メッセージAV 2025/4/2
ハデス、永遠の破滅
シオル ー ハデス ー ゲヘナ ー ヒノムの谷 ー トフェテ ー 火の池 ー 暗やみの穴の中(タルタルス) ー 底知れぬ所
A・J・ポロック
Hades and Eternal Punishment
Sheol - Hades - Gehenna - Valley of Hinnom - Tophet - Hell - Lake of Fire - Tartarus - Bottomless Pit - Paradise
By A. J. Pollock
目次
はじめに
ハデス、永遠の破滅
ケベル
シオル
「ゲヘナ」の真実
地獄の刑罰は永遠なのでしょうか?
はじめに
私たちが生きている時代に起きた驚くべき特徴を、どのように確認するべきでしょうか?
数年前には、疑問視されなかったことが今では公然と主張されています。
かつて、多くの人によって尊ばれた真理は、すぐに軽い気持ちでくずの山に投げ捨てられてしまいます。
現在、思想家が語ることは多くありますが、実際、現在の多くの人々の心の中に残るものはほとんどありません。
一般的に、人は自分に都合の良いことは信じますが、都合が悪いと拒絶します。
信じられないような状態が世界に漂っています。
不信仰は、説教壇や礼拝堂、神学の椅子、さらには私たちの育児書の中にもあります。
疑惑と不信仰の種を蒔くことは、不信仰と無法と邪悪の恐ろしい収穫をもたらすことになると考えています。
どんなことでも信用できる時代は過ぎ去りました。
私たちは、不信仰の高まりに押し流されそうになっていますが、それに立ち向かわなければなりません。
私たちの信仰は神の御言葉に基づいていなければなりません。
教皇や司教、司祭、牧師、クリスチャンの教師や指導的な兄弟が言うことに依存してはなりません。
私たちは、天におられる主が教会に与えてくださったたまものによって助けを求めるべきです。
この試練に耐えることができるのであれば、信念を貫き、道徳を守り、霊的な活力を得ることができます。
何も考えていない群衆は、恐ろしいスピードであからさまな背教の腕の中に運ばれていきます。
しかしながら、自分たちの周りにある高度な批判や新神学の衰退した荒廃を見ることがあります。
そして、神に感謝します。
ただ、自分たちの信仰の根を神の御言葉の中に深く入り込み、そこから自分たちが必要としている安定と慰めを見いだす人たちがいます。
私たちがこのテキストを書くことを求めるのは、これらのテーマについて自分には十分な知識がないことに気づいている人たちのためです。
彼らは時代の困難を痛切に感じている誠実な探究者、若い人々、まだ何も確立されていない人々であり、私たちは彼らを助けることを目的としています。
私たちは聖書に訴えます。
私たちは彼らの心を開いて、彼らのもとに行きます。
そして、神の恵みによって聖書が教えることを維持しなければなりません。
聖書は霊感を主張しています。
聖書の教えを受け入れるか、拒否するかの間に論理的な根拠はありません。
つまり、妥協点はあり得ません。
聖書には霊感があるか、ないかのどちらかです。
聖書には、その神の起源、権威と誤りのないことについての多くの圧倒的な証拠があります。
しかし、ここではこのテーマを拡大はできません。
それでも、聖書の教えに疑問を持たずに屈服することにためらうことはありません。
それは幸いで有益なことなのです。
私たちの前にはこの厳粛な質問があります。
そして、私たちはただ心から敬意をもってアブラハムの偉大な言葉を繰り返すことができます。
「全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」
(創世期18章25節)
私たちは身の回りのことに驚きはしません。
聖書は「不法の秘密」について語っています。
その秘密は2000年前にはすでに働いていたのです。
まさに私たちの目の前で、聖書が文字通りに成就されています。
すべての出来事には秋の吹き荒れる落ち葉のように印があります。
聖書は「主の日」が迫っていることを預言しています。
まさに私たちは「最後の時代」に生きています。
これからのページが多くの人々にとって大きな祝福となることが筆者の切なる祈りです。
ハデス、永遠の破滅
私たちはどのように天国があることがわかるのでしょうか?
私たちの唯一の情報源は聖書です。
私たちは、聖書が教えていることを受け取らずに、天国の教えを理論的に受け取ることはできません。
そして、聖書は地獄があることをはっきりと教えています。
一方に対する私たちの信仰は、他方に対する私たちの信仰と全く同じ根拠に立っています。
つまり、私たちは天国があると信じることに矛盾を感じることもなく、同時に地獄があると信じることを拒否もできません。
私たちは両方を信じるか、両方を拒否するかのどちらかしかありません。
「律法と預言者」ということを聖書が語っています。
私たちの立場を明確にするためには、この問題に関係する聖書カ所を一歩一歩慎重に検討する必要があります。
最初に言っておく必要があります。
ヘブル語やギリシャ語を調べることは、しばしば神の言葉に対する重大な無知や巧妙な非難から防御できます。
注1)このパンフレットでは、ヘブル語とギリシャ語を参照する必要があります。
読者はこれらの言語に全く習熟していなくても、ヤング著のアナライシス・コンゴルダンス(Young's Analytical Concordance)の助けを借りて、検証することができます。
ヘブル語やギリシャ語への訴えは、検証する手段がない限り、信用しないほうがいいと考えます。
例えば、自称「牧師」の故ラッセル氏(エホバの証人)が、1000人近くの聴衆にヘブライ語の「シェオール」は墓を意味すると語ったのを聞きました。
そのようなことはありません。
ラッセル氏の話を聞いていた一人の俗人である男は、地獄がないと感じることで人は快適になると感じました。
そして、彼は喜んで運動資金に参加すると叫びました。
故W・E・グラッドストン氏は、永遠の地獄の否定して次のようにコメントしています。
「宗教的なあらゆる制裁が力を失っています。
邪悪な行為はすでに抑制され力を失っているのです。
新たな制限を与えてはいけません。
シオルという言葉の意味を以上のことを考えることを、私たちは疑問として問いかけてはいけません。」
英訳(KJV)の旧約聖書では主に2つの言葉が「墓」として訳されています。
1.ケベル(Qeber(קֶבֶר))-墓(Grave)、埋葬(sepulchre)など、つまり、場所(locality)を指しています。
2.シオル(Sheol(שְׁאוֹל))-肉体のない魂の立場、つまり、状態を指しています。
•ケベル(Qeber(קֶבֶר))は正しい翻訳では墓や埋葬された場所です。
•シオル(Sheol(שְׁאוֹל))は正しく訳では墓ではありません。
ケベル(Qeber(קֶבֶר))
英訳(KJV)聖書ではケベル(Qeber(קֶבֶר))は34回「墓」として翻訳されています。
「シオル(Sheol)」は26回翻訳されており、4回「埋葬された場所」として翻訳されています。
他には常に「墓(Grave)」として訳されているのです。
人類は太古の昔から墓に慣れ親しんできました。
「墓」と翻訳することは訳者としては不思議なことではありません。
「ケベル(Qeber」は墓(Grave)以外の意味はありません。
これには議論の余地がありません。
シオル(Sheol(שְׁאוֹל))
「シオル(Sheol」は「地獄(hell)」と31回翻訳されています。
「淵(pit)」と3回、「墓(Grave)」と31回翻訳されています。
「ケベル(Qeber」は聖書全体を通して、翻訳者は同じ単語、または同じものとして翻訳されています。
なぜ、翻訳者は同じように翻訳しないのでしょうか?
翻訳者は同じ言葉「シオル(Sheol)」を「地獄(hell)」と31回、「墓(Grave)」を31回と翻訳を変えています。
少し考えればわかることだが、二つの異なる単語は同じ意味を表現することはできません。
墓は魂のない肉体のための埋葬の場所を意味しています。
「シオル(Sheol)」は肉体のない魂の状態を意味しています。
同じ単語を「ロンドン」と「狂気」と訳した場合と同様に互換性がありません。
「ロンドン」は場所です。
「狂気」は状態です。
聖書がこの重要点を教えています。
すべての場合において、「ケベル(Qeber」は場所として結びつけられています。
決して、条件とは結びつくことはありません。
「シオル(Sheol)」は常に条件として結びつけられ、場所として結びつくことがありません。
•「ケベル(Qeber」は複数形で27回、聖書に現れています。
•「シオル(Sheol)」は複数形で出てくることはありません。
500人の遺体を墓地に埋葬するということは、たくさんの墓があるということです。
肉体を持たない500人の魂が永遠に入ることは、ただ一つの状態、場所を意味します。
•「ケベル(Qeber」は、常に限定的に所有者のある「ケベル(Qeber」、もしくは墓(Grave)のこととして述べられています。
•「シオル(Sheol)」は、限定的に誰か個人の「シオル(Sheol)」として述べられていることはありません。
ある状態、すなわち肉体を失った状態であり、すべての人が同じように死にます。
このことを説明するために、次の聖句を引用してみます。
•「ケベル(Qeber」は私の墓として語られています。
「私の父は私に誓わせて、『私は死のうとしている。私がカナンの地に掘っておいた私の墓「ケベル(Qeber」の中に、そこに、必ず私を葬らなければならない。』と申しました。
どうか今、私に父を葬りに上って行かせてください。私はまた帰って来ます、と。」
(創世記50章5節)
「また、野外で、剣で刺し殺された者や死人や、人の骨や、墓「ケベル(Qeber」に触れる者はみな、七日間、汚れる。」
(民数記19章6節)
「彼らはアブネルをヘブロンに葬った。王はアブネルの墓(Grave of Abner)で声をあげて泣き、民もみな泣いた。」
(サムエル記第二3章32節)
「彼がなきがらを自分の墓(his own Grave)に納めると、みなはその人のために、「ああ、わが兄弟。」と言って、いたみ悲しんだ。」
(列王記第一13章30節)
「見よ。わたしは、あなたを先祖たちのもとに集めよう。あなたは安らかに自分の墓(thy Grave)に集められる。
それで、あなたは自分の目で、わたしがこの場所とその住民にもたらすすべてのわざわいを見ることがない。』」彼らはそれを王に報告した。」
(歴代記第二34章28節)
「その時、――主の御告げ。――人々は、ユダの王たちの骨、首長たちの骨、祭司たちの骨、預言者たちの骨、エルサレムの住民の骨を、彼らの墓(their Graves)からあばき、」
(エレミヤ書8章1節)
•英訳(KJV)では「シオル(Sheol)」は単純に悪い翻訳として31回、墓として訳されています。
しかし、それぞれの場合において、例外なく前置詞がつく「その墓(the Grave)」として翻訳されています。
決して「私の墓」や、単数形の「墓(a Grave)」、「彼の墓」などの所有者のある墓として訳されることはありません。
もし、「シオル(Sheol)」が墓を意味しているのならば、「ケベル(Qeber」のようにさまざまな変化を持っていたかもしれません。
しかし、そうではありません。
答えは明白です。
「シオル(Sheol)」は墓という意味ではなく、間違って訳されています。
•「ケベル(Qeber)」は地理的な意味合いを持っています。
「私は私の民に加えられようとしている。私をヘテ人エフロンの畑地にあるほら穴に、私の先祖たちといっしょに葬ってくれ。(burying)」
(創世記49章29節)
「そしてモーセに言った。「エジプトには墓(Graves)がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。」」
(出エジプト記14章11節)
「こうして、彼らはサウルとその子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬り(sepulchre)、すべて王が命じたとおりにした。その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。」
(サムエル記第二21章14節)
「その日、わたしは、イスラエルのうちに、ゴグのために墓場(Graves)を設ける。」
(エゼキエル書39章11節)
•「シオル(Sheol)」には地理的な意味合いはありません。
状態には地理的な意味合いは存在していません。
•「ケベル(Qeber)」は、そこに入る体に関連して語られています。
「彼がなきがらを自分の墓に納める(his own Grave)と、みなはその人のために、「ああ、わが兄弟。」と言って、いたみ悲しんだ。」
(列王記第一13章30節)
「人々が、ひとりの人を葬ろうとしていたちょうどその時、略奪隊を見たので、その人をエリシャの墓に投げ入れて去って行った。
その人がエリシャの骨に触れるや、その人は生き返り、自分の足で立ち上がった。」
(列王記第二13章21節)
「死人の中でも見放され、墓の中に横たわる殺された者のようになっています。」
(詩篇88篇5節)
「彼らはウリヤをエジプトから連れ出し、エホヤキム王のところに連れて来たので、王は彼を剣で打ち殺し、そのしかばねを共同墓地に捨てさせた。」
(エレミヤ書26章23節)
「シオル(Sheol)」は体に関連して語られてはいません。
答えは明白です。
体に関連した意味がないからです。
ただし、魂に関連した時のみ使用されています。
•「ケベル(Qeber)」は、私たちが家や畑を所有しているように、この地上では所有物として語られています。
「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。
そうすれば私のところから移して、死んだ者を葬ることができるのです。」
(創世記23章4節)
「彼の畑地の端にある彼の所有のマクペラのほら穴を私に譲ってくれるようにしてください。
彼があなたがたの間でその畑地に十分な価をつけて、私に私有の墓地として譲ってくれるようにしてください。」
(創世記23章9節)
「こうして、この畑地と、その中にあるほら穴は、ヘテ人たちから離れてアブラハムの私有の墓地として彼の所有となった。」
(創世記23章20節)
•「シオル(Sheol)」にはそのように言われることはありません。
条件を所有することはできません。
条件付きの所有権証書はありません。
•「ケベル(Qeber)」は掘ることも作ることもできます。
「私の父は私に誓わせて、『私は死のうとしている。
私がカナンの地に掘っておいた私の墓の中に、そこに、必ず私を葬らなければならない。』と申しました。」
(創世記50章5節)
「あなたの子孫はもう散らされない。あなたの神々の宮から、わたしは彫像や鋳造を断ち滅ぼす。
あなたはつまらない者であったが、わたしはあなたの墓(thy Grave")を設けよう。」
(ネホム書1章14節)
•「シオル(Sheol)」は「掘ることも作ることもできる」とは言われていません。
上記の中には例外のように見えるものもあります。
しかし、これまで示されてきた真実を強調するのに役立ちます。
私たちはコラとダタンとアビラムの反逆について、次のように読みました。
「しかし、もし主がこれまでにないことを行なわれて、地がその口を開き、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとくのみこみ、彼らが生きながらよみ「シオル(Sheol)」に下るなら、あなたがたは、これらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」
(民数記16章30節)
ここで新しいことがはっきりと語られています。
反逆者の遺体は、口を開けて飲み込まれた土の中に葬られました。
しかし、彼らは「生きながら(すぐに)よみ「シオル(Sheol)」に入る」ことを意味していると言うことができます。
この言葉は英語では「墓場」とも訳されている言葉です。
「下る」という言葉のつながりは後に語ることにします。
「入る」という単語は、墓の中に入ることではありません。
死に向かう個人のことを指しています。
人は死んだ瞬間に死んだことになります。
一般に遺体が墓に入れられるまで数時間から数日待たなければなりません。
「入る」という言葉は場所を示す言葉で、状態を示す言葉です。
「生きながら(すぐに)」という言葉は、その行為が突然であったことを指しているのではありません。
彼らが「シオル(Sheol)」に生きたままで降りてゆくことを述べていると付け加えても良いのです。
これまで私たちは「シオル(Sheol)」が墓ではないことと関連づけて見てきました。
では、聖書が何と関係づけているのかを見てみましょう。
•悪人のためにある「シオル(Sheol)」は痛みと悲しみとに結びついています。
「わたしの怒りで火は燃え上がり、よみ「シオル(Sheol)」の底にまで燃えて行く。
地とその産物を焼き尽くし、山々の基まで焼き払おう。」
(申命記32章22節)
「よみ「シオル(Sheol)」の綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。」
(サムエル記第二22章6節)
「死の綱が私を取り巻き、よみ「シオル(Sheol)」の恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。」
(詩篇116篇3節)
•「ケベル(Qeber)」は裁きや悲しみとは決して結びつくことがありません。
墓の中の遺体は意識がなく、痛みや悲しみを感じることができません。
意識のある存在、つまり魂は、「シオル(Sheol)」の状態では痛みや悲しみを経験しています。
•「シオル(Sheol)」は常に魂と関係しています。
決して、体とは関係がありません。
「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」
(詩篇16篇10節)
「それは、あなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです。」
(詩篇86篇13節)
•「ケベル(Qeber)」は魂と関連することはありません。
私たちがすでに見てきたように、常に体と関連しています。
•「シオル(Sheol)」は苦痛と結びついています。
それは声を出して泣くことで証明されます。
「私がよみ「シオル(Sheol)」の腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。」
(ヨナ書2章2節)
•「ケベル(Qeber)」にはそのような考えはありません。
死体は大声で泣くことも苦痛を感じることもできません。
•「シオル(Sheol)」は「下る」という考えと結びついています。
「私は、泣き悲しみながら、よみ「シオル(Sheol)」にいるわが子のところに下って行きたい。」と言った。こうして父は、その子のために泣いた。」
(創世記37章35節)
このような考えは他のいくつかの聖句でも表現されています。
下るという考えは、はっきりと死における神の裁きを認めることです。
しかし、これらのことは、旧約聖書の時代にはぼんやりとしか知られていません。
先に引用した聖書の中で、ヤコブが自分の息子ヨセフが死んだと信じました。
しかし、ここで墓という意味ではないことは、先に引用した聖書の中で、ヤコブが自分の息子ヨセフが死んだと信じました。
ヤコブは血で赤く染まった息子のさまざまな色の上着の外見にだまされました。
「ヨセフは(バラバラに)かみ裂かれたのだ」と叫んだという事実からも、墓という意味ではないことは明らかです。
ヤコブはヨセフの遺体が存在するとは全く信じていませんでした。
そのため、自分の遺体が息子の墓に入れられることを少しも望んでいなかったのです。
同様な考えがサムエルがサウルに言った言葉の中に含まれています。
「主は、あなたといっしょにイスラエルをペリシテ人の手に渡される。
あす、あなたも、あなたの息子たちも私といっしょになろう。」
(サムエル記第一28章19節)
それは墓のことではありません。
戦場で殺された戦士たちは、一般的に同じ日に埋葬されないことをサムエルは知っていたからです。
サウルの死骸をペリシテ人が見つけたのは、サウルが死んだ翌日か、サムエルと会見した二日後でした。
ペリシテ人はサウルの首を切り、サウルの首を自分たちの地に送り、その首をベテ・シャンの城壁にくくりつけました。
ヤベシュ・ギルアデの住民がこのことを聞くまでには、しばらく時間がかかったはずです。
ペリシテ人は夜通し旅をして、サウルとその子らのからだを保守し、彼らとともにヤベシュに戻り、そこで焼いたのです。
サムエルはラマに葬られ、サウルとその子らの骨はヤベシュ・ギレアドに葬られました。
ですから、サムエルが「あす、あなたも、あなたの息子たちも私といっしょになろう」と言ったのは、墓のことを言ったのではないことは明らかです。
サムエルが、人のたましいが死後も生きていることを認め、「シオル」の意味を知っていたのは明らかです。
サムエルはすべての人が死ぬ時に「シオル」に下ることを知っていました。
•聖書の中で「ケベル(Qeber)」は「下る」という考えと結びついていません。
もちろん、実際は、死体は墓に下ります。
聖書では「ケベル(Qeber)」については「下る」という表現を使うことがありません。
しかし、「シオル(Sheol)」については「下る」という表現を使っています。
「シオル(Sheol)」の状態についての道徳的な考えをはっきりと伝えていることは、さらに重要な事柄です。
•「シオル(Sheol)」は欲望などの思想と結びついています。
「実にぶどう酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。
彼はよみ「シオル(Sheol)」のようにのどを広げ、死のように、足ることを知らない。」
(ハバクク書2章5節)
•「ケベル(Qeber)」にはそのような結びつきはありません。
しかし、聖書ではこのように言われています。
「あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。」
(伝道者の書9章10節)
確かにこのように書かれています。
でも、この聖句は啓示というよりも、ソロモンが「日の下」にある事物についての知識を要約した霊感ある記録です。
ソロモンは、世のことについて、自分の仕事と知識と英知に影響を及ぼすようなことを考えていました。
しかし、すべての地上に生きている人たちの経験は、ソロモン以上の経験はありません。
ここで私たちは、新約聖書に目を向けてみましょう。
そして、新約聖書にある「ケベル」と「シオル」に相当する言葉を調べてみましょう。
全く同じ法則がそれらに適用されていることがわかります。
ヘブル語の「ケベル(Qeber)」はギリシャ語の「ムネメイオン(mnemeion)」です。
意味は「墓(Grave)」、「埋葬(sepulchre)」、それは場所を示しています。
ヘブル語の「シオル(Sheol)」はギリシャ語の「ハデス(Hades)」です。
意味は「体を失くした魂」の状態です。
新約聖書でも、旧約聖書と同じように「墓」という意味があり、何の違いはありません。
では、ヘブル語の「シオル(Sheol)」に相当するギリシャ語を70人訳聖書で見てみましょう。
「七十人訳聖書」は、アレキサンドリアのユダヤ人によって完成された旧約聖書のヘブル語からギリシャ語への翻訳の名称です。
紀元前280年頃のエジプト王プトレマイオス·フィラデルフィアによって雇われた70人の翻訳者によって訳されたため、このように呼ばれています。
ヘブル語で「シオル(Sheol)」という単語が65回登場しています。
七十人訳聖書は4回を除いてすべて「ハデス(Hades)」としています。
ギリシャ語で死を意味する「サナトス(thanatos)」と二度翻訳されています。
2回は同じように訳されていません。
一度も「墓」とは訳されていません。
私たちの英語の翻訳者たちは「地獄(hell)」というまったく別の単語に31回も翻訳しているのです。
また、複数形でも場所を示していない「シオル(Sheol)」という言葉を、31回も間違って「墓(Grave)」と訳していました。
七十人訳聖書の翻訳者たちの方が「シオル(Sheol)」という言葉の意味をはるかに正しく理解していたことが証明されています。
しかし、これは多かれ少なかれ重要な翻訳の問題です。
新約聖書に見てみましょう。
聖書自身が私たちのために権威を持って問題を決定します。
次の旧約聖書と新約聖書の引用を比べてみましょう。
「まことに、あなたは、私のたましいをよみ「シオル(Sheol)」に捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」
(詩篇16編10節)
「あなたは私のたましいを「ハデス(Hades)」に捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。」
(使徒の働き27章10節)
このことには議論の余地がありません。
聖書自体が私たちのために論点を解決してくれます。
先に進む前にもう一つ言っておくべきことがあります。
質問者は間違った方面からの助けを期待してしまいます。
旧約聖書には、新約聖書に見られるような目に見えない状態という啓示が存在していません。
「いのちと不滅」は文字通り、朽ちないことを指しています。
これらはテモテへの手紙第二ではっきりと言われています。
「それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」
(テモテへの手紙第二1章10節)
神は、その祝福された御子の死の結果として、この重大な問題について完全な啓示を下す時が来たのです。
御子は、神の正しい要求をすべて満たしました。
そして、人間にかつてよりも深い責任を負わせました。
旧約聖書が新約聖書ほど完全に神から啓示を受けていないわけではありません。
旧約聖書は新約聖書と同等の霊感と権威を持っています。
しかし、神はこれらの問題について新約聖書での、より完全な啓示を与えることを喜ばれています。
これは新約聖書で前進したという問題ではなく、啓示の問題です。
この内容について、旧約聖書のヨブ記と伝道者の書から引き出された大量のテキストが必要です。
その一方で読者は、新約聖書からの適切な証言をしない著者を深刻な疑いをもって扱うよう警告するかもしれません。
こ確かな知恵について、神が旧約聖書に与えた部分的な啓示を、新約聖書の著者たちが死後について語られた完結した言葉として扱っていることがわかるはずです。
同様に新約聖書の完全な啓示であることを理解せずに、霊感を受けた記録と啓示を勘違いしていることも多くあります。
「伝道者の書」 は良識のない作家によってこのように引用されることが多くあります。
たとえば、次の聖句は、死ぬと魂が眠って意識を失うことを証明するためによく引用されています。
「生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられる。」
(伝道者の書9章5節)
しかし、次の聖句は伝道者の書の著者がこの書物全体の観点を説明していますが、一般に引用されることはありません。
「彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消えうせ、日の下で行なわれるすべての事において、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。」
(伝道者の書9章6節)
著者はここで「日の下」にあるものについて話しています。
著者の知る限り、死者がこの地上に生きていた時は、この世界で何に興味を持っていたのかさえもわかっていません。
「伝道者の書」は神の啓示として扱ってはいけません。
生と死の問題を人間の知恵で要約した霊感のある記録としては非常に興味深く、役に立つ書物です。
それでも、ソロモンはところどころで、目に見える物の向こうにある、神から与えられたきらめく光があることを示しています。
かつて、ソロモンは人間の中で最も賢明で裕福な者となりました。
そして、人間の持つ最大限の知恵に導かれて自分を満足させる機会を持っていました。
しかし、ソロモンは自分の人生を大きく混乱させてしまいました。
人が神と永遠との関係において、ソロモンの霊を正しく機能させるためには、神の聖霊によって制御されなければならないことを証明しています。
ソロモンの書は失望した人間の驚くほど賢明な嘆きです。
ソロモンは次のように語り、そして、始めています。
「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」
(伝道者の書1章2節)
繰り返しますが、伝道者の書は神の啓示ではなく、神に霊感を与えられた人間の迷いと失望の記録です。
ソロモン自身が伝道者の書9章5節の魂の眠りについての解釈と矛盾していることを書いています。
ソロモンはこのように書いています。
「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」
(伝道者の書12章7節)
ソロモンが、墓の中の無意識の肉体と、「シオル」あるいは「ハデス」にいる意識のある霊魂とを区別していると言うのは、考えすぎでしょうか。
そうろは思いません。
エホバの証人(Millennial Dawnism)、セブンスデー・アドベンチズム、クリステーデルフィアニスム(Christadelphianism)、クリスチャン・サイエンスなどの反キリスト教組織の理論を率直に調べてみましょう。
これらの組織の推測を支持する訴えは主に旧約聖書に向けられています。
特に、伝道者の書とヨブ記はこの目的のために主に利用されており、かなりの誤解があることに気づくはずです。
故F・W・グラント氏の記念碑的著作「Facts and Theories as to a Future State」の中にある記述は、この特性を証明しています。
ロバート氏の本をレビューし、そこに含まれているクリステーデルフィアニスム(Christadelphianism)の誤りを暴露してこのように書いています。
「ロバート氏の見解としては、用いられた50以上の聖句のうち、9節は新約聖書に属し、47節は旧約聖書に属しています。
数は少ないかもしれませんが、ロバート氏の見解に反して引用されるかもしれないと考える箇所のうち、10箇所のうち9箇所は新約聖書からのものです。
では、旧約聖書と新約聖書の間にある問題だと思わないのでしょうか?」
しかし、それは違います。
そこにはこれらの引用から語られる事柄があります。
この使徒の教えはテモテへの手紙第二1章10節に見ることができます。
「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅(死ぬことがないのではない)を明らかに示されました。」
(テモテへの手紙第二1章10節)
彼らはキリストが信じる者のために、死を廃止する前に存在していた死を見ているのです。
彼らは、まだ「明るみに出されていない」命を見ています。
そして、グラント氏は「彼らが選んだ暗闇の中でつまずくのも不思議ではない」(pages 124、 125)と述べています。
もし、そうならば、彼らは光を求めているのではありません。
自分たちの闇についての考えを読者に押し付けていることになります。
これらの話は必要な事柄ですが、話を元に戻してみましょう。
ここでヘブル語の「シオル(Sheol)」とギリシャ語の「ハデス(Hades)」が同じ用語だとわかってきました。
さて、ハデスについての聖書の証言について考えてみましょう。
新約聖書では、ハデスは黄泉(hell)と10回、墓(Grave)と一回訳されています。
英訳聖書では墓(Grave)と訳されている箇所は次の通りです。
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死(KJV Grave)よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
(コリント人への手紙第一15章55節)
訳者注)KJV聖書で確認しています。
NKJ聖書ではそのまま「ハデス(Hades)」となっています。
なぜ翻訳者が地獄(Hades,Hell)として10回も翻訳して、唯一の例外を作らなければならないのかは説明がつきません。
おそらく、言葉の格調を求める気持ちが影響していると思われます。
ここで私たちは同一な比較を見ることができます。
一つは、ヘブル語の「ケベル(Qeber)」は「墓」、そして「シオル(Sheol)」は「体を失くした魂の状態」が存在していることです。
もう一つはギリシャ語の「ムネメイオン(mnemeion)」は墓、そして「ハデス(Hades)」は「体を失くした魂の状態」が存在していることとの比較です。
•「ムネメイオン(mnemeion)」は複数形で10回、出現しています。
•「ハデス(Hades)」が複数形で出てくることはありません。
•「ムネメイオン(mnemeion)」は個人の独占的所有物として語られています。
•「ハデス(Hades)」はそのように言われることはありません。
•「ムネメイオン(mnemeion)」は、「ヨセフの新しい墓」(マタイの福音書27章60節)、「墓に納めた」(マルコの福音書6章29節)、「義人の記念碑」(マタイの福音書28章29節)として語られています。
「岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。」
(マタイの福音書27章60節)
「ヨハネの弟子たちは、このことを聞いたので、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めたのであった。」
(マルコの福音書6章29節)
「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、」
(マタイの福音書23章29節)
•「ハデス(Hades)」に関連してそのような言葉が使われたことはありません。
すでに見て来たように、「ハデス(Hades)」は「その墓(O Grave)」と呼ばれることがありますが、単数形の「墓(a Grave)」、「彼の墓(his Grave)」などと訳されることはないありません。
訳者注)新改訳聖書では「よみ」と訳されています。
KJV、NKJ聖書では「よみ(O Grave)」と訳されています。
「わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみ(O Grave)よ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。」
(ホセア書13章14節)
•「ムネメイオン(mnemeion)」には地理的な意味があります。
「そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。」
(マタイの福音書27章53節)
「イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。」
(ヨハネの福音書19章41節)
墓がエルサレムの近くにあったことを証明しています。
•「ハデス(Hades)」には地理的な意味合いがありません。
•「ムネメイオン(mnemeion)」ではそこに入る体に関連して語られます。
「ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。」
(ルカの福音書23章55節)
•「ハデス(Hades)」が肉体と関連して語られることはありません。
その理由は、肉体と何の関係もないというはっきりとした理由があるからです。
これに対する明らかな例外は、ハデスにいる金持ちが目を上げる時の様子に見られるかもしれません。
しかし、この声明には象徴的なものが含まれているかも知れません。
魂は死後も意識があり、周囲の状況を認識することができるという考えを教えることを目的にしているからです。
聖書はそのような象徴に満ちています。
例えば、神は霊であり、体を持ちません。
しかし、私たちは神の「うしろの部分」、顔、目、鼻、足、手などについて読んでいます。
「わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」
(出エジプト記33章23節)
すべては明確な考えを象徴的な言葉で伝えることを目的としています。
例えば、詩篇にはこのようにあります。
「主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。
主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。」
(詩篇34篇15、16節)
•「ムネメイオン(mnemeion)」は、地上にある所有物として語られています。
また、掘ったり作ったりできます。
「岩を掘って造った自分の新しい墓「ムネメイオン(mnemeion)」に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。」
(マタイの福音書27章60節)
•「ハデス(Hades)」にはこのように語られていません。
旧約聖書における「墓(Grave)」と「シオル(Sheol)」、そして、新約聖書における「墓(Grave)」と「ハデス(Hades)」の区別について、さらに多くの証拠を示すこともできます。
しかし、「シオル(Sheol)」または「ハデス(Hades)」が「墓(Grave)」ではないことを明確に証明しています。
これらの問題が墓の問題とするならば、私たちは旧約聖書の方が新約聖書よりもはるかに多くの証拠を期待します。
なぜなら、旧約聖書は4000年以上の人類の歴史を扱っているのに対し、新約聖書は70年に満たないからです。
旧約聖書の最初の著者は最後の著者と1000年以上離れていました。
しかし、新約聖書の最初の著者と最後の著者の間は100年もありません。
このように「シオル(Sheol)」と「ハデス(Hades)」が同等の言葉です。
「墓」を意味する言葉について論争がないことを見ると、この点に関する証拠は決定的です。
もし、読者がこの証拠を検証した後に、「シオル(Sheol)」または「ハデス(Hades)」が墓を意味すると述べるなら、私はその人を意図的な欺きとして告発します。
その人は今までだまされていたかもしれません。
しかし、これからはそのような人は人を騙す人になります。
「しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。」
(テモテへの手紙第二3章13節)
このように書かれているように、さまざまな恥辱感に打ちひしがれた人たちがこの世にいることは驚くべきことではありません。
その実例が今、手元に来ました。
読者の中に「エホバの証人(Millennial Dawnism)」の悪名高い「牧師」故ラッセルのような男が「誠実な人間」だと言うことに同意してはいけません。
このテキストを書き出してから、彼の機関紙「みんなの新聞(Everybody's Paper)」が私たちの郵便受けに押し込まれました。
私たちが彼の図々しい声明を読んだときの驚きと嫌悪を想像してみてください。
故ラッセルは完全に間違っていることを知っていたはずです。
「教養のある牧師なら誰でも知っていることですが、旧約聖書で「地獄(hell)」と訳されているヘブル語は、墓、死の状態、四千年の間知られていた唯一の地獄を意味しています。」
さらに、「シオル(Sheol)」または「ハデス(Hades)」は、必然的に聖徒と罪人の両方に影響を与えます。
そして、死の中に横たわっている肉体の状態は、一般的には場所である墓の中にあるに違いありません。
しかし、死のある魂の状態は、どこかの場所にいるに違いありません。
聖書は、主の民の魂がからだの死後、どこにいるのかをはっきりと教えてくれています。
「それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。」
(使徒の働き2章31節)
主の霊が主の死と復活の間、「ハデス(Hades)」にいたのです。
主は御自分の魂がどこに行くのかを明らかにされました。
それによって信者の魂がどこに行くのかも実証されました。
主は死にかけている盗賊に次のように言われたことからわかります。
「イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」」
(ルカの福音書23章43節)
注2)ある作家がハデスとは地球の中心に位置する場所のことであり、一方は楽園、他方は失われた者の住まいであると主張しています。
しかし、コリント人への手紙第二12章1~4節を見れば、明白です。
「無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。
私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。
肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。
私はこの人が、――それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。――
パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」
(コリント人への手紙第二12章1~4節)
「第三の天」すなわち神の臨在を「楽園」とし、楽園がどこにあるのかを決定づけています。
「第一の天」は創世記1章に登場する大空、すなわち、地を包む大気圏の、雲のある場所です。
「第二の天」は、太陽と惑星系を含む広大な空間です。
星々を含む広大な空間に広がっています。
「第三の天」は神の住まいを示すために使われています。
また、パウロはこのように書いています。
「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」
(コリント人への手紙第二5章8節)
その時、クリスチャンの魂は至福の中でキリストと共にいるのです。
しかし、主は、同じように、失われた魂の状態に光を投げかけられます。
神は、祝福された者の状態と失われた者の状態とを非常にはっきりと対比しています。
「さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。
ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』」
ルカの福音書16章22~24節
注3)有名な作家の次の抜粋は考慮に値します。
「金持ちとラザロを例えとみなすことは自由にして良いことではありません。
しかし、そのような人たちと論争することはありません。
この話は例えと呼ばれていないばかりか、名前が紹介されています。
これは、私たちの主の例え話には前例のないことです。
私は、金持ちとラザロが実在の人物として見ることを選びます。
彼らの地上での生活、そして死後の生活の歴史は、世界中の人々の道徳的利益のために、主によって激しく追跡されています。」
私たちの主が金持ちの死後の状態を象徴的な言葉で説明していると仮定したとしても、少なくとも彼が現実に個人ではなかったことを証明するものではありません。
金持ちとラザロについて生前に言われていることはすべて、実際の出来事と完全に一致しているのです。
主は、自分の話を聞く者に適したユダヤ人の設定で話を組み立てられています。
それゆえ、「アブラハムのふところ」という象徴的な意味があります。
しかし、アブラハムとの交わりやその至福な状態は、象徴的なものではありません。
聖書がはっきりと教えているように、「ハデス」は信じる者にとっては至福の状態です。
しかし、主は私たちに「ハデス」とは、信じない者にとってにとっては苦しみの状態だと告げておられます。
一方の発言を信じて、他方を拒否することができるのでしょうか?
確かに、そこには永遠の優しさと永遠の激しさがあります。
主が地上で警告されたのは、主の聞く者たちがこのような破滅から逃れるためなのです。
反対する者たちは、目と舌が象徴的ならば、苦しみと炎も象徴的でなければならないと言うかもしれません。
その点について、私たちは確定して言うつもりはありません。
しかし、異議があっても事態の重大さは少しも軽くならないことを指摘したいと思います。
肉体的な苦痛が象徴的なものであるならば、私たちは「何を象徴しているのですか?」と真剣に問います。
答えは一つしかありません。
肉体的な苦痛が象徴的であれば、霊的な苦痛も象徴でなければなりません。
身体に影響を及ぼす苦しみが象徴的であるならば、魂に影響を及ぼす苦しみも象徴でなければなりません。
ともかく、私たちは教義とはしません。
その言葉が象徴的であったとしても、警告の重大性をいささかも軽んじるものではないし、影響するものでもありません。
そして、その象徴を選んだのは、神の御子にほかなりません。
彼が適切な印象を伝えるように意図されたものです。
その象徴は恐ろしいのですか?
教えようとする真理が恐ろしいのです。
その象徴は恐ろしいのですか?
その警告が恐ろしいです。
読者の皆さん、人間の理性や感情によって、真実の鋭利な感覚が外されてしまわないようにお願いします。
信仰を持つ者のたましいが死後どこに行くかは聖書から明らかです。
しか、失われた者のたましいがどこに行くかは知らされていません。
親が新しい家に子供を連れて行ったとしましょう。
その土地のことや生活の変化がどんなに楽しいかを説明するのは理解できます。
しかし、警官が人を逮捕し、その人を刑務所に連れて行かれたとしましょう。
死刑執行までその人の安全を確保することを任務とする警察当局が、自分が収監されるべき監房がどこにあるかをわざわざ囚人に教えるとは思いません。
しかし、ハデスとは聖徒と罪人の死後の魂の状態であり、前者は至福の中でキリストとともにあります。
そして、後者が苦悩の場所であることを証明するには十分だと考えます。
「ゲヘナ」の真実
しかし、今、私たちはもう一歩先を行かなければなりません。
新約聖書には、旧約聖書では知られていない新しい言葉が登場します。
それは主ご自身によって導入された、恐ろしい重要な言葉です。
「ゲヘナ」という言葉です。
「ゲヘナ」は「地獄、黄泉(hell)」と9回、「地獄の火(hell fire)」と3回訳されています。
私たちが理解しているように正しく地獄と訳されています。
墓と訳されることはありません。
「ハデス」も「ゲヘナ」もともに地獄と訳されています。
2つの単語の使い方を対比することは、両方の意味に関して質問者を助けることができます。
「ハデス」は状態です。
すでにこのことははっきりと見てきたので、証拠を繰り返す必要はありません。
•「ゲヘナ」は場所です。
「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。
からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。」
(マタイの福音書5章29節)
「また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。
片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」
(マタイの福音書18章9節)
死体が「ハデス」に投げ込まれるとは一言も書かれていません。
•「ハデス」は一時的です。
「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」
(ヨハネの黙示録20章14節)
これについては、後で詳しく説明します。
•「ゲヘナ」は永遠です。
「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。
不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。」
(マルコの福音書9章43節)
これまで見てきたように、「ハデス」は魂だけに影響を与えます。
「ゲヘナ」は肉体と精神の両方に影響を与えます。
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。
そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
(マタイの福音書10章28節)
•「ハデス」は、刑期を待つ囚人の状態のようなものです。
•「ゲヘナ」は、さばきが下ったときに、投げ込まれる牢獄のようなものです。
墓が死体のための場所であるように、「ゲヘナ」は失われた肉体と魂のための場所です。
「ゲヘナ」はヒノムの谷、文字通り「子供たちのうめき声の谷」でした。
その谷はエルサレムの東側にある深くて狭い峡谷です。
私たちはアハズ王のことを読みました。
「彼は、ベン・ヒノムの谷で香をたき、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の、忌みきらうべきならわしをまねて、自分の子どもたちに火の中をくぐらせた。」
(歴代記第二28章3節)
マナセ王についてはこのように書かれています。
「また、彼はベン・ヒノムの谷で、自分の子どもたちに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、呪術を行ない、霊媒や口寄せをして、主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。」
(歴代記第二33章6節)
しかし、マナセ王の敬虔な孫であるヨシヤ王は、このように言っています。
「彼は、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテを汚し、だれも自分の息子や娘に火の中をくぐらせて、モレクにささげることのないようにした。」
(列王記第二23章10節)
ある著者はこのように言っています。
「カルデア人によってエルサレムが破壊されてから30年も経たないうちに、善良なヨシヤによって、偶像であるモロクの恐ろしい牛の頭をした人間の姿とその装飾品が谷から一掃されました。
その場所は二度と恐ろしい偶像崇拝によって冒涜されることがないように汚されたのです。
しかし、過去の恐怖が民の心に深く刻み込まれていたため、以後、その場所は「トフェット(Tophet)」(忌むべきもの、唾を吐きかけられる場所)という名で呼ばれるようになりました。
後の時代には、ゲヒノム(Gehinnom)、つまり「ヒノム(Hinnom)の谷」という言葉が少し変化してゲヘナと呼ばれるようになり、地獄の通称となったのです。」
ヨシヤ王がその場所を汚した後、その場所は町の排水路となりました。
火は絶えず燃え続け、その場所の汚物や汚物を燃やし尽くしました。
虫は火の届かないところで生ごみを食べ続けました。
ハゲタカたちはその恐ろしい光景に群がって歓喜しました。
悪臭を放つ煙が谷から絶えず立ち上っていました。
私たちの主は、この言葉を地獄の象徴として用いました。
そして、この言葉の使い方に主の権威の証印が押されたのかも知れません。
しかし、主が確かに「ゲヘナ」について語っています。
そこは、決してエルサレム郊外の場所を指していません。
その場所は、悪魔とその天使たちのために用意され、不敬虔な者が送られる永遠の苦しみの場所を教える言葉として用いられたことに注意してください。
何回も「ゲヘナ」が語られていますが、神の御子御自身の口から語られたのは一度だけです。
驚く必要はありません。
「舌は火であり、不義の世界です。
舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」
(ヤコブの手紙3章6節)
もしそうでなければ、批判する者たちは「パウロはゲヘナについて語り、ペテロはゲヘナについて語ったが、キリストは語っていなかった」と叫ぶかも知れません。
しかし、パウロ、ペテロ、ヨハネが書いたことは、主が言われたことと同じ権威を持っています。
源は同じ、神の啓示です。
ここにある違いはレベルではなく方法です。
内容が同じであれば、それぞれの人が話すことと書くことは方法以外の違いがありません。
ですから、キリストが語られたことと、キリストがパウロやペテロやヨハネによって書かれたこととの間には、権威の違いはありません。
このような嘆かわしい論争は、地獄「ゲヘナ」 が常に(一度を除いて)主御自身によって語られていたという事実によって排斥されてしまいます。
聖書に従う者は、地獄の存在に疑問の余地は存在しません。
地獄の存在を信じることを拒むことは、キリスト教の真理の言葉、すなわちキリスト御自身を信じることを拒むことです。
正当にクリスチャンであることを主張しておきながら、地獄の存在を信じない人はいません。
神の慈愛に満ちた唇から、何度も繰り返され、激しく哀れみに満ちた警告として下された地獄が語られました。
この言明を信じようとしないクリスチャンがいるでしょうか!
頭の中を整理する必要があります。
つまり、地獄を信じるか、信じないかはキリストの言葉を信じるか、信じないかです。
地獄の存在に対する信仰が、私たちの心の中にもっとしっかりと、そして絶対的なものとして定着させる必要があります。
それは、罪に対するより深い認識、キリストの贖いに対するより真の理解、すべての真実なクリスチャンに神の恵みの祝福された福音を広めたいというより強い願望として示されます。
私たちの魂に存在するこれらの真理が弱まると、私たちに対する神の支配が緩み始めます。
そして、他の人の祝福を求める私たちのエネルギーが失われます。
異教の意識でさえ、地獄があるに違いないと認めています。
使徒ペテロはこれを利用してこのように言っています。
「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」
(ペテロの手紙第二2章4節)
これはタルタロスは異教のローマ人の地獄の概念です。
異教徒の神話によると、タルタロスは暗やみの入り江にある岩場の門では、髪の毛が蛇であるフューリー「復讐の女神たち」に守られていました。
詩人のロバート・ブラウンが「天もあれば地獄もあるに違いない」と書いています。
私たちは皆、この地上で人々が天と地獄について話すのを聞いたことがあります。
犯してきた過去の罪の後悔の炎と良心の咎める声によって、まさしく地獄のようなものに暮らしている男たちに、私たちは出会ってきました。
自然の法則を犯すと、苦しみは避けられない結果です。
ひどい苦しみの人生は、一瞬の罪の満足の結果であることがあります。
血のような涙を流しても、神の政府の律法を破った結果を止めるために使用することができません。
罪の刑罰は現世だけではありません。
罪を犯して、神のあわれみを拒み、反逆して、罪を犯して死んだ人たちには、死の向こう側に刈り入れがあるのです。
神は憐れみと優しさの中で、恐ろしい言葉で私たちに警告しています。
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。
そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
(マタイの福音書10章28節)
良く知られていますが愚かな牧師がこのように言っています。
「私たち一人一人が最後に問題を解決させる方法があります。
それは、私たちが一時的に妥協することです。」
私たちは「そのような言いようのないたわごとは、普通の法廷では考えられない」と答えます。
泥棒と殺人者の「一時的な妥協」が、彼が受けるべき刑罰を決めるのでしょうか?
それとも、正しい心を持った人々のために、裁判官が正しい裁きを下すことを期待するのでしょうか?
被造物が、「一時的な妥協」が何であろうと、創造主の命令に従わなければなりません。
このような病的な感傷は、何よりも、この問題によって甘やかされています。
私たち一人一人が最終的に問題を解決する方法は、私たちの「一時的な妥協」ではありません。
好むと好まざるにかかわらず、神の言葉によって解決するのです。
地獄については、「火の池」という別の表現が使われていますが、これについても考える必要があります。
ヨハネの黙示録の後半に5回登場しています。
明らかにゲヘナと同じ箇所です。
注4)ヨハネの黙示録で7回も使われている「底知れぬ穴(ギリシャ語:アブソス(abussos))」という表現についても理解しておく必要があります。
ヨハネの黙示録の後半に5回登場しています。
明らかにゲヘナと同じ箇所です。
それは「アビス(the abyss)」と呼ばれるかもしれません。
明らかにそれは火の池と同じ場所ではありません。
ヨハネの黙示録20章3節では、サタンは千年王国の前に「底知れぬ穴」に投げ込まれます。
そして、千年王国の終わりに、サタンはその牢獄から解放されます。
「底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。
サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。」
(ヨハネの黙示録20章3節)
サタンは神に対する反乱の短く激しい時間の後、炎と硫黄の池に投げ込まれます。
それがサタンの最後の運命なのです。
「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。
そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」
(ヨハネの黙示録20章10節)
「アビス(the abyss)」は明らかに悪霊が閉じ込められている場所です。
神の許しがあれば、これらの悪霊はこの邪悪な世界での神の災いとして地上に戻ることができます。
「アブソス(abussos)」が使われているのは他に2箇所だけです。
ルカの福音書8章31節で、私たちの主が悪霊から悪霊の軍団を追い出したとき、悪霊たちは「アブソス(abussos)」、すなわち監禁されていた場所に戻ることを命じないように主に懇願しています。
「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。」
(ルカの福音書8章31節)
ヨハネの黙示録9章では、底なしの穴が御使いによって開かれます。
すぐに、象徴的なイナゴで現わされた悪魔の大群が地上に上ってきます。
明らかに、神の聖霊の臨在による現在の制限が取り除かれると、恐ろしい霊的主義(Spiritism)は過激な方法によって地を苦しめるのです。
ローマ人への手紙10章7節で「アブソス(abussos)」という言葉が使われています。
それは主の体が墓に入るという現実と、それに伴う復活の驚きを伝えるためです。
「また、「だれが地の奥底「アブソス(abussos)」に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。」
(ローマ人への手紙10章7節)
この聖句は、この特別な関係の中で使われており、言葉の意味は明確です。
訳者注)申命記30章12〜14節からの引用です。
「これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。
また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。
まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」
(申命記30章12~14節)
申命記30章13節では「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか」となっているが、ローマ人への手紙では
「また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです」となっています。
主題をキリストに置き換えたいゆえにパウロが意図的に入れ替えたと思われます。
その証拠は、主がゲヘナに投げ込まれる危険について語っていることです。
主がそのような運命が魂と肉体の両方に影響を及ぼすことを明確に述べているのに対し、使徒ヨハネは幻の中で、救いを受け取らない者の魂と肉体が最終的な破滅である火の湖に送り込まれることを示しているという事実にあります。
2つの異なる場所があるはずありません。
私たちはヨハネの黙示録20章14節をこのように読んでいます。
「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」
(ヨハネの黙示録20章14節)
すべての「幸いな」死者は、主の再臨の千年王国の前に「第一の復活(いのちの復活)」という至福を経験します。
「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」
(ヨハネの黙示録20章5、6節)
御座の前に立っている大きい者も、小さい者は、「刑罰の復活(裁き)」を経験します。
彼らは救いのない邪悪な死者のはずです。
「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。
そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。
死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。」
(ヨハネの黙示録20章5、6節)
「善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」
(ヨハネの福音書5章29節)
そこで、わかりやすくするためにこの聖句を次のように説明します。
「墓」 - 魂から離れた死んだ体の状態。
「ハデス」 - 体から離れた死んだ魂の状態。
「ハデス」は復活した邪悪な死人のいるところで、彼らは火の池に投げ込まれます。
つまり、墓を埋め尽くした死者がよみがえり、「ハデス」の状態にあった死者の魂が、その過程で肉体と再会するのです。
注5)多数の魚雷を受け沈没した船を伴う第一次世界大戦は、この言葉に生々しい意味を与えました。 「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。」 (ヨハネの黙示録20章13節) |
このように復活した個人として、体、魂が再会します。
彼らは死と「ハデス」であったものを表現しています。
悔い改めずに死んだ罪人は、明らかにゲヘナと言われる火の湖に投げ込まれました。
このことが起こる時、死の状態にある体の存在が無くなります。
そして、「ハデス」の状態にある魂も存在が無くなります。
「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
(ヨハネの黙示録20章15節)
ゆえに、罪によって生じた状態は、彼らに対する神の裁きを表す行為によって終わります。
この出来事は、地と天が逃げ去った後、時間そのものがなくなった後に起こることに注意してください。
その場面は、新しい天と新しい地の観点から、永遠という時間軸に起きるのです。
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」
(ヨハネの黙示録21章1節)
そして、その数節後にはこのように書かれています。
「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」
(ヨハネの黙示録21章8節)
ここで再び、この聖句は正確に黙示録20章11~15節から続いています。
この見解は現在のことではありません。
これは、永遠であり、永遠へと引き継がれてゆくという考えがあります。
なぜ、人間の魂がこの聖書の厳粛な宣言を軽んじることができるのでしょうか?
このような言い表せないわざわいの終わりの可能性がここにあります。
なぜ、罪を犯した罪人は驚きもしないのでしょうか?。
主イエス・キリストは御自身に限りない犠牲を払って、死によって、罪に対して神のすべての怒りを負い、罪のために十分な償いを完成させてくださいました。
神は、このように逃れる道を用意してくださったのです。
キリストのもとに来るようにとの招きは、世界的で、力強く、粘り強く行われています。
すべてのそのために、今はそのことに注意を払うべきです。
「墓にはすでに赦しがありません。
憐れみの日は短いのです。」
聖書が文字通りの地獄の存在を教えていることに疑いの余地はありません。
私たちはこのように語ります。
「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」
(マタイの福音書25章41節)
悲しいことに、人は愚かにも神の慈しみを拒みます。
そして、すべての人が救われることを望んでおられる方を裁きの席に立たなければなりません。
このように、彼らは、悪魔と堕落した御使いとの交わりの中で、自らの破滅を封じ込めるのです。
今、私たちは深刻な問題に取り組んでいるのです。
地獄の刑罰は永遠なのでしょうか?
最近の有名な作家が率直な意見として、このように言っています。
「もし聖書が「地獄の刑罰を教えているなら、聖書にとってもさらに悪いことです。
なぜなら、私たちはそれを信じることができないからです。
あなたは聖書を引用し、その聖句の背後にある特定の解釈を正当化するための優れた学説を持っているかもしれません。
しかし、それは良いことではありません。
「私たちはもはや聖書の奴隷でも、教義の盲目的な信仰者でもありません。
私たちは愛と進化を信じています」
別の著者が書いています。
「キリストの福音の名のもとに、「永遠の苦しみ」について語る資格は、過去にも、現在にも、そして未来にも存在しません。」
私としては多くの人が語るささやかな暗示より、むしろ率直な否定に答えるべきだと思っています。
隠し持っている短刀を持つ者や毒の入ったお茶を差し出す人と戦うよりは、ずっと優しいものです。
もし私が、神の御言葉が刑罰には永遠性がないことを教えていると信じるなら、私は恵みを求めて、屋根の上からそれを宣べ伝えます。
なぜ、真実を恥じたり恐れたりしているのでしょうか?
今日、何千人もの牧師がいて、福音を伝えるために会衆から報酬を得ています。
彼らは聖書の権威と霊感に対する聴衆の信仰を損なう真実な悪魔の代理人です。
このような裏切り者が教会の中にいます。
重要な攻撃ポイントのひとつに、永遠の刑罰の教義があります。
永遠の刑罰はないと主張する二つの学派があります。
これらの支持者はそれぞれ普遍主義者「ユニバーサリスト(Universalists)」と消滅主義者「アナイアレイショニスト(Annihilationists)」と呼ばれています。
普遍主義者はこのように信じています。
人は死後に救われずに死ぬ者は多かれ少なかれ苦しみの期間を過ごすことになります。
そして、その苦しみによって清められ、最後にはすべての者が救われると信じています。
神は悪に勝つと彼らは主張しています。
確かに神は悪に勝つのですが、彼らが言うのは真実ではありません。
彼らの議論の到達する結論は大きく語られることはありません。
しかし、もしそうならば、悪魔と堕落した御使いたちが最終的に救われることになります。
キリストが死なれたのは悪魔と悪魔に従った御使いたちのためでしょうか?
普遍主義者はキリストの贖いから離れて、侵害的な教義にたどり着くことになります。
ここで私たちは手短に普遍主義者の教義を調べてみましょう。
彼らは「神は全能である」と言っています。
神は罪を忌み嫌い、必ず勝利を得られます。
神はいつか全人類への憐れみの扉を開いてくださり、地獄を空にしてくださいます。
さもなければ、神の善良さと愛の性格は破壊されてしまいます。
普遍主義者は「神の特徴は善良と愛である」と主張しています。
彼らは基本的に、このことをアピールしています。
もしそうだとすれば、普遍主義者は愛の神が、そして愛である神が、罪をこの世界にもたらすことを許し、それが6000年もの間、言いようのない悲しみと苦しみと死が続いてきたことを認めなければなりません。
もし神が長期にわたる苦しみを御許しになったならば、どうして永遠の刑罰を御許しにならないのでしょうか?
どんな論理も満足のいく答えを与えていません。
私たちはこのことについて聖書からの啓示を受けることができていません。
答えは単純で明白です。
もし、ここで論議することが許されるなら、良い理由があります。
なぜ、現在、罪が存在しているのでしょうか?
では、刑罰が永遠に存在しなければならない正当、かつ重大な理由がないことを、どのように私たちは知ることができるのでしょうか?
私たちにそのような問題について推測する権利があるのでしょうか?
「聖書は何と言っていますか?」
これが唯一の安全な問い合わせです。
しかし、反対者はこのように言います。
「一瞬のうちに行われた犯罪が、どうして終わりのない刑罰に値するのでしょうか?」
ここでの私たちの推測は何の役にも立ちません。
ヨハネの黙示録だけが私たちを助けてくれます。
人が罪を裁くとき、それが自分自身に及ぼす影響、社会への作用、時間との関係を考慮します。
確かに、どんな場合においても、読者がこの短いテキストを熟読するよりもはるかに短い時間で、犯罪を行うことができます。
そして、何年もの間、刑が続くか、もしくは死刑になることもあります。
しかし、私たちが永遠の存在を知りながら罪を犯すならば、この永遠の存在から与えられたもの以外に、私たちは用いるべき基準を持ちません。
私たちはその問題を解決することはできません。
法廷の裁きによって測ることはできません。
ただ、永遠の裁きに服するしか方法がありません。
このように、私たちは神が御言葉の中で言われていることに目を背きます。
私たちの知恵は、永遠の裁きについて自分の理性を遠ざけてしまいます。
ここでも、死後に2度目の救いのチャンスがあれば、地獄は空になると主張されています。
愛の神としての神の性格が、このことをを要求していることが強調されています。
しかし、現世で福音を拒んだ罪人が、次に来る時代で福音を受け入れる保証があるのでしょうか?
私たちは驚いて「なぜ、人は最初の救いの提案を拒否しなければならないのか?」と尋ねてしまいます。
この世で救いを軽蔑し、拒絶する性質は、来世でそれを受け入れるのでしょうか?
現在のイバラが次の時代にぶどうを実らせるのでしょうか?
それとも今の時代のアザミが次の時代にイチジクを実らせるのでしょうか?
それに加えて、聖書はセカンド・チャンスのような希望を提示していません。
この仮説を支持するために、聖書のいくつかの聖句が曲解されています。
次の聖書の主張を聞いて下さい。
「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。
その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。
昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。」
(ペテロの手紙第一3章18~20節)
ここに書かれていることは明白です。
かつて、ノアは箱舟を造っている間、大昔の世界に宣教しました。
ノアのうちにあるキリストの御霊が、ノアの証しの動機となり、力となったのです。
「キリストの霊」が旧約聖書の証言の原動力であったことは、ペテロの手紙第一1章10、11節で確認されています。
「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。
彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。」
(ペテロの手紙第一1章10、11節)
聖書は8人の魂が箱舟で救われたことを私たちに丁寧に教えてくれています。
つまり、8人以外の残りの人たちは、ノアの証し、すなわちノアのうちにあるキリストの霊の宣教を拒絶したのです。
洪水が彼らを襲い、彼らは死にました。
ペテロが書いた時点で彼らは2500年間、「牢獄の中の霊」だったのです。
「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。
また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」
(ペテロの手紙第二2章4、5節)
この意味は難しくありません。
私たちは、ノアが「義の伝道者」であったことを知っています。
このことは聖書全体の主張と一致しています。
それどころか、主が実際にハデスに入ったのです。
セカンド・チャンスを説いたという普遍主義者の説明は、乗り越えることのできない困難に悩まされることになります。
問題の道筋は、ノアが箱舟を用意していた間に生きていた人々に限られているということです。
その期間は約100年を費やしていたようです。
洪水の前に約15世紀の時代が過ぎていました。
この後、私たちが考察しているペテロがこの御言葉を書くまでに、およそ25世紀、つまり、人類の創造からおよそ4000年が経過しました。
たった100年のその時代に生きた人々には、セカンド・チャンスがあったと言っている聖句の説明がおかしいと思われませんか?
それ以外の39世紀の間に生きていた人たちはどうなるのでしょうか?
この聖句は、普遍主義者にとっては十分な証拠にはなりません。
彼らによると、それは洪水の前の数年間に住んでいた数人の人々だけがセカンド・チャンスを得たことを語っています。
洪水の前には大勢の人々が生きていました。
洪水後の世界でその何百万人もの人々のうち、わずかな者だけがセカンド・チャンスを得たとは断言できません。
私たちの主がハデスにいた時、何百万人もの人々の中で、他の人には与えられなかったセカンド・チャンスが与えられたのはほんの一握りだったと考えるのは、単純にばかげています。
実際に、このような奇怪な根拠に基づいて理論を構築しなければならないことは、普遍主義者の主張の貧しさを証明するだけです。
私たちは洪水の直前に住んでいた人たちがセカンド・チャンスを得たことを完全に否定しています。
聖書にはそのような考えはありません。
聖書ではキリストがこれらの霊たちに何を宣教したかは書かれていません。
そして、どのような結果をもたらしたかも明らかにされていません。
もし普遍主義者の説明が正しければ、私たちはこれらの詳細な宣教内容を知っていたはずです。
それは特定の時代に生きた特別な一握りの人々ではなく、全人類に認められていたはずです。
では、なぜペテロはこの特定の時代を紹介したのでしょうか?
適当に選んだわけではありません。
聖書には霊感があります。
答えは明らかです。
ペテロは洪水と箱舟の物語を、キリストの死の意味を現実的な方法でクリスチャンに適用して、バプテスマの実例として用いたのです。
普遍主義者は同じように別の聖句も使っています。
「というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。」
(ペテロの手紙第一4章6節)
しかし、この聖句の説明も他の説明と同じです。
「死んだ(すでに、死んでいる)人々にも福音が宣べ伝えられていたのです」というのは、著者の考えを適切に言い換えたものです。
「これが理由で死んだ者たちに福音が宣べ伝えられた」のではなく、「これが理由で福音が宣べ伝えられた」のです。
使徒パウロはこのように書いています。
「神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」
(コリント人への手紙第二6章2節)
主の御言葉は明確です。
「そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。
ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。」
(ルカの福音書16章62節)
聖書は、この生涯の後の刑罰によってもたらされるいかなる改善の結果についても沈黙しています。
神には、聖書が宣言している福音以外の福音はありません。
人の心は環境が変わっても変わりません。
今、福音を憎む者は、その時も福音を憎んでいます。
もし人が生きている間に福音を手に入れなければ、永遠に彼らの考えを変えると確信できるでしょうか?
聖書にはその証拠がありません。
その証拠のために、あなたは何を探しているのでしょうか?
裁きによって、カインは神への信仰を深めましたか?
重い裁きは、パロの意志を弱め、憐れみを求めさせましたか?
アハブは自分に襲いかかったことで心を動かされたでしょうか?
イスラエル人は、わざわいが彼らの上に下ったとき、神に忠誠を誓っていたのでしょうか?
それとも、偶像崇拝を繰り返したのでしょうか?
悪霊たちはキリストに語りかけ、定めの時の前に彼らを苦しめないように祈りました。
しかし、彼らの口からあわれみの声が漏れたことがあったでしょうか?
「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。」
(ルカの福音書8章31節)
私たちは、悪霊たちが25世紀の間いた「捕われの霊」について読みました。
彼らの心に変化の兆しはありません。
ソドムとゴモラの住民は、平地の罪深い町々が破壊された日から苦しみを受けてきました。
しかし、霊感を与えられた著者ユダは、刑罰は彼らの心に変化ももたらさなかったという完全な印象を私たちに残しています。
ユダの霊感を与えられた聖句には刑罰が終わる希望を示していません。
「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。
それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。」
(ユダの手紙7、8節)
長い間、この聖句は、このテーマについて著者に光を与えてきました。
「第五の御使いが鉢を獣の座にぶちまけた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。
そして、その苦しみと、はれものとのゆえに、天の神に対してけがしごとを言い、自分の行ないを悔い改めようとしなかった。」
(ヨハネの黙示録16章11節)
この聖句では痛みは悔い改めに導いていません。
「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」
(ローマ人への手紙2章4節)
この聖句は聖書の証言です。
一つの聖句によって、普遍主義者と消滅主義者の両方の理論を破壊することができます。
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
(ヨハネの福音書3章36節)
「いのちを見ることがなく」、この言葉は普遍主義者の神学を破壊することができます。
彼らの主張は「すべての者がいのちを見ることができる」です。
聖書は神を信じない者は「いのちを見ることがなく」と宣言しています。
「神の怒りがその上にとどまる」という言葉は消滅主義者の神学を破壊することができます。
聖書は神は信じない者の上に「神の怒りがとどまり続ける」と宣言しています。
消滅主義者自身は2つの派閥に分かれます。
一つの学派は、罪人は死んだ時に滅んでしまい、決してよみがえらないと信じています。
もう一つの学派は、邪悪な死者はよみがえらされ、大きな白い御座で裁かれます。
そして、火の池に投げ込まれ、そこで焼かれ、滅ぼされると主張しています。
前者の学派は、聖書の明白な言葉にもかかわらず、悪人の復活を否定しています。
条件付き「不死」は、両派の消滅主義者によって教えられています。
つまり、彼らは魂の継続的な存在を否定しています。
死んだ後の命は、現世でキリストを受け入れ、キリストにある命を得ていることが条件であると教えています。
彼らはキリストを信じる以外に死後の生命はないと主張しています。
彼らの主張は、主イエスを信じる者のほかは、永遠に生き続ける者はいないということです。
後者の学派の教義は、支持者を明らかな不条理に追い込んでいます。
キリストを信じていない者の死後に命がないのであれば、死んだ罪人はみがえらされてキリストにあるいのちを得なければならないということになります。
どのようにして彼らは大いなる白い御座の前に立つことができるのでしょうか?
もし、キリストを受け取っているのであれば、どうしてさばきを受けることになるのですか?
どのように火の池に落とされて滅ぼされるのですか?
不可能です!
さらに、キリストにあるいのちは不滅だと言われています。
では、罪人がキリストにあっていのちによみがえることができますか?
言い換えれば不滅の状態にあるのに、どうして滅んでしまうのでしょうか?
不滅が滅ぼされてしまうなら、もはや言葉の意味を持つことができません。
すべての条件付き「不死」の教師たちに共通する間違いは、永遠の命と不死を混同していることです。
彼らはそれらが交換可能な用語であると教えています。
聖書はこのように言っています。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
(ローマ人への手紙6章23節)
条件付き「不死」の著者は次のように述べています。
「「不死」は私たちの主キリストにおける神の賜物です。
しかし、人間の普遍的な所有物ではありません。」
(1913年イルフォード会議報告書、56ページ)
しかし、キリストの中にあるクリスチャンは、現在、永遠のいのちを持っているのです。
永遠の命と不死が変換可能な言葉なのでしょうか?
もし、そうならば、条件付「不死」を説く多くの教師が言うように、キリストを信じる者は今すでに永遠の命を持っており、また、今すでに不死をも持っているので、死ぬことはできないということになります。
しかし、クリスチャンは地上で死にます。
新約聖書では「不死、ギリシャ語のアタナシア(Athanasia)」 は3回しか使われていません。
ある聖句は、人間の「不死」を否定する人たちによって、いつも勝ち誇ったように使われています。
神の御言葉がこのように書かれています。
「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。」
(テモテへの手紙第一6章16節)
注6)よく知られていることですが、テモテへの手紙第一1章17節に出てくる、神に適用される不滅という言葉は「朽ちることがない」と訳されるべきです。
「どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。」
(テモテへの手紙第一1章17節)
しかし、彼らの主張には無理があります。
彼らは神だけが「不死」を持っていると主張しています。
しかし、御使いは終わりのない存在という意味で「不死」を持っています。
というのは、 「死ぬべき運命(Mortal)」 とは、「死(Death)」以上の可能性を意味するからです。
それは「滅ぶ(Dying)」ことを意味しています。
つまり、「死ぬべき運命(Mortal)」とは、「死(Death)」のプロセスが実行されているということです。
訳者注)日本語だけの表記では、英語や原語の表現が現わし切れていません。
英語と同時表記で書きますので、わからない時はこの行に戻って確認してください。
それはゆっくりと、気づかないうちに、しかし確実に、そのプロセスが実際の死に終わるまで確実に進行して行くことです。
死の原因は終わりが来るまで働き続けることです。
ルカの福音書20章36節では、御使いの永遠の存在について明らかにされています。
私たちの主は、死者の中から復活に値すると判断される者、すなわち真実なクリスチャンに対してこのように語っておられます。
「彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。」
(ルカの福音書20章36節)
つまり、ここで御使いは死ぬことがないことがわかります。
さらに、消滅主義者がこの聖句をこのように用いていますが、支離滅裂で自分の確信を奪い去っています。
もし、神だけが「不死」であれば、御使いのように「不死」を持っている者がいないだけでなく、論理的に言えば、将来も「不死」を持つ者もいないことになります。
聖書は、信者たちがキリストの来臨の時に「不死」を身に着けるとはっきりと明言しています。
神の言葉としてそのような聖句の使い方は矛盾しています。
しかし、神には不滅の力しかないと、この本ははっきりと告げています。
聖書は明らかに、神には「不死」がないことを示しています。
では、どうしてこれが真実なのでしょうか?
この明白な答えは決定的です。
神は本質的に「不死」を持っています。
神は自分の中に「不死」を持っているのです。
神以外のすべての人は、神によって「不死」が与えられ、支えられています。
他に「不死、ギリシャ語のアタナシア(Athanasia)」 についての聖書個所は2箇所あります。
「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。」
(コリント人への手紙第一15章53、54節)
ここでの理解は明白です。
「朽ちる」とは死はどちらも魂ではなく肉体に関連しています。
「朽ちる」とは死んだ体に適用され、死は「滅びゆく(Dying)」体に適用されています。
この聖句における「朽ちる」という言葉は救われた者の体のことです。
「朽ちる」とは復活における救われた者の体のことであることに異論はありません。
その点を苦労する必要はありません。
「死ぬべき」という言葉が「滅びゆく(Dying)」の体を指すことは、次の聖句から明らかです。
「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。」
(ローマ人への手紙6章12節)
「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
(ローマ人への手紙8章11節)
「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」
(コリント人への手紙第二4章11節)
「確かにこの幕屋(体)の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。
それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。
そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」
(コリント人への手紙第二5章4節)
ここで私たちは新約聖書の中にある、「死ぬべき運命(Mortal)」と「不死(immortality)」という言葉が使われているすべての聖句を見ることができます。
これらの用語が「滅びゆく(Dying)」体について使用されていることは明らかです。
一方、霊について言うならば「滅びゆく(Dying)」という言葉が使われることはありません。
なぜでしょうか?
死の対象ではないからです。
魂は不滅、不死であり、神のように備わっているものではなく、神によって与えられ、維持されています。
私たちは人のことをこのように読んでいます。
「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」
(創世記2章7節)
F・W・グランド氏は「現実と神学的な未来の立場(Facts and Theories as to a Future State)の中でこのようなメッセージを書いています。
「人と獣は同じように生きている魂を所有しています。
私たちはこれに真理を隠すことなく、このことに基づいて争います。」(ページ59)
おおまかに見るならば、人間の創造には獣の創造以上に何かが起こったことが明確です。
神が人の鼻にいのちの息(霊)を吹き込まれたのは明らかです
しかし、獣の鼻には吹き込まれませんでした。
伝えられていることはまだ完全には示されていないかもしれません。
だとしても、創世記の特徴を見るのであれば、獣にはない神ご自身とのつながりが人間にはあることは明らかです。
このような方法で人は命を受け取ったのです。」
(ページ57、58)
しかし、読者は次のように主張するかもしれません。
「もし聖書の中で、魂に死、死ぬべき運命(mortal)という言葉が適用されないなら、不死(immortal)という言葉も適用されません。
では、魂は不死(immortal)であると言えるでしょうか?
私たちは、聖書の中で魂に対して不死という言葉が実際に使われていないことは真実であると答えることができます。
しかし、魂の終わりのない存在の真実は、まさに聖書の糸のように織り込まれています。
もし魂が不死(immortal)ではなく、死ぬべき運命(mortal)であったなら、聖書の中で確実に確認されるはずです。
魂が死ぬべき運命(mortal)という言葉はありません。
神は人間の鼻に命の息を吹き込み、この特別な方法で人間は、獣とは対照的に、生きた魂となりました。
魂は永遠に存在することが聖書を通して前提とされています。
「命と朽ちることない(incorruptibility)こと」が「福音によって」明らかにされました。
つまり、この問題を明らかにするために新約聖書に目を向けなければなりません。
私たちが求めているものが、旧約聖書の中にも多く示されています。
死の向こうで魂が、次の世界においても意識を持って存在する状態になるのでしょうか?
私たちは「シオル」の時に引用した聖句のように、このことを証明するために繰り返す必要がありません。
このことを証明する証拠は圧倒的です。
新約聖書には、よみと訳されている「ハデス」の証言によって、このことが完全に証明されています。
この文章の初めに私たちは「シオル」と「ハデス」について論じました。
そのことの強力な証拠が、サドカイ派の人々に示されました。
復活を信じないサドカイ派の人々は、7人の夫のいる女の仮定の話を問答に出し、主の口からその答えを受け取りました。
「それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。
『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」」
(マタイの福音書22章31、32節)
そして、この出来事の重要性を強調するために、マルコとルカはこのことを記録しています。
これはステパノがサンヘドリンに語ったように、主が燃える柴の中からモーセに語られた時のことを言っています。
「また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。」
(出エジプト記3章6節)
ここで言われている族長たちはそのはるか昔に死んでいました。
もし彼らの魂が存在しないなら、神は彼らの神としてご自身を現すことはできません。
なぜなら、神ははっきりと強調して言っているからです。
「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」
さらに「わたしはアブラハムの神である」と言われました。
彼らの遺体は明らかに墓の中にあります。
そして、明らかに彼らの魂は、私たちが見てきたように、「ハデス」という状態、場所で生きています。
さらに、ユダは平原の罪深い町の住民、つまり、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々の住民が永遠の火の刑罰に苦しんでいることを語っています。
ユダがこのことを書いたのは裁きが下ってから2000年が経過していました。
ユダはここで魂が眠っていることや、魂が存在しないことを示していません。
「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。」
(ユダの手紙7節)
ペテロはまた、ノアの時代に不従順であった「捕われの霊」についても述べています。
ペテロは魂が眠っていることや魂が存在しないことをほのめかしてはいません。
しかし、これらの魂ははるか昔から捕われています。
「その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。
昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。
わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。」
(ペテロの手紙第一3章19、20節)
モーセとエリヤは変貌の山で栄光のうちに現れました。
モーセの肉体は何百年も墓の中にあったが意識があったことを示しています。
「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。」
(マタイの福音書17章1~3節)
エノクとエリヤは死を見ることなく天に移されました。
魂が眠っていることも、存在していないことも示されていません。
三本の十字架の上で盗人はイエスの口から直接このような言葉を聞きました。
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
(ルカの福音書23章43節)
多くの者が、主が「今日、あなたに告げます」という言葉を口にされたことを証明しようした努力を知っています。
文の構造上、そのような翻訳はできません。
これは明らかに盗人の願いに対する適切、かつ親切な答えです。
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
(ルカの福音書23章42節)
これはさらに未来の出来事です。
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」という主の答えは、なんとも力強い答えです。
使徒パウロはこのように言っています。
「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。
私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」
(ピリピへの手紙1章23節)
パウロは世を去って、魂の眠りや無意識に入りたいとは言っていません。
この地上で主の愛を喜び、主の喜びに満ちた奉仕に用いられることよりも「はるかにまさっています」と言っています。
パウロははっきりと「世を去ってキリストとともにいる」と言っています。
このことを次の聖句が明確にしています。
「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」
(コリント人への手紙第二5章8節)
ここでの問題は「肉体を離れて、主のみもとにいる」ということです。
眠っている様子はありません。
明らかに幸せな中間状態が描写されています。
さらに主はこのような言葉を述べています。
「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。
ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』」
(ルカの福音書16章22、23節)
主は偽りのない言葉で真理を示されています。
物乞いであるラザロの体は墓の中に横たわっていました。
彼の魂は喜びの中にいます。
アブラハムのふところは、昔の神の聖徒たちの幸せな立場を象徴しています。
訳者注)この著者は文字通りでありながらも、象徴的な場所としてアブラハムのふところを捉えています。
著者は、ハデスがあくまでも魂だけが行く場所であり、体が存在していないことを強調しています。
(ゲヘナには罪人は体を持ったまま、投げ込まれます。)
金持ちが体を持たずに熱さ、苦しさを感じていながらも、文字通りで体験しているので象徴的としています。
その可能性も十分にあり得ると考えさせられます。
しかし、訳者は象徴的ではなく、そのまま文字通りの場所として捉えています。
金持ちが熱さ、苦しさを感じているのは、仮の体の存在を感じています。
訳者は著者を否定をしているのではありません。
どちらだとしても、文字通りの同じ結果、同じ体験をすることになります。
ただ、この洞察力に感心しているのです。
金持ちの体は墓の中にあります。
「目を上げる」というのは、すでに見てきたように、金持ちの魂が意識を持っていることを示す象徴的な言葉です。
単純で生々しい言葉は、科学的な言葉で魂の意識を説明しようとする試みよりも、学識のある人にもない人にも、はるかに訴えるものがあります。
実際に、この物語をそのまま受け取れば、何も難しいところはありません。
私たちの日常の言葉で、誰もが理解できる言語を常に使っています。
聖書を悪く批判する者の9割は不誠実です。
聖書を誤ったものにしようとする明確な意図を持っています。
しかし、それでも聖書は常に同じように命と活力を持ってここに存在しています。
言及されているいくつかの出来事や聖句では、クリスチャンと未信者の両方が死後に魂で意識を持っていると宣べられています。
聖書はこのように記しています。
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
(ローマ人への手紙3章36節)
信じる者も、御子に聞き従わない者も、どちらの場合も別世界で永遠の存在を証明しています。
このような聖句を目の前にして、ぺージが許すなら足りないほどの証拠が存在しています。
このように、魂の終わりのない存在には、はっきりとした圧倒的な証拠があるのです。
「永遠の命(eternal life)」と「不死(immortality)」を混同してはいけません。
「永遠の命(eternal life)」とは、現在、キリストを信じるすべての人が永遠に受け取るものです。
聖書に示されている信仰者の「不死(immortality)」とは、主の再臨の時に肉体と結びついて受けるものです。
また、「第二の死」という表現は、「神の怒りは彼の上にとどまる」という表現を前にして、「滅びる」ことを意味していると言っても良いかもしれません。
「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」
(ヨハネの黙示録20章14節)
怒りが彼らの上にとどまっているのであれば、彼らは生きている人間でなければなりません。
「そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。
獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。」
(ヨハネの黙示録14章11節)
このように「彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る」のです。
彼らが生きているからこそ、苦しみを受けることができるのです。
「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」
(マルコの福音書9章48節)
もし、罪人が消滅してしまうなら、何かを持つことができません。
彼らは「彼らを食ううじ」を持つことになります。
「死」という言葉は3通りに使われます。
それは次の通りです。
最初に、罪による神からの道徳的な分離です。
二つ目に、魂と霊からの体の分離されることです。
三つ目に、神からの永遠の分離です。
これらは決して消滅を意味するものではありません。
最初の意味について、私たちは肉体と魂がこの地上で共に生きていた時のことをこのように聖書は語っています。
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、」
(エペソへの手紙2章1節)
二つ目の意味での死は、私たちが証明してきたように、存在しなくなることを意味するものではありません。
それ以外は解説する必要はありません。
三つ目の意味の言葉の使われ方ははっきりしています。
「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
(ヨハネの黙示録20章14、15節)
第二の死とは、永遠に存在する悲しみの存在です。
我々は「生きている死者」ということばを使うことがありますが、その意味ははっきりしています。
ここでの意味は「第二の死」とは、神の怒りの下での永遠の意識がある状態の存在を意味しています。
神からの永遠の分離は、不幸と苦しみを意味します。
なぜなら、真実の祝福と喜びは、神との正しい関係にあるからです。
では、「失われた者の刑罰は永遠に続く」かという疑問にもっと直接的に向き合ってみましょう。
もし聖書が述べているように、御子に聞き従わない者の上にとどまるなら、とどまるためには御子に聞き従わない者が存在していなければなりません。
これらの言葉のはっきりとした意味から逃れることはできません。
もし、信仰のない者が消滅するのならば、神の怒りは存在することはありません。
何年も前に、私たちはジャマイカの2人のセブンスデー・アドベンチストが、永遠の刑罰を信じていると著者に伝えたことを覚えています。
罪人が消滅するのであれば、刑罰は取り返しのつかない永遠のものになると彼らは主張していました。
勝ち誇ったようにこのように付け加えましたた
「永遠の刑罰とは、そのまま永遠の刑罰という意味ではありません。」
私は尋ねました。
「懲役三カ月というのは、懲役三カ月という意味ですか?」
彼らはそれを認めました。
私は答えました。
「文字通り、永遠の刑罰とは永遠の刑罰のことです。」
「条件付き消滅学派の代表的な著者は、同じ非論理的な誤った考えを使っています。
「私たちは永遠の刑罰を信じています。
しかし、永遠の刑罰を信じていません。
後者は偉大な妄想であり、前者は偉大な真実でです。」
(イルフォード会議報告書(Report of Ilford Conference)、1913年、56ページ)
しかし、消滅主義者は、聖書からこのように主張しています。
「からだを殺して(破壊して)も、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。」
(マタイの福音書10章28節)
殺して(破壊して)ということは消滅するということでしょうか?
そうではありません!
「破壊」とは、人、又は物を作られた目的から使用不能にすることです。
コップを落として粉々になります。
わたしたちは「それは破壊された」と言うのが正しい表現です。
これがこの言葉の意味です。
ギリシャ語で破壊を意味する言葉は「アポラミ(apollumi)」です。
例えを言うのであれば、私たちはこのように読んでいます。
「しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑「アポラミ(apollumi)」にするよう、群衆を説きつけた。」
(マタイの福音書27章20節)
ユダヤ人は主を消滅させることができたのでしょうか?
そんなことはありません。
しかし、彼らは神が許されるのであれば、イエスを殺すことができました。
それが、ここで言われていることです。
私たちはこのようにも読んでいます。
「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。
そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます「アポラミ(apollumi)」。
新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」
(マルコの福音書2章22節)
明らかに、ここでいうだめになる「破壊」という言葉は、皮袋が破裂して使い物にならなくなることです。
皮袋が消滅することではありません。
繰り返します。
「帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった「アポラミ(apollumi)」羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。」
(ルカの福音書15章6節)
良き羊飼いは、消滅した何かを見つけたのでしょうか?
いや、それはいなくなった「アポラミ(apollumi)」羊でした。
羊が見つけだされました。
すでに羊が消滅してたのでなく、失われた状態から救い出され「破壊」された状態から回復されたのです。
もう一度、繰り返します。
「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる「アポラミ(apollumi)」人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。」
(コリント人への手紙第二4章3節)
明らかに、ここで失われた者や壊された者とはこの世の罪人です。
福音がどこにも存在しない(消滅してしまった)人たちから隠されていると言っても無駄です。
同じ趣旨の文章をもっとたくさん引用することができます。
しかし、「壊れた」という言葉が「消滅」を意味しないことを示すのには十分です。
しかし、1913年に開催された「条件付き不死使節団(Conditional Immortality Mission)」会議の講演者は、大胆にも次のように述べました。
「「破壊する」の自然で聖書的な意味は非常に明確です。
辞書(Nuttall's Standard Dictionary)での意味は、破壊、もしくは燃焼により、滅びる、もしくは消滅することです。
不適切で矛盾した意味は、聖書の誤った解釈に合うように、真実な意味を変えようとする神学者の逃げ場にすぎません。
「ゲヘナ」は「破壊」の場所です。」
元のギリシャ語の「破壊」から表現された言葉が正しく翻訳されているかどうかを調べる必要があります。
その単純な用法からは、それは「消滅」を意味することはできません。
上記の演説者は「破壊する」の意味を得るために、「失われた」または「損なわれた」の意味を正確に辞書で調べた方がよいと思います。
このような戦術は恥じるべきです。
無知な生徒を裏切る行為です。
そして、最悪のタイプの不誠実だと言うことができます。
しかし、「永遠ではない」と教える教師たちは、「アイオニオス(aionios)」というギリシャ語が「恒久的な(終わりのある長い)時代(age-lasting)」だと主張しています。
そして、「恒久的な時代(age-lasting)」は、永遠という意味を持つことができません。
言語は人間が自分の考えを表現するために生まれたものだということを思い出すべきです。
言葉は必要性を満たすために作られたのです。
必要に応じて、言葉は使われるのです。
人間は時間と感覚に制約されています。
その実体は、その制約を超えたところにあるすべて自然界の外にあります。
死を超えたところにあるすべての真実な知識は啓示に依存しています。
そのことを考えるなら、人間の言葉では神に属する永遠の観念を表す表現には期待できません。
聖書を異教徒の言語を使って翻訳している宣教師たちは皆、人間の必要を満たすために言葉を作り、経験と環境によって制限された言語で神の考えを表現することの難しさを証言しています。
しかし、神の考えが明らかになるにつれて、より完全な意味が言葉に刻み込まれることが多くあります。
私たちはギリシャ語の「アイオニオス(aionios)」をはっきりと見て、すべての正直な読者に証明することができます。
この言葉の聖書的な使い方を述べる前に、この問題についての有名な権威から引用したいと思います。
アリストテレスの時代にはすでに「アイオニオス(aionios)」の語源が記されており、アリストテレスによってギリシャ語の「アイエナウン(αἱενῶν)」は「常に存在する」とされました。
アリストテレスの時代の初めにはその言葉の意味は「人の人生」という意味になります。
ホメロス(古代ギリシアの詩人)の「英雄の死」などで別の意味で使われています。
ずっと後になって、それは一つの完全な摂理ある時代、もしくは物事の状態を意味するようになりました。
しかし、言葉自体の意味は、明らかに「永遠」という意味を持っていました。
この言葉はユダヤ人哲学者フィロによって、確実で疑いようのない文章でこのように使われています。
「永遠(ἑν αἰῶνί)」は、過去も未来もありまえん。
ただ。存在するだけです。」
(J.N.Darby)
フィロ(Philo)の定義は確実です。
口を挟むこともできません。。
過去も未来もなく、現在も継続しています。
永遠の定義として、これほど際立つものがあるでしょうか?
フィロはヘレニズム時代のユダヤ人であり、使徒たちと同時代の人でした、
証人として特別な重みを持っています。
新約聖書で使われているギリシア語の言葉の問題である時に、私たちにはこれ以上の重い権威だと言えるものがありません。
歴史家であるモスハイム(Mosheim)の学説に異議を唱えるものはいません。
αἰῶνί(aion)は有限、または時間的なものとは反対に、無期限または永遠の継続期間を正しく意味すると主張しています。
ギリシャの哲学者アリアンはこのように言っています。
「私は一人の人間であり、すべてのものの一部であり、一日の1時間のように、一時間として存在し、一時間として過ぎ去らなければなりません。」
ここでアリアンは、人間としてのはかない存在と、永遠の存在とを対比させています。
そのためにαἰῶνί(aion)という言葉を用いています。
これらの著者は、言葉の意味として、永遠という考えを明確にしています。
ここで、はるかに重要なことに目を向けてみましょう。
それは、聖書がこの言葉をどのように使っているかということです。
「アイオニオス(aionios)」は新約聖書で71回使われています。
3か所だけが過去に適用されています。
「それは、神が、私たちの栄光のために、世界(aionios)の始まる前から、あらかじめ定められたものです。」
(コリント人への手紙第一2章7節)
「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世(aionios)の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」
(コリント人への手紙第一10章11節)
「もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世(aionios)の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」
(へブル人への手紙9章26節)
「アイオニオス(aionios)」は、これらの文章の文脈から見れば、時間によって制限された時代を意味します。
これ以外の場合においても、明らかにこの言葉は永遠を意味しています。
神に関連して1回だけ、神の権威に関連しても1回だけ使われています。
主との関係で2回、聖霊との関係で1回、「永遠の命(eternal life)」に対して42回、「永遠の至福(eternal bliss)」の時間を表現するのに14回、「永遠の刑罰(everlasting punishment)」の表現するのに14回使われています。
訳者注)永遠の元英語の使い方に要注意!
クリスチャンであることを告白している私たちは、神や主イエス・キリストや聖霊の永遠の存在を疑う者はいません。
すべての人はアイオニオス(aionios)が永遠を意味することを認めなければなりません。
私たちの英語の聖書でさえ、聖句によって明確に永遠の考えを示しています。
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも(aionios)続くからです。」
(コリント人への手紙第二4章18節)
文字通りの恒久的に続く時代(age-lasting)とは一時的なものです。
ここでは、ギリシャ語とは別に英語では、永遠なものと一時的なもの、つまり恒久的な時代として(age-lasting)が対比することができます。
この重要な句の教えていることには力があります。
ここに信者が永遠の命を持つことを肯定する42のたくさんの聖句のリスト、信者の祝福が永遠に続くことを肯定する14のたくさんの聖句のリスト、全部で56の聖句があります。
さて、これらの聖句から「アイオニオス(aionios)」が恒久的(age-lasting)だとして主張している本を探すことはできません。
永遠の命が永遠であることを確信を持って断言しますが、刑罰には永遠性がないと教える著者もいます。
なんと哀れな見解ではないでしょうか!
人間は、自分たちに都合のよいときには神の御言葉を受け入れ、自分たちに都合の悪いときには神の御言葉を拒むのです。
しかし、永遠の命とその祝福に言及している56の聖句と、永遠の刑罰に言及している7つの聖句のうち、両方の考えを伝えるものを探してみましょう。
確かに、このように表現されているのには意味があるからです。
「こうして、この人たちは永遠(aionios)の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠(aionios)のいのちにはいるのです。」
マタイの福音書25章46節
もし、刑罰が永遠でないなら、命も永遠ではありません。
普遍主義者も消滅主義者も、ここでは板挟みになっています。
同じ言葉は、ある人たちの刑罰の期間と、他方では命を区別するのに使われています。
この議論から逃げることはできません。
サモンド教授は「クリスチャンの不死の教義」の中で次のように書いています。
「形容詞の「アイオニオス(aionios)」が文の前半に1つの意味を持ち、後半に別の意味を持つとことは、絶望的な忠告です。」
このことに向き合う必要があります。
なぜなら、神が一つの短い聖句の中で同じ言葉を使って二つの異なる意味を表現しているとは、誰も言えないからです。
この言葉が、神、主イエス、聖霊の存続期間を表すのに使われているのを見るならば、この言葉の持つ意味に疑いを持つことはできません。
神はこの言葉に「永遠」の意味を刻み込んだのです。
永遠の刑罰についての考えが2つの方法で表現されています。
これらの聖句を見てみましょう。
「しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえ(aionios)の罪に定められます。」
(マルコの福音書3章29節)
そして、主による厳粛な宣言が繰り返されています。
「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。
不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。
もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。
片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。
片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」
(マルコの福音書3章42~48節)
これはエルサレムの外にあるベン・ヒノムの谷、つまりゲヘナとは対照的です。
そこでは何百万もの「うじ」が死に、何千もの炎が消されてゆきました!
しかし、ここにいる者たちの「うじ」は死ぬことがありません。
火も消されることはありません。
その意味を二重に説明するかのように、神の存在と永遠の刑罰についてさらに強い表現が使われています。
「また、四つの生き物の一つが、永遠に(文字通り、恒久的に)生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使いに渡した。」
(ヨハネの黙示録15章7節)
「そして、彼らの苦しみの煙は、永遠に(文字通り、恒久的に)までも立ち上る。
獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。」
(ヨハネの黙示録14章11節)
何とも強引な表現ですが、同じ著者です。
いくつかの聖句の中で、神は恒久的に存在し、失われた者の苦しみは恒久的に続きます。
つまり神が存在する限り、失われた者の苦しみは続くと断言しています。
また、苦しみとは、生きている状態を意味します。
消滅した者を苦しめることはできません。
存在しない者をこのように語ることはできません。
ですから、これらの失われた魂の苦しみが永遠に、恒久的に続くのであれば、これらの失われた魂は消滅していません。
苦しむには存在していることが必要です。
消滅したものを苦しめることはできません。
存在しないものをこのように語ることはできません。
これらの失われた魂の苦しみが永遠に、恒久的に続くのであれば、これらの失われた魂は、消滅するのではなく、意識を持って存在する必要があります。
しかし、神は哀れみ深く裁きなどしないと、たびたび主張されます。
これは真実です。
神は誰も故意に苦しみを味わわせるようなことはしません。
しかし、聖書は神が人に苦しみを与えないとは断言していません。
では、全地のさばき主は、正しい行いをなされるはずです。
王がしもべを裁いたからと言って誰が非難できるのでしょうか?
しもべは自分の行った悪行によって刑務所で囚人になるのです。
彼らは牢獄に入り、自分の良心を攻めるのです。
そこには苦い後悔があり、囚人の良心をくりかえし絶妙な裁きで満たします。
まともな感覚の持ち主なら、王が囚人を故意に裁いたと非難することができないはずです。
非難できるはずがありません。
彼らを苦しめているのは、自らの悪行です。
そして、その結果をくりかえし思い起こしているのです。
彼らは自分自身を苦しめているのです。
聖書はこのように語っています。
「主はご自身を知らせ、さばきを行なわれた。悪者はおのれの手で作ったわなにかかった」
(詩篇9編16節)
あるいは、さらに一歩踏み込んでみましょう。
悪い若者を罰するために、裁判官が鞭打ち刑に処す必要があるかも知れません!
それとも、裁判官は、犯罪者に重労働を課す必要があるかも知れません!
しかし、良心のある市民は悪行のために刑罰を受けるように宣告された人々を裁くことで判事や裁判官のことを非難できるでしょうか?
このような病的で感傷的な出来事を耳にすることはありませんが、これはよくある議論です。
もし、そのような言葉に威厳があるのなら、この厳粛なテーマにおいても考えさせられることがあります。
しかし、そのような言葉を使うと人の頭を逆なでしてしまいます。
火の湖に投げ込まれることが消滅を意味するのではないことをはっきりと示している明確な聖書箇所があります。
ヨハネの黙示録19章20節で私たちはこのように読みました。
「すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。
そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。」
(ヨハネの黙示録19章20節)
それから20章で、サタンは千年時代の間では、1000年間底知れぬ所で見ることができます。
そしてその時代の終わりに解き放たれ、短い反乱を起こします。
私たちは次のように読んでいます。
「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。
そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」
(ヨハネの黙示録20章10節)
ここで私たちは二つの事を学ぶことが出来ます。
1000年以上の間、獣と偽預言者の二人は火の湖の中にいます。
やがて、サタン自身も加わり、彼らは「永遠に(文字通り、恒久的に)昼も夜も苦しみを受ける」のです。
これを直視して、刑罰は永遠ではないと言えるのでしょうか?
「昼も夜も」という表現を見て、厳粛な真理を削ぎ落とそうとする試みがあることは知っています。
これは真理に対する無益な反論であり、もっと悪いことです。
さらに、もしそう主張するのであれば、「永遠に(文字通り、恒久的に)という表現もあります。
事実、「昼も夜も」という表現は、刑罰の継続性のある特徴を強調しているに過ぎません。
しかし、反対論者は「火の池の中に人が行っても、すぐに消滅するわけではない」と言うかもしれません。
「ゲヘナ」、「火と硫黄の燃える池」、「彼らを食ううじ」、「外の暗やみ」などの聖書の御言葉を、怪しく、それも描写的に、聖書に基づかない方法で勝手に説教されてきました。
私たちは、計り知れない害がなされてきたと考えています。
説教者は聖書の御言葉をそのまま使うべきです。
もし、使わないのであれば、私たちは聴衆に対する誠実さに欠けていると考えます。
地獄の火と永遠の刑罰の危険性を聴衆に警告させる必要があります。
これは聖霊が教える言葉で厳格に行うことです。
はっきりしていることが一つあります。
これらの言葉が象徴的であると主張されても、私たちが考えている恐ろしい真実を軽んじることはできません。
そのことを決して忘れないようにしましょう。
主イエスは、無限の知恵と、失われた者への限りない憐れみをもって、わかりやすい警告の言葉を用いられました。
私たちは、それを奪ったり、追加したりせずに、その言葉を忠実に守るべきです。
故ロバート・アンダーソン師は次のように書いています。
「悔い改めのない者の運命についての主イエスの教えは非常に恐ろしいものがあります。
この問題についての様々な主張は聖書の御言葉に照らし合わせて厳密に従う必要があります。」
私たちは心から同意することができます。
しかし、聖書の御言葉をそのまま使うべきです。
私たちは聖書の御言葉が聖霊の剣であることが分かるはずです。
しかし、聖書には、異論を唱える人を黙らせるような、二つの注目すべき出来事があります。
モーセがホレブでしゅうとイテロの群れを飼っていたとき、彼は不思議な光景を見ました。
「すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。
よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。」
(出エジプト記3章2節)
注7)ここに二つの聖句があります。 「自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。」 (コリント人への手紙第一11章14節) 「あるいは地に話しかけよ。それがあなたに教えるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。」 (ヨブ記12章8節) これは、私たちの身の回りにある物を実例として私たちに教えてくれています。 燃える柴の場合を見るのであれば、起こったことは自然に反していました。 自然界には亜麻に似た細かい繊維組織のアスベストという驚くべき鉱物があります。 これは不燃性でその名前はギリシャ語(asbestos)に由来しています。 この言葉は聖書の中で次のように使われています。 「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。 麦を倉に納め、殻を消えない(asbestos)火で焼き尽くされます。」 (マタイの福音書3章12節) 「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。 不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ(asbestos)火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。」 (マルコの福音書9章43節) 「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消える(asbestos)ことがありません。」 (マルコの福音書9章48節) 「また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない(asbestos)火で焼き尽くされます。」 (ルカの福音書3章17節) ここには神の力に限界を感じることができません。 私たちは、聖書に示されていることを除いて、私たちが知らない状態以上のことは推測しない方がよいと考えます。 |
上げ足を取ろうとする人は「柴が燃えているのに、燃え尽きないことなどありえない!」と言うかも知れません。
しかし、私たちはそれが事実であった明白な記述を見ることができます。
また、三人のヘブル人の子どもたちは7倍熱くされた燃える炉の中に投げ込まれました。
彼らを投げ込んだネブカデネザルの軍勢の勇士たちは、その激しい炎に打たれて死んでしまいました。
しかし、三人のヘブル人の子どもたちは、焼かれることもなく、髪も焼けず、衣服にも火のにおいがつきませんでした。
ただ、彼らを縛っていた縄だけが失われただけでした。
あなたはこのことを説明できますか?
むしろ、神の言葉に疑いを持たず、その言葉に書かれていることを信じようではありませんか!
私たちは心に留めておかなければなりません。
私たちは、この人生で得た死ぬべき肉体についての条件を、裁きのために甦させられた救いのないの肉体に適用することはできません。
それは我々の無知を裏切ることになります。
ここに表現に豊んだ聖句があり、多くの考える余地を与えています。
この聖句は神の子がゲヘナについて厳かな警告をしています。
「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。
塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。
あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」
(マルコの福音書9章49、50節)
私たちの多くの者が塩の保存能力を知っています。
肉は塩によって腐敗を無期限に止めることができます。
これは、道徳的に腐敗した世界を、主はその恵みの塩によって御自分の民を守ろうとしているのです。
捧げられた物は塩で塩漬けにされ、神が御自分の民を周囲の汚れや腐敗から守るという事実を象徴しています。
有名な著者がこのように言っています。
「塩は私たちの内にある神のエネルギーです。
私たちの内にあるすべてのものを神と結びつけます。
神に心を捧げ、義務と欲望の意味で神に心を縛りつけ、神に反する自分自身のすべてを拒絶させるものです。」
(J・N・ダービー)
このように塩には素晴らしい使い道があります。
しかし、これ以外の使い方として「火と塩」ほど恐ろしい言葉はありません。
「火は、破壊して消滅させるのではなく、まったく逆のことをします。
塩は防腐剤なので「火は消えません。」
オックスフォード運動の指導者の一人、牧師、詩人であるケブル氏は真実を言っています。
「火で塩漬けにされた彼らを見ることができます。
終わりのない苦悩の中で失われた魂です。
朽ちることなく、彼らは生きてゆくのです。」
私は、個人的な会話の中で、刑罰が永遠でないことを肯定する人たちは、ほとんどあるいは全く聖書に訴えていません。
感情と理性だけで訴えていることに気がついています。
彼らは、神は刑罰を行うことはできないし、刑罰を行うつもりもないと私たちに言います。
しかし、聖書は正反対のことを教えているかもしれません。
彼らと一緒にいるだけでは、一般的に問題は何もないと私は思っています。
しかし、彼らと裁きのことで語り、神が何をしようとしているのか、何をしようとしていないのかを確認します。
読者の皆さんには、この問題について、感情や理性に振り回されないようお願いします。
聖書がはっきりと教えてくれているからです。
「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。
また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」
(コリント人への手紙第一2章14節)
「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。
それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」
(ローマ人への手紙8章7節)
「聖書には何と書いてあるのでしょうか?」
それだけであり、すべてです。
私たちは固い地面に留まるだけです。
私たちが安全なのはそこだけです。
このテーマに関連した本があります。
最近、牧師によって書かれた普遍主義を肯定する本です。
アーサー・チェンバース牧師(Arthur Chambers)による本です。
100回以上の版が繰り返され、その本はよく知られています。
著者は「アイオニオス(aionios)」という言葉を、どのような意味においても永遠という考えを大胆に否定しています。
私たちが指摘したように、異教徒の作家でさえその意味でこの言葉を使ってきた方法を彼は知っているはずです。
しかし、彼はそれらについて述べていません。
彼はその問題について私たちに教えることを引き受けています。
私たちは彼がそのことを完全に理解していると期待しています。
さらに、彼は永遠の刑罰は恒久的に続く限り(age-lasting)、そして、整合性を持たせるために、永遠の命も恒久的に続く(age-lasting)限りと大胆に否定しています。
彼の主張の詭弁は極端に使い古されています。
新約聖書で56回も語られている永遠の命です。
この著者は、神が御言葉の中で神が与える神の命は恒久的に続く限り(age-lasting)だけだと56回も言っていると、あえて私たちに伝えています。
しかし、彼はすぐに命は永遠ではなく、恒久的に続く限り(age-lasting)だけと断言し、他の聖書箇所に証拠を求めています。
神は聖書の言葉を巧みに操るのでしょうか?
神の与える命は永遠であり、それ以外の何ものでもありません。
それとも、神の命は恒久的に続く限りのものであり、それも何度もくり返し断言されているのでしょうか?
そのような議論は、神御自身は言うまでもなく、どんな誠実な人だとしてもふさわしくありません。
しかし、この牧師は「アイオニオス(aionios)」が神ご自身について一度だけ使われていたことを忘れたのでしょうか?
神は時代が続く限りの神だけですか?
神の権威はどうなるのですか?
それは時代が続く限りだけですか?
罪人の望みの基となる主イエスについても2回使われています。
イエスは時代の続く限りの救い主なのですか?
聖霊に関しても2回使われています。
聖霊の神性は時代が続く限りなのですか?
これらの質問をすることは、質問に答えるためです。
なぜ、この牧師は、「アイオニオス(aionios)」という言葉が使われている聖句の一つに言及しなかったのでしょうか?
彼は確かにこのことを知っていたのです。
なぜ、彼はこれらの聖句を参照しなかったのでしょうか?
実際には彼はこれらの聖句と向き合うことができなかったのです。
ゆえに、無視したのです。
これは一貫しているでしょうか?
このような行為によって目的が達成できるのでしょうか?
ここには、御言葉を欺いて扱う者に聖書が与える非難があります。
彼だけが立っていられるわけがありません。
「エホバの証人(Millennial Dawnism)」、「クリスチャン・サイエンス」、「クリスチャデルフィアニズム(Christadelphianism)」、「モルモン教」、「セブンスデー・アドベンチズム」、新神学など、すべての反キリスト教の背教は、神の言葉を欺くことによって、永遠の刑罰を公然と否定することで団結しています。
これといっしょに、主イエスの神性とその贖いの御業についての冒涜的な教義も存在しています。
最近、私たちはこのような欺く者の一人が、神が不従順な罪人に死刑の宣告を下し、アダムが罪を犯したときには次のような判決が下されたと、千人近い聴衆に語っているのを聞きました。
「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
(創世記2章17節)
人間は死すべきものとなり、やがて死に、滅び、肉体は死に、魂は死に、霊は死に、それが裁きだったと言うのです。
つまり、死後は意識が存在しません。
彼は死がすべての裁きであると主張し続けました。
神がそのように言ったのだから、私たちはこのことを信じなければならないと述べました。
このような聖書の欺いた扱いは、私たちを正しい憤りへと向かわせました。
私たちは、誰もが聞くことができるように、大声で、はっきりと、きびしく語る必要があります。
聖書はこのように言っています。
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」
(へブル人への手紙9章27節)
「死後が裁きであるなら、どうして死が裁きになりえるのか!」
攻撃の中で少しの間、演説者は、かなりよろけているように見えました。
その背後には神の言葉と聖霊の力があったことを私たちは確信しています。
彼は気を取り直して、このように言いました。
「聖書のすべての節を一度に説明することはできません。
これから、私は創世記2章17節を引用しています。」
彼には回避するしか方法がありません。
それは勇敢でも男らしい方法でもありません。
しかし、群衆を騙す方法の手本を与えてくれます。
刑罰は永遠ではないという理論は、霊的なクリスチャン、聖書に深く教えられたクリスチャン、もしくは具体的に、誠実な生き方生、真剣な目的意識、信じていない人々への働きかけの成功によって特徴づけられるクリスチャンに適応できるでしょうか?
私たちの経験上、それはありえません。
このような神学は、チャールズ・ブラッドローやインガソール大佐のような下劣な異教徒によって、私たちの初期の時代に広げられました。
その後、ファーラー大教会長やウィルバーフォース大教会長のようなクリスチャンを公言する人々の大胆な霊によって提唱されました。
小説の中にさりげなく織り込まれ、時には詩の中で誘惑的に提唱され、そして現在ではキリスト教世界の一般的な信条となるまで発展しました。
単なるクリスチャン、世俗的なクリスチャン、聖書、神、罪、贖罪について乏しい考えを持つ人にこの説が示されると、人の心にすぐに反応が返って来ます。
それどころか、永遠の刑罰という真理は、クリスチャンとしての実践者、尊敬の念をもって仰ぎ見ることのできる人々、聖書の真実な研究者として特徴づけられる人々、神の民を助けたり、救われていない人々に手を差し伸べたりするために神によって大きく用いられる人々の中に見出すことができます。
これらの事柄は、正確には議論ではありません。
聖書からの真理をはっきりと立証された今、確証として入って行くことができます。
私たちが期待する通りです。
私たちは、聖書が真理が受け入れられることを望みながら、物事を述べていることを確信しています。
私たちは、昔の使徒たちのように、「学識がなく無知」かも知れません。
しかし、霊的で敬虔な弟子の解説に耳を傾けるほうが、学識と知力だけに頼っている弟子の解説に耳を傾けるよりはるかに良いのです。
ヘブル語とギリシャ語の知識は最も役立ちます。
しかし、他にももっと必要なことがあります。
それは、主イエスを真に信じ、聖霊に頼って真理を教え、受け入れることです。
そのような人の手にある学問は非常に価値があります。
著者はそれを過小評価することはありません。
聖書は学識のある人や学者のためだけでなく、キリストを素直に信じる人のために書かれたものです。
学識のある人や学者がその中にいれば幸せだと感じるのならば、聖書に近づくことは慰めとなるのです。
20世紀の宗教的不信仰に惑わされてはいけません。
神を信じない罪人に対して、永遠の刑罰、すなわち神の怒りのもとで、意識を持って永遠に存在し続けるという恐ろしい危険が存在しています。
初めて聖書を読んだ素朴な信者であれば、この危険が警告されていることを信じています。
そのような者はその使命感から立ち上がるはずです。
そして、この問題について注意深く調査することが必要になる時が来ると思います。
この世の常識として考えず、このテーマについての聖書の教えを一歩一歩調べて見てください。
ならば、このテーマに関する神の言葉の教えを疑うこともなく、調査から始まり先に進むことができるのです。
聖書の厳粛な教えは、神を信じない者の刑罰は永遠であり、それは火の池の中で意識を持った状態で終わりのない刑罰であることです。
私たちはその教えにひれ伏し、書き手や読者が福音にいっそう熱心に心を傾けられるように祈るばかりです。
聖書には次のように書かれています。
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」
(ローマ人への手紙1章16節)
もし、このことが神を信じていないあなたの目にとまったならば、一刻も早く主に立ち返ってください。
屈辱の十字架の上で死なれた方を救い主として信頼してください。
それは、いのちと救いの道が 「御心に適う者」 に正しく明らかにされるためです。
なんという栄光に満ちた福音なのでしょうか!
救い主は、これを聞く者に地獄についてきびしく警告されています。
イエスは憐みの座におられる、あなたがたの救い主なのでしょうか?
それとも、偉大な白い御座であなたがたを裁く方なのでしょうか?。
永遠の命と永遠の刑罰とは、あなたがたへの持ち分です。
神の聖なる御前でこれらの質問に答えてください。
あなたは救われているかも知れません、そして、今、救われているでしょうか。
あなたにとって、イエス・キリストはどんな御方なのでしょうか?
「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」
(テモテへの手紙第一2章6節)
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
(ローマ人への手紙10章9節)
「神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」
(コリント人への手紙第二6章2節)
2025/4/2 終了