メッセージAW 2025/7/5
ローマ人への手紙の講義
H・A・アイアンサイド

Notes of Lectures on the Roman Letter
By H.A.Ironside


ニュージャージー州ネプチューン
初版、1928年 第26刷、1984年8月 LOIZEAUX BROTHERS, Inc発行
主の働きとその真理の普及に専心する非営利団体
ISBN0~87213~386~9
印刷 アメリカ合衆国

序文 本書は、イリノイ州にあるシカゴのムーディー聖書学院、テキサス州、ダラスの「エバンジェリカル・セオロジル・カレッジ(Evangelical Theological College)」の学生、および近年、米国とカナダで開催されたさまざまな聖書会議で行われたローマ人への手紙の講義です。
これらは、この講義を聞いた多くの人々の熱心な願いに応えて、また、口頭で伝えられない多くの人々の祝福のために神によって用いられることを願って、印刷された形で送られます。
著者は、自分より前に同じテーマを論じてきた著者や講演者に、自分が認識している以上に多大な感謝を感じています。
オリジナル性については主張しません。
これらの講義は神の真理であり、いかなる教師の真理でもなく、神の栄光のために管理に委ねられています。
ここに祈ります。

H・A・アイアンサイド

シカゴ、3街区、1930年9月


訳者からの紹介

AI翻訳もかなり進んできましたが、AIゆえに内容を曲げてしまう可能性もあります。
できるだけ、有意義に、短時間で読めるように、若干、手抜とも思われますが、多くを読むという目的で日本語化しました。

2025年7月5日


目次

区分1 教義 1~8章
福音書の中にある神の義


講義1 テーマと分析

講義2 挨拶と序文

講義3 福音の必要性

講義4 私たちの罪との関係における福音

講義5 内在する罪との関係における福音

講義6 恵みの勝利

区分2 ディスペンセーショリズム 9章~11章
神の義と神の摂理の調和


講義7 選びの恵みにおける神のイスラエルに対する過去の対応

講義8 イスラエルに対する、現在の神の秩序の支配における扱い

講義9 預言書の成就、将来におけるイスラエルに対する神の対応のしかた

区分3 実践編 12~16章
信仰者の中において、実践的な義を生み出す神の義


講義10 クリスチャンの歩み ― 信仰の兄弟と世の人々との関係において

講義11 信じる者と、政府、および社会との関係についての神のみこころと、および手紙の閉め


区分1 教義
福音書の中にある神の義
1~8章


講義1 テーマと分析

ローマ人への手紙は、神が喜んで私たちに与えてくださった人類救済の神の計画を最も科学的に述べたものであることは間違いありません。
霊感の問題とはまったく別として考えるのなら、私たちはこの手紙を、人類がこれまでに考え出した最も輝かしい哲学をも超える、超越的な知的力の論文として考えることができます。

注目すべきは、聖霊が、その贖いの計画をその威厳と偉大さをもって展開するために、無学な漁師や地方のガリラヤ人を選んだのではないということです。
聖霊が選んだのは、国際的な視野を持つ人物でした。
ローマ市民でありながら、ヘブル人の中のヘブル人でした。
ギリシアとローマの伝承、歴史、宗教、哲学、詩、科学、音楽に精通し、神の啓示として、またラビの伝統の総合的に、そして律法、預言者、詩篇の聖なる遺産に加えられたものとしてのユダヤ教にも精通した教育を受けた人物でした。
この人は誇り高き教育の中心地キリキアのタルソスに生まれ、エルサレムでガマリエルのもとで育てられ、この永遠の手紙の中で見事に述べられているように、信仰の従順と祝福された神の栄光の福音をすべての国々に知らせるために選ばれた器でした。
明らかに、この手紙はマケドニアからエルサレムへの旅の途中のどこかで書かれたもので、伝承によればおそらくコリントで書かれたものと思われます。
異邦人の集会によって与えられた恵みを、肉と主に従う信仰の兄弟であるユダヤ人クリスチャンにもとへ運ぶために、ヨーロッパを離れパレスチナに向かおうとするパウロの心は、使徒たちの直接の働きとは別にキリスト教会がすでに形成されていた古代世界の女王、「永遠の都」ローマを熱望していました。
彼はメンバーの多くにはすでに知られていました。
しかし、それ以外のメンバーにとっては見知らぬ人でした。
しかし、パウロは、キリストの真実な父として彼ら全員を慕い、自分に託された貴重な宝を彼らと分かち合いたいと熱望していました。
聖霊はすでに、ローマ訪問が神の御心であると示していましたが、その時期と状況は彼には隠されていました。
そこでパウロは神の計画についてのこの解説を書き、仕事でローマに呼ばれていたケンクレヤの会衆の執事で敬虔な女性であるフィベにそれを送らせました。
この手紙は、フィベをその地のクリスチャンに紹介し、パウロに託された証言に従って福音書で明らかにされた神の義の素晴らしい展開を彼らに伝えるという二重の目的を果たしています。
このような時代に、この比べることの出来ない書簡を一人の女性の弱々しい手に託した恵みを、どれほど深く考えてみてください。
神の教会全体は、何世紀にもわたって、フィベと、彼女の尽きることのない賛美を見守ってきた神に、感謝の念を抱いています。
彼女は貴重な原稿をローマの長老たちの手に、そして彼らを通して私たちに無事届け、それを守ってくれました。
この書簡のテーマは神の義です。
この書簡は旧約聖書の聖句を驚くほど豊かに短く解釈している、霊感を受けた解説の3部作のうちの1つです。
この文章はハバクク書2章4節にあります。

「正しい人はその信仰によって生きる。」
(ハバクク書2章4節)


新約聖書に3回引用されており、代名詞「彼」が省略されています。
ここで述べられている3つの手紙とは、ローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、ヘブル人への手紙のことです。
いずれもこの聖句に基づいています。
ローマ人は特に「義」と「信仰」という二つの単語に関係しています。
そのメッセージは「義人は信仰によって生きる」というものです。
これはヨブ記で提起された次の聖句の問いに答えています。

「人はどうして神の前に正しくありえようか。女から生まれた者が、どうしてきよくありえようか。」
(ヨブ記25章4節)


ガラテヤ人への手紙では「義人は信仰によって生きる」という言葉を解説しています。
ガラテヤ人の誤りは、私たちは信仰から始まるが、行いによって完成されると考えていた点にありました。
しかし、使徒は、私たちが義とされたのと同じ信仰によって生きていることを示しています。

「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。
御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」
(ガラテヤ人への手紙3章3節)

ヘブル人への手紙でも「義人は信仰によって生きる」ことが引用されています。
これらの聖句は、義とされた信じる者が歩む唯一の道である信仰と、信仰の本質と力を強調されています。
ちなみに、これが、ヘブル人への手紙の著者がパウロであるという主張に反対する多くの議論を注意深く検討しました。
その後で、それがローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙を書いたのと同じ人物に正しく帰属していることに私が少しも疑いを持たない理由の1つがここにあります。
また、このことは使徒ペテロの第二の手紙3章15、16節での証言によって確認されています。
この手紙はペテロは改心したヘブル人に向けて手紙を書いており、パウロもまた彼らに手紙を書いているからです。
ローマ人への手紙は、簡単に3つの大きな部分に分けることができます。
1~8章は教義に関するもので、福音書で明らかにされた神の義を私たちに与えてくれます。
9~11章はディスペンセーション的であり、神の義が神のディスペンセーション的な方法と調和していることを私たちに示しています。
12~16章は実践的であり、信じる者の中に実践的な義を生み出す神の義について述べています。
これらのそれぞれの区分は、自然にさらに小さな区分に分割され、さらにセクションとサブセクションに分割されます。
以下の概要を提示するのは、あくまでも示唆的な目的のためだけです。
注意深く学ぶ人たちのために、それぞれの特定の部分にもっと適切な名称を考え出す必要があるかもしれません。
おそらく他の配置に従ってさまざまな段落を分ける方が簡単だと感じるかもしれません。
しかし、私にとってはシンプルで分かりやすいと思われる次のように解析し提案します。

私は学生たちに、手紙そのものの勉強を始める前に、できればこの概要、あるいは類似した手紙の分析を記憶しておくことの重要性を強く訴えます。
大きな区分と細分を心の中にしっかりと固定できないと、後になって誤った解釈や混乱した見解が生じる可能性が高くなります。
たとえば、多くの人は、ローマ人への手紙の14回の講義を通じて、義認の問題が3~5章で解決されていることに気づかず、第7章に至るならば非常に困惑しています。
しかし、述べられている最初の章の教えがはっきり理解されれば、7章の人物は罪人が神に受け入れられるかどうかという問題を再び提起しているのではなく、聖徒が神くに歩むことについて懸念していることがわかります。
それからまた、使徒の意図を完全に超えて、9章に永遠の問題を読み込み、あたかもこれらがここでの主な問題であるかのように天と地獄を持ち込むのであれば、たましいの問題として気が散らされる結果になります。
その反面、この個所は神はイスラエルに対する神の主権的な選びの恵みと、国家としての一時的な拒絶という、重要な摂理の問題を扱っています。
その一方では、神の恵みは特別な方法で異邦人に及んでいることがわかります。
私が今回これらの例を挙げたのは、この書や聖書の他の書を学ぶ際に「健全な言葉の概要」を持つことの重要性をそれぞれの学生に印象づけるためです。
さらに、いくつかの提案を追加します。
時々、物事を心に留めるために「キャッチワード」を持つのは良いことです。
ある人はローマ人への手紙を「フォーラムの手紙」と適切に呼んでいます。
つまり、「一般的な、公開された手紙」という意味です。
「これは一番役に立つと表現だと思います。」
この手紙では、罪人は法廷、フォーラム、判決の場に連れて行かれ、完全に有罪で破滅させられることが示されます。
しかし、キリストの働きにより、あらゆる罪状から義とされるという正しい基盤が築かれました。
神はここで終らず、罪人を信仰者として公然と認め、その罪人を恵まれた民族の国民とし、その罪人を神の相続人として認めます。
したがって、すべての反対者に対して、「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」という挑戦状を投げかけることができます。
すべての声は沈黙します。
なぜなら、「神が義と認めてくださるのです」からです。これは義を損なうのではなく、義と完全に一致して行われます。
この見解は、議論の中で頻繁に見られる法律用語や司法用語を使用して、わかりやすく説明されています。
かつて、死に瀕した罪人に「救われたいと思わないか」と尋ねたことがありました。
彼は「もちろん、そうでありたい」と答えました。
そして、真剣になり、彼は「だが、私を救う時に、神は私に何も悪いことはしてほしくない」と付け加えました。
ローマ人への手紙を通して、パウロは「キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」ということを語っています。

ソクラテスがキリストの500年前に自分自身をどのように表現したかを知っているでしょうか!
「神は罪を許すことができるかもしれないが、その方法が私には分からない」とソクラテスはプラトンに語りかけました。
聖霊はこのことをこの手紙の中で詳しく取り上げています。
神は自分の義を犠牲にして、罪人を救うのではないことをイエスは示しています。
言い換えるのであれば、たとえ救われるとしても、それは憐れみが勝利するために義が無視されたからではありません。
憐れみが道を見つけ、神の義が完全に成就され、罪深い罪人が高き天の御座の前で義とされたからです。
使徒ヨハネは、ヨハネの手紙第一1章9節で、同じ驚くべき真理を示しています。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
(ヨハネの手紙第一1章9節)


神の教えを受ける前の私たちの貧しい心にとって、もしこの意味が「神は憐れみ深く、深い赦す恵み」と読めたなら、それはもっとも自然な読み方だと思えるはずです。
福音は、最も驚くべき方法で神の憐れみを明らかにし、他の何物にもできないほど神の恵みを称賛させるものです。
しかし、それが義の固い基盤の上に成り立っているからこそ、信じるたましいにこのような揺るぎない平安を与えることができたのです。
キリストは死なれ、十字架上でそのからだに私たちの罪を負われたキリストを信じる者を、いまだに神が非難しているならば、神はキリストに対して忠実であることはできません。
また、信じる罪人に対しても公正であることはできません。
したがって、ローマ人へのこの手紙で強調されているのは、神の義です。
それは旧約のダビデがこのように叫んだのと同じです。

「あなたの義によって、私を救い出し、私を助け出してください。」
(詩篇72編2節)


ルターはこの聖句を黙想していたとき、彼の暗いたましいに光が差し始めました。
ルターは神が義によって自分のたましいを滅ぼすことができることを理解していました。
しかし、神が義によって自分を救うことができることを知った時、彼のたましいは平安を得ました。
そして、福音書で示された神の義の栄光あるストーリの展開を通して、数え切れないほどの多くの人々が「神は義なる者は救うことができる」のかを知りました。
そして、困惑からも同じように解放されたのです。
この手紙を研究するときにこのことが理解できなければ、私たちは神がこの手紙を与えられた偉大な目的を見逃していることになります。
私はもう一つの考えを付け加えたいと思います。
それは特に、他の人に福音を伝えようとしている人々にとって重要なことだと私は信じています。
それは次のことです。
ローマ人への手紙では、救われていない罪人に福音が説かれるのではなく、聖徒に福音が教えられています。
このように見ることはとても重要なことだと私は信じています。
救われるためにはキリストを信じるだけでよいのです。
しかし、神が私たちに与えようと意図しておられる喜びと祝福を得るためには、私たちの救いを理解しキリストの働きが私たちの中に明らかにされる必要があります。
これが、この貴重な手紙の中で聖霊が成し遂げられたことです。
この手紙は、すでに救われている人々に対して、彼らの救いの根拠となる確かな基盤、すなわち神の義を示すために書かれたものです。
信仰によってこのことを理解するならば、疑いや恐れは消え、たましいは安定した平和に入ることができます。


講義2 挨拶と序文 1章1~17節

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
(テモテの手紙第二3章16節))

この書簡を一節ずつ検証してゆくならば、上記の聖句の貴重な真理をもう一度思い出すことができます。
神は御言葉を通して語っておられます。
そして、この手紙には神が人類にこれまで与えてきた最も重要なメッセージがいくつか含まれています。
したがって、私たちは祈りと自分を裁くという霊、精神によって聖書の研究に取り組むのがよいと思われます。
自分の先入観をすべて脇に置き、神が霊感を受けた言葉を通して私たちの考えを正し、あるいはもっと優れた神の考えが私たちの考えに取って代わっていただくことを求めています。
すでに述べたように、最初の7節は挨拶文であり、慎重な検討が必要です。
ここでは、いくつかの非常に貴重な真実が、一見とてもさりげない方法で伝えられています。
著者パウロは、自分のことを文字通りイエス・キリストのしもべ、奴隷と呼んでいます。
しかし、彼が言っているのは、自分の従順が奴隷の従順だったということではなく、むしろ、自分が「代価を払って」、キリストの尊い血によって買い取られたことを悟った者としての心からの従順だったのです。
あるアフリカ人の奴隷の主人が槍でその奴を殺そうとしました。
そこに、騎士道の精神にあふれた英国人の旅行者が槍の攻撃を防ごうと腕を突き出し、その腕は残酷な武器で突き刺されたという話があります。
血が噴き出すと、彼は奴隷の身柄を要求し、苦しみによって奴隷を買うと言いだしました。
これに対し、元の主人は残念ながら同意しました。
その奴隷の救い主が立ち去ると、奴隷は救い主の足元にひれ伏し、「血によって買われた者は今や憐れみの子の奴隷だ」と叫びました。
彼は忠実にその救い主に仕えました。
そして彼は、その寛大な救出者に同行することを主張し、さまざま方法で彼に仕えることを喜びました。
同じようにパウロは、贖われたすべての人々をイエス・キリストの奴隷と表現しました。
私たちは仕えるために自由にされました。
詩篇作者とともにこのように叫ぶことができます。

「ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを解かれました。」
(詩篇116篇16節)


パウロは一般的な意味でのしもべであっただけでなく、特異で高貴な特徴を持つしもべでもありました。

「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、」
(ローマ人への手紙1章1節)

パウロは召された使徒でした。
英語KJV訳聖書にあるように「使徒となるように召された」のではありません。
KJV訳「to be」という単語はイタリック体で書かれており、意味を完成させるという意味ではありません。
小さなことのように思えるかもしれませんが、7節にも同じ挿入があります。
後で検討するとわかるように、完全に誤解を招くものとなっています。
パウロを十二使徒の一人と考える必要はありません。
使徒の働き1章にあるマッテヤの任命の正当性に疑問を抱く人もいます。
くじ引きによるマッテヤの選出は、古い体制の最後の公式行為と考えてよいのではないかと私は思います。
ヨハネのバプテスマ以来、主と弟子たちと共にいた者によって、ユダが失った地位を埋める必要がありました。
私たちが一般的に千年王国と呼んでいる地球が再生された栄光の時代が来ます。
その時にイスラエルの十二部族を裁く子羊の座に座る十二使徒の数が完成させる必要がありました。
このように、パウロの宣教には異なった性格が存在しています。
パウロは異邦人への使徒として飛びぬけており、特別な「奥義のディスペンセーション」が委ねられていました。
これにより、パウロの使徒職は十二使徒の使徒職とはまったく異なる次元に位置づけられることになります。
弟子たちは地上でキリストを知っていました。
また、弟子たちの働きははっきりと神の王国と家族と結びついていました。
まず、パウロは主を栄光を受けたイエスとして知りました。
彼の福音は。明らかに栄光の福音でした。
パウロは「神の福音のために選び分けられた」のです。
私たちはこの分離を、いくつかの異なる観点から正しく考えることが必要です。
パウロは生まれる前からこの特別な働きのために選ばれていました。
モーセ、エレミヤ、バプテスマのヨハネの例と同じ様に、イエスは母親の胎内から分けられました。

「けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方」
(ガラテヤ人への手紙1章15節)


まず、パウロは肉の弱さと無益さを学ばなければなりません。
神はパウロに憐れみをかけ、パウロはキリストのいない民の中からから分けられ、神の恵みによって召命を受けたのです。
しかし、それだけではありません。
パウロはイスラエルの人々からも、異邦人の国々からも特別な意味で分けられ、自分が目撃した事柄についての伝道者および証人となったのです。
そして最後に、パウロは異邦人に福音を伝えるという特別な働きのためにバルナバとともに分離されました。
ピシデヤのアンテオケで、兄弟たちは神の命令に従って彼らに手を置き、福音をその先の地域に伝えるために彼らを送り出しました。
この福音はここでは「神の福音」と呼ばれています。
9節では「御子の福音」と呼ばれています。
16節では「キリストの福音」と呼ばれています。
「キリストの」という言葉は最良の写本のいくつかには出てこないので、削除される可能性があります。
英語KJV訳聖書の2節は括弧で囲まれており、この福音を旧約聖書の時代に約束され、聖書の中で預言者によって預言された喜ばしい知らせと同一視されています。

「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、」
(ローマ人への手紙1章2節)


つまり、すべての預言者たちが、キリストの御名によってキリストを信じる者は誰でも罪の赦しを受けると証言しているということです。
テモテの手紙第二ではこのように記されています。

「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」
(テモテの手紙第二3章15節)


福音は新しい律法ではありません。
福音は道徳や倫理の規範ではありません。
福音は受け入れられるべき信条ではありません。
福音は従うべき宗教組織ではありません。
福音は従うべき良いアドバイスではありません。
福音は、神の御子、私たちの主イエス・キリストという神聖なる御方について与えられた神からのメッセージです。
この栄光ある存在は真実な人間であり、また神そのものです。
キリストはダビデの根から生じた枝であり、それゆえ真実な人間です。

「御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、」
(ローマ人への手紙1章3節)

イエスはまた、人間の父親を持たない処女から生まれた神の御子です。
これはイエスの力ある働きによって証明されています。
聖霊は死者を生き返らせ、この祝福された事実を証しをしました。

「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」
(ローマ人への手紙1章4節)


「死者からの復活によって」という表現には、もちろん、イエス自身の復活も含まれています。
そして、ヤイロの娘、未亡人の息子、ラザロの復活も含まれています。
このように死から獲物を奪い取ることができたのは、神と人を兼ね備え、祝福された愛すべき人です。
イエスは今も、そして永遠にすべての人々に礼拝され、ほめたたえられるべき存在なのです。
パウロは、神の召しによって、復活された方から、惠みと使徒の職を受けました。
それは、キリストの御名のために、すべての国々に福音を知らせ、信仰の従順をもたらすためでした。
パウロはデメリットを好んでいただけではなく、長所をも好んでいました。
それは反対者のために用いるためでした。
したがって、パウロの使徒としての資格はローマにいた人々にまで知られていました。
これまでパウロは個人的に彼らを訪ねることはできていません。
しかし、イエス・キリストに召された者として彼らに心を寄せこのように書いています。

「ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。」
(ローマ人への手紙1章7節)


パウロが使徒であったのと同じように、ローマの聖徒たちも神の召命によって聖徒となったことに注目してください。
私たちは聖徒らしく行動することによって聖徒になるのではなく、聖徒とみなされているので聖徒らしさが現わされるのです。
いつもの通り、パウロの手紙ではパウロは彼らのために父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安を祈っています。
まず、最初に私たちは神の恵みによって救われました。
しかし、私たちはこの生涯において常に、その時にかなった助けとして神の恵みを必要としています。
私たちは十字架の血を通して神との平和を得ています。
神の民のために残された永遠の安息があります。
私たちはこの生涯を歩み続ける中で、平安を得るための神の平和を必要としています。
8~17節は序文です。
パウロがこの書簡を書いた理由を明らかにしています。
この手紙が書かれる数年前から、ローマでは神の働きが始まっていたことは明らかです。
なぜなら、すでにローマのキリスト教会の信仰は全世界、つまりローマ帝国全土に語られていたからです。
この働きと使徒がどのような意味で関連していたのか、その根拠が何もありません。
聖書も歴史も、ローマの教会を誰が設立したかについては何も語られていません。
まず、ペテロではありません。
ペテロの名前とローマを結びつける理由はまったくありません。
ローマカトリック教会は、教会が岩であるペテロの上に築かれ、ローマ司教が聖ペテロの後継者であることを誇っています。
ペテロ、それは単なるたわごとです。
パウロが鎖につながれてローマに連れて行かれるまで、私たちは使徒がローマを訪れた証拠を知るすべはありません。
以前、パウロがそこへ行くのを妨げられたのには、神の摂理による何かしらの理由があったようです。
パウロは外面的にではなく、内なる人である霊においても神の御子の福音に仕えていました。
パウロは神に証しを聞き、初めてローマの信じる者たちのことを聞いて以来、彼らのために祈りを止めたことは一度もなかったのです。
そして、彼らへの祈りとともに、神のみこころであれば、彼らを訪ねる機会と、旅の成功を祈願するという彼の切なる願いがありました。
パウロの祈りがパウロの予想とは違った形で答えられたことは、私たちにはよく知られています。
そして、それは私たちのすべての祈りに答えてくださった神の圧倒的な知恵をわずかに教えてくれています。
何が栄えていて、何が栄えていないかを判断できる人は誰もいません。
神の道は私たちの道ではありません。
パウロは、神に用いられて、真理を確立するのに役立つ霊的な賜物をローマの教会に授けることができるようにと、彼らと会うことを切望していました。
パウロは彼らにとっての祝福となることだけを考えていたのではありません。
ローマの教会が自分にとっての祝福となることを心から期待していたのです。
ともに一緒に慰められることです。

「というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」
(ローマ人への手紙1章12節)


過去数年にわたって、パウロは何度もローマへ行く準備をしました。
しかし、その計画は失敗に終わりました。
パウロは他の異邦人の町々と同じように、ローマの教会から何らかの実を得たいと願っていました。
なぜなら、パウロは全人類に対して借りがあると感じていたからです。

「兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。
私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。」
(ローマ人への手紙1章13節)

パウロに託された宝は、彼自身の楽しみのためではなく、ギリシア人であろうと野蛮人であろうと、教養のある者であろうと無知な者であろうと、他の人々にそれを知らせることです。

「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。
ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」
(ローマ人への手紙1章14、15節)


パウロはこのことを理解し、他の場所と同じ様にローマでも福音を宣べ伝える準備ができていました。
16節でパウロが「私は福音を恥とは思いません」と言いました。
私はパウロがこれらの言葉に一般に抱く以上の意味をもっていることを理解しています。

「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」
(ローマ人への手紙1章16節)


パウロは、単に自分がクリスチャンと呼ばれても恥ずかしくなかったとか、キリストへの信仰を大胆に宣言する用意があったというだけではありません。
福音は彼にとって、人類救済のための素晴らしい、霊感を受けた計画です。
地上のすべての哲学を超越した神が啓示した真理の体系であり、パウロはどんな機会にも喜んでそれを擁護し、主張したのです。
一部の人が想像しているように、パウロがローマ訪問を控えたのは、ローマが世界の大都市であり、そこにに群がる教養ある哲学者たちによって答えられ、論理的に反論できないような形でキリストの主張を示す自信がないと感じたからではありません。
パウロは彼らが巧妙な推論を使って、パウロが知る唯一の権威ある救済計画を覆すことができると恐れてはいません。
福音は人間の理性を超えています。
しかし、非論理的でも不合理でもありません。
福音は神ゆえに完璧なのです。
この福音は、信仰のあるユダヤ人であれ、教養あるギリシア人であれ、それを信じるすべての人に救いをもたらす神の力であることがはっきりと証明されました。
福音は神の力であり、救いに至る神の知恵です。
それは、人間の霊、良心、そして心のあらゆる必要を満たしています。
なぜなら、福音には神の義が信仰によって明らかにされたいるからです。

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」
(ローマ人への手紙1章17節)


これが、「信仰から信仰へ」と訳されているやや難しい表現だと私は考えています。
直訳では「信仰から出て、信仰へ入る」なのです。
これが信仰を持つ人々に対する信仰の原則です。
言い換えるのであれば、それは行いによる救いの教義ではなく、信仰の原則に基づく完全な救いの宣言です。
このことは、何世紀も前に神が悩める預言者ハバククにこのように告げた時に宣言されていました。

「正しい人はその信仰によって生きる。」
(ハバクク書2章4節)


私たちがすでに見たように、この聖句はこの手紙全体のテーマであり、ガラテヤ人への手紙とヘブル人への手紙においても同様です。
この聖句は私たちに神の計画の本質を与えてくれます。
また、この聖句は何世紀にもわたって何百万人もの人々にも伝わってきました。
また、アウグスティヌス神学と呼ばれるものの基礎となりました。
また、この聖句はマルティン・ルターにとって自由への扉を開いた鍵となりました。
また、宗教改革の戦いの叫びとなりました。
そして、それ以来、この聖句は、神から来たと公言するさまざまな組織の試金石となりました。
ここで間違っているなら、全体的に間違っているはずです。
基本原則が誤解されたり否定されたりすると、福音を理解することは不可能となります。
信仰によることのみの義認は正統性のある試みとなります。
しかし、聖霊に教えられていない心は、決してこの原則をを受け入れることはできません。
なぜなら、聖霊は最初の人を肉にあって無益な者として完全に排除します。
神の計画の人である第二の人、主イエス・キリストだけが高められるようになります。
キリストにおいてのみ、救いの御業を成し遂げられ、神の栄光が完全に示された方、神の聖さが保ち、神の義が証明されるのです。
救いの業を成し遂げた方、神の栄光が完全に示された方、神の聖さが保たれ、神の義が証明された方である主に、信仰によってすべての栄誉が与えられます。
それは、罪人の死よるのではなく、信じるすべての人が救われることによって達成されるのです。
この福音は神にふさわしい福音であり、それを信仰をもって受け入れた人々の中で成就されることによってその力を実証されてきました。


講義3 福音の必要性 1章18節~3章20節

福音によって神の義を明らかにされることを私たちは見てきました。
さて、使徒はこのように啓示されたことの必要性を示しています。
証拠、証明を重ね、聖書に聖書を重ねて、人には義が存在しないが、義に基づいて王座が確立された無限の聖さを持つ神には、生まれながらにおいても、実践においても、人は完全にふさわしくないという厳粛な事実を立証しています。
パウロはこのことを、この書簡の次の部分、1章18節から3章20節で示しています。
パウロは見事なやり方で、全世界を法廷に引きずり出し、すべての人が罪を犯したのですべての人に罪の宣告が下ることを示します。
人は罪人です。
絶望的な罪を犯しており、自分の状態を回復するために何もすることができません。
もし、神がその者に対して認めないなら、その者の訴えは終了します。
1章18~32節では異邦人の訴えが考察されています。

「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」
(ローマ人への手紙1章18節)


最初の区別は異教徒の世界です。
二番目の区別は、神の啓示を受けた人々です。
野蛮人や異教徒は一般に不敬虔です。
彼らは真実な神を知りません。
なので、この世界に神は存在していません。
したがって、彼らの行為は不敬虔であると表現されます。
反対に、ユダヤ人には神の知識と義の聖典が託されました。
しかし、ユダヤ人は不義の道を歩みながら、このことに誇りを感じ、不敬虔でありながら真理を維持していました
両方の区分に対して神の怒りが明らかにされました。
異邦人には言い訳の余地がありません。
異教や偶像崇拝は、人間が泥沼から神へと進化する過程における人類の進化のステップではありません。
異教は衰退であり、上昇ではありません。
かつて、偉大な異教国家は今よりも多くのことを知っていました。
洪水を通してもたらされた神の知識は旧約の世界に広まりました。
すべての偉大な偶像崇拝のシステムの背後には、純粋な一神教があります。
しかし、人間は神についてのこの親密な知識に耐えることができませんでした。
なぜなら、それは彼らが罪によって不快になったからです。
そこで、仲介者として多くの下位の神々や聖徒が発明されました。
最終的に真実な神についての知識は完全に失われてしまいました。
しかし、現在においても、創造物は神の変わらぬ証人です。

「なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。」
(ローマ人への手紙1章19節)


季節の移り変わりと天体の動きの数学的正確さを持つこの秩序ある宇宙は、神の霊に対する証言を裏付けています。
軌道によって進む星々は、偉大な創造主の力を宣言します。
「被造物は永遠に輝きながら歌います。
私たちを創造したのは神の手によるのです。」

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」
(ローマ人への手紙1章20節)


被造物を表す原文の(PoIma)から、「詩(poem)」という言葉が生まれました。
原文の1つの単語は英語では4つの単語に翻訳されます。「作られたもの」はPoImaであり、ここからpoem(詩)という言葉が生まれます。
創造は神の偉大な叙事詩です。
すべての部品が荘厳な賛美歌の詩節のように組み合わされています。
エペソ人への手紙2章10節にも同じ言葉が出てきます。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」
(エペソ人への手紙2章10節)


「私たちは神の作品であり」とはつまり、神の詩です。
「私たちは私たちが良い行ないに歩むようにキリスト・イエスにあって造られたのです。」
「これは神の最も偉大な詩、贖罪の叙事詩です。」
無から世界を創造することは偉大です。
しかし、救うという行為はさらに偉大です。
これら二つの素晴らしい詩は、黙示録第4章と第5章で称賛されています。
4章では、即位し王冠を授かった聖徒たちがキリストを創造主として礼拝します。
5章では、彼らはイエスを救い主として崇拝しています。
パウロの議論を追ってゆくならば、21~23節にある聖句に注目することができます。
野蛮な諸国民が現在のような無知と獣のような状態に陥っており、弁解の余地がないからです。

「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」
(ローマ人への手紙1章21~23節)


偶像崇拝の下り坂を滑ってゆく様子をよく見てください。
彼らは神を最初は理想的な人間として考えました。
次に天に舞い上がる鳥に例えられ、次に地をうろつく獣に例えられ、最後に爬虫類であれ食虫類であれ、蛇やその他の忌まわしく這うものに例えられます。
さらにエジプト人は蛇やスカラベ(昆虫)を崇拝していました。
エジプト神話の背後には、唯一真実にして生ける神の根源的な啓示が隠されているのです。
古代において最も啓発された国の一つが、これほどまでに堕落したとは驚くべきことです!
他の国も同じ様に衰退と劣化の跡をたどっています。
人間が神を捨てたので、神も人間を捨てたのです。
続く聖句には繰り返しこのように書かれています。

「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。」
(ローマ人への手紙1章24節)


ここに描かれている下劣な不道徳行為は、聖なる方から背を向けた当然の結果です。
異教の言語に絶するわいせつさの描写は誇張ではありません。
偶像崇拝者の暮らしを知る人なら誰でもそのように証言します。
恐ろしいことに、このすべての卑劣さと不潔さが、神を否定する現代の上流社会の人々の中で繰り返されていることです。
もし、人々が神の真実を嘘に変え、創造主ではなく被造物を崇拝し仕えるなら、自然の秩序全体が破壊されます。
なぜなら、神への恐れ以外に、生まれつきの心にある邪悪な欲望を抑制する力は知られていないからです。
神が人間を不道徳な欲望のおもむくままに放っておくのなら、肉にその最悪な側面が現れるとしてもそれは物事の本質の一部です。
最後の節では、人類が神から遠ざかっている様子が描かれています。
罪と腐敗はあらゆるところで勝利を収めています。
神に背を向けると正義を見つけることができません。
人々は自分の罪に敏感でなくなり、自分の邪悪な行いを恥じることもなくなります。

「彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」
(ローマ人への手紙1章32節)


「ある中国人教師が宣教師にこのように言いました。
結論として、聖書はそんなに古い本ではありません。
なぜなら、ローマ人への手紙1章は宣教師が宣教師が中国人を十分知った上でしか書けないような、中国人の行動が書かれています。」
この間違いは不自然なものではありません。
聖書の真実性を証明する異教徒に対する証言です。
次の章の最初の16節では、別の区分、つまり文化と洗練された世界が明らかにされています。
教養ある人々、様々な哲学体系を信じる者たちの中には、自分の善良さを根拠に神の祝福を主張し、神の御前に出られると思われるほどの正しい人生を送る人々が確かに存在するかも知れません。
確かに、彼らの中には無知な民衆の卑劣な淫らさを嫌悪と憎悪の眼差しで見つめると公言する者もいました。
しかし、彼らの私生活は声高に非難する者たちよりも、どれほど聖く清廉潔白だったと言えるのでしょうか?
今こそ、いわば彼らが法廷に召される番です。
使徒は彼らを恐れることなく、「義を愛する義なる主」の威厳ある法廷に召喚します。

「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。
あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」
(ローマ人への手紙2章1節)


哲学は信じる者を肉欲の快楽から守ってはくれません。
悪を認識することは、必ずしも悪を克服する力を意味するわけではありません。。
文明は心を清めることはできず、教育は人間の性質を変えることはできません。
そして、悪を行う者に対しては、真実に基づいた神の裁きが下されます。
悪事をしながら美徳を称賛することで、仲間とうまくやっていけるかもしれません。
不正を見ることよりも、純粋な目を持つ神を欺くことはできません。
パウロは厳しく問いかけています。

「私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。
あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。」
(ローマ人への手紙2章2、3節)


彼は厳しく問いかけます。「ああ、そのようなことをする者を裁きながら、自分も同じことをする人よ、あなたは神の裁きを逃れられると思っているのか。それとも、神の憐れみと寛容と忍耐の豊かさを軽んじているのか。神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないのか。」
人々は悪い行ないに対する神の裁きが速やかに執行されないとして、神が自分たちを大目に見ていると考えがちです
しかし、神は、人々が自分の罪と向き合い、罪を認め、憐れみを得る機会が与えられるように、忍耐強い憐れみをもって待っておられます。

「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」
(ローマ人への手紙2章4節)


これを実行する代わりに、人々は心の頑固さゆえに悔い改めることもなく、神の恵みに触れることもありません。

「ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」
(ローマ人への手紙2章5節)


「御怒りを自分のために積み上げている」とはとても厳しい表現です。
「火と硫黄の燃える池」を信じるなんて愚かだ、と笑った黒人の老婆が「そんな量の硫黄は一箇所に集まることはない」と大声で的確な答えを叫びました。
「人は自分の硫黄を携えて行くのです!」
ああ、まさにその通りです!
神に反逆する者、光に反抗する罪人、良心を踏みにじる者は皆、自分自身の硫黄を携えて歩いているのです!
自分の運命を切り開いているのです。

「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、
党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。
患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、
栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。
神にはえこひいきなどはないからです。
律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。
それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。
――律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ――」
(ローマ人への手紙2章7~15節)


これらの聖句は、他の人が与えられていない光と特権を持っているとしても、神に不正を告発しようとする不義な者を永遠に黙らせてしまう、大きな裁きの原則が定められています。
この裁きは「真理に従い」そして「行いに応じて」行われます。
人は、今までに得ていた光によって裁かれます。
知らなかった光によって裁かれるのではありません。
永遠の命は「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める」すべての人に与えられます。
(これは不死ではなく、不滅であることに注目してください。)
この区別は非常に重要です。
もし、誰かがそのような特徴を持っているなら、それはたましいの中に神の働きがあることの証明となります。
しかし、そのような生き方をする生まれながらの人間はどこにいるのでしょうか? 「党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者」には、裁きの日に「悪を行なうすべての者の上に、怒りと憤り」が下されるはずです。
特権階級のユダヤ人であれ、無知な異邦人であれ差別はありません。
したがって、神はすべての人に対して無差別な裁きを下すのではありません。
与えられた光が彼らを裁く基準となるのです。
誰も文句を言うことはできません。
なぜなら、もし人が「この光に従う」ならば、神はその者の歩みを導き、救いを確信するための十分な光を見つける責任を負われるのです。
人が自然という光によって、創造主に対する責任を自覚するならば、さらに創造主は責任を負い、彼らの魂の救いのためにさらなる光を彼らに与えます。
神には人種による差別はありません。
特権が大きくなれば、責任も大きくなります。
しかし、神は外見上は恵まれているように見える人々と同じ様に、ユダヤ人のように特権が少ないとしても、無知な人々に対して同じ関心と優しい同情心をもって接してくださるのです。

「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。」
(ローマ人への手紙2章12節)


これより健全な原則はあり得ません。
人は、自分が知っていること、あるいは知っているはずのことに対して責任を負います。
無知ゆえに、意図的に光を拒絶しない限り、彼らは無知のために罪に問われることはありません。。

「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。」
(ヨハネの福音書3章19節)


13~15節は、すでに力強く述べられているはっきりとした原則を強調しています。

「それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。
――律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。
彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ――」
(ローマ人への手紙2章13~15節)


裁きは行いに応じて行われます。
律法を知りながらそれに従わないと、罪の宣告が増すだけです。
律法を行うことのできる者は、確かに義とされるはずです。
しかし、他の箇所では、この見方はありえないことをと教えられています。

「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。」
(ローマ人への手紙3章20節)


ユダヤ人は神からの啓示を持っていることを誇りにし、周囲の異邦人よりも優れていると考えていました。
しかし、神は,御自分から証ししないままでおられたのではありません。
これらの国々に良心の光と、自然の与える光の両方をお与えになりました。
ここでは、律法が彼らの心に書き記された働きについて書かれています。
しかし、律法が彼らの心に書き記されたわけではないのです。
それが、新しい誕生の時、新しい契約の独特の祝福の中で行われます。
その時、そこに律法が書かれるのであれば、彼らはその義を成就することができます。
しかし、現在の律法の働きとは別のものです。
律法は怒りを生み出すのです。
律法には「罪の宣告をする務め」があります。
そして、シナイの律法について聞いたことのない異邦人の罪人たちは、自分たちに有利、もしくは不利な証言をします。
神から植え付けられた良心の命令に背いて生きるのならば、つまり「互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりして」いるのであれば、自分たちに罪人の念を抱きます。
これらのことは、神が異邦人たちを正しく裁かれるという実証です。
人であるキリスト・イエスがその時代の権威ある法廷に座り、隠れた動機と行動の源泉を明らかにする厳粛な日に、神が彼らを裁くことにおいて義であることを証明します。
これらのことをパウロは「私の福音によれば」と言っています。
神は十字架につけられた者が最後の大法廷で王座に座ることを宣言しています。

「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。
そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
(使徒の働き 17章31節)


使徒パウロが、野蛮人であろうと高度に文明化された人であろうと、異邦人の罪深さと堕落について書いたことすべてにユダヤ人は完全に同意するはずです。
彼らは「犬」であり、アブラハムの契約の外にいる者たちです。
彼らは「イスラエル国家にとって異邦人」です。
これらの裁きは正しいのです。
なぜなら彼らは神と神に選ばれた民の敵だったからです。
しかし、ヘブル人はちがいます。
彼らはヤハゥエの選民であり、神が聖なる律法を与え、神が特別に配慮した証を豊かに授けた選ばれた民族です。
ヘブル人たちはそのように論じました。
しかし、実際の義が見落とされたり無視されたりしたら、正しい教理を持っているだけでは役に立たないことを忘れていました。
使徒は突然、高慢で世俗的なサドカイ派と自己満足的なパリサイ派を法廷に連れて来て、軽蔑されていた異邦人とともに彼らを訴えています。
17〜29節では、選ばれた民の審査が述べられています。
パウロはこのように叫んでいます。

「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、
みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、
また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、」
(ローマ人への手紙2章17~19節)


「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
これらは見事な文章です。
パウロはユダヤ人の主張をすべて要約しています。
ここで、私が言う「主張」というのは、主張の強さを意味しているのではありません。
これらのことをユダヤ人は誇りに思っており、多くは真実でした。
他の誰にもできないほど、神はこの民にのみ御自身を現しました。
しかし、ユダヤ人たちが神の契約を守れなくても、神の裁きを免れると考えていたのは間違っています。
かつて、神はこのように言っておられます。

「わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。」
(アモス書3章2節)


特権は責任を増大させます。
ユダヤ人たちが考えているように、それは無視されるものではありません。
神の宣言に関する知識によって、ユダヤ人に他の誰も持っていない判断基準を与えられました。
ですから、ユダヤ人の生き方は聖い人生を送ったのです。
当時のイスラエル人は、周囲の諸国民よりもはるかに義なる民だったのです。
しかし、ユダヤ人たちは光も、特権も持たない人々よりも、はるかにみじめな失敗を犯したのです。
神の御霊は、ユダヤ人たちの心の奥底にある隠れた奥義を暴露しています。
ユダヤ人たちの生活に隠された罪を明らかにするために計算された4つの質問で、ユダヤ人たちの真実な実際の状態を鋭く突きつけます。

「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。」
(ローマ人への手紙2章21節)


あなたは自分が無知な者に教えるのに適任だと自信を持っています。
律法に与えられた教えに耳を傾けたことがありますか?
答えはありません!

「盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。」
(ローマ人への手紙2章21節)


古代世界において、ユダヤ人は大泥棒と見なされていました。
金貸しや高利貸しが顧客の富を奪うために、あらゆる狡猾な手段を用いていたのです。
確かに、絶望に駆られて、その異邦人は自発的にユダヤ人の質屋の手に身を委ねたこともあったかもしれません。
そうしながら、債務者が憎むべき異邦人の犬だからと言って、貧しい債務者に対する同情や思いやりの優しさを持たない人物と取引しているのだと認識しました。
再び、ユダヤ人は言葉を失いました。

「姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。」
(ローマ人への手紙2章22節)


神の記録が証しし、歴史が証言しているように、イスラエルでは重大な好色行為が行われ、珍しい犯罪ではありませんでした。
人間の本質は悪です。
心から、淫行、好色、あらゆる汚れたものが出てくるのです。
ユダヤ人は異邦人の隣人と同じ様に罪を犯しています。
ユダヤ人には返事がありません。
おそらく、最も鋭い洞察は最後の質問にあります。

「偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。」
(ローマ人への手紙2章22節)


「神殿の物をかすめる」というのは実際には「偶像を売買する」という意味です。
これはユダヤ人が特に犯した罪でした。
ユダヤ人たちは偶像を嫌っていたにもかかわらず、征服した民族の寺院から盗まれた偶像と、他の地域でそれを購入しようとする人々の処分の仲介役を務めることがよくあったことで知られていました。
ユダヤ人たちは神殿にあるものを組織的に略奪し、その像を売却した罪でも起訴されていました。
エペソの書記官は、このことを念頭に置いて、このように言っています。

「皆さんがここに引き連れて来たこの人たちは、宮を汚した者でもなく、私たちの女神をそしった者でもないのです。」
(使徒の働き19章37節)


ここで使われている「宮」という言葉はもちろん、ユダヤ人の神殿のことを指しているのではありません。
ユダヤ人たちは偶像崇拝とその行為すべてを嫌悪すると公言していました。
しかし、まったく不誠実なやり方で偶像崇拝者を犠牲にして金銭的に利益を得ることをいと問わない人間の偽善的な性格を暴露する、痛烈な一撃でした。
そこで、使徒はこの恐ろしい訴えを彼らの心に突きつけます。

「これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。」
(ローマ人への手紙2章24節)


これらはイスラエルの預言者たちが宣告していたことであり、彼らは聖書と彼らの良心によって確認したことを主張しているだけなのです。
アブラハムの契約の印である割礼を信じながら、肉欲的な生き方をすることは、自らを欺くこと以外何でもありません。
儀式の内容が無視されるなら、儀式は利益をもたらしません。
割礼を受けていない異邦人が、神の前に義をもって歩むなら割礼を受けた者とみなされます。
しかし、ユダヤ人の肉体に刻まれた契約の印は、律法に反して生きるなら、彼の罪をさらに重くするだけです。
神にとって重要なのは現実なのです。

「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。
もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。」
(ローマ人への手紙2章25、26節)


真実なユダヤ人とは、生まれつきユダヤ人である人や、儀式に外面的に従っている人ではありません。
心に割礼を受け、主の目の前で自分の罪深さを裁き、神の啓示されたみこころに従って歩もうと努める人です。
「ユダヤ人」という意味は「賛美」を意味する「ユダ」の短縮形です。
ユダヤ人という賛美、誉れは人からではなく、神から来るのです。

「その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
(ローマ人への手紙2章29節)


3章1~20節には、これまでのすべてのことを要約した、重要な告発が記されています。
ユダヤ人と異邦人の間に道徳的な区別はありません。
すべての者が義を失っています。
神の持つ義が彼らに提供されない限り、すべての人は裁きにさらされています。
ユダヤ人が異邦人よりも一定の優位性を持っていることは明白な事実です。
その中でも最も重要なのは、神の御言葉である聖書を持っていることです。
しかし、この聖書の御言葉によって彼らの罪は明らかにされました。
たとえ、ユダヤ人がこれらの聖書を本当に信じていなかったとしても、彼らの不信仰によって神の忠実さが無効になることはありません。
たとえ、ご自身が選んだ人々を捨て去ることになっても、神はその約束を成就されるのです。
他のすべてが真実でないことが証明されても、神が真実であることに違いがありません。
ダビデが詩篇51篇で告白しているように、神は裁きにおいて御自身の義を守られます。

「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。
それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」
(詩篇51篇1~4節)


では、人間の不義は神がその義を現すための道を備えるに過ぎないのでしょうか?
そして、それは必然なのでしょうか?
もしそうなら、罪は神の計画の一部であり、人間がその責任を問われることはありません。
しかし使徒は怒りをあらわにしてこのことを否定してます。
神は公正である。
彼は正義をもって人々の罪を裁きます。
そして、もし罪があらかじめ定められ、決定されていたなら、このようなことは起こり得なかったでしょう。
使徒はこのように言っています。

「では、いったいどうなのですか。
彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。」
(ローマ人への手紙3章3節)

もし、これが真実であるならば、人は文句を言う正当な理由があるかもしれません
もし、そうならば、一部の人々によって中傷的に伝えられているパウロの教え「善を現わすために、悪をしようではないか」は正しいことになります。
しかし、そのように弁護する人は皆、道徳心が欠如していることを示しています。
彼らへの裁きは正しいのです。

そして、9~20節には全人類に対する神の判決が記されています。
ユダヤ人は異邦人より優れているわけではありません。
すべての人は同じように罪の支配下にあり、つまり罪の奴隷となっているのです。
旧約聖書はこのことを裏付けています。
パウロは優秀な弁護士のように、自分の主張を証明するために次々と権威を引用してきます。
引用はおもに詩篇からで、一部は預言者イザヤからのものです。

詩編1編1~3節
詩編53編1~3節
詩編5編9節
詩編140編3節
詩編10編7節
イザヤ書59章7、8節
詩編36編1節
参照

これらは、ユダヤ人が自ら認めた聖書から出た証言なので、ユダヤ人が反論することができません。
この起訴状または証拠要約には14の異なる罪状が記載されています。

1、「義人はいない。ひとりもいない。」
(ローマ人への手紙3章10節)


「誰もが何かに失敗しています。」

2、「悟りのある人はいない。」
(ローマ人への手紙3章11節)


「全員が故意に無知になったのです。」

3、「神を求める人はいない。」
(ローマ人への手紙3章11節)


「すべての者が、自分だけを求めています。」

4、 「すべての人が迷い出て」
(ローマ人への手紙3章12節)


彼らは意図的に真実に背を向けてきました。

5、 「みな、ともに無益な者となった。」
(ローマ人への手紙3章12節)


彼らは神を称賛する代わりに、神を恥ずかしめてきました。

6、 「善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
(ローマ人への手紙3章12節)


彼らの行いは悪です。
彼らは善いことを求めません。

7、 「彼らののどは、開いた墓であり、」
(ローマ人への手紙3章13節)


彼らは中身から腐っています。

8、「彼らはその舌で欺く。」
(ローマ人への手紙3章13節)


嘘と欺まんが特徴です。

9、「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
(ローマ人への手紙3章13節)


それは、まさに初めに「あの古い蛇、悪魔、サタン」によって人間の本質に注入された毒です。

10、「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
(ローマ人への手紙3章14節)


心に満ち溢れることを口で語ります。

11、「彼らの足は血を流すのに速く、」
(ローマ人への手紙3章15節)


憎しみは殺人を生みます。
悲しいことに、多くの場面で現れています。

12、「彼らの道には破壊と悲惨がある。」
(ローマ人への手紙3章16節)


なぜなら、彼らは命と祝福の源である神を忘れたからです。

13、「また、彼らは平和の道を知らない。」
(ローマ人への手紙3章17節)


彼らは意図的に死の道を選んだからである。

14、「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
(ローマ人への手紙3章18節)


それゆえ、彼らの中には知恵がないのです。
これらのすべての容疑に対して「無罪」を主張できる人はいるでしょうか?
もし、いるなら、発言させてください。
正直にそのように言える人は誰もいません。
そして、パウロは結論としてこのように言っています。

「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。
それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」
(ローマ人への手紙3章19、20節)


神はノアの時代にこのように言っています。

「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。」
(創世記6章13節)


肉にある者は神を喜ばせることはできません。
肉は何の役にも立ちません。
私たちはこのことを学ぶのになんと遅いのでしょうか!
生まれながらの人間にとって、あらゆる義への偽りの態度を捨て、自己批判と悔い改めの塵の中にひれ伏し、神の前にひれ伏して、初めて恵みが自分に出会うことができる場所にあることに気づくのは、なんと難しいことではないしょうか!
律法は、私たちが見てきたように、特別な民に与えられました。
イスラエルだけが「律法の下に」いるのです。
異邦人が律法の下にいないことは、すでに2章12〜14節で述べられています。
では、律法のもとにある人々の失敗は、どのようにして全世界を神の御前に罪ある者とみなすのでしょうか!
一つの例えが役に立つかもしれません。

ある男が広大な砂漠の牧場を所有しているとしましょう。
牧草地や農地は価値がないと言われます。
彼は12エーカーの土地を柵で囲い、耕し、耕耘し、種を蒔き、耕作するが、収穫できるのはやまよもぎとサボテンだけです!
他は試しても無駄です。
どれも同じ性質のものだからです。
農業についていうのならば、すべて無駄だとその男は言っています。
イスラエルは神の12エーカーの土地です。
神は彼らにイスラエルを与え、教え、訓練し、警告し、制止し、守り、そして御子を彼らのもとに遣わしました。
しかし彼らは御子を拒絶し、十字架につけました。
この行為には異邦人も加わりました。
すべての人は神の裁きを受けます。
更なるテストは必要ありません。
肉の中には、神に役立つものは何もありません。
人間は絶望的に堕落しています。
人間は罪ある存在だけではなく、自分の状態を回復することができないのです。
律法は人間の罪を強調するだけです。
人間を義とすることはできません。
罪を宣告することしかできません。
なんと絶望的な光景なのでしょうか!
しかし、これは神がキリスト・イエスにおける恵みの豊かさを現すための暗い背景なのです。


講義 4 私たちの罪との関係における福音 3章21節~第5章11節

さて、ここで私たちは間の罪と辱めの悲しい物語から離れてみてみましょう。
堕落によってもたらされた破滅に対する神の救いがあります。
私たちがこの福音に語られている神の驚くべき恵みを考えることは、最大の慰めとなります。
この福音の提示は二つの部分に分かれています。
まず、私たちの罪についての問題として福音が提示されています。
次にこのことが解決されるならば、私たちの罪についての問題として福音が提示されています。
つまり、罪の原理、肉における罪、救われず新しく生まれていない古い人間を支配する肉の心と関係する罪です。
最初のテーマは3章21節から5章11節で詳しく取り上げられています。
まず、このことについてここで考えてみましょう。

使徒は「しかし」という言葉で始めています。
それは明らかに主題の変化を示しています。
今、完全に人間が示され、神はそのベールを開けます。
今、全人類の不義が証明されました。

「神の義が示されました。」
(ローマ人への手紙3章21節)


かつて、神はこのように宣言されておられました。

「わたしは、わたしの勝利(義)を近づける。」
(イザヤ書46章13節)


これは決して、人間が神に対して生み出すことのできなかった、完成された律法的な義ではありません。
それは「律法抜き」の義です。
つまり、神によって定められた道徳規範に対する、人間の服従の原則とはまったく無関係な義です。
この義は不義な人々に対する神の義であり、決して人間の功績や達成に依存するものではありません。
神の義とは幅広い意味を持つ言葉です。
ここでは、それは神が備えてくださる義、つまり、神が自分から責任を負う、邪悪な人々のための完全な立場を意味します。
人間が救われるとすれば、その救いは義によるものでなければなりません。
しかし、人間はこれを全く欠いています。
その義は、神の義の王座に対するあらゆる要求が満たされ、しかも罪深い罪人たちがすべての点において義とされる道なのです。
神はその義を全うしなければなりません。
神の本質は、義を無視し、犠牲にするのではありません。
義と完全に一致しなければならないことを要求しています。
これは最初からある神のみこころでした。
このことは律法と預言者によって「証し」され、証言されています。
モーセはこの義を様々な方法で驚くべき美しさで描写しています。
私たちの最初の両親が着ていた皮の衣、捧げ物を行った人々に代わって受け入れられたささげ物、幕屋の素晴らしい象徴性、これらすべては、信仰をもって神に立ち返る邪悪な罪人に対して、神が備えてくださった義の物語を語っています。
預言者たちも同じ話を語っています。
預言者たちは、不正な人々を神に近づけるために死ぬ、義人の到来を預言しています。
ダビデはこのように叫んでいます。

「あなたの義によって、私を救い出し、私を助け出してください。」
(詩篇71篇2節)

「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。
私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」
(詩篇51篇7節)


イザヤはこのように叫んでいます。

「主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」
(イザヤ書61章10節)


それはこのように書かれているからです。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」
(イザヤ書53章5節)

また、エレミヤもこのように叫んでいます。

「その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。」
(エレミヤ書23章6節)


そして、神はエゼキエルを通して約束がされました。

「わたしはあなたがたをすべての汚れから救い、」
(エゼキエル書36章29節)


ダニエルに御使いのガブリエルからこのような預言がされました。

「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。」
(ダニエル書9章24節)


つまり、「罪の和解」が行われ、「永遠の正」がもたらされるのです。
いわゆる、小預言者たちも同じハーモニーを奏でて、すべての悔い改める者に救いが保証され来るべき方、すなわち、人類の救いのために打たれた羊飼いとなるヤハゥエの友を指し示しています。
すべての預言者たちが、イエスの名によってイエスを信じる者は誰でも罪の赦しを受けると証言しています。

「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
(使徒の働き10章43節)


神の義は「信仰による」義です。
それは「行いによる」のではありません。
「信仰とは神の御言葉を信じることです。」
そこで神は人間に信じるべきメッセージを送ったのです。
それは、すべての人に対する非難の余地のない義の提供です。
しかし、それは信じるすべての人に対してのみ行われます。
ここでの読み方に関して疑問があります。

「それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」
(ローマ人への手紙3章22節)


英訳KJV聖書は「そしてすべてにおいて(and upon all)」と訳されています。
一部の編集者はこれを拒んでいます。
その根底にある真実に対して、疑問の余地があります。
神はすべての人に義を惜しみなく与えてくださいます。
それはすべての信じる者を覆うものであり、信じる者だけを覆います。
すべての人は同じようにこの義を必要としています。
なぜなら、すべての人が罪を犯しているからです。
これは間違いではありません。
しかし、誰もその基準に達していません。
すべての人は神の栄光に達していません。
神は人間に長所、功績を求めているわけではありません。
神はその義を無償の賜物として与えてくださいます。
ですから、私たちはこのように読むことができます。

「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
(ローマ人への手紙3章24節)

無罪にされるということは、義と宣言されることです。
それは被告人に有利な裁判官の判決です。
それはたましいの状態や状況ではありません。
私たちが無罪とされたのは、心と生活において義となったからではありません。
まず、神は義と認め、それから義とされた者が、現実の義の道を歩めるようにしてくださいます。
私たちは解放され、義とされるのです。
この言葉は「無償で」という意味です。

これはヨハネの福音書15章25節にあることと同じ言葉です。

「彼らは理由なしにわたしを憎んだ。」
(ヨハネの福音書15章25節)


イエスの生き方や人生には、人々がイエスを憎むような悪い点は何もなかったのです。
彼らは惜しみなくイエスを憎みました。
ですから、神が人間を義とするような善は人間には存在していません。
しかし、人がイエスを信じるのなら、理由なく無償で義とされるのです。
これは「恵みによる」ものです。
しかし、恵みとは、単に無償の好意だけではありません。
恵みとは功績に対する好意です。
それは神の憐れみです。
人は憐れみに値するようなことを何もせず、何もできません。
それどころか、全く逆のことをした人々にも示される好意なのです。

「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」
(ローマ人への手紙5章20節)


「主権の恵みは、罪の上にあふれ、贖われたたましいにおとずれ、それは広がりました。
そこにはは測り知れない淵があります。
だれがその長さと広さを測り知ることができるでしょうか。
その栄光の上に、私のたましいが永遠に住まわせてください。」
このように、罪を認めた罪人たちに義のうちに恵みを示すためには、神は正当かつ満足のいく根拠を持たなければなりません。
罪を見逃すことはできません。
罪は償われなければなりません。
これはキリスト・イエスによる贖いによって実現されました。

「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
(ローマ人への手紙3章24節)


贖いとは買い戻すことです。
人間の命はその不義の行いのゆえに失われています。
その者は罪の宣告を受けて売られました。
聖なる方キリストは、神と人とが一つの栄光に満ちた人です。
違反した律法には何の責任もない存在です。
しかし、罪を犯した反逆者の身代わりとなり、最も大きな罰の借金を払って、信じる罪人に自分を売った怒りと呪いから贖ったのです。

「キリストは私のために罪の宣告を木に背負い、今や保証金も罪人も自由になりました。」

そして、キリストは死なれ、復活し、ご自身が永遠のなだめの場所、すなわち、キリストの贖いの血によって神が人と出会う場所となったのです。
その場所は信仰によって得られる場所なのです。
明らかに、使徒は旧約の契約の箱の上にある血をまき散らした贖罪所のことを述べています。
箱の中には律法の板が入っていました。
その箱の上には、神の御座の住まいである「義とさばき」が描かれたケルビムがあります。
これらのケルビムは、いわば、神の律法を破った者たちに対して神の義の怒りを執行するために、その王座から飛び降りる準備ができていることを示しています。
しかし、贖いの座に振りかけられたのは、十字架の犠牲を象徴する血です。
義と罪の宣告はもう求められません。

「あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」
(ヤコブの手紙2章13節)


この聖句は直接的には、神自身が身代金を見つけたことを言っています。
主イエスが罪のために苦しまれ、義なる方が不義なる者のために苦しまれ、私たちを神のもとへ導かれるまで、罪の問題は実際には解決されていませんでした。

「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。」
(ヘブル人への手紙10章4節)


したがって、旧約聖書のすべての聖徒たちは、いわゆる「信用」によって救われました。
キリストが死なれた今、その記録は閉じられました。
民が信仰をもって神に立ち返った過去の時代においては、神は、神の義による罪を赦しが宣言されています。
25節でパウロが述べているのは、私たちの過去の罪のことではありません。
それは十字架以前の時代の信じる者たちの罪です。

「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。
それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」
(ローマ人への手紙3章25節)


そして、今、この時に、神はすなわち御業が成し遂げられ、ご自身の義を宣言されます。
なぜなら、神は義でありつつ、イエスを信じる不信心な罪人たちをも義とすることができることを示したからです。
これにより、人間の側に自慢する余地を残していません。
むしろ、私たちが私たちの罪が救い主にどのような代償を払わせたかを考え、恥と悔い改めの気持ちを抱き、私たちのために驚くほどに働いた恵みを思い巡らすためなのです。
また、私たちが喜びの賛美を捧げるためなのです。
この事例の本質上、人間の価値は排除されています。
救いは信仰による恵みを通して得られます。

「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」
(ローマ人への手紙3章28節)


つまり、これは律法を破るユダヤ人だけでなく、律法を破らない異邦人も含まれることになります。
しかし、同じ福音がすべての人に向けられています。
万物の創造主である主は誰も見逃すことはありません。
神は、割礼を受けた者を儀式によってではなく、信仰によって義と認めます。
また、割礼を受けていない異邦人も同じ様に信仰によって義と認めます。

「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」
(ローマ人への手紙3章31節)


律法はそれを破った者に罪を宣告し、復讐を要求しています。
律法をキリストが担われたので、律法の偉大さは保たれ、罪人たちは救われるのです。
全能者の復讐はキリストに降りかかり、世界を滅びに沈めようとしました。
彼は選ばれた人類のためにその復讐を負い、このように隠れ場所となったのです。

第4章では、使徒がアブラハムとダビデの例を通して、この贖いが律法と預言者によってどのように証明されているかを示しています。
アブラハムは律法の書であるモーセ五書から証明されており、ダビデは預言者と結び付けられている詩篇から証明されています。
では、アブラハムには何が見られるでしょうか。
アブラハムはその行いによって神の前に義とされました。
もしそうであれば、彼は神の承認を受けるにふさわしい義人であったことを誇ることができたはずです。
しかし、聖書は何と言っているでしょうか?
創世記にはこのようにあります。

「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
(創世記15章6節)


このことが、使徒が強調し、はっきりと説明してきた原則なのです。
行いによって救いを得るということは、神に対して人間が借りを生じることになります。
神は成功した労働者を救う義務があるでしょうか?
これは、働かずに不信心な者を義と認める方を信じる者に示される憐れみである恵みとは正反対です。

「その信仰が義とみなされるのです。」
(ローマ人への手紙4章5節)


アブラハムはこのことについて証言しています。
また、ダビデも詩篇32篇でこのように叫んでいます。

「幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」
(詩篇32篇2節)


行いではなく、神から義と認められる人の幸いを歌っているのが分かります。
主が罪を負わせない人は幸いです。
詩篇では「覆われた」というヘブル語は「償われた」という意味です。
これが福音です。
償いは完了しています。
つまり、神は御子を信じる者に罪を負わせるのではなく、その代わりに義を負わせるのです。
ルターは詩篇第32篇を「パウロの詩篇」と呼んでいます。
それは人間の長所とは別に、同じ栄光ある義認の教理をはっきりと教えているからです。
罪が負われないことは、義が負わされることと同じです。
司教であるアウグスティヌスはこれらの言葉をプラカードに書き、死にゆく自分の目が留まるようにベッドの足元に置きました。
これらの聖句は律法と預言者の証人として、罪が赦され、罪が償われたという知識によって、さらに無数の人々に平安と喜びをもたらしました。
償われたと問う言葉は、旧約聖書で「覆われた」と訳されているヘブル語の本当の意味です。
この祝福は、選ばれた少数の人だけのものではなく、すべての人に無償で提供されるものです。
アブラハムの肉体に割礼という契約の印が付けられる前、彼が異邦人の地にいたとき、彼の信仰によって義とみなされました。
それは、キリスト教会でのバプテスマのように、すでに真実であったことのしるしです。
アブラハムは義とされたので、割礼を受けるよう命じられたのです。
それから何世紀も経ち、ユダヤ人は信仰よりもしるしの方が重要だと考えるようになりました。
人は目に見えないものを犠牲にして、目に見えるものを常に称賛しています。
アブラハムは「割礼の父」と呼ばれています。
アブラハムを通して割礼の儀式が始まったからです。
しかし、アブラハムは文字通り割礼を受けた者たちの父であるばかりでなく、肉に頼らず、肉を弱く無益なものとみなしました。
アブラハムのように生ける神に信頼を置くすべての人々の父でもあるからです。
アブラハムが世界の相続人となるという約束は「律法を通して」与えられたものではありません。
つまり、アブラハムの功績に対する報酬ではなく、従順さによって得たものではないからです。
それは主権の恵みに基づいていました。
したがって、アブラハムの義は、私たちが信じる私たちの義と同様「信仰による義」なのです。
約束の相続人は、同じ信仰によって約束を受け入れた人たちです。
そうでなければ、約束は完全に無効になってしまいます。
それは無条件な約束でした。
律法は従順に対して祝福を約束しています。
しかし、不従順に対しては裁きを宣告しています。
誰もそれを守ることはできません。
したがって「律法は怒りを生み出すのです。」
それは呪いです。
祝福ではありません。
律法は罪に違反行為という特別な性質を与えています。
そして、すでに知られた律法に対する故意の違反とすることで罪が激化しました。
律法は無償で与えられたものを得る手段ではありません。
子孫、つまりキリストを通して祝福が与えられるという約束は、恵みを通した信仰によるものです。
このように、すべての子孫、すなわち、すべての信仰者にとって、それは確かなことなのです。
このようにすべて「アブラハムの信仰」によるものです。
アブラハムはイエスを信じる私たちすべての父なのです。
このようにこの御言葉が成就しました。

「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」
(ローマ人への手紙4章17節)


アブラハムは、生まれながらにして私たちの父ではありません。
しかし、神の目には、信じる者のすべての父なのです。
すべての人に共通するのは同じ信仰です。
神は復活の神です。
神は生まれつきの力が無力なときに働きます。
神はアブラハムとサラの場合においても、自然に子供の親になれる時期を過ぎてから子を与えました。
神は、真実な子孫であるキリストを世に送った時も、最初に自然に反して処女の母からキリストをこの世に導き、次にキリストを死から復活させることによって、すべてを成就させました。
アブラハムは復活の神を信じ、実現が不可能に思えても神の約束に動揺していません。
神は不可能なことを喜んで成し遂げます。
約束されたことは必ず成就させます。
アブラハムはこれを完全に確信し、神を信じ、それが彼の義とみなされました。
同じように、、私たちの主イエスを死からよみがえらせた方は、私たちの罪を償うために無限の恵みによって死に渡されました。
神の満足のいくまで、贖いの働きを終えた後、私たちは私たちを義とするためによみがえらせた方を信じる必要があるのです。
キリストの復活は神が満足された証拠です。
神の義は宣言されました。
神の聖さが証明されました。
律法は成就されました。
そして、信じた罪人はすべてのことから義と認められるのです。

これが4章の証しです。
5章の最初の11節には、この主題のこの段階を締めくくる素晴らしい要約があります。
はっきりと立証されたすべてのことを考慮してこのように宣言されています。

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
(ローマ人への手紙5章1節)


ある人は「私たちは平和を持ちましょう」と訳しています。
しかし、これでは議論全体の力を弱めることになります。
ここで言う平和とは、心や気持ちの状態のことではありません。
それは、かつて離別された二人の者の間にある状態です。
罪は創造主と被造物の関係を乱しました。
人間には修復できない亀裂が生じてしまいました。
しかし、キリストの十字架の血によって平和がもたらされたのです。
もう障害となる壁はありません。
神との平和は、今やすべての信じる者が持っている永続的な状態です。
罪の問題は解決しました。
二つの国が戦争をすれば平和は訪れません。
平和が実現すれば戦争は起こりません。

「「悪者どもには平安がない。」と私の神は仰せられる。」
(イザヤ書57章21節)


しかし、キリストは平和を実現されました。
そうです、キリストはわたしたちの平和なのです。
私たちはキリストにある平和を信じています。
そして、神との平和があります。
私たちは「神との平和を楽しみましょう」と言うかもしれません。
しかし、「神と平和を保ちましょう」というのは、一見すると不合理です。
私たちは平和を手に入れました。
それは、決定されています。
私たちではなく、キリストが平和を作ったのです。

「永遠の平和、ヤハゥエの名のように確実です。
彼の揺るぎない王座のように安定し、永遠に変わりません。
私の愛はしばしば衰え、私の喜びは今だに満ち引きしています。
神との平和は変わりません。
ヤハゥエを知ることに変わりがありません。」
私は変わります。
ヤハゥエは変わりません。
私のキリストは決して死にません。
この血で結ばれた友情は変わりません。
キリストの真実は私の真実、この結びつき。」

「神の平和」はまた別の箇所にも述べられています。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
(ピリピ人への手紙4章6、7節)


それは経験として書かれています。
これは、思い煩いを神に委ねること学ぶことは永遠の恵みとなります。
神はすべての重荷を負う大いなる方です。
信仰をもって、この違いを理解することは大切です。
たましいが、キリストの十字架の血によってもたらされた平和が永遠で揺るぎないものであることを悟る必要があります。
それまで、その者は個人の失敗や信仰の不足のために、経験と御言葉の宣言が異なっているので、最終的な救いは確信を得ることができません。
このように、この平和は私の心構えや感情に基づくものではありません。
私は成し遂げられた救いに基づくものであることを知っています。
そして、信仰によって、私が立っているこの恵みに意識的に近づくことができます。
私は自分の功績、長所ではなく、神の恵みによって立っています。
私は神の恵みによって救われました。
私は恵みの中で進み続けます。
私は恵みによって栄光を受けています。
救いは最初から最後まで完全に神から来るものです。
したがって完全に神の恵みによるものなのです。

「恵みは、私たちの耳に届いた最も甘いささやきです。
良心が責め立てられ、義が顔をしかめました。
その時、恵みが私たちの恐怖を取り去ってくれました。
恵みは貧しい人々に開かれた富の鉱山です。
恵みは健康の最高の泉であり、永遠の命です。
恵みについて、喜びに満ちた素晴らしい歌を歌いましょう。
恵みをもたらした者は栄光をもたらし、私たちはキリストとともに支配するのです。」

これは、信仰を持って近づくすべての人に、栄光の王が差し出す金の笏です。
私たちの書簡の5章2節で述べられていることは、私たちの前に必要なのでは、導き入れられ、立っていることです。

「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」
(ローマ人への手紙5章2節)


導き入れられた状態ではなく、立場に基づいて行われます。
これらの用語は注意深く区別する必要があります。
ピリピ人への手紙には「状態」について多く書かれています。
パウロはそのことを非常に気を付けています。
パウロは神の子としての立場について、恐れを抱いていません。
それは永遠に決定されていることです。
立っているということは、神の御座の前に義とされ、キリストにあって復活し、永遠に裁きの及ばない、恵みによって私が置かれた新しい場所を意味します。
状態とはたましいの状態です。
それは経験的です。
立場は決して変わりません。
状態は変動しています。
私が神とともに歩む程度によって決まります。
私の立場は、キリストに導き入れられ測られているので、常に完全です。
私はキリストに受け入れられています。
キリストのように私たちもこの世に存在します。

「なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。」
(ヨハネの手紙第一4章11節)


わたしは御霊に従って歩むこともあるし、肉に従って歩むこともあります。
このように、わたしの状態は良くも悪くもなります。
私の立場は、清められた礼拝者として意識的に至聖所に入り、祈りの中で大胆に恵みの御座に近づく資格を私に与えられていることです。
かつて、神は厳しく「遠く離れて立って礼拝いなさい」と言われています。
近づくことは律法的な契約の下ではできません。
神は隠されていました。
幕はまだ裂かれていないからです。
今はすべてが異なっています。
私たちはこのように勧められています。

「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」
(ヘブル人への手紙10章22節)


そして今、私たちは恵みの御座に近づくことができます。
そこには主の血と祭司がいるからです。
私たちは賛美と祈りの香炉をもって、喜びをもって神の聖なる御顔を求めます。
燃える山と奥義の幕、私たちの恐怖と罪悪感は消え去りました。
私たちの良心は決して失われることのない平和を手に入れました。
王座に座しているのはこひつじです。
このように、私たちは神の栄光の希望を抱いて大いに喜んでいるのです。
この希望は、不確実な希望ではなく、確実で確かな希望です。
なぜなら、それは神のキリストの完成された働きと、天の栄光ある右に座する祭司に基づくからです。
信仰によって義とされ、神との平和を得たすべての人には栄光が保証されています。
しかし、栄光に到達する前に、私たちは荒野の砂を踏まなければなりません。
ここが試みの場所です。
ここで私たちは、素晴らしい神の無限の資源について学びます。
ですから、私たちは、たとえ生まれながらの人間が喜ぶことと真逆な苦難であっても、この試みを誇ることができます。
患難とは、神が定めた、麦ともみ殻を分けるための脱穀です。
苦しみと悲しみの中で、私たちは自分自身の無力さと、私たちを乗り越えさせてくれる偉大な力を学びます。
これらは天では決して学ぶことの出来ない教訓です。
傷ついた心を癒す感触は、天では決して感じることはできません。
御使いたちは神の祝福を知り、迷える聖徒たちは神の愛を知ります。
したがって、私たちがそれを私たちの祝福のためだと知って、愛ある主ご自身からのものとして受け入れるならば、「苦難は忍耐を生み出す」のです。

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
(ローマ人への手紙5章3、4節)


忍耐強い忍耐から芳しいクリスチャンとしての体験が生まれ、キリストがどんな状況でも素晴らしく支えてくださることを、たましいが学ぶためです。
そして経験は希望へと花開き、心を地上の物事から引き離し、現在、私たちが急いで向かっている天の光景で満たします。

「この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
(ローマ人への手紙5章5節)


このように、「希望は恥じることがありません。神の愛は、私たちに与えられた聖霊によって私たちの心に注がれているからです。」
ここで、この書簡の中で聖霊の働きについて初めて述べられています。
1章では、キリストの働きと復活に関連して聖霊について書かれています。
しかし、キリストの完成された働きを理解してたましいが平安に入るまで、信じる者の中で聖霊が働くことについては一言も書かれていません。
これらすべては重要です。
私自身の中で起こっていることで、私は救われるのではありません。
主イエスが私のためにしてくださった御業によって私は救われたのです。
しかし、私が福音を信じ、聖霊が私に印を押して下さりました。
聖霊が私の内に宿ることで、神の愛が私の心の中に注がれたのです。」
私が贖罪の血にすべてを委ねるならば、すぐに、聖霊が入りました。
私は神から生まれたのです。
私の確信の根拠として、私の内なる聖霊の働きを私が認識していることに頼ることは大きな間違いです。
確信は福音の真理の言葉によって得ることができます。
私が信じるならば御霊を受けます。
このことについては8章で扱います。
これは補強的な証拠です。

「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。」
(ヨハネの手紙第一3章14節)


6節から11節までは別の区分を構成しています。
この区分では、これまでのすべての要約が述べられています。
その後、使徒は次の区分で福音の第二段階、すなわち私たちの罪について語り始めています。

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」
(ローマ人への手紙5章6節)


キリストは人間的ではありません。
正直な人、義人として知られ認められている人のためだとしても、自分から命を絶とうとする人はほとんどいないと思います。
ましてや、邪悪な人のために命を絶つ人はいないでしょう。
中には、親切で慈愛に満ちた善人のために死んでもいいと思う人もいるかもしれません。
しかし、キリストはその恵み深い態度で人々の心をつかみました。

「しかし私たちがまだ罪人(義、もしくは正しくない人)であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
(ローマ人への手紙5章8節)


もし、私たちが失なわれ、下劣な状態にあるときに、愛によって十字架の死に至るまでイエスをお与えになったのなら、私たちはイエスの血によって義と認められ、私たちは決して裁きを受けることが許されないことを、疑いなく知ることができます。
ここには5つの「さらに(much mores)」と呼ばれ、最初の聖句は9節にあります。
「さらに、なおさら」だとパウロは叫んでいます。

「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」
(ローマ人への手紙5章9節)


この用語は2回使用されており、もうひとつは10節にあります。

「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのこと(much mores)です。」
(ローマ人への手紙5章10節)


この聖句を私たちの祝福された主の地上での生活のことを述べているという人々は何も見えていません。
キリストの命は、いかに純粋で聖いものであったとしても、一人の哀れな罪人を救うことはできません。
イエスは死によって私たちの罪を償ったのです。
イエスは十分に神の愛を語られました。
しかし、人間の心の毒のある憎しみを引き出すだけでした。
敵意を滅ぼすのは主の死です。
主が私のために死んでくださったと分かった時に、私は神と和解しました。
憎しみはすべて私の側にありました。
しかし、神が私と和解する必要はありません。
それでも、私は和解を必要としており、キリストの死の中にそれを見出しました。
今、それはすでに成就した事実です。
そして、私は「御子の死によって救われる」ことを確かに知ることができます。
イエスはこのように言われました。

「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」
(ヨハネの福音書14章19節)


ここで注目されるのは、イエスの復活の命です。

「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。
キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
(ヘブル人への手紙7章25節)


神の右に座する生けるキリストは、私にとって永遠の救いの保証です。
イエスは、私たちの訴えを弁護し、人生のあらゆる試練を切り抜けさせ、最後には私たちを安全に父の家へ連れ戻すために生きておられます。
私たちはイエス自身と同じ命の束に結ばれています。
しか、これは正確にはこの章の最後の区分の主題となり、救いの第二段階に関係しています。
そして、私たちの立場をこのように述べられています。

「そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」
(ローマ人への手紙5章11節)


これが、この世において、もしくは永遠における、私たちは立場なのです。
償いを受けたのは私たちではなく、神です。
私たちは罪を償う必要がありましたが、それができなかったのです。
しかし、キリストがご自身を汚れのない者として神に捧げることで、私たちのためにそれを成し遂げてくださいました。
このように、神が償いを受け入れ、かつては「敵」であり「邪悪な行いによって心の中で疎外されていた」私たちは和解を受けたのです。
敵意は消えました。
私たちは神と平和を持っています。
そして、私たちの永遠の分け前としてくださった神を喜んでいます。
これが現在における栄光ある結果です。
このように聖霊が私たちを導いてきました。
私たちの救いは完全です。
私たちの罪は消え去りました。
私たちは神の恵みによって無償で義とされました。
私たちは神と平和を保ち、私たちを救ってくださった神とともに永遠の至福を過ごすのです。
そして、このことを喜びと確信をもって待ち望んでいます。

残りの3つの「ですから(much mores)」は次の区分で説明されています。
そこでは2つの指導者の地位に関する問題が徹底的に検討されています。
順番にそれらについて触れていきます。


講義5 内在する罪との関係における福音
第一部 5章12節から 7章25節

この大きな教義上の区分の3番目の部分は、5章12節から8章の終わりまでの範囲が広いため、2回の講義に分けて取り上げる必要があります。
まず、7章で終わりの部分を見てみましょう。
5章の後半には、アダムとキリストという2つのかしらが登場します。
6章には、擬人化された罪とイエスに現れた神という2人の主人がいます。
7章では、律法と復活したキリストという2人の夫について考察します。

目覚めた罪人が心配することは、自分の罪によって当然受けるべき裁きから、どうすれば逃れられるかということだけです。
救いのこの側面は、私たちが最近取り上げた部分ですべて取り上げられ、解決されました。
二度と起きることはありません。
この手紙の次の部分に進むと、罪の問題が出てきません。
罪人が福音を信じる瞬間、神の裁きのもとにあるアダムの子としての責任は永遠に終わります。
しかし、まさにその瞬間に、神の子としての責任が始まります。
その者は聖いものを渇望する新しい性質を持っています。
しかし、その者はすぐに、神への改心によって自分の肉的な性質が取り除かれたり改善されたりしていないことに気づきます。
そして、この事実から多くの試練の経験が生じます。
自分はさまざま種類の邪悪な行為を行うことのできる性質をまだ持っていることに気づき、くり返し大きなショックを受けます。
当然、その者は恐怖を感じ、新しく生まれた自分の現実と神の前での自分の義に疑問を抱くかもしれません。
聖なる神は、このような性質を持つ者とどのように付き合うのでしょうか!
もし、肉において罪と戦おうとするなら、おそらく敗北します。
ルターの友人ピリピ・メランヒトンが「老いたアダムは若いピリピには強すぎる」と簡潔に述べた言葉を、私たちは苦い経験を通して学ぶことになるのです。
「この危機のときに、肉の性質を除いて、肉の思いを死なせるよう仕向ける霊的な詐欺師の手に陥ってはいけません。
健全な聖書の教えを受ける若い改宗者は幸いです。」
もし、彼がこの詐欺師のアドバイスに従うなら、その者は不確実性の泥沼に導かれ、肉における完璧さの可能性という幻想に目がくらみます。
おそらく神の民に残された安息にたどり着くまで何年もの間、狂信と自虐の泥沼にもがき苦しむことになります。
私はこの方向での私自身の初期の経験を「聖さ、偽り、そして真実」と題する小冊子に記そうと試みました。
この本が何千ものたましいの救いに役立ったことを知り、感謝しています。
今、私たちが考えるべき真実こそが、私をあの初めのみじめさと失望から結果として救ってくれました。
これらの章を取り上げることで、私は誰かを敵に回したいわけではありません。
ただ、たましいの祝福のためにここで提示されている真実の道を建設的に開拓したいだけなのです。
まず、5章12節から21節にある2つの大きな家族と2人の集まりのかしらについて考えてみましょう。
人は信仰によって義と認められた瞬間に、神から生まれた者になります。
すでに述べたように、その者の義認は神の御座の前において、公式に認可されたものです。
その者の新生には、新しい家族への導入が含まれています。
その者は復活したキリストをかしらとする新しい創造の一部となります。
最初のアダムは古い種族の集まりの長です。
復活したキリストは第二の人間であり、最後のアダムは新しい人類のかしらです。
古い創造はアダムの中で堕落し、すべてのアダムの子孫がアダムの破滅へと巻き込まれました。
新しい創造物はキリストの中で永遠に安全に立っています。
、キリストから命を受けた者はすべて、キリストの十字架によって得られ、神の右の座にあるキリストの命によって確保された祝福に預かる者です。
新たな創造物は今、喜びに満ち、平穏に安息の中にいます。
イエスの完全な救いに祝福され、悲しみも奴隷状態も知りません。
このことを理解することによって信じる者の安全の問題が解決され、罪の力からの解放の教理に聖書的根拠が与えられます。
12節で始まった主題は18~21節で結論づけられていることがわかります。
中間の節(13~17節)は挿入句で、つまり説明文です。
罪は、モーセによって律法が与えられる以前から、アダムの堕落以来、この世界で人間を支配していました。
しかし、人間に律法が与えられ、人間がそれを意識的に破るまでは、罪はまだ違反行為としての明確な特徴を持っていなかったのです。
したがって、律法なしには罪は課されませんでした。
それにもかかわらず、死が存在し、考えられるべきであったことは明白です。
なぜなら、「罪によって死がはいってきた」からです。

「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。」
(ローマ人への手紙5章12節)


死はアダムからモーセまですべての人類に対して専制君主として君臨しました。
エノクの場合は神が介入し、エノクは死を見ることのないように移されました。
幼児、もしくは無責任な人の場合のように、故意に罪を犯さない場合もあります。
そんな場合においても死が支配し、彼らがアダムの罪に同盟を結ぶように関与してきます。
実際に、これらの罪はアダムの堕落した性質を持つ堕落した人類の一部であることを証明しています。
もともと神のイメージと似姿で創造された者が、罪によってそのイメージを汚し、神の似姿を失っています。
創世記にはこのように記されています。

「アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。」
(創世記5章3節)


これは人類のかしらであるアダムと、人類に共通する特徴です。

「なわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」
(コリント人への手紙第一15章22節)


神学者たちはこのことの正確な意味について議論します。
そして、合理主義者たちはこれを受け入れることを完全に拒むかもしれません。
事実は「人間には一度死ぬことが定められている」ということです。
神の介入がなければ、誰もが詩人とともにこのように言います。
「私は死と待ち合わせをしている。
私はその待ち合わせに失敗するつもりはありません。」
(米国、アラン・シーガー(Alan Seeger)作)

皆さんは、このことに関係してよく述べられる、スコットランドのセント・アンドリュー教会の墓地にある4人の幼い子供たちの遺体が眠る墓石に刻まれた碑銘について、聞いたことがあると思います。

「恐れを知らない背信者は、青ざめ、死に至らせる。(Bold infidelity, turn pale and die)」

この石の下には四人の幼児が眠っています。
彼らは失われたのか、それとも救われたのでしょうか?
もし、死が罪によるのなら、彼らは罪を犯したのです。
それが、彼らがここにいる理由です。
もし、天に入ることが行いによるのなら、天に彼らが存在するはずがありません。
ああ、なんて堕落した存在なのでしょうか!
聖書の聖なるページをめくれば、結び目は解けてきます。
彼らはアダムが罪を犯したために死にました。
彼らはイエスが死んだために生きています。
幼子の苦しみについての問題の解決策は、アダムにおける人類の堕落以外にはありません。
しかしアダムは、来るべき方の象徴、型でした。
そうです。
来られた方は、信頼し、復活の命を受ける者のすべてに対して堕落の影響を解消する責任を引き受けられました。
そして、このことと、永遠に続く、神に由来する完全な義が結びついています。
しかし、犯罪と贈り物には違いがあります。
アダムの唯一の罪は、アダムの堕落の結果に生じた人類に関するものです。
キリストは神の義を満たし、信じる者すべてに恵みによる命の賜物を与えました。
そして、その十字架によって多くの人々に命が豊かに与えられるのです。
ここで 15節に3番目の「さらに(それにもまして)」があることに注目してください。

「ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。
もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。」
(ローマ人への手紙5章15節)


一人の人が犯した犯した罪は、賜物とは違います。
一人の犯した罪によって全人類に罪の宣告をもたらし、全人類を裁きの下に置いたのです。
しかし、信仰によって命と義の賜物を受け取るのなら、罪の数に関係なく、受け取る人はすべてのものから義とされる立場に置かれます。
一つの罪のために死が支配したのです。
しかし、私たちは、「なおさらのこと」、この豊かな恵みと、この義の無償の賜物を受ける人々は死を克服しています。
「わたしが生きているので、あなたがたも生きる」と語るイエス・キリストによって、今や命において死に打ち勝ち、君臨しているのだ、と言っているのです。

「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」
(ローマ人への手紙5章17節)


これらすべてを念頭に置いて、12節に戻り、それを18~21節と結び付けてみましょう。
このように、一人の人間によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死がすべての人間に及びました。
このようにすべての人が罪を犯したのです。
アダムが堕落したとき、すべての人が彼の腰の中にいたのと同様、人類全体がそのかしらの背信に巻き込まれたのです。
では、18節を見てください。

「こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。」
(ローマ人への手紙5章18節)


「こういうわけで、ちょうど一つの違反によって」普遍的な罪の宣告が下されたのと同じように、十字架上で成し遂げられた一つの義の行為によって、すべての人に命の義と認められる機会が与えられるのです。
言い換えるのであれば、アダムの罪の結果に巻き込まれたすべての人に、命が無償の贈り物として与えられています。
それは、かつては罪の宣告を下に死に伏し、死を廃止して勝利のうちによみがえり、今や新しい人類のかしらとして、自分を信じるすべての人に、罪の責めが決して伴なうことのない復活の命を与えた神の御子によって現わされた永遠の命です。
今後、その者たちはいかなる意味においても罪が伴うことのない人生をキリストと共に共有することになります。
これは新しい創造です。
パウロはコリント人への手紙第二5章、コリント人への手紙第一15章の中でこのことについて詳しく書いています。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
(コリント人への手紙第二5章17節)


すべての事は神のために存在しているのです。

「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」
(コリント人への手紙第一15章22節)


このようにこれらの言葉の真実な力を理解することができます。
これは普遍的な救いではありません。
また単に神がすべての死者をよみがえらせるということでもありません。
二つの人類、二つの被造物、二つのかしらの地位は対照的です。
キリストは神の創造の始まりであり、起源であり、これらの集まりの頭です。

「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。」
(ヨハネの黙示録3章14節)

死を通過し、神の右に座す復活した人としてキリストは今や、信じるすべての人にとって、純粋で、聖く、汚れのない命の泉なのです。
今、ゆえに、私たちは命の義を神の前で証明されています。
一人の人の不従順によって多くの人が罪人となりました。
今や、私たちの新しいかしらであるキリストの、死に至るまでの栄光ある従順の行為によって、多くの人が義とされるのです。
律法の施行により、罪の重大性が増しました。
律法は罪に違反行為という特別な性質を与えました。
罪が満ちあふれた所(いわば、その洪水の潮流に達した所)では、恵みは「さらに満ちあふれた」のです。
しかし、恵みはそれ以上に満ちあふれました。
十字架以前の長い時代、すべての民が死に至るまで、罪が専制君主のように君臨していました。
今や恵みは王座に就き、成し遂げられた義を通して、私たちの主イエス・キリストによる永遠の命へと君臨しています。
なんという素晴らしい福音でしょうか!
なんという素晴らしい計画でしょうか!
福音は完璧で、聖いものであり、神ご自身のようです。
この五つの「さらに素晴らしいこと」とは、驚くべき輝かしい恵みの際立たせているのです。
こうしたことすべてを踏まえて考えてみましょう。
人間には神の恵みを淫らな行いに変えてしまうという生まれつきの心の傾向が存在しています。
使徒パウロはそのことを認識し、読者に「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」という問いを投げかけているのも不思議ではありません。
6章は、この批判に見事に答えています。
パウロは「絶対にそんなことはありません」と憤慨しています。

「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」
(ローマ人への手紙6章2節)


どのような意味で私たちは罪に対して死んだのでしょうか?
もし本当に罪に対して死んでいたなら、私たちはこの問いにもその答えにも心を煩わせることはありません。
私たちを困らせているのは、罪を憎みながらも、自分自身の中に罪に屈する傾向があるという事実です。
しかし、私たちは罪に対して死んだと言われています。
どのように、どこで?
次の節に答えがあります。
連なったかしらであるアダムとのつながりが、キリストの死における私たちとのつながりによって断ち切られました。
その事実によって、キリストの死において、主人とて従わせようとする罪の権威に対して、私たち自身も死んだと考える権利が私たちにはあるということを物語っています。
イスラエルは小羊の血によって裁きから救われました。
これは最初の救いの側面に答えるものです。
紅海を通過することによって、イスラエルはパロとその監督官から解放されました。
このことは現在私たちが検討している側面を示しています。
罪はもはや私たちを支配するものではありません。
かつて、私たちは罪に仕えていました。
しかし、死によってすべてが変わってしまいました。
私たちの奴隷状態は終わりました。
現在、私たちはキリストの復活と結びつき、神に導かれています。
このことについてはバプテスマが語っています。

「それとも、あなたがたは知らないのですか。
キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」
(ローマ人への手紙6章3節)


イスラエルは型としてのバプテスマを受けたのです。

「私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、」
(コリント人への手紙第一10章1、2節)


イスラエルは死を通過し、姿を現して、モーセが彼らの新しい指導者となりました。
イスラエルについて言うのであれば、パロの支配は終わりました。
ゆえに、今、救われた私たちはキリストが死んで、キリストの死を通してバプテスマを受けているのです。
私たちは、イエスが私たちの代わりに死んでくださったことを知って、イエスの死を私たちのものとして受け入れました。
私たちは新しい指導者としてイエスの名によってバプテスマを受けます。
これが聖霊のバプテスマなのでしょうか?
私はそうは思いません。
聖霊は死に至るバプテスマではありません。
一つの新しいからだに至るバプテスマです。
それは奥義としてのキリストを確立することです。
私たちの水によるバプテスマは、キリストの死に至るバプテスマです。
さらに、使徒はこのように言っています。

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」
(ローマ人への手紙6章4節)


バプテスマにおいて、私は罪の支配下にあるアダムの人間としての古い生活に対して死んだことを告白します。
これらの生活は終わりました。
今、私は復活した人、つまり死の向こう側でキリストと結ばれた人として、新たな命を歩んでいるのです。
そして、このことの真実性を証明したいと思います。
ゆえに、罪の中に生きるという考えはすべて退けられ、すべての排斥主義は論破されます。
私の新しい人生は、バプテスマの時の告白に応えることです。
実際に私はキリストとの同一化を実感することになります。
私は主の死のひな型において、すなわちバプテスマにおいて主とともにつぎ合わされました。
また、主の復活のひな型においても(主と)一つとなるのです。
私は罪の支配の下で生きていません。
私は、私の新しいかしらであるキリストに従って生きます。
論理的にパウロはこのように続けています。

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
死んでしまった者は、罪から解放されて(義とされて)いるのです。」
(ローマ人への手紙6章6、7節)


かつての私の人間というのは、単に私の昔の性質だけを言っているのではありません。

それはむしろ、肉体の人間としての私です。
「昔の人」、つまり、あらゆる習慣と欲望を持った救われていない人のことです。
その人はキリストと共に十字架につけられました。
イエスが死んだ時、私も(肉に従う人間として)死にました。
神は、私が神の祝福された御子とともに、十字架の上で姿を現されたのを目撃されました。

カルバリの丘で十字架につけられたのはどのくらいいるでしょうか?
盗賊もいました。
キリストご自身もいました。
たったの三人です。
しかし、これで全員でしょうか?
パウロはガラテヤ人への手紙の中でこのように言っています。

「私はキリストとともに十字架につけられました。」
(ガラテヤ人への手紙2章20節)


パウロもそこにいたので、合計4人になります。
そして、すべてのクリスチャンがこのように言うことができます。
「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのです。」
数え切れないほど多くの人々が、キリストとともに十字架にかけられているのを神は見ていたのです。
これは単に私たちの罪が扱われるということではありません。
私たち自身も罪人として、アダムの堕落した人類の子孫として、神の目の下から取り除かれ、私たちの古い立場が永遠に終わるということです。
キリストと共に十字架につけられた私たちは、今はキリストと共に生きているのです。
使徒はガラテヤ人への手紙の中でこのように続けています。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
(ガラテヤ人への手紙2章20節)

そして、ここではこのようなことが書かれています。
罪のからだはこのように無効にされ、イスラエルに関する限り、パロのからだ、エジプトの全権力が無効にされました。
罪は今や私の主人ではありません。
キリストにおいて私は神のために生きています。
私はもう罪の奴隷ではありません。
私は罪の権威から義によって自由にされたのです。
今、パウロはこの貴重な真理のすべてが実際に及ぼす効果を示しています。
私たちはキリストとともに死にました。
私たちも神とともに生きる者であることを信じています。
ならば、天において罪は私たちに対して権威を持たないことになります。
また、私たちは罪に屈服することによって、罪の権威を自分のものにすべきではありません。
復活したキリストは二度と死ぬことはないことを私たちは知っています。
罪は死をもたらします。
そして、死の権威は永久に廃止されたままでした。

「なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。」
(ローマ人への手紙6章10節)


私たちは古い主人として罪に対して死んだのです。
イエスにくびきを課されたのではありません。
常にイエスは罪から自由な存在です。
そして今、復活してイエスは神に対してのみ生きておられます。
そして、私たちは神と一つです。
ゆえに、私たちも今後は神のみのために生きていくのです。
このことには、罪の力や権威からの現実的な解放が含まれます。
神の血によって贖われた民が肉の性質の力の下に放置され、キリストにある自由人の自由を歩むことができないということは、神の御心ではありません。
しかし、現実的な解放は、肉体における古い主人である罪と戦うことではありません。
今、私たちが考えてきた真理を日々、認識することによって得ることができます。
私たちは、パロの罪のすべての要求に対してキリストと共に死にました。
そして、復活したキリストと一つになって新しい人生を歩む自由を得たのです。
それは神が真実であるとみなすことを、真実だと認識することなのです。

「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」
(ローマ人への手紙6章11節)


この「思いなさい(Reckon)」という言葉はこの章のキーワードの一つです。
これは、文字通り「真実として数える」という意味です。
「神は「私はキリストとともに十字架につけられました。」と言っています。
そのことを私は真実であるとみなすのです。
神はこのように言われているのです。
「私はキリストの中に生きていることを真実だと数えなさい。」
信仰によってこれらすべてを考えるのなら、罪の主張は無効であることがわかります。
この清算から始まる方法以外の救う道は存在しません。
理性は「でも、あなたは死んだと感じていない!」と主張するかもしれません。
感情がそのことにどのように反応するでしょうか?
それは司法上の事実なのです。
キリストの死は私の死です。
ゆえに、私は罪の支配に対して死んだ者と考えています。
次の聖句は論理的な順序で話されています。

「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。」
(ローマ人への手紙6章12節)


時より、私は罪深い欲望に屈することを要求する衝動が内側から湧き上がってくるのを感じます。
しかし、警戒して、私がすぐに「いいえ、私はそれに対して死んでいます」と言うならば、罪はもはや私の意志を支配するものではありません。
私はキリストに属しているのです。
私は主のために生きる者となったのです。
信仰がこのことをを把握するならば、欲望の力は打ち砕かれます。
このことは、キリストとの結びつきを注意深く、常に認識することを伴います。
かつて、私は、肉体の一部が罪に支配され、不義の道具として明け渡す習慣がありました。
しかし、今は、キリストとともに入った十字架の死から生き返った者として、はっきりと、神に無条件に自分自身を明け渡さなければなりません。
当然の結果として、私の肉体のすべての部分は神のものであり、私を救ってくださった神の恵みの栄光のために、義を実現する道具として使われるべきものとなったのです。

「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。
むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」
(ローマ人への手紙6章13節)


「器」と訳されている言葉は、実際には「武器」または「武具」です。
(ローマ人への手紙13章2節、コリント人への手紙第二6章7節、10章4節)

今、私の才能、私の肉体、私のすべての力は神のための武器として戦いに使われるのです。
私は主のみこころのままに行動する兵士です。
私はいかなる法的原理によっても救われず、ただ自由な恵みによってのみ救われました。
罪はもはや私の人生を支配することはありません。
復活したキリストは私の救いの指揮官であり、その命令によりすべてのことにおいて私を支配するのです。
自然は逆に、私が律法ではなく恵みの下にある限り、私がどのように行動するかは何も関係はありません。
私の行いは私の救いとは何の関係もないのです。
そして、罪は私に罪を犯す自由があると私に告げるかもしれません。
しかし、新しく生まれた人間として、私は罪を犯す自由を望んでいません。
私は聖さのための力が欲しいのです。
もし私が習慣的に罪に屈し、その命令に自発的に従うなら、私は依然として罪の奴隷であることを現わすことになります。
その働きの終わりは死です。
しかし、私は新しい人として、今、私が属している方に従いたいと願っています。
そこでパウロはこのように言っています。

「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」
(ローマ人への手紙6章17、18節)


パウロはテーマを説明するために、罪と正義を擬人化して比喩を用いて話し、私たちの弱い人間の心にも理解できるようにしています。
そして、自分の勧めという教義的に述べられていたことを、今度は命令として繰り返しています。

「あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」
(ローマ人への手紙6章19節)


罪の奴隷であったとき、義は私たちの認められた主人ではありませんでした。
その邪悪な関係の結果を考えると、私たちは恥ずかしさで頭を垂れることしかできません。
その終わりは、肉体的、かつ永遠の死でした。
ゆえに、私たちは罪の支配から法的に解放され、神の奴隷となったのです。
私たちの生活は、聖さと永遠の命に至る実りに満ちているのです。
今、私たちは永遠の命を所有しています。
しかし、私たちの命であるキリストが去ったあの場面に私たちが居合わせているのであれば、そこには終わりが見えるのです。
パウロはこの区分を、厳粛でありながらも次の言葉で尊く、締めくくっています。

「罪から来る報酬は死です。
しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
(ローマ人への手紙6章23節)


「罪はある意味において忠実な主人です。
確実に罪は支払うことになります。
罪の報酬は死です。
ここで注目されているのは神の裁きではありません。
罪の報いであることに注意してください。
死は罪の報いです。そして、死後には裁きがあります。
「神の審判の法廷では、まだ刑罰が下されていません。」
この理解には多くの誤りがあります。
多くの人が、肉体の死は存在の停止を伴い、報酬であると同時に刑罰でもあるという誤りを抱きました。
聖書は、罪の報酬が支払われた後に、神の裁きが下されることをはっきりと告げています。
その反対に、永遠の命は無償の賜物、神からの賜物です。
誰もそれを自分で得ることはできません。
この賜物は、キリストを罪の救い主として信じるすべての人に与えられます。
今、福音を信じる者は私たちに与えられるのです。
私たちは「終わりの時」にこの賜物を完全に与えられることになるのです。
7章では、ユダヤ人の信じる者にとって、特に理解しにくい別の側面が取り上げられています。

まず「従順な信じる者にとっての人生の規範とは何ですか?」という疑問を提起します、
そして、答えます。
ユダヤ人は当然「シナイで与えられた律法です」と言うと思います。
使徒の答えは「キリストは復活しました!」です。
悲しいことに、ユダヤ教から離れた人々だけでなく、多くの異邦人信者がこの点を理解していないのです。
冒頭の聖句から、彼の前にいるのは主にユダヤ人のクリスチャンの信仰の兄弟たちであることが明らかです。

「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。
――私は律法を知っている人々に言っているのです。」
(ローマ人への手紙7章1節)


さて、ここで「律法」という言葉を、ここまでの章で繰り返して使ってきた意味と異なる意味で使徒が使っているとは考えられません。
ここでの律法はモーセの律法を意味しています。
それ以外のものを意味しません。
それは、モーセの律法の核心であった、シナイ山で与えられた十戒の言葉を意味します。
ここでの使徒の主張は、死によって律法の権威が終わるまでということです。
もしくは律法と人間との関係が終わるまで、律法は人間を支配しているというものです。
しかし、パウロは、私たちがキリストとともに死んだことを、できるだけ明瞭に示しています。
つまり、私たちは罪に対して死んだだけでなく、人生の規範としての律法に対しても死んだのです。
それでは、律法を持たない人々として生きるのでしょうか?
絶対に違います。
私たちには律法が与えられていません。
今、私たちは「キリストの律法の下に」いる者であり、もしくは「キリストの律法」が与えられた者なのです。
つまり、私たちの新しいかしらであるキリストに「義にあって服従」しているからです。
(コリント人への手紙第一11章)
エペソ人の手紙5章で明らかにされているように、キリストは夫でありかしらでもあります。
この真理は2節と3節で非常に説得力のある形で示されています。
そして、4節ではその適用が示されています。

「夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。
しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。
ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。
私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。
それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」
(ローマ人への手紙7章2~4節)


夫と結婚した女性は、死によってその絆が断ち切られるまで、法的にその関係に縛られます。
夫が生きている間に他の女性と結婚すると、彼女は姦婦になります。
しかし、最初の夫が亡くなった場合、彼女は他の夫と結婚する自由となり、何の罪も問われません。
そのように、死は信じる者と律法の関係を終わらせました。
律法の死ではなく、キリストと共にある私たちの死が古い秩序を終わらせたのです。
しかし、最初の夫が死んだとき、彼女は自由に別の夫と結婚することができ、そうすることについて何の非難も受けません。

「妻は夫が生きている間は夫に縛られています。
しかし、もし夫が死んだなら、自分の願う人と結婚する自由があります。ただ主にあってのみ、そうなのです。」
(コリント人への手紙第一7章39節)


使徒の例え話から、最初の夫は律法ではなく「私たちの古い人間」であるという驚くべき概念が導き出されています。
これはまったく非論理的で受け入れがたいことかも知れません。
なぜなら、私たちが見てきたように、その古い人間とは肉を持った人としての私自身だからです。
私は自分自身と結婚したわけではありません!
そんなことは、まさに不条理の極みです。
ユダヤ人の信じる者はかつては法的な契約によって結び付けられていました。
結婚は神のために実を結ぶ手段として提案されています。
死との関係は心の中の悪いものをかき立てるだけでした。
死は、以前との関係を解消しています。
かつて律法に実りを求めていた者は、今は復活したキリストに目を向けます。
心がキリストに満たされると、神が喜ぶことのできる人生が生み出されます。
使徒はこのように言っています。

「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。」
(ローマ人への手紙7章5節)

「私たちが肉にあったとき」とは生まれつきの状態、救われていない状態のことを指しています。
これは上記の立場をはっきりと示しています。
律法は夫です。
それを通して、神に実を結ぶことを私たちが望む活動的な行為者となります。
しかし、現実には、私たちは死に至る実を結び、義を成就させようとした私たちの苦労と苦しみはすべて失望に終わります。
その子は死産でした。

「しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」
(ローマ人への手紙7章6節)

「律法に対して死んだ」のです、
つまり、律法に縛られていた関係に対して死んだのです。
この描写では、最初の夫が亡くなり、女性は自由に別の男性と結婚することができるということです。
このような応用において、その者は律法が死んだとは言っていません。
しかし、死、私たちにとってはキリストの死によって律法に対する私たちの関係が終わったと主張しています。
結論としては意見の相違はありません。
どちらの場合でも、前者の状態は死によって終了します。
すでに述べたように、律法は肉を持った人間に向けられたものです。
これが私たちの以前の状態でしたが、今はすべて変わりました。
私たちはもはや肉の中にいるのではありません。
次の章で示されますが、御霊の中にいるのです。
したがって、律法がまったく適用されない新しい状態にあります。
再び、かつてからの疑問が浮かび上がってきます。
もしこれがすべて真実なら、私たちは罪を犯すことになるのでしょうか? 律法の下にいないからといって、私たちは律法の無い者になるのでしょうか?
絶対にそんなことはありません。
律法は、単に特別な務めを持つものとして認識されるべきです。
新しい人生の規則として認識されるべきではありません。
それは罪の偉大な発見者です。
パウロはこのように言うことができました。

「ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。」
(ローマ人への手紙7章7節)


つまり、その者は自分の内面の邪悪な性質に気付かなかったのです。
外面的な態度は正しいものと見えたかもしれません。

「律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」
(ローマ人への手紙7章7節)


罪の性質は律法に反抗し、あらゆる種類の貪欲、つまり満たされない欲望を彼の中に生み出しました。
使徒はずっと十戒を念頭に置いていました。
このことを決定的に証明しているかを注意深く観察してください。
この声明から見ると、私たちが死んだのは律法の儀式だけであると言うのは不合理です。
貪欲を禁じる言葉はどこにありますか?
十戒の中にあります。
したがって、「律法」とは石の板に刻まれた神の命令を意味します。
律法がなければ、罪は死んでおり、つまり、活性化するものとして認識されていません。
罪は律法が与えられる前から存在していました。
しかし、罪という性質は律法によって誘発されるまで認識されませんでした。
パウロはこのように言っています。

「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来た(提案された)ときに、罪が生き、私は死にました。
それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。」
(ローマ人への手紙7章9~11節)


言い換えるのであれば、使徒はこのように言っているのです。
「貪欲を禁じる戒めの力が私に理解されるまで、神の前で、私は罪人としての自分の姿、本当の道徳的状態を全く意識していませんでした。
邪悪な欲望は、その欲望が実行されない限り、それ自体が罪であるということに私は気づいていませんでした。」
しかし、律法はこれを明らかにしたのです。
私はあらゆる不法な欲望を抑えようと努力しました。
しかし、罪、つまり内なる邪悪な原理を抑えるには強すぎました。
私を回避し、私を欺き、そして律法を破って、私に死刑判決を故意に下したのです。
パウロがガラテヤ人への手紙でもここでも示しているように、律法はまさにそのために意図されていたのです。

「では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。」
(ガラテヤ人への手紙3章19節)


つまり、律法は、罪に違反という特別な性質を与え、それによって罪悪感と無価値感を深める役割を果たしているのです。
したがって、パウロはこのように結論づけています。

「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」
(ローマ人への手紙7章12節)


問題は法律にあるのではありません。
私にあるのです。
では、この聖なる律法は私に死をもたらしたのでしょうか。
パウロは問いています。
「絶対にそんなことはありません。」
「では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。」
すなわち罪を、彼の中に見出したのです。
律法は邪悪な罪を明らかにするためにあるのです。
このように律法自体が善であると認めていながらも、彼の中に「死をもたらした」のなのです。
そして、罪は律法の制定されることによって、極めて罪深いものとなるのです。
14~25節は、生涯を通じてクリスチャンが経験する正しい経験として多くの人に受け止められてきました。
ある人々は、これは真実なクリスチャンの葛藤のことではなく、パウロは生まれながらの人間、特に律法の下にある改心していないユダヤ人の高等な欲望と低次元の欲望との間にある葛藤を描写していたのだ、と考えました。
しかし、どちらの見解も、この書簡のこの区分の議論とは明らかに矛盾しています。
後者の解釈について言うのであれば、この書簡のこの部分全体において、この問題は信じる者を罪の力から解放することが描かれています。
不信者をその罪から解放することではないことを覚えておく必要があります。
さらに、救われていない人間は誰も、「私は内なる人として神の律法を喜びとしています」と正直に言うことはできません。
「新しい性質を持つ者だけがそのように語ることができるのです。」
これがすでに救われた者の通常の経験であることが7章と8章の研究を進めていく中で明確になってゆきます。
そして、このことについては、7章の困惑した状態から8章の知恵と聖霊による歩みへと秩序ある進歩があることを示していきたいと思います。
すべてのクリスチャンは、この7章14~25節に描かれている状態について多少なりとも知っていることは間違いありません。
しかし、一度それを経験すれば、誰もそれを再び経験する必要はありません。
それは単に二つの性質の間における衝突ではありません。
もしそうなら、人は同じ不幸な経験を何度も繰り返すことになります。
それは、解放の道をまだ学んでいない、律法のもとで活気づけられたたましいの訓練を私たちに与えているのです。
これを一度学ぶのであれば、人は永遠に律法から自由になります。
先ほどの講演で申し上げたように、ここではメインとして、律法を生活の規範として用いて聖さを獲得しようと奮闘し、自分の古い性質を律法に従わせようと試みる、信仰深いユダヤ人が描かれています。
現在、キリスト教世界では、平均的な異邦人の信者は同じ様な経験をしています。
なぜなら、どこにおいても、律法主義が一般的に教えられているからです。
したがって、人が改心するならば、その人は神から生まれたのです。
あとは決意と、律法に従うという粘り強い努力という問題が発生します。
しかし、人はそうすることで聖なる生活が達成されると考えるのは当然な事かもしれません。
神は、信者の肉が不信者の肉よりも優れているわけではないことを民に経験的に学ばせるためのテストを許可しているのです。
自分の努力をやめ、復活したキリストに専念することにより、聖霊を通じて解放がもたらされるのです。
パウロは一人称単数で書いています。
パウロはこのような経験を体験したのかも知れません。
しかし、これは、必ずしも彼自身の長い経験を描写するためではありません。
それぞれの読者が自分自身で共感と理解を持ってその体験をするためなのです。
律法は霊的なものです。
つまり、神からのものであり、神聖かつ超自然的なものなのです。
確かに、私はクリスチャンですが肉欲的な人間です。多かれ少なかれ肉に支配されています。
コリント人への手紙第一2、3章では私たちは私たちのために救われていない、生まれながらの人を区別しています。
つまり、神の子どもでありながら救い出されていない人です。
そして、聖霊に中に歩み生きているクリスチャンを区別しています。
ここで、肉的な人間は罪の下に売られます。
つまり、キリストにあって死んだ邪悪な性質の力に従っているのです。
確かに、その人は祝福された真理によって救われていますが、信仰においてはまだ理解していません。
その結果、その者は神によって植え付けられた新しい性質の欲求に反する行動を続けていることに気づきます。
その者はやりたくないことを実行しています。
その者は決意を最後まで実行することができません。
しかし、その者は自分が犯した罪を憎んでいます。
その者には愛する善行を実行する力を持っていません「。
しかし、このことはその者の中に神の子としての本当の自分と区別される何かがあることを証明しています。
その者は神から生まれたにもかかわらず、まだ肉の性質を持っています。
その者は律法が良いものだと知っています。
その者は律法を維持したいと思っています。
そして、失敗しているのはキリストと一つになった自分ではないという意識が徐々に芽生えてきます。
その者の中に住む罪が、彼を支配しているのです

「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
私には、自分のしていることがわかりません。
私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」
(ローマ人への手紙7章14~17節)


このように彼は自分の肉の弱さと無益さを知るのです。
パウロは「知っています」と言っています。
つまり、私の中、つまり私の肉の中には善が住んでいないのです。
パウロは善を行いたいと思っていますが、正しく実行する力が欠けているのです。
それでもパウロは、肉を強制して律法に従わせようとする努力をしし、徐々にうろたえてゆきます。
それどころか、パウロは自分がしたい善を行わずに、自分がしたくない悪を行うようになるのです。
このように、パウロはすでに下した結論に確信を持つことになります。
「ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」
このように、行動の法則、つまり原理が発見されたのです。
その者は善行を求めながらも悪事を働くのです。
内なる人は神の律法を喜びとしています。
しかし、これによってその人が期待していた聖さは生まれてきません。
その者は自分の望みを叶えるためには、復活したキリストを喜ぶことを学ばなければなりません。
後に彼はこのことに到達することになりますが、その間、その者は異なる望みと行動を持つ二つの性質の発見に没頭していきます。
彼は自分のからだ、つまり、肉の心が働くからだと肢体の中に「別の法則」、つまり原理を見つけます。
それが、彼の新たな心の法則と戦い、彼がこの人生にいる限り、肉体の肢体から切り離すことのできない罪の原理に彼を捕らえるのです。
パウロはこの原理を「罪と死の法則」と呼んでいます。
この原理や制御力がなかったら、人間の欲望や悪い癖を歪めたり誤用したりする危険はなかったはずです。
パウロは、この地上で生きている間は、ずっとこの闘いが続くに違いないと確信していました。
そして、苦悩の中でこのように叫んでいます。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」
(ローマ人への手紙7章24節)


パウロは、腐敗したために汚れた死体に鎖でつながれています。
そして、その鎖を断ち切ることができない生きた人間のようだったのです。
その人はどんなに努力しても、死体をきれいにし、従わせることはできません。
パウロは努力をしても、ただ絶望の叫びです。
パウロは人としての限界に追い込まれています。
そして、すぐにパウロは信仰によって復活したキリストの幻を見るのです。
キリストだけが罪の力からの解放者であり、罪の裁きからの救い主なのです。
パウロは「ただ神に感謝します。」と叫んでいます。
「私たちの主イエス・キリストのゆえに」パウロは脱出の道を見つけたのです。
律法ではなく栄光のキリストがクリスチャンの人生の規範なのです。
しかし、実際にこれを体験することは、次のセクションで説明します。
その反面パウロは告白しています。

「ですから、この私は、心(新しい心)では神の律法に仕え(神が見る本当の人間)、肉では罪の律法に仕えているのです。」
(ローマ人への手紙7章25節)


このような経験はクリスチャンの理想ではあり得ません。
次に別に取り上げる章では、この困惑させる不満足な状態から抜け出す道を示しています。
今、もし、私がこの恐ろしい闘いの苦しみの中にいるとしましょう。
そして、神の聖なる律法に肉を従わせようと努めている信じる者に話しかけるのであれば、肉に対する神の判決を受け入れ、肉を従わせることの不可能性を認めることを強く勧めたいと思います。
肉にはに抵抗しないでください。
それは、毎回あなたを倒すことになります。
肉に歯向かうことから離れなさい。
完全にやめてください。
そして、自分と法律から目を離し、復活したキリストに目を向けなさい。
かつてのイスラエルは、肉の型であるエドムを通る近道を見つけたいと考えていました。
しかし、エサウの子孫は武装して出てきて、自分たちの道に歯向かいました。
神の命令は、引き返して「エドムの地を巡りなさい」というものです。
私たちも同じです。
自己中心から完全に離れるならば、聖霊によってキリストにおける解放と勝利を見つけることができます。


講義6 恵みの勝利 第2部 8章

聖書が編集される時に、本文が章と節に分割されました。
7章と8章の間で分けられることが許されたことは、私にとって非常に残念なことと常に思えていました。
ゆえに、多くのたましいがそのつながりを理解できなかったと、私は確信しています。
私たちは主題ごとに読むのではなく、章ごとに読む習慣が身についています。
正しくは、8章の最初の4節は7章に直接結合されます。
つまり、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」という希望の表現と結びつくはずです。
この章の最初の節は、この書簡の5章12節から始まるこの区分でこれまで展開されてきたすべての真理の要約を形成しています。
このことは原文を注意深く研究する人なら誰でも知っていることであり、あえて私が指摘し強調する必要はありません。
すなわち、1節の最後の部分の挿入文は本来は4節に属するべきものです。
その結果、冒頭の言葉で述べられている「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」という大いなる真理の意味を曖昧にされているのです。
この素晴らしい声明には修飾する言葉は必要ありません。
これは私たちの歩み方の方法ではありません。
これはキリストにあるすべての人に適応されます。
そして、「キリストにある者」というのは、新しく創造された者であるということを意味します。
NKJV訳の聖書、もしくは重要な翻訳をざっと見れば、私が指摘している点がすべての編集者によって支持されていることがわかります。
人間の生まれながらの主権的恵みへの嫌悪感によって、この共通訳の本文にこれらの限定的な言葉が加えられた原因であると、私は確信しています。
罪の宣告から解放されるには、聖霊に従って歩むことではなく、キリスト・イエスに従うことが必要だと信じるのは、あまりにも無理があるように思えます。
ゆえに、4節の言葉を第1節に移動するのは簡単なことです。
4節は、立場としての問題が前面に出ているため、それらは適切な位置にあります。
1節では状態の問題が検討されています。
混乱し、悩める魂にとって、自分の無価値感に悩まされ、自分の決意に沿って生きられないことに悩むたましいがあります。
その者は神がキリスト・イエスの中に見ておられ、彼はすべての非難から解放されていると知るようになります。
それは言葉に尽くせない安らぎに結びつくはずです。
その者は「しかし、それでも私は罪悪感を感じています。」
しかし、これは問題ではありません。
それは私が感じていることではなく、神が述べていることです。
その者はキリストが復活し、永遠に罪の宣告が私に及ばないのを見ています。
裁きの法廷に立つ耳が遠く視力も鈍い囚人がいます。
彼は、裁判官が完全無罪の判決を下す、まさにその瞬間に自分の運命が宣告されるのではないかと想像するかもしれません。
盲目であっても、聴覚障害であっても、この事実は変わりません。
そして、私たちは聞くのが遅く、霊的な視力に欠陥があるにもかかわらず、クリスチャンが栄光ある事実に完全に応じるかどうかに関係なく、神が信じる者を罪の宣告から解放したと宣言しているのです。

「ああ、疑い深い者よ!
自分と自分の状態から完全に目を離し、枠組みや感情から目を離し、復活したキリストに目を向けなさい。
キリストは、かつてあなたの罪によって十字架にかけられた場所から永遠に離れたところにいます。
そして、神の右手に高められたキリストの中に、あなた自身を見るのです。
もし罪の問題が神の満足のいく形で解決されなかったら、その者はそこにいなかったはずです。
神がここにおられ、あなたがたが神に見られているということは、あなたがたがすべての罪から解放されていることの証しです。
ああ、神が御自身の御子を思う心から永遠に流れる平安があります。
ああ、十字架の上ですべてが成し遂げられたことをただ知ることから生まれる平安があります。
神との平和は栄光のキリストです。
神は光です。
神は愛です。
イエスは物語を語るために死に、敵を天の神のみもとへ連れて行きました。」

私たちは「キリスト・イエスにあって」神のもとに導かれ、さばきに関するすべての問題は永遠に解決されたのです。
二度とこの問題を提議することはありません。
このようにたましいは、神の怒りから逃れるためではなく、私たちを平和のうちに御自身のもとに導いてくださった神への愛から、神を喜ばせることに専念するための自由を得るのです。
律法が、その厳しく厳しい警告と脅迫をもってしても成し遂げられなかったことがあります。
つまり、肉の弱さがあり、信頼することができないために、聖い生活を生み出すことができません。
しかし、今や聖霊による新しい命の力によって実現されるのです。

2節の明確な読み方は、おそらく、「聖霊の法則、つまりキリスト・イエスにおける命が、罪と死の法則から私を解放したのです」ということです。

「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」
(ローマ人への手紙8章2節)


つまり、新しく生まれた時に受けたキリスト・イエスの聖霊の命の律法は、信じる者が自分の力で無駄に闘う罪と死の律法とは対照的です。
勝利は、自分自身から復活したキリストの元に立ち返ることによってもたらされます。
聖霊の律法は、以前は力を持っていなかった者に力を与え、祝福をもたらします。
それはまったく新しい原理です。
すなわち、私たち自身の中や私たち自身のものではなく、キリスト・イエスにおける命です。
この新しい命は信じる者に与えられ、信じる者はこの新しい命の力によって歩むよう召されます。
神は、私たちのうちに、神の喜ばれることを意志して伝え、また行なうように働かせてくださるのです。
律法は完全に腐敗し歪んだ性質を持つ人間に義を要求しました。
しかし、人間は腐敗した実しか生み出せませんでした。
聖霊はキリストにある人間に新しい性質を生み出し、この新しい命に新しい愛と願望が結びつきます。
その人は主の言葉に明らかにされている主のみこころに喜んで応じるようになります。
このように、律法の義、つまり律法が要求する実践上の善は、肉に従って歩む人ではなく、古い性質の力の下に歩む人でもなく、聖霊に従って歩む人、つまり、キリストのために私たちを所有するために来た聖霊に従う人の中に現実に生み出されるのです。
5~27節では、地上でキリストの唯一の真実な代理人である聖霊の内在について、広くたましいを高められるような真理が展開されています。

まず、考えられる2つの正反対の原則、2つの完全に反対の生活基準があることを思い出します。

「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」
(ローマ人への手紙8章5節)


この簡潔な言葉の中に、生まれつき人の全生涯が要約されています。
また、対照的に、聖霊に従う人々、つまり神の御言葉と聖霊によって生まれた人々、救われた男女は、聖霊に属する事柄を特徴としています。
パウロは補足的に「肉の思いは死」であることが唯一の正当な結果であり、「御霊による思いは、いのちと平安」だと説明しています。

「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」
(ローマ人への手紙8章6節)

このように聖霊に支配されている者は、死がなく争いのない新しい平原へと引き上げられます。
肉は、いかなる意味においても改善されたり、今後も改善されることはありません。
最も敬虔なクリスチャンのかつての肉は、最も邪悪な罪人の肉と同じくらい、救いようのないほど邪悪です。

「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」
(ローマ人への手紙8章7節)


肉を改革したり浄化しようとする努力はすべて無駄になります。
律法は治癒不可能な邪悪さを示すだけです。
これは、生まれながらの人間が、なぜそんなに無益であるかを説明しています。

「肉にある者は神を喜ばせることができません。」
(ローマ人への手紙8章8節)


人間が善悪の区別がつかないとか、善悪を知っていても正しいことをする力がないとかいうわけではありません。
そのように言うのであれば、人間は責任ある生き物ではなく、単に厳しく残酷な宿命論の犠牲者であると宣言することになります。
しかし、生まれながらの人間は悪を知り善を認めながらも、間違った方向に進み、正しいことを行えなくなります。
なぜなら、6章で述べたように、肉における罪に支配され、その罪に対して自分の肢体を不義の道具として明け渡してしまうからです。
人間は自分の性質を変える力がないので、真に神を喜ばせることはできません。
しかしクリスチャンは違います。
彼は神から生まれたので、もはや肉の中にいません。
今、彼は御霊の中におり、神の御霊が彼の中に宿っています。

「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」
(ローマ人への手紙8章9節)


「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら」とは、聖霊が宿っていないクリスチャンがいるということを暗示するものではありません。
「だから」という意味を持ちます。

すなわち、神の聖霊があなたの内に宿っているので、あなたはもはや肉の中にいるのではありません。
最初の人間の家族に属している者の特徴は、古い性質の支配下にあるということです。
信じていると公言しているかどうかに関わらず、キリストの御霊を欠いている人は、キリストに属していません。
つまり、「キリストに属していない」のです。
ここで言われているのは、単にキリストの性質だけではありません。
キリストの御霊とは、キリストがこの世に遣わし、この恵みの時代に贖われたすべての人々の内に宿る聖霊のことです。
このように宿った者の内にキリストのような性質を生み出すのです。
しかし、キリストが、聖霊によって私たちの内におられるなら、キリストだけが私たちの聖さの力の源なのです。
私たちは肉のからだからの助けを得ることはありません。
からだは罪のゆえに死んでいるのです。

「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」
(ローマ人への手紙8章10節)


神のために実を結ぶ能力について言うのであれば、命ではなく活発性のないものとみなされるべきです。
すべては御霊によるものでなければなりません。
「霊が、義のゆえに生きています。」
これはからだを無視したり軽視したりすることではありません。
からだもキリストの血によって買い取られたものです。
私たちにはこのような約束があります。

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
(ローマ人への手紙8章11節)


前の節で全く逆のことが語られています。
ある人たちが言うように、これが現在の活性化、力強くされた状態と言うのは無意味です。
「からだは罪のゆえに死んでいても」
現実に死んでいるという意味ではありませんが、律法上ではそうなのです。
これは、私たちが肉に対して何も期待するべきではないことを表しています。
強いからだを持つ者が、必ずしも強い聖徒を意味するわけではありません。
また、弱いからだは必ずしも弱い信者を意味するわけではありません。
私たちが考えてきた真理が知られていないのなら、生まれつきの強さは霊的な進歩を妨げるようにさえ思えるかもしれません。
反対に、生まれつきの力の弱さは、実践において聖さをより簡単にするように見えるかもしれません。
そのため、さまざまな修道士や苦行者は、肉体を罰し飢えさせることで、恵みを増そうと努めてきました。
しかし、コロサイ人への手紙2章にはこのように記されています。

「そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。」
(コロサイ人への手紙2章22節)


肉の放縦を抑制することは、すべて無駄で無益です。
しかし、肉体は主のものです。
イエスを死から甦らせた同じ聖霊が、この死すべき肉体に復活の命を与えることによって、最終的に私たちをも甦らせてくださるのです。
イエスは、死に支配されたからだの中に、今や新たな命が芽生え、いのちを得た信者のからだについて語られています。
主が再臨されるとき、それは不滅に変えられるのです。
神が私たちにこのような信仰を要求しておられ、私たちは肉に対して何も負う必要はありません。
私たちはそのような儀式を行う義務を負っているわけではありません。
肉に責任を負うということは、死ぬことを意味するだけです。
パウロが注目している重要な事実として、「罪が完成すると、死をもたらす」ということがあります。
しかし、内在する聖霊の力によって肉のからだの行いを死滅させるなら、私たちは真実に生きることになるのです。
からだは肉体が作用する乗り物として考えれば良いかも知れません。
からだは、無法な放縦への生まれつきの欲求を刺激します。
御霊に導かれる人はこのことに警戒しなければなりません。
その者はこれらの無法な欲望を死なす必要があります。
コロサイ人への手紙3章15節にはこのようにあります。

「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。
このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」
(コロサイ人への手紙3章15節)

私たちはキリストと共に十字架につけられました。
今は信仰によって、自分を裁き、体の行いを死なせるべきなのです。

「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」
(コリント人への手紙第二4章11節)


肉に従って歩むことはクリスチャンとしての原則全体に反する行いです。
なぜなら「神の御霊に導かれる(支配される)人は、だれでも神の子ども」だからからです。
聖霊の力によるこの命によって、私たちは肉のからだの行いを死に至らしめ、新しい命と関係を現すのです。
これは、私たちを恐れと不安で満たす束縛や法律の霊ではありません。
養子縁組は、子としての承認の霊であり、それによって私たちは意識のある子供の叫びとして、本能的に神に心を捧げるのです。
「私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。」
「養子縁組は新生とは区別されるべきです。」
私たちは生まれながらの子供ですが、養子縁組によって息子になったのです。
しかし、完全な意味では、私たちはまだ養子縁組を受けていません。
23節が示すように、すべては主の再臨のときに完成されます。
ローマの父親、家長が公に自分の子供を自分の息子であり相続人であると認める儀式を「養子縁組」と呼びました。
選ばれた者だけが息子として認められました。
ゆえに、私たちは神の御言葉によって生まれ変わり、アベル以降のすべての信じる者たちと同じ様に子供となったのです。
しかし、聖霊が内在する私たちは養子であり、主が再臨されるとき、私たちが救い主のイメージに変えられます。
この時に子供であることが公に完全に示されます。
「アバ、父」という子供の叫び声は意味の深い表現です。
本文中の1つの用語はヘブル語であり、もう1つの用語はギリシア語です。
キリストにある者にとっては中間の壁は破壊されました。
すべてがキリストの中で一つです。
私たちは一緒に「アバ、父」と叫びます。
主ご自身がゲッセマネでこの二つの言葉を使っています

「またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。
どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」」
(マルコの福音書14章36節)


「アバ」は赤ちゃんの唇を表す言葉です。
ギリシア語の「パティエール」、つまり英語の同義語である「父」は、より成熟した人を表す言葉であるとある人は的確に示しています。
しかし、若者も年寄りも、聖霊によって御父に近づくために一緒に集まります。
私たち人間の聖霊に対して、私たちが神の子供であることを聖霊自身が証ししてくださいます。
わたしたちは、神の御言葉に記されているとおりに、神の証しを受け取りました。

「聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。」
(ヘブル人への手紙10章15節)


このようにして、私たちの中には証人がいます。
そして、私たちの心には御言葉が隠されています

「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。」
(ヨハネの手紙第一5章10節)


そして今、聖霊自身が内に宿り、私たちを天にある喜びへと導いてくださいます。
本文ではそれは「聖霊自身」です。
ギリシア語では「霊」という言葉が中性名詞であるため、このように求められています。
しかし、英語の慣用句ならば、人称代名詞を使うのが正しい表現です。
神は私たちの御霊と交わり、御言葉を通して照らし、教え、導いてくださいます。

「いと高き方の霊を感じた者は、惑わすことは出来ません。
疑うことなく、否定もしない。
いや、世が、声を一つにして、あなたがたが嘘であると言うかも知れません。
側に立ってください。
私は主の側にいます。」

「聖霊の交わり」とは、聖霊とともに生き、そして、聖霊とともに歩む人々が知り、楽しむ、驚くべき現実なのです。
神の子供であるならば、当然、私たちは神の相続人です。
したがって、キリストとともに共同相続人なのです。
私たちは主が獲得されたすべての栄光に預かっています。
そして、究極的に「共に栄光を受ける」のです。

「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」
(ローマ人への手紙8章18~27節)


18~27節で、使徒はわたしたちの現在の状態と、来たるべき栄光を対比させています。
私たちには聖霊が宿っています。
しかし、それにもかかわらず、私たちは地上で悲しみの人であったイエスの足跡に従い、苦しみと悲しみの道へと導かれるのです。
しかし、私たちがここで受ける苦しみは、間もなく現れる栄光に比べれば取るに足らないものです。
すべての被造物は、神の子たちの真実な状態が完全に明らかにされ、彼らもその栄光ある自由に預かる時を期待して待っています。
それは、自分の意志ではなく、連合体のかしらであるアダムの失敗によって虚栄に服従させられました。
しかし、永久に服従させられたのではありません。
最終的な回復の希望によって服従させられ、その日には「腐敗の束縛」から解放されます。
そして、「神の子供たちの栄光の自由」に預かることになります。
しかし、 被造物は恵みの自由を共有しません。
被造物は栄光の自由、千年王国の祝福の時代において役割を果たすことになります。
そのときまで、すべての被造物の音の中に小さな音が聞こえます。
彼らは、この時代、うめき声と産みの苦しみを味わいながら再生を待っています。
私たち自身は、たましいの救いを受け、聖霊の初穂を持っています。
現在、私たちは、やがて、私たちのものとなる栄光の完全なる前味を今味わっているのです。
それにもかかわらず、うめき声を上げる被造物とともにうめき声を上げ、私たちがからだの贖いを受け、完全に神のようになる時がきます。
このように、私たちが認められた養子縁組を期待して待っているのです。
この希望によって私たちは救われ、その力によって生きています。
私たちは目に見えるものによってではなく、信仰によって歩みます。
もし、すでに見ているのであれば、希望は消え失せてしまうのです。
しかし、私たちはこの希望をもって、辛抱強く主を待っているのです。
その反面、くりかえし私たちは最大限に努力しても、どのように祈るべきかさえ分からない時があります。
しかし、内在する聖霊は完全に神のみこころを知っています。
聞こえる言葉ではなく、言い表せないうめき声で、神のみこころに従って私たちの中で執り成しをしています。
ある人がこのようにうまく表現しています。
「かつて、私たちは奴隷としてうめき声を上げていました。
今では恵みの中でうめき声を上げています」
しかし、このうめき声自体が、キリストとの結合によってもたらされた状況の変化の証しなのです。
聖霊のうめき声は、私たち自身のため息や涙と調和します。
偉大な心の探求者である聖霊は、無限の知恵と不変の愛をもってそれを聞き、答えてくださいます。
ですから、私たちは心の中でこのように確信しながら、苦難の中でも平安のうちに進み続けます。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
(ローマ人への手紙8章28節)


この聖句は、この章の最後の部分、そして私たちの手紙のこの大きな教義的区分の導入されています。
私たちが検討してきたことすべての要約であり、「福音のうちには神の義が啓示されている(1章17節)」に対する見事な結論です。
それは2つのサブセクションに分かれています。
28~34節には「神のご計画に従って召された人々のため」とあります。
35~39節には「引き離すことはできません」とあります。
29、30節には、永遠の過去から永遠の未来へと至る五つの環からなる輝かしい鎖が記されています。
それは、予知され、定められ、召され、義とされ、栄光を与えられたものです。
すべての輪は天で結ばれ、決して壊れることはありません。
この祝福された部分は、神学者が論争するためのものではありません。
聖徒たちが喜ぶためのものなのです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
(ローマ人への手紙8章28~30節)

わたしたちがこの地上に生を受ける前から、わたしたちは祝福された主に完全に似た者となるよう、すなわち「神の御子のかたちと同じ姿(イメージ)」となるよう運命づけられていました。
それは、永遠の昔から「独り子」であった主が、「御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」となるためであった。
このように、私たちは神の恵みにより召され、成し遂げられた贖いに基づいて信仰により義とされ、私たちの栄光は神の予知と同じように確かなものとなったのです。

「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」
(ローマ人への手紙29~34節)


「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
かつて私たちの悩める心と良心の呵責によって信じ込まされたように、私たちに敵対するのではないならば、一体どんな力が私たちに対抗できるでしょうか?
誰が神の御心に歯向かい、勝利することができるのでしょうか?
キリストを与えることによって、神は「私たちが罪を愛する以上に、神は私たちを愛された」ことを示してくださいました。
「神がご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
次の二節は、いくつかの批評的に翻訳されているように、おそらくすべて疑問形にされるべきでしょう。
「神に選ばれた者たちを、誰が責めることができるでしょうか。義と認める神を、誰が責めることができるでしょうか。誰が罪を犯すことができるでしょうか。死んで、いや、むしろ復活し、神の右に座し、私たちのために執り成しをしてくださっているキリストが、責めることができるでしょうか。」
答えは不可能です。
すべての声が沈黙させられます。
あらゆる非難が黙殺されます。
キリストにおけるわたしたちの立場は完全です。
わたしたちの義は不変です。
そして、最後の35節から39節で、使徒はこの世にあっても、これらからの時代にあっても、キリスト・イエスにある神の愛から信じる者を引き離そうとするあらゆる状況や個人的存在に対して勝ち誇って挑戦しているのです。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
(ローマ人への手紙8章35~39節)


どんな困難があっても、難しい経験があっても、それはできません。
たとえ羊のようにほふられようと、死は私たちを主の御前に導いてくれます。
いかなる状況においても、私たちはキリストにあって征服するだけでなく、勝利しています。
そして、使徒はこの区分を「訴える」で始めているように、「引き離さない」で終わっています。
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
これは、人間に与えられた、信仰の兄弟に知らせるための最も素晴らしいテーマであり、祝福された、驚くべき完成です。
私たちのたましいは、このテーマにますます深く入り込み、それを考えるにつれて、喜びと霊的な力が増してゆくのです。

「訴えられることはありません。
祝福された言葉です。
引き離さない。
永遠に主と共に。主は御自身の血によって私たちを買い取り、私たちのあらゆる汚れを清めてくださいました。
今、私たちは歓喜とともに主を賛美します。
罪人のためにほふられた子羊。」

デンハム・スミス


区分2 ディスペンセーショナリズム9~11章
神の義と神の摂理の調和


講義7 選びの恵みにおける神のイスラエルに対する過去の対応 9章


1、2、3章の遠く離れてしまった束縛された状態と罪の宣告から、8章の栄光ある自由と義認とキリストとの永遠の結びつきまで私たちを導いてきた使徒は、今度は全く別の側面から考えています。
パウロはキリストをメシアであり救世主として受け入れた敬虔で信仰深いユダヤ人でした。
しかし、自分たちの国民が明らかに福音に反対し、異邦人の罪人たちが主に帰依するのを見て、大きな困惑と当惑の時期を過ごしていることをパウロはよく知っていました。
ユダヤ人たちは、預言者たちが異邦人の間で神の偉大な業が起こることを預言されていたことは知っていました。
しかし、彼らはそれがイスラエルの完全な回復と祝福に続くもの、そして実際、そこから生じるものと考える習慣がありました。
イスラエルは花を咲かせ、芽を出し、全地を果実で満たすべきです。
異邦人はイスラエルの光のもとに来て、イスラエルに従うことで幸福を見出すべきです。
今や、イスラエルが期待していた預言はすべて実現しませんでした。
パウロは、古い契約に関連した権利への服従を抜きにして、あらゆる場所の異邦人への無償の恵みの宣言と、彼らへの服従をどのように両立させることができるのでしょうか。
これから読む3つの章の中で、使徒パウロはこの問いに、神の義が神の摂理の方法とどのように調和しているかを巧みに示しながら答えています。
まず、この書簡を3つの区分に分けることができます。
9章では、選びの恵みにおける神の過去のイスラエルとの関係が述べられています。
10章では、政治の統治における神の現在のイスラエルとの関係が述べられています。
11章では、預言の成就における神の将来のイスラエルとの関係が述べられています。

では、聖書を開いて9章を見てください。
肉に従う兄弟たちについて、パウロの真摯な言葉に心を動かされない人がいるでしょうか。
パウロは彼らを心から愛しています。
そして、彼らのために常に心が重荷になっていると主張しています。
パウロ以上に彼らを愛せる人はおそらくいないだろう。
おそらく人々は、異邦人に福音を伝えるというパウロの使命によって、パウロが自分たちから遠ざかった存在と考えていたのかも知れません。
しかし、パウロが異邦人への使徒としての任務を拡大したにもかかわらず、パウロの心には常に、自分の民のところに行って彼らに証言したいという強い思いがあったのです。
この箇所においても使徒の働きの後半部を通しても明らかです。
パウロの宣教は、まずユダヤ人に向けられ、次にギリシア人に向けられました。
信仰のある人々や学識のある人々の間でも、3節の正確な意味については意見が分かれています。

「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」
(ローマ人への手紙9章3節)


パウロは、もしできることなら、自らがキリストから呪われて兄弟たちを救うことを実際に望んでいました。
そして、喜んでそれに従ったはずです。
そのようなことを言おうとしたのでしょうか?
それとも、パウロは、誤った熱意からキリストを忌み嫌う最も熱心なユダヤ人の気持ちを完全に理解していると言っているだけなのでしょうか?
なぜなら、かつて、パウロ自身も、肉に従っている兄弟たちと共に立ってキリストから呪われたいと実際に望んだことがあるからです。
もし、私たちが後者の見解を受け入れるなら、この節には、改心していないユダヤ人としてのパウロの感情の激しさが表現されていることがわかります。
もし、現在の講師がそうする傾向があるように、私たちが前者の説明を受け入れるなら、私たちはパウロを次のように叫んだモーゼと同じ土俵に載せることになります。

「しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」
(出エジプト記32章32節)


しかし、最終的にどちらの見解を受け入れるにせよ、読んでいくうちに、パウロが自分の国民に対して抱いていた深い関心がさらに強く感じられるようになります。
パウロは4節と5節で、イスラエルに属する大きな祝福を列挙しています。

「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。
先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。
このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」
(ローマ人への手紙9章4、5節)


パウロは、養子縁組(文字通り、子として置くこと)、栄光、契約、律法の授与、儀式、約束に祝福が関係していると述べています。
これらの祝福をその順序に従って考えてみましょう。
最初に「子とされること」です。
神はイスラエルの国を神の子供として所有していました。
これは、エペソ人への手紙やローマ人への手紙8章ですでに考えてきました。
個人の養子縁組に関する新約聖書の真理ではありません。
実際、ここではまったく個人的なものではなく、国家的なものです。
神はイスラエルについて「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」と言っています。
そして、「わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した」とも言うことができました。
イスラエルは主のものであり、主はイスラエルをそのように所有しました。

次に栄光です。
栄光は卓越性を示すものです。
そして、神はイスラエルを通して、その偉大な御名の素晴らしさを現すのです。
イスラエルは神の証人でした。

3番目は契約です。
すべての契約、すなわちアブラハム契約、モーセ契約、ダビデ契約、そして新しい契約はイスラエルに関係していることに注目してください。
すべてはイスラエルのものです。
異邦人の中から信じる者が出てくるならば、新しい契約の祝福を受けます。
なぜなら、それは純粋な恵みの契約だからです。
しかし、神は預言者を通して「わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ」と言われた時、イスラエルとユダを念頭に置いています。
主が記念の主の晩餐を制定したとき、このように言われました。

「みな、この杯から飲みなさい。
これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」
(マタイの福音書26章27、28節)


契約の血はすでに流されました。
しかし、新しい契約はまだ実際には結ばれていません。
しかし、最終的には地上の人々と結ばれることになります。
その反面、贖われた異邦人は、旧約聖書の預言者たちが予想し得たことをはるかに超える形で、その契約のあらゆる霊的祝福、そして他のあらゆる祝福を受けることになります。

4番目に、律法を与えられていることです。
律法がイスラエルに与えられたことはすでに見てきました。
律法はイスラエルに宛てたものです。
律法は異邦人には与えられていません。
しかし、律法が異邦人に知らされるのであれば、すべての人がその規定に関して責任を負うことになります。

5番目に 儀式での働きです。
神は、かつての幕屋と神殿の両方において、素晴らしい意味と、驚くべき美しさを持つ儀式を定められました。
神の教会というからだには、いかなる種類の儀式的な実践も痕跡もありません。
実際、コロサイ人への手紙2章ではこのような儀式に対して私たちははっきりと警告されています。

6番目の約束です。
もちろん、この言及は、千年王国のメシアの治世下における、一時的な祝福の多くの約束に関するものです。

7番目に父祖アブラハム、イサク、ヤコブ、族長は地上の人々に属していました。
天の民には参照できる系図は存在していません。
完全に地上の血統から切り離されています。
教会は世界の創造以前からキリストに選ばれていました。
しかし、イスラエルの父祖の子孫が見られますが、章が進むにつれて、彼ら全員が肉的にはイスラエル人であるとみなされるわけではないことが分かります。
この民の中からキリストが来られました。
キリストは、処女から生まれ、理性的な霊とたましいを持った真実な血肉の体をした真実な人間となりました。
それにもかかわらず、隠されたキリストの人格の奥義は、すべてのものの上に立ち、永遠に祝福された神です。
イスラエルに対する神の約束を目当てにしていた信仰的なユダヤ人にとって、これらの大部分の約束は破られたように見えたかもしれません。
そうでなければ、なぜ、イスラエルが国家として片付けられ、異邦人が祝福を受ける立場にいたのでしょうか?
しかし、使徒パウロは、常に神が主権的恵みの原則に基づいて行動してきたことを示しています。
イスラエルが与えられてきたすべての特別な特権はこの原則によるものです。
神はイスラエルを諸国民の中から選民として選び出し、神の側に分けました。
しかし、神は約束の民として新しく生まれた民を常に念頭に置いておられました。
神が認めるように、イスラエルの血から生まれた者すべてがイスラエルに属していたわけではありません。
アブラハムの生まれつきの子孫であるからといって、彼らが必ずしも約束の子であるというわけでもありません。
神は選びの恵みにおいてアブラハムにこのように言いました。

「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。」
(創世記21章12節)


神は、肉に従って生まれたイシュマエルを無視して、奇跡的な誕生を遂げたイサクを迎え入れることを選ばれました。
ここでパウロはこの聖句の原則を説明しています。

「すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。」
(ローマ人への手紙9章8節)


約束の子どもが子孫とみなされるのです。
現代において、このことは神の普遍的な父と人類の兄弟愛を声高らかに誇らしげに主張する人々とって、驚くべき打撃となるのです。
肉の子どもがそのまま神の子どもではないと、私たちははっきりと教えられています。
そして、この言葉には、主がニコデモに宣言されたのと同じ真理が強調されています。

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
(ヨハネの福音書3章3節)


イサクは約束の子です。
主はこのように言いました。

「わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」
(創世記18章14節)


当然、約束が成就は不可能だったはずです。
しかし、神は復活の力を働かせ、イサクの両親の死んだからだを生き返らせ、その言葉は実現しました。
また、イサクとリベカの子供たちに対しても、選びの恵みの同じ原則が示されています。
私たちには次のように教えられています。

「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。」
(ローマ人への手紙9章11~13節)

このように、聖書には「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と宣言されています。
これらの聖句をめぐって、多くの不必要な論争が巻き起こりました。

しかし、神の摂理の光に照らしてみると、明白で単純なことなのです。
ここでは天への運命論や地獄での罪の宣告といった問題は生じません。
現実に、永遠の問題はこの章全体を通じてほとんど取り上げられません。
もちろん、神から与えられた特権の使用または乱用するのであれば、そのような論争は自然に生じます。
この箇所では、子供が生まれる前に一人を天へ迎え、もう一人を地獄へ送ることが神の目的とは書いていません。
その反面、ある者はさまざまな悪行にもかかわらず恵みによって救われることが述べられています。
また、他のある者は何か高い目的を持ち、栄光を求めて熱心に歩みにもかかわらずに破滅が宣告されます。
この聖句は地上ににおける特権が存在していることを示しています。
ヤコブがイスラエル国家の父となり、彼を通して約束の子孫である主イエス・キリストがこの世に来ることが神の目的だったのです。
また、神はエサウが荒野の男、すなわちエドム人のように遊牧民国家の父となることをあらかじめ決めておられました。
すでに、生まれる前に定められていたのです。

「兄が弟に仕える。」
(創世記25章23節)


しかし、「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに」、神は「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」とは言われたのではないことに注意すべきです。
次の言葉は旧約聖書の最後の書から引用されています。
これらはマラキ書1章2、3節に記されています。

「「わたしはあなたがたを愛している。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。
「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。
――主の御告げ。――わたしはヤコブを愛した。
わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。」」
(マラキ書1章2、3節)


何が問題なのかよく考えてください。
神はヤコブの子供たちにに仕え従うように求めています。
最初に神は彼らの創造主です。
次に神が彼らに与えた特権があります。
彼らが従うのは、地上の祝福のゆえに、二重の理由が存在しています。
比較すると、神はヤコブを愛し、エサウを憎んでおられます。
つまり、神はヤコブに、水が豊かで、生産的で、立地条件の良い美しい祖国を与えたのです。
また、彼らに聖なる律法、彼らを導く羊飼い、羊飼いとしての王、彼らを教え導く預言者、彼らの心を礼拝と賛美に導く豊かで表現力豊かな儀式システムを与えました。
これらすべてのものはエドムには許されていません。
彼らは砂漠の子供たちでした。
彼らに神についての知識がまったくなかったわけではありません。
しかし、預言者が彼らに遣わされたという記録はありません。
エサウは両親の口頭で教えを受けていましたが、一口のパンのために長子の権利を売ってしまいました。
エサウの子孫は、常に同じ独立心と無法な精神を特徴としてきました。時代的に言っても、ヤコブは愛され、エサウは憎まれました。
個人についての言及はありません。
しかし、「神は世を愛されました」ゆえに、ヤコブやエサウの子孫で求める者は皆救われるのです。
しかし、ヤコブとその子孫が地上の特権だけでなく、エサウと子孫が知ることのない霊的な特権も与えられていたという事実に異論を唱える人は誰もいません。
神はこのように国家を区別することは不義なのでしょうか?
例えば今日、中央アフリカや南米の内陸部の住民が決して知らなかった特権を、北欧やアメリカの人々に与えることは不義なのでしょうか?
決してそうではありません。
神は主権者です。

神は、ご自身が正しいと思われるように、人々の国々をそれぞれの地上に置かれました。
そして、神が特別な恵みをもって一つの国々を選びました。
そして、他の国々が無視されているように見えても、どの国々の誰であれ、悔い改めて神に立ち返ることを少しも妨げるものはありません。
そして、太陽の下のどこであれ、どんな状況であっても、どれほど無知であっても、神を仰ぎ見て、罪を告白し、憐みを叫び求めるなら、救われるのです。
聖書にはこのように記されています。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」
(ローマ人への手紙10章13節)


パウロはモーセに対する神の御言葉を引用しています。

「神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。」
(ローマ人への手紙9章15節)


観察し、あなたは否定的な見方をしてはいけません。
イエスは「わたしが罪に定めようとする者をわたしは罪に定め、また、わたしが罪に定めようとする者を永遠の滅びに定める」とは言っておられません。
神にはそのような考えはありません。

「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
(ペテロの手紙第二3章9節)


これらの言葉はいつモーセに語られたのでしょうか。出エジプト記33章19節に戻ってください。
聖書箇所全体を読み、神がこれらの言葉をどのように用いたかに注目してください。
イスラエルは律法を理由に祝福を受ける権利をすべて失ってしまいました。
モーセが山で契約の石板を受け取っていた間にも、彼らは金の子牛を作り、その前でひれ伏していました。
彼らは、ほんの数日前にこのように宣言していました。

「主の仰せられたことはみな行ない、聞き従います。」
(出エジプト記24章7節)


しかし、天幕に戻ってこられる前に最初の2つの律法に違反したのです。
このため、神はイスラエルを地上から消し去ろうとしました。
しかし、仲介者モーセが神の前で彼らの訴えを弁護しました。
すでに述べたように、ヨセフは、主の激しい怒りを和らげることができるなら、彼らに代わって死ぬことさえ申し出ました。
今、主権の恵みの素晴らしさに気づいてください。
神は、望むなら裁きを保留するという、神自身の独特の権利に頼ったのです。
そして、神はこのように叫ばれます。

「わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
(出エジプト記33章19節)

このようにモーセは民を救い、イスラエルを神の恵みの素晴らしい証人としたのです。
この至高の恵みなしには、誰も救われることはありません。
なぜなら、すべての人は罪によって命を得る権利を失っているからです。
イスラエルは国家として、義を貫いていれば、生きている者の地から切り離されていたいたはずです。
しかし、神の慰めと憐れみによってすべての祝福を与えたのです。
もし神が今、異邦人を選び、彼らに憐れみを示すのであれば、イスラエルが文句を言う理由はあるのでしょうか?
使徒はこのように叫んでいます。

「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」
(ローマ人への手紙9章16節)


イエスは個人の意志を無視しておられるのではありません。
「義の道を歩む責任が人にはない」と宣言しておられるのではありません。
しかし、神の至高の憐れみなしには、救われたいと望む人や神の戒めの道を歩む者はいない」と宣言しておられるのです。
次にパウロはパロについて語っています。
なぜなら、ある人たちが神が一部の人々を破滅に引き渡し、罪の中で滅びるままにしておくという事実を認めていないからです。
また、彼らは、すでに証明された真理を論理的に受け入れることはできないのは明らかだからです。
パロは異邦人であり、イスラエルを抑圧した者でした。
神はパロに服従を要求するしもべたちを遣わしました。
パロは、その傲慢さと傲慢さ、厚かましさと邪悪さから、このように叫びました

「主とはいったい何者か。
私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。
私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」
(出エジプト記5章2節)

パロはあえて全能者に挑戦し、神はその挑戦を謙虚にも受け止めました。
神はこのように言われています。

「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」
(ローマ人への手紙9章17節)


神はここで無力な赤ん坊について話しているのではありません。
この言葉はパロの誕生とは関係がありません。
それは、神に敵対する戦いの愚かさを後世に教えるために、神がパロに与えた卓越した立場にだけ語っているのです。
ギリシア人はよくこのように言っています。
「神々が滅ぼそうとする者は、最初に狂気に駆り立てられている。」
それは異教徒でさえもはっきりと理解できる原則です。
現在も同じ原理が見られます。
アレクサンダー、シーザー、ナポレオン皇帝は、人類の野心の頂点にまで登り詰めました。
しかし、最後には不名誉にも呪いの淵に突き落とされたのです。
これらのことが「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」ことを実証しています。
神は宇宙の道徳的支配者です。
神自身のみこころに従ってすべてのことを行います。

「彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。
御手を差し押えて、「あなたは何をされるのか。」と言う者もいない。」
(ダニエル書4章35節)


もし誰かが、全能者の強大な首長に容赦なく突進する勇気があるなら、その者は全農者の正しい怒りを経験しなければなりません。
19節から章の終わりまで、使徒は宿命論者の反論に答えようとします。
宿命論者はこのように言います。
「さて、あなたが言ってきたことをすべて認めるならば、神の命令は抵抗できないものになります。
私自身は神のみこころで動き回る、全く責任のない人形にすぎません。」
なぜ、宿命論者はあら探しをするのでしょうか!
なぜ、神は人の欠点を見つけるのでしょうか?
神自身の指示に従わなければ、意志も行動もできない被造物を裁く根拠は何でしょうか?
神のみこころに逆らうことは不可能なのです。
では、道徳的責任はどこにあるのでしょうか?
神の支配の教義に対するこのような反論は、初期の時代から提起されてきました。
しかし、パウロが地上で特権を預かっていることはあることはすでに知られていたので、それらの反論は根拠をなしていません。
特権階級のユダヤ人は、自分に惜しみなく与えられた恵みをまったく理解できていません。
そして、彼らは神の罪の宣告を受けるかもしれないのです。
その反面、文明と悟りの恵みをまったく受けていない無知な野蛮人は、それでもなお、良心を働かせるのであれば神の御前に導かれる可能性がありました。
いずれにせよ、取るに足らない人間が神を裁くというのは不敬虔の極みです。
それはあたかも、ろくろで作られた器が陶器師の方を向いて憤慨して「なぜ私をこのように作ったのですか?」と尋ねるようなものです。
明らかに、粘土から器を形作る知恵を持つ者は、自分が最善と考える形や大きさ、用途で器を作る権利を持っています。
同じ粘土の塊から、ある器は食器棚の上に飾って大勢の人々が賞賛するような尊い器として作られ、別の器は食器棚で使われるような、美しさも魅力もない卑しい器として作られることもあります。
偉大な万物の創造者である神が、怒りと力の両方を喜んで現し、陶器師の作品にはない意志を持ち、自らを滅ぼすことを選んだために神の憤りを招く器を、深い忍耐をもって耐え忍ばれているのです。
ならば、神が永遠の昔から御子の栄光のために計画してきた、さまざまの哀れみの器に対する扱いにおいて、その栄光の豊かさを現されたとしても、誰が非難することができるでしょうか。
このような哀れみの器は、生まれながらのユダヤ人であれ、異邦人であれ、神に召された者たちなのです。
旧約聖書の次の聖句が要求されています。
この聖句は神が人間に対するやり方としては何も新しいことではありません。
預言者たちはイスラエルを分離し、異邦人を受け入れるというまさにそのようなことを予知しており、すでに起こったこととして示しています。
ホセアは、神がこのように言われたと証言しています。

「「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。
『あなたがたは、わたしの民ではない。』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」」
(ローマ人への手紙9章25、26節)


そして、イスラエルは神の民と呼ばれる資格をすべて失ったのです。
現在のディスペンセーションでは、恵みが異邦人に与えられています。
イスラエルは国家的に脇に置かれていると述べられています。
なぜなら、現在、諸国民に示されている同じ恵みが、イスラエルに再び示され、彼らは再び生ける神の子と呼ばれるようになるからです。
イザヤは、イスラエルの子供たちの数が海の砂の数ほどになるとしても、この膨大な群衆のうち、残りの者だけが救われることを預言しました。
彼らは主が地上で審判を実行する怒りの日に救われるのです。

「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。
主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」
(ローマ人への手紙9章27、28節)


同じ預言者は、民の罪を平野の裁かれた町々の罪と同じように見て、このように叫びました。

「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」
(ローマ人への手紙9章29節)


では、結論は何でしょうか?
つまり、不義な異邦人が恵みを通して、信仰による義に達したということです。
彼らは義を追い求めません。
しかし、神は義をもって彼らを追い求め、彼らが信じて救われるように、福音を知らせました。
その反面、神が義の律法を与えたイスラエルは、異邦人よりもさらに罪深いのです。
なぜなら、彼らは律法に従うことを拒み、律法が教えているの義を逃したからです。
なぜ、イスラエルは義を見逃したのでしょうか?
それは、それが信仰によってのみ得られるものだったからです。
誰も自分の力で完全で聖い律法を守ることはできないことを彼らが理解できなかったからです。
神はすべての完璧に具現しました。
律法によって、完全に成就した御子を世に遣わされました。
人々はその御子を知らず、勝利を収める王を期待していました。
彼らは、卑しいキリストというつまずきの石につまずいたのです。
イスラエルは信仰がなく、自分たちの代わりに義を成し遂げられる者が必要であることに気づいていなかったのです。
そして、イスラエルはイエスを非難することで聖書の言葉を成就しました。
それにもかかわらず、一人一人が信仰によって主を受け入れるところでは、国家がつまずいて倒れたとしても、主は主を信じるたましいを救われます。
聖書にはこのように書いてあります。

「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
(ローマ人への手紙9章33節)


イエスが最初に恵みのうちに来られた時、イスラエルはイエスを拒みました。
しかし、聖書にはこのように書いてあります。

「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。」
(詩篇118編22節)


主が再臨されるとき、主は石のようになって異邦人をさばき、彼らの上に落ちるのです。
しかし、その時、悔い改めてイスラエルは新しく生まれ、主のうちに隅の石を見るのです。


講義8 イスラエルに対する、現在の神の秩序の支配における扱い 10章

私たちが見てきたように、神は不信仰のためにイスラエルを国家的に脇に置かれました。
そして、現在の恵みのディスペンセーションの時代に異邦人を取り上げるという神の義を巧みな方法を実証してきました。
次に、使徒はこのような国家の離反は決してイスラエル人個人の拒絶を伴うものではないことを示します。
現在では、国家そのものは、もはや神との契約関係にあるとはみなされていません。
また、千年王国の初めに新しい契約の下に入るまではそのようにはみなされません。
そのときには「一日のうちに一つの国民が生まれる」のです。
しかし、同じ約束がイスラエルの家のどの個人にも、どの異邦人にも適用されます。

「だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。
ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」
(イザヤ書66章8節)


最初の3節で、使徒は民族に対する切なる願いと祈りを表現しています。
パウロは彼らが救われることを切望し、祈っておられます。
なぜなら、イスラエルは肉においてはアブラハムの子孫であるにもかかわらず、「失われた羊」です。
そして、異邦人の「他の羊」とまったく同じように、善き羊飼いによって捜し出され、見つけられる必要があるのです。
そして、哀れなのは、イスラエルは失われたにもかかわらず、自分たちの本当の状態に気づいていないことです。
イスラエルは神に対する誤った熱意に満ち、ユダヤ教を神が確立した組織として外見上は固執しています。
彼らは、先祖の神に熱心に仕えようと努めていますが、知識に基づいて仕えていません。
つまり、神がキリスト・イエスを通してご自身、その思い、そして神のみこころを与えてくださったのですが、この完全な啓示を拒んでいます。

「というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」
(ローマ人への手紙10章3節)


ここで使われている「神の義」という言葉は、一般的な表現である「神の義」とは少し違った意味で使われています。
これまで、神の義は二つの方法で使われることを見てきました。
それは、すでに述べたように、神自身と一貫性であり、神の義はたましいの大きな支えとなります。
なぜなら、福音において、神はいかにして義であり、キリストを信じる人々を義と認めるかを明らかにしているからです。
罪の問題は、神が罪人たちを恵みのうちに扱うことができるようになる前に、神の本性がそのように要求していることです。
このように、神の義の方法によって解決されたのです。
二つ目の側面は帰属の問題です。
神は信じる者すべてに義を与えます。
したがって、キリスト、そしてキリストご自身が信じる者の義なのです。
預言者エレミヤ書に書かれているとおり、私たちは神の義によって、このようにして創造され、構成されています。

「その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。」
(エレミヤ書23章6節)


『主は私たちの正義。』とは「エホバ・ツィドケヌ」と呼ばれます。
使徒は、これら3つの聖句で「彼らは神の義を知らない」と言っています。
実際にイスラエルは神がどれほどの義であるかを知りません。
そのため、自分の義を確立しようとしています。
神の義の超越的な性質を少しでも理解するのであれば、誰もそんなことは考えないはずです。
このような、無限の義の神にふさわしい義の行為を生み出すことは不可能です。
そのため、たましいは自分の無力さを認めて尻込みしてしまいます。
人々がこの境地に達するならば、福音書で明らかにされた神の義に自分を服従させる準備が整います。
私自身に義が存在していません。
つまり、義なる神にふさわしい義がないことを知るならば、私は、神自身が宣言された福音を、キリストを私が信じるときに、神が私に義を着させてくださり喜んで受け入れます。

「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」
(ローマ人への手紙10章4節)


すなわち、律法の完成の目的は信じるすべての人にとっての義とされることです。
「律法はわたしが満たすことのできない義を主張したのです。」
キリストはその聖なる律法のすべての要求を満たし、その罰を受けて死にました。
そして、死からよみがえられました。
キリストはすべての人が必要とする義そのものです。
続く節では使徒は、律法の義、つまり「行いによる義」とこの「信仰による義」を対比させています。
パウロは、律法上の義を厳しい言葉で説明しているモーセの言葉を引用しています。

「あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である。」
(レビ記18章5節)


これが律法の本質なのです。
「行なう人は、それによって生きる。」
しかし、いのちを得ることに達する行ないをした者は、まだ一人もいません。

「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」
(ヤコブの手紙2章10節)


必ずしも、イスラエルはすべての戒律を破ったわけではありません。
しかし、泥棒は殺人者と同じくらい律法違反者なのです。
そして、一度でも律法に違反するならば、その律法のもとで生きる権利は失われます。
さて、信仰による義が神が与えてくださった証しによって与えられています。
再び、使徒はモーセの言葉を引用しています。
申命記30章12~14節では、神が証しを与え、人間はそれを信じる責任があるという事実を人々に強調しています。

「これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。
また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。
まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」
(申命記30章12~14節)


もちろん、そこでの証しはシナイからの啓示です。
しかし、使徒はモーセの言葉を取り上げ、聖霊の導きのもとに、それをキリストに見事に適応させています。

「しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか(キリストを上から引き降ろすのか)、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。
また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。」
(ローマ人への手紙10章6、7節)


キリストはすでに降りて来られました。
彼は死んだのです。
神はキリストを死から甦らせました。
そして、福音の証し全体はキリストにかかっています。
そこで、パウロはこのように言っています。

「「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」
これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。」
(ローマ人への手紙10章8節)


福音は宣べ伝えられ、人々はそれを聞いて、その言葉に解き開けます。
問題は、彼らがそれを信じ、それが宣言するキリストを自分たちの主と告白するかどうかです。
9節と10節ではこの件全体を要約しています。
これらは何世紀にもわたって何千もの尊いたましいに確信を与えるために神が用いてきたみことばなのです。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
(ローマ人への手紙10章9節)

人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるのです。
その心とは、単純に現実の人間を表す別の言い方です。
使徒は、一部の説教者のように、頭で信じることと心で信じることの間に、細かい区別をつけることはしていません。
神は私たちを信仰の本質に縛られるのではなく、信仰の対象に縛られるのです。
私たちは神がキリストについて与えたメッセージを信じているのです。
もし私たちが信じるとしたら、それは心とともに信じることです。
そうでなければ、私たちは本当に信じたとは言えません。
人は心で信じるのです。
主はこのように言われました。

「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。」
(マタイの福音書10章32節)


しかし、ここでの告白はこのように主が言われたこととは違います。
むしろ、これはたましいがイエスを主として受け入れていることを神自身に告白することです。
次にパウロは、預言者イザヤの書から別の旧約聖書の聖句を引用しています

「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。
これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」
(イザヤ書28章16節)


このようにしてパウロは、現在の福音の信仰の普遍性が旧約のユダヤ人に与えられた神の啓示された言葉と矛盾しないことを証明しています。
「誰でも」という言葉には全世界が含まれています。
パウロはすでに3章で、罪に関する限り、ユダヤ人と異邦人の間には違いがないという事実を証明しています。
パウロは、ここで「違いはない」という教義の反対側の立場を述べています。

「同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。」
(ローマ人への手紙10章12、13節)


もちろん、主の御名を呼び求めるということは、信仰をもって主の御名によって祈るということです。
主の御名とは主にとって何なのかを語っています。。
主の御名を呼ぶ者は主に信頼を置いています。
聖書にこのように書いてあるとおりです。

「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。」
(箴言18章10節)


ユダヤ人は、自分は主に選ばれた者であり、唯一の真実で生ける神の証しを託された者であると考える習慣がありました。
ゆえに、当然、異論者はこのように問いかけます。
そしてパウロは、まさにその言葉をその者の口に適応させています。

「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。
聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。
宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」
(ローマ人への手紙10章14節)


異論はこれで終わるのではなく、続けてパウロはまたこのように言っています。

「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。
次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」」
(ローマ人への手紙10章15節)


ユダヤ人は神を信じていました。
ユダヤ人は神の御言葉を聞いていました。
メッセンジャーたちはユダヤ人にメッセージを宣べ伝えていました。
そして、これらのメッセンジャーたちは神から遣わされたのです。
しかし、ユダヤ人の国教を越えて、異邦人へ平和の福音を宣べ伝える権限を誰に与えられたのでしょうか!
これらの特権をすべて持っていたイスラエル人は期待されたような反応を示さなかったのです。
パウロは、異議を唱えた者に対し、このことを示し、すべての人が福音に従ったわけではないことを思い出させたのです。

「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。」
(ローマ人への手紙10章16節)


そして、これらのことも旧約聖書の預言者たちによって預言されていました。
イザヤは悲しそうに「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」と尋ねました。
これは、メッセージを聞いた多くの人が受け入れることを拒むことを示していたのです。
しかし、反対者はこのように答えます。
「パウロよ!
あなたはこのようなことを認めているはずです。」

「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
(ローマ人への手紙10章17節)


しかし、パウロはこのように答えています。

「「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。」
(ローマ人への手紙10章18節)


神の御言葉が何らかの形で彼らに伝わらず、責任を負わされていないほど、完全に暗く無知な人々がいるのでしょうか?
詩篇19篇では、神の声がその創造物の中で聞こえることを証言しています。
太陽、月、星など、この素晴らしい宇宙のすべての驚異は、人格を持った創造主の存在を証言しています。
そして詩篇作者はこのように言っています。

「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」
(ローマ人への手紙10章18節)


ゆえに、神が異邦人に語られるのは新しいことではありません。
新しい点は、イエスがこれまで語られたことよりもさらに完全に、さらにはっきりと語っておられるということだけです。
現在、イエスはその言葉を信じるすべての人々に対して、間違いのない御言葉で、救いの申し出を宣言しておられます。
イスラエルは、神が諸国の民を召し上げようとしていたことを知らなかったのでしょうか。
彼らは知っておくべきでした。
モーセ自身がこのように言ったからです。

「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」
(ローマ人への手紙10章19節)


そしてイザヤは、妥協のない大胆さでこのように宣言します。

「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした。」
(ローマ人への手紙10章20節)


確かに、このような言葉は異邦人世界の異教徒にのみに適応されます。
そして、イスラエルとそのすべての特権について、神はこのように言われました。

「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」
(ローマ人への手紙10章21節)


この主題は次の章の冒頭の節に続きます。
使徒パウロは、神が現在のディスペンセーションにおいて、イスラエルの選びをどのように得ているかを示しています。
しかし、私たちはこの章全体を一度に考察するつもりなので、今はこれ以上のコメントは控えます。
しかし、現在の箇所の要点は明らかに次の通りであると主張したいと思います。
現在の律法において、恵みがユダヤ人の境界を越えて諸国に及んでいます。
これはイスラエル人を完全に拒絶するものではありません。
単に特別な特権の終わりを意味するものです。
イスラエルが望むなら救われます。
軽蔑されている異邦人と全く同じ条件で救われることになります。
真ん中にあった隔ての壁は壊されました。
このように、自分の罪を認めてイエス・キリストの名を告白するすべての人に恵みが与えられます。


講義9 預言書の成就、将来におけるイスラエルに対する神の対応のしかた 11章

この11章は、神のディスペンセーションの計画に関して最も解明された章です。
神が地上の民と契約を結びました。
それにもかかわらず、イスラエルに対する過去の対応が、神が今のように異邦人に対して神の義を証明していることを、私たちはすでに見てきました。
そして、10章ではイスラエルは国家そのものとして脇に置かれていますが、一人一人のイスラエル人が神に立ち返り、神がその主権において、しもべたちを通して異邦人に宣言しているのと同じ救いを得ることを決して妨げられていないことを見てきました。
この章の最初の部分、1~6節では、10章の主題が継続され、結論に至ります。
しかし、ここでこのような疑問が問いかけられています。

「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。
絶対にそんなことはありません。」
(ローマ人への手紙11章1節)


パウロ自身の経験は、そんなことはないことを証明しています。
なぜなら、パウロはイスラエル人であり、アブラハムの血統の子孫です。
ベニヤミン族の出身であったにもかかわらず、神の御霊に捕らえられ、主イエス・キリストの救いの知識に導かれたのです。
そして、パウロの真実は、他の誰においても真実だったのです。
単に、実際に起こったことはアハブの時代に預言者エリヤが語った言葉よりも広い意味での成就だったのです。
国民は送られてきた証しのすべてを拒みました。
イスラエルは民として預言者たちを殺し、ヤハゥエの祭壇を汚しました。

「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」
それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。」
(ローマ人への手紙11章4、5節)


神は国家を拒みましたが、個人には恵みが与えられます。
イスラエルにとって理解すべき大切なことは、もし救われるとしても、それは異邦人と同じように、神の恵みによるものであるということです。
すでに述べたように、恵みとは、価値のない者に与える好意です。
そうです。
もっと強く言うならば、それは恵みと行いの不一致です。
つまり、行いについてのあらゆる考えが排斥されます。
何かの長所が考慮されるなら、それはもはや恵みではなくなります。
その反面、もし救いが行いによるものであるならば、恵みの余地はまったく残されません。
なぜなら、恵みは行いからその功績的な性格を奪ってしまうからです。
つまり、二つの原則、恵みによる救いと行いによる救いは、互いに正反対です。
律法と恵みは混ざり合うことはできません。
それらは互いに破壊し合う原理なのです。

7節から、使徒は、来たるべき時代のイスラエルについての神の奥義の目的を明らかにしようとします。
国民が求めていたものを得ることはできませんでした。
そして、選ばれた民(神の恵みによって救われることに満足している民)はそれを得ました。
そして残りの人々については、彼らは律法的に盲目にされています。
パウロは再び旧約聖書を引用し、このことが預言の言葉と完全に一致していることを示しています。
イザヤはこのように書いています。

「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」
(ローマ人への手紙11章8節)


このことが現在に至るまで真実であることを神は示しているんのです。
また、ダビデもこのように書いています。

「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。
その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」
(ローマ人への手紙11章9、10節)


これらの恐ろしい呪いは、国の代表者が意図的にキリストを拒み、ピラトの法廷で「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」(マタイの福音書27章25節)と叫んで、アダム子孫のかしらに裁きを下した時に成就しました。
イスラエルはメシアを拒み、神もイスラエルを拒みました。
多くのクリスチャンは、神がイスラエルの国家との関係を永遠に終わらせたことを当然のこととして受け入れてきました。
今、使徒はこれが真実からかけ離れていることを示しています。
パウロはこのように尋ねています。

「彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。
絶対にそんなことはありません。」
(ローマ人への手紙11章11節)


つまり、完全に倒れてしまい、回復の希望も可能性もないまま倒れるのです。
答えはまた、「絶対にそんなことはありません。」です。
神は、異邦人に対する神の恵みの豊かさを知らせるために、彼らの現在の背信行為を却下されました。
しかし、これは今度は、イスラエルに嫉妬を起こさせ、彼らを彼らの父祖の神と、彼らが拒んだキリストに立ち返らせるために、最終的に異邦人を用いられるのです。
この回復は、福音による救いの知識をまだ得ていない世界の一部の人々にとって、計り知れない祝福となるのです。
パウロは聖なる熱意をもってこのように叫んでいます。

「もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。」
(ローマ人への手紙11章12節)


この章の後のほうで出てくるこの「完成(fulness)」という言葉の使い方に注目するのは良いことです。
イスラエルの完成とは、イスラエルの改心、すなわち、イスラエルに関する神の目的の成就です。
パウロは異邦人への使徒であり、その任務を尊んでいました。
しかし、異邦人たちに、パウロがイスラエルに興味を失ったとは少しも思われたくありませんでした。
むしろ、異邦人が神の恵みが異邦人にも及ぶのを見て、イスラエルの中から多くの人が救われるようにと、イスラエルが奮い立つことを願っていました。
その反面で、ユダヤ人が無視され、ユダヤ人が受け取る用意ができていれば得られたはずの祝福を、異邦人に与えられるからといって、異邦人がユダヤ人に対して誇りを持つようなことは望んでいなかったのです。
パウロは、神の計画を最も鮮明に表すたとえ話を持ち出して議論を続けます。
パウロはこのように言っています。

「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。」
(ローマ人への手紙11章15節)


イスラエルが失望し、疲れ果てた民である彼らが、父祖の神の戒めの下で、すべての国々の間をさまよっているこの時に、恵みのメッセージが異邦人に伝えられ、彼らの中から選ばれた者たちがそのメッセージを受け入れています。
それを見て、イスラエルの中から選ばれた者たちがそのメッセージを受け入れるとしたら、イスラエルが国家として主に立ち返り、まことに聖なる民、すべての国々に対する主の証人となるのなら、それは世界全体にとって何を意味するでしょうか!

「初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。」
(ローマ人への手紙11章16節)


新生したイスラエルの残された民が本当に神に選ばれた民であるならば、イスラエルが属する国家も最終的にはこのようになるのです。
契約のオリーブの木の根が聖なるものであるなら、すなわち、神を信じたアブラハムが義とみなされたのなら、信仰によって神に真実に結ばれている人々もみんな聖なるものなのです。
イスラエルはオリーブの木の自然な枝であり、生まれながらのイスラエル人だが神の恵みによってではなく、切り離された者たちでした。
そして、神がアブラハムに与えた「地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される」という約束が破られることがないように、野生のオリーブの木の枝、つまり異邦人がイスラエルの残された民の間に接ぎ木されたのです。
このようにユダヤ人と異邦人が共に信仰を持ち、オリーブの木の根と豊かさに預かることになったのです。

しかし、今、重大な危険があります。
それは、異邦人が外面的な特権に安住し、約束の子供たちと結びついていながら、神の福音を認識できず、現実ではないことを証明してしまうことです。
その場合、神はユダヤ人を扱ったのと同じように異邦人も扱わなければなりません。
ゆえに、私たちは厳しい警告を受けるのです。

「あなたはその枝に対して誇ってはいけません。
誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。」
(ローマ人への手紙11章18、19節)


その答えは明白です。

「そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。」
(ローマ人への手紙11章20節)


ゆえに、次の訓戒が与えられています。

「高ぶらないで、かえって恐れなさい。
もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。」
(ローマ人への手紙11章20、21節)


異邦人が自分たちの特権を重んじてきたかどうか、私たちは立ち止まって自分に問いかける必要があります。
キリスト教世界の状況が、かつてイスラエルで起こったことと同じように現在ひどい状態になっています。
霊的に物事を観察するすべての人にとって明白なことではないでしょうか?
真理からの背教が至る所で蔓延しているのを目にしていないでしょうか?
テモテへの第二の手紙3章に描かれている終わりの日の特徴は、至る所で現れているのではないでしょうか?
もしそうならば、実を結ばない枝がオリーブの木から引き抜かれ、自然の枝がついに神に立ち返り、再び、それぞれのオリーブの木に接ぎ木される時が近づいていると警告されても仕方がないはずです。
このような神学的な検証は、私たちに神のいつくしみと厳しさを現しています。
そして、それはすでに9章で明らかにされていることです。
堕落した者たち、神の証しを信じようとしなかった者たちには厳しさが、そして、無知で価値のない異邦人に対しては慈しみが示されています。
しかし、このいつくしみは、彼らが神の恵みを重んじ続ける限り、彼らに対してのみ継続されます。
さもなければ、彼らも断ち切られるのです。
真実な教会が主と共に引き上げられます。
そして、不信仰なキリスト教世界に裁きが下されます。
そのように、切り離される日が近いことを疑う者はいます。
そして、イスラエルが不信仰にとどまらなければ、神は恵みによってイスラエルは再び迎え入れられます。
復活された神の力によって、イスラエルはオリーブの木に再び接ぎ木されるのです。
数年前に読んだ有名な「高等批評」という雑誌の記事を思い出します。
その記事では、使徒パウロが園芸の基本原則の一つを明らかに無視していました。
パウロの霊感という考えを嘲笑していました。
「パウロは実際には接ぎ木の技術についてあまりにも無知だったため、野生の枝を良い木に接ぎ木することについて語っており、野生の木に良い枝を接ぎ木するのが慣習であるという事実を明らかに認識していなかった」のだと彼は言っています。
その尊敬すべき批評家は、次の節に記されている使徒自身の言葉を一度も注意深く読んだことがなかったのは明らかです。
そうでなければ、このような罠にはまることはなかったはずです。
パウロの例えが、普通に行われている例えとは、まったく反対であることをよく知っていたことを明らかに示しています。
パウロはこのように言っています。

「もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。」
(ローマ人への手紙11章24節)


パウロは園芸について無知ではなかったのです。
パウロが書いている間、パウロを導き、鼓舞していた聖霊も無知ではなかったのです。
人間にとって習慣でないことが、神の計画と完全に一致することが多くあります。
そして、25~32節では、この再び接ぎ木の前に何が起こらなければならないか、そして、その後に何が起こるかが分かります。

「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。
それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。
その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」
(ローマ人への手紙11章25、26節)


それで、これは、啓示されるべき時まで神のみこころの中に隠されていた奥義の一つです。
すなわち、異邦人の間で神が現在行なわれている業が完成するまで、イスラエルは部分的に盲目にされますが、感謝することに、部分的にのみ盲目にされます。
ここで、「完成(fullness)」という単語が2度目に使われています。
「異邦人の完成」とは、イスラエルが拒まれて以来ずっと続いてきた諸国民の間での働きの完成を意味します。
この「完成」は、他の聖書箇所からも分かるように、テサロニケ人への手紙第一4章とコリント人への手紙第一 15章に従って、主が教会をご自身のもとに召されたときに実現します。
その時、「イスラエル全体が救われる」のです。
「すべてのイスラエル」という言葉は、イスラエルの血を引くすべての人を指すのではありません。
なぜなら、私たちはすでに次の聖句を学んでいるからです。

「なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、
アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。
すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。」
(ローマ人への手紙9章6~8節)


このように、残された民が、あの栄光の日に真実なイスラエルとなるのです。
その時にこの聖句が成就されます。

「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。」
(ローマ人への手紙11章26節)


なぜなら、神はこのように言われているからです。

「これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」
(ローマ人への手紙11章27節)


それで、使徒は結論として、イスラエルは今のところ福音の敵です。
しかし、イスラエルの敵意を通して恵みが異邦人に及ぶということです。
しかしながら、神の計画によれば、イスラエルは父祖たちのために今も愛されています。
神の賜物と召命は、神によって決して撤回されることはありません。
族長たちとダビデになされた約束は必ず成就されるし、成就されなければなりません。
このことについて詩篇第89篇を注意深く研究してみてください。
かつて、神を信じていない異邦人でありながら、今ではユダヤ人の不信仰によってあわれみを受けています。
異邦人が不信仰であることが証明され一方に追いやられても、イスラエルは信仰によって神に立ち返るとき、あわれみを受けるのです。
ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、すべての人は同じ原則に基づいて救われます。

「なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。」
(ローマ人への手紙11章32節)


最後の4節は賛美歌のような内容です。
神の計画の完全な輝きによって、使徒のたましいの地平線が色づくにつれて、使徒の心は礼拝と賛美と賞賛で満たされます。
パウロはこのように主張しています。

「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。
そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」
(ローマ人への手紙11章33節)


啓示がなければ、誰も神のみこころを知ることはできません。
同じ様に、いかなる被造物も神の助言者になることもできません。

「なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。
また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。
どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」
(ローマ人への手紙11章34~36節)


区分3 実践編 12~16章
信仰者の中において、実践的な義を生み出す神の義

講義10 信じる者の仲間と世の人々との関係におけるクリスチャンの歩み 12章


神の御霊が私たちの目の前で、驚くべきこの貴重な真理のすべてを明らかにしてきました。
今、私たちはこの実際的な意義について検討する必要があります。
この手紙の最後の部分は、信仰によって福音の真理を得た信じる者にどのような影響があるのかが述べられています。

この第三の区分は、大まかに次のように分けることができます。

第1部として、12章1節から15章7節までは、神の善意で受け入れられいる完全なみこころが展開されています。
第2部の、15章8節から33節までは、物事の結論と神の働きの2つの部分に分かれています。
第3部、16章1節から24節までは、挨拶と警告です。
25~27節は、この書簡全体の付録となります。
12章の最初の2節は、1章から8章で与えられた啓示に基づいた、手紙のこの実践的な部分全体への導入です。
9章から11章は、神の方法について、ユダヤ人の信仰の心を清める必要性から生じた大きな側面と見なすのが適切だと考えます。
冒頭の言葉は必然的に8章の終わりの部分と結びついています。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。」
(ローマ人への手紙12章1節)


「そういうわけですから」というのは明らかに、8章におけるクリスチャンの立場と永遠の祝福の壮大な要約を指しています。
つまり、なぜなら、あなた方はキリストにあってすべての罪の宣告から解放されているからです。
あなた方には聖霊が内在しているからです。
あなた方は養子縁組によって子とされ、永遠にキリストと結ばれているからです。
あなた方は神に選ばれ、御子のイメージと同じ形にされるようあらかじめ定められているからです。
あなた方はいかなる罪の宣告の可能性も超えています。
なぜなら、キリストは死んで復活し、神の右に座っておられるからです。
信じる者に対していかなる訴えも決してなされないからです。
神は聞いてくださるからです。
キリスト・イエスにある者に対する神の愛から切り離されることはありません。

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
(ローマ人への手紙12章1節)


キリストは私たちのためにご自身をささげ物として死に捧げられました。
エジプトの初子のように、子羊の血によって贖われたあなたは、今、主に身を捧げるべきです。
後に、レビ人が初子の代わりにささげ物を送るよう神に差し出されたように、一人一人の信じる者も主が、自分のからだを聖別された生きたささげ物として差し出すこと要求していることを認識するべきです。
あなたは贖いのために支払われた代価のゆえに贖われたのです
民数記8章11~21節、ダニエル書3章28節を参照してください。
私たちはこのことを経験的にこのことをどれほど理解しているでしょうか?
かつて、罪とサタンに身を委ねていた私たちは、今や死からよみがえった者として、自分自身を完全に神に委ねるよう求められているのです。
これには徹底的な犠牲、自己の否定、そして、常に私たちに対する神の要求を認識することが含まれています。
2節では、その意味がより明確になっています。

「この世と調子を合わせてはいけません。
いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
(ローマ人への手紙12章2節)


キリストの十字架が、信者と世界の間にあるのです。
この悪い時代の道に、自分を合わせることは世が拒絶した方に背くことです。
私たちは主であり救い主として所有しています。
私は、ある若い女性が敬虔なクリスチャンの女性に次のように言ったことがあります。
「キリストの経験を得られるなら、世界中の何ものをも捧げても構いません。」
すると、このような返事がきました。
「親愛なる友へ、それがまさに私に支払われた金額なのです。
私はそのためにすべてを犠牲にしました。
信仰的な心は、不満を抱くことなく、喜びとともにこのように叫びます。
私から世界を取り上げてでも、私にイエスを与えてください。
地上のすべての喜びは名前ばかりです。
しかし、イエスの愛は永遠に変わりません。」
「新しい愛の駆り立てる力」に動かされるのであれば、このたましいはパウロとともにこのように簡単に言うことできます。

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。
この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」
(ガラテア人への手紙6章14節)


世に従わないということは、必ずしも行動がぎこちなくなったり、服装が変わったり、態度が無作法になったりするわけではありません。
この世のシステム全体は、肉の欲望、目の欲望、そして人生の誇り、つまり生活の誇示という3つの言葉で要約されます。
したがって、この世に従わないということは、肉体とその欲求を神の御霊に従わせることです。
想像力をキリストの心に従わせ、自信と自慢が蔓延する場面において、敬虔な心で歩むことを意味します。
コリント人への手紙にはこのように記されています。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
(コリント人への手紙第二3章18節)


ゆえに、ここで私たちは心を新たにし変えられるように命じられています。
私たちは、神のために私たちのこころを勝ち取ったキリストにある者として歩むのです。
このように、愛をもって従順に歩み、受け入れられる、完全な御心の祝福を証明されるのです。
この章の残りの部分では、私たちとの関係、特に信じる者の仲間との関係における、神の善意が述べられています。
13章では、人間の政府と社会全般との関係において信じる者に対する神のみこころが述べられています。
14、15章の最初の7節では、信仰の弱い人々と信じる者との関係に関して神のみこころが述べられています。
ここでは、信じる者はキリストのからだの一員としてみなされていることに注目します。
素晴らしい特権について語っていますが、それにもかかわらず、重大な責任が伴っています。
ローマ人への手紙のなかで、キリストのからだは二つの非常に異なる側面から考察されていることを指摘しておくのは良いことかもしれません。
エペソ人への手紙とコロサイ人への手紙の中では、ペンテコステの日から主が教会のために再臨されるまでの、すべての信じる者がキリストのからだに含まれているという、神の摂理的な側面が描かれています。
このように見ると、キリストのみがかしらでだということがわかります。
実際に生きている者と死んでいる者とを問わず、すべての人がキリストと結びついています。
しかし、コリント人への手紙第一12章と、ここローマ人への手紙12章では、このからだは地上に現れるものとして考えられています。
使徒は、この地上のからだにおける目や耳などについて語っています。

ここから、使徒の働きやパウロの初期の手紙に出てくる教会と、獄中書簡に出てくる教会とは同じものではないという不合理な推論が導き出されています。
この見解は全くの仮定であり、こじつけ的なディスペンセーション主義に基づいています。
このことが完全に受け入れられているところでは、クリスチャンとしての責任が大きく破壊されています。
コリント人への手紙においても、ローマ人への手紙においても、キリストのからだは地上にあると考えられています。
そして、教会には天のかしらに代わって話し行動する人々がいます。
つまり、目や耳などの比喩を使うのはまったく適切なことなのです。

「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」
(コリント人への手紙第一12章26節)


この聖句は天の聖徒たちのことを言っていません。
彼らの苦しみは永遠に終わっています。
しかし、地上に苦しむ聖徒がいます。
彼らは、キリストのからだの他のすべての一員はキリストと共に苦しみを分かち合います。
私は少年時代、故郷カナダのトロントの街を行進するスコットランド連隊をうっとりと眺めていたことをよく覚えています。
その連隊がワーテルローの戦いで戦ったと聞いて、とても興奮しました。
後になって、彼らのうち誰一人としてその大きな戦闘に参加していなかったと知り、私は非常にがっかりしました。
私は、当時の連隊の構成を眺めていました。
ワーテルローの戦いは何年も前に起こりました。
その連隊は同じ連隊でしたが、亡くなった兵士の代わりに新兵が絶えず入隊していました。
地上におけるキリストのからだも同じです。
信者は死にました。
キリストのもとへ旅立ち、目に見えない天上の聖歌隊に加わっています。
他の人々が地上で彼らの代わりを務め、このように教会は時代を超えて存続しています。
さて、キリストのからだの一員として、私は他のメンバーから独立して行動するのではありません。
また、自分を他の人よりも高い地位にあると考えるべきでもありません。
神が他のすべてのクリスチャンと同じ様に、私にも一定の信仰を与えてくださった者として冷静に考えるべきであることを認識する必要があります。

「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。」
(ローマ人への手紙12章4~9節)


私たちには10節の簡潔な勧めが必要なのです。

「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」
(ローマ人への手紙12章10節)


他の箇所においてもパウロはこのように書いています。

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
(エペソ人への手紙4章32節)


真実な優しさとは貴重な美徳です。
装った真実への熱意、もしくは教会の立場によって、人間の優しさの乳が乾かされています。
しかし、他人への親切は最も真実なキリスト教の美徳の一つなのです。
グリフィス・トーマス博士は、会衆に向かってよくスコットランドの老牧師の話をして、このように言っていました。
「覚えておいて下さい。
親切でない人は、霊的でもありません。」
しかし、霊的と親切の間には相容れないところがあると多くの人々が考えています。
もしこれらの訓戒を心に留めておけば、クリスチャンは互いについて語り、互いに対して違った行動を取ることができます。
11節の最初の部分は、「熱意を怠らない」と翻訳する方が適切です。

「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」
(ローマ人への手紙12章11節)


これは単なる商売の方法の勧めとして受け取られるべきではありません。
しかし、何をするにしても、主に仕えるように熱心に、霊的な情熱をもって行うべきです。
それぞれの節を詳細に取り上げる必要はありません。
その勧告はあまりにも明白なので誤解されることはありません。
しかし、16節では、使徒が実際には、高い位の者が低い立場の人に対して謙遜であるかのように教えているのではありません。
パウロが実際に言っているのは、「高い位のことを気にせず、低い者と一緒に行きなさい」ということだと指摘したほうがよいかもしれません。
最後の5節は、おそらくクリスチャンの仲間よりもこの世のことを念頭に置いているのでしょう。
残念ながら、信じる者の仲間との様々なやり取りにおいても同じ訓戒が必要であるというのは事実です。
一般の世の人々と暮らすことはおろか、聖徒仲間と暮らしていても、必ずしも平和に暮らせるわけではありません。
ゆえにこのように言われています。

「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」
(ローマ人への手紙12章18節)


19節には「神の怒りに任せなさい」という表現があります。

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」」
(ローマ人への手紙12章19節)


サヴォナローラ(Savonarola)はこのように言いました。
「クリスチャンの人生は善を行い、悪に耐えることから成ります。」
その者は自分の力で問題を解決するのではありません。
むしろ、神は他人を通して、結局は良い結果につながらないような試練を自分に下すことはないだろうという単純な確信を持っています。
20節と21節に従って行動すべきです。

「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。
渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」
(ローマ人への手紙12章20、21節)


これは通常できることではありません。
しかし、御霊に従って歩む人にとっては可能なのです。
ある若い貴族がアッシジのフランチェスコ(Francis of Assissi)に泥棒のことを訴えました。
その貴族は「あの悪党がこのブーツを盗んだ」と叫びました。
そして、フランシスは「早く追いかけて、靴下を渡してあげなさい」と叫びました。
これは「ののしられても、ののしり返さず」、憎しみの代わりに常に愛を与えた主イエスの精神です。
これらの勧めが、いわゆる山上の垂訓にある私たちの主の教えに似ていることを、誰も気づかないはずがありません。
しかし、その違いは大きいものです。
というのは、山上の垂訓でのイエスの言葉は、まだ明らかにされていない王国の到来を待つ弟子としての厳しい試金石だったからです。
しかし、ここでは、私たちが神の子供として持つ新しい性質に従って歩むようにという勧めが与えられています。
それは私たちが「天の父の子どもとなるため」ではありません。
それは、新しい創造物に属する人々の中での聖霊の働きの現れです。


講義11 信じる者と、政府、および社会との関係についての神のみこころと、および手紙の閉め 13~16章

この世におけるクリスチャンの立場は、現在の秩序のもとでは、必然的に困難でほとんど異常なものとなります。
その者は別の世界の住人であり、見知らぬ土地を旅する異邦人、巡礼者です。
その者は、地に拒絶され、犯罪者に必要な十字架に値するだけとみなされた正しい王に心から忠実であると思われます。
略奪者であるサタンが、君主であり神である場面では、忠実に慎重に歩むよう求められていることに気づくことができます。
その者は破壊者であってはいけません。
もしくは現在の秩序を誇示するものでもありません。
その者は「私たちは人に従うよりも神に従わなければならない」というルールに従うべきです。
たとえ、人間の政府を管理する者たちの中に不義な者たちであったとしても、その者は人間の政府に反対してはいません。
この13章を学ぶにあたって、パウロが権力者への服従に関する指示を与えています。
王国の王座に座っていたのは、人間の形をした獣の中でも王座に就いた者の中で最も下劣な獣の1人です。
自分を産んだ子宮を見るために自分の母親の体を引き裂いた、官能的で肉欲的な獣です。
最も卑劣な性格の邪悪で露骨な利己主義者であり、その残酷さと不正は筆舌に尽くしがたいものであったことを思い出すのはよいことです。
しかし、神はその摂理により、悪魔に操られたこの悪党が、かつて世界が知っていた最も偉大な帝国の王冠を頭上に載せることを許しています。
パウロ自身も若い説教者テモテに宛てた手紙の中で、皇帝を凶暴な獣として描いています。

「私はししの口から助け出されました。」
(テモテの手紙第二4章17節)


皇帝の権力は法律と元老院によって多かれ少なかれ制限されていました。
しかし、それでも彼の統治は初期クリスチャンの多くにとって破戒と惨事を招くものでした。
この章の最初の7節で神の霊が与えた教えに従うには、彼らにどれほどの信仰が必要だったのでしょうか!
そして、そのような政府のもとでクリスチャンが従順であることが求められたのです。
いかなる政府のもとでも、暴動や反乱は許さることはありません。

「ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。」
(イザヤ書45章9節)


一つの政府が他の政府によって倒されることもあります。
ある時点で権力を握っている政府が何であれ、クリスチャンはその政府に従うべきです。
その者には、その布告が暴虐で不当なものかも知れません。
そこには祈りという手段もあります。
しかしながら、その政府に反抗してはいけません。
これは私たちの中には理解しにくい言葉もあると思います。
もし疑問に思う人がいれば、今、私たちの前にある聖句を注意深く読んでみてください。

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。
神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」
(ローマ人への手紙13章1節)


これは王権神授説の教義を確立しようとするものではありません。
単に次のことを意味しています。
神は、自身の無限で賢明な目的のために一人の人間を立てます。
そして、別の人間を倒します。
また、特定の政府形態、または特定の統治者が特定の時代に権威の地位に立つことを定めます。
ダニエル書に記されているように、時には神は人々の邪悪さに対する罰として、最も卑しい人々を諸国の上に立たせます。
いずれにしても、摂理によって許され、神自身によって認められない限り、権威は存在し得ません。
2節が示すように、この権威に逆らうことは、神の定めに逆らうことです。

「したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」
(ローマ人への手紙13章2節)


しかし、ここにある「さばき」が永遠の罪のさばきを意味するのであれば、逆らう者は罪のさばきを受けると言うのは、確かに無理があります。
ここでの言葉は、コリント人への手紙第一11章にあるのと同じ「さばき」を意味していますが、必ずしも永遠の裁きという意味ではありません。
支配者は善行に対して恐怖を与えるのではなく、悪行に対して恐怖を与えるのです。
ネロでさえ、法律に従って歩む者を尊敬しました。
ネロがクリスチャンを迫害した理由は、当時のクリスチャンたちが既存の制度に反対していると伝えられたためでした。
したがって、権威を持つ人々を恐れない者は、律法に従って歩み、善行をするよう求められています。
こうして、その人は義が認められるのです。
なぜなら、最終的に、支配者はそれぞれの人に善を行う神の奉仕者だからです。
しかし、王国の制度を侵害して悪事を働く者は、当然、恐れるべきです。
なぜなら、神自身によってその剣が行政官の手に委ねられています。
行政官がその剣を無駄に持つことはありません。
神は行政官を世界を支配する奉仕者として任命し、犯罪行為を行う者に対して裁きを執行するからです。
したがって、クリスチャンは、罪の宣告を避けるためだけでなく、神に対して自分自身が正しい良心を保つためにも、政府に従うことが求められます。
時には要求が不当に思えるかも知れません。
貢物を納め、義務を果たし、誠実に税金を納め、あらゆる面で政府に従うことを望んでいることを示すべきです。
ここで私たちが持つすべての教えは、クリスチャンを権威の立場ではありません。
服従させる立場にあることが分かるはずです。
しかし、神の摂理により、その者が王位の身分に置かれたり、権威ある立場に置かれたりするならば、その者もまた、ここで述べられている神の御言葉に縛られることになります。
この章の残りの部分は、クリスチャンと社会一般との関係、そして主の来臨と現在の神の摂理が間もなく終わることを考慮したものとなっています。
信者は借り主ではなく与える者の態度を保つべきです。
誰に対しても借りを作らず、むしろすべての人に対して愛を惜しみなく注ぐべきです。
クリスチャンの律法の第二箇条である、隣人に対する人間の義務を規定するすべての道徳的戒律はつぎの言葉に要約されます。

「わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
(マタイの福音書5章44節)

このように愛する者は、姦淫、殺人、窃盗、嘘、貪欲の罪を犯すことは決してありません。
愛がこのような形で表現されることは不可能です。

「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」
(ローマ人への手紙13章10節)


すでに8章1~4節で見たように、肉に従って歩むのではなく、御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の義の要求が成就されるのです。
日が経つごとに、恵みの期間は終わりに近づき、主の再臨が早まります。
したがって、クリスチャンがすべきことは、死者の眠ることではありません。
自分の責任と特権に完全に目覚め、私たちが待ち望んでいる救い、つまり肉体の贖いが、私たちが信じた時よりも今の方が近づいていることを認識することです。
サタンの権威が地球を支配する夜は終わりに近づいています。
すでに夜が明け始めています。
したがって、恵みによって救われた者は、暗黒の業に携わるべきではありません。
むしろ兵士として光の武具を身に着け、神に属するもののために立ち上がり、昼の光の中にいるかのように清廉に生きるべきです。
放蕩や放縦、争いやねたみの中に生きるべきではありません。
むしろ、主イエス・キリストを身に着け、自分は主と一つであると告白し、実際に主と共に死の代わりを果たし、肉の欲にふけることを避けるべきです。
ヒッポのアウグスティヌスは自分はクリスチャンであるべきだと知的には確信していたにもかかわらず、肉欲を抑制できず、自分が属すると考えていた大義に重大な不名誉をもたらすかもしれないと恐れて、公然とキリストを告白することを躊躇していました。
しかし、長年の苦悩の末、アウグスティヌスの心に強く訴えたのは、この13章の最後の2節です。
アウグスティヌスが次の言葉を読んだ時に、神の御霊が彼の目を開き、勝利の力は彼自身にあるのではなく、彼が十字架につけられて復活した救い主と同一視されているという事実にあることを悟らせました。

「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」
(ローマ人への手紙13章13、14節)


アウグスティヌスは信仰によって主の祝福された御顔を見つめ、聖霊がキリストと結びついた真理を彼に示しました。
彼は、救いの確信を得て、罪に対する勝利を悟りました。
予期せぬ形で、かつての美しく、されど淫らな仲間の一人と顔を合わせた時に、彼は振り返って逃げ出しました。
彼女は泣きながら彼の後を追いました。
「オースティン、オースティン、なぜ逃げるの?
私だけがここにいます。」
アウグスティヌスは道を急いで走りながらこのように答えました。
「私は走っています。ここにいるのは私ではないからです!」
このように、すでにアウグスティヌスは肉のために何かを得ようとはしていません。

14章と15章の最初の7節は、聖霊は弱い兄弟たちに対する信者の責任を強調しています。
その者は自分よりも光の少ない人々に対して憐れみ深く歩むべきです。
信仰の弱い人たち、すなわち、教えられていない良心のせいで、どうでもいいことで困っている人たちがいます。
彼らはクリスチャンとしての完全な立場で受け入れられ、所有されるべきです。
その疑問や疑わしい考えのために裁かれるべきではありません。
この原則は極めて広範囲に及ぶものであり、陥りやすい律法的な精神に打ち勝つべきクリスチャンの善意の広さを示しています。
光はクリスチャンの特権を受け入れる根拠ではなく、命です。
神の子である者は皆、キリストのからだの一員として認められるべきです。
明らかに邪悪な生活をしていない限り、クリスチャンの集まりの中で血によって買い取られた地位を与えられるべきです。
邪悪と弱さは混同されるべきではありません。
邪悪な者は排除されなければなりません。
(コリント人への手紙第一5章参照)
弱い兄弟は受け入れられ、保護されなければなりません。
もちろん、ここで目指しているのは仲間への受け入れではありません。
信仰の弱い者はすでにこの中にいたのです。
その者は、冷たく見られたり、彼の疑わしい考えを理由に裁かれたりする必要はありません。
心から受け入れ、彼の弱い良心の主張を注意深く考慮しなければなりません。
その人は、清いものと汚れたものに関してまだ律法の下にある人、あるいは聖日に関して困難を抱えている人かもしれません。
前者の場合、キリストにある自由に強い信仰を持つ兄弟は、儀式上の清さに関して何の疑問も抱かずに、クリスチャンとしてすべてのものを食べてよいと信じます。
弱い兄弟は汚れを非常に恐れているため、偶像に捧げられたものや「コーシャー(Kosher)」ではないもの、つまりレビ人の律法では清くではないものを食べるのではなく、野菜だけの食事で生き延びようとします。
「強い」者は、過度に良心的な兄弟を軽蔑してはいけません。
その反面、弱い者は強い者を不誠実または矛盾で罪の宣告することは禁じられています。
あるいは、それが月日の問題であり、一人の兄弟が律法的な良心を持ち、依然としてユダヤ教の安息日の神聖さを堅持しているかも知れません。
その反面、もう一人の兄弟がすべての日を今や同じものとみなし、神の栄光に捧げるべきであると考えているのなら、それぞれの神の前に立った行動をとるよう努め、「自分の心の中で十分に確信」しなければなりません。
「だれが、一人のしもべに、他のしもべを支配させたのでしょうか?
両者はともにひとりの主人に仕えています。
また、主は心の誠実さを認め、ご自分のしもべを支えているのです。」
誠実に、それぞれの者がが主の栄光を念頭に置いているのなら、その両者は主の御前にいる者として行動しなければなりません。
ここで述べられている原則をしっかりと守れば、聖徒たちの間でより充実した交わりが生まれます。
また、多くの心の憧れから救われるであろうことに疑問の余地はありません。
私たちは自分のために生きているのではありません。
私たちは、意図するか否かに関わらず、常に他人に良い影響でも悪い影響でも与え続けています。
それでは、生きている時も、死んだ後も、私たちが主のものであり、仕えるべき主に対する私たち個人の責任を認識するべきです。

「キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」
(ローマ人への手紙14章9節)


「生きられた」という言葉は、さまざまな批評版から省略された不必要な挿入です。
神のさばきの座においてキリストがさばき主です。
すべての人が出て来て、キリストは自分の考えに一致していたものを明らかにします。
私たち全員が神に対して自分自身について説明しなければなりません。
そのように私たちは認識しながら、待つ余裕があります。

「こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。
ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。」
(ローマ人への手紙14章13、14節)


むしろ、それぞれの人が自分自身を裁き、弱い兄弟が倒れる機会を作らないように歩むよう努めるべきです。
自分の行動がクリスチャンの自由に合致していることが明らかな場合においても、その自由を弱者の前で誇示してはいけません。
そうしないと、「キリストがキリストのために死んだ人を破壊する」ことになります。

「その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。」
(コリント人への手紙第一8章11節)


もちろん、キリストの証しが台無しになることが予想されます。
強い者の手本に勇気づけられて、良心の命令を踏み越えて自分を非難する気持ちになるかも知れません。
そして、他の者が矛盾していると考えて落胆し、クリスチャンの仲間から離れる結果になるかも知れません。
結論として、食べ物や飲み物の問題は、あまり重要ではないのです。

「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」
(ローマ人への手紙14章17節)


つまり、誰か人間の国が持っているような世的な事柄とは関係がありません。
神の国は霊的な性質を持っています。
そして、「義と平和と聖霊による喜び」と関係があるのです。
これらのことは、他の何かに誤解しているとしても、訓練されている人は、キリストに仕えており、神に受け入れられ、人々にも認められているのです。
正しい考え方をする人は皆、誠実さを高く評価します。

「そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」
(ローマ人への手紙14章19節)


自由を主張して弱い兄弟を遠ざけたとしましょう。
その結果、その者の失敗と弟子としての立場の崩壊の責任を負うよりも、弱い兄弟の良心を悩ますようなことは避けることは正しいことなのです。
他の人が非難することを自分は安全に行えるという信念を持っている人がいたとしましょう。
神の前でそれを自分のものとして、弱者の前でそれを露骨に自慢してはいけません。
しかし、清廉潔白であると公言しながらも、自らを責め立てていないか、よく確認すべきです。
なぜなら、神の前で自分が本当に安心しているわけではないことに固執する者は、真実な信仰に基づいて行動しているわけではく、罪に定められます。
もちろんこの言葉は、本来は永遠の審判を指していますが「罪に定められる」のではありません。
なぜなら、「信仰から出ていないことは、みな罪」だからです。
つまり、私が正しいと信じていることに反している行動をとるのなら、たとえ私の行動に道徳的に間違ったことが何もなかったとしても、私は実際には良心に反しており、神に対して罪を犯していることになります。
パウロはそのことすべて第15章の最初の7節に要約しています。

「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。
私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」
(ローマ人への手紙15章1、2節)


むしろ、それぞれ人は隣人の幸せを考え、隣人の得を求めるべきです。
また、自分の個人的な自由を主張して、不注意にも隣人の信仰を破壊することがないようにすべきです。
真実な自由は、弱い者をつまずかせるようなことを控えることによって実現されます。
キリストは偉大な模範として見るべきです。
どのような戒めにも屈する必要のなかった方が、自発的に律法のすべての戒めに服従しました。
さらには、そのような戒めをはるかに超えて、ご自身を喜ばせようとはしてません。
イエスは、私たちがつまずかないように神殿で税を納めていました。 このように、神を非難する人々の非難をご自身のものとされたのです。
イエスの外面的な振る舞いは、内面的な生活と同様に非の打ち所がありません。
人々は神を罵倒したのと同じ様にイエスを罵倒しました。
4節は旧約聖書の重要性を強調しています。

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。
それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」
(ローマ人への手紙15章4節)


この聖句はコリント人への手紙第一10章6節、11節とリンクしています。

「これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。
それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。」
(コリント人への手紙第一10章6節)


次の聖句は覚えておく価値があります。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」
(テモテの手紙第二3章16、17節)


パウロはこの区分をこのように締めくくっています。

「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。
それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。」
(ローマ人への手紙15章5、6節)


そうならば、心と口は一致しているはずです。
そして、パウロはこのように勧めています。

「こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」
(ローマ人への手紙15章7節)


キリストが、弱くても強くても私たちを恵みによって引き上げ、栄光にふさわしい者としてくださります。
ならば、私たちも互いに心からキリストのような交わりを持てるはずです。
もう一度繰り返しますが、ここで考えているのは、クリスチャンの仲間に迎え入れるという問題ではありません。
すでに仲間の中にいる人々を認めるという問題です。
正確に言えば、この手紙自体、つまり神の義についての論文は、8~13節で結論に達します。
それ以降の内容は、追記や付録といった性質のものになります。
この詳細な論文では、一体何が証明されているのでしょうか?

「私は言います。キリストは、神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。
それは先祖たちに与えられた約束を保証するためであり、
また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。」
(ローマ人への手紙15章8、9節)

つまり、パウロは旧約聖書の約束に一致して、私たちの主が来られたことを全体を通して示してきたのです。
ヨハネの福音書10章に語っているとおり、キリストは羊の囲いの戸口から入りました。
キリストは、ユダヤ人たちに神から任命された奉仕者であり、契約の約束を確認するためにやって来ました。
国民がイエスを拒んだとしても、それによってイエスの使命が無効になるわけではありません。
むしろ、ユダヤ教の聖書に完全に一致し、それ以上に広く異邦人への憐れみの扉が開かれたのです。
福音を聞いた異邦人も、ユダヤ人が与えられていたのと同じ救われる機会を与えられることは予知されていました。
パウロはそのことがあらかじめ定められていたことを、すでに教えられている真理を明確にするために、次々と聖句を引用しています。
次章の最後の節でパウロが述べている奥義の啓示以来、この「あわれみ」は私たちが知っている過去の時代に明らかにされたものを実際に超越しています。
しかしここで彼が言いたいのは、それが預言者たちの預言に反するものではありません。
パウロの言いたいのは、神が前もって知らせておられたことと完全に一致しているということです。
そしてパウロは、この福音の見事な展開とその結果を、次のように述べて締めくくっています。

「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」
(ローマ人への手紙15章13節)


何を信じているのでしょうか?
それは、この手紙に記された偉大な真理、すなわち私たちの最も神聖な信仰の驚くべき真実を信じるということです。
罪による人類の滅びとキリスト・イエスによる救いを私たちに示しています。
これを信じるのなら、私たちは喜びと平和に満たされ、希望を持って主の再臨の完成を待ち望むのです。
主は、これらの貴重なことを私たちにとって現実のものにしてくださる唯一の存在です。
私たちは、私たちの内に宿る聖霊の力によって神の前を歩むのです。
この章の残りの部分は、使徒がローマの聖徒たちを信頼し、彼らに関する活動と訪問する目的を語るにつれて、明らかに個人的な性格を帯びて語っています。
パウロに届いた報告から、ローマの聖徒たちはすでに健全な霊的状態です。
彼はこのように確信しています。

「私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。」
(ローマ人への手紙15章14節)


そのため、彼は監督者として彼らのところに行くことは考えず、神から託された、彼らのために役立つ働きがあると感じていました。
さらに、ローマはパウロが遣わされた広大な異邦人世界の一部でした。
パウロの働きは特にこの世界に適用されています。

「それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」
(ローマ人への手紙15章16節)


もはや、福音はイスラエルの一つの独立した国家ではなく、すべての人に平等に与えられたのです。
したがって、道が開かれるたびにパウロはローマの教会を訪問することに期待しました。
そして、小アジアと東ヨーロッパの人々に対するパウロの使命は今やほぼ達成されたように思われました。
パウロはすぐに西のスペインまで行くことを決意し、その途中で彼らを訪問することを希望しました。
その間にパウロは、マケドニアとアカヤの聖徒たちからの献金をユダヤの困っている信じる者たちに届けるためにエルサレムへ向かっていました。
このことがが達成され次第、彼はスペインに出発し、途中で彼らを訪問することを希望しました。
パウロに近い未来が隠されるとはなんという哀れみでしょうか!
パウロは、キリストの名のために、間もなく恐ろしい苦しみを味わわなければならないかをほとんど理解していませんでした。
人は計画するが、神はその計画を実行します。
そして、イエスは献身的なしもべであるパウロのために全く別の計画を用意しておられました。
もちろん、ローマ訪問も含まれていました。
しかし、それも鎖につながれてのことでした。
パウロは神の定められた時にローマに行き、「キリストの福音の祝福に満ちて」来ることを確信しました。
パウロは信仰の兄弟への宣教が成功し、不信仰なユダヤ人から救われるよう祈ってくれるよう、彼らに願いしました。
祈りは聞き届けられましたが、それは彼が予想していたものとは全く異なる形でした。
主に、16章は現在ローマに住んでいる彼の知り合いの聖徒たちや、彼と親しかった他の聖徒たちへの挨拶で構成されています。

最初の2節は、アカヤのコリントのすぐ南にあるケンクレヤという町の会衆の女性執事フィベに対する推薦状の性格を帯びています。
(使徒の働き18章18節参照)
彼女は、アキラとプリスキラには確かによく知られていました。
しかし、パウロは彼女を友人たちの過去の思い出に頼らせることはせず、この手紙によって聖徒たちに彼女の現在の教会内での立場を保証しています。
アキラとプリスキラは次の節で逆の順序で名前が述べられています。
プリスキラとアキラはパウロにとって家族の一員のように親しい存在でした。
二人の交わりはとても親密でした。
そして、パウロのために彼女たちがいかに危険にさらしたか、パウロは忘れることができません。
ローマの集会の一つが彼らの家で開かれています。
アカヤ出身のもう一人の聖徒、コリントへの宣教の初子であるエパネトもそこにいました。
長いリストに目を通し、繊細な表現、心温まる思い出、称賛の微妙な違いに気づくと、私たちはこれらの初期の信者たちに引きつけられ、彼らの歴史や経験についてもっと知りたくなります。
私たちが興味を持ったのは、彼の親戚であるアンドロニコとユニアスが、彼が言うには「私より前にキリストにいた」ということです。
彼らが聡明な若い親族のために祈ったことを見て、彼の驚くべき改心とあまり関係がなかったのではないかと考えます。
11節にはもう一人の親族、ヘロデオンの名前が出てきますが、改心したのが彼より前か後なのかは分かりません。
13節には人間的な感触があります。

「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。」
(ローマ人への手紙16章13節)


旅の途中、このクリスチャンの婦人は、名前は知られていません。
献身的で自己を否定するキリストのしもべを母親のように育てたことがあり、パウロは彼女の世話を特別な感謝の気持ちをもって思い出しています。
これらすべての名前は興味深いものです。
私たちは「その日」に彼ら全員に会い、主に対する彼らの献身と主の名のための彼らの献身についてさらに学ぶことができればうれしいと考えます。
しかし、ここでその記録について長々と語ることはできません。
パウロは仲間からのメッセージを送る前に、17節と18節で偽教師に対する警告の言葉を書き入れています。

「兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。
そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。
彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。」
(ローマ人への手紙16章17、18節)


ここで述べられている悪行を行う者たちは、たとえ間違いを犯していたとしても、クリスチャンの教師ではありません。
彼らは、ユダが語っているように、外部から侵入してきた不信心な人々です。
彼らはキリストのしもべではなく、神の民を堕落させ分裂させるためにこの世から連れてこられた悪魔の道具です。
たとえ、どれほど間違っていたとしても、主を愛し、主の民を慕い、彼らの祝福を願う真実なクリスチャンに、このような言葉を当てはめるのは、恐ろしく邪悪なことです。
ピリピ人への手紙3章18、19節でこのように記されています。

「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
(ピリピ人への手紙3章18、19節)


ここに出てくる「欲望」という言葉の意味は「自分の腹に仕える」という意味であり、つまり自己満足のためだけに生きる人々についてさらに学ぶことができます。
これらは、私たちの現在の章に出てくる哀れな分裂者と同じです。
たとえ、真実のゆえに、このような人たちの行いや教えのある事柄に関して異議を唱えざるを得ないと感じるかも知れません。
しかし、真実なしもべたちをこの不敬虔な数に属していると非難する際には、細心の注意を払うべきです。
パウロはローマの聖徒たちに、このようなタイプの人々の言うことに耳を傾けることの危険性を警告しています。
そして、ローマの聖徒については良いことしか聞いていませんが、彼らがその優れた記録を維持することを熱望していることを知らせています。
ああ、この教会は、パウロが警告したまさに偽教師たちに、いち早く門戸を開いてしまいました。
このように7世紀には、ローマ教皇が即位しました。
パウロは私たちが悪に関しては素直で、善に関しては賢明であり、誤りにとらわれず真理にとらわれることを望んでいました。
平和の神が聖徒たちの足の下でサタンを砕くのなら、その真理はすぐに勝利することになります。
パウロとその仲間たちによる最後の挨拶は21~24節に記されています。
テモテとルカも彼と一緒にいました。

「私の同労者テモテが、あなたがたによろしくと言っています。また私の同国人ルキオとヤソンとソシパテロがよろしくと言っています。
この手紙を筆記した私、エラストも、主にあってあなたがたにごあいさつ申し上げます。
私と全教会との家主であるガイオも、あなたがたによろしくと言っています。市の収入役であるエラストと兄弟クワルトもよろしくと言っています。」
(ローマ人への手紙16章21~23節)

ここで初めて、ヤソンがパウロの近親者であったことが分かります。
(使徒の働き17章5~9節参照)
これは、テサロニケを訪れた際にヤソンがパウロを歓迎し、献身的に示したことの理由を説明しています。
親族であるソシパテロも彼と関係があります。
パウロの管理人を務めた書記官エラストが挨拶を付け加えています。
これ以外では、手紙の実際の筆者の名前は決して知られるべきではありません。

23節の「家主ガイオ」は、ヨハネの手紙第三の中で、旅する兄弟たちを迎え、そのキリスト教的なもてなしを称賛されたガイオと同一人物なのかもしれません。
確かなことは分かりませんが、少なくとも同じ精神を持った人物でした。
エラストについては、私たちは他のところで聞いています。
(使徒の働き19章22節、テモテの手紙第二4章20節)
他の箇所ではクアルトについて言及されていません。
エラストとクアルトという名前はどちらも、その子を産んだ人々がかつては奴隷であったことを示しています。
つまり、その名前はそれぞれ3番目と4番目という意味です。
奴隷は単に番号で名付けられることが多くありました。
24節の祝福はこの手紙を締めくくり、真にパウロの手紙であることを示しています。
(テサロニケ人への手紙第二3章17,18節を参照)

英訳NKJVでは「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたとともにありますように、アーメン」とあります。
(The grace of our Lord Jesus Christ be with you all. Amen.)

「恵み」は、いわば彼の著者であることを証明する奥義の印です。
非常に重要なことに、この言葉はヘブル人への手紙 13章25節に見られ、彼の手紙以外のどこにも見当たりません。
25~27節は付録であり、パウロはここで、福音の貴重な展開を、異邦人の間に知らせることがパウロの特別な任務であった「奥義」と結び付けています。
この奥義は、エペソ人への手紙3章と他のいくつかの聖書箇所で、非常に詳細に展開されています。

「私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、
知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。」
(ローマ人への手紙16章25~27節)


パウロには二重の働きが託されていました。
それは栄光を受けたキリストと結びついた福音の働きと教会の働きです。
その奥義は世界の創造前から神の中に隠されていましたが、今は聖霊によって明らかにされています。
コロサイ1章23~29節とエペソ3章1~12節に述べられているこの二重の務めを参照してください。
この「奥義」は、難解で神秘的な性質のものではなく、使徒パウロを通して聖霊によって時が経って明らかにされるまで人類には決して知られることはありませんでした。
パウロによって信仰の従順のためにすべての国々に伝えられた神聖な奥義です。
それは最終的に明らかになるために聖書の中に隠されていたのではありません。
神がこの奥義を明らかにすることを選択する時まで神の中に隠されていたことが私たちにははっきりと告げられています。
これはイスラエルに受肉と復活の両方でキリストを受け入れるあらゆる機会が与えられて初めて起こったことでした。
イスラエルがイエスをはっきりと拒み、神は永遠の昔から心に抱いていたことを明らかにされました。
それは、ユダヤ人と異邦人を問わず、すべての国民の中から選ばれたあつまりを贖い出し、取り出し、聖霊のバプテスマによって、キリストと最も親密な関係として一つに形づくらた、選ばれた集まりとなるということでした。
(エペソ人への手紙5章、夫と妻、かしらとからだに例えられています。)
それは、現在だけでなく、来るべきすべての時代を通して、キリストと結ばれるために一つのからだとなるということです。

キリストと教会のこの偉大な奥義は、今や預言書によって明らかにされ、知られるようになりました。
ここで「預言者たちの書によって」と訳されているのは不適切な翻訳かも知れません。
しかし、その意味は、福音の光とあかしの今日において、霊感を受けた人々、新約聖書の預言者たちの著作によって明らかにされています。
キリストと教会のこの偉大な奥義は、預言物によって明らかにされ、知られるようになりました。
ここでは「預言者たちの書によって」と書かれていますが、その意味は、福音の光と証言の時代に、霊感を受けた人々、新約聖書の預言者たちの書物によって明らかにされています。
それは単に知性の中に維持されるべき美しく素晴らしい理論や教義の体系でもありません。
それは、キリストが拒まれ、現在、キリストと同一視されることと伴っています。
したがって、信仰の従順のためにすべての国々に知られるのです。
そのことはローマ人への手紙では詳しく述べられていません。
なぜなら、ここでの大きなテーマは、私たちが見てきたように、福音書で明らかにされた神の義だからです。
しかし、ここでそのことに触れているのは、この手紙における福音の展開と、特に獄中書簡に記されている奥義の啓示とを結び付けるためです。
これは、例えばエペソ人への手紙やコロサイ人への手紙の中に、ローマ人への手紙やそれ以前の手紙よりも、新しいより高い真理があるということではありません。
これらすべてはひとつの全体の一部を形成し、使徒が長年の宣教活動を通じてそれぞれの地で宣べ伝えた教えの体系を構成しています。
しかし、これらの手紙が一度にすべてが書き記されたわけではありません。
ローマ16章25節の「奥義」は、後の書簡の奥義と同じであり、彼のメッセージの不可欠な部分を常に形成しています。
今日、使徒の働き28章に記録されているように、ローマでユダヤ人がパウロのメッセージを拒んだ後に書かれた手紙の最後に記されている内容と、使徒の働きに記されているパウロの務めとを完全に分離しようとする人たちがいなければ、このことを言う必要はありません。
ローマ人への手紙の締めではこのことを完全に否定しています。
ここで、それが付け加えられたのは、彼の福音と教会に対する働きの一体性が二重の性格を通じて明らかになるためです。
これで、私たちは、この書簡の検討が無駄ではなく、天から神の子が来られるのを待つ間、さらなる利益と祝福をもたらすものとなることを信じています。
現在における多少の大まかな研究を終えます。

「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。」
(ローマ人への手紙16章27節)


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