メッセージY 2005/2/18
イザヤ書 注解 1〜20章 (From Thru the
Bible)
By J. Vernon McGee
(The Book of Isaiah)
イザヤ書
イントロダクション
旧約聖書を学び続け、イザヤ書を学び始める時に、ここから聖書の預言書と呼ばれる部分に入る事を知ります。
イザヤ書だけが預言書というのではありません。
イザヤ書が預言書の導入であり、預言書の中のモーセ5書のような立場を持っているからです。
モーセ5書はモーセによって書かれました。
同様にイザヤ書は未来を語るというよりも、非常に大きな文章量があり、多くのことを語っています。
この衰退期に預言者たちは神によって建てられましたのです。
王や祭司たちも価値にある働きをしていません。
むしろ、彼らは神の偉大さを表現しているだけで、ただの流れにすぎなかったのです。
また、イザヤ書からマラキ書に至る預言書には歴史、詩、律法も刻まれています。
しかし、その主なメッセージは預言です。
これはは神の預言書なのです。
今日、私たちは人為的に区切られた預言書を持っています。
そして、それぞれの小預言書と大預言書に分けられて構成されています。
私の知る限りは、預言書すべてが大預言書であり、すべてが連なっています。
私は読者がこれらの預言書のひとつでも小預言書だと思ってほしくはありません。
イザヤ書からマラキ書に至るすべての預言書の著者が神の預言者なのです。
これらの預言書はテーマ別というよりも人為的に各書の長さに区切られました。
ある小預言書はまさに原子爆弾のように強烈です。
小預言書は小さいですが、実際には非常に強烈なテーマを持っています。
これらの預言書は単に遠い未来について語っているのではありません。
単に、すぐに起こるべきローカルな出来事をも預言しいます。
また、神の下にあるモーセの戒めに従って、預言者たちの務めの重要性を示すという目的を持ってこれらの預言書は語られているのです。
この戒めは祭司たちのため、王のためにあります。
そして、この戒めは申命記に与えられている預言者のためなのです。
「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。
わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。
ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」
新改訳聖書 申命記18章18〜20節
もし、ローカルな出来事が預言者の預言したこととして、正確に起きていないのなら、その者は偽の預言者として。反抗するものであり、その者を偽の預言者として取り扱わなければなりません。
読者も、偽の預言者のメッセージを神の霊感を受けた書物の中に入れるべきではないことがわかるはずです。
これらの預言書はいろいろな出来事で満ちていますが、より多くのローカルな出来事が成就したのです。
もし、あなたがイザヤの時代に生きていたのなら、あなたはイザヤが真実な預言者であるか、どのように知ることができるでしょうか?
もし、その預言者がキリストの受肉の時の来臨と、空中再臨の話のように、未来の預言しか語らず、ローカルな預言をしないのなら、あなたはその預言者を偽の預言者としてさばくでしょう。
預言書はすでに起きたローカルな出来事で満ちています。
すべての預言者にローカルな預言が与えられ、彼らが本物であることが証明されています。
すでに起きた預言とまだ成就していない預言には大きな違いがある必要があることを覚えてください。
最初に預言が与えられた時、その預言は当然、成就していません。
しかし、その預言が与えられた時ゆえに、その多くの預言が成就したのです。
もし、ある預言者が100の預言を語り、すべてがすでに成就することはありません。
しかし、彼らが語ったいくつかの預言が成就することにより、彼らが神のことばを語ったという証拠となります。
文字通りにこれらの預言は成就したのです。
人は誰も未来のことを推測したり、預言することはできません。
天気予報士は科学やいろいろな機械を使って、24時間の天気を予報しますが、それさえも難しいことです。
事実、私たちが問題にしているのは天気予報士の話ではありません。
私たちは、イスラエルに熱心に仕えている預言者イザヤのことを聞いているのです。
いろいろな律法が、人間が常に未来のことを語ることを禁じています。
不確かな要素はあるかも知れませんが、その人はその可能性が50%よりも少ないと言うでしょう。
100の預言が文字通りに成就し、その真実が成就した後に、素直なこころと聞き手に本物であることが証明されるのです。
成就した預言ははっきりと霊感を受けた神のことばである証明であり、その判断に間違いはありません。
私が明日、雨になると預言したと想像してみてください。
それが正しいか、私には本当に雨になるか、ならないか半々の確立があります。
そして、私は本当だと主張するために、私は他の要素を予知して私の預言に加え、朝11時なったら雨が降り出すと言います。
その確立は50%より少なくなります。
しかし、私にはこの預言が正しいか、25%の確立が残っていますが、ここでこの預言をやめるわけにはいきません。
単に、11時に雨が降る出すとということだけでなく、3時に雨がやむというということを預言します。
私に残っている確立は12、5%の確立に減ってしまいました。
もし、私がこのような不確かな要素を付け加え続け、300の預言をしたとします。
あなたはこれらの預言が決して文字通りに成就しないことを知っています。
だれも、文字とおり成就するなど想像もしていません。
ただ、神の聖霊のみがこのような預言を宣言することができるのです。
人間はこのように何度も預言を成就させるような霊など持っていません。
神のみことばは最初にキリストの地上に来られた時の預言を300以上語っているのです。
これらは文字通りに成就したのです。
なぜ、神は最初にキリストの地上に来られた時の多くの預言を与えているのでしょうか?これらは理論的に、そして、観察すべき答えなのです。
キリストの地上に来られると言う出来事は重要な出来事だからです。
神はイスラエルの子供たちにキリストに対して間違いを犯して欲しくなかったのです。
神は彼がキリストであるという証拠を与えたのです。
しかし、キリストが地上に来られた時、イスラエルは不信仰にも、キリストを認めようとはしませんでした。
私はあなたに正直に想像してもらいたいのです。
私があなたの家を訪れたとしましょう。
あなたはこのように私に尋ねます。
「あなたはいつ空港に着くのですか?
どのように私はあなたのことを知ればいいのですか?」
私は返事を書き、このように答えます。
「私はこれこれの時間に空港に着き、これこれの時間に飛行機は飛び立ちます。
私は緑のチェックのズボンと青い縞のコートを着ています。
また、黄色い水玉模様のネクタイを締め、大きな紫の花を付けています。
紺と黒の靴を履き、白い靴下を履き、頭には帽子をかぶっています。
片手にはオウムの入ったかごを持ち、もう片手にはジャガーを鎖で引いています。」
あなたが空港に着いた時、人ごみの中から私を見つけることができますか?
キリストが地上に来られる1900年以上前に、多くの人たちは旧約聖書を持っていました。
そして、彼らはベツレヘムの宿でキリストが来られることを知っていました。
彼らはキリストがそこで生まれるという知らせを知っていたのです。
それは彼らがその知らせすべてを持っており、彼らにはそれが必要だったのです。
博士たちが現れ、イエスキリストをさがしました。
イスラエル人たちは少なくとも、らくだの背中に乗り、なわを引く彼らに興味を持ち、見にいったはずです。
しかしながら、これほど重要な出来事だったのに、神ははっきりとこれらのことを預言していたのに、彼らはキリストを拒否したのです。
預言者たちは極端と言えるほど国家主義者です。
彼らは高き所の罪を叱責し、蹴落としました。
彼らは国に対して警告をしました。
彼らは民を謙遜に導き、神に立ち帰らせ、その民を誇りとすることに喜びを感じたのです。
火と涙は彼らのメッセージに降りかかりました。
これらは彼らの運命付けるところか、悲劇に導きました。
彼らは主の日を見て喜び、従うことを栄光としたからです。
彼らすべてが暗闇の向こうにある、新しい日の幕開けを見たからです。
罪の夜の中に、彼らは救い主、支配者が来るのを目撃したのです。
彼らは喜びに満ち、千年王国の到来に期待しました。
彼らのメッセージは、新約聖書の時代において、王国を認識させるための仲介役を果たさなければなりませんでした。
また、正しく王国を理解させるために、間違った王国の反映を、旧約聖書の預言者の目を通して正す必要があったからです。
預言者たちはスーパーマンではありません。
彼らは私たちと同じように情熱的な人たちだったかも知れません。
しかし、彼らは神のために語ったのです。
彼らの語ったメッセージは間違いのない、霊感に満ちた神のみことばです。
まさに新約聖書の著者たちの代筆とも言えるものです。
「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。
彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一1章10〜11節
「また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。
私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」
私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。
また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみななぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二1章15〜21節
ウイリアム・クーパーもこのように言っています。
「預言の琴は非常に甘い音がします。
しかし、悲惨な運命をたどる者には甘くはありませんが....。」
預言書の多くは著者が名も知れず者であったり、著者不明です。
彼らは個人的な主張を預言の目的にはしていません。
私たちはエレミヤ書とホセア書を学ぶ時、私たちは彼らがこのような個人的な主張を排斥していたことを知ります。
イザヤはわずかにながら、自分自身の歴史に触れています。
イザヤ書にはイザヤの生活と職務がわずかに記されています。
イザヤ書1章1節にはイザヤが生きたウジヤ、ヨシア、アハズ、。そして、ヒゼキヤの支配の時代のことが記されています。
彼らはすべて、ユダの王です。
また、イザヤ書6章にはイザヤの個人的な召しと職務について、記されています。
イザヤの預言した時代はユダ王国では内部的に決して暗い時代を預言したのではありません。
ウジヤ、ヒゼキヤは神を求め、仕えた輝くべき支配の時代です。
逆に、その時代はもっとも暗い時代とも言えます。
北にはアッシリアの王国が恐ろしい支配があったからです。
イスラエルの北王国はすでに連れ去られ、捕囚されていたからです。
イザヤ書36〜39章にかけて、危機的な時代における、イザヤの働きの歴史的な働きが記録されています。
アッシリアの軍隊がエルサレムを包囲したのです。
このいくつかの個人的な箇所で、イザヤは世の光として来られる別の者を語り、その影の中に彼は立っていました。
イザヤはダビテの王家が存続し続けると主張し、王家の者たちはそのことを信じています。
次のことはもちろん、これは予想であって、確証されたことではありません。
ヘブル人への手紙11章37節で語られている、のこぎりで引かれた者として述べられているのはイザヤでしょう。
たとえ、そうであっても、そうでなかったとしても、どのような非難であるとしても、その書で書かれているようにのこぎりで引かれた者がいました。
ある者たちは幽霊的な根拠のない神学を作り上げようとし、複数のイザヤがいると主張します。。
この神学の一致している点はゴーストブライターとの言えるイザヤが存在し、イザヤ書が書かれたと言うことです。
彼らはこのイザヤを第二イザヤ、もしくは第三イザヤと呼んでいます。
このような問題があったとしても、聖書自身は引き裂かれることを許していません。
新約聖書ではこのイザヤ書全体から引用し、イザヤ書に対する信用を失わせてはいません。
非難する者たちはイザヤ書を売られているパイのように切り裂いています。
しかし、歴史はイザヤ書が二つでも、三つでもなく、一つあることを証明しています。
私の友は死海文章について学び、引用し、彼は私にイザヤ書の巻物には多くの学者の働きが費やされたと語りました。
そこから発掘されたイザヤ書の多くの部分は無傷のままであり、そのことがイザヤが一人であることの証明になったのです。
その時、主は非常に面白いことをされたのです。
一人の羊飼いの少年は死海にあるクムランの洞窟の中に降りてゆきました。
そのことが批判者たちを困らせる結果になったのです。
主はこの批判者たちをみごとにかわしたのです。
私はこのイザヤが二人、三人いるという偽善者たちに、それが本当か、いかに愚かなことを語っているかを述べて見たいと思います。
今日からいまままで、この千年間、世界のあらゆる箇所を多くの建築家たちが掘ってきました。
あるグループはカンサス地方を、また、あるグループはワシントン・D・Cを、またほかのグループはヨーロッパを探索しました。
ある時、彼らは困り果ててしまいました。
三人のドワイト・アイゼンハワーが存在したからです。
一人はアイゼンハワー将軍、彼はヨーロッパ舞台で、第二次世界大戦を制圧し、勝利に導いた人です。
もう一人のアイゼンハワーがいます。
彼はアメリカで、1952年と1956年に大統領に選ばれた人です。
そして、もう一人のアイゼンハワーがいます。
彼は熱意をもって、回腸炎の手術に現実的なものとして実現したものです。
この表現は、ある人たちにとって、非常に馬鹿げた表現に思えるでしょう。
しかし、私が初めてイザヤが二人、三人いるという批判を聞いた時と同じぐらい馬鹿げているのです。
もちろん、ドワイト・アイゼンハワーという人は一人しかいません。
そして、彼は何の戸惑いもなく、その彼が何人もいるというすべての要求に対して、満足な答えを与えました。
イザヤが一人しかいないのと同じことです。
イザヤの預言は聖書全体を構成と、非常に似ているものがあります。
この類似点は下記のように、比較することができます。
聖書 66巻
イザヤ書 66章
聖書 39巻が旧約聖書
イザヤ書 39章が律法の書、神の政治
聖書 27章 新約聖書
イザヤ書 恵み 神の救い
新約聖書の中にはイザヤ書から直接引用された箇所が66箇所あります。
ある人たちは新約聖書の中にイザヤ書から間接的に引用された箇所が85箇所あると主張しています。
新約聖書の27書簡中、20書簡に引用されています。
まるで、細い繊維のように輝く色を添え、美しいパターンを作り上げているようです。
イザヤは新約聖書において、はっきりと認識でき、認められる存在です。
そして、新約聖書という岩の中に、聖霊の力強い道具として、イザヤははっきりと刻み込まれています。
新約聖書の節において、イザヤ書はたびたび用いられ、キリストを語る上で、より力強く、より偉大に語られているのです。
36〜39章において、歴史的な合間があります。
そこで、預言はもっとも高いピークにたどり着き、歴史的な記録はそこで停滞します。
さらに、そこでは違った言語の形式が使われています。
その表現は詩的というよりも散文的に表現されています。
三つ目と最後の区切り(40〜66章)では、詩的な表現に戻ってが、最初の区分とは対照的な表現がなされています。
最初の区分では、神のさばきと義の支配について書かれていたことを私たちは知っています。
しかし、最後の区分では、神の恵みについて、読むことができます。
苦しみ、そして、従うことへの栄光です。
ここに書かれているすべてのことは恵みと栄光です。
まさに「あなたの慰め」の始まりであり、ムードとテンポがそこにはあります。
この区分は偽善的な仮定を持つ自由批判家が、第二イザヤの証拠とされる箇所です。
これは語る目的が変わったためで、別に作者が変わったわけではありません。
この1900年の間、第二イザヤという単語がなかったことは非常に面白いことです。
ヨハネはこの箇所がイザヤの作であることを述べています。
「彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章23節
また、私たちの主もこの区分がイザヤの作であることを述べています。
「すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
主の恵みの年を告げ知らせるために。」
イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」」
新改訳聖書 ルカの福音書4章17〜21節
ピリピが、エリオピア人をキリストへと導く時に、エチオピア人はこの区分からのことばを読んでいました。
「そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、
いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。
そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。
すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。
彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。
彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか」
ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。」
新改訳聖書 使徒の働き8章27〜35節
聖書を見るのならば、イザヤが作者であるという確信が他に多く記されているのが分かります。
イザヤの預言の多くはローカルな出来事です。
エルサレムがアッシリヤに囲まれた時、イザヤは町には入ったり、もしくは町を攻撃したり、盾を持って来たり、塁を築こうともしていません。
「それゆえ、アッシリヤの王について、主はこう仰せられる。彼はこの町に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。」
新改訳聖書 イザヤ書37章33節
また、同様にイザヤはヒゼキヤの病気について預言しています。
「そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」」
新改訳聖書 イザヤ書38章1節
また、イザヤ書を見るならば、イザヤが生きている間に成就しなかった他の預言もあります。
しかし、今日、これらが成就したことを知っています。
バビロンに関する預言が、後にすぐ成就しました。
「 こうして、王国の誉れ、カルデヤ人の誇らかな栄えであるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる。
そこには永久に住む者もなく、代々にわたり、住みつく者もなく、アラビヤ人も、そこには天幕を張らず、牧者たちも、そこには群れを伏させない。
そこには荒野の獣が伏し、そこの家々にはみみずくが満ち、そこにはだちょうが住み、野やぎがそこにとびはねる。
山犬は、そこのとりでで、ジャッカルは、豪華な宮殿で、ほえかわす。その時の来るのは近く、その日はもう延ばされない。」
新改訳聖書 イザヤ書13章19〜22節
さらに、バビロンに関する預言がイザヤ書の47章にも記されています。
バビロンの発掘がなされた、現在において、これらの預言が正確に成就されたことがわかります。
バビロンの壁から、50マイル以上はなれた場所で発掘がなされました。
すでに、表現されているような、偉大な文明、文化がありました。
しかし、イザヤのことばに書かれているように、今日、そこにあった文化は、ゴミと残骸の中に置かれたありました。
これは私たちの得ることの出来る、多くの例の一つにしかすぎません。
他の実例は、私たちが聖書を学び続けてのなら、私たちはそれを知ることができるでしょう。
新約聖書のテーマがイエスキリストならば、イザヤのテーマも同じイエスキリストです。イザヤは五番目の福音伝道者と呼ばれています。
同様に、イザヤ書は5番目の福音とも呼ばれています。
キリストは処女から生まれ、キリストの人格、キリストの生涯、キリストの死、キリストの復活、そして、キリストの来臨、すべてがイザヤ書の中にはっきりと定義され、記されています。
全体的なアウトライン
T、さばき(詩として) 1〜35章 王座と支配への啓示
A、万物への厳粛な要求
(神の裁判室でイスラエル国家への神の責めを聞いています。) 1章
B、ユダとエルサレムの未来を見せています。2章
C、ユダとエルサレムの現在を見せています。3章
D、もう一つの未来を見せています。4章
E、ぶどう園のたとえと放蕩したイスラエルへの嘆き 5章
F、イザヤへの個人的な召しと預言者としての任務 6章
G、ローカルな預言と更なる未来
(子供に関する未来への希望) 7〜10章
H、千年王国の王 11〜12章
I、包囲した国々の重荷(ほとんどが成就しました。)13〜23章
1)バビロンの重荷 13〜14章
2)モアブの重荷 15、16章
3)ダマスカスの重荷 17章
4)エチオピアの川向こうの国の重荷 18章
5)エジプトの重荷 19〜20章
6)バビロン、エドム、アラビアの重荷 21章
7)幻の谷の重荷 22章
8)ツロの重荷 23章
J)地上に建て上げられる王座による、千年王国の約束とプログラム 23〜34章
K)王国、世が千年王国の祝福に預かる。 35章
II、歴史的な合間(詩) 36〜39章
(おそらく、この箇所は神がどのようにご自分の民を患難時代に渡されるか預言的に描写しているのでしょう。 第二列王記18、19章、第二歴代史 29、30章を見てください。)
A、王ヒゼキアとアッシリアの王、セナケリブの侵入 36章
B、王ヒゼキアの祈りとアッシリアの軍隊の滅び 37章
C、王ヒゼキアの病気、そして、祈り、癒し 38章
D、王ヒゼキアの愚かな祈り 39章
III、救い(詩) 40〜66章
苦しみの場所における、救い主を啓示しています。
(三つの方面から、それぞれの場面に関連付けて、記されています。)
「「悪者どもには平安がない。」と主は仰せられる。」
新改訳聖書 イザヤ書48章22節
A、しもべが来て、ヤハウェエの慰めが与えられる。 40〜48章
(偶像に対しての論争? しもべを通してのみ、助けと希望が来る。)
B、ヤハウェエの慰めはしもべの苦しみによって与えられる。 49〜57章
1)世全体の贖いは誰が出来るのか? 誰が神のしもべでしょうか? 49〜52章12節
2)贖いはしもべの苦しみによる働きです。誰が神の小羊でしょうか? 52章13節〜53章1節
3)贖い主による贖いの働きの結果、誰が唯一の救い主でしょうか? 54〜57章
C、ヤハウェエの栄光はしもべが苦しむことにより、訪れます。 58〜66章
1)隠れた罪は神の栄光によって明らかにされます。 58〜59章
2)シオンに贖いが訪れます。
(神が隠していたプログラムは何かあったでしょうか?神は罪をさばきます。) 60〜66章
1章
テーマ「イスラエル国家への神の責め」
1章では神の裁判室でイスラエル国家への神の責めを聞いています。
イザヤは緊張した時代に生きていました。
多くの面から見ても、世界的に危機的な時代とも言えます。
世界的に揺るがすような出来事が起き、大惨事と破滅的なさばきが来ていたのです。
これらは社会的な目的で起きていたのです。
世界を支配する勢いを持つ、新しい国が北で起きました。
戦場に軍隊を送り、多くの国々を葬って来ました。
世界を支配しようと行進して来たのです。
すでに、イスラエルの北王国はアッシリアに捕囚されていました。
南王国であるユダは危険な状態にありました。
アッシリアの軍隊は18万5千の軍隊で、エルサレムの城壁の外側にいました。
この恐怖、絶望的な中で、この困難な日にあって、ヒゼキアは神殿に入って行き、神の祈るように転じて行きました。
神はヒゼキアに預言者と彼を勇気付ける言葉を送りました。
神は決して、アッシリヤがユダを取ることがないと断言しました。
アッシリヤは決して、エルサレムの道に足を置くことがないと言ったのです。
彼らは決して、偉大な王の町の門を通ることがなくと主が語ったのです。
しかし、神は別の国を準備したのです。
バビロンです。
金の頭はユーフラテス川の堤防を降りてきたのです。
最終的に、ユダの国は神に立ち返ることなく、バビロンはユダの国を捕囚してしまいます。
神はユダに別のチャンスを与えます。
神の義を建て上げるために、神はユダをさばくために裁判室に入ってきたのです。
神はユダに裁判室に入るように言い、被告の席に着くように言いました。
神はユダに神の責めに対して、答えるようにチャンスを与えたのです。
ユダは神の訴えを聞き、神の哀れみの御座に身を置くことが出来たはずです。
それは今日においても、この時代においても同様です。
私たちがこの衝撃的な場面のさばきの座を見るならば、私たちは神の裁判室に行き、神を見る必要性を学ぶことができます。
また、この世とこととして考えるゆくならば、神はすでにさばきの座から降りているとも言えます。
王としての特権は奪い去られ、世界の支配者としての神の権威は刈り取られてしまいました。
すでに神はこのようなこの権威を脱いでしまったのです。
神はこれを世の隅に持って行き、余分な重荷として押し出してしまいました。
もちろん、これは神の不名誉な立場の描写です。
神は、もちろん、ずっと宇宙の道徳の支配者です。
神はすでに、義の王座に座っておられます。
神は決して退いていません。
神は罪を滅び去られます。
イザヤは神が国々をさばかれるという根本原則について記録しているのです。
神は国々を起こし、また、倒します。
今日の世の王国は悪魔のものです。
しかし、神はこれらを支配します。
神は大きな王国が起きることを許し、悪魔にこれらの国を使うことを許しました。
しかし、神のプログラムが実行された時、ある国々は次のステージに動かされました。
神がこれらの国々を動かしたのでしょうか?
悪魔が動かしているのです。
さらに神の民、ユダヤ人はこの世の国々に起きる出来事の中で、神が支配されていると事実を証しする者なのです。
イスラエルの子供たちが紅海を渡った時、彼らはモーセの歌を歌っています。
この歌から私の考えでは、繰り返し守られるべきことが表現されていると思います。
この表現とは次の節に表されています。
「主はいくさびと。その御名は主。」
新改訳聖書 出エジプト記15章3節
その通り、神は罪を妥協するものではありません。
神は降参の旗を受け入れはしません。
神は迷うこともなく、ためらうこともなく、また、妥協もしません。
罪に対して怒っています。
もし、人がイザヤと共に次のようにいうことができるのならば、それは人の希望となるでしょう。
「私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。」
新改訳聖書 イザヤ書6章1節
これはウジヤ、ヨタム、アハズの時に、アモスの子、イザヤが見た幻です。
この幻はユダとエルサレムについて見た幻であり、ユダの王はヘゼキヤでした。
そして、最初に確認しておくことはこの幻はユダとエルサレムについて見た幻であることです。
私たちが地球の西側のどこかではなく、はっきりとどこであるかを理解していると私は確信しています。
しかし、驚くべきことに、これをアメリカのどこかに適応することが出来るでしょうか?私たちははっきりと聞き、理解する必要があります。
ウジヤ、ヨタム、アハズの時、特にウジヤはユダの緊張した時代に生きていました。
彼は聖所に介入してしまい、らい病になってしまいました。
さらに、この王はそのことを赦してもらおうとはしていません。
しかしながら、ウジヤは良き王として歩むことを学んだのです。
ウジヤの子、ヨタムは彼から学びました。
ヨタムも同様に良き王です。
しかし、ウジアの孫アハズは悪しき王です。
最終的に最後の王であるヘゼキヤは良き王として述べられています。
王ヘゼキヤは自分の命が延ばされることを求めました。
そして、神はそれを許しました。
おそらく、これはヘゼキヤの失敗だったでしょう。
その結果、彼はその伸ばされた生涯において、多くの悪事を行いました。
正確に言うのであれば王国は二度と立ち上がることはありませんでした。
「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。」」
新改訳聖書 イザヤ書1章2節
神はこの偉大な問題に対して、預言を与え始めました。
この方法はユダに対して、神が行うさばきの通常の方法です。
もし、あなたが許すのであれば、神の裁判室に来て、神が御自分の民に対して試み続けていることに耳を傾けてください。
神は何事も隅に追いやったり、闇に葬り去ろうとはしていません。
この言葉は申命記32章の始めにある言葉と奇妙にも似ています。
「天よ。耳を傾けよ。私は語ろう。地よ。聞け。私の口のことばを。」
新改訳聖書 申命記32章1節
神がイスラエルをエジプトの国から取り出し、その土地に置いた時の歌です。
約束の地において、神は土地を与える者としての立場から脱却しました。
神はこのようなさばきを証するために、天と地の知識を創造する必要が生まれたのです。
これより、500年ほど前のことを神はこのように言われたのです。
「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。」
新改訳聖書 イザヤ書1章2節
神は彼らをその国から連れ出し、彼らをバビロンに捕囚として送り込む準備をしていたのです。
神の要求は神の行動における正しさと義を証するために、天と地の知識を創造することなのです。
神は反抗の民を責めました。
彼らは服従の結果、その国に住むことが許されたのです。
彼らは服従しませんでした。
モーセの律法に従がうのなら、人は逆らう子を持つならば、その子は石打ちで殺されます。
神は彼らを自分の子として、激しく逆らう者として責めているのです。
彼らは子としての関係において、モーセの律法に反抗しました。
申命記に補正しようのない子について記録されています。
「かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、
その父と母は、彼を捕え、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、
町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです。」と言いなさい。
町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。
もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、
その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」
新改訳聖書 申命記21章18〜21節
律法は放蕩息子に対して、何をするべきかを語っています。
キリストから放蕩息子のことを聞いた群集は唖然としたのです。
キリストは父が自分の子供を殺す代わりに小羊をほふるために殺したのです。
その時、この放蕩息子は家を得たのです。
彼は父に対して「赦してください」という告白を言う前に、父はその息子を抱きしめ、口づけし、彼を赦したのです。
それどころが、指輪をはめ、食べて祝ったのです。
神はただ、正しい方であるだけではありません。
同様に、哀れみ深い方なのです。
しかし、どうであろうと、逆らう子には厳しいことなのです。
聖書は実際にそのようなことについて、どうするべきかを語っているのです。
神の責めを強調し、裁判室での緊張を解くために、神はわずかながらのユーモアを加えています。
私はあなたに聖書の中にユーモアがあると信じさせることができるでしょうか?
それはあなたを楽しませより多くあなたに訴えかけてくるでしょう。
私たちが永遠に入った時、私は考えでしょう。
かつて、私たちがこの地上で罪の時を過ごしていたことを思い出し、その時、神の働きによる神のプログラムが完了したしたことを知るのです。
そのように私たちは良き時を持つのです。
そこは楽しみの場所であり、喜びと笑いが満ちていると私は考えます。
神は聖書の中に、多くのユーモアを置いているのです。
そこにいる若い女性は教会のメンバーでしょうか?
私は牧師です。
私はどんな時でも聖書の中にユーモアを見つけます。
彼女は廊下を降りて行き、あつがましく私にこのように語るでしょう。
彼女は家に帰って、長い時間を主と共にいる時として持っていました。
私は彼女に二人で良き笑いの時を持つことを希望しますが。決して、彼女はこのような笑いの時を持たず、ここには降りて来ません。
これは事実です。
彼女はごまかした生き方をしているからではないからです。
不運には彼女はユーモアのない生き方をしないなら、彼女はクリスチャンの生き方に喜びを見出すことは出来ません。
神は私たちに楽しむように意図しているからです。
「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」
新改訳聖書 イザヤ書1章3節
この節は大変、皮肉な平和です。
ここ出てくる二つの動物は、頭の良い動物というイメージがなく、そのことを描写しています。
牛も、耳の長いろばも高いIQを持っているわけではありません。
愚かな雄牛という表現がたびたび使われます。
また、ろばが何かの衣服を着ているわけでもありません。
私はある人たちがこのようにしていると宣言することができます。
どうしてでしょうか。
これらの動物は自分たちを養ってくれる方を知っているからです。
私がテキサスで牧師だった時、そこで多くの草ぼうぼうの空き地が教会からの道の交差点にありました。
そこで教会の方からつぎはぎだらけのオーバーオールを着たとても貧しそうな男が、小さなろばに乗ってやってきました。
ろばは草食です。
多くの小さな男の子や女の子は親しみを持ち、そのろばに乗っていました。
さらに言うのならば、説教者であるこの私もかつてそのろばの上に乗りました。
私がそのろばの背中に乗った時、そのろばは私に何か敬意を、もしくは何かの意識を持ったでしょうか?
その後、その午後にそのろばの持ち主はろばのところに行きました。
そのろばはよろめきながら、主人の所へ行き、そのろばのその長い耳に立て上げました。
そのろばは自分の主人を知っているのです。
その夜、誰が自分に食事を与えるのかよく知っているのです。
その反面、今日、ここに集まっている多くの人たちは、十分な知識がありながら、皆様方の必要を十分に満たしている方を知っているでしょうか?
あなたがたはあなたがたを養っている方を知っているでしょうか?
あなたがたは神が働いていることを知っていますか?
この知識に満ちた時代において、何を語ればよいでしょうか?
この話をクリスチャンの家に育った小さな少年に言いました。
彼は初めて自分の家を離れて隣の家を尋ねました。
しかしながら、彼は夕飯時にその家を訪れ、そのような経験を十分に期待していました。
五時には彼は衣服を着替え、準備をし、彼は出かけました。
彼は食事のためにテーブルに座っていました。
その少年は食事の時に感謝を捧げる習慣を持っていました。
その少年は頭を下げ、目を閉じました。
しかし、その訪れた家はクリスチャンホームの家ではなかったのです。
その家の者はすぐに食事を始めました。
その少年は何も間違ったことはしていません。
彼は目を開け、周りを見回しました。
彼は少しばかり、困惑しました。
でも、彼には何も禁じられていることはありませんが、ある疑問が起きました。
「なぜ、この人たちは神様に感謝を捧げないのか」という疑問です。
その家の主人も少しばかり困惑しましたが、彼らには信仰がありません。
その少年はわずかな時間考えました。
そして、このように口ずさんだのです。
「あなたは初めから私の犬ではない。」
今日、多くの人たちがこのようです。
さまざまな人たちがまさに動物以下の状態で生きているのです。
神はこのように言っているのです。
「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」
新改訳聖書 イザヤ書1章3節
今日、私たちは人間が動物から進化して来たというのを聞いています。
その者は「実際に人間は動物のように生きて来た」言うでしょう。
事実、ある動物たちはある人間よりもスマートな生き方をすることができます。
言い換えるのならば、人は動物から進化して来たのでしょうか?
それとも、動物が人間から進化してきたのでしょうか?
おそらく、このように言う人たちは人が何か違う優れた者に進化してゆくと信じているのかも知れません。
人は低い者になったのです。
私は人が主の裁判室に入った時、主が人に何を言うかを考えます。
4節以降で明らかにされていることを語るのです。
4節にある神の責めについて語り続けましょう。
「ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。」
新改訳聖書 イザヤ書1章4節
私たちは神がこの地上すべてと神の民イスラエルをさばくことを知っています。
神がさばくという神の考えを私たちは奇妙なだと思うかもしれません。
それは、今日、神はさばきの王座からすでに降りているというこの世の考えがあるからです。
この神に対する考えとは次のようです。
*神はすでに神の権威を脱いでしまった。
*神は神の偉大なる特権と万物の道徳的な支配者である神の鍵を取り除いてしまった。
*神はこれらをこの世界の隅へと追い払い、余分な荷物として押し出してしまった。
*現在の教えが私たちに神の考えが歪んでしまったと私が言う時、私は不敬虔な者であると考えてはいけない。
*神の御性格は歯の無い、長いひげを伸ばした年寄りのようなものだ、神の肩の周りには虹があり、ふわふわとした雲の隅に座っているような者である。
*神は単純で、老人で、感情的である。
*神は涙もろい愛で支配し、あらゆる場所をと覆っています。
*蜂蜜のような甘さで涙を流し、十分には人に勇気を与えるも、背骨を叩くことも、ぶどうをつぶす事さえも出来ない方です。
*神に適切な場所は暖炉の近くの隅で、神には縫い物も裁縫もできません。
これが世の神に対する考えです。
聖書はそのように神のことを言っていません。
聖書は神に対してどのように言っているでしょうか。
神は御自分の民をさばくようにこの世をさばくのです。
しかし、この警告は国々対してにだけされているのではありません。
すべてが個人にされているのです。
イスラエルは「咎重き民」として描写されています。
この節は個人的な招待として、世の光を受け入れるように投げかけられています。
主イエスは新約聖書の中でこのことを与えているのです。
イエスはこのように言いました。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」
新改訳聖書 マタイの福音書11章28節
私たちはイエスが語ったことばを通して「咎重き民」とはどんな意味があるのか、今。知ることができます。
イスラエルの民は「咎重き民」なのです。
今日、イエスは咎という荷物、つまり重荷を負う者が、イエスのところ行くように個人的な招待をしています。
そして、贖いという安らぎを得るのです。
この節において、神はイスラエルの民がこぼれ落ち、背教化してしまったことを書いています。
彼らは離れ去ってしまったのです。
彼らは「咎重き民」なのです。
神は、今、詳細に彼らへの訴えを書いています。
その責めは彼らに対して言われているのです。
神の操作に対して、人間の支配という哲学をこころに持ち込んでしまったのです。
この組織は士師記に表されています。
そして、あなたはその失敗がその国の中で、人間の支配の歴史のサイクルによって何回も繰り返し起きていることがわかります。
士師記の中で、イスラエルは神に仕えていたことを私たちは知っています。
それは神の祝福であり、繁栄の結果です。
彼はその祝福の中で、神から離れ始め、ついには偶像に彼らは戻ってしまいました。
彼らは神に対して反逆し、事実、彼らは神を忘れてしまったのです。
そして、神には彼らを敵の手に渡してしまいました。
しかし、ある短い期間に、彼らは救われようと神に叫び、神に立ち返りました。
その時、神はイスラエルを敵の手から救い出し、彼らは祝福の場所に戻されたのです。
この描写は聖書を通してすべてのことが常に示され、歴史を見るならばその確証がされています。
その国が堕落してゆくには三つの段階を踏んでいます。
まず、宗教的な背教が起き、次に道徳的な堕落、ついには、政治的な暴虐です。
多くの人たちは政治的な暴虐が起きるまで、このサイクルに目を向けようとしていません。
暴虐が起きた時、政治が変わることを求め、新しいシステムが適用されることを求めるのです。
つまり、これは政治の問題ではなく、もしくはエルサレムで誰が宮殿に住んでいるかの問題でもなく、また、神殿の中の問題でもなく、この問題は霊的な堕落が始まったということです。
「あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。
足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。
あなたがたの国は荒れ果てている。あなたがたの町々は火で焼かれ、畑は、あなたがたの前で、他国人が食い荒らし、他国人の破滅にも似て荒れ果てている。」
新改訳聖書 イザヤ書1章5〜7節
これらの節で神はどんな絶対的な真理を語ろうとしているのでしょうか?
ここには恐ろしい道徳的な状態と政治的には荒れ果てています。
しかし、神はここで手を下していません。
神は彼らを責めもせず、彼らを救おうともしていません。
「しかし、シオンの娘は残された。あたかもぶどう畑の小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように。
もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。」
新改訳聖書 イザヤ書1章8、9節
言い換えるのなら、もし、信仰的な残りの民がそこにいなかったのならば、神はソドムとゴモラのようにイスラエルを滅ぼしていたでしょう。
しかし、神は常に残りの神の民を残しています。
今日においても、同じように残りの民がいるのです、
クリスチャンはこの世界に散らばっていますが、必ず、残りの民がいるのです。
「聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。」
新改訳聖書 イザヤ書1章10節
今、神はすべての問題が霊的な堕落の問題であることを語っています。
「「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう。」と、主は仰せられる。「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。」
新改訳聖書 イザヤ書1章11節
神は特別に御自分の民を責めています。
神は守るべきことに神の手を置き、彼らの悪しき点を詳しく指摘しようとしています。
神はユダに最高のことをしようと神の指を置いたのです。
悪いことをしようとしているのではありません、
神はイスラエルに何がもっとも悪いことなのかを示したのです。
イスラエルは神の与えた信仰と神の示した戒めと神の建てた神殿とを持っていました。
しかし、イスラエルはこのような最高の条件の中で、悪しき者となったのです。
彼らはささげものを捧げ、律法の書に従って戒めを守ろうとしていました。
しかし、彼らのこころは神に対して反逆していたのです。
彼らの信仰は彼らの行動には現れませんでした。
率直に言うのであれば、今日にあるクリスチャンの問題と同じです。
私たちの多くの者たちが信仰者としての形を取るかもしれません。
しかし、そこにある力を否定しているのです。
「あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか。
もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙――それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日――会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。」
新改訳聖書 イザヤ書1章12、13節
さらに神はこのような行いの中に生き続けるのであれば、その者は悪しき者であると宣言しています。
その者のこころが主のみこころの中になく、信じる者の行動に何も効果を得ないのならば、その者は悪しき者となるのです。
もし、主イエスキリストがこの次の日曜日に教会に来るのであれば、イエスはあなたに目を向けるでしょうか?
あなたの主に対する信仰に対して、あなたをほめるでしょうか?
あなたに対してどのように話しかけるでしょうか?
あなたのささげものと礼拝に対するあなたの態度をどのくらい理解してくれるでしょうか?
私は考えることはできません。
その方は次のように書かれている方だからです。
「もろ刃の剣のように鋭い。」
新改訳聖書 箴言5章4節
「そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがきあげた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。」
新改訳聖書 ダニエル書10章6節
「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。
また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」
新改訳聖書 黙示録1章14〜16節
私たちはその方に視線を注がれるということは恐ろしいことです。
ここで言われていることは、主は私たちの外見、いかに愛に満ちた宣言をしているか、もしくは声を上げて告白しているかそのすべてに語りかけているということです。。
決して、主は私たちに悔い改めの必要があるか、謙遜になって主のところへゆくか、そのようなことに語りかけているのではありません。
確かに、これはこの世界にある教会に対しての警告です。
根本的に、私たちは霊的にむずかしい時代に生きています。
信仰を告白している教会が悔い改めるなら、真の信仰復旧がそこにあります。
もし、そうしないのなら、そこには希望はありません。
「あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。
洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。
善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」
新改訳聖書 イザヤ書1章15〜17節
神はこのように言っています。
「あなたはこの世界で何も無いものです。
ただの音の束です。
もし、あなたが本物であるのなら、私の前に来なさい。
あなたはささげものを通して来ました。
しかし、彼らはあなたに対して完全に意味の無いものになりました。」
神は彼らに対する神の責めを書き出しています。
彼らは霊的な背教者であり、邪悪な者です。
この堕落が道徳的な堕落を生み、その国に政治的な暴虐を生んだのです。
神は裁判室でイスラエルに要求し、彼らに対する神の責めを証明しています。
イスラエルは囚人のようにさばきの座で宣告を受けるために立っているのです。
しかし、今は神は彼らをさばくためのさばきの座から離れることができます。
神がさばきを遅らせているのは、神が裁判の席から離れて、この問題について語ることを喜んでいるからです。
神はイスラエルに言っています。
「私と裁判の席に入ってはいけない。
私があなたを失ってはいけないからだ。」
そのさばきのことを他の場所で違うことについて語っています。
私たちが次の箇所で神がどのように言っているのかを読むとき、私たちは驚いて、びっくりしてしまうでしょう。
「「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」」
新改訳聖書 イザヤ書1章18節
神がユダに対してこのように言ったのです。
また、マタイの福音書5章25節でイエスはこのようにも言っています。
「あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。」
新改訳聖書 マタイの福音書5章25節
神があなたを裁判の席に連れてゆくのを待っていてはいけません。
神はこのように言っているのです。
「神は隠れた方法を持っています。
神の錬金術です。
優れた解決方法です。
効き目のある薬です。
まさに特効薬で、罪のために用意されたのです。」
あなたはイザヤ書53章の中でその方を見つけることができます。
その方は多くのものを失い、多くの苦しみを受け、人とは違う死に方をしました。
その方は私たちの罪過のために死なれたのです。
彼は罪の代価を支払われ、私たちに対する大きな哀れみを可能としたのです。
神の御子イエスキリストの血は私たちのすべての罪を清めたのです。
この節は神の民に対する神の責めであり、彼らが神に立ち返るために基盤です。
神はイスラエルを保とうとしているのでしょうか?
神は彼らに100年という時を与えたのではないでしょうか?
もし、彼らが神に立ち返るのなら、イスラエルの行く道は変わったのです。
しかし、神は彼ら立ち返らず、神は彼らに捕囚の道を与えました。
私たちはこのことを私たちの国に適応することができます。
私のこの国を愛しています。
しかし、私はこの国に政治的な暴虐で満ちていることを知ります。
私たちの多くの者がそのことをはっきりと見ることができ、誰もこの国の問題を解決することはできません。
この世界全体についても、まったく同じことが言えるのです。
歴史家であるギボン氏が彼の本「ローマ帝国の衰退と堕落」の中でローマ帝国が衰退した5つの理由について述べています。
衰退していった最初のステップとして、彼は家庭での威厳と権威の衰退をあげています。それは人間社会の基盤です。
次のステップとしてあげているのは、次々と税金を上げていったことです。
そのお金は公共のために使われ、民衆のための無料のパンと娯楽に使われました。
三番目のステップは喜びを求め、スポーツは年々エキサイティングしてゆき、狂った民衆がより野蛮になり、より不道徳になっていったのです。
四番目に本物の敵が侵入して来た時、ローマは巨大が軍隊を建て上げました。
しかし、個人々々の責任感は腐敗していました。
五番目のステップは宗教的な腐敗です。
宗教は単に形だけ大きくなってゆきました。
宗教は実際に生活に触れることなく、力をなくし、人々を導くことができなくなってしまいました。
あなたは、この国の堕落が霊的な背教から始まったと見ることができないでしょうか。
この霊的な背教には道徳の堕落が従いました。
その結果、政治的な暴虐に進んだのです。
私たちの国には霊的な堕落があるでしょうか?
さらに、クリスチャンが知識を持ちながら、それに気づいているでしょうか?
近代主義は、今日のアメリカの多くの派からこれらを奪い取ってしまいました。
この恐ろしい時代において、近代主義は告白において、失敗してしまいました。
レイホールド・ニーバー博士は自由主義者を始めた人の一人と言われています。
彼はプロテスタントの自由主義者はこのように言っていると書いています。
「私たちはクリスチャンの中にある性質を、すべてを捧げる傾向があることを知っています。
しかし、ただ、この性質が知性的で上品であることが証明できているのであれば、なぜ、自由主義者は日々の悲劇的な経験に対して何も対処できないのでしょうか?」
私は数年前のウォールストリートジャーナル誌の興味ある記事の切り抜きを私のファイルから見つけました。
アメリカが鉄道拡張、西方への潅漑、関税を下げること、綿や小麦の収穫を増やすことよりも大切なことは信仰のリバイバルです。
これらは私たちの父と母が経験したものです。
信仰は家族のための時間であり、家族に対して良き職務として考えられていました。
礼拝は小麦収穫の最中に、各家族で毎朝正しく行われていました。
信仰は水曜の朝早く、30分間、仕事を止めさせて、家族全員で祈り会に足を運ばせるものでした。」
アメリカの問題は今日においても同じです。
それは霊的な問題です。
アルバート・ハイマ博士はアン・アルバートにあるミシガン大学の歴史を教える教授でした。
彼は言っています。
「アメリカはこの50年間に、自分たちの祖父たちが残した来た霊的な遺産を理解しない者によって大きく支配を広げて来ました。」
J・グレシャム・マッケン博士はこのように言っています。
「アメリカには信仰的な祖父たちがいましたが、今、その丘を下り降りています。
そして、私たちはその丘の一番下に落ちた時、神はアメリカを哀れんでくれるのです。」友よ、私たちは今、この丘を下り降りています。
しかし、神はこのように言っています。
「「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」
新改訳聖書 イザヤ書1章18節
アメリカは道を外れてしまいました。
しかし、もし、私たちの進む方向が他の国と同じならば、私たちの時間は限られています。
アーロン・バーは偉大なジョナサン・エドワードの孫です。
彼はプリンセトンで集まりを持つ機会を持ち、アーロン・バーはそこでは生徒でした。
その学校では霊的な運動(スプリチュアル・モーブメント)と呼ばれるがものがありました。
ある夜、アーロン・バーは「師としてのイエス」というテーマを持ってその学校で語りました。
アーロン・バーは深く、語り、その後、彼は彼の先生の一人の部屋に行き、イエスに対する決心を彼におこさせようとしましたが、先生は何か感情的なアピールのようなものの上に決心をしないように促しました。
彼は祈り会の時間が過ぎてもずっと待っていました。
アーロン・バーは決心を作る決意さえ、通り過ぎてしまいました。
彼はそこを出て行き、偉大なアメリカを殺し、自分の国を裏切ったのです。
アーロン・バーが年をとって、老人になった時、ある若者が彼のところへ来てこのように言いました。
「バーさん、私の友達にあって欲しいのです。」
アーロン・バーは「どんな人ですか?」と言うと。若者はこのように答えました。
「その人はイエスキリストです。
私のたましいの救い主です。」
アーロン・バーの額には冷たい汗が流れ落ちました。
「60年前、私は神に「もし、神が私を導いていたのなら、私は神に導かれていたのでしょう。
そして、神は神のことばは守ったはずです。」
そこでアメリカのための逃げ道です。
あなたへの、そして、わたしのための逃げ道です。
いろんな人たちがこの道について、このように宣言しています。
哲学者は言います:あなたの逃げ道のことを考えてください
あなたを溺愛する者は言います:あなたの逃げ道を悟ってください。
政治家は言います:あなたの逃げ道のために費やしてください。
科学者は言います:あなたの逃げ道を発明してください。
工業家は言います:あなたの逃げ道を働き出してください。
共産主義者は言います:あなたの逃げ道を決断してください。
国家社会主義は言います:あなたの逃げ道を見ないでください。
軍国主義者は言います:あなたの逃げ道を戦い取ってください。
聖書は言います:あなたの逃げ道について祈ってください。
イエスキリストは言っています。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章6節
主がユダに対して責めた後、主は彼らに救いと彼らの問題からの逃げ道を与えられました。
神は穏やかに警告をし続けます。
「もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる
しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。」と、主の御口が語られた。」
新改訳聖書 イザヤ書1章19、20節
イザヤ書には神の政治と神の恵みのその両方が強調されています。
第1章を学んでいる間、神はユダを自分のところへ目を向けさせようとしています。
神は自分の民に警告を与えています。
「それゆえに、――万軍の主、イスラエルの全能者、主の御告げ。――「ああ。わたしの仇に思いを晴らし、わたしの敵に復讐しよう。
しかし、おまえの上に再びわが手を伸ばし、おまえのかなかすを灰汁のように溶かし、その浮きかすをみな除こう。
こうして、おまえのさばきつかさたちを初めのように、おまえの議官たちを昔のようにしよう。そうして後、おまえは正義の町、忠信な都と呼ばれよう。」」
新改訳聖書 イザヤ書1章24〜26節
ユダの運命は神の与えた恵みである許しに人々がいかに心を向けるか、その態度にかかっていました。
もし、彼らが喜んで罪から立ち返り、神に従うのなら、神は彼らに物質的にも、霊的にももっとも優れたものを与え、神は彼らの敵から守るはずです。
「シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる。
そむく者は罪人とともに破滅し、主を捨てる者は、うせ果てる。
まことに、彼らは、あなたがたの慕った樫の木で恥を見、あなたがたは、みずから選んだ園によってはずかしめを受けよう。」
新改訳聖書 イザヤ書1章27〜29節
偶像崇拝者は偶像を樫の木の下と、園の周りに置きました。
これは偶像について書いているのです。
「あなたがたは葉のしぼんだ樫の木のように、水のない園のようになるからだ。
つわものは麻くずに、そのわざは火花になり、その二つとも燃え立って、これを消す者がいない。」
新改訳聖書 イザヤ書1章30、31節
神の思いは打ち消され、さばきに向かっています。
ここでは十分にそのことが表現され、その思いとは違う方向から御自身を現しています。これは決して真実な神の現れではありません。
私たちの罪が邪悪なものであるのは事実です。
私たちが罪に誘発され、遊ぶ時、その火は私たちに従うのです。
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙6章7節
2章
テーマ
最後の日に関する預言:王国と大いなる患難
イザヤ書の2〜5章では一つに完成された預言によって構成されています。
これらの節は現在の時より先のイスラエル(全部で12部族)の最後の日に関することです。
私たちがこれらの章に注目するならば、神ははっきりとすべてのイスラエルの部族について語っています。
イスラエルはともに姿を消したのです。
神は常にイスラエルが一つの国として考えています。
イスラエルの最後の日と教会の最後の日は区別する必要があります。
ここで教会に適応させようとするのは無理なことを、私たちはここでを確信すべきです。新約聖書の中でパウロは教会が旧約聖書にはまったく現れてこない奥義であることを語っています。
ローマ人への手紙の中で、パウロはこのことをはっきりと書いています。
「私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、」
新改訳聖書 ローマへの手紙16章25節
今、もし、イザヤが教会について知っていたのなら、それはパウロの時代では新しい啓示ではなくなってしまいます。
パウロの日から今日まで、教会は神のメッセージを世界に伝える神の代理人です。
しかしながら、教会は空中再臨の時にこの世界から取り出されます。
イザヤのメッセージは教会の時代の向こうにある、神の新しい道が始まる時のことを語っているのです。
私たちはそれは大いなる患難の時と呼び、そして、その終わるに神の御国が準備されるのです。
ユダとエルサレムの未来の展望
「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。」
新改訳聖書 イザヤ書2章1節
イザヤがイスラエル、ユダ、そして、エルサレムについて語った時、彼は正確にその民とその場所を指して語りました。
ユダはユダであり、イスラエルはイスラエルです。
そして、エルサレムはエルサレムです。
もし、イザヤが想像したことを語っていたのなら、もはや、イザヤは彼らは想像の産物であり、イザヤの預言はすでに完全ではありません。
イザヤが預言に対して違った適応をした時、預言者はあなたにそのことも教えるでしょう。
預言を霊的解釈する堕落と、かつて流行した神学に注意してください。
いくつかの神学はこれが教会のプログラムであると主張しています。
「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。」
新改訳聖書 イザヤ書2章2節
これが教会の終わりの時代のことを語っていないことをもう一度、私は言います。
教会の最後の時代は、霊的な背教の時でもあります。
パウロは彼の牧会書簡のテモテの手紙第一、第二の中ではっきりと語っています。
「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」
新改訳聖書 テモテの手紙第一4章1節
あなたはこの章で言っている「後の時代」が教会の「後の時代」であり、イスラエルの「後の時代」ではないことが認識できるはずです。
もちろん、現在のことだけを指しているわけではなく、重複していることがわかります。確かに、ここで彼はいくつかの限られた期間だけのことを語っているわけではありません。
次のことに注意してください。
もし、この節にある「後の時代」が患難時代のことを述べているのであれば、イエスキリストは弟子たちに質問された時、はっきりと次のようには答えられなかったはずです。
弟子たちは次のような質問をしました。
「彼らは、イエスに質問して言った。「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。」」
新改訳聖書 ルカの福音書21章7節
この節はエルサレムの崩壊のことを述べており、「最後の時代」のことです。
イエスは大いなる患難時代のことを語っています。
大いなる患難時代の終わりはキリストの地上再臨があり、王国の準備がなされるのです。
イザヤ書の最初の区分である2〜5章においては大いなる患難時代とこの地上に設立される王国のことが扱われているのです。
イザヤ書2章2節では教会が取り去られた後に、イスラエルの国に関することが書かれています。
聖書の中で「山」という単語は王国、権威、もしくは支配を意味することがあります。
ダニエルは預言の中で山は常に王国、権威を指しています。
「そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。」
新改訳聖書 ダニエル書2章35節
ダニエルのいう王国はすべて地上の上に設立しました。
この地上の王国すべては主イエスキリストの王国になるのです。
彼は主の主、王の王になるのです。
その理由の一つとして、今日において、イスラエルはもっとも熱く、現実にある平和に対して敏感な場所であるということができます。
それは王国の時代において政治的にも、信仰的にも世界の中心であり、神が選んだもっともふさわしい場所であるということもできます。
ダニエル書2章35節にあるように、確かに、この地上の王国の上に建て上げれるのです。
「多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」
新改訳聖書 イザヤ書2章3節
支配と信仰において、エルサレムに中心があるのです。
主イエスキリストはダビテの王座に座ります。
この地上に住む者たちの主な思いの一つは神のみこころを見つけ、行なうことです。
彼らは神の道を学び、神の小道を歩むことを求めるのです。
「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」
新改訳聖書 イザヤ書2章4節
2章4節の前半には、地上の千年王国におけるキリストの支配の期間、人類にはまた別の試練の期間があることが描かれています。
そして、そこには多くの大きなさばきがその期間とその時代に存在します。
もちろん、その期間にはさまざまな多くの人たちが救われるのです。
2章4節の後半には
この時代における主の地上における支配は義です。
そして、神は国々を強制的に従わせ、義と公正を行いをお互いに実行させます。
この時代の最初は国々はお互いに平和に住んでいます。
王国の時代だけ、人々は剣を鋤に打ち直します。
ヨエル書3章10節では私たちに患難時代では真実とは違うことが語られています。
「あなたがたの鍬を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ。」と言わせよ。」
新改訳聖書 ヨエル書3章10節
民はかまを槍に打ち直します。
事実、今、私たちの時代において、そのようなことが正しいことなのです。
現在の時代において、軍隊を持たない国、軍隊を持たない存在という考えは、私の個人的な判断では、神のみことばに準じているとは言えません。
ルカの福音書ではこのように主が語っています。
「強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。」
新改訳聖書 ルカの福音書11章21節
「そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。」
新改訳聖書 ルカの福音書22章36節
もし、あなたが平和と安全に生きようとするのであれば、あなたは法律を守り、目的を持たなければなりません。
剣を鋤に打ち直すという預言は千年王国で主イエスの支配において成就するのです。
その時、あなたは家のドアの鍵を外すことができ、夜も通りを歩くことができます。
あなたはふらつくこともありません。
なぜなら、戦争はないからです。
自分を守るための武器も必要ありません。
王国は主がこの地上に平和なるものとして建て上げます。
イエスは平和の君主です。
今日、この地上の人類に、また国家に平和が来る約束などは、彼らにとって無益で、非現実で、愚かなことでしょう。
国々は結びつき、互いにこの地上に、そして、この地上にある大きな戦いの場所に平和が来るように助け合おうとしています。
はたして、どのくらい、人間の支配にそれが可能でしょうか?
この地上に平和が来ることはありません。
それは単にこの地上に独裁者を生むだけの結果になります。
もし、あなたが神の子供なら、私たちはこの地上に平和の場所を持つことはありません。あなたの考えに蓋をして、あなたが神に従い、神の教えについて考え始めるのなら、あなたがこの世界が大きく、悪く、邪悪な世界であることがわかるようになります。
もし、あなたがこの地上のすべての人々と兄弟愛を期待するのであれば、あなたは失望する運命をたどるのです。
なぜなら、人には平和に至らせる可能性がないからです。
そこには平和がなく、同様に人の心の中には罪があるからです、
また、人間には他の人を支配したいという欲望で満ちているからです。
「来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。」
新改訳聖書 イザヤ書2章5節
これから来ようとしている未来を見るならば、確かに私たちは主の光の中を歩みます。
これが唯一の平和の道です。
もし、あなたが神の道から外れるのであれば、あなたは決して平和を持ちことがありません。
「まことに、あなたは、あなたの民、ヤコブの家を捨てられた。彼らの国がペリシテ人の国のように東方からの卜者で満ち、外国人の子らであふれているからだ。
その国は金や銀で満ち、その財宝は限りなく、その国は馬で満ち、その戦車も数限りない。
その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造った物を拝んでいる。
こうして人はかがめられ、人間は低くされた。――彼らをお赦しにならないように。――」
新改訳聖書 イザヤ書2章6〜9節
ユダは異邦人と異邦人と手を組み事という考えから、異邦人たちの持つ信仰へと進みように新しい考えを持ちました。
彼らはアッシリアとバビロンの習慣を取り得れ、すぐに彼らは創造主よりも造られたものを拝む国々に安らぎを求めて手を結ぶようになったのです。
「岩の間にはいり、ちりの中に身を隠せ。主の恐るべき御顔を避け、そのご威光の輝きを避けて。
その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる。
まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。」
新改訳聖書 イザヤ書2章10〜12節
神はプライドのある者を低くされようとするのですか?
その高慢な人は自分自身を支配することができ、また、神のいない世界を支配できると考えています。
「高くそびえるレバノンのすべての杉の木と、バシャンのすべての樫の木、....。」
新改訳聖書 イザヤ書2章13節
私は「レバノンのすべての杉の木と、バシャンのすべての樫の木」は高慢な者を表していると信じています。
「すべての高い山々と、すべてのそびえる峰々、....。」
新改訳聖書 イザヤ書2章14節
これは支配と社会のことを述べています。
「すべてのそそり立つやぐらと、堅固な城壁、....。」
新改訳聖書 イザヤ書2章15節
これはさばかれてゆく軍隊のことを述べています。
「タルシシュのすべての船、すべての慕わしい船に襲いかかる。」
新改訳聖書 イザヤ書2章16節
商業と芸術はすべてさばかれます。
「その日には、高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。」
新改訳聖書 イザヤ書2章17節
神はすべての人間からプライドと繁栄を脱がせてしまいます。
「偽りの神々は消えうせる。」
新改訳聖書 イザヤ書2章18節
神はすべての偽りの神々を奪い取ってしまいます。
「主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩のほら穴や、土の穴にはいる。」
新改訳聖書 イザヤ書2章19節
黙示録には繰り返し語られていますが、どんな人がさばきに会うのでしょう。
「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。」
新改訳聖書 黙示録6章15、16節
あなたがたすべては毎日テレビを見ています。
テレビは町の経済、政治、商業、芸術によって成り立っています。
そして、人間の繁栄、プライド、そして、人間の宗教心もが表現されているのです。
その日、人間のすべてのプライドは低くされます。
そして、主イエスキリストがこの地上で高く上げられるのです。
今日、イエスはこの世界の支配においても、社会においても、ビジネスにおいても、芸術、もしくは繁栄、儀式においても適切な場所を得ていません。
イエスは今日、そこから降りています。
イエスが再び来られる時、人々はこの地上のほら穴に逃げ込みます。
私はどんな人がいままでほら穴に住んだことがあるのかを知りません。
しかし、将来の近い日に人々はほら穴に逃げ込むのです。
「その日、人は、拝むために造った銀の偽りの神々と金の偽りの神々を、もぐらや、こうもりに投げやる。
主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩の割れ目、巌の裂け目にはいる。」
新改訳聖書 イザヤ書2章20、21節
「主が立ち上がり、地をおののかせるとき」とはおおいなる患難時代のことです。
「御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」
新改訳聖書 イザヤ書2章22節
あなたの信頼を人に置いてはいけません。
あなたと私は息を吐き出しています。
しかし、次の瞬間、私たちは息を吐き出すのか私たちは正確なことは知りません。
これは人間のはかなさでしょうか?
もし、人が息をすることに失敗するのならば、人は死んでしまいます。
今日、さまざまな人が日々ビジネスに向かい、不運なこころで働いています。
そして、彼らはこの地上の場面から、消えてゆく運命なのです。
今日という日に、あなたの信頼を主イエスにください。
3章
3章のテーマはイスラエルが従わなかった原因、弱くなった支配、いい加減になった律法のモラルです。
3章は2章から始まった預言の続きです。
(2〜5章まで完全な一つの預言です)
3章における、この部分のさばきはイスラエルの国に対する、特別なレベルの神のさばきを現しています。
しかしながら、これは他の国々に対しても応用されていますが、神はイスラエルに特定され、仲介しているのです。
さらに、このさばきの部分に沿って、私たちは神のさばきが他の国々にも襲いかかることを知ることができるのです。
これらは神のみことばの中で、もっとも注意すべき預言箇所なのです。
そして、これら多くの預言は文字通りに成就されるのです。
しかしながら、私たちはイスラエルに対する神のさばきがより激しくものだということを知り、他の国々に対しても意図されることを知るのです。
なぜでしょうか?
イスラエルは神が特別に選んだ国だからです。
そして、それは神が神との特別な親密な交わりを楽しむためです。
その権利は責任を伴うのです。
常に権利によって、責任が生じます。
私は神がアメリカという国を現在にある他の国々よりも特別に、より激しくさばかれると信じています。
アメリカはイスラエルを除いて考えるのなら、他の国々よりも神のみことばを知るという特別な権利を得たからです。
イスラエルは周りの国々よりも多くの光を受けた国です。
私がこの本の中で書いているように、その光は激しい滅びが来ることを拒むのです。
神のさばきというテーマはあなたにとって気持ちの良いものではないでしょう。
しかし、あなたはよくいるような言われてようなダチョウのように頭を隠さないようにしてください。
私たちはたとえそうであっても、違ったとしても現実に直面してください。
神は罪をさばきます。
単に神は将来に罪をさばくだけではありません。
神は過去においても、罪をさばいてきたのです。
神が罪をさばくのに、何の前書きも必要ありません。
私たちの前にある預言はイザヤの時代の描写であり、それはすでに成就されています。
しかしながら、その成就は預言の現すすべてではありません。
それはさばきのなされる終わりと神の怒りが下る時代のことを繰り返し、この状況下を通して描写しているのです。
単にイスラエルに下るさばきだけではなく、世界の国々に下る神のさばきのことが現されています。
最初の15節は弱い政治と女性たちのドレスをテーマに扱っています。
これらは全体的にテーマとは関係ないように思われます、
しかし、これらの問題が解決しない限り、このテーマが存在することを私たちは学ぶことになります。
弱い政治の原因はリーダシップの欠落です。
そして、女性の支配者に象徴される現象です。
私たちはこのことによって、何が証明されるか学ぶことになります。
弱い政治
「まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる。――すべて頼みのパン、すべて頼みの水、...。」
新改訳聖書 イザヤ書3章1節
私たちはこの節をエルサレムとユダに対して書かれたものとして限定します。
しかしながら、人はパンだけ生きているのではありません。
確かに人にパンは必要ですが、この飢饉は神のさばきです。
神のみことばの中には13の飢饉について述べられています。
そして、これらすべての飢饉はイスラエルに下された神からのさばきなのです。
「勇士と戦士、さばきつかさと預言者、占い師と、長老、
五十人隊の長と高官、議官と賢い細工人、巧みにまじないをかける者。」
新改訳聖書 イザヤ書3章1節
神はパンと水だけを取り除いたのではありません。
すべての人間のリーダシップをも取り除いたのです。
高い地位にある人間のリーダーシップが欠けていることが証明されました。
これは神からのさばきです。
これは今日においても同じことが言えます。
あなたには現在の時代に偉大な人がいると言えるでしょうか?
そこには確かに、自分自身が偉大な者であると主張するわずかな人たちがいるかも知れません。
しかし、ワシントン、リンカーン、ジャクソン、ティデッ・ルーズベルト、もしくは自分自身を偉大な者として偉人伝を書いたとしても、その時代においては小人にすぎないのです。
私がこのことを語る時、私はどこかの政党を支持してこのようなことを言っているのではありません。
確かにこの時代において、このよう政党には欲望に満ちた人たちがいます。
若きも年寄りも特別に政治家としての資格を持つ者はいません。
100年前、彼らはくだらない政治屋と呼ばれていました。
しかし、今日においては政治家なのです。
私たちの時代はまさに人の戦争の時代です。
しかし、私たちはこの時代を偉大な時代とは思っていません。
もし、強いリーダーシップがあるなら、今日のような状況で、軍隊を持つ必要ななかったでしょう。
それは私たちの物事を判断するシステムの欠如の結果なのです。
私たちは犯罪の波に警告を発します。
それは私たちの裁判の座についているのは小人にすぎないからです。
どこに預言があるのでしょうか?
どこに分別があるのでしょうか?
それは昔のものなのでしょうか?
今日において、私たちには完全な政治家など存在しないからです。
私たちは賢明な政治家の集まりを知っているでしょう。
彼らは妥協する者たちの集まりです。
もちろん、私は特定の政党のことを言っているのではありません。
私は単純に国は偉大な人を作らずに、国の退廃と神のさばきが来るという予兆が常にあるということを語っているのです。
芸術という分野に移ってみましょう。
テレビのスクリーンの中にある偉大さとはいったい何なのでしょうか?
私はむしろ、テレビ番組で話していることが退屈になってきます。
通常、司会者が出てきてこのように言います。
私はあなたを偉大な才能のあるアーティストたちのまえに連れて行きます。
そして、小さくつまらない者たちがステージの上に上がって、ギターを鳴らすのではないでしょうか?
まったく声を高く上げて、音楽といえるとは思いません。
しかし、彼は天才として認められています。
もう一人の人が入ってきます。
彼は文学的な光を帯びて入ってきました。
彼の書いた本はポルノです。
私の友よ!
私たちはこの時代において、偉大さが欠落しています。
しかし、私たちは喜んでそのことを許しているのではありません。
私たちの国はプライドある国になってしまったのです。
教育の分野において、どこに偉大さがあるでしょうか?
私たちは教育がこの世界の問題を解決すると信じ続けています。
今日において、私たちは教育が自分たちのキャンパスでさえコントロールできないことが明白になっています。
私たち人間はかつて、木の船に鉄の人が乗っていました。
しかし、今や、鉄の船に木の人が乗っているのです。
私はさらに彼らのことを紙人形の人と呼びたいのです。
私たちのリーダーシップはまさに紙人形の行列なのです。
「わたしは、若い者たちを彼らのつかさとし、気まぐれ者に彼らを治めさせる。」
新改訳聖書 イザヤ書3章4節
今日、人間の能力と言うのならば、人々はがおしめをしているようなものです。
若い中年層は私たちの支配者ともいえる年ですが、全体的に見るのであれば、役に立たないものと言うしかありません。
これらのことは、その時代にイスラエルに滅びが来た時と同じ現象なのです。
イスラエルのリーダの精神的に子供でした。
神はイスラエルを捕囚に連れて行かれました。
神はイスラエルをさばいたのです。
「民はおのおの、仲間同士で相しいたげ、若い者は年寄りに向かって高ぶり、身分の低い者は高貴な者に向かって高ぶる。」
新改訳聖書 イザヤ書3章5節
私の友よ!
私にはイザヤが今の時代について語っているように聞こえます。
しかし、イザヤはイザヤの時代について語っていて、まったく今の時代と同じなのです。私の子供は小学生の生徒です。
私が何か言うと、私の言うことを聞きます。
私はあることをこの数年間言い続けましたが、何も行っていないと聞いたことがないと、今だ聞いたことがありません。
あるクラスの他のクラスとある問題でぶつかりました。
「民はおのおの、仲間同士で相しいたげ」たのです。
私たちは少数派のグループが他の者たちを自分たち方法で虐待したがっていることを知っています。
クリスチャンは少数派ですが、私たちは他の人を虐げているとは聞いていません。
「そのとき、人が父の家で、自分の兄弟をとらえて言う。「あなたは着る物を持っている。私たちの首領になってくれ。この乱れた世を、あなたの手で治めてくれ。」
その日、彼は声を張りあげて言う。「私は医者にはなれない。私の家にはパンもなく、着る物もない。私を民の首領にはしてくれるな。」
これはエルサレムがつまずき、ユダが倒れたからであり、彼らの舌と行ないとが主にそむき、主のご威光に逆らったからである。」
新改訳聖書 イザヤ書3章6〜8節
「エルサレムがつまずき、ユダが倒れたから」とは預言者は何を言っているのでしょうか?
私たちの時代には神の人たちは現れていません。
また、私たちの国に対しても語っていません。
私たちの町々も滅んだとは言っていません。
しかしながら、私たちの時代もイザヤの時代と同様なのです。
今の時代も「彼らの舌と行ないとが主にそむき、主のご威光に逆らっている」のです。
これはこの章の鍵であり、イスラエルと他の国々が滅んでいった鍵なのです。
神はこれらの民の神との関係がつまずいたので、神は彼らをざばくのです。
アメリカの問題を見るのなら、神はすでにワシントン・D・Cの問題ではありません。
神という問題は私たちの生きている範囲において小さいものとなりました。
また、小さな集まりがこの世界を支配することができると考えています。
ならば、私たちには謙遜になることが必要です。
そして、私は私たちがすでに謙遜にさせられてきたということも知っています。。
ロシアは私たちを謙遜にさせました。
中国は私たちを謙遜にさせました。
そして、小さなベトナムが私たちを謙遜にさせました。
私たちはこの世界全体が、私たちを謙遜にさせていると考えています。
しかし、私たちは何も目覚めていません。
私たちは私たちの道を行き続ける必要があります。
私たちの信仰をもった祖先たちの歩んだ丘を下り降りてはいけないのです。
「彼らの顔つきが、そのことを表わしている。彼らは罪を、ソドムのように現わして、隠そうともしなかった。ああ、彼らにわざわいあれ。彼らは悪の報いを受けるからだ。」
新改訳聖書 イザヤ書3章9節
罪ははげしく表に表れ、何かが表舞台から裏へと動かされ続けています。
罪が表に表れるとき、何かが隠されます。
罪が立ち上る時、私たちはより素直になる必要があります。
「いいえ。私たちは素直になる必要などありません。」
このように私たちの父たちは偽善者のごとく言うかも知れません。
人が自分の罪を隠している以上、その人は偽善者です。
私たちも自分の罪を表に出さない以上、私たちも偽善者です。
そして、「罪とは良いものだ!」と言おうとしています。
これはまさに、イスラエルの言った言葉です。
「義人は幸いだと言え。彼らは、その行ないの実を食べる。」
新改訳聖書 イザヤ書3章10節
神は御自分の民を救われると約束しています。
「悪者にはわざわいあれ。わざわいが彼にふりかかり、その手の報いがふりかかる。」
新改訳聖書 イザヤ書3章11節
別のことばで言うのであれば次のみことばに表されます。
「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」
新改訳聖書 ガラテア人への手紙6章7節
「わが民よ。幼子が彼をしいたげ、女たちが彼を治める。わが民よ。あなたの指導者は迷わす者、あなたの歩む道をかき乱す。」
新改訳聖書 イザヤ書3章12節
「幼子が彼をしいたげ。」
若者の非行が私たちの時代において、大きな問題になっています。
また、若者の犯罪が非常に増え、毎年、その年代が落ちこぼれてゆきます。
「女たちが彼を治める。」
ウーマン・リブはイザヤは好まなかったようです。
彼らは私のようなことを言う人を少しも好まないでしょう。
「わが民よ。あなたの指導者は迷わす者、あなたの歩む道をかき乱す。」
女性の支配者が出てくることは、ここでは同時に男性たちが男性らしさをなくしていることを教えています。
決して、女性の解放が悪いと言うわけではありませんが、私は女性解放運動はこの腐った時代において、別のしるしを持っていると考えています。
つまり、女性が男性ように行動するということです。
女性は決して高いレベルで行動することはできませんが、女性として行動します。
そして、女性は大きなやさしさを人に与えます。
しかし、男性のように女性は無関心にもなり、残忍にもなるのです。
実際、男性よりも女性は残忍になった者もいます。
これは国が堕落した結果であり、イスラエルでは真実な例となりました。
また、私たちの国でも同様です。
イタリアに行き、滅んだポンペイを見て考えて見ましょう。
この地上の場面から何がローマ人が取り除いたのかを考えて見てください。
かつて、その国は世界を滅ぼしました。
確かに、そこにいたローマ人たちは外からの者たちに攻撃されたのです。
しかし、実際に彼らは中から堕落していたのです。
今、私たちはポンペイに学ぶことがあります。
ポンペイはそこに住んでいた人々とともに教えていることに耳を傾けてください。
「「主は論争するために立ち上がり、民をさばくために立つ。
主は民の長老たちや、民のつかさたちと、さばきの座にはいる。「あなたがたは、ぶどう畑を荒れすたらせ、貧しい者からかすめた物を、あなたがたの家に置いている。」」
新改訳聖書 イザヤ書3章13、14節
「長老たちや、民のつかさたち」とは国のリーダのことを指しています。
神はこの大人のリーダたちに恥辱を与えています。
若者の問題だけがこの民にとって根本的な問題ではありません。
イザヤの時代のあるわずかな者たちは金持ちになりたがり、また、他の者たちをお互いに支配しようとしていました。
「貧しい者からかすめた物を、あなたがたの家に置いている。」
神無き資本主義、神無き労働者は私たちの国アメリカにおいても大きな問題です。
私たちが神から離れてしまうという問題自体が難しい問題でしょう。
神は弁護しようと立っておられるのでしょうか?
それとも、さばこうとしてたっておられるのでしょうか?
神は今、その国に決心させようと導いておられるのです。
私たちは優れた道を選ぶことができるのです。
神はさばくことも、弁護することもできるのです。
女性の衣服
「なぜ、あなたがたは、わが民を砕き、貧しい者の顔をすりつぶすのか。――万軍の神、主の御告げ。――」
主は仰せられた。「シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている。」それゆえ、」
新改訳聖書 イザヤ書3章15、16節
ここで「シオンの娘たち」は何を表現しているのでしょうか?
ずばり、この問題はこころの中にある問題です。
私たちはペテロの手紙第一3章1〜4節において次のように書かれているのを読むことができます。
「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。
それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。
あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、
むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一3章1〜4節
私はあるカップルにいつもこのように話しかけています。
ともに結婚しようとする決意には三本のひもで結ばれることが必要です。
この三本のひもは三つの特色があって、そんな簡単には切れることがありません。
これは目に見えるひもであり、価値観がそこに存在します。
そして、このひもは心理的なひもであり、おなじ興味を持っているということです。
三つ目にこれは霊的なひもであり、おなじ神への愛があるということです。
もし、あなたが妻になるのなら、あなたの夫を目に言える行為だけではなく、他の方法によっても支えてください。
もはや、あなたの夫があなたに興味を持たなくなる時が来るかも知れません。
ペテロが「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、
むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。」と言っています。
妻の美しさは「柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ」ということです。イザヤはイザヤの時代の女性はセクシーで横柄だと書いています。
「シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている。」
まさに現在、そのままです。
「 主はシオンの娘たちの頭の頂をかさぶただらけにし、主はその額をむき出しにされる。」
新改訳聖書 イザヤ書3章17節
神は病気について書いています。
あなたは現在この国にある流行している性的な病気について知っていますか?
私たちの国の若い女性が自分をアピールしています。
しかし、彼女らはへびのようにその道を歩みます。
多くの男性は悲しい道を歩むことになります。
「その日、主はもろもろの飾り――足飾り、髪の輪飾り、三日月形の飾り物、
耳輪、腕輪、ベール、
頭飾り、くるぶしの鎖、飾り帯、香の入れ物、お守り札、
指輪、鼻輪、
礼服、羽織、外套、財布、
手鏡、亜麻布の着物、ターバン、かぶり物を除かれる。
こうして、良いかおりは腐ったにおいとなり、帯は荒なわ、結い上げた髪ははげ頭、晴れ着は荒布の腰巻きとなる。その美しさは焼け傷となる。」
新改訳聖書 イザヤ書3章18〜24節
女性の衣服はその町に住む人々を表わすバロメータです。
もし、女性の衣服が控えめならば、それによって、その国全体の様子をも表わすことができます。
このいくつかの節において、女性の衣服の名称が列記されています。
確かに、女性がスタイル良く着こなすことが悪いと言っているのではありません。
しかし、もし、女性の衣服が派手ならば、私たちの多くが私たちが何を着れば良いのかを考えるようになると私は考えます。
しかしながら、私たちの中にはそのようなことを考えない人たちもいます。
神はイザヤの時代のイスラエルの女性たちが何を着ているかを直接、訴えているのではありません。
神は彼女らの内側の生活について語っているのです。
肌が衣服の中にあるのではありません。
外側にあるのです。
女性の衣服はその国のモラルの鍵を握っているのです。
「あなたの男たちは剣に倒れ、あなたの勇士たちは戦いに倒れ、
その門はみな、悲しみ嘆き、シオンはさびれ果てて地に座す。」
新改訳聖書 イザヤ書3章18〜24節
ローマの勲章は女性たちの涙を誘いました。
ユダが囚われの身になることは女性たちにとって勲章の価値はありません。
この節はイスラエルが囚われの身になることを表現しています。
イスラエルが神が与えた警告に心を留めなかったからです。
ゆえに、イスラエルは囚われの身になったのです。
私がこのように書いているようにベトナムでは多くの若者たちが恐ろしい敗北を味わいました。
私たちのこころにそのことが生々しく刻まれています。
しかし、今、私たちの国、アメリカは平和です。
私たちは満足を覚えます。
しかし、友よ。
私たちの国には原爆があります。
私は神のさばきが私たちの上に来る事を信じています。
4章
主題:バビロン捕囚の来る前の期間状態であり、王国を建てる時の前触れ期間とも言えます。
この章は2章から始まり、5章で終る一つの完全な預言の続きです。
これらの章はイザヤ書全体を実際に要約しています。
それはイザヤがこれらの章を基礎として、後の部分を書いているからです。
4章はイザヤ書の中で短い章です。
6節しかありません。
私たちにはこの章でバビロン捕囚の前触れ期間が描写されています。
そして、同様にこの章はメシアが支配する王国の直前にある大いなる患難時代、もしくは終わりの日がが描写されていると信じています。
読者にこの章に書かれていることを覚えてください。
王国全体に必要な準備がここに書かれているのです。
もちろん、私がこの箇所で言っているのは予想です。
「その日、七人の女がひとりの男にすがりついて言う。「私たちは自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちをあなたの名で呼ばれるようにし、私たちへのそしりを除いてください。」」
新改訳聖書 イザヤ書4章1節
これらの状態は戦争による恐ろしい犠牲的な結果であり、広く広がるでしょう。
どんな戦争においてもこれは真実な結果です。
そして、この状態は大いなる苦難の時にも起きる状態です。
言い換えるのなら、働くことのできる人口が戦争によって激減します。
そして、女性たちは余る現象が起きるのです。
その日、七人の女がひとりの男を分け合おうとするのです。
しかし、この女たちは自分の職業を喜んでしています。
私は男はこの世界で何もしなくなり、女性たちがあらゆる事務仕事を行うようになるのではないかと思っています。
女性たちは適切にこのような仕事を分け合っています。
これは蔓延しようとしている恐ろしい状態なのです。
第二次世界大戦後、アメリカは男の力が激減しました。
同様にベトナム戦争においても、同じような状態に巻き込まれました。
アメリカでは80000人の女性が過剰状態になったと私は聞きました。
私は自分の周りに男性がいないので、私の家内に私の面倒をちゃんと見るようにからかったほどです。
「その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。」
新改訳聖書 イザヤ書4章2節
その日とは主の日のことを述べています。
このフレーズはイザヤ書の中で(また、すべての預言書の中で)繰り返し使われていることばです。
そして、新約聖書の中でも使われるようになります。
ヨエルはその日について、詳しく語っています。
ヘブルの一日が毎日、日没から始まっています。
暗さから始まり、夜明けへと進むのです。
これは大いなる患難が始まり、後に千年王国がへと進むことに例えられています。
また、同様にこの節では主イエスキリストのことが若枝として述べられています。
聖書には18の枝というヘブル語がありますが、英語の聖書には一つの"branch"という単語に訳されています。
しかし、これらすべてが主イエスのことを述べています。
この節で使われている枝ということばの意味は"sprout"(発芽した若枝)という意味です。
後に、私たちは乾いた土地の上にある枝について語りますが、それはキリストが乾いた土地の上に注ぎだされた緑に例えられています。
「シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。」
新改訳聖書 イザヤ書4章3節
そこは神の民、イスラエルと異邦人のためにあるのです。
大いなる患難の期間に彼らが生き残るためにあるのです。
彼らは殉教するのでしょう。
しかし、その時代の終わりに復活するのです。
マタイの福音書の中で主イエスはそれを表現し、強調しているように見えます。
マタイの福音書24章13節ではこのように書かれています。
「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」
新改訳聖書 マタイの福音書24章13節
イエスが言ったのは大いなる患難の最後を言っているように思えます。
彼らはその時代の最初には隠されているいますが、最後には救われるのです。
羊飼いは自分の羊を守ることが出来ます。
ゆえに、彼らは最後まで耐えることが出来るのです。
私たちは黙示録7章で同じことを読むことが出来ます。
そこにはたくさんの人たちがいます。
「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。」
新改訳聖書 黙示録7章9節
彼らはユダヤ人と異邦人です。
大いなる患難の最初とその時代が来た時に隠されていた人たちです。
「主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、」
新改訳聖書 イザヤ書4章4節
ゼカリヤ書13章1節には次のように私たちに語られています。
「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。」
新改訳聖書 ゼカリヤ書13章1節
神の民は王国に入る準備をしなければなりません。
これはまさに的を得た問題に至らせます。
毎年、私たちは新しい年を迎える時、私たちは今年こそ良い年になるように言うでしょう。
私たちは何年も同じ事を言い続けたかも知れません。
私にとって大きな問題は「今日、私は天国に適した歩みをしているか?」です。
神はあなたを天国に適した者として天国に入れようとしていることを想像してみてください。
あなたは天国に適した人でしょうか?
私はあなたにこの問題の答えを答えることができません。
神はこの私、J. バーレン・マギーの働きの多くを補修し、天国に入る準備をさせているのです。
これは人生すべてにおいてそうなのです。
これは私たちに永遠のために準備させるための学校なのです。
多くの人たちはそこに永遠のすべてがあるという考え方に悲しい失敗をしています。
永遠の準備はこの地上にあるのです。
神はあなたを天国にふさわしい者として、天国に至らせることを想像してください。
あなたは不適切なものとして、穴の中に陥るでしょうか?
私は自分がそうではないかと恐れています。
愛する者たちよ!
天国はどのようなものか、私たちにはまだ表わされていません。
天国に入るものはいくつもの変化を通って適した者となってゆくのです。
「主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、」
新改訳聖書 イザヤ書4章5節
神の栄光は王国にあるすべての家の上にあります。
神殿の上だけではありません。
なんとすばらしい栄光ではないでしょうか?
「昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。」
新改訳聖書 イザヤ書4章6節
その日、最後の時代にイスラエルの国は守られるのでしょうか?
今日、イスラエルは平和ではありません。
ゆえにこの預言はまだ、成就していません。
まだ、ユダヤ人のすべての人たちが自分たちの国に帰ってきて、ぶどうといちじくの木の下で平和に暮らしているのを見ていません。
平和には常に、恵み、哀れみと清めが付き従っているのに注意してください。
この問題は決して政治的な問題が関係しているわけではありません。
人は戦争の創造者です。
それは人が罪人であり、平和という問題を取り扱いのを拒んでいるからです。
人の心が変わるまで、戦争の後にまた他の戦争が起こるのです。
5章
テーマ ブドウ畑の歌 6つの悲しみが描かれています。
この章は2章から始まった部分が終わります。
最初の7節はイスラエルの罪と来ようとしている捕囚を歌ったぶどう園の歌です。
この章に描かれているのはイスラエルの国に神が裁きを下そうとしている6つの悲しみと6つの特別な罪です。
一つ一つの罪の刑罰がリストされています。
ブドウ畑の歌
ここにいる者たちはヘブル語でぶどう園の歌を読むことができたのです。
私にとって疑うことなく、書かれている歌は最も美しい歌の一つです。
このような歌は他になく、比較できるものもありません。
また、音楽的にも優れ、英語で作り直し事は絶対に不可能です。
この歌は真実な歌であり、詩篇の中にもこのような歌は比べうるものはありません。
7節にあるぶどう園はイスラエルの家です。
聖書の中にはイスラエルが二つの象徴で表されていますが、その一つはぶどう園がイスラエルの国として表されています。
もう一つはいちじくの木がイスラエルの象徴として使われています。
主の死の前に、主はぶどう園のたとえをしています。
そのぶどう園はイスラエルの家全体を象徴していることがわかります。
「もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。
すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。
そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。
しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。
すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』
そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。
このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」
彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」
いのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』
だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。
また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」
祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちをさして話しておられることに気づいた。
それでイエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。」
新改訳聖書 マタイの福音書21章33〜46節
イザヤ書において、すぐに来ようとしている北王国のアッシリアへの捕囚、そして、南王国のバビロンへの捕囚が告げられています。
マタイの福音書において、主イエスは神が70年のバビロンからの捕囚から帰って来たイスラエルのために二度目のチャンスを与えていることを示しています。
しかし、イスラエルは神の御子を拒みました。
そして、イスラエルはより、大規模な、激しい分散のあることを促しています。
今、ぶどう園の歌を聞いてください。
「「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。」
新改訳聖書 イザヤ書5章1節
「わが愛する者」とは主イエスキリストのことです。
彼はイスラエルのメシアであり、世の救い主です。
「よく肥えた山腹」は肥料に肥え、悪しきものはありません。
ぶどう園とぶどう自身が問題だったのです。
7節を見るのなら、このぶどう園がイスラエルであり、ユダであることがはっきりします。
教会でもなく、もしくはその他のものではありません。
私たちはこれが何か他のものであると推測してはいけません。
神は再びイスラエルに対する訴えを考えさせるために、法廷の中へと導いています。
そして、友よ、すぐにあなたは神から、イスラエルに対する訴えを聞くことができます。あなたはあなた自身に対する神の訴えを聞くことができます。
「彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。」
新改訳聖書 イザヤ書5章2節
神はイスラエルの国をエジプトから連れ出し、約束に地に彼らを置きました。
神はイスラエルから義の実を得て、神の御名の栄光を彼らに期待しました。
イスラエルは失敗し、神に恥辱を与えたのです。
「そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。」
新改訳聖書 イザヤ書5章3節
神は「エルサレムの住民とユダの人」を裁くことを求めています。
神とイスラエルの間には相当な立場の違いがあるのです。
率直に言うのであれば、あなたの人生において、あなたは神に不満を言うときがあります。
私が癌になった時、私は泣いて、わめき声をあげることを知りました。
私は主には恐れがないことを認めました。
私は病院で一人で寝る時を持ち、私はその時を持つ必要性を知りました。
私たちは私たちが特別な時を持った時どのようにしようか考えてしまいますが、私たちはそのような考えを取り除く必要があるのです。
神は私たちにふさわしくないことをしようとしているのではありません。
神は私たちに悪いことをしようとしているのでもありません。
あなたと私が悪いのです。
神が悪いのではありません。
「わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。」
新改訳聖書 イザヤ書5章4節
神はイスラエルに義の実を造りだすためにあらゆる必要を満たしました。
イスラエルはこのような状況にあっても、彼らは失敗し、激しく愚かな行いをしたのです。
「さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。
わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」」
新改訳聖書 イザヤ書5章5、6節
これはイスラエルとユダの両方の国に対して、来ようとしている捕囚の預言です。
500年以上もの間、神は3つの大陸の橋とも言えるパレスチナの地において、この偉大なる国を守ってきました。
神はイスラエルの子供たちの周りに壁を置かれたのです。
神は誰をも、彼らに触れさせるようなことはしませんでした。
ただ、神が許したのは、神が彼らを裁く時のみで、何度も行われました。
神はイスラエルを「わがぶどう畑」と呼んでいます。
また、神はイスラエルの周りに「垣」があったことを知らせています。
しかし、今、神はその壁を壊されたのです。
「わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」と神は言われました。
1000年以上の間、パレスチナには前の雨(春の雨)と後の雨(秋の雨)は降っていません。
今日において、なぜ、イスラエルの地は荒れ果ててしまったのでしょうか?
私は前の雨(イスラエルの再建)が降り出したと理解しています。
しかし、まだ、後の雨は降り出していません。
「まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」
新改訳聖書 イザヤ書5章7節
あなたは預言者が自分でこのようなことを言ったと思ってはいけません。
ブドウ畑はイスラエルの国全体を表わしています。
そして、この節は水晶のように明確です。
このブドウ畑は神が裁きのためにイスラエルに例えているのです。
神は「正義を待ち望まれたのに」、「泣き叫び」が起きたのです。
6つの悲しみ
神はもう一度、繰り返し、すべてを注ぎ語り続けています。
6つの悲しみがここで述べられています。
一つ一つが神が裁かれる明確な罪が語られています。
もし、あなたが自分の歩み、もしくは私たちの国の歩みに適応させたいのならば、あなたはそれをすることができるでしょう。
しかし、これはイスラエルに対する仲介です。
これは、すでにイスラエルに成就したことです。
それでも、このことは私たちの心と歩みにはっきりと適応させることができることを私たちは知っています。
「ああ。家に家を連ね、畑に畑を寄せている者たち。あなたがたは余地も残さず、自分たちだけが国の中に住もうとしている。」
新改訳聖書 イザヤ書5章8節
これはイスラエルの最初の罪です。
その罪とは何でしょうか?
その罪とは目の欲です、
より特別なものを求める、貪欲です。
コロサイ人への手紙3章5節で私たちに語られています。
「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙3章5節
貪欲は偶像礼拝です。
小さな人間に大きなビジネスは広げられ、働いています。
イスラエルに何が起きたのでしょうか?
その小さな人間が脅しています。
そこには大きなチャンスが蓄積されてかもしれませんが、彼は財産や持ち物を増やすために、飽くことの無い貪欲だけが働いていたのです。
神はそのような罪のためにこの民を裁いたのです。
私たちにここで語られている物語は悲しい物語です。
これは大きな農場の集まりの一つが起こした物語の描写です。
イザヤの時代の人々は農業を営む人たちでした。
彼らは大きな組織、大きな集まりを建てました。
しかし、これは小さな人間、小さな経営者にとっては良くない事です。
富は蓄積されました。
あらゆるものが自分のために与えられ、これがあなたの信仰(偶像崇拝)となるのです。
今日、多くの人たちがこの貪欲という祭壇を礼拝を捧げているのです。
貪欲の意味は神を見るという意味です。
それはドルの銀硬貨や、ドル札の表面を見ることです。
イスラエルは神に従う代わりに、このような罪ゆえに神に裁かれるのです。
彼らは土から富のすべてを得始めました。
今日、私たちも同じ事をしています。
私たちは実際にエネルギーを消耗しながら、この世界を生きているのです。
私たちは気が狂わんばかりにオイルを探し回っています。
なぜ、このようなエネルギーを使うのでしょうか?
それは人の貪欲のゆえです。
そして、このような貪欲がこの地球の富を消耗してしまうのです。
まさに、これは神の裁きです。
「私の耳に、万軍の主は告げられた。「必ず、多くの家は荒れすたれ、大きな美しい家々も住む人がなくなる。
十ツェメドのぶどう畑が一バテを産し、一ホメルの種が一エパを産するからだ。」」
新改訳聖書 イザヤ書5章9、10節
神はイスラエルが自分たちの国を広げることを明確に語っています。
しかしながら、生産物は大きく増えることはありません。
作物は減少し、彼らに飢饉が訪れます。
彼らは土地を広げますが、作物は豊富に熟すことはありません。
この地球で私とあなたはわずかなエネルギーを使いながら生きています。
私たちはやがて石油を使い果たすでしょう。
そして、私たちは耕地さえも使い果たしてしまうのです。
生態学の目的は非常に大切なものです。
人口はこの地球の多くを滅ぼしてしまいます。
いつか、私たちは荒れ果てた地球に住みことになるのです。
私たちはすぐにエネルギーを使い果たしてしまいます。
もし、あなたが旅に出る計画を立てるのならば、今があなたの行く時です。
燃料がやがて無くなってしまうからです。
このようなことは、私たちの生きている時代には起きないかもしれません。
でも、ある人たちはこのようなことが私たちの生きている時代に起きることだと信じています。
ここに書かれているのは当時のイスラエルの国に起きた神の裁きです。
「ああ。朝早くから強い酒を追い求め、夜をふかして、ぶどう酒をあおっている者たち。
彼らの酒宴には、立琴と十弦の琴、タンバリンと笛とぶどう酒がある。彼らは、主のみわざを見向きもせず、御手のなされたことを見もしない。」
新改訳聖書 イザヤ書5章11、12節
ここには二つ目の嘆き、二つ目の罪が描かれています。
国全体に闇と楽しみはあり、ここに罪があります。
彼らのすべての霊的な理解力は消え去るようにと、自分自身を導いているのです。
私は今日、ニュースメディアが彼らのことを正確に報道していないことを知っています
これは何年も前にも言われていますが、この国には多くのアルコール中毒者がいます。
数年前に書かれた、この最後の記事を私は知っています。
この記事には、アメリカ合衆国には1億人のアルコール中毒者がいて、彼らは酒税を払うように義務づけられています。
この税金はアルコール中毒者とアルコール中毒者が起こした事故のための軍の維持のために使われているのです。
もちろん、必要のない事故によって生じた、罪のない犠牲者たちのために払われているのではありません。
アルコールの席から出てきた多くの人たちによって、この政府が成り立ってきたのか、誰も知る余地はありません。
この国の道徳的感覚はまさに低いとしか言い様が無いのは事実です。
彼らはこの国を滅ぼし、癌の様に食い尽くすのです。
このような国は敵が無くとも、このようなアルコールの餌食に堕落してゆくその淵にいるです。
「それゆえ、わが民は無知のために捕え移される。その貴族たちは、飢えた人々。その群衆は、渇きで干からびる。」
新改訳聖書 イザヤ書5章13節
この国の多くはアルコールを飲む人よりもむしろ知的な人たちでした。
ニューヨークの麻薬依存症の治療のための集まりで、その指導者がインタビューを受けている記事がありました。
私はその記事にとても興味を引いたことがあります。
その指導者はそのインタビューの質問のこのように答えています。
「ある親たちは子供が薬物から立ち返ろうとしているのに、それから保護しようとしているでしょうか?」
その人の答えを聞くならば、その人はおそらくクリスチャンではないでしょう。
彼は「もっとも大切なことは、薬物、避妊薬、アルコールを使わない家庭、つまり、生きてゆくための絶対的な条件はこのようなものを使わないことが、もっとも重要なことだと」言いました。
しかし、彼はこの社会の場においてアルコールを飲むことがタブーとは言っていません。もちろん、現状を見るのであれば、その答えはさほど離れたことを言っているのはないでしょう。
彼は「猿を見なさい。猿はそのようにしているでしょう」と言いました。
確かに、他の問題に適応しようとするのであれば、良い答えかも知れません。
彼は「若者が成長すれば、薬物の歪んだ世界に入って行き、マリファナや避妊薬を最初に試そうとするでしょう。
その時、彼らは自分に直面する問題を理解するのです」と言いました。
父親、そして、母親に言いたいのです。
もし、あなたがアルコールを飲み続けていますか?
私はこの国を各地でそのようにしているのを多くのレストランで見てきました。
驚くことはありません。
もし、あなたの息子や娘が薬付けになっているのなら、いつかは、なぜ、自分が飲み続けるのか疑問を持つでしょう。
家庭で若い人たちが薬物を飲み始める問題は、直接生活の中で両親がこれらを飲んでいるという問題から始まっているのです。
この問題は家庭を壊し、国をも壊すのです。
イスラエルを堕落させた要因として酒があります。
私たちの国ではどうでしょうか?
「それゆえ、よみは、のどを広げ、口を限りなくあける。その威光も、その騒音も、そのどよめきも、そこでの歓声も、よみに落ち込む。」
新改訳聖書 イザヤ書5章14節
ここにある「よみ」という言葉の実際の意味は墓という意味です。
今日、私たちの信じている火の池のことを指していません。
ヘブル語で「シュエル」(sheol)で、(墓(死)の要求)という意味です。
箴言30章16節では同じことばが使われています。
「よみと、不妊の胎、水に飽くことを知らない地と、「もう十分だ。」と言わない火。」
新改訳聖書 箴言30章16節
死、もしくは墓(両方とも、翻訳としては満足している言葉です)は決して満足することはありません。
この問題に答えるためにいくつかの墓ということばを理解してみましょう。
「しかし、人間は死ぬと、倒れたきりだ。人は、息絶えると、どこにいるか。」
新改訳聖書 ヨブ記14章10節
これは誰もが尋ねなければならない問題です。
地獄は場所という観念を持っていません。
(決して、存在しないという意味ではありません。)
しかし、そこにいる時、神は天国、もしくは上にいるのです。
そして、地獄、もしくは墓は下か、底にあるのです。
新約聖書の「ハデス」は旧約聖書では「シュエル」なのです。
主イエスはこの言葉を使っています。
「カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。」
新改訳聖書 マタイの福音書11章23節
この時、主は文字通りの地獄について、語っていて、心の中や地上のどこかについて語っているのではありません。
単純に主はカペナウムは落とされると言っています。
そして、今日、あなたがたすべてはこのカペナウムが滅んでいることを見ることができます。
主の言われたことが真実であったことがわかります。
私たちは常にその言葉にある強く暗示された意味を自分に適応させようとします。
神の御前に行くことが上がることであり、地獄は落ちるものです。
イザヤはここでイスラエルの国は落とされると言っています。
彼らは捕囚されるのです。
彼らはまさに墓に入るのです。
そして、彼らは酔いどれた楽しみのゆえに、イスラエルの栄光は塵に入るのです。
ラドヤード・キップリングは詩を書く人であり、予見者です。
彼の著者"Recessional"(退場の歌)で彼は書いています。
「見よ、私たちの昨日までの栄華よ!
それらはニネベアとツロのようだ!」
「こうして人はかがめられ、人間は低くされ、高ぶる者の目も低くされる。
しかし、万軍の主は、さばきによって高くなり、聖なる神は正義によって、みずから聖なることを示される。
子羊は自分の牧場にいるように草を食べ、肥えた獣は廃墟にとどまって食をとる。
ああ。うそを綱として咎を引き寄せ、車の手綱でするように、
罪を引き寄せている者たち。」
新改訳聖書 イザヤ書5章15〜18節
18節はこのように訳すことができます。
「罪のための嘆きをする者はうその言葉によって助けられる。
彼らはプライドの中に生き、神の定めた怒りを信じない。」
あなたは他の読み方も出来るはずです。
また、これは三番目の嘆き、もしくは三番目の罪です。
イスラエルの国の描写自身が良心の咎め無しに、多くの罪の中にあります。
「彼らは言う。「彼のすることを早くせよ。急がせよ。それを見たいものだ。イスラエルの聖なる方のはかりごとが、近づけばよい。それを知りたいものだ。」と。」
新改訳聖書 イザヤ書5章19節
言い換えるのであれば、イスラエルの民は神が彼らの罪に対して何かをしようとすることに対して挑戦しています。
述べられている裁きがあるわけないかのように、彼らは興味を引いています。
この裁きはとても恐ろしいことが書かれているのに、ここで彼らが冷静なのは恐ろしいことなのです。
バビロンの国に捕囚される歴史自身が、イスラエルが神に対して無視し続ける罪の結果である恐ろしい神の裁きだったのです。
神はイスラエルを裁きます。
あなたは詩篇137編に書かれていることを覚えていますか?
その詩はイスラエルがバビロンに対して祈っている詩です。
彼らはそこで「目には目、歯には歯」という律法に従って祈っています。
彼らはここでこのように言っています。
「おまえの子どもたちを捕え、岩に打ちつける人は、なんと幸いなことよ。」
新改訳聖書 詩篇137編9節
この言葉は恐ろしい言葉です。
しかし、ここで言っているのはイスラエルに来ようとしている裁きについて語っているのです。
友よ!
神は愛の神です。
しかし、あなたは神を無視し、そして、神に立ち返る場所にたどり着くのです。
そこはあなたにとって、何の希望の無い場所です。
裁きが来るのです。
まさに歴史の多くの瞬間において、この事実を否定しました。
あなたは彼らに対して、目を閉ざしてはいけません。
「ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。」
新改訳聖書 イザヤ書5章20節
ここで4番目の嘆きに対する4番目の罪が語られています。
これは神の人に対する価値観の善と悪の基準に適応されています。
ここに書かれていることは、人の持つ価値観とは神の価値観とは反対だということです。
かつて、イスラエルには神を知る知識がありました。
しかし、今は過去のものです。
神はイスラエルを祝福する権利を放棄し、イスラエルの上に神の義と人の義の価値観の矛盾がここで描かれているのです。
今日のイギリスにこの実例があります。
そして、アメリカに同じ傾向が先に現れました。
今日、私たちは結婚という基準の矛盾を見ることができます。
私はテレビ番組でとても美しい女の子が自分の話をしているのを聞きました。
彼女は男の人と暮らしていますが、その人は彼女と結婚していません。
その理由として言っていたことは、彼女が自分が「素直だから」と言っていました。
彼女は自分が偽善者であることを理解していません。
私は彼女に言いたいことがあります。
彼女は単に偽善者であり、素直ではありません。
彼女は自分が悪いことをし、自分が結婚すべきであることを知っているはずです。
神は彼女は姦淫の罪の中を歩んでいると言っています。
神はその男を姦淫者、そして彼女を姦婦と呼んでいるのです。
あなたはこのことをどのように考えるか知りません。
しかし、神がこのように言っているのです。
「ああ。おのれを知恵ある者とみなし、おのれを、悟りがある者と見せかける者たち。」
新改訳聖書 イザヤ書5章21節
これは5番目の嘆きです。
この罪はプライド(高ぶり)です。
神は他の罪より、特にこの罪を嫌います。
箴言6章16〜17節で私たちにこのように語られています。
「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。
高ぶる目、偽りの舌、罪のない者の血を流す手...」
新改訳聖書 箴言6章16〜17節
プライド(高ぶり)はテモテの手紙第一3章6節に一致する悪魔の罪です。
「また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。」
新改訳聖書 テモテの手紙第一3章6節
プライド(高ぶり)は神の嫌われる罪の一覧の一つで、クリスチャンの歩みすべてを狂わすものです。
「ああ。酒を飲むことでの勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけての豪の者。
彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている。」
新改訳聖書 イザヤ書5章22、23節
これは6番目、そして最後の嘆きです。
ここで人々は義という感覚をなくしています。
そして、酒に飲みこまれてしまったのです。
不義と不正がはびこり、正しい人が不正によって訴えられています。
道徳という法が崩れ去った国で存続した国はありません。
本当の価値観をなくしてしまったのです。
私たちの時代においても、悪を正しいといい、正しいことを悪と呼ぶことがあります。
私が若かった時、私は小さな映画鑑賞の集まりにいました。
私は"The Great Divide"という映画の一節を思い出しました。
「悪とは、最後の審判によって悪と定められる!
天では、すべての天使たちが休み無く働きその審判を決め、これを変えたり、無くしたりすることはできない。」
しかし、私の友よ!考えてください。
悪はすでに悪なのです。
「それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、炎が枯れ草をなめ尽くすように、彼らの根は腐れ、その花も、ちりのように舞い上がる。彼らが万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったからだ。」
新改訳聖書 イザヤ書5章24節
「火の舌が刈り株を焼き尽くし...」
この落ちぶれと堕落はゆっくりであり、気づかれないものでした。
しかし、裁きが「火の舌が刈り株」のようにやって来たのです。
その裁きは早く、止めることができません。
その裁きは主の怒りによるものです。
この裁きが最後の日の恐ろしい神の裁きに場面が移されています。
マタイの福音書12章20節で主イエスキリストがこのように言っています。
「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。」
新改訳聖書 マタイの福音書12章20節
イエスはイザヤ書42章3節から引用したのです。
「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。」
新改訳聖書 イザヤ書42章3節
ここには自分たちの罪によって至ったある裁きがあるのです。
酔いどれもその一つです。
薬の誤用も別の一つです。
私はこれらの罪が多くの人たちの実例としてあげることができると思います。
そして、これらの罪がこれらの人たちの生活に、これらの人たちの家族の生活の中で、また、彼らの体の中で働いているのです。
そして、この罪が彼ら自身を壊してしまいます。
神はこのようなことを望んでいません。
麻薬は炎の中に落ちることです。
その茎は死に導きます。
まさに罪は私たちを滅ぼしつくします。
私が若い時、私はテネシー、ナッシュビルにいました。
そこで私は歯医者に通っていましたが、彼は私の良き友です。
ある日、彼は何年も前から、この町で起きているさまざまな事件について話してくれました。
この町にいる最も評判の良い医者が麻薬組織のリーダになったという話を彼は私にしてくれました。
彼の地位ゆえに彼を法律で裁くのは難しい状態でした。
ある日、その医者は麻薬を高い値段で得ようとして、逮捕されました。
短い期間でしたが、彼は麻薬を得ることが出来なくなりました。
その結果、当然ですが、麻薬の値段は高昇し、彼の息子と娘が麻薬中毒者であることが露出しました。
麻薬の供給が断ち切られるまで、その医者は自分たちの問題について何も知らなかったのです。
彼は自分の生活にショックを受け、明らかにその結果によって、彼は死に導かれました。
手短に言うのであれば、私は神の手が彼の上に望み、裁きがあらゆる時にも存在していたことを知りました。
多くの実例を見て分かるように、彼は罪によって自分の道を選んだのです。
今日、アルコールの問題は私たちの周りを取り囲んでいます。
神はこの問題全体について何も取り扱っていませんが、必ず、神は個別において取り扱うはずです。
酔いどれは裁きに至ります。
裁きは個人的に来ます。
そして、その国の上にも来ようとしているのです。
私たちクリスチャンの中にも、アルコールの問題に長い間、取り組んで来た者たちがいます。
アルコール中毒者は年々増加しているように見えます。
また、アメリカでは重症なアルコール中毒者は悔い改め、主に立ち返ったという知らせも聞いています。
しかし、彼らの何人かはアイスボックスの中にボトルを入れっぱなしの者もいます。
何が彼らを恐ろしい酔いどれの罪に戻そうと導いているのでしょうか?
パウロはローマ人への手紙8章12節でこのように語っています。
「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章12節
言い換えるのであれば、肉において何を求め、行動しなければならない決意をしてはいけないということです。
冷蔵庫の中にボトルを置きっぱなしにしてはいけません。
ボトルを取り出し、捨ててしまうべきです。
私たちの多くの者が私たちの罪の問題を軽く見ています。
しかし、これらの罪のいくつかは、私たちに常に関係している問題です。
私においては、確実に関係しています。
「このゆえに、主の怒りが、その民に向かって燃え、これに御手を伸ばして打った。山々は震え、彼らのしかばねは、ちまたで、あくたのようになった。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」
新改訳聖書 イザヤ書5章25節
「このゆえに、主の怒りが、その民に向かって燃え...」
この箇所は神の愛を求める者たちにとって、とても不思議な箇所ということができます。神の愛は現実です。
しかし、あなたは神から愛を維持し続けることが出来ません。
神は罪を嫌っているからです。
私の友よ!
もし、あなたが罪を愛そうとするのなら、神はあなたを愛することが出来ないのです。
しかし、それでも、神はあなたを愛しています。
あなたは神の裁きを待たなければなりません。
主の怒りが主の民に向かって燃えるのでしょうか?
主の民の隣人に燃えるのではなく、主の民に燃えるのです。
「それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」
もし、イスラエルが主の元に行き、主に信頼するのなら、主は彼らを救うのです。
神の裁きはイスラエルの影に隠れ去り、神の恵みがそこにあるでしょう。
これが神の政治と神の恵みなのでしょうか?
これらは決して矛盾していません。
もし、あなたが罪の中に住み続けるのならば、もし、あなたが神の恵みを拒み続けるのなら、あなたは神の政治とは何かを知ることになります。
もし、私たちがこの章を繰り返し読むのならば、神の裁きがいかに蓄積されたかを知ることができます。
「主が遠く離れた国に旗を揚げ、地の果てから来るように合図されると、見よ、それは急いで、すみやかに来る。
その中には、疲れる者もなく、つまずく者もない。それはまどろまず、眠らず、その腰の帯は解けず、くつひもも切れない。
その矢はとぎすまされ、弓はみな張ってあり、馬のひづめは火打石のように、その車輪はつむじ風のように思われる。
それは、獅子のようにほえる。若獅子のようにほえ、うなり、獲物を捕える。救おうとしその日、その民は海のとどろきのように、イスラエルにうなり声をあげる。地を見やると、見よ、やみと苦しみ。光さえ雨雲の中で暗くなる。」
新改訳聖書 イザヤ書5章26〜30節
今日、イスラエルの国には景色の良いところもあります。
イスラエルに行き、いろんな場所を見てきた人たちの多くがこのように言います。
ある場所はたしかにすばらしい場所もあります、
私たちは預言が成就したことを知ることができます。
その国は回復したのです。
彼らはどのように預言が成就したのかを知ることができます。
しかし、私はどんな方法で完全にすべてが成就したのかを知ることができません。
そして、私はそこに住み人々がいまだに闇の中にいることを知っています。
彼らは神から遠く離れているからです。
私は彼らが平和に暮らしてなく、神を必要としていないことを知っています。
私の心は彼らに向けられます。
これが神の裁きなのです。
次の詩について考えてみてください。
私たちが祈らないという罪
「あなたの悲しみを知って、私たちは泣きませんでした。
イスラエルよ、追い詰められ、散らされた民
私たちが天にいる時に、不信仰の闇は閉ざされるのです。
私たちは平和のために祈りませんでした。
エルサレムは捨てられています。
神の恵みによって、あなたの根は祝福されました。
私たちは常にあなたの恵みの中にいるのです。
どのように救い主の足がこの道を歩んだのでしょうか!
どのようにあなたのために救い主の涙が零れ落ちたのでしょうか!
どのように彼を愛し、私たちはどのように彼を忘れることが出来るでしょうか!
いつまでも、あなたの喜びを見続けることが出来ますように....。
シオン、あなたの神はあなたを覚えています。
しかし、私たちはあなたを覚え続けることは困難です。
シオン、あなたの神はあなたを覚えています。
血は義をもたらし、清めるでしょう。
私たちの祈らない罪を消し去るのです。
第6章
主題 預言者の集まりへのイザヤの召しと指名
イザヤ書のこの章は歴史的、かつ、論理的に始まっています。
また、イザヤの歩みに常に危機があり、彼は預言者の集めりへと身を寄せようとしています。
最初に言うのであれば、私たちはこの書に彼の歩み、もしくは彼の神との交わりが記されていないことを知ることができます。
しかし、この章ではイザヤの働きが王ウジヤの時に始まったことを記されています。
イザヤに示された主の啓示
1〜4節にあるイザヤに示された啓示には、主の時、主の場所、人柄、栄光、そして、聖なることが示されています。
何が主の時であり、主の場所であり、何が主の人格なのかに注意してください。
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち...」
新改訳聖書 イザヤ書6章1節
イザヤはウジヤの死に対して、とても悲しい出来事であることをこの章の始まりに書いています。
ウジヤはよき王ででしたが、今、死んだのです。
ウジヤは南ユダ王国の最後の偉大な良き王だったことを多くの者が確信しています。
そして、彼の死以降、もはや、主の栄光は見られることはありません。
ウジヤはペリシテ人、アラビア人、アモン人のところへある目的をもって行ったとされていますが、私は何が真実なのかは確信していません。
ウジヤは22年間、ユダ王国を支配し、神に約束された期間通りに物質的にも祝福されました。
F、デリッチがこのように言っています。
「イスラエルの栄光はウジヤとともに死んだのです。
この日は決して回復されることがありません。」
私はこの意見に強く、同意します。
ウジヤの死んだ年、イザヤは考えでは、ウジヤの死は良き事であり、この出来事は多くの祈りを導いたのです。
そして、イスラエルは捕囚される身となり繁栄は休止されました。
圧迫が訪れ、飢饉が後を追ってきました。
その示された考えに従って、イザヤはすべての人々に何をするべきかを語ったのです。
イザヤは神殿に入りました。
そこはイザヤにとって適切な場所であり、神と出会う場所です。
詩篇29章9節にはこのように書かれています。
「主の声は、雌鹿に産みの苦しみをさせ、大森林を裸にする。その宮で、すべてのものが、「栄光。」と言う。」
新改訳聖書 詩篇29章9節
神の宮の中で、イザヤはイスラエルの真実な王は死んでいないことを発見するのです。
それはイザヤ書6章1節に書かれている神の王座です。
ずでに、イザヤは鼻で息をする人に信頼を置いてはいけないことを私たちに語っています。
もし、そこに鼻で息をする人がいるのなら、その人はもう一度息が出来るのか知ることは出来ません。
その人は心臓麻痺で死ぬことがありえるのです。
そのように人に信頼を置いてはいけません。
旧約のウジヤ王は真実に死んだのです。
その王座は小さな光に過ぎません。
しかし、天には永遠の王座が存在しています。
イザヤは王座に主が座っているのを見たのです。
この幻は現在においても、神の人々に必要かもしれません。
私は悲観する理由も無く、悲観主義が存在していることを知っています。
世界の歴史の中で、現在は他の時代と比べてもっとも偉大な時代であり、正しい時代に生きています。
しかし、ある人たちはこのように言うかもしれません。
「見てください。
世界はなんとも恐ろしい状態にあります。
私たちの国を見るのなら、町々のすべての状態が低下しています。」
よろしいでしょう。
主はこのような状態になると語っているのです。
主は蒔かれた小麦の中に毒麦が蒔かれ、この毒麦は小麦とともに育つと言っています。
私の日々の仕事は神の御言葉を蒔くことです。
私は蒔かれた種が実を生らすことを知っています。
しかし、今日において、これは素直に受け止められることでしょうか?
このことについて、疑問を持つ人はいないでしょうか?
しかし。私たちはひねくれる必要はありません。
神は必ず、その実が生じるように導いてくださいます。
私たちの仕事は飢えた心に神の御言葉である種を蒔くことです。
この結果は主の前に立つ時にはっきりすることです。
今までどの時代よりも、神の御言葉がより多くの人に蒔かれていることをあなたは知っているのでしょうか?
今日、私が生涯を通して出来る限りの力を出して説教壇で語るよりも、30分間ほどの間にこのラジオで、より多くの人たちに福音が宣べ伝えられているのです。
また、同様にこの福音は世界中に伝えられています。
私はこの世界が警告すべき状態であると知っています。
悲しみは現実に進んでいます。
それでも、小麦は育っています。
この小麦は元気に育っているのです。
しかし、私は今日、神の御言葉が本当に蒔かれているか危険を感じているのも事実です。
この時、イザヤは神殿の中に入りました。
そして、イザヤは主が王座に着座されていることを見たのです。
今日においても、主は王座に着座されていることを私たちは思い出さなければなりません。
主は、今日においても、私たちの祈りを聞き、答えて下さっているのです。
主は、今日においても、すばらしい御業を行っているのです。
また、イザヤが神殿に入った時、もう一つの発見をしました。
それは「高くあげられた」主の「すそは神殿に満ち」ていたのです。
これは私たちが主について学ぶ時に必要な発見です。
神は高くあげられ、罪に対して妥協はしない方であることを教えています。
「セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、...」
新改訳聖書 イザヤ書6章2節
セラフィムが神の王座の周りいました。
聖書の中には、このように知識のある被造物のことが数箇所に記されています。
しかし、私たちは現実にこのようなものが存在しているのか見たことがありません。
「セラフィ」の意味は「燃えている」という意味であり、罪の捧げ物、もしくは罪は裁かれるという関連をもって使われている言葉です。
また、聖書の中で、明らかに「セラフィム」と「ケルビム」は対象的に使われています。「セラフィム」は罪を探して出しています。
「ケルビム」は神の聖さを護っています。
決して「セラフィム」は甘い香りや味のする捧げ物と関係していません。
なぜなら、これらの捧げ物はキリストの人格を表すものだからです。
「セラフィム」は行動しています。
しかし、「ケルビム」は受身です。
私たちはこの両方をエゼキエル書と黙示録の中で、生きている被造物(生き物)として見つけることができます。
イザヤ書の中で「セラフィム」は高くあげられた神の聖さを護るものとして存在しています。
神は悪と妥協することはありません。
私はそのことを神に感謝しています。
神はあなたの、そして私の人生の中にある悪を妥協することはありません。
それはこの悪と罪はこの世界に悲しみをもたらすからです。
罪は私の髪の毛を白髪にしました。
罪は私の足をよろめかせ、私の肩を落とさせました。
これは私の家と私の人生を壊してしまい、私を死に導くでしょう。
しかし、私は神がこの罪に対して妥協しないことを本当に喜んでいるのです。
神は神が罪を憎み、罪を滅ぼすことに熱心であり、この宇宙から罪を取り除くことを語っています。
神は罪に対して、ためらったり、迷ったりすることはありません。
神は罪の周りに立てられた降参の旗を受け入れたりはしません。
神はこの宇宙から罪を取り除かれるのです。
そのことについて、神は御自分についてなんと言っているのでしょうか。
神は「高くあげられた」方だと言っています。
私の友よ!
私とあなたは、神の御前に行き、ひざをかがめようではありませんか。
イザヤが神の王座を見た時、イザヤは神の御顔の下に行ったのです。
この荒れ果てた時代の教会には同じ啓示が必要ではないでしょうか!
神の愛ではありません。
神の聖さ、神の義が必要なのです。
それは神が義なる御方だからです。
神が罪に対して裁きの座に着くならば、神は決して、私に神についてどのように信じているかを尋ねることはしません。
神は罪を怒っているのです。
神は罪に結びついている者たちを滅ぼされるからです。
そして、同様に神はあなたの友であり、あなたを救うと言っています。
あなたが神の示す道を持つならば、あなたが神の御子イエスキリストに真実に信仰を持つのならば、あなたは救われるのです。
ヨハネの福音書14章6節でイエスはこのように言っています。
「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章6節
「互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
新改訳聖書 イザヤ書6章3節
これは私たちの神の聖さと栄光を描写したものです。
神は「高くあげられた」方です。
もし、私たちが今日において、同じ立場で主を見ようとするならば、私たちは不信仰な粗末な生き方から立ち直らなければなりません。
ある人たちはイエスを愉快で親しみやすさ存在として感じていますが、この事実は私たちを厳粛な事実へと導きます。
彼らはイエスを親友のように語るでしょう。
また、彼らはイエスを単なる自分の喜びの対象として招こうとするでしょう。
私の友よ!
あなたはこのように神の存在を扱ってはいけません。
神はあなたがこのように神の存在を扱うことを許してはいません。
あなたはキリストを通して神の御元に来なければならないのです。
これは主があなたに知らせている唯一の道なのです。
あなたはこれを無視して、父の御元に来てはいけません。
あなたが父の御元に来ることが出来るのは、キリストの内にあるからです。
イエスキリストはそのことをはっきりとさせています。
「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章6節
もし、あなたが神の子供ならば、恵みの御座に大胆に入ることができます。
あなたは他の方法によってはキリストの所へ行くことができません。
「その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。」
新改訳聖書 イザヤ書6章4節
「その叫ぶ者の声のために」とは神の聖さを主張する「セラフィム」の声です。
これはイザヤにとって、どのような影響力を持つ主張なのでしょうか?
「そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」」
新改訳聖書 イザヤ書6章5節
かつて、イザヤが強調しているように、イザヤは神の人です。
しかし、いまだに、イザヤはこのことによって大きな衝撃を受けています。
このイザヤの行動は黙示録にも出てきます。
イザヤは神の御前にいる時は何も出来ない者として自分自身を見たのです。
それは神の御前にいる時の、イザヤの状態を表しています。
イザヤが神を見た時、イザヤは自分自身を見ることが出来たのです。
これは今日において、私たちの多くの者に適応して見る事が出来ます。
私たちは神の御言葉の光の中を歩むことが出来ません。
もし、私たちが出来るのであれば、私たちは自分自身を見る事が出来たでしょう。
ヨハネの手紙第一の中でヨハネはこのことについて語っています。
「かし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます(きよく保ちます)。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一1章7節
もし、私たちが神の御言葉の光の中を歩んでいるのなら、私たちはイザヤが見たものを正確に見ることが出来るでしょう。
しかし、汚れた口びるを持つ人にはそれを見る事が出来ません。
あなたは実際に主を見る事が出来ません。
私の友よ!
あなたは自分の値段や価値、もしくは神が要求しているものが何かを知っているでしょうか?
ヨブはイザヤの経験と同じような経験をしました。
ヨブの結果はこのようでした。
「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」
新改訳聖書 ヨブ記42章6節
ヨブは自分を義とする人でした。
ヨブは自分の友の前では自分を完全に維持できる者でした。
ヨブの友はヨブのわずかな点をも、指摘しようとしました。
彼らはヨブをひどい罪人として、ヨブに示そうとしました。
しかし、ヨブは見るところ、言うところにおいて、完全にまっすぐな者だったのです。
ヨブは自分の知る限り、正しい人だったのです。
そして、友たちの攻撃に対して、勝利する者だったのです。
しかし、ヨブは完全な者ではありません。
ヨブが神の御前に来た時、ヨブはもはや、自分の義を維持できる者として語ろうとはしていません。
その時、ヨブは神を見たからです。
「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」
新改訳聖書 ヨブ記42章5、6節
もし、あなたが神の御前を歩んでいるのなら、あなたは自分自身を見ることになります。そして、あなたは自分が神の子供であることを知ることになるでしょう。
あなたはあなたをすべての罪から、あなたを清くするイエスキリストの血が必要になることを知るようになるのです。
あなたは他の人たちが神の御前に行く時、同じ結果を得ることをあなたは知るようになるでしょう。
パトモス島でヨハネは書いています。
「それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。」
新改訳聖書 黙示録1章17節
ダニエルが主を見た時、ダニエルはこのように言いました。
「私は、ひとり残って、この大きな幻を見たが、私は、うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った。」
新改訳聖書 ダニエル書10章8節
これはタルソのサウルの経験も同じことが言えます。
彼は主を見た後に、使徒パウロになりました。
彼はもはや、パリサイ人のように自分を義とする者として、自分を見ていません。
彼はかつての自分を救われる必要のある失われた罪人だったと見ています。
その時、パウロは自分のことをこのように言うことが出来ました。
「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙3章7節
パウロは自分にイエスキリストが必要性があることを見たのです。
「すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。」
新改訳聖書 イザヤ書6章6節
「燃えさかる炭」とは燃えている祭壇から持ってこられたものです、
その祭壇では罪のための捧げものが捧げられていました。
私たちは次の章でイエスキリストの誕生の預言を見る事ができます。
キリストの受肉は私たちを救うためです。
しかし、キリストの生涯で罪の問題が扱われるのは十字架の上の死です。
イザヤが祭壇の上から取られた「燃えさかる炭」をここで取り上げているのは、キリストの血の清さを表現しているからです。
キリストの血はすべての罪から私たちを清めるのに必要なのです。
「彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」」
新改訳聖書 イザヤ書6章7節
イザヤは汚れたくちびるを持つ人間です。
しかし、今、イザヤは清い告白をしなければならない状態にいます。
ヨハネの手紙第一1章9節には次のように書かれています。
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一1章9節
私はこの炭こそ、イエスキリストを象徴的に表現しているとはっきりということができ、このように信じています。
この炭こそ、イエスキリスト以外ではありえません。
キリストは高き王座に上った方です。
また、キリストは十字架の上にも上った方なのです。
このキリストが上ったという事実は、何よりも絶対的に優れた行為です。
また、この上ったという事実は、キリストがまずこの地上に下られ、私たちと同じような人になられたゆえに、可能となった行為です。
ヨハネの福音書1章29節には次のように書かれています。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章29節
このようにイザヤのくちびるは清められたのです。
わたしはこの炭がイザヤのくちびるに触れたという行為こそが、内なる人に起きた出来事の外面的な現れと見る事ができます。
新約聖書の中で同じように経験を持つ人を見ることができます。
彼の名はパウロです。
パウロはこのように叫んでいます。
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙7章24節
パウロの宣言はこのようなものです。
「私は失われた罪人ではなく、神の聖徒です。
私は神からのみことばを学び、聖霊において歩むことを必要としています。
ゆえに、自分自身で神のために生きることはできません。
私が神のために生きることができるのは、神の恵みを受けることをよってのみ生きることができるのです。
人間の責任とは罪を告白することのみ、神を喜ばすことができるのです。
ゆえに、私たちはキリストの贖いを必要とし、私たちが新しく生きることに何度も適応させることができるのです。」
イザヤのくちびるが清くされた後、あることが起きました。
「私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」」
新改訳聖書 イザヤ書6章8節
興味深いことが起きました。
イザヤはこの時まで、神の召しを決して聞こうとはしていません。
私が今日、多くのクリスチャンが神の召しを聞こうとしていないのは、彼らが清められていないからだと感じています。
多くのクリスチャンがこの大きな必要を感じ取っていません。
神は下品な器など使おうとはしません。
あなたは罪と戯れ、降参してしまう時が来るでしょう。
その時にこそ、神は祝福されたみことばをあなたに実現させるのです。
私はあなたに対してこれが真実の状態であり、このように確信しています。
そして、その時にこそ、神はこれらの罪を激しく裁くのです。
私はこれらの名前をあえて述べません。
確かに、ある神に仕える者たちは、ある時期、神の祝福を楽しむでしょう。
しかし、彼らは別の時に罪の中に行ってしまいます。
そして、彼らの上に神の裁きが来るのを待つしかありません。
イザヤは神の召しを聞いたのです。
「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」
私はこの節の中にある「われわれ」という単語が単数形か、複数形かを知っているかどうかを、あなたに尋ねる必要はありません。
私は「われわれ」が三位一体を表していると信じています。
イザヤの責任ある答えはこうです。
「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
イザヤは神の召しを聞き、すぐに答えました。
今日において、教会の中で同じ質問がされています。
その者は最初に、清さを得て、主をまっすぐに見上げようとします。
その者は「燃えさかる炭」がくちびるに触れる必要があるのです。
彼らに歩みにおける罪の告白が必要です。
彼らは主の召しに答えるまで、奉仕において、実がならず、いらだたしく感じるでしょう。
しかし、今、イザヤの働きを見てください。
「すると仰せられた。「行って、この民に言え。「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。」」
新改訳聖書 イザヤ書6章9節
イザヤに語られたメッセージは非常に奇妙なメッセージです。
「この民」というのは、もちろん、イスラエルの国を指しています。
「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」」
新改訳聖書 イザヤ書6章10節
最初に注意してほしい点は、預言者が盲目な者、なえた者たちに送られ、人々が頑なにされたということです。
しかし、私は神は決して頑なな心に言われたわけではないと考えています。
この言葉によって、民はやわらかくされたと信じています。
神は単純に、これらの者たちを表面的に頑なにされたのでしょう。
神は民を頑ななこころにされる方ではありません。
神は盲目な目を作り出す方ではなく、神は見て欲しいと願っているはずです。
この民は神の干渉無しには見ようとはしないのです。
しかし、神を冒涜する愚かな者たちにとっては、神は盲目な者を作り、足なえを作っているようにしか見えないはずです。
イザヤの仕事は人々に光のメッセージを与えることです。
光は盲目な人々に光を与えました。
彼らが盲目であろうと、なかろうと、彼らは自分が闇の中にいることを知りません。
マタイの福音書13章14、15節には私たちの主のみことばが記録されています。
「こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。」」
新改訳聖書 マタイの福音書13章14、15節
私はこのことを例えてみたいと思います。
私はオクラハマで少年だった頃、朝早く、まだ、暗かった時に、私はランタンを持って行き、年老いた強情そうな牛からミルクを取ろうと出かけました。
私がとうもろこし倉庫に着いた時、二つのことが起こったのです。
ねずみが倉庫のふたの方へ走って行き、私はこの音を聞きました。
そして、同時に小鳥たちが屋根の渡り木に止まり、小さな声で楽しいそうに鳴いていました。
その時、光が屋根裏に射して来て、ねずみは逃げ出し、小鳥はそのまま鳴いていました。
今、この光がねずみに何をしたでしょうか?
光が射す前にねずみがどこにいたのか分からなかったのですが、光が射してねずみがそこにいたのは分かりました。
光が射すことにより、ねずみの存在が分かったのです。
主イエスがこの世に来られた時、イエスは御自身を「世の光」だと宣言しました。
イエスが現れることにより、二つのことが起きたのです。
イエスが現われ、鳥は歌い、ねずみは逃げ出しました。
私は別の話を使って、同じ事を例えてみたいと思います。
私の記置によれば、数年前、ウエストバージニアで鉱山で大きな爆発がありました。
そして、洞窟の入り口で多くの人が出て来れなくなったと記憶しています。
数日がたって、レスキュー隊が監視隊の間を通って、遭難した人たちを探しに入りました。
最初の出来事は、このレスキュー隊は遭難した人たちを見つけようと光で照らしました。光を照らした後、ある鉱山員はこのように言いました。
「なぜ、光で照らさないんだ!」
別の鉱山員が彼を見つけ、驚きました。
彼は爆発によって、目が見えなくなっていたのです。
光が照らされることにより、彼が盲目だと分かったのです。
神は誰をも盲目にしません。
神は誰の心も頑なにしません。
光が輝いた時、一人一人の人間が照らし出されました。
そして、このことはイザヤに何を意味させようとしていたのでしょうか?
なぜ、主イエスキリストがこの節を引用したのでしょうか?
パウロはコリント人への手紙第二2章14〜16節でこのように語っています。
「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二2章14〜16節
私は何度も次のようなことを言ってきました。
「私はキリストを受け取るように招待してきたのです。」
あなたはキリストを拒むでしょうか?
あなたが失われた罪人として教会に来るでしょうか?
あなたが失われた罪人としてたどり着くでしょうか?
私は、もはや、あなたの友人ではありません。
今、あなたは神の御前に行くことができないからです。
その時、あなたがもう福音を聞くことができないからです。
あなたは福音の光の現れを見たはずです。
しかし、多くの者が盲目です。
彼らはイエスキリストを拒んでいます。
しかし、キリストは盲目な者にだけ現れてくれたのです。
「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え」て下さるのです。
私たちはいつも勝利者です。
多くの者たちが救われていることを私は誇っています。
数千の者がれる者たち、いや、数億人といういう人たちが神のみことばを聞いている事実を私はより誇ることができるでしょう。
私の仕事は神のみことばである種を蒔くことです。
それは神の聖霊の仕事です。
それは聞く者のこころにみことばが触れるためなのです。
7章
主題:処女よりインマヌエルの誕生を示した預言、ユダに対するアッシリアの侵入。
1節と2節はユダとイスラエルの市民間の戦争について話されています。
そして、シリアはイスラエルを侵略しようとしています。
その結果、ユダは恐怖に包まれています。
3〜9節にかけて、池の水道の端でイザヤと彼の息子シェアル・ヤシュブがユダの王アハズに会ったことが語られています。
そこで主からの言葉によってアハズは勇気付けられました。
10〜16節では、アハズにしるしについて語られている時に、ダビテの家のために処女降誕のしるしが語られ、アハズに確信が与えられています。
17〜25節では、裁きの預言として、アッシリヤによってユダの国に侵略が来ようとしてしていることが語らえています。
「ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。」
新改訳聖書 イザヤ書7章1節
列王記第二16章2節で私たちはこのように読んでいます。
「アハズは二十歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼はその父祖ダビデとは違って、彼の神、主の目にかなうことを行なわず、...」
新改訳聖書 列王記第二16章2節
7章の預言は6章にあるイザヤの預言の召しと働きに続く出来事です。
6章ではウジヤが死んだことが記されていました。
ヨタムの子アハズが王座を受け継ぎ、16年間支配しました。
列王記第二15章32〜34節で私たちにこのように語られています。
「イスラエルの王レマルヤの子ペカの第二年に、ユダの王ウジヤの子ヨタムが王となった。
彼は二十五歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼の母の名はエルシャといい、ツァドクの娘であった。
彼は、すべて父ウジヤが行なったとおり、主の目にかなうことを行なった。」
新改訳聖書 列王記第二15章32〜34節
ヨタムは彼の父ウジヤのように良き王でした。
アハズ、ヨタムの子が彼を引き継ぎましたが悪を行いました。
アハズは16年間支配したのです、
そして、彼は最も悪しき王となるのです。
彼の支配の時に内戦がありました。
この時はイスラエルにとって、大きな苦痛の時でした。
もし、あなたがアハズがいかに邪悪なことをしたのか知りたいのであれば、列王記第二16章3〜4節に書かれていることを読むと理解するでしょう。
「イスラエルの王たちの道に歩み、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の、忌みきらうべきならわしをまねて、自分の子どもに火の中をくぐらせることまでした。
さらに彼は、高き所、丘の上、青々と茂ったすべての木の下で、いけにえをささげ、香をたいた。」
新改訳聖書 列王記第二16章3〜4節
アハズは邪悪の卵であることを、私はあなにが確信させることができます。
それは北でイスラエルは結集し、シリアとともに責めたのです。
彼らはアハズに対抗しているのです。
しかしながら、最初は彼らは優勢ではありませんでした。
しかし、アハズは北王国とシリアが最後には優勢になると信じ、その根拠を持っていたのです。
「ところが、「エフライムにアラムがとどまった。」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。」
新改訳聖書 イザヤ書7章2節
アハズは自分と自分の国に神の祝福を期待するようなことはしませんでした。
その結果、シリアの王が起き、イスラエルの王ペカとともに侵入してきたのです。
それはアハズとその国の人々を恐れさせました。
シリアとイスラエルはユダを得ようと試みたのですが、彼らは優勢になることはできません。
しかしながら、アハズはシリアとイスラエルがエルサレムを得ると信じていました。
言い換えるならば、アハズは良い王とも言えます。
神はまだ、ユダの人々を捕囚にする準備はしていません。
私たちは歴史を見る事ができるので、ユダはイスラエルに捕囚されないことを知っています。
しかしながら、同様に歴史を見るのであれば、多くの年月の後、ユダはバビロンに捕囚されてゆくのです。
「そこで主はイザヤに仰せられた。「あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、...」
新改訳聖書 イザヤ書7章3節
その理由は神はまだ、ユダの王国を捕囚に渡す準備はしていません。
神はユダの国を勇気付けたかっただけです。
神はユダの国がエジプトのように知恵にない、狂気に満ちた国になって欲しくなかったのです。
ゆえに、神はイザヤにアハズに会うように命じたのです。
私たちはこの節の中に私たちに必要ないろいろなことが起きていることを知ります。
最初にイザヤはアハズに会いました。
その場所は「布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端」で、その王国を表すべき重要な場所です。
この水道から、乾いたエルサレムに生きるための水が注ぎ出てました。
この水を止めるのであれば、エルサレムの住民を乾かすことが出来たのです。
しかし、あなたはこの水で満ちている水道から多くの満足を得ることが出来ません。
あなたは蛇口をひねるのなら、どこでも水を飲むことが出来ます。
もし、あなたが乾いているのなら、あなたは水の注ぎ出る蛇口に行き、水を飲まなければなりません。
これは象徴的に描かれています。
あなたはどこに行こうとも、ここで書かれているようなダビテの家の祝福に得ることはできません。
しかし、アハズという水道のラインを下ってゆくのなら、そこに命の水である方が来られるのです。
この方とは主イエスキリストです。
彼はダビテのライン(系図)に生まれ、命の水をもたらしたのです。
イザヤは「上の池の水道の端」で王と出会いました。
この水道(英語では"pool")は言語で"berakah"で祝福という元となる言葉です。
この同じ言葉が詩篇84編6節で使われています。
「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」
新改訳聖書 詩篇84編6節
ここで使われている「祝福」という言葉が"berakah"です。
どこにおいても、この言葉は「祝福」と関連付けられ使用されています。
これは非常に興味ある事柄です。
同様に「上"Upper"の池」ということばに注意してください。
上ということばは30回以上使われ、最も高いという意味で使われています。
あなたはアブラハムに仕えるために現われた方のことを思い出すかも知れません。
その方はいと高き大祭司です。
「また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。」
新改訳聖書 創世記14章18節
今、いと高き神は「水道の端」で会う時が来ます。。
その時こそが、イエスがこの世に来られる時なのです。
旅人が歩くと足を汚してしまいます。
しかし、旅人の足をきれいに保つために、泥によって足を汚さないように周りの土地よりも高く道が備えられていました。
その上る道をここでは「大路」と呼んでいます。
このことばの霊的適応は箴言16章17節にはっきりと見ることができます。
「直ぐな者の大路は悪から離れている。自分のいのちを守る者は自分の道を監視する。」
新改訳聖書 箴言16章17節
この大路は聖い道です。
イザヤはイザヤ書35章8節において同じ表現を使いました。
「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。」
新改訳聖書 イザヤ書35章8節
これは非常に面白い象徴的な表現で、ある者に対して述べています。
その方は「道」です。
詩篇作者は詩篇84編5節にこのように書いています。
「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。」
新改訳聖書 詩篇84編5節
その祝福された方は「道」、そして「真理」、そして「命」です。
そして、会う場所が「布さらしの野」であることに注意してください。
その野は自分の衣服を洗いに行く者たちが集まる場所です。
その場所はその時代のクリーニング屋みたいなものです。
これを私たちの歩みに適応してみましょう。
もし、私たちが自分たちの歩みを清くしようとするのであれば、私たちは主イエスキリストのところへ行きます。
「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書15章3節
あなたが読んでいる様に、イザヤはアハズに会うために非常に面白い場所に送り込まれました。
そして、この場所は私たちにとって、すばらしく霊的な意味のある場所だったのです。
イザヤは自分の子「シェアル・ヤシュブ」に語り、ともに出かけました。
この少年の名前はさりげない名前ですが、その意味は「残りの者が帰って来る」という意味です。
神は常に自分の所に帰って来る残りの民を持っていることは非常に面白いことです。
「こで彼に言え。気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。
アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。
「われわれはユダに上って、これを脅かし、これに攻め入り、わがものとし、タベアルの子をそこの王にしよう。」と。
神である主はこう仰せられる。「そのことは起こらないし、ありえない。
実に、アラムのかしらはダマスコ、ダマスコのかしらはレツィン。――六十五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなる。――
また、エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマルヤの子。もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。」」」
新改訳聖書 イザヤ書7章4〜9節
このメッセージは、アハズを北王国に来ようとしている二つの敵である侵入者を恐れる必要がないということを知らせています。
神は彼らの行おうとしていることが失敗に終わることを知っていました。
その問題をどのようにアハズは知ることが出来たでしょうか?
最初、アハズは疑っていて、信じませんでした。
アハズはどのようにイザヤの言っていることが真実であるか確信できたしょうか?
神は根拠のない何かを信じるように人に求めることはありません。
信仰は何か盲目的に言っていることを信じることではありません。
「私は神に信頼している」、それは時には非常に愚かなことになります。
神は決して、私たちに盲目的になにかを信じることを求めていません。
実例を言うのであれば、私たちの救いに対して言うことができます。
私たちは捧げ物として、小羊を捧げるようなことはしません。
私たちの信仰とは神の御子の死、葬り、そして、復活の歴史的事実によるのです。
神は私たちに暗闇の中に飛び込めと求めているのではありません。
神は私たちに堅い土台の上にあることを信じ、信頼することを求めているのです。
そして、この土台は唯一な存在です。
「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一3章11節
もし、素直ですが神を信じない者がいて、かつ、神を信じることを求めているのであれば、神はその人に信仰を与えるために来るでしょう。
そして、私はその人とともにいる集まりに信じることが出来ない人たちに、素直でない人と言うでしょう。
実例を言うのであれば、ある若者がサンフランシスコにいました。
その若者は私にこのように話しかけてきました。
「私は真実を探し、それを信じたい!」
彼は女の子と同棲し、不道徳な関係にありました。
しかし、彼は真実を求めていたのです。
この問題で本当に言いたいことは、自分自身が目隠しされることを選ばない限り、目隠しされる人はいないということです。
もし、人が本当に神を知りたいならば、自分の罪に降参し、キリストに立ち返るのです。私たちの時代において、実際の問題とは、何か大きな、もしくは、多くの集まりが神とともに何か行動を起こすことではありません。
もしくは、ここに書かれているのは王アハズだけの問題でしょうか?
アハズは神とともに働くことをしませんでした。
彼は本当に神の言うことを聞いたのでしょうか?
「主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。
「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」」
新改訳聖書 イザヤ書7章10、11節
神はアハズが信仰を持っていないことを知っていました。
しかし、神は喜んで彼に信仰を与えたのです。
アハズは何もありません。
これはごまかしでしょうか?
このようなことは今日、たくさんあります。
彼の偽りに敬虔を聞いてください。
「するとアハズは言った。「私は求めません。主を試みません。」」
新改訳聖書 イザヤ書7章12節
これはアハズ王のかっこ良さではありません。
彼にはこの返事がかっこ良く響いたかも知れません。
しかし、あなたは彼は最も大きな偽善者であることを聖書から見つけることができるはずです。
私はすでに、神がそのように感じていたと信じています。
「そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。」
新改訳聖書 イザヤ書7章13節
私は私の語る小さな物語に同情しないように希望します。
ある日、日曜学校のクラスが小学生の男の子と女の子のために行われていました。
先生は良きサマリヤ人の話をしていました。
先生はたとえ話に従って、美しい絵を描いていました。
先生はサマリヤ人がどのように強盗のことを感じていたのか、どのようにサマリヤ人がたたかれたのか、どのように血がサマリヤ人の体から流れ出ていたのかを語りました。
また、祭司、パリサイ人について語りました。
そして、最後に良きサマリヤ人が来たことを語ったのです。
彼女は自分の行った日曜学校の話が、子供たちの歩みに適応され、しっかりとこころに残ることを求めていました。
彼女は最初に小さな女の子に尋ねました。
「あなたなら、何をしますか?」
彼女は答えました。」
私は数日間は、そこにいてその人を看護してあげます。」
次に小さな男の子に尋ねましたが、彼女は先の女の子よりもすごい答えをしてほしくなかったのです。
男の子は次のように答えました。
「僕はその人にキャンデーの箱を持ってゆきます。」
先生は質問をしたあと、そのクラスから出て行きました。
女の子は苦痛な顔をして、その先生のところへ行きました。
先生は再び「あなたなら、何をしますか?」と聞きました。
女の子は「私はその人を放り投げてしまう」と思いますと答えました。
私はこのように考えます。
おそらく、先生の描いた絵はグロテスクだったのでしょう。
その小さな女の子は素直に答えただけだったのでしょう。
神は私たちの敬虔についての方法を感じていると私は考えています。
私の友よ!
あなたは自分が敬虔な存在だと考えてはいけません。
あなたはこのように言うでしょう。
「私は神を試みない!」
しかし、神は「もし、私が良き者でないとあなたが見ているのなら、私を試みなさい。私を試しなさい。」と言っているのです。
私はある集まりが信仰から外れてしまったと語る時、これほど倦怠感を感じることはありません。
私の友よ!
ある時、神はあなたを岩の底に置くでしょう。
また、あなたは自分の信じていることが愚かだと言うときが来るかも知れません。
そして、キリストについて何か批判をするかも知れません。
しかし、その前に、神はあなたに確かな導きを与えます。
その時を待つのです。
神は不信仰な王に言ったのです。
「わたしはわたしのメッセージを信じるようにあなたに尋ねていない。
それはイザヤが言っている通りだ!
しかし、わたしはその下に土台を置いて欲しい。
わたしはあなたに超自然的なしるしを与えよう。
あなたがこのメッセージが神からのものであることを知ることが出来るように...。」
しかし、アハズはそのしるしに対して何も尋ねることを拒んでいます。
神はそのしるしを与えたでしょうか?
アハズのためではなかったのでしょうか?
それはダビテの家全体のために与えたのです。
「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。」
新改訳聖書 イザヤ書7章14節
神は神の預言の下に土台を置きました、
もし、あなたが処女降誕が本当か、どうかを知りたいのであれば、四福音書を読むことにより、それを知ることが出来ます。
実例を言うのであれば、私たちはマタイの福音書1章18〜23節までを読むことができます。
「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」
新改訳聖書 マタイの福音書1章18〜23節
イザヤ書7章14節は聖書の中でよく討論される箇所の一つです。
それは処女降誕についての預言の箇所だからです。
不信仰な者たちはそれを自然に考えることはできません。
彼はそのことについて考えることさえ、愚かな事だと思っています。
しかし、そのように考えるのはもっと無駄なことです。
処女降誕を拒むことは大きな盲点だからです。
ヘブル語で"almah"の意味についての戦いとも言えます。
この意味は英語では"virgin"と訳されています。
御使いはイザヤ書7章14節からの引用だと言っている事実があります。
この説明はヨセフに結婚前にマリアに子供が出来たということを説明するためのものです。
結婚前の女性に子供が出来るということは、男性と接触しない限り不可能なことだからです。
この言葉はマタイによって使われました。
ギリシャ語では"parthenos"で同様に"virgin"という意味があります。
同じギリシャ語がアテネにある「パルテノン"partheno"神殿」に使われています。
同様に「処女」という意味で使われているのです。
英訳聖書(Revised Standard Version)が最初に翻訳された時、この言葉が「若い女性」"young
woman"と訳されており、注意書きとして"virgin"とされていました。
もちろん、それは注意書きと逆にすべきです。
多くの人の論争は単に"almah"の意味が若い女性かという問題です。
しかし、本当の問題は"young woman"と訳されていることが聖書の中で本当に正しいか?なのかです。
「処女」と訳されているのかが正しいかその証明が必要です。
実例として、アブラハムがハランにイサクの嫁を探しにしもべを送った時、しもべは神が正しいとされた女を、直接、導いてくださるように神に祈りました。
このことについて、リベカが描写されているでしょうか?
「この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。」
新改訳聖書 創世記24章16節
この娘ということばはヘブル語で"naarah"で、その意味は若い女性です。
しかし、同様に彼女が処女であったことは明確な事実です。
しもべが神の導かれるように祈った経験を語り直した時、しもべはこのように言っています。
「ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。おとめが水を汲みに出て来たなら、私は、あなたの水がめから少し水を飲ませてください、と言います。」
新改訳聖書 創世記24章43節
ここに出てくるおとめという言葉はヘブル語で"almah"で、処女という意味です。
また、ここで言っていることを誰も間違って理解していないと、私は思っています。
ヘブル語の"almah"が使われた時、処女の若い女性を指しているのです。
その処女は他の男と交わりを持ったことのない者を指しています。
リベラル派の神学者はこのように言っています。
「聖書は処女からイエスが生まれたとは言っていない。」
しかし、ここでもう一度イザヤの預言に戻って見ましょう。
「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。」
新改訳聖書 イザヤ書7章14節
ここでイザヤはその者は「インマヌエル」と名づけられると語っています。
しかし、福音書のどこにもイエスがこのように名付けられたことを見ることはできません。
「インマヌエル」の意味は神は私たちとともにいるという意味です。
しかし、その者はイエスと呼ばれています。
イエスは私たちの罪から私たちを救うことが出来たからです。
しかし、友よ!
イエスが「インマヌエル」でない限り、イエスは私たちを罪から救うことは出来なかったのです。
どんな時であっても、私たちは彼をイエスと呼びます。
あなたはこのように言うでしょう。
「神は私たちとともにいます。」
彼は神です。
彼は神であり、私たちとともにいます。
彼は私たちの救い主です。
処女から生まれた方です。
あなたは彼に信頼を置きますか?
イザヤが7章14節で預言を与えた時、ある者がイザヤのところへ来てこのように言うかも知れません。
「どこでそのようなことが起きるのですか?」
私は「イザヤが何世紀後の遠い先に起きることを見通している」と言うでしょう。
では、どのようにそれが実現した時代の人たちがこの預言が真実なのかを知ることが出来るのでしょうか?
キリストの処女降誕は過去の話です。
神はイザヤを通して他にも多くのことを話しています。
あることはイザヤの時代に成就しました。
また、イザヤの預言にはヒゼキヤとアッシリヤについての預言もあります。
また、イザヤ書の中には歴史的な部分も含まれています。
かつて、アッシリヤがエルサレムの外壁の外側に集まりました。
彼らの総勢は15000人の強者です。
この壁が落ちてしまうのではないかと思えた時、ヒゼキヤは神殿に行きました。
そして、神の御前にひざをかがめ、頭を下げました。
ヒゼキヤは救い出されることを求めました。
神はイザヤを通してヒゼキヤにメッセージを送ったのです。
イザヤはヒゼキヤに心配してはならないと言いました。
エルサレムの壁の外には15000人の兵隊がいました。
彼らの背中には矢が溢れ、手には弓がありました。
あなたはこの多くの兵士たちの外見は一時的にはとても愉快に見えるかも知れません。
ある兵士は弓を打ちのならば、壁を越えるかもしれません。
そして、もし、それを見たのなら、その者は声を上げて叫ぶでしょう。
また、ある兵士の弓は、壁を越え町の中に入るかもしれません。
イザヤは正しく、偽りの預言者たちについて宣言しています。
誰の矢も町から外れ、町の中へ打たれることはないからです。
イザヤがヘゼキヤに語ったことは本当だったのです。
そして、新約聖書において、イエスキリストの処女降誕が事実であるという告白にたどり着くのです。
イザヤの預言の通り、イエスキリストの処女降誕が正確に成就したのです。
「この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。」
新改訳聖書 イザヤ書7章15節
イエスはパレスチナの貧しい両親に育てられました。
この食べ物は貧しい者のシンプルな食事です。
「それは、まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられるからだ。」
新改訳聖書 イザヤ書7章16節
この節はメシアが来る時に成就されるでしょう。
アハズの時代の預言とは思えません。
「主は、あなたとあなたの民とあなたの父の家に、エフライムがユダから離れた日以来、まだ来たこともない日を来させる。それは、アッシリヤの王だ。」
その日になると、主はエジプトの川々の果てにいるあのはえ、アッシリヤの地にいるあの蜂に合図される。
すると、彼らはやって来て、みな、険しい谷、岩の割れ目、すべてのいばらの茂み、すべての牧場に巣くう。
その日、主はユーフラテス川の向こうで雇ったかみそり、すなわち、アッシリヤの王を使って、頭と足の毛をそり、ひげまでもそり落とす。
その日になると、ひとりの人が雌の子牛一頭と羊二頭を飼う。
これらが乳を多く出すので、凝乳を食べるようになる。国のうちに残されたすべての者が凝乳と蜂蜜を食べるようになる。
その日になると、ぶどう千株のある、銀千枚に値する地所もみな、いばらとおどろのものとなる。
全土がいばらとおどろになるので、人々は弓矢を持ってそこに行く。
くわで耕されたすべての山も、あなたはいばらとおどろを恐れて、そこに行かない。そこは牛の放牧地、羊の踏みつける所となる」
新改訳聖書 イザヤ書7章17〜25節
8章
主題:インマヌエルの国にアッシリヤが来ることの預言として、預言者にしるしとして二人目の息子が生まれる。
7章から12章にかけて、アハズの時代の連続的に連なった預言がありました。
7章においては、処女降誕に適応されるいくつかの預言もあります。
また、8章においては預言者の息子に対する預言もありました。
その名前は可能性を排斥するものであり、9章にある情報に付け加えられ、二つが等しいということを不可能にします。
預言者の息子はしるしです。(18節)
この章はむしろ、インマヌエルの国に来るアッシリヤの王の侵入の預言を含む重要な節ということができます。
神は500年以上も御自分の民を洪水のような外国の侵入者から守ることが出来ました。今、神は洪水の門を開け、イスラエルを覆う敵の洪水をお許しなったのです。
民は神の助けを求めるよりも同盟国を求めるようになっていました。
この節は民の最後の頼りとして、霊的な警告をし続けています。
この民は神の助けを拒み、悪魔的なこの世界に対する荒廃に戻ってしまったのです。
その終わりは問題、闇、苦痛です。
しるしとして、預言者の二人目の息子が生まれる。
「主は私に仰せられた。「一つの大きな板を取り、その上に普通の文字で、「マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため。」と書け。」
新改訳聖書 イザヤ書8章1節
あなたは少年に「シェアル・ヤシュブ」と変わった名前を付けるなら、あなたにとってそれは大変な試みになります。
そして、「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」という名前もいくつかの言葉において、注意すべき名前なのです。
あなたの生涯を通して、あなたにあだ名はどのようなものがふさわしいでしょうか?
イザヤの息子は何をするのでしょうか?
わたしは彼の息子から何も想像することはできません。
おそらく、彼らは省略して、「マヘル」、「ハシュ」とか「バズ」とか呼ぶのかも知れません
なぜ、神はイザヤの息子に普通ではない名前を付けたかったのでしょうか?
そこには理由があります。
その理由は18節に見ることができます。
「見よ。私と、主が私に下さった子たちとは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、不思議となっている。」
新改訳聖書 イザヤ書8章18節
二人の息子ともしるしです。
彼らの名前にはメッセージがあります。
「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」という意味は「急いで、略奪せよ、すぐに、餌食にせよ」という意味です。
これは神が単純に神の民に対して言っていることです。
しかしながら、新約聖書ではパウロはこのように言っています。
「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙8章31節
この少年の名前はアハズに対してもメッセージとなりました。
アハズは王座にある人であり、忠実な人であり、神は彼を試みていました。
神はイザヤに大きな板を取り、人の文字で書くように言いました。
この文字はひ弱な、滅び行く人間の筆でしかありません。
その時、神は目立つ場所の広告塔のような場所でこれを掲げさせました。
あらゆる人がそれを見ることができたでしょう。
神はその王国の最も謙遜な人がそれを見て、理解が出来るように、その少年の名を書かせました。
神はアハズにこの試みがたどり着くようにしたのです。
最初にイザヤの最初の息子の名がありました。
「シェアル・ヤシュブ」の名の意味は残りの民が帰って来るという意味です。
「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」の意味は「急いで、略奪せよ、すぐに、餌食にせよ」という意味です。
二人目の息子の名はアハズを確信させました。
神は神の民の敵に気を払うようにされたのです。
「そうすれば、わたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカリヤをわたしの確かな証人として証言させる。」
新改訳聖書 イザヤ書8章2節
ウリヤの意味は「ヤハウエは私の光」、ゼカリヤの意味は「ヤハウエは思い出してくれる」、そして、「エベレクヤ」の意味は「ヤハウエは祝福してくれる」です。
これは興味ある組み合わせではないでしょうか?
このように名前によって、証されているのです。
「ヤハウエは私の光」、言い換えればヤハウエの目的は祝福ということです。
彼らの子孫は神の恵みです。
神は決して、御自分の民を忘れることはしません。
このように、イザヤの行動すべてが、民に対するメッセージです。
イザヤの行動と書かれたことのすべてが民に対するメッセージであると同様に、それが民に理解できたことでした。
イザヤ書は絵に書いたたとえ話のようです、
私たちの主も同じようにたとえ話を使いました。
その理由は民が絵を見るようにして、理解するためです。
もしくはテレビのようにです。
私たちの多くの者たちがテレビの前に座り、現実とは違うばかげた箱を見ていることは悲しむべきことです。
私たちは多くの無駄な時間を過ごしているのではないでしょうか!
神は人間の傾向を十分に知っています。
神はこのような絵的な描写を使って、神の民にメッセージを送ろうとしているのです。
「そののち、私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ。すると、主は私に仰せられた。「その名を、「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と呼べ。」
新改訳聖書 イザヤ書8章3節
女預言者とはイザヤの妻のことです。
彼女は自分に息子が生まれることを確信していました。
生まれてくる子の名前がすでに生まれる前に与えられていたからです。
「それは、この子がまだ「お父さん。お母さん。」と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである。」」
新改訳聖書 イザヤ書8章4節
この子がまだ「お父さん。お母さん。」と呼ぶことも知らないうちにアッシリヤはシリヤとサマリヤに侵入して来るのです。
北にある敵はユダに対しても捕囚しようと計画を持っていました。
それはアハズが勝利をもたらす戦略を考えた結果ではなく、優秀な軍の能力によったのでもありません。
この勝利は神の恵みの支配によるものでした。
これを神は完全に明白にしたのです。
「主はさらに、続けて私に仰せられた。
「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。
それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、...」
新改訳聖書 イザヤ書8章5〜7節
この聖書箇所は別の意味で注意すべき節です。
この民は「シロアハの水をないがしろ」にしています。
この意味は「送る」です。
彼らは神が彼らに与えた平和を拒みました。
平和はここにある「穏やかさ」「小川のさざ波」に例えられています。
対象的に私たちは7節をも見る事ができます。
その水はユーフラテス川の水です。
強く、あふれています。
ユーフラテス川はアッシリアに位置しています。
この水は洪水のようになだれ落ちてくるのです。
言い換えれば、穏やかなシロアハの水と対照的にユーフラテス川の水は神の裁きを表現しているのです。
神は御自分の民にこの二つの川を通してメッセージを与えました。
あなたの好きなシェークスペアの劇にはこのようなフレーズがあります。
「木の中の言語、走る小川の中の本、石の中のメッセージ、すべてが良きものです。」
このように詩の中にメッセージを置いたのです。
シロアハは静かに流れる小さな小川です。
今日のように騒がしいものではありません。
しかし、イザヤの時代において、シオンの山とモリヤの山の間を流れていました。
ここにあるメッセージは小さな流れだということです。
もし、あなたがするどい耳を持っているのなら、これを聞くべきです。
このメッセージは流れる小川の音自身よりはるかになめらかなメッセージです。
シオンの山の恵みのメッセージです。
シナイの山とは対照的です。
シナイの山はモーセの律法を表しています。
モリヤはアブラハムがささげものを捧げた場所です。
ダビテの行った、アラウナの脱穀場があった場所です。
ソロモンが神殿を建てた場所です。
そして、最後にゴルゴダの大きな仕打ちがあった場所です。
そこでキリストは十字架に付けられました。
モリヤはアブラハムの息子の代わりに、神が羊を与えた場所です。
しかし、神は御自分の子を代わりにしませんでした。
神はここで、アハブという人に恵みを語っています。
神は彼に語っているのです。
「もし、あなたが私に帰るのなら、私はあなたに代わりを準備しよう。」
「ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」
新改訳聖書 イザヤ書8章8節
神はユダの国に洪水のように侵入してくるのを許しています。
しかし、神は彼らにエルサレムを取ることを許していません。
神の代理人として、連盟国への宣言
「国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯をして、わななけ。腰に帯をして、わななけ。」
新改訳聖書 イザヤ書8章9節
これは神の国に対して、侵入者である国々に対する警告です。
イザヤ書の13章から、イスラエルに隣接している国々に対する激しいメッセージが始まっています。
少なくとも、当時の国々に対して語られていることは明確です。
そして、神の裁きがこれらの国々の上に来ようとしていることを私たちは知ることができます。
この箇所はイザヤ書13章から35章まで幅広く語られていて、神のみことばとして最も注意すべき点であると言うことができます。
そして、その多くの預言は成就しました。
神はこの地上で、これらの国々に対して、神の目的を失ってしまうようなことはしないと言っています。
これらの世の国々は神からの知恵や助けをもはや求めないことは興味ある点です。
神は目的を持っています。
そして、神の目的は優れています。
もし、国が神以外の方向に進むのなら、裁きはその国に来るのです。
「はかりごとを立てよ。しかし、それは破られる。申し出をせよ。しかし、それは成らない。神が、私たちとともにおられるからだ。
まことに主は強い御手をもって私を捕え、私にこう仰せられた。この民の道に歩まないよう、私を戒めて仰せられた。
「この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを恐れるな。おののくな。」
新改訳聖書 イザヤ書8章10〜12節
シリアとサマリヤが連盟を組んだことによって、ユダは何も警告はされていません。
恐れは北と結びついて、連盟を起こさせました。
神は神の民に促しています。
「恐れるものを恐れるな」。
言い換えるのなら、彼らは国々が結びつこうとしているのに、その中に戻ろうとはしていません。
おそらく、彼らはエジプトに目を向けているのでしょう。
後に彼らはエジプトと結びつこうとします。
そして、その結果、彼らは大きな悲劇に至るのです。
「万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。
そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。」
新改訳聖書 イザヤ書8章13〜14節
彼らは神を恐れ、神を見上げました。
神は彼らにとって、救い主か、つまずきの石です。
かつて、クロムウェルはなぜ、自分がこんなに悲しい人生を送っているのかを疑問視しました。
彼はいままで生きてきた人たちの中で、悲しい人生を送った人の一人とされています。
彼はこのように言いました。
「私はあなたが神を恐れる時に、あなたが誰も恐れていないことを学びました。」
パウロはコリント人への手紙第一1章23節でこのように言っています。
「 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが...」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一1章23節
主イエスは石の上に落ちる者について語っています。
この石とは主イエスのことなのでしょうか?
私たちは主イエスの上にとどまるのです。
主イエスは雄一の土台です。
ならば、あなたは救われているのです。
また、この石は人の上に落ちて、その人を裁き、粉みじんに飛ばすことができるのです。
「また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」
新改訳聖書 マタイの福音書21章44節
あなたには二つの選択肢があります。
あなたはキリストを拒むか、受け入れるかです。
「万軍の主、この方を、聖なる方とし..」とは奇妙な命令です。
ペテロはこのように言っています。
「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一3章15節
これは神の民に何が必要かを言っているのです。
今日、この光とは、神についての考えることです。
神に対して、神のみことばに対して、礼拝することが欠けています。
聖なることが軽んじられています。
また、軽んじるべきでないものが、軽んじられています。
あなたと私にとって、私たちの心において、主なる神を聖なる方とすることが必要です。今日において、さまざまな人たちがこのように確信していません。
「しかし主は、その聖なる宮におられる。全地よ。その御前に静まれ。」
新改訳聖書 ハバクク書2章20節
友よ!
もし、彼らが信じているのなら、彼は日曜の朝、あなたの教会にいるはずです。
彼らは浜辺にはいないはずです。
もしくはピクニックにも行っていないはずです。
また、庭の芝生も刈っていないはずです。
あなたと私はこのようにしていないはずです。
神のみことばの語る代理人として、霊媒をする者たちへの宣告
「人々があなたがたに、「霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ。」と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。」
新改訳聖書 イザヤ書8章19節
今日、私たちは霊媒と言われる死者の立ち返りを聞くことがあります。
15年以上昔に、私はこのように書きました。
「神は神の民に悪魔的な組織に手を出すことを禁じています。
神から民が目をそらす時、通常、彼らはオカルトや異常なものに手を出すのです。」
「男か女で、霊媒や口寄せがいるなら、その者は必ず殺されなければならない。彼らは石で打ち殺されなければならない。彼らの血の責任は彼らにある。」」
新改訳聖書 レビ記20章27節
「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。
あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、
呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。
これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。」
新改訳聖書 申命記18章9〜12節
今日、多くの者がオカルト、霊的と呼ばれるもの、悪魔的なものの方へ行きます。
南カルフォルニア、サンフランシスコの湾岸には悪魔の教会が複数存在しています。
さらに、クリスチャンと言われる人までもがそれに手を出しているのです。
彼らの多くは悪霊を追い出すことについて語ります。
友よ!
私はそのようなことが私の仕事ではないことを知っています。
私の仕事は神の恵みの福音と神のみことばを語ることです。
それは悪魔的な働きに注意することでもあります。
私はその働きとは私たちをある時、オカルトに導くでしょう。
同様に、それは非常に危険なことです。
また、それは飛んだりはねたりして、興味をそそり、人々の心に根をはやすでしょう。
ある人々はそのようなことが現実に起きるとは信じていません。
しかし、それは実際に起きている場合もあります。
悪魔は現実に存在しているからです。
神はそれに警告しています。
私たちもそのようなものに警戒すべきなのです。
「おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない。
彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。
地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。」
新改訳聖書 イザヤ書8章20〜22節
あなたを霊と呼ばれるものに導こうとしている不従順な歩みの結果が最後の節に現されています。
その結果は夜明けがなく、闇であり、病気です。
不従順は常にあなたをそこに置くのです。
9章
主題
子供の預言はダビテの王座がやがて成就し、最初に来られる時は闇の時代がともなうこと、そして、2回目にも来られることが預言されています。
この章は通常、クリスチャンに親しみやすい章とされています。
それは子供とされる、キリストが来られるということに関連した預言が含まれているからです。
ヘンデルは教会で良く聞かれるメサイアの中でこの章を使いました。
私はヘンデルの働きの表現としてこの曲を聴く時、いつも震えながら聴いています。
みながこのように歌う時は特にです。
「その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」
新改訳聖書 イザヤ書9章6節
イザヤ書7〜12章の中でこのような預言の元材が存在します。
この預言はアハズの支配の時にされました。
アハズは悪い王の一人で、イザヤが預言していた時代の王です。
イザヤはウジヤ王の死んだ時に預言を開始しました。
ウジヤ王は22年間、支配し、良き王でした。
その次の王はヨタムで、ウジヤの子です。
ヨタムも同様に良き王でした。
その次の王がウジヤを祖父に持つアハズです。
アハズは悪い王であり、偽りの側に立つです。
アハズの支配した時代に、イザヤはメシアに関する預言をしたのです。
この時代はこの国にとって、暗い時代だったのです。
イスラエルの希望
1〜7節にかけて、私たちはイスラエルに希望があることを知ります。
それは神の子が最初に来られることと、二度目に来られることが書かれているからです。
「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」
新改訳聖書 イザヤ書9章1節
訳者注)下記の注解はKJVの翻訳に対するもので、新改訳聖書には正しく反映されています。
「後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤはより苦しみを受けた。」KJVを意識して翻訳しました。
この節の翻訳は確立されたものではありません。
正確に言うのであれば、意味していることと逆に訳されていると考えます。
しかし、このようなことを言う私の態度は敬虔な思いに対して問題ないと思います。
現されている神の目的に対して、否定と肯定のその両方の可能性があることを知っているからです。
「後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤはより苦しみを受けた。」(上記、訳者注参照)
他に訳するのであれば、「後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」とも訳せます。
その両方とも、受け入れることは難しいことでしょう。
しかし、私はその理由になぞめいたものがあると信じています。
神はシリアの侵入者たちによって、イスラエルの北王国を苦しめました。
いとも簡単にシリアの侵入者たちは民を重い苦しみの中に連れて行ったのです。
最初の翻訳はこの預言の成就のことを述べていたのでしょう。
「イスラエルの王ペカの時代に、アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルが来て、イヨン、アベル・ベテ・マアカ、ヤノアハ、ケデシュ、ハツォル、ギルアデ、ガリラヤ、ナフタリの全土を占領し、その住民をアッシリヤへ捕え移した。」
新改訳聖書 列王記第二15章29節
しかし、もう一つの訳にはこのようにあります。
「後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」
これはキリストが受肉された時、最初に来られた時のことを預言しているのです。
キリストはその地域を栄光に導いたのです。
ガリラヤは軽蔑されていた地域です。
そこは異邦人が集まっていた場所だからです。
主イエスはその時代、傲慢な宗教地域であったエルサレムを通り過ぎて行きました。
イエスはエルサレムで生まれもしなかったし、育ちもしませんでした。
ナザレがイエスの生まれ故郷です。
ナザレはイエスを拒んだ時、イエスはカペナウムに行きました。
このカペナウムは王国の端にあり、ガリラヤの海の横にある軽蔑されている場所です。
ゼブルンとナフタリは北に位置していて、ナフタリはガリラヤ湖の西岸に沿った位置にあります。
そして、ゼブルンはナフタリの西に位置しています。
私の語る限り、主イエスキリストはカペナウムから自分の拠点を変えていません。
事実、なぜ、イエスはカペナウムに対する激しい裁きを語っているのでしょうか?
イエスは他の場所に光を強く当てようとはしていないのです。
マタイの福音書4章12〜16節では、このように私たちに語られています。
「ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。
そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。
これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。
暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」」
新改訳聖書 マタイの福音書4章12〜16節
あなたはマタイの福音書において、疑問的な節が省略されていることに気が付くでしょう。
言い換えるのであれば、私たちはこの節の聖霊による、別の説明を得ることができるのです。
私は聖霊によって、二つの意味が意図されていると信じています。
二つの真実が意図されていることを....。
「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」
新改訳聖書 イザヤ書9章2節
1節でどのように翻訳や解釈がされているかによらず、はっきりと民がガリラヤを軽蔑したのです。
ガリラヤ人は異教の宗教や偶像崇拝を行っており、闇の中にいたのです。
この場所は旧約聖書において、異教の場所です。
この偶像崇拝は外から入ってきて、交じり合いました。
主イエスがこの地域で自分の職務を始めた時、民は偉大な光を見たのです。
彼らは主イエスを見たのです。
イエスは世の光です。
ヨハネの福音書8章12節にはこのように書かれています。
「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」」
新改訳聖書 ヨハネの福音書8章12節
これはキリストがこの世に最初に来られた時に成就しました。
私が確実に言える事は、この最初に2節は主が最初に来られた時のことを述べているということです。
しかし、下記の節はどのような期間のことを述べているのでしょうか?
それはF.C.ジェニングス、H.A.アイアンサイドなどの優れた聖書解説者がこのように信じ、解説しています。
2、3節の間には期間があります。
最初の2節はキリストが最初にこられた時の事、そして、私たちがここで考えているように3節はキリストが2度目に来られた時の事だと言っています。
「あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。」
新改訳聖書 イザヤ書9章3節
イスラエルの国は非常に大きくなり、民も増えました。
そして、その民は信仰を持ちました。
しかし、その喜びは過ぎ去ったのです。
彼らは多くの信仰を持ったでしょう。
しかし、キリストを信じようとはしませんでした。
その時代は多くの告白があったかもしれませんが、本当の喜びは存在していません。
2節と3節の隙間にはすでに2000年間の長い時間があります。
なぜ、イザヤはこの時代の預言をしていないのでしょうか?
それはこの2000年間の隙間の時代を神は教会時代と呼んでいます。
この時代はイザヤの知らない時代だからだと考えられます。
ローマ人の手紙16章25節でパウロはこのように言っています。
「私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方...、」
新改訳聖書 ローマ人の手紙16章25節
パウロはここで預言者たちは過ぎ去ったものであることをはっきりと語っています。
この章のイザヤのように預言者たちは救いの完成を見る事ができませんでした。
63章で私たちはまさに小休止と言える場所に行くことができます。
イザヤから見て2000年以上先の時代のことです。
イザヤの時代の人は教会とは関係ありません。
しかし、今日において、すでに教会は現わされています。
そして、隙間の時代も満たされようとしています。
つまり、この章の残りもイスラエルの国のことを述べているのははっきりしていることです。
イスラエルの国はアハズの時代に大きくなりました。
パウロが「信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって」と書いている事に注意してください。
あなたが信じているように教会の奥義とは異なる集まりなのです。
イザヤはイザヤの属する一つの国のことを語っています。
「あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。」
新改訳聖書 イザヤ書9章4節
いつ重荷は砕かれるのでしょうか?
それはキリストが再び来られる時です。
なぜ、イスラエルは今日、平和を楽しむことが出来ないのでしょうか?
なぜ、イスラエルの国境には災いがあふれているのでしょうか?
イスラエルには問題がいっぱいです。
それはイスラエルが平和に至らすことの出来る唯一な方を拒んだからなのです。
その方はイスラエルのメシア主イエスキリストです。
彼らを虐げる力は主が二度目に来られるまで砕かれることはありません。
「戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。」
新改訳聖書 イザヤ書9章5節
5年前、元気でスポーツ万能な若者がオリンピックの期間中に殺されました。
このようなことはなんとも悲しい出来事です。
彼らはテロリストによって殺されました。
そして、彼らのからだはイスラエルへと送り返されました。
その死によって、彼らは多くの国から愛され、喪に服しました。
この事件の背後に何があったのでしょうか?
イスラエルにはメシアがいるのです。
しかし、彼らはこの方を拒みました。
彼は平和の君主です。
そして、彼は平和に至らすことの出来る唯一な方です。
しかし、イスラエルは問題に悩み、訴え続けられています。
その反面、これらの節は3節に書かれていることが完結されています。
そして、イスラエルにすぐにでも来ようしているおおいなる患難時代のことが書かれているように見えます。
患難時代は未来に起きる出来事です。
今、私たちはメシアが来られる預言として見る事ができるのです。
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
新改訳聖書 イザヤ書9章6、7節
どのようにこのことが起きるのでしょうか?
「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
これはキリストの最初に来られる時のことを述べているのでしょうか?
多くのクリスチャンがこれはクリスマスのことを述べていると考えています。
しかしながら、私はこれはキリストの二度目に来られる時のことを述べていると感じています。
キリストはイスラエルの国のために生まれるのです。
これは主イエスキリストが二度目に来られる時の完全な預言なのです。
イザヤ書53章がキリストの最初に来られる時の預言です。
これらの節は3節からの続きで、イスラエルはキリストが二度目に来られる時のことを見ているのです」。
では、ここで問題が起きます。
なぜ、キリストの二度目に来られる時に「みどりごが生まれる」なのでしょうか?
まず、最初にはっきり言える事は、いまだに主権を持ってキリストは生まれていません。
現実にキリストが最初に来られた時、イスラエルは彼を拒みました。
ヨハネの福音書1章11節には次のように書かれています。
「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章11節
キリストが最初に生まれた時、彼はベツレヘムで生まれました。
キリストはイスラエルに受け入れられてはいないのです。
羊飼いたちがキリストを迎え入れました。
遠い国から来た異邦人の博士たちがイエスの所へ来て、礼拝しました。
もし、あなたが6節を注意深く読むのなら、3節、5節、7節同様に、このことがキリストの最初に来られた時に成就していないことが理解できるはずです。
キリストがイスラエルに生まれたということはより良い立場にあると言うことができます。
実際、イスラエルは一度「生まれました」。
このことはイザヤ書の最後の章ではっきりとしるされている内容です。
「彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。
だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」
新改訳聖書 イザヤ書66章7、8節
イスラエルは未来に人の子として救われるのです。
誕生の時ではありません。
しかし、未来にイスラエルが生まれるのです。
これは将来、キリストが再び来られる時にイスラエルが新しく生まれることを指しています。
キリストの二度目の来臨の時にイスラエルは生まれるのです。
私は「子が生まれる」という事実に注意を促す必要はないと考えます。
それは生まれる子の人間性があることを示しているからです。
キリストの二度目の来臨の時に息子として与えられるのです。
言い換えるのであれば、およそ2000年前の同じイエスが存在するように、イスラエルは未来に生まれるのです。
「主権はその肩にあり...。」
肩とは力強さを表しています。
この世界を支配する主権はキリストの二度目の来臨の時にキリストの力強い肩の上にあるのです。
これはキリストの初臨の時のことを指していません。
その名は私たちの主に与えられていることに注意してください。
「不思議な」(KJV-Wonderful)とは何でしょうか?
これは原語では形容詞ではありません。
これはキリストの名前として表現されています。
士師記13章18節ではこのようなことが記されています。
「主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という。」」
新改訳聖書 士師記13章18節
私たちはキリストが受肉されて万軍の主の長として現れたと考えています。
イザヤ書にある「不思議な」"Wonderful"と士師記の「不思議」"Secret"は同じことばが訳されています。
マタイの福音書11章27節で主イエスはこのように言っています。
「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」
新改訳聖書 マタイの福音書11章27節
民はそのことを知ることはありません。
しかし、主は「不思議なる」、「奥義なる」方なのです。
今日においてもキリストは不思議な奥義なる方です。
新しく生まれたクリスチャンはキリストを救い主として信じています。
しかし、キリストがどれほど素晴らしい方なのか理解することはできません。
主は主の二度目の来臨の時にこの地上に反逆する者たちを置きました。
そして、主はこの地上を支配するのです。
主の御名は「素晴らしい」、「不思議な」方です。
「助言者」、主は決して人に助言される必要はありません。
また、主は決して人のアドバイスを受ける必要がありません。
ローマ人への手紙11章34節でこのように書かれています。
「なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙11章34節
神は助言者を持つ必要はありません。
主イエスキリストは一緒にいる弟子たちの助言を受けたことがありません。
「今、あなたは私が何をなすべきかを自分で考え、私に従いなさい」とは、あなたはこのようなことを聖書の中で読んだことのないはずです。
主は弟子たちとともにおられ、このような言うのです。
「私が行おうとすることは父のみこころです」。」
コリント人への手紙第一1章30節にはこのように書かれています。
「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一1章30節
私たちの多くの者は賢くないことを知っています。
私たちはキリストに助けを求めなければなりません。
「力ある神」とはヘブル語で"El Gibbor"でいう名前になります。
その神は「すべての力を与える」唯一の方です。
また、その方は万能な神です、
その方はマリアの胸で無力で横たわる小さな赤ん坊になりました。
しかし、同時にこの宇宙を握っておられたのです。
神は「天と地にあるすべての力は私の与えたもの」だと言っているのです。
彼は「力ある神」です。
「永遠の父」は"Avi-ad"です。
この単純な意味は「彼はすべてのもの、時間、さらに時代の創造者、そして、すべてのものに計り知れない目的をあり、その目的を造られた方」という意味です。
ヨハネはこのように言っています。
「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章3節
コロサイ人への手紙でパウロもこのように言っています。
「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙1章16節
ヘブル人への手紙1章2節で私たちはこのように読みました。
「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙1章2、3節
「世界」ということばは同様に「時代」"ages"とも訳されます。
ギリシャ語で"aionshould"です。
その言葉が「世界」と訳されているのです。
そして、この「永遠の父」というタイトルの中にこのような意味が含まれているのです。
「平和の君」の原語は"Sar-Shalohim"です。
地上にはキリストが支配されるまで平和がありません。
そして、キリストの支配は決して静かなものではなく、増し加わりと成長です。
その二つの時代はキリストの支配の時に同時に存在しません。
キリストはダビテの王座に座ります。
キリストが二度目に来られる時、キリストは文字通りにダビテの王座に座るのです。
キリストの支配によって、神の熱意によって、義が支配するのです。
愚かな人の計画によらずに、このことが成し遂げらるのです。
イスラエルの助け
「「主がヤコブに一つのことばを送られた。それはイスラエルに落ちた。
この民、エフライムとサマリヤに住む者たちはみな、それを知り、高ぶり、思い上がって言う。
「れんがが落ちたから、切り石で建て直そう。いちじく桑の木が切り倒されたから、杉の木でこれに代えよう。」
そこで主は、レツィンに仇する者たちをのし上がらせ、その敵たちをあおりたてる。
東からはアラムが、西からはペリシテ人が、イスラエルをほおばって食らう。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。
しかし、この民は、自分を打った方に帰らず、万軍の主を求めなかった。
そこで、主はイスラエルから、かしらも尾も、なつめやしの葉も葦も、ただ一日で切り取られた。
そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者。
この民の指導者は迷わす者となり、彼らに導かれる者は惑わされる。
それゆえ、主はその若い男たちを喜ばず、そのみなしごをも、やもめをもあわれまない。みなが神を敬わず、悪を行ない、すべての口が恥ずべきことを語っているからだ。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。
悪は火のように燃えさかり、いばらとおどろをなめ尽くし、林の茂みに燃えついて、煙となって巻き上がる。
万軍の主の激しい怒りによって地は焼かれ、民は火のえじきのようになり、だれも互いにいたわり合わない。
右にかぶりついても、飢え、左に食いついても、満ち足りず、おのおの自分の腕の肉を食べる。
マナセはエフライムとともに、エフライムはマナセとともに、彼らはいっしょにユダを襲う。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」」
新改訳聖書 イザヤ書9章8〜21節
この章の8〜21節を読んで見て下さい。
イザヤの時代の一部の地方の状態が記されています。
そして、未来にすぐにでも起きることが特別に成就しました。
しかし、同様に将来、患難時代に起きることとして見る事ができます。
それは最終的に成就する内容です。
神はイスラエルとあらゆる国々を滅ぼし続けるのです。
それは彼らが神に立ち返るためです。
その時はキリストが再び来られるまでです。
現在の人たちはこのようなことを聞こうともしません。
それよりも、彼らはもっと慰めになるようなことを聞きたがっています。
あなたの持つ歴史の本を調べ、見てください。
イスラエルと多くの国々に何が起きてきたのでしょうか?
彼らは神から離れました。
彼らは悲しみと卑しい歴史を持ちました。
そして、私には恐れていることがあります。
私とあなたはこの国に生きています。
さばきの時が熟しました。
もし、私たちが逃げるのなら、私たちはこの世界の歴史にある唯一な国を知っています。
私たちはその唯一の国に逃げたのです。
10章
主題
アッシリアがイスラエルに神のさばきを行った後に、アッシリア自身が裁かれる。
同時に大患難とハルマゲドンの戦いを現している。
もう一度、私はあなたに7章から始まり、12章に至る預言が連続した預言であることをあなたに思い出して欲しいのです。
これらの預言は邪悪な王アハズの支配の時代にされた預言です。
暗い背景の中で、イザヤは地方的な状況の預言を与えています。
しかし、同様にイザヤは未来に起こる「神がこの地上に王国を建て上げるに至る時代の預言」を与えているのです。
神のみことばにはもう一つ別の注意すべきことがこの章に記されています。
神が人間と国々を取り扱う時に偉大な原則と限りないプログラムがあるということです。この章はその時代について神の法廷で短いデスカッションで始まっています。
その国の法廷は不公平なものであり、民の文化、状態を反映しています。
神は彼らを懲らしめているのです。
神は私たちが見ているように神の民をアッシリヤを使って裁こうとしています。
そして、アッシリヤは未来にある北王国のシンボルです。
最後の日に北王国はインマヌエルの国に上ってきます。
この預言はイスラエルにすぐにでも来ようとしている未来の預言と最後の日にイスラエルの国の繰り広げられる預言とが記されているのです。
イザヤは「その日」ということばを使ってその期間を示しています。
この章にはハルマゲドンの戦いに北から敵が近づいているという、恐ろしい描写が含まれているのです。
不正な裁判は神の裁きになります。
「ああ。不義のおきてを制定する者、わざわいを引き起こす判決を書いている者たち。」
新改訳聖書 イザヤ書10章1節
彼らの嘆きは不正なものに同意することです。
それは不義な決定に手を下すことです。
彼らは義を現さなければならない者たちです。
しかし、彼らは義を現そうとはしていません。
おそらく、最初の数節はピラトの論議、もしくは道徳家たちの議論を表現しているんでしょう。
例外として注意すべき点は人間の義という感覚には神の義が潜んでいるということです。この地上で裁判と王座は神の義が現されるためにあり、神に対して責任ある行為となるのです。
「彼らは、寄るべのない者の正しい訴えを退け、わたしの民のうちの悩む者の権利をかすめ、やもめを自分のとりこにし、みなしごたちをかすめ奪っている。」
新改訳聖書 イザヤ書10章2節
この節で言われていることはまさに今日においても同じことが言えています。
現在の文化がこのような現象を生み出していると、私たちが考えていることを私は知っています。
この法廷は正しいさばきと神のさばきと反対のことが下されている結果だと考えます。
彼らは決して、法律を持っていないわけではありません。
民が誇りとするものはなく、沈んでいる状態です。
自由だという考えは崩壊しました。
確かに、犯罪者たちは捕まって裁判を受けるという恐れを持っているかも知れませんが、私の家族とあなたの家族は安心して通りを歩くことはできません。
犯罪者は自滅してゆくでしょう。
また、多くの犯罪者たちは裁判の憐れみや、意味のない判決によって自由にされるのです。
裁判が私と私の家族、そして、あなたとあなたの家族に対して、正しい判断によってなされていないのです。
今日、私たちは多くの判決について聞くことがあります。
では、私は何を求めているのでしょうか?
私は犯罪がなくなり、私が通りを安心して歩けるようにして欲しいのです。
私は私の家で安全に暮らせるようにして欲しいのです。
私の国は女性が夜道を歩くのに安全とは言えません。
男性にとっても安全ではない場所はたくさんあります。
では、何が問題なのでしょうか?
この問題とは法廷に問題があるからです。
神の指が置かれていないのです。
法廷がすでに正しい判断によって判決される場所ではなくなっているからです。
今、神は「寄るべのない者」、「やもめ」、「みなしごたち」のことを述べています。
彼らには正しい判決が必要なのです。
現在、この国の優れた政治評論家の一人がテレビ番組でさまざまな問題について語っています。
助けを必要とした貧しい者、傷ついた貧しい者ためにどのようにしようか、さまざまな考えが出されています。
何が悪いのでしょうか?
貧しい者に対して正しいざばきをする唯一な方がいます。
その方は神です。
地上において、裁判によって神が現されるべきなのです。
今日、多くの信仰を持つ人々が裁いています。
彼らは神によって、すべての裁判がなされるべきだと認識するまで、彼らはさばく立場を持っていないのです。
私たちの国の創設者について、素晴らしいことが記されています。
それは彼らが信じているということです。
実例として、トーマス・ジェファーソンがいます。
彼は自由な発想力のある人であり、聖書におおいに影響された人です。
彼は私たちがクリスチャンと呼べる人ではありませんが、彼は神のみことばを誇りに持ち、みことばによって宣言し、その宣言を栄誉にした人です。
私たちは神と神のみことばから離れました。
そして、私たちの法廷と政府は神を認識していません。
確かに、そこにいる人は聖書を手にするかも知れません。
裁判所の法廷で聖書を持って誓いを立てるかも知れません。
しかし、すべてが人に見せるためです
多くの裁判は神のみことばを信じることなく行われています。
裁判官、審判員、そして、その誓いを語る人たちは、おそらく、神のみことばを信じていません。
もし、あなたが神のみことばを信じていないのならば、あなたも聖書を通信販売のカタログのようと同じとみなし、誓いを立てるでしょう。
彼らの中には聖書よりもこれらのカタログの方が優れているかのように誓いを立てるかも知れません。
裁判で神が現されるまで、神は法則を持ってすべてのことを取り扱います。
神は民を現す方ではなく、御自身を現す方です。
私たちはこの概念をなくしてしまったのではないでしょうか?
私たちはこのような決まりきった誓いが健全かのごとく聞こえることがあります。
そして、私にとって、このことがどのようなことか考える必要があります。
「刑罰の日、遠くからあらしが来るときに、あなたがたはどうするのか。だれに助けを求めて逃げ、どこに自分の栄光を残すのか。」
新改訳聖書 イザヤ書10章3節
神はさばきについて語っています。
「あなたは私を現していない、私があなたを裁く日は来ようとしている。」
私はすべての裁きが来ようとしていることを感じています。
人はその日、神の前に立ち、人がこの地上でどのような責任を負って歩んできたのかを説明することになるからです。
私たちの時代のさばきはこの傷ついたこころを持つことにもあると思います。
彼らはこの哀れな犯罪的な状態に哀れみの心を示すことはありません。
また、彼らは富んだ者と貧しい者、その両方に対してる義を追い出そうとしています。
その日、正しい裁判よりも正しくない裁判が認められるようになるからです。
「ただ、捕われ人の足もとにひざをつき、殺された者たちのそばに倒れるだけだ。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」
新改訳聖書 イザヤ書10章4節
裁く者たちの働きの歪み自身、社会の階層全体の問題から出てきたものなのです。
その人に対する影響は悪化と劣化に追いやる結果となります。
今日、私たちは道徳的に最低の場所にいるのです。
アッシリアがイスラエルに神のさばきを行った後に、アッシリア自身が裁かれる。
今、私たちは章全体に対して、鍵となる場所に来ました。
ここで、神は聖書の中で奇妙とも言える宣言をしています。
また、この宣言は多くの集まりに対して耐え難いものでもあります。
私の友よ!
もし、あなたがそれを望まないなら!
あなたは神に対して、あなたの興味を示すべきです。
神がそのように語っているのです。
「ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるむちは、わたしの憤り。」
新改訳聖書 イザヤ書10章5節
これはこの章全体を理解するための鍵となる節です。
そして、この節は神の目的全体を照らす光となります。
それはこの節が神の民イスラエルを懲らしめるための杖として、神がアッシリヤを使おうとすることが示されています。
これは驚くべきことです。
ちょうど、あなたが悪いことをした小さな子供を棒でたたくように、神はアッシリヤを棒として使ったのです。
神は神の民である弟子のためにアッシリアを使うのです。
アッシリヤの復讐は神の手による復讐なのです。
これは単純な現在人には難しいことかも知れません。
「わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。」
新改訳聖書 イザヤ書10章6節
神の責任はイスラエルに対して「アッシリヤの王センナケリブとイスラエルを捕囚するために北の王国を送り込むことである」と言わなければならないほど、遠ざかっていました。
アッシリヤは神が最後の日に使う北の王国の象徴として見る事ができます。
多くの聖書研究家がこの節は黙示録13章で述べられている、海からの獣が上ってくることを述べていると信じています。
この者はローマ帝国の皇帝となるのです。
また、私は特別にロシアのことを述べていると考えたいのです。
いままでに、あなたは第二次世界大戦のことを考えたことがあると思います。
その時以来、ロシア人は駆け引きの戦争に勝利をしてきたのです
そして、今日、ロシアは私たちの国の足元にそのロープを張りめぐらせているのです。
もし、神がこれらの国を使わなかったら?
こんなことを考えることがあります。
おそらく、あなたはこのように言うかも知れません。
「あなたは神がこのような神無き国であるロシアを使うとでも言うのですか?」
このように言うのなら、よろしいでしょう?
神はイザヤの時代に神の民を懲らしめるために神無き国であるアッシリヤを使ったのです。
この時代において、神は私たちを謙遜にさせるためにロシアを使うかも知れません。
そのように、ロシアはすでに働いているのです。
私たちの国がベトナムと戦っていた時、私たちは北ベトナムとは戦ってはいません。
実際に私たちはロシアと戦っていたのです。
その戦争はうまい戦争であり、私たちを当惑させる戦争でした。
また、悲劇と恐怖がありました。
神は私たちの持つべき感覚に戻すために、私たちを謙遜にさせているのでしょうか?
そのように考えてはいけないのでしょうか?
私たちが神に立ち返っていないのです。
「しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは、滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ。
なぜなら、彼はこう思っている。「私の高官たちはみな、王ではないか。」
新改訳聖書 イザヤ書10章7、8節
もし、あなたがアッシリヤに「あなたはイスラエルを懲らしめるための杖として使われているのだよ」と尋ねるのなら、あなたに対して嘲笑するでしょう。
もし、あなたがロシアの支配者たちに「あなた方は主の手の中にある杖でしかないんですよ」言うなら、もっと、大きく「アハハ!」と笑うはずです。
彼らはこのようなことを厳粛に話すことよりも、むしろ、「私たちは神によって選ばれた財産」、もしくは「神から許された者」だと語るでしょう。
アッシリヤはあらゆる方向で勝利を収めていました。
そして、盲目はプライドは彼らを本当の立場へと導きました。
彼らは自分たちの強さと優位な立場とどこにおいても勝利を得た実績に安心していたのです。
まるで彼らは街角に座っていた、幼き日のジャック・ホマーのようです。
彼はパイの中に親指を入れ、プラムを押し出し、このように言いました。
「私は本当にかわいい少年ですね!」
今日、多くの支配者たちは幼き日のジャック・ホマーです。
しかし、神はすべてを支配されています。
そして、神は御自分の目的を達成させるために彼らを使うのです。
「カルノもカルケミシュのよう、ハマテもアルパデのようではないか。サマリヤもダマスコのようではないか。
エルサレム、サマリヤにまさる刻んだ像を持つ偽りの神々の王国を私が手に入れたように、
サマリヤとその偽りの神々に私がしたように、エルサレムとその多くの偶像にも私が同じようにしないだろうか。」と。
主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げられるとき、アッシリヤの王の高慢の実、その誇らしげな高ぶりを罰する。」
新改訳聖書 イザヤ書10章9〜12節
神がアッシリヤを使って神の民に裁きを下そうとしていました。
つまり、神はアッシリヤ人を使って民を裁こうとしていたのです。
神の民は逃げてはいません。
むしろ、歴史は次のような事実を証言しています。
神は地上のあらゆる国々を裁き、支配している方であることをイザヤは示しているのです。
今、イザヤは更なる問題を示しています・
「それは、彼がこう言ったからである。「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。
私の手は国々の民の財宝を巣のようにつかみ、また私は、捨てられた卵を集めるように、すべての国々を集めたが、翼を動かす者も、くちばしを大きく開く者も、さえずる者もいなかった。」
斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。」
新改訳聖書 イザヤ書10章13〜15節
木を切る斧をイメージしてください。
あなたは木々の間を歩いています。
そして、後ろから斧をたたく音が聞こえてきます。
「大きな木を見てください。
私が倒したのです。」
あなたは周りを見渡すとあるのは斧だけです。
あなたはその斧にこのように言うのです。
「どうして、あなたはこの木を切ったのですか?」
その斧はあなたに言い返します。
「この木を切り倒したのは私です。」
あなたはこのように聞くと馬鹿々々しく思うかもしれません。
誰かが、その斧を使ったんのでス。
そして、これはアッシリヤと世界のいろいろな国々のことを言っているのです。
神は国々を使います。
この理由は私たちの国で神を理解する人たちにとって大変重要なことです。
人々は神を導き手として見るでしょう。
しかし、私たちは今日、多くの対立する国を見る事ができます。
事実、私たちは知っている以上の多く国が対立していることを知ることができます。
私たちはいろいろな少数派と言われる人たちを知っています。
しかし、本当の少数派とは神の民です。
神はその少数派の中にいるのです。
ジョン・ノックスはこのように言っています。
「神とともにいる者は多数派です。」
そして、もし、あなたが神とともにいるのであれば「あなたは多数派」なのです。
今日、私たちは神の側にいる必要があります。
神は宇宙を駆け抜けています。
その国とは私たちのことであり、私たちは新米です。
200歳の国とは歴史にある他の多くの国から比べれば、赤ん坊です。
アッシリヤとは神の手にある道具にすぎません。
大患難時代と残りの民の保護
今、私たちは大患難時代の期間にいる、ユダヤ人の残りの民についての啓示を見る事ができます。
「それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。
イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となる。燃え上がって、そのいばらとおどろを一日のうちになめ尽くす。
主はその美しい林も、果樹園も、また、たましいも、からだも滅ぼし尽くす。それは病人がやせ衰えるようになる。
その林の木の残りは数えるほどになり、子どもでもそれらを書き留められる。
その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。」
新改訳聖書 イザヤ書10章16〜20節
この節はイザヤがすぐにでも来ようとしている状況を見渡し始めた節です。
その状況とは「その日」のことであり、アッシリヤについてです。
私たちが見ているように「その日」とは「主の日」のことであり、大患難時代の始まりの時です。
「残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。
たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。壊滅は定められており、義があふれようとしている。
すでに定められた全滅を、万軍の神、主が、全世界のただ中で行なおうとしておられるからだ。
それゆえ、万軍の神、主は、こう仰せられる。「シオンに住むわたしの民よ。アッシリヤを恐れるな。彼がむちであなたを打ち、エジプトがしたように杖をあなたに振り上げても。」
新改訳聖書 イザヤ書10章21〜24節
ユダに対する慰めのことばはアッシリヤの捕囚から、やがて「解かれる」ということです。
「もうしばらくすれば、憤りは終わり、わたしの怒りが彼らを滅ぼしてしまうから。
オレブの岩でミデヤンを打ったときのように、万軍の主がアッシリヤにむちを振り上げる。杖を海にかざして、エジプトにしたように、それを上げる。
その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」」
新改訳聖書 イザヤ書10章25〜27節
ハルマゲドンの戦い
再び、イザヤは「その日」のことを見渡しています。
「彼はアヤテに着き、ミグロンを過ぎ、ミクマスに荷を置く。
彼らは渡し場を過ぎ、ゲバで野営する。ラマはおののき、サウルのギブアは逃げる。
ガリムの娘よ。かん高く叫べ。よく聞け、ラユシャよ。哀れなアナトテ。
マデメナは逃げ去り、ゲビムの住民は身を避ける。
その日、彼はノブで立ちとどまり、シオンの娘の山、エルサレムの丘に向かって、こぶしを振りあげる。」
新改訳聖書 イザヤ書10章28〜32節
この箇所は預言として注目すべき箇所です。
また、非常に部分的な地理的な表現があります。
すべてがエルサレムの北方にあります。
そして、これらの場所はアッシリヤによって開かれたルートです。
また、預言的に言うのであれば、未来に北から侵入者が入ってくるルートです。
私はこの侵入者がロシアであると考えています。
その通り、この侵入者はマゴクの国から入ってきます。
(エゼキエル書38、39章参照)
「アヤテ」という場所について述べられていることに注意してください。
この街はエルサレムの北15マイルにある場所です。
「ミグロン」は「アヤテ」の南でその先でヨナタンがペリシテ人に勝利を収めた場所です。(サムエル記第一14章参照)
私は同じ場所でアレンビー将軍がトルコに対して勝利を収めた場所と理解しています。
「ゲバ」と「ラマ」はエルサレムの北6マイルほどの場所にあります。
「アナトテ」はエルサレムの北3マイルほどの場所にあります。
ここは預言者エレミヤの出身地です。
「ラユシャ」はパレスチナの極北にあり、ダンの部族の地域です。
「マデメナ」(dunghill--糞の山)はエルサレムの北にあるゴミ捨て場です。
「ゲビム」はおそらくエルサレムの北でしょう。
「ノブ」は最後に述べられていますが、エルサレムの北側でエルサレムから見える場所にありました。
明らかにこの節は北からの敵が進行する様子が記されています。
そして、エルサレムの機能は麻痺し、敗北に至るのです。
「見よ。万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を切り払う。たけの高いものは切り落とされ、そびえたものは低くされる。」
新改訳聖書 イザヤ書10章33節
神が介入し、神の民を救います。
私はこれがキリストが王国を建て上げるために二度目の来臨を果たす時のことを描いていると信じています。
「主は林の茂みを斧で切り落とし、レバノンは力強い方によって倒される。」
新改訳聖書 イザヤ書10章34節
私は「力強い方」とは地上に来られたキリストだと信じています。
11章
主題:王の人格と力、王国の目的とそのプログラム
11章は7章で始まった預言の続きで、12章で完結します。
これらの預言の箇所は前進的に、そして発展的な箇所であり、アハズの支配の時代のことが書かれています。
続く章において、私たちは裁きの時を見る事ができます。
その時のことを、主イエスキリストは大いなる患難時代と呼んでいます。
11章は聖書の中でメシアを預言した章の一つです。
キリストが来られ、王国を建て上げることが記されています。
そして、キリストの来られる型として見ることができます。
12章はこの箇所の最高ともいえる箇所です。
私たちは王国において、主が礼拝されることが記されているのです。
王の人格と力
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」
新改訳聖書 イザヤ書11章1節
「エッサイの根株から新芽」とは面白いことを言っています。
ダビテのことを言っているのではありません。
ダビテの父のことを言っています。
もちろん、その意味はその者がダビテの家系から出ることを言っています。
では、なぜ、イザヤはダビテでなく、彼の父に戻っているのでしょうか?
王家の家系はダビテから始まったのではないでしょうか?
「エッサイ」は農夫であり、羊飼いでした。
彼はベツレヘムと呼ばれる風変わりな小さな場所で暮らしていました。
しかし、イエスの時代にはダビテの家系も単なる農夫の家系に沈み込んでいました。
宮廷のプリンスも続くこともありません。
しかし、大工の家にその家系が続いていたのです。
ゆえに、イザヤは注意深く、その生まれの卑しさを表わすために「エッサイの根株から新芽」という表現をしているのです。
「若枝」"branch"の意味は「生きている芽」とも訳されます。
この「若枝」について語られるのは2度目です。
最初はイザヤ書4章2節で語られています。
そこでは18のヘブル語の言葉が英語"branch"に訳されています。
この若枝は主イエスキリストに与えられた呼び名です。
イザヤ書53章にはこのような表現があります。
「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。」
新改訳聖書 イザヤ書53章2節
「砂漠の地から出る根」とはヘブル語で"Delitzsch"です。
著名なヘブル学者はこのように書いています。
「歴史的に成就した預言のことばはすべてが関係していることに注意してください。
「若枝」(ヘブル語で"nehtzer")は非常に謙遜です。
貧しいナザレを表現しています。
「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。」
新改訳聖書 マタイの福音書2章23節
キリストはダビテの街ベツレヘムで卑しい者として生まれ、始めたのです。
しかし、その町は「エッサイ」の街ではありません。
「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」
新改訳聖書 イザヤ書11章2節
これは主イエスキリストにとどまる、主の霊を七つの方面から見ています。
この霊は完全で潤っています。
(1)主の霊である。
(2)知恵の霊である。
(3)悟りの霊である。
(4)はかりごとの霊である。
(5)能力の霊である。
(6)主を知る知識の霊である。
(7)主を恐れる霊である。
7という数字は完全のみを表しているのではありません。
主に現しているのは「満ちている」「完全」ということです。
ヨハネの福音書3章34節で私たちに語られています。
「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書3章34節
また、エペソ人への手紙5章18節ではこのように語られています。
「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙5章18節
私たちの何人かはこのような性質のいくつかを持っているでしょう。
また、他のある者たちは四分の一を持っているかも知れません。
また、ある者は半分を持っているかも知れません。
まさにわずかなクリスチャンたちだけが、その性質に満たされているのです。
小さな女の子がこのように祈ります。
「主よ、私を聖霊で満たしてください。
私は多くを持っていません。
だけど、私は多くを持つことができます。」
実際は、散らばっていますが、わずかなクリスチャンだけが満たされて歩んでいるだけです。
しかし、主イエスキリストはこのことから除外されていたと言うことができます。
1、主の霊
おそらく、主の霊はキリストの上にとどまっていません。
主イエスキリストは謙遜にも、聖霊の力によって歩みました。
キリストが再び来られる時、キリストは聖霊の力によって支配するのです。
2、知恵の霊
キリストはすでに私たちに知恵を与えています。
コリント人への手紙第一1章30節にはこのように書かれています。
「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一1章30節
キリストはあなたの人生を導き下さる唯一のお方です。
今日、この世は私たちにとってふさわしい場所ではありません。
主イエスキリストはこのように言うことができました。
「わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章30節
悪魔はキリストの中に何も見出すことはできません。
しかし、悪魔は常に私たちの中に何かを見つけだそうとしています。
私たちには知恵の霊が必要です。
そうです。
主イエスキリストは私たちにとって知恵の霊なのです。
3、悟りの霊
悟りの霊の意味は霊的な認識力です。
あるクリスチャンたちにはまったく認識力がないというのは苦痛だと感じます。
ある人たちが確かに人の教えに純粋に従っているのを見ますが、私はそのことに驚くことがあります。
彼らはその人の見栄えを好むかもしれません。
また、彼らはその人の声を好むかもしれません。
しかし、彼らはその人の言っている事を理解しようとはしません。
神のみことばは真実に何を語り、私たちにどのように必要なのでしょうか?
クリスチャンには霊的な理解力の悟りが必要なのです。
私は常に祈ることも必要なものの一つだと考えます。
そして、祈ることも昨日よりは今日の方がもっと必要になることを知っています。
私たちが祈る時、主のためか、そうでないか認識する必要があります。
それほど前の話ではないのですが、私は車で別の街に向かって運転していました。
私はラジオに耳を傾けていましたが、ある人が私の心に恵まれるメッセージをしてきたのです。
しかし、私はその人が、もし、支持を受けないのならば放送し続けることが不可能に思えてきました。
私は私自身にその人を支持して「あなたはこの街の人々に霊的な認識力を与えようとしていますね」と言いました。
その人は私が想像しているよりも多くの人たちに支持されていたのです。
そして、私はその町の牧師に私がラジオから聞いたその人について尋ねました。
牧師は私に「彼は素晴らしく、謙遜で、偉大な聖書教師だと」語ってくれました。
しかし、彼は単純に自分を支持してくれる人を必要としていたのではありません。
その街のクリスチャンは霊的な認識力を持つことを求めていたのです。
私の友よ!
あなたは霊的な認識力、悟りを持つために祈ったことがありますか?
あなたに欠落している霊的な認識力、悟りを持つために神に求めてください。
4、はかりごと(相談)の霊
私たちに必要としているのは神に求めることです。
あなたはイエスキリストが何か相談するために誰かに尋ねたことがないことに気が付いていますか?
キリスト自身が答えだからです。
5、能力の霊
能力?
それは力です。
私たちはどのように神の力を必要としているのではないでしょうか?
ピリピ人への手紙3章10節にはこのように書かれています。
「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり....」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙3章10節
今日、私たちに復活の力が必要ではないでしょうか?
6、主を知る知識の霊
7、主を恐れる霊
私はこれらは神のみことばを学んでいるに従って知るものだと信じています。
王国の目的
「この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。」
新改訳聖書 イザヤ書11章3、4節
悪魔はこの地上で大いなる患難時代において、絶頂期を向かえます。
人間的に話しますが、その時、世界は救われることがありません。
さらに、イスラエルは苦痛の叫びを上げます。
助けが天からやって来ます。
この時、メシアがこの地上に王国を建て上げるためにやって来ます。
主イエスキリストがこの地上にやって来る目的ははっきりしています。
この地上には支配者が必要です。
この世はキリストを求めないし、求めようともしません。
しかし、神がキリストを支配者として定めています。
神がこの宇宙を創造された時以来、神はキリストを支配者として、裁き主として定めていたのでしょうか?
これは神の目に隠されていたことではありません。
ここには長い訴訟裁判などありえません。
犯罪の終結の時であり、再び、緩まることなどありません。
むしろ、この全体の出来事が恐ろしいことだと言うことができます。
ここに二つの裁きが存在します。
一つはクリスチャンのために、もう一つは世に対しての裁きです。
患難時代の最初にクリスチャンたちはキリストの裁きの座の前に立たされます。
1007年後、そこは失われた者のために大いなる白い御座となるのです。
その日、私は主イエスキリストの前に立つでしょう。
私の人生のすべてのまやかしが開かれ、現されるのです。
私は水晶のように輝いていたいのです。
私の生涯のある日、主は私に光を照らしてくださいました。
すべてのことが露出しました。
光が照らし出すということは、何よりも恐ろしく感じることがあります。
「正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。」
新改訳聖書 イザヤ書11章5節
これは主の支配が正義と真実となり、守りとなることを示しています。
この地上におけるキリストの支配の目的は義と真実において支配をすることであり、アダムにおいて失われた権威を回復することなのです。
王国の特色
「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う」
新改訳聖書 イザヤ書11章6、7節
この地上における主の支配の間、ひょうは子やぎとともに伏します。
今日おいて、それが可能なのは、ひょうの腹の中に子やぎがいる時です。
獅子も牛のようにわらを食べます。
私たちはばかげたことに見えるでしょう。
誰もが、ライオンはわらを食べないことを知っているからです。
しかし、鋭い聖書教師はかつてこのように言いました。
「その時が来たのなら、ライオンを造った方がライオンにわらを食べさせることができるのです。」
「乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」
新改訳聖書 イザヤ書11章8、9節
王国は地上全体に広がるのでしょう。
王国のプログラム
「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。」
新改訳聖書 イザヤ書11章10節
この節において重要なことばは「その日」です。
その日は大いなる患難時代に始まり、王国へと広がりを見せます。
異邦人は千年王国へ分け前を持つのです。
「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。」
新改訳聖書 イザヤ書11章11節
神はイスラエルを回復し、元の土地へと戻されます。
彼らは最初にイスラエルを建て上げたのは、モーセがエジプトから彼らを導き出した時でした。
ヤハウエがイスラエルをその土地に導き入れたのです。
「主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。」
新改訳聖書 イザヤ書11章12節
何がその時のしるしとなるのでしょうか?
その時はしるしは主イエスキリスト御自身以外、何もありえません。
それは高く上げられた旗ではありません。
しかし、その日、彼は弱き回復された者の真ん中におられるのです。
それは弱き者たちがこの地上を受け継ぐ時をその日と呼んでいるのです。
これが神の計画なのです。
神のプログラムなのです。
神が実行されるのです。
「エフライムのねたみは去り、ユダに敵する者は断ち切られる。エフライムはユダをねたまず、ユダもエフライムを敵としない。
彼らは、西の方、ペリシテ人の肩に飛びかかり、共に東の人々をかすめ奪う。彼らはエドムとモアブにも手を伸ばし、アモン人も彼らに従う。
主はエジプトの海の入江を干上がらせ、また、その焼けつく風の中に御手を川に向かって振り動かし、それを打って、七つの流れとし、くつばきのままで歩けるようにする。
残される御民の残りの者のためにアッシリヤからの大路が備えられる。イスラエルがエジプトの国から上って来た日に、イスラエルのために備えられたように。」
新改訳聖書 イザヤ書11章13〜16節
大きなスーパーハイウェイがアッシリヤからエジプトに伸びています。
このハイウェイはパレスチナの上を越える大橋です。
明らかに世界の国々はエルサレムへと礼拝するためにやって来るのです。
12章
主題
千年王国の時代における主の礼拝
私たちは7章から始まり、12章で完結する連続した預言に従って理解してきました。
これらの章は神の民に対する神の裁きで始まり、11章では地上に王国が建て上げられ、主イエスキリストが王国を支配することを見てきました。
12章ではより注意を払わなければなりません。
患難と過ぎ去り、命の危機はすべて通り過ぎて行きました。
今、イスラエルは王国へ入り、彼らは神への礼拝と賛美をしているのを見る事ができます。
また、このイスラエルに嘆きの壁ではなく、神殿があることを私たちは知りました。
現在、イスラエルには嘆きの壁がありますが、これはイスラエルが自分の土地に帰って来たという証明になるものです。
しかし、この嘆きの壁は預言が成就したという証明にはなりません。
この短い章を詩篇のように読めるのはどうしてでしょうか?
なぜ、そのように読めるのでしょうか?
それは美しい宝石です。
キリストの直接的、かつ、個人的な支配の下で民の賛美は私たちのまえに繰り広げられます。
この賛美は贖われた心からでた神に対する純粋な賛美です。
神に対する救いと創造への感謝の賛美です。
この地上からさばきは消え去りました。
神を現すために神への賛美の時が来たのです。
あなたと私は自然の中にこのようなことは見たことがありません。
自然にはアダムとエバの罪の結果であるのろいがあるからです。
今日、自然には鋭い牙と地に満ちた爪で満ちています。
王国の時代になるとそれは永遠に変えられてしまうのです。
救いに対するヤハウェへの賛美
「その日、あなたは言おう。「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」
新改訳聖書 イザヤ書12章1節
私たちは前に「その日」という表現について強調しましたが、もう一度ここで注意してみたいと思います。
「その日」とは患難時代の始まりの日を指しています。
そして「その日」を通して、キリストがこの地上に王国を建てるのです。
この節は罪の夜が過ぎ去り、救いの日が来る事を強調しています。
イスラエルは恐ろしい患難の夜を経験したからです。
患難は過ぎました。
そして、イスラエルは王国の平和と喜びの中に入ったのです。
これは賛美の時です。
そして、王国の時代の特色が純粋な喜びであることが示されています。
「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」
新改訳聖書 イザヤ書12章2節
イスラエルは神が救いを提供したとは言っていないことに注意してください。
神が救いなのです。
救いは神御自身の人格です、
救いはプログラムでも、組織でも、儀式でもありません。
救いは神御自身です。
主ヤハウェの人格です、
主イエスキリストの人格です。
イスラエルは神の救いを受け、神に賛美しています。
「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」
新改訳聖書 イザヤ書12章3節
この節は喜びがあふれていることを表しています。
神の救いは心に満足と喜びを与えます。
千年王国の期間、大きな喜びがそこにあるのです。
主は御自分の民のために何を必要とされるでしょうか?
神は今、私たちに喜びを与えています。
私たちの救いは私たちに喜びと主への賛美を起こさせます。
私たちが喜びを持たずに、主に対して告白者でありえるとは、私は考えることもできません。
ヤハウエは創造者であるゆえの賛美
「その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。」
新改訳聖書 イザヤ書12章4節
その日とはもちろん、千年王国のことを述べています。
その時代は光に照らされます。
「主の日」は罪の夜と共に始まりました。
私たちの時代は日の出とともに始まるのです。
しかし、旧約聖書で言われている暗い時代は夕暮れとともに始まるのです。
詩篇30章5節にはこのようにあります。
「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」
新改訳聖書 詩篇30章5節
千年王国の時代は喜びの朝であり、救いのゆえに神に対する感謝の時です。
しかし、それだけではありません。
神が創造主である事実に基づいて神に感謝を捧げる時なのです。
神の偉大さと伸ばされる御手はみわざは行われ続け、民の中で宣言されています。
「神のみわざ」は単に創造の働きだけを指しているのではありません。
神の働きすべてを指しています。
「その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ」とはハレルヤということばです。
「主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。」
新改訳聖書 イザヤ書12章5節
神は六日で修復を行い、創造が終わり、そのみわざは偉大でした。
神は自分の働きと見てそれを良しとされました。
私はそのみわざが私たちの完全な救いと、創造のみわざを私たちが神に感謝するためであったと考えています。
しかしながら、罪はすべてを台無しにしてしまいました。
すでに、私の裏庭には泥棒がフェンスの下に潜み、ありは家に入っています。
しかし、彼らにとって邪魔者は鳥の歌声であり、美しい花や木なのです。
呪いが取り除かれる時、これらがいかに美しいかを考えてください。
その日、私たちは神を賛美する時を持つでしょう。
同様に、今日においても私たちは賛美することが出来るのです。
「シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。」
新改訳聖書 イザヤ書12章6節
ここに贖われたたましいの一つの大きな鼓動が聞こえてきます。
この者は単に哀れな創造物の一つでありえたでしょうか?
「大声をあげて、喜び歌え」。
私たちは神への献身について語ることがあるでしょう。
しかし、本当の献身の意味を知るべきです。
栄光の日にイスラエルはその意味を知り、さらに知り続けるのです。
13章
主題:主の日に起きる崩壊、すぐに来ようとしている未来
13章は私たちをまったく違うセクションへと連れて行き、いままでとはまったく違うトーンにて語られています。
13〜23章には、イスラエルに圧力を加える9つの国々を重荷として描いている箇所があります。
重荷とはなんでしょうか?
それはあなたが運ぶものです。
また、これらの重荷は9つの国々にある神のさばきです。
あなたはさばきという言葉の代わりに重荷という言葉を置くことができます。
そして、これはまさに訴えとして書かれています。
これは聖書の中においても、注意すべき章です。
なぜならば、さばきの預言として、すでに成就したものだからです。
これらの国々に起きた歴史は事実です。
これらの国々はイスラエルと近接し、交わりを持っていました。
また、イスラエルも重荷という面から見てもこれらの国々と近接し、遠くはない位置に存在していました。
イスラエルはこれらの国々の手を恐れていたでしょうか?
今日においては、どうでしょうか?
そして、未来においてはどうでしょうか?
あなたはこの章の中に、妙に聞いたことのあるいくつかの名前を見つけることが出来るでしょう。
エジプトもその一つです。
また、この中のいくつかのさばきは未来に起きることです。
この箇所の示すもっとも際立った預言はすでに成就しました。
今日、その預言が成就されたことが証明されています。
そして、これらすべての預言は一つ一つに国にされていることは興味深いことであり、そのことは13章から23章の中で大切なことなのです。
このアッシリヤの箇所において、イスラエルへの圧迫が続かないことが書かれています。
その他の国々に対してはバビロンによって圧迫されることが記されています。
このタイプの預言によって語られる場合、決して喜ばしいことではありません。
この方法は友人たちや影響を受ける民に勝利を与える方法でもありません。
しかし、神の預言者は人に喜ばれるために語るのではなく、神のさばきのことばを語っているからです。
バビロンは最初の重荷の主題です。
聖書を敬虔に学ぼうとする者には多くのことを教える箇所です。
最初に文字通りのバビロンの都市が描かれていることは大切な事柄です。
このことは実際に注意すべき点です。
イザヤの時代のバビロンは、さほど重要な都市はありません。
バビロンの時代からこの時代に至るまで、バビロンは世界の力とも言える場所になりました。
神はバビロンという国が出来る前から、バビロンに裁きを宣言していました。
この箇所は近接する9つの国々とともに終わっていません。
28章から33章にある6つの嘆きへと続いています。
34章、35章にある嵐の後で静けさと祝福で終わっています。
この最後の2章は再び、私たちに千年王国の描写を私たちに与えています。
13章で私たちは主の日の滅びを見ることができます。
私は最終的に預言が成就し、大いなる患難時代が来ることを描かれていると信じています。
主の日のバビロンの滅び
「アモツの子イザヤの見たバビロンに対する宣告」
新改訳聖書 イザヤ書13章1節
この章と14章の中に実際、歴史に存在したバビロンの町を見ることができます。
古代の世界において、大きな町のひとつになりました。
実際、ダニエル書を見るのであれば、最初の大きな世界パワーとして表現されています。
バビロンのネブカネネザルは金の頭です。
彼は最初の世界パワーの王として描かれています。
また、バビロンの町は未来においても建て上げられます。
バビロンは神に反乱を起こし、同盟を作る象徴です。
バビロンはバベルの塔を建てることから始まり、黙示録の17、18章で終わっています。
そこにあるバビロンは宗教であり、政治的な側面において、世界を支配するのです。
大いなる患難時代において、バビロンは神の裁きを受けるべき者として堕落してゆきます。
聖書の中でそのことが最初に記された箇所がここなのです。
「はげ山の上に旗を掲げ、彼らに向かって声をあげ、手を振って、彼らを貴族の門に、はいらせよ。
わたしは怒りを晴らすために、わたしに聖別された者たちに命じ、またわたしの勇士、わたしの勝利を誇る者たちを呼び集めた。」
新改訳聖書 イザヤ書13章2、3節
この章にある聖別という意味は「神の代理として特別に用いるために分ける」という意味です。
神は「わたしは怒りを晴らすために」と言っています。
神は特別な目的のためにバビロンを聖別し、起こしたのです。
神は同じことをアッシリヤに対しても行いました。
イザヤ書10章5節で神は預言者を通してこのように語っています。
「ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるむちは、わたしの憤り。」
新改訳聖書 イザヤ書10章5節
神は神の民を裁くためにアッシリヤを使ったのです。
しかし、神はその時、アッシリヤも裁きました。
このことは神がバビロンに対して何をしようとしているか教えています。
神はすべてのものを聖別することが出来るのです。
アッシリヤとバビロンはイスラエルを裁きために用いられた道具にしかすぎません。
彼らは神の特別な目的のために、神の御手によって用いられたのです。
「聞け。おびただしい民にも似た山々のとどろきを。聞け。寄り合った王国、国々のどよめきを。万軍の主が、軍隊を召集しておられるのだ。」
新改訳聖書 イザヤ書13章4節
この節は聖別された者にどんな意味があるのかをはっきりさせています。
バビロンは南王国であるユダ王国に逆らったのです。
(アッシリヤはイズラエルの10部族に逆らったように...。)
そして、バビロンはこの国を捕囚したのです。
「彼らは遠い国、天の果てからやって来る。彼らは全世界を滅ぼすための、主とその憤りの器だ。」
新改訳聖書 イザヤ書13章5節
バビロン人は主の憤りの武器であることは記されています。
「泣きわめけ。主の日は近い。全能者から破壊が来る。」
新改訳聖書 イザヤ書13章6節
この預言は今が歴史においてどのような時か、そして来ようしている大いなる患難時代に対してどのようであるべきかが記されています。
「それゆえ、すべての者は気力を失い、すべての者の心がしなえる。
彼らはおじ惑い、子を産む女が身もだえするように、苦しみと、ひどい痛みが彼らを襲う。彼らは驚き、燃える顔で互いを見る。
見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。」
新改訳聖書 イザヤ書13章7〜9節
大いなる患難時代において、神は再び、バビロンの力を使います。
それは、かつて過去において神の民を裁いたように、未来においてもその力を用いるのです。
患難は苦労すべき人にとって、まさに苦労の時です。
主の日は苦労の時なのです。
今、この節はおおいなる患難時代のこととして確認することができます。
「天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。」
新改訳聖書 イザヤ書13章10節
このことはマタイの福音書24章29節において、再び主イエスによって預言されています。
「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」
新改訳聖書 マタイの福音書24章29節
黙示録8章12節で私たちに語られています。
「第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。」
新改訳聖書 黙示録8章12節
「わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。」
新改訳聖書 イザヤ書13章11節
神は「その悪のために世を罰し」ます。
そして、今、私たちはこの世界に生きています。
この世界は神に裁かれるのです。
「わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする。
それゆえ、わたしは天を震わせる。万軍の主の憤りによって、その燃える怒りの日に、大地はその基から揺れ動く。
追い立てられたかもしかのように、集める者のいない羊の群れのようになって、彼らはおのおの自分の民に向かい、おのおの自分の国に逃げ去る。
見つけられた者はみな、刺され、連れて行かれた者はみな、剣に倒れる。
彼らの幼子たちは目の前で八裂にされ、彼らの家は略奪され、彼らの妻は犯される。」
新改訳聖書 イザヤ書13章12〜16節
私とあなたのためにキリストが十字架の上で死なれた時、私たちに価値が加えられました。
13〜16節では患難時代は世界的な崩壊の時であることが私たちに語られています。
その時、神の御自身のために神が守られている残りの民以外に、肉なる者で礼拝をするものは誰もいません。
人の時代における、バビロンの滅び
「見よ。わたしは彼らに対して、メディヤ人を奮い立たせる。彼らは銀をものともせず、金をも喜ばず、その弓は若者たちをなぎ倒す。彼らは胎児もあわれまず、子どもたちを見ても惜しまない。」
新改訳聖書 イザヤ書13章17、18節
メディヤ人とは誰でしょうか?
メディヤとペルシャは二つの国になり、バビロンに匹敵する大きな帝国になりました。
イザヤはすぐに起こるべき未来として語っています。
イザヤはこれらの国々(ここではメディヤ人)がバビロンを滅ぼすことを語っています。
「こうして、王国の誉れ、カルデヤ人の誇らかな栄えであるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる。」
新改訳聖書 イザヤ書13章19節
この預言は成就しました。
バビロンは大きな王国で、この地上に存在し、活動していました。
マセドニア帝国は偉大でした。
エジプトの帝国も偉大でした。
ローマ帝国のようでした。
かつて、イギリスは偉大なるブリテッシュ帝国の名を持つことができました。
私はバビロンの栄光と比較できるものは何もないと考えています。
神のみことばはこれを「王国の誉れ」、「誇らかな栄え」と呼んでいます。
しかし、神はこの「栄え」を「ソドム、ゴモラを滅ぼした時のように」放り投げたのです。
あなたがた、すべての者がこの古代バビロンの滅びを知り、何が起きたのかを理解しています。
このような偉大な町は再び、建て上げられることはありません。
他の偉大な町々は再び、建て上げられました。
これはエルサレムにとっても(特別に)真実であり、ローマは崩壊しましたが再建されました。
ドイツにある町々は爆撃されたでしょうか?
完全に崩壊してしまったでしょうか?
それは再建されました。
ドイツにあるフランクフルトは愛されていました。
しかし、その偉大な町に残されたのは燃えかすでした。
しかし、バビロンは再び、現れて来ません。
神はバビロンに再び、人が住むようにはならないと言っています。
未来においても、バビロンが再建されないことは真実です。
しかし、それは古代のバビロンの場所に再建されないのであって、違った場所に再建されます。
バビロンは混乱を現しています。
そして、未来にあるバビロンは大きな商業の中心地であり、宗教の中心です。
また、政治的な中心地でもあります。
力の中心地でもあり、世界の教育の中心地に再びなるのです。
「そこには永久に住む者もなく、代々にわたり、住みつく者もなく、アラビヤ人も、そこには天幕を張らず、牧者たちも、そこには群れを伏させない。」
新改訳聖書 イザヤ書13章20節
どのようにバビロンを滅ぼすことが出来たのでしょうか?
そして、最後の時代に文字通りのバビロンがどのように現れるのでしょうか?
古代のバビロンの土地はユーフラテス川より7〜9マイル離れています。
川は、バビロンの古都の右側を通って、運河として流れています。
この古代の場所は決して再建されることはありません。
しかし、バビロンは別の場所で再建されるのです。
古代バビロンは滅び、預言が成就した証拠の遺跡として今も存在しています。
古代にはさまざまな建物が存在してことが発掘者によって発見されています。
発掘者たちは廃墟のそばのキャンプにアラビア人を泊まらせることがしませんでした。
アラビア人たちは迷信深いので、彼らを常に外からやって来るのです。
それは興味深いことです。
神はアラビア人がバビロンの中に「天幕を張らず」にと言っています。
「そこには荒野の獣が伏し、そこの家々にはみみずくが満ち、そこにはだちょうが住み、野やぎがそこにとびはねる。
山犬は、そこのとりでで、ジャッカルは、豪華な宮殿で、ほえかわす。その時の来るのは近く、その日はもう延ばされない。」
新改訳聖書 イザヤ書13章21、22節
「そこには荒野の獣が伏し」、ライオンがその滅んだ遺跡の中に住んでいることがわかっています。
「野やぎがそこにとびはねる」、この野やぎの原語はサテュロスです。
サテュロスとは悪魔のことです。
このサテュロスがバビロンで踊りまわるのです。
もし、あなたが悪魔が踊りまわるのを見たいのであれば、バビロンの宮に行けばよいのです。
私は南カルフォルニアにある、ある集まりの話を聞きました。
そこには悪魔礼拝をする者たちがいます。
ある若者が悪魔教会に所属することを主張し、集会の後で私のところへやって来ました。そして、私を痛烈に攻撃したのです。
彼は悪魔が現実に存在すると主張したのです。
そして、彼は悪魔を礼拝していたのです。
私も悪魔は実際に存在していることに同意はしました。
そして、私は彼に悪魔礼拝について警告しました。
その時、私は彼に「あなたは今までに悪魔と踊ったことがありますか?」と尋ねました。彼は私を見つめ、驚いたような顔をして「いいえ、そんなことはない!」と言いました
それでも、私は彼に「どこで悪魔と踊ったことがあるのですか?ダンスホールですか?
いいえ、悪魔の踊りは滅びたバビロンで行われているのです」と言い続けました。
私は彼をからかって「なぜ、兄弟はそこに行ったことはないと言うのですか?
もし、あなたが少しでもそこに足を踏み入れたのなら、どっぷりと浸かっているのです。」と言いました。
バビロンは古代世界の偶像崇拝の支配者です。
明らかに悪魔は現実の場所として、支配する場所を持っています。
未来においてバビロンは世界の中心となります。
罪の人はかたくなな王であり、反キリストと呼ばれます。
彼はこのバビロンの支配者となります。
古代バビロンが崩壊したように、このバビロンも崩壊します。
古代バビロンは正確に預言が成就したことの証明として記憶されています。
そして、この成就が未来のバビロンが裁かれるという事実を証言しています。
14章
主題:千年王国はバビロンが最終的に崩壊した後に建て上げられます。
悪の根源、パレスチナの重荷は裁かれます。
この章は13章から始まったバビロンの重荷の続きです。
バビロンの重荷は正確にはバビロンで裁かれるのです。
バビロンは多くの国の始まりであり、神は堕落した国々を裁かれるのです。
これら多くの国々はイスラエルに対して、物理的に近くあるから、もしくは政治的に何かしたのでしょうか?
大きな問題が14章で投げかけられました。
悪の根源、それを裁くこと、また、それがこの地上から取り除かれること、それがこの章の主題なのです。
地域的な状況と国々の問題は世界的なレベルの問題であり、永遠の問題です。
この章は国々の命の問題を、むしろ、顕微鏡で検査をしているというよりも、望遠鏡で見ているようなものです。
この章の始まりは喜びに満ちたことばで始まっています。
それはついにバビロンが裁かれたからです。
千年王国がすべての恐れと危険が取り除かれてから建て上げられます。
外国からの敵はもういません。
その裁きはこの箇所にも、もしくはイザヤ書の他のどこにも説明されている箇所はありません。
私たちはここで地上で行われる神の計画と神の目的を見ることが出来ます。
この章は光と闇とが交じり合っています。
また、この章は王国の喜びから地獄の滅びへと場面が変わってゆきます。
悪魔と悪の問題は私たちの前に置かれました。
この箇所を言われていることをまとめるのであれば、最後にバビロンが崩壊することです。
そして、この章の大きなテーマとパレスチナの重荷が置かれたということは、非常に対照的であり、それを明らかにしてこの章は閉じています。
おそらく、これらは王アハズが突然死に至った時のことなのでしょう。
(第二列王記16章19〜20節参照)
未来に起きるイスラエルの復興と王国の平和
「まことに、主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。在留異国人も彼らに連なり、ヤコブの家に加わる。」
新改訳聖書 イザヤ書14章1節
この章は最後の時のことを書いているのでしょう。
神は何度もイスラエルを自分の国に至らせ、復興することを言っています。
今、私たちはここで預言が成就したなど考えてはいません。
神がイスラエルを自分の土地に戻し、再興するするのです。
イスラエルはその時、他の国々同様、何の問題を持たなくなるのです。
彼らはロシアやアメリカには帰りたくなくなります。
彼らはイギリスに助けを求める必要がなくなります。
主イエスがイスラエルを支配するからです。
多くの人たちが言葉に出して信仰を告白します、
はっきりと聖書の霊感を信じると言うでしょう。
しかし、彼らは右を見て、この章は文字通りの意味ではないと言うのです。
その時、彼らははっきりと聖書が文字通りの真実であることを否定するのです。
彼らは聖書の霊感を否定するのです。
「主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。」
その人は何度も誰に対してもこのように言うのです。
「それは意味が違う」、もしくは「それは他の事を意味している」。
「国々の民は彼らを迎え、彼らの所に導き入れる。イスラエルの家は主の土地でこの異国人を奴隷、女奴隷として所有し、自分たちをとりこにした者をとりこにし、自分たちをしいたげた者を支配するようになる。」
新改訳聖書 イザヤ書14章2節
私の友よ!
これは預言はまだ、成就していません。
この節にある民は異邦人のことであり、彼ら異邦人はパレスチナにイスラエルを帰します。
しかし、この点において異邦人は実際にはイスラエルを邪魔していました。
かつてイギリスはイスラエルを統治していましたが、第二次世界大戦後にユダヤ人たちをパレスチナに帰そうとしていたわけではありません。
しかし、ユダヤ人たちは行く場所がなく、どこかに行かなければなりませんでした。
パレスチナは実際に苦しみと怒り場所でしたが、多くのユダヤ人がそこに行ったのです。私が書いているように、ロシアはユダヤ人をパレスチナに帰還しようとしていたユダヤ人を妨害しました。
他の国々も、ユダヤ人たちを助けようとしていたわけではありません。
今、世界中にいるユダヤ人は自分たちの同胞が帰ってくるのを助けようとしています。
このように、私はまだ、この預言の成就したとは考えていません。
「主が、あなたの痛み、あなたへの激しい怒りを除き、あなたに負わせた過酷な労役を解いてあなたをいこわせる日に、」
新改訳聖書 イザヤ書14章3節
今日、ユダヤ人たちはこの国で悲しみを持っています。
彼らは恐れの中にいます。
何年か前、私はエルサレムとパレスチナにある他の町々の通りを歩いたことがあります。そこでは、あらゆる場所に兵士たちがいました。
なぜでしょうか?
イスラエルは恐れを持っているからです。
もし、この預言が成就したのなら、そこには恐れはありません。
そこには、もはや、悲しみにとどまる事がありません。
「あなたは、バビロンの王について、このようなあざけりの歌を歌って言う。「しいたげる者はどのようにして果てたのか。横暴はどのようにして終わったのか。」
新改訳聖書 イザヤ書14章4節
私はこの節にあるバビロンは、最後の日にある大きな敵を表していると考えています。
その者はバビロンを支配します。
このバビロンはイスラエルのすべての敵を表し、イスラエルを激しく嫌うのです。
「主が悪者の杖と、支配者の笏とを折られたのだ。
彼は憤って、国々の民を打ち、絶え間なく打ち、怒って、国々を容赦なくしいたげて支配したのだが。」
新改訳聖書 イザヤ書14章5、6節
これらの節は大いなる患難時代最後にある最終的な裁きについて語られています。
この地上は裁かれなければならず、とても多くの裁きがあるのです。
誰かが、裁きについて論じる時を持とうとするならば、私は主に感謝します。
また、私は常にこのことを求めています。
私の感謝は、私たちがこれらの問題について、人々に目を向けずに語らなければならないことを知っていることです。
主イエスは裁きを行うのです。
「全地は安らかにいこい、喜びの歌声をあげている。
もみの木も、レバノンの杉も、あなたのことを喜んで、言う。『あなたが倒れ伏したので、もう、私たちを切る者は上って来ない。」
新改訳聖書 イザヤ書14章7、8節
この章はまだ、起きていないことを語っていますが、何を描写しているのでしょうか?
アルマゲドンの戦争が後、キリストが来られた後のことです。
悲しみどころが歌っているのです。
泣いているのは夜だけです。
嘆きを喜びが来たのです。
最後の地上の支配者はよみ(シェオル)に投げられる。
「下界のよみは、あなたの来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こし、国々のすべての王を、その王座から立ち上がらせる。」
新改訳聖書 イザヤ書14章9節
この節にあるよみは「シェオル」です。
また、このよみは墓、もしくは嘆きの場所を意味できる語句ではありません。
明らかに、この後で教えている意味です。
「彼らはみな、あなたに告げて言う。「あなたもまた、私たちのように弱くされ、私たちに似た者になってしまった。」
あなたの誇り、あなたの琴の音はよみに落とされ、あなたの下には、うじが敷かれ、虫けらが、あなたのおおいとなる。」
新改訳聖書 イザヤ書14章10、11節
人間のすべての栄華と栄光は過ぎ去って行きました。
悪魔と悪の起源
「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。」
新改訳聖書 イザヤ書14章12節
明けの明星「ルシファー」は悪魔その者です。
ルシファーはエゼキエル書28章によると、神によって造られた最高の被造物です。
ある者が言いました。「彼はイスカリオテのユダになった...?」
「ルシファーは神に立ち返った?」
ルシファーは神のみこころ以上に、自分の意思を上に置いたのです。
ルカの福音書10章18節で主イエスキリストは言っています。
「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。」
新改訳聖書 ルカの福音書10章18節
ヨハネの手紙第一3章8節ではこのように書かれています。
「罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章8節
「さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。」
新改訳聖書 黙示録12章7〜9節
ここで書かれていることは、被造物ルシファーの初めが描かれているのです。
この被造物の罪とは何でしょうか?
他のものよりも自分を高くしたからでしょうか?
これから、何が罪なのかが分かるはずです。
私は哲学的に語りたくはありません。
では、論理的に何が罪なのか語れるでしょうか?
「あなたは心の中で言った。「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。
密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」
新改訳聖書 イザヤ書14章13、14節
ここには5つのルシファーの意思があります。
これは罪の始まりです。
悪の進化です。
もちろん、人は進化しません。
罪の進化なのです。
神のみこころに反抗する自分の意思を持った時に、創造者によってその罪が認められ、始まりました。
神は自分の意思でモラルを持つ方です。
神は悪魔をも従わせなければなりません。
悪魔は自分の意思でモラルを持つ真の創造者について語ってはいません。
悪魔は自分の欲することは何でもできる者ですが、限られた範囲にだけ行動が許されています。
ルシファーは自由な意思を持ったのです。
また、同様にこれが人間の持つ根本的な罪です。
イザヤ書53章6節にはこのように書かれています。
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
新改訳聖書 イザヤ書53章6節
人殺しは罪です。
神がそのように言ったから罪なのではありません。
しかし、「人殺しが罪」だと宣言することは神のみこころであり、性格です。
そして、神のみこころと性格に反することが罪なのです。
そこには報いなどありません。
ある人たちは教会に行くことによって、神を喜ぶことが出来なくなっています。
想像して見てください。
あるうぬぼれた小さな被造物である人間が神に対して「あなたの求めていることを私はしたくない、わたしはあなたの道を歩みたくない」と言う事ができるでしょうか?
しかし、今日、多くの人の主張する言葉です。
いいでしょう!
私の友よ!
あなたはあなたの方法で何も出来ないことを知りません。
なぜなら、神のみこころの方が最終的に優れているからです。
マタイの福音書6章10節にはこのように書かれています。
「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」
新改訳聖書 マタイの福音書6章10節
すべてにおいて、神のみこころに反することは罪です。
罪には報いなのでありません
悪魔の罪は傲慢なプライドです。
悪魔はどこかに出て行き、酒飲みでもありません。
悪魔は頑なでもありません。
悪魔は神のみこころに反しているのです。
悪魔は被造物として造られた天使の光でした。
彼は「暁の子」と呼ばれ、完全な存在でした。
悪魔は自由意志を持ちました。
しかし、彼は自分の進みたい道を選んだのです。
彼は自分を持ち上げました。
彼は自分のプライドによって、自分を高く持ち上げたのです。
そして、自分の意思で、神のみこころに反抗したのです。
彼は神とは違った存在です。
彼は神のようになりたかったのです。
しかし、それが彼の目的ではありません。
言い換えれば、彼は神になりたかったのです。
神より、自分を上に置きたかったのです。
すべての被造物の上に自分を置き、神の地位に座りたかったのです。
今日、多くの人たちがルシファーのようです。
神の意思より、自分の意思を置く人たちが多くいます。
人間の家族について、何とも多くの事柄が罪なのです。
しかし、ここには二つの道があることを知るべきです。
「神の道」と「人間の道」です。
主イエスは私にこのように語っています。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書14章6節
私の友よ!
今日、あなたは神の創造された地球に住んでいます。
あなたは神の創造された空気を吸い、神の造られた太陽の光を浴びて楽しんでいます。
神はあなたにお金儲けや、財産のためにこれを贈られたわけではありません。
あなたは神の被造物です。
あなたは神の所有物である結果です。
あなたは神に従うべき存在です。
しかし、あなたの性質は神に従うことは不可能です。
それはなぜでしょうか?
あなたは失われた罪人として、イエスキリストの通して、神のみもとに行かなければなりません。
私たちに新しい性質が与えられるのです。
これが新しく生まれる、新生の意味なのです。
「しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。
あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる。「この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、
世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。」」
新改訳聖書 イザヤ書14章15〜17節
神は悪魔を裁きます。
その裁きは激しいものです。
最後に悪魔は火の池に投げ込まれます。
この火の池は悪魔のために準備された場所です。
神は御自分の計画と目的を実行します。
この計画はこの地球上の誰も考えもしない、優れた計画です。
この問題はあなたのためでも、わたしのためでもありません。
むしろ、私たちには神に信頼することが必要です。
神は私たちに哀れみと恵みと愛を広げようと準備しているからです。
未来にあるバビロンの反乱
「すべての国の王たちはみな、おのおの自分の墓で、尊ばれて眠っている。
しかし、あなたは、忌みきらわれる若枝のように墓の外に投げ出された。剣で刺し殺されて墓穴に下る者でおおわれ、踏みつけられるしかばねのようだ。
あなたは墓の中で彼らとともになることはない。あなたは自分の国を滅ぼし、自分の民を虐殺したからだ。悪を行なう者どもの子孫については永久に語られない。
先祖の咎のゆえに、彼の子らのために、ほふり場を備えよ。彼らが立って地を占領し、世界の面を彼らの町々で満たさないためだ。」」
新改訳聖書 イザヤ書14章18〜21節
バビロンは悪魔によって制御されています。
あなたは悪魔が主キリストにこの世の王国を与えようとしたことを覚えているはずです。
「また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、
こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。
ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」
新改訳聖書 ルカの福音書4章5〜7節
バビロンは悪魔に属しています。
バビロンとこの世の王国の後ろにいるのは悪魔です。
明らかに、未来のバビロンは神に対して敵対した国々が集まったものなのです。
「わたしは彼らに向かって立ち上がる。――万軍の主の御告げ。――わたしはバビロンからその名と、残りの者、および、後に生まれる子孫とを断ち滅ぼす。――主の御告げ。――
わたしはこれを針ねずみの領地、水のある沢とし、滅びのほうきで一掃する。――万軍の主の御告げ。――」
新改訳聖書 イザヤ書14章22、23節
もし、あなたがすでにバビロンの滅びの描写を理解しているのなら、あなたはこれらの節に書かれていることが文字通りに成就したか理解しているはずです。
バビロンは場所が違うにせよ、未来に再建されます。
バビロンは再び、世界を支配する立場に立ち、神に敵対するバベルの塔をもう一度建て上げようとするでしょう。
しかし、神は彼らを裁き、最後の審判へと向かうのです。
私たちが未来に裁きが来ることを知っています。
これら偉大な真理が私たちには与えられているからこそ、このようなことが言えるのです。
「万軍の主は誓って仰せられた。「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおりに成就する。
わたしはアッシリヤをわたしの国で打ち破り、わたしの山で踏みつける。アッシリヤのくびきは彼らの上から除かれ、その重荷は彼らの肩から除かれる。」
新改訳聖書 イザヤ書14章24、25節
アッシリヤは北から来ようとして王国を表しています。
19〜27節で来ようとしているバビロンの裁きと上記の節の内容が詳細に説明されています。
過去において、部分的に成就したものもあります。
それらは文字通りに実現したことを私たちは知っています。
「これが、全地に対して立てられたはかりごと、これが、万国に対して伸ばされた御手
万軍の主が立てられたことを、だれが破りえよう。御手が伸ばされた。だれがそれを引き戻しえよう。」
新改訳聖書 イザヤ書14章26、27節
火のような激しいパレスチナの拒絶
「アハズ王が死んだ年、この宣告があった。」
新改訳聖書 イザヤ書14章28節
ここでパレスチナの宣告がこのポイントで介入しています。
この宣告はアハズの死によって早まったとも言えます。
アハズは16年間悪い王として支配していました。
民はこの王が悪い王であると感じていたのです。
民はアハズから開放されたことを喜びました。
このアハズ王の後に、良き王が続くことも可能でしたが、その後には悪い王が続きました。
「喜ぶな、ペリシテの全土よ。おまえを打った杖が折られたからと言って。蛇の子孫からまむしが出、その子は飛びかける燃える蛇となるからだ。」
新改訳聖書 イザヤ書14章29節
アハズの後に二人以上の良き王が支配しました。
しかし、最も悪しき王がやって来たのです。
民はその支配者がこの世界を改善するとは考えていません。
通常なら、私たちは大統領や政党が代わるのなら、何かしら改善されると期待するでしょう。
神はパレスチナに喜ぶなと語っています。
それはアハズが死んだからです。
彼らはアハズ以上に良き王を得ることはないからです。
その王国の祝福がある前に、その国には激しい神の裁きがありました。
しかし今や、それらの国々にそれ以上に激しい裁きがあるのです。
この国は光でした。
そして、光には責任があったのです。
イザヤは未来を見ていました。
イザヤの見ていたのは、患難時代にある反キリストの支配です。
ここにいる者たちは、述べられている多くの宣告を理解していません。
しかし、このパレスチナについて語られている宣言を宣告と呼んでいます。
パレスチナという呼び名は非常に興味深いものがあります。
彼らはエジプトの沿岸から上って来たのです。
彼らはこの場所に滑り込んで来たのです。
イスラエルがこの国に来た時、パレスチナはその沿岸にいました。
明らかに、アブラハムの時代、彼らはその国にはいませんでした。
その時代にはカナン人がそこに住んでいたのです。
イスラエルの子供たちが400年後に帰って来て、そしてペリシテ人がその国に入って来ました。
ゼパニア書とゼカリヤ書の中でアシケロンとアシドドの二つのペリシテ人の町に対して特別な預言がされています。
これらの町は滅びました。
文字通りに成就したのです。
30〜32節でこの裁きが詳細に描かれています。
それは非常に激しいものだったのです。
「門よ、泣きわめけ。町よ、叫べ。ペリシテの全土は、震えおののけ。北から煙が上がり、その編隊から抜ける者がないからだ。
異邦の使者たちに何と答えようか。「主はシオンの礎を据えられた。主の民の悩む者たちは、これに身を避ける。」
新改訳聖書 イザヤ書14章30〜32節
15、16章
主題:モアブへの宣告
この短い章には三つの宣告が記録されています。
モアブへの宣告です。
15、16章はモアブを取り扱っています。
ここにある事実を照らす光は非常に奇妙なものに見えるかもしれません。
また、この2つの章はバビロンをも扱っています。
バビロンは最初の世界的な力です。
バビロンと比較するのなら、モアブはとても小さなジャガイモのように私たちは見えるでしょう。
初期はダビテが小さいものだったように、イザヤの時代においては、その場所はとても重要な、とても大きな王国になったのです。
モアブはロトが彼の娘との近親相姦によって生まれた国です。
この醜い出来事によって生まれた認められない子供からモアブ人が存在するようになったのです。
この民はイスラエルにとって根深い、頑固な敵となりました。
バラク、彼らの王はイスラエルを呪うために預言者バラムを雇いました。
イスラエルがモアブの国を通り過ぎてゆくのでバラクは彼らを恐れたからです。
ルツ記ではモアブの女に関する素敵な物語が語られています。
このモアブは女はとても人徳のある人でした。
私はルツのような愛をずうと実践していたでしょうか?
それとも、単にルツ記の中の物語でしょうか?
また、私の妻の名前もルツです。
ダビテはモアブ人の血統を持つ人です。
ダビテの父、エッサイはオベデの子供です。
オベデはボアズとルツの息子です。
そうです。
ダビテはモアブ人の親戚を持っていました。
そして、サウルがダビテを追いかけた時、ダビテは父と母を連れてモアブに行きました。今日、モアブの国は姿を消してしまいました。
もう、モアブ人はいなくなったのでしょうか?
実際、モアブ人と関係あるものたちはいないかも知れませんが、私は現在、モアブ人は神の子供と告白する者たちを表していると感じています。
「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙12章18節
ペリクスとフェストのように、この二人のモアブ人は最も確信した人たちでした。
彼らは王国から遠くない存在でしたが、それを得ようとはしませんでした。
彼らは神の民の隣人です。
しかし、彼らは神に従おうとはしていません。
現在のモアブ人は簡単に見つけることができます。
彼は私たちの教会の中にいて。クリスチャンとして歩んでいるように見せます。
彼はパウロがテモテの手紙第二3章5節で描写している者です。
「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」
新改訳聖書 テモテの手紙第二3章5節
ユダの手紙16節でも、同じように描写されています。
「彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人をほめるのです。」
新改訳聖書 ユダの手紙16節
現在のモアブ人は不信仰な者たちです。
彼らは信仰者の振りをします。
しかし、実際に彼らは違います。
彼らはあなたから何かを得ようとして、あなたに大きなことを言って機嫌を取ろうとします。
しかし、あなたから何も得ることができないと分かると、あなたを蹴落とすのです。
モアブを友人に持つことは危険です。
イスラエルは彼らと同盟を結び、信頼してはいけません。
突然のモアブの滅び
「モアブに対する宣告。ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、モアブは滅びうせた。ああ、一夜のうちにキル・モアブは荒らされ、滅びうせた。」
新改訳聖書 イザヤ書15章1節
「一夜のうちに」、これはモアブに対する宣告であり、これは突然にやって来ました。
この嵐のように突然に来る来ることが2回繰り返し強調された表現がされています。
この嵐がこの国を打ち、夜にやってくるのです。
そして、この嘆きの夜は終わることがありません。
アッシリヤは信じられないような、そして、口にもできないような方法でこの国を滅ぼしたのです。
アッシリヤはモアブの嘆きを見ますが、この事実はこの地上から消え去ります。
キルは山の頂上にあるケアルのことで死海の隅から10マイルほど南にあります。
「モアブは宮に、ディボンは高き所に、泣くために上る。ネボとメデバのことで、モアブは泣きわめく。頭をみなそり落とし、ひげもみな切り取って。」
新改訳聖書 イザヤ書15章2節
この節ではいろんな場所が語られています。
しかし、私たちはこれらの場所を知ることができると私は考えていません。
バジスの意味は明らかにこの国にあるチェモス(偶像)の宮のことを述べています。
訳者注)KJVの聖書の訳は新改訳で言う「宮」を"Bajith"と訳しています。
"He is gone up to Bajith, and to Dibon"
ディボンはヨルダンの西脇にある町です。
そこはモアブ人たちの置いた石が見つかっています。
ネボはモーセが約束の地を見た時の山です。
メデバはルベンに属する町です。
「彼らの地域は、アルノン川の縁にあるアロエルとその谷の中にある町から、メデバの全台地、...」
新改訳聖書 ヨシュア記13章6節
これらの町々はイザヤの時代、モアブへと続く場所にありました。
モアブ人たちは滅ぼされました。。
それは彼らがモアブ人たちが神を知っていながら、多くの時を異邦人の偶像の宮で時を過ごし、身を捧げていました。
しかし、彼らは生きている、真の神を礼拝していると言っていたのです。
「そのちまたでは、荒布を腰にまとい、その屋上や広場では、みな涙を流して泣きわめく。」
新改訳聖書 イザヤ書15章3節
私はかつて、アモン、ヨルダンをいたことがあります。
そして、私はとても不思議に感じました。
そこは奇妙な場所で、とても貧しい国です。
しかし、イザヤの時代、そこは豊かな国でした。
私の感じたのはそこにかつて神の裁きということです。
ツォアルへの預言への同情
モアブの上に来た裁きは激しいものでした。
イザヤまでもが同情するものでした。
「ヘシュボンとエルアレは叫び、その叫び声がヤハツまで聞こえる。それで、モアブの武装した者たちはわめく。そのたましいはわななく。
わたしの心はモアブのために叫ぶ。その逃げ延びる者はツォアルまで、エグラテ・シェリシヤまでのがれる。ああ、彼らはルヒテの坂を泣きながら上り、ホロナイムの道で、破滅の叫びをあげる。」
新改訳聖書 イザヤ書15章4、5節
モアブはイスラエルの敵です。
しかしながら、イザヤの心までもがモアブ人に同情に動かされるものでした。
彼らの上に来た裁きは恐ろしいものだったからです。
神の心がベールを脱ぎました。
今日、人々に罪がありながら、神に立ち返るのなら、神の愛は人々に向けられ、神の哀れみが人々の上に広げられるのです。
この章の残りは、この後に起きることが記されており、モアブの国に被害があること詳細な描写として記されています。
それはすでに文字通りに成就しました。
「ああ、ニムリムの水は荒廃した地となり、草は枯れ、若草も尽き果て、緑もなくなった。
それゆえ彼らは、残していた物や、たくわえていた物を、アラビム川を越えて運んで行く。
ああ、叫ぶ声がモアブの領土に響き渡り、その泣き声がエグライムまで、その泣き声がベエル・エリムまで届いた。
ああ、ディモンの水は血で満ちた。わたしはさらにディモンにわざわいを増し加え、モアブののがれた者と、その土地の残りの者とに獅子を向けよう。」
新改訳聖書 イザヤ書15章6〜9節
最後にモアブに提供された神の哀れみの序曲
16章ではモアブに対する呼びかけが始まります。
モアブに対しても、神の哀れみは有効です。
神はモアブにこの哀れみを提供しているのです。
「子羊を、この国の支配者に送れ。セラから荒野を経てシオンの娘の山に。」
新改訳聖書 イザヤ書16章1節
子羊を祭壇に捧げるためにモアブからイスラエルに送れと書いてあります。
子羊とは動物の捧げ物でキリストを予兆する最高の物でした。
ヨハネの福音書1章29節にこのように書かれています。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書1章29節
モアブ人たちが神の子羊を送ることは、彼らがイスラエルの神を認める印となります。
彼らは子羊を送りません。
モアブ人たちは事実とは関係無しに、宗教的なものを求めていたのです。
彼らは何か高いものに支配されることを求めていますが、神の目から見て罪人に過ぎないのです。
これは非常に大きな罪なのです。
「モアブの娘たちはアルノンの渡し場で、逃げ惑う鳥、投げ出された巣のようになる。」
新改訳聖書 イザヤ書16章2節
私はかつて小さなアルノンの川を渡ったことがあります。
そこに、多くの川があるわけではありません。
そして、はっきりとモアブ人とアッシリア人を区別できるような川でもありません。
彼らはそこから取り除かれます。
「助言を与え、事を決めよ。昼のさなかにも、あなたの影を夜のようにせよ。散らされた者をかくまい、のがれて来る者を渡すな。
あなたの中に、モアブの散らされた者を宿らせ、荒らす者からのがれて来る者の隠れ家となれ。しいたげる者が死に、破壊も終わり、踏みつける者が地から消えうせるとき、
一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行なう者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。」
新改訳聖書 イザヤ書16章3〜5節
使徒の働き15章16節でヤコブがこのように言っています。
「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。」
新改訳聖書 使徒の働き15章16節
ここでヤコブは「ダビテの幕屋」が廃墟とされていると言っています。
しかし、それは神が教会から異邦人を召しだした後に、キリストはダビテのダビテの幕屋を立て直すために戻ってくるのです。
ここでイザヤはこのことを語っているのです。
火のように激しいモアブの高ぶり
「われわれはモアブの高ぶりを聞いた。彼は実に高慢だ。その誇りと高ぶりとおごり、その自慢話は正しくない。」
新改訳聖書 イザヤ書16章6節
神はモアブ人を拒み、モアブ人を裁く理由がこれです。
彼らの高ぶりが神を告白する哀れみのささげ物を拒まさせたのです
彼らがもし、神に信頼するのなら彼らは義とされたでしょう。
しかし、彼らが神を拒んだので、神は彼らを裁きに渡すのです。
「それゆえ、モアブは、モアブ自身のために泣きわめく。みなが泣きわめく。あなたがたは打ちのめされて、キル・ハレセテの干しぶどうの菓子のために嘆く。
ヘシュボンの畑も、シブマのぶどうの木も、しおれてしまった。国々の支配者たちがそのふさを打ったからだ。それらはヤゼルまで届き、荒野をさまよい、そのつるは伸びて海を越えた。
それゆえ、わたしはヤゼルのために、シブマのぶどうの木のために、涙を流して泣く。ヘシュボンとエルアレ。わたしはわたしの涙であなたを潤す。あなたの夏のくだものと刈り入れとを喜ぶ声がやんでしまったからだ。
喜びと楽しみは果樹園から取り去られ、ぶどう畑の中では、喜び歌うこともなく、大声で叫ぶこともない。酒ぶねで酒を踏む者も、もう踏まない。わたしが喜びの声をやめさせたのだ。
それゆえ、わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために立琴のようにわななく。
モアブが高き所にもうでて身を疲れさせても、祈るためにその聖所にはいって行っても、もうむだだ。」
新改訳聖書 イザヤ書16章7〜12節
三年の間に成就した神の裁き
ここにある主が話されたみことばは、この時以来のモアブ人に関することです。
「これが、以前から主がモアブに対して語っておられたみことばである。
今や、主は次のように告げられる。「雇い人の年期のように、三年のうちに、モアブの栄光は、そのおびただしい群衆とともに軽んじられ、残りの者もしばらくすれば、力がなくなる。」」
新改訳聖書 イザヤ書16章13、14節
神が多くの国を扱う時、必然とイスラエルも同時に扱わなければならなくなります。
ここで神は神のカレンダーを使いますが、教会をこのカレンダーには入れていません。
三年の間にモアブ人は滅ぼされます。
三年の間に神はアッシリヤを使い、この国を滅ぼすのです。
彼らが高ぶったゆえに、神はこの国の上に裁きを下すのです。
ルシファーは暁の子でした。
しかし、高ぶりのゆえに自分を高くしました。
彼は神よりも高いところに座を置きたかったのです。
彼は神から独立した自分を認める国が欲しかったのです。
基本的に、これが多くの自由神学者の神学です。
多くの人たちが自分にあった宗教を求めています。
彼らは何かをして、救われようとようしています。
これは彼らが自分のプライドに仕えている証拠です。
多くの教会員が哲学的、利己的、そして、実際に神に敵対するようなことを行っていると訴えています。
これらの要因の原因は基本的に人間のこころにあるプライドの上にあることなのです。
私たちすべては神の道に立ち返る必要があります。
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」
新改訳聖書 イザヤ書53章6節
モアブの上に裁きが来ました。
これは歴史の片隅で起きたことに過ぎません。
今日では忘れ去られていることですが、私たちに対するメッセージなのです。
17、18章
主題:ダマスコとエフライムに対する宣告、エチオピアの無効にある国に対する宣告
ダマスコとエフライムに対する宣告
ダマスコはシリアの町をリーダ的な存在でした。
今日に至るまでもそうです。
多くの人たちが古代世界の生活都市だと言っています。
もちろん、多くの論争があることですが、ギリシャの時代において、ミケーネの町が最も古い町だと言われています。
現在ではギリシャの食堂跡を別として、確かに多くが残っていません。
ヨルダンによって、エリコまでの距離が計られ、「世界の最も古い町」と記されています。
私はダマスコが世界の中で最も古い町だと思います。
私は生まれ育ったテキサス州が同じように言われたいと思っています。
私は確かに長い間時間をかけて、そこを掘ったことを知っています。
ダマスコはまさにその主張を証明したのです。
ビトリンガ"Vitringa"がこのように書いています。
「いままで、ダマスコは他の町より多く何度も崩壊してきました。
そして、廃墟の中から何度も立ち上がって来たのです。」
しかし、この章に書かれているダマスコはシリヤの国全体のことを述べているのです。
エフライムとはイスラエルの部族です。
それは町の名前であり、山の名前であり、そして、人の名前です。
また、聖書の中ではエフライムはイスラエルの北10部族のことを述べています。
預言者はこのように書いています。
「まことに、イスラエルはかたくなな雌牛のようにかたくなだ。しかし今、主は、彼らを広い所にいる子羊のように養う。
エフライムは偶像に、くみしている。そのなすにまかせよ。」
新改訳聖書 ホセア書4章16、17節
そして、私たちはこの17章で書かれているダマスコとエフライムについての宣告を読むことが出来ます。
言い換えるのであれば、シリアとイスラエルに対する宣告ということも出来ます。
なぜなら、シリアとイスラエルの間には同盟が結ばれていたからです。
この同盟はユダに対して抵抗をするために結ばれるという目的を持っていました。
ですので、シリアに宣告された裁きはイスラエルと関係しているのです。
罪のパートナーは裁きにおいてもパートナーなのです。
「ダマスコに対する宣告。見よ。ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟となる。」
新改訳聖書 イザヤ書17章1節
廃墟になるとはどういうことでしょうか?
それは簡単に指摘することが出来ます。
それはまだ成就していないからです。
今日において、ダマスコの町は昔からの町として存在していると主張しているからです。私がいままで言っているように、この預言すべてが遠くない未来に成就します。
もしくは、一部が現在に成就するでしょう。
この預言によって発生する問題があるために、二つの可能性が解釈されています。
1、歴史家は、常に古代都市の正確な位置を正しく認識していたのではありません。
それほど昔ではありませんが、ある人は歴史を十分に研究し、奥深い歴史書を書きました。
それは歴史家の中にある常識の中に大きな嘘があると宣言しました。
現在のダマスコのある地域は何度も滅んできました。
そして、確かにこれらの滅びが最初のダマスコの位置で起きたのも事実でしょう。
また、ダマスコは多くの古代都市のように一つの場所で滅んでゆきました。
しかし、必ずしも、同じ場所で再建されたのではありません。
何回かは、別の場所に移動したのです。
しかし、別の意味として、例にするのならば、聖都エルサレムをあげることが出来ます。
エルサレムは正確に同じ場所に建てられました。
その場所は民にとって重要な意味があったからです。
私たちは誰が町を建てたかという問題にたどり着きました。
町を建てた者は昔のダマスコが滅びたという問題の答えを答えてくれません。
2、ダマスコは歴史上に起きた戦争の損害にも耐えて来ました。
その町が完全になくなったことなどありません。
ただ、その町の位置が動いたことがありました。
おそらく、ダマスコの町は世界で最も古い町でしょう。
この町は地上のあらゆる災害から生き残った町です。
あらゆる軍隊が、次から次へと行進して行った特別な国ということができます。
しかしながら、大患難時代に生き残ることはありません。
イザヤがここで言っているように、ダマスコの町は滅びるでしょう。
この町は消えてしまいます。
まさに「廃墟」になるのです。
両方の説明をもイザヤの語った預言が正確に成就することを示しています。
「アロエルの町々は捨てられて、家畜の群れのものとなり、群れはそこに伏すが、それを脅かす者もいなくなる。」
新改訳聖書 イザヤ書17章2節
「アロエルの町々」とはダマスコの郊外にある町です。
この町全体の地域は滅びました。
これはおそらく過去に起きたことですが、さらに繰り返されるでしょう。
「エフライムは要塞を失い、ダマスコは王国を失う。アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる。――万軍の主の御告げ。――
その日、ヤコブの栄光は衰え、その肉の脂肪はやせ細る。
刈り入れ人が立穂を集め、その腕が穂を刈り入れるときのように、レファイムの谷で落穂を拾うときのようになる。
オリーブを打ち落とすときのように、取り残された実がその中に残される。二つ三つのうれた実がこずえに、四つ五つが実りのある枝に残される。――イスラエルの神、主の御告げ。――
その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、
自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない。
その日、その堅固な町々は、森の中の見捨てられた所のようになり、かつてイスラエル人によって捨てられた山の頂のようになり、そこは荒れ果てた地となる。」
新改訳聖書 イザヤ書17章3〜9節
イスラエルの北王国はダマスコの宣告と裁きを分け合わなければなりません。
彼らを襲う侵略者は共通の侵略者だったからです。
この両方が列王記第二15章29節に記録されているティグラテ・ピレセルによって包囲されました。
「スラエルの王ペカの時代に、アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルが来て、イヨン、アベル・ベテ・マアカ、ヤノアハ、ケデシュ、ハツォル、ギルアデ、ガリラヤ、ナフタリの全土を占領し、その住民をアッシリヤへ捕え移した。」
新改訳聖書 列王記第二15章29節
彼らは最終的に列王記第二17章6節に記録されているように、アッシリヤ人シャルマヌエセルによって国外退去にされます。
「ホセアの第九年に、アッシリヤの王はサマリヤを取り、イスラエル人をアッシリヤに捕え移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に住ませた。」
新改訳聖書 列王記第二17章6節
確かにこれはイザヤの預言は部分的に成就しました。
そして、多くのことが全体的に遠い将来に成就するのです。
しかし、私はこれら全体が未来の日に起きることだと感じています。
少なくとも、確かにこれは部分的に成就したものでしょう。
しかし、たびたび、神のみことばは初期の部分的な成就を私たちを与えることにより、私たちをより多くの知識へと導くことがあることを知っています。
この預言は将来、完全に成就するのです。
私たちがこの章を記憶に置くならば、私たちは裁きがより進むことを知るのです。
これ以上、わたしはここで詳細に語ることを控えます。
「あなたが救いの神を忘れてあなたの力の岩を覚えていなかったからだ。
それで、あなたは好ましい植木を植え、他国のぶどうのつるをさす。
あなたが植えたものを育てるときに、朝、あなたの種を花咲かせても、病といやしがたい痛みの日に、その刈り入れは逃げうせる。
ああ。多くの国々の民がざわめき、――海のとどろきのように、ざわめいている。ああ、国民の騒ぎ、――大水の騒ぐように、騒いでいる。
国民は、大水が騒ぐように、騒いでいる。しかし、それをしかると、遠くへ逃げる。山の上で風に吹かれるもみがらのよう、つむじ風の前でうず巻くちりのように、彼らは吹き飛ばされる。
夕暮れには、見よ、突然の恐怖。夜明けの前に、彼らはいなくなる。これこそ、私たちから奪い取る者たちの分け前、私たちをかすめ奪う者たちの受ける割り当て。」
新改訳聖書 イザヤ書17章10〜14節
イザヤはイスラエルの北王国のことを話しているのです。
何がイザヤの預言で文字とおりに成就したのでしょうか?
霊的に適応させることは時には必要かも知れませんがこれらすべてはイスラエルの国に適応されるのです。
今日、イスラエルの国は喜びとともに、そして、滑り込むようにそこに住むようになりました。
私はイスラエルに五本の木を個人的に植える特権に預かりました。
レバノンの杉の木のほとんどが取り除かれました。
しかし、多くの木がイスラエルの国にあります。
オリーブ山はこれらの木で覆われてます。
しかし、一方ではトルコがパレスチナを制御しようとし、この国すべて緑を裸にしようとしています。
第一次世界大戦後、イギリスは緑をパレスチナに移植しました。
これは現在の政府の贈り物であり、政策です。
文字とおり、何百万本もの木が移植されるのです。
クシュ(エチオピア)の川々のかなたの国への宣告
18章では5つの宣告が扱われています。
クシュ(エチオピア)の川々のかなたの国へされたものです。
正確にその国はどこなのかはイザヤも正確に把握していませんが、そこには多くの解釈があります。
ある人はそれはエジプトのことだと語る人がいます。
しかし、その説明では説明つきません。
エジプトは次の章の主題だからです。
私たちは次の章で神がここにある王国のことを語っていないと見ることができます。
預言は文字とおりにエジプトについて成就しました。
これらの者たちは18章がイギリスとアメリカのことを述べていると主張し、私を疲れさせます。
私は彼らは熱心だと感じますが、神のみことばの健全な解釈ではありません。
私はエチオピアのことを述べていると考えるのが、聖書の傾向から見て、もっとも適していると信じています。
しかし、実際、エチオピアを指しているのでしょうか?
聖書は二つのエチオピアを述べています。
聖書はエチオピアのことをクシュと呼んでいます。
創世記2章13節を見るならばそれはアジアにある国です。
「第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。」
新改訳聖書 創世記2章13節
もうひとつはアフリカにあります。
私はエチオピアがアフリカにあると信じています。
それは川々の向こうの国だからです。
その川々とはエチオピア川とナイル川です。
今、神はエチオピアに対する世界の態度を示しているのです。
「ああ。クシュの川々のかなたにある羽こおろぎの国。」
新改訳聖書 イザヤ書18章1節
"ho"もしくは"Woe"、これは不運を表す翻訳です。
実際、イザヤ書1章4節でも"ah"に対して同じ翻訳がなされています。
イザヤ書55章にも「ああ」という表現がありますが、すべてが要求に対する説明としての形を取り、表現されたしるしとして与えられているものです。
神はイザヤ書1節で「ああ、クシュの川々のかなたにある羽こおろぎの国」にこれを聞けと言っています。
「羽の音を鳴らすこおろぎ」、これは非常に面白い表現です。
数年前にこの国に行った宣教師が私にこのように言いました。
「エチオピアは鳥が有名で、羽の国と呼ばれています。」
これは非常に助けになる言葉でした。
なぜなら、ここに描かれている国がエチオピアであると私に確信させたからです。
「この国は、パピルスの船を水に浮かべて、海路、使いを送る。すばやい使者よ、行け。背の高い、はだのなめらかな国民のところに。あちこちで恐れられている民のところに。多くの川の流れる国、力の強い、踏みにじる国に。」
新改訳聖書 イザヤ書18章2節
ある人がここに描かれた海の力がイギリス、もしくはアメリカのことだと言っています。「パピルスの船」は現在の国の持つ船をイメージするものではありません。
F.C.ジェミング博士はイザヤ書についての有名な働きをしている者です。
彼はこの章にある船を蒸気船を表す良い例だと言っています。
しかし、現在の船は油で動いているのです。
今日の私たちの時代で蒸気船などありません。
あちこちで恐れられている民とはイスラエルのことです。
これははっきりと証明されることで、健全な神のみことばを学ぶ者の多くはこの点について一致しています。
「世界のすべての住民よ。地に住むすべての者よ。山々に旗の揚がるときは見よ。角笛が吹き鳴らされるときは聞け。」
新改訳聖書 イザヤ書18章3節
多くの神のみことばについて考える者たちはこの旗が、幕屋の神の箱のことを述べていると考えています。
そして、後に、天幕のことに話が移ってゆきます。
この神殿はバビロン捕囚の時に失われてしまいます。
そして、そこにあった慣習はエチオピアに運ばれて行くと言っているのです。
私がかつて、エチオピアにある教会が「エチオピアに神の箱がある」と言ったのを思い出させます。
私は、それが本当か、うそか知りません。
しかし、旗がその国に姿を現すのです。
「主が私にこう仰せられたからだ。「わたしは静まって、わたしの所からながめよう。照りつける暑さで暑いころ、刈り入れ時の暑いときの露の濃い雲のように。」
刈り入れ前につぼみが開き、花ぶさが育って、酸いぶどうになるとき、人はその枝をかまで切り、そのつるを取り去り、切り除くからだ。
それらはいっしょにして、山々の猛禽や野獣のために投げ捨てられ、猛禽はその上で夏を過ごし、野獣はみな、その上で冬を過ごす。
そのとき、万軍の主のために、背の高い、はだのなめらかな民、あちこちで恐れられている民、多くの川の流れる国、力の強い、踏みにじる国から、万軍の主の名のある所、シオンの山に、贈り物が運ばれて来る。」
新改訳聖書 イザヤ書18章4〜7節
これはキリストの王国がこの地上に建てられる時のことを述べられているのは明白です。再び、エチオピアはエルサレムに上って来て礼拝を捧げます。
ここでは裁きのことが書かれていません。
詩篇87編4節でエルサレムで何がされるのか繰り返し述べられています。
エチオピア人はそこで生まれたと答えています。
神はエチオピア人に対して素晴らしいことをすると言っているのです。
「わたしはラハブとバビロンをわたしを知っている者の数に入れよう。見よ。ペリシテとツロ、それにクシュもともに。これらをもここで生まれた者として。」
新改訳聖書 詩篇87編4節
詩篇 19、20章
主題:エジプトに対する宣告、暗闇から栄光へ
13章〜23章にかけて、イスラエルを囲む国々に対して11の裁きが表現されています。
エジプトに対する宣告は6つ目の宣告です。
エジプトは確かに私たちがこのリストに上げるまでもなく、宣告を受けるべき国です
この節は神のみことばを正確に描写する偉大な節です、
神のみことばである聖書が正確に成就したことを証明しています。
イスラエルと関係を持った国でエジプトより目に見えて優れた国は聖書のどのページにも見つけることはできません。
イスラエルを含め、聖書の中で述べられているどの国よりもエジプトは長く続いた国です。
事実、エジプトの国から出て来て、イスラエルの国は生まれたのです。
ヤコブの家族からエジプトの旅を通して70の命が家族として生まれました。
400年後、彼らは少なくとも150万人となり、エジプトを離れました。
エジプトとその時、すでに古い国でした。
まさに、エジプトは今日に至るまで歴史上に続いている国なのです。
エジプトは、今日においても現存し、世界の出来事においても、目立った役割を果たしています。
そして、この章において栄光ある期待すべき未来が述べられているのです。
この章にはエジプトの持つ歴史に導入されている要素、つまり、過去、現在、そして未来のすべてが含まれていると言うことができます。
聖書の初期の時代、アブラハムがエジプトに逃げ、困難になった時、すでにエジプトは優れた国となっていました。
後に、ヨセフはエジプトに売られました。
そして、ヤコブに飢饉が訪れ、ヤコブの子供たちは家族を連れてエジプトに行きました。そこでイスラエルはレンガ工場の奴隷として大きな国になったのです。
後に、イスラエルの子供たちは約束の地に帰りました。
彼らの二人の王、アハズとヒゼキアはエジプトともに侵略者になりました。
彼らはエジプトと信頼できない同盟を結んだのです。
新約と旧約の間の時代、マラキとマタイの間に、イスラエルはエジプトの手によって激しく苦しみました。
その時に主イエスキリストは生まれたのです。
彼はエジプトに逃げました。
福音はエジプトの地において、3世紀に至るまでにクリスチャンの地域で多くの改宗者を生み出しました。
北アフリカの地域で偉大な三人の教会を導く信仰者が出てきました。
アタナシウス、オリゲネスとアウグスティヌス、また同じような人たちも出てきました。私たちの時代において、新しいイスラエルの国家の横で王座が置かれているのです。
エジプトに関連した預言の成就
「エジプトに対する宣告。見よ。主は速い雲に乗ってエジプトに来る。エジプトの偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も真底からしなえる。」
新改訳聖書 イザヤ書19章1節
エジプトの偶像崇拝は神の宣告の最も重要な標的となっています。
私たちはエゼキエル書を読む時に、再び、同じ主題に取り上げることになります。
そこで神はすべての偶像崇拝がエジプトから消え失せることが述べられています。
おそらく、バビロンの偶像崇拝のすべては知られていないので、これを例外とするならば、エジプト人ほど多くの偶像崇拝を持った民はないでしょう。
パウロは、ローマ人への手紙1章22、23節で何を言っているのでしょうか?
まさにこのことは手袋のごとくエジプトに適応されます。
「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙1章22、23節
歴史はエジプトがオリジナルな一神教を持ったいる事実を証言しています。
彼らは一つの神を礼拝し、すべての天の下にある被造物は礼拝を捧げていました。
しかし、彼らはだんだんと偶像崇拝の色を染めて来たのです。
そこには雄牛、かえる、虫、魚、鳥の種類なども含まれています。
モーセがイスラエルの子供たちをエジプトから逃げる準備をしていた時、
神はエジプトを戦闘状態ともいえる状態に置きました。
私は神々の戦争と呼んでします。
つまり、神はモーセを通してエジプトに災害を送り込みました。
ヤハウエはエジプトにある形あるあらゆる偶像を打ったのです。
天にある太陽神サン、ナイル川のかえる、エジプトのぶよ、これらはエジプトを直接打った災害であり、エジプトの神々であり、偶像です。
今、神はエジプトの偶像を打つために戦車のような雲に乗って降りてきます。
エジプトから偶像崇拝がはるか昔に消え失せていたことを知るのはとても面白いことです。
しかし、民はイスラムの偽りと迷信の中を生きているのです。
私は2回、エジプトを訪れたことがあります。
そこには闇と言えるほどの闇はそこにはありませんでした。
しかし、イザヤの預言はすでに成就したのです。
「わたしは、エジプト人を駆り立ててエジプト人にはむかわせる。兄弟は兄弟と、友人は友人と、町は町と、王国は王国と、相逆らって争う。」
新改訳聖書 イザヤ書19章2節
イザヤの時にさまざまなファロオが起きました。
しかし、彼らはこの自分の大きな国を長く、制御することは出来ませんでした。
そして、軍隊も彼らに長く、従うことも出来ませんでした。
民も政府を尊敬し続けることもありません。
各州に機能を十分に置かなかった結果であり、中央集権制度を取ったためである。
その理由はエジプトには大きな街があったからです。
テーベとカーナクはそれぞれ上エジプトと下エジプトにあり、別の巨大都市の集まりでした。
聖書でノプとして知られるメンフィスも同じような街でしたが、崩壊してしまいました。
「エジプトの霊はその中で衰える。わたしがその計画をかき乱す。彼らは偽りの神々や死霊、霊媒や口寄せに伺いを立てる。」
新改訳聖書 イザヤ書19章3節
エジプトの国のプライドは豊かになった市民権で他の国よりもはるかに優れたものとなりました。
現在においても、太陽の下にある国でエジプトのような取り扱いを受けた市民権を持つ国はないでしょう。
エジプトは偶像崇拝に戻った時、彼らはついに荒れ果ててしまい、霊的というもの(交霊など)に委ねる様になりました。
あなたはモーセの時代のことを実例として思い出すはずです。
魔術師たちはモーセの行った奇跡のいくつかを実際に真似することができました。
しかし、彼らはモーセの行った奇跡を真似することが出来なくなった時、彼らは最初に自分たちが単なる物まねをする者ではないことを現したのです。
彼らは悪魔の力を持っていたのです。
「エジプトの霊はその中で衰える」、低いレベルまでその国が落ち、その時が来たのです。
「わたしは、エジプト人をきびしい主人の手に引き渡す。力ある王が彼らを治める。――万軍の主、主の御告げ。――」
新改訳聖書 イザヤ書19章4節
歴史を見るならば「きびしい主人」とは積極的な主人ではありません。
厳しい侵略者によって攻撃され、支配されたエジプトは減衰し、貧弱へと向かって行ったのです。
「海から水が干され、川は干上がり、かれる。」
新改訳聖書 イザヤ書19章5節
この章にある海とはナイル川のことを述べています。
ナイル川のこの国の幹線交通通路であり、本体は巨大な水の通路です。
川というのは運河を指していて、河口に人工的に造られた流れです。
デルタ地帯はその日、開かれます。
多くの土がナイル川の流れによって流されて来るのでしょう。
「多くの運河は臭くなり、エジプトの川々は、水かさが減って、干上がり、葦や蘆も枯れ果てる。」
新改訳聖書 イザヤ書19章6節
今日において、これらの運河は非常に興味深いものです。
これらの運河の出口はデルタ地帯で海につながっています。
そこは満ち溢れ、エデンの園のように素晴らしい場所です。
しかし、いまここで言われていることはまったく意味が違います。
ある者たちがエジプトの国に旅行に行きました。
そこで彼らはその場所を見て驚きました。
ナイル川に沿った浅瀬には育った植物の群生など存在していません。
そこには森林もなく、重く積み重なった葉々もありません。
これはナイル川の周りにある川々についても同じことが言えます。
今、神が特別に何を言っているのか注意してください。
「ナイル川やその河口のほとりの水草も、その川の種床もみな枯れ、吹き飛ばされて何もない。」
新改訳聖書 イザヤ書19章7節
葦はパピルスとして、その時代に紙として使われました。
これはエジプトの主産業物であり、エジプトの富を大きな増やしました。
土の板を使っていた時代の後に、このパピルスを原料として書物が主に書かれるようになりました。
フェニキア人たちが彼らの文化全体にパピルスを取り入れました。
そして、その元となる原料はナイル川に沿って上ってきたものでした。
今日、あなたはパピルスなど見つけることはないでしょう。
本来、パピルスは浅瀬にそって成長するものですが、もはや見つけることは出来ません。
あなたは博物館の前にあるプールの脇でパピルスを見つけることが出来ます。
または、いくつかの裕福な家で成長しているのを見ることが出来るでしょう。
また、特別にカイロでイギリスの植民地で見ることも出来ます。
それは宝石のように貴重な植物としか見ることは出来ません。
もはや、ナイル川に沿って豊富に発生した植物群はありません。
神は言ったことを取り消しません。
あなたはパピルスが滅んでゆくことに対して、自然な説明をする努力をして見てください。
しかし、私は神がパピルスに対して何かをしたと信じています。
「漁夫たちは悲しみ、ナイル川で釣りをする者もみな嘆き、水の上に網を打つ者も打ちしおれる。」
新改訳聖書 イザヤ書19章8節
魚釣りはエジプトの別の大きな特産物です。
ナイル川は魚が豊富な場所でした。
エジプトからイスラエルの子供たちが出て行った時、彼らがエジプトで食べていた魚が見当たりません。
もちろん、彼らは魚を食後のデザートとして食べていたのではありません。
神はイスラエルにうずらを送り、肉を与え食べさせました。
彼らは焼いたうずらを好もうとせず、エジプトの魚を好んだのです。
魚は消えました。
今日、魚はナイルの唯一の主産業物ではありません。
この預言は文字通り、成就したのです。
私がエジプトに行った時、私はナイルで釣りをする人たちを特別に見ることが出来ました。
私が見たのは2、3人の人たちが魚釣りをしているのです。
これがエジプトの主産業とは考えていません。
私はフロリダで運河に沿って何百人という人たちが釣りをしているのを見たことがあります。
しかし、私はエジプトでこのように多くの人たちが釣りをしているのを見てはいません。神は魚釣りをする者たちが悲しみ、嘆くことを語っています。
彼らは何も得ることができないからです。
「亜麻をすく労務者や、白布を織る者は恥を見、...。」
新改訳聖書 イザヤ書19章9節
エジプトは亜麻を増やし、彼らは質の良い亜麻布を織りました。
私たちの時代においては、アイルランドが亜麻布を織るのに優れています。
私はかつて、アイルランドの亜麻布工場が1ポンドの束を、18万フィート得ていると語りました。
エジプトは30万フィートの束を得ていました。
およそ、2倍の量です。
それも、シルクのように素晴らしいものです。
漁師が細かく編まれた亜麻布でできた網を作り、その網を手にある輪に通し、引っ張っていたと言われています。
また、エジプト人の亜麻布はイスラエルの荒野にあった幕屋に使われていました。
民はこの素晴らしい亜麻布を買ったのです。
今、神はこの産業物が消えると言っています。
そして、今、確かに消え失せました。
この預言はすでに成就したのです。
「この国の機織人たちは砕かれ、(魚のために)雇われて働く者はみな、心を痛める。」
新改訳聖書 イザヤ書19章10節
漁師全体は姿を消しました。
すでにこの預言は成就したのです。
F.C.ジェニングス博士はこのように言っています。
「すでに言っているように、エジプトの富はナイル川によって特別に成り立っていたのです。
それはこの川が海と呼ばれているように大きなものだったからです。
これら、すべてが消え失せたのです。
「ツォアンの首長たちは全く愚か者だ。パロの知恵ある議官たちも愚かなはかりごとをする。どうして、あなたがたはパロに向かって、「私は、知恵ある者の子、昔の王たちの子です。」と言えようか。」
新改訳聖書 イザヤ書19章11節
ファラオの王家の家系は近親によって成り立ちました。
実際、兄弟が姉妹と結婚したりしていました。
その結果、彼らの子孫は障害を持つ者がいました。
神は次の節のようなことを言っています。
「あなたの知恵ある者たちはいったいどこにいて、あなたに告げ知らせようというのか。万軍の主がエジプトに何を計られたかを。
ツォアンの首長たちは愚か者、ノフの首長たちはごまかす者。その諸族のかしらたちは、エジプトを迷わせた。」
新改訳聖書 イザヤ書19章12、13節
ノフはメンフィスとして、私たちは知っています。
彼らは「エジプトを迷わせた」と書かれています。
私たちはクレオパトラの卑劣な物語を知っています。
彼女はエジプトの王となったのです。
「主が、彼らの中に、よろめく霊を吹き入れられたので、彼らは、あらゆることでエジプトを迷わせ、酔いどれがへどを吐き吐きよろめくようにした。」
それで、頭も尾も、なつめやしの葉も葦も、エジプト人のために、なすべきわざがない。」
新改訳聖書 イザヤ書19章14、15節
これはエジプトは減衰してゆく、はっきりとした描写です、
エジプトは単なる王国になったのです。
この節に書かれていることはエジプトの産業と商業が消えて行くことと一致している表現です。
これは絶えました。
貧しさと不幸はこの国を捕らえました。
イザヤはここにある偽りの宗教、物質的な富を求めること、霊的な力が消え去ることも預言しています。
これらのものが消え去る時、エジプトは単なる王国になる預言が成就しました。
今日、あなたはカイロにゆくことができます。
そして、預言が成就したことを確信することができるはずです。
まだ、成就していない預言
「その日、エジプト人は、女のようになり、万軍の主が自分たちに向かって振り上げる御手を見て、恐れおののく。」
新改訳聖書 イザヤ書19章16節
「その日」というフレーズは未来に起こる部分を表しています。
その日、エジプト人は女のように恐れるのです。
彼らは大患難時代に入る前の状態になるからです。
「ユダの地はエジプトにとっては恐れとなる。これを思い出す者はみな、万軍の主がエジプトに対して計るはかりごとのためにおののく。」
新改訳聖書 イザヤ書19章17節
あなたはこの預言が、エジプトも建てられた建築物を見るならば、私たちの時代にすでに成就していると考えるかも知れません。
カイロ博物館を見るならば、爆弾の攻撃に対しても守られるように頑固な造りをしているのです。
「その日、エジプトの国には、カナン語を話し、万軍の主に誓いを立てる五つの町が起こり、その一つは、イル・ハヘレスと言われる。」
新改訳聖書 イザヤ書19章18節
この部分は主の日の前に完全に成就するのです。
「その日、エジプトの国の真中に、主のために、一つの祭壇が建てられ、その国境のそばには、主のために一つの石の柱が立てられ、
それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。」
新改訳聖書 イザヤ書19章19、20節
「主のために、一つの祭壇」とはいくつかのカルト宗教によってピラミットだと解釈されました。
ピラミットは祭壇、もしくは、柱とも言えます。
しかし、王や王女を葬るための巨大な霊廟なのです。
では「しるし」とは何でしょうか?
何が「しるし」となるのでしょうか?
エジプトはピラミットの三角形の代わりに十字架を見るのです。
「そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は主を知り、いけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。
主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。」
新改訳聖書 イザヤ書19章21、22節
エジプトは素晴らしい未来を持っています。
この国はイスラエルとともに王国を楽しみ、この王国に入るのです。
これは現在の時において、可能に見えません。
神だけがこのことを成せるのです。
「その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。」
新改訳聖書 イザヤ書19章23節
このハイウェイは兵隊や軍隊のためにあるのではありません。
王であるキリストに仕えるためにエルサレムに行く者たちのためにあるのです。
「その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真中で祝福を受ける。」
新改訳聖書 イザヤ書19章24節
王国においてエジプトの立場が褒め称えられることに注意してください。
「万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」」
新改訳聖書 イザヤ書19章25節
軽蔑され、価値のない国エジプトに祝福がやってきます。
20章において、その偉大な国は3年間イスラエルを侵入しようとします。
19章の終わりでは、未来に千年王国でエジプトのために祝福があることを注意して見てください。
この章に書かれていることはすぐにでも起きようとしている未来なのです。
そして、これは神の預言として、イザヤが信頼できることを書いている証明となるのです。
「アッシリヤの王サルゴンによって派遣されたタルタンがアシュドデに来て、アシュドデを攻め、これを取った年、――」
新改訳聖書 イザヤ書20章1節
2005/8/28 PART2に続く