メッセージAK 2005/1/13

主の晩餐にいるのは誰ですか? C.H.マッキントシュ
(Who Should Be at the Lord'sTable? By C.H.Mackintosh)


 主の晩餐に誰があずかっているかという問題について語りたいと思います。
私たちはそこに二つの側に着いた人たちがいたことを思い出さなければなりません。

神の側と人間の側です。
神の側に着いた人たちは、一人一人がキリストのからだなのです。

しかし、人間の側に着いた人たちは使徒の働き2章に思い出すのではなく、テモテの手紙第二を思い出すでしょう。
使徒の働き2章において、すべての者にははっきりとした間違いが認められるずに、救われた者として主に組み合わされました。
テモテの手紙第二においては私たちは大きな家であり、卑しい器、偽の告白者、すべての間違いと呼ばれるもの、邪悪と困難を持つ者として描かれています。
しかし、もし、私たちが主の必要を満たすものとなりたいのなら、私たちは自分自身を卑しい器から清める必要があります。

「ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」
新改訳聖書 テモテの手紙第二2章21節


つまり、卑しい器とは「若い時の情欲」と「偽の信仰」のことを指しています。
私たちは自分自身を清めなければならないのです。
私たちは清めるという、すべての要求を持つならば、こころと良心に常に働きかけてくるはずです
また、主の晩餐に預かる者は常にこのことをこころがけ、注意を払っています。

最近、私はコリント人への手紙第一11章に多くの興味を持ちました。
コリントには分派がありました。
使徒はこのように言っています。

「というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一11章19節


「彼らがクリスチャンであることが明らかにされるため」とは言っていません。
私は分派、もしくは自己中心な者と本当の信者がいっしょにいたと信じています。
分派という単語の意味は自己中心な者という意味です。
自己中心は分派の根です。
ゆえに、彼はここで言っています。

「ですから、ひとりひとりが自分を吟味(明らかに)して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一11章28節


ここでいう吟味、テストするということばはむしろ、明らかにあると認めることです。
同じ単語が19節で使われています。

「あなたたちの中に分派があることはやもえません。
それはあなたたちの中に明らかな者が明白になるためです。」
コリント人への手紙第一11章19節直訳


使徒はこのようには言っていません。
「クリスチャンだと思う者がこれを食べなさい」とは言っていません。
分派、もしくは自己中心な者は行動を起こし、結果として、分派は明らかになります。
私たちは自分自身を道徳的にも、霊的な状態においても明らかにするべきです。
そして、私たちは主の晩餐という場所を受け取るべきです。
そこはもっとも優れた場所ですが、私たちが当然そこにいて良いという権利を主張をする場所でもありません。
しかしながら、これはからだのかしらとしてのキリストの要求なのです。

エペソ人の手紙4章に栄光ある真実である一つのからだが維持されていますが、主の晩餐を神の恵みとして行うことはできません。
主の晩餐はキリストを受け入れることであり、交わりの土台です。

主の晩餐は人に対して、感謝を捧げる場所でもありません。
もしくは、私たちにおおきな哀れみの思い、寛大なこころ、変わることの無い聖霊があることを現すものでもありません。

ここはキリストの要求している場所であり、そこに真理、清め、実際的な義があることは明白であり、キリストの基本的な性質が現れています。
主の晩餐は私たちのものではなく、主のものです。
これは私たちが熱心に考えるべきことが要求されているのは事実です。
主の晩餐は主の特権であり、私たちの特権ではありません。
主の晩餐に座る者たちの信仰の状態が要求されています。

コリント人への手紙第一9章の要求を私たちは注意深く考える必要があります。
そこで分派とは何かが特別に教えられています。
普通に考えるのであれば、偽の教えに対して使われるものです。
教会の歴史において、一人の者がオーソドックスな信仰に対して逆のことを教えるのが異端者です。
しかし、本当の意味においての分派とは自己中心な者です。
どこであろうと、その働きは教会の中において、分派、派閥を作る傾向があります。
人間の教えを持ち込むことを主張しますが、現実にはその人のオリジナルな教えです。
人は神の教会の中において、自分の意思を働かせようとするのであれば、それは正しいことではありません。

今、私たちはコリント人への手紙が単に一つの地方教会に書かれたものでないことを思い出さなければなりません。
この手紙の中でこのように宣言されています。

「コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一1章2節


ここで私たちに示されているのは、自己中心の問題を重く考えるべきだということです。
このことは最後に、私たちはキリスト教社会にある派閥、分派と、私たち自身を認めようとすることとは、まったく関係ないということを知ることになるのです。


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