メッセージAP 2023/7/29

最後の晩餐とセダー ユダヤ教観点からメシア姿を見る。


1、前書き

2、最後の晩餐の聖書個所

3、イエスの時代の過越し

4、セダーのタイムライン

5、イエスと弟子たちの過越しを過ごしたタイムライン。

6、4杯のぶどう酒の杯。


参考ページ

正統派ユダヤ教のHP   https://www.chabad.org/
ユダヤ教観点から、メシアの到来を語っています。


1、前書き

個人的な主観が利益になるかはわかりません?
聖書を信じ、考え、瞑想している中で何かを感じることがあります。
これは、解釈でもなく、間違っている可能性もあり、主観だけだと言っておきましょう。
そのようなことがいくつもありますが、今回はその中の一つです。

この2000年間の中で、今は情報が最も進んだ時代であり、クリスチャンにとってももっとも責任の重たい時代です。
この2000年間、聖書の全書がそろって読める時代はほとんどなく、現在は奇跡の時代とも言えます。
羊皮でもなく、紙でも、コンピュータで必要な個所を検索して、聖書を前から時代の流れとして、要約して読めることは聖書理解として、最高の武器です。

しかし、現在のキリスト教界の派閥、知識はこのような環境の中で生まれたのではありません。
聖書もろくになかった時代に派生したもので、その中には知識もないのに、よくそこまで熟考したなと感心するものもあります。
神はそんな時代においても、信仰者を置いてくださり、そのことについては感謝すべきことです。
しかし、この時代においても、古い派閥、教理によって、大失敗していますが、ここで大きな変化を感じています。
出来てしまった現在の教会、派閥、教えから、パリサイ人たちのように抜け出すことが難しいと思いますが、もし、真理を知ることによって、新たな道に進むことができるはずです。

この時代、現在のクリスチャン、教会には溢れるほどの情報が与えられ、文字通りに正しく、時系列に聖書を読むことの大切さ、また、その責任が負わされていると実感します。
この時代こそ、御言葉によって体験的に神を知ることのできる時代はでき、いままでこのような時代が存在していませんでした。

また、最近、インターネットという手段で、特に海外のサイトでも多くの伝道がなされています。
日本では、多くの伝道者がその手段を使い、試みていますが、視聴者数が多くで数千です。
これだけ手間、おそらく予算をかけただろうなと思われるサイトでも数百というものも多く、娯楽系の数百万、数千万から見ればわずかなものです。
それでも、口コミなどで、伝道するよりも多くの人が聖書メッセージに触れることができています。
(知識として福音を広げる意味では成功していますが、足りないのは導きです。
個人的にはローカル・チャーチの必要性を感じています。)

しかし、最近、海外のユダヤ人のキリスト福音メッセージが多く、視聴者が数百万という数字を見ることがあります。
個人的には、英語のリスニングは強くないのですが、最近のユーチューブでは日本語の自動字幕機能があり、わずかなリスニングと組み合わせれば十分に聞くことができます。
自分は、インターネット伝道とユダヤ人の変貌には、時代を感じさせられるのです。
特に、ユダヤ人の伝道、熱心さには次の時代を感じさせます。

ここで、もし、黙示録の7つの教会が教会時代のキリスト教界を現わしているのなら、、
18、19世紀のフェラデルフィア(兄弟愛)の熱心な教会時代が過ぎ、現在のキリストが教会のドアを叩くラオデキア(民の支配)教会の時代が過ぎて、次の時代を感じさせる現象です。(この表現は、私は支持している解釈ですが、解釈なので絶対的な真理とは言えません。)

現代の生温い教会の減衰は、インターネットでも知られることであり、全体的に教会は減衰しています。
ただし、情報があふれだし、熱心なクリスチャンが激増しているようにも見えます。
イスラエル、ユダヤ人との接触も、この2000年間ではありえないように、行われるようになりました。
ラオデキアの終了を感じ、次の時代の到来が身を染みるほど感じます。
つまり、次の時代とは患難時代です。
ここでも、私は携挙の近さをますます感じています。


これも、インターネットで知ったことですが、教会での礼拝で主要テーマになっている聖餐式が、過越しの祭りにおける単なる食事の時ではなく、、
ユダヤ人が過越しの祭りで行う食事の儀式、セダーだという見解があり、自分は同意しています。
それをユダヤ人クリスチャンたちが熱心に発信しています。

多くの教会で教えられてきたように、個人的に聖餐式のぶどう酒の杯は、キリストの一つの体を覚えるために一つであるべきだと考えてきました。
最後の晩餐が、ユダヤ式のセダーなら、実はまったく違うということを知りました。
そして、セダーであれば、過越しの祭りが現わす、預言的な十字架がより見えてきます。
紹介する文献も調べましたが、19、20世紀の神学書においても、これを主張しているものは見たことがありません。

ここでは、複数のネット上の情報を集め、毎回、追加する形で、データベース的に、過越しの祭り、セダーをまとめてゆきます。


2、最後の晩餐の聖書個所

この個所が、イエスと弟子たちが行ったただの最後の食事だと言えるのでしょうか?
明らかに、過越しの儀式としての食事を行ったのです。
となると「種無しパン、鉢に手を浸す、感謝をささげて後、~この杯、足を洗う」にはすべて儀式的な意味があるのです。
4福音書はこのように記述しています。

「さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」
イエスは言われた。「都にはいって、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう。」と言っておられる。』と言いなさい。」
そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。
さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。
みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。
イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。
確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。
また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。」
マタイの福音書26章16~30節


「種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」
そこで、イエスは、弟子のうちふたりを送って、こう言われた。「都にはいりなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。
そして、その人がはいって行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる。』と言いなさい。
するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」
弟子たちが出かけて行って、都にはいると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした。
夕方になって、イエスは十二弟子といっしょにそこに来られた。
そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言いだした。
イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに、同じ鉢にパンを浸している者です。
確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。
イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」
まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
マルコの福音書14章12~25節


「 そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる。』と言いなさい。
すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。」
彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。
さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。
イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。
あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」
食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」
ルカの福音書22章11~19節


「さて、過越の祭りの前に、

夕食の間のことであった。

夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。

あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。
わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』と書いてあることは成就するのです。
わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」
イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」

イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。
彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」

ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。
ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。
神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。」
ヨハネの福音書13章1~32節


これを学ぶのであれば、いろんな教会で行われている儀式化された晩餐式ですが、考え直す時が来ているような気がします。
準備する手間なども考慮しますが、特に刃物で切られた食パンには抵抗さえも感じます。
種なしパン(罪の無い方)が刃物に依らずに割かれたのです。


https://bible.org/article/passover-time-jesus

3、イエスの時代の過越し

下記のエッセイは、私が友人たちと行った最近のセダーで使用された記録です。
少し想像力を働かせれば、それがどのように実行されたかがわかります。

今晩、私たちは西暦1世紀に祝われた過越の祭りを祝います。
記録が乏しいところもありますが、その夜の多くの様子が、当時、確実なものであることが証明できます。

私たちはプレートの上にあるユダヤの伝統的な料理である「ゲフィルテ・フィッシュ」、もしくはゆで卵、もしくは子羊のすねの骨も食べません。
この習慣はイエスの時代にさかのぼれば、このようなことは行われていません。
(古代の過越の祭の儀式の基本的な情報源は、紀元前に書かれたミシュナのペサヒム冊子です(ギリシャ語のパスシャが語源です。
RSV訳聖書のコリント第一5章7節では"paschal"と訳されています。
他のほとんどの現代語訳聖書では"passover"と訳されています。
その文献は西暦200年にラビ、ユダ・ハ・ナッシによって書かれたものですが、それは、彼は紀元前一世紀に生きた偉大なラビ・ヒレルから引き継いだ口伝律法をまとめたものです。)

食事自体はシンプルで、前菜、子羊の肉、種なしパン、ぶどう酒です。
しかし、食事の象徴的な意味は、豊富で複雑なものです。
過越の祭りは、国民がエジプトの束縛から解放されたことを祝うお祝いの行事です。

イエスの弟子たちがしたように、私たちは今夜それを祝うべきです。
メシアの死を暗示するこの喜ばしい時を、弟子たちが理解したのは、後になって始めて気が付いたのです。

もう一度、私たちはイエスの時代、イスラエルのユダヤ人が何をしていたか?
弟子たちの思い、同様に私たちの主が何がおきていたのかとを再現し、キリストの死の前に最後の晩餐(過越し)に私たちは考えてみましょう。
紀元33年4月2日、木曜日の夕方のことを記録している参考文献とともに、私たちはこの儀式の中に入ってゆきましょう。
(私が主張する日付は、ハロルド・ヘーナー氏の『キリストの生涯の年代学的側面』"Chronological Aspects of the Life of Christ"を根拠としています。)

準備:
ニサンの月:ユダヤ歴の1月、太陽暦の3、4月ごろ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B5%E3%83%B3
ニサンの月10日-子羊の選び
家族の一員によって、1歳の傷のないオスの子羊の選ばれます。

(過越しの子羊はニサンの月の14日、昼から午後3時の間に屠られます。
その3時間の間、闇が覆い、約3時間の間、イエスは十字架の上にいたのです。

「 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。」
マルコの福音書15章33節


その時に、イエスは息絶えたのです。
聖所の幕は上から下へと二つに割かれました。

「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」
マルコの福音書15章38節


まさに、その時、目の前の至聖所の祭壇の上で、最後の子羊が屠られていたのです。
西暦70年、ローマに全滅させられる直前のエルサレムの神殿には27000頭の子羊が立っていました。
その子羊は屠られ、レビたちはハレルヤ詩編(詩編113~118編)を唱えていたのです。
何度も繰り返して、、)


紀元33年、ニサンの月の10日は
イエスがエルサレムに勝利無きの入場を行った「しゅろの月曜日」に当たります。
その日、イエスがイスラエルの国のために、汚れなき犠牲として自分を捧げたことは明らかなことです。
(この習慣は、あきらかにゼカリヤ書1章12節のラビ的解釈に由来しています。

「その時、わたしは、ともしびをかざして、エルサレムを捜し、そのぶどう酒のかすの上によどんでいて、「主は良いことも、悪いこともしない。」と心の中で言っている者どもを罰する。」
ゼカリヤ書1章12節



聖書の中でパン種は、何度も罪を表しています。
パウロも過越しのパン種と神への責任について、このように語っています。

「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」
コリント人への手紙第一5章7節



ニサンの月の14日までは、羊たちが殺されることはありません。
その日はイエスは十字架に架けられたのです。(紀元33年4月3日の金曜日)

ニサンの月13日-パン種を探す。
通常、過越しの食事を食べる前の夕に、家長はキャンドルライトを使って家族を照導きます。
その時、パン種は家にあるべきではありません。
家の隅々までパン種がないか探しました。
(ユダヤ人が近隣の異邦人にパン種を売り、種なしパンを8日間食べた後に買い戻すことも少なくありませんでした。)

探し終わった後に父親が言います。
「私の所有物の中にパン種は、私は見たものも、見ていないものも、パン種が無かったとしても、血のチリとしてみなされますように、、」

ニサンの月14日-足を洗う。
ゲストと家族の一員は家の中に入って行き、過越しを祝います。
使い、もしくは奴隷は何度も彼らの足を洗いました。
これは身分の低い者の仕事です。
(イエスはヨハネの福音書13章でこれを行いました。
しかし、イエスは家長であり、家族の頭です。
どちらであっても、後に、イエスの弟子に行ったことはその両方が象徴化されています。

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
マルコの福音書10章45節


これはキリストの原則の具現化です。

「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」
マルコの福音書9章35節


「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」
ヨハネの福音書13章15節


(足を洗う行為は、過越しの祭の一部ではありませんでした。
これは、食事をするために家に入るときのイスラエルの習慣となっていたのです。)

儀式的でないぶどう酒: 儀式用のぶどう酒を飲む前に、私たちには信仰的に意味を持たないぶどう酒を飲むことは許可されています。
この非儀式用ぶどう酒は、儀式用のぶどう酒の 1杯目と2杯目の間、および2杯目と3杯目の間にも許されています。

最初の手洗い: ゲスト全員が到着したら、古代からユダヤ人が儀式としての最初の手洗いを行います。
これは毎食前に行ないます。

(最初の手洗いについて、いくつか論争があります。
現在では、食事の前と座る前に行われます。
古代では、テーブルに全員が横たわり、最初の一杯のワインが注がれた後に行われた可能性があります。

マタイの福音書15章1~20節では、イエスは、この伝統は単なる「人々の戒め」であると反論し、パリサイ人や律法学者がそのような伝統のために神の戒めを放棄したことを指摘しています。)

テーブル・セッテング: それぞれの座席の前に4つの儀式用の杯が置かれます。
それぞれの杯にはこのようなラベルが貼られています。
非儀式用ぶどう酒は机の上には置かれていません。
彼らが到着して、足を洗った後に、ゲストに配られます。

一枚目の皿、刃物、ナプキン、さまざまなキャンドルが机の上に置かれ、座席にはラベルが貼られています。
チャロセス、種なしパン、野菜、酢(カルパス)はすべて机の上に置く必要があります。
同様に、代表されるぶどう酒のボトルもすべてラベルを付けてそこにある必要がありました。

机にもたれる(リクライニング): 古代近東の習慣である「机にもたれる」という行為は、現在の「テレビリモコンを持って、ポテトを食べる」ようなものです。
彼らは最初に枕の上に大の字になり、使いのサービスを受けながら低い机(18インチ(45cm))の周りにもたれます。
靴を脱いで、楽しい時間を過ごす準備をするのです。

席の割り当て:過越しの祭りの席は割り当てられています。
端にいる家族の長から始めて、ゲストは最年長の者から最年少の者へ、または最も重要な者から順位をもって机を囲みます。
彼らの中には座るべき場所の意味を持っている人もいます。
残りは好きなところに座って構いません。

最初の杯:過越しに使われる4つの儀式的なぶどう酒があります。
ミシュナには、たとえイスラエルで最も貧しい人であっても、全財産を売ってでも儀式用の4杯を飲まなければならないと書かれています。
そのぶどう酒は温かい赤ワインです。
習慣ではこの夜に続けられ、各カップの上で祈りが捧げられます。
そして、それぞれの杯の上に出エジプト6章6、7節にある4つの動詞が読み上げられます。

「それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。
わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。」
出エジプト6章6、7節


私たちが軽い気持ちで席に付いた後で、最初の祈り(キドゥッシュ、または聖別の祈り)が家長によって捧げられます。
... ברוך אתה יי אלהינו מלך העלמ בורא פרי הגפנ

「私たちの神であるあなたは、祝福された方。
あなたは宇宙の王です、
あなたはぶどうの実を創造されました。

そして、あなたは私たちの神、主です。
この祭りの日に、あなたは喜びを与えてくださいます。
この種無しパンを食し、楽しみます。
この時に、エジプトを離れる記憶を私たちに思い出させます。
あなたは祝福された方です。
あなたは私たちの神、主です。
あなたは私たちを生かし、維持してくださいます。
あなたは、この季節を楽しむことを可能にしてくださいました。」


カルパス(苦いハーブで最初に浸します):家の頭は苦いハーブ(伝統的にレタスやセロリ)を塩水または酢に浸します。
家の頭は右隣の招かれた客と一緒にハーブを浸し、テーブルの下に苦いハーブを移します。

カルパスにすべての者が参加した後に、テーブルからすべての食べ物が持って行かれます。
これはこの夕方の重要性を高め、末っ子から問題を提議します。

2杯目の杯:注がれていますが、まだ飲んではいません。
末っ子からの問題です。
彼は少なくとも、重要な存在です。

どうして、この夜は他の夜と違うのですか?

他の夜では、種を入れたパンまたは種を入れないパンを食べますが、この夜は、どうして、種を入れないパンだけを食べるのですか?。
他の夜はいろんなハーブを食べるのですが、この夜は苦いハーブだけ食べるのですか?
どうして、私たちはハーブを2回、浸すのですか?

他の夜では、私たちは肉を焼いたり、シチューにしたり、煮たりして食べますが、
この夜はどうして、焼いた肉だけを食べるのですか?

「アブラハムからモーセのイスラエルの歴史、そして律法が与えられた」ことを父は答えます。

(イスラエルの歴史を語る命令は、下記の出エジプト記に記録されています。

「わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行なったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである。」
出エジプト記10章2節


「あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか。』と言ったとき、あなたがたはこう答えなさい。『それは主への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて、礼拝した。」
出エジプト記12章26~27節


「その日、あなたは息子に説明して、『これは、私がエジプトから出て来たとき、主が私にしてくださったことのためなのだ。』と言いなさい。」
出エジプト記13章8節



使徒の働き7章2~38節をいくつかの引用を加え、読んでみましょう。
興味深いのは、ステパノの説教が、過越しの祭りで家長がことと、非常に近いことを言っていることです。
(ここでは、いくつかの興味深いひねり(嫌味)が加えられています)
実際にステパノの説教での行為は驚くべきものだったのです。
まるで、過越しの祭りでステパノが家の長として、朗読しているようです。
(7章39節では、ステパノは朗読すべき内容を超えて、宗教指導者たちに対する告発を宣言し始めています。)


すべての食べ物とぶどう酒は、子羊も含めテーブルに戻ってきます。
ここで、父親は子羊と種無しパンの重要性について説明します。
そして、詩編113~114編にあるハレルヤ詩編の前半分を唄うのです。

これは二つの方法で行われます。
一つ目は、父親は読まれた各詩の後に、家族と一緒に「ハレルヤ」と言い、そして、その歌詞を歌います。
もう一つの方法は、全員で詩篇をともに歌います。
今回、私たちは後者で行います。

「ハレルヤ。主のしもべたちよ。ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。
今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。
日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。
主はすべての国々の上に高くいまし、その栄光は天の上にある。
だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し、
身を低くして天と地をご覧になる。
主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ、
彼らを、君主たちとともに、御民の君主たちとともに、王座に着かせられる。
主は子を産まない女を、子をもって喜ぶ母として家に住まわせる。ハレルヤ。

イスラエルがエジプトから、ヤコブの家が異なることばの民のうちから、出て来たとき、
ユダは神の聖所となり、イスラエルはその領地となった。
海は見て逃げ去り、ヨルダン川はさかさに流れた。
山々は雄羊のように、丘は子羊のように、はねた。
海よ。なぜ、おまえは逃げ去るのか。ヨルダン川よ。なぜ、さかさに流れるのか。
山々よ。おまえはなぜ雄羊のようにはねるのか。丘よ。なぜ子羊のようにはねるのか。
地よ。主の御前におののけ。ヤコブの神の御前に。
神は、岩を水のある沢に変えられた。堅い石を水の出る泉に。」
詩編113~114編


2杯目の杯の祈り:

「私たちの神であるあなたは、祝福された方。
あなたは宇宙の王です、
あなたはぶどうの実を創造されました。」


「わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。」
出エジプト6章6節


והצלתי אתכמ מעבדתמ

2回目の手洗い: この手を洗い儀式は、これから食べる種なしパンに敬意を表して行われます。
過越の子羊、野菜を添えたカルセス、種なしパンのウエハース2枚が提供されます。

パンの祈り(父による):
「私たちの神であるあなたは、祝福された方。
あなたは宇宙の王です。
あなたは地にパンをもたらせました。
私たちの神、主よ。
あなたは祝福された方です。
あなたは宇宙の王です。
あなたは、私たちを戒めと共に聖別します。
今、あなたの戒めとして、この種無しパンを食べるのです。」


パンを裂く:
主人は招かれた客のパンを割き、彼らはチャロセスの中に苦いハーブと共に浸します。
ゲストは順番に隣のパンを割き、彼らは共に浸し、繰り返して行われます。

2杯目のぶどう酒の杯を飲んだ後、もしくは儀式的でないものも、すでに飲んでいますので数杯の杯を飲んだ後、その時に食事を食べることが出来ます。

3杯目の杯:祈りとぶどう酒の摂取
食事のあと、3杯目の杯が注がれます。
最後の種無しパンのウェハーを祝福し、割き、食べます。

「私たちの神であるあなたは、祝福された方。
あなたは宇宙の王です。
あなたは地にパンをもたらせました。
私たちの神、主よ。
あなたは祝福された方です。
あなたは宇宙の王です。
あなたは、私たちを戒めと共に聖別します。
今、あなたの戒めとして、この種無しパンを食べるのです。」

すべての参加者は食事の後の恵みを共に引用し、ぶどう酒で祈るのです。
「主の御名を今から永遠まで祝福します。
私たちは神が参加する者に与えられた賜物を感謝します。
私たちの祝福された主が参加する者に賜物を与えられたです。
神の善意によって、私たちは存在しているのです。
私たちの神であるあなたは、祝福された方。
あなたは宇宙の王です、
あなたはぶどうの実を創造されました。」


この時、父親は出エジプト記6章6節から3回目の引用を行います。

「わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。」
出エジプト6章6節


וגאלתי אתכמ בזרוע נ טימ גדלימ

この時、ぶどう酒を飲みます。
(儀式的ではないぶどう酒は、3回目と4回目の間に飲みたい人は飲んでいます。)

4杯目の杯と最後のハレルヤ詩編です。
4杯目の杯が注がれて、全員が祝福します。

「私たちの神であるあなたは、祝福された方。
あなたは宇宙の王です、
あなたはぶどうの実を創造されました。」


この時、父親は出エジプト記6章6~7節から4回目の引用を行います。

「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。」
出エジプト6章7節


詩編の115~118編をここで歌い、詩編を閉じます。

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。
なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」と。
私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。
彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。
口があっても語れず、目があっても見えない。
耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。
手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。
これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。
イスラエルよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。
アロンの家よ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。
主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。
主はわれらを御心に留められた。主は祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、
主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。
主があなたがたをふやしてくださるように。あなたがたと、あなたがたの子孫とを。
あなたがたが主によって祝福されるように。主は、天と地を造られた方である。
天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。
死人は主をほめたたえることがない。沈黙へ下る者もそうだ。
しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。

私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。
主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。
死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。
そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」
主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。
主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。
私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。
まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。
私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。
「私は大いに悩んだ。」と言ったときも、私は信じた。
私はあわてて「すべての人は偽りを言う者だ。」と言った。
主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。
私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。
私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。
主の聖徒たちの死は主の目に尊い。
ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを解かれました。
私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。
私は自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。
主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真中で。ハレルヤ。

すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。
その恵みは、私たちに大きく、主のまことはとこしえに至る。ハレルヤ。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
さあ。イスラエルよ、言え。「主の恵みはとこしえまで。」と。
さあ。アロンの家よ、言え。「主の恵みはとこしえまで。」と。
さあ。主を恐れる者たちよ、言え。「主の恵みはとこしえまで。」と。
苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。主は、私に答えて、私を広い所に置かれた。
主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。
主は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。
主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。
主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。
すべての国々が私を取り囲んだ。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。
彼らは私を取り囲んだ。まことに、私を取り囲んだ。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。
彼らは蜂のように、私を取り囲んだ。しかし、彼らはいばらの火のように消された。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。
おまえは、私をひどく押して倒そうとしたが、主が私を助けられた。
主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。
喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある。主の右の手は力ある働きをする。
主の右の手は高く上げられ、主の右の手は力ある働きをする。
私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。
主は私をきびしく懲らしめられた。しかし、私を死に渡されなかった。
義の門よ。私のために開け。私はそこからはいり、主に感謝しよう。
これこそ主の門。正しい者たちはこれよりはいる。
私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。

家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。
これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。
これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。
ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。
主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。
主は神であられ、私たちに光を与えられた。枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。
あなたは、私の神。私はあなたに感謝します。あなたは私の神、私はあなたをあがめます。
主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」
詩編115~118編


4、セダーのタイムライン

1A、セダーでは全般的に、リーダーは参加者に、種なしパン(アフィコン)と緑色の野菜(パセリ)を、苦いハーブの入ったボウルと甘いハロセットのボウルに浸すよう促します。

アフィコンとは、ユダヤ式の種なしパンです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Afikoman

ハロセットとは、ユダヤ式デザートです。
レシピはいくつかありますが、リンゴ、イチジク、ザクロ、ブドウ、クルミ、ナツメヤシ(出来るだけ四角く切る)に、ワイン、サフラン、シナモンを加えたものとされています。
https://en.wikipedia.org/wiki/Charoset

これはイスラエル人が、エジプトで奴隷状態であった時に作らされたレンガを思い出させるものとされています。

1B、イエスは弟子と共に、ボールの中にこれらの食べ物を浸しました。
(マタイの福音書26章23節、マルコの福音書14章20節、ヨハネの福音書13章26節)

パセリ(カルパスと言う)をは苦さ(にがさ)の象徴。
塩水の鉢は数人にひとつ用意された。
イエスはユダの裏切りを予告した。

2A、セダーのリーダーは種なしパン(アフィコン)を取り、それを祝福してくださるように求めます。
ハロセットと苦菜を食べる。

2B、イエスはパンを取り、祝福ししました。
(マタイの福音書26章26節、マルコの福音書14章22節、ルカの福音書22章19節)

3A、セダーのリーダーは種なしパン(アフィコン)で、神に感謝を捧げた後に、パンを割ってターブルにいる一人一人に配ります。

3B、イエスはパンを割き、弟子たちに与えました。
(マタイの福音書26章26節、マルコの福音書14章22節、ルカの福音書22章19節、ヨハネの福音書13章18節)

4A、過越しのセダーの間、リーダーは参加者にワインを何杯も飲むよう勧めます。
伝統的なセダーでは、通常、ワインを4杯(さらにエリヤ用に1杯)飲みます。

4B、イエスは弟子に何杯もワインを飲むように勧めています。
マタイとマルコは少なくとも1杯だったと述べています。
(マタイの福音書24章27節、マルコの福音書14章24節)
ルカは少なくとも2杯だったと述べています
(ルカの福音書22章17節、20節)

5A、セダーのリーダーは、過越しの出来事を説明します。
リーダーは過越しで現わされていることと、それぞれの出来事を関連付けて、たびたびコメントしていきます。

5B、イエスは過越しと関連したの出来事を説明しているだけでなく、イエスに関する真実で重要な出来事、預言の成就について、明らかにしています。
(マタイの福音書24章26節、27~28節、マルコの福音書14章22節、24節、ルカの福音書22章19~20節)

6A、セダーのリーダーは、ぶどう酒を「ぶどうの実」と呼び、ぶどう酒を祝福してくださるように求めます。

6B、イエスは何回もぶどう酒を「ぶどうの実」と述べています。
(マタイの福音書26章29節、マルコの福音書14章25節、ルカの福音書22章18節)

7A、セダーの終わりには、詩編と賛美の歌を唄います。

7B、イエスと弟子たちは、過越しの食事がすんだ時に賛美の歌を唄いました。
(マタイの福音書26章30節、マルコの福音書14章26節)

8A、セダーでは預言者エリヤのために、ぶどう酒を杯に注ぎ、メシアを期待するのです。
セダーの終わりに、メシアの到来をアナウンスするためにエリヤが来ていないか、家の扉をチェックしに行くのです。
(ユダヤ人たちは、メシアの先駆けとしてエリヤが来るのを、長く信じているのです。)

8B、セダーではメシアを期待するのです。
イエスは弟子たちに、真実なる過越し、キリストについて、キリストのメシアとしての任務について説明しました。
(マタイの福音書26章26節、27~29節、マルコの福音書14章22節、24~25節、ルカの福音書22章16節、18、19、20節)


5、イエスと弟子たちの過越しを過ごしたタイムライン。

1、イエスと弟子たちは2回の部屋に着きました。
(マルコの福音書14章17節)

2、イエスと弟子たちは足を洗いました。
(ヨハネの福音書13章3~17節)

3、イエスは弟子の一人が、イエスを裏切るとアナウンスしています。
(ヨハネの福音書13章18~20節)

4、セダーが公に始まりました。
(マタイの福音書26章29節、ルカの福音書22章14節)

5、イエスは弟子たちと一緒に、過越しの食事を食べることを切望していたとアナウンスしています。
(ルカの福音書22章15、16節)

6、イエスは最初のぶどう酒の杯を祝福しました。
(ルカの福音書22章17~18節)

7、イエスはパンを割き、自分自身を種無しパンとして確認しました。
(マタイの福音書26章26節、マルコの福音書14章22節、ルカの福音書22章19節)

8、イエスの2回目のアナウンスです
12弟子の一人が、自分を裏切ることを言っています。
これは弟子たちの問題で、イエスは裏切る者がユダであることを確認しています。
しかし、弟子たちは後になるまでこの事実に気づきませんでした。
その後、ユダはイエスを裏切るために去ります
(マタイの福音書26章21~25節、マルコの福音書14章23~24節、ルカの福音書22章20節)

9、イエスは2回目(もしくはそれ以上)のぶどう酒の杯を祝福しました。
そして、自分が過越しの子羊であることを確認しています。
(マタイの福音書26章27~28節、マルコの福音書14章21~23節、ルカの福音書22章20節)

10、イエスは3回目(もしくはそれ以上)のぶどう酒の杯を祝福しました。
そして、王国が来るまで、弟子たちとこの杯を飲まないことを確認しました。
(マタイの福音書26章29節、マルコの福音書14章25節)

マタイの福音書26章29節では「ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」と書かれています。
ギリシャ言語では、定冠詞がついており、セダーでいう贖いのぶどう酒を指しています。
つまり、イエスは「過越しの食事(贖いの杯、このぶどうの実で造った物、イエスはぶどう酒を何度もぶどうの実で造った物と言っています)は、王国が来るまで飲むことはありません」とアナウンスしているのです。
実際、十字架の上でイエスは、酸いぶどう酒を口にしています。
(ヨハネの福音書19章19~20節)

11、正式なセダーの後で、弟子たちはゲッセマネで議論し始めました。
(ルカの福音書22章24節)

12、イエスは弟子たちに真実な偉大な権威、そして王国について議論したことを、思い出させました。
(ルカの福音書22章25~29節)

13、イエスは互いに愛し合うことについて語りました。
(ヨハネの福音書19章31~35節)

14、イエスはペトロがイエスを否認すると告げます。
ペテロは決して、イエスを否認しないと誓います。
(ルカの福音書22章31~34節、ヨハネの福音書13章36~38節)

15、イエスは弟子たちに「彼らが旅に出ること」を告げます。
彼らはイエスに質問し、イエスはそれに答えています。
(ヨハネの福音書14章、同様にルカの福音書22章35~38節)

16、イエスと弟子たちは賛美をして、オリーブ山から離れていきます。
(マタイの福音書22章30節、27~29節、マルコの福音書14章26節、ルカの福音書22章39節、ヨハネの福音書14章31節)


6、4杯のぶどう酒の杯

4杯のぶどう酒の杯は、セダーの食事の間を時間をあけ、違ったタイミングで出されます。
神が出エジプト記6章6~7節で約束されたことを4つの方向から表現しています

1、感謝の杯、「私はあなたを連れ出すであろう」、
2、裁きの杯、「私はあなたを解放するであろう」、
3、贖いの杯、「私はあなたを贖いだすであろう」、
4、賛美の杯、「私はあなたがたを取ってわたしの民とするであろう」。
これら4つの約束は、私たちの決定的な贖い主であるキリストの予型なのです。

イエスは最後の過越しの祭りを弟子たちと分かち合った時、伝統的な方法で弟子たちと、最初の2杯のワインを一緒に飲んだのです。

最初の杯:感謝の杯、「私はあなたを連れ出すであろう」。

「そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。
あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」」
ルカの福音書22章17~18節


イエスの約束は「神の国が近づいた」です。
これは、イスラエル人が奴隷の束縛から「連れ出された」ということを、響き返しているのです。

「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」
コロサイ人への手紙1章13節


二杯目の杯:裁きの杯、「私はあなたを解放するであろう」。

イエスは最後の晩餐中に弟子たちに二杯目のワインを勧めました。
それは、全人類が救出されるべき手段を象徴しています。

「食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」」
ルカの福音書22章20節

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」
ガラテア人への手紙5章1節


三杯目の杯:贖いの杯、「私はあなたを贖いだすであろう」。

三杯目の「杯」は、キリストがゲツセマネの園で苦しみ杯です。
キリストは私たちのために、罪の束縛から世界を贖うために十字架の上で苦しみ、この怒りの杯を自ら飲んでくださったのです。
興味深いことに、出エジプト記6章では4つのセダーがこの道についての約束を説明しています。

「それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。」
出エジプト記6章6節


イエスは「過越しの食事(贖いの杯、このぶどうの実で造った物、イエスはぶどう酒を何度もぶどうの実で造った物と言っています)は、王国が来るまで飲むことはありません」とアナウンスしているのです。
実際、十字架の上でイエスは、酸いぶどう酒を口にしています。
(ヨハネの福音書19章19~20節)

四杯目の杯:賛美の杯、「私はあなたがたを取ってわたしの民とするであろう」。
キリストが帰ってくるその日、クリスチャンという家には血を塗られているのです。
クリスチャンは永遠にキリストとともに生きる為です。
私た婚宴の食事にあって、私たちは花婿とともに救いの完成を祝うのです。

マタイの福音書26章29節では「ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」と書かれています。
ギリシャ言語では、定冠詞がついており、セダーでいう贖いのぶどう酒を指しています。
この最後のぶどう酒の杯は、私たちが神のものであり、神が私たちをご自身の民として、要求してくださったすべてを証明しています。

「また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」
御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。」
黙示録19章6~9節

「万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。
この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、
永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。
その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」」
イザヤ書25章6~9節


INDEXに戻る⇒