メッセージAO 2023/7/15
レビ記の捧げ物
By H.A.Ironside
https://www.brethrenarchive.org/people/harry-a-ironside/pamphlets/the-levitical-offerings/
目次訳者による前文
レビ記のささげ物を調べてました。
KJV聖書でも不十分な訳があるとおりに、多くの者のユダヤの儀式、ささげ物に対する理解が足りないようです。
A.J.ポロック著の幕屋という本が、伝道出版社から出版されていました。
ネット、本屋では絶版扱いですが、伝道出版社のサイトで購入することが出来ます。
https://dendoshuppan.shop-pro.jp/?pid=158012499
A.J.ポロック著の幕屋の原文もネットにありましたが、ここで出版物と同じものを置くのに抵抗がありました。
ここでは、H.A.Ironside氏のレビ記を紹介します。
型として深くというより、私たちのキリストを強調しています。
全焼のささげ物
レビ記1章、6章8節〜13章7節、8章;
申命記 33章8〜10節、詩編40章、エペソ人への手紙5章1〜2節
多くのクリスチャンにとって、全焼のささげもののテーマは馴染み深いものですが、神の愛するとても多くの人々が、キリストの人格と御業を驚くべき型としては、注意深く学ぼうとはしていません。
これらはレビ記の始めに、5つの異なった型として描かれて、これらは十字架の御業の様々な側面を現わし、その業を成し遂げた人の栄光を展開しています。
また、これらの型はキリストは神の子と人の子の両方において、神のようにすばらしい人間であると同時に、人としての神を両立していることを理解することができるのです。
また、これらのささげ物には、私たちが新約聖書で述べられている、私たちのために与えられた、偉大で驚くべき真実が、驚くべき方法で描写されており、私たちが黙想するのなら、私たちの魂に対して、大きな助けとなるのです。
学ぼうとしているこれらの型から、教理を見つけることはできません。
しかし、私たちは新約聖書にある教理をここから見つけ、旧約聖書の型の中から、素晴らしい真実を見出すことができるのです。
これらの5つのささげ物はいろいろな方法で見分けることができます。
最初に、私たちは5つのささげ物の中で4つが、血を流すことを含んでいるささげ物であることが理解できます。
全焼の捧げ物、和解のいけにえ、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえです。
あとは、これらのの罪のための供え物とは異なり、なだめの香りのささげ物になります。
これらを区別する神の正当なわけは、学んでいくうちに明確になると信じています。
ここでまとられている5つの供え物は、私たちに私たちの恵まれた主イエス・キリストの人格と業績の多面的な素晴らしい姿を示しているのです。
これらの供え物はキリストが神であると示し、彼は恵みによって、罪人のために死なれたことをも示しています。
そして、この罪人は彼に信頼し、神に愛された者として御前に立つことができるのです。
もし、詳細に書くのであれば、ここにある多くの事柄のように、私たちは難しいこととして理解しがちです。
しかし、ここでは神の御前にある心と、黙想、祈りの機会を与えようとしているのです。
私たちはそれを求め、私たちは神の御言葉が、何を言おうとし、私たちの救い主により近くなると確信できるのです。
そして、その御言葉によって、型として、あらゆるささげ物を理解しようとするのであれば、キリストの十字架が詳細に表れていることがわかるのです。
レビ記の最初の7章で、私たちはこれらの型を理解し、神の観点から見ることができます。
つまり、神はキリストについて、最も価値のあることを、私たちに最初に与えてくださり、これらは十字架の御業の最も価値のある型であり、モザイクのように組み合わさった仕組みの中に見つけることができるのです。
そして、私たちは穀物のささげ物、和解のいけにえ、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえへと下ってゆくのです。
また、これらの型はは、キリストの御業の最初の側面であり、私たちの魂に多くの者に対して利益になります。
通常、罪を犯した罪人が、救いを求めて神の御元に来るとき、罪人は自分の悪行について考えます。
そして罪人の魂の中に生じる疑問は、「私は自分の罪を深く意識しているのに、神はどのようにして私の罪を赦し、私を平安のうちにご自身のもとに受け入れてくださるのでしょうか」と問います。
「私は、本当に犯してしまった違反、罪に対して自覚しているのか?」
私たちの多くの者が、神の恵みが初めて私たちの心に届いたときのことを覚えているのです。
私たちは罪に対して悩み、神からの距離を遠くに置こうと考えます。
そして、大きな疑問が働きます。
「どのようにしたら、私たちの罪を取り除くことが出来るのだろうか?
どのように邪悪な感覚から、自由を得ることができるのだろうか?
どのように、私たちは神との平安を持ちながら、神に対して犯してしまった悲劇的な罪過と、神の聖い戒めを破壊し、それを感じ続けたのだろうか?
私たちの多くは「神は主イエスの十字架の御業によって、私たち自身では到達できないところへ進みことができることを、私たちは決して忘れてはならないのです。
私たちは喜びに満ちて歌ったときのことを覚えています。「主に対する私の咎はすべて聖められた。主に対する私の負い目はすべて支払われた。主を信じる者はみな、永遠の命を持ちますと主は言われた。」
これは罪過のためのいけにえの真実です。
罪は返済されるべき借金である側面がありことを理解し、私たちは十字架の御業を少し高い視点から、見始めることが出来るようになりました。
私たちは罪を、借金が清算を必要とする負債と考えるのではなく、それ自体が汚れた不浄なものであり、唯一聖い方である神との交わりから、私たちをふさわしくないものにしてしまうものであることを知りました。
そして、少し少しですが神の聖霊が別の贖いの側面を開こうとしています。
私たちの祝福された主が、私たちの邪悪性を取り除いただけではなく、私たちの汚れさえも取り除いたのです。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
コリント人への手紙第二 5章21節
私たちの魂の歴史において、もっとも驚きべき瞬間です。
私たちは永遠に救われたのです。
聖なる方が偉大な捧げものになり、カルバリの十字架で私たちの罪となったことを神は現わしています。
しかし、そこには別のレッスンがあり、私たちはそれを学びました。
やがて、人間は罪のゆえに神と敵対する者であり、交わりのための正しい土台が得られるまでは、神との交わりはあり得ないことを私たちは知りました。
神と人間が完全な楽しみと幸せな満足の中で出会うには、キリストの十字架がなければなりません。
このように、私たちはキリストの御業の平和の捧げ物の側面に入り始めたのです。
私たちは神御自身が、交わりに導いていることを知りました。
その交わりは主イエスの死によって神と和解した救われた罪人としてのみ、可能なのです。
同様に、私たちは救い主が行った御業の価値をより学ぶことができます。
また、私たちはその働きをした方を、ますます夢中になっていることに気づかされます。
初めは、私たちの罪に関して平安を与えてくれたのは血の価値でしたが、続けていくうちに、私たちは神ご自身の何を求めているのか知り、楽しむことを学びました。
これこそが穀物のささげ物です。なぜなら、ここで私たちは、その完全さのすべてにおいてキリストを、神と人が一つの栄光に満ちた姿を見ることができ、私たちの心はキリストの美しさに魅了され、喜びで彼自身を喜びをもって味わうことができるのです。
私たちは今、このある女詩人が歌ったときの意味を理解することができます。
「彼らは音楽を使って私に話しかけています。
柔らかい祝歌、ハープ、ヴィオール、御天使たちの合唱、、
これらすべてを私は聞かずにいることもできますが、、
私の気まぐれな心を掴んだ、その羊飼いの声の歌は、私は聞かずにはいられず、心に訴えてきます。」
「ああ、主はとても正しいお方です。
追放された人々に優しく、その笑顔はとても優しいのです。
彼らは主に出会いもしましたが、この地上には彼らの休み場所はありません。
主を見た者たちは、神の右から遠く立ち上がり、彼らを歓迎し、故郷と土地を忘れていながら、公正なエルサレムを望んでいるのです。」
冷たい形式主義者にとっては、これらすべては神秘的で大げさに見えるでしょうが、キリストを真に愛する人にとって、それは最も冷静な現実なのです。
そして今、もう一つの、私たちには、全焼のいけにえに示されている、主の人柄と御業について考慮すべき側面が思い出されます。
年月が経つにつれ、私たちの中には、初めは自分たちの魂でさえ気づかなかった何かを、、
最初は弱々しいが、おそらくもっとおおきな輝かしい充実感をもって、理解し始めた人もいます。
さらに、たとえ私たちが十字架上のキリストの御業によって救われなかったとしても、その御業には、神にとって罪人の救いよりもさらに意味のある非常に重要な何かがあったということです。
神は人を創造され、人に栄光をお与えになりました。
「主の公平さは比類のないものであり、教理問答では「人間の主な創造の目的は神の栄光を讃え、永遠に神を喜ぶこと」なのです。
「しかし、残念なことにも、どこにおいても、神に名誉を帰する者がいなかったのです。
ダニエルがバビロニアの王ベルシャザルを告発した内容は、私たち、みんなに当てはまるのです。
「あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。」
ダニエル書5章23節
神は、あらゆる事の中から、キリストに栄光を十分に帰する者を見つけなければならないのです。
神はここでひどく不名誉な扱いを受けています。
神が地上の統治権を託した最初の人、そして、彼の子孫たちによって、絶えず誤って伝えられ、ひどい不名誉扱いを受けてきたのです。
ゆえに、神に栄光を帰することを十分にできる者が必要だったのです。
神の人格によって、神の正しさが立証されなければなりません。
主イエス・キリスト、第二の人間、天国からの主はそうすることができた唯一の人なのです。
キリストの完全な従順な死によって、神の性質による要求を完全に満たし、神が悲しく誤解されていた場面においても、完全に神を栄光に帰することができたのです。
これが全焼のいけにえに表された十字架なのです。
その十字架によって、神が人間の堕落によって失った以上の栄光が神に帰せられました。
私たちは、十字架に架かったキリストの犠牲によって、一人の罪人が救われたのならこのように言うことが出来ます。
「神は罪に対して完全に栄光を受けており、神格にはどのような汚点も帰することもできません。
神の罪を憎む性質、神の聖さの中にある光について、永遠に疑問が生じることはありえません。」
レビ記において、全焼のいけにえは最初にでてきます。
それは、神に対して非常に価値のある事ですが、それ以上に私たちにとっても更なる価値のある事なのです。
ある者たちは、4福音書とこの素晴らしい方法で示された、血のある捧げものとどのような関係があるのか?問いかけるかも知れません。
マタイはキリストの御業の罪過のいけにえとしてのの側面を説明しています。
つまり、罪人が神への債務を初めて認識した時、キリストは罪人に出会うのです。
そこには謙虚に、罪の負債に対する考えが大きな位置を占めていることがわかります。
レビ記において、神の政治の秩序に対して反する(侮辱する)ものと見ることができるのです。
マルコの福音書では、汚れたもの、聖に反するものとして側面が描かれ、十字架が罪のささげ物ということを私たちに強調されています。
ルカの福音書では、私たちは神と人との交わりの基礎を、和解のいけにえとして見ることができます。
14〜16章において、神の限りにない恵みにおいて、キリスト御自身が邪悪な罪人との交わりに入って行ったことを示しています。
そして、なんと多くの人たちが、神の哀れみを拒み、神との平和を知ることが無かったことを知ることができます。
ヨハネの福音書では、私たちの主イエスキリストが全焼のいけにえとして、汚れのないご自身を神にささげ、なだめの香りのいけにえとして描かれています。
それが、ヨハネの福音書に恐ろしい苦しみの叫びについて言及されていない理由なのです。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
マタイの福音書27章46節
そこには罪過ののためのいけにえと、罪のためのいけにえとしてのキリストの御業の側面が、実際には含んでいます。
しかし、キリストの死のあるところに来ることはできません。
キリストにこれほど名誉なき扱いを与えた世界に、神の完全な栄光が現れることが出来ません。
穀物のささげ物は4つすべての福音書に見ることができます。
いろいろな手段を通して、私たちはキリストの現わされた人格を知ることができます。
マタイではイスラエルのメシアとしてのキリスト、
マルコの福音書ではヤハウェの僕として苦しみを味わったキリスト、
ルカの福音書ではでは、完全な人格を持ったキリスト、
ヨハネの福音書では神の子が人となられたキリストを見ることができます。
私たちはこれらのことを、すぐにでも父なる神との交わりを現実に楽しむため、価値ある事柄として扱うことが出来るのです。
現実的なクリスチャン生活において、私には、交わりが非常に敬虔ぶった感情と考え方だと思う時期もありました。
そして、これらの感情が目的を持っており、私は毎日の実際の祈りの本の中で、私は自分の考えを見つけることができており、よく日記に書き留めていました。
それが、私には非常に魅力的て厳粛だった信仰とは、異なった感覚のように思えていたのです。
数年後、私は、聖書と出会い、いままでのこの奇妙な信仰を、信じてきたことに気が付いたのです。
この思い上がった考え、そして、彼らが神との交わりの結果だと思っていたのです。
神は私の信仰心において光を見つけ、継続的な交わりにの中に現実にいるとわかったのです。
私の魂における神との交わりは、神の御子に関する神への思いを知ることです。
あなたは、親しい母親に生まれたばかりの赤ちゃんを預けられた家に行ったことがありますか?
あなたはどのように、その親しい母親とコミュニケーションをとるのでしょうか?
あなたは、おそらくいろんなことを語るでしょうが、あなたが小さな子供について聞くまで、あなたは敏感な母親の心に触るようなことは言うことができません。
そして、突然、彼女は明るい表情であなたに、素晴らしい赤ちゃんでしょうと語りだすのです。
あなたと彼女の関係は正常に戻ります。
それはお互いにとても忙しい生活を送っていたからです。
彼女に預けられた子供は、短い期間でしたが彼女を信頼していました。
全宇宙の神は、永遠のすべての時代において、神に祝福された御子において、キリストの喜ぶが見出されるためです。
私はあなたにキリストについて語りたいのです。
私が見出したキリストの御業と祈りは私にとって十分に価値のあることを、私はキリストにおいて見出したのです。
そのより優れた喜びをあなたにも理解してほしいのです。
そして、聖所の外で主の声はモーセを呼んだように、このレビ記を開いてほしいのです。
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
マタイの福音書3章17節
このように素晴らしい栄光に満ちた神の声が聞こえてくるのです。
幕屋の中から、哀れみの座の上に着座されている神の栄光があります。
「主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。
イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。」
レビ記1章2、3節
注意してください。
ここでは罪深い人間に対する言葉がありません。
この説明は、すでに神との契約関係にある者が、感謝に溢れて書いているのです。
神はすべての事柄をキリストについて語られることに至らせようとします。
神にはそれを証明することが出来ます。
なぜなら、神の祝福された御子について何らかの形で語られない限り、私たちが何を神にもたらそうとも、神に喜びを与えるものは何もないからです。
全焼のいけにえの価値は、自発的に行われていることです。
ここでは、律法とか、なにか要求されていることはありませんが、神の前に何らかの形で表現したいと願う感謝に満たされた心こそが、供物を捧げることにつながっているのです。
そしてその普遍性に注目してください。
「誰でも」と書かれています。
つまり、誰でも、それを捧げることができるのです。
あらゆる人が神の身元にやってきて、神は御子の御業を知らせようとします。
ここでは3つに区分された捧げものについて述べています。
「もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。
その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。
その人は主の前で、その若い牛をほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。
また、その全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい。
祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを整えなさい。
祭司であるアロンの子らは、その切り分けた部分と、頭と、脂肪とを祭壇の上にある火の上のたきぎの上に整えなさい。
内臓と足は、その人が水で洗わなければならない。祭司はこれら全部を祭壇の上で全焼のいけにえとして焼いて煙にする。これは、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。」
レビ記1章3〜9節
「しかし、もし全焼のいけにえのためのささげ物が、羊の群れ、すなわち子羊またはやぎの中からなら、傷のない雄でなければならない。
その人は祭壇の北側で、主の前にこれをほふりなさい。そして祭司であるアロンの子らは、その血を祭壇の回りに注ぎかけなさい。
また、その人はそれを部分に切り分け、祭司はこれを頭と脂肪に添えて祭壇の上にある火の上のたきぎの上に整えなさい。
内臓と足は、その人が水で洗わなければならない。こうして祭司はそれら全部をささげ、祭壇の上で焼いて煙にしなさい。これは全焼のいけにえであり、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。」
レビ記1章10〜13節
「もしその人の主へのささげ物が、鳥の全焼のいけにえであるなら、山鳩または家鳩のひなの中から、そのささげ物をささげなければならない。
祭司は、それを祭壇のところに持って来て、その頭をひねり裂き、祭壇の上でそれを焼いて煙にしなさい。ただし、その血は祭壇の側面に絞り出す。
またその汚物のはいった餌袋を取り除き、祭壇の東側の灰捨て場に投げ捨てなさい。
さらに、その翼を引き裂きなさい。それを切り離してはならない。そして、祭司はそれを祭壇の上、火の上にあるたきぎの上で焼いて煙にしなさい。これは全焼のいけにえであり、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。」
レビ記1章14〜17節
これらのささげ物のこれらの程度は、ささげる者の能力に関係があります。
その者が雄牛を捧げる能力があるのであれば、雄牛を捧げることができます。
もし、その者が羊か、子羊を捧げる能力があれば、子羊を捧げます。
そして、より貧しい者たちは山鳩を捧げるのです。
キリストについてすべての人が語っていますが、私たちのある者はキリストへの信頼が欠けているかも知れません。
私たちはキリストに価値付けし、キリストを愛し、私たちはキリストに信頼し、私たちは山鳩を持って神にささげ物を持って行きます。
私たちはキリストを天的な存在として知っています。
そして、鳥が捧げものが天に属するだと語っているのです。
それは地より高く舞います。
他の人たちも、もう少し十分に理解しているので、私たちは羊の群れを捧げます。
私たちはキリストの中に献身的な姿を見ることが出来ます。
「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。」
使徒の働き8章32節
もしくは、イエスはヤギとして表現されています。
それは、恵みにある罪人を描写しています。
他の人たちはより、主の人格とその御業について、さらに高く、より完全に理解しています。
私たちはキリストの中に、すべてのことにおいて神の御心を行うことを喜びとする、強くて忍耐強い牡牛の姿を見ることができます。
牡牛と羊の群れとの扱いには、大きな違いがありませんが、私たちが山鳩持ってくる時、考えるべき違いがそこには必然的に起きます。
3節から9節までを考えてみましょう。
「もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。」
レビ記1章3節
1911年訳聖書では"that it may be graciously received from him before the Lord."
「主の御前において、栄光をもって、その者から受け取られるでしょう」と書かれています。
牡牛、文字通りに若い牛は、忍耐強いのしもべの姿が描かれています。
モーセの律法にはこのように書かれています。
「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」と書いてあります。
コリント人への手紙第一9章9節
使徒パウロは神に仕える奉仕について、つまり神の民のために食べ物を用意しておきながら、自分の糧に必要なものを拒まれてはいけないと語っているのです。
私たちの祝福された主は忍耐深い牡牛であり、収穫された穀物なのです。
キリストは「奉仕されるために来たのではなく、奉仕するために来た方」彼は多くの人たちの代価として自分の命を与えるために来た完璧なしもべでした。
そして、良く見てください、牛は傷のない雄でなければなりません。
型として見るのであれば、雌は服従について語られますが、むしろ、雄は神の義の認証について語っています。
私たちの主イエスは、この地上を歩んだ中で、唯一、イエスは死に向かうという目的を選ぶという、認められた立場を歩まれた方です。
イエスにはシミ、汚れ、失敗、罪などの欠点は見当たらなかったのです。
捧げる者は、全焼のいけにえに汚れがないことを現わさなければなりません。
「自分には何の価値もありません。
私は罪と失敗でいっぱいです。
しかし、神の御前にささげる傷のない牡牛は、神に祝福された御子について語っているのです。」
価値のないささげ物が、価値あるものとして受け取られるのです。
「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」
エペソ人への手紙1章6、7節
言い換えるのであれば「神は私たちを愛する者を、愛をもって受け入れてくださったのです。」
注意すべき点として、神に受け入れられるとは、私たちの信仰深さに従うのでもなく、私たちの熱意に従うのでもなく、私たちの献身的な思いに従うのではなく、神の最愛の御子を通して従うことなのです。
神の恵みによって、自分には何の価値もないことが分かるようになった私たちは、キリストのうちにすべての価値を持っています。
この4つの節に強調されています。
人はささげる者として、祭司の前に立ち、彼の手は全焼のいけにえの上に自分の手を置きます。
その人は自分で、屠られた犠牲が自分自身であることを認めるのです。
その信仰の手は、キリストの上にとどまり、キリストは私の立場にあることを知るのです。
すべての者がキリストに、キリストが私のために、これからは神は、私を神の中にあると見てくださるのです。
キリストの生涯によるのではなく、キリストの死によってです。
私たちはこのように読みました。
「その人は主の前で、その若い牛をほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。」
レビ記1章4節
私たちは牡牛が殺されることが、我々の必要だということを知りました。
すなわち、私たちは皆、キリストの死と関係があるのです。
人々は一般的にこのことを認識できますが、個人的な認識という手を置くことに失敗してしまいがちです。
イエスが私の身代わりに死んでくださったこと、たとえ世界中に他に罪人がいなかったとしても、イエスは私の身代わりに犠牲者としてご自身を差し出したと思います。
イエスの尊い血の価値が私に適用され、そして私が神の御前に受け入れられているのです。
神は、ご自分がなさったすべてのこと、そしてご自身のすべてにおいて、神なのです。
レビ記6〜9節において「その全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい」と書かれています。
皮については後ほどお話しますが、それに関連する貴重な真実があります。
いけにえの部分は水で洗われます。
木の祭壇の上に置かれ、火で焼かれ、神の御前に至るのです。
「これは、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である」と書かれており通りです。
「水で洗われる」とは、キリストの御存在がキリストのあらゆる部分において、神の御言葉に適応されていることを表しています。
キリストは完全に聖い方で、聖霊のエネルギーの中にある神の御言葉の力に制御されていたのです。
そして、ささげ物から神の御前に甘いなだめの香りが生じるのです。
キリストは、感情を込めてこのように言うことができたのです。
「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」
詩編119編8節
キリストには清めのために御言葉が必要だったわけではありません。
キリストこそが、唯一聖い方なのです。
さらに、キリストはすべてにおいて御言葉に従順でした。
それはキリストは人と認められ、神の栄光に帰するためでした。
「祭司はこれら全部を祭壇の上で全焼のいけにえとして焼いて煙にする。」
レビ記1章9節
全焼のささげものは、真実に唯一な犠牲となられた方なのです。
残りのすべてには、祭司またはささげた者のために取っておかれます。
しかし、この特別なケースがあり、すべてが神に委ねられました。
なぜなら、十字架の働きのこの側面には、神だけが完全に理解し、認識できる何かがあるからです。
レビ記7章8節には明らかな例外が1つあります。
「祭司が、ある人の全焼のいけにえをささげるとき、そのささげた全焼のいけにえの皮はその祭司のものとなる。」
レビ記7章8節
犠牲のあらゆる部分が祭壇で焼かれ、その皮はその祭司のものとなりました。
これは本当に貴重ことです。
それはあたかも神が、祭司に「私はキリストのうちに自分の持ち分を持ちなさい」と言われたのです。
キリストはすべてのことを私のために、私の心の最愛です。
私は私の喜びすべてを見つけました。
今、私はあなたにこの羊毛を手に取り、包まってほしいのです。
全焼のささげものでできた皮で服を着てください。
それは神の御前で受け入れられた素晴らしい描写なのです。
私たちは全焼のいけにえの皮を着ているのです。
羊の群れのささげ物について、詳細に述べる必要はほとんどありません。
私たちがすでに見ているように、それは雄牛のささげ物と実質的に同じ方法で扱われたからです。
しかし、山鳩に関連する捧げものに対しては、さらに考えられることがあります。
私たちはこのように読んでいます。
「 祭司は、それを祭壇のところに持って来て、その頭をひねり裂き、祭壇の上でそれを焼いて煙にしなさい。ただし、その血は祭壇の側面に絞り出す。
またその汚物のはいった餌袋を取り除き、祭壇の東側の灰捨て場に投げ捨てなさい。」
レビ記1章15、16節
鳥、ここで私たちはキリストが天に属する方だと言うことを知っています。
そして、キリストは天から、この場面に帰ってくるのです。
ここにある描写が他のささげ物と同じように関係性を持ち、満足させられるようなことは決してありません。
しかし、キリストの死が繰り返し、十分なほどに強調されているのです。
ささげ物が祭壇の上に置かれる前に、収穫と羽がむしり取られ、灰の代わりに投げ込まれます。
鳥から羽を剥ぎ取るということは、次のことを示唆しています。
私はこのように信じています。
部分分けしたということは、イエスが十字架の死に至るまで、イエスの栄光、美しさは、イエスが十字架の死によってもたさられた謙遜な恵みにあって、謙虚な姿を見ることが出来るのです。
作物をむしり取る行為は間違いなく神の自発性を物語っています。
自然を楽しみ奉仕するすべての者のためのすべてを放棄しています。
私たちは時々歌いますが、おそらく、弱々しく意味で歌っているのかも知れません。
あなたに全てを明け渡します。
あなたに全てを明け渡します。
すべてあなたに、、
私の尊い救い主、、
あなたに全てを明け渡します。
聖歌565(英日訳)
しかし、もし、私たちが立ち返るのであれば、その私たちの心への訴えは。キリストの恵みにある立場を真実に語っているのです。
キリストはすべてを明け渡しました。
彼はすべてを、すべてを私のために、私の尊い救い主、彼はすべてを明け渡したのです。
「ついで主はモーセに告げて仰せられた。
「アロンとその子らに命じて言え。全焼のいけにえのおしえは次のとおりである。全焼のいけにえそのものは、一晩中朝まで、祭壇の上の炉床にあるようにし、祭壇の火はそこで燃え続けさせなければならない。
祭司は亜麻布の衣を着なさい。また亜麻布のももひきをその身にはかなければならない。そして、祭壇の上で火が焼き尽くした全焼のいけにえの脂肪の灰を取り出し、祭壇のそばに置きなさい。
祭司はその装束を脱ぎ、別の装束を着けて、脂肪の灰を宿営の外のきよい所に持ち出しなさい。
祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。かえって、祭司は朝ごとに、その上にたきぎをくべ、その上に全焼のいけにえを整え、和解のいけにえの脂肪をその上で焼いて煙にしなさい。
火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。」
レビ記6章8〜13節
ここで、全焼にいけにえが律法だということを知りました。
それは祭司が儀式のこの箇所を実行するときに、どのように行動するべきかを教えています。
最初の章において、私たちはキリストの御業、そして、人格を神が描写し、それが何なのか?より目的をもって得ることができます。
しかし、律法のささげ物、これらすべてが私たちに与える影響と私たちと私たちの魂がどのように、そこに立ち入るべきか?より目的を持っていることを知ります。
6章において、私たちは祭司が白い衣服を着ているのを見ることができます。
祭司の衣服は、キリストにあって、私たちの義について話しかけ、実際に私たちを特徴づけるのです。
神を敬いながら、全焼のいけにえの灰を拾い上げて祭壇の横に置きます。
灰ははっきりと命がないことを語っています。
「完了した。」
ヨハネの福音書19章30節
火のささげ物の灰は、キリストの御業は完了したことを語っています。
キリストはくるしまれましたが、二度と繰り返されることはありません。
神はキリストの御業において、十分な栄光を受け、その御業は通り過ぎて行き、その御業は神へのなだめの香りのささげ物となったのです。
旧約聖書の時代、火が祭壇の上に常に存在し、それは決して、持ち出されるものではありません。
なぜなら、一つのささげ物が絶えず次のささげ物に続き、和解のいけにえと罪と罪過のいけにえも同じ火の上に置かれたからです。
神の要求を完全に満たす十分な価値のある犠牲がまだ現れなかったため、その働きは、決して終わることなく、完了することはなかったのです。
だが、今、神に感謝します。
祭壇の火の炎は消え、御業は完了し、その働きの効力は、全て永続するのです。
私たちの魂が、それを大いに楽しむことができますように、、
詩編40編では、実際の全焼のいけにえについて書かれています。
「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。」
詩編40編6節
私たちは賛美の声を聞きます。
キリストの御業の様子を聞いて、私たちの魂は喜ぶのです。
私たちもその完全に満たされ、その中に入ることができますように、、
申命記33章では、神の油そそがれた祭司たちの主な仕事は、神の祭壇に全焼のいけにえをささげることであったことが分かります。
このように、新しい時代の聖い祭司としての私たちも、キリストとの関わり、そして神の働きの様相に満たされ、最初の喜びを見出すことができますように。
穀物のささげ物
レビ記2章、6章14〜23節、詩編16編、ヨハネの福音書6章33節
私たちはすでに気が付いていると思いますが、穀物のささげ物は他の4つの血のある捧げものと違う存在です。
ここには命の問題ではなく、その部分は甘い香りのために祭壇の上で燃やされました。
KJV聖書では、この特有のそなえものに付けられた訳の名前では「肉のささげ物」です。
しかし、私たちはかつて、この者たちが肉という単語を血のある動物に使ってましたが、果物の果肉というように、肉が必ずしも動物の肉ではありません。
ここにあるささげ物の種類は、動物の肉のことを指しているわけではありません。
それは、粉と油からなる食べ物、または乾燥させた実の緑の穂と油からなる食べ物のそなえ物なのです。
また、このささげ物は十字架の上で罪人のために、犠牲となった私たちの救い主のことを語っているのでもありません。
キリストが行おうとしていた目的にしたがって行動していたことを思い出してください。
受肉した神の永遠の御子以外に、神が来て、行った、偉大な働きを達成することのできた者はいません。。
神が、御子についてどのように評価されているかを深く考えることは、私たちの魂にとっても、計り知れない価値があります。
前の章で暗示していたように、私たちはこのようにして御父との交わりに入るのです。
詩編の作者がこのように言っています。
「私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。」
詩編104編34節
驚くべきキリストの栄光の人格ともに、私たちは熟考するならば、これは実際に証明されることなのです。
主は十字架の上でその御業の効力によって、私たちに主の完全な力を心に置きつづけているのです。
多くの人々がこのように言っています。
「人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身のしろ金を神に払うことはできない。
――たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。――」
詩編49編7、8節
これは文字通り、詩編からの引用です。
8節はKJV聖書において、不十分な訳がなされています。
「彼らの魂の償いは、高価であり、永久に止みます。」
何が永久に止むのしょうか?
私がちょうど今与えた翻訳は、それを全くわかりやすくします:
その翻訳は、私が今与えたようにはっきりしています。
「永久にあきらめなくてはならない!」
「永遠に放っておかなければならない!」。
誰かが贖いの御業に対して、何かをしようとしても無駄なことなのです。
人間の力によって、何か影響を与えることが出来たのならば、偉大なことです。
「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。」
しかし、キリストは、あらゆる人が味わおうとしてしている死の味の苦しみを味わられ、神の御子キリストは御使いよりも小さく低くなられました。
キリストは永遠に聖いお方で、完全に人となられ、罪なく、汚れないお方なのです。
自分の兄弟を救い出し、彼の身のしろ金を神に払うことができるのはキリストだけです。
これは、ヨブが叫んだとき、ヨブが切望したものと同じです。
「私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。」
ヨブ記9章33節
そして、彼のためにエリフが語っています。
「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た。」
私たちは今、キリストご自身に心を奪われます。
そして、私は、まさに神のパンであったこの驚くべきキリストの描写を学びながら信頼を置きます。
父なる神が喜んで与えられた食物で、私たちはより満たされようようとします。
私たちを救ってくださった神について、これまで以上に明確な概念を持つようになるのです。
穀物のささげ物は、常に全焼のいけにえと関連しています。
神はキリストの人格とその祝福された御子の働きが切り離されることを許しません。
この二つはともにつながっていなければなりません。
しかし、覚えておいてください!
この聖なる歩み、私たちの主イエス・キリストの献身的な生涯は、罪を取り除くことはできなかったのです。
救いはキリストの死によって、注ぎだされ、完成されたのです。
イエスは彼の手の中にある杯を通して、交わりを維持しました。
「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」
ルカの福音書22章20節
この血は罪が赦されるために、あなた方のために流されたのです。
キリストの死から離れたキリストの生涯は、私たちの極度の罪深さを大胆に浮き彫りにすることことしかできません。
これにより、キリストの聖い行いは、イエスと私たちの間での対比がより鮮明になります。
しかし、キリストの血は私たちのために流され、私たちが永遠に生きるために、捨てられた命であり、死が注がれました。
キリストの聖い歩みとキリストが捧げものになったことは十分に一致します。
その二つはともにつながっているのです。
神の愛する多くの人々は
私は、神の愛する人々の多くが(少なくとも一時的には)さまざまな間違ったシステム(カルトなど)に導かれていると確信しています。
もし、彼らがこれらのシステムの本当の性質を知ってさえいれば、恐怖のあまり間違いから背を向けるはずです。
そこには私たちの主イエス・キリストに関する邪悪な教えが存在しているのです。
私は数年前、カルフォルニアで結婚した若い夫婦と合ったことを覚えています。
彼らは熱心な聖書研究者として私に紹介されました。
彼らはクリスチャンとしての経験において、とても明るくて、健全な人のように見えましたが、彼らはある書籍販売人によって、一組の本から多くの助けと情報を得ているとすぐに私に話しだしたのです。
問い合わせると、すぐに、私は、その書籍が「ミレミアム・ダウン」と知られているものだと知りました。
私は、その本を読んだかと尋ねると、彼らは「良い本だ!その中に素晴らしい教えを見つけた」と言ったのです。
私は、彼らにここに祝福と真実のいくつかの教えがあると答えましたが、しかし、それは実際には苦い剤錠に砂糖をコーティングしたようなものです。
彼らの教えは私たちのキリストとその働きと人格には不健全な教えだったからです。
私は、私たちの祝福された主の教えについて、いくつかの本から指摘しました。
その内容は、キリストが世に来られる前に、キリストは神ではなく、宇宙にある最も高いつくられた霊だと語っています。
そして、受肉され、人間となられ、霊的な性質を放棄し、キリストは、その人間性によって、破滅への道を歩み、十字架に架かったと教えていました。
この本の著者は、「人間であるキリスト・イエスが死ぬことが必要だっただけでなく、二度と生き返ることがなく、同様に、永遠に死んだままであることも必要であった」と語っています。しかしながら、これらの本は「神の性質にあずかった新しい存在が墓から出てきた」ことを教えています。
そして、その存在は「今は神ですが、神ではない」とも、教えています。
そして、ある日、選ばれたグループの支配者が、自分自身と同じ性質の参加者となり、イエスの償いの働きを完了するのを手伝うというのです。
彼らは、私がこのシステムの教えを正しく表現したとは信じていませんでした。
しかし、彼らの中の正直な人たちは、家に帰って、私が与えた参考文献を調べ、自分たちの聖書と比較したのです。
彼らは数日後に私のところへ行きました。
そして、私をこの参考文献を置いて言いました。
「もし、あなたが他の者たち使うことができたら、私たちは感謝します。」
私たちは、ひざをかがめて主に尋ねます。
私たちの主イエスキリストに冒涜を犯すこのようなシステムとかかわってきたことが永遠に赦されますように、、
私たちは、これらの本を本当に教えるつもりはなかったです。
「このように、彼らは完全に救われました。
彼らは全体が凶悪なシステムから恐怖で立ち返ったのです。」
「あなたはキリストについてどう考えるか?」は、正統なキリスト教とは異なるものを持っている人すべての者が尋ねる最初の質問です。
もし人々が、間違って教えを持っているおり、それに従うのなら、彼らの全体が間違っているのです。
すべてを知る必要はありません。
すべてが悪なのです。
これらを判断するには、システム全体が悪なのです。
もし、私たちがキリストに正しいと思うなら?
もし。私たちが主に忠実でありたいのであれば、これらの教えが私たちの主イエスについて偽りであると言っているということで十分で、全体を拒否出来るのです。
穀物のささげ物の中には、キリストの祝福された御人格がどのように描かれているか?私たちは学んでみましょう。
「人が主に穀物のささげ物をささげるときは、ささげ物は小麦粉でなければならない。その上に油をそそぎ、その上に乳香を添え、
それを祭司であるアロンの子らのところに持って行きなさい。祭司はこの中から、ひとつかみの小麦粉と、油と、その乳香全部を取り出し、それを記念の部分として、祭壇の上で焼いて煙にしなさい。これは主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。
その穀物のささげ物の残りは、アロンとその子らのものとなる。それは主への火によるささげ物の最も聖なるものである。」
レビ記2章1〜3節
これら穀物のささげ物は神の食物ですが、ささげ物が小麦粉(キリストご自身について語っています)で作られていたことに注目してください。
主婦の皆さんは、小麦粉いうのは荒い粒の入っていないものであることは知っていますね!
これは神がイエスの人間性を描いた姿です。
すべてが、完全に調和を保っており、罪が私たちの貧しい堕落した人類にもたらした罪の粗さはまったくありません。
私は、何度も考えましたが、神が人間の性質を描写しようとするのであれば、神はスチールカットの古いオートミールの一掴み要求だと思います。
私たちの人間性を表現するならそんなものです。
なぜなら、私たちの中には、荒く、粗雑な粒がたくさんあるからです。
しかし、ああ、キリストの中に明らかにされたのは完璧さです。
次に、小麦粉の上に油が注がれ、その上に乳香が添えれるのを観察します。
油は常に聖霊の型です。
キリストは油注がれた者です。
「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。」
使徒の働き10章38節
イエスに油を注がれたのは、ヨルダン川でバプテスマの直後に起こりました。
父なる神は満足し宣言したのです。
「また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」」
マタイの福音書3章17節
この父なる神にとっては、これはまさに乳香の香りです。
その純粋な小麦粉は完全性を表し、その上に油が注がれたのです。
「神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」
マタイの福音書3章16節
そこには乳香とともに、甘いアロマがあり、言いようのない美しいほどの香りがありました。
その香りはキリストの歩んだ道を特徴づけています。
歌の中で花嫁がこのように言ったのも不思議ではありません。
「あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。それで、おとめらはあなたを愛しています。」
雅歌1章3節
マリアの行動は実際にこの型を成就しています。
「ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。」
マタイの福音書26章7節
2節では、このささげげ物がアロンの息子たちである祭司たちに持って行かれたことを、私たちは読んでいます。
祭司と司祭は、ひと掴みの取り出して、オイルと乳香とともに祭壇の上で記念として燃やします。
それは主イエスにあって、甘い香りの火のささげ物となるのです。
これが神の食べ物なのです。
その時、祭司たちはその残りを食べるのです。
そう、神と神の贖いの祭司たちは、キリストの完全性とともに、それを楽しむのです。
これこそ、本当の交わりです。
これの節を細かく読んでゆくのであれば、非常に興味深いところがあります。
「あなたがかまどで焼いた穀物のささげ物をささげるときは、それは油を混ぜた小麦粉の、種を入れない輪型のパン、あるいは油を塗った、種を入れないせんべいでなければならない。
また、もしあなたのささげ物が、平なべの上で焼いた穀物のささげ物であれば、それは油を混ぜた小麦粉の、種を入れないものでなければならない。
あなたはそれを粉々に砕いて、その上に油をそそぎなさい。これは穀物のささげ物である。
また、もしあなたのささげ物が、なべで作った穀物のささげ物であれば、それは油を混ぜた小麦粉で作らなければならない。
こうして、あなたが作った穀物のささげ物を主にささげるときは、それを祭司のところに持って来、祭司はそれを祭壇に持って行きなさい。
祭司はその穀物のささげ物から、記念の部分を取り出し、祭壇の上で焼いて煙にしなさい。これは主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。
穀物のささげ物の残りは、アロンとその子らのものとなる。これは主への火によるささげ物の最も聖なるものである。
あなたがたが主にささげる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。パン種や蜜は、少しでも、主への火によるささげ物として焼いて煙にしてはならないからである。
それらは初物のささげ物として主にささげなければならない。しかしそれらをなだめのかおりとして、祭壇の上で焼き尽くしてはならない。
あなたの穀物のささげ物にはすべて、塩で味をつけなければならない。あなたの穀物のささげ物にあなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのささげ物には、いつでも塩を添えてささげなければならない。」
レビ記2章4〜13節
これらの節を読んでいくと、気を引く特徴があることに気が付きます。
ささげ物を準備するのはいろんな方法があるということです。
4節では「かまどで焼いた穀物」、
5節では「平なべの上で焼いた穀物」、
7節では「なべで作った穀物」、
明らかに火の上にあることを証明しています。
様々は方法で、熱がなにを起こすかを表現しています。
おそらく、私たちの祝福された主の主題とも言える、激しい多くの試みについて語っていると思われます。
キリストの完全性が十分に測られるために、必要な試みだったのす。
再び、4節において、穀物のささげ物は「油を混ぜた小麦粉の、種を入れないパン」もしくは「種を入れないせんべい」で構成されなけれはならないとされています。
最初に、私たちはキリストは処女の通して人間の姿をとったことを知っています。
私たちには完全で人がいます。そして、人は神と一つです。
その方は聖霊を宿し、そう、油は小麦粉と混ぜられたのです。
この節のその場合においても、キリストには油が注がれています。
このように、神は私たちのために、その両面から真理を強調しているのです。
キリストは人間の父親に依らず、聖霊によって生まれました。
それは、キリストが公の生涯に入るために、聖霊が注がれたのです。
穀物のささげ物には従がうことのできないいくつかの事柄があることに注目してください。
これらの二つの節には、私たちは「パン種を入れてはならない」と話されており、11節にははっきりとこのように書かれています。
「あなたがたが主にささげる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。」
レビ記2章11節
それは私たちの救い主キリストの人間的な性質において、シミ無き方であることが語られているのです。
パン種は聖書の中で常に悪を現わしています。
このことは、旧約聖書と新約聖書の両方において、非常にはっきり型として適用されています。
コリント人への手紙第一ではこのように書かれています。
「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」
コリント人への手紙第一5章7〜8節
昔の敬虔なイスラエル人が、過越の祭りの準備のために熱心に家中を探し、パン種を取り去りました。
同様に、クリスチャンには、自分の心と生活の中にあるあらゆる悪を裁き、十字架の働きに照らしてそれをすべて取り除くことが求められているのです。
しかし、コリント人への手紙第一、及びガラテア人への手紙の中でこのように書かれているのを読むことが出来ます。
「わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。」
ガラテア人への手紙5章9節
つまり、少しの罪、もしくは少しの悪い教えが、裁くこともせずに、取り除かれずにいるのであれば、証し全体を腐らせることになるのです。
もう一度、私たちは主が、どうしてこのような言葉を使ったのか思い出すべきです。
「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」
マルコの福音書8章15節
「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」
マタイの福音書16章6節
パリサイ人のパン種は偽善と自己義認、サドカイ人たちのパン種のパン種と悪い教理、偽の教え、ヘロデのパン種とは世俗と政治腐敗です。
聖書の中で、パン種が何か良きシンボル、型として使われた箇所はありません・
「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」
マタイの福音書13章33節
ここでも、パン種を三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ますと、例えを使って語られています。
この例えは福音の広がりを表していると、多くの者によって語られています。
このパン種は「女が取って」と書かれていますので、どこかにしまっておかれたのでしょうか?
福音はどこかにしまわれていたわけではなく、至る所で公然と語られています。
イエスがこのように言っています。
「隠れて話したことは何もありません。」
ヨハネの福音書18章20節
イエスに従う者たちにとっても、同じことです。
この女のたとえ話は偽の教会のことを言っており、真理ではありません、
また、このパン種はこの世に隠し持たれたものではなく、三サトンの粉の中に入れられたのです。
穀物のささげ物でも、ユダヤの儀式でも、パン種が無かったことを私たちは考えるべきなのです。
言い換えれば、そのたとえ話は私たちに「キリストについてのあらゆる真理が、偽の教会によって堕落させられる」ということを教えています。
この型の中にはパン種は存在しません。
キリストは罪なきお方なのです。
キリストは種無しパンのささげ物です。
キリストの悪に対する方向性なく、完璧な人間性を備えているのです。
キリストはこのように言っています。
「この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。」
ヨハネの福音書14章30節
あなたと私は次のように言うことしかできません。
「私たちは、サタンが外側から私たちを誘惑しに来るので、私たちは常に警戒していなければ、心の中に裏切り者がいて、私たちの心の砦への門を開くであろうという事実を強く意識しなければならない。」
しかし、キリストはそうではありません。彼の誘惑はすべて外から来ているのです。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
へブル人への手紙4章15節
ここでの要点は「罪は犯されませんでした(もしくは、罪から離れた)」ではなく、「罪の無い(存在しない)」方だということです。
キリストは生まれつきの罪には誘惑されることのない存在なのです。
キリストはパン種を持たない穀物のささげ物なのです。
11節では甘くない物のささげ物から、私たちは学ぼうと思います。
「あなたがたが主にささげる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。パン種や蜜は、少しでも、主への火によるささげ物として焼いて煙にしてはならないからである。」
レビ記2章11節
蜜は自然の甘さがあります。
しかし、火を通すと酸っぱくなります。
そこには、キリストの人格には自然な甘さよりも、知る必要があるものがあります。
キリストの人格は神聖なる愛なる方です。
ゆえに、キリストの愛は変わることがありません。
ユダがどんな裏切りを行おうとも、ペテロが臆病に何を否認しようとも、キリストの愛なる人格は変わることがないのです。
「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」
ヨハネの福音書13章5節
何度も、自然な交わりが絶たれ、愛が憎悪に代わったのです。
しかし、キリストの愛なる人格は変わることがないのです。
13節でこのように書いてあるのを、私たちは読みました。
「あなたの穀物のささげ物にはすべて、塩で味をつけなければならない。あなたの穀物のささげ物にあなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのささげ物には、いつでも塩を添えてささげなければならない。」
レビ記2章13節
ささげ物の中で、塩が何回も使われていると、想像してはいけません。
あなたは、私たちの救い主がこのように話しているのを思い出すべきです。
「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。
塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」
マルコの福音書9章49〜50節
塩は働く義に対して、防腐する力があります。
この塩気によって、私たちの中で、上から生まれた者として証明されてきたのです。
多くの他の箇所を、私たちがこれらのことを有益に考えるのなら、貴重な部分が詳細に見えてきます。
しかし、ここでは細かく書いていませんが、私はすでに光が輝いていると見ています。
もし、主の現れの中で、注意深く考えてゆくのなら、私たちはすでに気が付いているはずです。
私たちはここで得たことでより喜び、そして、新約聖書でキリストについて現わされたことをより、学ぶことができるのです。
もし、私たちは親しみをもって、主イエスの真実なる人格に近づいてゆくのなら、間違いの中に落ち込む危険から私たちを守ることになるのです。
穀物のささげ物の顕著な特徴は、小麦粉自身の構成物、特色です。
そこには大麦は存在していません。
砕れた大麦には小さな鋭い殻がたくさんあります。
しかし、穀物のささげ物を構成するのは最高級の小麦粉です。
これらは、神は主イエスキリストの人格を描写しているのです。
彼の人間としての性質には、何も非難されるようなものはないのです。
私たちの前にある4つの福音書には驚くべき神の描写があります。
もし、霊感によるものではないのであれば、4人の人がこのような驚くべき人格をイメージし、説明することはできません。
もし、イエスキリストが地上に生きていないのであれば、福音書自体がありえないものです。
世界のあらゆる文学でもキリストに匹敵する人格は存在していません。
ナザレはガリラヤで最もみすぼらしい村のうちの1つでした。
イエスはそこで育ったことを考えてみましょう。
この村には洗練とか、精錬されるチャンスは少しはあったかもしれません。
しかし、そこで、イエスはご自分の時に人々の中に現れた時、すべてにおいて、洗練な、精錬された存在になったのです。
キリストこそ、世界に今まで現れたことのない、最初のジェントルマンだったのです。
思いやり、やさしさ、常にほかの者たちと食事をし、すべてにおいて信仰と真実がそこにありました。
優雅さについて、詩人は言っています。
もっとも優しい方法の中で、もっとも優しく行う人を今まで見たことがありません。
しかし、それがイエスキリストであることは、どこであっても実証されています。
キリストは生きた乳香で、1900年後の世界でも満たされているのです。
しかしながら、今は同じキリストが神の王座に昇天しているのです。
私たちの偉大な大祭司、私たちを取り成しをするために生きているのです。
「もしあなたが初穂の穀物のささげ物を主にささげるなら、火にあぶった穀粒、新穀のひき割り麦をあなたの初穂の穀物のささげ物としてささげなければならない。
あなたはその上に油を加え、その上に乳香を添えなさい。これは穀物のささげ物である。
祭司は記念の部分、すなわち、そのひき割り麦の一部とその油の一部、それにその乳香全部を焼いて煙にしなさい。これは主への火によるささげ物である。」
レビ記2章14〜16節
私たちはこれらの章の中で穀物のささげ物の別の側面を見ることができます。
この時に、緑の実の初穂が実りそれを乾かします。
これらの穂は実とするために打たれるのです。
これは、乳香と共に油を注がれます。
それは、唯一、死を通られた方、キリストについて語っています。
キリストは永遠の命のパワーにあって、再び、よみがえるのです。
キリストは人間性の完全性を保ちながら、神のみもとに昇り、永遠に栄光に満ちた人間となるのです。
祭壇の上で燃やされるとは記念すべきささげ物です。
キリストの死と復活は切り離して見てはいけません。
キリストは再び生きるために、死んだのです。
私たちは祭司としてキリストにあって聖所に中で食事できるということを学びます。
次の箇所は特別に強調すべき聖句です。
そこでは、穀物のささげ物が律法として語られています。
「穀物のささげ物のおしえは次のとおりである。アロンの子らは祭壇の前でそれを主の前にささげなさい。
すなわち、その中から穀物のささげ物のひとつかみの小麦粉と油を取り出し、穀物のささげ物の上の乳香全部といっしょに、この記念の部分を、主へのなだめのかおりとして祭壇の上で焼いて煙にしなさい。
その残った分は、アロンとその子らが食べることができる。それを聖なる所で種を入れないパンにして食べなければならない。それを会見の天幕の庭で食べなければならない。
これにパン種を入れて焼いてはならない。わたしは、それを火によるささげ物のうちから、彼らの分け前として与えた。それは罪のためのいけにえや罪過のためのいけにえと同じように、最も聖なるものである。
アロンの子らのうち、男子だけがそれを食べることができる。これは、主への火によるささげ物のうちから、あなたがたが代々受け取る永遠の分け前である。それに触れるものはみな、聖なるものとなる。」
ついで主はモーセに告げて仰せられた。
「アロンとその子らが、その油そそがれる日に、主にささげるささげ物は次のとおりである。小麦粉、十分の一エパを常供の穀物のささげ物とする。半分は朝、他の半分は夕方の分である。
それを油でよくこねて平なべの上で作らなければならない。それを、粉々にした焼いた穀物のささげ物として持ってはいらなければならない。主へのなだめのかおりとしてささげなければならない。
さらに、彼の子らのうち、油そそがれて、彼の跡を継ぐ祭司は、このことをしなければならない。永遠の定めによって、それを主のために完全に焼いて煙にしなければならない。
このように、祭司の穀物のささげ物はすべて全焼のささげ物としなければならない。これを食べてはならない。」」
レビ記6章14〜23節
今日、私たちは神の祭司として、自分の取り分を割り当てられ、神の御前でそれを楽しんでいるのがわかります。
聖所の中でささげ物を食べているのです。
私たちは、主の人格を切り裂くように求められません。
私たちは、敬虔にキリストを礼拝し、楽しみます。
このように私たちはキリストに似た者となって行くのです。
和解(平和)のいけにえ
レビ記3章、レビ記7章11〜34節、詩編85編を読みならば、和解のいけにえは特別に貴重なものであることがわかります。
それは、主イエス・キリストの十字架の働きに基づいた交わりの現れが一つの性質に捉えられるからです。
すでに、ほのめかしたきたよう、私たちが神の完了した御業について無知なら、真実なる神との交わりは存在することが出来ないからです。
その一元説者(すべてのものが一つのことから発生した)は、神との交わり楽しさについて話します。
しかし、その者は単純にそれが、宗教的な感情を精神的な交わりと間違えています。
なぜならば、その感情は、キリストが木の上で達成した働きによって、魂を休ませ、永遠の父の御子イエスキリストにある信仰に遠く離れており、ともに働くことが無いからです。
和解のいけにえには、神と人間の間に関係したことについて悪い事が含まれている必要があることは、大変な事実です。
神との交わりとの釣り合わずに堕落した性質に傾く人間にとっては、必要なことです。
その人間は罪人として、この世界に来ました。
その罪人は罪の性質によって、罪人になったのです。
最初から、聖さというより、聖くない傾向が始めからあったのです。
罪人にとって、義を求めるより、罪にあることが容易いのです。
昇ることよりも、落ちる方が容易いのです。
私は、人が何世紀にもわたって、進歩してきたと教えるのが流行だということを知っていますが、そうではありません。
神の御言葉から離れては、悪を行うことは良いことを行うより容易ことを、私たちは私たちの実際の経験を通して学びます。
これは罪人の性質が堕落しているからです。
詩編でダビデがこのように叫んでいます。
「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」
詩編51編5節
人間の性質によって、神のことが分からなくなっているのです。
罪人は神と交わることができないのです。
罪人が神に嫌い、神の愛が嫌い、それを事実を愛するのです。
神は永遠に聖い愛なることであり、良きことのみを行うのです。
人間と神との間に、共通した事実は存在していません。
人間はその性質によって、罪ですが、人は実際に法律を侵す者になっています。
故意に、わざと、法律を破り、戒律を犯して、自分自身の意思によってそれを行うのです。
イザヤ書ではこのように語られています。
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
イザヤ書53章6節
神は神とともにある平和を私たちに与えようと願っているのです。
神は神との交わりに私たちを入れようと切望しておられるのです。
かつて、このことである疑問が湧きました。
「どのように罪深い、堕落した人間に神との平和があり得るのだろうか?
私たち自身で神との平和ができるのだろうか?」
私たちは「キリスト無き神との平和を求める人たちの主張」をたびたび聞くことがあります。
今、私はあら捜しにしたくなく、その言葉を乱す人間にもなりたくありませんが、この表現が完全に誤解をまねいていると確信しています。
彼らは、何か?完全に正しいことを教えています!
人間が自分の罪から悔い改めようとしていること、自分の失われた状態を認識していること、そして、彼らには救い主が必要だと言うことです。
しかし、誰も神との平和を作り出すことはできません。
キリストは私たちのために平和になられたのです。
「私の涙は、永遠に流れることができます。
私の熱心さは、もはや無気力ではありません。
これらの罪は償うことができません。
あなたは救われなてはいけません。
そして、あなただけが、、
私は手に何も持たず、
ただ十字架にしがみつきます。」
ユナイテッド・メソジスト賛美歌285 ロック・オブ・エイジズより
福音の栄光が、罪のために人間の心に注ぎ出た、神の御子頃を現わしています。
神とともにある平和を得るために神が何をしてくれたのかを語っているのです。
父のふところからキリストが来たのです。
この世界が造られる前から父とともに栄光を持っていたのです。
「あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、
万物をその足の下に従わせられました。」
へブル人への手紙2章7、8節
キリストは恐ろしい十字架に向かったのです。
キリストは私たちのために呪いとなられたのです。
それは、神と人間が完全に調和して一つにまとめられ、私たちがキリストの死によって神と和解できるようにするためです。
「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」
コリント人への手紙第二5章19節
しかし、キリストの素晴らしい人生そのものでは、罪の問題を解決したり、神と人間の関係を取り戻すことができません。
キリストは死ななければならなかったのです。
敵意は神の側にはなく、すべて人間の側にあるのです。
死によって、神は人間に向けられた敵意は、神の側にある敵意は無くなったことが証明され、今、キリストは神との和解を懇願しておられます。
私たちは神に対する債務者、巨額の借金を負っている債務者、信用が完全に失われ、そのために絶対に義務を果たすことができない債務者として立っているのです。
私たちは二人の人が、まさにこのような環境の中にいることを読みました。
「彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」」
ルカの福音書7章42節
赦された者は、この和解(平和)のささげ物の基礎を行ったのです。
キリストは、私たちの債務を払うために自分自身を与えました。
「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」
コロサイ人への手紙1章19、20節
私は「地にあること、もしくは、天にあることより、むしろ、キリストによって」と強調したのです。
これが和解(平和)のいけにえです。
キリストは十字架によって、平和を作り出したのです。
エペソ人への手紙ではこのように書かれています。
「 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」
エペソ人への手紙2章13〜15節
これは、旧約の和解(平和)のささげ物に描かれた、なんという美しい描写でしょうか!
キリストこそが私たちの平和なのです。
また、別の箇所でこのようにも書かれています。
神との平和は単純に喜ばしいものではありません。
単純に、魂の安らぎを得て喜んいるのではありません。
神との平和は単純に楽しいものではないのです。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」
ローマ人への手紙5章1、2節
神との平和を作り出すために十字架があったのです。
私たちの祝福された救い主を信頼することは良きことであり、私たちはそこに来たのです。
神はキリストの働きにあって、ご自分を満足させたのです。
私たちは居場所を見つけ、キリストと共に喜んでいるのです。
神の喜びはキリストです。
私たちの喜びはキリストです。
神はキリストを喜び、私たちもキリストを喜んでいます。
神はキリストにあって食事をし、私たちもキリストにあって食事をするのです。
私たちは交わりを持ちます。
祝福された、楽しい交わりです。
それは甘い香りのする捧げものが基礎にあるのです。
レビ記3章においては3つの違った捧げものについてのべられています。
その一つは和解(平和)のささげ物として、祭壇に持ってこられようとしています。
最初にこのように書かれています。
「もしそのささげ物が和解のいけにえの場合、牛をささげようとするなら、雄でも雌でも傷のないものを主の前にささげなければならない。」
レビ記3章1節
6節にはこのように書かれています。
「主への和解のいけにえのためのささげ物が、羊である場合、雄でも雌でも傷のないものをささげなければならない。」
レビ記3章6節
もう一度、12節にはこのように書かれています。
「もしそのささげ物がやぎであるなら、その人はそれを主の前に連れて来なさい。」
レビ記3章12節
それを全焼のいけにえとして見るならば、私たちはいろいろな被造物を通して、典型的な手法によって示されており、すでにこのことを見てきました。
群れとしてのささげ物は、神と人間の忠実なしもべとして、キリストについて語っています。
むしろ、私たちは、雄に象徴されているように義に満ちた、独立された方、もしくは雌に象徴されている目的について考えます。
どの視点から見ても、私たちは神との交わりを持つことが出来るのです。
死さえ捧げられた人として、子羊はキリストについて話しています。
そして、ヤギは罪人の地位をとった方について話しているのです。
私たちはキリストとキリストの働きの貴重さと価値とを理解し、すべてを正確に理解することはおそらくできないと思います。
しかし、私たちはすでにキリストに信頼し、キリストを告白し、神の元に来たのです。
私たちは、私たちの理解で、最大限の神との交わりを持とうとしています。
キリストがどんなお方なのか?私たちはより学んで行き、キリストは神であり、わたしたちの交わりを深められて強められる方だと知るのです。
ささげた者は、ささげ物の頭に手を置きます。
そして、会衆の幕屋の入口で、ささげた者はささげ物を殺します。
これは、再び、ささげた者とささげ物は一つであることを認識させます。
その事実は、はっきりと真理の身代わりは語り 私たちにあらゆる方法で印象づけます。
私たちには私たち自身の身代わりが必要なのです。
罪なきお方が、私の身代わりに苦しまれたのです。
キリストは身代わりです。
私たちはキリストの死への直接、応答するのです。
全焼のいけにえのようではなく、和解(平和)のいけにえ全体が祭壇の上に置かれたのではありません。
いけにえのわずかな部分だけです。
「その人はその和解のいけにえのうちから、主への火によるささげ物として、その脂肪をささげなさい。すなわち背骨に沿って取り除いたあぶら尾全部と、内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とである。」
レビ記3章9、10節
主にあって甘い香りの祭壇の上で焼かれたのは部分的です。
そして、注意する点として、これらの部分は、ささげ物の死によって、たどり着くことが出来る部分だけです。
これは、主の最も深い内的な感情と感覚とが、父なる方への愛が注ぎ出るように導いています。
その愛は、献身的な御自身の死に至らし、人間が神を認識することを目標にしています。
誰がこれらの言葉の意味を理解することができたのでしょうか?
「彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」
イザヤ書53章12節
私たちは7、8章にある律法のささげ物に立ち返ろうと思います。
私たちはよりはっきりと、和解(平和)のいけにえと呼んでいる特別なささげ物を見ることが出来ます。
私たちは神と神の人々がともに楽しんでいることを見つけることができます。
「主にささげる和解のいけにえのおしえは次のとおりである。
もし、それを感謝のためにささげるのなら、感謝のいけにえに添えて、、、」
レビ記7章11、12節
そこではいろいろな穀物のささげ物が捧げられていますが、そのすべてがキリストの人格を現わしているのです。
もちろん、小さな部分は祭壇の上で焼かれ、その残りは祭司によって食べられます。
ささげ物の胸はキリストの愛情について語っており、それは祭司の家、アロンとアロンの息子たちに与えられているのです。
胸が型としてキリストの愛について語っており、すべての祭司たちがこれを食べるのです。
右の肩は、主の力強さ、全能の力を語っています。
それは祭司自身が捧げられる、特別な部分です。
ささげ物の残りの部分は、ささげた者によって持って行かれます。
主の前で、ささげた者と家族、友人が共にそれを食べるのです。
型としての事実を、憐れみと真実とともに食べるのです。
それぞれが口づけによって、義と平和を楽しむのです。
神によって提供された交わりに入るとは、現実に輝くべき描写です。
神の油注がれた祭司、ささげた者とその友人は同じ犠牲、和解(平和)のいけにえの上に共に集り、その交わりに預かったのです。
しかし、今、私たちが現実に神御自身との交わりに進もうとするのなら、私たちは魂を正しい立場に置かなければなりません。
私たちの良心に存在する許されない罪にあるのなら、私たちは神との交わりに入ることはできません。
このように書かれています。
「人がその身の汚れがあるのに、主への和解のいけにえの肉を食べるなら、その者はその民から断ち切られる。」
レビ記7章20節
神の御前で、クリスチャンではない者は神にとって「汚れがある」者です。
「 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
ヨハネの手紙第一1章9節
私たちの邪悪性は十字架においてキリストの上に置かれました。
キリストの中には罪はありませんが、キリストは御自身の上に私たちの罪を背負われたのです。
今、私たちの上には罪はありません。
しかし、私たちは罪にあって行なってしまい、この罪はキリストの十字架の光によって裁かれてゆくのです。
このようにも書かれています。
「なお和解のための感謝のいけにえに添えて、種を入れた輪型のパンをささげなさい。」
レビ記7章13節
ここでは種を入れた輪型のパン、和解(平和)のいけにえの感謝をささげ物です。
私たちは種を入れないものが、穀物のささげ物で許されているものだと読んできました。
しかし、ここではキリストのことではなく、型として特殊なささげ物がなされているのです。
それは、このような人間の告白をとしてです。
「私自身は貧しい罪人です。
罪は私にとっての性質です。
私はささげ物無しに神に訴えることはできません。」
ささげ物の基礎は、神は神との交わるに入ることを許されたと言うことです。
ここに新約聖書の重要な真実がすべて置かれていると、私たちは見ることが出来るのです。
すべてのクリスチャンは神の御前に罪を持っています。
しかし、信者ではない人も神の御前に罪を持っています。
何度もですが、カルバリの3本の十字架に注目します。
真ん中の十字架には神にあって罪の無い御方、神の人が架けられました。
しかし、神にあって、彼は死なれたのです。
しかし、確かにイエスは罪を負われたのです。
なぜなら、私たち全員の咎をその魂の苦しみに置かれ、ヤハウェはイエスの上に負わせたのです。
キリストには罪はありません。
しかし、キリスト自身が私たちの責任となったのです。
これらはすべて、私たちに請求されていたのです。
パウロがオネシモの請求を、私にするようにピレモンに要求するように指示しました。
パウロ自身がオネシモの保証になるので、ピレモンにオネシモを受け入れることに願ったのです。
これは、イエスが罪人のためにした描写とも言えます。
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
ペテロの手紙第一2章24節
悔い改めない泥棒は自分の中に罪で抱え、自分の罪がいたのです。
彼は罪の性質をもち、実際に罪を行っていました。
本質的にも習慣的にも罪深く、罪の重荷から、自分をを解放してくれる唯一の救い主を拒絶していたのです。
裁きの日に対する、魂の答えを求めて、彼は、自分のすべての罪とともに神の現れの中に進んで行きました。
その日、神はその人の行いに応じてすべての人をさばきます。
しかし、悔い改めない泥棒の場合、誰もが持つ下劣さと邪悪さはと違っていたのです。
彼がまだ罪を持っていましたが、主イエスキリストへの後悔にあって立ち返った時、神は罪の問題を彼にもはや負わせることはしません。
その罪はすでに彼の上にはありません。
神はキリストに罪が変換された者として、すべてを見ているのです。
多くのクリスチャンたちが想像しているように「恵みの立場にたどり着いた場所では、罪は単に許されるだけではなく、聖霊の直接的な働きにおいて罪の性質は私たちから取り去られる」と言うことを、私は知っています。
彼らの要求は、罪の内なる性質すべてから聖くされ、自由にされることなのです。
しかし、これは重大な間違いであって、深刻な結果に至るのです。
神の御言葉はそのように教えてはいないのです。
クリスチャンとして、私たちは罪深い性質を持った人生の終わりに行きます。
肉を持った自分はこのよう言うでしょう。
「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」
ローマ人への手紙8章7節
しかし、神は罪が私たちを支配する必要がないと言っています。
「罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」
ローマ人への手紙6章14節
この真理の祝福を理解する以外には罪が捕らわれない方法はないのです。
別の指摘点を思い出してください。
犠牲を食べることと、祭壇上の捧げ物を切り離してはならないというのが神の主張です。
通常であれば、それは同じ日に食べます。
また、自発的なささげ物が後の日に食べることもできます。
だが、それ以降に残ったものは、火で焼かなければならないと厳しく命じています。
その意味は明白です。
神は、私たちが神との交わりを十字架の恩業から切り離すことを許していないのです。
私たちの交わりは、私たちの主イエスキリストの驚くべき犠牲を土台にしています。
キリストは私たちに平和をもたらしたのです。
交わり、すでに私たちが知っているように、それは単純な宗教的な感覚ではありません。
この感覚は、宗教的な感覚は巨大な欺きなのかもしれません。
それは単純な満足感であり、キリストに満ちた心の代わりに、良き自我を妄想することなのかも知れません。
悪い自我に夢中になるのと同じくらい、良い自我に夢中になるのは危険な状態です。
悪い自我に夢中になる場合、私は完全に落胆し、落ち込む可能性が高いのです。
また、良い自我に夢中になる場合、誇りを持って高揚し、自分の霊的利己主義が神との交わりであると妄想するという重大な危険にさらされるのです。
神の人々の心に話しかけてくる主の晩餐は、ここでは正しいことです。
キリストのテーブルにあって、私たちはキリスト御自身に満たされるのです。
それはキリストが、裁きでは私たちの立場を取ってくださり、キリストの十字架によって平和を作り出したという恵みの中に身をかがめる時、キリストが私たちのために何をしてくださったかを私たちは覚えるのです。
私たちはこの壮大な奥義に瞑想するように、私たちの魂は聖所へと導かれます。
恐ろしい交わりと甘い交わりの中で、神の御前に瞑想するのです。
もはや、神は幕の中で私たちから隠れてはいません。
もしくは、神へのアクセスを妨げたりしないしていないことを、私たちは理解しています。
イエスが「完了した」と叫ばれた時、神殿の幕が上から下へと真っ二つに裂けたのです。
その幕を引き裂いたのは神の手です。
そして今、私たちは大胆に主の御前に行き、そこで礼拝者として主の御前にひれ伏します。
そして、私たちのためにご自身を捧げてくださり、祝福の、崇められるべき主を、その御前で礼拝するのです。
幕は裂かれ、私たちの魂は恵みの御座に近づいたのです。
主の功績が現れ、これらは聖所に満たされました。
キリストの尊い血が話しかけてきます。
玉座の上で、そして、天に持って行かれた、キリストの彼自身の負った傷は、償いの御業が「完了した」ことを宣言しています。
「完了した」という言葉の中に、私たちは安らぎを見つけます。
決して、キリストの働きは失敗に終わるようなものではありません。
キリストは私たちのささげ物であり、祭司なのです。
私たちは幕の中に進んでいきます。
そしてそこで、私たちはの血で買われたすべての群衆とともに、神の永遠の愛と恵みに思いを馳せながら、和解(平和)のささげ物を食べるのです。
私たちのために、聖なるキリストの命を死に渡され、邪悪な人間に対する神の心を、このいけにえは十分に表現しています。
これを離れて礼拝する態度は、偽物としか言いようがありません。
十字架の御働きと結びついていない宗教的な実践や感情の枠組みはすべて単純な幻想であり、すべて、魂を欺きます。
なぜなら、私たちの主イエス・キリストの十字架の御働きに連なること以外に、神との真実な交わりはあり得ないからです。
私は詩編85編、おそらく、和解(平和)のいけにえの詩編と呼ばれている箇所について、いくつかの意見をついて述べます。
1、2節にはこのように書かれています。
「主よ。あなたは、御国に恵みを施し、ヤコブの捕われ人を、お返しになりました。
あなたは、御民の咎を赦し、彼らのすべての罪を、おおわれました。セラ」
詩編85編1、2節
7〜11節まで書かれていることに注目してください。
「 主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。
私は、主であられる神の仰せを聞きたい。主は、御民と聖徒たちとに平和を告げ、彼らを再び愚かさには戻されない。
まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国にとどまるためです。
恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。
まことは地から生えいで、義は天から見おろしています。」
詩編85編7〜11節節
ここでは、神自身が神の民に平和について語っています。
それは、神だけがその計画を立てることが出来、憐れみと真実が両立し。義と平和が互いに口づけしたのです。
哀れが罪人に示される前に、真実と義が私たちの恐ろしい借金を払うという要求がされました。
人は自分自身と神との間に違ったものを置くことはできません。
人は、自分自身の罪を償うことができないのです。
ゼカリヤ書ではこのように書かれています。
「彼にこう言え。『万軍の主はこう仰せられる。見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す。
彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。』」
ゼカリヤ書6章12、13節
平和の助言は、万軍の主と、若枝呼ばれるひとりの人の間で成されました。
それを新約聖書に置き換えるなら、父と御子の間で成されたのです。
私たちの主イエスが私たちの代わりに十字架にかかり、尊厳あふれる神の御座の怒りに対するあらゆる要求した時に、平和が実現したのです。
今、義と平和は永遠に結びついており、私たちは信仰によって義とされ、神との間に平和を持っています。
これは単に私たちの心の中の義という感覚ではなく、それをはるかに超えたものです。
この問題は神と罪人の間に置かれたもので、私たちは完全に義とされているのです。
罪を犯した人間に恵みが注がれるようになったのです。
私たちがこのことを信じるとき、私たちも平和に入ります。
私たちはキリストがもたらした平和を楽しんでいるのです。
ここに、たびたび話す出来事ですが、私が言いたいことをよく表している出来事があります。
南北戦争の終わり頃、ある日、北軍の騎兵の一隊がリッチモンドに向かう道を馬で走っていた時のことです。
その時、衰弱してやせ細り、弱くて、やつれ、そして、ぼろぼろの南軍の軍服に身を包んだ男が茂みの中から現れて、しわがれた声でパンを懇願して、注意を引こうとしたのです。
その人は森の中で何週間も飢えており、わずかに見つけた数少ない実と根だけで生きていたと言いました。
騎兵の一隊は彼に「リッチモンドに行けば、あなたに必要なものは何でも手に入る」と勧めました。
彼は「自分は南軍からの脱走兵であり、逮捕され刑務所に監禁されたり、戦時中に脱走罪で銃殺されたりする恐れがある」と、いままで、姿を現すつもりはなかったと言ってきました。
騎兵の一隊は驚いて彼を見て、「ニュースを聞いていませんか?」と尋ね、彼は「何の知らせですか?」と心配そうに尋ねたのです。
彼らは「もう、南軍はもう存在していないのです。
リー将軍は1週間以上前に、グラント将軍に降伏し、和平が結ばれたんですよ。」と答えました。
彼は「平和が訪れた!
そのことを知らずに、私は森の中で飢えていたんだ」と叫び、そのニュースを信じて、彼は街に行き、食べ物と安らぎを得たのです。
救われていない方に言います。
私はあなたに強くお勧めします。
祝福された真実、醜い十字架の上で、あなたの罪のために私たちの神であられる救い主が、平和を作られたのです。
そのメッセージを真実、この福音を受け入れて下さい。
そして、この平和は、感情や感覚に頼るものではなく、キリストの完了した働きによることを思い出してください。
十字架に疑問を抱くのであれば、十字架の与えた平和にも疑問を抱くことになります。
その疑問は、キリストは死なれなかった!恵みはもう残されていないと言うことにもなります。
しかし、私たちの主イエス・キリストの死と復活が祝福された事実であるならば、私たちの平和は保たれるのです。
罪のためのいけにえ
レビ記4章、レビ記5章1〜13節、詩編22編2節、コリント人への手紙第二5章21節を読んでみましょう。
血のいけにえが、甘い味のいけにえと罪のためのいけにえの二つのクラスに分けられることには、すでに分かってきています。
全焼のいけにえと和解のいけにえは最初のクラスに属し、罪のためのいけにえと罪過のためのいけにえは二つ目のクラスに属しています。
全焼のいけにえが悪意で持たされるものではありません。
それはささげる者の礼拝の表現となります。
ささげる者がいけにえを捧げるのは、その者の心の感謝の証明としてなされます。
それは神がその者ために、その者に、もたらしたものすべてをヤハウェへ甘い香りのささげ物として持って行くのです。
私たちはすでに見ている通りに、主イエスキリストは御自身を捧げたことで表現されています。
キリストは私たちのために、その汚れのない御自身を神に捧げ、甘い香りの犠牲となってくださったのです。
私たちが神の御前に、キリストに満たされた心で礼拝者として行く時、私たちは全焼のいけにえを神の御前にもたらすことになるのです。
私たちの魂は、価値のない私たちのために、御自身を捧げてくださった価値ある御方と共に、礼拝に行くのです。
キリストが、単に私たちの罪のために死なれたのではありません。
キリストが何を行ってくれたからだけでなく、同様に、キリストが何者か知ることによって、私たちがキリストを辱めたとしても、崇められる場面においても、神に栄光を帰するのです。
子供は母親を愛します。
それは母親が何をしてくれたからではなく、母親が何者かを知っているからです。
母親の優しく愛情深い心が、子供を母親に引き寄せます。
それは、イスラエル人が自分の魂の礼拝を、全焼のいけにえで表現しているようにです。
全焼のいけにえの中にキリストが語られているからです。
それは、神に良き所と認められています。
キリストは神への甘い香りとして、すべてを捧げたのです。
神が全焼のいけにえの煙が天に昇るのをご覧になるように、神はまたカルバリを眺めていました。
神は、前もって祝福されたキリストの御働きを見ることが出来ました。
キリストは創世記で彼について語られたことに、どのくらいの値打ちがあるのか?を語ることが出来たのです。
「ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。
主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。」
創世記8章20、21節
私たちは、ノアが新しくされた地で全焼のいけにえを捧げた方法について読みました。
そして、「なだめ(平和)のかおりをかがれ」とありますが、欄外には「安らぎの香り」(1599 Geneva Bible)をかいだと語られています。
かおり自体に本質的な価値があったのではなく、それがキリストとその働きの型だったからです。
それにより、神の心が喜びを見いだしたのです。
その時、私たちは和解(平和)のいけにえに別の暗示を見つけます。
敬虔なイスラエル人が神との交わり、その交わりあずかった他の人々を表現しているのです。
その部分は祭壇の上で焼かれ、ささげ物の食物と呼ばれ、神の喜びと神の御子の内なる完全性について語っているのです。
「それから、彼は、その全部をアロンの手のひらとその子らの手のひらに載せ、奉献物として主に向かって揺り動かした。」
レビ記8章27節
その時、胸(肩)がゆり動かされ、アロンとその家に食べるように命じています。
胸(肩)とは力の象徴です。
祭司の家は、主イエス・キリストの強大な力と衰えることのない強さを語る役割を担っていました。
祭司は、ゆり動かされた胸(肩)を持ってゆくのです。
胸(肩)は愛情、愛について語っています。
祭司は来るべき救い主の優しい愛を表わすものを糧としたのです。
それから、ささげた者自身が家族や友人を招待し、全員が一緒に座り、和解(平和)のいけにえの残りを食べたのです。
すべての部分がキリストについて、語っているのです。
このように、アロンとその家、祭司の仕事、ささげた者とその友、すべての楽しい交わりを、キリストを物語る食事に集っていると、神は見ているのです。
今日、キリストの十字架の死によって救われたすべての者が、喜ぶためにキリストの集まりと呼ばれる集いに集まっています。
この集いは、御自分の十字架の血によって平和を実現された尊い方との交わりの場所なのです。
そして、今日、十字架の上で死なれたキリストの十字架によって、救われたすべての者が、キリストと共に聖なる交わりと呼ばれるにあってキリストを喜んでいます。
キリストは十字架の血によって平和を作り出した方なのです。
今、私たちはこれらのことを別の観点から見てみましょう!
私たちはすでに、罪のささげ物を持っています。
しかし、魂が罪人の立場を取られ、罪人の代わりに裁きを耐えられた方を見るまで、キリストとの平和を造られた者として、楽しむことはできません。
罪のためのささげ物と、罪過のためのささげ物を区別することは難しいからです。
罪のためのささげ物は、罪が汚い者として見られ、罪人の性質がとても不潔なものであることを現わしています。
一方、罪過のためのささげ物は、罪は実際に払わなければならない負債であり、人間はそれを払うことが出来ないことを現わしています。
その借金は別の者によって、そのすべてが払われたのです。
私は罪のささげ物が、人間の罪の性質のためにあるとは言っていません。
それは人間の失敗(mistake)のためにあるのです。
それは、4、5章にある実際の違反のように、それは明白です。
その違反は、これらの失敗を犯した堕落した性質を証明しています。
私は罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯したのです。
私は神の視点から汚れた者で、神の御前にまったくふさわしくありません。
(私の悪い行いがこれを証明します。)
ゆえに、私には罪のささげ物が必要なのです。
このささげ物がキリストについて語っているように、私たちはコリント人への手紙に書かれていることに確信します。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
コリント人への手紙第二5章21節
「罪」という単語と「罪のささげ物」と言う単語は、新旧約聖書の両方において、同じ言葉です。
「私たちの代わりに罪とされました」は「私たちの代わりに罪のささげ物とされました」と結びつけるのです。
そしてヘブル人への手紙の9章と10章では、聖霊は、昔の罪のためのいけにえが、カルバリの十字架上での神の唯一のいけにえをどのように象徴しているのかをはっきりと示しています。実際に、ヘブル人への手紙10章5、6節では、詩編40節を引用して、すべてのささげ物がキリストの御働きにおいて、成就したと示しています。
その犠牲は和解(平和)のいけにえです。
いけにえとは、穀物のささげ物です。
全焼のささげ物、キリスト自身について語っています。
罪のためにささげ物は、罪と罪過のためのささげ物の両方の立場を取っています。
レビ記4章2節に戻ってみましょう。
「イスラエル人に告げて言え。もし人が、主がするなと命じたすべてについてあやまって罪を犯し、その一つでも行なった場合」
レビ記4章2節
ここに、罪に対して、どのように取り扱うかの指示があります。
ここには、計画的に行った、律法の下にある故意の罪へのささげ物について書かれてはいないことに注意してください。
ここに書かれているのは、単に、無知ゆえの罪です。
しかし、十字架以来、神は無限の恵みの中で、ただ一つの罪を故意の罪として数えられるはずです。
その最大の故意の罪は、最終的に、神の愛する御子の拒絶したことであるはずです。
他のすべての罪は無知の罪とみなされ、これらの罪は私たち全員の中にある邪悪な不信仰の心の結果です。
人間は自分の中にある無知のために罪を犯します。
あなたはペテロの罪を犯したイスラエルに対しての言葉を思い出してください。
栄光の主を十字架につけるという恐ろしい罪を、彼らは持ち帰ったのです。
ペテロは言いました。
「ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行ないをしたのです。」
使徒の働き3章17節
使徒パウロはキリストの苦しみと死について話している中で、このように話しています。
「 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」
コリント人への手紙第一2章8節
なんと驚くべき恵みがここに示されているのでしょう!
世界の歴史上、これまでに犯された最悪の罪が、神によって無知の罪として分類されています。
つまり、罪のためのいけにえは、救われたいと願う人には、誰にでも有効なのです。
あなたの経験がどのようなものであったとしても、神は限りない憐れみと情けで、あなたを見下ろし、無知で罪を犯した、あなたに慈悲の扉を開いてくださいます。
しかし、もしあなたが神が恵みによって与えてくださった憐れみを依然として拒否するなら、あなたはもはや無知を弁解することはできません。
なぜなら、あなたは神の御子を再び自分自身に十字架につけ、新たに恥をさらさせるです。
この意図的な罪はへブル人への手紙の中で、厳粛に描写されています。
そこには罪の赦しはないのです。
「しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」へブル人への手紙6章6節
これは「クリスチャンが失敗する」という問題ではありません。
理解した人、つまり福音を知っている人は、その真理を知的に確信しているのに、意図的にその真理に背を向け、最終的には神の御子を救い主として認めることを拒否することを言っているのです。
もうその人には何も残されていません。
「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」
へブル人への手紙10章26、27節
しかし、救われたい願うあらゆる哀れな罪人には、偉大な罪のささげ物は有効です。
そして、その人にある悪は永遠に取り去られたことを知るのです。
つぎにこのように書かれています。
「もし油そそがれた祭司が、罪を犯して、民に罪過をもたらすなら、その人は、自分の犯した罪のために、傷のない若い雄牛を、罪のためのいけにえとして主にささげなければならない。」
レビ記4章3節
13節にはこのように書かれています。
「また、もしイスラエルの全会衆があやまちを犯した場合、集団はそのことに気づかなくても、主がするなと命じられたことの一つでも行なって、罪に定められる場合には、」
レビ記4章13節
22節にはこのようにあります。
「上に立つ者が罪を犯し、その神、主がするなと命じたすべてのうち一つでもあやまって行ない、罪に定められた場合、」
レビ記4章22節
27節にはこのようにあります。
「また、もし一般の人々のひとりが、主がするなと命じたことの一つでも行なって、あやまって罪を犯し、罪に定められた場合、」
レビ記4章27節
以下の説明を読むと、罪のためのいけにえにはさまざまな等級があることがわかります。
油そそがれた祭司が罪を犯した場合、若い雄牛を連れてこなければなりませんでした。
これは同様に、会衆全体への捧げ物でもありました。
上に立つ者が罪を犯した場合、ヤギの子供、傷のない雄やぎが連れて来なければなりませんでした。
一方、それが一般の人々のひとりであれば、傷のない子雌やぎやもしくは群れの中の子羊の雌を連れて来られました。
しかし、5章11〜13節でこのように書かれています。
「 もしその人が山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽さえも手に入れることができなければ、その犯した罪のためのささげ物として、十分の一エパの小麦粉を罪のためのいけにえとして持って来なさい。その人はその上に油を加えたり、その上に乳香を添えたりしてはならない。これは罪のためのいけにえであるから。
彼はそれを祭司のところに持って行きなさい。祭司はそのひとつかみを記念の部分としてそれから取り出し、祭壇の上で、主への火によるささげ物といっしょにそれを焼いて煙にしなさい。これは罪のためのいけにえである。
祭司はその人のために、その人が犯したこれらの一つの罪の贖いをしなさい。 その人は赦される。その残りは、穀物のささげ物と同じく、祭司のものとなる。」
レビ記5章11〜13節
もし、捧げる罪人が非常に貧しいのならば、私たちはより小さい捧げ物さえ認められたことを見ます。
すべて暗示していることは、権利が増加するところには責任が発するという考えです。
これらすべては、特権が与えられると、責任も増すという考えを示唆しています。
油を注がれた祭司は、これらの会衆と同じくらい邪悪でした。
彼の表面的な特権は、神により近かい存在だったので、彼はより自分の罪を知らなければならない存在だったのです。
ここには私たち全員が覚えておくべき原則があります。
より、光が増し、私たちが神の真理と偉大な特権を得るのであれば、私たちはこの場面で楽しむことができます。
そして、より責任が増すのであれば、神は私たちを掴み、私たちに神が私たちに教えてくださった真理に従って、責任を負わされるのです。
悲しきかな、兄弟!
神の御前に恥を行い、私たちは膝をかがめるとは悲しき事実です。
私たちの多くが展開された素晴らしき真実の上に自身を誇っているのが現状です。
この真実は、私たちの行いにおいて、注意深さを何回も失わさせ、私たちの光を失させる障害物となるのです。
思い出してください。
私たちは、かつて、神の御前に自分の罪の告白をして、膝をかがめたのです。
それは、すべての私たちの罪がキリストの十字架の上で処理されたのです。
それでも、私たちには偉大な罪のささげ物に頼らなければならないのです。
一つ一つのささげ物の詳細をすべて説明する必要はほとんどありません。
私たちは具体的に祭司については、実際にすべてのことを包括していおり、より小さなものまで言及されことに注目することができます。
最初の注意点として、祭司は、主の前に罪のいけにえのために、傷のない若い雄牛を連れてこなければなりません。
キリストは罪を知らない方ですが、私たちのためい罪となられたのです。
傷のない若い雄牛がこのことを語っています。
この雄牛は、主の御前において、集会の幕屋の入り口に連れてこられました。
罪人はささげ物頭に手を置き、それを自分自身として、殺すのです。
ささげ物が自分であると認識するのです。
その時の祭司の務めは雄牛の血を取り、聖所の中に持って行き、幕の前で、主の前で7回振りかけるのです。
そして、同じ血を祭司は、主の御前で甘い香りのする祭壇のつのに付けるのです。
残りは全焼のいけにえの祭壇の底に注がれます。
これらは厳粛な教えです。
この地上で私たちの祝福された救い主が、偉大な罪のささげ物として死なれたのです。
その血はキリストの十字架の足元に注ぎだされたのです。
この地は創造者である方の血の塊を飲み込んでしまいました。
その流された血は、命が絶たれたことを語っています。
レビ記17章11節ではこのように書かれています。
「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」
レビ記17章11節
キリストは聖く、シミ無く、純粋で、汚れてなく、その命が死に渡されたのです。
私たちは具体的にも、性質的にも、罪人で、キリストの死は私たちのためなのです。
そして、今、私たちはキリストを信頼し、このように歌おうとしています。
「私が生きたことのない人生、
私が死ななかった死に、
別の命、別の死があるのです。
私は私の全部の永遠を賭けます。」
ゴスペル曲"UPON A LIFE I DID NOT LIVE"
しかし、この血は地上に流されたのです。
その血は、実際に天に穴を開けたのです。
その血は聖所に運ばれ、まだ、引き裂かれていない古い幕屋の幕の中で7回振りかけられたのです。
これは、この地上で完成された神の御働きに対する証言となったのです。
そして、金の祭壇の角にその血が塗られた時、その血が聖所の祭壇と、聖所の外にある大祭壇をつないだのです。。
銅の祭壇は。この地上で行われたキリストの働きについて語っています。
キリストの仲裁は十字架の御働きを基礎にして、天で行われました。
レビ記4章8節にはこのようにあります。
「その罪のためのいけにえの雄牛の脂肪全部を、それから取り除かなければならない。」
レビ記4章8節
ここで私たちは祭司が、雄牛からすべての全部を取り除きます。
これらの内側の部分は、死によって得られるものです。
そして、全焼のいけにえの祭壇の上で、これらは焼かれるのです。
これらのささげ物には甘い香りはありません。
これらは、私たちのためにキリストが私たちの罪になってくださったことを現わしています。
さらに、私たちは雄牛の皮と死体の残り、雄牛全体について読んでいます。
これらは宿営の外に運び出され、火と共に木の上で燃やされ、その灰は注ぎだされるのです。
キリストが私たちのために呪いとなってくださったという恐ろしい真実を表現しています。
へブル人への手紙にはこのように書かれています。
「動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。」
へブル人への手紙13章11節
私たちが永遠に、光と、神に近づくために、イエスは暗闇と遠い場所へ行かれたのです。
レビ記13章では来病人は宿営の外に置かれました。
そこは汚れた場所で、私たちの祝福された主が偉大な罪のささげ物になった場所です。
キリストは汚れた立場で取り扱われましたが、キリスト御自身は永遠に聖い方なのです。
しかし、その場所自体は「宿営の外のきよい所」と呼ばれています。
実際にも、その場所は汚れた場所ではありません。
罪の償いはイエスの肉体的な苦しみだけではなかったということを学ぶことが重要なことです。
ピラトの裁きの場でのローマ式鞭打ち、ヘロデの法廷での野蛮な兵士による苦しみ、いばらの冠、再びユダヤ式むち打ち、これら自体が私たちの罪を償うものではありません。
イザヤ書53章にはこのようにあります。
「彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」
イザヤ書53章10節
これはキリストの内なる奥底の場所で苦しまれたのです。
そこに神の裁きと罪の問題の要求があったのです。
私たちは、私たちの祝福された主が6時間もの間呪いの十字架にかけられたことを、疑うことなく理解しています。
この6時間は二つの部分に分けられます。
6時間の最初の3時間、つまり朝9時から正午まで、太陽はこの場面で輝いていました。
キリストはその激しん苦しみにもかかわらず、父との交わりを壊されることなく楽しんでいたのです。
しかし、昼から午後三時まで、全土が暗闇に覆われたのです。
この恐ろしい時間に何が起きたのか?神と神の愛する御子だけが知っています。
そして、闇が通り過ぎて行き、キリストは苦しみの中で叫びました。
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
マタイの福音書27章46節
あなたも私も、自分の罪と生まれつきの罪の性質の中に、その叫びに対する答えが見つかるかもしれません。
私たちが、贖われた罪人として御父の御前に近づくことができるようにするために、イエスは見捨てられたのです。
そして、宿営の外でいけにえを焼くことはこのことを物語っています。
「きよい所」へと運び入れられたことに注意してください。
私たちはらい病患者の場合には外の場所が汚れた場所であると言いましたが、これは真実です。
しかし、イエスはいかなる意味においても、汚れがつきまとうことはありません。
私たちの罪をイエスに負われましたが、イエスには何の罪もありません。
人々のささげ物で教えられていることを注意深く研究すると、いくつかの小さな詳細が明らかになてきます。
おそらく触れられていないこともありますが、ここでそれらについて詳しく述べる必要はありません。
なぜなら、私たちがすでに見てきたことに照らしてすべてが明らかになるからです。
5章には、私たちの注意を引くことがいくつかあります。
最初の4節では、私たちは罪のためにさまざまな段階の汚れを見ることが出来ます。
「人が罪を犯す場合、すなわち、証言しなければのろわれるという声を聞きながら――彼がそれを見ているとか、知っている証人であるのに――、そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負わなければならない。
あるいは、人が、汚れた獣の死体でも、汚れた家畜の死体でも、汚れた群生するものの死体でも、すべて汚れたものに触れるなら、それに彼が気づかなくても、彼は汚れた者となり、罪に定められる。
あるいは人の汚れに触れる場合、触れた人は汚れる。その人の汚れがどのようなものであっても、そしてそれに彼が気づかなくても、彼がそれを知ったときには、罪に定められる。
あるいは人が口で軽々しく、悪いことまたは良いことをしようと誓う場合、その人が軽々しく誓ったことがどのようなことであっても、そしてそれに気づかなくても、彼がそれを知ったときには、これらの一つについて罪に定められる。」
レビ記5章1〜4節
ここで言われていることは、すでに述べられています。
つまり、罪のささげ物が、私たちの罪の性質が堕落していることを証明しているのです。
これらのことはどれも、隠れた汚れが証言されているのです。
5節にはこのようにあります。
「これらの一つについて罪に定められたときは、それを犯した罪を告白しなさい。」
レビ記5章5節
単に失敗を一般的に認めるだけでは不十分です。
罪を犯した者は実際の罪に直面し、神の御前でそれを告白しなければなりません。
ヨハネの手紙にはこのように書かれています。
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
ヨハネの手紙第一1章9節
単純にヨハネは基本的な知識としての罪の許しについて尋ねているのではありません。
私たちは失敗します。
「私たちはするべきことをやり残しました。
しかし、やらなくていいことを、やってしまうのです。」
祈りの本"The Book of Common Prayer"
ここでは、はっきりと罪の許しのために、告白がなければならないと言っています。
6〜13節にある、神の民の中で最も貧しい人々に備えられた神の恵みに注目してください。
キリストに対する私たちの理解がどれほど弱くも、私たちが神の御名によって神のもとに来るなら、神は赦してくださいます。
ささげ物は平凡な環境の下で、群れの中から雌が運ばれてきました・
子羊、もしくはヤギの子が罪のささげ物とされました。
しかし神は貧しい場合をを考慮されたのです。
7節にはこのようにあります。
「 しかし、もし彼が羊を買う余裕がなければ、その犯した罪過のために、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を主のところに持って来なさい。一羽は罪のためのいけにえとし、他の一羽は全焼のいけにえとする。」
レビ記5章7節
このようなささげ物も入手できない人たちはイスラエルの中にも、いくらかはいたはずです。
11節を読んでみましょう。
「もしその人が山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽さえも手に入れることができなければ、その犯した罪のためのささげ物として、十分の一エパの小麦粉を罪のためのいけにえとして持って来なさい。その人はその上に油を加えたり、その上に乳香を添えたりしてはならない。これは罪のためのいけにえであるから。」
レビ記5章11節
祭司はそれを覚えるために、祭壇の上で焼きました。
さらに13節に書かれていることがあります。
「祭司はその人のために、その人が犯したこれらの一つの罪の贖いをしなさい。 その人は赦される。その残りは、穀物のささげ物と同じく、祭司のものとなる。」
レビ記5章13節
このささげ物には血が流されたと語るものは何もありませんが、このささげ物もキリストが罪人の立場を取られたことを描写しています。
ゆえに、油と乳香を添えられることはなかったのです。
要求されたささげ物が持って来られないとしても、神は備え、神はこれを受け入れてくださるでしょう。
赦しが必要な罪人のために、救い主キリストの理解が乏しい者でも、神は受け入れてくださることを私たちに語っているのです。
贖い、もしくは、救い主の救いの御業に、何が必要なのかも理解できない人もいるかもしれません。
キリストを信頼するなら、どのように神の考えに対する知識、キリストの御働きと人格を知る知識が乏しくても、彼は天に行くでしょう。
彼はもっとも少ないが、天国に行く可能性を持っているのです。
何という比類のなき恵みでしょうか!
6章24節から30節では、律法の罪のささげ物について書かれています。
「ついで主はモーセに告げて仰せられた。
「アロンとその子らに告げて言え。罪のためのいけにえに関するおしえは次のとおりである。罪のためのいけにえは、全焼のいけにえがほふられる場所、主の前でほふらなければならない。これは最も聖なるものである。
罪のためのいけにえをささげる祭司はそれを食べなければならない。それは、聖なる所、会見の天幕の庭で食べなければならない。
その肉に触れるものはみな、聖なるものとなる。また、その血が少しでも着物の上にはねかかったときには、あなたは、そのはねかかったものを聖なる所で洗わなければならない。
さらにそれを煮た土の器はこわされなければならない。もしそれが青銅の器で煮られたのであれば、その器はすりみがかれ、水で洗われなければならない。
祭司たちのうち、男子はみな、これを食べることができる。これは最も聖なるものである。
しかし、聖所での贖いをするためにその血が会見の天幕に持って行かれた罪のためのいけにえは、食べてはならない。これは火で焼かれなければならない。」
レビ記6章24〜30節
そこでは、祭司の振る舞いと器をどのように扱いかについて書かれています。
この二つは共に、連なっているのです。
もう一度、私たちは罪のささげ物に関連したことを読んでみましょう。
「最も聖なるものである。」
レビ記6章17節
神は私たちが神の御子にあって、より低い者とは見ていません。
キリストは私たちの振舞いにおいても、恵みの中に留まっているのです。
そこで、罪のささげ物の部分が、祭司によって食べられます。
私たちはキリストが罪人の立場を取られたことが何を意味するのか?このことを瞑想し、考えるかも知れまません。
それを理解できるように助けてください!
聖なるあなたにとって、私の罪を取り除くことが何を意味するのか?私が受け入れることができるように!
注意深く見て見ましょう。
祭司は罪を食べてはいません。
祭司の食べているのは罪のささげ物です。
私たちのために行っているのではありません。
自分の罪だとしても、他人の罪だとしても、罪に対して行いを、何度も行ったりすることはしません。
それを行うのは汚れのためです。
30節で私たちは、罪のささげ物は要らないということを学んでいます。
「しかし、聖所での贖いをするためにその血が会見の天幕に持って行かれた罪のためのいけにえは、食べてはならない。これは火で焼かれなければならない。」
レビ記6章30節
祭司たちは、宿営の外で焼かれず、幕の前に振りかけられた血でもない、犠牲の特定の部分のみに参加できました。
私たちはキリストの死のすべてを完全に体験することはできません。
主が罪のために苦しんだことについて、私たちの理解は常に乏しいものです。
おそらく、それを完全に理解することは、私たちの貧しい心と知性は耐えられないと思います。
それは、詩編にあるように私たちの心を壊し、私たちを完全に打ち砕すことになるかも知れません。
「そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。」
詩編69編20節
しかし、神に感謝します。
私たちは聖所で罪のささげ物を実際に食べることができるという感覚があるのです。
それは、十字架の上の醜さにあって、贖いの御働きに関することが、はっきりと現わされた聖書において、瞑想し感じることが出来るのです。
もし、私たちが詩編22章を読むのなら、罪のささげ物の詩編と呼ぶことが出来ます。
キリストの聖い魂が、キリストは罪人の立場を取られたという経験を、私たちはいくらかは理解できるかもしれません。
それは、敬意と恐れの念を持って、神に受け入れられる方法で罪のいけにえを食べることです。
このようにして、罪人の立場を取った神の御子を与えることによって、神は失われた人間に対する無限の愛を最大限に伝えられたのです。
恵みを拒み、このような愛を踏みにじんだ人間の悪はどのようになるのでしょうか?
おそらく、その者はこのように書かれています。
「ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」
へブル人への手紙10章27節
恵みが見下されれば、裁きに至ります。
もし、そうするのであれば、怒りによって、その者は計られる(計測)のです。
神よ、このメッセージが誰にも届くことがないようにしてください。
このメッセージは、裁きを受けるべき、キリストの愛とやさしさを踏み潰した者にくるものなのです。
ヨハネの福音書にはこのように書かれています。
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」
ヨハネの福音書3章18節
これらの罪について、聖霊は確信した人々について、このように描写しています。
「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」
ヨハネの福音書16章8、9節
この意図的な罪、この罪は悔い改めることができずに、許されることはないのです。
さらに、この罪には、救われるための、キリストの贖罪の御業は無効です。
キリストは自分自身をささげ物として、罪を取り去り、死なれた方です。
意図的にそして最終的に、キリストは偉大なる罪のささげ物であることを拒否した者は神の聖霊を悩ませ、福音のメッセージから背を向けるのです。
その者は、足の下にキリストの愛を踏みつけ、キリストの貴重な贖いの血を聖くないものとし、当たり前のごとくに、神の子をもう一度十字架に付け、キリストに恥をかかせるのです。
それ以上に、激怒した御父の顔に、殺された彼の最愛の御子の体を投げ返すようなものです。。
このようにして、神の恵みを拒んだ邪悪な者に、神の義なる怒りが下されるのです。
罪過のためのいけにえ
レビ記5章14節〜6章7節、7章1節〜7節、詩編69編
このいけにえは、私たちは、今、現わされた内容を考えてみましょう。
それはキリストの十字架の御働きの主要な側面と呼ばれるものです。
その側面とは、自分の罪過について悩み、苦しむ罪人に答えているのです。
「どうすれば、自分の罪の当然な結果から、救われることができるのでしょうか?」
すべての罪は、天の威光に対する違反なのです。
罪過は神の聖い支配に対するものです。
義は罪過には贖いを要求しています。
そして、罪過は神の臨在を永遠に遠ざけるのです。
時に、罪過は私たちをフォローしてくれる人々に対して犯してしまうかもしれません。
この場合、罪は神に対して犯しているのです。
ダビテの罪過はダビテに使える兵士に対する残虐な罪で、ヘテ人ウリヤ、バテ・シェバ、広い意味でイスラエル全体に対するものでした。
「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか。」
第二サムエル11章3節
ダビテの詩編51編にある告白の祈りの中で、ダビテは激しい苦しみの心の叫びをしています。
「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。」
ダビテの詩編51編4節
ダビテの非常に鋭い感覚は、その邪悪な罪は、雄牛やヤギの血などでは、決して汚れを洗い流すことができないことに気づくのです。
ダビテは、キリストの十字架を信仰を見つめ、叫びます。
「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。
そうすれば、私はきよくなりましょう。
私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」
ダビテの詩編51編7節
罪過のためのいけにえとして、私たちの前にもたらされたのは、この十字架の側面です。
レビ記5章14節から6章7節の13節には、罪過のためのいけにえの理由とその性質が記されています。
「人が不実なことを行ない、あやまって主の聖なるものに対して罪を犯したときは、その罪過のために、羊の群れから傷のない雄羊一頭、聖所のシェケルで数シェケルの銀に当たるとあなたが評価したものを取って、罪過のためのいけにえとして主のもとに連れて来る。
彼は、その聖なるものを犯した罪の償いをしなければならない。それにその五分の一を加えて、祭司にそれを渡さなければならない。祭司は、罪過のためのいけにえの雄羊で、彼のために贖いをしなければならない。その人は赦される。」
レビ記5章15、16節
最初に見られる罪過の側面は、主御自身に対して行わえれた罪です。
しかし、この罪のいけにえは、無知ゆえに行われたものです。
再び、神はすべての罪は無知から来ているものと見ていると、私たちは思い出させられ、これらは人間の中にあるのです。
偉大な罪のいけにえである主イエス・キリストを、最終的に拒否することを除きます。
この罪は、故意で邪悪な罪であり、永遠の罪です。
イスラエル人は、主の様々な方法でが行われる聖なる事々を知りながらも、罪を犯す可能性があります。
ひと時、イスラエル人のその無知さは祭司に律法の要求している10分の一よりも、毎年の穀物のささげ物を過小評価するかもしれません。
彼の態度は彼の真実なる態度を現わすことになります。
その人は、すぐに過越しのいけにえに参加するのではなく、罪のいけにえとして推定額を持参して、祭司の指示でその5分の1を加えなければならなかったのです。
罪過のいけにえは律法に従って捧げられます。
銀は祭司によって、ヤハウェエの聖所の中に持って行かれます。
このように罪が溢れるところに、恵みも溢れるのです。
もし、言うのであれば、神はその人が犯した失敗の額よりも、実際は多くの物を受け取っています。
これは、はっきりとした十字架の御業の現れです。
神は人間の罪以上の栄光を受け取ったのです。
詩編69編の中で、カリバリの聖い苦しみについて語っているのを私たちは聞くことが出来ます。
「私は盗まなかった物をも返さなければならないのですか。」
詩編69編4節
私たちは神を欺くのです。
キリストは私たちの罪過のためのいけにえになったのです。
ゆえに、キリストは私たちが行ったすべての悪い行いの贖いとして、5分の一を加えて下さったのです。
私たちは私たちの救い主の苦しみの時間について考えてもいません。
キリストは私たちの罪過を贖うために苦しみに至ったのです。
カルバリの御働きには永遠の価値があります。
すべての実際のキリストを信じるすべての者のために罪の贖いの要求を満たすだけではありません。
それ以上に、普遍的な神にあって、すべての悔い改めた罪人によって引き出されるような価値では決してありえません。
汚れのない罪過のためのいけにえは聖い方について語っています。
「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」
イザヤ書53章7節
17〜19節にはこのように書かれています。
「また、もし人が罪を犯し、主がするなと命じたすべてのうち一つでも行なったときは、たといそれを知らなくても、罪に定められ、その咎を負う。
その人は、羊の群れからあなたが評価した傷のない雄羊一頭を取って、罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来る。祭司は、彼があやまって犯し、しかも自分では知らないでいた過失について、彼のために贖いをする。彼は赦される。
これは罪過のためのいけにえである。彼は確かに主の前に罪に定められた。」
レビ記5章17〜19節
ここで強調されている重要な真実は、神の御言葉が私の知識ではなく、神の御言葉が判断の基準であるということです。
何も知らずに罪を犯した魂、神の律法で禁じられていることを犯した魂は、たとえ知らなかったとしても有罪であり、罪過のためのいけにえとは別に、その咎を負わなければなりません。
神は、人間が持っていなかった光の責任を人間に負わせるわけではありません。
神が与えた光を持つ人間に責任を負わせるのです。
神はイスラエルに律法を与えました。
ゆえに、イスラエルは有罪でした。
もし、イスラエルが戒めを知らなかったなら、彼らはこのような結果に至らなかったのです。
彼らにはモーセと預言者がいました。
アブラハムがハデスの金持ちに宣言したように、イスラエルには聞く責任があったのです。
神の御言葉をすべて持っているのに、聖書が家の中で無視され、主の御心を知ろうとも努めようとしない人々について、私たちは何と言うべきでしょうか?
この神の啓示を意図的に無視し、神の御心を学ばなかった人々は、来たるべき日に、どれほどの罪が裁かれることになるでしょうか?
バニヤンの不滅の寓話(天路歴程)では、グレース・レスという男がその本を読んだ時に、自分の背中にある重荷の重さに気づいたのです。
神の御言葉の真実は、罪人の心にのしかかってきます。
罪人は自分たちの罪を感じ、救いを要求するのです。
神に感謝します。
このようにして私たちの罪の重荷に私たちが気が付く時、罪過のためのいけにえは、すぐそばにあるのです。
贖いの働きにおいて、神の愛する御子は私たちのすべての邪悪な罪のために完全な贖いになったことを見つけることができます。
私たちは、そのメリットを受け入れるように神の願いの御元に進み出るのです。
レビ記6章1〜7節で。隣人に犯した罪について、別の側面から見ることができます。
しかしながら、罪過は主に対して行われることをここでは語っています。
「 ついで主はモーセに告げて仰せられた。
「人が主に対して罪を犯し、不実なことを行なうなら、すなわち預かり物や担保の物、あるいはかすめた物について、隣人を欺いたり、隣人をゆすったり、
あるいは落とし物を見つけても、欺いて偽りの誓いをするなど、人が行なうどれかについて罪を犯すなら、
この人が罪を犯して罪に定められたときは、そのかすめた品や、強迫してゆすりとった物、自分に託された預かり物、見つけた落とし物、
あるいは、それについて偽って誓った物全部を返さなければならない。元の物を償い、またこれに五分の一を加えなければならない。彼は罪過のためのいけにえの日に、その元の所有者に、これを返さなければならない。
この人は主への罪過のためのいけにえを、その評価により、羊の群れから傷のない雄羊一頭を罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来なければならない。
祭司は、主の前で彼のために贖いをする。彼が行なって罪過ある者とされたことのどれについても赦される。」」
レビ記6章1〜7節
ここで、気を付けるべき原則を見つけることができます。
自分自身も、罪過のいけにえを与えることによって、恩恵を受けるのです。
罪を犯した人は、以前よりも本当に良くなりました。
ささげた人が罪過のためのいけにえを主にささげた時に、罪が告白され、5分の一の部分が追加され返されたのです。
前者の場合、もし、人が隣人を騙して強盗、もしくは、紛失物を見つけて、自分で保管するつもりで隠していたり、あるいは、他の方法で他人を不当に扱ったり、騙したりした場合、その人の罪過のためのいけにえは、5分の一の部分が追加され、完全な賠償をしない限り、神に受け入れられませんでした。
何と驚くべきことに、これは神の比類のない恵みを引き出すのです。
詩人アルフレッド・テニスンが詩文「ドリーマー」の中で「勝つことよりも失うものが少ない」と述べているように、これは永遠の時代を通して言えることなのです。
彼は5分の一を追加しますが、失われるよりはるかに安いことなのです。
「まことに、人の憤りまでもが、あなたをほめたたえ、あなたは、憤りの余りまでをも身に締められます。」
詩編76編10節
懐疑論者は冷たく、このように尋ねるでしょう。
「なぜ、義であり、全能の神であるお方は、この宇宙に憎むべき頭(蛇)が起こる罪をお許しになったのですか?
その結果として、どうして天と地を汚すことを許したのですか?」
しかし、十字架の御働きが、そのすべてに対する答えです。
贖われた罪人としての人間の神との交わりは、被造物と創造主との単なる関係よりもはるかに偉大で、より祝福されたものです。
そして、神の恵みは、十字架という偉大な罪過のいけにえにおいて、増幅されました。
もし?罪がまったく入ってこなかったら、決してこの恩恵は知ることができなかったのです。
7節の御言葉はとても貴重なものです。
「祭司は、主の前で彼のために贖いをする。彼が行なって罪過ある者とされたことのどれについても赦される。」
レビ記6章7節
これらの言葉に、貧しい、不安、問題ある魂などの言葉を思い浮かぶでしょうか?
あなたは時々、自分が神の慈悲の望みを超えて、罪を犯したのではないかと考えることがありませんか?
理解するべきです!
もしあなたが罪過のいけにえを持って神の御元に来て、主イエスに心から信頼し、救いを求めて主のみを頼りにすれば、すべての罪は赦されるのです。
あなたがしたことはすべて永遠に消し去られ、神の目にはまるでなかったかのように映るのです。
何年も前の話です。
ジプシー・ロドニー・スミスが説教者を務めたシカゴでの素晴らしい集会の終わりに、一人の力強そうな男が通路に出てきて、福音伝道者の演説の終わりに泣きながら、自分の罪と醜さの話をすすり泣きながら話しました。
彼は説教者に助けを求めてこう言ったのです。
「ああ、先生、私の罪は許されるには大きすぎます。」
すぐに、説教者は「しかし、神の恵みはあなたのすべての罪よりも大きいのです」と言いました。
ドクター・タウナー氏は愛されている作詞家、音楽家です。
彼は、その夜、立ち上がり、家に帰りながら、自分の思いから湧き出すある御言葉が形になって行くのを感じました。
「グレース、グレース、神の恵み、わたしたちのすべての罪より大きい恵み。」
詩のメロディーも彼に与えられ、家に着いてから書き留めました。
翌日、彼はジュリア・ジョンストン氏に渡しました。
彼女は多くの神の栄光を現わす曲を書いていました。
そして、彼女は有名なコーラスタイトルが付いたこの賛美歌の詩を作曲したのです。
最初の節にはこのようにあります。
「私たちの愛する主の驚くべき恵み。
恵みは私たちすべての罪と悪より優れ!
あのカルバリ山の注ぎだされました。
子羊の血が注がれたのです。」
それ以来、何年にもわたって、この曲は私たちのすべての罪よりも偉大な恵みの物語を、何万もの悩む魂に伝えてきたのです。
この曲は、実際の罪過のためのいけにえを伝えているのです。
7章1〜7節では律法としての罪過のためのいけにえについて、私たちは読むことができます。
この場合、罪のいけにえとして、2回語られ「もっとも聖いもの」として語られています。
私たちの祝福された救い主の人間性が罪によって汚されたという考えが入る隙間を、神は少しも残していません。
私たちはキリストについて、このように書かれているのを読んでいます。
「彼は罪を知らない」
「彼には罪がない」
「彼の中には罪がない」
神は注意深くこのことを守っているのです。
さらにこのことは、キリストの十字架の早朝においても十分に証明されています。
ピラトの妻はこのようなメッセージを受けました。
「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」
マタイの福音書27章19節
ピラト自身も宣言しています。
「私はこの人には罪を認めません。」
ヨハネの福音書19章6節
犯罪人のひとりもこのように宣言しています。
「だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
ルカの福音書23章41節
ローマの百人隊長も、この恐ろしい時間、驚くべき光景の中で恐れを感じこのように宣言しています。
「ほんとうに、この人は正しい方であった。」
ルカの福音書23章47節
さらに、私たちは正しい方が正しくない私たちのために苦しまれたのを見ています。
キリストは私たちを神の御元に連れてゆこうしたのです。
その罪過のためのいけにえは祭壇の上で殺され、祭壇の周りに振りかけられたのです。
私たちの罪に対する裁きを表現するために、犠牲の部分は祭壇の上で焼かれ、神の御元へと持って行かれるのです。
一方、ほかの部分は聖所の中で祭司たちによって食べられました。
この罪のいけにえの場合、私たちにこのように語られています。
「罪のためのいけにえと罪過のためのいけにえについてのおしえは一つである。そのいけにえはそれをもって贖いをする祭司のものとなる。」
レビ記7章7節
すべてのクリスチャンが、今日における祭司です。
私たちのすべての者が、罪過のためのいけにえをたべるという神の神聖な特権を持っているのです。
私たちは神の御言葉を読み、その御言葉が私たちの主イエス・キリストの贖いの働きについて明らかにしていることを黙想しながらこれを行います。
私たちの主イエス・キリストは、私たちのすべての罪と罪過を取り除き、私たちを聖なる神の御前にふさわしいものとしてくださったのです。
詩編69編はこれらのレビ記で教えられていることと、最もふさわしく結びつけるのです。
この詩編は罪過のためのいけにえの詩編と呼ばれ、十字架に向かって行かれ、私たちの罪のために裁きを受けられた、祝福された主を私たちに教えているのです。
ここで、私たちはキリストについて言っていることを聞くことが出来ます。
「私は盗まなかった物をも返さなければならないのですか。」
詩編69編4節
その者は私たちの罪を自分のものだと告白し、このように言うことが出来たのです。
「それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。」
詩編69編9節
20、21節ににもこのようにあります。
「そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした。
彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」
詩編69編20、21節
これが十字架のことだと、明快にこれを示しています。
彼の魂が苦しみを通して、ここでキリストが罪過のためのいけにえとして描写されているのです。
私たちは詩編作者とともに主張します。
「それは雄牛、角と割れたひずめのある若い雄牛にまさって主に喜ばれるでしょう。」
詩編69編31節
旧約のささげ物は、実際、罪を取り除くことは出来ません。
罪は私たちの主イエスキリストの成就された御業を通して、取り除くことが出来るのです。
繰り返されることのない、一つのいけにえ、私たちの身代わりとして、キリストは呪われた木の上に架かったのです。
私たちはこの完成されて御業に何をも加えてはならないのです。
神に感謝します。
私たちはこの罪を取り除くことが出来ないからです。
これは驚くべき完成された御業として、単独で立っている真理です。
神は永遠に満足され、罪人も十分に満足していると信じています。
修道院の門に来た若者の質問は「罪を取り去るにはどうすればよいか?」でした。
それに対する老僧の答えはこうでした。
その質問の答えと罪過のためのいけにえの真実と完全に一致しています。
老人は「あなたにできることはもう何もありません」と答えました。
十字架の上で罪人に対するあらゆる要求をキリストは十分に満たしのかを、質問者に示そうと努力しました。
自分の罪を取り去ろうとする試みは、愚かさと無知がつなぎ合わせるようなものです。
この邪悪な魂をきれいにする方法はありません。
この肉がいくら労苦しようとも、私の霊を完全にすることができません。
私の考え、もしくは私の行いが神との平和を私に与えることはできません。
私がどんなに祈っても、労苦しても、涙しても、この恐ろしい重荷を軽くすることは出来ないのです。
血だけが、主イエスだけが、罪から私の魂を聖くすることができるのです。
あなたの御言葉、神の子羊だけが私に平和を与えてくれるのです。
そして、私たちの黙想の終わりに、これら5つのいけにえは型として導入されたことをもう一度、覚えるべきです。
私はそれらを徹底的に調べようとはしませんでしたが、他の人がそれをしてくれました。
その人たちの著作は簡単に入手できるので、注意深く考える価値があります。
私は、旧約のいけにえを通して、私たちの主イエスキリストの人格と御働きに連なる突出した偉大な真実の強調点を、単純に探そうと試みました。
そして、私は、このことが私たちの利益になると信じています。
「ああ、神についてもっと知り、神にとってより大きな意味を持ちます。
その意味とは、私たちの永遠の祝福の基礎となっている神の素晴らしい御働きをより完全に理解することです。
私たちは天国の夜明けを見て、十字架の上で見つめます。
私たちの罪が赦され、私たちの勝利の歌が鳴り響くのを見てください。」
サー・エドワード・デニーはこのように歌ったのです。
そして悔い改めたクリスチャン一人一人も、罪過のいけにえの犠牲によって、信仰に立つように歌うのです。
2023/7/15終了