。そして、メギドの平地で戦うために行った。」
新改訳聖書 歴代史第二35章22節
さらに、ヨシヤは変装しましたが、自分を守ることができませんでした。
彼は主のみこころにかなう事をしていなかったからです。
ヨシヤはこの戦いで死んだのです。
ゼカリヤ書12章11節を見るならば、ヨシヤのためにメギドの大きな嘆きのことがほのめかされています。
「その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう。」
新改訳聖書 ゼカリヤ書12章11節
ヨシヤ王は箴言20章3節、26章17節にある知恵をこころに留めるべきだったのです。
「争いを避けることは人の誉れ、愚か者はみな争いを引き起こす。」
新改訳聖書 箴言20章3節
「自分に関係のない争いに干渉する者は、通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ。」
新改訳聖書 箴言26章17節
おそらく、ユダはその時、アッシリヤと同盟を結んでいたのでしょう。
そして、ヨシヤ王は行動によって、その義務を果たそうとしたのでしょう。
しかし、はっきりとパロはヨシヤ王と戦う意思を見せてはいません。
ヨシヤの子エホアハズはパロが彼を捕まえ、縛る前に3ヶ月間だけユダを支配しました。しかし、パロは別のヨシヤ王の子を選び、エルヤキムを王にしました。
そして、彼に新しいエホヤキム"Jehoiakim"という名前を与えました。
この者がエホバ"Jehovah"を呼び起こすのでしょうか?
私たちは次の学びで彼の生涯と支配について考えてみたいと思います。
列王記第二24〜25章
最後のさばきの時が訪れました。
神は御自分のみことばを守り、ユダ王国の民に恐ろしい怒りへと至らせました。
神は彼らに王座、神殿、町、そして国を与えました。
しかし、これら一つ一つに神の怒りを注ぎだしたのです。
エレミヤ書25〜34章を読んでください。
もし、あなたがこれらの章を別の側面から見たいと望むのなら、歴代史36章を読んでください。
さばきがユダの上に降りかかったことに注意してください。
I、王の退位
列王記第二24章1〜12節
17〜20章
信仰的なヨシヤが支配した後、ダビテの王座は家系によって、その王座が占められました。
しかし、これらの者たちは自分たちの罪を主張し、神を汚しました。
エホヤキムのように、エホアハズは3ヶ月間、王座に着きました。
エホアハズはエコヌヤ、もしくはコニヤとも呼ばれています。
エホヤキムは11年に支配し、3年間はバビロンに反抗し、支配していました。
バビロンはエジプトを敗北させ、今や、ユダの敵の中で一番大きな国になりました。
紀元前604年、エホヤキムはバビロンの標的になり、601年に反乱を起こしています。
この下劣な王はエレミヤの預言を裂き、これらを火で燃やしてしましました。
エレミヤ書36章を参照。
紀元前509年にバビロンはエルサレムを包囲し始めました。
このひ弱で、信仰の無いエホヤキムはすぐに自分の家族を集め、バビロンに渡してしまいました。
この王のおじ、マタヌヤは次の王を準備し、彼にゼデキヤという新しい名前を与えました。
「ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。彼の母の名はハムタルといい、リブナの出のエレミヤの娘であった。」
新改訳聖書 エレミヤ書52章1節
彼は11年間、紀元前597年から585年まで支配しました。
彼の支配の9年目、紀元前588年に、彼はひそかにエジプトと同盟を結びましたが、これがバビロン人の怒りを買うことになりました。
これは愚かな行為で、エレミヤに反対されていたことです。
そして、バビロンの軍隊が最終的な包囲活動を起こしました。
列王記第二25章27〜30節を読むならば、私たちに王エホヤキンの追放が語られています。
彼はバビロンの牢屋から開放され、半分捕囚された状態でした。
ダビテの王座は実質的に存在していません。
ゼデキヤはユダの最後の王です。
彼はエレミヤのことばを聞いていました。
しかし、彼の最後はエホヤキンとは違います。
II、民の追放
24章13〜16節
実際にここには三回の追放がありました。
紀元前605年(ダニエルが含まれています。)
紀元前597年(この章に描写されています。)
そして、紀元前587年(恐ろしい18ヶ月間の町の包囲の後です。)
エゼキエルはバビロンの二度目の捕囚の時にいました。
バビロンの考えはイスラエルの最高の人たちを連れてゆくことです。
王子、貴族、兵士、技術者、そして、王の家族を連れてゆきました。
そして、貧しい人たちは自分たちの支配者の指揮の下で支配しようとしていました。
この方法は捕囚された国が組織化したり、反抗する力を失わせるためです。
もちろん、この追放はエレミヤによって預言されていました。(25章)
そして、律法において、モーセも預言していました。
レビ記26章、申命記28章参照
この民は神の与えた国を血と偶像で汚しました。
彼らはその国に適応せず、望んでもいないでしょう。
神は彼らを押し流し、その国をもう一度清めようとしたのです。
III、町の破壊
25章1〜12節
エレミヤがエルサレムの崩壊を描いた哀歌を読んでみてください。
その町は18ヶ月間、包囲されていました。
それが始まったのは、紀元前588年1月15日です。
紀元前586年7月19日、壁に穴が空けられました。
民はもうすぐ、終わりが来る事を知っていました。
ゼデキヤは自分の周りにいる人たちに逃げさせようとしました。
「第四の月の九日、町の中では、ききんがひどくなり、民衆に食物がなくなった。
そのとき、町が破られ、戦士たちはみな夜のうちに、王の園のほとりにある二重の城壁の間の門の道から町を出た。カルデヤ人が町を包囲していたので、王はアラバへの道を行った。
カルデヤの軍勢が王のあとを追い、エリコの草原で彼に追いついたとき、王の軍隊はみな王から離れて散ってしまった。」
新改訳聖書 列王記第二25章3〜5節
しかし、彼らはバビロンの軍隊に介入されてしまいました。
エレミヤ書32章4、5節、そして、34章1〜7節、同様にエゼキエル12章13節ではゼデキヤが逃げようとしないことが預言されています。
彼はバビロンの王を見ましたが、バビロンの国自身を見ることはありませんでした。
彼はネブカデネザルを見たのです。
しかし、彼の目は抜き出され、彼はバビロンに連れてゆかれ、盲人にされたのです。
1ヶ月後、バビロン人たちはエルサレムを焼き、城壁を崩壊させ、神殿を壊しました。
IV、神殿への恥辱
25章13〜17節
バビロン人たちは神殿の財宝すべてを裸にしました。
全体を持ち去るには大きすぎたので、小さく砕きました、
銅、金、銀の道具は異国の地に持ち去られました。
24章13節で、私たちは宮にあったソロモンの金と財宝が無益なものになろうとしていました。
「彼は主の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが造った主の本堂の中のすべての金の用具を断ち切った。主の告げられたとおりであった。」
新改訳聖書 列王記第二24章13節
エレミヤ記7章で私たちは神殿を存在しているがゆえに、神が侵入者からユダヤ人を守ったことが記されています。
偽の預言者と世的な祭司は民にうそを言いました。
まさの今日の教会が、もしくは律法的な教えがクリスチャンと言われる者たちがさばきから救われているとうそを言うのと同じです。
神の栄光のために使われていた主の家の器をバビロンに運び出し、それを偶像の宮の飾り物としました。
「ネブカデネザルは、主の宮の器具をバビロンに持ち去り、バビロンにある彼の宮殿に置いた。」
新改訳聖書 歴代史第二36章7節
神殿の存在はその国を救うことはできません。
イスラエルにはこころからの告白と悔い改めが必要です。
しかし、すべてが遅すぎました。
その国は神のメッセージを拒みました。
回復の時が来るまで、回復はありえません。
V、イスラエルは荒廃が残されました。
25章18〜30節
バビロン人の役人の一人が貴族たち所へ集まり、彼らを殺しました。
「侍従長はさらに、祭司のかしらセラヤと次席祭司ゼパニヤと三人の入口を守る者を捕え、戦士の指揮官であったひとりの宦官と、町にいた王の五人の側近と、一般の人々を徴兵する将軍の書記と、町にいた一般の人々六十人を、町から捕え去った。
侍従長ネブザルアダンは彼らを捕え、リブラにいるバビロンの王のところへ連れて行った。
バビロンの王は彼らを打ち、ハマテの地のリブラで殺した。こうして、ユダはその国から捕え移された。」
新改訳聖書 列王記第二25章18〜21節
ユダに残った人たちは最も貧しい人たちです。
ネブカデネザルはユダを支配する組織を建てあげました。
ゲダルヤは最初の支配者です。
彼の父はエレミヤを助け、彼の家族はエレミヤに対して献身的でした。
エレミヤ書39〜40章参照。
「しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されないようにした。」
新改訳聖書 エレミヤ書26章24節
「人を遣わして、エレミヤを、監視の庭から連れ出し、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに渡して、その家に連れて行かせた。こうして彼は民の間に住んだ。」
新改訳聖書 エレミヤ書39章14節
ゲダルヤは残された者のために理のかなった相当な安全、平和、保障を建てあげました。しかし、そこにはイスラエルに対するいきどおりがありました。
おそらく、王の血族から離れていたからでしょう。
彼は作戦を立て、その支配者を殺したのです。
エレミヤ書40、41章参照
「ところが第七の月に、王族のひとり、エリシャマの子ネタヌヤの子イシュマエルは、十人の部下を連れてやって来て、ゲダルヤを打ち殺し、ミツパで彼といっしょにいたユダ人たちと、カルデヤ人たちを打ち殺した。」
新改訳聖書 列王記第二25章25節
その時、策略が暴かれました。
ユダヤ人の多くは安全のために、エジプトへ逃げました。
歴代史第二36章20、21節では捕囚の期間が70年であることが私たちに知らされています。
それはレビ記25章にある安息の年から数えられています
「これは、エレミヤにより告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。
ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。」
新改訳聖書 歴代史第二36章20、21節
「まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。」
新改訳聖書 エレミヤ書29章10節
7年おきにユダヤ人たちは国に戻って安息を得ることを考えたでしょう。
しかし、彼らは長い間、この新しい戒めを守ろうとはしていません。
エレミヤ書38章8〜22節を見てください。
同様に神はレビ記26章で自分たちの罪ゆえに彼らが7倍のさばきがあると約束を与えています。
「もし、これらのことの後でも、あなたがたがわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍も重く懲らしめる。」
新改訳聖書 レビ記26章18節
「また、もしあなたがたが、わたしに反抗して歩み、わたしに聞こうとしないなら、わたしはさらにあなたがたの罪によって、七倍も激しくあなたがたを打ちたたく。」
新改訳聖書 レビ記26章21節
「わたしは怒ってあなたがたに反抗して歩み、またわたしはあなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを懲らしめよう。」
新改訳聖書 レビ記26章28節
そのように数字の7は捕囚において重要な役割をしています。
ユダの20人の王(国が分裂してから)はおよそ390年間支配しました。
ダビテ、ソロモン、サウルは120年間です。
510年間の偉大な君主政治が行われました。
しかしながら、父と子が共に重なって支配する場合もあります。
つまり、サウルからゼデキヤまでユダ王国は500年弱存在したことになります。
そして、500は(安息という意味を持つならば)7に分けられます。
ちょうど、イスラエルはちょうど40年間荒野をさまよいました。
それは40日間、その国にスパイとして出ていたからです。
ユダヤ人がおよそ5世紀の間、安息を持たなかったゆえに70年間の捕囚があり、イスラエルとユダの土地に安息が来たのではなおでしょうか。
すべてのものは神がユダヤ人に与え、それを取り上げたのです。
彼らはダビテの王座に王を持ちませんでした。
いや、彼らは王を今日持っているでしょう。
彼らは神殿を持っていません。
なぜなら、神殿は燃やされ、聖なる器は奪われました。
彼らの聖なる都は壊され、中東に戦争と不安は注目され続けています。
彼らの国は彼らから奪われました。
彼らは国々に散らされたのです。
もちろん、この恐ろしい攻撃はAD70年に起きたエルサレムの恐怖に満ちた崩壊の前兆に過ぎません。
そうです。
「あなたの罪は必ず見つけ出されるのです。」
2005//1/5 完了