メッセージY2 2005/9/14
イザヤ書 注解 21章〜 (From Thru the
Bible)
By J. Vernon McGee
(The Book of Isaiah)
イザヤ書20章
「アッシリヤの王サルゴンによって派遣されたタルタンがアシュドデに来て、アシュドデを攻め、これを取った年、――」
新改訳聖書 イザヤ書20章1節
タルタンはアッシリア軍の将軍でした。
そのことは第二列王記18章17節で述べられています。
「アッシリヤの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところに送った。彼らはエルサレムに上って来た。彼らはエルサレムに上って来たとき、布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った。」
新改訳聖書 第二列王記18章17節
アシュドデはイスラエル10部族の北王国の町です。
サルゴンはシャルマヌエセルの後を継ぎました。
それは第二列王記17章3節で述べられています。
「アッシリヤの王シャルマヌエセルが攻め上って来た。そのとき、ホセアは彼に服従して、みつぎものを納めた。」
新改訳聖書 第二列王記17章3節
この節はサルゴンの名が唯一聖書の中で述べられている箇所です。
近年、100年ほど前の歴史家たちはサルゴンは存在していなかったと主張し続けました。
彼らは保守的な立場から歴史にはサルゴンの名前がないことから、それを主張していました。
しかしながら、考古学者たちはサルゴンの名前の原型が「シャルキン」ということを発見しました。
多くの歴史を証明する考古物は彼が支配していたことを私たちに示しているのです。
「そのとき、主はアモツの子イザヤによって、語られた。こうである。「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。」それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた。」
新改訳聖書 イザヤ書20章2節
イザヤはイスラエルに対して、歩く「たとえ」となりました。
これはエジプトと連盟を結んではならないという、警告のためです。
おそらく、イザヤには裸になれとは求められていません。
着物を着るということは西方の習慣としては優れているものでした。
そして、裸になるということは反感を持つものであり、決して興味を引くというものでもありません。
イザヤはヨーロッパで嘆きの時の着るツニックを脱ぎ、この預言者はすぐにでも起きようとする出来事と驚くべき行動をしたのです。
これは自分の言おうとすることを公に示すことを可能としたのです。
F・デリッチの言葉がこの点を指摘しいい注解をしています。
イザヤは直接何に対して、このようなことを行ったのでしょうか?
単にイザヤは共通の慣習化した間隔に反抗したのであって、上品だと言われる習慣に対して反抗したのではありません。
「そのとき、主は仰せられた。「わたしのしもべイザヤが、三年間、エジプトとクシュに対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いたように、」
新改訳聖書 イザヤ書20章3節
イザヤははだしで歩き、イスラエルはエジプトで何が起きたのかを知るようになりました。
私たちが語っているように、イザヤ自身が人々に対して、しるしとなり、不思議となったのです。
「アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にし、はだしにし、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れて行く。」
新改訳聖書 イザヤ書20章4節
エジプトが自分自身を守ることができなかったゆえに、エジプトはイスラエルと同盟を結ぶことが可能になりました。
エジプトとエチオピアの両方がアッシリヤの王サルゴンによって侵略されました。
イザヤはこの恥がエジプトから来る事を預言していたのです。
「人々は、クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる。
その日、この海辺の住民は言う。『見よ。アッシリヤの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げて来た私たちの拠り所は、この始末だ。私たちはどうしてのがれることができようか。」」
新改訳聖書 イザヤ書20章5、6節
21章
主題:バビロンへの宣告、海の荒野、エドム、ドマ、そして、アラビア
イザヤは宣告、もしくは裁きを11回しました。
この章の中で7つ目、8つ目、そして9つ目の宣告について、私たちは考えてみましょう。
これらの宣告はバビロン、エドム、アラビアに対して行われています。
これらの宣告は4つの象徴によって表現されています。
これはその時代に、真昼の太陽のようにはっきりと彼らに示されていたと私は確認し、実際にその時代の人たちに明確に理解できたことでした。
アメリカ国旗にある星、縞模様はすべてのアメリカ人にも理解できることです。
しかし、この章にある紋章は今日の私たちに理解できるものではないでしょう。
これらの意味について、聖書の中で表している場所を探したとしても、一致する場所がないという結論になるでしょう。
ただ、言える事はこれらの意味がバビロン、エドム、アラビアとして確認されることであり、この章の中でそれぞれが別々に考えることがでできるのです。
これらすべてはイスラエルの潜在的な敵、もしくは具体的な敵です。
それぞれが神の民に対して、それぞれ特別な惨めな結果を持ってきました。
そして、それぞれがその時代に裁かれたのです。
この章には、神にみことばに対して否定的な箇所があります。
このことを証明するために、私はあなたに問題を出しましょう。
最後の時がいつか、あなたはこの章のメッセージ、もしくは聖書の学びをしたことがあるでしょう。
私はあなたがイザヤ書21章を学んでもいないし、聞いてもいないことに気が付きました。
聖書の別の箇所で、前千年王国主義、前患難再臨説の立場を持つ私の立場を確信しています。
私はデスペンセーション主義に乗っ取った聖書理解をしているのです。
それは唯一の聖書理解であり、これだけがこの節の正しく理解し、満足させることが出来るのです。
その理由として、この章を明確に理解している他のすべての組織が支持しており、他の神のみことばもこのように教えているのです。
この章の注意すべき点は象徴が使われているということです。
今、私は聖書を文字通りに理解することを信じています。
しかし、象徴が使われている時は現実的な描写として使われているのです。
このことを思い出すことは大切なことです。
多くの解説者はそれをはっきりと描写しようとしていません。
手品師のように、手品をして人をだまして悪いと思っていません。
友よ!
聖書のこの箇所を蒸発させてはいけません。
神が何と言っているのか学んでみようではありませんか?
「海の荒野に対する宣告。ネゲブに吹きまくるつむじ風のように、それは、荒野から、恐ろしい地からやって来る。」
新改訳聖書 イザヤ書21章1節
「海の荒野」とは奇妙な表現です。
それは乾いた水と言っているのと同じです。
水がどのように乾くのでしょうか?
これは私たちの知っていることから言うのであれば、特に奇妙なことを言っているわけではないのかも知れません。
ドライアイスは冷たいとも、熱いともいうことができます。
F.C.ジェニングス博士はこの節をこのように訳します。
「西に徹底的に押し寄せるつむじ風のように、それは、荒野から、恐ろしい地からやって来る。」
これはこの節に対する良き注解です。
しかし、それではこの節で言われているのが国であると確認することができません。
もし、あなたが9節で書かれている国を読んで、理解するならば、これは堕落したバビロンです。
私たちは海の荒野がバビロンであることを知っています。
かつて、バビロンは世界の力となったのです。
そして、私たちがすでに学んできたように、バビロンの運命が再び、預言されています。最初のバビロンに対する宣告が13、14章にあります。
バビロンは敬われ、恐れられるようになることが聖書の中に多く、現されています。
そして、私たちはその運命について、更なることばを持っています。
最初に聖書に書かれているのは、バベルの塔に神に対して反抗し、結集したことです。
さして、私たちは最後に神に対して反抗した本拠地が黙示録17、18章に記されていることを知っています。
17章ではバビロンが宗教的に現されており、商業的なバビロンが18章に記されています。
「海の荒野」という表現は矛盾した表現です。
バビロンは地理的にユーフラテス川の横にある大きな平らな砂漠に位置しており、川から運河を使って水を引いていました。
エレミヤはこのようにバビロンを表現しています。
「大水のほとりに住む財宝豊かな者よ。あなたの最期、あなたの断ち滅ぼされる時が来た。」
新改訳聖書 エレミヤ書51章13節
荒野と海はここで奇妙な融合がされています。
黙示録の中でヨハネは荒野と海を同じように融合させています。
「それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録17章3節
ヨハネが不思議なバビロンの姿を見た場所は荒野です。
また、ヨハネの黙示録17章1節にもこのように書かれています。
「また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録17章1節
不思議なバビロンの姿は荒野にあり、ヨハネは大水の上に座っている者として見たのです。
この二つの節は象徴的です。
しかし、これらは同じパターンによって記されています。
私たちはもう一度、エレミヤ書を読み返すなら、このことについてより見ることできるのです。
バビロンは輝きを持ち、魅惑であふれ、偶像崇拝と偽りの宗教の源泉であり、荒野の上にある幻です。
これが海の荒野という表現は偉大さを描写してはいません。
バビロンは素晴らしい場所ではありません。
それは荒野の幻です。
バビロンは温泉でも、オアシスでもありません。
そこは偶像崇拝と偽りの宗教であふれている場所です。
命を与える水も人の命もありません。
あらゆる牧師、ラジオ伝道者、教会、また、あらゆる教会員がバビロンの意思に向かおうとしています。
私たちの教会、もしくは私自身は命を与える泉でしょうか?
私は命の荒野の上にある幻ではないことを願います。
「きびしい幻が、私に示された。裏切る者は裏切り、荒らす者は荒らす。エラムよ、上れ。メディヤよ、囲め。すべての嘆きを、私は終わらせる。」
新改訳聖書 イザヤ書21章2節
神は二つの方面性を持つ国、メゾ・ペルシャに滅ぼし、無益な町にするように命令しています。
「エラム(ペルシャ)よ、上れ。メディヤよ」
正確に何が起きたのでしょうか。
これは預言です。
そこを侵略する前に与えられているのです。
「それゆえ、私の腰は苦痛で満ちた。女の産みの苦しみのような苦しみが私を捕えた。私は、心乱れて聞くにたえない。恐ろしさのあまり、見るにたえない。
私の心は迷い、恐怖が私を震え上がらせた。私が恋い慕っていたたそがれも、私にとっては恐れとなった。」
新改訳聖書 イザヤ書21章3、4節
イザヤが荒廃が来る事を学んだ時、イザヤに再び、大きな感情と感覚の変化が訪れました。
これは神のこころの現われです。
神のこころは恐ろしい敵に裁きを嫌がるように哀れみを示して欲しいと願いです。
神の愛はエレミヤの涙の中にあるようにここにも表れているのです。
神はここで裁きは不思議な働きであると言っているのです。
神はあなたに対して裁きをしようと願っているのではありません。
神はあなたが救われて欲しいと願っているのです。
しかし、それはあなたが選ぶことです。
神は国々を裁くことを願っていません。
むしろ、これらの国々は救われることを選ぶことが出来るのです。
「彼らは食卓を整え、座席を並べて、飲み食いしている。「立ち上がれ、首長たち。盾に油を塗れ。」」
新改訳聖書 イザヤ書21章5節
この節はダニエル書の5章に書いてあるようにバビロンの崩壊を目撃し、説明しているかのように読むことができます。
これはそのことが起きるおよそ200年前に記録されていることを思い出してください。ベルシャザルの宴会の真っ最中にメディア人の将軍、ゴブラヤスは町の中を流れる川を巡回させ、なんと、町の壁の下に流れる川を乾かせ、その上を軍隊が行進して行ったのです。
彼は驚きような方法によって、その町を取りました。
この起こるべき出来事を神は言っているのです。
「主は私にこう仰せられた。「さあ、見張りを立たせ、見たことを告げさせよ。
戦車や、二列に並んだ騎兵、ろばに乗った者や、らくだに乗った者を見たなら、よくよく注意を払わせよ。」
すると獅子が叫んだ。「主よ。私は昼間はずっと物見の塔の上に立ち、夜はいつも私の見張り所についています。
ああ、今、戦車や兵士、二列に並んだ騎兵がやって来ます。彼らは互いに言っています。「倒れた。バビロンは倒れた。その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれた。」と。」」
新改訳聖書 イザヤ書21章6〜9節
町の壁の上にいる監視人は壁の中にいる人たちに何を見たのかを言いました。
監視人は言ったのです。
「私は荒野の上に、ここに来ようとしている人間の戦車と馬が見える。」
メッセンジャーのメッセージは「バビロンが倒れた、バビロンが倒れた」です。
監視人はバビロンの王にこのことばを伝えました。
エレミヤ書51章31〜33節でこのように書かれています。
「「飛脚はほかの飛脚に走り次ぎ、使者もほかの使者に取り次いで、バビロンの王に告げて言う。「都はくまなく取られ、
渡し場も取られ、葦の舟も火で焼かれ、戦士たちはおじ惑っている。」
イスラエルの神、万軍の主が、こう仰せられたからだ。「バビロンの娘は、踏まれるときの打ち場のようだ。もうしばらくで、刈り入れの時が来る。」
新改訳聖書 エレミヤ書51章31〜33節
すべてのバビロンにある神々の偶像は致命的に壊され、地の下に捨てられました。
これは悲しい、同様にすぐに起こるべきしるしです、
バビロンはすべての偶像崇拝の根源です。
「踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ。私はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ。」
新改訳聖書 イザヤ書21章10節
裁きの時の刈り入れ、私たちの主がヨハネの福音書4章35節で言っています。
「あなたがたは、「刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。」と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」
新改訳聖書 ヨハネの福音書4章35節
私たちの主は律法の時代の終わりにこのように言っています。
裁きは再びイスラエルに来たのです。
イスラエルは律法をすでに1500年以上の間、持っているのです。
裁きの時は刈り入れの時なのです。
私はここにある本であなたにこの点を言及したいのです。
それは私たちはエレミヤ書、エゼキエル書、そして、ダニエル書でもしくはヒスロップの著書でバビロンについてより多くを学びたいからです。
ヒスロップの著書の"The Two Babylons"はあなたの知識にさまざまな知恵を加えることができるでしょう。
エドムへの宣告
「ドマに対する宣告。セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」」
新改訳聖書 イザヤ書21章11節
ドマとは誰でしょうか?
ドマとは象徴的な言葉です。
イザヤはこれらの言葉を使って私たちに深い意味を教えようとしているのです。
私たちはすでにそのことを理解しているはずです。
イザヤの使っている言葉は人々にメッセージを送っています。
ドマとはエドムからエを取って発音したものです。
あなたはエドムからエを取ってドマの意味を考えて見てください。
ドマの意味は沈黙です。
私たちの使う沈黙ということばは。イザヤの言おうとしている意図と目的に近づくことが出来ます。
エドムはすでに死んだような沈黙の場所だったからです。
では、セイルの意味は何でしょうか?
それは荒れている、、もしくは毛深いという意味です。
エサウは最初に記された毛深い人なのです。
「最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。」
新改訳聖書 創世記25章25節
エサウは毛深い人であり、セイルの山の中に住みました。
「それでエサウはセイルの山地に住みついたのである。エサウとはすなわちエドムである。」
新改訳聖書 創世記36章8節
セイルには同様にもう一つの意味があります。
それは嵐です。
嵐はこの国を吹き飛ばしました。
沈黙と嵐、これは言葉の遊びであり、メッセージなのです。
エドムははっきりとその国に含まれていました。
その国の外には沈黙と嵐がありました。
この問いかけに二回答えています。
夜回りは何のために夜を過ごしていたのでしょうか?
言い換えれば、どのくらいの夜が過ぎて行ったのでしょうか?
神の栄光の御前にどのくらいの長さがあったのでしょうか?
マラキ書4章2節にある栄光の時まで、どのくらいの時があるのでしょうか?
セイルから叫ぶ声は、神に千年王国の栄光の時まで、どのくらいの時があるのかを尋ねているのです。
「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」
新改訳聖書 マラキ書4章2節
「夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」」
新改訳聖書 イザヤ書21章12節
あなたは朝と夜、その両方が来るのを見たことがあるはずです。
ある者にとって栄光が、その他の者たちには定めの運命の時なのです。
神の民に対する光は、エドム人、そして、神を拒む肉の人には夜なのです。
アラビアに対する宣告
「アラビヤに対する宣告。デダン人の隊商よ。アラビヤの林に宿れ。」
新改訳聖書 イザヤ書21章13節
アラビアに対して書かれたのははっきりしているように思えます。
しかし、再び、これは二つの意味があるのです。
私は発音するポイントを変えることによって、この意味がたそがれという意味になります。
ヘブライ語は、母音のない子音の言語です。
代わりに子音の上に小さなしるしを付けて、母音として読むのです。
そのように学者たちはヘブル語の単語の母音の上にしるしを付けて、読みやすくしているのです。
この章にある意味は明白で、アラビアの歴史にたそがれが来ていることを示しています。そして、これは彼らが考えているよりも後に起きていることです。
アラビアはイシュマエルの国でした。
現在ではアラビアの荒野の部族ベドウィンでしょう。
神は興味深いことを彼らに話しているのです。
アブラハムにはイシュマエルとイサクという二人の息子がいました。
この二人は決して、付き添って生活をしていません。
今日において、彼らの子孫もどちらもともに生活をしようとはしていません。
アラブ族とユダヤ人は、今でも激しく争っています。
もし、アブラハムが現在、何が起きているのかを見ることが出来たのなら、彼は自分の犯した小さな罪について考えるかも知れません。
友よ!
罪は決して消え去るような働きではありません。
罪自身が人間の歴史なのかも知れません。
「テマの地の住民よ。渇いている者に会って、水をやれ。のがれて来た者にパンを与えてやれ。
彼らは、剣や、抜き身の剣から、張られた弓や激しい戦いからのがれて来たのだから。
まことに主は私に、こう仰せられる。「雇い人の年期のように、もう一年のうちに、ケダルのすべての栄光は尽き果て、
ケダル人の勇士たちで、残った射手たちの数は少なくなる。」イスラエルの神、主が告げられたのだ。」
新改訳聖書 イザヤ書21章14〜17節
彼らと彼らの国にさばきが来ました。
この章は詩のように、そしてこころに悲しみを呼び、その悲しみは終わるようには見えません。」
これは、おそらく、神が彼らに黄昏が来ていることを認識した上でこのような美しい表現をしているのかも知れません。
創世記1章5節では、創造の最初の日に朝と夕がありました。
朝が来て、すぐに嘆きの夕が覆ったのです。
新しい日が来たのです。
(ヘブルでは夕方で日が変わります。)
夕は人の失敗で、罪でそして、闇です。
しかし、それは終わります。
義の太陽が昇り、神の朝が取り囲むのです。
22章
主題:幻の谷(エルサレム)への宣告、シャブナとエリヤキムの歴史
エルサレムに対して述べられているのは明白です。
それはこの節のコメントで指摘しています。
この宣告はバビロンと距離を隔てているところから、始まっていますが、彼らは
エルサレムに近づいてくる者として宣告されています。
今、聖都の上にある怒り嵐が降りかかろうとしています。
エルサレムの宣告
「幻の谷に対する宣告。これはいったいどうしたことか。おまえたちみな、屋根に上って。」
新改訳聖書 イザヤ書22章1節
エルサレムの民とはエルサレムのことを述べているのは4、8、9、そして10節を見るのなら明白です。
「幻の谷」という表現は、別のイザヤ書の箇所とは矛盾するような表現です。
幻の山という表現は理解できます。
エルサレムを見るのならば、そこは山として見ることが出来るからです。
モーセは約束の地を見た時、ネボ山に立ちました。
私たちの主はオリーブ山からエルサレムを見渡しました。
しかし、聖書は民を悲しみ、惨めさ、死の場所の象徴として谷を表しているのです。
この谷は悲しみと戦いが来ることを表すための幻です。
丘は繁栄を表す幻です。
危険を促されたのではないかと尋ねた屋根の上にいる人々に、さらに好奇心と恐れが送られました。
イザヤ書36、37章でアッシリヤがエルサレムを手にいれたことを見ることができます。
最後の包囲のことについて、私たちの主は屋根にいる人々に警告を与え、逃げるように言っています。
「そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。」
新改訳聖書 マタイの福音書24章16、17節
「喧噪に満ちた、騒がしい町、おごった都よ。おまえのうちの殺された者たちは、剣で刺し殺されたのでもなく、戦死したのでもない。
おまえの首領たちは、こぞって逃げた。彼らは弓を引かないうちに捕えられ、おまえのうちの見つけられた者も、遠くへ逃げ去る前に、みな捕えられた。
それで、私は言う。「私から目をそらしてくれ、私は激しく泣きたいのだ。私の民、この娘の破滅のことで、無理に私を慰めてくれるな。」」
新改訳聖書 イザヤ書22章2〜4節
「私の民」、それはもちろんイスラエルの民のことを言っています。
「なぜなら、恐慌と蹂躙と混乱の日は、万軍の神、主から来るからだ。幻の谷では、城壁の崩壊、山への叫び。
エラムは矢筒を負い、戦車と兵士と騎兵を引き連れ、キルは盾のおおいを取った。
おまえの最も美しい谷は戦車で満ち、騎兵は城門で立ち並んだ。
こうしてユダのおおいは除かれ、その日、おまえは森の宮殿の武器に目を向けた。
おまえたちは、ダビデの町の破れの多いのを見て、下の池の水を集めた。
また、エルサレムの家を数え、その家をこわして城壁を補強し、...。」
新改訳聖書 イザヤ書22章5〜10節
ヒゼキヤは実際にエルサレムを守るために予防的な対策を行いました。
(第二歴代史32章を見てください。)
これらの予防策の一つとして、彼は水が町に溢れ出さないように町の噴水の周りに壁を作りました。
今日においても、イスラエルでこれを見ることが出来ます。
F.C.ジェニングス博士が主張しているように、この箇所は未来の出来事を述べているのでしょう。
最終的に歴史はエルサレムを敵に渡します。
歴史を見るならば捕囚では、このことがいまだに成就していません。
では、何に包囲され、預言の意図している敵とは誰でしょうか?
ペルシャは名前を指して示されています。
エルサレムはペルシャが政権を持っている時に、滅んでしまいました。
明らかに私たちの前で、すべての敵はエルサレムに対して上って来ました。
ここではアッシリアヤだけがエルサレムを包囲しましたが、町全体を包囲したわけではありません。
北から来る最後の敵はこの町を脅すでしょうが、町全体ではありません。
この二つの出来事の間には時間がそこにあり、これ以上の捕囚があるのでしょう。
これがエルサレムに対する宣告なのです。
シェブナとエリヤキムの例から学べること
ヒゼキヤが支配した時代に、エルサレムに対して書かれた記事から、歴史的な記述を読む出していると、何一つ価値のあることがなく、その事を示す点に不自然な挿入がされています。
多くの者がシェブナが反キリストを描写していると見ています。
しかし、その間に、エリヤキムは反キリストの取って代わって世界を支配する主イエスキリストを描写しているに違いないと考えます。
「二重の城壁の間に貯水池を造って、古い池の水を引いた。しかし、おまえたちは、これをなさった方に目もくれず、昔からこれを計画された方を目にも留めなかった。
その日、万軍の神、主は、「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ。」と呼びかけられたのに、
なんと、おまえたちは楽しみ喜び、牛を殺し、羊をほふり、肉を食らい、ぶどう酒を飲み、「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから。」と言っている。
そこで万軍の主は、私の耳を開かれた。「この罪は、おまえたちが死ぬまでは決して赦されない。」と、万軍の神、主は仰せられた。
万軍の神、主は、こう仰せられる。さあ、宮廷をつかさどるあの執事シェブナのところに行け。」
新改訳聖書 イザヤ書22章11〜15節
シェブナは宝物を守る執事官です。
ヒゼキヤの下で働く、価値のない公務員です。
明らかに彼は金を悪用しています。
(第二列王記18章18節、19章2節、イザヤ書36章3節、37章2節参照)
「あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。ここはあなたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。
ああ、ますらおよ。主はあなたを遠くに投げやる。主はあなたをわしづかみにし、
あなたをまりのように、くるくる丸めて、広い広い地に投げ捨てる。あなたはそこで死ぬ。あなたの誇った車もそこで。主人の家の恥さらしよ。」
新改訳聖書 イザヤ書22章16〜18節
シェブナは自分の名を永遠に残すために墓を建てました。
それは愚かな結果になりました。
彼は外国で死に、そこに葬られたのです。
「わたしはあなたをその職から追放し、あなたの地位から引き降ろす。」
新改訳聖書 イザヤ書22章19節
私はシェブナがまさに反キリストの型であると考えます。
「その日、わたしは、わたしのしもべ、ヒルキヤの子エルヤキムを召し、
あなたの長服を彼に着せ、あなたの飾り帯を彼に締め、あなたの権威を彼の手にゆだねる。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。」
新改訳聖書 イザヤ書22章20、21節
エリヤキムはシェブナの後を継ぎました。
エリヤキムは自己中心的な人間ではありません。
彼とシェブナはここでは対照的に描かれています。
イザヤはこれらの人たちをより、逆説的に描いています。
彼らは反対の立場にいるのです。
シェブナは反キリストを描写しています。
エリヤキムはキリストです。
その言葉自身が型なのです。
「わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。」
新改訳聖書 イザヤ書22章22節
この節は新約聖書にあるキリストのことばを私たちに思い出させます。
フィラデルフィアの教会にある御使いに書き送っています。
「また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。」
新改訳聖書 ヨハネの黙示録3章7節
私の友よ!
なんと素晴らしいことなのでしょうか!
これは主の手にある私たちの立場なのです。
キリストはいくつものドアを開け、そして、閉じることの出来るからなのです。
「わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。
彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。子も孫も、すべての小さい器も、鉢の類からすべてのつぼの類に至るまで。」
新改訳聖書 イザヤ書22章23、24節
私たちの救いはキリストにかかっているのです。
「その日、――万軍の主の御告げ。――確かな場所に打ち込まれた一つの釘は抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取りこわされる。主が語られたのだ。」
新改訳聖書 イザヤ書22章25節
「その日」、私たちが考えているように、それは大いなる患難時代のことを述べています。
そして、この節は反キリストの描写として、シェブナのことを述べているのです。
非常に多くの人たちが反キリストが来るのを期待し、彼に信頼を置くのです。
彼らは反キリストに助けを求めるのです。
彼らは彼をキリストだと考えるのです。
しかし、彼の釘は抜かれ、落ちて行くのです。
友よ!
あなたは釘を壁に打ったことがあるでしょうか?
そして、重たいコートをそれに掛けたことがあるでしょうか?
主イエスキリストは確かなところに釘が打たれ、そして、抜かれました。
シェブナの釘は抜かれました。
他のすべての者も彼と同じようです。
あなたはそのようなある場所に掛けられ、釘が打たれたことがありますか?
多くの人たちがないはずです。
実例として話すのであれば、
ある人たちが投資をしていました。
そして、私の信頼している法律家が私に語りました。
しかし、彼は失敗を犯したのです。
彼は確かな場所に釘が打たれていなかったのです。
さらに、ある集まりがある説教者を信頼していましたが、その説教者に確かな場所に釘が打たれていないことを知りました。
つまり、人間には確かな場所に釘が打たれておらず、確実に信頼するに値しないからです。
しかし、主イエスキリストだけが確かな場所に釘が打たれたのです。
私はあなたの人生とあなたの持つすべてのものをキリストの上に掛けられることを希望しています。
23章
主題:ツロへの宣告
この章は11番目のそして、国々対する最後の宣告を私たちに伝えています。
宣告、私たちが考えているように、それは裁きです。
そして、この宣告はイスラエルの周りにある国々に対して向けられているのです。
それぞれの偉大な国はいくつかの原則、哲学、もしくは組織を代表し、置かれているのです。
神はこれらを裁かなければなりません。
私たちはこれらの11の国々とこれらの国々が表している内容について考えてみましょう。
1、バビロンは偽の宗教と偶像崇拝を表しています。
偶像崇拝は私たちは国では熱望されています。
この偶像崇拝はこの世界に蓄積された物質欲を、私たちにより多く与えようと私たちを覆いつくすのです。
2、パレスチナは真実の信仰が背教化してゆくことを表しています。
今日において、多くの教会に同じことが起きていることを見ることができるはずです。
彼らは律法主義に走ります。
そして、彼らはもう一度、使徒になろうとします。
主の祈りを告白するでしょう。
彼らは外見上は聖書にとどまっているように見えます。
しかし、現実には聖書に書かれている、あらゆることを否定するのです。
現実には彼らは背教なのです。
それは彼らがかつて、信じていることから離れてしまったことを意味しています。
3、モアブは形式的な宗教を表しています。
彼らは見かけ上は信仰的な姿をしているかも知れません。
しかし、その力、内容を否定しているのです。
今日、私たちの多くはこれら三つのことの存在を認めています。
私たちのある者は、私たちは命は物質的な蓄積されてと言います。
そして、私たちの目は私たちの欲しいもので満ちています。
私たちは貪欲です。
私たちのある者は聖書を信じる教会に身を投じるでしょう。
しかし、相続すべき教えから離れて行くのです。
また、私たちの他の者は教会に行き、その外見、儀式、そして、その律法主義に従うのです。
見た目は美しいかも知れませんが、模型の鳥のように死んでいるのです。
4、ダマスコは和解を表しています。
これは今日の多くの教会の立っている立場です。
(特に根本的だと主張している教会です。)
これらの教会ゆえに神に感謝します。
彼らは真実に立っているかです。
5、エチオピアは奉仕を表しています。
私たちには神のみことばを手に入れる必要があるのです。
6、エジプトは世を現しています。
イスラエルはエジプトから出て行くように語られています。
そこはアブラハムが問題を起こした場所です。
そして、私たちには訓戒されています。
世を愛してはいけません。
私たちの多くはこの世に問題を持っているのです。
7、ペルシャ(バビロン)は栄華を表しています。
私たちの多くはこの豊かな社会にある栄華を愛しているのではないのでしょうか?
8、エドムは肉を表しています。
今日、多くの人々が肉に仕えているのです。
9、アラビアは戦争を表しています。
私たちの現在の社会に二つのグループがあります。
タカ派とハト派です。
この二つはこの世界に存在していますが、その違いは一つだと私は見ています。
平和のために平和なグループは平和を語り、もう一つはそのために喜んで戦うことを語ります。
10、幻の谷は、エルサレムは信仰を表してはいません。
それは政治を表しています。
ある人たちは政治がこの世の数々の問題を解決できると考えています。
11、ツロは商業(大きな商売)を表しています。
私は今日、アメリカにある商業主義がアメリカの罪であると言うことができます。
ある人たちは私たちにある多くの問題が巨大なドルによって解決できると信じています。問題が私たちに来た時、議会票はわずかな金のために動きます。
そして、もちろん、その人たちは金を得ようとしているのではありません。
すべての貧困問題は貧しさを助けたことよりも、苦痛を受けてしまいました。
なぜでしょうか?
それは神を知らない人たちには正しい解決方法を持っていないからです。
また、貧しさはこれを、学ぶことはできません。
それは彼らが神から離れているかです。
主イエスキリストが愛を持って貧しい者に愛を持ち、実際にどのように助けるべきかを教えています。
今、私たちはツロへの宣告を見てましょう。
ツロとシドンはフェニキアにある二つの大きな町でした。
シドンは母なる町であり、プライドと贅沢という危険はツロの町よりも凌ぐ町でした。
フェニキアの船は地中海のすべての港に入って行きました。
さらに、地図に載らない海を超えて、ヘラクレスの柱(スペインとモロッコの間の海峡)の向こうへと突き抜けて行きました。
フェニキアの船はイギリスからスズを持ってきました。
事実、イギリスの国の名前の由来はスズの国です。
フェニキア人は活発で前進的な人たちです。
北アフリカにあるカルタゴは彼らによって建てられた町であり、ローマの大いなる敵であり、フェニキア人の町です。
その町はサイプラスの所有で、ツロと取引によって栄えた町です。
同様にそこにはフェニキア人によって見つけられた他の中心的な町があります。
例としてタルシュシュを上げることができます。
あなたはヨナが主から逃げようとしたことを覚えているでしょうか?
彼はタルシュシュ行きの船の旅券を手に入れたのです。
タルシュシュはスペインの南海岸にあります。
誰がタルシュシュを見つけたのでしょうか?
フェニキア人によって見つけられました。
そして、同様にフェニキア人によってアルファベットが創案されたことは面白いことです。
ツロの王ヒラムはダビテ王の大いなる友の一人です。
私たちがエゼキエル書26章を見る時、ツロに関する注意すべき預言を見ることができます。
この預言は正確に成就しました。
神はユダが70年間捕囚にあったように、ツロに対してもバビロンによって崩壊され、70年間捕囚に合うと言いました。
ツロの民はイスラエルのように自分たちの国に帰ってきました。
彼らは捕囚の後、地中海にある古い町から半マイルほど離れた場所に自分たちの町を建て直しました。
神はエゼキエル書26章4節で古い町についてこのように言っています。
「彼らはツロの城壁を破壊し、そのやぐらをくつがえす。わたしはそのちりを払い去って、そこを裸岩にする。」
新改訳聖書 エゼキエル書26章4節
後に、アレキサンダー大王がツロの古い町をゴミの山にし、島への道を造りました。
彼は賢い方法を取り、海での戦いを避けたのです。
フェニキア人は船乗りとして達人なのです。
アレキサンダーは本島にある古い都市から、島にある新しい町へと道を造りました。
私はその道を下り、そこで壊れた陶器のかけらで満ちているのを見ました。
私の持っているいくつもの入れ物は壊れた陶器でいっぱいになりました。
しかし、もちろん、誰もそのようになるように導いたのではありません。
私は、そのひとかけらをわたしのポケットの中に入れました。
それはこれらのかけらをいろんな人に分け与えるため、より多くを持って行こうとしたからです。
どこで柱や瓦礫がこのようなかけらになったのでしょうか?
それは古代のツロが滅びて、このような結果になったのです。
アレキサンダーは文字通り、古い町の表面にあった建物をゴミの山にして、海の道を造ったのです。
あなたは古いツロがどこにあったのか語ることはできません。
そのすべてが海の道の中にあるからです。
エゼキエル書26章14節にはこのようにあります。
「わたしはおまえを裸岩とする。おまえは網を引く場所となり、二度と建て直されない。主であるわたしが語ったからだ。――神である主の御告げ。――」
新改訳聖書 エゼキエル書26章14節
友よ!
今日では小さなトルコ人の町が近くにあるだけです。
古代のツロの町は滅んでしまいました。
もし、無神論者が神のみことばを無効にしたがるなら、私はその人が街角に立ちたがり、神のみことばを信じるなと言いたがると思います。
私は彼に古代のツロと再建された町に行くように勧めたいと思います。
しかしながら、私は同時に彼に他の者を連れて行ったりしないように警告するでしょう。
彼の思惑は失敗するからです。
実際、そこはすばやく造られた町であり、ペトラの岩を切り抜いてできた町です。
それらすべてはすぐに移動できるように準備された町でした。
そして、何よりも唯一の問題は、神はそこに人が住めなくなると言ったという問題です。
ドイツの不信仰な者はペトラの民の集まりを得て、植民地化しようと試みました。
しかし、それは長くは続きませんでした。
あなたはそのどちらも成功しないと思うでしょう。
友よ!
神はツロが再建され
ないと言い、ペトラには人が住めなくなると言っているのです。
ツロの崩壊に対する神の責任
「ツロに対する宣告。タルシシュの船よ。泣きわめけ。ツロは荒らされて、家も港もなくなった、とキティムの地から、彼らに示されたのだ。」
新改訳聖書 イザヤ書23章1節
ここに描写されているのはタルシシュからツロへ帰ってきた船のことを言っています。
タルシシュはフェニキア人の植民地です。
彼らに与えられた言葉はツロがすでに滅ぼされたことです。
彼らが近くを公開しているので、彼らは町から上る煙を見ているのです。
すでに町は倒され、港には入ることができません。
もはや、この大きな商業の中心地は存続することができなくなったのです。
「海辺の住民よ。黙せ。海を渡るシドンの商人はあなたを富ませていた。」
新改訳聖書 イザヤ書23章2節
シドンはツロからおよそ30マイル離れたところにあります。
ツロとシドンは豚がえさを食べるように近いところにあったのです。
これらの町はフェニキア人が導いた町なのです。
シドンの優れた海で商業をするものたちがツロを偉大な町にしました。
ツロの崩壊に関する預言が文字通りに成就したことは興味深いことです。
しかし、シドンに対しての預言はされていません。
シドンは今も、現存する町です。
現在では、シドンはオイルを船上に積み、世界中の他の場所に輸出する場所なのです。
「大海によって、シホルの穀物、ナイルの刈り入れがあなたの収穫となり、あなたは諸国と商いをしていた。」
新改訳聖書 イザヤ書23章3節
シホルの意味は黒でナイル川の上流に位置する場所です。
その泥流はエジプトを洪水にて豊かにしているのです。
エジプトの富はツロの港を通して、あふれているのです。
それが今、終わっているのです。
そこでは現実の場所としては、静まりかえっているのです。
「シドンよ、恥を見よ、と海が言う。海のとりでがこう言っている。「私は産みの苦しみをせず、子を産まず、若い男を育てず、若い女を養ったこともない。」」
新改訳聖書 イザヤ書23章4節
ここで言おうとしているのはツロがシドンの娘だということです。
これは歴史家たちが正確に語っています。
「エジプトがこのツロのうわさを聞いたなら、ひどく苦しもう。」
新改訳聖書 イザヤ書23章5節
その時代、ツロの崩壊はエジプトの商業の滅びを意味していました。
「海辺の住民よ。タルシシュへ渡り、泣きわめけ。」
新改訳聖書 イザヤ書23章6節
ツロの崩落は世界的な悲しみを生みました。
さらに移民はスペインの南海岸へと渡りました。
ネブカネネザルが街を滅ぼした時、あるツロの住民たちはタルシュシュへ船で逃げました。
「これが、あなたがたのおごった町なのか。その起こりは古く、その足を遠くに運んで移住したものを。」
新改訳聖書 イザヤ書23章7節
その町のいくつかの商業の中心地は非常に愉快な街だったのでしょう。
その街にはいくつもの肉を喜ばすものがあったでしょう。
今、ツロ人たちは出来るだけ遠くに逃げるように促しています。
かつての楽しみの街は終わったからです。
「だれが、王冠をいただくツロに対してこれを計ったのか。その商人は君主たち、そのあきゅうどは世界で最も尊ばれていたのに。」
新改訳聖書 イザヤ書23章8節
王冠をいただくツロ、その意味は直轄殖民地という意味です。
ツロは王冠に輝く植民地だったのです。
近年にも大英帝国(イギリス)はおなじことを行いました。
法律の下に直轄殖民地を置き、王国の権限の元に管理しました。
というよりも、単に植民地を自分たちの所有にし、代議政治を行いたかったのです。
「万軍の主がそれを計り、すべての麗しい誇りを汚し、すべて世界で最も尊ばれている者を卑しめられた。」
新改訳聖書 イザヤ書23章9節
万軍の主はツロの崩壊を決断しました。
神は何か協定を結び、弁解をする方ではありません。
ツロの崩壊に対する、人間の責任
「タルシシュの娘よ。ナイル川のように、自分の国にあふれよ。だが、もうこれを制する者がいない。」
新改訳聖書 イザヤ書23章10節
ナイル川は川に岸にあふれていました。
ツロの植民地は今、自由です。
ツロは崩壊し、ツロは制するものがありません。
ゆえに、タルシシュの娘は喜んでいるのです。
「主は御手を海の上に伸ばし、王国をおののかせた。主は命令を下してカナンのとりでを滅ぼした。」
新改訳聖書 イザヤ書23章11節
あなたはツロの三つの方面から見た描写に気が付いているでしょうか。
7節でツロのことを「おごった町」と呼んでいます。
8節では「王冠をいただくツロ」と呼ばれています。
同様に「商人」の町とも呼ばれています。
これら3つはツロのことを描写した表現なのです。
「そして仰せられた。「もう二度とこおどりして喜ぶな。しいたげられたおとめ、シドンの娘よ。立ってキティムに渡れ。そこでもあなたは休めない。」」
新改訳聖書 イザヤ書23章12節
4節で示されたことは何をここで宣言しようとしているのでしょうか?
ツロはシドンの娘です。
シドンはツロに見つけ出されて以来の古い町であり、商人の町です。
この威厳はツロから与えられたものです。
繁栄の喜びは消え去りました。
ツロとシドン、両方が苦しむのです。
「キティムに渡れ」、おそらく、キプロスに逃げることにより、彼らは元気を取り戻そうとしたのでしょう。
しかし、これは彼らを失望させる結果となります。
彼らに起きたことはに神から発していることでした。
神は人間を道具として使ったのです。
「見よカルデヤ人の国を。――この民はもういない。アッシリヤ人がこれを荒野の獣の住む所にした。――彼らは、やぐらを立てて、その宮殿をかすめ、そこを廃墟にした。」
新改訳聖書 イザヤ書23章13節
当時、アッシリヤは大きな国でした。
カルデヤ人の国(バビロン)は田舎の町です。
今、バビロンは世界の支配者なのです。
「タルシシュの船よ。泣きわめけ。あなたがたのとりでが荒らされたからだ。」
新改訳聖書 イザヤ書23章14節
部分的なツロの回復、そして、完全なツロの回復。
「その日になると、ツロは、ひとりの王の年代の七十年の間忘れられる。七十年が終わって、ツロは遊女の歌のようになる。」
新改訳聖書 イザヤ書23章15節
ツロは70年間、捕囚状態になりました。
「「立琴を取り、町を巡れ、忘れられた遊女よ。うまくひけ、もっと歌え、思い出してもらうために。」
七十年がたつと、主はツロを顧みられるので、彼女は再び遊女の報酬を得、地のすべての王国と淫行を行なう。」
新改訳聖書 イザヤ書23章16、17節
70年の終わりになると、ツロは再び、世界に対して商売を始めます。
ツロは再び、世界の商業的な中心になるのです。
ツロは地上にあるすべての王国と姦淫を行うようになると書かれています。
預言は聖くない取引で遊ぶツロを遊女と比べています。
今、私たちは時代を最後の時代、大患難時代に移します。
そこで、私たちはツロが大きな国になり、千年王国に入るのを知ります。
「その儲け、遊女の報酬は、主にささげられ、それはたくわえられず、積み立てられない。その儲けは、主の前に住む者たちが、飽きるほど食べ、上等の着物を着るためのものとなるからだ。」
新改訳聖書 イザヤ書23章18節
ツロの商売は「主の前に住む者たち」のためになるのです。
今、すべてが主に捧げられます。
詩篇にはこのように書かれています。
「ツロの娘は贈り物を携えて来、民のうちの富んだ者はあなたの好意を求めよう。」
新改訳聖書 詩篇45編12節
24章
主題:来ようとしている大患難時代
今、私たちは新しい箇所に動かされます。
しかしながら、さらにここに裁きがあります。
23章で国々は裁きという結果になりました。
私たちは神が国々に雪玉式に裁きを行なうことを知りました。
今、ここで、この地上に最後の裁きが来ようとしているのです。
この時代を主イエスキリストはこの時代を大患難時代と呼んでいます。
F・デリッチとF・C・ジェニングスの両者はこの終末論全体について考えました。
それは神から来る最後の裁きのことを述べているのです。
神はこの裁きを世界全体に来させるのです。
対照的に13〜23章においても国々においても裁きが描写されていました。
そのほとんどがすでに成就しました。
しかし、最後の裁きのほとんどが未来に成就します。
神から来る世界レベルの裁き
「見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。」
新改訳聖書 イザヤ書24章1節
この節にある「地」という言葉"erets"のヘブル語の意味はむしろ、イスラエルの地、もしくは世界全体を示しています。
この章を見るならば、世界全体という意味に適応させる方が良いでしょう。
実際に、裁きは二つの方面から言うことが出来ます。
イスラエルの国だけのことを言っているのではなく、世界全体のことを言っています。
「民は祭司と等しくなり、奴隷はその主人と、女奴隷はその女主人と、買い手は売り手と、貸す者は借りる者と、債権者は債務者と等しくなる。
地は荒れに荒れ、全くかすめ奪われる。主がこのことばを語られたからである。
地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。天も地とともにしおれる。
地はその住民によって汚された。彼らが律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破ったからである。
それゆえ、のろいは地を食い尽くし、その地の住民は罪ある者とされる。それゆえ、地の住民は減り、わずかな者が残される。」
新改訳聖書 イザヤ書24章2〜6節
神はノアに決して洪水によって、再び滅ぼさないと約束しました。
ペテロの手紙第二3章6、7節ではこのように書かれています。
「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二3章6、7節
「新しいぶどう酒は嘆き悲しみ、ぶどうの木はしおれ、心楽しむ者はみな、ため息をつく。
陽気なタンバリンの音は終わり、はしゃぐ者の騒ぎもやみ、陽気な立琴の音も終わる。
歌いながらぶどう酒を飲むこともなく、強い酒を飲んでも、それは苦い。
乱れた都はこわされ、すべての家は閉ざされて、はいれない。
ちまたには、ぶどう酒はなく、悲しみの叫び。すべての喜びは薄れ、地の楽しみは取り去られる。
町はただ荒れ果てたままに残され、城門は打ち砕かれて荒れ果てる。」
新改訳聖書 イザヤ書24章7〜12節
聖徒たちの守り
13〜15節では聖徒たちが大患難時代の間、守られることが記されています。
「それは、世界の真中で、国々の民の間で、オリーブの木を打つときのように、ぶどうの取り入れが終わって、取り残しの実を集めるときのようになるからだ。
彼らは、声を張り上げて喜び歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ。
それゆえ、東の国々で主をあがめ、西の島々で、イスラエルの神、主の御名をあがめよ。」
新改訳聖書 イザヤ書24章13〜15節
残りの者は少数ですが、栄光ある神へ彼らの声を上げるのです。
彼らは大患難時代の間が試みの時となるのです。
この時こそが、彼らにとって神に賛美をし、イスラエルの主なる神の御名を呼び求めることが可能になる時です。
そのように、ここにいる残りの民はイスラエルなのです。
同様に海の向こうにいる者たちは、もちろん、この地上全体を指しています。
世界的な、そして、比べることの出来ないほどの苦しみ
「私たちは、「正しい者に誉れあれ。」という地の果てからのほめ歌を聞く。しかし、私は言った。「私はだめだ、私はだめだ。なんと私は不幸なことか。裏切る者は裏切り、裏切り者は、裏切り、裏切った。」」
新改訳聖書 イザヤ書24章16節
「私はだめだ、私はだめだ」
ここで預言者は大患難時代の恐ろしい性質について語っています。
ジェニングス博士が「私は惨めだ、私は惨めだ」と訳しているように、自分の惨めさを語っています。
これは恐ろしい時なのです。
私たちの主はこの時のことを強い口調で語っています。
「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。」
新改訳聖書 マタイの福音書24章21、22節
「地上の住民よ。恐れと、落とし穴と、わなとがあなたにかけられ、」
新改訳聖書 イザヤ書24章17節
この節はその日にこの地上に住む住民の上に三つの危険があると宣言しています。
1、「恐れ」
そこにある恐れから逃げ出すことは出来ません。
大西洋戦線休戦時に、ウィンストン・チャーチルとフランクリン・ルーズベルトによって、この世界にある恐れからどのように開放させる方法について話されました。
どのようにしたのでしょうか?
今日、この世界は恐れから逃げることが出来たでしょうか?
暴徒は行進し、失望と恐れはどこにでもあります。
大患難時代、そのおそれは数倍にも倍増するするのです。
2、「落とし穴」
それは死の危険です。
今日、原子爆弾の危険が満ち、世界の人々に対して死の恐ろしさであふれています。
神は世界の人たちに滅んで欲しくはないのです。
イエスは次のように言っています。
「もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。」
新改訳聖書 マタイの福音書24章22節
3、「わな」
それは欺きです。
主イエスキリストは大患難時代に適応するためにオリーブ山で話し始めた時、何を話したでしょうか?
マタイの福音書24章4節で主イエスは言われました。
「人に惑わされないように気をつけなさい。」
新改訳聖書 マタイの福音書24章4節
千年王国に入ることを信じる者たちに、その時のことを話しているのです。
私たちは今日、千年王国に至らせるような世界的な指導者たちは誰か考えたことがあると思います。
よろしいでしょう。
彼らは千年王国に至らせることはできません。
しかし、反キリストが大患難時代に至らせるのです。
世界は指導者たちが千年王国に至らせることができると考えます。
実際は彼らは大患難時代に至らす結果になるのです。
そして、反キリストがそれを支配します。
このような考えの一つに反キリストは欺く者だという考えがあります。
彼はペテン師です。
究極的に、彼は悪魔を父としているのです。
今日、どのくらい多くの者たちがこの者にだまされているのでしょうか?
彼らは命について、だまされています。
どのくらいの人が永遠について考えるでしょうか?
多くはありません。
多くの人たちが単に、この瞬間、この場所でのことしか考えていません。
科学は今、創造者についての説明を拒んでいます。
創造者を求めていません。
あなたは科学によってだまされるのです。
あなたは政治によってだまされるのです。
あなたは軍事によってだまされるのです。
あなたは今日、反抗し、不満を持つ者たちによってだまされるのです。
主イエスだけがあなたを助けることを可能とするのです。
彼に立ち返りなら、彼は私たちに知恵を与えることができます。
主イエスだけが唯一の希望なのです。
患難時代に人々はだまされます。
反キリストは世界と個人を見つめこのように言うのです。
「お人好し!」
この人たちはいったい何なのでしょうか!
悪魔は人間について、長い間言い続けています。
「キリストには立ち返るなと!」
「その恐れの叫びから逃げる者は、その落とし穴に落ち、落とし穴からはい上がる者は、そのわなに捕えられる。天の窓が開かれ、地の基が震えるからだ。」
新改訳聖書 イザヤ書24章18節
この死の落とし穴からはい上がる者はわなに捕らえられます。
黙示録を開くなら、人口の4分の1の人たちが大きな裁きから取り出されることが記されています。
しかし、別の時に人口の3分の1の人たちが死ぬと記されています。
患難時代の聖徒たちは死からよみがえる。
これは聖書の中でも驚くべき章です。
復活について話されています。
「地は裂けに裂け、地はゆるぎにゆるぎ、地はよろめきによろめく。
地は酔いどれのように、ふらふら、ふらつき、仮小屋のように揺り動かされる。そのそむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。
その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる。
彼らは囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じ込められ、それから何年かたって後、罰せられる。」
新改訳聖書 イザヤ書24章19〜22節
彼らは死に下るでしょう。
そして、その時、彼らは死からよみがえるのです。
私は患難時代の聖徒たちが最初の復活のときによみがえることを教えていると信じています。
彼らは死からよみがえるのです。
「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」
新改訳聖書 黙示録20章4節
大患難時代は王の到来によって終わるのです。
「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。
天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。」
新改訳聖書 黙示録19章11〜16節
「月ははずかしめを受け、日も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである。」
新改訳聖書 イザヤ書24章23節
「月ははずかしめを受け、日も恥を見る。」
自然界は王の支配者としての到来に反応します。
イエスキリストだけが大患難時代の期間を知り、終わらせることの出来る方です。
25〜27章
主題:王の到来
2005/9/14続く