メッセージAU 2025/6/4
ヨハネの福音書講義
H・A・アイアンサイド
Addresses on the Gospel of JohnN
By H.A.Ironside


ヨハネの福音書 H・A・アイアンサイド
ローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、コリント人への手紙第一、第二の解説書の著者です。


はじめに

この本は近年の私の他の多くの本と同様に、シカゴのムーディ記念教会で公演されたものを速記したもので構成されています。

多少慎重に編集されてはいるが、時々同じ事が繰り返し語られており、口語的な文体が見られます。
これは日曜日に一年以上にわたって行われ、神学者や学者ではなく、集会に出席した多くの大衆、あるいはラジオで何千人もの人々を導くことを目的とした連続した講演でやむをえないところがあります。
また、この講演は主イエス・キリストの働きに専念しているムーディー聖書研究所の放送局であるWMBIで放送されたものです。
この講演は多くの不備があるにもかかわらず、現在、続けて発信されています。
私は多くの読者にとって有益で祝福されることを信じています。
ヨハネの福音書はよく「世界で最も偉大な本」と呼ばれています。
この書には私たちの贖いのために受肉された永遠の神である御言葉が示されています。
そして、何百万人もの人々に命と安心をもたらしているのです。

H・A・アイアンサイド


目次

はじめに
1、永遠の言葉
2、バプテスマのヨハネの働きと受肉
3、満ちあふれる恵み
4、ヨハネの記録
5、他の人をイエスのもとに連れて行く
6、キリストの最初の奇跡
7、神殿の清め
8、主とニコデモへの会見
9、福音の核心
10、バプテスマのヨハネの最後の証言
11、キリストとサマリヤの女
12、サマリア人の改心
13、ガリラヤにて
14、ベセスダの池で
15、神と等しい方
16、二つの復活
17、五人の証人
18、群衆を養う
19、永遠のいのちに至る食物
20、キリストの肉を食べ、血を飲む
21、生きたパン
22、神とキリストに対する世の反応
23、律法家への挑戦
24、聖霊の約束
25、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
26、キリストと姦淫の女
27、世の光
28、死後に救いの第二のチャンスはあるのか?
29、人格をもった悪魔の存在
30、世に来られる前のキリスト
31、盲人と堕落から永遠の祝福へ
32、良き羊飼い
33、キリストの羊の安全
34、父の永遠の子
35、復活といのち
36、一人の人が国のために死ぬ
37、キリストへの心の感謝
38、勝利の入場
39、あなたがたは、光がある間に歩きなさい
40、キリストを告白することと拒むこと
41、裁き者ではなく救い主
42、水の洗い
43、暴かれた裏切り者
44、11番目の戒め
45、父の家と主の帰還
46、御子の中に現れた御父
47、約束の慰め主
48、父の平和
49、まことのぶどうの木
50、愛にとどまる
51、この世の者ではない
52、慰め主の働き
53、 しばらくすると
54、主イエスの御名による祈り
55、主の大祭司としての祈り(1)
56、主の大祭司としての祈り(2)
57、主の大祭司としての祈り(3)
58、主の大祭司としての祈り(4)
59、主の大祭司としての祈り(5)
60、園の中
61、ペテロの否認
62、ピラトの前のキリスト
63、キリストの前のピラト
64、キリストの完成した御業
65、王の埋葬
66、空っぽの墓
67、中央におられるイエス
68、使徒として確認されたペテロ


講演1 永遠の言葉

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
(ヨハネの福音書1章1~5節)


なぜ?4つの福音書があるのでしょうか。
なぜ?それぞれ異なるように見えているのでしょうか。
福音書の研究を始めるのに、このような疑問を持ち、その答えを求めようとすることは良いことです。
一人の人がイエスについて、
イエスの言われた記録を書き続けるよう、私たちの神はしもべのひとりを起こし、奮い立たせることができたはずです。
人はこのようにして本を書きます。
しかし、御父はこのようにすることを喜ばせませんでした。」。
その代わりに、キリストについての四つの異なった記録を私たちに与えています。
クリスチャン時代の最初の二世紀、いわゆる「調和した福音」として、人々はこれらを一つの福音として織り込もうとしてきました。
しかし、イエスがいた時代の習慣に関連する多くの事柄を理解していないため、年代的に見てもすべてを一致させるのは難しいと感じることがあります。
しかし、すべてそれぞれの記録が完全なのです。
一人一人が神の霊感を受けています。
時には矛盾する証言の証拠があるように見えますが、それは単に私たちが事実を知らないだけです。
マタイの福音書の、聖霊の唯一の優れた目的は、私たちの主イエスを約束された王でありメシアとして示すことでした。
そのことが、何の困難もなく記されています。
ゆえに、マタイの福音書をユダヤ人の福音書と呼ぶこともあります。
私は常にその表現を守りたいと思っています。
しかしながら、このことが悪用されてきたからです。
それでも、クリスチャンへのメッセージでないわけではありません。
しかし、私たちがマタイの福音書を無視できるという意味ではありません。
この福音書は、ユダヤ人の心、特に旧約聖書に関心のあるユダヤ人の心に訴えるような形で、主イエス・キリストの生涯を示すために神が特別に設計されたものです。
現代のユダヤ人がもっと聖書に精通していればいいと私が思ってます。
もしそうならば、ユダヤ人にキリストを説明することはもっと簡単になるはずです。
ユダヤ人は、何世紀にもわたって聖書よりもタルムードに多くの関心を注いできました。
残念ながら、現在ではユダヤ人の心に接近することは難しいようです。
しかし、マタイは読者が旧約聖書を知っていることを前提にしています。
全体を通して「それが成就する」、「このように書かれている」といった表現に徹しています。
キリストの生涯の中で、直接的な旧約聖書の成就であった出来事を次から次へと述べています。
マタイはイエスをイスラエルの救世主として紹介しています。
その優れた例は「見よ。あなたの王」という表現です。
その反面、マルコは別の立場から書いています。
マルコはイエスを偉大なしもべ預言者として、この世で神の御心を行っていると述べています。
マルコの福音書では系図がないのはそのためです。
このような系図がマタイとルカの福音書にはありますが、マルコの福音書にはありません。
なぜでしょうか?

あなたがたは、自分のために部下を求めるならば、家系のことは聞かないはずです。
あなたは誰か有名な人物の子孫ですか?
あなたの父親はだれですか?とは聞きません。
あなたは何が出来るのですかです?
マルコの福音書では冒頭から祝福された主がしもべとして語られているのです。
なので、「見よ。わたしは使いを、」という言葉で始まっています。
ルカの福音書に目を向けるならば、主イエスが完全な人、この地上を歩いた唯一の完全な人として示されていることがわかります。
主イエスがさまざまな環境に入ってこられています。
さまざまな機会に、あなたは夕食の席にイエスを座らせることができます。
私は食卓ほど人を引き出せる場所であることは知っています。
食卓ほど素晴らしい場所はありません。
もし人を説得させたいのであれば、おいしい夕食をごちそうでもして、話を始めさせれば良いのです。
私はマルティン・ルターの伝記を何冊も読んできました。
でも、ルターのテーブル・トークを知るまでは、ルターのことを本当に知ることはありませんでした。

ルカの福音書の多くは、私たちの主イエス・キリストの「テーブル・トーク」から成り立っています。
ルカは、神と人との間の唯一の仲介者である「人であるキリスト・イエスを見る」ことを語っているのです。
ヨハネの福音書に目を向けるならば、開けた天と、永遠の子が上から降りてきて、処女の胎内に身を置き、神と人が一つの祝福された栄光に満ちた者が見えます。
永遠の子は肉において現れたのです。
ヨハネは「あなたがたの神を見る」ことを語っているのです。
ヨハネの福音書は、私たちの主イエス・キリストの神格と神性の真理を立証するために書かれたのです。
最初の12章は、神の御子が世に示され、罪人の世界に訴えている姿が描かれています。
このようなさまざまな特徴に注目しながら、ヨハネの福音書の学びを進めていくことにします。
13章から始まり、終わりに至るまで、私たちの主イエスが御子として、ご自分の愛する人々に、汚れから足を守る方として啓示されています。
この時代において、主が提案された出来事が驚くべき方法で展開されています。
そして、主の民に対する主の慈愛によって、輝かしい真実の広がりを見ることができるのです。
そのとき、私たちには、ディスペンテーションの終わりに、栄光のうちに再び来られるという約束があります。
これは、すべての真理に導く、慰め主の到来です。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」
(ヨハネの福音書1章1~4節)


ヨハネの福音書は、私たちの祝福された主の福音書です。
恵みによって、私たちの贖いのために受肉された方を永遠の御言葉として示しています。
マタイやルカにあるような人間の系図が示されていません。
私たちは過去の永遠の記憶に連れ戻されてしまいます。
ここでの「初めに」という言葉は、創世記1章1節と同じ表現です。

「初めに、神が天と地を創造した。」
(創世記1章1節)


ここには創造の始まりがあります。
しかし、ヨハネの福音書では創造が始まるずっと前から、父のふところにいた御子を見ることができます。
すべての始まりが始まったとき、「ことば」がそこにありました。
ここに書かれている7つのことに注目してください。

1)私たちの主は永遠に存在します。
「初めに、ことばがあった」と書かれています。

2)人格的に独立しています。
「ことばは神とともにあった」と書かれています。

3)キリストは真実なる神です。
「ことばは神であった」と書かれています。

4)キリストは変わることのない御父との交わりを持っています。
「この方は、初めに神とともにおられた」と書かれています。

5)ここには完全な創造による栄光が記されています。
「すべてのものは、この方によって造られた」と書かれています。

6)キリストは生きるための力を与えます。
「この方にいのちがあった」と書かれています。

7)キリストは受肉されました。
「ことばは人となって」と書かれています。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
(ヨハネの福音書1章14節)


これらのことを通して、私たちは7つの点をよく考えてみましょう!
まず、キリストの存在の永遠性に注目します。
ここではあらゆる種類の一神主義は排除されます。
言葉には始まりがありません。
御子は御父と同じように永遠な存在なのです。
このことと違うことを教えることは、私たちの信仰の基礎そのものを否定することになります。
黙示録にはこのように書かれています。

「わたしはアルファであり、オメガである。
最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
(黙示録22章13節)


キリストには始まりはありません。
キリストこそが始まりであり、また終わりなのです。

しかし、単に彼が永遠に神の座にいたということではありません。
聖書は、キリストの明確な人格についても主張しています。
このことは「ことばは神とともにあった」という表現の中にも暗示されています
私たちは箴言の中にある知恵からも読み明かすことができます。

「神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。」
(箴言8章27節)


そして、再び30節ではこのようにあります。

「わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった」
(箴言8章30節)

永遠の知恵と永遠の言葉は一つです。
過去のすべての時代を通して、キリストは神格を持ちながら、もっとも明確な人格をもった存在となったのです。
交わりが、御父と御子の間にありました。
しかし、これは御子の劣っていることを意味していません。
キリストは完全な神なのです。
ことばは神なのです。

御父が神であり、聖霊が神であったように、言葉も神なのです。
もう、これ以上言うことはありません。
次の聖句は、繰り返しのように見えるかもしれません。

「この方は、初めに神とともにおられた。」
(ヨハネの福音書1章2節)


しかし、この聖句は現実に、私たちの前で述べられた聖句に新しいことを付け加えています。
この聖句は神の不変の人格を語っているのです。

彼は永遠に神と同じ存在です。
つまり、イエスは永遠に子なる存在なのです。
イエスは世に生まれたときに子となったのではありません。
御父は子が救い主となるために遣わされたのです。

「私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。」
(ヨハネの手紙第一4章14節)


彼は遣わされてから子になったのではなく、初めから子なのです。
創造は三位一体の神、それぞれに帰属します。
ここでは「すべてのものは、この方によって造られた」と述べられています。
詩篇ではこのように記されています。

「英知をもって天を造られた方に。その恵みはとこしえまで。」
(詩編136編5節)


エロヒムは天と地を創造された三位一体の神なのです。

訳者注)エロヒム(Elohim)とは、 ヘブル語のエール(神)の複数形で、三位一体の神を表わしています。

御父は計画を立てます。
みことばであるキリストは代理人です。
聖霊は神の計画を実行する者です。
最初の創造を生み出したのがみことばであるように、神は「創造の始まり」なのです。
黙示録にはこのようにあります。

「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。」
(ヨハネの黙示録3章14節)

これは、神が最初に造られたのがキリストであるという意味ではありません。
神の創造物、すなわちキリストがすべての信者の属する新しい創造物を造られたという意味です。
キリスト以外に命はありません。
神は生命の源水であり、それは自然の命と霊的な命の両方を含んでいます。
すべての自然の命は神から出ています。
また、霊的ないのちについてはこのように書かれています。

「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」
(ヨハネの手紙第一5章12節)


その生命は、キリストの人間性を通して、キリストの中に完全に見られています。
「このいのちは人の光」なのです。
キリストはこの場面で移動しながらすべての人に光を投げかけています。
神がどのように見ているかを私たちに物事を教えています。
これは7番目のポイントである「キリストの受肉」につながります。
そうです。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」のです。
ことばは造られたのではありません。
なられたのです。
厳密に言えば、キリストは何かに「造られた」のではありません。
御父を人に現わし、神によって人を贖うために、謙遜にも恵みによって肉となられたのです。
ヨハネの福音書は、この二重のテーマに捧げられています。
この聖なるページを熟読するならば、永遠の御言葉が、肉となって人々の間を歩き回り、すべての完全な方法で父を賛美し、神の御心を完全に語ったのです。
そして、最後に、来るべき永遠の時代において、神の栄光を分かち合うために、神に対して人間を贖うために、十字架の上で罪の代価としてご自身を捧げたのを見ることができます。
この「言葉」はギリシャ語の「ロゴス(Logos)」が翻訳されたものであることはよく知られています。
この言葉は私たちの主が地上に現れた時には、知識人にはすでによく知られていた言葉でした。
ギリシャ語圏のあらゆる場所で、プラトンの著作が広まりました。
プラトンは多くの謎が解けないことについて語っています。
しかし、やがて、いつの日かすべてのことを明らかにする神の「言葉(ロゴス)」が出てくるという希望を表明していました。
ヨハネは、聖霊に導かれて、この福音書が始まる素晴らしい文章を書いた時、この概念を念頭に置いていたかもしれません。
このように、神を通して「今、御言葉が語られた」のです
キリストにおいて神の御心は完全に明らかにされています。
キリストの言うことを聞く者は、神の言うことを聞くのです。
使徒の手紙にはこのように書かれています。

「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」
(コロサイ人への手紙2章13節)


また、私たちがこの章を見ていくならば、神について使われている多くの多様な名称や表現を見ることができます。
彼は「キリスト」、油そそがれた方、イスラエルのメシアです。
バプテスマのヨハネは、イエスを「神の子羊」、罪を負う者とし、また「神の子」であると宣言しています。
弟子たちはイエスを「先生」として認めています。
ピリポは、当時彼が理解していたように、ヨセフの子ナザレのイエスの中に「モーセが律法と預言者たちに書いた方」を見つけたと確信しています。
ナタナエルもイエスを「神の子」と認め、「イスラエルの王」と宣言しました。

イエスは、後によく口にされていた「人の子」という表現を用いています。
神の御使いたちが天のはしごを上り下りするヤコブのはしごという表現を使って、人の子は天と地とをつなぐ架け橋であることを示しています。
神の聖霊によってキリストが現わされています。
そして、神の恵みによって目覚めた人間の心にあらゆる方法で理解が与えられます。
この福音書を通して、このことが神によって示されていることがわかります


講演2 バプテスマのヨハネの働きと受肉

「神から遣わされたヨハネという人が現われた。
この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
(ヨハネの福音書1章5~14節)


私たちはイエスが最初から、永遠の御言葉である存在であり、父と一つであることを見てきました。
すべてのものが生まれたとき、すでにイエスは存在していました。
彼は最初に生まれたのではありません。
すでに存在していたのです。
イエスは御言葉です。
イエスは神と共にいたのです。
イエスは神であり、最初から神と共におられる御子なのです。
イエスの人格は全く変わっていません。
御子は永遠の昔から御子であるように、すべての創造の前にも御子だったのです。

「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
(ヨハネの福音書1章3節)

この事実によって、私たちの心は奪われていますか?
私たちは十字架にかかった方が地球の創造者であることを知っていますか?
私は人々が犠牲を払ったのが誰なのかを理解していないからだと思うことがあります。
W.P.マッケイ博士(Dr W.P.McKay)は著書「恵みと真理(Grace and Truth)」の中である夫人との会話を記しています。
ある時、御言葉を説き、真実を述べた後に、その婦人が彼のところに来て「受け入れることはできない」と言ったことを語っています。
マッケイ博士は「何が受け入れられないんだ?」と問い返しました。
婦人は「あなたが私たちに語っていたことは、神が罪のない人を罪のある人のために死ぬことを許したということです」と答えました。
博士は答えました。
「それは正しくありません。
罪を犯した者が、罪のない者の死によって救われるという義は存在しません。
婦人よ、それは福音の意味を誤解しています。
福音とは、罪のない人が罪のある人のために死んだということではありません。」
最初の福音の宣言は、神が人間になったということです。
キリストは罪を負うために、神の恵みによって人となられたのです。
そして、自分の創造した被造物の罪のために死なれたのです。
その方は十字架上で罪のある人のために死んだのです。
単に罪のない人ではありません。
キリストはご自分で造られた者の罪を取り除くために、私たちと同じ人間となられたのです。
神がキリストをお与えになりました。
どうしてそれが単なる「義」なのでしょうか?
婦人よ、それは愛です!
私たちのためにご自身をお与えになったのは、永遠の愛です。
それがヨハネの福音書の明白な教えなのです。」
キリストは十字架上で死なれ、その方は万物の創造主です。
被造物によって不当な扱いを受け、罪人とされた方です。
それでも、人は自分の記録を正したり、裁きを逃れる方法を見つけることができない罪人なのです。
主は、主に信賴する者を救うために、恵みをもって来られました。
6節からは、受肉の話に入ります。
まず、私たちのキリストの先駆者に目が向けられます。

「神から遣わされた人がいた。その名はヨハネであった」。
(ヨハネの福音書1章6節)


何世紀にもわたって、神は失われた民に福音を宣べ伝えるために人を召された時、ヨハネという名前の人をくり返し召してきました。
これは多くの場合において、真実です。
聖書には、バプテスマのヨハネ、使徒ヨハネ、ヨハネと呼ばれるマルコがいます。
それ以来、主が御言葉を宣べ伝えるために召された多くのヨハネ(ジョン)が存在しています。
宗教改革の時代になると、ジョン・ノックスとジョン・カルヴァンがいます。
その後の18世紀の偉大なリバイバルではジョン・ウェスレーがいます。
彼は救いの保証について何も知らない人々に宣教するために神から遣わされました。
ヨハネの名前の多い理由の一つは、この名前によって神の民に訴えかけるからだと思います。
「ヨハネ(ジョン)」が何を意味するか知っているでしょうか?
「ヤハウェの恵み」「主の恵み」を意味しています。
バプテスマのヨハネは、主イエス・キリストの来臨のために道を整えるために来ました。
ヨハネは聖書の証しの中で特に特異な位置を占めていました。
私たちにはこのように語られています。

「律法と預言者はヨハネまでです。」
(ルカの福音書16章16節)


その時から、神の御国、恵みと真実な王国が宣べ伝えられました。
ヨハネは預言者たちの最後の人であり、新しいディスペンティーションの最初の人でした。
イエス・キリストはヨハネのことをこのように呼んでいます。

「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」
(マタイの福音書16章16節)

どのような意味で、ヨハネは女から生まれた者の中で最も偉大な者だったのでしょうか?
彼はキリストについて預言しただけではありません。
実際にキリストを迎え入れたのです。
キリストにバプテスマを授けたのは、イエスが死なれるために来られたことを人々に確認させるためだったのです。
ヨハネは、主イエスのバプテスマを授けています。
また、世の罪を取り除く神の小羊を宣べ伝える者として、すべての預言者の仲間の中で最も偉大な者だったのです。
彼に与えられた特権を誰も持っていません。
イエスは私たちにこのように語っています。

「しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」
(マタイの福音書11章11節)


これはどういう意味でしょうか。
人々にこの地上に神の王国を建てるための悔い改めを呼びかけるようにヨハネに要求されました。
ヨハネは他の者のために戸を開きました。
しかし、自分はその中に入ることを許されなかったのです。

「花嫁を迎える者は花婿です。
そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。
それで、私もその喜びで満たされているのです。」
(ヨハネの福音書3章29節)


ヨハネは花婿の友人です。
そして、主イエス・キリストが来られたのを喜んでいるのです。
ヨハネは、成就された栄光の働きと、その偉大さを喜んでいます。
ヨハネは「私はメシアではない、ただの花嫁の友人」だと答えたのです。
それは素晴らしい特権です。
バプテスマのヨハネほど、神のしもべとして謙遜な者はいません。
彼らが来て、ヨハネが何者かを尋ねた時、ヨハネは高慢にならず謙遜に答えたのです。
ある者たちがヨハネの資格を要求するとこのように答えました。

「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」
(ヨハネの福音書1章23節)


声はみることができません。
ただ聞くだけです。
ヨハネは人々が自分のことで夢中になることを望んでいません。
ヨハネの喜びは、自分が先駆者であり、その方を高く讃えることだけでした。
ゆえに、ヨハネは神のすべてのしもべの手本となったのです。
私たちは、他の人に自分のことで夢中になってほしいと思いがちです。
私たちは他人によく思われたいのです。
誤解されたり、不親切なことを言われるとすぐに傷つきます。
しかし、そんなことはヨハネの頭にはありません。
キリストだけが栄光を受けることができれば良いのです。
ヨハネは自分のことは気にしていません。
使徒パウロもその思いに慕った一人です。
パウロはこのように語っています。

「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。」
(ピリピ人への手紙1章20節)


これが神から遣わされた人であるバプテスマのヨハネの特別な目的だったのです。
神が人を捕らえ、偉大なことを言われるのです。
「わたしはあなたに私の命令に従って欲しいのです。」
私が14歳の時、神が私に手を下されたことを確信しています。
主が言われました。
「私はあなたの魂を救いました。
私の福音を宣べ伝えるために出て行ってほしいのです。」
50年もの間、善悪を問わず、この喜びに満ちたメッセージを宣べ伝えることができたのは、私にとって喜ばしいことです。
時には、神が手を差し伸べるまで何年も働きを続ける人もいます。
祝福された主がダマスコの途上でサウロに現われて言われた時、タルソスのサウロは30歲を超えた成年でした。

「起き上がって、自分の足で立ちなさい。
わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。」
(使徒の働き26章16、17節)


ペテロが漁師をしていた時、イエスがペテロのところに来て言いました。

「イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。
あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らはすぐに網を捨てて従った。」
(マタイの福音書4章19、20節)


主がマタイのところに来たのは、マタイが取税人として机に座っていた時でした。
ある人がマタイはペテロへ悪口を教えた人だと言っています。
マタイはローマの取税人でした。
そして、マタイはユダヤ人でしたが、自分の民に重税を課していました
ペテロが船いっぱいの魚を持ってくるたびに、マタイは下って行きました。
そして、「魚の2割をください」と言うことが仕事でした。
ペテロとマタイが政府の人選でもめたり、ペテロが取税人の言いなりになってののしったり、悪口を言ったりしているのが想像できます!
しかし、主がローマの役人のマタイに来て言いました。

「わたしについて来なさい。」
(マタイの福音書9章9節)


永遠にマタイは取税人の机から離れたのです。
そして、最初の福音書を書く者として選ばれたのです。
この箇所を読んでいる人の中に、神が語りかけている人がいるかも知れません。
静かな夜の時間にこのように語りかけるのを聞くかも知れません。
「私はあなたを、私のしもべとして宣教師として遣わします。」
私の特別な任務において、私のために働いて欲しいのです。
あなたがたは「私はここにいます、主よ、私をお遣わし下さい」 と言うかも知れません。
恐れてはなりません。
主に従がうのです。」
ある日、人々はあなたについて「神から遣わされた人がいます」と言うかも知れません。
このようにヨハネヨハネは、キリストのさばきの座に立つときに召しに従って報いを受けるのです。
さて、ヨハネが証しを求めてやってきました。
それは、すべての奉仕者が証しすべきことです。
証し人は自分が思っていることを話すのではありません。
自分が知っていることを話すのです。

「彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」
(ヨハネの福音書1章7節)


では、光には証人が必要でしょうか?
はい、このような暗い世界では人は目が見えないのです。
人々は何も見ることができません。
ゆえに、光が来たという事実の証人を必要としています。
ヨハネは世が盲目であることを知っていました。
ヨハネは光が失われた人々のところに来たのです。
驚くべきことに、人々が御言葉を受け取って信じた時にその失明が見えるようになったのです。
彼らは光であるキリストを見たのです。

「すべての人が彼によって信じるためである。」
(ヨハネの福音書1章7節)


光は誰でしょうか?
私たちの主イエス・キリストご自身です。

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」
(ヨハネの福音書1章9節)


ここでこの聖句の少し違う表現に注目してみましょう。
私たちは「そのまことの光」と読んでいます。
確かに、そこには多くの偽りの光が存在しています。
この多くの偽りの揺らめく光が存在し、人々は滅びへと導かれます。
「すべての人を照らすそのまことの光」とはどういう意味でしょうか?
キリストは、世に生まれてくるすべての人に霊的な光を与えているのでしょうか?
確かに部分的に与えるかも知れません。。
この聖句にはそれ以上のものが含まれていると考えます。
私は現実は次のようだと信じています。
「すべての人を照らすそのまことの光が、世に生まれてくる者たちに光を投げかけようとしていた。」
この光は人の中にある光ではなく、外から人を照らす光なのです。
私が言いたいことは、主イエス・キリストは、罪深い人たちによって成り立っている邪悪な世界に来られたということです。
罪人は罪を甘い蜜のように口の中で味わっているのです。
しかし、
イエスは、この地上を歩いたただひとりの聖なる人として来られました。
イエスが人々の中を出入りするならば、すべての人の上に光が照らされ、対照的に罪が現れました。
イエスはすべての人に光を当てたのです。
読者の中に、こんなことを思っている人がいるかも知れません。
私はこの福音を必要としていません。
福音による新生を必要としていません。
私は大きな犯罪を犯した犯罪者ではありません。
私は誰も殺していません。
私は盗んでいません。
私は呪ったり罵ったりはしません。
わたしは罪人ではありません。
ちょっと待ってください!
友よ!
あなたがたは来て、主イエス・キリストのそばに立つのです!
その方は完璧な人です。
あなたの人生をイエスの人生と比べて見てください。
あなたの霊、あなたの言葉、あなたの見方を、イエスと比べて見てください。
私たちが神のそばに立つ時、神は私たちに光を投げかけます。
そして、その光は私たちの霊的、道徳的な欠陥をすべて明らかにします。
そうです。

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」
(ヨハネの福音書1章9節)


律法は一つの国と一つの国民に与えられました。
アモスはその光を曲がったところを見つけるものを「重りなわ」と呼んでいました。
アモスは壁を作ることを考えている。
ある者がこの壁を見て「この壁はまっすぐじゃない」と言います。
施行者はこれに腹を立てます。
アモスが「重りなわ」を取って壁に落とすと、それは不完全さをあらわにします。

「主は私に仰せられた。「アモス。何を見ているのか。」私が「重りなわです。」と言うと、主は仰せられた。
「見よ。わたしは重りなわを、わたしの民イスラエルの真中に垂れ下げよう。
わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。」
(アモス書7章8節)


ここにいる人には完全が求められています。
そして神は「私はあなたを試みます。
あなたが曲がっていることが証明されるのです」と言うのです。
聖書にはこのように記されています。

「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」
(ヤコブの手紙2章10節)


しかし、イエスはそのすべての要求に応じています。
イエスはその要求をすべて満たしたのです。
「イエスには罪がありません。」
「イエスは罪を知らないのです。」
「イエスは罪を行いません。」
これが神のための人のあるべき姿です。
主の隣に立つ時、かつてのあなた方の不完全さがすべて明らかになります。

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」
(ヨハネの福音書1章9、10節)

「その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」
(ヨハネの福音書1章27節


イエスはあなたに光を照らします。
イエスは「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」と言われる光です。
イエスは私の罪を明らかにするためだけに来られたのでしょうか?
イエスは私の不完全性を明らかにするためだけに来られたのでしょうか?
その通りです。
最初に神は、私に私の必要を認識させなければなりません。
しかし、それは神が私の救い主としてご自身を現されるためです。

「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」
(ヨハネの福音書1章10節)


神ご自身が降りて来て、彼らの間に住まわれるとは、町の者たちの誰もが夢にも思いつくことがないことです。
かつて、妻と私はナザレの通りを歩いたことがありました。
通りに流れる汚れや汚物のある下水道のドブで遊んでいる汚れた子供たちに驚いたことを覚えています。
妻が歩いているうちに泣き出しました。
涙が彼女の頬を伝っています。
私は「どうしたのですか?
具合が悪いのですか?」と尋ねました。
彼女は言いました。
「いいえ、違います。
私はマリアとイエスのことを考えていました。
マリアはこのような場所で聖なる子を育てていたのです。
当時は今よりももっとひどかったはずです。」
中東の街々が汚くて恐ろしいものであるかを知っていますか?
このアメリカでさえ、あなた方は恐ろしく臭い匂いを嗅いだことがあるという人もいます。
しかし、中東を訪れたことがなければ、まだ臭いものを嗅いだとは言えません。
イエスは湖の底の濁った水から上って来る純白のゆりのようです。
イエスは様々な汚物と汚れの中で成長されました。
イエスは純潔な方であり、聖なる方なのです。
しかし、「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」のです。

イエスは彼らの家に机といすを造り、彼らの家の中に戸と窓を取り付けていました。
神ご自身が彼らの間を歩いていることにだれも気づかなかったのです。
やがて主は十字架にかかり、私たちの罪のために死なれました。
そして、彼らはイエスを墓に葬りました。
三日目の朝、イエスは死の紐を解き、勝利のうちによみがえられました。

もう二度とイエスは恥辱を受けることはありません。
イエスこそは、新しい創造物のかしらです。
イエスを信じる者たちのかしらです。

「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
(ヨハネの福音書1章11節)


最初にイエスは「ご自分の国」というのは全体的です。
しかし、「ご自分の民」というのは個人的なものです。
その通り、イエスは自分の世界に来ました
イエスはこの世界を創造しました。
イエスは、イエスの手で作った世界に来たのです。
そして、イエスは自分の国、自分の町、エルサレムの町に来ました。
イエスは自分の神殿にも来ました。
ダビテはこのように言っています。

「その宮で、すべてのものが、「栄光。」と言う。」
(詩篇29編9節)


イエスはご自分の国に来られました。
イエスの民であるユダヤ人、何百年もの間、イエスを待ち望んでいた人々はイエスを認めず、イエスを受け入れなかったのです。
あなたはキリストを受け入れますか?
イエスが語られるのを聞いて、心を開いた者たちがいました。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
(ヨハネの福音書1章12節)

私たちに関して言えば、私たちは救いの道の真理をすべてここに存在しています。
神はキリストを君主とし、救い主とされました。
私たちはキリストを受け入れると共に、キリストの所有物になります。
あなたは「どうすれば、私も神の救いの恵みを預かることができますか? 」と聞くかもしれません。
それがここにあるのです。
ここに「この方を受け入れた人々」がいます
神を受け入れることは、神を信頼し、神に心を開くことです。
あなたはイエスを受け入れましたか?
「この方を受け入れた人々。」
簡単なことを難しく考えてはいけません。
神は可能な限り簡単な言葉を使っています。
イエスはこのように言われました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイの福音書11章28節)


イエスを信じるのです。

「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
(ヨハネの福音書3章15節)


イエスを仰ぎ見なさい。
そうすればあなたがたは救われるのです。
私を受け入れるならば、私はあなたがたを私のものとします。
イエスを受け入れ、心のドアを大きく開ければ、イエスは入ってこられます。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。
だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
(ヨハネの黙示録3章20節)


ここに美しいゴスペルがあります。
「あなたはドアを開けなければならない。
ドアを開けてください。
イエスは無理には入って来ません。
ドアを開けてくれませんか。
中に来てもらいましょう?
この瞬間、あなたは頭を下げ、心を開いて、このように言うのです。
「主よ、入ってきてください、私の人生の主になって欲しいのです」と言うことができます。
あなたはイエスに受け入れてほしいのですか?

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
(ヨハネの福音書1章12節)

人は生まれつきの誕生によって神の子供となることはできません。
イエスの時代にイエスはある集まりではこのように言いました。

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。」
(ヨハネの福音書8章44節)


しかし、救われた者の集まりについて使徒はこのように言っています。

「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」
(エペソ人への手紙2章3節)


私たちは罪のある肉から生まれた者です。
「この方を受け入れた人々」が神の子になり、新しく生まれたのです。
神を受け入れることは、神の御名を信じ、神の御言葉を受け入れることです。
それが神を信じることです。
信仰に大きな謎を作ろうとしてはいけません。
信仰とは、単に神の言われることに「アーメン」と言うことです。
私たちは人のあかしを受け取るだけです。
私たちが信頼しているある人が私たちのところに来るとします。
私たちは彼の言うことを信じます。
そのように、私たちに神は御子についてのあかしを与えられます。
さて、あなたがたは主のあかしを心に受け入れていますか?
あなたがたは、御子の証しを信じないで、神を嘘つきにしてはいけません。
この御名を信じる者に注意して見てください。

「その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
(ヨハネの福音書1章12節)

あなたがたが神の子となるためには三つの方法があります。
これらの方法について、このように書かれています。

「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
(ヨハネの福音書1章13節)


最初に人間の血統によるのではありません。
あなたの両親がこれまでに存在した最高のクリスチャンだったとしても、彼らはあなたに神からの命を与えることはできません。
あなたの両親はあなたに彼らの新しい性質を伝えることができません。
それができるのは神だけです。
人間の血統によるのであれば、あなたは神の子ではありません。

2番目に肉の欲求によるのではありません。
自分の意志でクリスチャンになることはできません。

「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」
(ローマ人への手紙9章16節)


「仕事がないから兵隊に入る」と言う人がいたとしましょう。
彼は制服が必要だと思い、服屋に行って制服を買いました。
それからその着て街を歩き、自分が兵士になったと想像します。
私たちは彼に尋ねます。
「どうやって兵士になったですか?」
彼は答えます。
私は制服を着て、兵士になったのです。
それで兵士になれるのでしょうか?
もちろん、違います。
彼は軍隊に入隊しなければなりません。
同じ様に「これからはクリスチャンだ」と言うだけでは、誰もクリスチャンにはなれません。
そのようなことを言ってもあなたをクリスチャンにすることはできません。
あなたは罪人として神のみもとに来て、キリストを受け入れなければなりません。
ならば、主はあなたをクリスチャンとすることができます。
主はあなたに新しい命を与えるのです。
それは単に良くなろうとする努力ではありません。
神はあなたを新しい創造物にすることができます。

3番目に人の意欲によるのではありません。
この世界の誰もあなたをクリスチャンにすることはできません。
多くの人々は、牧師や司祭が洗礼や神聖な儀式によって人をクリスチャンにできると想像しています。
しかし、これらはあなたを救うことはできません。

「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
(ヨハネの福音書3章3節)

「肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
(ヨハネの福音書1章13節)


この箇所の最後の節にこのようにあります。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
(ヨハネの福音書1章14節)


英語のKJVでは「言葉は人を造られた(And the Word was made flesh)」となっています。
この訳は最良の翻訳ではありません。
実際、すでに述べたように、言葉は何も造られていません。
ことばは人となったのです。
この聖句は最初の節と関係があります。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
(ヨハネの福音書1章1節)


そして、ここでことばは人となったのです。
永遠に御父と一つであった者が人となりました。
神が私たちの人間性、肉体、魂、霊を取ってくださったのです。
イエスは人間になりましたが、神でした。
そして我々の間に住まわれたのです。
「住んだ」という言葉は、「幕屋」と表現する方が良いかも知れません。
今、神は御子によって現われました。
「ことばは人となり、私たちの間に幕屋となったのです。

「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
(ヨハネの福音書1章14節)


ヨハネはイエスとともに暮らし、イエスとともに步み、イエスとともに祈りました。
ヨハネはイエスの聖い生涯の中に「恵みとまことに満ちた、父の唯一の子としての栄光を見ました。」
これらの聖句は、イエスの生涯を具体的に知っていた人によって書かれました。
ヨハネとイエスとの間には、生まれたときからのつながりがあります。
彼がナザレで育ったときにも、イエスのことを知っていたはずです。
初期の教会の歴史家の一人は、キリストが人の漁師になるようにヨハネを呼んだ時、ヨハネは青年だったと私たちに語っています。
ヨハネは三年半の間、イエスと親しい交わりを持っていました。
ヨハネは、最後の晩餐でイエスの胸に寄りかかった人でした。

ヨハネがこの本を書いた時、彼はおそらく90歳くらいだったと思われます。
ヨハネは過ぎた年月を振り返りながらこのように言ったのです。

「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
(ヨハネの福音書1章14節)


講演3 満ちあふれる恵み

「ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。
「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
いまだかつて神を見た者はいない。
父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
(ヨハネの福音書1章15~18節)

これらの4つの節は、今の私たちの考えを満足させるものです。
これらの聖句はとても豊かで、とても充実しています。
私たちは最初のバプテスマのヨハネの証言に注目します。
私たちはこの証言が主の日の朝に行われたことを知っています。
私たちは、メシアの偉大な先駆者がこのように宣言するのを聞くことができます。

「ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」」
(ヨハネの福音書1章15節)

ヨハネは水でバプテスマを施すために来てこのように言いました。

「ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。
その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」」
(ヨハネの福音書1章26、27節)


他の箇所では、イエスは聖霊と火でバプテスマを授けると語られています。

ヨハネが様々な集まりに向かって話していたことを思い出してください。
その大勢の人たちの中には、聖霊のバプテスマを受けるべき人たちと、メッセージを拒否し火のバプテスマを受けるべき人たちがいました。
一つは完全な恵みであり、もう一つは裁きです。

「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。
麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
(マタイの福音書3章12節)


火の池での裁きの最終決定は、大いなる白い御座で宣告されます。
そして、偉大な白い御座に座っているのは、カルバリの十字架にかかって私たちの罪のために死んでくださった、あの驚くべき方なのです。
このように命じられていることを決して忘れてはなりません。

「それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。
子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。」
(ヨハネの福音書5章23節)


この聖句を読んでいる人たちに言いたいのです。
もし、今、あなたがたがキリストの外にいるのであれば、もし、あなたがたがキリストの外側で生き、キリストの外側に死ぬのなら、悪人の復活の時にキリストの外側でよみがえることになります。
あなたがたは、キリストのないたましいとして、大いなる白い御座の前に立たなければなりません。
そこでは、かつてあなたがたを救うために死んでくださった方、あなたがたがその方を信じているなら、あなたがたを救ってくださった方と向かい合うことになります。
主は、あなたがたを救いたいと願っておられます。
あなた方に聖霊を送り、あなたがたに願い求めているのです。
主の前にふれ伏し、この恵みを知るようにあなたがたに促しておられます。
しかし、その日が来たのであれば、イエスを救い主として知るには遅すぎます。

あなたがたは、恐ろしい火のバプテスマを受けることになります。
神に感謝します。
もう、その必要はありません。
主は恵みを持って、あなたを救うために、あなたのところに来られたのです。
そして、イエスを指さしこのように言うのです。

「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」
(ヨハネの福音書1章15節)


すべてのキリストのしもべのように、ヨハネは主イエスご自身に栄誉が帰したことを喜んでいます。
ヨハネが陰に退いたのは、キリストが民の視界に大きく現われ、すべての人たちの注意を引くためでした。
『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』とヨハネは言っています。
これはとても重要な発言です。
つまり、私たちの主イエス・キリストが昔から存在していたことを意味しています。
もし、あなたがたはこれらの御言葉を文字どおりに受け取ることができますか?
もし、この言葉がキリストのこの地上の生涯だけをさしているのなら、それは真実ではありません。
地上では、イエスはバプテスマのヨハネの前には存在していません。
バプテスマのヨハネは、主イエス・キリストが祝福された母マリアから生まれる約3ヶ月前に生まれました。
しかし、ヨハネは「私より先におられた」と言っています。
どういう意味でしょうか?
すなわち、ヨハネは地上に生まれた時に存在し始めました。
しかし、イエス・キリストは地上に生まれたときから存在し始めたのではありません。
イエスこそがミカ書の中に預言された方なのです。

「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。

中略

今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。」
(ミカ書5章2~4節)


ヨハネが「私より先におられた」と言っていることは正しいことなのです。
その時、あなたがたは主のアブラハムについて語られた御言葉を思い出すはずです。

あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」
そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。
「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」
(ヨハネの福音書8章56、57節)


彼らはイエスがアブラハムを見たのだと理解しましたが、イエスが言ったのはそのような意味ではなかったのです。
イエスは「父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました」と言ったのです。
そして、彼らは「あなたはまだ五十歳になっていない」と言いましたが、その年齢には重要な意味があります。
彼らは、この世界の年齢にすれば、三十代前半の人に話しかけているのです。
彼らが「あなたはまだ五十歳になっていない」と言ったのは、かなり驚くべきことではないでしょうか。
35歳、せめて40歳と言われるべきではないでしょうか?
彼らは、なぜ、彼に「あなたはまだ五十歳になっていない」と言ったのでしょうか?
すでに、イエスの顔に深い悲しみと悲しみのしわの線がそのように語っていたのではないでしょうか?
イザヤ書にはこのようにあります。

「多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。――」
(イザヤ書52章14節)

通りすぎた場面の中で、イエスが負っていた激しい苦悩と、すでに人の罪によってイエスに与えられた痛みと苦しみがイエスの顔を染めつくし、全盛期を迎えたばかりの人というよりも、中年を少し過ぎた人のように見えたのかも知れません。
「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」
それにイエスはこのように答えたのです。

「イエスは彼らに言われた。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」」
(ヨハネの福音書8章58節)


アブラハムが生まれる前からイエスはいたのです。
それは2000年以上昔からです。
アブラハムが生まれる前から存在しているのです。
イエスは神の名を語ったのです。
私はアブラハムの前から「ヤハウェ(I am)」と語ったのです。
イエスはバプテスマのヨハネ以前に存在していただけではなく、アブラハム以前にも存在していたのです。
コロサイ人への手紙1章で神の聖霊について述べられています。

「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。
天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。
万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」
(コロサイ人への手紙1章16節)


ヨハネがこのように言っていることに注目してください。

「私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。
私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。」
(ヨハネの福音書1章30節)

そして、イエスがこのように言っています。

「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」」
(ヨハネの福音書8章58節)


聖霊もこのように述べています。

「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」
(コロサイ人への手紙1章17節)


使徒ヨハネは私たちにこのように語っています。

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」
(ヨハネの福音書1章16節)


他の箇所でもこのように書かれています。

「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。
キリストはすべての支配と権威のかしらです。」
(コロサイ人への手紙2章9、10節)


キリストのうちにすべての神の豊かさが宿っているのです。
そして、その神の性質から神の命そのものが私たちの中に注がれているのです。
ヨハネは、キリストが天に帰られ、何年も後にこの福音書を書いています。
それ以来、何世紀にもわたって、貧しい罪人が悔い改めてキリストに立ち返るたびに、彼らの魂に祝福が注がれてきたのです。
このように彼らは「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」
ここで「上にさらに」と言う意味は「繰り返して」、「置き換えて」と言う意味です。
つまり、恵みに恵みを置き換え、さらに恵みが増し加わるという意味です。
私たちには過去の経験に基づいて生きることを求められているのではありません。

多くの人たちが、初めて救われたときのことを思い出し、私たちの魂に注がれた恵みを思い出し、振り返ってこのように歌うかも知れません。
「なんと、楽しい日なんでしょう。
私の選んだ道を定めた日です。
あなたが定めた日です。
私の救い主、私の神よ!」

訳者注)「讃美歌(O happy day that fixed my choice)」より

しかし、それは今日の私たちの経験ではありません。
まさに、恵みが行われています。
驚くべき恵みです!
私たちが今持っているのは、恵みに対する恵みです。
これが、あらゆる時代を通じて受け継がれてゆく、恵みの後に続く恵みなのです。
私は「第二の祝福」を受けたことがあるかと聞かれることがあります。
愛する人たち、確かに私は50年近く驚くべき惠みをますます学んできましたが、私はそのようなものを持っていません。
あなたがたが、イエスに信頼を置いていないのなら、あなたがたは何を見失っているのかさえも分かりません。
自分にとって、イエスにどのような価値を持っているかを話すように頼まれたスコットランドの老婦人をあなたは覚えているはずです。
彼女はこのように言ったのです。
「そのうち、わかりますよ!
口で語るよりも、感じ取るほうが簡単です。」
もし、あなたがたが神との交わりの中に歩んでいるのであれば、あなたがたは、生涯を通して、恵みの上に恵み、恵みの後に恵みを受けるのです。

「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」
(ヨハネの福音書1章17節)


ここでは、私たちは二つのディスペンテーションを見ることができます。
律法はモーセによって与えられました。
そして、律法はキリストまで支配していました。
今、イエス・キリストによって、恵みと真理がもたらされました。
律法は真理です。
しかし、それは恵みのない真理でした。
福音書には、律法が保たれています。
しかし、救い主に信頼を置くすべての人に、至る所に恵みが宣べ伝えられているのです。
福音書には、律法が守られていますが、この救い主に信賴するすべての人々に至る所で、さらに優れた恵みが宣べ伝えられています。

18節に、私は注目すべき宣言がなされていることを知ることができます。

「いまだかつて神を見た者はいない。
父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
(ヨハネの福音書1章18節)


つまり、神が私たちに与えてくださったのは、神を完全に知ることなのです。
あなたはこのように思ったことはありませんか?
「私は神をもっと知りたいと望んでいる。
私は神のみこころを完全に理解したいのです。
神はこのことをどのように見ているのでしょうか?
神は、私を迷わせ、悩ませる事柄を、どのように考えられているのでしょうか?
親愛なる友よ!
私に尋ねてください。
もし、あなたがたが神をもっとよく知りたいと思うなら、イエス・キリストをもっとよく知ればよいのです。
主イエス・キリストが神を完全に語り、また現わされたからです。
神は、思慮深く言うのであれば、まさにイエスのような方です。
キリストにあって現わされた神のほかに神はありません.。
神の聖さはイエスの中に見られる聖さです。
神の義は、イエスの中に存在する義です。
神の清さは、イエスの中に現れた清さです。
神の哀れみは、イエスによって示された哀れみです。
神への愛はイエスへの愛です。
神への憎しみの思いはイエスの中に見られる憎しみです。
あなたは「神は何かを憎んだことがあるのか?」と尋ねるかも知れません。
イエスは憎んだことがあるでしょうか?
はい、あります。
神は完全な憎しみをもって罪を憎んでいるのです。
神は「わたしの忌むべきことをしてはならない」と仰せられます。
神は、すべての偽善、すべての汚れ、すべての汚れを憎んでいます。
イエスは、これらのことをことごとく憎まれました。
私たちも少しはこれらを憎んでいます。
神の怒りはイエスの怒りの表れです。
神は怒ったことがあるのでしょうか?
日々、神は悪人に怒っておられます。
なぜ、あなたは「私は神がすべての人を愛していると思っていたのに」と言うのですか?
神はすべての人を愛しておられます。
しかし、このことは神が怒ることを妨げることはありません。
あなたは自分の子どもを愛しているかもしれません。
しかし、子どもたちが間違ったことをするならば、激しく怒るはずです。
神は罪を犯した者のために死ぬために、そのひとり子を世に遣わされました。
そして、神はご自分の愛を示されました。
それでも、日々、神は悪人たちを怒っておられるのです。
神が悔い改めない罪人にのぞまれる時に、人は「生ける神の手に落ちるのは恐ろしいこと」を知るのです。
では、いままでイエスは怒ったことがあるのでしょうか?
はい、イエスは偽善者たちに怒っておられました。
イエスは、心が硬く冷酷なある宗教的宣伝者が哀れで貧しい者を取り扱っているのを見て怒っていました。
やもめの家を食い尽くす律法学者たちとパリサイ人たちについて、イエスが語ったことばを思い出してください。
また、儀式に心を奪われて、神の命令を行う時間がない民を見て、イエスが憤られたことを思い出してください。
イエスが会堂におられた時のことを考えてみてください。
そこには、18年間もひどい拘束の中にいた哀れで小さく体の動かすことのできない女がいました。

「イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。
すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。
イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」と言って、
手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。」
(ルカの福音書13章10~13節)


イエスは立ち返り人々に言いました。
彼らは自分たちの安息日をねたむほどに愛していました。
しかし、人を顧みることはありません。
イエスはこの哀れな女のほうを向いて彼らに尋ねました。

「この女はアブラハムの娘なのです。
それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。
安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」
(ルカの福音書13章16節)


イエスが御言葉を与え、彼女は癒されました。
そして、イエスは怒って彼らを見回しました。
イエスの怒りは神の怒りです。

「いまだかつて神を見た者はいない。
父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
(ヨハネの福音書1章18節)


イエスは神の特徴を十分に証明しています。
しかし、この聖句を見てください。
これはどういう意味でしょうか?
私たちは、旧約聖書の中にいる神を見た人たちのことをくりかえし読み返していませんか?
アダムとエバは純潔のうちに園に住み、そよ風の吹くころに園を歩き、神の声を聞きました。
神がアダムに呼びかけた時、彼らは神を見て、罪の意識に責め立てられ、園の木々の間に身を隠しました。
アブラハムが天幕の入口にすわっているとき、彼のところに三人の人が来ました。
彼は三人のうちのひとりの不思議な人を見て、主であるヤハウェとして、その者に語りかけています。
モ―セは「あなたの栄光をわたしに見せて下さい」 と言いました。
そして、主は仰せられました。

「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。
また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。
わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。
わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」」
(出エジプト記33章20~23節)


このようにモーセは神を見たと読みました。
エゼキエルは神の幻を見ました。
旧約聖書には、人が神を見たという驚くべき記述が何度も出てきます。
しかし、ここでは「いまだかつて神を見た者はいない」と書かれています。
これはどういう意味でしょうか?
つまり、私が述べたこれらの箇所は、神の幻の現象に過ぎないということです。
人は、神の本来の姿を見ることはありません。
しかし、神はアブラハムには人として、ダニエルには御使いとして、そして、エゼキエルには驚くべき姿として、彼らに現われました。
誰も神を見た人はいません。

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
(ヨハネの福音書4章24節)


霊は人間の目では見ることができません。
では「いまだかつて神を見た者はいない」とは何を意味しているのでしょうか?
もし、この聖句がこの一節にしか出てこないのであれば、イエス・キリストがこの世に来られるまで、人は神を見たことがないという意味と考えるのが自然です。
彼らがイエスを見たとき、彼らは神を見たのです。
なぜなら、イエスは「父のふところにおられるひとり子」だからです。
ここでヨハネの手紙第一に戻ってみてみましょう。
私たちはもう一度同じ言葉を見ることができます。
これらの言葉は主が天に帰ってから何年も経ってから書かれたのです。

「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。」
(ヨハネの手紙第一4章12節)


ここで注意すべきことはヨハネが年老いてからもう一度、「いまだかつて、だれも神を見た者はありません」と書いていることです。
では、ここから何が分かるのでしょうか?
単純に、神が目に見えないということです。
イエスが地上におられた時、人々はイエスを見ても神を見ていません。
彼らが見たのは知る限り、自分たちのような人間でした。
もちろん、彼らのような罪人ではなく、イエスは神の聖なるお方でした。
しかし、神はキリストの人格の中に存在しています。
聖書にはこのように書かれています。

「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」
(コリント人への手紙第二5章29節)


しかし、人にはイエスの人間性しか見ることができません。
今、イエスは天に帰られ、再び私たちに次のような言葉が与えられました。

「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。」
(ヨハネの手紙第一4章12節)



今もなお、神はご自身を人に知らせておられます。
しかし、神は、神と交わる者には、ご自身を知らせておられます。
もし、あなたが愛の中を歩いているなら、あなたは神を現しているのです。
私が信じる者としてこの世にいるのは、命と証しによって神を知らせるためです。
このことを認識することは、非常に深刻なことなのです。
イエスはこのことを十分に徹底的に実行されています。
私たちが神と共に歩めば歩くほど、私たちの中に神を見ることができるのです。


講演4 ヨハネの記録

「ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか。」と尋ねさせた。
彼は告白して否まず、「私はキリストではありません。」と言明した。
また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」
そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。
そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」
彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」
彼らは、パリサイ人の中から遣わされたのであった。
彼らはまた尋ねて言った。「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」
ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。
その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」
この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。
その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。
私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」
またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。
私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』
私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」」
(ヨハネの福音書1章19~34節)


これまでの二つのメッセージで、私たちはバプテスマのヨハネの証言を扱ってきました。
このように神が聖霊によって行われた献身的な僕ヨハネの働きを、多くのクリスチャンが何も理解していない恐れを感じることがあります。
同様に、私たちの中にいる多くの人が、ヨハネのこと、福音の光、そして私たちの主イエス・キリストの人格について、何も理解していないように感じることさえあります。
しかし、私たちがすでに見てきたように、ヨハネは先におられる方として主イエスを認識していました。
ヨハネは15節ではイエスは「私より先におられたからである」と言っています。
その言葉が30節で繰り返されています。
このようにヨハネは、主イエスが地上に生まれた時に初めて行き始めた方ではないことを認識していました。
しかし、その御父は、主イエスにあって御自身の神性と私たちの人間性とを結びつけたのです。
主イエスは罪から離れた存在であり、マリアの子として生まれる前から御父とともに生きておられたのです。
もし、16節から18節までをヨハネが語ったとするならば、実に素晴らしい真理の展開となるはずです。
しかし、この言葉は使徒を通して行われた聖霊の解説である可能性が高いと思われます。

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
(ヨハネの福音書1章16~18節)


そして、ヨハネの記録は19節から再び始まっています。
この部分をもう少し詳しく見てみましょう。
「満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」と書かれています。
これは旧約の仲介者でありメッセンジャーであったモーセの働きとはまったく異なるものです。
そのことが、私たちの祝福された主を知り、その主との交わりを楽しむようになるにつれて、神の豊かな恵みが次々と証明されていくのです。
モーセを通して律法が与えられました。
その律法は神のみこころの啓示でした。
そして、イスラエルの人々はイエスが来られるまで、律法に従って歩む責任がありました。
パウロはこのように言っています。

律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。
(ガラテア人への手紙3章24節)


今、恵みと真実はイエスによって語られました。

「しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。」
(ガラテア人への手紙3章25節)


私たちはキリストは御父の完全な現れだと見ています。
この地上にあって、この方に恵みとまことに満ちておられます。
そして、人は御父のみこころを喜ぶのです。
これまで指摘してきたように、確かに律法は真理でした。
しかし、律法は恵みのない真理でした。
神は光であり、神は愛です。
このように、真理にかなう聖さと、すべての罪をおおいつくす、すべての必要を満たす恵みとが、イエスのうちに見られるのです。
イエスは神の一人子であり、御父のみもとに住まわれていたお方です。
そして、キリストにあって、神の本質的な栄光をすべて語り尽くしています。
ある人たちは「イエスが父のみもとから離れた」と語っています。
しかし、それは聖書の言葉ではありません。
御父のみもとは愛情のあふれる場所です。
イエスはそこから決して離れたことがありません。
イエスは御父のみもとで生きているのです。
キリストの死によって私たちを贖うために来られた栄光の中におられます。
そして、キリストが地上におられた時もキリストは真実に御父の愛の対象だったのです。
もし、バプテスマのヨハネがこのすべてのことを見て、これらのことばを語ったのであれば、彼のキリストについての知識は、一般に信じられている知識をはるかに超えていたのです。
しかし、これが聖霊の後世のための記述だとしても、私たちはヨハネの時代においてもイエスのすべてが真実であったことを忘れてはいけません。
バプテスマに従ったさらなる証言を追いかけてみましょう。
ヨハネは宣教とバプテスマによって驚くべき関心を引き起こしました。

この新しい預言者は荒野に現われ、大勢の群衆を引き寄せていました。
パレスチナ全土の人たちはこの預言者のことを話していました。
彼は罪と不義を厳しく戒め、人々を悔い改めのバプテスマのために呼び寄せ、神の王国が地上に近づいていることを告げていました。
多くの人が彼のメッセージを信じ、死に値する者としてバプテスマを受けることによって信仰を現しました。
至る所で人々は動揺しました。
ユダヤ人たちは、自分たちの重要な指導者たちをエルサレムに遣わして、彼に尋ねさせました。

「ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか。」と尋ねさせた。
彼は告白して否まず、「私はキリストではありません。」と言明した。
また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」
(ヨハネの福音書1章19~21節)


おそらく、ヨハネは多くの人々が、彼が平和の時代をもたらすと長い間約束された救世主であると考えていることを知っていたはずです。
しかし、ヨハネの返答は「わたしはメシアではない」でした。
「私は約束された者ではありません。」
すると、彼らは言いました。
「あなたは誰ですか?
あなたはエリヤですか?」
ギリシャ語では「エリヤ」ですが、ヘブル語読みでは「エリジャ(Elijah)」となります。
なぜ彼らは彼にその質問をしたのでしょうか?
ヨハネがこの世に生まれる400年前の預言者がこのように預言しているからです。

「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
(マラキ書4章5、6節)


ゆえに、彼らはヨハネにこのように聞いたのです。
「あなたはエリヤなのですか?
だから、あなたは深刻な裁きへの警告のメッセージを語っているのですか?」
しかし、ヨハネは「そうではありません」と答えたのです。
弟子たちは主イエス・キリストに「エリヤが先に来るはず」だと質問し、このように答えました。

「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。」
(マルコの福音書9章13節)


彼らはヨハネのことを話したと理解したのです。
ヨハネはエリヤの力と霊をもって来たのです。
しかし、ヨハネは個人的にエリヤではないと否認したのです。
ヨハネは自分自身に注意を向けようとはしていません。
ヨハネは別の者に人々の注意を向けさせようとして来たのです。
それから彼らはヨハネに尋ねました。

「「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」」
(ヨハネの福音書1章21節)


誰のことを言っているのでしょうか?
申命記の中でモーセはこのように言っています。

「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」
(申命記18章15節)


また、このようにも書かれています。

「わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。」
(申命記18章19節)


これらの言葉はヨハネではなくキリストのことを指しています。
なので、ヨハネはそのような主張を否定しました。
彼らは「あなたはだれですか」と言いました。
ヨハネは自分自身のことは何も語っていません。
私たちは自分のことを話すのが好きです。
しかし、ヨハネは私たちとは違います。
ヨハネは自分のことを話していません。
ヨハネは自分に人々の注意を引こうとしていません。
ヨハネは来ようとしている方に、彼らの注意を引かせるために来たのです。
そして、彼は尋ねました。

「あなたは自分を何だと言われるのですか。」
(ヨハネの福音書1章22節)


そして、ヨハネは答えました。

「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」
(ヨハネの福音書1章23節)


あなたは声を見ることが出来るでしょうか?
あなたは声を聞くことが出来ますが、見ることは出来ません。
イザヤ書40章は次の言葉で始まります。

「「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。
「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」」
イザヤ書40章1、2節

この節は私たちの主イエス・キリストの贖いの御業によって、その咎が支払われたことを述べています。
預言者は神の民に慰めの福音を宣言しているのです。
3節にはこのように書かれています。

「荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」
イザヤ書40章3節


彼は道を準備するために来たのです。
これは主の道です。
主とは誰でしょうか?
私たちの主は高速道路です。
ヨハネは、向かってくる方が肉において明らかにされた神であることを十分に認識して語っています。
ヨハネが「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です」と叫んだ時、ヨハネは「ヤハウェ」を意味する言葉を使っています。
この謙遜な方、ナザレ人イエスは、民の中に現われ、哀れな罪人を贖うために来られたエホバ御自身以外ありえなかったのです。
さあ、私たちはイザヤの宣言に従うべきです。

「「呼ばわれ。」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう。」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。
草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
(イザヤ書40章6~8節)


あなたは尋ねるかも知れません。
「なぜ?特に慰めに感じることもありません。」
いいえ、それは違います。
いつも、神はそのように人々を慰め始めるのです。
人は高慢で自分の罪深さを忘れているだけです。
人間の良心は積極的に動こうとはしません。
もし、神が人間のために何かをしようとしているのであれば、神は人間に自分の小ささと自分の罪深さを悟らせなければなりません。
ゆえに、使徒ペテロはこの聖句を、福音と新生と結びつけたのです。

「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」
(ペテロの手紙第一1章24、25節)


なぜ、生まれ変わる必要があるのでしょうか?
なぜなら「肉から生まれたものは肉」であり、「すべての肉は草のようだ」からです。
なぜ新しい命が必要なのでしょうか?
なぜなら、私たちは裁きを下にいるからです。
そして、この命はもうすぐ過ぎ去ろうとしており、神に会わなければならないからです。

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」
「へブル人への手紙9章27、28節」


この聖書の御言葉を私たちの魂の奥底に深く浸透させましょう。
そして、私たちの誇りと自立を戒めるのです。
すべての人間の栄光は人間が最も喜ぶものです。
しかし、そのような栄光はすぐに散ってしまう花のようなものなのです。
人間には神からの命が必要なのです!

「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」
(ヨハネの手紙第一5章12節)


バプテスマのヨハネはイザヤ書40章が、自分自身についての預言として見ているのです。
ヨハネは「これが私です」だと言っています。
荒野で叫んでいるだけの声です。
遣わされたパリサイ人たちは尋問を続けましたが、満足することはありません。
パリサイ人たちは次々と質問を続け、立ち止まって答えを考えることはしません。
パリサイ人たちは神の真理を学ぶことに興味がないのです。
パリサイ人たちは別の方法で彼を尋問し始めました。

「彼らはまた尋ねて言った。「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」
(ヨハネの福音書1章25節)


ヨハネは自分を擁護したり、パリサイ人たちに説明しようとはしていません。
パリサイ人たちの信じない態度を知っていたからです。
単純にヨハネは答えました。

「ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。
その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」」
(ヨハネの福音書1章26、27節)


そして、パリサイ人たちは、自分たちの道から去っていきました。
パリサイ人は、他人の思いと良心に働くこの問題に対して、現実に関心を持っていません。
次の節では、ヨハネが福音の最も大きな真理の一つを語っています。

「この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。
その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
(ヨハネの福音書1章28、29節)


彼は何度もその大群衆を見渡して考えていたはずです。
「もし、その方がそこにいたのなら、素晴らしいことです。
神が現される時が来たからです。
しかし、来る日も来る日も、彼の心の質問に答える声はありませんでした。
今、イエスが近づいて来られるのを見ました。
すると、神の聖霊が「ヨハネ、ここにいますよ!」と言ったのです。
ヨハネはすぐに「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と叫んだのです。
あなたはこの言葉にどんな意味があるのか考えたことがあるだろうか?
何世紀にもわたって、イスラエルは犠牲になった子羊のことを知っていました。

彼らは、はるか昔、アブラハムとイサクが山に登って、イサクが父に向かってこのように言ったことを知っていました。

「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
(創世記22章7節)


するとアブラハムはこのように答えました。

「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」
(創世記22章8節)


そして、彼らはイスラエルがエジプトから出ようとした時、神がこのように言われたことを知っていました。

「その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。」
(出エジプト記12章7節)


死の御使いは真夜中にエジプトを通過します。
しかし、血を見て、あなたの上を通り過ぎてゆくのです。
神殿の奉仕は、朝ごとに、夕方ごとに、全焼のいけにえとして一頭の子羊が祭壇の上に置かれることを彼らは知っていました。
イザヤは、罪のためのいけにえとなるために、羊のようにほふられる方について預言しています。

「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」
(イザヤ書53章7節)


ついに預言者たちが語っていた方が来られました。
そして、ヨハネは叫んだのです。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
(ヨハネの福音書1章29節)


つまり、ヨハネはイエスはすべての預言的な証しの対象であり、律法のすべての型の成就であることを認めたのです。
ヨハネが身代わりの贖いについてどのように語っているかに注目してください。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」

ヨハネは、イザヤ書53章に神の子羊についてこのように書かれていることを知っていました。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」
(イザヤ書53章5節)


ついに、神の言葉に従って神の子羊が来たのです。
そして、次のことに気がつくはずです。
ここにある「罪」は単数形です。
人々がこの聖句を引用するならば、一般的な罪と思う人が多いと思います。
罪は原因の作用にすぎません。
神の小羊は、個人の罪を取り除くためだけに来たのではありません。
罪の問題全体を取り去り、処理することです。
使徒パウロはこのように言っています。

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。
それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
(コリント人への手紙第二5章21節)


キリストは私たちのそむきの罪を負ってくださっただけではありません。
キリストは私たちのすべての罪を贖ってくださっただけではありません。
キリストは生まれながらの罪人である私たちのために死んでくださいました。

ここで、二度と私を信用できないと思わせるようなことを言わせてください。
私は多くの罪を犯してきました。
神のところに行って告白しなければなりません。
そして、それらの罪はすべて赦されたことを知りました。
私は何よりもひどい男です。
こんな私を信用できますか?
私のこの心の中には、私がこれまでに犯したどんな罪の行為よりも邪悪な罪の性質があります。
これは私たちすべてに当てはまることです。
私たちは生まれながらにして罪人なのです。
罪は私たちの中に宿っています。
キリストは、ご自身の犠牲によって、単純に罪ではなく、罪を取り除くために死なれたのです。
私たちは、神が「肉の中の罪」と呼ぶものを持っています。
キリストが十字架にかかった時、神はすべてのことを考えておられました。
キリストは私たちのために死にました。
キリストは私たちの代わりに死んだのです。
キリストは私たちのために罪とされ、罪という壁は取り除かれました。
そして、今、最も劣悪な罪人も神の御前に出て、赦しを見出すことができます。
あなたは世の罪を取り除く、神の小羊を知っているでしょうか?
ヨハネはこのように語っています。

『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』
(ヨハネの福音書1章30節)


続けて、このように語られています。

「私もこの方を知りませんでした。
しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。
またヨハネは証言して言った。」
(ヨハネの福音書1章31節)


他の福音書では述べられていませんが、この出来事はバプテスマの後に起きています。

「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。」
(ヨハネの福音書1章32節)


ヨハネが遣わされた偉大な仕事は終わりに近づいていました。
そして、今、ここにクライマックスが来ています。
ヨハネはこのように記録しています。

「私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」
(ヨハネの福音書1章34節)


ヨハネは現実にそのことを理解したのです。
友よ!
あなたはそのことを知っているでしょうか?
あなたは自分のために神を信じていますか?
もし、あなたが神を信じていなのなら、その前に自分の罪を認めて神のところに行くのです。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
(ヨハネの福音書1章29節)



講演5 他の人をイエスのもとに連れて行く

「その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。
ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。
ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。
彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」
その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい。」と言われた。
ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」
そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」」
(ヨハネの福音書1章35~51節)

神の子羊としての救い主についてのヨハネの証言については、すでに述べたとおりです。
私たちは1章29節について考えてみましょう。

「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
(ヨハネの福音書1章29節)


偉大な罪のためのいけにえとしての私たちの主について述べられているのです。
旧約聖書の時代を通して、型と影としてのダイレクトな預言的なメッセージは、神が真実なこひつじのささげ物を指し示していました。
ヨハネは「私のあとから来られる方」と宣言しています。
その翌日、ヨハネは再び「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と宣言しています。
今や、「世の罪を取り除く神の小羊」ではありません。
それは昨日のことです。
しかし、私たちは「神の小羊の歩み」を見るべきなのです。
イエスが平地を歩いて来られたので、ヨハネの関心はイエスに新しい見方で向けられています。」
神の祝福を受けた御子の歩みには、先駆者に「見よ、神の小羊」と叫ばせるものがありました。
イエスの歩みは、他の者とも違っていました。
もちろん、「歩み」とは行動を意味しています。
神の御子の聖なる行いを考えるならば、私たちは私たち自身の邪悪な行いとは対照的であることを認識しなければなりません。
大きな違いは、私たちの行動は利己主義に支配されているということです。
私たちの行動は自己中心的です。
私たちは自分のことで頭がいっぱいです。
私たちは、自分を喜ばせ、自分に仕えることに関心があります。
しかし、主イエスはこのように言うことができました。

「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」
(ヨハネの福音書6章38節)


この場面にいるのは、利己的な考えを一つも持っていない唯一の人なのです。
父のみこころを行なうことに、あらゆる喜びを見いだされた方は私たちの祝福されたほむべき主なのです。
私たちはこの意味においては「見よ、神の小羊」と言っていいかも知れません。
私たちは、神の御心に反することを自分の中で正当化しようとする誘惑に駆られるときがあるかも知れません。
この時、信仰によって、神の子羊がここにおられた時の姿を見つめ、その無欲な歩みを見ることができます。
そして、その完全性を理解するならば、私たちがどれほど遠く及ばないかをすぐに悟ることができます。
その結果、ますます私たちはキリストに似た者になろうとするのです。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
(コリント人への手紙第二3章18節)


この御言葉を読み、聖なる救い主が聖霊によって私たちのために描かれた汚れた世界を衰えることなく動いておられるのを見てください。
その時、救い主がどれほど優しく、注意深く、他人を思いやる方であったかを見ることができます。
私たちの邪悪さと利己主義を戒め、神の御前で自らの失敗を告白し、救い主のようになりたいと願うように私たちは導かれるはずです。
「見よ、神の小羊!」
この言葉は神の愛しい道に思いと、神の聖霊に思いを巡らせるものなのです。
ヨハネが「神の小羊を見よ」と叫んだその時、ヨハネと一緒に立っていた二人の弟子の心に強く訴えかけました。
そして、二人の弟子はヨハネが話すのを聞いて、イエスに従ったのです。

結論として、これがヨハネの奉仕の本当の目的だったのです。
ヨハネは自分自身や奉仕で人々を支配するために来たのではありません。
「荒野に呼ばわる者の声」 として来たのです。
ヨハネはこのように語っています。

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」
(ヨハネの福音書3章30節)

「その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」
(ヨハネの福音書1章27節)


ゆえに、彼らがイエスに従ったのを見て、ヨハネの心がどんなに喜んでいたかがよくわかります。
これこそ、イエスが水のバプテスマを受けに来られた目的であったと思います。
このように従うことが、すべてのキリストのしもべの目的であるべきです。
常にヨハネはこの神の子羊を罪を担う人々に指し示していました。
イエスこそが神の子羊であり、私たちの完全な模範なのです。
ふたりの弟子は、ヨハネの話を聞いて、イエスのあとを追いかけました。
そのうちの一人はシモン・ペテロの兄弟アンデレです。
もう一人は、この福音書の中でずっと自分の名前を隠しています。
彼はイエスの胸に寄りかかった弟子であり、イエスが愛した弟子です。
それはもちろん、彼は使徒であるヨハネです。
ここでふたり、アンデレとヨハネはイエスに従いました。

「イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。
「あなたがたは何を求めているのですか。」
(ヨハネの福音書1章38節)


主イエスは、現在の多くの人たちに、イエスの御顔求める人たちに同じ質問を問いかけていると思います。
多くの人がイエスのもとに来るのは、イエスからの何かの恩恵を望んでいるからだと思います。
目に見える恩恵を求めて来る人もいます。
主のもとに来るとき、あなたは何を考えているのでしょうか?
「あなたがたは何を求めているのですか。」
あなたは自分のためにイエスに何を求めているのでしょうか?
キリストを自分の救い主として知りたいと願う人たちを、私たちの祈りの部屋に招く時、私はしばしば心を痛めます。
そこにいる私たちの友が、彼らといっしょに祈ります。
いのちの道を彼らに明らかにするためです。
また、彼らの中には、主を知ろうとしている熱心な者たちもいます。
しかし、すぐに、彼らが霊的な状態よりも、一時的な必要を求めて、心配していることがわかります。
むしろ、私のところに来て正直に言って欲しいのです。
「私は魂のことなど心配していません。
私は自分の体のことは心配しています。
寝る場所は必要です。
食べる物も必要です。」
そのような人のために私にできることをするのはうれしいことです。
しかし、一時的な目に見える救いのことしか考えていないのに、霊的なことに興味があると言って来る人がいることは本当につらいことです。

「イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」」
(ヨハネの福音書1章38節)

現実にイエスは、どこに住んでいたのでしょうか?
この世界にイエスには住む場所が存在していなかったのです。

「すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」」
(マタイの福音書8章20節)


イエスがナザレの大工を辞めた後、公の働きを始めた時、イエスは家の無い放浪者だったのです。
しかし、イエスは御父のふところに家があります。
私たちはこのように読みました。

「いまだかつて神を見た者はいない。
父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
(マタイの福音書1章18節)


そこにはイエスの住処があります。
イエスは御父の愛の中に住んでおられます。
イエスはそこから離れることはありません。
十字架上で私たちの罪の身代わりとなられ、神の御顔が隠された時以外は、イエスは御父の喜びの対象であり、常に御父との交わりを楽しんでおられました。
その時、イエスは、悲しみに暮れたこころで叫んだのです。

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
(マタイの福音書27章47節)


しかしながら、イエスは私たちのために「罪とされた」暗い時ほど、父の心に愛されたことはありません。
しかし、イエスはここに一時的な居住地を持ったのです。

そこはどこなのでしょうか?
私たちには知らされていません。
そして、このように書かれています。

「イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」
そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。
そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。」
(ヨハネの福音書1章39節)


ここで述べられている時間は午後の4時です。
おそらく、祭りの季節のはずです。
彼らがイエスに質問し、おそらくイエスはそれに答えています。
イエスは彼らに、愛と恵みの啓示を示したと思います。
その時から、彼らは元の生活には戻っていません。
彼らは地上に定住することも、地上の仕事に専念することもしていません。
彼らの心は主御自身のために勝ち取られました。
また、彼らはこの祝福を他の人たちと分かち合いたいと切望しました。
イエスはあなたの心を勝ち取っているのでしょうか?
あなたがたは御父の使徒としてのイエスを本当に知っているのでしょうか?
主の愛、主の恵み、主の聖さがあなたの魂に明らかにされたのです。
主はご自身のために、あなたの愛なる思いを勝ち得たのでしょうか?
皆さんは人びとにイエスを知ってもらいたいはずです。
これは本物の改心の最も確実な証拠の一つだと思います。
人々が現実にキリストを知っている最初の証拠の一つは、彼らが他の人に伝えることです。
「私がイエスを知っているように、あなたにもイエスを知ってほしい」と願うことです。
この章の残りの部分は、他の人々をキリストに引き寄せようとする働きが語られています。
二人のうちの一人はアンドレだったと述べられています。

「ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。」
(ヨハネの福音書1章40、41節)


単純に、アンドレが最初にしたことは、弟を見つけることだったのかも知れません。
しかし、学者たちは、ここで本当に暗示されているのは、ヨハネは弟ヤコブを見つけるために出かけたが、弟を最初に見つけたのはアンデレだったと語っています。
自分の身を隠すのが使徒ヨハネの特徴です。
新約聖書の著者であるヨハネとルカの二人は自己主張の強い人たちです。
自分のことは決して口にしません。
しかし、彼らはイエスととても密接な関係を持っているのです。
そして、彼らはいつも隠れています。
主は私たちの思いを知っておられます。
主は私たちのために御自身を表そうと接してくださるのです。
ヨハネはすぐに弟のことを考え、アンデレは弟のことを考えたのです。
あなたには、まだキリストから離れた兄弟がいるでしょうか?
自分は救われました!
あなたには、救い主をまだ知らない兄弟、姉妹、友人がいるでしょうか?
あなたは救い主を伝えようと試みましたか?
手紙を書くことが出来るかも知れません。
もしくは、福音を伝えることが出来ていないかも知れません。
あなたは彼らと言葉を交わすことしかできなかったかも知れません。
それでも、あなたは彼らのことを心配していました。
そのはずです!
私には、あなたがたがキリストを知り、キリストを愛しているのに、キリストを知らない人たちの渇きに無関心でいることが理解できません。

私たちも彼らに見習いましょう!
アンドレは最初に自分の兄弟シモンを見つけたのです。
二人そろってヨハネの話を聞いたのです。
使徒の働き1章では、ペテロは彼らと一緒にいた人々について語っています。

「すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」」
(使徒の働き1章22節)


アンドレは急いでペテロを探しに行ってこのように言いました。

「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。」
(ヨハネの福音書1章41節)

次の節ではこのように書かれています。

「彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。」
(ヨハネの福音書1章42節)

あなたは誰かのためにそんなことをしたことがありますか?
彼は、兄弟と争うために出て行かれたのではありません。
単純に出かけて行って、心を満たしてくださる方のことを告げたのです。
彼はシモンに自分の体験を話した後このように思ったはずです。
「シモン、私はあなたにもイエスを知ってほしい。
あなたもキリストのところへ来てほしい!」
あなたにはキリストに導くことを望む、多くの人の心があります。
私たちの多くは、牧師や、おそらく日曜学校や、教会で教えている人たちに任せて満足しています。
すべての信者は、キリストを代理する者として召されています。
聖書の御言葉をもって人々のところに行くよう求められています。

そして、このように言うのです。
「私たちはイエスを見つけました。
イエスは罪人の救い主です。
失われた者や、どうにもならない者のすべての必要を満たしてくださる方です。
イエスは、ペテロが来るのを見て、ペテロの方を向いて言われました。

「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」
(ヨハネの福音書1章42節)


ペテロとは石という意味です。
イエスは人に新しい名前をつけるのが好きです。
イエスはこれを行います。
あなたがたがイエスを信じる時、イエスはあなたがたに新しい御名を授けられます。

「ペテロよ!
あなたは岩のような人となります。
後の日には真実のためにしっかりと立つのです。
あなたの名前はケパでした。
今日からあなたの名前は石です。」

あなたはマタイの福音書16章で読んだことを覚えているでしょうか?

「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。
わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
(マタイの福音書16章18節)


そして、ペテロの手紙第一ではペテロはすべての信者を、キリストという岩の土台の上に建てられた生きた石として語っています。

「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。
そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」
(ペテロの手紙第一2章5節)


あなたがたはキリストを告白することを恐れていませんか?
あなたはキリストを信じることを恐れていませんか?
ならば、あなたがたは固く立つことができません!
主のもとに来なさい!
あなたがたが主に交わるのならば、イエスはあなたがたを岩のような人にすることができるのです。
ペテロ自身も失敗しています。
覚えていますか?
ある時期、ペテロはかなり不安定な岩でした!
しかし、ペテロが聖霊を受けた後は違っていました。
ペテロは初期の教会では、キリストのために立ち向かい、何年もの間、証しと迫害の後に、ペテロはその証しを血で固く立ち上がりました。
イエスがペテロにこの名前を与えて示されたように、ペテロは本当に岩のような人になりました。
アンデレとヨハネが兄弟たちを探しているだけでなく、イエスが別の人を呼んでいることがわかります。

「その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、
ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい。」と言われた。
ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。」
(ヨハネの福音書1章43、44節)


私たちは、ピリポが何か大きな大きな告白をした話は聞くことができません。
「わたしに従って来なさい」という言葉を聞いて、すぐに友人を探していることがわかります。
ピリポは長いメッセージをしていません。
ピリポはナタナエルを見つけてこのように言いました。

「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。
ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
(ヨハネの福音書1章45節)

なぜ彼は彼をヨセフの子と呼んだのでしょうか?
実際、イエスは神の子です。
しかし、ヨセフはマリアと結婚したことで、ヨセフはイエスの法律上の父となるのです。
ピリポはこのことを認識しています。
ピリポは「何年もの間、イエスは私たちの間におられたのに、私たちはナザレの大工がメシアであることに気づかなかった」と言っています。
ピリピは「ナタナエル、あなたにもイエスを知ってほしい」と言っているのです。
ナタナエルはピリピに言いました。

「ナザレから何の良いものが出るだろう。」
(ヨハネの福音書1章46節)


「あの街から何かいいものが生まれるのかい!」
汚れた通りを持つ現在のナザレが、昔のナザレに似ていたのかも知れません。
ナタナエルがそのように尋ねたのも不思議ではありません。
ピリポが議論を始めても良かったのですが、賢明ではありません。
ピリポはただナタナエルにこのように言いました。

「来て、そして、見なさい。」
(ヨハネの福音書1章46節)


私がイエスを知るように、あなたもイエスを知るならば、あなたは納得するはずです。
そして、これが救われていないあなた方へのメッセージなのです。
私は、あなた方の誰かが、疑いに引き裂かれ、不安になり、困惑していることを知っています。
あなたは「イエスが本当に祝福された神の子であり、罪人の救い主であるということがあり得るのだろうか? 」と言います。
イエスの足元に来るのです。
イエスがあなたがたに平和と赦しのことばを語られます。
「来て、そして、見なさい。」
イエスはこのように仰せられるのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(ヨハネの福音書11章28節)

「来て、そして、見なさい。」
ナタナエルは行く決心をしたのです。
イエスはナタナエルが来るのを見ました。
だれもイエスに向かって来る者はいません。
ただ、イエスはナタナエルが来るのを見ました。
もし、主に向かって向かっている者がいるのならば、今日、主はあなたがたを見ておられます。
そして、イエスは言われました。

「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
(ヨハネの福音書1章47節)


この言葉を聞いてこのようにナタナエルは答えました。

ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」
イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
(ヨハネの福音書1章48節)


イエスは何を言いたかったのでしょうか?
おそらく、ナタナエルは城壁の裏の庭にいちじくの木を持っており、その木の下で神の言葉を学んだり、光を求めて祈ったりしていたのかも知れません。
イエスは、ピリポがナタナエルを呼ぶずっと前から、ナタナエルがそこにいるのを見ていたのです。

友よ!
今日、あなたがたがどこにいようと、イエスはあなたがたを見ておられます。
もし、あなたがたの心が光と平安とを望んでいるのなら、イエスはそれを与えるために待っておられるのです。
「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
この言葉がナタナエルの心を動かし、確信したのです。
「この方に間違いない!」
すぐにナタナエルは叫んだのです。

「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
(ヨハネの福音書1章49節)


あなたは次の聖句を知っているはずです。

「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
(ローマ人への手紙10章17節)


このように、信仰によってナタナエルは小さな集まりに加えられたのです。

「イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」
(ヨハネの福音書1章50節)


ナタナエルはイエスが自分のことを見ることができないと思っていたはずです。
しかし、ナタナエルはイエスが人間以上の存在であることを確信したのです。

「そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」」
(ヨハネの福音書1章51節)


イエスは力と栄光のうちに再臨されることについて語っていました。
ナタナエルは創世記のことを思い浮かべたはずです。
ヤコブがベテルで横になって眠ったとき、夢の中で天まで伸びるハシゴと、それを上り下りする御使いたちを見ました。

「ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。
ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。
そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」
(創世記28章10~12節)

実際にイエスはナタナエルにこのように語ったのです。
「私は、人が地上から天に昇る者であり、いつか私が力と栄光をもって再び来る時、神の御使いたちを伴って来るです。」
イエスこそが地上と天をつなぎ、やがて力と栄光をもって現われる存在なのです!


講演6 キリストの最初の奇跡


「それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、
言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」
(ヨハネの福音書2章1~11節)


ヨハネの福音書全体を通して、「奇跡」と訳されている言葉は「しるし」を意味しています。
この福音書で述べられているのは8つの「しるし」だけです。
それぞれに限られた目的があります。
例えば、イエスがベテスダの池のそばで中風の人を治したときなどです。
私たちはイエスの中に全能の御方を見ます。
自分の力を持たない者に、力を授けられる御方です。
この福音書に記されている最初のしるしには、主イエスのはっきりとした特徴が示されています。
イエスは万物の創造者として私たちの前に現れています。
すでに、ヨハネは教義的にそのことを私たちに語っています。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
(ヨハネの福音書1章1~3節)


今、このしるしによって、創造の力が目に見える形で現れています。
通常は数週間から数ヶ月かけて行われることが、一瞬で行われるのです。
このナタナエルの召しの後に行われた奇跡の出来事に注目してください。

「それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。」
(ヨハネの福音書2章1~2節)


ヨハネの福音書21章2節には、ナタナエルがガリラヤのカナの出身であったことが書かれています。
ユダヤへの旅の途中、ナタナエルの故郷に立ち寄り、そこで結婚式が行われたのです。
この結婚式がナタナエル自身の結婚であるとする者もいますが、その証拠はありません。
聖書には花嫁と花婿の名前が記されていません。
重要なことは、この両者の親密な関係について、祝福された主の承認を得ていることです。
この関係は今日ではしばしば名誉を傷つけられています。
歴史の初めに、神が私たちの最初の両親をお互いを与えた時を思い起こさせます。

「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」
(創世記2章24節)


夫婦関係を定めたのは神であり、私たちはキリストに祝福され、聖なるものとされています。
残念なことに、現代において、男女の悪意と邪悪さによって、結婚がしばしば堕落してしまうことがあるのです!
私たちクリスチャンは、その聖さを認識するために十分に注意をすべきなのです!
最近、増加している離婚という恐ろしい悪を考えてみましょう。
確かに、それはクリスチャンが良心を持つべきです。
時には、自尊心の強い女性が特定のタイプの男性と暮らし続けることができない場合もあります。
しかし、聖書は、人が別れることが許されているのは、相手側の不貞による離婚でない限られており、他の人と再婚してはならないと教えています。
このような場合について、主イエス・キリストはこう言われています。

「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」
(マタイの福音書19章9節)


神が設けられた例外を私たちは認識できます。
しかし、離婚した人々の再婚のための他の根拠を見つけることはできません。
現在は混乱しています。
離婚が子供に与える影響は恐ろしいものがあります。
ゆえに、私は、主イエスが結婚式に出席するようにとの招きを受けられたとき、主イエスがこの結婚を承認されたのだと考えています。
イエスの母も出席しています。
そのことはマリヤがこの家族をよく知っていることを示しています。
実際、マリヤにはある程度の責任があったように見えます。

どんな結婚式であろうとイエスと弟子たちが呼ばれて出席するのは、とても喜ばしいことだと、もう一度言っておきたいと思います
人々がイエスを招かないことは哀れなことです。
キリストを愛する人たちと交わりに入るのは、なんとも尊いことなのです!

さて、この奇蹟のことを考えてみましょう。
まず、イエスと母との会話に注目しましょう。
私たちはこのように読みました。

「ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。
女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」」
(ヨハネの福音書2章3~5節)


聖書では、ぶどう酒は正しく賢明に使われるのなら、喜びの象徴です。
私たちは「神と人を喜ばせるぶどう酒」について読んだことがあるでしょうか?

「しかし、ぶどうの木は彼らに言った。『私は、神と人とを喜ばせる私の新しいぶどう酒を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』
(士師記9章13節)


結婚の祝宴の席でぶどう酒が振る舞われていたという出来事は、イスラエルが神から遠く離れ、喜びが失われていたことを示しています。
空の水がめに描かれているように、何もない形式と儀式だけが残っていることを現わしているのです。

しかし、神のキリストがそこにいました。
イエスの母親は本能的に、イエスがこの状況を改善するのに何をするのかを感じていました。
花嫁の母親は飲み物の不足に困っていました。
当然のことながら、招待客はきちんとした準備ができていないことに首をかしげるだろう。
マリヤは、実際には親戚ではないにしても、おそらく親しい知り合いでした。
マリヤは機転が利く女性だったようです。
息子への言葉が必要なことだと感じてたのです。
母としての自尊心がどれほど混じっていたかはわかりません。
しかし、彼女は明らかに、イエスがその力を発揮するのを見たいと願っていたはずです。
そして、マリヤはこのように息子に言いました。

「ぶどう酒がありません。」
(ヨハネの福音書2章3節)


実際に、マリヤはイエスが何かをするように要求していません。
マリヤは他の人には理解できない秘密を胸に秘めていたのです。
マリヤは、赤ん坊のときに心に抱いていた神の子である驚くべき存在を明らかにされる時を待ち望んでいたのです。
この時に、この機会があるとマリヤは考えたのです。
しかし、イエスはマリヤの方を向いてこのように言いました。

「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
(ヨハネの福音書2章4節)


ある人たちは、主が少し荒っぽいことを話されたと考えています。
私たちは主がそんな荒っぽいことを言っていないと確信しています。
忠実な息子なら決して言わないことを、イエスは言っていないはずです。
息子が言わなかったであろうことを、彼女に一言も言わなかったことを確信しています。
イエスが言ったことは翻訳によって若干失われています。
私たちの言葉では「婦人(lady)」と「女(Woman)」という意味には違いがあります。
「婦人(lady)」とは、かつては単に領主や騎士の妻のことを指します。
現代では「女(Woman)」という言葉は 「婦人(lady)」という言葉よりも少し敬語として弱く感じられています。
ゆえに、主が 「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方 』と、ご自分の母親を非難したのだと考えるのです」。
主が本当に使った言葉は、女性の栄光を示す言葉でした。
つまり、
イエスは「婦人(lady)よ、私はあなたと何の関係がありますか?
「あなたはわたしと何の関係がありますか?
あなたがたは、わたしに何を求めるのですか?
あなたの心の中にあるものは何ですか?」と言ったのです。
そして、イエスは「わたしの時はまだ来ていません」と付け加えています。
イエスはまだ、福音の「時」の前にいることを語っています。
イエスには肉の兄弟がいました。
あるとき、兄弟たちはイエスを祭りに来ました。
イエスは彼らにこのように言いました。

「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。」
(ヨハネの福音書7章6節)


また、ヨハネの福音書8章にはこのように書かれています。

「イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」
(ヨハネの福音書8章20節)


また、このようにも言っています。

「イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。」
(ヨハネの福音書8章28節)


ヨハネの福音書12章23節の中でギリシャ人が来て「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って来た時にイエスは言いました。

「すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」
(ヨハネの福音書12章23節)


イエスは十字架につけられた後に訪れるご自分の栄光が現される時の始まりを、ギリシャ人の来訪によって認識されたのです。
13章では、イエスが弟子たちの足を洗おうとされた時、このように言われました。

「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」
(ヨハネの福音書13章1節)


また、17章ではイエスは天に目を向けて父に向かってこのように願いました。

「父よ。時が来ました。
あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。」
(ヨハネの福音書17章1節)


その時とはイエスが世の罪を背負って十字架に向かう時です。
その時、イエスは木に架けられます。
その後、神は栄光のうちにイエスを死者の中からよみがえらせます。
今はその時ではありません。
マリヤがその時が来ていないのに、予定より早く行動するようイエスに迫ることを言ったのです。
ゆえにイエスは「わたしの時はまだ来ていません」と答えたのです。
イエスの思いを知る母親への答えに少しも動じていないことは明らかです。
マリヤは手伝いの人の方を向いてこのように言ったのです。

「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
(ヨハネの福音書2章5節)


祝福されたマリヤに祈り、彼女にとりなしを求める人々に、御子が、マリヤがイエスに求めた願いにすぐには答えていないことを指摘しておきます。(カトリック)
マリヤは手伝いの人に「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」と言いました。
言い換えるのであれば、イエスの母は「私たちから離れて、祝福された御子イエス・キリストに向かってください」と言ったのです。

「さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。」
(ヨハネの福音書2章6節)


これらはユダヤ人の儀式的な清めに関連がありました。
また、これらは外向きの清めと結びついて見ることができます。
つまり、律法の形式や儀式のようにすべて空虚でした。
そして、主イエスは手伝いの人の方を向いてこのように言ったのです。

イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
(ヨハネの福音書2章7節)


ここでは、昔の型としての儀式に注がれた福音の真実の生きた水としての描写を見ることができます。
水がめに水を入れるとすべてが変わったのです。

「イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。」
(ヨハネの福音書2章8節)


イエスは彼らに言った「今すぐ引き出して、祭りの責任者のところに持って行きなさい。
彼らが水を注ぎ出すと、なんとその瞬間、注ぎ出されたのはぶどう酒だったのです!
これは驚くべき奇跡です。
しかしながら、私たちの主イエス・キリストから見れば、何千年もの間、一万の丘の斜面で水をぶどう酒に変えてきたことの再現にしかすぎません。
このぶどう酒が宴会の世話役のところに運ばれて来て、彼は味見してこのように言いました。

「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
(ヨハネの福音書2章10節)

いつも、神は最高のものを祭りの終わりに準備しています。
聖霊がこのしるしについて述べているのは11節だけです。

「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」
(ヨハネの福音書2章11節)


それは1章14節と関連しているかもしれません。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
(ヨハネの福音書1章14節)

そこでは、私たちの主イエスが「人となって、私たちの間に住まわれた」と書かれています。
「住まわれた」という言葉は、まさに私たちの間で「幕屋」と理解されています。
その幕屋は「私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光」を現しています。
この聖句は、荒野の幕屋の素晴らしい象徴の鍵を与えてくれます。
それは幕の家でした。
その中にある最も聖なる所、至聖所にはケルビムがあり輝かしい光が輝いていました。
まさに、明らかな神の臨在を現しています。
イスラエルの民はその栄光を見ることができなかったのです。
もし、あなたが少しの間、その幕が開き、黄金の中に輝く光を想像することができれば、まさに神の栄光が輝いていたと言えるはずです。
この栄光こそがイエスの奇跡なのです。
これは神の栄光、シェキナを現すために地上の幕屋の幕を引き戻すような行為です。
それは、地上の幕屋の幕を引いて神の栄光、シェキナを露出させるような行為でした。
この目的がこのように書かれています。

「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ」
(コリント人への手紙第二5章19節)


この最初の奇跡は創造主としての力によって万物を支えておられる方、私たちに必要なものすべて与えてくださる方であることを示しています。
何よりも、素晴らしいことはこの偉大な創造主が私たちの救い主となられたことなのです。
イエスは永遠の昔からずっと神でした。
私たちが救われて永遠のいのちを得るために、万物を造られた方は私たちの罪のために苦しむために、この世に降りてこられたのです。
もし、ここに神のみこころならば、たった一言でそれらの水がめを満たすことができたのです。
しかし、私たちの魂を救うには言葉以上のものが必要でした。
十字架の御業が必要でした。
その御業のおかげで、「信じる」という一言によって、命と平和をもたらすことができるのです。

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。」
(へブル人への手紙3章15節)

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
(ローマ人への手紙10章9、10節)


講演7 神殿の清め


「その後、イエスは母や兄弟たちや弟子たちといっしょに、カペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。
ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。
そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。
それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。」
(ヨハネの福音書2章12~22節)


私たちの主がバプテスマを受けた後、イエスは荒野に出て行かれました。
私たちが他の福音書から学ぶように、イエスはそこで悪魔の誘惑に会いました。
それからユダヤに帰られ、ガリラヤに向かってゆっくりと歩み始められました。
イエスの最初の弟子たちを召し、彼らは従いました。
すでに、私たちはガリラヤのカナでの結婚におけるイエスの現れと行動について見てきました。
主はカナからカペナウムに行かれました。
カペナウムは他の場所では「自分の町」と呼ばれています。
私たちが知っているように、カペナウムはイエスご自身の生まれた場所でもなければ、イエスが子供の頃や青年の頃に住んでいた町でもありません。
カペナウムはイエスが宣教を始めるときに、住まいとして選ばれた町でした。
しかし、イエスはそこにとどまることは多くはありませんでした。
イエスはこのように言っています。

「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
(マタイの福音書8章20節)


イエスはカペナウムによることが多くはありません。
もし、家なのか?聞かれるのであれば、それはカペナウムでした。
カペナウムはガリラヤの都市の中で最も恵まれた都市の一つでした。
イエスはたびたび、カペナウムのシナゴーグに現れています。
かつて、私たちの集まりははカペナウムの最近発掘されたシナゴーグに立ってみました。
私たちは高台から見下ろせる場所にあるイエスの足が立っていたとされる石の上に立っていることに気づきました。
私たちの何人かは感情に圧倒され、その思いを表現することができません。
私たちは、なえた腕が癒され、何年も腰が曲がって不自由だった哀れな女が解放されるのを想像しました。
私たちは、そこで主が「わたしは命のパンである」という偉大な話を語られたことを思い出しました。
私たちは海岸を見下ろすことができる場所で、かつて、マタイがそこで取税人としての事務所を持っていたことを知りました。
そして私たちは道を進んでゆくと、主イエスのことを思い出しました。
主イエスは、信仰によって叫びながら群衆の中を押し進んで行く女の願いを聞き入れ、ヤイロの娘を癒しました。

「彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。」
(マルコの福音書5章27、28節)


カペナウムは、地上のどの場所よりも祝福されていました。
イエスがカペナウムをご自分の住まいとして選ばれ、そこで教え、御力のわざを行なわれたからです。
しかし、悲しいかな、後になってイエスが言われたのは、まさにこの町のことでした。

「カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。」
(マタイの福音書11章23節)


カペナウムは、とても恵まれた街でした。
その街が消滅したことを知っているでしょうか?
何世紀もの間、カペナウムがどこにあったのか誰も知らなかったのです。
しかし、近年、砂の山の下から発掘されています。
カペナウムの運命は、今日の私たちにとって重大な警告であるべきです。
私たちの特権が大きければ大きいほど、私たちの責任も大きいのです。
現在、神が哀れみのゆえに人は世界のあらゆるところにある国々に住むことが許されています。
それらの国々では聖書を自由に手にすることができるのです。
しかし、私たちが神の宣言に耳を貸さず、神の言葉を軽んじているとしたら、地上にいる間に拒んだ神と裁きにあって対面することは、どんなに恐ろしいことでしょうか!
神よ、カペナウムの教訓がすべての人々の心に深く刻み込まれるように!
イエスは、母、兄弟たち、弟子たちとともに、カペナウムに下って行きました。
彼らは、しばらくそこにとどまっておられました。
それから、イエスは再び南のほうに旅立ちエルサレムでご自分を現わされました。
エルサレムではユダヤ人の過越の祭りが近づいていました。
旧約聖書では過越の祭りは「主の過越の祭り」と呼ばれています。
そして、新約聖書のどこを見ても「ユダヤ人の過越の祭り」と呼ばれているのです。
ユダヤ人の祭りと言う表現も同じことが言えます。
なぜ、変更されたのでしょうか?
なぜこれらの祭りは「主の祭り」と呼ばれないのでしょうか?
それは、ユダヤ人が主に背を向け、これらの祭りを守ることが形式的なものとなったからです。
もはや、主が自分のものとして所有していないことを表しています。
それは、私たちすべてがさらされている危険性、すなわち、霊的な事柄に入れ替わり、外面的な事柄で判断することの危険性について警告されているのです。
ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上って行かれました。
神殿に到着し、中庭はまるで市場か両替所のような商いが行なわれているのを見て驚いたのです。
これらの商いは過ぎ越しの祭りに訪れる人々のために子羊を提供し、遠い国から来た子羊と金銭を交換するというものでした。
おそらくは罪のない目的で始まったと思われますが、過ぎ越しの祭りのささげ物を捧げるために必要なものを商品化しようとした異常な努力へと堕落していったのだと思われます。
これらは貪欲と過剰なまでに行き過ぎていたため、神は軽視され、神殿の栄光は失われていました。
神殿では主に捧げる羊の鳴き声と、鳩の鳴く声が響き渡っていました。
これらのささげ物を売る者たちは、自分たちを富ませることしか考えていなかったのです。
彼らは神のものを商品化していました。
これらの商売は神の御許では忌まわしいものなのです。
イエスは、ご自身が宮の主であると主張されました。
私たちはマラキ書でこのように読みました。

「あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。
あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている。」
(マラキ書3章1節)


イエスは宮を清めたのです。
イエスは突然、細なわのむちを持って民の前に現われ、羊と牛を追い出し始めたのです。
そして、イエスはこのように言われました。

「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
(ヨハネの福音書2章16節)


このこと以来、神の教会がどれほど商業化されてきたのでしょうか!
主がお与えになるものは、すべて惜しみなく与えるべきです。
主のしもべたちは貧しい者への奉仕のために捧げるものも、同じように惜しみなく捧げなければなりません.。
私たちは心から感謝と喜びの気持ちから贈り物をします。
私たちの主イエス・キリストの栄光を現すことは、私たちが望んでいることなのです。
イエスが細なわのむちを持って、大声で叫んでいるのは奇妙だったかも知れません。

「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
(ヨハネの福音書2章16節)

「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
(マタイの福音書21章13節)


権威者としての口調に気を付けて見てください。
「父の家」と「私の家」の違いです。
イエスは宮の主でした。
イエスは万物の主でした。
弟子たちは次の言葉を思い出しました。

「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」
(ヨハネの福音書2章17節)


驚くほどにイエスに適用される言葉です。
ユダヤ人たちは反対し、尋ね始めました。

「そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」」
(ヨハネの福音書2章18、19節)


それはイエスが「あなたがたはわたしが神の子である、そして、わたしが父によって約束された者であることのしるしを欲しがっています。
やがて、あなたがたはそのしるしを得ることになります」と言われたようでした。
神の時が来たら、イエスはこの神殿を破壊し、3日後にそれを建て直すのです。
ユダヤ人たちは理解できずにこのように言いました。

「そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。」
(ヨハネの福音書2章20、21節)


ここでイエスはこの説明をしていません。
そんなことをしても無駄だったのです。
生まれながらの人に霊的な事実を説明しても無駄なことなのです。
ゆえに主は、彼らに何も言ってません。
ユダヤ人たちは自分の道を進んでいます。
イエスは御言葉の不思議を説明しようとしていません。
弟子たちはイエスが死者の中からよみがえられた時イエスのことを信じました。
現在、私たちはその言葉を考えるかもしれません。
そして、私たちはその意味を知ることができます。
「この神殿をこわしてみなさい」、この神殿とは何を指しているのでしょうか?
神殿とはヤハウェが御臨在を示すために建てられた建物です。
神殿には最も聖なるもの、創造されていない永遠の昔からある光、シェキナ、神の栄光がありました。
その栄光は、地上に現れた神の存在を現していました。
神殿は、外の群衆の目からその栄光を隠していました。
大祭司は毎年一度、最も神聖な至聖所に入りました。
主イエス・キリストの体は、神の栄光を覆い隠した、まことの神の宮なのです。
キリストの体が外庭に対応し、魂は聖所、霊は至聖所に対応しています。
神はキリストによって現われました。
神がキリストの肉体のうちに住み、この世をご自身と和解されました。
それは、キリストによって、神と人が一つになったからです。
キリストは彼のからだが神殿であると語っています。
キリストの人格の中に神と人がおられ、神殿となったのです。
そこでイエスは答えられたのです。

「イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」」
(ヨハネの福音書2章19節)


注意してください。
「建てよう」という表現より「建て上げよう」という表現がわかりやすいです。
言い換えれば、イエスは死にますが、復活することを完全に確信しています。
あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの復活が、祝福された三位一体のそれぞれに属することを知っていますか?
イエスは別の箇所でこのように言っています。

「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。
わたしが自分からいのちを捨てるのです。
わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。
わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」
(ヨハネの福音書10章18節)


イエスは自分の命を捨て、また自分の命を捨てたのです。
イエスは神殿を建て上げました。

しかし、別の箇所ではこのように書かれています。

「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、」
(ローマ人への手紙6章4節)


また、別の箇所ではこのように書かれています。

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら
(ローマ人への手紙8章11節)


それぞれの神の神格は、イエスの復活にそれぞれの役割を果たしています。
そして今、イエスは、死者の復活によって、力ある神の子であると宣言されました。
このことがなくては、失われた世界に宣べ伝える福音はないはずです。
キリストがよみがえられ、わたしたちはこのように語るのです。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
(ローマ人への手紙10章9、10節)


講演8 主とニコデモへの会見


「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。
しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。
さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
(ヨハネの福音書2章23節~3章15節)


この箇所は、正確には2章の最後の3節から始まります。

「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。」
(ヨハネの福音書2章23節)


奇跡を土台とする信仰は救いの信仰ではありません。
しるしと不思議に依存する信仰は、救いへと誰も導くことはありません。
ゆえに、私たちは聖書の霊感に反対する不信者との議論には価値を感じていません。
イエスはこのように言いました。

「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
(マルコの福音書16章15節)


私たちにはこのように語られています。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」
(コリント人への手紙第一1章18節)


パウロはこのように語っています。

「私は福音を恥とは思いません。
福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」
(ローマ人への手紙1章16節)


神は御言葉を証しするために奇蹟をお与えになります。
しかし、信仰は奇蹟よりもはるかに優れたものに基づいていなければなりません。
ここで民はメシヤが来るのを待っていました。
そして、民はこのように言ったのです。
「さて、もしメシヤが来たら、メシヤはイエスがした以上の奇跡をすることができるのだろうか?
イエスは預言者たちが語った者に間違いないはずだ!」
この意味では、民はイエスがメシアであることを信じました。
しかし、彼らは自分たちが救いを必要とする罪深いたましいであることは告白していません。
また、自分たちが必要としている救い主をイエスの中に見つけることができません。
多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、御名を信じました。
彼らは奇蹟を見て御名を信じた。しかし、この詩の残りの部分では、イエスは彼らに身を委ねなかったと言っています。
しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかったのです。
「任せる(commit)」と「信じる(believe)」という言葉は、原文では全く同じです。
つまり、「多くの人が御名を信じたが、イエスは彼らを信じなかった」と読むことができます。
イエスは自分の興味を彼らに示していません。
彼らが本物でないことを知っていたからです。

「また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」
(ヨハネの福音書2章24節)


イエスは人のうちにあるものを知っていたので、人について証しする必要がありません。
イエスは人の心の悪と信頼できないことを知っていました。
私たちは自分たちを良く見せることが好きです。
聖書は、私たちが神に正直であるならば、私たちに誇るべきことがないことを示しています。
御子の目が私たちの心の中を見ておられることを考えてみましょう。
そこには恐ろしいほどの堕落、欲望、よこしま、不正が存在しています。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。
わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」
(エレミヤ書17章9、10節)


誰がそのことを知ることができるのでしょうか?
「わたし、主が心」を探っておられるのです。
そして「行ないの結ぶ実によって報いる」のです。
イエスは肉によって明らかにされた神です。
ゆえに、人のうちにあるものを知っておられます。
現実にイエスは父のように全知全能です。
イエスは私たちのこころの中にあるものを知っています。
すべて知っておられるのです。
イエスは私たちを愛し、私たちのためにご自身をお捨てになりました。
しかし、イエスは私たちを信頼していません。
イエスは私たちのこの悪い心にすがらないのです。
イエスは私たちを信頼できないことをを知っています。
私たちは失われ、破壊され、失われた私たちに必要なのは新しい命です。
私たちは生まれ変わる必要があります。
それが神が私たちに与える新しい命です。

「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。」
(ヨハネの福音書3章1節)


ここの英訳ではギリシャ語の単語が少し抜けています。
「さて、そして(and)と訳されても問題ないのですが、一般的には「しかし(but)」と訳されるべきです。
「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった」と訳されている「しかし」と同じです。
ですから、それを3章1節正しく読むのであれば「しかし、パリサイ人の中にニコデモという人がいた」と読むことができます。
神の聖霊がニコデモを23節から25節の人々と対比させています。
ここにはイエスが真理を求めて誠実であると認められた人がいます。
私たちの主は、実際に誠実な人を見つけると、その人が真理を得るように見守られます。
では、聞いたことのない異教徒はどうなるのでしょうか?

彼らが聞いたこともない救い主を信じなかったことのために、神は永遠のさばきを彼らに宣告されるのでしょうか?
もちろん、そんなことはありません。
主は次のとおりになさるのです.
彼らが悔い改めなかったすべての罪について、彼らを罪に定めます
しかしながら、主はすべての悔い改めた者が救われるように、光が得られるように見守られているのです。
主は真理を求めている者を迷わすことがありません。
ニコデモは正直な求道者であり、イエスはニコデモを求道者として扱っているのです。

「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。」
(ヨハネの福音書3章1節)


もちろん、パリサイ人というのはエルサレムで最も宗教的なグループです。
しかし、今、この人は神のキリストと対面し、自分には途方もない欠落があることに気がつくのです。
ニコデモのような人はたくさんいます。
彼らは善良な人たちで、霊的なものを尊んでいます。
しかし、彼らの多くは自分の罪を神の前に告白せず、新しい誕生を知らないのです。
テニソンの言葉を借りて、あなたはたびたびこのように言っています。

訳者注)アルフレッド・テニスン
1809年8月6日生まれ、1892年10月6日死去、イギリス の詩人、著人。


「私の中に人が現れるということは、私と言う人がいなくなることなのです。」
あなたがたは、自分自身に失望しているのに、生まれ変わるためにキリストに立ち返らないのですか?
さあ、私たちの主イエスとニコデモとの会話を追いかけてみましょう。
初めて聞くかのように耳を傾けてみましょう。

「この人が、夜、イエスのもとに来て言った。」
(ヨハネの福音書3章2節)


ここにニコデモがいます。
夜ごとに同じ者がイエスのもとに来ました。
そのことでニコデモを叱るつもりはありません。
ある説教者がこのように語っていました。

「ニコデモには臆病者である証拠を見ることができません。
ニコデモは臆病者のように振る舞っていません。
確かに私はイエスは一日中忙しかったと思います。
そして、ニコデモは「あの人と親しく話したいが、群衆の中ではできない」と言っていたと思います。」
ペテロやヤコブやヨハネにイエスがどこに住んでいるのか聞けば、個人的に話ができるかもしれません。ニコデモは主が群衆から退いた後に、夜になってからイエスを見て語るようにしました。
ニコデモがイエスの所に行ったことは光栄なことです。
ニコデモが夜に行ったからといって、ニコデモを非難することではありません。
ニコデモはこのように言い始めました。

「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
(ヨハネの福音書3章2節)


これは言い終わったのではありません。
救い主はニコデモの言葉をさえぎって言ったのです。

「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」」
(ヨハネの福音書3章3節)


「新しく生まれる?」とは何のことでしょうか?
ニコデモは「新しく生まれた 」ということに印象をもったはずです。
おそらく、初めて聞いたことばだと思います。
いわば、イエスは「ニコデモよ、あなたは何か良いことを言っても役に立たない」と言っているようなものです。
あなたには教師以上のものが必要なのです。
あなたに新しい命を与えることができる救い主が必要です。
あなたに必要なのはもう一度生まれることです。

「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」」
(ヨハネの福音書3章3節)


今日において。人々にキリスト教という教育を受けさせることが広がっています。
現在、宗教的な教育は最も忌まわしいものの一つであると考えています。
子供を連れてきてキリスト教の哲学に沿って教えさえすれば、その子供を救いに導くことができるという考えです。
しかしながら、私はキリスト教教育という言葉に反対しません。
私はそれが正しいことだと信じています。
クリスチャンとしての教えに従って、クリスチャンを指導することは正しいことです。
しかし、人々をキリスト教に教えるだけの宗教教育は、彼らをクリスチャンにするものではありません。
単に何万人もの偽善者を作る手段になると考えています。
「あなたは新しく生まれなければなりません。」
そこには新しい命としての交わりが存在していなければなりません。
ニコデモは「理解できない」と言いました。

「ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」」
(ヨハネの福音書3章4節)


ニコデモには想像もできなかったのです。
そして、イエスはニコデモにこのように言ったのです。

「イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」
(ヨハネの福音書3章5~7節)


なんて重みのある言葉なのでしょう!
救い主はまず「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」と言われました。
どのような意味があるのでしょうか?
私たちは水から生まれるということは、バプテスマから生まれるという意味だと言う人たちがいることは知っています。
しかし、水のバプテスマによって新しい命を授かることはできません。
それを聖書から探しても無駄です。
聖書には書かれていません。
それは神の言葉にはありません。
聖書のどこを見ても、バプテスマは誕生にたとえられていません。
むしろ、バプテスマは死について語っています。
私たちは、死のバプテスマによって、キリストとともに死んだのです。
水のバプテスマは古い人間の埋葬の描写であり、新しい誕生の描写ではありません。
では、私たちが生まれ変わるための水とは何なのでしょうか?
神の言葉から追及すべきです。
文字通りの水から生まれた人はどこにもいません。
ヨハネの福音書から「水」をたどってみてください。
水が神の言葉の象徴として認められていることがわかるはずです。
ダビテは詩篇119編9節の中でこの問題について語っています。

「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」
(ダビテは詩篇119編9節)


4章ではイエスはサマリヤの女の言うことを聞いて、このように語っています。

「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。
わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」」
(ヨハネの福音書4章13、14節)


イエスが与える水は何でしょうか?
それは御言葉の水です。
そして、福音のあかしです。

「遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ。」
(箴言25章25節)

「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」
(ヨハネの黙示録22章17節)


いのちの水とは何でしょうか?
それは福音のメッセージです。
私たちはエペソ人への手紙でこのように読みました。

「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
(エペソ人への手紙5章26、27節)


イエスは弟子たちにこのように言われました。

「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」
(ヨハネの福音書15章3節)


このように、私たちは神のことばによって新しく生まれ、聖霊によって私たちの心と良心は神のみもとに導かれるのです。
ここに二人の人がいます。
彼らは神の福音を宣べ伝える伝道者として並んで座っています。

「「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」
(テモテへの手紙第一1章15節)


一人の人は何も興味を持ちません。
しかし、もう一人の人が顔を上げてこのように言うのです!
「キリストは罪人を救うために来ました!
私は罪人です。
私はキリストに信頼します。」
何が彼をそうさせたのでしょうか?
聖霊が御言葉を新しい誕生の手段として用いたのです。

「イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」
(ヨハネの福音書3章5節)


主は、肉と霊との間に大きな区別があることを明確にしています。

「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」
(ヨハネの福音書3章6節)


あなたは肉によって、何でも好きなようにすることができます
肉を御霊は変えることはできません。
あなたが肉にバプテスマを施すなら、それはバプテスマを施された肉です。
宗教的にすると宗教的な肉になります。
肉は最後まで肉なのです。
それは肉によって生まれた者は肉であり、御霊によって生まれた者は霊だからです。
あなたがたは新しく生まれなければならないとは不思議なことではありません。
ニコデモはこのように言いました。

「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
(ヨハネの福音書3章9節)


主は自然界には私たちが理解できない不思議があることを明確にしています。

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
(ヨハネの福音書3章8節)

あなたは風は見えないが風の力はわかるはずです。
あなたがたは聖霊を見ることはできませんが、聖霊の力を知っています。
神は目に見えません。
しかし、神は罪ある者を罪に定めて、死者をよみがえらせることを、御自分の力ある方法で臨在を示しています。
神は人を完全に変えることができるのです。
神が実際に働いているのを見ていないのに、あなたはその力を認識しています。
あなたは空しい世の女が、突然、静かな祈りの女になるのを見ました。
邪悪な無神論な男が神を信じる聖徒に変わったのを見ました。
それらは聖霊の働きです。
あなたがたは聖霊を見ていません。
しかし、いのちによって現わされた力を見ています。
ニコデモは混乱して言いました。

「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
(ヨハネの福音書3章9節)


イエスは答えました。

「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」
(ヨハネの福音書3章10節)


ニコデモは聖書を持っていました。
イザヤ書で私たちはこのように読んでいます。

「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」
(イザヤ書44章3節)


これは何のことを言っているのでしょうか?
それは「私の言葉の水と私の霊の力によって、私は新しい誕生の奇跡を起こす」と言っているのです。
エゼキエル書でも同じことが言われています。

「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。
わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。
わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」
(エゼキエル書36章25、26節)


イエスはニコデモに繰り返して言わなければなりませんでした。

「水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」
(ヨハネの福音書3章5節)


ニコデモは「どうして?」と言いました。
するとイエスはこのように答えたのです。

「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか」
(ヨハネの福音書3章10節)


そして、ニコデモは「「水と御霊によって生まれなければ」ならないことを語られて驚いているのです。
ニコデモはもっと、理解すべきだったのです。

「あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。」
(ヨハネの福音書3章12節)


これは何を意味しているのでしょうか?
さて、ここにある「地上のこと」とは旧約聖書で語られていました。
神の国に入るためには、常に生まれ変わる必要があります。
この王国は地上において、天から支配されるのです。
しかし、イエスは、地上の王国が拒まれ、しばらく、中断されることを知っていました。
つまり、イエスはこのように言ったのです。
「私にはまだ、隠されていることがあります。
しかし、あなたがたはこれらを理解することができません。
なおさら、あなたがたは地上のことさえ理解できません。」
主は「ニコデモが天の王国の啓示を受ける準備ができていなかった」ことを意味していたと私は考えています。
それは、ニコデモが地上のことの真実さえ理解していなかったからです。

「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」
(ヨハネの福音書3章13節)

ここで率直に書きますが、イエスが言ったのか、使徒ヨハネが聖霊の霊感を受けて書いたのか、私にはわかりません。
もしこの文章が普通の文学として書かれたものであれば、12節の終わりに引用符が付けられ、13節が説明書きとして介入されると思います。
実際、私はどうなのかは分かりません。
イエスがこれを言ったのかもしれません。
もしくは、ヨハネが奥義を説明するために介入したのかもしれません。
奥義とは何でしょうか?
誰も自分の思いで天に昇った者はいません。
エノクは取り上げられました。
エリヤはつむじ風と共に上って行きました。
もし、これらのことばが主イエスによって語られたのであれば、主は御自分が登られる未来を見ておられたのです。
もし、これらのことばがヨハネによって書かれたのなら、ヨハネはイエスの昇天を念頭に置いていたことになります。
しかし、不思議なことがあります。
天から下って来られ、天に昇る権能をお持ちの方が、いつにおいても天におられる人の子であったということです。
なぜなら、この方は遍在される方だからです。
14節にはニコデモの質問に対する主の答えがあります。
イエスは、昔、荒野で起った出来事について語っています。

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」
(ヨハネの福音書3章13節)


これがニコデモに対する答えでした。
イエスの言葉にはこのような答えの意味があったのです。
「私は十字架に行きます。
あの青銅の蛇には型として十字架があるのです。
罪人が私を信じる信仰によって神の義となるために、私は十字架で罪とそのものになるのです。」
荒野で人々を苦しめたのは蛇でした。
死んでいくイスラエル人の血の中に忌みきらうべき蛇の毒は流れ込みました
なんと、この治療法は靑銅の蛇にあるのです。
靑銅の蛇を見上げる者はみないやされたのです。
人類に災いをもたらしたのは罪でした。
蛇はサタンと罪の型です。
十字架の上で何が起こったのでしょうか?
罪のない方は、私たちのために罪となったのです。
イエスは青銅の蛇の型です。
竿に持ち上げられた蛇には毒がありません。
この蛇は誰にも危害を加えることはありません。
この蛇は偉大なささげ物の描写です。
罪人がこの蛇を見た時、罪人は癒されるのです。
主イエス・キリストには罪がありません。
しかし、主は恵みによって罪人の身代わりとなられました。
人々が信仰によって神を仰ぎ見るとき、罪人は生まれ変わります。
仰ぎ見る者は永遠の命を持つのです。
あなたがたは、イエスを仰ぎ見ていますか?
私たちは皆、イエスを仰ぎ見ていますか?

「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
(ヨハネの福音書3章15節)



講演9 福音の核心

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」
(ヨハネの福音書3章16~21節)


マルティン・ルターはこの16節を「小さなゴスペル」と呼びました。
それは聖書の物語のすべてが語られているという意味があるからです。
この聖句は多くの人が持っている考えを否定しています。
聖書では、神は激しい怒りに満ちた審判者として描かれています。
神は罪のために人を滅ぼそうとしています。
イエス・キリストは、様々な方法で神が罪人に愛を持って現れることを可能にしました。
つまり、キリストは私たちのために死んでくださるほど私たちを愛し、私たちの罪を贖われました。
このように神は私たちを愛し、私たちを哀れむことができるのです。
しかし、それは福音の完全な曲解です。
イエス・キリストは、神が罪人を愛することができるようにするために死んだのではありません。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」のです。
この尊い真理はヨハネの手紙第一4章にも、同じような言葉で述べられています。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。
ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。」
(ヨハネの手紙第一4章9、10節)


私たちの主イエス・キリストがこの世に来られ、十字架にかかられたのは、罪の問題に終止符を打ち、罪人に対する神の義のあらゆる要求を満たすためです。
これが世に対する罪ある人間への神の無限の愛の証明なのです。
神が私たちの贖いのために御子をお与えになりました。
私たちはそのことをどんなに感謝し、ほめたたえるべきでしょうか!

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
(ローマ人への手紙5章8節)


他の方法はありません。
神が愛だからです。
私たちはヨハネの手紙第一4章8節、そして16節でこのように教えられています。

「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」
(ヨハネの手紙第一4章8節)

「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。
神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」
(ヨハネの手紙第一4章16節)


「神は愛です。」
これが神の性質なのです。
私たちは神が恵み深い方とは言えますが、神が恵みとは言えません。
私たちは、神が慈悲深い方と言うことはできますが、神が慈悲深いとは言えません。
神は親切な方ですが、神が親切なのではありません。
つまり、神は愛なる方だと言うことができます
まさにこれが神の性質なのです。
愛は愛によって明らかにされなければなりません。
人間は神に対するあらゆる権利を放棄しました。
それでも、神は私たちを愛し、そのひとり子を遣わして、私たちの罪をなだめてくださっています。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネの福音書3章16節)


私たちの主イエス・キリストは、新約聖書の中で「唯一のひとりの子」として5回語られています。
この福音書の1章では2回語られています。
1章14節にはこのように語られていました。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
(ヨハネの福音書1章14節)


また、18節にはこのように語られています。

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
(ヨハネの福音書1章18節)


そして、3章16節には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」と書かれています。
くりかえし、3章18節にはこのように語られています。

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」
(ヨハネの福音書3章18節)


他にこの言葉が使われている唯一の場所はヨハネの手紙第一4章9節です。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。
ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」
(ヨハネの手紙第一4章9節)


これはおどろくべき事実です。
この「ひとり子」という言葉は新約聖書の中で五回使われているだけです。
また、すばらしい構成された聖書を見ることができます。
また、聖書ではイエスはちょうど5回、「長子」または「先に生まれた方」と呼ばれています。
「ひとり子」とは「永遠の子」である ことを示しています。
「長子」という言葉は、私たちの贖いのために、恵みによって、人になられたかを表しています。
神が世に来られ、神はその祝福された人を「長子」とし、次のように言われました。

「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」
(へブル人への手紙1章5節)


「ひとり子」という言葉には、時代的な概念は含まれていません。
つまり、唯一な、子という特別な関係による概念が含まれています。
「ひとり子」という言葉はイサクに関連して使われています。
わたしたちは、アブラハムがそのひとり子を捧げたことを読みました。
しかし、アブラハムは彼のひとり子ではありません。
イシュマエルはイサクよりも数年前に生まれました。
歳から見ても、イサクをひとり子とは言うことはできません。
イサクが「ひとり子」と呼ばれるのは、すでにアブラハムとサラが子どもの親になることは不可能だと思われていたからです。
イサクは、奇跡的な方法で生まれたのです。
スペイン語訳では「神は世を愛し、唯一の子を与えた」と訳されています。
つまり、私たちの主イエス・キリスト以外は、だれも神の子になることができないという意味です。
主イエス・キリストだけが、神の子であり、永遠の「ひとり子」であるという意味です。
父なる神の御心には主イエス・キリストが愛しく見えているのです。
イエスは苦しみと疲れと渇きと飢えに耐えるために肉体を持ったのではありません。
神が、イエスを十字架の死に至るまで、世にお与えになったのはイエスが私たちの罪を贖うためです。
これ以上の神の愛の現れがあるでしょうか?
聖書の初版が出版されたマルティン・ルターの時代の少女の話を覚えているでしょうか?
少女は神をひどく恐れていました。
少女は神のことを考えると、心は恐怖で満たされました。
少女は神の特徴の恐ろしさと、いつかこの恐ろしい裁きに会わなければならないことを思い悩んでいました。
しかしある日、少女は紙切れを手に持って母親のところに走ってきました。
少女は叫びました。
「お母さん!
お母さん!
私はもう神様のことは怖くない。」
母親は「どうして恐ろしくないの?」と尋ねました。
少女は「ねえ、お母さん。
印刷所でこの紙切れは見つけたんだけど、聖書の一部でしょう!」
この紙切れは2行を除いては、ほとんど読めないほど破れていました。
最初の行には「神はそれほど愛された」と書かれていました。
そして、もう1行には「与えられた」と書かれていまし。
少女は「ほら、お母さん!
それで大丈夫だよ!」
少女の母親はそれを読んで言いました。
「神は与えるほどに愛されました。
でも、ここに神様が何を与えたのか?書いてはありませんね!」
少女は答えました・
「神様が私たちを愛して、何でも与えてくださるのなら、もう大丈夫だよ!」
母は答えました。
「では、神様が何を与えられたかを、お話ししてあげましょう。」
そして、次の聖句を読み上げました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネの福音書3章16節)


そして、母親は少女に「神様を信じるのなら、私たちが平和と永遠の命を得ることができる」ことを教えました。
現在において、私は神に会うことを恐れている人に話しているのです。
あなたがたは自分の罪を思い出して、昔のダビデのようにこのように言うのです。

「私は神を思い起こして嘆き、思いを潜めて、私の霊は衰え果てる。」
(詩篇77編3節)


次の聖句に注目してください。

「ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」
(ヨハネの手紙第一4章9節)


といっしょに、「わたしは神を思い出して、心を痛めました.」と言うのですか?
「神の愛はキリストによって明らかにされた」という言葉に注目してください。
もしあなたがたが、哀れな罪人として主の御元に行くのならば、主はあなたがたの罪を取り去られるのです。
でも、それが自分のためだとどのように確信できるのでしょう?
たしかに、神が一部の人を愛することができるのは理解できます。
私は主に信じる者たちを主が招待していることが理解できます。
彼らの人生は私の人生よりもはるかに良いものだと思います。
でも、この救いが私のためのものだとは信じられません」。
「ひとりとして」という言葉から他に何がわかるのでしょうか?
「神の愛」です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネの福音書3章16節)


神にはそれ以上にすべてのことを表現できる言葉を見つけることができなかったのです。
それはあなたにも適応されます。
そして、私にも適応されます。
聖書には他にも多くの「ひとりとして、誰でも」という言葉があります。

「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
(ヨハネの黙示録20章15節)


ここにも「みな、ひとりとして」ということばがあります。
ここにある「みな」とは、神が救いを求めて待っておられた時に、神のみもとに来なかったすべての者を指しています。
もし、彼らがヨハネの福音書3章16節の「ひとりとして」の中に含まれていることを認識していたならば、彼らはヨハネの黙示録20章15節の中にはいなかったはずです。
先日、ある人が私に手紙を書いてきました。
そこには「制限付きの償いを説いている人が私たちの交わりに来ました」と書かれていました。
その人は、最近、明らかにされた素晴らしい真実だと言っていました。
私には「制限付き償い」 という言葉には、異様な響きがあるとしか言い返せませんでした。
私の聖書にはそのようなことは書かれていません。
私はこのように聖書から読みました。

「その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」
へブル人への手紙2章9節


また、私はこのように聖書から読みました。

「この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」
(ヨハネの手紙第一2章2節)

また、同様に聖書にはこのように書かれています。

「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
(イザヤ書53章6節)


そして、この箇所でこのように書かれています。

「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネの福音書3章16節)


この手紙を書いた人に私は言います。
そして、私はあなたがたに言います。
主イエス・キリストの贖いの働きには、全人類を救うのに十分な価値があります。
もしすべての人が悔い改めて、神に立ち返るならば、全員が救われるのです。
もし、彼らが罪の中に迷い、救い主を必要としているなら、何百万という世界の人々を救うのに十分な価値を持っています。
そう、キリストのささげ物は無限の価値を持つささげ物なのです。
あなたのたましいの敵に、あなたには希望がないと言わせてはいけません。
あなたがたが罪を犯して恵みの日を失ったと言わせてはいけません。
もはや、あなたがたは神のあわれみが必要ないところまで行ってしまったのです。
カルバリの十字架で死なれた方の御顔を見上げ、彼に信じるなら、あなたには満ち溢れた人生があります。
もう一度繰り返します。

「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネの福音書3章16節)


信じるとはどのようなことでしょうか?
単純に神を信じることです。
そして、すべてを神に明け渡すことです。
すべてを主に委ねることです。
主はあなた方に「哀れな罪人よ!あなたは自分で自分を救うことは出来ません。
あなたがたが自分を贖おうとするすべての努力はすべて失敗に終わるだけです。
わたしはあなたがたのために、わたしの子を死ぬために与えたのです。
彼を信じなさい!
彼に明け渡しなさい。
御子を信じる者は滅びることがありません。
ある日、ある女性がギリシャ語の聖書を読んでいました。
彼女はギリシャ語を勉強しており、ギリシャ語の聖書を読むのが好きでした。
しかし、彼女には救いの確信がありません。
彼女はギリシャ語の「信じる」という言葉を見ながら、「信じる者が、ひとりとして」というこれらの言葉について考え「私は数節前にこれを見た」と独り言を言いました。
彼女はその前の章に戻り、このように読みました。

「多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。
しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」
(ヨハネの福音書2章23~25節)


その瞬間、彼女は立ち止まり、しばらく考え、天からの光によって彼女のたましいには光が射してきました。
彼女は、イエスを信じることは、イエスに身をゆだねることだとわかったのです。
あなたがたはどうでしょうか?
あなたがたは「イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
わたしのたましいをもってあなたを信頼します。
疲れ果て、疲れ果て、無力なわたしを完全にしてください」と言えたでしょうか?
讃美歌の「イエスよ、私はあなたを信頼します」(Jesus, I Will Trust Thee)」の中にはこのような歌詞があります。

「天にも地にも、あなたのような者はありません。
あなたは罪人のために死にました。
主よ、私のためにも。」

「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネの福音書3章16節)


聖書のページをめくると、この恵みを拒んだ人々の姿がはっきりと見えてきます。
滅びるということは、闇の中に出てゆくということです。
永遠に裁きを受けることなのです。
恐ろしい苦しみの中に生きるのです。
イエスはあなたを救おうとしています。
「持つ」という言葉は現在、持っていることを示しています。
これから、持つということを述べていません。
あなたがイエスを信じ、イエスを信じる時に、今、あなたはここで永遠の命を得ているのです。

ある日、ある人がこのことについて考えていました。
そして、彼は顔を天に向けて言いました。
「神は愛されました。
神は与えられました。
私は信じます。
私には永遠の命があります。」
永遠の命とは、永遠に続く命以上のものであることを忘れてはいけません。
単に終わりのない存在という意味ではありません。
それは、私たちが神との交わりを楽しむために、神とたましいをつなぐ、まさに命のホットラインなのです。

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
(ヨハネの福音書17章3節)


17節では、罪深い者たちが神のみもとに来るよう勧めるかのように言っています。

「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
(ヨハネの福音書3章17節)


何年か前、私が若くして、働いていたロサンゼルスの大きなデパートのカウンターの後ろにいた親しげな老人のことを覚えています。
その老人は私にとても親切でした。
私はとても未熟で、私に何が期待されているのかさえもわからずに、彼は私のことを見ていました。
彼は私を丁寧に世話をしてくれました。
私はすぐに彼が救われているか?どうかを調べることに興味を持ちました。
私の愛する母は、長い間、誰かと一緒にいたことはありませんでした。
しかし、誰かと会うならば、このように尋ねていました。

「あなたは救われていますか?
新しく生まれましたか?」
私は母がそのような質問をするのを聞くのに慣れていました。
私もそのように人に聞くべきだと考えていました。
ある日、私も彼のところに行って言いました。
ウォルシュさん、救われていますか?
彼は私を見て言いました。
「わが親愛なる少年よ、裁きの日まで誰もそれを知ることはありません。」
私は尋ねなおしました。
「そこには何か間違いがあるはずです。
私の母は自分が救われたことを知っています。」
彼は「あなたの母は間違ったことを言っています。
誰が救われているのか?どうか知ることは出来ないからです。」
しかし、聖書にはこのように書かれています。

「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネの福音書3章16節)


彼はこのように答えました。
「偉大な聖人にならない限り、確信が持つことはできません。
私たちはただ最善を尽くし、主や聖母や聖人たちに助けを祈り、裁きの日に良い結果を見出し、救われることを願うしかないのです。」

私は答えました。
「なぜ、聖母に祈らなければならないのですか?
なぜ、直接、イエスの元に行かないのですか?
親愛なる少年よ!
主はとても偉大で、力強く、聖なるお方です。
、私のような哀れな罪人が主のもとに行くのはふさわしくありません。」
その時、私は彼にどのように答えたらよいのか?答えを持っていませんでした。
しかし、長年聖書を学んでいるうちに、私はその答えが何であるかが見えてきました。
イエスとは話ができない!
イエスには近寄れない!
なぜ?イエスのことをこのように言うのでしょうか?
この人は、天の栄光を持ちながらも、罪人を受け入れて下さる。
すでにイエスはこのように言われています。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイの福音書11章28節)


その通りです。
はい、あなたは神のみもとに直接行くことができます。
あなたが神を信じるならば、神はあなたに永遠の命を与えることができるのです。
イエスは世を裁くために来たのではありません。
イエスは哀れな罪人たちを受け入れるために、愛の心を持って来られたのです。
18節に書かれていることはとてもわかりやすくシンプルです。
もし、あなたがたが光を求め、心を悩ましているなら、この聖句はまさに生ける神の言葉であることを覚えておくべきです。

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」
(ヨハネの福音書3章18節)


ここでは何が語られていますか?
この聖句には2種類の人々がいます。
メッセージを聞いたすべての世の人を、この2種類に分けることができます。
どんな人たちでしょうか?_
始めに「信じる者たち」です。
そこにはイエスを信じる者たちがいます。
彼らは自立した存在です。
次に、他の者たちは「信じない者たち」です。
イエスのことを聞いたことがある人は皆、この2種類のどちらかに属しています。
あなたがたは、イエスを信じる者、もしくは信じない者のどちらかです。
それは神のことを信じているのか?どうかの問題ではありません。
それは神を信じているかどうかの問題です。
神についての心の概念を持っているかの問題ではなく、これは単なる歴史の事実です。
それは神を信じ、神に身をゆだねることなのです。
イエスを信じる者と、信じない者と、あなたがたはどちらに属するのでしょうか?
イエスを信じる者と告白する人は、あなたは本当にそこにいるのでしょうか?
イエスを信じない者は、本当にそのままで良いのでしょうか?
もし、あなたが信じていない者ならば、あなたはその集まりから出て、もう一つの集まりに急いで行くべきです。
あなたがイエスを信じることは、最初の集まりから出て、もう一つの集まりに入ることなのです。
あなたは最初の集まりにいるのですか?
「御子を信じる者はさばかれない。」
そのことを信じていますか?
イエスはこのように言っています。
「御子を信じる者はさばかれない。」

3年前に私はキルマーノックという場所に滞在し、その晩グラント・ホールで講演を行いました。
その時、何人もの人が質問室に入ってきました。
その後、私は彼らの状況を見に行きました。
ある牧師が私を呼んで「この若者と話をして欲しい」と言いました。
私は若者の横に座り「どうしたのですか? 」と尋ねました。
若者は顔を上げて「わかりません。
私は大きな重荷を負っています。
救いを見つけることができないのです」と言いました。
「あなたはクリスチャンの家庭で育ちましたか?」と聞くと、彼はこのように答えました。
続けて「あなたは救われる方法を知っていますか?」と聞きました。
彼は「もちろんです。
しかし、それを見つけることが出来ないのです」と答えました。
私は「それがなんだか、私に教えてもらえませんか?」と聞きました。
最初に私は彼と共に、その若者の心が開くことが出来るように神へと聖霊によって祈りました。
私は若者にこの聖句を示し、このように言いました。
「ここには2種類の人の集まりがあることを、あなたは理解することができますか?
最初の集まりとは誰のことでしょうか?
次に二つの集まりとは誰のことですか?

若者ははっきりと答えました。
そして、私はこのように言ったのです。
「今、あなたはどちらの集まりにいるのでしょうか?」
その時、若者は私の方を見て「私は最初の集まりにいるのでしょうか?」と答えました。
「私はイエスを信じています。
しかし、すべてが暗いのです。
私は何もわからないのです。」
私は「もう一度、見てください。
最初の集まりについて、何が言われていますか?」と尋ねました。
若者はもう一度見直して、雲が消え去るように理解できたのです。
そして、若者は私の方を向いて叫びました。
「わかった!
私は裁かれることがない!」
私が「どうしてわかるのですか? 」と聞くと、若者は「神がそのように言っているからです」と答えました。
牧師は言いました「あなたは、家に帰り両親に話す気持ちはありますか?
明日、仕事に行ったら仲間に話すことができましたか?
彼は「もちろんです。
明日が来るのが楽しみで待ちきれません」と答えました。
さて、あなたがもう一つの集まりにいると仮定しましょう。
聞いてください。
「信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」のです。
裁きの日まで待つ必要はありません。
裁かれるのです。
なぜでしょうか?
あなたが不誠実だったからでしょうか?
嘘をついたからでしょうか?
あなたがたが清くなく、汚れていたからですか?
何のためですか?
ここには何のことか書いていません。
どうしてなのか書いてあるのですか?

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」
(ヨハネの福音書3章18節)


ここにある裁きとは何のことですか?
あなたが犯した罪はすべて、キリストが死なれたときに引き受けられたのです。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
(イザヤ書53章5節)


もし、あなたが罪によって裁かれるのであれば、あなたが生きている間に犯した罪のためではありません。
それは神によって与えられた救い主を拒んだからです。
もし、あなたがたが神から離れて、イエスを拒み続けるなら、あなたがたは最悪の罪を犯しているのです。
イエスは光として、闇を照らすために世に来ました。
もし、あなたがたが、イエスに背を向け、立ち去るのであれば、あなたがたは暗闇の中で生き、死ぬのです。

「そのさばきというのは、こうである。
光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。
その行ないが悪かったからである。」
(ヨハネの福音書3章19節)


人は、命の光であるイエスに立ち返り、救いを見出すよりも、むしろ暗闇の中にとどまり続けようとするのは不思議なことではありません。

「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」
(ヨハネの福音書3章20、21節)


真理を行うとは、神に絶対的な素直さを持つことです。
あなたは今日という日に光から離れるのでしょうか?
それとも、光の中に入るのでしょうか?
あなたがたは、世の光である祝福された方を信頼すべきです。
あなた方は、その方によって惜しげもなく与えられる救いを喜ぶことができるはずなのです。


講演10 バプテスマのヨハネの最後の証言

「その後、イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。
一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が多かったからである。人々は次々にやって来て、バプテスマを受けていた。
――ヨハネは、まだ投獄されていなかったからである。――
それで、ヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめについて論議した。
彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」
ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。
あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。
花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。
あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」
上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。
この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。
そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。
神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。
父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。
御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
(ヨハネの福音書3章22~36節)


すでに承知していると思いますが、「その後」とは主がエルサレムでの働き、そして、ニコデモとの会見の後のことです。
「イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き」ました。
イエスはエルサレムの町を出て、回りの地域を巡り、宣教して教えました。
そこで、イエスは彼らとともにとどまって、バプテスマを授けられました。
実際、私たちは第四章から、バプテスマの儀式を行なったのは主ご自身ではありません。
しかし、イエスが教え、民がみことばを信じたので、弟子たちは、イエスの命令によって、人々にバプテスマを授けました。
驚くべきことに、そう離れていない場所で、主イエス・キリストの先駆者がまだ奉仕を続けていました。

「一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。
そこには水が多かったからである。人々は次々にやって来て、バプテスマを受けていた。」
(ヨハネの福音書3章23節)


アイノンは主イエスがこの時おられた場所から約20マイル北のヨルダン渓谷にあります。
ヨハネが罪の赦しのために偉大な悔い改めのメッセージを伝えていたので、多くの人々がそこに聞くために集まっていました。
すでに、ヨハネは主イエスのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と呼んでいます。
救い主である主は40日間の断食のために荒野に行かされ、そこでイエスは誘惑されました。
そこからイエスはエルサレムに戻られ、公に証しを始められましたが、多くの人はその証しを拒みました。
でも、ニコデモは神のメッセージに関心を持つ正直な一人のたましいでした。
さて、主ご自身の働きはますます拡がっていきました。
しかし、ヨハネは同時に宣教を続けています。
「ヨハネは、まだ投獄されていなかったからである。」からです。
この直後にヨハネは投獄されています。
あなたはこの出来事を覚えているはずです。
ヘロデはヨハネに非常に興味を持っていました。
何度も、ヘロデはヨハネを呼び、ヨハネのメッセージを聞いて喜びました。
しかし、ヘロデは、神の律法にも人の法律にも反する、重大な罪を犯していました。
それは、彼は実の兄ピリポの妻ヘロデヤとの関係にありました。

「実は、このヘロデが、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、――ヘロデはこの女を妻としていた。――人をやってヨハネを捕え、牢につないだのであった。
これは、ヨハネがヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です。」と言い張ったからである。
(マルコの福音書6章17、18節)

ヘロデは権力の座にいたため、誰も彼を批判する人はいませんでした。
しかし、バプテスマのヨハネはヘロデの前に立ち、恐れずに「あなたが彼女を持つことは許されない」と宣言したのです。
ヘロデは、すべての人に適用される方法で罪の赦しを説き、すべての人に適用される方法で悔い改めを語っているのであれば、もちろん、ヘロデはヨハネの話に耳を傾けることができました。
このようにヨハネはヘロデの個人的な罪を指摘し、その罪が神によって認められないことを明らかにしたとき、ヘロデの憤りはかき立てられ、バプテスマのヨハネは投獄されたのです。
後になって、軽蔑されたヘロデヤの憎しみを満たすために、ヨハネは殺されたことをあなたがたは知っています。
ここではまだ、そのことは起きていません。
ヨハネは群集に福音を宣べ伝え、悔い改めの証拠を示す者にバプテスマを授けていました。
このように二つの働きが同時に行われていました。
明らかにユダヤ人たちはこれに驚いたはずです。
ここでヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめの問題が起こります。

「それで、ヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめについて論議した。」
(ヨハネの福音書3章25節)


彼らはバプテスマの中にきよめの象徴を見たのです。
実際に、バプテスマは魂を浄化するものではありません。
罪を浄化する象徴です。

彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」
(ヨハネの福音書3章26節)


それは「ヨハネよ、あなたの時代が終わり、今、キリストの時代が始まった」と言われることと同じことです。
いままで、あらゆる者が神のことを求め、あなたの言うことに耳を傾けて集まっていましたが、もういなくなるということです。
ヨハネの答えは美しいものでした。
そこにはプライドも自己主張も存在しません。
ヨハネは弟子を集めることに関心がありません。

「ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。
あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。」
(ヨハネの福音書3章27、28節)


私たちはこのように言い換えることができます。
「私はあなたがたの注意を引くために来たのではない
私は約束された油注がれた方の先駆者として来ただけです。」
そして、彼らはこのように質問しました。
「あなたは、モーセが語った、世に来る預言者なのですか?」
モーセは「そうではありません」と答えました。
「では、あなたは誰で、なぜバプテスマを授けるのですか」との問われ、このように答えました。
私は「主の道をまっすぐにせよ。」と荒野で叫んでいる者の声です。
イスラエルと世に救いをもたらす神の救い主の到来を告げることは、私にとって名誉なことなのです。」
そして、29節にはとても美しい描写が用いられています。

「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。
それで、私もその喜びで満たされているのです。」
(ヨハネの福音書3章29節)


言い換えるのであれば、ヨハネはこの登場人物がよく知っていたことを指しています。
結婚式では花嫁は花婿に関心があります。
そして、花婿の喜びは花嫁です。
しかし、その時、現在の私たちが持っているように、花婿の友人と呼ばれる「偉大な登場人物」がいます。
そして、その花婿の友人は花婿の喜びに自身の喜びを見出したのです。
そこでヨハネは「まさに私はそのような者」だったのです。
私は花婿の友人です。
主イエス・キリストご自身が花婿です。
花嫁は主のものであって、私のものではありません。
私は主の喜びを自身の喜びとします。
花嫁の愛と忠誠を主張できないからといって、私は軽視されているとは感じませんし、一方的にされているとも感じません。
もちろん、ヨハネはユダヤ人として話しています。
旧約聖書では、イスラエルは花嫁であり、ヤハウェは花婿です。
ヤハウェは、主イエス・キリストの人格の中に肉となられたのです。
ヨハネはこのように言ったのです。
「ただ、わたしはイエスが来られたことを知らせるためにここにいるのです。
花嫁はイエスのものです」。
しかし、神はその時には明らかにされなかった別の考えを持っていました。
その後、神は、祝福された御子に対するイスラエルの立場、思いにより「異邦人の時代」として知られる長い期間、イスラエルが隅にに追いやられることを示されました。
この期間中、神は聖霊によって、ご自分の御名のために、主イエスの御名のために民を取り出され、この民を小羊の花嫁と定められたのです。
エペソ人への手紙5章では、使徒が夫婦関係における夫と妻の責任について述べています。
使徒は私たちに創造の時に注意を向けさせています。
神はアダムとエバそれぞれにこのように言っています。

「「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」
(エペソ人への手紙5章22、23節)


使徒は結婚関係は、キリストと教会の奥義的な結びつきを描写するために神が計画したものであることを私たちに示しています。
教会は「花嫁、小羊の妻」です。
ヨハネの黙示録の19章で、小羊の結婚の婚宴で花嫁を見ることができます。

「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」
(ヨハネの黙示録19章7節)


この章では、結婚の婚宴で2つの異なる集まりがあります。
私たちには花嫁の仲間が存在しています。
同様にヨハネがここで自分自身を強調しているように、私たちには花婿の友人も存在しています。
ここではこのように書かれています。

「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ。」
(ヨハネの黙示録19章7節)


花嫁は子羊の結婚の婚宴に呼ばれることはありません。
結婚式の後に婚宴を行うことはよくあることです。
このように、婚宴に出席する友人が招待されます。
彼らは出席の招待を受けます。
彼らは新郎と花嫁の親しい友人です。
しかし、花嫁は招待状を受け取ることはありません。
花嫁は花嫁ゆえに婚宴にいるのです。
それは花嫁の結婚式であり、婚宴だからです。
花嫁は結婚の婚宴に呼ばれる必要はありません。
黙示録の素晴らしい描写を見ているならば、花嫁、つまり、長子の教会が見えてきます。
その日、私たちの主イエス・キリストである花婿に結ばれるのです。
大患難時代に旧約聖書の聖徒たちはみな、野獣と反キリストの下で殺されます。
そして、患難時代の終わりによみがえります。
結婚式の招待客である者すべてが、花婿と花嫁の喜びを喜ぶために、そこに集まってくるのです。
ゆえに、私たちの主イエスは女から生まれた者についてこのように語っています。

「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。
しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」
(マタイの福音書11章11節)


ヨハネは王国の入口の番人でした。
しかし、彼は中に入れなかったのです。
ヨハネは生ける神の教会のメンバーになることはありません。
しかし、教会の長子である方の到来を予告したのです。
あなたは「ヨハネがクリスチャンではなかったことを意味するのですか?」と聞くかもしれません。
そこで、私たちはクリスチャンの意味を注意して思い出す必要があるのです。
クリスチャンという言葉は「神の子」と同意語ではありません。
旧約聖書の聖徒たちは皆救われました。
彼らは皆神の子供です。
しかし、彼らはクリスチャンではありません。
最初、弟子たちは新しい宣教においてクリスチャンと呼ばれました。
クリスチャンとは、栄光のうちにキリストに結ばれた者であり、小羊の花嫁を形成する者です。
ヨハネは花婿の喜びゆえに従う者として喜んでいるのです。
ゆえに彼はこのように宣言しているのです。

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」
(ヨハネの福音書3章30節)


使徒パウロは、ピリピ人への手紙1章で同じことを述べています。

「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」
(ピリピ人への手紙1章20、21節)


今日の私たちは、神の子として、このように宣言できるのでしょうか?
私たちは、誰にも認められずに仕えることに満足しているのでしょうか?
私たちの主イエス・キリストを拒んだ世の中で、誰かに認められることを望んでいるのではないのでしょうか?
私たちは、力と権威のある立場を求めているのでしょうか?
それとも、神の教会に認められていることを求めているのではないのでしょうか?
それは、バプテスマのヨハネや使徒パウロの思いを否定することです。
彼らのただ一つの切実な願いは、キリストを尊びたいということです。
彼ら自身が失われることを問いていません。
そのことはピリピ人への手紙2章にあります。
使徒であるパウロは教会の敬愛する聖徒たちに手紙を書いてこのように言っています。

「たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。」
(ピリピ人への手紙2章17節)


パウロがここで言っているのは全焼のいけにえのことです。
旧約聖書の時代に全焼のいけにえを主の前に捧げる時は、すべてのささげ物の部分が洗われ、それから火の上に置かれました。
これらはみな、祝福された御子の型として焼かれ、ささげ物として神の御前に昇っていきました。
祭司は、自分の務めを終える直前に、注ぎのささげ物と呼ばれるぶどう酒の入った器を取り、そのぶどう酒を全焼のささげ物に注ぎかけました。
さて、この注ぎのささげ物は、私たちの主イエスが、私たちのために、御自分のたましいを死に向かって注ぎ出される姿を表しています。
このように、礼拝者たちが集まっていたのなら、祭壇の上の全焼のいけにえを見ることができたかも知れません。
しかし、もし、すでにささげ物にぶどう酒が注がれていたら、その注ぎのささげ物を見ることはできません。
すでにぶどう酒を見ることはできません。
焼け残ったささげ物だけが残っています。
つまり、パウロはピリピ人たちに「あなたがたのささげ物と奉仕が、いわば全焼のいけにえのようなものです。
私が注ぎのささげ物として、あなたがたが捧げるささげ物の上に注がれることを望んでいます」 と言ったのです。
言い換えるのであれば「私は喜んで自分の働きをします。
私は私の時代に主キリストに仕え、後の時代には失われることを望んでいます。
私は他の人たちによって、この働きが成し遂げられ栄光を得ることを望んでいます。
なんて素晴らしい思い出はないでしょうか?
「私のことは気にしない」というキリストの謙遜さと優しさをより学ぶためには、私たちはどのように祈る必要があるのでしょうか。
キリストに栄光が帰すことだけが、私が心配していることです。
私は他の人々に私のことで気遣いしてもらいたくありません。
私は他の人々に何もしてもらいたくありません。
イギリスのバプテスト派の宣教師であるウィリアム・キャリー(William Carey(1761-1834))が死期を迎えたとき、彼は友人に向かって「私が死んだら、ウィリアム・キャリーのことは誰にも話すな!
私はキリストだけがあがめられることを望みます。」と言いました。
ここにいるヨハネもそうなのです。

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」
(ヨハネの福音書3章30節)


このようにヨハネは素晴らしい証しをしているのです。
私はこのように心配しています。
「バプテスマのヨハネがイエス・キリストによってもたらされた祝福された真理を知らずにいた」と多くの人が理解しているのではないでしょうか?
私たちはバプテスマのヨハネは多くの光を持っておらずに、主の御子についても、贖いの完全な真理についても、ほとんど理解していなかったのではないかと思うことがあります。
しかし、私たちはヨハネがこのように叫んだのを忘れてはいけません。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」
(ヨハネの福音書1章29節)


また、このようにも証ししています。

「私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」
(ヨハネの福音書1章34節)


そして31節では、ヨハネが祝福された主に捧げた素晴らしい賞賛の句があります。

「上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。」
(ヨハネの福音書3章31節)


ヨハネはキリストが上から来たことを知っていました。
ヨハネはご自分が祝福された処女マリアから生まれた時に、キリストが存在し始めたのではないことを知っていました。
ヨハネは、世が生まれる以前から、父とともにおられたキリストを知っていたのです。
人が高慢と虚栄と競争の霊で話すとき、彼らは地のことを話しています。
これらのものは天に属するものではありません。
地に属するものです。

「上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。」
(ヨハネの福音書3章31節)


生まれながらの人間は、神の恵みに助けられることなく、神のあかしを受けることはありません。
ローマ人への手紙3章ではこのように書かれています。

「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。
善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
(ローマ人への手紙3章10~12節)


もし、あなたに神を求めている魂があるのなら、神の聖霊があなたの心の中で働いている証拠だと私たちは知っています。
生まれたままの人間は自分の道を歩みます。
その人は神を求めることに興味がありません。
次のことは、悩みを持ち心配したりしている人たちの助けになるかもしれません。
よく私の所へ来てこのように言う人がいます。
「私は自分の救いについて確信することを望んでいます。
私はキリストのもとに来て、神に私を救ってくださいと願いました。
私はイエスが私のために死んだと信じています。
しかし、私は自分の罪について、とても惨めな状態です。
私には何の保証もなく、平和もなく、神が私を受け入れてくださったという実感もありません。」

私はそのような人たちにこのように言います。
「恐れるな、親愛なる友よ!
生まれたまま人が神を求めることはありません。
「あなたはこれらの訓練を受けています。
この事実はあなたが新しく生まれた証拠です。
ここに横たわっている死体があるのなら、その死体の胸の上に5kgの錘を置いてください。
苦痛の兆しはありません。
どうしてでしょうか?
それはその人が死んでいるからです。
生きている人に5kgの錘を載せたらどうなるでしょうか?
苦しみのうめき声、救いを求める叫び声を上げます。
なぜでしょうか?
そこには命があるからです。
だから、人は自分の罪に悩むのです。
なぜなら、そこには命があるからです。
神の命があるからです。
すでに神が働いている証拠です。
もし、そのように感じるのであれば、神の聖霊があなたの魂の中で働き始めたことを神に感謝してこのように確信してください。

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」
(ピリピ人への手紙1章6節)


今、神のことばを信じてください。
祝福された御子について語られたことを信じてください。
あなたがたの受けるべき平安を受け入れてください。
生まれたままの人が神のあかしを受けることはありません。

「そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。」
(ヨハネの福音書3章33節)


それが信仰です。
神が言われることは真実だと信じることです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
たびたび、私たちは悩む魂の前に聖書を置いてこのように思うことがあります。
「私は信じることができません。」
彼らは顔を上げてこのように言います。
「私は信じようと努力しています。」
聖書はこのように書かれています。

「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
(ヨハネの福音書1章11、12節)


あなたはイエスを知りたくないのですか?
あなたはキリストを求めているのでしょうか?
あなたは神を受け入れる準備ができていますか?
もう一度、聖書を読んでみましょう?

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」
(ヨハネの福音書1章12節)


答えはこれです。
私はこのように信じています。
では、あなたは神の子ですか?
おそらくこのように答えるでしょう。
「わかりません。
そうは思えません。
そのように感じません。
そのように言うのが怖いのです。
何が問題なのか、私にはわからないのです。」
彼らは神の御言葉を信じていないのです。

私たちは時々、彼らにこう言います。
「あなたがたは信仰を持たなければなりません。
神の御言葉を信じなければなりません!」
すると彼らは、驚くほど率直にこう答えます。
「私は信じようとしているのです。
私には神を軽んじることはできません。」
では、あなたは誰を信じようとしているのですか?
神が語られたのです。
そしてあなたはこう言います。
「私は信じようとしています。
なぜでしょうか?
私はただの弱い、死すべき人間にすぎないのです。」

たとえば、私が訪れたことのある場所について、あなたの見たことのない場所のことを話したとします。
するとあなたは私を見てこう言います。
「それはとても興味深い場所ですね。
私は信じようとしています。」
そしてこう続けるのです。
「先生、あなたは私を侮辱しています。」
私があなたに嘘をついていると思うのでしょうか?
では、信じようとするとは、いったいどういうことなのでしょうか?
私は真実を語っています。
そして、私の証しを信じていただきたいのです。
神は御言葉によって語られ、人々がその証しを受け入れることを望んでおられます。
それが信仰のすべてなのです。
信仰とは、神が言われたことを信じることです。

「もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。
御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。」
(ヨハネの手紙第一5章9節)


これが神のあかしなのです。
神が御子についてあかしされたことです。

「そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。
神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。」
(ヨハネの福音書3章33、34節)


キリストのうちには、完全なる御霊が宿っています。
キリストが語られた言葉は神の言葉でした。

「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。」
(ヨハネの福音書3章35節)


主イエスはこの宇宙の創造主です。
神は主イエスをこの宇宙の支配者として定められました。
すべてのものは御言葉によって創られ、キリストのために存在するのです。
これこそが、この箇所が示す最高の証しです。
なんと驚くべき証しでしょう!
これらの言葉は、バプテスマのヨハネがすべて語ったのでしょうか。
それとも34節あたりから語り始めたのか、確かなことは分かりません。
ただし、これは使徒ヨハネ自身が霊感を受けて記録したものです。
バプテスマのヨハネの証言の終わりがどこなのか、あるいは福音書の冒頭に記された証言なのか、私たちには定かではありません。
しかし、いずれにせよ、36節に記されたバプテスマのヨハネの証言には驚くべき真理が込められています。
また、使徒ヨハネが神の霊感により直接記したものであっても、これは確かに生ける神の言葉として私たちに与えられています。
18節では、福音を聞いた人々を二つの群れに分けています。

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」
(ヨハネの福音書3章18節)


これは福音を聞いたことのない異教徒については言及していません。
彼らは自分が持つ光と自らの罪によって裁かれることになります。このように、ここでも二つの集まりが存在しているのです。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
(ヨハネの福音書3章36節)


最初に「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」と書かれています。
それに対して「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」という言葉があります。
最初の聖句をもう一度見てみましょう。これほど明確な言葉があるでしょうか。
永遠のいのちについて、あなたは確信を持ちたいと願っているのではないでしょうか。
ですから、こう自問してください。
「私は神の御子を信じているだろうか」
「私は主イエス・キリストを本当に信頼しているだろうか」
「私は、神とその完成された御業—私たちの贖いのためにカルバリの十字架で成し遂げられた御業—の上に、自分の魂を置いているだろうか」
神ご自身の言葉に、心を傾けてください。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ。」
(ヨハネの福音書3章36節)


ここでは「何か感じる者」とは言っていません。
「感じる者」ではなく、「御子を信じる者は永遠の命を持つ」と明確に述べています。
何年も前、私の友人がこの聖句を用いてメッセージを語りました。
集会が終わると、牧師は戸口で友人たちに挨拶をしました。
これは通常の習慣でした。

そこへ心を悩ませている婦人が近づいてきて、牧師は優しく手を差し伸べながら尋ねました。
「今夜はいかがでしたか?
あなたは救われていますか?」
婦人は答えました。
「分かりません。でも、そうなることを願っています。」
牧師は言いました。
「よろしい。
この聖句をご覧ください。
『御子を信じる者は永遠のいのちを持つ。』
あなたは御子を信じていますか?」
「はい、心からイエスを信じています。」
「では、あなたは永遠の命を持っているのですか?」
「そう願っています。永遠の命を持ちたいのです。」
「聖句をもう一度読んでください。」
婦人は聖句を読み返しました。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ。」
(ヨハネの福音書3章36節)


「御子を信じますか?」
「はい、イエスを信じています」
「では、あなたは永遠の命を持っているのですか?」
「はい、願っています。永遠の命が欲しいのです」
「聖句をもう一度読んでください」
彼女は聖句を読み返しました。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ。」
(ヨハネの福音書3章36節)


「御子を信じますか?」
「はい、私はイエスを信じています。」
「では、あなたには永遠の命がありますか?」
「そう、願っています。」
「何が問題なのでしょうか?」と彼女は言いました。
「少女だったあなたと、少年だった私とでは、同じ言葉の綴りが違っていたのを覚えていますか?」
「それはどういう意味ですか?私たちはそれほど年が離れていないはずです。」
あなたが少女の頃、hath(持つ)をhope(希望)と書いていました。
私が少年の頃は、hath(持つ)はhathでした。
彼女は喜びの声を上げました。
「ああ、希望ではなく、持っているのですね!
御子を信じる者は永遠のいのちを持つ。
はい、私は確かに持っています!」
「その通りです。持っているのです!」
「私は神の子を信じています。そして神は、私に永遠の命があると約束してくださっています」と彼女は言いました。
こうして、彼女は心に平安を得ました。
では、もう一度この聖句について考えてみましょう。

「そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。」
(ヨハネの福音書3章33節)


ある少年が学校の先生にこのように言いました。
「信仰とは神を信じ、何も質問しないことです。」
しかし、神の言葉を鵜呑みにしているだけです。
その聖句を反対側から見てください。
それは真実の厳かな側面です。
つまり「御子に聞き従わない者」です。
英語のKJV訳の聖書では「信じる(believeth)」と訳されています。
日本語新改訳聖書の通り、「聞き従わない」と訳するのが正解です。
御子を信じることが要求されています。
他の箇所でもこのように書かれています。

「すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」」
(ヨハネの福音書6章28,29節)

ここではこのように宣言されています。

「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
(ヨハネの福音書3章36節)


それは絶望的です。
恐ろしいことです。
哀れです。
人々が福音を繰り返して聞き、聞いては背を向け、拒み続けて生き、キリストを信じないで死に、絶望的な希望のない永遠に向かうのです。
その者はキリストを知らずに死んだのです。

この聖句は罪ある者が滅んで消えてしまうという神学と、すべての人が救われているという神学の過ちを断ち切っています。
まず、すべての人が救われているという普遍主義の問題を考えてみましょう。
「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく」と書いてあることに注目してください。
人がキリストを拒んで死ぬのであれば、そこには望みはありません。
この世にあって、キリストを持っていなければ、人はいのちを見ることができません。
イエスは言われたこのように言われています。

「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」
(ヨハネの福音書8章24節)


またイエスはこのようにも言われています。

「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。」
(ヨハネの福音書13章36節)


「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく」、しかし、その反面、多くの人がこのように考えているのです。
「私がキリストを拒んで生きて、そして死んだとしても、死がすべての終わりになのです。」

私は滅んでしまいます。
私にはもう何も残っていません。
私は存在していなかったかのように消え去るのです。
しかし、聖書はこのように言っています。

「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
(ヨハネの福音書3章36節)


「とどまる」という時制に注意深く目を向けましょう。
永遠の怒りと存在の消滅は、論理的に結びつけることができないのです。
この聖句は深刻な警告を与えています—私たちがこの世でキリストを信じないならば、神の怒りが永遠に私たちの上にとどまるということです。
これを防ぐために、イエスは命を捨てられました。
イエスは、信じる者たちの罪の問題を完全に解決されたのです。
神はこの事実を御言葉の中に記してくださいました。
聖霊は、これを証しするために天から来られました。
そして私たち信じる者は、永遠のいのちを持っていることを確信できるのです。


講演11 キリストとサマリヤの女

「イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳にはいった。それを主が知られたとき、
――イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが、――
主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。
ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。
弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――
イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」
女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」」
(ヨハネの福音書4章1~26節)


主イエス・キリストの生涯をたどると、さまざまな魂との出会いがあったことがわかります。
その一人一人への接し方に注目することは、非常に興味深いものです。
キリストの個人的な働きかけについては、非常に多くの本が書かれています。
しかし、このヨハネの福音書ほど、個人的な働きかけに有益な本はありません。
主イエス・キリストが会話を交わされた人々については、実にさまざまな記録があります。
主イエス・キリストが会話を交わした人々については、実にさまざまな記録がある。
私たちは、主イエス・キリストが神の御言葉を必要としている魂に展開された素晴らしい知恵を得ることができます。
中でも素晴らしいのはサマリア人の女への対談です。
パリサイ派の人々は、イエスがバプテスマを授けて弟子にしていることを大きく取り上げています。
イエスに従う者の数がヨハネに従う者の数を上回っていることを報告されたことが述べられています。
それを聞いたイエスは争い事を望まれなかったので、すぐにユダヤを離れてガリラヤに行かれました。
実際、私たちはイエス自身がバプテスマを授けたのではなく、弟子たちに任せた事が述べられています。
正統派のユダヤ人は、エリコの近くでヨルダン川を渡り、ペレアを通って北上し、北のガリラヤ湖の近くを通り道にしていました。
しかし、主イエス・キリストはこのような道を選ばれていません。
厳格な律法家はサマリアを通らなかったのです。
しかし、主イエス・キリストがこのまっすぐな道を選ばれたのは、哀れなサマリヤの罪人たちに会って真理を明らかにすることを望まれたからです。
主イエスはサマリアを通る必要があったのです。

「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」
(ヨハネの福音書4章4節)


世界が創造されるずっと前から、その日、主イエスは哀れな罪深いサマリア人の女に会うことになっていました。
このことが永遠の計画として定められていました。
主イエスはその任命を無視できなかったのです。
そして、このように書かれています。

「それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
そこにはヤコブの井戸があった。
イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。」
(ヨハネの福音書4章5、6節)


ここでの時間は、共観福音書の時間と同じではありません。
六時というのは真昼です。
人々が正午に水を汲みに出るのは珍しいことでした。
しかし、主はそこに座り、渇いた人を迎えるのを待っていました。
そして、私たちにはこのように言われています。

「ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。」
(ヨハネの福音書4章7節)


私はその光景が目に浮かびます。
私の妻と娘と私は、その大きな塀の上に腰掛けて、シカルの町ともっと遠くのシェケムの町を見渡したことがあります。
すると、女が道を下ってきて、頭に水がめをのせて、イエスが彼女を迎えに来るのを待っているのを容易に想像できます。
主イエスは疲れて井戸のところに座っていました。
主イエスは罪人を捜し求めて疲れていました。
永遠の神である神が、苦しみ、疲れ、労苦が何を意味するかを知ったのです。
このように、ご自身を私たちの人間性と結びつけてくださったとは、なんとも驚くべき恵みなのです。
彼女はイエスがユダヤ人であることを、その衣のふちにかかっている青い飾り帯で知ったはずです。
すぐに彼女の全身が憤りに震えたのかも知れません。
サマリア人の井戸の上に座って何の用があったのでしょうか?
彼女はおそらく独り言のように言ったはずです。
「もし彼が私を侮辱するようなことをあえて言うなら、私は彼が与えるのと同じものを返すつもりです。」
イエスが優しそうに顔を見上げて 「わたしに水を飲ませてください」 と言ったとき、彼女はどんなに驚いたことでしょう。
もし、彼女が水を与えたとしても、普通のユダヤ人なら地面にカップを叩きつけて打ち砕くことをも予想していたはずです。
しかし、そこに一人のユダヤ人が彼女に水を求めたのです。
しかし、彼女はこのように言ったのです。

「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」
(ヨハネの福音書4章9節)


ここで、ヨハネが一言、説明を付け加えています。
この言葉は、彼女が言ったのではないと思います。
神の聖霊が、私たちが理解するために入れてくれたのです。

「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。」
(ヨハネの福音書4章9節)


わたしたちの祝福された主の答えを見てみましょう。

「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。
そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
(ヨハネの福音書4章10節)


神の賜物に関するすばらしい啓示です。
あなたは神の贈り物を知っていますか?
あなたは救いが神の賜物であることを知っていますか?
永遠のいのちは贈り物だと知っていますか?
あなたがたは知っていますか!
神は、人と物を交換しようとする商人ではありません。
神は賜物を与える方です。
すべてのものを惜しみなく与えてくださる方なのです
人々はそれを理解するのは非常に難しいことです。
人々は救いを得るために、最終的に神の天国に入ることを望むために、あらゆる方法と手段を考案してきました。
親愛なる友よ、考えてください。
この聖書の神は、ご自身の救いを誰にも売ることができないほど豊かな方なのです。
もし、救いに価値が付けられ、その値段をつけられたとしても、それを買うには私たちは完全に貧しすぎるのです。
神に感謝します。
救いは賜物です。
もしあなたが神の賜物を知っているのなら、あなたはどのようにその賜物を受け取ればよいのでしょうか?

あなたが聖書を欲しがって私のところに来ます。
そして私は「これをあげよう」と言ったとします。
あなたはポケットに聖書を手を入れて言います。
「25セントしかない。」
私は「親愛なる友よ、あなたのお金はいらない。
私はこれをあなたにプレゼントします」と言います。
あなたならどうしますか?
「あなたは聖書を受け取って「これはプレゼントでもらった」と言って立ち去るでしょう。」
神の救いがそうなのです。
それを得るために何もいりません。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
(エペソ人への手紙2章8、9節)


あなたがたは、イエスのみもとに来て、その賜物を受けとりましたか?
「もしあなたが神の賜物を知っていたのなら。」
もう一つの言葉にも注目してください。
「あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら。」
彼女はそれが誰であるかを認識していなかったのです。
誰だったのでしょうか?
神の子です。
私たちは次の聖句を知っています。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
(ヨハネの福音書1章1節)

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた。」
(ヨハネの福音書1章14節)


そこには祝福された一人の人間になられた神であられる栄光に満ちた方がおられました
彼女はそれを理解していませんでした。
彼女はイエスが何者であるかを全く理解していません。
イエスの方は驚かせようともせず、ただ驚くべき方法で恵みの貯蔵庫を開いてくださいました。
彼女は疑いの目でイエスを見て言いました。

「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。
その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。」
(ヨハネの福音書4章11節)


現在、この井戸の深さは78フィートです。
私はろうそくを井戸に落としたのを見ました。
ろうそくは78フィート下まで落ちてゆきました。
彼女は「この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか」と言いました。
彼女はあの自然の水のことしか考えていません。
その深さは神の心のように深く、無限の愛と哀れみを持っています。
神がお与えになる水は、神の愛の深みから汲まれるものでした。
しかし、彼女は不思議そうに尋ねています。

「あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
(ヨハネの福音書4章12節)


イエスは彼女に「私はヤコブよりも偉大だ」と言うこともできました。
そして「私の哀れな女の人よ!
モ―セの最初の書の中で、あなたがたの父ヤコブのことを読んだことがありますか?
ある晩、ヤコブは家族と羊の群れを森の向こうに送ったが、一人で頭を落として祈っていたのです。
その時、謎の人物が現れ、ヤコブは一晩中その人物と格闘しました。
その時、名もなき者がこのように言いました。

「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」
(創世記32章26節)


ヤコブは答えました。

「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
(創世記32章26節)


イエスはその女に「この話を知っていますか?」と聞くこともできました。
っして「私は暗闇の中でヤコブに会い、彼の頑固な意志に打ち勝った者です」と言うこともできました。
しかし、もしイエスが彼女にそのように言われたなら、彼女は、イエスが気違いであると思ったかも知れません。
そして、イエスからそっぽを向いたはずです。
イエスは彼女を不安にさせる代わりに、彼女の心と良心に近づこうとしました。
イエスは彼女の質問に直接答えずにこのように言いました。

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」
(ヨハネの福音書4章13節)


彼女はそのことをよく知っていました。
何度も、繰り返し井戸で喉の渇きを癒そうとしました。
しかし、また渇くだけだったのです。
この場面が人間の心の渇望の緩和策として提供しているすべてのものについて言えるかもしれません。
世の中のあらゆるものを試してみても、それでは満足できないのです。
「ああ、この水を飲む者はまた渇きます」という言葉を心に持って帰るように、私は哀れな人を説得できることを望んでいます。
誰もこの世のものに満足したことがありません。
永遠のために創造された心を満足させることはできません。

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。
わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
(ヨハネの福音書4章13、14節)


文字通り、「永遠のいのちへの水がわき出す泉」なのです
それはどういう意味なのでしょうか?
神の恵みのメッセージを受け取った者、もしくは神がこの御言葉の中でキリストについて与えた啓示を信じる者は、新しく生まれ変わりました。
その人の内には生ける水の泉が湧き出し、地上のものでは誰も見出すことのできなかった満足を見出すことができるのです。
さて、女は耳を傾けながら、自分の心がキリストに向かっていることに気づきます。
彼女はイエスの言葉を本心だと感じ、恐れながらこのように尋ねました。

「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
(ヨハネの福音書4章15節)


彼女はまだ自然の水のことしか理解していません。
霊的なものはまだ彼女に隠されています。
しかし、主イエス・キリストは彼女の信頼を勝ち取りました。
これは驚くべきことです。
信頼を勝ち取ると、もっと必要なことがあります。
それは、彼女の良心に到達することです。
主は、彼女の心を得たことを確信して、彼女の良心と格闘するのです。
彼は彼女の言葉を見落とさずにこのように言いました。

「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
(ヨハネの福音書4章16節)


女はこのように言いました。

「私には夫はありません。」
(ヨハネの福音書4章17節)


彼女が頭を落とし、顔を真っ赤にして叫んだのが想像できます。

「イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。
あなたが言ったことはほんとうです。 」」
(ヨハネの福音書4章17、18節)


イエスは彼女の罪深い過去と罪深い現在の真実を彼女の魂に突きつけたのです。
彼女はそこに立ち、激しく心を動かされ、一瞬何を言っていいのかわからなかったのです。
彼女の人生の黒い点に指を置くことができるこの人は誰でしょうか?
イエスはとても親切で思いやりがあるように見えます。
しかし、イエスは彼女の良心を深く揺さぶることをしたのです。
彼女はこのように言いました。

「先生。あなたは預言者だと思います。」
(ヨハネの福音書4章19節)


預言者とは神の代弁者のことです。
彼女は、初対面でありながら自分の罪を知り尽くし、自分の人生の罪を知り尽くしているこの人こそ、神が遣わした預言者に違いないと悟ったのです。
それは彼女が「私は罪人であることを知っている」と叫んだのと同じことです。

「私たちの先祖は、この山(ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
(ヨハネの福音書4章20節)


私は彼女の言葉がここで終わったとは思っていません。
彼女は長い議論に入る準備ができていたはずです。
しかし、私は彼女の心の中で疑問が提起されていたと感じます。
つまり「罪のいけにえを持って神に会うには、どこに行けばいいのか?」という問題です。
サマリヤ人たちは「ゲリジム山の上」だと言うはずです。
しかし、ユダヤ人たちは「いや、それはだめだ!
その神殿は神の持ち物ではない。
あなたがたが神に会いたければ、エルサレムに行き、宮でささげ物をしなさい」と言うはずです。
そこではささげ物が受け入れられ、ヤハウェを礼拝することができます。
彼らの年の差は、彼女にとっては大したことではなかったと考えます。
しかし、今、彼女は自分が罪人であることを知りました。
神と和解したいと思っています。
彼女はどこへ行けばよいのでしょうか?
彼女が神を知りたがっているのは、神を礼拝し、神から赦しを受けるためです。
そしてイエスはこのように言いました。

「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
(ヨハネの福音書4章21~24節)


これはどういう意味でしょうか?
つまり、イエスは神が地上のすべての聖所を片付ける時が来たと宣言したのです。
もしあなたが神の御前に自分の正しい立場に立ち、自分の罪を告白し、自分の罪を自分のものとする用意ができているなら、どこにおいても、神に会うことができるのです。
あなたがたは、主をあなたがたの父と認めて、主に心をささげて仕えることができます。
あなたがたが罪を告白するならば、主は罪を赦されるからです。
このようにして、あなたがたは礼拝者になることができます。
父は、神に仕える者を求めておられるからです。

主はあなたを求めておられます。
あなたの心が主の前に正直であれば、どこにいても主を見つけることができるのです。

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
(ヨハネの福音書4章24節)


イエスが話している間も、女は考えていました。
「もしかして、私がこの見たこともない見知らぬ男は、約束された救世主なのだろうか?
この男は、今まで誰も話したことのない話を話しているのです。
もしかして、彼がメシアなのでしょうか?」
そして、彼女は大声で叫んだのです。

「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。
その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
(ヨハネの福音書4章25節)


そこではたくさんの質問がありました。
彼女は「もしかして、彼がメシアなのでしょうか?」
いつの日か、メシアは来られます。
その時、すべての暗いものを明るくし、曲がったものをまっすぐにされます。
メシアが来るとき、メシアは私たちにすべてのことを教えてくれます。
そしてイエスは言いました。

「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
(ヨハネの福音書4章26節)


その時、何が起きたのでしょうか?
彼女は質問を始めたのでしょうか?
彼女はすべての戸惑いを打ち明けたのでしょうか?
いいえ、これ以上、質問はしませんでした。
彼女はイエスの素晴らしい目をひと目見て、すべての質問に答えを出したのです!
彼女は心の中で言ったのです。
「ああ、この方メシアだ! 」
その結果は、次の節で語られています。
ここで、私はイエスを見たことのない人に話しているのでしょうか?
私は皆さんに言いますがが、他の場所でキリストを求める必要はありません。
あなたがたは自分の罪を告白してイエスのみもとに行くのです。
もし、イエスの恵みに信じるなら、イエスはあなたがたに御自分を現わしてくださいます。


講演12 サマリア人の改心

このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか。」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか。」とも言わなかった。
女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。
「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。
そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください。」とお願いした。
しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」
そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」
イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。
あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。
わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」
さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。
そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」
(ヨハネの福音書4章27~42節)


ここには3つの区分された節があります。
27節から30節までは、弟子たちが食べ物を買いに行った町から帰って来ました。
そして、サマリヤの女が証しをするためにスカルにある家に戻ったところでした。
31節から38節では、大きな魂の収穫と、より多くの労働者の必要性について、主が重大な言葉を述べています。
39節から42節にかけては、章の前半に記されているように、キリストがメシヤであることを明らかにした女によってキリストのもとに連れて来られたサマリア人の証しがあります。
27節で「このとき」と書いてあります。
つまり、このサマリアの女が、主イエスがあの驚くべき宣言をされるのを聞いたちょうどそのときです。
その前の26節で「あなたと話しているこのわたしがそれです」というイエスの言葉に彼女は半信半疑の言葉で答えています。

「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。」
(ヨハネの福音書4章25節)


「このとき、弟子たちが帰って」来たのです。
そして、彼らは「イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った」のです。
彼らは主が彼女と会話しているのを発見し、いっそう不思議に思いました。
しかし、イエスの心の愛を理解していた人は少なかったのです。
哀れな、罪に汚れた男女に対する主の関心の深さに、私たちは何度も驚かされます。
イエスは罪人と一緒にいるのが好きだったのです。
イエスは罪人に恵みとあわれみを示すことを愛しました。
しかし、イエスは罪深い者と一緒になって、罪人の道を歩まれることはありません。
イエスは罪人を罪人の道から救い出し、恵みの神を彼らに現わすために、罪人を探し出されたのです。

弟子たちはそばに立って、不思議と驚きをもって見ていました。
でも、誰も心の中にあることを口にしていません。
弟子たちはイエスに問うことを望まなかったのです。
「あなたは何を求めておられるのですか?」
それとも「なぜあなたは彼女と話すのですか?」
もちろん、イエスは即答できたはずです。
イエスは「私は彼女の貴重な魂の救いを求めている」と答えることができました。

そして、イエスは彼女が二度と渇くことがないように、彼女に生きた水を与えようとしています。
イエスは彼女を私のものとし、すべての罪から彼女を清めようします。
そして、もし私が今日、まだ主から離れて生きている人に向けて話しているのなら、それは主があなたのために望んでおられることだと言うことができます。

「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
(ルカの福音書15章2節)


パリサイ派の人たちはこのように言っていました。
彼らがそのような言葉を使うのなら、イエスに対して悪い告発をするべきです。
イエスが罪人たちを受け入れられたのは、まさにイエスの救いの栄光のためです。
私はジョン・バニヤンのこの言葉が好きです。

「この神の子羊よ!
主は全天空を自分のものとし、彼の命令を行うために多数の天使を持っているのです。
しかし、それは主を満足させることができません。
主には、恵みを分け与える罪人がいなくてはならないのです。」
私たちはこの賛美歌(Sinners Jesus will receive)を歌うのが好きです。

「イエスは罪人を受け入れて下さる。
天の小道を去って行くすべての者よ。
居座るすべての者よ。
倒れたすべての者に恵みのことばを響かせてください。
この歌を繰り返して歌うのです。
キリストは罪人たちを救い出します。
何度も繰り返して歌うのです。
彼はこの哀れな罪人を受け入れるのです。」

イエスは彼女に自分を現しました。
イエスは彼女に生ける水を与えました。
そして、私たちはこのように読みました。

「女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。」
(ヨハネの福音書4章28節)


ここに注意してください。
彼女は喉が渇いて来たのです。
ヤコブの井戸から水を汲みに来たのです。
しかし、キリストが、彼女の心の渇望を満たしてくれたのです。
彼女はキリストを愛するがゆえに水がめを忘れ、街へと急いだのです。
そして、このように言ったのです。

「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
(ヨハネの福音書4章29節)


少し前まで罪にまみれた特徴の悪い女だった彼女が、今では熱心な伝道者となったのです。
それは、主イエスが何世紀にもわたって行なってこられたことです。
主は、哀れな人々にご自分の恵みを明らかにしてこられました。
もし、今はあなたがたが主の救いの力を知らなくても、主はあなたのために救いを信じることを待っておられるのです。
そして私たちはこのように読みました。

「そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。
そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください。」とお願いした。
しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」」
(ヨハネの福音書4章30~32節)


サマリヤの人たちは町を出て、イエスのほうへやって来ました。
主イエス・キリストは、もっと高い次元のことを考えておられました。
主が始めから考えていたのは、肉体の満足を満たすことではなかったのです。
主の大きな関心事は、哀れで罪深い男女に対する切なる愛だったのです。
主は彼らをその哀れさから救い出し、不義から清め、神の目から見て清く聖なる者としたいという願いだったのです。

「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」
(ヨハネの福音書4章32節)


言い換えれば、主にとってこれほど満足感を与えることは存在していなかったのです。
主のメッセージを受け取る準備ができている迷った魂を見ることほど、主にとって価値のあることはありません。
そして、親愛なる友人たちよ!
哀れな罪人は、イエスのところに来ることをためらう必要はないと言いたいのです。
主はあなたに来て欲しいのです。
時々、人は「私はあまりにも大きな罪人なのではないか」と私に問いかけます。
あなたは神にとってそれほど大きな罪人ではありません。
主は、最も凶悪な罪人でさえも捕えて、その罪から清めることを望んでおられるのです。
主はあなたの罪が清められることをを待っています。
主は「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」と言われました。
そこで、弟子たちは、まだ、自然の食物のことだけを考えていたので、互いに振り向いて、首を振って尋ねました。
「主の言われたことはどういう意味だろうか?」

「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」
(ヨハネの福音書4章33節)


イエスは弟子たちの言っていることを知っていました。

「イエスは彼らに言われた。
「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」」
(ヨハネの福音書4章34節)


この御父の御心を行なうために、世が生まれる前に御父とともにおられた栄光のうちから御子は来られたのです。
私たちは、詩篇40篇の中で主がこのように言うのを聞きました。

「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。
あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
(詩篇40篇8節)


このような行いは私たちの人間性が前提に想定されています。
これは、処女の母親から生まれた小さな赤ん坊として地上に出ることを意味します。
それはあの悪で汚れた都市ナザレで育つことを意味していました。
しかし、主は命の聖さと清い心の中で育ち、良心に罪の汚点がなく、邪悪な考えや不浄なものに汚されたいない子どもになりました。
その人にとって神のみこころが最高の存在でした。、

「この人は大工の息子ではありませんか。」
(マタイの福音書24章55節)

「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」
(ヨハネの福音書7章15節)


イエスはすべてのことにおいて神のみこころを行なわれ、いつも十字架を待ち望んでおられました。
神の定められた時に、彼は大工道具を脇に置き、店を出て、神の国の福音を宣べ伝え、苦しむ人々を癒すために出て行きました。
ヨハネの福音書の17章には、イエスが祈りの中におられ、御父の前で膝をかがめている姿を見ることができます。
イエスの心は、イエスを世に遣わした御父の神に向かって上って行き、すぐにイエスは父のみもとに戻って行こうとしていました。
イエスはこのように叫びました。

あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。
(ヨハネの福音書17章4節)


この言葉の中で、イエスは十字架のわざに予告しておられました。
というのは、イエスのみが成し遂げられる働きは罪の贖いだったからです。
主はこのように言っています。

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです」
(マタイの福音書20章28節)


これが御父のみこころにかなうことでした。
イエスはこれを完成させなければならない働きだったのです。
最初からイエスは御自身を捧げておられます。
そして、その御業を成し遂げられるまでは、栄光に戻られることはありません。
ついに、イエスは十字架の上での恐ろしい苦しみを受け、その数時間の後、神がイエスを私たちのために罪とされました。
イエスは罪を知らない方です。
私たちの罪が満たされた裁きの苦い杯を絞りカスまで飲み干してくださりました。
私たちの咎が受けるに値するすべてのものを、ご自分の心の奥底で背負ってくださいました。
その結果、私たちはキリストにあって神の義となったのです。
聖書にはこのように書かれています。

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
(イザヤ書53章5節)


そして、このようなイエスの声が聞こえます。

「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」
(ルカの福音書23章46節)

「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。
(ヨハネの福音書19章30節)


「完了した」という一つの言葉で終わっています。
イエスは「完了した」と叫んだのです。
それは、救いの御業が完成したことを意味しています。
それは、人々が罪からきよめられ、聖なる神の御前であらゆる罪過から義と認められるための働きが完全になされたことを意味しています。
また、その完成された働きに基づいて、神は今、イエスを信じる者を義と認めることができるのです。
もし、親愛なる聖徒が死の途上にあり、ある人がその人の横に立ちこのように尋ねます。
「大丈夫ですか?」
彼は顔を上げ「完成しました 」と笑顔で答えます。
あなたはその喜びに気づいていますか?
「完成したのです。」
完成した働きには何も付け加えることはできません。
キリストが完成された御自分の務めを達成しました。
これは、今、あなた方が罪を取り除くためにご自分の務めを達成させようという問題ではありません。
この祝福された真理は、キリストが御自身の犠牲によって罪を永遠に消し去ったということです。
神は、私たちがそのあかしを受け取り、それを信じ、それによって神に栄光を与えることを望んでいるのです。
そして、私たちが信じた瞬間に、主イエス・キリストの御業が私たちの罪と不義に対して実行されました。
私たちはその恵みによって自由に義と認められるのです。

「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」
(ヨハネの福音書4章34節)


イエスはこの明確な目的のためにこの世に来られました。
この目的が達成されるまで天に帰ることはありませんでした。
しかし、今、主は、メッセージを聞くまで長い間待たなければならない何百万人、何千万人という世界中の人々のことを思い、弟子たちにこう言われました。

「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。」
(ヨハネの福音書4章35節)


これは明らかに、早春の早い時期で、弟子たちは周囲に緑の野原を見ることができました。
「あと4カ月もすれば収穫の時期になるだろう。」

しかし、イエスはこのように言われているのです。

「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。
さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」
(ヨハネの福音書4章35節)


麦畑のことではありません。
とうもろこし畑のことでもありません。
世界のどこにいても、私たちの周りにある国々、人々が大きな畑なのです。

これらの人々は収穫のためにすでに色づいています。
キリストを必要とする人々が至る所にいます。
罪の中に生きている人々。
罪の中で死につつある人々。
そして、彼らは叫んでいます。
「誰が私たちに良き方法を教えてください!」
そして、今、キリストに仕える者たち、キリストを知る者たち、キリストの恵みによって救われた者たちの責任は、キリストの福音のメッセージを、まだ罪の中に生きている人々に伝えることなのです。
ここで、私が言うことができるのは、外国宣教団への挑戦です。
「私は外国宣教団を信じていない」と言われることがあります。
あなたは知らない誰かがこのことを成してくれたことに感謝できるはずです。
かつて、もし誰かがこの外国宣教を信じていなかったら、あなたも私も、神を知らなかったかもしれません。
あなたも私も、罪と堕落の中に生きている哀れな異教徒になっていたはずです。
私たちの祖先の出身地はヨーロッパのさまざまな国々です。
しかし、私たちの祖先の出身地はヨーロッパのさまざまな国々です。
外国宣教団は、私たちの父祖のもとを訪れ、彼らを闇から光へと、サタンの力から神へと変えた物語が語られています。
誰かが外国宣教に十分な関心を持たなければなりません。
私たちは今日も忠実でいようではありませんか!
今日という日に、私たちの主イエス・キリストの命令に忠実になるのです。
できるだけ早く全世界に福音を伝えるのです。
先延ばしにしないでください。
「別の日にでも」と言ってはいけません。
イエスはここでこのように言っています。

「刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。」
(ヨハネの福音書4章35節)

私は思うのですが、もし、今日、イエスがこの世に生きていたなら、このように言う人がいるかもしれません。
「あなたがたは、イスラエルの残りの者が刈り入れをして、この世界から穀物を取り出す、もう一つの時代があるのではないですか!
そう言ってはいけません。
「目を上げて畑を見なさい。
畑は収穫のためにすでに色づいています。」
彼らに真実を伝えるのにできることをするのはあなたの責任なのです。
そして、このことを確信してください。
もし、私たちが、自分で行なう、もしくは祈りと賜物によって行なうことを忠実に行うなら、神は私たちにそれに応じて報いを与えてくれるのです。
主はこのように付け加えています。

「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。
それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。
ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」
(ヨハネの福音書4章36~38節)


弟子たちはイスラエルの地に遣わされました。
その地には、何世紀にもわたって神から預言者たちが遣わされていまし。
弟子たちは、ほかの人が蒔いた種を刈り取ろうとしていました。

それで今日はこの聖句の通りです。

すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。
それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
(ヨハネの福音書4章36節)


39節から42節を見るならば、サマリアの女性の証しの効果を見ることができます。
神が人を救うのは、救われた人が他の人に恵みの仕事を与えるためなのです。
彼はあなたを救ったのでしょうか?
その時、あなたは誰か他の人に伝えましたか?
激しい嵐の中で岩に挟まれた難破船のマストに固定されてしまい、男性が岸から双眼鏡越しにはっきりと見えていました。
ボートで出かけた救命隊員がその男性を救助したという話をよく耳にするかもしれません。
彼らはこの男を連れ戻すことに成功しましたが、完全に意識を失っていました。
彼らは彼を小さな病院に連れて行き、意識を取り戻すために回復薬を与えました。
彼が意識を取り戻したときに最初に発した言葉は「もう一人の男がいる」でした。
彼らは「どういう意味ですか?」言いました。
また、彼は「まだ、他の人がいる」と言いました。
彼らは「あの難破船にはもう一人生きている人がいるのですか?」と聞きました。
彼は「そうです」と答えたのです。
それで彼らは嵐の中を再び出て行きました。
ジョンは今度は船に乗り込んで船を捜索しなければなりません
そして案の定、船の中でもう一人の男が意識を失って横たわっているのを見つけました。
そして、彼らは彼をボートで岸に連れてきた。彼は救われたのです。
あなたがたに、贖いの愛を知らせるために神の宣教の恵みを知るようになったのです。
他にもさまざまな人々、男女がいます。
キリストを必要としている人がいるのです。
彼らに伝えるためにできることをしてください。
サマリアの女は救われました。
彼女は生きた水を見つけたのです。

彼女は村に戻って男たちに伝えました。
私はそれが重要なことだと思います。
男たちは彼女のことをよく知っています。
彼女は男たちに「今は何もかもが違う」と言いました。

「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。
この方がキリストなのでしょうか。」
(ヨハネの福音書4章29節)


そして、私たちはこのように読みました。

「さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。
そこでイエスは二日間そこに滞在された。
そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。」
(ヨハネの福音書4章39~41節)


サマリヤの町で素晴らしい出来事が起こりました。
主を知ったばかりのこの哀れな女の献身的で忠実な証言の結果です。
街の人々の興味をそそったのは彼女でした。
最初にイエスのもとに行ったのも彼女でした。
その結果、彼らはイエスを町に招いたのです。
今、彼らはこのように言っています。

「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。
自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」
(ヨハネの福音書4章42節)


私たちは神を見て、神の声を聞きました。
神が私たちの心に語られたからです.
神は私たちの良心を動かし、私たちは愛と惠みを得て、私たちは神を信じました。
私たちはイエスがキリストであり、世の救い主であることを知っています。
あなたはイエスを知っているでしょうか?
永遠のいのちである主を知り、そして他の人々も主を知るよう導くことは、祝福されたことなのです!


講演13 ガリラヤにて

「さて、二日の後、イエスはここを去って、ガリラヤへ行かれた。
イエスご自身が、「預言者は自分の故郷では尊ばれない。」と証言しておられたからである。
そういうわけで、イエスがガリラヤに行かれたとき、ガリラヤ人はイエスを歓迎した。彼らも祭りに行っていたので、イエスが祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていたからである。
イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。
この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。
そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」
その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」
イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。
彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。
そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、七時に熱がひきました。」と言った。
それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている。」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。
イエスはユダヤを去ってガリラヤにはいられてから、またこのことを第二のしるしとして行なわれたのである。」
(ヨハネの福音書4章43~54節)


さて、二日後、イエスはここを去りました。
私たちは、サマリヤ、すなわち、南のユダヤと北のガリラヤとの間にある地で、私たちの救い主の働きについて考えてきました。
全体的にユダヤでは人々は非常に信心深く、ほとんど熱狂的な信仰を持っていました。
ガリラヤには、罪深い者、神を敬わない者、無知な者が多く、異邦人の群れも多かったのです。
サマリヤでは、イスラエルの民がアッシリヤの王に捕囚された後、彼らの父祖たちがその地に定住する前に知られていた異教のシステムを、モーセの律法を取り入れながらも、混合された信仰を持っていました。
主イエスは哀れなサマリア人の女に恵みを与えるために、スカルの井戸に来られました。
彼女は主を救い主と知って、熱心に伝道しました。
その結果、大勢の人々が主の話に耳を傾け、主のメッセージを信じるようになったのです。
村人たちはイエスを村に招きました。
イエスはそこで2日間とどまり、恵みと真理の尊いことを告げ知らせました。

「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。
自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」
(ヨハネの福音書4章42節)

イエスの言葉には、誠実で求めるすべての魂に訴えかけるものがありました。
しかし、それ以上主はサマリヤにとどまることができなかったのです。
イエスはガリラヤに行かなければなりません。
かつてから、預言者はメシアの働きの多くがガリラヤであるだろうと預言していました。
イザヤ書9章の冒頭で、このことがはっきりと言及されています。
そこではこのように書かれています。

「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」
(イザヤ書9章1、2節)


この預言は、いのちであり光である御方が、病人を癒し、その他多くの力のしるしを行い、福音と結びついた尊い福音を、哀れな人々に宣べ伝え、恵みにあって成就しました。
しかし、彼らの多くは福音を受け入れようとしませんでした。

イエスは拒んだ者の街に共に住み、これらの町の中に住みました。
イエスが働き始めた後に、家族はカペナウムに移り住み、その街がイエスの街と呼ばれました。
ナザレもカペナウムも、共にガリラヤの優れた街でした。
私たちは「馴れ合いは軽蔑を生む」とよく言います。
多くの場合において、人をよく知れば知るほど、その人を特別な存在だとは思わなくなります。
そこに住む民はイエスのことを十分に知っていました。
しかし、民はイエスが約束されたメシアを認めていません。
ゆえに、イエスはその場所を移動していたのです。
イエス自身がこのように証言しています。

「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
(マルコの福音書6章4節)


あなたがたが覚えているとおり、イエスがこう言われたのは、イエスが育ったナザレに戻られた、安息日に「いつものとおり」に会堂に入られたときのことです。

「それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。」
(ルカの福音書4章16節)


私は「いつものとおり」という言葉が好きです。
ナザレのイエスはその街で成長し、恵みの方法に規則正しく出席する模範を示しました。
その働きには、イエスにはいやなことがたくさんあったはずです。
しかし、そこには神の御名が認められる場所が存在しました。
そこは安息日に人々が祈りと賛美のために集まる場所でした。
イエスは幼い頃も、少年時代も、青年時代も、いつも村の会堂に足を運んだのです。
そこが、イエスにとって神を認められる場所だと知っていたからです。
そして、イエスがこのように読み上げました。

「わたしの上に主の御霊がおられる。
主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。
主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。
しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」
(ルカの福音書4章18~20節)


そして、ルカはこのように記しています。

「イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。」
(ルカの福音書4章21節)


あなたがイザヤに戻って見るのであれば、あなたはイエスが不思議な場所を読んだと思うはずです。
イザヤ書では同じ言葉が61章にあり、次のように続きます。

「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、」
(イザヤ書61章1、2節)


なぜイエスは聖句の終わりに進まず、ここで読むのをやめたのでしょうか?
主は「神の復讐の日」を宣言するために来たのではないからです。
主は、私たちの主が宣べ伝える時代のために来られ、それに合わせて、当時の人々のために神の恵みのメッセージを公言されたのです。
しかし、彼らの大多数は彼に背を向け、このように言いました。

「この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。」
(マタイの福音書13章55節)

「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。」
(マルコの福音書6章2節)


彼らは主が起こした奇跡を見ることを望んでいました。
しかし、彼らはイエスにこのように行いました。

「これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、
立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。
しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。」
(ルカの福音書4章28~30節)


そして、このようにイエスは言われました。

「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」
(マタイの福音書13章57節)

このことは、私たちの主イエス・キリストの謙遜さをわずかながら理解することができます。
私たちは、イエスのような方がどのような場所においても、成長することはできないと思うかもしれません。
しかし、やがて、人々は本能的に、イエスがすべての人の主でなければならないと悟ることになります。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」
(ピリピ人への手紙2章6、7節)


イエスが誰であるかを知る者は多くはいません。
しかし、私たちは、ナザレのイエスを私たちの罪の贖いのために、人となられた神の永遠の御子として認めているでしょうか?
私たちは、イエスがガリラヤに来られたとき、人々がイエスを迎えたことを読みました。
彼らはイエスを聞こうと群がりましたが、イエスを神の聖なる方として認めていません。
彼らは、イエスが祭りの間にエルサレムで行われたすべてのことを見てから、イエスを迎えました。
主はちょうどエルサレムから戻ってきた時のことです。
これらのことはヨハネの福音書の4章には記されていません。
しかし、イエスが多くのことを行ったことは理解する必要があります。
彼らは目撃したのです。
イエスが盲人の目を開け、足の不自由な人を飛び跳ねさせていたのです、
彼らはその他にも、どんな奇跡が行われるのかを見たいと思いイエスの周りに群がったのです。

「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。」
(ヨハネの福音書4章46節)


そこはガリラヤのカナから北東約25マイルほど離れた場所でした。

この父親は、イエスを捜すために遠くから来たのかも知れません。
もしくは、カナにいるときに、息子が病気だという知らせを受け、偉大な奇跡を起こす人にこのことを伝えるチャンスだと思ったのかも知れません。
この父親はイエス・キリストの正体を理解していません。
しかし、主が自分の必要を満たしてくれる方だとは感じていたのです。
人は悩み、困っている時にイエスのところに行けばどうにかくださるだろうと思うことがよくあります.
しかし、彼らは、肉となってくださった御子なる神を知らないのです.
それでも、他の誰にもできないことを、神が人間のために何かしてくださると感じているのです。
人は苦難の時に御名を称えるものです。
この父親もそうでした。
この父親はイエスがユダヤから出て来られたことを聞いて、自分の息子をいやしてくださるようにイエスに懇願するために来たのです。
彼がイエスに尋ねていることが理解できるでしょうか。
「イエスよ、あなたは25マイルの距離を旅をして来ました。
私の息子のために何かしてくれませんか?
私の息子が死にそうです。
でも、あなたには癒す力があります。
奇跡を起こすことができます。」
イエスが来て、奇跡を起こすことができないのでしょうか?
ここで、イエスがかなり難しいことを言ったのに気づいていますか?

「そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」
(ヨハネの福音書4章48節)


多くの人がこのように考えます。
外面的な力が証明できれば、信じることができる。
確かに神を知ることによって、一時的な恩恵を受けることがあります。
しかし、主イエス・キリストは、ご自身のうちにあるものが、受け入れられ、信じることを望んでおられます。
神のキリストの偉大な仕事は、私たちを助けることだと考えている人は少なからずいると思います。
私たちが病気になり、経済的な困難に陥った時、神は私たちが元気になる方法やお金を稼ぐ方法を教えてくださるかも知れません。
私たちの家族の誰かが辛い状況にあり、私たちが彼らのことを心配しているのなら、イエスのところに行けば、彼らのために何かをしてくださるかも知れません。
しかし、そこにはそれらの心配事よりも優れた方がおられるのです。
神は、私たちが神のうちに祝福され受肉された御子を見ることを学ぶことを望んでおられます。
この御子は、父を明らかにするために恵みを受けて来られたのです。
私たちに信仰と忠誠を求めておられます。
たとえ、一時的な恩恵を受けることがなくても、私たちは神を認め、神に身をゆだねるべきだからです。
キリストへの真実の信仰は、神である方が人間になられたという事実に基づいています。
御子を知ることによって、私たちは御父を知るのです。
現在、神は私たちにこのようには言われていません。

「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」
(ヨハネの福音書4章48節)


前の章で読んだサマリヤ人は奇跡が起こるのを見ていません。
彼らとはまったく反対です!
私たちはここで「イエスは病人の一人をいやされ、盲人のひとりの目を開かれました」とは読んでいません。
しかし、彼らはみことばを聞き、みわざを見たのです
その時、かれらは感動してこのように言ったのです。

自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」
(ヨハネの福音書4章42節)


これが、現在の神の聖霊の御業です。
それは、キリストを人々に知らせることです。
そして、彼らがキリストを救い主として信じ、キリストを自分のいのちの主として所有するためです。
キリストは私たちの贖いのために人となった永遠の命なのです。
イエスご自身がこのように言っています。

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
(ヨハネの福音書17章3節)


しかし、この哀れな父親は、現在の必要性にとらわれ、息子の状態を心配しています。
我が子を失うことを恐れていたため、主イエス・キリストが言われたことを正確に受け止めることができなかったのです。
イエスはこのように言われました。

「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」
(ヨハネの福音書4章48節)


しかし、その王室の役人はイエスにこのように求めました。

「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」
(ヨハネの福音書4章49節)

しかし、父親は自分の息子を癒すためにイエスがカペナウムに行く必要がないことに気づかなかったのです。
イスラエル人ではなく、ローマ人の百人隊長がイエスのところに来てこのように言ったことを思い出してください。

「ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。
ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」
(ルカの福音書7章7節)


百人隊長はキリストの御言葉に力があることを悟っていたのです。
このイスラエル人はローマの百人隊長よりもはるかによく理解していたはずです。
しかし、その単純な信仰には遠く及ばなかったのです。
主はローマの百人隊長についてこのように言われています。

「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」
(ルカの福音書7章9節)

しかし、その王室の役人は、イエスが自分の息子のいるところに生きている間に来ることさえできれば、何かしてくださると信じていました。
それは私たちによくある質問です。
「イエスが急いで来てくれれば良かったのに、、。」
私たちは誰かの救いのために祈っているかも知れません。
その友人が救われる前に永遠に亡くなってしまうのではないかと恐れ、主に急ごうとします。
多くの人が手紙を書いて、病気の人のために特別な祈りを求めています。
彼らはこのように言います。
「あなたがたは急いで、この願いをあなたの知る人々の前に届けて下さいません。
彼は本当に重病なのです。」
私は主の前で膝をかがめ、そして、このように言います。
あなたは人々の前で私には何も出来ないことを知っています。
主よ。あなたはあらゆる力をお持ちです。
ここで、今、私はこの願いをあなたにお捧げします。
私は神が聞いてくださることを知っています。
ベタニヤの姉妹たちは迷っていたのです。
彼らの兄弟は重い病気でした。
彼らは伝言を送れば、すべてを捨ててイエスはベタニヤに急いでくださるだろうと考えたのです。
しかし、四日たってもイエスは来ません。
そこで彼らは考えたのです。
「わたしたちもベタニヤに行こう。」
イエスが到着したとき、姉妹たちはもう手遅れだと思いました。
しかし、すでにイエスは弟子たちにこのように言われていました。

「わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
(ヨハネの福音書11章15節)

あなたは、イエスが「私がそこにいなくて悪かった」と言うことを期待したかも知れません。

「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
(ヨハネの福音書11章32節)


イエスは決して間違いを犯しません。
イエスはこのように言われました。

「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
(ヨハネの福音書11章40節)


イエスが「その石を取りのけなさい」と言った時のことを思い出すべきです。
彼らはこのように言ったのです。

「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
(ヨハネの福音書11章39節)


しかし、イエスは「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と言ったのです。
そして、彼らは石を転がして、次のようにイエスが叫んだのです。

「ラザロよ。出て来なさい。」
(ヨハネの福音書11章43節)


もしその日、イエスが「ラザロ」と個人名を言わなかったら、すべての墓地が空になっていたでしょう。
ラザロが出て来たように、いつの日か、キリストを信じる者はすべてが出て来て空中で主に会います。
私たちはイエスを急かす必要はありません。
私たちが学ばなければならないことは、神の愛と知恵の感覚に安らぎを得ることであり、詩篇とともに次のように言えることです。

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。」
(詩篇62編5節)

この愛しい父親はイエスを理解していません。

ただ、父は息子が熱を出し、今にも手遅れになるかもしれないことを知っていました。
ゆえに「主よ、来てください!
25マイル進んで!
時間を無駄にしないで!
急いで!降りてください!
私の子が死にそうなのです!」と言ったのです。
しかし、イエスは哀れみと慰めをもって父親を見つめ、言われました。

「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」
(ヨハネの福音書4章50節)

息子をよみがえらせるためにカペナウムに下りる必要はありません。
「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」
あなたは息子が元気になっているのを見ることができます。
カペナウムに戻るのです。
恐れや恐怖を捨て去るのです。
問題はありません。」
父親は、イエスが自分に語られたことばを信じました。
今、父親は確信を深めています。
最初、父親はイエスが少年のところに行けば少年を癒すことができると信じていました。
今では遠く離れていても少年をよみがえらせることができると信じているのです。
親愛なる友よ、あなたはイエスの言葉を信じていますか?
そして、あなたがたは知っていますか?
あなたの救いは体を癒すことだけではありません。
その願いは、イエスの御言葉を信じることから始まるのです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
(ヨハネの福音書5章24節)


私たちは旧約聖書でこのように読みました。

「主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。」
(詩篇107編20節)


また使徒ペテロはこのように語っています。

「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」
(ペテロの手紙第一1章23節)


子供の頃、自分のたましいのことでとても悩んでいたことをよく覚えています。
私はいつも聖書を読んでいました。
人々の前に御使いが現れ、彼らに直接語りかけるという話を読んだことがあります。
12歳の時、私は自分の部屋に行ってひざまずいて祈りました。
「主よ御言葉を読んでいます。
私が目を開けた瞬間に、ここに御使いが立っていて欲しいのです。
あの御使いが「あなたの罪が許されました」と言って欲しいのです。」
目を開けるのが怖かったのです。
やっとの思いで目を開けました。
御使いはそこにはいませんでした。
私はこの何年も待ちましたが、御使いを見たことがありません。
私に言いたいのです。
私は疑いの余地なく、私の罪がすべて赦されていることを知っています。
どうしてわかるのでしょうか?
私が神のことばを信じ、神のあかしを受け入れたとき、罪が許されたことを知りました。
聖書にはこのように書かれています。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
(ローマ人への手紙10章9、10節)


悩めるたましいよ!
あなたはこのように言うことが出来るでしょうか?
「ああ、私の罪が取り除かれ、私の心が清められたことを知りたいのです。」
私はイエスの御言葉を信じることを強く勧めます。
イエスを信じるのです。

「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
(ヨハネの福音書1章11、12節)


信じるとは主に信じることであり、打ち明けることです。
さて、この父親はイエスの言葉を信じてカペナウムに戻りました。
その25マイル、ずっと疑問が浮かんでいたはずです。
「あの子はどうなったんだろうか?」
イエスはこのように言われています。

「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」
(ヨハネの福音書4章50節)


本当に生きているのだろうか?
ついに父親がカペナウムで息子を見た時、彼はどんなに喜んだことでしょうか?
すぐにしもべたちが駆け付けてきて、喜び勇んで叫んでいたからです。
「大丈夫。あなたの子は生きています。」
父親はしもべたちの証言を得る前に信じていました。
イエスが「あなたの息子は治っています」と言われたとき、父親は信じたのです。

「そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、七時に熱がひきました。」と言った。」
(ヨハネの福音書4章52節)


しもべたちはこのように付け加えたかもしれません。
私たちは彼を見ていました。
その時、気付きました。
突然、熱が下がり、全身に汗が吹き出したので、私たちは彼に手をかけました。
それから、彼は毎時間元気になっていったのです。」
すると父親は叫びました。
「七時だ!
ちょうどその時、私がイエスと話していた時間だ!
まさにその時、イエスは言われたのです。
「あなたの子は生きています。」

「そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。」
(ヨハネの福音書4章53節)

ああ、父親はかつてより優れた信仰を持っていました。
最初、父親はイエスが少年のところへ行けば少年を癒すことができると信じていました。
二番目に、父親はイエスの言葉を信じ、そして、今ではイエスを信じています。
彼の家の者はみな、彼とともに信じました。
父親は「神の子でなければ、25マイルも離れていたのに、このような奇跡を起こすことはできない」と思ったはずです。

「イエスはユダヤを去ってガリラヤにはいられてから、またこのことを第二のしるしとして行なわれたのである。」
(ヨハネの福音書4章54節)


キリストは御父に遣わされた方として御自分の国の人々に現われました。
キリストはすでに神が栄光のうちに1900年もおられますが、このことを悟ることは、なんと幸いなことなのです。
キリストは、現在でも私たちの苦しみの叫びを聞くことができます。
そして、同じように、今日の私たちの体を癒すことができます。
そして、キリストが体を持たれ、地上を歩んだ時と同じように、現在の私たちの必要をも満たすことができるのです。


講演14 ベセスダの池で

「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。
そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」
しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。」
彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け。』と言った人はだれだ。」
しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」
その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。
このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。」
(ヨハネの福音書5章1~16節)


さて、ヨハネの福音書に記されているもう一つのしるしと奇蹟を考えてみましょう。
全部で8つの奇跡が記されています。
使徒は御霊の指示によって、私たちの前に記すべきいろいろな奇跡から記述を選んでいます。
明らかに、キリストにおいて示された神のすばらしい恵みを、哀れな罪人たちにさまざまな方法を通して示そうとしているのです。
この箇所での背景には興味深いものがあります。
私たちの主がガリラヤで働かれた後に、ユダヤ人の祭りがあったと言われています。
私たちにはその祭りが何の祭りなのかわかりません。
おそらく過越の祭りだったと考えます。
主イエスは律法にしたがって、祭りに参加するために下って行かれました。
過越の祭りは、イエスにとって特別な関心事であったはずです。
それは、イエスは過越の祭りの時にいけにえとしてささげられたすべての過越の子羊が、ご自身を思い描いておられることをよく知っておられたからです。
そのことは聖書の次の箇所で語られています。

「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。
あなたがたはパン種のないものだからです。
私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」
(コリント人への手紙第一5章7、8節)


その後、主イエスは祭りに行かれました。
群衆の間を往来しながら、羊の門の近くにあったベテスダの池のそばを通られました。
私たちは次のように読んでいます。

「さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。」
(ヨハネの福音書5章2節)


これは、律法による定めの時代に、神が御民のために特別に備えられたものです。
ベセスダの意味は「あわれみの家」 です。
神はそこで苦しんでいる人々に慈しみを与えていました。
私たちは、恵みと真理とが、私たちの主イエス・キリストが受肉される以前から、神の心はすべての貧しい人たちに向けられていたことを知っていなければなりません。
また、誰でも神に立ち返る者のために、神は備えをされているのです。
確かにそこには一定のルールや条件がありました。
人々はささげ物を携えて神のところに行きました。
これらのささげ物は主イエス・キリストについて語っており、受け入れられました。
これらのささげ物が本来持っている価値のゆえではありません。
それは信仰と確信のために、人々があらかじめ備えていたものでした。
ゆえに、民はこれらのささげ物を持って来たのです。
律法時代を通じて、神はご自身の驚くべき方法で人間に手を差し伸べ、救っておられました。
この場面はその様子を描いたものです。
ここにベセスダの池があります。
その周りにはこのような人が横たわっていました。

「その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。」
(ヨハネの福音書5章3節)


この状態は罪の結果を物語っています。
そして、この状態は私たちの目を神の真理と神の栄光から盲目にします。
罪は私たちを不自由にし、神の道に步むことができないようにしています。
罪は私たちのすべての力を衰えさせ、私たちを無力にし、自分自身を救うために何もできなくさせています.。
私たちは皆、池のそばに集まった無力な人々のようなものです。
この状態は人間を苦しめるすべての病気、痛み、苦しみ、戦いがこの世にやってきたことと行く末だと言えます。
この状態は神の意志によるものではありません。
人間が道を踏み外した結果です。
これらは滅びの産物です。
私たちの主イエス・キリストは悪魔のわざを根絶やしにするために来られたのです。
神に感謝します。
神はこれらすべての罪の影響を完全に元に戻そうとしているのです
この寄せ集めの無力な集まりはベセスダの中庭に横たわっていました。
彼らは何を待っていたのでしょうか?
水の移動を待っています。
御使いが「水面をかき回す(an angel troubling the water)」という4節の表現の真偽(新改訳聖書では本節欠如とされています。)について、学者たちの間で疑問があることを私は知っています。
最も古い写本には、この節はまったく見当たりません。
しかし、話を読み進めてゆくならば、この節への記述があるように思われます。
この言葉は、なぜ人々が池に集まっていたのかを理解するために、何人かの写字者が大昔に余白に挿入したものでした。
そして、その後、何人かの写字者が本文に取り入れたのだと多くの編集者たちは考えています。
いずれにせよ、多くの人たちがそこにいた理由を説明しています。
そこに泉があり、いつもは静かですが、時々断続的に湧き上がって来るのです。
皆様方はそのような泉を見たことがある人もいると思います。
御使いがある季節にこの泉に下って来て、民は水をかき乱しているものだと理解していました。
ゆえに、その瞬間に入った人はどんな病気を持っていたとしても、完全なものとして治療されたのです。
これが律法ができる最高のことなのです。
律法はその癒しを最も必要としている人に助けを与えることができません。
強い者が先に水に入ってしまうのです。
しかし、罪人の状態が悪ければ悪いほど、無力であればあるほど、罪深ければ罪深いほど、悲惨であればあるほど、彼に与えられるはずの律法の特権を利用できる可能性は低くなります。
彼らの中には何週間も何ヶ月も寝込んでいた人もいました。
ここに、何年にもわたって、38年間も苦しんでいた人がいたのです。
彼は麻痺していました。
彼は足を使う力を失っていました。
どのくらいの間、彼がベセスダの池で横たわっていたのかはわかりません。
彼の友人たちが、イエスに会う何年も前に彼をそこに連れてきたのかもしれません。
彼は哀れで無力な罪人の描写です。
それは私たちの生まれつきの状態ですべての人に適応できます。
何年も前、サンフランシスコのクリフハウスのそばのビーチで、私たちのグループが日曜学校の遠足をしていました。
ワシントンの誕生日の祭日にはよく行ったものです。
その朝、9時に私たちが海岸に出ると、霧が晴れ始めていました。
しばらくして、私たちは海岸のさまざまな残骸を見て驚きました。
私たちはそれがどこから来たのか理解していません。
しばらくして、私たちは「リオデジャネイロ号」という大きな船が中国からの帰途、濃霧の中サンフランシスコ港に入ろうとして、岩にぶつかって粉々になったことを知りました。
何百人という人が流され、ある者たちは逃げることが出来ました。
新聞にはこんな話が載っていました。
救われた人の中には、若いアメリカ人ジャーナリストがいました。
両足を骨折し、その状態で水に投げ込まれてしまいました。
冷たい水の中で意識が戻り、浮いていました。
数時間後、その全く無力な男は救助隊によって水から引き上げられました。
私はそれを読み、哀れな罪人に対する神の恵みの描写だと思いました。
拾われるまで何時間も泳いでいた人もいました。
心の強い人もいたし、他にも多くの人がいましたが、彼らは溺れていました。
しかし、この男は泳ぐことができません。
彼は無力でしたが救われたのです。
これは私たちのことを描写しています
私たちはこのように読んでいます。

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」
(ローマ人への手紙5章6節)


この池にいる哀れな男のことを考えてみてください。
この男は救い主を求めていません。
この男はイエスに癒しを求めていません。
しばしば、私たちは状況を好転させようとして、イエスに救いを求めるよう罪人に求めます、
しかし、聖書のどこにも救いのために祈るように言われていません。
むしろ、神ご自身が人に対して、神と和解するように願っていると言われています。
その人はキリストを知りません。
イエスはその人を求めて来られたのです。
私はよく話しているように「ある人と少年の問答」が好きです。
その人は少年にこのように聞きました。
「少年よ!イエス様を見つけることができましたか?」と尋ねると、少年は顔を上げて言いました。
「先生!私はイエス様が迷子になっているなんて知りませんでした。」
でも、イエス様は、私がここにいるのを見つけてくれました!」

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
(ルカの福音書19章10節)


そこで、イエスは、イエスのことを何も知らず、イエスの名さえも知らない、この哀れで無力な人を見つけに来られたのです。
その足なえの必要性は、神の子の柔和で寛大な心に訴えられました。
もし私が、今日、迷っている人、哀れな人に話しているのなら、あなた方のその哀れで無力な心が神の子の心に訴えかけていることを確信してください。
イエスはあなたのことを救おうとしています。
6節に書かれていることを見てください。

「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」」
(ヨハネの福音書5章6節)


イエスは、彼が長い間このような状態にあったことを知っておられました。
この男はキリストご自身が地上におられた年よりも8年も長い間、この病気の中にいたのです。
なぜ?彼はそんなに待ったのでしょうか。
それは、その男が自分自身の最後を迎えるためでした。
私たちも、もし、私たちが自分の力不足を知らなかったのなら、キリストの御元に来ることはなかったはずです。
あなたは水に落ちたかわいそうな人のことを聞いたことがあるでしょうか?
その者は泳げないので、一度沈み、また上って来て、また沈むことを繰り返しているのです。
泳ぎの上手い男が桟橋に立って見ていました。
人々は「飛び込んであの男を助けてください 」と叫んでいます。
彼は何も言わず、その男が再び水の中に沈んだのを見て、上着を脱いで飛び込み、無事に岸まで連れてきました。
彼らは「彼を救うためになぜそんなに待ったのですか? 」と尋ねました。
彼を助けた男は「彼の力がなくなるまで待っていました。
私は彼が自分で何もできなくなるまで、彼が無力になるまで待たなければならなかった」と答えました。
イエスはこれを待っていたと思います。
足なえの男は最初に池に連れてこられたとき、大いに期待しました。
しかし、「もうすぐ入れそうだ」 と思っていると、他の人が先に入ってゆきます。
彼は何度も何度も悔しい思いをしてきたのです。
そして、今では絶望してあきらめそうになっています。
イエスが恵みの中で出会うことを求めているのは、絶望した魂です。
イエスは「自分を救うためには何もできない」と認める者を救うのです。
主がこの男にどのように対応されたか見てください。

「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」」
(ヨハネの福音書5章6節)


非常に単純な質問です。
イエスはすべての人にこのように言っておられるのです。
さて?ここにいる読者は救われているでしょうか?
祝福された主は「よくなりたいか」と仰せられています。
あなたは神の救いの恵みを知りたいのですか?
あなたの答えは何でしょうか?
「よくなりたいか。」
無力な男はイエスに答えて言いました。

「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。
行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
(ヨハネの福音書5章7節)


現在でも、多くの人が同じことを言っています。
「私に足りないものが一つだけです。」
ある人が「助けてくれる人がいて欲しい」と言いました。
どれだけの人がそのように感じているのでしょうか?
「自分に合った教会を見つけられれば」と言う人もいます。
友よ、もしあなたがこの地上にあるすべての教会に入ったとしても、それはあなたを救うことはできません。
もし、私がどんな原則に従って生きるべきかを手に入れることが出来ているのであれば、このように言うことができます。
「魂を救うのは行動ではありません。」
その教訓を学ぶのは早ければ早いほど良いことなのです。

「働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」
(ローマ人への手紙4章4、5節)


足なえは「私を入れてくれる人がいません」と言いました。
彼が深く困っているのを見て、イエスは彼に言いました。

「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
(ヨハネの福音書5章8節)


イエスの言葉には力がありました。
私たちは「その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した」と読みました。
イエスの言葉には、その男の心に信仰をもたらした何かがありました。
ある人がこのように言いました。
「私は救われたいと思っています。
それには信仰が必要です。
でも私には信仰がありません。」
しかし、聖書はこのように語っています。

「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
(ローマ人への手紙10章17節)


男は「私は癒されたいが方法がない」と考えました」。
しかし、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」というイエスの言葉を聞き、顔を上げると、その魂に信仰が芽生えたのです。
私はその男が初めて立ち上がるのを見てみたいと思います。
そして、彼は「そんなことは信じられない」と思ったかも知れません。
そして、その男はイエスの命令で、その荷物をただのワラ布団のようにと小脇に抱え、新しい力を得て、喜びながら去って行きました。

「すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。
ところが、その日は安息日であった。」
(ヨハネの福音書5章9節)


そこに「その日は安息日であった」という悪い知らせが入ってきています。
そこには何も悪い知らせがありませんが、批判的な人がそこにいました。
彼は今日が安息日だと知らなかったのでしょうか?
このことは批判的な人にとって、哀れな仲間を癒すこと以上の意味がありました。
彼らは祭りや儀式に関心があり、すぐに非難する準備ができていました。
癒された人にユダヤ人たちは言いました。

「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」
(ヨハネの福音書5章10節)


彼らは喜んでこのように言っているのではありません。
「友よ、私たちはあなたがそこに横たわっているのを何年も見てきました。
今は。元気になって本当に感謝しています!」
彼らはこのように言うことが出来ないのです。
この律法家たちは、放蕩息子の話に出てくる弟のように、兄が帰ってきて許されても家に入ろうとしません。
彼らはこのように言ったのです。
「安息日に重荷を背負ってはいけない!」

男はこのように言ったかもしれません。
「重荷!
これは重荷ではありません!
もし、重荷なら、これを持ち運ぶのは私の喜びです。」
彼らは「そんなことは許されない」と叫ぶかも知れません。
そして、癒された男はこのように言ったのです。

「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。」
(ヨハネの福音書5章11節)


「文句があるなら今すぐ彼に言え!」と言わんばかりです。
彼らは尋ねました。

「『取り上げて歩け。』と言った人はだれだ。」
(ヨハネの福音書5章12節)


どんな男だったのでしょうか?

「しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。」
(ヨハネの福音書5章13節)


彼は全く無知でした。
自分を癒してくれた方の名前さえ知らなかったのです。
彼は言われたことだけを実行しただけです。
この哀れな人は、自分を癒してくれた人の名前を知らなかったのです。
私たちは次のように書かれているのを読むことができます。

「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。
そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」
(ヨハネの福音書5章14節)


彼は38年間、神殿に来ていません。
彼は失われた時間を取り戻したかったのです。
イエスが人々を救う時、いつも人々は同じようなことをします。
「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。
そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」
つまり、この男の病気は明らかに罪の結果でした。
イエスは、彼に将来においても罪に陥らないように警告しました。
それはいつの時代にも言えるタイムリーな忠告です。
ああ、若き改心者よ、罪を軽々しく扱うべきではありません。
私たちは邪悪な罪から解放されました。
しかし、赦されたとはいえ、ある種の罪がもたらす悲惨で一時的な結末は、一生つきまとうものなのです。
このように、この男は自分の救い主が誰であるかを知りました。

「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。」
(ヨハネの福音書5章15節)


おそらく、あなたがたは、彼らがみなイエスのところに行って、この力による働きに感謝したと考えたでしょう。
しかし、その代わりに、彼らの冷たい律法的な心は、彼らを逆の行動に導いたのです。
そして、私たちはこのように読みました。

「このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。
イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。」
(ヨハネの福音書5章16節)


彼らは、その日、そして、すべての時代において、神の働きを期待する事実を認識する代わりにイエスを責めるのです。
彼らは哀れな罪人の必要を満たすことができる恵みに感謝する心を持っていません。
私たちも同じ律法的な霊の力に陥らないように気をつけるべきなのです。


講演15 神と等しい方

「イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。
それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。
父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
(ヨハネの福音書5章17~24節)


私たちは、主がベセスダの池で無力な人をいやされた記録について考察してきました。
主が安息日にこのようなことをされたので、その時代の律法主義的なユダヤ人たちが怒りをあらわにしたことに注目して、終わりにしました。
彼らはモ―セの書にある律法に、多くの自分たちの律法を加えていました。
長い間、救いを待っていたかわいそうな人の祝福よりも、彼らはこの出来事の専門的なことを気にしていました。

「このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。
イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。」
(ヨハネの福音書5章16節)


主の弁護に注意して見ましょう。

「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
(ヨハネの福音書5章17節)


これは何を意味しているのでしょうか?
なぜ、主は彼らの心を創造にまで引き戻しているのでしょうか?
神が天と地を創造されたのは、人間の記録で見る限り、定かではない時期です。
それがどのくらい昔なのかは知ることができません。
その始まりがいつであっても、神は天と地を創造したのです。
その時、大地は混沌とした状態に陥っていました。
そこで神は、人間の住まいとして、贖いのドラマが行われる舞台のために地を作り直そうとされました。
創世記にはこのように書かれています。

「それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」
(創世記2章2、3節)


それは神の安息です。
しかし、悲しいことに、神の安息日はとても短いものでした。
ほんのわずか前までは「非常によかった」と宣言されていたこの美しい創造物に罪が入り込みました。
それまで、それほど時間はかかっていません。
そして罪が入り込むと、神は再び働き人となりました。
ついに、カルバリの十字架の御自身の愛する御子の働きを得て安息を得るまで、再び安息を得ることはできなかったのです。
十字架以前の数千年の間、神は一度も安息日を守っていません。
主は、人の祝福と善のために、律法によって人に安息日をお定めになりました。
イエス自身がこのように言っています。

「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」
(マルコの福音書2章27節)


神が人に7日のうち1日を安息日として与えられた時、神御自身は休むことが出来なかったのです。
罪の問題が解決されていない期間は、愛に満ち、聖なる、慈悲深い神である神が休むことなど考えられることができなかったのです。
そこでイエスはこの人たちにこのようにお答えになったのです。

「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
(ヨハネの福音書5章17節)

その理由はキリストが父と一体であったからです。
だから、罪の結果を元に戻すために、御父の行おうとしていることを御子が行うために、御子がこの世に来られたのです。
彼らは御父の意思を理解していなかったかを示しています。
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
彼らはこのことを理解していません。
彼らの憤りはますます激しくなりました。
彼らはイエスを殺そうとしました。
それは、イエスは安息日を破ったばかりでなく、神は自分の父であると言ったのです。
すこし不思議な表現です。
それは、他の人が使うことのできない方法で、イエスがこの名前を使用する権限を持っていることをほのめかしたことを意味しています。
イエスは、神は自分の父であり、ご自身を神と同等にされると言ったのです。
彼らは、主イエスが御自身を父の子と言われたのは、御自身が父と一体であることを意味するのだと理解したのです。
つまり、同じ神格だとでいう意味です。
ユダヤ人も異邦人も神の子を殺した罪に問われています。
ユダヤ人たちはイエスをピラトの広間に引きずり込んでこのように言いました。

「このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。
イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」
(ヨハネの福音書5章18節)


つまり「私たちの律法によって、イエスは死ぬべきです。ご自身を神の子とされた」と言っているのです。
これが彼らの告発でした
最後にピラトは、彼らが望んだとおりになるように判決を下しました。
ゆえに、ピラトは異邦人世界の代表として、神の祝福する御子を殺した罪で、神の法廷の前に告発されたのです。
神は哀れみ深い神です。
ユダヤ人、そして異邦人もイエスを拒んで、神の子を十字架につけることで一致していていました。
にもかかわらず、神はイエスによって救いを与えられるのです。
ユダヤ人たちはイエスを石打ちにして殺そうとしました。
そして、イエスを異邦人のところに駆り立てて十字架に架けたのです。
それでも、ユダヤ人、もしくは異邦人であっても、神に立ち返り、御子を信じるならば、神が屈辱の十字架の上でご自身をささげ物にしてくださいました。
ゆえに、私たちに救いが与えられているのです。
私たちは、神の子を殺すことに関与したことを認めることを恐れる必要はありません。
私たちは悔い改めた罪人として神の御元に行くことができます。
そして、私たちが拒んだ方を、私たちの個人的な救い主として信じることができます。
聖書にはこのように書かれています。

「彼に信じる者は、失望させられることがない。」
ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。
同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。」
(ローマ人への手紙10章11、12節)


あらゆるタイプの律法主義者は、常にイエスを拒絶しています。
もし、イエスが再びここにいたら、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、あらゆるタイプの律法主義者は、彼を十字架につけると思います。
どのように証明できるのでしょうか?
なぜでしょうか?
現在も、彼らはイエスを望んでいません。
もし、彼らがイエスを望むなら、彼らはイエスを受け入れ、御名を信じたはずです。
彼らは信仰を拒みます。
現在も、彼らの心はイエスを殺そうとした者たちの心と同じであることを示しています。
彼らがイエスを殺害した理由は、彼らがイエスを拒んだゆえです。
イエスは自分が永遠の父と一つであると宣言しました。
イエスは自分を神と同等にしたのです。
さらにイエスは彼らに答えて言われました。
彼らのために物事を容易にしようとする代わりに、彼は物事を難しくしているのです。
もし、人々が背いて、信じることを拒むなら、主は彼らにもっと難しいものを与えられるのです。
もし、彼らが悔い改めてイエスの御元に来るならば、イエスは事物を明白にされ、これらのことを悟ることができます。
イエスはこのように言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。
父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」
(ヨハネの福音書5章19節)


これはもの凄い主張です。
「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。」
普通の人間がそんなことを言う勇気があるでしょうか?
もし、普通の人間がそのようなことを言ったら、その者は狂人のレッテルを貼られるはずです。
このように、イエスは自分が御父の子として語ったのです。
「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。」
それはどういう意味でしょうか?
ある人たちはイエスが言っていると想像しています。
イエスは御父よりも力がないのでしょうか。
「私には御父を真似することしかできない」と言っておられるのです。
しかし、それは全く逆です。
イエスは「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません」だと言っています。
三位一体のすべての人格がそのように話すかもしれません。
御父は御子がいなくては何もできません。
聖霊は御子がいなくては何もできません。
御父は聖霊がいなくては何もできません。
聖霊も御父がいなくては何もできません。
子は御父がいなくては何もできません。
子は聖霊がいなくては何もできません。
言い換えるのであれば、神の3つの神格の関係は、誰もが他の人から離れて行動することができないのです。
すべてにおいて、御霊が行っていることは、御子と父との完全な交わりの中でなさっています.
永遠の三位一体のすべての神格においてそうなのです。
ここで、私たちは神格の一元性と三位一体という現実が驚くべき方法で示されています。
私たちは三位一体の三者を、第一位である御父、第二位である御子、第三位である聖霊と呼んでいます。
聖書はそのような区別をしていません。
父なる神、子なる神、聖霊なる神は一つであり、平等であり、永遠であり、それぞれが他の神格の完全な承認と交わりなしに行動することはできません。
主イエスは、受肉された人として、当時の告発者たちを前にして「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。」と言われたのです。
そして、イエスは次のように付け加えています。

「それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。
また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。」
(ヨハネの福音書5章20節)


この地上で、私たちが人となられた子に対する父の愛を理解することは、まったく不可能なことです。
神は三度、御子への愛を宣言するために天からの声として「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 と言われました。
まさに「それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」
これらは助言と目的は同じです。

「また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。」
(ヨハネの福音書5章20節)

イエスは十字架と復活での勝利に目を向けていたのです。
私たちの主イエスは、父が持っている力と完全に同じ力、人を死者の中から復活させる力を持っていると主張しました。

「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」
(ヨハネの福音書5章21節)


父は与えたいと思うものにいのちを与えるのです。
御子も御心にかなう者にいのちを与えます。
私たちが復活について考えるならば、私たちは死者を墓からよみがえらせるために与えられた全能の神の力について考えることができます。
この力は、父と子と聖霊に帰せられる力です。
これは、主の復活について言われています。
私たちは「イエスが父の栄光によって死者の中からよみがえられた」ことを読みました。
主はこのように言われました。

「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
(ヨハネの福音書2章19節)


また、他の所でこのように言われています。

「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。
わたしが自分からいのちを捨てるのです。
わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。」
(ヨハネの福音書10章18節)


また、このようにも言われています。

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
(ローマ人への手紙8章11節)


また、神である御父はキリストを死者の中からよみがえらせたとも言っています。
すべての三位一体が一つとなって主イエスを復活させ、すべての三位一体である神が、キリストが来られる時にキリストにあるすべての者の復活させると言っています。
父なる神、聖霊なる神、子なる神こそが死者をその墓から呼び起こす方です。
そこで主イエスはこのように言われています。

「また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。」
(ヨハネの福音書5章22節)


死者を墓から復活させるのは、父なる神であり、聖霊なる神であり、子なる神なのです。
父は人を裁かず、すべての裁きを御子にゆだねられました。
これは驚くべき宣言です!
イエスはパレスチナの丘や谷を動き回り、外見上はただのガリラヤの一人の大工にしか過ぎません。
しかし「すべてのさばきを子にゆだねられました。」

「また、父はさばきを行なう権利を子に与えられました。子は人の子だからです。」
(ヨハネの福音書5章27節)


また、聖書はこのように言っています。

「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
(使徒の働き17章31節)


聖書には、神が世を裁かれると書かれています。
しかし、ここではその裁き主は贖いのために人となられた方であると書かれています。
なんという驚くべき宣言なのでしょうか?
今日、あなたがキリストの外にいるのであれば、もし、あなたがそのように死ぬなら、あなたは偉大な白い王座の前に立たなければなりません。
そこで、あなたはある男の顔を見ることになります。
その王座には、あなたのためにカルバリの十字架にかかられたキリスト・イエスがおられます。
あなたがたは自分の罪をイエスに報告し、イエスの唇が裁きの宣告が宣言されます。
私たち信じる者は、自分の罪のためにさばきを受ける必要はありません。
しかし、私たちはみな、キリストのさばきの座の前に立つのです。
かつて、私たちを父である神と救い主であるキリストを知るようにされた主の恵みが宣言されました。
それ以来、主は私たちがこの地上で歩んできた道をすべて調べ、私たちのすべての働きを調べ、肉体において行われた行いによって裁かれます。
主イエス・キリストはこの裁きを行います。
主イエス・キリストこそが、やがて全ての諸国民を裁かれる方なのです。

「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。」
(マタイの福音書25章31節)

「父はさばきを行なう権利を子に与えられました。
それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。」
(ヨハネの福音書5章22、23節)


初期のキリスト教会における最初の重大な対立の一つはアリウス論争でした。
アリウスは、永遠で主イエス・キリストが永遠が、御子であると信じるのは不合理であると教えました。
その代わりに、アリウスは最初に創造された存在であると主張しました。
キリストは永遠の存在ではなく、永遠の昔から父と一つではなかったということになります。
アリウスに反対したのはアタナシオスでした。
アタナシオスは、父なる神が永遠の父であるように、また聖霊が永遠の霊であるように、主イエスは永遠の子であるという真理を主張しました。
この論争は長年にわたって教会を混乱させました。
そして、ニケア公会議において、聖書は主イエス・キリストが永遠の昔から父と一体であったことが明確に宣言されました。
しかし、その後教会は1世紀の間、同じ論争に悩まされた。
ある時、キリストが父と平等であるという真理の勇敢な弁護者であったアタナシウスは、皇帝の一人の前に呼び出されました。
その皇帝は、自分も王座に座ってましたが、自分の息子に皇帝の権力を分け与えるという栄誉を与えていました。
アタナシウスは皇帝の前で膝をかがめましたが、息子のことはまったく無視していました。
支配者は怒って「その態度はなんだ!」と叫びました。
「われわれを敬うふりをしながら、われわれが権威の共有者とした息子を軽蔑し、見向きもしないのか? 」
それはもっともらしい言葉でしたが、皇帝が真実を知っていたのかわかりません。
さて、ヨハネの福音書の中には、より多く用いられているこのような聖句があります.

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
(ヨハネの福音書5章24節)


なんという素晴らしい宣言なのでしょうか!
このような言葉、すなわち神の子ご自身の口から直接私たちに語られた言葉を前にして、主イエスを信じる者は自分の永遠の救いを疑うことができるでしょうか?
イエスは神の誓いの言葉である「まことに、まことに」という言葉で始めています。
私たちはヨハネの福音書の中で「まことに、まことに」という言葉が2回だけ使われていることを見ています。
何度も私たちはこの言葉を目にしています。
そして、いつも、とても重要な真理の導入に使用されています。
英訳聖書のドゥアイ・リームズ聖書では私たちはこのように読むことができます。

「アーメン、アーメン、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

すこし、考えてみましょう。
なんて素晴らしい宣言なのでしょうか!
「アーメン、アーメン!」まさに「まことに、まことに! 」という意味なのです。
そして「わたしのことばを聞いて」という言葉が続いてます。
あなたは神の言葉を聞いていますか?
耳では聞こえていても、心では聞こえていない人が多くいます。
イエスは言葉を心で受け取るという意味で聞くと言っています。
神が御言葉で語られたことを受け取り、信じる者です。
御言葉は神が私たちの失われた状態について言われています。
贖いについて、福音のことばを聞く者がいます。
「わたしを遣わされた方を信じる者」と書かれています。
神の話されている方を信じることです。
私が立ち上がり、聖書から人々に何かを語るのなら、私は神が言われたことを説いているのです。
「あなたは神を信じますか?」
ある時人は「私は信じようとしている」と言います。
「誰を信じようとしているのですか?」
「神は語られたのです。」
あなたは彼を信じるか?信じないか?のどちらかなのです。
神の御言葉を信じるなら、永遠の命があると主は宣言されています。
もし、あなたがたが忠誠を尽くせば、神は永遠の命をあなたに与えることを望んでいるわけではありません。
その道の終わりにあるのは永遠の命ではありません。
「信じる」というのは現在形です。
もちろん、その道の終わりに永遠の命があるという感覚があります。
その理由は、もし、今日、私がイエス・キリストを信じる者であるなら、イエス・キリストが再び来られるとき、私の体そのものが永遠の命によみがえることを知っているからです。
しかし、すべての信者は、今ここで、命、永遠の命を持っています。
神のいのちは、神の言葉を信じる者に伝えられるのです。
「さばきに会うことがなく」、この言葉を見てください。
これがクリスチャンの真実な判断、裁きなのです。
キリストにある者に裁かれることがありません。
なぜでしょうか?
なぜなら、私たちのすべての裁きは主イエス・キリストが十字架上で広げられた両腕によって背負われたからです。
そこでは、私たちの受けるべきすべての罪は、私たちの祝福された身代わりである主の上に注がれました.
それゆえ、私たちは罪のために裁きを受けることはありません。
イエスは死なれました。
私たちはキリストと共に死んだのです。
私たちの罪はキリストの墓に葬られたのです。
私たちのすべての罪は、キリストと共に木の上に置かれた時に処分されました。
私たちは裁きを受けることはありません。
私たちはすでに死からいのちへと移っているのです。


講演16 二つの復活

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。
それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。
このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」
(ヨハネの福音書5章25~29節)


私たちは、ベセスダの池で中風の人が癒された後に語られた主の言葉を検証し続けています。
24節の偉大な福音のメッセージではこのようにイエスは語られています。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
(ヨハネの福音書5章24節)


ここにある「さばき」という言葉は27、29節にある「さばき」と訳されている、全く同じギリシア語の単語です。
25節には主は、私たちの最も重要な注意を向けさせようとするあの深刻な語りかけを再び用いています。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」
(ヨハネの福音書5章25節)


この聖句は、肉体的に死んだ者について語っているのではありません。
むしろ、霊的に死んだ者、すなわち、罪と罪のために死んだ者について語っているのです。
これは、キリストから出て来たすべての人、アダムに生まれたすべての人に適応できます。
アダムが罪を犯したとき、すべての人に死が訪れました。
神が現在の人類を見下すならば、神は人類を、神との関係、そして霊的なものすべてに死んだ人種だと見ています。
また、人間は快楽と呼ぶものに生き、個人的なことにのみ生きている人種だと見ておられます。
しかし、神に向かって生きている鼓動を打つことは一度もありません。
すべての人が死んでいます。
まったく無力なのです。
もちろん、死んだ人は自分の状態を変えることもできません。
もし罪と罪過に死んだ者が生きようとするなら、別の者、つまり、私たちの主から命を受けなければなりません。
その時が来ようとしています。
まさに今です。
イエスはこの素晴らしい神の恵みの時代をここに導入しているのです。
その時はイエスが地上に来られたときに始まっています。
1900年以上にわたって進展してきました。
神が死んだ魂を生き返らせ、人間がキリストのうちにいのちを見いだすようにされる時代なのです。
何百万人もの人々が神の声を聞いて悔い改めました。
彼らはその言葉を聞いて、永遠の命を得ることがどういうことかを知っています。
「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」
その声は神の力の声です。
その声は神に関するものすべてに完全に死んでいる心に届く声です。
ラザロを思い出してください。
ラザロは肉体的に死んでいます。
イエスはその墓の前に来て、このように言いました。

「その石を取りのけなさい。」
(ヨハネの福音書11章34節)


しかし、ラザロは死んで4日になり、彼の体は臭くなっています。
しかし、イエスは彼らに「その石を取りのけなさい」と命じられました。
そして、彼らはそのとおりにしました。
イエスはこのように死者に言ったのです。

「ラザロよ。出て来なさい。」
(ヨハネの福音書11章43節)


するとラザロが出てきました。
死人の聞いた声はイエスの声だったのです。
死者に命を与える声だったのです。

私にはひどい堕落の中に生きている友人がいました。
彼は深い罪の中にあり、神に対して死んでいました。
カリフォルニア州フレズノでのある夜、彼は小さな野外集会の前を通りかかりました。
彼は集まりが歌っているのを聞きました。
「主は罪を打ち消され、罪の力を打ち砕かれる。
囚人を解放してくださります。
その血は、最も汚れた者を清くすることができるのです。」
罪の中に死んでいたその人は、神の子の声を聞きました。
彼は、その夜、メッセージを信じ、キリストにあって新しい創造物となったのです。
彼は変わりました。
神の子の声を聞いたからです。

また、別の人のことを思い出します。
彼は哀れな酔っ払いで集会に出てきていましたが、完全に失われていました。
しかし、彼は誰かの語るキリストの言葉を繰り返すのを聞いていました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイの福音書11章28節)


その男はこのように言いました。
「その言葉は私に言っているのか?
私を誘っているのか?」
その男は生きる者となったのです。
それ以来、彼は二度と酒を一滴も口にすることはありませんでした。
彼は神の子の声を聞いたのです。
いのちは神の言葉の中にあります。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」
(ヨハネの福音書5章25節)


神は命を手に入れるために人を働かせているのではありません。
私たちには、いのちを受けるにふさわしいことは何もできません。
また、いのちを受けるまでは神を喜ばせることはできません。

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
(ローマ人への手紙6章23節)


私たちは、決められた宗教的な規則に従うことや、神聖な儀式を利用することによって、命を得ることはできないのです。
人は、バプテスマや主の晩餐によって、あるいは、苦行をしたり、教会に通ったり、お金を寄付したりすることによって、いのちを得ることはできません。
人は神の子の声を聞いて信じることによって、永遠の命を受けることができます。

「聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。」
(イザヤ書55章3節)


あなたはその声を聞いたことがありますか?
しかし、人はそれに背を向けるのです。
キリストは、いつの時代にも、いつも語っておられます。
しかし、多くの人は背を向けて、自分の罪の中に進んで行くのです。
彼らは死という状態を続けます。
しかし、人が心の奥底で神の声を聞いた瞬間、その者は命を受け取ります。
この命は神の子によって与えられるのです。
イエスはこのように言っています。

「それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
また、父はさばきを行なう権利を子に与えられました。子は人の子だからです。
(ヨハネの福音書5章26、27節)


もし、人が福音のメッセージを拒むなら、もし、彼らが神の御子の御言葉に背を向けるのであれば、終末の時にはイエスを拒む者はすべての信じる者にいのちを与える神によって裁かれます。
御父は御子に、ご自身のうちにいのちを得させ、さばきを行なう権威を与えました。
22節にこのようにあります。

「また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。」
(ヨハネの福音書5章22節)


このことから、私たちは御子が神であることを知ることができます。
聖書は世を裁くのは神であると宣言しているからです。
神は大いなる白い王座に着き、罪を犯した者たちを御前に呼びます。
彼らは神が与えられた救いを拒んだ罪に答えさせられます。
しかし、その御座に現われた神は主イエス・キリストです。
罪を犯してその御座の前に立つ者は、人であるキリスト・イエスによって裁かれます。
父は、人の子であるイエスに、裁きを行なう権威をお与えになりました。
ある時、ヨブは神が彼に与えた仕打ちのために途方に暮れていました。
そしてヨブはこのように言ったのです。

「左に向かって行っても、私は神を見ず、右に向きを変えても、私は会うことができない。」
(ヨブ記23章8節)

「神は私のように人間ではないから、私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう。」と申し入れることはできない。
私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。」
(ヨブ記9章32、33節)

しかし、ヨブが求めていたものは、神を彼に代弁してくれる人物は、私たちの主イエス・キリストの御姿の中にあります。
イエスは神であると同時に真実な人なのです。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」
(テモテの手紙第一2章5節)


もし人が、私たちの罪を木の上にご自分の体に負ってくださった祝福された方を信じることを拒むなら、その者はその行いによって裁かれます。

このことを避けるためにイエスはその恥ずべき十字架の上で死なれたのです。
聖書にはこのように記されています。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
(イザヤ書53章5、6節)


もし、人々が神を拒み、神から離れるなら、それでも、いつか彼らは神に会わなければなりません。
その日、彼らは自分たちの罪の中でイエスに向き合わなければなりません。
その時、救われるには遅すぎます。
その時、命を与えようとしたイエスは、彼らに裁きを与えなければなりません。
今、神が死んだ罪人を生き返らせようとしておられる時、すなわち、その一つの時について述べてきました.
イエス続けて、もう一つの時間、体の復活の時について話しています。
どちらも聖書に書かれています。
この時、主は罪とそむきの罪で死んだ者たちを生き返らせます。
やがてイエスは墓の中にある者を甦らせます。

「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」
(ヨハネの福音書5章28、29節)


「このことに驚いてはなりません。」
しかし、イエスはこのように言われているのです。
つまり、「このことに驚いてはなりません。
わたしは死んだ者を生き返らせることができるのです。
わたしを信じる者に命を与えることができるのです。
いつか、私は地上のすべての墓を空にする日がきます。」
あなたは「どうして、そんなことがありえるのですか?」と聞かれるかも知れません。
「何百万、何千万という人々が死に、その身体は分解されて化学的な部品となりました。
どのようにこれらの要素が戻ってきて、命を得ることができるのですか?」
しかし、この素晴らしい肉体を創造された神に不可能はありません。
正しい者にも、不義なる者にも復活があります。
墓の中にいるものがみな出て来る時が来ています。
二つの復活があることに注意してください。
ある人たちは救い主が声を上げると、両方の復活が同時に起こり、すべての墓が一度に空になると想像していました。
それは正確ではありません。
私たちの主が言っています。
聖書はこの二つの復活をこのように示しています。
最初に、命への復活、義人の復活について、ヨハネの黙示録20章ではこのように書かれています。

「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。
この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。
彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」
(ヨハネの黙示録20章6節)

そして、千年が過ぎた後に、不義な死者の復活があります。
彼らは裁きのためにおおいなる白い御座の前に立つと私たちは読んでいます。
二つの復活があります。
一つは正しい者のいのちへの復活です。
もう一つは不義な者の第二の死への復活です。
それは両方とも1時間で終わるようなことなのですか?
はい、一時間以内です。
主がこの言葉を使われたことを思い出すべきです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
死人が神の子の声を聞く時が来ます。
今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」
(ヨハネの福音書5章25節)


この時は、キリストが地上におられた時に始まりました。
今も進行中なのです。
その時から1900年が経ちました。
しかし、まだ、私たちはキリストが死んだ人たちを生き返らせている時に生きています。
そして、この時間の先を見るならば、復活の時はまだまだ続くと見ています。
その千年の初めに、正しい者、義人の死者がよみがえります。
千年の終わりに、不義な者の死者がよみがえります。
正しい者、義人の死者はよみがえり、報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に立っています。
不義な死者たちは大いなる白い王座の前に立ちます。
主イエス・キリストを拒むという大きな罪に答えることになるのです。
彼らが救われたはずのすべての罪のために、さばきを受けるために裁きの座に立つのです。
ある人は29節は不可解だと言います。

「善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」
(ヨハネの福音書5章29節)


結局は救いは、その人の行いに基づいているのだろうか?
私たちは、善を行なうから救われ、悪を行なうから失われるのでしょうか。
「もし人が罪の中を生き続けるのであれば、その悪行のために裁かれます。」
今日において、すべての人が失われているのは単に罪を犯したからではありません。
主イエス・キリストを拒んだからです。

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」
(ヨハネの福音書3章18節)


また、イエスは彼らがイエスを信じていないので、聖霊が来て罪を宣告するだろうと言いました。
もし、あなたが罪にとどまるならば、あなたの魂を永遠に破滅させる一つの大きな罪となるのです。
もし、あなたが十字架のわざを拒み、あの木の上で死なれた方に背を向けるなら、その御業の恩恵は受けることができません。
復活の日には、あなたがたは悪い行いをした者として墓から出てきて、自分の罪について裁かれなければなりません。
さて、他の者たちについてはどのように書かれているのでしょうか?
善を行なった者、あるいは文字通り、良いことを実行した人は誰でしょうか?
それはどういう意味でしょうか?
私たちは自分の善い行いのために救われているのでしょうか?
他の聖書の箇所から、私たちは救いが人間の長所に基づいていないことはよく知っています。
エペソ人への手紙にはこのように書かれています。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
(エペソ人への手紙2章8、9節)


また、他の箇所でもこのように書かれています。

「働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」
(ローマ人への手紙4章4、5節)


そこには矛盾がありません。
罪人が主イエス・キリストを信じるとすぐに変化が起こります。
それはその者のクリスチャンとしての外見的な変化です。
エペソ人への手紙2章の聖句のすぐ後に、私たちは次のように読むことができます。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」
(エペソ人への手紙2章10節)


私が信仰によって義と認められたと言ったとしても、あなたがたは私の信仰を見ることはできません。
私の信仰の証しが真実かどうかを知るには、私の歩みを見る以外に方法はありません。
あなたは私の歩みが私の証しと一致するかどうか疑問に思うはずです。
私はキリストに似た歩みを送っているのでしょうか?
もし、私がそのような歩みをしていないなら、あなたは私の証言を拒むと思います。
神は人の証言を受け入れません。
不完全な人間の証しを必要としません。
その日、神の子としてよみがえって現れる者は、良い行いをした者たちです。
二つの人生があるように死に方も二つあります。
そして、二つの復活があり、その二つの復活の後には二つの運命が待っています。
もしそうならば、あなたにとっての死とは、主にあって死ぬことです。
そして、最初の復活でよみがえり、天国の祝福に入ることを意味します。
もしあなたがたが神を拒み続けるなら、あなたがたは自分の罪のために死ぬ日が来ます。
自分の罪のために死ぬ者は、さばきの場に立ちます。
そして、永遠に自分の罪のために取り残されます。
私たちの主イエス・キリストは、このようなことが起こらないように、カルバリの山に来たのです。
主はすべての人のために身代金をお与えになりました。
それはご自身を信じる者ひとりひとりのためのなだめのためなのです。


講演17 五人の証人

「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。
もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。
わたしについて証言する方がほかにあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。
あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。
といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。
彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。
しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。
また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。
また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。
わたしは人からの栄誉は受けません。
ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。
わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。
互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。
わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。
もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。
しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」」
(ヨハネの福音書5章30~47節)


私たちの主イエス・キリストが御父から遣わされたお方です。
この世に来られたのは、御父によって私たちがいのちを得て、豊かに満ち溢れるためです。
主イエスが私たちの罪のための身代わりとなるためであるという事実を、5人の明確な証人が証言しています。
主は、この地上での謙遜な日々において、人として私たちに語りかけておられます。
30節にはこのようにあります。

「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。」
(ヨハネの福音書5章30節)


この聖句の中で、主イエス・キリストは、かつてのルシファーが望んでいたものとは逆の立場にいることがわかります。
「なぜ神は悪魔を創造したのでしょうか?
神は悪魔を創造していません。
神が創造したのはルシファーです。
彼は御使いの長でした。
しかし、彼のこころは自分の美しさゆえに高ぶりました。
彼は5回、神に向かって自分の意志を定め「私はなろう(I will)」と言いました。

「密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」
(イザヤ書14章14節)

また、このように言いました。

「私の王座を上げ」
(イザヤ書14章13節)


それが彼の破滅でした。
自分の意志(I will)を主張したために、大天使ルシファーは悪魔、つまりサタンになったのです。
これとは対照的に、永遠の昔から神のかたちをしておられたお方は、世が生まれる前から持っておられた栄光を、恵みのうちに捨てられたのです。
この地上において謙遜な人として、ご自身の力を誇示することを拒み、聖霊の力のうちにご自身のすべての業を行おうとされました。
イエスはこのように言われました。

「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。」
(ヨハネの福音書5章30節)


なぜでしょうか?
イエスの裁きは御父なる神の裁きだったからです。
イエスはすべて父なる神の権威のもとに行なったのです。
この時代に生きてきたすべての人の中で、イエスだけがいつも言うことができたのです。
「わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。」
私たちクリスチャンがこのことで私たちの主に見習うことは、この地で私たちが神をほめたたえることになるのです。
私たちが持つことができる最大の幸せは、自分の道を歩むことだと考えることがあります。
しかし、それは間違いです。
この世で最も幸福な人たちとは、神の意志を最高のものとする者です。
イエスには自分の意志に従いませんでした。
イエスの願いはただ一つ、父のみこころを行なうことでした。
そのためにイエスは世に遣わされたのです。
この宣言をした後、イエスは続けてこのように言いました。

「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。」
(ヨハネの福音書5章31節)


これはどんな意味があるのでしょうか?
まさに、イエスは父がすべてを彼の手に委ねたと宣言したのです。
いつの日か「神の声によって死者が墓から出てくる」ことが述べられています。
イエスは自分が父から遣わされた者であることを宣べ伝えられました。
そして「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません」と述べたのです。
まさに主がなされていることです。
イエス自身が自分の証人になられても、その証言は有効ではないという意味なのです。
聖書の他の箇所でこのように書かれています。

「すべての事実は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです。」
(コリント人への手紙第二13章1節)


もし誰かが、自分自身のために証人になり、自分のことを話し、自分を証明する他の人がいなかったのなら、彼は法廷から除外されます。
もちろん、その証拠は有効ではありません。
イエスは「もし、あなたが私の言うことだけに頼らざるを得ないなら、私はそれが証言として有効ではないことを認識することになります」と言っているのです。
そして「私があなたに話してきたことを裏付ける証人が他にもいます」と付け加えているのです。
そして、イエスは御自身の宣言に加えて、自分が本当に御父の使いの者であるという事実を、絶対的に明確な証言を与える4人の証人を紹介しています。
最初の証人はイエス御自身です。
次の証人はバプテスマのヨハネです。
多くの人たちがバプテスマのヨハネを預言者として見ていたのは、これは驚くべきことです。
イスラエルの指導者たちは、バプテスマのヨハネの証言が自分たちを責めているという理由で、彼の証言を受け入れることを拒みました。
しかし、群衆はバプテスマのヨハネが神から遣わされた者であると信じています。
つまり、イエスはこのように言われているのです。
「もし、あなたがたが、これらの者によって私の証言を受け入れ、確証しないのであれば、私は他の証人を法廷に連れてきます。」
そこでヨハネの証言を紹介します。

「わたしについて証言する方がほかにあるのです。
その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。」
(ヨハネの福音書5章32節)

ここに二つ目の証言があります。
ゆえに、二人目の証人を法廷で受け入れることができています。

「その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。
あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。」
(ヨハネの福音書5章32、33節)


真実とは何でしょうか?
主ご自身が宣言されたのと同じ真理です。
バプテスマのヨハネはイエスを紹介し、このように言いました。

「私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。」
(ヨハネの福音書1章15節)


バプテスマのヨハネは、別の時にイエスを指さしてこのように言いました。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
(ヨハネの福音書1章29節)


バプテスマのヨハネは主イエス・キリストこそが、あの屈辱の十字架の上で、私たちの罪のために御自身を捧げる、定められたいけにえであるという事実を証ししたのです。
そしてまた、ヨハネはこのように宣言しています。

「私はそれを見たのです。
それで、この方が神の子であると証言しているのです。」
(ヨハネの福音書1章34節)


その通り、そこに問題があるのです。
イエスは神の子でしょうか?
イエスは贖いの計画を実行するために、この世に遣わされた永遠の御子なのでしょうか?
イエスはそれに答えてこのように言いました。
「もし、このことを私一人で言っていたのであれば、あなた方は私を信じなかったはずです。
あなた方はバプテスマのヨハネが預言者であることを認めています。」
バプテスマのヨハネは私があなたに言っているのと同じことを証言しています。
バプテスマのヨハネはわたしが神の子、罪人のために、死ぬために来た神の子羊であることをあなたがたに告げています。
私は彼よりも前から存在しているキリストです。
それでも、イエスは「わたしはヨハネの証言に頼ることはない」ことを述べています。
「私は私のための証言を有効にするためにバプテスマのヨハネの証言を必要としていません。」
私がこれらのことを言うのは、そこにいるあなた方がこの真実を確信するためです。
主は、彼らの足の下から不信仰の根を取り除くことを望まれています。
イエスは自身によって告白された、自分が救い主であることを明らかにしたかったのです。
ヨハネの証しがどんなに優れていても、イエスには必要はなかったのです。
人が認識していようと、していないとしても真実は真実です。
ヨハネは素晴らしい人でした。

「彼は燃えて輝くともしびであり」
(ヨハネの福音書5章35節)


その証人はしばらく沈黙していました。
ヘロデはイエスを殺しました。
しかし、バプテスマのヨハネの証言は残っています。
現在においても、私たちはイエスが神の子であり、神の子羊であり、以前から存在していた御方と宣言するバプテスマのヨハネの声を聞くことができるのです。
今、救い主がこのように言っています。

「しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。
父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。」
(ヨハネの福音書5章36節)


3番目の証言とは何でしょうか?
ここに私たちの主イエス・キリストの奇蹟が行われた理由があります。
イエスはご自分が父の遣わされた方であることを証明するために、これらの力のわざを行なわれたのです。
イエスはご自身を誇示するためだけに奇跡を起こしたわけではありません。
人々の苦しみを和らげ、人類を助けるために行われたのです。
そして、これらすべてのことは、旧約聖書で前もって預言されていました。
預言者たちは、盲人の目は開かれ、耳の聞こえない人の耳が聞こえ、足の不自由な人が喜び踊り、悲しみと病気は逃げ去り、罪の牢獄は開かれると宣言していました。
これらのことは、主イエス・キリストがその三年の間に成就されました。
これらの驚くべき御業と奇蹟と、キリストの力ある働きは、はっきりとキリストが父の遣わされた方であることを証しするものでした。
ここにいる哀れな皮膚病患者を見てください。
彼はただれで覆われたまま、イエスのもとにやってきました。
そして、彼は 声を上げて叫びました。

「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」
(マタイの福音書8章2節)


イエスは彼を見ておられました。
聖なる方であるイエスは、彼の汚れによって汚されることを恐れていません。

「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。
すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。」
(マタイの福音書8章3節)


その者がイエスが父から遣わされた者であることを疑っていたと思いますか?
その者は神の子について何か疑問を投げかけることがあったでしょうか?
カペナウムで悲しんでいる父親を見てください。
父親はイエスのところに来てこのように懇願しました。

「私の小さい娘が死にかけています。
どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。」
(マルコの福音書5章23節)


イエスは彼女を癒しに行きました。
イエスが家に行くと、人々が急いで出て来てこのように言いました。

「あなたのお嬢さんはなくなりました。
なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
(マルコの福音書5章35節)


しかし、主はこのように言われました。

「恐れないで、ただ信じていなさい。」
(マルコの福音書5章36節)


信じるだけです。
イエスはその部屋に入り、死んだ小さな子供の手を取り、アラム語で優しくこのように語りました。

「タリタ、クミ。」
(マルコの福音書5章41節)


訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味です。
すると彼女は目を開けて起き上がりました。
ヤイロとその妻は、イエスが御父から遣わされた方であると信じることに疑問を感じたと思っていますか?
また、ナインの町の外にいる貧しいやもめを見てください。
イエスが来て、一人息子の葬列を追ってすべてを止められました!
神学者のムーディ氏は「聖書には葬儀のやり方についての指示はない」と語っています。
イエスはここまで出席したすべての葬儀参加者を解散させました。
ここでイエスはここで干渉して、その若者にこのように言いました。

「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」
(ルカの福音書7章14節)


そして、イエスは若者を母親の手に渡しました。
あなたは母親がイエスが父の遣わされた者であることを疑ったと思いますか?

「父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。」
(ヨハネの福音書5章36節)


イエスはベタニヤにある丘の中腹にある墓のそばのベタニヤに行き、大声で叫んでいるのを聞いてください。

「ラザロよ。出て来なさい。」
(ヨハネの福音書11章43節)


二人の姉妹はラザロが死者の服に縛られて足を引きずりながら出てくるのを見てました。
彼女たちは死者の中からよみがえった最愛の兄弟を急いで迎え入れたのです。
彼女たちはイエスが御父から遣わされた方であることに疑問を感じたのでしょうか?
これらの奇跡はイエスを証しする御業です。
そして、何よりも驚くべきことは、イエス御自身が死なれて御霊を御父にゆだね、その体は墓に納められ、三日目に復活され、神の力をもって神の子であると宣言されたことです。
イエスの働きがイエスが神の子であることを証明しています。
私たちには3番目の目撃者がいました。
さらに、もう一つの証しがあります。

「また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。
あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。
また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。
父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。」
(ヨハネの福音書5章37、38節)


イエスが永遠の御子であり、私たちの救いのために苦しみの中に遣わされたという事実を、父はどのように証ししたのでしょうか?
救い主が私たちの罪の身代わりとなるためにヨルダンで御自身を捧げられ、ヨハネはそこでイエスにバプテスマを授けました。
その時、救い主が水の墓から上がって来られ、天が開かれ、神の御霊が鳩のように降りてこられるのが見え、御父の声が聞こえたのです。

「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
(マタイの福音書3章17節)


もしくは「御子のうちに、わたしはすべての喜びを見出した」という意味もあります。
これは父の証です。
その時ばかりではありません。
変貌の山の上で、御父は再びこのように言われています。

「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」
(マタイの福音書17章5節)


その後、イエスが別の時に声を上げてこのように言いました。

「父よ。御名の栄光を現わしてください。」
(ヨハネの福音書12章28節)


そして、天からこのような声が聞こえました。

「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」
(ヨハネの福音書12章28節)


イエスがこの地上におられる間に、祝福された御子の御人格と使命を確認する御父の声が天から三度も聞こえてきました。
しかし、神を御父として信じると告白する人々は、御父の声を聞いていません。
弟子たちはその声を聞きました。
しかし、厳格で、批判的な、律法主義者たちは父の声を聞くことはありません。
あなたはその声を聞きましたか?
あなたの心の中で語られている父の声をあなたは聞いたことがありますか?
あなたがたはイエスこそが「わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と仰せられる御父の声を聞いたことがありますか?
今でも、御父は主イエス・キリストを証しされ、認められることを喜んでおられます。
それでも、5番目の証人がいます。
39節にはこのようにあります。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。
その聖書が、わたしについて証言しているのです。」
(ヨハネの福音書5章39節)


私が思うに、ほとんどの学者は、冒頭の表現を命令というよりも明確な宣言として理解しています。
また、「あなたがたは聖書を調べなさい」とも読むことができます 。
彼らが正しいか、もしくは私たちの翻訳者が正しいのかどうか、私は結論付けるつもりはありません。
どちらにしても、私たちの心に語りかける事柄です。
確かに、神の御霊はこの祝福された御言葉を探り求めるように何度も私たちに命じています。
しかし、それを命令ではなく声明と考えれば、原理的には同じです。
このように、イエスはイスラエルの指導者たちと話しています。
彼らは自分たちの聖書に精通しているのです。
しかし、イエスはかれらに言われました。
「あなたがたは聖書を調べ、永遠の命を得ると信じています。」
つまり、聖書に精通して命を得られると思っていても、聖書が語っている方を信じなければ、永遠の命を得ることはできません。
テモテの手紙第二3章で、使徒は神の言葉に基づいて育てられた人に語っています。

「また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。
聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」
(テモテの手紙第二3章15節)


単に聖書に精通しているから、永遠の命を与えられているわけではないことに注意してください。
福音のテーマである祝福された御子を知る必要があります。
イエスは「あなたは(旧約)聖書を持っている」と言いましたた。
旧約聖書に戻ってみましょう。
旧約聖書を読むと、聖書がわたしについて語っているのがわかるはずです。
イエスこそが旧約聖書全体のテーマなのです。
レビ人たちの祭司職がみな、イエスのことを語っています。
預言者たちはみな、イエスを証ししました。
イエスは預言者ゼカリヤの時代に敵対者を戒めた方です。
旧約聖書を通して、私たちはイエスを文字と預言を通して宣べ伝えてきました。

「その聖書が、わたしについて証言しているのです。」
(ヨハネの福音書5章39節)


聖書はイエスについて語っており、キリストは聖書を確証しています。
イエスについて、次々と預言が成就しています。
それは旧約聖書全体が生ける神の言葉であることを示しています。
イエスは仰せられているのです。
「あなたがたは聖書を精読しながら、永遠の命を得るためにわたしの御元に来ようとはしていない。」
親愛なる友よ、あなたはキリストを知っていますか?
あなたがたは聖書をよく知っています。
あなたがたの中には、救いのためにその知識を求めている人がいることを私は知っています。
あなたがたは、聖書が語っているキリストを受け取っていますか?
あなたがたは、預言者たちが宣べ伝えた救い主を信じていますか?
あなたがたは、恵みにあって罪人のために死なれるために来られた方を信じていますか?
これが聖書全体のテーマなのです。
聖書を尊重すると口にしながら、聖書のキリストを否定するのは哀れなことです。
イエスの言葉は、すべての人が望むなら彼のもとに来ることができるということを暗示しています。
自分が歓迎されない人がいると想像する人もいると思います。
しかし、イエスは「すべての人、誰でも」という言葉を使っています。

「「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。
いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」
(ヨハネの黙示録22章17節)


もし、最後にあなたがたが迷っているならば、それはあなたがたが来ようとしなかったからです。

「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」
(ヨハネの福音書5章40節)


救い主はこのように言われています。

「わたしは人からの栄誉は受けません。」
(ヨハネの福音書5章41節)


イエスは彼らの支持を望んでいたのではありません。
イエスが与える救いを人々が受け入れることを望んでいたのです。
そして、このように言われました。

「ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。」
(ヨハネの福音書5章42節)


イエスは父のみこころを行なうためにここにいました。
しかし、彼らはイエスを知ろうとはしていません。
イエスは来たるべき反キリスト、偽りのメシアについて彼らに警告しています。

「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。
ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。」
(ヨハネの福音書5章43節)


ほかの人とは誰でしょうか?
その者はダニエル書の第11章に登場する邪悪な王です。
そして、ゼカリヤ書に登場する偶像の羊飼いです。
また、黙示録に登場する偽預言者であり、テサロニケ2章に登場する無法の者です。
彼は、まだこの世に現れていない邪悪な人物です。
キリストを持たない者はこの反キリストににひれ伏すのです。
キリストを拒み、神の救いを拒絶することは、非常に深刻な問題です。
どれほど多くの若者が、深い確信を持って福音集会に出席したことでしょう。
しかし、もし、キリストを告白したら、身の回りの者やその友人の一人が自分のことをどう思うかを考えてしまうのです!
自分が救われるべきだと知っていても、自分が尊敬している人に引き止められている若い女性が多くいるのではないでしょうか?
「もし、信じると告白したら、あの人は私のことをどう思うでしょうか。」
神を第一にしなければ、あなたは決して信じることができません。
もう一度、あなたの言っていることに戻ってみましょう。
「たとえ、私に最も近く大切な人たちの意見であっても、他にどんな興味があったとしても私は、正しくて真実であることから自分をそらすことは許されません。
イエスはこのように付け加えています。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
(マタイの福音書6章33節)


人を恐れて、あなたがたはキリストを告白できなかったのでしょうか?
心に留めておくべきです。
邪魔をする者は、あなたがたのような哀れな人間に過ぎません。
そして、やがて、その者も神に弁明しなければなりません。
その時「イエスは私たちを訴えることはできないでしょう」というかも知れません。
違います。

「わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。」
(ヨハネの福音書5章45節)


しかし、その時、ユダヤ人である彼らにこのように付け加えました。

「あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。」
(ヨハネの福音書5章45節)


モーセが訴えているのです。
モ―セは誰をどのように告発しているのでしょうか?
モ―セは自分のあかしを信じないすべての者を訴え、きびしいさばきを預言しています。
そして、イエスが付け加えています。

「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。
モーセが書いたのはわたしのことだからです。」
(ヨハネの福音書5章46節)


このように言う者たちは「私たちは聖書の最初の5冊がモーセによって書かれたとは信じていない」と言うかも知れません。
しかし、イエスは「モーセが書いたのはわたしのことだからです」と答えています。
このように、ここで主がこれらの書物を承認し、モーセが書いたと宣言しています。
モーセによって書かれたこれらの書物はキリストのことを書いていたのです。
それらの型はキリストを現しています。
モーセがこのように書いています。

「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」
(申命記18章15節)


モーセは主イエス・キリストについて書いたのです。
救い主がこのように言われています。

「しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」
(ヨハネの福音書5章47節)


もし、人が旧約聖書のあかしを受けないなら、キリストの証しを受けることはできません。
この2つはとても結び付いています。
決して切り離すことができません。
このように5つの証言があります。
ここにはイエス御自身の証言があります。
バプテスマのヨハネの証言があります。
イエスがなされた数々の奇蹟があります。
イエスの御父の御声が証人として立っています。
神の御言葉である聖書があります。
このようにイエスが世に来られるべき神の御子であるということには、皆が同意しています。
あなたはイエスを受け入れていますか?


講演18 群衆を養う

「その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。
大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。
イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。
さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。
イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。
そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。
夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。
そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。
こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。
しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。」
(ヨハネの福音書6章1~21節)


パンの奇跡、五千人の給食は、四つの福音書すべてに記録されている奇跡の一つです。
ここには何か特別な理由があるはずです。
そうでなければ、神の聖霊はそれぞれの福音書記者がこの奇跡について語るようにここまで配慮されなかったはずです。
4人の独立した著者が書いたと考えられていますが、ストーリーの表現方法にはいくつかの違いがあります。
4人のうちのある者は目撃者であり、ある者は他の人を通してこの話を聞いたのです。
もし、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4人が、イエスと呼ばれる人物についての物語を想像し、神の啓示を装ったものとして世界に押しつけようと計画したものであれば、すべての出来事がまったく同じように語られるよう、細心の注意を払ったはずです。
しかし、このような多様性は聖書が「神」の霊感を受けた言葉であるという事実をより明白にするだけです。
このようにそれぞれの視点による違いが存在しています。。
私たちが見てきたように、マタイは約束されたメシアについて語っています。
マルコは、主イエスのしもべとしての性格を浮き彫りにした内容を強調しています。
それはキリストが神のしもべであり、人間のしもべであることを示すためです。
ルカは、聖い人間性を語っている内容を強調しています。
ヨハネはキリストが神の子であることを示す内容を扱っています。
これまで見てきたように、この福音書は私たちの主イエス・キリストの神性を現わす福音書だからです。
これらの出来事がいつ起こったのか、ヨハネの福音書では正確に描かれていません。
共観福音書によれば、バプテスマのヨハネの死の直後、主が宣教の最後の1年半の始めに起こった出来事です。
私たちは「その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた」と読みました。
テベリヤはこの美しい湖の西岸にあります。
「大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。」
イエスが行かれる所には、イエスに従う群衆がいました。
彼らはイエスが行なわれた不思議な力のわざを見たゆえに従ったのです。
付き従った者たちがイエスを神の子と認めたという意味ではありません。
確かに、彼らは心を動かされ、好奇心をそそられ、時に心を動かされました。
このイエスが、死者を甦らされた預言者なのか?。
実際にエリヤが来たのか?
それともイエスが約束された救世主なのでしょうか?
イエスは、ガリラヤ湖のほとりの高い台地である山に上って行かれ、そこで民に教えられました。
ヨハネは過越の祭りが近かったと言っています。
旧約聖書では「ヤハウェの祭り」と呼ばれていますが、ここでは「ユダヤ人の祭り」と呼ばれています。
過越の祭りを象徴する御方が自分たちのただ中におられたのです。
しかし、彼らはその御方を認めていなかったのです。
そこにはもう本当の価値が存在していません。
その夕のことを私たちはこのように読みました。

「イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」」
(ヨハネの福音書6章5節)


その日、弟子たちはずっとイエスと一緒にいました。
彼らはイエスの口から出た驚くべき言葉に耳を傾けていました。
私たちは他の福音書から、弟子たちは主導権を握ってこのように言ったのを知っています。

「そのうち、日も暮れ始めたので、十二人はみもとに来て、「この群衆を解散させてください。
そして回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べることができるようにさせてください。
私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから。」と言った。」
(ルカの福音書9章12節)


ヨハネは、主イエスがこれから起きること、何をするかをすでに考えておられることを知っていました。
イエスはピリピに「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」と言いました。
弟子たちが大群衆にどんな興味を持っていたとしても、主イエスの興味は彼らよりもはるかに大きかったということを、私たちは確信しています。
このことは、私たちの周りにいる大勢の人々に対する関心や思いやりに欠けている私たちには、とても大きな励ましとなります。
キリストの憐れみがあらゆる人に注がれていることは、なんと素晴らしいことでしょうか!
イエスはしもべたちよりもはるかに大きく、人間の生活に関心を持っておられます。
時に、私たちは物事の深刻さに注意を払えないこともあります。
私たちの心は、人間の叫び、必要、によって、本来動かされるべきものではありません。
祝福された神の子の偉大な心は、憐れみと思いやりで鼓動し続けています。
昔のように、神は切望する愛をもって群衆を見つめておられます。
イエスは彼らを見て仰せられたのです。
「私は彼らに食べさせなければならない。私は彼らの要求に応えなければならない!」
イエスこそが、天から下ってきた祝福された神のパンなのです!
イエスが「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」と尋ねています。
イエスは何をすべきかわからなかったわけではありません。
イエスがこう仰せられたのは、自身を証明するためでした。
イエス自身が、何をなされるか、何が起きるのかを知っておられたからです。
何という哀れみなのでしょうか!
ここでは何千人もの人々が食料を持たない緊急事態がありました。
彼らが食料を自分で探さなければならなかったら、彼らはパンにたどり着く前に倒れてしまうかも知れません。
彼らの家は遠く離れていました。
主イエス・キリストはすでにその必要を満たす計画を持っていました。
私は、特別、困難な試練の中にいる方々に話しかけている訳ではありません。
神があなたがたのことをほって置かれたと思っていませんか?
それとも、神があなたがたのことをすっかり忘れてしまったのではないかと思っている人はいませんか?。
今、私はあなた方に語ります。
あなた方は、主イエスを救い主として信頼していますか?
イエスの心はいつもあなたがたの方に向けられています。
イエスは御自分のなされることを知っておられます。
イエスはあなたを失望させることはありません。
イエスはあなたを見捨てません。
あなたがたは、この状況をどうしようもない状況だと思われるかも知れません。
しかし、イエスは御自身のなされることを知っておられます。
私たちは、目に見えるものに目を向け、情況を見て落胆したり動揺したりすることがあります。
しかし、私たちの祝福された主イエス・キリストは、情況に左右されることはありません。
主はすべてを知っておられ、愛し、気にかけておられます。
主はこの真実を曇らせることはできません。
主は最良の選択を主に信じる者に与えられます。

聖書に戻って、試練を受けた旧約聖書の登場人物を見てみましょう。
ヤコブは困難の中にいました。
全土に飢饉があったのです。
ヤコブの息子のひとりが捕えられていました。
それはヨセフが自分の兄弟ベニヤミンに会いたがっていたからです。
しかし、ヤコブはベニヤミンがエジプトに下ってはならないと決心していました。
しかし、彼は苦しみの中でどうしてよいかわからずいました。
ヤコブの他の息子たちは「ベニヤミンなしでは行けない」と言っています。
ヤコブは手を上げてこのように言いました。

「こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」
(創世記42章36節)


なぜでしょうか?
親愛なる友よ!
まさにその時、神は彼のために素晴らしい計画を立てておられました。
兄弟たちがやってきて、彼とその家族をエジプトに連れて行き、そこでヤコブは豊かに養われたのです。
「すべてがうまくいかない」と手を握り締めて絶望して叫びたくなりませんか?
「こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」
あーあ、もうダメだ!
しかし、そうではありません。
神はあなたがたのためにここにおられるのです。
もし、神があなたがたのためにおられるなら、誰があなたがたに逆らうことができるでしょうか?
私たちの祝福された主はあなたのためにおられるのです。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
(へブル人への手紙4章15、16節)


イエスはこれから成されることをを知っておられます。
イエスはあなたのために計画を持っています。
私の兄弟、まさにこの瞬間にです。
イエスは私の姉妹のために計画を持っています。
信頼してください。
イエスを信頼してください。
本当にイエスは、あなたがたのために御恵みに授けようとしているのです。
そして、私たちの祝福された主は御自身のするべきことを知っているのです。
イエスは自身の素晴らしい方法で必要を満たそうとしていました。
しかし、ピリポは悟っていません。
ピリポはイエスに答えて言いました。

「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
(ヨハネの福音書6章7節)


ここにある1デナリの価値は、当時の男性の1日分の賃金でした。
しかし、その土地でははるかに大きな購買力を持っていました。
ピリポが「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。
彼らを養うには200日分の賃金が必要です。
それをどこから手に入れることが出来るのですか?」と言いました。
彼らは乗り越えられない困難に直面しているようです。
しかし、キリストには克服できない困難はありません。
二百デナリ分のパンがあっても、みんなが少しずつ食べるとしても十分ではありません。
イエスは、彼らにわずかな食事を与えようとしたのではありません。
彼らを満足させる十分な食事を与えようとしたのです。
ちょうどその時にアンドレがやってきました。
アンドレはいつも困難な場所に現れます。
彼は明らかに何かを見つけるために走り回っています。
アンドレは「私はわずかな食事を持った若者に出くわした」と言ったのです。
はい、いつもこのような若者は大勢の中に潜んでいます。
彼は人ゴミの中に紛れ込んでいました。
主が若者の心をつかむのなら、あなたは彼がどのような者かを知っているはずです。
この若者は朝からそこにいました。
おそらく、若者は「お母さん、私は偉大な説教者の話を聞きに行きたい」と言っていたのかも知れません。
それで母親は弁当を作ったのです。
アンドレはこのように言いました。

「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。
しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
(ヨハネの福音書6章9節)


結論から見るのであれば、それでも、アンドレは絶望的ではなかったはずです。
アンドレは「こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」と言ったのです。

「イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。
そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。」
(ヨハネの福音書6章10節)

五つのパンと二匹の魚を食べさせられるわけがありません。
こんなに大きな群れです。
500匹の魚でも足りません
ここにいる人たちで晩餐を開きます。

「そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。
また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。」
(ヨハネの福音書6章11節)


そして、イエスは弟子たちにも分け与えられました。
そして、弟子たちは、任命された者たちに分け与えられました。
大勢の者たちに分け与えたように彼らが望むままに分け与えられました。

供給は尽きないように思われました。
5千人の人々は、イエスが彼らのために大きく広げてくださったごちそうを喜んで食べました。
そこで、イエスは仰せられました。

「そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。
「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」」
(ヨハネの福音書6章12節)


イエスは惜しみなく与え、無駄はありません。
弟子たちはあちこちに行って、残りを集めました。
12の大きなかごいっぱいに残っていたのは、五つのパンのパン切れでした。
初めに弟子たちは「この群衆を養うものが何もない」と言っていました。
しかし、今では、12弟子たちのために、かごが一杯になっているのです!
すべての人には十分なものがありました。
神はケチな方ではありません。
私の愛する兄弟姉妹よ!
もしあなたがたが困っているなら、堂々と求めなさい!
あなたがたは王のところに来ています。
神を試すことを恐れてはいけません。
彼はあらゆる要求に応えることができるのです。

「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」
(ピリピへの手紙4章19節)


そして、このように続いています。

「彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。」
(ヨハネの福音書6章13、14節)


どうしてそのようなことを言われたのでしょうか?
彼らは聖書を知っていたのです。
彼らの家庭では詩篇が読まれていました。
詩篇132篇15節には、イスラエルのメシア、すなわち世に来られる預言者である王について書かれていました。

「わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。」
(詩篇132篇15節)


彼らは「これはイエスに違いない」と言ったはずです。
これこそ神がなされる御業です。
どうやって私たちをパンで満たしてくださったか見てください。
本当にイエスに間違いない。
彼らはどんな預言者を望んでいたのでしょうか?
この方はモーセが語った者のはずです。

「この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。」
(使徒の働き3章22節)

彼らは「イエスは預言者に違いない。
イエスは来るべき救い主に違いない。」と言ったのです。

イエスが旧約聖書のすべての預言を成就し、まだ、王国を受け取る時は来ていなかったのです。
しかし、その前に天に戻り、私たちの偉大な大祭司として素晴らしい務めを果たし、御力を現わす日に異邦人からご自分の花嫁となる民を連れ出すことになっているのです。
そこでイエスは船から離れて、祈るために山に登りました。
私たちはイエスが天に帰られてから何をされているのか、その美しい描写を見ることができます。
彼らはイエスを王にしようとしましたが、イエスは高い所に上って行きました。
イエスは天に上り、御父に語り、世にあって苦難の中にいる弟子たちのためにとりなしをしています。
この地上で預言者であった方が、今、天に上って、私たちのとりなしとなり、父とともに私たちの弁護人となられたことを示しています。

「夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。」
(ヨハネの福音書6章16節)

他の福音書では、彼らが海を渡ってカペナウムに行ったと書かれています。
私たちは風が反対だったと言われています。

「しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。」
(マタイの福音書14章24節)


ヨハネはそのように教えてくれませんが、他の福音書は教えています。

「そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。」
(ヨハネの福音書6章17節)

そこは湾のような形をしており、彼らがちょうどその湾を渡っていると、突然嵐がやってきたのです。
この嵐はガリラヤ湖に突然現れたのです。
そして、このように書かれています。

「すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。」
(ヨハネの福音書6章17節)


この話には、現在、神の民が暗い時の海を越えている姿が描かれていると考えられます。
確かに、イエスは霊において現存していますが、個人としては不在なのです。

「湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。」
(ヨハネの福音書6章18節)


彼らは向きを変えて、風の方向を変えることもできました。
それでは、引き返すことになるので、イエスは彼らに先に進むように言われました。
それで彼らは前に進もうとしました。
船は波が高く難破しそうです。
イエスは忘れてしまったのでしょうか?
イエスは他の場所にいたのでしょうか?
いや、私の兄弟姉妹よ!
主があなたたちの苦悩に無関心であるはずがありません。
いいえ。
彼は見えていたのです。
暗闇でも彼は見えていたのです。
イエスは私たちの考えまで知っています。
イエスは私たちの悲しみを知っています。
イエスは私たちが直面しなければならない様々な困難を知っています。
主は一人の信仰者として彼らのために懇願し、祈っていました。
彼らは海に翻弄されていました。
主は彼らのことを心配され、そして、主は彼らのもとに来られました。
そして、いつか、私たちのところに来てくださるのです。
今でも、イエスは私たちが困難な時に、必要な助けを与えてくださるのです。
私たちはこのように読んでいます。

こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。
(ヨハネの福音書6章19節)


現在では、イエスを見るには信仰が必要です。
弟子たちは目でイエスを見ることができました。
私たちは目で見ることはできませんが、目で見るのではなく、信仰によって步んでいます。人生の嵐がどんなものであっても、波がどんなに高くても、嵐がどんなに激しいものであっても、神を信頼し、神を頼りにすべきです。
信仰によって歩むのです。
あなたはイエスを見るために波を上を歩くことができます。
私たちはこのように読みました。

「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。
その人があなたに信頼しているからです。」
(イザヤ書26章3節)


私たちは地上のことに夢中になり、イエスが私たちを助けに来てくださっても、気づかないことがあります。
あなたがたがこのようなことがあることを良く知っています・
私たちは、自分のことや自分の置かれた状況に心を奪われているので、救うために来られたイエスを知ろうとはしません。
弟子たちはイエスを幻か幽霊だと思って恐れました。
ああ、今まで以上に状況が悪化していると思ったはずです。
状況は私たちを盲目にします。
私たちが待ち望む安息をもたらすためにイエスが来た時、その者をイエスだとを識別することができないのです。
救い主は近づいてこのように言います。

「わたしだ。恐れることはない。」
(ヨハネの福音書6章20節)


現在において、助けを求めて叫んでいるすべての不安な心にイエスは語りかけてくださいます。
「わたしだ。恐れることはない。
困難に打ちのめされてはいけない。」
ある人が別の人に尋ねます。
「兄弟よ!調子はどうですか?」
もう一人は暗い顔をして見上げ「まあ、この状況ではかなりうまくやっています」と言います。
もう一人は、「ああ、あなたがそのような状況に置かれていることは残念です」と答えます。
キリストは喜んで様々な環境から私たちを引き上げてくださるのです。
それはまさにイエスが行っていることです。
私たちはそのような状況にいる必要はありません。

使徒パウロには、私たちが経験したことのないほどの困難がありました。
彼はこのように言っています。

「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。
また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」
(ピリピ人への手紙4章12節)


また、このように聖書には書かれています。

「主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」」
(へブル人への手紙13章5節)


そして、今はイエスはあなたに言われています。
「哀れな、悩める魂たちよ、恐れることはありません。
私はあなたがたを助けるために来ました。」

「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。」
(ヨハネの福音書6章21節)

すると、「すぐに」すべてが変わりました。
船は「ほどなく目的の地に着いた」のです。
弟子たちは港の近くにいたことを、知らなかったのです。

親愛なる友よ!
あなたの船はもうすぐ港に着きます。
絶望してあきらめてはいけません。
イエスは、あなたの問題を見事に解決されます。
あなたにそのことを示すために待っておられます。

「あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」
(詩篇37編5節)


しかし、私は今日、誰かに向かってこう言うかも知れません。
「クリスチャンの方々にこのように言うことは良いことかも知れません。
しかし、私を見てください。
私はキリストを全く知りません。
私はクリスチャンになる方法を知りません!
さて、親愛なる友よ!私たちはあなたにメッセージがあります。
これを聞いてください。

「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
(ヨハネの福音書1章11、12節)


あなたは、主イエス・キリストを、あなたがたの救い主として受け入れることを望んでいますか?
あなたはイエスをあなたの救い主として信頼していますか?
あなたはイエスの御言葉を信じていますか?
この御言葉はあなたが罪から救われたことを告げています。
そして、イエスが復活したのは、あなたのためなのです。
あなたはこの聖句を信じて実行すべきです。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
(ローマ人への手紙10章9節)


あなたがこの御言葉を実行した瞬間に、神が恵みの中であなたを受け入れてくださるのです。
そして、あなたを救うのです。

「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」」
(使徒の働き10章43節)


あなたがたが神に信賴を置く時、神があなたがたの罪を赦すためだけでなく、あなたがたの命を守るために来られたことを知ることができます。
今日、神様に身をゆだねてみませんか?
顔を上げて言ってみてください。
主イエスよ、私は身も魂も霊も、すべてがあなたのものとなるために、あなたにこの身を捧げます。
どうか、そのようにしてください。
主は、主を信じる者の保証を約束しています。


講演19 永遠のいのちに至る食物

「その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。
しかし、主が感謝をささげられてから、人々がパンを食べた場所の近くに、テベリヤから数隻の小舟が来た。
群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。
そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。
私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。
父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。
わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」」
(ヨハネの福音書6章22~40節)


この長い箇所は、3つの異なる部分から成り立っています。
22~25節では、主イエスが五千人を養われたあの地方からどのようにして移動されたのか?
また、その翌日にどのようにカペナウムに来られたのか、いろいろな人々から疑問が投げかけられています。
その日の終わりに、イエスが大ぜいの群衆を養われた後、弟子たちを遣わされました。
彼らはイエスご自身が祈るために山に行かれたことを知っていました。
どのようにしてイエスがその地方から、彼らと次に会う場所に行かれたのか、彼らは理解してません。

「その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。
しかし、主が感謝をささげられてから、人々がパンを食べた場所の近くに、テベリヤから数隻の小舟が来た。
群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。」
(ヨハネの福音書6章22~24節)


実に面白い動きをしています。
しかし、人は常に外見に頼っていてはいけません。
このようにイエスを探し求め、わざわざ海を渡ってまでイエスを探し求める人々の群れを見ると心強く思われます。
その思いは深く、変わらぬ興味を示しています。
しかし、結局のところ、それはとても浅はかな行為でした。
これらの人々はキリスト自体にそれほど関心がなく、救い主が必要だという意識もなかったのです。
彼らはキリストが約束されたメシアであることが証明されることを望んでいたのかもしれません。
彼らはキリストを、自分たちに一時的な祝福を与え、飢えを満たすパンを与えてくれる存在として考えていたのかも知れません。
彼らはイエスを捜しにやって来たのです。
そして、イエスを見つけるとこのように言いました。

「先生。いつここにおいでになりましたか。」
(ヨハネの福音書6章25節)


彼らはこの夜に起こったことを何も知りません。
山で主の祈られたことや、海の真ん中で波に翻弄される弟子たちのことなど何も知らなかったのです。
主は弟子たちのためにとりなし、水の上で弟子たちのところに行き、弟子たちはイエスを船に招き、弟子たちは目的の港に着いたのです。
これらの起きたことは、イエスを求めてやって来たこの群衆は理解していません。
そして、彼らは「先生。いつここにおいでになりましたか」と尋ねたのです。
しかし、イエスはこの時を利用して、御自分の証しを主張し、御自分が地上に来られた本当の理由を説明されました。
イエスはこの明らかな興味心を見抜いていました。
イエスは彼らの心の内を知っていました。
たとえば、福音集会に行くのであれば、宗教的な話を始める人がよくいます。
しかし、彼らの心の中にあるのは、食べ物や衣服といった一時的な欲求であることに気づくのに時間はかかりません。
なぜか、クリスチャンはこれらの衣食住を提供することに関心を持つべきだと感じています。
クリスチャンはこれらの必要に興味を持ち、喜んで奉仕しています。
しかし、彼らの能力には限界があるのです。
人々が信心深いふりをして来るとき、事実、目に見える物事を非常に低い水準に置いています。
「私が興味を持っているのは、私の魂ではなく、私の空の胃、または私が必要としている上着です」と率直に言う方がわかりやすいと思います。
そこまで言えば、彼らが能力を尽くしてやっていることが何だかわかるかも知れません。
一時的な満足を得るために、人々が信心深いふりをする必要はないはずです。
この人たちがしていることは、キリストに心を寄せているふりです。
彼らがパンや魚のことしか考えていないことの証拠となります。

二つ目の部分は26〜34節まででイエスの答えが述べられています。

「イエスは答えて言われた。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」
(ヨハネの福音書6章26節)


しるしが彼らに何かを実証したからではありません。
彼らがおいしい食事をしたからです。
昨日、彼らは必要としていたものを与えられました。
今日、彼らは同じように与えられることを望んでいます。
彼らは、神が彼らの一時的な必要を満たし続けることを望みました。
しかし、イエスは彼らの霊的な必要性を心配されています。
なぜなら、一時的な必要性はほんのわずかな時間だけだからです。
もし、霊的な必要性が満たされないまま人が生きて死ぬなら、その苦しみは永遠に続きます。

「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」
(ヨハネの福音書6章27節)


これはどんな意味があるのでしょうか?
神は私たちが生活に必要なものを手に入れるために、日々の仕事に精を出すなと言っているのでしょうか?
それは違います。
くり返し、私たちには日々の生活に熱心で慎重であるように求められています。
それでは、なぜ、主はこのように仰せられたのでしょうか?
「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」
それは私たちがそれを最高のものにしてはいけないという意味なのです。
覚えておくべき重要なことは、人の人生はただ一瞬の出来事であり、すぐに消えてしまうということです。
「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物(霊的な食物)のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
時々、世の不敬虔な人たちはこのように言います。
「宗教とは、人々を精神的なことに夢中にさせることです。
また、魂を満足させる天からのパンの話をして、肉体の飢えを忘れさせるための麻薬にすぎないのです。」
それはキリスト教に対する中傷です。
何世紀もの長い間、主イエス・キリストを真実に知り、愛した者ほど、人の一時的な必要を満たすことに心を傾けてきた者はいません。
常に、彼らは兄弟たちの状況を救済することに最も関心を持ってきました。
しかし、私たちは霊的な救済よりも、一時的な助けを優先させたいとは決して思っていません。
私たちは大事にすべきものを大事にするのです。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
(マタイの福音書6章33節)


これらのこと、すべてはあらゆる場所で重要な事柄ですです。
それは「永遠のいのちに至る食物」です。
そして、人の子だけが、魂にこの満足のいく食物を与えることができると宣言します。
人の子は失われたものを求め、救うために来られたのです。
主は天から卑しい恵みのうちに来られ、失われた罪人の必要を満たすために人の子となられたのです。

「この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
(ヨハネの福音書6章27節)


ヨルダン川でのバプテスマにおいて、私たちのためにご自分の命を捧げることを公に示された時、神の御霊が鳩のように舞い降りて、イエスの上にとどまるのが見えました。
そして、父の御声がこのように言われるのが聞こえました。

「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
(マタイの福音書3章17節)


これが御父の認証でした。
単純にイエスは一時的なもののために働くのではないと話しているのです。
主は「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と命じられているのです。
彼らはこれを阻止しようとして、このように尋ねました。

「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
(ヨハネの福音書6章28節)


彼らは神がシナイで授けられた律法のことを考えています。
彼らはこのように尋ねているのです。
「わたしたちが神の御業を行い、永遠の生命を得る方法をわたしたちに教えて下さい。
私たちはどうすればよいのでしょうか?
そして、イエスは答え、神の恵みの真理を開かれました。
イエスは彼らにこのように言いました。

「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
(ヨハネの福音書6章29節)


「信じることなど、全く役に立たない」とあなたは言うかも知れません。

違います!
信仰こそが魂において神が働かれた証拠なのです。
ゆえに、私たちはこのように語るのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
(エペソ人への手紙2章8、9節)


神の賜物とは何でしょうか?
それは救いでしょうか?信仰でしょうか?
その両方が含まれるのでしょうか?
他の箇所で神の賜物は永遠の命であると言われています。
また、信仰が神の賜物であることもまた完全に明らかです。
生まれつきの人間は信仰を持っていません。
すべての人が信仰を持っているわけではありません。
ある人がこのように言っています。
「信仰が神からの賜物ならば、哀れな罪人であるわたしが信仰がないのなら、どうしてわたしが信じることができるのでしょうか?」
聖書にはこのようにあります。

「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
(ローマ人への手紙10章17節)


言い方を変えれば、神は人間にメッセージを送ったのです。
私たちはそのメッセージが語っている方を信じなければらないはずです。
ゆえにイエスは「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」と言ったのです。
神の賜物を受けるまでは、神を喜ばせるために働くことについて語っても意味がありません。
それゆえ、私たちには「行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」と言われているのです。
しかし、聖霊はすぐあとにこのように付け加えています。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
(エペソ人への手紙2章10節)


行いによって救われるということはありません。
努力によって永遠の命を得るというような可能性はありません。
「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
彼らは神の言葉を信じなければなりません。
彼らは真剣ではないかも知れません。
彼らは自分たちの永遠の幸福には興味がないのです。
彼らは、前日に主が自分たちのために用意してくださったように、おいしい食物に心が奪われていました。
そこで彼らはこのように尋ねました。

「しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。」
(ヨハネの福音書6章30節)


彼らはイエスが病人を癒したことを知っていました。
イエスはさまざまな悲惨な病から人々を救い出されました。
イエスが耳の聞こえない者の耳が聞こえるようにしました。
彼らの中には、イエスが死者をよみがえらせたことを聞いていた者もいました。
彼らは自分たちのための一時的な利益を考えていました。
現在、多くの人たちが、キリスト教を現世や肉的な改善する手段と考えているのと同じです。
彼らは「しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか」と聞きました。
イエスが彼らがこれらの奇跡を見ていないかのごとく、このように付け加えました。

「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。
『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」
(ヨハネの福音書6章31節)


彼らは聖書を引用することができます。
「あなたはどんなしるしをお持ちですか?
そこにはマナがありましたか?
私たちはパンを探しているのです。
モーセは40年間、天からのパンで民を養いました。
あなたにそんなことができますか?」
私たちはあなたが昨日そのことを行ったと聞きました。
それを今日、行うことができますか?
そうすれば、私たちはあなたがメシアであることを信じます。
メシアは、パンで民を養われると書いてあるはずです。
ならば、今日、私たちに天からパンを与えてください。」
しかし、イエスが彼らにこのように答えました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。
しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。」
(ヨハネの福音書6章32節)


神のパンとは天から下って来て、世にいのちを与える方のことです。
イエスは天から降りてきました。
マナは荒野40年の間、イスラエルを養いました。
イエスは時間と永遠をパンで支える方です。
マナのことを考えてみてください。
マナが降る雪のように美しいのです。
このことは、聖なる方、きよい方、傷のない方、イエスのことを語っています。
イエスにはどんな罪も汚れもありません。
マナは露の上に落ちました。
これは神の御霊の型です。
神がイスラエルに御霊を注がれる日のことを語っています。
イエスはこのように言っているのです。

「わたしはイスラエルには露のようになる。」
(ホセア書14章5節)

つまり、神の御霊が清めの力をもってイスラエルの上に降りてくるということです。
マナが露の上に落ちました。
イエスは聖霊の力を受けて来られました。
イエスは聖霊によって、処女の母から生まれました。
イエスのいのちは御霊の力によって生き、ついに十字架上で死なれました。
イエスは永遠の御霊によって、ご自身を神にささげられました。
そして、このことを見て思い起こしてください。。
マナは、民がそれを得るために登らなければならないような高い山の上ではなく、マナを見つけるために何百フィートも降りなければならないような深い谷間に落ちたのではありません。
イスラエルのいた周りの地面の上に落ちました。
イスラエルの陣営の周りの平野を覆ったのです。
朝、イスラエル人が天幕の戸から出てマナを踏みつけてしまうかも知れませんほど、身をかがめて神の賜物であるマナを集めなければならなかったのです
それは、イエスが身を低くした恵みを取ったことを物語っています。
あなたは神の愛を容赦なく踏みつけることができますか?
あなたがた自身の救い主として、信仰によって心に受け入れていますか?
さあ、起きて、天から下ってきた神のパンを食べてください。
あなたは、今日はどちらのことをするのでしょうか?

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
(ヨハネの福音書1章12、13節)


イエスは生まれつきの人間を満足させるための一時的な食物やパンについて、彼らが求めている物をすべて脇に置きました。
そして、イエスはこのように言ったのです。

「わたしがいのちのパンです。」
(ヨハネの福音書6章35節)


目が開かれるまでは、現在の人たちのように、そして、かつての私たちのように、彼らはとても鈍感です。
彼らはこのように要求しました。

「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
(ヨハネの福音書6章34節)


だが、彼らの考えは一時的なものに過ぎません。
イエスが彼らに語られたことを彼らは理解しませんでした。
3番目の部分、35~40節ではさらに明確になり、最初にイエスはこのように語っています。

「わたしがいのちのパンです。
わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」
(ヨハネの福音書6章35節)


なんと驚くべき宣言なんでしょうか!
イエスはこの1900年間、この約束を成就して来ました。
多くの者が、飢え、苦しみ、落胆して、神のもとに行き、信仰によって神を受け入れ、心の平安を得てきたのです。
その単純さに注目します
「わたしがいのちのパンです。」
救いは、私たちの主イエスという人格の中にあります。
シメオンが神殿で礼拝していたとき、マリヤとヨセフが幼子を連れてはいって来たときのことを思い出してみましょう。
シメオンはそこに神の救いがあることを知っていました。
そして、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言いました。

「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
私の目があなたの御救いを見たからです。
(ルカの福音書2章29、30節)


そう、神の救いは神の祝福された御子の人格の中にあります。
神を受け入れることは救われることです。

神を受け入れることは永遠の命を持つことです。
しかし、悲しいことに、どんなにはっきりとメッセージが伝えられていても、信じる人は多くはありません。
ゆえにイエスはこのように言われました。

「しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。」
(ヨハネの福音書6章36節)


そして、ここで神の聖なる主権という大きな奥義に立ち返ります。
イエスはこのように言っています。

「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。
そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」
(ヨハネの福音書6章37節)


ここに素晴らしい保証があります。
神は決して約束を破る方ではありません。。
神の目的は必ず成就されます。
父がイエスにお与えになるものは、すべてイエスにもたらされます。
あなたはそのことに納得行かないかも知れません。
選びや宿命を信じてないとあなたは言うかも知れません。
でも、あなたは聖書から多くのページを開く必要があるのです。
神の主権的な選民の恵みを強調しているページがたくさんあるからです。
しかし、聖書には、神が人が生まれる前に、その人が失われるか?もしくは救われるか?をあらかじめ決めていたとは書かれていません。
聖書にはこのように書かれています。

「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。
それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」
(ローマ人への手紙8章29節)


ムーディは「『望む者』は選ばれた者であり、『望まない者』は選ばれていない者である」と言っていたのは正しいと思います。
そうです。
あなたは逃げることはできません。
「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。
そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」と書かれている通りです。
しかし、私たちは自分の個人的責任を無視してはいけません。
「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」
誰も「私は選ばれなかったので、救われません」と言うことはできません。
問題はイエスのところに行く意思があるかどうかです。
イエスは決して捨てることはありません。
今日、あなたがたが誰であろうと、もしあなたがたが神のもとに行くなら、神はあなたがたを受け入れてくださるのです。
このように、イエスのところに行く前に、宿命の問題を解決する必要もありません。
あなたがたが行くのであれば主はあなたがたを迎えてくださいます。
あなたがたが、父が主イエス・キリストにお与えになった者であることを、あなたがたが知るためです.。
イエスは38節でこのように言っています。

「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」
(ヨハネの福音書6章38節)


イエスが御自分のところに来るすべての人を永遠に救うことは、父の御心の一つです。
これは父のみこころです。
父が与えられたすべてのものを失うことがないためです。
私たちの完全な救い、最終的な救いについて、私たちがどれだけ確信しているでしょうか!
わたしたちは天から祝福されたパンである御方を受け入れているでしょうか!

「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。
わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」
(ヨハネの福音書6章40節)


「子を見て信じる者がみな」
みなです。
一人一人です。
この独自性に注目してください。
すべての人たちは自分自身のために「子を見て信じる者がみな」なのです。
あなたがたは信仰によって、御言葉によって、御霊によって明らかにされたキリストを見るのです。
「子を見て信じる者」、すなわち「御子に信じる者」は「永遠のいのちを持ち、わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」
いのちのパンを食するとは、信仰によってキリスト・イエスを自分の救い主として受け入れ、日々、キリストとの交わりを楽しむことです。
この祝福された御言葉を読み、祝福された驚くべき真実が次々と明らかにされていく中で、あなたの魂がこれらのことを自分のものにするように、あなたは生きたパンを食するのです。
まだ、あなたは空腹ですか?
喉が渇いていませんか?
いのちのパンが欲しいのですか?
今、信仰によって神を受け入れるべきです。
もしあなたがたが、神が与えられたあかしを受け入れるなら、神はあなたがたを受け入れ、あなたがたに永遠の命を与え、終わりの日によみがえらせると約束されています。


講演20 キリストの肉を食べ、血を飲む

「ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたので、イエスについてつぶやいた。
彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。」
イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。
わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
わたしはいのちのパンです。
あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」
(ヨハネの福音書6章41~56節)


私たちの主イエス・キリストと人々との交わるにおいて、非常に注目すべき原則があります。
人が真理を知りたいと心から願う魂がイエスのもとに来たのならば、イエスはその真理を、道行く人が理解できるように、できる限り単純なものとして示されたということです。
その反面、もし、救い主が生まれつきの心には受け入れがたいものを提示される場合があります。
その時、人々がその必要性を認識し、説明を求めて救い主のもとに来ることはありません。
高慢で、不信仰な態度を取られたなら、救い主は必ず、真理を単純にするのではなく、受け入れがたいものとして示されるということです。
もし、神の真理が示されたときにそれを理解せず、意図的に誤りの道を選ぶなら、真理そのものに盲目になるということです。
この原則は聖書全体に通じている事柄です。
あなたはパロが神のみこころを行なわないようにしたことを覚えていると思います。
私たちは「神がパロの心をかたくなにした」と読みました。

「わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行なおう。」
(出エジプト記7章2節)


神は高慢な王の邪悪さを認識しました。
その後、イスラエルの民は不服従の道を選びました。
その時、神はこのように言われました。

「わたしも、彼らを虐待することを選び、彼らに恐怖をもたらす。」
(イザヤ書66章4節)


未来には、神と人間の最後の邪悪な敵である反キリストが現れる日が来ます。
その時、人々が救われるために真理の愛を受け取らないなら、神は彼らに強い欺きを送られると言われています。
これには深刻な問題があります。
神の真理を宣べ伝える人々には大きな責任が課せられます。
この真実は信じるために私たちに与えられています。
これは私たちが手加減できるものではありません。
ただ、私たちはこの問題を受け入れるよう求められています。
箴言の著者はこのように叫んでいます。

「真理を買え。それを売ってはならない。知恵と訓戒と悟りも。」
(箴言23章23節)


今日、もし私が話している人の中に、福音に心を開いて、救い主を迎えていない人がいるなら、この真理からそれることを、ささいなことだと思ってはいけません。
別の日も同じようにすべてがうまくいくと、自分を信じ込ませてはいけない。
神は言われます。

「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」
確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」
(コリント人への手紙第二6章2節)


決心する準備ができたら、イエスのところに行けば、大丈夫だとあなたは思っていませんか?
あなたがたのために定められた日が来るならば、神がそこにいないことが分かるかもしれません。
最後に戸をノックしてみると、閉まっていて、声がします。

『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
(マタイの福音書7章23節)


讃美歌の作者、クーパー氏は言いました。
「義なる律法、天の裁きを聞きなさい。
真実を嫌う者は、偽りに惑わされます。
その者は最後までだまされる者です。
地獄のように強い妄想は、彼を強く縛りつけます。
ああ、私は懇願します。
あなたの心と良心に働いている、聖霊による証しに心を留めてください。
福音を聞く機会を与えてくださったことに感謝すべきです。」
彼は「聞け、そうすればあなたの魂は生きる」と書いています。
ヨハネの福音書のこの6章の注解では、イエスが利己的な人々の集まりを相手にしていたことがわかりました。
彼らは霊的な現実に興味がなかったのです。
彼らが、御自身のことを理解しようとしないことを知った時、イエスは物事を簡単に理解できるように説明しようとしていません。
イエスは、彼らの生まれつきの心の理解をますます困難にさせているように見えます。

「ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたので、イエスについてつぶやいた。」
(ヨハネの福音書6章41節)


ユダヤ人たちはつぶやきました。
彼らはイエスの御元に来て言うのではなく、互いに語り合ったのです。
「主よ、わたしたちは無知です。心が暗くなっています。
私たちは理解していませんが、そうしたいと願っています。
私たちはあなたが何を言っているのか分からないが、知りたいのです。
先生、私たちの無知を哀れみ、私たちを教えてください。」
ユダヤ人たちはつぶやき、そして、このように言いました。

「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。
どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。」
(ヨハネの福音書6章42節)


イエスはマリアの息子であり、イエスの父親は人間ではないか!
彼らはイエスがナザレで生まれたヨセフの息子だと知っていました。
そして、彼らはこのように言ったのです。
「イエスも、私たちと々同じ同郷の人間ではないか?」
『わたしは天から下って来た。』というのはどういう意味なのだろうか?
彼らはイエスに質問をしていません。
しかし、イエスは彼らのつぶやきを聞いていました。
それはイエスについて、このように書かれているからなのです。

「イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」
(ヨハネの福音書2章25節)


ゆえに、イエスは答えて彼らに言ったのです。

「互いにつぶやくのはやめなさい。
わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」
(ヨハネの福音書6章43、44節)

その通りです。
イエスは彼らに背を向けて意図的に「あなたがたは、わたしの所に来たる人々ではありません」と言われているかのようです。
私はあなたへのメッセージを持っていません。
「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」
イエスは少し前にこのように言っておられます。

「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。」
(ヨハネの福音書6章37節)


しかし、彼らは来ていません。
つまり、父から選ばれた者たちではないのです。
「聞いてください、友よ!あなたは自分が御父に導かれた者のひとりなのか?心配しているのですか・
安心してください。
あなたはその問題を簡単に解決できます。
イエスのところに来ましたか?
あなたはそれを求めているのですね!
もし、あなたの心の中にイエスの御元に少しでも行きたいという望みがあるなら、あなたを御子のもとに引き寄せておられるのは御父だからです。
聖霊の働きを心に留め、その訴えに歯向かうのではなく、聖霊に服従しなさい。
ゆえに彼に服従し、信じてこのように言うべきです。
「主よ、祝福がありますように。
私にはまだ理解できないことがたくさんあります。
私は答えを求めているのです。
私には暗い所があります。
私がイエス・キリストによって新しく生まれ、すなわち、永遠に救われることを知るようにしてください。」
あなたはその事実を信じることができます。
あなたは闇と迷いの中に取り残されることはありません。

「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。」
(ヨハネの福音書6章45節)


あなたはその声を聞きましたか?
あなたは御父を知っていますか?
御父が教えておられる教えとは何ですか?
神は祝福された御子の賜物として与えられた恵みをもって人々を満たそうとされています。
御父は御子を世の救い主として遣わされました。
神は私たちが神によって生きるために、神の無限の愛によって、御子を世に遣わされました。
では、子どもたちよ、御父に聞き従いなさい。
イエスをあなたの教師にしなさい。
祝福された御子によって示された神の恵みの豊かさを、御言葉によってあなたがたを教え理解させてください。
このように、あなたたちは神から教えられ、自分たちが永遠に罪が償われた者たちの中に数えられていることを知るのです。
あなたがたは、自分の目で父を見ることができるのではありません。
心の目、信仰の目で見ることができるのです。
父を見たのは、私たちの祝福された救い主ご自身だけです。
イエスはこのように言われています。

「だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。」
(ヨハネの福音書6章46節)


しかし、私たちは、イエスを見ることができませんが、御言葉を信じることができるのです。
私たちはメッセージを聞き、信仰によって福音を受け入れ、永遠の命を得ることができます。
イエスはこのように言われています。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」
(ヨハネの福音書6章47節)

これですべての議論を終わらせましょう。
この聖句がすべての不安な質問者への答えになるべきなのです。
私が神の子であり、神に受け入れられ、罪が赦され、永遠の命を持っていることをどのように知ることができるでしょうか?

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
(使徒の働き16章31節)


ゴスペル歌手のアイラ・D・サンキーが長い月日も救いを求めていたことを聞きました。
彼は自分が永遠の命を持っていることを知るための内的証拠を探していました。
集まりの席に座っているときに、ヨハネの6章に目を向けさせられ、この47節に目が奪われました。
「信じる者は永遠のいのちを持ちます」という不思議で新しく驚くべき意味を知って、彼の魂はよみがえったのです。
サンキー氏は、その数年前の夜、サンフランシスコでの集まりで、彼がそれを知った瞬間に見上げて、私たちにこのように言いました。
「主よ、わたしは信じます。
私はあえてあなたの言葉を信じます。」
その瞬間が彼の何十万人もの人々へのゴスペルソングの偉大な伝道の始まりであり、完全で自由な救いの喜びのメッセージを伝えました。
「信じる者は永遠のいのちを持ちます。」
「信じる」と「持ちます」の間には何も必要ありません。
「持つことを望む」のではありません。
「信じる者には永遠の命がある」のです。
神の言葉を信じてください。
イエスは「わたしは命のパンです」と言いました。
あなたの先祖は荒野でマナを食べて死にました。
イエスがこのように言っています。

「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。」
(ヨハネの福音書6章49節)

「わたしがいのちのパンです。」
(ヨハネの福音書6章35節)


それは「私が生きているパンをあたえましょう」ではありません。
「わたしがいのちのパンです」なのです。

私は信仰によって受け入れられなければなりません。
あなたの魂はわたしを食べなければなりません。
あなたの体が自然のパンを食べて、維持されるのと同じです。

「わたしは、天から下って来た生けるパンです。
だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。
またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
(ヨハネの福音書6章51節)


イエスは十字架に向かっています。
やがて、イエスは十字架に行くのです。
そこで、イエスは偉大な罪のためのいけにえとして、焼かれます。

かつてのいけにえは祭壇の糧と呼ばれていました。
イエスは仰せられています。
「十字架でわたしは死ぬのです。
罪の代価のささげ物として身を捧げるならば、わたしの体は飢えた哀れな魂の糧となります。
そして、彼らは永遠に生きるのです。」

「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」
(ヨハネの手紙第一5章12節)


親愛なる友よ、私たち一人ひとりが決めるべき大きな問題はこれです。
「あなたはキリストを受け取る決心を持っていますか?
私たちが自然の食べ物を食べるとき、それは私たちの一部となり、新たな力と命を与えてくれます。
同じように、私たちが神のパンを食べ、信仰によって主イエス・キリストを受け入れ、主が十字架上で私たちのためにしてくださった御業に心を留めるのなら、私たちは新たな力と命を得ることになります。
「わたしは、天から下って来た生けるパンです。
だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。
またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」と書かれている通りです。

「すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。」
(ヨハネの福音書6章52節)

このユダヤ人たちは自然に沿った考えが出来ないようです。
しかし、主の御言葉は明瞭です。
神のもとに来る者は誰でも、悔い改めた罪人であれば、このことを理解するのは難しいことではありません。
だが、律法主義者は「人の子の肉を食べる」なんて、ばかげていると嘲笑しました。
人はどうやって私たちに自分の肉を食べさせることができるのでしょうか?
主イエス・キリストは「もし、あなたがわたしを信じることを拒み、わたしのところに来ないなら、わたしはさらに信じ難いことをあなたがたに告げることになります」と言っているようです。
そこでイエスはこのように言いました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。
わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」
(ヨハネの福音書6章53~56節)


これらの御言葉は、なんと驚くべき宣言です。
信じることのできないイスラエル人にはむずかしいことなのです
イエスの言われた「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、」とはどのような意味があるのでしょうか?
確かに、イエスは実際の身体と血を食べるという意味で言っていません。
律法では、イスラエルの子供たちは、どんな形であれ、どんな方法であれ、血を食べることを禁じられていました。
ユダヤ人の食べるすべての肉には血が注がれていました。
イエスは、ここで血を食べること、そして驚くべきことに、御自分の血、すなわち人の血を食べることについて語られているのです!
もちろん、イエスは文字通りの意味で語っていません。
イエスはユダヤ人たちに挑戦し、ユダヤ人たちの無知と悟りの理解させる必要性で語ったのです。
しかし、イエスの御言葉に彼らは反応できなかったのです。
もちろん、儀式的な聖餐式で肉と血を捧げるという意味でもありません。
私は、多くの人がイエスが主の晩餐について言及されたと考えていることを知っています。
司式の牧師の祈りの後、人々がその儀式に参加するならば、パンとぶどう酒が神秘的な変化を経て、実際にイエスの体と血に参加することになると考えられています。
何百万人もの人々が主の晩餐の秘跡、聖体拝領、聖餐式などとして知られているものに参加してきました。
さまざまな名前が使われてきましたがこれらのミサのいけにえには命が存在しておらず、何百万人もの人々が参加してきました。
彼らはこれらの儀式を通して命を得たという証拠を示すことはありません。
参加者は日曜日の朝にそれを食べ、日曜日の午後に罪の中で生きることができます。
彼らが生まれ変わったという証拠は何もありません。
これらの秘跡は命を与えることができません。
しかし、これだけは言うことができます。
誰であっても、イエス・キリストの肉と血を食べ飲むのなら、いのちを受けないことはありません。
イエスはいのちを約束し、この約束は真実です。
イエスの御言葉は何世紀にもわたって守られてきました。
どのような意味でしょうか?
キリストは教会時代を通して、いのちのパンを食べ、信仰によってキリストを受け入れるなら、いのちを得ることを私たちに示しています。
つまり、聖書がカルバリの十字架上で私たちの主イエス・キリストの犠牲について明らかにしていることを無条件に受け入れることです。
それは主の尊い体が私たちのために木の上に捧げられ、主の血が私たちの贖罪のために注がれたことなのです。
十字架上で注がれた主の尊い血が私たちの罪を贖ってくださったことを認めるのなら、私たちは主の肉を食べ、主の血を飲んでいることになるのです。
そして、主の晩餐を規則的に守るならば、私たちの心を再びカルバリに引き戻し、贖いの代価を再び思い起こさせることができるのは事実です。
私たちは、聖餐式とこの尊い真理との関係を認識することができます。
象徴と現実を混同してはいけません。
私たちはイエス・キリストのからだと血を信仰を日々、食しているのであれば、あらゆる聖くないものに対する食欲がなくなります。
その尊いからだと血は、来るべき日の終わりまで、私たちの肉となり、飲み物となります。
私たちが次の栄光に到達しても、私たちは殺されたこひつじであるイエスに心を奪われるのです。

「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。
キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」
(ヨハネの黙示録1章5、6節)


講演21 生きたパン

「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。
それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。――
そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」
こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。
そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」
すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」
イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」
イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。」
(ヨハネの福音書6章57~71節)

注)この講演は、以前の機会に出席していない多くの人々に向けて行われたものです。
変更しない方がよいと思われる繰り返しがいくつかあります。

ヨハネの福音書の6章にある71節は、私たちの主イエス・キリストの生涯と奉仕を語るこのすばらしい書物であり、最も長い章です。
ある者がヨハネの福音書を世界で最も素晴らしい本と呼んでいました。
ならば、この章がその最も素晴らしい章なのかも知れません。
しかし、私はこれが私たちが状況を見失ってしまう結果にならないことを願います。
イエスが群衆に食事をされ、次の日も、群衆がイエスのところに来て、また同じように食事をしたいと言っているようです。
彼らは「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか」と言っています。
そして「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました」と言っています。
これが昨日の出来事でした。
今日も同じことをする準備はできているのでしょうか?
しかし、イエスはこの機会を利用して、体に食物を与えることよりもはるかに重要なことを彼らに示しました。
私たちには次の聖句が与えられています。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」
(マタイの福音書4章4節)


これは、世のために身代わりとして、御自身の命を捧げるために来られた人の子についても言えることです。
この章では、キリストの受肉の奥義を表現されています。
神のパンは天から降りてこられたイエス・キリストです。
言い換えれば、イエスがマリアの胎内に生まれたときに生き始めたのではありません。
イエスは私たちの贖いのために人となりました。
イエスは以前から存在していた神の御子です。
主は私たちの主イエス·キリストのすばらしい人格として、人として受肉され、神のパンとして私たちにささげられたのです。
そして、ここでもっと深く、もっと重大なことを話されます。
イエスはこのように言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」
(ヨハネの福音書6章53節)


イエスはユダヤ人の中で忌みきらうべきことばを使われました。
ユダヤ人たちは、律法が人は血を食べてはならないと言っていることを知っていたからです。
そして、イエスはこのように宣言されました。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。
わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」
(ヨハネの福音書6章54節)


つまり、もし、あなたがたが、わたしの肉と血とを食べ、飲まないなら、あなたがたのうちには命がありません。
これは、いわゆる主の晩餐の秘跡とは関係ないことを証明しています。
この時はまだ十字架以前でした。
主はここでご自分の血がご自分の体から取り除かれ、罪びとのために流されたささげ物としての死を言われていたのです。
人は主の肉を食べ、主の血を飲まなければなりません。
つまり、神の救いにあずかるためには、主の贖いの御働きの価値を認めなくてはならないのです。
神の子の肉を食べ、その血を飲むというのは比喩的な表現です。
信仰によってこれらの尊い真理をつかみ、自分のものとすることを意味しています。
食べることは信仰に同意することです。
皆さん行ったことがありますか?
あなたがたはそのようにして主イエス·キリストを受け入れていますか?
あなたがたは救われるためにイエスを信じていますか?
キリストの死はあなたがたのためであり、キリストの血が流されたのはあなたがたの罪が除かれるためであることを、あなたがたは知っているでしょうか?
その十字架を思い浮かべるならば、今では誰もいない十字架です。
今、釘に吊るされた主は神の右の座に座っておられます。
その誰もいない十字架から神の御座に目を向けるならば、あなたはこのように言えるでしょうか?
これは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」ことです。
単純にこれは一時的なことではありません。
私たちが信仰によって神を受け入れる期間は、私たちの人生の中のある特定の時間だけではありません。
私たちがキリストとの交わりの中に日々生き、キリストがあること、キリストがなされたことのすべてを自分のものとすることなのです。
現実に、人生においてこれが、生けるパンを食べることなのです
私たちは神の言葉を黙想しながら生けるパンを食べるのです。
私たちが生きるパンを食べることができる他の方法を私は知りません。
私たちのように、健康なときに御言葉に親しんできた者は、病気になったときに記憶が御言葉を呼び起こすことがあります。
この時、すでに学んだことを糧にしていることがわかります。
ゆえに、私たちが強く健康な時に御言葉を読む必要があります。
聖書が言うように、信仰と健全な教えの言葉の中で、この書物の幅広い研究に身を捧げ、その教えについて黙想し、私たちを鍛え、育てることがとても重要なのです。
私たちが主との交わりを楽しむためには、このことが必要です。
57節で主はこのように言われています。

「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」
(ヨハネの福音書6章57節)


それが交わりなのです。
主イエス・キリストは、人としてこの世におられ、日々父との交わりの中に生きておられました。
私たちに聖書を調べるように要求されているように、主イエス・キリストも聖書を研究されたと考えるならば、それは驚くべきことなのです。
詩篇16篇には、祝福された主が御父に語りかけられたときのことが書かれています。

「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。
地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。」
(詩篇16篇2、3節)

イエスは地の人として、御父を仰ぎ見て、自分の長所を主張することなく、他の人々のために、神との日々の交わりの中で生きておられました。
預言書であるイザヤ書50章には信仰によって生きた主の驚くべき描写があります。
2節でイザヤはこのように述べています。

「なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。
わたしの手が短くて贖うことができないのか。
わたしには救い出す力がないと言うのか。
見よ。わたしは、しかって海を干上がらせ、多くの川を荒野とする。
その魚は水がなくて臭くなり、渇きのために死に絶える。
わたしは天をやみでおおい、荒布をそのおおいとする。」
(イザヤ書50章2、3節)


ここで誰が話しているのでしょうか?
永遠の神、万有の創造者、全能者です。
しかし、神のどの人格が話しているのでしょうか?
私たちの祝福された主イエス·キリスト、御子なる神です。
4節から6節までを見てください。
そこでは、神は人として語られています。
2、3節では神として語っておられます。
しかし、今、私たちはイエスの言うことを聞くことが出来ます。

「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。
神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、
打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」
(イザヤ書50章4~6節)


ここで同じ御方が語っています。

「わたしは天をやみでおおい、荒布をそのおおいとする。」
(イザヤ書50章3節)


この方は学ぶ者に代わって、疲れている人に適切な言葉を話す方法を知っていました。
私はリーザーのユダヤ語訳(Leeser's Jewish translation)聖書が好きです。
ここでは、私に疲れた者をことばで励ますことを教え」と書かれています。
(日本語新改訳聖書も同様です。)
考えてみてください!
主イエスがこの地上で日々聖書を学ばれてたのは、疲れた魂に、彼らの慰めと助けのために、どのように適切な言葉を語ればよいかを知るためでした。
そして、イザヤは付け加えています。

「朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」
(イザヤ書50章4節)


私たちは聖書の中で、穴の開けられた耳について三回読むことができます。
一つは奴隷の中には、刑期を終えて自由の身になろうとしている素晴らしい奴隷の型があります。
しかし、出エジプト記ではこのように私たちに語られています。

「しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。』と、はっきり言うなら、
その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」
(出エジプト記21章5、6節)


こうして、彼は永遠に仕える者となったのです。
彼の子供の一人がその耳を見てこのように言うかも知れません
「お母さん、どうしてお父さんの耳にこんな醜い穴があいてるの?」
「醜いなんて言っちゃダメですよ!
それは主があなたと私をどれだけ愛しているかを物語っているんですよ!」
彼は奴隷です。
自由に出て行くことができました。
しかし、私たちから離れようとしません。
彼の耳は千枚通しで貫かれています。
これは、私たちの祝福された主の栄光の描写です。
主の手には傷の跡が残っています。
その傷は、主の父と教会に対する変わらぬ愛を物語っているのです。
そうです。
主は耳に穴を開けられたしもべなのです。
もう一度、詩編40編に書かれていることを見てみましょう。

「あなたは私の耳を開いてくださいました。」
(詩編40編6節)


そして、新約聖書ではこのように変えられて述べられています。

「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。」
(へブル人への手紙10章5節)


この意味は次のようです。
主イエスはお生まれになる前から御父と一つです。
だれからも命令を受ける必要はありません。
主イエスは奴隷の耳を必要としていません。
しかし、イエスが人になり、、奴隷の身分となり、日ごとに御父の教えを受けられたのです。
そのためにイエスは来られたのです。

「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」
(ヨハネの福音書6章38節)


そして、イザヤ書50章で主はこのように言われています。

「神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、」
(イザヤ書50章5節)


私たちはとても反抗的な者です。
神は私たちに何をさせたいのかを示し始め、私たちは反抗的になる。
神は私たちに行うべきことを示し始めますが、私たちは反抗的になります。
しかし、イエスには、そのようなことはありません。
イエスは、日ごとに、時ごとに、御父との交わりの中に生き、神のみこころを喜んでおられたからです。
交わりがイエスに何をもたらしたかを見てみましょう。

イエスはこのように言われています。

「打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」
(イザヤ書50章6節)


感謝します。
ここにいる者はこのように言うことが出来ました。

「わたしは天をやみでおおい、荒布をそのおおいとする。」
(イザヤ書50章3節)


そして、今、主が「侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった」と言われました。
私たちはイエスの中に神と人の二つの性質を見ることができます。
イエスはこの地上で人間として父との交わりの中に住んでいました。

「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」
(ヨハネの福音書6章57節)


信仰によって日々主に仕える者は、主によって生きるのです。
パウロはこのことを強調して、このように言っています。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
ガラテア人への手紙3章20節)

私たちは食べるた食べ物のように大きくなるのです。
ある人が「私たちはキリストを食べている。
私たちはキリストのようになります」と言いました。
そのような人は、神の純粋さ、いつくしみ、恵み、あわれみ、人に対する思いやりを明らかにするのです。
クリスチャンであることを公言し、他人に対して厳しく、辛く、批判的な人物は、長い間キリストを糧としていないことがわかります。
その者の行いが物語っています。
この世の俗物と無頓着に流され、うぬぼれ、高慢、自己中心的になっているクリスチャンは、キリストを食していないのです。
聖書の御言葉がこのように言っています。

「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」
(ピリピ人への手紙2章5節)


それが謙虚な心であり、卑しい心です。
それは他人のことを考え、「私のことは気にしない」と言う心です。
これは私たちの中では自然なことではありません。
しかし、私たちの祝福された主を食しているうちに、私たちの中で成長していきます。
これは永遠に私たちの分け前です。
このようにイエスは続けてこのように言っています。

「これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。
このパンを食べる者は永遠に生きます。」
(ヨハネの福音書6章58節)


しかし、民はこれを聞いて、心を痛めたのです。
その日、多くの者がイエスといっしょに行き、イエスがすばらしい預言者だということを知っていました。
彼らは自分たちに「彼がメシアではないか?」と尋ねていました。
彼らはイエスの教えに聞き従いました。
イエスが、ご自分の肉を食べ、ご自分の血を飲まれることを語られました。
しかし、このイエスの贖いのすばらしい真理が開かれると、真理は彼らを悩ませ始めました。
彼らは、自分たちをローマ人から解放し世界で第一の国にしてくれる偉大な世界の支配者を探していました。
彼らはイエスが世のために命を捧げて死ぬことについて語られたメシア像の準備できていなかったのです。
これを聞いて、彼らはこのように言いました。

「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
(ヨハネの福音書6章60節)


現在のおいても、同様な人がたくさんいます。
確かに彼らはイエスを偉大な教師として喜んで受け入れます。
イエスがその生涯において、私たちにすばらしい模範を示されたことを彼らは認めています。
そして、彼らは神の歩みに従おうと語っています。
しかし、彼らは救いを自分のものとしようとはしません。
彼らはイエスの身代わりの贖いを望んでいません。
イエスのうちに神と人とが祝福された一つの人格として存在されたことを信じようともしません。
信じる準備もできていません。
彼らは、キリストを真理のための殉教者として考える準備はできています。
しかし、キリストが聖書に従って私たちの罪のために死んだことを認める準備はできていません。
なぜなら、私たちの贖罪のために十字架上で死なれた神の受肉した御子であるイエスを受け入れることなく、新しい誕生はないからです。
現在においても多くの人がこの真理から目を背けて「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか?」と聞きます。
イエスは彼らの言っていることを知っていたのでこのように言いました。

「このことであなたがたはつまずくのか。
それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。」
(ヨハネの福音書6章61、62節)


わたしが天から下って人になりました。
このことをあなたに告げるなら、あなたはこれにつまずくのですか?
人が救われるために私が死にます。
このことをあなたに告げるなら、あなたはこれにつまずくのですか?
私はさらにあなたに告げます。
人の子は天に登ってゆきます。
人が真理に逆らうならば、主イエスは真理を難しくされます.
しかし、その者が真理を受け入れるならば、主は真理を簡単にされるのです。
以前よりも、現在、主は真理を受け取ることを難しくされています。
主はそれを以前よりもはるかに難しくされています。
「れでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。」
人は「私たちはイエスが人として天に昇ることを信じることができません」というはずです。
昇天は神の定められた時に起こりました。
神はイエスを死者の中からよみがえらせました。
使徒の働きの1章にはこの言葉が4回出てきます。
今、神の右に座しておられます。
キリストが死後によみがえられ、キリストの体に大きな変化が起こったと信じる人もいます。
その者たちはイエスを物質的な人間の体を持たない不思議な謎の霊だと考えています。
イエスが仰せられたことを思い起こしてみましょう。

「わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
(ルカの福音書24章39節)


そこには物理的な体がありました。
キリストは、私たちの贖いのためにご自身の血を注がれました.
そして、今、十字架にかけられた時と同じ肉体をもって、天におられます。
現在、この方こそ、神の右におられる人キリスト·イエスなのです。
私たちはこの方を見上げることができるなら、人の顔を見ることができます。
私たちはイエスの手を掴みます。
しかし、その手には傷の跡があります。
イエスはその体を永遠にもたらしたのです。
「もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。」
あなたは信じることが出来ますか?

「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。
わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」
(ヨハネの福音書6章63節)

私たちが永遠の真理を手にすることができるのは、信仰によって神の言葉を受け取るときだけです。
肉は神の恵みによって動かされない限り理解することはできません。
主の言葉は生まれつきの人にとっては愚かなものです。
なぜなら、それは超自然的なものとして識別されるからです。
しかし、これらの御言葉は霊的であり真実です。
あなたが御言葉を受け入れようと心を開くとき、新しい命が創造され、あなたはそれを受け入れることができます。

「しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。
――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。」
(ヨハネの福音書6章64節)


イエスは人の心の中で何が起こっているかを知っていました。
イエスはその誰かが偽りの告白をした時に知っていたのです。
現在もイエスは知っておられるのです。
神の子はあなたが本物かどうかを知っています。
あなたの友達は知らないかもしれません。
あなたがたが親しい者も知らないかもしれない。
だが、イエスは本当に主を信頼しているのは誰かを知っておられます。
主は天から下って来た神のパンなのです。
神の前で真実であるように努めるべきです。
単なる告白に信頼してはいけません。
その日にあった告白など何の役にも立ちません。
現実があるはずです。

「そしてイエスは言われた。
「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」」
(ヨハネの福音書6章65節)


誰が締め出されるのでしょうか?
ある人たちは行くことが出来ないのですか?
わたしのところ来れるように定められた者と、来れないように定められた者がいるということですか?
いいえ!

「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」
(ヨハネの福音書6章37節)


すべての人が望むなら行くことができます。
しかし、御父の導きがなければ誰も行くことを望みません。
これは多くの人にとって「堅い食物」のように思われたかも知れません。
結果、私たちは弟子たちはこのように感じたのです。

「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」
(ヨハネの福音書6章66節)


この時まで彼らはイエスと交わっていました。
彼らはイエスがユダヤ人の指導者になって、ユダヤ人を輝かしい勝利へと導いてくださることを、日々願っていました。
しかし、今、彼らの希望は打ち砕かれました。
彼らはイエスが死に天に昇るというイエスの言葉を理解できなかったのです。
イエスは彼らが探していた救世主像ではなかったのです。
それから、イエスは御自分で選んだ12人の方を向いて尋ねられました。

「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」
(ヨハネの福音書6章67節)


彼らは祈りの中でイエスを見ていた。
彼らはイエスの教えを聞き、みことばを心に受け入れていた。
彼らは神の力を知っていた。
しかし、彼らの中にも悪魔を持っている者もいた。
「あなたがたも去るのですか?」もしくは「あなたも出て行きたいのですか?」
私から離れる準備はできているのですか?
私はあなたが受け取る準備している以上のことを話したのです!
あなたは私から離れたいのですか?
私たちはペテロを、軽率で場違いな発言をする人物だと考えるかも知れません。
しかし、ペテロはくり返し、私たちの心を喜ばすような真剣さと信仰をもって発言しています。
カイサリアのピリピで、ペテロは覚悟を決めて発言しました。

「すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。
あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」
(ヨハネの福音書6章68節)


「私たちがついてゆくことのできる人は誰もいません。
かつての賢者や律法学者も頼ることはできません」と言っているのと同じです。
あなたが与えたものを、彼らは私たちに与えることはできません。
「あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」
私の親しい友よ聞いてください。
イエスの他に神の知識を与えてくれる人はいません。
あなたがたが神に信頼し、神を受け入れ、この生きているパンを食べるとき、あなたがたは永遠のいのちを得るのです。
今、イエスは、12人を哀れんでおられます。
11人の本物を知っておられ、本物でない1人を知っておられます。

「イエスは彼らに答えられた。
「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」」
(ヨハネの福音書6章70節)


12弟子には驚くべき特権と機会がありました。
しかし、そのうちの一人は真実に心を開くことはありません。
恐ろしいことです。
親愛なる友よ、今日、ここにそんな人はいないことを願います。
あなたがたは自分がクリスチャンであることを告白しています。
しかし、あなたがたにとってイエスが私を罪から救ってくださった救い主となられたことがありますか?
あなたは自分の魂を神に確実に結びつけたことはありますか?
あなたは悔い改めた罪人として神の前にひれ伏したことがありますか?
お願いです、あなたの運命が確定され、ユダの運命を共有しなければならない前に神のもとに来て、自分の罪と罪過を告白してください。
ユダは来ることがありませんでした。
ユダは御言葉を受けとらなかったのです。
ついにユダは永遠の闇の中にある自分の行くべき場所に行きました。

「イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。
このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。」
(ヨハネの福音書6章71節)


長年にわたって、ユダはイエスと親しく交わってきた者の一人でした。
しかし、彼は永遠にイエスから離されるのです。
神よ、私たちを真実なものとして、天から下ってくる生けるパンを食べさせてください。


講演22 神とキリストに対する世の反応

「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。
さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。
そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。
自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」
兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。
世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。
あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」
こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。
ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか。」と言って、イエスを捜していた。
そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。「良い人だ。」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ。」と言う者もいた。
しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。
しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。
ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」
そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。
だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」
(ヨハネの福音書7章1~17節)


私たちの主が神のパンとしてご自身を示されました。
驚くべき6章の研究を終えたので、次は、主が各地を巡りながら、信者と未信者を問わず、その必要性に応じて御言葉を宣べ伝える旅を再開されるのに従って話を進めて行きましょう。
私たちは次のように読みました。

「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。」
(ヨハネの福音書7章1節)


ガリラヤ北部のカペナウムで神のパンについてのメッセージをされました。
そこから同じ地区の他の場所を巡り、後にユダヤに下りました。
ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしたので、初めにはイエスはユダヤに行っていません。
カペナウムは南にあります。
ガリラヤではユダヤの偏見に満ちた律法主義者たちはプライドと見栄に満ちていました。
彼らは自分たちの意見に反対するものにはまったく寛容ではなかったのです。
彼らは自分たちの持つ立場を強く確信しており、それに伴って、自分たちに賛同しない他人の意見に対する配慮のようなものを忌み嫌うようになっていました。
すでに、彼らは主イエス・キリストは偽預言者だと決めていました。
彼らは、イエスを神の律法から民を遠ざけようとする者として、イエスを黙らせ、大々的に取り締まるべきだと宣言しました。
申命記によれば、そのような者は石打ちで殺されることになっていました。
ゆえに、主イエス・キリストに対するユダヤ人の態度を理解することができます。
彼らはイエスの教えを憎みました。
彼らはイエスの教えがモーセの律法に反すると考えました。
もちろん、彼らは間違っています。

「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」
(ヨハネの福音書1章17節)


律法は救い主が必要であることを示し、罪の罪深さを強調させます。
イエスは驚くべき方法で成就させるために来られたのです。
パウロはこのように述べています。

「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。」
(ガラテア人への手紙3章24節)


今、私たちは福音に示されている完全な神の恵み御の啓示を受けています。
次に、ユダヤの偉大な年に一度の祭りの最後の一つが行われようとしています。
私たちの注意はこの出来事に向けられています。
私たちはこのように読みました。

「さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。
そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。
「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。」
(ヨハネの福音書7章2、3節)


「仮庵の祭りというユダヤ人の祝い」という重要な表現に注目してください。
レビ記23章では、主(ヤハウェ)の祭りの一つに挙げられています。
なぜ、変わってしまったのでしょうか?
ユダヤ人たちは祭りの本当の意味を見逃していたからです。
ユダヤ人はそれを冷たい、法律的な方法で見ていたからです。
そこに主は御名を連ねることが拒まれていたのです。
現在においても、同じことが言えます。
私たちに、主はバプテスマと主の晩餐の決まりをお与えになりました。
神のことばに従って守られているところでは、その大きな意義を持ちます。
人々がバプテスマを新生の証しの代わりにしているところでは、バプテスマを受けた子どもたちが神の国の一員になると信じていたり、年配の人たちがバプテスマによって罪が洗い流されると考えていたりします。
その時、この命令は、命令の御目には忌みきらうべきものとなります。
同じことが、主の晩餐の大切な行事にも適応されます。
私たちのために御自身を捧げられた祝福された救い主を思い、共にパンと杯にあずかるとき、それは神の目に尊いことです。
民が敬虔な態度で集い、自分たちを贖ってくださった方を思い起こすことを主は喜ばれています。
しかし、彼らが主の晩餐をただの儀式と考えるのなら、主の晩餐は守ることによって、自分を天にふさわしいものとするでしょう。
そして、儀式を守ることによって、自分たちの魂を救われると考えるなら、それは彼らの祭りであって、主の祭りではありません。
それは時々、人間のものになるのではありません。
時々、神のものになるのでもありません。
そうです。
始めにこの天幕の祭りはもっとも重要なものとして与えられていたのです。
私たちはレビ記23章でこのように読んでいます。

「あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭」
(レビ記23章2節)


例祭、祝宴という言葉は、正確には祭りを意味するのではなく、決められた時間を意味しています。
つまり、これらの例祭はユダヤ人の聖職者として、1年を通して最も重要な行事でした。
これらの例祭は年の初めに4つ、秋に3つありました。
そして、幕屋の祭りはその最後にあります。
最初に語られる過越の祭りはコリント人への手紙第一5章では、過越の祭りであるキリストが私たちのためにささげ物になったと語られています。

「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」
(コリント人への手紙第一5章7節)


最初の過越の祭りはエジプトで行われました。
神が長子をさばくために訪れました。
その時、エジプトのユダヤ人たちは子羊を部分に分け、この子羊を食べたのです。
しかし、外の「二本の門柱と、かもい」には血が塗られ、その人たちは裁かれることはなかったのです。
これはキリストのすばらしい描写です。
過越しの小羊キリストです。
これは、かつてから、神が言われていたことなのです。

「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。」
(出エジプト記12章13節)


今日において、人がキリストの尊い血を信じるならば、その者たちは裁きにあうことなく、安全な立場にあります。
彼らは、私たちの贖いのために尊い血を流された祝福された救い主を霊的に食べた者たちなのです。
これが過越の祭りの意味なのです。
この過越の祭りの時に、私たちの主イエス・キリストが十字架上で死なれました。
神の小羊である彼は、私たちの罪を取り除くために、過越しの日に死んだのです。
第二の例祭は種を入れないパンです。
ユダヤ人たちは過越のいけにえの日から始めて、さらに七日間、種を入れないパンだけを食べ続けました。
もう一度、コリント人への手紙第一5章を見てみましょう。

「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。
新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。
あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」
(コリント人への手紙第一5章6、7節)


ここにある種を入れていないパンを食べている人たちとは、キリストを食し、神の栄光のために生き、世俗的なもの、汚れたもの、古い生活と結びついているものをすべて生活から追い出し、新しい生活の中を歩んでいるクリスチャンを表しています。
三番目に定められた祭りは初穂の祭りです。
過越のいけにえの次の週の初めの日に、彼らは実を熟した最初の束を収穫しました。
ユダヤ人たちはそれを神に持って行き、神に捧げました。
その初穂は私たちの主イエス・キリストを復活された方として表しています。
このことが、コリント人への手紙第一15章で明らかにされています。

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
(コリント人への手紙第一15章2節)


小麦の穀粒は死ななければなりません。
でも、死んで多くの実をつけました。
祭司がその束を持って来て、主にささげるのであれば、それはユダヤ人の安息日の翌日に、私たちの祝福された十字架につけられた救い主が死者の中からよみがえることを表しています。
キリストが死者の中からよみがえったのは、過越の安息日に続く週の最初の日でした。
それを型として見るのであれば、完全に一致し、成就していることがわかります。

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」
(ローマ人への手紙4章25節)


レビ記にあるように、民は7回目の安息日の翌日、つまり50日目を数えていました.
そのとき、主への新しいささげ物として、パン種を入れて焼いたパン二斤がささげられました。
パン種は罪の型です。
そのキリストを現すパンの中にパン種を入れることができません。
しかし、ユダヤ人の安息日の後の50日目のペンテコステの祭りには、パン種を入れた生地で作った二つの波型のパンが神の前にささげられます。
これらの型は恵みによって救われたユダヤ人と異邦人と、新しい祭りのささげ物を描写しています。
これは教会のディスペンセーションの始まりを描いています。
これらの祭りはすべて、私たちの救いの土台に関係しており、すでに成就しています。
そして、その年の秋には、他に三つの祭りがあります。
最初に、ラッパの祭りです。
これはイスラエルが神に立ち返る時を語っています。
私たちはゼカリヤ書12章に成就することが描かれています。
その時、大いなる贖いの日が来るのです。

「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。
彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」
(ゼカリヤ書12章10節)



その日がユダヤ人の真実な贖いの日なのです。
その日、ユダヤ人はカルバリの十字架の上で死なれた主イエス·キリストが、自分たちの罪を償うために死なれた大いなる罪のためのいけにえであることを知ります。
そして、キリストを認め、キリストに信賴するのです。
ユダヤ人たちはこのように言います。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
(イザヤ書53章5節)


そして、第七の月の最後の定めの季節は幕屋の祭りでした。
民は8日間、荒野で行われたことを思い起こさせるために、小屋に住むことになっていました。
型として見るのであれば、私たちの主イエス・キリストが回復された国民を治め、何も恐れることなく平和に住む時代を指しています。
ゼカリヤ書14章にはイスラエルと全世界が神の救いの恵みを受け、私たちの主イエス・キリストの栄光に満ちた支配の下に生きる時代が、真実な幕屋の祭りであることが記されています。
しかし、悲しいことに、キリストの時代のユダヤ人たちは、王がすでに彼らの中にいることに気づいていません。
イエスの兄弟たちも、復活の後までは信じなかったのです。
何人か、名前を挙げてみましょう。
私たちは、ヤコブ、ユダ、シモン、ヨセがイエスの兄弟であったことを知っています。
彼らが完全な兄弟だったのか異母兄弟だったのかは議論の的になっています。
それでも、彼らは家族の一員であり、主イエス・キリストに連なる者でした。
他の聖書箇所では姉妹もいたことが示されています。
その時、彼の兄弟たちは、仮庵の祭りに上って来ていました。

そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った
「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。」
(ヨハネの福音書7章3節)


彼らはあざけるように「ここを去って」と言ったのです。
そして、なぜ「ここを去ってユダヤに行きなさい」と言ったのでしょうか?
つまり、あなたは良いユダヤ人です。
なぜ、隠れて事をするのではなく、他の者たちと一緒に仮庵の祭りを守るべきです。
もし、あなたが自分自身を遣わされた者だと思うなら、もしあなたがこれらのことをするなら、あなた自身を世に示すべきです。
イエスはともに育った者たちが信じていないことを知っていました。
イエスの兄弟たちからこの不信仰を取り上げるのは大変だったはずです。
イエスの兄弟たちも、イエスを信じていません。
そのことを考えてみましょう!
自分の家族を説得するのはとても難しいことを知っています。
家族以外の人にアプローチしやすいことを知っている人は多いのではないでしょうか?
もし、あなたに欠点があれば、すべての欠点が拡大され、それが明らかになります。
神が与えてくれたどんな霊的な祝福でも、自分の家族を感動させるのは非常に難しいことが多くあります。
聖なるイエスご自身が家族からの言葉に耐えられました。
イエスは、私たちのクリスチャンの証しのために、私たちが自分の家で抱えている問題を理解することができます。
やがて、イエスの兄弟たちがイエスを信じる日が来ます。
それは、イエスがよみがえられた後、死者の中からよみがえられた後のことです。
やがて、彼らは確信し、ヤコブとユダはイエスの優れた弟子の二人となりました。
もう一人の兄弟シモンは、初期のクリスチャンの作家たちが語っているように、長年にわたって主の献身的なしもべとして尊敬されていました。
四人目の兄弟、ヨセフ、またはヨセスがいましたが、私たちには何も知らされていません。
彼らの名はマタイの福音書13章55節に記されています。
しかし今、彼らの冷笑に対して、冷笑で答えず、また冷笑する代わりに、イエスは親切に答えてました。

「わたしの(裁きの)時はまだ来ていません。
しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。」
(ヨハネの福音書7章4節)


イエスは御父からの言葉を待っているのです。
皆さんが知っているように、イエスは天から下って来てしもべの立場を取りました。
御父の言葉があるまでは決して動こうとはしなかったのです。

「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」
(ヨハネの福音書6章38節)


私たちは自分の意志に従って行動するならば、多くの間違いを犯します。
しかし、主イエス・キリストは決してそんなことをしませんでした。
イエスはいつも父からの言葉を待っていました。

「わたしの時はまだ来ていません。
しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。」
(ヨハネの福音書7章6節)


これは肉体を持つ人間の次のステップである、死後の人間の準備はすでに出来ているということです。

「世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。
わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。」
(ヨハネの福音書7章7節)


このように人々は主イエス・キリストを快く思うことはありません。
もしかれが、人々の罪を赦し、人々の悪い行いを顧みられたならば、人々はかれを受け入れることができるはずです。
もしくは、イエスの熱心な支持者となるはずです。
しかし、イエスは、この世の罪と、堕落と、不義をあかしされました。
ゆえに、人々は理由もなくイエスを憎んだのです。
それは単純に、人々の不義とは対照的にイエスの聖であり、清い方だからだったからです。
そして、今、イエスはこのように言っております。

「あなたがたは祭りに上って行きなさい。
わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」
(ヨハネの福音書7章8節)


イエスに伴う人たちは、イエス無しで上っていきました。

「イエスはガリラヤにとどまられた。」
(ヨハネの福音書7章9節)


彼らが上って行った後、イエスは一人でひそかに上って行かれました。

「しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。」
(ヨハネの福音書7章10節)


ラッパを吹き鳴らすこともなく、公に告げることもなく、イエスはエルサレムに上られたのです。

「ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか。」と言って、イエスを捜していた。」
(ヨハネの福音書7章11節)


明らかにユダヤ人たちはイエスがそこにいることを期待していました。
なぜ、彼らはイエスがそこにいることを期待したのでしょうか?
それはイエスが常に律法を注意深く見ていたからなのです。
律法はすべてのイスラエル人が主張しなければならないことが述べられています。

「あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。
あなたの神、主が賜わった祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。」
(申命記16章16、17節)

ゆえにユダヤ人たちは、イエスを期待する理由がありました。
そこには多くのざわめきがありました。
イエスを見つけられずに、ユダヤ人たちはイエスについて語り始めました。

「そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。
「良い人だ。」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ。」と言う者もいた。」
(ヨハネの福音書7章12節)


現在、イエスの名が世界を二分しているように、当時の国も二分していました。
ある者はイエスを誠実な人と認めています。
ユダヤ人たちはイエスを良い人だと思っていました。
もしイエスが良い人なら、必ず、真実を話されるはずです。
だが、人びとの中には「違う。群衆を惑わしているのだ。」と言う者もいました。
現在も世界は分断されています。
あなたはどちらの味方でしょうか?
あなたはイエスの主張を認める者か、拒否する者でしょうか?
公然と誰も発言しませんでした。

「しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。」
(ヨハネの福音書7章13節)


指導者たちが言ったことを聞いており、問題になることを恐れたからです。
そして、祭りのさなかに、イエスは突然宮に現われました。
その時代、教師が寺の庭に出るのが慣例でした。
さまざまなラビが、さまざまな柱のそばに立っていました。
一日の決まった時間になると、好きな指導者についていろいろな人たちが集まって来るのを見たことがあるかもしれません。
あなたはある一つの柱のところに来て、サドカイ派の教師と彼を取り囲むグループを見つけることが出来るかも知れません。
別の場所では、パリサイ人が支持を集めているかもしれません。
イエスはある柱そばでご自分の席に着かれました。
イエスの回りに集まったユダヤ人たちは、イエスの教えに驚いて聞いていました。
イエスはあらゆる物事を理解していました。
イエスは、驚くべき権威をもって教えを説かれていました。
ユダヤ人たちはこのように言いました。

「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」
(ヨハネの福音書7章15節)


言い換えれば「なぜ、イエスは大学に行ったことがないのか?」ということです。
イエスは私たちの偉大な先生の足元で決して学ぼうとしていません。
どこでこの知識を手に入れたのでしょうか?
どのようにしてこのような素晴らしいことを学ばれたのでしょうか?
「イエスは神だ」と言う人も現れるかも知れません。
イエスは、そのことをユダヤ人たちに告げていません。
しかし、それは答えではありません。
イエスは神としての知識を用いているのではありません。
日ごとに父から、神のことばから学び、受ける道を選んだのです。
このことについて考えてみましょう。
祝福された神の御子!
永遠の知恵!
この知恵によって、天地が創造されました。
今やイエスは、地上の人となり、あなたや私が命じられているように、日々、聖書に目を通し、神の御言葉のページをめくり、人として、弟子として学んでいるのです。
イエスは私たちの手本となられたのです。
このことによって、キリストの働きを豊かで満ちたものにしたのです。
もし、私が今日、人類の祝福となるような人に話をするなら、強く勧めます。
この聖書から学んでください。
単純に、自分の理解と言葉が広まると思って、人間の著作に時間を浪費してはいけません。
聖書に生きるべきです。
あなたがたがこの聖書を学べば学ぶほど、真実な神の御言葉を人々に示すことができるのです。

「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」
(ヨハネの福音書7章15節)


イエスは父の足もとで学びました。
同様に、私たちも同じように学ぶことができます。
イエスは彼らに答えました。

「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。」
(ヨハネの福音書7章16節)


教義とは教えです。
イエスは言われました。

「わたしは、自分から話したのではありません。
わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。」
(ヨハネの福音書12章49節)


もし誰かが「これらの教えが本当に真実なのか?はっきりと知りたい」と言うかも知れません。
そして、神御自身が、どうすればわたしたちがそれを見いだせるかを教えて下さります。
そして、わたしたちはより確信するはずです。
イエスはこのように言っています。

「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」
(ヨハネの福音書7章17節)


人は神の御心を知りたいと心に決めます。
そして、悔い改めて神に向かって次のように言うことがあります。
「私は自分の罪から解放された、そして、神の御心を行いたい」のです。
もし人がそのような思いに駆られるのなら、この言葉は神の御子の言葉です。
あなた方はそのみこころが何であるかについて疑いを持つ必要はありません。
これは、素直な人ならだれでも、イエスの教えが真実かどうかを自分で調べることができるテストです。
ある人たちが私のところに来てこのように言ったとしましょう。
「私はあなたのように信じたいのです。
困ったことに、聖書が神の御言葉なのかどうかわからないのです。
私は聖書が真実なのかどうかわからないのです。」
私が彼らの言うことを信じるのであれば、何の問題もありません。
私の友よ!
ここにキリスト御自身の言葉があります。
これらの言葉が真実であるかどうかをどのように知ることができるのかをあなたがたに告げているのです.。
あなたがたは、何よりも神のみこころを行ないたいはずです。
お金を稼ぐことよりも、人生を歩む方に心が奪われるはずです。
イエスはこのように言われているのです。

「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」
(ヨハネの福音書7章17節)


もし、あなたがたが自分の罪からの解放を求め、神と正しくありたいと願うのなら、神の聖霊によって真理を開いてくださるよう求めるなら、神はこの聖句の中で、まさに、そのようにしてくださると宣言されています。
ある人たちがこのようなことで何度も私のところに来ましたが、私はいつも彼らをヨハネの福音書に送ります。
私たちはヨハネの福音書20章30、31節でこのように読んでいます。

「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」
(ヨハネの福音書20章30、31節)


一度に多くの聖句を読む必要はありません。
この聖句を一行ずつ読み上げながら、あなたの心を神に向かって上げて言ってみてください。
「神よ、私は何よりもあなたの御心を知りたいと願っています。
聖書はそれを証明するために書かれたのです。
私が学んでいる間に、あなたの真実を私に教え、真実にイエスが神の御子であるかどうかを私に知らせてください。」
このように多くの人が神の御元に行きました。
神の自分たちに対する御心を知り、彼らの疑いはすべて消えました。
アリゾナにカウボーイの友達がいました。
彼は神から遠く離れていたが、彼のたましいに神が力をもって語られる日が来ました。
私は彼が、何年もの間、聖書を信じず、聖書をあざけり、証しを退けていたことを聞いていました。
ついに、深い罪の確信の下に置かれたある人が彼に言いました。
「自分で神のもとに行き、神がそれをはっきりと現実のものにしてくださるようにお願いしたらどうですか?」
ある夜、彼はベッドの中でふれ伏して祈りました。
「神よ、もし、神がおられるのであれば、私のような哀れな罪人を見ておられるのであれば、もしイエス・キリストが神の御子であるなら、私の祈りを聞いてください。
そして、そのことを明らかにしてください。」
彼は聖書を調べ始め、その後何度も私たちにこのように語っています。
「何が起きたのか、表現することも説明することもできません。
しかし、何かが起こったことは知っています。
その3日以内に、主イエス・キリストが神の御子であり、私の救い主であることが、疑いもなく理解できました。」
彼は天に召されるまで何年も神の忠実なしもべでした。
彼は信仰を持って死にました。
長い間、彼は信仰を告白していました。。
「聖書は信じられない」と言うのであれば、その理由を教えましょう。
それはあなたがたが、聖書が宣告している罪の中に生きているからです。
もし、あなたが聖書を信じられないなら、あなたが罪の中に生きているからです。
もし、あなたが神の前でその罪に素直に立ち向かうなら、神はあなたが救われるための十分な光を与えてくださいます。


講演23 律法家への挑戦

「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。
モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」
群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか。」
イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。
モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。――ただし、それはモーセから始まったのではなく、先祖たちからです。――それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。
もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。
うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」
そこで、エルサレムのある人たちが言った。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。
見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。
けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」
イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。
わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」
そこで人々はイエスを捕えようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。
群衆のうちの多くの者がイエスを信じて言った。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行なわれるだろうか。」
パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした。
そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。
あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」
そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。
『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない。』また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」」
(ヨハネの福音書7章18~36節)


あまりに物語が充実しており、7章にあるような完全な説明を一度に取り上げることができないのは残念なことだと思います。
それは主がエルサレムの宮でユダヤ人と会われたことにすべて関係しています。
あらゆる出来事が次々に起こるが、それらはすべてつながっています。
私たちの最後のことばの中で、私たちは主が民にご自身を現わされたのを見ています。
そして、私たちは彼らとの会話の始まりを考えてみましょう。
18節では、同じ出来事を続きが語られています。
主イエス・キリストは16、17節で次のように言われています。

「そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。
だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」
(ヨハネの福音書7章16、17節)


また、イエスは次のように付け加えています。

「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」
(ヨハネの福音書7章18節)


常に主イエスは父の遣わされた者であると主張されています。
そして「神のみこころを行なおう」と言われています。
イエスは、自分の栄光のために人を集めようとしている利己主義者にすぎないのでしょうか?
もし、人が心から主のみこころを知りたいと願い、光を求めて主のもとに行くなら、イエス御自身が言われているように救い主であり、慰め主として神から遣わされた方であることを知ることになります。
もし、イエスが御自身のことだけを語っておられるなら、イエスはただご自身の栄光を求めているだけです。
箴言25章27節の一節を思い出してください。

「あまり多くの蜜を食べるのはよくない。しかし、りっぱなことばは尊重しなければならない。」
(箴言25章27節)


そこで使われていた説明がなかなか面白いものでした。
ソロモンはくり返し使っています。
蜂蜜というのは、自然なもので気持ちのいいものです。
まさに、人にほめてもらうことほどうれしいことは例えられます。
私たちの中には、人に良いことを言われると楽しくなるものがあります。
聖書によると、それは蜂蜜です。
それを摂りすぎないようにしてください。
蜂蜜を摂りすぎると問題になります。
ソロモンは「あまり多くの蜜を食べるのはよくない。しかし、りっぱなことばは尊重しなければならない」と言っています。
人が自分の栄光を求めるのは恥ずべきことです。
エレミヤ書45章5節でこのように書かれています。
神はネリヤの子バルクにこのように言っています。

「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下すからだ。
――主の御告げ。――しかし、わたしは、あなたの行くどんな所ででも、あなたのいのちを分捕り物としてあなたに与える。」
(エレミヤ書45章5節)


私たちの主イエス・キリストは、ご自分の御心を行なうために来られたのではありません。
ご自分を遣わされた方の御心を行なうために来られたのです。
彼の前任者であるバプテスマのヨハネは同じような特徴を持っていました。

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」
(ヨハネの福音書3章30節)


人が自分の仕事、自分の能力、自分の力などを絶えず話しているとしたら、その人は人々を自分のことでいっぱいにさせるのが目的です。
その人は自分の栄光を求めているのです。
ここで主イエスは私たちにこのことを思い起こさせています。
「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」
主イエスはそのために来られたのです。
イエスがゲッセマネに出て行かれる前の最後の夜、このように祈って言われました。

「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。
今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。
世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。
(ヨハネの福音書17章4、5節)


このようにイエスは私たちの偉大な模範なのです。
人が他のすべてに優先して取り組むべきことがあります。
それは自分を贖ってくださった方に栄光をもたらすことです。
ウェストミンスター信仰告白の短い教理問答の質問が好きです。
「人間の主な目的は何でしょうか?
その答えは「人間の主な目的は、神を賛美し、永遠に楽しむことである」ということです。
このように、私たちは自分を第一に考えると間違いを犯します。

よく、私たちは自分の利益を追求せずに、他の誰の利益をも追求しないと自分に言い聞かせることがあります。
しかし、御言葉はそれが真実ではないと宣言しています。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
(マタイの福音書6章33節)


「あなたがたはまず、神の国とその義とを求めなさい。そうすれば、これらすべてのものがあなたがたに加えられるであろう。」。
つまり、神を第一にし、自分を最後にしなさいということです。
そうすれば、神は定められた時にあなたが尊ばれていることを示してくださいます。
主イエスは、ご自分を遣わされた方をほめたたえることをご自分の生き方の目的とされました。
しかし、イエスは自分を偽者だと非難する敵対者たちに向かってこのように言われました。

「モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。
それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」
(ヨハネの福音書17章19節)


神がシナイ山で彼らに律法を授けられたのは、イスラエルにとっての栄光でした。
イスラエルに律法が与えられました。
このように、神の思いと御心の啓示を受けた国は他にありません。
そして、イエスは「それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません」と言っています。
キリストが来られるまで、この律法に完全に従つて步んだ人は誰ひとりも見いだされていません。
したがって、律法は彼らに罪を指摘することしかできなかったのです。
それはこのように言われているからです。

「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
(ガラテア人への手紙3章10節)


そして、新約聖書の中でこのように書かれていることを私たちは読むことが出来ます。

「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」
(ヤコブの手紙2章10節)


神の律法に従うことによって、神の御前で自分を義とする可能性を、私たちはどのように断ち切ることができるのでしょうか?。
律法はキリスト以外の誰も完全に守ったことがありません。
そして、イエスはカルバリの十字架に行きました。
私たちが贖われるために、破られた律法ののろいを負ってくださったのです。
イスラエルの人たちは、自分たちに与えられた特別な立場と特権で頭がいっぱいだったのです。
律法は自分たちを罪に定めるものでしかないものでしたが、その律法を美化していました。
しかしながら、すぐに主イエスは指を患部に当てられました。
そして、イエスは「あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか」と言われました。
しかし、もちろん民衆はれらのことに気づかず答えて言いました。

「あなたは悪霊につかれています。
だれがあなたを殺そうとしているのですか。」
(ヨハネの福音書7章20節)


それはイエスがいかに低い存在になったのかを表しています。
彼こそが天地の創造者です。
イエスは御自分の民の中で平静を保ち、このような罪状を押し付けられました。
そして、イエスは静かに彼らに答えらました。
群衆は「あなたは悪霊につかれています」と言っているのです。
イエスはこのように答えました。

「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。」
(ヨハネの福音書7章21節)


イエスは何を言っておられるのでしょうか?
それはベセスダの池で人を癒したことについてです。
彼らはイエスが安息日にその人を癒されたことを赦していません。
イエスが律法を破る者だという噂が広まっていました。
イエスが、38年の間、無力で何もできなかった哀れな者を見つけ、安息日にその者を元通り、完全な者にしたからです。
ユダヤ人たちはこれは法律違反だと結論づけました。
イエスは安息日にしなければならないことがあることを彼らに示されました。
たとえば、子どもの割礼です。
イエスはこのように宣言しました。

「モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。」
(ヨハネの福音書7章22節)

安息日に彼らはこの命令を実行しました。
安息日に彼らは契約のしるしを子どものからだにつけました。

「もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。」
(ヨハネの福音書7章23節)


もし、神が無力で不具な者、手足の麻痺した人に力を与え、安息日にイエスによって行われることを見たのであれば、彼らはむしろ神が御自分の民を訪れ、人類に祝福を注いでおられることを喜ぶべきではないでしょうか?
そして、イエスは付け加えています。

「見映えによって裁くのではなく、正しい裁きを下しなさい。」
(ヨハネの福音書7章24節)


私たちはそのことを心に留めておく必要があります!
人は事実を知らずに、人を裁くことを素早く行います。
そのようにユダヤ人たちは行いました。
ユダヤ人はイエスが安息日にその人を癒したことを聞きました。
神の御子が貧しい人たちに恵みを与えていたのです。
しかし、イエスがサタンに支配され神の律法を破っているという結論に達したのです。
彼らはイエスが律法に違反して罪を犯したかのようにイエスを非難しました。
私たちの祝福された主は別の時にこのように言われました。

「さばいてはいけません。さばかれないためです。」
(マタイの福音書7章1節)


そして、その時にイエスは深刻にこのように付け加えています。

「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」
(マタイの福音書7章2節)


イエスの真意はなんでしょうか?
クリスチャンに裁かれる時があることを語っているのでしょうか?
例えてみましょう。
もし、信者たちの間に災いが起きるのであれば、クリスチャンたちはその悪人を裁き、彼らの交わりから彼を遠ざけるように求められます。
もし、彼らがそうしなければ、神は教会に責任を負わせます。
「裁かれないように裁くな」という言葉と、どのように調和することができるのでしょうか?
主は動機について述べられているのです。
私たちには、他人の行為の根底にある動機を判断する能力がありません。
時に、私たちは残酷な存在となるのです。
そして、時に私は誰かに偏見を持つこともあります。
その人の外見上の生活には何の欠点も見つけられません。
そして、私はその人のするすべてのことに悪意のあると決めつける準備が出来てしまいます。
もしかしたら、その人が主の御業に大きな貢献をしているかもしれません。
そして、私は「彼は表向きだけそのようにしているだけだ」と言うのです。
主イエスがあなたに「さばいてはいけません。」と言われるのは、このようなことについてです。
神はこころを読みます。
しかし、あなたにはできません。

「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」
(ヨハネの福音書7章24節)


もちろん、「正しいさばきをしなさい」とははっきりとした判断に基づくべきです。
彼らは律法を破ったことでイエスを裁きました。
しかし、イエスには適合されることはありません。
ユダヤ人たちは当惑しました。

「そこで、エルサレムのある人たちが言った。
「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。」」
(ヨハネの福音書7章25節)


彼らは指導者たちがイエスを逮捕し、死刑にしようとしていることを知っていました。
しかし、イエスの言葉と態度があまりにもすばらしかったのです。
ゆえに、誰もイエスを憎み、殺そうとする理由を理解できなかったのです。
そこで、彼らは不思議に思い「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか」と言ったのです。
彼らは群衆の中にイエスが潜んでいることを知りません。
しかし、イエスは大胆に語っています。

「見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。
議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。」
(ヨハネの福音書7章26節)

支配者たちはイエスが誰なのか知っているのだろうか?
もちろん、ギリシャ語の「キリスト」とヘブライ語の「メシア」は同じものです。
どちらも「油注がれた者」という意味なのです。
つまり、「わたしたちの指導者たちは、この方が神に油注がれた方であることを知っているはずです。
イスラエルを救うために、この世に来られた方です。」
それでも彼らは困惑していました。

「けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。
しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」
(ヨハネの福音書7章27節)


彼らはイエスがベツレヘムで生まれたことを知っていました。
しかし、彼らはキリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ」と言っています。
なぜでしょうか?
神の御言葉がこのように言っています。

「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」
(ミカ書5章2節)


この不思議な謎の人物は誰でしょうか?
彼らは私たちにそれを理解することはできませんが、この男のことはすべて知っています。
その者はベツレヘムに生まれ、ナザレに住み、大工の仕事をしていました。
彼らはイエスが言うことを受け入れました。
イエスは彼らの心の思いを聞くことができました。

「イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。
「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。
しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。
わたしはその方を知っています。
なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」
(ヨハネの福音書7章28、29節)


「あなたがたは、私がベツレヘムで生まれ、ナザレに住んでいたことを知っているが、あなたは私の父を知らない」と言っているのです。
「あなたがたは、その方を知らないのです。」
もし、知っているのであれば、あなた方は私を受け入れるはずです。
私は誰かを知っています。
御父はその者が誰なのか知っています。
私は御父から来ました。
御父は私を遣わされました。
そして、この中でイエスはご自分の神性を宣言しています。
なぜなら、イエスは神の御元から来て、神の御元に戻るからです。
イエスがこのように祈ったことが書かれています。

「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。
世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」
(ヨハネの福音書17章5節)


イエスは永遠に父と一つです。
イエスは地上の人としてそのことを意識していました。
イエスは誰も知らない意味で父を知っていました。
しかし、彼らの心の中では、これは冒涜に等しいものでした。
ユダヤ人たちはイエスを捕えようとしました。
しかし、まだその時が来ていなかったので、だれもイエスに手をかけることができませんでした。

「そこで人々はイエスを捕えようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。
イエスの時が、まだ来ていなかったからである。」
(ヨハネの福音書7章30節)


このことによって、イエスが人の力に従っていないことが明らかにわかります。
イエスが十字架で死なれたのは、敵の手の中で無力だったからではありません。
イエスが死ぬために出て行かれる時までは、だれもイエスに傷をつけたり、イエスを殺したりすることはできないのです。
しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。
イエスの時が、まだ来ていなかったからである。」
その結果、私たちは、多くの民がイエスを信じたことを読みました。

「群衆のうちの多くの者がイエスを信じて言った。
「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行なわれるだろうか。」」
(ヨハネの福音書7章31節)


これは彼らがイエスを救い主として信頼していたという意味ではありません。
彼らがイエスがまことのメシアであることを信じたという意味です。
彼らはイエスがどのようにメシアとして現わるのかを待ち望んでいました。
彼らは「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしが行なわれるだろうか」と言っているからです。
預言者たちはイスラエルの救いのために来るメシアを預言していました。
そうでなければ、どうしてほかの人をメシアとすることができるのでしょうか?
しかし、パリサイ人たちは、ユダヤ人の中でも最も厳格で、正統派とみなされていました。
聖書のすべての偉大な教義を受け入れていながらも、主イエス・キリストを受け入れることを拒んでいました。
群衆がイエスについてつぶやいたのを聞いたので、パリサイ人たちと祭司長たちは、イエスを捕えるために役人たちを遣わしました。
そして、イエスは彼らに会って言われました。

「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。」
(ヨハネの福音書7章33節)


イエスは「今まで、私はあなたがたの間でわたしの働きを続けています。
しばらく、私はあなたがたと一緒にいます。
しかし、それからわたしを遣わされた方の御許に行きます」と宣言されたのです。
イエスは、十字架を通り、墓を通って行かれることを知っておられました。
まさにイエスはこの目的のためにこの世に生まれてきました。
また、イエスに仕えられた者には「私は墓から出て、勝利を得て、御父の御前に上って行きます」と言われました。
そして、イエスに背を向けると心に決めた者たちにこのように言ったのです。

「あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。
また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」
(ヨハネの福音書7章34節)


これは深刻な言葉です。
これは彼らのためだけに語られたのではありません。
現在、生きている人たちのためにも書かれたのです。
イエスは福音を宣べ伝えることによって、ご自身を人に現わしておられます。
そして、人々に自分を受け入れるために心を開くよう求めています。
しかし、人々はそれを拒むのです。
やがて、彼らがイエスを求める時が来ます。
しかし、誰もイエスを見いだすことはできません。
イエスが父の御元に帰られる時、彼らが聖書の言葉に従わないことに固執するなら、向こう側では彼らはイエスと一緒にいることができません。
多くの人が「どんな生き方をしていても、誰もが最後には天国に行ける」という観念を持っています。
しかし、いかに矛盾しているかがわかるはずです。
魂が罪から清められると死には浄化作用があると信じたいところです。
しかし、福音の証言がそれに反している以上、信じることはできません。
違うものは違います。
イエスは「わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません」と語っています。
この地上でキリストを受け入れなければ、人は永遠にキリストとともにいることはできません。
あなたはイエスを信じていますか?
あなたはイエスを自分の救い主として受け入れていますか?
それとも、まだ議論を続けるつもりですか?
「いつか、この問題を解決する日が来るかも知れない」と言っているのでしょうか?
時間が短いことを信じるべきです。
やがて、あなたにはチャンスがなくなります。
イエスがあなたがたに「あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。
また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません」と仰せになる時がきます。
その前に、あなたがたはイエスの恵みを待つ間にも、イエスに近付くべきです。
ユダヤ人たちはイエスがご自分の死について語られたことを理解していません。
ユダヤ人はこのように言いました。

「私たちには、見つからないという。
それならあの人はどこへ行こうとしているのか。
まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。」
(ヨハネの福音書7章35節)


これはどういう意味でしょうか?
イスラエルが異邦人の間に散らされてから、何世紀も時が経っていました。
祭りをするために、年ごとに多くのユダヤ人がエルサレムに上って来ました。
彼らの家は異邦人の中にあります。
そして、パレスチナに住むユダヤ人は彼らを軽蔑していました。
彼らは「まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい」と尋ねました。
イエスは、そのように言われたのではありません。
しかし、イエスの復活の後、福音はイスラエルの散らされた者だけでなく、世界中の異邦人にも伝えられることになります。
だが、イエスが「わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません」と仰せになったのは、そういう意味ではありません。
イエスは御自身が昇天することについて言及していました。
彼らはこのように言っています。

「『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない。』また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」」
(ヨハネの福音書7章36節)


主イエスはそのことに明らかに背を向けています。
イエスは、それ以上彼らに言っていません。
彼らはそのことを考え、その問題を議論しました。
その後、イエスは祭りの最後の日に、再び彼らの間に現われました。
しかし、イエスには次に必要な言葉を語っていません。
私たちはイエスを信じているのでしょうか?
私たちはイエスに心を開いているでしょうか?
もし、私たちの心が開かれているのであれば、私たちはイエスによりよく仕えるように努めるようになります。
恵みによって、失われた世界に証しし、ますます、イエスの足跡を見て歩むことに努めることになります。


講演24 聖霊の約束

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」
(ヨハネの福音書7章37~39節)


これらのいくつかの聖句では、私たちの主は聞く者たちの心を新しい摂理、時代へと進めさせています。
主イエスは律法の下に来ました。
イエスはすべての旧約聖書の預言的な聖書に正確に従って来ました。
イエスは律法を強調し、それを完成させるために来ました。
イエスは、ご自分の栄光に満ちた働きを行い、律法の下での民の失敗を指摘しながら、律法を知らしめるために恵みと真理を絶えず話されています。
私たちはすでに、神殿でのイエスのさまざまな会見について考えてきました。
ここでは、幕屋のおおいなる祭りの最終日に起こったことについて考えてみましょう。
最後の日には「水の注ぎ出し」と呼ばれる特別な礼拝を行うのが慣例となっていました。
その日、白い衣を着た祭司たちの集まりが、シロアムの池に下って行きました。
彼らは池の水を壺に入れ、神殿に戻って人々の前で水を注ぎました。
これはイスラエルが荒野をさまよっていたときに、神がイスラエルのために備えてくださった驚くべき恵みを彼らの心に呼び起こすためでした。
イスラエルがモーセの御元に来ました。
そして、モーセは神に叫びました。

「「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。
さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」
そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。」
(出エジプト記17章5、6節)


それから後に、イスラエルが約束の地にはいる少し前に、また水が不足して苦しんだ時、神はこのように仰せられました。

「(アロンの)杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。
あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」
(民数記20章8節)


しかし、モーセは2回、岩を叩いてしまいました。

「モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。」
(民数記20章11節)


水は豊富に流れ出しましたが、モ―セは神の指示に従っていなかったのです。
モ―セは悩みイラついており、大失敗をしてしまいました。
時には、神のしもべであっても悩み、動揺したりすることもあります。
このとき、実際にモーセは怒っています。
その結果、モ―セは神の美しい型を台無しにしてしまいました。
出エジプト記17章にある、神に向かって従順に岩を打つ行為は、裁きの杖でキリストを打つことの美しい型でした。
モ―セが葦の海の上に杖を上げた時、水は裂け、民はかわいた地を通って行きました。
ここで、岩に対して同じ杖を使うのは、完全に適切な行為でした。
その岩とはキリストです。
キリストはカルバリの十字架で裁きのために打たれなければなりません。
私たちのために「いにしえの岩(Rock of Ages)」が裂けたとき、キリストはその杖の下に頭を垂れました。
そして、乾いた世を清めるために、生ける水が流れ出たのです。
しかし、あなたはキリストが裁きで打たれたのは一度だけだと知っているはずです。
キリストが私たちの罪のために死なれました。
二度とは死ぬことはありません。
さばきの杖を打たれることを二度と知ることはありません。
罪の問題は完全に解決しました。
神は二度目にモーセにアロンの杖を持って出て行き、岩に語りかけるように命じられました。
つまり、今、私たちの救い主が偉大な大祭司として神の御前では働いておられることを私たちに思い起こさせるために、モーセは祭司の杖を取ったのです。
私たちの命を支えるためにキリストが再び打たれる必要はありません。
しかし、私たちは民数記20章でこのように読みました。

「モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。
すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。」
(民数記20章11節)


その後にモーセは民に言いました。

「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
(民数記20章10節)


このようにモーセは、後の時代に行われた御子の御業についての神の美しい描写を台無しにしてしまいました。
しかしながら、恵み深い神はしもべの失敗にもかかわらず、水は湧き出しました。
今もなお、神はその無限の恵みによって、人々の理解をはるかに超えて、人々の必要を満たしているのです。
しかしながら、モーセに起こったことを読んで見てください。
神はこのように言われました。

「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。
それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
(民数記20章12節)


モ―セは約束の地に入ることを願って祈りました。
しかし、主はこのように言われました。

「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。」
(申命記3章26節)


最後に主はこのように言いました。

「あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかにながめることはできるが、その地へはいって行くことはできない。」
(申命記32章52節)


このように、この時、モーセの祈りは答えられなかったのです。
その後、1500年後、神はモーセがその地に入ることを許可しています。
さて、弟子たちが変貌の山の上で見上げると、主イエス・キリストがモ―セとエリヤと共に見えました。
神はモーセを約束の地に入れました。
それはモーセが主イエス・キリストの同伴者としてそこにいることができたのです。
ここで、岩を砕いた時の話に戻しましょう。
祭司たちは幕屋の祭りを守るために、シロアムの池(「送られた」という意味)から水を持って来て、民の前で主の前にその水を注ぎました。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」」
(ヨハネの福音書7章37節)


現在でも、イエスは同じ素晴らしい言葉を叫んでいます。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」
このメッセージの普遍性に注目してください。
そこには渇きを知らず、永遠のものを慕い求めることが何であるかを知らない者がいます。
イエスは「だれでも渇いているなら」と言っています。
何の事例もありません。
渇きという性質さえ示していません。
かつて主が言われたように「義に飢え渇いている者は幸いです」という意味かも知れません。。
主は「善を求め、清さを求め、聖さを求めて渇く者があれば、わたしのもとに来て飲みなさい」という意味で言ったのでしょうか?
しかし、イエスはそれよりもはるかに広い意味を持っています。
イエスは「だれでも渇いているなら」と言っています。
それは私たち一人一人のために言っているのです。
あなたは「私は喜びに飢えている」と言うかもしれません。
もしくは「私は生きる喜びと楽しみをもっと見つけたい」と言うかもしれません。
私の愛する友よ!
もし、だれかが本当の楽しみと永遠の喜びに渇いているなら、イエスは「その者をわたしのもとに来て飲みなさい」 と言われます。
詩篇にはこのように書かれています。

「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」
(詩篇16編11節)


イエスがサマリヤの井戸の水について言われたことは、地上にあるすべてのものに当てはまります。

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」
(ヨハネの福音書4章13節)

あなたは地上のさまざまな楽しみをすべて試してみても、決して渇きを癒すことはできません。

私たちは多少なりとも罪の中に快楽があることを認めています。
だが、あなたがたは聖書の中にこのように書いてあることを知っています。

「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、
はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。」
(へブル人への手紙11章24、25節)


それがすべてです。
わずかな間だけです。
夏に飲む甘い飲み物のようなもので、飲むたびに喉が渇くのです。
世が提供しているすべてのものがそうなのです。

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」
(ヨハネの福音書4章14節)


ある人がこのように言いました。
「私は喜びにはこだわりません。
しかし、家族と自分自身のために快適な生活を送るための手段としての富を切望しています。」
そうです。
しかしながら、この世の富は過ぎ去ってしまいます。
もし、あなたがたが永遠に続く喜びと永遠に続く富を望むなら、イエスのところに来てください。
そして、その恵み深い招きに耳を傾けてください。
そうすれば、あなたがたは永遠に豊かになれるのです。
おそらく、あなたは他人からよく思われたいと望んでいるのかも知れません。
親愛なる友人たちよ。
神を敬うことに勝るものはありません。
それは祝福された御子を信頼し、主イエス・キリストを自分の救い主として受け入れるときに得ることができます。
その時、神とともにあなたがたが、とこしえに続く栄光に預かることを神が保証してくださります。
イエスは自分のことをこのように言いました。

「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。
それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」
(ヨハネの福音書17章22節)


私たちはよく「栄光」の歌を歌います。
その一節にはこのようにあります。

「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。
それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」
(The glory which Thou gavest Me I have given them; that they may be one, even as We are one.)
ある人たちがこのフレーズに異議を唱えています。
むしろ「それが主の栄光となる 」(That will be glory for Him.)と歌いたいと言う人もいます。
もちろん、それは神の栄光です。
しかしながら、一方で神の祝福された顔を見つめ、永遠に神と一緒にいることは、私の栄光となるのです。
その日、わたしたちはどれほど満ち足りることになるのでしょうか。
その通り「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われるのです。
そして、イエスはこのように付け加えています。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
(ヨハネの福音書7章38節)


神の身元に来て飲むということは、神がお与えになった御言葉を信じ、神に信じることです。
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
さて、この聖句はどこで語られているのでしょうか?
これに沿った正確な聖句は存在していないかも知れません。
しかし、主は聖書の一般的な教えを指しているのだと私は考えています。
イザヤ書41章17、18節にある聖句は、私たちの主イエス・キリストが語られていることと同じことを指している栄光に満ちた約束があります。
神がお与えになった救い主に信賴する者には、霊的な慰めと祝福があるのです。

「悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。
わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。」
(イザヤ書41章17、18節)


同じイザヤ書の43章19、20節には預言者イザヤがこのように書いています。

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
(イザヤ書43章19、20節)


また、イザヤ書44章3節にはこのようにあります。

「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」
(イザヤ書44章3節)


同じ預言書からのもう一つ58章11節から引用してみましょう。

「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。
あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。」
(イザヤ書58章11節)

そこには信じる者の心が描かれています。
信じる者の内面にあるものは、諸民族の祝福のために、水の流れる楽園となるのです。
エレミヤ書31章12節には同じ描写がされています。

「彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、穀物と新しいぶどう酒とオリーブ油と、羊の子、牛の子とに対する主の恵みに喜び輝く。彼らのたましいは潤った園のようになり、もう再び、しぼむことはない。」
(エレミヤ書31章12節)


そして、旧約聖書の聖なる書物であるソロモンの雅歌には、花嫁として表されている信者が描かれています。
その者は水が流れ出る庭を心に持つ人として描かれています。

「私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉。」
(雅歌4章12節)

「庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ。」
(雅歌4章15節)

人の祝福のために庭から流れ出る生きた水です。
そして、もう一つの旧約聖書の聖句があります。

「あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から。
あなたの泉を外に散らし、通りを水路にしてよいものか。」
(箴言5章15、16節)


そして、これらの箇所以上に、さらに多くの箇所が付け加えられるかもしれません。
しかし、神の御霊が神の子供たちの中に生ける水として宿り、他の人々に祝福のうちに流れ出るという教えが存在しています。
これは、今の時代における神の聖霊の働きと、栄光の王国の時代における神の御霊の働きを指しています。
このことは、私たちが読む39節の聖句にはっきりと示されています。

「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。
イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」
(ヨハネの福音書7章39節)


これは主イエス・キリストが十字架で打たれた後、父のもとに帰られる時のことを示しています。
その時、聖霊が新しい意味を持って来ます。
すべて信じる者を支配し、その内に住まわれることになっていました。
それは、信じる者たちが、その証しによって、他の人たちに慰めと喜びをもたらすためなのです。
そして、親愛なるクリスチャンよ!
あなたと私は、生きている水の流れ出るのを妨げるようなことが私たちの生活の中で行われていないのかを心配すべきです。
庭から流れ出る小川が石やがらくたによってせき止められたり、妨げられたりするように、私たちの生活においても汚れによってせき止められたり、祝福の流れを妨げたりすることがあります。
私たちクリスチャンは、利己主義、世俗主義、軽率な行動、裁かれていない罪によって、流れを妨げていないでしょうか?
これらすべてのことが生きた水の流れを妨げます。
もし、私たちがキリストのもとに来て、キリストの愛を受けて生活し、キリストとの交わりを妨げることがないのであれば、私たちは確実に祝福の水路となり、そこから生ける水が絶え間なく流れ続けます。


講演25 「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」

「このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、
またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。
キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」
そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。
その中にはイエスを捕えたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。
それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」
役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。
議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。
だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」
彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。
「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」
彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」
そして人々はそれぞれ家に帰った。
(ヨハネの福音書7章40~53節)


仮庵の祭りの終わりの日に主が 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と叫びました。 前回の講演では、この箇所から聖霊の到来に関する主の素晴らしい宣言について考えてみました。
そして、イエスは次のように付け加えています。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
(ヨハネの福音書7章38節)


福音伝道者は生ける水の意味をこのように説明しています。
「これはイエスを信じる者たちが受けるべき聖霊について語ったものです。」
私たちの主イエスがこのように生ける水について語っておられるのを聞いたイスラエルの民は、彼らが馴染んできた旧約聖書の一節から、生ける水について語られている聖句をメシアの日と結びつけたのです。
彼らはエレミヤとイザヤの預言から、生ける水の賜物がメシアの日に与えられることを知っていたからです。
すぐに、彼らは私たちの主がご自分のメシアであることを宣べ伝えておられるという結論に飛びつきました。
確かに、その通りです。
しかし、神は、このすべての祝福がイスラエルの民にもたらされる時がまだ来ていないことを知っておられました。
彼らは祝福を拒み、祝福は異邦人に向けられました。
そして、その祝福は彼らでなく神を信じるイスラエルの残りの者が受け継ぐ者となったのです。
主の御言葉に耳を傾けていた者たちは、次々と悔い改めてこのように言いました。

「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」
(ヨハネの福音書7章40節)


彼らの言う預言者とは何を意味していたのでしょうか?
彼らは申命記18章のモーセの言葉のことを考えていたのです。
15節以降にあるのは、イスラエルの民がカナンの地に入る前、モアブの平原で彼のところに集まっていた時、モーセが彼らに語っていることを聞くことができます。
主はこのように言われました。

「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。
彼に聞き従わなければならない。
これはあなたが、ホレブであの集まりの日に、あなたの神、主に求めたそのことによるものである。あなたは、「私の神、主の声を二度と聞きたくありません。またこの大きな火をもう見たくありません。私は死にたくありません。」と言った。
それで主は私に言われた。「彼らの言ったことはもっともだ。
わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。
わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。
わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。」
(申命記18章15~19節)


これらの言葉は私たちの主イエスキリストのことを述べています。
使徒の働き3章22節で使徒ペテロが民に語ったことを私たちはこのように読むことができます。

「モーセはこう言いました。
『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。
この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。
その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』」
(使徒の働き3章22、23節)

私たちの主イエスの教えを聞いていたユダヤ人たちは、聞いていたさまざまな事柄をまとめ上げました。
そして、イエスが彼らの間で行なわれた驚くべきヨハネのしるしを思い浮かべながら「この方こそ、私たちが待ち望んでいた方に違いない」と言ったのです。」
あなたがたは、その預言者がイスラエルの中から来られることを知っています。
「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。」
神がシナイ山で炎の中で語られ、イスラエルは恐れてこのように言ったのです。

「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。
しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」
(出エジプト記20章19節)


しかし神は「あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる」と言ったのです。
その者は彼らへのメッセンジャーでした。
しかし、その預言者の言葉を聞かない者は、神は死を求める、もしくはその者は民の中から滅ぼし絶やされるのです。
イスラエルはイエスがその預言者であるという確信はなかったが、イエスこそがその預言者だと考えたのです。
そして、互いにこのように言ったのです。

「またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。
またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。
(ヨハネの福音書7章41節)

キリスト、すなわち「油そそがれた者」だと言ったのです。
イスラエルの人たちは聖書から、神の油そそがれた方が彼らに現れる日が来ることを知っていました。
ゆえに、ユダヤ人たちはイエスをメシアと呼びました。
メシアとは「油そそがれた者」という意味です。
詩編2編にはこのように記されています。

「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。
地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。
「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」」
(詩編2編1~3節)


同じ詩篇のもう少し下の6節にはこのように書かれています。

「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」
(詩編2編6節)


主イエス・キリストは神によって油注がれた者です。
この方こそ、神ご自身が御霊によって油を注がれ、失われた人類を救うために世に遣わされた方なのです。
しかし、ある者たちはくちびるを曲げ、皮肉をこめて「キリストはガリラヤから出てくるのですか」と尋ねました。
ユダヤの人たちは、ガリラヤのもっと無知で信仰の薄い人たちを軽蔑していました。
彼らには、ガリラヤから来た者が神に油注がれた者であるとは考えることができなかったのです。
その後、52節で、彼らがガリラヤについて非常に誤ったことを言っていることがわかります。

「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」
(ヨハネの福音書7章52節)


はい、確かに聖書にこのように書いてありました。

預言者ミカはこのことをはっきりと告げています。
ミカの預言は主の誕生のときに引用されています。

「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」
(ミカ書5章2節)

彼らは聖書に書いてあることを知っていました。
彼らはキリストがベツレヘムで生まれることを知っていました。
しかし、今は誤りを犯しています。
彼らはイエスがベツレヘムでお生まれになること、また、イエスがダビデから出て、ダビデの血筋であるマリヤを通して来られたことを知らずにいます。
主の誕生は、すべての点において預言の成就でした。
イエスは処女から生まれました。
イエスはベツレヘムでお生まれになり、ダビデの血筋からお生まれになりました。
しかし、彼らは、これらのことが真実かどうかを調べようとはしていません。
神が御言葉を与えられました。
誰もこの神の御言葉を知らないことは許されていません。
現在でも、多くの人がこの聖書を知りません。
おそらく、誰もが裁きの日には神の御心を理解していないことの言い訳ができ、この聖書を知らないと主張できると思っているはずです。
しかし、心に留めておくべきことがあります。
もし、あなたがたが神のことばを知らないなら、あなたがたは意図的に知らないようにしているのです。
この世界には聖書があります。
聖書を学ばないなら、神のみこころを学ばないのはあなたの責任です。
イエスはこのように言われています。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。
その聖書が、わたしについて証言しているのです。」
(ヨハネの福音書5章39節)


ここで私は私たちの責任に対する偉大な目覚めの時が来ることを期待しています。
多くの人が週末ごとに聖書をほとんど開くことがないのではないでしょうか?
この人たちはくりかえし説教壇や日曜学校からのメッセージに頼っています。
しかし、神はご存知です。
多くの場合、そこでは何も得られていません。
しかし、弁解の余地はありません。
あなたがたには聖書があります。
あなたは自分で読むことができるからです。
しかし、私は確信しているのです。
もし、クリスチャンたちが、このことについて責任を持ち、神の御心を知るために、この聖書を読んで教えるのであれば、やがて、神の民のうちに大いなるリバイバルが起こり、キリストを持たない者のうちに大いなる目覚めの時が来るはずです。
ある日、イギリスにいる親愛なる宣教師が、病気のためにインドの任地を離れたことを私たちに話してくれました。
彼はインドの教会の先住民の長老の一人からの手紙を読んでくれました。
彼は、インドの教会の人たちがどれほど彼を愛しく思っていたのかを話してくれました。
その宣教師がいない間に、彼らは多くのことを祈り、御言葉を読んでいました。
実際、彼らは本当の意味で 「聖書」を読み返していたのです。
その宣教師は私たちにその手紙を読んでこのように言いました。
「インド人の兄弟が言ったことは正しいと思います。
「聖書」を読む者たちにはリバイバルがあるのです。」

「イエスは答えて言われた。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」」
(マタイの福音書4章4節)


しかし、人々が自分から聖書を知ろうとしなければ、その無知の責任を問われることになります。
私たちはこのように読んでいます。

「そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。」
(ヨハネの福音書7章43節)


いまだにイエスのために分裂が存在しています。
「この方はキリストだ」と言う人もいます。
また、「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう」、「私たちは彼を受け入れることができません」という人もいます。
現在、二つの区別が存在しています。
一つは信仰によって顔を上げて「私たちはイエスこそが救い主を認めます」という人たちです。
また、もう一つの区別にイエスを拒む者たちがいます。
しかし、神は、私たちが救われるためにほかに名が与えられていないと言われました。
もし、私たちが神についての神のあかしを受け入れないなら、もし、私たちがイエス様を救い主、主として受け入れることを拒み続けるなら、次のイエス様ご自身の深刻な言葉が成就します。

「それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。
もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」
(ヨハネの福音書8章24節)


このように、現在においてもイエスのために分裂があります。
今、あなた方に優しく尋ねたいと思います。
あなた方はどちらの側にいるでしょうか?
あなたはイエスを信頼し、受け入れた者でしょうか?
それともあなたがたはイエスを拒み、その恵みを拒んだ者の中に数えられているのでしょうか?
神に感謝します。
もしあなたがたがイエスを受け入れていないのであれば、悔い改めて神のもとに来ることができます。
あなたはあなたがたの救い主として受け入れるのに、遅すぎることはありません。
そこにはイエスのために人々の間に分裂がありました。
ある者はイエスを捕えて逮捕しようとしました。
しかし、誰もイエスに手をかけることが出来ませんでした。
まだ、イエスが捧げられる時は来ていなかったのです。
パリサイ人たちは、イエスを逮捕してサンヘドリンに連れて行くために、役人たちをイエスのもとに遣わしました。
45節には、彼らは何も持たずに戻ってきたと書かれています。

「それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。
彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」
役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
(ヨハネの福音書7章45、46節)


このように彼らは素晴らしい答えをしました。
イエスのことば、イエスの話し方、イエスの教えには、この残酷な役人たちの心を動かす何かがありました。
ゆえに、彼らは何も出来ず、無力でした。
そして、何よりもイエスを捕える勇気がなかったのです。
彼らは戸惑い、驚きながら去って行きました。
このような力で語る方はだれでしょうか?
彼らは祭司長たちやパリサイ人たちに「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」と答えました。
パリサイ人たちは役人はイエスのメシアであることを確信しているに違いないと思ったはずです。

「すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。」
(ヨハネの福音書7章47節)


パリサイ人たちは 答えて言ったはずです。
「あなたがたは欺かれています。
あなたがたは、物事を慎重に量ることが出来なくなっています。」

「議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。」
(ヨハネの福音書7章48節)


地位のある者たちにはイエスを信じる者は多くありません。

「また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。
すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」
(コリント人への手紙第一1章28節)

地位のある者たちが入ることは多くはありません。
その反面で、高い地位にいる人たちにも、私たちの主イエスの美しさと祝福を理解している人たちは常に存在しています。
このように、王家や重要な家にいる人たちの中にも、神の優れた聖徒たちが存在していました。
神は裕福な人々の中にも聖徒を持っておられます。
あなたは知っているはずです。
「議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。」
しかし、彼らはこのように宣言しました。

「だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」
(ヨハネの福音書7章48節)


これはニコデモが自分の立場を示す機会となりました。
彼はパリサイ人の一人であり、律法学者の一人であり、聖書の指導者でした。
かつて、ニコデモは夜にエスのもとに来たことがあります。
ニコデモはすぐに口を開きました。

「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」
(ヨハネの福音書7章51節)


それは「あなたがたは自分でイエスの言われたことを聞いたのですか?
あなたがたは自分でイエスの力ある御業を見たのですか?
もし、そうでないなら、なぜ判断を下すのですか?
なぜ、あなたはイエスは騙すものというのですか?」と言うのと同じ事でした。
つまり、ニコデモは 「裁く前に調べなさい 」と言っているのです。
現在においても、私たちは主イエス・キリストの主張に反論しようとするすべての人たちに「裁く前に調べなさい」と言いたいのです。

もしあなたが無神論者か無宗教者であれば、「イエス・キリストの話は信じられない。
彼が処女から生まれた神の御子だとは信じられない」 と言うなら、どのような記録を読み、どのような調査をしたのかお聞きしたいのです。
十分な教育を受けた福音の多くの伝道者が、聖書を否定し、主イエス・キリストの証言を否定する人たちが書いた本をいくつも読んだきたはずです。
私も神を信じない人が書いたそのような本を文字通り何百冊も読んできました。
あなたはこのように尋ねます。
「あなたがたの聖書に対する信仰が揺り動かされましたか?」
「いいえ、彼らは私に不信仰の愚かさを見せてくれただけです。
私はクリスチャンの信仰に対する証拠について書かれた本の一冊でも読んだことのある未信者に会ったことがありません。
現在では、ある程度いるかもしれませんが、私はそんな人に会ったことがありません。」
人は別の方向からの議論を好みます。
普通に反論してくる人は、神の真理を弁護するために書かれた書物をわざわざ読もうとはしません。
私は何年も前から、信仰を持たないと言った弁護士の告白を知っています。
ついに、ある人が言いました。
「しかし、あなたは別の方向からを見ていませんね!」
すると「私は決めました」と彼は答えました。
「その通り、君は別の方向で読んだことがありません。」
古い本がここにあります。
「信仰がないネルソン」と呼ばれている本があります。
―あなたにその本を読むことを勧めます。」
彼は「いいでしょう。
そうすべきだと思います。」と言いました。
その本を読みました。
そして、彼は本を読み終える前にクリスチャンになりました。
A・T・ピアソン博士の「多くの誤りのない証明」 のような多くの本がありますが、いろいろと話題になるかもしれません。
厄介なのはキリストの十字架の敵は、聖書が非難している罪を放棄したくないので、調べることさえしません。
信仰の無い者たちは、クリスチャンになるということは、罪から離れ、自分の意志をキリストにゆだねることであることを知っています。
ニコデモは挑戦状を投げて言いました。
「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」
彼らは彼に答えることができるでしょうか?
そんなことはありません。
イエスを否定する者たちは「それは真実です」と答えます。
しかし、その答えは、言い逃れでしかありません。

彼らは答えて言った。
「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」
(ヨハネの福音書7章52節)

彼らは自分の無知をさらけ出しました。
彼らは威厳のある先生たちですから、すべてを知っていると思っているはずです。
彼らは「すべての学者が自分たちに同意している 」と思っていました。
そして、仲間の一人が主の代弁者として出てくるならば、彼らは「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない」と言ったのです。
彼らはあまり注意深く聖書を読んでいません。
彼らはヨナがガリラヤの町ガテ・ヘフェルの出身であることを忘れています。

「それは、イスラエルの神、主が、そのしもべ、ガテ・ヘフェルの出の預言者アミタイの子ヨナを通して仰せられたことばのとおりであった。」
(列王記第二14章25節)


また、預言者ナホムはガリラヤ人であったと一般に信じられています。
少なくとも一人の預言者、おそらく二人の預言者がガリラヤから出てきています。
ならば、別の預言者がガリラヤから出てくる可能性も十分にあります。¥
しかし彼らは「調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」と言っています。
現在においても、これが人々が神の真理を取り除く方法なのです。
親愛なる友よ!
自分の魂を不当に扱わないでください。
もし、あなたがたが、まだ主イエス・キリストの主張を調べたことがないなら、ぜひ調べて見てください。
証拠を検討したこともないのに、イエスの主張が嘘だと思い込むのは愚かの極まりです。

ここで、私たちは役人たちが使った言葉に戻ってみましょう。
彼らはイエスについて「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」と言いました。
私は、この言葉が私たちの主イエス・キリストの素晴らしい人格を示すものだと考えてほしいのです。
彼の言葉は力強い言葉でした。
彼らがそのように話すのは、単に美しい比喩とか、美しい描写ではありません。
彼らは「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」と言ったのです。。
イエスの言葉を考えてみてください。
イエスは「さて、律法にはこう書いてある、そして、私はあなたがたに告げます」と語っています。
確かに、イエスのように話した人はいません!
そして、イエスの言葉の力を考えてみてください!
哀れなな民がイエスの所に来た時のことです。
盲人は「主よ。目が見えるようになることです。」と言いました。
すると主は「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言って、両手を両目の上に置きました。
そして「開け」と言ったのです。
すると、盲人は見えるようになりました。
哀れな皮膚病の患者を見てください。
とても、汚れており、不潔で、清くありません。
彼はこのように言ったのです。

「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」
「マタイの福音書8章2節」

すると、イエスは手を伸ばして、彼にさわり、このように言われました。

「わたしの心だ。きよくなれ。」
「マタイの福音書8章3節」


すると、すぐに彼のらい病はきよめられました。
彼は主の御言葉の通りに行ったのです。
皮膚病の彼は自分のきれいな体を不思議そうに見ていたと思います。
彼の心も同じようにあの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」と言ったはずです。
その時、イエスは死人のそばに、もしくは墓場のそばに立っていました。
イエスがヤイロの娘のいる家に入られて、彼女の手を取ってこのように言ったのです。

「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」
(マルコの福音書5章21節)


すると少女は立ち上がりました。
彼女の両親は「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」と言ったはずです。
ラザロの墓では人々が石をどかしました。
そして、イエスは「ラザロよ。出て来なさい」と言いました。
すると、死んだラザロが出てきたのです。
私は群衆が「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」と心の中で言ったと想像しています。


親愛なる友よ!
イエスが十字架にかけられた時に、イエスは背く者たちのために祈りました。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
(ルカの福音書23章34節)


しばらくして、イエスは勝利を感じて 「完成した」 と言いました。
確かに「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
かれが復活して弟子たちに会った時、イエスは「おはよう」と言われました。
その後、弟子たちの間に現われてこのように言いました。

「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
(ヨハネの福音書20章21節)

弟子たちは「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」と言って去ったはずです。
現在、イエスは神の栄光に上り、天におられる御父の右に座っておられます。
しかし、やがて、イエスはよみがえられ、死者を墓から呼び出し、生きている者に変えます。
やがて、イエスが「わが愛しい者よ、起きて出て来なさい」と仰せになる時が来るのです。
その時、私たちは立ち上がり「この人のように語った人はいない 」と叫びながら、空中を歌い歩くだろう。
私たちは立ち上がって「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」と叫びながら、空中を歌いながら進んで行くのです。
そして時代の終わりに、偉大な白い王座が確立されます。
死者は墓から呼び出され、さばきのために御前に立つことになります。
ガリラヤの岸を步かれた方、悩み苦しむ者に優しく語られた方の御顔を見ることになります。
今、彼は御座におられるのです。
彼らは、自分たちの罪、そして何よりも、神の恵みを拒んだ罪を償うために、神の前に立つことになります。
そして、その方がこのように言うのです。

「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」
(マタイの福音書25章41節)


私はこのような言葉を聞きたくありません。
彼らはイエスの手にしがみつこうとして「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」と言うのです。
あなたがたは、恵みのうちに呼ばれ、イエスの「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」という声を聞いたことがあるでしょうか?
今日、イエスは「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と問いかけています。
そして、このように言われるのです。

「「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。
聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。
神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。」
(へブル人への手紙3章15~17節)


もし、あなたがたがイエスに信じるならば、イエスはあなたがたの罪の中にいる者に語りかけます。
また、あなたがたに救いを約束しています。
あなたがたは心の中で叫ぶはずです。
「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」
「今、私はこの方をわたしの救い主とします。」


講演26 キリストと姦淫の女

「イエスはオリーブ山に行かれた。
そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、
イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」」
(ヨハネの福音書8章1~11節)


7章の最後の文は、正しくは8章の最初の節に属しています。
最初に、私たちは多くの人々、多くの聖書評論家、多くのキリスト教学者の心の中にあることを認識すべきです。
古い写本の中には、11節が見つからないものもあるので、11節全体が疑問視されています。
その反面、非常に古い多くの写本では、これらの聖句が省略されていることは、むしろ興味深い事実です。
そして、そのページには空白が残っています。
明らかに他の写本では7章52節と第8章12節の間に何かが入ったことを書き手が指摘しようとしたことを示しています。
また、他の写本ではこの部分は完全に省略されています。
他の人たちはまた一節を加えていますが、私たちはここに加えてはいけません。
彼らはそれをヨハネの福音書の最後に追記として書き残しました。
しかしながら、私たちはそれを本物であるとみなすには十分な権威があります。
なぜなら、それは多くの古いギリシア語の写本に見られるからです。
これらの聖句がこの福音書の一部であることは明らかだからです。
この話は不道徳な行動に対して寛大な態度を示しているように見えます。
私が思うには、初期のクリスチャンの中にはこのような話によって「異教徒から出てきたばかりの人々」に誤解される可能性があったからではないでしょうか?
異教徒の礼拝ではこのような邪悪で不純な習慣が常に関係していました。
結局のところ、この聖句に語られている罪は神の目にはそれほど凶悪なものではないことを暗示しているように彼らには見えるかも知れません。
しかし、福音書の残りの箇所を読むだけで、そのような思い込みがいかに間違っているかがわかります。
この章を読み進めていくならば、この事件に関する多くの明確な言及を見ることができます。
もし、この話がなければ、はっきりと正しく理解できない箇所があります。
個人的には、福音書の他の部分と区別するためのどのような目印をつけることもせずに、これらの聖句を聖書の一部として含めたことは、翻訳者たちが正しい判断だと思います。
英語訳聖書の改訂版では括弧で区切られており、多くの人はこれが本物とは考えていません。
しかし、キリストによって示された神の恵みを知っている者にとっては、これらの聖句が本物であると認めなければならないように私には、思えます。
なぜなら、ここで示されているようなことをするのはイエスのように見えるからです。
結論として、この哀れな女の罪は、私たち一人一人の罪よりも悪いものではありません。
聖書にはこのように書かれているからです。

「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
(イザヤ書53章6節)


この聖句の最初には道を踏み外した全人類の罪について語られています。
それは神から離れてしまった結果です。
次に、私たちの個人的な不義を示しています。
私たちは「おのおの、自分かってな道に向かって行った」のです。
たとえ、肉的な快楽を遠ざけていても、神の目には、肉の罪と同じように卑劣で、聖くなく、汚れた心の罪を犯している人々がいるのです。

「人はうわべを見るが、主は心を見る。」
(サムエル記第一16章7節)


高慢とは、神が憎むべきものです。
嫉妬、貪欲、金銭への愛、恐喝、不親切で不誠実なことを言います。
邪悪な舌は恥ずべき話を広め、憎むべきことです。
これらのことはみな、神の目には邪悪で憎むべきものとして数えられています。
まさに「おのおの、自分かってな道に向かって行った」のです。
「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」のです。
ここで私たちは、一人の罪人に対する神の恵みを思い浮かべることができます。
そして、その同じ恵みが、それを求めるすべての罪人に与えられるのです。
この一節に注意してください。
「おのおの、自分かってな道に向かって行った、しかし」、「しかし」という小さな言葉がなければ、私たちはどれだけ多くを失うことになるのでしょうか?。
その午後は過ぎ去っていきます。
夕闇が落ちてきて、一同は解散します。
それぞれが自分の家に帰って行きました。
しかし、「イエス」、すなわち万物の創造者であるイエスには行くべき家がありません。
イエスはオリーブ山に出て行きました。
イエスの話を聞いた人たちは快適な寝床を持っていました。
イエスの話を聞いた人たちは家族や家に帰ることができました。
しかし、イエスはご自分の手で造られたこの世界にとってよそ者でした。
イエスはオリーブ山の斜面に安息を求めていたのです。
おそらく何度も、イエスはゲッセマネの園に行ったと思っています。
イエスは祝福された聖なる者でありながら、よそ者なのです。
イエスはこのように語っています。

「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
(マタイの福音書8章20節)


イエスは哀れなさまよっている、悩んでいる、苦しんでいる人々に近づいて下さりました。
現在の世界のホームレスの人たちを考えてみてください。
イエスは彼らと同じように寝床に頭を置く場所がなかったのです。

イエスはオリーブ山に行かれました。
山の斜面のオリ―ブの木の陰で一夜を過ごした後、朝になって宮に戻られました。
すると、民の幾人かがイエスのところに来て、イエスは座って彼らに教えられました。
前にも述べたように、教師たちは神殿の外庭の柱のそばに行き、そこで弟子たちが集まって話を聞く習慣がありました。
そこで、イエスは宮の柱のそばに立ち、民に教え始められました。
イエスが神の王国についての真理を明らかにしていた時、突然騒動が起こりました。
パリサイ人たちが哀れな女を群衆の中に引きずり込んで来たのです。
その女はもがきながら顔を隠そうとしています。
彼らは彼女の上にのしかかる、恥辱と不名誉に関心がありません。
彼らは主イエス・キリストにモ―セの律法に逆らう立場に立たせようとしているのです。
もし、無視するのであれば、助けを必要としている哀れな罪人を罪に定めなければならない立場に立たせようとしています。
彼らは、姦淫で捕えられたこの女を、イエスの御前に引きずり出しました。
男はどこに行ったのでしょうか?
男は、一般的な情夫が行うように、女を面前で恥さらしにして逃げたのでしょうか?
このようなことは、この世界では何千回も起きています。
この当時、存在したダブル・スタンダードは現在も存在します。
彼らは女を連れて来て、集まってきた人々の軽蔑を浴びせようとしました。、
しかし、はるかに罪の重い男はその群衆の前に姿を現していません。
その男が自分の性的欲望の犠牲者の側に立って「この女がこの恐ろしい場所に来たのは、私の悪行によるものだ」とも言えず、ここに立つことさえもできないのです。
哀れな愚かな女性たちは、何年にもわたって、くり返しこの苦い経験を知らなければならなかったのです。
彼らはこのように言いました。

「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
(ヨハネの福音書8章4、5節)


モーセは、このように二人が罪に陥った場合、女だけが石打ちになるようにと命じたのでしょうか?
そんなことはありません。
モーセはこの両者を石打ちにするよう命じました。
モーセは罪を犯した男も女も共に罰せられるべきだと命じたのです。
彼らは二人のうちの弱い女だけを連れて来たのです。
イエスは何をしたのでしょうか?
イエスは彼らの方を向いて言ったと想像します。
「分かりました。
モーセは、このような者たちを石打ちにするよう命じています。
律法は神の聖なる言葉です。
唯一するべきことは、この女を連れ出して石打ちにすることです。
そして、もしその男を見つけることができたら、男も捕まえて石打ちにするべきです。」
もし、イエスがそのように言うのなら、ルカの福音書7章に出てきた哀れな罪人は、二度と泣きながらイエスの足もとに来ることはありません。
そして、この女は「私はだめです。
イエスは私のようなものを許すはずがありません」と言うかも知れません。
誘惑や悲しみに打ちのめされた哀れな者は、二度と神に助けを求めに行くことはありません。
彼らは「イエスは私のようなものを責めるだけです。
彼は私を裁きに委ねる」だけだと言うと考えます。
逆にイエスが「確かにモーセはこのように言っている。
もちろん、それは神の言葉です。
しかし、私はあなたがたに言います。
その女を自由にしなさい。
私はあなたがたを律法への服従から解放する」と言ったとします。
すると、彼らは期待どおりに答えます。
「イエスは、ヤハウェの預言者、神から遣わされた者だと公言しています。
しかし、イエスはモーセの律法に反することを教えています。
私たちはイエスの教えは信じることはできません。」
彼らは主を罠にはめたと考えているのです。
しかし、主はなんと素晴らしい方法で彼らと出会ってくださるのでしょうか!
彼らは「女はここにいる。
あなたは何をいうべきですか?」と述べました。
女の罪に疑問の余地はありません。
私たちはどうするべきでしょうか?
ここにいるのは自分を義とする人たちです。
イエスは彼らにどのように答えるでしょうか?
私たちはこのように読んでいます。

「イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。」
(ヨハネの福音書8章6節)


なぜ、イエスはそんなことをしているのでしょうか?
ここにいる人たちは聖書に親しんでいる人たちです。
しかし、悲しいことに聖書に精通していても他人を訴える、石臼のように硬い心を持つことは可能なのです。
彼らは次のことを忘れています。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」
(ローマ人への手紙3章23節)


彼らは自分たちの持つ聖書を知っています。
エレミヤ書の次の聖句を知っていたはずです。

「イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。
「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。」
(エレミヤ書17章13節)


ここでは「地面に書いておられた」と訳されています。
見てください!
ここでは、彼らは主の周りに集まっています。
主は身をかがめて、指で地面に書いておられます。
彼らは互いに振り向いて言いました。
イエスは地面に何を書いているのでしょうか?
地面に書く!
聖書にもそのようなことが書いてあるのではないでしょうか?
はい、その通り!
彼らは最後に自分たちの罪のために死の灰の中に落ちるのです。
主は、彼らの心に一つ残らず神からのことばを示しました。
それでも、彼らはイエスに圧力をかけ続けて「私たちはこの女に何をすれば良いのでしょうか?」と尋ねたかも知れません。
もう、かがんで地面に書いても無駄なことです。
今、私たちは私たちが何をすべきか知りたいのです。
偽善的な彼らは、熱狂的であるかのように装っています。
結局は、自分たちが裁きやすい場所にイエスを置こうとしているだけです。
イエスは身を起こして、民の中の偽善的な指導者たちに立ち向かいました。
彼らは生きている間、自分たちの持つ罪について神とかかわりを持ったことがなかったのです。
他人を裁くことに熱心になり、自分の不義を隠そうとしていたのです。
イエスは彼らの目を見て、順番に一人、次に一人と見ていきます。
イエスは冷静に、とてもはっきりと言いました。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
(ヨハネの福音書8章7節)


イエスは「モーセの律法に従ってはいけません」とは言っていません。
イエスは「私はモーセの律法を守るために来ました」とは言っていません。
もし、彼らがモーセの律法を行おうとするならば、イエスはモーセの律法を彼らに委ねるでしょう。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
彼らは完全に動揺していました。
イエスは背を向け、再び地面に書きました。
2回目に書かれた時、詩編22編を彼らに示したのではないでしょうか?

「あなたは私を死のちりの上に置かれます。」
(詩編22編15節)


やがて、イエスは死のちりへと下って行かれます。
その時、この女の罪のすべてのそむきの罪と咎がイエスに向かって告発されます。
イエスは、世を贖なうためにご自身をいけにえとしてささげられるのです。
再び、イエスは身をかがめて地面に書きしるされました。
イエスが書きしるされている間に、訴えている者たちに動きがありました。
彼らは互いに見つめ合いました。
それからイエスと罪深い女を見つめた。すると最年長の男に長年忘れようとしていた罪の記憶がよみがえりました。
そして、彼は石を投げ捨て「彼女に石を投げる勇気はない」と言って出て行きました。
そして、次から次へと、みんな静かに、そして最後には彼らの中の一番若い者が出て行きました。
彼らはみんな行ってしまいました。
神の前では皆同じように罪を犯しています

「義人はいない。ひとりもいない。」
(ローマ人への手紙3章10節)


私たちは次のように読みました。

「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。」
(ヨハネの福音書8章9節)


イエスは一人取り残されました。
でも、まだ群衆はそこにいました。
イエスは弟子たちや教えていた者たちの中にひとり取り残されました。
そこで女がひざまずいて顔を伏せ、恥らいながらも礼をしています。
きっと、熱い涙が地面に落ちていたはずです。
イエスは彼女の方を向いた言いました。
その日、イエスが語るのを聞いてみたいものです。
そこには、この哀れな女が言葉を交わした男の声の中で、いままで聞いたことのないような優しさ、思いやり、哀れみがあったはずです。
イエスはこのように言いました。

「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
彼女は言った。「だれもいません。」
そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
(ヨハネの福音書8章10、11節)


イエスに対する彼女の答えに注意してください。
彼女はイエスが何か優れた存在だと認識しました。
哀れな獲物に囲まれた生き物でしかない彼女が今まで出会ったどの男と全く存在であると感じていたはずです
イエスは神の聖なる御方です。
「誰も私に石を投げる者はいませんでした。」
その時、イエスは彼女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と答えました。
疑いもなく、かつての律法学者たちがこの聖句を聖書から外した理由です。
彼らは「イエス、聖なる方!」だと言いました。
イエスは、このような罪を裁いていません。
イエスは姦淫を忌み嫌われないのでしょうか?
いいえ、イエスは姦淫に対して非常に強い発言をしています。
イエスは姦淫に強く反対しています。
イエスは、この哀れな女が自分の罪を認識していることを知っていました。
彼女は自分の不浄と汚れを自覚していました。
イエスは彼女の心の中にある苦悩を知っていました。
そして、その心と良心に語りかけ 「わたしもあなたを罪に定めない」と言われました。
それからイエスは「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と仰せられました。
私はその女の後の人生を知ることはありません。
この出来事の後、彼女がどこに住んでいたのか、どう行動したのか知りません。
しかし、キリストの御前に連れてこられ、彼女は二度と同じ罪を犯していないと、私はあえて信じています。
この日、彼女の心の中で何かが起きたに違いないと考えます。
その朝、宮から去っていく彼女の顔には天からの光が差していたように思います。
彼女の友達が「今日は何がそんなに嬉しそうなの?」と言うのが目に浮かびます。
彼女は「私はイエスの足もとに行きました」と答えます。
そして、イエスが「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と言われましたと彼女は続けます。
友達は「どうして、私はあなたを罪に定めない」というはずがないと言うかも知れません。
それはイエスが十字架に向かっておられたからです。
まもなく、イエスは彼女の罪を御自分のものとして苦しみをうけるからです。
御自分が罪人であるかのように扱われ、神の怒りに耐え、苦しみを受けることになっていました。
清い方は汚れた者のために苦しみ、聖なる方は不敬な者のために苦しみ、正しい方は不義な者のために苦しむことになっていました。
十字架を前に、イエスはその女に「わたしもあなたを罪に定めない」と言うことができました。
現在も、イエスは同じことを言う準備ができています。
神の恵みを信じて来る罪人がいます。
その者は罪を悔い改め、心を砕かれ、哀れみを求めているのです。
そして、その者にこのように言われています。

「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」
(ローマ人への手紙8章31~34節)


「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
(ローマ人への手紙8章1節)


この物語が聖書から外されたら、私たちは多くのものを失うことになります。
いままで、どれだけ多くの貧しい罪人たち、どれだけ多くの不品行を犯した人たち、姦淫をした人たちがイエスのもとに来ました。
そして、イエスを救い主として信頼し、希望と平安と祝福のことばをもたらしています。
私には、の御言葉がすべての罪人に語りかけるように思えます.
私たちはみな、同じように罪ある者で、汚れているからです。

「すべての人の目の前で、清くなるためにはどうすればいいか教えてください!
教えてくれ、完全な癒しはないのでしょうか?
私が望む罪からの脱出方法はないのでしょうか?
私の救い主はただ通り過ぎて、私の多くの欠陥を示すだけなのでしょうか?
神は、私の叫びに耳を傾けてください!
今日、私は清められないのでしょうか?」
そうです!
もし、あなたがヨハネの福音書8章のこの哀れな女を清めて救われた方にに信賴するなら、その方はあなたがたを救うために待っておられます。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」


講演27 世の光

「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
そこでパリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」
イエスは答えて、彼らに言われた。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。
あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。
しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。
あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。
わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」
すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」
イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」
(ヨハネの福音書8章12~20節)


福音のこの箇所が私たちが考えてきたこととはっきりと結びついていることに、あなたがたは気がついたはずです。
私たちの主が姦淫を犯した女に対応し、彼女を罪から救い出したという話は古代の写本には見つからないと述べました。
もし、その話を省略するなら、それに続く文章を乱暴に扱うことになります。
12節から始まる言葉は、以前に起こったこととはっきりとつながっています。
「イエスはまた彼らに語って言われた」、つまり明らかに1節から11節までの話の直後の出来事です。
7章の終わりに「そして人々はそれぞれ家に帰った」とあります。
8章1節は「イエスはオリーブ山に行かれた」と始まっています。
もし、12節が8章の始まりならば、主イエスを山に残してしまうことになります。
誰もイエスに仕えている人がいないということになります。
しかし、イエスが神殿の庭におられることは明らかです。
そこでは、ご自身から人の心に光が射し込まれたことを示す、驚くべき出来事が起きています。
そして、それに続いてイエスはこのように述べています。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
(ヨハネの福音書8章12節)


彼らが姦淫の女をイエスのもとに連れて来て言った時の事を思い起こしてください。

「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
(ヨハネの福音書8章5節)

「しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。」
(ヨハネの福音書8章6節)

「イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」」
(ヨハネの福音書8章7節)


イエスご自身の祝福された聖なる人格から光が輝き出しました。
その光はここにいた人たちの上に、そして彼らの心の中を照らし出しました。
そして、彼らの隠されていたすべての悪と堕落と偽善を明らかにしたのです。
誰一人として、この哀れで罪深い女を石打ちにすることはできなかったのです。
しかし、年長の者から順番に出て行き、その女は主イエスと二人きりになりました。
そして、主イエスは次の素晴らしい言葉を語られました。

「わたしもあなたを罪に定めない。」
(ヨハネの福音書8章11節)


そして、イエスはこのように宣言されました。

「わたしは、世の光です。」
(ヨハネの福音書8章12節)

光は隠れたものを明らかにし、光は証明します。
これが私たちが主イエス・キリストを知るための最初の道です。
イエスのような方は他にはいません。
イエスが群衆の中にいること自体がすべての人々の罪を定めました。
というのは、イエスは完全に聖い方であり、完全に真実な方であり、完全に義なる方だからです。
他の人はみな、罪深い者、不義に満ちた者として、イエスという光が照らし、現したのです。
イエスは世の光です。

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」
(ヨハネの福音書1章11、12節)

「 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
(ヨハネの福音書1章5節)


人々はイエスの存在がもたらす光を恐れてイエスから背を向けました。
イエスは世の光であり、すべての人々は主イエス・キリストがこの世界にもたらした光によって裁かれます。
イエスはこのように語っています。

「わたしは、世の光です。
わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
(ヨハネの福音書8章12節)


キリストを知り、キリストに従うのであれば、暗闇とその恐ろしい力から解放されます。
人々はイエスについてのトラブルについて話します。
私はイエスについてのトラブルを説明する本を書いている著者を何人も知っています。
しかし、イエスにはトラブルがありません。
イエスは私たちが直面しているすべての問題と困難とを解き明かしてくださる方なのです。
イエスを信頼し、イエスのありのままを受け入れるべきです。
イエスは神と人は栄光に満ちた人です。
イエスを信じるならばあなたがたのトラブルは解決されます。
ここでイエスはこのように仰せられています。

「わたしは、世の光です。
わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
(ヨハネの福音書8章12節)


イエスが「わたしは世の光である」と言えるのは、イエスが神だからこそ言えることを覚えておいてください。
この福音書の中で、私たちは何度もイエスが「私は」という神の名を使っていることを聞きます。
かつて、旧約聖書の時代神が燃える柴の中でモーセに現われました。
イスラエルの民を救うためにモーセがエジプトに遣わされた時、モ―セはこのように聞きました。

「モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。
私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。
私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
神はモーセに仰せられた。
「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。
「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」」
(出エジプト記3章13、14節)


「わたしはある。」
それはまさに「ヤハウェ」、「永遠に存在する方」、「私は私である」という名前の意味です。
「私はある」というのは神の称号です。
イエスはこの地上での歩みの中で何度もそれを口にしています。

「わたしがいのちのパンです。」
(ヨハネの福音書6章35節)


イエスはイスラエルの良き羊飼いです。

「わたしは、良い牧者です。」
(ヨハネの福音書10章31節)

「わたしは門です。」
(ヨハネの福音書10章9節)


もし、イエス・キリストが神でなかったのなら、このように話すことは冒涜になるはずです。
あなたが知っている神のしもべを思い浮かべてみてください。
あなたがこれまでに出会った、あるいは聞いたことのある最高の人、最も偉大な説教者、キリストの真の信者を思い浮かべてください。
彼が人々の前に立ち「私を見てください、私は世の光です 」と言う姿を想像してみてください。
私に従いなさい。
そうすれば、暗闇の中を歩むことはなく、いのちの光を得ることができます。
あなたはこのように言うかも知れません。
「あなたは自分を何者だと思っているのですか?
自分を世の光と呼んで、そんなに偉大な存在なのですか?」
あなたは彼を誇大妄想者と見なすと思います。
しかし、ここには誇大妄想の証拠がありません。
イエスは世に来た何百万人もの人々をも顧みて 「わたしは世の光である」 と言われました。
イエスはこのように言うことが出来るのです。
「私に目を向けてくれるなら、あなたは救われます。
私は神であり、私の外にはありえません。」
聖書にはこのように書かれているからです。

「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」
(ヨハネの手紙第一1章5節)


あなたはキリストの忠実なあらゆるしもべを調べてみてください。
彼らはあなたを光なるキリストに導いています。
彼らは「イエスこそが光です。
イエスに目を向けるのならば、あなたがたは命の光を見いだすことができます」
かれらは、「かれこそは光です。かれに目を向ければ、あなたがたは命の光を見いだすでしょう。」 と言う。
しかし、イエスはこのように言っています。

「わたしは、世の光です。
わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
(ヨハネの福音書8章12節)


この普遍性に注目してください。
イエスはイスラエルの光であるばかりでなく、異邦人を照らす光です。
イエスは彼らの間を步いて行かれました。
しかし、彼らの心は盲目になっており、彼らはイエスを認めることができません。
今日においても同じです。
人々は私たちに「何も見えない」と言います。
「何を言っているのかさえもわからない」と言います。
彼らは罪と救いと、人の失われた状態と、彼らのあらゆる必要を満たすための神の賜物を悟ることはできません。
私は彼らに悟らせることができません。
彼らは理解することができないのです。
それは聖書の語っている通りの事です。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。
それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。
なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」
(コリント人への手紙第一2章14節)


それは、目に見えない人に西の空に輝く夕日を説明しようとしているようなものです。
目の見えない人はあなたがたに向かって「わたしには理解出来ない。」と言います。
彼が夕焼けを理解するには視覚が必要です。
キリストのない魂がそこにありますか?
もし、今日、私があなたがたに語りかけるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの美しさと栄光を見るために、神の力によって目を開かれる必要があります。
もしあなたがたが神の御元に行くのでならば、神はあなたがたの目を開き、あなたがたの心を照らし、あなたがたは神の奥義を理解することができます。
この1900年間、イエスがこの御言葉を語られてから、いのちの光をイエスに見いだされた何百万人という人たちのことを考えてください。
あなたは闇から解放されたいのでしょうか?
あなたは光を知りたいのでしょうか?
ならば、イエスの御許に行きなさい。
さもなければ、あなたはそれを見つけることは出来ません。
何年か昔、ある女性が私に手紙を書いてきました。
そして、「私は何年も光を求めてきました」と書いてありました。
「私は真理を追究しています。
あなたが私を助けてくれるなら、私には嬉しいことです。」
彼女は「私は神学、スピリチュアリズム、新思想、その他のカルトを調査してきました。
私はあらゆる宗教を勉強してきましたが、まだ暗闇の中にいます」と書いてありました。
私は彼女に手紙を書いて言いました。
「親愛なる友よ、あなたは何年も目に見えない路地を見てきました。
聖書に立ち返ってください。
ヨハネの福音書を読み、主イエス・キリストのすばらしい啓示を見てください。
イエスのうちに、あなたがたのすべての質問の答えが見いだすことができます。
あなたの魂は、イエスをあなたの救い主として受け入れるときに満たされます。
他のものは必要ありません。」

あなたは1893年の万国博覧会の間にここシカゴで起こった出来事を覚えているでしょうか?
そこで世界のほとんどの宗教の代表者を集めて大規模な宗教会議を開きました。
そして、それぞれが自分の所属しているシステムの利点を叫びました。
ある日、ボストンの偉大な説教者ジョセフ・クックが証しをしました。
彼は聖書の救いの考え方を述べる演説をすることになっていました。
しかし、彼は聖書からではなくシェークスピアのマクベスの悲劇から物語を語りました。
その理由は、彼はそこにいた何千もの人々が聖書には興味がないことを知っていたからです。
しかし、彼は彼らがシェークスピアならば読んだことがあるだろうと考えたからです。
彼は「見てください、マクベス夫人です」と言いました。
ダンカンが死んだ後のことを覚えていますか?
彼女がどのように手をさすって言っているか見てみましょう。
「忌々しい汚れよ、出ていきなさい!
この手がきれいになることはありません。
アラビアのどのような香水も、この小さな手を満足させることはできないのです。」
これを彼女の夫マクベスが見てこのように叫びます。
「ネプチューンの大海なら、私の手からこの血を洗い流してくれるだろうか?
いいえ、むしろこの私の手は緑の海を血のように赤くして、たくさんの海の化身になるのです。」
彼らは何回もこすり合わせて、ダンカンの血の汚れを洗い流そうとしています。
しかし、それは不可能です。
ジョセフ・クックはこのように言いました。
「マクベス夫人を私の右腕に、その夫を私の左腕に置いてみます。
この偉大な宗教会議の通路を歩いている時に皆さんに一つだけ質問があります。
誰が私たちの赤い右手を清めてくれるのでしょうか?
私たちの手と心は罪で汚れています。
どうすれば私たちの罪を取り除くことができるか教えてください!
地球上のどの宗教組織も満足のいく答えを出すことはできません。」
しかし、彼は叫びました。
「これらすべてから目をそらすならば、聖書から立ち上る言葉が聞こえてきます。
神の子イエス・キリストの血は、私たちをすべての罪からきよめます。
ああ、それがあなた方の霊的な問題と困惑に対する答えです。
それは、世の光、神による罪人の救い主イエスです。」
しかし、人が神の真理を拒否しようと心に決め、その心が高慢であるとき、彼らは使者を偽りだと思い込もうとします。
宗教的偏見ほど盲目なものはありません。
パリサイ人たちはこのようにイエスに言いました。

「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」
(ヨハネの福音書8章13節)


彼らは主がご自身について言われたことを指摘しています。

「また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。」
(ヨハネの福音書5章37節)


そして、バプテスマのヨハネとその力強い御業について彼らに話した後に、イエスはこのように言いました。

「あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。」
(ヨハネの福音書8章17節)

そのように一人の人の証言は有効ではありません。
それでパリサイ人たちはすぐにイエスの言うことを受け入れました。
イエスは、この証しが自分だけではないと宣言して答えられました。
父がイエスとともにおられ、その証しは真実でした。

「しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。
なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。
あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。
わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」
(ヨハネの福音書8章16~18節)


御父はどのように証しをしているでしょうか?
わたしたちの祝福された主がバプテスマを受けられた時、天からこのような声がありました。

「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
(マタイの福音書3章17節)


イエスがした御業とは、御子を通した聖霊による父の御業のことでう。
これらはすべて御業、確かに御子が世の光であることの証しでした。
もし、人々がその証しを受け取ろうとするのなら、もし、彼らが偏見を持たずに、神の御言葉を拒む決心をしていないのなら、神は私たちの主イエス・キリストの神の証しを豊かなものにしてくださいました。

「すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」」
(ヨハネの福音書8章19節)


私は、彼らのこの質問に含まれる軽蔑と侮蔑をどのように表現すればいいのかわかりません。
あなたにこの質問に込められていることがわかるでしょうか?
使徒ヨハネは、私たちの主イエス・キリストの処女の降誕について、はっきりと述べていないと言われています.
それはヨハネは処女の降誕について何も知らなかったからだと言われています。
また、その事実はマタイとルカの福音書にしか言及されていないので、それは真実ではないかと言う人もいます。
ヨハネはキリストの完全な神性を扱っています。
ヨハネはキリストの永遠性を述べています。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
(ヨハネの福音書1章1節)


この聖句に私たちの主イエス・キリストの肉体の誕生と処女の誕生の真理についての暗示があることに気づくことができます。
彼らのあの軽蔑した質問の裏にはどんな暗示があったのでしょうか?
イエスはこのように言われました。

「わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」
(ヨハネの福音書8章18節)


彼らは「あなたの父はどこにいるのですか」と言いました。
あなたは何が言いたいか理解できますか?
冷酷さがわかりますか?
悪意が見えますか?
彼らにはイエスに人間の父がいないことが知らされていたはずです。
つまり、彼らはイエスが姦淫で生まれたことをほのめかしています。
婚外子です。
つまり、父を知っているかのように話すのは、まったく論外だったのです。
41節で彼らはこのように言っています。

「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。
私たちにはひとりの父、神があります。」
(ヨハネの福音書8章41節)


彼らの発言の意味を見てください。
彼らは処女誕生の話を聞いていました。
彼らの言葉はそれに従っていますが、信じていません。
しかし、イエスの父は神です。
神はキリストの人間としての父であり、神としても父なのです。
イエスは答えてこのように言いました。

「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。
もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」
(ヨハネの福音書8章19節)


その言葉をよく考えてみてください。
時々、人は「神を知り、神を理解したい」と言います。
神が物事をどのように見ているのか、どのように感じているのでしょうか?
私は人間に対する神の姿勢がどのようなものなのかを知ることを望んでいます
神は遠くにおられるようで、わたしには神は知られざる方です。
しかし、この宇宙の裏には第一原因があるはずです。
耳を造られた方は聞くことができるはずです。
くちびるを造られた方は話すことができるはずです。
脳を創造した者は考えることができるはです。
この宇宙の奥には人格を持った神がいます。
でも、神は遠くにいるように思えます。
神を知ることができることを望みます。
ヨブはこのように言っています。

「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。」
(ヨブ記23章3節)


私の言うことを聞いてください。
あなたはイエスの中に神を見いだすことができます。
イエスはこのように言っています。

「わたしを見た者は、父を見たのです。」
(ヨハネの福音書14章9節)


もし、神を知りたければ、イエスを知るべきです。

「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」」
(テモテの手紙第一3章16節)

イエスの顔の中に神の顔が見えます。
イエスの人格の中に神の人格を見いだすことができるのです。
しかし、イエスは悲しげに言われています。

「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。
もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」
(ヨハネの福音書8章19節)


それから、私たちはこのように読むことができます。

「イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。
しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」
(ヨハネの福音書8章20節)


もう一度言いますが、1節から11節までを福音書の一部として認識することが絶対に必要です。
そうでなければ、イエスが宝物庫(献金箱のある所)に入ったという記録はありません。
しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」
私たちが旧約聖書などの初期の文章で見てきたようにイエスが世に来られる時が来るまでは、イエスにどんな害も、どんな形であれ、傷を負うことも、死ぬこともあり得ませんでした。
永遠の定めによって、イエスが御父の栄光を離れられる前に過越の日、つまり、過越の小羊である主イエスがささげられることが定められていました。
その時が来るまで、人々はイエスを捕えることができなかったのです。
やがて、その時が来ます。
イエスは彼らの手に身を委ねます。
彼らは神の祝福された顔に唾を吐きかけ、残酷な杖でイエスを殴り、最後には屈辱の十字架に彼を釘で打ち付けることを許されました。
しかし、そこで神は不義との和解を行い、カルバリの暗闇は明るく光輝き始めました。
そして、今、罪の問題が解決されました。
神は御子を受け入れ、御子を救い主として信賴する全世界のすべての人に救いをお与えになることができます。
イエスを信頼してきた私たちは、イエスが私たちが想像していた以上の存在であることを知りました。
私たちにとってよりイエスがどのような存在であるかを知る必要があります。
また、私たちはあなた方にも彼を知ってもらいたいと願っています。
ここにいるあなたがたがキリストから離れているなら、キリストのところに来てください。
キリストをあなたがたの救い主としてください。
心から私たちは願っています。


講演28 死後に救いの第二のチャンスはあるのか?

「イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」
そこで、ユダヤ人たちは言った。「あの人は『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない。』と言うが、自殺するつもりなのか。」
それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。
それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」 そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」イエスは言われた。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。
わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」
彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。
イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。
わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」
イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
(ヨハネの福音書8章21~32節)


死後に救済のセカンドチャンスはあるのでしょうか?
これは深刻な問題です。
真実なクリスチャンでさえ、自分の愛する人に対して何の証拠も示さずに死に向かって眼を閉じる人がいる時、この問題はよく提議されることがあります。
これは主イエスを信じて悔い改めという、または個人的な救いという信仰の問題です。
救われていない死者の状態に対する絶望感、もしくはどれだけ正統的であっても、もしくは徹底的に教え込まれていても、この問題は表面化することがあります。
今まで考えたこともなかった人たち、自分の周りの誰かがこの絶望的な状態のままで永遠の世界に出て行ったとき、真剣に考えることがあります。
彼らの心は叫びます。
「究極手的に、人がキリストのもとに生き、キリストのもとに死ぬ時、この地上の人たちに救いが届かなかった後、反対側の人たちを救う方法があるというのは、真実ではないでしょうか?」
この問題に対する真実な答えを得る唯一の方法は、神の言葉そのものに直接目を向けることです。
ここに、私たちの主イエス・キリストの深刻で重大な証言があります。

「イエスはまた彼らに言われた。
「わたしは去って行きます。
あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。
わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」」
(ヨハネの福音書8章21節)


この言葉はイエスは御自身の力の業を見た者、驚くべき教えを聞いた者、そして、永遠の命を得るために、生けるパンであるイエスを信仰によって受け入れるよう強く勧められた者たちに向かって語られたのです。
そして今、イエスは彼らに「私は永遠にここにいることはありません」と言います。
そして今、主は彼らにこう言われました。
「私は定められた務めのために来ました。
私の十字架につけられる時が、目の前に迫っています。
私は父の御前に帰ります。
私は死の門をくぐって復活し、栄光の道を上って行きます。
私が去った後、あなたがたには多くの悩みがあります。
あなたたちは私を探し求めます。
そして、私のメッセージを聞きたいと思うようになります。
しかし、私の声を聞くこともできません。
あなたたちは私を求めるが、罪のうちに死にます。
そして、イエスは付け加えています。

「わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」
(ヨハネの福音書8章21節)

これはとても悲劇的なことです。
私は故人がキリストを信じているという証拠を示さない方の葬儀で話をするように頼まれることがあります。
繰り返して語ってきましたが、死には何かとても清らかなものがあると信じたいと語りたいのです。
しかし、人がこの世からあの世へと旅立つ時には目が見開いてしまうほど、死は素晴らしいものだと言いたくなるのです。
そして、彼らは愚かにもキリストを拒んでいたかを悟り、キリストの御顔を見つめて、キリストに信じるようになるのです。
私はそのようにを信じたいのです。
誰も失われないと信じたいです。
思いやりがある人なら誰でもそのように思いたいのです。

私たちはリチャード・バクスターの考えに共感することがあります。
彼は「神よ、満ちあふれた天国と空の地獄を求めます!」 と祈っていました。
わたしたちもそのように願うかもしれません。
だが、わたしたちは祝福された聖書に目を向けます。
「主はこう仰せられる。」 とわたしたちの考えを試みようとする時があります。
しかし、この御言葉は、救われずに死ぬ人に希望の光を与えるものではありません。
ここでの主の言葉は明確に語っています。
イエスは「自分の罪の中で死にます」と言っています。
死に方は二つあります。
一つはヨハネの黙示録に書いてあります。

「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。
「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」
(ヨハネの黙示録14章13節)


主にあって死ぬことは幸いなことです。
何百万もの人々が主にあって死にました。
そして、その労苦から解放され、彼らの働きは彼らに従っています。
しかし、彼らは行いによって彼らを救われていません。
彼らは主イエス・キリストの働きによって救われました。
彼らがキリストの裁きの座に立つ時、彼らを救ってくださった方が、その行ないに対して報いてくださるのです。
ここに恐ろしい比較があります。
24節を参照にしてください。

「それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。
もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」
(ヨハネの福音書8章24節)


そして、ここで自分の罪のために死ぬすべての人にイエスは言われています。

「わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」
(ヨハネの福音書8章21節)


イエスは天に帰ると言っています。
罪の中で死んだら天には入れないということです。
私はあなたがたがこの聖句よりも明確な聖句を見つけることができないと思います。
そして、他にもたくさんの聖書箇所が存在しています。
主イエスご自身がこのように言われています。

「こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」
(マタイの福音書25章46節)


そして、そのことについてイエスは言っています。

「もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。
片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」
(マタイの福音書18章8節)

イエスがこのような言葉を使ったのは、永遠に失われる可能性があることを私たちに理解させるためです。
ヘブル人への手紙にはこのようにあります。

「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」
(ヘブル人への手紙10章31節)


聖書全体を調べてみてください。
注意深く読んでゆくならば、この世を去る者に最終的な祝福がもたらされる望みはまったくないことがわかるはずです。
しかしながら、わかっていても、心の中で「そうかもしれない」と言っている人たちの心を慰めるために私は言いたいことがあります。
イエスが語ったのなら真実に違いありません。
それでも、何年も祈り続けた愛する人が救われずに亡くなったことを思うと心が痛みます。
簡単に結論に飛びつかないで私に言わせてください。
誰がその愛する人のために祈ることを、あなたの心に教えているのですか?
誰がその魂の重荷をあなたの心に置いたのですか?
それは神の祝福された聖霊であり、キリスト御自身です。
神が私たちのために何かをしようとする時、神はしばしば、そのことを祈るように私たちの心にテーマを置かれます。
祈ってくれる母や、祈ってくれる友達いる人がいることは素晴らしいことです。
救われていない妻にとって、祈る夫を持つことは素晴らしいことです。
逆もまた然りです。
聖書にはこのように書かれています。

「なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。
また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。」
(コリント人への手紙第一7章16節)


私たちは愛する人たちを祈りのうちに神のもとに連れて行くことがあります。
たとえ、私たちの祈りが答えられたという証拠を得ることができなくても、私たちは神が彼らの心と良心に御自分の方法で働いてくださることを期待することができます。
決してあきらめずに、愛する人たちのために祈ることを教えてくださった神が、私たちの祈りに答えてくださる方法を教えてくださることを信じましょう。
十字架上の主イエス・キリストのそばにいた、悔い改めた泥棒の母親のことを考えたことがあるでしょうか?
彼には祈る母親がいたのかも知れません。
何度も繰り返し息子を神の前に連れてきた母親がいたのかも知れません。
あの日、イエスが十字架の上にいて、息子ともう一人がイエスの両側にかかっていました。
母親は群衆の中にいたのかも知れません。
もし、母親がそこにいたとしたら、彼女は大きな不安を抱いていたはずです。
もし、母親がそこにいたとしたら、息子と「おまえも同じ刑罰を受けているではないか」との間で交わされた会話を近くで聞くことができたかも知れません。
母親は群衆のどこかにいて、他の人の頭の上を見るのに精一杯だったのかも知れません。
そして、このように言うのです。
「そこに私の息子がいます、
私のかわいそうな、失われた少年。
私は彼のために祈り、彼を救うことを神に期待しました。
しかし、私の息子はそこにいて、悪人としての死を遂げています。」
母親は近くで、あの強盗二人がイエスを罵倒しているのを聞いたかも知れません。
そして「ああ、彼らは呪いの言葉を口にして死んでいくのだ」と言ったのかも知れません。
しかし、母親の息子はそのようには死ぬことはありません!
母親は遠くにいました。
そして、最後の瞬間に何が起こったのかを聞くことができなかったかも知れません。

「十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」」
(ルカの福音書23章39~43節)


それは「私が私の王国に来るまで、あなたがたは待つ必要はない」と言われたかのようです。
「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
その言葉を彼のお母さんは聞いたのではないでしょうか?
もし、彼女がその言葉を聞いていないなら「ああ、私の息子よ」と泣いていたかもしれません!
「私は失われたのでしょうか?」
いいえ、彼は救われたのです。
その最後の瞬間に何が起こったのか、彼女は何も知らなかったのかもしれません。
神の方法を見ることができませんでした。
ですから、祈り続けるあなたがたに言います。
あなたがたの信仰をぐらつかせてはいけません。
神がご自身の素晴らしい方法で働いてくださることを期待すべきです。
いつか、イエスがあなたに答えてくれることを期待します。
しかし、キリストを信じないあなたがたに言いたいことがあります。
聖なる神の忍耐を頼りにしすぎてはいけません。
それは主の憐れみと善意と恵みに対して、良心が熱い鉄で焼かれるほどの罪を犯すということです。
ここでイエスが私たちに警告しています。

「それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。
もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」
(ヨハネの福音書8章24節)


ユダヤ人たちは彼を理解せずこのように言いました。

「そこで、ユダヤ人たちは言った。
「あの人は『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない。』と言うが、自殺するつもりなのか。」
それでイエスは彼らに言われた。
「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。
あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。
それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」
そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」イエスは言われた。
「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。」
(ヨハネの福音書8章22~25節)


イエスは永遠の御子であり、私たちの贖い主となるためにこの世に降りてこられたのです。
そして、イエスはこのように付け加えています。

「わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。
しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。
イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。」
(ヨハネの福音書8章26~28節)


彼らはイエスを十字架の上に上げてしまいました。
そこで私たちの贖いのために死なれたのです。
イエスはニコデモにこのように言われました。

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」
(ヨハネの福音書3章14節)


イエスは上げられたのです。
イエスは死ぬために上げられました。
イエスは「完了した」と叫びました。
今は高き天におられます。
ハレルヤ!
驚くべき救世主です!
イエスはこの説教を次の言葉で締めくくっています。

「わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。
わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」
(ヨハネの福音書8章29節)

このような言葉を使える方は、他にはいません。
神の最も敬虔なしもべたちは、常に何かに失敗してきました。
私たちは皆、恵みによって救われた哀れな罪人です。
しかし、イエスは何も失敗していません。
イエスは「いつも、私は御父が喜ぶことをしている」と言うことができました。

「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。」
(ヨハネの福音書8章30節)


そこでイエスはこのようなことを言って彼らに試練を与えたのです。
「あなたがたはただ知的に信じるだけでは十分ではありません。
あなたがたは、わたしの言葉に従って、自分の信仰を実証しなければなりません。」

「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。
「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
(ヨハネの福音書8章31、32節)


私たちは、真理である方を知り、そのくちびるから真理を受け取ります。
そして、そのことばによって真理が開かれ、聖霊によって真理のうちに歩むことができるのです。

私の罪は杖に打たれました。
律法から解放された背中は打たれました。
永遠の神の御子。
彼は私のために鞭を受けたのです。


講演29 人格をもった悪魔の存在

「彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。
わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」
彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。
ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。
あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」
イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。
あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。
あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」
(ヨハネの福音書8章33~44節)

ヨハネの福音書のこの箇所では次のことを暗示し、答えてもいます。
「人格を持ったサタンはいるのでしょうか?
この時、私たちの主は礼拝を捧げていた神殿の中庭で、主の教えに反対していたユダヤ人の儀式主義的、律法主義的な人々と論争を続けていました。
次々とイエスは彼らに真理を与えられました。
しかし、彼らは常に心を開いて御言葉を受け入れようとしていません。
逆にイエスを論破しようとしていました。
先にイエスがこのように言っています。

「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
(ヨハネの福音書8章32節)


彼らはこのように答えています。

「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。
あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
(ヨハネの福音書8章33節)


ユダヤ人の人たちが「決してだれの奴隷になったこともありません」と言っているのを想像してみてください。
彼らがこのように話していますが、ローマ人はユダヤ人たちを服従させ、バビロンの捕囚以来、ユダヤ人はだんだんと勢力に束縛されてゆきました。
彼らの言っている意味は「私たちは異邦人政府に服従してきたが、私たちの霊は自由である。
ゆえに、私たちは束縛されたこともなければ、人間が考えだした制度にも宗教的に服従したこともない 」かもしれません。
しかし、主イエスは、これだけでは十分ではないことを彼らに示そうとされました。
そこには、神の命とそれに伴う働きが存在していなければなりません。
イエスは彼らが罪の奴隷であることを知っていました。
そして、イエスはこのように答えました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」
(ヨハネの福音書8章34~36節)


イエスは彼らが文字通りのアブラハムの子孫であるだけでは十分ではないと言われたのです.
もし、彼らが神の子として認められたいのであれば、アブラハムが理解した罪の力からの解放を彼らが知らなければならないからです。
そして、彼らの状態とは反対に、罪の束縛を受けることのないご自身を示し「息子はいつまでもいます」と言われたのです。
イエスは、まことに、すべての国々が祝福されると約束されたアブラハムの子孫でした。
イスラエルの国全体が荒廃し、異邦人の間では、彼らの罪と失敗のゆえに神の名が冒涜されることも多くありました。
それでも神は、アブラハムの血統から救いをもたらすと約束された救い主であり続けました。
現在も主は私たちに自由を与えてくださいます。

「ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」
(ヨハネの福音書8章36節)


私たちの身の回りには多くの罪の奴隷たちがいます。
つまり悪習慣、情欲、欲望と闘い、絶対的な束縛を受けている人たちに、この言葉を当てはめてみましょう。
彼らは繰り返して叫んでいます。
「ああ、わたしという人間がいなくなって、私の中に一人の人が生まれて欲しい!」
私の愛する人たちよ!
罪から救われることは可能なのです。
単に邪悪な罪から救われるだけではありません。
新生と聖霊の内住により、罪の力から救われることも可能なのです。
イエスが「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」と言われたのは、このことを意味していたのです。
この真理は、神が語られた聖なる言葉によって私たちに与えられた祝福された再生計画なのです。
この御言葉を信じるのならば、人は新しい誕生のゆえに自由の身となります。
神との交わりを歩み、聖霊の力のうちに歩むのならば、肉の欲望に支配されることなく、神の子の自由のうちに歩む者となるのです。
儀式主義者や利己主義者はこのことを決して理解することはありません。
常に自分の内に救いを求めています。
しかし、救いは外から来ます。
今、主はこれらの議論をする人たちに語り続けています。
イエスはこのように言っています。

「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。」
(ヨハネの福音書8章37節)


当然、彼らはアブラハムの血筋を持っています。

「しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。
わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。」
(ヨハネの福音書8章37節)


この方こそ、アブラハムが待ち望んだ方でした。
イスラエル人は何世紀にも渡って、約束の子孫を待ち望んでいました。

「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。
あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
(創世記22章18節)


約束の子孫はそこにいたが、彼らは彼を知らなかった。
イエスは、ご自分が約束された方であることを、御自分のなされた力ある業によって証明されました。
しかし、ここには偽善者たちがいます。
イエスを認めず、約束にしたがって来られた方を信じようとしません。

「しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。
わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。
わたしは父のもとで見たことを話しています。
ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」
(ヨハネの福音書8章37、38節)


イエスは、御父の子としてこの地上に降りて来られました。
そして、毎日、御父は御言葉をイエスに聞かせ、御心にかなうことを行なわせ、言わせたのです。

「あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」
(ヨハネの福音書14章24節)

「わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」
(ヨハネの福音書8章38節)


ああ、むしろ痛い言葉です。
確かにその言葉は鋭いくらいです。
今、イエスは御父の前で真実を説いています。
神は私の父なのです。
イエスはその二つを対比させています。
今日、人々は神の変わらない御父の性質と人間の変わらない同胞愛を軽々しく語っています。
しかし、聖書では、そのようには述べていません。
異を唱える人もいるかもしれませんが、聖書を読んで、そのような表現があるかどうか見て確認してください。
ここに二つの家族が示されています。
イエスは「わたしは父のもとで見たことを話しています。
ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです」と言っています。
イエスの父は神です。
彼らの父とは誰でしょうか?
この時、イエスが彼らに語っています。
彼らの父は神ではありません。
彼らの父は神と人間の大いなる敵です。
ここには2つの家族がいます。
主の贖われた者は一つの家族です。
もう一つは主の恵みを拒む者の家族です。
そこには神の変わらない御父の性質と人間の変わらない同胞愛もありません。
唯一の神がすべての人の創造者であることは絶対真実です。
神は一人の人間の血を作りました。
しかし、悲しいかな、罪が入ってきて、人を神から遠ざけました。
ゆえに、人は生まれ変わらなければなりません。
それは、私たちが神の家族に入れられるためです。
それは、私たちが神の顔を見上げて「天におられる私たちの父よ」と言うためです。
あなたはこの恵みを知っているでしょうか?
あなたは神から生まれるとはどういうことか知っているでしょうか?
イエスは仰せられました。

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。」
(ヨハネの福音書8章44節)


この言葉によって彼らの怒りを掻き立てました。
イエスはそうなることを知っていました。
しかし、それは真実でした。
時には、人々の憤りをかき立てるようなことを言うことも必要です。
人の罪について、感情を決して傷つけないように細心の注意を払うべきだという人もいます。
時には、離婚の話をするときには注意が必要です。
なぜなら、私たちの聴衆の中には6回も再婚している人がいるかもしれないからです。
彼らの感情はとても簡単に揺さぶられてしまいます。
教義の違いなどに言及しないよう、細心の注意を払う必要があります。
人々が持っている偏見を注意させしていれば、述べることはあまりないと思います。
あなたはこんな話を聞いたことがあるかも知れません。
ある伝道者がネバダ州のある町に行って集会を開いたとき、牧師がある人にこのようなことを言いました。
「さて、あなた方には、ここでは細心の注意を払わなければならない罪があります。
例えば、ここが大きな離婚の中心地であることを知っているのなら、離婚などの話をしてはいけません。
私たちの最も給料の高い何人かのメンバーは、お酒の仕事をしていますから、あえて、お酒の質問にはあえて触れないでしょう。
私たちの国民の多くは、世俗的な娯楽を提供することで生計を立てています。
気をつけてください。」
貧しい伝道者は彼を見て言いました。
「さて、私は誰の罪について話すことができるでしょうか?」
すると 誰かが「ピュー族とインディアンの罪について語れ」 と答えました。
すると伝道者は「彼らは決して教会に行くことはありません。
聞く耳を持たない人たちを放っておいても、あまりいいことはないだろう?」と言いました。
しかし、主は民が自分たちの罪について誠実に語られなければならないことを教えています。
私が知っている偉大なクリスチャンの中には、最初は壇上から聞いたメッセージにひどく動揺した人もいました。
その人は、さらに戻って来て聞き、ついに神が彼らに語りかけました。
彼らは自我に引き戻されました。
イエスは異議を唱える者たちに言いました。

「わたしは父のもとで見たことを話しています。」
(ヨハネの福音書8章38節)


彼らはイエスに答えて言いました。

「私たちの父はアブラハムです。」
(ヨハネの福音書8章39節)


そして、イエスは彼らに言われました。

「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。」
(ヨハネの福音書8章39節)


つまり、道徳的であろうとも霊的であろうとも、彼らはアブラハムの業を行うべきなのです。
アブラハムは、神の前での信仰と、人の前での行ないによって義と認められました。

彼らは、自分たちがアブラハムの子孫だと語りました。
だが、彼らは良い行いに励む者ではなかったのです。

「ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。
アブラハムはそのようなことはしなかったのです。
あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」
(ヨハネの福音書8章40、41節)


この言葉によって彼らに機会が与えられました。
くり返して、イエスはこのように語られました。
そして、彼らはイエスに答えて言いました。

「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」
(ヨハネの福音書8章41節)


これはどういう意味でしょうか?
彼らはイエスがナザレのマリヤの私生児だとほのめかしているのです。
彼らは卑しい中傷をイエスに投げつけようとしているのです。
彼らは処女からの誕生を聞いていました。そして、神の聖なる御子であるイエスを嘲笑していたのです。
ある人たちは私に、処女誕生の教義はヨハネの福音書の中で触れられていないと言っています。
しかし、ここにあるのです。
彼らはこの教義をイエスの御前に投げつけて「私たちは不品行によって生まれた者ではありません」と言いました。
しかし、主イエスは彼らにこのように言いました。

「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。」
(ヨハネの福音書8章42節)


ここにはすばらしい試金石があります。
人は神を愛せば御子を愛するのです。
その逆もまた然りです。

「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。
なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。
(ヨハネの福音書8章42節)


あなたがたには私の言葉を理解できません。
つまり、あなたがたはわたしのことばを聞くことができないからです。

「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。
それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。」
(ヨハネの福音書8章43節)


つまり、あなた方は罪に従って歩んでいるのです、聞くことができないのです。
その時、イエスは出て来られ、かつて示されたことを話します。

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。」
(ヨハネの福音書8章44節)


悪魔は初めから人殺しであり、真理の中に住むことはありません。
悪魔には真理がないからです。
悪魔が偽りを言うのは、自分のことを言っているのです。
悪魔は偽り者であり、偽り者の父だからです。
さて、私たちの主が悪魔教の教義に関して、なんと多くのことがこの言葉の中に述べられています。
人格を持った悪魔がいるのでしょうか?
それとも悪魔は単に悪の化身なのでしょうか?
現在、私たちは個人的な悪魔崇拝は暗黒時代の遺物であり、悪魔のような存在があると信じることは馬鹿げているとよく言われます。
しかし、ここに聖句の証しがあります。
これらの節のことをよく考えてみてください。
イエスは自分が「神から来た」と言っています。
イエスは自分が「神の御子」だと宣言しているのです。
「あなたがたの父である悪魔から出た者」
それは「あなたがたは悪に打ち勝った 」という意味ではなかったのでしょうか?
しかし、人称代名詞を使って「彼は人殺しだった 」と言われているのです。
イエスはある人格を言っているのです。
その者は常にいるわけではありませんが、現在、存在しています。
言い換えれば、イエスはこの宇宙には神の権威を認めない者たちを動かしている、邪悪で悪意ある霊がいることを教えているのです。
この邪悪な悪霊は、常にそのような存在だったわけではありません。
そして、その霊は常に存在しているわけでもありません。
悪魔は真実の中に存在していません。
ある人たちが「もし悪魔がいるなら、なぜ善なる神が悪魔を創造したのか?」と質問します。
善なる神は悪魔を想像していません。
神が創造された存在は、純粋で罪なき御使いでした。
イザヤ書14章12節ではこの御使いがどのように堕落したのかを見ることができます。

「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。」
(イザヤ書14章12節)


ここで言われているのは誰のことでしょうか?
彼は「ルシファー(暁の子)、明けの明星」と呼ばれています。
「ルシファー」の意味は「明けの明星」という意味です。
彼は神の御前に住み、栄光ある存在でした。
私たちは主天使である「ミカエル」のことは読んだことがあります。
堕落前の「ルシファー」は「ミカエル」と同じような立場だと思われます。
どのように「ルシファー」は堕落したのでしょうか?
自分の意志に従ったのです。
彼は5回「私はしよう」と言っています。

「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。
密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』」
(イザヤ書14章13、14節)


この造られた御使いは神ご自身を御座から締め出すことはしていません。
あえて、神との平等の場所を目指しました。
そして、その5つの「私はしよう」に対する答えが空から鳴り響きました。

「しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」
(イザヤ書14章15節)


このように栄光ある御使いが悪魔に変わったのです。
すべての真実の中に悪魔は住むことができません。
エゼキエル書の中に別の注意すべき聖句があります。


28章で神はツロの君主について語られています。
ツロの君主の背後には、神がツロの王と呼ばれる人がいます。
この人はこの地上の君主の心を支配していましたが、彼自身は人間以上の存在でした。

「あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。
赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、しまめのう、碧玉、サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。
あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、これらはあなたが造られた日に整えられていた。」
(エゼキエル書28章13節)


悪魔は「神の園、エデン」にいたのです。
このようなことは地上の支配者に対しては言えないことです。
これらの宝石は彼の性格の様々な特徴を表すために使われました。
そして、ここに天の聖歌隊の隊長がいました。
この栄光ある存在は、罪が入ってくるまで神の前で笛を吹いていました。

「わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。
あなたの行ないは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。」
(エゼキエル書28章14、15節)


この不義が何であるかは17節で語られています。

「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。
そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。」
(エゼキエル書28章17節)


ルシファーはプライドによって堕落しました。
その自己意志はプライドの最初の表現であり、御使いは悪魔になりました。
彼は悪魔と呼ばれ、サタンと呼ばれています。
「悪魔」は「中傷する者」、「サタン」は「敵対する者」を意味し、彼自身の中で両者を組み合わせています。
悪魔は人を神に、神を人に訴えています。
特に、悪魔は神御自身とその祝福された御子の敵なのです。
分かりやすく言うのであれば、この地上にある神に属するすべてのものの敵なのです。
単に、悪魔は人を誘惑するためにここにいるのではありません。
確かに人の心の中には、人を罪に導くものがあります。
しかし、悪魔が従っている偉大な仕事は、神の存在に邪悪な考えを投げかけることなのです。
悪魔は「兄弟たちの告発者」と呼ばれています。

「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」
(ヨハネの黙示録12章10節)


私たちが悪魔の仲間に見つからないようにしましょう。
私は人々が神の民に対して、悪口を言っているのを聞くと『彼らは悪魔の働きをしている』と思います。
悪魔が何世紀にもわたって携わってきた働きです。
私たちはそのような邪悪な働きに対してはっきりとした態度を取るように努めましょう。
悪魔は背信者です。
悪魔は真理の中にとどまることがありません。
悪魔は真理から背を向けます。
悪魔は初めから人殺しです。
悪魔の悪意が人間に向けられているのではありません。
神が人間を愛しておられることを悪魔は知っています。
悪魔には真実がないと言われています。

「彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。
なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」
(ヨハネの福音書8章44節)


ペテロの手紙第一の中で私たちは背教のことをこのように聞いています。

「身を慎み、目をさましていなさい。
あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。
ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」
(ペテロの手紙第一5章8、9節)


もし、私たちが真理の中を歩むなら、サタンの力を恐れる必要はありません。
神のよろいを身に着ければサタンに抵抗できます。
しかし、敵の力を過小評価してはいけません。
人格を持つ悪魔がいます。
サタンはこの世の君主です。
救われていない人たちはサタンの支配下にあります。
クリスチャンはサタンの提案に耳を傾けたり、サタンの道を歩まないように警告されています。
サタンの力から解放されるということは、サタンに立ち向かい、神が私たちに約束してくださった真理のために忠実に戦うことです。
人間は自分の罪に目覚めるとサタンの力を知ります。
しかし、神に感謝しています。
私たちの主イエス・キリストが死なれたのは、死の力を持つ者を滅ぼし神を信じる者を死の恐怖から救うためです。
サタンは人を罪に誘惑し、罪によって人に死がもたらされました。
人は愚かさのために神に従う道から離れてしまいます。
そして今、サタンはそのような自分の策略の犠牲者に恐怖を与え、怯えさせるために死を用います。
しかし、主イエス・キリストは、死を通り、勝利を得てよみがえられることによって、死を取り除かれました。
今、主に信じる者たちを死の恐怖から救ってくださいます。
あなたは死のことを考えると心に恐怖を感じますか?
あなたがたは言うことができます。
「私は人生の最後の大きな試練に立ち向かわなければなりません。
私に聞きなさい。
もし、あなたがたが死んで復活された方を信じるならば、死はいのちへの入口に過ぎないことを知るのです。」
イエスはこのように言っています。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
(ヨハネの福音書14章6節)

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
(ヨハネの福音書8章12節)


私たちの神は偉大な砦です!
不滅の防壁、不滅の災難が降り注ぐ中で、わたしたちを助けてくださる方です。
私たちのいにしえの敵は、なおも私たちにわざわいを与えようとしています.
敵の技量と力は偉大です。
冷酷な憎しみで武装しています。
地上には彼に匹敵する者はいません。

マーティン・ルーサー


講演30 世に来られる前のキリスト

「しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。
あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」
ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」
イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。
しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」
ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。
あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」
イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。
けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。
あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」
そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。」
(ヨハネの福音書8章45~59節)


私たちは、これらすべての会話が神殿の中で行われたことを知っています。
それは、罪人たちによってイエスのもとに連れてこられた哀れな罪人の女に対する素晴らしい言葉です。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
(ヨハネの福音書8章11節)


ユダヤ人指導者たちの悟りに向けて、真理の側面が次々と打ち出されました。
いろいろな訴えが民の前に提起されました。
そして、イエスに聞き従った多くの者たちから一つ一つ質問がされました。
さて、この章の最後には2つの優れたテーマがあります。

最初にイエスには罪がありません。
次にイエスの初めから存在していたことです。
これらの両方がイエスの神性を証言しています。
イエスは神です。
イエスは地上において、肉を持つ神として現われました。
イエスは肉の中におられる神ですので、罪のない人でした。
イエスは永遠の始まりから存在していた方です。

イエスは誕生の門をくぐってこの世に来られる前から、御父の御子でした。
イエスはこのように語っています。

「しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。」
(ヨハネの福音書8章45節)


イエスは彼らが真理を受け入れないことを知っていました。
それにも拘らず、何物にも代え難いものでした。
生まれつき人間は神に属するものを理解していないということを思い起こさせました。
このことは人が神のことばの教えに困難を覚える理由を説明しています。
彼らは霊的な洞察力を欠いています。
人に必要なのは新しい誕生です。
神が祈りに答えてくださることを否定していた人の話を覚えているでしょうか?
彼は「この世に神の答えがある祈りなど存在しない」と言いました。
一人の老いたクリスチャンが立って「あなたは神が祈りに答えられると信じないのですか?」と言いました。
「いいえ、知りません」と男は言いました。
「あなたは神に祈ったことがありますか?」
「いいえ、祈ったことはありません。」
「それなら、友よ、あなたはそれについて何を知っているのだ?
試してみるまで黙っていたほうがいいんじゃないか?」
私たちは自分で試す必要があるのです。
私たちは現実に新しく生まれる必要があります。
人は新しく生まれなければ、神の国の事物を見る(つまり、理解できない)ことができないからです。
ここに真理が受肉され人の間で働いていました。
彼らは耳を傾け、信じられないと顔を背けたのです。。
彼らは自分たちの罪のために心が盲目になっていたので、信じることができません。
そこで主イエスはこのような質問をされました。

「あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。
わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。」
(ヨハネの福音書8章46節)


彼らはイエスが何かの罪を犯したとでも思っていたのでしょうか?
この問題は全世界への挑戦なのです。
「あなたがたの中で、誰がわたしに罪を責めることができるのでしょうか?
人々はこれらの記録を調べ、イエスの性格の欠点や欠陥、あるいはイエスの行動の何か欠点を見つけようとしました。
しかし、何も見つけることができません。」

イエスは、すべての歴史とすべての書物の中で唯一の罪のない人物として私たちの前に立っています。
このこと自体が神が人間以上の存在であることを宣言しています。
聖書にはこのように書かれています。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」
(ローマ人への手紙3章23節)


しかし、人として地上に来られた方は罪を犯さず、すべてのことにおいて神をほめたたえました。
私たちの主イエスの祈りの生活を考えてみましょう。
イエスの生涯がイエスの罪の無さを示しているのです。
私たちの主イエスは、弟子たちに次のように祈るように教えられました。

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
(マタイの福音書6章24節)


しかし、イエスご自身は決してそのような祈りをされていません。
私たちは、イエスが誰かと一緒に礼拝に参加されたことを読むことはありません。
イエスは人々のために祈りました。
しかし、一緒に祈っていません。
なぜでしょうか?
なぜなら、他の人たちとは全く違う立場から祈っているからです。
イエスは、交わりが一瞬たりとも妨げられたことのない父の永遠の子として祈りました。
私たちが神のもとに来るとき、私たちは赦された罪人として祈り、罪の赦しを求めます。
イエスはこの祈りに加わることができません。
私たちの最も祝福された経験があります。
他の人と一緒にひざまずいて一緒に祈った時の記憶です。
私たちは、神が赦す用意があることを信じて確信と信仰を持って祈ります。
それはこのように書かれているからです。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
(ヨハネの手紙第一1章9節)


イエスは誰かと一緒になってそのように祈ることはありません。
そして、もう一度、イエスの敬虔さという問題について考えてみましょう。
もし、あなたがクリスチャンならこのように聞いても良いでしょうか?
あなたの敬虔な人生はどのようにして始まったのですか?
あなたはいつもクリスチャンだったわけではありません。
あなたはクリスチャンの家に生まれたかもしれませんが、クリスチャンとして生まれたわけではありません。
あなたの信仰生活はどのように始まったのでしょうか?
それは、あなたがたが失われた財産を知ることから始まったのではありませんか?
そして、あなたがたは自分の救いが必要であることを悟りました、
そして赦しを求めて神のところに連れて行かれたのではありませんか?
イエスにはこのような経験はありません。
イエスの生涯には、悔い改めについて考えたり、述べたりすることがありません。
ただ、敬虔さを見ることができます。
イエスの目から悔い改めの涙が落ちることはありません。
彼が泣いたのは他の者の罪のためにです。
イエスはエルサレムを見渡し、このように言いました。

「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」
(マタイの福音書23章37節)


イエスは他の者の罪のために泣き、悲しんだのです。

イエスにはご自分の罪がありません。
神は罪のない方でした。
このことによって、私たちはイエスが神であり、その神性を認めます。
イエスは真理を語り、イエスに向かってくるすべての者にこのように語っています。

「神から出た者は、神のことばに聞き従います。
ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」
(ヨハネの福音書8章47節)


もし私たちが、私たちの主イエス・キリストのあかしを拒むなら、私たちが神のみこころに従わずに拒んでいることを宣言しておられるのです。
だが主の言われたことを聞いた者たちは、この時、イエスに激怒しました。
彼らはイエスの証言を拒否してこのように答えました。

「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」
(ヨハネの福音書8章48節)


正統派ユダヤ人が人をサマリア人と呼ぶことは、最も侮蔑的な表現でした。
ユダヤ人が憎む者がいるとすれば、それはサマリア人でした。
それで彼らは「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか」と言ったのです。
私たちが愛してやまないエリコの途上の人のたとえ話の中で、イエスがサマリヤ人の名をご自身のために使っていることは驚くべきことではないでしょうか。
イエスは御自身をサマリア人として描写しているのです。
私たちの栄光ある主は、栄光の高みからこの暗い世界に来て、失われた人々を求めておられます。
なんと驚くべき神の恵みではないでしょうか!

しかし、彼らは「悪霊につかれている」と言いました。
そしてイエスはこのように答えたのです。

「わたしは悪霊につかれてはいません。
わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。」
(ヨハネの福音書8章49節)


次の聖句は、イエスは神の栄光を求めるためにここに来たのであり、正しく裁く方の手にゆだねることができたのだと説明しています。

「しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。」
(ヨハネの福音書8章50節)


イエスは時々、彼らを驚かすようなことを言います。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」
(ヨハネの福音書8章51節)


さて、もちろん外面的には、信者は他の人と同じように死という出来事を通過します。
つまり、他の人が死ぬのと同じように死ぬのです。
しかし、クリスチャンは死を見ません。
驚くべきことはイエスの言葉が完全に真実であることです。
イエスは何を見ているのでしょうか!
イエスは父の家の入り口を見ているのです。
死は私たちは私たちの僕だと語るのです。
死はどのように私たちに仕えるのでしょうか?
死は私たちを神の前に導きます。
私はアメリカ南部の伝道者と一緒にいました。
そして、素敵な家に住んでいる友人を訪ねました。
玄関で親切な性格の召使いが出迎えてくれました。
彼女は「ああ、女主人があなたを待っています」と言いました。
そして、私たちを中に連れて行きました。
伝道者は振り返り、言いました。
「あの優しい性格を持つ僕は「死は我々のものです」という聖書の言葉を思い出させます。
死はそばにいます。
死は私たちを主の御前に導く僕にすぎません。」
「その人は決して死を見ることがありません。」
救世軍のブース将軍夫人が死の床にいる時、彼女は顔を上げて言いました。
「これは死ですか?
これは素晴らしいことなのです!」
「しかし、あなたは苦しんでいる」と誰かが言いました。
彼女は言いました。
「その通りです。
水は干上がっています。
私もそうです。
死は、キリストとの永遠の祝福に入るための手段にすぎません。」
もし、キリストを知らないとしたら、なんと悲しいことでしょうか!
それは神からの永遠の追放を意味します。
彼らは「悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか!」と語ったゆえに主の言葉を聞いている者たちは悟ることができません。
イエスはこのように言ったのです。

「あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。
そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」
(ヨハネの福音書8章53節)


彼らはアブラハムよりも偉大な者を知りません。
アブラハムは神の友と呼ばれていました。
今、ここに神が人間の姿で彼らの間に立っていました。
イエスはこのように答えました。

「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。
わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。
けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。
もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。
あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。
彼はそれを見て、喜んだのです。」
(ヨハネの福音書8章54~56節)


アブラハムは、いつキリストの日を見たのでしょうか?
それは神がアブラハムに約束を与えた時です。

「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。
あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
(創世記22章18節)


ゆえに「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされた」のです。
しかし、ユダヤ人たちはこれを理解できません。
彼らはこのように言いました。

「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」
(ヨハネの福音書8章57節)


イエスは「私はアブラハムを見た」とは言っていません。
「アブラハムは、わたしの日を見る」と仰せられたのです。
イエスは彼らに言いました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
(ヨハネの福音書8章58節)


ここでも、イエスは神の名前を使っています。
神はモーセは言いました。

「『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」
(出エジプト記3章13節)


イエスは「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」とここで言っています
イエスはアブラハムの神として語っています。
イエスがどのように自分の存在を主張しているかに注目してください。
「キリストは私たちの贖い主としてこの世に来られました。
永遠に生きておられるキリストです。」

イエスがこのように語られた時、彼らはそれを冒涜とみなしました。
彼らのうちの何人かが先に宮に来て、その哀れな女に石を投げようとしたことを覚えているはずです。
イエスがご自分の神であると宣言されると、彼らは石を取ってイエスに投げようとしました。
しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれました。
彼らは機会を失いました。
彼らはイエスの証言を信用していません。
ゆえに、宮から出て行かれたのです。


講演31 盲人と堕落から永遠の祝福へ

「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。
そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません。」と言った。
彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。
そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」
しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、
尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」
そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。
しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。
彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。
そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください。」と言ったのである。
そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」
彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。
私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」
彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。
イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるパリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」」
(ヨハネの福音書9章1~41節)


8章について考えて行くのなら、主イエス・キリストは御自身に与えられた特別な名称、 「世の光」 に基づいて行動されていました。
9章でも、まだイエスは御自分を世の光として現わしています。
8章で、罪を犯してイエスのところに連れて来られた哀れな女を、死刑にするために暗くなった非難している人たちの心に光が差しこむのを私たちは見てきました。
イエスはこのように言われました。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
(ヨハネの福音書8章7節)


光が彼らの心を照らし、彼らの罪が明らかにされました。
イエスの足もとにひざまずいている哀れな罪人を石で打つ者は誰もいなかったのです。
さて、9章では、神の恵みを与えるために、暗くなった心に光が入り込みます。
私たちには目の見えない人がいます。
光は彼の暗いまぶたを照らし、目と魂の目を照らします。
ここではこのように書かれています。

「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。」
(ヨハネの福音書9章1節)


イエスは生まれつきの盲人を見られました。
これは8章に記録されている出来事のすぐ後のことだと思われます。
おそらく同じ安息日であったかも知れませんが、確かではありません。
明らかにこの盲人は神殿の中庭で特別な場所にいました。
人々は彼がそこに座って、時々施しを受けているのを見ていました。
中には、喜んで彼を助けた者もいたはずです。
彼らが通り過ぎるとき、キリストの弟子たちはイエスの方を向いてこのように言いました。

「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。
この人ですか。その両親ですか。」
(ヨハネの福音書9章2節)


彼らは知っていました。
病気や目の見えない人、すべての人間を苦しめるものが、罪のために世界に出て来たのです。
さて、彼らはヨブの三人の友人のように、彼を罪のある者に定めようとしていました。
ここに生まれつき目の見えない男がいます。
彼の罪は両親の罪のためだったのでしょうか?
それとも、彼自身の罪のためでしょうか?
あなたがたは「どうして、彼が罪を犯すことが可能ですか?」と問うかもしれません。
多くのユダヤ人は、胎内の子供でさえ罪を犯すことができると信じていました。
創世記ではヤコブのことがこのように書かれています。

「そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。」
(創世記25章26節)


ユダヤ人は自分の意志は胎児の時に現れると主張していました。
彼らは魂の移動を信じていませんでした。
ゆえに、その質問は、彼が前世で罪を犯した可能性を意味するものではありません。
確かに、彼らはいくつもある多くのラビの教えに当惑し、混乱していました。
イエスはこのように答えました。

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
神のわざがこの人に現われるためです。」
(ヨハネの福音書9章3節)


イエスは、この人が罪を犯したことがないと言われたのではありません。
彼らの問いに答えられたのです。
なぜ、この男は盲目に生まれたのでしょうかか?
これは多くの人々を悩ませる問題を提起しています。
なぜ、幼児が苦しまなければならないのでしょうか?
なぜ、不完全で障害のある体で生まれてくる子供がいるのでしょうか?
目の見えない人もいれば、耳が聞こえず口もきけない人もいます。
無限の愛と恵みの神が、幼児に苦しみを与えることを、どのように説明するのでしょうか?
まあ、人間の堕落の教義を除いて考えるのなら、幼児の苦しみを愛の神と和解させる方法を私は知りません。
ただし、すべての痛み、苦しみ、悲しみは罪のためにこの世に生まれたのだと理解することができます。
つまり、これらの苦しみは人間の不従順の結果であることがわかります。
初めに人は神に背を向けたのだから、これらのことは人の不従順の結果なのです。
ここで、私たちの主イエス・キリストは、さらに別のことを明らかにしています。
もし幼子がここに述べたような状態でこの世に生まれるなら、神は何らかの形で栄光を受けることになると言っています。
盲人は成人するまで生きていました。
彼の両親が質問された時、彼らはこのように答えています。

「あれはもうおとなです。あれに聞いてください。」
(ヨハネの福音書9章23節)


彼の長い年月は暗闇の中で過ごしてきました。
ここで、この不思議なことを考えてみてください。
彼が初めて見た顔は、主イエス・キリストの顔でした!
確かにその体験は、彼が暗闇の中であらゆる出来事に耐えてきたことに対する報酬でした。
スポルジョン氏は、生まれつき目が見えない、しかし幸せな聖人である年老いたクリスチャンの話をよくしていました。
ある日、老人は他の信者に向かって言いました。
「わたしには、あなたがたよりも感謝すべきことがたくさんあります。」
ある人が「多くの感謝って、何ですか?
私は何年も前から目が見えていました!」と叫びました。
盲人は見えない目で、顔を上げて言いました。
「あなたがたは不愉快で苦痛なことをたくさん見なければなりません。
不親切で怒りに満ちた神に汚れたことを言う顔をたくさん見なければなりませんでした。
しかし、私が最初に見る顔は、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった、私の祝福された救い主の顔です。
ゆえに私はあなたよりも感謝することがあるのです。」
人がそのように話せるようになるには神の恵みが必要です。
これを読んでいる人の多くは人生の中で嘆いてきたことを知っています。
おそらく、赤ちゃんの頃から、他の人がしなかったような苦しみを受けなければならなかったかも知れません。
あなたがたは「神の道を理解するのは大変だ」とは何度も言ってきました。
私はこれだけは断言しておきたいことがあります。
もし、あなたが、神は決して過ちを犯さない、神は人の子らを必要以上に苦しめることのないほど優れた方であり、神は愛に満ち、不親切なことは何一つしない、ということを心に決めてください。
あなたがたが神の御言葉を学び、神に心の信頼を置くのであれば、いつか、あなたがたを悲しませ、最も苦い涙を流させたことについてさえ、神に感謝し、賛美する理由があることに気が付くはずです。
イエスは「この人は罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」と言いました。
神は祝福された御子を、神の救いの力の素晴らしい証人とするために、ちょうど良い時に彼に遣わしたのです。
あなたはこれに気が付きましたか?
主は、この盲人がイエスに関心を持つずっと前から、この人に関心を持っていたのです。
盲人は神殿の門のそばにいました。
施しを求め、通りかかった人々が彼を哀れんでくれることを願っていました。
彼は、施し以上のことを与えてくださる方、彼に視力をに与えてくださる方がそこにおられることを知らなかったのです。
しかし、そこにイエスがいました。
そして、弟子たちに話しておられました。

「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」
(ヨハネの福音書9章4節)


私たちはこのことを胸に刻む必要があります。
そして、イエスはこのように言いました。

「わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
(ヨハネの福音書9章5節)

しかし、イエスは弟子たちに「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます」と仰せられました。
神は、キリストを知らせる機会であるこの時代に、私たちに忠実であることを教えました。
「わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
そして、このようなことが書かれています。

「イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。
そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。」
(ヨハネの福音書9章6節)


これはとても簡単なことでした。
あなたは状況を悪化させたと言うかもしれません。
このわずか前に光のことが語られました。
粘土は光をすべて打ち消してしまいます。
しかし、その単純な行為には素晴らしい描写がありました。
それは私たちの主イエス・キリストの受肉の描写です。
キリストは天の栄光から降りて来ました。
土の体を持っていました。
土の体はたくさん人々の闇をより大きくするのを助けただけでした。
彼らは動き回るイエスを見ても理解することはできません。
彼らは聖霊によってイエスが彼らに示されるまで、イエスが父の遣わされた方であることを理解することができなかったのです。
そこでイエスは盲人の両目に泥を塗り仰せられました。

「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。
そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」
(ヨハネの福音書9章7節)


なんとすばらしい経験なのとでしょうか!
彼の目が開き、世の美しさを見ました。
そして、彼は主イエス・キリストの御顔を見つめたのです。
「彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」
しかし、救い主はしばらくの間、ご自身を遠ざけられました。

「近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。
「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。
当人は、「私がその人です。」と言った。
(ヨハネの福音書9章8、9節)


彼らには確信を持つことが出来なかったのです。
あなたはそこに違いがあることぐらいわかるはずです。
目の見えない男の顔には、ある種のうつろな表情がありました。
彼らは「これは本当にかつての私たちの隣人ですか? 」と言いました。「これは本当に私たちの古い隣人ですか? 」。

当人は、「私がその人です。」と言った。
(ヨハネの福音書9章9節)


「その通り。私は生まれつき目の見えない人間です。
しかし、今は見ることができます。」
神に感謝します。
現在においても、このような奇跡がイエスによって働いています。
現実に多くの者が心の中で盲目になっています。
永遠の事柄に盲目になっています。
そして、イエスが父の遣わされた方であることを知ります。
やがて、イエスを信じた時、彼らは見ることができるのです
何もかもが変わってしまうのです。

「そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。
それで、行って洗うと、見えるようになりました。」」
(ヨハネの福音書9章10、11節)


この男のシンプルな告白が好きです。
彼は自分がどのようにこの状況になったのかを知っていました。
彼は「イエスという方」を知ったのです。
その素敵な名前を知っているでしょうか?

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」
(テモテの手紙第一2章5節)

あなたはあの祝福された人を知っていますか?
「地上のすべての最も美しい者よ、。
それはあなたの花嫁のために送られた最高の贈り物です。
私はあなたのうちに神の豊かさを見ます。
あなたはカルバリの美しき人。」
ああ、イエスを知ることは、神を知ることです。
イエスは神の御性質を正確に現わしておられるからです。
イエスは「わたしを見た者は父を見た」と言うことができました。
あなたはイエスを知っているでしょうか?
私は、あなたがクリスチャンであると告白しているかどうか?
もしくはどこかの教会に属しているかどうか?
もしくは、時々教会の儀式に参加しているかどうか?
それとも、良い人生を送ろうとしているかどうかを尋ねているのではありません。
これらすべてのことにはそれぞれの立場があります。
しかし、私はあなたがたに尋ねます。
あなたがたはイエスと呼ばれる人を知っていますか?
あなたがたはイエスを救い主として信じていますか?
あなたがたがイエスを知るまでは、あなたがたは神を知ることはありません。
あなたがたはまだ自分の罪の中にいるのです。
しかし、あなたがたがイエスを知る時、あなたがたの罪は取り除かれ、永遠の命を得るのです。
あなたがたがイエスを知るのなら、やみは過ぎ去り、まことの光が輝きます。
この男はイエスに出会い、イエスは彼に視力を与えました。

彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。
それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
(ヨハネの福音書9章11節)


そして、今日、すべての人に最後通告が出されます。
「洗って、見えるようになりなさい。」
与えられた神が御子についての証しを信じなさい。
信じるのであれば、あなたがたには永遠のいのちがあります.。

あなたはヨハネの福音書5章24節を覚えているでしょうか?

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
(ヨハネの福音書5章24節)


別の箇所ではこのように語られています。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
(ローマ人への手紙10章9、10節)


この男はイエスの言葉を信じて、見えるようになりました。
ここにいる何千人もの読者の中には、イエスの言葉を信じ「わたしは行って洗うと、見えるようになりました。」と証しできる人たちがいます。
キリストを受け入れていないあなたがたにお願いします。
キリストがあなたがたに求められていることを行なってください。
父の遣わされた方としてイエスを信じるのです。
そうすれば、あなたがたは光といのちと平安を得ることができます。

「また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」
彼は「私は知りません。」と言った。
彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。」
(ヨハネの福音書9章12、13節)


もちろん、ここで主イエスはパリサイ人の律法的な良心と真っ向から対立しています。
安息日の問題は、彼らにとって哀れな盲人の要求を満たすことよりも、自分たちの作った律法を信じることの方がはるかに重要な事柄でした。
こうして、イエスは再び彼らの非難を浴びることになります。
パリサイ人たちはその男がどのようにして視力を得たのかを尋ねました。
彼はこのように言いました。

「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
(ヨハネの福音書9章15節)


すぐにパリサイ人たちは根拠のない結論に飛びついて、判決を言い渡しました。
彼らはこのように言いました。

「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」
(ヨハネの福音書9章16節)


彼らにとって、イエスが苦しみを受けている人たちのために何をしても、安息日を守らないので神からのものではないという判断をしたのです。
イエスはパリサイ人たちが作った何百もの法律を完全に無視して行動していました。
イエスにはこれらが全く無関心だったのです。
律法主義者たちにどんな罪を与えようと、人々が苦しんでいる時には彼らを助けられたのです。

「しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」
そして、彼らの間に、分裂が起こった。
そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。
「あの方は預言者です。」」
(ヨハネの福音書9章16、17節)


イエスは神のメッセンジャーです。
預言者とは神のために行動する人のことです。
「あの方は預言者です。」

「しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、」
(ヨハネの福音書9章18節)


つまり「これは宮の門に座っていた乞食ではない」と判断したのです。
それで彼らは彼の両親を呼び出して、尋ねて言いました。

「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」
(ヨハネの福音書9章19節)

まるで彼らがずっと騙しているかのように見えます。
しかし、そこに何の意味があるのでしょうか?
そこで彼の両親はこのように答えました。

「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。
しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。
また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。
あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。」
(ヨハネの福音書9章20、21節)

次の節でなぜ彼らがそんなに警戒していたのかを教えてくれます。

「すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。」
(ヨハネの福音書9章22節)


両親はその場所から追放されることを望んでいなかったのです。
もし両親が会堂から追放されれば、彼らのすべてのものが会堂の外側に置かれることになります。
人々はこの会堂からの追放の宣告を恐れていました。
両親は心の中で信じることを告白するリスクを冒したくなかったのです。
ゆえに両親は「あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう」と答えたのです。

「そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。
「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」」
(ヨハネの福音書9章24節)


私はこの盲人の証言が好きです。
今、彼は見えています。
今、彼は彼らを見上げて言いました。

「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。
私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
(ヨハネの福音書9章25節)


これは素晴らしい証しです。
私の読者の中にも、同じ証言をしてくれる人がたくさんいると確信しています。
「ただ一つのことだけ知っています。
私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

「かつての私は哀れな罪人でした。
悟ることさえも暗していました。
しかし、今は、私の目が開かれたことを知っています。
ああ、キリスト。
私のたましいは、あなたのうちに見ることができます。
私は長い間、平和と喜び、今まで知ることにない至福を求めていました。
今はあなたのうちにだけ見ることができます。
今ではキリスト以外に誰も満足させることができません。
私には他の名前はありません。
主イエスよ、あなたには愛と命と永遠の喜びがあります。
失われた快楽を嘆くことにありました。
しかし、あなたのために泣くことはありません。」

救われた私たちは、ただ誰かの言葉にすがっているのではありません。
神の御言葉というものを信じているのでもありません.
私たちのうちには、主イエス・キリストが私たちとともにおられることについての知識が、長い年月を経てますます深まっていくのです。
それによって、私たちはパウロのように心から次のように言うことができるのです.

「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」
(テモテの手紙第二1章12節)


さて、この男が証言すると、さらに取り調べの質問を始まります。
私はその男のまじめなところが好きです。

彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。」
(ヨハネの福音書9章27節)

つまり「どうして私に聞くのですか?
どうしても知りたいなら、もう一度教えます」ということです。

「なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。」」
(ヨハネの福音書9章27、28節)


しかし、イエスはこのように言うことができました。

「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。
しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。。」
(ヨハネの福音書5章46、47節)


モーセを神の預言者であると信じ、旧約聖書を霊感のあるものとして受け入れるあなたがたに言いたいのです。
それらの記録を読み、それらの箇所を天から啓示として神に願いなさい。
もしあなたがたが誠実なら、モーセの証言の中にキリスト・イエスを見ることができます。

しかし、彼らは言いました。

「私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。
しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」
(ヨハネの福音書9章29節)


すると新しい目を持つ男が答えて言いました。

「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。
しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
神は、罪人の言うことはお聞きになりません。
しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」」
(ヨハネの福音書9章30~33節)


驚くのはこの男の成長の速さです。
ほんの少し前までは目の見えない物乞いでした。
間違いなく、彼は暗闇の中で座って、多くのことを考えていました。
そして、今、いろいろなことが明らかになったのです。
キリストを知ると心と想いから覆いが取り除かれます。
パリサイ人たちは答えられずに怒っていました。
一般的にはその通りです。
議論に勝てない人は、大きな声で相手を怒鳴りつけるのが自然な出来事です。

彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」
(ヨハネの福音書9章34節)


彼らは誰でしょうか?
彼らは集まりでこのように言った者です。

「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」
(ルカの福音書11章10節)

そして、彼らはこの哀れな男を軽蔑の目で見ました。
この人は誰でしょうか?
彼は「罪の中に」生まれた者です。
いいえ、このようなことは聖書には書いてありません。
「罪の中に」と言っています。
ダビデはこのように言っています。

「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」
(詩篇51篇5節)

私たちは生まれてから罪に陥るのです。
しかし、彼らは彼を追い出しました。

それは彼に起こり得る最大の出来事でした。
追放されることを恐れる人々もいます。
しかし、どこに追放されたか知ってますか?
正解はイエスの腕の中に追放されたのです!

「イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。」
(ヨハネの福音書9章35~38節)

考えてみてください。
この聖句の初めでは、彼は貧しい盲目の物乞いで、とても貧窮した者でした。
しかし、聖句の終わりでは、キリストの顔を見つめながら、幸せそうに礼拝しています。

ここには素晴らしい「天路歴程」の場面を見ることができます。
そこには盲目と貧困から、永遠のために悟りを得て豊かになった者として、救い主の足元で礼拝する者がいます。

「そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。
それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。
パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。
しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」」
(ヨハネの福音書9章39~41節)


彼らは意図的に光を拒んだ者として宣告を受けます。
主イエスは今も世の光なのです。

今だに神は盲目の目を開き続けています。
もし読者の中に、まだ一度も主のもとに来たことがなく、主を信じる心に主が何をしてくださるかを自分自身で証明したことがない人たちがいるのであれば、私は喜んであなた方に神をお勧めします。
あなたがたは主の御元に試練と罪と涙を持って来なさい。
あなたがたの必要に応じて来なさい。
イエスは御自身の豊かな恵みによって、それに応えてくださります。

「さあ、哀れな者たちよ、
あなたがたはどこで苦しんでいるのか!
慈しみの席に来て熱心にひざまずきなさい。
ここに傷ついた心を持って来なさい。
ここで苦悩を語りなさい。
地上ではには天が癒すことのできない悲しみなどありません。」


講演32 良き羊飼い

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。
門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。
そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。
わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。
(ヨハネの福音書10章1~16節)

この箇所には、実際には2つの異なる区分があります。
最初の5節は完全なたとえですが、6~16節は、私たちの主イエス・キリストの羊飼いとしての性質についての訓戒と真理をさらに詳しく説明しています。
イエスは間違いなく良い羊飼いです。
「良い」という言葉は「美しい」を意味する言葉であることはかなり重要な事柄です。
「私は美しい羊飼いです。」
つまり、全く利己的でなく、人格の美しさ、父のみこころに献身的な羊飼いを現わしています。
イエスはイスラエルの羊飼いとしてご自身を示されました。
これは旧約聖書の多くのメシア預言が書かれた聖書箇所に従っています。
創世記49章で、神の霊感によってヤコブがヨセフについて語っています。

「ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、その枝は垣を越える。
弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました。
しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。
あなたを助けようとされるあなたの父の神により、また、あなたを祝福しようとされる全能者によって。
その祝福は上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福。 あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。
これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。」
(創世記49章22~26節)


詩篇23篇ではメシアがエホバの羊飼いとして語られています。
私たちが愛してやまない美しい宝石のような詩です。
聖書の他のどの部分よりも愛されています。
しかし、ある人が信じられていないと言いました。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」
(詩篇23篇1節)


私たちはこの言葉を繰り返すことを好みます。
どれだけの多くの人がこの聖句を信じているのでしょうか?
財布の中身が空になった時!
失業した時!
たびたび私たちはパニックになることがあります。
やるべきことは一つです。
イエスの御元に行き、すべての事をイエスの御元に置くことです。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」
そして、詩篇80編1節ではこのように書かれています。

「イスラエルの牧者よ。聞いてください。
ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ。光を放ってください。ケルビムの上の御座に着いておられる方よ。」
(詩篇80編1節)


神ご自身がイスラエルの牧者です。
ご自分の民を見守っておられ、いつの日か、人の姿で世に来られ、彼らを祝福に導くことになっていました。
イザヤはイエスをこのように描いています。

「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。
見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。
主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」
(イザヤ書40章10、11節)


この聖句は主に油そそがれたイスラエルのメシアがこのような場面に来るという預言です。

私たちはエレミヤ書31章を読むことができます。
神はご自分の民イスラエルに対して永遠の関心を持っておられます。
そのことを語る偉大な章です。
10節にはこのようにあります。

「諸国の民よ。主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る。」と。
主はヤコブを贖い、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されたからだ。」
(エレミヤ書31章10、11節)

エゼキエル書34章12~15節では、エゼキエルは確信してこのように書いています。

「牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。
わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。
わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。
わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――」
(エゼキエル書34章12~15節)


私たちは主を羊飼いとして描く多くの聖句に目を向けることができます。
私たちの主イエス・キリストによって成就するように定められた聖句です。
イエスがイスラエルの中に立って、御自身を良い牧者であると宣言された時、彼らはすぐに悟ったはずです。
彼らは旧約聖書をよく知っていたからです。
これらの聖句は、何世紀にもわたって彼らの心の中にありました。
イスラエルはヤハウェである羊飼いの到来を待ち望んでいました。
その時にイエスが現れて「わたしは良い羊飼いです」と言いました。
かつて、私たちはキリストの「私はある(I Am)」について話しました。
そして、私たちはその表現が明確な神の称号であることに気がつきました。
イエスは、口には出すことのできない神の名を取り、「私は良い羊飼いです」と言ったのです。
イエスは、時より現れる偽牧者たちと対比してこのように言っています。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。」
(ヨハネの福音書10章1、2節)


私はこれらの聖句が誤って適用されたり、間違って適用されているのを聞くことがあります。
それは、まやかしのことを教えるために使われているのではなく、この聖句で教えていることに反して使われているのです。
「キリスト以外の方法で天国に入ろうとする者は、盗人であり強盗である」という言葉をよく耳にします。
しかし、そのことを主がここで話していることではありません。

もし、あなたがたが、主イエス・キリストに信賴する以外の道で天に入ろうとするなら、あなたがたは、自分の資格のない場所に押し入ろうとする盗人のようなものです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。
世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
(使徒の働き4章12節)

しかし、救い主がここで話しているのは、このことではありません。
イエスは天国に入ることについて話しているのではありません。
天国は羊の群れではありません。
ユダヤ教は羊の群れであり、私たちの主イエス・キリストが現れる半世紀前から、多くの人がメシアのふりをしてやって来ました。
しかし、彼らは入り口から入って来たのではありません。
つまり、聖書と一致しています。
彼らは他の方法でよじ登ろうとしたので、主は彼らを泥棒や強盗だと非難しました。
それに対しイエスは、御自分のことを次のように語られました。

「しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。」
(ヨハネの福音書10章2節)


イエスの出現は預言の御言葉と完全に一致していました。

「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。
彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」
(ヨハネの福音書10章3節)

バプテスマのヨハネは、メシアの到来を告げるために神から遣わされた番門番でした。
彼はその方のことをこのように語りました。

「その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」
(ヨハネの福音書1章17節)


ヨハネのところにイエスはバプテスマを受けるために来ました。
そして彼はこのように言いました。

「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
(マタイの福音書3章14節)


あなたは罪のない方です。
わたしは罪人にバプテスマを授けているのです。
これは、悔い改めのバプテスマです。
あなたは、悔い改める必要はありません。
イエスは答えました。

「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」
(マタイの福音書3章15節)


イエスはバプテスマを受け、神の王座のためにすべての正しい要求を満たす必要があったのです。
このように罪人たちの必要を満たすことをご自身に誓ったのです。
イエスが水の中から出て来た時、天からこう告げる声が聞こえました。

「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
(マタイの福音書3章17節)


このようにイエスは門から羊の群れに入ったのです。
門番が道を開けました。
その日、神の御霊が鳩のように降りて来られました。
そして、イエスの上にとどまり、イエスにメシアとして油が注がれました。
これが「メシア」という言葉が意味する「油注がれた方」なのです。
その日、メシアは神の御霊によって、真実な羊の牧者として油が注がれました。
このようにイエスは門からはいって行かれました。
羊の群れの中には、イエスを迎えた者たちがいました。
これらの人々は真実な神の子供です。
すでに彼らはイエスの真理に心を開いていました。
イエスが来たとき、彼ら「この方こそ、わたしたちが待ち望んでいた救い主です」と言うことができたのです。
キリストは彼らを永遠にユダヤ教の中に置き去りにするつもりはありません。
クリスチャンとしての恵みと祝福の自由の中に導くのです。
キリストはユダヤ教ではない教会を恵みの自由に導くためにユダヤ人の羊飼いの中に入りました。

「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。
すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」
(ヨハネの福音書10章4節)


これは驚くべきテストです。
「自分はクリスチャンだと思っています。
しかし、なぜキリストがこの世に生まれて、罪人を救うために死ななければならないのかわかりません?」
理解できません。
それはとても悲しい事実を宣言しています。
羊飼いの声をよく知らないと言っています。
あなたは、悔い改めた罪人として神の前に立ち、単純な信仰によってキリストを受け入れたことがありません。
受け入れた者は再び生まれ、永遠の命を受け、新しい命と新しい性質とが結びついて、神の声に従うことを喜びとします。
彼らはキリストを知っています。
彼らは羊飼いの声を知っています。
彼らはよそ者にはついていきません。
私たちはこのように語ります。

「イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。」
(ヨハネの福音書10章6節)


彼らはほかの人には決してついて行きません。
らの目は盲目でした。
彼らはイエスが示されたこの美しい小さな描写の意味を理解してません。
ゆえに、イエスは物事をもっと完全に示されたのです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」
(ヨハネの福音書10章7~10節)


ここで、イエスは姿を変えているように見えます。
しかし、その前にイエスはこのように述べられています。

「しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。」
(ヨハネの福音書10章2節)


ここでイエスはこのように言っています。

「わたしは門です。」
(ヨハネの福音書10章9節)


矛盾しているでしょうか?
全く違います。
ピアッツィ・スミス博士の話を聞いたことがあるかもしれません。
ある時、彼は羊飼いが羊の群れを連れて丘を登っているのを見ました。
彼は羊を導き、羊たちを安心させました。
そして、スミス博士は言いました。
「あなたは羊を一晩中この囲いの中に置いておくつもりですか?」
「はい。」
「でも、この辺に獣はいませんか?」
「はい。」
「獣たちは羊を捕まえようとしないのですか?」
「はい。」
「ここには入口がありません。
どうやって獣を追い出すのですか?」
しかし、アラブの羊飼いは横向きに寝そべって、入口に腰を落ち着け、顔を上げて微笑みました。
そして「私が入口」だと言いました。
あなたがたが見ている通りにどんな野の獣も彼を起こさずには中に入ることができません。
羊も彼のからだを越えて出て行くこともできません。
イエスは「わたしは門です」と言いました。
わたしが羊を祝福に入れる者です。
わたしは彼らの見張り人であり、彼らを導く者です。
イエスはこのように言っています。

「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」
(ヨハネの福音書10章9節)


これはダビデがこのように言った時と同じです。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」
(詩篇23編1、2節)


羊飼いは羊の世話をして、適切な牧草地に導いて、そこでリフレッシュさせて、餌を与えます。
私たちの祝福された主は、自分を信じる者たちのために、ご自分の責任を果たされます。
しかし、主とは対照的に、自分のことしか考えない、偽教師や預言者が出てきました。
何世紀にもわたって行われ、主は非常に強い言葉で彼らについて語られました。

「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。
わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」
(ヨハネの福音書10章10節)


主は、御自分を信じるすべての人々に永遠のいのちを与えるために来られました。
もし、私たちが神との交わりの中で歩んでいるなら、私たちはその豊かな人生を手に入れることができます。
多くのクリスチャンは命を持っていますが、豊かな命を持っているようには見えません。
最近、子供が2人いる家にいました。
一人は病弱で青ざめていたが、もう一人はとても生き生きとしていました。
そして、小さな病弱な子にはいつも悩まされていました。
私は彼らを見ながら「彼らはクリスチャンのよう」に見えました。。
クリスチャンは、命を持っています。
彼らはイエスを救い主と信じています。
しかし、彼らは神に感謝していません。
あかしもありません。
また、対照的に、自分たちを贖ってくださった方のために大きなあかしをしている者たちがいます。
彼らは主との交わりの中で輝き、生きています。
イエスは最初にこのように言われました。

「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
(ヨハネの福音書10章11節)


そして、このように宣言されました。

「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。」
(ヨハネの福音書10章14節)


ここには真実の2つの側面があります。
イエスは良い羊飼いとしてカルバリの十字架に行き、命を捨てました。
そこで主は、私たちのそむきの罪のために、傷を負われました。
私たちの咎のために傷を負われました。
その傷によって、私たちはいやされました。
ああ、イエスは素晴らしい羊飼いです!
「あなたは偉大な憐み深い羊飼いです。
私たちのためにあなたの命の血を流しました。
屈辱と死を受け入れてくださいました。
すべては私たちを神に近づけるためです。」
他に方法がなかったのです。
ゲッセマネでイエスは祈りました。

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」
(マタイの福音書26章39節)


すなわち「もし、わたしがさばきの杯を飲む以外に、罪人を救うことができるのなら、それを明らかにしてください」ということです。
でも、ほかに方法がなかったので、良い羊飼いは死に向かったのです。
しかし、死んだ方は復活しました。
イエスは栄光の中に生き、今もなお、良き羊飼いです。
他では、彼は偉大な羊飼いや大牧者と呼ばれています。

「永遠の契約の血による羊の大牧者、永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、 イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。
どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」
(ヘブル人への手紙13章20、21節)


しかし、この偉大な羊飼いは、「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。
また、わたしのものは、わたしを知っています」と言っています。

神の子供たちよ!
それでも、あなたの心は平安がないのでしょうか?

もし、私が病床に横たわっている人に向かって話しているとしたら、おそらく何年もベッドから離れられない人もいると思います。
完全に見捨てられ、孤独で、疲れ果て、すべてにうんざりしていると感じるのも無理はないと感じます。
愛する人よ!
たとえ、病人であっても、イエスが言ったことを思い出してください。
「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。」
イエスはあなたの苦労、失望、あなたが飲まなければならない杯を知っています。
イエスはもっと苦いものを自分で飲み干しました。
「もしあなたの行く道にイバラがあったら、ああ、誰がそのイバラを額に背負ったのか考えてみてください!
あなたの悲しみの心が見つけたものは、あなたよりも聖なる方に届きました。
主は、あなたがたのすべての試練に加わってくださります。
あなたがたのすべての苦しみを共にしてくださります。
それは祝福されたことなのでしょうか?
イエスは仰せられます。
「わたしはわたしのものを知っています。」
私たちはダビデと共に言うことができます。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」
そして、このように宣言できるのです。
「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」

もちろん、イエスはおもにユダヤ人の羊の群れのことをは成しておられます。
しかし、次の節で私たちはこのように読むことができます。

「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。
彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」
(ヨハネの福音書10章16節)

ここでの 「群れ(fold)」という言葉は、本当は「集まり(flock)」であるべきです。
ユダヤ教は「群れ(fold)」で中心のない外周でしたが、クリスチャンは群れで外周のない中心です。
私たちの周りには外周はありません。
私たちは私たちの良き牧者である方の周りに集まっています。
私たちの主イエス・キリストは、わたしたちの良き牧者です。

「国々の民は彼に従う。」
(創世記49章10節)


講演33 キリストの羊の安全

「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」
このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。
彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」
ほかの者は言った。「これは悪霊につかれた者のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」
そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。
時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。
それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。
しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
わたしと父とは一つです。」
(ヨハネの福音書10章17~30節)


これらの詩には二つの重要な主題があります。
17節と18節は、私たちの救い主を羊のために命を捨てた良い羊飼いとして述べています。
実際には前の段落に属すると言ってもよいかもしれません。
ここでは私たちの主は、十字架を強制したのは人間ではないという事実を強調しています。
つまり、主は死ぬ必要はなかったのです。
イエスの人間性は、私たちとは違っていました。
私たちは生まれてすぐに死が始まるのです。
いわば、死の種はアダムのすべての子供の体の中にあります。

私たちはみんな、アダムの呪いにかかっているのです。
「死ね者は死ぬ」のです。
私たちの体は死ぬべきものです。
つまり、死にさらされているのです。
それは私たちの主イエスの体も一緒です。
ヤコブの手紙にはこのように書かれています。

「罪が熟すると死を生みます。」
(ヤコブの手紙1章15節)


ゆえに、私たちは死ぬのです。
私たちは皆、アダムの罪のウイルスを受け継いでいるからです。
しかし、私たちの主イエス・キリストは罪のない御方でした。
しかし、死ぬことのできるからだをもって世に来られたのです。
死ぬ必要はありませんでした。
イエスは自分の力で死ぬことも、永遠に生きることもできました。
しかし、キリストは、私たちの邪悪なたましいへの愛と、父への愛によって死なれたのです。
キリストは父のみこころを行なうために来られたからです。
詩篇118編では詩編の作者がこのように言っているのを聞くことが出来ます。

「主は神であられ、私たちに光を与えられた。枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。」
(詩篇118編27節)


英訳ASV
"Jehovah is God, and he hath given us light: Bind the sacrifice with cords, even unto the horns of the altar."
直訳
「ヤハウェは神です。
彼は私たちに光を与えられた
祭壇の角のところまで、ささげ物をひもで結びなさい」

イエスご自身が、律法のすべてのささげ物の型でした。
ゆえに、この聖句はイエスをさしています。
旧約の祭壇には4本の真鍮の角がありました。
この言葉がなかったらその角が何に使われているのかわからなかったかもしれません。
しかし、私たちはこの詩篇から学ぶことができます。
牛や子羊のような動物がささげ物として連れてこられました。
これらの動物を祭壇の角に結びつけ、その血は祭壇の回りに注ぎだされました。
ヘブル人への手紙にはこのようにあります。

「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」
(ヘブル人への手紙9章22節)


私たちの主イエス・キリストは、祭壇の角にひもでつながれました。
ひもとは何でしょうか?
ホセア書では「神が愛のひもで私たちを引き寄せた」ことが書かれています。

「わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。」
(ホセア書11章4節)


愛の綱は、私たちの哀れな心をキリストに引き寄せました。
私たちをキリストに結びつけました。
キリストを十字架に結びつけたのは、愛の綱なのです。

「ゲッセマネを探し求めたのは愛でした。
決して、ユダはイエスを見つけることができません。
イエスを木に縛り付けたのは愛でした。
決して、鉄はイエスをしばりつけることができません。」

そこにあるひもは一つだけではありません。
そこにはいくつもひもがあったのです。
御父への愛のひもがあり、私たちへの愛のひもがあるのです。
私たちはこのように聞いています。

「しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです。
立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」
(ヨハネの福音書14章31節)


そして、イエスは悲しみの園に出て、贖いの十字架に行かれました。
御父への愛がイエスをそこに連れて行きました。
イエスは私たちのためにいのちを捨ててくださいました。
聖書には次のようにも書かれています。

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」
(エペソ人への手紙5章25節)


使徒はこのように言うことができました。

「いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
(ガラテア人への手紙2章20節)


イエスを十字架に連れて行き、罪のためのささげ物として死なせたのは私たちの哀れな魂への愛からでした。
イエスはこのように言っています。

「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。」
(ヨハネの福音書10章17節)


しかし、罪ある者たちがイエスを捕え、十字架に釘で打ちつけたことも完全に事実です。
使徒ペテロはその時代のユダヤ人たちにこのように言いました。

「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」
(使徒の働き2章23節)


そして、異邦人とその支配者たちについて、使徒パウロはこのように言っています。

「この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。
もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」
(コリント人への手紙第一2章8節)


キリストを拒んだ責任は人間にあります。
しかし、人間はキリストの命を奪うことはできません。
イエスは18節でこのように言っています。

「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。」
(ヨハネの福音書10章18節)


つまり、イエスは、命を捨てるようにと父から命じられ、父の御心を行なうために来られたのです。
その御心とは、イエスが大きな罪のためのささげ物となることです。
見てください。

「わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。
わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」
(ヨハネの福音書10章18節)


イエスには、ご自分のいのちを捨てる権威があったように、取り戾す権威もあるのです。
主イエス・キリストの復活は、聖なる三位一体の各神格に帰せられます。

私たちは「父の栄光によって死者の中からよみがえられた」ことを次のように読んでいます。

「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」
(ローマ人への手紙6章4節)


そして、「キリストを死者の中からよみがえらせた御霊」についてこのように読んでいます。

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
(ローマ人への手紙8章11節)


また、イエス御自身もこのように語っています。

「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
(ヨハネの福音書2章9節)


イエスは御自分の体である神殿について語ったのです。
このように、御父も子も聖霊も、すべての人が主イエス・キリストの心を寄せていました。
同様に、私たちの主イエス・キリストの復活にも心を寄せていました。
御父は、私たちの贖い主として死ぬために、子をお与えになりました。
キリストがご自身を神にささげられたのは、永遠の聖霊の力によるものでした。
イエスは、ご自身の愛と惠みによって、良い牧者としていのちを捨てられ、よみがえられたのです。
それは、私たちが罪の罪と力からの贖うためです。
私たちが旧約聖書からいくつかの聖句を引用したのを覚えているはずです。
これらの聖句には、イスラエルの牧者が来るべき方、すなわち、この地上に現わされるのが神御自身であることが述べられています。
そこでイエスはこのように仰せになりました。

「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
(ヨハネの福音書10章11節)

これはイエスが聖書を成就する御方であることを宣言されたのです。
しかし、民はイエスを受け入れる用意ができていませんでした。
多くの人がイエスには悪魔がいると断言しました。
しかし、他の者たちは「これらの言葉は悪霊を持つ者の言葉ではない」と言いました。
これらの言葉は常に注意深く選ばれたかのごとく、とても尊く、聖なるものでした。
聞いている人たちの中には悪霊の力で話している人の言葉には聞こえないという人もいました。
彼は注意深く尋ねました。

「これは悪霊につかれた者のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」
(ヨハネの福音書10章21節)


彼らは、彼らの間で行われた素晴らしい奇跡を覚えていたからです。
結局のところ、イエスは期待されていた救世主かもしれないと思われいた。
22節にはこのように書かれています。

「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。」
(ヨハネの福音書10章22節)


この祭りは、ダビデの家系のゼルバベル、大祭司ヨシュア、律法学者エズラ、および総督ネヘミヤの指導のもとに、捕囚の帰還の日から毎年祝われていました。
聖書にはこのように書かれています。

「時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。
それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。」
(ヨハネの福音書10章23~25節)


なぜ、彼らはこれらの兆候、証拠を考えることができなかったのでしょうか?
彼らはこれらのことに気が付くことができません。
イエスはその理由を示されました。

「しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。」
(ヨハネの福音書10章26節)

彼らは、バプテスマのヨハネの教えを信じようとはしなかったのです。
主の羊は、悔い改めて神に立ち返り、神が下されたみことばを受け入れます。。
イエスはこのように述べています。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」
(ヨハネの福音書10章27節)


さて、私たちはかなり重要な箇所に来ました。
この箇所は、おそらくヨハネの福音書のどの箇所よりも論議が多い箇所です。
この聖句は人が一度救われれば、永遠に救われると教えているかという問題について教えています。
よく聞かれることがあります。
恵みを受けてから堕落することは不可能なのでしょうか?
人はどんな罪を犯しても、一度キリストを信じたことがあれば、クリスチャンであり続けられるのか?
この問題には細心の注意が必要です。
イエスのことばに正確に従うことは良いことです。
そうすれば、私たちは道を踏み外すことはありません。
イエスは「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます」と言っています。
ヨハネの福音書5章ではこのように言われていました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
(ヨハネの福音書5章24節)

イエスのことばを聞く者は生きるのです。
そして、「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます」と言っています。
働きをしているからと言って、その人が主の羊の一人に数えられているとは限りません。
福音の教会にも、キリストの羊の中に数えられていない人たちがいます.
なぜなら、彼らは神の声を聞いたことがないからです。
彼らは形式主義者であり、外面的には教会のメンバーです。
キリストのからだである教会の一部ではありません。
そのような人々は、おそらく感情的に宗教的な働きをし、教会に集まり、しばらくの間は非常にうまくやっているように見えます。
やがて、新しさが薄れきて、熱意が消え、魂の中に世への渇望が湧き上がると思います。
そして彼らは、漂い始めるのです。
私たちは「哀れな魂、背教者」だと言います。
また、私たちのある者は「彼らは決して、先駆者ではない」とよく言います。
彼らは自分の罪から立ち返り、改めていました。
しかし、彼らの心の奥底にある神の子の御声を聞いたことはありません。
彼らの心は、掃除され、飾り付けをした家のようでした。
悪霊が去った後の心は空っぽになっていました。
彼らは主イエス・キリストにあるクリスチャンの永遠の安全という教えをそしる者たちです。
彼らは真実な信者ではありません。
その人たちが何を告白しても、神の御子の御声を聞かないなら、彼らは神の羊ではありません。
私たちはこのことをはっきりさせることを望みます。
イエスは、全ての御自分の羊について「わたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます」と仰せられています。
マタイの福音書7章21節の聖句と比較して見てみましょう。

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」
(マタイの福音書7章21節)


「父のみこころを行なう者」これは何を言っているのでしょうか?
私たちは何かを行うことによって、救われるのでしょうか?
いいえ、私たちは信仰によって、すでに救われています。
イエスはここで「『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではない」と言っています。
そして「天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです」と言ったのです。
私たちは行うことによって救われるのではありません。
しかし、神のみこころを行うことによって、実際の信仰を示すのです。
あなたはエペソ人への手紙2章の御言葉を思い出さないでしょうか?

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
(エペソ人への手紙2章8,9節)

しかし、パウロはすぐに付け加えています。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」
(エペソ人への手紙2章10節)

そのことをはっきりさせましょう。

私たちの行ないは、永遠のいのちを得ることとは関係がありません。
しかし、良い行ないをしていない人には、永遠のいのちがありません。

「私は行いによって救われることはありません。
ただ、わたしの主がなされた働きによるのです。
ただ、私はしもべとして働くだけです。
神の愛する御子の愛の結果です。」

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』」
(マタイの福音書7章21、22節)


これは裁きの日、現われの日のことを言っています。
おそらく、宣教の力によって、人々はサタンの恐ろしい力から救われたと考えます。
私は、多くの救われていない宣教者によって、すべて間違っていたにもかかわらず、多くの人々を救うために神に使われたと信じています。
神は誰であろうと宣べ伝える者によって、御言葉を用いられます。
彼らは「あなたの名によって悪霊を追い出し」たのです。
しかし、神は彼らにこのように言うのです。

「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」
(マタイの福音書7章23節)


イエスは裁きの日に「わたしはあなたがたを知っていたが、今はもう知らない」とは言われていません。
イエスは「わたしはあなたがたを全然知らない」と言ったのです。
しかし、イエスは御自分の羊を知っておられます。
もし。あなたがたがこのことを心に留めているなら、クリスチャンの永遠の救いへの安全について疑問を抱くことはないと思います。
イエスは、御自分のぶどう畑で働いていたとしても、御声を聞いたことのない者たちを知ることはありません。
最初に、イエスの羊はイエスの声を知っています。
次に、イエスは「私は彼らを知っている」と言っています。
3番目に注目してください。
「そして彼らはわたしについて来ます」。
キリストに従わなければ、キリストの羊であると告白しても無駄です。
キリストは生まれ変わった人たちにとって重要な存在あり、彼らの魂は喜んでキリストに従うのです。
あなたはイエスに従っているでしょうか?
あなたにとって神の御心は大切でしょうか?
私たちはイエスに従うことによって羊になるのではありません。
全く逆です。
私たちは神の群れに属しているので、神に従います。
救われた私たちは、神に従うことによってキリストの羊であることが証明されます。
自分がクリスチャンだという人の中には、神から生まれていない人もたくさんいます。
このことは、かつて自分がクリスチャンと思っていた多くの人によって証しされています。
しかし、実際、彼らはキリストの羊でなく、主を知ることがなく、主に従うことに満足することができずに、離れてゆきました。
イエスは御自分の羊のことをこのように言っています。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。
彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」
(ヨハネの福音書10章28節)


どんな命でしょうか?
永遠の命です。
私の兄弟たち、そして私の姉妹たち、クリスチャンにある永遠の救いの安全を疑っているあなた方に言います。
「永遠」はどのぐらいの長さですか?
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。」
あなたにはわからないかも知れません?

私がサンフランシスコでヨハネの福音書5章24節から語っていた時のことです。
ある婦人が私のところに来てこのように言いました。
「私はあなたが今夜おっしゃったことのすべてに同意します。
一度救われれば、救いが失われることがないという教義です。
しかし、私は聖書の中でそれを見たことがありません。」
私は「主イエスの言葉を信じないのですか?」と尋ねました。
さて、イエスは何と言ったのでしょうか?
婦人は答えてこのように言いました。
「私はヨハネの福音書10章28節と29節に書かれていることは知っています。」
私は「よろしいでしょう。
あなたは分っているのですね。
しかし、この聖句を読ませてください。
ここにはこのように書かれています」と答えました。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。
彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」
(ヨハネの福音書10章28、29節)


そして「あなたはこのことを信じていますか?」と尋ねました。
彼女の答えは「あなたの方法は違います」でした。
私は「私の方法とはなんですか?」と尋ね返すと彼女は「あなたは一度救われた人は決して失われることはないと信じています」と答えました。
私はもう一度この聖句を読み返しました。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。
彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」
(ヨハネの福音書10章27~29節)

私はもう一度彼女に尋ねました。
「あなたはこのことを信じていますか?」
すると彼女は「それがあなたの方法なのです」と答えました。
「しかし、私はあなたに私の方法を言っているのではありません。
私はそのようなことを説明しているのではありません。
神の御子の言ったことを信じないのですか?
それはあなたの方法なのですか?
では、もう一度読まさせてください」
そして、私は一か所変更して、もう一度読み返しました。
私は「永遠の命」の代わりに「10年」として、「これはどういう意味でしょうか?」と尋ねました。
彼女は「これは一度救われた人は10年間救われるということです」と答えました。
「その通りです。
では、もう少し伸ばしてみましょう。
わたしは彼らに40年間、命を与えます。
これはどういう意味ですか?」
このようにして彼女は、救われた人が40年間安全であることを意味することを認めました。
そして、さらに私は尋ねました。
「では、彼らの信仰深さに応じてわたしは彼らに命を与えると書かれていたとしましょう。」
彼女は「それが私の信念です」と答えました。
しかし、そのようには言われていません。
聖書にはこのように書かれています。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。
彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」
(ヨハネの福音書10章27~29節)


ではこの期間はどれだけの期間を意味しているのでしょうか?
彼女は 「彼らが主の羊であり続ける限り 」と答えました。
そして、彼女は出て行きました。
彼女は光が欲しくなかったのです。
そして、光に背を向けました。
神の御言葉を文字通りに受け取るだけで良いのです。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。
彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」
(ヨハネの福音書10章28節)


これ以上強い言葉は存在しません。
キリストの羊は父と子の手の中で安全なのです。
地上であろうと、地獄であろうと、私たちを奪い去る力は存在しません。
また、天においてもそれを望む力は天にはありません。
あなたは自分から取り去ることはできると思うかも知れません。
しかし、それはあなたが滅びることを意味しています。
あなたはそれを望むのですか?

驚くべきことに、主が人を救うのならば、誰も主から離れたいと願うようなことはありません。
誰もがキリストへの愛を心に抱くのです。
私の親友で福音的な牧師を覚えています。
とても親切で素晴らしい人でした。
この牧師はこのことについて私と論じていました。
兄弟よ!
もし僕が兄弟と同じように信じているのであれば、僕は好きなだけ外に出て罪を犯すことができます。
そのことに間違いありません。
私は「愛する兄弟よ、あなたは罪を犯したいのですか?」
「違うよ!
僕は罪を犯したいのではありません。
クリスチャンは罪を犯したくありません。」
失敗や罪に陥ることほど、彼を不幸にするものはありません。
彼の唯一の喜びは、神との交わりの中で歩むことです。
イエスは「父は、すべてにまさって偉大です」と言いました。
これは何を意味しているのでしょうか?
イエスは永遠に御父と等しい方でした。
しかし、イエスはこの地上の人間として「父は、すべてにまさって偉大です」と言うことができました。
ヘブル人への手紙にはこのように記されています。

「あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、
万物をその足の下に従わせられました。」
(ヘブル人への手紙2章7、8節)


イエスは、死の苦しみのために、御使いたちよりも少し低くされました。
それは、神の恵みによって、すべての人が受ける死を味わうためでした。
イエスは、ご自分の地上を歩んでいた時、自発的に十字架への道を選びました。。
しかし、ここでは「父は、すべてにまさって偉大です」と言っています。
そして、すぐにこのように付け加えています。

「わたしと父とは一つです。」
(ヨハネの福音書10章30節)


ここにイエスの真実な神性の証があります。
ここでは「わたしと父」と呼ばれています。
なぜ?従順を示すために「父とわたし」と言われていないのでしょうか?
しかし、ここには従属関係はありません。
子なる神、父なる神、聖霊なる神は対等なのです。
ゆえにイエスは「わたしと父とは一つです」と言うことができたのです。
驚くべき恵みではないのでしょうか!
父、子、そして聖霊は、この福音を世界に送り、イエスがなさった御業を信じるように、あらゆる罪人を招き入れることで一致しています。
私たちは聖書の他の箇所でこのように読んでいます。

「私はこう確信しています。
死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
(ローマ人への手紙8章38、39節)


哀れで死にかけている人たちに宣べ伝える福音とはなんでしょうか?
もし、このことばを読んでいる人の中に、救い主を信じたことのない人がいますか?
もし、まだならば、今日、あなたがたは救い主のところに来ないのでしょうか?
何年も前、貧しい老人がいました。
彼はみじめな小屋に住み、物乞いで生活していました。
ついに、彼は重病で病院に運ばれました。
看護師が彼の服を脱がせると、彼が内ポケットにしまっていた擦り切れた紙を見つけました。
この紙切れを調べてみると、彼は合衆国内の戦争中に軍の偵察兵として忠実に働いたことがわかりました。
彼は合衆国財務省に対して年金をもらえる資格があったのです。
哀れな老人が「それを私から取り上げるな!
リンカーン大統領は私にそれを与えてくれたのです。
私はそれを何よりも大切にしているのです」と言いました。
彼は年金に換金したことがなかったのです。
彼は特権を利用したことがなかったのです。
あなたは神の救いをこのように扱っていませんか?
あなたは、今日イエスのもとに来て、永遠のいのちと罪の赦しを受ける権利があるのです。

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」
(ヘブル人への手紙3章15節)


講演34 父の永遠の子

「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」
イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。
もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、
『わたしは神の子である。』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している。』と言うのですか。
もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。
しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」
そこで、彼らはまたイエスを捕えようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。
そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。
多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。」と言った。
そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。」
(ヨハネの福音書10章31~42節)


私たちがすでに見てきたように、この福音書の真実な目的はイエスが神の子であることを人が信じ、イエスの御名によっていのちを得ることなのです。
私たちの主イエス・キリストの神性と、父と霊との永遠の一つであるひとり子としての父との永遠の関係を明らかにするために、私たちは次から次へとさまざまな出来事を見てきました。
私たちは「わたしと父とは一つです」という救い主の宣言で前回の章は閉じました。
現在の人たちがキリストの神性をどのような意味として理解しているのでしょうか?
しかしながら、イエスが話された人たちは、イエスが神と等しいことを断言していることを理解していたことに疑問の余地はありません。
そこで、ユダヤ人たちはイエスを石打ちにするために、再び石を取り上げました。
彼らの目にはイエスは冒涜者として映ったのです。
もし、主イエス・キリストが神でないというのなら、このように言うことができると思います。
神が肉体に現れたというならば、正しい表現です。
もし、イエスが真実な神でないなら、イエスは神を冒涜する者でした。
なぜなら、イエスは神以外の誰も用いるべきでない言葉を用いました。
神以外の誰も受けるべきでない礼拝を受け入れたのです。
律法にはこのように書かれています。

「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
(マタイの福音書4章10節)


イエスは弟子たちに私を礼拝するように言っています。
そして、イエスは神に属するものとしてふさわしいことだと言っているのです。
イエスは肉体をもって現わされた神、もしくは大詐欺師です。
同じ人間でありながら神であると思い込んでいる妄想家であるという見方もできます。
しかし、私たちの主イエス・キリストの行動と言葉には、心のバランスを欠いていることを示すものは何もありません。
イエスの人生は純潔で、イエスの言葉には驚くべきものがありました。
私たちはその考え方を一瞬でも放置することができません。
そして、私たちはそのような聖い方を人を欺くとは考えることはできません。
善良な人は、普通は不真実なことは言いません。
イエスは繰り返して自分が父の子であることを主張しました

「わたしと父とは一つです。」
(ヨハネの福音書10章30節)

このことを宣言したために、神を冒とくする者は石で打たれなければならないと命じたモ―セの律法に基づいて、イエスの敵が石を取って石打ちにしようとしたのです。

イエスは静かに彼らに言いました。

「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。
そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
(ヨハネの福音書10章32節)


彼らは常に人類の利益と善のために働いていました。
彼らがイエスを石打ちにするとは、イエスは何をしたからでしょうか?

「ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。
冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」」
(ヨハネの福音書10章33節)


どんな冒涜でしょうか?
「あなたは人間でありながら、自分を神とする」冒涜でした。
彼らの主張は「冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです」というものです。
真実にイエスは完全な人間となりました。
しかし、イエスは神なのです。
時には神でおられる方でありながら、人間でした。
また、時には人間なのに、真実な神として存在しました。
しかし、主はこのように仰せられました。
私たちは疑問を投げかけているように思われるかもしれません。

「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。
もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、『わたしは神の子である。』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している。』と言うのですか。
(ヨハネの福音書10章34節)


主はここで何を言っているのでしょうか?
詩篇82編6節では、民のさばきつかさの事が述べられています。
彼らは神に代わって立って神のために働く者たちです。

「おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。」
(詩篇82編6節)

この詩編の1節にはこのように書かれています。

「神は神の会衆の中に立つ。神は神々の真中で、さばきを下す。」
(詩篇82編1節)


これは何を意味しているのでしょうか?
神はすべてを裁く方です。
そして、神は、ご自分を代表する者たちをイスラエルの中に任命されました。
民は質問と不平とを彼らのところに持って来て、御言葉に基づいて裁かれました。
「わたしは言った。「おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。」
つまり、彼らは神のために行動するためにそこにいるということです。
現在、さばきつかさは神のために行動することはありません。
彼らは正しい裁判官であるべきだと考えられていました。
ゆえに、彼らは「神」と呼ばれていました。
これらのことは聖書に書かれていましたが、彼らはその表現を冒涜とは考えていません。
さて、主イエスが「わたしと父とは一つです」と言われました。
その言葉が何を意味していたのかを、もっとはっきりと問いかけてみましょう。
この言葉を正しく理解するためには、このようなことを言う必要があったのです。
ゆえに、主イエスは実際にこのように言われています。

「もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。」
(ヨハネの福音書10章37節)


つまり、なぜ、あなたがた自身で聖書を調べて、私の言うことが、私の行なっているわざや聖書によって裏付けられていないかをどうして調べないのですか?ということです。
しかし、彼らはそれを望んでいなかったのです。
人々がよくするように、彼らは結論に飛びつきます。
私たちには先入観があり、神の御言葉による宣言に自分の考えを従わせようとはしません。
私たちは自分の考えや観念を強調します。
そして、主の考えや思いを退けることがあります。
このように彼らは、御父の栄光を人生の唯一の目的としているイエスを冒涜者と呼んだのです。
しかし、ここで見てください。
この聖句は、主イエスの神性と父の神性の平等を述べているだけではありません。
聖書の霊感を強く強調しています。
私たちは、聖書を私たちのために守ってくれたユダヤ人に心から感謝することができます。
旧約聖書はユダヤ人によって守られてきました。
何世紀にもわたって写本の形で受け継がれ、後にギリシア語に翻訳されました。
その翻訳はユダヤ人の律法学者によって行われました。
私たちはユダヤ人にその借りを返すことができません。
現在、私たちが持っている旧約聖書は、イエスが持っていた旧約聖書と同じものです。
イエスは、ギリシャ語とヘブル語の書を持っていました。
そして、この二つの聖書を読んでいました。
その理由は地上での宣教において、あるときはヘブル語から、またあるときはギリシア語の書から両方の聖書から引用するためです。
その訳には欠点がありましたが、イエスは可能な限りその訳を用いられました。
そのギリシャ語訳聖書が大衆の手にあったからです。
イエスが「聖書は廃棄されるものではない」 と仰せられたことに注目するべきです。
現在も、私たちの聖書の霊感の問題について多くの声があります。
しかし、聖書は私たちの心と思いに平安を与え続けているのです。
ここで、彼らは旧約聖書の多くの書が信用されていないと言っていることになります。
主イエスは「聖書は廃棄されるものではない」と言われ、「聖書」と言う言葉を使われました。
イエスはその時代、ユダヤ人がそれを使っていたようにこの言葉を使いました。
つまり、この言葉は旧約聖書の書物、すなわち律法、預言者、詩篇に適用されます。
その全巻を「聖書」と呼んでいます。
そして、イエスは「聖書は廃棄されるものではない」と語りました。
言い換えれば、彼は旧約聖書全体を認証したことになります。
このことは、4つの福音書を読み進めていくとはっきりと見えてきます。
イエスが律法、預言者、詩篇のすべてに、どのように権威を与えているか注目してください。
人は進化論的な創造論に惑わされ、人間は獣の祖先から時代を経て進化した特別な獣に過ぎないと考える傾向があります。
イエスはこのように言っています。

「創造者は、初めから人を男と女に造って、
『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』」
(マタイの福音書19章4、5節)


このように私たちの主は人間の創造の教義に封印を施しました。
神は最初に男と女を創造しました。
また、神は結婚関係に神の権威を与えました。
「それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ」と書かれている通りです。
これが結婚という聖なる制度なのです。
ゆえに主イエス・キリストは、この特別な創造と結婚関係の両方を認証しています。
その他にも、旧約聖書には、現代の教師が反対していることがたくさんあります。
かつて、大洪水がありました。
その大洪水から一つの家族だけが救われたというのは本当なのでしょうか?
新約聖書に目を向けると、このように書かれています。

「洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」
(マタイの福音書24章38、39節)


このような言葉を前にして、洪水の持つ普遍性に疑問を持つことはありません。
イエスはすべてを知っておられました。
イエスが肉において現れた神だからです。
ソドムとゴモラの破滅も同じです。
ここでも主は言われています。

「また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、
ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。
人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。」
(ルカの福音書17章28~30節)


学者たちは、聖書の最初の書物である創世記から申命記までを誰が書いたのかという疑問を投げかけています。
しかし、彼らはモーセ以外のほとんどの人を著者として認めようとしています。
そして、主イエス・キリストはここでこのように言っているのです。

「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。
しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」
(ヨハネの福音書5章46、47節)


イエスは律法について語られました。
律法はこの5つの書から成りたっており、モ―セが書いたと言われています。
そこにアブラハムのような人がいたのでしょうか?
アブラハムはヘブル神話の架空の人物に過ぎなかったのでしょうか?
それとも、モ―セが言ったようにアブラハムは本当に実在して、信仰の父だったのでしょうか?
イエスはこのように答えています。

「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」
(ヨハネの福音書8章56節)


どのような意味でしょうか?
イエスは、神がアブラハムに与えた次の約束について述べています。

「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」
(創世記22章18節)

「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」
(ローマ人への手紙4章3節)


また、同じように、イエスはヨナの物語とニネベの悔い改めについて証しされています。

私は告白しますが、私にはどのようにして主イエス・キリストを信じる者であることを告白し、真実な神を認めながら、聖書の証しの一部をはねつけることができるのか理解できません。
なぜなら、祝福された主ご自身が「聖書は廃棄されるものではない」と宣言されているからです。
36節に書かれていることに注意してください。

「『わたしは神の子である。』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している。』と言うのですか。」
(ヨハネの福音書10章36節)


これは私たちに何を語っているのでしょうか?
ここで私たちの主イエス・キリストがこの地上で聖母マリアから生まれた時に、初めて御子になられたのではないことを私たちに教えています。
また、イエスが地上に降りてくる前に、言葉では言い表せない栄光の中で御父の御子であったことを私たちに教えています。
イエスは三位一体の聖なる者の一人であり、御父は御子を聖別して世に遣わしました。
「聖別」とはどういう意味でしょうか?
本当の意味は「分ける」という意味です。
つまり、御父は御子を分けて世に遣わし、私たちの罪のためのなだめとしてくださいました。
これはここで明らかにされる完全で輝かしい真実です。
ヨハネはこのように書いています。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。
ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。」
(ヨハネの手紙第一4章9、10節)


イエスは地上に来られてから御子となられたのではありません、
御父が御子を遣わしたのです。
使徒ヨハネがこのように付け加えるのも不思議ではありません。

「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」
(ヨハネの手紙第一4章11節)


神の愛の驚くべき実例がここにあります。
神は御子をこの世に遣わされました。
御子は天の栄光に背を向け、この地上で子として生まれ、大人に成長しました。
そして、聖なる、汚れのない生活を送り、最後にカルバリの十字架にかかり、私たちの贖いのためにご自身をささげられたのです。
これを信じることは神への冒涜でしょうか?
いいえ、反対にこれを否定することが神への冒涜となるのです。
つまり、イエスは彼らに私の働きについて考えるようにと言われたのです。

「『わたしは神の子である。』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している。』と言うのですか。」
(ヨハネの福音書10章36節)


ここにイエスを信じない理由があるでしょうか?

「もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。」
(ヨハネの福音書10章37節)


現在もその同じ難題が投げ出されています。
イエスが永遠の神の御子なのか、少しでも疑いがあるならその記録を読むべきです。
イエスがこの地上にいた時、何をしたのかを見るべきです。
イエスの働きを何か他の方法で説明できるでしょうか?
もしできるなら、あなたは彼を拒むべきです。
だが、イエスの働きによって、その働きが認められるのであれば、あなたがたは謙遜になりイエスを受け入れるべきです「。
もし、人々が聖書を熟考して読み、その証しに正直に向き合うならば、どれほどの人が不信仰の罠から救われることができるのでしょうか!
そして、イエスはここでこのように言っています。

「もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。
しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。
それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」
(ヨハネの福音書10章37、38節)


それは悲しいことです。
イエスは哀れみ深く、忠実だったにもかかわらず、イエスに耳を傾ける者たちは試みようとしていません。
そして、このように書かれています。

「そこで、彼らはまたイエスを捕えようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。
そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。
多くの人々がイエスのところに来た。
彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。」と言った。
そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。」
(ヨハネの福音書10章39~42節)


これを読んだ人たちは、本当に主を信じたのでしょうか?
あなたはイエスを信じましたか?
自分でこの記録を読んでみてください。
この証しに正直に向き合ってください。
神の聖霊がイエスが本当に生ける神の御子であることが明らかになれば、イエスを救い主として受け入れ、人々の前で告白してください。
「何千もの舌が私の偉大なる贖い主を賛美しています。
私の神、王に栄光あれ!
神の恵みに勝利あれ!」(讃美歌)


講演35 復活といのち

「さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」
しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」
イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」
それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。」とそっと言った。
マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。
さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。
マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。
マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
イエスは涙を流された。
そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。
そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。」
(ヨハネの福音書11章1~46節)


11章にある主なテーマは、死者の中からのラザロの復活です。
ローマ人への手紙1章4節にはこのように書かれています。

「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」
(ローマ人への手紙1章4節)


ギリシャの学者たちは「死者」という言葉は、実際には複数形であるという事実を指摘しています。
この聖句は、主が死者の中から復活したことによって、力を持った御子であると宣言されたことを単に意味していると考えることができます。
この聖句は「死者の復活を通して」と訳した方が良いかもしれません。
その中には、もちろんイエスご自身の死に対する勝利も含まれていますが、私たちが福音書で読んでいる他の死者からの復活も含まれているのです。
私たちの主はこの驚くべき復活の力を3回使いました。
3つの事例はすべて異なっていますが、それぞれがとても重要だと考えます。
最初にカペナウムの会堂管理者のヤイロの娘です。
彼女は死んだ幼子でした。
そして、主イエスは彼女が横たわっている部屋に入り、彼女に優しく「子どもよ。起きなさい」と言われました。
すると少女は起き上がりました。
神は少女を死の眠りから目覚めさせました。
それは、現在、罪過や罪の中で死んでいる年老いた者と同じように、神の声を真に聞く必要のある子供たちに対する主の恵み深い方法を示しているのかも知れません。

また、やもめとなった母親のひとり息子の例もあります。
主イエスと使徒たちが村に近づいていた時、この若者の死体と彼の哀れな母親を連れた悲しい葬儀の一行が出てきました。
主イエスはその葬儀の一行を止めました。
そして、棺に触れて若者に言いました。

「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」
(ルカの福音書7章14節)


そして、このように私たちは読んでいます。

「すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。」
(ルカの福音書7章15節)


私はもう一度、ここには霊的なレッスンがあると思います。
罪と罪過の中に死んだ多くの若い男女によって、信仰ある父と母を悲しませています。
その父と母が、イエスの御手が愛する者たちの上に置かれ、永遠の命へと引き上げられる時をどれほど待ち望んでいたことでしょうか!
ムーディ氏はかつて「不思議なことに、葬儀のやり方について聖書には何の指示も得ることができません。
なぜなら、イエスは死者を甦らせ、イエスが参加したすべての葬儀を解散させたからだ」と言いました。
さて、私たちの前に三つ目の例があります。
ラザロの復活です。
ここには長年、罪の中におり、堕落し、人の望みを絶った者の描写があります。
しかし、イエスは来られ、4日してからラザロを死者の中からよみがえらせました。
この聖句を少し注意深く考えてみましょう。
私たちはこのように言われています。

「さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。」
(ヨハネの福音書11章1節)


それは興味のある出来事です。
ベタニヤには他にもたくさんの町があり、人が住んでいました。
主はこれらの町を見下ろされました。
神である主にとって興味があるのは、マリヤとマルタの町でした。
それはどういう意味でしょうか?
この街には二人の献身的な心がありました。
それはその村に住んでいる他のすべての人々よりも神にとって重要なことだったのです。
あなたの町ではどうでしょうか?
あなたがたは主イエス・キリストに熱心に仕え、神の栄光のために生きています。
ゆえに、神はあなたがたの町を、あなたがたが住む特別な場所と考えているのです。
神が世的な視点に立って、富裕な偉人たちや有力な有力者たちのそばを通り過ぎたとしましょう。
そして、あなたに「これはわたしの友です。わたしを愛している人です」と言います。
ゆえに、神がその場所をあなたの町や地元だと思われるでしょうか?
これがもっとも重要なことだと考えます。
ベタニヤはマリヤと姉妹マルタの町でした。
マリヤは主に香油をそそぎ、その髪で主の足をぬぐいました。
マリヤの兄弟ラザロは病気だったのです。
そこで、姉妹たちは、自分の兄弟が弱くなり死んでいるのを見て、遠くにいる主イエスにことばを送りました。
イエスはアレンビー橋と呼ばれている場所の近くにあるベサバラにいました。
普通なら、そこからベタニヤまで来るのに丸二日かかる場所にありました。
歩くなら三日、馬に乗るなら二日の距離です。
そして、彼らはメッセージを送りました。
それは「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」という短い手紙でした。
彼らはそれで十分だと感じていました。
彼らは主がラザロを愛していることを知っていたからです。

彼らは、自分たちの兄弟がイエスの心に慕われていることを知っていました。
もし、イエスが彼が病気であることを知ったのならば、イエスはすぐに来て病気を治し、友の命を救うと考えていました。
しかし、不思議なことにこのことを聞いたイエスはこのように言われました。

「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
(ヨハネの福音書11章4節)


現時点において、死がこの男を支配し、引き止めることはありません。
神はラザロの特別な事情に応じて、不思議な方法で栄光を現わすのです。
イエスは急いでいません。
これは神を信じる信仰を告白する私たちにとっては試練なのです。
私たちが何かの問題を抱えているとき、私たちは神がすぐに介入し、私たちが望むように、私たちの祈りに遅れることなく答えてくださることを願っています。
時には神はとても長く待っているように見えることがあります。
時には無関心のようにも見えます。
しかし、主は決して無関心ではありません。
主は常に興味を持っておられます。
もし、神が祈りに対する答えを遅れることを許されているならば、そこには神がこの解決方法である答えから学ぶことのできる何らかの計画があることを知るのです。
神が行動されるのを信仰をもって待つのは私たちの義務なのです。
これは確かなことです。
聖書には神にあって待つこと、神のことを待つことが語られています。
神にあって待つことを学ぶのは素晴らしいことです。
私たちは、苦難と迷いの中にあっても、神の御元に行くことができます。
神の御言葉にはこのように書かれています。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」
(ピリピ人への手紙4章6節)


また、ダビデはこのように語っています。

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。」
(詩篇62編5節)


しかし、神を待つにはより多くの信仰が必要です。
あなたがたが神に嘆願した後、すべてを御手にゆだねるべきです。
神の御恵みの時に、神は最善を尽くして下されます。
ここにいる姉妹たちは主にメッセージが届くと思ってから、いつも主を待ち望んでいました。
しかし、何時間、何日が過ぎても、イエスは来られません。
しかし、ラザロが取り去られたのです。
かれらは「おかしい!
イエスからの言葉も、どんな種類のメッセージもない」と言ったかもしれません
ここには主はおられない。
主はこのすべてを簡単に阻止することができたはずです。
しかし、来なかった。
このことは、イエスがラザロを愛しておられず、彼らの心が傷つくことに関心がないということを意味していたのでしょうか?
そんなことはありません。
しかし、彼らは他の方法では決して学ぶことのない教訓を学ぼうとしていました。

「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。」
(ヨハネの福音書11章5~7節)


イエスはユダヤで激しい迫害を受けていたので、弟子たちはむしろイエスが北に顔を向けて欲しかったのです。
このように、人々が喜んでイエスの話を聞く場所に戻ることを望んだのです。
イエスがユダヤに戻ることを告げると弟子たちはこのように言いました。

「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。
だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」
しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」
(ヨハネの福音書11章8~10節)


この意味は「自分の道を知っている」ということを意味しています。
御父はイエスがどこに行くべきかを完全に明らかにしています。
イエスがユダヤに帰るために、御父の歩みを照らす光の中をイエスは歩んでいるからです。
そして、イエスはこのように弟子たちに言ったのです。

「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
(ヨハネの福音書11章11節)


結論として、これがクリスチャンにとっての死なのです。
ただ、眠っているだけです。
あなたは「死とは、人間全体を指すのですか?
それとも、霊、たましい、体ですか?」
「違います。
それは、乏しい疲れ切った体の眠りです。
生きているときも、死んでいるときも決して分け隔てられない霊と魂があります。
しかし、目に見えない人は、体から離れて主とともにいます。
聖書にはこのように書かれています。

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」
(ヘブル人への手紙9章27節)


信仰者にとって死は眠りです。
体が復活するまで眠っているのです。
イエスは「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです」と言われました。
この時、弟子たちはこのように言いました。

「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
(ヨハネの福音書11章12節)


弟子たちはイエスが肉体的な眠りを意味していると思っていました。
ゆえに、イエスは彼らの視点から見て現場に行かなければなりませんでした。
ゆえに次の節ではこのように書かれています。

「そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。
さあ、彼のところへ行きましょう。」
(ヨハネの福音書11章14、15節)


彼らはこれらのことから素晴らしい教訓を学ぶことになりました。
これらのことは彼らにとって大きな祝福になるはずです。
また、これらのことはラザロの癒し以外の方法を使い、彼らの信仰を確立するための手段となりました。
「さあ、彼のところへ行きましょう」と言われると、トーマスが声を上げます。
よく、私たちは彼を「デドモのトマス」と呼びます。
しかし、私はいつも彼がそのように呼ばれるわけは知りません。
「そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った」と述べられています。
デドモは「双子」を意味します。
双子のもう一人は誰なのでしょうか?
あなたは、鏡を見ればもう一人の自分が見ることができます。
双子のトマスは、仲間の弟子たちに言いました。

「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」
(ヨハネの福音書11章16節)

トマスの言ったことは「彼の命を救おうと思っても救えないのだから、私たちは彼のそばにいます」と言うのと同じです。
つまり、「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」ということです。
トマスは理解できなくても、主人に忠実でした。

「それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」」
(ヨハネの福音書11章17~21節)


マルタは本当に兄弟の死を主イエスのせいにしていたのでしょうか?
少なくとも、「私たちが最初にあなたを呼びに行ったとき、なぜあなたは来なかったのですか?
そうすれば、私たちは兄弟のために悲しむことはなかったのです」ということを意味していたと思います。
そして、マルタはこのように言いました。

「今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
(ヨハネの福音書11章22節)


これは、試練の時に力をもらえるという意味だったと考えます。
そして、このように続きます。

「イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」」
(ヨハネの福音書11章23、24節)

それは当時のユダヤでは一般的に信じられていたことでした。
終わりの時に、救われた人も救われていない人も、すべてがよみがえります。
しかし、イエスの答えは彼女の言っていることよりも、ずっと甘いメッセージだったのです。

「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」」
(ヨハネの福音書11章25、26節)


イエスはマルタに何を話したのでしょうか?
イエスはマルタに「あなたは終わりの日の復活まで待つ必要はない」と言っているのです。
「わたしは、よみがえりです。いのちです」、そして、私がこの場面にいるのなら、死は終わるのです。
また、イエスは「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」 と付け加えています。
それはいつのことでしょうか?
イエスご自身が天から戻られる時、号令とともに降りてきます。
そして、死んだクリスチャンが眠る墓をすべて、空にします。
イエスが地上に帰ってくる時、一度も死んだことのない者たちに対して「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」と言っているのです。
驚くべき啓示です。
その時、イエスはマルタに「このことを信じますか」と問いかけました。
彼女は迷いながら答えています。

「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
(ヨハネの福音書11章27節)


マルタは「あなたの言うことは何でも真実でなければならない」ということをほのめかしています。
彼女がそれを理解しようとすると、彼女は「真実に違いない」と思ったのです。
なぜなら、それはマルタが神の御子として認めた方から来たからです。
マルタは出て行って妹を呼び、マリヤは町の外で彼らと会いました。
この時、ユダヤ人たちはこのように思ったのです。

「マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。」
(ヨハネの福音書11章30節)


しかし、違いました。
その帰り道、マリヤはイエスに会い、マルタが言ったことをイエスにも言いました。
しかし、マルサが使った言葉と同じ口調で話していることに驚きを感じます。

「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
(ヨハネの福音書11章32節)


イエスは悲しみの中にいるマリヤを見て、その心を彼女に向けられました。
後からついてきたユダヤ人たちは泣いていました。
イエスは霊の憤りを覚えておられました。
イエスは実際の人間でした。
は単に人間の肉体に宿った神ではなく、人間の肉体だけでなく、真の人間の霊と魂を持っていました。
それで、イエスは霊の憤りを覚え、心の動揺を感じました。
イエスはこのように仰せられました。

「「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
「主よ。来てご覧ください。」
イエスは涙を流された。」
(ヨハネの福音書11章34、35節)


罪のため、死がもたらした恐ろしく荒れ果てた姿を見ながら、イエスは涙を流しました。

「そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。
そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。
墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。」
(ヨハネの福音書11章36~38節)

それは奇妙なことでした。
私がベタニヤに行って同じような墓を見るまでは、私は常に主イエス·キリストが葬られた墓のように、丘のふもとにあるほら穴だと思っていました。
あなたはほら穴に下り、石がその上に置かれたのを見てください。
その石はこのように墓の上に置かれていました。

「イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。
「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
(ヨハネの福音書11章39節)


彼女の信仰は、起ころうとしていた輝かしい出来事に達することはできません。

「イエスは彼女に言われた。
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」」
(ヨハネの福音書11章40節)


信仰は生きている神によって、あらゆる状況にも打ち勝ちます。

「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。
「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。」
(ヨハネの福音書11章41節)


御父と御子との間には、驚くべき交わりがここにあります。

「わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。
しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
(ヨハネの福音書11章42節)


イエスがこのように祈ったのは、彼らが祈りによって悟りを得、信じるためでした。

「そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」」
(ヨハネの福音書11章43節)


いつの日か、キリストの力の声が聞かれ、キリストにあるすべての死者が出てきます。
その日、イエスはベタニヤでひとりの人を選ばれたのです。
もし、イエスがラザロという言葉を言い忘れていたら、墓地全体は空っぽになっていたでしょう!
イエスは「ラザロよ。出て来なさい」と言われたのです。
すると、死んでいた者が出て来ました。
彼は「手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた」と書いてあります。
それがユダヤ人が死者を埋葬する方法でした。
彼らは死んだ体を麻の布で完全に包み込んだのです。

イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
(ヨハネの福音書11章44節)


ここにも教訓があります。
まず最初に命です。
それから自由、解放です。
キリストの声を聞く者は皆、命を持っています。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ。」
(ヨハネの福音書3章36節)


しかし、いまだに多くのクリスチャンは自由を知りません。
いまだに多くの人が伝統や誤解や不信仰の墓衣に縛られています。
イエスは「ほどいてやって、帰らせなさい」と言いました。
何とも美しい表現です。

「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
(ヨハネの福音書8章32節)


そして、このように書かれています。

「そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。」
(ヨハネの福音書11章45、46節)


パリサイ人はイエスの敵です。
パリサイ人たちをイエスに逆らわせようとして、このような出来事を報告したように思われます。
サタンは死の力を持つ者であり、罪によって死が来ました。。
イエスは、罪と死から救う力を持っています。
私たちは皆、キリストを信じているでしょうか?
キリストは死人の復活によって、力ある神の御子であることが宣言されています。
キリストは今も変わっていません。
御声を聞くすべての人にいのちを与えることを喜ばれているのです。


講演36 一人の人が国のために死ぬ

「そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。
もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」
しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。
ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」
ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、
また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。
そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。
そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで、そこから荒野に近い地方に去り、エフライムという町にはいり、弟子たちとともにそこに滞在された。
さて、ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。多くの人々が、身を清めるために、過越の祭りの前にいなかからエルサレムに上って来た。
彼らはイエスを捜し、宮の中に立って、互いに言った。「あなたがたはどう思いますか。あの方は祭りに来られることはないでしょうか。」
さて、祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。」
(ヨハネの福音書11章47~57節)



私たちは、主のあらゆるしるしと奇蹟の中でも最も偉大なラザロのよみがえりについて見てきました。
これらは主が死に打ち勝つ力を持っておられることを示し、主がイスラエルを救うためだけでなく、実際に世に来られるメシアであることを証しています。
メシアは、すべての国々を祝福し、アブラハムに約束されたことを成就するのです。
これらの驚くべきしるしによって、主イエス・キリストを最も憎む者たちの心にイエスがメシアであることを語りかけています。
イエスはとても謙虚にも、人々の周りを歩き回り、このような不思議なあわれみのわざを行っていました。
人々は、この人が真実なインマヌエルであることを証明していると思ったはずです。
しかし、そうではなく、違う人たちがいたのです。
もし、人の良心が目覚めないのなら、また、人が真理に抵抗しようと決心しているのなら、これらの奇跡は彼らをキリストのもとに導くことはできません。
イエスが金持ちについて語った話を覚えているでしょうか?
私たちは、彼が死んでハデスに行きました。
彼がハデスで目を上げたことを読みました。
地上であらゆる特権と機会に恵まれながら、自分の欲望を満たすためだけに生きてきた男が、5人の兄弟のために祈り始めたのです。
なんという家族なのでしょうか?
6人兄弟です。
1人はハデスで苦しんでいて、5人はまだこれからです!
金持ちは、パラダイスにいたアブラハムに叫んで祈って言いました。

「父アブラハムさま。私をあわれんでください。
ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」
(ルカの福音書16章24節)


そのことが不可能だと金持ちが言われるとこのように言いました。

「『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』」
(ルカの福音書16章27~29節)


彼らは神の御言葉である旧約聖書を持っています。
彼らに聖書を読ませ、信じさせるべきです。
しかし、その金持ちは答えました。

「いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。」
(ルカの福音書16章30節)


しかし、答えは強烈に返ってきました。

『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』
(ルカの福音書16章31節)


私たちはここで驚くべき重大な真実が明らかにされています。
もし、人が自分の道を行くと決めていたとしても、
もし、彼らが神のことばのあかしに従わないなら、しるしや奇跡が彼らのかたくなな心に達することはありません。
彼らを悔い改めることができないのです。
この律法学者たちとパリサイ人たちは、神の御言葉に逆らっていました。
彼らはあらゆる神の御言葉を退けていたので、ラザロの復活は、彼らを奮い立たせました。
そして、これらの出来事は彼らが民衆を支配できなくなりそうだと感じさせました。
彼らは、イエスを王とするために民衆が暴動を起こす可能性を予測していました。
そして、暴動の結果、ローマ軍団が派遣され、剣を突きつけられてシーザーの意志を強制することになります。
彼らは「この件について、どのように扱えばよいのだろうか?」と考えたはずです。
普通なら、あなたは彼らが次のようなことを言うと想定するかもしれません。
「私たちは神に立ち返り、自分の罪を告白し、自分の不義と向き合う必要があります。
私たちは神の義を必要としています。
イエスの復活の力こそが、イエスと父が一つであることを証明しているからです。」
しかし、彼らの答えは違いました。
「きっと、この男は多くの人をひきつけます。
私たちは、この男とこれらの奇跡に積極的に立ち向かわなければなりません。」
つまり、「この男は多くの奇跡を起こす」ということです。

彼らはすでに、イエスがベルゼブルの力によって奇蹟を行なわれたことを、あえて群衆に告げていました。
このようにイエスによって行われている聖霊を冒涜していました。
彼らはこのように言いました。

「もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。」
(ヨハネの福音書11章48節)


まさにそのことを考えていました。
彼らは人々がイエスを信じることを恐れました。
先日、女性を福音集会に招待しました。
彼女は「私は改宗させられるのではないかと恐れて、行くのを恐れていました」と言いました。
怖いのです!
神に立ち返ることが怖いのです!

私はある紳士を覚えています。
彼は西海岸の有名な実業家でした。
ある日、私は彼の奥さんに「あなたのご主人にはしばらく会っていない」と言いました。
彼は聖書に興味を失ったのでしょうか?
彼女はこのように言いました。
「彼はあなたが来て、御言葉を聞くことを怖がっています。
立ち直るのに2週間はかかります。」
神の聖霊が私たちのうちの誰かに語りかけています。
私たちはこのわずかな証拠を大切にしなければなりません。
残念ながら、現在、この世には、神の言葉からの最後のメッセージを聞いた人たちがいます。
神が人に語られなくなるのは深刻なことです。
しかし、ここにいるパリサイ人たちは自分たちの思いどおりにしようと決心し、キリストを退けようとしました。
彼らはこのように言いました。

「もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。
そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」
(ヨハネの福音書11章48節)


まさに、彼らが恐れていたことが起こったのです。
このようなことが起こったのは、民がイエスを信じたからではなく、その恵みを拒んだからです。
彼らはイエスが平和の君主として紹介された時、イエスを拒みました。
ピラトが「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか」と言ったことを思い起こすべきです。
何が起きたのでしょうか?
イエスは十字架につけられました。
人々から拒まれ、世の贖いのためにカルバリの十字架の上で死んだのです。
しかし、イスラエルの国とは何だったのでしょうか?
それほど遠くない未来、ローマ人が来て、ユダヤ人の住む所を奪い取り、彼らを世界中に散らしました。
ユダヤ人が経験したあらゆる苦しみと悲しみは、彼らが主の訪れの日を知らなかったゆえの悲しい結果です。
パリサイ人たちは、イエスを拒むことによってローマの支配を避けようと考えていました。
しかし、イエスを拒んだゆえに彼らに降りかかったのです。
人は短絡的になると、先を見通すことができません。
その結果、彼らは神の証しをはねつけることになりました。
彼らがこのように論じていると、彼らのうちの一人がリーダーシップを取りました。
彼はその年の大祭司であったカヤパです。
このこと自体がローマの権威に対する人々の反対を示しています。
神の定めによれば、アロンの子が大祭司の職に就くと、彼は死ぬまでとどまることができました。
しかし、国は非常に堕落しており、ローマ人は毎年の大祭司の職を入札し、最高額で売却していました。
このとき、カヤパは大祭司でした。
ほかにも何人かが大祭司でしたが、かたわらに置かれていました。
さて、その年の大祭司カヤパでした。
彼は彼らにこのように言いました。

「あなたがたは全然何もわかっていない。」
(ヨハネの福音書11章49節)


誰かが言っていましたが、議論をシャットアウトする時は、それがもっとも良い方法です。
その通りに「あなたがたは全然何もわかっていない」という言葉で始まりました。
つまり、「あなたは自分が何を言っているのか分かっていない」、「あなたのような人たちに道理は通じない」ということです。
しかし、彼らはすべてを知っていました。
彼らはあなたが彼らにとって価値のある情報を持っていたとしても、一瞬たりとも認めようとしません。
ヨブの友もそんな感じだったと思います。
あなたはヨブに起きた出来事を見て、彼らの答えを思い出すことができるはずです。

「確かにあなたがたは人だ。あなたがたが死ぬと、知恵も共に死ぬ。」
(ヨブ記12章2節)


そしてここでは「あなたがたは全然何もわかっていない」と言われています。
それがカヤパのとった態度でした。

「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」
(ヨハネの福音書11章50節)


あなたはここで軽蔑すべき卑劣な政治家の声を聞きます。
この男はイエスがイエスにかけられている罪状が無実であることを知っていました。
彼は無実の者を救うべき政治家でしたが、政策上、イエスに敵対したのです。
彼の理由はこれです。
「私たちがイエスを邪魔をする、もしくは苦しめなければ、私たちが苦しむことになります。
そして、一番良い方法はイエスを追い出すことです。」
つまり、もし必要なら、国を救うために、濡れ衣を着せるということです。
それは卑劣な助言でした。
しかし、驚くべきことに、神はすべての背後にいて、ご自身の計画を成し遂げるためにこれを強行させたのです。
私たちはカヤパの発言を決して容認しません。
しかし、その反面で、カヤパが実際に知っている以上のことを言っていたことを私たちに知らせるために聖霊の証言が加えられています。
カヤパがこのように話した理由は、単に利己主義でした。
しかし、この提案には、彼が理解する以上に高い理由が存在しています。
この理由とは、イスラエルだけでなく、滅びゆく世界をの贖う神の目的が存在し、明らかにすることでした。
私たちはここでこのように書かれているのを知ることができます。

「ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、
また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」
(ヨハネの福音書11章51、52節)


つまり、ここでは「彼が自分から言ったのではなくて」と書かれています。
本人は政治的な性格の忠告をしていると思っていました。
しかし、神の御霊が彼の考えを超えて、支配し、制御していたのです。
神の御霊がこんな邪悪な男を使っていたと考えるべきです。
不義の報酬を愛したバラムの場合を見てみましょう。
民数記の3章には、聖書の中で最も栄光に満ちた預言のいくつかが記されています。
それは、彼の汚れたくちびるから出たものです。
神は祝福のために支配していたのです。
神はすべてを支配し、この悪い男、時間稼ぎの政治家は利用されました。
そして、驚くべき真実が語られました。
カヤパは「彼が自分から言ったのでは」ありません。
しかし、カヤパはその年の大祭司であり「イエスが国民のために死のうとしておられること」を預言しました。
カヤパはその事実を知りません。
しかし、神の御霊がこの汚れた唇を通して語られたのです。
「イエスが国民のために死のうとしておられること」という意味は、彼が意図していることではありません。
カヤパは、この無実の男の死がローマ人から国を救うために使われることを意味していました。
しかし、そのようにはならなかったのです。
ユダヤ人たちがイエスを連れて行ってしまうからです。
この預言はイエスが強大な罪のためのいけにえとなって、その国民の罪の責めをご自身に負われるという意味においては真実でした。
イエスはこの重荷を神の前に至らせ、罪ゆえに受けるべき裁きを耐えられるのです。
イザヤは信仰の目を通して、先の時代を見渡してこのように言っています。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられた。
彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」
(イザヤ書53章5~7節)


ここに偉大な贖い主がいます。
彼は罪の下に売られた自分の国民を見てこのように言ったのです。
「私は自分の尊い血で代償を支払います。」
つまり、イエスはすべての者のために身代金を払われました。
イエスの死はイスラエルの国のためだけではありません。
私たちはこのように読みました。

「また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」
(ヨハネの福音書11章52節)


つまり、カルバリでの私たちの主イエス・キリストの働きは、ただイスラエルの民のためだけのものではありません。
イエスはイスラエルの国のために、その国の罪と罪を負うため、御自分の民を贖うために来られました。
また、イエスはこのように言っています。

「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。
彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」
(ヨハネの福音書10章16節)


ここにある「ほかの羊」とはイスラエルの外にいる異邦人の事です。
彼らは神からの文書による啓示を持っていなかった諸民族のことです。
彼らには聖書もなく、預言者も教師もいません。
異邦人は創造物という証しを持っていました。
しかし、彼らはその証に背を向けていました。

「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。
造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」
(ローマ人への手紙1章24、25節)


それでも、神の心は異邦人に向けられたのです。
そして、祝福された御子がすべての人のために代価として渡されることを決められたのです。
驚くべき恵みです。
神はイエスをこの邪悪な世界にお送りになりました。
そして、イエスはこの世界のために死ぬことをお喜びになったのです。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。
私はその罪人のかしらです。」
(テモテの手紙第一1章15節)


そして、今日において、私たちはこのように歌うことができます。

「十字架につけられた方の血によって救われ、罪から贖われ、新しい命が始まりました。
御父にほめ歌を歌い、御父にほめ歌を歌いましょう。
わたしは十字架につけられた方の血によって救われたのです。」
現在、私たちは全世界でこれほど下劣で罪深い罪人は私たち以外にはいないと言いたくなることもあります。
しかし、もしその人が十字架上のいけにえの功績を認めて来るのならば、
神はその者をご自身のもとに迎え、彼を赦し、彼に新しい命を与えます。
私はキリストが「散らされている神の子たちを一つに集める」ために死なれたことを知らない人に言っているのです。

今日、あなたがどこにいようとも、もしあなたが自分の罪と罪深さにひれ伏しているなら、もしあなたの良心が聖なる神の前であなたを訴えているなら、あなたはこのように言うのです。
「ああ、どうすれば神と和解できるのでしょうか?
ああ、どうすれば神と和解できるかを知ることができるのでしょうか?」
イエスは十字架の血によって、私たちのために平和となってくださったのです。
傷ついて悔やんだ者は主の御元に来るのです。
自分の罪を告白し、救い主として信じるのです。
今日、あなたがたは神の贖いの恵みを知ることができます。
そのままのあなたのままで来ることができます。
さらに気を留めることがあります。
神の御子が無実であることを知っている者たちが、神の子を重罪の死に追いやろうとしたことについて、さらに注目してほしいことがあります。

「そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。」
(ヨハネの福音書11章53節)


そこには心が軟化することもなく、自分たちの邪悪さを自覚することもなかった。
罪とはこのように硬化するものです。
私たちは罪の欺きによって頑なになる危険性について戒められています。
罪に打ち克つ唯一の方法は、神の御前に正直に立ち向かうことです。
主イエス・キリストを信じる信仰によって、神のみが罪の力から救いを与えることができるのです。
これに続いて、私たちにはこのように言われています。

「そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで、そこから荒野に近い地方に去り、エフライムという町にはいり、弟子たちとともにそこに滞在された。」
(ヨハネの福音書11章54節)


イエスが死に渡される時がまだ来ていなかったので、イエスは別の地方で仕えながら働き続けました。
そこでこのように述べられています。

「さて、ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。」
(ヨハネの福音書11章55節)


すでに私たちが気が付いていると思いますが、ここには「ユダヤ人の過越の祭り」という奇妙な表現がされています。
本来は「主の祭り」であるはずです、
彼らは祭りが語っているキリストを退けて、外見だけの祭りを行なっていました。
現在も、私たちはこのようなものを見ていると思います。
何千人もの人々が教会の会員であることや、神の礼拝に出席することに非常に厳格なのは知っています。
洗礼や主の晩餐のようなキリスト教の慣習を非常に重視しているのも知っています。
しかし、私はそれらの慣習の語る救い主を心の中で拒否していることを恐れています。
彼らを見渡している神は、彼らが主イエス・キリストを拒んでいるのを知っています。
これらの儀式は、彼らには何の役にも立ちません。
肉なる人たちが行なっているむなしい儀式と見ておられるのです。
例えば、主の晩餐を守り、十字架につけられた救い主について語るパンとぶどう酒を取りながら、その救い主を拒絶し、信頼せず、その恵みを拒絶し、自分の魂に裁きを下し、主の体を認識せずに飲み食いすることの深刻さを考えてみてください。
私たちは素直になって、正直に神の御前に物事に立ち返りましょう。

「さて、ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。多くの人々が、身を清めるために、過越の祭りの前にいなかからエルサレムに上って来た。」
(ヨハネの福音書11章55節)


これらの者は、イエスを拒んだ町の民ではなく地方の民でした。
これらの者たちは喜んでイエスに聞き入れました。
彼らは過越の祭りのためにやって来て不思議に思ったのです。

「彼らはイエスを捜し、宮の中に立って、互いに言った。
「あなたがたはどう思いますか。あの方は祭りに来られることはないでしょうか。」」
(ヨハネの福音書11章56節)

その通り、イエスはそこにいました。
しばらくして彼らはイエスを見ることになります。
しかし、悲しいことにイエスの驚くべき恵みは、指導者たちの態度を変えることはなかったのです。

「さて、祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。」
(ヨハネの福音書11章57節)


なんのためにそのようなことをするのでしょうか?

彼らがイエスの主張を試みたのです。
神の御前で率直に物事を置き、イエスが本当にメシアであるかどうかを決定するためでしょうか?
いいえ、そうではありません!
彼らはイエスを捕え、死に至らせるためです。
イエスの仲間に数えられている者がイエスを裏切る者ことを、彼らはわずかながら気が付き始めていたのです。


講演37 キリストへの心の感謝

「イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
人々はイエスのために、そこで晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」
大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。
祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。」
(ヨハネの福音書12章1~11節)


私たちの学びは、主の地上での働きの終わりの時に近づいています。
イエスは、自分が拒まれ、十字架につけられることをよく知っていました。
最後のささげ物になるためにエルサレムに来られたのです。
しかし、これらの出来事はイエスを驚かすことはありません。
イエスは失われた人々のために死ぬという明確な目的のために天から来たのです。
私たちはそのことを確信して読んでいます。

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
(マタイの福音書20章28節)


最初からイエスはこのように宣言されていました。
詩篇ではこのように述べられています。

「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。
わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
(詩篇40編7、8節)


その意味するところは十字架に向かうことでした。
キリストが十字架に近づくにつれて、キリストは完全な人間であり、かつ真実な神でした。
あらゆる恐怖がキリストの魂に高まっていきました。
ついにはゲッセマネの庭で苦しみのあまり頭を下げ祈っている姿を見ることができます。
この姿はヨハネの福音書だけではなく、他の福音書にも十分に記されています。
そして、イエスはこのように言われました。

「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
(マタイの福音書26章42節)


それからしばらくして、しもべの耳を切り落としたペテロに言われたことを聞くことができます。

「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」
(ヨハネの福音書18章11節)


その杯は、怒りの杯、私たちの罪が満たされた神の裁きの杯、不正に対する聖なる神の憤りであふれた杯でした。
イエスは、その杯を飲むことをためらっていたのなら、完全な聖なる人になることはありません。
罪とされるということは、あらゆる時代の唯一の偉大な罪人として、神によって扱われることを意味しているからです。
私たちの不義はすべて彼に負わせられました。
それは、私たちの乏しい有限の心では理解できない魂の恐怖と闇を意味していました。
キリストを拒んだ失われた人々が永遠に裁きの中で耐えなければならないことがあります。
十字架の上で、キリストの汚れの無い霊がこのことを十分に味わうことを意味しているからです。
詩篇69編20節にはこのように述べられています。

「そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。
私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした。
(詩篇69編20節)


その者は非常に人間的でした。
その者と一緒に彼の悲しみに入ることができる人々を切望していました。
私たちは私たちが感じている愛を表現するために愛する人たちに慰めを求めます。
イエスは人との交わりを切望され、交わりを見つけて喜ばれています。
この12章には、その美しい姿が描写されています。
イエスはすでにユダヤに来られていました。
イエスとともにいた小さな集まりには、ベタニヤにいたマリヤ、マルタ、ラザロがいました。
わたしたちは神がラザロを死者の中からよみがえらせたことをすでに見てきました。
ここで私たちはこのように読むことができます。

「イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。」
(ヨハネの福音書12章1、2節)


マルコの福音書にはこの晩餐が彼に与えられたのは、実際は過越の祭りの2日前だったと書かれています。
つまり、イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに着いたのです。
そして、4日たってから、彼らはイエスのために晩餐を用意したのです。
それは、イエスを愛するというあかしであり、彼らのイエスへの愛のしるしでした。
マタイの福音書26章6節にはこれがらい病人のシモンの家で起こったことがわかります。

「さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、
ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。」
(ヨハネの福音書12章6、7節)


彼がまだらい病患者だったので、彼がここに住むことは不可能でした。
聖書にはこのように書かれているからです。

「患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている。』と叫ばなければならない。
その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。」
(レビ記13章45、46節)


これが来病人シモンの過去の状態でした。
どのくらいの期間なのかはわかりません。
しかし、この聖句を見るならば、ある日、シモンの生涯に不思議なことが起こったことがわかります。
シモンはイエスに会って、すべてが変わりました。
そのことについて、話し合ったことがありますか?
あなたは罪のらい病に冒され、完全に失われて、滅びるべき存在でした。
あなたはイエスと出会いましたか?
それはすべてを変えます!
イエスが「わたしの心だ。きよくなれ」と悩める心に平和を語ります。
イエスが罪深い者を清められたことを知るためです。
これは何という経験をなのでしょうか!
シモンはこれを経験しなければなりません。
でなければ、彼はベタニヤにいる必要はありません。
その日の夕方、祝福された主とその使徒たちの他に際立つ3人がいました。
3人は、自分たちの家でたびたびイエスをもてなしていました。
私たちはこのように読みました。

「そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。」
(ヨハネの福音書12章2節)

続けてこのように書かれています。

「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」
(ヨハネの福音書12章3節)


ここではクリスチャン・ライフの3つの側面を示されています。
マルタに見られるように奉仕です。
マリヤは交わり、ラザロは礼拝しています。
奉仕、交わり、礼拝、私たちはこれらのクリスチャン・ライフの側面についてどれだけ知ることができるのでしょうか?
まず、奉仕が最初に来ます。
「マルタは給仕して」いました。
救われたのなら、私たちはもはや自分のものではありません。
私たちのために多くの働きをしてくださった主に仕えるために、死者の中から生かされた者として神に身をゆだねるのは自然なことなのです。
自分が救われたと言いながら、主イエス・キリストに仕えたいという望みの証しを示さない人たちを私は理解できません。
奉仕が新しい誕生の最初の証拠になるはずです。
「イエスは私を救ってくれました。
「私はイエスへの愛を示すために何ができるでしょうか?」
しかし、私たちは奉仕によって救われることはありません。
救いは働きによるものではありません。
人は誇ることができません。
どんな努力をしても、罪を犯した魂を清めることはできません。

「私の手の働きでは、あなたの律法の要求を満たすことはできません。
しかし、私の熱意は休むことがありません。
私の涙は永遠に流れます。
すべては罪を償うことができません。
あなたは救われなければなりません。
あなただけは救われなければならないのです。」

それは私たちが奉仕を軽んじていることを意味しているのでしょうか?
それとも良き働きに無関心であることを意味しているのでしょうか?
いいえ、違います!
私たちは新しく生まれ変わり、すべてのものから義と認められ、神の子となったのです。
自分のために多くの働きをしてくださった方のために働きます。
働く責任があります。
私たちはイエスが死んでくださった人々に仕えるように、イエスに仕えています。
キリストへの奉仕は、実際的なことであり、神秘的なものではありません。
もし私がイエスの名によって冷たい水を一杯与えるなら、私はイエスに仕えているのです。
もし、私が冷たい水の杯を与えることを拒むなら、私は神への奉仕から身を引いていることになります。
もし、人が苦しみに苦しんでいるとき、私が彼らに仕え、裸の人に衣服を与え、飢えた人に食物を与え、他の人の苦しみと悲しみを分け与えるなら、私は神に仕えているのです。
主がこの地上に戻られ、御自分の栄光の王座に着かれる時、裁きの基準は次のとおりです.

「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」
(マタイの福音書25章35~40節)


この聖句の重要性を適用される側面だけを見て見過ごしてはなりません。
時代を問わず、とても実践的なレッスンがあります。
このことは、私たち一人一人がキリストのさばきの座の前に立つときに直面しなければならない基準を、私たちの前に示しています。
イエスは御自身のためになされたすべての奉仕を私たちの功績にしようとされています。
これは深刻なことなのです。
あなたはクリスチャンの仲間を冷たく扱っていませんか?
あなたがたは貧しくて困窮している者たちを呼び求めていますか?
彼らの苦しみを和らげますか.それとも、何の気なしに彼らを見過ごしていませんか?
あなたは、貧しい者に対して心をかたくなにしていませんか?
では、聞いてみましょう!
イエスは「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と言っているのです。
あなたがたは困っている人たちに自分の持っているものを分け与えたり、苦しんでいる人たちに仕えたり、苦しんでいる人たちにキリストの恵みを示そうとするならば、キリストはこれらの働きを御自身になされたこととして認めてくださるのです。
奉仕を軽んじてはいけません。
奉仕はとても重要な働きです。
最初にここに来ました。
ここが一番です。
「マルタは給仕して」いました。
それは嫌な奉仕ではありません。
かつて、マルタが奉仕のことで悩んだいました。
今では違います。
マルタは奉仕していました。
喜んで奉仕をしています。
数日前、彼女の兄弟は冷たく死んでいました。
その時、マルタはイエスといっしょに向こう側にある墓に行き、イエスが「ラザロよ。出て来なさい」と叫ぶのを聞きました。
マルタはそのすべてを見て、主への感謝の気持ちで心が満たされ、仕える喜びを知ったのです。
もし誰かが「私も奉仕させてください」と言うかも知れません。
マルタはそれを拒否するでしょう。
そして、「イエスは私のために多くのことをしてくれました。
私はイエスのためにできる限りのことをしたい」と言うはずです。
かつて、私は小さな伝道所を運営している集まりに属していた親愛なる兄弟の話を聞いたことがあります。
彼は説教したかったのですが、その才能がありません。
彼はこの伝道所の開設を手伝ってくれました。
彼は土曜日のお昼に会社が閉まった後によくこの伝道所に行っていました。
彼はズボンをまくり上げ、水とブラシの入ったバケツを持って、椅子をきれいにし、床を磨きました。
他の者は誰も彼の仕事を知りません。
誰もが、人がどれだけ不注意なのかは知っていると思います。
彼らは誰が掃除をしたのかを聞こうとは思いません。
しかし、ある日の午後、若者の数人が歌の本を取りに行きました。
彼らがドアを開けると、老人がごそごそと掃除しているのが見えました。

彼らは驚いて手を上げていました。
「私たちはあなたがこんなことをしているとは知りませんでした!
こんなことをしてはいけません。
私たちがこの床を磨きます。」
彼は「イエスのためにそれをさせてください」と言いました。
そして、彼は「キリストの栄光のために掃除をする特権を奪わないように」彼らに訴えました。
ゆえに、彼に任せるしかなかったのです。

では次の者を見てみましょう。
「ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。」
これは「交わり」という意味です。
復活したラザロは、祭りの席でイエスといっしょに座っていました。
ラザロはイエスとの聖なる交わりを楽しんでいたのです。
同じ思いを心を持った人たちと集まり、一緒に素晴らしい食事を楽しむ方法を紹介しましょう。
目の前に置かれているもののためだけではありません。
自分たちにとって大切なものについての考えを交換することを喜びとすることです。
私たちは主の晩餐を聖餐式と呼ぶことがあります。
私たちはともに主の愛しさを瞑想します。
この場所は集まった者たちが愛する主で、心が満たされる場所となるのです。
イエスはどこに座っていても、たとえ、シモンの家であっても、シモンが主催者であろうとも、晩餐の主として認められるべきです。
そこでラザロはイエスとともに食卓に着いていました。
死んでいたラザロが生き返ったのです!
救われたあなたと私とは、復活した者たちです。
私たちの栄光に満ちたかしらである主イエス·キリストと交わりを持つことは、私たちの祝福された特権なのです。
交わりを持つことは二人には必要なことです。
一人が話し、もう一人が答えます。
私たちが神の御前に出て、神のみことばを聞き、神が私たちに語ってくださります。
また、私たちが祈りをもって神に近づき、私たちの心を神に注ぐのなら、それが私たちと神との交わりです。
マリヤは次のように礼拝をしました。

「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」
(ヨハネの福音書12章3節)


マリヤがソロモンの雅歌を知ってこのような礼拝を捧げたと思うと、私は驚いてしまいます。

「王がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはかおりを放ちました。」
(雅歌1章12節)


マリヤはイエスを見て言いました。
「イエスは私の王です。
私がどれほど主を愛し、慕っているかを示さなければなりません。」
彼女はとても貴重な三百グラムの香油を持っていることを思い出しました。
それを買うには1年間の労働が必要だったと言われています。
彼女はそれを長い間、大事に保管していたのです。
おそらく特別な機会に少しだけ使っていたのかもしれません。
今、マリヤはイエスが死にに行くことを知っています。
少し後で、イエスはこのことを私たちに語っています。
マリヤは「私が持っている最高のものをイエスにあげたい」と言っているのです。
彼女は石膏の箱をこわし、その中身をイエスの足に注ぎました。
マタイの福音書とマルコの福音書で、私たちは「イエスの頭に香油を注いだ」と書いてありました。
矛盾はありません。
マリヤはその両方に注いだのです。
それがマリヤの心にある礼拝の表現でした。
礼拝とはそういうものだからです。
私たちは神が私たちに与えて下さったものを、神に返すように礼拝します。
旧約聖書では神は創造主として礼拝されています。
それは非常に尊い行為です。
しかし、あなたがたが新約聖書に来たときには、主の愛する民が求めるように主イエスが礼拝の対象となっていることに気づくはずです。
ヨハネの黙示録にはこのようにあります。

「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
(ヨハネの黙示録5章9、10節)


イエスは礼拝されることを切望しています。
イエスは人びとの心によって、御前に引き上げられ礼拝させることを愛しておられるのです。
しかし、救われていない人はそれを理解できません。
イエスをを裏切ろうとしていた者はこのように言いました。

「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
(ヨハネの福音書12章5節)


今まで、イエスは常に貧しい人々の必要に関心を持っておられました。
マリヤはどうでしたか?
全く違います!
キリストを第一にするのであれば他のすべては与えられます。
主イエス・キリストを敬愛する者は、貧しい者を忘れることはありません。
しかし、ユダには理解できなかったのです。
この箇所にこのように書かれています。

「しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。」
(ヨハネの福音書12章6節)


イエスと弟子たちはユダが「金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいた」と読みました。
文字通り、ユダは盗んでいたのです。
ユダは貪欲な男だったのです。
ユダはマリヤが自分の宝をイエスのために浪費していると感じていたのです。
しかし、救い主はユダの心に起こっていることを知っておられました。
イエスはこのように仰せられました。

「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」
(ヨハネの福音書12章7節)


私たちはイエスのこの言葉を忘れたくありません。
マルコの福音書ではイエスはこのように付け加えています。

「貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。
それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。」
(マルコの福音書14章7節)


この箇所の終わりで私たちはこのように読むことができます。

「大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。
それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。
祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。」
(ヨハネの福音書12章9~11節)

人間の悪がここにあります。
聞いてください。
もし、人間には救い主が必要であることを理解していながらイエスを信じないなら、聖霊を通してイエスのもとに来ないなら、どんな奇跡が起きても、イエスのもとには来ないということです。


講演38 勝利の入場

「その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、
しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。
「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。
イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。
そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこれらのしるしを行なわれたことを聞いたからである。
そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」
さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。
この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。
ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。
すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」
(ヨハネの福音書12章12~28節)


この箇所は実際に2つの異なる出来事が記録されています。
そのどちらかが講演のテーマとして機能すると考えています。
2つの出来事を組み合わせてみたいと話していきたいと思います。
まず、主がエルサレムに乗り込み、ダビデの子として歓迎されます。
次に、「イエスに会いたい」という願いを持って、ギリシャ人がやって来ます。
救い主としての使命は早くも終わりに近づいています。
不思議な3分の2年の間、イエスは力ある御業を行ないながら、パレスチナの地を歩き回りました。
イエスは証しをするために来られたことが証明されています。
キリストがエルサレムに来られたのは死ぬためでした。
それはエルサレムでの私たちの罪のために贖うためです。
初めは、人々はイエスを王として迎える用意ができています。
イエスご自身が預言されているように、イエスが拒まれることはないように見えます。
やがて、すぐにこれは一時的な動きでしかないことが明らかになります。
この動きに参加したのは、子供たちや、イエスの宣教によって特に恵みを受けた人々です。
彼らはイエスが何者であり、何をされたかによってイエスを愛していました。
次の日、つまりらい病人シモンの家に来た翌日に、間もなく祝われる過越の祭りに参加するために大勢の人が集まっていました。
イエスがエルサレムに急いで向かっておられるのを聞くと、彼らはイエスを迎えに出て行きました。
彼らはしゅろの木の枝を取って「ホサナ。祝福あれ」と叫びました。
しゅろの木はよく知られた勝利の象徴です。
これはメシアの詩篇と呼ばれる詩篇118編から引用されたもので「ダビテの子」としての主イエスが描かれています。

「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
(ヨハネの福音書12章13節)


ある人はこのように言うかもしれません。
「ついに、救い主が現れ、王座に着き、すべての不義を打ち倒し、義をもって君臨する時がきました。」
実際にイエスを認めた人々はわずかに残された者に過ぎなかったのです。
やがて、多くの宗教指導者たちは一致団結してイエスの主張を拒否します。
そのようになるまで「ホサナ」の叫び声が聞こえてからそれほど時間はかかりません。
そして、彼らと同じ指導者たちが、ピラトの裁判所で人々を扇動し、「カイザルのほかには、私たちに王はありません」と叫びます。
イエスが王として来た入場し間違いなく拒まれることはすでに定まっているのです。
それでも、イエスは預言の言葉のとおりに入場するのです。

「イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。」
(ヨハネの福音書12章14節)


主は誕生から最後まで、一歩一歩、預言のとおりに進まれました。
この最後の週に何百年も前になされた多くの預言が成就するのです。
ゼカリヤ書の預言には、イエスがろばと子ろばに乗ってエルサレムに入る様子が描かれています。
今、神の御霊がこの書からこのように引用しています。

「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
(ヨハネの福音書12章15節)


ゼカリヤ書の中には印象深いものもありました。
なぜでしょうか?
別の福音書には、主が人が一度も乗ったことのない、綱からほどかれたことのないろばの子に座らされたと書かれています。

「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。
それをほどいて、引いて来なさい」
(マルコの福音書11章2節)


綱からほどかれたことのないろばの子に乗るのは普通は簡単なことではありません。
おそらく、このろばの子は本能的に主人を認識しているようです。
イエスは万物の創造者であり、恵みを与えるために人となられた方でした。
そこで、イエスは子馬を制御し、人々がイエスの前に衣服を広げていました。
イエスは、その歓迎の声を上げる中、勝利者として町に入場してゆきました。
これらのことは、初めは弟子たちにも理解されていませんでした。
しかし、イエスが栄光を受け、十字架の苦しみをくぐられ、死者の中からよみがえられ、天にある神の右の座に着かれ、聖霊が降臨された時に、彼らの目が開かれました。
弟子たちは、これまでに存在していない真理を悟った時に、これらのことがイエスについて書かれたことであり、イエスの行われたことを思い出したのです。
私たちを教えるために、神が御言葉に書かれたことを思い起こさせるのは聖霊の御業です。
それは次のように書かれている通りです。

「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」
(ペテロの手紙第二1章21節)


ゆえに、聖霊がこれらのことをあらわにし、神の民に開放し、長い間忘れられていた預言や約束を思い出させ、人々の記憶として戻すことは、とても簡単なことなのです。

「イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。」
(ヨハネの福音書12章17節)


こういうわけで、民もイエスを迎え、民はイエスがこの奇蹟を行なわれたことを聞きました。
ラザロの復活は、イエスのほかのどんな奇蹟よりも、民に大きな効果をもたらしています。
私たちはこのことを驚く必要はありません。
この奇跡は確かに神の最大の物理的奇跡でした。
自然における奇跡では、嵐を静めることが最大の奇跡でした。
イエスは、死んで4日目の人物を墓から呼び出すことによって、ご自身が復活であり、命であることを示されました。
いままで、民はイエスのことを考えたこともなかったのですが、エルサレムに子ロバで来られた時、イエスが約束されたメシアではないかと思い始めました。
しかし、そこには反対する者たちがいました。
これらの多くの人々は、ついにこれらの人々をイエスから遠ざけることに成功しました。

「そこで、パリサイ人たちは互いに言った。
「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」」
(ヨハネの福音書12章19節)


このように700年前、イザヤがメシアの来られることを思い巡らして語ったことばが、今、成就されようとしていました。

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。」
(イザヤ書53章1節)


信じていた者たち、最初にイエスを受け入れる者たちが、最初にイエスを拒んだのです。
私たちは次の出来事に移ることができます。
このように、パリサイ人たちはイエスの主張を意図的に退けました。
しかし、最初に異邦人の世界がイエスとイエスがもたらしに来たメッセージに関心を示したことは、イエスの心にとって大きな喜びであったはずです。
20節にはこのようなことが述べられています。

「さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。」
(ヨハネの福音書12章20節)


さて、私たちのギリシヤ人について読むとき、この言葉は生来のギリシヤ人ではなく、異邦人の世界でギリシヤ人の中から生まれたユダヤ人を意味していることがあります。
しかし、ここで述べられているのは本当にギリシヤ人です。
この異邦人たちは、ユダヤ人の祭りである過越の祭りのために上って来ていました。
彼らはおそらく改宗者だったと思われます。
彼らは自分たちが属していた異教徒の慣れ親しんできた宗教制度よりも、ユダヤ教をはるかに純粋で神聖で優れた宗教制度として認めていたと思われます。
その時代において、多くの人々が不満を抱いていた先祖たちが崇拝していた神々から離れていました。
彼らの心は、より良いもの、より高貴なもの、より純粋で真実なものを切望していました。
ユダヤ人が世界各地に散らされ、ユダヤ人の会堂や祈りの場が世界中に設けられました。
多くの異邦人がユダヤ人の会堂を訪れました。
彼らは唯一のまことにして生ける神について、そして、神がアブラハムに約束された神によって世界が祝福される子孫が来るということを知っていました。
彼らのようなギリシヤ人がその中にいたと思われます。
彼らは過越の祭りに上ってきました。
彼らは礼拝のためにエルサレムに来て、イエスのことを聞きました。
この驚くべき方がイスラエルの民の中に三年半も住んでおり、善を行ない、病人をいやし、盲人の目を開いたことを彼らは聞きました。
これらの者たちはイエスの言葉を聞いた者たちに問いかけました。
「本当に彼は、約束された方なのでしょうか?」
彼らはイエスのことを聞きながら、自分たちのノートを比較してこのように言ったのではないでしょうか?
「彼は哲学者プラトンが待ち望んでいたロゴスではないでしょうか?
私たちが読んできたユダヤ教の聖書がメシアがくることを証言しています。
彼こそが約束されたロゴスではないでしょうか?」
そこで、彼らはイエスがすでに町におられることを知って弟子たちの仲間を探しました。
彼らはベツサイダ人ピリポのところに来ました。
なぜ、ピリポなのでしょうか?
まあ、ピリポの名前自身が彼らにアピールされるからです。
ピリポはギリシア語で「馬を愛する人」という意味でした。
ギリシアの偉大な王、マケドニアのピリポはすばらしい名声を得ていた王でした。
ゆえに、このピリポも自分たちと何らかの理解のつながりがあると思ったのかもしれません。
彼らはペテロ、ヨハネ、ヤコブや他の弟子たちのところには行っていません。
彼らはギリシア語の名を持つピリポのところに行きました。
そしてこのように言いました。

「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」
(ヨハネの福音書12章21節)


彼らが望んでいたことは、ピリポの心を喜ばせたに違いありません。
ギリシア人たちはよそ者だったからです。
異邦人は外の人たちです。
彼らはイエスを見て、知りたがっていました。
ピリポはおそらくこのように感じたかもしれません。
「私たちの主の勝利の日は近い。
旧約聖書が言ったように、すでに異邦人は上ってきており、主の主張が認められている。」
ピリポはアンドレを呼んできました。
そして、ピリポとアンドレはともに主イエスのところへ行って言いました。
私が想像するには彼らがもっとも熱心だったかも知れません。
「先生、ここにいる異邦人はあなたの所に来て会いたがっています。
あなたのことを知りたいという人たちと会ってくださらないでしょうか?
彼らはあなたの語ることばに心を寄せています。」
イエスがこのギリシア人にご自身を現わされたことは、私たちには知らされていません。
そして、弟子たちにこのように答えたと言われています。

「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」
(ヨハネの福音書12章23節


イエスはこの異邦人たちの要求を聞いて、異邦人たちの間からの大きな刈り入れの初物であることを認められました。
御自分の民にイエスは拒まれようとしていました。
しかし、聖書は、もしイスラエルがイエスを拒むなら、イエスは異邦人を照らす光となられると言っています。
その最初の証拠として、ギリシャ人たちの 「イエスに会いたい 」という願いが出てきます。
イエスは、異邦人たちの要求の中に、その後の数年間に異邦人世界全体で起こることの証しを提示しているのです。
その後、イエスは弟子たちに、イエスが死と復活とを通られるまでは、ユダヤ人にも異邦人にも、御自身を完全に現わすことはできないことを、真剣に、そして厳かに語られたのです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
(ヨハネの福音書12章24節)


イエスの言った本当の意味はなんでしょうか?
イエスは麦の穂です。
もし死ななければ、哀れな罪人に救いはありません。
イエスは御自分の教えによって、人を救うために来られたのではありません。
イエスは御自分を手本にしてて人を救うために来られたのではありません。
イエスは人々に「あなたがたが私と同じように生活し、私の歩みに従うならば、あなたがたは救われます」と言っているのではありません。
くり返し言わせてください。
前にも何度も言っています。
誤解を恐れずに言う必要があります。
イエスに従って救われる人はいません。
私たちは救われた後に、従い始まるのです。
イエスは私たちが従うべき模範を残されました。
だが、私たちは、彼を贖う方として知る必要があります。
イエスに従う前に、イエスからイエスの命を受ける必要があります。
イエスは偉大な先生でも、手本でもありません。
イエスは人々を救うために、苦しめを受け死ななければなりません。
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
イエスの美しい生涯は十字架の死が無ければ、一人の哀れな罪人も救うことはできなかったです。
その代わりにイエスは人間を裁くだけの存在となってしまいます。
いかに、人が罪深いかを示すものがあるとすれば、主イエスと自分を並べることです。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」
(ヨハネの福音書12章25節)

あなたは自分の生活に満足しているかもしれません。
しかし、神の御前で自分がいかに邪悪で、堕落し、罪深いかを知りたいと思うなら、この四つの福音書を読んでください。
そして、イエスが生きた生涯を考えてみてください。
そうすれば、あなたがどれだけ自分に足りない者かがすぐにわかるはずです。
「それは一つのままです。」
イエスは罪のない、しみのない御父の唯一の御子です。
ゆえにこのように言うことができます。

「わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」
(ヨハネの福音書8章29節)


イエスはイエスの最も邪悪な敵に向かって言うことが出来る唯一の人間でした。

「あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。」
(ヨハネの福音書8章46節)


イエスの人間性には絶対的な聖さがあり、
彼の人間性は絶対に神聖であり、この地上でのイエスの人生では孤独に過ごしていました
そして、イエスは付け加えています。

「しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
(ヨハネの福音書12章24節)


イエスは十字架に行き、十字架の上で、私たちの罪のために御自身を身代金としてお与えになりました。
イエスは私たちを贖うために死なれました。
主は、私たちがすべての咎から清めるために、御自分の最も尊い血を注ぎ出されたのです。

そして今、クリスチャンと呼ばれる時代を通じて、キリストの贖いの死によって命と平和と救いを得た何百万人もの人々のことを考えてみてください。
確かに、一粒の麦は死んで地面に落ち、多くの収穫がありました。
「もし死ねば、豊かな実を結びます。」
次の節にある、神を信じる者への挑戦に注目してください。
もし、私たちがイエスを受け入れ、イエスを私たちの救い主として告白するのなら、当然、私たちはイエスに従い、イエスの弟子となります。
そして、このことが成就します。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」
(ヨハネの福音書12章25節)


キリスト者が世的な愚かさや快楽を捨てて、主イエス・キリストの栄光のために身をささげるのなら、世的な人たちには、彼らが自分の人生を捨てているように見えます。
しかし、ここで自分の命を捨てる人は、実際にはそれを見つけているのです。
世俗主義者は、自分が人生において最高のものを知っていると思っています。
しかし、より祝福された、より深い人生を得るのであれば、この人生を楽しんでいるのはクリスチャンだけです。
クリスチャンは最高で、最も豊かで、最高の状態で人生を過ごします。
イエスはこのように言っています。

「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。
わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」
(ヨハネの福音書12章26節)


これはすべての信者にある約束です。
私たちは御名を信じただけではありません。
御名のために苦しみ、イエスの歩みに従い、イエスのために屈辱と不名誉を耐え忍ぶ特権を与えられています。
そしていつの日か、父なる神は、祝福された御子の御名のために恥辱を耐え忍んできたすべての人々を称えてくださるのです。
さて、十字架の御業について語られました。
イエスの魂はすでに、罪とされることに関係する暗い雲が立ちこもってきたように見えます。
なぜなら、イエスは「今わたしの心は騒いでいる」と言われるのでしょうか?
何がイエスを悩ませるのでしょうか?
イエスは十字架上で神の怒りに耐えてくださるのです。
それは、私たちが恵みによって取り扱われ、私たちへの裁きが処理されるためです。
そのすべてがイエスを悩ませるのです。
もし、イエスが私たちのために罪とされることを恐れていないのならば、イエスは完全、かつ聖い人間ではなかったです。
そして、イエスはこのように言っています。

「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。
『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」
(ヨハネの福音書12章27節)


イエスは「この時からわたしをお救いください」と祈る代わりに「父よ。御名の栄光を現わしてください。」と祈りました。
そして、このように天から声は聞こえました。

「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」
(ヨハネの福音書12章28節)


このような声が天から聞こえたのはこれで三回目です。
イエスが十字架を通過されたとき、神はイエスを死者の中からよみがえらせ、御名をあがめられました。
神は御名をあがめ、御子をいと高き天に上らせ右の座に置かれました。
やがて、神はこの地上に再び遣わされます。
その時、イエスは王の王、主の主として地上を治め、主は御名を誉め称えられるのです。


講演39 あなたがたは、光がある間に歩きなさい。

「そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。
イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。
今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。
わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。
そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。」
イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。」
(ヨハネの福音書12章29~36節)


私たちは前の講演を締めくくる時に、24節から28節に記されている救い主の言葉について考えていました。

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
(ヨハネの福音書12章24節)


これはイエスは御自身のことを語っています。
神の御子は受肉され世に来られました。
イエスは他の人とは違う目的を持っていました。
イエスは絶対的に罪がなく、聖く、どんな責めもお持ちになりません。
もし、神が私たちのために十字架にかかって死ぬことがなかったなら、イエスは永遠に人のままだったと思います。
しかし、イエスの死の結果として、今、贖われた多くの人々というの輝かしい収穫があります。
一粒の麦がもし地に落ちて死んで、イエスの死によって何百万人という人々が救われました。
救われた者には「 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい」という戒めが語られました。
主の目前に十字架があります。
主はその十字架の上で、わたしたちの罪で満たされた裁きの杯を飲まれることを知って仰せられました。

「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。
(ヨハネの福音書12章27節)


イエスは自分が救われることよりもこのように言われたのです。

「いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
父よ。御名の栄光を現わしてください。」
(ヨハネの福音書12章27、28節)


すると、すぐに反応がありました。

「そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」」
(ヨハネの福音書12章28節)


神は主イエス・キリストの完璧な命によって栄光を受けられました。
イエスはそのささげ物の死と不思議な復活とによって栄光に御受けになります。

「そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。」
(ヨハネの福音書12章29節)


そこにいた数人の者たちが神の御声を聞きました。
現在においても、当時と全く同じ状態です。

神が力をもって語られる時があります。
おそらく、神のしもべの一人を通して語られます。
大きな集まりにおいて、霊的な現実に真剣に取り組んでいる人々の心をつかむようなメッセージが語られる時、多くの者はこのように言います。
「それはただの音だ!
雷が鳴ったのだ!
そこには何もない!」
彼らは神の声を聞くことはありません。
他の人はもっと高く舞い上がっています。
「御使いがあの方に話したのだ」 と言う者もいます。
しかし、それは雷でも天使でもありません。
それは御父御自身の声でした。
福音書の始めに、主はヨルダン川でバプテスマを王家になりました。
その時、御父の声が聞こえたのです。

「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
(マタイの福音書3章17節)


そして、再び変貌の山の上で、同じ声がしました。
そして、御父はその御働きとメッセージと御子としての完全性を認証しました。
そして、もう一度ラザロの墓で、父は天から語りました。
そして今、イエスのことを、御名の栄光と結びつけて語られています。
「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」
これはイエスが十字架上で成就されようとしている御業を通して現わせられるのです。
そして、イエスは答えて言われました。

「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。
今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。
わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
(ヨハネの福音書12章30~32節)


これらのイエスの偉大な声明には4つの部分があります。
イエスは世のさばき、支配する者は追い出されること、引き上げられた救い主、来たるべき裁きについて語っています。
最初に「今がこの世のさばき」だということです。
彼は何を言っているのでしょうか?
この世が裁かれることは、キリストの十字架によって示されました。
世は主イエスを「私たちは彼を望まない」と言っているのです。
イエスは来られて、御自身を王として示されました。
もし、人々がご自分を受け入れるなら、すべてを義とされたはずです。
しかし、彼らはこのように言って、イエスを拒むのです。

「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
(ヨハネの福音書19章15節)


そして、彼らはイエスを拒否することで自分たちを裁きに至らしています。
それ以来、全世界の下に置かれてています。
時々、なぜ神はこの世界で様々な恐ろしいことが起こるのを許しているのか?
不思議に思うことはないでしょうか?
それは人々が平和の君主を拒んだからです。
もし、イエスが受け入れられ、そう、その時代の人々がイエスを受け入れ、力と栄光の中に御国を築いていたら、どんなに違っていたかを考えてみてください。
もし、そうならば、戦争ははるか昔に地上から消え、悲しみ、ため息、病気はなくなり、過去数世紀の間、千年王国の恵みを味わっていたはずです。
キリストを拒むことにより、彼らは裁きに至ったのです。
ですから、世に起こっている悲惨なことに驚く必要はありません。
むしろ。驚くべきことは、神が御怒りをこらえていることです。
神は罪ゆえに、人を裁くことをしていないということです。
世界は死を宣告されたようなものです。
ただ、その刑が執行されるまではまだ生き続けることが許されているだけです。
やがて、神の怒りの天が啓示されます。
神の怒りの鉢がこの世に注がれ、その時、人はそのさばきを完全に知ることになります。
今の時代は恵みが裁きと混ざり合っているだけです。
現在、神は人に哀れみのメッセージを送っています。
神は人々に悔い改め、かつて拒んだ救い主を受け入れるよう呼びかけています。
あなたはどうしますか?
あなたは主イエスを受け入れていますか?
あなたは使徒ペテロがユダヤ人たちに言った、次のような印象的な言葉を覚えているでしょうか?

「この曲がった時代から救われなさい。」
(使徒の働き2章40節)


どのような意味でしょうか?
誰かが「私たちは自分自身を救うことができるでしょうか?」と尋ねるかもしれません。
私たちは自分自身を救うことはできません。
最低限、地獄からの救いに関する限り、私たちは自分自身を救うことはできません。
私たちは、十字架上のキリストの完成された御業によってのみ、滅びから救われることができます。

この方以外には、だれによっても救いはありません。
世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
(使徒の働き4章12節)


では、ペテロが「この曲がった時代から救われなさい」と言ったのは何を意味していたのでしょうか?
「裁きを受けている世界と決別しなさい」と言う意味です。
つまり、「今の世界から出て、拒絶されている方の側につきなさい」ということです。
もし、あなたがたが拒まれている方についているのであれば、世の来る裁きからあなたがたは守られています。
人はしばしば、クリスチャンがこの世界に弱々しくも入り込んでしまうのを見えると悲しくなってきます。
なぜ、クリスチャンの中に世からの分離に興味を持たない人がいるのでしょうか?
彼らがこの世がさばきの場であること、人が楽しむものはすべてヤハウェの怒りの日に焼き尽くされてしまいます。
そして、彼らが神が御自分の民にこの世から離れて歩むよう呼びかけていることを知らないからです。
時々、私たちの親愛なる若者たちに、彼らの敬虔な牧師や教師や両親が世的な特徴を持つものに対して警告することがあります。
そして、そのことがあまりにも厳しく、厳格すぎると思うことがあります。
この祝福された神の書から、私たちがこの世界の終わりを学んだことを思い出してください。
若者たちが今、世から離れるよう呼びかけるのは、来るべき裁きの悲しみを免れるためなのです。
「この曲がった時代から救われなさい。」
神の怒りの七つの鉢がこの世界に注がれる日がきます。
私が知っていることは、誰もが世から離れて生き、その者が裁こうとしている世界から離れて歩いたことを後悔しないということです。

「今がこの世のさばきです。」
(ヨハネの福音書12章31節)


すでに裁かれているのですが、まだ実行されていないだけです。
次に救い主が言われていることは「今、この世を支配する者は追い出されるのです」ということです。
この世の君主とは誰のことでしょうか?
サタンです。
彼はどのようにこの世の君主になったのでしょうか?
サタンは盗人です。
神は、この世を私たちの最初の両親の管理下に置きました
神はアダムに言ったのです。
「この世を支配する権威を与えます。
私はこの地上にあるものすべてをあなたがたの与えました。
私のためにあなたはこの世界を管理しなければなりません。」
しかし、アダムは、この世の君主の位を賭けてしまい、悪魔に譲りました。
それ以来、サタンがこの世の君主であり、君主であるだけでなく、この世の神になったのです。
皆さんは、主が蛇にさばきを宣告されたときに言われた約束を思い出すべきです。

「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
(創世記3章15節)


キリストの十字架では、女の子孫であるイエスのかかとが傷つけられた。
しかし、蛇の頭は十字架で踏み砕かれました。
サタンは今や敗北した君主です。
サタンの権力を所有する何千、何百万もの人々がまだいます。
来たるべき日、サタンが天から底なしの穴に落とされる時が来ます
そして、最後には火の池に落とされます。
神の完全な裁きがサタンに下されます。

3つ目の部分に注意してください。
「わたしが地上から上げられるなら。」
主はそこで何を言っているのでしょうか?
わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」という文は、全体として次のように理解されるべきです。
この聖句はしばしば完全に間違って使われている場合があります。
「説教者がイエスを持ち上げるなら、すべての人がイエスに引き寄せられる」というように使われるのをよく聞いたことがあります。
皆さん、私たちは人々をキリストに引き寄せる唯一の方法は、福音を宣べ伝えることだと知っています。
それが私たちの使命であると信じています。
私たちが福音を宣べ伝えることによって、すべての人がイエスに引き寄せられることを知っているでしょうか?」

私の心には、この50年の間、いつも悲しみがあります。
それは、私がイエスを上げて宣べ伝えても、すべての人が引き寄せられるわけではないからです。
50年以上前に私はロサンゼルスの自室でひざまずいてキリストを受け入れた時のことを覚えています。
そして、その3日後の夜、私はグループと共に屋外に出てキリストの最初の証しをしました。
しかし、なぜか、話し始めるとすべての状況を忘れてしまいました。
私は説教の勉強をしていませんでしたが、30分ほど話をしたところで、集会のリーダーに止められて、屋外にいたので20分前に会場に入るべきだったと言われました。
私は止めなければならなかったのですが、胸がいっぱいでした。
私は「この人たちはイエスのことを知ればよいのに、そうすればみんな救われる」と思いました。
私のテキストに書かれていたことを昨日のことのように覚えています。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
(イザヤ書53章5、6節)


私は若い心のすべての熱情をもって説教していました。
そして、「彼らはただ知るさえできれば、彼らはイエスのところに来るのです。」
しかし、彼らは来ませんでした。
周りには大勢の人が集まっていました。
中には物珍しそうに見ている人もいました。
「あの若者は何を言っているんだ?
14歳の若者に何がわかっているのか?」
彼らは振り返って去って行きました。
そして、一人だけが私のところに来て言いました。
「私の息子よ、あなたは私がずっと探していて、決して手に入れることができなかったものを見つけてくれました。」
彼は年老いた有色人種で、雪のように白い髪が黒い顔を覆っていました。
私は彼をキリストに導きました。
彼が私の最初の改宗者です。
ほかの人たちは通り過ぎてゆき、無関心でした。
私はこの50年間、イエスを伝えようと努めてきました。
私の願うのは神の御前においてイエス以外にメッセージがないと言えることです。
私は、この祝福された御言葉の中に、多くのさまざまな異なる真理が含まれていることを知っています。
私の使命は、単に福音を宣べ伝えることではなく、御言葉を宣べ伝えることです。
なぜなら、これらのさまざまな異なる真理はすべて、イエスにあるからです。
パウロと一緒に「私たちが語る人」と言えることを願っています。
私は、「イエス」の代わりになる「何 」かを説いているのではありません。
しかし、私はこのことをあかしします。
私はこの50年、イエスを宣べ伝えて高めようと努めてきました。
しかし、すべての人がイエスに引き寄せられるのを見たことがありません。
日曜日の夜、4000人の観客が集まっている会場を眺めて、「すばらしいチャンスが来た」と心が震えました。
しかし、その大群衆の中でイエスを信じていない人は2~300人ほどしかいないと思います。
大多数はすでにクリスチャンです。
でも。他の人たちはどこにいるのでしょうか?
あなたが手を差し伸べるべき人たちはどこにいるのでしょうか?
彼らは通りや劇場や、その他の世俗的な娯楽場にいます。
彼らは気にも留めていません。
イエスを伝える必要があるのでしょうか?
はい!
けれども、すべての人がイエスに引き寄せられるわけではありません。
あなたは聖書が良くないのかと尋ねるかも知れません。
いいえ!
でも、私たちの解釈が間違っていることもあります。
ここには、伝道者がイエスを伝えるのなら、すべての人がイエスに引き寄せられるとは書いていません。
聖書を注意深く読んでみましょう。
このように書かれています。

「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
(ヨハネの福音書12章32節)


そして、33節の聖霊の説明を見てください。
イエスがこのように仰せられたのは、イエスが死なれようとしていることを示されたからです。
ここに答えがあります。
ここにある引き寄せるとは宣教のことではありません。
ここにある引き寄せるはカルバリーのことを述べています。
ニコデモの前でイエスが言ったことと同じです。

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
(ヨハネの福音書3章14、15節)


イスラエル人が荒野で火の蛇にかまれた時、神はモ―セに言われました。

「すると、主はモーセに仰せられた。
「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。
もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」
(民数記21章8、9節)


そして、イエスはニコデモに具体的に語りました。
つまり、「青銅の蛇はわたしのことです。」
2匹の蛇はイエスのことを描写していたのです。
イエスは、私たちのために罪となってくださいました。
それは、私たちがイエスにあって神の義となるためです。
このように問題を起こしているのは蛇です。
イスラエルは火の蛇に噛まれました。
蛇は聖書の中でサタンと罪の象徴として認められています。
この蛇は世界にあるあらゆるトラブルの始まりです。
私たちは皆、罪の毒に侵されています。
私たちの唇の下にまむしの毒があります。
誰もが蛇の毒に侵されているのです。
しかし、イエスは来られ、十字架の上に引き上げられたとき、私たちのために罪とされました。
「イエスは邪悪な罪人の身代わりになって、人間のために、私たちの代わりに苦しみを御受けになりました。
ああ、恵みの奇跡!
救い主は血を流されました!
荒野の蛇は青銅でできていました。
青銅はさばきの象徴です。
この蛇は私たちの裁きを代わりに受けるキリストについて語っています。
毒のない蛇でした。
その蛇はだれも傷つけることができません。
聖なる方、無害な方、汚れのない方、イエスは引き上げられました。
そして、イエスは「わたしが地上から(つまり、十字架に上に)上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」と言われたのです。
イエスは引き上げられた救い主です。
もちろん、説教者はすべての人にイエスが自分たちのために死んだことを伝えるべきです。
もちろん、救い主は十字架につけられた方を指します。
このように賛美されています。

「十字架につけられた方を見るならば、そこに命があります。
十字架のその時、あなたのためにそこには命があります。
罪人よ、イエスを見てください。
そして木に釘づけにされた方によって救われてください。
何故、そこにイエスは罪を負う者としておられたのでしょうか?
あなたの罪はイエスの上に置かれているでしょうか?
なぜ、イエスの方から罪を清める血が流れたのでしょうか?
もし、イエスが死ぬことで、あなたの借金が支払われなかったならどうなったのでしょうか?」

「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
しかしながら、今、すべての人がイエスのところへ引き寄せられるのではないのです。
多くの者が無視して通り過ぎて行きます。
神の子は人類に向かって叫んでいるように見えます。
通り過ぎる者には何もありません。

「道行くみなの人よ。よく見よ。
主が燃える怒りの日に私を悩まし、私をひどいめに会わされたこのような痛みがほかにあるかどうかを。」
(哀歌1章12節)


あなたは何と答えるでしょうか?
あなたはあなたの道を歩むのでしょうか?
そして、「何もなかった」と言うのです。
「自分のために、自分のためだけに生きます。
自分のためです。
誰のためでもありません。
それはイエスが存在していなかったかのように、もしくは死んでいなかったかのように私は生きるのです。
もし、あなたが望むなら、あなたはイエスから離れ去ることができます。
あなたがたは、神の恵みを拒み、神の愛を捨て、神の福音を踏みにじることができます。
誰もあなたにキリストを受け入れるよう強制することはありません。
しかし、あなたは自分の罪の中で永遠に失われることになります。
ただし、一つだけできないことがあります。
最後には神から逃れることはできないということです。
「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
いつの日か、十字架の上に引き上げられた方が裁きの王座に着きます。
いつの日か、私たちの代わりに木の上で恵みを受けた方が、偉大な白い王座に着きます。
このように、すべての人がその方に引き寄せられることになります。
ここで「引き寄せる」と訳されている言葉は、強制力を表しています。
それは、この福音書の最後の章で使われている言葉と全く同じです。
そこでは、153匹の大きな魚を包む網について語られています。
弟子たちは網を引きずって陸に上げることが言われています。
魚を助けることができません。
網の中に引きずり込まれて陸に上がるしかありません。
「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
人は「イエスの御元に行きたくない。
顔を合わせたくない。
私はイエスに釈明したくないと言うかもしれません。
しかし、あなたが望むか望まないかは問われません。
あなたはイエスの御前に立たなければなりません。
そして、イエスは仰せられます。
「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
やがて、神の愛によって引き寄せられ、主の恵みの日に主のもとに行く日が来ます。
それは、裁きの時に主のもとに引き寄せられることよりも、救われるには手遅れとなることよりも、はるかに優れたことなのです。
しかし今、私たちはあらゆる観点から私たちの責任を認識しなければなりません。
私たちは34節をこのように読むことができます。

「そこで、群衆はイエスに答えた。
「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。」
(ヨハネの福音書12章34節)


これは実際に「私たちはあなたの言っていることが全くわからない」と言っているのと同じことです。
私たちは、私たちの敵を滅ぼすために地上に来るメシア、つまり、あなたが言っている、人の子が誰だかわかりません。
私たちは何のことだかわかりません!
あなたは人の子について語っています。
人の子って、誰ですか?
それはイエスです。
彼は「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。
私たちの贖いのために恵みのうちに人となられた方なのです。」
イエスは彼らに言いました。

「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。」
(ヨハネの福音書12章35節)


イエスはかつてこのように言われました。

「わたしは、世の光です。」
(ヨハネの福音書8章12節)


私はしばらくここにいます。
そして、それから死に向かいます。
そして、このように続けました。

「「やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。
やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」
イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。」
(ヨハネの福音書12章35、36節)


これらの言葉は、今日、私たちの心に帰ってくるはずです。
私たちは、神の恵みの現在の時代が終わりに近づいているというあらゆる証拠を持っています。
それから、この世界がこれまでに知られている最も暗い夜によって引き継がれます。
私たちの主の言葉は、私たち全員に特別なメッセージとなるはずです。
「あなたがたは、光がある間に歩きなさい。」
機会があるうちに、神の真理を受け入れなさい。
まだ、御言葉が宣べ伝えられているうちに、このことばを信じてください。
闇が近づいているからです.
「やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」
私たちはにはこのように言われています。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
(詩篇119編105節)


そして、イエスは「やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません」と語っています。
今日においても光が輝いています。
すべての人々が光の中を歩むことができます。

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
(ヨハネの手紙第一1章7節)


「光のところに来なさい。
あなたのために輝いています。
甘い光が私の上に明けてきました。
かつての私は目が見えません。
しかし、今は見えます。
イエスは世の光です。」

しかし、メッセージが届くのは外側の人だけではありません。
「光がある間に歩きなさい。」
すべてのクリスチャンたちよ!
この言葉はあなたがたの道を照らすために与えられたのです。
しかし、光に反抗し、神の言葉の真理に従うことを拒んで、自分たちの策略の道を進んでいる信者たちが多くいます。
私たちを救ってくださった主に信仰的に歩むには、もう少しの時間しかありません。
私たちが光を持っている間、光の中を歩むために完全に神に身をゆだねるべきです。

「だれも働くことのできない夜が来ます。」
(ヨハネの福音書9章4節)


講演40 キリストを告白することと拒むこと

「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。
それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。
彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」
イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。
しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。
彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。」
(ヨハネの福音書12章37~43節)


この聖句の最初の部分は、私たちが非常に忘れがちな、非常に厳かな真実をほのめかしています。
それは、神の言葉が、それを聞く人の魂を柔らかくしたり、硬くしたりする効果があることを私たちに思い起こさせます。
よく言われていることですが、同じ太陽が「ろう」を軟化させ、粘土を硬化させるように、同じ福音のメッセージがある人の心を軟化させ、悔い改めとイエス・キリストへの確固とした信仰に導くこともあります。
また、同じ福音のメッセージによって、人の心を硬化させ、神の前に屈することもなく、キリストを受け入れることもなく、罪の中で死に、永遠に神の前から追放されるような魂の状態にすることもあります。
これは神の目的に対する問題でも、真理が与えられる方法という問題ではありません。
ある人は福音を受け入れようとしますが、他の人は福音を拒みます。
また、ある人は福音を拒みますが、他の人は福音を受け入れるかも知れません。
ある人は心を柔らかくし、他の人は心を頑なにします。
神はそのように仕組まれたのではありません。
真理に対するそれぞれの個人的な態度の問題なのです。
ここで神は昔のイスラエルの言葉を引用しています。

「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」
(ヨハネの福音書12章38節)


イエスは偶像礼拝の悪についてはっきりと教えられた箇所を引用し、彼らの注意を引きました。
主はただひとりのまことの、生きておられる神として、彼らの心の中に第一の座を与えるように彼らに懇願されています。
彼らは立ち去りました。
主は預言者たちを遣わしてイスラエルを呼び戻された。
しかし、その証しは退けられました。
彼らの良心に主の言葉は何の影響も及ぼさなかったのです。
それで神は彼らを心のかたくなにされました。
彼ら自身が拒むことを好んだからです。
彼らは神に従わないことを選んだのです。
あなた方はテサロニケ人への手紙第二2章の御言葉を読んだことがありますか?
そこには、私たちの前には、苦難の暗い日々の中で、まだこの世に現れる罪の人の恐ろしい描写があります。
その時代は私たちの誰もが思っているよりもずっと近いかもしれません。
しかし、神の教会が取り上げられるまでは、この世界を襲うことはありません。
私たちは、この場面に取り残される人々のことを読むことができます。
彼らは福音をくり返し聞いたのにこれを拒む者です。
私たちにはこのように語られています。

「それゆえ神は、彼らが偽り(反キリストの嘘)を信じるように、惑わす力を送り込まれます。
それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」
(テサロニケ人への手紙第二2章11、12節)


神の心は世界中のすべての人に向けられています。
神は罪人の死を望まれるのではありません。
すべての人が神に立ち返り、生きることを望まれるのです。
主は仰せられます。

「彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』」
(エゼキエル書33章11節)


もし、人がみことばに聞き従わないなら、彼らの心のかたくなになるのです。
御言葉に動かされた良心は、最初はそれに反応するかもしれません。
そして、心の中でキリストに従うべきだと感じるかもしれません。
しかし、良心の声を抑え込み、耳を傾けることを拒むようになります。
ついには良心が声を上げなくなるまで待つことは可能です。
人は、熱い鉄のように焼かれ、自分の罪の中でかたくなになり、希望を持たずに死ぬことになります。
私たちの主イエス・キリストは、約三年半の間、恵みのうちに仕えておられました。
また、しるしと不思議と、人にもたらされた驚くべきメッセージによって、ご自身がイスラエルのメシアであり、贖い主であることを証しされました。
しかし、私たちが読んでいるように、イエスが多くの奇蹟を行ったのを見ても、人々はイエスを信じなかったのです。
もし人がみことばを拒むなら、奇跡だけでは決して信じることはありません。
彼らが罪を犯して悔い改めることを拒むなら、どんなしるしも、どんな不思議も、どんな奇蹟も、彼らの良心に届くことはありません。
アブラハムは「死んで葬られたある金持ち」がまだ生きている兄弟たちについて、次のように言ったことを思い出すことができます。

「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」
(ルカの福音書16章31節)


ここに厳しい応答が存在しています。
この言葉は神の祝福された本に記録されている神の言葉を聞く私たち一人一人に与えられています。
もし人がこの証しを信じないなら、しるしや不思議や奇蹟も彼らを信じさせることはできません。
罪によって、彼らは頑なになります。
これらの人々は、イエスがもたらした言葉を聞こうとしていません。
イザヤが叫んだ預言が成就しました。

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。」
(イザヤ書53章1節)


イザヤは、イエスが来られたとき、大多数の人がイエスの証言を拒むことを預言していました。
実際、彼らはそのようにしたのです。
小さな集まりだけがイエスを受け入れました。
現在でも、同じ問題が問いかけられています。
「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。」
あなたは信じているでしょうか?
神の言葉にあなたの心は開きましたか?
主の偉大な救いの御力が、あなたに現われていますか?
キリストはあなたがたを地獄の淵から救い出し、すべての罪から解放させてくださりました
あなたがたはキリストのうちに住まわせてくださったのです。
あなたがたはその方を知っているでしょうか?
もし、あなたがたがみことばを拒むなら、神はあなたがたに対する他のことばを持ちあわせていないのです。
このように私たちは彼らが信じていないことを読みました。
それはこのように書かれているからです。

「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。
それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」
(ヨハネの福音書12章40節)


では、神は彼らを改心させることを望んでおられないのでしょうか?
いいえ、違います。
神は彼らの改心を切望しています。
神は彼らに御自分に帰るよう懇願しています。
だが、彼らはメッセージを拒み、心を頑なにして主に反抗しました。
つまり、神は「あなたがたは、自分の罪の中で頑なになるのを許す」と言っているのです。
だがその日が来て、御言葉が彼らに下されなくなります。

数年前、私はサンフランシスコの日曜学校で、幼い少年少女たちと話していました。
私は次のように説明しようとしました。
「愛する少女、少年たちの皆さん。
あなたが主イエスに「ノー」と言うたびに、あなたの心は少しずつ硬くなっていきます。
もし、「ノー」と言い続ければ、その心はますます硬くなっていきます。
やがて、神はそれを石の心と呼ぶようになります。
すると、あなたはもはや神のことに関心を持たないようになります。
そして、神の恵みを拒み続け、あなたは自分の罪の中で死ぬことになります。」
私は、その少年少女たちに、若いうちからイエスに心をゆだねるように懇願していました。

そこには、たった五歳のかわいい小さな男の子が一人いました。
私が話している間、その目は私にしっかりと向けられていました。
私たちは時々、この小さな子供が何も受け入れないのではないかと思うことがあります。
彼女の母親は彼女を日曜学校に連れて来ています。
それから、母親は彼女を家に連れて帰り、一言も話すことがありません。
彼女は教会にも日曜学校にも行かず、神の言葉を聞きにも行かなかった自分の愛する父親のことを考えていました。
彼女が家に着くと、そこには父親が座っていました。
父親は葉巻を吸って、彼の周りには日曜版の新聞が広がっていました。
この子はお母さんの前に突き抜け、お父さんの腕の中に飛び込みました。
「パパ!パパ!お父さんの心を感じる!
石のような心になっていますいない?
お父さんは何を言ってるのかわかりません。
そして、彼女は言いました。
「日曜学校の先生がイエスに「ノー」と言ったらお腹に中に石が入るって言ってたよ!
ここに石がありますよ!
ねえ、パパ、あなたがしていないことを願っています。
もし、悪いことをしていたらパパは救われません。」
父親は母親の方を向いて怒って「いったいこの子に何を言っているんだ」と言いました。
それから、母親は少し詳しく説明してくれました。
そして、父親は妻の目に涙が浮かんでいるのを見て、娘の腕が自分の首にあるのを感じました。
少女が「パパ、イエス様に「ノー」と言い続けないで」と言っているのを彼は聞きました。
そして、見上げて「これは解決するべき問題だ 」と言い、彼はその時、キリストに生涯を捧げました。
彼は間に合いました。
なんという哀れみなのでしょうか!
主イエス・キリストの声に「ノー」と言うことは、恐ろしいことなのです。
終わりの日の強い妄想と、人々が心の硬さにあきらめている理由を説明しています。
彼らは主に背を向け去っていきます。
その時、主は仰せられます。

「エフライムは偶像に、くみしている。そのなすにまかせよ。」
(ホセア書4章17節)


神よ、このページをご覧になっている方々に、このようなことがないことを願います。
もし、あなたがたがまだ自分の罪の中にいるのなら、イエスの呼ぶ声を聞いているなら、今日という日に、悔い改めと信仰のうちにイエスの前にひれ伏してください。
最後に、あなたがたの心をイエスに委ね、すべての罪と必要とのうちにイエスのもとに来てください。
そして、イエスをあなたがたの贖い主として信じることをイエスに告げてください。
イザヤは「神の栄光を見た」時、この特別な警告の言葉を与え、それは私たちに語られました。

「イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」
(ヨハネの福音書12章41節)


それはいつのことでしょうか?

さて、イザヤ書6章に記録されている出来事を覚えているでしょうか?
その時、イザヤはこのように述べています。

「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。
そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。
彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」」
(イザヤ書6章1~3節)


セラフィムが礼拝したのは誰なのか、あなたは知っているでしょうか?
聖霊は「イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである」と言っています。
私たちの主イエス・キリストは、その輝かしい栄光のうちに父とともにおられたのです。

イエスは罪人を救うためにまだこの世に来られていません。
しかし、御使いたちの崇拝の対象でした。
イザヤは時代を超えて見ています。
そして、カルバリの十字架の上で死ぬために降りてこられる方を見て、このように叫びました。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
(イザヤ書53章5節)


イザヤは信仰によってイエスを見ました。
祝福された方はイスラエルの真ん中に立っておられました。
しかし、その民はイエスを認めなかったのです。

「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
(イザヤ書1章11節)


あなたはどうでしょうか?
あなたはイエスを受け入れましたか?
メッセージが片方の耳に入って、もう片方の耳に流れ出ていませんか?
それとも、あなたの心は悔い改めて、イエスに膝をかがめましたか?。
困ったことに、多くの人は信じていますが、すぐに出てきて信仰を告白する勇気がありません。
私たちは42節に書かれていることを読むことができます。

「しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。
ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。」
(ヨハネの福音書12章42節)


本当に愚かなことです。
やがて、人々の賞賛の声は消えます。
もし、神の承認を得ていないなら、人がほめたたえていようといまいと、そこには違いがありません。
人は霊的な面では何もしてくれません。
他の人がどう思うかを気にすることは、なんとも愚かなことではないでしょうか!
しかし、友人や仲間、その人の善意を尊敬している友人のことが気になり、キリストのために確かな一歩を踏み出すのをためらった人が多く存在しています。
彼らは「私は決心する準備ができていない」と言うかも知れません。
あの人はどう思うのだろうか?
もしくはこの人はどう思うのだろうか?
私が幼い頃、母が私を膝の上に引き寄せて、主イエス・キリストを救い主として信じることの大切さを語ってくれたのを覚えています。
私は「お母さん、私はイエス様を信じたいけど、男の子たちはみんなに笑われるかも知れない」と言いました。
そして母は「ハーリー、思い出してみて、みんな笑うかも知れないけど地獄に行くのよ!
みんなそこに行ったら、笑うことができないの、、、!」
私は長い間私の家に残っていました。
私は母と何年も一緒にいました。
確かに、私たちがキリストのために出て行くとき、人々は私たちをあざけり、嘲笑し、理解しないかもしれません。
結局、最終的にキリストに認められることだけに価値があるのです。

かつて、私は2人のインドの(ラジャ)王家の間で起こった紛争について読みました。
一方が他方を打ち負かし、敵の子を捕虜にしました。
彼は自分の宮殿に戻る日に、勝ち誇って町に行進する準備をしていました。
象、騎兵、歩兵、捕虜の長い行列がありました。
そして、その中に若い王子がいました。
王子は裸足で頭には何もかぶらずに歩くように言われました。
王子は憤慨して言った。
「そんな姿で歩くのか!」
国民はどう思うだろうか!
国民はどんな顔をするのか!
ラジャは言った「あなたはまだすべてを聞いていません。」
あなたは手にミルクの入った杯を持っていなければなりません。
もし一滴でもこぼしたら、行列の終わりに頭を失うことになります。
数分でミルクの入ったボウルが運ばれてきました。
二人の看守が左右に一人ずつ付いてきて、行列は動き始めました。
おそらく1マイル以上の道のりを、彼らはラジャの前を進みました。
若い王子はミルクの入ったボウルを持ちながら歩きました。
ミルクをこぼさずに終えることはできないように思えました。
しかし、彼は無事に試練を終えました。
最後に王子はラジャの前に立ちました。
王子は顔を上げて「陛下、私は人々の顔を見ませんでした」
「私は手に持っていた自分の命だけを見ていました、私は一歩間違えれば命を失うことを知っていました。」と言いました。
昔の人たちは、神をほめたたえることよりも人をほめたたえることを愛していました。
そのために多くの人たちの前で主イエス・キリストを告白する勇気がなかったのです。
彼らはイエスが父の遣わした方であることを知っていました。
彼らはイエスがイスラエルの牧者、罪人の贖い主であることを知っていました。
しかし、彼らにとっては、神の恵みよりも仲間の評判の方が重要だったのです。
現在のあなたはどうでしょうか?
あなたは御言葉が何と言っているのかを覚えていますか?

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
(ローマ人への手紙10章9、10節)


そして、くり返し私たちの主イエスはこのように言っています。

「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」
(マタイの福音書10章30、33節)


もし、あなたがたが、神があなたがたのためにイエスを賜わったことを心の中で信じ、イエスを信頼しているなら、ためらうことなく、人々の前で公然とイエスを告白するべきです。
私は、多くの隠れた信者たちがキリストを告白しないために平和を得られないでいることを信じています。
あなたがたは「本当に隠れた信者がいると思いますか? 」と言うかも知れません。
確かに、御言葉はアリマタヤのヨセフがそのひとりであったことを私たちに告げています。
彼は多くのことを失いました!
最後に彼は神の子の遺体を埋葬するために自分の新しい墓を提供しました。
ニコデモは隠れた信者でした。
かつて、イエスと話をしようと試みていました。
「ニコデモはわたしの主、また救い主です」とはっきり言っていません。
しかし、ニコデモは主イエスの体を葬るために百ポンドの香料を送り、自分を死んだキリストと同じように扱いました。
もし、イエスが生きている間にすぐにこれらのことを言い出していたら、大きな祝福があったはずです。
現在も、多くの人々が心の奥底ではキリストを信じ、家ではキリストを愛し、信頼していると言っています。
しかし、人前で告白してキリストを称えることはしていません。
もし、公に打ち明けて周囲に知らせることができていたなら、彼らは自分の人生に喜びや勝利を得ることができたはずです。

「イエスよ!
死すべき人間があなたを恥じることができましょうか!
御使いを賛美するあなたを恥じることができましょうか!
その栄光は果てしない日々を輝かせます。
イエスを恥じるのなら、赤い夕焼けにある星のようです
その星は神の光を放ち、私のこの弱った魂を照らします
イエスを恥じるのならば、そこには、罪を洗い流すこともなく拭うべき涙もなく、切望する善もない、恐れることもなく、魂を救われることもありません。
しかし、その時、わたしの誇りはむなしいことを知ります。
その時、わたしはほふられた救い主を誇ります。
これが私の栄光でありますように、私はキリストを恥じていません。」


講演41 裁き者ではなく救い主

「また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。
また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。
わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。
だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。
わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」」
(ヨハネの福音書12章44~50節)


ここにあるいくつかの聖句には、私たちの前に示されたいくつかの重要な真理があります。
これらの真理は私たちの主がご自身を世に示されたことの結論となります。
すでに指摘したように、この書は二つの部分に分かれています。
最初の12章は主イエス・キリストを世に紹介しています。
この部分では、救われていない人たちがイエスを理解できるように、様々な方法でイエスが示されています。
そして、13章の最初の節から始まり、この書の終わりまで、神がご自身の愛する人々の心に向けて示されています。
この最初の12章にはこのようにあります。

「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
(ヨハネの福音書1章11節)


しかし、13章を開くとこのようにあります。

「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」
(ヨハネの福音書13章1節)


最初に「ご自分の民」という言葉は、神ご自身がその御力によってこの世にもたらしたすべての人々に適用することができます。
「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
しかし、13章では「ご自分の民」という言葉が別の集まりに適用されています。
つまり、イエスを主、救い主として迎え、イエスが所有された、この世から連れ出された集まりを指しています。
イエスは永遠の御言葉です。
世に来られた光です。
世の罪を取り除く神の子羊です。
偉大な罪のためのささげ物です。
永遠のいのちを与える方です。
生ける水です。
死者を生き返らせる力を持つ方です。
真理といのちです。
天から下ってくるいのちのパンです。
生きる者と死者を裁く方です。
私たちはその他、さまざまな側面からイエスを見てきました。
そして、これらの様々な側面についてのご説明を締めくくりこのように言われています。

「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。
また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。」
(ヨハネの福音書12章44、45節)


これらの言葉を見るならば、私たちの主イエス・キリストは人々への注意として、自分が単なる人間ではないことを示そうとしています。
イエスが祝福された人間だとしても、人々をそのことだけに専念させるつもりはありません。
イエスがただの人であるなら、彼が罪人の救い主になることはあり得ません。
イエスは真実な人となられたのです。
イエスは喜んで「人の子」という称号を用いられました。
人の子として、失われたものを求め、救うために来られたからです。
しかし、イエスが人の子以上の存在でなければ、失われた人々を救うことはできません。
イエスは真実な人であり、真実な神である存在なのです。
詩篇146編3節にこのことが書かれています。

「君主たちにたよってはならない。救いのない人間の子に。」
(詩篇146編3節)


イエスは人間の中で最高な方でした。
もし、イエスが人間以上の方でなければ、罪人を救うことはできません。
イエスは私たちの注意を彼の人間性からそらし、彼が肉において明らかにされた神であるという事実に私たちの心を向けさせています。
ゆえに、イエスは「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。
また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです」と言われたのです。
旧約聖書のイザヤ書でこのことが示されています。
処女が子を宿し、子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶという7章の素晴らしい約束の後、9章6節には次のようにあります。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」
(イザヤ書9章6節)


ここではイエスの神性が述べられています。
その者はマリアの子で、神によって生まれました。
しかし、イエスは神の永遠の子でもあり、人としてこの世に生まれ、人間の誕生の門を通って来られました。
これらの言葉をよく考えてみましょう。
あらゆる賢明なユダヤ人の読者は、約束されたメシアが超自然的な存在でなければならないことに気づかないはずが無いと私には思えます。
これらの言葉は、ヤハウェの命令を行なうために来たある偉大な人、預言者には正しく適用されることはありません。
預言者たちは、与えられた御子が「力ある神」 であることをはっきりと教えています。
また、ミカ書5章2節にあるイエスの誕生の告知の中で、神の子としてのイエスの永遠性が強調されています。

「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」
(ミカ書5章2節)

これらの言葉が、神でもなく、ただの人間によって、どのようにして成就されたのでしょうか?
確かに、イエスは人間としてベツレヘムで生まれになりました。
しかし、その出生は「永遠の昔から」定められていました。
そして、主イエス・キリストはこのことを主張しています。
ヨハネの福音書10章30節で私たちはイエスについてこのように聞きました。

「わたしと父とは一つです。」
(ヨハネの福音書10章30節)


そして、その時、ピリピがイエスに言っています。

「ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」」
(ヨハネの福音書14章8節)


イエスはピリピにこのように答えています。

「「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。
わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。
わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。
わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。
わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」
(ヨハネの福音書14章9~11節)


すなわち、イエスの御業はイエスが神の永遠の御子であることを証明しています。
他に誰が波を静める力を持っているでしょうか?
誰が墓の中から死者を復活させることができたでしょうか?
「私と父は一つです」と言えるのは唯一の人だけです。
これは初期の神の教会の告白でした。
主イエスは、肉によって明らかにされた神として認められています。
私たちはコリント人への手紙第二5章18節をこのように読むことができます。

「これらのことはすべて、神から出ているのです。
神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」
(コリント人への手紙第二5章18節)


さて、その働きとは何でしょうか?

「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」
(コリント人への手紙第二5章19節)


神がキリストのうちに存在していました。
それは単にキリストに力を与えたり、キリストを所有したりするという意味ではありません。
本質的に、神と人が一体ということです。

もう一度、テモテの手紙第一3章16節で私たちにこのように言われています。

「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。
「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」」
(テモテの手紙第一3章16節)


ヘブル人への手紙1章の初めに私たちはこのように読みました。

「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。
神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」
(ヘブル人への手紙1章1、2節)


これらの聖句は単なる人のことを語っているのでしょうか?

「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。
また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」
(ヘブル人への手紙1章3節)


この方が私たちの主イエス・キリストです。
この方を信じる者は、キリスト・イエスという人を信じるだけでなく、この方を遣わした方、すなわち私たちの父なる神をも信じるのです。
イエスが「わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです」と言われたからです。
そして、このように言われています。

「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」
(ヨハネの福音書12章46節)


この聖句はヨハネの福音書の素晴らしい点の一つです。
この福音書は人の光と命の福音です。
1章には「いのちは人の光であった」とあります。

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
(ヨハネの福音書1章5節)


このように光によって証明されるのです。
また、私たちにはこのように語られています。

「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」
(ヨハネの手紙第一1章5節)


イエスは言われました。

「わたしは、世の光です。
わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
(ヨハネの福音書8章12節)


ゆえに、イエスから離れる者は光から離れることなのです。
神に従い、神の言葉に耳を傾けることは、光の中を歩むことです。
私たちにはこのように語られています。

「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。」
(ヨハネの手紙第一1章6節)


私たちの主イエス・キリストは世の光だけではありません。
イエスは天の光でもあるのです。
ヨハネの黙示録21章では栄光に満ちた新しいエルサレムが描写されてます。
その街の土台は神によって、造られ、建てられたのです。
22節では私たちはこのように読むことができます。

「私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。
都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」
(ヨハネの黙示録21章22、23節)

主イエス・天の光は天の光だけではありません。
世の光でもあるのです。
神に感謝します。
私たちの多くはこのように言うことができます。

「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」
(コリント人への手紙第一4章16節)


読者の中に、今の世の中の状況に困り果てている人がいるのではないでしょうか?
自分の身の回りにある不幸や悲しみを思い、悩み、苦しんでいる人はいないでしょうか?
あなたは絶えず、疑いと困惑の中で「なぜ、どうして? 」と尋ねています。
愛する友よ、あなたがたのすべての質問に対する答えは、私たちの主イエス・キリストを知ることに見いだされるかもしれません。
なぜなら、あなたがたが主を知るとき、主はすべてを開かれ、すべてを説明してくださるからです。
キリストの中に知恵と知識の宝が隠されています。
もう一度、イエスの言葉から学んでみましょう。

「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」
(ヨハネの福音書12章46節)


あなたがたがキリストに信頼し、信仰によってキリストをあなたがた自身の救い主として受け入れ、キリストをあなたがたの主と認めて、キリストに身をゆだね、キリストをあなたがたの聖なる教師とするならば、キリストはあなたがたが悩んでいるすべての隠れたことを明らかにしてくださいます。

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
(ヨハネの福音書1章5節)


ダニエル書2章にはこのようにあります。

「神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。」
(ダニエル書2章22節)

ヨハネの手紙第一ではこのように述べられています。

「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。
これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」
(ヨハネの手紙第一1章5節)


47節で主はこのように言われています。

「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。
わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」
(ヨハネの福音書12章47節)


主イエス・キリストは、神の比べることのできない主権的な恵みの表現としてこの場面に現れたのです。
人々はイエスの上に恥辱を負わせ、イエスは自らその恥辱を負ったのです。
主は彼らがその証しから背を向けることをお許しになりました。
いつの日かイエスは裁き主として現われます。
その時、神の恵みを拒んだ人たちは小羊の怒りを知ることになります。
やがて、ヨハネの黙示録6章にある6番目の封印が解かれます。
ヨハネはこの素晴らしい神の恵みの時代に続く患難時代に、私たちが文明と呼ばれているものが崩壊するのを見ています。
ヨハネの黙示録にはこのようにあります。

「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。
「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」
(ヨハネの黙示録6章15~17節)


「小羊の怒り」という注意すべき表現があります。
私たちは子羊から怒りを連想することはありません。
私たちは子羊を優しさと素直さの象徴と考えています。
そして、その考えは正しいのです。
私たちはこのように読んでいます。

「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」
(イザヤ書53章7節)

イエスは罪人たちによって目隠しをさせられ、手で打たれ、激しい苦痛を与え、ついには恥辱の十字架にくぎ付けにさせられました。
しかし、イエスが地上で退けられたように卑しくされていた時代は終わります。
そして、イエスは父の御座に高く着かれました。
現在、神は神を信じるすべての人に平和を語られています。
しかし、もし人々が御言葉を拒み続け、聞こうとしないなら、聖書は小羊の怒りを恵みの日の後に来る子羊の怒りを語っています。
主に背く人々は何と愚かなのでしょうか!
主は48節でこのように語っています。

「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。
わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」
(ヨハネの福音書12章48節)


キリストを拒むことは愚かです!

もし、人々が神を拒み、自分たちの最高の利益に反する罪を犯していることに気づくことができるのであれば!
箴言1章では、知恵が愚かな道を去り、その声に耳を傾けるよう人間に懇願しているのを聞くことができます。
知恵とはなんでしょうか?
それは、私たちの主イエス・キリストについて知ることです。
それが神の知恵です。
あなたがたは最も賢明で最高の知恵に背を向けますか?
この知恵がこのように語っています。

「それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。
恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、
そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。
なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、わたしの忠告を好まず、わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。」
箴言1章26~30節)

これはいつのことでしょうか?
それは、ついに神の大いなる御怒り日が来た時です。
現在、神の恵みのこの時代に、知恵は、悔い改めの道を歩み、恵みの御言葉を聞いて、主イエス·キリストを信じることを人々に神は懇願しておられます。
しかし、もし人々が主と主の御言葉を拒むなら、彼らが聞いたメッセージが、来るべき日に裁きとして彼らに立ちはだかることになります。
箴言には、知恵が語るもう一つ非常に印象的な聖句があります。

「わたしによって、支配者たちは支配する。高貴な人たちはすべて正義のさばきつかさ。
わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」
(箴言8章16、17節)


知恵、すなわち、主は「わたしを愛する者を、わたしは愛する」と言っています。
あなたがたは「主は、主を愛さない者を愛されないのですか」と尋ねるかも知れません。
その通りです。
主はすべての人を愛し、彼らのためにご自身をお捨てになりました。
しかし、ご自身を愛する人たちを、とても特別な方法で愛しておられます。
そして、神は、ご自分の恵みを無視する者を義によって裁かれなければなりません。
「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」
私たちがキリストを拒むのならば、私たちはキリストと神に対してだけでなく、私たち自身の魂に対しても罪を犯すことになります。
ルカの福音書7章30節にはこのようにあります。

「これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。」
(ルカの福音書7章30節)


現在、私たちの主イエス・キリストについて、聖霊の力によって宣べ伝えられた完全で明瞭な福音のことばを拒む人たちがいます。
彼らは、自分の魂に対して罪を犯しているのです。

読者の皆さん、もしあなたがたがキリストにそむいて行動してきたのなら、私はあなたがたにお願いします。
キリストに立ち返り、自分のたましいに満足するところを見つけてください。
もし、そのようにしなければ、いつかあなたがたは、あわれみを求めてむなしく叫ぶ人々の中に見いだされることになります。

「家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。」
(ルカの福音書13章25節)


12章49、50節の最後の2節を読んでみてください。

「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。
それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」
(ヨハネの福音書12章49、50節)


私たちの主イエス・キリストは、御父の栄光を離れてこの世に下ってこられました。
しかし、神でなくなられたのではありません。
遍在するお方でなくなったのでもありません。
全能のお方でなくなられたのでもありません。
全知全能のお方でなくなられたのでもありません。
イエスは神の全知全能を用いることを選ばず、父について学ぶことを選ばれたのです。
イエスは人として、地上の英雄として、与えられた特定の場所に限定される存在になることを選ばれました。
イエスは自身の持つ全能の力を用いることを選ばれたのではありません。
神に従う人としてのご自分の立場を選ばれたのです。
ゆえに、イエスが行なわれた御業は聖霊の力によって行なわれました。
また、イエスが語られた御言葉は、御父がお与えになったとおりに語られたと私たちに語られています。
このことは、イエスが世に来られるずっと以前からイエスのことは預言されていました。
というのは、イザヤ書50章2節には、イエスの神性と人間性の両方について述べられているからです。

「なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。
わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか。
見よ。わたしは、しかって海を干上がらせ、多くの川を荒野とする。その魚は水がなくて臭くなり、渇きのために死に絶える。」
(イザヤ書50章2節)


ここで話しているのは誰でしょうか?
これらの言葉を読んでいる者は、神ご自身であるという事実を認識しなければなりません。
神は万物の創造者です。
このように言えるのは神だけです。

「わたしは天をやみでおおい、荒布をそのおおいとする。」
(イザヤ書50章3節)

エジプトを暗闇で覆ったのは神です。
神こそは「わたしは、しかって海(紅海)を干上がらせ」 と言われる方です。
神だけが「川を荒野とする」と言えるのです。
神以外、誰もこのようなことはできません。
しかし、次の聖句に注目してください。
同じ人物ですが、言葉が大きく違います!

「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」
(イザヤ書50章4節)


1856年に発刊されたリーザーの美しいユダヤ語訳では「神である主は、私に弟子の舌を与えられた(The Lord God hath given Me the tongue of the disciple)」と書かれています。
しかし、話し手には変化がありません。
一つは「わたしは天をやみでおおい」と語っています。
しかし、ここでは「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる」と語っています。
ここにこの方の人間性があります。
創造主は御自分の創造物のところに来られました。
そして、何百万人の疲れ果てた魂が、イエスの御声を聞いたのです。
イエスが仰せられる言葉を多くの人が聞いたのです。
イエスはこのように言われました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイの福音書11章28節)


彼らは神が約束されたことが、驚くべき方法で成就されたことを証ししました。
イザヤ書50章5節を続けて読んでみましょう。

「神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、
打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」
(イザヤ書50章5、6節)


これらはイエスがこの世に来られる700年前に預言者を通して話されたことです。

「わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。
それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」
(ヨハネの福音書12章50節)


祝福された主は、日ごとに、宣べ伝えることを聞く人たちに何を言うべきかを父から学んだのです。
このように、永遠の命は御言葉を受けることにあります。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
(ヨハネの福音書5章24節)


これで主が世に御自身を示される場面は終わりになります。
もし、人がヨハネの福音書の最初の12章のあかしを拒むなら、これ以上神は彼らに言うことはありません。
イエスは完全な啓示を下されました。
あなたがたはイエスを受け入れましたか?
それとも拒むのですか?


講演42 水の洗い

「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、
夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。
イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。
あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」
(ヨハネの福音書13章1~17節)

私たちはこの13章から、ヨハネの福音書の第二部の学びを始めることになります。
私たちは、最初の12章で、聖霊が人々にイエスを描写できるように、あらゆる側面から主イエス様を世に示されたことを見てきました。
それは、人々が自分たちの罪を確信し、救い主であるイエス様を知るためです。
さて、ヨハネの福音書の第二部に入るならば、私たちの主は、御自分の弟子たちや、そのあかしを受け入れ、主であり救い主であると受け入れた人たちに、御自身を現わされています。
この聖句では「自分のもの」と呼ばれているのは彼らのことです。
私たちはこのように読んでいます。

「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」
(ヨハネの福音書13章1節)

「過越の祭りの前に、イエスはご自分の時が来たことを知りました。」
イエスはずっとこの時を待ち望んでおられました。
イエスは私たちのために罪とされるために十字架にかけられます。
そして、十字架と墓を離れて栄光へと昇られる時が来るのです。
イエスは「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」と述べられています。
1章では「自分のもの」という表現がどのように使われていたのでしょうか?

「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
(ヨハネの福音書1章10~12節)


すなわち、イエスの栄光を語る御自分の国、町、神殿に来られたが、御自分の契約の民、すなわちイスラエルの多くはイエスを受け入れなかったのです。
それでも「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」のです。
そして、今、彼らは「イエスのもの」として語られています。
イエスは「世にいる自分のものを愛された」のです。

彼らは5つの側面からイエスのものです。
(1)彼らは創造によって「イエスのもの」となりました。
イエスによって存在しているのです。
私たちの命はイエスから来ています。
(2)だがかれらは、贖いの御業によって「イエスのもの」です。
イエスは彼らを買い取るために十字架に架かりました。
もちろん、イエスが屋上の間でこの小さな集まりについて考えていた時は、イエスはまだ十字架で死んでいません。
しかし、イエスは十字架を過去のことのように見ています。
イエスは十字架のために来たのです。
(3)彼らは御父からの贈り物です。
ヨハネの福音書17章ではイエスは御父に向かって7回、「あなたが世から取り出してわたしに下さった人々」のことを語っています。
救われた私たちは、御父によって御子に与えられました。
その意味においては、私たちはイエスのものです。
(4)私たちは神の権利によって所有されています。
彼は私たちの心と良心に働き、私たちに罪を確信させています。
そのことにより、神への悔い改めと主イエス·キリストへの信仰につながったのです。
私たちは聖霊によって生まれ、神の子供になったのです。
(5)彼らは服従によって「イエスのもの」になりました。
私たちのそむきの罪を自由にし、愛の鎖につながれた私たちを神の足もとに連れて来られたのは神ご自身の恵みによります。
このように、私たちはこの5つの側面から見て神に属しています。
信仰を持つすべての信者がこの中に含まれます。
聖霊が「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」と言われています。
「イエスは彼らをずっと愛していた」という表現を翻訳した人がいます。
どんなことを?
すべてを愛していたのです。
主はペテロの自慢と失敗を通して愛され、勝利と忠実にまで愛され続けました。
神に感謝します。
神は一度、哀れな罪人を恵みのうちに迎えられるならば、その人を最後まで愛してくださいます。
すべてのクリスチャンについて言えることは、「世にいる自分のものを愛され、その者を最後まで愛される」ということです。

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」
(ピリピへの手紙1章6節)


そして今、私たちはこの章から、神が御自分のものをどのように大切にされているかについて学ぶことができます。
神の恵みによって、私たちを裁きから救ってくださった後、神がどのように聖徒たちを見守り、汚れた世を通っていく者たちの足をきれいに保ってくださっているかを私たちは知ることができます。
ここでは実際のたとえがあります。
主が栄光にお戻りになってから1900年の間、主はその働きに専念しておられることが描写されています。

「夕食の間のことであった。」
(ヨハネの福音書19章2節)


注)英訳KJVでは「夕食が終わり(And supper being ended.)」となっています。

「終わり」という言葉は、翻訳者が権限もなく、そこに置いたことは明らかなので省略されるべきです。
夕食は終わっていません。
「夕食の間のことであった」と読むべきです。

「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた。」
(ヨハネの福音書19章2節)

ああ、それは哀れです!
三年半の間、ユダはイエスとともに步みました。
イエスの恵みのことばを聞き、イエスの力の御業を見て、イエスのすばらしい生涯を見ました。
しかし、ユダの心は決してキリストのために動かされることはなかったのです。

イエスはユダのすべてを知っていました。
イエスはだまされることがありません。
主はユダについてこのように言われました。

「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」
(ヨハネの福音書6章70節)


ユダは新しく生まれ変わっていません。
ユダの頑なな心がキリストへの愛で輝いたことは一度もありません。
ユダは12人の一人でしたが、実際に生まれ変わった人ではなかったのです。
確かに人は、一時的に信心深くなり、最高の指導を受け、神の力の働きの驚くべき証拠を見ることができます。
でも、それだけでは、最終的に悔い改めた罪人として神に立ち返ったとしても、キリストを主として所有していないことが示されています。

ユダの生き方は、私たちすべてに語りかけています。
常に私たちは信仰の道を歩んでいるかどうかを確かめるために自分自身を吟味するよう警告されています。
ユダはイエスを裏切ろうとしていました。

この光にに照らされ、私たちはこのように読むことができます。

「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、
夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」
(ヨハネの福音書13章3、4節)


その言葉を胸に刻みましょう。
イエスは、父がすべてのものをご自分の手に渡されたことを知っていました。
後に、私たちはイエスがこう言われるのを聞いています。

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」」
(マタイの福音書28章~20節)


昔、創世記で、あなたがたはイサクのために花嫁を迎えに下って行ったしもべが、リベカの両親に言ったことを覚えていますか?

「私の主人の妻サラは、年をとってから、ひとりの男の子を主人に産み、主人はこの子に自分の全財産を譲っておられます。」
(創世記24章36節)


同じ様に、神はすべてを主イエス・キリストの手に委ねられました。
今、イエスはご自分が父から来て父に行くことを知っていました。
神の偉大な大祭司が祈ってこのように祈りました。

「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。
世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」
(ヨハネの福音書17章5節)


イエスは父の御元から来られました。
ミカ書ではこのように書かれています。

「その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」
(ミカ書5章2節)


イエスは神の偉大な栄光のうちからカルバリの十字架に来られました。
それから神のもとに戻られます。
そこでイエスは御父の右の座に着き、私たちのためにとりなしをしてくださるのです。
このすべてにおいて、イエスはしもべの立場を取ってくださいました。

「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」
(ヨハネの福音書13章4節)


それから、イエスは鉢に水を注ぎ、弟子たちの足を洗い始め、身にまとっていた手ぬぐいで足を拭い始めました。
私たちの祝福された主、宇宙の主権者は、奴隷の立場を取られたのです。
イエスは弟子たちの汚れた足を洗うために、変わる変わる行いました。
当時の家庭では、客をもてなすときにそのようにするのが習慣でした。
召使いが足を洗いに来たのです。
しかし、弟子たちのためにも、イエスのためにもこのようにする者がいなかったのです。
ゆえに、イエスがしもべの代わりになりました。
イエスは貧しい人の姿のように身を包み、手ぬぐいを身にまとい、一人一人順番に足を洗われました。
イエスがこのようにをなさっているのをシモン・ペテロは見ていました。
ペテロは主が弟子たちのところに行き、足を洗い、拭くのを見ていました。
ペテロの心は憤りでいっぱいです。
「どうして、ヨハネは主がこのような卑しいことをしているのを許すことができるのか!
トマスもマタイもどうしてそのようなことを許しているのだ!」
ペテロは主が自分のところに来るのを待っていました。
「私は主が私の足元でそのように恥をかかせることは決してさせません。」
ついにシモン・ペテロのところに来ました。
ペテロが言いました。

「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
(ヨハネの福音書13章6節)


原文では、彼はここで「あなた」と「私」という2つの強調代名詞が使われています。
この二つのことばによって、ペテロは自分自身を主イエス·キリストとはっきりと対比させています。
しかし、イエスの答えを聞いてください。
イエスも二つの強調代名詞も使っています。

「イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」」
(ヨハネの福音書13章7節)


ここで主はペテロには理解できないことをしていると言っています。
つまり、もし、それが文字通りの水で弟子たちの足を洗うだけのことであれば、それはペテロには明らかだった。
イエスはしもべの仕事をして、彼らの足を洗っていました。
しかし、イエスは「違います、ここに一つの描写があります。」と言っているのです。
「あなたはまだ理解していないのです。
私が何をしているか、あなたは今は知らない。
だが、あとで知ることになります。」
「あとで」とはいつのことでしょうか?
ペテロは、いつになったら、イエスが自分の足を洗ったことの意味を本当に理解することができるのでしょうか?
それはペテロが罪のぬかるみと泥沼に落ちた後のことです。
ペテロは臆病ゆえに自分の主を否定し「その人を知らない」と宣言した後のことです。
そのとき、イエスはペテロを探して、御言葉の水をペテロの汚れた足で洗い、彼を再び主との交わりの中で歩けるようになる時です。
しかし、ここでは、まだペテロは理解していません。
しかし、イエスは将来、理解することを示しています。
ペテロはそれに気づかず、さらに強調してイエスにこのように言いました。

「決して私の足をお洗いにならないでください。」
(ヨハネの福音書13章8節)


あなたはペテロのようにポジティブになりすぎてはいけません。
ペテロは大声での確認に対して、イエスは驚くべき優しさを持って答えられました。

「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
(ヨハネの福音書13章8節)


わたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと一緒にいられない。」。
私たちはその言葉を胸に刻み付けることができます。
その言葉はペテロだけのものではなく、永遠にすべての信者のものとなりました。
イエスは「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしともにいることがありません」と言っていません。
「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と言っています。
「ともにいる」と「関係」の違いは何でしょうか?
「主とともにいる」にいるのであれば、ペテロはすでに神の命を持っていました。
ペテロはすでに「主の中」にいました。
キリストの中にいることは、アダムの中にいることと正反対です。
私たちは新しい誕生によってキリストのうちに存在しています。
ペテロはすでに神から生まれています。
ペテロはすでにイエスを救い主として受け入れていたので、イエスのうちに存在しています。
しかし、今、イエスは「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と言われています。
つまり、主との交わりです。
すべての信者は、主イエス・キリストと二つのつながりを持っています。
結束というつながりがあります。
その結束というつながりはとても強く、世界がどんなに重たくてもこのつながりは断ち切ることはできません。
主はこのように言われています。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。
彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」
(ヨハネの福音書10章27、28節)


この聖句をこのように翻訳することができます。
「彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを「引き離す」ようなことができません。」
これは結合というつながりです。
これは交わりのつながりでもあります。
交わりのつながりは非常にもろく、告白されていないわずかな罪でも一瞬で壊れてしまいます。
それを修復する唯一の方法は、それを壊した罪を告白して捨てることです。
ここでイエスは「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と言っています。
つまり、イエスの語っていることは「毎日、私があなたの足にまとわりつく汚れからあなたを洗わないならば、あなたがたはわたしと交わることは出来ません」という意味です。
あらゆることについて神の御元に行くことができることを知ることが大切です。
あなたはあなたのすべての試練や困難、喜びなどを神に話すことができます。
あなたは感謝と賛美をもってイエスの御許に行くことができます。
悩みや苦しみを持って神の御元に行き、神の前に悲しみや悩みを広げるのはとても簡単です。
私たちは、そうすべきなのです。
イエスは私たちと一緒にこれらの苦しみに入ってくださります。
イザヤ書にはこのように書かれています。

「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。
その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」
(イザヤ書63章9節)

そして、主は私たちが明るく楽しいときにも、主とも喜びを分かち合うことも求めておられます。
私たちの心を陽気さで満たしてくれるあらゆることも、主に伝えるようにと望んでおられます。
しかし、私たちが告白されていない罪によって身を汚されているのであれば、神との交わりを持つことはできません。
キリストとの交わりを楽しむためには、私たちは清くなければなりません。
もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと一緒にいられないのです。
ここで、今、ペテロは別の極端な話をしています。

「シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」」
(ヨハネの福音書13章9節)

「ああ、主よ、私は理解していませんでした。
でも、もし、あなたに現れるという意味が関係を持つという意味があるのであれば、これ以上、反抗しません!」とペテロが言っているのと同じです。
そして、このようにイエスが答えています。

イエスは彼に言われた。
「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。
イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。」
(ヨハネの福音書13章10、11節)


ユダは新生による最初の清めを知りません。
ここで救い主は私たちに何を語っているのでしょうか?
なぜ、ここで語られているのでしょうか?
クリスチャンが失敗して、考えや行いや言葉で汚れたとしても、クリスチャンでなくなるわけではありません。
神の子であることをやめて、初めからやり直さなければならないのではありません。
ただ足を洗われ、步みを清められさえすればよいのです。
良心に敏感な多くの親愛なるクリスチャンは、罪を犯したらすべてが終わり、再び失われた存在になると感じています。
私たちの魂の敵は、私たちのところに来て「もうあなたは終わりだ」と言います。
果たして、最初からやり直さなければならないでしょうか?
ある人たちは何度も繰り返し救われる必要があると主張しています。
私は、それが悲しい結果でなければ、もっとも面白いであろう出来事を覚えています。
私がメッセージをしていた教会の前に、親愛なる若者が出てきました。
彼は告白し、私たちは新しい信仰者を得たと思い、彼を喜びました。
私たちは彼と一緒に祈り、励ましと救いの保証を与える聖句で確認した後、彼の友人の一人が彼のところに来て言った。 「ああ、また教会の前であなたに会えて嬉しく思います。
今回の改心は何回目ですか?」
彼は「99回目です」と答えました。
哀れな人です。
その人はとても優しい良心を持っていました。
しかし、罪を犯すたびに、もう一度生まれ変わらなければならないと思っていたのです。
つまり、彼は罪を犯すたびに水浴しようとしていたのです!
「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」

当時、金持ちの家には中央の庭に大きな風呂があり、朝起きると風呂に入って体を洗っていました。
それから、金持ちはサンダルをはいて出て行くのです。
中東の町の通りはとても汚く、彼が家に戻ると、召使いの一人が来て足を洗いました。
金持ちは帰るたびに風呂には入りはしませんが、足を洗ってもらう必要がありました。
私たちはキリストの尊い血によって清められ、私たちの全身は洗われています。
再び、洗われる必要はありません。

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
(ヨハネの手紙第一1章7節)


その血は私たちを清め続けます。
この意味において、私たちは清め続けられるのです。
しかし、それは救われるために水浴するのであって、足を洗うことで救われたのではありません。
私たちの歩みの事が語られているのです。
聖書にはこのようにあります。

「主は聖徒たちの足を守られます。」
(サムエル記第一2章9節)


私たちは信仰者として、失敗する度に、わたしたちの祝福された主の御許に行きます。
そして、私たちを「みことばにより、水の洗いをもって清めてください」と言うのです。
エペソ人への手紙にはこのように書かれています。

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
(エペソ人への手紙5章25~27節)


神の御言葉は水に例えられています。
詩篇119編9節にはこのようにあります。

「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」
(詩篇119編9節)


私の手が汚れて、汚くなったとします。
どうすればいいでしょうか?
なぜかというと、私が水をかけに行くと、水をかけた後に汚れが消えるからです。
私の心と良心が汚れてしまったとき、私はどうすればよいのでしょうか?
祝福された主は私たちに御言葉の水を注いでくださいます。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
(ヨハネの手紙第一1章9節)


神の御言葉は、私たちの心と良心に注がれ、すべての汚れから私たちをきよめる水です。
そして、イエスは弟子たちがみな初めの清めを受けたわけではないことを確認しています。
ユダはその清めを知らなかったのです。

イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。」
(ヨハネの福音書13章10節)


ユダは一度もキリストに洗われたことがなかったのです。

「イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。」
(ヨハネの福音書13章12節)


弟子たちは、確かにイエスのなされたことを見ました。
だが、彼らはまだ隠された教訓を学んでいません。

「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」
(ヨハネの福音書13章12~14節)


ここで、多くのクリスチャンが見落としていることがあります。
「あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。」
イエスの事を何と呼ぶのでしょうか?
イエスは弟子たちがイエスを「先生」、「主」と呼ぶことを認められています。
新約聖書を読んでいて、主イエス・キリストの愛する者が主イエス・キリストの固有名詞で個々に呼びかけるような表現をしていないことにお気づきでしょうか?
ペテロがイエスに向かって「イエス」と言ったとは私たちは読んでいません。
私たちはヨハネが「イエス」と言ったとも読んでいません。
「愛しいイエス」とか「甘いイエス」などと言っている人を読んだことはありません。
それは非常に大切なことです。
違いますか?
彼らは「先生」とか「主」とか、「私の主」とか「私の神」と呼んでいます。
イエスはこのように呼ばれることを賞賛しています。
「あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。」
聖霊が私たちの祈りを導いてくださるのなら、私たちが神に語りかけるときには、私たちはいつも神をあがめます。
聖霊は神を主と認めるように導いてくださいます。
私たちの救い主を紹介するのに、アメリカの大統領として紹介することはありません。
もし、あなたが大統領の前に現れたら、あなたは彼を名前で呼ばないはずです。
あえて、そのようなことをする必要はありません。
あなたは大統領の職務の威厳を評価する何らかの表現を使うはずです。
あなたは恐れて、他の方法は使わないはずです。
主の名前はイエスです。
さて、次にあなたがあなたの救い主に語りかけるなら、イエスは私たちの先生であり、主であることを思い出すはずです。
そして、聖霊も主に賛美すること、愛していることを思い出させてくださいます。
「あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」
ここで主は何を語っているのでしょうか?

私が会った中で敬虔な人たちの中には、主が第三のキリストの戒めを制定されたと信じている人たちがいます。
彼らは時々「足の洗い」 と呼ばれるものを守っています。

しかし、イエスが「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」と言われたことを忘れてしまうことがあります。
文字通り水で足を洗うことであれば、彼らはすべてを知っています。
しかし、この行為の本当の意味を見逃しがちです。
どのようにお互いの足を洗うのでしょうか?
水は何だったのでしょうか?
水は御言葉です。
私たちの足とは何でしょうか?
それが私たちの歩みです。
私たちが互いの足を洗うのなら、神の御言葉は私たちに適用されます。
クリスチャンが少し足を滑らせると、あなたはこのように言うかもしれません。
「彼は素晴らしく立派な徹底的なクリスチャンでした。
しかし今は、彼は少し世的になってきています。
では、あなたはどうすれば良いと思っていますか?
無視してスルーしてもいいし、批判してとても思いやりのないことを言ってもいいかも知れません。
しかし、これらの方法はあまり役に立ちません。
愛する兄弟姉妹のところに行って、彼らが犯している過ち、彼らが陥っている罪を、神の御言葉から丁寧に指摘することができるのです。
あなたは彼らに自分の人生が否定されていく様子を見せることができます。
このようにして、あなたは彼らの足を洗います。
あなたは常に兄弟たちの足を洗うことができます。
聖書にはこのように書かれています。

「心の中であなたの身内の者を憎んではならない。
あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。」
(レビ記19章17節)


親切に忠実であるには恵みが必要です。
「やってみたけど、効果がない」と言う人もいます。
他人の足を洗うには、私たち自身に多くの恵みが必要です。
隣人の足を洗うなら、お湯の温度に気をつけた方がいいと思います。
あなたはある人たちのところに行き「この熱湯のバケツの中に足を入れてください。
そして、私はあなたのために足を洗ってあげましょう」とは言わないはずです。
同じ様に氷水も悪いものです。
人によっては、あなたが敬遠するような方法であなたに向かってくる人もいます。
暑いものもあれば、もしくは寒くて氷のように堅苦しいものもあります。
あなたはどちらも好んではいません。
では、あなたはどうでしょうか?
あなたは正しいことを行うべきです。
もし、あなたの兄弟があやまちを犯しているのを見たら、そのことについてあなたが主の御前に行くべきです。
ガラテア人への手紙6章1節で私たちに語られた御言葉を思い出してください。

「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。
また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」
(ガラテア人への手紙6章1節)


このように、神のことばを忠実に適用しようとして、あなたの兄弟のところに行くべきです。
もし、彼が言うことを聞かないなら、彼は本当にひどい状態なのです。
もし、彼が準備ができていないなら、あなたは祈り続け、神があなたに彼を助けることを許してくださる時を待つことができます。
主がこのように言っています。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。
あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」
(ヨハネの福音書13章16、17節)


講演43 暴かれた裏切り者

「わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』と書いてあることは成就するのです。
わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」
イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」
弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。
弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。
そこで、シモン・ペテロが彼に合図をして言った。「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」
その弟子は、イエスの右側で席についたまま、イエスに言った。「主よ。それはだれですか。」
イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。
彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」
席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもなかった。
ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、「祭りのために入用の物を買え。」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。
ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。」
(ヨハネの福音書13章18~30節)


この箇所の中心テーマはユダの裏切りです。
ユダには素晴らしい特権が与えられていたことを考えてみましょう。
ユダにはこのような特権が与えられていたとしても、この特権によってはユダの心や思いに何も影響を与えていません。
そして、最後にどのような結末を招いたかを知るならば、私たち一人ひとりが神の御前で自分自身を吟味し、心を探るきっかけになると思います。
ここにいる男は三年半もの間、祝福された神の御子と共に歩みました。
ユダは神のすばらしい惠みのわざを見ました。
そのくちびるから出る驚くべき言葉を聞きました。
ユダはイエスの生涯を目撃したのです。
ユダは他の人が見ることのできないことを見てきました。
そして、ユダはイエスが明らかに超人的な存在であり、彼らの間を行き来していることを知っていたはずです。
使徒ヨハネがこのように言ったのをあなたは覚えていますか?

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
(ヨハネの福音書1章14節)


ユダはこのようにイエスを見る機会があったのです。
ユダはイエスと多くのことを静かに語り、ほかの弟子たちからも高く評価されていたはずです。
でも、ユダはいつも主イエス・キリストに心をゆだねることをしなかったのです。
あなたは救い主がこのように言ったのを覚えていますか?

「イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」
イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。
このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。」
(ヨハネの福音書6章70、71節)


そして、17章でイエスは御父にこのように語っています。

「わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。
彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。」
(ヨハネの福音書17章12節)


おそらく私たちはこれらの章を注意深く読むかもしれません。
それは「あなたがわたしにお与えになった者をわたしは守りました、ただ、滅びの子が失われるだけです」という意味でしょうか?
いいえ、イエスはこのようには言っていません。
しかし、それは彼が言ったことではありません。
滅びの子は、父からキリストに与えられた者ではありません。
確かにユダはキリストの仲間でしたが、決して仲間ではありません。
聖書に関心を持ち、哀れな世界についてある程度のことに関心を持ち、クリスチャンのように行動し、話したりしても、神から生まれたわけではありません。
このように、私たちは次のような質問に直面すべきです。
「私は悔い改めた罪人として、素直に神のもとに来たことがあるでしょうか?
私は神を信頼し、私の心と思いを神にゆだねていますか?
明らかにユダは明らかに弟子たちから非常に尊敬されていました。
あなたは「どうして、そんなことがありえるのですか?」と尋ねるかも知れません。
イエスはユダを小さな集まりの会計係に任命しています。
会計係を選ぶ時は、常に誠実で信頼でき、評判がよく、不誠実な疑いをかけられることのない人物を求めます。
ユダが弟子たちに与えたイメージは、少なくともその初期の頃は、絶対的な信頼のおける人物だったはずです。
現実に、ユダは12人全員の中でもっとも紳士的だったはずです。
彼らの中でもっとも勤勉な人だったかも知れません。
弟子たちはガリラヤ湖のあたりの貧しい人々の住む地域の出身でした。
そして、ユダはユダヤのケリオテという町の出身でした。
おそらく、すべての使徒の中で最も優れた人物だったはずです。
イエスはユダの心を掴もうとはしていません。
また、イエスの思いがユダの良心に届くことがありません。
前回の講演の中でイエスがこのように言われたのを覚えていますか?

「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」
(ヨハネの福音書13章10節)


聖霊がイエスがこのように言ったことを説明しています。

「あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
(ヨハネの福音書13章10節)


これは驚くべきことです。
神の御子はこの男を三年半の間、見ていました。
現在も、イエスは偽善者を見抜いています。
イエスは偽者の心を見抜いておられるのです。
外見上は、それらが真実で純粋であるように見えるかもしれません。
しかし、キリストは心の中を見ており、汚れているものがあるかどうかを知っています。
イエスは18節でこのように語っています。

「わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。
しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』と書いてあることは成就するのです。」
(ヨハネの福音書13章18節)


イエスは御自分を信じる者を知っておられます。
ユダの裏切りは前もってわかっていました。
しかし、その恐ろしいことをするようにあらかじめ決められていたわけではありません。
そんなことは何もありません。
神の予知と神の宿命には大きな違いがあります。
イエスは、時代を見渡して、ユダが何をされるかを知っておられました。
しかし、イエスはそれを運命として扱っていません。
悪魔に捕らわれた人を自由と考えることができるなら、ユダは自由でした。
キリストにもサタンにも従う自由がありました。
私たちにも選ぶ自由があります。
私たちは自分の失敗や罪を、あらかじめ決められた運命のせいにしてはいけません。
神は誰にも、罪の中に生きるように、また、だれかを失うように、定められたことはありません。
主御自身がこのように言っています。

「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」
(ヨハネの福音書5章40節)


そして、すべての人に主がこのように言っています。

「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」
(ヨハネの黙示録22章17節)

確かにユダも救われることが出来たのです。
しかし、イエスの事を信じていません。
神としてイエスはそのことを知っていました。
詩編の中でユダの罪の事が前もって書かれていました。
もちろん、主イエスはそこのこを知っています。
いつも、ユダはイエスとともにいました。
ゆえに、イエスはユダの心のうちに起こっていることを知っておられました、
また、ユダが悪人たちにイエスを引き渡すために、悪魔の手先になることを知っていたのです。
イエスはこのように言いました。

「わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。
そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。」
(ヨハネの福音書13章19節)


言い換えるのであれば「確かに、私はなすすべもなく私の捕らえ手に捕らわれました。
私があなたに不意打ちを食らったと思って欲しくありません。
私はすべてを見通していました。
私はこれから何が起きるのかを知っています。
私は十字架に架からなければなりません。」ということです。
イエスは弟子たちに三日目に死者の中からよみがえることを語りました。
そして、イエスはこのように語ったのです。
「わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。
そのことが起こったときに、わたしがその人(I am)であることをあなたがたが信じるためです。」
ここでも、主イエスは神の御名(I am)を使っています。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。
わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」
(ヨハネの福音書13章20節)


それは使徒たちにとって慰めでした。
しばらくして、弟子たちは失われた世界の福音宣教の仕事を始めることになったからです。
弟子たちはイエスの代理人として出て行くことが定まっていました。
後の時代に、パウロはこのように言っています。

「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。」
(コリント人への手紙第二5章20節)


使節はその政府のために語ります。
キリストがそのしもべたちを世に遣わしたとき、弟子たちはキリストをあかしするために出て行くのです。
そして、イエスは弟子たちに言われるのです。

「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
(ヨハネの福音書20章23節)


これは、なにか特別に得た祭司の務めではありません。
キリストのしもべはだれでも罪人のところに行って、このように言うことができるのです。
「もし、あなたがたがキリストのもとに来るなら、私は罪の赦しを宣べ伝えに来ます。
もし、あなたがたが罪の赦しのためにキリストのもとに来ることを拒むなら、罪は赦されることはありません。」
この権威の下にすべてのしもべがいます。
弟子たちを受け入れる者はイエスを受け入れることなのです。

「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。」
(ヨハネの福音書13章21節)


私たちの主は神であっても真実な人でした。
イエスはただの神ではなく、肉体を持った神でした。
イエスが人間になるために、イエスは人間の霊、魂、体を持ったのです。
ここでは「霊の激動を感じ」と書かれています。
主はこれから起きることを前にして、苦悶のうめき声をあげられました。
ユダが裏切り、邪悪な罪人に成り下がろうとしているのを見ていたからです。
ユダの魂が失われることを見て、イエスの魂が悲しみで満たされたのです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」
(ヨハネの福音書13章21節)


その者は私の近くにいる者で、多くのことを私と共にした者です。
しかし、私を信じていません。
今日、主は天から見下ろしておられるのでしょうか?
そして、主の聖なる目が、このページを読んでいる人たちの中に、現実を見ない偽善者がいることを見分けておられるのでしょうか?
私は「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」という言葉に驚いているのです。
キリストの名を告白するだけでは、キリストを心から信頼していなければ、その人がどのような罪の深みに落ちているかはわかりません。

「弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。」
(ヨハネの福音書13章22節)


弟子たちは自分を信じることができなかったのです。
「もしかして、自分なのか?
彼らは戸惑いました。」
彼らは互いに尋ね合った「主よ。それはだれですか。」
イエスのふところには、弟子のひとりヨハネが寄りかかっていました。
ヨハネはこの書の著者ですが、自分のことを名乗っていません。
使徒の中で一番若いのがヨハネです。
初期教会の著述家の一人であるテルトリアヌスはヨハネがイエスに召されたときは青年だったと述べています。
ヨハネという少年は神の子にとってとても大切な存在でした。
イエスは若い人々が神に完全に神に身をゆだねるのを見ることを心から愛しておられます。
若い人たちよ!
あなたがたの若い命を、この地上でキリストのもとに捧げることほどすばらしいことはありません。
あなたは「神はあなた個人を愛してくださる」ことを確信することができます、
あなたがたは永遠のいのちについてイエスのところに来て、質問した若者のことを覚えているでしょうか?
そしてイエスは彼を試されてこのように言いました。

「「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。
そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。」
(マタイの福音書19章21、22節)


イエスは彼を見て、彼を愛しました。
イエスはその若者に可能性を見出しました。
イエスはキリストに身をゆだねることとは何かを教えたのです。
若かったヨハネは、歳を取った者ならおそらく言葉にしたくないような方法でキリストに愛情を注ぎました。
ヨハネは主のふところに頭を置いて横たわっていました。

「そこで、シモン・ペテロが彼に合図をして言った。「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」
その弟子は、イエスの右側で席についたまま、イエスに言った。「主よ。それはだれですか。」
イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」
それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。」
(ヨハネの福音書13章24~26節)

当時、特別な人に愛情のしるしとしてパン切れを渡すのが習慣でした。
そう、ユダでした。
ユダはパン切れを受け取ったのでしょうか?
ユダは大胆にも主から出された物に手を出したのです
今、その方を捕まえようとしています。
ユダはすでにその準備していたのです。
私たちはこのように読んでいます。

「彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。」
(ヨハネの福音書13章27節)


ここで新しい段階に入りました。
ユダはこのさらなる行為によって、完全に悪魔の支配下に置かれることになりました。
今、ユダのすべてが終わりました。
悔い改めることはもうありません。
イエスはユダが一線を越えたことに気が付きました。
そこで主イエスはユダの方に振り向いて深刻に言いました。

「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」
(ヨハネの福音書13章27節)


言い換えれば「ユダよ!
あなたはあなた自身を悪魔に売ったのです。
それは、あなたにあった憐れみの機会と引き換えでした。
あなたは私の愛と恵みを踏みにじりました。
あなたは、神のいつくしみに対して心をかたくなにしています。
さあ、ユダ、終わらせなさい。
すぐにそれを行うのです。」
テーブルの誰もイエスが何を言っているのか理解しませんでした。

「席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもなかった。
ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、「祭りのために入用の物を買え。」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。」
(ヨハネの福音書13章28、29節)


弟子たちはこの裏切り者が銀三十枚で主を売ろうとしていることを知りません。
イエスが貧しい人に何かを与えるように言われたのではないかと考える者もいました。
そんなことには興味がありません。
主の生涯において、そのようなことが日常的に行われていたので、弟子たちはそのように考えたはずです。
あなたはイエスが習慣的にこのようにしているのを見ていたはずです。
イエスは常に貧しい人々のことを考えていました。
イエスは弟子たちにこのように言っています。

「貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。」
(マタイの福音書26章11節)


このように考えるのはごく自然なことでした。
「今、イエスは貧しい者たちのことを知り、ユダを遣わして何か施しをしようとしている。」
それが神の御子の心でした。
しかし、ユダの心は対照的でした。
ユダの心は貪欲でいっぱいでした。
ユダは神の御子を売って報酬を得て、銀を財布に入れるために出て行こうとしていました。

「ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。」
(ヨハネの福音書13章30節)


人が神に背を向けるのはいつも夜です。
彼らがイエスのいつくしみを踏みにじるのはいつも夜です。
そして、現在、外の太陽が明るい時にこのようなことが行われるかも知れません。
しかし、いのちの光であるイエスがはいって来られるまでは、あなたの心は夜です。
二度と光の中をユダは歩むことがありません。
外に出たならば、ユダの哀れな暗い心の中は夜になっていました。
ユダにとっては、永遠に続く暗い闇の始まりです。
神の豊かな恵みの中で、神は私たちの哀れな心を勝ち取ってくださいました。
私たちはおおいに神に感謝できるはずです。
どうして、ユダは神の愛を踏みにじったのでしょうか?
私たちはこのことを理解することはできません。
ユダには救われるためのあらゆる機会があったことは確かです。


講演44 11番目の戒め

「ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。
神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。
子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」
ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」
イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」」
(ヨハネの福音書13章31~38節)


他の福音書から学ぶように、私たちの主と弟子たちは最後の過越の食事を共にし、屋上の間に残っていました。
主の晩餐は、それ以来何世紀にもわたって神の愛する人々によって守られてきた神の愛を記念する祭りです。
ユダはこの小さな集まりから去って行きました。
ユダは欲に支配された最悪な欲望に動かされて、祭司長たちに会い約束された金を受け取るために出て行きました。
それは後に、主イエスを彼らの手に裏切るためです。
さて、イエスがすでに彼らに語られたことによって、奇妙な思いに心を痛めている十一人の者たちと一緒に救い主がそこに残っていました。
イエスは新しい喜びをもって語り、このように言いました。

「今こそ人の子は栄光を受けました。」
(ヨハネの福音書13章31節)


しかしながら、これからの三日間で神がイエスに栄光を与えるようには見えません。
弟子たちは多くの疑念を抱いたはずです。
主は「自分が死ぬために出て行かれ、罪を犯す者の手に引き渡される」と言われたからです。
栄光ある神にこのようなことが出来るのでしょうか?
イエスは「葬られ、それから甦られる」ことを言っているからです。
イエスの死と復活は、神が栄光を受けるためです。
イエスは、十字架上で御自分をささげ物として捧げ、その死によって、罪の問題を、そして神のご性質の聖さとイエスの王座における義のすべての要求を満たされます。
そして、そのすべてが解決されることになっていたからです。
アダムの罪と世に現れたすべての罪と敵意と不義によって、神のすべての栄光が失われました。
しかし、キリストが木の上で死んだ時に、そのすべての栄光を神が受け取ったと私たちは言うことができます。
人間は有限でしかありません。
有限の罪人というのは真実です。
しかし、そのような者が神を侮辱しています。
すべての人についてこのように言うことができます。

「あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。」
(ダニエル書5章23節)


しかし、主イエスは、私たちのたましいの身代金を得るために、神と人間とを結びつける無限な存在でした。
イエス御自身が無限な存在だったので、カルバリの十字架の上でなされた御業には無限の価値があります。
それゆえ、神はその御業によって、有限の人間の罪によって失ったものよりも多くの栄光を受け取ったと言うことは正しいことです。
神は、御子を死者の中からよみがえ、御業を成し遂げられたイエスに栄光に帰したのです。

「神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。
しかも、ただちにお与えになります。」
(ヨハネの福音書13章32節)


事実、この時、イエスは父の栄光について深く考えていました。
不思議に思われるかもしれませんが、私たちの主は罪人を救うことよりも、神を賛美することにはるかに関心がありました。
私たちは反対のことを考えてしまうことがあります。
私たちにとって、私たちが救われることが重要なことです。
私たちはイエスが来られた偉大なる理由は、私たちの魂が救われることだと思いたがります。
イエスは「人の子」として来られました。
イエスはこのように言っています。

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
(マタイの福音書20章28節)


また、このようにも述べられています。

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」
(エペソ人への手紙5章25節)


しかし、そこには罪人を救うことよりも偉大なことがあります。
それは御父の栄光のためであり、イエスの心はそのことで満たされています。
17章では神の御前において、十字架のわざを待ち望んでおられる私たちの大祭司としてのイエスを見ることができます。
私たちはイエスがこのように言っているのを聞くことができます。

「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」
(ヨハネの福音書17章4節)


まず最初に神の栄光があり、次に私たちの魂が救われる十字架の完成された御業があります。
「すべての人は最終的には救われると信じていた普遍主義者が、ある熱心なクリスチャンに言ったことを聞いたことを私は覚えています。
なぜなら、あなた方は、キリストが十字架で死んだとしても、永遠に失われる人が何千人も、おそらく何百万人もいると信じているからです。
私はあなた方よりもはるかに高い償いについての見解を持っています。
もし、キリストが十字架で死なれてからなってから、魂がひとつでも失われたとしたら、キリストの贖罪は宇宙で起きた最大の失敗だと私は言うことができます。」
あるクリスチャンは「違います。
私はそれよりも高い概念を持っています」と答えました。
「もし、一人も救われなかったとしても、贖罪は宇宙で起こったことの中で最大の成功であったと言えます。
なぜなら、その贖罪の業において、神は他では決して得ることができなかった、名誉と栄光が与えられたからです。」
今、素晴らしいことは、私たちの救いが神の栄光と結び付けられていることです。
あなたがたが知っているように、神の心は罪人に向けられました。
しかし、神は、罪が償われるまで、罪人を救うことはできなかったのです。
その理由は、神の王座に着座する者として、神の義を破ることはできないからです。
イエス御自身の御自分の神性にそむくようなことをして、罪人を救うことはできないからです。
このように、神の愛する御子、永遠の神の御子は、永遠の昔から存在しておられました。
そして、受肉されたのです。
イエスは謙遜になられ人間となられました。
そして、十字架にかかり、私たちの贖いのための十分な代価を払われました。
そして、神が罪人に対して持っていたすべての要求が満たされました。
現在、神が義であり、ゆえにイエスを信じる者を義とすることがでるのです。
ですから、私たちの救いと神の栄光は共に成り立っているのです。
キリストは、私たちのために、神へのささげ物としてご自身をささげてくださいました。
それは、御子の成し遂げられた御業に神が満足されたからです。
現在、神は御腕を開いて、罪を犯したすべての罪人を招いておられます。
ゆえに、これらのことから完全な赦しと義認を与えることができるのです。
ゆえに、イエスの名によって来る者たちに、すべての罪の汚れから清めることができるのです。
あなたはイエスの御元に来ましたか?
ある時、ある婦人がある神のしもべのところに来ました。
「救われていますか?」と尋ねると、彼女は「理解できません」と答えました。
「イエスが私のために死んでくださったのはわかります。
しかし、私にはどうしても何かをしなければならないと思っています。
誰もが救われるには、あまりにも簡単な方法のように思えるのです。」
もう一人者が「私の愛する友よ、神がその子を死なせるために送ったのです」と言いました。
私たちの罪に値するすべてのものをキリストに負わせたのは神です。
キリストはあなたがたのためにその裁きを負われました。
現在、神は満足しておられます。
もし神が満足されているのなら、あなたがたもきっと満足されるはずです。
彼女は少し驚いて顔を上げて言いました。
「私は今までそのことを聞いたことがありません。
確かに、私は神が満足したもので満足すべきです。
そう、私はキリストを信頼できるし、キリストの言葉を信じることができます。」
今、あなたは信じていますか?
あなたは十字架の上で罪の問題が解決されたことを知っているでしょうか?
今、あなたがたが主イエスを受け入れるなら、あなたがたはすべての罪から解放されます。

十字架の上で神に栄光を現わされた方は、死者の中からよみがえられ、御父の右の座に上げられました。
そして、キリストは世が始まる前に御父とともにおられた栄光と、御自身のからだを用いて御父に栄光を現わされました。
31節と32節に記されているように、イエスが語られ、これらすべてのことを確かなものとして示されました。
そして、イエスはこのように付け加えています。

「子どもたちよ。」
(ヨハネの福音書13章33節)


あと数時間で、イエスは死ぬために出て行きます。

「わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。
そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。」
(ヨハネの福音書13章33節)


イエスは去って行かれ、ご自分の証人となるために、弟子たちを世に残して行かれようしていました。
かつて、イエスはここでこのように言われました。

「わたしは、世の光です。」
(ヨハネの福音書8章12節)


しかし、イエスは地上から天に帰られます。
イエスが地上から去られた後、弟子たちは、この暗い世で光のように輝くのです。
そして、その時、イエスはこの新しい戒めを与えられました。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」」
(ヨハネの福音書13章34、35節)


この戒めはイエスが十字架につく前の聖徒たちへの最後の訴えでした。
時代を見渡すのなら、彼らが敵対する世界にいて、御名のためにすべての人から憎まれていることを神は知っていました。
そして、彼らに「互いに憎み合ってはならない」と懇願しました。
互いに哀れみ、思いやりのない、争い好きで、失礼な態度をとってはいけません。
私たちは同じ尊い血によって贖われ、同じ聖霊によって加えられた者たちです。
神がキリストのためにあなたがたを赦されたように、互いに親切にし、心優しく、互いに赦し合うべきなのです。
「あなたがたが互いに愛し合うために、わたしはあなたがたに新しい命令を与えます。」
私たちは自分自身に挑戦してみましょう。
それぞれが自分の心の中で問いかけてみませんか?
「私は、私の救い主のこの命令に本当に答えてきたのでしょうか?」
キリストにある兄弟たちへの愛によって、私は特徴づけられているでしょうか?
それとも、私はキリスト者としての責任を忘れて、悪意やねたみやねたみや憎しみさえも、私の心に湧き上がるのを許していないでしょうか?
私はこの悪しきものを大切にしてきていませんか?
「冷たく、硬く、無関心で、批判的で、不親切な神の子どもたちがいます。」
私たちは神の前でこれらのことに直面する必要があります。
長年にわたって、宗教的な論争によって、どれほどの苦痛が生じてきたことでしょうか?
私は、神の人サミュエル・ラザフォードという素晴らしいの生涯を送った、印象的な出来事を読んだことを覚えています。
彼の最後の言葉は、あの美しい賛美歌「インマヌエルの国」によって具体化されています。
ラザフォード氏は、天上の香りを漂わせる天上の手紙の全巻の著者です。
スコットランド国教会の牧師であり、彼の礼拝所はアンウォスとして知られるスコットランドの小さな町でした。
そこでラザフォード氏は熱心な信者の幸せな集まりの中で働いていました。
しかし、政府との関係でトラブルがありました。
イギリス政府は、スコットランドの教会はもはやラザフォード氏が用いていた長老派の秩序に従ってはならないと宣言しました。
そして、まったく異なる、スコットランド人が恐れていたに異質な秩序を彼らに押し付けようとしました。
ラザフォード氏は、良心のために王の主教たちの権威を認めることを拒否し、認めようとしなかった献身的な牧師の一人でした。
ラザフォード氏は従うことを拒否したため、ラザフォード氏はアバディーンに追放され、そこの刑務所に入れられました。
常にラザフォード氏は、どんな司教が来ても、自分の説教壇に立つことを許さないと言っていました。
しかし、彼がまだ教会で牧師をしていたころ、彼が出て行く前のある夜、見知らぬ人が教会にやって来ました。
ドアのノックが聞こえると、ラザフォード氏自身が彼を歓迎しました。
その見知らぬ男は名前を明かしません。
今、向かっているところなので、一晩泊めてくれると嬉しいと言いました。
彼らは一緒に食事をしました。
その後、ラザフォード氏は神の言葉を持ち出して言いました。
「さて、私たちは教理問答と聖書の朗読と祈りを行っています。
私たちは訪問者と一緒に参加することを期待しています。」
それは古き良き習慣でした。
現在でも、このような習慣があれば良いと思います。
そこで使用人たちが呼ばれ、ラザフォード氏が聖書を読みました。
それからラザフォード氏は家中に説教を始めました。
やがて、見知らぬ人の方を向いて言いました。
「戒めはいくつありますか?」
見知らぬ男は顔を上げ、まばたきもせずに「11」と答えました。
ラザフォード氏はきまり悪そうでした。
「私は戒めがいくつあるのかを尋ねています。」
「はい、わかっています。」
「答えは11です。」
「スコットランドにおいて、私は十戒を知らない無知な人がいることに驚いています。」
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。」
ラザフォード氏は「あなたの名前はなんですか? 」と尋ねました。
「私はアイルランドの大司教です。」
大司教がラザフォード氏の家にいるのです。
ラザフォード氏は、自分の教会以外の教会の秩序を守る者とは交わりを持つことはできないと言っていた男です。
打ちのめされたラザフォード氏は自分の酷さを恥じて、この見知らぬ人に全員を礼拝に導いてくれるよう懇願しました。
ラザフォード氏は熱心に大司教によって、全員を神の前に立たせることに応じました。
そして、私たちには11番目の戒めが必要なことを必要なことを説くためにこのように語りました。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。」
私の兄弟たちよ!
あなた方が救われていることを知るだけでは十分ではありません。
私が望むように真実の土台上にしっかりととどまるだけでは十分ではありません。
すべての基本的な真実の裏には、私たちの誰もが持つべき偉大な経験的な土台があります。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」
(コリント人への手紙第一13章1~3節)


コリント人への手紙第一13章にある聖句によって、自分自身を少しずつ試すことは、すべての人にとって難しいことかも知れません。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、」
(コリント人への手紙第一13章4、5節)


つまり、愛は悪を押し付けたり、人の動機を裁くようなことはしません。

「不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」
(コリント人への手紙第一13章6、7節)


私たちは、この聖句の中に、私たちの主イエス·キリストの人物像と見ることができます。
あなたはここに私たちの主イエス·キリストの名前を入れることができます。
そして、その時、すべてにおいて真実です。
「キリストは寛容であり、キリストは親切です。また人をねたみません。キリストは自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」
もし、私たちがキリストの心を持っているのなら、この神の愛は私たちのうちに現われるものです。
そうでなければ、聖書原理主義者の語る「真実に立っている」と主張する私たちの話は現実的ではありません。
そのような話はほとんど何の役にもなりません。
私たちはある大きな未解決の真実を争うのなら、真剣になることもあります。
しかし、良くない考えで争うのなら、自分たちが現わしている理念を害するだけです。
信仰についての私たちの主張の裏に、私たちの兄弟たちへの誠実な愛、すべての人への愛がないなら、私たちは道であり、真理であり、命である方を侮辱することになります。
イエス・キリストはこのように言っています。

「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
(ヨハネの福音書13章35節)


私たちは偉大で正確な教義を持っているかも知れません。
それらの教義に向かって努力するかも知れません。
しかし、そのことによって、自分がキリストの弟子であることを証明するのではありません。
また、私たちは霊感のある聖書を信じていることを主張するかも知れません。
確かに聖書は祝福されたものです。
しかし、自分たちがキリストの弟子であることを証明するのではありません。
私たちには救い主の処女の誕生と完全な人間性、彼の贖いの業、彼の肉体的な復活、そして神の右の座における現在のとりなしに対する信仰があります。
しかし、その信仰を声高らかにに宣言しても、私たちがキリストの弟子であることを証明することにはなりません。
私たちは、自分たちの主イエスの前千年王国再臨説千年や、これらすべての偉大で尊い真実を信じていると主張しています。
しかし、自分たちが本当にクリスチャンであることを人々に証明するものではありません。
しかし、「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
このことを忘れずに、私たちの主イエス·キリストに忠実であることを前提としながら、自分の心の中に憎しみや悪意を許していないかどうか、自分自身を正直に調べてみる必要があります。
ここだけではありません。
15章12節においてもこのように言われています。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」
(ヨハネの福音書15章12節)


創造主の愛にまさるものはありません。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。」
(ヨハネの福音書15章13、14節)


本当の愛は利己的ではありません。
愛は身につけ、実行することに喜びがあるのです。
神の許してくださるのなら、あなたがたは互いに仕え合うことに興味をもつべきです。
もし、そうでなければ、互いに愛し合うことについて話すことさえもしてはいけません。
ヨハネの手紙第一を見てください。
主の言葉を語られる言葉を聞いた愛する弟子は、決してそのことを忘れていません。
私たちにはこのような言い伝えがあります。
ヨハネが歳を取り、弱くなって歩けなくなった後、くり返し、彼はエペソの聖徒たちの集会に運ばれました。
そして、二人の長老がヨハネを立ち上がらせるのを助け、神の民に神の助言を述べました。
そして、ヨハネはいつもこの言葉で締めくくったと言われています。
「子どもたちよ。愛し合いなさい。」
ヨハネの手紙第一2章にはこのように書かれています。

「愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。
しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。
光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。
兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。」
(ヨハネの手紙第一2章7~10節)


そして3章を見てください。

「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」
(ヨハネの手紙第一3章17、18節)


愛とは実際に行うことです。
私たちは自分よりも困難な状況にある人たちに、その愛を示しているのでしょうか?
私たちは罪を犯して失敗した人たちに、その愛を示しているのでしょうか?
私たちは、彼らの欠点を指摘し、批判し、厳しく不親切なことを言うだけで満足しているのではないのでしょうか?
私たちはキリストが彼らを御自分のもとに取り戻そうしていることを知っています。
私たちはそのことを知り、キリストの御霊によって彼らのところに行き、私たちは彼らにその愛を示しているのでしょうか?
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。」
この時、シモン・ペテロは今のところ耳を傾けていますが、聞いてはいません。
私たちの主が言われたことは、この二つの聖句に記録されていますが、ペテロには全く印象に残っていないようです。
ペテロはまだ、少し前に救い主が言われたことを考えているからかもしれません。

「わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」
(ヨハネの福音書8章21節)


そして、それを念頭に置いて、この間、ペテロは連続した思考を止めてしまいました。

「シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」」
(ヨハネの福音書13章36節)


私たちの主は預言してこのように言っているのです。
イエスは十字架に行くのです。
ペテロにはその覚悟ができていませんでした。
気づいていないのです。

「ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」」
(ヨハネの福音書13章37節)


そして、ペテロは従ったのです。
ペテロもまた、歳をとってから十字架につけられたと言われています。
主イエス·キリストの福音のために、ペテロは殉教者として十字架の上に自分のいのちを捨てたと言われています。
しかし、ペテロは自分の限界を理解していません。
「ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」」
ペテロはすべての言葉を真剣に考えていました。
明らかに、ペテロは死ぬ準備ができていると思っていました。
しかし、ペテロは自分の心が欺くことを知らなかったのです。

「イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」」
(ヨハネの福音書13章38節)


原文では、13章の最後の聖句と14章の最初の聖句の間には切れ目がありません。
実際、イエスは何を言っているのでしょうか?
それを聞くならば、失敗したときの励ましとなります。
「まことに、まことに、あなたに告げます。
あなたが三度わたしを拒むまで、鶏は鳴くことはありません。」
つまり、あなたの心を悩ませてはいけません。
あなたは神を信じなさい。
また、私を信じなさい。
「ペテロ、あなたがわたしを裏切ることはわかっています。
まだ、あなたは自分の心がどれだけ信用できないか気づいていません。
ペテロ、ついに自分の心にある腐敗を発見し、自分がしたことを考えて心が傷ついたとき、私はあなたに思い出してください。
ペテロ、私はいまだあなたを愛しています。
そして、私はあなたのために場所を用意します。」
あなたはこの救い主を知っているでしょうか?
もし、あなたが知らないというのなら、わたしはあなたがたに懇願します。
「神に近づき、平安を得てください。」
今日、イエスはあなたがたがイエスを知ることを望んでおられます。
また、イエスの御元に来るように命じています。
イエスはこのように言っています。

「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」
(ヨハネの福音書6章37節)


講演45 父の家と主の帰還

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
(ヨハネの福音書14章1~6節)


これらの聖句では、2つの優れた内容が描かれています!
一つは父の家のことです。
二つ目に私たちの主が主の民のために、個人的に戻って来られることです。
私たちは皆、原文の聖書では章や節で書かれていないとことをよく知っていると思います。
これらの文章の区切りは編集者によって入れられたものです。
それはかなり最近のことです。
中にはプロテスタント宗教改革の時代にまでさかのぼるものもあります。
そして、時には、章の区切りはかなり不幸なところで入っています。
ここではその実例だと思います。
例えば、14章の最初の節を読み始めてから、13章の終わりにある使徒ペテロへの主の言葉と心の中で結びつける人がいるでしょうか?
しかし、そこにはとても現実的なつながりがあります。
私たちが見てきたように、その箇所で主イエスは弟子たちに最後のメッセージを与えています。
すぐに弟子たちは主イエスを捨てて、逃げることをイエスはほのめかしています。
イエスは、弟子たちに御自分が行かれることを告げられています。
しかし、今のところ、弟子たちはイエスが行かれるところには行くことができません。
やがて、イエスは十字架と復活を通して、神の御元に帰ります。
しかし、質問するペテロに、すぐには来ることが出来ないことを言われました。
主はこのように述べています。

「今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」
(ヨハネの福音書13章36節)


ペテロは理解していません。

「ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」
イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。
まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」」
(ヨハネの福音書13章37、38節)


そして、主はすぐに付け加えています。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
(ヨハネの福音書14章1節)


確かに主イエスはこれらのことばを、すべての弟子たちに向かって語っておられます。
しかし、このわずかな間にイエスを拒もうとしている弟子に、直接にこのように言われているのです。
これは私たちの心を大きな慰めを与えてくれます。
ペテロは主を裏切ります。
しかし、イエスはペテロが失敗することを知っていました。
しかし、ペテロの心の奥底には、主イエスを愛する心があったのです。
「あなたのためにはいのちも捨てます」とペテロはその言葉を真剣に言ったのです。
しかし、ペテロは自分の心が信頼できないことに気がついていません。
それは霊が喜んでいるのに、肉が弱いという典型的な例なのです。
やがて、ペテロが目をさまし、自分が主人の必要の時に全く不信仰であったという事実に気きます。
その時、ペテロの魂をおそろしく落胆させることをイエスは知っておられました。
まさにイエスのために立ち上がる時が来たのです。
「はい、わたしはイエスの仲間一人です。イエスの生涯の清さと、イエスの道の良きものを証しすることができます」と大胆に述べる者を、イエスが求めていた時が来ました。
しかし、ペテロは、集まってきた兵士たちにおびえてしまい、救い主について何も知らないと否定しました。
そして、ペテロは「自分は完全に見放されたに違いない。
主は二度と自分を信頼しないはず」だと感じる日々が続くと考えたかもしれません。
しかし、もしペテロが私たちの聖書の言葉を覚えているなら、それはペテロの哀れで痛んだ心に驚くべき慰めをもたらしたはずです!
イエスは実際に「ペテロよ、わたしはあなたの行動のすべて知っている」のと同じことを言っているのです。
私はあなたが失敗しようとしていることを知っています。

「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。
あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
(ヨハネの福音書14章1節)


「ペテロ、あなたが完全に打ちのめされるのを許すつもりはありません。
私はあなたが完全な背教に入ることを許すつもりはありません。
でも、あなたは倒れても、再び引き上げられ、たくさんの住まいの中でわたしと一つの場所を分かち合うのです。」
イエスは「あなたがたは心を騒がしてはなりません」と言いました。
その意味は「ペテロ、あなたは自分の心をあら探しして、自分の失敗に訴えてはいけません」という意味ではありません。
後にイエスはガリラヤ湖のほとりで素晴らしい方法でペテロを回復されるからです。
イエスの言った意味は「落胆してはいけない」と言うことです。
あなたの魂の敵が、これ以上、あなたに希望や機会が存在しないと感じさせないようにしてくいるのです。
これを読んだ人の中には、ペテロと同じ失敗をした人がいるのではないでしょうか。
また、あなたがたも重圧の中にあって主を拒否し、言葉ではなく行動で主を拒否するかもしれません。
あなたがたの魂の敵は、今あなたがたに「あなたは終わりです。あなたは絶望的」だと言うのです。
かつて、あなたはキリストを知っていたかも知れません。
しかし、あなたはあまりにもひどい失敗しました。
もう二度と、キリストとあなたと会うことはありません。」
でも、イエスのあなたへの関心は今までと変わらず、同じくらい深いものだと断言させてください。
もし、あなたがたがイエスをあなたがたの救い主と信じているなら、あなたがたが恐ろしい失敗したことも、その失敗を嘆いていることさえも、あなたがたがイエスのものであることをはっきりさせます。
すでに主はこのように言われています。

「背信の子らよ。帰れ。――主の御告げ。――わたしが、あなたがたの夫になるからだ。」
(エレミヤ書3章14節)


ここでは「あなたがたの夫になるからだ」と言われています。
「夫であることをやめよう」ではありません。
それはあなたがたが帰って来て、あなたがたの失敗と罪を告白するのを主は待っておられるということです。
それ以上に主は、完全な復活を約束しています。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
(ヨハネの手紙第一1章9節)


いつの日か、あなたにも父の家に居場所ができます。
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
イエスがイスラエルの民のところに来られる以前の時代にも、イスラエルの民は、生けるまことの唯一の神を信じていました。
現在、イスラエルの民はイエスを見ることがありません。
そして、イエスは弟子たちにこのように言っているのです。
「あなたは主を見ることなく、神を信じていました。
しばらくするとあなたがたは、もはや私を見なくなります。
あなたがたは私を見ることができません。
しかし、私がここにいたときと同じように、私を信じてほしいのです。」
長い間、あなたがたは目に見えない神を信じてきました。
私が父のもとに帰った後も、目に見えないキリストである私を信じてほしいのです。
私たちは、イエスが私たちの生活のすべての細部に深く関心を持っておられることを理解してください。
あなた方はイエスへの暗黙の信頼と信頼を持っているでしょうか?
御言葉は語っています。
「あなたがたの心を主に向けるのであれば。主はあなたがたを顧みられます。
主が御心に留めないようなことは、主の民には存在していません。
このように、主は私たちにすべての緊張と不安を取り去ってくださいます。」
「神を信じ、またわたしを信じなさい。」
その時はイエスはこのように付け加えています。

「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」
(ヨハネの福音書14章2節)


「わたしの父の家」とはもちろん天のことです。
いつの日か御自分のもの、民をすべてその場所に持って行かれると言っています。
私は「天というのは場所でなく、状態を指している」とよく聞くことがあります。
天とは場所と状態の両方です。
確かに聖書には天についてあまり書かれていません。
誰かが「天とはこれ以上何もない場所」だと言いました。
聖書には、天にあるものよりも、天にないものについての多くの記述があります。
ヨハネの黙示録では天にないものについて書かれていることを私たちは思い出すことができます。

「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
(ヨハネの黙示録21章4節)


父の家にはもはや呪いも闇もなく、いかなる種類の苦悩がないのです。
父の家は、キリストがおられる所であり、贖われた者が行く所です。
「わたしの父の家には、住まい(マンション)がたくさんあります」という表現は奇妙だと思う人もいるかもしれません。
私たちの多くにとって住まい(マンション)という言葉は、本来は持っていなかった使い慣れた意味を持っています。
私たちは立派な建物を見ると「住まい(マンション)」と呼びます。
もともと使われていた言葉は、今日私たちがその言葉を使っているように、立派なアパート的な意味を持っていました。
1つの建物にたくさんのマンションがあるという意味かも知れません。
つまり、イエスは私たちに「わたしの父の家には多くの部屋があり、多くの憩いの場がある」 と言っているのです。
私たちの父の家には、一人ひとりのための場所、個別の場所があるのです。
「もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。」
この意味はなんでしょうか?
ユダヤ人は死後の祝福の天を信じていました。
つまり、イエスは「もしあなたがそれで間違って理解していたならば、私はあなたを正したはずです」と言ったのです。
しかし、イエスはその天を正していません。
むしろ断言されました。
私たちはそのことが真実であることを知っています。
空の彼方には、贖われた者のための輝かしい家があります。
私たちはそれをキリストと共有することになります。
イエスはここで付け加えています。
「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」
イエスが住まいに戻ると前とは違っています。
イエスが父の家に帰られるまで、罪の問題は解決されていません。
イエスが父の家に帰られる前には、幕は裂かれておらず、まだ、血は贖いのふたには振りかけられていません。
昔の聖徒たちは、旧約の血を土台とした信用の上にパラダイスに行ったのです。
彼らは、今の聖徒たちが持っているような、神の御前に直接近づく祝福された権利がありません。
ヘブル人への手紙の中で、私たちは今、「全うされた義人たちの霊」に近づいて来たと読みました。

「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。
また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、
さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」
(ヘブル人への手紙12章22~24節)


彼らは十字架の以前のすべての時代における義の人の霊でした。
神は彼らを救い、パラダイスに連れて行かれました。
しかし、まだそれだけでは完全ではありません。
彼らは十字架の上でキリストの尊い血が流されるまで完全になることはできません。
そして、今、罪の問題が解決されました。
キリストは御自身の血をもって聖所に入りました。
そして、贖いのふたの上に御自身の血を振りかけられました。
そして今、聖所には御自身のすべての人のための場所が用意されたのです。
過去の正しい人々の霊は完全にされ、現在、信じる私たちは永遠に完全にされているのです。
ゆえに、私たちは皆、私たちが行く場所にふさわしいものとされたのです。
「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」
そして、イエスはこのように言っています。

「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
(ヨハネの福音書14章3節)


多くの人はこの聖句が死に関係していると考えています。
もちろん、信者が死ぬならば、その信者はキリストと一緒にいることになります。
聖書の中では、キリストが死ぬの時に、御自分の民のために来られたとは言っていません。
私たちの主がこの地上におられた時に言われた言葉から例えて言うなら、これは真実ではありません。
私たちには、神の愛する子が死にそうだった時のことが語られています。
彼は貧乏人でした、それは真実です。
彼は金持ちの門に横たわっていたましたが追い出されれてしまいました。
彼は真実なアブラハムの子供でした。
彼はあらゆる恵みの神を信じていました。
その乞食は死んで御使いたちによってアブラハムのふところに運ばれたと、私たちは聞いています。
御使いたちはその貧しい乞食をパラダイスに運びました。
もはや、彼は貧しくありません。
私が思うのは、神の民をいつも見守っている御使いたちの最後の務めは神の子供たちを神の御前に導くことだと考えます。
彼は御父の家にいます。
御使いたちが聖徒たちを神の御前に導いてくださいます。
しかし、ここで彼は違ったことを言っています。
信者がキリストと共にいる場所が死があると言うことです。
聖書が私たちに何を語っているのでしょうか?

「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」
(コリント人への手紙第二5章8節)


しかし、キリストの御元に帰った家に帰った信者は、衣服を身に着けず、体をどこかに置いていかれていると言われています。
その者は主の御前で栄光を受けた霊としてそこに存在していますが、彼はその贖われた体を待っています。
主イエスが、ヨハネの福音書14章で語られていることが成就される時、信者たちはその栄光に満ちたからだを受け取ります。
そして、完全にイエスのようになるのです。
ここで述べられているこの来臨については、テサロニケ人への手紙第一4章でさらに詳しく説明されています。
13節を見てみましょう。

「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。
あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」
(テサロニケ人への手紙第一4章13節)


すなわち、聖徒たちの体は墓の中に眠っているが、霊はキリストとともにあるのだと言っています。
また、このようにも読むことができます。
「兄弟たちよ、わたしはあなたがたに、眠っている者たちのことを疎かにして欲しくありません。
あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」

そして、このように続きます。

「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。
それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
(テサロニケ人への手紙第一4章14~17節)


つまり、この福音書で述べられている「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」というのは、私たちの救い主が来られる時のことが述べられているのです。
その主イエスは来られ、わたしたちの完全な救いに対する希望が成就されるのです。
ローマ人への手紙8章で使徒パウロが私たちにこのように語っています。

「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」
(ローマ人への手紙8章19~23節)


これはどのような意味なのでしょうか?
私たちの霊はすでに贖われています。
私たちの魂はすでに救いを受け取っています。
しかし、私たちの体は完全な救いを待望しています。
その体が贖われるのは主イエスキリストが来られる時に完成されるのです。
24節にはこのように書かれています。

「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。
だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。」
(ローマ人への手紙8章24節)


その時、希望とは何でしょうか?
それは私たちの主が来られることです。
パウロはピリピ人への手紙3章で再びこの事について語っています。
20節で私たちはこのように読んでいます。

「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
(ピリピ人への手紙3章20、21節)


これは、栄光に輝く出来事は、私たちのために主が再び来られる時に起こるのです。
知られているとおり、この携挙の時と、イエスが人の子として現れて不敬虔な世界を裁き、最終的に神の王国を樹立する時には、大きな違いがあります。
これは、その夜、屋上の間の部屋で、主が使徒たちに明かされた奥義です。
他の3つの福音書では述べられていません。

このことを明らかにする道具として選ばれたのは使徒パウロでした。
しかし、主イエスが去る直前に、心の中にはこの奥義が存在していました。
主イエスは、それを押さえることができなくなり、弟子たちにわずかでも話さなければならなくなりました。
それで、「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」と言われたのです。
「あなたがたをわたしのもとに迎えます」が「死の御使いを遣わす」とか「他の御使い」と訳されているものもありますが、そのようなものではありません。
あなたがたが知っているように「あなたがたをわたしのもとに迎えます」とは、神は、贖われた民がみな父の家で栄光のうちに神と共にいるまで、決して満足されません。
主イエスの心はそのことを切望しています。
父の家という言葉に注目してください。
父の家とは、すべての父の子どもたちのためにあります。
最近、私はある不思議なことを言う人たちを恐れています。
彼らは主イエスが来られるときに、深く霊的な歩みをしている人々だけが主イエスに捕らわれると私たちに伝えて来るのです。
そのように話す人々は、父の心を何も理解していません。
地上にいる普通の両親の心を考えてみてください。
例えば、彼らに8人、もしくは10人の子供がいたとしましょう。
それはかなり大きな家族です。
父の家は子供たち全員に開放されているはずです。
私は両親が子供たちの間で区別をする家庭を可哀そうだと思います。
そして、子供たちを哀れみます。
たくさんいる子供の中で、誰か一人は父親の心の中で特別に可愛がられ、他の子供は敬遠されているのであれば、それは悲しいことだと思います。
確かにたくさんいる子供のなかには、一人か二人は悪い子がいるかもしれません
確かに父親は良い子供を愛しています。
しかし、悪い子供は愛されていないのでしょうか?
本当に愛されていないのでしょうか?
本当でしょうか?
悪い子供たちでさえ、父親の心にはとても大切な存在です。
子供たちの悪いところを考えると眠れない夜が何度もあるのはなぜでしょうか?
父親は彼らを愛し、子供たちがあるべき姿をすべて見たいと心から願っています。
父の家ではいつも彼らを歓迎しています。
また、私たちは天の父の家には区別など存在しないことを覚えておく必要があります。
「天に行って、ドアの向こうの席に座れば満足」だと良く言われることがあります。
私もこれ以上のものはないとわかっています。
親愛なる友よ!
しかし、あなたはそこに行く資格はまったくありません。
私はそこに行く資格がまったく存在しません。
しかし、私自身に行く資格があるから行くのではありません。
しかし、私が天に行ける資格とは、私が生まれ変わったからです.
主イエス·キリストは私のために場所を備えておられ、父の家は父のすべての子らのためにあるのです。
別の表現をすることができます。
つまり、「ドアの向こうには別の席が存在していません。」
私はすべての人がこのことに気づいてくれることを望んでいます。
もう一度、繰り返しますが、父の家は同じようにすべての父の子どもたちを歓迎してくださいます。
しかし、あなたは言うでしょう。
「でも。聖書には、他の人よりも大きな報酬を得る人がいると書かれているはずです! 」
確かにそうです。
しかし、報酬は父の家に歓迎されることとはとはまったく関係がありません。

これらの報酬は、来るべき栄光に満ちた王国に関係しています。
もちろん、その報酬は天において、キリストの裁きの座で与えられます。
その違いは王国にあります。
例えば、ペテロの手紙第二にはこのように書かれています。

「このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。」
(ペテロの手紙第二1章11節)


何に「はいる」のでしょうか?
「天」でしょうか?
いいえ、ある人々は天に華々しく入場できても、他の人々はそのような暖かく心のこもった歓迎を受けないというのは真実ではありません。
これにはどのような意味があるのでしょうか?
ある人たちは豊かに入り口を与えられていると言っています。
その通りです。
しかし、何に「はいる」のでしょうか?
「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる」と書かれています。
あなたがたは、父の家と永遠の御国とを混同してはなりません。
父の家は聖徒の家です。
永遠の御国の奉仕と報酬の領域です。
私たちは永遠にわたって主に仕えることになります。
まず、千年王国において主に仕え、後の来たるべき時代においても主に仕えることになります。
そして、この来たるべき時代、父の家において、私たちは私たちのために場所を用意してくださった祝福された主に仕えることになります。
古いイラストを使ってみましょう。
ここに10人以上の子供がいる古き良き家庭があったとします。
今、子供たちはあちこちに散らばっています。
クリスマスが近づき、ホームパーティーを行います。
クリスマスに家に集まるように招待状が子供たち全員に送られ、それぞれの家族が集まって来ます。
そして、彼ら全員が集まってきます。
ある人たちは自動車で、また、ある人たちは乗り合いバスで、また、ある人たちは飛行機で、おそらく、ある人たちは歩いて来るかも知れません。
クリスマスにはあちこちから父の家にやってきます。
親切な人たちが準備してくれた素晴らしい料理がたくさん詰まった素晴らしいテーブルが想像することができます。
すべて順調に行われているのかを確認するために、最後に両親が確認に来ると思います。
しかし、そこには両親のために準備された場所があります。
そこには大皿があり、15ポンドもある大きな七面鳥が二羽、載せてあります。
あと、すべての用意された御馳走がたくさんのテーブルの上に置かれています。
そこに両親が入ってきました。
そして、母親が言います。
「お父さん、ボブをあなたのすぐそばに置いておきました。」
ボブが社会人になって、議員になりました。
自分のために素晴らしい地位を得ました。
まさに、ボブはこの家にふさわしい者です。
そして、同時にここはメアリーの家です。
メアリーは女子大の学長です。
そして、名誉ある地位を得ています。
彼女は帽子と上着を着るととても堂々として見えます。
だけど、家ではただのメアリーです。
そして、ここはトムのための家です。
トムはどんな職業についているのでしょうか?
トムは陸軍の将校だと思います。
ではただのトムです。
そして、この家はアンナのための家です。
アンナは何をやっているのでしょうか?
おそらく、彼女は医者です。
非常に優れた仕事をしています。
外ではアンナ博士だけど、家ではただのアンナです。
今は、彼女は一線を退いています。
続けて。母親は言いました。
私はジムのために右手に置きました。
ジムは何をやっているのでしょうか?
ジムは家族の中でも情けない人です。
哀れなジムです!
彼はいろいろなことにチャレンジしました。
私は一般的にジムを発明家だと思っています。
彼はいろいろなものを発明してきました。
しかし、いつもうまくいきません。
彼は成功さえすれば何百万ドルものお金が手に入れることも出来ました。
しかし、今では持っていたお金も、借りていたお金もすべて使い果たしました。
それでも、何も進んでいません。
哀れなジムです。
母親が、彼が家に帰れるように身なりを整えるために、服を買うための20ドル札をこっそり入れてくれなかったら、彼は家に来ることができなかったのです。
兄弟の一人がこう言うかも知れません。
「お母さん、ジムがいるんだけど、ジムを僕たちと一緒にテーブルに座らせた方がいいのかどうかわかりません。」
私たちの家族と比べて、ジムの失敗はみじめすぎます。
ジムを台所にいる方がいいかも知れません。
ジムは台所で使用人と一緒に食事をすることができます。」
そして、母親は熱くなり語ります。
「なんてことを言うのですか?
ジムには、私たちが与えられる最高のものを与えるべきです。
この地上でジムが歓迎される場所があるとすれば、それは彼の父と母の家であることをジムに知ってほしいのです。」
ごのように、父の家では、すべての子供たちは歓迎されます。
両親はすべての子供たちを同じように扱います。
しやがて大事な日は過ぎていきます。
子供たちは別れることになり、メアリーは大学に戻り、ボブはワシントンの議会に戻ります。
アンナは大都会の診療所に戻り、トムは軍隊に戻っていきました。
やがて、哀れななジムは街の向こうにある小さな部屋に戻っていきました。
でも、母親はジムに別れのキスをしているのが見えました。
母親がジムの手にこっそりと何かを渡しています。
それは50ドル札です。
そして、お父さんの家の楽しい思い出としてジムは帰って行ったのです。
この例えは人間的でしかありませんが、父の家と御国とは別のものだと言っている意味がわかるかもしれません。
父の家とは、父のすべての子供たちの家だからです。
このように私たちは主イエス·キリストに仕えることによって、御国の中で自分の居場所を築きあげるのです。
この違いがわかるでしょうか?
それは父の家にはすべての子供たちのための場所があるからです。
そのことを述べているのです。
しかし、すべての者が父の家を得ているのでしょうか?
私は彼らにそれを望みます。
しかし悲しいことに、多くの人が神に対する反抗を続けています。
祈りは決して聞き届けらることはありません。
父の家に行く、唯一の方法がここにあります。
その方法とは何でしょうか?
「私たちはそれぞれ違う道を歩んでいますが、最終的にはみんな天国にたどり着くのです」と、何度も私は言われたことがあります。
それは違います。
私の聖書にはこのようなことが書かれていません。
そして、私の聖書にはこのように書かれています。

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」
(箴言14章12節)


それは、私たちに滅びに至る広い道を選ばないように警告しています。
そして、私たちに命に至る狭い道を選ぶように告げています。
イエスはここでこのように語っています。

「「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。
どうして、その道が私たちにわかりましょう。」」
(ヨハネの福音書14章4、5節)


トマスは正直者で、どんな真実でも口走ることを恐れていません。
つまり、トマスは「私たちは無知であることを認めなければなりません。
私たちはあなたがどこへ向かおうとしているのかを知りません。
どうすればその道を知ることができるのかさえも知りません」と言ったのです。

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」」
(ヨハネの福音書14章6節)


ここでイエスは多くの方法、道について語っていません。
そこにある道は一つです。
イエスが唯一な道なのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。
世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
(使徒の働き4章12節)


あなたはイエスの元に来ましたか?
あなたはイエスを信じていますか?
もし信じているのなら、あなたは父の家へ向かってます。
そして今、あなたは主の来臨の時を同じ喜びをもって待ち望むことができます。
なぜなら、主はこのように言われたからです。

「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
(ヨハネの福音書14章3節)

いつ、イエスが来られるのでしょうか」?
私たちはいつ来られるのかを語ることができません。
しかし、私たちは日ごとに来られる日を待ちわびています。
私は主がいつ来られるのか、いつ現れるのか、夜中なのか、朝なのか、どの季節なのかは知りません。
私が知っているのは、イエスが近くにおられることです。
そして、主の声がもうすぐ聞こえるということだけです。


講演46 御子の中に現れた御父

「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。
わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」
(ヨハネの福音書14章7~14節)


この箇所では7つの区分に分けられて語られています。
最初に「御父は御子を通してのみ知ることができる」ということです。
7節に注意してください。

「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。
しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
(ヨハネの福音書14章7節)


神が被造物を通して知られているというのは完全な真理です。
私たちはローマ人への手紙1章でそのことが教えられています。

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」
(ローマ人への手紙1章20節)


たびたび、私たちはこのように尋ねることがあります。
「哀れな異教徒が福音を受けていないからといって、神は彼らを罪に定められるのでしょうか?
しかしながら、神は私たちを罪に定められるのです。
それは彼らが福音を聞いていないからです。」
私たちには福音を彼らに届ける責任があります。
私たちはとても利己的で、一人で食べて満足していました。
私たちは「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」という主の命令にほとんど関心を持っていません。
わたしたちは、その命令がわたしたちの教義に属するのか、それとも他の教義に属するのかについて、とやかく言い争い、自分たちには多くの光と知識があると公言してきました。
ゆえに、家に座って異教徒が罪の中で死ぬのを放っておいたのです。
いつか、私たちはそのことで神に答えなければならない時がきます。
失われた異教徒には、救い主が必要です。
なぜ、あなたと私には救い主が必要なのでしょうか?

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
(ルカの福音書19章10節)


もし、異邦人が失われていなければ、彼らは救い主を必要としていません。
異邦人が失われているのは、彼らが神を自分たちの知識の中にとどめようとしなかったからです。
異邦人は、自分が犯した罪のために自分の良心によって罪に定められています。
彼らは聞いたことのないキリストを拒んだ罪には問われません.
しかし、異邦人が実際に犯した罪のために罪に定められるのです。
異邦人が天を見上げるのなら、彼らは神がいることを知らなければなりません。
神が人間のために用意した素晴らしいものを見るならば、そして、自分の体とそのすべての素晴らしい機能について考えるのならば、これらすべての背後に、人間が責任を負うべき創造主がいることに気づくはずです。
ゆえに「被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」
そして、詩篇にはこのように宣言されています。

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。
話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。」
(詩篇19篇1~3節)

しかし、神の父としての性質は、主イエス·キリストによってのみ現わされました。
自然は神の存在と、知恵と力において無限であることを私に教えてくれます。
しかし、自然に御父の心があるとは教えてくれません。
神が祝福された御子にあって下された啓示からでなければ、私は御父の心を知ることができません。
時々、私たちはその啓示に対して無頓着なことがあります。
かつて、私は話していたある婦人のことを覚えています。
もし、この世界にクリスチャンの啓示に対して神に感謝すべき人がいるとすれば、それは世界の女性たちです。
なぜなら、福音が知られているすべての国々において、女性の地位がなんと素晴らしく変化したかです。
しかし、この婦人はかわいらしい頭を振りながら私にこのように言いました。
「私は福音には興味がありません。
私は聖書を読んだことがありません。
私は神が愛であることを知るだけで十分です。」
私は彼女に「神の愛を知っているのですか?」と尋ねました。
そして、彼女は私に「あなたは神が愛だと本当に知ってるのですか?」と言いました。
「ええ、もちろん知っています」
「さて、失礼ですが、どうやってあなたは神の愛を知ったのですか?」
「神が愛であることは誰もが知っています。」
「いや、誰も知りません。」
「インドでも、アフリカでも、福音がまだ届けられない地でも、彼らは神の愛を知ることができません。」
「昔の人食い時代の海上の島では、彼らは神の愛を知りません。
イエスがこの世に来て、哀れな人たちに神の心を告げられるまで、だれも神の愛を知りません。」
聖霊によって、神の愛が私たちに語られました。
聖霊は神の愛を証明してくださったのです。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。」
(ヨハネの手紙第一4章10節)


このように、私たちは神が偉大であること、神には力があること、神には知恵に満ちていることを知ることができたかもしれません。
私たちは、神が被造物のために用意された豊かに備えられたものから、神が善き方であることを知ることが出来たかもしれません。
そして、そこから理解することが出来たかもしれません。
しかし、もし、イエスが御父を現すために来られなかったら、神が愛であることを知ることはなかったのです。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
(ヨハネの福音書1章14節)

繰り返しますが、私たちの主イエス・キリストによって与えられた啓示がなければ、私たちは神の父としての性質を知ることはできません。
次に、私はあなたがたにこのことを思い出させたいと思います。
キリストは御父の正確な姿をしています。
あなたは「神をもっと理解していればよかった」と時々、自分に言い聞かせているかも知れません。
父なる神がどのように物事を見ておられるのでしょうか?
どのように物事を感じておられるのでしょうか?
そして、一般の人たち、特に神の民に対してどのような態度をとられておられるのかを知ることが出来ればと思います。
皆さんがすべきことは、四福音書を読んで主イエス・キリストをより深く知ることです。
なぜなら、主は父なる神をその豊かさのすべてにおいて明らかにしておられるからです。
ヘブル人への手紙を開くと私の好きな聖句を見ることが出来ます。

「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。
また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」
(ヘブル人への手紙1章1~3節)


これらの言葉、「神の本質の完全な現われ」は「神の本質の正確な表現」と表現されるかもしれません。
著者は父の性格を正確に表現したイエスについて話しています。
ゆえに、父なる神がどのような方であるかを知りたければ、主イエス・キリストをもっとよく知るべきなのです。
そして、キリストをよく知るのであれば、御父を知ることができます。
キリストのすべての性格は、神の心にあるものを物語っています。
それは、聖さへの愛、義への喜び、人間への関心、悔い改めていない人々への関心、そして、3年半の間キリストと共に歩んだ弟子たちの小さな集まりへの愛によって表れています。
それは、ご自分の民への深い優しい愛情です。
その弟子たちについては「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」と書かれています。
また、イエスは幼い子供たちへの優しく慈しみ深い関心を持っておられました。
少年少女たちへの愛情です。
彼らは喜んでキリストのもとに来て、膝に座りました。
主は彼らを腕に抱き、祝福のために彼らの上に手を置かれました。
ああ、このことは父なる神の子どもたちへの愛情を物語っているのです。
その反面で、偽善、欺瞞、不従順などの罪に対するイエスのあざけることは現実離れしています。
結果として、聖なるものを汚そうとしたすべての行為は御父へのあざけりを表現することになります。
その時、イエスは栄光をもって怒りを見せるのです。
あなたは「イエスが怒ったことがあるとは思いたくない」と言うかも知れません。
ある人たちは、何があっても怒るべきではないと主張するかも知れません。
聖書はこのように言っています。

「怒っても、罪を犯してはなりません。」
(エペソ人への手紙4章26節)


イエスが宮に立って、目を輝かせながらこのように言ったときの怒りを考えてみて下さい。

「そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。
それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」」
(マタイの福音書21章13節)


カペナウムの会堂で、哀れな女が、あまりの惨めさに二重苦になりかけていた哀れな女性がやって来たことを思い出してください。
律法学者たちとパリサイ人たちはイエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていました。」
そして、イエスは安息日に病気を治すことは正しいことなのかを彼らに問いていたのです。
他の箇所ではこのように続けています。

「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」
(ルカの福音書6章9節)


イエスは怒りをもって彼らを見回し、このように尋ねました。

「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。
この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。
安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」
(ルカの福音書13章15、16節)

栄光に満ちた憤りです!
栄光に満ちた怒りです!
イエスの怒りは神の怒りです。

私たちは神の怒りを恐れているのに、どうして、私たちの主イエスが怒っておられることを思いたくないのでしょうか?
人が岩や山に逃げ、岩や山に叫び求める時が来るのです。

「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。
「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。」」
(ヨハネの黙示録6章16節)


主イエス・キリストが怒っておられます。
小羊は神の恵み、神のあわれみを拒み、あらゆる救いのチャンスを無視した人々に対する憤りを感じているのです。
繰り返しますが、イエスの怒りは神の怒りです。
神を知りたければ、もっとよくイエスを知るべきです。

「ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」」
(ヨハネの福音書14章8節)


ピリポは彼のところに来て言った、「父を私たちに見せてください。そうすれば私たちは十分です」。
ピリポにとっては新しいことでした。
イエスはとても静かに話されています。
イエスは父をよく知っていました。
「父を私たちに見せてください。そうすれば私たちは十分です」。

「イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。
わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」
(ヨハネの福音書14章9節)


つまり、御父の特徴はイエスにおいて完全に明らかにされたのです。
しかし、ここで強調したい三番目のことがあります。それは御父と御子の一体性です。
御父と御子の一体性とは、御父と御子がまったく同じ存在であるという考えではありません。
御父と御子は二つの存在ですが、父御、御子、聖霊という神と聖霊との一体性においては一つの存在です。
宣教師のジョセフ・クックはこのように述べています。
「御子と聖霊のない御父は、その完全さにおいて神ではありません。
御父と聖霊のない御子は神ではありません。
御父と御子のない聖霊は神ではありません。
しかし、御父と御子と聖霊は共に、祝福され崇められるべき三つの存在における一つの神です。
ゆえに、地上におられたイエスは人としてキリスト・イエスですが、御父の子でした。
御父は天におられますが、全宇宙に遍在しています。」
イエスは「わたしを見た者は、父を見たのです」と言いました。

「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。」
(ヨハネの福音書14章10節)

その結び付きは解消できません。

「わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。
わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」
(ヨハネの福音書14章10節)


イエスがこの世で人としてなされたことすべて、父との交わりの中で行われました。
ゆえに、このように言うことができたのです。

「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。
父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」
(ヨハネの福音書5章19節)


御父の子であるキリストが、父の意志と一致しないことをすることはあり得ません。
二つの存在でありながら、神においては一つです。
四番目に、イエスが行なわれた御業が、この真理の証しであることに注目してください。
11節にはこのようにあります。

「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」
(ヨハネの福音書14章11節)


それは、イエスが彼らにこのように挑戦しているように語っているのです。
「もし、あなたたちが御父と私との一体性についての私の宣言を受け入れる覚悟がないなら、もし、あなたたちの心の中にまだ疑問があるなら、私の行った業を見てみなさい。
私が成し遂げた業を、かつて誰が成し遂げることができましたか?
私が成し遂げたことを成し遂げた人がいたでしょうか?
これらの業によって、父なる神がわたしによって行なわれていることを確信しなさい。
もし、誰かがらい病人にさわったのなら、その人は汚されていたはずです。
イエスが、さわった時はそうではありません。
イエスは「きよくなれ」と言われました。
しかし、イエスの手は汚されていません。
イエスの手は、らい病の汚れがイエスにまとわりつくことなく、らい病を癒しました。
人間には嵐を制御できる力はありません。
しかし、イエスは風と波に向かって「黙れ、静まれ」と言うことができました。
人間は種を蒔き、土地を耕し、そして最終的には神の慈れみにより、神の太陽の光と雨が土地に降り注ぎ、土壌の下で化学反応が起こり、土はパンを作るための穀物を生み出します。
イエスは五つのパンと少しの魚を取り、感謝の後、5000人以上の人々のために食べ物を創造されました。
なぜ、このようなことをされたのでしょうか?
それは、人々が驚いて見て、御自身に注目を集めるためではありません。
神の御心を明らかにするためです。
このようにイエスの奇跡は私たちへの挑戦なのです。
私たちはこれらの奇跡の中に、キリストが父の永遠の御子であるという証拠を見ることができます。
現在、イエスは去って行かれました。
五番目にイエスが私たちになさったすばらしい約束があります。
これらの約束はイエスのいない間に成就されることになっています。
12節にはこのように書かれています。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。
わたしが父のもとに行くからです。」
(ヨハネの福音書14章12節)


イエスが成就されなかった約束が、現在、ここで成就されると言う人がいます。
弟子たちはこれらの奇跡よりも偉大な業を行った人はいないと宣言しています。
だが、イエスは、奇蹟のことを言っているのではありません。
イエスの主な仕事は、奇蹟を行なうことではありません。
御父を明らかにし、御父の知識をもたらすことでした。
そのことをイエスは言われているのです。
この三年半の働きの結果、イエスが地上を去る前に、約500人の弟子たちが別れを告げました。
確かに少なくはありませんが、多くはいませんでした。
イエスの中に御父の啓示を見た者は多くはなかったのです。
しかし、ペテロと他の11人はペンテコステの日に立ち上がりました。
三位一体の三位格が力をもって弟子たちに臨みました。
聖霊によって弟子たちにイエスのためにあかしする準備がされていました。
弟子たちは十字架につけられ復活したキリストを宣教しました。
そこで何が起こったのでしょうか?
3000人が信じたのです!
おそらく、主が働いておられた3年半よりも、その1日の方が多いと考えます。
このようにイエスが言われていることは、奇蹟の事ではないはずです。
もし、それが奇跡だとしたら、より偉大な奇跡は何でしょうか?
イエスがベタニヤの墓に行かれた時に、立って「ラザロよ。出て来なさい。」と叫んだのは、肉体に関する奇蹟だったはずです。
死んでいた者が出て来ました。
ラザロの姉妹が言いました。
「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
イエスの最大の御業はこの肉体に関する奇跡です。
それを超えた奇跡を行った人がいるでしょうか?
自然の力に関する奇跡の中で何が一番大きかったのでしょうか?
水をぶどう酒に変えたことでしょうか?
それとも、パンや魚を増やしたことでしょうか?。
それとも、風や波を制御したことでしょうか?
誰もそのようなことを行う事はなかったのです。
しかし、キリストの最大の御業は父を現わすことでした。
イエスが地の果てまで福音を運ぶために、11人からなる小さな集まりに福音を託しました。
そして、イエスはこの地上を去って行きました。
その時、イスラエルの少数を除いて全世界が異教の闇の中に失われてていたことに気づくはずです。
しかし、300年の間にキリスト教は異教ローマ帝国のほぼすべての宮を閉鎖し、改宗者の数は数百万人に上りました。
まさにこれこそが偉大な御業です。
何世紀にもわたって、イエスは今なおこの宣教を続けておられます。
六番目に、神の僕たちの祈りを聞くという神の約束に注目してください。

「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。
父が子によって栄光をお受けになるためです。
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」
(ヨハネの福音書14章13、14節)


さて、ある人が声を張り上げてこのように言います。
「私は神の子供、イエス・キリストの名において神にこのことをお願いしました。
しかし、神はこの願いを聞いてくださりませんでした。」
本当に、彼は主の御名によって求めたのでしょうか?
神の御名によって求めるということは、神の権威によって求めることです。
そして、イエスの啓示に基いて祈ることです。
それは主が私たちにこのように述べているかのようです。
「あなたがたが、わたしの権威によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」
ゆえに、私たちに必要なのは、主の御心を理解し、わたしたちが求めるものに対して主の権威を持っていることを確信することです。
七番目は私たちの主には一つの目的があるということです。
13節の最後の部分には「父が子によって栄光をお受けになるためです」と書かれています。
地上におられた間は、主イエスは父なる神に栄光を帰すことを喜びとしていました。
しかし、今は、神の民が御父から与えられた使命を成就させることによって、御父の心の喜びとなるのです。
人が救われるたびに御父の栄光となり、御子の喜びとなるのです。
そして、私たちが御言葉に従って行なうことは、すべて父の栄光を受けることとなるのです。


講演47 約束の慰め主

「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」
イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」
イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。
このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
(ヨハネの福音書14章15~26節)


ヨハネの福音書のこの部分には、豊かで充実した内容が含まれています。
ゆえに、これを一度で取り上げるのはためらわれます。
しかし、この部分は他の部分と非常に密接に関連しているため、分割すると内容を損なうことになるのではないかと感じます。
ここで、強調する必要があることがいくつもあります。
まず、慰め主という約束があります。
「慰め主(Comforter)」という言葉は面白い言葉です。
これはギリシャ語の「パラクレートス(Parakletos)」から翻訳されています。
つまり、これは困ったときに助ける人、他人の側に来る人を意味する合成語です。
ヨハネの手紙第一2章1節では「弁護してくださる方(Advocate)」という単語がありますが、これは原文と全く同じ単語です。
「慰め主(Comforter)」という言葉には、心に訴えかける優しさと尊さがあります。
結論から言うのであれば、私たちの言語において、ギリシャ語をこれほど適切に表す他の言葉は存在しません。
なぜなら、「パラクレートス(Parakletos)」はまさに慰め主のことだからです。
英語の単語「慰め主(Comforter)」も合成語です。
「慰め主(Comforter)」は二つのラテン語から成り立っています。
「(con)」と「(fortis)」です。
「(con)」の意味は「一緒にいる」という意味です。
「(fortis)」の意味は「強化する」という意味です。
つまり、「慰め主(Comforter)」とは実際には仲間によって強化される人を指します。
これは聖霊の偉大な働きの一つです。
「パラクレートス(Parakletos)」とはあなたの側に来て助けたり、協力する人のことを指しており、その言葉は正しく使われています。
「弁護してくださる方(Advocate)」とはあなたがたの法律上の困難のときに助けに来る人のことです。
聖霊はこのすべてを行っています。
聖霊は私たちの祝福された主の約束どおり、天から来られクリスチャン生活の中で起こるあらゆる危機、あらゆる困難の時に私たちを助けてくださいます。
聖霊は私たちと共にいることで私たちを強くしてくださいます。
主イエスが慰め主、聖霊の性格をいかに明確に指摘しています。
まず、主がどのように強調しておられるかに注目してみましょう。
17節の最後の箇所について考えてみましょう。

「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」
(ヨハネの福音書14章17節)


また、前の節ではこのように語られています。

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。
その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」
(ヨハネの福音書14章16節)


私たちの主は、父なる神に人格があり、子なる神に人格があり、聖霊なる神にも人格があることを私たちに理解させようとしなかったのであれば、この男性代名詞は使われることがなかったはずです。
一つの神にありながら、三つの人格があるのです。
私は多くの本物のクリスチャンが、他の点では健全で正統派であるにもかかわらず、聖霊について不完全な考えを持っているのではないかと思うことがあります。
ゆえに、私はこのことを強調します。
私たちは人々が聖霊を「その方(性別なし)」と言っているのをよく耳にします。
ローマ人への手紙8章に書かれていることは完全な真実です。

「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」
(ローマ人への手紙8章16節)


ギリシャ語で「霊」という言葉は中性です。
したがって中性代名詞として読むのが正解なのです。
上記の聖句を正確に伝えるなら「聖霊ご自身が、わたしたちの霊にわたしたちが神の子であることを証しして下さる」と訳すこともできます。
主イエスが教えられているのは、聖霊は非人格的な影響力ではなく、聖霊は単に人の心や精神に注ぎ込まれる感情の波でもなく、聖霊は神性の人格であるということです。
父なる神が御子を遣わし、御子によって、この世で33年間という驚くべき使命を果たしてきました。
そして、今、御父と御子は聖霊を遣わしたのです。
聖霊は約2000年間という驚くべき年月にわたって使命を果たしてきました。
その間に神の恵みの福音は全世界に広まり、奇跡を起こし、信仰をもって受け入れた様々な場所の人々の人生を変えてきました。
ここで、主がここで述べられている御聖霊の働きについてのディスペンセーション的な区別に注目してください。
イエスがこのように述べています。

「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。
しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」
(ヨハネの福音書14章17節)


「その方はあなたがたとともに住み」という表現に注意してください。
新しい時代の教会を形成するために、聖霊が下ってきました。
そして、すべて信じる者の内に宿りました。
それは、あの驚くべきペンテコステの日から何世紀にもわたって確認できる真実です。
過去、何世紀にもわたって、聖霊は世界で働いており、信じる者たちとともに住んでいました。
使徒ペテロは、箱舟が準備されている間、ノアがどのように聖霊によって宣教したのかを語っています。
また、聖霊は長老たちの特別な任務に就かせました。
聖霊はモーセの時代に荒野で神の民とともにいました。
聖霊は律法の時代を通じて地上の聖徒たちとともにありました。
ダビデはこのように祈っています。

「あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。」
(詩篇51編11節)


この祈りはダビデの生きていた時代においてはふさわしい祈りでした。
しかし、現在のクリスチャンにとっては適切な祈りではありません。
なぜなら、イエスはこのように言われているからです。

「その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」
(ヨハネの福音書14章16節)


しかし、旧約聖書の時代においては、聖霊は人々のもとに来て、宿り、彼らの内に、彼らを通して、そして彼らと共に働いています。
聖霊は「ともにおられるため」です。
特にイエスが地上におられたときには、聖霊がイエスに計り知れないほど与えられていました。
それは真実です。
そして、イエスはペンテコステに始まる新しい時代、新しいディスペンセーションを待ち望み、聖霊は「ともにおられるため」と言われたのです。
そして、これは私たちが生きているディスペンセーションの輝かしい特徴的な真実です。
この時代の聖霊は、主イエス・キリストを信じるすべての信者のうちに住んでいます。

「またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。」
(エペソ人への手紙1章13節)


そして、今、このように言うことができます。

「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」
(ローマ人への手紙8章9節)


これは、キリストの性質を持たない人はキリストのものではないという意味ではありません。
使徒はここで聖霊という御方について語っているのです。
ゆえに、この恵みの時代においては、私たちは神のところに行って聖霊をくださるように求める必要はありません。
聖霊が私たちの内に住んでいます。
主は私たちを主イエス・キリストにある信者として封印してくださいました。
私たちが本当に必要としていることは、聖霊が宿っていることを認識し、私たちの心と生活の中で聖霊がご自分の思い通りになるようにすることです。
それが私たちが聖霊に満たされ、聖霊に支配されるということです。
そして、内に宿っている聖霊によって、私たちにとってキリストが現実のものとなっていることに注目してください。
主イエス·キリストは去って行きました。
しかし、イエスはこのように言っています。

「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」
(ヨハネの福音書14章18節)


イエスは信者のうちに住むために、聖霊となって来られています。
そして、このように言われました。

「 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。
しかし、あなたがたはわたしを見ます。」
(ヨハネの福音書14章19節)


彼らは信仰によってイエスを見て、信仰によってイエスの臨在を認めるのです。
私たちには信仰によって、キリストが私たちの心の中に住まわれると語られています。

「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」
(ヨハネの福音書14章20節)

私たちが神に従順に歩む者として、神は貴重で素晴らしい方法で私たちにご自身を現されると言われています。

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」
(ヨハネの福音書14章21節)


イスカリオテではないユダは信仰的な使徒です。
しかし、このことを理解せずにこのように尋ねました。

「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」
(ヨハネの福音書14章22節)


そして、イエスは答えました。

「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。
そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
(ヨハネの福音書14章23節)


言い換えるのであれば、従順な信仰者は内在する聖霊の力によって父と子との交わりを楽しむことができるのです。

「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。
あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。
(ヨハネの福音書14章24節)


ここで強調されている 2つの点に注目してください。
15節に戻りと「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」と書かれています。
もう一度23節を読んでみましょう。
「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります」と書かれています。
キリストの戒めを守ることと、キリストの言葉を守ることの違いとは何でしょうか?
さて、私たちの主が個人的に、もしくはは聖霊によって、明確に語ってくださることは多くあります。
多くの場合において、主はご自身の意志を明確にしてくださいます。
主は私たちに何をさせようとしているのか、どのように生きるべきかを正確に示してくださいます。
例えば次の聖句があります。

「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。
もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」
(ヨハネの手紙第一2章15~17節)


クリスチャンは、不従順の道に入ることはできません。
また、世を追い求め、世を愛することはできません。
それは、神の聖霊からの明確な命令があるからです。
もしくは、このようにも書かれています。

「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。
正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」
(コリント人への手紙第二6章14節)


そこには、神の聖霊による明確な命令があります。
ここでイエスが「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」と言われています。
私たちが聖書を調べてゆくならば、主が神のみこころを現わしていることがわかります。
それは福音書の中にあるように、主が個人的に、もしくは新約聖書の他の箇所にあるように聖霊によって現わされているのです。
そして、従順な信者は、そこに現わされたみこころに喜んで従うのです。
主から直接命令を受けたとき、その者はこのように言います。
「私には議論したり、理屈で考える権利はありません。
クリスチャンとして、主がおっしゃることを行うことが私の権利なのです。」
しかし、主イエスはこれ以上のことを述べました。
「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」
これはどういう意味でしょうか?
これは単に直接の戒めを守ることだけではありません。
説明してみましょう。
ここに私たちがメアリーと呼ぶ幼い女の子がいます。
未亡人の母親の愛する娘です。
彼女は学校に通っています。
母親は娘のことを気遣っています。
そして、母親はメアリーには多くの重いレッスンと責任があることを知っていました。
ゆえに、必要以上に家での仕事をさせないようにしていました。
もちろん、賢い母親として、娘が果たすべき義務があることを理解していました。 娘には「自分の部屋のことは自分でやるべきです。
自分の服は自分で干してください」と言いました。
あなたはいろいろな娘を見たことがあるかも知れませんが、みんながそうではありません。
そして、私はあなたにいろいろなことを期待するようになります。
メアリーは母親を愛しているので、母親に従います。
ある朝、学校に行くために部屋を出ようとした彼女は、物が散らかっていることに気づきます。
「母親は私が出かける前に必ず部屋の掃除をしなければならない」と言っていました。
遅れるかもしれませんが、部屋の掃除をする必要があります。
メアリーは従順な女の子になるためには母親の命令を守らなければなりません。
それで彼女は自分の部屋を片付けてから、軽い気持ちで学校に走り出します。
ある日、メアリーは学校から帰ったらすぐに午後からテニスをしに行こうと心に決めていました。
そして、急いで家に帰ります。
家に入ると、母親が近所の人と話しているのが聞こえてきました。
母親は「気分が悪い」と言っています。
今晩、来客があるんだけど、一日中頭が痛くて、夕食の準備もあるし、ほとんどできません。
するとメアリーは「どうしたの、お母さん?
夕食の準備があるのに気分が良くないの?
お母さんは横になっていて、私がジャガイモの皮をむいて、肉をのせて、私がすべての準備をするよ!」と言いました。
しかし、お母さんは「今日の午後は友達と会ってテニスをする予定でしたね!
気を使わないでね」と言いました。
しかし、メアリーは「お母様、あなたがこんなにたくさんの仕事で病気になっているのを知ったら、私はテニスをするのは楽しくありません。
お母さんは私を必要としているから、私はあなたのためにこれらの仕事をやりたいのです」と答えました。
あなたにはこの違いがわかりますか?
その朝、メアリーは母親の戒めを守りました。
今、メアリーは母親の言葉を守っています
彼女は母親の言葉を聞いて、誰かに助けてもらえたら嬉しいことに気づきました。
そして「それは私の特権よ。楽しみに時間を費やすより、むしろお母さんを助けたい」と言っているのです。
そしてメアリーは上着を脱ぎ、エプロンをつけ台所で母親の言葉を守っています。
クリスチャンにとって、明確な命令を受けることが必ずしも重要ではありません。
クリスチャンにとって必要なことは。従順なクリスチャンとして主の意志を識別できるようになるために、神の考えを表現している聖書を読み、喜んで神の言葉を守り、献身的な奉仕を捧げることです。
最後に述べたいことは26節にあります。
祝福された聖霊は、これらすべての力です。
聖霊は神の真理を明らかにし、神の愛はこの方を通して私たちの心の中に注がれています。
今、聖霊は教師です。
イエスがこのように言っています。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
(ヨハネの福音書14章26節)


この場面を学ぶ神の民にとって、聖霊は神の特別な働きとなることを知ります。
聖書の前に座って、聖霊にその貴重な真理を教えていただくことは、刺激的な集会である種の歓喜に満ちたスリルを味わうことよりも、はるかに大きな意味があるのです。
スリルを求めて時間を費やすクリスチャンがたくさんいます。
彼らは、集会で興奮したり動揺する経験をすることが、聖霊の働きによる特別な現れだと考えています。
実際に、聖霊の大きな働きはキリストの教えを取り上げ私たちに明らかにします。
そして、キリストの真理を開示しキリストの聖なる言葉を私たちの魂にはっきりと明確に現実のものとします。
私たちが聖霊の教えに頼ってこの御言葉を読むならば、この御言葉は私たちに開かれ、ますます貴重なものとなるのです。


講演48 父の平和

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。
そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。
わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。
しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」
(ヨハネの福音書14章27~31節)


私たちの祝福された主とその弟子たちが、過越の祭りを守っていた晩餐の席から立ちあがり、教会のすべての祭りの中で最も神聖な儀式と呼ばれる、主の晩餐と呼ばれる行事が行われたのは、おそらくこの時です。
イエスは彼らの足を洗い、イエスの来臨と、父の愛と、慰め主の到来とを告げられました。
そこで、彼らは共にに立って、ゲツセマネへの道を歩み始めました。
そこでは、祝福された主が、さばきと十字架に向かう前に、悲しみの時に入ることになっていました。
このことが話された状況を考えると、イエスの言葉は不思議な力を持っています。
イエスはこのように言われました。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。
わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」
(ヨハネの福音書14章27節)


イエスが地上に来られた時、イエスは平和をもたらす方として人間に示されました。
預言者イザヤは、救い主キリストの誕生の700年前にキリストの御名をこのように預言していました。

「その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」
(イザヤ書9章6節)


そして、御使いたちはイエスの誕生をこのように賛美しました。

「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
(ルカの福音書2章14節)


しかし、今日、私たちの心を占領するほどに悲しいことは、この19世紀世紀にわたる福音宣教が行われても、この世界はいまだに平和を知らないということです。
主は去られる前に、あることが起こることを示されました。
その理由についてこのように記されています。

「それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
(ルカの福音書19章44節)


また、このようにも書かれています。

「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
(ヨハネの福音書1章11節)


イエスは彼らの前に王として現れましたが、民はこのように言いました。

「この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。」
(ルカの福音書19章14節)


ピラトの法廷において、イエスはこの特別な立場、すなわち、王としての立場において拒まれました。
ピラトは尋ねました。

「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」
(ヨハネの福音書19章15節)


そして、ユダヤ人たちは答えました。

「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
(ヨハネの福音書19章15節)


この時以来、ユダヤ人たちは「カイザル」の下で苦しむことになります。
全てがこの恐ろしい失敗のせいです。
救い主はこの地上去る前にこのように言われました。

「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。
わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」
(マタイの福音書10章34節)


つまり、もし人が神と、神が与えてくださった真理によって自由になることを受け入れならなければなりません。
もし、拒むのであれば、人々は罪とそのすべての恐ろしい結果に縛られたままになるのです。
弟子たちがイエスにこのように尋ねた時のことを思い出してください。

「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。
あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
(マタイの福音書24章3節)


そして、イエスは答えられました。

「また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。
これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。」
(マタイの福音書24章6節)


イエスが最後にエルサレムに馬で入られるとき、幼子たちは歌いました。

「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」
(ルカの福音書19章38節)


この違いに注目してください。

御使いたちは「地の上に、平和が」と歌いました。
子供たちは神の教えに従って「天には平和」と歌いました。
なぜなら、イエスは喜んで世の人々と共に分かち合い、平和を持って天に帰ろうとしていたからです。
しかし、今、イエスは平和の人として神の右に座っておられます。
そして、地上を去る前に、イエスは弟子たちにこのように言いました。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。
わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」
(ヨハネの福音書14章47節)


私はこの聖句には2つの異なる平和の特徴があると考えています。
最初にイエスが残した平和、すなわち「あなたがたに平安を残します」と言っています。
そこには罪の問題があると信じています。
罪が障害となって、神と人との間に平和はあり得なません。
私たちはイザヤ書の中で2回繰り返してこのように読むことができます。

「悪者どもには平安がない。」
(イザヤ書48章22節)


続いて、ヤハウェと偶像との論争が続きます。
唯一の真実の生ける神の代わりに、何か他のものを置く人々には平安がありません。
そして次に、イザヤは救い主、ヤハウェのしもべ、私たちの主イエス・キリストがこの世に来られたことを描写し、このように言っています。

「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
(イザヤ書53章3~5節)


イザヤは、神の祝福された御子がどのようにして自分の民に拒絶されることになったのかを語りました。
そして、その終わりに次の言葉で締めています。

「「悪者どもには平安がない。」と私の神は仰せられる。」
(イザヤ書57章21節)

このように、イエスは拒まれましたが、罪の贖いをするために十字架に行かれたのです。
そして、私たちの平和がもたらすための刑罰についての預言が成就されました
コロサイ人への手紙1章で私たちはこのように読むことができます。

「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。
地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」
(コロサイ人への手紙1章20節)

イエスが「わたしは、あなたがたに平安を残します。」と言われたのは、まさにこのことだったと考えます。
イエスは、罪の問題を解決し、人間が神と平和を築いて下さいました。
イエスは平和が築かれるまで天国には戻りませんでした。
義なしには神と平和はあり得ないことを覚えておくべきです。
イザヤ書にはこのように書かれています。

「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。」
(イザヤ書32章17節)


そして、イエスについてこのように書かれています。

「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」
(ヘブル人への手紙7章17節)


「メルキゼデク」は「サレム」の王でした。
「メルキゼデク」の意味は「義の王」です。
そして、「サレム」の意味は「平和です。」
聖霊がこのように述べています。

「まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。」
(ヘブル人への手紙7章2節)


平和から離れて義は存在していません。
その理由は、あなたも私も罪人ならば、神と和解することはできません。
かつて、旧約聖書の時代では、神は人に神と和解するように求めたが、誰もそれをすることはできていません。
なぜ、神と和解できないのでしょうか?
私には自分の罪を打ち消す力がないからです。
私の努力では罪を償うことはできません。
主イエス·キリストは、私たちの代理人として、十字架にかかって平和を作りました。
キリストの十字架の血によって平和を作りました。
ゼカリヤ書6章13節にはこのようにあります。

「彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。
その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。」
(ゼカリヤ書6章13節)


それは「父と子との間に平和の契約が結ばれる」ことを言っています。

御子が私たちの身代わりになって、罪の問題を解決し、罪深い哀れな人々と、悔い改めた罪人として神のもとに来るすべての人々に平和をもたらしました。
そして、私たちが神を信じる時にこのように言えるのです。

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
(ローマ人への手紙5章1節)


南北戦争の終わった時代、北軍の騎兵隊がリッチモンドとワシントンの間の道路に沿って進んでいたと伝えられています。
突然、南軍のぼろぼろの服を着た哀れな男が茂みから出てくるのが見えました。
彼は大尉である私に礼をして、息を切らしてこのように言いました。
彼は「飢え死にしそうです。
あなたは私を助けることができる。
何か食べ物がありますか?」と言いました。
大尉は「飢え死にしそうなら、リッチモンドに行って必要なものを手に入れたらどうでしょうか?」と言うともう一人は答えました
「そんな勇気はない。そんなことをしたら逮捕されてしまう。
3週間ほど前、私はすっかり意気消沈してしまい、南軍から脱走しました。
それ以来ずっと森の中に隠れて、北の戦線を突破する機会を待っていました。
なぜなら、もし逮捕されたら、戦時中に脱走した罪で銃殺されるだろうと分かっていたからです。」
大尉は彼を見て驚いてこのよう言いました。
「あなたはニュースを聞いていないのか?」
哀れな男はこのように言いました。
「何のニュースだ!」
そして、このように答えました。
「戦争は終わっているんだ。
平和になっているですよ!
2週間前、リー将軍はアポマトックスでグラント将軍に降伏しました。
南軍は終焉を迎えています。」
男は驚いてこのように答えたのです。
「二週間も平和が訪れたのに、私はそれを知らずに森の中で飢えていたのか?」
それが彼にとっての平和の福音でした。
「罪人よ、私の言うことを聞いてください!」
平和は2000年前に実現されています。
しかし、現在、何百万もの人々がそれを知らないために罪の中で死んでいるんのです。
あなたは神と和解する必要はありません。
あなたは自分の罪を償う必要はありません。
あなたには何もできません。
しかし、イエスはすべてを成し遂げられました。あなたはイエスの御名によって神のもとに行くことができます。
イエスがカルバリで成し遂げられ、あなたのすべての罪の問題は解決したのです。
あなたの罪を償うために十字架で死んだ方は、復活し、現在、神の右の座に着いておられます。
主に信頼し、贖い主として主を信じるすべての人々に平和が告げられています。
「神との平和とは、栄光にあるキリストです。
神は光であり、神は愛です。
イエスは死なれ語りつがれています。
敵意は神の上に置かれたのです」
イエスは「わたしは、あなたがたに平安を残します」と言っています。
あなたはそれを持っていますか?
「私は信仰によって義とされ、主イエス・キリストを通して神との平和を得ていることを神に感謝します」と言えるでしょうか?
しかし、それも神の恵みの一つの側面に過ぎません。
平和には別の側面もあります。
「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」
ここでイエスは「あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」と言われています。
私たちは厳しい日々と時代を生きています。
肉体的な心は非常に良好な状態であっても、大きな悲しみと苦悩を引き起こす心の悩みがあります。
それは、死別、経済的な問題、家族の試練、そしておそらく最も悲しいことに教会のトラブルによる痛みに耐えなければならないときです。
時々、人々が耐えなければならない最大の悲しみは、互いを信頼せず、愛し合っていないクリスチャン間の不和です。
彼らは互いに助け合うどころか、実際には互いの進歩を妨げているのだと私は思っています。
私たちはそのような状況に何度も遭遇しています。
以前、ある兄弟がやって来て、別の兄弟に、三人目のクリスチャンの兄弟についてひどい話を言い始めました。
ある人に「ちょっと待ってください」と話しかけられ、その人はこのように言いました。
「あなたはこの人を愛しているから、私にそんなことを言うのですか?」
そして、そこには私たちは世の中で耐えなければならない悲しみもあります。
確かに、繊細な心を打ち砕くような出来事が至る所で起こっています。
しかし、イエスは「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」と言われています。
イエスは悩める心に安らぎを語りかけます。
「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」
しかし、イエスはこのように言っています。

「そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。」
(詩篇69編20節)


それでも、イエスの霊は完全に平安だったのです。
今、神の御子の心を支配していたのと同じ平安を、主は私たちにも与えたいと願っておられます。
どのようにこの平安を得ることができるでしょうか?
イザヤ書26章3節にはこのようにあります。

「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」
(イザヤ書26章3節)


ここには神の愛、御心のままにすべてを働かせる無限の力を持つ神への隠された信頼と確信があります。
私たちには主がこのように言われるように主の御元に行くことが命じられています。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
(ピリピ人への手紙4章6、7節)


この聖句の本当の意味は「神の平和はあなたがたの心を「(軍隊のように)配置する」、もしくは「維持する」、「保護する」という意味です。
この平和をイエスがご自分の民と分かち合おうとされているのです。

「私の救い主が与えてくれる平安があります。
私はこれまで知らなかった平安があります。
そして、私が彼をさらに信じることを学んでから、私の道はより明るくなりました。」
この章の終わりとなる28節から31節では、困難な状況に直面しても私たちの主がいかに平安を保たれる理由が述べられています。

「わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。」とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。
あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。
父はわたしよりも偉大な方だからです。」
(ヨハネの福音書14章48節)


イエスは「わたしは去って行く」と語っています。
イエスが父の御元に行くことを、私たちは心から喜ぶべきです。
「キリストにあって私たちのもとから去った愛する者たちがいます。
彼らはどこへ行ったのでしょうか。
彼らは父の御元へ行ったのです。
彼らが父の家に入ったことを、私たちは心から喜ぶべきです。」

「父はわたしよりも偉大な方だからです。」
神であり、御子であるイエスが人間となりました。
イエスは地上に属している人間としての立場を取り、「父はわたしよりも偉大な方だからです」と言っていることを心にとめてください。
イエスは永遠の御子として、父と聖霊と共にいる者です。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」
(ピリピへの手紙2章6~8節)


イエスは、御父への服従として認められた立場を取られました。
そして、このように書かれています。

「そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。
それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。」
(ヨハネの福音書14章29節)


この聖句は、現在の世界で起こっている多くの事柄に当てはまるかもしれません。
もし、私たちが、福音が世に広まっている状況についての聖書の証しを持っていなかったら、落胆していたかもしれません。
2000年にわたる福音宣教を見るならば、福音は失敗だと言えるような恐ろしい出来事が起こっています。
福音宣教は失敗したのでしょうか?
いいえ、失敗ではありません。
人々は福音を受け入れないかも知れません。
ある人が「キリスト教はみすぼらしく失敗しているとは思わないか?」と言いました。
他の人が「キリスト教は失敗していない」と答えました。
いままで試みられたことがないのです。
示された通り、神は主の再臨まで続くであろう状況を、私たちに前もって知っているのです。
あなたが知っている通りに、神はすべては知られておられ、神はすべてを善へと導いてくださるのです。

「わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。
彼はわたしに対して何もすることはできません。」
(ヨハネの福音書14章30節)


あなたにも私にもそんなことは言えません。
私は50年間クリスチャンですが、そんなことは絶対に言えません。
この世の君主は悪魔であり、私の中にはまだこの世の君主を感じる何かがあります。
しかし、イエスにはそのようなものは全くありません。
イエスは罪を知りませんでした。
ですから、世の君主がイエスのもとに来た時、中にはドアを開けようと待ち構えている試みる者はいませんでした。
私はサタンの策略に警戒しなければなりません。
しかし、イエスの場合はそのようなことはありません。
イエスは永遠に罪がなく、汚れがなく、傷のない神の御子です。

「しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです。
立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」
(ヨハネの福音書14章31節)

「さあ、ここから行くのです。」
どこへ行くのでしょうか?
ゲッセマネ、そしてゴルゴタに行くのです。
何のために行くのでしょうか?
「しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです。」
これはキリストの働きにおける全焼のいけにえの側面です。
イエスは罪を消し去るためだけでなく、父なる神に栄光を帰すためにも死なれました。
神はこの世において、人間の悪行と不従順によってひどく卑しめられていました。
しかし、神の御子は人となり、十字架の死に至るまで従順だったのです。
キリストは父なる神に栄光を帰されました。
神はそのささげ物を通して、人類の罪によって失った栄光よりもさらに大きな栄光をお受けになったのです。
全焼のいけにえはこのことを物語っています。
キリストはご自身を、ささげ物として、そして香ばしい香りとして神に捧げられました。

しかし、神の栄光と私たちの救いは結び合わされました。
十字架の御業において栄光を与えられた神御自身は、義であり、イエスを信じるすべての者を義と認める事のできるお方です。

「私は愛の言葉を聞きます。
血をじっと見つめます。
そして、力強い犠牲を見ます。
そして、神との平和を得ます。」

その永遠の平和は、ヤハウェの御名のように確かなものです。
揺るぎない王座のように堅固であり、その平和は永遠に変わることなく続きます。
雲は去っては去ろうとも、嵐が空を吹き荒れようとも、血で結ばれたこの友情は変わらず、十字架はいつも近くにあります。
私は変わらず、キリストも変わりません。
キリストは決して死ぬことはありません。
キリストの愛は私のものではなく、安息の地であります。
キリストの真実は私のものではなく、絆として存在します。


講演49 まことのぶどうの木

「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネの福音書15章1~8節)


主が弟子たちとエルサレムの町を通り、屋上の部屋を出てゲッセマネへ向かっていた時に、主がこの言葉を話したと推測されます。おそらく、十分な根拠があると思われます。
彼らが宮のそばを通ると、宮の門の一つに美しい金色のブドウの木が彫られているのに気づきました。
主イエスは弟子たちの方を向いて、「まことのぶどうの木」だと言いました。
強調されるのは「まこと」という言葉です。
イスラエルはヤハウェのぶどうの木です。
詩篇80篇にはこのようにあります。

「あなたは、エジプトから、ぶどうの木を携え出し、国々を追い出して、それを植えられました。」
(詩篇80篇8節)


このぶどうの木の比喩は、詩篇や預言者の中でイスラエルの民を表すために繰り返して用いられています。
神はイスラエルを異邦人世界から分離させました、
それは、イスラエルが地上で神の証しとなり、神のために実を結ぶことが神のみこころだったからです。
ぶどうの木は、実を結ぶ以外にはほとんど役に立ちません。
ぶどうの木の木材で家を建てることはできません。
家具を作ることもできません。
燃料としてもほとんど役に立ちません。
火の中に投げ込んでも、ほんの一瞬燃えるだけで、すぐに消えてしまいます。
ぶどうの木は実を結ぶために生まれたのです。
神はイスラエルが実を結び、世界のすべての国々の前で御名を栄光に輝かせることを計画されました。
しかし、神は預言者ホセアを通して悲しげにこのように言われます。

「イスラエルは多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木であった。」
(ホセア書10章1節)


しかし、その木は自分のために実を結び、虚しい木となったのです。
そして、イスラエルは神のための実を結ばず、木と葉ばかりで、神のための本当の実を結んでいなかったのです。

イザヤ書5章にぶどうの木の描写があります。
ヤハウェはこのように言われます。

「彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。」
(イザヤ書5章2節)


その木はもはや、世界に対する神の特別な証し人ではなかったのです。
エルサレムが破壊され、イスラエルの民は異邦人の間に散らされました。
それ以来、何世紀にもわたって多くの苦難を受けながらも、彼らは唯一の神を証ししてきたのは真実です。
イスラエルは偶像崇拝に明け暮れる諸国民から浴びせられた苦難にもかかわらず、唯一まことの生ける神を認めてきました。
しかし、ヤハウェが世に遣わしたメシア、救い主の真理について、ヤハウェの証し人にはなりえませんでした。
スラエルは自分自身のために実を結んだのです。
主イエスはこれらすべてを予見して「まことのぶどうの木」と言われたのです。
他のすべての者たちは失敗しましたが、イエスはこの世で神の証し人となったのです。
イエスは神のために実を結んだのです。
しかし、イエスは去ろうとしていました。
すでに、悲しみの園へ、そして裁きの場、十字架へ、そして栄光へと向かって向かっていました。
イスラエルの代わりにイエスはどのようにして証し人となり、この世で実を結ぶことが出来るのでしょうか?
そうです、イエスはこのように言いました。

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」
(ヨハネの福音書15章4節)


イエスは自分をぶどうの木そのものとして描いています。
そして、イエスの尊い血によって神に贖われ、イエスに救い主、主を見出したすべての人々を、この世で父のために実を結ぶ生けるぶどうの木の枝として描いています。
この8節の大きなテーマは実を結ぶことです。
それは主との交わりを持つ状態です。
特定の教義的見解を持つ人々が、聖書のある箇所を自分たちの教義に読み込もうとするのはよくあることです。
例えば、超カルヴァン主義者、極端なカルヴァン主義者は、彼らの五つの教義の要点として聖書を当然のごとく読み込んでいます。
最近、ルカの福音書15章が本来の意味から外れてしまい、放蕩息子のたとえ話が背教者の立ち直りを表すものとして解釈されているのを耳にしました。
彼らは、息子はいつまでも息子であり、豚の中にどれほど堕落しても、最終的に悔い改めて、父のもとに戻るまでは息子であり続けると解釈しています。
主イエスはルカの福音書15章で、永遠の教理の安全性について語っているのではありません。
私の個人的な見解としては、その教義の聖書的妥当性には何の疑問もありません。
しかし、ルカ15章には律法学者やパリサイ人がつぶやいて「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする」と言ったことがと書かれています。
そして、イエスは、そのようにすることがご自身の栄光であることを示されました。
なぜなら、イエスは罪人を探し出して救うために来たからです。
それからイエスは、失われた羊とそれを追いかける羊飼い、失われた銀貨と銀貨を捜す女、そして迷い出た息子と息子が戻ってきた時の父親の歓迎ぶりという三つのたとえ話をされました。
これらはすべて、罪人が悔い改めることに天が関心を抱いていることを示すためのものです。
これらのたとえ話は何が言いたいのでしょうか?
このように書かれています。

「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」
(ルカの福音書15章7節)


このたとえ話は背教者の改心について語っているのではありません。
罪人の救いについて語っています。
さて、超カルヴァン主義者の心は、信者の永遠の安全という教理の片側だけにとらわれています。
彼らはルカ15章はキリストが背教者の問題を扱っていると考えていたのです。
極端に反対側に立つ私たちの親愛なるアルミニウス派の友人たちは、救われた後も、注意しないと神との関係を壊してしまうようなことが起きるかもしれないと恐れています。
それで彼らは「枝が実を結ばないのであれば、ぶどうの木から切られるかも知れない」と言っています。
実を結ばないクリスチャンは永遠に失われた者だとみなしています。
他の箇所では、主は罪人たちに神の恵みを示しています。
この時は、主は聖徒たちの交わりと、交わりの結果としての実を結ぶことの大切さを語られました。
ここでは、主イエスは「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です」だと言われました。
ぶどうの木は彼方にありますが、私たちは天におられる方と結ばれています。
主はこのように言われます。

「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」
(ヨハネの福音書15章2節)


「実」です、そして「もっと多くの実」です。
もし、私たちが生けるぶどうの木の枝であるなら、もし、主イエス・キリストを救い主として信じているなら、この世に残された唯一の偉大な使命は、神の栄光のために実を結ぶことです。
でも「実とはどういう意味ですか?」と尋ねる人がいます。
私たちはいろいろな方法を考えるかもしれません。
ガラテヤ人への手紙5章22節には、神の聖霊が信者の生活の中に生み出すクリスチャンとしての特徴である実が羅列されています。

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
このようなものを禁ずる律法はありません。」
(ガラテヤ人への手紙5章22、23節)


これらはすべて、御父の栄光のための実です。
あなたは主イエスへの信仰によって救われたと告白していますか?
あなたの生活の中に、御霊の実が表現されていますか?
キリストとの交わりの中で生きているなら、それは現れるはずです。
もし、これらのことと明らかに反する生き方をしているのであれば、救いのためにキリストを信じたとしても、あなたは神との交わりの中で生きていないということを確信しているはずです。
愛の代わりに苦々しさ、悪意、不親切がありませんか?
喜びの代わりに憂鬱ではありませんか?
平和の代わりに不安がありませんか?
寛容の代わりにいらだちがありませんか?
優しさの代わりに厳しさがありませんか?
善良さの代わりに道徳的な悪が現れ始めていませんか?
信仰の代わりに心配と自信のなさがありませんか?
柔和の代わりに傲慢と高慢がありませんか?
節制や自制の代わりに肉の欲望に支配されていませんか?
もし、そうならばあなたが何を告白しようとも、神との交わりの中に生きていないことを物語っています。
なぜなら、私たちが主との交わりの中で生き、御霊の力の中で歩む時に、御霊の実はあなたの歩みに現れるからです。
実は働きの結果として現れるとも言えるかもしれません。
実と働きは区別しなければならないという話を耳にすることがあります。
言い方によっては正しい表現です。
しかし、使徒パウロがローマ人への手紙の中でこのように言われていることを覚えておくべきです。

「私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。」
(ローマ人への手紙1章13節)


その者が貴重な魂を獲得し、信者を築き上げることについて考えることも、これもまた神の栄光のための実です。
私たちが救われているなら、これらの実のこの側面を深く心に留めるべきです。
私たちは神に栄光を帰すことを求めます。
そして、他の人々は主イエス・キリストのもとに導く喜びを得ています。
働きとは実は別のものですが、忠実な働きの結果は、私たちがキリストの裁きの座に立つ日にも残る尊い実となるのです。
ぶどうの木の枝として、私たちは実を結ぶ責任があります。
私たちは自分の本当の状態、あるいは境遇について、よく考えなければなりません。
もし、私たちの生活がその信仰告白を裏付けていないなら、私たちは信仰告白について慎重になるべきです。
もし、私たちが恵みによって救われたと語るのを人々が聞いても、その証しがないなら、人々は意味のないものとして、火の中に投げ込み、私たちを焼いてしまいます。
「神の恵みによって、少しでも実を結んでいると願っています。
しかし、実りはごくわずかのように思えます」と言う人がいます。
私たちが謙虚になればなるほど、そのことに気づくはずです。
本来、あるべき実りと比べて、実りはわずかしかなかったと感じてしまいます。
私たちは次の言葉から勇気を得ましょう。

「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」
(ヨハネの福音書15章2節)


父なる神は農夫であり、常に生きているぶどうの木の枝を世話しておられます。
そして、少しでも実がなっているのを見ると「ここまでは順調ですが、もう少し実が欲しい」と言うのです。
だから神は、私たちの心を御自身のもとに引き寄せ、御自身の栄光のために実を増やさせるために、苦難と深い悲しみと嘆きのしぶきで、刈り込みと清めをなさるです。
枝が生き物のように意識を持っていたとしましょう。
農夫が大きな鋏を持って近づいて枝を切ったり切ったりし、あらゆる種類の邪悪な昆虫を駆除するために農薬を吹きかけたとしたら、枝は「ああ、もうおしまいだ」と言うかもしれません。
わたしはどれほどの苦しみに耐えなければならないのかと思うかも知れません。
どれほどの悲しみを経験しなければならないのかと思うかも知れません
刈り込みによって多くの痛みがもたらされ、農薬によってわたしは多くの危険にさらされてしまうと考えるかも知れません
しかし、枝はやがて、それがより多くの祝福とより良い実を結ぶためのものであることを知るのです。
神が私たちと関わる問題はすべて同じです。
たとえ、厳しい試練を経験するよう求められても、私たちは落胆してはなりません。
神と共に歩みたい、神のために生きたい、生か死かに関わらず、あなたの経験を通してキリストがあがめられることを願っているとあなたは言いました。
神は、あなたのこの願いが叶うように、あなたに驚くべき、苦く、特異な経験を与えるかもしれません。

「私は主に、人生と信仰とあらゆる恵みにおいて成長し、主の救いをもっと知り、主の顔をもっと熱心に求めることができるように祈りました。
私にこのように祈ることを教えたのは主です。
私は主が祈りに答えてくれると信じています。
しかし、主は私を絶望に追い込むような道に導きます。」

私たちは神の聖霊がこのように言っているのを聞くことができます。

「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。
それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」
(ペテロの手紙第一4章12、13節)


この世において、神が時として親友を、そしてとりわけ御子を、最もひどく扱われます。
このように見えることは、大変興味深く、驚くべきことです。
ですから、私たちが大きな試練や深い水のような苦難、そして多くの悲しみを経験しなければならない時が来ます。
しかし、それは神が私たちを愛しておらず、私たちを気遣っておられないという証拠ではありません。
父は御子を愛しています。
私はそのように言えるでしょうか?
もし可能ならば、イエスが「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ時よりも、父が御子を愛した以上に私は愛したいのです。
しかし、イエスの苦しみと悲しみの死は、彼の誕生と時と全く同じです。
その栄光も、いかなる威厳も、地上ではその実と比較できるものはありません。。
神は御子を愛しておられます。
私もそのように言えるでしょうか?
もし、可能ならば、イエスが「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ時、神は御子を今まで以上に愛したはずです。
なんという果実なのでしょうか?
イエスは痛めつけられ、悲しみ死なれたのです。
この死はイエスの誕生と時と同じで、地上にあるどんな栄光も威厳も与えることのできないものです。
このように、父なる神は私たちがより多くの実を結ぶことができるように、生けるぶどうの木の枝を刈り込み、清めてくださるのです。
イエスはこのように言われました。

「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」
(ヨハネの福音書15章3節)


イエスは弟子たちにこのように語りかけておられます。

「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです」
(エペソ人への手紙5章26、27節)

「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
(テトスへの手紙3章5節)


彼らは清められ、今や御言葉によって清められ、交わりの大切さを自覚し、主にとどまることを覚えました。

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」
(ヨハネの福音書15章4節)


「とどまる」とは「交わり」を意味します。

「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。
同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」
(ヨハネの福音書15章4節)


私たちはこのことを忘れていることはないでしょうか?
長年にわたり、説教者はおそらく同じ聖書箇所から何度も説教してするために聴衆と向き合うために進み出ます。
その者は自信満々に出て行きますが、神の聖霊の働きを妨げるようなものはないか、苦い根が出てこないかを祈る必要性を忘れてしまうことがあります。
そして、神の御前にいて心をさぐる時を過ごすことさえ忘れているのです。
彼は壇上に上がり説教を始めました。
しかし、何も起こりません。
何も起こらないのは、彼が意識的に生けるぶどうの木にとどまっていなかったからです。
皆さんは、最初の教会の牧師に召された若い牧師の話を聞いたことのあるかもしれません。
彼は神学校を卒業したばかりで、自分の能力に強い自信を持っていました。
彼は優秀な成績で卒業し、誰もが彼が第二のヘンリー・ウォード・ビーチャーとなることを確信していました。

注)ヘンリー・ウォード・ビーチャー(Henry Ward Beecher)
米国、南北戦争時代、奴隷制度の廃止を支持した牧師、メッセンジャーです。


聴衆は、彼が偉そうな態度で説教壇に上がるのを見守っていました。
彼は聖書の箇所を読み上げましたが、すぐに説教の内容が頭から消えてしまいました。
何もかもが消え去ってしまいました。
彼は聖書の箇所をもう一度読み返しましたが、それでも自分が説教しようとしていた内容を思い出すことができません。
彼は三回、試みました。
そして、「もう一度聖書の箇所を読みたい」と言い、説教が思い出されることを期待しました。
しかし、何も思い出せず、聴衆に視線を向けて「申し訳ありませんが、今朝はお話できません」と言いました。
彼は頭を下げ、よろめきながら階段を降りていきました。
終わりに、一人の老教会役員が彼のところに来て言いました。
「若者よ、もし降りてきたのと同じ道を登っていたら、登ってきたのと同じ道を降りていたかもしれませんよ!
ほら、自信過剰になって、前にやったことがあるから、またできると信じてしまうのは簡単です。
だから、常に主の前に留まり、常に主と交わりを持つことの必要性を忘れてしまうのですよ!」
クリスチャン生活のあらゆる細部においても同じことが言えます。
私たちは大きな祝福と素晴らしい勝利の日を経験します。
そして、その力に身を委ねて次の日も生きようとします。
しかし、慌ただしい日々の中で、神の前に立ち、神の前に静かな時を過ごすことの大切さを忘れてしまうのです。
やがて、破滅と失敗が訪れ、私たちは心を痛め、一体何が起こったのかと自問します。
イエスはこのように答えています。

「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。
同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。
(ヨハネの福音書15章4、5節)


さて、2節の「実を結ぶものはみな」という順番に注目してください。
続いて、父は「もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」とあります。
そして、5節には「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」とあります。
「実」、「もっと多く実」、「多くの実」という言葉を見てください。
私たちは信じた頃に神と共に歩み、いろんな意味で主に依存して生きていました。
素晴らしい方法が与えられ、神との交わりと共に生きることを楽しみ、霊的生活の実を表現し、神に用いられ、キリストのために魂を獲得し、父なる神を讃える人生の実を結んだたくさんの人々を知っています。
そして、その時、何かが起こります。
それが何なのか、他に誰も知らないと思います。
外見上は生活はこれまでと変わらず正しく、説教もこれまでと変わらずはっきりしています。
でも、キリストの香りは消え、キリストとの交わりを歩んでいるという証しも消え、力も祝福も感じられなくなったのです。
私たちが歳を重ねるごとに実が減るのではなく、増えていくことが神の御心です。
詩篇には、神と共に歩んできた年老いた聖徒たちについてこのように書かれています。

「彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。」
(詩篇92編14節)


しかし、実を結ぶとは、私たちが神の前に謙虚に歩み続けることによってのみ得ることができるのです。
神の聖徒が、誰であれ、恵みのうちに年老いていくのを見るのは素晴らしいことなのです。
人は歳を重ねるにつれて、年齢とその弱さを、短気や不親切な批判など、付き合いにくくすることの言い訳にしているように見える人がいます。
しかし、谷を下り、川の向こうの天の都を仰ぎながら、顔には天の栄光が輝き、心には神への信仰が宿り、人生にはキリストの恵みが表れている人々はとても美しく見えます。
歳をとっても実を結びます。
「実」、「もっと多く実」、「多くの実」です。
さて、ここで失敗するなら、交わりがなく、交わりも維持されなければ、祈りの精神が欠如しているのならば、そして、神の御言葉が無視されるなら、その証しはすぐに何の価値も持たなくなります。

「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」
(ヨハネの福音書15章6節)


ここで注意してほしいのは、枝は実を結ぶものだということです。
人々は、キリストの者だと告白しながらも、神との交わりを持たず、キリストの御霊を現さない人々の証しには何の価値もありません。
私はクリスチャンの家庭で育ったと思われるかわいい少年と話をしました。
私は「君のお父さんはクリスチャンじゃないの?」と尋ねました。
少年は皮肉っぽく唇を歪めて「クリスチャンだと言っているけど、何の努力もしていないんだ」と答えました。
その父親の証しは少年にとって何の重みも持たないことは明らかでした。
人は哀れな魂を助けたいという願望に駆られて、キリストのために何かを伝えようとすることがたびたびあります。
彼らは正しい言葉を伝えようとしますが、強調していない人生を過ごしていなければ、エマーソンがかつて言ったような結果になります。
「あなたが何かをとても大きな声で語りますが、あなたが何と言っているのか私には聞こえない」ことになります。

注)ラルフ・ワルド・エマーソンは、19世紀の著名な哲学者であり随筆家です。

神との交わりの中で生きる人の人生は、メッセージに力を与えます。
「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。」
「しかし、もし人がわたしにとどまっていないなら、彼は枝のように捨てられる」そして人々はそのような告白を退け、その証しを拒みます。
その反面「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」、それは隠されています。
つまり、わたしの言葉はあなたがたに「とどまる」ということです。
では、これらの言葉はどこから来るのでしょうか?
まさに、神の祝福されたこの書物の中にあります。
このように、キリストにとどまっている信者は、御言葉を糧している者であって、ただ、ひとかたまりの真理を持っているだけの者ではありません。
ある人々の首を切られたら、神の真理をすべて失ってしまいます。
しかし、他の人々の首を切っても、真理は依然として心の中にとどまっています。

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」
(ヨハネの福音書15章7節)


ここに祈りが聞き届けられる奥義があります。
私たちは神に多くのことを願います。
しかし、与えられないことがあります。
なぜ、私たちの祈りの多くは天に届かないように思えるのでしょうか?
それは、私たちがキリストにとどまっていないからです。
神は交わりを失われた人々の祈りに答えるとは約束されていません。

「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネの福音書15章8節)


私たちは自分の心に問いかけるべきです。
「私は本当にキリストにとどまっているのだろうか?
私は、交わりを妨げている何かを良心に問いかけているのでしょうか?
私が祈りの中でひざまずいているときに出て来ることが、祈ることを困難にしていないでしょうか?
まるで、天が青銅でできているかのように何も聞こえないと思わせていないでしょうか?」
もし、そうなら、神が私たちにそのことを裁く恵みを与えてくださるように求めましょう。
そして、たとえそれが目や手のように身近で大切なものであっても、それを取り去る恵みを与えてくださるように求めるのです。
そうすれば、人生においてキリストとの交わりを妨げるものが何も許されません。
ただ、父なる神の栄光のために多くの実を結ぶことができるのです。


講演50 愛にとどまる

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」
(ヨハネの福音書15章9~17節)


主イエス・キリストのこの最後の素晴らしい説教が記録に残され、何世紀にもわたって保存されることが許され、聖霊によってこの素晴らしい特権を私たちに与えてくださいました。
この特権によって私たちは、主がゲッセマネへ、この場所から裁きの場と十字架へ向かわれる直前に、弟子たちに語った優しく慈れみに満ちた言葉を現在においても聞くことができます。
使徒ヨハネが4、50年も経ってから、なぜこれほど詳細な説教を私たちに伝えることができたのかを考えたことがあるでしょうか?
これらの言葉は西暦30年頃に語られ、ヨハネはこの福音書を、紀元1世紀の8、90年代にエペソも住んでいた老人時代に書いたと考えられています。
以前、年老いた教会教父の一人が、イエスがヨハネを召されたとき、彼はまだ青年であったと語っていることを残っています。
ですから、彼が他の弟子たち全員よりも長生きしたとしても、驚くには当たりません。
ヨハネがこの福音書を書いた時、ペテロが殉教してからすでに3、40年経っていたことが知られています。
地上でイエスを知らなかったパウロは、その1、2年前に殉教しています。
マタイはスキタイで槍に刺されて殺され、トマスはキリストを宣べ伝えるためにインドへ行った際に殺されたと伝えられています。
他の使徒たちは皆は、ずっと前にキリストのもとへ旅立っていました。
ヨハネだけが残され、彼は過去を振り返り、この地上で主イエス・キリストと交わっていた頃を思い返すことができたのです。
ヨハネは霊感の影響され、この素晴らしい記録を書くために席を着いたのです。
ヨハネはこのように言っています。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
(ヨハネの福音書1章14節)


ヨハネは、救い主との会話を、他に類を見ないほど詳細に記録しています。
ニコデモとの会話、井戸端の女との会話、そしてその他多くの登場人物との会話です。
そして今、この驚くべき13章から16章には、主の最後の説教と、17章の大祭司としての祈りが記されています。
ほぼ半世紀もの時を経てから、これらは驚くほど詳細に記録されているのです。
「どうして、ヨハネはそんなことができたのか?」と心の中で思ったことはありませんか?
主の言葉を思い出す必要があります。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
(ヨハネの福音書14章26節)


ゆえに、ヨハネが書き記そうと腰を据えたとき、長年忘れ去られていたこれらのことが、神の聖霊の導きによって彼の心に新たに呼び起こされたに違いありません。
聖霊は、主が語られたとおりに、それらを再現することができたのです。
いわば、私たちは、主と弟子たちとともにあの屋上の部屋に座り、悲しみの園への道を歩むことを許されているのです。
そしてここで、私たちは主の優しい心を、この祝福された形で明らかにされるのを耳にすることができるのです。
9節と10節に注目してください。
そこではイエスは彼らに神の救い主の愛を示されます。
イエスはこのように言われています。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。
それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」
(ヨハネの福音書15章9、10節)


ここでイエスは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました」と言われています。
17章でイエスはこのように言われています。

「それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」
(ヨハネの福音書17章23節)


父なる神は、主イエスを信じる私たちを、御子と同じように愛してくださいます。
同様に、主イエス・キリストは父なる神を愛するのと同じように私たちを愛してくださいます。
本当に素晴らしい輪が成り立っています!
神の恵みの輪、御父の愛の輪の中では、すべてに安息があり、永遠の続きます、すべては天において完全です。
そして、愛について語ることと、愛を実践することは別な物です。
私は母を愛していると言いながら、彼女が病気の時には何もしないのであれば、そのような愛には何も価値がありません。
私は父親であり、子供たちを愛していると言っているが、世の中のことに夢中になって、子供たちが助けを必要としているときに手を差し伸べてあげられないかもしれません。
愛は、積極的な慈れみと従順によって表されます。
主イエスは「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです」と言われました。
つまり、主の愛の感覚の中に意識的に住むということです。
御父の御心を行うことは、主の心の喜びでした。
主イエス・キリストを本当に愛するなら、御心を行うことは私たちの心の喜びとなるのです。
私たちはすでに主が「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」と言われるのを聞きました。
さて11節では、主は私たちと喜びを分かち合うことについて語っておられます。

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」
(ヨハネの福音書15章11節)


旧約聖書には、主の喜びが私たちの力であることが記されています。
喜びは平和以上のものです。
喜びとは、湧き上がってくる平和です。
主は私たちが喜びに満ちた民となることを望んでおられます。
主ご自身がそうだったのです。
イエスが苦しむ人、悲しみの人であったことは事実です。
しかし、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが記した記録を読むとき、私たちは悲しい人について読んでいるとは決して感じません。
最初から最後まで、イエスは心に喜びが満ち溢れていた人について読んでいるようです。
外見的に関して言えば、どのような状況であろうともイエスは常に父なる神に喜びを見出すことができました。
しかしながら、イエスの偉大な業の多くが行われた町々に裁きを下さなければならなかった時のことが次のように記されています。

「ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。
「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」」
(ルカの福音書10章22節)


実際にイエスはこのように言っているのです。
「もしあなたが私との交わりを保ち、私を讃えることを人生の目的とするなら、あなたは私の喜びを分かち合うでしょう。
私の喜びがあなたのものとなり、あなたの喜びが満たされるのです。」
あなたは「一体、どんな戒めのことを言っているんだろうか?」「どんな戒めなんだろうか?」とあなたは言うかも知れません。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
(ヨハネの福音書13章34節)


このように、この戒めさえ守っていれば、他のすべてはうまくいくものです。
お互いを愛し合うなら、神の心を悲しませることは決してありません。
愛は律法を成就するものです。
もし、私たちがもっと自分自身を吟味できたら素晴らしいと思います
もし、私たちが自分自身に問いかけるなら「今、私がこのようにいるのは兄弟を愛しているからです。
今、私がこのように話しているのは兄弟を愛しているからです。
それとも、愛と矛盾していることを自分はしているのではないでしょうか?」
私たちにはこのように語られています。

「愛は多くの罪をおおうからです。」
(ペテロの手紙第一4章8節)


もし私が本当に兄弟を愛しているなら、彼を傷つけたり、恥をかかせたり、不名誉なことをしたいとは思わないはずです。
たとえ、兄弟が何か悪いことをしたとしても、私は兄弟のところへ行き、優しい愛をもって彼を立ち直らせようと努めます。
私たちはこのことをつい忘れてしまい、互いに無謀な態度で接してしまうことがあります。
もし、私たちがお互いに単なる人間として接するように、神も私たちに接しているのなら、それは私たちにとって大変な結果をもたらすことになります。
しかし、ここに、神の豊かな愛があるのです!
すべてを覆い隠す愛、恵みによって私たちの人生の多くのことを神は愛をもって見過ごしてきたのです。
これまで隠してきたことすべてが明るみに出たら、あなたはもう一度世間と向き合う気持ちになれるでしょうか?
そのことを立ち止まって考えたことがありますか?
あなたはこれまで多くのことを主に頼って生きてきました。
しかし、主はそれを隠しておられました。
慈れみ深い愛です。!
私たちは兄弟たちをそのように扱ってきたでしょうか?
愛は覆い隠すのです。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
(ヨハネの福音書15章12、13節)


これが神の愛の究極の試練です。
使徒ヨハネはこのように言っています。

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
(ヨハネの手紙第一3章16節)


私たちはそのように行動しているでしょうか?
まさにイエスはそのようにされました。
そしてパウロはこのように言うことができました。

「私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
(ガラテア人への手紙2章22節)


遠い昔、宣教師が中国で新約聖書を中国語に翻訳する仕事に携わっていました。
そこには、宣教師から翻訳の手伝いを依頼されるまでキリスト教について聞いたこともなかった著名な儒学者がいました。
彼は来る日も来る日も彼と共に座り、新約聖書をページごとに、節ごとに読み進めました。
中国語の学者は、意味を明確にするために適切な中国語の単語を宣教師に提案しました。
その宣教師は勤勉な人で、素晴らしい翻訳をすることに熱心でした。
彼が避けるべきだと考えたのは、助手と信仰について話すことでした。
彼は非常に慎重になり、キリストの必要性や彼自身の魂の救いについて、一言も話さないようにしていました。
しかし、ようやく彼らが翻訳を終え、宣教師はその助手に何かを言うべきだと思いました。
宣教師はこのように言いました。
「あなたは私にとって大きな助けとなりました。
あなたなしでは私はやっていけなかったのは、周知の通りです。
さて、ここでお尋ねしたいのですが、新約聖書を読み進めていく中で、キリスト教の美しさに心を奪われたことはありませんでしたか?
あなたはクリスチャンになりたくありませんか?」
学者は彼を見てこのように答えました。
「はい、興味があります。
聖書は、私が知る限り最も素晴らしい倫理と哲学の体系です。
もし、一度でもクリスチャンに会うことができたら、興味を持つかもしれません。」
そして、宣教師は「私はクリスチャンなんです!」と言いました。
中国の学者はこのように応答しました。
「あなたはクリスチャンなのですか?
いいえ、違います。
失礼ですが、あなたを不快にさせたくはありませんが、私はずっとあなたの様子を観察し、あなたの話を聞いてきました。
あなたはクリスチャンではありません。
私の理解が正しければ、クリスチャンとはイエスに従う者でです。
イエスは「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい」と言われました。
しかし、私はあなたがこの場にいなかった人たちのことを、悪く言っているのを聞いたことがあります。
あなたはクリスチャンではありません。
私はキリスト教が完全な信頼についてを教えていることにも気がつきました。
そこで、私はあなた方のためにこのような聖句を翻訳しました。」

「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」
(ピリピ人への手紙4章19節)


「あなた方は主を信頼し、恐れないように教えられているのに、そうではありません。
あなたは小切手が届くのが少しでも遅れたら、あなたはひどく心配して、どうしようかと考えていました。」
助手である中国人がそのようなことをくり返し言い続けて、最後にこのように言いました。
「あなたはクリスチャンではないと結論せざるを得ません。」
でも、もし、本物のクリスチャンに会えたら、私もクリスチャンになりたいと思います。
その宣教師は哀れにも打ちひしがれました、
彼は主の前で泣きじゃくり「ああ、私は軽率だった」と叫んだのです。
彼は泣き崩れ、冷たさと無関心さを詫びなければなりませんでした。
学者はそこを去っていきましたが「結局のところ、クリスチャンに会ったことがないのかもしれない」と言いました。
クリスチャンには世間が求めるような完璧さではありません。
しかし、日々主に従うべきです。
イエスはこのように言われました。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。」
(ヨハネの福音書15章13、14節)



私たちは主の戒めを守ることによってクリスチャンになるのではなく、主の言葉に従うことによって主の友であることが明確になります。
私たちは従順に歩むことによって、真実なキリストの友であることが現されます。

「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。」
(ヨハネの福音書15章15節)


しもべというのは「奴隷」という意味です。
つまり、イエスは「わたしはわたしの信頼の中に入れることを愛している」と言っておられます。

「わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」
(ヨハネの福音書15章15節)

あなたは友についてどのように感じているでしょうか?
私たちのほとんどは、それほど多くの友を持っていません。
心から受け入れ、友と呼べる人はほんの一握りです。
私たちは自分の秘密を、誰であっても共有したくありません。
しかし、本当に親しい友ができたのならば、心の奥底にある秘密をその友と分かち合いたくなるものです。
ゆえに、主イエス・キリストは「わたしはあなたがたを友と呼びました」と言われています。
主は友である人々になんと心を開き、ご自身の大切なものを知らせてくださります。
そして、友である私たちには知らない人には与えない特権が与えられています。
ですから、主はこのように言われました。

「なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」
(ヨハネの福音書15章15、16節)

言い換えれば、イエスは、自分の民を自分との親密な交わりに入ります。
そして、イエスの名において御父のもとへ行き、友人としてその名において願いを捧げ、御父が喜んで聞いてその願いかなえてくれることを望んでおられるのです。
なぜなら、それはイエスの名に栄光を帰すものだからです。
そこに友人がいたとしましょう。
その友人は、ちょっとしたメモにこのように書き添えたとしましょう。
「これは、私の友人でもあるこの人を紹介します。
もしあなたがこの人のの望みをかなえるのなら、私は自分のためにしてもらったかのように感謝します。
そして、そのメモを友人に渡すと、彼はこう言います。
「私は彼の友人です。そして、あなたの友人でもあります。」
つまり、イエスは「私があなたを遣わしたと父に伝えなさい」と言ったのです。
友人がいるならば、ちょっとしたメモに「この手紙をあなたに紹介します。
この手紙は私の友人でもあるあの人です」と書き添えることなのです。
キリストの名において祈るということは、「主イエス・キリストの御名によって、そして御名のために、私たちはこれらのことを祈ります」と締めくくるだけだと信じている人もいます。

もしあなたが救われていないなら、キリストの名において神のもとに行く権利がありません。
そして、もしあなたが神との交わりの中にいないなら、権利のもとに行く権限もありません。
利己的で世俗的な生活を送っている人は、それでは神のもとに行く権利がありません。
もしあなたが神にとどまっているなら、キリストの権威によって御父のもとに行くことができます。
そして、神はあなたの祈りを導いてくださいます。
神は喜んで答えられます。
なぜなら、答えることによって、神はご自身の祝福された御子への愛と信頼が示されるからです。
16節には、私が見逃してはならないことがあります。
主は何と言ったでしょうか?

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」
(ヨハネの福音書15章16節)


最初に弟子たちが主を選んだのではありません。
あ最初になたがキリストを選んだのではありません。
しかし、あなたを選ぶ前に主があなたを選んだのです。

「私があなたを選んだのではありません。
主よ、それはできませんでした。
の心はまだあなたを拒もうとしています。
あなたは私を選んでくださいました。
恵みの祝宴に入れてくれたのは、私を優しく強制してくれたのと同じ愛でした。
私は来ることを拒否し、私の罪の中で死んでいたでしょう。
きっと、今だに、私は祝宴に来ることを拒否しているので、私の罪の中で死んでいるはずです。」

私の心がキリストに近づく前から、キリストは祝福された聖霊によって私に触れられています。
ついに私が完全に打ち砕かれ、悔い改め、恥辱をもって神に向かってこのように叫んだのです。
「主よ、私を救ってください。さもなければ私は滅んでしまいます」
すると、主は私を受け入れ、私をご自分のものにしてくださったのです。
そして、働きの問題として見るならば、これらの特別な仕事を選ぶのは主です。
私たちの奉仕の場であろうと、国内であろうと海外であろうと、主が選んでくださります。
主に従いたいと願った人に主がこのように言ったのを覚えているでしょうか?

「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
(マルコの福音書5章19節)


私たちはどこにいてもキリストに栄光を帰すことができます。
そして、主が私たちのためにその務めを選んでくださったことを認識しなければなりません。
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」
多くの人が叙任について悩んでいます。
注)叙任式にして、組織から任命されること。

「叙任されていない人に説教する権利はあるのでしょうか?」と、よく人々は尋ねられることがあります。
聖書には、福音を宣べ伝えるために召命された人については全く書かれていません。
「叙任」という言葉が、福音を宣べ伝えるために人を任命することと結び付けられている箇所はどこにもありません。
テモテの場合はどうでしょうか?
テモテには「叙任」という言葉は使われていません。
「パウロとバルナバのことを忘れたのですか?」とあなたは言うかも知れません。
いいえ、彼らは長老たちが彼らに手を置く前から、長い間アンティオキアで伝道していました。
彼らには中には、宣教の儀式を通して宣教の権限を与えられた者は誰もいません。
それは主の特権です。
主はこのように言われました。

「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」
(ヨハネの福音書15章16節)

「任命する」という言葉は「聖別する」という意味です。
「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」
「神の御子キリストは、私を真夜中の大地へ遣わし、刺し貫かれた御手による力強い叙任を私に授けた」と言えるのは良いことです。(プリマス兄弟団の信仰告白)
大切な叙任(聖別)なのです。
長老たちや他の人々にできるのは、神が承認していることを認めることだけです。
主は、パウロがまだタルソのサウロであった頃、彼についてこのように言われています。

「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」
(使徒の働き9章15節)


そして、主はパウロに対して、直接このように言われています。

「起き上がって、自分の足で立ちなさい。
わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。」
(使徒の働き26章16節)


主御自身が働き人を造るのです。
主、まず人にキリストを自分の救い主として知るようにされ、それから宣教のために遣わされるのです。
「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」
主は次の言葉でこの箇所を締めくくっています。

「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」
(ヨハネの福音書15章17節)


これは究極的な試練です。
愛は私たちの魂に働く恵みの証しです。
このようにこの箇所は始まった時と同じように終わります。


講演51 この世の者ではない

「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。
しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。
しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。
もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。
わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。
もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。
これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。
わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。
あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。」
(ヨハネの福音書15章18~27節)


主イエス・キリストに対する世の憎しみを現わす、十字架の暗い影がすでに主の道に迫りつつありました。
この時に、これらの言葉が主イエス・キリストから発せられたという事実を思い出すならば、ここにしかない深刻さに包まれます。
イエスは罪のない方が私たちのために罪となられるカルバリの丘を目の前にしていました。
そこには、悪霊の力に動かされた人々がイエスに浴びせ得る様々な憎しみと悪意が存在しており、イエスは経験されるのです。
イエスはご自身の将来について、いかなる幻想も抱いておられません。
イエスは地上での宣教がどのように終わるかを最初からご存じでした。
このようにイエスは宣教を終えるために天から来られたのです。
かつて、イエスはこのように言われました。

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
(マタイの福音書20章28節)


イエスは様々な方面から拒絶されることを知っておられました。
イエスはご自身を憎む者、イエスの中にある神の愛と恵みを踏みにじる者のために死ぬために来られたのです。
ここで今、イエスはご自身を信じる者たちに、この世のシステムが救いようのない悪であり、決して改善されることはなく、常に神に敵対するものであるという事実を認めさせようとしています。
そして、共に歩むよう呼びかけておられます。
多くのクリスチャンはこの世は改善できると考えてきました。
多くの人は、教会の使命は世界を作り変え、より良いものにすることだと考えています。
しかし、福音が宣べ伝えられて2000年が経った今、この世界を見渡す限り、様々な可能性を考慮したとしても、この世界は最も邪悪な世界であることに変わりはありません。
今も昔も変わらずに邪悪なのです。
人々はこのように尋ねるかも知れません。
「これだけ多くのクリスチャンがいるのから、世界はもっと良くなっているのではないでしょうか?」
彼らはクリスチャンがこの世のものではないことを忘れています。
なぜなら、主イエス・キリストはここで、私たちをこの世から選び出したと語っておられるからです。
ですから、栄光の主を十字架につけた時よりも世界が良くなったかどうかを見たいなら、教会に関連するすべてのものを抜いて見てください。
残るのは、神に対するひどく醜悪な憎しみに満ちた世界だけです。
ユダヤの代表者たちはピラトの法廷で「カイザルのほかには、私たちに王はありません」と叫びました。
現在もイエスに対して「除け。除け。十字架につけろ」と叫んだときと同じで邪悪な世界なのです。
そして、私たちがクリスチャンとしての人生を始めるならば、世に拒まれた方を選んだことを忘れてはなりません。
私たちは信仰によって、この方と一体となるのです。
神の聖霊は別の箇所でこのように言われています。

「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。
もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」
(ヨハネの手紙第一2章15~17節)


「世」という言葉を使うと困惑する人がいます。
クリスチャンが世界を愛さず、イエスが私たちを世界から選び出すというのは、一体どういう意味なのでしょうか?
世とは何でしょうか?
宇宙のことですか?
いいえ。
地球のことですか?
いいえ、違います。
では、何のことですか?
神に背を向けた人類の秩序、あるいはシステムのことです。
それが世です。
そして、繰り返しますが、この世は今も昔も全く同じです。
クリスチャンが世の友になろうとするとき、少なくともその行為においては、自分を神の敵としているのです。
聖書は、神の子でありながら世の友になろうとする者たちに対して、強い言葉を用いています。
ヤコブの手紙にはこのように書いてあります。

「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。
世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」
(ヤコブの手紙4章4節)


ゆえに、世の友になろうとする者は、神の敵なのです。
私たちは、世に拒まれた方に誓ったのです。
もし、私たちが主を拒んだ世に手を差し伸べるなら、霊的な姦淫の罪を犯すことになります。
すべてのクリスチャンが、自分が世から召されていることを自覚できたらどんなに良いことでしょう。
もし私たちが、私たちの召しが天的なものであることを理解しさえすれば、さまざまな問題が起こることに、多くの疑問を抱くことはなくなるはずです。
ここに大きな問題があります。
これは御父から来たものなのか、それとも世からの来たものなのかわからなくなることです。
もし、それが神の栄光のためなら、喜んで受け入れることができます。
もし、違うものであれば、クリスチャンとしての私の人生において存在すべきものではありません。
この世はクリちゃんを憎んでいます。
現在、私たちはその例を数多く目にしています。
かつては、歓迎されていたように見えた世界のさまざまな場所で、クリスチャンがどれほど苦しんでいるのでしょうか!
日本はキリスト教を心から擁護してしていた時代もありましたが、戦前の今ではキリスト教を国家の敵と宣言しています。
最後に耳にした言葉は、すべてのキリスト教宣教師に国外退去命令が下されたというものです。
なぜでしょうか?
なぜなら、キリスト教は彼らが現在主張している理論とは正反対の立場にあるからです。
彼らは東アジアを支配しようとしています。
他の大国にも同じ様な態度が見られています。
今だにキリストは憎まれています。
それどころか、キリストへの反対はますます激しくなっています。
周囲の人々がどのような態度を取ろうとも、私たちはキリストと共に、そしてキリストのために立ち上がる覚悟があるのか自問する必要があります。
世は私たちの主を憎んでいます。
彼らは主の恵みと憐みを憎んでいます。
なぜなら、イエスの謙遜さに逆らう彼らの高慢と闘争心を現われているからです。
人々はイエスの謙虚さを知って、イエスを忌み嫌うのです。
イエスはこのように言われています。

「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。
しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。
それで世はあなたがたを憎むのです。」
(ヨハネの福音書15章19節)

この世から選ばれるとは、驚くべきことなのです。
たがて裁きが来ることを考え、思い描くとき、私たちはこの世から選ばれたことを神に感謝できるはずです。
しかし、救われることを望み、クリスチャンであると告白しながらも、今はこの世が与えてくれるあらゆる快楽と幸福を求めている人たちについては、何を言えば良いのでしょうか。
遠い昔のロトとその家族のことを思い起こします。
彼らはパレスチナの丘陵地帯での隔離された生活に飽き飽きしていました。
彼らがソドムに下って行ったのは、世的な事に参加するためにソドムへ下って行きました。
彼らは徐々に下っていき、ついにはソドムに定住したのです。

そして、神の裁きが邪悪な街に下される日が来ました。
御使いたちがメッセージを伝えるためにやって来ました。
そして、このように言ったのです。

「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。
この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」
(創世記19章17節)

御使いたちはロトに、町にいる親族や娘たちと結婚した男たちのところへ行きました。
明日、裁きが下ると告げるように命じたと言われています。
しかし、ロトが裁きについて話すと、彼らはロトを嘲笑しました。
なぜでしょうか?
彼らは他の人たちと同じように生きてきたからです。
なので、彼らはロトが気が狂ったのだと考えているのです。
私たちが人々に来たるべき怒りから逃げるように警告する時が来た時、私たちの証しが本当に価値があるような生き方をしているでしょうか。
それとも、私たちは世界から遠く離れて住んでいるのでしょうか?
それとも、私たちは周りの人たちと同じように生活をしていないでしょうか?
そして、私たちの告白通りに本当に信じているのか?他の人から疑問に思われるような生活をしていないでしょうか!
もし、神がこの世からの完全な分離を求めている日があるとしたら、今がまさにその時なのです!

「 しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。
もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。」
(ヨハネの福音書15章20節)


そこには二つの区分があります。
神に従う者と、神の権威を受け入れることを拒否する者です。
その境界線はますます狭まっています。
そして、ある時、明確に境界線が引かれるでしょう。
聖書や新聞を読み、周囲を見回すならば、私たちは今まさに、大患難時代の闇と恐怖へと突き進んでいるのかもしれないと思わずにはいられません。
主イエス・キリストが来られる日が近いことは間違いありません。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。
それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」
(テサロニケ人への手紙第一4章16、17節)


私たちはそのように生き、そのように振る舞い、神が私たちに託した賜物をそのように使うべきです。
そうすれば、私たちの周りの人々、家族の中、信仰を告白する教会の中、そして周りの世界の中での私たちの行動は重みを持つようになります
御使いの声、叫び、ラッパを聞くとき、私たちは喜んで進み出て、主が来られるときに主の前で恥じることはありません。
一つ確かなこととして言えるのは、その時代に、もっと世的な生活を送っていたら、あるいは今、この瞬間のくだらない生活をもっと楽しもうとするクリスチャンは一人もいないということです。
しかし、主が来られるこの時代、この世界で過ごしたわずかな時間に主の働きに関心を持ち、あらゆることを喜んで捧げる何万人もの信者がいるということです。

神よ、私たちが世から選ばれた者として生きさせてください。
私たちがキリストのもとに来た時、この世に別れを告げました。
私たちはすべてを主の御名のために捨て去りました。
どうして、後戻りすることができるのでしょうか?
それは、私たちが最初の愛の時に感じた時には、もっと大きな価値があったはずです。
私たちの心を探ろうではありませんか!
私たちがこの世が、当時よりも大きな価値を持っていると感じたのならば、悔い改めて最初の行いをもう一度行うべきです。
ならば、私たちは来るべき日に神の承認を得ることができるはずです。
世は神を憎みます。そして、私たちをも憎まれます。
もし私たちが世の愛を求めるなら、それはキリストへの忠実さを犠牲にすることになります。
それはこの世の問題です。
世は神を知りません。
私たちは神を知っているはずです?
もし、私たちがイエス・キリストを拒むなら、私たちは神を知ることはできません。
イエスはこのように言われます。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
(ヨハネの福音書14章6節)

「この方以外には、だれによっても救いはありません。
世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
(使徒の働き4章12節)


イエスは父を明らかにするために来られたのです。
イエスは神のすべてを語りました。
もし、人々がイエスを拒むなら、彼らが神を知らないからです。
イエスを受け入れるならば、私たちは永遠の命を受けます。

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
(ヨハネの福音書17章3節)

「もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。
しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。」
(ヨハネの福音書15章22節)


責任は知識とともに増します。
ある人が私にこのように言いました。
「もし、それが本当なら、異教徒はどうなるのでしょう?
異教徒には、何もせずにそのままでいいのではないでしょうか?
なぜ、私たちは福音を携えて彼らのところに行くのでしょうか?
それは、私たちが行って福音を伝えなければ、彼らには罪がないからです。」
ということは、異教徒は福音がなくても救われるということでしょうか?
「全く違います。」
ローマ人への手紙1章でそのことが説明されています。
彼らが罪に定められるのは彼らが知らないからではありません。
彼らが罪に定められるのは彼らが聞いたこともない救い主を拒んだからではありません
彼らはすでに知っています。
彼らがすでに持っている良心の光のゆえになのです。
日々、彼らは自分の良心が間違っていると告げていることを行ってるからです。

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」
(ローマ人への手紙1章20、21節)


クリスチャンは福音を携えて異邦人のもとへ行き、主イエス・キリストの完成された働きを通して完全かつ無償の救いを宣べ伝えるべきです。
彼らに偶像崇拝の中では決して知ることのなかった喜びと幸福のメッセージを届けなければなりません。
そして、聞いた彼らは神の賜物を受け入れる責任があります。
私たちが今いる場所で福音を宣べ伝えるたびに、ある人々にとってはそれが死に至る死の香りであり、またある人々にとっては命に至る命の香りであることを忘れてはなりません。
人々は福音のメッセージを聞いて、キリストを救い主として受け入れるか、あるいは御言葉を拒み、自分の罪を重く背負うことになるかのどちらかです
命が提供されているのに人々がそれを拒むことは厳しいけれどそれは事実です。
この福音書の前半で、イエスがニコデモに語られた言葉がまさにその通りです。
イエスはこのように言われました。

「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。
その行ないが悪かったからである。
悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」
(ヨハネの福音書3章19~21節)


このようにキリストが来られ、それを聞いて拒んだ者たちに最大の裁きが下されるのです。
イエスは来られ、神を明らかにされました。
ゆえに、彼らはイエスを拒絶しました。
そして、イエスを拒絶した彼らには罪を償なれる術がありません。
なぜなら、イエスを憎むことによって、彼らは父をも憎んだからです。

「もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。
しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。」
(ヨハネの福音書15章24節)


つまり、主イエス・キリストは言葉によって宣教されただけではありません。
御自身の力ある御業によって御自身の教えが正しいことを証明されました。
そして、キリストによって行われたすべての奇跡は、キリストが自ら宣言された通り、聖なる、汚れのない神の御子であることを証明しています。
人々は群がってイエスの奇跡を見に行きました。
しかし、彼らはこれらの業を成し遂げた方を拒み、自分の罪を重くしたのです。
このことについてイエスはこのように言われます。

「これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」
(ヨハネの福音書15章25節)


イエスは詩篇69篇を引用しています。
その箇所では、イエスが私たちの罪のために十字架上で死ぬという素晴らしい預言的な描写があります。
そのことに関連して、私たちは「彼らは理由なしにわたしを憎んだ。」と読みました。
イエスを憎むべき理由はありません。
イエスは人類への愛に満ちた心を持って、善を行いながら巡回されました。
人々はイエスを拒みました。
なぜなら、イエスの清さが人々の不純さを明るみに出したからです。
イエスの聖さが人々の不神聖を際立たせたからです。
イエスの完全な義が人々の不義を暴露したからです。
彼らはイエスを「除け!」と叫んだのです。
あるアフリカの女酋長がたまたま伝道所を訪れた時の話があります。
宣教師は小屋の外の木に小さな鏡を掛けていました。
女酋長はたまたま鏡を覗き込み、そこに醜い化粧と邪悪な容貌をまとった自分の姿を見ました。
女酋長は自分の醜くグロテスクな顔を見つめ、恐怖に震えながら言いました。
「あの木の中にいる、あの恐ろしい顔をした人は誰なですか?」
彼らは言いました。「木の中にいるんじゃありません。
あなたの顔が鏡に映っているんですよ。」
彼女は鏡を手にするまで、それを信じられませんでした。
彼女は「あの鏡を手に入れなければなりません。
この鏡はいくらですか?」と言いました。
彼は「売りたくありません」と言いました。
しかし、彼女はしつこく頼み込んだので、彼はついに、面倒を避けるには彼女に売るのが一番だと考えました。
そこで彼は値段を提示し、女酋長は鏡を受け取りました。
しかし、彼女は「もう二度と私の顔を見たくない」と言って、鏡を投げ捨てて粉々に砕いてしまいました。
人々は聖書とイエス・キリストをこのように扱うのです。
神の御言葉は人間の邪悪さを明らかにします。
彼らはキリストを「除け!」と叫びます。
私たちは、あなたの聖書も、あなたのキリストも欲しくないのです。
今、このような世界に立ち向かうならば、私たちの証しの力はどれほどの力があるでしょうか?
最後の二節で、再び、イエスは説教の前半で約束された祝福された御方について述べています。

「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来る時、その御霊がわたしについてあかしします。
あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。」
(ヨハネの福音書15章26、27節)


私たち自身には力がありません。
私たちクリスチャンは弱く、敵に立ち向かう力もありません。
しかし、私たちにはこのようなお方がいるのです。

「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。
あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」
(ヨハネの手紙第一4章4節)


ですから、私たちは三位一体の三位格である、神の慰め主である方に頼るべきです。
この方は救い主の代わりとなり、私たちが出て行って証しをするための力を与えてくださいます。
この証しを通して、人々は救われるのです。


講演52 慰め主の働き

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。
人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。
彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。
しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。
しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。
かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。
しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」」
(ヨハネの福音書16章1~16節)


主は前の章の最後の部分に記録されているように、1〜6節では、すでに従ってきた弟子たちの前に示してきたことを強調しています。
つまり、クリスチャンはこの世から見れば異邦人であり、キリストが神の右に座して以来、この世界の状態は何も変わっていないということです。

イエスがこのように言っています。

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。」
(ヨハネの福音書16章1節)


福音の宣教によって世界が変わることを期待する理由があると、主イエスの弟子たちが感じているのでしょうか?
もし、そうならば、彼らは自分たちの過去の状況を振り返って、つまずくと考えるのも無理はないと思います。
例えば、現代のことを考えてみましょう。
もし私たちが、この時代に全世界が悔い改めし、さまざまな場所の人々が最終的に主イエス・キリストに対する態度を変え、信じていると告白するならば、落胆する結果になることは知っています。
なぜなら、かつて主イエス・キリストに従うと告白していた国々が、現代ではキリストに背を向けているのを私たちは見てきたからです。
また、かつて福音が許されていたにもかかわらず、キリスト教的な特徴を持つものすべてのものが禁じられてきた国々をいくつも見てきました。
彼らは、異教やローマ教皇が試みたよりもさらにひどい手段を用いて、キリスト教を自らの領土から追い出そうとしたのです
しかし、主イエス・キリストは、私たちにこれらのことを予期するようにと告げられました。
この世の態度は決して変わりません。
世はキリストを憎み、神を憎み、そして神の福音を憎みます。
そこでイエスは弟子たちにこのことについて警告し、人々が偽りの霊に支配され、キリストに反対することで神を賛美していると考えるようになることを指摘しています。
イエスはここでここでこのように言っています。

「あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。」
(ヨハネの福音書16章2節)


タルソのサウロがその具体例です。
パウロ、つまりサウルが議会に立った時このように言いました。

「以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。
そして、それをエルサレムで実行しました。」
(使徒の働き26章9、10節)


サウロは実際にそのようにしていました。
しかし、神は恵みによってダマスコの道でサウロを止め、キリストをサウロに啓示し、かつてサウロが破壊した信仰を宣べ伝えるためにサウロを遣わされました。
世の人々、宗教家たちはしばしば、福音的なキリスト教を破壊しようとすることで、実際には神を敬っているのだと考えてきたのです。

イエスはこのように言われました。

「彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。
しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。
わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。」
(ヨハネの福音書16章3、4節)


イエスは去ろうとしていました。
やがて、イエスは天の父の御座に座り、地上の弟子たちのためにとりなしをして、幾世紀も過ぎていくことをご存じでした。
ゆえに、イエスは弟子たちに、ご自身に属する者としてこの世でどのような経験をしなければならないかを、正しく理解してもらう必要があったのです。
イエスはこのように言われます。

「しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。
しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。
かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。」
(ヨハネの福音書16章5、6節)


弟子たちは、確かにイエスが預言者たちが以前から預言していた祝福をもたらすイスラエルの救い主であり、この地上で彼らとともに暮らすために来られたのだと当然のこととして受け止めていました。
そして今、ここでイエスは去ることについて語り、神の不在中に神の別の働きが続けられることを彼らに明らかにしています。
それは、イスラエルの救いではなく、神の地上の民に対する祝福の成就でもありません。
それは、異邦人への特別な恵みのメッセージです。
主はここで、すべての人が神の御前で自分の罪と向き合い、主イエス·キリストのうちにある十分な救いを見いだすよう、さまざまな場所で呼びかけているのです。
イエスの使徒たちは宣教師となるのです。
主は弟子たちに、聖霊の力によって力を得られることを告げてます。
聖霊は弟子たちの上に臨み、弟子たちの内に住み、弟子たちが神のために語り、証しをし、多くの人が信じて生きるようになる力を与えてくださる方なのです。
主はこのように言われています。

「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。
それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。
しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」
(ヨハネの福音書16章7節)


もし、あなたが彼らの一人に「主があなたから去って行くのは良いことだと思いますか?」と尋ねるとします。
きっと、彼は「いいえ、私たちにとって一番良いのは、主が私たちと共に留まってくれることです」と答えるはずです。
しかし、もしそうだったら、主は世界的な計画を実行する立場になかったはずです。
人である主は恵みにあって、肉体がある場所に定住する必要があったのです。
しかし、イエスは去って行かれ、今や神の別の神格が地上に遣わされることになりました。
その神格は、ひとりの神格として受肉するのではありません。
その者は教会全体を通して働き、神のメッセージを宣べ伝える神の僕たちに力を与えるのです。
「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。
それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。
しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」
旧約聖書の時代、父なる神が働いておられたことに注目してください。
御子なる神は、肉体を持った時代には、直接働いておられます。
やがて、キリストが神の右の座につき、仲介者としての地位に就かれます。
御父と御子は神のもう一人の神格を遣わしました。
その方はこの世で働き、この時代が終わるまでこの栄光ある働きを続けながら地上に留まるのです。
ちなみに、これらの言葉の中に私たちの主イエス・キリストの神性がどのように暗示されているかに注目してください。
どんなに善良でも、どんなに敬虔でも、どんなに力があっても、祝福された聖霊について、「わたしは彼を遣わす」と大胆に言える人がいるでしょうか?
聖書には正反対のことが記されています。
聖霊が人を世に遣わすのであって、人が聖霊を遣わすのではないからです。
しかし、イエスは普通の人間ではありませんでした。
神であり、人であり、一つの愛すべき素晴らしい人格の中におられたのです。
だからこそ、イエスは確信をもってこのように言うことができたのです。

「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来る時、その御霊がわたしについてあかしします。」
(ヨハネの福音書15章26節)


さて、慰め主の働きに注目してください。

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」
(ヨハネの福音書16章8節)


この「認める」という言葉は、「確信」と訳されることもあれば、「確信させる」と訳されることもあります。
神の聖霊はこの世におられ、この場面では神のしもべたちを通して働いておられます。
聖霊の特別な使命は、罪、義、そして裁きという三つの重要な事実を人々に確信させ、納得させ、証明することです。
聖霊の確信を与える働きについて語る時、人々はそれが単に人々の感情を揺さぶり、罪を犯したことを後悔させることを意味すると考えることがあります。
確かに、人々が自分の失われた状態を認識する時、彼らの感情は揺さぶられます。
しかし、それは人間の感情に働きかけることではありません。
いや、それ以上の働き方をします。
聖霊は、確信させた思い、良心を働かせ、私たちの祝福された主イエス・キリストの望みに従がう意志を働かせるために来られました。
言い換えれば、聖霊は、人々が御言葉を信じ、それに従って行動する力を与えるために来られたのです。
あなたは使徒の働き14章1節で読んだ聖句を思い出すはずです。

「イコニオムでも、ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂にはいり、話をすると、ユダヤ人もギリシヤ人も大ぜいの人が信仰にはいった。」
(使徒の働き14章1節)


もし、多くの人が信じるように話すことができるなら、誰も信じないように話すことも可能です。
そして、現代のメッセージの多くはそのような特徴を持っていると思います。
人々は神の聖霊に満たされておらず、神の真理を宣べ伝えていません。
しかし、初期の主のしもべたちは、聖霊の力と活力によって御言葉を宣べ伝えていました。
その結果、多くの人が主イエス・キリストを信じるようになったのです。
現在、すべての牧師たちが神の聖霊に満たされ、支配し、メッセージが宣べ伝えられるならば、キリストを拒む人々の思いと良心に福音のメッセージが届き、その者たちが主の御前で罪と義と審判に直面するよることを願います。
何のために語るのでしょうか?
聖霊が罪を認めさせるために来たとイエスが言っています。
それはどういう意味でしょうか?
私たちの中には、人々に不義、不節制、憎悪、好色、貪欲、悪意、その他、義に対して罪深いと分類される悪い事柄に対して、後悔させるために、神の聖霊が来られたのだと考える人がいるかもしれません。
しかし、聖霊の目的は、人々に複数の罪を悟らせることではなく、単数形の罪を悟らせることだと教えられています。
少しでも考える人なら誰でも、嘘をついたり、盗んだり、節度を欠いたり、邪悪な行いをしたりすることが間違っていることを知っています。
私たちは皆、これらのことを知っています。
そして、光に反して罪を犯すことによって良心が麻痺してしまうのであれば、シナイ山で与えられた神の聖なる律法は、こうした罪深さをはっきりと示すことができます。
聖霊はどのような罪を確信させるために来られたのでしょうか?
聞いてください。

「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」
(ヨハネの福音書16章9節)


これは、悔い改めなければならない、永遠に人を破滅の淵に沈める、大変な、致命的な罪です。
主の言葉を思い出してください。

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」
(ヨハネの福音書3章18節)


友よ、よく聞いてください。
もし、あなたがついに全能の神の前に罪が宣告され、キリストが「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」と言われるのを聞くのなら、それは単にあなたが日々の生活の中で犯した罪のせいではありません。
あなたは多くの罪に陥り、抵抗する力がないと主張するかも知れません。
しかし、その罪は神が備えてくださった救い主を拒絶するからです。
その罪はあなたを永遠に神から引き離す重大な罪なのです。
確かにイエスが十字架にかけられた時、神は私たちすべての罪をイエスに負わせました。
現在、神と人の間にある大きな問題は、罪の問題というよりも、むしろ御子の問題であるとよく言われます。
罪人として私たちが何をしたかというよりも、キリストが罪人の身代金として死んでくださったという事実に、私たちがどう反応するかが重要です。
そして今、神はこう言われます。
「あなたは私の子をどうするつもりですか?」
もしあなたが神を信じるなら、神の贖いの御業の価値はあなたの罪と不義に勝るものとなります。
しかし、もしあなたが神を拒み、背を向けるなら、最後にはあなたは自分の罪について神と向き合わなければなりません。
その時、あなたを救うために死んでくださった救い主を拒んだことが、あなたにとってすべての罪の中で最も重い罪となるのです。
「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」
そこで、皆さんに深く考えていただくためにこの質問を強く問いかけます。
「あなたは主イエス・キリストを救い主として信じているでしょうか?」
もし、あなたが主を信じず、信仰をもって主に立ち返り、主に心を委ねていないなら、あなたは人が犯すことのできる最悪の罪を犯していることになります。
あなたは、イエスをあなたのために死なせてくださった父なる神を侮辱しているのです。
あなたは、「私はイエスの血を汚れたものとみなしている」と言っているのです。
私はキリストを望みません。
私は救い主を望みません。
もし、あなたがこのように主イエス・キリストを拒み続けるなら、いつの日かあなたは裁きの場で裸で孤独に立ち、当然の報いを受けることになります。
しかし、その必要はありません。
今日、あなたは主を信頼し、神の御子イエス・キリストの血があなたをすべての罪から清めてくださることを知ることができます。
しかし、慰め主は義についても世を戒められることにも注目してください。

「また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」
(ヨハネの福音書16章10節)


イエスは贖いの御罪の業を成し遂げられた後に、神は三日目にイエスを死からよみがえらせ、天において御自身の右の座に上げられました。
罪はイエスを十字架につけ、義はイエスを王座につかせました。
そして今、私が神の前に罪のない者として立つためには、イエスだけが与えることのできる義が必要なのです。
私は自分では持つことのできない義を持たなければなりません。
パウロがこのように言っています。

「キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」
(ピリピ人への手紙3章9節)


ですから、天に高められたキリストご自身は、主に信頼を置くすべての人々の義なのです。
聖霊は、自分自身の義を欠いた人々を、天に座しておられるキリストへと導くことを喜んでおられます。
キリストは「私たちの義となられた」のです。

「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」
(ヨハネの福音書16章11節)


どういうことかは分かりませんが、一般的に人々は8節を誤って引用し「来たるべき審判について」などと解釈しているようです。

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」
(ヨハネの福音書16章8節)


しかし、聖書にはそのように書いてありません。
「来るべき」という言葉は使われていません。
イエスはこの瞬間の裁きについて語っているのです。
その考えとは「サタンがエルサレムの群衆を煽動して主イエス・キリストを十字架に渡した時、イエスは彼らに罪を定めた」というものです。
創世記にはこのようにあります。

「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
(創世記3章15節)

そして、十字架において、サタンの頭は砕かれました。
神の祝福された御子に対するサタンの態度のゆえに、神によって裁かれました。
そして、世もその君主によって裁かれました。
しかし今、主イエス・キリストを信じるすべての者は、恵みによって、その裁きの下から抜け出し、神の怒りが及ぼうとしている世から解放されているのです。
私たちはこの世から救われているのです。
ペテロがこのように言っています。

「この曲がった時代から救われなさい。」
(使徒の働き2章40節)


この聖句はまさにこのことを言っているのです。
あなたはこの世を離れ、主イエス・キリストに心の満足を見つけたことがあるでしょうか?
これは教義的な教えを受け入れる以上に必要なことです。
世との分離の実践的な経験です。
最後の4節では、イエスは神の民に対する聖霊の特別な働きについて語っています。

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」
(ヨハネの福音書16章13節)


聖書の前に座り、この祝福された御言葉を学ぶ時、あなたは心を主に捧げ、このように祈るかも知れません。
「祝福された慰め主よ、御言葉を私に解き明かしてください。
私が聖書読む時に、あなたの御心を明らかにしてください。」
主がそうすることを喜んでおられることを、あなたはご存知です。
御言葉を開き、私たちをあらゆる真理へと導くことは、主の喜びです。
主は、聖書から独立して働くのではなく、私たちが聖書に記されている真理を解き明かしてくださいます。

「御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」
(ヨハネの福音書16章13、14節)


全世界が未来のことを心配している時、私たちは来たるべきことを知るという素晴らしい特権を持っています。
聖書をよく知る神の人は、未来を見通すことができ、これから何が起こるのかを正確に知ることができるのです。
イエスが再臨されてこの宇宙を支配する時、すべての悪は滅ぼされ、水が海を覆うように、義が地を覆うことを神は知っています。
そして、永遠に何が起こるかも神は知っています。
神の聖霊の特別な使命は、主イエスがあがめられることです。
「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」
キリストを中心とした働きは、聖霊によって与えられた働きです。
神の聖霊はキリストを高く評価することを喜ばれます。
パウロは、キリストが自分の中で高く評価されることを願っていると言いました。
神の真実なしもべは皆、これに「アーメン」と言うのです。

「父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」
(ヨハネの福音書16章15節)


神は恵みと愛の豊かさを明らかにしてくださいます。
神は、キリストが支配し、私たちがキリストと共に分かち合うべき領域の富を私たちに知らせてくださいます。
そしてイエスはこのように言われます。

「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』また『わたしは父のもとに行くからだ。』
(ヨハネの福音書16章17節)


そして、私たちは、イエスが御父のもとに行かれる時と、再びイエスに会える「しばらくする」と言われる期間に生きています。

「イエスよ、あなたは愛する心の喜びです。
あなたは命の源、あなたは人々の光です!
地上が与える最高の至福では、私たちは満たされることはありません。
私たちは、再びあなたに立ち返ります。
あなたの真実は永遠に変わりません。
あなたは、あなたに呼び求める者を救います。
あなたを求める者にとって、
すべてにおいて、あなたを見つける者にとって、
なんと慈しみ深いことなのでしょうか。
私たちはあなたを味わいます。
生けるパンよ。
そして、あなたを今もなお味わいたいと切望しています。
私たちはあなたは、泉の源から飲み、あなたによって魂が満たされることを渇望しています!
イエスよ、いつも私たちと共にいてください。
私たちのすべての瞬間を穏やかで明るいものにしてください。
罪の暗夜を追い払い、あなたの聖なる光を世界に照らしてください。」


講演53 しばらくすると

「そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』また『わたしは父のもとに行くからだ。』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」
そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない。」と言った。
イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
女が子を産む時には、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」
(ヨハネの福音書16章17~22節)


主イエス・キリストは、弟子たちへのこの最後の説教の中で、すでに再臨について語っておられました。
イエスはこのように言われたのです。

「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
(ヨハネの福音書14章3節)


「わたしはあなたがたのために場所を用意しに行く」と言われたのです。
しかし、彼らは現代の多くの使徒と呼ばれる人たちや説教者と同じように盲目だったようです。
彼らはイエスが文字通り去って、文字通り戻ってくるという意味を理解していません。
イエスは肉体をもって去られ、栄光の体をもって再び来られます。
主イエス・キリストの再臨に関する聖書の教えはあまりにも明確に述べられています。
普通の人なら誤解することは不可能だと思われるかも知れません。
その通り、主の再臨の約束を人々はなんと不思議な解釈がされてきました。
イエスがこの言葉を語った直後に起こった大きな出来事があります。
ある人たちはつまり、この場面で教会を建てられ、神の働きを続けるために聖霊が降臨したことを念頭に置いていたと考えています。
しかし、そのような解釈はイエスの言葉の合理的な説明にはなりません。
なぜなら、新約聖書は聖霊の降臨後に書かれたものだからです。
新約聖書を通じて主イエス・キリストの再臨は、まだ未来の出来事として示されています。
それは信者たちが待ち望み、期待すべき祝福された希望なのです。
また、主が再臨について語った意味は、信者が死ぬ時、つまり、人生の終わりに、死の瞬間に主が死の姿をとって彼を迎えに来るということだと多くの人が想像しています。
しかし、それは通用しません。なぜなら、この主題を扱っている新約聖書をページをめくるごとに、私たちの主イエス・キリストの来られる時に死は勝利に飲み込まれるということが分かっているからです。
聖書の別の箇所には、このように記されています。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。
それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。
このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
(テサロニケ人への手紙第一4章16、17節)


死とキリストの再臨が同じ意味であるということはあり得ません。
なぜなら、信者にとっての死は、主が再臨される時に終わるからです。
他にも愚かな考えはたくさんあります。
先日、日曜学校の季刊誌を手に取りました。
そのレッスンの著者はキリストの再臨という古い考えを嘲笑していました。
「聖書が教える唯一の再臨は人生の摂理の中で、政治的、経済的な暗雲の中で、試練の時に慰めと助けを与えるために聖霊によって来られる」ということだと述べていました。
そして、「しかし、主が直接来られるという希望は、むなしいものです」とこの筆者は述べています。
私たちは、日曜学校のレッスンを編集する人たちに従ってこのように悟る必要がないことに感謝しています。
イエスは「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」と言われました。
そしてここで、イエスはご自身が去られること、そして、再び来られることの両方について、非常に明確に語っておられます。
16節にはこのように書いてありました。

「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」
(ヨハネの福音書16章16節)


イエスにとっては、これらはすべて決定しているいたことでした。

イエスは十字架と昇天によってこの世を去り、父のもとへ戻ることについて語っておられました。
しかし、その期間は「しばらくすると」と言われる時間にしか過ぎません。
ですから、イエスが数日後に父のもとへ行かれるように、数日後には再び戻って来られます!
あなたは「イエスが去って行かれてから、数え切れないほどの年月が過ぎ去りました」というかも知れません
確かにそうです。
しかし、聖書にはこのように書かれています。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。
かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
(ペテロの手紙第二3章9節)


そして、このようにも書かれています。

「すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」
(ペテロの手紙第二3章8節)


ですから、主の計算によれば、主はまだ二日も留守にしていません。
そして、その「しばらく」が終わるとすぐに再び来られるのです。
主が「しばらく」という言葉を繰り返して使われていることに注目してください。
7章33節ではイエスはこのように言われました。

「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。」
(ヨハネの福音書7章33節)


ここでイエスは、ご自身の滅亡を企てていた敵たちに語っています。
イエスは十字架に架かり、死ぬために進んでいかれました。
しかし、それは自分の意志によるものであり、そしていつの日か御座に着かれることになっていたのです。

「あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。」
(ヨハネの福音書7章34節)


イエスはそのことが何を意味するのかを説明されています。

「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。
わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」
(ヨハネの福音書8章21節)


イエスは父のもとへ帰ろうとしています。
地上でイエスを救い主、主として知る者だけがイエスに加わることができるのです。
そして、同じ福音書の第12章で、再びイエスは「しばらく」という期間について語られています。

「そこで、群衆はイエスに答えた。
「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。」
イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。
やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。
やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」」
(ヨハネの福音書12章34~36節)


イエスはこれらのことを語り終えると、立ち去り、弟子たちから身を隠されました。
つまり、イエスが世にいる間、世の光であり、神はイエスを通して、直接語っておられたのです。
「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。」
やがて、イエスは父のもとに行くことになっていました。
そして、13章33節でイエスはこのように言われています。

「子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。」
(ヨハネの福音書13章33節)


つまり、「わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます」とは、イエスを信頼し、約束された救い主として受け入れた、ご自身の愛する弟子たちに語られた言葉です。
ユダヤ人には「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない」と言われました。
このように、主が彼らに内容の違うことを話しています。
イエスを拒んだユダヤ人たちは、イエスを見つけることができません。
しかし、イエスはご自分の民に「わたしは栄光の場所に帰ります。
あなたたちはこの地上でわたしを見つけることはできません。
しかし、わたしはまた来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。
子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます」と言われたのです。
14章19節にはこのようにあります。

「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。
わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」
(ヨハネの福音書14章19節)


これはどういう意味でしょうか?
イエスが不在となり、遠い国へ行き、イエスはそこで父の御座に座り、御国を受け継ぐのを待っておられるのです。
世は主について何も知ることはありません。
しかし、主の民は信仰の目を持ち、天を見上げてパウロと共にこのように言うことができます。

「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。
イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。
その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」
(ヘブル人への手紙2章9節)


「私たちは天を仰ぎ見て、主を愛します。
主は選ばれた者たちの犠牲となる小羊です。
やがて、主の聖徒たちは主の栄光のすべてを分かち合います。
主は、我らの王、我らの主として支配するのです。」

現実に、イエスは現在、不在です。
しかし、私たちは信仰によってイエスを仰ぎ見ています。
そして、イエスが神の右に高く座しておられることを知っています。
そして、去られた時のように、再びイエスが御自身で戻って来られるのを待ち望んでいるのです。
このように、この16章は、これまでのすべてのことと関連しています。

「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。
しかし、またしばらくするとわたしを見る。』また『わたしは父のもとに行くからだ。』」
(ヨハネの福音書16章17節)


「私は父のもとに帰る」ことを表現しているのではないかと言われる方もします。
ならば、イエスが父から来られた方であることを暗示していることになります。
イエスは父の懐を離れ、私たちの救い主となるために降りて来られました。
いまや、そして私たちの贖いを成し遂げられて、父のもとへ戻られるのです。
弟子たちは理解できず、質問することさえもできません。
それは、弟子たちがイエスに抱いていた敬虔な嘆きの念を感じ取っていました。
イエスには弟子たちの心を奥底まで揺り動かすものがありました。
イエスがこのように言われた時、弟子たちはイエスの心が悲しんでいることを理解し、尋ねることさえもためらいました。
しかし、イエスは弟子たちの思いを深く知っておられ、尋ねられることを求めておられました。

「そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。
私たちには主の言われることがわからない。」と言った。
イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。
「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。
しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。」
(ヨハネの福音書16章18、19節)


イエスがこの地上に旗を立て、神に忠実なすべての人々を召して、ローマ帝国への反乱を率いて、この世界について預言者たちが、前もって預言してきたイスラエル王国を建ててくださるのを、いまだに弟子たちは待ち望んでいました。
キリストが地上に来られたのなら永遠に地上にとどまらなければなりません。
ではこれはどのような意味でしょうか?
「イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。
「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。
しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。」

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。
あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」
(ヨハネの福音書16章20節)


イエスは彼らが自分を愛していることを知っていました。
どんなに弱くても、彼らの心は偽ることなく、自分に忠実であることをイエスは知っていました。
今、イエスは、自分が彼らのもとを去ることによって、弟子たちをひどく動揺させることを知っていました。
弟子たちが考えていた計画全体が狂ってしまいます。
弟子たちは、神がすべてを御自身のみこころに従って行っていることを理解していません。
ゆえに、イエスは彼らが泣くことを知っておられました。
この言葉は真実です。
ゆえにイエスは弟子たちにこのように言われたからです。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。」
(ヨハネの福音書16章33節)


イエスが不在の間、私たちは地上で完全な喜びを期待することはできません。
ヨーロッパ、イギリス、中国で神の民がどのように苦しんでいるか考えてみてください。
彼らは真実なクリスチャンです。
彼らの思い通りに進ませるのであれば、彼らの国々が戦争に巻き込まれるのを見ることはなかったはずです。
なぜなら彼らは平和の君を愛し、平和の福音を愛し、国々を血なまぐさい紛争から守るためなら何でもするつもりだったからです。
しかし、彼らも他の人々と共に苦しまなければなりません。
どれほど多くのクリスチャン家庭が崩壊したことでしょう。
どれほど多くのクリスチャンの妻や子供たち、そして兵士たちが、当時の恐ろしい戦争のために苦しみ、そして命を落としたことでしょう。
これらすべての事は、まさにイエスが不在の間に起きた出来事なのです。
平和と祝福をもたらす唯一の存在であるイエスが来られた時、彼らはイエスを拒絶し、「この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません」と言ったのです。
ゆえに、クリスチャンは苦しみ、苦痛、苦悩、戦争の恐怖、そして厳しい迫害に耐えなければなりません。
ゆえに、神の民以上に苦しんだ者は誰もいません。
神の不在がこの世の心を喜ばせる一つの理由があります。
世はキリストを望んでいないからです。
もし、今日、キリストが戻って来られたらどうなるでしょう。
キリストはこの世のあらゆる計画に干渉することになります。
イエスは「あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです」と言われています。
現在の世は、主の不在の日を喜んでいます。
主が再び来られ、神を知らない者たちに復讐される時、世は最大の悲しみに暮れることになります。
しかし、その瞬間も、神の計画は成就し続けています。
イエスは21節で妊婦を使ってこのように語っています。

「女が子を産む時には、その時が来たので苦しみます。
しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。」
(ヨハネの福音書16章21節)


現在、教会は苦しみの痛みを経験しています.
しかし、主イエス・キリストの再臨とともについに新しい時代が到来します。
罪と人間の正義と悪意が永久に打ち砕かれます。
イエスがこの舞台ですべての権威を持ち、正義をもって支配します。
すべての人々に平和を語り、喜びが訪れます。
しばらくの間、主はこの地上にはいません。
しかし、この祝福された希望は、主が私たちに恵みを明らかにされ、様々な形で私たちの前に示されています。
ヘブル人への手紙にはこのようにあります。

「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。」
(ヘブル人への手紙10章37節)


主の来臨の希望は、清い生活を送るための励みとして、私たちの前に示されています。
ヨハネの手紙第一にはこのようにあります。

「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」
(ヨハネの手紙第一3章3節)


あなたは主の携挙を待っているでしょうか?
あなたはクリスチャンです。
あなたは主を救い主として信頼しています。
では、あなたは人生において、汚れたもの、不純なもの、不聖なものを許していないでしょうか?
もしそうなら、主の再臨の希望がまだ本当にあなたの魂を捕らえていません。
「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」
もし、私が主の再臨を待ち望みながら日々生きているなら、すべての主の御心に反するものを自分の人生から排除するよう努めるはずです。
想像してみてください。
もし、私が何か不純なものに身を任せているその瞬間にイエスが来られたのなら、私は恥ずかしく思うはずです。
もし、主の来臨が真に祝福された希望であるならば、私は主を不快にさせるようなことは何一つ認めたくありません。
そして、主の来臨は、主への奉仕への動機として私たちの前に置かれていることに気が付くはずです。
なぜなら、主の来臨の時に、報いが与えられるからです。
テサロニケ人への手紙第一2章19節にはこのようにあります。

「私たちの主イエスが再び来られる時、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。
あなたがたではありませんか。
あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」
(テサロニケ人への手紙第一2章19、20節)


これはどういう意味でしょうか?
パウロ自身が改宗者たちに手紙を書いてこのようなことを言っています。
「私はキリストを宣べ伝えるためにこの地上のすべての特権をすてました。
そして、私は主のもとに魂を獲得する特権を得ました。
現在、主が再臨される時、私は主の足元に導いた大勢の仲間と共に、主にお会いできるのを心待ちにしています。」
パウロにとって、それはどんな意味を持つのでしょうか!
パウロがこの世にいた時、彼を通して救われた何千人という人々のことを考えてみてください。
それ以来、パウロが残したメッセージを読んだ何百万という人々のことを考えてみてください。

最後に、主イエス・キリストが再臨され、大勢の群衆に囲まれて御前に出て、父なる神にこのように言うパウロの姿を思い浮かべてください。
「見てください!
わたしと、あなたがわたしに与えてくださった子供たちです。」
その時、パウロは報いを受けるのです。
ゆえに、主イエス・キリストの再臨への希望は、私たちを献身的な奉仕へと駆り立てるのです。
主はこのように言われます。

「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」
(ヨハネの黙示録22章17節)


主のために成されたすべての真実な出来事は、その日に報いをもたらします。
その日には、古き腐敗した性質から生じるものはすべて無価値となります。
それは報いを得るどころか、むしろ損失を被ることになります。
少し前に、あるクリスチャンが他の信者のことを怒っているのを耳にしました。
彼の言葉はなんとも冷酷でした。
私はこのように尋ねました。
「主イエスが来て、あなたが兄弟ににこのようなことを言っているのを見られたら、どう思われますか?」
彼は「すべて真実です」と答えました。
私は「そうです、愛は多くの罪を覆うのです」と言いました。
では、現在、私たちはどんな性質をもって働いているのでしょうか?
私たちが新しく生まれ変わるのであれば、神の性質を持つことになります。
あなたが兄弟を悪く言う理由ですか?
ああ、主の来臨は私たちのすべての行いを試すものとります。
主が私たちを迎えに来られる時、主はそれを承認されるのでしょうか?
このテサロニケ人への手紙の中で、使徒パウロはクリスチャンに聖潔の大切さを強く説いていることが分かります。
パウロはそのことを主の来臨と結びつけています。
私たちは12、13節でこのように読むことができます。

「また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。
また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られる時、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」
(テサロニケ人への手紙第一3章12、13節)


サタンが再臨のこの真理を曇らせようとするのも無理はありません。
なぜなら、それは神の民にとって現実的な観点から見ると非常に大きな意味を持っているからです。
もし、再臨が私の心を本当に掴むなら、私は兄弟たちへの愛を増し、豊かに満たしたいと願うはずです。
私は聖なる生活を送りたいと願います。
そして、主の来臨は悲しみの時に何と大きな慰めとなるのです。
キリストにある愛する人たちが私たちから引き離された時が来ます。
彼らの愛と励ましの言葉が、もはや私たちの耳に届かなくなります。
静まり、すべてのささやきを黙らせるべきです。
それは主が来られるまでの間だけです
その時、私たち皆が主の御前に集い、喜びの再会が訪れます。
このように、テサロニケ第一の手紙4章は、ヨハネの福音書16章と深く結びついています。

「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。
あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」
(テサロニケ人への手紙第一4章13節)


だからと言って、イエスは悲しんではならないとは言っておられません。
イエスは私たちに、冷たく、冷淡で、耐えるように求めておられるのではありません。
イエスは涙を禁じておられるのではありません。
涙はしばしば心を慰めます。
イエスは、ご自分の民に、泣く者と共に泣くように命じておられます。
イエスが地上にいらっしゃった時、ご自身も友ラザロの墓の前で涙を流されました。
主は、愛する人を失った悲しみに暮れてはならないとは言っていません。
しかし、希望を失った人々のように悲しんではならないと言っています。
私たちには祝福された、素晴らしい希望があります!
私たちは再び彼らに会えることを知っています。
聖書はこのように言っています。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。」
(テサロニケ人への手紙第一4章16節)


私は「共に」という言葉の意味が大好きです。
そこには素晴らしい認識があります。
私たちは「共に」命の恵みの相続人となりました。
私たちはこの地上で「共に」交わりを持ちます。
私たちは神の御働きにおいて「共に」働きました。
イエスが来られる時「共に」引き上げられます。
このような讃美歌があります。
「イエスが来られるまで、私たちは人生の暗い谷をさまようでしょう。
イエスが来られるまで、私たちは見守り、待ち、驚き続けます。
喜びに満ちあふれるのです。
イエスが来られる時、愛する人たちがやって来ます。
イエスが来られる時、あらゆる賛美が天に響き渡ります。
イエスが来られる時、すべての美しさが明るく輝き、春の訪れを告げます。
イエスが来られる時、すべての栄光は壮大で永遠のものとなります!
イエスが来られる時、主は道が暗かったことを知ります。
イエスが来られる時、主は足が疲れたことを知っています。
イエスが来られる時、主は私たちをどんな悲しみによって苦しめていたのかを知ります。
イエスが来られる時、主の御腕は私たちを強く慰めてくれるのです。
イエスが来られる時、私のランプが燃えていますように、、
イエスが来られることを、私の魂は主に切望します。」

さて、ここで考察している箇所の最後の節に移りましょう。

「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。
そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。
そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」
(ヨハネの福音書16章22節)


私たちが痛みと苦しみに満ちた世界にいる限り、私たちはうめき声を上げ、被造物と共に苦しまなければなりません。
しかし、しばらくすると、主が私たちを故郷へ連れ戻すために再び来られ、私たちは主を見ることになります。
その時、私たちの喜びは完全なものとなります。
そして、「しばらく」はすぐに過ぎ去り、私たちは主の顔と顔を合わせてお会いすることになります。
その間、主が来られるまで、私たちは主のために働き、労苦しなければなりません。


講演54 主イエスの御名による祈り

「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。
その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。
わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」
弟子たちは言った。「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。
いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」
イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。
見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」」
(ヨハネの福音書16章23~33節)


今、私たち、信者には真実な光で輝く方法をもって、直接、父のみもとに行く特権が与えられています。
この章の最初の部分で、私たちの主イエス・キリストの御名によって祈りというこの特権が示されています。
祈りほど混乱していると思われるテーマは他にはないと思います。
多くの人は、祈りは神の不同意を克服するための努力であるという考えを持っています。
それは、神が望まれないことを、喜んで私たちのためにしてくださるようにするためのものです。
そうではありません。
私たちは神の不同意を克服するために祈るようにとは言われていません。
神は祝福することを喜ばれます。
そして、祈りに応えて祝福されることを選びます。
それにはいくつかの理由があります。
心と思いに重荷がのしかかる時があります。
そしてこれらのことが私を神へと駆り立ててゆきます。
直接、私が神に近づくならば、私を苦しめている事柄を神に話すだけで、私の魂が清められるのを感じます。
詩篇作者はこのように言いました。

「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」
(詩篇73編28節)


もし私たちの中に、神に近づくための特別な訓練を受けていなかったら、私たちはおそらく、父なる神と話す特権を忘れたまま、日々を過ごしていたことでしょう。
私たちの必要は私たちを神のもとへ導きます。
もし、私たちが神と話し合うなら、それは大きな祝福となります。
神の御前に過ごわずかな時間に大きな変化をもたらすことになるのです。
もしかしたら、あなたに圧力がかかっているのかもしれません。
あなたは多くのことで心配し、不安になり、愛する人が道を踏み外してしまうのではないかと心配します。
そして、考えれば考えるほど、ますます苦しくなってきました。
そして、あなたはこのように言うのです。
「心配するなんて、愚かなことだ!」
私たちは次の聖句に従って歩むべきなのです。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
(ピリピ人への手紙4章6、7節)


このしてあなたがたは神の御前に進み出て、心を注ぎ出すことが出来るのです。
あなたは経済的な心配事、家族のこと、そして救いを切望する愛する人のことを主に打ち明け、心の重荷を下ろすのなら、主は近づいてくださいました。
そして、あなたは心と思いが軽くなり、再び人生の諸事に取り組み始めることができるのです。
それ以上に、大きな霊的な祝福を感じることが出来るのです。
なぜなら、心を注ぎ出す中で、自分のことを話さずにはいられなくなり、自分の失敗と罪を告白することになるからです。
そのように告白した後に、神が赦してくださったことを知る喜びを味わいます。
ゆえに、祈りは聖化の手段となるはずです。
それ以上に、神は祈りに応えて、祈り以外では与えられないものを与えてくださいます。
それは、私たちが生ける神と結ばれていることが私たちの中で証明されてゆくためなのです。

私は誰にも知られずに神のもとへ行き、自分の物語を神に伝え、その後、世に出て行って神が素晴らしい方法で働いておられるのを聞いたことがあります。
私は生ける神と連なっていることを実際の経験によって知ることができます。
私は素晴らしい証しを読みました。
それは聞くすべての人にとって祝福となるでしょう。
それは金銭的な問題と関係していました。
サウスカロライナ州コロンビアには、ロバート・マッキルケン博士​​が学長を務めるコロンビア聖書大学があります。
かつて、彼らは男子寮として使う大きな建物の購入を始めました。
必要な金額を主に捧げると、実際にお金が集まりました。
翌年の10月1日に1万ドルを支払うことができました。
9月末日、不思議なことに、必要な金額がちょうど2121ドル21セントだったという手紙が届きました。
彼らは祈りの中でその金額を主に捧げました。
その後に彼らは外に出て、寄付が入れられていた小さな箱を開けました。
その朝、入れられたお金を数えると、21ドル21セントでした。
残りの2100ドルを補う必要がありました。
彼らは祈りの日を過ごし、その日、主の前で待ち構えていると、様々なところから贈り物が届き始めました。
その朝の最大の贈り物は100ドルでした。
その後、500ドルの贈り物が届きました。
夕方までに、彼らは合計でちょうど2121ドル22セントの献金を受け取ることができました。
必要額をわずか1セント上回る金額です。
神は素晴らしい会計係なのです。
神は彼らに必要なものすべてを与えて下さります。
さらに1万ドルを超えてもう1セントも与えてくださいました。
彼らが生ける神と連なっていることを疑わない人がいるでしょうか。
彼らは集まって神を待ち望んでいました。
そして、お金は様々な場所から、当時、彼らが祈っていたことを知らない人々からやって来たのです。
ゆえに、祈りは神の現実と、神が御自分の民の問題に対して明確な関心を持っていることを示すために神が定められた方法です。
さて、私たちの祝福された主が23節でどのように述べているかを見てみましょう。

「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。」
(ヨハネの福音書16章23節)


英訳KJV訳聖書では「あなたがたが父に求めることはわたしの名において何でも求めなさい。」とあります。
(Whatever you shall ask the Father in My name)
「わたしの名によって」の位置に注目してください。その理由を説明します。
別の聖句でも、イエス・キリストの名において祈るべきことが示されています。
しかし、最も優れた写本では「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります」と訳されています。
では、主が何と言っているかに注目してください。
「その日には」、つまり主の死後、慰め主が来られ、恵みの時代、つまり私たちが生きているこの時代では「あなたがたはわたしに何も尋ねない」と言っています。
「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。」
ここで「求める」と訳されているギリシャ語には、二つの異なる言葉があります。
それぞれ全く異なる意味を持っていることに注目するのは非常に興味深いことです。

まず、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません」とイエスが言われるところのこの言葉は、文字通り「親しい願望」を意味します。
これは、あなたが親しい友人のところへ行き、はっきりと自分の訴えを訴えるようなものです。
一方、「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります」というもう一つの文では、この言葉は文字通り「願う」こと、「陳情者の代わりになる」、「必要な助けを懇願する」ことを意味しています。
あなたはこの違いに気づくことができますか?
主は「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません」と言われています。
ご存知のように、主が地上にいた頃、人々は主のもとへ行き、主は彼らの質問に答え、物事を明らかにされました。
つまり、今、主はこのように言われます。
「わたしは去ります。
もう、あなたたちがあの時のように自由に親しみを込めてわたしのもとへ来ることができません。
もう、その時には、わたしに直接助けを求めるために来ることができません。
もう、わたしはここにいません。」
2000年間、主は天に留まっておられます。

あなたがたは教会を悩ませてきた疑問のいくつかを取り上げて主に尋ねてみます。
もし私たちが主のもとへ行き、主よ、バプテスマについて教会内に多くの意見の相違があります」と尋ねることができたら、どれほど喜ばしいことでしょうか!
バプテスマは、水を振りかけることなのでしょうか?
それとも、浸礼によるバプテスマなのでしょうか?
それとも、一度だけ浸礼するべきなのか?
それとも、三度浸礼するべきなのでしょうか?
浸礼は前から入れるべきですか、それとも後ろから入れるべきでしょうか?
はっきり教えてください。」
さて、もし私たちがただ主のもとへ行き、尋ねることができたら、どれほど喜ばしいことではないしょうか!
それは、イエスはすぐに私たちに教えてくれるからです。
しかし、イエスはここにおられません。
ですから、私たちは神の御言葉を学び、黙想を通して得たものに従って行動しなければなりません。
私たちはイエスに直接近づくことはできません。
しかし、イエスはそれよりもさらに良いことがあると言っておられます。
「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません(求めるのではない。)。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。
「あなたがたが父に求める(尋ねるではない、必要なものを願い求めるという意味です。)ことは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。」
主はこれらのことをあなたに与えてくださいます。
ゆえに、私たちは、父なる神に直接、願いを捧げるよう招かれているのです。
あなたは経済的な援助、慰め、健康などを必要としているでしょうか?
あなたの心を圧迫しているものは何でしょうか?
つまり、イエスはこのように言われたのです。
「あなたたちはわたしのところに来ることはできません。
でも、父のもとへ行き、あなたの願いを父に伝えることはできます。
そうすれば、父はわたしの名によって求めるものをかなえてくださいます。」
御父はわたしのためにそれを成してくださいます。
父は御子を愛しています。
すべてのものを御子の手にゆだねられました。
そして、御子であるわたしたちの主イエス・キリストを喜ばせるために、わたしたちのために何かをすることを喜んでおられます。
御父はそれを御子の名によって成されるのです。

南北戦争のある大きな戦闘の後、戦場で瀕死の少年の話を聞いたことのある方もいるかもしれません。
近くにいた別の兵士が彼のところまで這って行き、ひどい状態にある少年を見つけ、できる限りのことをして助けました。
二人は話し合いました。
そして、もう一人の兵士が言いました。
「もし私が生き延びたら、何か力になれることはありますか?」
彼は「もしかしたら、何かできるかもしれません」と言いました。
私の父は裕福です。
もしあなたがこの戦争を生き延びて、困ったことがあれば、父が書いた小さなカードを持って父のところへ行ってください。
父は喜んであなたを助けてくれるでしょう。
兵士はカードを使うことはないと思っていましたが、いざ困窮した時、あの時の会話を思い出しました。
彼はその裕福な男を探しに出かけました。
彼は部下や秘書を通して、彼自身のカードを送りましたが、返事がありません。
そして、彼はもう一枚のカードのことを思いつき、それを取り出しました。
そこにはこのように書かれていました。
「父よ、私が死に瀕していた時に助けてくれた友のために、何かできることがあれば、どうかお願いします。」
署名には「チャーリー」とありました。
すると、すぐに大物実業家が現れ、このように言いました。
「なぜもっと早く送ってこなかったのですか?
チャーリーのために、できることは何でもします!」
同じ様にこれが神が御子に対して抱いている気持ちなのです。
神は私たちが疑問、悲しみ、心の痛み、そして必要を抱えて来ることを望んでおられます。
神はイエスのためなら、私たちのために何でもしてくださるのです。
もちろん、神の義と聖さにかなう限り、何でもしてくださいます。
ですから、祈りを通して神に近づくことは勇気づけられることなのです。
そして、主がこのテーマをさらに掘り下げておられることに注目してください。
ここで、主は何かを「求める」という意味の言葉を使っておられます。
「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。」
主が地上におられた間、人々は直接、父のもとに来ることができました。
主は弟子たちに、御名によって父のもとへ行くようにとは勧めていません。
主の祈り、弟子たちの祈りでさえ、主イエスの御名によって終わることはありません。
主は地上におられたとき、弟子たちに主イエスの御名によって祈るようにとは求められていません。
今、去ろうとしている時に、このように言われました。

「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。
それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」
(ヨハネの福音書16章24節)


これは、キリストの権威によって求めるという意味です。
イエスは私に、御父のもとへ行き、御名をささげ「父よ、あなたの御子、主イエス・キリストが私に来るように言われました。
ですから、私は御子の御名によって願いをささげるために参りました」と言う権限を与えてくださいました。
弟子たちにとって、それは理解し難いことでした。

「これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。
もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。」
(ヨハネの福音書16章25節)


なぜなら、父なる神と御子は一つだからです。
弟子たちは主イエスの御名を呼び求めました。

ステパノが「主イエスよ。私の霊をお受けください」と叫びました。
パウロは肉体にとげが刺さった時「これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。」
イエスのみもとに行くのは、全く正しく、適切なことでした。
聖書の最後の祈りは、主に語りかけています。
「アーメン。主イエスよ、来てください。」
しかし、私たちの有限な知性にも理解できるように、イエスは御子の神格の御名によって御父の神格のところに行くために、このたとえ話を使いました。
「これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。
もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。」
イエスが復活した時、このように言われました。

「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。」
(ヨハネの福音書20章17節)


それは、あなたがたが御父のもとに進み出ることができるように、私たちも父なる神のもとに行くことができることを、私たちに悟らせようとされたのです。

「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。
わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。」
(ヨハネの福音書16章26、27節)


それが何を意味するのか、理解できますか?
もし、私たちがこれを理解するならば、あらゆる仲介者が必要なくなり、望むものは何でも神に直接頼ることができるようになるのです。
教会の歴史のごく初期に、人々は神が偉大で私たちから遠く離れており、私たちは罪深い人間が御父に直接呼びかけることなどできずに、主イエス・キリストを御父に、私たちを助けるよう説得する仲介者とみなすようになったのは不思議です。
よく、人々が「主イエスよ、どうか私たちのためにお祈りください」と祈るのを耳にします。
もしくは「どうか私たちのために父なる神に弁護してくださいますように」と祈っています。
そんなことをする必要はありません!
私たちが主イエスのもとに行って「父なる神にお願します?」と頼む必要はありません。
なぜなら、御子と父なる神は、人格ではなく本質において、真実の一つだからです。
もし、私たちが仲介者としてイエスのところに行くことができないのなら、魂と神との間に多くのただの被造物を置いた人たちは、何と言って祈るのでしょうか?
このような言葉を聞いたことがあるはずです。
「聖マリア様、私たちのためにお祈りください。
聖ユダ様、私たちのためにお祈りください。
聖マルコ様、私たちのためにお祈りください。
聖パウロ様、私たちのためにお祈りください。」
人々がこのように祈るのを聞いたことがあるはずです。
これはどういう意味でしょうか?
彼らは幕が裂けたことに気づいていないということです。
私たちには仲介者など必要ありません。
あなたがたは「主イエス・キリストは私たちの仲介者ではないのでしょうか?」と聞くかもしれません。
「はい、その通りです。
私たちは、そのように教えられています。」

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」
(テモテの手紙第一2章5節)


しかし、それは私たちが日常生活の詳細な事柄について神に信頼し、父なる神に何かをしていただくよう説得していただく必要があるという意味ではありません。
常に神はその御前に私たちを支えてくださっています。
しかし、私たちは人生の細部にわたる願いを、御子の御名によって、直接、神ご自身に差し出すよう招かれています。
この聖句をもう一度読んで、その意味を理解してください。

「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。」
(ヨハネの福音書16章26節)


では、あなたは神を恐れているのでしょうか?
直接、神に近づくのが怖いのでしょうか?
父なる神はあなたを愛しておられます。
ここに、愛情深い父親と、わがままな息子、そして優しい娘がいる家族がいたとしましょう。
息子は妹のところに来てこう言います。「メアリー、お父さんのところに行って、新しい服を買うお金をお願いしてほしいんだ。」
これはどういう事でしょうか?
息子は父の愛に信頼を置いていなかったのです。
ゆえに「メアリー、どうか中に入って仲介して、父親にお金をくださいとお願いしてくれませんか」と言わせたのです。
もし、息子が父の愛に信頼を置いていたら、直接、父のもとへ行き、自分の罪を告白して、「でも、お父さん、私の服を見てください」と言うはずです。
新しい服が必要なのです。
そして、父親は「息子よ、私たちは服を取りに行こう」と言います。
息子は誰かに父親のところへ行ってもらう必要はありません。
私たちもあなたも、私たちのために父なる神に祈るために御子のところへ行く必要がないことを理解すべきです。

「父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。」
(ヨハネの福音書16章27節)


そして、なぜそうなのか考えてみてください。

「それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。」
(ヨハネの福音書16章27節)


世はそのことを信じていないのです。

「わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」
(ヨハネの福音書16章28節)

弟子たちは理解したと確信していましたが、実際にはイエスが何を意味しているのかを理解していません。

「弟子たちは言った。「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。
いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。
これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」
(ヨハネの福音書16章29、30節)


もちろん、弟子たちは後で理解しています。
しかし、実際には、後の行動が示すように、当時は自信過剰だったようです。

「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。
見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。
いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」
(ヨハネの福音書16章31、32節)


このことが真実になると誰が想像したでしょうか!
ほんの数時間のうちに、イエスの言葉は成就されます。
イエスは「わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです」と言われています。
やがて、弟子たちはイエスを見捨てる時が来ます。
その暗い時でさえ、イエスは父の御心と、父がわたしと共におられることを感じていました。
そして今、イエスは14章、15章、16章に及ぶ、別れのメッセージを締めくくり、このように言われます。

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。
あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
(ヨハネの福音書16章33節)


私たちの中には、その平和を見つけるのに長い時間がかかった人もいます。
私たちは自分で見つけようとしましたが、できませんでした。
しかし、ついに今、私たちは主に立ち返り、自分の罪を告白し、神との平和を見つけることができるのです。
私たちは悩みについて主に相談するのであれば、神の平安が心を満たしていることに気づきました。
あなたはそれを理解していますか?
神は光であり愛です。
神を信頼すれば、あなたは平安を得ます。
それは世の人が知らない平安です。
主を信じる者はこの世では苦難にあいます。
あなたも苦難を経験するでしょう。
しかし、考えてみてください。
あなたはどんな試練も勝利のうちに乗り越えることができるのです。
主は「勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」と言われます。
ただ主を信頼しなさい。そうすれば、最後にはすべてがうまくいくのです。
現在の戦争の状況にあなたは悩んでいるのでしょうか?
「なぜ、神はすべてを止めないのですか?」と尋ねるかも知れません
聞いてください。
神はすべてを考えておられます。
これらの状況は罪の直接的な結果です。
神はこれらを創造したのではありません。
戦争は悪魔によって創造されたのです。
神はそれらが終了するまで、戦争を延々と続けさせてられます。
間もなく神は御子を再び遣わし、栄光の千年の間、支配させます。
「勇敢でありなさい。キリストはすでに世に勝ったのです。」
そして、私たちは祈りを通してすべてを神に委ねることができます。

「主よ、その時間は過ぎ去りました。
私はあなたにその日を捧げます。」
どうか愛をもって、その罪を清め、新たな力を与えてください。
その失敗、敗北、悲しみ、喪失をお赦しください。
私が傲慢になろうとするとき、主よ、あなたの恥ずべき十字架をお示しください。
優しさと愛をもって、忍耐強く私の道を歩み、この瞬間から永遠の日まで、あなたの栄光を生きることができますように。」
ルシール・アンダーソン・トリミア


講演55 主の大祭司としての祈り(1)

「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。
今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」
(ヨハネの福音書17章1~5節)


ヘブル人への手紙にはこのように記されています。

「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
(ヘブル人への手紙7章24、25節)


私たちの祝福された主が、大祭司としてとりなしをされる時、父なる神にどのように語りかけられるのかを考えたことがあるでしょうか?
主は何を語っておられるのでしょうか?
この問いへの答えは、この第17章で多くが答えられています。
ここには、主イエス・キリストの大祭司の祈りとも呼ばれる祈りがあります。
ヨハネの福音書は二つの部分に分かれていることを見てきました。
最初の12章では主が世に示され、13章以降では主が民に現される様子が記されています。
さらに、この章は十字架刑について語られており、火によるささげ物の観点から語られています。
これは、すでに神との生きた関係を築いている者だけが参加できる、神の御業の一つの側面です。
13章では、主は私たちの弁護者として現れ、世界を旅するこの民を健全で清く保ってくださいます。
14章では、主は来るべき方、すなわち主の民の希望の的となられています。
15章では、主は生けるぶどうの木であり、私たちは枝です。
ゆえに、クリスチャンとは、根は天にあり、枝は地に落ち、枝から実を結ぶ者なのです。
16章では、私たちの祝福された主は、実際に聖霊を与える方として描かれています。
17章では、主は神と共にある偉大な大祭司として描かれています。
現在、御子は現実に裂けた幕の中に入り、御子が御父に懇願する声に耳を傾け、偉大な大祭司が私たちのためにとりなしておられます。
まるで、私たちにその声を聞くことが許されているようです。
この章も正確には「主の祈り」と呼ばれています。
弟子たちが主のもとに来て「私たちにも祈りを教えてください」と言っています。
通常、私たちは主が弟子たちに教えられた、この美しい祈りを指して「主の祈り」と呼んでいます。

「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」
(マタイの福音書6章9~13節)


しかし、これは本当の主の祈りとは言えません。
確かに、主から与えられた祈りですが、主ご自身はその祈りを捧げていません。
本質上、主はそのように祈っていません。
主が、誰とも祈らなかったことは、主に罪が無いことの証拠の一つです。
主は人々のために祈られましたが、彼らと一緒に祈られたことはありません。
主は「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」とは祈っていません。
なぜなら、主に負いめがなかったからです。
主は「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します」(ルカの福音章11章4節)とは祈っていません。
なぜなら、主には罪がなかったからです。
これらの祈りははイエスの祈りではなく、弟子たちが神に捧げるべき願いを説明し、神への道筋を示したものです。
ヨハネの福音書17章に記録されている主の祈りは、イエスご自身の祝福された言葉を私たちに伝えています。
弟子たちが眠っている間、イエスが一人となり夜通し祈っていました。
主が何を言われたのか、あなたは考えたことがあるでしょうか?
この祈りから、イエスが父なる神に捧げられた願いがどのようなものであったかが分かります。
覚えておいてください。
私たちの祝福された主は、一度も神であったことがないかのように真実な人となり、また、人となったことが一度もないかのように真実な神でした。
イエスは唯一絶対的に罪のない方でありながら、祈りにおいて謙虚な嘆願者として、人々の頼りになる立場を取られました。
この17章では、イエスは主にご自身の民のために祈っておられます。

「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。
「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。」
(ヨハネの福音書17章1節)


神はその時を、世界の始まりからだけではなく、世界の始まりの前から待ち望んでいました。
永遠の昔、神はこのように言いました。

「そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。
わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」」
(詩篇40編7、8節)


イエスは、贖いの問題を解決するために、この世に来られ、十字架に架けられることを望んでおられました。
今、十字架はイエスの前にあります。
あと数時間で、イエスは罪人の代わりにあの木にかけられます。
罪人としての裁きを負われます。
しかし、イエスは死から逃れられないことをご存じです。
しかし、完全な信頼をもって、十字架を見守っておられます。
イエスは復活を待ち望んでおられます。
ギリシヤ人が「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言ってやって来た時、イエスは「父よ。御名の栄光を現わしてください」と言われました。
すると天から声が聞こえて「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう」と言われました。
神は復活において、ラザロの墓における勝利において栄光で輝かれました。
神は御子の復活において栄光に輝かれようとしています。
罪の問題が神が満足され解決されるとき、神の栄光は、罪の問題を解決した方の復活を要求しています。
ここでは、主の栄光が二つの非常に異なる形で示されています。
一つは主の本質的な栄光と、もう一つは主が獲得された栄光です。
主が最初の節で「あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください」と言われる時、私たちは主が獲得された栄光について語っています。
5節で主はこのように言われています。

「世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」
(ヨハネの福音書17章5節)


ここで主は、主の本質的な栄光について語られています。
イエスは永遠の昔から御父と一つです。
しかし、イエスは無限の恵みによって、外面的な栄光のしるしを捨て、この世に来られ、異邦人、巡礼者としての道を歩まれました。
今、イエスは来られた場所へ戻ります。
隠されていたものすべてが、父と一つであるイエスの本質的な栄光として、完全に現されます。
1節には、イエスがこの世に来られ、地上で御業によって獲得された栄光が記されています。
イエスが苦しみを受けられなかったなら、救い主となることはできなかったでしょう。
救い主としての栄光は、十字架を通してのみもたらされます。
ヘブル人への手紙には「多くの苦しみを通して全うされた」とあります。
これは人格のことでは指していません。
なぜなら、イエスは常に人格において完全であったからです。
しかし、十字架の苦しみを経なければ、私たちの救いの指揮者となることはできなかったのです。
そして、イエスは私たちを教会のかしらとしての栄光を得るのです。
イエスは常に被造物のかしらです。
コロサイ人への手紙には、イエスがすべてのものを創造したと書かれています。
しかし、ここでは、復活においてイエスは死者の中から最初に生まれ、教会のかしらとなられたと書かれています。。
栄光のうちに復活された方は教会のかしらです。
イエスにはイスラエルと地の果てに至るまですべての民を支配する、来たるべき王としての栄光があります。
これは、イエスが地上で父なる神の御心に従われるかどうかにかかっているのです。
イエスは飼い葉桶から十字架までの道を歩まなければなりません。
このことを踏まえて、イエスは全地のヤハウェの王として宣言されます。
私たちはイエスが獲得されたすべての栄光にあずかります。
しかし、私たちはイエスの本質的な栄光にはあずかることはできません。
私たちは決して神の一部となることはありません。
それゆえ、イエスは全宇宙で唯一、神であり人でもある方であり続けます。
私たちはイエスの救いの御業の実に預かっています。
私たちは救われ、十字架上で主が成し遂げられた御業によって、主をかしらとする体の一部とされました。
私たちは主と共に支配するのです。
私たちは主が獲得された栄光にあずかります。
そして、主の本質的な栄光の御前で礼拝し、崇めます。
「あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください」と言われた時、主は依然として人として語っておられます。
もし私たちの主が墓から出てこられなかったなら、神の計画全体は破滅し、決して成就することはなかったのです。
私たちは2節ではこのように書かれているのを読むことができます。

「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。」
(ヨハネの福音書17章2節)


これは、マタイの福音書の最後の章で主が宣言された「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」という言葉と一致しています。
神は復活したキリストにすべての権威を委ねられました。
「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。」
この言葉が、最後の夜に私たちの主イエス・キリストが御父に疑問を投げかけた言葉の確かな記録だと見ることができます。
「あなたはすべての肉なるものを支配する権威を私にお与えになりました。それは、あなたが私に与えられたように、私が多くの人に永遠の命を与えるためです」 と言う人がいるでしょうか?
この言葉には、イエスご自身がご自身の神性を認められていることが込められています。
なぜなら、イエスは永遠の命を神としてお与えになるからです。
また、「あなたが子にお与えになったからです」という表現にも注目してください。
この章では、この表現、あるいはそれに似た表現が7回使われています。
これは何を暗示しているのでしょうか?
ここから、神が贖われたすべての者を、御子への父なる神の愛の賜物とみなしておられることがはっきりと示されています。
だからこそ、私は信者の永遠の安全という問題について、何の疑問も抱いていません。
すべての信者は主イエス・キリストに与えられています。
そして、私はこのように読んでいます。

「神の賜物と召命とは変わることがありません。」
(ローマ人への手紙11章29節)


神は決してご自分の考えを変えません。
子供の頃、私たちは時々、他人に何かを与えることがありました。
しかし、しばらくしてからそれを取り戻したいと思ったものです。
神は、世界が始まるずっと前からイエスに教会をお与えになっています。
御子を信じるすべての人を永遠にキリストにお与えになったのです。
「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるために」、私たちはこの表現に何度も注意して見ています。
祝福された主は、父なる神がイエスに与えてくださったすべての者に永遠の命を与えられます。
御父はどのくらい多くの人を主イエス・キリストに与えたのでしょうか?
すべての者がイエスの御元に行くのです。

「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。
そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」
(ヨハネの福音書6章37節)


私は、極端なカルヴァン主義のもとで育てられ、このことに心を痛めていた、多くの悩める魂を知っています。」
ある若い女性が泣きながら私のところにやって来て、このように言いました。
「御父がわたしに与えてくださった者は皆、わたしのもとに来るであろう」と書いてあります。
御父がわたしをイエスのもとに与えていないなら、わたしは主のもと育てることはできません。
自分が父から子に与えられた者の一人なのか、私には分からないのです。」
私は「行きたくありませんか?」と尋ねると、彼女は「心から行きたい」と答えました。
私は「ただ行けばいいのです」と答えました。
そして、行ったら、「私は御父から御子に与えられた者の一人です」と言うことができます。
その人が行きたいと思っていること自体がすべてを物語っています。
その思いは魂における恵みの働きの始まりなのです。
もし、主があなたの中で働いておられなかったら、あなたは行きたいとは思わないはずです。
あなたは全く無関心なはずです。
3節にはこのようにあります。

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
(ヨハネの福音書17章3節)


この聖句は永遠の命の定義ではありません。
永遠の命を、どのように納得のいく定義すれば良いのか、私には分かりません。
生まれながらの命をどう定義したらよいのか、私にはわかりません。
生きているとはどのようなものなのかは分かっていますが、命を定義することはできません。
神の命、永遠の命についても定義できません。
3節は現わされた永遠の命を示しています。
また、永遠の命が何を可能にするのかを示しています。
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
永遠の命を持つことなく、父なる神と子なる神を知ることはできません。
生まれながらの人は神のことを理解できません。
しかし、私たちが御子を信じるときに神は永遠の命を与えてくださいます。
それは、私たちが父なる神と主イエス・キリストを知ることです。
その命は、私たちを父と子との交わりを楽しみ、祝福された関係の中へ導いてくれます。
永遠の命を持つまでは、誰も主イエス・キリストとの交わりを楽しむことはできません。
4節で、祝福された主は私たちの心に深く響く二つのことを示しておられます。
主は地上での生活を振り返りこのように言われました。

「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」
(ヨハネの福音書17章4節)


主には一つも後悔などありません。
もし、私たちの主の神性を疑う人がいるなら、キリストの記録について考えてみるべきです。
イエスは地上で暮らしながら、一度も後悔したことがありません。
謝らなければならないようなことは言ったこともありません。
後になってやらなければよかったと思うようなことは一度もしたことがありません。
間違いを一度も犯さず、ベツレヘムの飼い葉桶からカルバリーの十字架までの岩だらけの道で一度もつまずくことがなかったのです。
私たちとは違うのです!
ブッシュネル氏(Bushnell)は、キリストは、悔い改めの必要のない敬虔さを持っているという事実に注目しています。
考えてみてください。
あなたの敬虔な人生はどのように始まったのでしょうか?
私はクリスチャンの皆さんに語りかけています。
それは、祝福された主の前にひれ伏し、痛恨と悔い改めの涙を流したことから始まったのではないでしょうか?
イエスは、宣言して失敗したことを一度もされたことがありません。
また、ご自身の罪のために涙を流されたこともありません。
なぜなら、イエスには罪がなかったからです。
しかし、他の者の罪のために涙を流されたことはありました。
イエスはご自身の生涯を振り返り「わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました」と言われました。
イエスは、すべての言葉と行いにおいて、父の栄光を念頭に置いていました。
「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」
おどろくべき祝福された称号ではないでしょうか!

「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。」
(ヨハネの福音書17章5節)


イエスは地上での生涯を父なる神の栄光を求めて過ごしました。
「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。
二つ目の点に注目してください。
この順序は非常に教えに富んでいます。
イエスは、私たちがイエスの足跡に従うべき模範を残されたのです。
ヨハネの手紙第一2章6節にはこのように書かれています。

「 神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」
(ヨハネの手紙第一2章6節)


私はキリストが歩まれたように、完璧に歩むことは決してできません。
私は失敗だらけです。
しかし、少なくともキリストの足跡に従い、キリストが歩まれたように、神への献身とあらゆる悪から離れるという同じ思いをもって歩もうと努めることはできます。
まず第一に、私の魂の前に神の栄光を置き、次に私に託された働きを心に留めます。
働くことよりも大切なことがあります。
人が決心するとすぐに、私たちは「その人に働かせなさい。
その人に何か仕事を与えなさい」と言います。
ある人は、準備ができていないことをして、働くことが義務となってしまいます。
彼らは恵みの祝福と豊かさを知りません。
働くことよりも大切なことがあります。
それは神の栄光です。
働きによって何かを成し遂げることよりも、神の栄光が示されることの方が大切です。
数年前に私が訪問した愛しい病人の気持ちがよく分かります。
貧しい人や病人を訪問することに多くの時間を割いているある人が「私のお気に入りの一人に会いたいので一緒に行ってくれないか」と言いました。
私は彼と一緒に行きました。
私たちは通りから少し奥まった長屋に着きました。
そして、階段を上って小さな部屋に入りました。
そこには、愛らしい母親と、おそらく32歳くらいの若い女性の娘がいました。
彼女は子供用の椅子に座っていました。
彼女は何年も前に小児麻痺を患っていました。
22年間、あの小さな椅子が彼女の王座でした。
彼女は窓辺に座り、目の前に小さな机を置いていました。
彼女は世界中の苦難や試練に遭っている人々に手紙を書いていたのです。
私は彼女に同情の意を表しました。
彼女はとても優しい笑顔で私を見ていいました。
「私が走り回っているよりも、私がこの椅子に座っている方が、多くの神の栄光が得られていると信じています。
私は神様に栄光を帰すためにここにいられることに満足しています。」
それから、彼女のした働きについて語り始めました。
彼女は他の病気の人々に手紙を送るという素晴らしい働きをしていたことが分かりました。
そして、彼女はこのように言うことができました。
「閉じ込められることが、どういうことかよく分かります。
歩くことも、大切な夢を実現することもできないことが、どういうことか私は知っています。
しかし、同時に祝福された主が驚くべき方法で、私たちの魂の中に入り満たしてくださるかも知っています。
ですから、私は主を皆さんに勧めているのです。」
彼女は地上で神に栄光を帰し、神から与えられた働きを成し遂げています。
これは常に正しい順序です。
しかし、私たちはしばしばそれを逆転させ、働きを優先させます。
主はまず「地上であなたの栄光を現わしました」と言われ、それから「わたしは成し遂げて」と言われています。
(日本語では逆になっています。)
この箇所から、主が十字架がすでに過去のものであるかのように語っておられることに注目してください。
主は「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました」と言われました。
言い換えるのであれば「わたしは地上に来た目的、つまり栄光の衣を脱ぎ捨てるという目的を達成しました。
今、わたしは再びそれらを受け取るために帰って来ます。」ということです。
イエスは地上におられたとき、神性を捨て去られません。
イエスはこれまでと変わらず永遠の御子です。
しかし、イエスは、人間の体、人間の霊、人間の魂を結合させ、神としての性質と一体化されたのです。
以前と変わらず、今やイエスは人間の性質をすべて備える者となりました。
このように、イエスは神と人の間に立つ「仲介者」としてふさわしい存在になったのです。
主イエス・キリストの受肉の完全な真実を否定し、それでも、イエスの神の子としての立場を放棄することをためらう人たちがいます。
彼らは、一般に「ケノティシズム(Kenoticism)(空にするという意味)」と呼ばれる理論を考えだしました。
それはピリピ人への手紙2章7節をベースにしています。

「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」
(ピリピ人への手紙2章7節)


文字通りに読むのであれば、ご自分を空に(ekonosin)されました。
他の点では善人であるように見え、私たちの主の神の子としての性質を信じているように見える人々は、この理論を使ってその時代の多くの教えに適合させたのです。
彼らは、主イエスが地上に降りてこられた時、イエスはご自身の神としての特質を空にしたと言っています。
彼らは、主イエスの存在と神の御子としての信仰を告白していますが、主イエスが地上におられた間は他のガリラヤの農民と同じだったと言っています。
彼は実際には技術職でしたが、彼らはイエスを農民と呼んでいます。
イエスが純粋で美しい人生を送ったことは認めています。
しかし、イエスは全知全能の神性を捨て去り、人間である制限をすべて受け入れたと主張しています。
そして、次のような主張を繰り返しています。
「創造者は、初めから人を男と女に造って」とイエスが言われました。
しかし、イエスはそれ以上のことは知らなかったのです。
イエスは村以外で教育を受けておらず、ラビの言うことを信じていました。
イエスがヨナについて語った時他の無教育のガリラヤ人と同じように語られたのです。
イエスはご自身を空っぽにされたために間違いを犯しました。
このような人たちが見落としているのは、イエスがこの地上を歩んでいた間、聖霊がイエスについてこのように言われたことです。
また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。
聖書には次のように書かれています。

「人のうちにあるものを知っておられた。」
(ヨハネの福音書2章16節)

「イエスはすべての人を知っておられ、」
(ヨハネの福音書2章14節)

「キリストは肉において現われ」
(テモテの手紙第一3章16節)


この御業が完成すると、イエスは、ご自分の残して行かれた栄光を取り戻すために戻って来られます。
それは、再び神に同化されるためではなく、父と一体となって栄光の中に戻るためです。
このことを理解するのに歴史の中には、役立つ例え話があります。
ロシア皇帝ピョートル大帝は海軍を建設しようとしました。
しかし、ロシア人は海洋民族ではありません。
戦争の結果、彼はバルト海にロシアの港を手に入れました。
彼は「海軍を創設する」と言いました。
しかし、彼の民衆は船について何も知りません。
ピョートルはどうしただろうか?
ピョートルは王の衣装と王冠を脱ぎ捨て、ロシア領における支配者としての権限を皇后キャサリンに授けました。
ピョートルは一般労働者の服装をして、オランダとイギリスへと向かいました。
そこで彼は身分を隠し、船大工の見習いとして働き、船の建造法を学びました。
それから、彼はロシアに戻り、職人の服を脱ぎ捨て、再び王の衣装をまとったのです。
オランダやイギリスにいても、ピョートルロシアにいた時と同じ人物です。
ピョートルは王族の外面的な威厳を捨てただけでした。
ですから、私たちの主は地上に来られたとき、栄光を捨て去り、肉の衣をまとった神として来られました。
イエスは神に栄光を帰し、御業を成し遂げ、そしてこのように言われました。

「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。
世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」
(ヨハネの福音書17章5節)


このようにイエスは、御自身が来られた父の御前に帰られました。
そして、今は私たちの大祭司として天の聖所に留まり、私たちのためにとりなしをするために永遠に生きておられるのです。


講演56 主の大祭司としての祈り(2)

「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。
いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。
それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。
わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。
わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。」
(ヨハネの福音書17章6~10節)


イエスは父への祈りを続けています。
イエスの試練の間も、弟子たちはイエスと共にあり続け、イエスのメッセージを信じていました。
そして、イエスは今、地上で、イエスのために働くために残される者たちのことを念頭に置いておられます。
まず、私たちは父なる神の御名が表明されていることを知ります。

「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。」
(ヨハネの福音書17章6節)


「父」という、素晴らしく甘くて尊い御名は、新たな啓示として与えられました。
神の父という性質は、旧約聖書では同じようには啓示されていません。
神はイスラエルの父です。
マラキ書ではこのように記されています。

「私たちはみな、ただひとりの父を持っているではないか。ただひとりの神が、私たちを創造したではないか。」
(マラキ書2章10節)


神の普遍的な父としての性質と人類の兄弟愛という現代理論の支持者たちは、繰り返しこの聖句を証拠文として引用してきます。
しかし、それは全く的外れです。
父なる神の名を明らかにし、神が御子を信じる一人ひとりの父であることを示すのは、祝福された主の務めです。
かつて、神は御自分の事を「エロヒム」、創造主、「ヤハウェ」、人間との契約者である神、「エル・シャダイ」、民のあらゆる必要を満たすことのできる万能者、「いと高き神」、宇宙の至高の支配者として知られていました。
しかし、私たちが主イエス・キリストの口から、そしてその生涯を通して父なる神の名の啓示を知るには、新約聖書のページに目を通す必要があります。
あなたはヨハネの福音書1章14節の聖句を覚えているはずです。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
(ヨハネの福音書1章14節)


主を深く知るにつれて、私たちはひとり子である御方と共に歩み、語り、御父との絶え間ない交わりの中で生きていることに気づきます。
このように、主は御父の御名を明らかにされています。
あなたは御父のみこころを知りたいはずです
主イエスをもっとよく知りたいはずです
ピリポはこのようにイエスに言いました。

「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
(ヨハネの福音書14章8節)


イエスはこのように答えられました。

「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか」
(ヨハネの福音書14章9節)


イエスは三位一体の神格を混同したわけではありません。
イエスが弟子たちに「父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けなさい」と命じられたとき、イエスは三位一体の神格を慎重に区別されています。
バプテスマの式文では、神の一体性を否定することなく、神格が区別されています。
しかし、キリストにおいて私たちは父のみこころ、父の思い、そして父の御性質を見ることができます。
キリストご自身が、神の性質の正確な現れなのです。

そこでイエスはこのように言われています。

「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。
(ヨハネの福音書17章6節)


注意しなければならないのは、御名を明らかにしたのはすべての人に明らかにしたのではありません。
「世から取り出してわたしに下さった人々」に明らかにされたのです。
この人たちはどんな人たちでしょうか?

「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。
わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」
(ヨハネの福音書6章44節)

「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」
(ヨハネの福音書6章37節)

「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。
世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」
(ヨハネの福音書17章5節)


カリフォルニア州オークランドで開かれたある大きな集会で、サム・ハドリーが数々の証しを聞いた後にこのように言いました。
「皆さんの多くは、どのようにしてイエス様を見つけることができたかを話してくれました。
しかし、私にはそんな話はありません。
私はイエス様を見つけていません。
なぜなら、私がイエスを探し求めていたわけではないからです。
イエスが私を見つけ、罪と恥辱の人生から私を御自身へと引き寄せてくださったのです。
そして彼は古い賛美歌の歌詞を引用しました。
「私は神の羊飼いから迷い出ていました。
イエスは私を探し求め、危険から私を救うために、尊い血を注ぎ出してくださいました。」
クリスチャンの働き人からどのようにイエスを見つけたかと尋ねられた小さな男の子の話を、皆さんは聞いたことがあると思います。
男の子は驚いて顔を上げてこのように言いました。
「先生、私はイエスが失われたとは知りませんでした。
でも、私は失われていたのです。
そしてイエスは私を見つけてくださいました。」
すべての救われた人はそのように言うべきです。
神の御子にとって、救われた人という父なる神の贈り物とはとても貴重な存在なのです!
イエスはこのように言われます。

「彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。」
(ヨハネの福音書17章6節)


神の性質を持つ者、すべてのクリスチャンには神の御心を行い、神の言葉を守りたいという願いがあります。
この願いがない者は、新生されていません。
7節でイエスはこのように言われます。

「いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。」
(ヨハネの福音書17章7節)

わたしたちのあらゆる失敗や罪にもかかわらず、主はわたしたちを天国に連れ戻す時、わたしたち一人一人に対してこのように言ってくださります。
イエスは、ヨセフやダビデのように、御父の恵みを分け与える立場に立たれています。
この二人の若者は、兄弟たちに仕えるために父祖から遣わされました。
しかし、二人ともひどく誤解され、拒まれました。
しかし、主は御自身がもたらした祝福を受ける人々を、喜びと満足をもって見つめておられます。
彼らは主が神から来られたことを確かに知り、神が主を遣わされたと信じたからです。
主は彼らのために祈られます。
主が天で大祭司としてのとりなしをなさるのは、救われていない人々のためではなく、世から主に与えられた人々のためです。
十字架上では罪人のために祈り、天では聖徒のために祈られます。

「わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。」
(ヨハネの福音書17章10節)


この聖句はすばらしく甘美な言葉です。
なんと完全な安全、素晴らしく祝福された交わりなのです!
私たちのさまざまな失敗にもかかわらず、主はご自身のあらゆる失敗において栄光をお受けになります。
なぜなら、主はこれらの失敗さえも、私たちの弱さと無力さ、そして主の変わらぬ愛と力に頼ることの必要性を私たちに教える機会とされるからです。
ここで「祈る」と訳されている言葉は、文字通りには願い求めることを意味します。
いつの日かイエスは世界に対する願いを語るのです。
それは、詩篇2篇に書かれているようです。
そして、その願いはイエスに与えられます。

「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。」
(詩篇2篇8節)


その時、イエスは偉大な力で支配され、このように預言されています。

「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
(ヨハネの黙示録11章15節)


今、イエスは諸国民の中から御名のために民を選び出し、彼らのために父に願い求めておられます。
彼らは御父と御子と共に命の束で結ばれています。
イエスは「わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです」と言われています。
これ以上に尊いものがあるはありません。

次は、かつてヨハネの福音書10章で主が宣言されたことを言い換えたものです。
主は良き羊飼いとして、御自分の羊についてこのように言われました。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」
(ヨハネの福音書10章28、29節)


すべての信者は、父と子の御手にしっかりと握られています。
私たちはこのように歌うことができます。
「私はこのような信頼の中にいる。そこでは何も変わらない。」
主ご自身がこのように言われなかったなら、私たちは主がすべての者によって栄光を受けていると断言できません。
私たちの多くは、このような重大な失敗を犯してきました。
私たちは幾度となく、遠く離れては従ってきました。
私たちの軽率な生き方や軽率な言葉は、幾度となく主の御名の名誉を汚してきました。
しかし、主は、御自身の血によって清められ、御霊によって生まれ、救われたすべての人々を見て「わたしは彼らによって栄光を受けました」と言われています。
すべてのクリスチャンの人生と経験は、主にとって喜ばしいものです。
そして主の御名に栄光をもたらすことがあります。
私たちの律法にとらわれるような哀れな心にとっては、真実な恵みの意味を理解することは難しいことなのです。
一般的に、私たちは神の恵みによって救われ、神の恵みによって義とされ、その救われたその同じ恵みによって、私たちは最後まで導いてくれることを告白します。
しかし実際には、常に私たちは個人的な功績を主張したがります。
常に、私たちは恵みによって支えられています。
それゆえ、私たち一人一人の中に、神の栄光が宿るという、幸いな事実には変わりがありません。
これらの事は。聖霊の力によって私たちの中で行われる神ご自身の働きによって実現されます。
主のとりなしはまさにそのためにあるのです。
主は永遠に生きておられます。
そして、私たちのためにとりなして下さり、とこしえの救いを与えてくださるのです。


講演57 主の大祭司としての祈り(3)

「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。
わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。
わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。
わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」
(ヨハネの福音書17章11~16節)


この箇所では、私たちの主は御自分の直接の弟子たちのためにとりなしを続けておられます。
彼らは三年半もの素晴らしい間、主と共に歩んでいました。
彼らは主の口から発せられる恵み深い言葉に耳を傾け、主の力ある御働きに感動していました。
彼らは主の王権の宣言と、ユダヤにおける新しい王国の樹立を確信をもって待ち望んでいました。
今、彼らは主が自分たちのもとを去り、元の栄光の場所へ戻ろうとしていることをかすかに感じ、当惑し、動揺していました。
イエスが去った後、世が弟子たちに何をもたらすかを、イエス以外には誰も知り得ないことを彼は知っていました。
弟子たちが福音の言葉を携えて出て行くのなら、世の態度がどのようなものであったかを知らせるために、イエスは弟子たちを御父の御力にゆだねられました。
「わたしはもう世にいなくなります」とイエスは言われました。
「彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」
この祈りを通して、イエスは最初から終わりに至るまで、十字架での働きを待ち望んでいたことを覚えておいてください。
イエスは、十字架の働きがすでに過去のことであるかのように語っています。
すべてをご自身の復活と昇天の観点から見ておられるからです。
まるで、すでにイエスはとりなしのための偉大な大祭司として聖所に着座されているようです。
主は幸いなことに、御自分の民が経験している事柄の中に存在しているかのごとく、入り込んでくださっています。
かつて、主は嵐の海を漕ぎ進む民を山頂から見下ろしていました。
今、主は彼らがあらゆる試練と誘惑にさらされている姿を見下ろしておられます。
「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
今でも、天上から聖徒たちが見られているという、素晴らしい感覚があります。
エペソ人への手紙2章にはこのようにあります。

「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
(エペソ人への手紙2章6節)


キリストは私たちの代表者であり、神はキリストにあって私たちを見てくださいます。
やがて私たちは、現実の経験としてキリストと共にいることになります。
しかし、現在の私たちは荒野の砂を踏むイスラエルの民のようです。
乾いた荒廃の地で生きるには、神の助けが必要です。
この地には、私たちの必要を満たしてくれるものは何もありません。
ダビデの言葉は私たちに適応することができます。

「私の泉はことごとく、あなたにある。」
(詩篇87編7節)

私たちは霊的な生活の中で支えてくださるものを、主ご自身から引き出さなければなりません。
私たちが地上の巡礼の道を歩む間、私たちが支えられるようにと、主は私たちに代わって御父に懇願されます。
さらに、主は、私たちが互いに一つであることを実感し続けるよう願っておられます。
「あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。
それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」
クリスチャンがあまりにも散らばり、分裂しているため、主のこの祈りは聞き届けられていないと言われることがあります。
しかし、それは真実ではありません。
ここで主が語っておられる一致とは、命の一致、すなわち家族の一致であり、すべての信者はこの意味で一つなのです。
これを実際に示すことは祝福です。
あなたと私が御父との関係を悟るならば、私たちは一致の現れは保たれます。
そして、証しにおいて一致が生まれます。
初期の教会時代、使徒たちが主キリストを証しし、しるしによって御言葉を確証されました。
それを見るならば、この祈りはそのような観点からどのように答えられたかを知ることができます。
こうして使徒たちは、主イエス・キリストの死と埋葬と復活について、大いなる力をもって証ししました。
それは、主における一つの共通の命に基づいて行われた一致した証しでした。
12節でイエスはこのように語っています。

「わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。
彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。」
(ヨハネの福音書17章12節)


イエスは弟子たちに父の御名を啓示し、神との交わりと応答という祝福の中で彼らを養われました。
弟子たちと共にいる間、イエスは彼らが右から左へと迷うことのないよう、必要に応じて導き、助言し、矯正し、懲らしめました。
そして今、イエスは父から与えられたものを一人も失うことなく、無事に彼らを皆導きました。
現実にイエスが一人、すなわち滅びの子ユダを失ったとして理解してはなりません。
なぜなら、イエスはそのようなことを言っていないからです。
原文では「滅びの子」は主格です。
ゆえにイエスは「あなたが私に与えてくださった者たちを私は守りました。そのうちの一人も失われていません。滅びの子だけが失われました。聖書が成就するためです」と言われたのです。
ユダは御父から御子に引き渡されたことは一度もありませんでした。
ユダは他の弟子たちと共に歩み、会計係として信頼さえされていました。
しかし、ユダが離反するずっと前に、主はこのように言われています。

「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」
(ヨハネの福音書6章70節)


御父がイエスにお与えになる者は,その人を永遠にお与えになることをあなたがたは確信してはずです。
その人は決して失われることはありません。

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」
(ピリピへの手紙1章6節)


人々はこれを聖徒の忍耐の教理と呼びますが、私はむしろ救い主の忍耐と考えたいのです。
主はこのように言われました。

「あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。」
(ヨハネの福音書17章12節)


もし私が自分で守らなければ、乗り越えることは絶望的です。
いつか、何かが起こり、キリストへの信頼を失い、失われてしまうことは確実です。
しかし、私が頼りにしているのは、主が私を支えてくださっているからです。
誰も信じる者を主の御手から奪い去ることはできません。
私はこの言葉から大きな慰めを得ています。
イエスが御父に報告をされ、この恵みの時代の最後の信者が無事に天国にたどり着いた時に、イエスは選ばれた教会全体についてこのように言われます。

「彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。」
(ヨハネの福音書17章12節)


皆さんは、このような例外を知っているかもしれません。
しかし、その日には、これらの一見、信者に見える者たちが、ユダ自身のように実際には神から生まれていなかったことが明らかにされます。
ユダは失われたとされています。
それは「聖書が成就するためです」です。
これはユダが心から救われたと願っていながらも、救われなかったという意味でしょうか?
いいえ、違います。
しかし、私たちは神の先見と宿命を区別する必要があります。
ユダが主イエス・キリストを裏切ることは予見されていました。
それは神の御言葉の中で預言されていました。
しかし、それは神が予め定めていたという意味ではありません。
神はユダが神の恵みによって妨げることなく、自分の道を歩むことを許されました。
ユダは悪い道を歩んだのです。
神はユダがこうなることを予見しておられました。
聖書の御言葉はユダの運命において成就したのです。
13節にはこのようにあります。

「わたしは今みもとにまいります。
わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。」
(ヨハネの福音書17章13節)


英語の「fulfilled(全うされる)」という言葉は二つの単語を合わせて逆にした言葉です。
正確な意味を得るために逆にしてみましょう。
すると「filled full(十分にあふれる)」になります。
これこそが主の意図しておられることです。
ならば、主が父なる神にこのように言ったことになります。
「わたしは今みもとにまいります。
今、彼らを試練の世界に残します。
でも、彼らの心が喜びで満ち溢れるように祈ります。
わたしは彼らと喜びを分かち合いたいのです。
彼らが喜びで満たあふれることを願います。」
イエスは何に喜びを見出されたのでしょうか?
父なる神の御心を行い、御父と交わることに喜びを見出されたのです。
わたしたちが信頼し、従うのなら、この喜びはわたしたちの心をあふれんばかりに満たすことができるのです。
喜びと幸福には大きな違いがあります。
「幸福(Happiness)」は古英語の「Hap」に由来しています。
「Hap」はチャンスを意味しています。
出来事が楽しいものであれば、世の人は幸せです。
出来事が楽しくないものであれば、世の人は不幸です。
しかし、クリスチャンは神との交わりの中で歩むのならば深い喜びを持ちます。
いかなる幸福も、その喜びに影響を与えたり、変えたりすることはできません。
この喜びが、初期の弟子たちの証しに大きな力を与えたのです。
人々は弟子たちを殴り、牢に入れ、足かせをはめ、死刑を宣告することをしたのです。
しかし、彼らは口で歌を歌いながら、それをすべて耐え忍びました。
この喜びは世のものではありません。
これは主からの明白な喜びです。
そして主はこのように言われます。

「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。
わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」
(ヨハネの福音書17章14~16節)


わたしたちは、現実にこの世から見て「よそ者」であることを認識するのに時間がかかりすぎです。
理論的に、わたしたちははこの世のものではないと理解できます。
しかし、わたしたちの趣味、野心、そして行動において、実にこの世のもののようです。
問題は、私たちが生きている地上のことを、十分に考えていないことです。
私たちは天にある世界を実際に見るまで、誰も地上のことを制御することはできません。
今、私たちは、キリストの居場所のないその制度から離れるように召されています。
天の目的に向かって進むときの私たちの糧は、キリストが私たちに与えてくださった御言葉です。
主イエスは、何事についても意見を述べられていないことに注目してください。
厳密に言えば、イエスには出すべき考えを口にすることはなかったのです。
人はイエスの見解、イエスの考え、イエスの物事に対する概念について語ります。
しかし、これは全くの誤りです。
イエスが語られたことは、神が語られたのです。
イエスは父なる神の御言葉を語られました。
この言葉は単なる意見や概念をはるかに超えるものなのです。
これにしがみつき、しっかりとつかまり、それに従って歩むのなら、私たちはこの世に属しているのではなく、巡礼者として神の民に残された休息へと向かっていることが証明されるのです。


講演58 主の大祭司としての祈り(4)

「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。
わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」
(ヨハネの福音書17章17~21節)


これらの聖句には、私たちの前に提示されている真理の2つの明確な流れがあります。
1つ目は、私たちの実際的な聖化です
2つ目は、父と子にある神のすべての民との私たちの生命と本質の統一です。
この統一は、失われた世界に対するキリスト教の証言の基礎を形成しています。
ここにある主の祈りに注目してください。

「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」
(ヨハネの福音書17章17節)


イエスは何を教えてしているのでしょうか?
新約聖書における聖化には、聖霊による聖化、キリストの血による聖化、そして真理の御言葉による聖化という、3つの異なる側面があります。
第一は、私たちの内におられる聖霊の働きを指しています。
聖霊は、私たちをあらゆる汚れから清め、実際に神のために聖別してくださることです。
二番目は、私たちを天の聖所に入るのにふさわしい者とする法的な清めと関係があります。
そして最後は、私たちの日々の歩みと関係があります。
義認と聖化を決して混同してはなりません。
義認とは、さまざまな罪の責めから解放することです。
聖化とは、聖なる目的のために聖別することです。
私たちは罪深い者だったので、義認を受ける必要がありました。
私たちは罪によって汚れ、汚されていたため、聖化を受ける必要がありました。
立場的に言えば、私たちは救い主を信じる瞬間から、キリストの尊い血の価値によって、神に聖別されています。
しかし、実際には、私たちは聖霊と御言葉によって日々、聖化されています。
コリント人への手紙第一6章11節にはこのようにあります。

「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。
しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」
(コリント人への手紙第一6章11節)


前の節で使徒は、多くの不敬虔な人々について語っています。

「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。
不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」
(コリント人への手紙第一6章9、10節)


しかし、クリスチャンもかつては彼らと同じように邪悪な者でしたが、洗われ、聖化され、義とされました。
この洗いとは、御言葉の水を私たちの心と良心に注ぐことであり、聖霊の力によって行われなければなりません。
これは、一つの真理の二つの異なる側面を単純に述べているのです。
ここで強調されているのは、義とされることではなく、聖化のことです。
私が主イエス・キリストを信じる前に、私の中で聖霊が働き、私を目覚めさせ、罪を自覚させなければならなかったのです。
何年も前、サンフランシスコの伝道所に行き、印象的な証しをいくつか聞いたのを覚えています。
神がいかに驚くべき方法で人々を罪と放蕩の生活から救ってくださったかを語ってくれました。
そして、私は最後のメッセージを伝えることになっていました。
彼らの話を聞いていると、この聖句が浮かび、それを今日の聖句にしました。

「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。」
(コリント人への手紙第一6章11節)


集会が終わると、働き手の一人が私のところにやって来て「少しお話してもよろしいでしょうか?」と尋ねました。
私は「もちろんです」と答えました。
すると彼は「今夜のあなたの神学はひどく混乱していましたね」と言いました。
私は「そうでしたか?
どうか、私の考えを正していただけませんか?」と答えました。
彼は「はい、わかりました。
あなたは義認よりも聖化を優先しました。
義認は最初の祝福であり、聖化は第二の祝福です。ところが、あなたはこれを逆にしました」と答えました。
私は「あなたは間違っています
私は義認よりも聖化を優先したわけではありません」と答えました。
彼は力強く「もちろんです」と答えました。
私は「いいえ、あなたは間違っています。
私はそのようなことは何もしていません」と彼に言いました。
義認よりも聖化を優先させたのは使徒パウロです。
私はパウロの書いたものをそのまま引用しただけです。
彼は私が誤って引用したと主張しました。
そして、聖書を調べてみても、私の正しさは認めるしかありません。
ただし、翻訳が間違っていることは確かだと確信していました。
私たちは英訳KJVの聖書を調べました。
そこにも同じ順序があります。
彼は困り果てて叫びました。
「私が言いたいのは、パウロがこれを書いた時、彼はまだ聖化について明確に理解していなかったということです!」
しかし、これは、聖霊による聖化が義認に先立って起こると述べている唯一の聖書箇所ではありません。
テサロニケ人への手紙第二2章13節で私たちはこのように読んでいます。

「主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。」
(テサロニケ人への手紙第二2章13節)


御霊による聖化こそが、真理への信仰へと導くことができるのです。
そして、ペテロの第一の手紙1章と2章にも、同じ順番が見られます。

「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」
(ペテロの第一の手紙1章2節)


私たちはキリストの血によってすべての罪から義とされ、その同じ尊い血によって聖化され、キリストにおいて神に聖別されるのです。

「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」
(コリント人への手紙第一1章30節)


ここで主は父なる神に「真理によって彼らを聖め別ってください」と願っておられます。

注)私はこのすべてを、私の著書「真実の中にある偽りの聖化(Holineys, the False mid the True)」の中で、詳しく取り上げようと努めました。
聖化の問題で悩んでいるなら、この本を一冊手に入れて、注意深く読んでみることをお勧めします。

つまり、神の言葉は神の民の生活に適用されるべきです。
また、彼らがその言葉に従うのなら、彼らは実際に聖化され、汚れから清められます。
エペソ人への手紙5章25~27節にはこのようにあります。

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
(エペソ人への手紙5章25~27節)


神の御言葉は、その清める力ゆえに水に例えられています。
しかし、私がキリストを信じた時に、私はキリストの尊い血によって一度限りで清められました。
これは繰り返す必要のない清めです。
なぜなら、血は贖いの座に留まり、私たちをあらゆる罪から常に清めてくださるからです。
しかし、みことばによる水による洗いは、私にとって日々必要なものです。
これは、ヨハネの福音書13章で主が弟子たちの足を洗われた行為によって示されています。
私たちの足はこの世の物によって汚れます。
しかし、神の御言葉によって、私たちは清められるのです。
この意味においては、私たちは決して完全に聖化されたとは言えないことに、あなたがたは気づくはずです。
立場的に言えば、ヘブル人への手紙の中で述べられている真理を私たちは知っています。

「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」
(ヘブル人への手紙10章14節)


今、大きく主題から逸脱してしまうので、このことについて私が望むほど詳しく述べることはできません。
キリストは私の聖化であり、それは完全で永遠のものです。
しかし、私の実践においては、神の言葉を日々適用する必要があり、このように私は聖化されているのです。
さて、私たちの祝福された主が御父にこのように言われることをよく考えてください。

「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。」
(ヨハネの福音書17章18、19節)


聖別するとは、区別することです。
イエスは聖なる、汚れのない神の御子です。
イエスは、十字架に架かり、そこで私たちの罪のために死に、天において神の右の座に着くために、自らを聖別されました。
主に心を捧げる時、私たちは主のように祈る者となります。
御言葉を通してキリストに導かれる時、私たちの聖化は深まります。

「イエスに目を留め、その驚くべき御顔をじっと見つめなさい。
すると、地上のものは、主の栄光と恵みの光の中で不思議なほどに薄れていくのです。」

20節に注目してください。
主の思いは時代を超えて、あなたや私にも、さまざまな場所で主に信頼を置くすべての人々にも届くことができるのです。
イエスはこのように言われます。

「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」
(ヨハネの福音書17章20節)


このようにしてわたしたちは信じる者になったのです。
そうではないでしょうか?
では、イエスは何を求めておられるのでしょうか?
次の主の言葉に注目してください。

「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」
(ヨハネの福音書17章21節)


ここに、一致を求める二つ目の祈りがあります。
この祈りは交わりの一致であり、もちろん、この一致の上に、私たちの世への証しは成り立っています。
時々、人々は主のこの祈りは聞き届けられていないと言います。
クリスチャンと称する人々の間に様々な宗派や教派があることを指摘します。
私たちはこのようなことを恥じるべきです。
それにもかかわらず、真実なクリスチャンはどこで集まっても、キリストの尊いものにおける交わりを楽しむことができます。
私たちが何の利益にもならない些細な問題に心を奪われるのなら、私たちには違いが生まれます。
私たちは皆、キリストにあって一つなのです。
私たちの偉大な敵であるサタンが、同じ家族の一員を互いに争わせているという事実があります。
これは、実に悲しいことであり、私たちは神の前に屈辱と自己非難の念を抱き、頭を垂れるべきです。
私たちの一致が実際的な形で表されるのなら、私たちの証しは人々に対して力を持つようになります。
その反面、クリスチャン同士が互いに意地の悪い争いを好むことが知られるようになり、救われていない人々をつまずかせることになります。
苦難と迫害の時が訪れる時、私たちはすぐに一つであることを悟ることができるはずです。

アメリカのクリスチャン間の分裂に深く心を痛めていた、ある立派な年老いたアルメニア人クリスチャンが、ある時、目に涙を浮かべながら私にこのように言いました。
「彼らはトルコを必要としている。
もし、彼らが、私たちがアルメニアで経験したようなひどい迫害にさらされれば、互いをもっと大切に思うようになるはずです。」

最近、ある宣教師から手紙が届きました。
その宣教師が伝道活動中の異国の地で、全く異なる信仰を持つ別の宣教師に会った時のことを話してくれました。
彼は「ここではどんなクリスチャンでも、私にはとても魅力的に見えます」と言いました。
私たちがますます一致を実感するならば、それに従って行動することができるのです。
そうすれば、世界は神がイエスを人々の救い主として遣わされたことを信じることができるはずです。
世の人々が、あなたが他のクリスチャンについて意地悪な発言をするのを聞くたびに、あなたは自分の証しを台無しにしています。
昔の信者たちが兄弟愛を特徴としていた時代、テルトゥリアヌスは異教徒でさえ感嘆の声をあげてこのように言ったことが記しています。「見よ、これらのクリスチャンたちは互いに愛し合っているじゃないか!」
次の行は最も暗示的です。
「わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」 という私たちの救い主の祈りを適切に解説しています。
彼らは神に愛されています。
クリスチャンたちが出会い、別れるとき、この言葉がすべての心に刻まれるのではないでしょうか!
彼らは神に愛されています。
どんなにわがままで愚かでも、私たちは彼らを愛情に満ち溢れた目で見守ります。
彼らは神に愛されています。

驚くべきことに、永遠なる神にとっては、その愛する息子のように大切なものです。
イエスにとっては、自身の血よりも大切なものなのです。
それは聖霊の宿る場所として大切なものです。
彼らは神にとって大切な存在です!
痛みが与えられたので痛みを与えたいという誘惑に駆られる時があります。
この思いはいかに私たちの言葉によって抑えられるでしょうか?
彼らは神にとって大切な存在なのです。
真実のために私たちが戦うのなら、そこにある私たちの争いと愛は溶け合うべきなのです。
彼らは神にとって大切な存在です。
彼らがこの空虚な世界への巡礼の運命を避けようとするならば、彼らを忘れてはいけません。
愛と祈りによって彼らを取り戻してほしいのです。
神にとって大切な存在であるならば、彼らはそこでは決して幸せになることはできません。
神に愛されている私たちが、こんなに近くに、こんなに愛されていながら、遠く離れても冷たいままでいられるでしょうか?
同じ悩みと労苦にさいなまれながら、私たちは同じ忠実な胸に寄りかかり、同じ安息へと急いでいるのです。
神に愛されている人々のために、どれほど耐え、どれほどのことをすればいいのでしょうか?


講演59 主の大祭司としての祈り(5)

「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。
父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」
(ヨハネの福音書17章22~26節)


これらの聖句には、非常に素晴らしい真理がいくつか示されています。
22節で、主はご自身が獲得された栄光を、ご自分の民と分かち合うことについて語っておられます。
主イエス・キリストの本質的な栄光と、ご自身が獲得された栄光には違いがあることを、皆さんは既に見てきたとおりです。
5節で「世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」ト言われています。
そして、主が再びそこへ戻ろうとしている栄光について語られています。
その時は、主はあなたと私が決して分かち合うことのない、ご自身の本質的な栄光について語っておられています。
イエスは神です。
御子は神であり、父なる神、そして聖霊なる神です。
イエスは神であり、もちろん、私たちは神として崇められることはありません。
私たちはいかなる意味でもその栄光にあずかることはできません。
しかし、イエスを見上げる時、その栄光を目にすることになります。
私たちは永遠の御子として、その栄光のすべてをまとったイエスを見ることになります。
イエスが十字架によって栄光を勝ち取りましたが、その他の栄光もあります。
その栄光は、邪悪な地上でイエスがなさった御働きによってイエスに与えられたものであり、私たちはそれらの栄光に預かることができるのです。
イエスは「あなたがわたしに与えてくださった栄光」と語っておられます。。
その栄光は、ご自身が勝ち取った栄光なのです。
イエスは十字架の死によって勝ち取ったすべての栄光を私たちにも分け与えてくださいました。
それゆえに、イエスは三度目に、ご自分の民の一致を祈られています。
11節で、イエスは証言し、一致について祈られています。

「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。
聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。
それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」
(ヨハネの福音書17章11節)


感謝すべきことに、神の恵みによって、証しの一致の中に彼らは保たれています。

21節でイエスは交わりにおける一致を念頭に置いておられます。
もちろん、すべての聖徒が共有する命の一致に基づいています。
なぜなら、当時、イエスと共にいた人々のために祈った後、イエスはこのように言われたからです。

「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。
また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。
そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」
(ヨハネの福音書17章21節)


いのちには一致があります。
今日、私たちは主と全く同じ神のいのちを持っています。
ゆえに、祈りは聞き届けられたのです。
神の民は一つです。
私たちはいつも一つであるかのように振る舞うわけではありません。
しかし、私たちは皆、神の祝福された家族の一員です。
神は私たちがその一致のうちに生き、世が信じるようにと願っておられます。
世の人々は、私たちクリスチャンが互いに愛し合っているのを見ると、実際の私たちの信仰告白に感銘を受けるでしょう。
もし、私たちが口論しているのを見ると、私たちの信仰告白の現実に疑問を抱くようになります。
さて、この聖句で、イエスはこう言われています。

「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。
それは、わたしたちが一つであるように(三位一体の神)、彼らも一つであるためです。
わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。」
(ヨハネの福音書17章22、23節)


これは何を言っているのしょうか?
主イエス・キリストが再び来られる再臨において、一致が示されます。

「それは、彼らが全うされて一つとなるためです。
それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」
(ヨハネの福音書17章22、23節)


今、私たちが一致を示すのならば、世は信じます。
主が再臨されるとき、もはやこの事実を疑うことは不可能になります。
すべての聖徒が主イエス・キリストと同じ栄光のうちに現れる時、世界はこの一致を知ることになります。
「それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」
その日、世界はキリストがまことに遣わされた方であることを悟り、目覚めるのです。
その時、信じることを拒んだ多くの人々にとって、キリストと歩み寄るには遅すぎることになります。
この聖句の後半部分は驚くべきことが述べられています。
もし、私たちが神の言葉の中にいなければ、信じることはなかったのです。
「あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」
聖書の本当の著者である権威がなくて、誰が立ち上がって、こんなことが宣言できるのでしょうか!
あまりにも理解しがたい内容です!
それは本当にそうでしょうか?
父なる神は、イエス・キリストを愛されたのと同じように私を愛しておられるのでしょうか?
そこにいる姉妹よ、あなたはそれを信じることができますか?
兄弟よ、神はあなたを、イエス・キリストを愛するのと同じようにあなたを愛しておられるのです。
なんという驚くべき真理です!
御子を愛するがゆえに、御子を信じる私を恵みに預からせて、愛を注いでくださるということは理解できます。
しかし、ここで私は、御父が御子である主イエス・キリストに抱く愛と、イエス・キリストを信じる御子らに抱く愛との間に、何の違いもないことに驚かされます。

「神にこんなにも近く、こんなにも近い。
これ以上、近づくことはできない。
御子の御姿において、私は神に限りなく近い。

神にこんなにも近く、こんなにも愛しい。
これ以上、近づくことはできない。
神が御子を愛した愛は、私に対する神の愛そのものなのです。」

ヨハネの第一の手紙の中に、長い間私を悩ませてきた一節があります。
短い単語で構成されています。
私たちは大げさな言葉を使いたがる傾向があります。
それは私たちの哀れで苦しむ考えを現わすのに使います。
しかし、聖霊が意味深い真理を示される時には、くり返しとても単純な言葉が使われます。
聖霊は誰もが理解できるほど簡単で単純な短い言葉を使われます。
ヨハネの手紙一4章17節の後半にはこのようにあります。

「私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。」
(ヨハネの手紙一4章17節)


見てください。
とても、短い単語で語られています。
「キリストと同じような者」
私には理解できませんでした。
それが正しい翻訳なのだろうかと思いました。
文脈を読み、原文を調べました。
「キリストが世でそうであったように、私たちもこの世でそうあるべきです」という意味ではないでしょうか?
いいえ、それは違いました。
では、この聖句は未来にまで持ち越されるのでしょうか?
「この世を去った後、私たちも主と同じようになるのでしょうか?」という意味なのでしょうか?
いいえ、そうでもありません。
「キリストが世でそうであったように、私たちもこの世でそのような存在なのです。」
しかし、私は主のように、思いも言葉も行いも純粋ではありません。
主のように他人の気持ちに配慮していません。
私は主のように神を愛していません。
私は主のように失われた世界を愛していません。
そこには何かおかしいことがあります。
その時、ヨハネがちょうど裁きの日について話しており、私の注意が向けられました。
かつて、私は裁きの日を恐れていました。
長年、奉仕した結果、裁きの日が来て、自分が失敗し、結局失われてしまうかもしれないと知ったら、恐ろしくなってきました。
しかし、私はこのように読んでみました。

「このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。
それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。
なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。
(主と同じように生きているからです。)」
(ヨハネの手紙一4章17節)


私の中で、このことが明らかになり始めました。
来たるべき裁きと私の関係は、主との関係と同じです。
本当に主は、罪のために裁かれるために来たのでしょうか?
主はすでに私の代わりに裁かれました。
主はカルバリの十字架で自分の罪の責任を負われたのでしょうか?
いいえ。
では、私はどうなるのでしょうか?
「私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。」
「全き愛は恐れを締め出します。」
私は自分の中に完全な愛を探し求め、また、それを膨らませようとしていました。
しかし、決して見つけることができませんでした。
主は私を祝福された主イエス・キリストの中に完全な愛を見つけるように導いているのです。
私はそこに、主をカルバリの十字架へと導いた愛を見つけました。
完全な愛は十字架に、そして、十字架にのみ存在します。
それはすべての恐れを消し去ります。
主は私のために苦しんでくださったのです。

「死と裁きは私の後ろにあります。
恵みと栄光は私の前にあります。
すべての波はイエスの上に押し寄せてきました。
十字架にすべてのの力を費やたのです。」

主は私の代わりになり、私の裁きを担ってくださっています。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
(ローマ人への手紙8章1節)

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
(ヨハネの福音書5章24節)


「私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。」
あるイギリス人のキリストにある兄弟は言いました。
「この聖句が短い単語でまとめられているのは、地上にいる私の喜びであり、慰めです。」
私が裁判所の前を通りかかり、警察がいろんな人々を逮捕しているのを見たとしましょう。
私は「一体何が起こっているんだ?」と尋ねます。
そこにいる人たちは「ああ、たくさんのギャングを逮捕しているんだ。」言います。
私は「入ってみよう」と言います。
彼らは「出て行かない方がいい。面倒なことになるかもしれない」と言います。
私は「なぜですか?
私は事件とは関係ありませんよ」と尋ねます。
このように、私は裁きの日に大胆に行動することができるのです。
ここで言わんとしていることと同じです。
裁きの日に、わたしは裁きとは関係ないので大胆に行動することができます。
わたしは身代わりによってすでに裁かれています。
わたしの罪はすべて清算されました。
これは、わたしの行いによって裁かれないという意味ではありません。
それはまた別のことを言っています。
私たちは今、神の祝福された御子が立っているのと同じ立場で、神の前に裁きのために神の御前に立っています。
神は私たちを「愛する御子にあって受け入れられた者」としてくださいました。
私たちは神にあって受け入れられています。
誰もその喜びを奪われてはなりません。
父なる神は主イエス・キリストを愛するのと同じように私を愛しておられます。
このようにクリスチャンであることは素晴らしいことなのです。

「それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」
(ヨハネの福音書17章23節)


さて、次の箇所に注目してください。

父よ。お願いします。
(つまり、「私は望みます」)
(ヨハネの福音書17章24節)

主イエスはこのように言われています。

「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」
(ヨハネの福音書6章38節)


決して、主はご自分の意志を主張されていません。
主イエスはこのように言われたのです。

「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。
あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」
(ヨハネの福音書17章24節)


あなたは父なる神はイエスの望みをかなえてくださると思いますか?
聖徒たちが集まったとき、主は周りを見回して「父なる神がわたしに与えてくださったと思っていた者たちが、いなくなっている」と言うと思いますか?
いいえ、全員そこにいるはずです。
「あなたがわたしに下さったもの」
イエスはこの表現を7回使っています。
「わたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。
それは、わたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
あなたは世界の基が置かれる前から私を愛しているからです。」
わたしたちが分かち合う栄光は一つ、別にわたしたちが見る栄光があります。
わたしたちは、世界が創造される前から父に愛されていた一人子の栄光を見るのです。
「あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられた。」
これは、主イエス・キリストの御子が既に存在しておられたことだけでなく、三位一体の神格の祝福された交わりをも物語っています。
主は祈りをこのように締めくくられます。

「正しい父よ。この世はあなたを知りません。
しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。」
(ヨハネの福音書17章25節)


主は世を念頭に置いて神について語るとき、「正しい父」と言ってます。
イエスがご自身との関係について語るのに使われる呼び方は、単に「父」、あるいは「聖なる父」です。
祝福された主が父なる神にその称号を与えておられるのに、地上の人間を「聖なる父」と呼ぶならば、それは冒涜的なことです。
ここで主は「正しい父よ。この世はあなたを知りません」と言われています。
次の聖句は真実です。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。
また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」
(コリント人への手紙第一2章14節)


世は神を知っていると思い込んでいるだけです。
救われていない者は神について語ることができます。
しかし、主イエス・キリストによって啓示された方を知ることがありません。
私は自分の事をユニテリアン(一神主義)と呼ぶ人と議論しました。
私は彼に、主イエス・キリストの天地万物の作られる前からおられたことと神性を証明するために聖書から話していました。
彼は聖書の証言を受け入れません。
彼は私と別れる時、「さようなら、兄弟。あなたの信仰を受け入れることはできませんが、イエスについて意見が合わなくても、父なる神を信じている私たちは握手ができます」と言いました。
私は「もしあなたが単純に人として手を差し出してくれたら、私はあなたと握手できたはずです。
失礼な言い方かもしれませんが、私たちは同じ父を持つと言いながら、主イエス・キリストについて同意できていないので、あなたと握手することはできません。
世は御父を知りません。
世には多くの主や神がいますが、主イエス・キリストにおいてのみ、御父は現れました」と答えました。
「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。」
イエスは神の御心を知っています。
なぜなら、イエスは神から来て、神のもとに戻られるからです。
イエスは御父と一つです。
「この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。」
今、この驚くべき主は、聖霊によって、私たち一人一人、すなわちイエスの民にこのことを啓示されています。
イエスは地上において、遣わされた方の立場に立たれました。
イエスはこのように言われました。

「なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。」
(ヨハネの福音書8章16節)

「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」
(ヨハネの福音書17章18節)


私たちは、失われた人たちに福音を伝えるために御子によって遣わされたという意識をもって、失われた世界に入って行くことができるのです。
26節でイエスはこのように言われます。

「わたしは彼らに御名を告げ知らせました。また、これからも告げ知らせます。」
(ヨハネの福音書17章26節)


6節でイエスはこのように言われます。

「あなたの御名を明らかにしました。」
(ヨハネの福音書17章6節)


ここでイエスは「わたしは彼らに御名を告げ知らせました」と言われています。
父なる神の御名を知らせることは、イエスの使命の一つです。

イエスは「父のみもとから来られたひとり子」、「恵みとまことに満ちた」者として、この生涯においてこのことを示されました。
イエスは「わたしは彼らに御名を告げ知らせました。また、これからも告げ知らせます」という教義的な言葉によってこのことを示されています。
イエスは何を教えているのでしょうか?
イエスは人類の贖いのために命を捧げ、ご自身の証しを確証させるために、十字架に架かり、死なれるのです。
復活において、イエスが最初になさったこととは何でしょうか?
イエスはマリアに現れてこのように言われました。

「イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。
わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」
(ヨハネの福音書20章17節)


イエスは地上で父の御名を宣言されています。
復活の時にも再び宣言されます。
ですから、私たちは神との関係について二重の証明を受けているのです。

「そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。
また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」
(ヨハネの福音書17章26節)


御父が御子を愛した愛は、どのようにして私たちの中に宿っているのでしょうか?

ローマ人への手紙5章1節を開いて読んでください。

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
(ローマ人への手紙5章1~5節)


その愛は単なる人間的な愛ではありません。
神の愛なのです。
だからこそ聖書は「愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています」と言っているのです。
これは、愛情深い人であれば神から生まれたという意味ではありません。
私たちは愛について、あまりにも低い考えを抱いています。
ある若い男性が牧師のところへ行き、別の場所へ向かう途中でこのように言ったのを覚えています。
「あなたがここに来る前は、神も人も悪魔も気にしていませんでした。
今は、すべてを愛することを学びました。」
ある人たちは愛について、このように捉えています。
しかし、神の愛は聖なる愛です。
罪人に対する神の愛、聖霊が心に注がれた愛です。
この愛があったからこそ、キリストはあらゆる状況に打ち勝ち、失われた人々を愛することができたのです。
主の御名ののために、私たち全員がより完全にこの愛にに入ることができますように。


講演60 園の中

「イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこにはいられた。
ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。
そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。
イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか。」と彼らに言われた。
彼らは、「ナザレ人イエスを。」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです。」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。
イエスが彼らに、「それはわたしです。」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。
そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか。」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを。」と言った。
イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」
それは、「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした。」とイエスが言われたことばが実現するためであった。
シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」
そこで、一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たちは、イエスを捕えて縛り、
まずアンナスのところに連れて行った。彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったからである。
カヤパは、ひとりの人が民に代わって死ぬことが得策である、とユダヤ人に助言した人である。」
(ヨハネの福音書18章1~14節)


私たちはこの地上における私たちの祝福された主の生涯の終わりの時について考えたいと思います。
主はこの地上におられる間、十字架上で私たちの罪の贖いの代価としてご自身を捧げられる時を待ち望んでおられました。
さて、主は孤独な人生の仲間にするためにこの世から呼び寄せた小さな仲間と、神聖な交わりの時を楽しんでいました。
イエスが神にとりなしの祈りを捧げるのを聞いて、弟子たちはケデロンの小川を渡り、小さな橋を渡り、オリーブ山の斜面を登ってゲッセマネの園へと向かいました。
ゲッセマネとは「油搾り場」を意味するとも言われています。
そこでオリーブの実を搾り場に投げ入れ、黄金色の濃厚な油を絞り出すのです。
神の御子、われらが祝福された主は、カルバリの丘で捧げるささげ物となる前に、御自身の心とにのしかかる、いわば油圧のような重圧に耐えなければなりませんでした。
マタイ、マルコ、ルカの共観福音書記者たちは皆、この時、園で主が経験された激しい苦痛の中で、このように祈られたと伝えています。

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
(マタイの福音書26章39節)


ルカは、その恐ろしい圧力によってイエスの額から血が噴き出し、地面に滴り落ち、御使いが来てイエスを力づけた様子を記しています。
しかし、ヨハネはそのようなことは一言も語っていません。
どうしてでしょうか?
ヨハネはイエスと共に園に入った三人のうちの一人です。
イエスは8人を園の門のそばに残し、ペテロとヤコブとヨハネを連れて園の奥へ進みました。
そして、イエスは少し先に進み出て、ひれ伏し、あの恐ろしい魂の苦悩に耐えられました。
しかし、ヨハネはこのことについて一言も語っていません。
どうしてでしょうか?
ああ、他の箇所と同様に、この箇所からも、私たちは聖書の完全性を見ることができます。
四福音書は単なる人間の記録ではありません。
それは主の生と死と復活について神から与えられた記録です。
それぞれの福音書が聖霊に従って、特別な観点から主を描いています。
既に述べたように、マタイの福音書の主題はユダヤ人の王としてのキリストです。
マルコの福音書の目的は、常に父の御心を行う偉大なしもべ、預言者としてキリストを描写していることは、しばしば指摘されています。
ルカは、私たちのためにご自身をささげられた人の子、すなわち人としての完全な御方であるイエスを描いています。
しかし、ヨハネの特別な目的は、イエスの永遠の子としての御姿を現すことです。
ヨハネは神である人としてのイエスを私たちの前に立たせています。
ですから、この福音書には園での苦痛の場面は描かれていません。
なぜなら、その場面で問題はキリストの神性とは関係ないからです。
そして、変貌についても何も記されていません。
それはヨハネの福音書では、隅々まで栄光が輝き出ているからです。
ゆえに、ここでは苦悩が省略されています。
このように、私たちはこのことについて考え、他の福音書との違いを思い出すのは良いことです。
イエスのあの祈りには、実際には何が込められていたのでしょうか。
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」
イエスが語るこの不思議な杯は何でしょうか?
旧約聖書に戻るなら、裁きの杯について深刻に語られた言及がいくつか見ることができます。
私たちは、私たちの祝福された主が人間として旧約聖書で育てられたことを覚えていなければなりません。
まさに、それは主の書かれた聖書でした。
詩篇11編6節で私たちはこのように読みました。

「主は、悪者の上に網を張る。火と硫黄。燃える風が彼らの杯への分け前となろう。」
(詩篇11編6節)


詩篇75編8節にはこのようにあります。

「主の御手には、杯があり、よく混ぜ合わされた、あわだつぶどう酒がある。
主が、これを注ぎ出されると、この世の悪者どもは、こぞって、そのかすまで飲んで、飲み干してしまう。」
(詩篇75編8節)

これらの箇所には杯について書かれています。
神の裁きの杯、罪に対する神の憤り、怒りに満ちた杯です。
そして、聖書の最後の書、偉大な預言の書には、獣とその像を拝む者たちについてこのように記されています。

「また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、
そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。」
(ヨハネの黙示録14章10、11節)


主イエスが「父よ、もしできることなら、この杯をわ​​たしから過ぎ去らせてください」と祈られたとき、御自身の前に見えたのは、まさにあの怒りの杯であったと言っても過言ではありません。
あなたと私がその杯を飲むか、それとも主が私たちに代わってその杯を飲むかのどちらかでした。
そして、その杯は、十字架上で主が罪とされることを意味していました。
この千年もの間、人々が犯してきたすべての罪、すべての罪過、すべての腐敗の罪人であるかのように神がイエスを扱うことを意味していました。
私たちのすべての罪はイエスに負わされました。
イエスは十字架上で、それらの罪にふさわしいすべてのものを、御自身の体と御自身の霊によって負うことになっていました。
私たちのすべての罪はイエスの上に負わされました。
イエスは私たちの罪に値するすべてのものを、ご自分のからだと霊によって、十字架の上で負ってくださったのです。
この盃はイエスが身を引いた杯でした。
この恐ろしい杯を飲むことを恐れていないのなら、イエスは絶対的に聖なる方ではあり得なかったです。
この時に直面した時、イエスがいかに苦悶し、体が苦痛にさいなまれ、汗が血の滴となって地面に落ちたことをこれらの三つの共観福音書は私たちに伝えています。
しかし、イエスはゲッセマネで罪を負われたのではありません。
イエスはゲッセマネで罪とされたのではありません。
しかし、これらすべてはイエスの前にありました。
イエスはこれを予期し、待ち望んでおられました。
十字架上でのみ、イエスは罪の問題に解決することが出来たのです。
そして、ついにイエスはこのように言われました。

「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
(マタイの福音書26章42節)


そして、この時、苦闘は終わりました。
イエスは、完全な冷静を取り戻し、敵に会い、裏切り者ユダに立ち向かい、そして裁きの場へ向かい、死ぬ準備をしました。
ゆえに、このイエスの苦悩の場面全体が、この18章の1節と2節の間に描かれていることがわかります。

「イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。
そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこにはいられた。」
(ヨハネの手紙第一18章1節)


するとすぐに、苦悩が始まったのです。
今、私たちはこのように読むことができます。

「ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。
イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。」
(ヨハネの福音書18章2節)


イエスは何度もそこへ行き、父なる神との最も深く、最も幸福な交わりの中で、祈りの中で心を注ぎ出されていました。
しかし、今、イエスは全く異なる経験をされるのです。
魂の深い苦悩の中で、イエスは父なる神に心を注ぎ出されましたが、反抗することはありません。
他に方法が見つからず、イエスは完全な従順をもって杯を受け取ったのです。

「そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。」
(ヨハネの福音書18章3節)


キリストは立ち上がり、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人のところに戻ってきて、眠っていることを優しく叱られました。
そして彼らにこのように言われました。

「立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
(マタイの福音書26章46節)

すると、彼らはイエスを捕らえに来た群衆たちとユダに出会いました。

「イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか。」と彼らに言われた。」
(ヨハネの福音書18章4節)


イエスは何も驚かれていません。
イエスはこれから起こることをすべて知っていました。
ゆえに、自分から進んで彼らに会いに行き「だれを捜すのか」と尋ねられたのです。

「彼らは、「ナザレ人イエスを。」と答えた。
イエスは彼らに「それはわたしです。」と言われた。
イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。」
(ヨハネの福音書18章5節)


イエスは「わたしがそれです(I am)」と言われたのです。
ユダはイエスのことをよく知っていました。
ユダは三年半の間、彼らといっしょにいたにもかかわらず、良心が揺り動かされることがなかったのです。
ゆえに、ユダはキリストに心を委ねることはしていません。
人々が神の子らと交わり、神の家にくりかえし出入りしながらも、救い主に心を開かないことがいかにあり得るかを示しています。

「イエスが『私がそれです』と言われると、彼らは後ずさりして地にひれ伏し、イエスの足元にひれ伏した。
そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか。」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを。」と言った。
イエスは答えられた。
「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」」
(ヨハネの福音書18章6~8節)


イエスは弟子たちに心を痛められた。
イエスは弟子たちを自分と一緒に捕らえようとはしていません。
この時、イエスは彼らが殉教の死を遂げることを望まれません。
イエスは御自身の民を守ることを約束されました。
イエスは父なる神にこのように言われました。

「わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。」
(ヨハネの福音書17章12節)

もし、イエスが彼らの魂を永遠に守ることができるなら、この世での命をも守ることができるのです。
ですからイエスは「この人たちはこのままで去らせなさい」と言われたのです。
しかし、この時から、彼らの中で何かが動き始めました。
それはまさに肉的な動きです。

「シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。」
(ヨハネの福音書18章10節)


主からの命令も受けずに、軽々しく振る舞うとは愚かな行為です。
しかも、何の責任もない哀れな僕を傷つけただけです。
この箇所ではその後の出来事は語られていません。
しかし、他の福音書を読むならば、イエスが傷ついた男を癒したことが分かります。
ある人は「私たちはいつもペテロのようです」と言いました。
私たちがうかつに切り落としてしまった物によって、単純に主を忙しくさせているだけではないでしょうか?
もし、故意ではないとしても、私たちは思いやりがなく、愚かなことを言いふらし、人々を助けるどころか傷つけています。
ペテロはマルコスの耳を切り落とした後、マルコスをキリストに導くのに苦労することになります。
人々の耳を切り落としたからといって、自分のメッセージを聞くことを期待してはいけません。
ペテロはイエス・キリストによって恵みと真理がもたらされたことを忘れていました。
ペテロは主のために戦おうとしていました。
しかしが、非常に肉的な方法で行われました。
このことが、後にペテロを苦しめる原因となりました。
試練の時が来た時、ペテロの困難をさらに増す結果になったのです。

「そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」」
(ヨハネの福音書18章11節)


かつて、イエスは苦しみの中でこのように祈りました。

父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。」
(ルカの福音書22章42節)


そして、後にこのように祈っています。

「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
(マタイの福音書26章42節)


今、イエスは完全に平静な御霊によって進んで行かれます。
戦いは終わり、勝利を勝ち取りました。
ここで、イエスは「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」と言われます。
イザヤ書53章にはこのようにあります。

「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」
(イザヤ書53章10節)


私たちは時として、十字架の働きについて浅はかな認識しか持っていないことに気が付くことがあります。
イエスの肉体的な苦しみだけによって、罪の償いが成し遂げられたのではありません。
イエスは誰よりも肉体において苦しみを受けました。
十字架にかけられた時、イエスのあらゆる神経、組織が影響を受けたに違いありません。
しかし、罪という問題に決着をつけたのは、肉体の苦しみではありません。
ヤハウェがイエスの魂を罪の償いの供え物とされたのは、神がイエスを砕くことを望まれたことです。
言い換えれば、イエスが人の手によって受けた苦しみが罪の償いとなったのではなく、神の手によって受けた苦しみが償いとなったのです。
イエスの唇に裁きの杯を注いだのは神です。
イエスは父なる神の手からその杯を受け取り、その杯を最後まで飲み干されたのです。

「キリストの杯には死と呪いが宿っていました。
それはすべてあなたのためでした。
しかしあなたは最後の黒い残りかすまで飲み干されました。
今、その盃は、私にとっては空っぽです。」
主の晩餐に集う時、私たちはこのことを思い起こします。
私たちは、祝福された救い主である主が十字架に降りて行かれ、裁きの杯を最後まで飲み干されたことを思い起こします。
もしその杯が私たちの唇に置かれたなら、この盃を空にするには永遠の時間が必要でした。
しかし、暗闇の中、主は十字架の上で、あの3時間でその盃をすべて飲み干されました。
「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」
主は彼らの手に身を委ね、捕らえられるままにされたのです。

「そこで、一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たちは、イエスを捕えて縛り、
まずアンナスのところに連れて行った。彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったからである。
(ヨハネの福音書18章12、13節)


サンヘドリンのこのような真夜中の集会は絶対に違法でした。
しかし、彼らはそれを考慮にも入れていません。

「カヤパは、ひとりの人が民に代わって死ぬことが得策である、とユダヤ人に助言した人である。」
(ヨハネの福音書18章14節)


そして、神に感謝すべきことに、彼の言葉は祝福された事実です。
国民全体が滅びるのを防ぐために、一人の人が民のために死ななければなりません。
かつて、カヤパはこのように言っています。

「あなたがたは全然何もわかっていない。
ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」
(ヨハネの福音書11章49、50節)


その死を通して、望む者は皆、永遠の命と神との平和を得ることになったのです。
私たちは今日、イエスを私たちのために死んでくださった方として覚えています。
そして、イエスの血による救いに関心を持ち、イエスを救い主として信じてきた私たちは、決して裁きの杯を飲む必要はありません。
なぜなら、イエスが私たちのために杯を取り、救いの杯を与えてくださるからです。

「私は栄光の君主が死んだ素晴らしい十字架を眺める時があります。
私は自分の最高に良い点を損失とみなします。
そして、自分のすべての誇りを軽蔑します。」


講演61 ペテロの否認

「シモン・ペテロともうひとりの弟子は、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いで、イエスといっしょに大祭司の中庭にはいった。
しかし、ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いである、もうひとりの弟子が出て来て、門番の女に話して、ペテロを連れてはいった。
すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と言った。ペテロは、「そんな者ではない。」と言った。
寒かったので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこに立って暖まっていた。ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。
そこで、大祭司はイエスに、弟子たちのこと、また、教えのことについて尋問した。
イエスは彼に答えられた。「わたしは世に向かって公然と話しました。わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で、いつも教えたのです。隠れて話したことは何もありません。
なぜ、あなたはわたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい。彼らならわたしが話した事がらを知っています。」
イエスがこう言われたとき、そばに立っていた役人のひとりが、「大祭司にそのような答え方をするのか。」と言って、平手でイエスを打った。
イエスは彼に答えられた。「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。」
アンナスはイエスを、縛ったままで大祭司カヤパのところに送った。
一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない。」と言った。
大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」
それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。」
(ヨハネの福音書18章15~27節)


この箇所では、二つの物語が非常に印象的な形で織り合わされています。
使徒ペテロの大きな失敗、主を否定したこと、そして大祭司カヤパの前での主の裁判、茶番な裁判です。
まず、使徒ペテロについて考えてみましょう。
ペテロは本当に素晴らしい人でした。
聖書に記されているペテロのことをすべての記載、さらに信頼できる教会史として伝わってきたいくつかの例から見てみましょう。
ペテロは忠実に主を愛しながらも、時にはひどく失敗もしたこともありました。
最後にタルソのサウロが改心して異邦人への特別な奉仕を与えられるまで、すべての使徒の中で最もずば抜けた存在になりました。
ペテロのこの大胆で精力的な人物に対する称賛の念に満たされずにはいられません。
最後に、私たちは園の様子について考えてみましょう。
園では祝福された主が逮捕され、アンナスとカヤパの元へ連行される場面で終わります。
主イエスは、ペテロが主を見捨てると預言されていました。
しかし、ペテロは「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」と宣言していました。
しかし、イエスはペテロに言われました。

「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」
(ルカの福音書22章31、32節)


しかし、しかし、イエスは言われました。

「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
(ルカの福音書22章34節)


これは非常に興味深い記述です。
「見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。(文字通りには要求した)」
ですから、サタンは神の小麦をふるいにかける者なのです。
言い換えれば、神の子供たちの中にもみ殻と小麦を分ける必要がある人がいる時は、主は彼らを一時的にサタンに引き渡すことができます。
コリント人への手紙第5章にはこのようにあります。

「このような者をサタンに引き渡したのです。
それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」
(コリント人への手紙第5章5節)


この男は、クリスチャンであると告白していましたが、ひどく失敗し、主の名に深い悲しみと不名誉をもたらしました。
そして、聖霊は使徒パウロを通してコリントの教会に、今後この男とクリスチャンとしての交わりを持つことを拒否するように命じたのです。
サタンは、かつてその男が分離したと告白した世界に彼を引き戻されました。
そこでその男はサタンの支配下に置かれ、サタンは彼に苦難と悲しみの道を歩むことになります。
そして、その結果は私たちが知っている通りに。その男は神の前に崩れ落ち、自分の罪と失敗を告白することになります。
その男はもはや自分がクリスチャンとしての交わりにふさわしいとは思っていません。
神の民が彼に特別な恵みと好意を示してくれなかったなら、彼は戻ることはありません。
パウロはコリント人への手紙二2章4〜11節で、再び彼らにこのことを強く勧めています。
「なぜ神は悪魔を殺さないのか」という質問をよく耳にします。
しかし、神は悪魔さえも必要としているのです。
神がもはやサタンを必要としなくなった時、神はサタンを火の池で滅ぼされます。
しかし、その時までは、神は人間の怒りさえも神の栄光とさせるだけでなく、ある意味では、サタンさえも神の目的のために働かせるのです。
信者の中にある傲慢さと自己満足を見れば、神はサタンが信者をふるいにかけ、目覚めさせ、正気に戻らせるために、ひどく堕落させることさえもお許しになるのです。
エレミヤはこのように言っています。

「あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める。だから、知り、見きわめよ。
あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦々しいことかを。――万軍の神、主の御告げ。――」
(エレミヤ書2章19節)


神はイスラエルが恐ろしく堕落することをお許しになりました。
それはイスラエルが、かつてないほど神から遠く離れていたとしても、正される必要があることを悟るためでした。
ペテロの場合も、主は彼が正されるように、その失敗を許されました。
そして、ここで失敗が語られているのは、私たちへの警告であると同時に、励ましとするためです。
このように記されています。

「シモン・ペテロともうひとりの弟子は、イエスについて行った。
この弟子は大祭司の知り合いで、イエスといっしょに大祭司の中庭にはいった。」
(ヨハネの福音書18章15節)

ここにある「もうひとりの弟子」とは、間違いなくヨハネ自身ことです。
ヨハネはこの表現を用いて、自分を目立たないようにしています。
「そしてイエスといっしょに大祭司の中庭にはいった。」

「しかし、ペテロは外で門のところに立っていた。」
(ヨハネの福音書18章16節)

ペテロは危険な場所にいたのです。
もし、ペテロがヨハネとイエスと共に中にいたら、安全だったかも知れません。
なぜ、ペテロは、自分がキリストと一緒にいた者であると認識される代わりに、そこに留まることを選んだのでしょうか?
背教は決して瞬間的なの問題ではありません。
私たちがクリスチャンとして尊敬していた人が、突然、重大な罪に陥ってしまうことがあります。
私たちは両手を上げて「あの人が突然、あんなにつまずいてしまうなんて、とても恐ろしいことです」と言うかも知れません。
そのように考えるのは間違いです。
それは突然ではありません。
背教は常に徐々に衰退していくものです。
ペテロの場合、彼の衰退はまさに彼の最も偉大な経験の一つの直後に始まっていました。
神は私たちを特別な方法で扱う時があります。
しかし、それはくり返し最大の危険に直面する時となります。
神の僕にとって、主が特別な勝利を与え、魂の救いのためにその者を異例の方法で用いてくださることがあります。
しかし、それはその者にとって、最大の危機に陥る時なのです。
そこには霊的な高慢の危険、自己中心の危険、言い換えれば、肉への信頼の危険があります。
マタイの福音書16章には、主がこのように語っておられます。

「「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。
またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
(マタイの福音書16章13~16節)


そこには素晴らしい告白があります。
その時まで、これほど熱く完全な告白をした者は誰もいません。
救い主はペテロの方を向いてこのように言われました。

「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。
このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」
(マタイの福音書16章17節)


もし、キリストが生ける神の御子として、人の魂に知らされるなら、それは単なる知性を通してではありません。
それは神の啓示によらなければなりません。
だからこそ、議論によってキリストの神性を人々に納得させることはできないのです。
聖書を次々と並べ立て、反論をすべて否定したとしても、神の霊が神の神性を明らかにされなければ、人は以前と同じように不信仰のまま立ち去っていきます。
真理を人々の心と良心に現実のものとして示すのは、聖霊の働きです。
ですから、主イエスは「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」と言われています。
その時、主がこのように言っています。

「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。
ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
(マタイの福音書16章18節)


ここにある岩とは「キリストは生ける神の御子であるという偉大な真理」です。
さて、ここで主の言葉を誤解してはいけません。
主が単なる人間の上に教会を建てるという意味で考えることはおかしなことです。
ペテロではなく、キリストこそが「岩」です。
このことにペテロも同意しています。
ペテロの手紙第一ではこのように述べています。

「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。
そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」
(ペテロの手紙第一2章4、5節)


そして、主はこのようび言われます。

「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。
何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
(マタイの福音書16章19節)


これは素晴らしい栄誉です。
しかし、多くの人によって誤解されています。
皆さんは、ペテロが天国の門の鍵を持っている絵をよく見たことがあるのではないでしょうか?
しかし、イエスはペテロに天国の鍵を与えていません。
イエスはペテロに天の御国の鍵をお与えになったのです。
天の御国は天そのものではありません。
キリストが主とされる地上の領域です。
ペンテコステの日にペテロは鍵を使ってユダヤ人のために天の御国の扉を開きました。
コルネリオの家では、異邦人のために鍵を使って扉を開きました。
マタイの福音書18章には、すべての弟子たちに縛り付けたり解いたりする力が与えられたことが記されています。
弟子たちは主イエス・キリストの御名によって人々のところへ行き、このように言う権限を与えられました。

「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
(ヨハネの福音書20章23節)


この使命は、キリストの僕すべてに与えられています。
しかし、父なる神がペテロに与えた素晴らしい啓示であり、主はそれを特別な方法で認識されています。
しかし、マタイの福音書の同じ16章で、主がペテロに少し後にこのように言われたのは注目すべき事実です。

「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
(マタイの福音書16章23節)

イエスは彼らに、これから起こる試練と十字架について語っておられました。
すると、ペテロはイエスの方を向き、まるで自分がイエスよりも賢いかのように、神の御子に大胆に助言しました。

「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
(マタイの福音書16章22節)


するとイエスは言われました。

「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
(マタイの福音書16章23節


これはどういう意味でしょうか?
ペテロはあまりにも夢中になり、高ぶり、自尊心であふれ、霊的に傲慢になり、ほんの少し前に神の子であると告白したばかりの御方を、あえて叱責してしまったのです。
もし、主がその言葉に従って行動し「私は出て行って死ぬつもりはない」と言われたならどうなっていたでしょうか?
ペテロは恐ろしい状態に陥っていたはずです。
イエスはこの言葉がペテロを通して悪魔が話していることを悟られたのです。
その時以来のペテロの記録を見るならば、ペテロが口を開くたびに間違ったことを言っていることが分かります。
変貌の山でペテロはこのように言っています。

「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。
もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。
あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
(マタイの福音書17章4節)


すると神は言われています。

「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」
(マタイの福音書17章5節)


それからイエスは弟子たちにこのように言われました。

「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。」
(マタイの福音書26章31節)


しかし、ペテロはこのように言いました。

「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
(マタイの福音書26章33節)


ペテロは自分の弱さを本当には知りません。
しかし、ペテロは主を愛し、主に忠実であろうとしていました。
しかし、ペテロは園で主の期待に応えられませんでした。
祈るべき時に眠ってしまいました。
ペテロは静かにしているべき時に、肉の力によって剣を使いました。
主に近づくべきときに、遠く離れて従いました。
背信は常に祈りを怠ることから始まります。
背信から守られたいなら、隠れて神と多くの時間を過ごすようにしてください。
そして、このようにも書かれています。

「しかし、ペテロは外で門のところに立っていた。
それで、大祭司の知り合いである、もうひとりの弟子が出て来て、門番の女に話して、ペテロを連れてはいった。
すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と言った。
ペテロは、「そんな者ではない。」と言った。」
(ヨハネの福音書18章16、17節)


ペテロはそのように言うつもりはなかったのかも知れません。
しかし、この女が彼に話しかけて来た時、見ていたすべての人々のことを考え、突然勇気がなくなったのかも知れません。
その時、ペテロが言った「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」という嘘が浮かび上がってきたのです。
主がペテロの言葉を鵜呑みにしなかったのは幸いなことでした。
主はペテロを知っておられ、ペテロがさらに降りて行くことをお許しになりました。
炭火を起こした召使いたちと役人たちがそこに立っていました。
あの炭火を思い出してください。
ペテロの復旧は、炭火の上で起こったのです。
ペテロは彼らと共に立ち、世の側に立ち、主の敵の側に立ち、キリストのために声を上げる代わりに沈黙しました。
大祭司はイエスに弟子たちとその教えについて尋ねました。

「わたしは世に向かって公然と話しました。わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で、いつも教えたのです。
隠れて話したことは何もありません。」
(ヨハネの福音書18章20節)


キリストにとってすべては開かれた本のようでした。
キリストには隠すことも、暗い場所でささやくことしかできないこともありません。
すべてがオープンで公然と語られました。
「わたしは隠れて話したことは何もありません。」

「なぜ、あなたはわたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい。
彼らならわたしが話した事がらを知っています。
イエスがこう言われたとき、そばに立っていた役人のひとりが、「大祭司にそのような答え方をするのか。」と言って、平手でイエスを打った。
イエスは彼に答えられた。「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。
しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。」
アンナスはイエスを、縛ったままで大祭司カヤパのところに送った。
一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。
すると、人々は彼に言った。
「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない。」と言った。」
(ヨハネの福音書18章21~25節)


「この男は仲間の一人かもしれない」と思い、彼らは何か違うところがあると感じました。
そこで彼らはもう一度尋ねます。
ペテロはもう一度否定して「私は違います」と言ったのです。
驚くべき場面です。

ペテロはこのように言うこともできたはずです。
「そうです、私は主の仲間の一人です。必要とあらば、主のためなら死ぬ覚悟があります。」
しかし、今まさに試練の時がやってきて、ペテロにはその勇気がありません。
ペテロは否定し「そんな者ではない」と言いました。
さて、群衆の中にペテロに特に関心を寄せている人がいました。
それは、ペテロが園で耳を切り落としたこの男の親戚当たる者がいました。
イエスがペテロとヤコブとヨハネを園に連れて行った時のことです。
イエスは「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい」と言われました。
そして、イエスは苦しみのさなかに神の前にひれ伏しました。
それから、イエスが戻って来られると、彼らは悲しみのあまり眠り込んでいました。
彼らは、本来なら目を覚ましているべきなのに、祈ることもできません。
また、主が静かに兵士たちの手に身を委ねられた時、ペテロは剣を抜き、大祭司の僕である者の耳を切り落としました。
それは肉の働きでした。
そして、今。その肉の働きがペテロに返ってきたのです。
ペテロに耳を切り落とされた人の親類は「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」と言いました。
今、ペテロは主が許される限りの深いところまで落ちてゆきました。
ペテロは三度も主を否認しました。
他の福音書にも記されているように、誓いや呪いの言葉さえも吐いたのです。
しかし、背信と背教には大きな違いがあります。
背信とは神の子でありながら失敗を犯した者であり、最後には主が彼を回復されます。
背教者とは生まれ変わっていない者のことです。
ユダは背教者でした。ペテロは背信した者です。
もし、今日これを読んでいる背信した者がいるなら、ペテロを回復させた方があなたを回復しようと待っておられることをお伝えします。
主がこのように言われています。

「背信の子らよ。帰れ。――主の御告げ。――わたしが、あなたがたの夫になるからだ。」
(エレミヤ書3章14節)


もしあなたが背信を告白するなら、主は必ず立ち直らせてくださいます。
主はペテロのために回復されました。
あなたのためにもそうしてくださいます。
別の福音書には、主が振り向いてペテロを見つめ、ペテロが出て行って激しく泣いたと記されています。
その涙は彼の回復の始まりを示しており、最後の章で主がいかに見事に彼を立ち直らせたかを見ることができます。

「帰れ、放浪者よ!
帰れ、そして傷ついた父の顔を求めよ。
あなたの中に燃えるあの熱い想いは、回復の恵みによって燃え上がったのだ!
帰れ、放浪者よ、帰れ、そして父の溶けゆく心を求めよ。
父の憐れみの目はあなたの悲しみを察知し、父の手はあなたの内なる痛みを癒すであろう。」


講演62 ピラトの前のキリスト

「さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸にはいらなかった。
そこで、ピラトは彼らのところに出て来て言った。「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」
彼らはピラトに答えた。「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」
そこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」
これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。
そこで、ピラトはもう一度官邸にはいって、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」
イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」
ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」
イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」
そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。
ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。
しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」
すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ。」と言った。このバラバは強盗であった。」
(ヨハネの福音書18章28~40節)


こうして私たちは、人類史上最大の裁判、あるいは茶番裁判の前半を読みました。
ポンティウス・ピラトの前で、主の立派な告白を目撃しました。
この聖句では、いくつかの非常に印象的な事柄が私たちの注意を引いています。
まず最初に、人々は宗教と呼ぶものを外面的に遵守することに関しては非常に几帳面です。
しかしその反面、真実な霊性や、はっきりとした神との関係についての知識が欠けていることが分かります。
ここでは、私たちの祝福された主を告発する者たちが、主を大祭司カヤパの法廷からローマの法廷へと連れて行ったことが書かれています。
彼らは自らの宗教や習慣、伝統に関わる事件を扱う独自の裁判所を持っていました。
しかし、政府に対する犯罪に関わる事件を扱ったり、死刑を執行したりする権利は否定されていました。
ユダヤ人の死刑執行方法は石打ちでした。
しかし、ユダヤ人が犯罪者をこのように処罰することは許されていませんでした。
ローマの死刑執行方法は十字架刑です。
そこで、偽証に基づいて主イエス・キリストが冒涜の罪を犯したと決定した祭司長たちは、イエスをピラトの前に連れて行き、死刑を宣告しようとしました。
彼らは朝早くイエスをそこに連れて行きました。
しかし、彼らは過越の祭りの食事が食べられなくなることを汚れるのを恐れて、自分たちは法廷には入っていません。
ユダヤ人は過越の日に異邦人の屋敷の敷居を二歩も越えると、儀式上汚れた者とされます。
そして、ユダヤ人の会衆の年ごとの儀式に参加することができませんでした。
神の子を殺そうと躍起になっていた人々は、律法の小さなことに非常にこだわっています。
このように、拒絶されるのを恐れてピラトの官邸の敷居を越えることさえしません。
しかし、彼らの前には、エジプトでの最初の過越の祭から彼らの時代に至るまで、かつて犠牲にされたすべての過越の小羊の型となっていた方が立っていました。
聖書にはこのように記されています。

「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」
(コリント人への手紙第一5章7、8節)

ユダヤ人が神の御心から離れて祖国を離れた時を除いて、1500年の間、ユダヤ人は過越の祭を忠実に守ってきました。
毎年、小羊がほふられていました。
その小羊は世の罪を取り除く神の小羊を象徴していました。
小羊の血が流されるのは、それはキリストの尊い血を象徴しているからです。
キリストの血は主を信じる者をすべての罪から清めることができるのです。
神は最初の過越の夜、エジプトでこのように宣言されました。

「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。」
(出エジプト記12章13節)


これは福音の型です。
その夜、鴨居の上の血はイスラエルの安全を保証しました。
滅ぼす御使いはその鴨居に入ることができません。
ゆえに、今日、ユダヤ人であれ異邦人であれ、この真実な過越の小羊、私たちの主イエスを信じる人々は、主の尊い血の下に避難所を見いだし、裁きから完全に守られるのです。
主イエスはこのように言われています。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
(ヨハネの福音書5章24節)


「断罪(condemnation)」という表現に注目してください。
私はこの聖句のカトリック訳が好きです。
よく聞いてください。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、その人は死から命に通り過ぎているのです。」
これは「ドゥエ訳(Douay Version)」からの引用です。
なんと素晴らしい言葉ではないでしょうか!
これは、神の御子が、神を信じる者は皆、永遠に裁きから守られると宣言された言葉です。
そして、このように神を信じる者は滅ぼす者が自分たちに触れないことを知っています。
しかし、ここには、律法の外面的な事柄についてはとても良心的な人々がいたにもかかわらず、彼らは律法の型が語っている方、主イエス・キリストを認識していません。
彼らは、儀式によって汚れるのを恐れて、この法廷の敷居を越えようとしなかったのです。
しかし、しばらくすると、彼らが神の子の死を要求するのを耳にします。
聖書が断言している通り、彼らはイエスが神の子であることを知らなかったのです。
ペテロはペンテコステの後、このように言いました。

「あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行ないをしたのです。」
(使徒の働き3章17節)

そのために、彼らのために「逃れの町」が開かれました。
神が備えてくださった「逃れの町」に逃げ込むなら、神は彼らを殺人者としてではなく、無意識のうちに人を殺した者として扱われます。
しかし、その「逃れの町」は、彼らが十字架につけた同じ救い主の中にあるのです。
しかし、私たち異邦人は、神の御子の十字架の死を見るならば、自分たちの罪を過小評価しているとは思ってはなりません。
異邦人も、この深刻な出来事と結びつけられています。
そして、そのことを考えるのなら、その点においても神は私たちに憐れみを示されています。
使徒パウロはこのように言っています。

「この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。
もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」
(コリント人への手紙第一2章8節)


このように、ユダヤ人と異邦人は無知と誤解の中で結束し、救いのために来られた方を拒んだのです。
さて、ここで群衆が待ち構えていました。
ピラトは彼らの要求を快く受け入れました。

彼らの良心的な疑念に気づいたピラトは、彼らのところへ出て行ってこう言いました。

「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」
(ヨハネの福音書18章29節)


彼らははっきりとした罪状を申し立てる代わりにこのように言いました。

「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」
(ヨハネの福音書18章30節)


彼らが言いたかったのは「私たちがイエスを連れてきたという事実は、彼が裁きを受けるに値するという証拠」だということです。

そこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」
ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」
(ヨハネの福音書18章31節)


つまり、「イエスは死刑に値します。
しかし、ローマ政府は私たちから生死の決定権を取り上げています」ということです。
しかし、これらの出来事に対して聖書はこのように語っています。

「これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。」
(ヨハネの福音書18章32節)


私たちの祝福された主は、ご自身の死を繰り返して予告しておられます。
イエスは弟子たちに、これから起こることについて前もって予告しておられました。
イエスはこのように言われています。

「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」
(マルコの福音章9章31節)


何も予期せぬことではなかったのです。
イエスは神の御子として天から来られました。
そして、神の恵みによってこの地上に幼子として生まれた時に、すでに御自身の前に何が待ち受けているのかを正確に御存じでした。
イエスはこのように述べてこの地上に来られたのです

「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。」
(詩篇40編8節)


つまり、この御心の意味はカルバリの十字架に架かることを意味することを御存じでした。
イエスの生涯を通して、それは御自身の前に常に十字架は待ち受けていました。
イエスは、その地で育ったイスラエル人の中で過越の祭の正確な意味を知っていた唯一の人物でした。
そして、イエスは神殿でのあらゆるささげ物が何を意味していたかを知っていた唯一のイスラエル人でした。
イエスは、それらすべてのことを成就し、ご自身を汚れのない姿で神に捧げるべき方であることを知っていました。
しかし、イエスは決してためらうことはなく、この恵みの務めがついに終わりに近づいた時にこのように述べました。

「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ(顔を石のように固められた)、
ご自分の前に使いを出された。」
(ルカの福音書9章51節)


イエスは、ご自身がなさるために来られたことに揺るぎない決意を貫かれました。
ゲッセマネの園においてさえ、聖なる人間としての性質を備え、偉大な罪を負う者となるという恐ろしさに尻込みし、イエスはこのように言われました。

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
(マタイの福音書26章39節)


こうしてイエスはピラトの法廷に立っています。
そして、屠殺場へ連れて行かれる子羊のように引かれて行かれています。
イエスは自分の潔白を証明しようとはされていません。
イエスは死ぬ覚悟、私たちが生きるために十字架にかかる覚悟をしていました。
ピラトは再び法廷に入り、イエスを呼び寄せてこのように言いました。

「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」
(ヨハネの福音書18章33節)

ユダヤ人たちはイエスに対し、自分をユダヤ人の王であると宣言したという告発をしていました。
ピラトは、いろいろな者がメシアを名乗って立ち上がることに慣れていました。
これらの者たちはローマ政府から非常に厳しく扱われていました。

イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。
それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」
(ヨハネの福音書18章34節)


それはまるで、「あなたは真実を知りたいという真剣な願いからこの質問をしているのですか?
それとも、ただ噂を聞いてそれを突き止めたいだけなのですか?」と言っているかのようです。
ご存知のように、人々が誠実に真実を知りたいと思うときはいつでも、主イエスはそれを明らかにしようしています。
しかし、質問者によって異なる理由で納得させようとすることに対して答えてはいません。
もし、あなたが本当にイエスが神の子であるかどうかを知りたいと願うなら、そして「イエスが本当にイスラエルのメシアであるかどうか知りたい」と心の中で思っているなら、どうすればわかるかをお教えることができます。

「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」
(ヨハネの福音書7章17節)


もし、あなたが心から知りたいと願い、神のもとへ行き、罪人として神の前に立ち、自分の罪と罪過を告白し、救いの道を主に叫び求め、光を与えてくださるよう神に頼るなら、神は真実をあなたに知らせることを約束しておられます。
あの日、ピラトが真剣に求めるべきだったのです!
しかし、ピラトは永遠の真理を軽視する者として、ピラトの方が有罪判決を受けたのです。
ピラトはイエスが王であることを知ることに、実際には関心がなかったのです。
ピラトの目には、イエスは、死刑に値するようなことは何もしていないことは明白です。
しかし、公衆の迷惑になる存在であり、人々を黙らせるような方法で対処しなければなりません。
イエスはただの風変わりな熱狂的なユダヤ人に過ぎなかったのです。
そこでピラトは軽蔑を込めて尋ねました。

「私はユダヤ人ではないでしょう。
あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」
(ヨハネの福音書18章35節)


言い換えるのであれば「言いなさい。お前の罪とは何だ?
お前の罪とは何だ?
お前は一体何をしたのだ?」
ピラトがこれらの質問をした時の、軽蔑に満ちた歪んだ唇がどんなものであったかは容易に想像できるはずです。
イエスは静かに顔を上げてこのように言いました。

「わたしの国はこの世のものではありません。」
(ヨハネの福音書18章36節)

つまり、「この目的のために存在しているのではありません」
もしくは、「私は地上の王座に着く目的で王になろうとしているのではありません」という意味です。
わたしの王国は普遍的に存在しているものでもなく、全く別の秩序の王国です。
わたしの王国は天に存在しています。
それがイエスの真意でした。
イエスはピラトを任せて、真剣に質問するように導いていたのです。

「もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」
(ヨハネの福音書18章36節)


いつの日か、イエスはこの世に神の王国が樹立されることを否定しておられるのではありません。
いつの日か、イエスに関するすべての預言は成就します。
しかし、その日が来たとき、イエスの王国はこの地上の秩序のものではなく、この地上に樹立される天の王国となるのです。
ですから、イエスはローマ帝国を倒すことを暗示するような内容をすべて否定しておられます。
ピラトは考え込むようにイエスを見つめ、イエスにというよりはむしろ自分に対して「それでは、あなたは王なのですか」と言いました。
ナザレ出身のこの身分の低い大工が、恐れることなくそこに立っていました。
地上で最も偉大な権力の代表者の顔を見つめ、この世のものではない王国について語った姿には、印象深いものがあったはずです。
ピラトはこの奇妙で謎めいた男が誰なのか疑問に思いました。
「それでは、あなたは王なのですか?」
その質問にイエスは答えて言われました。

「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。」
(ヨハネの福音書18章37節)


確かにイエスは王です。
この地上に王国を持たない王です。
その権威を認める民衆を持たない王です。
しかし、父なる神がこのように言われた御方です。

「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」
(詩篇2編6節)

「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。」
(ヨハネの福音書18章37節)


もしくはイエスは真理の殉教者となるために世に来たのです。
イエスは真理の殉教者として死にました。
しかし、それだけだったと言う人もいます。
イエスは確かに死にましたが、それだけではありません。
イエスは偉大な罪のささげ物として死にました。
そして、私たちの贖いのためにご自身を汚れのない姿で神に捧げられました。
ピラトの法廷に立つイエスは、真理の証人です。
イエスは、真理そのものでもありました。
イエスはこのように言われました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
(ヨハネの福音書14章6節)


そして、今、このように言われます。

「真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
(ヨハネの福音書18章37節)


この宣告の難しさがわかるでしょうか?
事実上、イエスはこのように言っておられます。
「正直な人は皆、私の言葉を聞く時、耳を傾けます。
「イエスが神の子かどうか知りたい」と言いながら、御言葉の中で主が与えてくださる挑戦に背を向け、それを拒んではなりません。
なぜなら、真に正直に知ろうと努める人は皆、知るからです。」
「真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

「ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」」
(ヨハネの福音書18章38節)


ここに皮肉を言う者の問いがあります。
ピラトの落ち着きのない心と思いは何に対しても満足を見出すことができません。
私たちがどこから来たのか、どこへ向かっているのか、誰も知らないと感じる境地に至っていました。
「誰が分かるというのか?」
「真実とは何か?」
ピラトがその問いを真剣に問いかける必要があったのです。
しかし、ピラトの前にピラトに答えることができた者がいました。
ピラトを悩ませていたあらゆる事柄を解き明かすことができた者がいました。
哲学者のフランシス・ベーコン氏がこのように書いています。
「「真実とは何か?」
ピラトは冗談めかして言いましたが、答えを持っていません。」

それは残念なことです!
ピラトは答えを持つことが出来たかもしれません。
しかし、この男は軽薄な男でした。
この男は真剣ではありません。
この男は真実を本当に知りたいとは思っていません。
神よ、私たちに素直さと真剣さを与えてください。
そうすれば、私たちはすぐに主イエス・キリストの足元に立つことができるはずです。
「ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」」
このように言ってから、イエスは再びユダヤ人たちのところへ出て行かれました。
ピラトは質問の答えを待たずに、疑いと暗闇の中に取り残されました。
ピラトはユダヤ人たちに言いました。
「私は、あの人には罪を認めません。」
言い換えれば「この人を死刑にすべき理由は見当たりません」ということです。
その時、ピラトは人々をなだめつつ、イエスを死から救う方法があることを思いつきました。
数年前から、過ぎ越しの祭りごとに国家の囚人を何人か釈放することが決められていました。
それは、ローマが国民的偏見に考えてくれていると人々に感じてもらうためでした。
ピラトは、イエスの名を掲げれば、人々はイエスを釈放してくれるだろうと考えたのです。
そこでピラトはこのように言われました。

「しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。
それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」
(ヨハネの福音書18章39節)


この皮肉さに注目してください。

「すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ。」と言った。このバラバは強盗であった。」
(ヨハネの福音書18章40節)


確かにバラバは法律的には強盗でしたが、ユダヤ人の愛国者でした。
ユダヤ人たちがイエスに告発したまさにその罪は、まさにバラバにも当てはまりました。
バラバは反乱者です。
ユダヤ人たちはバラバを釈放し、イエスを十字架につけようとしました。
「この人ではない。バラバだ。」
これはユダヤ人だけでなく、何世紀にもわたって叫び続ける世界中の人々の声となりました。

彼らは強盗と殺人者を選びました。
そして、世界は強盗と殺人者に支配されてきました。
それでもイエスは拒まれています。
あなたはどちらを選びますか?
心の中で「この人ではない。バラバだ。」と言っていますか?
「この人ではない。」
あなたは心の中で、イエスの代わりに何を置いているのでしょうか?
もし違うのであれば、あなたの決断を覆してください。

数年前、ある東部の都市で、有名なユダヤ人商人に心優しいクリスチャンの友人がいました。
この二人の商人は昼食時によく一緒に会って話し合い、クリスチャンの友人は主イエス・キリストの主張を率直に述べました。
ユダヤ人の友人は礼儀正しく耳を傾けていましたが、何も言いません。
やがて、このユダヤ人商人は重病に倒れ、死にかけているという知らせが届きました。
クリスチャンの友人は彼に会いに行きたかったのですが、それはできないと言われました。
彼がもう長く生きられないという知らせを受け、友人はもう一度彼に会いに行こうとしました。
医者は「彼を入れてあげなさい。
もう彼に何も言うことはことはできない」と言いました。
彼はその友人と話さないと約束しました。
部屋に入ってベッドサイドに滑り込み、そこにひざまずいて友人の痩せた手を自分の手で握り、死にゆくユダヤ人商人に代わって静かに心を神に捧げました。
病人が目を閉じ、荒い呼吸をしながら横たわっていた時、変化が起こりました。
目が開き、友人の方を向き、優しく見つめました。
すると唇が開き、永遠の眠りに落ちる直前にこう言いました。
「バラバではない、この人です。」
それが何を意味していたか、分ると思います。
ピラトの法廷で、民衆に下された判決を覆したのです。

「あなたはキリストのための部屋を持っているでしょうか?
キリストは罪の重荷を背負って下さいました。
罪人よ、彼がノックして入るよう願っています。
あなたはキリストを受け入れることができますか?
楽しみのための部屋、仕事のための部屋、しかし、十字架につけられたキリストが入る部屋はありません。
主が入られる場所などないなら、あなたの心の中で主は死なれていませんか?
再び、恵みによって呼びかけられます。
あなたはキリストのための部屋を持っているでしょうか?
今日は受け入れられる時です。明日は空しく求めることになります。
今、時間と部屋はキリストのためにあるのです。
まもなく神の恵みの日が過ぎます。
やがて、あなたの心は冷たく静かになります。
そして、あなたの救い主の訴えは止まることになります。」


講演63 キリストの前のピラト

「そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。
また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。
彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。
ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」
それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。
祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」
ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」
ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。
そして、また官邸にはいって、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。
そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」
イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」
こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」
そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語でガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」
彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。」
(ヨハネの福音書19章1~16節)


前の章の最後の箇所では、ピラトの前に立つキリストの姿を見ました。
この箇所では、状況が逆転しています。
今や、ピラトの方がキリストの前で裁きを受けています。
主イエスは自分にかけられたすべての告発について全く無実であると知っています。
この臆病なローマの政治家キリストをどうするのでしょうか。
当然のごとく、ピラトは正義の裁判官として無実の者を無罪放免にすることができるのでしょうか?
それとも、ユダヤの指導者たちの邪悪なほの殺しから身を守るためにイエスを有罪とするのでしょうか?
ユダヤ人たちは彼らの望みようにイエスを扱わなければ政治的破滅を招くと脅迫しています。
その答えはよく分かっています。
人類史上最も不義な裁判について思いを巡らせ、改めてこの事件全体を考えてゆきましょう。
この箇所ではピラトがキリストの前に立っています。
前の章ではピラトの法廷に主イエスが引き出されました。
裁判はほぼ終わり、この裁判官自分から民衆の前に出てこのように言いました。

「私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。」
(ルカの福音書23章14節)


これは事実上の無罪判決です。
イエスは裁判にかけられ、告発された罪状について無罪とされました。
正義に従うならば、ピラトは訴訟を取り下げられ、イエスは自由の身となるべきでした。
しかし、ベツレヘムでお生まれになった方が、私たちの罪を償うために十字架上で死ぬことが、神の計画において永遠の昔から定められていたことを私たちは知っています。
しかし、神はこのように物事を覆し、それでも茶番な裁判が続くことをお許しになったのです。
今、ピラトは裁判を受けています。
さて、このローマの裁判官はどうなるのでしょうか?
ピラトの態度はどのようなものでしょうか?
神はピラトについてどのように考えているのでしょうか?
この場面は、ピラトについて何を明らかにしているのでしょうか?
まず最初に、正しいことを知りながらピラトは何も行なうことのできない弱虫であることが明らかです。
ピラトは主イエス・キリストを解放すべきだったことを知っていました。
ピラトは取り調べ、無罪を宣告した後、その場で事件を終わらせるべきだったことを知っていました。
しかし、良心に従うことが出来ずに、心の奥底にある確信に基づいて行動することができません。
最初の5節を見ると、ピラトの良心の声を封じ込められたことが分かります。

「そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。」
(ヨハネの福音書19章1節)


なぜ、イエスを鞭打たなければならなかったのでしょうか?
ピラトはイエスが無罪であると宣言したばかりなのに、恐ろしい肉体的苦痛を伴う最も忌まわしい罰を受けることを許しました。
ローマの鞭は、数インチごとに鋭い金属片が埋め込まれた多数の皮紐で作られていました。
そのため、鞭が犠牲者の裸の背中に振り下ろされると、文字通り肉が細長く剥がれ、血が流れ出ました。
なぜ、明らかに潔白で、無実の人にそのような苦しみに従わせるのでしょうか?
それは、ピラトがユダヤ人をなだめたかったからです。
たとえ、自分が無実と宣言した人が苦しんだとしても、ピラトはユダヤ人の好意を得たかったのです。
そして、キリストを告発した者たちに対して、この刑罰で満足してくれることを期待していました。
兵士たちは鞭打ちを終えると、いばらの冠を編んでイエスの頭に載せ、古くて捨てられた紫色の衣を着せ、偽りの王として飾り立てました。
そして、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と叫びながら、平手でイエスを殴りつけました。
彼らは、自分たちの行為を遊び半分でやったのかも知れません。
しかし、やがて彼らはこの祝福された御方の御前にすべての膝がかがめることになります。
すべての舌が、主がすべての者の主であることを告白し、主がユダヤ人の王であると同時に、地上のすべての国の王として真実に称えられる日が来ることを、彼らは理解していなかったのです。
神の目的を持っています。
そして、最終的にユダヤ人と異邦人がイエスを王たちの王、主たちの主としてとして認められることが宣言されています。

ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。
「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。
あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」
(ヨハネの福音書19章4節)


ここで、ピラトはすでに下された裁きを繰り返して宣べています。

「それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。
するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。」
(ヨハネの福音書19章5節)


ピラトは良心の中ではキリストが自由になるべきだと分かっていました。
しかし、どうすればいいのか?
この冷酷な迫害者たちをどうなだめればいいのか?
心の中で葛藤していたのです。
そして、その背後には、自身の立場が不安定だという思いがあったのは間違いないでしょう。
ピラトはユダヤ人の反感を買うようなことを何度も行っています。
そして、ユダヤ人はユダヤ総督の座から彼を引きずり下ろそうとする勢力が常に存在していました。
そこで、再びピラトはキリストを前に出し「さあ、この人です」と叫びます。
額にいばらの冠をかぶせ、紫の衣をまとい、手に葦を持ち、顔から血を流しながら、忍耐強く苦しみながらそこに立つその姿は、どんなに頑固な心も和らげたはずです。
そこには、どんなに強い抵抗も打ち砕く力が存在していたのは間違いありません。
しかし、生まれながらの人間の心は、聖なるものと完全な義を憎むように導びこうとします。
何年も前、スコットランド自由教会の大集会の会議で、ある牧師が日曜日の朝に会議での説教をするように頼まれました。
その牧師は人間の美徳の美しさについて驚くほど美しい講話をし、素晴らしい結論をこのように語りました。
「ああ、私の友よ!
もし美徳の化身が地上に現れさえすれば、人々はその美徳の美しさに夢中になり、その美徳にひれ伏して崇拝するでしょう。」
人々は「素晴らしい説教だった」と言いながら出て行きました。
しかし、同じ主日の夜、別の牧師がその説教壇に立ちました。
そして、キリストと十字架につけられたキリストについて説教し、次の言葉で説教をこのように締めくくりました。
「友よ、人間の美徳の化身が地上に現れました。
人々はその美しさにうっとりし、ひれ伏して崇拝する代わりに『彼を殺せ!』と叫びのです。」
「十字架につけろ。十字架につけろ。」
「この人に私たちを支配させたくない!」
これは、生まれながらの心、つまりあなたの心、私の心の邪悪さを物語っています。
当時のユダヤ人は、ただ典型的な人間に過ぎないからです。
彼らは他の人々と異なる人間ではありません。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」そこには何の差別もありません。
彼らは生まれながらの人間の汚れを神の聖さに向けました。

「祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。
ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」」
(ヨハネの福音書19章6節)


考えてみてください!
この裁判官は、目の前にいる囚人の無罪を三度も宣言しました。
しかし、自分は完全に優柔不断でした。
無実の者のために立ち上がるどころか、ピラトはイエスを敵の手に委ねるように裁判を行ったのです。

「ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。
この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」
(ヨハネの福音書19章7節)


ユダヤ人たちは主イエス・キリストの主張に関して、何の誤解もしていませんでした。
これは私たちが覚えておくべき重要なことです。
彼らは、イエスの言葉によって、イエスが生ける神の御子であることを人々に知ってもらいたいと願っておられることを、完全に理解していました。
ゆえに、彼らはイエスを冒涜の罪で訴えたのです。
もしイエスが「すべての人は神によって創造されたのだから、すべての人が神の子である」とだけ言っておられたのであれば、彼らの基準に照らして、冒涜の罪はなかったはずです。
しかし、ユダヤ人たちは、イエスが天から来られ、この地上に受肉された父の御子として、神と同等であると主張しておられることを知っていました。
ゆえに、彼らはイエスを神が唯一であるので、冒涜の罪で訴えたのです。

「ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。」
(ヨハネの福音書19章8節)


箴言にはこのようにあります。

「人を恐れるとわなにかかる。」
(箴言29章25節)


常に政治的な考えを持ち、他人が何を考え、何をするか、そしてそれが自分にどのような影響を与えるかを常に気にしていたこの男がいました。
そして、彼はますます恐れました。

「そして、また官邸にはいって、イエスに言った。
「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。」
(ヨハネの福音書19章8節)


今、ピラトは本当に心配しているのでしょうか?
少し前にピラトは「真理とは何ですか。」と問いかけ、答えを待つことさえしていません。
今、「この人は自分を神の子としたのですから」という訴えを聞いたとき、現実にピラトは不安になったでしょうか?
彼は心の中でこのように言っているのかも知れません。
「目の前にいるこの不思議な人は、人間以上の存在なのだろうか?
彼には何か超自然的な何かがあるのだろうか?」
ピラトは「あなたはどこから来たのですか?」と問いかけた時、真剣に考えていたのでしょうか?
いずれにせよ、そこには悔い改めの兆候も、自己批判の兆候も、心の誠実さの兆候もありません。
ここで、イエスはピラトに何も答えません。
もし、ピラトが真理を知りたいと真剣に願っていたなら、キリストは彼の質問に答え、自分がどのような方であるかをピラトに明らかにしたはずです。
しかし、イエスはこの批判する者には何も答えていません。
真理を拒否しようと決意している人に、イエスは決して説明されようともしません。
神の御心に従おうとしない人々にとって、イエスは暗闇にある事を明らかにしようとされません。
イエスはこのように言われています。

「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」
(ヨハネの福音書7章17節)


イエスは、ピラトが神の御心を行う意志を持っていないことを知っていました。
しかし、ピラトはイエスが答えなかったことに腹を立てました。
イザヤ書53章に預言されているように、イエスはそこに立っておられたからです。
イザヤ書にはこのように記されています。

「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」
(イザヤ書53章7節)


するとピラトはイエスに言いました。

「あなたは私に話さないのですか。
私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」
(ヨハネの福音書19章10節)


このようにピラトは自分を裁くことになりました。

「イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。
ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」」
(ヨハネの福音書19章11節)


イエスは、権力は神によって定められたものであることを認識していました。
ゆえにピラトは神の御心を行い、正義を執行するために総督としてその地位に就いていたのです。
「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません」、ゆえに、わたしをあなたに引き渡した者の罪は大きいということです。
このように、罪には違いがあります。
イエスは祭司長たちやユダたち、そしてイエスをピラトの前に引き渡して裁きを受けさせた者たちの方が罪が重いと言っているのです。
「ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」
この時以来、ピラトはイエスを釈放しようとしています。
しかし、彼は民衆を喜ばせる方法でイエスを釈放しようとしました。
ピラトは、自分が正しいと知っていることを知っていました。
しかし、それが正しいからといっても行うつもりはありません。
あなたも私も、この問題に向き合う必要があります。
私たちは、それが正しいと知っているからこそ、正しいことをしているのでしょうか?
ここに、人生を通じて主イエス・キリストを知り、心を開いてキリストを自分の救い主として受け入れるべきだと知っている男がいたとします。しかし、歳月が過ぎても、彼は自分の信念に基づいて行動しようとしません。
この優柔不断な男、自分の信念に従う勇気を持たなかった男、イエスを無罪放免にすべきだと知りながら、最終的に死刑を宣告した男、ピラトと、その人にはどのような点で違うのでしょうか?
私たちは自分自身に問いかけるべきではないでしょうか?
「今日、私は主イエス・キリストに対してどのような態度を取っているだろうか?」
私は主を受け入れているだろうか?
私は主を救い主、主として告白しているだろうか?
聖書にはこのようにあります。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
(ローマ人への手紙10章9節)


あなたはイエスを告白したでしょうか?
また、イエスはこのように言われます。

「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。」
(マタイの福音書10章32節)


そして、イエスは深刻にこのように付け加えられています。

「しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」
(マタイの福音書10章33節)


ピラトはイエスを否定し、永遠にその事実と向き合わなければなりません。
私たちはどのような態度をとっているでしょうか?
あなたはどのような態度をとっているでしょうか?
あなたはイエスを告白していますか?
今日、あなたはイエスをあなたの救い主、あなたの主であると告白しませんか?

「こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。
「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」
(ヨハネの福音書19章12節)


ところで、ユダヤ人たちは言葉から察するほど、カイザルを熱烈に崇拝していたのでしょうか?
まったく、違います。
ユダヤ人たちはカイザルという名そのものを憎み、ローマ総督に服従することを憎んでいました。
ゆえに、ユダヤ人たちはピラトの弱点を知っていた。
ピラトがカイザルの加護の中にいることを維持したがっていることも知っていました。
「この男はローマ政府に反逆する裏切り者です。
この男を逃がすなら、あなたはカイザルの友ではありません。」
ピラトは良心的な裁判官というよりは政治的な機会を伺っていただけです。

「そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語でガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」
彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。
「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」」
(ヨハネの福音書19章13~15節)


皮肉にもピラトは、まるで顔を合わせて、彼らを侮辱するかのように「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか?」と尋ねています。
なぜなら、ピラトは心の奥底で、ユダヤ人たちがピラトを憎んでいるのと同じようにユダヤ人たちを軽蔑していたからです。
おそらく、その時祭司長たちは何も意識もせずに「カイザルのほかには、私たちに王はありません」と口にしたはずです。
そして、それ以来、何世紀にもわたって、ユダヤ人たちはローマ皇帝の支配下で苦しみを味わうことになります。
このように、ピラトのイエスを救おうとする最後の努力は終わりました。

「そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。」
(ヨハネの福音書19章16節)


ピラトは世からの承認を得るために自分の魂を売り渡したのです。
あなたがたも同じ過ちをおかさないように気をつけるべきです。
イエス御自身がこのように問われておるいるからです。

「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」
(マルコの福音書8章36節)


こうして、「十字架につけるため彼らに引き渡した」のです。
このように、私たちはイエスが私たちの罪のために神の小羊として死ぬために出て行かれるのを見ました。

神に感謝します。
この時以来何世紀にもわたって、数え切れないほどの人々がイエスが救い主であること、イエスの死に贖いを見出しました。
そして、そして彼らはイエスの血にすべての罪からの清めをも見出しました。
すでに大軍勢が、あの栄光の中でイエスのもとに集まり、万王の王、万主の主としてイエスを称えています。
さらに何千人もの人々が地上でイエスを愛し、礼拝しています。
今、ピラトはこの世を去りました。
もし、私たちが初期の記録を信じるならば、はるか昔にピラトは、エルサレムであの日、死刑を宣告したイエスを拒み続け、自殺しました。


講演64 キリストの完成した御業

「彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。
彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった。
ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。
それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。
そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。
ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」
さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。
そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。
兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」
(ヨハネの福音書19章17~30節)


主イエス・キリストの十字架がそれぞれの四福音書においてどのように描かれているか注目するのはとても興味深いことです。
旧約聖書の儀式において、イスラエルの民は神に四つの血のささげ物を捧げるよう命じられています。
それぞれの儀式が十字架の働きを異なる観点から示していました。
レビ記の最初の章を読むと、全焼のささげ物、和解のささげ物、罪過のささげ物、そして過越のささげ物について読むことができます。
穀物のささげ物もありますが、これは血のささげ物ではありません。
このささげ物は、上等の小麦粉と油で作ったパンを神の前に捧げることでした。
これは私たちの主イエス・キリストの完全な人間性を象徴しています。
もちろん、キリストの人間性は四福音書すべてに記されています。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四人の記者が描いたこれらの場面から見るのであれば、祝福された主の足跡をたどるのならば、イエスの絶対的な完全な人間性を見ることができます。
イエスは、この地上を歩いた中で、一言も取り消すことなく、罪を告白することもなかった唯一の人です。
人であるキリスト・イエスは、神の完全で汚れのない御子です
イエスは悔い改める必要など何もない人生を過ごしました。
神はイエスにこのように言うことができました。

「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
(マタイの福音書3章17節)


穀物の捧げ物はイエスの人格を語っています。
イエスが行うことを成就するための本質を持たなければならないという事実を強調しています。
イエスの代わりを務めることは誰にもできません。
誰も私たちの罪を償うこともできません。
しかし、血が流される捧げ物は、十字架の働きを四つの異なる側面を表していました。
全焼の捧げ物は、主イエスが恐ろしく辱められた場面において、神の栄光を現すために死なれたことを表しています。
しかし、他の三つの福音書には、人間と罪に関係する捧げ物が記されています。
和解の捧げ物は、キリストが十字架の血によって平和を成し遂げたことを示しています。
ルカの福音書では、キリストはこのことが主題として述べられています。
罪の捧げ物は、主イエス・キリストが私たちのために「罪」となられたことを示しています。
キリストは、私たちの行ったことのためだけでなく、私たちの存在のためにも死なれました。
私たちがしてきた行いは、罪人としての私たちの真実な本性を明らかにしているだけです。
私は罪を犯したから罪人なのではありません。罪人だから罪を犯すのです。
ですから、罪のためのいけにえは、単に私が行った行為のためだけではなく、神との交わりにふさわしくない、邪悪で腐敗した性質のために捧げられています。
ゆえにこのように書かれています。

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」
(コリント人への手紙第二5章21節)


マルコの福音書では、十字架の働きについて描かれています。
しかし、それだけではありません。
主イエスは私たちの複数形の罪のために死んだだけではありません。
私たちの単数形の罪のために死んでくださったのです。
私たちの罪は償われなければなりません。
私たちが犯した過ちは、神の威厳によって償わなければなりませんでした。
それが罪過のためのささげ物です。
これがマタイの福音書に記されていることです。
ゆえに、ヨハネの福音書の伝える記録の中で、父なる神に栄光を帰すために主が全焼のささげ物として捧げられたことが記されています。だからこそ、三時間の暗闇について言及されていないのです。
神の言葉は驚くほど正確に記されています。
他の福音書には、主イエスの魂が罪の贖いのささげ物とされた三時間の暗闇について記されています。
そこでは、私たちは「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という主の恐ろしい叫びを聞くことができます。
その叫びに対する答えは、私たちが捨てられずに、主が見捨てられたということを表現しているのです。
主は私の代わりに「人間のために、恵みの奇跡!人のために救い主が死んでくださった」と言うことができます。
しかし、この悲痛の叫びはヨハネの福音書には記されていません。
ただ、私たちは祝福された主が父なる神の御心に完全に従って、十字架の死において、汚れのないご自身を神に委ねられたのを見ることだけができます。

「そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。」
(ヨハネの福音書19章17節)


多くの人は、それがダマスカス門の外にある小さなどくろの形をした丘のことだと考えています。
エルサレムを訪れて、私たちがその丘の上やそのかたわらに立つのであれば、丘の斜面にある園の墓を除けば、おそらく他のどんな光景よりも深く心を動かされるのではないでしょうか!
多くのプロテスタントの学者が信じているように、主イエス・キリストはあの頭蓋骨の形をした丘の上で私たちのために死んだのです。
その頭蓋骨に形の丘にイエスは十字架に架けられました。

「彼らはそこでイエスを十字架につけた。
イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった。」
(ヨハネの福音書19章18節)


イザヤ書53章にはこのように記されています。

「彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。」
(イザヤ書53章12節)


ゆえに、私たちは罪人たちの真ん中の十字架に、イエスが立っているのを見るのです。
二人の強盗がイエスと共に十字架に架けられました。
まるでイエスが彼らの中で一番悪いかのようです!
そこが罪人としての最悪の場所です。

「ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。
それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。」
(ヨハネの福音書19章19節)


エルサレムの祭司長たちがイエスに告発した内容は、イエスが自分をユダヤ人の王と称したというものでした。
ピラトはイエスに尋ねました。

「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」
(ヨハネの福音書18章33節)


イエスに死刑を宣告した者として、ピラトは十字架にかけられたイエスの罪を示す札を作る必要がありました。
そこで彼はその札に「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書き記されました。
これは、彼らの宗教の言語であるヘブライ語、文化の言語であるギリシア語、そして政治の言語であるラテン語で書かれていました。
イエスへの訴えは「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」というものです。
これは「この者はローマ政府に対する反逆者、暴徒として十字架につけられる」という意味でした。
前の章で見てきたように、ピラトは一瞬たりともそのことを信じていません。
これはピラトの皮肉な考え方です。
ピラトは、罪のない人に死刑を宣告してまでも、自分を苦しめた祭司長や律法学者たちを笑ってやりたかったのです。
キリストの十字架が人の心の中にあるすべてのものを引き出し、人間の真実な姿を明らかにしているのは驚くべきことです。
十字架の光の中で、ピラトはその皮肉な考え方と良心の欠如のすべてを私たちの前に現しました。
十字架の光の中で、祭司長たちは、その偽善と憎しみ、そして聖く汚れのない神の御子に対する憎しみのすべてが暴露されました。
この物語を読み続けるのであれば、十字架の光の中で、十字架の足元で磔にされたイエスの衣服を賭けていた兵士たちの冷酷さ、無関心、貪欲さ、執着心が明らかになります。
しかし、神に感謝すべきことに、イエスの母マリアと、キリストの働きを通して祝福を受けた彼女の仲間である他の女性たちの忠誠心、誠実さ、優しい愛情、そしてこの本の著者でありイエスの忠実な弟子である使徒ヨハネの忠誠心が美しく浮き彫りにされるのを見ることができます。
他の使徒たちはどこに行ったのでしょうか?
弟子たちは「みながイエスを見捨てて、逃げてしまった」のです。
それで彼らはゼカリヤ書の御言葉を成就してしまいました。

「牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける。」
(ゼカリヤ書13章6節)


しかし、ヨハネは十字架のそばにいました。
母マリアも、マグダラのマリアも、クレオパの妻マリアも、父なる神に栄光を帰し、罪深い世界を救うために、救い主が十字架上で息を引き取られるのを、愛しいまなざしで、心を痛めながらも見守っていました。
このようにして、ピラトはイエスをユダヤ人の王と称しました。
そしていつの日か、ピラトが十字架につけた称号は、彼自身や世の中が認識していた以上に真実であったことが明らかになるのです。
天の父の御座に上がられた方は再び戻って来られます。
そして戻って来られる時、イエスを拒んだその民の中から、歓迎する人々が現れます。
エルサレムには、メシアであるイエスに心を奪われる「残りの民」が現れます。
彼らには次のように預言されています。

「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」
(ゼカリヤ書12章10節)


イエスが再び来られる時、彼らはイエスをユダヤ人の真実な王、「偉大なダビデの偉大な子」として認めるのです。
イエスは旧約聖書のすべての預言を成就します。
そして、長い間預言されていた義なる王国を成就されます。
しかし、ピラトがこの称号、「ユダヤ人の王」と書いたとき、祭司長たちは憤慨し、ピラトのもとに来て言いました。

「そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。」
(ヨハネの福音書19章21節)


しかしピラトは、冷たい笑みを浮かべながら、このように言いました。

「私の書いたことは私が書いたのです。」
(ヨハネの福音書19章22節)


つまり「あなたたちはもう十分私を説得した。
もうこれ以上あなたたちとは付き合うことはない。
あの看板は、私が書いたままの状態で残しておく」とでも言いたかったのです。
「このように、イエスは王として十字架につけられ、私のような哀れな罪人を救うために死なれました。」
しかし、ピラトがイエスの頭に掲げたのは、イエスが自らをユダヤ人の王としたという、イエスに想定された罪を示す看板でした。
実際には神は十字架の上に別の看板を見ていました。
この別の看板は、人間の目には見えません。
しかし、コロサイ人への手紙2章13〜17節にはこのように記されています。

「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。
こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。
これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」
(コロサイ人への手紙2章13~17節)


使徒パウロはここで何を伝えているのでしょうか。
人は神の前で罪を犯し、シナイ山で神がお与えになった聖なる律法を破りました。

「というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
(ガラテア人への手紙3章10節)


しかし、十字架の上でイエスは律法の違反者の代わりになられたのです。
神はシナイ山で神がお与えになった十戒が十字架に釘付けにされているのを見ておられます。
それは、神がその山の上にお与えになった律法であり、公正で正しい律法であるにもかかわらず、人間は律法を破ったのです
その律法違反のゆえに、イエスは死なれたのです。
そして、イエスは律法を破ったのでしょうか?
いいえ、違います!
その律法は私たちには不利です。
それは私たちが律法を破ったからです。
しかし、イエスはその十字架の上でその破られた律法の裁きを受けて死なれました。
イエスが私の代わりに裁きを受け、耐え忍ばれたことゆえに、神は今、私にこのように言うことができます。
「あなたは自由になりなさい。」
神の祝福された御子への信仰を通して、私はすべてのことから義とされるのです。
ゆえに、信じる私たちは「律法から解放されています!」
幸いなことです!
イエスは血を流し、赦しが与えられました。
律法によって呪われ、堕落によって傷つけられた私たちを、キリストは一度限りで完全に贖ってくださいました。
これまでに書かれた中で、私たちは最も素晴らしいこの物語を伝えているのです。

「さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。
また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。
そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」
それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。」
(ヨハネの福音書19章23、24節)


このように、イエスの着物を賭け、皆が一枚ずつ分けられるように上着を四つ裂かないと決めました。
彼らは千年前に詩篇22篇18節で語られた預言的な言葉を成就させていたとは、全く知る余地がありませんでした。「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの着物をくじで引く。」

「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」
(詩篇22篇18節)


詩篇22篇は、十字架上での救い主の苦しみと、それに続く栄光を預言しています。
この詩篇を読み返すと、救い主の苦悩の叫びで始まり、勝利の叫びで終わることがわかります。
そこには、十字架にかけられた救い主が描かれています。

「犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。
私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。」
(詩篇22篇16、17節)


やがて、暗闇の時が訪れ、救い主は叫びます。

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」
(詩篇22篇1節)

この言葉で22編は始まっています。
そして、このように続きます。

「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」
(詩篇22篇3節)


また、このように続きます。

「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。」
(詩篇22篇6節)


これは、主が私たちの救いのために、謙遜な恵みによる立場を得たことを物語っています。
そして、主が用いられた比喩は実に印象的です!
「虫けら」とは「トーラ」のことで、メキシコに生息するコチニールのような小さな虫のことです。
コチニールを砕いた血から、美しい深紅の染料を得ることができます。
同じように、「トーラ」から緋色の染料が作られます。
この世の偉人たちはそれで衣を染めました。
イエスは事実上、「わたしは「トーラ」のようです。
他の人々が栄光の衣をまとうために、わたしは打ち砕かれて死ぬのだ」と言っておられるのです。
ですから、私たちはイエスが十字架上で、私たちの罪のために血を流し、死んでいくのを見ることができます。
しかし、詩篇22篇を読み進めていくと聖書では最後の節にこのようにあります。

「彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。」
(詩篇22篇31節)


直訳では「彼らは来て、主が完了された義を、生まれてくる民に告げ知らせよう」となります。
このように詩篇22篇は「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」という苦悩の叫びで始まり、「完了された」という勝利の叫びで終わっています。
続けて福音書のこの章の続きにはこのようにあります。

「イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。」
(ヨハネの福音書19章25、26節)


そして、その時から、弟子はマリヤを自分の家に迎えました。

私たちは、この愛しい女性たちと愛する若い弟子たちの忠実さと献身、それとも、祝福された主イエス・キリストの優しく慈しみ深い愛、そしてご自身を産んだ愛しい母への思いやり、どちらを賞賛すべきか、私には分かりません。
そして、イエスの言葉はこの預言を思い起こさせました。

「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」
(ルカの福音書2章35節)


イエスは、母が息子が釘に掛けられてひどい苦しみに苦しんでいるのを見て、剣が彼女の母親の心をも突き刺していることを知っていました。
イエスは彼女を心配し、彼女の苦しみを和らげたいと願っていることを彼女に知ってもらいたいのです。
そこでイエスは彼女をヨハネに指し示して、このように言われました。

「それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」
(ヨハネの福音書19章27節)


彼女が地上で過ごした最後の期間、ヨハネは彼女にとって優しく愛しい息子となり、彼女もヨハネにとって愛しい母親となりました。

「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。」
(ヨハネの福音書19章28節)

イエスは、その時にすべてのことが成就されることを知っていました。
しかし、まだ成就していない聖句が一つありました。
それは詩篇69篇21節にこのようにあります。

「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」
(詩篇69篇21節)


この詩篇69篇はイエスを十字架上で苦しむ者としても描いています。
そして、この預言が成就しないままにならないように、イエスは「わたしは渇く」と言われたのです。

「そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。
そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。」
(ヨハネの福音書19章29節)


その酸いぶどう酒は人の心の悪意と憎しみを表していました。
イエスは兵士の手から酸いぶどう酒を受け取り、それを飲みました。
少し前にイエスが拒んだものがあります。

「彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。」
(マタイの福音書27章34節)


この苦みを混ぜたぶどう酒は神の怒りを象徴するものです。
イエスはそれを父なる神の手からのみ受け取るものだからです。
人としてのイエスにはその杯を口に当てる権利はありません。

「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」
(ヨハネの福音書19章30節)


「完了した」、その言葉はギリシャ語新約聖書では1語だけです。
「テテレスタイ(Tetelestai)」、それは勝利の叫びです。
イエスは御父が与えてくださった御業を完了させられました。
イエスは辱められた場所において、神の栄光を現されました。
そして今、その完成された働きによって、神は「イエスは義になれました。
そして、イエスを信じる者を義とする者」となられたのです。
ゆえに、現在あらゆる場所にいるすべての人々に伝えられている福音のメッセージがこれです。
「救いの御業は完了しました!
イエスはすべて十字架の上で完了されました。」
あなたは、罪が完全に清算されたあの十字架の下で、神と会うことができますか?
イエスは「完了した」と叫んだとき、頭を垂れ、息を引き取られました。
イエスは疲労して亡くなったのではありません。
イエスは御霊をお渡しになりました。
私たちにはそんなことはできません。
どれほど多くの苦しむ人々がそのように願ってきたことでしょう。
しかし、イエスは罪の問題を解決し、裁きの杯を飲み、罪を消し去り、神に栄光をささげた後に、「完了した」と叫んで、御自分の霊をお渡しにならせました。

「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」
(ルカの福音書23章46節)


このように言って、イエスの霊はパラダイスに行かれました。
贖い主の尊いからだは十字架にかけられ、やがて栄光の復活の日に新たな命に生かされることになっています。
あなたはこの祝福された救い主を知っているでしょうか?
あなたは自分自身のために主をしんじて信じているでしょうか?
もし、あなたが主を信じていないなら、私はあなたに懇願します。
今こそ十字架の足元にひれ伏し、自分が罪人であることを告白し、あなたを贖うために死んでくださった主に心から信じることを告げてください。
これからは、主をあなたの救い主であると共に、あなたの主、師として受け入れて、前に進んでください。


講演65 王の埋葬

「その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。
それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。
しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。
しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。
それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。
この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。
また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。
そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。
前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。
そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。
イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。
その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。」
(ヨハネの福音書19章31~42節)


神の聖霊は、私たちの罪を償うために十字架上で私たちの代わりになられた私たちの祝福された主イエスの苦しみだけでなく、その後、主の埋葬に関連して起こった出来事についても、とても興味深く、教訓的な詳細を私たちの前にもたらすために多大な努力を払っています。
まず、イエスの体がまだ十字架に架かっています。
その時に何が起こったかが記されています。
ユダヤ人たちは、安息日であったため、遺体をそこに残しておくことができなかったと伝えられています。
その日は過越の祭の重要な日であり、ユダヤ人たちはピラトに、三人の死を早めるために彼らの足を折るよう願いました。
私たちたちは申命記でこのように読むことができます。

「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、
その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。
木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。
あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」
(申命記21章22、23節)


ここに、人間の心の悪を示す特筆すべき証拠があります。
罪人たちの救い主として来られた方に全く無関心であった人々、実のところ、無関心であったばかりか、憎み、十字架刑を主張していた人々が、今や律法を文字通りに守ることに細心の注意を払っています。
彼らは安息日にイエスの遺体を十字架に残すことよりも、イエスを拒むことの方がはるかに悪いことだと気づいていません。
すでにユダヤ人たちは、人が犯すことのできる最大の罪を犯しています。
神の御前で、御子を拒むことほど悪いことはありません。
現在も、忠誠心と責任感を誇りにしながら、この最も恐ろしい罪を犯している人は多く存在しています。
主イエス・キリストが聖霊についてこのように言われたことを覚えています。

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」
(ヨハネの福音書16章8、9節)


それはあらゆる罪の中でも最も深刻な罪です。
つまり、悔い改めなければ永遠の滅びへと導く罪です。
ヨハネの福音書3章にはこのようにあります。

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」
(ヨハネの福音書3章18節)

注目すべきは、酒飲みだから、泥棒だから、不道徳だから罪に定められるとは書かれていないということです。
たしかにこれらは神の目に邪悪なことです。
たしかにこれらすべてのためにキリストはカルバリの十字架上で死んでくださいました。
悔い改めて神に立ち返り、あらゆる汚れを清めて下さる祝福された救い主を信じる者はすべての罪から解放されています。
しかし、許されない罪があります。
神が備えてくださった救い主を最終的に拒むことです。
しかし、そこには、救い主を拒絶しながらも、一晩中十字架にかけてはならないという律法の文面を慎重に守る人々がいました。
彼らはピラトのもとへ行き、この哀れな犠牲者たちの死を早め、足を折って下さるように願いました。
ローマ兵がやって来て、主の両側にいた二人の強盗の足を折りました。
しかし、彼らがイエスのところに来たとき、イエスがそこにいたほんの数時間の間にイエスがすでに死んでいるのを見て驚きました。
時には死ぬのに、三、四日も吊るされていた人がいると伝えられているからです。
そして、念を押すかのように、兵士の一人が神の祝福されたキリストの脇腹を突き刺すました。
すると、血と水が流れ出て、キリストが心臓が裂けていたことの証拠となりました。
ヨハネはそのことに留意し、「ただちに血と水が出て来た」と言っています。
それを見た者が証言し、その証言は真実です。
そして、あなたがたが信じるように、ヨハネは真実を語っていることを知っています。
つまり、ヨハネは、ローマ軍の槍先が心臓に突き刺す前から、神の御子が既に死んでいたことを知っていたことを、私たちにはっきりと理解させようとしています。
驚くべきことに、死んだ人のからだからは、血液とリンパ液が絶え間なく流れ出すものなのです。
医者は、イエスが心臓が割かれて死んだと思われると言うかも知れません。
しかし、イエスは御自身の霊を父なる神に委ねた時に死んだのです。
心臓が割かれたことが死の原因であると言うのは誤りです。
しかし、聖書はイエスが心臓が割かれて死んだと記しています。
詩篇69篇では主がこのように言っています。

「そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。
慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした。」
(詩篇69篇20節)


愛する友よ!
もし、あなたが救われていないのなら、今日この言葉を読み、神の御子の心が砕け散ったのは、あなたと私の罪のためであり、私たちが当然受けるべき神の怒りに耐え忍ばれたことを知ってください。
ヨハネはイエスのわき腹から流れ出た血と水に特別な注意を向けています。
なぜなら、それが型としての意味を持つからです。
それから長い年月が経ち、ヨハネ自身が老人になった時も、彼の心にその時の場面の記憶は焼き付いていました。
ヨハネはこのように書いています。

「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。
ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。
あかしするものが三つあります。
御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」
(ヨハネの手紙第一5章6~8節)


主イエス・キリストの脇腹から流れる水と血には、型として見るのであればどのような意味があるのでしょうか?
それは私たちの清めの二つの異なる側面を示しています。

罪に染まり、罪によって汚され、神に全くふさわしくない貧しい罪人が、裁判による清めを必要とする時があります。
御言葉は私にこのように告げています。

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
(ヨハネの手紙第一1章17節)


イエスの血は私たちを司法的に清めます。つまり、私たちにかけられているすべての罪状から解放されます。

「かつて私たちは罪の宣告を受け、罪人の裁きを待ち望んでいました。
キリストは死によって救いを成し遂げ、神は彼を墓からよみがえらせました。
今、私たちはキリストの受け入れによって、私たち自身の裁きの基準を見ます。
私たちの刑罰の下にあったキリストが、今では王座の高いところに座っておられます。」

もしあなたがクリスチャンなら、自分の罪に悩んでいた時のことを思い出してください。
あなたは自分の罪を悟り、自分がどれほど汚れ、どれほど聖くなく、神の御前にふさわしくないかを感じたはずです。
しかし、尊い血があらゆる汚れを洗い流してくれることを知った時、大きな喜びがあなたに訪れたはずです。
あなたはこの賛美の意味を知った時のことを覚えているでしょうか?

「主よ、ほふられた小羊の血によって、私を清めてください。
私を清めてください。
今、私は私のすべての罪の咎を、あなたから清められたいと願います。
あなたから清められたいのです。」

あなたが主イエス・キリストを信じたとき、神の言葉の権威によって、あなたのすべての罪が消し去られました。
まるで、罪を犯したことがないかのように、神の前に完全で清い状態に立つことができるのです。
これが主イエス・キリストの血によって清められることの意味です。

あなたはこのように書いてあるのを思い出してください。

「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。
わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」
(レビ記17章11節)


主イエスは、その尊い血を流し、聖なる汚れのない命を私たちのために捧げてくださりました。
そして、私たちの裁きをにない、私たちの罪を完全に償ってくださりました。

「もし、あなたの咎がイエスに負われなかったなら、どうして、イエスは罪を負う者としてそこにいたのでしょうか?
もし、あなたの負債がイエスの死によって支払われなかったなら、どうして、彼の脇腹から罪を清める川が流れ出たのでしょうか?」
これこそが福音の本質であり、私たちに対してかけられているすべての罪状からキリストの血を通して解放されることなのです。
ここに私たちの清めの一つの側面があります。
しかしながら、もう一つの側面があります。
神との交わりを持つためには、司法上の清めだけでなく、実際的な清めも必要なのです。
もし私が日々罪を犯しているなら、十字架を指さしして「十字架で私の罪は消し去られました」と言っても役に立ちません。
もし私の日々の生活が聖くなく、キリストの御名に栄光が帰していないなら、信仰による義認やキリストの血による贖いについて語っても意味がありません。
日々、私は神と共に歩むよう召されています。
私は清い心をもって神の前に歩むよう召されています。
そして、ここに水による清めが関係してきます。

「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
(エペソ人への手紙5章25~27節)


御言葉による水の洗いをもって教会は聖別され、清められるのです。
このキリストの尊い血によって、私は神の御前で裁かれるのです。
水によって、私は本質的に聖別されます。
水は神の言葉の象徴です。
詩篇119編9節では、御言葉が実践的な清めのための水に例えられています。

「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。
あなたのことばに従ってそれを守ることです。」
(詩篇119編9節)


神から離れ、神の恵みを知らない若者が、自分の罪のために苦しんでいる姿を想像してみましょう。
その者が自分の罪を告白し、賢明な指導を受ければ、自分の過去の罪がすべて消し去られます。
彼はまるで罪を犯さなかったかのように、神の前に完全な者として立っていることを理解するようになれるのです。
では、その若者は以前と同じように生き続けるべきでしょうか?
いいえ、違います。
今、彼は神の言葉を学び、聖霊がそれを解き明かし、彼に真理が明らかにされています。
このように、彼は神の言葉に耳を傾けることによって清められるのです。
イエスは弟子たちにこのように言われました。

「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」
(ヨハネの福音書15章3節)


これが水による清めです。
イエスは弟子たちの足を洗うことでそのことを証明されました。
そこで、乗り気でないペテロにこのように言われました。

「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
(ヨハネの福音書13章7節)


ペテロはその意味をいつ知ったのでしょうか?
ペテロが罪に陥り、足が汚れた後のことでした。
その後、祝福された主はペテロに御言葉を与え、彼は神との交わりを戻しました。
そこで、ペテロは御言葉による水の洗いによって清められたのです。
あなたに御言葉が水に例えられていることがわかるはずです。
実際に、御言葉は清める力を持っています。
神が私に間違っていると示してくださるものはすべて、私が判断し、そして恵みによって、御言葉が示すとおりに歩むよう努めるべきです。
そこで何が起こるでしょうか?
そうです!
私の過ちは文字通り、御言葉によって私の人生から洗い流されます。
わたしの思いは御言葉によって清められ、わたしの心は御言葉によって清められます。
これらすべては、あの日、ヨハネがカルバリの丘で見たものによって暗示されています。
神の御子の脇腹を刺した槍こそが、救いをもたらす血を流しました。
しかし、血だけでなく、水も流れ出たのです。

「神の御子のわき腹を貫いた槍によって、救いの血が流れ出ました。
血だけでなく、水も流れ出ました。
裂かれたわき腹から流れ出る水と血が、罪を二重に癒しました。
そしてえ、私を怒りから救い、清めてくださります。」
次にヨハネは、その日に成就した二つの聖書の言葉に私たちの注意を向けさせます。
ヨハネはこのように言っています。

「この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。」
(ヨハネの福音書19章36節)


兵士たちがイエスの足を折ることをためらった時、聖書の言葉が成就しているとは思っていません。
しかし、はるか昔にモーセは最初の過越の祭について指示を与えていました。
私たちはエジプト記12章43、46節でこのように読んでいます。

「主はモーセとアロンに仰せられた。
「過越のいけにえに関するおきては次のとおりである。外国人はだれもこれを食べてはならない。」
(出エジプト記12章43節)


「これは一つの家の中で食べなければならない。
あなたはその肉を家の外に持ち出してはならない。またその骨を折ってはならない。」
「出エジプト記12章46節)


神は過越の子羊の骨を一つも折ってはならないと命じられました。
そして、真実の過越の祭りで子羊は十字架にかけられていました。

「汚れのない過越の子羊よ、あなたの骨は一つも折られなかった。」

兵士たちは何も気づいていません。
しかし、神の御言葉は成就しました。
しかし、もう一つ別の聖句が成就する必要がありました。
ゼカリヤ書12章10節には、メシアについてこのように記されています。

「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」
(ゼカリヤ書12章10節)

このもう一人のローマ兵は自分の行為が神の言葉との関係を知ることはありません。
しかし、この兵士が主イエス・キリストの脇腹に槍を突き刺した時、彼もまた、はるかかなた昔に預言されていたことを実行しただけのことだったのです。
しかし今、よく考えてください。
私たちの祝福された主が罪人の代わりになられました。
神はイエスを偉大な罪過の供え物とみなしておられました。
その時、神はサタンの悪意を現わすことのできる、あらゆる侮辱が御子のからだに浴びせられることをお許しになりました。
その祝福された頭には茨の冠がかぶせられました。
彼らは手で主の顔を叩き、その美しい顔に唾を吐きかけられました。
彼らはイエスを残酷な鞭で、血が背中に流れ落ちるまで打ち続けました。
彼らはイエスをカルバリの丘に連れて行き、十字架に釘付けにしました。
ついに、彼らはイエスのわき腹を突き刺しましたが、神は介入しませんでした。
神はそれをすべてお許しになりました。
しかし、人がイエスに対して行った罪が取り除かれたわけではありません。
罪の問題が解決されたわけではありません。
イエスの魂が罪のささげ物とされた時、神の御手によってイエスが耐え忍ばれ、罪の問題に決着をつけたのです。
しかし、そこでは人の心にあるすべての惡が語られ、神の心にある最良のことが語られ、神は喜ばれました。
人の憎しみと神の愛がそこで出会いました。
イエスが罪人の代わりに苦しんでおられる間は神は介入されません。
しかし、傷ついた脇腹から血と水が流れ出た直後に、神はまるで「手を出してはいけません!罪の問題は解決しました。」と言われたようでした。
「私の子」はこれ以上、罪人の代わりにはしません。
その時から、彼らの汚れた手は神の御子のからだに触れることはありません。
誰一人として、その聖なるからだを辱めるようなことは許されませんでした。
愛に満ちた手がイエスを十字架から降ろし、あの恐ろしい釘を引き抜き、イエスの手足を木から引き離しました。
以前から、心の中でイエスがキリストであると確信していたアリマタヤのヨセフは、堂々とイエスのところに来ました。
私たちはこのように読んでいます。

「そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。
それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。」
(ヨハネの福音書19章38節)


ヨセフとイエスの友人たちは十字架の周りに集まり、その聖なるからだを降ろしました。
ちょうどその時間に、イエスのもとに夜やって来たニコデモもやって来ました。
彼はかつてサンヘドリンで話した者で、約100ポンドの重さの、大量の没薬と沈香の混合物を持って来ました。

「前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。
そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。」
(ヨハネの福音書19章39、40節)


ユダヤ人たちはこの布を香油と香料に浸し、腕、下肢、胴体に巻き付けて、全体を縛りました。
ラザロが埋葬布をまとって出てきたことを覚えていますか?
では、イエスはどこに横たえられたのでしょうか?
そうです、イエスが十字架につけられた場所、カルバリ山の脇にある庭園です。
数年前、私たちはその周りを歩き回りました。
十字架の場所から園の墓へと歩いた時、私たちの心はとても感動しました。

「イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。」
(ヨハネの福音書19章41節)


人々はその新しい墓にイエスを納めました。
彼らは遺体に必要のない残りの香料を取り、墓の洞穴に寝床を作りました。
彼らはイエスに王の埋葬ように施しました。
アサ王が亡くなったとき、人々は彼を香料の床に横たえたと記されています。
そして神は「私の子が罪人の代わりになっている間は、サタンの思いつく限りのあらゆることを私はサタンに許した」と言っているかのようでした。
今や、イエスは王として認められ、王としての埋葬を受けなければなりません。
こうして、彼は香料の床に横たえられました。

「その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。」
(ヨハネの福音書19章42節)


そして、復活の朝まで、イエスはその新しい墓に留まることになります。
その後、死を征服した者として勝利のうちに現れます。
現在、私たちの心はイエスに大きな喜びを感じているのではないでしょうか!


講演66 空っぽの墓

「さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。
シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、
イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。
彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。
しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。
イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」
マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。」
(ヨハネの福音書20章1~18節)

福音書には主イエス・キリストの復活にまつわる様々な出来事が記されています.
特にこの箇所は、中でも最も鮮明で、最も興味深く、そして最も説得力のある箇所の一つです。
真理を知りたいと願う人が、正しく理解し、この箇所を黙想すれば、復活したキリストへの救いの信仰へと導かれるはずです。
主は弟子たちに、ご自身が十字架につけられ、三日目に復活することを何度も告げておられました。
弟子たちは主の言葉を一度も理解していなかったように思われます。
これは驚くべき事実です。
彼らはイエスの復活を待ち望んでいませんでした。
ゆえに、十字架にかけられたイエスが「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と祈られた後、こうべが前に倒れるのを見た時、彼らの希望は粉々に打ち砕かれ、イエスのメシアとしての主張はすべて消え去ったと感じました。
しかし、イエスの遺体が安置された墓の周りをうろつくことを好む者たちもいました。
そして、溝にはめ込まれた大きな石が墓の扉に転がされ、封印されました。

ローマの衛兵がその墓の番をさせられました。
主の敵たちは弟子たちが忘れていたことを思い出し、ピラトのもとに来て言ったのです。

「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる。』と言っていたのを思い出しました。
ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった。』と民衆に言うかもしれません。
そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」
(マタイの福音書27章63、64節)


ピラトは彼らに、やや皮肉を込めてこのように言いました。
「見張り番がいる。さあ、行きなさい。できる限り確実に実行しなさい!」
そして、彼らはできる限り確実なことをしました。
しかし、神の御子が墓から勝利のうちに復活する時が来た時には、いかなる人間の努力も全能の力の働きを妨げることさえもできなかったのです。」
そして、私たちは「週の初めの日」、つまり神の恵みの時代の新しい日のことがこのように記されています。

「さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」
(ヨハネの福音書20章1節)

愛によって、彼女をその墓へと引き寄せたのです。
マリヤと他の婦人たちは、急いで十字架から降ろされて墓の洞穴に安置した時のように、中に入ってイエスの遺体の世話をしたいと願っていました。
こうして彼女たちは、深く愛したイエスのために、この最後の悲しい儀式を執り行える時を待ち望んでいました。
イエスは死によって、自分たちからイエスが、この世の終わりまで取り去られたと思っていたのです。
しかし、マリヤが近づくと、大きな石が転がされており、見張りもいない状態です。
明らかに、イエスの遺体が取り去られているのを見て、彼女は驚きました。
彼女は中に入って注意深く調査することはせずにこのようにしました。

「それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。」
(ヨハネの福音書20章2節)


「もうひとりの弟子」とは、この書物を書いた弟子のヨハネのことです。
ヨハネは、自分がイエスを愛した弟子であるとは決して言っていません。
彼はイエスを愛していましたが、自分の愛は誇るべきものではないと感じていました。
しかし、イエスの愛は誇ることができました。
このようにマリヤはペテロとヨハネのもとへ行きました。
マリヤは二人を見て泣き叫びこのように言いました。

「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
(ヨハネの福音書20章2節)


ペテロはすぐに墓へ向かい、ヨハネも一緒に行きました。

「そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った」
(ヨハネの福音書20章3節)


祝福された主の死後、ペテロは幾時間も不安な時間を過ごしていたに違いありません。
ペテロは自分が臆病者の役を演じたことを忘れていません。
ペテロは「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」と言ったのです。
しかし、ペテロは誓いと呪いで、イエス・キリストを一度も知らなかったと否定しました。
しかし、心の奥底では主を愛していました。
ペテロは恐怖と臆病に打ちひしがれており、この言葉を聞いたとき、本当に事実なのかを確かめようと急いでいました。
「ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。」
ペテロは年配の男で、ヨハネは屈強な若者でした。
「もう一人の弟子」ヨハネはペテロより速く走りました。
当然ながら、ヨハネはすぐに年上の弟子を追い越し、ペテロより先に墓に着きました。
ヨハネは身をかがめて中を覗きましたが、中に入らなかったと書かれています。

「そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。」
(ヨハネの福音書20章5節)


エルサレムの町外れ、ダマスカス門の近くには、あの印象的な頭蓋骨の形をした丘があります。
多くのプロテスタント系クリスチャンは、ここが本当のカルバリの丘だと信じています。
多くの人は依然としてカルバリーは聖墳墓教会にあると主張しています。
しかし、これはこの記録とは全く矛盾しているように思われます。
しかし、この外にある頭蓋骨の形をした丘こそ、イエスが亡くなったカルバリそのもののように見えます。
「イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。」
その墓に主イエスの遺体が安置されました。
現在、この頭蓋骨の形をした丘を見ることができます。
その片側には庭園があり、数年前に崖に掘られた墓が発見されました。
それは神の言葉に記されている墓と細部に至るまで一致しています。
近づくにつれ、ヨハネのように身をかがめて中を覗き込むのが自然にできます。
元々入り口はとても低いのです。
この戸口の近くには小さな窓がありました。
入り口から覗くと、空っぽの洞穴がはっきりと見えます。
納骨堂は高さ60センチほどで、石灰岩をくり抜いて造られています。
香料のベッドの上に横たわる遺体が、もしまだそこにあるのなら、洞穴の中は簡単に見られたはずです。
ヨハネは近づき、かがんで入り口を覗き込みましたが、それ以上は進んでいません。
なぜでしょうか?
中を覗き込んだとき、マリヤが言ったことが間違いだったと思ったからです。
そこには遺体が横たわっているように見えるからです。
それでヨハネは中には入らなかったのではないでしょうか?
きっと心の中でこのように思ったかも知れません。
「かわいそうなマグダラのマリヤ、
結局、彼女は何か見間違えていたのだろう。
遺体は運び出されていない。」
夜明け前には、何か遺体らしきものがはっきりと見えていたのかも知れません。
ところが、ペテロがやって来て、墓の中にはいると、全身が包まれていた亜麻布が落ちているのを見ました。
頭に巻かれていたかぶりものは、亜麻布の近くにはなく他の場所に巻かれていました。
ペテロはヨハネのようにかがんで見ようとはしていません。
急いで中に入り、その洞穴を見下ろし、驚くべきものを目にしました。
亜麻布が遺体に巻かれたままの状態で、蝶が羽化したさなぎのまゆのようでした。
確かに布はそこにありました。
しかし、遺体はなくなっていたのです!
かぶり物と亜麻布の間には、顔があるはずなのに隙間がありました。
ペテロは驚いて見ていました。
彼は「私の主は復活した」と思ったはずです。
なぜなら、彼は全能の神以外に、この地上のいかなる力も、その遺体を亜麻布から取り出し、そのままの状態にしておくことはできないことを知っていたからです。
ペテロは振り返り、ヨハネに手招きしました。
そしてこのように記されています。

「そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。」
(ヨハネの福音書20章8節)


彼は他に何もすることができません。
ペテロがヨハネを呼び入れ、二人がそこに立ち、亜麻布を見下ろし、かぶり物に頭が巻かれていないことに気づき、互いに顔を見合わせて言ったはずです。
「復活したのだ。」
彼らはそれを見て信じました。
もし私たちがそこにいたら、信じていたはずです・
私たちはイエスが神の全能の力によって死からよみがえられたことを知ることができます。
彼らは理解していなくても、信じるしか方法がありません。

「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」
(ヨハネの福音書20章9節)


しかし、イエスが復活されたという確かな証拠を持っていました。
そして、このように記されています。

「それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。」
(ヨハネの福音書20章10節)


もう、彼らは誰かが遺体を盗み出すことを心配していません。
彼らはそれが不可能であることを知っていました。
イエスのからだは死人の中から復活したのです。
それからすぐに、キリストはマリヤの前に現れました。

「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。
そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。」
(ヨハネの福音書20章11節)


扉はもともと約1メートルほどの高さがありました。
マリヤが中をのぞき込むと、何が見えたのでしょうか?
マリヤは天から二人の使者が来て、復活を告げるのを見ました。
まだ、二人の弟子たちはこの知らせを聞いていません。

「すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。」
(ヨハネの福音書20章12節)


数年前、私たちがあの墓の中に立ったとき、妻が私たちをそこに連れてきてくれた友人の方を向いて、「どうして両端に小さな階段を切ったんだろう」と言ったのを覚えています。
友人は「聖書を開いて読んでごらん」と答えました。
そしてこのように記されていました。
「すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。」
そして、墓そのものが、この物語を完璧に物語っています。
では、これらの御使いは何と言ったのでしょうか?

「彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。
「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」」
(ヨハネの福音書20章13節)


涙で目がくらんだ彼女の目は、ほんの少し前にそこにいた二人の男にははっきりと見えていたことを、見分けることができません。

「彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。
すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」
彼女は、それを園の管理人だと思って言った。
「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」」
(ヨハネの福音書20章14、15節)


マリヤの心にある愛に注目してください。
マリヤはイエスの名さえ口にしていません。
マリヤは「彼」と言ったら、誰のことを言っているのか誰もが分かると思っていたようでした。
かつて、キリストのしもべがこのように言ったのを覚えています。
この世に男性代名詞が一つあれば、つねにイエスのことを指しているのだと思うことがあります。
「イエスは彼女に言われた。」
イエスがこのように言われるのを聞きたかったのではないでしょうか?
あなたはどう思われますか?
それもイエスの処女である母の名前です。
それはナザレの家でイエスが何度も耳にした名前です。
そして、彼女は、イエスが七つの悪霊を追い出された、救われた哀れな罪人の名でした。

「彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。」
(ヨハネの福音書20章16節)

彼女はイエスだと分かりました。

「イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。
わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」」
(ヨハネの福音書20章17節)


なんと素晴らしい物語なのでしょうか!
なんと透明で、なんと明快なのでしょうか!
無理強いしたり、人々に自分の良識に反して信じ込ませようとしているのではありません。
しかし、あまりにも明快なので、正直な人なら誰でもこのように言えるはずです。
「疑いの余地はありません。
十字架上で私たちの罪のために死んだ方は、私たちを義とするために復活されたのです。」
そして今、私たちがあらゆる罪人に伝えるべきメッセージはこれです。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
(ローマ人への手紙10章9、10節)

私の読者の中には、長年、自分のたましいをキリストに委ねるという決断を固めていない人が大勢いるのではないでしょうか?
今、信じようではありませんか!

「墓の奥深くに横たわり、我が救い主イエスは、来たるべき日を待ち望んでいます。
我が主イエスよ!
墓からよみがえられた。敵に圧倒的な勝利を収め、暗黒の領域から勝利者としてよみがえられました。
そして、聖徒たちと共に永遠に支配しておられます。
よみがえられたのです!
ハレルヤ!
キリストはよみがえられたのです!」


講演67 中央におられるイエス

「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」
(ヨハネの福音書20章19~31節)


主イエス・キリストの復活後に、弟子たちに現れた様々な姿を全て伝えている福音書は一つもありません。
実際、四福音書すべてを合わせても、すべてが見られるわけではありません。
それぞれの異なる福音書には多数の例が記載されている一方で、主は「死人の中から復活の後に「数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」と述べられています。
主は40日間、弟子たちと共にいました。
主は彼らに教え、神の王国について教え続けたと述べられています。
そのため、福音書に明確に記されている以外にも、多くの機会にメシアは彼らに現れました。
そして、彼らが全世界に遣わされた者として出ていく時に、期待される協力をするために素晴らしい計画を説明しています。
しかし、記録されているこれらの出来事は、それぞれが私たちにとって特別な教訓を与えていると言えます。
ここでは、主イエス・キリストが同じ場所、エルサレムの屋上の部屋、おそらくヨハネ・マルコの母マリアの家に二度現われたことが記されています。
まず、主は十人の使徒に、次いで十一人目のトマスに現れました。
この機会にトマスは最初の時は不在でしたが、二度目には使徒としてそこにいました。
そして、主は彼らに、ご自身の代表として出かけるというはっきりとした使命を与えています。
19節にはこのように記されています。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。
弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」」
(ヨハネの福音書20章19節)


つまり、「その日」とはヨハネ、ペテロ、マグダラのマリアが朝早く墓を訪れた日のことです。
週の初めの日と記されていますが、第7日目が古い時代の安息日、すなわち天地創造の記念であったように、週の初めの日が新しい時代の安息日、すなわち新しい天地創造の記念、すなわち主イエス・キリストが死人の中から復活された日であることを印象付けています。
突然、彼らは顔を上げました。
すると、祝福された主が彼らの真ん中に立っておられたのです。
イエスを受け入れるための扉は一つも開かれていません。
しかし、これは、復活の体と、様々な限界にさらされている今の体との違いを、ある程度は示しています。
主イエスが地上におられた時、イエスはご自身を制限されていました。
しかし、復活後、私たちが見てきたように、亜麻布を乱すことなく出られました。
墓の扉を開けることなく出て来られたとも言うことができます。
なぜなら、石が転がされたのは、イエスを外に出すためではなく、女性たちと弟子たちを中に入れるためだったからです。
今、イエスは肉と骨の物質的な体で現われることができます。
しかし、もはや以前の律法に縛られることなく、扉や入り口を通らずに部屋に現れることができるのです。
その日が来たのでならば、私たちもイエスのような体を持つようになります。
もはや、栄光の王国時代を通して、人々が「重力の法則」と呼ぶものに邪魔されることはありません。
イエスの命令であちこち自由に飛び回ることができるようになると思います。。
「イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。。」
これがイエスの正しい立場です。
なんとも限りない恵みではないでしょうか!
イエスは十字架上においても真ん中に立たれました。
私たちはこのように読みました。

「彼らはそこでイエスを十字架につけた。
イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった。」
(ヨハネの福音書19章18節)


イエスは罪人たちの中に数えられ、まるですべての犯罪者の中で最悪の罪人かのように、中心に立たれました。
そこで、イエスは十字架の上で私たちの罪を自らの身に負われました。
しかし、弟子たちから去る前に、イエスは弟子たちにこのように約束されました。

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。
もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」
(マタイの福音書18章19節)

イエスの復活以来、初めて弟子たちがこのように集まりました。
そして、彼らがそこに集まったのは、イエスに対する愛のためです。
彼らは主の名によって集まり、突然、主が彼らの中に現れ、この御言葉を成就されました。
今、私たちは肉眼で主を見ることはできません。
しかし、主の名によって集まるときはいつでも、常に主は私たちの中におられます。
私たちは主が私たちの中にいてくださるようにとお願いしたり、懇願したりする必要はありません。
主はそこにおられると言っているのです。
私たちに求める必要があるのは、主がここにいることを見分けることができるように心を開くことです。
なぜ、主は主の友の中におられるのでしょうか?
ヘブル人への手紙2章で、主はこのように言われます。

「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
(ヘブル人への手紙2章12節)


これが、主が聖徒たちの真ん中におられる理由の一つです。
主が聖徒たちの真ん中におられるのは、彼らの感謝と賛美を引き出すためです。
私は主を偉大な聖歌隊の指揮者と考えるのが大好きです。
私たちの心は、主に賛美の歌を奏でる楽器です。
主こそが一人一人の心の弦を奏でる方なのです。
主は偉大なとりなしを行う方として、私たちの真ん中におられます。
聖霊の力によって、主の民の集まりの真ん中に主がおられるからこそ、それぞれの集まりに特別な特色が与えられるのです。
もし、私たちがこのことを常に心に留めるなら、それは私たちに深い感銘を与えることができるのです。
神の聖徒たちの聖なる集会においては、主の承認を得られないようなことを行ったり、言ったり、歌ったりしてはならないことを、私たちは悟ることができるはずです。
やがて、私たちが栄光の家に集まる時、主は常にそこにおられるのです。
やがて、ヨハネは、天を見上げ、神の御座が、贖われたすべての聖徒たちを表す生き物と二十四人の長老たちに囲まれているのを見たと語ります。

「さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる。――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。」
(ヨハネの黙示録5章6節)


栄光の真ん中にいたイエスは、その栄光に満ちたからだに、カルバリの十字架上で罪人のために受けられたすべての苦しみを思い起こさせる受難の跡が刻まれておられました。
私たちは、復活の夜、集まった民の真ん中に主がおられるのを見ることができます。
彼らは何が起こったのかよく分かっておらず、理解していませんでした。
しかし、彼らは主を愛していました。
そして、彼らがこのように集まった時、主は約束を成就し、彼らにご自身を現されました。
そして今、主は語られます。
その挨拶の言葉は何でしょうか?

「平安があなたがたにあるように。」
(ヨハネの福音書20章19節)


今日でも、小アジアの人々「平安があなたがたにあるように」と挨拶を交わします。
尊き主の口から発せられたこの挨拶の言葉には、とても深い意味があったのです。
主はカルバリの丘へ行き、十字架の血によって平和を築かれたばかりです。
主は去る前に弟子たちにこのように言われました。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。
わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」
(ヨハネの福音書14章27節)

そして、彼らの真ん中に立って「すべてが成就した」と言っているようです。

「私は十字架の悲しみを経験しました。
私は平和を築きました。
そして今、それはあなたのものです。
この平和に入り、喜びなさい。
あなたはその平和を喜んでいますか?」

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
(ローマ人への手紙5章1節)


この平和は私たちが作った平和ではありません。
神が私たちのために作ってくださった平和です。
私たちは福音の真理の言葉を信じるときに、その平和に入り、喜ぶことができるのです。
私たちには「キリストこそ私たちの平和であり」と言われています。
私たちには私たちの平和であるキリストを知ることの祝福があるのです。
地上のあらゆる試練の真っ只中にあっても、平和があります。
人々が頼りにしてきたすべてのものが揺らぐときにも、平和があります。
もし、あなたがこの平和を味わっていないなら、それはあなたのためにとってあります。
この平和を味わうためには、それを創造した方を受け入れなければなりません。
あなたは自分自身のためにキリストを信じなければなりません。
イエスは彼らに「平安があなたがたにあるように」と言われました。
イエスは弟子たちに御自分の手と足、そして脇腹の傷をお見せになりました。

「ここに傷があります。
これは、私であり、私が私以外の者ではないことを示しています。
私はあなた方のために、すべての苦しみを負いました。」

私たちも栄光の中に、主の愛のしるしを見ることができます。
私たちがその刺し貫かれた御手と脇腹の傷を見つめるとき、その傷は私たちに語りかけ、私たちの心を動かします。

私たちは心の中でこのように言うのです。
「イエスの最も美しいところは、あの傷です。
そして、その傷が私たちのことをどう思っていたのかを物語っています。」
イエスは、この世での素晴らしい働きの年月を終えました。
その後、自由の身になることも、御自分が来られた栄光の地に戻ることもできました。
しかし、イエスはあの恥辱の十字架に架かりました。
そこで死よりも強い愛を物語るあの傷を受けられました。
そして、イエスはその傷跡を永遠に背負われているのです。
あなたはこのように言うかも知れません。
「でも、どうしてイエスの体にまだ傷が残っているのですか?
あの傷跡が残っていると分かるのですか?」
私には分かります。
ゼカリヤ書にこのように記されているからです。

「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」
(ゼカリヤ書12章10節)

「だれかが彼に、「あなたの両腕の間にあるこの打ち傷は何か。」と聞くなら、彼は、「私の愛人の家で打たれた傷です。」と言おう。」
(ゼカリヤ書13章6節)


このように、これらの傷は、教会とイスラエルに対する主の愛の永遠の証となるでしょう。

「こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。」
(ヨハネの福音書20章20節)


主の民の集まりに、落ち込んだり、不安な気持ちで行ったりしたことはありませんか?
行くべきか、それとも家に留まるべきか、迷ったことがあると思います。
しかし、あなたたちは集まりに行き、共に席に着き、賛美歌が歌われ、御言葉の朗読がされます。
神の真理が宣言されると、あなたたちの目は開かれ、見上げて主イエスを仰ぎ見ます。
そして、元気を取り戻し立ち去り、「主を見ました」と言うのです。
私たちはただ互いに集まるためだけに集まるのではありません。
ただ社交のためだけに集まると考えるのは大きな間違いです。
私たちは主に会うために集まるのです。
それからイエスは再びこのように言われています。

「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
(ヨハネの福音書20章21節)


なぜ、イエスは繰り返してこのように言われたのでしょうか?
イエスは弟子たちが世に出て行き、苦しみ、迫害、幻滅に遭うことを知っていたからと言っても過言ではないと思います。

パウロはこのように言うことができました。

「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
(ピリピ人への手紙4章17節)


父なる神は御子を世の救い主として遣わされました。
今、神はそのしもべたちを遣わして、どこにいても失われた人々にこの物語を伝えさせています。
そして、彼らが神を信じるならば、神は彼らの心を平安に保ってくださいます。

「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」」
(ヨハネの福音書20章22節)


この言葉は、私たちの心を初めにあった人間の創造へと連れ戻します。
神は土の塵から人を造り、命の霊の息を吹き込まれました。
すると人は生きたたましいとなりました。
ここに主イエス・キリストの弟子たちがいます。
彼らは新しく生まれ、偉大な使命へと歩みを進め、主は彼らに息を吹きかけました。
昔々、神はアダムに息を吹きかけ、アダムは生きたたましいとなりました。
ペンテコステの日に聖霊が降臨された時も同じです。
最初のアダムは生きたたましいでした。最後のアダムは力づける霊であると私たちは教えられています。
そして、ここで主イエス・キリストは弟子たちに息を吹きかけました。
この時に、主が実際に彼らに御霊を与えられたわけではありません。
しかし、後にペンテコステの日に御霊が実際に降りてこられ、彼らの上にとどまります。
そして、共に住まわれた時、彼らは御霊が彼らの尊い主から与えられたものであることを理解することになります。
この時、主は彼らに驚くべき権威の言葉を与えられました。

「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
(ヨハネの福音書20章23節)


これはどういう意味でしょうか?
これらの弟子たちは教会の最初の司教であり、主は彼らに罪を赦し、また罪を留める権威を与え、世に出て行って人々が彼らに罪を告白し、どのような償いをすべきかを人々に伝え、それによって罪の赦しを得るのだと主張する者もいます。
ここにはそのような記述は見当たりません。
その日、その集まりの中で最も重要な人物の一人である使徒ペテロがそこにいました。
そして、ペテロは主の御名において罪の赦しを宣べ伝えるために出かけて行きました。
彼はどのように行ったのでしょうか?
ペテロは「あなたが私のところに来て、あなたの罪を告白すれば、私はそれらを赦します」と言ったのでしょうか?
本当にペテロはそのようなことを言ったのでしょうか?

では、私たちは確認してみましょう!
使徒の働き19章には、ペテロがコルネリオの家で福音を宣べ伝えている場面があります。
ペテロはキリストの素晴らしい生涯について語っています。

「神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」
(使徒の働き19章36節)

もちろん、イエス・キリストはすべての者の主です。
すべての預言者は、イエスの御名によって、司祭に自分の罪を告白する者は誰でも罪の赦しを受けると証ししています。
それは正しいことですか?
あなたは聖書を開いていますか?
聖書には何と書いてありますか?

「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
(使徒の働き19章43節)


イエスを信じるのであれば、罪の赦しが得られます。
これが、キリストに仕えるすべての者に与えられた使命です。
私たちは世に出て行きこのように言います。
「もし、あなたがイエスを信じるなら、罪の赦しを与えるように、イエス・キリストから命じられています」と言います。
そして、人々がイエスを信じるのなら、私たちはあえてこのように言います。
「あなたの罪は赦され、免除されました。」
でも、もし彼らが信じないなら、どうなるでしょうか?
私たちは彼らに言います。
「あなたの罪はそのまま残ります。」
どうしてこのことがわかるのでしょうか?
イエスがこのように言われたからです。
ここには儀式的な要素は何もありません。
これはただ、福音書に記されたはっきりとした確かな言葉です。
しかし、トマスはそこにいなかったと語られています。
イエスが集まりの中央に自身の場所を占めるために来られます。
あなたが知っているように、時々、人は、集まりの中にイエスが真ん中に来られたのに何かが失われているのに気づかないことがあります。
彼らはトマスを失っていました。
トマスは絶望的な様子で顔を上げて答えます。

「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」
(ヨハネの福音書20章25節)


トマスは、8日目まで何の確信も得られないまま、一週間を過ごし続けました。
彼らはトマスを失っていました。
弟子たちが再びトマスに会って「ああ、トマス、私たちは素晴らしい時間を過ごしました!」と言うのを想像してみてください。

「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。
戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。」
(ヨハネの福音書20章26節)


イエスはトマスの声を聞いていました。
そして、イエスはトマスの方を向いて言われました。

「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。
信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
(ヨハネの福音書20章26節)


トマスが手を伸ばしたとは書かれていません。
しかし、復活したキリストの姿を見ただけで十分だったようです。
彼は礼拝の念を込めて「私の主。私の神」と叫びました。
では、イエスは何と答えたのでしょうか?
「わたしのことを神と呼んではいけません。
わたしはただの神の子です。
そんなことをしてはいけません。」
それは大きな間違いでしょうか?
トマスはそんなことを言ったのですか?
もし、ユニテリアン(一神主義)が正しいなら、トマスはそのように言うべきだったのです。
しかし、トマスは何と言ったのでしょうか?
トマスはイエスを「わが主、わが神」と呼びました。
そして、イエスは言われました。

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
(ヨハネの福音書20章29節)


その祝福はあなたにはありますか?
私たちは人間の目でイエスを見たことはありません。
しかし、喜んでイエスを私たちの主、私たちの神であると告白します。
そして、ヨハネはこの箇所を次のように締めくくっています。

「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」
(ヨハネの福音書20章30、31節)


ここに記録された選ばれた出来事は、イエスがどのような方であるかを私たちが知るために記されています。
もし疑問に思うなら、ヨハネによる福音書を何度も繰り返し読んでみてください。

「平和、完全な平和がこの罪深い暗い世界にあるのでしょうか?
イエスの血は、中から平和をささやいています。
押し寄せる圧力によって平和、完全な平和がもたらされるのでしょうか?
イエスの御心を行うこと、これこそが安息なのです。」


講演68 使徒として確認されたペテロ

「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。
シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。
イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。
彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。
ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」
イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。」と言われたのである。
これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。
イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」
(ヨハネの福音書21章1~25節)


これらの言葉をもって、私たちが長い間楽しんできたヨハネによる福音書は終わります。
永遠の昔から父の懐に住まわれた主イエス・キリストの道をずっと見てきました。
ベツレヘムの飼い葉桶に至り、ガリラヤ、サマリア、ユダヤの谷や丘を越えて、最後にゲッセマネの園、裁きの場と十字架、借りの墓、そして今、復活の命に至った私たちのたましいは祝福されていると信じています。
この章の際立つテーマは、使徒ペテロの公的な回復です。
困難な時に主を失望させたペテロは、二度と使徒の一人として認められることはないだろうと考えたかもしれません。
しかし、ペテロは失敗の後も、以前と同じように主から優しく愛されました。
私たちもそのことを理解できれば良いと思います。
私は多くの人と会いますが、みんな同じような話をしてくれます。
何らかの形で、誰もが試みに耐えることができず、主に対して罪を犯したことを自覚します。
そして、心から悔い改めているにもかかわらず、すべてが終わって、主は彼らを見捨て、絶望感に失われたと感じてしまいます。
ある人はこのように言うかもしれません。
「赦されない罪を犯してしまった。
もう聖霊の証しを得ることができない。
何度も祈ったのに、平安が得られない。」
そのようなたましいは聖書の証言が語っていることを忘れています
神の御言葉は「私たちが罪を告白すれば神は忠実で正しいので私たちの罪を赦し、すべての不義から私たちを清めてくださる」と語っています。
これらは神の御言葉を通して与えられた聖霊の証しです。
罪人は神のもとに来て自分の失敗を告白し、それを認め、裁くとき、罪は取り除かれ、罪を告白した失敗した信者はすべての不義から清められ、交わりが回復されたという神の宣言を神が覆すことは決してないと誰もが確信できるはずです。
信仰によってこの場所に入り、救い主との交わりを喜び続けるたましいは幸いです。
さて、この公の出来事が起こる前に、主がペテロのたましいを実際に回復させておられたことに、私は何の疑いも持ちません。
最初の主日の夕方、弟子たちがエマオから帰ってくると、弟子たちが集まって「ほんとうに主はよみがえって、シモンに姿を現わされた」と言っていることが伝えられています。
どこで現れたのかは分かりませんが、ペテロとシモンが否定していた主との間に書かれていない会談があったようです。
その結果、ペテロのたましいが回復されたと確信しています。
しかし、ご承知のように、シモンのような者が個人的に主に立ち返らされることと、公の働きのために兄弟たちの良心と交わりを得るように認められることとは、別のことです。
多くのキリストのしもべは失敗し、自分と他の人々に深刻な苦難をもたらします。
そのしもべは自分の部屋の中でこっそりと交わりには復帰します。
しかし、公の場で再び証しをすることは、兄弟たちは彼を信頼し、交わりを広げる確証がありません。
なぜなら、兄弟たちはそのしもべの心の中で何が起こっているのかを知らないからです。
主イエスがペテロを公の場でこのように扱ったのは他の人々が理解できるようにするためでした。
キリストはご自分の僕に人々が信頼を寄せ、御言葉に従って再びペテロを遣わし、彼に群れの羊と子羊を養わせるためなのです。
この出来事は主が使徒たちに現れて三度目の出来事と言われています。
私たちはこのように読みました。

「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。
シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。」
(ヨハネの福音書21章1、2節)


こうして彼らは主の御心のままにユダヤからガリラヤへ帰っていきました。
しかし、彼らには安らぎがなかったことは明らかです。
ここ数日の出来事、例えばエルサレムの屋上の部屋で主が現れたことや、女たちへの現れたことなど、彼らはまだ、その意味をはっきりと理解していませんでした。
世界に福音を宣べ伝え、復活したキリストの物語をすべての人に伝えるという、自分たちの役割を彼らはまだ、理解していません。
ペテロには安らぎがなく、昔の仕事のことを思い出します。
漁業自体は罪深いものではありません。
しかし、主の現れを待つべきこの時期に漁業に出ることは、肉が明らかに働いているように思われます。
ペテロにとって、祈りに身を捧げるよりも、漁業に行く方がずっと簡単でした!
あなたも知っているはずです。
神の御霊があなたを主を待ち望むのなら、立ち上がって何かをしている方がずっと楽です。
私たちは、静かに神を待つよりも、何かをしていたいと思うのです。
それが肉なのです。
ペテロが「私は釣りに行く」と言ったのも、この肉のせいでした。
ペテロがかつての行きつけの地を訪れるのは、もう相当、昔のことでした。
おそらく、人を捕る漁師となるよう召されて以来のことだろう。
そしてペテロはこのように思ったのかもしれません。
「今さら、そんなチャンスはない。
もし試練の時が来た時に、私が真実を証明していたら、状況は違っていたかもしれない。
今さら、主が私を信頼して人を捕る漁師としてお与えになることは、到底ありえない。
だから、元の職業に戻った方がいい。」
そして、他の者たちも「では、私たちも一緒に行きましょう」と口を開きました。
ペテロたちは夜通し働きましたが、何も捕れません。
3年以上前に、きっと、ペテロはに主が彼を船から呼び出された時のことを思い出したはずです。
彼らの働きは実りをもたらさなかったのです。
何の成果もありません。

「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。」
(ヨハネの福音書21章4節)


彼らは空っぽの網を持って岸に近づいていきました。
すると、突然、霧の中から奇妙な人影が現れるのを見ました。
彼らはそれが誰なのか分かりませんでした。
イエスはまだ陸から少し離れたところにいた彼らに呼びかけられました。

イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
(ヨハネの福音書21章5節)


彼らは空っぽだったのです。
イエスは彼らの昨夜の漁が無駄な労苦に終わったかを告白させようとしました。

「イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。
すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。」
(ヨハネの福音書21章6節)

ペテロは感激したはずです。
かつて、ペテロは一晩中働き、何も取れなかった時、同じ声でこのように言われたことを思い出しました。

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」
(ルカの福音書5章4節)


見知らぬ人の命令に従って彼らは網を投げました。
すると「たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった」のです。

「そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」」
(ヨハネの福音書21章7節)

ヨハネは、主こそが深淵の宝を網に呼び入れることができる唯一の方であることを知っていました。
主は、御言葉のとおり、彼らが捕った魚の創造主です。

「すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。」
(ヨハネの福音書21章7節)


もはや、彼が否定した救い主、イエスの足元からペテロを引き戻すものは何もありません。

「しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。
陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。」
(ヨハネの福音書21章8、9節)


彼らは炭火を見ました。

そこには何か意味深いことがあったと思います。
ペテロはどこで主を否定したのでしょうか?

「寒かったので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこに立って暖まっていた。」
(ヨハネの福音書18章18節)


その炭火は、この世界の火でした。
ペテロは間違った場所にいたのです。
ペテロは自分を誘惑の場に身を置きました。
しかし、これは主がつけられた火だったのです
考えてみてください!
その朝、ペテロのために朝食を調理してくださいました。

「こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。」
(ヨハネの福音書21章9節)


神の御子キリストの恵みについて考えてみてください!
どんなことおいても、主イエスは愛する者たちのために、この謙遜な態度で迎えて下さるのです。
イエスは仕えることを愛されました。
あなたは仕えることを愛していますか?
主に属すると言うあなた方に言います。
あなたは仕えることを愛していますか、それとも仕えられることを愛していますか?
あなたは従うことを愛していますか、それとも命令することを愛していますか?
肉は仕えられることを愛します。
しかし、主イエス・キリストとの交わりの中で歩む者は、従うことを喜び、仕えることを喜びとします。
そこで主はペテロのために朝食を用意しました。
そしてこのように言われました。

「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
(ヨハネの福音書21章10節)


主は、ご自身が備えてくださったものに加えて、彼らが持ってきたものも用いてくださいます。」
それは本当に美しい光景だったのです
考えてみてください。
炭火の炎、湖から立ち上る霧、そして、その真ん中にイエスがいるのです。
そして弟子たちは、イエスが用意してくださった魚を味わっていました。
本当に素晴らしい光景です!
その後、みんながイエスの用意した食事を楽しんだ後も、彼らはまだ不思議に思っていました。
復活したイエスは、以前とは違って見えたに違いありません。
彼は悲しみの人であり、嘆きにも慣れていました。
しかし、今では二度と痛みや疲れの気配を見せない復活の体の中にいるのでしょうか
あれは主だったのでしょうか?
彼らは間違いを犯していたのだろうか?
しかし、誰も敢えて尋ねようとはしていません。
心の奥底では主だと分かっているからです。

「イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」
弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。
イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。」
(ヨハネの福音書21章12、13節)

そして彼らはイエスと共に朝食をとりました。

「イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。
彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。
「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」」
(ヨハネの福音書21章14節)


裏切りの夜、園へ出かける前にシモンが言った言葉を覚えているでしょうか?

「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」
(マタイの福音書26章35節)


現実に、ペテロはわたしは他のすべての人々以上にイエスを愛している、と言ったのです。
今、ペテロはどんな気持ちなのでしょうか?

「イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」」
(ヨハネの福音書21章15節)


イエスはヨハネ、ヤコブ、トマス、そして他の者たちを指して言われたのだと思います。

ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。
イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」」
(ヨハネの福音書21章15節)


ここにはとても興味深い点があります。
ギリシャ語学者たちはしばしば、この会話には「愛」を表す二つの異なる言葉があることを指摘しています。
一つはコリント人への第一の手紙13章1節で使われている言葉で、聖書の中で愛を表す最も強い言葉です。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」
(コリント人への第一の手紙13章1節)


この「愛(ἀγάπη)」は絶対的に自分を無視した愛を表す言葉であり、新約聖書を通して神自身のために使われています。

「神は愛だからです。」
(ヨハネの手紙第一4章8節)


この言葉はこの世に対する神の愛、神と主の民に対する私たちへの愛のことです。
それは、人々が神の代わりに置きがちなもの、例えばお金や世界への愛にも使われています。
あなたは神に捧げるべき愛を、これらのものにも捧げることができるのです。
それからもう一つ「愛(φιλos)」という言葉があります。
それは、親しい友人の間にあるような愛情を意味します。
この言葉は友人同士の愛や家族への愛情を表すために使われます。
また、この「愛」最初の「愛(ἀγάπη)」よりも低い質の愛を示しています。
主がペテロに「あなたはこれらのもの以上に、わたしを愛しますか」と尋ねられた時、主はコリント人への第一の手紙13章で「愛(ἀγάπη)」と訳されている言葉を用いました。
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを「愛(ἀγάπη)」しますか。」」
この言葉はペテロを試みています。
ペテロはこの言葉に応えることができませんでした。
そこで彼は別の言葉を使っています。
ペテロは「はい。主よ。私があなたを「愛(φιλos)」することは、あなたがご存じです」と答えました。

イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
(ヨハネの福音書21章15節)


つまり、「よろしい、ペテロよ。もしあなたが私を愛しているなら、私の小羊を世話しなさい」と受け入れられたのです。

イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを「愛(ἀγάπη)」しますか。」
それから主は再びペテロへの強い愛を強調しています。
しかし、ペテロは弱い言葉で答えています。

「ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」
ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。」
(ヨハネの福音書21章16、17節)


ペテロは今度もより低い言葉で「あなたは私を愛しているか。」と答えました。
ペテロはイエスに三度も尋ねられたので悲しくなりました。
何度、ペテロはイエスを否認したでしょうか。
だからこそ主はペテロに三度尋ねられたのです。
ペテロは泣き崩れたかも知れません。
そして、このように言いました。

「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」
(ヨハネの福音書21章17節)


「あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」
それは「主よ、私はあなたの信頼に値しません」と言っているかのようです。
あなたは私のことをすべてご存じです。
私の失敗や否定にもかかわらず、私がそれでもあなたを愛していることを、あなたはご存じです。
そして、イエスは言いました。

「わたしの羊を飼いなさい。」
(ヨハネの福音書21章17節)


このようにペテロは使徒としての特別な働きに公に復帰しました。
しかし、ペテロが主にこのように言ったことを覚えていると思います。

「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
(ルカの福音書22章34節)


そこで主イエスはペテロに言われました。

「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。
しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。
これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。」
(ヨハネの福音書21章18節)


実際にこれが何を意味しているのか分かると思います。
つまり、「ペテロよ、あなたは私のためなら獄に入ろうとも、死ぬこともいとわないと言った。そして、あなたはそうするのだ。」
「ペテロよ、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と言いました。
そして、あなたはそのようになるのです。
自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。
しかし年をとると、私のために鎖でつながれ、牢獄に入り、死ぬことになります。
初期の教会史を信じるならば、これはまさに西暦69年か70年頃に起こったとされています。
ペテロはキリストのために牢獄に入れられようとされまっしたが、死刑に処せられました。
彼らはペテロを十字架に釘付けにしようとしました。
ペテロは「いや!私の主の言われたような死を遂げます。
私は主のような死に値しません。
十字架に頭を下にして吊るしてください」と言ったのです。
ペテロは変わらず、キリストを愛し、真実に主に忠実でした。
しかし、心は熱心でも肉体は弱いということを忘れていました。
しかし、後年、彼は約束どおりに行われ、恵みを与えられました。

救い主に「わたしに従いなさい」と言われました。
そして、ペテロはそれを文字通りに受け止めました。
主が湖畔を歩き始め、ペテロもイエスに従ったからです。

「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。
ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」
イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
(ヨハネの福音書21章20~22節)


それはまるで「ペテロよ、わたしの他の弟子たちが何をするかは、あなたの責任ではない」
わたしはそれぞれの者の道を整えます。
あなたはわたしのために死にます」と言ってるようでした。
「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
多くのクリスチャンは死にます。
主が再び来られる時、生きている者もいます。
弟子たちはその違いを理解していました。

「そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。
しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。」と言われたのである。」
(ヨハネの福音書21章23節)


イエスは私たち一人一人にも同じことを言っておられます。
「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。」
私たちは、主が置かれた場所で仕えるべきであり、他の者は主が置かれた場所で仕えるように任せるべきなのです。
そして、もし私たちの中に主が来られる時にまだ生きている者がいるとしたら、私たちは主の御前に立ち、共に喜ぶことができます。
このようにヨハネは、世界で最も偉大な書物と称えられる素晴らしい福音書を締めくくっています。
ヨハネは自分の事についてこのように述べています。

「これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。
そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。
イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」
(ヨハネの福音書21章24、25節)


ヨハネは神の聖霊に導かれ、主イエス・キリストの8つの奇跡と数々のメッセージを選び、この書物にまとめました。
これらは、イエスが語り、行われたことのほんの一部に過ぎません。
もしイエスの語り、行われたことのすべてを記録したなら、世界中の図書館にも、書かれるであろうすべての書物を収めることは不可能でしょう。
私たちの救いを確かなものとし、御父の御名を知らせるために肉となった御言葉の驚くべき生涯について、語り伝えるべきすべてを語ることができるのは、永遠の書物、聖書だけです。

2025/6/6


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