メッセージAT 2024/10/31
黙示録講義
H・A・アイアンサイド
LECTURES ON THE BOOK OF REVELATION
By H.A.Ironside
初版 1920年9月
1930年度版への序文
この講義が最初に印刷物として発行されてから11年が経過しました。
形式は、従っている解釈に聖書的な根拠を追加したものです。
預言書の言葉は年月の流れによって確証できます。
教会の中においも、ユダヤ教においても、世界においても、すべては聖書の預言の通りに動いています。
この地味な本に対する需要の増えています。
それにに応えて、新版を準備するにあたって、捨てるべき解釈も、変えるべき重要な問題もありませんでした。
いくつかのタイプミスを修正しました。
文が修正された箇所もあります。
段落の変更もお行われています。
教えのあいまいさを減らし、全体を明確に表現するためにぎこちない表現を変更しただけです。
それ以外は1919年度版とほぼ同じです。
主の再臨が迫っていることに、神がこの本を用いて信者を目覚めさせ続けられますように。
救われていない人たちを、恵みの門が閉じられないうちにキリストに会わせてくださいますように。
ここに祈ります。
H・A・アイアンサイド
シカゴ、3街区、1930年9月
はじめに
これらの講義を本で再現するために、私は単純に講義を聞いた多くの人の要望に答えました。
私は近年、オークランドでも、また他の都市でも、同じ本について語ってきました。
これまで私は黙示録についての本を出版することを断ってきました。
私が書きたいと思うことよりも、すでに優れた本が多く出版されていたと思えたからです。
この事実は今日においても変わらず真実です。
この時代、過去五年間の大戦争や、その他の大規模な出来事が組み合わさって起きています。
過ごさった時代のことを優秀な兄弟たちが多くのことを強調し、本にして明らかにしてきました。
これらの多くの重要な出来事を理解するために、聖書の最後にある預言書についてのもう少し後の解説が必要だと考えました。
冷静に出来事を見ている預言の研究者にとって、非常に喜ばしいことに違いありません。
それは最近の出来事によって強化され、以前の結論が確認されたことを知るからです。
その反面、自分を楽観的な現実主義者と呼ぶ者たちは、成就されてきた預言の厳粛な事実に目をつむります。
彼らは自分たちのむなしい栄光に満ちた預言がまったくの誤りであることが証明されたと知って、当然、恥をかくのです。
彼らは、戦争と残虐行為を防ぐものとしての人間の兄弟愛を提示します。
この彼らの信頼は、神の言葉と人間の心の堕落を無視してきた愚かな幻覚であることが示されるのです。
この講義を出版するために、私はその形式を大きく変えてはいません。
あちこちで曖昧な文章を変えたり、わかりやすくするために主題を変更し、わかりやすくするために内容を拡大しています。
最初の講義は部分的にしか出版されなかったので、全体的にに作り直さなければなりませんでした。
その他はおおむね出版されて通りです。
この本によって、預言の研究に関心が寄せられ、主の再臨に備えて人々に準備させるために用いられることを信じています。
神の御名によって、わたしはこの本を送ります。
H・A・アイアンサイド
1919年、カリフォルニア州オークランドから、
訳者からの紹介
とても、尊敬する著者です。
しかし、1930年当時、現在とは環境が違います。
時代は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の谷間、ドイツにヒトラーが現われる前です。
イスラエルの国が再建される前の著書です。
ここでは、H・A・アイロンサイド氏がディスペンテーション主義にのっとった黙示録講義を行っています。
聖書を愛するものならば、一度は読むべきだと推薦します。
ただし、注意すべき点は先にも書きましたが、この著作は神学的には正統的なものですが状況が現在とは違います。
例えば、黙示録にあるふたりの証人にはこのようにあります。
「もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。」
(ヨハネの黙示録11章9節)
世界中の人が同時に見るというのは、現在であれば衛星放送、インターネットで当たり前のように理解できますが、20世紀初めではこの理解にも限界があります。
聖書理解には二つの原則があります。
まず、「文字通りに、文章として、前後関係を正確に解釈する」という原則です。
これはモーセがエジプトに起こる裁き、災害が文字通りに起きたという事実に基づきます。
次に「聖書は他の聖書箇所によって解釈される」という原則です。
7つの裁きが3回、もしくは4回繰り返されますが、この著者は全体的に後者の解釈を強調しています。
結論として、文字通りに取るよりも、旧約の記事と重ね合わせ、象徴的に捕らえる傾向があります。
(正直、訳者はこのことがどのように解釈しているのかを知りたくて、読みだしたのは事実です。)
著書が書かれた時代、情報、知識においても限界があり、また、現在とは違う特異な環境があり、文字通りに読みたくても妨げるものがあったのは事実だと考えます。
訳者は出来る限り「聖書は文字通り解釈し、無理があるのであれば、聖書は他の聖書箇所によって解釈される」という立場を取っています。
おそらく、二つの事柄は両立すると考えます。
黙示録はまだ起きていない未来について語られています。
現在において、私たちの解釈通りに起きなかったとしても、すべてが聖書の書かれた通りに起きるのです。
もちろん、著者もそのことは本文内で認めています。
現在の環境において、黙示録を解釈するための状況は1930年代に比べ、はるかに進んでいます。
当時以前にこの著者は黙示録に書かれていることがあまりにも人知を越え、想定外なので文字通り、もしくは聖書の他の個所による霊的解釈の選択に責められています。
他の聖書注解でも証明できるようにこれだけ有能な解釈者です。
この時代の解釈と現在の状況を見比べるのなら、時代に進展を覚え、来たるべき日が近づいていることを知ることが出来ます。
現在ではより推薦できる文字通りの解釈ができる事柄、現象が多数あります。
それだけ、その時が近づいているという証拠なのです。
他の聖書箇所の解釈は、時代が変わっても進展することは多くはありません。
しかし、未来に関する黙示録の状況は時代が進むにつれて、進展しています。
著者は当時の状況からベストな解釈を行っていると信じています。
世の終わりの教会に語られたメッセージがあります。
「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。
もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」
(ヨハネの黙示録3章3節)
新約聖書の中にはその日が盗人のようにくるとくり返して主張されています。
愚かな注解者は盗人のように来るのだから「その日はわからないのだ、待望する必要がない」と主張しています。
愚かです。
これは警告文です。
逆に取るのであれば、目を覚ましているのであれば、その日がいつ来るのか気づくことができるメッセージなのです。
それほど、その日が近づいた証拠だと認識します。
私たちは、その日が近いことをより期待しているのです。
「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。
あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。
というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。」
(ローマ人への手紙13章11節)
2024年10月9日
目次
講義1 導入 1章1~18節
講義2 最初のまぼろし 1章9~21節
講義3 7つの教会 2章
講義4 7つの教会(2回目) 3章
講義5 最初の天のまぼろし 4章
講義6 七つの封印 5章1~6章8節
講義7 第五、第六の封印 6章9~17節
講義8 十四万四千人と大勢の異邦人 7章
講義9 解かれた七つの封印 8章
講義10 最初と第二の「わざわい」のラッパ 9章
講義11 巻物を食べ、書が開かれる 10章
講義12 二人の証人と第七のラッパ 11章
講義13 女と人の子 12章
講義14 来たるべき「国際連盟」 13章1~10節
講義15 反キリストの人格 13章11~18節
講義16 収穫とぶどう酒 14章
講義17 神の怒りの杯 15章、16章
講義18 バビロン:その特徴と運命 17章
講義19 バビロン:その特徴と運命(2回目) 18章1節~19章5節
講義20 二つの晩餐 19章6節~21節
講義21 千年王国、そして白い御座のさばき 20章
講義22 時代の終わり 21章、22章
講義1 導入 1章1~18節
決して、神はヨハネの黙示録を封印された書にしようとはしていません。
多くのクリスチャンがヨハネの黙示録を理解しようとしないのは、残念な結果です。
ダニエル書は終わりの時まで封印されていました。
「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。」
(ダニエル書12章9節)
しかし、ヨハネの黙示録にはこのように書かれています。
「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。」
(ヨハネの黙示録22章10節)
聖書のこの箇所が、私たちの敎えと教化とのために与えられたものであることは明らかです。
しかし、多くの主の民は、祝福を無視し、祝福が奪われることを許しているのです。
ここに書かれていることを読んで守る人々に祝福が宣言され、この聖書の1冊の本は祝福で始まり終わっています。
「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」
(ヨハネの黙示録1章3節)
「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」
(ヨハネの黙示録22章7節)
すべての人が希望を理解しているわけではありません。
神は彼らに祝福を約束しています。
決して、私たちはあざ笑うつもりはありません。
そのような理由は単純に不信仰です。
信仰は、聖なるさまざまな記録を喜んで引用します。
そして、信仰ははっきりと理解できることを発見させます。
本当のタイトルは冒頭の聖句で与えられています。
「聖ヨハネの黙示録」ではありません。
「イエス・キリストの黙示」です。
この後者の呼称は著者の権威によるものではありません。
初期の編集者がいかに第一原理から離れていたかを明白に示しています。
すべての信者が聖徒であるように、ヨハネも聖徒です。
彼は聖者ではありあせん!
このタイトルをヨハネが聞いたなら、ヨハネは計り知れない驚きを見せたはずです。
この書は、ヨハネの黙示でもなく、神のしもべたちの黙示でもありません。
それはイエス・キリストご自身の黙示です。
「啓示」という言葉は、時には「黙示録」とも呼ばれています。
文字通りの「啓示」や「起きること」を意味しています。
つまり、この本は私たちの主イエス・キリストのベールを取るものです。
イエス・キリストご自身がは一つの大きなテーマです。
今の時代、キリストは諸教会の中で人の子として示されています。
また、来たるべき時における、裁き主として、王として示しています。
もし、あなたが、キリストに対してもっと感謝することを学びたいなら、この本を何度も祈りながら読むことが必要です。
この本は、拒絶された小羊が、すぐに栄光の小羊が王座において君臨することを明らかにしています!
そして、タイトルが複数形ではないことを観察してください。
人々はヨハネの黙示録のことをよく話します。
しかし、聖書にはそのような本はありません。
そこには一つの祝福があります。
続けて神の唯一の御子が明らかにされます。
彼は油そそがれた預言者です。
祭司であり、王です。
それが黙示録であり、黙示録は聖書の最高の書なのです。
それはゼカリヤ書4章7節のかしら石のようなものです。
それは真理の不思議な建物全体を形成し、王位の冠を与えます。
「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、「恵みあれ。これに恵みあれ。」と叫びながら、かしら石を運び出そう。」
(ゼカリヤ書4章7節)
この巨大な建物の中で、モーセ五書が広く強固な基礎があります。
そして、この上に契約の歴史が築かれています。
それから詩篇と詩歌があります。
また、その上に旧約聖書の数々の預言書があります。
そして、その上には福音書と使徒の働きがあるのです。
その後、深い霊的な教えを持つ書簡があります。
そして、この最後の厳かな、栄光の建物を完成させるために、極めて貴重な「ヨハネの黙示録」が存在します。
「ヨハネの黙示録」は他のすべての書を、やがて現される神の栄光と結びつけています。
聖書を真実の大きな黄金の輪を形成していると考えてみてください。
始まりの書である創世記から始まっています。
そして黙示録に至るまで、聖書をたどってゆきます。
最後の書を見てください。
なんと、それは創世記の本とぴったり一致しています。
このように、霊感のある環を完成させています。
神の言葉は完全で、途切れることなく、壊れることのない一つの輪なのです。
創世記と黙示録を比較すれば、このことはすぐに明らかになります。
創世記には様々な型が存在しています。
黙示録はその型である真理の完成があるかを示しています。
一つは本は始まりであり、他方の本は終わりです。
創世記には天地の創造が記され、黙示録は新しい天と新しい地が記されています。
創世記は、私たちに罪によって失われた命の木と、祝福の川のある地上の楽園を示しています。
ヨハネの黙示録は、私たちに、いのちの木のある神の楽園と、神と小羊の御座から出て行くいのちの清い川とを与えています。
楽園はキリストの贖いによって回復されるのです。
創世記では、最初の人とその妻が神の創造物すべてを支配しているのを見ることができます。
ヨハネの黙示録では、第二の人と花嫁が贖われた世界を支配しているのが描かれています。
創世記では、最初の型としてのいけにえの子羊について語られています。
黙示録では、一度ほふられた小羊が王座の真ん中にいます。
創世記で私たちは罪の始まりについて学びます。
蛇が最初に楽園に入り、まやかし事でアダムとイブをだまします。
黙示録では悪魔とか、サタンと呼ばれる古い蛇が火の湖に投げ込まれています。
創世記には、最初の殺人者、最初の異教徒、最初の反逆者、最初の泥酔者などがいます。
黙示録では、キリスト・イエスにある神の恵みを受け入れない者は、神の御前から永遠に追い出されるのです。
そして、創世記ではバベル、すなわちバビロンの出現を見ることができます。
ヨハネの黙示録では、私たちにバビロンの運命を考えるように求められています。
創世記では、人間の街々を見ることができます。
黙示録では神の都です。
創世記は、悲しみ、死、痛み、涙、罪、そして反逆の避けられない結果がどのようにしてこの世に生まれたかを示しています。
神はすべての涙をぬぐい、罪、死、痛み、悲しみが訪れることのない住まいに贖われた神を迎えるのを見るまで、黙示録は終わることはありません。
それで、この二つの書を対比し、比較しながら、一時間ぐらいは続けられるかもしれません。
しもし、もう十分に引用されています。
私は、この二つの書に興味のある信者が自分で勉強するように刺激されることを信じています。
私たちが神の前で聖書から得られるものは、他の人が私たちに渡されたものよりもはるかに価値があります。
私たちはそれぞれから学ぶことができます。
しかし、すべて当然のこととは思わないのが一番なのです。
モアブの女ルツのように、瞑想と祈りによって「集めたものをたたき出す」ことです。
この注目すべき本の最初の一節を慎重に吟味する前に、次のことを指摘しておくのがよいと思います。
ヨハネの黙示録について解説する人たちによって提示された三つの非常に異なった見解が存在します。
彼らは一般に既成主義者、歴史主義者、未来主義者として知られています。
解釈の3つのシステムは、様々な対立する派閥に細分化されるかもしれません。
しかし、その名前はそれぞれの場合の主要な視点を示しています。
一般に、既成主義者は、ヨハネの著作を認めるためにヨハネの名を名乗った無名の人物、もしくは使徒ではない別のヨハネが書いたと主張しています。
彼らは、黙示録をおかしな宗教的・政治的文書とする以外に何も見い出すことが出来ていません。
ヨハネの本当の目的は、ローマ皇帝の一人の下で大きな迫害を受けていた時代に、激しい戦いの結果を聖徒たちの大きな勝利として描くことによって、クリスチャンの兄弟たちを慰めることでした。
その結果、異教が打倒され、それに代わって栄光に満ちた神の都が確認されます。
歴史主義者は、過去1900年間の重大な出来事を、封印、ラッパ、鉢によって成就されたのだと見ています
また、黙示録の他の箇所は特別な幻だと信じています。
つまり、キリスト教世界、つまり、キリスト教の権威が事実上認められている諸民族の歴史を完全に知ることがなければ、黙示録を理解することは不可能なことになります。
この仮定、あるいは仮説に基づいた解釈学派は数多くあり、多様である存在します。
一般に未来主義派は、この本の大部分はまだ起きていない未来の時代に適用します。
最初の3章だけが現在の教会の時代に適応されると考えています
極端な未来主義派の中には、最初の3章を終末の時代に詰め込み、黙示録の教会を全く無視する者さえいます。
この本を解説していくうちに、われわれの立場は最初に述べた未来主義派の立場と一致することがわかるはずです。
しかし、この見解の基礎となっている根拠については、後の講義で行うことにします。
再び、聖句に目を向けると、1節に、イエス・キリストの黙示録は、父から子に与えられたものであることが記されています。
「イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。
ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。」
(ヨハネの黙示録1章1、2節)
それはダビデが神殿建設に関するすべての計画を、将来のソロモンに明かしたようです。
神は、私たちの主イエス・キリストと「すぐに起こるはずの事を」について示すためにこの預言の書をお与えになりました。
これを神のしもべたちに伝えることは、神の喜びとなります。
御使いは、愛されている使徒ヨハネにすべてを知らせる伝達者となりました。
この意味において、ヨハネは、主の来られるまで教会にとどまることになります。
つまり、この奉仕の流れに従えば、ヨハネは私たちをその祝福された出来事に導くことになります。
この時、この啓示がわたしたちに下った順序に注意してください。
神はこの啓示をイエス・キリストに与えられました。
そして、イエスは、やがて起こることをしもべたちに示すために、御使いによってしもべヨハネにお告げになったのです。
ヨハネはこの啓示が証ししたと言っています。
すなわち、ヨハネはこの啓示を、しるし、もしくは象徴として証ししたのです。
このことを心に留めておくことが重要です。
黙示録は象徴の本です。
注意深くみことばを研究する人は、象徴の意味を考えるために工夫をこらす必要はありません。
黙示録で使われているすべての象徴は、聖書のどこか他の場所で説明されている場合もあります。
もしくは、暗示されていることがもっとも重要な原則として定められていることもあります。
黙示録の神の御言葉の神の御心を理解しようとする者は、聖句の他の箇所をすべて熱心に、祈りをもって勉強する必要があります。
疑いもなく、この預言の御言葉を読み、聞き、ここに書かれていることを守る者たちには、非常に大きな祝福が用意されています。
「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」
(ヨハネの黙示録1章3節)
4節から8節まではあいさつ文です。
「ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。常にいまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、
また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。
見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。
神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」」
(ヨハネの黙示録1章4~8節)
この箇所は、一般的な書簡として、特に「アジアの七つの教会」に向けられています。
アジアという単語は、現在でのアジアという名を持つ大陸でもなければ、小アジアのことを言っているものでもありません。
ローマの地方領事属州は、古くははっきりと 「アジア」 と呼ばれていました。
ヨハネの時代には、この地方にはすでに多くのキリスト教会が建てられていたが、その中から七つを選んで、特別に述べています。
なぜ?この7つが他の教会に優先して選ばれたのかと問う人がいるかもしれません。
例えば、コロッセやヒエラポリスはどちらも重要な教会でした。
私の答えは、これらの教会の地理的位置が12節から18節に示された幻に沿っていたと考えているからです。
そこには金の燭台が輪になっていました。
その輪の中に先見者であるキリストが祭司の衣を着て立っており、起こっていることすべてに目を留めていました。
これらの教会は内部の状態は支配的な状況でした。
そして、使徒時代から地上における教会のあかしの終わりまでの7つの明確な期間におけるキリスト教信仰の状況として描くのにふさわしいものでした。
7つの街の名称でさえ、解釈するならば、このことを明確にするのに役立っています。
いわば、それが適用されるさまざまな時代への鍵となっているのです。
しかし、この証拠は次の3つのことを説明するために覚えておく必要があります。
三位一体の三者が挨拶の中でどのようにつながっているかを観察してください。
「常にいまし、昔いまし、後に来られる方」とは「ヤハウェ」です。
これがモーセに伝えられた聖なる名の文字通りの意味です。
「ヤハウェ」は3つの単語から成る合成語です
最初は「常にいまし(He is)」、2つ目は「昔いまし(He was)」、3つ目は「後に来られる方(He will come)」です。
ヤハウェは三位一体の神ですので、父も子も御霊も同じようにこの名で呼ばれています。
しかし、この箇所では、はっきりと父なる神が見えています。
次の節で私たちの前に御霊が現れます。
「その御座の前におられる七つの御霊から」
(ヨハネの黙示録1章4節)
唯一の永遠の御霊がどのように描かれるのかを理解することは難しいことです。
イザヤ書11章1、2節を見て見ましょう。
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」
(イザヤ書11章1、2節)
ここでは、私たちの主イエス・キリストであるヤハウェの枝にとどまっている7つの霊について読むことができます。
与えられた順序に注意してください。
1)主の霊
2)知恵の霊
3)悟りの霊
4)はかりごと(相談)の霊
5)能力(全能)の霊
6)主を知る知識の霊
7)主を恐れる霊
ここには、七つの豊富な力を持つ唯一の霊が存在しています。
聖書でくり返し述べられている7というのは完全数で、ここでも完全数として使われています。
この地上にあるときには 「忠実な証人」 として、復活の栄光においては 「死者の中から最初に生まれた方」 として、再び王となるときには 「地上の王たちの君主」 として私たちは、御父と御霊とともにイエス・キリストを迎え入れるのです。
この栄光の完全な啓示に続いて、賛美と礼拝の爆発が起こるのも不思議ではありません。
「また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」
(ヨハネの黙示録1章5、6節)
ヨハネは心がいっぱいで、もう我慢できません。
礼拝と賛美は、キリストの人格と預言者、祭司、王としての務めを熟考した自然発生的な結果でした。
それからヨハネは、復活の喜びの知らせを告げ始めます。
もはや、主は女から生まれた幼子としてではありません。
天から下って来る栄光ある方として帰られるのです。
偉大な奇跡によって、すべての目が彼を見るようになり、「地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く」のです。
「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。
地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」
(ヨハネの黙示録1章7節)
これはゼカリヤ書12章で書かれていることだと、私は確信しています。
再興されたイスラエルの全部族が、キリストを拒絶したことを愚かさを嘆き、キリストの帰りを待っているところを、預言者は見ているのです。
「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。
彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」
(ゼカリヤ書12章10節)
ヨハネは全教会を代表して、歓喜して叫んでいます。
「しかり。アーメン。」
あなたの心は同じ喜びの歓迎の叫びを持っていますか?
それとも、あなたがたは主に会う気もなく、また主が帰って来るのを怖がっているのでしょうか?
8節では、語っているのは御子です。
今や御子は自分自身がヤハウェであり、父と永遠に一つであると宣言しています。
主はアルファとオメガです。
つまりギリシャ文字の最初と最後の文字であり、始まりと終わりです。
かれは万物を創られました。
神はすべてのものを包み込み、新しい天と新しい地をもたらします。
昔、アブラハムに全能者として現われました。
エル・シャダイこそ、「常にいまし、昔いまし、後に来られる方」です。
私たちの心が神に満たされ、神が私たちのために戻ってこられ、永遠に共におられますように」、それが祝福された希望なのです。
講義2 最初のまぼろし 1章9~21節
先週の第1章の学びでは、黙示録の最初の幻に到達しました。
使徒ヨハネは、主イエス・キリストの御名のゆえに、「パトモス島」に追放された囚人であったと語られています。
そこは地中海の小さな岩だらけの島です。
その島では、すべてのクリスチャンの交わりから閉ざされています。
しかし、神はヨハネのために、それまで知られていたことよりも、さらに大きな使命を与えられたのです。
あなたがたは、主イエスが堕落したペトロの魂を回復された時のことを思い出すことができます。
そこで主イエスはペテロにこのようにお話になりました。
「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。
しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。
こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
(ヨハネの福音書21章18、19節)
そして、ペテロはイエスを見てこのように言いました。。
「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。
この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。
ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。
イエスはペテロに言われた。
「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。
あなたは、わたしに従いなさい。」」
(ヨハネの福音書21章20~22節)
この聖句の中で、主イエスはクリスチャンの教師たちが、何度も混乱させてきた2つのことを明確に述べていることに気づくはずです。
つまり、キリストの死と再臨です。
イエスは答えています。
「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。」
そこで、イエスは「主が来られる前にペテロが死ぬ」ことと対比して、「彼が生きながらえる」ということをはっきりと述べています。
聖書の中には、主の死と再臨を混同している箇所はありません。
死は主の再臨の時には存在しません。
死は再臨において勝利に飲み込まれるものだからです。
しかし、あなた方が知っているように、極端な者たちがこのように言います。
「そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。
しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。」と言われたのである。」
(ヨハネの福音書21章23節)
もちろん、彼らの早まった結論が間違っていたことは時間が証明してくれています。
ヨハネもまた、遠い昔に死にました。
しかし、ヨハネは地上での生涯が終わる数年前、信仰のゆえに追放された荒れ果てたパトモス島にいました。
「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」
(ヨハネの黙示録1章9節)
そこで、ヨハネは、主イエスの再臨についての真理、すばらしい幻を見ました。
私たちの主イエスの再臨に関連する真理について、ヨハネは驚くべき幻を目の前にしていました。
このように、キリストが再び来られるまでヨハネの働きは私たちとともにあるのです。
ヨハネはからだから離れ、1800年以上も主とともにいるのです。
しかし、この素晴らしい黙示録の中で私たちに与えられた務めを示しています。
ヨハネはキリストの再臨を待ち続けています。
そして、ヨハネは神の民が現在の状況で直面しなければならないすべての複雑な問題に光を当ててくれました。
神御自身がまもなく実行されようとしている偉大な計画を、他のどの務めも行わずに、私たちに理解させてくれます。
私たちは、ローマ帝国の第11代皇帝ドミティアヌスがヨハネをパトモス島に追放したとき、サタンのやりすぎを見ています。
もし、ヨハネが聖徒たちに御言葉を伝え続け、救われていない人たちに宣教し続けていたら、彼はヨハネの黙示録を書くことができなかったかも知れません。
また、黙示録が私たちに与えてくれる幻を知ることができなかったかも知れません。
ヨハネのあらゆる奉仕から閉ざされてしまいました。
しかし、あの孤独な島で覆いが開かれました。
そして、イエス・キリストの覆いを取り去られ、ヨハネはこの驚くべき記録を私たちに与えることができました。
「私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。」
(ヨハネの黙示録1章10節)
彼は「主の日に御霊にあった」と語っています。
主日は、週の最初の日として神から指定された日です。
ここでの主の日はユダヤ教の安息日です。
旧約聖書では主の安息日と呼ばれていると言う人がいることを私は知っています。
そして、新約聖書のどこにもユダヤ教の安息日が廃止されていないのだから、まだ守られるべきだと言っています。
しかし、私たちはこのように答えることができます。
イエス・キリストが死者の中から復活された後、すなわち七日目は、イスラエルの安息日でした。
新約聖書を見るならば、その安息日に、私たちに対して、何か特別な名誉なことが存在したでしょうか?
週の最初の日の朝、マタイによる福音書28章にはこのように書かれています。
「週の初めの日の明け方」
(マタイによる福音書28章1節)
すなわち、ユダヤ教の安息日が終わりました。
主が勝利のうちに死者の中からよみがえられたので、その新しい日は明らかに主の日となりました。
使徒の働きにはこのように書かれています。
「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」
(使徒の働き20章7節)
週の初めの日に主は屋上の間で御自身の民と会われました。
このように集まることについて、コリント人への手紙第一16章2節を見て見ましょう。
「私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。」
(コリント人への手紙第一16章2節)
このように、クリスチャンの献金と、毎週の初めの日にある主の記憶は結びついています。
そして、どこにおいても、クリスチャンがこのように行っていたと言っても過言ではありません。
このように主を覚えるのであれば、今日の神の教会において、「財政的な問題」は存在することはありません。
週の初めの日は、クリスチャンにとって大切な日です。
確かに、初期のクリスチャンの著者たちは「主日」という言葉を使っています。
それは、常に週の初めの日、ユダヤ教の安息日の次の日、もしくは私たちクリスチャンが「主日」と呼ぶ日のことです。
私はあえて言いますが、使徒ヨハネから1800年後に生きた人たちよりも、50年から200年後に生きた人たちの方が「主の日」という言葉の意味を知っている可能性があります。
「主日」と「主の大いなる日」を混同している預言者の学者がいることを私は知っています。
しかし、この2つの言葉には決定的な違いがあります。
主日は原文では主格ではありません。
「主」と訳された言葉は形容詞です。
もし「主のような」の日と言うことが許されるなら、この言葉の正確な意味かも知れません。
このような形容詞はキリストという言葉からできています。
「クリスチャンの御霊」などと言った方が良いかもしれません。
その日、ヨハネはこのように言っています。
「私は、主の日に御霊に感じ」
(ヨハネの黙示録1章10節)
ヨハネはクリスチャンの集まりから遠く離れてました。
しかし、ヨハネは神のものに喜びを見出しています。
あなたが知っているクリスチャンの中には、家にいるときは主日ごとに集会に行く人がいます。
しかし、彼らが休暇を取っていたり、町から離れていたりするときは、だれも彼らを知りません。
主の日は他の日と全く同じです。
しかし、ヨハネはクリスチャンとのいかなる関係からも閉ざされていました。
しかし、「主の日に御霊に感じた」のです。
クリスチャンが休みの日に聖書を携えて行き、毎日主と交わりを持つのは良いことです。
イエス・キリストを知らない人を調べて、その助けを必要としている人に知らせようとすることも必要です。
主の日には御霊に従って歩むべきです。
主の日に「御霊を感じて」、ヨハネは主ご自身の輝かしい幻を見ました。
最初に声が聞こえ、次に姿が見えました。
ヨハネはこのように言う声を聞きました。
「わたしはアルファであり、オメガである」、「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり」、「あなたの見ることを巻き物にしるして」などです。
振り向くと、七つの金の燭台が見えました。
もし私が正しく理解しているなら、これらは神殿や幕屋の燭台のようなものではありません。
その燭台とは七つに枝分かれしています。
六つの枝と中央の幹で、七つの燭台が形作られています。
ヨハネは七つの燭台を見ました。
キリストは聖所にある七つの枝からなる燭台によって表されています。
神の御霊は、その上の七つの灯によって表されています。
キリストが地上におられない間、天ではキリストは私たちの祭司として働いておられます。
キリストの民は、現世においてキリストの光です。
しかし、ヨハネはこの最初の幻の中では、七つの枝のある燭台の光を見ていません。
輪の形をした様々な7つの燭台がそこにありました。
これらの燭台のまん中に、人の子に似た方が胸に金の帯を締めておられるのが見られます。
主はその集まりの中で裁きを下されるのです。
そして、私たちはこれらの燭台が何を象徴しているかを学びました。
この燭台はアジアのローマ地方領事管区にある七つの教会を現わしています。
この七つの教会は、神のすべての集会から選ばれた者たちです。
この七つの教会は、私たちの主イエス・キリストが再び来られるまでの教会の歴史の全過程を私たちに描き出しています。
神の教会は、キリストがこの地上におられない間は、暗闇の中で光を輝かせる責任があります。
覚えていますか、キリストが地上にいた時、「わたしは世の光である」などと語っています。
そして、この地上を立ち去る前に、弟子たち「あなたがたは世の光です」と言いました。
主は栄光のために天に昇られました。
このように、私たちと主の教会のすべての構成員は、地上で主のために輝くのです。
イエスのためにどんな光を輝かせるのでしょうか?
あなたの隣人はあなたのキリストの教えを理解しているのでしょうか?
あなたと取引をしている人たちはそれを重んじていますか?
貿易商や仕事仲間はどうでしょうか?
彼らは多くの時間を一緒に過ごさなければならない人たちです。
私は、あなたが教会で会う人々よりも、あなたが一緒にしなければならない人々に証した方が良いのです。
実際に人が改心し、悔い改めるのならば、その人は徹底的に変えられます。
神の教会と、それぞれのクリスチャンの集まりは、キリストの光として輝くためにこの世にいるのです。
私たちがここにいるのは、単純にキリストの持つものを楽しむだけではありません。
キリストを世に示すためです。
使徒はコリント人への手紙第一11章26節でこのように言っています。
「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」
(コリント人への手紙第一11章26節)
その一節で「告げ知らせる」と訳されている言葉は、他の場所で使徒のメッセージに使われているのと同じ言葉です。
あなたがたは「主の死を告げ知らせるのです」。
それは罪人への証しであり、教会が楽しむものでもあります。
神の教会はキリストのために輝くためにここに存在します。
キリストが私たちの集まりにおいて高く高揚されます。
そして、私たちの命、生活においても明らかにされ、私たちもキリストのために輝きます。
「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。
それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。」
(ヨハネの黙示録1章12、13節)
ヨハネが覚えているイエスとは多くの点で異なっているように見えました。
そう、変貌の山にいた時とは違っていました。
そして、イエスは自分が誰であるかを知っていました。
「人の子のような方」です。
ヨハネは地上でイエスをよく知っていました。
しかし、イエスが栄光の幻の中に現れた瞬間にヨハネはイエスを知ったのです。
イエスがどのように記述されているかに注意してください。
「足までたれた衣を着て」とは祭司の衣装です。
大祭司の長い白い衣を着て、胸の周りに金の帯を締めています。
帯は仕える者を物語っています。
私たちは、しもべが身を引き締めて机の前で待っていることを読みました。
これは大祭司の礼拝の様子です。
私たちの祝福された主は、今、神の右で私たちのために仕えておられます。
イエスが私たちのためにささげ物となった十字架を振り返ってみましょう。
私たちは「完了した」というイエスの最期の言葉を思い出すことを喜びとしています。
完成した御業には何も付け加えることはできません。
また、何も取り去ることはできません。。
しかし、神は今、民のためにもう一つの御業を行なわれています。
栄光の中にあっても、まだイエスは私たちに仕えているのです。
キリストの民は地上の生涯の途中でキリストの助けを必要としているのです。
へブル人への手紙にはこのように書かれています。
「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。
キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
(へブル人への手紙7章25節)
神は自分の力で進めとは言っていません。
神を救い主として信頼し、神があなたの心を満たし、あなたの人生を支配するようにするのです。
主は、あなたがたのうちにいのちを生き、主の賛美と栄光を受けることができます。
へブル人への手紙の他の箇所ではこのように書かれています。
「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
(へブル人への手紙4章16節)
その金の帯は、キリストの働きにおいて、神の聖なる正しい道に完全に一致しています。
14節に注目してください。
「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。」
(ヨハネの黙示録1章14節)
前回、私は黙示録にあるすべての姿、あるいな象徴は、聖書のどこかで説明されていると語りました。
ダニエル書7章9〜13節を見てください。
「私が見ていると、幾つかの御座が備えられ、年を経た方が座に着かれた。
その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。
御座は火の炎、その車輪は燃える火で、火の流れがこの方の前から流れ出ていた。
幾千のものがこの方に仕え、幾万のものがその前に立っていた。さばく方が座に着き、幾つかの文書が開かれた。
私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た。
残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた。
私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。」
(ダニエル書7章9~13節)
ダニエル書では、年を経た方のことや、人の子のことを読みました。
ヨハネが、七つの燭台の真ん中におられる方が、「人の子のような方」と言ったのを見てください。
間違いなく、ヨハネはそれをダニエル書の7章と結びつけています。
続けて、ヨハネはイエスを「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く」と表現しています。
ヨハネには、主イエスが33歳で断ち切られたにもかかわらず、非常に年をとっているように見えたのです。
もう一度、ダニエル書7章9節をよく見てみましょう。
「私が見ていると、幾つかの御座が備えられ、年を経た方が座に着かれた。」
(ダニエル書7章9節)
誰が年を経た方なのでしょうか?
ダニエル書7章では、この方がイスラエルのヤハウェであり、この方が人の子として来られるのです。
しかし、私たちは、人の子が年を経た方であることを学びます。
言い換えれば、旧約聖書のヤハウェは、新約聖書のイエスなのです。
キリストご自身について、このように書かれています。
「キリスト(神)は肉において現われました。
「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」
(テモテへの手紙第一3章16節)
ミカ書5章2節を見てみましょう。
「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」
(ミカ書5章2節)
ベツレヘムで生まれた支配者とは誰のことでしょうか?
その方こそは、「昔から、永遠の昔からの定めである」である方です。
イエス・キリストは永遠の方です。
これは真実の一つです。
これは、この背教の時代にクリスチャンたちが争うように求められているようです。
聖職者たちは人々に私たちはみんな神の子だと言っています。
彼らはキリストの処女の誕生と神を否認しています。
キリストは神から遣わされたもっとも偉大な教師の一人にすぎないと語っています。
彼らは「クリスチャンとして、それだけでは十分ではない」と言っています。
キリストは地においても、天においても崇拝されています。
キリストが神だと言うのであれば、私たちも天にいる者たちも偶像崇拝者になります。
三位一体を否定するユニテリアンは父なる神を信じるが、子を信じません。
彼らは「イエスをただの被造物」だと主張します。
まっすぐに線を引こうとしていますが、物事を難しくするだけです。
そのユニテリアンが正しいなら、私は偶像崇拝者です。
なぜなら、私はイエス・キリストを崇拝しているからです。
私は仏教徒でもバラモン教でもありません。
イエスを崇拝し、イエスを神として信じています。
ある人はそんなことは何の違いもないと言う人もいます!
しかし、時間と永遠の両方に、大きな違いを生みだすことになります。
ヨハネの福音書にはこのように書かれています。
「それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。
もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」」
(ヨハネの福音書8章24節)
私たちは、イエス・キリストを、肉において明らかにされた神、神のひとり子、失われた罪人を救うために恵みのうちに来られた油注がれた方として告白します。
あなたは救い主として信じていますか?
このように、私たちは、七つの燭台の真ん中におられる方が人の子であり、神ご自身だと見ています。
また、主イエスはこのような二つの特徴を持っています。
そして、主の場所は常に真ん中です。
イエスが真ん中に置くのです!
キリストに真ん中に置かない信者の集まりは、クリスチャンの団体と呼ばれるのに値しません。
イエスキリストはこのように語っています。
「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
(マタイの福音書18章20節)
あなたがたは、二人の盗人の間でイエスが十字架に掛けられたときのことを思い出すはずです。
二人のうち一人が救われました。
その一人が信仰によってイエスに悔い改めたのです。
イエスが死人の中からよみがえられた時、弟子たちは二階の広間に集まっていました。
「イエスが来られ、彼らの中(真ん中)に立って言われた。」
(ヨハネの福音書20章19節)
ヨハネの黙示録第5章で、ヨハネは小羊を見ました。
「さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる。――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。」
(ヨハネの黙示録5章6節)
この場所は、ずっと主イエスの場所です。
その真ん中に立つ場所があります。
神は真ん中にイエスを置きました。
私たちは黙示録の章に戻りましょう。
「その目は、燃える炎のようであった。」
(ヨハネの黙示録1章14節)
ヨハネは、このような姿のイエスを、地上で知ったわけではありません。
しかし、イエスがパリサイ人を非難した時は例外です。
今、彼を受け入れないすべての者は、イエスの目が燃える炎となるのを見ることになることを思い出すべきです。
この燃える炎の目から隠れるものは何もありません。
この目は、あなたが隠そうとする、全てのことを悟っています。
すべての者は光の中に出て、裁きを受けるのです。
すぐにでも、イエスはあらゆる裁きを行うことができるのです。
もし、あなたが初めて神に出会うのであれば、あなたのたましいにあるすべての罪を心に背負い、神に会わなければならないことを知っているでしょうか?
もう、あなたは神と会っていますか?
もし、あなたがたが最初に神に会う日が裁きの日であるなら、それでは遅すぎます。
最初に、この地上で神に会うことができます。
信仰によって神と出会うことができるのです。
その時に自分に良いところがあるように見せないでください。
あなたがたがありのままの姿で、何の願いもなしにただ来るべきなのです。
ただ、キリストが罪人の救い主であり、あなたがたを招いておられることを知ってください。
あなたはその目が燃える炎のようであるのを見ます。
あなたがたのたましいの深みをのぞきこみます。
しかし、あなたは恵みに満たされて、あなたがたを神のもとに引き寄せます。
続けて、ヨハネの記述を見ていきましょう。
「その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり」
(ヨハネの黙示録1章15節)
旧約聖書ではしんちゅうは裁きの象徴です。
幕屋の前にある青銅(しんちゅう)の祭壇は、その上で神のさばきの火が絶えず燃えていました。
それはしんちゅう製です。
ここでキリストはしんちゅうのような足を持っています。
また、神の道は義のうちにあってゆるがないからです。
述べられている特殊な金属は、実際には非常に硬い銅合金です。
しんちゅうは火に耐えられるからです。
聖書全体を通して、しんちゅうが裁きの象徴であることがわかります。
すべての真理と義に反するもの上にキリストの足が置かれる日が来ます。
すべての聖くでないものは神の裁きによって踏み消されます。
また、このように記されています。
「その声は大水の音のようであった。」
(ヨハネの黙示録1章15節)
海辺の崖に立って、たくさんの水の音を聞いてみてください。
その迫力に圧倒されます。
埠頭に立つと大きくて強そうに見えるタンカーも、海が怒りを爆発させると無力に見えます
その声は海のうねりのようであり、力のある声です。
恵みの中にあって出されたその力は、あなたの救いを意味します。
裁きの中に出される力は、あなたの永遠の裁きを意味します。
今、神の声を聞くならば、あなたは死から生に移ることができます。
キリストはあなたの哀れな魂に語りかけています。
一瞬にしてあなたの心、たましいを新たに創造することができるのです。
ここでキリストがこのように言っています。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。
そして、聞く者は生きるのです。」
(ヨハネの福音書5章25節)
神の声を聞き、神の言葉を信じ、あなたは生きるのです!
あなたは力の声を聞いたでしょうか?
やがて、主の民は、地の果てから、同じ力強い声が彼らを呼ぶのを聞くことになります。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。
それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。
このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
(テサロニケへの手紙第一4章16、17節)
このようにキリストにある死者がまずよみがえり、生きている聖徒たちが変えられるのです。
時には、クリスチャンは落胆することがあります。
その時、大水の音のように、その声が、天から語られるのです。
「私の愛する人よ、起きなさい。
そして、出てきなさい。」
私たちは空中でキリストに会うために一瞬で捕まえられます
「また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」
(ヨハネの黙示録1章16節)
星々は、神の聖徒たちのために働く奉仕について語っています。
星々は神の光によって輝き、この世界で神のために責任を負ってるのです。
多くの人を義に導く者は、星のようにとこしえに輝くのです。
「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」
(ダニエル書12章3節)
ヘブル人への手紙にはこのようにあります。
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
(ヘブル人への手紙4章12節)
これは神の言葉です。
人間は両刃の剣を軽々しく使っているが、それが力強く、抵抗できないものであることがすぐにわかるはずです。
キリストの顔は「顔は強く照り輝く太陽のようであった。」
「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。」
(マラキ書4章2節)
タルソスのサウルが打ち負かされた時、彼が見たものを思い起こさせます。
それは太陽の輝きよりも明るい光でした。
まさに、それはキリスト·イエスの御顔における神の栄光でした。
ヨハネはこれを見て、その足もとに足もとに倒れました。
「それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。」
(ヨハネの黙示録1章17節)
しかし、イエスは右手をヨハネの上に置いてこのように言われました。
「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」
(ヨハネの黙示録1章17、18節)
死とは何でしょうか?
霊のない肉体です。
「霊のない肉体は死んでいます。」
聖書には魂の眠りのようなものは存在しません。
その人の霊は墓の中にはいません。
体は墓に葬られます。
しかし、霊は見えない世界にいるのです。
ハデスは肉体を持たない霊の状態で存在しています。
キリストは死とハデスの鍵を持っています。
「また、死とハデスとのかぎを持っている。」
(ヨハネの黙示録1章18節)
19節は、ヨハネの黙示録の3つの区分について語られています。
「そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。」
(ヨハネの黙示録1章19節)
「あなたの見た事」とは、ヨハネの黙示録の最初の区分に記されている事柄である。
「今ある事」は次の2章につながっています。
そして、二つ目の区分を構成しています。
また、現在のディスペンティーション(時代)と関係があります。
また、7つの教会は、使徒の時代から主イエスの再臨までの信仰を告白する教会の歴史の全体像を私たちに示しています。
この2つの章は、地上の教会の状態を7つの異なる期間に分けて描いています。
教会の歴史は、イエスが明るく明けの明星として来られる空中携挙の時に終わります。
その出来事によっては現在のディスペンティーション(時代)を閉じられます。
「この後に起こる事」とは4章から最後までになります。
黙示録の3区分の最後の区分になります。
教会の歴史が終わった後に起こることです。
大患難時代と王国と、そして永遠の御国です。
このことは次の章から語ることにします。
講義3 7つの教会 2章
では、2章にある最初の4つの教会に宛てた手紙を見てみましょう。
最後の挨拶で、私はこの本の構成の鍵が1章の19節であることを明確にしました。
「そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。」
(ヨハネの黙示録1章19節)
すでに、私たちは使徒ヨハネが見たことに心を奪われています.
すなわち、この書の最初の幻、すなわち、彼が燭台の真ん中で栄光に輝く図表にあるように主を見ました。
三つ目の区分は、4章の冒頭の言葉にはっきり示されています。
「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。」
(ヨハネの黙示録4章1節)
当然ながら、単純に二つ目の区分は2章と3章となるのです。
「ある事」とは、現在形で時間が続いていることになります。
黙示録の中で、現在の教会時代に関係しているのはこの部分だけと見ています。
しかし、それらはみな、私たちの教えと戒めと励ましのために書かれたのです。
現実に、本当の黙示録の価値はここにあると私は信じています。
今、私たちが成長中の苗木とするのであれば、完全に成長した木を見ることは希望です。
そして、現在起こっているさまざまな運動を正しく判断するためには、この本が必要です。
もし、私がこの本の教えの何かを知らなかったとしたら、私自身、確信しています。
今では、完全に信用できなくなった多くの運動と結びついていたかも知れません。
黙示録を注意深く研究することによって、私は彼らの最後がどうなるかを理解することができるからです。
私に説明させてください。
誰かが、いわゆる「教会連合の計画」について尋ねていました。
すべての教会が一つになれれば、素晴らしいことです。
一つの大きな組織になれば、それは素晴らしいことではないでしょうか?
誰もが同意できるように書かれた共通の教義を受け入れることに同意し、キリスト教の恥部である分裂を終わらせることができるのです。
さて、なぜそのようなことが実現しないのでしょうか?
これこそ、わたしたちの主の御祈りが成就された姿のはずです。
私はそのような提案に心が捕らわれてしまうかもしれません。
しかし、私はヨハネの黙示録を見て、神の教会が主イエス・キリストの元に引き上げられた後に、このような宗教的連合が起こることを学びました。
17章では「大バビロン」と呼ばれています。
これは大きな世界教会です。
現在の運動は、そのための準備にしかすぎません。
ヨハネの黙示録の中で、天からの光がそれを照らすことが出来るのであれば、私はこのように言いたいのです。
もし、このような道をたどって終わりに向かっているのであれば、すべきことは今はそれに関与しないことです。
さまざまな組織の統合ではなく、悪からの分離が神の命令です。
このように、預言の書が現在進行中の出来事や運動に、未来の光を投げかけることができます。
それは、私たちが警告を受け、神の心に背くものから守られるためなのです。
「ある事」の勉強を始める前に、このたとえ話をしたいと思います。
かつて、昔、古城を物色している人たちがいました。
彼らは、頑丈なドアをロックしているとても奇妙な古い鍵を見つけました。
彼らはドアを叩き、揺り動かして開けようとしましたが、開けることができません。
また、あれこれと錠を動かそうとしたが、開けることができません。
やがて、誰かが床のゴミの中から古い鍵の束を拾ってきました。
その人は「きっと私はそれを開けることができる」と言いました。
彼は一つの鍵を試してみたが、何の反応もしません。
彼は別のものを試してみては、少し動いた、
そして、別のもう一つの鍵を試しては、またもう少し動いたと言いましたが、鍵は開くことがありませんでした。
ついに彼は奇妙な古い鍵にたどり着きました。
彼はそれを鍵に滑り込ませ、回すと、鍵は開きました。
彼らは「間違いなくこの鍵は、この扉のためのものだ」と言いました。
1章20節にある七つの燭台について不思議なことが言われていることに注目すれば、私のたとえが理解できるはずです。
アジアの七つの教会を象徴する七つの燭台には謎がありました。
ある者は一つの鍵を試し、ある者は別の鍵を試しました。
このように、この謎を解明するためにあらゆる種類の努力がなされたのです。
聖書の敬虔な学者たちがこの部分を考慮しても、何の解決策は見つかりません。
黙示録の先ほどの聖句では「ある事」を示しています。
ならば、神はここで教会の全教式についての預言的な歴史を喜んで私たちに与えてくださっているはずです。
「でも、鍵は錠に合うのでしょうか?
彼らは教会の歴史の最初の部分をエペソへの手紙と比較しました。
これは完璧に適合していました。
彼らは続けて、スミルナへの手紙を教会の歴史の二つ目の部分と比較しました。
その一致は最も明白でした。
彼らは最後まで進み、ラオデキヤにたどり着き、ラオデキヤの教会に対して書かれていることが、私たちが生きている時代の信仰告白をする教会の状態と正確に一致していることを知ったのです。
彼らは言いました。
「これで謎は解明されました。
鍵が開きました。
したがって、我々は正しい鍵を持っているのです。」
私自身は、これらの手紙を七つの教会に送ったのは、まさにこれが主の御心であったことに疑いを持っていません。
7つの教会が選ばれたのは、聖書では7が完全数であるからです。
しかし、この七つの手紙を読んで、信頼できる教会の歴史を読むのなら、どれだけ鍵が完璧に錠前に合うのかを自分で調べれば良いのです。
教会の名前も重要です。
これらの名前の順番を逆にすることはできません。
順序が変更されるのであれば適合することはできません。
最初のエペソで言うのであれば「魅力的な」という意味です。
ギリシャ語で好みの「乙女」を指す言葉です。
エペソは、主がご自分の手に星を持ち、教会の働きを支配されていた最初の頃の教会の姿を私たちに示されています。
主は、御心のままに、教会をあちらこちらに遣わしてました。
主の恵みによる喜びの福音を宣べ伝え、聖徒たちに仕えさせたのです。
しかし、人間の組織はそれを大きく変えました。
主は諸教会の真ん中を歩いています。
主の目はすべてのものに注がれました。
そこに主はおられ、戒め、矯正され、また治められたのです。
見よ、初めは御名が唯一の中心であり、聖徒たちは御名のもとに集められていました。
2、3節を読んでみましょう。
「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。
また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」
(ヨハネの黙示録2章2、3節)
初期の教会は世から切り離されて歩いていました。
ギリシャ語の「エクレシア(εκκλησια)」は、聖書では「教会」と訳されていますが、召された集まりを意味しています。
召された集まりが神の理想なのです。
教会と世を融合させようとするあらゆる努力は、神の心に反するものであり、混乱に終わるはずです。
それは、現在の時代(ディスペンテーション)では、教会は世界を悔い改めさせることができないからです。
ある時、ある人がA・T・ピアソン博士に尋ねました。
「世界はすでに悔い改めつつであると思わないでしょうか?」
彼は答えました。
「なるほど!
でも、確かに世界が少し教会的になったことは認めるが、教会は非常に世的になったのです。」
もし、教会が世界を悔い改めさせることができるなら、それは教会の終わりです。
それはどういう意味でしょうか?
単純に、教会は召された集まりです。
もし世界が悔い改めたのなら、召された教会のために何が残っているでしょうか。
エペソの時代には、信者たちは悪人たちに耐えられませんでした。
現代では、教会の訓練はほとんど終わりに近づいています。
多くの地域では、信用される銀行口座さえ持っていれば、誰でも教会のメンバーとしての特権に完全に参加でき、歓迎されていました。
しかし、最初は全く違っていたのです。
エペソ人の小集会は「聖さを求めない者の数はいりません。
聖さを犠牲にした成長は望まない」と述べています。
このように、彼らは真実に忠実でした。
彼らは、使徒と称する者を試みました。
だが、彼らが偽信者であることが分かると、嘘付きである者として拒否しました。
「こんにちは、先生のことはご存じだと思います。
ある人たちが、素晴らしい勧めをしてくれています。
この人はとても素敵な人で、すばらしい教養のある人です。
しかし、処女降誕や、キリストの神性、キリストの贖いなどを信じているわけではありません。
それでも、彼には良いところがたくさんあります。
私たちは彼に厳しい態度に対応してはいけません。」
初期の教会はこのように語ったのです。
「あなたは主イエス・キリストのしもべですか?」と真面目な質問をするのです。
もし、彼が告白しているような人でなかったなら、彼らはすぐに彼の正体を暴き、彼の邪悪な務めを拒みました。
はたして、現在の教師たちはその違いを暴くことが出来るでしょうか?
信仰を告白する教会は、多くの真理を否定する者たちとの違いを知ることさえできません。
ああ、始めの熱意と信心深さをもっと求めるのです!
3節では、これらの聖徒たちが主イエスの御名のために苦しんでいたことを学びます。
「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」
(ヨハネの黙示録2章3節)
それはいかなる教派の名前のためにも、もしくは、いくつかの特別な神学的な考え方のためにも苦しむことではありません。
それはキリストのための苦しみです。
彼らは御名のために試練を受け、迫害に耐えたのです。
それも、早期に衰退していったことが証明されています。
4節にこのようにあります。
「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」
(ヨハネの黙示録2章4節)
彼らは初めの愛から離れてしまったのです。
心はキリストから離れていったのです。
教会の最初の時代に始まった衰退は続いています。
そこでは集まりの回復は見られていません。
この衰退の霊は、現在のラオデキア時代まで増え続けています。
次の手紙では、変わることのない主の愛が、ご自分の民を無気力から目覚めさせるために、ある出来事が許されたことがわかります。
「また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。
「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。
――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。」
(ヨハネの黙示録2章8、9節)
スミルナは没薬という意味です。
聖書では、死体の防腐処理についてたびたび言及されています。
没薬はその香りを出すために砕かなければなりません。
このことは、教会が異教のローマの鉄のかかとの下に押しつぶされた時代を示しています。
絶え間ない殉教の二世紀ほど、神に甘い香りを放ったことはありません。
聖書はこのように語っています。
「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。」
(ヨハネの黙示録2章8節)
なんと祝福されたことでしょうか!
神の子どもたちが復活されたキリストと結びついているのです。
復活の力が彼らの中で働いています。
「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。」
(ヨハネの黙示録2章9節)
教会が憎まれ、違法とされ、迫害された時代でした。
立派な建物の中で礼拝するのではありません。
彼らは洞窟やカタコンベなどの隠れた場所に集まり、敵の接近を警告するために見張りを置いたのです。
世界から嫌われ、キリストへの信仰と忠誠のゆえに帝国の敵と非難されました。
それでも、彼らの命は神にとって貴重なものです。
しかし、彼の目には富んでいました。
彼らはこの世の物には乏しかったのですが、信仰は富んでいました。
しかし、その時でさえ、すべてが完全なものではありません。
ゆえに聖書はこのように語っています。
「またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。」
(ヨハネの黙示録2章9節)
初期の教会に入ってきたユダヤ化運動について語られています。
これはガラテヤの教えのパン種であり、完全に裁かれることはなかったのです。
それどころか、二、三世紀に驚くべき進歩を遂げています。
主は言われています。
「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。
見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。
あなたがたは十日の間苦しみを受ける。」
(ヨハネの黙示録2章10節)
重要なことは、ローマの迫害はネロに始まり紀元312年に終わった二世紀にわたっています。
そこには10の異なる布告がありました。
総督はさまざまな場所でクリスチャンを探して処刑することを要求していました。
最後はディオクレティアヌスの時代でした。
彼は十人目の迫害者です。
初期のクリスチャンたちはディオクレティアヌスが最後だと信じていました。
そして、実際にそうでした。
アウグスティヌスは「殉教者の血は教会の種である」と言いました。
殉教者たちの中に示された真理の言葉、行動に説得力がありました。
死に至る人々の証言は彼らを迫害していた者たちに主イエス・キリストを救い主として受け入れるように導いたのです。
迫害によってクリスチャンを破壊しようとしたサタンの努力は無駄だったのです。
その時代、クリスチャンでなることに意義があったのです。
神の民が没薬のように砕かれるのならば、驚くべき献身の甘い香りがするのです。
クリスチャンの愛の香りが、神の御座にまで立ち上ります。
ペルガモスには二つの意味があります。
それは 「結婚 」と「昇る」という意味です。
教会が権力の座に昇り、世と結婚していた時代を語っています。
コンスタンティヌスと彼の後継者たちのもとで、教会と国家が一つになった時代を描いています。
12、13節を読んでみましょう。
「また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。
「鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。
「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。
そこにはサタンの王座がある。
しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。
(ヨハネの黙示録2章12、13節)
主イエスは御言葉によってすべてを裁かれます。
主が語られた御言葉は、終わりの日に人を裁くのです。
今、信仰を拒むのであれば、その時に裁かれます。
主は「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている」と主は言われます。
そこはサタンの王座です。
スミルナのクリスチャンに聞いたら、ローマの皇帝の王座を教えてくれるでしょう。
ペルガモでは、皇帝の王座に神の教会が座っています。
どうしてそうなったのでしょうか?
ローマの歴史や教会の伝統に詳しい人なら、ディオクレティアヌスとガレリウスの死後、コンスタンティヌスとマクセンティウスが王位をめぐって争ったことを思い出すはずです。
コンスタンティヌスは火の十字架の幻を見たのです。
そして、「このしるしは征服せよ」というしるしだという声を聞いたと言われています。
彼はその幻が何を意味するのか考えました。
彼はこのように語っています。
「十字架はキリスト教の象徴だ!
そうだ、クリスチャンの神がキリスト教の王者になるようにと彼を召されていることを意味しているに違いない。
この声に従えば、マクセンティウスの軍勢に勝利し、世界の皇帝になれるはずだ!」
コンスタンティヌスはキリスト教会の司教たちを呼び、彼らの信仰について説明するよう求めました。
彼は新しい教義を受け入れ、神に任命された守護者であると宣言しました。
このコンスタンティヌスの改心を重視する著作家もいます。
しかし、キリスト・イエスを信じる信仰によって神の子どもとなったかどうかは、疑わしいことです。
コンスタンティヌスは敵に大勝して世界の皇帝となりました。
彼の最初の行動の一つはクリスチャンを解放し、すべての迫害を止めることでした。
コンスタンティヌスは司教に特別な栄誉を授けました。
司教たちは帝国の貴族と一緒に王座に座ったのです。
キリストの再臨の真実が断念されたのはこの時でした。
コンスタンティヌスの時代以前、教会はキリストを求めていました。
キリストの再臨が教会の期待であり希望でした。
しかし、彼らの環境が大きく変化してしまいました。
後に、この真実はほとんど見失われてしまいました。
キリスト教会の司教たちはこのように言ったのです。
私たちはキリストの支配を求めてきましたが、間違っていました。
コンスタンティヌスの帝国はキリストの王国です。」
彼らは教会がすでに世界を支配していると考えています。
それは宗教改革の時代まで続きました。
そうです、宗教改革によって、再び光が明け始めました。
興味深いことに注目してください。
主が「あなたの住んでいる所を知っている。
そこにはサタンの王座がある」と言っています。
続けて、主は「あなたは、わたしの名を堅く保って、わたしに対する信仰を捨てなかった」と言っているのです。
ここには非常に注目すべきことがあります。
キリストは、彼らがサタンの王座にすわっているのを見て、御名を堅く保っていることを賞賛しています。
まさに、アリウス論争が争われた時でした。
アリウスは御言葉の永遠性を否定しました。
ヨハネは「初めに御言葉があった」と言っています。
神は常に存在しています。
初めにすべてのものが始まった時、そこには御言葉がありました。
アリウスは御言葉が、神から発せられたすべての存在の中で最も偉大なものであると宣言しました。
彼の反対者たちは、言葉は父と一つであり、一つの永遠の三位一体の中にあると主張しました。
父と御子と聖霊、それは三つの人格で一つの神ということです
この問題は教会がこれまでに直面するように求められていた最も大きな問題です。
1世紀以上にわたって、この熱い問題は至る所で熱い論争を引き起こしたのです。
何年もの間、教会は「ホモイオシアン(ομοιοσιανός)-同じ種類」と「ホモウシアン(ομοουσιανός)-同じ存在、一体」という二つの言葉のためにばらばらになっていました。
最初はアリウスの戦いの叫びでした。
アレクサンドリアの司教アタナシウスによって率いられた2番目の正統派です。
両者はあまりにも平行線をたどっていたおり、対立していました。
ついにコンスタンティヌスは自らこの問題に関与することに決めました。
大教会会議を招集してニケア市に召集し、使徒の教えが実際には何であったかという問題を協議しました。
イエスは本当に神だったのでしょうか?
それとも神が生み出した最高の被造物にすぎなかったのでしょうか?
300人以上の司教たちが集まりました。
金の王座に座ったコンスタンティヌス、もしくはポンティフェックス・マクシムスは公認されたキリスト教会の長として指揮しました
ポンティフェックス・マクシムスの意味は、異教徒の大司祭の称号という意味です。
現在の教皇と同じ称号です。
問題は四方八方から検討されました。
くりかえし、コンスタンティンは騒乱を静めるために呼ばれました。
彼らの感情は高ぶっていたのです。
あるときには、優秀なアリウス派が反対派をほとんど黙らせ、大集会がこの忌まわしいユニテリアンの異端に賛成票を投じようとしていました。
その時、アフリカの砂漠から来た仙人のような人が、虎の皮をまとい立ち上がりました。
そして、革紐を背中から引きちぎりと、大きな傷があらわになり、劇的に泣きだしました。
その傷は、闘技場に放り出されて獣たちに囲まれ、獣たちの爪で背中をひどく傷つけられた傷でした。
そして、このように言ったのです。
「これらは主イエス・キリストのしるしです。
私はこの偏見に満ちた侮辱を聞くことはできません。」
それから彼は、キリストが永遠の神のであるという真理をはっきりと述べました。
彼は心を揺さぶる演説を続け、会議の大多数は、それが確かに神の霊の声であることを悟りました。
この話が真実であるのかどうかは、私は言うことはできません。、
しかしながら、出席していた多くの人たちのほとんどがディオクレティアヌスのひどい迫害を経験した人たちでした。
そして、その気持をよく表しています。
その結果、ニケア公会議は、私たちの主イエス・キリストは真実な神を公に告白しました。
キリストは「まさに神の神」、「非常な神の非常な神」、「光の中の光」、「完全の中の完全」、神と人は祝福された一人の人格であり、決して分離されることはありません。
このようにして、神のことばを堅く保たれました。
御名を否定しない神の教会の公認された信仰が、公の方法で、永遠に定まったのです。
公会議が別の方法を決めていたらどうなっていたか考えたことはあるでしょうか?
それは何を意味していたのでしょうか?
三位一体を否定するユニテリアン主義は正統派の印を受け、キリストの神の真理は異端の烙印を押されたことになったはずです。
上に引用した聖句の後半で、アンテパスが誰について言及されているかについては記録がありません。
しかしながら、「アンテパス」の意味が「すべてに反対する」という意味であることには意義があります。
ニカイア公会議から何年もたって、アリウス派が再び優勢になりました。
ある時、真理を説く勇敢な老僧であるアタナシウスがアリウス派の皇帝テオドシウスの前に召喚されました。
皇帝テオドシウスはアリウス派の教えに反対するのをやめるよう要求しました。
しかし、アリウスはすでに死んでいました。
そして、アリウスの民を主の食卓に着くことを許可しました。」
この容認にアタナシウスは拒否しました。
テオドシウスは彼の不従順な精神を激しく非難しました。
そして、厳しく尋ねたのです。
「全世界があなたに反対していることを知らないのか!」
そこで、この真理の保護者は身を起こして、 答えました。
「それでは、わたしは全世界に敵対します。」
彼こそが真実なアンテパスです。
追放や様々な反対にもかかわらず、彼は死に至るまでも忠実に証しをしたのです。
ああ、私の兄弟たち!
今日において、神は、このような人々、すなわち、真理のために喜んで立つ神の人々を望んでおられます。
必要があれば、全世界を相手に敵にすることもします。
ここでペルモスの教会の別の側面について考えてみましょう。
バラムの教えと教会でのニコライ派の教えの導入についてです。
「しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。
バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。
それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。
(ヨハネの黙示録2章14、15節)
民数記25章1~9節に記録されているように、バラムはバラクに、ミデヤン人の女性たちと不敬な関係を結ぶように導き、イスラエルの子たちの前につまずきを投げかけるようなことを教えたのです。
これは教会と世界の結合の描写です。
スミルナ時代、サタンは迫害によって教会を滅ぼそうとしました。
サタンは、次の3世紀において異なる戦術を試みました。
外からの世界的な保護と内部からの誤った原理の導入によって証しを破壊しようとしたのです。
公に教会が世界から反対している時より、世界から保護されることははるかに危険です。
キリスト教支配の異なる教派のいずれにおいても同じ事が起きています。
主のためにクリスチャンたちが最も輝いていたのはどの時代ですか?
それは二人の初恋の日々のことです。
二人は世に苦しみ、その激しい迫害の対象となっていました。
それらの時代が過ぎ去り、迫害が終わりました。
世界が安心して彼らを見始め、手を差し伸べて笑顔で彼らを迎えた時に、剣や迫害者ではなく、あらゆる面で衰退が始まったのです。
そう、ペルモス時代です。
コンスタンティヌス皇帝の保護は、ディオクレティアヌスの迫害ができなかったことをしたのです。
教会はやがて来られ、今は不在の主に仕える純潔な処女としての召しを忘れてしまいました。
教会はイエスをはりつけにした世に結婚の手を差し出したのです。
結果、教会は堕落させられました。
このようにして、教会は後悔しようのない不敬な同盟を世と結んだのです。
そして、ニコライ派の教えの中に間違った原理が導入されていますが、このことに密接に関連しているのです。
「ニコライ」という意味が「人々の支配者」を意味する未翻訳のギリシャ語だと指摘する人もいます。
ニコライ主義とは、軽蔑して「信徒」と呼ばれていた人々を、階級的秩序によって、自分たちの所有物として支配し、服従させようとする聖職者による差別主義です。
彼らは次の聖句を忘れています。
「あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。」
(マタイの福音書23章8節)
エペソの教会への手紙の中で、主は彼らがニコライ派の人たちの行ないを憎んでいることを、賞賛しています。
「あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。」
(ヨハネの黙示録2章6節)
彼らはデオテレペスのように、支配者であることを愛していました。
「私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません。」
(ヨハネの手紙第3 9節)
しかし、ペルガモの手紙では、ニコライ主義を明確な教えを制度として明確にしています。
それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。
(ヨハネの黙示録2章15節)
これは、聖職者は神に由来するものとして受け入れ、従わなければならないというものです。
次の手紙に見ればわかるように、これらがテアテラの時代への道を整えたのです。
すでに指摘してきたように、これらの名前はどれも重要な意味を持っています。
テアテラの意味が、おそらく最も難しいと思われます。
学者によると、それは2つの言葉から来ていると言われています。
一つは「香のささげ物」です。
もう一つは、「継続して続くもの」です。
ここで推奨される解釈は「継続的な犠牲」です。
これは非常に重要なテーマです。
なぜなら、疑いなくテアテラはすでに注目しているように教会と国家の結合の時代を示しているからです。
ローマの教皇がキリストの代理とされていますが、目に見える教会の長として初めて公式に認められたのは7世紀のことです。
正確に言えば、これが教皇政治の始まりです。
ローマ教皇が公認されたキリスト教世界の長になるまで、本当の意味でのローマカトリック教会はなかったのです。
プロテスタントの方々はこのことを心に留めておくことが大切です。
あなたはローマ主義者がこのように言うのをよく耳にするかも知れません
「最初の教会はローマ・カトリック教会です。
プロテスタント教会の分派が、ローマから分離したのはご存知のはずです。
ルターの時代までプロテスタント教会はなかったのです。」
それは全くの詭弁です。
西暦7世紀まで教皇というものは存在していません。
その前の6世紀の間、教会はますます腐敗していき、神の言葉から遠ざかっていました。
そして、7世紀には、自分たちは神のしもべであると公言する人々が現れ、教皇をすべてのキリスト教支配の国の長として認める準備ができていました。
あるローマカトリック教徒が優秀なプロテスタントの女子学生にこのように尋ねました。
「ヘンリー8世の時代以前にあなたの教会はどこにあったのですか?」
その懸命な正しい答えは「聖書の中には、あなたの言う教界はありません」なのです。
それは、7世紀のローマの教皇の主張を認める準備ができていた教会は、純粋な初期キリスト教の単純さとはかけ離れていました。
私はテアテラが「継続的な犠牲」を暗示しているように見えると言いました。
このことの重大さは、ローマの教会が根本的に犯した大きな過ち、すなわち、ミサのいけにえの犯した教義からもわかることです。
ローマカトリック教会の司祭は、ミサの中で、生きる者と死者の罪のために継続的な犠牲を捧げると宣言しています。
ローマ教会の他の誤りはこのことから生じているのです。
見ているのであれば、プロテスタント教会の中でも、このことを認めている教会はたくさんあります。
しかし、これが確信的な、根本的な冒涜なのです。
つまり、カルバリの十字架での主イエスの完成された御業の否認です。
世界の罪のためのささげ物は、唯一で完成されています。
つまり、司祭がローマの祭壇に立ってミサのいけにえをささげるたびに、カルバリの十字架上で主イエスが成し遂げられた永遠の働きを否定しているのです。
私はよくカトリックの司祭たちにこのように質問をしてきました。
「ささげ物をささげる司祭として、あなたの役割は何でしょうか?」
彼らは「わたしは、生きている人たちと死んだ人たちの罪のために、絶えず主イエスをささげ続ける特権を持っています」と言います。
私は一般的に次のように表現しています。
「キリストがささげられるためには、ほふられなければなりません。
彼はほふられなかったのでしょうか?
答えは「ほふられたのです。」
「では、あなたがたは、ミサのいけにえをささげるたびに、祝福を述べるたびに、生きている人や死んだ人の罪のためにキリストをいけにえにしていると言うのですか。」
「はい、その通りです。」
「では、そのいけにえをささげるたびに、またキリストをほふるのですか!
「それから、彼らは主張の弁護を始めました。
しかし、この恐ろしい結論から逃れることはできません。
ローマの司祭は、ミサのいけにえをささげる時、生きている人と死んだ人の罪のためにくりかえしキリストをささげていると主張しています。
「その通りです。」
キリストがささげ物になる唯一の方法はほふられることです。
それで祭司は、ささげるたびに、新しくイエスをほふるのです。
彼らはそこから逃げることができずに繰り返すのです。
使徒ペテロはペンテコステの日にこのように語りました。
「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」
(使徒の働き2章23節)
もしキリストが絶えずささげられなければならないのなら、すべての祭司たちは神の目前で主イエス·キリストを殺すという罪を犯しているのです。
やがて、神はローマを裁こうとしていますが、テアテラへのキリストの手紙は、ローマ教会に対するこの冒涜について適切に語っています。
継続的なささげ物?
絶対に!他のささげ物は必要としていません。
主の尊厳は大きく、主の血の価値は無限です。
あなたがたにとっても、ほかの人にとっても、新しいいけにえのことを語るのはむなしいことなのです。
あなたは「私もそう思います」と言うかもしれません。
では、お尋ねしたいことがあります。
あなたがたは、かつて十字架の上でささげられたあのささげ物に、個人的な関係を持っているのでしょうか?
「神に感謝します。
キリストは私の罪のためになだめになられました。
キリストは私の救い主です。」と言うことができますか?
他にささげ物は必要ありません。
私の魂はキリストの完成された御業の上にあります。
それ以上、神の御前に行くために必要なものは何もありません。」
テアテラへの主の言葉に目を向けてみましょう。
「また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。
「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。」」
(使徒の働き2章18節)
教会にはそれぞれ特殊な条件がありながらも、これらの手紙の一つ一つにおいて主が御自身を示されていることはとても重要なことです。
主はテアテラの教会に向かってを語るとき、自分を「神の子」として威厳をもって語っています。
なぜ「主イエス・キリスト」は、ここで神であることを強調しているのでしょうか?
ローマではイエスをマリアの子と考える慣習があるからです。
かつて、私はキリストや御父のもとに行くよりも、マリアのもとに行きたいと言った女性と話したことがあります。
彼女はこのように言うのです。
「母親ほど息子に影響力のある人はいない。
もし、イエス・キリストが少しかたくなになるかも知れません。
その時、私は彼の善良で親切な母親のところに行きます。
彼女は私のために主に良い言葉を送るように頼んでくれます。」
何と、私たちの主イエス・キリストが風刺的に捉えられています。
主の歓心を得るために他の人のところに行かなければならないことを考えてみてください。
他に誰が彼に匹敵するのでしょうか?
キリストは、貧しい罪人を救うために無限の恵みをもって来られた神の子ではなく、マリアの子の地位におとしめられたのです。
しかし、彼の姿を見てください。
「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのよう」です。
これは神の聖さと義を語っています。
主はすべての悪を裁かなければならない存在です。
しかし、主は賞賛されるべき点を見逃してはいけません。
「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。」
(使徒の働き2章19節)
主はローマが多くの良いことをしていることを認めています。
7世紀から現在に至るまで、ローマカトリック教会には見過ごすことのできない多くの善行があったことを思い出してください。
ローマカトリックの修道女や修道士の中には、貧しい人や病人のために命を捨てる覚悟のある人もいたのです。
ルター以前には、西ヨーロッパのローマカトリックの修道院や修道院が、病院であった時代が何世紀もありました。
主はそのすべてを忘れていません。
少しでも信仰があれば、神の慈愛はその善行に注目しています。
例え迷信の中だとしても、祝福された主ご自身に手を差し伸べる心がローマ教会にあるとすれば、主は恵みのうちに彼らに応え、愛を示されるのです。
しかし、このように語った後に、主は痛いところに指を置きます。
「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。
この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。」
(使徒の働き2章20節)
これをよく理解するには、アハブ王の時代のイスラエルの歴史に戻る必要があります。
イゼベルはかき混ぜる達人でした。
イゼベルはイスラエルの宗教とフェニキアの宗教を一つに統合することを引き受けました。
カトリックに適応させるのであれば、まさにローマ主義であり、異教徒主義とキリスト教とユダヤ教の混合です。
キリスト教ではありません。
しかし、キリスト教的な要素はかなり含まれています。
その迷信や偶像崇拝はどこから来たのででしょうか?
異教徒を改宗させるためという訴えのもとに、あらゆる異教から本体を引き継ぎました。
教会は異教徒に対して、とても友好的になりました。
4世紀、5世紀、6世紀には、教会が異教徒の儀式や慣習に妥協していたことがわかります。
7世紀においては、異教徒とキリスト教の寺院を見分けることはほとんどできなかったと言われています。
その統合は、それぞれを切り離すことがほとんど不可能だと思えるほどです。
ローマカトリック教会に行って、儀式を眺めて座って見てください。
その後、聖書を持って端から端まで調べて自分に問いかけてください。
「聖書の中にそのようなことが書かれていますか?」
きっと、あなたは「いいえ」だと言うはずです。
では、それはどこから来たのでしょうか?
そこから、異教徒の神殿に行ってください。
そして、これらの儀式を観察して見てください。
そうすれば、「そう、これらの儀式は同じだ」と言うはずです。
ロ―マ主義は、キリスト教、ユダヤ教、および異教徒主義が一緒になったものです。
主は、この忌まわしい組み合わせを憎まれています。
イエスがローマに反対されている二つのことに注目してください。
すなわち、姦淫と偶像崇拝です。
最初は教会と世の結合です。
ヤコブの手紙にはこのように書かれています。
「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。
世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」
(ヤコブの手紙4章4節)
像を崇拝することは偶像崇拝の罪です。
十戒の第二戒では厳しく禁じられています。
「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、」
(出エジプト記20章4、5節)
神は彼女に悔い改める余地を与えたました。
しかし、彼女は悔い改めません。
イタリアのサヴォナローラ、イギリスのウィクリフとクランマーの時代に戻って見てみましょう。
スコットランドのジョン・ノックス、ドイツのマーティン・ルーサー、スイスのツウィングル、フランスにはカルヴァンがいます。
神は、これらの力ある改革者たちを、ローマに自分の咎を悔い改めさせるために全世界に起こされたのです。
しかし、「彼女は悔い改めなかった」のです。
これらの教会を入れ替えることはできません。
スミルナの代わりにテアテラを置くことはできません。
次のように初期の時代の教会に言うことはできません。
「わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。」
(使徒の働き2章21節)
しかし、ローマ教会には完全に適用できます。
私たちの時代おいて、昔のローマが今ではテヴェレ川の土手に座っている無害な老猫だと信じている愚かなプロテスタントがたくさんいます。
彼女はとても満足そうにのどを鳴らしているのです。
そして、このように言うのです。
「私たちは決してローマを理解しない。
宗教改革の時代があったのに、残念なことです。」
そして、キリスト教のさまざまな大きな組織が、ローマ教皇が率いる一つの広大な社会に再統合する努力がなされています。
これは、プロテスタントの大きな組織の多くの指導者が公言していることです。
これらのプロテスタントはなんと愚かな人たちなのでしょうか?
長い間、邪悪な教義に敵対することをやめてきたプロテスタントがいます。
尊い真実のために犠牲になった何百万もの命を忘れてしまったのです。
教皇が再び勝利を手にし、提案された連合を支配する日が来る日がきます。
聖書に従うのであれば、人々は命を犠牲にして彼を礼拝することになります。
しかし、プロテスタントの指導者たちは、偉大な統一された教会の考えに目がくらんでします。
(1930年現在)聖書に預言された、まだ、はっきり実現しないことを示しているローマとの連合に私たちを急き立てています。
しかし、神に感謝します。
キリストの約束によれば、キリストの教会が雲の中で主と出会うために引き上げられるまでは、それは起きることがありません。
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
(ヨハネの福音書14章2、3節)
神はローマに悔い改める機会を与えました。
もしカトリックが主と仲直りしたいと思っていたなら、16世紀には後悔していたはずです。
16世紀以来、カトリックの冒涜と誤りに加えて、聖母マリアの絶対的な罪の無さを宣言しました。
聖母マリアを神の地位に引き上げ、マリアは死ぬことなく天に引き上げられ、天の女王の冠を戴いたと宣言しました。
75年足らず前のバチカン公会議で、ローマ教会はもう一つの悲惨な教義を生み出しました。
それは教皇の無謬(完全)性です。
この教義は全く根拠のないものだったので多くの司教たちは主張しました。
「これはやり過ぎです。
私たちは、教皇たちが何度も互いにぶつかってきたことを知っています。」
しかし、ローマは決して悔い改めません。
カトリックは、中世に神がカトリックに対して持っていた重い罪のリストに、罪の上に罪を追加しました。
しかし、最後まで悔い改めることはありません。
プロテスタントは彼女に触れてはいけません。
神は彼女にこのように宣言しています。
「この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。」
(ヨハネの黙示録2章22節)
このように大きな苦難(大患難)の中に投げ込むと言っています。
エペソの教会は終わりを告げました。
スミルナの教会の終わりは紀元312年頃です。
ペルガモの教会は終わりを告げました。
テアテラの教会は7世紀に始まりました。
大患難時代を経て、ついに大いなるバビロンの王として現れます。
そこにサタンについての奥義を知らない「残されたの民」がいます。
そして、このように勧められています。
「しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。
ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。」
(ヨハネの黙示録2章22節)
常にローマが国家に対して権力を求めてきました。
勝利を得る者に対して、その権力を約束します。
キリストが再び来られる時、彼らはキリストと共に支配するのです。
このように、キリストの再臨の希望が彼らの前に置かれました。
ここから、再臨がこれらの教会の手紙に対して大きな位置を占めることになります。
時間の関係で、私が望むほど十分な解説をすることが出来ませんでした。
しかしながら、神の御言葉のこの驚くべき箇所を研究するために、十分な説明がなされたと信じています。
私たちは心を奮い立たせ、自分自身で聖書を探求する必要を知る必要があるのです。
講義4 7つの教会(2回目) 3章
私はざっくりと講義を行っていますが、私以上に鋭い感覚をお持ちの方もおられるはずです。
この驚くべき神の御言葉ついて完全な解説をする必要があります。
また、あらゆる点について詳しく述べる必要があります。
しかし、時間がありません。
私は、あなた方のさらなる研究への意欲をかき立て、クリスチャンが自分自身のために御言葉を探し始めることを求めています。
そして、このテーマについて誰かが書き、何かを発表し、吟味するきっかけになるのであれば、この講演は決して無駄ではなかったと感じるはずです。
私は聖書に忠実な、キリストの誠実なしもべたちの著作を喜んでお勧めします。
「ヨハネの黙示録」にはいくつもの優れた解説が存在しています。
そして、そのどれもが、この問題をさらに研究するのに役立つはずです。
*ウォルター・スコット(Walter Scott)著、「ヨハネの黙示録(Exposition of the Revelation)」
*Wm・ケリー(Wm.Kelly)著、「ヨハネの黙示録講義(Lectures on Revelation)」
*A.C.ゲーベライン(A.C.Gaebelein)著、「ヨハネの黙示録(The Book of Revelation)」
*7つの教会については、F.W.グラント(F.W.Grant)著、「教会の預言的歴史(The Prophetic History of the Church)」を特に推薦します。
これらはすべての本はアマゾンなどで入手できます。
次に、教会の歴史に関するこの素晴らしい注釈付きのタイムテーブルを見ていきましょう。
「また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。「神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。
わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。
もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」
(ヨハネの黙示録3章1~3節)
サルデスは「残党」または「逃げた者」を意味します。
これはとても重要なことであり、間違って理解された物語であることを明確に語っています。
ローマから逃れてきた宗教改革の偉大な国教会たちが、やがて冷たく、生気のない形式主義に陥っていく様子を、預言的に私たちの前に示しています。
最初の句から、始めの原理へ戻ってきていることがある程度、明確にされています。
この教会における主御自身の紹介は、エペソへの手紙の紹介とよく似ています。
しかし、その違いは明確です。
ここでは、主の右手には7つの星を持っていると言っています。
少なくとも、務めはキリストに属するという認識です。
奉仕はキリストの奉仕であって、奉仕の牧師ではありません。
しかし、宗教改革の輝かしい時代でさえ、聖職者が人間の仲介なしにキリストによって支配され、キリストに従うという真実は十分に理解されていませんでした。
プロテスタントの聖職はローマ帝国の階級制とは大きく異なっています。
しかし、残念なことに、人間による聖職授与は、主に対するしもべの責任についての正しい概念を曇らせることに大いに貢献しています。
主は激しく宣言されています。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」
(ヨハネの黙示録3章1節)
なんとも悲しい厳しい告発です。
宗教改革の時代の祝福と復興の後で、このようなことがあり得るのかと驚くかもしれません。
国教会は、生まれた時から、幼児期のバプテスマによってキリストの教会および王国の一員となることになっています。
特定の国では人口のほとんどが教会員であることが思い起こされます。
このような教会は、おそらく威厳があり、正統的ではあるかも知れません。
しかしながら、大部分が罪過と罪に死んだ人々で構成されていることが、容易に理解できます。
バプテスマを受け、クリスチャンとして団結し、主の晩餐である「聖餐式に参加」 し、教会とキリスト教に熱心でありながら、キリストに対する個人的な救いに関係ある信仰を欠いている人々の大きな集会ほど悲しいものはありません。
神の御言葉と御霊による新生よりも、形式と儀式と「生まれながらの権利(birthright membership)」と呼んでいるものを信頼するのです。
注)生まれながらの権利(birthright membership)
親がクリスチャンならば、子もクリスチャンであるという主張です。
これは幼児洗礼によって証明されるとされています。
現在、いたるところで必要とされているのは、明確な福音宣教の大リバイバルです。
教会員であるか?ないか?ではありません。
失われている状態にもかかわらず、人々に誤った理論を押しつけることなのです。
彼らは主イエス・キリストを受け入れていません。
聖書はこのように語っています。
「土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。」
(へブル人への手紙6章7節)
そして、いばらの中に種は蒔きません。
「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」
(マタイの福音書13章22節)
私たちは昔のような改心をもっと見たいという声をよく聞きます。
さて、まず最初に、罪のひどい罪深さについて昔と同じように説かれている必要があります。
そして、キリストを知らない人々のたましいに確信が与えるまでは、すべての人が生まれながら、実際に失われた状態なのです。
もし、確信が与えられるのなら、昔からの福音が唯一の救いとして歓迎されるはずです。
主がプロテスタントにこのように言われるのも不思議ではありません。
「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。
わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」
(ヨハネの黙示録3章2節)
主は、彼らが聞いたことと受け取ったことを思い起こし、耐え忍び、悔い改めるよう呼びかけています。
さて、このことは、聖書を調べた人には明確です。
このメッセージは、サルデスの時代と同じように、テアテラの時代には適用することはできません。
この言葉がローマに向けられるなら、宗教改革の教会に向けられた時と、同じ力を持つことはありません。
彼らは何を受け取り、何を聞いたのでしょうか?
偉大な真理は、宗教改革の時代に恐れずに宣言されています。
16世紀と17世紀の教義の中で将来の世代の教えのために具現化されたのです。
そして、私は信仰の信条を表明して、時間を無駄にする人の一人ではないと言ってもいいと思います。
信条とは「信じる」ということです。
何かを信じる人には信条があります。
すべてのプロテスタント主義者の偉大な信条は、ローマの迷信から逃れた人々が作成した信仰宣言にすぎません。
彼らは神から授かった真理と理解しているものを、彼らの子供たちに明らかにすることを望んでいました。
このような信条の中に、もっと十分な光と知識があれば、拒絶したり修正したりすることも可能でした。
もちろん、このような修正された記述を見つけたとしても、驚く必要はありません。
そして、これらの象徴的な信条の中に、神の言葉のあらゆる基本的な真理が含まれていないものは決してありません
ルター派のアウクスブルク信仰告白、長老派のウェストミンスター信仰告白、英国国教会の9箇条、他にも数え切れないほどあります。
これらは皆、キリストの真実な神と、カルバリの十字架での贖いの御業の効果を主張しています。
すべての人が同じように、救いは働きとは別に信仰によってのみ得られると言うことができるのです。
繰り返しますが、これらの信条はキリスト教の基本的真理には必要なものです。
そして今日、私が今述べたような教派に属している牧師が教会の説教壇に立って、「私は教会の信条を捨ててしまった」と言うならば、それ以上に不名誉なことはありません。
もし、その人がその領域まで達したのならば、その原理を信じなくなった教会から放り出されるか、正直になって自分で出てゆくかのどちらかです。
現在の背教の最悪の特徴の一つとして、正統派と思われる何千人もの人たちが説教壇を占拠していることです。
できれば、それぞれの教派が支持していると理解されているものをすべて破壊するべきです。
私たちはこれらの信条に含まれている真理を、神に感謝することができます。
その反面、私たちは、神の言葉に従うならば、人間が作成した信条は必要ないことを認識しています。
しかし、これらの告白に照らして、私はこのように確信しています。
主がこのように言われています。
「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。」
(ヨハネの黙示録3章3節A)
主はプロテスタントに「宗教改革で彼らに約束された偉大な真理」を思い出すよう呼びかけています。
彼らをしっかりと心に留め、これまでの怠慢を悔い改めるべきです。
ここで、七つの教会への手紙の中で「近づいている主の到来」について語っています。
「もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」
(ヨハネの黙示録3章3節B)
テサロニケへの手紙第一5章とはかけ離れた表現です。
使徒は同じ驚くべき来臨について次のように書いています。
「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。」
(テサロニケへの手紙第一5章1、2節)
このように、主の来られる日が、主の愛する民の毎日の望みであることは明らかなのです。
多くの単なる教師と呼ばれる人たちにとって、イエスの再臨は人の帰りのようなものなのかも知れません。
予想していなかった人の帰りのようなものなのです。
彼らにとって、主の再臨は喜びの時ではなく、単なる失望の時になるのかも知れません。
4節の主の宣言と約束を知ることは幸いです。
サルデスの中にあっても、その衣を汚さない少数の名があります。
神は、そのような者は、神とともに白い衣を着て歩むと宣言されています。
「しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。
彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。」
(ヨハネの黙示録3章4節)
キリストの血だけが彼らをそのようにさせることができたのです。
キリスト教世界には、聖書に反する多くのものと結びついています。
彼らは、一般大衆と見分けがつかなくなりますが、白い衣を着た人々が何千人もいるのです。
それでも主の目にははっきりと見分けがついています。
これらの勝利者には白い衣を着て、かれらの名がいのちの書から消されることはないと約束されています。
「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。
わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」
(ヨハネの黙示録3章5、6節)
その反面、キリスト教としての信仰を表す何千もの名前が、キリストの現れの日に、命を持っていると告白する人たちの記録から削除されることになります。
神から生まれた人たちが、キリストにあって与えられた永遠の命を失うことがないことは真理です。
他の多くの聖書箇所が示すように、それは不可能なことなのです。
それが、永遠の命なのです。
しかし、彼らは生きているとされているが、実は死んでいます
生きる者の名を持っていますが、死んでいるのです。
彼らの名は、キリストにあるいのちを告白する者たちの間で記録されています。
彼らは罪過や罪のために死んでいます。
自分の生活のために死んでいるのです。
主の現れの日には、彼らの名は消し去られます。
キリストにあって良き行いを続けた、まことの命を持っていることを証明した者だけが残ることになります。
これらのことは、主の再臨のときに、御父と御使いたちの前で宣言されます。
次はフィラデルフィアの教会への手紙です。
フィラデルフィアの意味は「兄弟愛」です。
「また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。「聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。
なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。
見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。
あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」
(ヨハネの黙示録3章7~10節)
私は信じています。
私たちがリバイバル期間と呼ぶものを私たちにもたらされたのです。
宗教改革の後、冷たくて命のない形式主義がプロテスタントのキリスト教世界全体に定着したように見えた時期がありました。
この時代には、人々は単に信条を告白するだけで満足しています。
すでに述べたように、バプテスマによって教会と結ばれることになっていたのです。
しかしながら、18世紀から19世紀にかけて、宗教改革が進んだすべての国々に大きな祝福の波が押し寄せました。
神は強大な力で新たに働き始めました。
北ヨーロッパとイギリス諸島の至る所で驚くべき覚醒が起こりました。
半世紀後、同じ強大な力がアメリカに現れ始めました。
聖霊に満たされたキリストのしもべたちは、罪人たちに悔い改めを、聖徒たちに自分たちの特権に目覚めるよう呼びかけたのです。
まさに、主のたき火のように、これらの国々を巡り歩きました。
少し遅れて、19世紀の初めに、神は、非常に特別な方法で多くの神の民の目覚めさせ始めました。
この時代において、彼らに神の御言葉の価値と覚えさえ、神の民の導きのための、完全、かつ深い感覚をお与えになりました。
よって、キリスト御自身がその民の集う中心であるという事実の認識につながりました。
神の御名のために、何千人もの人々が、神の言葉だけに導かれることを求めて、すべての人間の組織を離れ、素朴に集まるようになりました。
しかし、サルデスが宗教改革の諸教会を示しているように、フィラデルフィアが特別な運動や信者の集まりであると理解すべきだという意味ではありません、
私はフィラデルフィアの教会が、神の言葉の権威とキリストの名前の尊さを強調するプロテスタントの人々を示していると考えています。
特定の一団がフィラデルフィアであると主張することは、教会の忌まわしい思い上がりにすぎません。
神はそのような思い上がりを吹き飛ばしてしまいます。
ここには特別な方法があります。
どのようにフィラデルフィアの教会として歩こうと努めている人に注目してください。
まず第一に、この教会の名前、「兄弟愛」があります。
この言葉には「同胞」への愛が含まれています。
彼らは神によって生まれ、神の愛が、彼らに与えられた聖霊によって彼らの心のうちに注がれています。
そして彼らは、キリストにあるすべての人への愛を特徴としています。
現在、悲しいことですが、主の証しであると声高に主張する多くの人たちに、この特徴はほとんど見ることができません。
彼らは非常に高い真理があり、神聖な根拠と聖書の原則の維持を強く主張しているかもしれません。
しかし、この主張に頼りながら、最初の兄弟愛のしるしが欠けているなら、まだあなたはフィラデルフィアを見つけていないことになります。
2番目に、主ご自身がこの教会に示されている特徴をよく見てください。
主は御自身を「聖なる方、真実な方」として紹介しています。
このこと自体が、生活における悪からの分離、教義における誤りへの挑戦です。
私たちが聖なる方との交わりの中を歩むことを求めるのなら、次の言葉を覚えなければなりません。
「それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。」
(ペテロの手紙第一1章16節)
もし、私たちが真実な方との交わりを楽しみたいのであれば、サタンの嘘を退けなければなりません。
また、自分自身で真実を愛し、生きなければなりません。
したがって、ある人が言っているように「悪からの分離は神の統一された原則」だということになります。
それは、パリサイ的な冷たい意味での分離ではなく、悪からキリストへの分離なのです。
次に、主はご自身のことを「ダビデのかぎを持つ者、開いて誰も閉じない者、閉じて誰も開かない者」と語られます。
イザヤ書22章22節では、ダビデのかぎを持っていた者は、ダビデの家の執事でした。
そして、ここで使われている言葉は、明らかにその一節を指しています。
ダビデの家の執事であるエルヤキムについてこのように書かれています。
「わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。」
(イザヤ書22章22節)
これは、エルヤキムが、父の家のすべての栄光がその上にかけられるべき主イエス・キリストに類似していることを示しています。
神は、その霊によって、神の真理の大きな宝庫を開きます。
誰もそれを閉めることはできません。
一方、心がゆがんでいて、真理の中を歩もうとしないところでは、主は閉じて、だれも開くことができません。
このように、神は別の箇所でこのように言われています。
「もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」
(マタイの福音書6章23節)
それは闇です。
ここでは、キリストはダビデのかぎを持っていると言われています。
私たちにはキリスト御自身が鍵であることを見る別の見方があります。
神は、ご自身の民のたましいにご自身現わされることによって、御言葉の宝庫を開かれるのです。
このように、キリストは聖書の鍵であり、他のものは必要ありません。
聖書を理解するにはキリストを知りさえすればよい。
このように、この言葉を開閉に適応させるなら、別の意味になるのです。
主は、遣わされた者のために門を開かれます。
そして、主が望む時に、その門を閉ざされます。
これはフィラデルフィアの信者が普通に見つけ出した真理の一つです。
ここにキリストがご自分の家を支配する御子であるという真理があります。
また、キリストがそのしもべたちに、全世界に出て行って、すべての被造物に福音を宣べ伝えるように命じられたという真理があります。
これらの真理に基づいて、国内だけでなく、何千人もの人たちがキリストだけを信頼して海外へ出て行ったのです。
しかし、海の向こうの土地では、組織も後ろ盾もない異教徒の間で、主ご自身はすべての必要を満たし、主の御心のままに開いたり閉じたりする力があることを彼らは知っているのです。
「信仰によって、何が起きようとも、主を堅く信頼することができるのです。」
8節に書かれていることは、この2番目の適用を強調していると思います。
主はこのように言っています。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。
なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」
(ヨハネの黙示録3章8節)
フィラデルフィアのこれらの重要な特徴に注目してください。
御言葉は守られ、御名は告白されます。
御言葉を守るということは、単に聖書を信じたり、読んだり、勉強したりすること以上のことを含んでいます。
それは明らかにされた主の御心に従うことを意味しています。
次の聖句を理解することは幸いなことです。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
(テモテへの手紙第二3章16節)
信仰は働くことによって大きな可能性があります。
この祝福された神の聖書は私が従って歩もうとする限り、私のすべての道を教えています。
聖書がわたしを導かないような環境では、わたしは決して見出すことはできません。
これは神の御言葉を守ることと関係していると私は信じています。
神の御名を否定することは、私たちの周りのあらゆる場所で増え続ける背教です。
御名を否定しなかった者は、このような神を賞賛しようとする環境において、彼らとの交わりも拒みます。
キリストは彼らにとって他の何よりも尊い存在です。
彼らが立派な名前を呼ばれているかも知れません。
時には、侮辱されたり、冒涜されたりするものです。
たとえ、奉仕のためであっても、彼らはキリストという存在と自分自身を結びつけることを拒みます。
フィラデルフィアの真理が宣言されているところならどこにおいても、人々の心を真理から遠ざけるために悪魔は偽物を作り上げてきたのです。
9節で主はこのようにサタンの会堂主として現れる人々について語っています。
「見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。
見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。」
(ヨハネの黙示録3章9節)
その日、彼らは、主に忠実なしもべたちの足の前でひれ伏することになり、主が彼らを愛されたことを知ることになります。
疑いもなく、この誤ったユダヤ教組織が意図されています。
その支持者たちはあらゆる場所恵みの真理に反対しています。
私たちが、主に対する喜びと感じる原則の働きを、あらゆる方法で妨害しようとします。
これらの教師たちは、無知ゆえに自分たちが霊的なイスラエルであると主張して、真実なクリスチャンの立場を放棄しています。
彼らはユダヤ人の約束とユダヤ人の希望を自分たちのものにしていました。
クリスチャンの良心をユダヤ律法主義の束縛の下に置き、その結果、結果的にサタンの仕事をしています。
10節の約束は、これらの諸教会に対するすべての約束であると同様に、すべてのまことの神の子どものためのものです。
「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」
(ヨハネの黙示録3章10節)
これは主の御名を愛し、みことばを守る者う主の約束です。
彼らは、地上に住む者たちの前にある試練を受けるために、ここに取り残されることはありません。
これははヨハネの黙示録に多く見られる表現です。
それは単に世界に住む人々を意味するのではありません。
この特殊な用語が使われている様々な箇所を注意深く読んでゆくと「地上に住む者たち」とは天国に市民権を持つ人々と対照的で描かれていることがわかります。
彼らは、クリスチャンであることを公言しながら、天の召命を拒否しているのです。
彼らは、自分がこの世に属していることを、地上的な心と世俗的な方法によって証明している人たちなのです。
彼らのすべての希望と、宝がこの地上にあるのです。
主はこのように仰せられています。
「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」
(マタイの福音書6章21節)
そして、来たるべき大患難は、かれらにとって試練の時となります。
後の講義で示すように、ヨハネの黙示録の大部分はこの混乱の時を扱っています。
その時が来ると、現在のディスペンテーションの時代の教会は、テサロニケへの手紙第一の約束に従って、主に会うために取り去られます。
「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。
あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。
それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」
(テサロニケへの手紙第一4章13~18節)
このことには、今、学んでいる黙示録の節と一致しています。
「わたしは、すぐに来る。
あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」
(ヨハネの黙示録3章11節)
主の再臨はすべてのクリスチャンの心の希望です。
彼らは、彼らを愛し、彼らのためにご自身を与えられた方を待ち望んでいるのです。
主が帰って来られる時、主は裁きの座の前に現われ、ここでの働きに応じて報いられます。
その時、現在の主が拒絶されるこの時代にあって、主に仕えた者たちのために冠を御与えになります。
この警告を注意深く見てください。
「あなたの冠をだれにも奪われないように」と書かれています。
「誰にも命を奪われてはならない」とか、「救い」のことではありません。
彼らはキリストにあって永遠に守られています。
神から生まれた者は救いを失うことはできません。
もし、私が忠実なしもべでなければ、王冠を失う可能性があるのです。
忠実なしもべについて、つぎのように書かれています。
「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。
わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」
(ヨハネの黙示録3章12、13節)
ここに書かれていることは、確かに、私たちの貧しく限られた理解を超えています。
しかし、それは安定、安全、交わり、主ご自身との親密さについて語られています。
主は信じる者のために新しい天を創造し、祝福された永遠の住まいとするのです。
ラオデキヤの教会は、この連続した七つの教会を完結させています。
そして、現実に私たちを地上における信仰告白をしてきた教会の歴史の最後の局面、つまり現在のディスペンテーションの終わりにまで連れて行きます。
「 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」
このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」
(ヨハネの黙示録3章14~16節)
「ラオデキヤ(Laodicea)」は複合語で、「人民の権利」を意味します。
つまり、「民主主義」です。
現在の教会の状況を、これ以上適切に表現する言葉が他にあるでしょうか!
世界においても、教会においても民主化の時代です。
大衆はかつてないほど自分たちの力を実感しています。
「人々の声は神の声(vox populi, vox Dei)」という素晴らしいスローガンが、クラリオンのような明確さで世界中に鳴り響いています。
帝国主義と、あらゆる形態の貴族的統治は、少なくともしばらくの間は消滅しつつあります。
そして、無政府の時代はもうすぐそこまで来ています。
不遇のロシアに限らず、すべてのキリスト教支配の国同じの中で驚異的な進歩を見せています。
今日ほど政治家も資本家も、不安で神経質になったことはありません。
第一次世界大戦において、兵士たちは民主主義のために世界を守るために戦っていると言われいます。
まもなく、政治家は世界を民主主義から守るために軍隊を起こそうとします。
この超民主主義時代の霊は、信仰を告白する多くの教会に侵入してきています。
神の権威と神の言葉は急速に否定されてゆきます。
時代の霊は、多くの教会の霊なのです。
ゆえに、このラオデキヤへの手紙と、われわれに広く行き渡っている批評主義とには、驚くべき一致が見られるのです。
現在、神の真理の忠実な証人がだんだん少なくなってきています。
主は教会に対して、ご自身をアーメンなる方、すなわち、神のすべての約束の確立者として、忠実でまことの証人として仰せられています。
神に従うと告白する人の大多数が背教者に押し流されても、この証人であられる主は神でものである人々を最後まで守り通してくださるのです。
主は、教会がご自分と真理に無関心であることを責めておられます。
主は次のように語っています。
「このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」
(ヨハネの黙示録3章16節)
かれは、「あなたはなまぬるいで、寒くもなく暑くもないので、わたしはこれからあなたを口から吐き出します。」と言う。
彼らには神の御言葉に燃える熱意は存在していません。
とは言え、キリストと聖書を完全に否認することもありません。
彼らは吐き気を起こさせる生ぬるい状態があり、神の霊にとって忌まわしい状態です。
ぬるま湯自体が吐き気を催します。
このように主がここで描写しています。
主にはこのような状況に長く耐えることができません。
そして、裁きによって、不快な多くの人たちを吐き出すのです。
その間、教会は高慢と自己満足の中で進み続けます。
「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」
(ヨハネの黙示録3章17節)
彼らは「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」と言っています。
しかし、神の目から見て「哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」であることを知らないのです。
現在ほど、教会の高官や肉欲的な宗教指導者たちが、自分たちと自分たちの偉大な仕事に満足した時代はありません。
教会の人気を高めるために、ありとあらゆることが主張されています。
国民の権利が考慮されなければならない。
しかし、主イエス・キリストの権利は考慮されていません。
あらゆる場所で私たちはキリストと一緒にいるよりも、キリストなしでやっていく方が簡単だと宣言されます。
そうです。
聖霊が強力な力をもって私たちの間で働いておられるよりも、聖霊なしで宗教的計画を進める方が簡単です。
何も驚くことはありません。
主がこのように言っています。
「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金(神の義)をわたしから買いなさい。
また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣(実際の義)を買いなさい。
また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬(聖霊の油注ぎ)を買いなさい。」
(ヨハネの黙示録3章18節)
確実にキリストを差し置いて、世界を回復し、人々が住みやすい場所にするために、多くの仕事、多くの肉体的なエネルギー、人間的な努力がなされています。
しかし、神の偉大な真理はほとんど無視されています。
多くのいわゆる教会従事者は、新生しておらず、誰も神の国を見ることができません。
新生については全くの他人です。
愛する友よ、この時代も更けてきました。
夜の影は急速に落ちて来ています。
初めは教会の真ん中におられた主が、ご自分の名を呼ぶなまぬるい組織の外に立って、入口をむなしく叩き続けています。
しかしながら、あらゆる場所で個人が神に心を開いています。
地上や信仰を告白する教会が持つことのできるすべてのものよりも、個人的に神の存在を知ることの偉大さをその者は知るのです。
このようにして、私たちは現在の恵みのディスペンテーションにも終わりの日に来ました。
エペソの時代はとうの昔に過ぎ去りました。
スミルナの時代やペルガモの時代も同じです。
すでに見たように、テアテラの時代はローマ主義について述べています。
ローマ教皇が普遍的な司教として認められたときに始まったものですが、今でも私たちの時代に存在し、最後まで続きます。
何世紀も後に始まったサルデスも、現在まで残っており、主が来られるまで残るのです。
フィラデルフィアの時代は神に感謝ながら、わずかな力しかありません。
しかし、最後まで残るのです。
しかし、ラオデキヤの時代はますます明らかになってゆきます。
そして、神のすべてのものをほとんど飲み込んでゆきます。
次の大きな出来事は、主イエス·キリストが來られることと、私たちが主のみもとに集まることです。
主が来られることを私たちは待ち望んでいます。
私たちの切実な心は叫び求めています。
「主イエスよ、来てください!」
講義5 最初の天のまぼろし 4章
3章から4章に移ると、場面がまったく変わってきます。
もはや、私たちはあかしの場で信仰を告白する教会や、地上の出来事に心を奪われもありません。
しかし、天の扉が開かれ、最愛の使徒ヨハネが案内されています。
私たちは、この哀れな世界の移り変わる景色のはるか上に連れて行かれます。
神に対する畏敬の念に満ちた目で、言葉では言い表せない栄光の風景を見つめ、世界の始まりから隠されてきたことを聞くことが許されます。
最初の聖句は、黙示録の三つ目の大きな区分で、「必ず起こる事をあなたに示そう」という言葉で始まります。
教会の歴史が終わった後に起こる、驚くべき天と地における感動的なパノラマです。
3章の終わりから、黙示録の残りの部分では、私たちは地上の教会を二度と見ることはありません。
私たちは「聖徒たち」について読んだことがあります。
しかし、黙示録では、彼らは現在の教えの教会とは全く別のものです。
イスラエルが現れ、多くの異邦人が救われ、大きな苦難から救われます。
しかし、教会も、キリストのからだも、小羊の花嫁も、もう地上にはありません。
この事実は、注意深い読者であれば誰でも気づくものです。
どんな内容でしょうか?
単純にこれだけだと思います。
テサロニケへの手紙第一4章16、17節にある携挙は3、4章の間で起こっていると理解しなければなりません。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。
それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。
このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
(テサロニケへの手紙第一4章16、17節)
使徒の携挙がその象徴です。
ヨハネは天国のドアが開いたのを見ます。
ヨハネの注意は地上から栄光に向けられます。
彼は霊において、捕らわれ、この地上の霧のはるか上に「天に置かれた王座」とその上に座る者を見ました。
「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」
たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、
その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。」
(ヨハネの黙示録4章1~3節)
ヨハネはこの崇高な存在の肖像を描き出すことさえできていません。
ただ、彼はその栄光が碧玉や赤めのうのような存在を見たと言っているだけです。
黙示録の碧玉は、私たちが知っている不透明な石ではありません。
天での碧玉は、21章11節では、水晶のように澄んでいると記されています。
「都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。」
(ヨハネの黙示録21章11節)
すべての高価な宝石の中で最も輝いているのは、おそらくダイヤモンドだと思います。
もう一つの石は血のように赤いので、ルビーかもしれません。
このように、2つの概念が一緒になって栄光とささげ物の概念を与えています。
黙示録の最初の読者の多くが改宗したユダヤ人であったことを思い出してください。
彼らはこれらの石は何を暗示するだろうかと問うはずです。
教えを受けたヘブル人なら、大祭司の胸当ての最初と最後の石だったことをすぐに思い出すはずです。
「その中に、宝石をはめ込み、宝石を四列にする。すなわち、第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。
第二列はトルコ玉、サファイヤ、ダイヤモンド。
第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶、
第四列は緑柱石、しまめのう、碧玉。これらを金のわくにはめ込まなければならない。」
(出エジプト記28章17~20節)
これらの石にはイスラエルの部族の名前が記されています。
12人の族長の出生に従って並べられているのです。
一つはルベン、「見よ、子」という意味です。
もう一つはベニヤミン、「わたしの右手の子」という意味です。
つまり、ここでは王座に就いたキリストを表しています。
先見者の幻の前において、権力を治めようとしている子の姿です。
御座の回りには、緑玉のように見える虹が見えます.
緑玉はユダの石です。
そして、ノアの契約が永遠であることを示しています。
つまり、すべての人の失敗や愚かさや悪にもかかわらず、神の変わらぬいつくしみを示しているのです。
しかし今、4節は、これまで決して、見られることがなかった、天での光景を私たちの前に示しています。
中央の御座の回りには24の座があり、その上には24人の長老がすわっていました。
彼らの頭には勝者の冠がありました。
これは勝者の冠です。
王位の冠ではありません。
そして、白い衣を身に着けていました。
中央の栄光の存在の周りに集められたこれらの恵まれた人々は誰でしょうか?
この個所と聖書を比較して見てください。
私たちを迷わせる想像力を信じなければ、同一性について疑う必要はありません。
人間の想像力は私たちを迷わせるだけです。
歴代記第一24章には似たようなことが書かれています。
もう一度言いますが、ヨハネの最初の読者の多くは旧約聖書に精通したヘブル人です。
ダビデ王によって任命された24人の長老たちを、レビ人の祭司職全体を代表するものとして選び出しました
すぐに、あらゆるユダヤ人がそのことを思い出しでしょう。
私たちはそのことに疑問を抱くことができるでしょうか?
ダビデ王は祭司たちを24の組に分け、それぞれを、ソロモンが建てる宮に二週間仕えさせました。
わたしたちの主の先駆者が宣言された時も、同じ取り決めが適応されています。
ザカリアは「アビヤから数えて」8番目の者でした。
「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。
彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。」
(ルカの福音書1章5節)
そこには、祭司たちは何千人もいました。
全員が一度に集まることはできません。
24人の長老がエルサレムの神殿に集まった時には、祭司の家全体が参加していました。
そして、ここからがこの象徴の説明です。
天の長老たちは、すべての天の祭司たちを代表しています。
天の祭司たちとはこれまでに死んだ者で、すべての贖われた者、そして、主の携挙の時に生きていた者たちです。
幻の中に彼らが見えました。
何百万人もの救われた礼拝者の集まりとしてではなく、集まり全体を象徴する24人の長老たちだけが見えました。
ここでは、現代の教会も旧約聖書の聖徒も同じように含まれていると思われます。
全員が祭司です。
すべての者が礼拝しています。
イスラエルには12人の族長がいます。
新約では12人の使徒が新しい制度を導入されたのです。
二つ合わせると完全な24になります。
それから、よく見てください。
彼らは御使いではありません。
彼らは、サタンとの戦いに打ち勝ち、この世からあがなわれた者たちです。
勝利者の花輪を額につけているからです。
御使いたちが「冠を得た」とは言っていません。
もしくは、贖いを知っているわけでもありません。
聖書には2種類の冠について書かれています。
勝者の冠と王の冠です。
前者がここで使われている言葉です。
それはギリシアのゲームで勝利者の額に結びつけられた月桂樹や松の木の花輪のことです。
これは、新約聖書で奉仕に対する報酬が主題であるときによく使われる言葉と同じです。
さて、注意深く見てください。
聖徒たちは、主が報いとして示された義の冠は、使徒パウロが受けるまでは、誰もその冠を受けることができません。
テモテへの手紙第二でパウロはこのように言っています。
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。
かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。
私だけでなく、主の現われを慕っている(もしくは慕ったことがある)者には、だれにでも授けてくださるのです。
(テモテへの手紙第二4章8節)
「かの日」とはキリストの日のことです。
かの日にはキリストがご自分の民のために来られてます。
彼らはみなその裁きの座の前に明らかにされます。
主は仰せられます。
「見よ。わたしはすぐに来る。
わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」
(ヨハネの黙示録22章12節)
ゆえに、聖徒たちのために主が戻ってこられるまでは、どんな報酬も与えられることはありません。
携挙の後まで、天には冠を受ける長老はいないのです。
私が思うに、今日において最も重要な点がこれです。
それは、多くの人が、黙示録の多くの部分で扱っている大患難がすでに始まっているのではないかという考えに悩まされているからです。
ここで私が強調してきた事実を心に留めておけば、そのような恐れはすべて払拭されます。
このことについては次の講義で詳しく述べたいと考えています。
今はこれ以上のコメントは差し控えさせていただきます。
ただ私は、すべてが明らかになることを信じています。
長老たちは天の聖徒たちのことです。
彼らは栄光のうちに主を取り囲み、御子である神は中央の王座に座しています。
そこには王座に関連した状況が存在しています。
この状況は地上の世界に恐ろしい嵐が吹き荒れそうな状況を明らかにしているのです。
そして、長老たちはこのことがすぐに来るという見解を持っています。
黙示録の研究を進めてゆくとわかるのですが、稲妻と雷と声がこれを物語っています。
「御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。
七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。」
(ヨハネの黙示録4章5節)
私たちは、時間が進むにつれて状況がますます深刻になるのを見ることになります。
幕屋の象徴にしたがって、御座の前で燃える七つのともしびが見えます。
また、七つの枝に分かれた燭台も、垂れ幕の外側で燃えています。
その燭台は地上の神の御座の前に古い契約の箱に置いてありました。
これらのともしびは、すでに1章4節で語られています。
これらのともしびは「神の七つの御霊」と言われています。
しかし、私たちがすでに見てきた描写では、7つの別個の霊ではなく、七つの力を持つ唯一の聖霊を表しています。
「御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。」
(ヨハネの黙示録4章6節A)
6節のガラスの海は、ソロモンの神殿の青銅の海を思い起こさせます。
その海は、洗盤のように神のことばの象徴でした。
そこにはは祭司たちのきよめに使う水があったからです。
「みことばによる水の洗い」によって、私たちは聖別され、清められます。
「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり」
(エペソへの手紙5章26節)
しかし、この海は清めるためのものではありません。
水晶のようなものであり、後に、私たちは殉教した苦難の聖徒たちがその上に立っているのを見ることになります。
確かに、現在において、水の洗いは神の御言葉によるものです。
ここでは、地上での経験は永遠に過ぎ去ったものとしてみなされているので、もはや清めは必要ありません。
しかし、みことばは永遠に堅く立っています。
それは水晶で満ちた海のようであり、堅くて、輝かしいものです。
神の民はその上に永遠に立つことができます。
「御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。」
(ヨハネの黙示録4章6節B)
よく知られているように、王座に回りにいた四つの生き物は「獣」ではありません。
この言葉は13章で使われているものとは大きく異なっています。
これらの者は、造られたものではありません。
なぜなら、神だけが住むことのできる王座に彼らは存在し、王座の回りに連なっているからです。
彼らは生ける神の属性を表現しています。
「第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。」
(ヨハネの黙示録4章7節)
獅子は神の威厳の象徴としてよく知られています。
雄牛、神の力は人間に優しく仕えてくださるのです。
人間の顔は知性と目的を示しています。
神は単なる盲目的な力ではありません。
哲学的な「偉大なる第一の原因」としての存在でも、非人格的な法則でもないことを教えています。
わしは、悪を察知して判断を下す素早さを暗示しています。
「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。
彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」
(ヨハネの黙示録4章8節)
四つの生き物は六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちています。
それは絶え間ない活動と全知全能を語っています。
「主の目はあらゆる場所に存在し、悪と善を見ているのです。」
彼らは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方」と叫んでいます。
神の持つすべての特質が永遠の御子の栄光を讃えているからです。
「また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、
二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。」
(ヨハネの黙示録4章9、10節)
長老たちは、これを聞いて膝をかがめて礼拝し、王座に座しておられる方の足もとに冠を投げ捨てました。
そして、創造主である方に栄光を帰して、このように言ったのです。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。
あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」
(ヨハネの黙示録4章11節)
ここでは祝福された真理が宣言されていますが、より心を突く内容が5章に記されています。
十字架で死なれた方は、天で贖われたすべての者によって礼拝されています。
ヨハネの福音書1章、コロサイ人への手紙1章、へブル人への手紙1章をこの終わりの聖句と注意深く比較してください。
万物を創造されたのは御子キリスト·イエスであることが、この福音によって明らかにされます。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
(ヨハネの福音書1章1~3節)
「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」
(コロサイ人への手紙1章15~17節)
「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」
(へブル人への手紙1章2、3節)
このようにキリストなしには何も造られなかったのです。
すべてのものがキリストによって創られ、キリストのために存在しているのです。
キリストは御座を満たし、ここに述べられているように礼拝の中心となられる方です。
私たちのような時代には、永遠の御子としての主の栄光がしばしば否定されています。
主の真実な神性も、処女懐胎も、彼の罪なき人間性も、背教的な教師たちによって、伝統的な言い伝えのようにみなされ、意のままに否定されています。
地から天に立ち返り、そこに現されている神の栄光と、神の御座にひれ伏して、妨げられることなく神を礼拝することは、魂にとって生き返るような体験となるのです。
イエスがサタンによる試練を受けた時に、イエスは申命記を引用を使いこのように答えました。
「イエスは答えて言われた。「「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。」と書いてある。」
(ルカの福音書4章8節)
「もし」、イエスが神でないならば、天は偶像崇拝で満たされていることになります。
私たちはここで「もし」と言う必要はありません。
ローマ人への手紙にはこのように書かれています。
「先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」
ローマ人への手紙9章5節
キリストは「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神」であり、同時に人であられる方です。
神が恵みによって処女から生まれたのです。
キリストは御座に満ちた方です。
キリストは決してこの王座を捨てることはありません。
キリストは、やがて帰ってきます。
そして、キリストの所有する者を集め、父ダビデの王座に着き、人の子として全地を治めるのです。
天と地の両方の王座は神のものです。
すべての栄光は父の確固な定めによって、キリストのものだからです。
このように、すべての人は父を敬うように、やがて子を敬うようになります。
私は、生き物について、さらに述べたいと思います。
4章においては、彼らが特別に王位と結びついているのを見ることができました。
5章では、彼らは特に長老と結びついています。
私たちはこれらの生き物が、神の属性を表現していると考えます。
今の時代と、小羊が裁きの書を取る時の前に、御使いたちの働きを見ることができます。
ヘブル人への手紙にはこのようにあります。
「神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。」
(へブル人への手紙2章5節)
神は、来たるべき世を御使いたちに従わせていません。
来たるべき日には、神は贖われた者たちを通して働かれます。
生ける者たちは新しい歌に加わり、聖徒たちの喜びの声を上げ、神の栄光が描写されます。
エゼキエル書の幻に出てくる生きものたちも、(あわれみの)座のケルビムも、同じことを語っています。
講義6 七つの封印 5章1~6章8節
さて、前回の私たちのテーマは4章でした。
贖われた者たちは、天にある神と小羊の御座の周りに集まっています。
私たちは、ヨハネが幻の中で御座の回りにすわっている24人の長老の姿を見ています。
彼らは今の時代と、過去の時代のすべての天の聖徒たちを代表しています。
私はできるだけ繰り返すことは言うのは避けています。
しかし、この象徴は明らかにイスラエルの祭司職の24人の長老から取られたものであることを思い出してください。
ここでは、これらのレビ人の祭司長たちによって、天の集まり全体が適切に代表されているのがわかります。
天には特別な祭司の家族はいません。
神の民はみな祭司なのです。
私たちは5章において、4章と同じ幻に心を奪われることになります。
私たちは、主イエス・キリストが創造主として礼拝されるのを見て来ました。
ここでは、より高い栄光がキリストのものであり、キリストが贖い主として礼拝されています。
「何もないところから世界を創造するのは素晴らしいことです。」
しかし、キリストは「何もないところから贖いを果たしたのです。」
最初に、私たちの注意を引くのは、御座に着かれた方の右の手にある七つの封印の書について書かれていることです。
4章では、すでに御子がその王座におられることを見ました。
それと同じように父なる神の御座であることを忘れてはなりません。
私たちは父の右の手に内側にも外側にも文字が書かれた七つの封印で封印された書物を持っているのを見ることができます。
「また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。
それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。」
(ヨハネの黙示録5章1節)
当時の「本」を読むならば、私たちは私たちがよく知っているような本ではありません。
むしろ、羊皮紙の巻物であったことを考えなければなりません。
イスラエルの古代の本は一般的に羊皮の巻物でした。
そして、この本が7つの封印で封印されていると書かれているのならば、この巻物は巻かれ、ふちに印が押されていたことがわかります。
封印が解かれるまで開けられないようにしてありました。
7つの封印は「少し巻いて、また印を押して」というように、くり返し、6つの印が押され、巻物全体を閉じる1つの印が押されていました。
最初の封を開けると、本のある部分が見えてきて、その後も次々と見えて来るのです。
第七の封印が破られると、本全体が解かれることになります。
では、この封印された本は何でしょうか?
これらの講義のすべてにおいて、私が皆さんの前に置いておきたい原則をもう一度思い出してください。
それは、ヨハネの黙示録を学ぶ時に、特定の象徴が何を意味するかについて、私たち自身の想像に頼る必要はないということです。
すべての象徴は聖書のどこかで説明されています。
エレミヤ書32章を見てみましょう。
預言者エレミヤは、ネブカデネザルがエルサレムを滅ぼす直前の日に生きていました。
エレミヤはイスラエル人を捕虜としてバビロンに連れて行くと告げていたのです。
70年もの間、イスラエル人は捕らわれの身となっていました。
そして、その期間の終わりには、イスラエルは復興され、再び荒廃した場所に国を建てるのです。
「まことに、主はこう仰せられる。
「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。」」
(エレミヤ書29章10節)
エレミヤのいとこのハナムエルは土地を持っていましたが、それがすぐに全く価値のないものになることをよく知っていたので、それを手放して、そこから何ができるかを知りたがっていました。
エレミヤは真実のために、その時投獄されていました。
そして、預言者のいとこが畑を売ろうとしていました。
そこで、主はエレミヤに畑を買うように導いたのです。
エレミヤは、その畑が持つ価値がある時がやがて来ることを知りました。
そして、その畑が本当に持つ価値があるかのように受け入れるように命じられたのです。
神の民がバビロンに下って行ったように、また、彼らもバビロンから上って来るのです。
その日には、その畑の価値ははるかに上がり、エレミヤはその畑を家族のものにするのです。
エレミヤ書にはこのようにあります。
「すると、主のことばのとおり、おじの子ハナムエルが私のところ、監視の庭に来て、私に言った。
『どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。
あなたには所有権もあり、買い戻す権利もありますから、あなたが買い取ってください。』
私は、それが主のことばであると知った。」
(エレミヤ書32章8節)
このようにハナムエルがきて、畑を買ってくれと懇願しました。
エレミヤは同意したのです。
権利証書は作成され、署名され、封印され、隠されました。
しかし、その土地はエレミヤによって購入しましたが、彼はそれを所有しようとはしていません。
エレミヤもまた、拒絶されて一方の側に追放されることになっていました。
しかし、いつの日か、修復が行われたときには、その封印された巻物は大きな価値を持つことになります。
エレミヤは土地の所有権を示す証書がどこにあるのかを、相続人に知らせるために隠れるように秘書官(ネリヤの子バルク)に渡しました。
その封印された書は、エレミヤの相続を証明する証書でした。
イスラエル人がバビロンから戻って来たのなら、エレミヤの相続人には法廷でこのように言う権利がありました。
「この証書はわたしのものです。
私には封印を解いて財産を得る権利があるのです」
旧約聖書からのこの描写を目の前にすれば、黙示録の7つの封印された本が何を意味しているのかを理解することは難しいことではありません。
ヨハネが御座に着かれた方の御手に見た本は、この世界の誰に所有権があるのでしょうか?
御使いがこのように言っています。
「また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。」
(ヨハネの黙示録5章2節)
この表現は「誰が正当な相続人なのか?」という別の言い方に過ぎません。
誰が「私には封印を解く権利があります。
この世界を所有する権利があります、それは私のものです」と言える者がいるでしょうか?
誰がその世界を所有し、それを自分のものにする価値があるのでしょうか?
アダム、あなたですか?
この世界はあなたに与えられたのではないでしょうか?
「神はあなたがたを創造し、エデンの園に置かれた時、この世界はみなあなたがたのものだと言われたのではないでしょうか?
なぜ、名乗り出て、この権利証書を持って、あなたの財産を主張しないのですか?」
アダムはこのように言います。「わたしは罪のために、自分の相続財産を放棄することになりました。
かつて、その権利は私のものでした。
しかし、私はその権利を罪を犯して捨てることになりました。
悪魔が私をだまし、私にはもはやその権利はありません。」
その巻き物を開ける御使いはいるでしょうか?
いや、天の軍勢の御使いは、「わたしにはこの世界を引き継ぐ権利があります」とは言うことができません。
「それは私のものだ」と言える人は、神の創造された宇宙には存在していません。
そして、ヨハネはこのように言いました。
「巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。
すると、長老のひとりが、私に言った。
「泣いてはいけない。見なさい。
ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」」
(ヨハネの黙示録5章4、5節)
そこで、ヨハネは、勇ましくほえる野獣の王、ユダ部族の獅子をさがしました。
今にも獲物に飛びかかろうとしています。
しかし、ヨハネは小羊を見ました。
なぜ、子羊はライオンなのでしょうか?
神の子羊はユダ部族の獅子なのです。
小羊は罪のないこと、柔和であること、寛大であること、犠牲であることを語っています。
彼は、力ある征服者として出て行き、この世界を自分のものであると主張し、敵を御前から追い払う者です。
「さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる。――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。
これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。」
(ヨハネの黙示録5章6節)
ウェイマス訳の聖書はいけにえにされた子羊を強調してこのように翻訳しています。
「私は王座の真ん中で、いけにえとしてささげられたような小羊を見た」
神の栄光のうちにあって、永遠にその栄光のからだに死の跡を残す小羊です。
私たちがよく歌う賛美にはこのようにあります。
「私は彼を知ることになります。
私は彼を知り、彼のそばで贖われた私は立つことになります。
彼の御手の釘の跡によって、私は彼を知るのです、私は彼を知るのです。」
(From "My Savior First of All")
イエスが墓から出て来られた時、そこには釘の跡がありました。
その何年も後に、ヨハネが栄光の中で幻の中で彼を見たのです。
その時、かつてヨハネはいけにえとしてささげられたように見える小羊を見たのです。
そして、私たちが天国に帰ったとき、私たちはイエスと会うことになります。
その時、イエスを見間違いをすることはありません。
私たちは、キリストの代わりに御使いのガブリエルを礼拝しているのを見ることはありません。
わたしたちは、ヨハネのように愛する使徒が主を間違えたような失敗はしません。。
私たちの目は小羊だけに注がれます。
小羊のからだには、私たちの贖いを示すしるしが永遠に刻まれます。
ああ、それは神の愛する人々のためにどのようなしるしなのでしょうか!
私たちは神の顔をあがめ、神の優しい感触を感じ、神の手と足の釘の跡、神のわき腹にローマの槍の跡を見るのです。
預言者ハバククは彼をこのよう彼を描写しています。
「輝きは光のよう。ひらめきはその手から放たれ、そこに力が隠されている。」
(ハバクク書3章4節)
彼を残忍な槍が貫いたところに、彼の力が隠されているようにも読むことができます。
「ああ、羊、血を流している羊、カルバリの羊。
ほふられた小羊がよみ返り、わたしのためにとりなしてくださるのです。」
(From "Lamb of Calvary")
あなたはこの祝福された神の子羊を知っていますか?
あなたは神の子羊を知っていますか?
キリストである神の子羊はあなた自身の救い主ですか?
あなたがたは、かれの哀れみに身をゆだねていますか?
王座の真ん中にいた小羊には7本の角がありました。
角が力を語っています。
旧約聖書には、大きな頭、太い首、強い角を持つ「バシャンの強い雄牛」について書かれています。
「数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。
彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。
(詩篇22編12、13篇)
イスラエルはこのように、権力の思想を角と結びつけることを習慣にしています。
しかし、ここで見られるのは、力強い雄牛ではなく、子羊です。
小さな姿をしています。
7本の角を持つ「小さな子羊」なのです!
角が力を語るように、七は完璧を語っています。
完全な力は神の子羊のものです。
イエスには七つの目があったと記されています。
これは全世界に遣わされた神の七つの霊を意味しています。
これはイザヤ書11章1、2節に関連しています。
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」
(イザヤ書11章1、2節)
主の霊とはキリストの霊です。
「神の霊としての存在は、この方の中におられます。」
すべての霊的な恵みは神のものです。
神は、喜びの油をその兄弟たちの上に注がれ、聖霊を私たちに与えてくださる方です。
「小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。」
(ヨハネの黙示録5章7節)
彼にはこのように行なう権利があったのです。
なぜなら、キリストは罪の大きな負債を支払うために、限りない恵みの中で十字架に架かられたからです。
彼はこの奪われた相續地を贖い、サタンの支配から奪われた者たちを解放したのです。
小羊は巻物の権利を持っています。
小羊がこの世界の所有権を主張できるのです。
それは、小羊がカルバリの十字架で死なれ、全世界を自分の所有とするために買い取られたからです。
やがて、神の栄光が千年間の驚くべき期間にわたってこの世界に示されるのです。
それはキリストがこの世界を造られたゆえです。
神はそれを人間に与えられました。
そして、人間は罪によってその権利を失いました。
しかし、主イエス・キリストがゴルゴタの木にかけられた時、この権利を買い戻されたのです。
主はこの2000年間、ご自分の相続地を要求する定められた時まで、栄光の中で忍耐強く待っておられるのです。
現在、権利証書は封印されているのです。
この2000年間、人間たちは自分たちのやり方で権利を主張してきました。
悪魔は自分の都合のいいように物事を動かしています。
しばらくするとキリストは再び来ます。
キリストはすべてを正そうとしています。
しかし、そのためには裁きの中で実行しなければなりません。
主イエスが死なれた世界こそが、神の栄光が現される場所になるのです。
千年王国だけでなく、その後の新しい地でも、新しい天でも、神の栄光が現されるのです。
8節で、小羊がその巻物を手にします。
「彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。」
(ヨハネの黙示録5章8節)
すると、四つの生き物と24人の長老たちが、聖徒たちの祈りである香の満ちた黄金の鉢と立琴を持って、小羊の前にひれ伏します。
あなたはハープは感傷的な楽器だと知っていますか?
私は気に入っています。
私はいつもハープの演奏を聞くと、私も天でハープを演奏したいと思います。
もちろん、私のはフィギュアですが、とても素敵なものです。
「彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。
あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」」
(ヨハネの黙示録5章9、10節)
彼らが歌うのは自分たちだけではなく、すべての贖われた者たちの歌である。
彼らは生きる者であり、神の特徴が加わっています。
そして、歌の歌詞が暗示する大群衆に注目してください。
地獄で失われるよりもはるかに多くの人々が天国にいることを期待します。
なんと多くの人が天を満たしています。
そこにはと素晴らしい交わりがあります。
私たちにはイエスの血によって清くされ、聖なる者たちの集まりがあるのです。
彼らがそこで歌っていることに注意してください。
彼らは、自分たちの贖いが、すべて小羊と御業の力だと宣言しているのです。
彼らは神の聖徒たちです。
そして、次の2節では別の集まりを見つけます。
彼らは御使いです。
「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。
その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
彼らは大声で言った。
「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」」
(ヨハネの黙示録5章11、12節)
あなたは御使いが贖われた罪人の周りにで構成された輪であることに気づくはずです。
それが天の栄光を現わしています。
あなたは「御使いが歌っている」ということを何度も聞いたことがあるかも知れません。
しかし驚くべきことに、聖書を読んでみると「御使いが歌っている」と書かれているのはたった1箇所だけなのです。
それはヨブ記38章にあります。
「そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。」
(ヨブ記38章7節)
ここにある明けの星々は、御使いたちのことです。
彼らは、この世界が神の御手によって創造されたとき、彼らは共に歌いました。
しかし、その昔の歌はまだ残っていました。
罪が入ってきて、地上の美しい創造物が損なわれました。
その時から、私たちは御使いが歌ったことを二度と読むことはありません。
私たちの主イエスの誕生のとき、天の群衆は神を賛美しました.
「すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
(ルカの福音書2章13、14節)
しかし、ここでは御使いが歌ったとは書かれていません。
贖われた者たちは「新しい歌」を歌いました。
その歌は贖罪の歌です。
あなたはその歌を歌うことができるでしょうか?
ここでは御使いたちは歌うとは書かれていませんが、実際に小羊を賛美しているのです。
私は次の聖句をもう一度読んでみたいと思います。
「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。
その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
彼らは大声で言った。
「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」」
(ヨハネの黙示録5章11、12節)
なんという軍勢なのでしょうか?
神は私たちがいなくても十分だと思うかも知れません。
年老いたジョン・バニヤンはこのように言っています。
「神の子羊!
神は、天全体をご自分のものとされ、御心にかなう無数の御使いたちを持っておられます。
それでもご自分を満足させることはできなかったのです。
神は、この宇宙を共有するために罪人を持つ必要がありした!」
もし、あなたがここで歌う気があるのであれば、ここに降りて来てから始めなければなりません。
あなたは「ほふられた、その血によってわたしを贖われた」と言うことができるでしょうか?
御使いたちは外側の輪に立っています。
言い換えれば、この様子を離れて御使いたちは見ています。
そして、「小羊はすべての賛美を受けるにふさわしい」と言っているのです。
そこには三つ目の集まり、輪があります。
そして、すべての創造物を包含しています。
ヨハネは全宇宙を見渡し、すべての生き物が小羊を賛美しているのを見ています。
「すべての創造された英知が一つになって「小羊に栄光あれ」と言う日が近づいています。」
さて、小羊は巻物を手にして、封を開けようとしています。
ここで私は展開されてゆく過程で少し立ち止まりたいと思います。
世界大戦が始まって以来、多くの人が私のところに来てこのように言いました。
「大患難はすでに始まっていると思いませんか?
ここ数年の間に、ヨハネの黙示録の冒頭の部分とほぼ一致する出来事が次々と起こっています。
すでに、私たちはすでに患難の苦しみの中にいると信じてもよいのではないですか?」
私はこのように答えました。
「小羊が7つの封印のある巻物の封印を解くまでは、ここに描かれているような患難の時代はあり得ません。
しかし、小羊は贖われた者が天で冠を戴くのを見るまでは、この書の最初の封印を解くことはありません。
主イエス・キリストが空中に現われ、贖われた者は取り去られるまでだれもその冠を得ることはできません。
そして、さばきの座が設けられるのです。
小羊がその巻物を取る前に、またその封印が解かれる前に、キリストのさばきの座ですべての冠が放り投げられます。
ある婦人が私に言いました。「でも、親愛なる兄弟よ、これ以上の患難は存在するのでしょうか?」
私はこのように答えました。
「さて、状況は確かにひどいものです。
そして、正義を支持すると公言する組織が、この戦争ほど兵士や親族、被災者に、これほど多くの恐ろしいことをした戦争はありませんでした。
例えば、赤十字という組織について考えてみましょう。
犠牲の精神があったからこそ、人々はその組織を始めることができたのです。
創設された当時は多くの者がキリストに献身していました。
赤十字は、どこを見てもキリストの十字架を思い起こさせるものでした。
しかし、大患難時代には赤十字は存在しません。
その時代には、キリストの十字架は憎まれて、どこにも見られなくなります。
訳者注)1930年以前の赤十字を指しています。
始めは、献身的な人々によって構成されていました。
すべての組織は劣化して行くのです。
現在の日本、もしくは世界にある赤十字と同じと考えてはいけません。
次に「Y・M・C・A」を見て見ましょう
訳者注)Y・M・C・Aは「Young Men's Christian Association」の略です。
日本語では「キリスト教青年会」と訳されます。
Y・M・C・Aは 1844 年にイギリスのロンドンで、ジョージ・ウィリアムスとその同志11名による祈りのグループとして始まりました。
キリスト教を基盤としていますが、現在は伝道を目的とする団体ではありません。
私は彼らについての批判は知っています。
そして、私自身も率直に言わなければなりません。
Y・M・C・Aの運動は神の人によって始められ、その本来の目的は人々をキリストに導くことでした。
実際に、彼らの最近の仕事の多くはただの批判にさらされています。
本来の目的に付加したり、損なったりしているのは残念なことです。
しかし、私たちは新約聖書によって、何百万人もの人々に慰めをもたらした神に感謝することができます。
次に救世軍の活動を見てみましょう。
私は、救世軍が陣地で神の福音を宣べ伝えていることについて、多くの証言を聞きました。
さて、これよりも大きな戦争のことを考えてみてください。
その戦争は未来に起きるものです。
その戦争では、救世軍も、Y・M・C・Aも、赤十字も、聖書協会も、キリスト教の労働者も、その時に広がる恐ろしい状況を和らげるためのいかなる種類の霊的な奉仕は全く存在していません。
この考えは、言い尽くせないほど恐ろしいものです。
しかし、黙示録には、このような戦争が預言されています。
しかし、もう一度このことを言っておく必要があります。
贖われた者たちが栄光の中で主の周りに集められ、そこで冠を戴くまでは、この患難の時は始まりません。
現在、天上の聖徒たちが冠を持っていないことは、いくら強調してもしすぎることはありません。
使徒はこのように言っています。
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。
かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。
私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
(テモテへの手紙第二4章8節)
かの日とは、聖徒たちがキリストのさばきの座の回りに集められ、彼らが冠を得る日のことです。
すでに教会が過ぎ去っています。
その後に、世界では何が起こるのでしょうか?
この章に入ると、私はいつも、私たちはすでに天にいると考えます。
すでに携挙が起きたのです。
その観点から私と一緒に見てください。
昨夜は私たちは物事が平凡な進み、何もなかった日だと仮定してみましょう
突然、栄光の中から、勇ましい叫びが聞こえます。
贖われた者はみな、神のラッパに応えるのです。
すぐに墓が開かれ、信者の死者が眠っているすべての所で、死者がよみがえります。
そして、生きている聖徒たちは新しいからだに変えられます。
私たちは取り去られ、イエスといっしょに父の宮にはいります。
そして、御座の回りに集まってひれ伏して礼拝するのです。
天国で24時間過ごすことになります。
罪人はそこにいません。
私が言っているのは救われた人たちのことです。
最初は、私たちの心はキリストのことで満たされ、他のことは何も考えられなくなります。
しかし、主ご自身が私たちを奮い立たせ、主が何をなさろうとしているのかを考えさせるのです。
私たちは自分自身に言っているのです。
私たちが取り去られた世界で次に何が起こるのでしょうか?
私たちは昨日まで住んでいたあの哀れな景色を見下ろます。
人々は以前と同じように、ただ興奮しているだけです。
大都市の通りを見てください。
新聞では「号外!号外!多くの人々が姿を消した!」と報道されています。
この奇妙な事件のすべてを明らかにしようと、新聞社が殺到しています。
大勢の人々が大失踪したことについて、博士、アナリスト、牧師らに説明するのを聞くために人だかりができています。
神の民の携挙の後は、しばらくの間は教会に行く人がたくさんいると思います。
かつてないほどの人が教会に押し寄せるのです。
そこでは牧師のような人が何年も会っていない大勢の教会員を見ながら、青ざめた弱々しい顔で説教壇に立ってひとり考えています。
「さて、私は皆様方にに説明しなければならないことがわかりました。
わたしはこの20年間、人々に「再臨」という言葉は偽りだと言ってきました。
再臨を信じる人々は、自分たちが何を言っているのかわからない愚かな暴言者と見なしてきました。」
私は会衆の中からつぶやきが聞こえてくるような気がしました。
「私たちは私たちの魂は主を信頼しています。
あなたは学校や、神学校、大学に通い、図書館で本を読みあさってきました。
キリストの血による救いという古い考え方はすべて使い古されたものです。
文化によって自分自身を救うことができると言った時、私たちはその言葉を信じました。
キリストの再臨はただの空想にすぎないとあなたが言ったので、私たちはあなたを信じました。
このことを説明してください。
他の者たちがこのように叫びます。
「私の祖母はどこに行ったのですか?
祖母は最後まで聖書を信じていました。
つい先日も、祖母は聖書を読んでいました。
そして、言ったのです。
「だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」
(マタイの福音書26章22節)
ああ、主が来られた後に、地上ではいくつかの驚くべき集まりが存在しています!
腐敗に満ちた世界では、人々の心は恐怖のために失望しています。
クリスチャンの政治家、クリスチャンのビジネスマン、キリストを知っているあらゆる人々が消えてしまったのです。
都市や地域社会は混乱しています。
彼らはこれからどこに向かうのでしょうか?
聖書から調べてみましょう。
「また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。
私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。」
(ヨハネの黙示録6章1、2節)
私たちは、小羊が最初の封印を解くのを見ます。
そして、ヨハネは雷のような音を聞きます。
雷は嵐が来ると言っているようですが、その光景は一見、平和そうに見えます。
これは何を語っているのでしょうか?
戦士は白い馬に乗って出てきて、手には弓があります。
弓は遠くの戦いを語っています。
ゼカリヤ書1章にあるように、馬は神の働きを象徴しています。
「夜、私が見ると、なんと、ひとりの人が赤い馬に乗っていた。
その人は谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。彼のうしろに、赤や、栗毛や、白い馬がいた。
私が、「主よ。これらは何ですか。」と尋ねると、私と話していた御使いが、「これらが何か、あなたに示そう。」と私に言った。
ミルトスの木の間に立っていた人が答えて言った。「これらは、地を行き巡るために主が遣わされたものだ。」
(ゼカリヤ書1章8~10節)
黙示録の白い馬に乗る人は、キリストがまだ拒絶されている時代に、秩序と平和の支配をもたらすための人間の最後の努力を明らかに描いています。
教会がなくなった後、事態を解決するための世界最大の試みが訪れます。
それは、キリストのいない偽りの千年王国をもたらす悪魔の狡猾な計画なのです。
白い馬はどのくらいの間いるのでしょうか?
「小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。
人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。
(ヨハネの黙示録6章3、4節)
2つ目の封印を開けると、赤い馬が現れます。
無秩序な、血なまぐさい戦争です。
「人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。
ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。」
(テサロニケへの手紙第一5章3節)
私たちが去った世界の最初の努力は、キリストとは別に、全世界的な平和をもたらすことです。
しかし、これまで知られていたよりもはるかに大きな戦争が起きます。
そして、この世界的な血なまぐさい戦争も終わります。
ここで、血のように赤い馬に乗った者は剣を持っています。
それは、弓のそれとは全く異なる種類の戦争、すなわち人と人、国と国との戦いを語っています。
内紛、階級闘争、内戦、すべての既存の秩序の崩壊がここに述べられています。
「小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。
すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。
「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」」
(ヨハネの黙示録6章5、6節)
第三の封印を開けると、今度は黒い馬が現れ、乗り手は量りを持っていました。
私たちには、世界規模の戦争に必ずに伴うもの、つまり世界規模の飢饉があります。
この4年間(1930年現在、第一次世界大戦)でこれだけのことを見てきたことを考えるなら不思議ではありません。
世界的な平和をもたらすための努力でしたが、ほぼ世界的な戦争な起きています。
そして、世界の多くの地域で飢饉が発生しています。
しかし、患難時代では飢饉は世界中に広がります。
このことが何を意味するかは、クリスチャンであっても最初に開かれたときよりも、今の方が少しはよくわかっているはずです。
私たちは食料の量り売りの値段も知っています。
生活費の高さもよく知っています。
しかし、次の日には、非常にひどい状態になります。
小麦一升で一デナリ、大麦三升で一デナリとなるのです。
「枡」と訳された言葉は、一人の人が一食を食べるのにちょうど十分な小麦を意味し、デナリは一日分の賃金でした。
つまり、小麦を食べるのであれば、一日分の給料で一食分の食べ物しか食べられないのです。
もし、彼らが大麦を食べるのであれば、一日の仕事のために三度の食事ができますが、一人ではストレスです。
なんて過酷な条件なんでしょうか!
戦費は法外だと思っていましたが、あの患難時代には前例のないものになりそうです。
しかし、「ぶどう酒に害を与えてはいけない」という言葉に注意してください。
油とぶどう酒は小麦と大麦と対比されます。
小麦と大麦は貧しい人々の食べ物です。
しかし、金持ちの食べ物や贅沢品には手をつけていません。
「小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
私は見た。見よ。青ざめた馬であった。
これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。
彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。
(ヨハネの黙示録6章7、8節)
そして今、彼が第四の封印を開けると、死に乗った青白い馬が現れました。
青白いという言葉は茶緑色を意味します。
より良い翻訳では、死体の色であるという意味で、真っ赤な馬です。
何の描写でしょうか?
戦争と飢饉には必ず疫病がつきまとうのです。
近年、私たちはそのようなことをある程度知るようになりました。
それほど遠くない日にはこのことが完全に実現します。1)
1)この講義は、どこか口語的で局所的すぎるように思えていました。
最初は作り直そうと考えました。
しかし、私はそれを与えられたままにしておくことにしました
読者はそれが休戦の年に語られたことを理解するはずです。
現在、インフルエンザの疫病がまだ進行中です。
講義7 第五、第六の封印 6章9~17節
第五の封印と第六の封印が解かれることについて書かれていることを学ぶ前に、神が地上の民イスラエルに対して行ったことについて述べる必要があります。
そこでは、私たちが学んでいる黙示録がダニエルの古い預言とどのように関連しているかが示されています。
神は、アブラハム、イサク、ヤコブとの約束に従って、十字架の前の千五百年間、特別に選ばれたご自分の所有する者として一人の民と契約を結んでおられました。
主は彼らを当時の民族から分離して、カナンの地を相続地として彼らに与えらました。
その間、イスラエルは見えない王として主に忠実だったのです。
やがて、主は彼らに聖なる律法を授けました。
彼らが御声に聞き従うなら、彼らは万民の長であり、地の果てに至るまで主の証人となると宣言されたのです。
また、次のように戒められました。
もし、彼らが主にに従わなければ
もし、彼らが主のさとしを守らなかったなら、
もし、彼らが、主の命令を破ったならば、
もし、彼らが、諸民族の異教の神に立ち返るなら、
もはや、主は彼らを敵から守らず、彼らは不従順のゆえに散らされます。
それは、彼らが自分を罪をさばき、罪から立ち返るまでです。
そのとき、主は彼らの先祖たちとの契約を思い出し、彼らをその国に帰り、すべての約束が成就されます。
イスラエルは様々な試練を受け完全に崩壊しました。
主のことばどおりに、アッシリヤの王によって10の部族が捕え移されました。
残りの二部族も少したってから、バビロンへ捕え移されました。
そこで彼らは70年間、奴隷にされていました。
この預言された期間が終わると、彼らは自分の土地に帰ることを許されました。
それは、約束されたメシアが現われた時に、彼らがその土地でメシアを歓迎するためでした。
ユダヤ人の残りの民だけがこの特権を利用しました。
時の満ちて、主イエス・キリストが現われた時には、イスラエルの子孫はパレスチナに住んでいました。
しかし、長い間、メシアを待っていた国民にイエスは拒絶されるだけの結果になりました。
キリストの来臨の時は、ダニエル書の中で明確に予告されていました。
9章では、天の御使いが預言者に、神がその民とその聖なる都のために70週を定めたという言葉を伝えました。
「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。
それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。
それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。
やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。
その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」
(ダニエル書9章24~27節)
「週」という単語は素直に7と表現した方がよいかも知れません。
70をかける1週が7年で490年です。
490年という数字は時の経過における定められた期間であり、特にユダヤ人とエルサレムに関係しています。
この期間は7週間、すなわち49年に分けられ、その間に再び広場とほりが再建されることになっていました。
この作業が完了した直後に、王子であるメシアが現れ、断ち切られるまでの62週間、つまり434年です。
最後の一週間、つまり7年の期間が終わりには王が聖なる都を支配し、長い間預言されていた王国が樹立されます。
このようにすべての預言が成就することになります。
このスタート地点は、ネヘミヤ書2章に記録されているアルタシャスタ王の命令です。
「エルサレムを回復し、建設する命令の発布」と明確に定義されています。
その後、49年の間に町は再建されました。
それから434年後、私たちの主はエルサレムに上られました。
そして、群衆からダビデの子、王として迎えられました。
しかし、数日後に拒絶され、十字架に架けられたのです。
このように、メシヤは絶たれ、何も残らなかったのです。
最後の1週はどうなったのでしょうか?
成就されましたか?
そうです。
成就されていません。
イスラエルは御子を断ちました。
ゆえに、神はイスラエルを絶ったのです。
その一週は、終わりの日に取って置かれ再びイスラエルを召されるまで成就することはありません。
御使いの啓示者はダニエルに「その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている」と言いました。
この言葉は、過去2000年間のパレスチナの全歴史を示しています。
常に中東は大きな戦場であり、ほとんど比類のない荒廃と化した光景でした。
なぜなら、イスラエルは自分たちが来たるべき時を知らなかったからです。
彼らの時間は、現在進行中ではありません。
神は別の仕事をしておられるのです。
ユダヤ人たちは部分的に目が見えなくなりました。
彼らが地上をさまよっている間に、キリストはキリストのからだである教会を集めておられます。
教会は天の集まりであり、キリストが地上に義の王国を建てられる時に、教会はキリストとともに王となるのです。
空中で主が教会を迎えた後に、再びユダヤ人は最終的にこの地に戻ります。
エルサレムがユダヤの首都となるまで、7年の最後の週は動き始めることができません。
黙示録の本の大部分がこの最後の週について扱っているのです。
訳者注)この注解書は第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の1930年に再販されたものです。
つまり、ヒトラーがドイツで政権を握る前であり、ユダヤ人がイスラエルを再建する前に書かれたのです。
2024年現在、ユダヤ人たちは不信仰な状態で中途半端にイスラエルに戻ってきています。
より詳細に聖書を見るのであれば、この患難時代の前にイスラエルは反キリストと契約できる状態であることがわかります。
最終的には、主が世界中からユダヤ人を集め、完全な姿となさるのです。
このことが理解できて、すべてが明らかになり、初めて預言全体が理解できるようになります。
栄光が与えられたキリストによって遣わされた聖霊が弟子たちの上に臨まれた時、ペンテコステの日に教会が始まりました。
この隠された奥義の全容は、タルソスのサウロが使徒パウロとなるまで知られることはありません。
このように、パウロを通して私たちに、現在の教会の真実の教えが知らされました。
キリストの教会は一つです。
しかし、キリストの名を名乗り、キリストの信者であると主張する人々は、悲しいことに分裂し、多くの組織を形成しています。
彼らは、しばしば救われた者も救われていない者も同じように受け入れているのです。
神の教会は、聖霊によって生まれた人たちだけで成り立っています。
この人たちはみな、同じ御霊によって、「キリストのからだ」すなわち教会に入るバプテスマを受けているのです。
「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」
(コリント人への手紙第一12章13節)
この特別な御業は、主の再臨の最初の段階である主の空中再臨で終わります。
第二の段階は、神が栄光を現わして地上に来られ、支配される時です。
70日、つまりダニエルの最後の週は、この2つの重要な出来事の間にあるのです。
主はこの時代を「終わりの日」として語られました。
「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」
(マタイの福音書24章13節)
そして、主はそれを「苦しみの初め」と「ひどい苦難」の二つの部分に分けています。
「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです」
(マタイの福音書24章7、8節)
「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。」
(マタイの福音書24章21節)
私たちの主が預言した偉大な預言と、私たちの前にある黙示録の一部とを注意深く比較してみてください。
最初の6つの封印が週の前半について語っていることが明らかになると思います。
つまり、「苦しみの初め」です。
そして、第七の封印が解かれてからは、伴う恐怖とともに「ひどい苦難」そのものが紹介されています。
反キリストについての警告は、永遠の平和への偽りの希望を暗示しており、最初の封印に対応しています。
戦争と戦争の噂が続くという彼の宣言は、第二の封印と完全に一致します。
同じように、飢饉と疫病についての厳かな警告は、第三の封印と第四の封印に対応しています。
そして主は、ご自分の弟子たちが容赦なく殺され、ご自分の名を告白することだけが人生のすべてになる時を預言します。
第五の封印が解かれた時、ヨハネは祭壇の下に、神のことばと主のあかしのために首が切られた者たちのたましいを見ます。
「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。
彼らは大声で叫んで言った。
「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」
すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。
そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。」
(ヨハネの黙示録6章9~11節)
これらの殉教した聖徒たちは誰なのでしょうか?
そして、彼らはどのような立場に属しているのでしょうか?
彼らは教会に属することはありません。
すでに見てきたように、教会は最初の封印が解かれる天に存在しています。
天にある王座についた長老たちによって象徴されているからです。
しかし、ローマ人への手紙の9章では、異邦人が完成され、成就した後のことを次のように明らかにしています。
すなわち、現在の時代が終わり、教会が天に移されて、イスラエルから盲目が取り去られます。
イスラエルの本当の自分たちの状態と、メシアを拒んだ自分たちの罪を知ることになります。
その時、イスラエルは救いを求めて祈ります。
このようにして、現在の天の集まりとは全く異なる、新しい聖徒の集まりが地上に形成されるのです。
これらの多くのユダヤ人信者は、終わりの日の悪魔の軍勢によって殉教します。
彼らはささげ物として、その魂は祭壇の下に注がれているのです。
彼らは敵に復讐するために叫んでいます。
というのは、彼らは裁きのディスペンティーションに属しており、完全に一致しています。
これは現在の福音の教えの恵みに完全に反しています。
神の民は、神の御霊によって、自分の運命が置かれている特定のディスペンティーションの支配原理に従って祈るように教えられているのです。
このことは、詩篇に出てくる感傷的な魂がしばしば動揺し、衝撃さえも感じることを物語っています。
彼らは現在の時代に知られているような、神の恵みにそむくような復讐の叫びを理解することができません。
彼らが恵みのことばを口にするのをためらったとしても不思議ではありません。
彼らは私たちとは違うからです。
しかし、彼らは、ヤハウェのために苦しむイスラエルの残された民にふさわしい者となります。
彼らは、完成された贖罪の明確な知識を持っていません。
メシアが現われ、最後の巨大な異邦人連盟を滅ぼすのを待っているのです。
13章を見るのであれば、彼らを完全に絶滅させられようとしています。
祭壇の下にいるこれらのたましいは、自分たちの敵である容赦のない者に対する神の裁きを求めています。
彼らに白い衣が与えられます。
ヤコブの苦しみが終わるまでしばらく待たなければならないと宣言されます。
そして、彼らはまだ殺されていない兄弟たちと合流するのです。
地上では神とキリストへの憎しみはますます増大してゆきます。
ついに、主イエスが炎の中で天から現われ、神を知らない者たちに復讐されるのです。
これはテサロニケ人への手紙第二1章に書かれていることです。
「苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。
そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。
そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。
その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の――そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。――感嘆の的となられます。」
(テサロニケ人への手紙第二1章7~10節)
第六の封印を開けると、驚くべき象徴的な描写が描かれています。
これは非常に重大な意味を持っているので、その全体をあなた方は理解しなければなりません。
ヨハネはこのように述べています。
「私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。
そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。
そして天の星が地上に落ちた。
それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。
天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。
地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。
「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」」
(ヨハネの黙示録6章12~17節)
聖書全体から見ても明らかなように、これを文字通りの普通の地震とみなすべきではありません。
マタイの福音書24章の主の御言葉は、終わりが近づくにつれて、このような恐ろしい現象が各地で起こることを示しています。
「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」
(マタイの福音書24章29節)
すでに、おそらく過去20年間に、文明世界に衝撃を与えた似たような多くの恐怖が存在していたと思います。
このような恐怖が起きるたびに、教訓となる注意喚起と警告がなされてきました。
しかし、このような警告は短期間のうちに簡単に忘れ去られてきたようです。
しかし、第六の封印の地震は全く異なる性質のものです。
それは文字通りと言うよりも、現実の島、山、海、そして国家の都市において、この幻が成就されるのです。
そして、成就した後も長く存在しているように思えます。
これはむしろ、現在構成されているような社会の完全な崩壊、現代の誇る文明の破壊を示しています。
旧約聖書はこのように光を当てているのです。
恐ろしい前兆を明らかにするための聖句箇所が豊富に存在しています。
この観点から見てください。
もし、私たちがこの書の最初の部分を覚えているなら、助けられることがあります。
主がそれを遣わし、「そのしもべヨハネに示された」と言われているのです。
つまり、主はしるし、もしくは啓示によってヨハネに現わされたのです。
黙示録が扱っている2つの分野はキリスト教とユダヤ教の未来です。
それを理解して読むのであれば、御霊の思いをより把握しやすくなります。
これらのことを心に留めておけば、神が象徴的に意味していることを文字通りに受け取らずに済みます。
したがって、第六の封印が示しているのは、世界規模の文字通りの地震ではないと解釈します。
つまり、政治的、社会的、教会的な現在の秩序の破壊に陥ることになります。
すべての権威の崩壊と、すべての確立された永続的な制度の崩壊です。
私が思うに、最近ロシアで起こっていることに、その予兆を見ることができるかもしれません。
王位の転覆、ロマノフ王朝の失墜、すべての産業秩序と社会秩序の破壊、狂信的な過激主義の恐るべき騒乱が起きています。
あらゆる場所で血のように赤い無政府状態が支配しています。
自由の無謀な約束をする一方で、獣のような男たちの抑制のない残虐行為に対しての様々な安全策が破壊されています。
人類の歴史の最初に、神ご自身が被造物の神聖さと祝福のために結婚が制定されました。
ここで、この結婚を廃止しようとした恐ろしい一例を挙げてみましょう。
すべての女性を、望む者が誰でも手に入れることができる共有財産とすることを強要するという堕落した慣習に取って代わるというものです。
そして、このような忌まわしい状況で生まれたすべての子供たちは、両親から引き離され、国の子供として育てられることになります。
生まれつき愛情はたちまち致命的な打撃を受けることになります。
人間の動物的な性質に対するあらゆる制限は終わりを告げることになります。
世界に衝撃を与えたもう一つの出来事は、ロシアの国家教会の転覆です。
言葉では言い表せないほど腐敗していたのは事実です。
教会を破壊したいという激しい欲望が彼らにはあるのです。
ソビエト政府は、人間であれ神であれ、宗教的な名前を持つすべてのものに宣戦布告しました。
「神も教会もいらない」という叫びが不幸な国に鳴り響いています。
恐ろしい未来が待ち構えていることを誰もが予測できるはずです。
前世紀には、フランス革命がこの第六の封印が描写されていると考える人が多くいました。
実際には、同じ状況の初期の例にすぎませんでした。
私たちはこのことを考えてみましょう!
5世紀、6世紀、7世紀のローマ帝国の崩壊の時も同様でした。
確かに、これらの大変動はどれも、驚くべきものでした。
しかし、預言の条件を完全に満たすものではありません。
というのは、まだ教会はまだここに存在しているからです。
神の恵みの福音は、今なお罪深い世界に宣べ伝えられています。
封印が解かれる時、天において教会はキリストとともにあり、その時を待っていることをすでに見て来ました。
その時、神は地上に降りて来て、ご自分の世界を支配し、義の権威を確立されます。
しかし、ここで、その真実な意味をよく理解するために、この一節を詳しく見ていくことにしましょう。
「私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。
そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。」
(ヨハネの黙示録6章21節)
太陽は髪の毛の荒布のように黒くなったと言われています。
この地球という惑星の光と生命の源である太陽は、最高の権威を語り、よく知られた主ご自身の型です。
マラキ書にはこのようにあります。
「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。」
(マラキ書4章2節)
上記の聖句はキリストの再臨に関するマラキの宣言です。
現在のキリスト教国は、名目上は、キリストの支配権を宣言しています。
手紙に書く日付もA.D、つまり西暦(Anno Domini)を使用しています。
私たちは、この方を主と呼び、この方の御手から私たちの支配を受けたいと願っています。
だがすぐに、彼は完全に退けられ、この言葉は軽んじられることになります。
このように、太陽は天から消し去られ、神は退けられたように考えられます。
当然のことながら、これは派生したすべての権威の破壊を意味します。
ゆえに、「月は血のようになった」と解釈することができます。
月は太陽からすべての光を得ています。
それはまさに「神によって定められた力」であり、神によって人間の祝福のために定められたものです。
しかし、すべての政府が倒されると、少なくともしばらくの間は、無秩序の不気味な輝きがその場所を占めるのです。
天から降ってくる星々は、偉大な宗教指導者たちの没落と背教、つまり天にある教会の輝くような光を示していると思います。
ダニエル書を見るならば、多くの人を義に導く者たちは、星のように輝いています。
「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」
(ダニエル書12章3節)
黙示録の最初の部分では、星は教会の使者であると言われています。
「わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。」
(ヨハネの黙示録1章20節)
したがって、ここではシンボルを同じ意味で理解する必要があることは明らかです。
真実な教会が空中で主に会うために捕らえられた後、莫大な数の改心していない教会信者が取り残されます。
そこには、プロテスタントとロ―マ主義の両方で何千人もの教会の権威者たちが含まれています。
彼らは霊的な指導者と見なされていますが、神の命を完全に失っていることが明らかになっています。
信仰を告白した聖職者たちは、その高慢と高貴な召命にもかかわらず、カナンの地に住んでその名を与えた昔のペリシテ人のように、霊的な事柄に携わっているだけの生まれつきの人間にすぎません。
パレスチナ人は、あたかも自分たちの権利であるかのように、そのすべての権利を受け入れていたが、彼らはずっとエジプト系の不当な侵入者でした。
これらの人々は、小羊の怒りのその恐ろしい日に、権力と名声の座から投げ出され、わずかに残されたキリスト教の痕跡から背教して、すぐに反キリスト崇拝の指導者となる星々なのです。
このように、天、つまり、あらゆる聖職的権力は、巻物が巻かれるとき、巻物のように去っていきます。
すべてのキリスト教国が、時代遅れのものとして巻き上げられることになるのです。
いわゆる、最近の宗教思想の指導者たちは、クリスチャンの信仰の終着点に疑問を呈しています。
戦争によってもたらされた無秩序な状況から新しい宗教的概念が完全に生まれているのです。
そこでは「ナザレ人」の概念に取って代わり、人類崇拝に至ると宣言しています。
それは、すべての人に内在し、人の心の中にのみ見出される神の新しい概念なのです。
そのような教師たちが自分たちの期待していることに疑う余地がありません。
このクリスチャン・サイエンスのために、いわゆる新思想、新しい神学、神しい智学、および同種のカルトが世界を導いているのです。
これらの学問は、すべて同じ基本哲学に基づいています。
現在、この地上に聖霊が存在しており、神の教会に住んでいる限り、この不法の秘密の完全な展開は阻止されています。
しかし、キリストが教会と一緒に取り去られると、残されたすべての信仰告白は破壊されてしまいます。
そして、その廃墟の中から、終わりの日に最後の悪魔の傑作が生まれます。
しかし、すべての宗教、信仰の破壊は、この恐ろしい時代の恐ろしい状況を激化させるだけです。
見せかけの自由に酔いしれ、あからさまに神を否定する民主主義の勝利を喜ぶ人々は、短い期間ではあるが、この地上を大いなる狂気の館に変えてしまいます。
その時代の劣悪な騒動は、言葉では言い表せないものになります。
大勢の人々が、自分たちが拒絶し、神の子羊の穏やかな支配を拒んだのです。
しかし、ある形で自分たちの罪によって、自分たちの頭の上に降りかかってきた災害だという認識を持つようになります。
「そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。
天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。」
(ヨハネの黙示録6章13、14節)
ある人が次の箇所を「歴史上最大の祈りの集会」と呼んでいました。
「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。」
(ヨハネの黙示録6章15、16節)
彼らはエレミヤが預言した者たちのようです。
彼らは主の燃える怒りの日にこのように叫ぶのです。
「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。」
(エレミヤ書8章20節)
「小羊の怒り」という重い表現に注目してください。
常に私たちは小羊は優しさの象徴として受け入れられてきました。
ここでは怒りと憤りに結びつけられています。
そこには恐ろしい事実が含まれています。
もし、神の子羊からの恵みを拒絶するのであれば、子羊の憤りと怒りに直面しなければなりません。
他の方法がありません。
この怒りこそが永遠の義を現わしているのです。
神御自身はそのようになさることはありません。
しかし、神の聖なる御性質に従うのであれば、他の方法はありえません。
他の聖書箇所では次のように書かれています。
「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。
彼にはご自身を否むことができないからである。」
(テモテへの手紙第二2章13節)
ウィリアム・カウパーの詩集にこのようにあります。
「神の律法、天のさばきを聞け!
真理を憎む者は、偽りにだまされる者です。
そして、最後までだまされる者のなら、その者は地獄のように強い妄想が縛り付けられているのです。」
そのような者のために用意されているのは、恐怖に満ちた裁きと、敵対者を食い尽くす激しい憤り以外の何物でもありません。
これは、モ―セの律法を軽んじた者たちの身に降りかかったことよりも、もっと痛ましいことです。
彼らは今、恵みのうちに現わされた神に逆らっているのです。
神は御子の人格を持って人として現われてくださいました。
そのような者には「小羊の怒り」以外にありえません。
「このように恵みが軽んじられるのなら、神がお受けになった憤りが計られて、裁きをもたらすのです。」
しかし、神の怒りはさらに深く、激しい裁きの形で行われます。
「神の怒りの七つの鉢」から地の上に注ぎ出されました。
キリストを拒む者は永遠にその下にとどまる」と書いてあります。
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
(ヨハネの福音書3章36節)
ここに描かれている絶望的な状態に注目してください。
永遠の怒りは、消滅も回復もありえません。
神の比類なき恵みを拒む結果は、永遠であることを教えています。
永遠にとどまるのです。
しかし、私はこの講義を終わりにしなければなりません。
そして、私たちは、第六の封印を見るならば、ダニエル書の9章の成就しなかった最後の週の最初の部分が終わることを、もう一度確認してください。
それは2つの部分に分かれています。
主ご自身が最初の部分を「苦しみの初め」と定義し、最後の部分を「ひどい苦難」としています。
このことはヨハネの黙示録の7章の封印が解かれて私たちに紹介されています。
7章の大きな介入箇所の後に私たちの前に現れます。
小羊の怒りは「苦しみの初め」に諸国民の上に襲いかかります。
神の怒りは「ひどい苦難」の中で彼らの受け取るものとなるのです。
私は哀れみをもってここに願います。
これらのことばを聞く者が、絶対にこのどちらにも入ることのありませんように。
現在、恵みは義によって支配されています。
義なる神は、イエスを信じるすべての人の義となるために、哀れみをもって待っておられるのです。
講義8 十四万四千人と大勢の異邦人 7章
前回の講義では、ダニエルの預言について、70週の前半、まだ未来のことで精一杯でした。
「悲しみの始まり」とは「小羊の怒り」が、罪あるキリスト教と背教のユダヤ教に注がれる時なのです。
第七の封印によって、あらゆる激しい災害が大患難に投入されます。
私たちは、主がヨハネにその封印を解く前に、この7章において、補足的な2つの重要な幻の記録を残しています。
最初に、ヨハネは御使いによって封印された十四万四千人のイスラエル人を見います。
2番目に、ヨハネは、多くの異邦人の群衆が、御座のまん中におられる小羊に率いられて勝利を収め、千年王国の地球を手に入れているのを見ています。
私の話を聞いている方の多くは、十四万四千人についての矛盾した説にしばしば混乱されたことがあると思います。
多くの聖書に基づかない明らかに異端である教派が、自分たちの肩書きにしているのは面白いかも知れません。
あなたがたはセブンスデー・アドベンチスト教会が、自分たちの交わりの信者たちにこれを適用していることを知っていると思います。
彼らは主の再臨の時にユダヤ人の安息日を守っているのを見るかも知れません。
彼らは主が降りてきて、再臨された時に残りの教会に裁きが下されると考えています。
そして、故ラッセル牧師の支持者たちは、十四万四千人には自分たちの信仰の「勝利者」だけが含まれると教えています。
一般に「千年の夜明け(ミレニアル・ドーニズム)」と呼ばれる制度の教えに従うならば、最後まで忠実であり続ける人たちを指しています。
「フライングロール(Flying・Roll)」として知られる不合理でおかしなカルトは、同じことを主張しています。
彼らと一緒にいる者だけ、つまり、十四万四千人の血が清められて、死ぬことはないと主張しています。
彼らは、この地上で不滅の命を持つことになります。
この他にもたくさんの教派があります。
これらのすべての事は、非常に単純な事実を見落としているから起きているのです。
それを観察すれば、彼らを愚かさから救うことができるかも知れません。
イスラエル人は、部族ごとに一万二千人ずつで、全部で十四万四千人でした。
彼らの中に異邦人は一人もなく、部族間の争いも存在していません。
「それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。
ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、
アセルの部族で一万二千人、ナフタリの部族で一万二千人、マナセの部族で一万二千人、
シメオンの部族で一万二千人、レビの部族で一万二千人、イッサカルの部族で一万二千人、
ゼブルンの部族で一万二千人、ヨセフの部族で一万二千人、ベニヤミンの部族で一万二千人、印を押された者がいた。」
(ヨハネの黙示録7章4~8節)
私は十四万四千人に属しているという人に会うたびに、いつもこのように聞いています。
「あなたはどの部族に属しているのですか?」
彼らは答えることが出来ずに混乱しています。
では、冒頭の3節を注意深く見てみましょう。
「この後、私は見た。
四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。
また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。
彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。
「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」
(ヨハネの黙示録7章1~3節)
ヨハネは「四人の御使い」が「地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた」のを見たと語っています。
4はこの世界の隅々を表しています。
ダニエル書7章に示されているように、ダニエルの幻では、預言として「天の四方の風」、諸々の世界帝国が荒々しい波の下から野獣のように出てくるのを見ています。
「ダニエルは言った。「私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、
四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた。」
(ダニエル書7章2、3節)
ここでは、ある出来事が起こるまで、御使いたちがこれらの4つの風を抑えています。
この御使いたちが最後の野獣の出現を阻止しているのは明らかです。
13章では、7つの頭と10本の角を持つ獣、ローマ帝国の最後の姿が海から現れます。
この獣は騒乱の国々を象徴しています。
この国々は、近い将来、神のみことばが預言している大いなる国家連合です。
この集まりは、悪魔的な起源を持つ連合です。
また、教会が消え去った後まで進展することはありません。
そして、教会が最終的な悪魔的形態になる前に、ある出来事が起こらなければなりません。
2節と3節は明確に最初に何が起きなければならないかを示しています。
「また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。
彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。
「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」」
(ヨハネの黙示録7章2、3節)
書かれていることの要点は、あなたがたが見ている通り、神がイスラエルの選ばれた残された民を、人の子の支配下の御国を継がせるということです。
それはもうすぐ設立されます。
そして、ローマ帝国の最終形態が完成された時代に起きます。
選ばれた残された民は封印されており、印が押されています。
つまり、獣のあらゆる力によっても、その同盟者である反キリストのあらゆる憎しみよっても、彼らを滅ぼすことができません。
このように、神の目的は遂行され、妨げることができません。
4節から8節まで、これらの封印されたものの存在について述べられているのは疑いの余地はありません。
「それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。
ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、
アセルの部族で一万二千人、ナフタリの部族で一万二千人、マナセの部族で一万二千人、
シメオンの部族で一万二千人、レビの部族で一万二千人、イッサカルの部族で一万二千人、
ゼブルンの部族で一万二千人、ヨセフの部族で一万二千人、ベニヤミンの部族で一万二千人、印を押された者がいた。」
(ヨハネの黙示録7章4~8節)
後半に進むと、ダン部族が欠けています。
その代わりに、ヨセフ族の二つの部族、マナセ族とエフライム族があることがわかります。
しかし、エフライムはヨセフから出た名前です。
なぜ、ダンは12部族から省かれているのでしょうか?
なぜ、別の方法で12部族が作られているのでしょうか?
はっきりとしたことが言えません。
ラビたちの言い伝えによると、反キリストはダン部族から現れるだろうと語られています。
これらは創世記49章17節のヤコブの言葉を根拠にしています。
「ダンは、道のかたわらの蛇、小道のほとりのまむしとなって、馬のかかとをかむ。それゆえ、乗る者はうしろに落ちる。」
(創世記49章17節)
歴史的記録である「さばきつかさの書(book of Judges)」にはこのように書かれています。
「ダンは偶像崇拝を行った最初の部族であり、ダンが最後の大偶像崇拝、すなわち反キリスト崇拝の指導者です。」
このように書かれていたとしても驚くことはありません。
しかし、私たちは、信仰によって、他のあらゆる困難から逃れさせてくださることに心を止めます。
そこには神の無限の知識と知恵があるからです。
今の時代に私たちが知るべき必要なことは、神がすべて啓示いることを知っています。
この章の残りの部分である9節からはまったく別の集まりが登場します。
ヨハネはこのように語っています。
「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、
言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」
長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。
そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。
「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。
また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」」
(ヨハネの黙示録7章9~17節)
この大群衆の中に、携挙された教会が存在すると教えている人は、とてもおかしいと思います。
大きな患難の半ばに神の教会を抜け出させることはありえません。
しかし、この聖句をを注意深く見るならば、私たちがここで見ているのは、天の集まりではなく、地上の集まりであることは明らかです。
この大群衆は、千年王国の祝福に入る異邦人の諸国家を受け入れているのです。
この集まりは次のディスペンテーションの大きな集まりです。
あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が小羊の血によって贖われ、私たちの主の地上の御国に入るのです。
大きな苦難の暗い時代の間に、彼らはダニエル書12章に書かれているように、ユダヤ人伝道者によって地の果てにまで伝えられるあかしの言葉に耳を傾けるのです。
彼らは多くの人に義を教えます。
「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。
国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。
しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。」
(ダニエル書12章1節)
私は彼らはマタイの福音書25章に出てくる「羊」と同一人物だと考えています。
彼らは、人の子が栄光のうちに来られるとき、人の子の右に置かれ、その聖なる御使いたちはみな、御子と共にいます。
彼らは、地の基が置かれる前から彼らのために用意されていた御国を受け継ぐ者たちです。
「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」
(マタイの福音書25章31~34節)
彼らは14節で「大きな患難から抜け出て来た者たち」と言われています。
彼らは「その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」
しかし、彼らはどこにも「天に連れていかれる」とは言われていません。
小羊は、彼らに食物を与え、彼らを導き、彼らの上に幕屋を張られています。
15節は私たちに明確に答えられています。
「だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。
そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。」
(ヨハネの黙示録7章15節)
それは、来たるべき日にこの地に建てられる千年神殿のことだと考えます。
天には昼も夜もありません。
その表現は地上の神殿だけを指すことができます。
この個所で「御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです」と書かれています。
これは疑いもなく、主が昔、主の民を荒野に導かれたとき、その民をおおわれた時のことです。
昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを導いてくれただけでなく、砂漠の太陽の激しい光から彼らを守ってくれたのです。
このように、来たるべき世において、贖われた者たちは守られるのです。
「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。
彼らが昼も夜も進んで行くためであった。」
(出エジプト記13章21節)
同様に私たちにはこのように語られています。
「彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。
また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」
(ヨハネの黙示録7章16、17節)
おそらく、この聖句は、直接、天を表わしていると考えます。
それは、人々が千年王国の時代の祝福を理解していないからです。
しかし、小羊が支配する時代に救われた国民が味わう祝福については、イザヤや預言者たちの預言と一致しています。
日の糧を得るための戦いは終わり、もはや飢えることはありません。
彼らの渇きを癒そうとする空しい努力も終わりを告げ、もはや渇くことはありません。
罪が神の創造物を傷つけ、人々が苦しめられてきました。
不快で、同意できない苦しみも終わりを告げます。
もう、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
その日には、救われたすべての民が、この詩篇の美しい言葉を完全な意味で理解することができます。
今の時代、私たちはこの言葉の意味をわずかに知ることが出来ます。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」
(詩篇23篇1~3節)
神の教会がはるかに良い状態にあるのは事実です。
しかし、私たちの希望は地上ではなく天にあります。
私たちは、地上とその住民とを待ちうけている祝福を思うと、確かに喜ぶことができます。
私たちの心は喜びに満たされるのです。
神は聖書の中で、御自分の聖なる預言者たちに書かせたことは必ず成就します。
それは確かに約束されています。
聖書の約束は破られることがありません。
「聖書は廃棄されるものではないから」
(ヨハネの福音書10章35節)
その時、すべての悪は規制され、栄光の千年の間、私たちの主は義によって支配するのです、。
しかし、救われた人にも救われていない人にも特に強く訴えたいことが一つあります。
それは次のことです。
過去のディスペンテーションであろうと、現在のディスペンテーションであろうと、この世の直前の裁きのディスペンテーションであろうと、栄光に満ちた千年王国の時代であろうと、救われる者はみな、キリストの尊い血によって救われるのです。
神は、御子の血による以外に、人をご自身と和解させる方法を持っていません。
旧約聖書の時代には、人は信用で救われたと理解しています。
主イエス・キリストは、この恐ろしい負債を、ご自身の最も尊い血をもって償うことをすでに約束されていました。
そして、罪を認め、神がお与えになった聖書の記録を信じる者は、キリストがまだ成就されていない御業に基づいて、信仰によって義と認められたのです。
現在、御業は完了しています。
神は、十字架以前に行なわれていたこれらの罪を赦すことによって、ご自分の義を示されたのです。
そして今、ご自身が義であり、そして、イエスを信じる者を義と認められる方であることを示されました。
救われていない愛する人よ!
もし、あなたが自分の罪を認め、自分の罪を告白するのであれば、カルバリの十字架であなたのためにご自身を捧げられた祝福された方に心の信頼を置くのであれば、あなたはその尊い血のすべての価値において、神とともに義と認められ、受け入れられるのです。
来たるべき苦難の時にはイスラエルの十四万四千人とその御言葉を聞いた異邦人はみな同じように救われます。
しかし、天のためでなく、地上のために救われるのです。
千年王国の最後まで、その貴重な血は変わらず罪を清める効力を持ちます。
キリストに信頼する最後の魂は無限の価値によって、神の御座の前に言いようのない立場を持つことできるのです。
このように、時代と永遠のすべての祝福はキリストの十字架にかかっているのです。
これが、国々が過去2000年間に道を踏み外した理由です。
平和と義に基づく政府がむなしく戦っているのは、時代においても、永遠においても、唯一、平和がもたらされた十字架の血を無視しているからです。
最後に、今日、私が強調する必要があると思うことを述べたいと思います。
私は、最近の主の再臨について書かれた多くの書物の中で、教会の携挙の後に、キリスト教国における偉大なリバイバル、前例のない霊的な目覚めが起こるという間違いに出くわしました。
その時、今まで迷っていた多くの人々が主に立ち返るというものです。
そして、これらの人たちが私たちが話してきた大ぜいの群衆を形成するだろうと広く教えられています。
私はこのような教えの確証を求めて、熱心に聖書を探しましたが、見つけることができませんでした。
それどころか、神は、今の時代に、救われるための真理の愛を受けない者を見捨てるとはっきり言われています。
彼らはかたくなな心とゆがんだ霊に支配されているのです。
「また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。
なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。」
(テサロニケへの手紙第二2章11、12節)
ここでは、この時代に福音を拒否した人たちが、裁きの期間が始まるときにまだ生きているならば、別の機会に救われるという暗示はありません。
箇所全体を注意深く読むとわかります。
述べられている時代は、不義の奥義が展開され、邪悪な者、すなわち罪の人が明らかにされる時であることがわかります。
その時代には、聖霊は退いています。
主が空中に戻られる時、主は教会とともに昇られます。
聖霊がその後の苦難の時期に働かないということではありません。
聖霊の働きは旧約聖書の時代の聖霊の働きに似ています。
神は天から人々の心に働きかけて、イスラエルの残された民の目を開かれます。
そして、私たちが見たように、無数の異邦人が彼らを通して救われるのです。
しかし、救われる機会があったのに、それを拒んだ者たちに、神が祝福の働きをされるという約束はありません。
彼らは、終末の日の強い欺きの中にいます。
彼らは反キリストの偽りを信じて、さばきに進みます。
それは真理が示されたのに、真理をわざと拒み、迷いと罪を選んだからです。
神とその恵みのことばに対して心をかたくなにすることは、非常に重大な事柄です。
エジプトのファラオはそれを試しました。
それは強い欺きが何を意味するかを示す典型的な例です。
ファラオはモーセが携えて来た御言葉を拒みました。
神がファラオの歩みを決めたのです。
退けられた光は永遠の夜をもたらします。
闇は自然にやってきます。
しかし、すべての人は闇の中で生まれます。
人は意図的に闇を選ぶかもしれません。
しかし、人は光の代わりに闇を選ぶのです。
批判的になるかも知れません。
しかし、この中で、人は自分の逆境のために暗闇に投げ出されるのです。
エレミヤ書13章16節にはこのように書かれています。
「あなたがたの神、主に、栄光を帰せよ。
まだ主がやみを送らないうちに、まだあなたがたの足が、暗い山でつまずかないうちに。
そのとき、あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗やみとされる。」
(エレミヤ書13章16節)
人は光を欲しがらないから、失われるのではありません。
神が与えるわずかな光に従う者には、ますます光が増します。
そして、罪が赦されたことを知るのに十分な光を得ることができるのです。
しかし、私は繰り返し語ります。
光は夜が来るのを拒みます。
私は、キリスト・イエスにある神の恵みのささげ物をまだ心に留めていない者がいるなら、今、だれであっても神の愛の賜物を受けられるように願っています。
もし、受けられるのなら、来たるべき日にキリストと共にある立場が保証されるのです。
もし、主が、ご自分の教会を呼び集めるために、天から下ってこられた時に、福音を聞いていながら、偽りとし受け入れず、罪の中にとどまっているあなたがたは永遠の運命の中に閉じ込められることになります。
まだ、福音が十分に宣べ伝えられていない異邦人や、まだ神の恵みが知られていない荒れ地や、顧みられない場所が世界にはあります。
その地にあって、多くの人が反キリストの迫害からのがれて、御国の福音を全世界に宣べ伝えるときに、イスラエルの残された民のことばを受けるのです。
しかし、主が来られるときに、あなたがまだ救われていないことがわかるなら、あなたは救われた者たちに数えられません。
あなたがたは、自分の罪のために死んだのです。
あなたがたは、神の御前で罪に定められるのです。
イエスはこのように語っています。
「家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。」。
(ルカの福音書13章25節)
また、5人の愚かな娘のように花婿が来たときに外に残され、後になって入ってもらおうと扉を叩いても無駄でした。
「そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。」
(マタイの福音書25章11、12節)
彼女たちは、扉の反対側にいる永遠に閉じられている人たちを描写しています。
しかし、おかしなことに、まさにこの十人の処女のたとえ話は、キリストを拒んだ者には救い主が教会を取り去られた後に、第二のチャンスがあるという不健全な理論を裏付けるために、ある教師たちによって使われています。
後に愚かな娘たちは召されますが、天の祝福を逃した人を表していると考えられています。
他の人たちは、このたとえに基づいて、より霊的な聖徒だけが携挙に捕らえられ、弱い聖徒は大きな苦難の間に清められるために残されるという、同じように聖書にない仮説を立てています。
これは、キリストの体が一つであるという真理の否定です。
キリストのからだの中で最も弱い器官は、頭にとっては最も強い器官と同等に大切なものです。
クリスチャンである者はみな、クリスチャンとしての生活がどの程度進んでいるかにかかわらず、携挙にあずかるのです。
贖いの業の完全さこそが、すべての神の約束に与えられる資格なのです。
働きや功績に対する報酬ではありません。
講義9 解かれた七つの封印 8章
私は、第七の封印が解かれ、この世界についての契約書が完全に開かれることについて、あなた方に話すつもりでいます。
教会が栄光に輝く長老たちによって代表されています。
この巻物は彼らが天の御座の回りに見られた後、父によって主イエスの手に渡されたものです。
最初に、これまでの講義では述べられなかった、ヨハネの黙示録の構成に関していくつか述べておきます。
黙示録の本文には4つの7が存在しています。
アジアの七つの教会への手紙。それから七つの封印、七つのラッパ、さらに神の怒りの七の鉢があります。
この最後の3つの出来事には注目すべきことがあります。
まず、6つの封印が解かれ、次に7章を構成する介入部分があります。
8章では第七の封印が解かれ、全体が公開されます。
私たちがの第七の封印には、7つのラッパが含まれているのを見ています
第六のラッパが鳴らされ、10章と11章から14節までの介入部分があります。
この介入部分に、第七のラッパが私たちを万物の終わりに導きます。
時系列的には、11章18節に到達した時点において、20章の偉大な白い王座に達する時と同じと見ることができます。
第七のラッパが、私たちの神とそのキリストの地上の王国を告げるとともに、死者を裁く時へと続くからです。
「諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。
死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」」
(ヨハネの黙示録11章18節)
この時点から預言的な真理がいくつか重複しています。
つまり、4章から11章の終わりまで、教会の携挙の後、時の終わりに至るまでに起こる出来事の概要が、預言的に順序正しく示されています。
終末の日に起きる出来事がこの個所で、詳細に描かれているのを私たちは目にすることができます。
善と悪の偉大な行為者である太陽をまとった女、鉄の杖で諸国民を支配する人の子キリスト、大天使ミカエル、来たるべき世界同盟とその冒涜的な指導者、羊のような獣です。
私は羊のような獣が反キリストだと信じています。
彼は子羊のように見えますが、竜のように話します。
彼は神の子羊の偽者なのです。
続く14章では、鮮明な形で、最終的な出来事が再び私たちの前に現れています。
そして、15章と16章では、神の怒りの鉢が登場しています 。
私たちはくりかえして、封印とラッパに注目するならば、同じ構造があることに気が付くはずです。
第六の鉢があり、その後に介入箇所があります。
しかし、介入箇所は1節しかありません。
「――見よ。わたしは盗人のように来る。
目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。――」
(ヨハネの黙示録16章15節)
その直後に、神の怒りの第七の鉢が注がれ、17章と18章で語られているバビロンの運命に私たちを導いています。
さらに19章では、主が千年王国を建国し、千年の支配をするために、天の軍勢を伴って地上に降臨されます。
これが終わると、最後の裁きが下されます。
今私たちが知っている天と地は、人間のあらゆるわざとともに滅ぼされ、新しい天と新しい地がもたらされるのです。
そこでは、永遠の祝福の時代、主がすべてのすべてとなられるのです。
十字架以前であっても、以後であっても、主イエス・キリストを執拗に拒み続けた邪悪な者たち、そして、千年王国の義の時代についての神のメッセージを拒んだ者たちは火の池に投げ込まれます。
私は、ほんの一筋の希望の光を見いだそうと、キリストを拒んでこの世を去って行く人々のことを、神の書物を徹底的に調べ尽くしました。
しかし、何も見つけることができませんでした。
私はさまざまな種類の理論を調べ、何百冊もの本を読んできました。
しかし、邪悪な死者を根絶やしにするものもあれば、いわゆる「ラッセル牧師」のありえない夢のように、死後に第二のチャンスを約束するものもありました。
しかし、私は、これらすべての書物の中に、一つとして納得することばも見いだしていません。
それは神のことばに基づくものでなければなりません。
キリストを否認する者に少しの希望も与えるようなものは存在しませんでした。
これが、この世界だけが神がキリストのない人たちに救いを提供している唯一の場所なのです。
もし、今、あなたがたが神の恵みのことばを拒み、故意に聖霊の力に逆らって心をかたくなにし、自分の罪の中で死ぬなら、キリストのいない墓に降りてゆくのです。
あなたは永遠にキリストのない人になるのです!
聖書が私たちに与える失われた者の運命についての最も恐ろしい描写は、ユダの手紙にあると思います。
これはヨハネの黙示録の序文にふさわしいものです。
ヤコブの兄弟であるユダはこのように書いています。
「彼らは、あなたがたの愛餐のしみです。恐れげもなくともに宴を張りますが、自分だけを養っている者であり、風に吹き飛ばされる、水のない雲、実を結ばない、枯れに枯れて、根こそぎにされた秋の木、
自分の恥のあわをわき立たせる海の荒波、さまよう星です。まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されています。」
(ユダの手紙 12、13節)
キリストのない魂にはわずかな希望も見えません。
私がただの少年だった頃、カナダの故郷で毎晩燃えるような彗星が空に現れたことを覚えています。
年老いた人たちが、この「驚くべき夜」はここ300年ほど起きたことがないと言っているのを聞きました。
私は驚きのあまり、それは最初にどこで起きたのかと尋ねました。
そして、私は、人生の若い時に初めて、無限の驚くべき宇宙に直面しました。
その彗星は150年間、太陽から何百万マイルも離れた方向に向かって猛スピードで走ってきました。
そして、150年前に徐々に太陽に向かって戻り始めたのが、今、見えているのだと言われました。
数週間のうちに彗星は見えなくなり、その後、300年間、私たちの前に姿を現すことはありません。
そのときは彗星の言葉も意味も知らなかったと思いますが、その彗星が曲線を描いて、二度と戻ってこなかったらどうなるだろうかと心の中で考えていたのを覚えています。
そして、友よ、これはユダが述べていた一節で提示している恐ろしい描写なのです。
神の恵みを快楽に変えてしまう者、祝福された御子によって与えられた無限の哀れみをさげすみ、神のいつくしみを拒み続け、罪を犯し続ける者は、義の太陽から外の暗闇に追いやられ、永遠に走り続け、二度と神の御前に戻ることができません。
これらの者には、今は、悔い改めのために少しばかりの猶予が与えられています。
しかし、神の恵みの日は終わり、神は起き上がって地を激しく揺さぶられるのです。
あなたがたは、主の哀れみをどのように扱いますか?。
さあ、私たちは黙示録の章に戻りましょう。
まず、冒頭の聖句に注目してください。
「小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。」
(ヨハネの黙示録8章1節)
「嵐の前の静けさ」と言ってもいいのではないでしょうか?
この哀れな世界を襲う、もっとも恐ろしい嵐です。
皆さんの中には、雷雨がよく起こる地域に住んだことがある人もいるかも知れません。
夏の暑い日に、突然、空に雲が濃くなり、一瞬にして激しく暗くなっていくのをよく目にしたことがあると思います。
あなたは雷が空に響き渡るのを聞いたことがあるはずです。
ますます激しくなって、次から次へと鳴り響くのです。
稲妻が多くの人の心に恐怖を与えるのをあなたは目撃しています。
そして、突然、すべてが静かになります。
木々の葉を動かす風さえ吹いていないように見えます。
空はどんよりと曇っており、鳥は隠れ場所に逃げ込み、牛は不安そうに動き回ります。
しかし、すべての自然は待ち望んでいるのです。
わずかな時間が過ぎていきます。
その後、稲妻の鮮やかな閃光が起きます。
私たちに稲妻が落ちてくるのを恐れて、後ろに身を引きます。
続けて衝撃が起き、天の窓が開いたように見えます。
このように嵐が大洪水になって襲ってくるのです
これに似たものがあります。
4章と5章で、聖徒たちが神と小羊の御座の周りに集まっているのを見ました。
そして、御座から雷と稲妻が起こっているのを見ました。
封印が解かれると、神が愛する民を集められた場所から、この哀れな世界に、さばきが次々と起こるのです。
しかし、第六の封印で起きた衝撃でさえクライマックスではありません。
神がこの世界に対して行なわれた事と、下された裁きには天において奥義があります。
しかし、最後の封印が解かれる時、神が地上のすべての事に対して、どのような立場を取るのかが明らかにされます。
神は、ご自分の聖さと御座の義に従って裁くのです。
前に述べたように、第七の封印は大患難時代の最後の劇的な出来事を紹介しています。
その封印が解かれる前の半時間、天に沈黙があるのも不思議ではありません!
それはまるで天全体が期待に胸をふくらませて待っているかのようです。
子羊は次に何をするのだろうか?という質問が聞こえてくるようです。
この反抗的な世界を裁き、取り戻すために神の次に何をするのでしょうか?
次の聖句がその答えです
ヨハネは語っています。
「それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。
また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。
彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。
香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。
それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。
すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。
すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。」
(ヨハネの黙示録8章2~6節)
聖書を良く知る人は、七つのラッパの音をエリコの陥落と結びつけて考えると思います。
エリコとは、ヨルダン川の向こう側にあります。
イスラエル人が約束の地に入るのを妨げたあの大きな街です。
その街は、神の一撃だけで陥落しました。
イスラエルの祭司たちには、さばきのラッパが与えられ、七日間、ラッパを吹き鳴らして町の周りを歩き続けました。
7日目にも7回、同じことをしました。
そして7回目に、エリコの城壁は倒れました。
「七日目になると、朝早く夜が明けかかるころ、彼らは同じしかたで町を七度回った。
この日だけは七度町を回った。
その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。
「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。」
(ヨシュア記6章15、16節)
エリコは、神から離れ、神の民に敵意を持っているという点で、現在の世のの型です。
エリコは七つのラッパの音で倒れました。
あなたがたも知っているように、この世界は、さばきの御使いたちが吹き鳴らす七つの滅びのラッパの音で倒れようとしています。
封印が解かれ、巻物が完全に広げられると、七人の御使いが現われ、彼らに七つのラッパが与えられます。
そして、これらの天の御使いが来たるべき裁きをラッパの音で告げるのを準備をして、待っています。
もう一人の御使いが来て、金の祭壇を司るために立ったと語られています。
その者は、香をささげています。
彼は御使いである祭司なのです。
この御使いである祭司である者は誰でしょうか?
その者が単に創造された御使いではないことに同意すると思います。
聖書は、聖徒を神に受け入れるために、聖徒の祈りとともに香をささげる創造された御使いについては述べていません。
ローマ教会はこのような御使いを主張していますが、聖書のどこにもそのようなことは書かれていません。
旧約聖書を見るならば、キリストはヤハウェの御使いとして繰り返し登場しています。
その御使いはアブラハムに現れました。
その御使いはイスラエルの子らを導きました。
その御使いはヤコブと格闘し、ペヌエルの川のほとりでもものつがいを打ちました。
その御使いは山でモーセに現われました。
その時、その預言者が神を見るようにと祈っていたのです。
その御使いはヨシュアに現われました。
イスラエルの民を導き、カナンの地で彼らの敵に立ち向かわせました。
イエスはヤハウェの御使いだったのです。
すべての期間を通して繰り返して何度も現れています。
ゼカリヤ書を見るならば、その御使いは大祭司ヨシュアのために嘆願するために立っている弁護者です。
ヨハネの黙示録の中で、イエスが御使いの祭司として示されているのを、私たちは再び見ることができます。
しかし、今なお、イエスには地上で懇願すべき人たちがいるのです。
彼らは神の教会のクリスチャンではありません。
しかし、第五の封印と、7章の介入箇所で見てきたように、十四万四千人は神の教会の後にイスラエルから連れ出される残された民です。
彼らは自分の家に召されるのです。
神の言葉は、これらすべてについて明確に答えています。
ローマ人への手紙11章では、異邦人がイスラエルの祝福のオリーブの木に接ぎ木されたことが描かれています。
しかし、この章で聖霊は、異邦人教会が背教し、神はそれを退けてイスラエルに立ち返させられる可能性を明らかにしています。
「もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。」
(ローマ人への手紙11章24節)
患難時代には、彼らは再び自分たちのオリーブの木に接ぎ木されます。
彼らはその恐ろしい時に生き残った証人となります。
主イエスは、今、ご自分の教会のためにとりなしておられるように、今度は彼らのために天でとりなしてくださいます。
神は比類なき患難時代におけるイスラエルの悲しみと困窮に無関心ではいられません。
しかし、イエスは忠実な大祭司として、御自分の民をご自分の心と肩に負われるのです。
昔のアロンは、胸あてと肩の金のわくにはめ込まれた、しまめのうに十二部族の名を刻まれていました。
神の御前で、私たちはまさに金の祭壇で香をささげているこの御使いである祭司が描かれているイエスを見ることができます。
現在の時代(1930年、イスラエル再建前)においても、ユダヤ人たちは自分たちの荒廃を嘆いています。
毎年くりかえし、厳粛に定められた時に悲痛な祈りをあげています。
悲しいことに、彼らにはとりなす者もいません。
やがて、イスラエルの目が開かれます。
そして、彼らが恵みによって魂のために働き始める時、彼らはかつては拒絶されていたメシアの側における祭司の執り成しの恵みを知ります。
そして、イエスを旧約の契約の御使いと同じ存在であることを学ぶのです。
その時、彼らは聖書から探します。
疑いなくヘブル人への手紙を読むはずです。
彼らは四つの福音書を研究し、真理を見るのです。
彼らはゼカリヤ書12章10節から14節に述べられているように「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見、悔い改めて嘆きます。」
そして、神はイスラエルを迎え、イスラエルを諸国への使者とされます。
私たちがこの栄光を見て、主イエスが御使いの祭司であることを見ても、驚くことはありません
「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。
その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう。
この地はあの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。
レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。
残りのすべての氏族はあの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。」
(ゼカリヤ書12章10~14節)
私たちがこの栄光の中を見て、主イエスが御使いである祭司であることを見ても、驚くことはありません。
そして、この御使いは金の香炉を持っています。
来たるべき日に、イスラエルにこのような執り成す者が現れることを考えるならば、それは喜ばしいことです。
香の煙は、地上で苦しんでいる聖徒たちの祈りだと考えます。
御使いは香炉を取り、祭壇の火でそれを満たし、地上で空にしました。
患難時代にいる、悩める者たちの叫びに対する答えがここにあります。
祈りが父に届き、裁きが下ります。
「すると、雷鳴と声といなずまと地震」が起こるのです。
ついに最後の嵐が解かれます。
「第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。
そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。」
(ヨハネの黙示録8章7節)
これを象徴として見るならば十分に説明することはできません。
しかし、福音を拒否したキリスト教会の前にある恐ろしい時代の手がかりを見ることができると考えます。
草が人間の象徴として使われているのを覚えているでしょうか?
「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。」
(イザヤ書40章6節)
足の下に踏みにじられた草は弱さの中にある小さな人間の姿です。
木は何を表しているのでしょうか?
それは、人の誇りと神から孤立した人間の別の姿にすぎません。
ネブカデネザルが大木にたとえられたのを覚えているでしょうか?
「彼は大声で叫んで、こう言った。
「その木を切り倒し、枝を切り払え。その葉を振り落とし、実を投げ散らせ。獣をその下から、鳥をその枝から追い払え。」」
(ダニエル書4章14節)
そして、イスラエルの支配者たちが、大きな木のように語られています。
バプテスマのヨハネは言っています。
「斧もすでに木の根元に置かれています。
だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」
(マタイの福音書3章10節)
草は人の弱さ、人の小ささを表しています。
木は、威厳においても、偉大さにおいても、その独立においても、神から離れてゆく存在を表しています。
このように、最初の御使いのラッパは、現在、自由に宣べ伝えられている福音を拒否した人類に対する激しい裁きをはっきりと示しているのです。
それは恐ろしい描写ですが、現実の描写ははるかに恐ろしいことを忘れないでください!
これに続いて、特別に行われる別の恐ろしい前兆があります。
私は多くの人々の良心を揺さぶり、多くの国々を奴隷にしてきた巨大な世界教会の裁きを信じています。
「第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。
すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。」
(ヨハネの黙示録8章8、9節)
エレミヤ書51章25節に注目してください。
「全地を破壊する、破壊の山よ。見よ。わたしはおまえを攻める。
――主の御告げ。――わたしはおまえに手を伸べ、おまえを岩から突き落とし、おまえを焼け山とする。」
(エレミヤ書51章25節)
ここで私たちは同じ象徴について見ることができます。
海に投げられた大きな山です。
すでに述べたきたように、ヨハネの黙示録にある象徴は、聖書のどこか別の場所で説明されてるのです。
旧約聖書では大きな焼け山とは文字通りのバビロンを象徴しています。
新約聖書では、この大きな破壊の山が火で燃えています。
来たるべき日に、海に投げ込まれ、神のさばきによって終わるバビロンこそ、まぎれもない霊的なバビロンです。
旧約の時代、バビロンは偶像崇拝の源泉でした。
すべての偶像崇拝制度はバビロンにその根を持っています。
霊的なバビロンは、文字通りのバビロンの直接の後継者です。
旧約のバビロンの秘儀的儀式と、現在の霊的バビロンとの直接的なつながりははっきりしています。
もし、これを研究しようとする人がいれば、「キリスト教」と言われる教会で行われている儀式崇拝の多くがどこから来たのかを知るべきです。
必ず驚く結果になるはずです。
来たるべき日に、第二の御使いがラッパを鳴らすと、バビロンは諸国の民の大海に投げ落とされます.。
すなわち、神の怒りの日に、偽の教会はかつて支配していた民によって完全に滅ぼされます。
これについては、18章でさらに学ぶことにします。
さて、これに第三の天使が続きます。
「第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。
この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。」
(ヨハネの黙示録8章10、11節)
大きな星が天から落ちて来ます。
預言書に出てくる星は信仰上の権威者です。
さまざまな人を義に導く者は、星のように永遠に輝き続けます。
聖書の中では、この象徴は、地上において霊的な、あるいは信仰的な重要な地位を占める人々に繰り返し使われています。
地上には、人間に対する影響力が非常に大きい星があります。
その者が倒れると、この背教的な指導者の邪悪な影響のために、人間の三分の一が毒に侵されるのです。
このスターとは誰のことでしょうか?
私はこの預言に挑戦する気はありませんが、一つ提案させてください。
何百万人もの信者を持つキリスト教と言われる宗教の中で、誰が教会の中で最も高い立場を持っているのでしょうか?
おそらく、多くの人がローマ法王だと言うと思います。もし、明日、新聞が次のような「号外」を出したとしましょう!
大勢の数の人々にどんな影響があるのか想像できますか?
「ローマ法王は、キリスト教はすべてまやかしであり、宗教はただの詐欺だと宣言しました!」
はたして、どのような影響があるのでしょうか?
何万人もの人がこのように言うでしょう。
「教会の指導者として、誤りのない、宗教上のすべての問題を、宗教の権威者がすべてを否定しました。
さて、私たちは誰を信じ、何を信じれば良いのでしょうか?
「ローマ皇帝レオ10世が個人的にこのように行いました。」
未来の教皇が公にこのように発言すると想定します。
必ずそうなるとは言いません。
何かの可能性を与えているだけです。
現在において、私たちは小さな規模で同じことを見ていませんか?
キリスト教を信仰する指導者が、かつて自分が主張していたものを放棄したとしましょう!
その結果、影響力も知識も劣っている人々に、邪悪な影響を与えることになるのです。
私は真実な教会が去った後、残された偽りの組織の最も偉大な「光」のひとつが、公然と背教すると聖句の象徴的表現から推測しています。
その教えが、欺かれた信者にとっては、毒であり、苦痛である苦よもぎのようなものになるのです。
第四のラッパが鳴るとさらに闇が深まります。
「第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。」
(ヨハネの黙示録8章12節)
繰り返しますが、私はこれが何を象徴しているのかを正確に伝えようとしているわけではありません。
しかし、光が急速に遠ざかっているのは明らかです。
第三の天が打たれました。
月と星の三分の一が暗くなりました。
それはどういう意味でしょうか?
さて、あなたは主イエスがこのように言っていることを知っているはずです。
「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、
もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。
それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」
(マタイの福音書6章22、23節)
光が光を増そうとするならば、逆らう光は夜をもたらします。
あなたは、キリスト教の多くの人々がいわゆるキリスト教科学、神学、スピリチュアリズム、いわゆる新神学に傾倒しているのか知っているでしょうか?
その理由について、このように書かれています。
「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。」
(ヨハネの福音書3章19節)
彼らは神からの光を受け取ることを拒んだのです。
テサロニケ人への手紙第二にはこのように書かれています。
「それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」
(テサロニケ人への手紙第二2章11、12節)
神が真理を人々に示す時に、そこには責任が伴っています。
神がキリストを彼らに示される時、彼らには大きな責任が課せられているのです。
もし、人々が御言葉を聞いてキリストを拒むなら、現在の汚れた考えに捕えらわれたとしても驚くことはありません。
おそらく、失われた永遠の中で目覚めるまで、その考えから解放されることはないでしょう。
13節では、非常に厳かな方法を使って、次の3つのラッパを紹介しています。
これらのラッパは、すでに述べた4つのラッパと異なり「わざわい」のラッパです。
「また私は見た。一羽のわしが中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。
「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」
(ヨハネの黙示録8章13節)
これらはこれまで描かれてきたものよりも、より強烈なさばきについて語っています。
このことは次の講義で取り上げます。
「今、私は「地に住む(inhabiters --(生きる))人々」という表現にあなたの注意を促したいのです。」
黙示録の中には似たような言葉がよく出てきます。
それは「地上に住む(dwell --(〜の中に住む人))者たち」という表現です。
彼らには最も重い裁きが下されます。
彼らは単に地上に生きているだけではなく、独特のクラスを形成しています。
天の召しを拒否した者たちです。
彼らは神が愛する御子の死によって、完全な救いを彼らに与えられたのに神から離れ去りました。
なぜなら、キリストに近づくということは、彼らのこの世の欲望と罪への愛を捨てることを意味していたからです。
したがって、彼らは「地上の住人」であり「罪の中に生きる人」となるのです。
講義10 最初と第二の「わざわい」のラッパ 9章
今度は、最初と第二の「わざわい」として知られている第五と第六のトランペットに注目してください。
これらのラッパの名称が追加されたことは、これまでよりも激しい恐怖を意味しています。
私たちがすべての詳細な事柄を明確にするために説明を続けるときは、私は全文を引用するようにします。
「第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。
その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。
その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。」
(ヨハネの黙示録9章1、2節)
「私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た」と書かれていますが、「私は天から地上に落ちた一つの星を見た」と読むことができます。
つまり、落ちたという表現が動詞ではありません。
第三のラッパで語られている背教者の指導者を指しているのは間違いないと思います。
私たちは、第三のラッパで天からたいまつのように燃えて落ちてきた大きな星のことを読みました。
その星は、川や泉の三分の一に落ちてきて、毒をばらまかれ、水は苦くなり、それを飲んだ人たちは死にました。
この第五のラッパで、私たちは背教の進展を見ているのです。
この指導者は明らかに背教の「かしら」である。
彼は「鍵」を使って底なし沼を開けます。
私たちは福音書の中で「キリストが天の御国のかぎをペトロに委ねた」ことをよく聞くと思います。
「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。
何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
(マタイの福音書16章19節)
また、あなたがたはイエスが律法の専門家たちに向かって「あなたがたは、知識のかぎを持ち去った」と仰せられたという、主の御言葉がこころに刻まれています。
「忌まわしいものだ。律法の専門家たち。
あなたがたは、知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をも妨げたのです。」
(ルカの福音書11章52節)
これらの聖書箇所から、鍵が教えのシステムを意味し、おそらく鍵に関係した儀式行事を意味していることは明らかです。
この手がかりを使えば、次のことが容易に理解できます。
この大背教者は、誤った教えの組織、忌むべき異端、彼らを買い取った主を否定しています。
彼らは、底なしの穴を開けます。
そして、そこから大きな炉の煙のようなまばゆい煙が立ちのぼります。
その穴の煙のために太陽も空気も暗くなってしまうほど激しいものとなるのです。
これは激しい幻想です。
私たちはこれらの講演の途中でこのことを説明する機会が何度もありました。
テサロニケ人への手紙第二では「神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます」と書かれていました。
私たちはここで、神がサタンの使者に諸国民を欺くことを許して、彼らを送られたことを学びます。
この地獄の煙によって太陽が暗くなるということは、人間の目や心の前から最高の光源を消し去られることを意味しています。
かれらの霊的な天全体は、欺かれたために覆われるのです。
特に空中はサタンの領域です。
サタンは「空中の権威を持つ支配者」と呼ばれています。
「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」
(エペソ人への手紙2章2節)
空中が暗くなることは、悪魔の組織によるこの領域の支配を暗示しています。
この来たるべき妄想は、現在、広く行き渡まり急速に伸ばしているグノーシス主義の起源のオカルト体系と同じものと見ても、さほど間違っているとは思いません。
前にも語りましたが、これらのシステムは、真実な意味での神の人格を否定し、人間的な神性を主張しています。
彼らは「あなたがたはエロヒムのようになる」という原始的な嘘を何らかの形で再現しているのです。
これこそが、新思想、新神学、エディズム(クリスチャン・サイエンス)、スピリティズム、神学、これらは邪悪なシステムの一部分であり、分派の本質なのです。
聖霊の制止力が除かれると、彼らはいなごのように全地に広がり、人の心を支配する大きな力を持つようになります。
3節にはこのように書かれています。
「その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。」
(ヨハネの黙示録9章3節)
東洋のイナゴの疫病に詳しい人なら、ここで使われている描写をすぐに理解できるはずです。
イナゴが大群になって現れ、大きな雲のように見えることを旅行者は教えてくれました。
実際に太陽の光を遮断して大気全体を埋め尽くすのです。
彼らは目の前のものをすべて食いつくします。
緑の野原に落ちると、数分もしないうちに、まるでそこに草木がなかったかのように、荒れ地に変えてしまいます。
イナゴは東洋の農耕民の恐怖であり、彼らには対抗する力を持ち合わせていません。
イナゴは、終末の日の霊的な疫病を適切に型として表し、象徴としています。
そして、イナゴの象徴はサソリの象徴と結びついています。
これらの邪悪な教えは、最後には教えを受け入れる人たちに苦痛をもたらすのです。
文字通りのイナゴの疫病ではないことは、次の節が明確にしています。
「そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。
しかし、人間を殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された。
その与えた苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。」
(ヨハネの黙示録9章4、5節)
文字通りのいなごなら、これらのいなごがやってはいけないと命じられていることも、言うことも聞かずにやってしまうでしょう。
地の草、緑、あらゆる種類の木が、ここでははっきりとその力から守られています。
この聖句は、象徴の続きというよりは、むしろ説明のためのものです。
違う見方をすれば、草や木が人類を表しているのかもしれません。
ここで使徒は、私たちが文字通りの適用に惑わされないようにするために、幻の説明を続けるのではなく、詳しく説明しているように見えます。
いなごの力は、額に神の印を押されていない者に加えられます。
これらのいなごは、五か月の間、さそりが人を打つときのような苦しみを与えます。
私たちは、イスラエルの残りの者が神の印を持っていることを見ました。
キリスト教とユダヤ教の中にいる者だけが、その日の激しい欺きから守られるのです。
私たちの主は、現在の時代と同じようにサタンの力を制限するのです。
また、偽りの教えのまん延するのです。
マタイによる福音書ではこのように書かれています。
「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます」
(マタイによる福音書24章24節)
神に感謝します!
それは不可能です。
すべての真理を導くために与えられた内在する聖霊こそが、生ける神の封印です。
来たるべき裁きの時には、同じ聖霊がイスラエルで悔い改める者の心を照らし、悪魔の欺きから彼らを守るのです。
残された期間、この邪悪な教えによって引き起こされる苦痛は非常に大きなものになります。
彼らは完全に邪悪な教えに身を委ねているからです。
「その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行くのである。」
(ヨハネの黙示録9章6節)
エディズムやスピリティズム、あるいは他の悪魔的なシステムの妄想、欺きからある目覚めた人たちがいます。
彼らは霊的な助けが必要な人たちに語りかけます。
ならば、彼らはここに描かれている霊的状態をすぐに理解することができるはずです。。
私は決して忘れはしません。
狂気の目の輝きと、哀れな女性の声の絶望的な泣き声を聞きました。
彼女は何年もスピリチュアリズムの影響を受けてきた後にようやく、自分を奴隷にしてきた組織の恐ろしい特徴をかすかに理解し始めました。
彼女が救い出されたのは、ただ多くの祈りによるものです。
彼女のために熱心に祈り、神にしがみついたからです。
ある時、彼女は私に、悪魔支配からの解放を求めていた一年半の間、呪われた者たちのあらゆる苦痛を受けたと言いました。
数年前私はユタ州でモルモン教徒のために働いていました。
そこで私は哀れな事件を知りました。
モルモン教の偽りを受け入れ、大英帝国からユタに移住してきた一家は、ジョセフ・スミスの忌むべき制度による異教徒的な儀式を30年間行い続けました。
その後、ある著名なモルモン教会指導者たちの背信的な行為によって、すべて信頼できないものであることに気づきました。
その結果、彼らは組織全体を放棄し、言うなれば、いかなる種類の宗教的信仰をもたないまま放置されました。
数ヶ月後、妻と母は死の病の中にいました。
彼女たちは自分の罪の中で神に会うことを恐れ、苦しみと絶望の中でうめきながら、大きな苦しみの中でベッドに横たわっていました。
ある福音の牧師は、友人たちから電話をして彼女に会うように促されました。
家族の意に反していましたが、ついに死の直前にいる彼女の部屋に入ることができました。
その牧師は神の御言葉から福音の貴重な真理を伝えようと誠実に努めました。
しばらくの間、彼女は熱心に聞いているように見えました。
しかし、最後には彼から離れて叫びました。
「先生、ある一つの宗教に一生だまされてきました。
死の時に他の宗教を信じろっていうのは遅すぎます。」
そうして、彼女は大きな苦しみの中で、その牧師の知る限りでは、絶望的な状態で息を引き取りました。
彼女はすでに底なしの淵から抜け出していました。
しかし、今でも多くの魂に対して空気を暗くし、太陽の光を消し去っている教えがあります。
彼女はこの教えを誤魔化そうとしたのです。
しかし。そこには彼らが負う恐ろしい責任があります。
私は、世界中の人たちにこの恐ろしい結果を示す力を示したいと思います。
どんな拷問も霊的な苦痛とは比べ物にはなりません。
唯一の救われる方法は、カルバリの十字架に示された、すべての恐怖を追い出す完全な愛だけです。
私たちが学んでいるこの時代には、神の恵みを拒んだ者たちがいます。
彼らは二度とこのかけがえのない福音を聞くことができません。
彼らは死を求めながら、それを見いだせず苦しみの叫びを上げています。
7節から12節は、この欺きについて非常に象徴的な記述があります。
これは詳細に検討したいので、全文を引用します。
「そのいなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間の顔のようであった。
また女の髪のような毛があり、歯は、ししの歯のようであった。
また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その翼の音は、多くの馬に引かれた戦車が、戦いに馳せつけるときの響きのようであった。
そのうえ彼らは、さそりのような尾と針とを持っており、尾には、五か月間人間に害を加える力があった。
彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシヤ語でアポリュオンという。
第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。この後なお二つのわざわいが来る。」
(ヨハネの黙示録9章7~12節)
いなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていると述べられています。
それは、いなごのすばやい前進力と、いなごと戦う準備ができていない者を支配するという摂理にかなった抵抗力を象徴しています。
「いなごの頭に金の冠のようなものを着け」がありました。
背教は、欺きの時代に、正統的なキリスト教会の最後の残骸さえも追い払い、勝ち誇ってその前にすべてを持ち去ると見ています。。
私たちの主イエスは地上再臨を見据えて厳粛なことを言いました。
「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
(ルカの福音書18章8節)
「人の子が来たとき」とは、携挙のことではありません。
栄光のうちに現れる地上再臨のことを意味します。
その時、預言的に見るのであれば、すべての真実な信仰が預言の地上からから追いやられたかのように思えます。
しかし、私たちが知っているように、神の御言葉の力によって、この後の日にバアルにひざをかがめない大勢の者が、世界のはるかかなたから現れるのです。
次に、いなごは「顔は人間の顔のようであった。また女の髪のような毛があり、歯は、ししの歯のようであった」と述べられています。
ここでは3つの象徴が混在しています。
これらはすべて、これまで言及してきたカルト組織だと思われるものです。
人間のような顔は知性を暗示しているように思えます。
こうした悪しき教師たちは人間の理性に強く訴えかけ、神の真理を巧妙に考え出された作り話だとしてあざ笑います。
実際には、彼らは単に空想的であり、非論理的な考えに従っているだけなのです。
彼らは人間の知性に訴えてきます。
聖書は心や良心に訴えかけてきますが、むしろ彼らは理知的に語りかけてきます。
また、「女性の髪」は、強烈な色気と魅惑的な幻想を特徴として、象徴されています。
聖書では、女性の髪は栄光であると書かれているからです。
ソロモンの「雅歌」にはこのように書かれています。
「あなたの頭はカルメル山のようにそびえ、あなたの乱れた髪は紫色。王はそのふさふさした髪のとりこになった。」
(雅歌7章5節)
多くの人たちが、その自然の魅力によって任務の道から遠ざけられしまい、汚い目的を達成するために悪用されてきたのでしょうか!
しかし、これらの組織は最初に紹介されたときは魅力的で、一見、合理的にさえ見えます。
最後にはししの歯のような歯を持っていることが証明されます。
そして、これらの組織を信頼している人たちを引き裂きます。
9節にはこのように書かれています。
「また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その翼の音は、多くの馬に引かれた戦車が、戦いに馳せつけるときの響きのようであった。」
(ヨハネの黙示録9章9節)
この鉄の胸当ては、すべての良心を完全に破壊するというよりも、真実の軸に鈍感にします。
ゆえに良心に達することはありません。
その翼の音は、戦車が戦場に駆ける音のようです。
その翼は、真理から背き、不義を喜ぶ者たちを征服する速さを物語っています。
10節では、サソリのような苦しみが強調されています。
「そのうえ彼らは、さそりのような尾と針とを持っており、尾には、五か月間人間に害を加える力があった。」
(ヨハネの黙示録9章10節)
このように、このいなごの力が制限されることは、哀れみ深いことです。
私たちは5ヶ月を文字通り理解しなければならない理由を知りません。
この背信者の指導者とその使いたちは、非常に限られた期間だけ、主キリストに支配を望まない者たちを支配することが許されるのです。
そして、代わりにサタン自身がアバドンとアポリオンとして礼拝されます。
「彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシヤ語でアポリュオンという。」
(ヨハネの黙示録9章11節)
これは明らかに悪魔のことです。
悪魔だけが底知れぬ所の御使いです。
現在、人々が目を向けている「内なる神」は、最初から人間の滅びを計画してきた大いなる宿敵サタンであることが、ついに明らかになってきました。
悪魔崇拝者は自己崇拝者であり、現在の背教の支持者によってすでに公言されていることもありました。
これが最初の「わざわい」です。
12節ではこのように書かれています。
「第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。この後なお二つのわざわいが来る。」
(ヨハネの黙示録9章12節)
そして、私たちは次にこのように書かれているのを見ることが出来ます。
「第六の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は神の御前にある金の祭壇の四隅から出る声を聞いた。
その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」
すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。」
(ヨハネの黙示録9章13~15節)
これは明らかに、私たちがここで学んできたものとは異なっているようにも考えられます。
しかし、それはかつての「わざわい」の結果のようにも見えます。
つまり、かつてキリスト教国と呼ばれていた地域でサタン信仰が蔓延した時の、世界に与えた影響を示しているようにも見えます。
国と国、人と人を対立させ、人間の三分の一が滅ぼされるまで、激しい争いを引き起こされたのです。
このことは、最近私たちが直面した大きな戦争の中で、このことがはっきりと示されたと考えています。
戦争は合理主義的な「文化」の直接の結果です。
そして、神の言葉の権威の否定であったことを誰が否定できるでしょうか!
もしキリストのない教育が救えるならば、ドイツは地球上で最も恵まれた国であるはずです。
ドイツの教育が最高点に達しているように見えることがあるからです。
ドイツだけでなく、人類の大部分にも恐ろしい結果をもたらしたのです!
ドイツ哲学は世界を汚染していたのです。
世界中のほとんどの文明国の大学ではドイツ哲学と異教徒の理論の毒の流れをむさぼり飲んでいました。
今になってようやく、私たちはそのような愚かさの有害な影響に目覚め始めています。
もしそれが可能であったなら、サタン自身が人々がこのような血なまぐさい争いに飛び込むのを抑えたに違いないと思うほどです。
私が言いたいのは、彼は見せかけの理論と不道徳な哲学が人々を陥れようとしています。
1914年の大戦はほとんど予期せぬ結果だったということです。
国民は、彼らが学んだ教えによって混乱に陥ったのです。
この戦争は、もはや防ぎようのない大惨事でした。
また、これらの考察は、第二の「わざわい」を理解する助けになると思います。
7章では、四人の天使が、諸国民の大海に地上の四つの風を放たないようにしているのを見ました。
「この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。」
(ヨハネの黙示録7章1節)
ここで、第六の御使いがラッパを吹き鳴らすと、ヨハネは神の御前にある金の祭壇の四隅から出る声を聞きます。
8章3節の御使いの祭司のとりなしに応じて、第六のラッパを持った御使いに向かって叫ぶ声です。
すると、第六の御使いにこのように言います。
「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」
(ヨハネの黙示録9章14節)
これらの御使いたちは、現在、明らかにアジアのイナゴの大群がパレスチナとヨーロッパの地に注ぐのを抑えています。
ユーフラテス川はローマ帝国の東端を形成しており、いわば東と西の間の壁となっていました。
「定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使い」という表現に注意してください。
「時、日、月、年」の間ではありません。
「時、日、月、年」のために四人の御使いが用意されていたのです。
つまり、神の心の考えには、この恐ろしい力が解き放たれる明確な時があるのです。
その時が来るまでは、人間のすべての邪悪な策略、もしくはすべての国家的な野心があったとしても、ここで預言されている紛争をもたらすことはできません。
逆に、その時が来たのなら、いかなる優秀な政治家の政策も、いかなる条約も、いかなる世界連邦の運動も、預言された悲惨な大破滅を防ぐことはできません。
2億の騎兵がアジアの西とヨーロッパに投げ込まれるのです。
「騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。」
(ヨハネの黙示録9章16節)
まるでこの世のものとは思えない軍勢です。
「私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。
騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、ししの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。
これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。」
(ヨハネの黙示録9章17、18節)
その胸当てと馬の頭はこれらのアジアの大群の言いようのない凶暴さのためです。
その口からでている「火と煙と硫黄」は彼の恐ろしい侵略の悪魔的性格を物語っています。
その結果、人類の三分の一は、彼らの口から出る火と煙と煙によって殺されるのです。
第一次世界大戦の時に、疫病で死んだ何百万人もの人々を思い起こすことができます。
将来、より大きな戦争が起こります。
地球のほとんどが壊滅状態になり、預言された通りに人類の三分の一を殺されます。
それは古代ローマ帝国の領土と匹敵する範囲だと考えています。
19節にはこのように書かれています。
「馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。」
(ヨハネの黙示録9章19節)
イザヤ書9章15節は、この聖句と10節の両方を理解させることができます。
「そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者。」
(イザヤ書9章15節)
それが第五のラッパのオカルト的なわざわいであろうと、第六のラッパの大虐殺のわざわいであろうと、どちらにおいても、嘘をつく預言者はそれぞれのムーブメントの指導者であり、実現化された精神的、霊的、肉体的な害の責任を負うことになります。
このような裁きの時でさえ、人を神に導き、悔い改めに導くことに何の効果ももたらしていません。
このような認識は厳粛なことなのです。
裁きによって人は悔い改めません。
20節、21節にはこのように書かれています。
「これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、
その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。」
(ヨハネの黙示録9章20節、21節)
これは、聖書の一般的な証言と一致しています。
聖書はさばきが悔い改めをもたらすことを暗示する箇所はどこにもありません。
「復権主義者(Restorationist)」と「普遍救済主義者(Universalist )」の教師たちはこれを否定しています。
彼らはこのように主張しています。
「時間的、もしくは永遠の事柄であっても、裁きは罪人を救い出すことを目的にしています。
ゆえにもし、彼らが恵みによって学ぶことを拒んだとしても、救いを求めて神に立ち返るなら、その者たちは最終的に救われるのです。」
しかし、この箇所においても、もしくは黙示録の後半においても、罪を犯した人たちに下る神の激しい裁きは、石のような反逆の心を和らげることはありません。
むしろ、人は自分の罪にかたくなになります。
裁きが注がれたとしても、彼らは前にも増して神を冒瀆する者となるのです。
永遠に、神はみこころに公然と反抗することを許すことはありません。
私たちの主イエスは私たちに語っています。
彼らは地獄で、苦しみのために「泣いて」いるだけではありません。
彼らは「歯ぎしり」をしています。
ただの反抗ではありません。
それは人間の心の怒りの反抗を表現しています。
彼らは神への憎しみに満たされています。
しかし、神の支配に公然と逆らうことはできないのです。
もし、キリストの十字架の驚くべき聖なる愛を示されながらも、人は神に和解させないなら、さばきによっては彼らの心を勝ち取ることはできないのです。
講義11 小さな巻物を食べ、巻物が開かれる 10章
まず、第六と第七のラッパの間にある介入箇所の最初の部分を見てください。
第六と第七の封印と第六と第七の鉢の間に同じような介入箇所があることに気づくはずです。
それは見過ごすことのできない神の秩序の証明です。
第七のラッパは千年王国の到来を告げています。
時の流れの終わりと、邪悪な死者の裁きのための偉大な白い王座の確立へと続きます。
しかし、私たちの注意がこの結果を導かれる前に、私たちはこれらの未来の出来事を知ることによって、神の考えの中にあるイスラエルの立場について、多くの教えが与えられています。
この10章は、特に道徳的な特徴を持つ真理が含まれています。
ゆえに、黙示録を勉強するときには、注意を払わずに読み飛ばしてしまいがちな箇所です。
これを一見するならば、イスラエルや異邦人と、私たちが考えてきた大きなムーブメントとは何の関係もないようにも見えます。
ダニエル書の1章では、そこには王の肉で汚されることを拒んだ三人のヘブル人の若者の記録が書かれています。
それは、神の事を教えるのに適した道徳的条件です。
そして、この10章では主が愛する使徒ヨハネに対して、特別な扱いをされていることがわかります。
それは、この厳粛な黙示録の残りの部分では、私たちがまだ知りえない偉大な奥義が明らかにされるためのより良い備えがなされています。
主がそのしもべヨハネを備えてくださったことは、私たちが自分心に語りかけるのであれば、すばらしい道徳的な原理を得ることができるのです.
正しい知識を持つならば、生けるまことの神に仕え、天から御子を待つことができるのです。
1節から3節にはこのように書かれています。
「また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。
その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。
その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、ししがほえるときのように大声で叫んだ。
彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。」
(ヨハネの黙示録10章1~3節)
この力ある御使いはすでに私たちが先に見た者です。
その者は天の聖所の御使いの祭司として、金の祭壇に立っているあの栄光ある契約の御使いです。
このように栄光のある御使いは創造された存在ではありません。
創造された御使いについて、ヨハネがこのように驚くべき存在であることをここで述べています。
主がこの御使いでの姿で、わたしたちの前に来られたのは理由があります。
ヨハネの黙示録のこの個所では、地上の民イスラエルを扱っており、メシアがまだ彼らに啓示されていないからです。
ゆえに、神が旧約聖書の時代に彼らに対して同じ立場をとって現れるのは当然のことです。
キリストが栄光の中に天から下って来る時、イスラエルは更なる啓示を受けます。
その時、イスラエルは受難のしるしを見てこのように言います。
ゼカリヤ書にはこのように書かれています。
「だれかが彼に、「あなたの両腕の間にあるこの打ち傷は何か。」と聞くなら、彼は、「私の愛人の家で打たれた傷です。」と言おう。」
(ゼカリヤ書13章6節)
結論として、十字架につけられたナザレのイエスと、契約の御使いが同一の存在であることが、真実としてこれらの事から明らかになります。
そして、このように書かれています。
「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。
彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」
(ゼカリヤ書12章10節)
その日、ユダとエルサレムにとって、真実な意味での贖いの日です。
彼らは、神である救い主を拒んだ自分たちの罪の大きさを自覚します。
そして、彼らの魂を苦しみ、神の贖いの十字架の御業の恩恵が、彼らの心と良心に加えられます。
その時、ユダとエルサレムは、完全な信仰によって確信をもって、このように叫ぶのです。
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
(イザヤ書53章5節)
その完全な現われの時まで、イエスはイスラエルにとって契約の御使い、すなわち、造られたものではない御使い、ヤハウェに従う者なのです。
つまり、すでに述べたきたように、創造された単なる御使いにはこの記述を正しく適用することはできません。
主は、ただ雲をまとって天から下って来られるのではありません。
雲は主の栄光の象徴として読むことができます。
雲は、かつて、イスラエルの民をエジプトから約束の地まで荒野を歩ませた戦車です。
私たちは、その雲の中に契約の天使がいたとはっきりと伝えています。
これは、ケルビムと幕屋との間、贖罪のふたの上にある、創造によらない栄光の雲であります。
ソロモンが神殿を建て、これをヤハウェにささげたとき、ヤハウェは雲に乗ってやって来ました、
主はその中に自分の家として住んだのです。
それから約5世紀後、エゼキエルはかつての聖なる家の荒廃を宣言するよう求められました。
彼は、雲が最も神聖な場所から立ち上り、聖所の扉の上でしばらくとどまっているのを見ました。
そして立ち去ってゆきます。
主の栄光としての雲は、長い間、栄光を現わしてきた場所を捨てるのを嫌がるかのように、街の真ん中にとどまっていました。
主の栄光としての雲はゆっくりと東の隣の山、すなわちオリ―ブ山に移り、それから天に上りました。
このように、ヤハウェの現われは、イスラエルの罪ゆえにイスラエルから立ち去ってしまったのです。
その雲は、私たちの主イエス・キリストが、聖なる山に登られ、私たちが一般に「山上の変貌」と呼ばれている時まで、決してパレスチナの地に戻ることはありません。
そこで、ペテロとヤコブとヨハネは、来たるべき王国についての幻を見ました。
その様子は「わたしたちの主イエス・キリストの力と再臨」を現していました。
そこで彼らは、イエスが姿を変貌しモ―セとエリヤに語りかけておられるのを見ました。
モーセは、死んだ聖徒たちで、主の再臨の時によみがえる者たちを代表しています。
そして、エリヤはキリストの携挙のときに死なずに取り上げられる者たちをそれぞれ代表しています。
ペテロは、あまりにも多くの啓示に圧倒され、何と言っていいかわからなくなりこのように叫びました。
「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。
あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
(マタイの福音書17章4節)
そして、このように続きます。
「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。
彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。」
(マタイの福音書17章5節)
このことを通して、御父は彼らに「どんなに献身的な聖徒、人間であっても、愛する御子と同列において、同じ立場に立たせてはいけない」ということを教えたのです。
次にキリストが十字架上で死んで、全能の力によって死者の中からよみがえられた後、イエスは弟子たちを連れて、ベタニヤに近いオリ―ブ山に行かれました。
その時、イエスは祝福のために手を上げられた。
そして、弟子たちは、イエスが上って行くのを見ていたが、ついに雲がイエスを見えなくされました。
ここでヨハネが このように言っています。
「また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。」
(ヨハネの黙示録10章1節)
私たちはすぐに、この御使いが他の被造物ではないことを理解することができます。
この御使いご自身が万物の創造者であり、神の威光のしるしをまとった私たちの主イエス・キリストなのです。
4章で、私たちは神の御座の周りにある虹を見ました。
「たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、
その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。」
(ヨハネの黙示録4章2、3節)
10章では、強い天使の頭上には虹が見えます。
世界が洪水で滅ぼされた後に、ノアとの古い契約を確認するために神が来られたことを語っています。
ここで私たちの前で語られている方が、神の人であるというもう一つの証拠は「その顔は太陽のよう」であると言われた聖句にあります。
タルソスのサウロが、ダマスコの道を歩いていたときに見た顔と同じです。
サウロの心は、主イエスに対する憎しみに満ち、主の弟子たちに対する激しい怒りに燃えていました。
地面に叩きつけられたサウロは、太陽の明るさの中に光を見ました。
その輝かしい光の中に、かつて十字架につけられた神のキリストを見たのです。
そして、サウロはイエスが優しい口調でこのように尋ねるのを聞きました。
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」
(使徒の働き9章4節)
サウロがよみがえらされる時、サウロの顔は義の太陽のようです。
また、主について、このように書かれています。
「その足は火の柱のようであった」
(ヨハネの黙示録10章1節)
1章で述べられていた同じ驚くべき存在とイエスを結びつけています。
1章では次のように書かれていました、
「その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。」
(ヨハネの黙示録1章15節)
これもダニエル7章で同じ言葉でダニエルが見てことを表現しています。
「その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、
ししがほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。」
(ヨハネの黙示録10章2、3節)
次に、イエスは手に「小さな開いた巻き物」を持っていたと書かれています。
この巻き物が何であるかに様々な憶測がありました。
しかし、私はこの巻き物がいままで黙示録で語られてきた巻き物、そのものだと考えています。
それは地球の権利書であり、その封印は次々に破られ、巻物全体が広げられて行くように思えています。
主は、神の威光のすべての証拠と共に、この権利証書を手にして降りてくるのです。
右足を海の上に、左足を地の上に置くのは、ご自分の相続地を所有するためです。
この相続地は、地上の一人の人としてご自分の尊い血をもって贖われました。
そして、その声は勝利者の声です。
彼はししがほえるように叫んだと書かれています。
彼は御使いとユダ部族のししと、同一人物だからです。
イエスが叫ぶと、七つの雷が声を出しました。
雷は、私たちが前に学んだように、裁きを語っています。
ヨハネはこのように言っています。
「七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。
すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。」と言うのを聞いた。」
(ヨハネの黙示録10章4節)
キリストは新しい契約の仲介者として、七つの雷の御言葉を封じられました。
七つの雷が何を語ったのか知る必要はありません。
七つの雷は自分勝手な人間のために裁きが下されると言うかも知れません。
しかし。だが裁きを下されるのは、キリスト御自身です。
キリストを信頼する者は、その恐ろしい秘密を知る必要はありません。
ジョン・ニュートンの讃美歌にはこのような歌詞があります。
「愛し、歌い、驚き、救い主の御名をたたえよう。
主は律法のとどろきを静め、シナイ山の火を消されました。
主は血で私たちを買われました。
主は、わたしたちを神の御元に帰されたのです。」
あなたがたは、神の知惠がわざと隠している事柄について、模索する人を見たことがありますか?
旧約聖書の戒めでは、法律は哀れみの座で覆われ、聖所の箱に隠されていました。
ベテ・シェメシュの者たちは愚かにも箱をのぞきこみ、さばきに打たれました。
このように、神の民にはすべての時代において、隠されたことがあります。
神は、隠されたことを御自分のもとに置いておくのです。
申命記にはこのようにあります。
「隠されていることは、私たちの神、主のものである。
しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。」
(申命記29章29節)
悲しいですが、人間が聖別と祝福を得ようとするために、尊い啓示された真理に飛びつきます。
そして、隠された事柄に心を奪われるのは、ごく普通の事です。
しかし、隠された事柄が存在し、今はまだ知ることが許されていません。
もし神の祝福があって知ることができたなら、神はすでにそれらのことを明らかにしているはずです。
「ゼカリヤ書の幻にある、空飛ぶ巻物には何が書かれていたのしょうか?」
わたしは御言葉が語ったことだけを知っています。
「パウロが第三の天に捕えられたときに聞いた言葉にある、口に出すことができない事とは何でしょうか?
パウロがそれを口に出すことができないと言っているのに、どうやって私たちはそれを口に出すことができるのですか?
多くの人が、七つの雷が言ったことを不思議に思っています。
しかし、ヨハネがそれを書くように命じられなかったという事実を信頼します。
「それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、
永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。
第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」
(ヨハネの黙示録10章5~7節)
ここで重要なのは、英語版の聖書に批判されるべき翻訳があることです。
KJVと他の批判的な翻訳な翻訳では「もはや時があってはならない(That there should be time no longer)」と訳されています。
多くの人がこの幻が私たちを終末に導くと誤解している。
しかし、文脈からすれば、そうではないことは明らかです。
明らかにこの幻は千年王国以前のものです。
重要なことは、成就の時が迫っているということです。
神はご自分の計画の完成と約束の成就を遅らせることはありません。
「主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」
(ローマ人への手紙9章28節)
そして、御使いは永遠に生きている方に対して誓ったのです。
この方はすべての者を創られたヤハウェご自身です。
「もはや時が延ばされることはない。」
「第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義」が終るのです。
すなわち神が長い間、悪を忍耐してきた奥義が終わるのです。
その時、すべてのことが明らかになります。
報いの奥義、定めの奥義、光と闇、善と悪の大いなる戦いの奥義、すべてはそのときに明らかにされるのです。
神の道にはもはや隠されたものはありません。
人はもはや疑う必要はありません。
信仰のディスペンテーションは終わり、視覚、感覚によるディスペンテーションが現われます。
あなたがたは、神の御計画、神のはかりごと、神の裁き、神があなたがた、もしくはこの世界になさっている不思議なことに、しばしば心を痛めることがあります。
主の奥義を知らない者には、主の道は矛盾しているように見えます。
この聖句から学び、第七の御使いが吹き鳴らす日には神ご自身によって、すべてのことが明らかにされるまで、忍耐して待つのです。
次のこの章の部分では、これとはまったく別の話をすることになります。
今、私たちは使徒ヨハネが経験したことを読んでいます。
しかし、みことばを学ぶ者に、この経験に書かれていることを学ばせるをも学ばせるためなのです
主は私たちに語っています。
「それから、前に私が天から聞いた声が、また私に話しかけて言った。
「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」
それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい。」と言った。
すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」
そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。
すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。」
(ヨハネの黙示録10章8~10節)
ここには何が書かれているのでしょうか?
同じような経験が預言者エゼキエルに与えられたことを思い起こさせます。
「その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。
この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」
そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、
そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」
そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった」
(エゼキエル書3章1~3節)
エゼキエルも同様に「巻き物を食べる」ように求められました。
どちらの場合も同じことが学べます。
私たちが神の御言葉を糧とし消化することによってのみ、私たちが最も聖なる信仰の真理に養われ、築き上げられます。
そして、この消化された御言葉を他の人の助けや教えのために用いることができる魂の状態が正しい状態なのです。
ダビデはこのように言っています。
「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」
(詩編119編11節)
また、このように言っています。
「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。」
(詩編51編6節)
このことをヨハネの経験が示していることだと考えます。
ヨハネは御使いの手にある小さな巻き物を食べるように命じました。
すなわち、それを深く考えて、完全に自分のものにするように命じられたのです。
瞑想は忙しい現代では失われた芸術だと言った人がいます。
神にそれを用いておられます。
神の民が、神の真理を文字通り、糧とするように与えられました。
神はヨハネとエゼキエルにその巻き物を食べさせようとされただけではありません。
あなたがたにも同じようにそれを食べさせようとされています。
それは御子を信じるあなたがたのためです。
神は御言葉をあなたがた自身のたましいの糧として与えられました。
それは、この世において、あなたがたを神に仕えるのにふさわしい者にするためです。
このことは、預言の書についても、神のことばである聖書のあらゆる箇所においても言えることです。
引用された両方の例を見るならば、特に注目すべきことは預言的な言葉であることです。
この非常にディスペンテーション的な教えで、教訓的な真理として、預言的な教えをしっかりとつかんでください。
あなたの内なる人には、最も有益な効果をもたらすはずです。
ヨハネは「それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった」と語っています。
これはとても有益な言葉です。
聖書の中で、神が祝福された御子の現われについて啓示された箇所ほど、美しい箇所はありません。
預言的真理は甘いものです。
興味が目覚めたばかりの人にとって魅力的です。
しかし、そのあとで、もし巻き物が実際に食べられてしまうと、自己判断と悪からの分離につながり、これは苦いものになるのです。
誰においても、キリストを拒んでいた時期があります。
その時に、神の御言葉が教える場所、立場に安易に行く人は誰もいないからです。
ここで重要なことは神の真実が、その場所に行くように人々に要求しているということです。
今日、私と一緒にこれらのことを学ぶあなた方の中には、まだそうしてことを体験していない方がいるとしても、すぐにこのことに気づくことになります。
もし、あなたがたが啓示された真理の中を誠実に歩もうとするなら、あなたがたもその苦しみを知ることになります。
預言者の証しを知り、示されている力のうちを歩むなら、あなたがたはいままで楽しいと思っていたことがを楽しむことができなくなるのです。
しかし、そのあとで、もし巻き物が実際に食べられたのなら、自己判断と悪からの分離できずに苦いものとなるのです。
誰においても、キリストを拒んでいた時期があります。
その時に、神の御言葉が教える場所、立場に安易に行く人は誰もいないからです。
ここで重要なことは真実なる神が、あなたがたにその場所に行くように人々に求められていることです。
今日、私と一緒にこれらのことを学ぶあなた方の中には、まだこのような体験していない方がいるかもしれません。
しかし、すぐに気づくことになります。
もし、あなたがたが啓示された真理の中を誠実に歩もうとするなら、あなたがたもその苦しみを知ることになります。
預言者の証しを知り、示された力のうちを歩むなら、あなたがたはいままで楽しいと思っていたことが楽しめることもできなくなります。
偉大な神の計画があなたの心の中で明らかになり、真実は興味をそそるかもしれません。
そのような意味においては聖書は甘いのです。
しかし、偉大なる神の原理があなた方の心を入ろうと求めてきます。
サタンに支配されたあなたの感覚は、神の召しが他人行儀のようにめんどくさくなってきます。
そして、真実の実は苦いものとなってゆくのです。
たくさんの人が主イエス・キリストの再臨についての最初の教えを楽しみました。
それは、キリストの牧師を装った冷たい世俗主義者の働きによって語られた陳腐な話とは違います。
再臨は新しく、素晴らしく話なのです。
しかし、この真理が彼をつかみ、心の奥底に入り込んできます。
そして、彼が敬遠するものを突きつけてきます。
最初はその者が捧げられることができないと感じるものさえも、要求してくるのです。
それは本当に苦いものです。
しかし、甘さが一番良いものとは限りません。
甘いだけでなく苦いものも必要です。
神が啓示された真理を歩むすべての人は、ついには従順の恵みを発見することになるのです。
聖書にはこのようにあります。
「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
(サムエル記第一15章22節)
単に真理が知性の中にあるだけではありません。
真理が人生には何の関係もないと考えることは、実に悲しいことです。
使徒ヨハネは、主の再臨について語っています。
「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」
(ヨハネの手紙第一3章3節)
これは信仰者の人生にある、様々な方向に影響を与える真理です。
このことを真実に信じている人は、後の人生を自分のためにも、また世のためにも生きることはありません。
キリストの再臨を信じていると告白しながら、世の者として生きていくことはできません。
たとえ、その者が心の中で何を信じようとも、その者の心に信じたことはとどまります
しかし、主の再臨の真実は心にとどまりません。
また、その証しとなります。。
真実を信じることは、肉欲的なクリスチャンを霊的にします。
そして、世俗の人々を天的にします。
貪欲な人々を寛大にし、軽率な人を熱心にします。
ゆえに、率直に言いたいのです。
もし、真理があなた方の人生に影響を及ぼすことを望まないのであれば、この黙示録を学ぶことをここで止めた方が良いかもしれません。
なぜなら、すべての神の真理は信仰の従順によって明らかにされているからです。
そして、私はこれを確信しています。
これらの真実は、人々の生活を完全に変えることができます。
もし、拒むなら、彼らは自分の愚かさゆえにかたくなになり、彼らの良心を熱い鉄のように焦がすことになります。
使徒が巻き物を食べると、御使いはこのように言いました。
「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」
(ヨハネの黙示録10章11節)
黙示録は未来と結び付けることが重要です。
これは本のさらなる開放と関連して重要だ。
主はヨハネに言われました。
「あなたは、もう一度、預言しなければならない。」
それは、彼が他もろもろの民族や国々に行って預言するということではありません。
つまり、ヨハネがこれら諸国、すなわち、すでに御言葉を伝えられている同じ神のしもべたちを守るために預言することです。
重要なのは、第七のラッパが鳴る時に 現在の預言の段落が完結するということです。
このことについては次の章で語ることにします。
前にも述べたように、第七のラッパは、時の終わりの偉大な裁きの日に私たちを連れて行くのです。
11章の最後の節は正確には12章に属しています。
そこで、ヨハネは国家、王、言語、人々についての預言を再び始めます。
この第二の段落は、新しい天と新しい地で完結します。
御座に着かれた方の御手には巻き物があり、小羊によって封印が解かれました。
あなたがたは、巻き物の両面に書かれていたことを思い出してください。
巻き物を広げると、ヨハネは中に何が書かれているかはっきりと見ることができました。
これが私たちの前にすで見てきたアウトラインです。
そして、12章以降は、表裏が逆転します
裏に書かれていたことがわかります。
ここでは神は以前のアウトラインを確認し、そこで省略された詳細を補うのです。
私たちの主が十字架につけられた世界でまだ起こっていない偉大な出来事があります。
ここで、このことを私たちにより詳細、かつ完全に理解できるようにされたのです。
このことが明確になれば、黙示録はわかりやすくなります。
逆にこのことを理解しなければ混乱が生じます。
解釈をすべてを年代順にしようとする人がいます。
ラッパは封印の後に続いているのではありません。
是正しているのです。
ならば、これらの解釈者たちはラッパのあとに怒りの鉢を置かなければなりません。
つまり、必然的に12章と人の子が上げられるのは70週目に入ることになります。
私たちがこの点に注目したのなら、12章と4章が一致していることがわかるはずです。
かつて、神はパロに二つの夢を与えました。
一つの夢はもう一つの夢を確認しています。
ここでもメッセージが重複しています。
このことによって、私たちが教えられている真理の言葉が確かなものであることを学ぶことができるのです。
講義12 二人の証人と第七のラッパ 11章
これから学ぶこの11章の最初の13節は、10章の学びで用いた介入箇所の残りです。
神の言葉を注意深く学ぶ人が、この箇所を読むならば、ゼカリヤ書の2章にあるエルサレムの大きさの測り方や、エゼキエル書の40章にある千年王国神殿の大きさの測り方を思い出すはずです。
同じヨハネの黙示録の21章には、聖なる都、新しいエルサレムを測ることが書かれています。
この箇所の冒頭の節にはこのようにあります。
「それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。
聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。」
(ヨハネの黙示録11章1、2節)
その幻にはエルサレムと終わりの日の未来の神殿が含まれています。
聖書を通して、神が何かを測る時に、神が自分の所有物として印をつけていることを暗示されていると思います。
人が土地を購入したり、所有権を取得しようとしている時もその土地を測定し、境の線に印をつけることはよくあることです。
ゼカリヤ書2章では、預言者は手にものさしを持った男を見て、彼に質問をしました。
「私がその人に、「あなたはどこへ行かれるのですか。」と尋ねると、彼は答えた。
「エルサレムを測りに行く。その幅と長さがどれほどあるかを見るために。」」
(ゼカリヤ書2章2節)
4、5節では、ゼカリヤの幻を解釈している御使いが、別の御使いにこのように言っています。
「そして彼に言った。「走って行って、あの若者にこう告げなさい。『エルサレムは、その中の多くの人と家畜のため、城壁のない町とされよう。
しかし、わたしが、それを取り巻く火の城壁となる。――主の御告げ。――わたしがその中の栄光となる。』」
(ゼカリヤ書2章4、5節)
そして、この章の後半には、神の地上の民がすべての敵から解放されるという明確な預言があります。
その時、彼らは捕囚の時代に捕えられていた北の地と、世界のさまざまな場所から連れ戻されます。
このことは、主イエスが栄光のうちに現れるまでは、完全に成就することはありません。
8〜11節にはこのようにあります。
「主の栄光が、あなたがたを略奪した国々に私を遣わして後、万軍の主はこう仰せられる。『あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。
見よ。わたしは、こぶしを彼らに振り上げる。彼らは自分に仕えた者たちのとりことなる。』と。このとき、あなたがたは、万軍の主が私を遣わされたことを知ろう。
シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。――主の御告げ。――
その日、多くの国々が主につき、彼らはわたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。あなたは、万軍の主が私をあなたに遣わされたことを知ろう。」
(ゼカリヤ書2章8~11節)
「主は、聖なる地で、ユダに割り当て地を分け与え、エルサレムを再び選ばれる。」
(ゼカリヤ書2章12節)
これは神の確かな言葉です。
明らかに、神がヨハネにここで11章の幻を与えたのは、まさにこの回復を念頭に置いておられたからです。
御使いはヨハネに「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ」と呼びかけています。
神はもう一度、証人たちの群れ、エルサレムにある礼拝する民を所有されます。
栄光がまだ現われていません。
つまり、これはゼカリヤの預言が完全に成就する前の、大患難時代のことです。
神殿のない庭が除外されています。
それを測るなと命じられています。
それはまだ異邦人に与えられるべきものだからです。
「彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる」と書かれています。
それは、ダニエルの第七十週を構成する最後の1週の前半の三年半のことです。
私たちが見てきたように、それはまだ成就していません。
再び、神がエルサレムとユダヤ人を所有されるまでは成就することはありません。
神はすでに、この回復を視野に入れて、「出来事」を支配していることは明らかです。
1917年12月、1260年にわたる圧政の末にエルサレムからトルコの旗が降ろされました。
そして、その代わりに連合国の旗が掲げられ、エルサレムは驚くべき解放を迎えました。
アレンビー将軍がトルコのエルサレム総督から聖都の降伏を受け取ったのは、実に重要な出来事でした。
何百万人もの人々が想像していた以上に大きな意味を持っていました。
訳者注)ご存じのようにイスラエルは1948年に再建され、不完全な状態でユダヤ人は集められています。
現在は戦争中です。
イスラエルはこの状態から打開するために「とりなす」仲介者を求めているはずです。
彼は政治的ヒーローであり、おそらくイスラエルに平和を実現させる契約を交わします。
おそらく、この契約には武力解除が含まれます。
彼は突然として姿を変え、突然、ユダヤ人を消滅させようと動き出します。
彼こそが反キリストです。
このように1930年の段階より、現在の状況が前進していることがわかると思います。
神がアレンビー将軍によって、トルコ軍に対する大勝利をお与えになりました。
アレンビー将軍には、私たちの主イエス・キリストの再臨についての真理が教えられていたことはよく知られていることです。
この出来事は、イスラエルがこの地に回復するという約束に照らしあわせるなら、明らかに神の命令によるものです。
これを見るならば、神が世界大戦を許したのは、神の隠された目的の一つだと言えます。
連合軍の飛行機がパレスチナの地のエルサレムの上空を旋回をしましたが、一発の発砲もなく聖都が降伏しました。
疑いもなく、いわゆるクリスチャンの国々と言われる国の代表者が、私たちの救い主が教え、死なれた町を砲撃されることに耐えきれなかった何千もの神の民の祈りに答えられたものです。
エルサレムはユダヤ人とクリスチャンの両方の目から見て、永遠に神聖でなければなりません。
やがて、連合軍がジャファ門を通って入ってきました。
アレンビーが彼の軍隊の前を歩いて入ってきました。
神の言葉に記録されている通りに、過ぎ去った時代の数々の預言の成就されるための道を開かれました。
そして、アラブ人もユダヤ人もクリスチャンも同じ様に、神によって、その時が訪れたという事実を認識しされたのです。
この出来事については多くの話が語られていますが、その中には確認の取れていないものもあります。
確認されていない話の多くを考慮しても、世界にあるさまざまな文明がこの出来事の中で驚くべき出来事を見たことは明らかです。
それが戦争の転換点となったのは間違いなく11ヶ月後には休戦協定が結ばれたことです。
この時からシオニズムは新たな目覚ましい活力を帯びるようになります。
北の地、多くの苦しみを味わった国から貧しい人々の群れを古代のイスラエルの移動させるために、多くの資金が注ぎ込まれました。
彼らは帰ってきたことをわずかに理解していますが、彼らの希望は高く、彼らの歓喜が響き渡ります。
しかし、聖書は彼らがこれまでに経験したことのないようなつらい経験をしており、自分たちの土地で耐え忍ばなければならないことを明らかにしています。
トルコの権力はもはやエルサレムを支配していません。
しかし、エルサレムはまだ異邦人のものです。
主が完全な救いのためにお戻りになるまで、不完全な状態はあり続けるのです。
主はローマのテトス将軍の時代から、エルサレムは「異邦人の時代が成就するまで、異邦人に踏みにじられる」と宣言されています。
「人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」
(ルカの福音書21章24節)
この 「異邦人の時」という表現は、神がユダをバビロンの王ネブカデネザルの手に渡された日に始まる異邦人支配の期間を指しています、
天からの石が像をその足で打ち砕く時まで続きます。
すなわち、主イエス・キリストが裁きのために再臨され、すべての異邦人の支配を滅ぼし、ご自身の王国が他のすべての王国に取って代わる時です。
「あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。
そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。
そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。」
(ダニエル書2章34、35節)
ここで黙示録の記事に戻ります。
ここで三年半、つまり四十二か月の間、異邦人にエルサレムは踏みにじられることになります。
この時代は最悪なものとなります。
その日の苦難は、非常に恐ろしいものであると、主はわたしたちに告げられています。
「もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。」
(マタイの福音書24章22節)
そして、これらすべての患難の中心は、パレスチナの土地となります。
神は、この期間とその直前の期間において、ご自身のために証人なしに放置されることはありません。
聖書にはこのように書かれています。
「それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。
彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。」
(ヨハネの黙示録11章3、4節)
私はここで少しためらいがちに話していますが、これらの聖句が千二百六十日が週の前半を指していることがわかります。
その期間に、神はエルサレムの残された民に御国が来ることの証人を起こされます。
そして、全イスラエルに呼びかけ、預言者たちが語った回復の時を告げ、悔い改めさせます。
私は証人を2人に制限する必要がないと考えています。
2は常に証言の数であり、ここでは必ずしも文字通りの人格ではなく、象徴を扱っている可能性もあります。
もしかして、この2人の証人は、ユダ全体の証人の残りを象徴しているのかもしれません。
しかし、これについては教理的ではありません。
なぜなら、ここに述べられている2人の人物を遣わして、御子の近い到来を告げることは、神の御心だからです。
4節は再び預言をゼカリヤ書と結びつけています。
「私はまた、彼に尋ねて言った。「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」
私は再び尋ねて言った。「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか。」
すると彼は、私にこう言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」
彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」」
(ゼカリヤ書4章11~14節)
そこでは、2本のオリーブの木が祭司の働きと、預言的な証しを指しており、神のために燭台を輝かせています。
ここではオリーブの木は2本の燭台と言われています。
これはヤコブの苦難が始まる時の礼拝であり、証しなのです。
証人たちは「その仕事が終わるまでは不死身」です。
彼らについて、このように言われているからです。
「彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。」
(ヨハネの黙示録11章5節)
つまり、彼らを傷つけようとする者は裁きに入れられ、断たれるのです。
次にこのように書かれています。
「この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。」
(ヨハネの黙示録11章6節)
これはエリヤとモーセの力と霊の証しです。
二人の証人は、主イエス・キリストが来られる前に、地上に現れた旧約の時代のモーセとエリヤであるという人もいます。
私はその可能性を認めていますが、個人的には違うように思えます。
旧約の時代のエリヤの霊と力によって、バプテスマのヨハネが来ました。
それを受け入れる人々にとっては、バプテスマのヨハネは来るべきエリヤだったのです。
まことの神にイスラエルを回復するために来られた預言者と、イスラエルをエジプトから導いた偉大な預言者の霊と力によって同様な証しがされるのです。
彼らは実際に二人なのか、もしかして象徴されている大きな集団なのかはわかりません。
彼らの証言を終えるまでは、彼らの証しを妨げるものは何もありません。。
13章で学ぶことになりますが「底知れぬ所から上って来る獣」によって打ち負かされます。
「そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。」
(ヨハネの黙示録11章7節)
彼らは、来るべき復活したローマ帝国、すなわち西側諸国連合の邪悪な指導者の激しい敵意の対象となります。
彼らは、自分以外に捧げられた崇拝は許しません。
そして、獣は二人の証人を滅ぼします。
「彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。
彼らの主もその都で十字架につけられたのである。」
(ヨハネの黙示録11章8節)
その場所は神の聖なる都エルサレムです。
背教によって反キリストと獣を崇拝するようになっています。
ロトが火によって救われたソドムや、昔のイスラエルがヤハウェによって救い出されたエジプトの水準まで堕落するのです。
「神の名は、あなたがた (不信者) のゆえに、異邦人の中でけがされました。」
「あなたがた (不信者) によって、栄光の主は十字架につけられ、激しい怒りが彼らを襲います。」
9節と10節には、地上での神の最後の証しが拒絶され起きた、諸国民の間に悲しき喜びが描かれています。
現在、私たちは、背教化された世界を見ています。
キリスト教もユダヤ教も同様です。
彼らの背教と邪悪な方法に対して問を投げかける声がもはや上がっていません、
お互いに祝福し合っているのを目の当たりにしています。
「もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。
また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。」
(ヨハネの黙示録11章9、10節)
現在、私たちの主は拒まれて、神の右に座しておられます。
ここに描かれているように、キリスト教はキリストが地上に来るのを見守っているかのごとく振舞っています。
栄光の主を十字架につけた後、国々は「主の誕生日」と呼ばれる日を祝い、互いに贈り物を贈り合っています。
その日も同じように、彼らは楽しみ、喜びをあらわすのです。
神を証しする最後の御声が沈黙させられたからです。
彼らは神の証人たちの死体を喜びます。
罪を犯した罪深い世界に、神の怒りのすべてを注ぎ込まれようとするその恐ろしい日に、文明人が陽気に騒いでいます。
その光景はとても恐ろしいものになります。
三日半の間、サタンの勝利を見ることになります。
あらゆる神の手段が倒されたように見えます。
「しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。」
(ヨハネの黙示録11章11、12節)
最後の週の真ん中で起こるもう一つの携挙があります。
もう一つの群れの最初の復活とも言えます。
これらの殉教者たちは、自分たちの証言を血で封印します。
そして、力を得てよみがえり、いまだに拒まれ続ける主のもとに捕えられます。
主御自身のように雲の中を通り、天に昇ってゆくのです。
だが、彼らは預言者と思わず、敵として彼らを見上げるのです。
この目に見える携挙は、エルサレムに残された人々にも影響を与えました。
13節にはこのようにあります。
「そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。
この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。」
(ヨハネの黙示録11章13節)
注意して見てください。
ここでは天の神と書かれていますが、このあとで4節にも書かれているように主は全地の神として現われます。
この箇所で患難時代において、初めて神に栄光を帰した人の話を読みます。
しかし、この箇所で書かれている真実な神への改心は何を意味しているのか不明です。
聖書に書かれているのは「生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた」 ということだけです。
それが、必ずしも真実な良心の働きがあることを意味していません。
この大地震によって、第二のわざわいは過ぎ去りました。
そして、第三のわざわいがすぐに来ます。
「第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。」
(ヨハネの黙示録11章14節)
この第三のわざわいは、私たちの神とキリストがこの地上に築く御国に導く、最後のラッパである第七のラッパに違いありません。
これは、神の敵にとってのみわざわいです。
しかし、神の御名を愛する者にとっては、被造物が罪の束縛から解かれたことのゆえに、大きな喜びとなります。
「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。
「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、言った。
「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。
諸国の民は怒りました。
しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」」
(ヨハネの黙示録11章15~18節)
最後の節は次の章に属するので、私は意図的に読むのを差し控えました。
私たちの前にある聖句は、現在の一連の預言を完成させています。
第七の天使のラッパは、キリストの長く待ち望まれた栄光の王国をもたらします。
その宣言がなされると、24人の長老に象徴されるように、天にいる聖徒たちは、神の前にひれ伏して、神を礼拝し、神に感謝をささげます。
神は永遠のヤハウェです。
なぜなら、神が支配する偉大な力をご自身のものとされたからです。
18節は千年王国全体のことを述べています。
邪悪な死者の裁きを、時の終わりまで、私たちに伝えています。
すべての裁きは主イエス・キリストに委ねられたからです。
そして、千年全体が裁きの時代であることを覚えておく必要があります。
キリストが拒まれていた時代に彼らの信仰に応じて栄光の王国で報いを受けるのです。
また、邪悪な死者に対する裁きがあります。
大いなる白い御座で、彼らの肉体において行なった行いに応じて裁かれる、邪悪な死者への裁きです。
この時、姿を隠してきた宇宙の偉大な道徳的支配者が完全に姿を現します。
そして、他人を裁き滅ぼす権利を自分のものにしてきた者たちが裁かれ滅ぼされるのです。
もしあなたがたが全体的な描写を見るなら、第七の御使いのラッパに導かれ、私たちは預言の概要の終わりに至ることを知ります。
つまり、11章18節は、時系列的に20章11〜15節に沿って進んでいます。
「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。
そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
(ヨハネの黙示録20章10~15節)
まさに私たちが説明してきた体験した出来事、今もなお驚くべき準備がなされているという事実を見てください。
今、ここにいるすべての人たちに、そして、パレスチナ人、ユダヤ人、キリスト教の諸国民、そして、神を信仰する教会に主イエス・キリストの近づいている再臨の準備をすることの重要性をここにいるすべての人々に強く訴えたいと思います。
これらのことは「巧妙に考え出された作り話」ではありません。
厳しい現実です。
目を開いて預言的な言葉の教えを少しでも理解している人は誰でも、私たちが現在のディスペンテーションの終わりに近づいていることをはっきりと理解することができるはずです。
ある時、私はカリフォルニア州サンノゼ市で、40人以上の牧師たちの前で、私たちの主の再臨について話したことを覚えています。
彼らの多くはその考えを嘲笑しました。
4人の者だけが再臨を信じると宣言しました。
彼らの多くは、私のテーマに賛成でも反対でもはっきりとした信念を持っておらず、曖昧でした。
ある尊敬する年老いた牧師は、主の来臨が未来のことであると考えられることを不快に思ったようです。
彼にとってキリストは、約40年前に神に改心した時に来たのだと宣言しました。
そして、私は1週間後に再び招待されました。
1時間半の間、この問題について非常に活発な議論をしました。
最後に、一人の牧師が、主イエスの個人的な来臨は全くのばかげたことだと思うと宣言したのです。
その牧師は自分が復活した体をまとった独立した人格として存在しているとは信じていませんでした。
キリストの復活は霊的なものだと主張していました。
彼はこのように述べていました。
「現在、キリストは、宇宙のすべてに浸透する霊の一部としてのみ存在するのです。
兄弟たちよ、私はイエスの黙示録的な来臨はないと信じています。
私は、肉体を持ったキリストを見ることを期待していません。
しかし、永遠に存在しているキリストを信じています。
彼は雲に乗って来ますが、それは文字通りの雲ではありません。
キリストは苦悩の雲の中、政治の雲の中、戦争の雲の中、悲しみと苦悩の雲の中に現れるのです。
個人的に千年王国前のキリストの到来は、私の完全に理解できません。」
すると、会合の前方で私に多少ながら反対していた牧師が立ち上がり、心を痛めて叫びました。
「先生、十字架上の死によって私を救ってくださった主を、私はもう二度と見ることができないのでしょうか?」
彼は「私はそのように考えない」と答えました。
するとその相手は叫んで言いました。
この長い間、私は間違っていたのでしょうか?
「「私はこれから神を知るでしょう。
私はこれから神を知るでしょう。
私は神によって贖われて立つでしょう
私はこれから神を知るでしょう。
私は彼の手の釘の跡で彼を知るでしょう。」と歌ってきました。
すると、他の者が答えました。
「詩の道理としては結構だが、字義通りには受け取らない方がいいと思いますよ!」
しかしながら、年老いた牧師は理解し、涙を流しながら叫びました。
「兄弟たち。先週、述べたことを撤回します。
私は、主の来臨について私たちに語ってくれた兄弟に感謝します。
彼は、私が思っていた以上に再臨に同意していることがわかりました。
私は救世主の個人的な到来を待ち望みます。
私は王の美しさを見るまでは決して満足しません。
私はいつもキリストは裁きの日まで来ないだろうと思っていました。
でもよく考えてみるならば、結論として、このことを兄弟が信じているのです。
ただ、彼は裁きの日が千年続くと考えているだけです。
彼は、そのような聖書に基づかない、不敬な見解を述べた牧師の方を向いて言いました。
「教会にあなたのような人がたくさんいると、物事を正すのに千年かかるのではないでしょうか?」
友よ!
これこそ、私があなたがたに教えようとしていることです。
第七の御使いのラッパがはっきりと示しています。
裁きの日は千年間です。
キリストの裁きの座は、教会の携挙の直後に天で起こります。
マタイによる福音書25章には地上に存在する国々のさばきが語られています。
人の子が栄光を帯びて、聖なる御使いたちを携えて、この世界にその王国を確立するとき、地上で行われます。
「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」
(マタイによる福音書25章31~33節)
その千年王国は義の支配の時代です。
その時、神は鉄の杖をもってすべての国々を支配し、神の権威に逆らおうとするすべてのもの、神の支配に従わないすべてのものを、神は惜しみなく裁かれるのです。
「彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。」
(ヨハネの黙示録2章27節)
終わりには、邪悪な死者をすべてさばかれます。
彼らはよみがえらされ、神の恵みを拒んだために火の池に投げ込まれるのです。
こういうわけで、私は、キリストから離れたあなたがたにお願いします。
「あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。」
(マタイによる福音書5章25節)
言い換えるのであれば、今、キリスト・イエスにあって神のもとに行き、訴訟を起こしてください。
もし、その裁きの時に初めて神に会うなら、あなたがたは永遠に哀れみを受けることがないからです。
今、主イエスを信じる者はみな、その清めの日にはさばきに会うことがありません。
主がこのように言われたからです。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」
(ヨハネの福音書5章25節)
ここで、主イエス・キリストを信じるすべての人に与えられている約束は、なんとすばらしいことなのでしょうか!
そのような人たちはみな、今、永遠のいのちを持っているのです。
彼らはさばきの日に永遠のいのちを受けることを待ち望んでいません。
私たちは主が来られる時に永遠のいのちを受けることを待ち望んでいるのです。
つまり、私たちは永遠の命が完全に現われるその場に参加することになるのです。
しかし、私たちはキリストを受け入れ、現在、永遠の命を持っています。なぜなら「御子を信じる者は命を持つ」からです。
それゆえ、かれらは裁きを受けることはありません。
私たちは、主のためにした働きに従って、キリストのさばきの座に呼ばれるのです。
主の恵みによって私たちは救われました。
私たちは罪のためにさばきを受けることはありません。
これが最も正しい理由です。
主イエス・キリストがカルバリヤの十字架で死なれた時に、これらの罪は、すでにご自身の身についてさばかれています。
キリストは、キリストを信頼するすべての人の責めを負ったのです。
私たちは、すでに死から生へと移っています。
そして、今でもすぐに来るべき栄光を熱心に待ち望んでいるのです。
講義13 女と人の子 12章
黙示録の12章、13章、14章は出来事のアウトラインを形成しています。
この箇所は、黙示録の明確な部分を形成しており、今日は、この箇所の学びを始めようと思います。
この章の最初の二節は、私たちの前にウォルター・スコット著の「終わりの日における善と悪の偉大な担い手たち」をもたらしています。
別の表現の言葉で印象的に使われています。
14章では、小羊がシオンの山に帰られ、イスラエルの残された民を祝福しておられます。
この世界をくぐって来た彼らは、実際に王国を立ち上げる準備することを前提に最終的な裁きが行われるのです。
過言でなく、私は黙示録の解説書と称される数百冊の本を読み、あるいは注意深く吟味してきました。
私は12章を、正しい預言の概要を学ぶための重要な試金石と見なすようになりました。
もし、女と人の子についての解釈が間違っているなら、これらに関連する多くの事柄も間違っていることになります。
ゆえに、聖書がこの驚くべき幻にどんな光を投げかけているのかを知るならば、特に注意を払って欲しいのです。
先に述べたように、11章19節には聖書の三つ目の大きな区分の始まりがあります。
私たちはここの箇所を読んで欲しいのです。
「それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。
また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。」
(ヨハネの黙示録11章19節)
ここで、いくつかの順序において「開封」 があることに注意をすることは良いことかもしれません。
4章1節にはこのようにあります
「見よ。天に一つの開いた門」
(ヨハネの黙示録4章1節)
ここでは聖書の三つ目の区分が紹介されています。
天の聖徒たちが神の御座を取り囲んでいる様子と、封印された巻き物を受け取った後の裁きが示されています。
11章19節にはこのようにあります。
「それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。
また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。」
(ヨハネの黙示録11章19節)
これを見るならば、私たちは神が地上の民イスラエルと結ばれた契約を思い起こさせられます。
これはすぐに、神が地上の民イスラエルと結ばれた契約を思い起こさせ、また、神殿が開かれた後に起こったいなずま、声、雷鳴、地震、大きな雹が、預言された地上の上に注がれる恐ろしい裁きを告げています。
神はイスラエルとの契約を覚えておられます。
その中で、残された民が安らかに守られるのです。
15章5、6節を見るならば、最後の七つの災いをもたらす七人の御使いが現れます。
これを見るならば、この考えが強調されてきます。
「その後、また私は見た。天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた。
そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。」
(ヨハネの黙示録15章5、6節)
あかしがこのように述べられているのは、神が地上の民を守られていることを再び強調しています。
第四の「開封」は19章11節にあります。
「また、私は開かれた天を見た。
見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる」
(ヨハネの黙示録19章11節)
この章では、主が開封された裁きの中に現れたことを、象徴的な形で描写しています。
これらの四つの開封は、とても重要な事柄で聖書を理解するのに大いに役立ちます。
最初の開封はすでに検討してきたとおりです。2番目の開封は私たちがしばらく検討する内容になります。
3番目の開封は、神の怒りに満たされた最後の七つの災害を紹介しています。
4番目の開封は、輝かしい千年王国の到来を告げています。
黙示録の12章1節から6節にある幻を注意深く見ていきましょう。
最初の4節にはこのように書かれています。
「また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。
この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
また、別のしるしが天に現われた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。
その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。
また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。」
(ヨハネの黙示録12章1~4節)
これは神から与えられた被造物には理解できない描写です。
さもなければこれらの出来事にご自身の白い光を当てて見えなくさせているのです。
ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっています。
この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげています。
女は男の子を産みました。
そして、この人の子は鉄の杖をもってすべての国々の民を牧するとはっきりと語られています。
「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。
その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」
(ヨハネの黙示録12章5節)
この女には、恐ろしい、執念深い敵がいます。
その頭には七つの頭と十本の角とを持ち、七つの冠をかぶっているのです。
冠は天の長老たちの頭にありました。
この冠は勝利者の花輪です。
しかし、竜は皇帝の王冠をかぶっています。
なぜなら、竜は 「この世の君 」であり、ローマ帝国を通して行動しているからです。
その尾によって、天の星の三分の一を引き寄せ、地上に投げたと述べられています。
幻の中で、竜が女の前に立って竜は女が解放されるのを待ち望んでいるのをヨハネは見ました。
それは、その女の子供が生まれてすぐに、その子を食べるためでした。
しかし、その悪意の企ては阻止され、幼子は神の御座に捕らえられました。
母である女は荒野に逃げて行きました。
その荒野では、神ご自身が彼女のために場所を用意されていました。
彼女が千二百六十日の間、安らかに守られ、養われるためです。
「女は荒野に逃げた。
そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。」
(ヨハネの黙示録12章6節)
まず最初に、私たちはこの女が誰を表しているものとして理解すれば良いのでしょうか?
多くの人が女は教会だと言っています。
他の人たちは、女はむしろある教育システムを代表していると主張しています。
最近、その数が増えてきていることに目を引きます。
ローマカトリックの解説者たちはこの女の中に聖母マリアを見ています。
この場面全体が、マリアの天への昇天と、女王としての栄光を描いていると考えています。
キリスト教時代を通して、幻を独り占めにして、自分のものとする者もいました。
たとえば、1世紀ほど前に自分をキリストの花嫁として売り出し、多くの人を欺いたヨハンナ・サウスコットがいます。
同様に私たちの時代にも存在しています。
メリー・ベーカー・パターソン・グラバー・エディ夫人はこの女は自分自身を象徴的に描いたものであり、人の子は自分が生んだ者と考え、それを発表しました。
一方、クリスチャン・サイエンスは竜は「死すべき霊」であり、女の新しい宗教を破壊しようとしていると公表しています。
このような2つ理論で、まともな人々の時間を奪う必要はありません。
私が述べた最初の見解は慎重な検討を必要とするものです。
まず、人の子は何を象徴化しているのかを調べてみましょう。
もし、私たちが聖書自身に答えがあるならば、私たちはこの記述にある一人の人と群れの人々がいることがわかります。
詩篇2篇でヤハウェはメシアにこのように言っています。
「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。
わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」
(詩篇2篇7~9節)
明らかに、この方こそ私たちの主イエス・キリストです。
やがて、彼は全地を治める方です。
そして疑いもなく、この方こそ最初に人の子であり、鉄の杖をもって諸国の民を治める方であり、サタンの敵意の的でもあります。
しかし、すでに2章26〜28節で見てきたように、キリストの支配は一人で治めるのではありません。
というのは、教会時代に忠実な勝利者たちにこのように約束されているからです。
「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。
また、彼に明けの明星を与えよう。」
(ヨハネの黙示録2章25~28節)
もし、人の子を、私たちの主キリスト・イエスとその教会との両方を代表するものと理解するのであれば、何か矛盾が起きるのでしょうか?
確かにそのようではありません。
キリストは御自身のからだである教会のかしらであり、それが御自身の満ち満ちているところです。
「キリスト」 という称号はコリント人への手紙第一12章12節にあるように、かしらと体の両方に適用されるのです。
「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。」
(コリント人への手紙第一12章12節)
文字通りに、かしらも体もキリストなのです。
そこで、聖書の権威に基づいて、人の子は鉄の杖で国々を支配する唯一の新しい人を表していると断言しても問題ないはずです。
キリストはかしらであり、教会はからだです。
もしそうなら、その女が教会を象徴するはずがありません。
しかし、教会の強い霊的なメンバーだけが聖書の中で勝利者として定められており、女は教会を描写していると言う人たちがいます。
その数も少なくありません。
その反面、彼らは人の子は、教会の中で勝利した者たちを象徴していると主張しています。
また、教会の残された民が患難時代を通して清められ、他の者は大患難時代の前に携挙されると述べています。
しかし、聖書はこのように明確に述べています。
ゆえに、この論争が真実でないことを明確にさせます。
「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」
(ヨハネの手紙第一5章4、5節)
勝利者とは、キリストに対する個人的な信仰を持つ人のことです。
この意味での信者は皆、勝利者です。
そうでない人は、真実な信仰を持っていないことが証明されており、所有者ではなく告白者にすぎません。
私が今、言及しているこの神学は、キリストの体の統一性を否定するものです。
それは、かしらとすべての構成員に存在するはずの親密な関係が認識されていないからです。
では、「太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶる」女とは誰のことなのでしょうか?
まず質問させてください。
「聖書の中で太陽と月と12の星が同じように共に語られている箇所が他にありますか?」
あなたはすぐにヨセフの夢を思い出すはずです。
ヨセフは太陽と月と11の星がヨセフに敬意を表している夢を見ました。
ヨセフ自身は12番目の星でした。
彼の父は、夢の中にあるのはイスラエルとその12部族の全体像のことだと考えました。
ここに考える価値のあるヒントがあります。
しかしまた、私たちの主イエス・キリストは肉においてイスラエルから出たのだと明確に述べられています。
「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。
先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン」
(ローマ人への手紙9章4、5節)
イザヤが叫び歌っていたのは、イスラエルのことです。
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」
(イザヤ書9章6節)
キリストは肉において来られました。
イスラエルはその母です。
教会がキリストを生んだのではありません。
キリストはその教会を設立したのです。
最後のアダムであるキリストは、傷ついた脇腹から教会が取り出されるために、死の中で眠りました。
キリストはイスラエルから来たのです。
旧約聖書では何度もくりかえして、イスラエルの国は苦しみの中において、キリストの現れを待つことが描かれています。
ミカ書5章2節、イザヤ書66章7、8節に戻ってください。
「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」
(ミカ書5章2節)
「彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。
だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」
(イザヤ書66章7、8節)
これらの聖句と私たちが以前の学んだ聖句と比べると「イスラエルが苦しむ前に、彼女が子を産んだ」ことがわかります。
実際、キリストが最初に地上にお生まれになったのは、来たるべき患難時代に起きる大きな苦難の時よりも前に生まれたのです。
その苦難の時代の中で、国民の意識の中にイエスは語り掛け、イスラエルはイエスが自分たちの神であり、イスラエルの子であることを悟るのです。
彼女の頭の上にある12の星は、12の族長と12の部族を物語っていると考えます。
彼女の足下にある月は、神の栄光を反射させる光である古い契約の栄光を語り、彼女を包む太陽は、彼女が神の前に現れる新しい契約の栄光を語っているのです。
キリストが実際に誕生すると、サタンはエルサレムの操り人形ヘロデを通してローマ帝国の権力を動かし、キリストを滅ぼそうとしました。
しかし、ベツレヘムの幼子たちが滅ぼされたとき、ヘロデの企てからイエスは守られました。
そして、キリストはローマの総督とローマの権威によって十字架につけられました。
しかし、父の栄光によって死者の中からよみがえり、神とその御座に引き上げられました。
さて、私たちの前に置かれた幻は、このことを見ていると理解しています。
それだけではありません。
すでに見たきたように、人の子はかしらと体の両方、つまり、完全なキリストを象徴しています。
他の預言と同じように、現在のディスペンテーションは沈黙のうちに過ぎます。
そして、教会はかしらの中に表され、キリストに捕らえ上げられるのです。
この直後、サタンは、終わりの日に復活しようとしているローマ帝国を通じて再び行動を起こします。
女、イスラエルに向かって怒りを爆発させようとしているからです。
神は女のために場所を用意されています。
女は荒野、民の荒野に隠されるのです。
エゼキエル書に書かれていることは、このことが生き生きと表現されていると見ています。
「わたしはあなたがたを国々の民の荒野に連れて行き、そこで、顔と顔とを合わせて、あなたがたをさばく。」
(エゼキエル書20章35節)
そこで女は1260日間保護されることになります。
これはすでに見てきたように、70週の前半、つまり「悲しみの始まり」を指しているように思えます。
この章の次の節、7節から12節では、私たちの注目は地から天に向けられます。
それは天で起こる未来の大きな戦いです。
「さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。
彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。
そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。
私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。
しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」」
(ヨハネの黙示録12章7~12節)
この心揺さぶる場面で3人目の出演者が登場します。
天の軍勢のかしらミカエルです。
ミカエルは神の御言葉を学ぶ敬虔な生徒には十分に知られています。
私たちは、ダニエル書の中でミカエルをすでに見ています。
ミカエルが偉大な御使いであり、ダニエルの民の保護を特に任されている偉大な君主であることを知っています。
私たちが知っているダニエルの民は、私たちが考えている女に象徴されているのです。
私たちの主イエス・キリストがその教会に戻られる時が来ます。
その時、主の叫び、神のラッパとともに、偉大な御使いの声が天から聞こえるのです。
ミカエルの声は、過去のディスペンテーションで死んだ者たち、最初の復活にあずかる者たちをよみがえさせられます
彼らは教会と昔の聖徒たちといっしょに御父の家にはいるのです。
教会が空中を通過し、栄光のうちに即位します。
そのことによって、サタンとその軍勢を空中の上の世界から追い出す合図のように思われます。
彼らは過去5000年間、空中で勢力を維持することを許されてきました。
サタンは空中の力の王子と呼ばれている。
サタンとの戦いは天の悪霊との戦いであると信者には言われます。
「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」
(エペソへの手紙6章12節)
これらの邪悪な軍勢は、絶えず人を欺いています。
クリスチャンがキリストにある現在の恵みを受けられないようにしようとしています。
しかし、教会が取り上げられると、彼らは恥ずべきことに私たちが「聖所の外の庭」と呼ぶところから追放され、地上に投げ出されます。
偉大な竜は、古いローマ帝国の活力を与える霊です。
そして、ローマ帝国が復活した時には帝国の活力を与える霊となりますが追放されることになっています。
9節では、間違いを起こさないように、彼は「悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」と明確に示されています。
サタンとのろわれたしもべたちが天から投げ落とされると、天から神の贖われた完全な救いと私たちの神の国とキリストの支配の確立をほめたたえる声が聞こえます.
サタンは私たちの兄弟たちを告訴する者を投げ落とされました。
昼も夜も、私たちの神の前で兄弟たちを告訴したためです。
これは新しい考えではありません。
サタンはヨブの時代に現われて、主の前でその義人を訴えました。
ゼカリヤもまた、幻の中で、彼が大祭司ヨシュアを訴えているのを見ています。
サタンは神によって、この世の最高裁判所の偉大な告発者として活動することを許されたのです。
キリストの尊い血によって神に贖われた者たちに対して、サタンが提起した罪は有効ではありません。
なぜなら、無限の犠牲によって、すべての罪の告発を無効されたからです。
私たちはサミュエル・グランディ作の聖歌のように歌うことができるのです。
「私は、私を訴える邪悪な告発者の叫び声を聞きます。
私は数千の自分の罪、すべてを知っています。
ヤハウェがすべてを終わらせました。」
他の讃美歌にも美しい歌があります。
M・ボウリー作の讃美歌にはこのようにあります。
「敵が絶え間なく告発して、洪水のように罪を語ります。
私たちの神が訴えを拒み、ことごとく、キリストのその血によって答えられます。」
キリストは私たちの弁護者です。
そしてサタンが絶え間なく悪意の告発をし続けます。
キリストは私たちのために弁護し続けているのです。
その結果、聖霊は地上の聖徒たちの心に、神の力によって神の真理を適用して、聖徒たちの歩みを実際に清めるのです。
11節にはこのように書かれています。
「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。
彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。
しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」
(ヨハネの黙示録12章11、12節)
サタンが投げ落とされることは、すでに地上から取り去られた旧約と新約の聖徒たちによって、天での大きな喜びの前兆となります。
しかし、それは地上の大きな悲しみのしるしにもなるのです。
なぜなら、悪魔は自分の期限が短いことを知って、激しい怒りをもって下ってくるからです。
サタンはキリストに属するすべての者を憎みます。
その日、魔は地上で御名を持つ者を探し求め、彼らを徹底的に滅ぼすのです。
13節から17節にはこのようにあります。
「自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。
しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。
ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。
しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。
すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。」
(ヨハネの黙示録12章13~17節)
説明すべきことは、私たちがすでに私たちの前に語ってきたことを考えるならば明白です。
竜はすぐにその全精力をイスラエルに向けます。
そして、神は大患難の中でイスラエルを守ることを約束されています。
そして、私たちが語ってきたように、女に与えられたのは、単に大わしの翼ではありません。
二つの大わしの翼であることが強調されています。
それは、女が自分のいるべき場所である荒野に飛べるようにするためです。
女は蛇から逃れ、一時と二時と半時の間、神によって養われるのです。
つまり、苦難の時代の最後の3年半の間です。半年間です。
一時は1年を表します。
二時は2年です。
半時は半年です。
つまり、3年半であり、前章の42か月と同じです。
「二つの大わしの翼」はイスラエルに関する事柄としてこのように語られています。
「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。」
(出エジプト記19章4節)
エジプトからイスラエルを救い出し、荒野で彼らを保護した方は、その日、竜の怒りから彼らを救います。
荒野の中でイスラエルは守られるのです。
後になって、イスラエルはそこからおびただしい数になって上ってきて、自分たちの地に住むのです。
蛇は大きな川のように水を口から吐き出し、彼女を大水で押し流そうとしましたが無駄でした。
蛇は自分の口から出る悪い教えによって彼女を破滅させようとするのです。
それを、私たちの主イエス・キリストによって与えられたいのちの水と対比して考えます。
今日、多くのユダヤ人がクリスチャン・サイエンスとして知られている竜の口から出た悪魔の洪水に流されているという事実を見てください。
このことを思い起こせば、その可能性を見ることができます。
大患難時代には、サタンは邪悪の教えを世界に広め、イスラエルを民族として制圧しようと試みます。
しかし、地がその女を助け、口をあけて竜が投げ出す水を飲みほします。
私の解釈では、すべての国の中から追い出されたイスラエルは、これらの悪魔の教えの邪悪な結果に非常に衝撃を受け、恐れおののき、悪魔の教えから守られるのです。
かつて、ユダが偶像礼拝の源泉であったバビロンに捕囚されることによって、しばらくの間偶像礼拝的な傾向が解放されました。
同じように、終末の日に異邦人の中で経験した偶像崇拝は、竜が女を溺れさせようとする邪悪な大水から彼女を守るために、神が用いられるのです。
悪魔はこのような国を滅ぼすことができません。
悪魔は女の残りの子孫、つまり神の命令とイエスのあかしを守っている残りの子孫を滅ぼすために特別な努力をします。
私が思うに、この国の残された民たちは、二人の証人によって描写されているように、反キリストのあらゆる迫害に対して神のためにあかしをしています。
悪魔がどのようにこれらの人々を滅ぼそうとするかは、次の章で語られます。
講義14 来たるべき「国際連盟」 13章1~10節
現在、国際連盟という言葉を、どれくらいの政治家や国政に関心のある人たちが口にしているのでしょうか?
数年前まではそうではありませんでした。(1930年代)
神の言葉が預言しているのは、現在、人々が深く関心を寄せているような連盟です。
預言の教師たちがこのことを宣言するならば、嘲笑の的だったのです。
彼らは空想家であり、愚かな想像を思い通りに語り、実現できないことを主張していると公然と宣言されました。
しかし、大戦と新しい状況は、ここ数年でこれらのコメンテーターの見方を大きく変えました。
現在では、国家連合が政治家が直面している難題に対する解決策だと考える人たちがいます。
多くの人は、それがすべての復興の危機に対する万能薬になると考えています。
教会がまだ地上に残っている時は、だれも聖書から語ろうとしないと思います。
しかし、教会が取り去られた後には、実際に、かつてのローマ帝国から生まれた大きな国家連合が存在しています。
この連合の起源も特徴も悪魔的で、実際には悪魔の最後の切り札となります。
もし、このような表現ができるのであれば、悪魔は完全な敗北を認めることになります。
今回、ここで扱うのはこのことになります。
前回の講義では、教会が空中で主に会うために取り去られた後、サタンの敵意が特別な方法で神の地上の民イスラエルに向けられることに注目しました。
結論として私は、その敵意がどのような形でやって来るのか、今回はそのことを述べてみます。
今、私たちの目の前にあることを適切に説明するにあたって、ヨハネの黙示録のこの箇所を通して、次の事実を心に留めておく必要があると思います。
私たちは、携挙での聖徒たちの最初の復活があり、新しいからだに変えられた後に、長い間待望されたイスラエルのメシアとして、栄光のうちに主イエス・キリストが現れる前の、厳粛で重大な時について考えます。
キリストは父ダビデの王座に着き、義をもって全地を治める人の子です。
もし、携挙について何か混乱があるなら、何もわからないと思います。
すべての真実なクリスチャンが主のもとにゆくために取り去られた後、この世界がどのような状態になるか想像するのは難しくありません。
特に、支配者、知事、政治的なリーダーなど、高い地位にある人の多くが、たくさんのクリスチャンなら、なおさらのことです。
救われていない人々、キリストの主張に無関心の人々に比べれば、私は「たくさんの人」とは言うべきではないかもしれません。
救われる者は確かに少ないと思います。
聖書は私たちにこのように言っているからです。
「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。
この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。」
(コリント人への手紙第一1章26節)
ホワイトフィールドとウェスリー夫妻の時代に生き、福音を広めるのに大きな助けとなった献身的な女性、レディ・ハンティントンが「Mは天国に行く」と言っていたのを覚えているでしょうか!
訳者注)「M」の意味は(Many)の頭文字です。
多くの人が天に言ってほしいという願いを込めて本にされています。
もしその言葉が「高い地位は誰もいない」だったら、彼女に望みはなかったでしょう。
しかし、「多く(Many)」は彼女を受け入れました。
しかし、真実に主を知る高い地位にいる人たちの中には、主が来られるときに教会ともに取り去られる人たちが確かにいます。
彼らが取り去られることは堤防の決壊のようなもので、無政府状態と過激主義の荒波がすべての土地を押し流すことになります。
その時、どのように悪がはびこるのかを考えてみてください。
救われていない人たちは、言いようのない恐ろしいことをすると思います。
キリストのいない千年王国を実現しようと努力すると考えます。
肉に属する人たちがこのことに気づいていようといまいと、真実なクリスチャンは世の光であり、地の塩です。
突然、すべてのクリスチャンがこの場から連れ去られるのです。
すると、この者たちは地をおおう恐ろしい暗闇になるのです。
義が過ぎゆき、保護の力が失われ、多くの人は堕落と暴虐に身をゆだねます。
大洪水の前の記録を読めば、あなたは大混乱の状況をある程度理解できると思います。
現在は、世界中に無法が広がっています。
しかし、そこには大きな困難が伴っています。
聖霊によって守られているのです
ソビエト主義と呼ばれる邪悪な存在は、この自由の国でさえ足がかりにしようとしていますが、阻止されています。
これらの背後には悪魔の努力が存在しています。
神とその言葉へのすべての信仰を破壊し、その代わりに、従う者に永遠の破滅をもたらすだけの邪悪なシステムを取り替えようとしているのです
私たちの時代には、敵が洪水のように押し寄せてきても、神の聖霊が保護があり、彼らに向かって勝利の旗を揚げています。
聖書にはこのように書かれています。
「不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。」
(コリント人への手紙第二2章7節)
ここでは「不法の秘密はすでに働いています」と語られています。
しかし、、このディスペンテーションの時代は悪の完全な進展を聖霊が妨げているのです。
しかし、主が私たちを世から取り去られる時、すなわち、聖霊が教会を空中で主に会うために引き上げられる時、悪の力に対する妨害は消え去ります。
もはや、悪魔の策略には歯止めがかからなくなります。
天にある聖徒たちは、キリストのさばきの座に着くことになります。
すでに見たきたように、最後にサタンが彼らの告発者として神の御前に立ちます。
サタンは何世紀にもわたって、昼も夜もそのようにしてきました。
サタンは天から投げ出され、激しい怒りをもって地に下って来ます。
自分の時が短いことを知っているからです。
「それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。
しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」
(ヨハネの黙示録12章12節)
その日、サタンはイスラエルの中に、神のあかしを見い出し、イスラエルに敵意をむき出しにします。
そして、神を完全に退けた人間の政治によって、イスラエルを破滅させることに着手します。
ダニエル書の中でネブカデネザルが見た、大きな像の夢を思い出してください。
「異邦人の時代」を述べていることには、誰もが同意すると思います。
この言葉の意味は、ユダヤ人が異邦人の中に散らされる期間、つまり、諸国の民がパレスチナの地を支配する期間を意味しています。
これらの異邦人の時代は、純金の頭ネブカデネザルから始まりました。
このことはこの像の中にとてもよく表現されています。
「王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。
その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、
すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。
あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。
そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。
そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。」
(ダニエル書2章31~35節)
これに続いて、銀の胸と腕で描かれているメディア人とペルシア人の支配が来ました。
順番に、その像の青銅の胴体で示されているギリシア・マケドニア帝国によって引き継がれました。
最後の世界を支配する帝国は、鉄の王国、ローマです。
しかし、ダニエルは、終末の時代にローマ帝国が独特な形をとることを示しています。
この描写では、足には鉄と粘土という混ぜることができないものを混ぜようとする試みがあります。
それは、帝国主義という鉄と社会民主主義という陶土を融合させようとする人間の試みを現しています。
この描写を見て、私たちがこの時間の経過の中でどこにいるのかと聞かれたら、私はためらうことなく、像の足元に達したと言うことができます。
現在において、ヨーロッパの偉大な国々は鉄と粘土を融合させようと途方もない試みをしています。
近年の問題の多くはこれによるものです。
偉大な国家指導者たちは、民主的性格の政府を求める国民の要求に従うしかありません
そして、帝国主義の何かを残そうとしており、途方に暮れています。
しかし、この2つを混在させることは不可能です。
必然的に、一方は他方を破壊しなければなりません。
そして、今、私たちの前にあるこの聖書は、最後には帝国主義がある程度の勝利を収めることを明らかにしています。
おそらく、人々は、あまりに長期化した絶え間ない紛争に疲れ果ててしまうのかも知れません。
楽観的な政治家が何を言おうと、神の御言葉は混乱がますますひどくなることを示しているからです。
そして、教会が取り去られる前でさえ「民主主義のために世界を平和にするために」軍隊を起こしています。
その代わりに、民主主義から世界を救うために、我が国の若者を徴兵することになる可能性も十分に感じています。
やがて、人々はさまざまな人たちと手を組むようになります。
しかしながら、あらゆる権利が危険にさらされることになります。
このように、耐えられない状態が続きます。
教会が主に会うために取り去られた後に、結果としてすべての人がそこから出てゆこうとします。
シーザーの政治手腕、ナポレオンの軍事的天才、チェスターフィールドの個人的魅力を兼ね備えた人が出てきます。
前にも述べたように、この人物は旧ローマ帝国から生まれた国々から生まれた組み合わされて10の勢力を率いることになります。
やがて、この人物は神と神の御言葉へのすべての忠誠を捨てます。
この人物はこの同盟によって、少なくともしばらくの間は世界を支配することになります。
すでに述べたように、ダニエルはこの最終段階を10本の指で描写しています。
古代ローマ帝国は東西に分かれていましたが、それを象徴しているのがこの大きな像の2本の足です。
崩壊が始まるまでは、これらの国々は一つの中央権力の下で団結しています。
ダニエル7章では、同じことが別の方法で描かれています。
神の人は、異邦人の時代についての幻を見ました。
ダニエルはその夢に美しいものも壮大なものも何も見ていません。
「ダニエルは言った。「私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、
四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた。
第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた。
また突然、熊に似たほかの第二の獣が現われた。その獣は横ざまに寝ていて、その口のきばの間には三本の肋骨があった。
するとそれに、『起き上がって、多くの肉を食らえ。』との声がかかった。
この後、見ていると、また突然、ひょうのようなほかの獣が現われた。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。
その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現われた。
それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。
これは前に現われたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。
私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。
よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。
(ダニエル書7章2~8節)
四大帝国を4匹の猛獣として描写されており、互いに飛びかかろうと見張っていた。
この世界のいかなるものも、そこに描かれた野生の生き物の描写について完全に答えることはできないと思います。
バビロニア帝国は、地の獣と空の鳥の混血である鷲の翼を持つ獅子によって象徴されています。
メド・ペルシャの支配権は熊のように現れます。
片側を持ち上げ、歯の間に血を滴らせた三本の肋骨を持っています。
キュロス率いるメディアとペルシアに略奪されたバビロニア帝国の3つの主要都市を象徴しています。
ギリシャ、すなわちアレクサンドリア帝国は、背中に四つの頭と鳥の四つの翼を持つひょうとして描かれています。
ひょうの頭はアレクサンドロスの死後、このギリシャ・マケドニア帝国が4つに分裂されたことを象徴しています。
最後にダニエルは、第四の獣は恐ろしいもので大きな鉄の歯を持っており、粉々にかみ砕き、行く手に来るものをすべて食べてしまったと語っています。
そして、十本の角があったと付け加えています。
今、最後の獣は明らかに像の鉄の足、十本の指が十本の角で表わされ、最後に現れるローマの力を示しています。
この章で描写されているのは、最後の恐ろしい獣であることは間違いないと考えます。
主が生まれた時、ローマの権力が存在していました。
そして、十字架の上で死なれた時に死の責任がありました。
カエサルの代理であったピラトはカエサルに承認されない限りは何の権力も持っていなかったのです。
ゆえに、ポンテオ・ピラトはローマ帝国の代表であり、ローマは栄光の主を十字架につけたのです。
確かに、ピラトはユダヤ人が望んだ通りの判決を下しただけです。
メシアを殺した責任はユダヤ人にあるはずです。
しかし、何世紀にもわたって、使徒信条の朗読の中で何度も繰り返されてきた「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に」という一節があります。
ローマの行政長官としてピラトはそのことに目を向けなければなりません。
そこからピラトは逃げることができません。
永遠にピラトの記録として残ります。
すでに12章で見たように、十本の角と七つの頭を持つ大きな赤い竜は、人の子を滅ぼそうとするサタンに力を持ったローマを表しています。
ここ13章で、終末の時代のローマが登場します。
「そして、彼は海べの砂の上に立った。
また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。」
(ヨハネの黙示録12章12節、13章1節)
ローマ帝国が復活した理由は、悪魔自身によって諸国の海から呼び出されたからです。
写本にもよりますが、新改訳聖書では、12章18節、13章1節の「彼は海の砂の上に立っていた」のはすなわちサタン、竜のことです。
悪魔は、水の中から野にいた獣を呼び起こします。
その獣は「十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名」がついています
十の王冠が宣言しているように、これは復活した帝国ローマのことです。
主イエス・キリストの死後、ローマ帝国は約500年ほど存続しました。
後に、東と西に分割されましたが、歴史の終わりに向かって、ゆっくりと結合してゆきました。
最終的には北と東からの侵略者によってローマは滅ぼされました。
しかし、帝国はばらばらに滅ぼされたにもかかわらず、ローマ帝国の原理はヨーロッパの大きな地域に浸透しています。
そして、今日、私たちが知っている文明の基礎となっています。
アメリカの法律制度はローマの制度に基づいています。
最近の世界大戦では、協商同盟国(国際連合、三者協定)も、アメリカも、日本、中国、その他の異教徒の国を除いて、すべて旧ローマ帝国を代表しています。
その反面、4世紀、5世紀、6世紀にローマ帝国に立ち向かった、ゴート族、ヴァンダル族、フン族などの勢力が滅んでいるのを見ています。
実に不思議なことですが、聖書を読まない人にはこのことがほとんど説明できていません。
20世紀にも、ローマ支配の終わりの時代と同じような大きな分裂が維持されています。
私たちはこのことから、ローマ帝国が偉大な国際的運動によっていかに容易に復活する可能性を見ることができます。
この連合は、あらゆるラテン諸国、あるいはラテン化された国々の攻撃的、守備的な連合となることを知ることになります。
訳者注)1930年以前の記述です。
これをもたらすために、多くの役割を果たした偉大な機関の一つはローマ教会です。
その力は、宗教改革の行われた地域において絶えず力を増してきました。
かつて、それらの国々では不可能だと思われていた地域です。
ローマの征服者の誇りは、文明を決して滅ぼさず、征服したさまざまな国の良きものをすべて自分たちの偉大な共同体に吸収したことです。
私たちは2節を読むときに、このことを思い出さずにはいられません。
「私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。
竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。」
(ヨハネの黙示録13章2節)
ローマ帝国の最後の段階において、過去に起こったすべてのことと結びついているという事実を見ることができます。
あなたはこのわずかな言葉の中にはっきりと述べていることに注目してください。
ローマにはギリシャのひょう、ペルシャの熊、バビロンのししがいます。
こうしてローマは、世界に残した大きな足跡であるあらゆる文明の主要な要素を、この最後の偉大な連合に組み入れたのです。
人類が何世紀にもわたって築き上げられてきた、価値を見出すことを学んできたすべてのものが、この最後の連合国家の先頭に立つことになります。
単にヨハネの時代に存在したローマを見ていたのではありません。
正しく理解すれば、3節から明らかなように、ディスペンテーションの終わりの時代に存在するローマを見ているのです。
「その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。
そこで、全地は驚いて、その獣に従い、そして、竜を拝んだ。」
(ヨハネの黙示録13章3、4節)
17章8節から13節までを見れば、頭に関する手がかりが見つけることができます。
そこでは同じ獣に関する描写が語られています。
「あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れぬ所から上って来ます。そして彼は、ついには滅びます。
地上に住む者たちで、世の初めからいのちの書に名を書きしるされていない者は、その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて現われるのを見て驚きます。
ここに知恵の心があります。七つの頭とは、この女がすわっている七つの山で、七人の王たちのことです。
五人はすでに倒れたが、ひとりは今おり、ほかのひとりは、まだ来ていません。しかし彼が来れば、しばらくの間とどまるはずです。
また、昔いたが今はいない獣について言えば、彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです。そして彼はついには滅びます。
あなたが見た十本の角は、十人の王たちで、彼らは、まだ国を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます。
この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威とをその獣に与えます。」
(ヨハネの黙示録13章8~13節)
これらの短い聖句の中に、ローマ帝国の歴史全体のあらましがあります。
長い間、それは人間が認めなければならない地上の最大の力でした。
しかし、真実に「獣ではない」と言える時が来ます。
それらは滅びています。
その皇帝の頭は死に滅びるために、すでに傷を負っていました。
聖書は滅びた支配国に帝国の権力が戻ると預言しています。
何世紀にもわたって、神の言葉を悟らない者にとっては、これほど大胆な宣言はありません。
しかし、聖書はこれが実現すると宣言しています。
政治家や人間の理論家たちが、このことをバカげた仮説をして否定してきました。
しかし、ほぼ一世紀にわたって、神の聖霊に導かれた預言の学者たちはローマ帝国が分裂していた国々が再び一つのかしらの下に集まることを教えてきました。
今日においては、この可能性を否定する人こそが大胆な人となるのです。
来るべき世界連邦について、政治家が語る時、誰が実現しようとしているのか、ほとんど彼らは気にしていません。
その者について、このように書かれています。
「あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れぬ所から上って来ます。」
(ヨハネの黙示録17章8節)
というのは、ここに描かれている事をを実現させるのは悪魔の力だからです。
悪魔は世の人々に、神のキリストを必要がないと信じさせます。
そして、その平和の王子が退けられている間に平和と安全を得ることができると信じさせることは悪魔の最後の努力なのです。
だが、神は彼らのすべてのはかりごとを吹き消されます。
しかし、主はこのように述べています。
「廃墟だ。廃墟だ。わたしはこの国を廃墟にする。このようなことは、わたしが授ける権威を持つ者が来るまでは、かつてなかったことだ。」
(エゼキエル書12章27節)
しかし、七つの頭の2つの解釈に注目してください。
女が座っているのは七つの山です。
そして、七人の王たちだと言われています。
「五人はすでに倒れたが、ひとりは今おり、ほかのひとりは、まだ来ていません。
しかし彼が来れば、しばらくの間とどまるはずです。」
七つの山とは、帝国の首都に存在する七つの丘のことです。
丘という表現が山という特徴を持っていないことから、私の考えを否定する人もいます。
しかし、私はこれを支持したいと思います。
ローマ人が自分たちの首都を「七つの丘」のある都市と呼ばれるのを喜びとしている事実があります。
当然、ヨハネの記述を読んだ人は誰でもこの都市を思い浮かべるはずです。
二つ目の解釈にはこのようなものがあります。
王国制というのは、政治形態としては良く知られたものです。
ローマの歴史家リヴィは、ローマがヨハネの時代以前に異なる五つの政治形態を経てきたことを示しています。
ヨハネの時代に存在していたのは6番目の皇帝でした。
この章で描かれているように、まさに打ち殺され、まさに致命的な傷を持った頭のような姿をしていました。
しかし、その致命的な傷は癒されなければなりません。
確かに、皇帝の立場は回復されるのですが、異なる条件の下で、明らかに7番目のものとして回復されたのです。
それは、10の国が連合して、その中から一人を長として選出したのです。
この男ははっきりと「野獣」と呼ばれています。
ルイ14世は「私は国家である」と言った言葉を思い起こさせます。
この獣は、選ばれた長としての権威を行使し続けます。
しかし、それはわずかな短い期間であり、その時、彼はすべての取り決めを放り出すのです。
ナポレオンが最初の執政官に選ばれましたが、後に皇帝を宣言しています。
このように、6番目の形態がもたらさせますが、7番目の形態の形態とも言えます。
あまりに壮大なクーデターに、人々はナポレオンの卓越した才能に感嘆の声を上げました。
このように、人々は安定した継続的な平和を与えることができるのは帝国政府の形態以外にはないという原則を受け入れました。
人々は、ナポレオンの主張を容易に認め、獣に力を与えた竜を崇拝し、獣自身に栄光を表し、このように言ったのです。
「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。」
(ヨハネの黙示録13章4節)
上記に記したナポレオン・ボナパルトの歴史の中で、神は私たちに驚くべき実例を与えてくださったと思います。
彼はコルシカ人であり、身分は低く、全く取るに足らない人で、最初に注目されたのは革命軍の少尉でした。
血なまぐさい恐怖政治の後、突然、ナポレオンはかつての目立たない場所から現れ、その時代における世界の中心人物になりました。
圧倒的多数でフランスの第一行政官に選出され、皇帝を自称し、一時はフランス全土と世界を魅了しました。
しかし、その最後はセントヘレナ島でその生涯を終えています。
しかし、終わりの日にナポレオンよりも偉大な人物がヨーロッパに広まる無秩序な状況から現れるのです。
しかし、彼は完全にサタンに渡され、驚くべき姿と卓越した能力を持つ人になるのです。
彼は終わりの日の偉大な市民の指導者となります。
宗教的、またあらゆる問題について最終的な決定権を持つ人となるのです。
すべての文明を持つ地上では、その者に驚嘆し、彼と隠れた主人である悪魔に忠誠を誓います。
その者は高慢と愚かさをもって、神に逆らって大きな冒涜的なことを言うのです。
彼は自分のことを、人間の力だとしても、神の力だとしても、誰も自分を倒すことのできない宿命の人だと考えるのです。
しかし、その者が否定している神によって、その権威を制限されました。
その権威が彼に与えられるのは「四十二ヶ月の間」だけです。
すなわち、ダニエル書のある七十週の後半の三年半の間、彼は預言の地上を支配するのです。
そのとき、彼は神に向かって口を開き、神の御名とその幕屋、そして天に住むすべての者、すなわち携挙によって捕えられる聖徒たちを冒涜するのです。
「この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。
そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。
彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。」
(ヨハネの黙示録13章5~7節)
獣は、地上の聖徒たち、すなわち、神の復興されたイスラエルにある忠実な者たちと戦いを交え、彼らを打ち負かします。
そして、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられます。
このようにして、竜は女の種の残された民を滅ぼそうとするのです。
神にあるすべてのものを地上から完全に根絶やしにしようとします。
そのために、獣はパレスチナの地に住む信頼できる補佐役を雇うことになります。
彼は獣のあらゆる邪悪な計画を支援してもらうことになりますが、ここではこの補佐役について話さず、次回にします。
次の講義ではその者のことを多く語ります。
私が思うに、獣の時代とは、私たちの主イエス・キリストが述べた時代であると考えています。
イエスはこのように語っています。
「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」
(マタイの福音書24章24節)
しかし、神に感謝します。
その恐ろしい日においても、神は御自分のものを守られます。
8節では、獣に惑わされ、忠誠を尽くす者たちの存在を学びます。
彼らは「世の初めからその名の書きしるされていない者」なのです。
「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。」
(ヨハネの黙示録13章8節)
これに関連して見るのであれば、13章9節と10節にあるチャレンジは、とても重大な内容であることがわかります。
「耳のある者は聞きなさい。
とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。」
(ヨハネの黙示録13章8~10節)
これらはイスラエルに対して向けられる激しい大患難時代のことです。
しかし、主はご自分の小さな群れを守られます。
彼らは国々の民の中に散らされるのです。
そして、主は彼らのために、彼らがさまようあらゆる所に小さな聖所を設けられるのです。
天の希望を地上の希望と引き換えにした者だけが、この偉大な指導者に騙されるのです。
彼が世界が待ち望んでいる来たるべき人だと信じるのです。
誤って盲目になった政治家たちは、彼を諸国家の元首とするのです。
彼らは現在の世界を混乱させている社会的、政治的、経済的問題を解決する人物として歓迎するのです。
あらかじめ、神御自身が聖書によって警告されていることは、なんとも幸いなことなのです
その目的は、私たちがそしりと冒涜の日を味わうすべてのものから離れて歩むためです。
やがて、このことが現実となる日が訪れます。
その日、神の地上の民イスラエルの導きと慰めのために、誰がこの聖句の価値を疑うことができるのでしょうか!
もし、この聖句がなかったら、イスラエルは、義の敗北と不法の勝利とを見て絶望してするはずです。
しかし、悪人の勝利は短く、地の人はやがて滅ぼされます。
その一方で、信仰が天から現れてます。
苦しむ民に向かって、血にまみれた手を上げたすべての者に対して復讐がされるのです。
しかし、すべての者が良きも、悪しきも報いを受けることになります。
「ここに聖徒の忍耐と信仰がある。」
(ヨハネの黙示録13章10節)
講義15 反キリストの人格 13章11~18節
世界は権威のある宗教指導者を待っています。
疑いと不確実な時代にあって、人々は今日多くの人々を悩ませているすべての倫理的、宗教的、政治的問題について結論を出せる人を切望しています。
学んだクリスチャンは、すでに神が御子の人格にある権威をもって語られ、聖なる御言葉によって御心を明らかにされたことを知っています。
彼らは来たるべき方を待ち望んでいるのです。
すなわち、主イエス・キリストが栄光のうちから現われて、天の権威と力とを地上に確立されることを待ち望んでいるのです。
主は天から下って、その栄光に満ちた聖徒たちとともに、千年の平和と祝福のうちに地を治めます。
しかし、不信者たちが待ち望んでいるのは、地上に生まれた者、地上の者であって天から来た主ではありません。
この期待は「罪の人」、すなわち人格的反キリスト、偽りのメシアにおいて成就されることになっています。
その者は間もなく現れるのです。
実際、すでにこの世に彼が存在しているかもしれません。
これは、非常に厳粛な考えです。
もしかして、腕の中にいる赤ん坊かも知れません。
もしくは、早熟な若者かも知れません。
でも、政略家ではないと想像しています。
しかし、その者は長子の教会が主の前でほふられるまでは、決して知らされることはありません。
驚くべきことは、多くの人々が反キリストを待ち望み、キリスト自身の生まれ変わりを期待していると想像していることです。
彼らは救い主を待ち望んでいると公言しています。
そして、自然の摂理に従って生まれた救世主が地上に現れることを期待しているのです。
神学者や多くの人たちは偉大な世界の教師を期待して待っています。
彼らはベサント夫人の東方の星の騎士団に失望したにもかかわらず、その操り人形クリシュナムルティは彼らの希望には達していません。
訳者注)東方の星の騎士団(Order of the Star in the East(OSE))
1911年から1927年までインドのベナレス(バラナシ)に拠点を置いていた国際組織です。
救世主である世界教師またはマイトレーヤの到来に世界を準備させるために設立されました。
彼らはジッドゥ・クリシュナムルティを新たな救世主候補として見いだしましたが、クリシュナムルティは救世主としての役割を拒絶し、教団の使命を否定し、1929年にOSEの後継組織を解散しました。
事実、彼らは罪の人、滅びの子の到来のために世界を整えているのです。
前もって警告されることは、すでに備えられています。
神の聖なる御言葉は、この偽りの者の来ることを予告しています。
その者の現れにつながるものを明確に示しています。
今日、読んだ箇所にある問題についてあなた方と御言葉を調べたいと思います。
聖霊の教えを受けた聖書の学者はだれでも、反キリストの影が多くの預言のページに影を落としているのを見ていないはずがありません。
「反キリストが来る」ことを使徒ヨハネは書いています。
多くの人を悩ませる唯一の疑問は、述べられた人や物の認識についてです。
反キリストは人なのか、それとも組織なのでしょうか?
どちらの見解をも支持し、多くの重要な名前を引用することができます。
しかし、私たちの信仰が人間の知恵に立たない必要があります。
他のすべてのことと同じように、この問題についても神の力を信じています。
わたしたちは、書かれた御言葉に導かれたいのです。
いくつかの明確な聖書箇所に目を向ける前に、この祝福された事実を思い出させてください。
キリストは、栄光に満ちた、聖なる、全能の人であり、永遠の三位一体の一人であり、処女から地上に生まれ、十字架の死に至るまで人間として謙遜であり、人間と神と一つにした方です。
理論的に、反キリストもまた人間であり、明確な人格があります。
しかも、主イエス・キリストに敵対し、自分がキリストであると主張して、キリストの地位を奪うと考えます。
ですが、私たち信者は、この世にキリストに連なる一つのからだです。
キリストこそがその栄光に満ちたかしらであることを忘れてはなりません。
また、この神聖なものに反対する偉大な背教者のシステムが存在します。
自分こそがキリストの配偶者であり、神の奥義の唯一の権威ある管理者であると偽った主張をします。
この組織が反キリストなのでしょうか?
それともむしろ偉大なるバビロン王、反教会なんでしょうか?
後者の見解が正しいことが、私たちが前進するにつれてわかると思います。
預言書は2つの大きな宗教的な欺きを説明しています。
偽キリストと偽教会です。
この二つをいっしょにしてはなりません。
神のキリストが人であるように、反キリストも人となります。
神の教会が神の組織であるように、バビロンは巨大な構造化された組織です。
しかし、一つは別の悪魔的な偽物です。
聖書の預言の言葉を見るならば、反キリストには、男性代名詞の「彼」が使われています。
偽教会について語られる時は、中性、もしくは女性代名詞の「それ」もしくは「彼女」が使われます。
これには理由があります。
反キリストは、使徒制度の最終的指導者となります。
外面的には教会とキリストとの同じ関係を反キリストは持つことになります。
神は最初に女の子孫が「蛇の頭を踏みつける」という約束をしました。
それ以来、人々は自分たちの中から救い主が現れることを待ち望んできたのです。
キリストの誕生によって実現され、この期待は聖書に基づいています。
しかし、イエスが拒絶されたので、この期待は真理の歪曲になりました。
神が遣わされた「女の子孫」である救い主は、神とその御座に捕らえられたからです。
グノーシス主義などの秘教は、反キリストの最高の宗教と言ってもいいと思います。
「一人の男が待ち望まれています。
彼の到来が近づいています。
最後に、彼は力強い力、聖霊とともに天へと昇ります。
彼はそこから来たのです。
来たるべき者はは新しい人類のカルトの偉大なる君主です。
彼はイスラム教のイマーム、もしくはマフディーなのです。」
訳者注)イマーム、イスラム教の教師、霊的指導者を指します。
マフディーは、「神に導かれた人」という意味です。
イスラム教において世の終わりに現れる霊的指導者を指しています。
彼はバラモン教の待ち望んでいる最後の受肉したヴィシュヌです。
彼は来たるべきアステカのモンテスマです。
彼は背教化したユダヤ人の偽メシアです。
彼は宗教的なヨガの偉大な教師です。
彼は究極的な進化論者です。
彼はドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの提案した超人です。
ニーチェの暴言的な哲学によって、世界大戦への道が準備されました。
彼は、悪魔に支配され、神に逆らい、良心をもたず、超人的な人間になるのです。
彼のその姿が現れれば、現在の背教が完成し、彼の人格が完全に神格化され、混乱した哀れな者に与えられることになります。
このように、世界は神のキリストから離れ、来たるべき「罪の人」を迎えるために熱心な手を差し伸べるのです。
そして、彼は時間通りに来るのです!
神の御言葉は、主イエス・キリストが栄光のうちから再び来ることを預言しています。
しかし、同じくらい確実に、その彼の到来を告げています。
その間に、巨大な反教会が聖書の真実をことごとく捨てさります。
キリストは教会のために死なれました。
その真実な教会の偽物にすぎない邪悪な組織です。
ヨハネの手紙第一2章22節にはこのように書かれています。
「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。」
(ヨハネの手紙第一2章22節)
つまり、「偽り者」です。
そして、反キリストを受け入れる準備をさせるための嘘に従うようになります。
これは真実なる神の変えることのできない定めなのです。
ここにいる誰も、この恐ろしい不義に巻き込まれないようにすることが私の心からの願いです。
それから守られるために、さまざまな聖書箇所に注意を払ってください。
反キリストについての最も完全な記述はダニエル書11章36節から45節にあります。
「この王は、思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高め、大いなるものとし、神の神に向かってあきれ果てるようなことを語り、憤りが終わるまで栄える。定められていることが、なされるからである。
彼は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。
その代わりに、彼はとりでの神をあがめ、金、銀、宝石、宝物で、彼の先祖たちの知らなかった神をあがめる。
彼は外国の神の助けによって、城壁のあるとりでを取り、彼が認める者には、栄誉を増し加え、多くのものを治めさせ、代価として国土を分け与える。
終わりの時に、南の王が彼と戦いを交える。北の王は戦車、騎兵、および大船団を率いて、彼を襲撃し、国々に侵入し、押し流して越えて行く。
彼は麗しい国に攻め入り、多くの国々が倒れる。
しかし、エドムとモアブ、またアモン人のおもだった人々は、彼の手から逃げる。
彼は国々に手を伸ばし、エジプトの国ものがれることはない。
彼は金銀の秘蔵物と、エジプトのすべての宝物を手に入れ、ルブ人とクシュ人が彼につき従う。
しかし、東と北からの知らせが彼を脅かす。彼は、多くの者を絶滅しようとして、激しく怒って出て行く。
彼は、海と聖なる麗しい山との間に、本営の天幕を張る。
しかし、ついに彼の終わりが来て、彼を助ける者はひとりもない。」
(ダニエル書11章36~45節)
ここでは完全な無神論者でありながら、明らかにユダヤ人である王がエルサレムに起こることが預言されています。
それは「彼は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない」と明言された預言がされているからです。
「先祖の神々」という表現は、アブラハム、イサク、ヤコブの神のことです。
聖書ではしばしばそのように使われています。
「女たちの慕うもの」という表現は、ユダヤ教とキリスト教の両方の解釈者によって、メシアを指していると認識されています。
私の考えていることはとても重要です。
ここでの指摘点は、
反キリストは、もしユダヤ人でなければ、偽メシアにはなりえません。
でなければ、イスラエルに忠誠を誓う権利はないからです。
私の考えでは、彼は偉大なユダヤ人の指導者になり、最初は自分の民を愛する素晴らしい人のように見えます。
そして、自分たちの国を確立するのです。
しかし、彼はすぐにすべての制限を投げ出すのです。
彼は「思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高め」るのです。
そして、彼はダニエルの第七十週のこの三年半の間に、神々の神に対して驚くべきことを語るのです。
この個所はヨハネの黙示録の学ぶのであれば、常に私たちの前に置かれているはずの箇所です。
この一節は、今、読んだ箇所と密接に関係していますので、この二つ聖句を比較して注目してください。
黙示録13章11節にはこのように書かれています。
「また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。」
(ヨハネの黙示録13章11節)
見てください。
彼は最初の獣のように異邦人の国々から出てきたのではありません。
彼は地から、もしくは国から上って来たのです。
すなわち、ダニエル11章に王が現れるのと全く同じ地、パレスチナの地から上って来るのです。
彼は「小羊のような二本の角」を持っています。
彼は一見、神の小羊のような柔和さと強さを持っているように見えます。
しかし、彼は竜のように話し、神を欺くのです。
これは自己誇示の言葉です。
これによって、高慢によって堕落した主人である悪魔と同じ裁きを受けることを示しています。
そして、ダニエルはこの利己的な王はどんな超自然的な神も見向きもしないと語っています。
しかし、彼は「とりでの神」と呼ばれる者を敬うのです。
その者は 明らかに人間です。
というのも、彼が敬っているのはその人だからです。
このように「彼は外国の神の助けによって、城壁のあるとりでを取り、彼が認める者には、栄誉を増し加え、多くのものを治めさせ、代価として国土を分け与える」のです。
これと同じことが13章12節に暗示されています。
「この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。」
(ヨハネの黙示録13章12節)
彼は最初の獣の代理人です。
最初の獣は、世界が神として認めています。
それは、かつて、シーザーを神として認めていたのと同じです。
彼はユダヤの富で豊かになった君主です。
彼は賢い政治家です。
そして、策略的な政治家であるだけではありません。
13節と14節で語られているように、不思議な力で働く者です。
「また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。
また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。」
(ヨハネの黙示録13章13、14節)
これはテサロニケ人への手紙第二2章3~12節にある「不法の人」についての印象的な記述と一致します。
「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。
私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。
あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。
不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」
(テサロニケ人への手紙第二2章3~12節)
ここにダニエル11章の無神論者の王と、黙示録13章の驚くべき働きをする人の到来についての預言があります。
私たちの時代における一つの兆しとして、多分野で蔓延している驚くべき驚異に対する不健全な欲望があります。
これは最も危険な心の状態であり、 クリスチャンは、このようなことに気をつけるべきです。
私たちは神の奇跡をいくつも期待することがあります。
それほど、私たちはあまりに時代の終わりに近づいていると感じているのです。
しかし、終わりに近づくにつれて、もしくは反キリスト自身が現われるときには、悪魔の奇跡と不思議が多くなってゆくはずです。
彼は人々の欲求をかなえる奇跡を与え、人々を欺き、自分の不信心な主張を受け入れるように仕向けるのです。
獣の「像」が何を意味しているのか、私は言うつもりはありません。
聖所に設置される「荒らす忌むべき 」についての主の警告と関係していることには間違いありません。
いずれにしても、これは背教の頂点です。
大きな迫害の日に主にすがりつく信仰を持つすべてのユダヤ人にとって、エルサレムから逃げるための合図となるのです。
そして、彼らはメシア御自身が現れるまで、諸国民の遠い場所に身を隠すのです。
「それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。」
(ヨハネの黙示録13章15節)
子羊のような獣が像に命を与えます。
そして、この獣の像がものを言うことさえもできるようにします。
また、その獣の像を拝まない者をみな殺させました。
この偉大な社会は、背教のユダヤ人と背教の異邦人によって形成されるのです。
それは、現在の労働組合や誓いに縛られた組織のようなものです。
このことは16節と17節にはっきりと述べられています。
「また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。」
(ヨハネの黙示録13章16、17節)
このような世的な結びつきや不平等なくびきから身を守ることは、今の時代のクリスチャンにはよいことなのです。
そして、私たちの主イエスは、その日についてユダヤ人たちに告げられています。
「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。
ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです」
(ヨハネの福音書5章43節)
また、この者のことはゼカリヤ書11章16節、17節の聖句と結びつけることができます。
彼がパレスチナの地に現れることに注目してください。
「見よ。わたしはひとりの牧者をこの地に起こすから。彼は迷い出たものを尋ねず、散らされたものを捜さず、傷ついたものをいやさず、飢えているものに食べ物を与えない。かえって肥えた獣の肉を食らい、そのひづめを裂く。
ああ。羊の群れを見捨てる、能なしの牧者。剣がその腕とその右の目を打ち、その腕はなえ、その右の目は視力が衰える。」」
(ゼカリヤ書11章16節、17節)
この偶像の羊飼いは良き羊飼いとは対照的です。
ゼカリヤが同じ章の前の箇所で表現していたように、この羊飼いは銀30枚で売られました。
「その日、それは破られた。そのとき、私を見守っていた羊の商人たちは、それが主のことばであったことを知った。
私は彼らに言った。「あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでないなら、やめなさい。」すると彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った。
主は私に仰せられた。「彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。」そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。」
(ゼカリヤ書11章10~13節)
預言のこの部分は文字通り実現しました。
残りの部分もすべて時が来れば実現すると確信しています。
この偶像の牧者を、ユダヤ人たちは今も待っているのです。
しかし、彼らはほとんどそれに気づきません。
公表された報告によると、最初の世界大戦の数年前、シオニスト会議でマックス・ノルダウは次のように宣言しました。
「私たちは、私たちを自分たちの土地に導き、繁栄の中で私たちを確立してくれるメシアは、どんな人でも歓迎する準備ができています。」
マックス・ノルダウはいわゆる改革派のユダヤ人で、聖書に述べられているメシア的な希望を捨てています。
しかし、つい最近、ヤッファのヘブライ大学のモシンソーン博士が、同じシオニスト運動のためにアメリカを旅行していた時のことです。
私はカリフォルニア大学で彼の講演を聞く機会に恵まれました。
講演の中で彼はこのように言いました。
「アジアから出てきた偉大な宗教指導者たちのことを考えてみてください。
モーセはアジアに現れました。
仏陀、孔子、イエス、マホメットはみな東洋で生まれたのです。
私たちは確信を持ってあなた方西洋の人々に言います。
もし、あなた方がユダヤ人を先祖代々の故郷に戻すのであれば、それまでのすべての人を超越した、一人の偉大な宗教的指導者をあなた方に与える日はそう遠くないと思います。」
一緒に行っていたクリスチャンの医師と私は驚いて顔を見合わせました。
私たちは反キリストが来ると宣言するバプテスマのヨハネの話を聞いているような気がして、さすがにその知らせには驚きました。
これは非常に近い未来に起こるべき預言的な言葉である光です。
このヘブル人の指導者の宣言は下記のような様子が読み取れ、疑う余地があります。
現在のパレスチナの地には故意的にこのような者が起こされるような不信仰な状態だということです。
この者は背教のユダヤ教にも、背教のキリスト教にも、等しく、来たるべきキリストとして認められる者です。
現代のすべてのカルト的な宗教と思想は、この恐ろしい結末に向かっています。
そして、聖霊の人格的な存在が地上から退けられたとき、その現れは長く続くことはありません。
私は、宗教改革者や様々な現代人が、教皇の座は私たちが考えてきた預言の成就であると考えてきたことを知っています。
私はこのことを不思議に思いません。
というのは、その邪悪な制度は、世界がこれまで見た中で最も驚くべき偽物の神の一つだからです。
使徒ヨハネが、まだ未来に来たるべき「反キリスト」について私たちに警告しているのは事実です。
彼は「多くの反キリスト」の一人であることは間違いありません。
しかし、この場合のすべての要件を満たしているわけではありません。
この偽りの教皇の預言解釈について、六つの事柄に注目していただきたいのです。
私は、教皇が預言された反キリストだと考えることができません。
最初に、反キリストはユダヤ人でなければなりません。
さもなければ、彼はイスラエルのメシアとして支配することはできません。
2番目に、彼はイタリアではなく、パレスチナの地に現れます。
ローマではなくエルサレムです。
3番目に、彼は市民権力に服従し、市民権力と手を組んでいます。
何世紀もの間、教皇は市民権力を支配していません。
4番目に、彼はユダヤ人の民衆から王であり、宗教的指導者であると認められます。
ユダヤ人が教皇の主張を受け入れたことがないことはよく知られています。
5番目に、ローマ教会がイスラエルを迫害してきたのに対して、彼はイスラエルの保護者になるのです。
6番目に、妨げとなっている聖霊が取り除かれるまでは、彼は現われません。
その時、主イエス・キリストがご自分の民を取り戻され、キリストが教会とともに引き上げられます。
神のことばも、神のキリストも、神の御霊も、神の教会も、ことごとく拒まれ、この神なき世界に、裁きの時が来る前に携挙が起きるのです。
ローマ教皇と同じ様な反キリスト教的な制度は他にもあります。
しかし、いずれも上記の要件を満たしていません。
ですから、誰も、まだ現われていない人格的反キリストと混同してはいけません。
また、「今は真理の愛を拒んでいますが、救われる可能性のある者たち」を欺いてはいけません。
しかし、多くの反キリストが受肉した悪のための道を準備しているのです。
人々が悪しき教えに熱心に酔いしれているのをみれば、偽のメシアの主張を受け入れることがいかに容易いものかを理解できると思います。
このような途方もない主張に、膨大な数の人々が応じることを嘲笑する人も現れると思っています。
私たちは彼らが神の真理を受け入れないので、神が報いとして「彼らを見放し」、「偽りを信じさせようとしている」ことを覚えておく必要があります。
原文ではこの嘘には定冠詞がついています。
つまり、反キリストのその偽りです。
「また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。」
テサロニケへの手紙第二2章10、11節
そして、現代(1930年)においては、メアリー・ベイカー・パターソン・グラバー・エディ夫人、エレン・G・ホワイト夫人、ブラヴァツキー夫人、アニー・ベサント、キャサリン・ティングリー、ジョン・アレクサンダー・「エリシャ」・ダウィ、その他のペテン師たちが、いとも簡単に人をだますことに成功しています。
ローマは言うまでもありませんが、神の言葉の単純な真実を拒否する膨大な人々の心と良心を奴隷にすることに成功しています。
そして、あなたをマークしています。
現在、聖霊が世におられます。
聖霊は、みことばによって教えられることを望んでいるすべての誠実な人を、真理に導くために待っておられるのです。
聖霊がこの世界からいなくなった時、この偽りを主張することは何と容易なこととなります。
しかし、その時が迫ってきています。
ゆえに、この章の最後の節に簡単に触れる必要があります。
皆様方の多くが私がこの聖句を詳しく解説し、その奥義的な数字が何を示しているのか教えて欲しいと願っていると思います。
「ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。
その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。」
(ヨハネの黙示録13章16、17節)
私が言えることは、6は人間の数であり、3は存在を示す数だということです。
ここにある三つの6の中に、私は人の心の中にある完全な現れを見ています。
それは人間が神性と神に到達するための人間の最後の努力です。
神の栄光を奪い、自分を高めようとするための努力です。
疑いもなく、実際に反キリストが現われ、最初の獣が現われると、その意味は明確になります。
その日に神に立ち返る者はみな、次のように警告されるのです。
「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。」
(エペソへの手紙5章11節)
しかし、その者たちは終わりが近づいたことを知っているので、ますます熱心に主にすがりつくのです。
666が何を意味するかについては、さまざまな推測がなされてきました。
私はこれ以上、追加することはありません。
最後に、私たちの時間はあっという間に過ぎ去っていくということを、もう一度申し上げておきます。
もし、あなたがたの中に救われていない者がいるなら、あわれみの日はすぐに過ぎ去ってしまうことを思い出すべきです。
福音の光はすでに地上から消えてゆきます。
暗黒の背教は急速な進展を遂げています。
やがて、主のことばを聞くための飢饉がやってきます。
ああ、今、この恵みの日に真理の聖書のあかしに耳を傾けるのです。
処女から生まれた神の子を救い主であり、主であるとして受け入れるのです。
やがて、反キリストのあらゆる偽りを退けなければ救いに至ることはない時代が来ます。
「地よ、地よ、地よ。主のことばを聞け。」
(エレミヤ書22章29節)
「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。」
(イザヤ書55章3節)
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
(ヨハネの福音書5章24節)
講義16 収穫とぶどう酒 14章
14章は、聖書の中で独立した章です。
六つの部分に分かれた一つの幻からなり、明らかに大きな混乱の終結と王国の到来に関係しています。
患難時代の後半を占める最終的な試練を詳細に描写する前に、まるで神がヨハネに、そして私たちに、終末における心強い見通しを与えているように見えます。
その幻の最初の部分は、シオン山の小羊の幻です。
ヨハネは私たちにこのように言っています。
「また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。
私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。
また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。
彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。
彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。
彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。
彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。」
(ヨハネの黙示録14章1~5節)
この聖句は美しい預言的な描写で、完全なものです。
これは、イスラエルの荒廃が終わった後に起こることです。
イエスが生き、そして、死に、よみがえられた地に栄光が現われ、イエスが帰られることを述べているのです。
まず第一に、シオンの山が地上にあることに注目してください。
この幻は、かつて彼を拒絶した町に小羊が戻ることを示しています。
聖書の読者が、聖書に書かれているさまざまな土地を霊的解釈をすることはごく普通に行われています。
彼らはエルサレム、シオンの山、イスラエルはすべて教会、あるいは天国そのものを意味するように解釈するのですが、聖書の中にそのような使われ方はありません。
神がイスラエルと言うのであれば、それはイスラエルのことです。
イエスがエルサレムについて語られるならば、神は、私たちに天、もしくは教会のどちらかであるという理解は存在していません。
シオンの山とは、ダビデが神のために最初に聖別したシオン山のことです。
今日に至るまで、パレスチナの国土、エルサレムで特別な場所となっています。
それは地上のある場所であって、天ではありません。
主イエス・キリストが来られて王国を建てるとき、イスラエルの残された民を集められる場所です。
このような解釈に対して、多くの人が反対して霊的解釈を教えています。
私はこの章の十四万四千人が7章の印がおされた十四万四千人と同じであることに疑問の余地はないからです。
前の章で、ヨハネは大患難が始まる前に彼らが封印されているのを見ました。
神は彼らを守ると誓っているのです。
彼らの敵がどんなに報復しようとも神は彼らに印を押されています。
そして、彼らを無事に導くことが約束されています。
さて、14章では、千年王国の時代の最初の収穫として、シオンの山の小羊の周りに、同じ仲間が集まっているのが見えます。
主は彼らに父の名を明らかにされています。
彼らの額にある生ける神の印こそ、祝福された証印なのです。
彼らは神を父として知り、神の保護と慈愛を喜びます。
天には、彼らとともに特別な方法で喜ぶ人たちがいます。
彼らは長老たちの代表者たちとは区別されています。
すでに見たように、彼らは祭司的な集まりであり、携挙で取り上げられた者たちです。
しかし、大患難時代が進むにつれて、信仰のために殉教するユダヤ人信者たちも、この天の群衆に加わることになります。
そして、ヨハネは次の言葉を聞きました。
「私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。
また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。
彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。
しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。」
(ヨハネの黙示録14章2、3節)
天の人々も地の人々も、同じ経験を少なからず経験することにあります。
両者が反応し、共鳴し合うのです。
新しい歌というのは、もちろん、他の場所と同様に、贖罪の歌です。
次に、シオンの山に汚れていない童貞の集まりが現れます。
その恐ろしい時代に至る所で広がっていた汚れから身を守ってきたことが述べられています。
彼らは小羊の行く所ならどこへでもついて行くことができる聖なる特権を持っています。
彼らは人々の中から贖われた者であり、神と小羊との初穂であると言われてます。
「彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。
彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。
彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。」
(ヨハネの黙示録14章4、5節)
私たちの主は現在の時代の初穂として描写されていますが、私たちは王国の時代の初穂を持つことになります。
主とともにある教会は「主の被造物の初穂」なのです。
詩篇32篇にある、「心に欺きのない」に与えられる祝福、つまり主がナタナエルに宣言された祝福は、この特別な集まりに与えられるものです。
「幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」
(詩篇32篇2編)
「イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」」
(ヨハネの福音書1章47節)
偽りのない人とは罪のない人ではありません。
隠し事のない人です。
神の御前ですべての罪が告白され、裁かれるならば、欺きはなくなります。
だから、この罪の意識がない集まりは、神の御座の前では何の欠点もない集まりと言われています。
自分の義によって現われているのではなく、今日、私たちの主イエス・キリストを信じる者がみな、その尊い血によって救われているからです。
二つ目の区分は、6節と7節に記されている永遠の福音についてです。
「また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。
彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」」
(ヨハネの黙示録14章6、7節)
この永遠の福音は、何世紀にもわたって宣べ伝えられてきた福音と区別されるべきではありません。
真実にあって、「永遠」と呼ばれること自体が、初めから宣べられている福音と全く同じものであることを示しています。
神は主権者であり、人の幸福は神の権威を認めることであることは、いつの時代にも良い知らせです。
このディスペンテーションにおいて、この祝福された事実に神の恵みの福音の完全な真理が加えられています。
御国の福音はこの同じ天からの知らせのもう一つの側面に過ぎません。
特にキリストの主であることが強調されています。
福音は一つしかありえません。
使徒は私たちにこのように語っています。
「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」
(ガラテア人への手紙1章8節)
しかし、その一つの福音には様々な側面があります。
ガラテヤ人への手紙の中でパウロは「割礼を受けた者への福音」と「割礼を受けない者への福音」について語っています。
同じ福音ですが、ユダヤ人には別の方法で、異邦人には別の方法で伝えられています。
「それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。」
(ガラテア人への手紙2章7節)
主がこの地上で仕えておられた時、バプテスマのヨハネも同じように、彼らは御国の福音を宣べ伝えました。
しかし、人々は王国を拒否しました。
王国は当分の間、中断状態です。
現在は教会時代です。
人の子は、王国を自分のものとするために遠くの国に行き、戻ってくる人に例えられます。
父によって言葉が与えられると、彼は王国を受け取り、王の王、主の主として宣言されるために下って来ます。
イエスは、このディスペンテーションの期間を通して、ユダヤ人からも異邦人からも、御名を信じるすべての者を選び出し、彼らを一つの体、すなわち教会として集めておられるのです。
教会が取り去られた後は、地上にクリスチャンは一人も残りません。
そのとき、神は再びユダヤ人の中で再び働き始めます。
地の果てにまで御国の福音を宣べ伝えるために、ユダヤを遣わされます。
最後に、キリストの来臨の直前にある福音の最後の側面があります。
罪を犯した国々は、ちりの中にひれ伏し、創造主に忠誠を促すことが最後の呼びかけとなります。
裁きの時に、神の被造物に対して、至る所であわれみが示されます。
このあわれみは長い間拒否され続けられました。
最後の一撃が来る前に、全能の方が主張するこの哀れみを受け取るように、世界中の人々に呼びかけが行われます。
しかし、少なくともこの章では何の応答も聞くことはありません。
聖書の他の箇所には多くの保証がなされています。
その日、それまで福音を聞いたことがなく、またそれを拒否していた多くの人たちがメッセージに心を開いて悔い改め、こうして王を歓迎するように導かれるということが示されています。
3番目の区分は8節です。
「また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。
「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」」
(ヨハネの黙示録14章8節)
バビロンについては17章と18章に詳しく述べられています。
昔のバビロンが偶像崇拝の源泉であったように、現在におけるキリスト教におけるすべての誤った宗教的教えの源泉はバビロンの秘儀主義です。
それ以外の詳細な説明は後の講義まで延期しなければなりません。
終わりの時には、バビロンは一つの大きな偽りの教会に導かれます。
この世の教会は、ふさわしくない、偽りの教会となり、粉々に砕かれ、完全に滅ぼされます。
現在、ロシアで起こっているように、人々が「ノー・ゴッド、ノー・チャーチ」と叫ぶ光景が世界中で見られるようになるに違いありません。
現在、多くの宗教指導者が、いわゆる「キリスト教国の再統一」に非常に熱心であることは知っています。
しかし、その復活は、真の信者たちが去った後に行われます。
カトリック教、ギリシャ教、プロテスタント、その他すべての宗派が一つに統合された、この世で知られている最も強力な宗教団体を形成します。
しかし、キリストのない教会の大きな連合にすぎません。
しばらくの間、この大きな組織がすべてを支配すると考えます。
しかし、最後には人々はこのように言うのです。
「こんな教会が何の役に立つんだ?
すべてを破壊して、きっぱりと終わらせたらどうですか?」
かつて、教会がフランスで破壊されたように、そして現在、ロシアで破壊されているように、世界中で破壊されるのです。
真実な改心がなく、聖霊の働きの場所がない宗教を始めると、すべてがすぐに崩壊することを、手遅れになる前に知るべきなのです。
私たちが生きている時代の変化にもかかわらず、信仰のある人たちがかつての力ある神の恵みである、真実な福音を宣べ伝える時、人々は進んで聞きに行くというのは、幸いなことに今でも真実なのです。
一般的に、救われていない男女でさえ、現代の偽りよりも、昔からある愛の贖いの話の方を尊重するものです。
人は聖書を信じない、キリストの血を信じない、復活を信じない場所に来るとこのように言うのです。
「教会を維持するためにお金を払うなんて、私には馬鹿げています。
山小屋か、居酒屋に払ったほうが価値がありますよ。
私は教会から得られるものよりも、山小屋か、居酒屋にから得られるものがたくさんあるね!」
神が唯一と信じる教会が経済的に成功したことがないことに気づいたことがありますか?
したがって、正統派の教会のある説教師が、もはや正統派を信じないと言い出したとしても、一般的に、その者はできる限り正統派の組織での地位にしがみつくことが多くあります。
パンも魚も、結局のところ、われわれのまわりでのさばっている異端の組織よりまともなものなのです。
ゆえに、私たちは教会がどのようになってゆくのかを理解することができます。
しばらくの間、バビロンがすべてを支配します。
諸国のかしらは教会のかしらとなります。
反キリストは宗教的な問題において驚くべき最高の存在になるのです。
しかし、バビロンが陥落した時には、とてつもない大混乱が起こります!
次の箇所では、第三の御使いのメッセージをお伝えします。
では、私たちは9節から13節を読んでみましょう。
「また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、
そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。
神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」
また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」」
(ヨハネの黙示録14章9~13節)
これは何て厳かな出来事なのでしょうか!
天からのメッセージは、まことの神から離れ、神の言葉を信じず、代わりに獣とその像を崇拝する者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲まなければならないと宣言しています。
セブンスデー・アドベンチストによってこの幻に与えた不条理な解釈を否定する必要はありません。
しかし、彼らは、第三の御使いのメッセージは安息日のメッセージであり、獣を礼拝し、その印を受けることは、週の最初の聖日を認識することであると教えています。
なんという精神なのでしょうか?
すでに、セブンスデー・アドベンチストは神が愛と恵みと、怒りの杯の区別ができなくなっており、道徳的な状態どころではありません。
怒りの杯を飲むことが、神の栄光を熱心に求めていることだと言うのです。
しかし、古くから守られている主の復活された聖日について考え違いをしていたとしても、このようなばかげた理論を唱えることは道徳的価値観を失っているからだと言えます。
ここで宣告された裁きは背教の運命です。
神が報復の裁きとして、救いの杯を拒否した者たちの唇に神の怒りの杯を注がれることを理解すれば、すべては完全に明らかになります。
また、11節に書かれているように、その裁きが終わるという証拠でもありません。
「そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。」
(ヨハネの黙示録14章11節)
さまざまな背信的な環境に立ち向かい、啓示された神の真理を堅く守ることは、非常に高い勇気が必要となります。
12節には次のように書かれています。
「神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」
(ヨハネの黙示録14章12節)
私たちが指摘してきたように、これらの改宗者はユダヤ教の信者であることと驚くほど一致しています。
彼らは旧約聖書で知らされている神の戒めを守り、しかも新約聖書で宣言されているイエスの信仰を守る者なのです。
しかし、彼らはキリストのからだの一部ではありません。
現在のディスペンテーションの栄光は彼らのものではありません。
しかし、最後に、彼らはイエスが恵みを受けて来られた時にはイスラエル民族から退けられた、約束のメシアであることを知ります。
しかし、メシアは強大な力を持って再びやって来ます。
その結果、彼らは悔い改めのために実を結び、敬虔で信仰を持った生活を送り、自分たちの国が拒絶した方に栄光を帰そうとするのです。
「また私は、天からこう言っている声を聞いた。
「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。
「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」」
(ヨハネの黙示録14章13節)
そして、13節の非常に印象的な言葉にたどり着きました。
「また(後に)」という小さな言葉に注目してください。
この詩が現在のディスペンテーションで教会の告別式で使われているのを、あなたはよく耳にしていると思います。
そうように使われても不思議ではないし、それは感謝すべきことです。
しかし、その完全な適用は、来たるべき日のことを示しています。
天からの声がこのように語っています。
「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。
「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」」
(ヨハネの黙示録14章13節)
重要なのは、私が思うことは次のことである。
大患難の最も暗い部分はまだ彼らの前にあることです。
裁きで重たくなった雨雲は、いつ壊れてもおかしくありません。
しかし、その直後に王国が建てられることになっています。
試練を乗り越えた者だけが、地上の御王国に入るのです。
患難時代の途中で死んだ人は、天で役割を果たすことになり、特別な祝福を受けることになります。
つまり、その時点からは、生きるよりも死ぬ方が本当は良いということになります。
彼らは地上の労苦から解放されたのです。
また、地上の患難から離されました。
そして、彼らは天で主と共にいるのです。
そこは地上の王国の最も優れた場所よりも良い場所で、栄光に満ちた所です。
そして今、そして今、救われているのか?救われていないかにかかわらず、ここで聞いておられる方々に質問をさせてください。
あなたもすぐにこの地上から離れなければなりません。
あなたにはどのような働きが待っているのでしょうか?
もし救われているなら、あなたは主のために何をしてきたのでしょうか?
もし救われていないなら、どうか思い出してほしいのです。
あなたの罪があなたの後を追いかけてきます。
あなたが忘れようとしてきた罪です。
逃げようとしてきた罪です。
愚かにも自分の努力で償うことができると考えていた罪が追いかけてきます。
そして、最後にあなたは白い御座の前で哀れで、裸で、みずぼらしい姿をさらします。
あなたはそこで、自分の罪、すべてを見ることになります。
そして、これらは現実の地獄の番犬のようにあなたにまとわりつき、あなたを火の湖に引きずり下ろすのです。
私はあなた方に懇願します。
この厳粛な真実から目を背けないでください。
キリストの血だけが主イエスを信じる者として、これらすべての罪からあなたを洗い流すことができるのです。
あなた方がこの場面においてキリストのために生きるのであれば、あなたがたの働きはあなたがたを追いかけ天まで昇ってゆきます。
キリストのために行なわれたことはみな、永遠に残るからです。
幻の5番目の箇所は収穫に関するものです。
14節から16節に記録されているように、最も厳粛なものです。
「また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。
すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」
そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。」
(ヨハネの黙示録14章14~16節)
あなたがたは、私たちの主イエスが刈り入れについて語られたことを思い出すはずです。
「だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。
収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。
麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
(マタイの福音書13章30節)
これは終わりの時代のことです。
悪人が正しい人から分けられる時であり、主が麦をご自分の穀物倉に集められる時であると宣言されました。
しかし、もみ殻を消すことのできない火で燃やし尽くされます。
これはあなたがここに持っているものです。
これは致命的な裁きです。
地は刈り取られます。
神のすべてのものは、人の子が自分のものと主張します
逆らう者はすべて裁きに委ねられることになります。
注意してみてください。
雲の上に座し、刈り入れを命じるのは人の子です。
すべてのさばきは御子にゆだねられます。
かつてカルバリの十字架にかけられ祝福された方が、さばきを行うために来られるのです。
これはマタイの福音書25章にある裁きと本質的に同じです。
これは千年王国の前に行われ、偉大な白い王座の裁きのように、千年王国の後のことではありません。
イエスは、ご自分を十字架につけた世に戻って来られるのです。
そして、ご自分の王国のために、あらゆる国から麦を集められるのです。
彼らは主のメッセージを聞き、主のメッセンジャーを世話した者たちです。
しかし、イエスの福音を聞いて、拒んだ者はみな、さばきを渡されます。
幻の最後の部分は、ぶどう酒の醸造が描かれています。
これは収穫とは異なっています。
ここで見てきたようにこの収穫は区別でした。
しかし、ぶどう酒の醸造は容赦ない裁きです。
「また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。
すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」
そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。
その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。」
(ヨハネの黙示録14章17~20節)
まさにぶどう酒の醸造です。
地のぶどうの木、このぶどうの木は背教したイスラエルです。
私たちは、旧約聖書でぶどうの木がイスラエルについて使われている描写をよく知っています。
イザヤはこの描写を使っています。
「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。
彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。」
(イザヤ書5章1、2節)
ホセアはこのように主の言葉を聞きました。
「イスラエルは多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木であった。」
(ホセア書10章1節)
同じ描写が詩篇80篇と81篇に使われています。
「あなたは、エジプトから、ぶどうの木を携え出し、国々を追い出して、それを植えられました。
あなたがそのために、地を切り開かれたので、ぶどうの木は深く根を張り、地にはびこりました。」
(詩篇80篇8、9節)
主が地上におられた時このように言われました。
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」
(ヨハネの福音書15章1節)
イエスはイスラエルでただ一人、良い実を結んだ存在でした。
そして、御言葉を受け入れた者はみな、生きたぶどうの木の枝となります。
やがて、パレスチナにブドウの木が再び植えられます。
私たちはさらに踏み込んで、「ぶどうの木はパレスチナにもう一度植え替えられる」と言ってもいいかもしれません。
ユダヤ人は自分たちの土地に帰ります。
聖書が私たちの目の前で成就されているように、それは人の魂を揺さぶります。
彼らは自分のブドウ畑に植え替えられています。
では、何のために植え替えられるのでしょうか?
それは神の怒りのぶどう酒の醸造のためです。
残された者は集められます。
そして、主に分けられます。
しかし、ヤコブの苦難の時に、残された者にはさばきが及ぶことはありません。
肉なるイスラエル、地のぶどうの木は、神のために実を結ぶことはできません。
しかし、大きな苦難の日には、地のぶどうの房は、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ込まれます。
私たちに語られているのは、酒ぶねは都の外で踏みつけられ、血はその酒ぶねから出て、馬の手綱にまで及び、その距離は千六百スタディオンにも及びます。
これは現実のパレスチナの国土の長さだと言われています。
その絵は、馬のくつわまで血にまみれた全地の描写です。
これは現実のことなのでしょうか?
主よ、こんなに長いのですか?
感謝することに明るい未来が待っています。
イスラエルにとって、そして全地球にとって最善の日は、怒りと大虐殺の恐ろしい光景の向こうにあります。
かつて、平和の君主がイスラエルを救うために恵みをもって来られました。
ユダヤ人たちは、平和の君主を拒むことによって、さばきを自分たちの頭に下したことを忘れてはなりません。
ピラトの裁きの場で彼らはこのように叫きました。
「すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」」
(マタイの福音書27章25節)
義なる神によって、何世紀にもわたって証言されてきました。
この恐ろしい呪いがこんなにも恐ろしく答えられるのです。
この章に描かれている終わりの光景は、さらに恐ろしい成就が未来に起きることを示しています。
インマヌエルの地は、ひとたびキリストの尊い血で汚されると、キリストを信じない者たちの血潮で赤くなるのです。
彼らは聖書に書かれていることが、自分たちの目の前で驚くべきことに成就するその日が来るのです。
そして、その時でさえ、キリストを拒否して、反キリストの邪悪な主張を受け入れるのです。
かつて、イスラエルはキリストと呼ばれているイエスの代わりにバラバを選びました。
彼らは最後の最後までその心を変えることなく、神の子よりも「滅びの子」を選び、自分たちをたちまち破滅に導くのです。
講義17 神の怒りの杯 15章、16章
今回の私の目的は、15章と16章を簡単に検討することです。
この個所は一つの関連した幻を形成しています。
また、これらの講演で大きく占めてきた裁きの執行の最後の場面が描かれているからです。
本来、黙示録は裁きの書であることを忘れてはいけません。
恐ろしい場面ばかりで非常に悲観的に見えるかもしれないが、最後にはすべてが明るいのです。
この書は、新しい天と新しい地が来るまで閉じられることはありません。
その地には、義がとこしえまでも住むのです。
ですから、私はあなた方の前に、預言的に地に対する神の裁きの描写が次々と描かれていますが、別に謝罪する必要はないのです。
黙示録がわたしたちに下されたのは、わたしたちに対する慰めのためです。
この邪悪な世界の先にあるものを避けるためです。
また間もなく裁かれようとしているすべての背教を避けるように私たちが戒められるためなのです。
16章に描かれている神の怒りの7つの鉢は、大患難時代の後半の裁きに含まれています。
終末が近づくにつれ、これらの裁きが強烈な特徴を持つことになることを示しています。
私は聖書で定義されていないことを積極的に話すのは好きではありません。
しかし、この連続した出来事は7年間の後半の終わりの非常に短い期間を対象としているように思えます。
ここでは、大患難時代の最後に獣の国と反キリストの特別な支配の領域に下る裁きが示されています。
前回の講演で、私たちは、シオンの山に立っている十四万四千人のイスラエル人が非常に目立つ、謙虚な方法で応じたのを見ています。
彼らは天にある特定の聖徒の集まりがあることに注意してください。
15章で場面が変わります。
預言者は天で起こっていることを見ています。
するとすぐに、この者たちが彼の幻の中に現れます。
「また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。
私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。
彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。」
(ヨハネの黙示録15章1~3節)
ガラスの海のほとりに立っている、神の立琴を手にしているこの贖われた集まりは、現在のディスペンテーションの教会と同じ集まりと見なすべきではありません。
彼らは神のしもべモーセの歌と小羊の歌を歌うと言われています。
明らかにイスラエル人です。
彼らはイスラエルの敵に対するヤハウェの勝利を祝うモーセの歌と、贖罪の歌である小羊の歌を歌っています。
彼らは、患難時代に大きな背教の勢力のしもべたちに殺された者たちです。
この時代に、死者の中からよみがえらせられ、天に引き上げられた者たちです。
おそらく、彼らは11章の二人の証人と同じ者だと考えますが、ここで強調することではありません。
しかし、彼らは少なくとも二人の証人と同じように、地上で忠実な証人であり、その証人として処刑されています。
彼らは死者の中からよみがえり、神とその御座に引き上げられたと考えています。
彼らは、長老たちのように、その手に神の立琴を持ち、神に仕えるしもべです。
彼らはガラスの海のほとりに立っていると書かれており、この海は火と混ざっていると表現されています。
前の講演で指摘したように、ガラスの海は、ソロモンの宮にある青銅の海、幕屋の庭にある青銅の洗盤と一致しています。
これは神の言葉の型であり、宮での清めに必要なものです。
天には、ガラスのように透き通った海があります。
そこには栄光に満ちた聖徒たちが立って永遠に清くされた方を賛美しています。
その方は自分自身のために彼らを贖ったのです、
また、ガラスに火が混ざっているように見えます。
それは殉教者たちが通ってきた激しい試練のゆえです。
3節の終わりにある「もろもろの民の王」という表現があります。
より良い写本は「国々」と書かれているが、「世代」とも書かれているものがあります。
主は「もろもろの民の王」である。
もしくは「その世代の支配者」です。
「主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。
ただあなただけが、聖なる方です。
すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。
あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」
(ヨハネの黙示録15章4節)
神の救いの力の栄光ある証人たちは、神の公正と真理をほめたたえています。
神の道の正しさと神の人の聖さを認め、神を敬っています。
ゆえに、すべての国々は、神の裁きが現れた日に、神の御前に来て、仕えるのです。
注意して見てください。
神からの恵みは、諸国の民に神の権威を認めさせ神を礼拝の強制させることではありません。
イザヤ書にはこのように書かれています。
「あなたのさばきが地に行なわれるとき、世界の住民は義を学んだからです。」
(イザヤ書26章9節)
聖書にはこのディスペンテーションにおいて、福音を宣べ伝えた結果の世の改心を教えていません。
世はやがて改心します。
しかし、それは不信者たちがさばきによって清められた後です。
御国に残された民たちが天の神に栄光をささげた後のことです。
5節にこの驚くべき書の別のオープニングを見ることができます。
「その後、また私は見た。天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた。」
(ヨハネの黙示録15章5節)
ここであかしの幕屋が言及されています。
これはイスラエルが再び私たちの前に現れ、これらのさばきは、神の古代の民イスラエルとの契約を成就するためのものであり、イスラエルを弾圧した国々を罰する必要があることを思い起こさせます。
「その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。
すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。
地のすべての国々は、それに向かって集まって来よう。」
(ゼカリヤ書12章3節)
イスラエルに対して憎しみを表明した異邦の民は、神の怒りを免れることができません。
ゆえに、ヨハネは天にあるあかしの幕屋の神殿が開いたと言っているのです。
「そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。
また、四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使いに渡した。
聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその聖所に、はいることができなかった。」
(ヨハネの黙示録15章6~8節)
七人の御使いは神の怒りを完成させるためのものです。
彼らは、異邦人に対する裁きのために、主の最後の訪れの時を紹介し、締めくくっています。
その時、聖書に書かれている多くの報いの預言が成就します。
使徒パウロはこのように言っています。
「つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、
苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。」
(テサロニケへの手紙第二1章6、7節)
このように教会時代の聖徒たちに書いているのであれば、イスラエルにはなおさらのことです。
多くの人たちが、祈りの詩篇と呼ばれるものに悩んできました。
ダビデが敵に向かって神の裁きを下した時も、すべての敵の打倒と破滅のためのイスラエルの祈りも、同様なことが行われたことも理解できません。
しかし、神の義なる政治の中では神の民をしいたげ、滅ぼそうとした国々は、神の激しい怒りに襲われなければなりません。
ジョセフ・クックは、ある時、ある紳士が福音の牧師と話をしていて、祈りの詩篇に反対していたことを語っています。
なぜなら、彼には祈りの詩篇がキリスト教の精神とは反しているように思えたからです。
南北戦争が始まったばかりの頃です。
彼らが話していると新聞が運ばれてきて、牧師が「政府軍がリッチモンドに進軍中」という記事を読みました。
「よかった」と叫ぶと、もう一人が「やつらがそれを破壊してくれるといいんだが」と応答しました。
「これだ!これが祈りの詩篇」だと説教者は答えました。
義の勝利と不義の打倒を望むことは重要なことなのです。
それは完全に神の御心にかなっているということです。
神の栄光がかかっているのです
神の義は、今の世であっても、後の世にあっても、不義の報いを必要としています。
主は不義に対して、このように対処されることについて謝罪することはありません。
主のしもべたちも主のために謝罪する必要はありません。
8節は、7人の御使いたちが恐ろしい使命を果たすために出てこようとしています。
天においては、そのことが非常に激しいものになることが示されています。
神殿は、神の栄光と神の力からの煙で満たされているように見えます。
人間は、贖われているにもかかわらず、何もせずに立っていて、畏敬の念を抱き、事態の進展を待っているように描かれています。
すると、神殿から大きな声が聞こえてきて、七人の御使いたちにこのように言いました。
「また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」」
(ヨハネの黙示録16章1節)
七つのラッパ、そして七つの封印は同様に、七つの裁きの一連の流れを見るならば、私たちがどこまでを象徴的なものとしてとらえ、どこまでを文字通りのものとしてとらえればよいのか、私は断言することはできません。
ヨハネの黙示録が象徴の書物であることは知っていますが、私たちが考えているよりもはるかに多くのことが文字通りに書かれているかもしれません。
文字通りの解釈は象徴的なものと密接に関係しているかもしれません。
この章を注意深く読んでいくのであれば、地上にもたらされた怒りの鉢が、イスラエルの解放に先立ってエジプトに降った災害と密接に関係していることに気が付くはずです。
神はこの終わりの時代に、再びイスラエルの民を救おうとされています。
これらの鉢から注ぎ落ちる裁きは、ファラオの王国に訪れた災難を描写しています。
しかし、上に述べたように、記述はおそらく文字通りではなく象徴的に取るべきだと考えます。
もしくは、文字通り、象徴的な解釈が共に成立するかもしれません。
2章にはこのように書かれています。
「そこで、第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。
すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。」
(ヨハネの黙示録16章2節)
これはエジプトでの災いの答えと同じであり、神は人や獣に腫れ物と痛みを与えました。
おそらく、霊的な疫病を象徴しているのかも知れません。
獣の印を受け、その像を拝む者たちは、人間の体に激しい痛みを伴う肉体的な苦痛のような大きな不快感を覚えることかも知れません。
この疫病は地上に広まっていることに注意してください。8章の最初のトランペットに答えがあります。
しかし、この疫病の範囲は同じであっても、裁きがより激しいことは明らかです。
しかし、再び、その激しさは増してゆきます。
3節にはこのように書かれています。
「第二の御使いが鉢を海にぶちまけた。すると、海は死者の血のような血になった。海の中のいのちのあるものは、みな死んだ。」
(ヨハネの黙示録16章3節)
恐ろしい死と荒廃の光景です。
これが物理的なものと考えるか、霊的なものと考えるか、あるいはその両方かも知れません。
箴言にはこのようにあります。
「わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。」」
(箴言8章36節)
このように、キリスト・イエスにあるいのちを拒む者には、死が割り当てられます。
第三の御使いのラッパは、川や水の泉に裁きを加えます、
4節にはこのように書かれています。
「第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。」
(ヨハネの黙示録16章4節)
生命の源そのものが滅ぼされました。
エジプトが疫病で覆われた時、川は地になります。
5節から7節では、神のしもべを虐殺した者たちを扱う神の義が完全に証明されています。
「また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。「常にいまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。
彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは、その血を彼らに飲ませました。彼らは、そうされるにふさわしい者たちです。」
また私は、祭壇がこう言うのを聞いた。「しかり。主よ。万物の支配者である神よ。あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」」
(ヨハネの黙示録16章5~7節)
必ず、心の清い者は「アーメン」と唱えるはずです。
本当に神は、恵み、さばきにおいても、そのすべての道において義であられます。
「第四の御使いが鉢を太陽に向けてぶちまけた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。
こうして、人々は激しい炎熱によって焼かれた。
しかも、彼らは、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった。」
(ヨハネの黙示録16章8、9節)
第四の御使いの鉢が太陽に向けて注ぎ出されました。
第四のラッパが吹き鳴らされたとき、かつて太陽の三分の一が光を失いました。
しかし、このさばきの中には、ラッパの中よりも激しいものがあります。
今度は逆に、人々を火で焼く力が彼に与えられたのです。
そして、人々は激しい熱に焼かれ、これらの災害に全能である神の名を冒涜し、悔い改めて神をあがめることをしなかったのです。
太陽は最高の光源です。
これが人間の慰めになるはずのものが、代わりに呪いとなり、苦い苦しみの手段となることを意味しています。
しかし、彼らの苦痛が非常に大きいにもかかわらず、人は刑罰によって悔い改めることはありません。
神の御名は冒涜され、この被造物たちは神に栄光を捧げることを拒むのです。
彼らにとって、これらの刑罰は単なる懲らしめです。
しかし、常に教訓的なものであると教える人々にとって、これは厳粛な意味を持ちます。
次の箇所では、このことが驚くべき方法を通じて強調されてゆきます。
「第五の御使いが鉢を獣の座にぶちまけた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。
そして、その苦しみと、はれものとのゆえに、天の神に対してけがしごとを言い、自分の行ないを悔い改めようとしなかった。」
(ヨハネの黙示録16章10、11節)
第五の御使いが獣の座の上で鉢をすべてぶちまけるのです。
最後の偉大な連合を中から打ち破り、獣の王国を暗闇で満たされました、
暗闇や苦悩によっては、人の心を和らげたり、罪を告白させることはできません。
その苦しみそのものが、ますます神を冒涜するように彼らを駆り立てるのです。
そして、失われた永遠の外の暗闇の中で、私たちの主は、耐えてきた苦しみのために泣いたり、嘆いたりするだけではないと言われました。
しかし、神に対する怒りと憤りを意味する歯ぎしりがあるのです。
永遠のキリストを拒む人格を持つ者は永遠の罪を犯しており、永遠の刑罰が必然的に伴います。
第五の御使いのラッパが吹かれた時に、私たちに語られています。
「その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。」
(ヨハネの黙示録9章2節)
第五の御使いの怒りの鉢が獣の座に注がれたとき、獣の王国を満たす暗闇はこれで説明ができます。
悪魔のような妄想がもたらす司法の闇だと考えます。
今、私たちは過去数年間の血なまぐさい戦争の中で人々の前にあった出来事を見ています。
この世界大戦が聖書で預言されたハルマゲドン紛争なのかどうかという問題が何度も繰り返して持ち上がっています。
御言葉を支持する教師たちは、心配する質問者たちにこのように断言しています。
言ってみれば、この戦争はハルマゲドンのための舞台を整えているかもしれないが、それは黙示録の患難時代の争いそれ自体ではあり得ません。
ハルマゲドンはパレスチナにある明確な場所です。
この言葉は「メギドの山」を意味し、ナポレオン・ボナパルトが世界中の軍隊にとって理想的な戦場になると言ったパレスチナの地の北部にあるイズレエルの大平原、エスドラエロンの谷を見下ろす山を指しています。
そこでは、主が栄光のうちに現れる直前に、最後の大きな戦いが行われます。
そして、第六の御使いの鉢が導入されます。
「第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。
また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。
彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。
――見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。――
こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。」
(ヨハネの黙示録16章12~16節)
大河ユーフラテスは、以前はローマ帝国の東の境界であり、後にはトルコ領となっています。
そして、その力の破壊を物語っていると考えます。
ルターは「トルコ人がヨーロッパから追放されるとき、裁きの日が来る」と言いました。
ある意味では、これは疑いなく真実であり、邪悪な死者のための裁きの日のことではありません。
存在している国々にとっての裁きの日でした。
トルコ人はヨーロッパへの侵入者であり、神と人の両方の敵です。
しかし、私はのコンスタンティノープルとその周辺国への支配はすでにほとんど終わったと確信しています。
神はオスマン帝国をヨーロッパから追い出しました。
このようなことが起きてから、オスマン帝国は崩壊しアンゴラ共和国が取って代わりました。
このように、神は「言葉にできないトルコ(The unspeakable Turk)」の名を持つ国を罰したのです。
訳者注)「言葉にできないトルコ(The unspeakable Turk)」とは、「パンチ」付録、1914年12月16日発刊、雑誌「パンチ」の付録にある風刺画集のことです。
このような大惨事をもたらした国家は崩壊しました。
殉国したアルメニア、そしてアジアの大群におびえ苦しんできた他の民族の叫びは、このように答えられたのです。
神がすでに次の事を実現させ始めていることは明らかだと思います。
100年前のヨーロッパの地図を持っていたら、トルコ帝国が所有していた場所を見てください。
現在の地図と比較して、トルコ帝国からどれだけの領土が奪われたかに注目してください。
「ヨーロッパの病人」として知られたトルコの病状はますます悪化しています。
しかし、ヨーロッパの片隅に絶望を抱えてしがみついています。
私はそう遠くないうちにトルコは完全に追い出されるだろうと確信しています。
訳者注)トルコ帝国は、1922年のトルコ革命によって滅亡しています。
翌1923年に、オスマン帝国の権力者としてスルタンの称号を廃し、トルコ共和国が建国されました。
ダニエル書にはこのように書かれています。
「彼は、海と聖なる麗しい山との間に、本営の天幕を張る。しかし、ついに彼の終わりが来て、彼を助ける者はひとりもない。」
(ダニエル書11章45節)
トルコは小アジアに追い込まれ、最終的にパレスチナの地で地位を確立しようとすると私は考えます。
このことは、10か国同盟のヨーロッパ諸勢力を刺激するだけでなく、東や北の国々をも刺激するはずです。
私が預言的な計画を正しく理解しているのなら、トルコは最後の日にロシアと、おそらくドイツによっても、西洋連合に反対して支援されます。
これらの大国は、いわゆる中東問題の鍵であるパレスチナの土地を保持することを切望するはずです。
訳者注)2024年現在、世界状況がどのように進展してきたかに注目してください。
上記の事柄とは正確な一致とは言えませんが、1930年当時、存在していないイスラエルとトルコが存在し、戦争をしています。
イスラエルを攻めると預言されている、ロシアとウクライナ(ゴグ、マゴク)は戦争中です。
また、当時存在していなかったヨーロッパの共同体が存在しています。
これらがそのままの状態で患難時代に突入するのかは不明ですが、明らかにその日が近づいていることがわかるはずです。
しかし、これらのヨーロッパ諸国の活動は、東洋の民族を奮い立たせるはずです。
というのは、ユーフラテス川が干上がり「日の出るほうから来る王たちに道を備える」と言われるからです。
日の出るほうから来る王たちとは誰のことでしょうか?
様々な説が唱えられています。
彼らは、自分たちの土地に戻って来るのです。
いわゆるイスラエルの失われた10部族ではないかと考える人もいます。
他には、ペルシャ、アフガニスタンなどの統治国だと言う説もあります。
「日の出るほう」という言葉は重要です。
千年もの間、日本が「日出ずる国」として知られてきたのは、単なる偶然なのでしょうか?
訳者注)1930年、第二次世界大戦前の記述です。
インドと同盟を結んでいたモンゴル民族が、ここでは西洋の勢力と対立するように描かれています。
これこそが東の王ではないでしょうか?
なんであれ、全世界は血なまぐさい戦いに巻き込まれます。
そして、すべての国はエルサレムに向かって戦うために集められます。
この大きな世界戦争は、悪霊たちの働きの直接の結果です。
三つのかえるのような汚れた霊どもが竜、獣、偽預言者の口から出てきたからです。
悪霊たちは奇跡を行い、地上の王国、すなわち、預言された国に向かいます。
全能の神の大いなる日の戦いのために、サタンは全世界の民を召集するのです。
これは偉大で最後のハルマゲドン戦争となるのです、
ここは、これらの国々が最終的な問題を解決するためにお互いに出会う場所なのです。
15節に書かれていることに注意してください。
これは、この章の終わり近く、七番目の鉢の前に書かれていることです。
主ご自身の声でこのように述べられています。
「――見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。――」
(ヨハネの黙示録16章15節)
神の現われの時はそこまで来ているのです。
また、主の現われを待ち望んでいる者には衣服を汚さないように見張りをするように警告されています。。
彼らが不敬な者たちの前で恥を見ないためです。
汚れのない者とは、終わりの日のサタンの活動との一切の交わりから自分を守る者です。
そして、神の御言葉によって導かれ、はびこる不義から聖なる分離をもって神とともに歩む者たちのことです。
その声は、現在の私たちのためであり、未来の日の聖徒たちのためなのです。
第七の御使いの鉢が空中に注がれると、私たちはこのように語るのです。
「第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した。」と言った。
すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。
また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。
島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。
また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。」
(ヨハネの黙示録16章17~21節)
このことは、人間が神とは別に築いてきたあらゆる霊的、宗教的な制度の完全な崩壊を示しています。
また、これは文明の完全な崩壊であり、主イエス・キリストを拒否しながら、この世界に住みやすい状況を作ろうとする、すべての人の希望を完全に破壊するものです。
この場面は無政府状態で混乱しています、
しかし、神の怒りのしるしが人々の魂に降りかかっているにもかかわらず、彼らはまだ神を冒涜し、悔い改める様子を見せていません。
偉大なバビロンの裁きを取り上げることはこの次の講演で行います。
最後に、これらの光景が地上で起こる前に、神の教会が取り去られたことを思い出してください。
私たちは、主イエス・キリストを待ち望んでいます。
この方こそ、来たるべき御怒りから私たちを救い出すことのできる救い主なのです。
イエスを知っているでしょうか?
もしそうでなければ、私たちの語ってきたことに光を当ててください。
そして、私はあなた方にこの裁きからのがれることを心からお勧めします。
「だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。」
(マタイの福音書3章7節)
講義18 バビロン:その特徴と運命 17章
今夜、私はあるテーマについて皆さんにお話しすることになっています。
このテーマについて何度も話していますが、より私は驚き続けているのです。
それは、最終的な不正の奥義の形であり、すなわち偉大なバビロン王についてです。
それはキリスト教のような側面を持った巨大な偽りの組織です。
そして、フェネロン、パスカル、フェイバー、その他の何千人もの明らかに霊的な考えを持った人々が、この組織とキリスト教と区別することできなくなりました。
しかし、その組織は神のことばによって試みることができます。
その実体は神が御子の血をもって買い取られた教会の偽物にすぎないことがわかります。
すでに二度、この本を書いている間に私たちはバビロンの陥落について聞き、語って来ました。
しかし、それがどの都市のことで、どのような組織のことなのかはまだわかっていません。
今、私たちの前にある章は、この興味深く厳粛な問題に焦点が当てられています。
ここで明らかにされていることを注意深く研究すれば、バビロンが誰であるかについての疑問や迷いから解放されると思います。
この章とそれに続く章は、本書にあるもう一つの大きな介入箇所です。
時系列的には16章のあとに19章が来ることになります・
しかし、出来事の直接、順序で進む前に真実な教会と栄光の中の小羊との結びつきを見るまえにヨハネは、この偽りの教会の驚くべき幻を見るために、本筋から離れて行きます。
1節から6節までに記されている使徒自身の言葉に注意してください。
「また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。
地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」
それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。
この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。
その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。
そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見たとき、非常に驚いた。」
(ヨハネの黙示録17章1~6節)
この少し長い部分を全文引用したのは、私たちが完全な記述を目の前にできるようにするためです。
この獣は疑いなく13章の獣と同じであり、したがって紛れもなくローマ帝国なのです。
これは全体としては帝国です。
しかし、特に最後の段階が強調されているのに注意してください。
この女は宗教的な組織であり、少なくとも一時的には市民権力を支配しています。
この女の額の名前を見れば、簡単にこの女だと認識できます。
そして、理解を深めるために、旧約聖書に戻って、文字通りのバビロンについて何が啓示されているかを見ることが必要です。
なぜなら、旧約が新約に光を投げかけるからです。
また、私たちはこのことについての、いくつかの非常に重要な事実を私たちに与えています。
旧約聖書の文字通りのバビロンは、黙示録の霊的バビロンへ継承され、多くの光を投げかけています。
そして、世界史を学ぶのならば、歴史は私たちに説明を付け加えているからです。
聖書とともに薄暗い歴史に立ち返ると、バベルすなわちバビロンの創始者はニムロデです。
その不敬な功績について創世記10章で読むことができます。
ニムロデは家父長時代の最高の背教者だった。
彼は「主のおかげで、力ある猟師」、「人の魂の狩人」と表現されるとラビたちは言っています。
ニムロデは、主の前から出て行き、不敬にも自分の周りに群衆を集めようとし、地上に広がれという神の明白な命令に逆らいました。
彼は仲間と信者を説得して、一緒に「天国に届くような都市と塔を建てる」ことに参加させました。
子供時代に私は「次の洪水から逃れるために空に登るための塔」だと学びました。
それは違います。
ただ、主のことばに聞き従わない者たちのために宮や集会の中心として認識されるために、高くそびえ立っている名の塔が必要となりました。
まさに、現代の背教者たちの軽薄さと同じような行動です。
彼らは自分たちの町と塔を「バブ・エル」、「神の門」と呼びました。
しかし、それはすぐに神の裁きによって「バベル」、つまり「混乱」に変更されました。
バベルには、当時にはない非現実性な知恵を持った人たちがいました。
「彼らは互いに言った。
「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青(アスファルト)を用いた。」
(創世記10章3節)
本物、そして真実なものの模倣は、いつの時代にもバビロンの特徴となります。
「ニムロデ」、もしくは「ニムルード - バル - クシュ」は人類の記憶ではそのように呼ばれています。
しかし、彼はハムの孫でした。
ハムはノアにふさわしくない息子であり、その性格は父の恥をさらけ出したことからも明らかです。
私たちは、ノアが洪水を通して、まことの神の啓示を持って来たことを知っています。
彼は義の伝道者です。
ノアの発言から見て、彼が預言的な賜物を持っていたことが何度も示されています。
反対にハムは、洪水がもたらした背教の影響をまともに受けたようです。
というのは、彼は自分の判断を示すことが出来ずに、反抗したのです。
彼の名前はエジプトの記念碑に「ケム(Khem)」と記されています。
これは聖書の中で「ハム(Ham)」と書かれているヘブライ語の発音と一致しています。
その意味は「薄黒い」、「黒ずんだ」、より文字通りには「日に焼けた」を意味しています。
まさに、その名前はその人の魂の状態を表しています。
「日に焼けた」人の人格とは何でしょうか?
天からの光によって暗くなった者を意味しています。
ハムはすばらしい哀れみを受け、父の信仰のゆえに大洪水から救われました。
しかし、彼は特権を乱用し「私たちの神の恵みを放縦に変えて」しまったのです。
神がハムの魂を燃えるような光によって照らされました。
しかし、実際に暗くなったです。
このように、彼の良心は熱した鉄のように焼き焦がされてしまったのです。
ハムは生ける神から離れ、偶像崇拝への道を導き、創造主よりも被造物を礼拝しました。
そして、ハムは偶像に仕える民族の創始者となったのです。
これが何を意味するのか、ある程度はわかっています。
今日、私たちはいわゆる福音に対して固くなってしまった人々について話しているのです。
彼らも光によって暗くされています。
そして、しばしば背教の首謀者になっています。
「それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」
(マタイの福音書6章23節)
かつて、彼らはキリストの十字架の中で明らかにされた神のこの上ない恵みを目に涙を浮かべて聞いていました。
しかし、今では、この話が決して語られることはなく、心さえ動かされない人たちが大勢いるのです。
彼らは自分の罪の中でかたくなになり、彼らの焼きついた良心はもはや霊の息さえも感じません。
天の光を軽んじるのは最も危険なことです。
私たちの私たちのテーマに戻りましょう。
ハムは光によって暗くなったのです。
私たちはハムの失敗と罪を知っている。
ノアは自分を取り戻し、息子が自分にしたことを知りました。
ノアは、預言の霊によって、ハムではなくカナンにのろいを宣告しました。
あなたがたはそれを不思議に思いませんか?
神はすでにノアの三人の息子、セム、ハム、ヤペテを祝福されています。
ノアは、自分の価値のない息子を通り過ぎ、カナンをのろったのです。
私たちは「古い木の切れ端」という言葉を知っています。
これは「子は親に似ている」という表現です。
このようにハムにはクシュという名の黒い子が生まれました。
彼はその時代の背信の指導者ニムロデを生みました。
古代の伝承が我々の助けになり「ニムルド - バル - クシュ」の妻が悪名高いセミラミス1世であったことを教えています。
彼女はバビロニアの秘儀主義の創始者であり、偶像崇拝の最初の大祭司であったと言われています。
このように、バビロンは偶像崇拝の源泉となり、世界中のあらゆる異教徒と異教徒の組織の母体となったのです。
そこで生まれた秘儀的な宗教は、さまざまな形で地球全体に広がりました。
すぐ見てわかるように、今日の私たちにもあります。
これはパウロの時代に激しく働いていた不正の奥義(秘儀)と同じものです。
そして、聖霊が去って黙示録のバビロンが支配するときに、最大の展開を見せるのです。
アダムとエバに与えられた来るべき女の種の原始的な約束に基づいて、セミラミスは奇跡的に妊娠したと宣言されました。
彼女は男の子を産みました!
彼女が彼を人々に見せると、彼は約束された救い主として歓迎されたのです。
その子が後の時代のタンムズとなるのです。
エゼキエルは捕囚の日に、その崇拝を非難しています。
このようにして、母と子の秘儀が導入されました。
これは人類が知るどの偶像崇拝よりも古い形式です。
この礼拝の特徴は秘儀つまり、秘密の儀式です。
その奥義を知ることが許されたのは、入門者だけでした。
訳者注)確かにこの奥義を知ることができたのは口伝によるものでした。
しかし、後世に残すために秘文が残されたのです。
これは、神の真理を真似て人間を欺こうとするサタンの策略です。
やがて、時が満ちてキリストが来られた時に、人間が女の真実の子孫を知ることがないためです
このことをジャスティン・マーティアーははっきりと証言しています。
この秘儀的な宗教は、バビロンから周辺のすべての国々に広がりました。
やがて、年月が経つにつれて、世界中にノアの子孫によって広まり尽くされました。
象徴としての偶像はどこでも同じです。
どこにおいても、母親と子の崇拝はよく見られる制度になりました。
彼らの崇拝は、最も不快で不道徳な習慣で祝われていました。
赤ん坊を抱いた天の女王の姿は、言語が違えば名前も違うかもしれませんが至る所で見られています。
フェニキアにおいても、これらの信仰は秘儀的な宗教となりフェニキア人によって地の果てまで運ばれました。
どんな所へも広がり続ける母と子のアシュトレトとタンムズは偉大な探検家のようです。
エジプトではイシスとホルス、ギリシアではアフロディテとエロス、イタリアではヴィーナスとキューピッドになり、他にも遠く離れた場所で多くの名前を持つようになったのです。
千年間の間にバビロニアの宗教は神の啓示を拒否する世界的な宗教となりました。
この中心的な秘儀に連なり、無数の小さな秘儀が現れました。
しかし、その隠された意味は創始者だけが知っていたのです。
これらの信仰は同じ外面的な形によって、さまざまな人々によって行なわれてゆきました。
これらの秘儀の教理には、死後の煉獄的な清め、祭司による免罪、聖水の注ぎかけ、エレミヤ書で言及されている天の女王への丸いケーキのささげ物、処女の神へのささげ者などがあります。
このように、数えきれないほどの秘儀に参加することにより救いを得ることができると教えています。
これは文字通り神聖化された淫行であり、息子を生き返らせたと言われるイスターの大祭の前に、40日間タンムズのために泣くのです。
タンムズはイノシシに殺され、その後生き返ったと教えられていたからです。
タンムズにとって卵は神聖なものであり、彼の復活の奥義を表していました。
また、常緑樹は彼が選んだ象徴であり、彼の誕生を記念して冬至に設置されました。
冬至には、彼の戦いと苦悩を記念してイノシシの頭が食べられ、多くの秘儀的な出来事が描かれたユールログが燃やされました。
十字架のしるしは、生命を与える原理を象徴するものとして、また彼の名前のかしら文字として、タンムズにとって神聖なものだったのです。
教会には、多くの古代の祭壇や神殿が表現されていますが、多くの人が考えているように聖書から始まったものではありません。
この秘儀的な宗教から、先祖アブラハムは神の召しによって切り離されました。
彼から生まれたイスラエル民族は、この邪悪なカルト的な国々と絶えず対立し、ついにはフェニキアの王女イゼベルの支配下にまで至っています。
アハブの時代に、北王国においてイスラエルの宗教の残りに移植され、ついには彼らの捕囚の原因となりました。
バアル崇拝はバビロンの神秘主義のカナン的な宗教の形を持っていました。
ユダはこれらの偶像崇拝によって汚され、バビロンに捕囚として送られることになりました。
彼らを癒すのはこの手段しかなかったのです。
よって、ユダの偶像崇拝への愛から保護され、癒されたのです。
バアルは太陽の神、いのちを与える神であり、タンムズと同じ存在です。
キリストがこの世に来られた時、旧約聖書に啓示された神の真理が宣べ伝えられているところを除いては、不義の秘儀が至る所で支配していました。
初期のクリスチャンたちが福音を地の果てまで伝えるという大きな仕事に着手した時、彼らは至る所で何らかの形でこの組織に立ち向かっていました。
都としてのバビロンは長い間ただの記憶にすぎなかったにもかかわらず、その奥義は消えていなかったのです。
町と神殿が破壊されると、大祭司は秘儀に参加している一団と神聖な器と像を連れてペルガモに逃げました。
そこでは蛇の象徴が隠された知恵の象徴として設置されていました。
そこから、彼らは戦争の後、海を渡ってイタリアに移住し、エトルリア平原に住み着きました。
そこでは古代の宗教がエトルリアの奥義の名のもとに宣伝され、最終的にローマはバビロニア教の本拠地となりました。
祭司長たちは、いのちの神ダゴンを崇拝し、魚の頭の形をしたミトル(司教のかぶる冠)を身に着けていました。
これはイスラエルの宿敵であるペリシテ人の間で発展しました、
彼らの中に広がったもう一つのものはタンムズの奥義です。
ローマに設立されたときの祭司長は、ポンティフェクス・マクシムスという称号を名乗り、これが冠であるミトルに刻印されていました。
当時のローマの良家の若いローマ人の多くがこの秘儀に参加する者でした。
ユリウス・カエサル国家元首になった時、彼はポンティフェクス・マクシムスに選ばれました。
以後この称号は、教会の長でありながら異教徒の大祭司でもあったコンスタンティヌス大帝に至るまで、すべてのローマ皇帝によって守られているのです!
この称号は後にローマの司教に授与され、現在では教皇によって継承されています。
そうです。
宣言されているように教皇は漁師で使徒のペトロの後継者ではありません。
教皇はバビロニアの神秘主義の大祭司の直系の後継者です。
そして、魚神ダゴンのしもべです。
偶像崇拝的な前任者と同じように漁師の指輪をつけています。
教会の歴史の初期の数世紀の間に、秘密の奥義は驚くべき影響をもたらしました。
バビロニアの慣習や教えは、キリストの教会の名を持つものにほとんど吸収されてしまいました。
このように、聖書の多くの真理は覆い隠されてしまっていたのです。
その一方で、偶像崇拝の慣習がキリスト教の聖礼典として人々に押し付けられ、異教徒の哲学が福音の教えに取って代わられたのです。
このようにして、バビロニアの教えは16世紀の大宗教改革が一定の解放をもたらすまで、1000年間にわたってヨーロッパを支配し、人の体と魂を売買した驚くべき組織にまで発展したのです。
このことに使徒は驚嘆しました。
何世代にもわたってキリストと同一視されてきた栄光に満ちた運動だと思われた者の本性は、淫行にあふれたあらゆる忌むべきものの母だったのです
このように、バビロンは神の聖徒やイエスの殉教者を虐殺する者となったのです。
しかし、迫害の暗い日々のカトリックの血なまぐさい歴史が、恐ろしいほどに真実な幻の意味を証言しています。
御使いは続けて、未来には私たちが思い描いていた以上の驚くべきことが待ち受けていることを示しています。
なぜなら、ローマの過去の歴史のどの時代も、この章に述べられていることに完全に答えることはできないからです。
私たちは今日、すべての教会が連合されることは望ましいことを耳にしました。
人々は、不信仰と背教のためにキリスト教を引き裂いたのは神ご自身だと思っています。
プロテスタントの異なる宗派が一つの大きな組織に統合され、聖公会、ギリシャ教会、ローマ教会のいわゆるカトリックの3つの教会と手を結ぶことができるなら、これは素晴らしいことだと言われています。
このような巨大な連合教会は世界を支配することができ、さまざまな効果を増大させることができると指摘されてきました。
そして、長い間私たちの役員会や役人を悩ませきた財政問題を単純化するだろうと考えているのです。
しかし、このような結束はキリストの体ではないことを覚えておく必要があります。
それは単に、救われた者と救われていない者の世界的な連合になるのです。
それも妥協しあった、ちょうど大いなるバビロンの再来のようです。
キリストのからだはキリスト教国の不幸な分裂にもかかわらず、分裂していません。
キリストのからだは、霊のバプテスマによってキリストにあって一つとされた、真実に救われたすべての民から成り立っているからです。
外見的な統一は望ましいが、真実を犠牲にしては祝福になりません。
しかし、私たちは今、御使いの幻の解釈を考えなければなりません。
御使いはヨハネにこのように言っています。
「すると、御使いは私にこう言った。「なぜ驚くのですか。私は、あなたに、この女の秘義と、この女を乗せた、七つの頭と十本の角とを持つ獣の秘義とを話してあげましょう。
あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れぬ所から上って来ます。
そして彼は、ついには滅びます。地上に住む者たちで、世の初めからいのちの書に名を書きしるされていない者は、その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて現われるのを見て驚きます。」
(ヨハネの黙示録17章7、8節)
私たちはすでに13章を学んできましたが、この獣は、教会のディスペンテーションが終わった後、サタンに刺激された国家の連盟で復活したローマ帝国を示しています。
この獣は、私たちの時代に最近の戦争の結果として形成された同盟とは全く異なるものになると考えます。
いまだ、教会が存在しているからです。
未来の同盟は完全に神を無視し、神に反抗するのです。
この同盟が形成されると、同時にあらゆる宗教組織の連合のは当然のことです。
これもまた悪魔的な性質を持つことになります。
それは、バビロンのすべての人間と悪魔の秘儀を継承した、キリストへの告白がない同盟になるのです。
言い換えれば、すべての宗教はこれまで母子崇拝を維持してきたバビロニア特有の組織に飲み込まれることになります。
つまり、カトリックに吸収されるのです。
この組織は、患難時代では市民権力を支配することになります。
こうして女は再び鞍に、獣に乗るのです!
見える目と理解する心を持つ者は、まさにこの最後の時を見据え、現在進行中の準備を容易に見分けることができます。
「ここに知恵の心があります。七つの頭とは、この女がすわっている七つの山で、七人の王たちのことです。
五人はすでに倒れたが、ひとりは今おり、ほかのひとりは、まだ来ていません。しかし彼が来れば、しばらくの間とどまるはずです。
また、昔いたが今はいない獣について言えば、彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです。そして彼はついには滅びます。」
(ヨハネの黙示録17章9~11節)
9節から11節では、バビロンがその座を占めている街の正体が明かされます。
そして、その帝国の最終形態が現れる時に、長い間、女が求めてきた最高の地位を獲得することがわかります。
ローマだけが与えられた記述に答えています。
前の講演で、先の7人のうちの一人が8番目の君主になり、終末の時に国際連盟を支配し、最後に、その首都が永遠の都と呼ばれる最後の偉大な世界支配者であることを見ました。
「あなたが見た十本の角は、十人の王たちで、彼らは、まだ国を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます。
この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威とをその獣に与えます。
この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」」
(ヨハネの黙示録17章12~14節)
しかし、12節から14節までを見るならば、他の10人の王たちは獣と完全に一致して行動しているように見えます。
これを見れば、この幻がローマ帝国を分割した国々の過去の歴史を指しているという説を完全に否定することになります。
これらの国々がこのように一致して行動したことは一度もありません。
ヨーロッパは帝国の崩壊以来、常に国家間の対立と紛争の舞台となってきました。
10人の王が獣と一緒に力を得る時は、未来に起きることなのです。
その時、愚かにもこれらの国々は小羊と戦い、王の王、主の主であられる御方に打ち負かされます。
この女は水のようだと15節で述べられています。
「御使いはまた私に言った。「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です。」
(ヨハネの黙示録17章15節)
これまで、バビロンはすべての国々を支配し、その姦淫の酒で彼らを欺いていたのです。
女は再びすべての国々の上に君臨します。
しかし、ついには、彼女のご機嫌取りをしていた世界が彼女を拒絶するまでになるのです。
御使いはこの奧義を解き明かし、次のように述べています。
「あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。
それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行なう思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。
あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」
(ヨハネの黙示録17章16~18節)
もう、女が誰なのか?
間違えることはありません。
異教のローマはバビロンの直系継承者でした。
ローマ教皇はバビロニアの神秘を吸収したのです。
終わりの日には、獣であるローマは、ニムロデとその悪名高い配偶者セミラミスから始まった復活した悪魔の組織の拠点となるのです。
その日から今日まで、彼らは神のすべてのものに反対してきました。
「それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。」
(ローマ人への手紙1章25節)
私たちが見てきたように、旧約の時代のバビロンは偶像崇拝の母でした。
エレミヤ書にはこのように書かれています。
「その水の上には、ひでりが下り、それはかれる。ここは刻んだ像の国で、彼らは偶像の神に狂っているからだ」
(エレミヤ書50章38節)
霊的崇拝の代わりに偶像崇拝をするように諸国民に教えたのはこの女です。
今日ではキリスト教国の3分の1が女に従って像を崇拝し、他の3分の1は「イコン(聖像画)」すなわち板絵を崇拝しています。
これらの忌むべき行為のバビロニアの起源については疑問の余地がありません。
異教徒の秘儀がキリスト教に取り入れられるまで、この種類のものは神の教会では知られていませんでした。
ローマの神殿に設置されている母子像は、セミラミス、アシュトレテ、イシスなどの森や神殿で崇拝されている「天の女王」とは名前が違うだけなのです。
多くの場合、昔の偶像は単に名前を変えただけで、以前のように愛されるようになりました。
南ヨーロッパのある場所には、タンムズやバールと同じ太陽神アポロンの像があり、惑わされたローマ主義者によって「聖アポロ(St.Apollos)」として崇拝されています。
台座には、元の名前「聖アポロ(St.Apollos)」に後から「S」が加え、彫られています。
この偶像は我々の知るアポロではないのです。
初期のキリスト教徒の間では主イエス・キリストの母マリアは、今日のローマの奥義の中で与えられているような地位を持っていませんでした。
使徒の働き2章を見るのであれば、マリアは謙遜な礼拝者であり、他の人たちと一緒に祈っているのが見られます。
これが聖書における彼女に関する最後の記述です。
彼女が天の女王として即位したという伝説について、聖書は何のヒントも与えていません。
それは単純で純粋なバビロニア教です。
主が昔の主の民に語られたことばは、私たちの歩んできた道と照らし合わせるのなら、今の私たちにとっても有益です。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」
(テモテへの手紙第二3章16、17節)
エレミヤ書にはこのように書かれています。
「バビロンの中から逃げ、それぞれ自分のいのちを救え。バビロンの咎のために絶ち滅ぼされるな。これこそ、主の復讐の時、報いを主が返される。
バビロンは主の御手にある金の杯。すべての国々はこれに酔い、国々はそのぶどう酒を飲んで、酔いしれた。
たちまち、バビロンは倒れて砕かれた。このために泣きわめけ。その痛みのために乳香を取れ。あるいはいやされるかもしれない。
私たちは、バビロンをいやそうとしたのに、それはいやされなかった。私たちはこれを見捨てて、おのおの自分の国へ帰ろう。バビロンへの罰は、天に達し、大空まで上ったからだ。」
(エレミヤ書51章6~9節)
バビロンの原理と慣習が、宗教改革の時にローマから逃れた教会に急速に、しかし確実に浸透していることは嘆かわしい事実です。
かつて、宗教改革の時に逃れた教会では知られていなかった格調高い教会名称が広く使われるようになったことや、四旬節、聖金曜日、復活祭、キリストのミサが復活しています。
あるいは一般的にはクリスマスと呼ばれている聖日や教会の祝祭を見るならば、その証拠として見ることができるのです。
私は、これらの祭りのいくつかは、教会的な性質を取り除くと、家庭では罪のないものとして観察されるかもしれません。
しかし、それが教会の祭りになると、確実にガラテア人への手紙に書かれている非難を受けることになります。
「ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。
あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています」
(ガラテア人への手紙4章9~11節)
ここでは聖霊が各種の日と月と季節と年を守らないように警告しています。
それらはすべてバビロニアに由来しており、かつてはアシュタレスやタンムズの秘儀崇拝と結びついていました。
そして、母であるバビロンと、その母の特徴を受け継ぐ娘たちがいることをよく覚えておくべきです。
ですから、主を愛し、その祝福を求めるすべての者にはこのように勧められています。
「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」
テモテへの手紙第二2章22節
バビロンの崩壊については、次の講演でもっと詳しく知ることになります。
今夜は詳しく書ききれなかったことも、もっとはっきりと見えるようになると思います。
著者アイアンサイド氏からの推薦です。
バビロニア教をもっと詳しく研究したい人には、ヒスロップ氏の記念すべき著作「二つのバビロン」を推薦します。
講義19 バビロン:その特徴と運命(2回目) 18章1節~19章5節
前回の講演で私は黙示録のバビロンを明らかにし、シナールの平原にあるカルデヤ人の土地の文字通りの都市である昔のバビロンとどのように結びついているかを示そうとしました。
ここではバビロンの邪悪な特徴と恐ろしい運命について詳細をお伝えします。
また、私たちは文明のゆがみとゆらぎの隙間に入り込んだバビロンの原理に驚きを感じています。
バビロンの原理によって、私たちが生きている時代の市民生活と文明の構造全体に影響が及ぼしています。
主の再臨のときに到来するより高く幸福な社会への道を準備するために、そのすべての原理は破壊されなければなりません。
黙示録の18章の冒頭ではこのように書かれています。
「この後、私は、もうひとりの御使いが、大きな権威を帯びて、天から下って来るのを見た。地はその栄光のために明るくなった。
彼は力強い声で叫んで言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。
それは、すべての国々の民が、彼女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女と不品行を行ない、地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得たからである。」」
(ヨハネの黙示録18章1~3節)
これは、14章8節の第二の御使いのメッセージと同調し、16章19節で預言された第七の鉢の裁きを導入していると私は考えています。
つまり、バビロンは患難時代の最後まで続くのです。
獣とその10人の王たちによる破壊は、栄光のうちに現れた主によって滅ぼされる直前に、彼らにとっての恐ろしい悪夢を取り除くための最後の必死の努力でした。
反キリストは、女性の子孫の偽の姿であり、背教のキリスト教とユダヤ教によってメシアとして受け入れられるのです。
このように、サタンの代表作は、目の前のすべてのものを反キリストの運ぶように見えます。
その時、女の真実な子孫が天から現われます。
神のすべての聖徒たちとともに降りてきて、神の敵たちを驚愕させ、神のために苦しむ聖徒たちを喜ばす時が来るのです。
迫害を受けているイスラエルの残された民と諸国の民の中から集められた者たちは、その日、これらの証しを聞くことになります。
重ねて言いますが、今の恵みのディスペンテーションにあって福音のことばを拒んだ人々ではありません。
教会の携挙の後に、福音のことばを持っていない人々のことです。
テサロニケへの手紙第二2章には明白で説得力のある証言があります。
「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。
なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」
(テサロニケへの手紙第二2章9~12節)
堕落したバビロンを「悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつ」として描写しています。
このように背教の恐ろしい終わりを印象的、写実的に描いています。
その者は自ら、キリストの妻であると自称し、神の霊による導きの名のもとに何度も冒涜的な布告を発します。
彼らは悪魔に感化され、悪魔に仕向けられた組織にすぎません。
そこでは、あらゆる汚れたものがはびこります。
また、悪人たちはそこに隠れ場所を見つけ、悪しき教えや行いを広めながらも守られるのです。
これに対して、教皇は過去の歴史において完全に一致しており、現在もその特徴は変わっていません。
中世の教皇とその使いよりひどい歴史を見つけることは不可能と思います。
これらの時代について「教会の記録は地獄の記録である」と言ったローマカトリックの作家がいました。
ラテン語のことわざに「最悪の腐敗物は、最高のものの腐敗」というものがあります。
ここに教会の歴史がはっきりと表れています。
使徒パウロが書簡を送った教会が、数世紀のうちに現在知られているようなローマ教会に堕落したとは信じられない出来事です。
しかし、これが、すでに見てきたバビロンの奧義です。
もっと驚くべきに、宗教改革諸教会は一度はこの劣悪な制度から解放されたにもかかわらず、今になってこの制度との和解を望んでいるのです。
歴史の示す恐ろしい過去を簡単に忘れ、現在の邪悪な姿を見過ごすことができるという深刻な事実です。
アメリカや、イギリスにいる私たちの兄弟たちは、ローマが最高の状態にあると見ています。
というのは、人は暗やみの中で行うことを、明るいところでは容易には行わないからです。
「特徴は暗闇の中の人間の姿をみればわかる」と言われてきたように、同じ原理でこのシステムを試してみることができます。
真実なロ―マ主義の姿を知りたければ、宗教改革の光がほとんど差し込んでいない土地にいくべきです。
私たちの南アメリカ大陸の国々見てください。
偉大なラテンアメリカの共和国では、何世紀にもわたって教皇が影響力を持ち、人々のモラルを損なっています。
訳者注)南アメリカはラテンアメリカと言われています。
ラテンとはローマの南東にあった古国ラティウムの形容詞形でカリブ海沿海、もともとはローマの影響下にあった国々を指します。
メキシコなどでは、もともと人肉を食するような死人崇拝が存在しており、土着の宗教とカトリックが融合された宗教がはびこっています。
そこでは、正しいキリスト教信仰によってチェックされていないバビロニア主義の結果を見ることができるのです。
そこでは恐ろしい不義の水溜りを見ることができます。
それを見た者は無視せずに宣言しなければなりません。
それは偶像崇拝が最も忌まわしい形式で支配されています。
福音は禁じられた教えです。
もし、かつてのように教会が十分な力を持っていたら絶対に禁止されていたはずのものです。
旧約聖書では、偶像崇拝は霊的な淫行として烙印を押されています。
新約聖書では、それは教会と世界の不浄な融合であることを教えています。
ローマの邪悪の制度にはその両方が見られます。
ローマほどあからさまな偶像崇拝的な国があるでしょうか?
そして、ローマ教会ほど粘り強く世界の歓心を誘ってきたものはありません。
そして、現在でさえ、大胆にローマ教会は地上の王たちに言い寄っているのをみることができます。
また、その横柄な振る舞いによって、賞賛と注目を集めようとしているかがわかるはずです。
緋色の女が再び野獣に乗るまで、教会が国々を支配するまで、ローマは止まることはありません。
ローマ教会は微妙に勢力範囲を広げています。
よこしまな方法を使って、ローマ教会は「アメリカをカトリックにし」、イギリスの宗教改革の働きを元に戻そうとしています。
ローマ教会は有害なマスコミ、そして、多くの映画館さえも支配しています。
残念なことに、一部の人々が通う教会までもが、ローマ教会への礼拝を強要しています。
あらゆることが調査され、広範囲に及ぶプロパガンダの一部によって、この国をローマ化させるために我々の中で知らず知らずのうちに働いています。
商業主義は常にローマ法王の支援を受けて栄えてきました。
これもローマがよく知る方法で扱っている強力な武器の一つです。
商業は現代の熱狂的な時代の女神です。
あらゆるささげ物がささげられてきました。
未来のバビロンは大きな教会であるだけでなく、巨大な商業システムでもあります。
なぜなら、それら国々の人々は、現在、彼らを悩ませている問題の解決に向かわせるからです。
現在、多くの組合労働者がローマの力の下にいます。
ローマは社会主義の敵と公言しています。
一方では労働者階級の支援者とみなされ、他方では資本の保護者とみなされることを喜んでいます。
彼女はその商売の天才です。
ルターは「ローマでは何でも売っている」と叫びました。
ローマ教会は「御父を売り、子を売り、聖霊さえも売ります。」
彼女の額には恥ずべき刻印が押されている。
神をあがめようとする者はみな、彼女の戒めを避け、バラムの迷いから逃れます。
もし、私の理解が正しければ4節では私たちに呼びかけられています。
それは、来るべき日に彼女に欺けられる危険のある聖徒たちへの単なる警告ではありません。
それは、現在においてもこの女の真実な特徴を見抜いているすべての人へのメッセージです。
「それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。
「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」
(ヨハネの黙示録18章4節)
悪からの分離は、主の御心にかなうすべての者にとって絶対的に必要なものです。
これは16世紀の宗教改革者たちが聞いた呼びかけです。
しかし、悲しいことに、彼らの後継者となるべき多くの人々が、ローマがが残した精神に戻ってしまいました。
現在、多くのバビロニアの衣服がプロテスタント教会に使われ、プロテスタントの牧師の肩に飾られています。
かつて「聖書と聖書を信じる信仰だけがプロテスタントある」と誇っていた人たちに、忌み嫌っていた原理と慣習が戻ってきたことを説明すればいいのでしょうか?
聖書を教え、聖書を守ると誓った人々によって、聖書の霊感と権威が否定されているのです。
聖書の教えていることが、人々の良心の支配力を失いつつあります。
バビロニアの慣習と教えが再び流行してきても不思議ではありません。
人は安定したもの、間違いのないものに答えを求めます。
もし、生ける誤りのない神の御言葉を持つことができないなら、彼らは告白だけの教会に立ち返るのです。
しかし、神の裁きの時はすぐそこまで近づいています。
永遠に、主はこれらすべての忌むべき行為を黙って見ているわけではありません。
かつて、神はユーフラテス河畔の偶像崇拝の町にされたように、霊的なバビロンに激しい怒りの鉢を注ぐのです。
「なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。」
(ヨハネの黙示録18章5節)
その後、すぐに宣告されます。
「あなたがたは、彼女が支払ったものをそのまま彼女に返し、彼女の行ないに応じて二倍にして戻しなさい。
彼女が混ぜ合わせた杯の中には、彼女のために二倍の量を混ぜ合わせなさい。
彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。
彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。」
(ヨハネの黙示録18章6、7節)
古代のバビロンの滅亡に関するイザヤ書とエレミヤ書の預言を比較してみてください。
霊的な敵の破滅がはっきりと預言されているかがわかるはずです。
いくつかの事例で同じ表現が使われています。
このことから、文字通りの都市の破滅は最終的なものではないと考える解説者もいます。
また、バビロンはその古代の場所に再建され、世界の宗教的および商業的な都として数年の間繁栄し、再び破壊され、最終的には主の再臨時に破壊されるのだと教えている人もいます。
一般的に、これらの説教者たちはこの復活したバビロンを反キリストの所在地とすることに同意しています。
彼らは原則として、反キリストを来たるべきの世界的な皇帝と同一視しています。
しかし、これらの問題について旧約聖書と新約聖書を比較するならば、この見解は支持できないことをすでに示しました。
古い都市は没落してもはや台頭しません。
今、私たちの前にあるみことばによれば、それを引き継いだ制度は、神によって裁かれ、その前身と同じように文字通り滅ぼされることになっています。
「それゆえ一日のうちに、さまざまの災害、すなわち死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。
彼女をさばく神である主は力の強い方だからです。」
(ヨハネの黙示録18章8節)
神は十人の王たちと獣を使ってこのことを実現させようとしています。
しかし、彼ら自身も、文明の構造全体が崩壊しようとしているのは知っていました。
私たちは彼らが恐怖におののいて、この女の崩壊を嘆くことを学んでいます。
このような現象はフランス革命の時代に見られ、また、最近の他の国でもある程度見られていることです。
どんなに腐敗した教会でも、一度破壊されると、あらゆる社会的な障壁自体が崩壊し、無政府状態と暴力の洪水が国全体を破滅に巻き込んでいくようです。
ナポレオン一世は教会の権力を大幅に奪いました。
しかし、貧弱な宗教でも大衆を抑制するにはまったくないよりはましだという理由で教会を再建する必要性を理解したのです。
ですから、バビロンが陥落すると、少しでもこれに関係したすべての者に恐怖が走りました。
その恩恵を受けていた地上の王たちが、バビロンが燃える煙を見て、そのために嘆き悲しむのは、私たちにもよく理解できます。
「彼女と不品行を行ない、好色にふけった地上の王たちは、彼女が火で焼かれる煙を見ると、彼女のことで泣き、悲しみます。
彼らは、彼女の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っていて、こう言います。『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。力強い都、バビロンよ。あなたのさばきは、一瞬のうちに来た。』」
(ヨハネの黙示録18章9、10節)
組織の崩壊と同時に、彼女が座していた街も崩壊します。
そして何かの天変地異、おそらくは大地震によって、この誇り高く傲慢な首都は永遠に破壊されるのです。
この町は二千年もの間「永遠の都」の名で呼ばれてきました。
不敬な態度と憎むべき高慢のために、その運命は確実なものとなっています。
イタリア南部には特異な火山が複数あることはよく知られています。
土地そのものに「火が貯えられて」いるように見えます。
ペテロの手紙第二には「天と地」に適応される聖句が述べられています。
「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」
(ペテロの手紙第二3章7節)
驚くべきことに、これはローマ付近にも適応され、ローマを破壊する手段になるのかもしれません。
もし、そうならば、「彼女が火で焼かれる煙」 という言葉は、ある人が考えているよりもはるかに文字通りなのかもしれません。
このことは、11節から19節までの地上の商人たちの嘆きの中で強調されています。
それは壮大な哀歌です。
私たちは時間が許す限り、より慎重に検討する価値があります。
「また、地上の商人たちは彼女のことで泣き悲しみます。もはや彼らの商品を買う者がだれもいないからです。
商品とは、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布、香木、さまざまの象牙細工、高価な木や銅や鉄や大理石で造ったあらゆる種類の器具、
また、肉桂、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、麦粉、麦、牛、羊、それに馬、車、奴隷、また人のいのちです。
また、あなたの心の望みである熟したくだものは、あなたから遠ざかってしまい、あらゆるはでな物、はなやかな物は消えうせて、もはや、決してそれらの物を見いだすことができません。
これらの物を商って彼女から富を得ていた商人たちは、彼女の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っていて、泣き悲しんで、
言います。『わざわいが来た。わざわいが来た。麻布、紫布、緋布を着て、金、宝石、真珠を飾りにしていた大きな都よ。
あれほどの富が、一瞬のうちに荒れすたれてしまった。』また、すべての船長、すべての船客、水夫、海で働く者たちも、遠く離れて立っていて、
彼女が焼かれる煙を見て、叫んで言いました。『このすばらしい都のような所がほかにあろうか。』
それから、彼らは、頭にちりをかぶって、泣き悲しみ、叫んで言いました。
『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。海に舟を持つ者はみな、この都のおごりによって富を得ていたのに、それが一瞬のうちに荒れすたれるとは。』」
(ヨハネの黙示録18章11~19節)
人々がこのような苦労をして築き上げてきた偉大な商業システムの破壊を描いています、
これを、国家間にこのような苦痛をもたらしたすべての混乱に対する万能薬として好意的に見る者もいます。
世界大戦が勃発する前に、労働者は戦わず、資本はあえて戦わないと何度も言われてきました。
そして、多くのことが危機に瀕していると主張されていました。
しかし、そのような予測がどれだけ的を外していたのかが証明されました。
世界大戦が終われば、しばらくの間は、世界を受け入れる金融システムを構築するために多大な努力が払われます。
そして、商業的自己利益の結びつきで各国を確実に結びつけることになります。
これらは新たな世界戦争の危険を起こすことはないと誰もが確信するのです。
私たちはそのような計画はすべて失望する運命にあることを知っています。
それは、預言の言葉がその計画の失敗をはっきりと予告しているからです。
平和の君主が諸国民の間の支配者となるまでは、恒久的な平和はあり得ません。
ただ、黙示録のこの箇所ではバビロンが陥落するのを見て、商人たちがその運命と莫大な損失を嘆いているのを聞くことが許されています。
この女の商品の一覧が書かれています。
今はもう買う者がなく、述べられている価値のあるもの中に単なる奴隷、人のいのちが含まれていることに気づくはずです。
これがバビロンの恐ろしいところなのです。
女は、自分をだました者たちのからだやたましいを、商品にしたのです。
彼らは、福音に示された豊かな恵みに背を向けて、神が惜しみなくささげられるものを買おうとしたのです。
そして、最後に神の御前に立ち、墓場のように無慈悲で、残酷で強欲な制度に魂を売ってしまったことに気づくのです。
訳者注)繰り返しますが、この注解が書かれたのは1930年以前です。
この女のリストにある奴隷は意味がわかります。
奴隷とは別に「人のいのち」が述べられています。
当時は理解できなかったと思いますが2024年に生きる私たちは理解できます。
まさに臓器売買だと訳者は理解します。
神の裁きの場で、このような恐ろしい欺きに関与した者たちの罪が清算されることは、考えるだけで恐ろしいことです。
バビロンの崩壊は地上の住人を自ら起こした悲しみに巻き込みます。
しかし、天では喜びをもたらすのは驚くことではありません。
「おお、天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都のことで喜びなさい。神は、あなたがたのために、この都にさばきを宣告されたからです。」
(ヨハネの黙示録18章20節)
この女は神のしもべたちの血を水のように流しました。
神の復讐は、長い間眠っているように見えても、最後には目を覚まします。
御怒りと憤りのうちに、ここに象徴されているさばきがこの女に訪れる時、すべての正しい魂は「神」を義とするのです。
エレミヤ書51章62節ある描写は、この終末を描いているのです。
「『主よ。あなたはこの所について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てさせる、と語られました。』と言い、
この書物を読み終わったなら、それに石を結びつけて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、
『このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいのためだ。彼らは疲れ果てる。』と言いなさい。」ここまでが、エレミヤのことばである。」
(エレミヤ書51章62~64節)
力強い御使いが、巨大なひき臼のような大きな石を海に投げ込んでいるのが見えます。
それは、長い間、諸民族を打ち砕き、神の聖徒たちをその下に粉砕してきた不思議な力の象徴です。
御使いは叫びながらそれを海に投げ込んだのです。
「また、ひとりの強い御使いが、大きい、ひき臼のような石を取り上げ、海に投げ入れて言った。「大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、もはやなくなって消えうせてしまう。
て琴をひく者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを鳴らす者の声は、もうおまえのうちに聞かれなくなる。あらゆる技術を持った職人たちも、もうおまえのうちに見られなくなる。ひき臼の音も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。
ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。」
(ヨハネの黙示録18章21~23節)
御使いのことばがおごそかに耳に響くのです。
それが地上の商人たちのおごそかとはとても対照的に描かれています。
彼らの唯一の嘆きは、誰も商品を買わなくなったことだけです。
このことを通して、人の最大のたくらみと働きを滅ぼされます。
そして、世の初めからある神の御心に従って、預言者たちを通して約束されていたことに道を譲ることになるのです。
カインは、その兄弟アベルを殺した後、主の前を去って町を建てました。
これが人類の誇る文明の始まりです。
すべての芸術と科学はそこから始まったのです。
そこには青銅と鉄の職人がいました。
貿易と物々交換、不正な富の追求はそこから始まりました。
そこには立琴と笛を扱う人たちも住んでいました。
音楽は疲れきったカインの息子たちを魅了しました。
彼らは幸せになるために、この世界を神を無視し魅力的なものにしようとしました。
しかし、主は、このすべてのことを大洪水で消し去られました。
もちろん、ノアの子ハムも、このことを悟りました。
ハムの家族のある者たちは、神のいない物事の秩序あるシステムとしての世界を作ろうとし、新しい始まりを迎えました。
私たちが見たように、ニムロデは、町とやぐらを建て、それが母なる都を建てました。
そして、ほかの人たちも出て行って、神を敬わず、利己的な文明を築きあげました。
その組織は栄光の主を十字架につけ、その訴えは宗教の言葉であるヘブル語、文化の言葉であるギリシャ語、世界政治の言葉であるラテン語で主の頭上に書いた者たちです。
このように、神とそのキリストに敵対して立ち構えたのです。
「地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。」
(詩篇2篇2節)
この世界は、バビロン大王のもとで最高潮に達したのです。
この世界は、地上から生み出された最高の天才たちによって治められています。
しかし、聖なるものすべてに対する絶え間ない敵意を持ち、御子に対して絶え間なく拒絶し続けるので、神によって裁かれるだけなのです。
その崩壊は、人類が長い間慕い続けてきた神の国と義と平和の支配を確立するための道を準備させるのです。
人間の都は、永遠に立つ神の都に取って代わられ、崩壊しなければなりません。
それゆえ、天にあっては、バビロンの滅びを喜んでいるのです。
「また、預言者や聖徒たちの血、および地上で殺されたすべての人々の血が、この都の中に見いだされたからだ。」
(ヨハネの黙示録18章24節)
この18章の終わりの節は、私が示してきたローマが古代バビロンの秘儀を引き継いだものであることを示しています。
そして、同時に世界中に広がる背教組織でもあることを明らかにしているのです。
最後の節だけで、この要件を完全に成就しています。
神がこれら血を調べるのであれば、神はすべての悪であり、偉大なるバビロンによって流されていることを示しています。
もし、人が主の前から離れて出て行かなかったなら、地上は決して人の血で汚されなかったはずです。
どこにおいても、兄弟愛と義が勝っていたはずです。
したがって、「バビロン」は人類の歴史を暗くした、すべての腐敗と暴力という罪を犯しているのです。
ゆえに、神であるキリストが十字架で死なれたのです。
「バビロンの中から逃げ、それぞれ自分のいのちを救え。バビロンの咎のために絶ち滅ぼされるな。これこそ、主の復讐の時、報いを主が返される。」
(エレミヤ書51章6節)
すべての人にこの言葉が届き、恵みがありますように。
19章の冒頭の節では、私たちは再び天を見ることができます
そこで大淫婦の裁きによって引き起こされた喜びに注目することが許されています。
「この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。
神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」
彼らは再び言った。「ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。」
すると、二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座についておられる神を拝んで、「アーメン。ハレルヤ。」と言った。」
(ヨハネの黙示録19章1~4節)
あらゆる時代で償われた者たちは、地上でこの恐ろしい不法の力の実体を知り、永遠に打ち倒されたことを喜びます。
黙示録で24人の長老が登場するのはこの個所が最後です。
次の節では象徴が入れ替わります。
小羊の妻である花嫁が出てきます。
長老たちは、礼拝する集まりとして、聖徒たちと王族の祭司である天の聖徒たちを代表しています。
しかし、この場面から遊女である教会がいなくなると、真実な花嫁が現れ、長老たちのことは二度と語られなくなります。
注目すべきは4章の最初の登場した時と同じ様に、最後の登場においても礼拝している態度を見ることができます。
4章では、長老たちは創造主として、また贖い主として小羊を礼拝しています。
しかし、ここでは、神を宇宙の道徳的な支配者として、その正しい裁きを示すために礼拝されています。
かれらの讃美に答えるように御座から声がします。
「また、御座から声が出て言った。
「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」」
(ヨハネの黙示録19章5節)
ここまで、バビロンの偉大な奥義の特徴と運命が鮮明に描かれてきました。
現在において、考えてられて厳粛で魂を揺さぶる箇所を終えることできます。
ここでは幸せな光景が目の前に現れます。
しかし、それは生ける神から離れてしまった者に対する、裁きによってもたらされた場面です。
もし、私たちが汚れた組織に住み続けていることを自覚するのであれば、その霊に参加しようとする自分の傾向を知ることになります
そして、もし自分自身を裁くことを学ぶなら、それは私たちにとって幸福なこととなるのです。
講義20 二つの晩餐 9章6節~21節
私たちはこの出来事において、二つの反対の場面に心を奪われることになります。
一つはやがて天にて、もう一つは地上で起こることです。
どちらも晩餐(婚宴)と呼ばれています。
一つは子羊の結婚の晩餐です。
もう一つは神の大宴会です。
最初は婚宴は、すべてが嬉しさと喜びです。
二つ目は、最も深い暗闇と苦悩の場面です。
小羊の婚宴は、天の聖徒たちの栄光の満ちる先駆けとなります。
神の大宴会は、「預言された地」に降りかかる一連の裁きを終わらせ、長い間待ち望まれていた神の王国の建国への道を開きます。
私は「預言された地」を使う時は「ローマの地」を指しています。
すなわち、かつてローマ帝国の領土となっていた地域と、終末の時にバビロンが勢力を維持する地域です。
私はまだ信仰を持っていない異教徒の国だと理解しています。
神の最も重い裁きが下る場面に、クリスチャンの地域は含まれません。
しかし、キリスト教とユダヤ教の地域が神の怒りの炎に包まれることになりますので、必然的に全世界が苦しみを味わうことになります。
「神の怒りの赤い炎が天に現れる日」は全世界に及びます。
しかし、その激しさは「預言された地」に及ぶのです。
姦淫の女バビロンが使徒ヨハネの視界から消えました。
彼の関心は天に移され、彼は私たちに語っています。
「また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」
(ヨハネの黙示録19章6、7節)
このように、天の婚礼の時が来ました。
ここで最初に言われている小羊の花嫁、つまり、小羊の妻とは誰の事でしょうか?
この特権はイスラエルのものなのでしょうか?
それとも、現在のディスペンテーションにおける教会のものなのでしょうか?
どちらの見解も信仰的な有能な教師たちによって支持されてきました。
しかし、この多くの論争があるテーマについて語らなければなりません。
そして、私は自信を持って語ることができます。
確かに旧約聖書では、イスラエルはエホバの妻です。
しかし、これは「小羊の妻である花嫁」と同じことになるのでしょうか?
この二つの表現の中に、二つの異なった栄光が現われています。
一つは地で、もう一つは天で明らかにされています。
天で行われる小羊の婚宴は、すべての聖徒たちと一緒に降臨する直前に、小羊がその偉大な力と支配を得ることを祝福して行われることは、私には明らかです。
イエスが王となられる時に、花嫁はイエスとともに王となります。
教会は、神がそのために世から召されたものです。
私たちが知っているように、天には他の聖徒たちもいます。
しかし、彼らは私たち花嫁とは区別されています。
また、ヤハウェの妻と、天の小羊の花嫁との間には、現実的に大きな違いがあることも明らかです。
現在は、罪のために捨てられていますが、悔い改めの日には、神のものとして所有されます。
受肉された御子は主の御許しの元に、花嫁は清純な処女として召されました。
そして、主が家に召されるまで、婚儀を待つのです。
ある人たちの言葉を借りるのならば、霊的な一夫多妻制として、この表現に反対する人もいます。
私の答えは表現だけの話では、異論は適用されません。
キリストの体である教会は、エペソへの手紙5章30〜32節で、明確にキリストの妻と同一視されています。
そうでなければ、ここで使われている表現は無意味になります。
「私たちはキリストのからだの部分だからです。
「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」」
(エペソへの手紙5章30~32節)
ですから、私たちはイスラエルを地上の花嫁とみなします。
そして、教会を天の花嫁とみなすのは当然のことです。
どちらも神の大切な血で買い取られた神様の御心にかなうものです。
しかし、それぞれに独特な特徴があります。
小羊の結婚の婚宴は、キリストの裁きによって栄光が表現される時です。
その栄光は聖徒たちの中に完全に現わせられます。
すでに見てきたように、この婚宴は教会の携挙の直後に起こります。
このことは主の言葉によって明確にされています。
「見よ。わたしはすぐに来る。
わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」
(ヨハネの黙示録22章12節)
しかし、聖徒たちが、そのかしらであり、天の花婿である主と同じ栄光のうちに完全に現われるのは、偽りの教会が暴かれ、裁かれた後でなければなりません。
小羊の結婚の日が来た時、花嫁についてこのように言われています。
「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」
(ヨハネの黙示録19章8節)
原文を学ぶ者にはよく知られていることだが、この句で「正しい行ない」と表現されている単語は複数形です。
したがって、「数々の義行い」、もしくは「いくつかの正しい行い」と理解されるべきです。
目の前にあるのは、何か押しつけられた義ではありません。
信じる者は、キリストにあって神の義となったのです。
このことは、すでに私たちが長老たちのところですでに学んできたことです。
純白の亜麻布は聖徒たち自身の「正しい行い」なのです。
すなわち、地上にいる間の正しい行いを示すものなのです。
それはキリストのさばきの座によって明らかにされ、また花嫁の婚礼の日の婚礼服となるのです。
この聖句に照らし合わせて、私たちは自分の歩みについて訓練されるべきなのです。
キリストを信じる者たちよ!
あなたがたは来たるべき日のために、きよい亜麻布を準備していますか?
あなたは花嫁候補の希望に満ちた衣装箱をよく知っていますか?
婚約中の女性は、自分の結婚式の日のために、美しく汚れのない衣服を準備することに興味を持っているはずです。
私たちに適応するなら、満たすべき霊的な希望と言ってもいいかもしれません。
キリストのために真実になされるすべてのことは、花嫁の衣装箱に加えられるのです。
私は恐れています。
私たちのうちのある者たちには、十分な行いが与えられていないかも知れません。
神ご自身の御霊が御心のままに私たちのうちで働いてくださった結果として、婚礼の衣装はこの地上で用意されなければなりません。
このことをおろそかにしてはいけません。
ヨハネの福音書にはこのように書かれています。
「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」
ヨハネの福音書9章4節
確かに、私たちの良い行い、献身的な奉仕において、すべては小羊の血で洗われ、白くされる必要があります。
しかし、神は私たちの何もできない環境的に貧しい生活においてでさえ、主はご自身の栄光のためになされたすべてのことを正しく評価し、豊かに報いることができる方なのです。
自分のプライドために行なわれたすべてのこと、汚れた動機から生じたすべてのことは、その日のうちに消えうせます。
しかし、私たちのうちにある御霊の働きの結果は、神の賛美と栄光のために永遠にとどまり、私たちが神に与えた喜びを見て、永遠に私たちの喜びとなるのです。
ここで9節に戻りましょう。
「御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った」
(ヨハネの黙示録19章9節)
ここには、花嫁とは明らかに区別される集まりがあります。
これらの者はみな、花婿の友人です。
花婿の喜びを喜び、花婿の喜びにあずかる者たちです。
私は彼らが旧約聖書の聖徒たちと苦難の聖徒たちだと理解しています。
彼らは教会の一部ではありませんが、天の栄光にあずかっているのです。
彼らは結婚式の招待客として描かれています。
彼らは結婚式のな喜びに参加し、その存在によって、新郎新婦の幸福を増すのです。
このように、私たちは純粋な喜びと聖なる喜びの場面を持つことができるのです。
その喜びには終わりがありません。
罪がここに入って、この聖なる喜びを破壊することはないからです。
ヨハネがこの幻を目の前にした時、ヨハネの心は非常に興奮し、歓喜しました。
そして、これらのことを示してくれた御使いの足もとにひれ伏して礼拝しました。
しかし、栄光に満ちた御使いにその重大な過ちをとがめられたのです。
「そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。
すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」」
(ヨハネの黙示録19章10節)
私たちの主だけが神なのです。
トマスの場合、トマスは神の復活を確信して、主は礼拝を受け入れました。
そして、礼拝者を祝福しました。
しかし、御使いは神だけが受けるべき礼拝を徹底的に拒否します。
ここでの急激に変化する預言の描写によって、私たちも急がされ、時間は待ってはくれません。
ゆえに、私たちは尋ねることがあります。
誰が子羊の晩餐に従えるのでしょうか?
次の大きな出来事は何でしょうか?
その答えは11節から16節にあります。
「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。
天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。」
(ヨハネの黙示録19章11~16節)
神であるキリストと聖徒たちが降臨されるというこの記述を読む時、私たちの心はときめき、鼓動が打ち震えてしまいます。
それは、主が贖われた方とともに地上に降りて来られるからです。
それは、私たちが聖徒たちをご自身のもとに携挙するために空中に来られることに心を奪われていたときと同じです。
最初の封印が解かれたとき、白い馬に乗った人の話を読んだことを覚えていると思います。
しかし、その者は天から来たのではありません。
その者は地上から出て、地上の者なのです。
そしてその者は計画は失敗する運命にありました。
しかしここで白い馬に乗る者は天から来て、彼の計画は決して失敗することがありません。
ここにクリスチャンの安全があります。
主は黙示録の最初にでてくる未来の地上から生まれた者はキリストにはなれません。
主は御言葉によって、主を待つように教えているからです。
かつて、イエスは卑しい姿で来られました。
彼は処女である女から生まれました。
そして、キリストは天から下って来られます。
それ以外の手段で来る者、「わたしはキリストだ」と言っている者は皆、偽る者であって反キリストです。
聖書にはこのように書かれています。
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」
(へブル人への手紙9章27、28節)
この次に来られる時は罪を負うためではありません。
つまり、別の目的の救いのために来られるのです。
これが黙示録のこの個所で描かれている姿です。
神の子の現われとは、敵に復讐し、地上の民を救うことです。
彼らは神を慕い求め、熱心ですが、不安な目をしています。
再臨する主の描写が最も印象的です。
主は平和の君主として白い馬に乗っています。
主はラオデキヤの教会へのメッセージにあるように「忠実で、真実な証人」と呼ばれています。
主は、正しいさばきを行ない、全地に神の支配を確立するために来られたのです。
その目は燃える炎のようであり、人の子が燭台の真ん中で見た幻のように、さまざまな不義を見つけだし、それに報いる用意があることを告げています。
主の頭にある多くの冠は、地上のすべての王国に対する主の権威を宣言しています。
主が杖を取り、すべての王冠が主に渡される時、悪の支配は終わります。
そこには「ご自身のほかだれも知らない名」が記されています。
それは永遠の子としての彼の本質的な栄光を語っています。
つまり、彼は「御父以外の誰も子を理解できない」と宣言したのです。
つまり、主の栄光の奥義は人間の理解を超えているということです。
このように私たちは、正しく「父よ、あなただけが、あなたの祝福された御子の御名を理解しています」と歌うことができるのです。
訳者注)「あなたは永遠の御言葉(Thou Art The Everlasting Word)」の讃美歌の歌詞です。
キリストの服は、預言者イザヤによって私たちが言われているように、敵の血で赤く染まっています。
「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」
(イザヤ書63章2節)
しかし、ここで見られる血に染まった衣服は、幕屋で赤く染められた雄羊の皮のように、死へされた聖別のしるしであると私は考えます。
ここで描写されているのはキリスト御自身の血であり、私たちの贖いの代価です。
彼が3つの名前を持っていることは注目されます。
最初の名前は、すでに見たきたように、人間の理解を超えています。
2つ目の名前は「神のことば」です。
私たちは、それがどんな意味を持つのかを知っています。
神が私たちにこのように啓示されました。
「みことばによって造られた」、すなわち「肉となられた」のです。
やがて、時を経て、私たちに語られています。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。」
(ヨハネの福音書1章1、2節)
ここには永遠の存在、父との同一の存在、しかも別個の人格、すなわち真実な神と永遠の子としての存在があります。
しかし、「語られない言葉」があります。
ヨハネの福音書1章には、このように書かれています。
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
(ヨハネの福音書1章18節)
2つ目の栄光の名前についてはわずかです。
しかし、このつながりを壊さないために、イエスが持っている三つ目の名前や称号を見てゆきましょう。
16節には「王の王、主の主」と書かれています
これが神の表向きの称号です。
すべてのものの正しい相續者である人の子としての名前です。
最初に主が地上にいた時、地は主の主張を認めずに、物笑いの種として主にいばらの冠をかぶせ、王座の代わりに十字架を与えました。
主はここでこれを覆そうとしています。
イザヤ書にはこのように書かれています。
「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」
(イザヤ書52章13節)
地のすべての王国はキリストのものとなります。
この方は、ゆるがない公正の鉄の杖をもって彼らを牧されるのです。
最初の名前は主の永遠の子として神性を示しています。
次の名前は受肉された神です。
三つ目の名前は「王の王、主の主」として再臨される、二度目の現れを示しています。
主に従う天にある軍勢とは誰でしょうか?
(1)先ほど見た花嫁としての教会
(2)昔のディスペンテーションの聖徒たち
(3)獣と反キリストによって殺された患難時代の聖徒たちです。
勝利の主であられる方が共に万軍は進軍します。
主が偉大な権力を握り、支配されます。
主の口から出る鋭い剣は主の言葉です。
このことはすでに第一章で見ています。
ペルガモの教会に警告したことを覚えています
「だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう」
(ヨハネの黙示録2章16節)
また、主は神の怒りの酒ぶねを踏むと言われています。
神の酒ぶねはさばきを惜しまれずに行われます。
このことは14章で学びました。
イザヤ書63章1節から6節には、ここに関係する注目すべき一節があります。
「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」
「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」
「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。
わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。
わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。
わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。」」
(イザヤ書63章1~6節)
この驚くべき預言は、過去にイスラエルの敵に下された裁きの中で部分的に成就しています。
しかし、本章の最後の部分で描かれているように、主が二度目に来られる時に主は怒りの酒ぶねを踏まれ、ご自分とその民の敵をすべて滅ぼされる時に、すべてが成就するのです。
17節から最後まで、最後の裁きの場面である神の大宴会について書かれています。
偉大な芸術家による生々しい描写がありますが、これは正確には「偉大な神の宴会」ではありません。
この「偉大な」という形容詞は英語版では置き換えられており、神そのものを修飾しています。
しかし、実際には、この形容詞はむしろ晩餐を修飾するものです。
つまり、日本語の通りに「神の大宴会」とすべきなのです。
「また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、
王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」
また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。
すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。
残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。」
(ヨハネの黙示録19章17~21節)
怒りの鉢の下で消し去られたように見えた光の源が栄光の中で輝いているのが見えます。
太陽の中に立っている天使が、空の鳥たちを集めて、ハルマゲドンの戦いのために集まってきた地上の大いなる者たちとその大軍の肉を食べさせます。
獣の軍勢と、獣の冒涜的な味方であり、同じ存在でもある偽預言者、すなわち反キリストを引き連れているのがわかります。
地上の王たちは、そのすべての軍勢といっしょに、主イエス・キリストと神の軍勢とに、最後の力を合わせて戦いに臨んでいます。
しかし、旧約のアッスリヤの王セナケリブの軍勢のように、彼らはその口の爆風に打たれ、彼らの軍勢は猛禽類のえじきとなります。
これは、神に対する人間の大胆な抵抗のクライマックスを描いた恐ろしい描写です。
この地上の不義な支配が終わりを告げ、すべての国々が切望してきた黄金時代が到来することを伝える喜びで満たす描写でもあるのです。
この2人が生け捕りにされたことに注目してください。
彼らこそ、黙示録で大きく扱われている二人の共謀者、獣と偽預言者です。
彼らは最後の国家同盟の市民的・宗教的指導者なのです。
結びつきは、その起源においてサタンに触発され、その破滅までもがサタンと同じです。
この二人は「硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。」
千年経っても「永遠の火の復讐に苦しんでいる」のです。
このように、火の湖は消滅ではないし、煉獄でもないことを偶然にも証明しているのです。
千年の裁きの後も、火の池は神と人間の堕落した二人の敵を消滅させるものでも、浄化させるものではないからです。
旧約聖書では、死を経ずに天に行った二人の人がいます。
エノクとエリヤです。
エノクは死を見ることがないと書いています。
「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。」
(へブル人への手紙11章5節)
新約聖書の終わりになって、肉体的な死を経験することなく地獄の火に投げ込まれる二人の人が私たちの前に現れます。
これは、天から語られる方に背を向ける者に対する警告です。
神の恵みの言葉を拒む者には、やがて怒りが下ります。
このような讃美歌があります。
「神の小羊よ!
あなたが栄光のうちにこの哀れな地に帰る時が来ます。
すべてのあなたの敵はあなたの前で震えます。
今、あなたを侮っているすべての者は嘆き悲しみます。
あなたが現われ、私たちはあなたとともに、あなたの王国を治めます。
あなたをほめたたえます。
あなたの栄光を!
神の小羊よ!
罪人のためにほふられた方よ!」
さて、ここで終わりにしたいと思いますが、私たちが学んできたこの2つの晩餐会のどちらに、あなたは参加したいと思っていますか?
読み手の皆さん一人一人に厳粛に印象づけたいと思います。
もし、救われているのであれば、あなたは小羊の婚宴に出席できることを私は知っています。
このディスペンテーションの血で贖われた者はみな、そこにいるからです。
私たちの祝福された主は、あなたがたの罪のために十字架の上で死ぬ神の小羊となられたのです。
ゆえに、だれひとり欠ける者がありません。
あなたがたは主と喜びを共にするのです。
しかし、神の惠みを拒む者に私たちが話していることが起こった時、あなたがたはどうするつもりですか?
あなたがたは、サタンに惑わされ、獣の支配を受け、反キリストの言いなりになるかもしれません。
その場合、あなたは「神の大宴会」に参加することになります。
今、神があなたをご自身に引き寄せますように、、、
聖霊の訴えに逆らってはいけません。
すぐその方のもとに逃げなさい。
その方がこのように言われています。
「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」
(ヨハネの福音書6章37節)
講義21 千年王国、そして白い御座のさばき 20章
地上の千年王国の教義に反対する人たちは、千年王国という言葉が聖書にはないと主張しています。
彼らは、旧約聖書にも新約聖書にも千年については書かれていないと語り、この教えは人が作ったものであり、神の言葉に由来するものではないと主張しているのです。
しかし、特定の言葉が聖書の中で使われていないという事実だけで、その言葉が教える教義が聖書の中で教えられていないことを証明するものではないと答えることができます。
三位一体という言葉は聖書にはありません。
しかし、すべての健全なクリスチャンは、一人の神に三人の人格があるという教義を認めています。
身代わりという言葉もありません。
しかし、「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と書かれています。
どこであなたはこの言葉を見つけることができるのですか?
永遠の御子、神、人間の堕落、腐敗、受肉、キリストにある完全性、そして同様の特徴を持つ多くの言葉が存在しています。
確かに、このような言葉は聖書にはありません。
しかし、これらの言葉は紛れもなく、聖書の中で教えられている偉大な真理を表しており、聖書の教えの重要な部分なのです。
ですから、教義の名前や名称を省略したからといって、その教義自体が存在しないことを証明するものではありません。
また、それが人の手によって作られたことを証明するものでもありません。
しかし、私たちは千年王国についての、この手の言い訳に縛られているわけではありません。
今の問題の言葉は、私たちが注意して見ているこの章に、6回も出てきます。
その言葉のラテン語表記を訳したものにすぎないからです。
それは単純に千年間を表しています。
一世紀が100年を意味し、ヨベルの年が50年の終わりを意味するのと同じです。
つまり、千年王国とは期間を指しています。
その意味は、完全とか、至福とか、はっきりと神の支配を示した言葉ではありません。
神がこの地上に人間を置いてから6千年経過しました。
時間が経過し、地球が終わるまでに千年間残っているということになります。
つまり、その千年間こそが、今、問題にしている千年間なのです。
その千年間は預言者たちに預言された王国であり、新約聖書では「時が成就したディスペンテーション」であることを私は証明したいと思います。
ある人たちは千年王国について、ヨハネの黙示録の中には、分かりにくい箇所があると主張します。
しかし、この個所だけでなく、私たちが「良き時の到来」について読むのは聖書の至る所で教えられていることだからです。
神と人間の大敵であるサタンの束縛は、義の支配の最初に起きる注目すべき出来事です。
先見者は語っています。
「また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。
彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、
底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。
サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。」
(ヨハネの黙示録20章1~3節)
ここで使われているすべてのシンボルを説明することは出来ません。
しかし、人類にとってしつこく悪質な敵であるサタンは、エデンにて私たちの最初の祖先に勝利して以来、策略によって、生まれながらの人間の持つ神から与えられた特権を奪い続けた誘惑者なのです。
そして、もはや、人が欺き、迷わすことが出来なくなる時が来ることを聖書ははっきりと示しています。
つまり、この千年王国の間に人が罪を犯すとすれば、それは惑わされたからではありません。
それは、ただ自分の意志によるもので、自分の心の欲望のために犯すのです。
王国の時代は、罪のないディスペンテーションではないことを覚えておく必要があります。
その祝福された時でさえ、神の御心に逆らってあえて行動する者が起きます。
しかし、そのような者はすぐに裁かれます。
私は非常に例外的だと思いますが、神の王が地上を治めるときでさえ、罪があることを明らかにしています。
キリスト・イエスにあって敬虔に生きようとする者は、この恵みの現われの時には迫害を受けます。
そして、義は苦しむのです。
千年王国では義が支配します。
「王は義をもって支配する」のです。
千年王国に続く永遠の国には、義が宿ります。
それは私たちの我が家です。
すべての悪は新しい天と新しい地から永遠に除かれるのです。
ダニエルはこのように預言しています。
「しかし、いと高き方の聖徒たちが、国を受け継ぎ、永遠に、その国を保って世々限りなく続く。」
(ダニエル書7章18節)
そのことを理解したうえで4節を読んでみましょう。
「また私は、多くの座を見た。彼らはその上に座った。そして裁きを行う権威が彼らに与えられた。
また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。
彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」
(ヨハネの黙示録20章4節)
もし、私がこの個所を正しく理解しているのなら、これは最初の復活の最初の一団になります。
王となるのは、私たちの主と、教会の携挙で取り上げられた聖徒たちと、ダニエル書の70週の最後の週に殺されよみがえった者たちです。
この最後の週は故ウィルアム・ケリーが聖書にある表現を「時の満ち足りたディスペンテーション(時代)」と訳したように、「成就した時代の管理」と理解することもできます。
これらの聖徒たちは、主と共に栄光のうちに現われます。
しかし、主と彼らが地に戻って生きて生活すると理解してはいけません。
彼らの地上との関係は、族長時代のディスペンテーションにおける御使いとの関係に似ていると私は推測しています。
彼らは自由に現れたり消えたりすることができ、この時代に生きる人々のために哀れみをもって監視を行っているのです。
「神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。」
(へブル人への手紙2章5節)
この世界は人の子に服従します。
人の子に従って拒否された者は皆、人の子に属するのです。
彼らは、先に述べた王座に就く者たちのことです。
患難時代には彼らとともに残された聖徒たちがいます。
彼らは、反キリストの支配の恐ろしい時代に、自分たちの神を否定するのではなく、死に苦しみを選んだのです。
彼らの復活は、主が現われて王国を確立した時に起きます。
5節にはこのように書かれています。
「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。」
(ヨハネの黙示録20章5節)
このことは、第一の復活の最初の群れは患難時代の前に起きます。
墓から呼び出されるという、すでに述べられている教えに反するものではありません。
第二の群れは患難時代にありますが、ここにこのように要約されています。
これらの集まりは最初の復活、たましいの復活を構成しています。
このように、裁きの復活とは区別されているのです。
この二つの復活の間に、千年王国が存在します。
救われない者は、天と地が滅びるまで、墓の中にとどまります。
彼らのたましいはハデスに、からだは墓の中にあります。
そして、時の終わりのさばきの日を待っているのです。
ハデスはまさに、真実な死と復活の間にある中間の状態なのです。
「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。
この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。
彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」
(ヨハネの黙示録20章6節)
イザヤ書の預言書を通して、イスラエルとユダが自分たちの土地で一つの民となり、神のもとに魂が回復され、一人一人が自分のぶどうの木といちじくの木の下で平和に暮らすことが預言されています。
主の栄光が、水が海を覆うように、大地を覆う栄光の時を、信仰の望遠鏡を通して見ているのです。
「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。」
(イザヤ書35章1、2節)
猛獣などの被造物も呪いから解放されます。
「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。
主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」
(イザヤ書11章6~9節)
その時、すべての国々はシオンへの道を尋ねます。
エルサレムは、復興したパレスチナだけでなく、全地球の首都となるのです。
エレミヤは、イスラエルの神が「漁夫」を諸国の海に遣わし、どこに隠れていようとも神の民を釣り上げ、彼らを先祖の地に連れて来ることを預言しています。
「見よ。わたしは多くの漁夫をやって、――主の御告げ。――彼らをすなどらせる。
その後、わたしは多くの狩人をやって、すべての山、すべての丘、岩の割れ目から彼らをかり出させる。」
(エレミヤ書16章16節)
町が再び建てられます。
エレミヤは、神がダビデによみがえらせると約束された義の枝の支配の下で、平和で幸せな国民が住むのを見ています。
「見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。
彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。
その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。
その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。
それゆえ、見よ、このような日が来る。――主の御告げ。
――その日には、彼らは、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる。』とはもう言わないで、
『イスラエルの家のすえを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる。』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」」
(エレミヤ書23章5~8節)
エゼキエルは高き所から注がれた聖霊が語った驚くべき預言を付け加えています。
再興されたイスラエルは祭司の国です。
その務めは国々に律法をもたらすことです。
彼は千年王国の神殿を描写しています。
また、さらには約束の地がどのように部族の間で分割されるかを語っています。
そして、次の言葉でエゼキエル書は閉じられています。
「その日からこの町の名は、『主はここにおられる。』と呼ばれる。」
(エゼキエル48章35節)
ダニエル書の終末の幻は、5番目の普遍的王国の到来で締めくくられています。
そして、これが人の子の王国なのです。
これは、人手を使わずに切り出された石であり、異邦人の像の足の上に落ちて粉々にし、大きな山となって全地を満たすのです。
「あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。
そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。
そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。」
(ダニエル書2章34、35節)
これは、旧約の時代に預言された人の子に与えられた王国です。
獣は文明化された全地を支配してきた4つの偉大な帝国を象徴しています。
ホセアは、メシヤがどんなに哀れな屈辱を受けて来たのか描いています。
イスラエルに拒まれましたが、イスラエルが自分たちの罪を認め、御顔を求めるようになるまで、主は行ったり戻ったりしています。
その日、神は、彼らのたましいを取り戻します。
死の支配から彼らを贖い、永遠の義をもたらし、彼らをすべての国々の祝福とするために戻ってこられます。
ヨエルは、大患難の激しさを見ながら、そのあとに続く栄光を見ています。
聖霊がイスラエルだけでなく、すべての肉なるものに注がれることを預言しています。
アモスは、イスラエルののがれた者たちが再び集まり、ヤハウェの完全な支配のもとに彼らの地に住みつくことを証明しています。
最も短い預言であるオバデヤ書は、エドムの裁きを中心に語っています。
オバデヤはこのように勝利を宣言しています。
「救う者たちは、エサウの山をさばくために、シオンの山に上り、王権は主のものとなる。」
(オバデヤ書21節)
預言書の中で、ヨナだけがヤハウェの力の時代のことを書いていません。
しかし、私たちはヨナを通して王国時代の初めに、ヘブル人宣教師たちによる素晴らしい神の証しを学ぶことができます。
彼らは王国時代の初めに神の名声を聞いたこともなく、神の栄光を見たこともない人々の間に福音を宣べ伝えるために出て行くのです。
イザヤ書にはこのように書かれています。
「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。
私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」
(イザヤ書1章2、3節)
つまり、「シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出る」時がきます。
その時に「主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る」ことが述べられています。
そして、世界は「二度と戦いのことを習わない」のです。
「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。
彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」
(イザヤ書1章4節)
ミカ書にも同様なことが記されています。
ナホム書にはこのように書かれています。
「主はねたみ、復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はその仇に復讐する方。敵に怒りを保つ方。」
(ナホム書1章2節)
ナフムはヤハウェの敵が準備された時代に、彼らが受けるさばきを預言しています。
一方、ハバククは見張り所に立ち、来るべき王が栄光をもたらすのを見ています。
「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。
主は私に答えて言われた。幻を書きしるせ。これを読む者が急使として走るために、板の上にはっきり書きしるせ。
この幻は、なお、定めの時のためである。それは終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。
見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。
(ナホム書2章1~4節)
ゼパニヤとハガイは、彼らの神、主が彼らのうちで王座に着かれ、彼らが心を一つにして主に仕える時のことを描いています。
そして、イスラエルの再興と、彼らによって全世界の祝福がもたらされることを示しています。
「それゆえ、わたしを待て。――主の御告げ。――わたしが証人として立つ日を待て。
わたしは諸国の民を集め、もろもろの王国をかき集めてさばき、わたしの憤りと燃える怒りをことごとく彼らに注ぐ。
まことに、全地はわたしのねたみの火によって、焼き尽くされる。
そのとき、わたしは、国々の民のくちびるを変えてきよくする。
彼らはみな主の御名によって祈り、一つになって主に仕える。」
(ゼパニヤ書3章8、9節)
栄光に満ちた預言者ゼカリヤは、他の誰も触れていない詳細な情報を与えています。
再興されたパレスチナの首都に子供たちの遊び場が用意されることさえ語っています。
「万軍の主はこう仰せられる。「再び、エルサレムの広場には、老いた男、老いた女がすわり、年寄りになって、みな手に杖を持とう。
町の広場は、広場で遊ぶ男の子や女の子でいっぱいになろう。」」
(ゼカリヤ書3章4、5節)
主は、エルサレムのあらゆる所に主の聖所があるのを見ておられます。
そして、あらゆる国々が幕屋の祭りを守るために、毎年、そのその聖所にやって来るのです。
マラキは一つのテーマによって書かれた預言書を終え、預言者エリヤによって予告された王の来るべき日のことを告げています。
その王は悪人を踏みつけ、銀の精錬者として座り、レビの子らを清め、太陽の昇る時から沈む時まで、御名を偉大なものとします。
「この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする。
彼らは、主に、義のささげ物をささげる者となり、ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日のように、ずっと前の年のように、主を喜ばせる。」
(マラキ書3章3、4節)
このように、「すべての預言者たちの主に対する証し」というのは、今、主の御名によって罪の赦しがすべての国の間に宣べ伝えられるということだけではありません。
主が再び来られて、御子として、また万物の相続人として、全世界の上に義をもって支配されるということです。
キリストは神の定めによるご自分の相続権を主張されるのです。
その時のことをイザヤは描いています。
「そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。
そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」
(イザヤ書35章34、35節)
このように主だけが、この千年王国の時代に栄光に満たされ、高く褒めたたえられるのです。
「しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」
(ヨハネの黙示録20章7~10節)
まさに、これは地球上の人類の驚くべきアンチクライマックスです。
神以外の誰にもこのような結末は預言できません。
それは人間の心が放っておけば、救いようのない悪であることを示しています。
サタンが奈落の底に閉じ込められている間に、見せかけの王への服従を見せる多くの者がこの世に生まれてくるのです。
心はそこにはありません。
千年の終わりにサタンが少しの間解き放たれます。
サタンは、自分の要求を実行し、大反乱を起こすために全能者に対する最後の準備をする多くの者を見つけます。
それは神に対する悪魔の憎しみの旧約の物語の続きです。
ここでは人間の弱さが再び語られています。
しかし、今回は人間にとって、最も好ましい状況下で起きるのです。
ゆえにサタンの罪は絶対に許されることはありません。
エデンにあった喜びの園で人は試されました。
しかし、アダムに課せられた唯一の禁止事項を破りました。
ノアの時代、良心の下で試され、腐敗と暴力が地上を埋め尽くされました。
しかし、地上は大洪水によって一掃されなければなりませんでした。
神に任命された王の制約の下で人は試され、人は偶像崇拝に入り、創造主に背を向けました。
そして、彼らは律法の下で試され、すべての制約を捨て、栄光の主を十字架につけました。
現在の聖霊のディスペンテーションの恵みの下で試されている者がいます。
しかし、その者にはこのような神の哀れみを全く理解することができません。
罪人は、福音を拒絶し、ますます罪の深みにはまってゆくのです。
やがて、サタンは神の目的を阻止しようと、最後の挑戦的な試みに燃えて深淵の穴から誘惑者として這い上がってきます。
千年間、主イエス・キリストの個人的な支配の下で試練を受けてきた者たちの中に、その誘惑者の声に耳を傾ける準備ができていた者がいるのです。
これらは実に哀しい歴史であり、人間の心は救いがたい悪であるという真実を強調しています。
「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」
(ローマ人への手紙8章7節)
ゆえに、どの時代においても、神の御言葉と聖霊による新しい誕生が必要なのです。
使徒ペトロはこのように教えています。
「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」
(ペテロの手紙第二3章7節)
天に積もり積もった火は、天から出て、サタンの欺きの軍勢を滅ぼし、かつて水によって地上が清められたように、再び地を清めるのです。
これによって時間の流れを閉じられ、永遠の終わりのない時代をもたらせられるのです。
その間、サタンは神の哀れみに対して抵抗します。
そして、神の恵みを拒否した失われた者たちがいる大きな牢獄に閉じ込められることになります。
サタンはかつて神の王座をおおう「油そそがれたケルブ」でした。
「わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。
あなたは火の石の間を歩いていた。」
(エゼキエル書28章14節)
しかし、その美しさのために心が高揚し、高慢さのために神が創られた全宇宙の中で最も呪われた被造物となったのです。
なんという恐ろしい結末なのでしょうか?
主は、サタンには「真理が宿らない」と仰せられています。
「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。」
(ヨハネの福音書8章44節)
サタンはすべての背教者の君主です。
背教はサタンが悪意を持って人類を導くことを目指してきた大きな罪なのです。
偉大な白い王座の裁きは、新しい天と新しい地が導入される前の最後の場面となります。
慎重に学んで行くのなら、多くの人が考えているような世の終わりにおける「全体的な裁き」のことではありません。
キリストが支配される千年の間、死者の世界に残された悪人たちの裁きであることが明らかになります。
私たちが見てきたように、天の栄光にあずかる正しい人たちは、キリストの裁きの座で明らかにされます。
これは罪の裁きではなく、この世での働きに応じた報いを受けることです。
この時代に生きている国々は、マタイの福音書25章で明らかにされているように、千年時代の初めに人の子が栄光のうちに現れると前に召されるのです。
悪人たちは、義の支配の終わりによみがえらされ、その行ないにしたがって罰せられます。
「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」
(マタイの福音書25章31~33節)
現在、宣告されている最大の罪は、すべての人が主の怒りから解放されるために、罪のために贖いをしてくださった主イエス・キリストを人が拒むことです。
しかし、最後に神によって拒絶された場合、人は自分の罪の刑罰に直面しなければなりません。
実に厳かなのは、あの最後の巨大な群れの描写です。
「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
(ヨハネの黙示録20章11~15節)
私たちが他の聖書箇所から知るように、権威ある王座に着く者は、私たちの主イエス・キリストの他に誰もいません。
というのはこのように書かれているからです。
「また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。」
(ヨハネの福音書5章22、23節)
かつて、カルバリの十字架にかかった者主は、生きる者と死者の裁き主となります。
私たちは最初の審判の様子に、すでに注目し尽くしています。
そして、今、私たちが注目しているのは悪人である死者の運命です。
王座が設けられると、私たちが今知っているように、天と地は逃げ去っています。
死者を訴えるために呼び出される方の顔を見て、物質的な世界が恐れているようです。
重要なこの厳粛な時、王座の前に海が現れます。
多くの者が神の恵みを退けたのです。
彼らはすべての時代のすべての失われた者、神の救いよりも自分の罪を優先したすべての人、哀れみの扉が閉ざされるまで先延ばしにしていた者全員です。
彼らは自分の意志で「人に正しいと思われる」道を選びました。
しかし実際には「死の道」だったのです。
このような者は皆、容赦のない義の王座の前に立つために呼び出されるのです。
罪を許されることはありません。
その日には、哀れみや弁解は通じません。
神のさばきは真実であり、すべてのことが考慮され、何事も見逃されていないからです。
それゆえ、ある者は多くの鞭で打たれ、ある者はわずかな鞭が打たれます。
「正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。
とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」
(創世記18章25節)
そして、その決定に対して不服を申し立てることはできません。
トーマス・カーライルは「最後の審判とはなんと見事な概念だろう!
すべての時代の過ちを正すものです」と言いました。
訳者注)トーマス・カーライル(Thomas Carlyle)1795年12月4日生まれ、19世紀イギリスの歴史家・評論家です。
さらに付け加えれば、すべての悪い行いはその根源まで調べ尽くされます。
心に置かれた道徳的な戒めを含むすべての違反行為に対する責任は、本来あるべきところに負わせられることになります。
その裁きから逃れられるほど大きい者はいないだろうし、見過ごされるほど小さい者もいません。
「死んだ人々が、大きい者も」死者としてがそこにいるのです。
彼らのからだは、何世紀も、何千年も、海の底に埋められていました。
しかし、彼らは神の命令によって出てきます。
神の言葉は拒まれることはありません。
人間の死、すなわち肉体を奪った死という墓は、その犠牲者を吐き出します。
ハデスとは目に見えない世界という意味です。
ここでハデスは失われた人々の不滅の霊と魂を引き渡します。
ここで肉体と魂と霊が再会し、人は裁きの法廷の前に立ち震えて立つことになります。
記録された本が開かれます。
記憶はすべての訴えに反応します。
神の言葉がそこで開かれます。
イエスは、終わりの日にモ―セの言葉と御自分の言葉によって人を裁くと宣言しています。
そこで命の書が開かれます。
多くの人たちがその書に自分の名前があることを知っていました。
もしかして、教会や宗教団体の名簿も記載されているかも知れません。
彼らをこの書から見つけ出して下さい。
この書は彼らに不利な証言をします。
彼らの名は小羊の書に記されていません。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれるのです。
大きな白い玉座の前に立つ者は救われることはありません。
一人もいません。
私たちが説明を正しく理解するのであれば、死とハデスは「火の池に投げ込まれる」からです。
長い間、その霊とからだとを蓄え続けてきたすべて失われた者たちは、苦しみの穴の中に捨てられるのです。
神の御言葉によれば、これが「第二の死」です。
これは死とは肉体と霊の分離であり、このことがヤコブの手紙に記されています。
「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」
(ヤコブの手紙2章26節)
第二の死は、人間を創造した神からの失われた者との最後の分離の場面なのです。
生きている星のように、意志を持って軌道から飛び出した惑星は、外の闇の中に飛び出して行きます。
決して、中心にあった太陽には戻ることが出来ずに崩壊するのを待つだけです。
火の湖は計り知れない悲しみの場所であり、永遠の苦しみの象徴となります。
それは、福音に従わない者の終わりを考えるならば、罪人の魂を恐怖で脅かせる傾向のある神の描写です。
この恐怖は、永遠の罪の中に宿ります。
そして、永遠に神の怒りの下にある永遠の人間の特徴となります。
イスカリオテのユダと、この書を書いた愛するヨハネが、天の栄光の中で手を合わせることがなければ、悪人の苦しみは終わりません。
主を裏切ったユダについて、主は次のように宣言しています。
「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。
しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
(マタイの福音書26章24節)
ある人が言っているように、たとえ長い苦しみの後であっても、最後に救いが待ち受けていたなら、ユダでさえ、救いを得て生きることを許されたことを神に感謝したはずです。
ユダとヨハネは二度と出会うことがないのです。
しかし、失われた者の門の上には、かつて「ここに入る者よ、希望を捨てるな」と刻まれています。
今なら、大丈夫です。
今、恵み深い救い主は、悔い改めの最初の一息をついた信仰のかすかな叫び声に答えてくださいます。
神のあわれみを軽んじてはいけません。
ありえもしない第二のチャンスを期待してはいけません。
今こそキリストに寄り添うべきです。
偉大な白い王座で宣告される運命にあなたは加わっていないことを確信してください。
主御自身がこのように言われています。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」
(ヨハネの福音書5章24、25節)
講義22 時代の終わり 21章、22章
最後の黙示録の講演では、これらの最後の2つの章で鮮明に示された真実を概略的に説明したいと思っています。
ここには3つの明確な区分があります。
21章1節から8節までには永遠の出来事が記されています。
9節から27節、および22章の最初の5節には、千年王国の間に地上を支配する神の都、聖なるエルサレムについての詳細に象徴的に見える記述があります。
そして、22章6節から黙示録の終わりまでが神による最後の記述になります。
この書はやがて訪れようとしている時のために、すべての人々へ書かれたのです。
そして、栄光に満ちた主からの現実的なメッセージなのです。
最初の部分は預言が、永遠の状態と正確に同期していないことに注意する必要があります。
特に千年王国を含む、地上のことが述べられています。
聖書の預言の中で、後に続く終わりのない時代に述べられていることは、めったにありません。
ここで私たちにこのように語られています。
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」
(ヨハネの黙示録21章1節)
これはイザヤ書の預言を思い起こさせます。
「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」
(イザヤ書65章57節)
また、他の個所ではこのようにイザヤは語っています。
「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、――主の御告げ。――あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」
(イザヤ書66章22節)
これら二つの聖句で引用しているのは千年王国のことです。
しかし、私たちはここに信仰の望遠鏡を持っているとも言えます。
過去のディスペンテーションでさえ、永遠に残る「変わらない世界」を見ていると考えます。。
私は、使徒ペテロが第二の手紙の中で、今ある新しい天と新しい地が崩壊した後のことを述べていることを知っています。
私たちはこの約束を疑うようなことはしません。
「そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」
(ペテロの手紙第二3章12、13節)
現在の章の最初の聖句で私たちに紹介されている栄光の完成形が、この上記の聖句に示されています。
この終わりなき世界の中で、祝福された主ご自身に次ぐ最もすばらしい存在が、御子の尊い血によって神に贖われた教会なのです。
見てください。
花嫁の状態は千年王国の終わりになっても変わりません。
2節にはこのように書かれています。
「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」
(ヨハネの黙示録21章2節)
この聖句が成就する前に、千年王国の義の支配が行われていました。
それでも聖なる都は、飾られた花嫁のように新鮮で美しい姿で見ることができます。
この幸せな世界は永遠に続きます。
次の二つの節は、決して終わることのない至福の交わりの場面を描写しています。
「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」」
(ヨハネの黙示録21章3、4節)
この文は単純で美しく、美しく解説することしかできません。
すべての信じる心は、その輝かしい日を待ち望んでいます。
御座からの声が聞こえます。
「すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。
勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」
(ヨハネの黙示録21章5~7節)
ここで、再び「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である」と命じられています。
その声は厳かに叫んでいます。
そして、ヨハネは再び書くように命じられ、「これらの言葉は真実で忠実である」と保証される。
そして声は厳かに「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である」と言われています。
これは、神のすべての道が、最初であり、最後である祝福された御子の完全な栄光の中に最終的な解決をしたことの宣言です。
8節では、聖なる都に決して入ることのできない人たちのことが語られています。
彼らは、上記に描かれている輝かしい栄光に預かることはできません。
「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」」
(ヨハネの黙示録21章8節)
しかし、この恐ろしい目録が示される前に、主は別の福音の招きを親切にも加えておられます。
それは、これらの御言葉が伝えられたすべての人に、もしこのことをを利用するならば、他の哀れみがあることを知るためです。
主はこのように述べています。
「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」
(ヨハネの黙示録21章6節)
そして、それに続いて、勝利者への励ましの言葉が述べられています。
「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」
(ヨハネの黙示録21章7節)
今、世は私たちを求めているのかもしれません。
内なる裏切り者の肉は、世と世の神と協調して行動しています。
そして、私たちの魂をキリストから引き離そうとしています。
私たちの前には輝かしい約束の書が置かれています。
現在の視線から、主を愛する者たちのために主が備えておられるものを見る必要があります。
聖霊の力と信仰によって、世に打ち勝つことを切望しなければなりません。
キリストを知る者のために備えられている喜びを、一人の魂も失わないことを、私たちはどんなに喜んで信じる必要があるのです。
このように、この章の最後はとてつもなく厳かな宣言で締めくくられています。
「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」」
(ヨハネの黙示録21章8節)
このリストには、一般的に信じられないようなひどい罪人だけが上げられているのではありません。
キリストを告白することを恐れた臆病な人たちも含まれています。
おそらく、キリストを告白することによって友人から嘲笑されることや、世から離れることを恐れたのかも知れません。
また、神が与えられた証しを信じることを拒み、そして、自分たちの魂をキリストの御業にゆだねることを拒む不信仰な者たちと共に歩む者たちです
この両者は、あらゆる階層の汚れた不敬な者と結びついています。
彼らについてこのように書かれています。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」
(ローマ人への手紙3章24節)
キリストが拒まれているのならば、この点では彼らの最終的な運命に違いはありません。
しかし、前回の講演ですでに述べたように、すべての罪過と不服従は、正当な報いを受けることになります。
9節からは、新しいエルサレムの素晴らしい描写があります。
これは、預言的なアウトラインの結論に基づいていることに注意してください。
それは付録や補足説明の一種です。
17章と18章では、最後の七つの災いの入った七つの鉢を持っていた七人の御使いの一人が、ヨハネに大いなるバビロン王の幻を見せました。
ここでも同じ御使いの一人が、小羊の妻である花嫁を見に来てほしいと言っています。
主は御霊によって彼を大きな高い山に連れて行きました。
その大きな都、聖なるエルサレムが神のもとから天から下って来ることがヨハネに示されます。
「また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。」
(ヨハネの黙示録21章9、10節)
バビロンは町でもあり、女でもあり、大きな組織でもあり、小羊と花嫁と同じように告白する人々の集まりでした。
ですから、ここでは聖なるエルサレムは、町でもあり、女でもあります。
都は花嫁であり聖徒の家です。
私たちがローマについて語るとき、そこに彼女が座っている教会と、彼女が座っている町を意味するのと同じです。
この大きな都が神から天から下って来ます。
私は千年紀の間に天の聖徒たちによって天の諸原理がこの地上全体に広まることを示していると考えます。
それは、主が主の聖徒たちによって、ご自分の相続地を主張されようとしているからです。
私たちは、この都市の象徴的な描写から、現在の私たちに教えてくれる原則を学ぶことができるでしょう。
この原則は来るべき時代に大きな影響力を持ちます。
都には神の栄光があります。
この栄光についてこのように表現されています。
「都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。」
(ヨハネの黙示録21章11節)
教会は義の時代にあっては、神の栄光を現す器でした。
そして、すでに2節が教えられているように、来るべきすべての時代においても同様なのです。
「都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。」
(ヨハネの黙示録21章12節)
「大きな高い城壁」は、罪が入った時から終わりまで、神の御言葉全体に貫かれている聖なる原則である聖別(分離)を語っています。
また、壁は保護のためでもあります。
神の民の分離は、一部の人たちが考えているような、不快感のために切り離す勝手な原理ではありません。
明らかに彼らの祝福のためであり、外部の悪から守るものなのです。
「大きな高い城壁」には「十二の門」があります。
12の数は管理上の完全性を表しています。
そして、聖書の中では門は裁きの場所であることを思い出してください。
ここでは神の神聖に一致しています。
そこでは義によって支配された、聖く幸福な自由が保障され、出入りのための備えがあるということを示していると理解しています。
その門には神の伝道者である十二人の御使いがいます。
そして、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてありました。
それは千年王国の支配が維持されていることを示しています。
私たちがすでに見てきたように、神の地上の民は主と共に壊されることのない交わりを持ち、彼らの国の中で再興されているのです。
このように、天は神の地上の民イズレエルに応えるのです。
イズレエルの名は全世界の祝福を意味します。
「東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。」
(ヨハネの黙示録21章13、14節)
街の四方にある三つの門は、完全に現れた神の支配の普遍性を物語っています。
その城壁には十二の土台石があり、その中には小羊の十二使徒の名前があったと述べられています。
これは、私たちの主が12人の使徒に約束されたことと一致しています。
彼らは、主の拒まれた中においても主に従いました。
地上に再興の日が来ると、彼らは十二の座に着き、イスラエルの十二部族を裁くのです。
「そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。
世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」
(マタイの福音書19章28節)
エペソ人への手紙2章で、教会が使徒と預言者の土台の上に建てられた聖なる宮として描かれています。
ここでの聖なる都は、来るべき時代にその権威の代表者となる選ばれた伝道者たちの上にあるのです。
「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」
(エペソ人への手紙2章21、22節)
ヨハネと話した御使いは、金の測りざおで町を測りました。
「また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。
都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。」
(ヨハネの黙示録21章15~17節)
このことから、この都市は立方体であることが示されています。
確かに、立方体かもしれません。
しかし、率直に言って、立方体を象徴的に考えて、心の目の前に思い描くのは困難だと思います。
私はどちらかというと、その聖なる都を神の山と考えています。
四方四角形の土台の上にある巨大な錐体で、片側が一万二千スタディオンあります。
そして、その長さと幅と同じ高さまでそびえ立っています。
神と小羊の御座は、その頂点であり、そこからいのちの水の川が流れでているのです。
その川の両岸にある黄金の通りの中央で、山のふもとで曲がっているのです。
しかし、私たちが立方体として考えても、錐体として考えても、考え方は同じです。
この町は絶対的な完成度を持つ都市です。
「その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。
都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、
第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」
(ヨハネの黙示録21章18~21節)
先に述べたように、12は精神的な完全性を象徴する数であり、至る所に見られます。
その城壁は碧玉でできています。
神の栄光であり、澄んだガラスのような純金で造られています。
義によって保たれている神の栄光を表現しています。
壁の土台石は、大祭司の胸当てに見られる石と同じように、あらゆる種類の高価な宝石が飾られています。
一つ一つ、一人一人の主を信じる者が主の目に特別に尊いと映っていることを物語っているのです。
十二の門には十二の真珠があります。
どの門もそれぞれ一つの真珠からできているのです。
真珠は良い真珠を捜している商人を思い起こさせます。
「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」
(マタイの福音書13章45、46節)
都の大通りは、透き通ったガラスのような純金でできています。
永遠に私たちの足が神の義の上に立つことを思い起こさせます。
私たちは神の正義の中に立ち、永遠に歩み続けることを表現しています。
私たちの救いの土台となっているのは、ただの哀れみではありません。
神の栄光は、カルバリの十字架の御働きによって完全に正しく保たれています。
このように、御子に信頼を寄せるすべての者を神は誠実、公正に扱うのです。
地上の教会は主の聖なる宮として描かれていますが、その日には神殿は見ることができません。
万軍の神、主と小羊がその神殿だからです。
「私は、この都の中に神殿を見なかった。
それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。」
(ヨハネの黙示録21章22節)
すべての聖徒は、神への距離の近さという特徴を持ちます。
誰も締め出されることはありません。
主はこのように仰せられました。
「あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」
「ヨハネの福音書17章23節」
そして、今、私たちはこのように歌うことができます。
「神の近くにいます。
近くにいます。
かつて、私は近くにいることができませんでした。
しかし、わたしは御子によって近くにいるのです。」
訳者注)ケイツビー・パジェット作の讃美歌、「神とともにある完全な平和の思い(A mind at perfect peace with God)」より
私たちが我が家に帰る時、そこには仕切りの幕はありません。
外庭もなく、そこを超えてゆく必要もありません。
私たちはみな、とこしえに神と小羊と共に我が家にいるのです。
「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」
(ヨハネの黙示録21章23節)
その街には、太陽や月のような、街を照らすための創造された光を発するものは必要ありません。
これらはこの世のためのものです。
来るべき世には必要ありません。
神の栄光はあらゆる所に発せられる光であり、小羊御自身がその光なのです。
これを「子羊は光である」という描写では十分な考えを伝えることができません。
神の栄光は光であり、小羊はその栄光を中心に据えられる方です。
小羊はすべてを照らす灯です。
キリスト・イエスを前に現わされた神の栄光は、今もなお、私たちの光です。
この光は私たちの暗くなった心を照らします。
私たちは天にある聖徒たちの家で永遠にその光を受け続けます。
千年王国の王国に入ることを許された国々は、その光の中を歩みます。
地上のすべての支配者たちは、その栄光と栄誉をその王座の都にもたらし、先細りの天の火を灯すのです。
「諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。
都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。
こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。」
(ヨハネの黙示録21章24~26節)
昼の門は全く閉ざされずにいます。
そこには夜は存在していません。
次の章で同じ表現が繰り返されています。
ここではこのことには触れません。
「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。
小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。」
(ヨハネの黙示録21章27節)
その聖なる都には、汚れたものがはいって来て汚すことができません。
人を欺く蛇も、偽りの父サタンと仲間だと分かる者は神の楽園に入ることができません。
ただ、小羊のいのちの書にしるされている者だけが、神の御前で自分を裁いた者だけが入ることができるのです。
私たちの罪のために、あの恥辱の十字架の上で尊い血を流された方を信じる者たちの名が、今もすでにいのちの書に記されています。
彼らは、聖なる都に飾られていることで保証されています。
続けて、22章を見ていきましょう。
「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。
また、その木の葉は諸国の民をいやした。」
(ヨハネの黙示録22章1、2節)
ダビデは川のことを歌っています。
「川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。」
(詩編46編4節)
この川は、キリストの栄光に対する聖霊のあかしです。
それは神と小羊の御座から注ぎ出ています。
聖霊が御父と御子から出ているからです。
地上で清らかな水の流れを味わった者が、一日中、その生きている水の流れを満ち足りるまで飲むことを切望するのです。
人が地上の園で罪を犯したとき、神は彼を追い出しました。
そして、いのちの木への道を守るために、ケルビムを燃える剣をもってそこに置きました。
彼が食べて永遠に生きることがないためです。
しかし、その剣の名は、主イエス・キリストご自身の思いで覆われました。
今、祝福された真理が知らされています。
死んでよみがえられた方こそ、命の木なのです。
その葉は、メシアの栄光に満ちた支配の期間、諸国民をいやすためのものです。
主に贖われた聖徒たちが喜びの川のほとりに集まって来ます。
その果実は彼らの慰めと喜びとなるのです。
「もはや、のろわれるものは何もない。
神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」
(ヨハネの黙示録22章3、4節)
そこでは、のろいを知ることがありません。
神と小羊の王座は、確実な権威にあって確立されているからです。
神のしもべたちは、自分たちが困窮しているときに、忠実に仕えてくださった神に仕えることに喜びを感じるのです。
彼らは、主の御顔を見ずに仕える召使いのようではありません。
主の御前で、主の御顔の光と額に刻まれた御名を見て、聖なる喜びをもって仕えるのです。
素晴らしい描写は5節で締めくくられています。
「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」
(ヨハネの黙示録22章5節)
ああ、この哀れな世で、神の愛する民の多くがこのことを知っています。
やみの夜と苦悶の夜のことです。
夜は何も見えない闇の時であり、苦しみの時であり、満たされない欲求の時でもあります。
その日、まだ創造されていない完全な祝福で光の中で私たちのすべての望みが実ります。
私たちは、神の都である故郷で、時代を超えて光の中で治めるのです。
終わりの聖句は私たちを長く引き留める必要がありません。
それらは非常に明白で、非常に単純です。
ゆえに、説明があったとしても多くは必要ありません。
しかし、これらの出来事は厳かなものであり、私たちはそれらを軽く見過ごしてはなりません。
それぞれに追加されたメッセージによって、私たちの心に深く浸透することを望んでいます。
6節を私たちに関連付けて読んでゆきましょう。
「御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。
預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。」
(ヨハネの黙示録22章6節)
最近、私たちが勉強してきたことが、いつになったらすべて成就するのでしょうか!
主は三回、ご自身の再臨が近いことを告げられています。
7節で主が述べています。
「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」
(ヨハネの黙示録22章7節)
12節ではこのように述べられています。
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」
(ヨハネの黙示録22章12節)
聖書が閉じられる前に、私たちの主が天から私たちに下された最後のことばが20節にあります。
「これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。」
(ヨハネの黙示録22章20節)
私たちは、愛する使徒が与えられた多くの啓示に押しつぶされて、これらのことを示した御使いの足元に、再びひれ伏して礼拝しようとします。
「これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。
すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」」
(ヨハネの黙示録22章8、9節)
そのことを、不思議に思う必要はありません。
前回と同じように、御使いは「自分がヨハネとその兄弟である預言者たち、そして同じように仲間のしもべである」と宣言します。
もし私たちの中に、この本の教えを守る人たちがいるなら、そのようなことは禁じられています。
「神を拝みなさい」と命令されています。
私たちは主イエスキリストを礼拝することによって、神を礼拝するからです。
「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」
(コロサイ人への手紙2章9、10節)
ダニエル書の預言は次の忠告の言葉で閉じられています。
「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。」
(ダニエル書12章9節)
前の節では、ダニエルに対してこのような言葉がありました。
「ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。」
(ダニエル書12章4節)
しかし、ここでは御使いはヨハネにこのように言っています。
「また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。」
(ヨハネの黙示録22章10節)
11節では、私たちの前に科学そのものが神の言葉と等しく示している偉大な真理を示しています。
すなわち、人の人格は永続する傾向があるということです。
「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。
正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」
(ヨハネの黙示録22章11節)
ここに、来るべき日に発見されることがあります。
ここでは人の人格は永遠に残るという厳粛な真実を神が強調しておられます。
神はこの世界で人々に悔い改めを呼びかけています。
現在の世界では、神は新しくすることを待っているのです。
神は、恵みによって、神に身をゆだねる人々を新しくすることができるのです。
しかし、永遠の世界では、汚れた者や不正な者を清めるために働く力は存在していません。
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。
わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
(ヨハネの黙示録22章12、13節)
12、13節はすでに語っていますので、割愛します。
「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである」
(ヨハネの黙示録22章14節)
KJV訳聖書では「主の命令を行なう者は幸いである(Blessed are they that do his commandments)」と訳されています。
ここには何の根拠もありません。
それはキリストの尊い血によるのです。
どんなに善意であっても聖徒の行為は血で洗われなければなりません。
「犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。」
(ヨハネの黙示録22章15節)
この外には、永遠に、犬のように定められた偽りの使徒たち、魔術を行なう者、不品行の者、すべての殺人者、偶像礼拝者、好んでうそをつく者たちがいます。
彼らにも神が御子の贖いの御業による哀れみが示されました。
彼らが外にいる理由は、その恵みの時に中に入る準備をしなかったからです。
注目すべきことは、祝福された主がご自身を御名によって紹介されていることです。
イエスは御使いを遣わして、諸教会についてこれらの称号を宣言しました。
また、イスラエルとの関係における公式な称号が宣言されました。
それは教会に対しても特別な称号なのです。
その時、聖霊も花嫁も同じように「来てください」という招きの叫びを上げます。
「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。
わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。
御霊も花嫁も言う。「来てください。」」
(ヨハネの黙示録22章16、17節)
この方はダビデの根です。
ダビデはこの方から生まれたのです。
この方がダビデの創造者、主なのです。
御自分の民イスラエルを導くために彼は召されたからです。
彼はダビデの子孫です。
人としてダビデの子孫の娘から生まれたのです。
彼こそが「明けの明星」です。
すぐに御霊も花嫁も答えて。「来てください」と言います。
それは、輝きを放ち、ご自身のものをご自身の所に集めるために帰ってくることへの招待です。
聞く者はみな、この叫びに加わるよう促されます。
「来てください。」
最後に、イエスの御帰りを待ち望み、まだ、イエスを知らないすべての人への福音の招きがあります。
「「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。
渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」
(ヨハネの黙示録22章17節)
18節と19節では、この書の預言のことばを聞くすべての人に対して、栄光を受けた主ご自身が明確な厳かさをもって証しされています。
「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。
もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」
(ヨハネの黙示録22章18、19節)
ああ、この証しを拒否し、そのメッセージを拒否する人たちの運命はなんとも恐ろしいことなのです。
生ける神の御言葉を拒むよりは、生まれなかった方がはるかに良かったのです。
「これらのことをあかしする方がこう言われる。
「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。」
(ヨハネの黙示録22章20節)
すべての信じる心は「主イエスよ、来てください」という祈りによって使徒と一緒になることができます。
しかし、私たちは神の帰りを待つ間、罪の中にある世界に神の恵みのメッセージを伝えようとします。
このように、使徒的な祝福とともに、黙示録とともに聖書の全体の幕は閉じられます。
「主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」
(ヨハネの黙示録22章21節)