メッセージAS 2024/9/3
詩篇:第一巻の学び
1編~41篇
目次
詩篇 1篇 序文と解説
詩篇 1篇
詩篇 2篇
苦しむ神の民 3~5篇
試練を通した栄光 6~8篇
地から生まれた人間9~12篇
神の民の叫び 13~15篇
人としてのイエスキリスト 16篇
神へのとりなし 17篇
復活の力 18篇
創造の証と神の言葉 19篇
王国の詩編 20~21篇
羊飼いの詩篇 22~24篇
信頼の基礎 25~27篇
祈りと賛美 28~31篇
祝福の人 32篇
礼拝の呼びかけ 33篇
輝く命 34篇
聖なる方との交わり 35~37篇
人の失敗と神の恵み 38~39篇
全焼のいけにえの詩篇 40篇
貧しい者への配慮 41篇
「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」
(テモテへの手紙第二4章7、8節)
詩篇1篇 序文と解説
最初に、この本の研究に入る前に登場人物の紹介をしましょう。
聖書の中で、ユダヤ教とキリスト教の時代を通して、神の民、特に試練と苦悩に満ちた信者にとって、詩篇ほど重要な意味を持つ箇所はないと思います。
もちろん、本書で表現されている礼拝の姿は、現在の神の恵みの時代にあるクリスチャンの礼拝の完全な特徴を備えているわけではありません。
私たちが詩篇を読む時、書かれた時には、私たちの主イエスはまだ肉体を持っていなかったことを知る必要性があります。
つまり、まだ贖いは成就されておらず、幕はまだ裂けていません。
言うのならば、人は神を締め出し、神も人を締め出していたのです。
そのため、現在の恵みの時代には、教えられた礼拝者にはふさわしくない事を、旧約時代の礼拝者は口から表現している場合があります。
ダビデはこのように祈っています。
「私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。」
(詩編51編11節)
よく教えられたクリスチャンは、今日、そのように祈る必要はありません。
というのは、私たちは聖霊を受けて永遠に共にいることを知っているからです。
私たちは、買い取られた神の所有物であり、贖いの時まで、聖霊によって証印を押されています。
そして、詩篇の中には知られない神の姿を教える祈りがたくさんあります。
神は、私たちの主イエスの十字架上のささげられた死によって、光の中に出て来られました。
哀れな罪人のために幕を裂かれ、直接、神の御前に入る道を開いたのです
同時に、神がその栄光に満ちた完全な姿で、人として現わしてくださっています。
批判的な意味では使う気がありませんが、いくつかの教会の中には、詩篇を祈りと賛美の表現として使っているところがあります。
確かにこの詩篇には霊感を受けたものです。
ある者たちは祈りと賛美の手段として、霊感を受けていない人間によって書かれた賛美歌や聖歌の編集物よりもはるかに優れているものだということを知っています。
私は彼らがそれについて思い違いをしていることを知っています。
聖霊が来られてからというもの、詩篇が書かれた時代の人たちには全く知られていなかったこの恵みについて、ご自分の民に真理の道を開いてくださったからです。
しかし、私たちはこれらすべてを考慮した上で、旧約聖書の詩篇を学ぶ必要性があるのです。
そこには、貴重で、魂の糧を得て、霊を奮い立たせることのできる、素晴らしい助けとなるものをたくさん見つけることができるのです。
詩篇が1冊だけでなく、実際には5冊あるというのは、ある人々にとっては新しい考えです。
私たちの聖書はモーセ5書から始まっています。
つまり、創世記から申命記までです。
このように、ある人たちが指摘しているように、聖書全体はモーセ5書の基礎の上に築かれているように考えられます。
創世記は命の書であり、選民の書です。
出エジプト記は贖罪の書です。
レビ記は聖別の書です。
民数記は試練と経験の書です。
申命記は神の支配の書でです。
非常に興味深い事実はとして、詩篇も5つの書で構成されています。
これらの5つの書はモーセ5書と完全にリンクしています。
詩篇第一巻は詩篇1篇から41篇です。
そして、詩篇41篇13節が次のように締めくくられています。
「ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。アーメン。アーメン。」
(詩篇41篇13節)
第二巻は詩篇42篇から始まり、詩篇72篇まで続いています。
第二巻がどのように終っているかに注目してください。
詩篇72編18~20節にはこのようにあります。
「ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇しいわざを行なう。
とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン。
エッサイの子ダビデの祈りは終わった。」
(詩篇72編18~20節)
それから、第三巻詩篇73篇から89篇から成りたっています。
最後の詩篇89篇52節にはこのようにあります。
「ほむべきかな。主。とこしえまでも。アーメン。アーメン。」
(詩篇89篇52節)
詩篇四巻は詩篇90篇から106篇までを含みます。
詩篇106篇48節にはこのようにあります。
「ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。すべての民が、「アーメン。」と言え。ハレルヤ。」
(詩篇106篇48節)
詩篇五巻は詩篇107篇から150篇です。
150篇6節の終わり方は良く知られています。
「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」
(詩篇150篇6節)
それぞれの書簡の終わりにある教義によって、これらの書簡を明確に区別することができます。
しかし、このような教義は詩篇のどこにも見ることはできません。
これらの5巻の詩篇にはテーマに沿った前進的な真理が存在しています。
そして注目すべきことは、詩篇の最初の書簡には創世記の書と同じように、神のいのちと恵みを選び取るという神のすばらしい恵みの与えられたという傑出したテーマがあることです。
詩篇の第二巻では、出エジプト記にあるように大きな注目すべきテーマは贖罪です。
詩篇の第三巻では、レビ記と同様に、聖化、神との交わり、聖所への道について書かれています。
詩篇の第四巻は最も暗い書です。
民数記にあるように、試験の書、試練の書だからです。
これらのさまざま詩篇は、神の民がこの世でしばしば経験しなければならない辛く苦しい体験に関係しています。
詩篇の最後の書簡は、申命記のように、すべての試練、困難、戸惑いにおいて、神が統治し、支配する書である。
神は、ご自身の名誉と栄光のために、そしてご自身の民の永遠の祝福のために、最終的にすべてを解決されます。
私には、神の言葉の驚くべき計画をどうように考えだされたのか理解できません。
今、私はあなたにそのことを少しほのめかしましたが、そのことを神の霊感にちょっと疑問を投げかけてみてください。
そうです。
神だけがこの驚くべき目的に達することができるのです。
モーセ五書はすべてモーセという一人の人によって書かれました。
しかし、詩篇の書はさまざま人によって書かれました。
普段、私たちはこの詩篇を「ダビデの詩篇」と呼んでいますが、ダビデがすべてを書いたわけではありません。
詩篇の多くは他の人によって書かれました。
私たちが古い福音賛美集を単に「ムーディー&サンキーの詩篇(Moody and Sankey Hymn Book)」と呼んでいます。
同じ感覚において、まさにダビデの詩篇も同じなのです。
私たちが古い福音賛美歌集を 「ムーディー&サンキー賛美歌集 」と呼んでいるのとように、ダビデの詩篇も同じです。
注)ムーディー&サンキー
1873年6月から1875年8月にかけて、有力なアメリカの伝道師であり出版者であったドワイト・ライマン・ムーディ(1837年2月五日-1899年12月26日)は、アメリカのゴスペル歌手であり作曲家であったアイラ・デイビッド・サンキー (1840年8月28日-1908年8月13日)とともにイギリスを訪れ、数百万人に説教しました。
説教者ムーディーとメソジスト教会の歌唱パートナーであるサンキーは、大きな公共ホールでリバイバル派の集会を開催した。デイリー・テレグラフ紙は、彼らがイズリントンの農業ホールを「オープン教会」に改造したと報じた。(このホールは14000人を収容でき、6000人が立ち見できるスペースがあった!)英国滞在中、彼らはロンドンだけで285回の集会を開催し、250万人が参加しました。
ムーディ氏は賛美歌を全く書いていません。
サンキー氏は賛美歌をわずかに書いただけですが、彼らががこの賛美集を編集しました。
現在において、イギリスに行って元の出版社のところに行って「ムーディー&サンキー賛美集の本が欲しい」と言えのであれば、1200の賛美歌が載っている本を渡してくれます。
かつては、この賛美集には600ほどの賛美歌しか載っていませんでした。
もともとは彼らによって編集されましたが、他にも多くのものが随時追加され、今日ではこの莫大なコレクションになりました。
ダビデの詩篇についても同じように考えることができます。
もともとは詩篇を編集したのはダビテですが、神殿礼拝における賛美歌集のようなものでした。
神殿が建てられる前に、ダビデが契約の箱をエルサレムに持ち運びました。
特別の聖所を建てた時には、これらの多くの詩篇が使われてことに間違いありません。
ダビデが死んだ後、ソロモンはさらに詩篇を書き加えました。
おそらく、ソロモン王によって栄光の聖所が建設された後に、神殿の聖歌隊で歌っていたエタンやアサフ、その他数人の指示による影響が大きかったと思われます。
この素晴らしい詩集の中で、おそらく2つの詩篇がモーセを作者と主張しています。
詩篇90編を見るならばと、「神の人モーセの祈り」という見出しがあります。
しかし、91篇には見出しがありません。
理由は次の通りです。
ユダヤ教当局によると、元々は詩篇90篇と91篇が一つだったそうです。
後になって、便宜上、長い賛美歌を二つに切ることがありました。
この箇所も同じように二つに切られました。
しかし、詩篇90篇には第一の著者が、91篇には第二の著者が登場します。
しかし、おそらくすべてモーセが書いたと思われます。
そして、いくつかの詩篇はソロモン王によって書かれたと思われます。
私たちの聖書の中には「賛美としての言葉(Canticle)」が存在しています。
例えば、「ソロモンの雅歌」(雅歌1章1節)です。
しかし、ソロモンの名を記した詩篇は1つ、もしくは2つしか知りません。
他にもいろいろな著者の詩篇があります。
それらは見ていくうちにわかります。
詩篇の中には、バビロンから帰還するまで書かれていなかったものもあるのです。
あなたは詩篇でこのように書かれていることを思い出すかも知れません。
「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。
その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。
それは、私たちを捕え移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、「シオンの歌を一つ歌え。」と言ったからだ。
私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。」
(詩篇137篇1~4節)
これをダビデが書いたとは思えません。
それが書かれたのは、明らかに民がバビロンに流されて後であり、彼らが自分たちの地に戻ってから、詩編に加えられたのです。
私たちは学びを続けていくうちに、さまざまな詩篇の中から非常に興味深い教訓が得ることができるのがわかります。
詩篇 1篇
最初の詩篇は詩編全体の霊感に満ちた序章です。
ここには、幸いな人と悪者という対照的な二人の人がいます。
祝福された人は第二の人、天から来た主であり、悪者は第一の人です。
最初の節に注目してみましょう。
「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」
(詩篇1篇1~3節)
私たちがこの美しい旧約聖書の賛美と祈りの書を開く時に、私たちの関心が向けられるこの祝福された人は誰のことでしょうか?
まず最初に、ここで使われている時制は、元のヘブル語の時制を正確に伝えているわけではないことに注意してください。
もし忠実に伝えるのであればこのように翻訳されるかもしれません。
「祝福された人は悪者のはかりごとに歩んだ事がありません。
もしくは罪人の道に立ったことがありません。
あざける者の座に着いたことがありません。」
かつて彼は罪人であった者ではありません。
義に転じ、今や不信心な者のはかりごとに歩むことも、罪人の道に立つことも、あざける者の座に座ることもない人の祝福を表しているのではありません。
著者は私たちに、これらのことを一度もしたことのない人間の祝福について語っています。
彼は決して自分の道を選ばなかった人間です。
彼はこの世のものとして歩んだことのない人間です。
神の意志に反することをしたことのない人間なのです。
それは誰でしょうか?
数年前、私は著名なヘブル語・キリスト教聖書教師であるジョセフ・フラックス(Joseph Flacks)氏がパレスチナを訪問した時の話を聞いてとても感動しました。
ジョセフ氏はエルサレムにいたとき、ユダヤ人とアラブ人の大きな集会で演説する機会を与えられました。
彼らはおそらくクリスチャンではありません。
この時、ジョセフ氏はこの詩篇の1篇から引用しました。
もちろん、ジョセフ氏は彼らの言語、ヘブル語で語ることができました。
ジョセフ氏は私が読者に語ったように、自制について述べました。
「祝福された人は悪者のはかりごとに歩んだ事がありません。
もしくは罪人の道に立ったことがありません。
あざける者の座に着いたことがありません。」
「さて、私の兄弟たち。
詩篇の著者が語っている祝福された人とは誰でしょうか?
そして彼らに言い続けました。
この幸いな男は悪者のはかりごとに歩んだ事がありません。
もしくは罪人の道に立ったことがありません。
あざける者の座に着いたことがありません。
その者はまったく罪のない人でした。
この祝福された人とは誰でしょうか?」
誰も口を開きません。
そして、ジョセフ・フラックス氏が言いました。
「その者は偉大な父アブラハムなのでしょうか?
詩篇の著者がここで言っているのは父アブラハムのことでしょうか?」
一人の年老いたユダヤ人が言いました。
「アブラハムであるはずがありません。
アブラハムは自分の妻を否定しています。
アブラハムは彼女について嘘をついています。」
ジョセフ・フラックス氏がとこのように答えました。
「その通りです。
しっくりこないと思います?
確かにアブラハムは信仰する者の父です。
しかし、信仰によって義と認められる罪人でした。
兄弟たち、これは誰のことを指しているのでしょうか?
この人はだれでしょうか?
この人は私たちの偉大な法の制定者モーセのことなのでしょうか?」
彼らは答えました。
「違う。
モーセではない!
モーセは人を殺し、砂の中に埋めました。」
そして、別のものが答えました。
モーセはメリバの水のそばで怒りを起こしました。
ジョセフ・フラックス氏が言いました。
「そうです。
では、この幸いな人とは誰でしょうか?
ここには、神の霊によって、私たちの前に連れて来られた人がいます。
詩篇を書いたのは、私たちの偉大なダビデ王、イスラエルの美しい詩篇著者のことではないのでしょうか?
彼らは答えました。
「違う!
ダビテではない!」
ジョセフ・フラックス氏が言いました。
「よろしいでしょう。
誰でしょうか?
詩篇の語っている人とは誰のことなのでしょうか?」
彼らはわずかの間、沈黙となりました。
そして、ある一人のユダヤ人が立ち上がり、このように言いました。
「私の兄弟、ここに小さな本があります。
それは新約聖書と呼ばれるものです。
私はこの本を読んだことがあります。
もし、私がこの本を信じるなら、もしそれが真実であると確信できるなら、私は詩篇1編の人はナザレのイエスだと言うことができます。
ある年老いたユダヤ人が立ち上がって言いました。
「兄弟たち、詩篇1編の人はナザレのイエスです。
イエスだけがこの世に生まれた者の中で、悪者のはかりごとに歩んだがなく、罪人の道に立ったことのない者です。」
この老人は、自分がどのようにしてキリストを信じるようになったかを語りました。
そして、その機会に自分の信仰を公然と告白しました。
長い間、この老人は探し探していました。
そして、少し前にイエスが唯一の方であることを知りました。
しかし、他の人に話す勇気がなかったのです。
その通りです。
この世を歩いた人でこの言葉が適用できるのはイエス一人だけです。
ダビデがここで語っている方は、カルバリの十字架にかけられた方です。
詩篇22篇ではこのように語っています。
「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」
(詩篇22篇1節)
イエスに思いを巡らせ、神御自身がその御腕で造られた世界に降りてこられることを考えて見てください。
完全な人となった状態でこの場面を通り抜け、罪人の必要を満たし、御父に対する反逆には決して加わらない御方を思い浮かべることは、なんと喜ばしいことでしょう。
しかし、その喜びは主の律法にあり、昼も夜も主の律法を思いめぐらせます。
あなたは預言者イザヤの書にあるこの節を覚えているでしょうか?
その箇所で父なる神をなんと語っているのでしょうか?
「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」
(イザヤ書50章4節)
神は祝福された御子と毎日語り合い、御子は父と毎日語り合いました。
そして、御子は神の言葉を深く理解し、御言葉から人間としての力と知識を引き出され、神の使命を果たすことを可能としたのです。
あなたがたは神の聖なる御子がみことばを糧とし、御言葉を喜んでいる姿を考えてみるべきです。
私やあなたが御言葉を必要としているのに、なぜ、このことを喜ばないのはなぜでしょうか?
それを知るならば、私たちは神の前に簡単にへりくだることができます。
詩篇第1篇に書かれているのこれらの御言葉は、祝福された主についての真実が述べられています。
昼も夜も主の御言葉を思い巡らすときには、私たちにも同じように適用されます。
「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」
(詩篇1篇3節)
人生を歩み始めた若者は、人生を成功させたいと切望しています。
彼らは繁栄したい、うまくやっていきたいと思っています。
ここに成功の秘訣、繁栄の秘訣があります。
ヨシュア記1章8節にこのようにあります。
「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。
そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。
そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」
(ヨシュア記1章8節)
このことは、主イエスの道を栄えさせたものです。
そして、御言葉を糧とするあなたがたの道を栄えさせるものです。
生まれながらの人とキリストの違いを見てください。
4、5節、そして6節を見てください。
「それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。
しかし、悪者の道は滅びうせる。」
(詩篇1篇4~6節)
しかし、悪者は繁栄しません。
悪者は成功しているように見えるかも知れません。
この世の中で悪者は正しい人たちよりもうまくやっているように見えるかも知れません。
悪者はより多くのお金を得るかもしれない。
そして、より多くのお金を積み立てるかもしれません。
おそらく、悪者たちは正しい人ができないお金を稼ぐ方法を使うことができるのです。
詩篇49編18、19節にはこのようにあります。
「彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。
あなたは、自分の先祖の世代に行き、彼らは決して光を見ないであろう。」
(詩篇49編18、19節)
しかし、人に称賛されることと、神に称賛されることは別なことです。
「悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。」
(詩篇1篇4、5節)
「悪者は、さばきの中に立ちおおせず」とはどういう意味でしょうか?
それは神の御前にさばかれるという意味です。
ローマ人への手紙5章2節にはこのように書かれています。
「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」
(ローマ人への手紙5章2節)
主イエス·キリストを信じる者は、祝福された私たちの救い主の完成されたわざの無限の価値の中にいます。
私たちは神の御前に立っており、罪を問うことはできません。
そうです。
人は今では繁栄しているように見えるかもしれません。
うまくやっているように見えるかもしれません。
しかし、すべての者が聖なる神の目の前に示されます。
その日には、人々は恐怖のあまり、神の御前から遠ざかり、叫ぶのです。
「御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」
(ヨハネの黙示録6章17節)
しかし、主の前に立つことができる、素晴らしい者がいます。
そして、このように言えることは素晴らしいことです。
「神に感謝します。
私の立場は復活したキリストの中にあります!
わたしは、自分自身の善い行いに基づいて、何も主張できません。
ただ、神の御前に完全な姿で立つことができるだけです。」
そして、最後の節にはこのようにあります。
「まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」
(詩篇1篇6節)
詩篇や箴言を読み進めてゆくならば、あなたがたは、二つの道が、次から次へと詩篇のいたるところで対比されています。
それは正しい人の道です。
神を喜ばせる道、神を賛美する道は、悪者の道と対比されています。
しかし、これが神を忘れる者たちの道であり、彼らは神の御心にそむいて、御心に従うことを拒む道です。
詩篇2篇
詩篇はとても驚くべき預言的な特徴を持っています。
詩篇では、地上における神の計画と、それを打ちこわすサタンの企てとが、驚くべきかたちで描写されています。
最初の詩篇1篇から41篇では、神と悪の勢力との間で激しい対立が見られています。
その対立は、主イエス・キリストがこの世に来られたことに始まり、十字架を中心とし、キリストの復活の後、キリストの再臨まで続いています。
すべてを経験されたのです。
神の民が拒絶されたキリストと結びついて通過し、この詩篇の最初の書の中で生き生きしてと私たちの前で描写されています。
詩篇42篇から72篇は、サタンの妨害の努力にもかかわらず、神の計画は実行されることを描写しています。
私たちは、神の民イスラエルが、異邦人の中に散らされ、キリストの退けられた後、幾世紀にもわたって、すべてが倒れてしまったかのごとく、恐ろしく苦しんでいるのを見ることができます。
3巻目である詩篇73編から89編を見るならば、異邦人の国々から集められた後、パレスチナの地に残ったイスラエル人が、メシアを待ちながら、獣と反キリストの迫害の下でひどく苦しんでいることが描かれています。
神の民イスラエルの苦しみは詩篇88篇でクライマックスを迎えます。
詩篇89篇に示されているように、祝福された主が彼らの栄光の救いのために恵みをもって現れる前に、裁きの波がイスラエルの上にも押し寄せ、苦しみの叫びを上げます。
この時に、ダビデの大いなる子である王が来ます。
そして、王国を支配し、民を救うのです。
4巻には、メシアがシオンで王となり、最初の人が、すべての罪と悲しみと苦しみを持って、世に追放されたことが書かれています。
そして、第二の人、神の天から来た主は、千年王国の祝福をもたらす方であることが描かれています。
5巻は、107編から150編です。
私たちは神の支配を祝い、息のあるすべてのものは、ついに正義が悪に勝利した驚くべき道を知り、神を祝福し、賛美するよう求められています。
光がやみに取って代わり、祝福された主イエス·キリストが、すべての敵とともに御座に着かれたのです。
また、私たちがこの旧約聖書の詩を読むときに、ある詩篇が次の詩篇に整然と続いていますが、そこには私たちに預言的な概要与えており、驚くべきことなのです。
もし、誰かが聖書の神の霊感について疑いを持っている人がいたとしても、詩篇だけを注意深く研究すれば、神がこれらすべてのことを命じ、この驚くべき書物の順番さえも命じたことが明らかになると思います。
私たちの持つ詩篇は、福音の歌詞と甘く聖なる賛美歌の美しいコレクションとも言えます。
しかし、私たちはそれらを取り除くことができます。
もし、私たちに皿があるのなら、すべえ混ぜてしまうかも知れません。
しかし、誰も違いには気が付かないかも知れません
しかし、これらの詩篇の1つの位置を変えると、全体がずれてしまいます。
すべての詩篇は、潤滑に、また秩序だった方法で物語を語るために、神が正確な場所に置いたのです。
しかし、もちろん、これを見分けるためには目を開いておく必要があります。
これらの詩篇を読んで自分の事ばかり考えていると、本当に詩篇が何を取り上げているのかわからなくなると思います。
しかし、あなたがたが神の預言のことばを少しでも解き明かし、キリスト·イエスにある、イスラエル人と異邦人とのための神の御計画の成就を見比べてください。
ならば、この詩篇が神の御計画にいかに見事に合致しているかがわかるはずです。
私たちは、詩篇1篇で二人の人がはっきりとした対照をなして際立っていることを見ました。
この二人は最初のアダムと最後のアダムなのです。
私が最初の人について語るとき、それはアダム一人のことではありません。
アダムとはその全人類のことです。
聖書は二人の人しか認めていないからです。
コリント人への手紙第一15章47節では私たちにこのように語られています。
「第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。」
(コリント人への手紙第一15章47節)
最初の人とは誰でしょうか?
あなたも知っている通りに「アダム」です。
よろしいでしょう!
第二の人は誰でしょうか?
「カイン」ですか?
違います。
しかし、「カイン」は第二の人ではなかったですか?
確かに、彼は地上に現れた第二の人でした。
しかし、神が彼を見ているのは、彼は最初の人間のもう一つの創造物にすぎません。
それ以来、この世に生まれたすべての人間は、最初の人間のもう一つのコピーにすぎないのです。
それはまさに出版本の改正版に過ぎないのです。
5万冊あっても全部同じ本です。
何百万人何十億人もの人がこの世に生まれてきても、みんな最初の人のコピーに過ぎません。
アダムは自分のかたちに似た子を生みました。
それ以来、世に来た者はみな、アダムのかたち、自分のかたちに似て生まれてきたのです。
聖書を見るならば、最初の人は全人類を含めて、「地から出て、土で造られた者」です。
そして、「第二の人は天から出た者」、主です。
哀れな罪人たちは、イエスを信じた時に、第二の人と結ばれるのです。
イエスは彼らの頭であり、最初の人とのつながりは永遠に壊れ果てました。
そのように、詩篇1篇の最初の人とは反対の姿をキリストに見ることができるのです。
詩篇2篇には、キリストを万物の支配者とし、シオンの山に王座を与え、こうしてキリストをイスラエルの人々が期待するメシアとし、異邦人全世界を支配し、永遠の祝福をもたらすというヤハウェの決断が記されています。
しかし、キリストが世に来られても、それはまだ準備されていません。
この詩篇には、そのことが見事に語られています。
よく指摘されているように、この詩篇は12節からなり、三節ずつの四つの節に分かれています。
それぞれの節には異なる話し手がいて、したがってこの詩篇2章では四つの異なる声を聞くことになります。
それは誰の声でしょうか?
最初の3節には世の声です。
この声を聞いてみましょう!
「なぜ国々(異邦人)は騒ぎ立ち、国民(ユダヤ人)はむなしくつぶやくのか。」
(詩篇2篇1節)
国民とはイスラエルに当てはまる言葉です。
国々とは異邦人のことを述べています。
「地の王たち(異邦人の王たち)は立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。」
(詩篇2篇2節)
ユダヤ人も異邦人も、それぞれの指導者を通して、全世界の声、全世界の神に対する態度を表明しています。
神は、ユダヤ人と異邦人とに祝福をもたらすために、キリストを王としてお立てになりました。
キリストを遣わした神の心の愛に対する答えとは何でしょうか?
3節にある世の声を聞いてください。
「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」
(詩篇2篇3節)
つまり、私たちは神に服従させられたくない。
我々は神の王を望んでいない。
私たちはキリストの千年王国を望んでいない。
私たちは神の義の支配に従いたくありません。
彼らは主が地上におられた時、このように叫んだのです。
「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
(ヨハネの福音書19章15節)
言い換えれば、私たちはこの人のために存在しているのではありません。
私たちは神に支配されたくありません。
使徒の働き4章に記録されているように、使徒たちはペンテコステの直後にこれに遭遇します。
詩篇2章のことがその時に成就したのです。
彼らは祈るために集まっていました。
そして神について語っていたのです。
使徒の働き4章24節から読んでみましょう。
「これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。
あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。
地の王たち(異邦人の王たち)は立ち上がり、(ユダヤ人の)指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。
事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、
あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました。」
(使徒の働き4章24~28節)
ヘロデはユダヤ人を代表しています。
彼はエドム人の血を引いていたが、ユダヤ民族の王でした。
ピラトはローマ帝国の代表でした。
そのとき、イスラエルの大祭司たち、指導者たちは、神と御子主イエス・キリストに向かって声を張り上げました。
しかし、ここで注意してください。
彼らが行くことができたのは、神が主権の中で彼らに行くことが許可されたところまででした。
「異邦人とイスラエル人とが共に集められました。
あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました。」
彼らは神の明確な許可を一歩たりとも超えることができなかったのです。
彼らは御子を十字架につけ、木に釘を打ち、その死体を墓に封印することを神は許されました。
しかし、それが彼らの限界でした。
その時、何が起きたのでしょうか?
詩篇2章に戻ってみましょう。
今、人間は最悪のことをしてしまったのです。
人は、神とキリストに向かって、心の中にあるあらゆる激しい憎しみと敵意とをあらわにしたのです。
栄光の主を磔にするより悪いことは何もありません。
4、5節にある別のレッスンを聞いてみましょう・
「天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。
ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。」
(詩篇2篇4、5節)
彼らは自分の思い通りになったと思っています。
しかし、「天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。
ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。」
ここで今、あなたは2つ目の声を聞いています。
その声は父なる神の声です。
そして、このように語っています。
「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」
(詩篇2篇6節)
彼らはキリストを追い払ったと思っていました。
彼らはこのように言ったのです。
「彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」」
ヨハネの福音書19章15節
彼らの意志は実行されました。
イエスの尊い死体はヨセフの墓に封印されました。
しかし、神は考えを変えていません。
今だに、キリストはシオンの王です。
キリストは十字架を手にしたように、確実に王座を手に入れようとしました。
「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」と書かれているとおりです。
主が再び来られる日、すなわち、主イエスが栄光のうちから戻られます。
その足がオリ―ブ山に立ち、その足がオリ―ブ山に再び立つ日を主は待ち望んでおられるのです.
そして、主は、シオンの町にはいって来られ、先祖たちの前で栄光を現わされるのです。
私たちの中には、この聖書が驚くべき成就を得る日がとても近づいていると信じている人がいます。
そのとき、世は再び主イエス·キリストを見るのです。
ヨハネの黙示録にはこのように書かれています。
「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」
(ヨハネの黙示録1章7節)
次の三つの節には、もう一つの声があります。
それは、神の子、拒絶されたメシアの声です。
まるで、御父が御自身に言われたことを黙想しているかのようです。
キリストが大声で話しているのは、あなたと私がキリストの心の中で起こっていることを聞くためです。
詩篇2篇7節にはこのように書かれています。
「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」
(詩篇2篇7節)
神は主イエスキリストにこのように言われているのです。
「人が何をしても、あなたがたとわたしとの関係は変わることはありません。
あなたは、わたしの子。
きょう、わたしがあなたを生んだ。」
もちろん、あなたを生んだというのは、神がこの世に来られることを指しています。
彼は聖霊によって聖母マリアの胎内から生まれました。
神は彼についてこのように仰せられています。
「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。
わたしに求めよ。わたしは(異邦人の)国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。」
(詩篇2篇7節)
それはまるで、父がキリストに向かって「あなたの民はあなたを必要としなかった」と言っているようなものです、
イスラエル人はキリストを拒否ました。
しかし、私はあなたのために、イスラエルだけに受け入れられるよりも大きなものを持っています。
わたしに求めよ。
そうすれば、わたしはあなたに大きな相続地を与えよう。
それは異邦人の世界からの集まられた大きな集まりです。
「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。」
(詩篇2篇8、9節)
すなわち、異邦人はメシヤの力によって打ちこわされます。
悔いて神の御前に打ちこわされます。
そして、神を正しい主、救い主として受け入れるのです。
この驚くべきことが今でも続いているのです。
それはすべての国が主イエス・キリストの権威を認めるようになる千年王国において成就することです。
私は宣教師の集まりに参加したことはないが、壇上全体に書かれるべきだと思っています。
「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。」
(詩篇2篇8節)
神のみこころがここにあります。
それは神の御子が、神を敬わない異邦人を所有物として、大いなる遺産を持つことです。
しかし、今、この詩篇の終わりの部分に来て私たちは別の声を聞きます。
最後の3節では、とても穏やかで、愛に満ちた、優しい声を聞くことが出来ます。
お聞きになっているでしょうか?
もし、聞いていないというのであれば、それは聖霊から呼ばれているいないからではありません。
あなたの耳が地上の音に慣れ過ぎてしまい、聖霊の声に耳を傾けていないからです。
私たちは世の声、父の声、子の声を聞いてきました。
今、私たちは神の聖霊の声を聞く必要があります。
10節にはこのようにあります。
「それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。」
(詩篇2篇10節)
これは、神の子の要求を認めるよう、あらゆる場所のすべての支配者に呼びかけるものです。
「恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。」
(詩篇2篇11節)
つまり、尊敬と畏怖の念を持つ必要があります。
恐怖ではありません。
孝行な息子が父や母に与えるような畏敬の念を持つ必要があるのです。
そして、喜ぶのです。
「御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。
怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」
(詩篇2篇12節)
その美しさが理解できますか?
ここに拒絶された王がいます。
そして今、敵を打ちのめすためにやって来た力のある征服者として現れるのではなく、王としての権威の威光をもって人々の前に現れるのです。
王は手を伸ばし、あなたがそれを見ると、そこに傷があります。
それは、かつて十字架に釘で打ちつけられた手だからです。
王が平和の手を差し出すと、聖霊が語ります。
「哀れな逆らう罪人よ、その王と戦ってはいけません。
小羊の怒りが来る日まで待つのではなく、今すぐその足もとにひれ伏し、御子に口づけせよ。
その傷ついた手に口づけしなさい。
あなたがたが神に降参しなさい。
これ以上神と戦うことをやめなさい。
御子を退けている世と交わることを拒むのです」。
これが主の哀れみの日です。
御怒りの日には、時はすでに遅く、あなたがたは道から滅びうせるのです。
「キリストの手はとてももろいようです。
くぎで刺し通されているからです。
しかし、その手はしっかりと天を握りしめています。
キリストにある者たちだけが、天にたどり着くことができるのです。」
あなたは御子に口づけしたことがありますか?
あなたがたは、主の御足もとにひざまずいて、御前に出たことがありますか?
この最後の言葉を見てください。
「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」
これが全世界に及ぶメッセージであり、御怒りの日まで続きます。
「主イエスよ、私はあなたを信頼しています。あなただけを信頼しています」と言えることは素晴らしいことなのです。
神の民の苦しみ 3~5篇
最初の8つの詩篇は、すべてが深く結びついた音域を構成しています。
私たちはすでに詩篇の1篇と2篇を見てきたように、それに続く6篇も深く結びついています。
この音階では、私たちにこの地上を歩んだ唯一の完全な人として、第二の人、私たちの主イエス・キリストが提示されています。
すでに見てきたように、主は詩篇1章の祝福された人であり、最初の人です。
すべての生まれながらの最初の人であるアダムに結びついた人、悪者とは対照的に明確な存在です。
詩篇の2篇には、第二の人が、神によってシオンを治める王として示されています。
人々が、あらゆる国で直面する罪と不義と困難のためにひどく取り乱していました。
その中に真実な王が来られ、人々は喜んで心を開くはずでした。
ある人たちは、現在において、神の王国がこの世界で起こっていると考えています。
また、私たちは多くの場所で「王国が建設される」こと、もしくは建設するための私たちの責任について耳にします。
しかし、実際に、聖書に示されている王国は、この世にまだ建てられていません。
主イエス・キリストがここにおられたとき、人々にこのように語りました。
「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
(ルカの福音書17章21節)
私たちの訳では「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」となっています。
イエスは実際に王国の到来を待ち望んでいる民たちにこのように宣言していたのです。
「神の国は、(すでに)あなたがたのただ中にいるのです。」
つまり、王国の王がすでにここにいるということです。
そこで弟子たちが、イエスの回りに集まって、イエスの内閣を構成しました。
イエスは彼らに神に従って、再建されたゆえに、弟子たちはイスラエルの十二部族を裁く座に着くと宣言したのです。
弟子たちはキリストの王国の行政官です。
イエスが使徒たちと一緒に立っていた時、イエスはこのように言いました。
「あなた方は王国を探していますね?
王国はまだ先のことだと思っているのですか?
王はここにいて、王国はここにあります。
そして、ここに王の忠実なしもべがいます。」
しかし、国民であるユダヤ人はピラトの裁判でこのように叫びました。
「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
ヨハネの福音書19章15節
そして、神に油そそがれた王を拒否し、退けました。
何が起きたのでしょうか?
キリストは十字架において、罪の問題が解決されました。
現在は、ルカ19章に描かれている身分の高い人のようなものです。
彼は王国を得て帰るために遠い国に行きましたが、彼がいないので、私たちは王国を建てることはできません。
しかし、主イエスを愛する者、主に仕えたい者は、神の御霊に導かれて、異邦人の中から、またはイスラエルから、御名のために一つの民を呼び集めているのです。
この民は主イエスに信じた、救われた時に、聖霊のバプテスマ、すなわち教会が構成されました。
つまり、キリストのからだです。
キリストが再び王となるとき、その民はキリストとともに王となるのです。
その一方で、神の王国は私たちの心の中に確立されています。
神を信じる私たち、神を愛する私たちは、たとえ世から退けられたとしても、神を唯一の正しき王として認めています。
その意味において、神を愛する人々の心の中に隠された奥義としての王国について語られているのです。
王が戻ってきて全宇宙を所有し、現実に世の王国が私たちの主と彼のキリストの王国となる時が来ます。
その前に、この現在の待ち時間の間に、キリストの民は苦しみ、世から誤解されることが何であるかを知り、迫害と試練と困難に耐えなければなりません。
彼らのかしらは退けられました。
真実な王は退けられました。
そして、その聖徒たちは王とともに退けられているのです。
時より、私たちはこのように歌うことがあります。
「わたしたちの主は、今や拒絶されました。
世からも見捨てられました。
多くの者から無視されました。
ある者たちは王位につきました。
しかし、キリストはすぐに栄光のうちに来られます。
その時は近づいています。
王となる日が近づいているからです。」
その時が来るまで、私たちは、私たちの救い主を追い出した世に認められることを期待しません。
私たちは、イエスが家を持たなかったこの世界でくつろぐことを望んでいません。
しかし、キリストが戻ってきます。
神は正しいさばきで世を一掃します。
そして、私たちは神とともに王となるのです。
新約聖書の真理を知っている私たちは、イエス様が来られたら、最初に、ご自分の贖われた人々をこの世界から呼び出されます。
そして、空中でイエス様に会うことを知っています。
訳者注)正確な携挙の順番は、まず、キリストが空中まで降りて来られ、ラッパが鳴り響きます。
最初にキリストにあって死んだ死者たち(彼らは天では裸、もしくは仮のからだを持っています)が新しいからだでよみがえります。
次に、キリストにある者たちの新しいからだに変えられます。(裸になることはありません。)
つまり、この期間。順番があり、時間があります。
その後に、私たちのすべてが主の元に引き上げられ、出会うことになります。
私たちの希望に関する、非常に大切な内容です。
(テサロニケ人への手紙第一4章13~18節、コリント人への手紙第一15章52節参照)
その時、何が起こるのでしょうか?
この地上における主の人間へのかかわりの終わりとなるのでしょうか?
違います。
神は地上に証人(イスラエル)なしに裁くことはありません。
しかし、この世からクリスチャンがいなくなる時が来ます。
真剣に考えなければならない理由は、このことが今夜起きるかもしれないということです。
これは私たちを悩ますものではありません。
もし、花嫁が本当に彼を愛しているなら、花婿がいつ迎えに来るかもわからないとしても、花嫁を不安にさせるべきではありません。
しかし、それは人間に対する神の哀れみの終わりになのでしょうか?
違います!
なぜなら、私たちは聖書からこのように学んでいるからです。
「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」
ローマ人への手紙11章25、26節
再び、神はイスラエル人のほうに立ち返られ、誠実なイスラエル人の心を引き寄せます。
その時、彼らは聖書を調べさせられます。
結果、彼らの魂に光が照らされます。
やがて、この世にあってイスラエルのうちから残りの民が現われ、主を待ち望みます。
彼らは、救い主が空からおいでになることを待っているのではありません。
そのことはすでに起こっているからです。
それは、詩篇の2節に示されているとおり、キリストに捕らえられたすべての天の聖徒たちとともに王が地上に降りてきます。
そいて、王国を築き、王となるのです。
キリストが王となるのは、イスラエルの国のためだけでなく、全地の王となります。
それを考慮するならば、キリストは「シオンの王」よりもはるかに大きな地位を得ることになります。
キリストは自身のことを「人の子」と呼んでいます。
マタイの福音書25章31節にはこのように書かれています。
「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。」
(マタイの福音書25章31節)
キリストは世界を所有します。
そして、聖書の啓示にあるように、多くの人がキリストを真実な救い主であり、王であると認め、彼に服従するのです。
服従を拒否する者は裁きの時に断ち切られます。
その足もとにひれ伏す者たちは天にはいるのではありません。
この地上に建てようとしている王国に入るのです。
聖徒たちが天に召され、再び主が王となられたとしても、主とともに再び来られるまでの間は、イスラエルの民は悔い改め、彼らは確実に迫害を受けることになります。
それはヤコブの苦難の時です。もしくは主イエスがこのように述べています。
「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。」
(マタイの福音書24章21節)
事実、イエスはこのようにも述べています。
「もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。」
(マタイの福音書24章22節)
しかし、このようにも書かれています。
「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」
(マタイの福音書24章29、30節)
詩篇1篇には第二の人が出てきます。
詩篇2篇では、拒絶された王が出てきます。
そして、詩篇3篇から7篇では、救い主が再び戻ってこられるまでの間、神の民の苦しみと伴う信頼が描かれています。
詩篇8篇を見るならば、人の子の栄光があり、王国を所有し、義をもって全宇宙を支配しています。
詩篇2篇では「王」、詩篇8篇では「人の子」です。
このように、すべてが完璧な順序でつながっていることがわかります。
それでは私たちは詩篇3篇を見てみましょう。
「ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの賛歌」という見出しは興味深いものです。
真実な王ダビデは退けられ、横取りしたアブシャロムが王となっています。
これが現在の状況です。
真実な王である私たちの主イエスは退けられいます。
略奪者が王座についています。
当然、苦しみや悲しみが予想されています。
ダビデの経験は、主の拒絶されたの日に神の民が経験することを、見事に描き出しています。
そして、これらのことが詩篇3から7篇の中で描かれていることすべてと言ってもいいでしょう。
イスラエルの残りの者が大きな苦難の日に耐えるであろう苦難を、私たちの前にこのような独特な方法で述べられています。
そして、また、退けられた王が再び来るのを待っている神の民に常に適用されています。
詩篇3篇にはこのように書かれています。
「主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。セラ」
「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」
(詩篇3篇1、2節)
私たちはこの詩篇に「万能なる神」と題する必要があるかも知れません。
ここでは神の子が現実に苦しんでいるのです。
回りには敵がいます。
神の子をなじり、脅かし、このように言っています。
「あなたへの助けなどないのです。
あなたは見たこともない神を信頼しているのです。
神はあなたに何もすることができません。
神にあって、あなたがたを助ける者はいません。」
今、世はこのように言っています。
しかし、神の民は神を見上げて次のように言うことができます。
「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」
(詩篇3篇3節)
どんなに暗い日々が来たとしても、どんなに敵が猛威を振るったとしても、どんなに恐ろしいサタンの仕業であっても、わたしたちの盾は神であられ、わたしたちのかしらを高く持ち上げてくださる方なのです。
そして、神の聖徒はこのように言うことができます。
「私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。セラ」
(詩篇3篇4節)
しかし、それはその者が苦難から解放されたことを意味していません。
ダビデはアブシャロムからのがれて、荒野をさまよっていました。
それでも、敵はダビデをねらっていたのです。
ダビデは詩篇の中で、どのようにしてこの自分の出来事を神に任せることができたかを語っています。
それが可能とすることは偉大なことです。
言うのであれば、敵に対抗できるかどうかは問題ではありません。
敵に打ち勝つ私の能力の問題、もしくは この難局を乗り切る私の能力の問題ではありません。
私のすべてを神の御手に委ね、神が私と敵の間に立ってくださるのです。
「私は横にして眠った」という詩に続く節にある完全なる自信に注目してください。
「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。」
(詩篇3篇5節)
あなたはそんなことができたと思っていますか?
ダビデはアブサロムから逃げています。
いつ軍隊が丘を越えてくるかわかりません。
しかし、夜になって、神に身をゆだね、自分の衣をまとい、横たわって眠りにつきます。
ダビデはすべてを神にゆだね無事でした。
私は身を横たえて、眠りました。
朝が来て、ダビデは「私はまた目をさます。主がささえてくださるから」と述べたのです。
言い換えれば、私は私の破滅を求めるあらゆる敵と一緒によく眠っただけだということです。
それが可能になるのは、すべてを神に委ねたときだけです。
ダビデは言った、「主よ、あなたはアブシャロムのことをよく知っておられます。
あなたは私の敵のすべてを知っています。
彼らは私を滅ぼそうとしています。
あなたは私の息子アブシャロムがど感謝しらずの者かを知っています。
主よ、私を見守ってください。
そして、朝になって誰かが私に尋ねます。
「よく眠れましたか?」と尋ねられたら私はこのように答えることができます。
「私は良い睡眠をとることができました。
主が私を支えてくださったからです。」
それで強い信仰をもってこのように言います。
「私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。」
(詩篇3篇6節)
なぜでしょうか?
理由は彼らの敵はダビテに対するものではなく、神に対するものだからです。
そこでダビテは主に向かってこのように言ったのです。
「主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。」
(詩篇3篇7節A)
そのとき、ダビテは目ではまだ見ていないのに、このように信仰によって叫ぶのです。
「あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。」
(詩篇3篇7節B)
歯が砕けると、強く噛むことができません。
この者たちはダビデの後を追う多くの犬のようなものでした。
ダビデは彼らが歯が砕けているのを見て、ずっと前に、戦いが行われた傷跡であることを知ったのです。
最後ににアブシャロムの軍勢がヨアブとダビデの軍勢に攻めかかったが、彼らは打ち負かされました
ダビデにとって、荒野で神にゆだねたときと同じように、それは現実のものとして感じることさえありません。
このように神に安住し、神の無限の愛と力を頼りにできることは素晴らしいことなのです。
「救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。セラ」
(詩篇3篇8節)
あなたは詩篇4篇を「神への信頼」と呼ぶかもしれません。
ダビデは、義の神である神に立ち返り、神に頼ることができることを知っているのです。
「私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。」
(詩篇4篇1節A)
私の持つあらゆる義も、私は神から得ているのです。
私は何も持っていません。
「あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。」
(詩篇4篇1節B)
そして、ダビデは周囲の敵に目を向けました。
イスラエルの残された民のように、反キリストと獣の力が彼らを滅ぼそうとしているのを目撃します。
「人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求めるのか。セラ
知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。」
(詩篇4篇2、3A節)
「聖徒」(敬虔な者(godly man))とは誰でしょうか?
それは心の中に、神の正しい立場を与えている人です。
主はその人に「特別に扱われるのだ」と述べられています。
「私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。」
(詩篇4篇3B節)
その時、ダビテの魂は安らいでいるのです。
そして、ダビテは自分の魂と交わりの時を持っています。
ダビテはこのように語りました。
「恐れおののけ。そして罪を犯すな。」
(詩篇4篇4節A)
そうです。まさに神が行動するのを静かに待つのです。
ベッドの上で自分の心(魂)と対話し、じっと待っているのです。
「義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。」
(詩篇4篇5節)
ここに述べられている二つのことに注意してください。
最初に自分の生き方にに何の罪もないことを確認することです。
それから神に信頼を置くことができます。
もし、あなたがたが、不正のいけにえをささげるなら、あなたがたの生き方の中に、悪事や曲がったことや汚れたことがあるなら、神にすがることを語っても無駄です。
「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」
(詩篇66篇18節)
しかし、もし私が神の御霊によって、すべての間違いが示されていると判断できたなら、私は良心のとがめを感じることなく、賛美のいけにえをささげることができ、信頼することができ、恐れることはありません。
「多くの者は言っています。「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。」」
(詩篇4篇6節A)
ダビデは、あなたに主から受け取れると言っていますか?
私たちはそのことを見てみましょう!
ダビデはこのように言いました。
「主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。
あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。」
(詩篇4篇6、7節)
この世の人間は、外面的に物事がうまくいけば幸せです。
私たちは何度も平和と幸福の間には大きな違いがあることを、私たちは指摘してきました。
幸福は「運(haps)」次第です。
古典英語では「hap」はチャンスを意味します
「運(haps)」が理解できるのなら、世にはチャンスがあることになります
もし、人生の出来事に満足できるのなら、この世の人は幸せです。
もし「偶然」が満足のいくものでなければ、彼は不幸なのです。
では、クリスチャンにとっては「運(haps)」は何でしょうか?
もし、彼が平和が過ぎ去ることと考えているのなら、世とは何も違いがありません。
しかし、神は過ぎ去ることがありません。
ゆえに、同じように、魂は神に安住することができるのです。
ゆえに、ダビデのようにのがれた者であっても、もしくはイスラエルの残された民のように反キリストの支配下にある者であっても、信じる者は「あなたは私の心に喜びを下さいました。」と言うことができます。
そこにはすでに平和が据えられています。
「それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。」
(詩篇4篇7節)
そして、詩編の著者は再びこのように語っています。
「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」
(詩篇4篇8節)
そこには信頼と信仰があります。
ただ、私はあなたを信じます。
私はすべてをあなたに委ねることができます。
人はすべてを神に委ねることを学ばなければなりません。
なぜなら、私たちは自分のために、もしくは自分の持つどんな力においても、何も成し遂げることはできないからです。
神だけが私のために成し遂げることができるからです。
詩篇5篇では、神の聖さが称えられています。
ダビデが声を上げて祈る声が聞こえてきます。
「私の言うことを耳に入れてください。主よ。私のうめきを聞き取ってください。
私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。
主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。」
(詩篇5篇1~3節)
ダビデはその日を正しく始めています。
それは素晴らしいことです。
今朝、神はあなたの声を聞いたのでしょうか?
あなたがたは、何の言葉もなく一日を始めたのですか?
今日はどうしてうまく行かなかったのですか?
もしあなたが最初に神に話しかけずに、その日の仕事に着手するなら、彼らはいつもこのように感じるはずです。
雅歌の中で花婿はこのように述べています。
「私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。」
(雅歌2章14節)
それは私たちの祝福された主が私たちに求めているものなのです。
「主はあなたがたに、主と語る時間を取ってほしいのです。
主の言葉を読んでほしいのです。
そして、主がその言葉を通してあなたがたに語るようにしてほしいのです。
主のために、あなたがたに祈りの心を注ぎ出してほしいのです。
まさに「私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ」と書かれているとおりです。
困難な日に強く打ち勝つクリスチャンになりたいのであれば、神と一緒に一日を始めるべきです。
「あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいは、あなたとともに住まないからです。
誇り高ぶる者たちは御目の前に立つことはできません。あなたは不法を行なうすべての者を憎まれます。」
(詩篇5篇4、5節)
神の前に立つとは何でしょうか?
それは神を受け入れることです。
私たちは詩篇の1篇でこのように読みました。
「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」
(詩篇1篇1節)
悪者たちはさばきの中に立つことはないのでしょうか?
悪者たちは偉大な白い御座の前に立たなければならないのではありませんか?
その通り、かれらはそこに立つことはありません。
なぜなら、神がさばきの中に立つと言われる時、それは、その日に罪が赦され、神に受け入れられることを意味するからです。
「それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず(無罪になることはできません)、」
(詩篇1篇5節)
そして、ここではこのように書かれています。
「誇り高ぶる者(愚かな者)たちは御目の前に立つこと(無罪になること)はできません。」
(詩篇5篇5節A)
黙示録では終わりの日の恐ろしい裁きが世界中を襲います。
その時に大きな叫びが起こります。
「御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」
(ヨハネの創世記6章17節)
さて、このさばきに誰が立つことができるのでしょうか?
ローマ人への手紙5章1、2節には、次のように書かれています。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」
(ローマ人への手紙5章1、2節)
すべてのクリスチャンは、この世の人が知らない神の前に立っているのです。
救われていない人には立つ場所がありません。
しかし、神の子は皆、復活したキリストのうちにいます。
彼らはイエスの尊い贖いの血の無限の価値の中に完全に立つことができるのです。
この節の次のの部分に注目してください。
「あなたは不法を行なうすべての者を憎まれます。」
(詩篇5篇5節B)
これははどういう意味なのでしょうか?
どんなに罪が深くても、神は彼らを愛していると言うのは間違っているのでしょうか?
わたしたちは、次の御言葉そのものがこのように言っていることを知っています。
この御言葉に間違いはありません。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネの福音書3章16節)
そして、その世界は罪人によって構成されています。
では「あなたは不法を行なうすべての者を憎まれます」というのはどのような意味でしょうか?
神は悪人の行いを忌み嫌います。
神は罪人を愛しておられることが真実です。
しかし、罪を憎み、罪人が罪から離れて欲しいと願っておられるのです。
もし人が罪を犯し続けるなら、それは神の永遠からの追放にされなければなりません。
このように不義を行う者には破滅が訪れます。
「あなたは偽りを言う者どもを滅ぼされます。主は血を流す者と欺く者とを忌みきらわれます。」
(詩篇5篇6節)
そしてこの時点から、これらの美しい旧約聖書の詩篇の著者たちの魂の前には、強く恐ろしい人物が立ちはだかっているように見えます。
その者は神の民の敵であり、すべての聖なるものの敵です。
つまり、あなたが読んでいるように、終わりの時の前に出現する神の民の最後の大きな敵、反キリストの予兆が全体に渡って見えてきます。
彼こそが、ここに出てくる「主は血を流す者と欺く者」なのです。
読んでいくうちに、彼には他の言葉が使われています。
しかし、神の子はイスラエルの残りの者にこのように言うことが出来ます。
そして、今日、私たちにも適用することが出来ます。
「しかし、私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。
主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。」
(詩篇5篇7、8節)
言い換えれば、主よ、私が知りたいのは、あなたの道が何であるかということです。
「彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。彼らののどは、開いた墓で、彼らはその舌でへつらいを言うのです。
(詩篇5篇9節)
この一節は、ローマ人への手紙の3章で、キリストから堕落した人々について引用されています。
彼らは舌でへつらい(世辞)を言うのです。
「神よ。彼らを罪に定めてください。彼らがおのれのはかりごとで倒れますように。彼らのはなはだしいそむきのゆえに彼らを追い散らしてください。彼らはあなたに逆らうからです。」
(詩篇5篇10節)
あなたには、あまり哀れみ深い祈りではないように見えるかも知れません。
むしろ、ダビデは、神が彼らを打ち負かし、悔い改めさせ、彼らの魂を救ってくださるように祈らなかったのでしょうか?
詩篇の作者は、神の敵と神の民が最後の大きな多高いを繰り広げる危機的な時代へと私たちを導いています。
その戦いでは、義が勝利を得る唯一の方法は、主のすべての敵を滅ぼすことです。
ある人たちはこれらの詩篇のいくつか不敬な表現があり、キリストの霊に反しているように見えると繰り返し言ってきました。
もちろん、これらの表現は律法と関係しています。
来たるべきべき患難時代には、恵みよりも律法が支配することになると思われます。
結論として、今でも私たちは同じ霊の基準にに従っているのではないでしょうか?
南北戦争が終わろうとしていた頃、二人の紳士が列車の中で偶然出会いました。
1人がそこに座って聖書を読んでいると、別の1人がそばに座って言いました。
「友よ、驚きました。
あなたが読んでいるのは聖書ですね!」
もう一人が答えました。
「はい、そうです!」
「君は知的な人間に見えるが、まさか聖書を信じているとは?
私は若い頃は問題なく読んでいましたが、年を取ってからは聖書を捨ててしまいました。」
「何がそんなに気に入らなかったのですか?」
「よろしいでしょう。
例えばあの訓戒的な詩篇を見てみましょう。
私はそれらを愛に満ちた神と両立させることはできません。」
もう一人が彼に答えようとしていると、新聞配達の少年が客車の中を急いでやってきました。
「号外!号外!グラントがリッチモンドに進軍中!」。
誰もが新聞を欲しがっていたのです。
注)1864年、南北戦争の終了時、ユリシーズ・S・グラントは、最終目標であるリッチモンド占領を達成するために、バージニアを横断するオーバーランド作戦を開始しました。
この男は言いました「よし!グラントがやっと本気になってくれてうれしい!」
私の希望はリッチモンドを地球上から消し去ってほしいのです。
「友よ」、もう一人が答えました。
「訓戒的な詩篇」と言った、もう一人は何が言いたかったのでしょうか?
彼は南部の人々に対して心の中に憎しみを持っていたわけではありません。
しかし、4年間続いた戦争を考えると、リッチモンドを陥落させることがすべてを終わらせる最も早い方法だと感じていたのです。
そのように善と悪の間の長い戦いの後、ついに終わりが近づくのです。
神に反抗し、反キリストの下でサタンの軍隊が進軍している時、心は神に向かってこれらの敵を滅ぼし、義の勝利を願い叫ぶのです。
それは憎しみを意味するのではありません。
長い悪の支配が終わり、正義の支配が始まることを切望するものです。
そして、このように書かれています。
「こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。
主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。」
(詩篇5篇11、12節)
今日、試練を受けた神の民がこれらの詩篇を読み始めています。
そこで私たちは試練の中にいる者たちが、自分の切なる願いを表現するのに適した方法を見つけたのだと考えます。
しかし、イスラエルの残された者たちが獣と反キリストの手の下でひどい苦しみを受けるが日が来ます。
その日には、残された者に有益なことを願います。
彼らに神の光が少しでも理解できるのであれば、心は試練から解放され、神を仰ぎ、神を頼りにすることができ、王が戻ってきて義の支配をもたらす時を待つことができるようになるのです。
試練を通した栄光 6~8篇
詩篇6篇では、特にダビデは神の裁きと一人一人の聖徒の哀れみの必要性について述べています。
これは、奇妙に思えるかもしれません。
しかし、逆説的に思えるかもしれませんが、聖徒は罪人なのです。
主イエス・キリストを信じる者はみな、主イエス・キリストの完成された業と贖いの血のすべての価値において神に分け隔てられているという意味で聖別されています。
そして、神の御前で永遠に完成されている存在です。
日々、クリスチャンは失敗を意識しています。
神に近づけば近づくほど、自分の心と人生の罪を意識し、その欠点のために深く悔い改めているのです。
もちろん、神との交わりを完全に断ち切って、自分は罪のない人生を送っていると思い込むことは十分に可能なことです。
その者は外の世の基準で判断し、呪ったり、誓ったり、酔ったりしなければ、自分は聖い生活をしているだとと思い込めるからです。
しかし、人が神の御前に入るのならば、神の限りない聖さの実感に圧倒されてしまいます。
そして、自分の生活の中にある聖さにあまりにも反発するものがあることに気づいてしまいます。
ゆえに、主の前で悔い改め、打ち砕かれてしまいます。
しかしながら、その者は神の御業を厳しすぎるとは思いません。
かえって、神は恵み深くあられることに気づき、その哀れみにすがる傾向があります。
これが詩篇著者の姿勢です。
ヤハウェの怒りの日に、その者が哀れみを求めて叫ぶ冒頭の詩に注目してください。
「主よ。御怒りで私を責めないでください。激しい憤りで私を懲らしめないでください。
主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。
私のたましいはただ、恐れおののいています。主よ。いつまでですか。あなたは。」
(詩篇6篇1~3節)
旧約聖書の聖徒たちは、今日、私たちが持っている神の恵みの完全で明確な啓示を持っていなかったのです
いくつかの詩篇を読むときに、このことは覚えておく必要があります。
ゆにに、ダビデが「主よ。御怒りで私を責めないでください。
激しい憤りで私を懲らしめないでください」と叫ぶのは当然のことだったのです。
今日では私たちはこのように祈る必要はありません。
私はこのような聖句を覚えています。
「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
(へブル人への手紙12章6節)
神の懲らしめは決して怒りによらないことを私は知っています。
神の懲らしめよって、激しい不快になることはありません。
もし、神が私に懲らしめを与えるなら、それは神の哀れみ深い心によるものです。
神は私を御子の姿に完全に一致させるために必要なものだと考えているからです。
そうです。
私は、試練の中で神を信賴し、火の中で神をあがめなければなりません。
4節から7節には、聖徒が非常に苦しんでいる様子が描かれています。
自分の考えで説明がつかないほど苦しんでいるのです。
その者は戸惑い、混乱しています。
彼は神の扱いを理解できていません。
彼はヨブのようです。
ヨブは神が正しい方であることを知っていました。
ヨブは神が聖い方であることを知っていました。
ヨブは神と共に歩もうとしていたことを求めていました。
しかし、なぜか、主がヨブから身を引いたのです。
ヨブをなぜ、このような深い激しい嘆きと悲しみに放り入れられたのかを理解していなかったのです。
これを説明する試みこそが、ヨブ記の論点なのです。
詩篇の著者の言葉を聞いてみましょう!
「帰って来てください。主よ。私のたましいを助け出してください。あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。」
(詩篇6篇4節)
あなたはこの状況が理解できるでしょうか?
反キリストの手の中で苦しんでいる神の愛する残された人々は、人間の住む場所から追い出され、迫害され、追放されました。
餓死するかも知れません。
ひどい拷問を受け、「主よ、なぜ私はこんな目に遭わなければならないのですか」と叫ぶのです。
「あなたの恵みのゆえに、私をお救いください」
恵みをもって私を顧み、あなたの恵みのために私をお救いください。
そして、このように叫びます。
「死にあっては、あなたを覚えることはありません。よみにあっては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。」
(詩篇6篇5節)
「よみ」とは、ただの墓ではなく、墓よりも深いところ、肉体を持たない霊の住む場所、目に見えない世界です。
これを教義上の主張と受け取らないでください。
それは違います。
物質主義者、キリスト・アデルフィアン派、ラッセル主義者は、このような声明を喜んで言います。
あなたがたは、神の御霊がこのように言われているのを知らないのですか?
「死にあっては、あなたを覚えることはありません。よみにあっては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。」
つまり、人がよみがえる日までは、意識がないのです。
注)キリスト・アデルフィアン派
キリスト教系の新宗教です。
その教義は三位一体を否定しイエス・キリストの人性・被造物性を強調しています。
(聖書的ユニテリアン主義)
信仰によって永遠のいのちに入らない魂は消滅するだけなので、地獄の存在を否定する霊魂消滅説を取っています。
歴史的にキリスト教の主流を占めてきた教派のものとは大きく異なっています。
「生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。」
(伝道者の書9章5節)
この旧約聖書の聖句は私たちに何を語っているのでしょうか?
それは、死んだからだのことを言っているのです。
あなたが墓地に行ってあたりを見回し「これらの死者は何も知らない」と言ってもが、死者の魂の問題には触れていません。
ここで詩篇の著者は直前に死を見ています。
敵に次々と切り倒されるのを見てこのように言ったのです。
「死体は、あなたを覚えることはありません。
よみでは、だれも、あなたをほめたたえるものはいません。
もし彼らが、主を賛美するために生きていたら、あなたはもっと栄光を受けたはずです。」
今、私たちは新約聖書の啓示によって、詩篇の著者がはっきりと理解できなかったことを知っています。
「それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」
(テモテへの手紙第二1章10節)
今、私たちは、クリスチャンがからだから離れていることは、主の御前にいることであることを知っています。
そして、次のように言うことができます。
「私たちは見えない世界においても、神に感謝します。
わたしたちは御名を讃えます。」
第三の天に引き上げられたパウロは、聖徒たちの賛美を聞いて、つぎのようなことを述べています。
「パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」
(コリント人への手紙第二12章4節)
ここで、旧約聖書を読み返そうとしないでください。
新約聖書の時代まで、それが明らかにしなかったのは神の御心にかなうことではないからです。
主イエスがこの場面に来られ、言うなれば見えない世界から覆いを取り、墓の向こうの状況を明らかにされたのです。
詩篇の著者は続けてこのように言っています。
「私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。」
(詩篇6篇6節)
あなた方の中には、苦しみの中にいたと思う人もいるかも知れません。
寝床がびしょびしょになるほど泣いたことはありますか?
ダビデは、サウル王に追われた時、そうだったと言っています。
あなたはダビデほど苦しんでいません。
そして、来るべき残された民が何を経験しなければならないかを考えてみてください。
私たちは自分を哀しむ傾向があります。
私たちは次の聖句を思い出さなければなりません。
「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」
(へブル人への手紙12章4節)
ロシアから戻ってきた友人たちや、最近、中国から戻ってきた友人たちが、神の聖徒たちがその地で経験している恐ろしいこと、言葉にならない拷問を受けたことを聞くことがあります。
私は苦しみや試練について何も理解できなかった気がします。
ダビデは苦しみをよく知っていたのです。
私が話したこれらの地にいる神の民、そして来るべき日の神の民は、多くの苦しみを知らなければなりません。
現在、私たちは快適に暮らしています。
もし、数年後に振り返ることがあれば、私たちを大いに悩ませることは、神の素晴らしいいつくしみに比べれば何でもないことに思えることでしょう。
「私の目は、いらだちで衰え、私のすべての敵のために弱まりました。」
(詩篇6篇7節)
しかし今、詩篇のこの章の終わりでは、聖徒が困難を乗り越えて立ち上がるのを見ることができます。
どんなに恐ろしいものであっても、聖徒が彼らの上に立つことができるのは、聖徒が目を主に向けているからです。
彼の目が困難に向いているときには、それは克服できないように見えました。
しかし、彼がそれから困難を見ずに神に目を向けると、彼は自信を持っています。
「不法を行なう者ども。みな私から離れて行け。主は私の泣く声を聞かれたのだ。
「主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。」
(詩篇6篇8、9節)
私たちはここで信仰が働いていることを見ることができます。
詩篇の最初の箇所では、不信仰のために絶望し、苦しんでいる貧しい、悩める心でした。
しかし、今では彼は神に目を向けています。
結局は彼の悩みは非常に小さなものに見えていました。
そして、彼は叫んでいます。
「私の敵は、みな恥を見、ただ、恐れおののきますように。彼らは退き、恥を見ますように。またたくまに。」
(詩篇6篇10節)
私たちが神に何かを委ねるならば、それは素晴らしいことです。
その時、「きっと、主が引き受けられる」と言うのではなく、「すでに主が引き受けられた」と言うべきです。
わたしはあることを神の手にゆだねました。
神がそれを処理してくださったと信じています。
聖書の別の箇所にある美しい聖句を見てみましょう。
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」
(詩篇50篇15節)
ある日、私に困ったことが起きました。
私は心を痛めてこのように言います。
「ああ、何が起こるかわからない。
期待していたものがすべて壊れてしまうのではないかと心配です。
私は立っていられません。」
私はこのように話し、私は生ける神を全く知らない人のようにふるまうのです。
そして、神は語られます。
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」
「今日はわたしにとって苦難の日です。
わたしは神に向かって祈り、それからどうするのでしょうか?」
私はいつものようにうつむいて歩きます。
しかし、それは信仰ではありません。
神は「わたしを呼び求めよ」と言っているのです。
「主よ!私はあなたに要求します。
あなたが約束されたことを、私はあえて信じます!
それによって、私に試練を乗り越えさせ、勝利を可能にすることです。
詩篇7篇に移り、困難が訪れた時に備えておくべきもう一つのものがあることがわかります。
それは明確な良心です。
使徒パウロは、自分自身を訓練して述べています。
「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」
(使徒の働き24章16節)
もし私が悪い良心を持ち、もしくは、神との交わりから外れて生活していたり、判っていながら間違いを犯したり、問題が起こし、神のところに行きたいと思っても、祈ることができません。
ダビテはこのように言っています。
「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」
(詩篇66篇18節)
私は神のもとに行こうとしていますが、様々な問題が私の前にやってきます。
祈ることもできません。
だから、私は、良心を守るために、神に手短に報告するように気をつけなければなりません。
ならば、私は信頼して神様のもとに行くことができるのです。
詩篇7篇では、詩篇作者が正しい裁きを求めています。
そして、彼は言っています。
要約するのであれば「私は意図的に、故意に神に対して罪を犯しているという意識はありません」ということです。
私たちの誰もがそうであるように、彼は自分が失敗したことを知っています。
このことは詩篇5編で表現されています。
そして、あなたの人生の望みは義のために生きており、あなたの人生の目的は神のために生きることであることを知るのです。
最初の節で彼は信頼を表明しています。
「私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。どうか、追い迫るすべての者から私を救ってください。私を救い出してください。
救い出す者がいない間に彼らが獅子のように、私のたましいを引き裂き、さらって行くことがないように。」
(詩篇7篇1、2節)
そして、彼は正義の胸当てをつけます。
彼は敵に立ち向かおうとしています。
そして、自分の人生を見つめ、神に助けを求めています。
もっと慎重に人生を見ることができるように願っています。
そして、3節から5節でこのように言っています。
「私の神、主よ。もし私がこのことをしたのなら、もし私の手に不正があるのなら、
もし私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、また、私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら、
(わたしは、理由もなくわたしの敵である者から奪いました。)
敵に私を追わせ、追いつかせ、私のいのちを地に踏みにじらせてください。私のたましいをちりの中にとどまらせてください。セラ」
(詩篇7篇3~5節)
彼の敵は彼が悪いことをしたと非難しています。
そして、このように言ったのです。
「もし私がこのようなことをしていたのなら、敵に私を追わせ、追いつかせ、私のいのちを地に踏みにじらせてください。
私のたましいをちりの中にとどまらせてください。」
しかし、彼は自分の人生を振り返るのなら、自分に義がないことが真実であることも知っています。
彼は神の栄光を求めていたので、自信を持って祈ることができるのです。
6節では、彼は神に助けを求めています。
「主よ。御怒りをもって立ち上がってください。私の敵の激しい怒りに向かって立ち、私のために目をさましてください。あなたはさばきを定められました。
国民のつどいをあなたの回りに集め、その上の高いみくらにお帰りください。」
(詩篇7篇6節)
わたしはすべてをあなたの手に委ねました。
私は、あなたを私と私の敵との間に置き、なすべきことをあなたにお願いします。
私はあなたに信頼します。
「国民のつどいをあなたの回りに集め、その上の高いみくらにお帰りください。」
(詩篇7篇7節)
そして、彼は完全に主を信頼して、このように述べています。
「主は諸国の民をさばかれる。主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。」
(詩篇7篇8節)
あなたは私に言えるのでしょうか?
「私は神に対して、このようなことを言うことができません。
主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。」
そうです。
人間は自分の義を持っていません。
ダビデはそれを認識していました。
しかし、ダビデは今、神の恵みによって自分のうちに義が与えられたことを語っています。
ダビデは心を尽くして。主の前を歩もうとしていることを自覚しています。
「ダビデのハープの弦は、イエスの心の和音」であったとは素晴らしい言葉です。
これらの詩篇を通して、私たちの主イエスの声を聞くことができます。
私たちは時々、特定の詩篇、おそらくそのうちの30、もしくは40の詩篇を挙げて、それがメシアの詩篇だと言うことがあります。
新約聖書の中に、これらの詩篇とキリストを結びつける明確な言及があるからです。
このように、苦しみの中にある救い主が、ご自身を父に捧げていることは、詩篇を通して正確にたどることができます。
この世界にあって、神はしばしば親友を最悪に扱うのです。
神はご自分の御子を最も最悪に扱われました。
しかし、そのことは何を物語っているのでしょうか?
すべてこれらの困難なことは、将来の祝福のために働いています。
私たちの主イエスは「はずかしめをものともせずに十字架を忍んだのです。」(へブル人への手紙12章2節)
それは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、私たちクリスチャンはこのように言うことができます。
「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」
(コリント人への手紙第二4章17節)
しかし、私たちは、神とともに奮起した霊をもって歩めることを確信しましょう。
もし、私が祈ろうとしても、心がいつも私の誠実さの欠如を責められるのなら、そこには自由はありません。
私の人生に邪悪なことがあったなら、それは裁かれなければなりません。
この詩篇の次の節である、9節と10節では、詩篇の著者が神に救いを求めていることに注目してください。
「どうか、悪者の悪があとを絶ち、あなたが正しい者を堅く立てられますように。正しい神は、心と思いを調べられます。
私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われる。」
(詩篇7篇9、10節)
「心の直ぐな人」、つまり、内なる人です。
私の弁護者は、心の直ぐな人神によるものです。
彼の上にどんなに大きな洪水が起きていようとも、その者は神に信頼することができます。
その者は神に導かれることを信じているからです。
11節から17節で神の支配について述べています。
神は宇宙の道徳的な支配者です。
何が起こっても神の手から逃れることはできません。
許されている悪には限界があります。
「神は正しい審判者、日々、怒る神。」
(詩篇7篇11節)
神は宇宙を裁く者です。
そして、邪悪を裁かれます。
私は何もする必要はありません。
主はこのようになされます。
「悔い改めない者には剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、
その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。」
(詩篇7篇12、13節)
ある日、神は向き変えて、御自分の聖徒たちを苦しめる者たちを裁かれます。
14節から17節には、悪人の終わりが述べられています。
まだ、彼らが耐えなければならない裁きについて書かれています。
神の民は、この世で経験するすべての悲しみを知っています。
神の民がこの光景を後にした瞬間、そこには終わりなき祝福しかありません。
その一方で、この世の人がここに来るまでに知るはずのない、あらゆる種類のあらゆる喜び、あらゆる喜び、あらゆる幸福が存在しています。
しかし、その反対側には悲しみしかありません。
かつて、アブラハムが金持ちに言った言葉を覚えているでしょうか?
「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。」
(ルカの福音書16章25節)
クリスチャンになった賞金稼ぎには、奥さんがいましたがわずかに腹を立てていました。
彼がクリスチャンでなかった時代には、彼らは劇場やあらゆる世俗的なものを見て回っていました。
しかし、今では今ではどこにも行くことがありません。
今や、奥さんは完全に激怒してしまい、彼がクリスチャンになったことを批判しました。
ある日、彼女がほうきを持って彼を追いかけてきました。
彼が彼女の邪魔をしないようにしようとしましたが、彼はつまずいて倒れてしまいました。
彼女はそれに乗じて彼を何度も叩きました。
そこでドアが開き、彼の古い友だちがそこに立っていました。
この奇妙な光景を見てこのように言いました。
「なんだ、ボブ、あんな小柄な女に殴られているのかい?
——元賞金稼ぎだろう!」
「ああ」
彼は答えました。
「彼女はこの世で手に入れることのできるすべての天国を手に入れようとしているだけだよ!
彼女がそれを楽しんでいる限り、私は彼女にそれを与えるだけです。」
ダビテは最後の4節で強調して語っています。
「見よ。彼は悪意を宿し、害毒をはらみ、偽りを生む。
彼は穴を掘って、それを深くし、おのれの作った穴に落ち込む。
その害毒は、おのれのかしらに戻り、その暴虐は、おのれの脳天に下る。
その義にふさわしく、主を、私はほめたたえよう。いと高き方、主の御名をほめ歌おう。」
(詩篇7篇14~17節)
ここでこの苦しみの時代が終わります。
次の詩篇では、人の子が現れ、すべてのものの上に置かれるのを見ることができます。
それは驚くべき詩篇で、新約聖書の中で何度も言及されています。
もはや、私たちはむなしい者やその不敬な行ないに心を奪われることはありません。
そして、神の民の苦難にも心を奪われることもありません。
神の御名の不思議とその創造の栄光に目を向けています。
「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました。
あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。」
(詩篇8篇1、2節)
神が立ち上がり、地を震わせ、サタンの支配の長い時代を終わらせます。
敵と復讐する者を静める日が来たのです。
詩篇の著者は見上げてこのように言いました。
「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」
(詩篇8篇3、4節)
ああ、ダビテは述べています。
「自分はとても小さく感じます。
かつては自分がとても大切だと思っていました。」
私には悲しみと苦悩が迫っていました。
今、私が天を見上げ、太陽の銀河とその周りの惑星が天にあり、宇宙が無限に広がっているのを見ました。、
そこには神が被造物である天に気をかけて下さっていることを見ることができます。
それ以上に、神は私に気にかけてくれていることは感動すべきことです。
「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」
(詩篇8篇4節)
しかし、神は第二の人に目を留めておられます。
彼がこの世界に絶対的な権威を持つべき時を定められることを、神はお望みになっておられます。
神はアダムにこの権威を与えました。
しかし、アダムは人の子ではありません。
したがって、この箇所はアダムについて述べているわけではありません。
神の目的は、人間は下等な被造物を服従させることでした。
しかし、それに失敗し、第二の人が登場します。
ここで彼は神の目の前にいます。
「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。。」
(詩篇8篇5、6節)
この方は私たちの主イエス·キリストです。
彼は、私たちが聞いたとおりにヘブル人から出てきました。
神の栄光から出て、御使いたちよりも低い地位に着かれた方です。
私たちの主イエス・キリストは、この地上におられたときも同じように、栄光の中におられる方であることをしっているでしょうか?
これは、私たちの心を慰めてくれる聖書の最も素晴らしい真理の一つです。
「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」
(テモテへの手紙第一2章5節)
ステパノもこのように言っています。
「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。
(使徒の働き7章56節)
サタンは神の計画を阻止しようとしました。
しかし、神の計画は実行されます。
「万物を彼の足の下に置かれました。」
私たちはヘブル人への手紙の中でこのように読んでいます。
「万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」
(ヘブル人への手紙2章8、9節)
私たちは、神がご自分の御心を成就されることを知っています。
すべてのものが神の下に置かれるのではありません。
神がすべてのものの上に立つのを見ることになります。
道徳的な世界だけでなく被造物の世界においても同じです。
「すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
空の鳥、海の魚、海路を通うものも。
私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」
(詩篇8篇8、9節)
私は、自分の過失でもないのに堕落の苦しみを味わった被造物が、神の栄光の現れる日に堕落の束縛から解放される時のことを考えるのが好きです。
私たちはイザヤ書の聖句から、祝福は野の獣と家畜にもたらされることを学んでいます。
ジョン・ウェスレーは、牛や獣が天国に行くことを示す説教を何回も用意しました。
それは天国(新天新地)にあって成就し、神は彼らが地上で苦しんだすべてを贖い、最後には天に連れて行ってくれると考えていたからです。
しかし、聖書は次のように語っています。
「ところがこの者どもは、捕えられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。」
(ペテロの手紙第二2章12節)
「捕えられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物」という言葉が示しているのは、神が支配し、すべてのものがその足の下に置かれるとき時に、下等な被造物は堕落の束縛から解放されるということです。
そして、動物そのものが、私たちが知っている以上に楽しい存在になるのです。
そして、詩編の著者はこの音階を次の言葉で締めくくっています。
私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」
(詩篇8篇9節)
詩編の著者の心は、神の人、神の喜びの人、人の子という考えに喜びであふれています。
主は御自分のために強くなられた方で、やがて万有の支配者となられます。
地から生まれた人間 9~12篇
私たちは今、すべてが互いに密接に関連している詩篇の別のグループに来ています。
今回は音階の代わりに7段階の区分を持っています。
最古のヘブライ語のテキストでは、元々は詩篇9篇と10篇が一つだったので、6段階しかありませんでした。
いつから2つに分かれたのかはわかりません。
単純な9篇ではなく、詩篇9篇と10篇として認識しています。
それに11、12、13、14、15篇を加えると、7つの区分ができます。
この最初の2編である詩篇9編と10編では、神の民が大きな苦悩の中にあり、悪意に満ちた特徴を持って彼らを圧迫し、迫害されている様子が描かれています。
彼は、詩篇10篇の最後の節で「地から生まれた人間」と呼ばれています。
私たちの主イエスは「第二の人、天から来た主」と呼ばれていることはとても重要なことです。
そして、聖書全体を通して、私たちは新約聖書に読む進めるにつれて、旧約聖書の中にあるヒントによって、ますます明確になってゆきます。
彼は終わりの日に現れる、私たちの主イエス·キリストと全く対照的な人間です。
私たちの主イエスは、天にあるものと御霊にあるものとをご自身のうちに具体化されました。
しかし、この「地から生まれた人間」は、地上のすべての原理と肉の原理とを自身のうちに具体化しています。
あなたはイエスが地上におられたとき、ユダヤ人たちに言われたことを覚えているでしょうか?
「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。」
(ヨハネの福音書5章43節)
間違いなく、イエスが言っているのは旧約聖書のさまざまな箇所に登場する人物ついてです。
ここでは同じ人物として呼ばれています。
「地から生まれた人間」、ダニエルの中で「王」として語られている人で、「思いのままにふるまい」人です。
「この王は、思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高め、大いなるものとし、神の神に向かってあきれ果てるようなことを語り、憤りが終わるまで栄える。定められていることが、なされるからである。」
(ダニエル書11章36節)
預言者ゼカリヤは「偶像の羊飼い」 として描かれている人は、羊の群れを置き去りにし、群れの世話をせず、実際に彼らを迫害したのです。
「ああ。羊の群れを見捨てる、能なしの牧者。剣がその腕とその右の目を打ち、その腕はなえ、その右の目は視力が衰える。」
(ゼカリヤ書11章17節)
新約聖書を読み進めていくと、この人物の名前が出てきます。
いや、むしろタイトルと言った方が適切かもしれません。
ヨハネはこのように言っています。
「小さい者たちよ。今は終わりの時です。
あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」
(ヨハネの手紙第一2章18節)
私たちは彼が現れるのが「終わりの時」であることを知っています。
しかし、同時に終わりの日に一人の反キリストが現れることを示しています。
使徒パウロは、テサロニケ人への手紙第二2章8節で彼について非常に明確に語っています。
パウロは、この者をはっきりと「不法の人」と呼んでいます。
「その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。」
(テサロニケ人への手紙第二2章8節)
私たちの日本語聖書では、彼を「不法の人」と呼んでいます。
正しくは「邪悪な人」、正しくは「無法な者」であり、この章では「罪の人」とも呼ばれています。
「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。」
(テサロニケ人への手紙第二2章3節)
ヨハネの黙示録では、彼は「偽預言者」として、また「一匹の獣」として語られています。
この獣は、パレスチナの地から出てきた獣で「小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。」と述べられています。
「また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。」
(ヨハネの黙示録13章11節)
ヨハネの黙示録は小羊の書です。
小羊についてあなたがたは黙示録の中で29回読んでいます。
13章には、小羊に似ているが竜のように話す偽の小羊が出てきます。
その者はサタンの力を借りているのです。
西暦2世紀の昔のクリスチャン教父の一人は、彼を「サタンの長子」と呼んでいます。
彼は偽のキリストです。
この2つの詩篇を勉強していると、この偽キリストの邪悪な特徴の影が両方の詩編にあることがわかります。
神の教会が捕えられた後、ヤコブの苦難の時代が始まります。
この時代は反キリストによって支配され、パレスチナの地に残されている神の民にとって、このことが何を意味するかを知ることができるのです。
彼の主義は支配、もしくは破滅です。
もし人々が彼の権威に従わないのであれば、もしくは彼を指導者と認めないなら、彼は彼らを滅ぼすだけです。
それゆえ、その時代、神の民は、神の御手の下でひどい苦しみを受けることになります。
私たちは彼の特徴について多くの予測をしてきました。
紀元前、もしくは紀元後においても、何世紀にもわたって、反キリストの記述にほぼ一致する人たちがいました。
新旧約聖書のイスラエルの民の歴史に詳しい人なら、アンティオコス・エピファネスの治世下でイスラエルの民がどんな目に遭ったかを知っています。
彼は旧約聖書の反キリストと呼ばれるシリアの暴君です。
ユダヤ人たちが、偽りの神々を拝み、その祭壇に香をささげる準備ができていなければ、彼はユダヤ人たちを何千人も殺し、地を血で赤く染めました。
キリストがこの世に来てからの数世紀の間に、このようなの恐ろしい暴君が何人もいました。
初期のキリスト教徒が最初にネロを反キリストと考え、後にドミティアヌスだと考えたのも不思議ではありません。
後に、異教徒のローマが没落し、教皇のローマが取って代わったとき、教皇政治のもとでクリスチャンがどんな苦しみを味わったかを考えてみてください。
ルターは、教皇こそが反キリストであり、一人の個人ではなく、罪の人は組織だと考えていました。
また、教皇の組織であり、神の言葉を愛し、教皇の代理を認めない神の慎ましく忠実な人々を滅ぼそうとしていると確信していました。
その後、ロシアの恐ろしい圧政の下で、ソ連政府の下で殉教した何十万人もの貧しく苦しんでいるクリスチャンたちが、レーニンを、そして、今ではスターリンを反キリストと考えたとしても、私たちは驚きません。
結論として、反キリストという言葉は「キリストに敵対する」という意味でしかありません。
つまり、この意味において、これらの人々はすべて反キリストであり、福音を憎み、神の民を憎み、キリストに敵対する暴君であるならば、その人は本質的に反キリストなのです。
しかしながら、これらの反キリストは、今だ来ていない偉大な反キリストの影にしかすぎません。
それを念頭に置いて、私たちはこれらの詩篇を注意深く見ながら、神の民の心情を知ることができると思います。
詩篇9篇と10篇には、「地から生まれた人間」が神のすべてのものを抑圧し、破壊し、この世から根絶やしにしようとしている姿が描かれています。
詩篇11篇から15篇には、これらすべてを視野に入れた神の民の心の訓練の姿があります。
もちろん、詩篇9篇と10篇にはこうした訓練が描かれていますが、当時の暴君を扱っています。
詩篇9篇は賛美の歌で始まっています。
結論として、神の民がどんな苦しみを受けて、火の中にいるとしても、常に賛美していることは驚くべきことです。
これはキリスト教精神における神に対する素晴らしい証明のひとつです。
人々は、このような最も激しい苦しみ、試練、困難さえも通ることができます。
さらに、彼らの心は、すべての痛み、苦悩、悲しみを乗り越えます。
彼らは火の中においても賞賛されるのです。
あなたがたは、パウロとシラスの困難をどのように描写するば良いのでしょうか?
彼らは、牢獄の中に投げ込まれたのです。
背中から血を流し、足は棒で固く固定されました。
不平を言うのでもなく、神に対して非難さえもしていません。
「なぜ、神は神の子である私に、このような苦しみを受けることを許されるのですか?」と問いてもいません。
彼らが神への賛美を歌い、囚人全員に聞こえるまで祈りながら一緒に声を上げているのを見たはずです。
その時、大地震が来て、看守が改心しました。
そのような苦難の中で、人が栄光を得ることができる他の何かの手段を知っていますか?
ダビデは聞きました。
ダビデは詩篇の著者であり、苦しみが何であるかを知っていたからです。
サウルが王位に就いていたとき、ダビデは荒野に追い出され、迫害され、憎まれ、見捨てられ、それでも立ち返って愛することが何であるかを知っていました。
不平や不満を言う代わりに、彼の心は感謝の中に現れています。
「私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。」
(詩篇9篇2節)
気持ち半分ではありません。
あなたがたは、来たるべき日、かつてないほどの苦難のただ中で、神の民がこれらの言葉を口にしたことを思いだすべきです。
「私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。」
(詩篇9篇1節)
私はあなたを心から喜びます。
私たちの境遇は喜べないかもしれません。
しかし、神にあってはいつでも喜ぶことができます。
神はすべての境遇にまさっておられるからです。
クリスチャンがこれらの境遇に入るのは悪いことです。
ある兄弟が、調子の悪いことを知っている別の人に言いました。
「こんにちは、兄弟!調子はどうですか?」
彼は「私はこんな状況ですがかなり元気です」と答えました。
そしてもう一人が言いました。
「あなたがこんな状況にあると知って本当に残念です。
あなたがこれらの状況を克服できることを願っています。
主はあなたをこれらの状況を克服させることができます。」
もう一人が「その通りですね!
私はもうそのことは考えるのをやめます。」と答えました。
私たちがこの状況下ではいる必要はありません。
この人はこのような環境にいながら、差し変えて喜んでいるのです。
「私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。」
(詩篇9篇2節)
その時、ダビテはあなたがたに、神に信頼していることを語っています。
敵に向かっているときでさえ、ダビテはこう言うことができたのです。
「私の敵は退くとき、つまずき、あなたの前で、ついえ去ります。」
(詩篇9篇3節)
ご存知のように、信仰は神の言葉を守ることを神に頼ることです。
神が敵からの解放を約束されたことを理解し、解放されたことを自然に受け入れるのです。
「あなたが私の正しい訴えを支持し、義の審判者として王座に着かれるからです。」
(詩篇9篇4節)
世界中が混乱の状況に陥り、国々は荒れ狂い、戦争や戦争の噂が最も勇敢な心さえも震え上がらせるかもしれません。
しかし、信仰によってすべてを見渡すのであれば、神が王座に座っておられることを認めます。
そして、私たちは信仰によって、神が最後にすべてをご自身の栄光のために実現されることを知るのです。
「あなたは国々をお叱りになり、悪者を滅ぼし、彼らの名を、とこしえに、消し去られました。」
(詩篇9篇5節)
これは実際に起こったことではありませんでした。
しかし、信仰は、実際には起こっていないことを語っています。
彼は引き返して、敵に向かって言うのです。
現在、敵はまだロシアで同じ血なまぐさい宣伝活動を続けています。
最終的には神が立ち上がり、神の民を救われます。
そして、聖徒はこのように叫ぶのです
「敵は、絶え果てて永遠の廃墟。あなたが根こぎにされた町々、その記憶さえ、消えうせました。」
(詩篇9篇6節)
7節から12節で、苦しむ信者は、主が偉大な力を得てシオンを統治しているのを目にします。
「しかし、主はとこしえに御座に着き、さばきのためにご自身の王座を堅く立てられた。
主は義によって世界をさばき、公正をもって国民にさばきを行なわれる。
主はしいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで。
御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」
(詩篇9篇7~10節)
今の私たちはどうでしょうか?
神の民の多くが迫害と試練の時に経験したことについて、今だに、私たちはまだ何一つ知りません。
イスラエルの残された民たちがどんな目に会わなければならないのか、私たちは何も知りません。
なのに、私たちにはちょっとつらいことがあったからといって、すぐに誤解にぶつかり落胆し、たびたび頭を木の枝のように垂れるものです。
決して、神は御言葉を曲げず、民を失望させません。
しかし、ある者は言うかも知れません。
「神は民を見殺しにした。神は彼らが拷問され、苦しめられるのを許しました。」
そうかもしれません。
しかしそれは敗北ではありません。
というのは、たましいがからだを離れたその瞬間から、それは主の御前にあり、地上で受けたすべての苦しみは、主がその上で豊かに償われるからです。
そして、詩編の著者はこのように叫びました。
「主にほめ歌を歌え、シオンに住まうその方に。国々の民にみわざを告げ知らせよ。」
(詩篇9篇11節)
ここでは詩編を預言的に読むことができます。
詩篇は、イザヤ書やエレミヤ書と同じように、現実には預言的な要素を持っています。
新約聖書は「預言者ダビデ」について語っています。
「兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。
彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。」
(使徒の働き2章29~31節)
シオン、もしくはシオンの山について語られている時は、私たちは正確に言っている意味を覚えておくべきです。
それはシオンの山のことです。
キリスト教会(契約神学)では、イスラエルと彼らに約束された王国の継承に関係するこれらの用語の多くをキリスト教に取り入れ、すべてを霊化し、教会をシオンの山と呼ぶ人たちがいます。
数年前に歌の本を編集していました。
伝道でよく使われる歌で、どうしても手に入れたいものがありました。
それは「シオンよ、急いであなたの使命を全うせよ(O Zion Haste Thy Mission High Fulfilling)」という美しい歌です。
シオンは全く伝道活動をしていません。
しかし、私はその賛美歌が欲しかったので、最初の行を次のように変えました。
「クリスチャンよ、あなたの使命を全うするために急げ!」
しかし、いつの日か、シオンは全世界に祝福の使命を持つのです。
その時、主イエスはシオンの山で王となり、そこで王となられます。
ダビデは信仰によって、反キリストが滅ぼされるのを見て、主がシオンに住まわれるのを見ています。
そして、神は詩篇のダビデの言葉を成就させるのです。
「国々の民にみわざを告げ知らせよ。」と書かれているとおりです。
そして、神は自分の民が苦しんだことを忘れないを覚えています。
あなたがたは苦しみを受け、また見捨てられ、忘れられた者と思ったかもしれません。
しかし、神は決して忘れていません。
あなたは「でも、他の人からひどい扱いを受けた」と言うかもしれません。
しかし、神はすべてを知っておられます。
12節にはこのように書かれています。
「血に報いる方は、彼らを心に留め、貧しい者の叫びをお忘れにならない。」
(詩篇9篇12節)
主は、ご自分の民の受けるすべての苦しみを心に留められています。
裁きの日には、ご自分の民に苦しみをもたらした者たちに報いがあります。
13節から17節の終わりまで、詩篇の著者が個人的な体験を語っている節があります。
「主よ。私をあわれんでください。私を憎む者から来る私の悩みを見てください。主は死の門から私を引き上げてくださる。
私は、あなたのすべての誉れを語り告げるために、シオンの娘の門で、あなたの救いに歓声をあげましょう。
国々はおのれの作った穴に陥り、おのれの隠した網に、わが足をとられる。」
(詩篇9篇13~15節)
これは現在においても適用されるのでしょうか?
彼らには助けがありません。
国々は、その陥った穴から出る方法を知りません。
私たちが読んでいる現在では、千倍も悪くなってゆきます。
「主はご自身を知らせ、さばきを行なわれた。
悪者はおのれの手で作ったわなにかかった。ヒガヨン セラ」
(詩篇9篇16節)
16節の最後にある奇妙な言葉に注目してください。
「ヒガヨン セラ」
これらの言葉は詩篇の一部ではないので、読む必要はありません。
聖歌隊の指揮者への指示にすぎません。
「ヒガヨン」はヘブル語の音楽の一種であり、この詩篇はこれに合わせて歌われることになっていました。
「セラ」は私たちが持っている小さな休止符のようなもので、聖歌隊が進む時に一息つくタイミングを与えるためのものです。
彼は次の節で非常に深刻なことを言おうとしています。
ここではそのように厳粛な方法で語られています。
彼はまず、少し休んでくださいと言って、間を置いています。
主は、世が聞きたがらないこと、人が信じたがらないことを私たちに語られます。
それでも、神の聖なることばがここにあります。
「悪者どもは、よみに帰って行く。神を忘れたあらゆる国々も。」
(詩篇9篇17節)
ここには、神の子供に非常に不思議な効果をもたらすものがあります。
彼の心は、悪人たちが沈んでいく恐ろしい運命を考えて同情しています
しかし、もし、自分が裁きから救われたことを考えるときに、心で感謝することができます。
地獄とは何でしょうか?
その意味を考え、私の周りの群衆を見る時に、私の心は大きな哀れみで満たされるはずです。
その反面、このような運命から私を救い出してくださった方を、何とほめたたえましょうか?
何年も前、私が救世軍の幹部だった頃、私たちは歌を歌っていました。
その合唱は次のようなものです。
「私が行く道の一歩ごとに、あなたが投げかけるあなたの王座の白い輝きで輝かしてください。
そうすれば、失われた湖からの赤い光は、毎時間、その恐ろしい光を放ちます。」
祈りの中で神に語りかけ、時々この言葉が浮かんできます。
そして、私は神にこのように祈ります。
「世の男も、女も罪のうちに急いで火の湖を眺めながら歩いています。
私はこの大きな白い王座を眺めながら、日々を生きたいと思います。
私の周りにいる魂の要求に無関心ではありえません。」
私には、神の子どもが、自分を苦しめている者たちが迫っている運命を考えます。
その時、私は彼らに悪意や敵意を抱くことができません。
詩篇の著者は、神を信じない国々が受けようとしている裁きのことを思う時、そこから自分を救い出してくれた恵みを思い、憐れみに心を揺さぶられ、賛美の声を上げるのです。
最後の3節で、著者は神の慈悲に感謝しながらも、神の民の苦しみを終わらせるように求めています。
「貧しい者は決して忘れられない。悩む者の望みは、いつまでもなくならない。」
(詩篇9篇18節)
現在、貧しい者たちが忘れられているように見えます。
しかし、いつもそうではありません。
「主よ。立ち上がってください。人間が勝ち誇らないために。国々が御前で、さばかれるために。
主よ。彼らに恐れを起こさせてください。おのれが、ただ、人間にすぎないことを、国々に思い知らせてください。セラ」
(詩篇9篇19、20節)
もう一つの安息があります。
そのことを著者は詩篇10篇の中で語っています。
冒頭の2節で、彼は不法な者を目の前にして、神を避け所として叫び求めます.
「主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。」
(詩篇10篇1節)
これはヤコブの苦難の時です。
「教会は大きな苦難を経験するのか?」という質問をする人はここにはいないでしょう。
もし彼らが、大きな苦難が教会の問題の時ではないことを理解できたなら、これがヤコブの苦しみの時であり、苦難のさばきは、教会に注がれるのではなく、地上に住む人々に注がれるということが理解できるはずです。
教会はその時が始まる前に、そこから取り出されます。
ここにいる民は、イスラエルの残りの者、ヤコブの子孫です。
しかし、主が彼らを御国の祝福の中に入れる前に、彼らが経験しなければならない最後の試練です。
ここにいる悪者は、その日、神の民を滅ぼそうとします.
この悪者はパウロがテサロニケ人への手紙第二2章で述べている不法な人と同じです。
「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。」
(テサロニケ人への手紙第二2章)
この悪者は、高慢で貧しい者を迫害します。
そして、彼に関係する他の人がいます。
「悪者は高ぶって、悩む人に追い迫ります。彼らが、おのれの設けたたくらみにみずから捕えられますように。
悪者はおのれの心の欲望を誇り、貪欲な者は、主をのろい、また、侮る。」
(詩篇10篇2、3節)
4節から11節までは、この不法な人の邪悪なと特徴について書かれています。
私たちの前に現れるのは、まさに反キリストそのものです。
「悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは「神はいない。」の一言に尽きる。
彼の道はいつも栄え、あなたのさばきは高くて、彼の目に、はいらない。敵という敵を、彼は吹き飛ばす。」
(詩篇10篇4、5節)
悪者は神が何をしているのか、何を計画しているのかを何も知りません。
この世界の暴君は度々そのような高慢な立場を取ってきました
ムッソリーニが撃たれて殺されそうになった時、彼は嘲笑してこのように言いました。
「私を殺せる弾丸は作られていない。」
ムッソリーニは、自分を倒そうとする敵のすべての試みよりも、自分が絶対的に優れていると感じていたのです。
そして、反キリストは心の中でこのようにいうのです。
「彼は心の中で言う。「私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない。」」
彼の口は、のろいと欺きとしいたげに満ち、彼の舌の裏には害毒と悪意がある。
彼は村はずれの待ち伏せ場にすわり、隠れた所で、罪のない人を殺す。彼の目は不幸な人をねらっている。」
(詩篇10篇6~8節)
もちろん、彼ではなく、代理人を通して行います。
これは、現在のロシアでも見られます
秘密警察が主に仕える者を見張り、捕まえようとしています。
「彼は茂みの中の獅子のように隠れ場で待ち伏せている。彼は悩む人を捕えようと待ち伏せる。悩む人を、その網にかけて捕えてしまう。
不幸な人は、強い者によって砕かれ、うずくまり、倒れる。
彼は心の中で言う。「神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。」
(詩篇10篇9~11節)
彼は、神は何をやっても何の関係もなく、自分の思い通りにできると思っています。
さて、この詩篇のこの章の終わりの節で、再び、ダビデは反キリストの手にかかって苦しんでいる残りの人々を代表して、救いを求めて神に祈りをささげています。
「主よ。立ち上がってください。神よ。御手を上げてください。どうか、貧しい者を、忘れないでください。」
なぜ、悪者は、神を侮るのでしょうか。彼は心の中で、あなたは追い求めないと言っています。
あなたは、見ておられました。」
(詩篇10篇9~14節A)
「地から生まれた人間」、「不法な人」は神が無関心だと思っています。
彼は神はいないと思っています。
確かに、彼は無神論者です。
神は見ておられます。
神は知っておられます。
「害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。不幸な人は、あなたに身をゆだねます。」
(詩篇10篇14節B)
美しい詩篇ではではないでしょうか?
もしあなたが苦境に陥っているのなら、この詩篇に心に留めておいてください。
不幸な人は、あなたに身をゆだねます。
その方が、市民団体に身を委ねるよりも良いことです。
その者は理解します。
「あなたはみなしごを助ける方でした。」
(詩篇10篇14節C)
神はくりかえしみなしごの父となることを誓われています。
「悪者と、よこしまな者の腕を折り、その悪を捜し求めて一つも残らぬようにしてください。」
(詩篇10篇15節)
言い換えれば、悪者が滅びて、もはや悪を行なうことができなくなるまで、神にを求めているのです。
これは復讐的な祈りです。
第二次世界大戦で中国共産党が暴威を奮った暗黒の時代のためにあなたは祈ることを求めませんか?
殺された何千人もの女性、子ども、赤ちゃんのことを考えてみてください。
クリスチャンが「一つも残らぬようにしてください」と祈るのは正しいことではないでしょうか?
確かにその通りです。
最近では、私たちは何があっても動じず、ただ見ていなければならないというある種の平和主義的な考えを持っています。
しかし、それは聖書の言っていることではありません。
私たちには神に悪を止めるよう求めることができるのです。
この時、詩篇の著者はこのように言っています。
「主は世々限りなく王である。国々は、主の地から滅びうせた。」
(詩篇10篇16節)
その時あらゆる国々がパレスチナに集まっているのを見ることになります。
そして、神のさばきが行なわれ、諸国の民が神の地から滅びうせるのです。
神の地はインマヌエルの地です。
「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます。耳を傾けて、
みなしごと、しいたげられた者をかばってくださいます。地から生まれた人間がもはや、脅かすことができないように。」
(詩篇10篇17、18節)
「地から生まれた人間」とは反キリストです。
今、この連載の最後の5つの詩篇は、暗い時代に抑圧された神の民のための詩篇として読むことができます。
なぜ、詩篇がスコットランドの人々に愛しているのかを知っていますか?
スコットランド教会を滅ぼそうと迫害されていた時、彼らは迫害する者たちを愛することを学んだのです。
信仰を現した者たちが山に身の安全のために隠れなければならなかった時、彼らはこれらの詩篇を、自分たちの状況に照らし合わせました。
そして、彼らに大切なものとして賛美したのです。
彼らは山の斜面に追いやられ、礼拝と祈りと賛美のための集会を開きました。
彼らの集まりによって、詩篇の一つが読み上げられました。
その声を聞くことは驚くべきことでした。
たとえば、次の日、反キリストの手先たちがあなたがたを偵察し、イスラエルの残された者たちの幾人かに会ったとしましょう。
これらの詩篇は、神に向かってあなたがたの心が高められ、美しく調和します。
「主に私は身を避ける。どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。」
(詩篇11篇1節)
「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け」という古い歌を人々が歌うことはおかしく思いませんか?
しかし、ダビデがここでそのようなことを言っているわけではありません。
ダビデは「私の主を信頼しています。
人々は「山に飛んで行け」と言うかもしれません。
しかし、私はしません。
主は私の避け所であり、主は私の力だからです。
私には主のもとへ行く必要があるのです。」
そして、このように書かれています。
「それ、見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。
拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」
主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。
主は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは、暴虐を好む者を憎む。」
(詩篇11篇2~5節)
悪者はこのように見ています。
主に身を避けた者たちは主が現われる日が近いことを知っています。
その時、主に身を避けた者はこのことに答えて言っています。
「主は、悪者の上に網を張る。火と硫黄。燃える風が彼らの杯への分け前となろう。
主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。」
(詩篇11篇6、7節)
詩篇15篇までの詩篇はすべて、同じことを現わしています、
苦難にあえぐ民は、苦しみを神に委ね、最後に勝利に導いてくださることを神に期待しています。
神の民の叫び 13~15篇
詩篇13篇では、試練を受けた信者が神に救いを求めて叫んでいます。
しかし、彼らは神の方法によって、さまざま困難な状況にもかかわらず、神の圧倒的な摂理に信頼しています。
最初の2節の中で4回「いつまで?」と叫ばれています。
「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。
いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。私の心には、一日中、悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。」
(詩篇13篇1、2節)
これは神の地上の民であるイスラエルの叫びです。
しかし、義のために苦しみを受けなければならない現在の恵みの時代にあるクリスチャンの心の叫びでもあります。
イスラエルは、恐ろしい時について、次のように叫びました。
「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」
(マタイの福音書27章25節)
イスラエルの王が救いをもたらすために来た時、彼らは自分たちの王を認識しなかったので、このようなひどい苦しみを受けています。
聖地への旅の途中、妻と娘と私はエルサレムの嘆きの壁のそばに立っていました。
一時間ほどの間、私たちは数百人のユダヤ人たちが、かつてソロモンが建てた偉大な建造物に残っている壁に向かっているのを見ました。
神殿の上の部分はモハメッドが支配しています。
そして、私たちは彼らが詩篇からこれらの叫びを繰り返しているのを聞きました。
悲しそうな声でこの言葉が響きました。
「いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょうか?
いつまであなたの民はいつまで苦しまなければならないのでしょうか?
いつになったら、メシアが来て救いをもたらすのでしょうか?」
イスラエルとともに立ちながら、私たちも「いつまで?」と叫びます。
そして私たちは彼らと一緒に祈ります。
「主イエスよ、来てください。」
そして、私たちは彼らがまだ知らないことを知っています。
祝福された主の再臨とともに、救いは訪れます。
ここにいる正しい人たちは、この救いを求めて神に叫んでいるのです。
彼らは祈っています。
「私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。」
(詩篇13篇3節)
旧約聖書、もしくは新約聖書においても、死が神の民の眠りとして示されていることは驚くべき事実です。
私たちはキリストにある愛する人たちのからだを墓に納めます。
しかし、からだが埋葬したからといって、霊も魂もからだも復活まで眠ってしまうという意味ではありません。
キリスト教徒は死ぬと、直接キリストのもとに行きます。
しかし、体は眠っています。
それが詩篇の著者がここで念頭に置いていることです。
「私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。
また私の敵が、「おれは彼に勝った。」と言わないように。私がよろめいた、と言って私の仇が喜ばないように。」
(詩篇13篇3、4節)
困難な状況にもかかわらず、神の聖徒は自信を持って目を上げて語ります。
「私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。
私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」
(詩篇13篇5、6節)
私は神の救いのほかに何も知りません。
それは、人を悲しみの中に喜びとさせ、試練の時に賛美とさせるものです。
世にはストア派という哲学的に物事を見る人がいます。
そして、このように言います。
「文句を言うために、白い歯を見せるものではない。」
こうして、歯を食いしばりながら前に進みます。
これは立派なことです。
多くの人たちがそこに到達できていません。
しかし、それは聖書の教えではありません
神のことばは不平を言わずに耐えることを可能にするだけでなく、悲しみの夜に心と唇を歌で満たし、苦難の中で栄光を得ることを可能にします。
神の民も勝たれているような暗い時代に反キリストが現われ、残忍で邪悪な支配の下で苦しみを受けることになります。
詩篇14篇には、キリストが拒絶されてからの全世界が描かれています。
「愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。」
(詩篇14篇1節A)
口には出さないと思います。
そして、おそらく彼は自分を無神論者とは言いません。
しかし、神がいないかのようにふるまうのです。
この世にあって、神がいないものとして生きる人は愚か者です。
私たちはこのようであってはいけません。
「愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。」
私のために神はいない。
私の人生に神はいない。
私の考えに神はいない。
私は自分の思い通りに暮らします。
私は自分の好きなように生きます。
私は遊んで生きます。
私は生きたいように生きます。
「罪過のためのいけにえは愚か者をあざけり、正しい者の間には恩恵がある。」
(箴言14章9節)
私は、世はクリスチャンを見て、このように言うことを知っています。
「彼らは愚か者です。
この世の喜びを捨てた人々です。
地が与える良い時代から目を背けた人たちです。
使徒パウロは、私たちのことをこのように呼んでいます。
「私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。」
(コリント人への手紙第一4章10節)
しかし、現実にはこのように書かれています。
「なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」
(コリント人への手紙第一1章25節)
本当の愚か者は自分に人生に神を置いていません。
「彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。」
(詩篇14篇1節B)
これはローマ人への手紙の3章に引用されている言葉です。
パウロが全世界をいわば法廷に引きずり出し、彼らを並べてこのように言っています。
「さて、あなたがたの立場は。有罪ですか?無罪ですか?」
神は、彼らがみな神に背いた罪を犯していることを認めさせ、裁きが下されます。
「それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」」
(ローマ人への手紙3章10~12節)
パウロはその裁きを裏付けるために、この詩篇から引用しています。
「主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。
彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。」
(詩篇14篇2、3節)
誰もが、自分の生まれつきの心の傾向に従って生きています。
自分の創造の目的を理解し、本当に神を求めることを望む人がいるでしょうか?
「いない。ひとりもいない。」と書かれています。
「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった」のです。
罪とはなんと無益なものなのでしょうか?
「善を行なう人はいない。ひとりもいない」もいません。
「不法を行なう者らはだれも知らないのか。
彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい、主を呼び求めようとはしない。」
(詩篇14篇4節)
その上で、「不法を行なう者ら」を、分別のない者のようにふるまっていると非難しています。
彼らがこのような生活は、本当に愚かです。
罪とは恐ろしく愚かなものだということを人は知っています。
もし、彼が罪について考えることをやめたら、罪の結果から逃れることはできません。
ガラテア人への手紙6章7節には次のように書かれています。
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。
人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」
(ガラテア人への手紙6章7節)
神に対して罪を犯し続けることは、なんと愚かなことです。
一部の信じていない人々がすることは、正気の人間には決してできません。
「彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい、主を呼び求めようとはしない。」
(詩篇14篇4節)
常識があれば、犯罪や不義を犯すことはないだろうと思います。
しかし、罪が人を捕えると、その人の判断をゆがめられます。
「見よ。彼らが、いかに恐れたかを。神は、正しい者の一族とともにおられるからだ。」
(詩篇14篇4節)
そして、神は神に背く者たちが行っていることをすべて見ておられます。
主は、神に背く者たちががその民に負わせるすべての苦しみとそしりを見ておられます。
「血に報いる方は、彼らを心に留め、貧しい者の叫びをお忘れにならない。」
(詩篇9篇12節)
いつの日か、神はは御自身の手で問題を解決します。
その時、神に背く者たちは恥をかきます。
「おまえたちは、悩む者のはかりごとをはずかしめようとするだろう。しかし、主が彼の避け所である。」
(詩篇14篇6節)
すべてを解決するためにイスラエルのメシアである主イエスが来られることを切望し、詩篇の著者は叫んでいます。
「ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。主が、とりこになった御民を返されるとき、ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。」
(詩篇14篇7節)
今、私たちはイスラエルがパレスチナの地に戻るのを見ています。
しかし、彼らは不信仰の中で戻っています。
キリストの来られる前に、彼らの多くが自分の国に帰することになっているという預言は確実に成就しています。
イスラエルは救い主を信じない状態で帰って来ています。
しかし、その日、主が現われます。
その時、イスラエルの救いはシオンから出るのです。
初めに来られた時は、救い主はベツレヘムから来られました。
しかし、後の日に、神のことばがシオンの山から出て、神である王が聖なる山に立てられるのです。
キリストが王となる日、誰が御前に近づくことができるのでしょうか?
誰が神の御顔を見られるのでしょうか?
高慢で、うぬぼれが強く、軽率な世の人たちが、自分の思い通りに見られるのでしょうか?
いいえ!
主イエスはこのように言われました。
「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」
(マタイの福音書5章5節)
しかし、イエスは言われています。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」
(マタイの福音書11章29節)
その日、キリストは大河から地の果てまでをも支配します。
キリストの御霊が現れ、神のご性質に預かる者となり、キリストと共に君臨します。
詩篇15篇で詩篇の著者がこのように述べています。
「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。」
(詩篇15篇1節)
そして、この答えに注意してください。
「正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。」
(詩篇15篇2節)
あなたはこのように思うかも知れません。
私は恵みによって救われた人たちだと思っていました。
私は働きによって救われた人たちとは思っていませんでした。
私は神の御言葉がはっきりと教えていると考えています。
「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」
(テトスへの手紙3章5節)
よろしいでしょう。
あなたは考えていることは正しいのです。
しかし、ここで著者はここで救いのことを話しているのではありません。
彼は救い以上のことを話しています。
つまり、来たるべき日の報いについてです。
キリストとともに支配する者たちのことを言っています。
その人たちとは誰でしょうか?
新しく生まれ変わることによって、彼らが告白する新生の実際に証明する者たちです。
彼らは神から生まれたと言われています。
彼らは信仰によって義と認められたと言われています。
彼らは、自分自身の業によってではなく、キリストの完全な御業によって信仰に入ったと言われています。
彼らは、キリストにあって神の義とされたのです.
しかし、他の人はどうやってそれを知ることができるのしょうか?
単純に私たちが彼らに話したからでしょうか?
彼らは私たちの言うことに疑問を持つかもしれません。
彼らは変化した人生を見なければなりません。
その来たるべき日にキリストとともに自分の居場所が見つける人たちがいます。
彼らは、新しく生まれながらにして現れた人たちなのです。
著者はここで救いについて話しているのではありません。
その現れについて話しているのです。
もし、あなたが義を行なわずに、自分がキリストにある神の義とされたなどと言ってはなりません。
もしあなたがたが信仰によって義と認められるなら、あなたがたは新しい義の性質を受けたのです。
あなたがたのいのちは義のいのちです。
その者についてこのように書かれています。
「正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。」
(詩篇15篇2節)
そして、神はこのような人を望んでいます。
「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。」
(詩篇51篇6節)
そのような者とは誰でしょうか?
「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。」
(詩篇15篇1節)
次のように書かれています。
「その人は、舌をもってそしらず」
(詩篇15篇3節A)
「舌をもってそしらず」とはどういうことでしょうか?
つまり、このように書かれています。
「友人に悪を行なわず、隣人への非難を口にしない。」
(詩篇15篇3節B)
そんなことをしている人を知っていますか?
もし家に鏡があるのなら、その鏡の中をよく見てください。
自分の舌で人をそしるような人がその中にいるかどうか確かめてみるべきです。
もしそうならば、ひざまずいて主に、自分が恥ずかしいと言うべきです。
主の恵みによって、思いやりのないことを言う代わりに、他の人に親切な言葉をかけるようにすると言うべきです。
どれだけ自分が幸せになるのでしょうか?
どれだけたくさんの友人が増えるかを見て、あなたは驚くのです。
もし、あなたが正しいことを言うのであれば、人の陰口を言っても問題はありません。
私たちは舌で陰口を言わない者の仲間になるべきです。
「友人に悪を行なわず、隣人への非難を口にしない。」
(詩篇15篇3節B)
その者は隣人に明らかに害を与えるようなことはしません。
他人の話を拾って外に向かって広めることもしません。
その者は妨害するのではなく助けようとしているのです。
「神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。」
(詩篇15篇4節A)
彼は悪人のやり方に賛同し、支持する代わりにすべてを裁くのです。
箴言25章23節で私たちはこのように読みました。
「北風は大雨を起こし、陰口をきく舌は人を怒らす。」
(箴言25章23節)
誰かがあなたのところに来てこのように言います。
「あなたは兄弟のことについて、いろんなことを聞いたと思います。」
あなたは「聞いていない」と答えます。
すると「ああ、何か恐ろしいことだ」とその人が言うのならば、あなたは「聞きたくない」と言うべきです。
そして、できるだけ「怒った顔」をするのであれば、彼を追い払うことができます。
「教えてくれ」と言って、電話で広めるのではなく、その不祥事を止めてください。
もし、そうするのであれば、それは交わりを壊すことになります。
しかし、もしあなたが「怒った顔」で陰口を言う人に会うなら、友情を壊すのではなく、友情を保つことができます。
そして、このことに気づくのです。
「損になっても、立てた誓いは変えない。」
(詩篇15篇4節B)
ある事柄をしようと神と約束し、後になってそれが自分のためにならないことがわかったとしても、その者は「とにかく続けてべきです。」
もし、彼が「主よ、私はあなたの御業に少しずつ捧げるつもりです」と言った後に、事態が悪化してしまい、彼は考えます。
「私の思い通りのものを主に与えることはできなくなりました。
自分のためにお金が必要です、
自分のためにお金を使ってしまうと、お金が無くなり、余裕がなくなってしまいます。」
もし、彼が「わたしは主に向かって口を開き、もう後戻りできない」と言うのであれば、神に誠実であり、神を敬う者は、神から誉を得ることになります。
「金を貸しても利息を取らず、」
(詩篇15篇5節A)
お金を運用し利子を得ることは、ビジネスのやり方としては完全に正しく、適切な方法です。
タラントのたとえ話がそれを明らかにしています。
「だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。」
(マタイの福音書25章27節)
しかし、兄弟や姉妹が困っていて、あなたのところに来て、あなたが助けるためのお金を貸すのなら、あなたはこのように言います。
「ええ、喜んでお貸しします。
ところで、どんな担保がありますか。」
そして、彼らはこのように言います。
「申し訳ありません。
私たちはクリスチャンの男女であるという言葉しかありません。」
その人は答えます。
「よろしいでしょう。
では利子はいくら払えますか?」
それは利子を取ってお金を貸すことです。
神の言葉が非難していることです。
かつてのイスラエルの民は、兄弟たちに貸した金から利息を取ることを許されませんでした。
「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」
(ローマ人への手紙8章4節)
これらは非常に現実的な内容です。
私たちの多くが、これらのことを実行するならば、多くの祝福を得ることができます。
「罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。」
(詩篇15篇5節B)
つまり、他人のつまずきによって利益を得ようとはしないことです。
「このように行なう人は、決してゆるがされない。」
(詩篇15篇5節C)
言い換えるのであれば、この詩篇は神の子が義の王しての到来を待ちながら、この世を歩む者たちの特徴を私たちに示しています。
その王が来るならば、その者は完全な確信をもって王の前に立ち、王の承認を受け、その日、彼とともに王となるのです。
人としてのイエスキリスト 16篇
ルカの福音書の終わりの章には祝福を得た主が、エルサレムからエマオに向かう道中で、あの二人の弟子に追いついたことが書かれています。
彼らがイエスについて話している間に、イエスは彼らの話に入られました。
初めはイエスはいっしょに歩いてているのが誰なのか、彼らに知らされずにいました。
彼らは悲しんでいたのでイエスはその原因を尋ねました。
彼らは、イエスと彼らの希望と、その希望がイエスの十字架刑によって打ち砕かれたことを話しました。
また、その朝、墓のところに行った女たちが、イエスが生きていると言っている天使たちの幻を見たと証言しました。
彼らがこのことを信じていないことは明らかです。
ルカの福音書24章25節にはこのように書かれています。
「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」
(ルカの福音書24章25節)
元の意味は、ここにある「愚かな人」という言葉が語るような不快な意味を持っていません。
「単純な者」という意味です。
「単純な者よ!心の鈍い人たちよ!
預言者たちの言ったすべてを信じなさい!
キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。
それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」
(ルカの福音書24章25~27節改)
その日、弟子たちに聞かされたすばらしい特権を私は読んだことはありません。
しかし、私たちが今日、この聖書朗読が大勢の聴衆の前に、朗読を記録する記者をかたわらに置いて、私たちが今日、イエスについてのすべての聖書箇所を読むことができたらのならば、どんなにすばらしいことではないでしょうか。
では、なぜ、そのような書物を私たちに与えずに。これだけの驚くべき量の書物になったのでしょうか?
しかし、これは正しい質問ではありません。
「神は、私たち一人一人が自分のために聖霊に頼って御言葉を勉強させようとしているのです。」
神は聖書のすべての主題が何であるかを知らせるために、私たちに十分な書物を与えてくれました。
神の言葉をどこに開いても、主題はイエスです。
その日、主が彼らと歩いた時、イエスが多くのみことばを彼らに語られました。
私は、これらの言葉の多くが、この詩篇16篇があったことを確信しています。
ならば、後の使徒の働き、つまり使徒たちの働きの中で、これらの詩篇箇所が、どのような位置に置かれているか、あなた方は気づいていると思います。
使徒の働きの2章では、ペンテコステの日のペトロの偉大な説教があります。
そこでは、ペトロがこの詩篇を引用して、私たちの主イエス・キリストに適用しています。
「ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。
それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。
あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。
あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。」
(使徒の働き2章25~28節)
そして、それに対するペトロのコメントを聞いてください。
「兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。」
(使徒の働き2章29節)
ここで、ペトロはダビデのことを話しています。
ダビデはこの詩篇を書いたが、彼は、ダビデが自分について書いたのではないことを指摘しました。
30節を見てください。
「彼(ダビデ)は預言者でしたから」
(使徒の働き2章30節)
ダビデが預言者であることは知られていません。
しかし、詩篇はあらゆる点で預言的であることは、驚くべき事実です。
「彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。
神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」
(使徒の働き2章30~32節)
使徒パウロが使徒の働き13章32節においても、詩篇2編から引用して語っていることがわかります。
「私たちは、神が先祖たちに対してなされた約束について、あなたがたに良い知らせをしているのです。
神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。
詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と書いてあるとおりです。」
(使徒の働き13章32~33節)
さて、私たちは詩篇を見てきましたが多くがキリストに適応されていることを知りました。
ここで次のこととどのように関連しているかに注意してください。
「神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについては、『わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える。』というように言われていました。」
(使徒の働き13章34節)
使徒パウロは詩篇16篇について述べています。
「ですから、ほかの所でこう言っておられます。『あなたは、あなたの聖者を朽ち果てるままにはしておかれない。』
ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んで先祖の仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。」
(使徒の働き13章35、36節)
このように、私たちの主イエスは、あの日、この詩篇を弟子たちに開いて教えたのです。
それから後、イエスは、復活の後、もしくは昇天の前の40日間、弟子たちとともにおられ、神の御国のことを彼らに語られました。
私たちは、イエスがこれらの旧約聖書のあらゆる場面から、これまでになかったような聖書の説明をされたことを確信しています。
このことは、ペンテコステの日から、弟子たちが詩篇を引用し、適応したことがとても早い時期に学んだ事実を説明しています。
弟子たちは旧約聖書から繰り返し引用していますが、詩篇ほど好んで引用した書物はありません。
レビ記にある最初の7章に注目してみましょう。
ここには、私たちの主イエス・キリストの完成と御業をさまざまな形で示す五つの異なったささげ物があります。
そして、興味深いことに、これら五つのささげ物と特別なかたちで結びついている五つの詩篇があります。
たとえば、最初のささげ物は全焼のいけにえです。
あなたが詩篇の第四十篇をめくって見るならば、この詩篇は全焼のいけにえの詩篇です。
第二のささげ物はひとまず置いて、三つ目のささげ物は和解(平和)のささげ物です。
その次に罪のためのささげ物があります。
詩篇22篇は罪のためのささげ物の詩篇です。
それから罪過のためのいけにえがあります。
詩篇69篇は罪過のためのささげ物の詩篇です。
ここで、私は肉のささげもの(穀物のささげ物)についての説明はしません。
古い英語では、「肉(meat)」という言葉はすべての食事のことを意味していました。
私たちの先人は「肉を食べるために座っていた」 と言うかも知れませんが、その意味は単に肉という意味ではありません。
しかし、レビ記にある(穀物の)ささげ物には肉がはいっていません。
全焼のいけにえ、和解(平和)のささげ物、罪のためのささげ物、罪過のためのささげ物のにはに動物が捧げられました。
しかし、穀物のささげ物には動物は捧げられません。
それは、油を混ぜた小麦粉のささげ物です。
それは、私たちの主イエス·キリストの働きではなく、キリストの栄光の完全さについて語ったもので、神の祭司たちの食物です。
祭司たちは、ほかのすべてのささげ物とともに、穀物のささげ物を持って来なければなりません。
これらすべての穀物のささげ物は、菓子もしくは、上等の小麦粉で作ったパンでした。
調理人たちは、上等な小麦粉の中に粗い穀物ではなく、小麦粉の感触を知っています。
それが主イエスの完全な人間性の型です。
それは主イエスの完全な人間性について語っています。
もし、主が私を型とする献立を作るならば、昔ながらのスコットランド製のスチールカットの献立になってしまうと思います。
というのも、私にはとげとげしい鋭利な部分がたくさんあり、それが私の姿だからです。
しかし、主イエス·キリストは、荒さもなく、鋭さもなく、奇妙なところもありません。
主イエス·キリストの性格はすべてにおいて完璧です。
穀物のささげ物は油を混ぜた小麦粉で作られました。
油は神の聖霊の型である。
キリストが聖霊によって生まれたことをあなたがたが思い起こすためです。
御使いは母マリヤに告げました。
「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」
(ルカの福音書1章35節)
キリストがこの世に生まれた瞬間から、油と上等な小麦粉が混ざっている状態なのです。
このささげ物は、前に述べたとおり、祭司たちの食物でした。
信者にとって、わたしたちの食物は何でしょうか?
私たちは神の御前でキリストを食物としなければなりません。
あなたがたは「何を言っているのかわからない」と答えるでしょう。
私たちはキリストについて思い巡らすことによってキリストを食物とするのです。
どこで私たちはキリストを得れば良いのでしょうか?
御言葉は正しいのです。
私たちは、キリストの御言葉を読みます。
キリストの完成と比類のない栄光について啓示された尊い事柄について思いを巡らします。
これが、キリストを食物とするということです。
この詩篇16篇は、穀物のささげ物の詩篇と呼ぶのがふさわしいと思います。
この詩篇は、私たちの主イエス·キリストの人間性の完成を私たちに示すものです。
あなたはこのことを考えてみたことがありますか?
主イエスは、すべてのものの上に立つ神であったにもかかわらず、恵みによって、この世にあって「従う者」になることを選ばれたのです。
「従う者」とはどのような意味があるのでしょうか?
「つまり、主イエスは地上にこ降りてきて、自分の意志を考えずに、ただ神の意志に「従う」ことを選んだということです。」
言い換えれば、主イエスは信仰によって生きるために地上に降りて来たのです。
へブル人への手紙の中でこのように書かれています。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」
(へブル人への手紙12章2節)
ここで使徒は主イエスのことを「信仰の創始者であり、完成者」と呼んでいます。
主イエスは信仰の人になることを選んだのです。
このことは荒野の場面で明白になります。
主イエスは真実に人間の体を持っていました。
主イエスは私たちのように食べ物によって支えられていました。
そこにサタンが主イエスのところに来たのです。
「そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」」
(マタイの福音書4章2、3節)
主イエスは石からパンを作ることができたはずです。
しかし、そのようにすることは御父からの言葉はなく、すべてにおいて父に従うことを選んだのです。
主イエスは悪魔の勧めに従って、石でパンを作るつもりはありません。
主イエスはこのように言ったのです。
「イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」」
マタイの福音書4章4節
この場面では主イエスは卑しい人間としての信仰者の立場を取り、神の口から出た神の御言葉に基づいて生きたのです。
詩篇16篇では、彼が父に語りかけるのが聞こえてきます。
主イエスは何を祈る必要があったのでしょうか?
ある時、主イエスこのように祈りました。
ヨハネの福音書17章では、イエスがご自分のために祈っておられるのが聞こえます。
これらの詩篇の多くは主イエスの祈りです。
「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。」
(ヨハネの福音書17章1節)
「ダビデの立琴の弦はイエスの心の弦」と言われています。
これらの詩篇を読むならば、あなたは主イエスの心の呼吸に耳を傾けることになるのです。
彼の声を聞いてください。
今、ヘブル人への手紙に書かれていることは、それが主イエスに適用されます。
「神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。」
(詩篇16篇1節)
彼は父のみこころに完全に服従して33年間この地上を過ごしました。
御父の御声を聞くまでは啓示を与え宣言することもせずに、一歩も歩むことはしていません。
神のみこころが何であるかを、御自分の聖書から学び、地上の人として生きることを選ばれたのです。
ある時、弟子たちは主がイエスの再臨について次のように言われたので驚きました。
「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」
(マルコの福音書13章32節)
主イエスの述べられたことは何を意味していたのでしょうか?
主イエスは神として、すべてのことを知っておられたはずです。
しかし、主イエスは自分の持つ全知全能の力を脇に置くことを選んだのです。
主イエスは自分の持つ無限の知識に頼るのではなく、聖書から学び、日々父から言葉を得ることを選んだのです。
聖書にはイエスの再臨がいつ起こるかを告げるものが何もありません。
ゆえに「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません」と言うことができたのです。
そのことは、主イエスが真実に人となり、真実に神に頼った生涯を送ったのかを知るための助けとなります。
2節はとても印象的です。
「私(たましい)は、主に申し上げました。」
(詩篇16篇2節A)
さて、ここで「主」という言葉が使われていることがわかります。
他の箇所では、「ヤハウェ」という言葉を「主」と翻訳しています。
ここでは「主」であり「先生(マスター)」です。
次のように読んでください。
「わが「たましい」よ、あなたは「ヤハウェ」です。
あなたは私の先生です。」
誰の言葉でしょうか?
主イエス・キリストです。
そして、ご自身の魂に語りかけておられるのです。
つまり、主イエスが「わが(主イエスの)たましいよ、あなたは「ヤハウェ」に向かって言われた」と言っているのです。
言い換えれば「私(主イエス)はあなたのしもべです」ということです。
主イエスは「ヤハウェ」のしもべ、すなわち神のしもべとなるために地上に来ました。
「私の幸いは、あなたのほかにはありません。
地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。」
(詩篇16篇2B、3節)
これはどういう意味ででしょうか。
父なる神が天から主イエスを見おろし、この世を歩まれたとき、主イエスをどのように見えたでしょうか?
それは、絶対的な完璧さです。
主イエスは善良という点において完璧でした。
主イエスは、考えにおいても、ことばにおいても、行ないにおいても、すべてにおいて正しい人でした。
聖書には「主イエスは罪を知らない」「罪を犯さない」「罪がない」と書かれています。
しかし、主イエスは父を見上げてこのように言っています。
「わたしのいつくしみは、あなたには及ばません。
地にある聖徒たちの優れた(威厳のある)者を、私の喜びとします。」
このことから、どのようなことを教えているのでしょうか?
つまり、「父よ、わたしはあなたにいつくしみを求めているのではありません。
ただ、あなたのみこころを行ない、人々を義の道を歩ませるために、この地上にいるのです。
わたしのいつくしみは、聖徒たちに及びます。
彼らは地上の優れた(威厳のある)者であり、わたしのすべての喜びを持っています。」
これらの聖徒たちとは、地上において優れた(威厳のある)者たちとは、誰のことを言っているのでしょうか?
まあ、不思議なことに、彼らは自分たちが罪人であることを知っています。
そして、罪人であることを告白した人たちでした。
バプテスマのヨハネが現れ、荒野で「悔い改めなさい」と宣教しました。
彼は自分の罪と邪悪性を持っている人々に、罪の赦しを得るための悔い改めのバプテスマを受けるよう呼びかけたのです。
それはどういう意味だったのでしょうか?
「王は来られます。
あなた方は待ち望んでいるが、まだあなた方にはその用意ができていません
あなた方の多くは罪の中に生きています。
あなた方の多くは自己中心で高慢です。
そして、皆さんの多くは偽善者です。
神にある義を得るのです。
そして、あなたの罪に直面してください。
もし、あなたがたが罪人なら、ヨルダン川に下って行きなさい。
そして、わたしの名によってバプテスマを受けなさい。
哀れな罪人たちがヨハネのところに来て言ったのです。
「ヨハネ、あなたは正しい!
神は正しく、私たちは正しくない!
あなたは、わたしたちを罪を告白した者としてバプテスマを授けるのです。」」
ヨハネが彼らをヨルダンの水の下に沈めたのは、別の理由がありました。。
「これらの人々は死んで当然であり、彼らは自分たちが死んで当然であることを告白しています。
彼らは自分たちの罪を告白しています。
彼らは悔い改めています。」
そして今、注目してください。
ヨハネがバプテスマを授けているところに、イエスが来られました。
イエスはヨルダン川に下って行き、ヨハネは言いました。
「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
(マタイの福音書3章14節)
バプテスマのヨハネはこのように思ったでしょう。
「私は罪人にバプテスマを授けています。
あなたは罪人ではありません。
私はあなたにバプテスマを授けることができない。
私は罪人です。
あなたは私にバプテスマを授けてください。
私があなたにバプテスマを授けることはできません。」
しかし、イエスは言われました。
「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」
(マタイの福音書3章15節)
イエスはこのことをどういう意味で言ったのでしょうか?
イエスがこう言ったように聞こえます。
「あなたの言うことは完全に正しいことです。
私は罪人ではありません。
私には悔い改めることは何もありません。
しかし、私は神のすべての正しい要求を満たすつもりです。
わたしが罪人の身代わりになるのですから、わたしも彼らと一緒にバプテスマを受けさせてください。」
言い換えるのであれば、イエスは父にこのように言っているのです。
「わたしは、死を免れるために、あなたに慈悲を請い求めるつもりはありません。
しかし、私は他の人のために命を捧げ、罪人たちのために死ぬつもりです。」
彼らは、神の御心にかなう者たち、つまり、自分の罪を告白する者たちなのです。
ある人は聖徒とは、悔い改める罪のない人のことだという人もいます。
しかし、それは反対です。
聖徒とは自分の罪を告白して神の御前に出てきた人たちのことです。
神は彼らを聖徒とするのです。
私は私の善良さをもって懇願します。
彼は「私のためではない」と仰せられます。
「地上にいる聖徒たち、そして、わたしのすべての喜びである優れた(威厳のある)者たちに対してです。」
次の節では、神にそむく者たちと、神の御言葉に従おうとする者たちとが対比されています。
「ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。
私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。」
(詩篇16篇4節)
今日においても、このことを覚えておく必要があります。
現在では、ほかの神へ走ったというようなことはありません。
私たちは多くの知識があります。
私は金や石やブロンズや鉄の神々には屈することはありません。
しかし、あなたがたが神の代わりに置くもの、もしくは、あなたが神以外にあなたの人生を支配したりコントロールしたりすることを認めることは、ほかの神です。
自分という存在がほかの神になる可能性があります。
時には金銭がほかの神になり、名声も偶像になりえます。
時には「愛」もほかの神になるのです。
私は最後の「愛」についていくつかの事例を知っています。
私は奇妙な手紙をたくさんもらうことがあります。
ある男性からこんな手紙が届きました。
「親愛なる牧師先生、私はあなたの助言が欲しいのです。
私は結婚しようと思っている女性は離婚経験があり、興味があるのですがそれが聖書的なものかどうか知りたいのです。」
そして、私は彼に手紙を書いて送りました。
「そのことがが聖書であろうとなかろうと、あなたには何の違いがあるのですか?
あなたが彼女と結婚するつもりがあるのならば?
あなたが私に助言を求めて、手紙を書く必要はないはずです。」
彼らはあることをすると心に準備して、このことが彼らの拝む神となるのです。
この結果はどうなったのでしょうか?
神の御心に反することを追求するならば、心の平安や心の喜びを得た人はいません。
このように「「ほかの神へ走った者の痛みは増し加わるのです。」
今、主イエスは「私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません」と仰せられるのです。
わたしは、わたしの父なる神のほかに、わたしのたましいの前には何も置きません。
「主(ヤハウェ)は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。」
(詩篇16篇5節)
あなたは詩篇23篇を愛していますか?
あなたは詩篇23篇の本当の語り手は主イエス・キリストだと知っていますか?
あなたは「主は私の羊飼い」と言います。
しかし、イエスはこのように言っています。
「ヤハウェはわたしの羊飼いである。私は望みません。」
新改訳
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」
(詩篇23篇1節)
また、イエスはこう言われました。
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」
(詩篇23篇2節)
そして、主イエスは十字架に向かって行ったのです。
イエスは詩篇の中でこのように言っています・
「私の杯は、あふれています。」
(詩篇23篇5節)
「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。」
(詩篇16篇5節A)
詩篇23篇と関連付けてみましょう。
「ヤハウェは私へゆずられた杯」と言えるようになれば、すぐに「私の杯はあふれています」言えるようになります。
あなたが神の素晴らしい愛と恵みを理解し始めるのなら、あなたの杯はすぐに満杯になり、あふれてしまいます。
「あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。」
(詩篇16篇5節B)
イスラエルがエジプトから出て来たとき、神は彼らの相続地として異なった多くの地を与えられました。
イエスの受け継ぐ分け前は何だったのでしょうか?
イエスの分け前とは父の御心に完全に従うことでした。
「あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。
測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」
(詩篇16篇5節B、6節)
誰がこのように言っているのでしょうか?
「悲しみの人」と呼ばれている者です。
こんなことを思ったことはありませんか?
四つの福音書を読んでも、「悲しみの人」の生涯については書かれていません。
その者は性格的に善意に満ちた人でした。
彼は喜びに満ちた人でしたが、陽気な人ではありません。
私たちの中には、落ち込む人もいれば、反対側に行く人もいます。
私たちはおどけて道化師にでもなれば、本当に陽気になることができます。
彼は喜びにあふれ、陽気で、平和な人でした。
父との交わりの中に生きる人だったからです。
しかし、彼が経験しなければならなかったあらゆる悲しみは、父の愛を妨げることはできません。
「私は助言を下さった主をほめたたえる。」
(詩篇16篇7節A)
私たちは預言者イザヤの書でこのように読みました。
「朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」
(イザヤ書50章4節B)
そこから私は何を学ぶことができるでしょう?
私の祝福された主は、この地上の人間として歩みました。
毎日聖書を勉強し、毎朝そこから何か新しいものを得たのです。
彼は普通の子供で、普通の若者で、普通の大人でした。
毎日、彼は神から何かを得ていて、それを他の人に伝えていました。
彼は何年間も学びました。
「もし、私が人のために役立ちたいなら、私は神の前に静かに行き、神が私の目を開いてくださるようにしなければなりません.
神の奥義を私に教えてください。
その時が来たら、私は他の人たちに伝えることができるのです。」
このことを私たちの救い主がなさったのです。
イエスは父から学びました。
父がイエスに御言葉を与えたのです。
ここに完璧な服従あります。
「私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。」
(詩篇16篇7節)
言い換えれば、私の内なる存在は、夜になると私に教えるのです。
祝福された主は、御父と二人きりで、山の中腹で眠れない夜を何度も過ごしました。
主は自分の前に置かれているものを知っていました。
主はイスラエルの中でただ一人、いけにえの大切さを理解していました。
イエスは神殿を見ることができました。
祭壇の上のいけにえを見ることができました、そして自分こそが真のいけにえの小羊であることを知ったのです。
イエスは過越の子羊を見ることができました。
そして、その子羊が自分自身を象徴していることを知りました。
イエスは御言葉を読むことができました。
そして、御言葉がすべて自分に関係していることを知ったのです。
イエスがどんな思いでイザヤ書53章を読んでいたのかを考えてみるべきです。
すべてがイエスに適応されることを知ったのです。
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
(イザヤ書53章5節)
しかし、今、彼の従順の完全さを見てください。
「私はいつも、私の前に主を置いた。」
(詩篇16篇8節A)
この50年間、私が主に仕えてきて言える最善のことは「私は時々、私の前に主を置いた」ということです。
もっとやっておけばよかったと思います。
しかし、イエスは「私はいつも、私の前に主を置いた」と言うことができます。
そして、「私にはヤハウェを喜ばせる以外の動機はありません。
私はヤハウェを称える以外の考えを持ったことはありません」と言うことができるのです。
しかし、私たちはそのように言うことはできません。
この方の心は完全でした。
この方は「私はいつも、私の前に主を置いた」と言うことができます。
そして、このように言うこともできるのです。
「主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」
(詩篇16篇8節B)
ヘロデの前、カヤパの前においても、イエスの右にヤハウェはおられました。
カルバリで神の御顔が隠された時でさえ、イエスはいつも神の右におられました。
どのようにイエスが十字架を見ることができたのかに注目してください。
イエスは十字架の苦しみをすべて知っていました。
キリストが勝利のうちに来られることを知っていました。
ゆえに、完全な確信を持って十字架に行かれたのです。
「それゆえ、私の心は喜び、私のたましい(栄光)は楽しんでいる。」
(詩篇16篇9節A)
彼は自分の舌について話しています。
ヤコブの手紙では舌のことをこのように呼んでいます。
「しかし、舌を制御することは、だれにもできません。
それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」
(ヤコブの手紙3章8節)
ダビテはここで舌のことを「たましい(栄光)」と呼んでいます。
舌は、主を祝福するために用いられるとき、栄光なのです。
「私の身もまた安らかに住まおう。」
(詩篇16篇9節B)
あなたが私をよみがえらせてくださることを知っています。
私は安心してその墓にはいります。
「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、」
(詩篇16篇10節A)
この「よみ」ということばは意味は「ハデス」です。
そこは死と復活の間の肉体を持たない霊のための場所、つまり見えない世界です。
しかし、彼はこのように言っています。
「まことに、あなたは、私のたましいをよみ(ハデス)に捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」
(詩篇16篇10節)
私のたましいとは内なる人です。
彼の体が朽ち果てることは許されません。
彼は父が自分が死者の中から蘇らせることを知っていました。
ゆえに「あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」
この詩篇はダビデによって書かれたが、これはダビデのことではありません。
ダビデはよみがえってはいません。
彼の体は朽ち果てました。
しかし、偉大なダビデのより偉大な子孫、私たちの主イエスは、決して朽ち果てていません。
イエスは復活を待ち望んでこのように述べたのです。
「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」
(詩篇16篇11節)
彼は天で神の右の座に再び着く栄光の復活を待ち望んでいます。
彼は神を信頼する人々と喜びを分かち合うために生きておられるのです。
罪の快楽と永遠の喜びとの間には、大きな違いがあるのす。
まさに「あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」と書かれているとおりです。
神へのとりなし 17篇
私たちは、詩編の最初の部分では、これらの詩篇の多くが主にダビデの個人的な経験に関係していることに気がつきました。
この詩篇は、彼がサウル王とその軍勢から逃げていた時、もしくは自分の息子アブシャロムの軍勢から隠れていた時に書かれたものです。
おそらく、ここでは前者のサウル王とその軍勢から逃げていた時のことを指していると思われます。
おそらく、ダビデが落ち着かない夜に、これらの言葉を書き記したであろうことは理解できます。
ダビデは敵が自分を追ってきていることを知っていたからです。
彼らがいつ自分に襲いかかってきて、戦いが急に迫ってくるかわからない状況です。
人間的な見地からすれば、自分は常に生命の危険にさらされていることに気づいているからです。
そのような状況で彼は神に頼ったのです。
ダビデは他に誰に頼ればいいのでしょうか?
これらの詩篇は、神に愛された人々の生活の中にある状況と見事に一致しています。
マカバイ人が残酷に追い詰められ、殺されていた時代がイスラエルの苦しみにどれほど大きな意味を持っていました。
神がユダ・マカベの上に御手を置かれ、彼らがシリア軍を打ち負かすことができたのです。
注)マカバイ人の時代
バビロン帰還とキリストの出現まで間の時代、アンティオコス4世エピファネス王によるユダヤの伝統的慣習を禁じる布告の発布に対して、ハスモン朝のマタティアスとその5人の息子による反乱した時代のことです。
マタティアスの息子ユダ・マカバイが反乱を引き継ぎ、反乱軍は集団としてマカバイ人と呼ばれました。
反乱の成功と挫折が詳細に記録されている。ユダは最終的に戦いで殺されています。
おなじように、クリスチャンたちは、何世紀もの間、異教徒であるローマ、もしくはその他の異教の国から迫害を受けていました。
これらの苦しみがクリスチャンたちにとって、大きな意味をもっていたのです。
プロテスタントの場合、神の言葉と神の恵みの福音に忠実であるがゆえに、背教的な教会の手によって、クリスチャンたちは苦しんできました。
あるいは、スコットランドの改宗者のように、支配勢力がクリスチャンたちに良心的に受け入れることのできない宗教体系を押し付けられた時、彼らは山で山鳥のように狩られ、いつ着物が彼らの血で染まるかわかりませんでした。
しかし、残念ながら、詩篇を、ダビデや彼と同じように人間の敵に苦しめられてきた信者の経験を単に紹介していると考えるだけでは、この詩篇にある述べられていることは理解できません。
このように、もっと深く考える必要があります。
結論として、ダビデは型としての特徴を持っていることを思い出す必要があります。
大きな意味で、ダビデは私たちの主イエス・キリストの型でした。
ダビデの名前そのものが重要です。
「ダビデ」とは「愛する者」という意味です。
父なる神は祝福された私たちの主イエスについて次のように言われました。
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
(マタイの福音書3章17節)
ダビデの生涯はペリシテ人との戦いで苦しんでいる兄弟たちに仕えるために、父の家から出てきたのが最初の出来事です。
ダビデは父の栄光の家から出て、この世の哀れな人々のために祝福に満ちた武具を携えて来られた主を思い起こさせます。
もう一度言いますが、ダビデの街は重要です。
ダビデはベツレヘムに属していました。
そして、私たちの祝福された救い主もその町で生まれました。
ベツレヘム、「パンの家」という名前にも意味があります。
しかし、イエスがそこを出るまでは、その名について答えることはありませんでした。
イエスはこのように言っています。
「わたしは天から下って来たパンである。」
(ヨハネの福音書6章35節)
なによりも、ダビデは拒絶された私たちの祝福された主イエス・キリストを、見事に型として示しています。
ダビデから最も恩恵を受けた人々が、憎しみと恨みをもってダビデに敵対しています。
私たちの主イエス·キリストは、救いのために来られた人々の心のすべての苦しみ、憎しみ、不信仰を知っておられました。
ゆえに、十字架にかかり、私たちの贖いのために御自身を犠牲にされたのです。
ですから、これらの詩篇を読むのは、ダビデの声だけではありません。
イエスの声を聞くために注意深く耳を傾ける必要性があります。
私はこの詩篇の中に、祝福された主が、聖書には記されていない山の中で神と語り合った夜に、父に語られなかった言葉を一つも見出すことはないと思います。
というのは、イエスは常にが聖書の言葉を使っていたからです。
私たちがこの詩篇17篇の中で見られるのは、敵の中にいても御言葉に支えられる義人の姿です。
私たちの祝福された主イエス・キリストもまさにそうでした。
受肉の奥義について、私たちが押さえておかなければならないことがあります。
それは次のことです。
わたしたちの主は、この世に来られた瞬間から、次の事を叫ばれるその瞬間まで、神であり人でもある祝福された愛すべき方でした。
「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」
(ルカの福音書23章46節)
神であり人間である神が、なぜ、この場面でこれほどまでに完全に自分を意志を捨ててしまったのか、私たちには理解するのが難しいことです。
父の意志が唯一の意志であることを知っていたのです。
御父の御心は、幼い頃から学んでいた聖書に現れており、キリスト・イエスという人物を支配し、制御していた聖霊によって明らかにされていました。
バプテスマの後、イエスが荒野に行かれたときのことを思い出してほしいのです。
聖書にはこのようにあります。
「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」
マタイの福音書4章1節
マルコの福音書ではもっと強い言葉を使っています。
「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」
マルコの福音書1章12節
イエスは完全に神の聖霊の支配下にありました。
人間は神をひどく冒涜しました。
人は、私たちの主イエス·キリストが、十字架にかかって罪の問題を解決される前から、ずっと、みこころに反する激しい反逆してきたからです。
そして、イエスは、この地上で、完全に神にゆだねて人間のいのちを与え、御父を完全にあがめることを、生涯の務めとされました。
受肉について、私たちの祝福された主は、常に真実な神であったことを覚えておく必要があります。
時には人となったことがないかのように、時には本物の人のように、まるで神ではなかったかのような振舞いがありました。
まるで人間になったことがないかのように、そして本物の人間のように
このように、イエスの人間らしさは神から切り離されることはありませんでした。
それにもかかわらず、イエスはこの場面において、神としてではなく、人間として行動することを選んだのです。
人としてのキリスト·イエスは奧義として、すべての人の上におられる神であり、とこしえに祝福されています.
しかし、ここでイエスは父の前で従順な人として行動しました。
このことが詩篇において、美しく描写されています。
敵がイエスに迫っているときに、私たちは、イエスが父に語りかける声を聞くことができます。
イエスから、助けの手がすべて退けられる時、心は愛のためにあり、イエスは憎しみだけを受けているのです。
「主よ。聞いてください、正しい訴えを。耳に留めてください、私の叫びを。耳に入れてください、欺きのくちびるからでない私の祈りを。」
(詩篇17篇1節)
これは私たちのための言葉です。
祈りに支配された唇から祈りが漏れることはよくあることです。
私たちの体験を超えて祈ることは可能です。
このように祈るのを聞いたことがあります。
「主よ、私たちはあなたの驚くべき愛と恵み、あなたが私たちの心を満たしてくださったことに感謝しています。」
そして、次の夜には、おそらく満足を得るために世に出て行くのです。
これは偽りの唇から出る祈りです。
また、このような祈る声も聞いたことがあります。
「主よ、キリストの愛が私たちを完全に支配してください。
恵みと他の者への愛のほかは何も見られないようにしてください。」
20分もたたないうちに、この人は信者仲間や世の中の人たちについて、最も卑しい、思いやりのないことを言うのです。
これも偽りの唇から出る祈りです。
このように祈る人もいます。
「主よ、わたしたちはあなたを見上げます。
私たちは、すべてのこと、特に必要を満たす日々の糧についてあなたを信頼します。」
しかし、1時間もしないうちに、彼らは自分たちの状況について話しているかもしれません。
「私は死ぬほど心配しています。
私はどうすればいいのかわからない。」
その二つは両立しません。
それは偽りの唇からでた祈るです。
しかし、主イエスはこのように言うことができたのです。
「耳に入れてください、欺きのくちびるからでない私の祈りを。」
(詩篇17篇1節B)
イエスの内なる存在は、イエスの口からでた言葉と完全に一致していました。
この美しい姿が幕屋に連携しています。
幕屋のすべてが神の栄光を表しています。
幕屋の庭の回りには、撚り糸で織った亜麻布の垂れ幕の壁を作っていました。
この垂れ幕は世に対するキリストの義を語っています。
外の世界からは中庭を囲む白い幕を見ることができました。
白い亜麻布は、いつも聖書の中で義について語っています。
しかし、聖所の内側には、幕屋の天幕、すなわち、幕屋ために、撚り糸で織った亜麻布の幕が10枚張られていました。
その天幕は山羊の毛や赤く染めた雄羊の皮やアザラシの皮、あるいはアナグマの皮の天幕で覆われていました。
この様は、外の世界からは見えませんでした。
つまり、これらのものは祭司たちのために、もしくは神が見るためにそこに置かれたのです。
しかし、あなたはこの指摘点を理解しているでしょうか?
外からは、美しい糸で織られた亜麻布の天幕が中庭を囲んでいるのが見えます。
神が見おろすのなら、聖所の中に撚り糸で織った亜麻布の垂れ幕が見えるのです。
すなわち、主イエス·キリストの義は、神の目の前においても、人の目の前においても同じでだったのです。
私たちとはまったく違います。
私たちは何度も兄弟たちの前では、とても正しく、とても善良で、とても聖くに見えることがあります。
しかし、神が私たちを見おろしているときには、その様子はまったく違います。
イエスにはそのようなことはありません。
イエスはすべての点で、内面の生活と外面の生活は完全に一致していました。
イエスは、神の御前におられた時と同じように、人の御前においても歩んでおられました。
イエスは、神の御前でも、人の前でも全く同じでした.
だからこそ、彼は言うことができたのです。
「耳に入れてください、欺きのくちびるからでない私の祈りを。」
(詩篇17篇1節B)
イエスには不自然なところは何もありません。
私たちもイエスのようになるたいと思いませんか!
「私のためのさばきが御前から出て、公正に御目が注がれますように。」
(詩篇17篇2節)
別の言い方で言ってみましょう。
「私はただ私の訴えをあなたに委ねます。」
もしくは、「私の宣告をあなたの御前から出させてください。」
もしくは、「あなたの目によって、物事を等しく見るようにしてください。」
もしくは、「父よ、あなたがすべてを正しく量ってくださることを知っています。」
「だから、あなたに委ねます。」
ゆえにこのように彼は言うことができるのです。
「あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。
あなたは私をためされましたが、何も見つけ出されません。
私は、口のあやまちをしまいと心がけました。」
(詩篇17篇3節)
御父と御子との間で起きているいる隠されたことがあります。
主イエスが御父とふたりきりになり、御父に語られたことを喜んで聞くのは、とても美しいことです。
これを知ることができるのは、このような詩篇にはそのようなことが書かれているからからこそです。
次の詩篇の節はより美しく描かれています。
「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。」
(詩篇17篇8節)
このように表現が旧約聖書に中で繰り返して使われています。
注)「ひとみ」、NKJV訳聖書では(The apple of the eye)で、「目のリンゴ」となります。
ヘブル語の辞書やコンゴルダンスで「(apple)」という単語を調べると、本当の意味に驚くかもしれません。
文字通りのヘブル語の意味は「小人」です。
つまり、ここでは「私を目の中の「小人」のようにして守ってください」という意味になります。
今、主イエスは父に言われます。
同様にダビデはヤハウェに言われます。
「私を目の中の「小人」のようにして守ってください」
神はいつもあなたがたを見ておられ、あなたがたは神の目に映っています。
神のあなたに対する関心の深さです!
そして、もう一つの姿は、子供を守る大鷲の姿です。
「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」
(詩篇91篇1節)
「御翼の陰に私をかくまってください。
私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。」
(詩篇17篇8節B、9節)
10節から15節には、世の人たちと信仰の人が対比されています。
彼は世の人たち、自分のために生きる人たちを次のように表現しています。
「彼らは、鈍い心を堅く閉ざし、その口をもって高慢に語ります。」
(詩篇17篇10節)
NKJV訳聖書からの訳
「彼らは自分の脂肪の中に閉じこもり、その口で高慢に語ります。」
(詩篇17篇10節)
彼らは高慢な者であり、義の敵です。
「彼らは、あとをつけて来て、今、私たちを取り囲みました。
彼は、あたかも、引き裂こうとねらっている獅子、待ち伏せしている若い獅子のようです。」
(詩篇17篇11節A、12節)
この者たちは彼らの主人のようです。
ペテロの手紙第一にはこのようにあるからです。
「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」
(ペテロの手紙第一5章8節)
そして、詩編ではこのように続きます。
「主よ。立ち上がってください。(妨害をする)彼に立ち向かい、彼を打ちのめしてください。
あなたの剣で、悪者から私のたましいを助け出してください。
主よ。人々から、あなたの御手で。」
(詩篇17篇13節、14節A)
ここにある妨害するという意味は、敵が何かする前に先にそこに着くという意味です。
また、「彼を打ちのめしてください」とは「悪者たち」についてどのように話しているかに注意してください。
神が世の悪人を地獄に送らずに黙認する理由があります。
正しい者にむち打ちを必要とする時、悪人を神の懲らしめとして用いられるからです。
預言者が「あなたの剣」と呼んでいます。
あなたがたは、神がネブカデネザルを起こされて、民を罰するために攻めて来られたと言われたことを覚えているはずです。
神は不信心な者たちを用いて、ご自分の民を試み、また懲らしめられます。
「世の人たち」には「この人生には彼らの割り当てられた分があります。」
これは私たちがヨハネの黙示録で読んだ者たちに似ています。
私たちは黙示録で何度も「地に住む者たち」について読みました。
彼らは、この世に住んでいる人のことを指しているのではありません。
天からの召しを拒否して、地上にだけ自分の相続分(生きる場所)を持っている人たちのことです。
「相続分がこの世のいのちであるこの世の人々から。
彼らの腹は、あなたの宝で満たされ、彼らは、子どもらに満ち足り、その豊かさを、その幼子らに残します。」
(詩篇17篇14節)
彼らは「この世に相続分」を持っています。
ゆえに「子どもらに満ち足り」ています。
「満たされた(full)」という言葉は「満足した」という意味です。
ある人が大きな財産を築くと、「私はそれを子どもに渡そう」と考え、子供たちのために生き続けるのです。
しかし、主を敬う者たちは、必要であれば、他人の祝福のために命を捨てることもいといません。
彼らは自分の財産を子どもたちに残したとしても、それがどうなるかをわかりません。
この対比を見てください。
ダビデは15節でこのように言っています。
「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。」
(詩篇17篇15節)
詩篇には私が関連させたい3つの聖句があります。
「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。」
(詩篇18篇30節)
「人の日は、草のよう。野の花のように咲く。」
(詩篇103篇15節)
「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。」
(詩篇17篇15節)
この3つの言葉に注目してください。
「神、人、私。」
そして、「神、その道は完全」です。
何が起ころうとも、私は神が間違いを犯さないことを知っています。
病気がなるかもしれません。
経済的な問題が起こるかもしれません。
そして、家庭の問題が起こるかもしれません。
教会の問題が起こるかもしれません。
なによりも、神の民の間の問題にあるほどひどい問題は地上にはありません。
しかし、何が起こったとしてもこのように言うことができます。
「神、その道は完全」です。
人について、ダビデは言っています。
ダビデは人に多くを期待しないことを学んだのです。
「人の日は、草のよう」
そして、「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」と進むのです。
復活の力 18篇
これはダビデのもう一つの詩篇である。
疑うことなく、この詩篇は彼が暗く困難な時期に経験した個人的な経験を、素晴らしい形で私たちに示しています。
サウル王に、山地の「しゃこ」のように追われ、時には自分の命さえも危うくなりました
ダビデは助けがないと感じ落胆しました。
そして、最後には絶大な苦悩の中で顔を上げ、神が自分のために共にいることに気付いたのです。
この詩篇は、他の多くの詩篇と同じように、ダビデが通った経験が描かれています。
新約聖書の啓示に照らし合わせて読み続けると、キリストの霊がダビデを通して語っていたことがわかります。
ダビデは罪深い人でした。
ダビデが神に向かって罪を告白するとき、私たちの主イエス・キリストが言わないことを述べている場合があります。
それは主イエスには告白すべき罪がないからです。
ダビデは拒絶されたこと、見捨てられたこと、愛する兄弟たちに殺されかけました。
そして、ヤハウェの驚くべき救いについて語るのであれば、型としてダビデが彼の人生と経験が私たちの主イエス・キリストの人生と経験に現わしていることは、すぐにわかります。
これらの冒頭の詩は詩篇にたびたび出てくるように、私たちに一番最初に結果を教えています。
ダビデが語る理由は、ダビデの心が神のいつくしみに対する感謝であふれているからです。
「彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。」
(詩篇18篇1節)
2節ではダビデが神への信頼を表すためにさまざまな言葉を使っていることに注目してください。
「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」
(詩篇18篇2節)
「わが救いの角」という表現は、ダビデが書いた時代を生きていた人には理解できるかもしれませんが、私たちにははっきりと理解できないかもしれません。
角とはレバノンの牛の角のことです。
旧約聖書では強さや力の象徴として頻繁に使われています。
一頭のバシャンの大きな雄牛が、その大きな角であらゆる反対勢力を押し切る姿を思い浮かべてください。
ダビデは「主はわが救いの角」、すなわち私の救いの力、そして「わがやぐら」と言っています。
そこでは広大な石の山が平原からそびえています。
その頂上に砦があります。
そして、一角に高い塔があります。
そして、その下の平原に敵がいると考えれば、その様子がわかると思います。
ダビデは「主はわが巌(岩)、わがとりで、わが救い主」と言っています。
そして、必要なものはすべて与えてくださるのです。
何年も前に、インド先住民ラグーナで働いていた時にパワテという小さな村で講演を依頼されました。
自動車のない場所だったので、私たちは馬に引かれた大きな荷馬車に乗って、悪路を約14マイル走ってこの村に着きました。
私たちは午後に会議があって、各地からインド人が集まっていました。
その夜はカサブランカで会議があり、4時半、もしくは5時には戻っていました。
私たちがそんなに離れないうちに、恐ろしい嵐が私たちのことろにやってくるのを見ました。
すぐに、雨が土砂降りになり、すぐにこちらに向かってくるのが見えました。
「私たちはずぶ濡れになる」と私は言いました。
運転手はこのように答えました。
「ずぶ濡れになっちゃこまるね
わたしたちは嵐が来る前に岩(巌)を作ることができると思います。
その前方に大きな岩があり、それにたどり着けば、私たちは逃げおおせます」
我々は急いで進むと、すぐに平原からそびえ立つ巨大な岩が見えました。
高さは40フィートか50フィートです。
おそらく1エーカー以上の土地を覆っていました。
近づいてみると、岩の中に大きな洞窟があるのが見えました。
馬車を止めることもせず、私たちの乗り手は洞窟に突っ込みました。
嵐は1、2分で猛烈な勢いで岩を越えていきました。
ダビテはこのようなことを考えていたと思いました。
「主はわが巌(岩)。」
その上に大きなとりでがあって、その上に高いやぐらがあると考えれば、完成した描写が見えてきます。
私の状況がどうであろうと、どんな危険が迫っていようと、主だけで満足できるのです。
もしあなたがたが神に信賴し「もう恐れることはない」と言えたのなら、それは素晴らしいことです。
「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。」
イザヤ書12章2節
環境のせいで怖くなったり、状況のせいで落ち込んだりするならば、私たちが本当に神を信頼していないことを示しています。
私たちの祝福された主がこの地上におられたとき、私たちに代わって罪の問題に直面されるあの恐ろしい時まで、主の霊を揺さぶったものは何もありません。
もし、このことが深く心を痛めなかったなら、彼は神の聖なる方ではないのです。
人間たちがキリストに負わせたすべての侮辱、キリストが負わなければならなかったすべての苦しみ、キリスト自身の見捨てられたこと、広められたまやかしは、どれ一つとしてキリストを苦しめていません。
なぜなら、キリストは父のみこころの中にとどまっておられたからです。
私たちが誘惑や試練に打ち勝ちたいなら、神に安住し、岩やとりでや高いやぐらに逃げ込む必要があります。
そこで詩篇の著者はこのように言っています。
「ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。」
(詩編18編3節)
そして、ダビデはとても苦しい経験を話しています。
ダビデは死にそうになったのです。
ダビデはこのように言いました。
「けれども、主とあなたに誓います。私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません。」
(サムエル記第一20章3節)
人間的に言えば、すべての希望が失われ、死の恐怖に直面しなければならない環境です。
この苦しみを経験したときダビデは若かったのです。
ヘブロンで王として王位についたとき、彼はわずか30歳でした。
ダビデは死に直面し、神を呼ぶまで出口が見えなかったときの恐ろしい心の状態を説明しています。
同時に、神が苦しむわが子の救いのために、天を動かしたようすを、生き生きとした言葉で描写されています。
ダビデは死のそばを歩いていましたが、神は彼を救いました。
そして、祝福に満ちた私たちの主イエス·キリストは、死の中に下って行かれました。
この死は神の裁きの下での死であり、罪による裁きでした。
そのために、彼は言葉では言い表せないほど恐怖の中にいました。
イエスは父なる神が必ずそこからよみがえらせてくださるという絶対的な確信をもって、死に下って行ったのです。
私は、この詩篇には、キリストの復活の力を見ることができると思っています。
このようにエペソ人への手紙1章19~21節では書かれています。
そこでは使徒は聖徒たちにこのように祈っています。
「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」
(エペソ人への手紙1章19~21節)
これらはキリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、「すべての支配、権威、権力、主権」をしのぐ強大な力のわざです。
また、これらは呼び名は天使の軍勢のための異なる呼び名です。
ある者は善、ある者は悪です。
今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
ピリピへの手紙2章を見てください。
最初に9節ではキリストの辱めについて書かれています。
「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」
(ピリピへの手紙2章8節)
この聖句を読んだ後、このように書かれています。
「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
(ピリピへの手紙2章9~11節)
キリストを死者の中からよみがえらせ、ご自分の右に置かれた神の力と威光をすべての被造物は認めなければなりません。
コロサイ人への手紙2章13節と14節を見てみましょう。
そこにはイエスの十字架上の死が描かれています。
「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」
(コロサイ人への手紙2章13、14節)
そして、15節にはこのように書かれています。
「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」
(コロサイ人への手紙2章15節)
これらは邪悪な支配、邪悪な権威、邪悪な天使たちの軍勢、堕天使たちのことです。
「主は、支配、権威を略奪し、公に誇示し、彼らを勝利を加えられました」
ダビデによって、このことがどのように描写されているかを見てください。
「ダビデ」という言葉は「最愛の人」という意味です。
ここではダビデが、神の最愛の人であるキリストとして表され、死の悲しみに沈んでいく姿が描かれていることを思い出してください。
4節にはこのようにあります。
「死の綱は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。
よみ(シオル、目に見えない世界)の綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。
私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。」
(詩編18編4、5節、6節A)
祝福された主が十字架にかかられました。
主の恵みを拒む者が入るべき恐ろしい落とし穴を目の前にしておられることを思い浮かべるべきです。
そして、罪人に対する限りない慈愛の心をもって、主はその穴に降りて行かれました。。
「天は夜の陰で覆われました。
イエスは悪霊たちと戦っています。」
イエスは十字架の上で、罪に対する神の裁きの表わしました。
十字架の恐怖の中で死に直面され、御自分の魂を御父に委ねられました。
「イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。」
(ルカの福音書23章46節)
詩篇ではこのように描かれています。
「主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。」
(詩編18編6節B)
神が全能の力をもってキリストを死からよみがえらせたことを、聖書の中でこれほど見事に描写している箇所はないと思います。
「すると、地はゆるぎ、動いた。また、山々の基も震え、揺れた。主がお怒りになったのだ。」
(詩編18編7節)
新約聖書で私たちは大地震があったことを読みました。
「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。」
(マタイの福音書27章51、52節)
「煙は鼻から立ち上り、その口から出る火はむさぼり食い、炭火は主から燃え上がった。」
(詩編18編8節)
また、これを聞いて下さい。
「主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして。」
(詩編18編9節)
御子を死者の中からよみがえらせるのは、力を持って降臨された神です。
「主は、ケルブに乗って飛び、風の翼に乗って飛びかけられた。
主はやみを隠れ家として、回りに置かれた。その仮庵は雨雲の暗やみ、濃い雲。
御前の輝きから、密雲を突き抜けて来たもの。それは雹と火の炭。
主は天に雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。雹、そして、火の炭。」
(詩編18編10~13節)
誰を「かき乱された」のでしょうか?
もし、あなたがたが、あの祝福された神のキリストが墓に葬られた日に、そこにいたなら、あの兵士たちが見張っているのを見ていたのかも知れません。
遠く離れたところで、次に何が起こるのかと脅えている弟子たちの集まりを見るかも知れません。
もしあなたが見ることができるのであれば、悪霊の大群、邪悪な支配者や権威、空中の支配者であるサタン、堕天使の大群が墓の周りをうろついているのを見ていたかもしれません。
「絶対にキリストは出てこられない。
悪霊たちが望むのは、キリストが墓の中にいることです。」
結果はサタンの勝利の時となったでしょうか?
「主は、矢を放って彼らを散らし、すさまじいいなずまで彼らをかき乱された。
こうして、水の底が現われ、地の基があらわにされた。主よ。あなたのとがめ、あなたの鼻の荒いいぶきで。
主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、私を大水から引き上げられた。
主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから。
彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。」
(詩編18編14~18節)
ダビデは死ぬ前の自分の体験を思い描いたものです。
御父の全能の力によって、祝福された私たちの主が死者の中からよみがえさせられました。
私たちは、主の死後の姿を見ることはできません。
「神は私を大水から引き上げられた」つまり、死の大水から引き上げられました。
キリストは無限の永遠の力によってよみがえられました。
今はよみがえられた方として語り始められています。
19節にはこのようにあります。
「主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。」
(詩編18編19節)
祝福された御子が罪の問題を解決し、神の義が罪を犯した人たちに対してすべての要求を満たしました。
他に神は何をすることができるのでしょうか?
神は、ご自分の御子を死者の中からよみがえらせました。
その喜びを表現する以外に何ができるでしょうか!
「主は私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。
私は主の道を守り、私の神に対して悪を行なわなかった。
主のすべてのさばきは私の前にあり、主のおきてを私は遠ざけなかった。
私は主の前に全く、私の罪から身を守る。」
(詩編18編20節)
ダビテをこのすべて点において完全に適合させることができません。
その時、ダビデはサウルから逃げていましたが、失敗ばかりしていました。
ダビテはペリシテ人の宮廷でどんなに不遜なことをしました。
ダビテはナバルからひどい仕打ちを受けたことで短気を起こしました。
ただ、アビガイルのとりなしによって、復讐するのが防がれました。
しかし、ダビテの型として示した方は、次のように言うことができる罪のない方です。
「主は私の義にしたがって私に報い」
(詩編18編20節A)
確かに、サウル王に危害を加えることについては、ダビデはこのように言うことができました。
「主は私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。
私は主の道を守り、私の神に対して悪を行なわなかった。」
(詩編18編20、21節)
主イエス·キリストは、絶対的に正しい方です。
神によって罪の問題を解決され、御自身の右に上げられた方です。
そして、今、私たちの前に来てくださったのです。
24節から30節で、著者は神の支配の原則を述べています。
「主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。
あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、
きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。
あなたは、悩む民をこそ救われますが、高ぶる目は低くされます。」
(詩編18編24~27節)
ここに私たちが心に留めておくべき原則があります。
神があなたにふさわしい扱いをしていないように感じることがありますか?
言葉では言えないかも知れませんが、そう感じたことはありませんか?
「なぜ神が私にこんなことをさせたのか理解できません。
私には何も悪いことをしたとは思っていません。」
もしくは「なぜ人々が私をそのように扱うのか理解できない」と言う人もいるかもしれません。
御言葉は「あなたは、恵み深い者には、恵み深く」と言っています。
イエスもこのように言っています。
「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」
マタイの福音書5章7節
神があなたは私たちに対して、なぜ、そんなに厳しいように見えるか知っていますか?
それは、私たちが他人に厳しいからです。
私たちははげしく人を裁きます。
私たちは他人に対してとても批判的です。
多くは批判に最も敏感な人は、他人を批判する準備が最もできている人です。
神は、私たちが他の人たちをどのように扱うかを知っておられ、それに従って私たちを扱っておられるのです。
神は「全き者には、全く」であられる方です。
言い換えれば、神は正しい人を引き受けてくださるのです。
神は「きよい者には、きよく」あられる方です。
神は、そむく者、すなわち、曲がった者には、ねじ曲げる方であることを明らかにしているようです。
事実、神は、勝手な者に報復なされます。
「あなたは、悩む民をこそ救われますが、高ぶる目は低くされます」と書かれているとおりです。
もし、私が神の恵みを受けたいと思うなら、神の御前で卑しい者とならなければなりません。
私が自分を義とする限り、神は私を罪に定めるしか方法がありません。
しかし、もし私が自分を罪に定めるとき、神は私を義とするためにそこにおられます。
「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。」
(詩編18編28節)
回りがどんな暗闇であっても、信仰は神を仰ぎ見ることができます
必要な光を与えてくれる神を頼りにすることができます。
「あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。」
(詩編18編29節)
著者は自分のことを、敵の大軍を前にしたひとりの人間だと考えています。
彼は心を神に向け、神に完全に信頼を置いて、敵の大軍の中を走って行きます。
彼は自分を取り囲む大きな壁を見て、敵の大軍が自分を取り囲むのを見ます。
彼は「私の神によって私は城壁を飛び越えます」と言います。
ただ、信仰は神を救い主として頼りにしています。
神がイスラエルに語られた言葉を思い起こしてください。
彼らはヤハウェと共に歩み、ヤハウェの言葉に従ったのです。
「あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。」
(ヨシュア記23章10節)
「彼らの岩が、彼らを売らず、主が、彼らを渡さなかったなら、どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか。」
(申命記32章30節)
このように、私たちが本当に神との交わりの中にいる限り、敵を恐れる必要はありません。
ここに美しい詩篇があります。
「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。」
(詩編18編30節)
決して、神は過ちを犯さないということを、私たち全員がしっかりと心に刻み込む必要があります。
それは良いことではないでしょうか。
あなたがたは、神ががあなたがたに対していくつかの誤りを犯したと思う時があるかも知れません。
しかし、あなたは心の奥底でこのように感じることがあっても、信仰はダビデとともに立ち「神の道は完全だ」と言うことができるのです。
決して、間違いはありません。
私は、神が私に経験させる多くの経験の理由を理解していないかもしれません。
しかし、やがて私は理解するのです。
「私がキリストと共に、高い所に立って人生の歴史を見る時が来ます。
主よ、その時、私は完全に知ることになります。
それまで、何も知らなかったことを!」
その時、私は神が私になさったすべての道が、完全な愛と義のうちにあったことを悟ります。
次に直後の節で、辱めを受けた時代のメシアの信仰が再び表現されています。
「まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。
この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。」
(詩編18編31、32節)
著者はその前で「神、その道は完全」と言っています。
もし私が神との交わりの中を歩くなら、「神は私の道を完全にしてくださる」のです。
つまり、鹿の足です。
このような特殊な鹿は山で見ることができます。
鹿の足は確実に岩から岩へと飛び跳ねることができます。
ダビデはこのように言っています。
「彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる」
(詩編18編33節)
困難を克服し、地上ので過ちを乗り越えることができる信仰を持つことは素晴らしいことです。
「戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。
こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。あなたの右の手は私をささえ、あなたの謙遜は、私を大きくされます」
(詩編18編34、35節)
今、キリストの御霊がダビデを通して「あなたの謙遜は、私を大きくされます」と言っています。
イエス以外の誰がそれを完全に言うことができるのでしょうか?
イエスはこのように言われています。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」
(マタイの福音書11章29節)
私たちは、私たちの方法で人々と接し、はげしく、尊厳と厳格を持って扱うのなら失敗してしまうことがあります。
主イエスは柔和によって成功しています。
「あなたの謙遜は、私を大きくされます」
ある時、私はカナダで古い本を手に入れました。
16世紀に書かれた世界の歴史で、古英語の活字で印刷されていました。
私はそれをざっと読みました。
そして、キリスト紀元の始まりに来て、次の言葉を見つけました。
「その時代に、すばらしい紳士、イエス・キリストがユダヤのベツレヘムで生まれたのです。」
私は「イエスがそのような表現で言われるのは聞いたことがない」と心の中で思いました。
私に一瞬衝撃を与えましたが、次の瞬間、私は考えました。
これ以上に正しい表現の言葉はないのかも知れない。
「すばらしい紳士?」
「紳士?」
それはどういう意味でしょうか?
一部の人が考える紳士とは、生活のために働かない人のことです。
しかし、紳士とは穏やかな人、他人を思いやる人のことです。
紳士として認められたいなら、他人を思いやることを学ばなければなりません。
私が子供の頃、母はよく私に「礼儀とは、最も親切なことを最も親切な方法で行ったり言ったりすることだ」と言われました。
それはイエスがなさったことです。
つまり、「あなたの謙遜は、私を大きくされます」ということです。
「あなたは私を大またで歩かせます。私のくるぶしはよろけませんでした。
私は、敵を追って、これに追いつき、絶ち滅ぼすまでは引き返しませんでした。」
(詩編18編36、37節)
ここで、ダビデは勝利しています。
敵から逃げるのではなく、敵が彼から逃げていることを語っています。
今、霊的な敵は主イエスから逃げています。
「私が彼らを打ち砕いたため、彼らは立つことができず、私の足もとに倒れました。
あなたは、戦いのために、私に力を帯びさせ、私に立ち向かう者を私のもとにひれ伏させました。」
(詩編18編38、39節)
43節を見てください。
そこには、祝福された私たちの主が、新しい創造の主として、また、全世界の主として、全権を治めるという預言的な描写があります。
「あなたは、民の争いから、私を助け出し、私を国々(KJV(異教徒))のかしらに任ぜられました。私の知らなかった民が私に仕えます。」
(詩編18編43節)
いつも「異教徒」という言葉が偶像崇拝者を意味すると考えてはいけません。
私たちの言葉(英語)ではもともとは荒野の人たち、都市と対比されるに荒野に住む人たちのことです。
すなわち、「あなたはわたしを「荒野の人」の頭とされました」という意味です。
そしていつの日か、そのように現されるのです。
「私の知らなかった民が私に仕えます」と語られています。
ヨハネの福音書にはこのように書かれています。
「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
(ヨハネの福音書1章11節)
「彼らは、耳で聞くとすぐ、私の言うことを聞き入れます。外国人らは、私におもねります。
外国人らはしなえて、彼らのとりでから震えて出て来ます。
主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの神。」
(詩編18編44~46節)
この章の最後の節で、著者は最初に書いたことに立ち返っています。
彼は、いわば、ヤハウェへの絶対的な信頼の要点を再び打ち出しています。
「この神は私のために、復讐する方。神は諸国の民を私のもとに従わせてくださる。
神は、私の敵から私を助け出される方。まことに、あなたは私に立ち向かう者から私を引き上げ、暴虐の者から私を救い出されます。
それゆえ、主よ。私は、国々の中であなたをほめたたえ、あなたの御名を、ほめ歌います。
主は、王に救いを増し加え、油そそがれた者、ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます。
(詩編18編47~50節)
私たちは王が誰であるか知っています。
ダビデは真実な王のかすかに見える予兆でした。
「油そそがれた者、ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます。」
ダビデには子孫がとこしえに王となることを約束されました。
その可能性は唯一、ダビデの子孫が死に勝利し、二度と死ぬことがないということです。
それは私たちの主イエス・キリストにおいて成就されます。
創造の証と神の言葉 19篇
詩篇19篇では、神の御霊が二つの事柄について賛美し、二つの証しへと私たちに目を向けさせます。
最初に、1節から6節には、創造における神の威厳と力についての証しがあります。
次に、7節から11節までは、神のみことばの証しがあります。
神の目的と計画が述べられています。
そして、人についての神のみこころが明らかにされています。
12節から14節には、この二つの証しを熟考した結果である魂の訓練が描かれています。
自然界の証しと神の言葉の証言の間には何の矛盾もありません。
人間は繰り返し自然と聖書を対立的に位置づけようとしてきました。
聖書は科学的ではなく、科学は聖書的ではないと主張してきたのです。
しかし、科学的事実と聖書の真実は決して矛盾することはありません。
科学的な理論、証明されたことのない科学的な仮説は、神が御言葉の中で与えた啓示と対立することが多くあります。
そして、真実な科学は、人が聖書に与えた解釈に繰り返し反対してきました。
しかし、現実の科学は、聖書の正しい理解や正しい解釈に反対することはありません。
なぜなら、科学とは自然界の事実を整然と提示するだけだからです。
一方、聖書は救いについて、神のみこころを整然と示したものです。
「ヨハネの黙示録」の4章と5章には、素晴らしい対比や比較があります。
4章3節でヨハネは天を見上げ次のように述べています。
「その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。」
(ヨハネの黙示録4章3節)
その方は輝く光の中に住んでいます。
ヨハネは彼の顔を見分けることができません。
碧玉や赤めのうは、昔の大祭司の胸当てにあった石のうちの2つであり、興味深いことです。
これらの石はは最初と最後の石でした。
大祭司の胸当ての上には十二の石があります。
それぞれ三個の石が四列に並んでいました。
その十二の石にはイスラエルの部族の名が彫られており、その名にはおのおの意味がありました。
印象的なのは、碧玉に「ルベン」という名前が彫られていたことです。
「ルベン」とは「息子を見よ」という意味です。
赤めのうには「ベニヤミン」という名が彫られていました。
ベニヤミンとは「わが右手の子」という意味です。
ヨハネには栄光はあまりにも鮮やかで、主をはっきりと見ることができませんでした。
ヨハネには主の顔を見分けることはできなかったのです。
しかし、主の顔が碧玉と赤めのうのようであることはわかりました。
その時、24人の長老が、御座に着かれた御方の御前にひれ伏し、天と地と海と、その中にあるすべてのものを造られた御方を拝んでいるのが見えたのです。
「「二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。
あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」」
(ヨハネの黙示録4章10、11節)
5章になると、その様相はより明確になります。
ヨハネは、その輝かしい栄光に親しみこのように述べています。
「さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる。――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。」
(ヨハネの黙示録5章6節)
ウェイマス新約聖書(WNT)の美しい翻訳を日本語に訳すなら「私はかつていけにえとして捧げられたように見える子羊を見た」と読むことができます。
小羊にはまだ死の跡が残っているのです。
ヨハネは「24人の長老が小羊の前にひれ伏した」と述べています。
「彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
(ヨハネの黙示録5章9~12節)
4章では創造主として礼拝され、5章では贖い主として礼拝されています。
ある詩人は言いました。
「二人の偉大な者は無から世界を創造し、贖いのためにより二人の偉大な者となりました。」
私たちは聖書から天地創造を学びました。
天を見上げ、地を見渡すのなら神の力と力と知恵の証拠が至る所に見いだすことができます。
この素晴らしい創造物を眺めな、神の存在や人格に疑問を抱く知的と言われる人々が理解できません。
もし、この宇宙の裏に意思がなかったら、太陽と星系はとっくに衝突し、宇宙は粉々になっていたはずです。
しかし、宇宙を創造された方について、このように述べられています。
「その力あるみことばによって万物を保っておられます。」
(へブル人への手紙1章3節)
詩篇は、神の存在と、平凡な現実に疑問を抱くことの愚かさをいかに印象的に強調しています。
そして、このように述べられいます。
「耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。」
(詩編94編9節)
人間の体を作り、生命を与え、耳を作り、それを可能にする能力を持った存在を想像できますか?
その耳は外の世界の音を聞き取ることができます。
しかし、その耳は自分の存在について何も知らないのでしょうか?
あなたは、魂の素晴らしい窓である目を持っています。
そして、これらを創られた方を知る十分な知恵を持っています。
しかし、自分を見ることができない人を想像できますか?
私たちがそのような驚くべき能力を持っているという事実そのものが、この宇宙の背後には人格を持った神が存在しなければならないという証拠です。
「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」
(詩編19編1節)
「天」とはどういう意味でしょうか?
空だけではありません。
無数の光の球体、星、太陽、月、太陽系が無限に広がっています。
宇宙には限りが無いのです。
それは理性では考えられないことの一つです。
一生懸命考えても、宇宙には限界があるとしか考えられません。
あなたの心は、宇宙の向こう側にはいったい何があるのだろうと言うかも知れません。
その無限の空間には宇宙がひしめいています。
ほtんどが私たちの何百万倍もの大きさです。
これらすべての天は、神の栄光を現わしています。
「私たちは神の手によって想像され、永遠に歌い輝き続けるのです。」
(讃美歌:ジョセフ・アディソン作詞)
創世記の最初の章ではこのように言わています。
「初めに、神が天と地を創造した。」
(創世記1章1節)
人間が愚かななことを言うのは不思議です。
つい最近、創世記の第一章は信用できないという、いくつかの古い愚かな声明に出会いました。
なぜなら、太陽が4日目まで創造されなかったのに、3日目に地上で植物が成長することを示しています。
日光なしでは植物を維持することができないからです。
したがって、太陽が作られる前に木が生えていたと考えるのはばかげているというものです。
私は理論的に考えるなら、ばかげていることを認めます。
しかし、そのばかげたことは疑い深い人の心の中にあり、神の言葉の中には存在しません。
神の御言葉は、日が始まる前に太陽が創造されたことを教えています。
「初めに、神が天と地を創造した」、そこには太陽と地球が含まれています。
この2つの単語は、宇宙空間を転がるすべての球体を含んでいます。
私たちは主なる神が四日目に「地上を照らす」ために太陽を造られたと読んでいます。
しかし その時、神が太陽を創られたとは言っていません。
しかし、その時までは、太陽の光は現在のように地上に集まっていなかったのです。
矛盾ではありません。
矛盾は、不信仰な者の心の中にあるだけにあるのです。
神は「初めに、神が天と地を創造した。」
そして、「天は神の栄光を語り告げるのです。」
あなたは、天の様々な球体が、私たちの主イエス・キリストとその贖いの御業の描写しているのを知っているでしょうか?
例えば、キリストは「義の太陽」と呼ばれています。
「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。」
(マラキ書4章2節)
「その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。」
(詩編19編6節)
自然も神の証しをしています。
すべての人はその証しに耳を傾ける責任があります。
素直に天を見上げるのであれば、人は神がいるに違いないという認識と、神が秩序の神、正義の神であるという認識を持つようになります。
義とは何でしょうか?
それは単に秩序(摂理)であり、この宇宙は秩序ある方法で営まれています。
天の証しは、人に悔い改めの必要性、宇宙の神と正しく付き合う必要性を確信させ、導いています。
神は、私たちに、これらに加え、御言葉を与えてくださいました。
7節から11節までは律法の証しです。
律法のあかしは、三つの対句、三つの節で示されています。
それぞれの節には、私たちが考察するために二つのことが引用されていることに気づくはずです。
「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。」
(詩編19編7節)
ここでいう「みおしえ(律法)」とは、十戒だけを意味するものではありません。
私たちはこれを神の律法と考えます。
しかし、律法とは、神のみことばによる神のみこころの啓示のすべてを意味しています。
聖書全体の言葉は神の律法であり、この律法は完全です。
それは新約聖書の啓示と一致しています。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」
(テモテへの手紙第二3章16、17節)
神は御言葉の中に完全な啓示を下されました。
これに耳を傾けるなら、どんなことが起きるのでしょうか?
「魂の悔い改め」、魂を神に向けさせます。
神の御言葉を心に受け入れ、信じるのであれば、人の魂は神に向かいます。
それから、この7節の後半に注目してください。
「主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。」
「あかし」という言葉が、この聖書全体に含まれています。
本当にあなたは大切な知恵が欲しいのですか?
ならば、聖書を勉強するべきです。
この世の人たちは、神以外のことについては賢いのに、どうして霊的なことについては無知なのでしょうか?
それは、世の人たちが神の御言葉の証しを無視しているからです。
「主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」
(詩編19編8節)
もしあなたが聖霊に頼って聖書を学ぶなら、人の書いたものが決して与えてくれない啓示、知識、知恵を聖書は与えてくれることに気づくはずです
私はどこかで話したと思いますが 若い救世軍将校だった、昔に、短期間の休暇で南カリフォルニアに帰国したときのことを思い出します。
私の家族はそこでオリーブ牧場を持っていました。
私はそこでアイルランド人の牧師を見つけましたが、その貧しい男は結核で死にかけていました。
ここの気候の変化は彼を助けるには、あまりにかけ離れていました。
彼は、家から離れたオリーブの木の間にある小さなテントに住まわせてほしいと頼みました。
このテントには自分のベットと机と椅子があり、起き上がることができるならば、彼はそこに座って神の言葉を熟考し、いくつかの手紙を書きました。
私が家に帰った時、私の母が私に「あなたにそこへ行ってジェームズ・フレイザーに会ってほしい」と頼みました。
私が行くと、彼はとても親切に迎えてくれました。
そして、「若者よ、あなたは魂を得ようとしている」と励ましの言葉がかけられ、語り始めました。
「お座りください。
私の御父が私に語ったたことをいくつかお話ししましょう。
彼が神の言葉から私に語り始め、2時間ほど座っていました
そして、私は「疲れるから、これ以上話さないでください」と言いました。
彼は「ここで語ったことを、他の人たちに渡してください」と言いました。
でも、私は「でも、私はここで語ったことをどのように学べば良いのですか?
今、語ったことを教えてくれる本はあるのですか?」と尋ねました。
「若者よ!
私はこれらの事をアイルランド北部の小さなわらぶき小屋の泥の床にひざまづいて聖書を開いて椅子の上で学びました。
聖書を書かれた方が日ごとにやって来て、私にそれを説明されました。
二、三週間ひざまずいて、神のもとで、御言葉について学ぶことは、一生かかって学校で学ぶよりもずっと多くのことを学ぶことができます。」
あの小さなアイルランド人、ジェームズ・フレイザーを知って、私は驚きました。
それ以来、神に感謝してきました。
私は彼の教えをずっと大切にしてきました。
天からの知恵が欲しければ、本物の知識が欲しければ、神の聖霊に頼って自分で聖書を勉強することです。
他人が与えてくれるものだけに頼ってはいけません。
集会に来た時以外は、聖書を開くことがほとんどないクリスチャンが多いのではないでしょうか。
もし、私たちが聖書を読むことに時間を費やすことを学ぶことができれば、神の知恵がそこに明らかにされていることに気づくはずです。
8節の言葉に再び注目してください。
「主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」
(詩編19編8節)
「戒め」とは、神があなたがたのために定められた道です。
すなわち、あなたがたがどのように步むかについての訓戒です。
人は神の「戒め」を恐れることがあります。
その中を歩くと、失望を見つける代わりに、あなたの心は喜びで満たされます。
「主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」
神の御業は人間の思い描くものとはかけ離れていることもあります。
「神の単純で妨げることのできない計画」は、非常に目的が単純です。
非常に明確であり、目を覚まさせます!
わたしは全く文字を知らない人たちを知っているが、それでもこの聖書を知っています。
彼らは神とその御言葉の学校で学んだからです。
彼らは、名前の最後にたくさんの学位が付いている多くの人よりもはるかに賢明です。
9節にあることについて考えてみましょう。
「主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。」
(詩編19編9節A)
ここにある主への「恐れ」という言葉は恐怖という意味ではありません。
神の無限の聖さを知って、「畏敬の思いになる」という意味です。
あなたがこの御言葉を読み、意識的に神の御前に連れて行かれるのならば、あなたの畏敬の思いがあなたの魂を襲いこのように言うのです。
「神を悲しませるべきではない。
私は神にしたがって歩みたい。
その結果、あなたがたのたましいは清められるのです。
あなたが周りにある世と接触しているものは、あなたの人生から取り除かれます。」
9節の後半にはこのようにあります。
「主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。」
(詩編19編9節B)
ここにある「主のさばき」とは有罪判決という意味でのさばきではありません。
主の判断、主の御業という意味です。
他のものを信じてはいけません。
サタンは、あなたがたに、主のさばきは時に厳しく残酷であり、あなたがたの利益に反すると思わせようとします.
いいえ、「主のさばきはすべてまことであり、ことごとく正しい」のです。
「それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。」
(詩編19編10節)
皆さまはこの御言葉を楽しみ始めるのであれば、自分自身にこのように言うのを知っています。
「私は私の魂にとって、これ以上貴重なものを見つけることはできません。」
エレミヤ書にはこのようにあります。
「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。
万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」
(エレミヤ書15章16節)
あなたはヨブの言ったことを思い出すかもしれません。
「私は神のくちびるの命令から離れず、私の定めよりも、御口のことばをたくわえた。」
(ヨブ記23章12節)
また、ダビデは証言が加えてをこのように言っています。
「それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。」
(詩編19編10、11節)
神のことばを研究すべきです。
それは、あなたがた自身の喜びのためです。
そして、あなたがたが神の御心に逆らうことから守られるためです。
「ジョン・バニヤンは自身の著書の前書きで「この本があなたがたを罪から救うか、罪があなたがたをこの本から遠ざけるか」と書いています。」
もし、あなたがたが日々神のことばを思いめぐらすのであれば、御言葉はあなたがたを罪から守ります.。
もしあなたがたが不用心で、心が冷たく、神との交わりから外れるなら、罪があなたがたを聖書から遠ざけるのです。
「また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。」
(詩編19編11節)
御言葉を最後まで守るのです。
12節から14節までは、神の言葉について考えることによって生み出される魂の訓練です。
詩篇の著者は問いています。
「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。」
(詩編19編12節A)
もし御言葉がなかったら、私は自分を試す方法がなかったのです。
「どうか、隠れている私の罪をお赦しください。」
(詩編19編12節B)
私の人生には、誰の人生においても、知らないことがあります。
神だけが知っているのです。
「今、主よ、あなたのみことばを用いて、これらの隠れたもの、隠れた罪から私をきよめてください」と祈る必要があるのです。
そして、このように付け加えています。
「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。」
(詩編19編13節A)
傲慢の罪とは何でしょうか?
著者はここで傲慢の罪と隠れた罪を区別しています。
律法の下では傲慢の罪のためにささげるささげ物はありません。
「もし人が、あなたの神、主に仕えてそこに立つ祭司やさばきつかさに聞き従わず、不遜なふるまい(傲慢の罪)をするなら、その者は死ななければならない。」
(申命記17章12節)
そのささげ物は知らずに犯した罪のためでした。
「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。」
(詩編19編13節A)
この罪は故意に犯した罪であり、明らかにされた神の御心に直接違反することです。
「それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。」
(詩編19編13節B)
この罪は神の御心に直接破壊することです。
さて、終わりの祈りがささげられます。
この祈りはすべてのキリストのしもべ、またすべての信じる者のくちびるにふさわしいものです。
どんな形であれ、神に仕えたいと願うすべての人についてはそうなのです。
私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」
(詩編19編14節)
もし、私の口のことばと、私の心の思いとが、主に受け入れられたいのであれば、私たちは御言葉のとおりに歩まなければなりません。
御言葉を奉仕する人は、神に受け入れられる人です。
王国の詩編 20~21篇
神の御言葉を説明する試みにおいて、私はこれまで、いくつかの見出しの美しさに注意を促してきませんでした。
たとえば、詩篇19篇、20篇、21篇の見出しはすべて同じで、「指揮者のために。ダビデの賛歌」です。
詩篇22篇も「指揮者のため」に捧げられ、「指揮者のために。「暁の雌鹿」の調べに合わせて。ダビデの賛歌」という見出しです。
しかし、その後に続くヘブル語の単語は「朝に隠れたもの」を意味し、鹿の頭の角を指し、昇る太陽の光線を表していると言われています。
「指揮者」という言葉は、私たちの心に深く刻まれるはずです。
指揮者は誰のことですか?
詩篇の22編22節にはこのようにあります。
「私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。」
(詩編22編22節)
私たちの賛美の歌に特徴を与える方は、神が民の賛美を導く方であることを知る必要があります。
私たちの賛美の歌は、少なくとも何らかの形で神にふさわしいものになるものです。
時々、私たちは神が導いてないゴスペルと呼ばれる歌を歌っているのではないでしょうか。
しかし、私たちが尊敬と感謝をもって主に近づくとき、主イエスは喜んで私たちの賛美を導いてくださいます。
ゆえに、私は「偉大な指揮者」に捧げられたこれらの詩篇を見る時には、常にキリストを思い、このように思うのです。
「詩篇は神の霊がダビデに霊感を与え書かせたものです。
そして、ダビデはこの詩編を主イエス・キリストに捧げました。」
詩篇では、ある詩篇の最後の詩が次の詩篇への鍵となることが多いことは興味深い事実です。
ここで私たちはそれを見ることができます。
詩篇19篇の最後は、「わが岩、わが贖い主、主よ」という言葉で締めくくられています。
詩篇20篇は、私たちの神の力と贖いを賛美しています。
同じように、詩篇20篇の最後の節には「主よ。王をお救いください。私たちが呼ぶときに私たちに答えてください」とあります。
そして、詩篇21篇は、栄光の中の王の詩篇です。
21篇は「主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう」で始まります。
詩篇を読む時、各篇の密接なつながりに注意してください。
詩篇の5、6、7、9篇のように結びついていることもあります。
ある詩篇の最後の詩が、次の詩篇の最初を特定の言葉、それぞれに共通する特定の表現で紹介されています。
これらの詩篇が黄金の鎖で結びつけているように見えます。
詩篇19篇では、創造の証しと神の言葉の証しがあります。
これら詩篇は、神が備えてくださった贖い主について語っています。
詩篇20篇には、贖い主が私たちのために得てくださった救いである贖罪があります。
詩篇20篇の最初の3節を見てみましょう。
「苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。
主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように。
あなたの穀物のささげ物をすべて心に留め、あなたの全焼のいけにえを受け入れてくださいますように。セラ」
(詩篇20篇1~3節)
魂は、主イエス・キリストが成し遂げた御業の上に、いわば安息しているのです。
すべてのささげ物、すべての焼き尽くすいけにえはキリストのことを語っています。
ゆえに、ここではいけにえのことを語られています。
イスラエルのため、もしくは諸国のため、もしくは一人一人の魂のための将来、実行される祝福は、主イエス・キリストがカルバリでささげられたただ一つのささげ物によるのです。
過去に与えられたこれらすべてのささげ物は、神がカルバリ成し遂げられた御業の多くの描写にすぎません。
すべての祝福が私たちにもたらされるのは、この死を基礎としています。
神はキリストのささげ物ゆえに、祈る者の声を聞かれるのは事実です。
「ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように」とあります。
「ヤコブの神」という表現が大好きです。
聖書の中で「イサクの神」と書かれているのは一回だけです。
「アブラハムの神」と書かれているのは二回だけあります。
私たちは「エリヤの神、主」と一回だけ読むことができます。
詩篇では「ヤコブの神」を22回も出てきます。
なぜ、著者は神を「ヤコブの神」と呼ぶのでしょうか?
暗示的な考えがいくつかあります。
最初に、哀れな罪人には神が必要だということです。
その理由はヤコブはこの世に生まれたときから、何年にもわたって、かわいそうな曲った杖と言われています。
ヤコブの名は「接ぎ木する者」、もしくは「不正者」 、文字通りには「かかとを掴んだ者」を意味します。
つまり、「かかとを掴んで相手をつまずかせるような者」という意味です。
それは私たち一人一人の中にある肉のような存在です。
私たちはひどい「かかとを掴んだ者」なんです。
しかし、神は「ヤコブの神」です。
イサクは問題のなく、特徴のないタイプでした。
イサクは刺激的なこともせずに、良い人ではありません。
そして、刺激的にも悪い人でもありません。
むしろ、あなたは神のことを「イサクの神」と呼ぶことが好ましいと考えるかもしれません。
しかし、聖書の中で「イサクの神」と呼ばれたのは一度だけです。
「ヤコブの神」と呼ばれるのは、神が哀れな罪人に関心を持っていることを、あなた方と私に知ってほしいからです。
そしてまた、「ヤコブの神」という考えは、一人一人の神を暗示していると思います。
神は一人の民を選び出すのです。
「私はあなたの神です」と言って、あなたと選び出したのです。
そして、あなたは神の顔を見上げて「あなたは私の神です」と言うことができます。
主は忍耐の神であり、ヤコブに対して忍耐しておられたのです!
主は忍耐でヤコブを扱ったのです。
主はヤコブを懲らしめました。
主はその曲がった男を捕え、懲らしめ、教育し、訓練して教えました。
そして、老人になり、おとなしく、忍耐強く、神を敬う者になったのです。
ヘブル人への手紙にはこのように書かれています。
「信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。」
(ヘブル人への手紙11章21節)
ヤコブはその場所に到達するのに長い時間がかかりました。
しかし、ついに到達したのです。
神は私たちのある者には、苦難に耐える忍耐をお与えになっています
4~6節では祈りに応えて神の民にもたらされる祝福が書かれています。
1~3節は祈りのでは、「セラ」という言葉で締めくくられています。
「セラ」は「ピリオド(句点)」を表しています。
この「セラ」という言葉は、文字通り「持ち上げる」という意味です、
例えば、ピアノを弾くとき、ピアニストはちょっと手を上げます。
音楽が演奏されるとき、音楽に休符があり、音楽家はただ手を上げることを示しています。
私が少年だった頃、ある親愛なる年老いたクリスチャンが言いました。
「セラ」という言葉を見るたびに、私はいつも「立ち止まって考えなさい!」と読んでいました。
これは主が言っていることです。
「私はあなたに重要なことを話してきました。
今は立ち止まってよく考えてみてください。」。
それは神の句読点です。
次の行に進む前に、立ち止まってよく考えてください。
4節は請願ではなく、宣言にすべきです。
「主があなたの願いどおりにしてくださいますように。あなたのすべてのはかりごとを遂げさせてくださいますように。」
(詩篇20篇4節)
より良い訳とするならば「神はあなたの心のままにすることを許されて、あなたのすべてのはかりごとをかなえてくださる」です。
祈る者は他の3節にも存在しています。
「主があなたの願いどおりにしてくださいますように」、そしてその答えがここにあります。
「神はあなたの心のままにすることを許されて、あなたのすべてのはかりごとをかなえてくださる」なのです。
ある人がこのように言うかもしれません。
「神はいつもあなたのためにこのようにしています。
神はすべての人にその心のままに与え、そのはかりごとをことごとくかなえてくださるのです。
しかし、神は無条件に願いをかなえるとは約束したことはありません。」
ですが神はこのように言っています。
「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」
(詩篇37篇4節)
そして、ヨハネの福音書でもこのように約束しています。
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」
(ヨハネの福音書15章7節)
あなたの魂はキリストとともにあり、キリストの御業に満たされています。
そして今、全焼のいけにえの煙の上で神への叫びが起こり、神に叫びを上げます。
「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」のです。
あなたと私がキリストに心が奪われるならば、もしくはキリスのみこころが私たちの意志であるならば、もしくは私たちがキリストの中にあり、私たち自身を喜びの中にいるのならば、キリストの言葉が私たちの中にとどまり、私たちが意識的に彼との交わりを持っているならば、私たちはキリストに何をしたいのかを尋ねることができ、それは実行されます。
よろしいでしょう。
もし、それが本当なら、神様に100万ドルを準備してもらうようお願いし、清算してもらってこれ以上取り立てをしなくて済むようにしたらどうですか?言われたことがあります。
私が主にあって自分を喜ばせるだけなら、そんなことはできません。
主は私に、100万ドルを求めろとは言っていません。
しかし、もし、主がそうしてくださるなら、私はそうします。
ジョージ・ミューラーが神のもとで喜び、100万ポンドを求めました。
ジョージ・ミューラーが運営していた孤児院に、神は50年の生涯に渡ってそれを与えました。
もし、私にそのような責任をあったのならば、主にも求めることができるのです。
あなたと私が現実に神との交わりの中に生きているなら、私たちの中に住む聖霊が私たちの心を動かします。
そして、私たちが求めるべきことを示してくれるはずです。
聖霊の中で祈るとき、私たちは答えを確信することができます。
さて、信仰よって5節と6節で語られています。
「私たちは、あなたの勝利を喜び歌いましょう。
私たちの神の御名により旗を高く掲げましょう。
主があなたの願いのすべてを遂げさせてくださいますように。」
(詩篇20篇5節)
この節には、ユダヤ人が来たるべき救い主のために用いられている、私たちの主イエスのことを述べている聖句があります。
「今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。」
(詩篇20篇6節A)
「油注がれた者」は「メシア」と同じ者です。
メシアは、ユダヤ人が何世紀にもわたって待ち望んでいた人でした。
しかし、神の油注がれた者は苦しみ、拒絶され、死に、そして勝利して墓から出てくると預言されています。
そして、詩篇は勝利の日を見てこのように言っています。
「今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。
主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。」
(詩篇20篇6節)
メシアを死者の中からよみがえらせたのと同じ力が、私たちのために約束されているのです。
ゆえに、私たちはこのように言うことができるのです。
「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」
(詩篇20篇7節)
私たちは神だけに信頼を置いているのです。
私たちは緊張と試練の時に、地上のものや人間のものに助けを求めがちです。
しかし、それらは私たちを失望させることが多いのです。
神に頼ることの幸せを一度知ったら、キリストを信頼することが贅沢であることに気づくはずです。
あなたの信頼は自然のものではなく、霊的なものなのです。
つまり「彼らは、(一時的なものに頼って)ひざをつき、そして倒れた」のです。
しかし、私たちは神に信頼し「立ち上がり、まっすぐに立った」のです。
「彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。」
(詩篇20篇8節)
この詩篇はキリストを見あげ、締めくくられています。
「主よ。王をお救いください。
私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。」
(詩篇20篇9節)
もちろん、王は祝福された主イエスのことです。
ここは直接、詩篇21篇を導入しています。
すでに見たように、最初の詩は王の栄光を賛美しています。
「主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。」
(詩篇21篇1節)
他の詩篇では、祝福された主がこの地上を父にへりくだって歩むのを見てきました。
今、私たちは、よみがえられたイエスが、神の定められた時に、御心のままに大いなる力と支配を手に入れようとしているのを見ています。
そして、神がイエスを死者の中からよみがえらせたときの救いを喜んでいます。
そして、詩篇の著者はこのように述べています。
「あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。セラ」
(詩篇21篇2節)
主イエスの心の願いは何だったのでしょうか?
何が主イエスをあの十字架に連れて行ったのでしょうか?
ゲッセマネを通って、暗闇の中で主を支えたのは何だったのでしょうか?
使徒パウロが教えています。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」
(へブル人への手紙12章2節)
この喜びは何なのでしょうか?
それは、あなたと私が神の栄光の中に共にいる喜びです。
何と驚くべきことでしょう。
神の心の願いは、私たちが天国で神と一緒にいることでした。
イザヤが十字架の恐ろしい苦しみを思い描き、次のように言ったのは、まさにそのことを教えています。
「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」
(イザヤ書53章11節)
「苦難」という言葉はただ一つの苦しみを指しています。
それは出産の苦しみです。
イザヤはこのように言っています。
「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」
(イザヤ書53章10節)
十字架上でのイエスの恐ろしい苦しみは、私たちに命を与え、私たちに救いをもたらす手段でした。
「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。」
そして、「あなたは彼の心の願いをかなえ」させたのです。
今、キリストは栄光の中で神の右にいます。
そして、キリストの尊い血の恵みを受けた何千万人もの人が永遠にともにいるのです。
これが神の心の願いの成就です。
どちらかというと詩篇は地上の王国を想定しています。
しかし、私たちはその両方を考えることができます。
「あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。」
(詩篇21篇3節)
私たちは「神に冠を置かれる」と歌いますが、実際に、私たちは神に冠をかぶせることはありません。
もちろん、私たちは神の戴冠式に参加するという意味です。
神に冠を置かれるのは父なる神です。
かつては、人間がキリストにいばらの冠をかぶせました。
人は、呪われた大地の産物をキリストの上に置きました。
アダムが罪を犯したとき、神は地に呪いを告げて仰せられました.
「土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」
(創世記3章18節)
人は私の救い主の頭にいばらの冠をかぶせたのです。
しかし、神はいばらの冠を取り去られました。
そして、私たちは次のように読んでいます。
「あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。
彼はあなたに、いのちを請い求めました。あなたは彼に、とこしえまでの長い日々を与えられました。
(詩篇21篇3、4節)
キリストは死に向かっていましいたが、父なる神が彼をよみがえらせ、キリストに「とこしえまでの長い日々」を与えました。
このようにキリストを信じるすべての人に復活の祝福が与えられたのです。
「御救いによって彼の栄光は、大きい。あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます。
あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼を楽しませてくださいます。
まことに、王は主に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう。」
(詩篇21篇5~7節)
私たちの主の人間性がこのように再び輝く様子を見てください。
主は人としてこの地上に降りてきました。
主は人として十字架に行きました。
主は人として御自分のたましいを御父にゆだねられました。
「イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。」
(ルカの福音書23章46節)
イエスは人として死に下って行かれました。
しかし、今、父なる神が死者の中からよみがえらせてくださいました.
復活の栄光のうちに、二度と滅びることのない命、終わることのない命、永遠の命をもってよみがえられるのです。
今は、御国を父にゆだねられる喜びの日まで、神はただひとりの人として存在されます。
今もなお、主は父に仕えており、人々を主のもとに引き寄せようとしています。
そして、来たるべき栄光の御国への道を備えておられます。
最後に、すべてものが神に服従したとき、神は王国を父に引き渡します。
この詩篇の8節から最後には、メシアが君臨し、その支配が地上の人間に及ぼす結果が記されています。
神が王国を征服するために力と栄光のうちに降臨される時、神はすべての敵を根絶やしにされると言われています。
ゆえにこのように書かれています。
「あなたの手は、あなたのすべての敵を見つけ出し、あなたの右の手は、あなたを憎む者どもを見つけ出します。」
(詩篇21篇8節)
なんとも悲しいことです。
主イエス·キリストによって、神が世界に示された無限の愛と恵みにもかかわらず、まだ神を憎み、和解を望まない人たちが無数にいるのです。
主が力と栄光をもって再びおいでになる時、主は地から悪人を根絶やしにされます。
まさにその時、義の王国を建てられるためです。
「あなたの御怒りのとき、彼らを、燃える炉のようにされましょう。主は御怒りによって彼らをのみ尽くし、火は彼らを食い尽くすでしょう。」
(詩篇21篇9節)
同じことを述べている新約聖書の一節を見てみましょう。
テサロニケへの手紙第二1章6~10節にはこのように書かれています。
「つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、
苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。
そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。
その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の――そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。――感嘆の的となられます。」
(テサロニケへの手紙第二1章6~10節)
王国が始まる日は、主が敵に復讐することから始まります。
マラキ書3章では、終わりの日に神の尊い集まりのことが書かれています。
イスラエルがヤコブの苦難の時を過ごす時、この小さな群れが集まり、みことばを探り、イエスを待ち望んでいます。
イエスは彼らについてこのように言われます。
「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」
(マラキ書3章17節)
彼らは人間に下される裁きから免れるのです。
「あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。」
(マラキ書3章18節)
では、私たちは4章を読んでみましょう。
「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。――万軍の主は仰せられる。――」
(マラキ書4章1節)
その日、ヤハウェの御力の日に、悪を行なう者たちはことごとく滅ぼされます。
だが今、主を敬う者への祝福を見てみましょう。
主が語っているのは、その時、地上住む人びとのことです。
「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」
(マラキ書4章2節)
わたしの名を恐れるあなたがたとは、イスラエルの人々を指しています。
「あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行なう日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。――万軍の主は仰せられる。――」
(マラキ書4章3節)
ある実存主義者たちが私のところに来て、このような聖書箇所を指して言いました。
「あなたは聖書が主イエス・キリストを拒む者の良心には永遠の罰があると教えていると言っています。」
わたしは答えます。
「はい、その通りです。
恐ろしいことです。
しかし、わたしの聖書にはこのようにあります。
わたしはそれ以外のことを人に教える勇気はありません。
それほど重要なことなのです」
するとこのように返事が返ってきます。
「しかし、見なさい。この箇所には、裁きの日に主が彼らを根こそぎにし、足の下で灰にすると書いてあります。
では、何も残りません。」
しかし、主はここで裁きの終わりの日について話しているのではありません。
大きな白い御座について語っているのです。
キリストがメシアとして、再び王となる時、この地上で行われる裁きについて話しているのです。
地上の悪人たちは、御顔の輝きによって根こそぎ滅ぼされます。
すなわち、父と子、そして正しい者たちは千年王国にはいることを許され、生き残る者はみな灰となるのです。
それは体だけに関係しています。
魂や霊を灰にすることはできません。
ソドムとゴモラに火が降りてきました。
これらの街を焼き尽くされたのです。
滅ぼされた日の翌日にあなたがたがそこにいたのならば、その廃墟のあとを見ることができたかも知れません。
もしアブラハムがそこに下って行ったなら、ソドムとゴモラの通りを步いたかも知れません。
そして、悪人たちの死体はアブラハムの足下で灰となっていたでしょう。
しかし、これは彼らの魂とは何の関係もありません。
この裁きは地上で起きました。
はるか昔に死んだのです。
彼らは滅んだのですか?
イエスは何と言っているのでしょうか?
「それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。」
(マタイの福音書11章20~22節)
正しい者の足の下にあったのはただの灰です。
しかし、さばきの日には彼らは上って来ます。
彼らの魂、霊は灰になっていません。
そして、彼らの霊、彼らの魂は灰にならず、彼らのからだも死者の中からよみがえり、さばきの日に神の前に立つのです。
この裁きは、主イエスが現われた時に地上で起こるのです。
「苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。
そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。
そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。」
(テサロニケへの手紙第一1章7~9節)
「あなたの手は、あなたのすべての敵を見つけ出し、あなたの右の手は、あなたを憎む者どもを見つけ出します。
あなたの御怒りのとき、彼らを、燃える炉のようにされましょう。主は御怒りによって彼らをのみ尽くし、火は彼らを食い尽くすでしょう。
あなたは、地の上から、彼らのすえを滅ぼされましょう。また、人の子らの中から、彼らの子孫をも。」
(詩篇21篇8~10節)
不正な者の時代は消え失せます。
千年の間、キリストが義によるすばらしい王となるためです。
「彼らが、あなたに対して悪を企て、たくらみを設けたとしても、彼らには、できません。
あなたは彼らが背を見せるようにし、弓弦を張って彼らの顔をねらわれるでしょう。」
(詩篇21篇11、12節)
ここでは、主が大軍勢を率いて天から来られます。
弓に矢を射かけた弓兵のように描かれています。
神がさばきのために下って来られる時、敵は神の前から逃げていきます。
詩篇は賛美の言葉で締めくくられています。
「主よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように。私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。」
(詩篇21篇13節)
その日はなんと素晴らしい日ではないでしょうか!
その日には、もはや不義が支配することは許されません。
羊飼いの詩篇 22~24篇
よく言われるように新約聖書では主は3つの意味で羊飼いと呼ばれています。
ヨハネの福音書10章で、主は「私は良い羊飼いだ」と言っています。
「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
(ヨハネの福音書10章11節)
へブル人への手紙13章では、イエスは「死者の中からよみがえられた」という意味で「羊の大牧者」と呼ばれています。
「永遠の契約の血による羊の大牧者」
(へブル人への手紙13章20節)
ペテロの手紙第一5章では、彼らは主の再臨を待ち望んでいます。
その時、羊飼いたちは主のことを説明し、主は「大牧者(羊飼いの長)」と呼びました。
「そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」
(ペテロの手紙第一5章4節)
かつて、ある人が詩篇22篇には羊のために命を捧げる良い羊飼いであると説明しました。
詩篇23篇では、復活の生涯において大牧者が、この世の荒野で彼の民を導いているのを見ることできます。
そして、詩篇24篇では、偉大な羊飼いが永遠の祝福をもたらすために、力と栄光の中で再び帰って来るのです。
レビ記の前半には五つのささげ物があります。
そのうちの4つは命の犠牲を伴うものでした。
しかし、一つはそうではありません。
命の犠牲がないものは食事または肉のささげ物と呼ばれ、「肉」という言葉は食べ物、食べ物のささげ物を意味します。
KJV聖書では、この特有のそなえものに付けられた訳の名前では「肉のささげ物」です
すでに見たように、詩篇16篇では、祝福された主イエスが穀物のささげ物として捧げられました。
これは主イエスの生涯の完成度を物語っています。
主イエスの聖なる生涯のすべての行為は、神が喜ぶこととして神の御元に昇って行きました。
他のいけにえには、全焼のいけにえ、和解のいけにえ、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえがあります。
詩篇40篇は全焼のいけにえの詩篇です。
詩篇85篇は和解のいけにえの詩篇です。
詩篇69篇は罪過のためのいけにえの詩篇です。
詩篇22篇は罪のためのいけにえの詩篇です。
罪のためのいけにえは、主イエス·キリストが、私たちのために罪とされたものです。
それは、私たちがキリストにあって神の義とされるためです。
新約聖書では、私たちの祝福された主が罪に対する神の厳しい裁きを受けておられた時に、主の心の中で何が起こっていたのかを多くは語ってはいません。
しかし、私たちを導き、理解させるものがあります。
それは、暗闇の3時間が終わろうとしていた時、主イエスが魂の苦しみの中で叫んだという事実です。
「三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。
これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」
マタイの福音書27章46節
それを読むならば、私たちの心はすぐにこの詩篇22篇へ引き戻されます。
そして、22篇がメシアの詩篇であることを教えてくれます。
熟考してゆくのならば、この暗闇の時間に私たちの祝福された主の心にある考えを私たちに与えてくれるのです。
主は私たちの立場をお取りなってくださいました。
私たちの罪そのものになってくださったのです。
この詩篇のことを、ある人が「インマヌエルの孤児の叫び」と呼びました。
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
そして、ヘブル語の聖書では、それは彼の勝利の叫びで終わっています。
私たちの聖書は正確にはありませんが、この言葉を見つけることができます。
「彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。」
(詩篇22篇31節)
"They shall come, and shall declare His righteousness unto a people
that shall be born, that He hath done this."
(英語のKJV)
英語のKJVの聖書では「this」という単語がイタリック体になっています。
これは元のテキストにはこれに対応する言葉が何もないことを意味しています。
編集者によって提供されています。
ヘブル語では中性代名詞と男性代名詞は全く同じです。
そして、そこには実際に翻訳できるようにように、中間態の"so"が存在します。
つまり、このように翻訳することが出来ます。
「彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ、完成させます。」
このように、偉大な罪のためのいけにえとしてイエスを語る叫びで始まります。
そして、御業が終わったことを告げる叫びで終わっています。
このように、この詩篇は二つの部分に分かれています。
最初の21節がグループになっており、22~31節までが二つ目の部分です。
最初の20章では、聖なる受難者は一人です。
讃美歌の「地で歌が始まる(On Earth the Song Begins)」の歌詞にはこのようにあります。
「彼はただ一人で十字架を負い、ただ一人でその悲しみは持ち続けるのです。」
そこでは、誰も彼に関わる者はいません。
そこにいるのは、神をそしる敵です。
主は、ただひとりで、神の御前で私たちの罪を負ったのです。
しかし、最後の22節以降では、主は兄弟たちと共におられます。
22節では主の復活の生涯に入り、十字架の業はすべて過去のものとなっています。
十字架にかけられた御姿を思い浮かべてください。
そして、もう一度思い出してほしいのです。
主イエスは十字架の上に3時間もおられたのです。
主イエスが十字架にかけられたのは、朝の9時頃でした。
午後3時過ぎに十字架から降ろされました。
9時から正午まで、主イエスは人間の手によって苦しんでおり、太陽はその光景を照らしていました。
そして人は、サタンに駆り立てられた邪悪な心が考え出すあらゆる恐ろしい苦痛をイエスに与えていたのです。
その3時間の間、祝福された主が少しも自分を哀れむことを示す言葉を一言も口にしていないことに気づくでしょう。
イエス自身、自分のことを気遣うことさえしていなったことを暗示しています。
その3時間、イエスは祈っています。
しかし、それでも常に他の人のことを見ています。
イエスは十字架のふもとを見おろし、祝福された母マリアとヨハネが近くに立っているのを見ました。
「兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
エスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」
(ヨハネの福音書19章25~27節)
そしてヨハネは、母マリアを救い主の瀕死の苦しみの場から連れ去りました。
イエスの群衆の口はそしりに満ち、心は憎しみに満ちていました。
そして、イエスは彼らを見て、天を仰いで叫びました。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
(ルカの福音書23章34節)
主は彼らのために、逃れの町の戸を開いています。
自分たちのしていることを知らずに人を殺した者が、逃れの町にはいられるようにされています。
そこには、赦しがあるのです。
それから主は、そばに十字架に架けられた盗人の方に向き合われます。
この盗人は、いばらの冠をかぶった人がイスラエルの真実なメシアであることを認め、自分の罪を認めて叫びました。
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
(ルカの福音書23章42節)
そして救い主は、「わたしの王国に来るまで待つ必要はありません」と言いました。
それから次のように言ったのです。
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
(ルカの福音書23章43節)
その日は夜の6時、日が沈むころにすべてが終わりました。
6時前には救い主も、泥棒も死んで、ふたりはともに楽園にいたのです。
正午には太陽が天から消えました。
暗闇はすべての場面に広がり、しび闇は他のものを見ることができないほど濃い暗闇です。
これは神の子の魂を包みこむ深い闇の象徴でした。
ここから、神は、キリストにあって私たちの罪を扱い始めました。
覚えておいてください!
罪を取り除いたのはイエスの肉体的な苦しみではありません。
罪を取り除いたのはイエスが内なる存在として耐えたことでした。
イザヤはこのように言っています。
「もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら」
(イザヤ書53章10節)
人の手から受けた苦しみは、罪を償うことはできません。
暗闇の3時間の間に神の手から受けた苦しみによって、罪の問題を解決されたのです。
神の聖なる御子の上にすべての私たちの罪の裁きは下りました。
御子は毛を刈る者たちの前で口がきけない子羊のように、全く沈黙していました。
「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」
(イザヤ書53章7節)
3時間が終わろうとしていたまさにその時、御子の偉大な心はあらゆる苦しみによって破裂したかのように思えました。
そして、この詩篇の冒頭にある「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という叫びが生まれたのです。
「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」
(詩篇22篇1節A)
あなたはその質問の答えを知っていますか?。
私はその答えを知っているし、あなたも知っています。
なぜ、捨てられたのでしょうか?
私が捨てられないようにでしょうか?
あなたがたが捨てられないためです。
それは、神が私たちの罪を負って、私たちに代わっておられ、私たちのために罪そのものになったからです。
今、御子の叫びに耳を傾け、その叫びが神の心の思いであることを理解すべきです。
御子は暗闇の中、神を見上げて言いました。
「遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。」
(詩篇22篇1節B、2節)
ここには不平、不満がありません。
御子は神からすべてを受け入れ、このように言います。
「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」
(詩篇22篇3節)
神がご自分の子を惜しまなかったのは、神の聖なる御性質のゆえでした。
イエスが罪人は罪人の立場を取った時、さばきはイエスに下りました。
もう一度、イエスが神に語りかけるのを聞いてみましょう。
ここでイエスは選民の歴史を振り返ってこのように言いました。
「私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。
しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。」
(詩篇22篇4~6節)
神が義人を見捨てるとは知られていません。
聖なる方は、過去のすべての時代のすべての善人とは対照的なのです。
今、イエスは十字架の上におられます。
絶対的に正しい方が、神から見捨てられて死のうとされています。
イエスは人が誰も行ったことがない場所よりも低く降りたのです。
「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。」
ここで虫を表すのに使った言葉は「トラ(tola)」です。
メキシコではサボテンを食べる「コチニール」という虫がいますが、似たような小さな虫のことです。
「コチニール」が器に落ちるまでサボテンを叩きます。
器にたまると、この小さな虫をつぶし、血のような鮮やかな深紅の染料となります。
この染料を使って、鮮やかなメキシコの衣服を作られるのです。
パレスチナやシリアにおいても「トラ(tola)」を使い、中東の美しい色褪せない緋色の染料を作っています。
それはとても高価なもので、大金持ちや高貴な人だけが身につけるものでした。
聖書の中で繰り返し言及されています。
ソロモンはイスラエルの娘たちに緋色の衣を着せたと言われています。
ダニエルにはベルシャツァル王によってが緋色の衣を着せられました。
「scarlet」という言葉は文字通り「虫の輝き」です。
彼らは虫のような栄華を着ていたのです。」
ここで、主イエス·キリストは「私は虫けらです。人間ではありません。」と言われます。
そして、あなたがたと私が栄光を着るためには、主が押し潰されなければならなかったのです。
私たちの救いの栄光の衣は、神の死と苦しみの結果として得られた衣なのです。
救いの衣を拒むとはなんと愚かなことでしょうか?
キリストが私たちのために救いの衣を用意するために、多くのことを成し遂げなければなりませんでした。
救いの衣を捨て、背を向けようと考えることは愚かなことです。
キリストは、私たちのために救いの衣を着るために、多くのことを成し遂げてくださったのです。
それを拒むのは、なんと愚かなことです。
王が婚礼の着物を用意してくれたのに、それを持たずに婚礼の宴に参加した男の軽率さ想像してみてください。
その者はは王の恩恵をはねつけたのです。
「そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。」
(マタイの福音書22章12節)
彼は黙っていたのです。
もしあなたがたが救われること無しに、終わりの日に神の御前に立ったとき、神がこのように仰せられます。
「友よ、我が子の死によって買い取られた救いの衣を着ないで、ここで何をしているのですか。
なぜ、救いの衣を持っていないのか?
なぜあなたがたは、義の衣を着ないのですか?」
救いの衣が無償で提供され、あなたはこの救いの衣を持つことができたのです。
この時にあなたは何を言うことができますか?
私の考える最も恐ろしい考えは失われた魂が「イエスが死んだということを知りながら」地獄の淵にくることです。
そうです。死んだのです。
イエスは御救いを買う取るためにに死なれたのです。
しかし、わたしはそれを嘘であると考え、永遠に迷ってしまいました。
この最悪を想像できますか?
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。
すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
(コリント人への手紙第二8章9節)
イエスは「トラ(tola)」となったのです。
イエスは私たちが栄光に覆われるために、死に打ち砕かれたのです。
イエスが十字架にかけられると、暗闇の中で群衆のつぶやきが聞こえてきます。
イエスは語りました。
「私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です」
(詩篇22篇7~10節)
あなたがたは、この驚くべき聖書にどんなことが書かれているか知っているでしょうか?
この小さな赤ん坊がこの世に生まれた時でさえ、イエスは御父との関係を完全に意識していました。
イエスは一人の人の中で神と人の両方でした。
「どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。
数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。
彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。」
(詩篇22篇11~13節)
バシャンの雄牛に注目してください。
これらの雄牛は、いけにえとしてささげることのできる聖い獣です。
ここでは、イスラエルの偉大な指導者たちを表すために使われています。
彼らは神の友であったはずなのに、神に敵対して置かれているのです。
そして、十字架にかけられたイエスの描写に注目してください。
「私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。」
(詩篇22篇14節)
十字架の架けられ、すべての関節が引き裂かれるように見えます。
「私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。」
(詩篇22篇15節)
あの熱い日の午前中、ずっと十字架に架けられていたイエスの渇きを考えてみなさい。
イエス言う。「私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。」
それから、ユダヤ人たちに加わろうとしている異邦人たちを見回してこのように言われました。
「犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。」
(詩篇22篇16節)
犬は汚れた異邦人です。
なんという完璧な描写なんでしょうか!
この記述はイエスが死ぬ千年前に書かれたものです。
イエスは、あなたがたと私のために十字架にかけられ、すべてが成就しました。
純粋で、もっとも完全で聖なる方、心に悪や汚れた考えを持ったことのない方が、彼らの前で十字架に架けられていました。
しかし、イエスは集まった群衆の前に裸同然で吊るされ、皆の前で恥をかかされていました。
この恥を知り、イエスはこのように言ったのです。
「私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。」
(詩篇22篇17節)
十字架のふもとで兵士たちは、冷淡で、硬く、無関心にイエスの衣を分けていました。
「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」
(詩篇22篇18節)
神の御子が罪人のために恥をかかせられ、裸で十字架にかけられ、衣のために賭けを行っています。
イエスはサタンが向かって来るのを知って、父に目を留められます。
「主よ。あなたは、遠く離れないでください。私の力よ、急いで私を助けてください。
私のたましいを、剣から救い出してください。私のいのちを、犬の手から。」
(詩篇22篇19、20節)
「私のたましいを、剣から救い出してください」とは「私の唯一の人(My darling)」に対して言っています。
そして、「私のたましい」というのは自身の魂の事であり、「犬の手」からというのはサタンのことです。
「私を救ってください。獅子の口から」
(詩篇22篇21節A)
それは地獄の獅子です。
サタンがそこで語っています。
「すぐに、私は彼の魂を手に入れることになるだろう。
私は御子を、望むところに招くのです。
決して、御子は死から甦らされることはないのです。」
「私を救ってください。獅子の口から」
次の瞬間にはすべての苦しみが終わります。
暗闇は消えました。
新約聖書の中で、私たちは御子がこのように言っているのを知っています。
「イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。」
(ルカの福音書23章46節)
「野牛の角から。あなたは私に答えてくださいます。」
(詩篇22篇21節B)
ここでは野牛が出てきます。
KJV聖書では「ユニコーン(unicorn)」と訳されています。
「ユニコーン」とは一角獣のことです。
翻訳者は正確な意味を理解していなかったので、そのように翻訳しました。
現在、ヘブル語の学者ならだれでも、それが「オーロックス(aurochs)」であり、大きく枝分かれした角を持ち、その先が針のように鋭い野牛であることを知られています。
死刑執行人は、貧しい、哀れな、死刑囚の犠牲者を捕まえました。
両足と肩を鋭い角に縛り付け、荒野に野牛を放して、その男が死ぬまで走り続けます。
それがここで使われている描写です。
十字架刑は、野牛の角に縛り付けるようなものでした。
「野牛の角から。あなたは私に答えてくださいます。」
苦しみは終わり、闇は消えました。
御子はご自分の霊を父にゆだね、そして次の節に移ります。
しかし、もはや一人でおられた方は一人ではありません。
一人で十字架を背負った者には、今や仲間がいます。
彼の仲間は誰でしょうか?
彼らは御子が十字架の上でなされた御業によって、永遠に所有された人たちです。
今、イエスは復活されました。
「私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。」
(詩篇22篇22節)
ヘブル人への手紙にはこのように翻訳されています。
「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
(へブル人への手紙2章12節)
この祝福された主は、死からよみがえられました。
今は贖われた者たちの中で着座し、彼らの心を賛美に導いています。
ここで彼は指揮者です。
「神が導びく、歌声に加わりましょう。
今、あなたがたの声は神に向かって高く上がります。
私たちが歩んできたすべての道は、神の恵みの勝利です。」
彼は永遠に歌を導きます。
神は私たちの心をも導き、とこしえまで神をほめたたえます。
それからキリストの御霊が、詩篇を通してイスラエルに立ち返るように語りかけています。
「主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。
まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」
(詩篇22篇23、24節)
「悩む者」とは単数です。
裁き主である神は御顔をそむけなければなりませんでした。
しかし、父である神は決してイエスを見捨てませんでした。
裁きの中において、干渉できなかった時こそ、御子は父の心に近かったのです。
父親を愛してやまない若者が重大な犯罪を犯し、法廷に持ち込まれたと仮定しましょう。
彼が法廷に入ると、裁判官のベンチに座っているのは自分の父親です。
証拠が提出され、若者は有罪と証明され、裁判官は彼に判決を下さなければなりません。
子は言います。
「お父さん、お父さん、あなたは私にそんなことをするはずがありません。」
父親は答えます。
「若者よ、この部屋で私はあなたの父親としてではありません。
あなたの裁判官としてあなたを扱っているのです。」
しかし、父親の心は子が苦境に打ちひしがれているのを見るかも知れません。
父なる神がイエスを慕い求めておられたまさに時に、裁き主である神が、私たちの罪のために御子をさばかなければならなかったのです。
しかし、勝利を得て墓から出て来られたイエスを見て、どんなに喜ばれたことでしょうか!
ここではこのように書かれています。
「大会衆の中での私の賛美はあなたから出たものです。
私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。」
(詩篇22篇25節)
大いなる祝宴が開かれました。
愛によって広がった大いなる祝宴のおかげで、罪人であると告白して来た乏しい者たちも満足することができるのです。
「悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。あなたがたの心が、いつまでも生きるように。
地の果て果てもみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。」
(詩篇22篇26、27節)
このことはまだ成就されていません。
しかし、主が力と大いなる栄光を現わされるときに成就されます。
「まことに、王権は主のもの。主は、国々を統べ治めておられる。
地の裕福な者もみな、食べて、伏し拝み、ちりに下る者もみな、主の御前に、ひれ伏す。おのれのいのちを保つことのできない人も。」
(詩篇22篇28、29節)
全世界が、御自分の魂を生かすことよりも、私たちのために死んでくださった祝福された方の前にひれ伏しています。
その一方で、王の完成される日を待っている間の事をこのように語っています。
「子孫たちも主に仕え、主のことが、次の世代に語り告げられよう。
彼ら(ユダヤ人)は来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。」
(詩篇22篇30節)
「完成しました。
すべてが完成したのです。
罪人よ、すべての必要なことは終ったのです
そして、教えて欲しいのです!」
今は、良い羊飼いです。
あなたは良き羊飼いを信頼していますか?
彼は今どこにいるのでしょうか?
彼はもう十字架にはいません。
神は、キリストを死者の中からよみがえらせ、栄光のうちに上げられました。
キリストは偉大な牧者としてそこにおられ、ご自分の民を世界の中で導き、必要なものを与えてくださいます。
詩篇23編
私は詩篇23篇について多くを論評する必要はありません。
詩篇23篇は、詩篇の中で最も愛されている詩篇であり、最も信じられていない詩篇だと思います。
あなたは信じていますか?
あなたは愛していますか?
あなたはこのように言うかも知れません。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」
(詩篇23篇1節)
しかし、仕事を投げ出されたとき、あなたはこのように言うかもしれません?
「いったい、どうしたらよいのかわからない!」
羊飼いって何のことですか?
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」
そして、病気や死が訪れるのならあなたは「もうだめだ」と言うのです。
キリストはもうあなたの羊飼いではないのでしょうか?
あなたがたはしつこく言葉をくり返して言っても、まだ信じようとはしません。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」
日曜学校で聖句を暗唱するために、立ち上がった少女の言葉が好きです
少女は「主はわたしの羊飼いです。でも心配するかも知れない」と言って、席に駆け降りました。
少女の言った本当の意味は「心配する必要はない」という意味でした。
私のために死んでくださった方は、個人的に私のために生きておられ、約束してくださっています。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」
続けてこのように書かれています。
「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」
(詩篇23篇2節)
ゆえに、わたしは休息を望みません。
疲れたら横になるくらいの感覚があるはずです。
しかし、多くの人は神経衰弱になるまで走り続けています。
「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」
(詩篇23篇2~6節)
イエスはこのように言っています。
「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」
(マルコの福音書6章31節)
主が「私をいこいの水のほとりに伴われます。」
私は休息を欲しいとは思いません。
主が「私のたましいを生き返らせます。」
私自身で復活を求めているわけではありません。
主が「御名のために、私を義の道に導かれます。」
私は導きを求めていません。
試練の時、暗い死の影が私の行く手に立ちはだかる時、私は仲間を求めることはしません。
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」です。
わたしは慰めを求めません
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰め」だからです。
私は備えを欠くことはありません。
「あなたは私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえる」からです。
私は油を注がれたくはありません。
主が「私の頭に油をそそいでくださる」からです。
私は満足を求めません。
「私の杯は、あふれている」からです。
私はいつくしみと恵みを望みません。
「いつくしみと恵みとが、私を追って来る」からです。
私は家を欲しがりません。
私は、いつまでも、主の家に住まう」からです。
あなたはこのように信じているでしょうか?
あなたはこれ以上頭をもたげて歩き回るべきではありません。
もし、これらのことがすべて本当なら、なぜ私たちの心は牛のようにへりくだらなければなりません。
偉大な羊飼いが私たちを見守ることを約束しています。
詩篇24編
詩篇24篇は御国の日について書かれています。
御国はすでに詩篇22篇28節で暗示されています。
「まことに、王権は主のもの。主は、国々を統べ治めておられる。」
(詩篇22篇28節)
御国の日とは、主が帰って来られる日のことです。
主が再び来られるときに、羊飼いの長として来られるのです。
このように、イエスが王となって来られるときのこの世界の様子が、あなた方に示されたのです。
「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。
まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。」
(詩篇24篇1、2節)
誰がそれの権利を持っているのでしょうか?
「だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。」
(詩篇24篇3節)
その方は一人しかいません。
あなたと私がどんな権利を持っていたとしても、私たちはキリストと結びついています。
というのは、これらの言葉が完全に当てはまる人はただ一人しかいないからです。
「手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。」
(詩篇24篇4節)
「手がきよい者」です。
決して、イエスの手は罪に染めていません
そして、「心がきよらかな者」です。
イエスのこころは常に清いのです。
「たましいをむなしいことに向け」ない者とは誰ですか?
イエスの魂は決して、高慢ではありません。
「欺き誓わなかった人」、イエスの口には策略は見られません。
「その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。」
(詩篇24篇5節)
イエスは、わたしたちのために祝福を受け入れられ、わたしたちは愛によって、受け入れられているのです。
「これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。セラ」
(詩篇24篇6節)
「ヤコブよ、これが、あなたを慕い求めるこの世代の者たちです.」。
イスラエル王国の日にヤコブは主に立ち返ります。
そして、全世界への祝福となるのです。
そして今、私たちはよく耳にする交唱聖歌(変わる変わる歌い手が変わる聖歌)を歌っています。
見よ!王がやって来ます。
彼は王の宮殿を所有するのです。
側近たちが道を先導して、王宮に近づきます。
彼らは大声で叫びます。
「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。
栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。」
(詩篇24篇7、8節)
「栄光の王とは、だれか」という叫ぶが聞こえてきます。
王の家来たちは叫びます。
「強く、力ある主。戦いに力ある主。」
人の子は受肉したヤハウェだからです。
「栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。」
ここで「栄光の王とは、だれか?」という問いが再び心の中から湧き上がってきます。
答えは、「万軍の主、栄光の王」です。
このようにそして、イエスは王国を手に入れるのです。
十字架刑にされた者はダビデの王座に座り、力と栄光の中で君臨します。
この3つの詩篇には、なんと素晴らしい3部作ではないでしょうか。
22篇が十字架の詩篇、、23篇が羊飼いの群れの詩篇、24篇は王者の詩篇です。
これらの詩篇は、主の受難と栄光の素晴らしい物語全体を物語っています。
信頼の基礎 25~27篇
私たちはこの詩篇を研究しているうちに、いくつかの詩篇がくりかえし相互に結びついていることに気づきました。
詩篇25篇から39篇まで、15篇の詩篇からなる小さなグループがあります。
すべて同じ主題を取り扱われています。
それは、神の民、特に、来たるべき大患難時代の残されたイスラエル人のための訓練のためなのです。
もしくは、一般の神の民が、私たちの主イエス·キリストの再臨を待ちながら、この世界にある訓練でもあります。
詩篇を勉強する際には、実際にはクリスチャンの立場から見るべきではないことを覚えておく必要があります。
私たちの祝福された主の弟子たちは、現在の神の恵みの栄光の時代が到来するまで、クリスチャンとして認識されることはありません。
確かに彼らは神の子どもでした。
そして、贖いの完全な知識を待つことを期待していました。
彼らは本物の信仰を持っていました。
そして、彼らは生まれ変わりました。
私たちは完成された贖いと信者が神の御前に歩むための奥義を知っています。
しかし、彼らはこれらのことを知らなかったのです。
やがて、この世界から神の教会が取り除かれた後に、聖書が「患難時代」と呼んでいるものが起こります。
それは、主が再びイスラエルに立ち返るためです。
イスラエルの中から残された者を連れ出します。
そして、彼らの目を開いて、栄光ある支配を始める王の到来に備えさせる時です。
その期間、イスラエルはかつての十字架の前の信者たちと同じ魂の状態になります。
彼らは聖書の研究し、彼らの先祖たちが拒絶したイエスが本当にメシアであることを学びます。
そして、現実にイエスが現れるまで、彼らは贖罪の完全な知識に入ることはありません。
そのため、彼らの礼拝はクリスチャンの知る礼拝のレベルに達するとは思えません。
その時代のイスラエルには常に物事が不確定な状態になります。
今日、神の教会に与えられている義と認められるという明確な知識を持っていません。
しかし、かれらは手探りで、心から神を待ち望んでいます。
この15編の詩篇を熟考してゆくのならば、書かれているすべてが神の民の訓練に関係していることがわかります。
彼らを3つのグループに分類することができます。
詩篇25篇から29篇までの最初の5編は、神の変わらぬ愛と自分自身の心の誠実さを意識して神を仰ぎ見る魂の確信の根拠やその基礎を扱っています。
つまり、彼らは自分たちが神のみこころを行おうとしていることを知っているのです。
そして、2つ目のグループである詩篇30篇から34篇では、一歩進んで、この詩篇が神の救いを心に受け入れることに焦点が当てられていることがわかります。
彼らは、救いが完全に神の比類なき恵みにかかっていることを理解するために、自分や個人の誠実さの問題から卓越している様子が描かれています。
3つ目のグループ、詩篇35篇から39篇では、主に個人の聖さの問題に焦点が当てられていることがわかります。
神の民の良心は神の前に連れて行かれ、神の無限の聖さを知るにつれて、ますます神のようになりたいという切望が生まれます。
ですから、奥義を知る前の古い時代に詩編を読む信者と、来るべき苦難の日に詩編を読む信者は、今日、私たちが持っているのと同じ光を持っていないことがわかります。
しかしながら、道徳的な順序は同じです。
もし、私たちがキリストのもとに行き、もしキリストのもとに誠実を求め、キリストとともに歩むことを願うなら、魂が失敗や罪を意識するようになります。
そして、安心感に暗曇がかかってきます。
私たちが前進し、完全に自己から離れ、キリストとその完成された業に心を奪われることを学びます。
そして、クリスチャンとしての生活の中で進歩するにつれて、私たちは自分の罪を捨てて最終的な救いを得るという問題に心を奪われることもなくなります。
キリストの無限の聖さの感覚が私たちにより現実的になってくるのです。
その時、私たちは心の聖さと命の清らかさを求める心が叫んでいるのに気づくのです。
そして、この時に詩篇25篇を見る必要があるのです。
ここには、神の義と恵みが心を神に導くという感覚があります。
これはかなり印象的な方法で区分けされています。
1節から7節には祈りがあります。
8節から10節には、神の哀れみに対する魂の認識があります。
11節には再び祈りがあります。
そして、12節から15節では魂の証しがあります。
16節から22節では別の祈りで詩篇を閉じています。
最初に祈りを見ることができます。
「主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。
わが神。私は、あなたに信頼いたします。どうか私が恥を見ないようにしてください。私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください。
まことに、あなたを待ち望む者はだれも恥を見ません。ゆえもなく裏切る者は恥を見ます。」
(詩篇25篇1~3節)
ダビデがこの詩篇を書いたのは、アブシャロムから逃げていたときではないかという説があります。
ダビデは、自分の心の義を完全に自覚していましたが、何年も前の罪を忘れることはできませんでしたが、困難な状況にあっても神を信頼することができました。
あなたがたはベニヤミン人シムイがダビデに石を投げて叫んだときのことを思い出してください。
「シムイはのろってこう言った。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。
主がサウルの家のすべての血をおまえに報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに。主はおまえの息子アブシャロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいに会うのだ。おまえは血まみれの男だから。」
(サムエル記第二16章7、8節)
その時、ダビデの友、ツェルヤの子アビシャイが言いました。
「この死に犬めが、王さまをのろってよいものですか。行って、あの首をはねさせてください。」
(サムエル記第二16章9節)
そこで、ダビテは言いました。
「ツェルヤの子らよ。これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ。』と言われたからだ。だれが彼に、『おまえはどうしてこういうことをするのだ。』と言えようか。」
ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。
「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。
(サムエル記第二16章10、11節)
ダビデは主は呪いを祝福に変えることができると心の奥底で悟りました。
ダビデはかつての罪の結果であるバテシェバのことで苦しんでいました。
いまだに、神はダビデの罪を裁いていました。
そして、ダビデはそれを神からのものとして受け入れることができたのです。
ダビデは自分の罪を裁いたことを自覚し、主に忠実に歩もうとしていたからです。
ダビデは神を仰ぎ、そのことを知り、自分の誠実さを求めることができたのです。
ダビデがこれらの言葉を書いた時の状況を考えるならば、私たちがこれらの詩篇を理解するために役立つかもしれません。
この時代に書かれたとは断言できませんが、その時代にふさわしい素晴らしい作品だと思います。
「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。
あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。
(詩篇25篇4、5節)
このような祈りが私たちの口にあり、私たちの心の中にあることは、私たちにとって適切なことなのです。
では、神に贖われた私たちは、ダビデと同じように、同じことばを祈ることができないでしょうか?
これは私たちが何よりも望むことではないでしょうか?
しかし、これを覚えておいてください。
私たちが神の言葉を熱心に学ばなければ、決して神はこの祈りに答えてはくれません。
主は私たちに主の道を教えようとはしません。
主は私たちに素晴らしい啓示によって主の真理を知らせようとはしません。
神が与えられた聖書によって、私たちが導きと方向性を得るために必要なすべてのものが与えられています。
私たちの主イエスは「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」と祈りました。
聖書を毎日、机の上や棚やテーブルの上に開けずに置いておき、礼拝に来た時以外はほとんど目を通さないのは嘆かわしいことなのです。
私たち多くはは、御言葉によって神を待つことをほとんどしません。
しかし、「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください」と叫びます。
私たちが聖書をないがしろにするなら、神は決して私たちに神の道を教えてはくれないし、神の道を示してはくれません。
私たちが御言葉を学ぶとき、神は真理を明らかにされます。
詩篇の著者は過去を振り返り、「覚えていてください」という言葉を3回使っています。
「主よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。」
(詩篇25篇6節)
このように祈るのと同じことです。
「主よ、本当に私は、苦しみの底にいます。
あなたが私の困窮した時、私を救い出されたことを思い出してください。
あなたが私を救われなかったのは、あなたが私のうちに見た善のためでもありません。
あなたは、恵みをもって私を救い出しました。
あなたの過去のすべての出来事を思い出しさせてください。
今も、哀れみをもって私を扱ってください」
その者は、失敗のことを考えたり、昔に犯した罪のことを考えたりします。
それは告白して裁きを受けたものですが、何年も経ってからしばしば思い出すのです。
そして、その者はこのように祈るです。
「わたしの若い時の様々な罪や、わたしの犯した罪過を思い出さないでください。
主よ、あなたのいつくしみによって、わたしのことを思い出して下さい。」
約20年前、私は90歳くらいの年老いたクリスチャンに会うために呼ばれました。
私たちは彼が非常に信仰深い人であることを知っていました。
私は彼がベットに横たわっている部屋に入り、長年にわたる主のいつくしみについて彼に話し始めました。
しかし、彼は私を止めて言いました。
「あなたは私を助けてくれますか?
何もかもが暗く見えます。
私は「暗いのですか?
あなたは70年近くも主を知っています。
そして、人々を助け、祝福してきました」と言いました。
彼はこのように答えました。
「そうです。
でも病気のせいで、ここに横たわり、とても弱っています。
若い頃の罪が思い出されて、頭から離れません。
これらの罪が私の上に群がってきます。
私はこれらの罪を考えずにはいられません。
これらの罪が私をひどくみじめにします。」
私は次の聖句を引用し、これらの罪ははるか昔に片付けられていることを指摘し、彼を励ましました。
「私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。
あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。」
(詩篇25篇7節)
そして、私は言いました。
「あなたは70年前に神のもとに来ました。
あなたは若い頃の罪を告白したはずです。」
彼は「残念ですが、いくつか忘れてしまいました」と言いました。
私は繰り返して言いました。
「一つ一つの罪を覚えているかどうかは問題ではありません。
あなたがたは、自分の人生が罪の生涯であったことを認めました。
しかし、罪を告白した時に起こったことを覚えていないのですか?」
彼の心はとても弱っていました。
そして、私は言いました。
「自分の罪を告白した時のことを覚えていないですか?」
神は仰せられました。
「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」
(へブル人への手紙10章17節)
「そして、もし、神がこれらの罪を忘れたのなら、なぜこれらの罪のことを考えているのですか?」
彼は私を見て微笑んで言いました。
「私は、神が忘れたことを思い出している年をとった愚か者です。」
こうして、彼は主のことばによって安らかになりました。
8~10節で、ダビデは次のように証言しています。
「主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。
主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。
主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。」
(詩篇25篇8~10節)
ダビデはただ神の契約の上に安らいでいます。
神が御言葉を与えてくださいました。
そして、私たちはそれに頼ることができます。
期待することができるのです。
しかし、もし人が神の恵みを受けようとするならば、魂の正しい状態にいることを強調していることに注意してください。
「主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。」
なぜこんなに多くの人が道に迷うのか知っていますか?
私たちは導きを聞くほど柔和ではないからです。
ここでいう「さとしを守る」とは、識別力のことです。
なぜ多くの人が失敗するのか知っていますか?
私たちが自己満足しているからです。
人の心は柔和ではありません。
それは、神との交わりの中を歩む者に伝えられる恵みなのです。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」
(マタイの福音書11章29節)
小預言書の一人がこのように言っているの私たちは知っています。
「主の定めを行なうこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。
義(識別力)を求めよ。柔和を求めよ。
そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。」
(ゼパニア書2章3節)
もし、あなたが神のみこころを望むなら、もしあなたが神の意志を理解したいなら、自己満足を終わりにしなければなりません。
神は高慢を嫌います。
神は自己満足が嫌いです。
私たちが神の声を聞くためには、打ちのめされ、卑しくならなければなりません。
ダビデは次の節で素晴らしい祈りを捧げています。
「主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。」
(詩篇25篇11節)
あなたは、逆の言い方をと期待したのかもしれません。
「主よ、わたしの不義を御赦し下さい。
実は、それほど重大なことではありません。
私は本当に罠にはまっていたのです」
多くの人がこのように思っています。
彼らは、自分の不義に対して弁解し、また罪の刑罰から免れようとしています。
しかし、神の御前に素直に立ち「弁解の余地はありません。
私の咎は大きいのです」と言える人は、偉大な救い主を見いだすのです。
ある人たちは私のところにやってきて、ある失敗について一緒に祈ってほしいと頼んできます。
結局、彼らは、自分のことを本当はそんなことを意図していたわけではなく、自分の目的は正しかったのだと説明し始めます。
それは神に正直に向き合うことではありません。
ある人が、チャールズ・ウェスレーのところに行って言った女性の話をしてくれました。
「私のために祈ってほしいのです。
わたしは本当に、大変な罪人なのです。」
チャールズは彼女を呼び止めて祈りましょう」言いました。
そして祈り、始めます。
「主よ、わたしたちはこの哀れな姉妹のために祈ります。
彼女は大変な罪人なのです。」
しかし彼女はその言葉を聞いて激怒し、彼の腕をつかんで言いました。
「やめて下さい!
私のことをあなたに話していたのは誰ですか?」
チャールズは言いました。
「私はただ、あなたが私に言ったことを言っただけです。」
人は言い訳をしたがりますが、偉大な救い主は、この大変な罪人にご自身を明らかにすることを喜んでおられます。
「主よ、わたしの不義を御赦し下さい。それは非常に大きいからです。」。
言い訳しないでください。
物事を最小化しようとしないでください。
最悪の事態に陥ったとしても、神は直ちにあなたがたに恵みを与えられるのです。
12節から15節には、魂の信頼と自信の表現があります。
「主を恐れる人は、だれか。
(神の御前に畏敬(恐れ)の念を抱き、敬虔に神に近づく者です。)
主はその人に選ぶべき道を教えられる。
その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。
(詩篇25篇12、13節)
さて、14節には非常に素晴らしい真理が書かれています。
「主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。」
(詩篇25篇14節)
主の奥義は恵みの契約です。
主を恐れる者には自身の契約を彼らに知らせるのです。
「私の目はいつも主に向かう。主が私の足を網から引き出してくださるから。」
(詩篇25篇15節)
著者は詩篇の最後を、16節から始まる新たな祈りで締めくくっています。
「私に御顔を向け、私をあわれんでください。私はただひとりで、悩んでいます。
私の心の苦しみが大きくなりました。どうか、苦悩のうちから私を引き出してください。
私の悩みと労苦を見て、私のすべての罪を赦してください。」
(詩篇25篇16~18節)
ダビテがアブシャロムから逃げていることを考えてみましょう。
ダビテには心を引き裂く痛みと悲しみがあり、自分の息子にふさわしくないことを証明した彼の姿を思い浮かべてほしいのです
それ以上に父親が感じることはありのでしょうか?
ダビテは、神にすべてのものを注ぎ出し、自分を弁護しようとはせず「私のすべての罪を赦してください。」と懇願しています。
それから、神を敵と自分の間に置いてこのように言っているのです。
「私の敵がどんなに多いかを見てください。彼らは暴虐な憎しみで、私を憎んでいます。
私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けています。」
(詩篇25篇19、20節)
神への絶対的な信頼の表れです。
「誠実と正しさが私を保ちますように。私はあなたを待ち望んでいます。」
(詩篇25篇21節)
私はほかに頼る者がありません。
私はあなたを待ち望みます。
「神よ。イスラエルを、そのすべての苦しみから贖い出してください。」
(詩篇25篇22節)
あなたがたはこれらのことばが、どんなに美しいかを理解することができます。
その日、大きな患難の日に、反キリストの力からの救いを神に待ち望んでいる残された者たちのくちびるにこの言葉があるのです。
詩篇26篇は同じ主題を語り続けています。
しかしながら、内容はあらゆる側面にある悪から主に分離することを強調し、魂は神を呼び求めています。
「私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み」
(詩篇26篇1節A)
正しい意識的な感覚があります。
この感覚がないと安心して祈りことができません。
もし、あなたが何かを求めて神のもとに行き、正しい良心がなければ、祈ることはできません。
「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」
(詩篇66篇18節)
すべてがうまくいっていると思っている時、神の存在をあまり実感することができません。
それがどういうことか、私は知っています。
ある日、突然、私が興味を持っている、病気で苦しんでいる親しい人のところに呼ばれました。
それは「この人と一緒に行って祈ってくれないか?」という依頼でした。
そして、私はその思いが実現することを祈るためにひざまずきました。
しかし、私は祈る状態ではありません。
私は主の近くに住んでいませんでした。
私はあまりにも物事に無頓着でしした。
神の御前でやるべきことを物事を放っておいたことに気が付きました。
神の御前で失敗を直視しました。
祈る者は物事が処理されたことを知って初めて、確信を持って祈ることができるものです。
ダビデは何か良いことを誇ることをせずに、心の秘密をすべて知っておられる方に言っています。
「よろめくことなく、主に信頼したことを。」
(詩篇26篇1節B)
そして、自分の見ていないものを主がご覧になることを知って、ダビデは叫んでいます。
「主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。」
(詩篇26篇2節)
言い換えればのであればこのようになります。
「私はあなたが私を徹底的に調べてくださることを望んでいます。
交わりを妨げるもの、祈りの場にいることを妨げるものがあれば、それを明らかにしてください。
私はあなたとともに正しくありたいからです。」
「あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。
私は、不信実な人とともにすわらず、偽善者とともに行きません。」
(詩篇26篇3、4節)
不信実な人との間に意識的な分離がありました。
「私は、悪を行なう者の集まりを憎み、悪者とともにすわりません。
主よ。私は手を洗ってきよくし、あなたの祭壇の回りを歩きましょう。」
(詩篇26篇5、6節)
もし、私たちがひとりひとり、神の祭壇に近づいてこのように言うことができたなら、私たちは神にどんな賛美と感謝のささげ物をささげたいと思うのです。
「主よ、わたしはこころを清くして、手を洗い、すべてを裁きました。
私はみことばによる水の洗いによって清められました。
私の心にも、いのちにも、あなたとの交わりを妨げるものは何もありません。」
このように私たちは祈り、働き、神の介入を期待することができるのです。
「感謝の声を聞こえさせ、あなたの奇しいみわざを余すことなく、語り告げましょう。」
(詩篇26篇7節)
神は悪を行なう者を忌みきらい、神の家に深い愛を注ぎます。
「主よ。私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します。
どうか私のたましいを罪人とともに、また、私のいのちを血を流す人々とともに、取り集めないでください。」
(詩篇26篇8、9節)
ダビテの回りには敵がいて、は神の神殿に近づくことができません。
かれらの手には悪事があり、右手には賄賂が渡されます。
しかし、このように言うことができるのです。
「彼らの両手には放らつがあり、彼らの右の手はわいろで満ちています。
しかし、私は、誠実に歩みます。どうか私を贖い出し、私をあわれんでください。
私の足は平らな所に立っています。私は、数々の集まりの中で、主をほめたたえましょう。」
(詩篇26篇10~12節)
ダビテは神が本当に救いを与えてくださることを信じ、見守られているのです。
詩篇27篇には聖徒の願いが書かれています。
神の子が何よりも望むものは何でしょうか?
それは、自分を贖ってくださった方との交わりではないのでしょうか?
ここでダビデはこのように叫んでいます。
「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。」
(詩篇27篇1節A)
神のみこころのままに敵は存分に怒ってしまいました。
しかし、私は神に信頼します。
「主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。
悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。
たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。」
(詩篇27篇1節B、2、3節)
どのような意味でしょうか?
ダビテは何よりも神との交わりを望んでいました。
「私は一つのことを主に願った。」
(詩篇27篇4節A)
一つのこととは何でしょうか?
神との交わりです。
「私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」
(詩篇27篇4節B)
「主の麗しさ」とはどういう意味でしょうか?
それは主の道徳的な美しさです。
私たちは主の御顔を見たことがありません。
しかし、神の美しさを見ることができます。
それは、私たちが御言葉を学ぶにつれて、道徳的、霊的な神の完全な性質を知るからです。
何年も前のある日、女子学生が何人もの車の中で談笑してました。
そこに顔に大きなベールをかぶった女性が乗り込んできました。
そして、風でベールが吹き飛ばされ、顔がひどく焼け、傷ついているのが見えました。
この恐ろしい様子の中で、一人の女子学生が叫んでしまいました。
「恐ろしいものを見てしまった!」
もう一人の女子学生は、自分たちが話しているのが誰のことかを知りました。
そして、激しく怒り、このように言ったのです。
「私の美しい母のことを、そんな風に言わないで!」
そして、最初の女子学生が言いました。
「ごめんなさい、何も知らずに話してしまいました。」
私はあなたのお母さんに失礼なことを言うつもりはありません。
私はあなたのお母さんだとは知りませんでした。」
「ええ、そうです」と答えると。彼女はこのように答えました。
「私には母の顔が一番美しいのです」。
私の母は私が小さな子供の頃、私を小さなベビーベッドに残して、店に買いものに行きました。
母が帰ってくると家は燃えていました。
母は火と炎をくぐり抜け、私を炎の届かないように包んで、外に出ました。
しかし、ひどくやけどをして倒れましたが、私は無事でした。
それから、私は母を見るたびに、私はなんて美しい母親を持っているのだろうと思っています。
「美しさは皮一枚なのです。
道徳的な美しさは魂の奥深くまで届きます。」
つまり、ダビデが「主の家に住んで主の美しさを見たい」と言うのは、彼は「主の聖さと愛と恵みと哀れみに包まれたい」という意味なのです。
「それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。」
(詩篇27篇5節)
ダビデが使っているいろいろな描写に注目してください。
ダビデは神の幕屋の一番奥にある神の天幕に隠れています。
隠れ場は最も聖なる場所です。
そして、主は「岩の上に私を上げてくださる」のです。
私たちは岩こそがキリストであることを知っています。
「今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。
聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。
あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。」
(詩篇27篇6~8節)
心の動きに注意してください。
「わたしの顔を、慕い求めよ」と言われた時、あなたは何と答えますか?
あなたは、「主よ、またの機会に」と答えるかも知れません。
もしくは、今、私はやることが多すぎると答えるかも知れません。
私には仕事があるし、家事もあるし、今は言葉を気にすることはできません。
またの機会にします」と答えるかも知れません。
しかし、ダビデは「わたしの顔を、慕い求めよ」と言われた時、即答で「主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます」と答えました。
まるで「主よ、あなたが私を御前にお招きになることを望んでおられることを、私は感謝しています」と言わんばかりです。
そして、「喜んで伺います。
主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます」と述べるのです。
「どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。
あなたは私の助けです。
私を見放さないでください。
見捨てないでください。
私の救いの神。
私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。」
(詩篇27篇9、10節)
地上の愛する者たちが私を見捨てるとき、主は私を顧みてくださるのです。
そして、このように語られています。
「主よ。あなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがおりますから、私を平らな小道に導いてください。
私を、私の仇の意のままに、させないでください。偽りの証人どもが私に立ち向かい、暴言を吐いているのです。」
(詩篇27篇11、12節)
あなたがたは、この詩篇が、主イエスご自身がこの地上におられたときに、どのように用いられたかを知っているでしょうか?
主イエスはこれらの言葉を口にして、御父に「主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます」と言うことができたのです。
また、主イエスが、カヤパの前でこのように言うことができました。
「私を、私の仇の意のままに、させないでください。偽りの証人どもが私に立ち向かい、暴言を吐いているのです。」
(詩篇27篇12節)
ペテロの手紙第一2章21節にはこのように書かれています。
「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」
(ペテロの手紙第一2章21)
私たちはキリストの足跡に従うよう導かれているのです。
詩篇は次の言葉で締めくくられています。
「ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。――
待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」
(詩篇27篇13、14節)
神は、私たちが求めることをいつもすぐに実現させてくださるわけではありません。
私たちは主を待ち望むだけでなく、主を待ち望むべきなのです。
私たちは主の時を待つのです。
英語のKJVの聖書では13節に「気を失っていた(I had fainted)」という言葉が挿入されており、イタリック体で書かれています。
しかし、原語ではそのような言葉はありません。
また、このように言うかもしれません。
この言葉がなければ完全な文章になりません。
新改訳聖書は考慮され「――」という記号が入っています。
つまり、ここでは「ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。――」
宣言文じゃないとしても、こんな感じの感嘆文はなるかもしれません。
「ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。――
もし、何も信じていなかったら、どんな悲劇になっていただろうか?
この困難な日々を信じていなかったら、どんなにかひどい失敗を招いていただろうか?。
あるクリスチャンたちのビジネスマンが私にこう言いました
もし、私が主に信頼していなかったなら、私の事業は粉々になり、私の長年の蓄えも消えうせてしまったかも知れません。
「私は、これらの高層ビルの1つに行って飛び降りた人たちのようになっていたかも知れません!」
ダビデはこのように言っているのです。
「ああ、もし私が主を知らなかったら、どんな悲劇だったのか!」
しかし、今は私のたましいは安らかであり、私は神を待ち望んでいるのです。
祈りと賛美 28~31篇
詩篇28篇では、神の残された民が、すでにわかっている解放を祝っています。
彼らは苦難と試練の中にありました。
今や、神が介入され、彼らは神をほめたたえています。
神との友愛や交わりを損なう罪が、彼らにとって、神の御顔を隠すもの、神の声に気づかせないものとなります。
これらの罪が入り込まないように神に向かって叫んでいるのです。
最初の聖句に目を止めてください。
「主よ。私はあなたに呼ばわります。私の岩よ。どうか私に耳を閉じないでください。私に口をつぐまれて、私が、穴に下る者と同じにされないように。」
(詩篇28篇1節)
詩篇の著者はどうか私に耳を閉じないでください。」と言っています。
著者がこのように言っているようです。
「神よ、あなたの御声を聞けない魂の状態に、わたしを置かないでください。」
神は常に語っておられます。
しかし、私たちは時にその声に耳をふさぎ、神は私たちに沈黙しておられるように思うことがあるのです。
神の子が神の声を聞くことなく、日々この世を生きていくことは深刻な問題です。
今日、あなたは聞いていますか?
今日、神はあなたに話しましたか?
イギリス、南アメリカ、インド、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、カナダの一部を巻き込む大きな運動があり、オックスフォード・グループ運動と呼ばれています。
アメリカで始まったからですが、そのような名前で呼ばれているのは奇妙なことです。
ある牧師が数年前に米国東海岸で始めました。
この運動は、特に神の導きの重要性を強調しています。
残念なことに、この運動は新生の重要性を全く強調していません。
主イエス・キリストの血による贖罪については何も書かれていません。
人生を変え、告白し、神の声に耳を傾けることについて多くのことが書かれています。
これらの言葉は非常に良い響きであります。
神に愛されている多くの人々の心に答えを与え、同意を得ています。
生きている神の存在を知りたければ、朝、静かに座って、心を完全に空にして、神の言葉に耳を傾けなさいと言われます。
神があなたがたに言われること、あなたがたが内なる声を聞くときは、何であってもそのとおりにしなさい。
しかし、そのような原則に基づいて行動することは、誰であっても非常に危険なことです。
神の声を聞くとはどういう意味ですか?
神は御言葉を通して私たちに語りかけています。
もし、あなたが神の声を聞きたいなら、聖書の前に座ってこのように言うべきです。
「主よ、私があなたの言葉を読むとき、あなたが私に語りかける声を聞かせてください。」
もし、あなたの人生に神との交わりを妨げているものがあれば、神の御霊があなたの心に告白されていない罪や裁かれていない悪を思い起こさせます。
そして、あなたはその罪を告白し、神の御前で罪を扱い、聖書に書かれていることを思い出すのです。
「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」
(詩篇66篇18節)
今、あなたがたが知っているすべてのことを片付け、御言葉に立ち返り、御聖霊に従って聖書を読むのです。
もし、御言葉が語られないなら、あなたがたにはまだ何か問題があるのです。
ダビデはこのように語っているのです。
「主よ。私はあなたに呼ばわります。私の岩よ。どうか私に耳を閉じないでください。私に口をつぐまれて、私が、穴に下る者と同じにされないように。」
(詩篇28篇1節)
また、このようにも語っています。
「主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。」
(詩篇30篇3節)
つまり、ダビデはこのように言っているように聞こえます。。
「もし、私が主と生きた接点を持っていなければ、そして、毎日、あなたの声を聞いていなければ、私は周りの世界と同じようになることを知っています。」
神との交わりを失ったクリスチャンであっても、クリスチャンであることをやめることができません。
しかし、クリスチャンが歩むべき道を歩んでいないので、「穴に下る者」のようになってしまいます。
「私の願いの声を聞いてください。私があなたに助けを叫び求めるとき。私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき。」
(詩篇28篇2節)
ここで旧約聖書の礼拝と新約聖書の礼拝の違いについて考えてみましょう。
旧約聖書の聖徒は、あなたと私が恵みによって知り、理解すべきことを何も知りません。
旧約聖書のすべての記述において、神は重いベールの後ろに隠されていました。
神は深い闇の中に住んでおり、大祭司だけがそれを押しのけて年に一度、贖いの血を携えて入ることができました。
しかし、現在は全く違います。
旧約聖書の聖徒は「私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき」と言っています。
では新約聖書の聖徒はどうなのでしょうか?
へブル人への手紙を見るならば、私たちの立場は全く違います。
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」
(へブル人への手紙10章19~22節)
「きよい水」とは明らかに民数記19章を指しています。
違いを見てください。
旧約聖書の聖徒は実は神の子です。
実際にに赦されていました。
しかし、幕がまだ裂けておらず、すぐに聖所に入れることを知らなかったのです。
キリストの尊い血はまだ流されていません。
ゆえにこれらの詩篇は新約聖書の礼拝の頂点に達していません。
だからこそ、クリスチャンの賛美歌、証言、礼拝の方法として詩篇を使うときには、注意が必要なのです。
礼拝の口調は、イエスの尊い血の価値を通して至聖所に入るまで、新約聖書のレベルに達することはありません。
旧約聖書の聖徒は「私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき」と言っています
現在において、この聖句を用いるのであれば、私はためらってしまいます。
神の宮はすべての中で最も神聖ものです。
今、私は最も神聖な場所に属しているのです。
私は、キリストの尊い贖いの血という無限の価値の中に入っているのです。
その反面、詩篇の多くは賛美と礼拝の美しい表現ですが、どれも一定のレベルにしか達していません。
しかし、黙示録ではクリスチャンの礼拝の全容を知ることができます。
「また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。
イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。
キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」
(ヨハネの黙示録1章5、6節)
私は作曲ができたらいいなと思います。。
私はその聖句で讃美歌を書きたいと思います。
それが私たちが天国で歌うことになるからです。
詩篇の著者は自分が敵の中にいることを知っています。
同様にすべてのクリスチャンはそのことを認めなければなりません。
ゆえにダビデは、これらのの方法を学ばないようにと祈っています。
「どうか、悪者どもや不法を行なう者どもといっしょに、私をかたづけないでください。
彼らは隣人と平和を語りながら、その心には悪があるのです。
彼らのすることと、彼らの行なう悪にしたがって、彼らに報いてください。その手のしわざにしたがって彼らに報い、その仕打ちに報復してください。
彼らは、主のなさることもその御手のわざをも悟らないので、主は、彼らを打ちこわし、建て直さない。」
(詩篇28篇3~5節)
そういう人を見たことありますか?
テレビやネットにでてくる政治家はみんなそのように見えます。
鏡でそういう人を見たことありますか?
私たちはとても柔らかくて甘くて素敵になれるし、いつも心に好奇心があります。
ダビデは「いっしょに、私をかたづけないでください」と言っています。
その時、彼らに裁きが下されます。
私たちは恵みの摂理(ディスペンテーション)の中に生きているので、裁きを下すことはありません。
しかし、これは律法の規定の中にあります。
詩篇の後半では、ダビデの心は救いへの感謝と賛美に満ちています。
ほむべきかな。主。まことに主は私の願いの声を聞かれた。
主は私の力、私の盾。
私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。」
(詩篇28篇6節、7節A)
あなたは「主は私の力、私の盾」と言うことができますか?
私を敵から守るために私の盾は、私が普段できないことができる私の強さです。
「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」
(エペソへの手紙6章12節)
ゆえに、このように書かれています。
「私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。
主は、彼らの力。主は、その油そそがれた者の、救いのとりで。」
(詩篇28篇7節B、8節)
イエスはメシアだからです。
「どうか、御民を救ってください。あなたのものである民を祝福してください。どうか彼らの羊飼いとなって、いつまでも、彼らを携えて行ってください。」
(詩篇28篇9節)
詩篇29篇では、神の威光が祝福されています。
神はここでは宇宙の主権者として見られています。
神は人の心だけでなく自然も支配しています。
すべてが神に従います。
私は聖書の中に、この詩篇29篇よりもすばらしい詩があるとは思えません。
私たちはいつも文学を正しく判断しているわけではありません。
しかし、私にとってこの詩篇は私が今まで見た中で最も美しい詩の一つです。
あなたはそれが何であるか気づいたことがありますか?
神への賛美から始まり、地中海からレバノンの山々に向かう巨大な嵐の描写へと続きます。
ダビデは宮殿の縁側に立って嵐が吹き荒れるのを眺め「ヤハウェは大水の前に立っている」と悟りました。
「力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。
御名の栄光を、主に帰せよ。聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。」
(詩篇29篇1、2節)
さて、新約聖書の聖徒たちが入り込めるような詩篇が出てきました。
私たちはこれを超えることはできません。
「聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。」
ダビデが神の栄光に思いをめぐらせていると、突然雷鳴が聞こえます。
そして、稲妻が走るのを見て言いました。
「主の声は、水の上にあり、栄光の神は、雷鳴を響かせる。主は、大水の上にいます。」
(詩篇29篇3節)
ダビデは地中海の方を見ています。
そして今、雨が降り出します。
「主は、大水の上にいます。」
それでも雷鳴は響きます。
「主の声は、力強く、主の声は、威厳がある。
主の声は、杉の木を引き裂く。まことに、主はレバノンの杉の木を打ち砕く。」
(詩篇29篇4、5節)
そして今、嵐は平原を横切りレバノンの山々に向かっています。
大きな木は雷に打たれて砕かれました。
ダビデには風がそれらの大木を引き裂いているように見えました。
そして、それらが前後に揺れている時、ダビデはこれらの大木が、風に追い立てられる動物の一群のように見えました。
また、稲妻のように光っているのを見て、ダビデは叫びました。
「主は、それらを、子牛のように、はねさせる。レバノンとシルヨンを若い野牛のように。
主の声は、火の炎を、ひらめかせる。」
(詩篇29篇6、7節)
嵐は南のほう、ユダヤの荒野に進んでいます.
「主の声は、荒野をゆすぶり、主は、カデシュの荒野を、ゆすぶられる。
主の声は、雌鹿に産みの苦しみをさせ、大森林を裸にする。その宮で、すべてのものが、「栄光。」と言う。」
(詩篇29篇8、9節)
ダビデは全宇宙を神の偉大な神殿と考えています。
「そして、その神殿で、小さくてもその聖所で、その栄光について語っているのです。」
それは「神の聖所では、すべてのものが神の栄光を表現している」と言った方が良いかもしれません。
「このことは幕屋についてもそうでしたし、神殿や小さな聖所についても同じです。
そこにあるすべてのものが神の命令に従って作られ、すべての板、すべての石、すべての幕、すべての装飾品が神の栄光を語っているからです。
幕屋や神殿を調べてゆくと、すべてがキリストを表現していることがわかります。
神の栄光はすべてキリストにあるからです。
「主は、大洪水のときに御座に着かれた。まことに、主は、とこしえに王として御座に着いておられる。」
(詩篇29篇10節)
今、嵐は去り、すべての自然は再び静まり帰っています。
ダビデはこのように言っています。
「主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。」
(詩篇29篇11節)
なんとも対照的です。
この詩篇29編は雷鳴、風のように轟く声、稲妻の閃光で始まるが、今はすべてが静かです。
これは、訓練、緊張、困難を経験した魂の素晴らしい描写です。
そして、神はすべての上におられ、強く救いのためには強力なことを学びました。
このように、神にあって心は平安なのです。
次の5編は特別で30~34編は救いの詩篇です。
彼らはみな、私たちの前に、それぞれの方法で、様々な方向から見た試験的な救いを現わしています。
それは、主が恵みをくださることを信じる者にもたらされる個人的な知識です。
詩篇30篇でダビデはこの救いのために神を賛美している。
この詩編の先頭には「ダビデの賛歌。家をささげる歌」と書かれています。
この見出しが正しいのならば、暗示的です。
おそらく正しいものです。
というのは、これらの見出しは実際にヘブル語の詩篇に含まれているからです。
「ダビデの賛歌。家をささげる歌」、つまりダビデが自分の住む家を建てたとき、彼はその家を聖別したのです。
その時にダビデはこの詩篇を書き、歌いました。
ダビデは長年を振り返って、神がダビデのためにどれほど素晴らしいことを受け止めてくれたかを思い出しました。
ダビデは、かつて無名の羊飼いの少年であった自分のことを思いだし、迫害のさなかにあった彼に神が与えてくださった偉大な勝利のことをも思い出していました。
さらに、主がダビデを見守り、ダビデのいのちを守り、イスラエルでダビデを王とし、安らかな家を与えてくださったことを思いだしていたのです。
ダビデはあらゆる場面で、神のすばらしい恵みと哀れみの証しを見て、神を慕って声を張り上げました。
「主よ。私はあなたをあがめます。あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることはされなかったからです。」
(詩篇30篇1節)
今日、このように歌うことが好きです。
「あなたが私を引き上げ」。
ダビデはかつて泥の中に伏していた。
しかし、神はダビデを恵みによって引き上げたのです。
「私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。
主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。」
(詩篇30篇2、3節)
ダビテの心は非常に満ち足りて、兄弟たちに向かって、共に感謝をささげようと呼びかけています。
「聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。」
(詩篇30篇4節)
ダビテは山で「しゃこ」のように追われていました。
敵が日夜、自分のいのちをねらっていました。
民の住みかから追い出されて、穴やほら穴で暮らさなければなりませんでした。
サウル王の敵意を買い、愛する者たちが自分にそむいたことを知って、夜な夜なすすり泣いていました。
ダビテは、自分が非常に苦しんでいたころのことを思い出しています。
今では、すべて過去のことであり過ぎ去っていきました。
そして、神はこのような素晴らしいことをしてくれたのです。
「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」
(詩篇30篇5節)
コリント人への第二の手紙4章の聖句をを思い出しませんか。
私たちがよく聖書で読む場所です。
「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。
ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」
(コリント人への第二の手紙4章15~17節)
ダビデは何と言っていますか?
「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」
(詩篇30篇5節)
「神の怒り私にとっては長い時間だったようだ」と言っているのでしょうか?
私は苦しみ、悲しみ、失望、苦悩を経験してきました。
私は苦しみについて祈ってきましたが、何の答えも得られそうにありません。
それは繰り返しやってきました。
一瞬のことですが、私には一生分の経験があります。」
「その通りです。
でも、もしあなたが主イエス・キリストを知っているなら、この人生が終わったとき、その後にこの苦難はどうなりますか?
その時、主イエスと共に永遠なら、ほんの一瞬の出来事のように思えてきます。
私の愛する父が死にかけていた時、父はひどく苦しんでいてました。
父の友人たちは「父に寄り添って上げてください」と私の母に言ったことを私に告げました。
「ジョン、あなたはひどく苦しんでいます。
父は「ああ、今は私は誰も生きられるとは思っていなかったほど苦しんでいます。
しかし、神様の祝福された顔を見るだけで、すべてが埋め合わされます。」
私たちがこの世でで耐え忍ぶように求められていることが何でしょうか?
ここで苦しむように求められていることが何であれ、それはほんの一瞬の出来事なのです。
「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」
(詩篇30篇5節B)
朝はイエスが戻って来る時だす。
ダビテは言う、午前1時、明るく明けの明星、それは朝にキリストの到来は告げ、もう苦しみも痛みも悲しみもありません。
詩篇に戻るなら、ダビデは自分の魂に、若い頃の自信を思い出させています。
「私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」」
(詩篇30篇6節)
気分が暗くなる前にこんなことを言っていませんか?
「あなたはいい金額を貯金を積み上げていました。
あなたは株と債券も持っていて、有料のビジネスをしていました。
そして、あなたはこのように言うのです。
「私はいい環境の中に生きています。
今や、老後に養われない危険はありません」。
そして突然、すべてが取り去られます。
しかし、神は何も取り去っていません。
神は変わらずにおられます。
イエス・キリストについてこのように書かれています。
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」
へブル人への手紙13章8節
この栄華の中にダビデはヨブと同じように「私は決して動かされることはない」 と言っています。
しかし、その時、困難は思いがけなく、最も想像外ところからやってきたのです。
この世で、ダビデが一番もめ事を起こすはずがないと思っていなかったのはサウル王でした。
人間の本性の中で最も憎むべき感情の一つである嫉妬です。
サウル王はこの恐ろしい感情に動かされて、サウル王はダビデの敵になりました。
しかし、主は取り計らわれたので、ダビデは言うことができます。
「主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。
あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。」
(詩篇30篇7節)
「祈ろうとして、神様の存在が見えず、実感できないことがありました。
そう感じたことはありませんか?
時には神は一時的に顔を隠すことがあります。
ラザフォード氏は言っています。
「しかし、花には夜の冷たい闇、月の光と露が必要なのです。
同じように、キリストを愛する者の前から、キリストの臨在が遠いことがあるのです。」
主は、暗闇の時代、困難な時代にあって、このようなことが時には私たちにとって良いことであることを知っています。
神は、私たちに遠く離れているように見えるとき、光の中だけでなく闇の中いても信頼することを教えようとしています。
「主よ。私はあなたを呼び求めます。私の主にあわれみを請います。」
(詩篇30篇8節)
今、あなたは彼の祈りことを覚えました。ダビテは敵が自分を滅ぼそうとしているように感じているからです。
「私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか。」
(詩篇30篇9節)
ちりがあなたを讃えるでしょうか。
ちりがあなたの真実を宣言しますか?
それは、ただのわたしの死体です。」
死体があなたの真実を告げることはしません。
「聞いてください。主よ。私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください。」
(詩篇30篇10節)
主はこのように祈られました。
そして、この後の主の賛美の方法を知るべきです。
「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。
私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。」
(詩篇30篇11、12節)
ここでダビデが「舌」で何を?叫んでいるかきがついているだろうか?
ここでダビデは「ほめ歌い」を歌っているのである。
ヤコブへの手紙で書かれていることを覚えていますか?
ここに驚くべき対比があります。
「しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」
(ヤコブへの手紙3章8節)
誰がそのような舌を持っているのでしょうか?
人は舌を自由に扱うことができます。
神に支配されたダビテの舌は「ほめ歌い」を歌うことができたのです。
「私の栄光があなたをほめ歌い」と言わんばかりに、私はあなたを賛美するために使うことができる舌を持っていることをとても嬉しく思います。
神の栄光のためにいつもこのように舌を使うのであれば、そこには大きな違いが起こるのです。
詩篇31篇を簡単に見てみましょう。
そこでは、私たちの主イエス・キリストの体験と個々の聖徒とを結びつける描写があります。
この詩篇では、信じる者は神への信頼と確信を表しています。
神の慈しみを喜び、神のいつくしみをほめたたえながらも、暗闇の日々を振り返り、救いを神に感謝しています。
「主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。あなたの義によって、私を助け出してください。」
(詩篇31篇1節)
ここで「助け出して」と訳された言葉は「救い」という言葉と同じです。
つまり、この聖句は「あなたの義によって私を救ってください」と訳すことができます。
それが神が人を救うことのできる唯一の方法です。
私はこの聖句をマルティン・ルターの詩と呼んでいます。
アウグスティヌス修道院の修道士だったとき、ルターは自分の魂の問題でひどく悩んでいました。
ルターはあらゆる種類の苦行を行って、自分の罪の償いをしようとしました。
しかし、彼はますます哀れになり、悩みました。
ある日、ルターはラテン語で詩篇を読む、この詩に出会いました。
「あなたの義によって、私を助け出してください。」
ルターはこの奇妙な聖句を読み、立ち止まりました。
「私は、神が神の義に従って、私を呪う理由を理解することができます。
私は、神が神の義に従って私を神の御前から追放することができます。
私の罪はそれに値するからです。
もし、私を救われるなら、それは神の義によってではなく、哀れみによってわたしを救われるに違いありません。」
しかし、そこには「あなたの義によって、私を助け出してください」ということばがあります。
それから、ルターは心の中でそのことについて考え始めました。
そこでローマ人への手紙に立ち返り、読みました。
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。」
(ローマ人への手紙1章16、17節)
救いは神の哀れみではなく、ただの神の恵みでもなく、ただの神の義によるのです。
福音は、どのように神が義でありながら、不敬な罪人を義とすることができるかを示しています。
ダビデは十字架の何百年も前に、信仰をもって救い主の到来を見守っていて、このように述べています。
「主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。あなたの義によって、私を助け出してください。
私に耳を傾け、早く私を救い出してください。私の力の岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください。」
(詩篇31篇1、2節)
そして、信仰が導いて、このようにダビテは述べています。
「あなたこそ、私の巌、私のとりでです。あなたの御名のゆえに、私を導き、私を伴ってください。
私をねらってひそかに張られた網から、私を引き出してください。あなたは私の力ですから。」
(詩篇31篇3、4節)
5節にはこのような言葉があります。
「私のたましいを御手にゆだねます。
真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。」
(詩篇31篇5節)
これは主イエス・キリストが十字架に架けられた時に語った言葉です。
つまり、詩篇の少なくとも一部が、私たちの罪の裁きを背負られて十字架に架けられたご自身の経験に適応されていることを、主は私たちに示しています。
11節にもこのようにあります。
ここでも救い主の言葉を聞くことができます。
「私は、敵対するすべての者から、非難されました。わけても、私の隣人から。私の親友には恐れられ、外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。
私は死人のように、人の心から忘れられ、こわれた器のようになりました。」
(詩篇31篇11、12節)
それこそが、イエスが世にとって、死人であるのと同じことなのです。
もし、イエスが生きていたとしても、イエスは死んだのです。
ある日、オークランドの私の書斎に知らない紳士がやってきました。
彼は聖書のことを尋ねてきました。
私は彼が特定の欲しい聖書の種類について尋ねてきたので、私は彼がいわゆるクリスチャン・サイエンスだと確信しました。
彼らは一般的に、このような裏返しの縁のない聖書を使っています。
その聖書は「エディ夫人の「科学と健康」に合わせた表紙ですね」と私は言いました。
彼は「その通りです。
私はこの町にあるこんなクリスチャン・サイエンス教会の最初の読者です。」と答えました。
そして、私は尋ねました。
「その本を愛していますか?」
彼は答えました。
「その通りです。私たちはすべての奉仕でこれを読んでいます。
私はこの本を読み始め、もう一人の読者もエディ夫人の「科学と健康」からほかの個所から読んでいます。
私たち二人は意気投合しています。」
私は単純な質問をしました。
「あなたにとってイエスの尊い血とは何ですか?」
この質問でこれほど怒った人は見たことがありません。
この紳士は激怒しました。
彼の顔は一瞬引きつりました。
それから、彼のこぶしが私の机を叩き言いました。
「それはイエスの血だ!
私にとっては、他の死んだユダヤ人の血以上のものではない!」
それはまさに神の御言葉が言っていることです。
「私は死人のように、人の心から忘れられた。」
「それは冒涜だ」と私が言ったとしても「それはあなたが人間の血について言っているだけことです。」
神が何と言っているか知っていますか?
「キリストの尊い血」です
あなたにとってどうなのでしょうか?
キリストの血は、あなたがたにとって尊いものでしょうか?
あなたがたにとっては、人の心から忘れられた死人のようなものではないはずです。
この詩篇の後半の1、2節に注目してください。
「私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。」
(詩篇31篇15節)
あなたは15節の「私の時は、御手の中にあります」という何度も使われてきているのを見てきました。
本当の意味はどういう意味でしょうか?
「私の時は、御手の中にあります」にあるということ知るのは尊いことではないのでしょうか?
御父には臨んでいることがあります。
父親の御手が子供に不必要な恐怖を与えることはしないということです。
ですから、すべてを神に信頼することが出来るのであれば、神がすべてを栄光に帰されることを知ることができるのです。
その時、次のように言うことができるのです。
「あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう。あなたはそれを、あなたを恐れる者のためにたくわえ、あなたに身を避ける者のために人の子の前で、それを備えられました。
(詩篇31篇19節)
今は見えないかも知れませんが、いずれは出てくるのです。
あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所にかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます。」
(詩篇31篇20節)
「私は、むなしい偶像につく者を憎み、主に信頼しています。
あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは、私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。
あなたは私を敵の手に渡さず、私の足を広い所に立たせてくださいました。
私をあわれんでください。主よ。私には苦しみがあるのです。私の目はいらだちで衰えてしまいました。私のたましいも、また私のからだも。
まことに私のいのちは悲しみで尽き果てました。私の年もまた、嘆きで。私の力は私の咎によって弱まり、私の骨々も衰えてしまいました。
私は、敵対するすべての者から、非難されました。わけても、私の隣人から。私の親友には恐れられ、外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。
私は死人のように、人の心から忘れられ、こわれた器のようになりました。
私は多くの者のそしりを聞きました。「四方八方みな恐怖だ。」と。彼らは私に逆らって相ともに集まったとき、私のいのちを取ろうと図りました。
しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」
私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。
御顔をあなたのしもべの上に照り輝かせてください。あなたの恵みによって私をお救いください。
主よ。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたを呼び求めていますから。悪者をはずかしめてください。彼らをよみで静まらせてください。
偽りのくちびるを封じてください。それは正しい者に向かって、横柄に語っています。高ぶりとさげすみをもって。
あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう。あなたはそれを、あなたを恐れる者のためにたくわえ、あなたに身を避ける者のために人の子の前で、それを備えられました。
あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所にかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます。
ほむべきかな。主。主は包囲された町の中で私に奇しい恵みを施されました。
私はあわてて言いました。「私はあなたの目の前から断たれたのだ。」と。しかし、あなたは私の願いの声を聞かれました。私があなたに叫び求めたときに。
すべて、主の聖徒たちよ。主を愛しまつれ。主は誠実な者を保たれるが、高ぶる者には、きびしく報いをされる。
雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。」
(詩篇31篇6~24節)
祝福の人 32篇
ローマ人への手紙4章では、使徒パウロが信仰だけによる義認という偉大な教義を確立しようとしています。
パウロは、そこで旧約聖書の2つの聖書を引用して、すべての時代において救われた人はみな、信仰による恵みによって救われたことを証明しています。
人間的なメリットとは全くかけ離れています。
ローマ人への手紙3章21節にはこのように書かれています。
「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。」
(ローマ人への手紙3章21節)
「律法と預言者」という言葉は個別なものを指すしているのではありません。
旧約聖書ではこの2つの区分しています。
モーセ5書はヘブル人によって「律法」と呼ばれていました。
ヨシュア記に始まるそのほかのすべての書物は「預言者」と呼ばれていました。
時には、二つ目のグループを3つに分けているのをみることがあります。
最初に初代の預言者と呼ばれるものです。
それは始めの歴史書が彼らによって書かれたからです。
次にヨブ記、詩篇、雅歌などです。
イザヤからマラキまでが後期の預言者となります。
使徒パウロがローマの信徒への手紙の3章で語っていることは、すべての人の不義が証明され、神が罪の下にある罪人のために道を備え、御自身の義を知らせようとしていることです。
これは、モ―セの律法に従うことではありません。
律法によってあかしされているものです.
これらの最初のモーセ5書と、預言者たちによる旧約聖書の残りのすべてに書かれていることです。
言い換えれば、旧約聖書全体が、何も持つことのできない人間に神はご自身の義を与えようとしていたという事実を証言しているのです。
もし、ここに正統派のユダヤ人がいて、彼は聖書と自身の民族の歴史に詳しい人がいたとします。
私たちは彼に言います。
「律法のすべての書物の中で最も重要な人物は誰ででしょうか?
彼は一瞬のためらいもなく答えるでしょう。
アブラハムです。
アブラハムはヘブル人の父であり、神が恵みの契約を結ばれた方だからです。」
よろしいでしょう!
使徒パウロはローマ人への手紙4章でこのように述べています。
律法の書の中から最も重要な人物を取りあげて、その人物がどのように義とされたのかを見てみましょう。
「それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。
もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。
聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。」
(ローマ人への手紙4章1~3節)
それは信仰による義認です。
それは行いとは別の義です。
また、ここに別の正統派のユダヤ人がいてこのように言います。
「モーセ5書以外の旧約聖書の中言及されている最も重要な人物、預言者は誰ですか?」
彼は一瞬のためらいもなく答えるでしょう。
「われらの偉大なダビデ王」。
それは、神がダビデとの契約を次のように確証されたからである。
「神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについては、『わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える。』というように言われていました。」
(使徒の働き13章34節)
よろしいでしょう!
使徒はローマ人への手紙の4章で、預言者の書の中で最も重要な人物を招いています。
その者がどのように義と認められたのでしょうか?
罪を犯した罪人が命と平和を見出す方法についてその者が何を語るのかを見るべきですと述べています。
そこで使徒は詩篇32篇を引用しています。
「ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。
不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。」
(ローマ人への手紙4章6、7節)
使徒は、神が不敬な罪人を義する方法を述べるのにもっとも優れた聖句として、詩篇32篇を私たちに紹介しています。
ここで、振り返って考えてみると、新約聖書の神の恵みの福音の幕開けと見事に合致していることがわかります。
皇帝アウグスティヌスが死のベットに付いた時、彼はこの詩篇を大きなプラカードに大きな文字で描かせ、ベッドの足元に置きました。
彼はそこに横たわりながら、これらの美しい言葉を目の前にして、この詩篇32篇のメッセージを永遠に思いながら旅立っていきました。
この詩篇はルターのお気に入りの詩篇の一つでした。
というのは、おそらく預言者イザヤ書53章以外では、他のどの旧約聖書の個所よりも正確に福音を述べているからです。
この詩篇の最初の2節には完成があります。
これはほかの詩篇の構造から比べると奇妙なことです。
多くの場合、最初にクライマックスを迎え、その後の節では、聖霊に導かれた詩篇がどのようにクライマックスに達したかを示します。
しかし、ここでは最初の2節で信者の4つの側面を持った祝福が示されています。
そして、詩篇の残りの部分では、ダビデがどのようにしてこの祝福を受けるようなったのかその理由について学ぶことができます。
「ダビデのマスキール」という見出しがあり著者がダビデであることがわかります。
この言葉は文字通り「指示を与える」という意味です。
ダニエル書11章には次のような言葉があります。
「民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。」
(ダニエル書11章33節)
「思慮深い人たち」という表現は、ヘブル語でマスキリム、つまり、「教官」です。
ですから、この詩篇は思慮深い人たち詩篇であり、教えを与える詩篇なのです。
詩篇を読んで、この言葉に出会うたびに、自分自身にこのように言えば賢明になるでしょう。
「私はこの部分を特に注意して読まなければなりません。
なぜなら、神はこの言葉を冒頭に置くことによって、私の注意を喚起しているからです。
ここには、神様が私に見逃してほしくない特別な指示があるからです。」
そして、その中身を読んでゆくのなら、実際に指示が何であるかがわかるのです。
「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」
(詩篇32篇1、2節)
まず4つの側面を持った祝福に注目してください。
最初に「幸いなことよ。そのそむきを赦され」です。
次に幸いなこととして、「罪をおおわれた人」です。
三つ目に「幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人」です。
四つ目に再び幸いなこととして「心に欺きのないその人」です。
ヘブル人はこれを「マスキール詩篇」と呼んでいます。
イスラエルには「アシェル」と呼ばれた部族がいました。
「幸福な」とか「祝福された」という意味です。
ヘブル語ではこの言葉で始まる詩篇がたくさんあります。
詩篇1篇1節は次の言葉で始まっています。
「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」
(詩篇1篇1節)
詩篇1篇の祝福は、決して迷うことのない人の祝福です。
あなたと私はその祝福を要求することはできません。
詩篇1篇の祝福された人は、私たちの事ではなく、私たちの主イエス・キリストのことです。
さて、詩篇32篇はもう一つのマスキール詩篇です。
確かに、迷い出た者が神のもとに立ち帰ったことが祝福されています。
今、あなたと私はその祝福を知っています。
では「幸いなことよ。そのそむきを赦された者」とは誰でしょうか。
この人は、自分の罪を認めて、神に与えられたみことばに信頼して、神のもとに来た人です。
旧約聖書の時代のメッセージは、今日与えられているメッセージほど完全ではありません。
今日、神は、私たちの罪のために死んでくださった、祝福されたご自身の御子について、完全で明瞭な福音を私たちに与えています。
私たちが神に信じ、私たちは、イエスがカルバリで完了された御業において、私たちのすべての咎が赦されていることを知ります。
使徒ペテロはこのことをはっきりと述べています
「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
(使徒の働き10章43節)
贖罪(Remission)とは、言うまでもなく、罪赦しです。ですから、私たちは主イエス・キリストを信じることによって罪の赦し(Remission)を受けています。
すべての哀れな罪人であっても、神が御子についてあかしされたことを信じる者はみな赦されます。
しかし、2番目に注目してください。
「罪をおおわれた人」です。
「おおわれた」と訳されたこの言葉は、旧約聖書での「贖罪」を意味する言葉の一つの形態にすぎません。
ここで著者が言っていることは「罪がおおわれた人は幸いだ」ということです。
「償い」の旧約聖書での意味は「おおうこと」です。
「神は罪の「おおい(カバー)」を見つけて、主イエス・キリストを私たちの代りにお与えになりました。そして今、「罪におおわれている者は幸いです」と言われています。」
尊い血はすべての記録を消し去り、彼の罪はおおわれたのです。
三つ目に「幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人」と言っています。
「咎を認める」とは何でしょうか?
それは不義を罰するためです。
もし、主イエスが、私を救われた夜に、私のすべての罪を消し去り、すぐに神は私に罪贖われた者として扱い始めます。
私は将来、過去よりも優れた生活を初めているわけではありませんが、詩篇の著者は言っています。
「幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人」
(詩篇32篇2節)
神は、裁きの日に神の民が裁きに直面しなければならないものとして、彼らに対する罪を定めているのではありません。
私がイエスを信じた瞬間、尊い血がゆりかごから墓場までの全記録をおおうのです。
それでは、罪を犯しても何も変わらないということでしょうか?
違います。
裁きの神について罪人としての私の責任が永遠に終わりました。
次の瞬間、私の父に関わる子としての責任が私に生じました。
二度と、私はさばきの神とかかわりを持つことはありません。
しかし、私の父とのかかわりを持つようになりました。
子どもとして、私は聞き従う子となるのです。
もし悪い子ならば、私の父は私を打つ必要があります。
「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
(へブル人への手紙12章6節)
しかし、神は決してその民に咎を負わせません。
神は、咎を負わせる代わりに、義を負わせるのです。
信じる者はみな、キリストにあって神の義とされているのです。
そして4つ目に注目してください。
「心に欺きのないその人」です。
「心に欺きのない人」であって「罪のない人」ではありません
この世に罪のない人はいません。
しかし、ただひとりの方がおられます。
それは私たちの祝福された主イエス·キリストです。
しかしアダムの堕落以降、別の人は現れていません。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」
(ローマ人への手紙3章23節)
正しい行いをして罪を犯さない人はいません。
「多くのことで、私たちはすべての人を怒らせています。」
クリスチャンであっても、クリスチャンでなくても同じです。
クリスチャンであっても、多くのことで罪を犯します。
しかし、心に欺きのない人とは、隠れようとしない人のことです。
その者は自分が神の言うとおりの人間であることを認めています。
人が罪をおおっている限り、そこには悪意が存在します。
人が自分の罪を隠している限り、そこには策略があります。
ダビデは、自分の罪を隠しており、策略を持っていました。
しかし、ダビデが出てきて、それを素直に認めて言いました。
「私は主に対して罪を犯した。」
(サムエル記第二12章13節)
そこにはそれ以上の心の欺きはありません。
何年も前に、イギリスで会計事務所で働いている若者がいました。
その若者は昔ながらの高い椅子に座って本に読みながら仕事をしていました。
彼はとても神経質な若者でした。
ドアが開くたびに、彼は誰が入ってくるかを確認していました。
昼や夜に出かける準備をすると、彼はドアのところに行き、ドアを開けて通りを見渡していました。
軍人や警官を見かけたら、彼らが通り過ぎるまで身を隠していました。
ある日、仕事をしていると、ある事務員が彼に歩み寄ってきて、机の上に身を乗り出して言いいました。
「ジョック、僕の稼ぎでは生活が成り立たないんだ。今週を乗り切るために二、三シリング貸して欲しいんだ!」
ジョックは答えました。
「それはできないよ!
私の給料はとても少ない。
すると彼は「じゃあ、ひとつ教えてやろう」と耳元でささやきました。
そして、貧しいジョックは青ざめた顔で、ポケットに手を入れ言いました。
すると、もう一人の連れが歩きながら独り言のように彼に言いました。
「頼むから誰にも言わないでくれ!
男は自分が銀の鉱山を掘り当てたみたいだ!」と言いました。
それから、1週間ほどすぎて、彼は帰ってきました。
そして、ジョックは本当に貧しくなるまで、彼に毎週、半クラウン金貨相当の金を与え続けました。
ある日、ジョックがお茶を飲みに行き、小さなレストランに座っていました。
ジョックはたまたま他の男の手にある新聞に気づき、見出しを見ました。
「女王陛下の軍隊のすべての脱走者に無料の恩赦が提供されます。」
ジョックは「私はその新聞を手に入れなければなりません。
その日はヴィクトリア女王即位60周年記念日でした。
英国はその日を祝うために、すべての脱走者に無料の恩赦を与えることを定めていました。
しかし、それは恩赦の条件を伝えられていました。
脱走者は司令部に手紙を書き、所属していた船や連隊、脱走の理由、現在の住所を伝え、問題がなければ赦免されるのです。
これがジョックの秘密でした。
これがジョックは家に帰り、本部に手紙を書きました。
女王陛下が脱走兵に恩赦を与えているのを見てとても喜んでいると家の者に伝えました。
ジョックは脱走するつもりはなかったのだが、エジプト行きを命じられたとき、どうしても母親に会いたかったのです。
そして、ジョックが戻ってきた時には、すでに船はなくなっていたなどの出来事があったからです。
ジョックは待ちました。
そしてある日、O.H.M.S.と書かれた大きな封筒が手渡されました。
ジョックは夢中になってその封筒を開けました。
そして小さなメモがあっただけでした。
「誰々様、拝啓お手紙を受け取りました。
明らかにあなたは宣言を注意深く読んでいません。
恩赦は脱走者のためのものです。
しかし、あなたの手紙によると、あなたは脱走するつもりはありません。
W将軍。」
ジョックは「俺はなんて馬鹿なんだろう」と言いました。
「自分に都合のいい言い訳をして、恩赦を逃してしまった。」
それでジョックは家に帰って、別の手紙を書きました。
「私はこんな連隊に所属していました。
私は脱走して、こんなところで見つかっています。
もしお許しをいただけるのであれば、ありがたく存じます。」
数日後、また別の大きな封筒が届きました。
ジョックはその封筒を開け、入っていた紙を見ていました。
そして、彼を悩ましていた男がやってきて、このように言いました。
「ジョック、君からはこの1週間何ももらっていないよ!」
ジョックは答えました。
「私から奪った最後の銀貨はもうないだろう!」
すると、急に熱くなってきて言い合いになりました。
私を黙らせる力がないのなら、秘密を打ち明けてもいいのだよ!」
ジャックは言いました。
「さあ、行って、みんなに好き勝手に言って来なさい。
あちこちで叫べばいい!
私のことを脱走兵だと言ってくれ。
みんなに話してごらん。
男は「気でも狂ったのか?」と思いました。
「いや、そんなことはない。
だが、これらのことをに言いに行く前に、これを読んでくれ」とジャックは手紙を見せました。
「私の銀の鉱山は枯渇してしまったようだ!
ジョックはその思いには、現在悪意は存在しない!
あの卑屈な数ヶ月の間、ジョックは隠れて、隠して、隠して、隠していました。
神との間においても、すべてが明らかになるのは良いことなのです。
「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」
(詩篇32篇1、2節)
3節では、ダビデはどのようにしてこのことを知ったのかを語っています。
最初に、ダビデはこのことを知らなかった時のことを話しています。
「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。」
(詩篇32篇3節)
地上に老人のような気分にさせるものがあるとすれば、それは告白されていない罪です。
屋内では騒音があるのに、外ではとても柔和に見えることもあります。
「それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ」
(詩篇32篇4節)
冬には緑が美しく燃える丘のようです。
しかし、夏には干からびてしまいます。
ダビテの喜びはすべて失われました。
ダビテは荒れ果ててしました。
これ以上耐えられないのでこのように言いました。
「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。」
(詩篇32篇5節A)
ダビテはそれを隠していました。
しかし、そのことがダビテに悲しみだけをもたらしたのです。
「私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ」
(詩篇32篇5節B)
ここにある「私の罪のとがめを赦されました」というのは無償の赦しのことです。
あなたはそれを得たことがありますか?
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
「ヨハネの手紙第一1章9節」
今は何もかもが違います。
今、その者は祈りの場所にいるこことができます。
多くの人が救われるためには祈ることが必要だと思っています。
ダビデが「昔は祈ることができなかった。
しかし、今はできるのです」というはずです。
「それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。」
(詩篇32篇6節)
ダビデは赦されることが何であるかを知っていました。
ゆえに、ダビデは策略が不必要であることを理解していました。
喜びに満ちた確信を持って祈ることができ、試練のときにはいつも主が守ってくださることを知っています。
ダビテが美しく自分自身を表現している7節を見てください。
「あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。セラ」
(詩篇32篇7節)
ダビデは3節と4節では神から隠れていました。
しかし、7節では神に身を隠しています。
あなたはどちらですか?
ここには多いな違いがあります。
私たちの中には、神から隠れ、惨めで不幸だった時のことを覚えている人もいます。
私たちは、神から身を隠すのではなく、回り道をしてでも、神のもとに行き、神のうちに身を隠すのです。
讃美歌「永遠の岩よ、私のために裂けました」
あなたの中に身を隠させてください。
「水と血が、流れたあなたの傷口から、罪の二倍の助けによって、この罪から私を清めてください。」。
次の3節では、主がダビデに語られているのが聞こえます。
ここまではダビデが語ってきました。
今度は神が語り、まず導きを約束しています。
「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」
(詩篇32篇8節)
「わたしは、あなたがたに悟りを与え」、つまり、「わたしは、わたしの目であなたを導こう」、もしくは「わたしの目であなたの上にある」という意味になります。
詩篇123篇2節にはこのようにあります。
「女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。」
(詩篇123篇2節)
言い換えれば、もし、いつもあなたが神の顔を見あげ神との親密な交わりの中に住んでいるなら、神はあなたに進むべき道を示します。
そして、あなたは失敗することはありません。
「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、
もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。
(マタイの福音書6章22、23節)
人が主の心を得ることがこのように困難なのは、主との交わりの中に生きることが何であるかを知らないからです。
「あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。」
(詩篇32篇9節)
あなたはどうやって馬やラバを誘導するのでしょうか?
あなたの目を使うのですか?
それではだめです。
「口をくつわと手綱で押さえておかなければ、あなたに近寄ることはできません。」
多くのクリスチャンは、彼らがイエスから目を離さないようにするために、噛みつきと手綱で導かなければなりません。
馬とラバの違いは、馬は歯を食いしばり「やります」とがんばります。
しかし、飼い主はそれを止めるのが大変なことです。
ラバは足をつき、「しない」と言います。
キリスト教会にはこの2種類の人々がいます。
彼らの多くは馬のようで、あなたが彼らを信頼しているものを持っていつでも逃げる準備ができています。
彼らは導かれたり指示されたりすることを望まず、準備ができてもいないのに出発してしまいます。
しかし、そうではない人もいます。
彼らは、あなたが動かせないほど定着してしまう人たちです。
彼らに鞭を使うのは違法です。
神は「そのようになってはいけない」と言っています。
そして、わずかな言葉にも警告が含まれています。
「悪者には心の痛みが多い。」
(詩篇32篇10節A)
人が神のもとに来て、自分の罪を裁かず、自分の咎を告白せずに、神に正しく服従しないならば、彼らは悲しみと苦痛を味わわなければなりません。
彼らは自分の頭上に悲しみと苦痛をもたらしているのです。
「しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。」
(詩篇32篇10節B)
強調して訳されるのなら 「哀れみがその人四方を包み込んでいる」とした方が良いのかも知れません。
ダビテは賛美の歌で締めくくっています。
「正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。」
(詩篇32篇11節)
礼拝への呼びかけ 33篇
ダビデは詩篇32篇で、そむきの罪が赦され、罪が贖われた人の祝福がされていました。
私たちは今、詩篇33篇では、常に贖いの知識に従うべきこと、すなわち、礼拝と崇拝の中で神に向かう心が描かれています。
あなたがたは、主イエス·キリストがサマリアの泉のところにいる女に言われたことを思い出してください。
「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
ヨハネの福音書4章23、24節
あなたはそのようなこと考えたことありますか?
御父は礼拝者を求めておられます。
わたしたちは御子が探している者を知っています。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
(ルカの福音書19章10節)
主イエスは失われた罪人たちを探し求めています。
主イエスは罪人たちを救うために罪人たちを探しています。
しかし、すでに救われている人々のうちには、父はしもべたちを求めておられます。
礼拝についてよく知っている信者は少なくはありません。
しかし、礼拝に時間をかけている信者が少ないことは驚くことです。
礼拝とは何かについて、多くの人が混乱した考えを持っています。
あなたがたは礼拝に行き、祈りとあかしの中に時を過ごし、出て行きます。
そして「わたしたちは今夜、神に仕えていました」と言います。
しかし、祈りは礼拝ではありません。
証しすることは礼拝ではありません。
あなたがたは行って、宣べ伝えられた御言葉を聞き、そして、出て行きます。
それから「わたしは神に仕えます」と言います。
しかし、聖書のメッセージを聞くことが礼拝ではありません。
メッセージを聞くことは礼拝ではありません。
これらすべての働きによってが礼拝を生み出すべきであることは、完全に真実です。
というのは、私たちが祈り、神が近いという素晴らしい感覚を持つとき、それが私たちの心を礼拝に導くからです。
これが礼拝です。
これは魂が神ご自身を礼拝することです。
また、神の賜物を占有することではありません。
そして、何かを受け取るために神のもとに来るのでもありません。
与え主とともに占有するのです。
私たちのためにしてくださったことだけでなく、ご自身のうちにおられる聖霊にも感謝しています。
私は一日を始めるときには、少しの時間をとって静かに神の言葉に耳を傾けることが好きです。
私は心を神に向け、神に何かを求めるのではありません。
ただ、神様のすばらしい愛と恵み、罪人の私に与えてくださったいつくしみに感謝していることを少しでも神様に伝えることです。
その時、神は崇め、神であるキリストにあるものを崇めるのです。
そのように毎日を風に過ごしているならば、一日が明るく感じられます。
詩篇32篇では、人間が罪から解放されています。
詩篇33篇には、礼拝の中で救い主に向かう心があります。
私たちはダビデが詩篇32篇を書いたことを知っています。
しかし、私たちは詩篇33篇を誰が書いたのか知りません。
ユダヤ人は、冒頭に名前のない詩篇を孤児詩篇と呼んでいます。
「それらはみなダビデによるのではないか?」とあなたがたは言うかも知れません。
そして、それらはダビデの詩篇と呼ばれています。
最初にダビデが詩集をまとめたという意味では、これらはダビデの詩篇です。
しかし、ダビデはすべての詩篇を書いたわけではありません。
これらの詩篇をユダヤ人は彼らの礼拝、賛美、感謝の表現として使いました。
ダビデは会堂や神殿での祈りも書き記しましたが、すべてを書き記したわけではありません。
ダビデは、名前が明かされていない著者によって書かれた多くの詩篇を収録しました。
詩篇の並び方は実に見事です。
それらは神の順序で正しく配置されています。
多くの場合において、1つの詩篇の最後の節が次の詩の詩篇のテーマを紹介しています。
この詩篇はそのようなわかりやすい詩です。
詩篇32篇の結びの詩は次のようです。
「正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。」
(詩篇32篇11節)
さて、ここで詩篇33篇がどう始まっているかに注目してみましょう。
「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。」
(詩篇33篇1節)
この詩篇33篇の最初の3節は、主にほめ歌を歌え、主を礼拝せよという呼びかけで占められています。
「立琴をもって主に感謝せよ。十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。
新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。」
(詩篇33篇2、3節)
それは贖罪の歌です。
旧約の神殿ではイスラエルは楽器に大いに頼っていました。
今日、私たちの礼拝ではこれらの楽器を使うことができます。
しかし、神が何よりも大切にされる楽器は、目に見えず、耳に聞こえないものです。
使徒はこのように言っています。
「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」
(エペソへの手紙5章19節)
あなたがたの心から神を敬い、心から礼拝し、賛美するとき、これが神の耳に届く最も美しい音楽なのです。
時には人はとても美しく歌うことができます。
彼らは訓練された声を持っていて、音符を間違ることもありません。
すべては正確ですが、その中には神のための一片の賛美もありません。
神ではなく、自分自身を賛美することが簡単です。
そして、自分自身の注意を引くためにそのような才能や能力を使うのこともとても簡単です。
しかし、宣教者や歌い手の能力が神に聖別されて(分けられて)いる場合には、それはとくに神にとって貴重なものです。
たとえ、楽器で歌ったり演奏したりすることができない場合においても、同じです。
もし心を一つにして神に向かって礼拝を捧げるなら、イエスにとってどんなに尊いことなのです。
民の心が神のことで占められているのを見るのを、神は特に好んでいます。
4節から9節では、魂は神の言葉と神の御業を熟考しています。
ここにいるのは神の二人の証人です。
天地創造と聖書は同じ源から来ています。
聖書と科学の不一致について話す人もいます。
聖書と科学、つまり現実の科学との間に異論はありません。
科学は、宇宙を説明し、証明された事実として、整然とした配列で構成されています。
しかし、科学は証明されていない仮説がたくさん出てくるだけで、本当の科学ではありません。
これらの仮説の中には、しばしば聖書と矛盾するものもあるかもしれません。
しかし、この仮説が真の科学ではありません。
なぜなら、真の科学とは物理的な宇宙を説明するだけのものだからです。
この宇宙は聖書に霊感を与えた神が宇宙を創造されたものです。
詩篇のこの聖句には、神の御業と神の御言葉が記されている、神の完成を証ししています。
「まことに、主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。
主は正義と公正を愛される。地は主の恵みに満ちている。」
(詩篇33篇4、5節)
しかし、それを見るには目を開かなければなりません。
どこを見ても試練があります。
苦しみがあり、災害がああります。
しかし、あなたがこれらのすべての試練に振り返るなら、この宇宙の背後に愛の神がいることに気づくことができます。
その時、すべてがどのように変えるのでしょうか?
「主のことばによって、天は造られた。
天の万象もすべて、御口のいぶきによって。」
(詩篇33篇6節)
それはもちろん、太陽、月、星を示してします。
「天の万象もすべて、御口のいぶきによって」、主の全軍勢を率いて維持されています。
「主は海の水をせきのように集め、深い水を倉に収められる。
全地よ。主を恐れよ。世界に住む者よ。みな、主の前におののけ。」
(詩篇33篇7、8節)
「主の前におののけ」、つまり畏敬の念への呼びかけです。
神の民が現在のこの国で犯している罪があるとすれば、それは不敬の罪だと思います。
他の国ではあまり見かけません。
例えば、海を渡ってイギリスに行きなさい。
人々が主の礼拝のために集まるとき、教会に駆け込んだり、玄関で談笑したりして過ごすことはありません。
彼らは静かに自分の席にたどり着き、礼拝が始まるのを待ちながら心を静かにし、礼拝をしているのです。
私にとって、アメリカの聴衆の驚くほどの不敬さは、克服するのが最も難しいことの一つです。
礼拝前の騒がしさや笑い声、挨拶などで、心が会になじむまで30分ほどかかることもあります。
「恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。セラ」
(詩篇4篇4節)
「世界に住む者よ。みな、主の前におののけ。」
(詩篇33篇8節B)
10節から12節では、異教徒の偶像とは対照に、唯一の真実なる生ける神が称えられています。
「主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。」
(詩篇33篇10節)
神は、人びとの計画をむなしくします。
「主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。」
(詩篇33篇11節)
ここで、この詩篇の著者は、神が御自分の民に現わされたことに感謝して、自分を敬虔なイスラエル人として語っています。
「幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。」
(詩篇33篇12節)
使徒ペトロが語る聖なる国は、世界中の様々な場所で生まれ変わった男女で構成されています。
彼らは、主がご自分のために分けられた民です。
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。
それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」
(ペテロの手紙第一2章9節)
13節から17節には、神が人の心を量って、人間を見おろしし、その考えを試している様子が描かれています。
「主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。
御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。
主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。
王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。
軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。」
(詩篇33篇13~17節)
神は人間を見おろしています。
何を見ておられるのでしょうか?
ただの弱い人間たちの世界、貧しくて、弱くて、自分で自分を救えない罪深い人間たちなのでしょうか?
しかし、私は神に感謝します。
神が、彼らを御救いになられたのは神は自分の所有する民を大切にしてくださります。
詩篇の最後の部分、18節から22節ではそのことが書かれています。
神は、この世から神を信頼する者を選び、彼らのために御恵みを与えられます。
「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。
彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために。
私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。
まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。
主よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。私たちがあなたを待ち望んだときに。」
(詩篇33篇18~22節)
「私たちのたましいは主を待ち望む」という20節の意味は、私たちの魂にとって大きなことです。
主を待つことは一つの事柄です。
彼を待つこととは別のことです。
詩篇62篇でダビテはこのように言っています。
「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。」
(詩篇62篇5節)
しかし、ここでダビテは「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」と言っています。
神を待ち望むとは、神の御前に出て、神を礼拝し、神をあがめ、自分の必要を神に告げ、試練、困難、悩みを持ってきて、すべてを神に告げ、神を待ち望むことです。
しかし、神はいつもすぐに答えてくれるわけではありません。
いつも、神はすぐに救いを与えるわけではありません。
あなたがたが病の時に神の御前に来ます。
神がすぐにあなたがたに癒しを与えられるとは限りません。
あなたがたが経済的な困難の中にあって神の御前に来ます。
神は常にあなたがたが自分の義務を果たすのに必要な手段を与えてはくれないかも知れません。
あなたがたは、まだ救われていない息子、娘、妻、または夫のこと、自分の家族のことで神の御前に出てきます。
そして、その者を神の御前に連れて行き、その者のことで神に話し、主を待ち望みます。
それは正しいことです。
しかし、神様がすぐに行動するとは限りません。
ですから、私たちには神を待つという必要があります。
もし神がすぐに答えられないとしても、それは神が無関心であるという意味ではありません。
神の遅延は否定ではありません。
私たちはそれを学び、主を待つ必要があります。
なぜなら、主はご自分の時に、ご自分のやり方で祈りを引き受け、答えてくださるからです。
私たちが、いつ、どのように行動すべきか、神様に指図することはできません。
輝く命 34篇
5つの詩篇の第2シリーズの最後の詩篇は34編です。
ここでもまた、前の詩篇とリンクしていることがわかります。
この前の詩篇では、神を礼拝し、賛美するよう人々に呼びかけています。
33編の最後の2節にはこう書かれています。
「まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。
主よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。私たちがあなたを待ち望んだときに。」
(詩篇33篇20~22節)
そしてすぐに、次の詩篇の中でつぎのような魂の賛美があります。
「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」
(詩篇34篇1節)
「詩篇34篇は、ヤハウェを救い主として紹介し、ダビデによって書かれています。
私たちは、詩篇33篇の著者は知りません。
しかし、だれが詩篇34篇を書いたのかは明らかだと言われています.
表題に「ダビデによる。彼がアビメレクの前で気違いを装い、彼に追われて去ったとき」とあります。
ダビデの人生での出来事を覚えているでしょうか?
サウル王に殺されるのを恐れて、ペリシテ人の庭に逃げ、ペリシテ人の王に仕えました。
ダビデは落胆し、自信を失ってしまっていました。
ダビデは神を見失い、自分の民の敵のところへ逃げて行ったのです。
そして、ペリシテ人の王とともに自分の民を攻めるために、戦いに出ようとしていました。
ダビデの堕落はひどいものでした。
もし、神の聖徒が主から目をそらし、信仰の代わりに不信仰が勝利しているのなら、その聖徒がどこまで堕落するかはわかりません。
もちろん一時的なものです。
「するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」
ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。」
(サムエル記第一21章11、12節)
「ペリシテ人の首長たちは彼に言った。「この男を帰らせてください。あなたが指定した場所に帰し、私たちといっしょに戦いに行かせないでください。
戦いの最中に、私たちを裏切るといけませんから。」
(サムエル記第一29章4節)
ペリシテ人たちは、ダビテの心がイスラエルの民とともにあることを知っていたので、私たちは彼は行くことができないと言いました。
ダビデは恐れていました。
「それでダビデは彼らの前で気違いを装い、捕えられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。」
(サムエル記第一21章13節)
なんという描写でしょうか?
ダビデは、神に油そそがれた、神の心にかなう者でした。
ダビデはペリシテ人を恐れて、気が狂ったように装っていました。
当時の中東の人たちは狂人には絶対に手を出さないので、ダビデは正気でないふりをしたのです。
なんて恐ろしい描写なんでしょうか!
私たちは、主イエスをあがめるために召されたのです。
しかし、私たちが世の人として、世界に出て行き、世と共に振る舞うことほど嫌なことはありません。
神は恵みをもって来られ、ダビデをすべてのことから救い出されました。
そして、ダビデは民のうちに戻り、これを覚え、この詩篇を書かれたのです。
ダビデが救い渡されたのは、アキシュが彼を手に入れようとしなかったからです。
ダビデの状態は良くなっていました。
ダビデは正しい場所に戻ってきたのです。
ダビデはペリシテ人の連合から救い出されました。
1節から4節までは賛美の言葉です。
「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。
私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。
私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。」
(詩篇34篇1~4節)
もし、ダビデが初めからそこにいたのなら、ペリシテ人の王の宮殿で、あれだけひどい失敗はなかったはずです。
しかし、堕落したダビデを終わらせ、神に押し付けるために、苦い経験をしなければなりません。
神の子どもにはたびたび起きることです。
5節から10節には、神の力を授けるというダビデの素晴らしい体験談があります。
特にこの5節には素晴らしい教訓があります
「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」
(詩篇34篇5節)
「彼らが主を仰ぎ見ると」、誰を仰ぎ見たのですか?
主です。
そして、何があったのですか?
彼らは輝いたのです。
そして、ダビテは「彼らの顔をはずかしめないでください」と言っています。
直訳すると「輝きを増した」という意味です。
彼らが主を仰ぎ見て、輝きを増し、その顔には恥を見ることはできません。
コリント人への手紙第二3章で使徒が語っていることを思い出してください。
あなたは輝くクリスチャンになりたいでしょうか?
キリストのような信者になりたいでしょうか?
そして、自己にとらわれてはいけません。
自分がうまくいっているのか、いつも覗き込んでいてはいけません。
もし、理想的な善良な自分のことを考えてしまうのなら、落胆し、胸がいっぱいになってしまうでしょう。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」
(へブル人への手紙12章2節)
もし、イエスに目を向け仰ぎ見るのであれば、彼らは輝くのです。
彼らは光を受けるだけでなく、光を放つのです。
モ―セは神の御前に行き、山から降りて来たとき、光を放ちました。
人々はそれに耐えきれませんでした。
何がモ―セを輝かせたのでしょうか?
モ―セは神の顔をじっと見つめていたのです。
光り輝く信者になりたいなら、キリストに目を向けなさい。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
(コリント人への手紙第二3章18節)
私たちのある者たちはあまり輝きがありません。
彼らはとても不機嫌です。
彼らはつまらないのです。
スコットランド語では「ドウア(dour)」と言います。
それはただ陰気なだけで、私たちがイエスに期待していないことを物語っています。
キリストの御顔を見つめるとき、私たちはキリストのようになり、キリストの愛らしさが私たちの生活の中に輝きます。
彼らはキリストを仰ぎ見て、輝きを増し、その顔は恥がありません。
ダビデは「私は知っています。
私が輝いていなかった時のことを覚えているからです」ということができました。
そして、つぎのように詩篇の中で言っています。
「この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。」
(詩篇34篇6節)
あなたはこのように言うことができるでしょうか?
ダビデはペリシテ人のところへ行って保護を受ける必要がないことを知りました。
神は彼のために保護者を持っていました。
「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」
(詩篇34篇7節)
ダビデは自分が見つけたものにとても喜びました。
そして、他のみんなにもそれを共有してもらいたくて、叫んでいます。
「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。
主を恐れよ。その聖徒たちよ。
彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。」
(詩篇34篇8、9節)
もし、あなたがいつも落胆して頭を垂れて歩いているなら、それはあなたが神の御前で生きていないことを物語っています。
「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」
(詩篇34篇10節)
私もあなたも、自分たちのためにならないことを望んでいると思うことがたくさんあります。
しかし、もし私たちが神を求め、私たちが非常に望んでいることを主が拒まれるなら、それは私たちのためにならないことは確かです。
神により頼ることを学ぶことは素晴らしいことです。
私たちがよく引用する聖句は、神様が私たちの求めることをすべてしてくださると約束しているわけではありません。
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」
(ピリピへの手紙4章6節)
その時、それは何でしょうか?
あなたが求めるものはすべて手に入るのでしょうか?
違います。
そして、このように書かれています。
「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
(ピリピへの手紙4章7節)
もし、あなたがそのことを主に告げ、主に委ねることができるのであれば、完全な平安を得ることができます。
このように書かれています。
「主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」
(詩篇34篇10節B)
もし神があなたがたのためにならないと知っておられ、あなたがたの求めるものを止めるのでならば、それであなたがたに授けられません。
最後の11節から16節は、信仰者の人生の道筋を示しています。
これらの言葉は新約聖書のペテロの手紙第一3章11節以下に引用されています。
「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。
いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する人は、だれか。
あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。
悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。
主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。
主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。」
(詩篇34篇11~16節)
ダビデはアキシュの庭で何をしていましたか?
彼は陰険なことを言っていましたが、そこから得たのは不幸だけでした。
あなたが幸せと平和を望む方法について、ダビデは言っています。
ここではペテロの手紙第一3章10~12節を引用します。
「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。
主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」
(ペテロの手紙第一3章10~12節)
ペトロがこの聖句を引用していますが、ここで止まてしまいます。
しかし、詩篇はこのように続きます。
「主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。」
なぜ?ペテロはこれを引用していないのでしょうか?
これは、まだ神が邪悪な者を断ち切る日ではないからです。
今日は恵みの日です。
主の御顔が悪を行なう者に臨むとしても、現在、主は彼らを哀れみ、彼らに救いの機会を与えられているからです。
裁きの日はまだ来ていません。
17節と18節は、信頼する魂の経験を私たちに語ってくれています。
「彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる(悔い改め、主の御元に立ち返る者だけが救われる)。」
(詩篇34篇17、18節)
「世界には様々なの悲しい心が存在します。
しかし、主はその多くの心を癒してくださっています。
「神は傷ついた心を癒します。」
ロンドンで牧師をしていたジョセフ・パーカー博士は、若い神学生のグループに説教の途中でこのように言いました。
「青年諸君、傷ついた心にいつも説教をすれば、聴衆を失うことはありません。」
この世界には傷ついた心で溢れています。
この世は、心が折れ、希望が砕け散った人々であふれています。
「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる」という言葉は、なんと素晴らしいことではないでしょうか!
19節から21節の最後の数節は神の支配の下にいる信者を現しています。
素晴らしいことに、主イエスはご自身でこの中に入っているのです。
イエス様は十字架にかけられた時、心が砕かれました。
旧約聖書のイザヤ書にはこのようにあります。
「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。
その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」
(イザヤ書63章9節)
「正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。
主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。」
(詩篇34篇19、20節)
あなたがたは覚えていると思いますが、ローマ兵が十字架の上で、あの人たちの足を折ろうとしてやって来ました。
ローマ兵はひとりの盜人の足を折り、それから、もうひとりの盜人の足を折りました。
そして、ローマ兵たちがイエスのところに来たとき、イエスがすでに死んでおられるのを見ました。
「しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。」
(ヨハネの福音書19章33節)
「この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。」
(ヨハネの福音書19章36節)
彼らは聖書のことは何も知らません。
しかし、御言葉には書いてあったのです。
主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。
悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる。
主はそのしもべのたましいを贖い出される。
主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。」
(詩篇34篇20~22節)
ああ、これらの旧約聖書の経験を通して、私たちの心が奮い立たせられます。
ますます、祝福された主に近づき、悪しき世から遠ざかるように導きかれます。
それは、私たちが主に心を奪われて輝くようになるためなのです。
聖なる方との交わり 35~37篇
この一連の詩篇では、恵みと裁きにおける聖なる神が特に強調されています。
このことをは私たち全員が明確に理解すべきだと考えます。
神がなさるすべてのこと、許されるすべての事柄は神の聖なる本性にかなっています。
神は罪人への恵みの道においても、神の民への試みの道においても、もしくは不敬な者へのさばきの道においても、神の聖なる御性質に反することを決して許されません.。
ある人がこのように言いました。
「私は旧約聖書の神を信じない。
私は私たちの主イエス・キリストの父なる神を愛しています。
しかし、旧約聖書の神は裁きと復讐と憎しみの神であり、私はその神を信じることができません。」
私たちの主イエス・キリストは、目に見えない神の現れです。
主イエスは神の特徴を正確に表現しています。
四福音書を見るならば、主イエスの生涯について読むことができます。
旧約聖書で描かれているヤハウェについて述べられていることが新約聖書のイエスにも見られることを、思慮深い人ならば見落とすはずがありません。
新約聖書には主イエスは厳しい裁きの言葉を宣告されています。
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。
自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。」
(マタイの福音書23章13節)
主イエスこそは、最も偉大な御業がなされた諸都市について、このように仰せられた方なのです。
「ああコラジン。ああベツサイダ。
おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。」
(マタイの福音書11章21節)
主は、これらの町々にさばきを下します。
彼らが光を拒んだからです。
また、主イエスこそはこれらのことを言うことができた方なのです。
「彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」
(マルコの福音書9章48節)
「それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。」
(マタイの福音書25章41節)
私たちの主イエス・キリストによって使われている表現は、旧約聖書において神による裁きについて使われた通常の表現よりもきついものです。
そして、私たちが神を復讐の神と考えるとき、単純な意味で私たちは復讐する神を意味していないことを覚えておかなければなりません。
ガラテア人への手紙にはこのようにあります。
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。
人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」
(ガラテア人への手紙6章7節)
そして、私たちの主イエス·キリストも同じことを主張されているのです。
もし、ある人が罪と悪と不敬の中に住むなら、その報いを受けることになります。
神は、邪悪な者たちの不信仰な行いのゆえに、彼らに報復しようとしています。
旧約聖書の神は憎しみの神だと言うなら、私たちの主イエス・キリストも憎しみを持っています。
旧約聖書の神は罪を憎みました。
神は不敬でないものすべてを憎んだのです。
私たちの主イエス·キリストは、完全な憎しみをもって罪を憎んでいます。
そして、聖別されたものと、聖いものを愛しておられます。
ゆえに旧約聖書の神と新約聖書の神を区別しようとするのは全く無意味です。
旧約聖書のエレミヤ書にはこのように書かれています。
「主は遠くから、私に現れた。
「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」」
(エレミヤ書31章3節)
新約聖書のローマ人への手紙にはこのように書かれています。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
(ローマ人への手紙5章8節)
この3つの詩篇に目を向けるなら、神の恵みと裁きの方法が、神の無限の聖さと完全に一致していることが教えられます。
詩篇35篇は、苦悩の中にある魂が神の力に助けが求めてられています。
神はすべての祝福の源であることが確認できます。
ある人がこのように言っていました。
「この詩篇はピラトの裁きの席の前に立っていたイエスの心の思索として読むことができます。」
私もこの意見には同意できます。
それを念頭に置いて、ゆっくりと読んでください。
主イエスは自分自身に言っているのです。
主イエスがピラトの前に立たされ、これらの言葉が発せられたのならば、私は自分のこのことだと言い聞かせるのです。
ならば、このような場合にいかに適合できるかが理解できると思います。
そして、その中には、私たちの主イエスご自身が使うことのできない表現がいくつかあります。
このように、詩篇全体は、キリストの心の思いを表現するための手段なのです。
そして、迫害され、誤解されている、試練を受けた聖者が神に捧げる祈りと考えることができます。
最初の6節には魂の懇願があります。
「主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。
盾と大盾とを手に取って、私を助けに、立ち上がってください。
槍を抜き、私に追い迫る者を封じてください。私のたましいに言ってください。「わたしがあなたの救いだ」と。」
(詩篇35篇1~3節)
あなたがたは、主イエスが、その試練の時に、御父に向かってこのように語られたことが理解できるはずです。
あなたがたは、迫害され、苦しみもだえている、悩める聖徒のくちびるに、このことばがどれほどかなうことなのかを理解できるはずです。
また、ダビデがサウルのいのちをねらって山で「しゃこ」のように追われていたとき、ダビデのくちびるには似合っていました。
このような場合、敵を混乱させるために神に祈る場合があります。
しかし、心には必ずしも悪い感情があるわけではなく、思いやりのない感情があるわけではありません。
かつての中国で神の苦しみを受けている人々の状況にも同じことを言えるのではないでしょうか?
もし、あなたが妻子を連れて、自分の家から逃げなければならない立場だったとしましょう。
そして、そこにあなたに敵が襲いかかって来ました。
あなたがたは、このような人々を憎むことを考えたりしません。
あなたがたは、愛する人たちのために祈ることをするはずです。
「私のいのちを求める者どもが恥を見、卑しめられますように。私のわざわいを図る者が退き、はずかしめを受けますように。
彼らを風の前のもみがらのようにし、主の使いに押しのけさせてください。
彼らの道をやみとし、また、すべるようにし、主の使いに彼らを追わせてください。」
(詩篇35篇4~6節)
美しくありませんか?
「主の使いに押しのけさせてください。」
つまり、「神よ、あなたの御使いたちによって、私と私の敵との間にはいり、私のために復讐してください!」と言っているのです。
7節から10節には、問題を抱えた人が、良心の正しさに基づいて助けを求めています。
あなたが神に対して良い良心を持っている時がありますか?
それとも、良心があなたを非難していないとき、もしくは、あなたが経験している苦しみが自分の悪行のための罰であると感じていない時がありますか?
あなたが神のみこころを行おうとしていることを心の中で確信にしている時、正しい良心はあなたが祈るときに完全な自信を与えてくれるのです。
ゆえに魂はこのように嘆願しています。
「まことに、彼らはゆえもなく、私にひそかに網を張り、ゆえもなく、私のたましいを陥れようと、穴を掘りました。」
(詩篇35篇7節)
同じような言葉を、主は別の詩篇から引用されていることを思い出してください。
「これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」
(ヨハネの福音書15章25節)
「それで、私は盗まなかった物をも返さなければならないのですか。」
(詩篇69篇4節)
神はそこにおられました。
主イエスは聖なる方であって、祝福に満ちた心と手をもって来られました。
しかし、人々は憎しみと恨みをもって神に立ち向かったのです。
主イエスは父の顔を見上げてこのように言うことができました。
「わが父よ、彼らは理由なしにわたしを憎んだ」、ゆえに主イエスは裁きを求めたのです。
「思わぬときに、滅びが彼を覆いますように。ひそかに張ったおのれの網が彼を捕らえ、滅びの中に彼が落ち込みますように。
こうして私のたましいは、主にあって喜び、御救いの中にあって楽しむことでしょう。」
(詩篇35篇8、9節)
「敵を滅ぼして喜ぶのは新約聖書の霊ですか?」と言う人がいるかもしれません。
神は敵の滅びを喜ばれるのではありません。
敵からの救いを喜ばれるのです。
中国のイギリスのプロテスタントキリスト教宣教師だった、アーチボルドエドワードグローバーの著作である、「中国千里の奇跡(A Thousand Miles of Miracles in China)」という本を例に挙げてみましょう。
その愛する宣教師とその妻が盗賊から逃げていたとき、彼らはこのように祈ることができなかったのです。
そして、敵が全滅したという知らせが来たら、喜びの声をあげたのです。
「こうして私のたましいは、主にあって喜び、御救いの中にあって楽しむことでしょう。」
(詩篇35篇9節)
人は救われたことに感謝します。
もちろん特定の状況では、その救いは必然的に敵の滅亡を意味します。
「私のすべての骨は言いましょう。「主よ。だれか、あなたのような方があるでしょうか。悩む者を、彼よりも強い者から救い出す方。そうです。悩む者、貧しい者を、奪い取る者から。」」
(詩篇35篇10節)
そして次の節、11節から18節には、神に対する魂の絶対的な信頼が表現されています。
詩篇の中で、主イエスがピラトの前に立っておられたときの心をよく表している箇所ではないでしょうか!
「暴虐な証人どもが立ち私の知らないことを私に問う。
彼らは善にかえて悪を報い、私のたましいは見捨てられる。
しかし、私は—、彼らの病のとき、私の着物は荒布だった。私は断食してたましいを悩ませ、私の祈りは私の胸を行き来していた。
私の友、私の兄弟にするように、私は歩き回り、母の喪に服するように、私はうなだれて泣き悲しんだ。
だが、彼らは私がつまずくと喜び、相つどい、私の知らない攻撃者どもが、共に私を目ざして集まり、休みなく私を中傷した。」
(詩篇35篇11~15節)
ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げ時、主イエスはこう言われた。
「イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。
そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
(ヨハネの福音書10章32節)
言い換えるのであれば「わたしはあなた方の中にいて、ただ善いことをしているだけです。
私はあなたの祝福だけを求めてきました。
なぜ、わたしを石打ちにしようとするのですか。?」
そして、ユダヤ人たちが来て、庭でかれを捕えようとした時、イエスは言いました。
「あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」
(ルカの福音書22章53節)
イエスは善を行ない、サタンに苦しめられているすべての者を癒されました。
人間の観点から見て、なぜ人が彼に背を向けるのか理由がありません。
しかし、彼らはイエスを憎んだのです。
なぜなら、イエスの聖なるゆえに、彼らの罪深さと邪悪さとがまばゆい光の中で際立つようになったからです。
また、あなたがたは、彼がこのように言うのを聞きました。
「私の回りの、あざけり、ののしる者どもは私に向かって歯ぎしりした。」
(詩篇35篇16節)
歯ぎしりは憎しみを表わします。
「わが主よ。いつまでながめておられるのですか。
どうか私のたましいを彼らの略奪から、私のただ一つのものを若い獅子から、奪い返してください。
私は大きな会衆の中で、あなたに感謝し、強い人々の間で、あなたを賛美します。」
(詩篇35篇17、18節)
次の19節から23節では魂は罪について神に問いています。
罪は本質において裁きを求めています。
私たちは感傷的になり、罪が神が創造された宇宙で最も憎むべきものであることを忘れてしまうことがあります。
罪人が自分の罪から離れられないのであれば、その罪とともに裁かれなければなりません。
ここで私たちはここで、神の霊が、あの試みを受けた聖徒を通して、悪人に裁きを下すように語っているのを見ることができます。
「偽り者の、私の敵を、私のことで喜ばせないでください。
ゆえもなく私を憎む人々が目くばせしないようにしてください。」
(詩篇35篇19節)
これらの言葉は間違いなく主イエスのことです。
「彼らは平和を語らず、地の平穏な人々に、欺きごとをたくらむからです。」
(詩篇35篇20節)
そのような扱いを受けるに値する何もしていない人たちに対してこのように語っています。
「彼らは私に向かって、大きく口を開き、「あはは、あはは。この目で見たぞ」と言います。
主よ。あなたはそれをご覧になったのです。黙っていないでください。わが主よ。私から遠く離れないでください。
奮い立ってください。目をさましてください。私のさばきのために。わが神、わが主よ。私の訴えのために。」
(詩篇35篇21~23節)
24節から28節では、魂は完全な平和の中にあります。
神にすべてを委ねているからです。
「主よ、何が起ころうとも、私はすべてをあなたに委ねます。
真実に信頼してこのように言える場所に来ることは素晴らしいことです。」
「私は信じています。
私は恐れません。」
「あなたの義にしたがって、私を弁護してください。わが神、主よ。彼らを私のことで喜ばせないでください。
彼らに心のうちで言わせないでください。
「あはは。われわれの望みどおりだ」と。また、言わせないでください。「われわれは彼を、のみこんだ」と。
私のわざわいを楽しんでいる者らは、みな恥を見、はずかしめを受けますように。
私に向かって高ぶる者は、恥と侮辱をこうむりますように。
私の義を喜びとする者は、喜びの声をあげ、楽しむようにしてください。
彼らにいつも言わせてください。「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主は、大いなるかな」と。
私の舌はあなたの義とあなたの誉れを日夜、口ずさむことでしょう。」
(詩篇35篇24~28節)
次の詩篇も35篇のすぐ後にとても適切に適合しているようです。
そして、ダビデの詩篇でもあります。
私はダビテがいつ、どのような状況でこの詩を書いたのかは知りません。
しかし、ダビテは明らかに、悪人と善人の状態の違いについて考えていました。
そこでダビテはこの詩篇の中で、一方の悲しい状態と他方の喜ばしい状態を描こうとしています。
ちょうどこの詩篇は3つの部分に分かれています。
1節から4節までは、悪人の財産です。
「罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない。
彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。」
(詩篇36篇1、2節)
人が神を恐れることを完全に捨て去ったときに、不義をもたらします。
その者は、自分の不義が憎むべきものと認められるまでは、自分の目に自分をうぬぼれているからです。
「彼の口のことばは、不法と欺きだ。彼は知恵を得ることも、善を行うこともやめてしまっている。
彼は寝床で、不法を図り、よくない道に堅く立っていて、悪を捨てようとしない。」
(詩篇36篇3、4節)
これは不信仰な者の非常に生々しい描写です。
これとは対照的に、私たちには、正しい者に対する神の恵みがあります。
「主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。
あなたの義は高くそびえる山のようで、あなたのさばきは深い海のようです。あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ。
神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。」
(詩篇36篇5~7節)
悪者は自分の求めているものを見いだせず、安らぎを見いだせず、安らぎを見いだしていません。
では、正しい者はどうででしょうか?
「彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。」
(詩篇36篇8節)
「あなたの楽しみの流れ」とは何でしょうか?
それはキリストの尊さに対する聖霊のあかしだと考えます。
その川の水を飲んだことがありますか?
その素晴らしい一杯を手に入れていませんか?
詩篇を通してその川を少したどってみましょう。
詩篇46篇4節にはこのようにあります。
「川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。」
(詩篇46篇4節)
次に詩篇65篇9節を読んでください。
「あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、これを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。
あなたは、こうして地の下ごしらえをし、彼らの穀物を作ってくださいます。」
(詩篇65篇9節)
それから、あなたがたは詩篇から、エゼキエル書に進み、御座と祭壇の下に流れているあの川を見てください。
「彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。
神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。」
(エゼキエル書47章1節)
この川は千年王国時代に全世界に祝福を与える川です。
ヨハネの黙示録を読んで見ましょう。
「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。
川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」
(ヨハネの黙示録22章1、2節)
この川の水を飲むのであれば永遠に生きるのです。
「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」
(ヨハネの黙示録22章17節)
また、いのちの泉とは、聖霊によってたましいを喜ばせる神のみことばのことです。
イエスが井戸端の女に言いました。
「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
(ヨハネの福音書4章13、14節)
ダビデはこの泉を飲んだのです。
今日救われている私たちも、同じ祝福を受けています。
「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」
(詩篇36篇9節)
最後の節では、完全な救いを神に求める信仰が見られます。
「注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者に。あなたの義を、心の直ぐな人に。
高ぶりの足が私に追いつかず、悪者の手が私を追いやらないようにしてください。
そこでは、不法を行なう者は倒れ、押し倒されて立ち上がれません。」
(詩篇36篇10~12節)
おそらくダビデが書いているように、彼はまだ敵に囲まれていました。
しかし信仰は、そうではないものをあたかもそうであるかのように語るのです。
私は神を信じることができ、敵は私に対して何の力も持ちません。
私たちは、一つの詩篇が他の詩篇とどのように関連しているかを何度も見てきました。
詩篇36篇12節を見て、それから詩篇第37篇1節を見てみましょう。
詩篇37篇は神の民の叫びに対する神の答えです。
この二つの詩篇の中で、私たちは神の民が神に向かって叫ぶのを見てきました。
そして、詩篇36篇の最後の節には、次のように書かれています。
「そこでは、不法を行なう者は倒れ、押し倒されて立ち上がれません。」
(詩篇36篇12節)
では、詩篇37篇の1節にはこのようにあります。
「悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。」
(詩篇37篇1節)
前の詩篇の最後の詩で使われているのと全く同じ言葉が、次の詩篇の最初の詩で使われています。
悩める聖徒は言います。
「主よ、あなたはこの不義を働く者たちを裁いてくださると信じています。」
そして、主の答えを試してみてください。
「心配する必要はありません。
あなたは不義を働く者をわたしに引き渡しました。
私があなたを代わって、彼らに対処します。」
この詩篇37篇を原語ヘブル語で表現できればと良い思います。
この詩編はアルファベットの詩篇です。
多くの人が知っているように、詩篇には119篇という素晴らしいアルファベット詩篇があります。
そこには22の区分があり、各区分のすべての節が同じ文字から始まっています。
例えば、1節のすべての節は、私たちの「A」に相当する「アレフ」で始まっています。
見出しの文字の名前を知ることができるので、簡単にわかります。
詩篇37篇もアルファベットの詩篇です。
ここでは約四行ごとに別の文字で始まっていて、ヘブル語アルファベットの22文字を貫通しています。
優れた特徴のいくつかを取り上げてみましょう。
私たちには、悩める魂に対する御霊の答えがあります。
そのようにして、まず1節から11節には、正しい人に約束された祝福があります。
彼らは心配する必要はありません。
神が彼らを処理します。
3節には「主に信頼して善を行なえ。」とありますが、それがあなたの務めです。
「悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。
彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。
主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。
主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。
主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。
(詩篇37篇1~7節)
明確な命令に注目してください。
「主に信頼して、、」(3節)
「主をおのれの喜びとせよ、、」(4節)
「あなたの道を主にゆだねよ、、」(5節)
「主の前に静まり、、」そして、「腹を立てるな」(7節)です。
あなたはたびたびこのような小さな標語をよく目にするかも知れません。
「もし、あなたが服を着ているのであれば、あなたは信用してはいけません。
もし、あなたが信頼しているのであれば、あなたは心配してはいけません。」
「祈ることができるのに、なぜ心配するのか?」というタイトルの美しい論文を書いた人がいます。」
そうです。
普通の人は祈るより心配したがるものです。
私たちがこんなに心配するのは、私たち自身のせいなのです。
私たちがもっと祈らないからです。
もし、私たちがそれを主に渡し、私たちの道を主に委ねるなら、それは全く違うものになるはずです。
しかし、今また「主に信頼せよ」です。
私の心構えは違いなく正しいものです。
「怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。
ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。
しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。」
(詩篇37篇1~11節)
彼らは天でこの世で得たすべてを知ることになります。
そして、神の聖人たちはこの世で得たすべての問題を知ることになります。
しかし、あなたがこの場を去る時、問題は後に残ります。
それなのに、なぜ、神様に感謝し、神様が恵みを与えてくださったことをほめたたえないのでしょうか?
「しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。」
では、神が義人たちに愛に満ちた御恵みを示され、ついに報いを受ける日が来たとき、悪人たちはどうなるのでしょうか?
12節から15節を見てみましょう。
「悪者は正しい者に敵対して事を図り、歯ぎしりして彼に向かう。
主は彼を笑われる。彼の日が迫っているのをご覧になるから。
悪者どもは剣を抜き、弓を張った。悩む者、貧しい者を打ち倒し、行ないの正しい者を切り殺すために。
彼らの剣はおのれの心臓を貫き、彼らの弓は折られよう。」
(詩篇37篇12~15節)
これはガラテア人への手紙に書かれていることの別の言い方です。
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」
(ガラテア人への手紙6章7節)
16節から20節では義人たちの分け前について書かれています。
あなた方は義人たちの分け前を持っています。
そして、神は愛する人々が持っているわずかなものを取って、彼らのために豊かにしてくださることを知っています。
「ひとりの正しい者の持つわずかなものは、多くの悪者の豊かさにまさる。」
(詩篇37篇16節)
あなたがたが神に対して正しい良心を持つべきです。
この世の人々が持つべきだと考えるものを失なうかもしれません。
あなたがたが神を喜ばせるために歩んでいることを知っている限り、あなたがたは幸せになることができるのです。
救われていない哀れな人々の前には裁きしかありません。
しかし、主の子らには、栄光のほかには何もありません。
主は、直ぐな人々の日を知っておられる。
彼らの相續地は永遠です。
「なぜなら、悪者の腕は折られるが、主は正しい者をささえられるからだ。
主は全き人の日々を知っておられ、彼らのゆずりは永遠に残る。
彼らはわざわいのときにも恥を見ず、ききんのときにも満ち足りよう。」
(詩篇37篇17~19節)
しかし、悪者についてはこのように書かれています。
「しかし悪者は滅びる。主の敵は牧場の青草のようだ。彼らは消えうせる。煙となって消えうせる。」
(詩篇37篇20節)
21節から29節では、正しい人と悪者の特徴が再び対比されています。
今、私たちがかなり深刻な問題に取り掛かっています。
悪者の特徴は何でしょうか?
あなたは、不正とか嘘とか不道徳な生き方とか酔っ払いとか言うかも知れません。
では21節を見てみましょう。
「悪者は、借りるが返さない。正しい者は、情け深くて人に施す。」
(詩篇37篇21節)
神が悪者と呼ぶ人の中には、私たちも悪者に含まれていると思っていない人がたくさんいるはずです。
ここにとても現実的な問題があります。
神は人間、男女間にある義を見ておられます。
不正は悪者の特徴です。
次の節にはこのようにあります。
「主に祝福された者は地を受け継ごう。しかし主にのろわれた者は断ち切られる。
人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。」
(詩篇37篇22、23節)
ある人がジョージ・ミューラーの聖書を手に取りました。
彼は、たまたまそ開き、偶然に、この詩篇にたどり着きました。
そして、2~3節の余白に何かを書いていることに気がつきました。
彼は「善人の歩み」と書かれているのを見つけ、欄外には『善人の道は主によって定められている』と書いてありました。
ミューラー氏はこのことについて熟考していました。
そして、主が命じられているのは歩みだけではなく、立ち止まることでもあると考えていました。
歩みだけではありません。
時に主はあなたを仰向けにされて、「さあ、ここでわたしを賛美せよ」と言われます。
そして、私たちはどんな状況あっても。主の御心に安住することができるのです。
「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」
(詩篇37篇24節)
今、ダビデはすばらしい証しをしています。
「私は、旧約聖書には、世の祝福が約束されていたことを知っています.
霊的な祝福は新約聖書の約束です。
そして、この新約聖書の規定の中で献身的な聖徒たちは、一時的な祝福をほとんど受けていないことが多いのです。」
人がすべてを神にゆだね、神の御前に義を步むなら、神は必ず彼らのために事を行なわれるのです。
ゆえに、ダビデの証しは私たちにとって価値がないわけではありません。
「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。」
(詩篇37篇25節)
誰かがこう言うかもしれません。
「私はそれが好きではありませんとても気分が悪くなるからです。
私には非常に困難な状況にあり、実際に助けを求めに行かなければなりませんでした。
しかし、私は助けを求めたからと言って、邪悪な者の部類に区別されるのは好きではありません。
「そうことではありません。
私たちの持つ摂理では、同じように一時的な栄えを約束することはできません。
しかし、私たちの多くは、この恵みの時代にある私たちのものである特権を適切に使うことができないのです。
ピリピへの手紙にはこのようにあります。
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」
(ピリピへの手紙4章6節)
私はクリスチャンがもっと神に語りかけていれば、パンを乞う必要はなかったと思っています。
もし、私たちが生ける神にすがり、神のもとに行くことを学んだなら、神が私たちのためにどのようなことをしてくださるかを知って驚いたはずです。
神こそは生ける神であり、あなたがたがかれを信頼するならば、神は凡てのことを引き受けられます。
私たちが神を信頼するよりも、人を信頼できるように見えるのは不思議ではありませんか?
私たちはしばしば人に失望することがありますが、神とともに歩むなら、神に失望することはありません。
ダビデは言いました。
「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。
その人はいつも情け深く人に貸す。その子孫は祝福を得る。
悪を離れて善を行ない、いつまでも住みつくようにせよ。
まことに、主は公義を愛し、ご自身の聖徒を見捨てられない。彼らは永遠に保たれるが、悪者どもの子孫は断ち切られる。
正しい者は地を受け継ごう。そして、そこにいつまでも住みつこう。」
(詩篇37篇25~29節)
30節から40節には神の支配が述べられています。
「正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を告げる。
心に神のみおしえがあり、彼の歩みはよろけない。
悪者は正しい者を待ち伏せ、彼を殺そうとする。
主は、彼をその者の手の中に捨ておかず、彼がさばかれるとき、彼を罪に定められない。」
(詩篇37篇30~33節)
34節にはこのようにあります。
「主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。」
(詩篇37篇34節)
悪者の繁栄の仕方は私たちとは違います。
ダビデはその通りだと言っています。
「私は悪者の横暴を見た。彼は、おい茂る野生の木のようにはびこっていた。
だが、彼は過ぎ去った。見よ。彼はもういない。私は彼を捜し求めたが見つからなかった。」
(詩篇37篇35、36節)
その比較を見てみましょう。
「全き人に目を留め、直ぐな人を見よ。平和の人には子孫ができる。
しかし、そむく者は、相ともに滅ぼされる。悪者どもの子孫は断ち切られる。
正しい者の救いは、主から来る。苦難のときの彼らのとりでは主である。」
(詩篇37篇37~39節)
そして、詩篇の最後をこのように締めくくっています。
「主は彼らを助け、彼らを解き放たれる。主は、悪者どもから彼らを解き放ち、彼らを救われる。彼らが主に身を避けるからだ。」
(詩篇37篇40節)
人の失敗と神の恵み 38~39篇
詩篇38篇は「悔い改めた者の願い」と言えるかもしれません。
自分の罪のために心を痛めた人の叫びです。
自分の罪を認め、神の身元に来て、赦しを請う者の姿です。
最初の4節には「重すぎる」という言葉があります。
「私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。」
(詩篇38篇4節)
罪の宣告を受けた魂、自分の罪の言い訳をしようとしない人の表現です。
あなたは自分の罪や失敗を弁解しようと努力するかもしれません。
しかし、そこには自分の心に確信の「耕すくわ」が十分に深く入っていないことを知ります。
サウル王は、サムエルに自分の咎を問われて言いました。
「サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。
どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。」」
サムエル記第一15章30節
言い換えれば、ああ、私は間違ったことをしたが、人々の目には私の何が何をしているように見えているのでしょうか?
確信的な証拠はありません。
人は本当に確信するならば、言い訳をするのをやめます。
自分の名誉を求めるのをやめます。
この4節では、詩篇の著者が自分の罪のために傷ついた心の感情を吐き出しているのです。
「主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。
あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。」
(詩篇38篇1、2節)
人が罪に落ちた時、そう。ダビデが罪に落ちいった時、神が彼を実際に受け取られるとはなんとも哀れみ深いことなのです。
全能者の鋭い矢はダビデの魂を貫きました。
神の御手がダビデの上に重くのしかかり、ダビデに罪の重さを感じさせたのです。
ダビテは続けています。
「あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。」
(詩篇38篇3節)
ダビテは神の義によって怒りにさらされていることを理解します。
罪は罰の宣告を要求します。
私たちは弁解しようとするかもしれません。
ハバクク書にはこのように書かれています。
「あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。」
(ハバクク書1章13節)
神は一人の罪人を救います。
神はその罪人の罪を罰せられないままにしておくことはありません。
もし神が、罪人に対して罪を処罰されないならば、罪人の代りに処罰することが必要になります。
それがカルバリーで起きたことです。
十字架で主イエスは裁きを引き受けられたのです。
古い賛美歌には、「彼は私のために木に刑を負った。
そして今、身代わりの者も罪人も自由になった」とあります。
「私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。」
(詩篇38篇4節)
これは罪の宣告を受けた罪人の声です。
5節から14節にかけて「屈辱」という言葉で描くことができます。
ダビテが自分の心を見つめ続けるように、ダビテが自分の人生を踏みにじった罪に思いを巡らすように、ダビテは深い屈辱の中で神の前にひれ伏しています。
「私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。
私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。
私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。
私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。」
(詩篇38篇5~8節)
ダビテは自分の体と霊の中で自分の罪の結果を感じています。
ダビテの罪の結果、神がダビテはを扱っておられることを知っているのです。
ダビテはは、自分を苦しめている神以外に救いを求めることができる人がいないことを知っています。
「主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。
私の心はわななきにわななき、私の力は私を見捨て、目の光さえも、私にはなくなりました。
私の愛する者や私の友も、私のえやみを避けて立ち、私の近親の者も遠く離れて立っています。」
(詩篇38篇9~11節)
ここにあるのは主イエスのことだと言われています。
主イエスは絶対的に聖なる方でした。
しかし、罪人の代わりになったときに、このような言葉を使うことができたのです。
「私の愛する者や私の友も、私のえやみを避けて立ち、私の近親の者も遠く離れて立っています。
私のいのちを求める者はわなを仕掛け、私を痛めつけようとする者は私の破滅を告げ、一日中、欺きを語っています。」
(詩篇38篇11、12節)
しかし、ダビデは、自分が受けるに値することを知っていました。
なぜなら、、イエスはは私たちに代わって、私たちの罪による裁きを、それにふさわしいかのように受け入れてくださったのですからです。
そして、次の2節の言葉を使うことができました。
「しかし私には聞こえません。私は耳しいのよう。口を開かないおしのよう。
まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです。」
(詩篇38篇13、14節)
自分以外の誰にも欠点を見つけられない場所に居ることは素晴らしいことです。
私たちの多くは、他人のあら探しに多くの時間を費やしています。
私たちは他人の欠点を見ることができます。
私たちは他人の罪を拡大することができます。
しかし、自分の欠点や罪にはとても無感覚なのです。
ダビデはここで神の前で頭をかがめ、何も言うことができません。
ダビデの良心が自分を責めるの誰よりも彼を非難しているからです。
15節から20節まではダビデの告白です。
「それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。
私は申しました。「私の足がよろけるとき、彼らが私のことで喜ばず、私に対して高ぶらないようにしてください。」
私はつまずき倒れそうであり、私の痛みはいつも私の前にあります。」
(詩篇38篇15~17節)
神がほかの箇所で言われていることをあなたがたは知っています。
「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。
それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」
(箴言28章13節)
ダビデは隠そうとはせずにこのように言っています。
「私は自分の咎を言い表わし、私の罪で私は不安になっています。
しかし私の敵は、活気に満ちて、強く、私を憎む偽り者が多くいます。
また、善にかえて悪を報いる者どもは、私が善を追い求めるからといって、私をなじっています。」
(詩篇38篇18~20節)
かつて、彼らは彼の罪を責めました。
しかし、ダビテは、悔い改め、神に立返り、赦しを得るために告白しています。
最後の2節で彼はダビデを表しています。
「私を見捨てないでください。主よ。わが神よ。私から遠く離れないでください。
急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ。」
(詩篇38篇20~22節)
詩篇39篇は、人間の弱さと神の力、人間の罪と神の神聖さの対比を生き生きとした方法で私たちの前に提示しています。
そして、ここに詩篇25篇から39篇までの15篇の詩篇のシリーズを締めくくっています。
最初の6節の詩篇は神のいない人生の完全な空虚さを示しており、ともに語っているように見えます。
私たち全員がそれを理解していると信じています。
この古い賛美歌は真実です・
「主よ、私は壊れた水ためで試みました。
しかし、それらの水は枯れ果てました。
私が水を飮もうとして身をかがめていると、水は逃げ去りました。
私が泣いていると、水は私をあざけったのです。」
今では、祝福された主が、恵みのうちに私たちを取り上げてくださいました。
私たちは神との交わりの中に違った生き方を見いだしたのです。
古い賛美歌ではこのようにあります。
「失われた喜びを悲しみながらも、あなたのために泣くことはありませんでした。
私の見えない目が、あなたの愛らしさを見ることができますように!
今やキリストのほかに、私を満たすことのできる名はありません。
主イエスよ、あなたには愛と命と永遠の喜びがあります。」
ここで、旧約聖書の信者が、もしくはダビデ自身が、神のない人生の空しさという同じ教訓を学んでいるのがわかります。
そして、神を知り、神との交わりの中に生きるとき、人生が満たされるのです。
最初の6節を見てください。
「私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。悪者が私の前にいる間は。
私はひたすら沈黙を守った。よいことにさえ、黙っていた。それで私の痛みは激しくなった。
私の心は私のうちで熱くなり、私がうめく間に、火は燃え上がった。そこで私は自分の舌で、こう言った。」
(詩篇39篇1~3節)
神は私たちに熟考させることを望んでいます。
熟考とは考えることであり、神は人に考えさせようとしています。
放蕩息子は座って考えるまで父親に一歩も近づこうとはしませんでした。
その時、彼は「我に返ったとき」と書かれています。
悪魔は人々を黙想や思考から遠ざけようとします。
今日よく使われる「娯楽」 という言葉を例にとってみましょう。
まさに人々は娯楽狂です。
悪魔は人々を楽しませるためにあらゆるさまざまな策略を持っています。
「熟考」という言葉は単に考えることです。
「熟考」という言葉を使って、考えることを否定せずに単純に考えるのです。
なので、人々は踊ることが好きで、ダンスホールは込み合っています。
そして、人々は考えることを止めて、世界中が神から離れてゆくのです。
もし、悪魔が人々の思考を妨げることができれば、悪魔は最後にはすべての人々を破滅させ、呪いの中に入れることができます。
しかし、神は私たちに考えることを望んでいます。
神の御言葉は、私たちに考える課題を与えています。
ダビデは「私は自分の道を考えた」のです。
「主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。
私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。」
(詩篇39篇4節)
その考えに沿って瞑想することは良いことです。
人は死を考えたくないものです。
人は人生が突然終わることを考えたくないのですい。
讃美歌には次のようにあります。
「人生はとても短かいものです。
葉が落ちるように、わずかな間、舞っているようなものです!
美しい花はすぐに朽ち果て、若さと美しさは過ぎ去っていきます。
ああ、あなた方は長くは存在しません。
わずかな間だけです。
人は命の短さを思い知らされるのを好きではありません。」
ダビテは言っています。
「私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。
私はここでわずかな時間を持っています。
しかし、私は私の人生が主のために語ることを望んでいます。
私は神のために最善を尽くしたいのです。」
「ご覧ください。あなたは私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです。セラ
まことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。」
(詩篇39篇5、6節)
この人生の先に希望がないとはなんと哀れなことではないでしょうか?
7節から詩篇の終わりにかけて、ダビテは物事の反対側に移ります。
そして、ダビテは価値あるものはすべて神ご自身の中にあることを示しています。
「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。」
(詩篇39篇7節)
この世のことでは、私のこの哀れな心を満たすことはできないことを知っています。
しかし、私の希望と自信と信頼はあなたにあります。」
「私のすべてのそむきの罪から私を助け出してください。私を愚か者のそしりとしないでください。
私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです。」
(詩篇39篇8、9節)
罪のために懲らしめが来るとダビテは頭を垂れて言うのです。
「大丈夫だ!」
これらは神の手であり、私はそれに値する者です。
私はこれを受け入れます。
これらは私に幸いを与えることを信じています。
もし、救いを与えることが神の御心なら、私は神のいつくしみを喜びとします。
「どうか、あなたのむちを私から取り除いてください。あなたの手に打たれて、私は衰え果てました。
あなたは、不義を責めて人を懲らしめ、その人の望むものを、しみが食うように、なくしてしまわれます。まことに、人はみな、むなしいものです。セラ
私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。
私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。」
(詩篇39篇10~12節)
ダビテはここで「私にはこの世で過ごす時間が少ししかありません。
神よ、私があなたのためにそれを過ごすことができるように助けてください」と言っているのです。
私がこの地上の光景を後にした時に、私が下界にいた時にあなたを賛美することを許されたことの価値に気づくように、私を助けてください。
「私を見つめないでください。私が去って、(この世から)いなくなる前に、私がほがらかになれるように。」
(詩篇39篇13節)
「私が去って」と訳されたヘブル語の表現は重要なものです。
文字通りには、「私から目をそらして、私が力を取り戻すように」と表現されるかもしれません。
別の箇所で読んだのを覚えていますか?
「あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。」
(詩篇84篇9節)
これはこの言葉と関連しています。
ダビデは自分の弱さ、弱さ、弱さに気づくと「私を見つめないでください」と叫んでします。
自分の中に神に推薦できるものが何もないことに気づいたからです。
「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。」
(詩篇130篇3節)
わたしには永遠の裁きがあるだけの者でした。
私を見つめないでください。
油そそがれたあなたの御顔を仰ぎ見て、神が私を受け入れてください。
そして、それはまさに神がしていることです。
「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」
エペソへの手紙1章6節
全焼のいけにえの詩篇 40篇
私たちの主イエス・キリストの死は、聖書の中で様々な形で表現されています。
神はレビ記の最初の7章で、キリストの死の型と影が驚くべき形で示しておられます。
そこでは5つの形で提示されています。
全焼のいけにえ、穀物のささげ物、和解のいけにえ、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえです。
これらのいけにえはみな異なっています。
しかし、私たちの主イエスの人格と働きについてのさまざまな側面を述べています。
穀物のささげ物は、神性と結びついたキリストの人間性を描いています。
和解のいけにえは、キリストを十字架の血によって平和を造られた方として表されています。
罪のためのいけにえは、罪のない方が罪を造られたことを私たちに示しています。
それは、私たちがキリストにあって神の義となるためです。
罪過のためのいけにえは、キリストが私たちの罪のために死なれ、ご自身のからだをもって木の上で私たちの罪を負われたことを告げています。
しかし、全焼のいけにえは、他のすべてのささげ物よりも神にとって尊い十字架の御業についての見解を提示しています。
というのは、主が人の罪によってひどい屈辱を受けた場面でさえ、父なる神に栄光をささげるために主イエスが十字架の上で死なれたことを表しているからです。
そのほかのすべてのささげ物については次のとおりである。
すなわち、その一部は祭壇の上にささげられ、神のもとに上りました
そのほかの部分は、民と祭司たちの間で分けられ、神の民の食物となっています。
しかし、全焼のいけにえはすべてが祭壇の上に置かれて、すべて焼き尽くされ、すべてが神のもとに上りました。
主イエスはそれを「わたしへの食物のささげ物」と呼んでいます。
私たちの主イエス·キリストのささげ物には、神ご自身以外のだれにもわからない何かがありました。
あなたと私は決して入ることができません。
その完全さを評価することができない何かがそこにあったのです。
そこには神だけが入り込み評価できる何かがありました。
この詩篇40編は、まさに全焼のいけにえの詩篇です。
詩篇22編は罪のためのいけにえの詩篇でした。
この詩篇では、私たちは主の叫びを聞くことができます。
「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」
(詩篇22篇1節A)
詩篇69編は罪過のためのいけにえの詩篇である。
そこで私たちは、十字架から救い主が「私は盗まなかった物をも返さなければならないのですか」と叫ぶのを聞きことができます。
「それで、私は盗まなかった物をも返さなければならないのですか。」
(詩篇69篇4節B)
詩篇85編は和解のいけにえの詩篇です。
そこで私たちはこのように読むことができます。
「恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。」
(詩篇85篇10節)
この詩篇40篇では、主イエスがこの世に来られ、父のみこころを行うという明確な目的のために十字架にかけられたことが示されています。
それが全焼のいけにえなのです。
「私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、
私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。」
(詩篇40篇1、2節)
これは主の言われたことなのです。
私たちはこれらの言葉を当然のように口にします。
救われた私たちは、私たちが救われた穴を振り返ります。
そして、時より「私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった」と歌うかも知れません。
私たちは、恵みによって、これらのことばを歌うことができます。
しかし、私たちが横たわっている穴は、神が私たちを贖うために入られた穴のようなものではありません。
主は、罪の恐ろしさと神からの分離の恐ろしさを、あなたや私が知ることができるよりも、はるかに多く理解していました。
わざわいの穴にいる最も卑しい魂は自分の罪のためだけに苦しみます。
しかし、十字架に架けられた私たちの祝福された主は私たちすべての咎を負われました。
主は罪に対する神の裁きの杯をすべて飲まなければならなかったのです。
イエスが沈んでいった穴は、確かに恐ろしいものでした。
しかし、イエスは大喜びで再び上ってきました。
3節でイエスがこのように言われているのが聞こえます。
「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。」
(詩篇40篇3節)
新しい歌とは贖罪の歌です。
当然、新しい歌を歌うのなら、古い歌は何だったのかという疑問が頭に浮かびます。
古い歌は創造の歌です。
ヨブ記を読み返してみましょう。
「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。
その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。
そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。」
(ヨブ記38章4~7節)
この原始的な美しさを持つ世界が、創造主の手から新たに生まれ変わりました。
そして、宇宙の彼方へと飛び立っていったときの歌は、驚くべきものだったのです!
聖なる御使いたちは、それを見て喜び歌い、神の万軍はみな、喜びの歓声を上げました。
しかし、その歌はすぐにやみ、悲痛な泣き声となりました。
罪が入ってきたのです。
この美しい創造物を打ちこわされ、神が造られた万物の中で、神がはずかしめられました。
それから、私たちの主イエスは来られてました。
私たちを救い出すために、罪が人を投げ込んだ深みまで降りて行かれました。
主イエスは、人間の罪と愚かさによって汚された神を讃えるために十字架に行きました。
主イエスは、墓から出て来られたとき、新しい創造の歌を歌い始めようとされました。
主イエスは合唱を指揮しています。
「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。」
(詩篇40篇3節)
私たちは詩篇22編22節でこのように読みました。
「私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。」
(詩篇22編22節)
主が導く歌に加わりましょう。
さあ、神に向かって声をあげましょう!
私たちが踏みしめる一歩一歩は、主の恵みの勝利です。
主イエスは天の聖歌隊の指揮者です。
ヨハネの黙示録を見るならば、天そのものを見ることができます。
長老たちが御座の回りに座っており、新しい歌を歌うのが見えます。
「その流された血によって私たちを罪から解き放ち」という賛美の歌です
あなたはこの新しい歌を知っていますか?
この地上でこの言葉を学んでいない者は、誰も天で新しい歌に加わり、天の聖歌隊と一緒に歌うことはできません
少なくとも、あなたはこの地上で歌うことができます。
「また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。
イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」
(ヨハネの黙示録1章5、6節)
あなたは決して天では歌うことができません。
今、私たちはこの地上でこの歌を学んでいます。
私たちは地上では貧しい弱々しい方法でこの歌を歌っています。
讃美歌にはこのようにあります・
「この哀れな舌足らずでどもりがちな舌は墓の中で静かに眠っています。」
しかし、天では今までにないほどの大きな歌となるのです。
これらの体の復活が起こり、私たちが栄光の中で偉大な聖歌隊の指揮者の周りに集まります。
その時、私たちはどのようにしてこの天の宮廷で新しい歌を鳴り響かせるのです。
このように、私たちの祝福された主イエスは、ご自分に信頼する者の祝福された賜物が何であるかを示しています。
「幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。」
(詩篇40篇4節)
そして、主イエスが通ってきた悲しみの深みを振り返り、御父が主イエスどれほど素晴らしい祝福に導いたかを見て祈ります。
「わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。
私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。」
(詩篇40篇5節)
6節から8節まで、これらのささげ物の影をすべて満たす方として、主イエスがはっきりと示されています。
主イエスの話を聞きましょう。
「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。
そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。
わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
(詩篇40篇6~8節)
ここで、主イエスは何を言っているのでしょうか?
神は、律法の下にあるすべてのいけにえとささげ物を喜ばれなかったのです。
なぜ、罪を消し去ることができなかったのですか?
いけにえは前形、型、影でした。
これらのささげ物は、十字架の御業に対して、債務の支払いの約束手形のような役割を持っていました。
手形が期日になったときに現金を手にすることによって、一つの達成感を与えます。
律法の下にいるイスラエル人が、悔い改めて信仰をもって神のところに来ます。
ささげ物をささげるとき、その人は、感謝の手紙を神に書き送る人のようでした。
まさに、主イエスはすべての手紙の裏書き人でした。
いわばこう言われたのです。
「いつの日か、わたしがすべてを解決します。」
主イエスは、地上に来られ、十字架にかかられた時に、すべてを支払われました。
「主イエスは私の借金を全部返してくれました。
ああ、驚くべき愛!。
罪人が出会った広く極限のない、ああ驚くべき愛!
義は満たされ、今や神は栄光を受け、天の門は大きく開かれ、ああ、驚くべき愛!」
かつてのいけにえやささげ物では神の心を喜ばなかったのです。
そして、イエスは言わました。
「さあ、私は来ました。
世に降りてゆき、私は人となります。
わたしはしもべとなり、わたしを遣わした方の御心を、しもべとして行ないます。
「神よ、私はあなたのみこころを行なうために十字架に行きます。
「あなたの律法は私の心の中にある」からです。
神のみこころを行なうために。カルバリに行かれた祝福された救い主は全焼のいけにえなのです。
もし、十字架の御業によって救われた人がひとりもいなかったらどうなったでしょうか?
もし、すべての人が救いを退けたとしたらどうなるのでしょうか?
たとえそうだとしても、神は御子が死に至るまで完全に従うことによって、アダムのすべての罪と、世に起きたすべての罪によって失ったものよりも、多くの栄光を得たのです。
なぜなら、すべての罪人は有限の被造物にすぎません。
しかし、父のみこころを行なうために来られた方は無限の方だからです。
ついに、宇宙で最も尊い神のみこころを得ることができたのです。
私たちはその側面にこだわる必要性があります。があります。
私たちは、真実な十字架の御業で頭がいっぱいになりがちです。
神は、その御業によって栄光を現わしました。
ヨハネの福音書17章では、十字架を待ち望んでいます。
「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」
(ヨハネの福音書17章4節)
今、詩篇は私たちを復活へと導きます。
「私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました。ご覧ください。私は私のくちびるを押えません。主よ。あなたはご存じです。」
(詩篇40篇9節)
神の義は十字架の業の中で守られてきました。
そして今、義のことばが失われた世界に出て行きます。
これが福音です。
失われた人たちにとって、かつて自分たちに価値の無かった神の義が、今は自分たちのために行われたことを告げる神の御言葉です。
「私は、あなたの義を心の中に隠しませんでした。あなたの真実とあなたの救いを告げました。私は、あなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しませんでした。」
(詩篇40篇10節)
主イエスが人として父に語りかけることで、父はすべてのことを実現させてくださると期待することができます。
「あなたは、主よ。私にあわれみを惜しまないでください。」
(詩篇40篇11節A)
再び、私たちは十字架への道を歩む人としてイエス様を考ることができます。
「あなたは、主よ。私にあわれみを惜しまないでください。あなたの恵みと、あなたのまことが、絶えず私を見守るようにしてください。
数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、」
(詩篇40篇11節B、12節A)
次の表現に注目してください
「私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。」
(詩篇40篇12節B)
これらのことばは、主イエス·キリストが使うはずのものではありません。
主には咎がなかったからです。
しかし、主はさばきにはいり、私たちの咎をご自分の咎として告白されたのです。
そして、語られることさえも拒まれたのです.
イザヤ書にはこのように書かれています。
「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」
(イザヤ書53章7節)
これらは主イエスの知らないことを主イエスに負わせました。
神は何も言わず、罪のために沈黙しました。
主イエスは、裁きのときに沈黙してそこに立ちました。
私たちの罪を負うために十字架に行き、私たちの罪をご自分のものとされ、私たちが生きるためにその罪のために死なれました。
主イエスは、すべてのものを神の御手に委ねられました。
「主よ。どうかみこころによって私を救い出してください。主よ。急いで、私を助けてください。
私のいのちを求め、滅ぼそうとする者どもが、みな恥を見、はずかしめを受けますように。私のわざわいを喜ぶ者どもが退き、卑しめられますように。
私を「あはは。」とあざ笑う者どもが、おのれの恥のために、色を失いますように。」
(詩篇40篇13~15節)
もし、人が十字架の御業を信じないのなら、彼らには裁きしかありません。
もし、人がイエスの死をはねつけるなら、そこには悲しみと絶望しか残りません。
その一方で、もし人々が神に信頼を置くなら、詩篇にはこのように記されています。
「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。
あなたの救いを愛する人たちが、「主をあがめよう。」と、いつも言いますように。」
(詩篇40篇16節)
あなたは「主はあがめられますように」と心から言うことができますか?
パウロはこのように言っています。
「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。」
(ピリピへの手紙1章20節)
今、私たちはもう一度、メシアが死ぬ直前に十字架から語られるのを聞くことができます。
「私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。
あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ。遅れないでください。」
(詩篇40篇17節)
詩篇が主イエス・キリストのことを言っているとどうしてわかるのでしょうか?
どのように、主イエス偉大な全燒のいけにえであると考えることができるのでしょうか?
ヘブライ語10章にある、この詩篇についての神の説明を読んで見てください。
最初の節にはこのようにあります。
「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。
もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。」
(へブル人への手紙10章1、2節)
しかし、これらのささげ物には、罪悪感を取り除くだけの価値はありませんでした。
「ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。
雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。」
(へブル人への手紙10章3、4節)
しかし、今、比較して読んでみてください。
「ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」」
(へブル人への手紙10章5~7節)
「わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。
あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。
そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。」
わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
(詩篇40篇5~8節)
これらのささげ物は律法によって提供されます。
キリストは「神よ、あなたのみこころを行なうために」来られたのです。
キリストは「後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。」
つまり、キリストは「旧約聖書のささげ物に終止符を打ちました。
「また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。」
(へブル人への手紙10章9節)
キリストの十字架は、キリストが栄光を受け、罪の問題が解決されたことの証人として永遠に立っています。
「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」
(へブル人への手紙10章10節)
貧しい者への配慮 41篇
「詩篇」が5冊に分かれていることはすでに語ってきたとおりです。
ここで、この特別なコレクションの最後について考えてみましょう。
私たちは、詩篇の1巻がモーセ5書の1巻と非常に密接に関係していることを知っています。
それは、万物の創造者であり、維持者である神と、その民の救助者である神とに関係しています。
神は、私たちを選びの愛のうちに取り上げ、ご自分のものとされました。
それだけではなく、私たちが義の御顔を見るまで、最後まで私たちを導いてくださるようにと約束されたからです。
創世記にあるように十字架の働きについて次から次へと書かれています。
この詩篇の最初の部分では、私たちの主イエス・キリストが私たちの代わりに裁きを受けたことが書かれています。
そして、私たちのために木の上で罪とされたときになされた御業によって、時と永遠のすべての祝福が私たちにもたらされるという事実が述べられています。
このことを強調する詩篇が次から次へと出てきます。
このことは詩篇22篇にはっきりと現れています。
私たちはイエスの悲痛な叫びを聞きました。
「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」
(詩篇22篇1節A)
私たちは詩篇40篇においてもそのことを見ました。
そこでは、私たちは主イエスを全焼のいけにえとして描かれています。
ご自身を傷一つなく神にささげ、人間の罪によってひどく汚された場面で神の栄光のために死に、神を讃えることによって、私たちのために救いを成し遂げてくださいました。
私たちは、詩篇40篇で語られる主ご自身の御声を聞きました。
そして、終わりの節にあるその叫びに注目します。
「私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ。遅れないでください。」
(詩篇40篇17節)
御霊によってこれらのことばを語られた方は、まことに、とこしえに祝福されたすべてのものの上におられる神です。
そして、私たちのために人となられました。
コリント人への手紙第二には次のように書かれています。
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。
すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。
それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
(コリント人への手紙第二8章9節)
私たちはこの本を通して、ある詩篇の最後の詩が、続く詩篇の最初の概念を暗示している場合が多いことに気づきました。
詩篇41篇の最初の節を読んでみましょう。
「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。」
(詩篇41篇1節)
この哀れな人自身がたちの主イエス・キリストご自身であることを知るのなら、私たちは言葉の本当の意味を知ることができます。
主イエス・キリストは哀れと言われる道を選んだのです。
人は弱く無力であるという意味で哀れです。
私たちの主イエスが十字架上に行き、この道を選んだのです。
コリント人への手紙第二では次のように書かれています。
「確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。」
(コリント人への手紙第二13章4節)
そして、この詩は翻訳することができます
「弱い者を思う者は幸いです。」
キリストは、すべての力とすべての能力を持っていたにもかかわらず、自分を救うために神の全能を行使することを拒否し、罪人の手に売り渡されることを選んだのです。
イザヤ書には書かれている通りです。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」
(イザヤ書53章7節)
ダビデをキリストの「型」として見ることができます。
詩篇は、ダビデがその子アブシャロムから逃げたときに書かれたのではないかと暗示しています。
ダビデの子が彼に背を向け、イスラエルの軍勢の大部分がアブシャロムについて来たときです。
ダビデはシオンの町を出て、ケデロン川を渡り、泣きながらオリ―ブ山に登り、向こう岸の谷に下り、ヨルダン川を渡って逃げて行きました。
ダビデの息子アブシャロムが彼に背いた時、ダビデは哀れで、弱り果てた者でした。
あなたがたはバルジライのことを覚えているでしょうか?
バルジライはダビデの悩みと苦しみを聞いてさまざまな種類の收穫と食糧とを携えて来ました。
ダビデがこれらのものを感謝の心で受け取り、この詩篇を書くために座っている姿を想像することができます。
まさに「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される」と書かれているとおりです。
もちろん、この原則は私たちにも適応されます。
自分を祝福したいことがありますか?
ならば、困っている人には思いやりと思いやりを持つべきです。
クリスチャンの中には、苦しみや困難に陥った時に、神に叫んでも何の答えも得られない人がいるのはなぜなのでしょうか?
その理由は、多くの場合において、自分たちは満足しているのに、他の人々が必要と苦しみのために彼らに叫んだ時、彼らは彼らに何も与えなかったからではないでしょうか?
彼らは貧しい人々を哀れみませんでした。
彼らは彼らに仕えません。
主はこのように仰せられます。
「まずは自分の薬を飲むべきです。
あなたが満足していた時、あなたは他人に興味がなかったのです。
あなたは、あなた自身の豊かさを考えていました。
あなたは、貧しい者や必要のある者があなたの回りにいることを知っていました。
彼らはあなたに助けを求めたが、むなしかっただけです。
だから、私があなたを断っても驚くことがありません。」
ヨハネの手紙第一で神の霊が祈りの答えについて語っているのは、まさにこのことです。
主は、愛の中を歩んでいない者、他の人々への関心をもって歩んでいない者の祈りに答えると約束されたことはありません。
ヨハネの手紙第一を読んでみましょう。
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。
それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。
たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。
愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、
また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。」
(ヨハネの手紙第一3章16節)
主は私たちの良心が彼らの苦悩の中で他人の必要に無関心であることを教えてくれます。
そして、私たちはより「神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じ」であることが理解するのです。
愛する者たちよ!
もし自分の心に責められなければ、私たちが神の御前で他人のことを心配して歩んできたと言えるでしょうか?
試練の時においても、自分のために生きてきたのでは無いと言えるでしょうか?
ならば、私たちは神に信頼し、私たちが求めるものは何でも神から受けることができます。
なぜなら、私たちは神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。
「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。」
(詩篇41篇1節)
新約聖書においても引用されています。
J・エルダー・カミング氏はこの詩篇を「病人の叫び」と呼び、祈りの本を著作しています。
この本を読むならば、著者が肉体的に大きなストレスを抱えていた時期があったことがわかります。
実際の病気にかかっていなかったとしても、彼は緊張状態でした。
著者の精神と神経系はひどい緊張状態でした。
そして、その中で彼は神に立ち返ったのです。
疲れて果て、病気で、緊張して、祈ることができない状態が何であるかあなたは知っていますか?
その時にこの祈りの本を用いるのが良いでしょう。
神は私たちのために素晴らしい祈りを御言葉の中に書いてくださっています。
その中には、私たちが何を言っていいのかわからないほど気が散ったり悩んだりしているときに使えるものもあります。
何度も、どう祈ったらいいのか、何をしたらいいのかわからないほど悩んでいた時がありました。
その時は、私は座って詩篇を読んで、自分の必要を正確に表現した聖句を手に入れました。
「主よ、これがはあなたの御言葉です。
そして、これが私の心の現われです。
あなたが病の中で、緊張して疲れ果て、人々があなたを理解してくれず、すべてがうまくいかないときがあります。
座って、この詩篇41篇を読んで見てください。
あなたにとって素晴らしい祈りにならないかどうか見てください。
最初の3節では、詩篇の著者が正しく熟考していることに気づくはずです。
著者は、神について語っています。
また、神に信頼する者に対し、神が何をなされようとしているのかについても語っておられます。
「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。
主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。
どうか彼を敵の意のままにさせないでください。
主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。」
(詩篇41篇1~3節)
4節から12節の終わりまで来ると、主に直接語りかけています。
「私は言った。「主よ、あわれんでください。私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」
私の敵は、私の悪口を言います。
「いつ、彼は死に、その名は滅びるのだろうか。」
たとい、人が見舞いに来ても、その人はうそを言い、その心のうちでは、悪意をたくわえ、外に出ては、それを言いふらす。
私を憎む者はみな、私について共にささやき、私に対して、悪をたくらむ。
「邪悪なものが、彼に取りついている。彼が床に着いたからには、もう二度と起き上がれまい。」
私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。
しかし、主よ。あなたは私をあわれんでください。
私を立ち上がらせてください。
そうすれば私は、彼らに仕返しができます。
このことによって、あなたは私を喜んでおられるのが、わかります。私の敵が私に勝ちどきをあげないからです。
誠実を尽くしている私を強くささえ、いつまでも、あなたの御顔の前に立たせてください。」
(詩篇41篇4~12節)
この著者の瞑想に心を留めてみましょう。
2節にはこのようにあります。
「主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。
どうか彼を敵の意のままにさせないでください。」
(詩篇41篇2節)
誰なのでしょうか?
まず、最初にこの哀れな人について考える人とは?
すなわち、哀れな人、私たちの祝福された主イエス・キリストを思い、彼に信頼を置く人のことです。
この時、主イエスのことばを思い出してみましょう。
「貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。
それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。
しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。」
(マルコの福音書14章7節)
私は、苦しんでいる人を助けることほど、この世の喜びを知りません。
誰がやったのかわからないのに、助けてもらうことの幸せ以上にうれしいことはありません。
以前、カリフォルニア州サクラメントに住む男性を知っています。
彼はとても裕福で、いつも小さなことを黙々とやっていました。
困窮し、たぶん食べ物を必要としていると思われるクリスチャンの家族を見つけると、彼は食料品店に行って、高価な品々を注文し、何の説明もなく裏口に配達したのです。
家の人々が出てきて、これらのものを積んだ玄関を見つけます。
そして、に行って言うのです。
「ああ、主は私にこのような素晴らしいことをしてくださいました。
私は困り果て、どちらに向いて良いのかわかりませんでした。
主がこんなにたくさんの食料を送ってくださったのです。」
そしてその人は、自分の秘密をバラしそうになるほど喜び、大声で笑っていたのです。
キリストのように控えめな方法で行い、愛に溢れているのであればこれ以上の喜びはありません。
あなたがたに困難の日が迫っています。
まさかと思ってはなりません。
神はあなたがたのために、受け止めてくださることを期待すべきです。
「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。
主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。
どうか彼を敵の意のままにさせないでください。
主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。」
(詩篇41篇1~3節)
あなたが起き上がれないほど弱って寝たきりになり、病気で寝たきりになる日が来るかもしれません。
その時、主ご自身があなたの枕をなめらかにし、布団を清めてくださっていることに気づくのは、素晴らしいことではないでしょうか!
主があなたのために寝床を整えてくださることを考えてみましょう。
「主は病の床で彼をささえられる」のです。
私はこれまであまり病気をしたことがありませんが、病気をしていた時が一番の幸せだったかも知れません。。
初めての本格的な病気をよく覚えています。
腸チフスにかかって6週間病気で寝ていました。
やっと思いで、仰向けになって上を見上げると、暗く下を向いて何年も歩き回って時よりも多くのものが見えました。
その時から、主は、健康な日々の中で、私が知っている以上に、物事を現実のものとし、尊いものとされました。
病の者の立場になって、他の人を助けることができることがわかりました。
それまでは、お見舞いに行くのが嫌でした。
私は貧しい病の人のところに行って、常に、彼が何を考えているのか感じようとして話をしようと努力しました。
彼はこのように思っているのです。
「あなたは何もわからない。
あなたが「主を信頼し、忍耐強くあれ」と言うのは知っている。
でも、あなたは何も知らない!」
しかし、私が病気になってから、私は「私は病人の気持ちはよく知っています。
主が病気の人のために何ができるかを知っている」と言うことができました。
何年か前にアイダホ州でクリスチャンの小さなグループに出くわしたことがありました。
スイスのクリスチャンのグループは、農場のために大きな権利を主張し、森を切り開いて家を建て、家族を育てていました。
彼らは森の中に礼拝堂を建て、礼拝に集まっていました。
彼らは川を下ったり、森を車で走ったりしながらフランス語で歌い、会場を埋め尽くしました。
彼らは聖書の御言葉を愛していましたが、私はフランス語を話すことができませんでした。
彼らの多くは英語を話すことができなかったので、私が英語で話し、一人が通訳をして話すことができました。
彼らは祈り会をしていませんでした。
私はそのことを彼らの一人に話し「祈り会をしていないのですね」と言いました。
彼は「ああ」と答えました。
「私たちは主を記念してパンを裂き、聖書の勉強のために集まっています。
しかし、一緒に祈る必要はありません。」
私は「どうしてですか?」と聞き返しました。
彼は「私たちは何のために祈らなければならないのですか?
すでに私たちはすべての霊的祝福をもって、祝福されています。
ですので、私たちは地上の一時的なことで祈る必要はないのです」と答えました。
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。
神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」
(エペソ人への手紙1章3節)
彼は続けてこのように言いました。
「 私たちは、より大きな農場のために祈る必要はありません。
すべての農場が管理できています。
子供たちのために祈る必要はありません。私には九人の子供がいます。
私の兄弟には13人います。
私たちは子供たちのことで祈る必要がないので、祈り会を開きません。」
さて、私は腸チフスの2回目の発作を起こしました。
そして、また6週間、天を仰いでいました。
そして私が十分に回復して家に戻った時、私はこの同じ兄弟に会いました。
「君に会えて嬉しいよ!
あなたがまた腸チフスで倒れて、家に帰っていないという知らせを聞きました
私たちの心はあなたがたに向かい、時には週に二、三回、ともに祈り合いました。
そして、主があなたがたをよみがえらせてくださるように願い求めました。」
そして、彼らは答えました。
「あなたがカリフォルニアに帰ってきたと聞いて、私たちはとてもうれしくなりました。
それ以来、私たちは祈りの会を開いていません。」
私は言いました「私のために祈ってくれてありがとう。
でも、私が病気だった時、私は主と一緒に素晴らしい時間を過ごしていました。
そして、病気の時よりも、強くて元気な時の方が祈りが必要だということを知りました。」
4節になると、詩篇が変わります。
ダビデは主について話す代わりに主に語りかけています。
「私は言った。「主よ、あわれんでください。私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」」
(詩篇41篇4節)
ダビデが経験した試練ほど、人を訓練するものはありません。
アブシャロムがダビデにそむいたとき、ダビデの心には深い考えがあったに違いありません。
ダビデがアブシャロムの前から逃げなければならなかった時に、ダビデが独り言のように願っていたことがあります
「ああ、私が神にした来たように、我が子も私に接して欲しい。」
ダビデは、彼の人生に起こった恐ろしい失敗を忘れることができなかったのです。
ダビデはこれらの罪のために神の御手の下で苦しんでいました。
罪は告白されるかもしれません。
しかし、最後には一時的な結末が待っています。
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。
人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」
(ガラテア人への手紙6章7節)
ダビデが経歴に汚点を残すような大罪を犯した時、彼が自分にどのような裁きを下したかを思い出してください。
ナタンがダビデのところへ来て、羊の例え話をしました。
ダビデは羊を愛していました。
子羊を救うために命を危険にさらしたことが何度もありました。
そこでナタンは、ある金持ちの男の話をしました。
その男は客のための夕食を作るために、羊を取って殺したのです。
ダビデは興奮して言いました。
「すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。
その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」」
(サムエル記第二12章5、6節)
ダビデはこのように、自分の裁きを宣言しました。
ナタンはこの言葉をダビテの心に言ったのです。
「あなたがその男です。」
(サムエル記第二12章7節)
そして、ダビデは言いました。
「私は主に対して罪を犯した。」
(サムエル記第二12章13節)
主は彼の罪を取り除かれました。
しかし、一時的な結果はまだ残っていました。
ダビデは言ったのです。
「その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」
(サムエル記第二12章6節)
「バテ·シェバが産んだ幼子が病気になったので、ダビデは神の前にひれ伏し、幼子のいのちを救うよう主に願いました。
そして、ダビテはその子が死んだことを知るのです。
しかしダビデは、家来たちがひそひそ話し合っているのを見て、子どもが死んだことを悟った。それでダビデは家来たちに言った。「子どもは死んだのか。」彼らは言った。「なくなられました。」
するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮にはいり、礼拝をしてから、自分の家へ帰った。そして食事の用意をさせて、食事をとった。」
(サムエル記第二12章19、20節)
なんとも不思議なことです。
「すると家来たちが彼に言った。「あなたのなさったこのことは、いったいどういうことですか。お子さまが生きておられる時は断食をして泣かれたのに、お子さまがなくなられると、起き上がり、食事をなさるとは。」
ダビデは言った。
「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、もしかすると、主が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。
しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。」
(サムエル記第二12章21、22節)
この子は死んだのです。
「しかし今、子どもは死んでしまった。
私はなぜ、断食をしなければならないのか。
あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。
私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」
(サムエル記第二12章23節)
ダビデの最初の子羊が取り上げられました。
アムノンが父親同様に同じような罪を犯したことを思い出してください。
ここで父親は罪を犯しました。
息子も同じことをしています。
これは恐ろしいことなのです。
「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」
(出エジプト記20章5節)
アブシャロムは、妹に加えられた悪に怒り、アムノンを殺しました。
そして、ダビデの第二の子羊がいました。
アブシャロムが父にそむき、ダビデがアブシャロムの前から逃げている間に、この詩篇は書かれたのかもしれなません。
もし、ダビデにアブサロムを救えたなら、どのように救ったのでしょうか?
ヨアブがイスラエルに攻め上った時、ダビデはこのように言いました。
「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ。」
(サムエル記第二18章5節)
しかし、ヨアブはアブシャロムが木の枝に捕えられているのを見つけると、矢を三本、アブシャロムの心臓に突き刺したました。
ダビデの第三の子羊は死にました。
ダビデは老人になり、ソロモンが王位につきました。
ここでは、ダビデはわずか3倍の償いを経験するだけで済んでいます。
しかし、ダビデの最後の悲しみは、もうひとりの子アドニヤでした。
アドニヤはソロモンにそむいて殺されました。
このように、ダビデは四倍の償いを経験したのです。
生ける神について重大な事柄があることを認識する必要性があります。
私たちは罪についてあまりにも無関心になることがあります。
そして、私たちはあまりにも無関心になり、罪を犯しても罰せられないと想像してしまいます。
しかし神の御言葉にはこのように書かれています。
「今や、あなたがたは主に対して罪を犯したのだ。あなたがたの罪の罰がある(あなたがたの罪は必ず明らかにされる)ことを思い知りなさい。」
(民数記32章23節)
ダビデは自分の罪を直視し「私はあなたに罪を犯した」と言いました。
そして、ダビデは「なぜ、あなたはわたしを、このように苦しませるのですか?
私が罪を犯したのにはそれなりの理由があると言うのです」と尋ねるのです。
ヤコブの手紙にはこのようにあります。
「また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」
(ヤコブの手紙5章25節)
ダビデはここで敵について語っています。
私たちは、彼がどのように主イエス・キリスト型であるかを知ることができます。
「私の敵は、私の悪口を言います。
「いつ、彼は死に、その名は滅びるのだろうか。」」
(詩篇41篇5節)
彼らは主イエスのことをこのように話しています。
「たとい、人が見舞いに来ても、その人はうそを言い、その心のうちでは、悪意をたくわえ、外に出ては、それを言いふらす。」
(詩篇41篇6節)
それは、ユダが主イエスのもとに来て「先生」と言い、主の友のふりをして口づけしたのと同じではないでしょうか?
「その心のうちでは、悪意をたくわえ、外に出ては、それを言いふらす」のです。
「私を憎む者はみな、私について共にささやき、私に対して、悪をたくらむ。
「邪悪なものが、彼に取りついている。彼が床に着いたからには、もう二度と起き上がれまい。」
(詩篇41篇7、8節)
言い換えるのあれば、今、私たちは彼を望む場所にいます。
これは彼らが栄光の主を十字架につけた時に言ったことです。
しかし、神は彼を死者の中からよみがえらせました。
9節には、ダビデの友であったギロ人アヒトフェルのことが書かれています。
「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」
(詩篇41篇9節)
なぜ、彼が彼に背を向けたか知っているでしょうか?
これらの名前を調べれのであれば、驚くべき発見ができます。
アヒトフェルはバテ·シェバの祖父でした。
ゆえに、アヒトフェルはダビデに背を向けたのです。
ダビデは孫娘を不当に扱いました。
ゆえに、アヒトフェルはダビデを裏切ったのです。
「ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか。」との報告を受けた。」
(サムエル記第二11章3節)
「マアカ人アハスバイの子エリフェレテ。ギロ人アヒトフェルの子エリアム。」
(サムエル記第二23章3節)
イエスは何も不正を行なわれていません。
しかし、ユダがイエスにそむいたユダについて、次のことばを用いられています。
「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」
(詩篇41篇9節)
あなたはその表現の意味が分かりますか?
あなたは繰り返し読んでいます。
直訳的に訳すのであれば「わたしのパンを食べたわたしの親しい友が、わたしを蹴飛ばした」となります。
友達だと思っていた人が失望して、その人があなたに背を向けて、あなたを蹴るということがどういうことか、あなたは理解できますか?
どうして、あなたがそのように苦しまなければならないのでしょうか?
イエスと語り合いなさい。
なぜなら、イエスはすべてを苦しみを経験されています。
悲しみの人の役割として、心を痛めるあらゆる苦しみを味わう必要があるからです。
次の3節でダビデはあらゆる敵の攻撃の中で神に完全な信頼を置いていることが述べられています。
「しかし、主よ。あなたは私をあわれんでください。
私を立ち上がらせてください。
そうすれば私は、彼らに仕返しができます。
このことによって、あなたは私を喜んでおられるのが、わかります。私の敵が私に勝ちどきをあげないからです。」
(詩篇41篇10、11節)
次のように言える人はイエスしかいません。
「誠実を尽くしている私を強くささえ、いつまでも、あなたの御顔の前に立たせてください。」
(詩篇41篇12節)
このような言葉を使うときには、誰もが何かの制約を持たなければなりません。
しかし、主イエスは何の制約もなくそれを言うことができるのです。
最後の聖句はこの詩篇を閉じるだけでなく、詩篇1巻の本を閉じることにもなります。
最初に詩篇を学んで気づいたように、どの詩篇も、最後はこんな感じで教義的に終っています。
「ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。アーメン。アーメン。」
(詩篇41篇13節)
2024/9/3終了