メッセージAR 2024/7/25
死とその後
DEATH AND AFTERWARD
H. A. Ironside
聖書は「死とその後」について、何と語っているのでしょうか?
死はすべての人に同じよう来る偉大な出来事です。
金持ちであろうとも、貧乏人であろうとも、、、
賢い人であろうと、愚かな人であろうと、、、
力のある人であろうと、弱い人であろうと、、、
有名な人であろうと、無名の人であろうとも、
彼らの前にそびえたつ出来事です。
そこから逃げるには、ごまかすか、とぼけるかしか方法がありません。
墓の向こうにある人生はどうなっているのでしょうか?
キリストを持つ人、持たない人には何が待っているのでしょうか?
私たちの肉体とそこに宿る霊と魂はどうなるのでしょうか?
H・A・アイロンサイド氏がこれらの問題を聖書から答えています。
すべてのクリスチャン、もしくはそうではない者に対して。死後の人生について確信を持つことができるかを聖書から示しています。
死後、クリスチャンはどうなるのでしょうか?
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。
そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。
確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。
私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。
そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」
(コリント人への手紙第二4章16節~5章10節)
この聖句は、印象的な描写で満ちています。
そして、私は指摘してみたいと思っています。
注意深く、解析して行くのであれば、その他にも多くの事柄が見つかるはずです。
最初に、私たちは「外なる人」と「内なる人」が対照的に描写されていることを知ります。
このことを注深く見てゆきましょう。
「外なる人」とは目に見える人です。
「内なる人」とは霊的な人です。
あらゆるタイプの物質主義者は、霊的な人間の人格を否定していますが、10節でははっきりと肯定しています。
二つ目に、「衰えて」と「新た」という言葉が対照的です。
「外なる人」は消え去ります。
すぐに私たちは生きることと死ぬこととがは始まります。
しかし、内なる人は日々、新しくされてゆきます。
さらに17節には、さらに三つの決定的な比較があります。
「光」は「重さ」と比較され、「苦しみ」は「栄光」と比較され、「一時的」なものは「永遠」のものと比較さています。
試練を受けて苦しんでいる聖徒には、苦しみは現実に重く、長く続くように見えることがよくあります。
しかし、神の霊はそれを「私たちの今の時の軽い患難は軽い苦しみは一時的にすぎない」と呼んでいます。
私たちは「測り知れない、重い永遠の栄光」として完全な比較されるのであれば、この祝福のすべてを理解することができます。
そして、この苦しみが来るべき時代では、私たちに財産となるのです。
6番目の比較は18節にあります。
ここでは「見えるもの」と「見えないもの」が同列に置かれています。
そして、「見えるもの」は「一時的」であり、「見えないもの」は「永遠」だと宣言されています。
この6番目の比較は、現在の議論の中でとても重要です。
新約聖書で一般的に「永遠」と表現されている単語は、いろいろな物質主義的なシステムの擁護者たちによって、必ずしもそのような意味を持つものではなく、たびたび条件付き永遠であると主張してきます。
しかし、ここではまさに「永遠」とという言葉が、明らかに終わりのあるものを意味する「一時的」という言葉と比較されて使われています。
つまり、ここでは「永遠」という言葉が終わりのないという意味に使われているのです。
同じ言葉が使われている他のいくつかの事例を考えれば、この言葉の真実性と厳粛さがこれまで以上に実感できるはずです。
私たちは永遠の神、永遠の聖霊、永遠の贖い、永遠に受け継ぐもの、その他にも、永遠の滅び、永遠の裁きを聖書から読むことができます。
聖書の権威を考えてみるならば誰が、永遠の意味を、善なるものと神について述べられる場合と、悪人の裁きの場合と、全く別の意味を持つと断言することができるのでしょうか。
7番目と8番目の比較はは第5章の第1節にあります。
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」
(コリント人への手紙第二5章1節)
ここでは「私たちの住まいである地上の幕屋」と「神の下さる建物」、「人の手によらない、天にある永遠の家」が比較されています。
そして、「こわれる」ものと「永遠」が比較されています。
3回、連続して「永遠」 という言葉が使われているのは注目すべきことです。
もう一度繰り返しますが、この「永遠」という言葉は過ぎ去ってゆく、終わりのあるものとは全く対照的です。
一時的なもの過ぎ去ります、しかし、「永遠」は決して過ぎ去ることがないことを知っています。
次に、死を意味する「裸」と、復活を意味する「着る」という言葉の比較があります。
「私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。」
(コリント人への手紙第二5章2、3節)
これは、「死」が「生きる」ことに飲み込まれることを意味しています。
最後の三つの比較は6~9節にあります。
「そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。
確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。
私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。
そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」
(コリント人への手紙第二5章6~9節)
そこには「肉体にいる間」と「肉体を離れて」、「信仰によって」と「見るところによって」、そして、「主から離れて」と「主のみもと」にいるという比較です。
神について教えられている思慮深い人、これら一連の比較をよく吟味する人ならば、主イエス・キリストを救い主として知る人の将来の状態について、何も難しくないことを確信しています。
私たちはこれらの聖句全体を注意深く見る必要があります。
まず最初に、「外なる人」と「内なる人」を混同してはならないという事に、くりかえし注意を促します。
それは私のからだではありません。
人ははっきりと霊と、魂と、肉体であると言われています。
からだは「外なる人」です。
霊と、魂はともに「内なる人」を構成します。
霊は知的存在の座に座っており、別個の存在です。
魂は人の感情の性質の座に座っています。
霊と魂の二つの存在は決して分けられることがありません。
聖書だけがこれら二つの存在を区別しています。
つまり、これらが別個の存在であることを示していますが、分離していません。
すべての人は神によって想像されました。
人は霊と魂とからだによって構成されています。
しかし、主イエスキリストにあるクリスチャンは自然の性質を持った人が所有していないものを持っています。
新しく生まれた者は新しい性質を持っているのです。
そして、新しい性質は霊と呼ばれ、私たちが将来持つことになる性格を持っているのです。
「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」
(ヨハネの福音書3章6、7節)
主イエスがテサロニケへの手紙第一4章で語られている召しの声をもって天から下って来られる時、私たちが喜びに満ちるのです。
そして、私たちがそれでも古いからだの中に生きているのであれば、主イエスを信じる私たちは、いつまでも肉のからだを持つ者と同じ道を歩むことになります。
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれます。
それは私たちの古いからだが死ぬことを意味しています。
その時、クリスチャンの立場はどうなるのでしょうか?
もし。私のからだが死の中で眠っているのならば、内なる私はからだの中で眠っているのでしょうか?
それとも、肉体を離れて別の環境に昇るのでしょうか?
聖書はこの問題に関して、明確な証言をしています。
からだは、内なる人が住む幕屋にすぎません。
この問題は使徒によって明確に教えられています。
兄弟であり、使徒であるペテロによって書かれたペテロの手紙第二1章13~15節の聖句によって確認されます。
「私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。
それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。
また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。」
(ペテロの手紙第二1章13~15節)
つまり、ペテロが地上にいる間、ペテロは自分のからだである幕屋にいました。
そして、ペテロが死ぬと幕屋を閉じたのです。
ペテロはこれを自分の死後のことを話しています。
ここで「死後」と訳されているこの言葉は「脱出(exodus)」という言葉で、聖書の2番目の巻のタイトルと同じです。
この巻は「出エジプト記」と呼ばれています。
それはイスラエルの民がエジプトの国から解放されて、自由になったからです。
ペテロの出エジプトは、内なる人が地上の幕屋から出て行ったときに起きたのです。
同様にこのことはパウロにも適応されます。
パウロはピリピ人への手紙1章21~25節でこのように私たちに語っています。
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。
私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。
しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。
私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。」
(ピリピ人への手紙1章21~25節)
ここでは、同じ真理を少し違った言い方で表現しています。
地上の命とは、肉体の命、つまりからだの中の命です。
死とは「去ること」です。
つまり、脱出してキリストとともにいることです。
そして、その方がずっと良いことなのです。
しかし、今のところは、この使徒は自分がこのからだにとどまっていることが必要なことを確信しています。
重要なのは、人間自身は肉体のことを指していないことです。
創世記では「人間は粘土の固まりが生きて呼吸している存在」だと述べています。
「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」
(創世記2章7節)
生ける霊がこの粘土の住居にしばらくの間住み、死ぬと出て行きます。
しかし、主イエス・キリストの再臨の時に戻ってきます。
その時、栄光のうちによみがえり、天にふさわしい肉体が、私たちの魂と霊の永遠の住まいとなるのです。
数年前、私は宣教旅行から故郷に戻っていました。
妻が駅まで迎えに来てくれました。
町を通って家に向かう途中で、ビル全体が建て替えられていて、一区画の店が立ち退いているのに気がつきました。
すべての店舗の入居者が一時的に退去し、改装が完了したら戻るという取り決めがありました。
どの窓にも次のような表示がありました。
一時的にこの場所にあったさまざま会社は、このビルが改修されるまでの間、退去してゆきました。
私は妻にこのように言いました。
「クリスチャンの死を表現する印象的な描写ですよ!
もし私があなたより先に主のもとに召され、私の遺体を安置するための板碑を建てるとしたら、こんな風に書いてほしいものです。
ヘンリー・A・アイアンサイドは神の恵みによって救われました。
改築・修繕されるまで引っ越します。
このように、すべてを物語っています。
数ヶ月が過ぎ、私は再び神の恵みの福音を宣べ伝える旅に出ていきました。
戻ってきて、この同じ建物の前を通りました。
あまりにも大きな変化だったので、誰も気づかないほどでした。
土台も壁も床も同じですが、内外ともに驚くほど変わっていました。
どの業者も昔の店に戻って商売をしていました。
私はそれを見て、素晴らしい復活の描写だろうと思いました。
聖書にはこのようにあります。
「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」
(コリント人への手紙第一15章42~44節)
内なる人は新しいからだに住むのです。
そのからだは、かつての過ぎ去って行くからだと同じですが、状態は異なります。
神の建物を、死と復活の間の内面の人間を覆うある種の霊体であると考える人がいることを私は知っています。
しかし、これらの聖句は明らかにこの考えを否定しています。
「確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」
(コリント人への手紙第二5章4節)
そのように、私たちが主に会いに空で迎えられるときには、天から来た私たちの家である衣を着るのです。
私たちはパウロのように、最初の復活に備えているのです。
もし、よみがえさせされ、姿が変えられるのであれば、キリストにあって、裸で見られることはありません。
必ずしも復活は救いを伴うものではないことを覚えておくことはよいことです。
次の聖句には「正しい者と不正な者の両方の復活」があることが示されています。
つまり、命の復活と裁かれるための復活です。
「善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」
(ヨハネの福音書5章29節)
その復活の日には、キリストに似た衣を着る者もあれば、その日に、今のように貧しく、みじめで、裸の者もいます。
彼らは神の救いの恵みに対して盲目だったのです。
しかし、今の世では、人々が救われたからといって、嘆くことができないわけではありません。
私たちは罪の重さに苦しんでいるのです。
感謝すべきことに、その嘆きからクリスチャンは救われたのです。
しかし、今なお、私たちはこの世の苦しみや、霊的成長をしばしば妨げる状況からの解放を求めてうめき、切望しているのです。
私たちはからだが贖われることを探し求めています。
この肉体は、私たちの霊的な願望をしばしば妨げています。
わたしたちは、はっきりと御霊を喜んでいるのに、肉が弱いことを何度も思い知らされています。
このように、私たちは衣を脱ぐことではなく、主のようなからだを着たいと願って、うめいているのです。
正しい心を持ったクリスチャンは誰も死を熱望していません。
その者はパウロに向かって次のように言うべきです。
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」
(ピリピ人への手紙1章21節)
しかし、私たちは、私たちは衣を着て、死が命にのみこまれ、私たちのからだは、その栄光にふさわしい喜びの時を待ち望んでいます。
今、私たちは滅びゆくからだの中に永遠の命を持っているのです。
私たちの主が戻ってくる祝福された瞬間に、主の生ける言葉は私たちのからだに永遠の命を与えるのです。
今でも、神が私たちのうちで働いておられるのは、まさにこのためなのです。
神は、復活の日に私たちのものとなる祝福を熱心に願うように、聖霊を私たちのうちに住まわせてくださいました。
もし、私たちが弱さに包まれていても、肉体にいる間は主から離れているということは、十分に承知しています。
しかし、もし召されて肉体を離れるなら、私たちは外に出てさまよったり、気を失って眠ったりするのではなく、すぐに主の家にいるのです。
見えるところによらず、書かれた言葉に根ざした信仰によって歩むことで、私たちは死に対する確信を持つことができます。
それによってパウロとともに「世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。
実はそのほうが、はるかにまさっています」ということができるのです。
愛する信仰者たちは、この四つの言葉の尊さを、だれにも奪われてはいけません。
より良い表現は 「主の家にいる」ことです。
「今、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。」
(コリント人への手紙第二5章6節)
しかし、その時、私たちは主の家にいるのです。
キリストにある愛する亡くなった人たちのことを思うときは、これらの元気づけられる思いで自分を慰めてください。
彼らは家にいるのです。
家という言葉は、なんと甘い言葉ではないのでしょうか!
彼らはこの地上ではよそ者であり、巡礼者でした。
キリストの祝福された名のために、彼らは自主的に地上の権利を放棄しました。
荒野への旅も、彼らを悩ます試練も過去のものとなり、彼らは天の家に安住しています。
死と復活の間にある無意識な状態では、どうやってこれを楽しむことができるのでしょうか?
もし、この冷めた考えが事実なら、どうして使徒はキリストとともにいることを 「はるかに良い」 と言えるのでしょうか?
彼の視界には、意識を失った眠りは存在していません。
確かにこの使徒は多くの箇所で死を眠りとして語っています。
しかし、眠っている者はやがて目覚めるのです。
確かにクリスチャンのからだは眠り、主が戻られるときに起こされます。
コリント人への手紙第二4章14節にはこのように書かれています。
「それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。」
(コリント人への手紙第二4章14節)
このことは、父なる神がイエスのからだを死からよみがえらせたように、イエスによってよみがえらせるからだであることは明らかです。
テサロニケへの手紙第一4章13、14節にはこのようにあります。
「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。」
(テサロニケへの手紙第一4章13、14節)
14節にある「イエスにあって眠った人々」という表現は、「イエスによって眠らされた者たち」と訳した方がいいかもしれません。
ちょうど、母親が「疲れてイライラして苦しんでいる子ども」を連れて行き、静かになだめて眠らせるように、主イエスは愛する人々を眠らせてくださいます。
やがて、神は天から戻られると、彼らをよみがえらせます。
その時、テサロニケへの手紙第一4章15~18節の聖句が成就します。
「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」
(テサロニケへの手紙第一4章15~18節)
ある人は尋ねました。
肉体を離れ、主のもとにいる人々は、この世で起こっていることを何も知らないでいるのでしょうか?
その質問に対する最良の答えは、別の質問かもしれません。
では、聖書はこのことについて何と述べているのでしょうか?
聖書には何も書かれていないのだから、推測するのは賢明ではありません。
しかし、天にいる贖われた者が、死と復活の間に、地上で起きていることについて少なくとも何らかの知識を持っていることを暗示する聖句はないのでしょうか?
ルカの福音書15章7節には、この関係についてもっとも貴重な1節があります。
そこでは次のように書かれています。
「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」
(ルカの福音書15章7節)
私は聖書の「改訂版(RSV)」から引用し、「さらに(even so)」という表現を特に強調したいのです。
ルカの福音書15章4~7節には失われた羊についての記載があります。
「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」
(ルカの福音書15章4~7節)
「迷子の羊を見つけた男の友人たちは、羊が戻ってきた喜びを分かち合うために彼に呼ばれました。
「さらに」、良い羊飼いの友人たちは、魂の救いを喜ぶ彼の喜びを分かち合うよう求められています。
ルカの福音書16章では、ラザロと金持ちの実話が記載されています。
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、
金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
(ルカの福音書16章19~31節)
ラザロはアブラハムの懐に、金持ちはハデスにいますが、それぞれ人間としての機能を完全に持っていることが分かります。
彼らには越えることのできない大きな隔たりがあり、霊的に隔てられてはいるとはいえ、互いにコミュニケーションをとる能力を持っているのです。
罪人が悔い改めたとき、天国の贖われた者たちは、多くが互いに主と交わり、主の喜びの中に入っているのです。
歓喜するのは天使たちだけでなく、天にいるすべての人たちなのです。
数年前、集会の終わりに、乱暴で無鉄砲な人生を送っていた青年がキリストに心を委ねました。
1時間以上、私たち数人は神の言葉から彼を助けようとしました。
彼は自分の過去の悪行を悔やみ、魂に大きな苦悩を抱えていました。
そして、キリストへの信仰のみによる救いの単純さを理解するまでには、しばらく時間がかかりました。
その時、ついにその完成した働きを目の当たりにしました。
彼の魂は平安に包まれたのです。
喜びと悲しみが入り混じった涙を流しながら、彼は私に言いました。
「ああ、愛する母が生きていてくれたら、今夜、キリストに服従したことを知らせる電報を送れたはずでした。
母は何年も私のために祈ってくれました。
私の邪悪さが母の心を傷つけました。
母は、私が救われるようにと祈って死んでのです。
母の祈りがついに届けられたという知らせを母に伝えることができれば、こんなにうれしいことはありません。
私はこのように言ったのです。
「親愛なる若者よ、そのことで悲しむ必要はありません。
あなたがキリストを信じた瞬間に、あなたの母がそのことを知ったことを確信しています。
天では、すべての贖われた者が、悔い改めた罪人を喜んでいるのです。」
そして、これらの聖句から、死と復活の間に、クリスチャンが無意識な状態など存在しないということがわかります。
肉体を離れた瞬間、救われた者は主の御前にあり、主が再臨される最初の復活まで、そこで期待して待っているのです。
その時、私たちが愛する疲れ果てた者たちが、天にある休息に入ります。
その時、彼らの愛と励ましの言葉が私たちの耳に届かなくなります。
キリストが来るまで、静かにあらゆる無駄なつぶやきは聞き流すのです!
その喜ばしい日には、眠っている聖徒たちの体が目覚め、生きている者は一瞬にして変えられるのです。
その時、私たちが栄光に満ちた体で、祝福された主ご自身のように、とこしえの限り、主の御前に住むことになります。
聖徒たちの住まいである新しいエルサレムで、主とともに、傷のない幸福と、曇ることのない喜びを味わうのです。
キリストを知らない者の死後には何が起きるのでしょうか?
死後の現実を考えるならば、私たちが最も心を痛めるのは、不信仰な者や悪人についてです。
私たちは、神とともにに歩んできた男性、もしくは女性について、死後に何が用意されているのかを心配する必要はありません。
たとえ、啓示がなくても、愛するヨハネが永遠にどこにいるとしても、ヨハネには問題ないと、私たちは確信しています。
たとえ、十字架につけられ、復活した主の献身的に従うパウロが、忠実な行動の結果として、来るべき時代においても失われていないことを、私たちは確信しています。
もちろん、悔い改めたダビデのことも心配していません。
罪人であることを自認し、自分自身を責め、最後の言葉は救い主をたたえ、死にかけていた強盗のことも心配していました。
彼らについて、私たちは永遠に問題がないことを確信しています。
しかし、贖罪の血によって購われた救いから背を向けたカイン、もしくは生まれながらの権利を投げ売りしたエサウ、もしくは永遠の至福の望みを銀貨30枚と交換した裏切り者ユダのことを思うと、私たちは深く心を痛めます。
これらの人々や、彼らのような無数の人々のことを考えるとき、私たちは息をひそめます。
そして、彼らの重大な永遠の未来に何を待ち受けているのかを問いかけます。
ヨブ記14章10節にはこのようにあります。
「しかし、人間は死ぬと、倒れたきりだ。人は、息絶えると、どこにいるか。」
(ヨブ記14章10節)
注)「改訂版(RSV)」聖書ではこのように訳されています。
「人は霊を捨てるが、どこにいるのか。(man giveth up the ghost, and where is he?)」
古いアングロサクソン語の「ゴースト(ghost)」は、ドイツ語の「ガイスト(geist)」に似ており、単に「霊」を意味しています。
つまり、人は死とともに魂を捨てることになるのです。
そして、問題となるのは「その者はどこにいるのか?」です。
遺体は埋葬されるか、あるいは他の方法で処分されるかもしれません。
しかし、かつてその場所を占めていた霊的な存在、つまりその人はどこにいるのでしょうか?
別の問題はヨブ記14章14節にあることに注目してください。
「人が死ぬと、生き返るでしょうか。私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう。」
(ヨブ記14章14節)
そこで2つの質問があります。
一つ目は人は死んで捨て去られるのでしょうか?
そして、人は魂を捨てて、どこにいるのでしょうか?という問いです。
もし、人が死ぬのであれば、その人は生き返るのでしょうか?
最初の質問は、死と復活にある人間の状態についてのものです。
もうひとつは、復活はあるのかという問いです。
私たちはクリスチャンでない方に限定して、これらの質問を聖書から答えていることを覚えておいてください
からだが死んだ時、その人はいったいどこにいるのでしょうか?
そのからだは墓からよみがえることがあるでしょうか?
神の啓示以外に、これらの質問についての正式な答えはありません。
人の考えは、どんなに合理的で博学であっても、この答えを導き出すことはできません。
聖書の証言を否定する人々は、墓の向こうにある人生という大きな問題に関して、生きることと、死と不死について論理を巡らしていたギリシア人キリストの小さな仲間たちよりも前進していません。
プラトンの作品は今でも大学で読まれ、教えられています。
不死の議論について、人々は今でも古代ギリシャ人に関心を寄せています。
彼らのコメントは興味深く、その多くはかなり説得力があり、可能性さえも感じます。
しかし、権威ある保証はなく、魂は不確かな状態です。
聖書だけが私たちに確かな知識を与えてくれます。
ここで、これらの大きな問題に光を当てることができます。
このような聖書の箇所を探してみましょう。
私たちが旧約聖書に頼れることができないことをはっきりと覚えておいて下さい。
自分をクリスチャンとする物質主義的な傾向を持つ人々がいます。
聖書は死と復活の間は死者は無意識であると教え、人によっては審判の日の後の悪人の絶滅すると教える誤った主張する人々です。
彼らは自分たちの理論を支持するために新約聖書から引用することはほとんどしません。
彼らはほとんど間違いなく旧約聖書から引用しています。
ほとんどは、ヨブ記、詩篇、特に伝道者の書の3つの書物からの引用です。
旧約聖書は永遠の未来を明らかにするために与えられたものではありません。
主題は、この世の生活における神の人間に対する扱いを、個人的、もしくは国家的に示すために与えられたものです。
ヨブ記、詩篇、そして伝道者の書は、他の旧約聖書の書簡よりも、人間を経験を率直に訴えています。
私たちの主イエス·キリストが福音によって、いのちと不滅とを明らかにされました。
これらの偉大な真理が旧約聖書の中で完全に展開されていることを期待する必要はありません。
旧約聖書にあるのは薄明かりです。
私たちは、後の啓示によって明らかにされた福音の光の完全な輝きの中にいるのです。
私は、旧約聖書時代の聖徒たちが永遠の希望を持っていなかったと言うつもりはありません。
確かに彼らは救われています。
おそらく、ヨブ記は聖書の中で最も古い書物であり、疑いなくヨブ自身は死者の中からの復活を信じていました。
ヨブ記にはこのように記されています。
「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。
私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。」
(ヨブ記19章25、26節)
モーセは、自分も死に、死んだ先祖たちと一緒になることを話しています。
「この同じ日に、主はモーセに告げて仰せられた。
「エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山に登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。
あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に加えられたように、あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民に加えられよ。」
(申命記32章48~50節)
アブラハムは、もし実際にモリヤ山でイサクを殺すよう求められたら、神が彼を死者の中から連れ戻してくださることを期待していました。
「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、
彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」
へブル人への手紙11章17~19節
もし、彼らが永遠を信じる信仰を持っていなかったなら、このようなことはできなかったでしょう。
ダビデは、愛する子が病気の時は祈り、泣いていました。
しかし、やがて、その死を知ったときには涙を拭い、考え、自分を慰めました。
「しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」
(サムエル記第二12章23節)
そして、ほかの個所でダビテはこのように求めています。
「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。」
(詩編17編15節)
ここでは、サムエルが「エン・ドルに霊媒をする女に現れた」(サムエル記第一28章14~19節)という衝撃的な出来事や、サウルに「明日、あなたとあなたの息子たちはわたしと一緒にいるだろう」と言ったことについては詳しく説明してしません。
また、来世を知ることの証拠となる預言者たちの書の数々の箇所を引用する必要もありません。
しかし、これらすべてを考慮しても、この永遠という偉大な真理を明らかにすることが旧約聖書の著者の主要な目的ではなかったことが明らかです。
また、語られた体験記の中で、いくつかの節が反対を示しているように見えても驚く必要はありません。
これらの内容は、誤って適用されないように、文脈とともに慎重に検討されるべきです。
真剣かつ冷静に、ここで私は皆さんの何人かを驚かせるかもしれない、そして、最初は疑問に思うかもしれないような発言を述べましょう。
それは「聖書はすべて霊感によって書かれたものだが、その中には真実でない記述も多い」のです。
ここで2~3分考えてみてください。
時々、人々は聖書のある他の聖句が、いくつかの議論を引き起こす問題を解決すると考えることがあります。
しかし、文脈から外れた言葉が、最悪の誤りを正すために用いられるい可能性もあります。
実際には完全な虚偽の宣言となります。
何年か前、ある南部の著名な弁護士が、ケンタッキー州の陪審員の前で、一つの事件で弁護しているという話を聞きました。
その弁護士の依頼人が命がけの裁判にかけられていました。
検察側弁護士は陪審員に向けて次のように言いました。
「皆さん、我々は非常に高い権威に基づいて発言します。
それは人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるからです。」
陪審員たちは、彼が聖書から引用していることを理解しました。
「人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。」
(ヨブ記2章4節)
その弁護士が演説を終えると、もう一人の弁護士が立ち上がり、このように語り始めました。
「私の相手の弁護士は、非常に高い権威に基づいて「いのちの代わりには、すべての持ち物を与えるからです」と述べました。
今、私は宣言しましょう。
その弁護士は「陪審員の皆さん、検察側の弁護士が誰を最高権力者だと考えていることを皆さんは知っておられるはずです。
しかし、この言葉を発言したのは悪魔です!」と激しく叫びました。
実際に「いのちの代わりには、すべての持ち物を与える」というのは、常に真実なことではありません。
私たちの主の献身的な弟子たちは、神の真理のかけら、もしくは神の権威を手放すことなく、主人に見習って命を捨てています。
ゆえに、聖書の言葉だからと言ってすべてが真実ではないことがわかります。
ヨブ記2章4節の全文はこうです。
これはサタンの言葉です。
「サタンは主に答えて言った。「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。」
(ヨブ記2章4節)
聖書に記録されている悪人の発言の中には、場合によっては神の真理とはならないものが存在します。
伝道者の書のように、自然な人間の考えや論証が与えられていることもあります。
旧約聖書の体験的な記録を読む時には、このことを心に留めておくことがとても大切です。
伝道者の書では、ソロモンは死んだ者には決して報いはないと述べています。
もし私たちがそれを文字通りに受け止めるならば、それは新約聖書の啓示と、ソロモン自身の宣言と明らかに矛盾することになります。
ソロモンはその伝道者の書の最後に、神の霊感による宣言をこのように述べています。
「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」
(伝道者の書12章13、14節)
これは伝道者の書に霊感がないという証拠なのでしょうか。
違うはずです。
この聖書が語る意味は何なのでしょうか?
ソロモンはその著書の中で、「日の下」で物事を考えているときに心の中で浮かんだことを記録して私たちに与えていると書いています。
「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」
(伝道者の書1章2、3節)
ソロモンは民が死んでゆくのを見ました。
彼らは埋葬されました。
そして、彼らが墓から戻ってくることが無いことも見たのです。
私たちはほかの個所でこのように読みました。
「生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。」
(伝道者の書9章5節)
これは肉体を離れた後は、絶対に意識がないということなのでしょうか?
まったく違います。
聖書の他の箇所では、そのような考えと矛盾することが述べられています。
確かに、命のない死体には、昨日まで忙しく過ごしていた記憶があるかもしれません。
そして、思慮が足りない学者は「死者は何も知らない」というこのような一節を取り上げ、新約聖書のすべての教えが矛盾しているとはいえ、そこから「魂は眠っている」という教義を導き出します。
しかし、この表現はそのような意味ではありません。
同じ言葉がサムエル記第一で語られているダビデとヨナタンの契約にも使われています。
「ヨナタンはダビデに言った。「あすは新月祭です。あなたの席があくので、あなたのいないのが気づかれるでしょう。
あさってになれば、きびしく問いただすでしょうから、あなたは、あの事件の日に隠れたあの場所に行って、エゼルの石のそばにいてください。
私は的を射るように、三本の矢をそのあたりに放ちます。
いいですか。私が子どもをやって、『行って矢を見つけて来い。』と言い、もし私がその子どもに、『それ、矢はおまえのこちら側にある。それを取って来い。』と言ったら、そのとき、あなたは出て来てください。主は生きておられます。あなたは安全で、何事もありませんから。
しかし、私が少年に、『それ、矢はおまえの向こう側だ。』と言ったら、あなたは行きなさい。主があなたを去らせるのです。」
(サムエル記第一20章18~22節)
ダビデは野原に隠れていました。
ヨナタンは父の声を聞き、ダビデの命が本当に危険なのかどうかを確かめに行きました。
そして、ヨナタンは少年を連れて野原へ出ました。
そして、矢を射ようということになっていました。
ヨナタンがその少年に「矢はおまえの向こう側だ」と言い、ダビデはサウルが自分の命を狙っていることを理解したのです。
しかし、ヨナタンが「それ、矢はおまえのこちら側にある」と言うならば、ダビテは安全だったのです。
計画が実行され、ヨナタンが少年に呼びかけました。
「矢はおまえの向こう側だ。」
ダビデは理解しました。
しかし、「少年は何も知らなかった」のです。
はたして、少年は意識不明の状態だったのでしょうか?
これは違います。
少年はダビデとヨナタンとの間に結ばれた契約について、何も知らなかったのです。
マラキ書4章1~3節には、多くの人が悪人の死の運命の問題を解決すると考えることのできる一節があります。
「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。――万軍の主は仰せられる。――
しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。
あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行なう日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。――万軍の主は仰せられる。――」
(マラキ書4章1~3節)
ここで預言者がイスラエルに何を語っていたのかを見てみましょう。
預言者は悪人の死後に下るさばきのことを言っていたのでしょうか?
違います!
この箇所は、主の再臨のとき、地上の悪人に起こることを預言しているのです。
言い換えれば、これは千年王国の前ではなく、千年王国後の話です。
ここでは、復活と偉大な白い御座の前に連れてこられた人々については何も語られていません。
「その日が来る。かまどのように燃えながら」、その日は主の日のことです。
その日、悪人は罪のために捕えられ、根も枝も焼き尽くされます。
つまり、根と実です
正しい者が悪人を踏みつけます。
彼らはこのように行います。
これは、罪のために死ぬ者が、滅び去ることの証明なのでしょうか?
いいえ、それはソドムとゴモラに下ったさばきに似た性質のものです。
ロトとその仲間が町を出た日、神の怒りの火が、低地にある町の住民を根も枝も焼き尽くしたのです。
さばきの後、数日のうちに、ロトとそのおじであるアブラハムが様子を見るために下って行ったなら、悪人どもは足の裏の灰になったはずです。
しかし、それは滅びを意味するのではありません。
何世紀も後に書かれたユダの手紙では、「ソドムとゴモラ」について次のような実例を示しています。
「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。」
(ユダの手紙7節)
そして、私たちの主イエス·キリストも次のように明言しています。
「しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」
(マタイの福音書11章14節)
こうして、ソドムとゴモラの人々は、たとえ根や枝が焼き尽くされても、正しい人たちの足の下の灰のようになっても、その実体は失わなれていません。
彼らは、今は意識的に苦しんでいますが、裁きの日にはよみがえります。
こうして、ソドムとゴモラの人は、たとえ根や枝が焼き尽くされとしても、たとえ、正しい人たちの足の下の灰のようになったとしても、その認識を失うことはありません。
彼らは、今は意識的に苦しんでいますが、裁きの日にはよみがえるのです。
使徒たちの言葉よりも、私たちの主イエス·キリスト自身の言葉に目を向けてみましょう。
私は、主イエスの教えを、啓示を受けた使徒たちの教えよりも高い次元に置くつもりはありません。
しかし、多くの人が「私はパウロやペテロやヨハネを受け入れるよりも、主イエスの言うことを聞きたい」と述べています。
では、私はこのようにのべます。
皆さんは、聖書の様々な箇所に記されている、悪人の永遠の裁きに関する厳粛な警告を拒絶する人々がいます。
彼らは、愚かにも、イエスの教えがすべてであり、山上の説教だけで十分だと述べています。
あなたは、永遠の罰が山上の説教で教えられていることを知っているでしょうか?
もし、あなたがイエス・キリストの教えを受け入れると言うのならば、キリストを知らずに死んだ者の現実をキリストは誰よりも多く語っていることを忘れてはいけません。
イエスは罪人を待ち受ける運命について、神の祝福された御子ほど深刻で厳粛な言葉を発した者はいません
しかし、イエスはこの地上を歩いてきた人の中で、最も柔和な人でした。
「尽きることがなく、消えることない火」について最初に語ったのはペテロではありません。
「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」
(マルコの福音書4章48節)
パウロが「火によって、塩けをつけられる」と言ったのではありません。
「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」
(マルコの福音書9章49節)
ヨハネが「両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです」と言ったわけではありません。
「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。」
(マルコの福音書9章43節)
これらは言葉は主イエスキリスト御自身が語られた言葉です。
新約聖書にある罪人を罰せられるという教えは、すべて神の子の教えに基づいています。
この教えは、ルカの福音書16章に最も単純でわかりやすい形で示されています。
この箇所はたとえ話にすぎないと反論する人もいるが、そうではありません。
たとえ話とは、真実を描くために語られる描写または物語を示します。
たとえ話は一般的に「イエスは彼らにたとえを話した」というような表現で宣言されていますが、ここではそのような表現はありません。
金持ちとラザロのこの出来事はたとえ話とは呼ばれていません。
しかし、もし、これがたとえ話だとしても、神と和解せずに死ぬことの恐るべき危険を説明していることには違いありません。
ここで、イエスが自分の罪の中で死ぬことは恐ろしいことだと教えていました。
その日から今日まで何百万人もの人々の心に、イエスの聴衆の心に印象を強く与えています。
物語がごく自然に紹介されていることに注目してほしいのです。
19節では、私たちの主が民に語りかけ、教訓として語っています。
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」
(ルカの福音書16章19節)
そこには金持ちがいたのでしょうか?
いなかったのでしょうか?
イエスはそこにいたと述べています。
そこでイエスは私たちに「そこに金持ちがいたと想像してみてください」とは言っていません。
それどころか、イエスは「いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」と宣言しています。
皆さん、私の話の途中で、アリゾナにあるインディアンが最近改宗したと言ったと想像してみてください。
私のメッセージが終わり、あなたは私のところに来てこのように言います。
「あのインディアンについてあなたが話してくれたことに興味がありました。
そのインディアンはどのくらい前に改宗したのですか?」
私は答えます。
「私はあなたがそんなに真剣に受け止めるとは思わなかった!
それはたとえ話です。
それはただ表現してみただけです。
私はそのようなインディアンを知りません。」
もし、そのような応答があるのであれば、あなたは私にこのように言うでしょう。
「これは信用ならならない話ですね。
あなたはこのようなインディアンを知っているという明確な印象を私たちに与えたのです。」
このような話をイエスがしたのでしょうか?
その日、イエスは聞いている人全員に、イエスの語った話を事実として信じさせたことになります。
その時、イエスは物語の中のもう一人の男について語り始めています。
20節ではこのように書かれています。
「ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、」
(ルカの福音書16章20節)
通常、指摘したいことを説明するために出来事を想定しているだけで、架空の人物の名前は付けません。
なぜイエスはこの貧乏人に名前をつけたのでしょうか?
イエスは彼を知っていたので、その名で呼ばれたのです。
「彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」
(ヨハネの福音書10章3節)
私たちは、さばきの日まで、金持ちの名前を知ることはありません。
しかし、貧乏人の名前は知っています。
なぜなら、ラザロは貧しいけれども信仰において富んでおり、キリストの羊の一人であったからです。
続けて、貧乏人は死に、天使によってアブラハムの懐に運ばれたとイエスは述べています。
もちろん、これは私たちの主イエス・キリストの死と復活の前に言われたことです。
アブラハムは信仰の父です。
パラダイスにおいて、アブラハムの子として、贖われてアブラハムの懐にこの貧乏人は迎え入れられたのです。
現在では、クリスチャンは死んで「肉体を離れて主と共にいる」と述べられています。
アブラハムのふところに行くのは、旧約聖書の聖徒たちの行く場所です。
そして、金持ちについてはどのように書かれているのでしょうか?
彼も同様に葬られました。
私たちは彼の体外から離脱した霊が、次に苦悩の中にいるのを見ることが出来ます。
できることなら私は何度もこの部分を削除したいと思ったこともありました。
今でもリチャード・バクスター氏が「天国では満ち足りることができ、地獄に行くことは空しいことなのか!」と祈っていたのを知っています。
私は罪のために死んだ人たちのために一筋の希望の光を見つけようと、聖書から見出そうとしました。
このことについて、神学者たちがたくさんの意見の書いており、私は何十冊もの本を読んだが、私はその光を見出すことができませんでした。
ある人たちは、古いアングロサクソン語の「地獄」という言葉を使わずに、ギリシャ語の「ハデス」という言葉を使うことで、これらの節の恐怖を和らげようとしています。
この言葉は罪が裁かれる場所とは関係がないと言われています。
「ハデス」は単に「目に見えないところ」という意味です。
私たちはギリシャ語で見てみましょう。
「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、」
(ルカの福音書16章23節)
たとえ、場所の名前を変えて見ても、苦しみがなくなるわけではないことがわかります
また、ある人たちがこのように言うかもしれません。
「ハデスが死後の状態と考えるのは間違いです。
ハデスは単純に墓のことです。」
私はこの解釈を一瞬たりとも信じません。
聖書において、私は確信します。
聖書は現実に起きたことを教えています。
ここで、議論をするために「地獄」を「墓」という言葉に置き換えてみましょう。
私たちはそ「彼は墓の中で苦しみながら目を上げた」と読んでみます。
言葉を変えたところで苦しみはなくなりません。
あなたはその場所を「墓」と呼ぶかもしれません。
あなたはその場所を単純に「見えないところ」と呼ぶこともできます。
もしくは、あなたはその場所を「霊的な世界」と呼ぶこともできます。
好きな言葉を使ってもいいのです。
しかし、厳粛な事実として、この金持ちがどこにいても、この言葉が何を意味するにせよ、彼は苦しんでいたということに変わりはありません。
私たちに必要なのは、この話の続きです。
あなたはこの話の続きを良く知っているはずです。
この惨めな人の結末を思い出してください。
贖いの道を失ってしまい、嘆きの淵で嘆願する者となったのです。
彼は苦しみもだえで2回、願い求めましたが、認められることはありません。
この金持ちは死に直面して祈り始めたのです。
金持ちは最初にこのように祈り求めました。
「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」
(ルカの福音書16章24節)
恵みが無償で与えられていたのに、金持ちが生ける水を飲むことを拒否していたのです。
そして、今、金持ちは永遠に生きる水が流れないところにいるのです。
もう一つの金持ちの願いは、5人の兄弟に関することでした。
ある人たちはこのように言います。
「たとえ、私が道に失われても、私は多くの群衆と一緒にいるだろう。
地獄には多くの仲間たちといっしょにいるのです。」
しかし、この男は家族のことを考えているのです。
彼には自分を含め六人の兄弟がいました。
そう、ひとりは地獄にいます。
そして、五人はその途中にいました。
そして、地獄にいる一人は祈っているのです。
彼は自分の兄弟たちにここにくることを望んでいません。
「父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』」
(ルカの福音書16章27、28節)
アブラハムはこのように答えました。
「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。」
(ルカの福音書16章29節)
現在に言い換えるのなら、「彼らは聖書を持っているのです。」
まさに、私たちの手には聖書があります。
そして、私たちが心に留めておくべき責任がある事柄です。
金持ちは苦しみ、叫びました。
「いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。」
(ルカの福音書16章30節)
アブラハムは答えました。
「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」
(ルカの福音書16章31節)
聖書のあかしを受け入れるのか?
もしくは、聖書が啓示する救い主を受け入れるのか?
それとも、永遠に外の暗闇に入るか、他に選択の余地はありません。
それはキリスト、もしくは地獄の選択しかなく、一方を拒否することは他方を選ぶことになります。
しかし、この出来事をたとえ話にしようとする試みを無視してはいけません。
もし、これがたとえ話なら、何を教えているのでしょうか?
一つは、近年、その主張によって何千人もの人々を惑わしてきました。
しかし、私はこのことを説明することを引き受けましょう。
ある人は金持ちはユダヤ人で、貧乏人は異邦人だと言っています。
何世紀にもわたって、神の恵み、霊的にも物質的にも豊かなものにおいても、ユダヤ人はすべての良いものを持っていました。
金持ちであるユダヤ人は毎日ぜいたくな食事をしていたが、異邦人は家の戸口の外で、苦しみ、貧しく、ユダヤ人の食卓から落ちたパンくずを欲しがっていました。
やがて状況は急変し、ユダヤ人も異邦人も関係なく死んだのです。
今や貧乏人であった異邦人はアブラハムの懐に入れられ、かつてユダヤ人のものであった祝福はラザロのものとなったのです。
そのようにユダヤ人は、ロシア、ポーランド、そして世界の多くの場所で苦しめられています。
苦しんでいるユダヤ人は、苦しみの場から逃れようとして、哀れみを請うています。
しかし、アブラハムはこのょうに答えます。
「私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。」
(ルカの福音書16章26節)
つまり、あなたがたユダヤ人は、異邦人のいる所に来ることはできません。
異邦人もあなたがたのところに来ることはできません。
これは明確な「たとえ話」の説明なのでしょうか?
友よ!
それでは説明できません。
ユダヤ人と異邦人の間にある隔たりなど定まっていません。
ユダヤ人であっても、クリスチャンの完全な特権に入ることができます。
愚かだとしても、異邦人であってもユダヤ人の土地に行くことができます。
あなたがたの理解するところによれば、その人はさばきの日の前に苦しみの中にいることになります。
もしそうなら、さばきの日が必要なのでしょうか?
私に簡単な説明をさせてください。
ある男が逮捕され、凶悪犯罪で起訴されとしましょう。
その男は地方の刑務所に拘束され、そこに長く、疲弊した数ヶ月を過ごします。
実際にその男が罪を犯し、有罪であれば、どんなに強く否定したとしても、最後に裁判にかけられるまで、自分の罪についての隠された知識によって苦しめられます。
もし、彼が裁判で不利になれば、再び刑務所に送られることになります。
ハデスは神の刑務所です。
ゲヘナは神の裁きの場所です。
ヨハネの黙示録20章にはこのように書かれています。
「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」
(ヨハネの黙示録20章14節)
死は肉体を捨て去ります。
ハデスは霊と魂を捨て去ります。
これは裁きのための復活です。
救われた者の永遠の命のための復活よりも千年後に起こることです。
ヨハネはこのように書いています。
「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
(ヨハネの黙示録20章11~15節)
これが偉大な最後の審判の結果です。
その時、多くの人々は裁かれます。
すべての人は自分の行いによって、裁かれるのです。
そして、刑罰は神の義にしたがって下されます。
「火の湖」という象徴が示す恐怖のすべてを知る人は誰もいません。
あえて、皆様方がここで見出された危険を侵す必要はありません。
すぐにキリストの保護のもとに逃げるのです。
讃美歌の作詞家である「パウロ・ゲルハルト」とともに、このように言うことが出来ます。
There is no condemnation,
There is no hell for me!
The torment and the fire—
My eyes shall never see!
For me there is no sentence,
For me there is no sting,
For Christ, my Lord, who saved me,
Will shield me with His wing!
和訳)
そこには裁きもなく、私のための地獄も存在しません・
その地獄には、苦しみと炎があります。
しかし、決して私の目はそれを見ることはありません。
私には罪の宣告はありません
私には何の痛みもありません。
まことに、私の主、キリストは私を救いました。
キリストの翼は私を守るのです!
「(A Rock That Stands Forever)」より
ここでは罪人の最終的な運命の具体的な内容は語られていません。
しかし、聖書にはこのように印象的で恐ろしい様子が描かれています。
「彼らは、あなたがたの愛餐のしみです。恐れげもなくともに宴を張りますが、自分だけを養っている者であり、風に吹き飛ばされる、水のない雲、実を結ばない、枯れに枯れて、根こそぎにされた秋の木、
自分の恥のあわをわき立たせる海の荒波、さまよう星です。まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されています。
(ユダの手紙12、13節)
「働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。」
(ルカの福音書12章47節)
「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
(ヨハネの黙示録20章15節)
その他にも多くの箇所で語られています。
これらはすべて、キリストのない永遠を強調しています。
このような恐ろしい運命の危険を冒す必要はありません。
恵みのうちに救いを待っておられる方のもとに避難すべきなのです。
霊と魂とからだについて、このように書かれています。
「主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」
(テサロニケへの手紙第一5章23節)
永遠の昔から、神は栄光ある三つの人格をひとつの理解できないな存在しています。
私たちは神を三位一体と呼んで、理解しています。
この言葉自体は聖書のページには出てきていません。
しかし、その事実は何度も何度も宣言されています。
クリスチャンのバプテスマ式ほど明確なものはないと思います。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」
(マタイの福音書28章19、20節)
これらの名前は三つの存在ではなく、一つの名前を持つ一つの存在なのです。
人間は三つの部分を一つの人間として創造されました。
私たちは人間を三つの部分を持つものとして語られています。
人間は霊と魂とからだなのです。
人間はからだだけではありません。
魂だけではありません。
霊だけでもありません。
霊と魂とからだが人間を構成しているのです。
私たちは聖書から、これらの言葉について何を教えているかを考えてみましょう。
からだについて多くを語る必要はほとんどないでしょう。
それは人間を構成する物質的な一部分であり、全体としての物質的創造物としてつながりであります。
からだは内なる人が住む家です。
現在のからだの状態では腐敗し、死に至るものです。
しかし、正しい者も不正な者もよみがえります。
救われた者も失われた者も、死者の中からからだがよみがえらせます。
聖徒たちは、復活した物質的なからだの中で、キリストのさばきの座に立ちます。
そして、そのからだで行った行為に応じて報いを受けるのです。
その千年後によみがえった罪人たちは、その行いに応じて裁かれるために、大きな白い王座の前に立つのです。
聖書の最初のページをめくって見ましょう。
そこには、3つの創造があることに注目してください。
つまり、創世記のこの素晴らしい1章で、神は3回「創造した」と語られています。
1節でこのように私たちは読みました。
「初めに、神が天と地を創造した。」
(創世記1章1節)
ここに物質の起源があります。
私たちは何か物質的なものの2つ目の創造について読むことはありません。
現在のすべての宇宙の物質は、その時に作られたものから形成されているのです。
21節を見るならば、二つ目の創造の行為があります。
「それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。」
(創世記1章21節)
これはより良い表現です。
「すべての存在は生きている魂となったのです。」
ここには生きているものの起源があります。
聖書は死んだ物質から自発的に生じた命については何も語っていません。
(進化論)
生きていないものと生きているものを完全に区別しています
生物でないものが生物になるような進化の過程はありえません。
つまり、独立して存在できないいのちが宇宙に生まれるためには、神が創造者として新たな行為がなければなりません。
魂は下等な動物にも人間にも共通のものです。
生まれつきの命には情熱、感情、本能のあらゆる能力を備えています。
動物の魂も肉体が死ぬと死にます。
しかし、人間の魂とは別のもので、霊と結びついています。
数年前、私はカリフォルニア州ロスガトスという町でいくつかの会議に続けて参加していました。
そこでは、セブンスデー・アドベンチストが大きなキャンプで講義をしていました。
ある日、私はテントの前を通ると、片側にとても目立つ看板がありました。
大きな文字で書かれているので、私はこのように読みました。
1万ドルの報酬、そして、永遠の魂について語っている聖書のテキストを書いた人には、1万ドルの米国金貨を贈ります。
私は講師を探しに中に入りました。
彼はそこに座って座席のほこりを払っていました。
私は「外の看板のことでお訪ねいたしました」と言いました。
その人は「オー」と返事をして、同意してこのように答えました。
「どうせ、君は1万ドルを取りに来たんだろう?」
私は「違いますよ!」と返事をして、次のように答えました。
「残念ながら、あなたの言うとおりには受け取れません。」
彼は「では、あなたは認めているのですね」と答えました。
「聖書のどこにも不滅の魂については書かれていません。」
私は迷わずこれを認めました。
そして、私は「聖書には不滅の魂のことはどこにも書かれていません。
では、あなたは人間の魂が不滅であると信じているのですか?」と尋ねてみました。
「確かにその通りです」と彼は答えました。
「聖書が永遠の魂について語っていないのであれば、間違いなく魂は滅びゆくものなのです。」
私は、彼の論じる方法によって、人間の魂は永遠の命を持っていないという理屈にゆえに、聖書にも滅びゆく魂のことを述べていないということを指摘しました。
しかし私は「肉体が死んでも魂は死なないと宣言する聖句を作ることができたら、1万ドルをくれますか?
私は永遠の魂」というのは、肉体が死んでも生きている魂のことだと思います」と続けました。
彼がすぐに危険を回避し始め「それは解釈の問題かもしれない」 と言いました。
もちろん、私は1万ドルを手に入れるチャンスは非常に薄いことぐらいわかっていました。
しかし、私はこの聖句を述べました。
「あなたはマタイの福音書10章28節の中にあなたの答えを見出すことができます。」
そこで主はこのように述べています。
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
(マタイの福音書10章28節)
明らかに、「からだを殺しても、殺されない魂」こそが、私たちが「永遠の魂」と呼ぶものでなければなりません。
そこにいたセブンス・アドベンチストは一瞬呆然となりましたが、口を閉ざして、1万ドルを渡そうとはしませんでした。
実際に、聖書では「滅びべき(死ぬべき)」とか「不滅(朽ちない)」という言葉は、肉体についてのみ使われています。
クリスチャンが天から主が帰ってくるまで地上に住むなら、死すべきからだは永遠のからだに作り替えられます。
ここで再び創世記1章27節に戻ってみましょう。
三つ目の創造の行為をみることができます。
「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」
(創世記1章27節)
もし、人間が単にその動物から進化したものなら、なぜこのような特別な創造的な行為が必要なのでしょうか?
現実に生き物が肉体と魂だけならば、神自身との交わりが無い限り、思考と推理の霊を持つようになる可能性はありません。
このことによって、人間を神の創造物の中で他の何よりも高く引き上げたのです。
ゼカリヤ書12章1節でこのように言われています。
「宣告。イスラエルについての主のことば。――天を張り、地の基を定め、人の霊をその中に造られた方、主の御告げ。――」
(ゼカリヤ書12章1節)
人間の霊を形成することが、天の創造や地の創造と同じくらい偉大な業であることに注意して見てください。
この言葉は、神の思いの中でのこの重要性を私たちに教えてくれるのではないでしょうか?
さて、ここで人間の霊とは一体何なのでしょうか?
おそらく、聖書の中でコリント人への手紙第一2章11節が明確な答えになると思います。
「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」
(コリント人への手紙第一2章11節)
ここでは人間の霊が知能の座に座っていることが示されています。
人が知るのは霊によるのです。
人が考えるのは霊によるのです。
神から教えを受けるのは霊です。
この個所以外にも、聖書の様々な箇所でこのことを明らかにしています。
ローマ人への手紙8章16節にはこのようにあります。
「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」
(ローマ人への手紙8章16節)
ローマ人への手紙1章9節にはこのように書かれています。
「私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることです」
(ローマ人への手紙1章9節)
ヨブ記32章8節でもこのように書かれています。
「しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える。」
(ヨブ記32章8節)
神の霊感を通して、霊が理解していることに注意してください。
「人の心(霊)は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。」
(箴言18章14節)
「人間の息(霊)は主のともしび、腹の底まで探り出す。」
(箴言20章27節)
つまり、人の内面を明らかにいます。
神は、自分の真実を霊に伝えることによって、人を明らかにします。
他にも多くの聖書箇所を引用することができます。
しかし、このことを明らかにするには、これらの重要な箇所を強調するだけで十分です。
考えるのは霊です。
証拠を吟味するのは霊です。
神自身が霊であり、霊とは神がその思いを伝える人間の一部なのです。
死と同時に魂は肉体を離れます。
死とは、肉体と霊を分離することです。
これは事実です。
ヤコブの手紙2章26節で私たちはこのように読みました。
「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」
(ヤコブの手紙2章26節)
獣のからだが死ぬと、からだと結びついている魂が死ぬことをすでに私たちは見てきました。
これは存在の終わりです。
しかし、人のからだが死ぬとき、その人が救われていようといまいと、その霊はからだを離れます。
伝道者の書12章7節にはこのようにあります。
「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」
(伝道者の書12章7節)
霊は地上の住まいを後にして、目に見えない世界に行き、創造した神に接することになります。
これは救われた者にも、失われた者にも同じことが言えます。
どちらも神に説明しなければなりません。
物質主義者は霊は息にすぎないと主張します。
彼らは、ヘブル語、ギリシャ語においても「息」、「風」、「霊」という言葉は同じだと指摘します。
つまり、どちらの場合にも「息」という言葉を問題なく翻訳できると主張してきます。
英語おいても「(spirit)」という言葉には、使われる関係に応じてたくさんの意味があります。
これらの意味を混乱させるなら、言語の意味に害を与えることになります。
英語の意味においても、私たちは霊的(精神的)な人という意味は、それは決断力、目的、行動力のある人を指しています。
私たちの語る「霊」とは「生霊」、もしくは「ゴースト」のことです。
文脈によって、単語の意味を決まります。
人間の霊が単に人間の息でないことを知る、最良の方法は自分で翻訳してみることです。
これまで引用してきたさまざまな聖書箇所において「息」という言葉に置き換えてみてください。
そして、それが適応できるかを考えてみてください。
例えとして、テサロニケ人への手紙第一5章23節を見てみましょう。
「主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」
(テサロニケ人への手紙第一5章23節)
私たちは皆、責められるところのない息が守られることに同意しますか?
使徒がここでそのようなことを語っていると誰が考えられるでしょうか?
もう一つの例はコリント人への手紙第一2章11節にあります。
「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません」
(コリント人への手紙第一2章11節)
人の心を知る息を聞いたことがある人はいますか?
主のみこころは人の息ではありません。
また、神の御霊は、私たちが神の子であることを息によってあかししてくださるのでもありません。
福音におけるパウロの奉仕は、息による奉仕以上のものだったことになります。
そのような空想的理論は事実とは反します。
では、人間の魂について私たちはどのように言えば良いのでしょうか?
次の聖句が明らかにしているように、霊と混同してはいけません。
霊と魂の間の接続詞「と(and)」が使われていることによって、強調されています。
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
(へブル人への手紙4章12節)
ここで私たちは、神の言葉によって、魂と霊が区別されていることを学びます。
これは二つのものをを引き離すものではありません。
この二つは生きていても死んでいても決して引き離されないからです。
霊は目に見えない人のより高い存在です。
私たちがすでに学んできたように、神の霊が語っているのはこの存在なのです。
魂は目に見えない人間より低い存在であり、肉体と霊を結びつける部分です。
それは単に生まれつきの命であるだけでなく、人間の感情的な性質を司る存在です。
もう一度、聖書からいくつか引用してみましょう。
まず最初に、神は魂をもっていると語られていることについて考えてみましょう。
「わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころ(霊)は彼を喜ばない。」」
(へブル人への手紙10章38節)
それから、次の節を読んでみましょう。
「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」
(へブル人への手紙10章39節)
神の魂は私たちの魂の救済を切望しています。
つまり、無限の愛である神は、私たちの感情的性質は神の持つ性質と完全に一致しています。
そして、これを妨げるのは、私たちの肉的な欲望だということもわかります。
ペテロの手紙第一2章11節でこのように宣言されています。
「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」
(ペテロの手紙第一2章11節)
神との調和を持つ魂は、その者の中に喜びを見出し、霊おいても十分に分かち合っているのです。
ルカの福音書1章46、47節でこのように宣言されています。
「マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」
(ルカの福音書1章46、47節)
この魂は満足しているのです。
ルカの福音書2章35節にはこのようにあります。
「剣があなたの心(魂)さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」
(ルカの福音書2章35節)
詩篇107編17~26節にもこのょうにあります。
「愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んだ。
~~
彼らは天に上り、深みに下り、そのたましいはみじめにも、溶け去った。」
(詩篇107編17~26節)
また、創世記42章21節にはヨセフの兄弟たちの言葉が述べられています。
「彼の心(魂)の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。」
(創世記42章21節)
イエスもこのように言われました。
「今わたしの心(魂)は騒いでいる。」
(ヨハネの福音書12章27節)
十字架上での彼の苦しみについて、「彼の魂は罪のためのささげ物とされた」と書かれています。
なぜなら、彼はそこで「自分の魂を死に注ぎ出し」、「彼はそむいた人たちとともに数えられた」からです。
「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
彼が自分のいのち(魂)を死に明け渡し(注ぎ出し)、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」
(イザヤ書53章10~12節)
魂は愛するのです。
ソロモンの雅歌の中で花嫁はこのように叫んでいます。
「私の愛している人を、あなたがたはお見かけになりませんでしたか。」
(雅歌3章3節)
サムエル記第一18章1節にはこのようにあります。
「ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心(魂)はダビデの心(魂)に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。」
(サムエル記第一18章1節)
そして、魂は憎みます。
「その日ダビデは、「だれでもエブス人を打とうとする者は、水汲みの地下道を抜けて、ダビデ(の魂)が憎む足なえとめしいを打て。」と言った。」
(サムエル記第二5章8節)
また、魂は嘆きます。
「ただ、彼は自分の肉の痛みを覚え、そのたましいは自分のために嘆くだけです。」
(ヨブ記14章22節)
そして、魂は欲しています。
「しかし、みこころは一つである。だれがそれを翻すことができようか。神はこころ(魂)の欲するところを行なわれる。」
(ヨブ記23章13節)
魂は慕っています。
「私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。」
(詩篇119編20節)
「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」
(詩篇42編1、2節)
「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。」
(詩篇63編1節)
訳者注)詩編を教義的に、もしくは預言的に学ぶことには賛成です。
しかし、本当に学ぶべきものは魂にあっての礼拝の姿だと認識しています。
集まりによっては、無意識に祈りの場面で取り上げられることもあるようですが、詩篇には人間の魂が切望する神を求める人間の姿が描写されています。
詩篇の著者は苦しみに置かれ、そこで主を切望しています。
詩篇こそが、被造物である人間の魂が、神を求める切望する叫びであることを知る必要があります。
神御自身が私たちを詩篇著者が置かれた場所に私たちを置き、祈りと賛美の中に導いておられることを知るのです。
これこそが神が人間をこの地上に置かれている目的だと訳者は認識しています。
つまり、神を求める叫び無しには礼拝はありえません。
「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」
(ヤコブの手紙5章13節)
「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」
(へブル人への手紙13章15節)
「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」
エペソへの手紙5章19節
これらのいくつかの聖書箇所は、霊が知的な性質を司っているように、魂が感情的な性質を司っているという事実確証しています。
現在の肉体を持つ人間の大部分が魂によって支配されており、感情の性質に支配されていることになります。
ゆえに、人間は繰り返し、はっきりと魂と呼ばれています。
それは次の通りに書かれているからです。
「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きもの(生きるたましい)となった。」
(創世記2章7節)
ルカの福音書12章20節で主がこのように言われています。
「しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』」
(ルカの福音書12章20節)
ヨハネの黙示録6章9節と比較してみてください。
「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。」
(ヨハネの黙示録6章9節)
ここではヨハネは「殺された人々のたましい」の幻を見ています。
ゆえに、人間には救われる魂があり、そして、失われる魂があるとか言うことは正しいことです。
神によって創造された人間を、ある人は3階建ての家に例えました。
1階、もしくは基礎となる階はからだです。
2階は作業場であり、魂です。
3階は展望台であり、交わりと勉強の場であり、霊です。
罪のない状態では、人の霊は神と会話し、無限の霊との交わりを楽しんでいたのです。
人間の堕落は、道徳的な地震として家を震わせてしまい、三階が一階に落ちてしまったのです。
したがって、生まれつきの人間は魂のこもった人(魂的な人)です。
新約聖書にある「生まれつき」とか「好色」と表現されている言葉は、本当の意味は「魂のこもった(魂的)」という意味と関連しています。
その言葉は魂という言葉から派生した形容詞です。
しかし、人間は堕落しても霊を失ったわけではありません。
その人は「自分のうちにある無知によって、神の命から遠ざかってしまい、理解力が暗くなっているのです。」
人間のいかなる行いも、霊を本来の位置に戻すことはできません。
というのは、その者の持つあらゆる機能が堕落によって歪められてしまったからです。
その者の魂は罪によって汚れてしまったのです。
私たちはこのように読んでいます。
「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」
(コリント人への手紙第二7章1節)
訳者注)聖書を読む時、旧約、新約問わずに、霊と魂の使い分けが説明なしに書かれています。
つまり、当時の読者にはここで述べられている区別が認識されていたことがわかります。
現在、多くの教会、信者の認識において、こころ、思い、霊、魂の区別がなされずに雰囲気のみで理解されていることは非常に残念であり、混乱の根源になっていると認識します。
人間の魂は完全に堕落し、腐敗しました。
今、その者は神が憎むものを愛し、神が愛するものを憎むものとなったのです。
その者のからだは病と病苦のために弱くなってしましました。
これは罪が世に入り込んだ直接の結果です。
その者は道から離れ、まったく無益になりました。
言い換えれば、人間は神の回復の恵みからさえも切り離された、絶望的に破滅した被造物なのです。
この堕落した人間を救う事の出来るのは神のみこころだけです。
この人間を罪を知らないアダムの状態に戻すだけではありません。
堕落していない人がよりも高い次元にその罪人を持ち上げることができたのです。
言い方を変えれば、このことを実現させるために、神ご自身が、御子として、人間としてこの世界に来られたのです。
キリストは人間のからだを取っただけでなく、真実な人間の霊と人間の魂を持ちました。
多くの人はこのことを理解していません。
永遠のことばである、神のことばが人間のからだが持つ霊と魂と同じ関係を持ったのです。
次の考えは間違いです。
キリストは肉体を神の幕屋としただけでなく、完全な人間性を神と一体化させたのです。
このようにして、キリストは神の子として地上に現れ、人間と神の二つの性質を持つ存在となったのは明白です。
キリストに人間の魂があったことは、すでに引用した箇所から明らかである。
別の箇所でイエスはこのように語っています。
「そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたし(のたましい)は悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」」
(マタイの福音書26章38節)
同じようにこのようにも書かれています。
「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」」
(ヨハネの福音書13章21節)
「ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」
(ルカの福音書10章21節)
そして、イエスは命を捨てようとした時、このように叫びました。
「イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。」
(ルカの福音書23章46節)
キリストは、私たちの滅びた人類のために、肉体、魂、霊のすべてをささげ物としたのです。
贖罪を行うのに、代価に必要な贖いの血は罪に汚れていない人間の血だったのです。
十字架上で与えられたからだは、聖く汚れていない人間のからだでした。
キリストの魂の苦しみは人間の魂の苦しみでした。
キリストが最も深いところで苦しんでいたように、私たちはその中にわずかに入ることしかできません。
キリストが十字架の上で私たちの代わりに裁きを受けたとき、神との最も柔和な愛はすべて切り裂かれました。
キリストは十字架の上でこのように叫びました。
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
(マタイの福音書27章46節)
闇がイエスの霊に覆いかぶさりました。
しかし、この闇をイエスの恐ろしい叫び声を聞くだけならば、わずかに理解することしかできません。
イエスは私たちのために完全にささげ物になったのです。
滅びゆく魂がイエスを救い主として信頼するならば、新しい命が破壊され滅びていた人に伝えられ、この命がすべての部分(からだ、霊、魂)によって感じ取られるのです。
目ざめさせられた霊は神のことばを受け、人の思いの霊によって新しくされるのです。
再び、その者は神を仰ぎ見るようになり、霊を通して神と交わることができるように、建物は新しくされるのです。
そして、その人は神の御心を取り入れることができるようになり、みことばを見分けるようになります。
その者の魂は救われたのです。
その感情は清められました。
その欲望と切望は、今や邪悪なものや平凡なものから、聖くや天的なものに変えられました。
現在では、肉体だけは何も変わっていません。
やがて、主イエス・キリストが来られるとき、主はこの体を変え、栄光の体のようにしてくださります。
その時に、私たちは霊も肉体も完全に救われるのです。
そのとき、私たちは生まれながらの体を脱ぎ捨て、霊的な体を着るのです。
しかしながら、コリント人への手紙第一15章44節を読むならば次のように書かれていることがわかります。
「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだ(生まれつきのからだ)があるのですから、御霊のからだ(霊的なからだ)もあるのです。」
(コリント人への手紙第一15章44節)
ここにあるように、物質的な肉体と非物質的な肉体とを霊的に対比してしまう人がいます。
しかし、これは使徒の考えでも御霊の思いでもありません。
血肉のからだ(生まれつきのからだ)とは、魂が着た体のことです。
血肉のからだ(生まれつきのからだ)と表現されている言葉は、すでに述べたように、単に「魂」を意味する言葉から派生した形容詞です。
つまり、霊的な体、霊の体のことではなく、霊に適した現実の体として人はよみがえらされます。
現在では、クリスチャンは魂は喜んでいるが、肉体は弱っていることが多いのです。
栄光ある未来では、肉体と精神が完全に一致しています。
多くの兄弟たちの中で長子である私たちの主イエス·キリストのかたちに私たちの霊、魂、からだが一致するときであり、私たちの救いが完成されます。
訳者注)キリストの携挙が単純に、我々を迎えに来る時だと述べる人たちがいます。
特にキリストの携挙には条件も前兆もないと主張し、それよりもこの地上をクリスチャンとしてどのように生きるべきかを問いただしています。
つまり、キリストが来られるのに構える必要が無いという教えです。
条件と前兆は患難時代の前に、キリストが来られ、前兆に死者がよみがえることです。
教会とイスラエル国家は過渡的なものを抜かし、原則、共存しません。
(今が過渡期です。)
キリストが帰って来られ、その時に出迎えない者たちについて、聖書は何と言っているでしょうか?
キリストが帰って来られ、すべての救いが完成され、すべての悩みから解放される時のことを待ち望まない信者は何者なのでしょうか?
たとえ、私が存命中にキリストの携挙がなかったとしても、私は聖書の勧める希望にしたがって歩んだことを誇りにします。
過ちと争いのあるこの世界を離れるとき、肉と感覚はもはや欺くことはありません。
その後、私たちは命の君主とあらゆる恵みを探求する道を見出すことになります。
私たちは、キリストと同じ栄光の肉体を持ち、永遠にキリストのからだと同じになります。
あなたがたを召された方は忠実であり、その方は必ずこれを実行されます。
それはこのように書かれているからです。
「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」
(ピリピへの手紙1章6節)
その日、私たちの救いが完成されます。
すなわち、私たちの霊、魂、からだのすべてが、神の御前に責められるところのない者となり、キリストの完成のすべての完成の中で、神の御前に立つことができるのです。
2024/7/25