メッセージAQ 2023/8/11
イエスは一人のユダヤ人でした。
JESUS WAS A JEW
By Arnold G. Fruchtenbaum
訳者による前文
ネット上でフリーにダウンロードできたので、日本語にしてみました。
著作権などの問題があるのならば、ご連絡ください。
この本は、著者のユダヤ人向けトラクトです。
十分、日本人クリスチャンの霊的利益となっています。
https://www.windowview.org/download/jesuswasajew.pdf
前述
ナザレのイエスという人物は、ユダヤ人の歴史の中で謎となっています。
彼は何百万もの人々から救い主、命の与え者として歓迎されていますが、彼の名前はユダヤ人を非難するため、またユダヤ人の命を奪う口実として使われてきました。
その結果、タルムードやユダヤ人の伝説などのいくつかの例外を除いて、イエスという名前ははユダヤ人からほとんど無視されてきたのです。
時が来て、啓蒙主義(18世紀のヨーロッパ)とユダヤ民族主義の目ざめの時が訪れました。
ユダヤ人の著者によるイエスに関する大量の本が洪水のように発行され、中にはイエスをユダヤの歴史に適合させようと試みる者も現れ、ユダヤ教にイエスを取り入れようとする試みも行われました。
しかし、この運動が終ろうとしていた20年は、この洪水も一滴の水のように減少していったのです。
1970年代に入ると、ユダヤ人の集りでは、再び、ユダヤ人としてのイエスの問題に囚われて行ったのです。
若きも、老人も、イエスをユダヤ人のメシアとして受け入れようと主張し始めたのです。
ラビは警戒して、「ユダヤ教とユダヤ人としての主張」を失った若き人々に、嘆きの記事を書いています。
ボストンのベス・ディン氏は、これらのユダヤ人信者に「イエスをユダヤ人と考えるな」と宣言しました。
そして、これらの信者にユダヤ人と結婚する権利、そして、ユダヤ人の葬儀にも出席することをも禁じたのです。
それなのに、あるイエスへの「改宗者」にはユダヤ教の律法を守る義務があると付け加えました。
不思議なのは、彼らはもはユダヤ人でもないのに、これらのことを付け加えるとは奇妙なことを言っています。
すぐに、アメリカにあるユダヤ人新聞と、多くの宗教に興味のない人たちが、この新しい動きを報道し始めました。
イエスがユダヤ人の集まりで問題となり、再び、イエスのユダヤ人らしさとは何か?正確に論議し始めたのです。
この本は、ユダヤ人の集まりでは、まさにこの問題が取り扱われ、問題提議となると見ています。
1、ユダヤ人指導者たちはイエスについて、何と言っているのでしょうか?
イエスという人物について、ユダヤ人の意見も共通してはいません。
その見解も「イエスは存在していなかった」から「ユダヤの大いなる預言者」まで様々です。
その様々なイエスについての見解は、ユダヤの図書館にあるイエスについての本を読む時に、より明らかに分かってくるのです。
確かにユダヤ人の見方は共通してなく、「様々」という言葉には、ユダヤ人著者がイエスについて何を言っているのか?理解することができます。
以下に引用してみましょう。
「イエスはユダヤ人とみなされていたため、3世紀の初めには、ユダヤ教の中にもイエスの弟子とのつながりがありました。
実際に、タルムードの一節には福音書の名前が見られ、特定の教えを引用していますが、反対意見も起きています。」1)
1)Rabbi Morris Goldstein, Jesus in the Jewish Tradition (New York: Macmillan Company, 1950), p. 232.
私たちはイエスのメシア性について、「なぜ、ユダヤ人が同意していないのか?」その答えを探します。
それは、ユダヤ人の伝統が、イエスの存在が「メシアの到来に必要な条件を満たしている」と見なしていないからなのです。
ユダヤ教、神はその日、イスラエルに贖いの希望を与えています。
しかし、ユダヤ教の中にも、メシアが来る時の正確なメシアの役割について、共通な意見がありません。2)
2)1),p. 232.
ナザレから、、旧約聖書において舞台となったことのない、重要と思われていない場所から、優しさに満ちた、英雄的な魂がユダヤ人の中から起こされました。
イエスにとって、ユダヤ教とは生活において最も現実的なものだったのです。
そして、パレスチナ情勢の荒波で、イエスの公の生涯が開始され、まだ若者でありながら、イエスの苦しむ人類に対する思いは、イエスの信仰同様に強いものだったのです。
計り知れない洪水のように、反抗では語れない魅惑という人間性がイエスにはあったのです。
そこにいた無学な人たちはつまらない共通した人生を過ごしていましたが、彼らは個人的にイエスに結びついたのです。
彼らが葬り忘れた墓の向こうにある希望を見て、彼らは必死にイエスのメッセージにしがみついたのです。
イエスご自身は一行たりとも本を書いたことはありません。
しかし、イエスについて書かれた本は6万冊以上あると推定されています。
800の言語と方言がイエスを物語っているのです。
イエスの影響力はこの19世紀に渡って、比較できないほど偉大で、人々の一致した興味をイエス御自身が守っているのです。
ある時代に、石を投げていたような人が、別の時代になると王になるいうことは、歴史上、たびたび起きています。
一般の犯罪者として十字架につけられて男が、100年も経たないうちに人々はイエスを超自然的な存在、まさに神として礼拝がされていたのです。
この時代においては、かつて「エメンセン」と書かれたこともありますが、イエスの名は、まだ世界の歴史に刻み込まれるほどでもありませんでした。
しかし、ユダヤ人の私にとっては、これは驚くべきことなのです。
このようなことは、人間の歴史の中でこれほど大規模に起こったことは他にないのです。3)
3)Ernest R. Trattner, As A Jew Sees Jesus (New York: Charles Scribner's Sons, 1931), pp. ix–x.
19世紀に渡るユダヤ人の歴史は、その内容が多岐にわたるにもかかわらず、これまで見てきた最も影響力のあるユダヤ人のことを、驚くほどに沈黙し続けてきたのです。
何世紀にも渡って、イエスについて起こった驚くべき出来事の中で、これほど驚くべき逆説で混迷させられたことはありません。
「イエスはユダヤ人として、生まれたのです。」
イエスはパレスチナの古代の土の上を生きていたのです。
一度も、異邦の国に足を置かれたことはありません。
イエスは弟子を作り、小さな集まりで教えていました。
彼らはイエス同様、すべてユダヤ人です。
イエスが話した言語にはユダヤ人の伝統と言い伝えが染み込んでいました。
イエスはユダヤ人の小さな子供を愛し、イエスはユダヤ人の罪人を交わりを持ち、イエスはユダヤ人の体を癒し、空腹なユダヤ人に食べさせ、ユダヤ人の結婚式をぶどう酒で満たしました。
そして、イエスが死なれた時、イエスはヘブル語で詩編を引用したのです。4)
4)3),p. 1.
これらの研究により、イエスがユダヤ人であったという事実が明らかになってきました。
イエスのユダヤ人らしさは、芯までしっかりしたものだったのです。
さらに、この点は現在のユダヤ人に偏見をもたらすものとなっています。
偉大な人とは、常に過去に作り上げられたもの、過去の周囲の力以上に優れた存在になるはずです。
しかし、偉大でない者は、彼と共にいる人たちさえも超越することはできません。
イエスはユダヤ人として、しっかりした考えの中に生き、ユダヤ人組織の考えを分かち合っていたのです。
イエスが知っていた唯一の聖書はヘブライ語の旧約聖書でした。
イエスの終末論的な考えは、イエスの仲間であるパレスチナ人の考えと同じです。
イエスほど完全に民の懐の中で生まれ育ったユダヤ人はいません。
息を引き取るまで、イエスはユダヤ人であることから逃れることはできなかったのです。5)
5)3),pp. 19–20.
過去半世紀の間に、このような小論が数多くの有能なラビたちによって、何度も競合して書かれ、通常、二つの短い要点を述べています。
最初の要点として、イエスは人間以上の存在だと考えていることことが、クリスチャンの見解だということです。
それはユダヤ教としては同意できることではなく、ユダヤ人としても同気質なものではありません。
この見解は、度々「キリスト教のキリスト」として注目されます。
二つ目の要点として、イエスを人間として表現することに美徳を感じているからです。
これはユダヤ教的なイエスであり、ユダヤ教的美徳によって形造られ、ユダヤ教の一部とされています。
このように、ユダヤ教的なイエスは、預言者、ラビ、派閥の指導者などの善良な人、偉大な人なのです。
しかし、これらの著者は、他の偉大なユダヤ人よりも優れていたわけでもなく、偉大だったわけでもないと書いているのです。6)
6)Samuel Sandmel, We Jews and Jesus (New York: Oxford University Press, 1965), p. vii.
私たちユダヤ人は、キリスト教の説明を理解した時も、理解していない時も、イエスに関するキリスト教の主張を一貫して拒否してきました。
私たちはイエスがメシアであるとは信じていません。
私たちは彼を主と呼びたくありませんでした。
私たちはロゴス(言葉)がイエスとして受肉したとは信じていません。
私たちはイエスが神、まさに神の性質をまとった神そのものであることを信じていません。7)
7)6), p. 44.
それは私にとって、論文や研究を打ち砕くものではなく、私はイエスを指導者の賜物をもった、何かの教師だと考え、消化してきました。
私もまた、イエスの中には、クリスチャン的な見解とユダヤ人の党派だと見る見解とは、また、異なるユダヤ人の忠誠心があると信じています。
そして、互いに打ち消そうとする動機によって、ユダヤ教からイエスを引き離そうとしています。
私はイエスが信じていると同様に、メシアが世界の終わりにすぐに来るということを固く信じています。
私はイエスが信じていると同様に、イエス御自身がメシアであると信じています。
これらの研究者は黙ってしまいますが、間違っていることなのです。
彼らは言います。
「私はイエスの教えには独創性がないと見ている。」
「正直に言うと、私には分かりませんが、優れた特徴をイエスの教えの中に見つけることが出来ません。」8)
8)6), p. 109.
私にも、他のユダヤ人にとっても、イエスに対する宗教的評価のある可能性は分かりません。9)
9)6), p. 110.
イエスのその独特の人格を見るならば、イエスはこれらに分類し、適合させることはできません。
時々、これらの分類にイエスを適合させようとする試みがありますが、すべてにおいて失敗します。
イエスのように、人類の霊的な生活の中で、並外れた知覚と情熱を持った人々は、生物学における「スポーツ」なのです。10)
10)Beryl D. Cohon, Men at the Crossroads (New York: Thomas Yoseloff, 1970), p. 114.
イエスはユダヤ人であり、息を引き取るまでユダヤ人であり続けました。
イエスは、ご自分の国民にメシアが来られるという考えを植え付けることでした。
それは悔い改めと良き行いによって、「終わり」を早め、実現することができるのです。11)
11)Joseph Klausner, Jesus of Nazareth (New York: Macmillan Company, 1925), p. 368.
イエスによれば、天の王国は現在にあります。
ユダヤ教によれば、天の王国は「終わりの日に」現れます。
前者は「夜の盗人のように」突然来るものです。
「見よ。わたしは盗人のように来る。」
黙示録16章15節
後者は長い努力と働きの成果です。
本当の社会主義はキリスト教ではなくユダヤ教です。
では、どのようにユダヤ教はイエスをメシアと考えることができるのでしょうか?12)
12)11), p. 406.
イエスはクリスチャンではありません、しかし、イエスはクリスチャンになったのです。
イエスの教えとイエスの生涯の歴史はイスラエルから切り離されたのです。
今日に至るまでユダヤ人はイエスを決して受け入れていません。
したがって、イエスの弟子とイエスに従う者たちはユダヤ人とユダヤ教を嘲笑し、迫害してきたのです。
私たちは、第二神殿の時代のユダヤ人の歴史(イエスの生涯とイエスの教えの評価は含まず)に触れる価値ある働きを想像することさえできません。
それでは、現在のユダヤ人の目にイエスはどのような存在なのでしょうか?。
一般的な人類の観点から見ると、彼は確かに『異邦人の光』です。
イエスの弟子たちは、四方八方が異教徒の世界で、イスラエルの律法の灯火(たとえ律法が、切断され不完全な形だとしても)を掲げたのです。
したがって、ユダヤ人は誰も、普遍的な歴史の視点から見たイエスとイエスの教えの価値を無視することはできないはずです。
これは中世のユダヤ人ラビのモーセ ベン マイモン(トーラーの著者)、イェフダ・ハ・レビ(神学者)も無視した事実です。
ヘブライ民族の観点からすると、イエスの価値を評価するのはさらに困難になります。
イエス自身、間違いなく本質的には「ユダヤ人国粋主義者」であり、あえて言えば「極端な国粋主義者」だったはずです。
「カナンの女」に対するイエスの応答(マタイ15:22)、異邦人、取税人と軽蔑的な単語を使った言い方から見てわかることです。
(だとしても、「アブラハムの息子」「アブラハムの娘」という言い回しは、できるだけの賞賛の言葉として使ったと思われます。)
エルサレムに対する深い愛、「イスラエルの家の失われた羊」(マタイ10:6)のためのイエスの祈りは愛国心から出てきたものです。
しかし、イエスの中には「非ユダヤ教」を生じさせるものがありました。
「現在のユダヤ民族にとってイエスとは何でしょうか?」
ユダヤ国民にとって、イエスは三位一体の信仰によって伝えられる、神でも神の御子でもありません。
イエスが神であろうと、神の御子であろうとユダヤ人にとっては不敬な冒涜だけでなく、理解できないものなのです。
ユダヤ民族にとって、イエスはメシアであることはできません。
天の御国(「メシアの日」)はまだ到来していません。
ユダヤ人たちはイエスを預言者とみなすこともできません。
イエスには預言者の政治的認識と、政治的、国家的意味での慰めの預言者の霊(精神)が欠けているのです。
ユダヤ人たちはイエスを律法を与える者、もしくは新しい信仰の創始者とみなすこともできません。
もちろん、イエスはそのようになりたくなかったはずです。
イエスはタンナイム(ユダヤ教の教師)、パリサイ派のラビでもありません。
イエスは常にパリサイ派に反対し、パリサイ派の働きを肯定的に理解してはいません。
パリサイ派は国民の生活全体を自分の支配に置き、国家を強くしようしていたのです。
しかし、イエスはユダヤ民族にとっては、道徳の偉大な教師であり、たとえ話の芸術家でもあります。
イエスは信仰生活において、道徳がすべてである道徳主義者です。
実際、この「極端な国粋主義者」の視点の結果として、イエスの倫理規定は孤立した少数の人たちにとって単なる理想となってしまいました。
ワーグナーの「ズクンフツ-ムジーク」は「メシアの日」への思いです。
終わりの時、この現在の社会秩序は古い世界となるのです。
しかし、人類がこれからのメシアと預言者の未来、そしてタルムードが語る「全能の神の王国」への道を見つけようとしている現在のユダヤ国家や社会には、倫理規定など必要ありません。
「この世界」が理想であり、世代を経てこれから徐々に「全能の神の王国」を形成しようとしているのです。
しかし、イエスの倫理規定には、他のヘブライ語の倫理規定と比類できない形式の崇高さ、独自性、独創性があります。
イエスのたとえ話には驚くべき芸術があり、匹敵するものはありません。
イエスの格言と力強い警告の洞察力と鋭さは、倫理的な考えを一般の人々の所有物になるのに優れたな役割を果たしています。
その日が来て、この倫理規定から、奇跡とか神秘性とか言われる包みが剥がされるとしたら、イエスの倫理の書は、イスラエル文学の中で永遠に最も選ばれた宝物の一つとなるのです。13)
13)11), pp. 413–14.
イエス、福音のイエスです。
クリスチャンのための神の御子、もしくは、受肉された神、イエスの人間としての生涯はユダヤ人でした。
謙虚なユダヤ人の職人だったのです。
この事実は、クリスチャンが知らないでいる権利はありません。
イエスについて私たちが知っていることはすべて、イエスがユダヤ人であったことを示しています。
信仰とか、宗教上の問題としてユダヤ人なのではありません、
生まれながらのユダヤ人なのです。14)
14)Jules Isaac, Jesus and Israel (New York: Holt, Rinehart, and Winston, 1971), p. 11.
私たちが福音書を通して知る限り、イエスの家族はユダヤ人です。
イエスの母親であるマリアはユダヤ人であり、彼らの友人や親戚も全員ユダヤ人でした。
彼らがかつて、反ユダヤ主義者でありながらクリスチャンというのは、尊敬と虐待を結び付けようとするようなものです。15)
15)14), p. 15.
イエスが会堂や神殿で宣べ伝えた福音をユダヤ教から切り離そうとすることほど無駄なことはありません。
真実は、福音とその伝統全体が、ユダヤ人の伝統の中に深く根ざしています。
それは、今では多くが明らかにされてきていますが、パレスチナで約2世紀にわたって、修復と浄化を試みられてきました。16)
16)14), p. 74.
イエスの物語は単純なものであり、現代の政治的経験の観点から理解できるものです。
多くの他の熱心なユダヤ人たちが、反乱者のグループを使ってキリストを殉教と十字架刑に導いた構図は、現在とほとんど変わりがありません。
実際のイエスの生涯では、私たちは超自然的なもの、神学、教義など何も見出すことができません。
ただイスラエルの民と彼の神に対する熱意だけを認識することができます。17)
17)Simon S. Levin, Jesus Alias Christ (New York: Philosophical Library, 1969), p. 71.
ユダヤ教とキリスト信仰の間の相互理解は尊重されるもので、一方通行ではありません。
私たちユダヤ人は、カトリックが語る事実と解釈を絶対的に変えるように常に要求してきました。
しかし、私たちユダヤ人のキリスト教世界、特にイエスに対する態度はどうでしょうか?
私たちは「私たちが語る声明の検討」、「私たちが語る事実」、「ユダヤ人であるイエスの生涯の重要性についての解釈」、これらすべてを「正統的だと言って」断固して拒否し続けているのです。
私たちは、キリスト教の名のもとに確立されたイエスについての偏見に満ちた見方を、再評価するために、公式の本であろうとそれ以外の本であろうと、自分自身の本で調べたことがあるでしょうか?
キリストの語られた説教は、とても単純ですが、崇高であり、預言的でラビ的の教えです。
しかし、私たちはキリストの語っていることは、単に預言者である先人たちや同時代のラビたちによって表明されたことをくり返しているだけという理由で、いつまで無視し続けているのですか?
ミカは、アモスやホセアよりも霊的にも道徳的にもオリジナルな内容でしたか?
私たちが尊敬し、私たちの子供たちに習わせているラビの中で、その発言を繰り返している人はいませんか?
私たちはいつまで「イエスの主要な貢献は、ユダヤ人の祖先が以前に述べたことの焼き直しにすぎない」と、誇張して主張し続けるのでしょうか?
イエスの影響が、異教徒だけでなく、当時のユダヤ人に対しても、後にイエスの御名を無駄に冒涜した人々だけでなく、彼らが有益なものであったと認めるまでどれくらい時間がかかるでしょうか?
私たちは常に正しいわけではありませんが、反対に私たちの持っているものを聞き流そうとしています。
そして、私たちは時には正しいこともあるのですが、このことは私たちと私たちの信仰を誤魔化すことを要求し、恥辱と屈辱をかわす手段を求めているのです。
それでも、私たちが信仰上の安全を確保して成長してゆくことを、そして、世界でもっとも優れた成長した信仰を私は希望します。
今、私たちはイエスのものをイエスに捧げることができる余裕を持っています。
顔を真っ青にしたり、自分自身を鞭打ったりする必要はありません。18)
18)Maurice Eisendrath, Jewry and Jesus of Nazareth (England: the Parkes Library, 1964), p. 6.
イエスは、ユダヤ人のために、美しく高貴な精神(霊)を現わしました。
人生に輝きをもって、人々への哀れみを感じ、特に不幸な人や失われた人たちのために、、
深い敬虔さ、人間性への鋭い洞察力、たとえ話と警句の輝かしい賜物に恵まれた、、
熱心なユダヤ人であり、さらに、イスラエルの人々にあって、しっかりとした基礎を持つ信仰者でした。
すべてがすべてにおいて、イエスは、信仰の原則、ユダヤ教の倫理のその両方において、熱心な教師なのです。
しかし、イエスは単に教師以上の存在ではありません。
イエスは倫理的な預言者になろうとしていたのではありません。
それとも、より高いレベルの宣言をなさろうといたのでもありません。
いまから、知られていない行動原則を示そうとしていたわけでもありません。
もし、記録を調べるのであれば、そのような目的は記録されていません。19)
19)Rabbi Milton Steinberg, "Basic Judaism," Jewish Information, Vol. 3, No. 4, Spring, 1963, p. 37.
しかし、預言者としても、少なくとも、誰もが真似すべき理想として、完全な人としても、ユダヤ人はイエスを受け入れてはいないのです。
それは無理なことなのです。
厳粛な真実として、霊的英雄のイエスでは、所詮、人間なので完璧ではないということになります。20)
20)19), p. 39.
では、「イエスが神でも、神の唯一の御子でも、メシアでも、倫理的預言者でも、罪のない人間でもないのだと」とクリスチャン側が言ったとします。
それでも、イエスには欠点はあったものの、偉大な人物であり、才能に恵まれた高貴な教師なのです。
ならば、ユダヤ人たちはそのようなイエスを受け入れるのではないでしょうか?
ユダヤ人への答えは「ユダヤ人は過激な挑発を除いて、イエスの語った表現に対して口論したことがあったのですか?」です。21)
イエスはユダヤ人にとって、悪い存在ではなかったはずです。
21)19), p. 40.
福音書に現わされているイエスによって、十分に証明されています。
イエスは会堂やユダヤ人の外側に自分を置き、距離を持ってました。22)
22)Trude Weiss-Rosmarin, "Why Jews Don't Accept Jesus," The Jewish
Digest, June, 1973, p. 27.
これらの引用の示していることは、ユダヤ人のイエスに対する見方など、存在しないことを明らかにすることです。
そこに統一した考えはなく、主に多様性が主題になっており、バラバラです。
一部のユダヤ人にとって、イエスは偉大なユダヤ人の道徳家、教師、そして異邦人の間でユダヤ人の考えを広める責任を感じる預言者でした。
また、他のユダヤ人にとって、イエスは他のラビの考えを繰り返すオウムに過ぎず、自身の独創性は存在しないと言っています。
また、他のユダヤ人は、イエスはユダヤ人として生まれ、ユダヤ人として熱心に生き、ユダヤ人として死んだユダヤ愛国者と言います。
また、他のユダヤ人は、イエスはユダヤ人として生まれたにもかかわらず、非ユダヤ人となり、ユダヤ教の外側に身を置いたのだと言っています。
これらの意見は、事実上すべての人が、イエスが誰であれ、正しくても間違っていても、彼らはイエスがメシアではないと結論付けているのです。
イエスは彼らのメシアの要件を満たしていなかったため、彼らのメシアになることはできなかったのです。
ここでメシアになるための要件とはなんでしょうか?
イエスがメシアになるには、何が修正されれば良いのでしょうか?
それを発見する情報源は1つだけです。
それはヘブライ語聖書であり、一般に旧約聖書と呼ばれています。
メシアへの期待に目的をもった基準があるとすれば、聖書なのです。
他に頼れる選択肢や情報源はあってはいけません。
私たちはこれらを踏まえて、旧約聖書のメシアが実際にはどのような人物であったかを見てみましょう。
2、旧約聖書におけるメシア像 パート1
イザヤ書53章における論争
パラボックス(逆説)
メシアの到来について、旧約聖書が何と言っているかを知ろうとする人は、すぐに矛盾しているように見えてしまうかもしれません。
時には、完全に矛盾しているようにさえ感じます。
それは、ユダヤの預言者が二つの方向から、メシアの来臨について描写しているからです。
一方の質問は、メシアは、屈辱、肉体的危害を受け、最後には暴力的な方法で死に至る者として描かれている数多くの預言を見つけることができます。
ユダヤ人の預言者は、この死はユダヤ人の罪の身代わりの死であると述べています。
もう一方の質問は、ユダヤ人の預言者たちが、イスラエルの敵を滅ぼし、平和と繁栄のメシアの王国を打ち立てる征服王としてメシアが来ることに語っていたいることに気が付きます。
これらはユダヤ人の預言者が、メシアについて語った二重のイメージなのです。
過去、何世紀にもわたって、タルムードが組み立てられ、その間も、私たちのラビはメシア預言について熱心に研究してきました。
預言者は二人の異なるメシアについて話していると、彼らはこの結論に達しました。
最初のメシア像は来て、苦しみ、死ぬのです。
そのメシアはヨセフの子(マシアハ・ベン・ヨセフ(Mashiach ben Yoseph))と呼ばれました。
最初のメシアに続いて来る2番目のメシアは、ダビデの子メシア(マシアハ・ベン・ダビデ(Mashiach ben David))と呼ばれました。
https://www.chabad.org/library/article_cdo/aid/101747/jewish/Mashiach-ben-Yossef.htm
2番目のメシアはは最初のメシアをよみがえらせ、地上にメシアによる平和の王国を確立するのです。
旧約聖書がこれら二つのラインの救世主預言を提示していることを、初期のラビ全員が認識していたようです。
しかし、旧約聖書には、メシアが二人いるとは明言されていません。
実際、逆説的な多くの記述が、同じ文章の中で並列して見られ、一人の人物だけを意味しているように見えます。
しかし、初期のラビにとっては、二人のメシア説が最良の答えであるように思えたようです。
何世紀にもわたって、正統派ユダヤ教は二人のメシア説の概念を保ってきたのです。
しかし、タルムード時代以来、ユダヤ人の歴史の中で、ダビデの子だけがユダヤ人の心の想像を湧きたててきました。
もう一人のメシア像、ヨセフの子であるメシア、苦しむメシアは無視されてきたのです。
このメシアは、旧約聖書に含まれる苦しむメシアの句を説明する必要がある時にだけ、ユダヤ神学に登場しています。
このメシアの存在は、厄介な質問が提起されたときの逃げ道を提供してくれました。
それ以外は、このメシア像はほとんど無視されています。
今日、苦しむメシアのことを聞いたことがあるユダヤ人、あるいは昔のユダヤ神学にある苦しむメシアの存在を知っているユダヤ人はほとんどいません。
今日、ユダヤ人が知っているのは、征服すべきメシア、すなわちダビデの子のメシアです。
パラボックス(逆説)の情報源
苦難のメシア、すなわちヨセフの子についての概念を、ラビたちが発展させた主要な資料の1つはイザヤ書53章でした。
現在の旧約聖書がメシアに関する論争の中心は、この章に集中しています。
この箇所は、ヤハウェのしもべについて語っています。
このしもべは死に至る苦しみを経験するのです。
続けて、この章はこの苦しみは身代わりの苦しみであり、その死は罪の身代わりの死であると述べています。
このメシアは他人の罪のために苦しみ、死ぬのです。
また節は、このしもべが復活することも示しています。
この論争の中心は、この節が何を言っているかということではなく、この節が誰について語っているかということです。
今日での質問は、イザヤがこれが誰について語っているのかです。
イザヤはここでメシアについて預言したいるのでしょうか?
ラビたちは、この一節がメシア預言とすることはのキリスト教的な解釈であり、ユダヤ教の解釈ではないと述べています。
ユダヤ人の解釈では、イザヤはイスラエルの民、つまり異邦人の世界で苦しんでいるユダヤ人のことを語っているのだと言っています。
これがユダヤ教の解釈だ、とラビたちは言いますが、それではメシアについてはまったく語られていません。
しかし、これがイスラエルという集合体について語っているのだいうのは、あまりにも解釈を強要しているように思えます。
この一節を単独で見ると、一人の人物だけを念頭に置いているように思えるのです。
イザヤ書53章のラビ的解釈
しかし、単にユダヤ教の解釈とクリスチャン的な解釈との対立なのでしょうか?
ユダヤ教の歴史はそうではないことを示しています。
イザヤ書53章がユダヤ人について述べているという解釈は、実は最近のものです。
本来のユダヤ人のラビによるイザヤ書53章の解釈は、これは個人、つまりメシア自身について語られているというものでした。
実際、ヨセフの子であるメシアという概念はこの聖句から来ています。
しかし、イザヤ書53章に対する古いユダヤ人の見解をより明確に理解するために、歴史に目を向けるのが良い方法です。
初期のタルグムの中には、紀元1世紀にさかのぼるジョナサン・ベン・ウジエル(Jonathan ben Uzziel)のものがあります。
Jonathan ben Uzziel
https://www.chabad.org/library/article_cdo/aid/112289/jewish/Rabbi-Jonathan-ben-Uzziel.htm
タルグム:アラム語聖書、アラム語訳トーラー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%83%A0
彼のタルグムのイザヤ書のメシアに関する箇所は次の言葉で始まります。
「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」
イザヤ書52章13節
初期のラビに、ジョナサン・ベン・ウジエルのタルグムは頻繁に引用されており、彼にはユダヤ人聖書観の権威であると考えられていました。
疑いもなく、彼はイザヤ書の箇所がメシアについて語られていると考えています。
ジョナサン・ベン・ウジエルが「キリスト教的解釈」を採用したとしても、非難されることはほとんどありません。
ジョナサン・ベン・ウジエルだけがこの解釈をしたわけではなく、1500年頃のラビ・ドン・イツチャク・アバルバネル(Rabbi Don Yitzchak Abarbanel)の引用からも明らかです。
Rabbi Don Yitzchak Abarbanel
https://aish.com/rabbi-yitzchak-abarbanel-renaissance-man/
彼はイザヤ書のこの箇所がメシアについて言及しているという見解を受け入れませんでしたが、後に力強く認めてようになるのです。
最初の質問は、この句が「誰のことを指しているのか?」を確認します。
ナザレ人の学者たちは、著作の中で、エルサレムの第二神殿の終わりで十字架につけられた男のことだと説明しています。
彼らによれば、この男は神の子であり、処女の胎内から生まれ、肉体をとった人としています。
ジョナサン・ベン・ウジエルは、タルグムの中で、将来のメシア解釈しています。
しかし、これはミドラーシュ(ユダヤの解釈者)の大半を占める意見でもあります。
この句についてのアバルバネルの見解は、個人的にもかかわらず、ミドラーシュ(ユダヤの解釈者)のラビの大多数が、この句がメシアについて語っていると率直に認めています。
ゾハルは2世紀にシモン・ベン・ヨチャイ(Simon ben Yochai)によって書かれたました。
もしくは13世紀にスペイン人のラビに書かれたとも言われています。
ゾハルには、はっきりとイザヤ書の箇所に言及している特定の記述があります。
Simon ben Yochai
https://en.wikipedia.org/wiki/Shimon_bar_Yochai
ゾハル:ユダヤ教神秘思想(カバラ)の中心となる基本文献で、トーラー(五書)の註解書であり、アラム語で書かれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%83%AB
エデンの園には、病者の子らの宮殿と呼ばれる宮殿があります。
この宮殿にメシアが入り、イスラエルのあらゆる病気、あらゆる痛み、あらゆる懲罰を集めるのです。
彼らすべてはこのメシアの上に安らぎを得るのです。
もしメシアがこれらの苦しみをイスラエルから追い出し、これらの痛みを御自分の身に負わせなかったとしたら、律法を犯したイスラエルに対する懲罰に耐えることができた者はは誰もいません。
このように書かれている通りです。
「彼は私たちの病を負い」
イザヤ書53章4節
ゾハルはイザヤ書53章4節から引用し、その句をメシア自身について言及していると述べているのです。
イザヤ書のこの箇所で述べている苦しみの中にいるイスラエルと、イスラエル民族とを、明らかに区別しています。
さらにゾハルは、この句の中で、メシアの身代わり、代用の必要性を認識しています。
つまり、メシアはイスラエルの罪のために受けた苦しみを自ら引き受けているのです。
さらに、同時代の証拠が。タルムードによって与えれています。
「メシアの名前は何ですか?
聖者ラビ・ユダの家の人々が言います。
「彼は私たちの病を負い」
イザヤ書53章4節」
ゾハルと同様に、バビロニアのタルムードもイザヤ書の箇所をメシアについて言及していると語っているのです。
特に4節はメシアご自身に適応しています。
ミドラーシュ・タンフミには次のようなものがあります。
ラビ・ナフマンは、この句にある「人」という単語は、「見よ、その名はゼマだ」と書かれているように、ダビデの子であるメシアを指している、と述べています。
そこではヨナタンは「見よ、メシアの男だ」と解釈され、その男は「悲しみの人で病を知っていた」イザヤ書53章3節と言われています,
ミドラーシュ・タンフミ
https://www.sefaria.org/Midrash_Tanchuma%2C_Vayera.1?lang=bi
タルグムス・ヤルクート2巻338:7節でイザヤ書53章13節のメシアについて言及しており、このように述べています。
「彼はアブラハムよりも高く、モーセよりも高く、仕える天使よりも高く評価され、称賛されるのです。」
ミドラーシュ(ユダヤの解釈者)・コーエン(Midrash Cohen)はイザヤ書53章5節について述べており、預言者エリヤが語る次のような言葉を述べています。
https://www.amazon.co.jp/Midrash-Jerusalem-Talmud-Eugene-Cohen/dp/1401022634
エリヤはメシアに言います。
「主は『彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。』と書かれているとおり、イスラエルの罪のためにあなたを懲らしめるあなたの主の苦しみと罰を最後まで耐えなさい。」
この同じ句につて、別のミドラーシュ(ユダヤの解釈者)は次のように述べています。
「すべての苦しみは3つの部分に分けられています。
最初の部分はダビデと族長たちに、次の部分は反乱の世代(反逆的なイスラエル)に、そして三番目の部分ははメシア王に与えられます。」
イザヤ書のメシア箇所を言及するもう一つの本は、マフソール、つまり贖罪の日の祈りの本です。
この本には多くの祈りが登場しますが その一つに、ムサフの祈りと呼ばれているものがあります。
この本は、西暦7世紀頃にラビのエリエゼル カリールによって書かれました。
祈りの一部には次のように書かれています。
「メシア、私たちの義は私たちから離れてゆきました。
恐怖が私たちを襲い、私たちを義とするものは何もありません。
彼は私たちの咎と罪のくびきを負い、私たちの罪のために傷を負いました。
神は私たちの咎を赦してくださるよう、私たちの罪を彼の肩に負わせました。
永遠なる神が彼(メシア)を新しい被造物として創造するその時に、私たちは彼の傷によって癒されるのです。
おお、彼を地の輪から引き上げ、セイルの地から引き上げ、再びイノンの力によってレバノン山に私たちを集めてください。」
贖罪の日(Yom Kippur)の祈りは研究すればするほど興味深いものになってゆきます。
祈りの声は、メシアが人々から離れてしまったことを恐れていますが、それはメシアがすでに彼らのもとに来て、彼らのもとを去ったと想定しているからです。
ここに驚べきことが書かれているのです。
さらに、去ったメシアは民のために身代わりに苦しみ、民の罪はこのメシアに負わされました。
今、苦しみの末、メシアは彼らから去ったのです。
Yom Kippur
https://en.wikipedia.org/wiki/Yom_Kippur
今、人々はメシアが二度目に帰ってくることを祈っています。
この祈りの多くは、イザヤ書からの直接の引用です。
つまり、このことは、7世紀になっても、なお、この句が救世主について言及しているという、ユダヤ人の見解があったことを示しています。
この見解が10世紀においても、依然としてユダヤ人の間で支配的な見解であったことは、イェフェス・ベン・オールの解説から分かります。
個人的には、私はネハベンドのベンジャミン(Benjamin of Nehavend)の言葉がメシアをほのめかしていると考えていると思っています。
…このようにして彼(預言者)は私たちに2つのことを与えています:
まず第一に、メシアは長く厳しい試練を経て、最高の栄誉に達するだけであるということです。
Benjamin of Nehavend
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%89
そして第二に、これらの試練はある種のしるしとして彼に与えられます。
もし彼が敬虔な行動を保ちながら不幸の軛にさらされていることに気づいた場合、自分が指名された者であることを知るようになるのです。
……「わたしのしもべ」という表現は、「わたしのしもべダビデに誓っている。」詩編89編3節で、メシアの先祖ダビテに適用されるように、メシアにも適用されるのです。
このラビも、この句がメシアについて言及しているものであると認識しています。
このラビは、メシアは苦しみを通じて、その高い栄光の状態に達するという句に従って、要点を述べています。
11世紀のユダヤ人もメシアについて語る箇所について考えています。
ラビ・モシェ・ハダルシャン(Rabbi Moshe Hadarshan)の『ベレシット・ラバ』(Bereshith Rabbah)には次のような言葉があります。
Rabbi Moshe Hadarshan
https://en.wikipedia.org/wiki/Moshe_ha-Darshan
聖なる方はメシアに、魂を救う機会を与えました。
しかし、そこにあったのはすさまじい懲罰です。
でも、メシアはすぐに愛の懲罰を受け入れたのです。
このように書かれています。
「イスラエルが罪を犯しているとき、メシアは彼らの中に憐れみを探します。」
また、「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」、「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」とも書かれています。。
『ベレシト・ラバ』(Bereshithb Rabbah)の著者は、イザヤ書53章5節、7節、12節をそれぞれ引用して、このような結論を導き出しています。
第一に、メシアは多くの人を救うが、この多くの人の救いは彼の苦しみによって達成されるということです。
第二に、メシアの苦しみは本質的に代理的なものであると考えられています。
なぜなら、メシアはイスラエルの罪のために苦しんでいると見なされているからです。
Bereshith Rabbah
https://www.sefaria.org/Bereishit_Rabbah?tab=contents
11世紀のもう一人のラビ、トビーヤ・ベン・エリエゼル(Rabbi Tobiyyah ben Eliezer)は、著書『レガ・トヴァ』(Legah Tova)の中で、イザヤ書52章13節のことを述べています。
「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」
この時代の最も有名なラビの中には、マイモニデス(Maimonides)またはランバム(Rambam)として知られるモーセ・ベン・マイモン(Moses ben Maimon)がいます。
彼も著書の中で、イザヤ書の箇所でメシアについて言及しています。
Rabbi Tobiyyah ben Eliezer
https://en.wikipedia.org/wiki/Tobiah_ben_Eliezer
Moses ben Maimon
https://en.wikipedia.org/wiki/Maimonides
メシアにとって、自分がメシアであると現わすことのも職務です。
彼は、ご自分の注目されるような魅惑を見せて、自分自身を崇めるように要求していません。
しかし、彼が行う驚くべき行為によって、自分が待望の救世主であることを示すのです。
イザヤ書の中でメシアのことを次のように語っています。
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。」
イザヤ書53章2節
彼の行動が実を結ぶまで、人々は直接注目することはなく、彼がどこで生まれ、どこからきたのか民は知ることもなかったことを意味しています。
彼らにとって、期待している姿とは、王が来て、驚いて立ち尽くしている姿です。
イザヤが預言しているように、彼らは完全に沈黙してしまったのです。
ランバンはそれぞれイザヤ書53章2節と52章15節から引用し、これらの箇所がメシアという人物について言及だと言っています。
文章全体に関する彼の見解です。
また、11世紀の古代ユダヤ人の書物にも、メシアについて次のように書いています。
「そこでエフライムの子、メシアは亡くなり、イスラエルは彼のために悲しみます。
その後、聖なる者は彼らにメシア、ダビデの子を明らかにし、イスラエルは彼を石で打ち殺すことを決定し、こう言います。
すでにメシアは殺されているのです。
「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされた」と書かれているように、イスラエルはメシアを軽蔑するのです。」
著者は、当時の一般的なユダヤ人の見解である、二人のメシアを示します。
一人のメシア、エフライム、もしくはヨセフの子であるメシアは死にます。
ラビは「彼の死後、ダビデの子であるメシアが来るだろう」と言います。
しかし、イスラエルは拒否するのです。
このように、彼はイザヤ書53章3節を引用し、自分の主張を証明するのです。
この時期に、ユダヤ神学史上初めて、この聖句はメシアについてではなく、イスラエルの人々について述べているという考えが生まれました。
これは、ラシとして知られるラビ・シュロモー・イズチャキ(1040年頃~1105年)によって最初に提唱されました。
しかし、彼はこの一節に関して伝統的なユダヤ人の見解に反しており、他の権威あるユダヤ人たちから即座に拒否されています。
Rabbi Shlomoh Yizchaki
https://www.jewishvirtuallibrary.org/rabbi-shlomo-yitzchaki-rashi
1350年頃、スペインのラビ、モシェ・コーエン・イブン・クリスピン、後のコルドバは、ラシが提唱した新しい見解に反発したラビの一人です。
Rabbi Moshe Kohen ibn Crispin, of Cordoba and later Toledo
https://nojesus4jews.weebly.com/sophiees-blog/missionary-misuse-of-jewish-sources-on-isaiah-53-ibn-crispin-aka-moshe-kohen-a-15th-century-rabbi-in-spain
https://israelmyglory.org/article/the-messiah%EF%BB%BFs-life/
私は喜んで、私たちのラビ、つまり王である救世主のことだと解釈します。
できる限り文字通りの意味に従うよう注意するつもりです。
ならば、私は「空想的で、突飛な解釈」から自由になれるのです。
これは他の人を邪悪する解釈です。
この預言は、将来のメシアの性質について私たちに知らせることを目的として、神の命令によりイザヤによって伝えられたのです。
メシアは来て、イスラエルを救い出します。
そして、彼が考慮して到着した時から、贖い主としての出現までが彼の人生なのです。
もし誰かが自分をメシアだと主張して立ち上がった場合、私たちはじっと考えます。
私たちは、メシアのいくつかの特徴点と類似点を見つけることができるのかその判断をする必要があるのです。
もし、そこに類似点を見つけることができるのであれば、私たちはその者が義なるメシアとして信じることができるのです。
もし、見つけることができないのであれば、信じることができないのです。
ラビ・クリスピンが言及している「空想的で、突飛な解釈」は、これはメシアではなくイスラエルの人々について言及しているというのはラシの解釈です。
ラビ、モシェ・コーエン・イブン・クリスピンはこの解釈に反対し、このイザヤ書の箇所はメシアについて述べています。
メシアが来られた時、メシアを認識できるように、メシアを特定するのを助ける目的で書かれたものであると主張しているのです。
16世紀には、グレナダのラビ・サーディエ・イブン・ダナン(Rabbi Saadyeh Ibn Danan of Grenada)の言葉があります。
Rabbi Saadyeh Ibn Danan of Grenada
直接紹介、WEBにはなし
彼らの中の一人、ラビ・ジョセフ・ベン・カスピ(Rabbi Joseph ben Kaspi)は、メシアについて説明するように導かれました。
「メシアはまもなく現れます。」
イエスについて解釈を異端者たちに機会を与えてしまったのです。
「神よ!彼が真実を語らなかったことを赦してくださいますように、、
私たちのラビはタルムードの医者であり、預言の力による、厳粛な、王であるメシアについての、解釈の原則に関する彼らの伝統である、これらの意見を渡してしまったのです。
このラビ・ジョセフ・ベン・カスピは、イザヤ書の箇所がイスラエルの人々について述べているという解釈にも反発しています。
彼はミドラーシュ(ユダヤの解釈者)に対し、これはメシアを指しているというタルムードの解釈に戻るよう要求しています。
また、彼は多くの人たちが、新しい見解に切り替えた理由についても明らかにし、役立っています。
ラビとクリスチャンの間で多くの論争が勃発したのはこの時期であり、クリスチャンはイザヤ書53章を用いて、イエスが救世主であることを示しました。
クリスチャンたちの主張の説得力があるため、弁護側のラビはこの箇所を、イスラエルだと言及し始めたのです。
また、16世紀後半には、『シュルチャン・アルク』(Shulchan Aruch)の著者ジョセフ・カロ(Joseph Caro)の弟子であったラビ、モーシェ・ル・シェイク(Rabbi Moshe Le Sheich)(アル・シェク(Al Shech),)の著作にも、このことが言及されています。
Shulchan Aruch
https://en.wikipedia.org/wiki/Shulchan_Aruch
Rabbi Moshe Le Sheich
彼もまた、すべてのユダヤ人の解釈者がより伝統的な解釈に戻るよう次のように書いています。
彼は言っています。
「私たちのラビたちの祝福された記憶を持っています。
預言者が王なるメシアについて語っているという意見を声を揃えて受け入れ、認めます。
そして、私たち自身も同じ見解に従うつもりです。」
ラビ・エリヤ・デ・ヴィダス(Rabbi Eliyyah de Vidas)の著作もほぼ同じ時期のものです。
Rabbi Eliyyah de Vidas
https://en.wikipedia.org/wiki/Eliyahu_de_Vidas
1575年、彼はイザヤ書53章5節に関して書いています。
「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
イザヤ書53章5節
「その意味はメシアは打ち傷を負ってくださいました。
その結果、私たちの咎を負ってくださのです。
つまり、メシアが私たちの咎のためにこのように苦しむことを認めない者は、
自らその咎に耐え、苦しまなければならないということになります。」
また、ラビ・エリヤ・デ・ヴィダスは、メシアに関する箇所に言及し、メシアは人々の罪のために苦しみ、それは身代わりに苦しむだろうと述べています。
ラビは続けて、この一節から言えることは、メシアが負った罪の身代わりの苦しみを信じて受け入れることを拒否する者は、自らの罪のために苦しむ運命にある、と述べています。
17世紀になっても、ラビ・ナフタリ・ベン・アッシャー・アルトシュラー(Rabbi Naphtali ben Asher Altschule)(19世紀頃)の著作のように、イザヤ書の一節に対するラシの解釈に対する反発は依然としてあったことがわかります。
このラビはこのように書いています。
「私は、ラシとラビのデビッド・キムチが、タルグムについて、これをメシアに同様な適用しなかったことに驚いています。
19世紀に入っても、最初にラシが提唱し、その後にラビのデイビッド キムチが提唱した、この新しい見解が、ラビの古い見解をかなり勝ち取っていました。
しかし、勝利は完全なものではなかった。それに対する反発がまだあったからです。
1818年にヘルツ・ホンブルクは(Herz Homburg)書いた『コレム』(Korem)の中で次のように書いています。
「実際のところ、それは王なるメシアのことを指しているのです。
では、終わりの日に、地上のさまざまな国々からイスラエルを救い出すことが主の喜びとなるとき、はたして、誰が来るでしょうか?」
したがって、イザヤ書53章をメシアについて語っていると解釈することで、メシアの非ユダヤ人性の可能性はありません。
実際、伝統的なユダヤ人の解釈は、この箇所はメシアについて語っているということなります。
これがメシアではなく、イスラエルを指しているという見解を最初に説明したのは、ラシとして知られるラビ・シュロモー・イズチャキ(Rabbi Shlomoh Yizchaki)(1040年頃~1105年)でした。
彼の後にはデイビッド・キムチ(David Kimchi) (1160–1235) が続きました。
今日では、このラシの見解は、ユダヤ神学とラビ神学を支配しています。
それは伝統的なユダヤ人の見解ではありません。
原文の文書が書かれた時代に近くでは、キリスト教の弁明者との接触が少なかった人々には、これをメシアについて語っていると解釈しています。
Shlomo Yizchaki
https://en.wikipedia.org/wiki/Rashi
David Kimchi
https://en.wikipedia.org/wiki/David_Kimhi
イザヤ書52章13節~53章12節について。
この文章は、書かれていることが、苦しみのしもべのメシアが個人なのか、それともイスラエル国家なのかを判断するのに役立つと思います。
本文に示されている具体的な詳細を扱う前に、イザヤ書の全体を引用してその要約を作成すると役立つかもしれません。
節の内容の要約
「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。――
そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。」
イザヤ書52章13~15節
イザヤ書52章13~15節で神が語っておられます。
神は、すべての者が苦しむしもべに目を向けるように呼び掛けています。
神は、ご自分のしもべが賢明に行動し、その行動によって栄光の地位が得られると宣言しておられます。
さらに、神はご自分のしもべは苦しむだろうと述べています。
しかし、この苦しみは最終的には世界の支配者たちが、神の苦しみの目的の理解し始めると、沈黙の注目を集めるようになります。
しもべはひどく傷つきますが、最終的には多くの人を救うのです。
「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」
イザヤ書53章1~3節
このように、神が民の注意をご自分のしもべに向けた後、今度は民はイザヤ書53章1~3節で応答しています。
1~3節で、彼らはしもべの人格と召命を認識していないことを告白しています。
1節で、彼らは前の3節から学んだばかりのことに驚いたと主張しています。
2節では、しもべが彼らと一緒にいたとき、彼に特別なことは何もないようだったと述べています。
しもべの幼少時代と成長は、他の人々と何ら変わりませんでした。
しもべは、人々を惹きつけるようなカリスマ的な性格を持っていたわけではありません。
彼の外見上の特徴は、何もユニークなものではありませんでした。
それどころか、3節はまったく、真逆な真実があることを指摘しています。
しもべは人々を引きつけるどころか、一般の人々から軽蔑され、拒絶されるのです。
しもべは悲しみの人であり、個人的な悲しみを知っていました。
しもべの拒絶は消極的なものではありませんでした。活発的に行われたのです。
そして、人々は彼を避けるように、力を尽くしています。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
イザヤ書53章4~6節
4節から6節で、人々はそのしもべが苦しんでいた時、その苦しみは自分の罪に対する神の罰だと考えていたと告白しています。
しかし今は、彼らは、しもべの苦しみは代理的なものであったことを認めています。
彼は自分の罪のためではなく、人々の罪のために苦しんだのです。
人々は、道を間違えたのは自分たちだったと告白しています。
彼らはそれぞれ自分勝手な道を歩み、その罪の罰はヤハウェのしもべに課されたのです。
つまり、人々が彼の苦しみの本質を認識した時、しもべに対する態度の変化の告白なのです。
このしもべが受けた厳しい裁きにより、人々はしもべに対する意見を形成するようになりました。
しもべの苦しみは、彼をヤハウェの怒りの特別な犠牲として見えたからなのです。
しかし、今では、この逆の意見が告白されており、悔い改めの始まりを示しています。
4節では、以前は、しもべの悲惨な状態を理由に誤解し、軽蔑していた人々が、今ではよりよく教えられるようになっています。
彼らは今、ヤハウェのしもべが、自分たちの代わりに苦しみを受け,実際に自分たちに受けるべきものを自ら引き受けたことを認識しています。
彼らは、しもべの苦しみは彼らが想像していたものとは、まったく異なる性質のものであったと告白しています。
彼らは今、自分自身に対する証言をしており、苦しみに巻き込まれた体と魂の深い苦しみの媒介的で代理的な性格に対し、以前は盲目だったことを嘆いています。
告白されている誤りとして、彼らがしもべの苦しみを、彼自身が犯した罪に対する罰だと考えていたということです。
5節で人々は、ヤハウェのしもべの身代わりの苦しみが、和解と霊的な癒しをもたらしたと告白しています。
この聖句は、しもべの苦しみの意味をより深く掘り下げ、しもべの情熱と彼らの罪との関係を示しています。
この関係は2つあります。一つは私たちの罪に対する刑罰、つまり苦しみは人々の罪に対する罰でした。
もう一つは、和解の手段――それは人々が霊的な健康を取り戻すための治療法です。
彼が苦しみをうけたのは、人々の罪のためであり、自分自身の罪のためではありません。
6節の人々は、これまでの節で語られた苦しみの必要性は、人々が神から完全に遠ざかっていたので、和解のためには、身代わりが必要だったと告白しています。
彼らは道を迷い、自分の道をさがしていたのです。
しかしヤハウェは彼らの罪をそのしもべに負わせたのです。
このように、民は、自らの破滅に迷い込んだ時でさえ、神が民の利益のために遣わされた方を、ずっと誤解していたことを悔い改めながら告白しているのです。
「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。」
イザヤ書53章7~9節
7節から9節では、預言者は、死に至るこのしもべの苦しみを説明し、詳しく説明しているように見えます。
7節では、しもべは不当な扱いに謙虚に服従している姿が描かれています。
しもべは自分を弁護するために一言も話していません。
彼は静かに苦しんでおり、自分に加えられた不当に対して決して叫ぶこともありません。
8節にはヤハウェのしもべの死が記されています。
ここでは、司法裁判と判決の後、このしもべは処刑のために連行されたと伝えられています。
ヤハウェのしもべは、司法処刑の裁きを受けるべき預言者の民の罪のために処刑されるのです。
しかし、この出来事における神の聖なる目的を理解している人は誰もいなかったようです。
8節は、これが法廷で宣告され、その後執行された死刑判決であったことを知るという点で、聖句全体の重要な聖句です。
この聖句は、彼が死に値しないことを明確に述べています。
これらの人々は死に直面したしもべの死の本当の理由を知ることはありませんでした。
しかし、4節から6節にあるように、人々はしもべが自分の罪のために死んでいると考えているのです。
9節にはしもべの埋葬が記されています。
しもべの死後、彼を処刑した人々は、他の犯罪者とともに犯罪者の墓を彼のために割り当てました。
彼らは犯罪がしもべにあると考え、彼は処刑されたのです。
しかし、しもべは金持ちの墓に埋葬されることになるのです!
これは真実の詩的な義です。
なぜなら、実際にはしもべは何も間違ったことはしておらず、しもべの性格にも何の問題もなかったのですから。
「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」
イザヤ書53章10~12節
10節から12節には、ヤハウェのしもべの苦しみと死の結果が記されています。
これらの結果は最終的に、大変有益なものになるのです。
10節には、神がこのしもべが苦しみ、死ぬことを喜んで赦されたことが記されています。
これは神が人々のために罪を償おうとされた手段でした。
しもべの死は人々の罪の代償でした。
道に迷い罪を犯した人々は、しもべの死によって赦されることになるでしょう。
なぜなら、しもべはその身代わりの死によって人々に償いを行ったからです。
神は民に代わってしもべを罰し、こうして民の罪は償われたのです。
この節はさらに、しもべが自分の子孫に会い、彼の命は長くなるだろうと述べています。
しもべが殺されたらどうなるのでしょうか?
これを可能にする唯一の方法は復活なのです。
したがって、主の喜びは主の手の中で栄え続けるだろう、とこの節は結ばれています。
なぜなら、主は復活によって再び生きられるからです。
11節は、神がしもべの働きに満足されると宣言しています。
ヤハウェのしもべは人々の罪の身代わりとして死にます。
ここでの問題は、神はこの置き換えを受け入れるだろうかということです。答えは「はい」です。
なぜなら、神はしもべの苦しみと死を見て、神の正義が満たされるからです。
したがって、神は次のようなことを言うことができます、
「その身代わりの苦しみと死のゆえに、義なるしもべは多くの人を義とするのです。」
義とするとは、無罪を宣言することを意味します。
今、苦しみながら死んでも、復活したしもべは、多くの人を義にすることができるのです。
罪人であり、神から離れていたために何もできなかった人々は、しもべによって義とされることができるのです。
この聖句は、どのようにしてこのようなことが可能になるのか、つまりしもべは罪を負うということで締めくくられています。
彼らの罪はしもべの代金に置かれ、その代金はしもべの血によって全額支払われたとみなされます。
神は、ご自分の義なるしもべが多くの人々をご自身の認識において義とされるようにさせ、彼らの罪を負われると宣言されています。
12節には、このしもべは最終的には他の誰よりも神によって、とても大きな祝福を受けるだろうと記録されています。
その理由はこの聖句に記されています。
まず最初に、このしもべは進んで自発的に苦しみ、死んだのです。
次に、しもべは他人の罪を、自分を罪だと考えるほどに謙虚でした。
ゆえに、自分の持つ罪のために苦しみ、死ぬと考えています。
しかし、第三に、しもべは現実には「多くの人の罪を負いました。」
多くの人々が義とされ、義とされるのは、ひとえに神が彼らの罪をご自分の責任に負ってくださったからなのです。
第四に、そして最後に、しもべは罪人に代わって神にとりなし、懇願しています。
これは本質的に、その文章の内容を要約したものです。
しもべがイスラエルなら、民は異邦人です。
しもべがメシアなら、民はイスラエル、ユダヤ民族です。
ラシまでは、すべてのユダヤ神学は、これはメシアを指すと教えていました。
ラシ以来、ラビ神学のほとんどは、それがイスラエルを指していると教えてきました。
この一節を文字通りに受け取って簡単に読むと、それは一人の個人について語っていることになります。
解釈への手がかり
聖書の句は、どれが何を実際に意味するのか?多くの手がかりを提供しています。
また、その句は、これがメシアが個人なのか?にそれともイスラエルという集団について述べられているのか?を明らかにすることができます。
この一節で、メシアのことを、誰を指しているのかを知るための重要な手がかりは、代名詞の一貫した使用法です。
HE、HIM、HIS に対して、WE、US、OUR の使い方の区別がはっきりされています。
この箇所での「WE」、「US」、および「OUR」の使い方は、預言者イザヤとイザヤが話している人々を指している必要があります。
HE、HIM、HISの使い方は、苦しみのしもべを述べている必要があります。
イザヤはユダヤ人であり、彼が話していた人々も同じユダヤ人でした。
要点をより明確に理解するために、この一節の一部を引用して、さまざまな代名詞の使い方を強調するのが良いと思います。
次の引用はイザヤ書53章4~9節です。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。」
イザヤ書53章4~9節
明らかに、私たち(著者)はユダヤ人です。
イザヤと民はユダヤ人です。
イザヤはイスラエル国民、ユダヤ民族全体に対して語っています。
イザヤは、苦しみのしもべ「HE、HIM、HIS」を、異なるカテゴリーに区別して表しています。
「彼(HE)は私たちの病を負い、私たち(US)の痛みをになった。
主は、私たち(OUR)のすべての咎を彼(HE)に負わせた。
彼(HE)は、私たち(OUR)のそむきの罪のために刺し通され、私たち(OUR)の咎のために砕かれた。彼へ(HIM)の懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼(HE)の打ち傷によって、私たち(US)はいやされた。」
代名詞の繰りかえす一貫した代名詞の使い方を統一化するのならば、苦しみのしもべはイスラエルであることが排除されます。
むしろ、苦しみのしもべこそが、メシアそのものなのです。
2番目の手がかりとして、8節の最後の文を読むならば、これもイスラエルが苦しみのしもべだという主張を排斥する役割を果たしています。
そこにはこう書かれています。
「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」
イザヤ書53章8節
預言者イザヤは苦しみのしもべの死を見つめながら、しもべの死は「わたしの民」の罪のためであることを明らかにしました。
イザヤの民とは誰ですか?
イザヤがユダヤ人であることに疑問を抱く人はいません。
「わたしの民」がイスラエルであるなら、彼らは苦しみのしもべになることはできません。
したがって、苦しみのしもべはメシア個人を指していなければいけないのです。
3番目の手がかりとして、一節全体を通して、苦しみのしもべが突出した特定個人の人間の人格として描かれているという事実があります。
たとえだとされるヒントも、苦しみのしもべがイスラエルを指していると、たとえとして受け取られる手がかりもありません。
しおべは、個人の人だとするすべての主張を認めることができます。
この箇所には、しもべはイスラエルの擬人化したとする根拠はまったくありません。
イスラエルは苦しみのしもべとは区別されています。
メシアは、イザヤの預言を成就する未来の歴史上の人物として考えられています。
イスラエルはメシアが現れる間、見守られる人々です。
これはイスラエルを擬人化したものではなく、未来の歴史上の人物の視点が注がれているのです。
4番目の手がかりとして、苦しみのしもべが罪のない苦しみ人として、この句に表現されているという事実です。
(4~6節、8b、9b節)
これは特定の個人のメシアには当てはまりますが、イスラエル全体を示しているという表現には無理であることは簡単にわかります。
モーセと預言者はイスラエルに、「あなたは無実だが、苦しみを受けるだろう」とは言っていません。
むしろ、「悔い改めて、神の明らかにされたご意志に従わない限り、あなたは自分の罪のために苦しむことになる」と言っているのです。
神は何度も、さまざまな方法でイスラエルを罰しましたが、それは常に罪によるものでした。
預言者によれば、バビロン捕囚も今日の離散も、示された神の御心に対するイスラエル側の不従順の結果でした。
これは、罪のない苦しみとして描かれる「受難のしもべ」とは対照的です。
5番目の手がかりして、苦しみのしもべが自発的で意欲的で沈黙の苦しみを受ける者として描かれているという点です (7節)。
しもべは自分が経験する苦しみに進んで服従し、自分に加えられた不当な扱いについては何も文句を言いません。
さらに、死に至る苦しみを経験している間も彼は沈黙しています。
イスラエルの歴史において、ユダヤ人は抑圧され、捕虜となり、追放され、最終的には今日に至るまで離散してきました。
しかし、これらはいずれもイスラエル側の自発的に行われたものではありません。
イスラエルは概して不満を持って反抗しており、このような事態がイスラエルに降りかかったのはイスラエルが敗北したからであり、決して自ら望んで敗北したわけではないのです。
しかし、メシアは進んで苦しむ人だったのです。
ユダヤ人の歴史に関する文献を読んでみると、イスラエルはだまって苦しみを通ってきたほとんど言うことができません。
むしろ、イスラエルは苦しみの最中、イスラエルに苦しみを与えている人々の残酷性に対して、常に叫び続けています。
イスラエルは、自分の国の苦しみや不満を分類した一連の文献を作成してきました。
これもまた、苦しみのしもべをイスラエルの擬人化とすることを除外し、再びそれが特定個人の救世主を指すものであることを示しています。
6番目の手がかりは、この句で苦しみのしもべが身代わりの死を遂げているということです。(4~8、10、12節)
神は、他の人たちのために苦しみ、そしてイスラエルが自分の罪のために苦しむ必要がないようにしているのです。
聖書には、ユダヤ人の歴史のどこにも、イスラエルが異邦人のために苦しんでいるという記述はありません。
イスラエルは異邦人のせいで苦しむことはよくありますが、異邦人のために苦しむことは決してありません。
イスラエルは苦しみますが、常にイスラエルは自分の罪のために苦しんでいます。
イスラエルは誰の身代わりにもなりません。
メシアがイスラエルの身代わりになるのです。
与えられている7番目の手がかりとして、ヤハウェのしもべの苦しみは、これを受け入れる人々に義と霊的な癒しをもたらすということです。(5節b、11節)
イスラエルの苦しみは、異邦人に義と霊的な癒しをもたらすことはありません。
異邦人国家がホロコーストにどのように関与したかを見ればわかるように、ユダヤ人の苦しみが三千年続いた後、異邦人は義とされたことはなく、依然として霊的に病の中に住み続けています。
しかし、メシアの苦しみはユダヤ人の生活に、この義認と霊的な癒しをもたらしました。
この点については最後の章でさらに詳しく説明します。
8番目の手がかりは重要なものです。
苦しみのしもべは死にます。(8、12節)
しもべの苦しみは死に向かい、死に終わります。
なので、この箇所におけるイスラエルの擬人化は不可能になります。
ユダヤ人は今も健在で、何世紀にもわたって反ユダヤ主義者によって何度も破壊の試みがあったにもかかわらず、一度も破壊されることはありません。
このことからも、苦しみのしもべはイスラエルを擬人化したものではなく、むしろメシアは、特定個人の人格であるという結論に至るしかありません。
イスラエルの人々は、今日も生きています。
9番目で最後の手がかりは自然につながります。
苦しみのしもべが復活するのです。(10~11節)
しもべは罪のために死に、死にとどまることはありません。
彼は復活し、苦しみの結果として、多くの人に義と霊的な癒しをもたらすのです。
イスラエルは死んだこともないので、復活する必要はありません。
しかし、メシアのような人が死んだのなら、神は、彼を復活させて、再び生かさせることができるのです。
これはイザヤ書53章に対する衝突です。
他の聖書箇所と同じようにこの章を単純に読むだけならば、語られている個人がユダヤ人の罪のために苦しんでいるという以外の結論に存在していません。
そして、これが何世紀にもわたって、これがユダヤ教がこれまでに得た唯一の結論でした。
彼らは、苦しみのしもべを救世主、つまりヨセフの子と呼んでいました。
後の。苦しみのしもべをイスラエルの擬人化としたラビ的解釈は、この聖句の実際の説明というよりは、むしろ説明を試みたという方が適切に思われます。
この章は先入観を持たずに読み、そこに書かれていることを単純に理解する必要があります。
この章は、キリスト教の論争に対する防御としてのみ解釈されるべきではなく、その文章の内容が実際にどのようなものであるかについてのみ解釈されなければなりません。
伝統的なユダヤ人の視点は、イスラエルの罪に対するメシアの苦しみとして語っていて、聖書の単純な記述と最も調和しているのです。
3、旧約聖書におけるメシア像 パート2
もし、私たちが旧約聖書のメシアについて苦しみの観点からのみを語っていたら、私たちは十分な情報を得られないと思います。
しかし、旧約聖書全体のメシア像には、イザヤ書53章に見られるものよりも、さらにもっと多くのことが語られているのです。
イザヤ書53章をめぐる衝突よりは少ないと思いますが、これらの他の聖句をイザヤ書53章と併せて読むことで、メシアがどのように類のない人物であったのかを示してくれると思います。
彼の誕生の比類なさ。
旧約聖書は、天地創造の記述に続いて、アダムとイブの物語に続きます。
蛇の姿をしたサタンはエバを欺き、神の唯一の戒めを破らせます。
アダムもそれに続きます。
その結果、罪が人類全体に、人間の行動の中に入り込むことになります。
今、人間は神の正しい裁きの下に立ったのです。
それにもかかわらず、この堕落の時に、神は将来の救いを備えてくださっています。
神はサタンに語りかけながらこう言われます。
「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
創世記3章15節
この聖句の鍵となるのは、「女の子孫」という言葉です。
この言葉自体は珍しいことではないですが、聖書の教えの文脈においてはとても珍しいことです。
というのは、ヘブライ語聖書全体を通して、男性の系図は、女性の後に数えられることはなく、男性の後にのみ数えられるからです。
聖書の記録にあるすべての系図において、女性は系図を決定することは重要ではないため、無視されています。
この未来の人物は、自分が軽傷を負っただけでサタンの頭を打ち砕く人は、男性ではなく女性としてみなされるかも知れません。
聖書のパターンから言えば、これはとても珍しいことです。
通常の聖書のパターンから言えば、将来のメシアは女性の子孫から来るという明確な記述があります。
メシアの誕生には母親だけが考慮されているのです。
ここでは説明されていませんが、父親はまったく考慮されません。
これは系図に関する聖書の見方に、完全に反しているのです。
この節が救世主的なものでると解釈されているのは、ヨナタンのタルグム(Targums of Jonathan)とエルサレムのタルグム(Jerusalem Targums)からも明らかです。
Targums of Jonathan
https://www.sefaria.org/Targum_Jonathan_on_Genesis
Jerusalem Targums
https://www.sefaria.org/Targum_Jerusalem?tab=contents
この節が救世主的なものでると解釈されているのは、ヨナタンのタルグムとエルサレムのタルグムからも明らかです。
さらに、タルムードの「メシアのかかと」という表現はこの聖句からとられたものと思われます。
しかし、創世記自体は、このメシアが聖書のパターンに反している箇所で、なぜまたメシアが「女の子孫」と呼ばれる理由を説明していません。
何世紀も経って、イスラエルにはイザヤという偉大な預言者が現れました。
メシアが女性の子孫とみなされる意味と理由を、この預言者に任されました。
イザヤはこう書いています。
「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」
イザヤ書7章14節
この聖句で語られているこの人物の誕生が「しるし」として語られています。
つまり、この誕生が通常ではありえない異常な現象であることを示しています。
言い換えれば、正常な誕生ならば「しるし」という言葉の要件を満たしていないからです。
これが「しるし」というのであれば、通常ではありえない異常な現象でなければならず、おそらく奇跡的であるか、少なくとも注目を集めるものでなければなりません。
ユダヤ人の存在そのものが、誕生の「しるし」に由来しています。
聖書は、アブラハムもサラも子供を産むことができるレベルを超えていたことを明らかにしています。
アブラハムは99歳、サラは89歳でした。
もちろん、創世記18章で神がサラが1年以内に息子を産むと約束した時に、彼女はすでに閉経しているはずです。
これは、神がアブラハムとの契約を守り、彼から偉大な国家を築くという「しるし」となったのです。
1年後、この「しるし」はイサクの誕生で起こり、ユダヤ人はイサクを通して来たのです。
それは契約を認証するために必要なしるしであり、これは奇跡的な誕生でした。
イザヤ書7章14節の子の誕生もまた、何らかの意味で通常ではありえないしるしとなるはずです。
しかし、この箇所の出産の通常ではありえない性質を持ち、それは母親が高齢だというものではありません。
この子が処女から生まれるという事実によるしるしです。
この時点で、別の論争がたびたび発生することがあります。
今日のラビたちは、ヘブライ語のアルマ(ALMAH)は「処女」を意味するのではなく、「若い女性」を意味すると主張しています。
しかし、彼らが説明できていないのは、これがどのようにして「しるし」になるのか?ということです。
若い女性が赤ちゃんを出産することは、常に起こっており、珍しいことではありません。
ラシはこのアルマが「若い女性」を意味するとよく引用しています。
ラシがイザヤ書7章14節を若い女性を意味するものと解釈したのは事実です。
おそらくイザヤ書53章でメシアではなくイスラエルについて述べているとの主張と同じ理由からと見られます。
しかし、これだけでは、ラシがアルマが常に若い女性を意味するという主張に十分な根拠がありません。
このヘブライ語はソロモンの雅歌1章3節と6章8節にも出てきます。
「あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。それで、おとめらはあなたを愛しています。」
雅歌1章3節
「王妃は六十人、そばめは八十人、おとめたちは数知れない。」
雅歌6章8節
これらの箇所で、ラシはアルマを「処女」という意味にしています。
したがって、ラシがイザヤ書7章14節をどのように解釈したかに関係なく、彼は他の場所でアルマという言葉を「処女」という意味で使用しています。
さらに、ラシは、当時の多くのユダヤ人学者がイザヤ書7章14節でのアルマが処女について言及していることを認めています。
ラシが聖書箇所に対して誠実であるのではなく、イザヤ書7章14節の解釈によってキリスト教の論争に対抗しようとしていたことは容易にわかります。
また、イザヤ書53章と同様に、ラシは再び一般的なユダヤ人の解釈に反していました。
ラシよりもはるかに権威のあるユダヤ人の情報源は、紀元前250年頃に七十人訳として知られる旧約聖書のギリシャ語版を翻訳した70人のユダヤ人のラビの判断です。
これらの人々はラシよりもイザヤの時代にはるかに近く、約1300年前に生きており、この言葉の本来の用法に近かったのです。
これら70人のラビたちは皆、アルマにパルテノス()を読ませました。パルテノスは、単純なギリシャ語で「処女」を意味します。
ラシよりもはるかに権威のあるユダヤ人の情報源は、紀元前 250 年頃に七十人訳として知られる旧約聖書のギリシャ語版を翻訳した 70 人のユダヤ人のラビの判決です。
これらの人々はラシよりもイザヤの時代にはるかに近く、約1300年近く生きており、この言葉の本来の用法に近かった。
これら70人のラビたちは皆、アルマをパルテノス「parthenos」と読ませました。パルテノスは、単純なギリシャ語で「処女」を意味します。
たとえアルマが「若い女性」を意味することが赦されているとしても、この言葉が若い処女を指す可能性があることは認める必要があります。
この誕生がしるしである、通常ではありえない誕生であることを無視してはなりません。
これは処女懐胎が、何を意味するかを理解することは大切なことです。
したがって、これが創世記3章1節の奥義の説明となるのです。
メシアには父親がいないため、女性の子孫とみなされます。
処女で生まれたため、彼は実の父親ではなく、母親を通じてのみ追跡することができるのです。
したがって、イザヤ書7章14節は、創世記3章15節の意味を明らかにしています。
「メシアは処女降誕によって世に生まれる」ということです。
生まれた場所
メシアの誕生の手段が預言されただけでなく、彼の誕生の場所も預言されました。
これはイザヤと同時代の預言者ミカによって行われています。
ミカ書には、次のように書かれています。
「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」
ミカ書5章2節
正統派のラビの間では、この句は、一般的にメシアがベツレヘムから生まれることを意味すると考えているため、意見の相違はとても少なかったです。
これは、正統派ユダヤ人の旧約聖書についての注解であり、いくつかの初期のユダヤ人の注解書を出典であるソンチーノ聖書聖書の見解でもあります。
系図
もう一つの議論の余地のない点として、メシアがダビデ王の子孫であるということです。
ここから、ラビの称号「メシアはダビデの子」が由来しています。
引用できる数多くの聖句のうち、イザヤ書からのここでは次の2つの聖句に限定します。
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」
イザヤ書11章1節
「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。」
イザヤ書11章10節
エッサイはダビデの父親であったため、これらの句はメシアがダビデの家から来ることを示しています。
これに多くの伝統派ユダヤ教信者が同意します。
これと同じことを指摘する他の文章を、後に別の文脈で引用します。
メシアの苦しみ
救世主が苦しみ、死ぬであろうということは、初期のラビの多くが同意しています。
彼らは苦しむメシアをヨセフの子メシアと呼び、ダビデの子メシアとは区別していました。
この見解を主題とする箇所はイザヤ書53章であり、これについてはすでに議論しました。
メシアの苦しみを扱ったもう一つの聖句は詩篇22編1~21節です。
「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。
けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。
しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。
どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。
数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。
彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。
私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。
私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。
犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。
私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。
彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。
主よ。あなたは、遠く離れないでください。私の力よ、急いで私を助けてください。
私のたましいを、剣から救い出してください。私のいのちを、犬の手から。
私を救ってください。獅子の口から、野牛の角から。あなたは私に答えてくださいます。」
詩篇22編1~21節
この箇所を要約すると、メシアは神に見捨てられ、人々に嘲笑され、苦しめられ、拷問者たちに衣服を賭けごとで奪われていることがわかります。
彼の骨がすべて関節から外れ、心臓が血と水の混合物で砕け、手と足がすべて刺されるほどの苦しみに苦しんでいます。
この詩編は多くの点でイザヤ書53章と似ており、メシアが経験しなければならない苦しみと苦悶の種類についてさらに詳しく述べています。
ヤルカット(Yalkut)のラビもこの箇所をヨセフの息子であるメシアだと言及しています。
イスラエルの王メシア
これまで論じてきたすべての句で、メシアは人間として描かれていましたが、悲しみの人でした。
メシアは苦しみ、死ぬことになっていました。
初期のラビたちは皆、これがメシアについて語っていることを認識し、彼をメシア、ヨセフの子と呼んでいます。
族長ヨセフが兄弟たちの手によって苦しんだように、メシアも苦しみを受けるからです。
しかし、他の箇所では別のメシア、苦しむ者ではなく征服者、死に向かうメシアではなく統治するメシアについて語られています。
このメシアをラビたちによってメシア、ダビデの子と呼びました。
モーセと預言者の中でメシアについて語られていることのほとんどは、メシアが平和をもたらし、イスラエルにメシア王国を設立するために来られることを中心に展開しています。
このようにメシアについての文章はあまりにも多すぎてので、ここにすべてを列挙することができませんので、ここで文章を2つ全文引用します。
このメシアが、これまで論じてきたすべての句と比較して、いかに異なっていることが描かれているかに注目すべきです。
初期のラビたちが混乱しており、二人のメシアがそれぞれ一度だけ来るという理論を考えだしたのも不思議ではありません。
最初の句はイザヤ書11章1~10節からの引用です。
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。
正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。
狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。
その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。」
イザヤ書11章1~10節
これがメシアとメシアの時代について語っているということには、古代と現代のラビたちが同意しています。
これまでの聖句とは異なり、死にゆくメシアが民から叱責され軽蔑されている描写はありません。
ここで私たちが得られるイメージは、全世界に平和と繁栄をもたらす統治するメシアです。
平和は動物界にも及ぶのです。
悪人は裁きによって排除され、国家間の相違はメシアの権威ある言葉によって解決されます。
イスラエルの神についての知識は全世界を覆うまで広がります。
統治するメシアが世界に平和と繁栄をもたらした今、全世界は世界を創造した神について深く知るのです。
この状況を現わす、二つ目の箇所が詩篇72編1~19節にあります。
「神よ。あなたの公正を王に、あなたの義を王の子に授けてください。
彼があなたの民を義をもって、あなたの、悩む者たちを公正をもってさばきますように。
々、丘々は義によって、民に平和をもたらしますように。
彼が民の悩む者たちを弁護し、貧しい者の子らを救い、しいたげる者どもを、打ち砕きますように。
彼らが、日と月の続くかぎり、代々にわたって、あなたを恐れますように。
彼は牧草地に降る雨のように、地を潤す夕立のように下って来る。
彼の代に正しい者が栄え、月のなくなるときまで、豊かな平和がありますように。
彼は海から海に至るまで、また、川から地の果て果てに至るまで統べ治めますように。
荒野の民は彼の前にひざをつき、彼の敵はちりをなめますように。
タルシシュと島々の王たちは贈り物をささげ、シェバとセバの王たちは、みつぎを納めましょう。
こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。
これは、彼が、助けを叫び求める貧しい者や、助ける人のない悩む者を救い出すからです。
彼は、弱っている者や貧しい者をあわれみ、貧しい者たちのいのちを救います。
彼はしいたげと暴虐とから、彼らのいのちを贖い出し、彼らの血は彼の目に尊ばれましょう。
それゆえ、彼が生きながらえ、彼にシェバの黄金がささげられますように。彼のためにいつも彼らは祈り、一日中、彼をほめたたえますように。
地では、山々の頂に穀物が豊かにあり、その実りはレバノンのように豊かで、町の人々は地の青草のように栄えますように。
彼の名はとこしえに続き、その名は日の照るかぎり、いや増し、人々は彼によって祝福され、すべての国々は彼をほめたたえますように。
ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇しいわざを行なう。
とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン。」
詩篇72編1~19節
この詩篇はタルムードの中でも、メシアの義の統治について語るものとして適用されており、タルグムでは最初の詩篇の節には次のように書かれています。
「あなたの裁きの宣告をメシア王に与え、あなたの義の宣告をダビデ王の子に与えてください。」
詩篇のミドラーシュもこれに真似て、この詩篇を先に引用したイザヤ書11章1節と結びつけています。
さらに、タルムードのラビたちがメシアに与えたさまざまな名前の一つに、インノン(Yinnon)という名前があります。
これは、この詩編の17節のヘブライ語訳から取られたものです。
つまり、この箇所で語らえているメシア像には、この章の前半や、前の章で論じた見解とは、また異なるメシアの見方も示しているのです。
このことは、旧約聖書がメシアについて何と言っているか?を、一つの式の中に組み込もうとする人にとって、大きな問題を提示する二重の構図なのです。
メシアの王権を扱った他の箇所では、メシアという人物の他の2つの側面が示されています。
1つはメシアと神の子であるということであり、もう1つは神の人の概念と関係しています。
旧約聖書のメシア概念の全体像を把握するには、これら2つの点について議論する必要がありますが、ここで、このことについては簡単に触れておきます。
メシアは神の子である
2つの箇所は、メシアであるのと同様に神の子であることを主張しています。
その最初の箇所は詩篇2篇で、主にメシアの王権について扱っていますが、同時にメシアと神の子であることも浮き彫りにしています。
さら詩編2編には次のように書かれています。
「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。
地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。
「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」
天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。
ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。
「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」
「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。
わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」
それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。
恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。
御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」
詩篇2篇1~12節
この詩篇について、ラシは次のように認めています。
「私たちのラビは、この詩篇がメシア王に関係するものです。」
初期のラビの大多数もこの詩篇をメシア王として説明していましたが、今日では多くのラビはこの詩篇をメシアではなくダビデについて語っていると主張します。
しかし、詩篇の御言葉と歴史を比較すると、ダビデの可能性は完全に除外されます。
この句の中で、神と話している相手に、「全世界の支配権と権威を自分に明け渡そうとしている」と告げているのです。
歴史は、ダビデがそのような支配権を決して持っていなかったし、その権威を行使できなかったことを明確にしています。
したがって、この解釈から、ダビデは除外される必要があります。
初期のラビたちがこの詩篇を神の子と呼ばれているメシアについて語っている解釈は正しかったのです。
また、この同じ詩篇の中で、神はすべての人が神の子であるメシアに服従しなければならないと警告しています。
拒否した者には罰が与えられます。
ただし、メシヤに避難する人、つまり救いを求めてメシヤに信仰と信頼を置く人は、新しい命を得るのです。
二つ目の句は賢王ソロモンから来ています。
箴言30章4節には、6つの質問があります。
「だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。」
箴言30章4節
最初の4つの質問はすべて、正体に関する同じ質問です。
「だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。」
これらはソロモンが尋ねている4つの質問であり、答えがとても明確です。
これら4つの質問で説明されている出来事で、これらすべてのことを実行できるのはただ1人、神ご自身だけであることは明らかです。
さて、5番目の質問は「その名前は何ですか?」です。
最初の4つの質問では、神だけがそれらのことを行うことができるということはわかりますが、では、神の御名は何でしょうか?
何世紀にもわたって、私たちは神の御名を無駄に使うことを恐れていたため、もう、神の御名を正確に発音する方法を知る人はいません。
発音を無くしてしまっています。
ヘブライ語では「YHVH」の4文字で表されます。
アドナイという言葉は置き換えた名です。
英語ではエホバという名前を付けることもあります。
名前は「YHVH」、「私は偉大である」という意味です。
つまり、これらすべてのことを行ったのは神であり、「私は偉大である」方なのです。
さて、同じ聖句にある最後の6番目の質問に進みましょう。
「彼の息子の名前は何ですか?知っているなら、答えてください。」
ソロモンが6番目の質問をどのように指摘しているかに注目してください。
最初に、私たちは、誰がこれらすべての素晴らしいことを成し遂げたのか?を訪ね、4つの質問をしました。
答えは、「神はそれらすべてのことをなさった」でした。
5番目の質問は「神の名前は何ですか?」でした。
答えは「YHVH」、「私は偉大である」が神の御名です。
ここでソロモンは、聖書の歴史のこの段階では答えるのが不可能であったのを理解して、ひっかけの質問をしています。
からこそ、彼は6番目の質問では「知っているなら?」というフレーズを追加したのです。
質問は、「彼の子の名前は何ですか?知っているなら、答えてください。」です。
ここで明らかに意味しているのは、この神、つまり偉大なる私には子がいるということです。
ソロモンの時代以降はまだその名前が明かされておらず、私たちは子の名前を知りません。
聖書において、これは珍しい対応ではありません。
たとえば、創世記の歴史全体を通して、神は出エジプト記でモーセに初めて神の名前を啓示されました。
つまり、それまで、誰も神の名前を知りなかったのです。
(創世記3章14~15節、 6章2~3節)
創世記の時代に生きていた人は神がいることは知っていましたが、ただ神の名前を知らなかったのです。
同様に、旧約聖書のユダヤ教を通じて神の子の名前を知っている人は誰もいませんでした。
しかし、旧約聖書のユダヤ教は、ダビデもソロモンも神について語っていたため、神に子がいることを知っていました。
したがって、メシアが神の子であることは、メシアとしての地位と関連しています。
詩篇2篇では、この子の身分はメシアの王権と強く関係しています。
神の人の概念とメシア
メシアの王権に関わるもう一つの側面は、メシアに関する変わった神の人の概念です。
メシアの王権を扱ったいくつかの箇所で、メシアという人物にまったく新しい側面を加え、彼を人間であると同時に人間以上のものになっています。
その一つがイザヤ書9章6~7節です。
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
イザヤ書9章6~7節
6節は、ユダヤ世界に最終的に政府の統治を支配する子が生まれると宣言しています。
7節では、彼がダビデのメシア的な子孫であると特定されています。
それは平和と正義を特徴とするメシアの治世を劇的に描写しています。
しかし、6節では、神ご自身にしか当てはまらない名前が彼に与えられています。
「不思議な助言者」や「平和の君」は人間に当てはまりますが、「力ある神」や「永遠の父」は人間に当てはめることはできません。
メシアという人物に関してイザヤが提示したこの新しい側面として、メシアは人間、ダビデの子孫である必要があるだけでなく、神でもある必要があるということです。
このことは、先ほど議論したイザヤ7章14節で次のように述べたことをさらに説明しているのです。
この箇所で、イザヤは処女から男の子が生まれると宣言しています。
そして彼は「インマヌエル」と言われる名前を与えられます。
聖書では、親が自分の子に名前を付けるとき、親の考えが表現されるのです。
しかし、神が人に名前を付けるとき、それは実際にはその人の性格そのものをも表しており、神だけが予見できることです。
神によってこの子供がインマヌエル名付けられたならば、その名前はその子供の実際の性格を表していることになります。
インマヌエルとはどういう意味ですか?
それは「神は私たちとともにおられる」という意味を持ちます。
それで、ここに私たちは処女から生まれた子供を見ることができます。
神、もしくは神が私たちの中にいるのです!
イザヤ書9章のこの個所では、この子がダビデの子孫であり、彼が神そのものであることがさらに明確にされています。
したがって、イザヤはメシアを神である人間として明確に描いているのです。
また、この描写を提示しているのはイザヤだけではありません。
エレミヤ書23章5~6節でイザヤ書を繰り返し宣言しています。
「見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。
その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。」
エレミヤ書23章5~6節
ここでも、ダビデの子孫がダビデの王座に君臨しており、その治世の性格がイスラエルにとっての平和と安全であることが描かれています。
しかし、彼には神の御名そのものが与えられており、それは神ご自身、つまりアドナイ・ツィドケヌ、つまり私たちの義であるヤハウェにのみ属するものです。
これがYHVHであり、神がモーセに自身の個人名であると明らかにしたまさにその名前、つまり「私はいます」です。
したがって、再び来られるイスラエルの将来のメシア王は、一方では人間として見られますが、他方では神として見られています。
子の概念と同様に、神としての人の概念も、同様にメシアの王権に関連しているのです。
これで、旧約聖書におけるメシアの描写は終わりにします。
一方で、彼は苦しみながら死につつあるメシアでもあります。
他方では、彼は神および神の子と呼ばれる征服し統治するメシアです。
ラビの解決策は、ヨセフの子メシアとダビデの子メシアという二人のメシアの教義を定式化することでした。
しかし、これが唯一の選択肢ではありません。
4、新約聖書ではイエスについて何を語っているのでしょうか?
新約聖書の主要な点は、イエスが旧約聖書のユダヤ人の救世主であるということです。
私たちに伝えられたイエスの生涯に関する4つの伝記にはそれぞれ独自のテーマがありますが、いずれも1つの主要な点を示しています。
それはイエスがメシアであるということです。
新約聖書は次の言葉で始まります。「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」、 新約聖書のこの冒頭の言葉は、新約聖書全体の舞台を設定しています。
メシアの性質、王の性質、ユダヤ人性
イエスにメシアという称号を与えることは、彼のメシアとしての立場を示しており、旧約聖書で語られているメシアを念頭に置いています。
「キリスト」という言葉は、単に「メシア」という言葉を表すギリシャ語です。
イエスにアブラハムの息子という称号を与えることは、聖書の歴史と神学を通して、常にユダヤ人であることが神がアブラハムと結んだ契約と結びついているため、イエスのユダヤ人性を示しています。
ユダヤ人の王権は、ダビデの家によって維持されてきたため、イエスにダビデの子という称号を与えることは、メシアの王権を示しています。
新約聖書全体はこの冒頭の言葉を中心に展開してゆきます。
この声明は、新約聖書のさまざまな著者によって繰り返され、展開され、拡張されてゆきます。
メシアの性質
「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」
マタイの福音書1章16節
メシアの性質
「女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」」
ヨハネの福音書4章25、26節
王の性質
「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
マタイの福音書2章1、2節
王の性質
「また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。」
マタイの福音書27章37節
ユダヤ人性
「そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――」
ヨハネの福音書4章9節
ユダヤ人性
「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。
これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」
ガラテア人への手紙4章4、5節
ユダヤ人性
「主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。」
へブル人への手紙2章16節
彼のメシア性、王権、ユダヤ人性は新約聖書の主要な主張です。
これは、福音書、イエスの生涯を描いた4冊の伝記、そしてイエスの生涯の神学を扱った新約聖書の残りの部分にも当てはまります。
彼は明らかに旧約聖書のメシアとして描かれています。
ヨセフの子とダビデの子
福音書が述べていることのほとんどは、イエスを旧約聖書のメシアの型に直接当てはめています。
ラビたちがメシアを「ヨセフの子」と呼ぶ人物と言っています。
「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
ヨハネの福音書1章45節
しかし、その者は4つの伝記によって、ラビたちがまさにメシアと呼んだ者としても描かれています。
「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」
ルカの福音書1章31、32節
どうして?同じ人に両方の側面が当てはまるのでしょうか?
すでに議論したように、タルムードのラビの答えは、そんなことはありえないと宣言しています。
ラビたちは二人のメシア理論を採用し、一方を苦しむメシア、もう一方を征服して統治するメシアとした。
しかし、新約聖書は、二人のメシアという見方には別の見方があると宣言ししています。
同じ人物について、二つの側面が実際にどのように成就したかを示しています。
彼の誕生の不思議さ!
すでに述べたように、福音書の主要な点は、イエスを罪のために苦しみ、死ぬために来たメシアとして描くことです。
その者ははラビたちがメシア、ヨセフの子と呼ぶであろう人物でした。
イエスは、普通の方法と奇跡的な方法の両方でこの世に来たメシアでした。
つまり、他のすべての人間と同じように、生まれてこの世に来たという点では普通のことです。
しかし、彼は処女から出産したという点では奇跡的です。
「そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」
ルカの福音書1章34、35節
「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」
マタイの福音書1章21~23節
メシアの処女降誕は、創世記3章15節で最初にほのめかされました。
後にイザヤ書7章14節で展開されましたが、福音書ではイエスの誕生で成就したと見なされています。
イエスのダビデの血統は、母親のマリアと継父のヨセフの両方がダビデ王の子孫であるという事実によって確立されています。
つまり、イエスは母親側ではダビデの血の子孫であり、義父側では養子縁組によって生まれたのです。
生まれた場所
イエスの両親はナザレに住んでいましたが、彼の出生地はベツレヘムでした。
すべての者が登録するために、それぞれが自分の都市に行きました。
「それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」
ルカの福音書2章3~7節
このようにキリストの誕生は、メシアがベツレヘムで生まれると宣言したミカ書5章2節の成就であると考えられます。
「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」
ミカ書5章2節
苦しみと死
しかし、何よりも、イエスの苦しみと死は、イザヤ書53章が作り上げた型に適合しています。
イエスは、イザヤ書53章の内容を忠実に満たす歴史的な人物として描かれています。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
コリント人への手紙第二5章21節
「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」
ヨハネの福音書10章17、18節
しもべは苦しみと死をもたらす虐待に自らを従わせただけでなく、何の抗議もせずに黙って従ったのです。
しもべの裁判で人々を驚かせたのは、彼は完全に沈黙し、冤罪の不当性に対する抗議の声を決して表明しなかったことです。
「しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。
そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。」
それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。」
マタイの福音書27章12~14節
しかし、しもべの苦しみはすべて代理だったのでした。つまり、彼は自分の罪ではなく、他人の罪のために苦しんだのです。
「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
ペテロの手紙第一2章21~24節
新約聖書の著者たちは、イエスの死はイザヤ書53章の苦しみのしもべの死に関するすべての要素の成就であると見ています。
苦しみのしもべの苦しみが、鞭打たれ、嘲笑され、十字架につけられた後に死で終わったのと同じように、イエスも死にました。
苦しみのしもべが犯罪者として扱われ、犯罪者の死を遂げたのと同じように、イエスも十字架によって死を遂げたのです。
他の二人の犯罪者とともに同じ犯罪者としてのの死を遂げたのです。
受難の召使いの死は、司法宣告と判決の結果です。
イエスは2つの裁判を受けました。
最初の裁判は宗教的な裁判で、冒涜の冤罪で有罪判決を受け、死刑を宣告されました。
次の裁判はその後、カエサルに対する反乱を扇動したという冤罪に対するローマ人による政治的な裁判である。
彼は再び死刑を宣告され、ローマの式の、回りくどい死を経験したのです。
苦しむしもべと同様に、しもべには犯罪者の墓を割り当てられていたにもかかわらず、金持ちの墓に埋葬されたのです。
「夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。
この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた。
ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、
岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。」
マタイの福音書27章57~60節
イザヤ書の句では、苦しみのしもべは死んだままではなく、苦しみと死の結果として復活されたと見ています。
イエスの遺体が金持ちの墓に埋葬されてから3日後、彼の死は復活に変わりました。
最後に、福音書は、復活から40日後にイエスが天に昇り、苦しみのしもべが「わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」となり、今は神の右に座っていると記録しています。
イザヤ書52章13節
最後に、イザヤ書のこの一節は、苦しみのしもべは、身代わりの死を受け入れる者たちに義と霊的な癒しをもたらすと結論づけています。
「わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」
イザヤ書53章11節
イエスが、本当にこのように行ったかどうかについては、最後の章で議論します。
イエスの生涯はイザヤ書53章の型に適合するものとして描かれているだけでなく、詩篇22章の型に適合するものとしても描かれています。
イエスは十字架上で死の直前に、詩編の最初の詩を叫びました。
「三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」
マタイの福音書27章46節
ローマ兵たちはイエスの衣服を賭けていました。
「こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、
そこにすわって、イエスの見張りをした。」
マタイの福音書27章35、36節
「さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。
そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。」
ヨハネの福音書19章23、24節
イエスが十字架に架けられている間、人々は詩篇22編8節とほぼ同じ言葉を使ってイエスを嘲笑しています。
「彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」」
マタイの福音書27章43節
詩篇22篇にあるように、脇腹を槍で貫かれると、血と水の混合物が流れ出しました。
これは心臓が裂けたしるしです。
最後に、彼の手と足は十字架に釘付けにされ、詩篇22篇の人物が刺されたのと同じように刺されています。
このように、新約聖書のイエスは、その苦しみと死に関して旧約聖書のメシアとして描かれています。
イエスは、その生涯、苦しみ、死、復活によってメシアの到来に関する約300の預言を成就したのです。
新約聖書によれば、イエスはラビたちがヨセフの子メシアに期待していたすべてを実現したのです。
新約聖書の矛盾に対する解決策
しかし、王としてのメシアを扱う預言についてはどうでしょうか。
地上に平和と繁栄を取り戻すために来られるイエスについてはどうでしょうか。
ラビたちがメシアと呼んだ救世主的な人物、つまりダビデの子についてはどうでしょうか。
ラビたちは二人のメシアの概念を発展させることによって矛盾を解決しようとしましたが、新約聖書は別の代替案を提供しています。
新約聖書では、二人のメシアがそれぞれ一回ずつ来るのではなく、一人のメシアが二回来ると書かいています。
メシアはまずこの世に生まれ、地上で生涯を送り、最終的にはイスラエルの罪のために死に至る苦しみの時を経験します。
その後、メシアは復活し、天国に戻ります。
将来のある時に、メシアはダビデの王位を再確立し、メシアの王国を設立するために戻ってきます。
メシアはイスラエルの平和、繁栄、安全の王国を統治するのです。
しかし、それまでの間、自分の罪の身代わりの死を信じて受け入れる人は誰でも義とされ、神と和解し、アブラハム、イサク、ヤコブの神と生きた関係を持つことになるのです。
新約聖書の多くの箇所で、一人のメシアが二度現れることが語られています。
イエスの死と復活の後、新約聖書はイエスが王国を設立するために戻ってくることを楽しみにしているのです。
これらの数多くの句のうち、以下のいくつかの句を引用します。
「そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」
マタイの福音書19章28節
「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」
マタイの福音書24章29~31節
「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。」
マタイの福音書25章31節
「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」
ルカの福音書1章32、33節
「そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」
使徒の働き1章6、7節
「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」」
ローマ人への手紙11章25~27節
「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。
「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。
しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」
コリント人への手紙第一15章20~28節
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」
へブル人への手紙9章27~28節
「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」
黙示録20章4~6節
これらすべての句は、イエスが再び来て王国を設立することを示しています。
旧約聖書の王権に関する記述には、神とメシアの子であること、および神なる人の概念も関連しています。
キリストに関する新約聖書からの引用の中には、この両方の考えが見られるのです。
神なる人の概念とイエス
イザヤ書9章6、7節とエレミヤ書23章5、6節におけるメシアに関するもう1つの要素は、神なる人の概念でした。
言い換えれば、メシアは人間であると同時に神であるはずです。
新約聖書はイエスについて同じことを教えてるのでしょうか?
新約聖書のピリピ人への手紙2章5~8節には次のように書かれています。
「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」
ピリピ人への手紙2章5~8節
さらに、新約聖書のヨハネの福音書1章1、2節、14節には次のように書かれています。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。」
ヨハネの福音書1章1、2節
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
ヨハネの福音書1章14節
神とともにいる子としての性質
繰り返しますが、新約聖書のユダヤ人の著者は、旧約聖書の中にある神なる人の概念を、メシアとしての要件をイエスの中に見ています。
残るのはあと一つだけです。
新約聖書は、詩篇2篇と箴言30章4節が求めているように、イエスを神の子なのか?という問題です。
ルカの福音書1章に戻るならば、ガブリエルが処女マリアに来るべきメシアの奇跡的な誕生を告げる箇所が34~35節にあります。
「そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」
ルカの福音書1章34~35節
この箇所によれば、メシア・イエスはその奇跡的な受胎と処女誕生のゆえに神の子と呼ばれることになります。
これはあらゆる点で旧約聖書の要求と一致しています。
数年後、イエスが公の奉仕活動を始めようとしているとき、マタイの福音書3章16節~17節に次のような記述があります。
「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」」
マタイの福音書3章16節~17節
結論
新約聖書がイエスについて何と言っているかについてのこの議論を締めくくってますが、新約聖書はイエスが旧約聖書のメシアであると宣言しています。
旧約聖書の矛盾に対する新約聖書の解決策は、メシアは一人だけであり、このメシアは二度現れるということです。
これは旧約聖書と一致しています。
なぜなら、旧約聖書の箇所では、メシアの苦しみと征服の側面が同じ箇所で語られていることが多く、二人の人物が意味されているという示唆は全く示されてないからです。
しかし、これがすべて真実であるなら、なぜこれほど多くのユダヤ人がイエスを信じないのでしょうか?
なぜユダヤ人はイエスのメシア性に反対するのでしょうか。
次の章では、これらの質問のいくつかを取り上げてみたいと思います。
5、なぜメシアは死ななければならなかったのか?
贖いの意味とは?
なぜなら、かつてはユダヤ教の一部であったにもかかわらず、メシアが死んでゆくという概念自体が現代のユダヤ教にはあまりにも異質な考えだからです。
なぜ?メシアは死ななければならなかったのかという、答えなければならない疑問があります。
この質問に答える過程で、次の質問が生じます
救いの手段は何ですか?
聖書全体を貫いていると思われるテーマがあるとすれば、それは血による救いのテーマです。
旧約聖書との一致
罪が人間の領域に入り込み、神から人間を引き離れた時、救いが必要になりました。
アダムとエバが最初の不従順の行為を犯したとき、罪が侵入し、神から人間を引き離しました。
その時点から、神と人間との分離を埋める手段は血としたのです。
このギャップを埋めることを償還と呼びます。
神がご自分の民と関わってきた歴史において、救いの手段は常に血によるものでした。
罪が聖書のテーマに入り始めた時、同時に血の救いの要素が入ってきます。
罪が現れるまでは血は必要ありませんでした。
人間がエデンの園から追放されるやいなや、次のように記されています。
「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」
創世記3章21節
皮は動物の皮でした。
罪の要素が明らかになった裸を覆う必要があったのです。
この覆いには数頭の動物の死が必要であり、歴史上初めて血が流されました。
これは、償いを意味するヘブル人語の「覆い」の元の意味を提供しています。
血の必要性は、最初の人類夫婦の息子たちがすぐに学んだ教訓でした。
アベルとカインの両方が神の前に犠牲を捧げる時が来ました。
カインは畑で働いた成果物を犠牲として捧げました。
供え物は野菜で、血は出ていませんでした。
アベルは自分の羊の群れから取った血の捧げ物を持ってきました。
カインの捧げ物は拒否され、アベルの捧げ物は受け入れられ、神がこの二種類の捧げ物について、裁きを下しました。
そこで教訓は、「人はどんな手段を使ったとしても、神に近づくことはできない」ということです。
罪を犯し、聖なる神を怒らせたのは人間です。
赦しをあたえなければならないのも神です。
つまり、赦しの手段を選ぶのは人間ではなく神であり、神は血という手段を選んだのです。
カインは自分なりの方法で神に近づくことを選択しましたが、拒否されました。
アベルは神の要求する道を選び、受け入れられたのです。
聖書の歴史が創世記で展開されていくと、神が喜ばれた者たちは皆、血によって神のところに来ることがわかります。
ノアは箱舟を出るとすぐに血の犠牲を捧げました。
ノアの後にはユダヤ史における他の偉人たち、アブラハム、イサク、ヤコブが続き、彼らは皆、血によって神に近づくことに注意を払っていました。
モーセがシナイ山で律法を受けたとき、613の戒めを含む律法全体に血の救いの要素が貫かれています。
律法全体の素晴らしい要約は、モーセの第3書、レビ記17章11節にあります。
「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」
レビ記17章11節
すべてのこの律法は1つの記述を中心に展開していると言えます。
神が律法の中で与えた、従うべき戒めがあります。
不従順は罪でした。
不従順が起こった場合、その罪を償う手段は血でした。
レビ記は、さまざまな種類の血の犠牲について詳しく説明することから始まります。
これらのさまざまな犠牲にはすべて同じ目的がありました。それは、ユダヤ人が神と正しく関係を持つためです。
イスラエルの七つの祭り(過ぎ越しの祭り、種なしパン、初穂、ペンテコステ、ラッパ、贖いの日、幕屋)はすべて、血を流す必要がありました。
贖罪の日の儀式のことははレビ記16章に詳しく記載されており、そこではユダヤ民族の罪を償うために血を流すための注意深い指示が描かれています。
幕屋と神殿はどちらも、人々の罪の償いに必要な血の流しを推進し、効率的に行うために建てられたのです。
神の臨在の目に見える現れであるシェキーナ・グローリー(神の臨在の現れ)が含まれる至聖所には、年に一度、ただ一人の大祭司だけが入ることができました。
大祭司が中に入るためには、贖罪のいけにえの血を携えなければならず、その血は律法の板が入っている契約の箱に振りかけられなければなりません。
「罪のためのいけにえと全焼のいけにえをほふった所、すなわち聖なる所で、その雄の子羊をほふる。罪のためのいけにえと同様に、罪過のためのいけにえも祭司のものとなるからである。これは最も聖なるものである。」
レビ記14章13節
「アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持ってはいり、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。
彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。
彼が贖いをするために聖所にはいって、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。」
レビ記16章15~17節
そしてその原則は、旧約聖書の歴史の残りの部分を通して貫かれています。
しかし、それは個人にとって負担でした。
これらの血の犠牲は毎年繰り返されなければならず、エルサレムの神殿で行われなければなりません。
エルサレムから何マイルも離れた田舎に住むユダヤ人にとって、罪の償いのために毎年主に犠牲を捧げに来るのは負担なのです。
そのように生じた重荷にもかかわらず、預言者たちがレムナント(残りの民)と呼ばれた少数の忠実な人々だけが、神とその律法に示されたことを行うことによって、十分に神とその律法を愛することができました。
家に近い山や丘に自分の祭壇を築き、そこで犠牲を捧げた人もいます。
しかし、これらに対立する祭壇では贖罪は認められず、神の預言者たちは神の律法からのこの逸脱を激しく非難しています。
多くの人は、カインの教訓を学ぶことができていません。
人は、自分が選んだ方法で赦しを求めて神のもとに来ることはできず、神ご自身が選んだ方法で来なければならないのです。
毎年の重荷が取り除かれる日が来るという希望を最初に与えたのは預言者イザヤでした。
イザヤ書53章で、神は苦しみのしもべであるメシアが罪の犠牲となると宣言されたのです。
「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」
イザヤ書53章10、11節
これがメシアが死ななければならなかった理由であり、罪のための血の犠牲を与えるためでした。
もはや、ユダヤ人たちは毎年繰り返される犠牲を負わされることはないのです。
人がしなければならないことは、自分に代わってメシアの死を受け入れることだけであり、そうすればその人の罪は赦されるのです。
ユダヤ人にとって、血が贖いの手段でした。
メシアは代わりに、その償いを行うために、死ななければならなかったのです。
新約聖書との一致
新約聖書のヘブル人への手紙は、旧約聖書のレビ記に相当します。
ヘブル人人への手紙を理解するには、まずレビ記を理解する必要があります。
レビ記の17章11節には、この本全体と律法が中心となる節があったのと同じように、ヘブル人への手紙の中心的な節9章22節でまったく同じことを述べています。
つまり、万物は血によって聖められ、血を流すこと以外に赦されることはないのです。
ヘブル人への手紙は、ヘブル人クリスチャンによって、イスラエルのヘブル人クリスチャン集会のグループに向けて書かれました。
レビ記とイザヤの預言のテーマを取り上げて、メシアの犠牲の優位性を示しています。
いくつかの文章がこれらのことを明らかにしています。
ヘブル人への手紙にはこのように書かれています。
「主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。
そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」
ヘブル人への手紙2章16~18節
この句は、メシアがユダヤ人として来られ、あわれみ深い、忠実な大祭司になるためにユダヤ人が経験しなければならなかったすべての問題を経験されたことを強調しています。
もう一つの中心的な節はヘブル人への手紙4章14~15節です。
「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
ヘブル人への手紙4章14~15節
この聖句は、イエスが同情的な大祭司であるというまったく同じ点をさらに進展させています。
なぜなら、イエスは、人間個人が経験しなければならないことを理解しているからです。
イエスご自身がこれらすべてのことを経験されたのです。
さらに、もう一つの箇所はヘブル人への手紙7章22~25節です
「そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。
また、彼らのばあいは、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。
しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
ヘブル人への手紙7章22~25節
ゆえに、イエスはより良い契約の保証人にもなりました。
そして、ヘブル人は、本当に多くの者が祭司に任命され続けてきました。
なぜなら、死によって祭司たちは継続することが妨げられるからです。
しかし、キリストは永遠にとどまるので、その祭司職は不変です。
それゆえに、神に近づく人々をキリストを通して徹底的に救うことができ、キリストが常に彼らのために執り成しをするために生きていることを知るのです。
キリストの祭司職の優位性は、他のすべての祭司が死ぬという事実によって証明さています。
一人の大祭司が仕えても、彼は遅かれ早かれ彼は死ぬのです。
サイクルを最初からやり直すために、また、新しい祭司を選ぶ必要があります。
生と死のサイクルは、古い祭司色の仕事にとって不利であることが判明したのです。
キリストの神権の優位性は、それが永遠に存続するという点で示されています。
なぜなら、イエスは復活され、その復活のおかげで、イエスは永遠に大祭司であり続けるからです。
レビ族の祭司制度のもう一つの欠点が、ヘブル人への手紙7章26~27節に示されています。
「また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。
ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」
ヘブル人への手紙7章26~27節
この句は、来る日も来る日も、毎年、犠牲が繰り返されなければならなかったということを示しています。
メシアは一度限り、罪の犠牲となったのです。
これは、イエスが来て、罪の贖いとしてご自身の血をささげたときに起こったことです。
古い祭司職の秩序では、大祭司は、民の罪を償うために犠牲を払って血を流す前に、まず自分の罪のために犠牲を捧げ、血を流さなければなりませんでした。
イエスには罪がなかったので、最初に自分の罪を償う必要はなく、自分の血によって、それを受け入れるすべての人のために罪を償ったのです。
繰り返しになりますが、キリストの犠牲が他のすべての犠牲に比べて優れていることは、ヘブル人への手紙9章11~15節でも指摘されています。
「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。」
ヘブル人への手紙9章11~15節
動物の犠牲とは異なり、イエスの犠牲は一時的な贖いではなく、永遠の救いをもたらします。
さらに、動物を犠牲にした後でも、ユダヤ人は依然として自分の罪を意識をしています。
しかし、イエスの犠牲への信仰は、罪の良心をも完全に聖め尽くすのです。
ヘブル人への手紙9章28節には次のような句があります。
「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」
ヘブル人への手紙9章28節
ここでメシアの生涯の二重の側面が指摘されています。
イエスは最初に、イザヤ書53章の苦しみのしもべが必要とされていたように、人々のための罪のいけにえとして来られました。
また、苦しみのしもべが多くの人の罪を負ったのと同じように、イエスも自らの死を通してその罪を負われました。
この句は、イエスが別の目的で二度目に来ると述べています。
初臨の目的は罪のために死ぬことでした。
再臨の目的はメシア王国を樹立することです。
ヘブル人への手紙10章1~4節からでは、再び、動物の犠牲とイエスの血の犠牲の対比が描かれています。
「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。
もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。
ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。
雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。」
ヘブル人への手紙10章1~4節
動物の犠牲は毎年繰り返されなければなりません。
これらの犠牲は一時的な償いを提供しましたが、決して永遠の罪の赦しを提供していないのです。
むしろ、毎年の犠牲はユダヤ人に自分の罪を思い出させるのに役立っています。
彼は翌年もまた犠牲を払わなければならないことを知っていますので、罪の意識はまだそこにあるのです。
しかし、イエスの犠牲は一度限りのものであり、繰り返す必要はありません。
イエスの犠牲を受け入れることは、一時的な罪の償いをもたらすのではなく、永久の赦しをもたらします。
イエスの罪の身代わりの死を受け入れることによって、人はそれらの罪を絶えず思い出されることがなくなり、完全な聖めを受けることができます。
それが、イエスの犠牲が古い制度の動物の犠牲よりも優れている理由です。
最後の節はヘブル人への手紙10章10~14節です。
「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。
しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」
ヘブル人への手紙10章10~14節
この句は、大祭司が来る日も来る日も犠牲を払わなければならなかったにもかかわらず、その働きが決して達成できなかったことを改めて指摘しています。
大祭司は、この未完の奉仕を示すために立っていると見なされるのです。
しかし、自分自身を一度限りの犠牲として捧げたイエスは神の右に座しているとみなされ、その働きが完了したことを示しています。
さらに、動物の犠牲は毎年の償いを提供しましたが、罪を永久に取り除くことはありませんでした。
しかし、イエスの犠牲を受け入れる人は永遠に完全にされます。彼らの罪は永久に取り除かれます。
結論
旧約聖書と新約聖書の結論は、救いの手段は血によるものであり、永遠の血の犠牲はメシア自身であるということです。
旧約聖書によれば、メシアは死ななければならなかったのはそのためです。
新約聖書によれば、イエスが実際に死んだのもそのためです。
新約聖書では、誰がイエスを殺したかは決して問題ではなく、メシアは死ななければならなかったからです。
このことが問題になったのは、反ユダヤ主義者たちがユダヤ人迫害の口実を求めたその後のことです。
新約聖書における唯一の問題は、人は自分自身のためにイエスの身代わりの犠牲を受け入れるか?どうかです。
6、イエスに対するユダヤ人の反対
イエスに対する反対を表明するラビたちによって書かれた最近の記事はすべて、イエスが現代のユダヤ教に適合しているか、適合していないかに基づいて判断しています。
(最初の章で引用した)ラビのミルトン・スタインバーグとトゥルーデ・ヴァイス-ロズマリンが書いた記事がその例です。
イエスは、1世紀のユダヤ教や聖書のユダヤ教ではなく、20世紀のユダヤ教によって判断されることが非常に多いと思われます。
しかし、今日のユダヤ教に従ってイエスは救世主なのかという疑問にさえなっていません。
今日のユダヤ教のメシア観は、「彼は来られる」から「どんなメシアだ!」、「メシアなどいないんです」までの広範囲にわたっています。
現実的に、今日のほとんどのユダヤ人はどのメシアをまったく信じていません。
本当の問題は、イエスは旧約聖書のユダヤ教のメシアなのかということです。
今日のユダヤ教は、旧約聖書のユダヤ教、さらにはイエスの時代のユダヤ教とは大きく異なります。
現代のユダヤ教は「キリスト教の父」ではないのです。
せいぜい良くて、兄弟であり、聖書のユダヤ教は両方の父ということになります。
旧約聖書を読み、その教えを今日のユダヤ教と比較すれば、現代のユダヤ教はまったく新しい宗教であるとほぼ結論付けることができます。
確かに、当時と現在のユダヤ教には類似点があるのは事実です。
さまざまな信仰感の間に類似点が存在し、それにもかかわらず、それらは互いに異なっているのです。
本当の問題は、イエスが旧約聖書のメシアであるかどうかです。
イエスがメシアであるかどうかは、聖書のメシア預言の成就以外の基準に基づいてはなりません。
どんな神をあなたは信じているのでしょうか?
ユダヤ人の反対者の中には、イエスがメシアである証拠である、処女降誕と死者の中からの復活に疑問を抱いている人もいます。
しかしながら、これら2つの問題に対する異議自体は本当の問題ではありません。
本当の問題は、人がどのような神を信じるかということです。
問題は、処女懐胎が可能かということではありません。
あるいは、死からの復活などは可能性でしょうか?
人間の観点から見ると、そんな問題ではありません。
本当の問題は、神はそのようなことができるのか、ということです。
それができないなら、その人は神ではありません。
しかし、神が神であり、この特定のタイトルが推測し、含み、示しているすべてのことがある場合、神はやりたいことは何でもできるのです。
神に対して考えられる唯一の制限は、神が自分自身に制限をかけることです。
もし神が全能であるならば、処女降誕や復活などは神にとって容易に達成できることです。
神が天と地を創造したことを認めながら、処女懐胎をもたらす神の能力を疑うというのは、驚くべき矛盾です。
もし彼が宇宙の驚異と広大さ、そして単一細胞のあらゆる複雑さを創造することができれば、処女誕生と復活はとても簡単なことです。
神を信じるユダヤ人にとって、処女懐胎の奇跡を疑う理由はありません。
本当の疑問は、イエスの誕生とともに何が起きたのかということです。
旧約聖書には、それがメシアの場合に起こると書かれていました。
新約聖書は、それがイエスに実際に起こったと述べているのです。
イエスは平和をもたらせるわけないですという問い?
イエスのメシアに対する最も一般的な反対意見は、「ユダヤ人に平和をもたらしていないから、イエスはメシアではありえない」というものです。
ユダヤ人は、メシアは受け入れられなかったので、平和をもたらすことはあまりできませんでした。
メシアの最初の到来の目的、あるいは初期のラビたちが考えていたように、最初のメシア、つまりヨセフの子であるメシアの到来の目的は、平和をもたらすことではなく、苦しみ、死ぬことでした。
平和は第二のメシア、ダビデの子メシアの到来によって、あるいは新約聖書にあるようにメシアの再臨によってもたらされるのです。
つまり、イエスがメシアであるかどうかは、まずイエスが罪のために苦しみ、死んだかどうかによって判断されます。
次に、イエスを信じた人々が義認と罪の赦しを受けたかどうかによって、判断されなければなりません。
イエスがイスラエルの罪のために苦しみ、死んだことは、新約聖書にある目撃者の証言の証拠です。
ユダヤ人がイエスの身代わりの死への信仰によって罪の赦しを受け、経験していることは多くの人によって証言されています。
ヘブル人クリスチャンの証の一部は第8章で紹介します。
タルムードのユダヤ教と新約聖書はどちらも、平和をもたらすメシアの到来に先立って、苦しみと死をもたらすメシアの到来が一度あるということに同意しています。
相違点は、前者が二人の異なるメシアであると主張しているのに対し、後者は同一人物であるイエスであると主張していることです。
イエスが平和をもたらしなかったのは事実ですが、それはメシアの初臨の目的ではありません。
つまり、これはイエスのメシア性に対する有効な議論ではありません。
なぜなら、イエスは再び来られ、平和をもたらすからである。
クリスチャンはユダヤ人を憎んでいるからですか?
イエスのメシアに対するもう一つの反対は、イエス自身に対するものというよりも、ユダヤ人の歴史を通じてイエスの名に対する反対心です。
というのは、キリスト教徒は何世紀にもわたってユダヤ人を迫害し、殺害してきた歴史があるからです。
十字架はユダヤ人にとって死の象徴ではなったのです
教会はユダヤ人に対して差別的な法律を制定したのです。
イエスの名は、ユダヤ人の家や体を焼くために使われたのです。
洗礼はキリスト教への強制改宗や、ユダヤ人の子供たちを家族から引き離す口実として利用されてきたのです。
これらはすべて真実でですが、さらに多くの真実があります。
これらの残虐行為を行った人々が、本当にクリスチャンだったのかどうか疑問があるかもしれない。
しかし、彼らが自ら自分のことをクリスチャンと呼んでいたのは確かなことです。
しかし、これらがイエスがメシアであることに反対するために、有効な議論と言えるのでしょうか?
イエスに従うと公言する人々によって、自分の名前が勝手に使われたり、悪用されたかについて、イエス御自身が責任を負うことなのでしょうか?。
マカビアン後の時代、ジョン・ヒルカヌスという名前の男がイスラエルの統治者になりました。
当時のイスラエルは、ヘレニズム時代のシリア人など、イスラエルを奪おうとする者たちからの独立を求めて戦っていたのです。
ジョン・ヒルカナスの多くの戦争行為の中には、人々にユダヤ教への改宗を強制することが含まれており、改宗しなければ殺されました。
彼がギリシャの都市を占領したとき、住民にはユダヤ教に改宗するか剣で死ぬかの選択が与えられたのです。
エドム人国民(当時はイドメア人として知られていた)全体が強制的にユダヤ教に改宗させられました。
拒否した者の多くは剣で命を落としています。
こうしてユダヤ教の名の下に多くの残虐行為が行われました。
さて、これらの戦争、戦術によって、家族や愛する人を失った多くの人々が、ユダヤ教の創始者とみなされるモーセに対する全面的なキャンペーンを開始したと想定してください。
強制改宗は死というこれらの行為のせいで、ギリシャ人とエドム人はモーセの言うことをすべて拒否したと仮定してください。
ユダヤ教の名の下に恐ろしいことが行われたために、ユダヤ教が拒否されると仮定してください。
これはすべて不公平でしょう。
なぜなら、ヨハネ・ヒルカヌスがモーセの名を使い、ユダヤ教の名の下に殺されたからといって、モーセやユダヤ教自体がそのようなことをすべきだと教えたことを意味するものではないからです。
実際、ある人たちが自分の欲望を達成するために、ユダヤ教の名を利用したという理由で。ユダヤ教を拒否するということは不公平ことです。
同様に、一部の人がイエスの名前を使用したことを理由に、イエスがメシアであることを拒否するのは間違っています。
なぜなら、イエスと新約聖書はユダヤ人に対するそのような行為を認めていないからである。
新約聖書は異邦人に「救いはユダヤ人にある」と教え、ユダヤ人への迫害を禁じています。
したがって、自分たちを誤ってクリスチャンと呼んだ人々が、ユダヤ人に対する利己的な戦争のためにイエスの名前を使用したとしても、それはキリスト、クリスチャンの行動には言えません。
もし、新約聖書のイエスが真のイエスであるならば、そのような行為は彼の性格とは異質なものだからです。
したがって、イエスのメシア性は、イエスが誰であると主張したかに基づいていなければなりません。
イエスは旧約聖書のメシアの型に当てはまりますか?
「ユダヤ人が迫害された」という口実によって、曇らされたり歪められたりした教えによってではなく、聖書の根拠だけでイエスが受け入れられるか?もしくは、拒否されるかが判断されるべきです!
神学的反論
ラビの権威によるイエスに対する神学的反対は、あまりにも繰り返し、同じ領域を攻撃してきたため、型通りになってしまいました。
これらは通常、処女懐胎の問題、イエスが神の子であると主張すること、そしてユダヤ人は人間が神になれるということを信じられないという事に焦点を当てています。
処女懐胎に対する反対意見はこの章ですでに扱われていますが、どのような神を信じるかは依然として問題となっています。
イエスが神の子であるという主張に関しては、次のような反論があります。
新約聖書はイエスを神の子、メシアとしています。
しかしユダヤ教は、他の人間よりも区別され、高められた神の子を認めません。
ユダヤ人の信念は、すべての人は神の前に平等であり、人間が神であるという主張は存在していません。
ここに、イエスのメシア性について、現代のユダヤ教に基づいてどのように判断されるか?その一例があります。
ユダヤ教は「そもそも神の子という存在を認めていないので、イエスがメシアであるはずはない」と著者は言っています。
著者が知っているユダヤ教、現代のユダヤ教ですが、素直に「神の子の存在を認めてない」と言いのなら、著者はもっと正直になったのかも知れません。
(改革ユダヤ教の場合は、そもそもメシアは存在していません。)
著者はメシアを神の子として扱う何世紀にもわたるユダヤ人の神学的扱いを事実上無視しています。
もし著者が時間をかけ、詩篇2篇の初期のラビ的解釈を検討していたら、彼がそのような軽はずみな発言をしなかったはずで、ラシですらそうようなことはしなかったはずです。
この質問の詳細については、前のページで説明しています。
問題は、イエスが旧約聖書のメシアであるかどうかであり、現代ユダヤ教のメシアであるかどうかではありません。
ユダヤ人は人間が神になれるとは信じられず、だから、ユダヤ人はイエスを受け入れることができないのだとラビたちは言います。
人は神になれないという事実は真実であり、誰も神性を主張することはできません。
現代のユダヤ教が新約聖書の教えを誤解しているのはここです。
新約聖書は、イエスが神になった人間であるとは決して主張していません。
ならば、これは異端です。
これは、聖書、ラビ、その他のいかなる形式のユダヤ教にも反しており、またキリスト教の信仰にも反しています。
新約聖書も、イエスは神になった人だとは教えていません。
新約聖書はその逆を主張しています。
ナザレのイエスという人格の中にあったのは、人となった神です。
もし神が人間になったとしたら、この人間は間違いなく他の人間よりも優れているのです。
イエスは、今や、神なる人なのです。
確かに、ユダヤ教は、神が望んでも人間になれるということを、あえて主張していません。
聖書のユダヤ教の神はあらゆる力を持っています。
神は望むことなら何でもできるのです。
神にできないことがあれば、神よりも劣った存在です。
そこで本当の疑問は、神は人間になることを選んだのかということです。
そうではありませんか?
その主張は、神が人になったということです。
イエスについての多くのラビの著作がまさにこの点について議論することを拒否しています。
その代わりに、人がどのようにして神になれるかを議論することに固執しているのは驚くべきことです。
よくある、他の反論も、本当の要点を見逃しています。
そのような反論の1つの中に「イエスが罪を赦した」という事実ですが、それは神だけができることです。
これは真実です。
罪を赦せるのは神だけです。
もしイエスが神なる人であり、人となった神であるならば、罪の赦しはこの神なる人の権威の一部なのです。
神である人の性質についての、別の反対意見としては、イエスが自分の御名において奇跡を行ったという事実に焦点を当てています。
あるユダヤ人作家が表明した、反対意見は次のとおりです。
ヘブル人の預言者たちも奇跡を行いましたが、彼らはそれを神の道具として行ったと強調しています。
エリヤがやもめの息子を生き返らせた時、イエスが同じような奇跡をおこなった時のように、エリヤは自分の名によって行ったとは言っていません。
まず第一に、イエスは神の御霊の力と権威によって奇跡を行っていると、何度も主張しています。
預言者たちが奇跡を起こし、神の功績を認めたのは事実ですが、繰り返しになりますが、メシアはただの人間や単なる預言者なのではありません。
ラビの理論では、メシアは神の御名を自ら持っているので、自分の御名において物事を行うことができるのだと教えています。
だからこそ、メシアはラビ神学において重要な役割を果たし続けたのです。
だからこそ、近代自由主義がユダヤ教に浸透する前の何世紀にもわたって、ユダヤ人は、ユダヤ人の救世主の到来を待ち続けているのです。
メシアは、ご自身の名において偉大なことを成し遂げることができるほどの権威と力を持っているのです。
イエスは自分がメシアであると主張したので、実際に御自分の御名においてこれらの奇跡を行うことができるのです。
著者も認めているように、イエスはご自身の御名においてこれらのことを成し遂げられています。
自分の御名において、これらのことを行い、イエスは自分の救世主であることを反証するのではなく、実証しているです。
不十分な研究
イエスに対する他のユダヤ人の反対意見では、新約聖書の内容に関して非常に不十分な研究が示されています。
その一例は次のようなものです。
「ユダヤ教は…良い生活を送り、禁欲主義を妨げます。
しかしイエスは、御自分の王国はこの世のものではないと主張し、敬虔さのしるしとして貧困状態を挙げています。」
確かに、イエスが禁欲主義を戒めています。
しかし、イエスはすべての事について、節度を保つことをも奨励しているのです。
イエスが来られた目的の一つに、人生の楽しみを提供することでもあります。
イエスはこう言われました。
「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」
ヨハネの福音書10章10節
いかなるときも、イエスは貧困が、敬虔さの証とはしません。
イエスは富を誤って使うことに何度も反対していましたが、富、そのものを罪としたり、貧困を美徳だとは言っていません。
キリストのメッセージは、「後に天国に行けるので、現在の世の富をどのように使う」というものではありません。
キリストのメッセージは、「神と正しく向き合い、あなたが喜ぶ人生をこのように送る」ことを神は望んでいるのです。
新約聖書の不十分な研究に関する別の例は、次のようなものです。
「ユダヤ教は家族を称賛し、より大きな共同体に統合されています。
イエスは独身を称賛し、宗教的献身への障壁となる家族の絆を軽蔑しています。」
実際、イエスは独身を奨励していません。
イエスは、このような生活はごく少数の人たちだけのものであると言っています。
それはより高い霊的のしるしではありません。
彼の主な指摘ポイントは、正しい優先順位だったのです。
イエスの教えは次のとおりでした。
「人は誰でも神を第一に考え、家族を第二に考えなければなりません」。
これはユダヤ教に反するものではありません。
以下の事例で明らかなように、一部の反論は新約聖書の研究が不十分であることを示すだけでなく、旧約聖書の研究も不十分であることを示しています。
ユダヤ教の教えとは
「ヘブル語聖書は人類の一致を強調しています。
預言者たちは、神の使者として主に自国民にではなく、すべての国に語っています。
しかしイエスは、ご自分が「イスラエルの家の失われた羊のところ」にのみ遣わされたことを強調しています。
イエスは始め、カナン人の女性の娘を癒すことを拒否しました。
ユダヤ教は非ユダヤ人を差別することはありません。」
この著者は「本当に旧約聖書を読んだことがあるのだろうか?、それとも、この人はユダヤ教について知っているのだろうか?」と疑問に思う人もいると思います。
実は、ユダヤ教は異人種間の結婚を禁じており、それは非ユダヤ人に対する差別の一形態です。。
さらに、預言者たちは著者が主張するようなことは何も強調していません。
いままで、多くのヘブル人の預言者は、異邦人にメッセージを与えず、もっぱらユダヤ人にのみメッセージを伝えています。
預言者たちは、ユダヤ人は特別な方法で神の民でなり、異邦人とは異なるという点を何度も強調しています。
異邦人の国々に宛てたメッセージもありましたが、それらは常に異邦人によるユダヤ人への虐待に対する裁きのメッセージでした。
これを理解するには、預言者を一度読むだけで済みます。
イエスのメシアに対する反対の多くは、新約聖書が実際に述べている内容ではなく、新約聖書が何を主張しているかについての先入観に基づいているため、何を言っても無駄なのです。
ゆえに、本当は神学的な質問には、その人が神を信じる決心の後で答えるのがベストです。
神にできることは限界があるのでしょうか?
それとも御自分の力に応じて、何でもできる型なのでしょうか?
そのとき、イエスは人となった神なのか?それとも違うのか?、と問うことができます。
イエスが救世主であるかどうかを判断する基準は、現代のユダヤ教ではなく、旧約聖書でなければなりません。
これは、個人的に調査しない限り、正直に誰も答えることができない質問です。
信じ込まされてきた先入観に基づいて拒否することは、本人にとって不誠実なことです。
多数派と少数派
別の種類の反対意見が何度も何度も提起されます。
「イエスがメシアなら、なぜラビたちはイエスを信じないのですか?」
あるいは、次のように述べられるかもしれません。
「もし、本当にイエスがメシアなら、これを信じるユダヤ人がほとんどいないのでしょうか。」
ここで意味するのは、多くのラビ、または多くのユダヤ人が、これが真実であると認めない限り、これががユダヤ人にとって真実になるということはないということです。
つまり、真実は多数決で決まっているということです。
真実は多数決で決まるわけではありません。
何かが真実である場合、誰もがそれを信じても、誰も信じなくても、それは真実になります。
たとえ地球は平らで、地球の端から落ちる可能性があると誰もが信じていたとしても、それが真実になるわけではありません。
真実はそのように決定することはできません。
真実とは絶対的なものです。
それは、決して変わりません。
どれだけの人が真実を信じているかは関係ありません。
それが、何であるかを知るならば、それは今、あなたにとって真実なのです。
しかし、「現在のユダヤ人の宗教指導者たちが拒否したものを、少なくともユダヤ人にとっては、それが宗教的に真実であるはずがない」と言う人もいます。
もし、本当にイエスがメシアならば、もちろん、すべてのユダヤ人が信じたわけではありませんが、間違いなく多くの人が、ユダヤ人リーダーだと信じたはずです。
現実に、ユダヤ人の指導者も含めて、多くのユダヤ人がイエスがネシアであると信じました。
確かに、それは多数派ではありませんでした。
大多数はイエスのメシア性を拒否しました。
それでも、多くの人がメシアとしてのイエスを受け入れたのです。
繰り返すことになりますが、大多数がイエスをメシアとして受け入れなかったからといって、イエスが救世主である資格を剥奪されるわけではありません。
イスラエルの神聖な歴史を見ると、神の啓示に従ったのは常に少数派のユダヤ人であったことを何度も見つけることができます。
預言者たちは、この少数の信者の集りをイスラエルの残りの者(レムナント)と呼びました。
神が預言者を通して語られることを受け入れたのは常にイスラエルの残りの者(レムナント)なのです。
当時の宗教指導者も含め、常に大多数は神の啓示を拒否してきたのです。
預言者エリヤの時代の例を挙げてみましょう。
列王記第一の19章にある預言者エリヤの生涯をみると、人々がイスラエルの神に立ち返って崇拝しようとしないので、エリヤがとても落ち込んでいることがわかります。
エリヤは意気消沈して、エリヤは山に逃げたのです。
「シナイは死ねばよかった」とエリヤは神に不平をこう言っています。
「エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」」
列王記第一19章10節、19章14節も同文。
エリヤの時代、イスラエル国民は完全に偶像崇拝に陥っていたため、エリヤは自分が孤独であると感じています。
しかし。神はエリヤに答えて言われます。
「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」
列王記第一19章18節
エリヤに対する神の答えは、エリヤ以外にもイスラエルの神に忠実であった人が七千人いるというものです。
ここで注目してください、エリヤの時代にイスラエルの国に住んでいた何十万人ものユダヤ人のうち、預言者エリヤを信じたのはたったの7千人だけでした。
確かに、ユダヤ人の指導者の大多数が間違っており、信じたのは残りの者たちなのです。
主要な預言者についても、同じことが真実であることがわかります。
すべての預言者の代表と言われるイザヤでさえ、最初の章でこのように言っています。
「もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。」
イザヤ書1章9節
イザヤもまた、預言者に従うユダヤ人は残りの少数派だけであることを認識しています。
大多数が不従順なのです。
イザヤは、もしこの残りの者がいなかったら、神はイスラエルに対して非常に嫌悪感を抱き、ソドムとゴモラを滅ぼしたように私たちも完全に滅ぼしたであろうと証言しています。
エレミヤやエゼキエルのような他の預言者にも、同じことが言えます。
これらの預言者は、神の真理を維持するために、常に大多数に対して、何度も、何度も反抗しなければなりませんでした。
1世紀からユダヤ人の信者であったラビ・サウロは、まさに同じことが彼の時代に起こっていることに気がついたのです。
メシア・イエスを受け入れたのは少数のユダヤ人でした。
ローマの会衆に宛てた手紙の中で、彼はエリヤの物語を詳しく語り、その物語を自分の時代に当てはめています。
ラビ・サウロはこのように言っています。
「それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。
「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」
ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」
それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。」
ローマ人への手紙11章2b~5節
ラビ・サウロは、自分の時代に起こっていること、そして今日に起こっていることは、ユダヤ人の歴史の中で常に起こってきたことと同じだと説明しているのです。
常に、大多数はイスラエルの神の啓示に不従順でした。
少数派、残りの者(レムナント)たちは常に信じてきました。
ラビ・サウロは続けて、ヘブル人のクリスチャンは、今日のイスラエル信者であると述べているのです。
このタイプの真理、つまり神の真理は多数派によって決定されるものではありません。
答えは次のとおりです。
大多数のラビとユダヤ人がイエスをメシアとして受け入れなかったらどうなるのか?
イエスがメシアであるという事実は変わりませんなのです。
あらゆるの論理
「ユダヤ人がイエスを信じるのは論理的ではない」というのは反論がよく出ます。
これはイエスが本当は誰なのかという問題にかかってきます。
さて、イエスが本当にメシアであると仮定してください。
議論するために、イエスがメシアであるという前提を作ってください。
確かなのは、ユダヤ人がイエスを信じることは最も自然なことです。
それは十分論理的です。
イエスがメシアなら、イエスを信じるのがユダヤ人です。
そして、イエスがメシアであることを信じることは、メシアはユダヤ人らしさ無くして、よりユダヤ人らしく、ユダヤ人らしさを完成させてゆくのです。
そして、実際にユダヤ人を完全なユダヤ人にします。
なぜなら、イエスは最初のユダヤ人を知っているからです。
つまり信仰によって、ユダヤ人は神との交わりを持っているからです。
提起される多くの反対意見は、大概、表に出ることのない本当の反対意見の表れであることがよくあります。
それは、ユダヤ人である人がイエスを受け入れたら、ユダヤ人でなくなるのではないかという恐怖です。
これはユダヤ人の本当の恐怖です。
彼はユダヤ人ではなくなり、異邦人になるのです。
しかし、イエスを信じたユダヤ人たちは、イエスが自分たちのユダヤ人性を破壊したわけではないと強く主張しています。
次の章ではユダヤ人性の問題について説明します。
7、ユダヤ人性、それは何なのか?
最近、ユダヤ人界で繰り返されるテーマの一つは、ユダヤ人性(Jewishness)を定義することへの懸念です。
この問題は、イスラエルにおける政治的、宗教的対立により発生しています。
ラビの組織もイスラエルの政治指導者も、全員が同意できる定義を見つけることができていません。
矛盾する定義
考えられる定義は、宗教的なものから国家主義的なものまで多岐にわたっています。
自分をユダヤ系アメリカ人と呼ぶか、ユダヤ系アメリカ人であると呼ぶかには、この世界ではまったくの違うことなのです。
ここに宗教的な定義を要求する人たちがいます。
しかし、無神論者であると公言するユダヤ人も、自分がユダヤ人であると主張してくるので矛盾が発生します。
イスラエルで自分たちは反宗教的であると考えているユダヤ人がいます。
皮肉なことに、宗教的定義を要求する人々によって、無神論者がユダヤ人であるとみなされているのです。
ヘブル人クリスチャンと正統派ユダヤ人は、正統派ユダヤ人や無神論者のユダヤ人よりも宗教的にはるかに多くの共通点があります。
にもかかわらず、このことによってクリスチャンのユダヤ人を除外させられています。
これらの理由、また他の理由によって、宗教的な観点からユダヤ人を定義することは、誰がユダヤ人であるかを満足に説明することはできていません。
ユダヤ教は、多くのユダヤ人にとって、ユダヤの宗教であると言えるかも知れません。
すでに、多くのユダヤ人にとってユダヤ人の宗教であると言い切れないのです。
多くのユダヤ人がユダヤ教を実践していないという理由だけで、ユダヤ教に根付いている多くのユダヤ人をそのように定義することはできません。
もし、ユダヤ教の実践している者がユダヤ人であることの特徴づけるとするのであれば、多くのヘブル人クリスチャンは間違いなくその資格を得ることができます。
実践という意味においては、彼らは多くの改革派ユダヤ人よりも、はるかにユダヤ教に忠実なのです。
古典的なシオニストの定義は、ユダヤ人は民族であり国家であるというものです。
シオニスト指導者のほとんどが無神論者であったため、シオニズム運動では宗教、つまりユダヤ教が軽視されてきました。
シオニスト指導者の多くは無神論者だったため、彼らの歴史観から、ユダヤ人が国家実体を構成していると結論づけています。
彼らは、ユダヤ人問題の解決策はユダヤ人にとっての祖国であると主張し、ユダヤ国家の設立に向けた運動が始まり、1948年のイスラエル建国で最高潮に達しました。
しかし、このシオニストですら、イエスを信じるユダヤ人はもはやユダヤ人ではないと主張すると、矛盾するようになりました。
イエスを信じることで、ユダヤ人がどうして国籍を失うのかは全く説明されていません。
結局のところ、イエスを受け入れたドイツ人、ロシア人、イタリア人は国民的にはドイツ人、ロシア人、イタリア人であり続けるのです。
ユダヤ人も同様なのです。
それも、すでにユダヤ人らしさを定義する論理は、もう、美徳でさえないのです。
すべての定義は、この時点で不足しているように思えます。
この問題を解決しようとするたびに、甚大な混乱が生じています。
エルサレム・ポスト紙が1500世帯のユダヤ人家族を対象に「ユダヤ人とは何者か、あるいは何者か」という質問を調査したところ、どれほどの混乱が生じているかが明らかになっています。
その結果は、エルサレム・ポスト紙の1968年11月25日号で次のように報告されています。
12%:ユダヤ人とは、父親または母親がユダヤ人であるか、ユダヤ人の配偶者を持つ人です。
23%:ユダヤ人とは、自分をユダヤ人だと考えている人です。
19%:宗教法によって、ユダヤ人の母親から生まれ、ユダヤ教に改宗した人はユダヤ人です。
13%:ユダヤ人の宗教的慣習を守っている人です。
13%:ユダヤ人とはイスラエルに住んでいる人、またはユダヤ国家に認められた人です。
11%:ユダヤ人とはユダヤ人として育ち、ユダヤ人として教育を受けた人です。
9%が「分からない」と回答しています。
エルサレム・ポストが実施したこの世論調査では、6つの異なる定義が提示されました。
確かに、誰がユダヤ人であるかを定義するすることは、ユダヤ人の位置づけに混乱があることがわかります。
ユダヤ人とは何かという問題に、唯一の定義ではありません。
あるラビは最近、ニューヨークのテレビで、ユダヤ人とは、ただユダヤ人の存続と継続を支持する人のことだと述べました。
その定義では、かなりの数の異邦人も同様に資格を得ることができます。
なぜなら、多くの異邦人の中には、ユダヤ人の存続を大いに支持している人がいるからです。
このラビは続けて、ユダヤ教には神はまったく不要である、つまり無神論者であってもユダヤ教を自分のために再構築することでユダヤ教の信奉者であり、ユダヤ人の資格を得ることができる、とほのめかしました。
このラビは、あるユダヤ人がユダヤ教を再構築して、神を排除できたとしても、彼はユダヤ人であり続けることができるのです。
しかし、他のユダヤ人がユダヤ教を再構築して、イエスを信じるのならば、ユダヤ人であり続けることがどのようにできるのか?とは説明していません。
このラビは、ユダヤ人の定義においても、現在蔓延している矛盾を踏まえても、イエスをユダヤ人として信じるユダヤ人を排除しているのです。
したがって、誰がユダヤ人であるかについてユダヤ人の指導者側には大きな意見の相違があります。
一般的に、イエスを信じるユダヤ人はもはやユダヤ人ではないという一点で一致する傾向があります。
しかし、これは実際にユダヤ人とは何かと言う問題と、ユダヤ人であるという問題とは、違うもので定義しようとしているのです。
最初に、ユダヤ人とは何かと言う問題について定義しない限り、それが何ではないかによって何かを定義するのは誤りです。
論理でがAがAであると最初に述べずに、AがAではないとは言えないのです。
ユダヤ人の指導者たちが最初にユダヤ人とは何かを定義できるまでは、ユダヤ人が何であるかと宣言する立場ではないのです。
紛争の理由
ユダヤ人とは何なのか、あるいはユダヤ人とは何なのかという問題に関して、なぜ?これほど混乱があるのかという疑問に対する答えは、客観的に基準がないことかも知れません。
定義は、客観的な基準を前提とする傾向があります。
まずは、客観的な基準を持たなければなりません。
次に、客観的な基準を問題に適用して、問題が正しく評価されているかどうかを確認できます。
かつてユダヤ教には客観的な基準があり、その客観的な基準を使用していた時、ユダヤ人とは何なのか、あるいはユダヤ人とは何なのかという疑問はまったくありませんでした。
その客観的な基準はユダヤ教の聖書です。
しかし、過去数世紀の間、ユダヤ教はますます聖書から離れ、最後にはユダヤ教が、かつて持っていた客観的な基準を失いました。
そして、聖書の客観的な基準から離れてしまったため、自分自身を定義することができず、誰がユダヤ人であるか言うことができなくなったのです。
ほとんどのユダヤ人は自分がユダヤ人であることを知り感じていますが、その同じユダヤ人はなぜ自分がユダヤ人なのかを言うことができません。
その結果、彼らはさまざまな答えを導き出すのです。
すぐに人は不可知論、つまり何も知らないという状態になってしまいます。
ユダヤ人の指導者たちの多様な答弁をしているという事実は、彼らが何もわかっていないことを示しています。
彼らが知らないように見えるのは、頼るべき客観的な基準がないからです。
彼らが客観的な基準を持たない理由は、彼らがかつて持っていた客観的な基準であるユダヤ教の聖書から逸脱したためです。
ユダヤ教の一部が離れるほど、その定義は不確かになり、明確ではなくなります。
最後に、彼らはユダヤ人を、ユダヤ人ではないものによって定義することに頼らなければなりません。
彼らは彼が何者なのか知りません。
ユダヤ人性とは、イエスを信じることを取り締まることとなっています。
ユダヤ人をイエスを信じないことと定義するのは取り締まりです。
結局、ユダヤ人って誰ですか?
ユダヤ性の源であるユダヤ教の聖書に立ち返ることで、客観的な基準が得られます。
これが学ぶならばすると、ユダヤ人の定義は簡単になります。
ユダヤ人性を定義する聖書的根拠は、創世記12章1~3節にあるアブラハム契約にあります。
「その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」」
創世記12章1~3節
アブラハムについて、他の2つの箇所でさらに詳しく説明されています。
「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう」
創世記13章15~16節
「すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」」
創世記15章4~5節
その後、アブラハム契約はイサクを通して確認されました。
「主はイサクに現われて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。
あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。
そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。
これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」」
創世記26章2~5節
イサクの後、ヤコブを通してアブラハム契約が再確認されます。
「そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。」
創世記28章13~14節
アブラハム契約では、ユダヤ人であることの簡単な定義は、国家はアブラハム、イサク、ヤコブの系譜を経て誕生するという繰り返しの記述の中に見ることができます。
その場合、ユダヤ人であることは国籍として定義されるのです。
多くのシオニストの見解とは異なり、この国籍はイスラエル国家だけに限定されるものではありません。
そこには、どこにいてもユダヤ人全員が含まれます。
それは歴史やシオニズムではなく、子孫に基づいた国籍です。
聖書的に言えば、ユダヤ人は国家です。
今日、私たちは散らばった国民ですが、それでも、私たちはアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるため、一つの国民です。
この定義によれば、個々のユダヤ人が何を信じようと信じまいと、彼はユダヤ人であり続けます。
ここで暗示されるのは、ユダヤ人は何をしても非ユダヤ人には決してなれないということなのです。
クリスチャンである黒人は黒人のままです。
黒人はイスラム教徒になっても黒人のままです。
黒人は仏教徒になっても黒人のままです。
中国人男性がクリスチャンになったら、中国人のままです。
中国人男性が仏教徒になった場合も中国人のままです。
ユダヤ人についても同様です。
彼らはアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるためユダヤ人です。
正統派であろうと、改革派であろうと、無神論者であろうと、共産主義者であろうと、彼はユダヤ人であり続けます。
ユダヤ人がイエスをメシアと信じることを選択した場合、それでも、彼はユダヤ人であり続けます。
彼がアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるという事実を、何も、完全に変えることができないのです。
異邦人って誰ですか?
ユダヤ人の定義であるなら、異邦人とは何でしょうか?
聖書が、再び客観的な基準として使用される場合、異邦人は単にアブラハム、イサク、ヤコブの子孫ではない人を指します。
異邦人とは、ユダヤ人として生まれなかった人のことです。
ここでもまた、異邦人が何をしても、非異邦人になることはできないということが暗示しています。
クリスチャンとは誰ですか?
上記の定義が真実であれば、「異邦人」と「クリスチャン」が同義語ではないことが明らかになります。
西洋のほとんどの異邦人は自分たちをクリスチャンと呼んでいますが、これは真実ではありません。
単にクリスチャンであると主張するだけでは十分ではありません。
多くの非クリスチャンが自らをクリスチャンと称するため、誰がユダヤ人なのかと同様に、誰がクリスチャンなのかということも、多くの社会で混乱している問題となっています。
この混乱もまた、客観的な基準からの離れたことによるものです。
誰が?クリスチャンであるかを判断とするならば、キリスト教とは何なのかの?その根源である新約聖書を参照する必要があります。
新約聖書は世界をユダヤ人、異邦人、クリスチャンの3つの区分けしています
「ユダヤ人にも、ギリシヤ人(異邦人)にも、神の教会(クリスチャン)にも、つまずきを与えないようにしなさい。」
コリント人への手紙第一10章32節
誰もがユダヤ人か、もしくは異邦人として生まれますが、誰もクリスチャンとして生まれた人はいません。
クリスチャンとは、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、クリスチャンになる、つまりキリスト(メシア)に従う者になるという個人的な決断をした人です。
クリスチャンは、単に教会の会員になったり、洗礼を受けたりするだけの人ではありません。
これらの行為は、クリスチャンになるという決断に伴うものかもしれませんが、クリスチャンになるきっかけ、そのものにはなりません。
新約聖書は、クリスチャンとは人間が罪の状態で生まれ、そのために神から切り離されていることを認識するようになったユダヤ人または異邦人であると教えています。
その結果、個人的な方法で神を知るようになるために、探求し、まず、自分の罪に対する罰金を支払わなければならないことを認識しなければなりません。
しかし、罪人である個人は、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、自分の力で罪の代価や罰を支払うことはできません。
この目的のために、多くのユダヤ人や異邦人がイエスであるメシアが来られたのです。
メシアの死により、彼はその者の罪の身代わりとなり、罪の罰金を支払らわれたのです。
聖書は、旧約聖書と新約聖書の両方で、血を流さなければ罪の赦しはないと教えています。
「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」
レビ記17章11節
「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」
へブル人への手紙9章22節
信仰の基本的な内容、つまり何を信じなければならないかは、コリント人への手紙第一15章1~4節にあります。
「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、」
コリント人への手紙第一15章1~4節
信仰の内容は福音であり、キリストの身代わりの死、埋葬、復活を伴います。
人がクリスチャンであるかどうかを決定する行為は、罪の代わりとしてイエスに信仰を置くか?なのです。
人がしなければならないことはヨハネの福音書1章12節に詳しく述べられています。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
ヨハネの福音書1章12節
人生のある時点で、自分の罪を償ってくださったキリストを個人的に受け入れた人は、クリスチャンになるとはどういうことかを経験します。
つまり、、新約聖書によれば、もし誰かが自分はクリスチャンとして生まれたと言うなら、誰もクリスチャンとして生まれていないので、その人は実際にはクリスチャンではないのです。
クリスチャンになるということは、イエス・キリストを通して神を知るようになる経験であり、それによって個人を神から引き離していた罪が取り除かれた結果です。
したがって、クリスチャンは生まれるのではなく、作られるのです。
つまり、新約聖書は、人は皆、ユダヤ人か?異邦人かの?どちらで生まれなのかを問いています。
クリスチャンとは、自分の罪の身代わりの犠牲としてイエスを個人的に受け入れた人々です。
これは、自分をクリスチャンと呼んでいる多くの人が、実際にはそうではないことを意味する可能性がとても高いです。
だからこそ、自分はそうだと主張する人や、違う多くの人が混乱しているため、新約聖書の意味での真のクリスチャンである人々が、信者(ビリーバー)という言葉を使い始めたのです。
これは、真実にクリスチャンである人々と、単にクリスチャンであると主張しているだけの人々をよりよく区別するためなのです。
ヘブル人クリスチャンとは何ですか?
では、ヘブル人クリスチャンとは何でしょうか?
ほとんどのユダヤ人の心にとっては、「ヘブル人クリスチャン」という言葉は矛盾した言葉です。
彼らは、人はユダヤ人かクリスチャンのどちらかになることができるが、同時に両方であることは不可能であると考えています。
では、ヘブル人のクリスチャンとは何でしょうか?
ユダヤ人がアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であり、個人的に、自らの意志でイエスをメシアとして受け入れた人がヘブル人クリスチャンです。
その者はイエス・キリストが、自分のメシアであると信じるユダヤ人です。
信仰の点では、ヘブル人のクリスチャンは、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、キリストを信じる他の人々と一致しています。
国家的に言うならば、ヘブル人のクリスチャンは自分たちをユダヤ人と同一視しているのです。
ヘブル人のクリスチャンは、自分がユダヤ人であると同時にクリスチャンであることを認めなければなりません。
ユダヤ人がユダヤ人としてのアイデンティティを失いたいという理由だけで洗礼を受け入れた場合、その人は決してヘブル人のクリスチャンとはみなされません。
ヘブル人のクリスチャンは、自分のユダヤ人の血筋と、メシアへの信仰を誇りに思っている人です。
使徒パウロとして知られるラビ・サウロは、キリストへの信仰を異邦人の宗教にしたとして何度も非難されてきました。
多くのラビは、イエス自身は問題はなく、イエスはまさにユダヤ人であったにもかかわらず、パウロがイエスのメシア運動によって、異邦人の宗教に変え、すべてを台無しにしたと書いています。
しかし、パウロは著書の中で、異邦人にメシアについて宣べ伝えるように命じたのは神であると宣言しています。
パウロが強い国家主義者であり、ユダヤ人に対して忠実であったことを示す最もよい証拠は、パウロ自身の著作です。
使徒パウロの3つの別々の著作からの抜粋して、検討してみましょう。
「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。」
ローマ人への手紙11章1節
「彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。」
コリント人への手紙第二11章22節
「ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」
ピリピへの手紙3章4~9節
これらの言葉から、キリスト教の信仰を異邦人の信仰にしたことについて、パウロに責任を押し付けるのは難しいことです。
次の章では、現在のイエスを信じるユダヤ人の経験をいくつか紹介します。
イエスに対する彼らの信仰が、彼らをユダヤ人らしさを失くしたのではなく、よりユダヤ人らしくしたことは証明されるのです。
8、ユダヤ人の人生のためにイエスがしたこと。
旧約聖書によれば、メシアの初臨の目的はユダヤ人の罪のために死ぬことでした。
新約聖書は、このことを確かにイエスのしたことであると宣言しています。
旧約聖書はさらに、イザヤ書53章で、メシアの身代わりの死と復活を受け入れる者は義とされ、霊的な癒しを受け、神と和解すると宣言しています。
もし、イエスがメシアであれば、イエスとそのメシアを受け入れたユダヤ人の生活はより良い変化を遂げるはずです。
旧約聖書によれば、これは、自分に代わってメシアの血による贖罪を受け入れた者にとってのこのような結果であるはずです。
これは、何世紀にもわたってユダヤ人に実際に起こってきたことです。
それも今日でも大規模に起こっています。
それは老人、若者、中年の間で起きているのです。
多くの者が、自分の経験として書き留めています。
私たちは。彼らの物語を聞いてみたいと思います。
大人の世界では。
(後に、若者の世界ではというテーマがあります。)
アッシャー・リーヴァイ - 元ラビ
私は35年間、スファラディ系ユダヤ人のラビでした。
私はユーゴスラビアのサラエボ・ボスニアで生まれ、最も正統派のユダヤ人の家庭で育ちました。
私は、すべての敬虔なユダヤ人に課せられている伝統的な祈りを唱え、経典を身につけることを学びました。
15歳のとき、ラビ神学校に入学し、そこで旧約聖書とタルムード注釈について正式に訓練を受けました。
私は21歳で叙階され、ルーマニアのプロエスティで最初の説教壇に立ちました。
その後、私はベルギーのアントワープで奉仕し、ロンドン、イギリス;そしてカリフォルニア州ロサンゼルスには、米国での私の最後のシナゴーグがありました。
私は外面的には仕事で幸せで成功しており、うまくいっていましたが、内面では落ち着かず、不満を感じていたのです。
それは6年前、私がフロリダ州マイアミビーチにいたときのことでした。
私はキリストの信者とは知らなかったユダヤ人と接触し、自分の状況についてアドバイスを求めました。
彼の答えはこうでした。「イザヤ書53章を読んでください。
私はナザレのイエスに関するこの有名な章を読みました。
「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」
イザヤ書53章4節
それで、私はヘブル語聖書を調べなければならないと感じ、次のようなイザヤの言葉を見つけました。
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
イザヤ書9章6~7節
さらに、私は次の個所を読みました。
「そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。
それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」
イザヤ書7章13~14節
「インマヌエル」とは「神が私たちと共におられる」という意味です。
このことが、確かにイエスが預言者の予言をすべて成就させたメシアであるという確信を、私に与えてくれました。
一方、新約聖書と思われる小さな本を手にする機会があり、私はメシアについて明確なイメージを持ちました。
それまで、私がほとんど何も知らなかった本です。
他の本を読むのと、同様にその本を読み始めました。
私は最初から次の言葉を読みました。
「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」
マタイの福音書1章1節
驚いたことに、私はユダヤ人についてのユダヤ教の本を読んでいることに気がついたのです。
徐々に読んでいくと、イエスはアブラハムとダビデの子孫であるユダヤ人であるという結論に達しました。
イエスはユダヤ人の処女から、ユダヤ人の町ベツレヘムでユダヤ人の部族、ユダ族に生まれました。
イエスが律法と預言者を知っていたことに気づき、聖地の丘や谷を旅し、教え、癒してくださったイエスを追って、その美しい言葉や教えを読み、学びました。
それが私にとって霊的な糧となりました。
イエスを信じる者に対する赦しと、永遠の命というイエスの約束に私は惹かれ、ある日私はイエスに信頼を置き、イエスを私のメシア、そして私の罪からの個人的な救い主として受け入れました。
私は、自分が今でもユダヤ人であり、ユダヤ人でなくなることではないと感じていたので、新たな信仰を、心から非難していないと断言しなければなりません。
私はアブラハム、イサク、ヤコブという私たちの遺産を放棄しませんでした。
パウロのように、私もキリストを受け入れた後でもこう言うことができます。私もです。
「彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。」
コリント人への手紙第二11章22節
メアリー・リンダーマン - 事務局長
1967年6月まで、私は神のことを、天国のはるか上に住む人としてしか知りませんでした。
その後、予期せぬ手術と婚約破棄により、私は肉体的にも精神的にも疲弊してしまいました。
私の人生は打ち砕かれたように思えました。
以前、知っていた幸福を取り戻すために私がしたことは、私をより深い絶望に陥らせました。
他のすべてがうまくいかなかったとき、私は自分が神に祈っていることに気づきました。
生まれて初めて真剣に彼を探しました。
神は私の祈りに応えてくださいましたが、それは私が期待していた形ではありませんでした。
神は手を差し伸べ、御子であるメシアを通してご自身の臨在の豊かさで私に触れてくださいました。
彼の愛は、とても純粋で本物で、私を通して溢れんばかりに注がれました。
人生は新たな意味と目的を帯びました。
毎日が約束と希望で満たされ始めました。
キリストを受け入れるためにユダヤ人の血統を放棄する必要はないことが分かりました。
イエスは、私の人生に新たな平和と理解の次元を加えてくれたのです。
ボブ・チャーネス - ビジネスマン
不可知論者が神を見つけることは可能でしょうか?
私はそれをやったのです。
私はユダヤ人の家庭で生まれ育ちましたが、神やその聖典にはまったく興味がありませんでした。
私のユダヤ人の血統は私にとってあまり意味がなかったので、ほとんど、休日も何も参加するようなことがありませんでした。
ある日、私はメシアの私に対する愛を知りました。
私の人生は変わり、初めて神が生きた現実になったのです。
私はこれまでの人生で感じたことのないほど、自分がユダヤ人であると感じました。
母と妹は、私の家に起こった変化を、注意深く観察し始めました。
新しい愛が、妻と、私の中にある霊的経験の両方に輝きを与えました。
母と妹が見守る中、彼らもキリストの愛に応えました。
私たちのユダヤ人性はキリストにおいて完全なものとされたのです。
ルビー・チャーネス - 主婦
神は私にとって素晴らしいものでした。
彼が毎日私に必要なものをすべて与えてくれていることに、私は驚いています。
私も怖くて、家や子供たち、さらには自分自身の人生に対する責任を負いたくない時期がありました。
今、神は私に、キリストだけが与えられる平安をもち、人生の問題に立ち向かうための自信と知恵を与えてくださいました。
メシアを信頼することなど、不可能だと思っていた多くのことができるようになることがわかりました。
ギターを弾くことも歌うことも大好きでしたが、聴衆に対する恐怖のせいで演奏することができませんでした。
今では5000人もの人々の前で歌い、演奏できています。
しかし、もっと重要なことは、何が起ころうとも、神を愛し従う人々のために、神はすべてを良い方向に導いてくださったことを知る喜びです。
アーヴ・リフキン — 公職者
おそらく、私のことを「典型的なユダヤ人の少年」と呼ぶ人もいるでしょう。」
」私はかなり信心深い家庭で育ち、13歳でチェダーやバー・ミツバに出席しなければならないことに反抗しました。
その後、私への宗教教育は中止されました。
休日には時々シナゴーグに行きましたが、霊的な充実感が得られませんでした。
私のスピリチュアルな現実の探求は、母が亡くなった時に始まりました。
母の死により、私は永遠の命についてもっと知りたいと思うようになりました。
ラビも含め、誰も明確な答えを持っていないようです。
私が旧約聖書と新約聖書の中で答えを探し始めたのは、それから6年近く経ってからです。
聖書を読んでいると、神が私に永遠の命を与えるためにキリストをメシアとして送ってくださったことが分かりました。
キリストを受け入れて以来、私は霊的な現実を発見し、私にとって聖書が生き生きとしたものになりました。
ベラ・シュラム博士 - 小児科医
どうして。私が?
600万人の国民が死んだのに、なぜ私はヒトラーの2つの強制収容所を生き延びる必要性があったのだろうか?
神は私に何を望んでいるのだろうか?
そのような私の決意は、律法の調査につながりました。
そして私はすべての律法を守ることは不可能であることを知ったのです。
それが神が私に求めているように思えたのです。
私は預言者の書にに到達するまで読み続けました。
私は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる子供が生まれるというイザヤの宣言を読んで驚きました。
イザヤ書53章は私にとって、さらに大きな驚きとなりました。
それはキリストにのみ適用できる言葉で語られています。
しかし、私はこれを受け入れたくありません。
そしてある朝、メシアの愛が私の心に響きました。
神学を全く理解せずに、私はキリストを信じて心を委ねました。
それ以来、イエスは人生のあらゆる状況において、私に平安を与えてくれたのです。
シド・ベッカー — 退職した元幹部
私の人生最大の出来事は、私がメシアを救い主として受け入れるようになった日のことです。
私はニューヨーク市のローワーイーストサイドで生まれ育ちました。
私たち家族は、子供の頃からユダヤ教の祝日をすべて守っていました。
1938年に、妻と私は西海岸に引っ越しました。
神は私たちをそこに導いて、第二次世界大戦で、わずか6年後に起こった息子の悲劇的な死に備えさせたと信じています。
息子の喪失を通して、私たちは神とのより緊密な関係を模索し始めました。
私は妻と一緒に何度か教会に出席し、聖書に興味を持つようになりました。
私は旧約聖書と新約聖書の両方を勉強し始めました。
私は読んだ内容を何度も確認し、イエスが本当にメシアであると確信しました。
キリストにあって、私は思いと心の平安を見つけたのです。
イエスは私に多くの寛容、忍耐、そして同胞への愛を与えてくれました。
ローズ・ベッカー — 主婦
私を最後に神へと導く道は、病気と悲しみによって特徴づけらています。
第二次世界大戦が勃発すると、私の長男は入隊しました。
私は二年間、長男と合っていませんでしたが。彼とは二度と会うことはありませんでした。
私が重病になった時、彼は休暇をとって私を見舞いに来てくれましたが、それが私が彼に会った最後になりました。
4か月後、彼は戦死しました。
悲しみの中で、私は慰めと希望を求めて神に頼りました。
ある日、私はロサンゼルスにある大きなユダヤ寺院を訪れました。
ラビがイザヤ書を読んでいると、「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」という言葉に私の目が止まりました。
イザヤ書7章14節
私は心の中で、「これはイエスのことを言っているのだ」と思いました。
家に帰ってから聖書を調べ始めました。
次々と文章が、私の結論を裏付けさせたのです。
しばらくして、私は人生の中でキリストの愛を経験しました。
それ以来、私は想像もできなかった平安と喜びを知ったのです。
レオン・ブルックス – 肉職人
私はユダヤ人の家庭で育ち、自分は善良な人間だと常に思っていました。
そして、自分が神から疎遠になっているという現実を、初めて直面した日が来たのです。
20世紀の現代人が、自分自身と神との間に平和を見つけることは可能でしょうか?
私は答えを求めて、精神科医に相談しました。
精神科医は、私が自分の行動に責任をもっていないと語りました。
その精神科医は、私が先祖から受け継いだ家系的特徴があると結論付けたのです。
両親や友人も私に少しの慰めを与えてくれました。
今、私は神だけが私の重荷と罪悪感を取り除くことができると知っています。
私はキリストの犠牲を受け入れ、それ以来私の人生は平和と喜びで満たされたのです。
リタ・クロショー — 主婦
イエスの名前は私にとって新しいことではありませんでした。
私の父はロシアで有名な朗読者でした。
私は少女の頃、エスエス・クリストエスの名において、皇帝のために祈らなければならなかったのを覚えています。
私は立派な若い英国系ユダヤ人と結婚し、神は私たちに4人の子供を祝福してくださいました。
夫と私が中国の盗賊に負傷させられるまで、私たちは中国に住んでいました。
夫が亡くなったことを知らずに、私は入院していました。
アメリカに移住してから、子供たちを育てることはできましたが、人生は不完全に思えていました。
私は、自分の知らないことを探し始めました。
私はメシアなしでは人生は不完全であることに気づくまで、5年近く探求を続けました。
私はキリストを受け入れ、切望していた充実した人生を経験しました。
彼は私を神の御前に導き、私の人生を喜びと平安で満たしてくれたのです。
ポール・エルメ – ビジネスマン
キリストを受け入れるという妻の決断を聞いて、私は不安でいっぱいになりました。
私は妻に起こり始めた変化に気づかずにはいられません。
彼女は幸せで、楽しく、これまで見たことのない輝きに満ちていました。
私もキリストを受け入れ、神の愛の現実は私の人生にも影響を与えました。
レオノーレ・エルメ – 主婦
キリストは私の人生を、私がそれまで知らなかった平和と愛で満たしてくれました。
イエスのところに来て以来、私は目的意識と方向性を経験し、それが私の人生を変えました。
毎日、彼は私に喜びと、愛をもって、他の人の人生に触れる力を与えてくれます。
デロレス・エルメ - 書記
幸福と心の平安を求めて、私はイスラエル、スイス、イギリスを経て、再びアメリカに戻りました。
家に帰ると、私は目標を達成するのに惨めに失敗したことに絶望しているのです。
そしてある日、私はキリストが私の人生のすべてをまとめてくださることに気づきました。
今、私は平和で幸せな気持ちで毎日を過ごしています。
リリアン・モスリン — 主婦
時々、神は存在するのか、それとも人々の想像の中に存在しているだけなのか、と疑問に思うことがありました。
私は長い間彼を求めていましたが、心の中に空白が残り続けました。
神は遠くにいるように思え、どんなに努力しても神について個人的なものを何も感じることができませんでした。
そんなある日、息子がイエスのことを歌いながら帰ってきました。
私たちは彼が歌を習っていたユダヤ人クラブを調査しに行きました。
そこで私たちは、イエスがメシアであると信じるユダヤ人のグループに会いました。
私たちは聖書を学び始め、イスラエルと約束されたメシアについて学ぶにつれて、旧約聖書が意味を持ち始めました。
聖書の教えが、とても明確かつ現実的になったので、神の臨在を感じるようになりました。
私はイエスをメシアとして受け入れ、キリストは私の人生に来てくださいました。
私がかつて経験した空白は、メシアの臨在によって埋められました。
モリス・モスリン — 元郵便職員
私たちの9歳の息子が、ユダヤ人の子供クラブからイエスのことを歌いながら戻ってきたとき、私は驚いたのです。
息子の行動について質問し、息子はユダヤ人とともにいて、ユダヤ人の女性が責任者だったと、私に断言しました。
当然、私は息子を誘ってくれた女性に、息子をどんなところに連れて行ったのか尋ねました。
息子は彼女がイエスがイスラエルのメシアであると信じているユダヤ人のグループだと言いました。
妻と私はこの問題をさらに調査することにし、そこで初めてキリストの預言について知ったのです。
私はこれまでずっと何かを探していましたが、それが何なのかわかりませんでした。
このユダヤ人のグループを通して、私は神が私たちにもっと豊かな人生を与えるためにメシアを送ってくださったことを知りました。
私はキリストを心に招き入れ、それ以来、豊かで充実した人生を経験してきました。
L.アーウィン・ワイズマン博士 - 医師
キリストの愛が、妻と私を毎日支え、支えてくれています。
どこへ行っても、主が共にいてくださると知っているので、私たちは自信と幸せを持って歩くことができるのです。
リア・カウドロイ — 主婦
神が、私の家族一人一人を御子であるメシアのもとに導いてくださったことに感謝します。
私たち家族全員は、人生のあらゆる状況において彼が私たちとともにいてくださるという喜びに恵まれています。
リチャード・ホフマン - 学生
キリストを知るようになってから、ユダヤ人の血筋は、私にとってこれまで以上に大きな意味を持ちました。
また、彼は私に自分自身を受け入れる方法を教えてくれ、人生の問題を克服する力を与えてくれました。
エミール・グルーエン博士 — 公職者
キリストは、私がキリストのうちに見出した愛と平和を、自分の人々と分かち合うという満足感を、私に与えてくださいました。
私の人生を通じて、彼は聖書に書かれたすべての約束を守ってきたのです。
ミッチェル・サイドマン - 航空エンジニア
エンジニアとしてのトレーニングと経験から、事実を検索し、分析し、答えを見つけることを学びました。
工学や科学においてさえ、私たちは証明できない基本的な仮定を立てることがあります。
では、なぜ彼らは受け入れられるのでしょうか?
答えは、他の仮定は失敗するが、テストを行うとそれらは機能するということです。
私は個人的に聖書に記された神の約束を調査し、それが機能するかどうかを試してきました。
旧約聖書は、神を捜す者は誰でも、心を込めて捜せば神を見つけることができると約束しています。
この約束を試してみると、神は御子であるメシアを通して私にご自身を明らかにしてくださっていることがわかりました。
神は、私の人生において生きた現実であり、神の約束どおり、私はキリストの愛を通して平安と喜びを見つけました。
では、ユダヤ人はどうしてキリストを信じることができるのでしょうか?
私が彼を受け入れたのは、聖書の約束が歴史の事実と完全に一致しており、私の個人的な経験が神のメシアの約束を証明しているからです。
ナオミ・サイドマン — 主婦
私は、なぜ誰もこのもう一人のイエス、私を愛してくださったイエスのことについて教えてくれないのかと、よく疑問に思いました。
私は、何人かの人々が私を殺そうとしたし、訴えられた人のことを聞いていました。
また、ドイツ兵がガス室で私の同胞を殺害した際に、その十字架がドイツ兵の首に掛けられていたイエスのことだということも聞いていました。
しかし、私が十代になるまで、私を愛してくださったイエスのことを誰も教えてくれませんでした。
サマーキャンプ中のある夜、神の愛が私の心に届き、私はイエスをメシアとして受け入れました。
その後、家族の他のメンバーもキリストを受け入れるという同じ決断を下したことを知ったのです。
メシアが、私の人生に来られてから18年が経ちましたが、キリストを知ることで私の人生は完全なものになったと言えます。
神に従い続ける私たちに、神は私たちの家族と家を豊かに祝福してくださいました。
ジャッキー・パパス — 主婦
私のユダヤ人の遺産はキリストにおいて完全なものとなり、永遠に確立されました。
説明するのが難しいのですが、イエスは私の人生をインスピレーションと愛で満たしてくれました。
キリストを通して、私は真実と人生の意味を知ったのです。
サリー・パリス — 引退した実業家
誰もが避難場所を必要としています。
私は約束されたメシアの中に、この避難所を見つけました。
彼は私の人生に平和、希望、目的をもたらしてくれました。
今は、キリストと直接会えるその時を楽しみにしています。
モーリス・ベンソン - ビジネスマン
私は自分がユダヤ人であることを誇りに思っています。
私は人生のキリストの中に3つの大きな質問に答えを見つけました。
イエスは、私が誰であり、神が私に何を期待しているのか、そして死後どこへ行くのかを教えてくれたのです。
サミュエル・W・ブロード — ビジネスマン
私は正統派ユダヤ人の家庭で育ったので、1年間キリストを受け入れるために闘いました。
そしてある日、イエスの愛が私に感動を与えました。
それ以来、私は何よりもキリストに頼ることができることを学びました。
レオ・ボーデン - ビジネスマン
私はキリストと個人的な出会いをしました。
彼が聖書のページから飛び出して私の人生に入り込み、私は彼の現実と直面することになったのです。
この経験は、私がヨーロッパの教会に立って祈っていたときに起こりました。「親愛なるイエス様、私はあなたの信仰を信じていませんが、とても迷っています。
あなたの助けが必要です。
手伝って頂けますか?
二千年前に、タルソでラビ・サウロと出会ったキリストとの出会いのようなものではなく、錯覚かも知れませんが、その瞬間、私はキリストとの出会ったように思えたのです。
それでも、、私はキリストを受け入れることができませんでした。
私はユダヤ人で、両親はユダヤ人で、祖父母は正統派でした。
2年以上、私は両親からの電話を避けていました。
ついに彼を受け入れるところまで来ました。
キリストが私の人生に足を踏み入れてくださいました。
そして今、私はキリストに出会う前よりもはるかに幸せな人間です。
フェイ・コーエン - 秘書
私は正統派の家庭の出身だったので、娘がどうしてキリストをメシアとして受け入れることができたのか理解できませんでした。
10年近くもの間、私は娘の決断を拒否してきました。
娘が私に会いに来たとき、私はドアを開けませんでした。
娘の声を聞いて電話を切り、すぐに娘の手紙を破棄しました。
その間ずっと、神は私の人生に働いていたのです。
知らないうちに私の態度も穏やかになっていきました。
結局、私はヘブル人クリスチャンの集りに出席することに同意しました。
私は出会ったヘブル人クリスチャンの温かさに感銘を受け、彼らと一緒に聖書を学び始めました。
そんなある日、神は、キリストが私の人生に触れたとき、祈りを聞いて答えてくださることを私に示してくださいました。
その日から今日まで、私はこれ以上に幸せなことはありませんでした。
メシアは私の目に光を与え、私の顔に笑顔を与えてくれます。
ダン・デルマン — 不動産ブローカー
1957年、私は見知らぬ人から聞いたことが、聖書に本当に書かれているかどうかを確かめるために、聖書を読み始めました。
新約聖書を読んで、イエスに最初について行った人々は全員ユダヤ人であることに驚きました。
また、イエスが人間の罪の犠牲としてこの世に来られたことも知りました。
私は読み続けました。
ある日、本を読んでいると、神の存在を感じるようになりました。
私は立ち止まってこう祈りました。「全能の神よ、この本に書かれていることは私にとって真実のようです。
それがあなたからのものであるなら信じたいです。
私はイエスを私の救世主として受け入れたいと思っています。」
声は聞こえませんでしたが、神が私の人生に触れ、私はそ真実がそこにあること、イエスが私のメシアであることを確信したのです。
それ以来、私は神を愛し、御子であるメシアに従う人々に、神が与えると約束されている完全な平和を常に感じることができるようになったのです。
シャーリー・デルマン - 主婦
第二次世界大戦の終わり頃、私の夫はドイツに送られました。
苦しみの中で祈りたかったのですが、どうやって神に近づいたらよいのか分かりませんでした。
私はイエスについての奇妙な話をいくつか聞いていました。
イエスがどのようにして病人を癒し、死者を蘇らせ、その他多くの奇跡を行ったのかということです。
私が必要としていたのは、いままで以上に奇跡を起こす人でした。
私がイエスに祈り始めたのは、それが害を及ぼすことはなく、むしろ効果があるかもしれないと感じたからです。
夫は無事に戻ってきましたが、イエスが私にしてくださったことをみんなに話すという約束を忘れていました。
それから12年間、私は時々ですが、イエスについてさらに読みました。
それから神は、私たちの生活の中で働き始めました。
夫は聖書を読み始め、私は信仰的なラジオ放送を聴き始めました。
しばらくして、私たちは二人ともキリストをメシアとして受け入れました。
キリストを受け入れて以来、私が見つけた平安と喜びを十分に表現することはできません。
彼は約束を一つ一つ守ってくれたのです。
バーバラ・ベネディクト — 事務局長
私がキリストのうちに見つけた、最も偉大なことの一つに「受け入れられた」というがあります。
リストは私を創造し、彼自身の創造物を完璧にすることができたので、私の不完全さをすべて受け入れてくれました。
本当にキリストは優しさと永遠の愛で、私の人生に触れてくださいました。
アラン・ローゼンバーグ — 公職者
当初、私が新約聖書を読む唯一の動機は、その内容を知りたいということでした。
なぜなら、私はユダヤ人の家庭で育ち、ユダヤ教を真剣に受け止めていたからです。
読んでいると、キリストが本当に私のメシアであることが明らかになりました。
私はキリストを受け入れました、そしてキリストと歩む私の人生は喜びと平和のものとなったのです。
私はキリストをメシアとして受け入れたことを、少しも後悔したことがありません。
アン・アップルバウム — 主婦
キリストを通して、私は神とのとても個人的な接触を確立することが可能であることを見つけました。
メシアは私の人生に平和、愛、そして永遠の命の保証を与えてくれたのです。
メリセント・ハント - 主婦
神は罪のために犠牲を要求されたので、私は聖書を受け入れることができませんでした。
しかし、この要求を満たすことは不可能でした。
そのとき私は、キリストが私のために犠牲としてご自身を捧げに来られたことを知りました。
私はキリストを受け入れました、そしてそれ以来、私は彼の忠実さと善良さに驚嘆しています。
リー・アンバー - 俳優
困難な瞬間にもかかわらず、私はキリストをメシアとして受け入れたことを一度も後悔したことはありません。
キリスト彼を通して、神の平和は日々現実のものとなり、私はあらゆる必要に応えてくれる神の備えを喜んでいます。
生まれて初めて、私はユダヤ人であることに満足しており、実際、これまで以上にユダヤ人であると感じています。
私は、私のメシアである主イエスを通して永遠の救いを見いだしたという確信を持っています。
ヘンリエッタ・トンプソン - 秘書
キリストは私が求めていた平安を与えてくれただけでなく、私に次のような約束を与えてくれました。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
使徒の働き16章31節
それから10年近くが経ち、母もキリストの愛に感動したのです。
それ以来、母以外の私の家族もがキリストのところにやって来たのです。
確かに神は約束を守ります。
神は決して失敗しません。
アン・サイドマン - 主婦
1940年、私は人生の岐路で突然、問題が起こり、神とキリストの問題に直面したのです
それまで、聞くことさえも拒否していました。
神は、私に個人的な興味を持つように、関心を持たせようとしているのです。
神は、私に、存在以上のことを求めておられたのです。
生まれて初めて、自分が神に呼びかけていることに気づきました。
私は神の答えにショックを受けました。
その方はイエスでした。
私が神の御名を呼んでいるのに、どうしてイエスが答えなのでしょうか?
その時、神が私の心に触れ、イエスが真実であり、平和であることに気づき、私が切望していた平和を私に提供されたのです。
聖なる神様から私への愛の贈り物。
ベールが私の目の前から落ち、神の独り子、イスラエルのメシアであるイエスの栄光が見えたからです。
今、私は毎朝メロディーを口に、詩篇を心に抱きながら起きています。
ルイス・サイドマン - ビジネスマン
私は正統派ユダヤ人の家庭で育ち、ヘブル語学校で高校相当まで学びました。
私はテナハ(Tenach--ヘブル語聖書)が神の言葉であると信じるように教えられ、両親と一緒に定期的にシナゴーグに行きました。
私の勉強、シナゴーグの礼拝、休日は、神が聖であり、義であり、純粋で罪がないことを強調してましたが、私には通じていませんでした。
ある日、ある男が私の職場にやって来て、イエスがメシアであると言いました。
彼はイザヤ書53章と箴言30章4節を見せてくれました。
私は家に帰って、これらの句をヘブル語聖書の句と比較しました。
これらの句が確かにメシアについて語っていることがわかり、イエスについて描写していることはすぐにわかりました。
私はキリストを救世主として受け入れ、子供たちをユダヤ人の血統に誇りを持ち、メシア・イエスを信じるように育てました。
リンダ・コーエン — 主婦
両親は、私がどうすればキリストを受け入れることができるのか、理解することが難しいと感じていました。
両親は私を4歳から14歳までキリストを教える学校に通わせました。
私は母をとても愛しており、母を傷つけたくありませんでしたが、もう、キリストがメシアとして来られたという信念を否定することはできないと感じていました。
一方では両親を傷つけ、他方ではキリストを拒絶するという葛藤は、私を深く悩ませていました。
ある日、もし神が私の罪のために御子を死なせたほどに、私を愛してくださり、両親のことを手伝ってくれるほどに、私のことを愛してくださるだろうと、心に思い浮かびました。
それで私はイエスをメシアとして受け入れました。彼に従うという決断を後悔していません。
神は、毎日私の世話をすることで、私に愛を示しています。
リチャード・コーエン — 公職者
私には神のための時間がなく、神のことをあまり考えない人でした。
妻と、私が結婚前カウンセリングのためにラビのところへ行ったとき、ラビは私の信念を尋ねたのです。
私たちが話し終えたとき、ラビは、私が神から遠く離れているので、「神はあなたを決して見つけることはないだろう」と言ったのです。
でも、私は神を望んでいないので、それは問題ありません。
結婚して数カ月後、妻はある女性に会い、その女性からキリストについて聞いたのです。
その議論を知ったとき、私はとても腹が立ちました。
するとその女性は、ヘブル語クリスチャンの友人を連れてきて、私とこの問題について話し合ってくれました。
彼らが成し遂げた唯一のことは、私を怒らせることだった。
彼らは私をいくつかの会合に招待したので、私は彼らが間違っていることを証明するために行くことにしました。
この問題について3か月近く研究し、議論し、議論した後、私にとってキリストは現実のものとなりました。
キリストは私の人生にやって来て、私はキリストを通して神を愛することを学んだのです。
デビッド・ハート — 男性美容師
母と叔母がキリストをメシアとして受け入れたとき、私はとても混乱しました。
私はユダヤ人として育てられたので、イエスを信じていたような異邦人の神を受け入れたくありません。
それでも、私の母と叔母は未亡人でしたので、とても悲しくて孤独だった二人が満足と幸せを見つけたようで安心しました。
おそらくこれは、年老いた悲しい人々のためのものであって、私のような若くて健康なユダヤ人のためのものではない、と私は結論づけたのです。
私はユダヤ人の信じるもの以外のものを、信じるつもりはまったくありません。
ある夜、私は人生の中でキリストの愛を体験する集会に出席することに同意しました。
私はキリストをメシアとして受け入れ、今ではこれまで以上にユダヤ人であると感じています。
また、私は自分の受け継いだものを誇りに思っており、メシアに従って生きた私の人生は神の祝福で満たされています。
若者の世界
シェリー・コロトキン
私は上中流階級のユダヤ人の家庭で、3人娘の2番目として育ちました。
大きな家、素敵な服、献身的な友人、車など、ユダヤ人の中産階級の家庭に必要なものはすべて、私たちが望むもの、必要なものはほとんどを持っていました。
大人になるということは、小学校やヘブル語学校に通ったり、友達を訪ねたり、ピアノのレッスンを受けたり、芸術をしたり、少し当惑したり、少し騒いだりすることを意味しました。
私の夢は、有名なアーティストになって、結婚して子供を産み、幸せに暮らすことでした。
私は故郷フィラデルフィアの美術アカデミーへの奨学金を受け取りました。
1年生に奨学金がもらえるのは本当に異例で、夢をかなえる途中にあると思いました。
17歳まではとても楽しかったです。
この時点で、私のライフスタイルは、私の中で高まっていた精神的、肉体的、感情的なニーズを満たさなくなりました。
人生はもはや満足のいくものではありませんでした。
私の毎日のルーティンは、日々の退屈に変わりつつありました。
私は自分の人生を満たすために何か斬新で刺激的なものを探して、毎日を過ごしていました。
私は経験から経験へと生き始めました。
私の新しい人生観は、あらゆることを経験するが、常に自分をコントロールできるようにすることでした。
経験豊富で、何事にも対処できるクールな人間になりたかったのです。
それは考えるのが簡単で、ゲームもプレイしやすい、またはそう思いました。
年齢を重ねるにつれて、私の思考パターンはより真剣になり、軽薄ではなくなりました。
私は自分自身や友人たちに、生きる目的とは何か、つまり人生で何をしたいのかを考えていました。
こういった質問は私の気分に応じて浮かんでは消えます。
しかし、友人たちは私の質問や気分、私のことをあまり真剣に受け止めませんでした。しかし、私はほとんどの場合、自分自身をあまり真剣に受け止めていませんでした。
過去2年間、私は姉妹のラナが異常な変化を遂げるのを見てきました。
彼女は私より2歳半年上で、私と同じような人生を送ってきました。
彼女の変化の原因は、彼女が聖書を読んだことによるものでした。
彼女は幸せそうに見えましたが、私は聖書を読むことが好きではありませんでした。
ラナは以前の不満の代わりに、彼女は平和を持っており、逆に、私を嫉妬させ、怒らせました。
ラナは、メシアでがイエスだということを発見したと言って、自分の変化を説明しました。
私にはそれが愚かに思えました。
彼女はユダヤ人の優れた教育を受けており、異邦人の迷信を信じるべきではないと思いました。
私は彼女が本当におかしくなったかと思いました。
私は彼女と旅行なんかに参加したくありません。
私は生涯を通じて(少しは)神を信じてたつもりです。
私は日曜学校、ヘブル語学校に通っていて、13歳の時はバル・ミツヴァヘドと呼ばれるユダヤ教に熱心な者でした。
私と残りの家族に知る限り、イエスは単なる人間であり、存在さえもしていないと信じていました。
ラナはイエスを信じる他のユダヤ人と一緒に暮らすために、家を出てニューヨーク市に移りました。
私は、ラナと彼女の鋭い言葉から解放されましたが、長くは続きませんでした。
すぐに母と妹のテリーも新約聖書を読み、イエスについて話し始めました。
母は安息日ごとにユダヤの集まりに通い、合唱団のソプラノソリストでした。
母は、イエスを信じるよりもユダヤ教をよく知っていたはずです。 全てが恐ろしいものに思えました。
私は聖書と神の話に囲まれていました。
聖書に書かれていたものは何であれ、とても生き生きとしていて、私の家族の人生を変えていました。
戦いたかったのですが、好奇心が勝ってしまいました。
私は聖書を開いて、イエスと呼ばれるこのいわゆる神の子についてのページを読みました。
私の心は、長い間ずっとその名前に対して頑なでしたので、「イエス」という名前に嫌悪感を抱きました。
しかし、イエスが神の子であり、現実に、私と神と個人的な関係を築くことができるのかどうかを、私は知りたかったのです。
そこで私は神に祈り、イエスにも祈り、どちらかに真実を見せてくれるように頼みました。
そして、何が起こるか不安となりました。
神が私の祈りに答え始めました。
神の愛を通して、彼は私の人生にやって来ました。
私は人生を新しい目で見始めました。
私は霊的な誕生を経験しました。
人生は新しく想像を絶する冒険になり、長い間私の中にあった空虚感は消え去り、私が本当になりたかった人間になり始めた、特別なものに置き換えられたのです。
人生は、愛という目的でいっぱいになりました。
そして、価値観が湧いてきました。
私は信じて年になりますが、一度も空虚感に戻ったことはありません。
私は困難を経験し、私の新しい信念に、脅威を感じた何人かの「友人」を失いました。
人生の問題がすべて解決したとは思っていませんが、以前は持っていなかった方向性、理想、目標があります。
イエスはこれを私にくれました。
イエスを通して私は本当のメンシュ(正真正銘の人間)になったのです。
バルーク・ゴールドスタイン
私の名前はバルーク・ゴールドスタインです。
バルチは私が生まれたときに与えられたヘブル語の名前です。
私は ニューヨークで生まれ、ブロンクス区、いわゆるゲットー、つまりユダヤ人ゲットー(ユダヤ人地区)と呼ばれる地域で育ちました。
私はバル・ミツヴァヘドと呼ばれるユダヤ教に熱心な者になるまでの4年間、ヘブル語学校に通いました。
ヘブル語名と一緒に、ブルースという英語名も与えられました。
そして、人生のほとんどの間、私はブルースとして知られてきました。
しかし今、私をこれまで以上にユダヤ人にしてくれたイエスを知るようになってから、私はバルクと呼ばれることに決めました。
これは、適切でした。
私は急速に変化する世界で育ちました。
世界には私が理解できないこと、間違っているとわかっていることがたくさんあります。
でも、何が世の中にとって正しいのか、私にも分からなかったので、探し始めました。
16歳のとき、私は麻薬に手を出しました。
ニューヨーク市ではこれが簡単に手に入ります。
私はどうにか卒業して、大学に進学しましたが、それは他に何もすることがなかったからです。
そこは私にはあまり長くは続くことはありませんでした。
一学期で退学してしまいました!
私が心配していました。
すきま風が私の首元に吹き込んできました。
最も賢明なのは陸軍に入ることだと考え、徴兵に志願した。
私はすべての優秀な兵士と同じ道を進み、気がつくとベトナムにいました。
私は歩兵隊、つまり第一航空騎兵隊という、まさにガンホーと呼ばれる最前線の戦闘部隊に所属していました。
自殺してしまうのではないかと心配でした。
その時、久しぶりに神様のことを考え始めました。
時には、祈っている自分さえいました。
私は、特に私のためだけではなく、家族のために神に助けを求めていました。
自分に何かあったら両親がどれだけ悲しむか分かっていたからです。
私は負傷するわずか6週間前には、私はベトナムに滞在していました。
私たちは村を襲撃していたのです。
私は、相棒の隣にいるべき場所にいなかったので、相棒の隣に立たなければならないと思い続けました。
しかし、ロケット弾が飛んできて私が負傷したとき、それは私の相棒のすぐそばに落ち、彼は即死しました。
神が何らかの理由で私が生きていることを望んでいて、何かのために私を呼んでいることを知ると、恐ろしくなりました。
なぜなら、私が生きていてこの物語を語ることができるのは奇跡だからです。
負傷後、約7か月間入院し、退役しました。
ベトナムを出国するとすぐに、私は再び麻薬に手を染めるようになりました。
政府の障害者診断を受けていたので、収入の心配がなく、長期休暇を取得しました。
人生で何が起こっているのかを把握する必要がありました。
私の両親は、「この子を、数か月間放っておけば、その後は落ち着くだろう」という態度をとっていました。
何年も経ちましたが、私は落ち着くことができませんでした。
人生はまだ説明がつかないので、人生の意味を見つけたかったのです。
結局、私はおかしくなり始めました。
髪は長くなり、ひげは生やし、とんでもない行動をするようになりました。
私はエブリー。グッド。ヒッピーの道を歩み、カリフォルニアにいて、「わからない」を探していたのです。
私は収入があったので、他ののヒッピーとは違います。
その結果、私の周りにはいつもたくさんの友達がいたのです。
お金を持っていたからなのか、それとも彼らは本当に友達だったのか、時々疑問に思うこともあります。
彼らが、気の良い人間なので、それはあまり気にしませんでした。
何か分かち合えることがあれば、喜んで分かち合ったのです。
私はサウサリート(カリフォルニア州)に行き、サンフランシスコ湾にハウスボートを建てたいと考えていました。
私の野望は、大きなハウスボートを建てて、友達全員を集めて、家賃なしで一緒に住めるようにすることでした。
1つの大きな幸せな家族!
しかし、神は別の計画を持っていたのだと思います。
なぜなら、それは私に一緒に住んでほしいと望んでいたのは、本当の家族ではなかったからです。
ハウスボートは建築基準に従わなかったため、市によって却下されました。
それで私たちはサンフランシスコに引っ越したのです。
この時点で、私たちはかなり乱暴的になっていました。
本当に恐ろしい状態です。
私たちと一緒に住んでいた多くの人は、私たちがあまりにも不気味だったので去っていきました。
この時、ジョーンという名前の女の子が、ワシントン州のロックコンサートに行くために私たちから去ってゆきました。
途中、オレゴン州クーズベイに住む「ジーザス・フリーク」(20世紀のあった、軽蔑的な表現でのイエス伝道グループ)たちに車に乗せてもらったが、ジョーンはイエスをそのまま受け入れることがしませんでした。
しかし、神はこのユダヤ人の少女を扱っていたのです。
クーズベイの町を通過する途中、彼女はヒッチハイクで誘拐されたのです。
彼女が持っていた電話番号だけが、彼女を救うことが出来、彼女は今、会った人たちに救いを求めました。
ジョーンが彼らに呼び、彼らは彼女を救出しに来ました。
これらの人々は町の外の牧場に住んでいました。
ジョアンは一晩滞在することにしていましたが、不思議なことに、結局彼女は半年滞在しました。
それからジョアンはキリストを受け入れたので、彼女の良き友人である弟のフレッドにキリストを分かち合いたいと思いました。
フレッドは牧場に行き、しばらくしてから「良い知らせ」を受け入れました。
フレッドは私に「良い知らせ」を伝えたかったのです。
フレッドは私にイエスのことを伝えるためにサンフランシスコまで来たのですから、本当に大変だったのだと思います。
しかし、私はイエスのことを聞きたくありません。
当時、私はジャンク品に夢中になっていて、本当に病気でした。
しかし、後になって思うところがありました。
まず第一に、私はユダヤ人でした。
ユダヤ人はそのようなことを信じていません(ジョアンとフレッドは例外です)。
第二に、私は神さえ信じていませんでした。
第三に、神を信じる人は弱いと信じていました。
彼らには松葉杖が必要なのです。
でも、私がいた場所はとても幸せでした。
このことは私は世界にとって大した問題ではありませんでした。
しかし、繰り返しになりますが、私も何も解決策は持っていません。
いずれにせよ、イエスは私にとっては不向きです。
フレッドは牧場に戻って滞在しました。
私はサンフランシスコをぶらぶらするのに飽きたので、牧場にいる兄に会いに行こうと思いました。
この牧場についてはいろいろ聞いていました。
まず、そこは森の中にあり、孤立していたため、自然に戻りたかったのです。
私は自分が何に巻き込まれるかわからないまま始めたのです。
私は意志の強い人間だと思っています。
信じたくないことについては誰も説得できないと思っていました。
しかし不思議なことに、誰も私に問い詰めるようなことをしませんでした。
はい、彼らはイエスについて私に話してくれましたし、聖書もあちこちに転がっていました。
しかし誰も私の腕をひねって信じようとはしませんでした。
しかし、私は何か違うものを感じました。
牧場には10人ほどの若者が住んでいた。
オーナーのマイケルとその妻はヒッピーではありませんでした。
彼らは必要を見て、この奇妙な外見の若者たちに牧場を開放しているのです。
マイケルへの敬意から、そして、彼が何をしていたかを理解したかったので、私は聖書を読み始めました。
私は22歳で、イエスについて何も知りません。
幼い頃、私は家族とイエスのことを話していたことのを覚えています。
彼らは、おそらくイエスはラビか預言者ではあると思うが、神の子ではないとよく言っていました。
聖書を読み始めたとき、私は間違いに気が付きました。
マタイの福音書と黙示録の間のどこかで、聖霊が私に判決を下したのです。
キリストは力強く、力強い態度で私に接していました。
私は自分が何か新しいことをしていることに気づきました。
私は祈っていました。
私は神に、もしイエスが本物なら知りたいと言いました。
もし本当に神がいて、私がその神を信じていなかったら、私は愚か者になるでしょう。
でも、何も信じたくなかった。
イエスが本物かどうかを知る必要がありました。
私は、イエスに自身を明らかにしてくれるように頼みました。
私は神に、私に山の上に持ち上げたり、水を割ったり、稲妻を送ったりして、その木に私の名前を書いてくださいと祈りました。
もちろん、神にはこのようなことができますが、今日ではそのような方法で働くことはないと思っています。
その代わりに、ある朝目覚めると、そこにいたのです!
生まれて初めて目が見えたような気がしました。
私が探していた奇跡は私たち、つまり彼の創造物がそこにあったことに気が付いたのです。
生きた神がいることを知りました。
「そんなことは何でもない」と言われるかもしれませんが、私にとってはそれが現実的でした。
この知識は、神が私にとってご自身を現実のものとするために必要なものでした。
神は私たち一人一人をご存知であり、私たちが神であることを認識してもらうために、私たちの人生の中で何をしなければならないかを知っています。
初めて聖書を読んだときは本当に奇妙だと思いました。
私はいままで聖書を読んだことない最初の人のように、他の人にも分かち合えるように聖書を読んだのです。
私が納得したことは、イエスはユダヤ人であり、彼の主張はすべて真実だったということです。
私は、神にイエスが本物であることを見せてくれたら、私が彼のために働くと約束しました。
神は御自分の領域において働いています。
そして、自分は自分の領域において働くのです。
エリオット・ランドー
8歳の少年として、私はユダヤ教との最初の出会いを経験しました。
母と父は、二人の兄弟と私が自分たちの宗教にしっかりと根ざしていることを望んでいました。
私たちに教えることの限界を悟った彼らは、私たちをシナゴーグに連れて行き始めました。
他の少年少女たちと出会い、神について学ぶのは楽しかったです。
他に何もすることがなかったので、私は神とヘブル語の学校で教えられた物語を信じました。
しかし、私の両親は、彼らが興味を持っていないように感じたため、私たちを連れて行くのをやめました。
私が12歳なったとき、宗教への関心が再燃し、両親が新しいシナゴーグを紹介してくれました。
ヘブル語学校での最初の経験とは対照的に、今回は何も吸収できていません。
私たちの成績表は、私たちが無関心だったので、成績も良くなく(通常はそうです)、意気消沈した両親に私たちをクラスから辞めるよう説得しました。
この期間のすぐ後、神は私にご自身を現されました。
私には解決できない深刻な問題がありました。
最初は心配することしかできませんでした。
しかしその後、私はヘブル語学校で学んだ教えの一部を思い出し始めました。
イスラエルが困難に陥ったとき、彼らは神に助けを求めました。
神は大きな紛争や試練の時代に彼らを助けてくれたので、私も神が、私を助けてくれるだろうと思ったのです。
私が祈りました、そして神は祈りに答えてくださいました。
この経験により、私は神が人々の生活の中で働いておられることをますます認識するようになりました。
私は毎晩神に祈り始め、人々を傷つけたときの赦しを求め、神の行いに感謝しました。
私たち家族は1965年に引っ越しました。
ちょうど私が中学校に入学した頃で、思春期の問題に加えて、新しい友達を見つけるという問題も加わりました。
私は宿題を言い訳にして家に隠れていました。
家族は、私が宿題を理由に隠れ、利用していると批判をしました。
高校生のとき、神は私に特別な愛と気遣いを示してくれる二人の人を、私の人生にもたらしてくれました。
一人はフィルという男で、学校で何人かの先生と同様にで、私の向かいに引っ越してきました。
もう一人はマリリンという女の子で、同じクラスでした。
私はフィルと、4年前にユダヤ教日曜学校の2組に参加していたもう一人の仲間、ジェフと一緒に 昼食をとりしました。
フィルは毎日のように、ジェフをキリスト教に改宗させようとしていることを聞きました。
私はただ静かに聞いていまいた。
なぜなら、二人の少年の議論の範囲だったからです。
それも、二人とも、とても知的でした。
私の神学の領域を大きく超えていたのです。
学年中、私に、フィルは自分はイエス・キリストを通して神と個人的な関係を持っていると気楽に言いました。
興味はありませんでしたが、少なくともクリスチャンの定義については学べました。
キリストを受け入れた人です。
フィルが、彼の教会で青少年のグループに参加するよう誘ってくれたとき、私は断りました。
1970年の夏、フィルと私は一緒にサマースクールに通いました。
彼は毎日私に会っていましたが、イエスについてそれ以上何も話しませんでした。
翌年の9月に、私は4年生に進級し、自分の苦境な状態について考えました。
私も神との関係を築こうとしてきました。
しかし、私には同じ空虚さと目的の無さは残りました。
私はどうするつもりだったのでしょうか?
答えは思ったよりも早く届きました。
ある日、私はフィルと彼が私に紹介してくれた数人の新しい人々と一緒にランチを食べました。
そのうちの一人、ドンは、彼の教会が始めたコーヒーショップについて私に話してくれました。
次の土曜日の夜にグランドオープンする予定だった。
彼は私を来るように誘ってくれました。
新しい友達を作る機会を逃したくなかったので、私は肯定的に答えました。
正しい場所を突き止めるために土曜日の夜にすぐにヴァン・ナイス大通りに到着しました。
あてもなかったのですが、間違えてトップレスのバーに迷い込んでしまいました。
案内係は「ごめんなさい、ここはコーヒーショップではないことはわかっていました」と言って、私の運転免許証とドルを返しました。
あてもなく隣の店に行ってみると、そこは正しい場所だったのです。
その夜、私は優れた音楽家たちがイエスについて歌い、どのようにしてイエスを自分たちの人生に救い主、また主として個人的に招いたかを話すのを聞きました。
それから彼らは、自分たちの人生がどのように著しく異なったライフスタイルをとったのかについて話しました。
私は新約聖書を渡され、翌週から読み始めました。
次の夜、私はコーヒーショップの裏口に入ると、一人の人の祈る声を除いて、完全な沈黙に気づきました。
彼は多くの魂の救いを祈っていました。
「救われる」とはどういうことなのかと考えました。
そんなことを考えているうちに、催しが始まりました。
休憩中に、ドンはトムという名前の仲間を私に紹介してくれました。
トムは時間を無駄にすることなく、私にイエスについて話しました。
彼はメシアという用語を使用し、それがキリストに相当するヘブル語であると述べました。
ちょっと待って!
私は以前、母に、信仰について尋ねたときに、この言葉を聞いたことがありました。
音楽が再開されると、トムと私は椅子を持って、お互いの会話が聞こえるように外に出ました。
トムは聖書の中でイエスが語られた箇所をたくさん見せてくれました。
トムはまた、イエスがどのように奇跡を行ったか、そして彼が交わした多くの約束についても教えてくれました。
最後にトムは、イスラエルの救世主についてユダヤ人が述べた預言の驚くべき成就を、私に示してくれました。
両親が私を日曜学校に通わせたときと同じ誤ったプライドを持って、私は自分の信仰を擁護し始めました。
しかしトムは「メシアを個人的に受け入れる」ことは、私の信仰の一部だと言い続けました。
なぜぶつかっているのか分かりません。
イエスをメシアとして受け入れる理由のほうが、イエスを拒否する理由よりも多かったのです。
私はイエス様をお迎えしたいと言いましたが、それはもっと先になるかもしれません。
トムの答えは古典的でした。
「もし今夜、帰宅途中にトラックに轢かれて、この世を去ってしまったらどうしますか?」それでは手遅れになります。
他の人たち全員をとても幸せにするのと同じことを、なぜ先延ばしにするのですか」と彼は尋ねました。
この時、私は迷わないことに決めました。
「主イエスよ、どうか私の人生に来て、私の個人的な救い主であり、主となり、、
あなたが約束した赦しと人生の勝利、そしてあなたがアーメンと語った永遠の命を私に示してください。」
今、私はコリント人への手紙第二5章17節の真理を主張します。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
コリント人への手紙第二5章17節
私はイエス・キリストのうちに、神との究極の経験を見出しました。
それは、イエス・キリストが私たちのために耐え忍んでくださった十字架を通して、神の満ち足りる愛の豊かさを分かち合うということです。
神は私がかつて私の人生を悩ませていた孤独を克服できるよう助けてくれました。
その空虚さは神の愛に満ちているので、この物語を読んでいる皆さんにもそれを分かち合いたいと思っています。
しかし、人がそれを所有するために賜物を受け取らなければならないのと同じように、あなたも真の与え主である私たちの神であり創造者である永遠の命というこの賜物を受け入れなければなりません。
それがあなたのものとなり、私と同じ赦し、力、人生の目的を、イエス・キリストがそれを与えるために生き、死んでくださったのと同じくらい自由に豊かに経験することを、私は保証します。
本当に、神は愛です。
イエスがそれを証明しています。
シュテフィ・ガイザー
私はブロンクス出身のナイスなユダヤ人の女の子です。
私は99パーセントがユダヤ人である地域で育ち、残りの1パーセントに会ったことはないと思います。
私は自分たちが多数派だと思って育ちました。
小学生の頃、私は5年間、通常の授業の後、毎日、現在のユダヤ人の使うヘブル語のイディッシュ語学校に通いました。
そこで私はイディッシュ語の読み書きを学び、民族の文化と歴史を理解することを学びました。
私はブロンクス科学高校という専門高校に通っていましたが、そこもユダヤ人の多い学校でした。
私は生来競争心が強く、成功志向で、学校の成績も良かったです。
私は4年生の時に理系から文系に転向しました。
私は平均点96点を持ってそのまま大学に進学しました。
私が選んだ大学は地元の大学でした。
そして、そこの美術学部はかなり貧弱だったので、英語学部が私に興味を持ってくれました。
でも、私は偉大なアメリカ小説を書くには時間が無さすぎると実感しました。
私は現実の世界を試すために大学を中退し、秘書になりました。
私はタイピングができずに(当時、手で書くというやり方はビジネス界ではもう誰も興味を示しません)、速記もできませんでした。
しかし、私は19歳で、企業ビジネスという老人の世界の中で唯一の若者でした。
そして、彼らは私を6か月間働き続けました。
そして、私は「発見されました。」
オフィスからオフィスへちょっとした「芸術的」メッセージを送りながら、会社のディスプレイ部門の誰かが、ニューヨークのダウンタウンにあるディスプレイ会社の社長との面接を手配してくれたのです。
私は、少し怖がり、耳元の後ろに汗をかきながら、雑多なカバンを持ち、自分が楽しんで生計を立てることができる希望を抱きながら、面接に行きました。
驚いたことに、すぐに採用されたことに気づきました。
アートの仕事を始めた頃、私は麻薬、主にマリファナと一部のLSDにも手を出し始めました。
その時に感じた経験が、私の芸術的姿勢を強化しました。
しかし、私はまた、自分の意欲、達成主義、成果志向の性質が鈍くなりつつあったことも発見しました。
私は野心を失い始めました。
無気力にはいつも歓迎されました。
私は神について驚くべきことがを起き始めたのです。
奇妙なことに、ユダヤ人の本では、私の質問は始まりませんでした。
私が探していたのは「ユダヤ人の神」ではありません。
私のユダヤ人性は、ユダヤ教の祝日には仕事を休んで、ヨム・キプールの儀式映画を見に行く程度に過ごしていました。
私は、神、イエス、輪廻転生、夢、ダイエット、いやし過程についてあらゆることを知っていると主張した透視者エドガー・ケイシーの本を読み始めました。
また、禅の領域や、現代の心理学者と古代の思想家の両方の著作も調査しました。
彼らの言うことの多くは同意できましたが、読んだものは「人生を変えるほど」感銘を受けたものはありませんでした。
私がデザインを、仕事のために求めることを典型として、毎日を過ごしていたのですが、ある日、そのアイデア自体が私にとって無意味になってしまいました。
私は自分自身がますます化石化し、ファッションやステータスにますます興味がなくなっていることに気づきました。
なぜお金をかけて、婦人服や子供用のおもちゃ、家庭用電化製品を、自分のキッチンに合わせた色で宣伝するのでしょうか?
何が重要なのでしょうか?
私は子供に戻ることを決心し、ニューヨーク市を離れ、巨大で悪いビジネスの世界を離れ、両親の家を離れることを決意してバッファロー大学に入学しました。
クリスマス休暇が来たとき、私は友人と西海岸に行くことにしました。
私たちは1971年1月1日に到着しました。
「ああ、新年かなあ」と思ったのを覚えています。
サンフランシスコとバークレーにはがっかりさせられました。
太陽の光はどこにありましたか?
なぜ人々は太平洋でサーフィンをしなかったのでしょうか?
1月のサンフランシスコでは雨が降ることをなぜ誰も教えてくれなかったのでしょう。
バッファローに戻るつもりだったのに、とてもがっかりしました。
バークレーに来て4日目くらいのこと、私と友人は、最近、神の御子イエスのことを知ったばかりの古い友人二人から心配そうに声をかけられました。
「それはとても良かった」と私は彼らにいいました。
実は、私はユダヤ人だったので、ほとんど興味がありません。
私のいった言葉に私が驚いたののに、それ以上に誰も驚きませんでした。
自分がユダヤ人であることを、表明してから何年も経っていました。
しかし、私は、ジーザス・フリークを強調するこの二人を断ち切るのが、最も効率的な方法だと考えたのです。
「ハレルヤ」、彼らは「ワンダフル!」と言います。
私は「それ、なんですか?」と尋ねます。
それがまさに私です。
私は確かに自分がユダヤ人であることに驚いてもいませんし、彼らが私がユダヤ人と思うことに、少し不安を覚えました。
彼らは私を聖書の研究に招待しましたが、そのユダヤ人の男が教えているとのことは、イエスについての内容でした。
「たとえサンフランシスコにサーファーがいないとしても、ここには少なくとも覚えるべきことがある」と私は思ったのです。
そして、もう、いろんなことを聞いてしまったと思い、出ていきました。
研究の後、先生は私のところに来て、驚いたことに、旧約聖書のいくつかの箇所を見せてくれました。
先生が旧約聖書をどう扱うべきなのか、私には理解できませんでした。
イエスは新約聖書の中にしかいないと思っていました。
先生が私に見せた聖句は苦しみと罪について語っているように見えました。
私は先生にこう言わなければなりませんでした。
「私は嘘をついています、なぜなら私は違いますから。」
先生は私に、神が私に何をしてほしいと思っているのかを尋ねました。
先生が私に聖書を読んでほしいと思っていると言いました。
さて、その日、これが私にとって2番目の驚くべき宣言でした。
なぜなら私は神を正確に信じていたわけではなかったからです。
しかし、私は聖書をよく見る義務があると思いました。
それから数日間、私は何を読んだかで悩みました。
私に感銘を与えた一節はありませんでした。
答えは人でした。
私にはイエスのことが理解できませんでした。
イエスは私とは似ていませんでした。
イエスは私が会ったり読んだりしたことのある誰とも似ていませんでした。
私は真剣に受け止め始めたこの福音を信じたくありませんでした。
しかし、その言葉が私に与えた影響を無視することはできませんでした。
家の中の誰かが、御言葉を通して神ご自身を現実にしてくださるようにお願いしてはどうかと祈りました。
私は部屋に座って神と話し、三度目に自分自身に衝撃を与えました。
あまり礼儀正しくありませんでした。
「わかりました、神様、もしあなたが本物なら、私はそれを知りたいです。
私が読んでいるこの本が単なる面白い話ではなく、真実であるなら、私はそれを信じます。
しかし、もし、何も見せてくれないのなら。私は何も信じないつもりです。」
「そうですね!」
それは神と話す良い方法ですよね?
しかし、おかしなことに、神は私にとって、自分自身を現実的に見せてくれました。
閉じ込められていると同時に解放されたと感じた数日間を経て、私は神が実在し、聖書が真実であることを否定できなくなりました。
私が旧約聖書で読んだものは、新約聖書で読んだのと同じメシアについて語っています。
確かに「落としどころ」はイエスだということが分かりました。
1月10日、私は自分の人生をイエスに捧げました。友人や家族の中で、私を幸せにしてくれる人は誰もいないだろうと分かっていました。
私はカリフォルニアに残り、その後4か月間その家に住み、ユダヤ人と聖書の神について多くを学んでいたユダヤ人と異邦人の信者のために食事を作りました。
私は自分のユダヤ教の教育とユダヤ人の伝統を新たな方法で評価し始めました。
それは私の人生で初めて時間である今日を持つことができました。。
昨日の人々は、新しい人生を始める私のために生きてくれました。
イスラエルのメシアは確かに来られたのです。
ビル・ケイティン
幼い頃、母にイエスはメシアなのか尋ねたのを覚えています。
母はノーと答えましたが、その時はその答えに私は満足しました。
高校生の頃、自分は心が広いと感じていたので、友達とイエスやその他の信仰的な話題について話していました。
本当のことを言うと、単に私は議論するのが好きでした。
ある日、数学の授業が終わった後、シャロンという女の子が私のところに来て話し始めました。
彼女のことをもっとよく知りたくなり、私は彼女をデートに誘いました。
彼女はクリスチャンではない男性とは付き合いたくないと言った。
彼女の返事は私を驚かせました。
私は彼女が「蓋をひっくり返した」のだと思いました。
私は自分が善良で道徳的なユダヤ人少年であり、それが私をクリスチャンにしたのだと思いながら家に帰りました。
この言葉を辞書で調べてみると、「イエスに従う人」でした。
「私はイエスを嫌っていたので、それは私ではないことを知っていました。
私はすぐに、彼女を喜ばせるためだけにクリスチャンになることはできないと決心しました。
しかし、私は他の友達と議論したことがあったので、彼女が何を信じているかを調べたほうがいいと思いました。
私たちは毎日、昼食時に会うようになりました。
その後、物理の先生もクリスチャンであることに気づきました。
私はびっくりしました。
あんなに知的な人がクリスチャンであるとは信じられませんでした。
この1年間、私は急性腎臓感染症のため月2回通院していました。
一度だけ、その一度だけ、私はアブラハム、イサク、ヤコブの神に、もしナザレのイエスが約束のメシアであるなら、今度だけ私を良くしてください、そして私は信じますと祈りました。
私がその祈りをしたのはその時だけであり、私の状態が良くなったのもその時だけでした。
しかし、私は約束を破りました。
私は信じることを拒否しました。
時が経つにつれ、シャロンと話していると、彼女の言っていることは本当だと知り、涙が溢れてきました。
でも、私はそれを認めることができませんでした。
そしてある晩、私は彼女に電話して、イエスがメシアであると信じているので、自分の人生にイエスを招きたいと伝えたのを覚えています。
それ以来、私の人生は本当に変わりました。
今、私はメシアを受け入れる前には感じられなかった平安と人生の喜びを感じています。
デヴィッド・シェーンバーグ
私は改善的な家庭で育ちました。
私が宗教的な訓練を受けたのは、私が望んで受けたものではなく、祖父が強く勧めたからでした。
私は土曜学校に8年間、ヘブル語学校に3年間通い、バル・ミツヴァヘドと呼ばれるユダヤ教に熱心な者でした。
バル・ミツヴァヘドの後、私はデヴィッド・シェーンバーグ、つまり、自分自身のためだけの人生を送っていました。
その後、私は高校3年生の時にクリスチャンの喫茶店のコンサートに行くまで、キリストについて聞いたことがありませんでした。
私はコーヒーハウスで他の多くの学生に会いました。
彼らはなにか違うように見えました。
彼らは彼らの間だけでなく、私に対してもより友好的でした。
それは一体何なのかと尋ねると、それはイエス・キリストの愛であると彼らは言いました。
私の当惑した答えは、「イエス・キリストとは何ですか?」でした。
彼らは説明を続けましたが、私は納得できませんでした。
それは私がユダヤ人の集まりで学んだことすべてに完全に反するものでしたが、何かが私を再び戻らざるを得ませんでした。
私を苦しめる。
質問したり、さらに詳しく知るために、いくつかの聖書研究会にも行きました。
翌年の1月に私は新約聖書を受け取り、3月末の誕生日に全部の聖書を受け取りました。
それから私は新約聖書を読むのをやめて、旧約聖書を読み始めました。
なぜ私はこれだけの読書をしていたのでしょうか?
なぜなら、私は彼らが話しているイエスとは誰なのかを自分で調べようとしていたからです。
私はタイヤのねじを探していたのです。
ホイールはそこにありました。
私が過去6か月の間に聞いたり読んだりしていましたが、これらは断片でした。
高校卒業を控えた一週間前、私は車で家に帰りながら、聞いたことすべてについて考えていました。
神の愛と赦し、他の人のために誰かを死に追いやるという神の「愚かな」考えが奇妙に思えました。
しかし、それはもうそれほど「愚か」ではないようでした。
イエスは、神が旧約聖書のいけにえの制度として定めたすべてのねじが適合されました。
ついに、イエスが私の壊れた車輪の中心であったことに気づきました。
すべての部品はイエスにおいて一つになったのです。
その夜、家に帰る前に、私はキリストを自分の人生に受け入れ、人生を導き、支配し、キリストが望まれるとおりに形作ることができました。
これらは「神様、やってみます」という簡単な言葉でトライすることができるのです。
結論
イエスに直面し、実際に個人的な方法でイエスを知るようになったユダヤ人は皆、イエスが彼らに義認、霊的な癒し、そして神との和解をもたらしたという事実を証言しています。
これは旧約聖書がメシアの死と復活によって達成すると述べたことであり、新約聖書ではイエスが実際に達成したと述べていることです。
イエスによって変えられたユダヤ人の生活は皆、イエスがユダヤ人らしさを高めてくれただけでなく、イエスがユダヤ人の中のユダヤ人であることを証明しています。
2023/8/13 終了