メッセージAX 2025/8/23
預言書イザヤ書の解説
EXPOSITORY NOTES ON THE PROPHET ISAIAH
H. A. Ironside
目次
序文と導入
イザヤ書の導入
1章 聞くための呼びかけ
2章 アモツの子はユダとエルサレムを見る。
3章 ユダの堕落した状態
4章 主がシオンに戻るとき
5章 ぶどう園のたとえ話
6章 預言者の清めと使命
7章 処女の子
8章 マヘル・シャラル・ハシュ・バズ
9章 約束された救い主
10章 アッシリア人とその破滅
11章、12章 神の油注がれた者が支配する時代
13章、14章 バビロンへの宣告
15章、16章 モアブの宣告
17章 ダマスカスとエフライム
18章 羽こおろぎの国
19章、20章 エジプトへの宣告
21章 バビロン、ドゥマ、アラビア
22章 幻の谷
23章 ツロに対する宣告
24章 来たるべき破壊と荒廃
25章 残された者たちの歓喜の歌
26章 イスラエルの救出
27章 ヤハゥエのぶどう園の回復
28章 過去と未来における裁き
29章 第二、第三の苦難
30章 ユダの失敗 ― 神の忠実さ
31章 未来の祝福を約束した戒め
32章 来たるべき王国への準備
33章 第6の災いと祝福の約束
34章 ヤハゥエの復讐の日
35章 千年王国の祝福
36章~39章 歴史的な合間
40章 慰め主である神
41章 永遠に強い者
42章 選ばれたしもべ
43章 神の忠実さを証しする者たち
44章 神の祝福の不変の目的
45章 クロスの到来が預言される
46章 神と偶像との終わりなき対比
47章 バビロンの滅亡
48章 神とイスラエルとの論争
49章 軽蔑されたメシア、神の答え
50章 イスラエルが除外された理由
51章 目覚めへの呼びかけ
52章 すべての人に述べられる良き知らせ
53章 苦しむ救い主
54章 残された者たちへの歌の呼びかけ
55章 偉大なる招待
56章 義への励まし
57章 よそ者と追放者たちの集まり
58章 神に喜ばれる断食と安息日
59章 毒蛇の卵とクモの巣
60章 残された者の中にある栄光の神
61章 油そそがれたしもべとその働き
62章 残された者への宣言
63章 エドムの戦士征服者
64章 残された者たちの心の叫び
65章 新しい天と新しい地
66章 主の啓示の終わり
序文と導入
長い間、ハリー・A・アイアンサイドはイザヤ書の解説書を書くことを心に抱いていました。
アイアンサイド氏のメッセージと教授のスケジュールはとても忙しく、また、後世に視力も衰え、解説作業がなかなか進まなかったようです。
この働きがある程度まで出来上がった頃に、主は彼を御自分の御元に連れて行かれました。
計画されていた巻は未完成のまま残される定めだったようです。
しかし、神は別の計画を立てていました。
この解説書が発行されるに至った出来事は確かに神によるものでした。
私たちはアイアンサイド夫人に、このイザヤ書の解説がどのように完成に至ったのかを少し語ってもらうよう依頼しました。
この本の読者は、私たちと同じように、神がどのように人々の物事を導き、神のために働く人々の働きが決して妨げられないことを見て感動すると信じているからです。
1949年12月、アイアンサイド博士はダラス神学校でイザヤ書についての講義を行いました。
学生の1人であるレイ・C・ステッドマンが、教室での講義を録音していました。
また、ステッドマン氏はアイアンサイド博士が神学校に滞在中、博士の秘書業務を数多く行っていました。
アイアンサイド博士は私たちと一緒に旅行して、視力の衰えのために長らく遅れていたイザヤ書の解説書の執筆を手伝ってくれるかをどうか尋ねました。
ステッドマン氏はとても有能で親切だったからです。
ステッドマン氏は神学校を卒業した後に、1950年6月に私たちの教会に加わりました。
2か月間、運転手、秘書、付き添いとしてだけでなく、「愛する兄弟」として巡回宣教のさまざまな活動にとても協力的だったので、私たちは彼を息子のように愛するようになりました。
アイアンサイド博士の「イザヤ」の出版は不可能だったかも知れません。
常に旅行していたアイアンサイド博士の参考図書は「M.A.ヴァイン氏のイザヤ書の預言、約束、警告(M.A.Vine’s イザヤ -Prophecies, Promises, and Warnings)」、「F.C.ジェニングス氏のイザヤ書(F.C.Jennings’ イザヤ)」、聖書百科事典、そして 「J.N.ダービー聖書(J.N.Darby’s New Translation of the Holy Scriptures)」でした。
この期間、アイアンサイド博士は、大きな拡大鏡の助けを借りなければ何も読むことができませんでした。
そのため、この障害の下で彼がどのような研究方法を採用したかは興味深いところかも知れません。
ステッドマン氏は次のように書いています。
「一般的に、私たちのやり方は次のとおりでした。私はKJVの聖書から解説のために選んだ部分、つまり以前に彼に読まれ、博士が瞑想していた部分を読みました。
博士は少し時間を取って考えをまとめ、それから口述を開始しました。
博士は言い換えや変更のために一時停止することはほとんどありません。
それから、私は次のセクションを読み、博士は一つの章全体がカバーされるまで、口述し続けました。
その後、通常私はダービーの「聖書」から次の章を読み、またジェニングス氏とヴァイン氏の本からの対応する部分も読みました。
そして、博士の翌日の口述に備えて瞑想します。
「時々、私たちは一緒に各章の興味深い部分について話し合いました。
博士は私に、博士が持っていた聖書事典で特定の単語を調べるように頼みました。
いつも、私は博士の解説がが単なるヴァイン氏とジェニングス氏の「焼き直し」にならないようにしていました。
博士の他の人が見逃していた興味深い側面を常に引き出すやり方に驚かされます。」
ステッドマン氏が私たちのもとを離れ、カリフォルニア州パロアルトのペニンシュラ・バイブル・フェローシップの牧師職に就いたとき、イザヤ書の最初の35章が完成し、タイプされていました。
アイアンサイド博士の目の手術が行われ、視力が完全に回復した後、彼は原稿を編集し、ニュージーランドに向けて出発する前にそれをロイゾー兄弟に託しました。
その記述は12月にアイアンサイド博士が特徴のある走り書きで書き記し、旅行中の唯一の秘書であった妻が手書きで書き写したものです。
1951年1月15日にニュージーランドのロトルナから主のもとへ旅立ったとき、彼は39章を完了していました。
40章から66章について、レイ・ステッドマンは次のように書いています。
ダラスでの講義のときに録音されたものですが、残念ながら全編を録音するのに十分なテープがありません。
私は最初の章も録音しましたが、それを消去して、保存しておいた後の章にもテープを使用する必要がありました。
生徒の一人に頼まれて、40章からのシリーズ全体を音声記録ディスクにコピーしました。
私たちがロワゾー兄弟に送ったのはこれらのコピーされたディスクでした。
中断されたところから始まるアイアンサイド博士の講義を私が保管していました。
すぐに書き写すことができるように音声記録ディスクに入れておいたのは、確かに主の御手によるものです。
オリジナルのテープは私にとって貴重な遺産です。
どこで再生されても、すでに広く受け入れられていることが証明されています。
これらの講義は音声記録ディスクから転写された後、エミリーファーマーさんによって編集されました。
過去にファーマーさんはアイアンサイド博士の著作が出版準備されていた時に多くの原稿を編集した人物です。
主に対する彼女の慎重かつ効率的な仕事に非常に感謝しています。
本の出版に携われたことは、私たち一人ひとりにとって喜びでした。
死んでなお語り続ける「アイアンサイド博士」の文書による働きを、神がこれからも祝福してくださいますように。
アン・ハイタワー・アイアンサイド ジョージア州トーマストン、1952年 出版社注記: エミリー・ファーマーさんは1907年にイギリスのコルチェスターからロイゾー・ブラザーズに来たことがあります。
1947年に引退するまで、彼女は正確な証拠として非常に貴重なリーダ的存在でした。 彼女は聖書の真理について幅広い知識と深い理解を持つ有能な編集者です。
スコフィールド博士は、最終形のスコフィールド聖書のノートを作成するために、編集をするためにミス・ファーマーの協力を求めています。
現在のスコフィールド聖書の素晴らしさは、ミス・ファーマーの健全な教義に対する鋭い洞察力に少なからず起因しています。
アイアンサイド博士のイザヤ書注解の執筆にあたり、ミス・ファーマーはベッドに横たわりながらこの作業を完了させなければなりません。
この作業は、彼女にとって真の愛情から出た仕事であり、出版社はそれに対して感謝の意を表し、 心からの感謝を述べています。
イザヤ書の導入
イザヤの「荒々しい手段」は、神の聖なる言葉の一部です。
霊的に 信仰深い信者たちは、心を鍛え、たましいを喜びに導く多くのことを発見しました。 この預言者が語るイマヌエルが権力と支配によって、偉大な御業を成し遂げる日が来ます 。
イザヤはそれに続く栄光をはっきりと証しし、待ちわびているのです。
他のどの預言書よりも長く、旧約聖書に見られるメシア預言を含んでおり、「キリストの苦しみとそれに続く栄光」をはっきりと証言しています。
最近は、聖書の他の預言書とともに、この書物も多くの手によって傷つけられています。 信仰心のない高慢な批評家たちは、単純な人々の信仰を弱めようと全力を尽くしているように見えます。
しかし、すべては主イエスによって信仰を持つ人々のために解決されています。
地上にいたとき、神はそのすべての者に神の承認の印を押されました。
そして使徒たちは、昇天後も宣教活動の中でイザヤ書から何度も引用しています。
救い主は、聖霊の直接の導きによって、疑いようのない地位を与えられました。
主の言葉そのものが権威なのです。
イザヤは、メシアに関するユダヤの伝統を信じる、裕福で、地位があり、学識のある人物でした。
イザヤはヘブル人への手紙11章37節で述べられている人物だったと考えられています。
「また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、」
(ヘブル人への手紙11章37節)
イザヤはイエスの預言の働きを激怒して拒んだ者たちによって「切り殺され」たのです。
もしそうならば、それは少なくとも半世紀以上に渡る、イザヤの公の生活の長く名誉ある人生の終わりに起こったことになります。
イザヤ書の冒頭の節で、イザヤが語っているように彼は「ウジヤ、ヨタム、アハズ、そして ヒゼキヤ」の時代の人です。
おそらく、イザヤはウジヤの長い治世の最後の年まで預言の職に現れていません。
(イザヤ書6章1節)
6章ではイザヤの神からの使命が記録されています。
ここに描かれている「ウジヤ王が死んだ年に」、つまり、必ずしも彼が死んだ後のことではありません。
その厳粛な出来事と同じ年に起こった幻の前に、イザヤが前の章にある重荷を口にしたかどうかは疑問に思われます。
イザヤがヒゼキヤ王の治世14年以降も主の言葉を語り続けたことは知られています。 治世中、イザヤは、その時に、傷ついた君主に知らせるよう任命されました。
そして、ヒゼキヤ王の寿命は15年延びることになりました。
つまり、イザヤはホセアと同時代人でした。
おそらくアモスと非常に短い期間だけ一緒にいたと考えられます。
イザヤが神の御心を明らかに示し始める前に、羊飼いである預言者はすでに姿を消していた可能性があります。
ミカは、前述の最後の3人の王の治世中にも預言者としての職務を果たしました。
このようにイザヤは、形式主義と偽善が支配していた時代に、主の奥義を持っていた善良な小さな集団のリーダーだったのです。
イザヤが二人ではなく一人であったことは、ルカの福音書の霊感のある著者の証言から明らかです。
主がナザレのユダヤ人の会堂を初めて公に訪問された時のことがこのように記されています。
「すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。
主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
主の恵みの年を告げ知らせるために。」」
(ルカの福音書4章17~19節)
ここでは「預言者イザヤの書が手渡された」と述べられています。
この書は「偉大な無名の」書ではありません
そして、それから主は捕囚の民への解放と主の受け入れられる年の福音を宣べ伝えました。
主はイザヤ書61章1、2節の栄光ある預言を引用してイザヤ書は霊感を受けた聖書であり、イザヤによって書かれたものであることを証明
イザヤ書はマカベアの無名の詩人の著作ではなく、 それ以降の期間も同じです。
イザヤ書は、神が定めた順序で保存されてきたというあらゆる証拠をそのまま残しています。
信じられないような無知と驚くべき利己主義が組み合わさって、誰もが イザヤ書を現代の批評家たちのやり方で再構成し分析しようとします。
その中で最もよく知られているのが、エクスポジターズ・バイブル・シリーズのジョージ・アダム・スミスの「イザヤ書」です。
これは事実上、神の啓示を否定するものです。
この素晴らしい「黄金の預言」のメシア的部分の真の預言的性格を破壊しようとする偏った試みです。
信仰が礼拝と尊敬をもって頭を下げるのなら、不信仰は困難に遭遇します。
私は懐疑論者のために書いているわけではありません。 しかし、イザヤが預言した苦しみと栄光を持つキリストを真実に知る人々にとって、当時の文学界やキリストを信じない宗教界では著名な、不信仰な生まれながらの人々の反論には、私は何も注意を払わないつもりでいます。
多くの自称クリスチャンによる預言の言葉には全く注意を払うつもりはありません。
しかし、聖書の大きな部分を占める預言を無視することによって、彼らは自分のたましいを傷つけ、神の名誉を傷つけています。
神はわたしたちの啓発と慰めのために御言葉を与えてくださった方です。
預言の本当の価値は、単なる出来事ではなく、ある人物に私たちを集中させることにあります。
その方は、一度苦しみを受けるために来られ、再び支配するために来られる私たちの主イエス・キリストです。
イザヤはこれら二つの降臨について、他の旧約聖書の預言者たちよりも明確、かつ詳細に扱っています。
しかし、預言は単に将来の出来事を預言するものではないことを心に留めておくべきです。 それはむしろ、現時点での神の心情を告げるものなのです。
イスラエルとユダで祭司職と王権が完全に崩壊した後も、神は預言者を通して民に仕え続けました。
預言者は聖なる事柄に対する特別な洞察力を与えられた人々でした。
そして、誤った道を歩む民に悔い改めを呼びかけるために神から遣わされた人々でした。
預言者の責任はメシアの日に彼らが受け取る栄光を人々に伝えるだけでありません。
主は罪から義へと、偶像崇拝の虚栄から生ける者へと立ち返らせようとしておられるのです。
その目的はイスラエルの歴史を通して彼らのために驚くべき力を示した生ける神へと立ち返り、主を準備する必要性をイスラエルに印象づけることでした。
聖書の不思議なことに関心のある人たちは、イザヤがある意味では小さな聖書を構成していることにずっと気がついていました。
聖書は66章からなり、イザヤ書も66章から構成されています。
聖書は旧約聖書と新約聖書の二つに分かれています。
イザヤ書も二つの部分に分かれています。
第一部はイスラエルの過去の状況とメシアの到来の約束に大きく関係し、第二部は未来のイスラエルにある救出について扱っています 。
旧約聖書は39巻から構成され、イザヤ書の前半は39巻から構成されています。
新約聖書は27巻から構成され、イザヤ書の第二部は20巻と7つの章から構成されています。
もちろん、これは単なる偶然です。
なぜなら、この書物をこのように分けたのは神の霊ではなく、人間の編集者だからです。
それでも、これは非常に興味深いことです。
イザヤ書の、 聖書全体の際立ったテーマは、神の祝福された御子によって明らかにされた神の救いです。
イザヤ書には、おそらく私たちの現在の理解を超えた多くのことが書かれています。
これらは筆者自身にとっても理解できないものでした。
他の預言者たちと同様に、イザヤは主の命令に従って書き、その後に自分たちの聖書を調べました。 当時入手可能な聖書から、イザヤの中に宿っていたキリストの霊によって、どのような時にキリストの苦しみとそれに続く栄光について前もって証しされ、預言されたのです。
最初にキリストが降臨されたときに起きた苦しみを扱っている部分は、新約聖書の福音書の光の中で驚くほど明確になっています。
主の再臨の後に起こる栄光についての預言は、キリストの栄光ある再臨に関するすべての預言と結びついています。
しかし、成就の日が来るまで完全に理解されることは決してありません。
この書を研究するとき、時々、曇ったガラスを通して見ているように思えるかも知れません。
しかし、神がイザヤに命じたことを神の前で慎重に調べるのなら、私たちは真実な祝福を確信することができると宣言します。
イザヤ書の区分は次のようになると思われます。
大きく分けて3つの区分があります。
さらに、これらは簡単に細分化できます。
第1部は主にイスラエルとユダの良心に対する働きです。
彼らはメシアの到来を祝福の目標として、支配の中で、神の御手によって苦しみを受けています。
それは、1章から35章までから構成され、ヒゼキヤの病の前にイザヤによって語られたことがはっきりとした一連の言葉、すなわち重荷を順序正しく連結したものです。
第2部は歴史的に、預言的かつ型としての特徴を持っています。
ユダにとって、すべての祝福がダビデの子と結びついています。
ダビデは死んでしまいますが、全能の力によってよみがえることが示されています。
これは36章から39章までから構成され、列王記第二18章13章から20章19章とほぼ同じです。
また、主要な点に関しては歴代誌第二32章とも一致しています。
疑いもなく、イザヤ自身もイザヤの働きの間に書かれた列王記の部分の編集を行っています。
神の指示によって、イザヤの名を記した列王記に明記された部分を紹介しています。
第3部では40章から66章までを網羅して預言を締めくくっています。
それは完全な最初の人間の失敗と、天から来た主である第二の人の招き入れています。
神のしもべであるイスラエルは、あらゆる点で不誠実であることが示されています。
真実なしもべであるイスラエルが主の選民として現れるのです。
その者を通して、神のすべての計画は成り立ち、神の栄光は永遠に確立されるのです。
しかし、預言はこの地上外には及ぶことはありません。
しかし、後の啓示によって、私たちは、父の永遠の子であるその者が、神の豊かさのすべてが永遠に表される者となることを知っています。
これらの予備的な考えを踏まえて、本自体の考察に移ります。
他のすべての聖書と同様にこのように言われています。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
(テモテの手紙第二3章16節)
1章 聞くための呼びかけ
「アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。
天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。
牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」
ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。
あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。
足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」
(イザヤ書1章1~6節)
突然、主の声が、誇り高き人々の耳に響き渡ります。 彼らの信仰心は、律法的な儀式を形式的に守ることに頼っていました。
「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。」
牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。
聖書は語っています。
「それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」
服従への挑戦の単純さの中に崇高なものがあります。
天と地は常に神のみこころに属しています。
イザヤは主の民の卑劣な恩知らずを証しするよう召されました。
エジプトでの幼年期から現在に至るまで、神の愛の対象であった人々は、国民全体として、神に与えられるべき愛に満ちた服従を神に捧げたことは一度もありません。
個人的な忠誠心は確かに存在していました。
しかし、国家レベルでは後に教会が集合体とみなされるようになった時と同じで、失敗はほぼ最初から存在し、回復することはありません。
牛やロバは、主人が世話をしてくださっているので、その飼い主や主人の飼い葉桶を知っています。
私たちは、私たちの所有者のことを本当にどこまで知っているかを、私たちの心に挑戦してもよいと思います。
どこまで キリストを主として聖別していますか?
今や、キリストは私たちの持ち主です。
他の主人たちが私たちを支配してきました。
これから私たちは、キリストのみに、言い表せない御名を唱えています。
・私たちにとって神の御国とは、神の愛する御子の王国です。
・私たちは十字架につけられた方に対して、揺るぎない忠誠を誓っています。
・私たちの主の飼い葉桶は神の御言葉であり、今、その一部が私たちの目の前にあります。
・私たちは本当にそのことを知っているのでしょうか?
空腹が私たちを駆り立てるのでしょうか?
それとも、私たちはくりかえし、愚かにも砂漠の空気、野生のロバのように風を追い、神の満ちた倉に背を向けていませんか?
それとも、私たちがさばくと宣言した世界の中で、満足できる何かをむなしく求めていませんか?
これらの厳粛な問いに対して、避けたり無視したりするのではなく、主の前で向き合わなければなりません。 私たちにも主がこのように言われる日が来るのです。
「ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。」(4節)
ここでは関係の破綻は示されていません。
ユダは依然として神の所有です。
しかし、その道徳的な品行は戒めを要求するほどでした。
ユダはその戒めを軽蔑していました。
ユダをこれ以上懲らしめるのは無駄です。
傷は治すには深すぎるようでした。
頭が痛かったのです。
そしてその心は弱り果てました。
内部の腐敗の証拠はあらゆるところで明らかでした。
健全性などそこには存在していません。
彼らの主に立ち返ろうともしません。
主は恵みと寛容さをもって、彼らを打ち、縛り上げました。
「あなたがたの国は荒れ果てている。あなたがたの町々は火で焼かれ、畑は、あなたがたの前で、他国人が食い荒らし、他国人の破滅にも似て荒れ果てている。
しかし、シオンの娘は残された。あたかもぶどう畑の小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように。
もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。
聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。
「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう。」と、主は仰せられる。「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。
あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか。
もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙――それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日――会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。
あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。
あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。
洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。
善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」
「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。
しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。」と、主の御口が語られた。」
(イザヤ書1章7~20節)
預言者としてイザヤは、彼がもたらしたメッセージに対する冷酷な無関心の悲しい結果を見ています。
彼らの国は、すぐに荒れ果て、彼らの美しい町々は大火で滅ぼされようとしていました。
労働者の小屋やきゅうり畑の番小屋のようにわずかな残りだけが残されることになります。
預言者は、この時点ではまだ見ていない事柄について語ります。
なぜなら、信仰の目は、神が宣言したことのすべてを、すでに成就したかのように見ることができるからです。
ここでイザヤは使徒が引用した言葉を使っています。
パウロはローマ人への手紙9章29節でこのように言っています。
「また、イザヤがこう預言したとおりです。
「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」」
(ローマ人への手紙9章29節)
その残された者だけが神の所有物となるのです。
そのために、神はその民を完全に捨てることはしませんでした。
そして、この書の残りの部分を通して、常に、残された者が国に場所を与えられていることがわかります。
大部分がすでに拒絶されています。
子供たちには喜びがないのです。
10〜20節では、この邪悪な大勢の者が神の前に立っています。
彼らとは関係がありませんが、彼らと共に認められています。
彼らはまさにソドムとゴモラと同じです。
神は彼らを指名し、悔い改めを呼びかけています。
彼らの支配において、聖別され新生していない状態であれば、彼らは神の前に居場所を持つことはできません。
このような悔い改めを提供するために ささげ物は神の聖さを嘲笑し、侮辱するためだけのものとなりました。
主は彼らの捧げ物に喜びを見出さず、 彼らが神の宮を踏みにじるのを、神は満足して見ていることができません。
神の御霊によって生まれず、神の御前に砕かれずに、神聖な儀式によって神に近づくと公言する者に対して、これ以上の痛烈な叱責はありません。
儀式主義は犯罪です。
罪悪感と、罪を償って罪を清める必要性を真に認識しないのであれば、いわゆる宗教的儀式は神の目に汚れたものと映ります。
主は、彼らのすべての祭りと聖なる季節から離れ去られました。
主は彼らの厳粛な祭りや聖なる行事すべてから嫌悪感を抱いて背を向けました。
主は顔を隠し、耳を塞がれます。
なぜなら、彼らの汚れた状態の証拠は彼らの手の中にあったからである。
何が必要でしょうか?
神の御言葉を心と良心に適用することは、神への真実な信仰を証明するものです。
神の御声が人に向けられ、清められた道と清い生活をもたらします。
「洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。
善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。
「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。」
この順序を守ってください。
神の御言葉が受け入れられるまでは、福音の祝福の約束はありません。
また、行いを待ち望むことを恵みではありません。
人の努力や義の進歩は救いを求めるものではありません。
しかし、罪を犯し続け、神が啓示した御言葉の光に照らして、自分を裁くことを拒む人に対しては、神はこの世においても永遠においても祝福を与えません。
信仰が本当にあるところでは、罪の悔い改めが明らかになり、必然的に改心が起こります。
それゆえ、自分を裁く者に対してこそ、栄光ある御言葉が力強く臨むのです。
「「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(18節)
聖書全体を見ても、この美しい聖句ほど、完全な恩赦の祝福された宣言を見ることができません。
悔い改める者の犯した罪がどんなに重いものであっても、公正なさばきによる清めが与えられます。
イザヤは「福音の預言者」と呼ばれるにふさわしいと思います。
素晴らしい福音がイザヤのページは続いています。
しかし、常に裁きの警告は私たちの前にあります。
清められ、赦されたたましいは、すべてのものから義とされる方への服従と従順の道を歩むように召されています。
ディスペンセーション的に、次のように言えるかも知れません。
義認は、祝福された神の栄光の福音の啓示を待たなければなりません。
しかし、実際には、いつの時代にも、信仰によってみことばを聞いたすべての人は、すべての罪から解放されました。
ここで示された服従は、律法の時代にふさわしく、明らかに律法的な特徴を持っています。
しかし、律法に従うことで得られる報酬なのです。
「もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。」
しかし、この恵みの時代には、目には見えないが、信仰によって見られ、与えられる土地があります。
その恵みの実を、それぞれの人が御霊の恵み深い働きを通して、豊かに食しているのです。
その反面、命と祝福の言葉が拒絶され、悔い改めと砕かれた心の代わりに反抗的な霊が明確になる時があります。
ここでは新約聖書でより明確に知られるように人間の敵の剣であれ、神の裁きの剣であれ、反抗者を滅ぼさなければいけません。
「主の口が語られたからだ。」
(イザヤ書40章5節)
この部分全体は深い教訓を含んでいます。
また、そのことを知るすべてのたましいが永遠の光の中で注意深く考えるべきです。
聖書にはこのように記されています。
「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」
(伝道者の書12章14節)
別の区分は21節から始まり、章の終わりまで続いています。
そこには、かつては信仰的だった街が、今では堕落し不道徳となったエルサレムが描かれています。
エルサレム自体が、この国を苦しめてきたあらゆる悪の典型となっているのです。
哀歌のような調子で預言者はその堕落した状態を嘆きます。
しかし、恵みの御霊は依然として残された者を区別し、イザヤは哀れみと裁きについて歌っています。
「どうして、遊女になったのか、忠信な都が。公正があふれ、正義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ。
おまえの銀は、かなかすになった。おまえの良い酒も、水で割ってある。
おまえのつかさたちは反逆者、盗人の仲間。みな、わいろを愛し、報酬を追い求める。みなしごのために正しいさばきをせず、やもめの訴えも彼らは取り上げない。
それゆえに、――万軍の主、イスラエルの全能者、主の御告げ。――「ああ。わたしの仇に思いを晴らし、わたしの敵に復讐しよう。
しかし、おまえの上に再びわが手を伸ばし、おまえのかなかすを灰汁のように溶かし、その浮きかすをみな除こう。
こうして、おまえのさばきつかさたちを初めのように、おまえの議官たちを昔のようにしよう。そうして後、おまえは正義の町、忠信な都と呼ばれよう。」
シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる。
そむく者は罪人とともに破滅し、主を捨てる者は、うせ果てる。
まことに、彼らは、あなたがたの慕った樫の木で恥を見、あなたがたは、みずから選んだ園によってはずかしめを受けよう。
あなたがたは葉のしぼんだ樫の木のように、水のない園のようになるからだ。
つわものは麻くずに、そのわざは火花になり、その二つとも燃え立って、これを消す者がいない。」
(イザヤ書1章21~31節)
かつては主がその献身への思いに喜びを見出し、聖なる御名を冠していたその街は、救いようのない他の恋人たちを追いかける遊女と化していました。
思慮深さと正義の故郷であったこの街は、一度、悪に満ちると 血に飢えた人々の宿場となっていました。
贖罪について語る銀の代わりに、自己満足の不純物が入れられました。
(出エジプト記30章11~16節、参照)
喜びのぶどう酒は地上の壊れた水溜めの汚れた水で薄められました。
(21、22節)
神の御言葉に従う模範を示すべき民の指導者たちは、 反抗的で、賄賂を好む者たちでした。
利益を得たいという卑劣な欲望の中で、正しい裁きは忘れ去られました。
主の友人を装いながら、実際は主に敵対していた者たちに対して、これらのことのために主は裁きに目覚め、復讐に思いを注ぎ出しました。
しかし、それでも純粋な裁きとはなり得ません。
なぜなら、イスラエルは依然として主の契約の民であったからです。
主は正しくイスラエルを正すことです。
主の裁きは、不正と不道徳を取り除き、国民から不純物と罪を取り除き、神にとって卑しく不快なものすべてから国民を清め、その後、国民を回復させる効果を持っています。
その後で、最初の頃のように、イスラエルのさばきつかさを、イスラエルの議官を昔のように復活させるのです。
そして、裁きによって、その街は救われ、再び、正義の町、忠信な都と呼ばれるのです。
そして、裁きによって救われたシオン 再び正義の都市、忠実な都市と呼ばれるようになる。
(25~27節)
これは、他の聖書が示しているように、彼らの長い年月の後、究極的に祝福されます。
このように離散と最後の大患難の苦しみは終わります。
イスラエルの苦しみは、悔い改めない罪人や故意に罪を犯す者たちが完全に滅ぼされるまで続きます。
滅ぼされ、残った者たち――弱いながらも忠実な者たち――は、自分たちの罪を悔い改めるのです。
過去の罪を悔い改め、国民として彼らを父祖の神から引き離そうと誘惑してきた多くの偽りの神々を恥じるようになります。
この霊は、イザヤ書の9章3節、そしてエズラ記、ネヘミヤ記、ダニエル書に美しく例示されています。
これらの書は残された者のための書であり、信仰的な人々は民の罪を自分たちの罪として裁きながらも、そのことを憎悪の念をもって改め、心を尽くして主を求めます。
これらの汚れは。枯れた樫の木、水のない庭、そして主が火花を散らす麻のように、主の激しい怒りによって共に焼き尽くされるのです。
また、この区分での言葉はユダヤ人だけの声を代弁するものでもありません。
これらはまた「私たちのために書かれた 時代の終わりを迎えた人々への訓戒」なのです。
「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」
(コリント人への手紙第一10章11節)
信仰を告白する教会の失敗は、エルサレムの失敗よりもさらに大きいものです。
しかし、私たちが罪を犯したより光は偉大です。
やがて、聖であり、真実な方は、このような堕落に愛想を尽かしています。
そして、御言葉に反するさまざまな現実を御口から吐き出さなければなりません。
キリストは戸口を叩いて立っておられます。
悲しきことに、ここには現実があります。
しかし、御自身のみこころが確認されるのであれば、すぐにでも、キリストは中に入って来られます。
そして、聖なる祝福された交わりの中で食事をされます。
罪にまみれたキリスト教世界の終わりが近づいています。
2章 アモツの子はユダとエルサレムを見る。
「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。
終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。
主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。
来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。」
(イザヤ書2章1~5節)
主は諸国の民を裁き、多くの民を戒める。彼らはその剣を打ち直して鋤とし、その槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、彼らはもはや戦いを学ばない。ヤコブの家よ、さあ、主の光の中を歩もう。」(1~5節)
今、私たちが注意を向けている4つの章があります。
これらの章は時期は特定されていないが、ユダとエルサレムに向けられたたましいを揺さぶるメッセージである、関連した議論を形成しています。
5章にあるぶどう園のたとえ話は、すべてが美しく、なおかつ、荘厳な象徴です。
まさに預言者の文章であり、序文に先立ち、後に続くものは、野生のぶどうしか生まなかったぶどうの木に主の哀れみを告げる、ふさわしい結論があります。
2章の冒頭の節(2〜4節)は、ミカ書4章1節から3節とほぼ同じものです。
預言者の言葉を、別の預言者の本に書き写す場合、盗作や筆写者の誤りであると考える必要はありません。
各話し手、もしくは各筆者に霊感を与えられ、祝福された証拠です。
二重の証言は、語られたことが間違いないことをさらに保証するものにすぎません。
終わりの日に、神が再びご自分のかつての民イスラエルを取り上げ、イスラエルをその地に連れ戻します。
エルサレムをご自分の王座の町とされ、そこから神の律法が地の果てまで伝えられることを、誤解されないほど明白な言葉で語っています。
「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。」
山は街そのものです。
これは一般的な預言の象徴です。
山は支配と王座の都市を意味しています。
エルサレムは「大いなる王の都」となり、「すべての民がそこに流れてきます。」
現在の恵みの働きが終わった後、来たるべき時代に文字通り成就します。
ヤコブが使徒の働き15章14節で指摘しているように、今、イエスは異邦人を訪れ、異邦人の中から神の名のための民を選んでおられます。
しかし、この特別な働きが終わる時、神は「倒れたダビデの幕屋を建て直し」、回復されたイスラエルを通してすべての国々を祝福されます。
その時「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう」という時が来ます。
主の力の日に、律法はシオンから、御言葉はエルサレムから出て行きます。
主はすべての民を公平に治め、すべての敵を滅ぼされます。
イスラエルが救われます。
そして、イスラエルを通して諸国民が救われ、インマヌエルの支配を受けるのです。
これらの国々はイマヌエルの道を歩みます。
したがって、この時代にさまざまな戦争が終わることを期待し、義が至る所に確立されることを期待する者は、苦い失望に直面する運命にあります。
義が確立されることを期待する人々は、恐ろしい失望に陥る運命にあります。
現在、王は地上に拒まれた者として父の王座に座っておられます。
諸国民が「剣を鋤に、その槍をかまに打ち直す」のは、今ではありません。
しかし、イエスがこの世に戻ってきます。
そして、御自身の王座、すなわち父ダビデの王座に就くと「国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」ことになります。
イスラエルの救い主の希望がこの輝かしい成就を遂げたことを受けて、5節には「来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう」という勧めの言葉が記されています。
ヤコブの家は、キリストが最初に来られたときにキリストを拒んだために、長い間盲目にされていました。
しかし、その時、ヤコブの家の目が開かれ、彼らから隠されていた光を見ることになります。
「まことに、あなたは、あなたの民、ヤコブの家を捨てられた。彼らの国がペリシテ人の国のように東方からの卜者で満ち、外国人の子らであふれているからだ。
その国は金や銀で満ち、その財宝は限りなく、その国は馬で満ち、その戦車も数限りない。
その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造った物を拝んでいる。
こうして人はかがめられ、人間は低くされた。――彼らをお赦しにならないように。――
岩の間にはいり、ちりの中に身を隠せ。主の恐るべき御顔を避け、そのご威光の輝きを避けて。
その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる。
まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。
高くそびえるレバノンのすべての杉の木と、バシャンのすべての樫の木、
すべての高い山々と、すべてのそびえる峰々、
すべてのそそり立つやぐらと、堅固な城壁、
タルシシュのすべての船、すべての慕わしい船に襲いかかる。
その日には、高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。
偽りの神々は消えうせる。
主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩のほら穴や、土の穴にはいる。
その日、人は、拝むために造った銀の偽りの神々と金の偽りの神々を、もぐらや、こうもりに投げやる。
主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩の割れ目、巌の裂け目にはいる。
鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」
(イザヤ書2章6~22節)
私たちが考察してきた節は、介入句であることは明らかです。
6節以前の節の間には明らかなつながりがあります。
しかし、この節を1章の最後の節とするならばぴったり当てはまります。
富も贅沢も災いを避けるのに役立つことはありません。
彼らは主を捨てて信じる人々を救う力のない偽りの神々に身を任せているのです。
10〜22節で預言者は、神が力と憤りをもって立ち上がり、さまざまな場所で行われている悪と腐敗を処分する主の日について語っています。
ヨハネの黙示録6章で描かれているように6番目の封印の裁きの時、人々は岩の中に入り、地の下に隠れようとするかも知れません。
しかし、主の激しい怒りから逃れる希望は無駄になります。
「その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる。」
(11節)
主の日は人の日とは対照的です。
この悪の時代には神の権威から独立して、自分の道を歩み、自分の計画を試みることを許しておられます。
来たるべき日には、身分の高い者も低い者も、富んでいる者も貧しい者も、知識のある者も知識のない者も、みな同じように、彼らがそむき忘れさられた神の前に低くされます。
人間が神の代わりに置かれたものはすべて取り除かれ、人々は恐怖のあまり岩の穴や地の洞窟に隠れ、神の怒りから逃れようとします。
(19節)
彼らは、これまで信じてきたものをすべて捨て去り、すべてを失うことになります。
自信を失い、逃げようとしても最も遠い場所に避け所を探しますが、無駄になります。
やがて、主の荘厳な栄光によって「主が立ち上がり、地をおののかせるとき」(21節)が来るのです。
これが、人間が誇る文明の終焉です。
万物を創造した神の要求を無視して、自分たちの栄光のためにこの世界を安息と安全な場所にしようとした努力の終焉です。
そして、この区分は厳粛な警告で終わっています。
「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」
(22節)
3章 ユダの堕落した状態
「まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる。――すべて頼みのパン、すべて頼みの水、
勇士と戦士、さばきつかさと預言者、占い師と、長老、
五十人隊の長と高官、議官と賢い細工人、巧みにまじないをかける者。
わたしは、若い者たちを彼らのつかさとし、気まぐれ者に彼らを治めさせる。
民はおのおの、仲間同士で相しいたげ、若い者は年寄りに向かって高ぶり、身分の低い者は高貴な者に向かって高ぶる。
そのとき、人が父の家で、自分の兄弟をとらえて言う。「あなたは着る物を持っている。私たちの首領になってくれ。この乱れた世を、あなたの手で治めてくれ。」
その日、彼は声を張りあげて言う。「私は医者にはなれない。私の家にはパンもなく、着る物もない。私を民の首領にはしてくれるな。」
これはエルサレムがつまずき、ユダが倒れたからであり、彼らの舌と行ないとが主にそむき、主のご威光に逆らったからである。
彼らの顔つきが、そのことを表わしている。彼らは罪を、ソドムのように現わして、隠そうともしなかった。ああ、彼らにわざわいあれ。彼らは悪の報いを受けるからだ。
義人は幸いだと言え。彼らは、その行ないの実を食べる。
悪者にはわざわいあれ。わざわいが彼にふりかかり、その手の報いがふりかかる。
わが民よ。幼子が彼をしいたげ、女たちが彼を治める。わが民よ。あなたの指導者は迷わす者、あなたの歩む道をかき乱す。
主は論争するために立ち上がり、民をさばくために立つ。
主は民の長老たちや、民のつかさたちと、さばきの座にはいる。「あなたがたは、ぶどう畑を荒れすたらせ、貧しい者からかすめた物を、あなたがたの家に置いている。
なぜ、あなたがたは、わが民を砕き、貧しい者の顔をすりつぶすのか。――万軍の神、主の御告げ。――」
(イザヤ書3章1~15節)
この3章は2章と同じ流れを辿っています。
非常に明確に神が語っています。
他のすべてよりもエルサレムとユダを念頭に置いていることは明らかです。
荒廃と容赦ない裁きが来るのです。
契約の民と、かつての聖都は従順の道からあまりにも遠く離れていました。
神御自身が復讐のためにこれらのことをを準備されたのです。
防衛手段を弱めることによって宣言されました。
子供たちは君主であり、赤ん坊が彼らを支配していました。
言い換えれば、彼らの指導者たちは、自分自身を制御できていません。
ましてや指導することさえできない幼児のようでした。
ましてや他人を正しく導くことができずに、秩序ある政府の代わりに混乱と混乱が蔓延した。
言い換えれば、彼らの指導者は、自分自身を制御することができない幼児のようなものであり、ましてや他人を正しく導くことができないため、秩序ある政府の代わりに無秩序と混乱が蔓延しました。
神の王座が剥奪されれば、必ず無政府状態が起こります。
彼らの絶望の中で、人々は現在の不幸からの脱出を示し、混沌とした世界に秩序をもたらすと約束してくれるような人なら誰にでも従う用意が出来ていました。
しかし、彼らが導きを求めて頼った者たち自身も全く当惑していました。
彼らは国家に非常に悪い影響を与えている不正行為を正す責任を取ることを拒否していました。
(5~7節)
すべての問題の根本原因は8節に示されています。
「これはエルサレムがつまずき、ユダが倒れたからであり、彼らの舌と行ないとが主にそむき、主のご威光に逆らったからである。」
(8節)
このように彼らは自分たちの頭の上に裁きを至らせました。
彼らに対して厳粛な「災い」が宣告されるのを私たちは聞きます。
この章では2つの節で(9、11節)、5章では6つの節で(8、11、18、20、21、22節)に記されています。
最初に、このように書かれています。
「ああ、彼らにわざわいあれ。彼らは悪の報いを受けるからだ。」
(9節)
そして、反対の事が11節に書かれています。
「悪者にはわざわいあれ。わざわいが彼にふりかかり、その手の報いがふりかかる。」
残された義なる民については、神は彼らを気遣い、嵐と苦難の日に彼らを守られます。
(10節)
悲しいことに、大多数の人々は自分たちが危険にさらされていることに気づいていません。
子供たちが自分たちを抑圧し、女性が自分たちを支配するという状況に満足していました。 弱く無力なリーダーシップは、存在する混乱を乗り越えることができません。
詩篇作者は祈っています。
「あなたのしもべをさばきにかけないでください。生ける者はだれひとり、あなたの前に義と認められないからです。」
(詩篇143編2節)
ユダには罪を犯した指導者たちのために弁護する者はいません。
むしろ、主御自身が彼らを訴え、彼らと裁きを下すために立ち上がってくださります。
彼らが人びとを惑わし、彼らの信じる者の心を踏みにじり、ゆえに彼らはかれらのすべての行いの責任を問われます。
「主は仰せられた。「シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている。」それゆえ、
主はシオンの娘たちの頭の頂をかさぶただらけにし、主はその額をむき出しにされる。
その日、主はもろもろの飾り――足飾り、髪の輪飾り、三日月形の飾り物、
耳輪、腕輪、ベール、
頭飾り、くるぶしの鎖、飾り帯、香の入れ物、お守り札、
指輪、鼻輪、
礼服、羽織、外套、財布、
手鏡、亜麻布の着物、ターバン、かぶり物を除かれる。
こうして、良いかおりは腐ったにおいとなり、帯は荒なわ、結い上げた髪ははげ頭、晴れ着は荒布の腰巻きとなる。その美しさは焼け傷となる。
あなたの男たちは剣に倒れ、あなたの勇士たちは戦いに倒れ、
その門はみな、悲しみ嘆き、シオンはさびれ果てて地に座す。」
(イザヤ書3章16~26節)
愚かな行いに身を委ねた虚栄心の強い女たちも、厳しい叱責を受けることになります。
彼らのプライドと空虚さの中で、彼らが唯一気にしているのは、個人的なファッションです。
しかし、神は彼らを痛ましい病で打たれようとしています。
その病は彼女たちの姿を醜くし、彼らを以前の尊敬していた人たちに憎ませようとしています。
神が、女たちが自分を魅力的にするために頼りにしていたさまざまな装飾品や衣服に注目しているのは奇妙に思えるかも知れません。
新約聖書では、女たちの装飾は、宝石を身につけたり、衣服を身につけたり、髪を美しく結ったりするような外面的なものではなく、むしろ心の装飾である素直さと恵みであることが、女たちに細かく指示されていることを覚えておく必要があります。
もし、悔い改めなければ、そのような行いはやがて裁かれることになります。
プライドと虚栄心は、どのような形で現れようとも、男であれ女であれ、神にとっては憎まれるべきものです。
4章 主がシオンに戻るとき
「その日、七人の女がひとりの男にすがりついて言う。「私たちは自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちをあなたの名で呼ばれるようにし、私たちへのそしりを除いてください。」
その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。
シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。
主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、
主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、
昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。」
(イザヤ書4章1~6節)
4章は非常に短いですが、バビロン捕囚の脅威の後の日々だけでなく、大患難時代の暗黒の日々においても私たちが克服すべき状況が描写されています。
イザヤは、自分の時代をはるかに超えて、まだ来ていない日々を予見しているからです。
戦争が長引くとこのようなことはよくあることですが、男性に対する女性の比率が非常に高くなります。
ここでは、7人の女性1人の男性を捕らえて、 彼女らの非難を取り除くために一人の男を夫として迎え入れたのです。
このような一夫多妻制は最近の世界大戦では、多くの人が覚えているように繰り返し提案されています。
時代が暗くなるとき、主の枝を通して救いがやって来ます。
主の枝とは、イスラエルの救い主が約束した人類の中で最も愛すべき者たちです。
シオンに残された者たちと エルサレムは主の恵みの特別な対象です。
主の前に聖別され、他の多くの預言者を通してなされた約束どおり、主は御自分の血で彼らの汚れを洗い流し、燃える霊で彼らの心を清められるのです。
そしてシオンの山と エルサレムは全地への祝福の中心となります。
かつて、聖所の上に見えた主の栄光は、シオンの山にあるすべての家々の上に雲の柱のようになります。
そして、栄光と防衛都市とみなされます。
「それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、
昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。」
したがって、遠い昔に荒野にいたイスラエルのように、主がイスラエルの罪を清め、イスラエルの心を主に立ち返らせます。
回復された国民は主の恵み深い保護を受けることになります。
5章 ぶどう園のたとえ話
「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。
彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。
そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。
わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。
さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。
わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」
まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」
(イザヤ書5章1~7節)
5章で預言者のメッセージが終わります。
ぶどう園のたとえ話では、神はイスラエルに対する神の道を詳しく説明しています。
神の愛と忍耐に対するイスラエルの反応の欠如が強調されています。
この「ぶどう園の詩」は、主が逮捕され十字架に架けられる直前に律法学者やパリサイ人たちに語った同じ主題であるたとえ話と密接に結びついています。
この章の1節から7節までは、預言者がぶどう園の詩を生き生きと感動的に歌われており、ぶどう園の詩と言えると思われます。
もちろん、神自身が本当の話し手であり、神が「わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた」と言われ、神の前に神の祝福された御子がいることに私たちは気づかずにはいられません。
なぜなら、御子はイスラエルのメシアであると同時に世界の救い主だからです。
このぶどう園は、パレスチナの歴史の始まりにおいて神がイスラエルをどのように見ていたのかを表現しています。
神はイスラエルをエジプトから連れ出し、約束の地に定住させ、そこでイスラエルを敵の侵略から守り、世話をしました。
神はぶどう園の周囲に柵を巡らし、石を取り除き、最も良いぶどうの木を植えました。
私たちにはこのように語られているのです。
ぶどう園の所有者はぶどう園の真ん中に塔を建て、そこに酒ぶねを作りましたが、彼の聖なる望みにふさわしい果実は得られません。
実を結ぶ代わりに、神のみこころを悲しませ、神の聖なる御名を辱めるだけでした。
彼はそれがぶどうを実らせると見ていたが、実は野生のぶどうを実らせました。
すなわち、イスラエルは、神のために実りをもたらすのではなく、神のみこころを悲しませ、聖なる御名を汚すだけのものをもたらしました。
そこで、イエスはエルサレムの住民とユダの人々に直接語りかけ、このように尋ねました。
「さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。
わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。
なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。」
神がイスラエルに惜しみなく与えられたすべての恵みと、彼らの必要とする恵みと、彼らが失敗したとき繰り返し恵みが与えられたのに、どうして神にふさわしい収穫がないのであろうか?
なぜイスラエルは、価値のない役に立たないものだけを生産しなければならないのか?
ああ、それは生ける神から離れた心の現れにすぎません。
そこで、イエスはイスラエルに悔い改め、主の前で自分たちを裁く機会を何度も与えた後、ついにイスラエルを見捨てることを決意し、このように言われました。
「さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。
その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。
わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。
わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」
(イザヤ書5章5、6節)
このたとえ話の適用方法が間違っていないことは、7節ではっきりとこのように言われていることから明らかです。
「まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。
主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」
(イザヤ書5章7節)
このことは詩篇第80、81章、またホセア書10章1節でも確認されています。
「ああ。家に家を連ね、畑に畑を寄せている者たち。あなたがたは余地も残さず、自分たちだけが国の中に住もうとしている。
私の耳に、万軍の主は告げられた。「必ず、多くの家は荒れすたれ、大きな美しい家々も住む人がなくなる。
十ツェメドのぶどう畑が一バテを産し、一ホメルの種が一エパを産するからだ。」
ああ。朝早くから強い酒を追い求め、夜をふかして、ぶどう酒をあおっている者たち。
彼らの酒宴には、立琴と十弦の琴、タンバリンと笛とぶどう酒がある。彼らは、主のみわざを見向きもせず、御手のなされたことを見もしない。
それゆえ、わが民は無知のために捕え移される。その貴族たちは、飢えた人々。その群衆は、渇きで干からびる。
それゆえ、よみは、のどを広げ、口を限りなくあける。その威光も、その騒音も、そのどよめきも、そこでの歓声も、よみに落ち込む。
こうして人はかがめられ、人間は低くされ、高ぶる者の目も低くされる。
しかし、万軍の主は、さばきによって高くなり、聖なる神は正義によって、みずから聖なることを示される。
子羊は自分の牧場にいるように草を食べ、肥えた獣は廃墟にとどまって食をとる。
ああ。うそを綱として咎を引き寄せ、車の手綱でするように、 罪を引き寄せている者たち。
彼らは言う。「彼のすることを早くせよ。急がせよ。それを見たいものだ。イスラエルの聖なる方のはかりごとが、近づけばよい。それを知りたいものだ。」と。
ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。
ああ。おのれを知恵ある者とみなし、おのれを、悟りがある者と見せかける者たち。
ああ。酒を飲むことでの勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけての豪の者。
彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている。
それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、炎が枯れ草をなめ尽くすように、彼らの根は腐れ、その花も、ちりのように舞い上がる。彼らが万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったからだ。
このゆえに、主の怒りが、その民に向かって燃え、これに御手を伸ばして打った。山々は震え、彼らのしかばねは、ちまたで、あくたのようになった。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」
(イザヤ書5章8~25節)
ここでは、すでに述べられた6つの災いがあります。
8節で主は「家に家を連ね、畑に畑を寄せている者たち。あなたがたは余地も残さず、自分たちだけが国の中に住もう」とする者たちに災いを宣告しています。
言い換えれば、貧しい人や困っている人への配慮を示さず、自分のために家や土地を利己的に蓄積しようとする人たちに裁きが下されるのです。
そのような人々は最終的に荒廃し、その所有地は破壊され、畑は実りを失い、利益を得る望みも失望に終わるのです。
そして11節でイエスは、好色と官能的な楽しみに身をゆだねる者たちに災いを宣告しています。
「ああ。朝早くから強い酒を追い求め、夜をふかして、ぶどう酒をあおっている者たち。」
彼らは美しい音楽やこの世の楽しみに浸ることに熱中しますが、主の働きを顧みず、主の御手の働きを考えていません。
このため、このような者は捕らわれの身となります。
彼らは無知な者のように行動し、彼らの指導者たちは、本来は立派な人々であるべきなのに、愚か者であることが判明します。
ゆえに「それゆえ、よみは、のどを広げ、口を限りなくあける」のです。
それは、目に見えない世界が限りなく口を開き、彼らと彼らが楽しんでいたすべてのものがその穴に落ちていくということです。
このように「こうして人はかがめられ、人間は低くされ、高ぶる者の目も低くされる」のです。
しかし、彼らが軽べつした「万軍の主は、さばきによって高くなり」、限りなく聖なる神は、ひどく罪を犯した者たちを裁きで罰するときに、義において聖とされるのです。
18節にある3番目の災いは「うそを綱として咎を引き寄せ、車の手綱でするように、 罪を引き寄せている」者たちに臨みます。
彼らはイスラエルの神に公然と反抗し、神の聖なる言葉に反して自分たちのやり方を貫き、神の預言者のメッセージを嘲笑し、神の命令を拒んでいます。
20節にある4番目の災いは「悪を善、善を悪」を区別できない人々に降りかかるものです。
彼らは「やみを光、光をやみとし、苦味を甘み、甘みを苦み」としています。
言い換えれば、彼らは神を敬うものと神を辱めるものとを区別していません。
彼らは、後の時代のラオデキアのように、冷たくも熱くもなく、神の真理に対してまったく無関心です。
21節にある5番目の災いは、自分の目には賢く、自分は賢いと思っている人たちに臨みます。
箴言にはこのようにあります。
「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」
(箴言16章18節)
傲慢さは生まれつきの人間の心に備わっているものです。
しかし、神にとっては憎むべきものであり、それを持ち続けると最終的には破滅をもたらします。
6番目の災いは、酒に酔って、裁きにおいて正義の心を完全に失い「彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている」者たちに対するものです。
それゆえ、主はこのように言われます。
「それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、炎が枯れ草をなめ尽くすように、彼らの根は腐れ、その花も、ちりのように舞い上がる。
彼らが万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったからだ。
このゆえに、主の怒りが、その民に向かって燃え、これに御手を伸ばして打った。山々は震え、彼らのしかばねは、ちまたで、あくたのようになった。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」
(イザヤ書5章24、25節)
これらの事のゆえに、主の怒りはイスラエルの民に対して燃え上がり、主の手はイスラエルに向かって伸びました。
神は彼らを打ったので、山々さえも震え上がりました。
しかし、イスラエルは、主が彼らに対してどのような対応をされたとしても心を動かされず、罪を犯し続けました。
そのため、この書を読み進めていくとわかるように、さらに大きな裁きが彼らに下されるのです。
「主が遠く離れた国に旗を揚げ、地の果てから来るように合図されると、見よ、それは急いで、すみやかに来る。
その中には、疲れる者もなく、つまずく者もない。それはまどろまず、眠らず、その腰の帯は解けず、くつひもも切れない。
その矢はとぎすまされ、弓はみな張ってあり、馬のひづめは火打石のように、その車輪はつむじ風のように思われる。
それは、獅子のようにほえる。若獅子のようにほえ、うなり、獲物を捕える。救おうとしても救い出す者がいない。
その日、その民は海のとどろきのように、イスラエルにうなり声をあげる。地を見やると、見よ、やみと苦しみ。光さえ雨雲の中で暗くなる。」
(イザヤ書5章26~30節)
主は東方の諸国にイスラエルの地を侵略するよう召集されました。
すでに北の王国はアッシリアの力を感じ、奪われていました。
間もなく南の王国はバビロンの力によって滅ぼされるのです。
長い期間、預言されていた破滅の定められた時が来た時、ユダ側がどんなに努力しても敵の力を退けることはできません。
東方の諸国は、若い獅子を連れて吠える雌獅子のように、獲物に突進し、勝ち誇ってすべてを持ち去ります。
彼らは苦しみの時にに向かって叫ぶのはむなしいことでした。
なぜなら、彼らの運命は暗闇と悲しみであり、ゆえに彼らの頭上の天の光は暗くなります。
6章 預言者の清めと使命
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」」
(イザヤ書6章1~7節)
ここで、イザヤは過去を振り返り、自分がどのようにして罪から解放されたのか、また、反抗的な人々への神の使者となるようにという神の呼びかけを聞いて、いかに応えたのかを語っています。
神が人間のたましいに啓示したことを、個人的もしくは親密に語れる機会に恵まれるのは、常に興味深いことです。
この章でイザヤは、神の驚くべき力と働きのための備えの奥義を私たちに教えてくれます。
イザヤは私たちを聖域に連れて行き、主がどのようにイザヤに啓示されたかを示しています。
このように、イザヤが預言者の職に召された状況を知らせています。
これがイザヤの効果的な宣教の真実な出発点だったのです。
1章1節から、イザヤがウジヤ王の時代に神のために証しを始めたことがわかります。
ここで記録されている経験はウジヤ王が亡くなった年に起こりました。
すでに、私たちが考察してきた預言者の証言の後の出来事だったのかも知れません。
しかし、前に示したように、これを証明するものはないようです。
なぜなら、イザヤが宣教を始めたのはウジヤ王の最後の年だった可能性があります。
ここでイザヤは預言者の職への最初の召しについて語っているからです。
神のしもべたちの多くが、自分自身で主との明確で確かな経験をする前に、他の人たちにメッセージしてきたというのは事実です。
ジョン・ウェスレーがその良い例です。
彼は日記の中で、インディアンを改心させるためにアメリカに来た自分は、ジョージア州にいる間、かつて改心していなかったことを知ったと記しています。
後年、彼が自分の病状の診断が正しかったかどうか疑問に思ったことは事実であるがす。
ロンドンで心温まる体験をして自分が神から生まれたことをはっきりと知る前に、彼は数年間にわたって他の人々にメッセージしていたことは確かです。
そして、D・L・ムーディーも含め、聖霊の恵みと賜物による救いを明確に理解する前に、メッセージを始めた人がたくさん存在していたと言うことができます。
したがって、ありそうにないと思われますが、ここで述べられているように、神の神聖さとイザヤ自身の堕落した心の啓示がイザヤにもたらされる前に、1章から5章までの感動的なメッセージが宣言された可能性があります。
しかし、それ以前の章のこの責任を記録した後、イザヤが神との自身の出会いと、当時の人々に対する神の使者としての神の使命の物語を語り始めた可能性の方が高いと思われます。
このことは、ある人たちが言うように、イザヤの「第二の祝福」ではありません。
それはむしろ、神とのかかわりの現実を自分自身で知って、他の人々に御言葉を伝える用意のための、神が彼と取り扱った行為の一部なのです。
イザヤはこのように語っています。
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。(そのように)そのすそは神殿に満ち、」
(イザヤ書6章1節)
「そのように」という言葉は重要です。
ウジヤの額にらい病が現れたのは神の現れだったのかも知れません。
「ウジヤは激しく怒って、手に香炉を取って香をたこうとした。彼が祭司たちに対して激しい怒りをいだいたとき、その祭司たちの前、主の神殿の中、香の壇のかたわらで、突然、彼の額にらい病が現われた。
祭司のかしらアザルヤと祭司たち全員が彼のほうを見ると、なんと、彼の額はらい病に冒されていた。そこで彼らは急いで彼をそこから連れ出した。彼も自分から急いで出て行った。主が彼を打たれたからである。」
(列王記第二26章19、20節)
同じ神が、イザヤがエルサレムの神殿で礼拝に出席していたときにも御自身を現されました。
しかし、それは裁きではなく、恵みによって、御自身を限りなく聖なるお方として現されました。
当時、他の人々も神殿の中庭に集まっていたかもしれないが、その輝かしい幻を見たのはイザヤだけでした。
恍惚状態の中でイザヤは周りのすべてが見えなくなりました。
しかし、目覚めた知性はイザヤによって明らかにされた栄光で完全に満たされていました。
イザヤは王座の上に、それぞれが6つの翼を持つ御使いであるセラフィムを見ました。
「”im”」はヘブル語の複数形なので、「serap hims」という単語から「s」を省略することができます。
これらの栄光ある存在は、義と裁きを語るケルビムとは対照的に、恵みの使者であるように思われます。
彼らは互いに叫びました。
「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
(イザヤ書6章3節)
これは、すべての創造物にその栄光が表されている三位一体の神への賛美と崇拝の表現です。
賛美の歌が響き渡ると同時に、敷居の基はゆるぎ、宮は燃える香ばしい煙で満たされました。
人間の心は頑固で動かないままなのに、生物ではない柱がこのように動かされるのは不思議なことです。
しかし、一人だけ、非常に明確な形で反応した人がいました。
イザヤは叫びました。
「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。」
神を見ることによって、人は自分の無価値さと自分の心の腐敗に気づくのです。
イザヤは主の無限の聖さの光の中で自分自身を見ました。
意識を持って人が神の前に導かれるとき、常にこのようになります。
- ヨブは主を見て、このように叫びました。
「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」
(ヨブ記42章6節)
- シモンはイエスが海の魚の創造主であることを認めたとき、イエスの足元にひれ伏してこのように叫びました。
「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」
(ルカの福音書5章8節)
私たちの預言者も同様です。
パウロは、神の聖さの光の中で自分自身を見たとき、すぐに自分の罪深さを認めました。
さらに、自分と同じように汚れた唇を持つ人々に囲まれていることに気づきました。
それは「なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」
(ルカの福音書6章44節)
イザヤの告白に対して、このように書かれています。
「すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。」
(イザヤ書6章6節)
セラフィムは火ばさみを使って祭壇から燃えている炭を取って来ました。
その捧げ物の祭壇は十字架を予表するものです。
その燃える炭は、捧げ物の上で裁きの火が消えたことを示しています。
これは哀れな人たちへの神の恵みを表現しています。
神の救いの恵みは償いのささげ物に基づきすばやく行動しています。
セラフィムは二つの翼で顔を隠し、限りなく聖なる神を礼拝しています。
二つの翼で美しい足をおおい、二つの翼では愛の働きのために急いで飛んでいます。
ケルビムには翼があると言われています。
「彼らはおのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。」
(エゼキエル書1章6節)
エゼキエル書1章の「生きもの」は、10章では「ケルビム」であるとされています。
セラフィムの6つの翼は哀れみが裁きよりも喜ばれることを私たちに伝えていると思います。
(ヤコブの手紙2章13節)
炭が唇に触れたとき、イザヤは慰めの言葉を聞いたのです。
「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
(イザヤ書6章7節)
神から遣わされた使者は、祭壇のささげ物において象徴された唯一の捧げ物によって、罪からの救いと清めの良い知らせを宣べ伝えました。
私たちは、炭が全焼の供え物の祭壇から取られ、香だけが燃やされた金の祭壇から取られたのではないという事実を再度強調したいと思います。
燃える炭は、決して消えることのない常に燃え続ける火の証人です。
(レビ記6章13節)
それは常に十字架の働きを予告しています。
このささげ物を通してのみ、不義は清められ、罪は取り除かれます。
(ヘブル9章13、14節)
「私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」
私が「主よ、いつまでですか。」と言うと、主は仰せられた。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、
主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。
そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」」
(イザヤ書6章8~13節)
赦しと清めの保証に続いて、働きへの呼びかけがありました。
主の声が「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と聞こえてきます。
これに対してイザヤは「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と叫びました。
「誰が私たちの代わりに行くのでしょうか?」
神は、御使いではなく人間に真理の宣言を託すことを喜ばれています。
今もなお、神は失われた世界に救いの申し出と裁きの警告を伝えるために、聖別された人たちに呼びかけています。
まだ、罪の中にいる人々に効果的な証しをしたいのであれば、その者たちはキリストの血の清めの力をまず自分から知らなければなりません。
預言者に命じられました。
「すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」」
(イザヤ書6章9、10節)
御言葉はイスラエルの罪と反抗を強固にする以外に何の効果も持たないように見えました。
しかし、イザヤは忠実にそのメッセージを宣べ伝えなければなりません。
神のしもべは主御自身に対して責任を負うのです。
イザヤは使命を受け、自分を遣わした者の名において、自分に託されたメッセージを宣べ伝えるために出て行きました。
結果は神に委ねなければなりません。
人々が聞いても、聞いていなくても、忠実に御言葉を宣べ伝える者は自分のたましいを救うのです。
「その方は私に仰せられた。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。
彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす。あなたは彼らに『神である主はこう仰せられる。』と言え。
彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。」
(エゼキエル書2章3~5節)
使徒パウロもこのように取り上げています。
「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」
(コリントの人への手紙第二2章15節)
神は、神の真理が宣べ伝えられるならば、それを聞く者がどのような態度を取ろうとも、尊ばれます。
そして、その御言葉は無効になることはなく、神の目的を成就させます。
「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。」
(イザヤ書55章11節)
それほど不人気なメッセージを宣べ伝えるという厳粛な責任に直面して、イザヤは叫びました。「主よ、いつまでですか?」
耳を傾けない人々は御言葉によって和らげられるどころか、むしろ心を固くするだけです。
彼らにメッセージを続けるには、特別な信仰と従順さが必要です。
主の答えは、聞く人がいなくなるまでメッセージを宣べ伝えなければなりません。
7章 処女の子
「ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。
ところが、「エフライムにアラムがとどまった。」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。
そこで主はイザヤに仰せられた。「あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、
そこで彼に言え。気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。
アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。
『われわれはユダに上って、これを脅かし、これに攻め入り、わがものとし、タベアルの子をそこの王にしよう。』と。
神である主はこう仰せられる。『そのことは起こらないし、ありえない。
実に、アラムのかしらはダマスコ、ダマスコのかしらはレツィン。――六十五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなる。――
また、エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマルヤの子。もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。』」」
(イザヤ書7章1~9節)
私たちは今、クリスチャンの何世紀にもわたって果てしない論争の的となってきた部分を考察することになります.
聖書は私たちの祝福された主の誕生に関連して用いています。
そして、聖霊がその証言を受け入れる準備ができている人たちに明確に語っています。
ウジヤの孫であるアハズ王の治世中に、ユダとイスラエルの間に戦争が起こりました。
イスラエルの王レマルヤの子ペカは、アラムの王レツィンと同盟を結び、二人はエルサレムを包囲するために進軍しました。
しかし、彼らは聖都を制圧することができなかったのです。
アハズは彼に対する同盟の出現により、アハズと彼の民の心は恐怖に震えていました。 アハズはダビデの家の道ではなく、イスラエルの王たちの道を歩みました。
したがって、敵に対して神の助けを期待する理由はほとんどありません。
しかし神のみこころは ユダの人々を敵に引き渡す時はまだ来ていなかったからである。
アハズの父ヨタムの時代には、主へ立ち返ることが時より見られています。
神は心を乱していた民の祈りを聞き、預言者イザヤを遣わしてアハズに会い、励ましの言葉を与えました。
イザヤは息子のシェアル・ヤシュブを連れて行きました。
その名前には「残された者は帰ってくる」という意味があります。
イザヤの子供たちはみんな、ユダの人々へのしるしとなるために預言的に名付けられたようです。
アハズに届いたメッセージは神からの信頼と慰めのメッセージでした。
アハズに対して、軍隊を結集した二人の王のために、気をつけて静かにして恐れたり弱気になったりしないようにと命じられました。
神の目には、彼らはただ煙をあげる消えてしまいそうな二つの木切れの煙る燃えさしのようにしか見えなかったのです。
二人の王たちの邪悪さと不敬虔さは、主が裁きにおいて彼らを処罰するほどのものでした。
それゆえ、彼らがユダを打ち負かしたり、エルサレムを征服したりすることを許さなかったのです。
彼らはエルサレムの防衛に突破口を開くため、アハズとその民に対して共謀しました。
神である主は、彼らのはかりごとが成り立たず、実現しないことを宣言されました。
しかし、65年間という期間内に、エフライムの力は完全に破壊されるだろうと宣言されました。
ユダヤ人はもはや一つの民ではありません。
ゆえに、アッシリヤの王に逆らって彼らを助けることさえもできません.
アッシリヤの王は、神の定めた時に、イスラエルを北の王を捕え移していました。
また、主はアハズに言われました。
「主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。
「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」
するとアハズは言った。「私は求めません。主を試みません。」
そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。
それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。
この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。
それは、まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられるからだ。」
(イザヤ書7章10~16節)
神はイザヤによって、福音のことばをエデンの園で確証されました。
神は、女の子孫が蛇の頭を砕くであろうと宣言しておられました。
「女の種」は最も重要な表現であり、メシアの処女から生まれることを意味しています。
確かに、この世界に生まれたすべての者は、人間の種によります。
しかし、偉大な救い主は女を通してのみ来るはずでした。
イザヤはアハズに、預言者が語ったことばを確かなものとするために、主からのしるしを求めるように言いました。
アハズはこれを拒みました。
アハズの言葉は「私は求めません。主を試みません」という敬虔なものです。
実際はこの言葉は不信仰な心から出た言葉でした。
アハズはこのことが起こらないかもしれないと恐れて、しるしを求めることを恐れていたのです。
そこで、イザヤは、神が人々が実現不可能だと信じるような性質のしるしを与えるべきだと宣言しました。
「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。」
アハズの見せかけの謙遜さは神にとって憎むべきものでした。
全能の神であれば、求められたどんなしるしでも与えることができたのです。
ゆえに、イザヤは続けてこのように言ったのです
「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。
見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」
(イザヤ書7章14節)
私たちが知っているように、インマヌエルとは「神は私たちとともにおられる」と訳されます。
処女の子供は「肉において現われた神」になることです。
「処女」の代わりに「若い女性」と読んで、この聖句の力を無効にしようとする者たちがいます。
つまり、その若い女性を預言者の妻、彼女を通して預言者として生まれた息子とするのは、不信仰だけです。
処女と訳されている語は若い女とも訳されるというのは真実です。
しかし、すべての若い女性はおそらく処女です。
そうでなければ、何かが根本的に間違っています。
したがって、ここでの預言は、未婚の処女が母親になり、その子供は「神は私たちとともにおられる」と名付けられるべきであると明確に宣言しています。
ローマ・カトリックの言うように、処女マリアが神の母であると言っているわけではありません。
彼女は私たちの主イエス・キリストの人間として母親となりました。
しかし、 彼女から神が肉体となって現れたのです。
しかしながら、このしるしはアハズの時代には成就してません。
また、その後もしばらくの間は成就することもありませんでした。
預言者はすぐにこのように付け加えています。
「この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。」
(イザヤ書7章15節)
なぜなら、その子が悪を拒み、善を選ぶことを知る前に、あなたが忌み嫌う土地は、その両方の王からも見捨てられるからです。
つまり、この子が登場して成人する前に、イスラエルの王だけでなくユダの王も支配することなく、ユダの王座にダビデの子が座ることもありません。
このようにイスラエルの王座に誰も代表者が座ることもなく、その国は残されることになります。
「凝乳と蜂蜜を食べる」という表現は、処女から生まれる子供の真実な人間性を示しているので、非常に印象的です。
第九章で、私たちはこの者について再び読むことになり、より詳細に述べられています。
その者は超自然的に受胎されるが、他の者たちと同様に適切な食物によって養われる実際の肉体を持つことになります。
凝乳は動物性食品の典型であり、蜂蜜は植物性食品の典型です。
ですから、このようなものによって、聖なる子は、幼児から正常な方法で大人になるために養われることになっていました。
新約聖書の記録に目を向けると、初期の活動が他の小さな子供とは異なっていた、驚くほど早熟な子供のことは書かれていません。
英知と高貴さと、神と人との間の恵みを増して行きました。
このように与えられた食物を食べて、その者は幼年期から青年期へ、青年期から成人期へと成長しました。
いわゆる外典福音書には、少年イエスに関連する奇妙で奇妙な伝説が数多く記されています。
最初から、イエスは超自然的な行動をとる人物として描かれています。
誕生の際には母親に付き添う人々を驚かせるために三歩前進しました。
また、他の少年たちと遊んでいるときには彼らを驚かせる不思議な奇跡を起こしています。
その反面で、彼らがイエスに感謝しなかった時には彼らに裁きを下したとも言われています。
しかし、これは神のキリストではありません。
むしろ人間の不敬な想像力が生み出した創造作品です。
イエスは幼児、成長期の子供、青年、そして、大人として、私たちの主の人間性は、罪を除けば、他の人々とまったく同じです。
すべてのことにおいて、イエスはご自分の兄弟たちと同じように造られました。
それは、私たちに近い者として、神の前に正しく私たちを代表してくださるためです。
「主は、あなたとあなたの民とあなたの父の家に、エフライムがユダから離れた日以来、まだ来たこともない日を来させる。それは、アッシリヤの王だ。」
その日になると、主はエジプトの川々の果てにいるあのはえ、アッシリヤの地にいるあの蜂に合図される。
すると、彼らはやって来て、みな、険しい谷、岩の割れ目、すべてのいばらの茂み、すべての牧場に巣くう。
その日、主はユーフラテス川の向こうで雇ったかみそり、すなわち、アッシリヤの王を使って、頭と足の毛をそり、ひげまでもそり落とす。
その日になると、ひとりの人が雌の子牛一頭と羊二頭を飼う。
これらが乳を多く出すので、凝乳を食べるようになる。国のうちに残されたすべての者が凝乳と蜂蜜を食べるようになる。
その日になると、ぶどう千株のある、銀千枚に値する地所もみな、いばらとおどろのものとなる。
全土がいばらとおどろになるので、人々は弓矢を持ってそこに行く。
くわで耕されたすべての山も、あなたはいばらとおどろを恐れて、そこに行かない。そこは牛の放牧地、羊の踏みつける所となる。
(イザヤ書7章17~25節)
神は、アハズとその民、そして父の家に、アッシリアの王の領土に入ることによって苦難と困難をもたらさせます。
実際、ユダは東のアッシリアと西のエジプトという二つの大国間の争いの種となるはずでした。
アッシリアの強大化を考えたとき、ユダは必死になってエジプトに向かい、東の勢力から自分たちを守ってくれる同盟国をエジプトに見つけようとしました。
しかし、最後にはエジプトが折れた葦であることを学びました。
助けになるどころか、エジプトが彼らに逆らったのです。
その後の紛争の結果、飢饉と疫病が国中に蔓延する日もそう遠くはなかったのです。
ユダの大都市は陥落し、地方に残った人々は土地の産物、それも限られた量でしか生き残れません。
というのも、かつて産業が栄え、農園やぶどう園があった広大な地域は、すぐにいばらやあざみに覆われるからです。
それにもかかわらず、神は、羊の中の貧しい人々と神を待ち望む人々を保護するために介入し、彼らの労苦に応じて、土地は再びいばらやあざみの代わりに実を結び、牛や羊は人々の必要を満たすのに十分な量が再び飼育されるようにするのです。
私たちが聖書の中で知っているように、ダビデの子としてこの世に来ることになっていた処女の子供の預言が、このような予期せぬ場所で与えられるとは、ある人たちには不思議に思われるかも知れません。
しかし、私たちは、それ以前に神がキリストを持っていたことを覚えておく必要があります。
そして、その時代のユダのすべての王は、主の油を注がれた者でした。
私たちの「メシア」という言葉は、単に「油注がれた者」を意味しています。
ゆえに、これらの王たちはそれぞれ、神によって御自身の祝福された御子を前もって定められていました。
御子は、時が満ちた時に世に来て、油注がれた者として選ばれた国民に示され、その御子の中にのみ救いが見いだされるのです。
これらの王の多くは主を描写することに全く失敗しました。
王たちの行動は、神が彼らに対して抱いている思いから霊的に遠く離れていることを示しています。
アハズは、主の律法を忘れていました。
彼は苦しみのときには、神を待ち望む勇気も、神に助けを求める勇気もありません。
そのような状況下で、神が別の王、ダビデの子について語られたのは自然なことだったのです。
その王は超自然的な方法でこの世に生まれ、定められた時に「祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主」である方が誰であるかを示されたのです。
8章 マヘル・シャラル・ハシュ・バズ
この章が注目に値するのは、預言者のもう一人の息子の、長くて、私たちの耳には奇妙に聞こえる名前が出てくるからです。
私たちはすでにシェアル・ヤシュブに出会い、彼の名前の意味を示しています。
つまり、「残された者は帰ってくる」という意味です 。
さて、次に私たちにマヘル・シャラル・ハシュ・バズを紹介しています。
その訳は「彼は獲物を迅速に得て、獲物を十分に得る」というものです。
その名前は彼に看板として付けられた。
しかし、もし彼が他の若者たちと付き合う時、とんでもない迷惑を引き起こしたはずです。
主は私に仰せられた。「一つの大きな板を取り、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため。』と書け。
そうすれば、わたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカリヤをわたしの確かな証人として証言させる。」
そののち、私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ。すると、主は私に仰せられた。「その名を、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』と呼べ。
それは、この子がまだ『お父さん。お母さん。』と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである。」
(イザヤ書8章1~4節)
一部の批評家は、これは前の章で言及された若い女の息子であり、若い女は預言者の妻であったと主張しています。
イマヌエルとマヘルシャラル・ハシュバズを同一視することはできません。
一つは「神は御子という位格において人々の間に住まわれる」ということが9章で確認されます。
この長い名前を持つ若者は、まったく異なる特徴のものを考慮され、このように呼ばれました。
そのために、子供が生まれる前に名前が付けられ、神殿の記録に残されました。
その名の意味は、次のとおりです。
すなわち、ユダと敵対し、イスラエルと同盟していたシリアの首都ダマスコが、アッシリヤ人に略奪されようとしていました。
イスラエルは、この強大な力の支配下に置かれようとしていました。
そして、これらすべてのことはその子供が十分に成長する前に起こるのです。
「主はさらに、続けて私に仰せられた。
「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。
それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、
ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」」
(イザヤ書8章5~8節)
シリアとサマリア(または北王国イスラエル)の同盟民族は、ユダとの同盟すること価値を認めることを拒みました。
また、シロア(つまり「平和」)の水を拒み、シリア王レツィンとイスラエルの成り上がり王レマルヤの息子ペカの指揮下でユダを滅ぼすことに力を合わせました。
それゆえ、主はアッシリアの王の軍隊を彼らに向けて進ませ、その軍隊は彼らの土地を大河のように流れ、すでに見てきたようにユダにも達しました。
このように、彼らはインマヌエルの土地をおおい尽くすことになります。
インマヌエルの土地とは、アブラハムとその子孫に契約によって約束された土地です。
そして、その子孫とは、私たちが知っているようにキリストです。
私たちクリスチャンは、霊的な意味で「インマヌエルの土地」という言葉を当然のごとく喜んで使います。
しかし、実際には「インマヌエル、あなたの国」とはパレスチナの土地、つまり主が「この土地は永久に売ってはならない。この土地は私のもの」と宣言された土地を指しています。
ユダはこの危険を回避するために、アハズはエジプトとの同盟を求めました。
しかし、そのような同盟は脅かされている裁きを回避するのに役立つことはありません。
そこで、このように書かれています。
「国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯をして、わななけ。腰に帯をして、わななけ。
はかりごとを立てよ。しかし、それは破られる。申し出をせよ。しかし、それは成らない。神が、私たちとともにおられるからだ。
まことに主は強い御手をもって私を捕え、私にこう仰せられた。この民の道に歩まないよう、私を戒めて仰せられた。
「この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを恐れるな。おののくな。
万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。
そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。
多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕えられる。」
(イザヤ書8章9~15節)
人々は、ストレスや危険にさらされたとき、本能的に、自分たちが大切にしている伝統や状況を守る最善の方法は、何らかの連合や連盟だと考えます。
しかし、それはユダのことです。
そして、現在のキリスト教世界においても同様です。
個人や教会によるさまざまな連合や連盟を組織し、これらのことが押し寄せる悪の波に対する防壁となるよう期待します。
しかし、このような同盟は時が経つにつれて衰退する傾向があります。
そして、その後、こうした同盟を結成した人々の子供たちは、父親が抗議した悪行に逆戻りすることが何度も実証されています。
悪の時代に唯一頼れるのは、心に決意を固めて主御自身に従うことです。
いかなる失敗が起ころうとも、神は変わることがありません。
ですから、預言者はこのように勧めています。
「万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。」
(イザヤ書8章13節)
イエスを信頼する人々にとってそこは聖所となるのです。
しかし、イエスはイスラエルの両家に人間の姿で現れたとき、またエルサレムの住民にとっては罠やわなであったときと同じように、つまずきの石、妨げの岩となるのです。
(14節)
これらの言葉は、新約聖書の中で私たちの祝福された主に適切に適応されます。
待ち望まれていた救い主が謙虚な恵みで来られたとき、国民はつまづきの石につまずくかのように主につまずき、15節で預言されているように砕かれ散らされました。
神の御言葉は神に従う人々にとって確かな情報源です。
ですから、次のように聖書は教えています。
「このあかしをたばねよ。このおしえをわたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ。
私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。
見よ。私と、主が私に下さった子たちとは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、不思議となっている。
人々があなたがたに、「霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ。」と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。
おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない。
彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。
地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。」
(イザヤ書8章16~22節)
パウロがエペソの教会で背教が起こることを預言した後にこのように言っています。
「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。」
(使徒の働き20章32節)
同様にここでイザヤは神に代わって「このおしえ(律法)をわたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ」と叫んでいます。
このことを望む人々にとって、時代が暗くなるにつれて、御言葉はますます貴重なものになります。
17節は神に頼る立場を取る人の声です。
「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。」
神は、民が経験する試練に無関心であるように見えるかもしれない。
しかし、実際は違います。
神の顔は隠されているかもしれないが、神のみこころは常に彼らに向けられています。
イザヤとその家族はイスラエル全体への証し人となるよう召されました。
主はイザヤにこのように語っています。
「見よ。私と、主が私に下さった子たちとは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、不思議となっている。」
(18節)
この聖句の一部はヘブル人への手紙2章13節に引用されており、主イエスと、主の名を信じて命を受ける人々に適応されています。
ここでは、心霊術や降霊術として知られているものに対して厳粛な警告が与えられています。
助けを求めて霊媒に頼るよう促されるならば、その答えは「民は神に頼るべき」です。
死んでいる者に答えを求めるべきではありません。
死者の霊と接触しようとするあらゆる試みは聖書で禁じられています。
「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。
あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、
呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。
これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。
これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。」
(申命記18章9~12節)
「男か女で、霊媒や口寄せがいるなら、その者は必ず殺されなければならない。
彼らは石で打ち殺されなければならない。彼らの血の責任は彼らにある。」
(レビ記20章27節)
神の目には、神の啓示された御言葉に背を向けて、光と助けを与えるために死者の霊を呼び出す力を持っていると告白する者は、重大な罪を犯しています。
そのような者は、自分のもとを訪れる人々を騙す詐欺師です。
もしくは、彼らに従う者を惑わすためになりすました悪魔に取り憑かれている者かのどちらかです。
神の確かな言葉は変わりません。
もしそのようなことに反することを語る者がいるなら、それは彼らは暗闇の中におり、彼らには朝が来ません。
永遠の祝福の夜明けが訪れる時に、真実の光を拒み、偽りに惑わされた者たちには、外に放り出されの、暗闇が訪れます。
そして、すべてが無駄だったという真実が暴露されます。
心霊術は悪魔的なカルトです。
彼らの導きに従う人々を失望させるだけで、最後には暗やみに追いやられることになります。
9章 約束された救い主
この9章を学ぶとき、それが7章でアハズに与えられた約束と関連していることに注目するのはよいことです。
ここで私たちは、イザヤは民に対する神のあらゆる道を成就し、父を明らかにするために恵みのうちに来られ、永遠の義をもたらす神の計画の人であることを繰り返して読むことができます。
「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。
あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。
戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。」
(イザヤ書9章1~5節)
8章で述べた内容の続きになっています。
パレスチナの地に暗闇が広がり、人々が光を探し求めていたとき、キリストは限りない恵みのうちに、世の光として、ヨルダン川の向こうの海を通って異邦人のガリラヤに来られました。
預言的に見て、イザヤはキリストが人々の間を歩き回り、神の計画を宣言し、暗闇の中を歩む人々に神の恵みを現すのを見たようです。
その結果、彼らは死の影に住む大いなる光を見ました。彼らの上に光が輝きました。
それはあたかもイザヤが時代を超えて見渡しているようです。
恵みと真理に満ちた主イエスが、喜んでイエスに耳を傾け、イエスをいのちの光として見いだす人々に、神の贖いの驚くべき愛を知らせているのを見ているようです。
これはマタイの福音書で引用されている聖句です。
新約聖書では引用がヘブル語ではなく七十人訳聖書から取られているため、翻訳の違いが生じています。
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。
暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
(マタイの福音書4章15、16節)
これに続く、イスラエルの人々のことが拒まれた長い年月については触れていません。
3節では、再び国民が神との契約関係が認められる日を待ち望んでいる様子が描かれています。
イスラエルが主と自分たちの土地に回復され、イエスを自分たちのメシアとして知るようになった時が来ます。
この聖句はイスラエルの先祖たちが拒んだが、すべての祝福がメシアの中にある者であることを知る時に、未来における祝福を待ち望んでいる様子が描かれています。
4、5節は、イスラエルが何世紀にもわたって分散していた間、世界に広がっていた状況だと考えられています。
アッシリア軍の滅亡という局地的な意味合いを持っていましたが、キリストが再臨して人々をすべての敵から救い出すときに、完全に成就することになります。
「戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。」
キリストが平和をもたらすために再び来られるまで、諸国民が経験することになる悲惨な状況を描写しています。
これは記録されている主イエスの言葉と一致しています。
「また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。
これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。」
(マタイの福音書24章6、7節)
キリストが拒まれてから、何世紀にもわたってこのような状況が続いてきました。
平和の君として世界に提案されたイエスは、イスラエルと諸国民の両方から拒絶されました。
そのため、イエスはこの地上を去る前にこのように言われました。
「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。
そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。」
(ルカの福音書12章51節)
旧約聖書の中で見つけることができる私たちの主についての最も完全な預言の1つが記されています。
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。
今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
(イザヤ書9章6、7節)
私たちのために子が生まれ、わたしたちに男の子が与えられます。
これら二つの表現の中に、私たちの救い主の人間性と神性を見ることができます。
生まれた子供は神の人間性を表しています。
すでに見てきたように、イエスは処女の子供としてこの世に来ることになっていました。
イエスは人間の父親を持たない、マリアから生まれた真実な人間であり、霊、たましい、そして肉体を持っていました。
イエスはまた、父の永遠の御子であり、永遠の昔から永遠にわたって父と共に持っていた栄光からやってきました。
私たちの救いのために恵みとして与えられ、罪はありませんでしたが、その神性と私たちの人間性を結びつけ、神と人が祝福され、愛すべき一人の人物として存在しました。
「主権はその肩にあり。」
イエスは全宇宙の最高支配権を行使する運命にあります。
良き羊飼いが失われた羊を見つけると、その羊をその肩に乗せることはよく知られています。
ここでは全世界の支配が彼の肩にかかっていると述べられています。
ルカの福音書15章にあるこの複数形には、確かに、キリストに信頼している人々の安全についての美しい暗示が含まれています。
神を信頼する人々の安心感を示す美しい表現が確かに含まれています。
「その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」
「不思議」と「助言者」という二つの言葉を結びつけなければなりません。
これらを分離するならば、「不思議」という言葉の中に、神がマタイの福音書11章27節で私たちに語っておられるように、もしくはヨハネの黙示録19章12節からも学ぶように、誰も理解することのできない神の聖霊の奥義(不思議)が示されていることが考えられます。
主は、この「不思議」という名を使い、昔神はサムソン(奥義)の両親に現れました。
「主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という。」」
(士師記13章18節)
この敬虔さの奥義を理解しているのは父だけです。
「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。
「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」」
(テモテの手紙第一3章16節)
それは人間の理解を超えています。
罪のない生涯、身代わりの死、そして栄光ある復活についての神の啓示による記録を読むとき、くり返し私たちは心の中で「イエスは驚くべき人」だと叫んでいることに気づきます。
イエスはすべての人間の子たちの上に立ち、神の祝福された愛すべき子として至高の存在です。
イエスの心は私たちの弱さに共感し、イエスの恵みは千の「不思議」の中に現れ、イエスの慈愛は完全に迷い、堕落した人々にまで届きます。
イエスの御名が素晴らしいのは、イエス自身が素晴らしいからであり、またイエスが成し遂げた御業のゆえです。
イエスは父のみこころを明らかにする者として私たちのもとに来られ、助言者と呼ばれています。
それが彼の神聖な称号「みことば」に暗示されています。
神は御言葉によってその思いを知らせます。
そして、初めから父と共におられた主イエスは、すなわち、すべての始まりが始まった時から、神を知らせるためにこの地上に来られましたこのように御父は、イエスにおいてみことばにあることをすべて語られたのです。
罪の世界を旅する巡礼者たちにとって唯一の安全な道を示しています。
イエスは神の思いとみこころを明らかにする者でした。
父なる神への道を示すためだけでなく、私たちを救い出してくださった方に喜んでいただける方法で歩むことができるように力を与えるためにも地上に来られました。
ここで主が「力ある神」とも呼ばれていることにも注目してください。
この表現を和らげようとする人もいるでしょうが、ローマ人への手紙9章5節とヨハネの手紙第一5章20節ではイエスはこのように呼ばれています。
「先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。
このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」
(ローマ人への手紙9章5節)
「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。
それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。
この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」
(ヨハネの手紙第一5章20節)
この地上におられた時でさえ、イエスは人間であり、同じように真実な神でした。
同様に、イエスは神であり、同じように真実な人でした。
そうでなければ罪を償うことはできなかったのです。
目的を達成するためには、イエスはこのような者である必要があったのです。
「永遠の父」
御父は「永遠なる方」、もしくは「来たるべき時代の父」です。
御子と御父は一つですが、御子は御父と混同されるべきではありません。
「わたしと父とは一つです。」
(ヨハネの福音書10章30節)
しかし、御父はすべての時代に存在しておられる方です。
(ヘブル人への手紙1章2節、欄外)、それゆえ、正しくは御父は「時代の父」もしくは「永遠の父」と呼ばれています。
「平和の君」
そのようにその方は世界に紹介され、御使いたちによって告げられました。
(ルカの福音書2章14節)
しかし、イエスが拒まれたため、イエスが再び来られるまでイスラエルや諸国に永続的な平和はあり得ません。
そのとき、イエスはすべての人々に平和を語る者として現れます。
(イザヤ書32章1~18節)
その間、イエスの十字架の血によって平和が作られました。
イエスを信じるすべての人々は神との平和を持っています。
そして、私たちが当然悩みや苦しみとなるものを祈りの中で神に委ねることを学ぶにつれて、平和が私たちの心を満たし、私たちの生活を支配するようになります。
7節にはこのように記されています。
「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
(イザヤ書9章7節)
神はダビデと契約を結びました。
その子が神の王座に座り、永遠に正義をもって支配するのです。
これはまだ実現されていません。
私たちの主の先駆者が生まれたとき、その父ザカリヤは、神がそのしもべダビデの家に私たちのために救いの角を立ててくださったと宣言しました。
「救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。」
(ルカの福音書1章69節)
これらの預言的な宣言は、ダビデの王位が永久に確立され、その王位に座る者がいなくなることは決してないことを明確にしています。
私たちが知っているように、私たちの主は母方のダビデの血統であり、王位継承者であるヨセフとの結婚により、王位継承権はイエスに引き継がれました。
ダビデの王座に就いたことはありません。それはイエスが再び来られるときに実現します。
主は、そのしもべヨハネを通してこのように宣言されました。
「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」
(ヨハネの黙示録3章21節)
今、イエスは高き神の威厳の右の座、神の王座に座っています。
間もなく、イエスは栄光のうちに戻って来られます。
御自身の王座、すなわちダビデの王座に就かれ、義をもって全地を支配されるのです。
この7節は文字通り成就します。万軍の主の熱意がそれを成し遂げるからです。
「主がヤコブに一つのことばを送られた。それはイスラエルに落ちた。
この民、エフライムとサマリヤに住む者たちはみな、それを知り、高ぶり、思い上がって言う。
「れんがが落ちたから、切り石で建て直そう。いちじく桑の木が切り倒されたから、杉の木でこれに代えよう。」
そこで主は、レツィンに仇する者たちをのし上がらせ、その敵たちをあおりたてる。
東からはアラムが、西からはペリシテ人が、イスラエルをほおばって食らう。
それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」
(イザヤ書9章8~12節)
預言者はここで地元の状況に戻ります。
北王国の者たちは自慢しています。
北王国に降りかかっていた災難にもかかわらず、彼らはそれを乗り越えて再び強く安全な民となるだろうと言われています。
しかし、主は、かつて彼らの同盟者であったシリア人や、ご自分の民の古くからの敵であるペリシテ人の中から敵を起こし、イスラエルを大口を開けて食い尽くすと宣言されました。
これは、主の怒りが彼らの罪のためだけに向けられ、裁きの手が伸ばされているからです。
それは預言者の次の言葉からわかります。
「しかし、この民は、自分を打った方に帰らず、万軍の主を求めなかった。
そこで、主はイスラエルから、かしらも尾も、なつめやしの葉も葦も、ただ一日で切り取られた。
そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者。
この民の指導者は迷わす者となり、彼らに導かれる者は惑わされる。
それゆえ、主はその若い男たちを喜ばず、そのみなしごをも、やもめをもあわれまない。
みなが神を敬わず、悪を行ない、すべての口が恥ずべきことを語っているからだ。
それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」
(イザヤ書9章13~17節)
ヘブル人への手紙にはこのように書かれています。
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。」
(ヘブル人への手紙12章11、12節)
イスラエルには、神の懲らしめの手が彼らに下されたにもかかわらず、鍛えられることはなく、むしろ憤りと誇りがありました。
イスラエルは、神と、神の真理を教えるために来た神のしもべたちに対してさえ、あえて自慢したのです。
この羊の指導者たちは、従う者たちを誤った方向に導き、悔い改めない彼らの状態ゆえに彼らを滅ぼすという点で、ひどい罪を犯しました。
イスラエルに対して主の哀れみを注ぐこともできません。
イスラエルの継続的な迷いはさらなる裁きを必要としています。
これは次に強調されています。
「悪は火のように燃えさかり、いばらとおどろをなめ尽くし、林の茂みに燃えついて、煙となって巻き上がる。
万軍の主の激しい怒りによって地は焼かれ、民は火のえじきのようになり、だれも互いにいたわり合わない。
右にかぶりついても、飢え、左に食いついても、満ち足りず、おのおの自分の腕の肉を食べる。
マナセはエフライムとともに、エフライムはマナセとともに、彼らはいっしょにユダを襲う。
それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」
(イザヤ書9章18~21節)
「悪は火のように燃えさかり、いばらとおどろをなめ尽くし、」
民は罪を軽く考え、神がこの悪影響によって与える厳粛な警告には全く注意を払わないかも知れません。
それでも、彼らが神に対する反抗を続けるなら、悪は確かに火のように燃えていること、そして悔い改めて神に立ち返ることを拒む人々は。自分で招いた裁きに耐えなければならないことを知ることになります。
神の聖なる性質は、不正を容認することを許しません。
ゆえに「万軍の主の激しい怒りによって地は焼かれ、民は火のえじきのように」なるのです。
飢饉と疫病によって、彼らの哀れさと悲惨さをさらに増しました。
しかし、イスラエルは神に立ち返って罪を告白しました。
しかし、赦しを求める代わりに、自分たちに降りかかった苦難について互いに責め合いました。
マナセはエフライムを、エフライムはマナセを、そして両者は共にユダを攻撃しました。
これらすべては主の道を捨てたことによる悲しい結果です。
この章は、三回繰り返される厳粛な繰り返しで終わります。
「それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」
10章 アッシリア人とその破滅
多くの預言が二重に適用され、このように成就していることを認識することは、聖書解釈のよく知られた原則です。
イスラエルと諸国がすでに経験した状況は、未来における大患難の日、ヤコブの苦難の時代に直面しなければならない状況をしばしば表しています。
そのとき、罪を犯し背教したキリスト教世界とユダヤ教の両方に神の怒りが注がれます。
この章では、主にヒゼキヤ王の時代のユダとアッシリアについて述べられています。
そして、同時に、終末の時代にユダヤ人の高慢な敵であった最後の偉大なアッシリア人が、その時に神と彼らの土地に集められる残されたの民に復讐される前に、インマヌエルの土地で滅ぼされる時についても期待されています。
私たちは預言の言葉のこの2つの適用を念頭に置いておくことによってのみ、ここで述べられていることを正しく理解することができます。
冒頭の節では、ユダの悲しい内的状態が描かれています。
彼らが仕えると告白しながらも、ひどく不当に扱ってきた神からの裁きが要求される様子が描かれています。
「ああ。不義のおきてを制定する者、わざわいを引き起こす判決を書いている者たち。
彼らは、寄るべのない者の正しい訴えを退け、わたしの民のうちの悩む者の権利をかすめ、やもめを自分のとりこにし、みなしごたちをかすめ奪っている。
刑罰の日、遠くからあらしが来るときに、あなたがたはどうするのか。だれに助けを求めて逃げ、どこに自分の栄光を残すのか。
ただ、捕われ人の足もとにひざをつき、殺された者たちのそばに倒れるだけだ。
それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」
(イザヤ書10章1~4節)
貧しい人々を抑圧することを合法化するために不正な法令を発布されました。
孤児をささげ物にして私腹を肥やした者たちに対して宣告されます。
独占とは、人間の心の利己性の表現として最近現れたものではありません。
ユダでは、現在の私たちの文明国と同様に、逆境にある他人を利用します。
ここでは恵まれない仲間の破滅から利益を得ることをよい商売と考える人々がいました。
これらすべては、裁きの神であり、行いを評価する神にとって憎むべきことです。
貧困層の権利を無視して構築された経済システムは、最終的には必ず破壊されます。
では、主の言葉を無視し、競争相手を踏みつけ、要求に応じるか破滅するかを強要しながら、自分の成功を誇った人々はどうなるのでしょうか?
「刑罰の日、遠くからあらしが来るときに、あなたがたはどうするのか。だれに助けを求めて逃げ、どこに自分の栄光を残すのか。」
神は、神を敬う者を敬い、神を軽蔑する者を軽んじると定めました。
神は人々や国々が自分たちの意志で進むことをある程度許しておられます。
それから、神は怒りをもって彼らを処罰し、不正に得た富を奪い取り、もはや維持できない贅沢を嘆かせるのです。
人はこの事に対してどのように言うでしょうか?
さらに大きな災害から自分たちを救うために彼らはどこに頼ればいいのでしょうか?
ユダの場合、セナケリブの軍隊による土地の侵略が彼らの苦しみの大きな原因となりました。
それは彼らの罪に対する懲罰として神によって許されたものです。
神の救いがなければ、彼らは自分を守る術もなく、捕虜にされ、残酷な敵に殺されることになります。
そして、セナケリブの侵略よりも、はるかに次元を超えたことを念頭に語られていることがわかります。
ここでは終末の日の最後の敵について述べています。
「ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるむちは、わたしの憤り。
わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。
しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは、滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ。
なぜなら、彼はこう思っている。「私の高官たちはみな、王ではないか。
カルノもカルケミシュのよう、ハマテもアルパデのようではないか。サマリヤもダマスコのようではないか。
エルサレム、サマリヤにまさる刻んだ像を持つ偽りの神々の王国を私が手に入れたように、
サマリヤとその偽りの神々に私がしたように、エルサレムとその多くの偶像にも私が同じようにしないだろうか。」と。
主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げられるとき、アッシリヤの王の高慢の実、その誇らしげな高ぶりを罰する。」
(イザヤ書10章5~12節)
主がシオンの山とエルサレムで御業をすべて成就される時に、アッシリア人が罰せられるということに注目してください。
この文章を読んで研究する際には、これらの点を念頭に置く必要があります。
アハズ王はイスラエルとシリアの王たちから破滅の脅威を受けたとき、アッシリアの王に助けを求めました。
しかし、後にこの強欲な王がユダを含む西方の全土における完全な支配権を狙っていることが分かります。
その後、セナケリブが大河のようにこの地に襲いかかり、その軍勢は、ヒゼキヤの時代にエルサレムを包囲した際、一一夜にして疫病によって滅ぼされるまで続きました。
この恐るべき冷酷な敵は、終わりの日にパレスチナを支配下に置こうとする不敬虔な敵の型となりました。
そして、イスラエルの山々の全能の力によって滅ぼされることになります。
それ以前も、以降も、アッシリヤは、、主の怒りの杖として、神の民が神に背を向けたために懲らしめるために使われてきました。
しかし、イスラエルが悔い改めた日には、神はユダに災いをもたらした敵を滅ぼします。
その敵にとってエルサレムは、他の多くの都市を滅ぼしたように、倒されるべきもう一つの都市にすぎません。
しかし、エルサレムの神殿にある神が、人が神々と呼ぶすべてのものの上にあります。
そして、その者はこれらの異教徒を神の御手から救い出すことができなかったことを知ることになります。
これは、シオンの山とエルサレムにおける主のすべての御業によってご自分の民が自分のもとに帰ることを意味しています。
主が彼らを一つの民として再び召集される日に、主はアッシリヤ人と、彼らを苦しめたすべての者とを処分されます。
「それは、彼がこう言ったからである。「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。
私の手は国々の民の財宝を巣のようにつかみ、また私は、捨てられた卵を集めるように、すべての国々を集めたが、翼を動かす者も、くちばしを大きく開く者も、さえずる者もいなかった。」
斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。
それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。
イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となる。燃え上がって、そのいばらとおどろを一日のうちになめ尽くす。
主はその美しい林も、果樹園も、また、たましいも、からだも滅ぼし尽くす。それは病人がやせ衰えるようになる。
その林の木の残りは数えるほどになり、子どもでもそれらを書き留められる。」
(イザヤ書10章13~19節)
アッシリア人は神が自分をどのように利用しておられるかを理解していません。
あたかも自分の知恵と分別によってすべてを成し遂げ、すべての勝利を勝ち取ったかのように自慢しました。
このようにアッシリア人はイスラエルとユダを含む諸国民を容赦なく無慈悲に略奪し、抑圧しました。
しかし、略奪されるのを待っている鳥の巣の中の卵と同じで、彼らの軍隊は、巣が略奪されたときの母鳥と同じくらい無力でした。
森の木を切り倒す者の手にある斧のようなものだと知らずに、あたかもその力と権威がすべて自分のものであるかのように誇りました。
彼らは、諸国の邪悪さと腐敗のために自分が用いられ、諸国を懲らしめることを計画している方に対して、自分を誇ったのです。
したがって、来たるべき裁きの日には、神はアッシリア人が他の国々に対して行ったのと同じように厳しく彼を扱います。
アッシリア人が憎しみと残酷さをまいたように、彼らは厳しく彼は憤りと悲惨さを刈り取るのです。
主の勝利のその日に、主はイスラエルの中で主に信頼を置いた残された者たちを正当に扱います。
主は彼らが滅ぼそうとした国々を焼き尽くす炎のようになるのです。
アハシュエロスとモルデカイの時代のように、ユダヤ人は自分たちを滅ぼし、地上から根絶しようと企んだ者たちに裁きを下します。
イスラエルには最初にアブラハムと交わされ、ダビデに確認された神との契約があります。
神の御言葉は、神がイスラエルの民を自分たちの罪に応じて罰する一方で、この契約はを決して破らないという神の約束が成就するのです。
イスラエルを苦しめてきた多くの国々は滅ぼされます。
しかし、続く聖句に見られるように、神はイスラエルを完全に滅ぼすことはしません。
「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。
残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。
たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。壊滅は定められており、義があふれようとしている。
すでに定められた全滅を、万軍の神、主が、全世界のただ中で行なおうとしておられるからだ。」
(イザヤ書10章20~23節)
暗黒の大患難時代に神の裁きが地上に下されるとき、ユダヤ人の残された者たちは深い悔い改めと生きた信仰をもって主に立ち返ります。
これらのことによって、神の哀れみの偉大さと神の約束の揺るぎない性質が証明されるのです。
アハズが窮地に陥って最初にアッシリヤに、次にエジプトに向かったときのようです。
アハズは必要なときに彼らを迫害し、見捨てた勢力に彼らの助けを求めることはもうありません。
ユダヤ人は神御自身に助けと保護を見出すことになります。
預言の言葉は明確であり、曖昧さは一切ありません。
最大の苦難の時に主に信頼するヤコブの子らである、文字通りの残された者たちにそのまま適応されます。
否定できるのは、不信仰だけです。
そのとき、神は目を覚まし、彼らを助けに来られ、残された者を救われます。
イスラエル人である者が、すべてイスラエル人ではないということを覚えておく必要があります。
大多数の「海の砂のような」者たちは完全に背教し、罪の中で滅ぼされます。
しかし、残された者たちは戻って来て、神によって神の民として認められます。
このように、ローマ人への手紙11章にあるように「イスラエルはみな救われる」のです。
この残された者たちが、主の力の日に真実なイスラエルとなるのです。
この神の目的の宣言を考えるならば、アッシリヤ人が高慢で強力であっても恐れないように、神は御言葉を信頼するように神の民に呼びかけているのです。
「それゆえ、万軍の神、主は、こう仰せられる。「シオンに住むわたしの民よ。アッシリヤを恐れるな。彼がむちであなたを打ち、エジプトがしたように杖をあなたに振り上げても。
もうしばらくすれば、憤りは終わり、わたしの怒りが彼らを滅ぼしてしまうから。
オレブの岩でミデヤンを打ったときのように、万軍の主がアッシリヤにむちを振り上げる。杖を海にかざして、エジプトにしたように、それを上げる。
その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」」
(イザヤ書10章24~27節)
はっきりとした言葉で、預言者はエルサレムの門で、いわば破壊している敵の打倒を預言しています。
ユダの場合は一時的に絶望的と思われたかも知れません。
しかし、神は御自身の目的の遂行してくださいます。
文字通りに読むのであれば、この預言は過去のアッシリアに関係しており、すべてはその時に成就しました。
終わりの日に、古代アッシリア人が占領していたのと同じ地域から別の強大な勢力がパレスチナに攻めてきます。
その勢力の破滅は、過去の敵の破滅と全く同じように確実に起きます。
アッシリア軍が地上を行進する様子は、この章の最後の聖句に生々しく描かれています。
「彼はアヤテに着き、ミグロンを過ぎ、ミクマスに荷を置く。
彼らは渡し場を過ぎ、ゲバで野営する。ラマはおののき、サウルのギブアは逃げる。
ガリムの娘よ。かん高く叫べ。よく聞け、ラユシャよ。哀れなアナトテ。
マデメナは逃げ去り、ゲビムの住民は身を避ける。
その日、彼はノブで立ちとどまり、シオンの娘の山、エルサレムの丘に向かって、こぶしを振りあげる。
見よ。万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を切り払う。たけの高いものは切り落とされ、そびえたものは低くされる。
主は林の茂みを斧で切り落とし、レバノンは力強い方によって倒される。」
(イザヤ書10章28~34節)
預言とは前もって書かれた歴史です。
ここでイザヤは、アッシリア人がパレスチナを行進し、都市から都市へと復讐を行う際に取るであろう道が預言されています。
しかし、終わりの聖句は、万軍の主が介入したとき、最後に彼が敗北したことを物語っています。
苦難の時に主に叫び求めた者たちを、主は力強く救い出してくださいました。
苦難の時に、主に叫んだ者たちの救いのために、主は力强くあられた。
どんな軍事戦略も、どんな戦争兵器も、神の御手が彼に対して伸ばされるのならば、高慢な侵略者を救うためには役に立つことはありません。
私たちはここで信仰について素晴らしい教訓を得ることができます。
これらのことはユダとその敵に直接適用されるものです。
しかし、現代の私たちにとっても貴重な教訓となります。
ある人たちが言うように、神は最強の軍隊の側にいるというのは真実ではありません。
イエスは、肉の腕力ではなく、イエスの全能性とイエスの民に対する変わらぬ愛に信頼を置き、イエスを信じるすべての人を支える用意をしておられます。
11章、12章 神の油注がれた者が支配する時代
この箇所には、今、私たちの前に現わされている出来事と、前の章で見てきたことの間にとても密接なつながりがあります。
アッシリアが滅ぼされ、イスラエルがすべての敵から解放された後に、私たちはエッサイの根から出た新芽、主の若枝である者の平和な支配を見ることができます。
その者はすべてのものを神に従わせ、揺るぎない正義の鉄の杖で支配するのです。
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。
正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。」
(イザヤ書11章1~5節)
ここには、ヨハネの黙示録で神の七つの霊、すなわち七倍の力を備えた聖霊を持つ者として紹介されている方がいます。
その者はダビデの血筋を通って処女の子供として生まれ、ダビデの父エッサイの根から出た枝です。
彼の上には、主の霊がとどまり、それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊です。
ヨハネの福音書には、父は愛する子に無限に与えられると記しています。
「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。」
(ヨハネの福音書3章34節)
主イエスは誕生の瞬間から聖霊の支配下にありました。
地上の人間として、彼は自分の全能の力で行動するのではなく、神のしもべとして行動することを選んだからです。
ヨルダン川でバプテスマを受けた後、聖霊が鳩の姿でイエスの上に降りてくるのを見ることができます。
これは、使徒ペテロが語っているように、イエスの恵み深い公の宣教の準備としての油注ぎです。
一瞬たりとも、イエスは御霊と調和を失ってはいません。
これこそが、イエスが成長し、神と人々から信頼を得るにつれて、知恵を増すことができた理由です。
告白しますが、この奥義は偉大です。
すなわち、永遠の知恵が、イエスを人として自分を完全な状態に制限しています。
イエスは、幼少期から肉体的に成熟するまで御父の指導の下で知恵と知識を成長しています。
御父が聖霊によって、日々イエスにそのみこころを明らかにされたのです。
そのためイエスは「あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」と言うことができました。(ヨハネの福音書14章24節)
そして、イエスが成し遂げた御業のすべては、イエスの内に満ちあふれて宿る神の聖霊によるものです。
聖書は、私たちの主の完全な人間性という真実と、主の真実な神性という真実を忠実に語っています。
私たちはここで、イエスを父の御心に従って話し、行動する主のしもべとして見ることができます。
このように、イエスのさばきは正しく、イエスの悟りは完全です。
やがて神が、この世の支配の手綱を取られる時が来ます。
その時、すべてのものは、等しく公正になります。
ダビデの預言的な言葉が成就されます。
「義をもって人を治める者、神を恐れて治める者」
(サムエル記第二23章3節)
地上の何世紀にもわたる利己的な悪政は終わりを迎えます。
イスラエルと諸国はメシアの哀れみ深く忠実な支配による祝福を受けることになります。
そのとき、すべての悪は容赦ない裁きによって処分されます。
地上の柔和な人々は保護され、妨げられることのない祝福を受けることになります。
その日には下等な創造物の呪いが解かれ、地上の獣の性質そのものが変化します。
「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」
(イザヤ書11章6~9節)
これらすべての表現を霊的に解釈しようとする人は、ここでの獣は、新生によって心が変えられた暴力的で野蛮な人間を表すものと解釈するかも知れません。
しかし、預言者の言葉はそのような適用するように示していません。
イザヤは、呪いが解かれる日に神が動物界に対して何をなさるかを非常に明確に語っています。
預言者が寓話的に話したとか、この言葉は厳密に文字通りに解釈する以外に、どのようなヒントも何も与えられていません。
第二の人、最後のアダムが宇宙の下層部にに設定され、理想的な条件が地上に広がることは明らかでした。
そのような理想的な条件は、以前の世界に特徴づけられていたように、神の公正な創造物を地上の獣による暴力と略奪、そして人間のからだに対して悪い影響を与え、病気と死をもたらすようになりました。
キリストは預言者たちによって語られたすべてのことの回復者として来られます。
そして、「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」日にはすべてが取り消されます。
千年王国は、新しい天と新しい地と混同されるべきではありません。
しかし、、季節の満ち足りた摂理の中で、神はキリストにあってすべてのものに力を与える時が来ます。
その時、世界に住むすべての人にとって、すばらしい祝福の期間となるのです。
「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。
その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。
残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。
主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。
エフライムのねたみは去り、ユダに敵する者は断ち切られる。エフライムはユダをねたまず、ユダもエフライムを敵としない。」
(イザヤ書11章10~13節)
イエスが栄光のうちに再臨し、エッサイの根がダビデになされた約束を果たすとき、これらすべてのことが成就します。
その時、創世記49章にあるヤコブの預言が栄光ある成就を見ることになります。
「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。」
(創世記49章10節)
その日には、神はイスラエルの目の前で神をあがめられるだけでなく、異邦人も神を慕い求めます。
長い間、諸国の間に散らされていた神の地上の民は、自分たちの土地に再び集められます。
ゼルバベル、エズラ、ネヘミヤの時代に残された者が帰還した時、これらの回復の約束はずっと昔に成就したと多くの人は考えてきました。
しかし、ここで私たちははっきりと知らされています。
「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。」
(イザヤ書11章11節)
このように私たちは、かつてのようにイスラエルがバビロンから弱々しく戻ってくるのではありません。
何世紀にもわたる悲しみと苦しみの間に離散していたすべての国々から戻ってくることを学ぶのです。
イスラエルとユダは、もはや分裂することはありません。
その日、立てられた使者である主御自身のもとに引き寄せられます。
彼らの父祖の地に共に流れ、もはや争うこともありません。
彼らは、彼らの王と彼らの神に喜んで服従する一つの民となります。
この章の最後の節では、かつて彼らの敵であった国々の支援を受け、どのようにしてイスラエルが帰還したかが、さらに詳細に述べられています。
「彼らは、西の方、ペリシテ人の肩に飛びかかり、共に東の人々をかすめ奪う。
彼らはエドムとモアブにも手を伸ばし、アモン人も彼らに従う。
主はエジプトの海の入江を干上がらせ、また、その焼けつく風の中に御手を川に向かって振り動かし、それを打って、七つの流れとし、くつばきのままで歩けるようにする。
残される御民の残りの者のためにアッシリヤからの大路が備えられる。イスラエルがエジプトの国から上って来た日に、イスラエルのために備えられたように。」
(イザヤ書11章14~16節)
その日、私たちの主の足が再びオリーブ山に立ちます。
ゼカリヤ書14章で預言されているように広範囲にわたる大地震が起こる時に実現されます。
12章には、かつて敵が全て滅ぼされた後に、紅海の岸辺で人々が歌った日々のように、主に救われた人々の心から高らかに湧き上がる喜びと勝利の歌が記されています。
「その日、あなたは言おう。「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」
見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。
あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。
その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。
御名があがめられていることを語り告げよ。
主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。
シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。」」
(イザヤ書12章1~6節)
主御自身に心を定め、たましいが罪を犯した相手との和解の喜びを実感しこのように言えることは祝福された貴重な経験となります。
「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」
神を通して解放が成し遂げられ、神自身が「救い」であることを知ることは、大きな意味を持ちます。
すべての心配や不安は終わりを告げます。
そして、私たちは残された者たちが「私は信頼して恐れることはない」と言うのを聞きます。
信仰は恐怖に対する解毒剤です。
私たちが神に信頼を置くことを学ぶにつれて、あらゆる不安は消え去ります。
なぜなら、私たちを救った神が私たちと敵の間に立ってくださることを知っているからです。
神は民が自分たちの力で戦うままに放っておくことはありません。
神は神の御言葉に頼るすべての人々にとっての力なのです。
長い間、独善的なユダヤ人が自分たちの努力で救おうと拒んできた救いの泉から、帰還した残された者は神の名を呼び求めます。
神が成し遂げた救いを全世界に証しながら、命の水をくみ上げるのです。
神の栄光が現れる日に贖われた民の真ん中に住むイスラエルの神を賛美し礼拝するようにという呼びかけで終わります。
現在でも、信仰をもって主に近づく人々は主の救いの恵みの現実を知り、この歌を自分のものにすることができます。
13章、14章 バビロンへの宣告
ここで、イザヤの預言の独特な部分に触れます。
この部分では、特にイスラエルが過去数世紀にわたって対処しなければならなかった諸国民、および来たるべき主の日にイスラエルが直面しなければならない諸国民について扱っています。
13章から23章には、「宣告」、すなわち預言的なメッセージが記されてiいます。
特にバビロン(13、14節)、モアブ(15、16節)、シリアの首都ダマスカス(17節)、エチオピア西部の無名の海洋国家(18節)、エジプト(19節)、エジプトとエチオピア(20節)、エドムとアラビア(21節)、そしてツロ(23節)に関するものです。
この2つのメッセージも、敵の攻撃に関連してパレスチナ自体に明確に言及しています。
具体的には、21章と22章の一部です。
これらの章で述べられている国々は、イスラエルが過去に苦しめられた国々です。
その一部の国々は、選ばれた民族に対する古い敵意を依然として示しながら、終わりの日に登場します。
13章と14章では、イザヤは未来を予測し、メディア・ペルシャによるカルデア侵攻の結果としてバビロンにもたらされる破壊を預言しています。
バビロンは取るに足らない国で、アッシリアによって完全に影を潜めていました。
そのため、これらの預言的な幻の中でバビロンがこのような位置を占めているのは奇妙に思えるかも知れません。
しかし、預言の霊によってイザヤは、これら2つの国が統合されて、バビロンが首都となる大きな王国が誕生する時代を予見しています。
この勢力は、ユダの反逆と偶像礼拝のために、ユダに向けられた神のさばきを実行するように定められていました。
バビロンの文字通りの支配者の背後には、暁の子ルシファーと呼ばれる邪悪な霊的人格がいたことが容易に分かります。
この邪悪な御使いがサタン自身と同じであることははっきりとわかります。
そこで、私たちは預言の最初の部分に注目します。
それは二重に成就します。
最初に、クロスとキュアクサレス(おそらくダニエル書5章のダレイオスと同一人物)の軍隊によるバビロンの破壊、そして最後の日にアッシリアが最終的に滅ぼされることです。
神の民に対する未来の抑圧者の没落を描写しています。
「アモツの子イザヤの見たバビロンに対する宣告。
はげ山の上に旗を掲げ、彼らに向かって声をあげ、手を振って、彼らを貴族の門に、はいらせよ。
わたしは怒りを晴らすために、わたしに聖別された者たちに命じ、またわたしの勇士、わたしの勝利を誇る者たちを呼び集めた。
聞け。おびただしい民にも似た山々のとどろきを。聞け。寄り合った王国、国々のどよめきを。万軍の主が、軍隊を召集しておられるのだ。
彼らは遠い国、天の果てからやって来る。彼らは全世界を滅ぼすための、主とその憤りの器だ。
泣きわめけ。主の日は近い。全能者から破壊が来る。
それゆえ、すべての者は気力を失い、すべての者の心がしなえる。
彼らはおじ惑い、子を産む女が身もだえするように、苦しみと、ひどい痛みが彼らを襲う。彼らは驚き、燃える顔で互いを見る。
見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。
天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。
わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。」
(イザヤ書13章1~11節)
示された描写は、メディア・ペルシャ征服の時代にユーフラテス川沿いのバビロンが文字通り破壊されたという描写をはるかに超えています。
それは、主の憤りの日に、中央アジアと西アジアの国々の間だけでなく、すべての異邦人勢力の間に広がる状況を生き生きと示しています。
言い換えれば、かつてのバビロンに降りかかった破滅は、終わりの日に主と主に油注がれた者に対する反逆の現行犯によって捕えられます。
神を敬わない異邦人勢力を待ち受ける恐ろしい運命の実例です。
表現の多くは、主の日についての他の預言や、ヨハネの黙示録の第六の封印が破られた後に起こる出来事と、実質的に同じであることに注意してください。
「わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする。
それゆえ、わたしは天を震わせる。万軍の主の憤りによって、その燃える怒りの日に、大地はその基から揺れ動く。
追い立てられたかもしかのように、集める者のいない羊の群れのようになって、彼らはおのおの自分の民に向かい、おのおの自分の国に逃げ去る。
見つけられた者はみな、刺され、連れて行かれた者はみな、剣に倒れる。
彼らの幼子たちは目の前で八裂にされ、彼らの家は略奪され、彼らの妻は犯される。」
(イザヤ書13章12~16節)
この聖句をハガイ書2章6、 7節、ヘブル人への手紙12章25~29節、ゼカリヤ書14章4、 5節、および主の日に関するその他の聖句と比較すると、世界の王国が粉々に砕かれるだけではありません。
地球を揺るがし、天体にさえ混乱をもたらすような大きな自然災害が起こります。
その結果、世界の人々は主の裁きのためにひどく恐れるようになることが分かります。
その時代の紛争や自然災害で人類の大部分が滅ぼされます。
その結果、人間は金よりも貴重なものとなり、主の力の日に主を知らずに待ち望んでいる地球上のすべての住民は、恐れと戦慄にとらわれるのです。
「見よ。わたしは彼らに対して、メディヤ人を奮い立たせる。彼らは銀をものともせず、金をも喜ばず、
その弓は若者たちをなぎ倒す。彼らは胎児もあわれまず、子どもたちを見ても惜しまない。
こうして、王国の誉れ、カルデヤ人の誇らかな栄えであるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる。
そこには永久に住む者もなく、代々にわたり、住みつく者もなく、アラビヤ人も、そこには天幕を張らず、牧者たちも、そこには群れを伏させない。
そこには荒野の獣が伏し、そこの家々にはみみずくが満ち、そこにはだちょうが住み、野やぎがそこにとびはねる。
山犬は、そこのとりでで、ジャッカルは、豪華な宮殿で、ほえかわす。その時の来るのは近く、その日はもう延ばされない。」
(イザヤ書13章17~22節)
メディア人とペルシャ人による包囲と打倒で始まったバビロンの文字通りの破壊に戻ります。
そして、数世紀後、かつて誇り高かったその都市がついに塵と化し、宮殿は破壊され、空中庭園は廃墟となります。
その後、何世紀もの間、二度と立ち上がることができないほどの破壊が行われ、いまだに完全には完了していません。
確かに、古代都市の跡地の近くには時々小さな村が建てられてきました。
しかし、最近、考古学者によって発掘されたバビロンの遺跡は、いかに預言者の言葉が完全に成就したかを示しています。
アラビア人は今でもフクロウやトカゲ(竜)などの夜の生き物が多数生息する都市の廃墟では、夜になると悪魔が徘徊していると考え、そこにテントを張ることを拒否しています。
神はバビロンが二度と復活しないことを定めました。
ヨハネの黙示録のバビロンは、真実な教会が主のもとに引き上げられた後に、完全に発達します。
それは終わりの日の巨大な宗教的・商業的組織の象徴的な描写です。
その運命は、古代都市と同様、すぐに完成し、また陥落し、二度と神とその民に逆らって立ち上がることはできません。
14章では、神がイスラエルの将来の回復と、バビロンの破滅を結び付けていることがわかります。
これら二つの出来事の間には、数世紀の歳月が経過しています。
クロスの勅令によって残された者がエルサレムに戻ることが許され、ユダの復興についての神の預言の一部が成就しました。
しかし、イスラエルの最終的な復興は異邦人の権力の完全な打倒と結びついています。
「まことに、主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。
在留異国人も彼らに連なり、ヤコブの家に加わる。
国々の民は彼らを迎え、彼らの所に導き入れる。
イスラエルの家は主の土地でこの異国人を奴隷、女奴隷として所有し、自分たちをとりこにした者をとりこにし、自分たちをしいたげた者を支配するようになる。」
(イザヤ書14章1、2節)
「自分たちをとりこにした者をとりこにし」という表現に注目してください。
この聖句はは、エペソ人への手紙4章8節にある「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」という聖句に、議論の多い真実な説明を与えているように思われます。
この聖句は詩篇68篇18節から引用されています。
同じヘブル語は士師記5章12節にも見られ、その意味は明らかです。
バラクはイスラエルを捕虜にした者たちを捕虜として連れて行くことになっていました。
そして、キリストは、勝利の復活によって地獄の勢力を打倒し、長い間人類を捕らえていたサタンとその軍勢を解放しました。
その時、サタンは完全に敗北しました。
「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。
これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」
(ヘブル人への手紙2章14、15節)
今や、かつて、サタンの犠牲者であった人々はサタンの力から解放されたのです。
コロサイ人への手紙2章15節には、キリストが死者の中からよみがえられた時、諸権力、すなわち悪の軍勢を打ち破ったことが書かれています。
したがって、サタンは今や敗北した敵です。
「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」
(コロサイ人への手紙2章15節)
サタンの裁きはまだ執行されていません。
しかし、神の御言葉が真実であるのと同じくらい確実な出来事となります。
信仰者は、神の御言葉に従う者には悪魔の力が及ばないことを知ってます。
ゆえに、信仰を堅持して悪魔に抵抗するのです。
次の区分では、イスラエルが偉大な敵の破壊に歓喜している様子が描かれています。
「主が、あなたの痛み、あなたへの激しい怒りを除き、あなたに負わせた過酷な労役を解いてあなたをいこわせる日に、
あなたは、バビロンの王について、このようなあざけりの歌を歌って言う。「しいたげる者はどのようにして果てたのか。横暴はどのようにして終わったのか。
主が悪者の杖と、支配者の笏とを折られたのだ。
彼は憤って、国々の民を打ち、絶え間なく打ち、怒って、国々を容赦なくしいたげて支配したのだが。
全地は安らかにいこい、喜びの歌声をあげている。
もみの木も、レバノンの杉も、あなたのことを喜んで、言う。『あなたが倒れ伏したので、もう、私たちを切る者は上って来ない。』」
(イザヤ書14章3~8節)
「バビロンの王」は何世紀にもわたって、神の古代の人々の迫害に参加してきたすべての異邦人の力の同義語として使用されています。
最後の大きな敵が滅ぼされる時、イスラエルは主の御力が現われ、喜ぶのです。
ちょうど、イスラエルが、パロとその軍勢が滅ぼされるのを見て葦の海の岸で歌ったようです。
来るべき日には、かれらの敵が皆無に帰すのを見て、モーセの歌と小羊の歌を歌うようです。
今、私たちは、罪が天でどのように始まったのかを理解しようとしています。
何世紀にもわたって邪悪な人間の心を支配し、神の目的を妨げようとしてきた目に見えない力についても理解できるようになります。
ルシファーの堕落はサタンの堕落を象徴しています。
この一節はエゼキエル書28章と密接に関係しています。
これを完全に理解しようとする場合には注意深く考慮する必要があります。
「下界のよみは、あなたの来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こし、国々のすべての王を、その王座から立ち上がらせる。
彼らはみな、あなたに告げて言う。『あなたもまた、私たちのように弱くされ、私たちに似た者になってしまった。』
あなたの誇り、あなたの琴の音はよみに落とされ、あなたの下には、うじが敷かれ、虫けらが、あなたのおおいとなる。
暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。
密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』
しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」
(イザヤ書14章9~15節)
これらの言葉は、単なる人間には当てはめることはできません。
ルシファー(光の担い手)は、最高位の創造された御使いです。
エゼキエル書28章の守護者ケルブと同じ御使いです。
彼は明らかに、すべての天使長の中で最も偉大な者であり、神の前では完璧でしたが、高慢さのために落とされました。
神の座を自分のものにし、宇宙の最高の支配者になることがルシファーの野望でした。
彼の5つの「心の中で言った」ことに注目してください。
創造主の意志に反して、被造物のみこころを主張したことによって、創造主の没落をもたらし、このように偉大な御使いが悪魔になったのです
サタンは、自分が受けていた権力と恩恵の地位から追放され、神と人類の執拗な敵となりました。
それ以来、数千年にわたって、人類を破滅させ、神の名にふさわしい栄光を神から奪うために、考えられるあらゆる手段を講じてきました。
ヨハネの福音書8章44節で主はサタンについて語っています。
「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」
(ヨハネの福音書8章44節)
主はそこで、サタンがかつて受けていた地位から転落した背教者であることを示しています。
また、私たちは他の聖書の箇所から、サタンがほえるライオンのように、食い尽くすべきものを探し求めて歩き回っていることを知ることができます。
十字架はサタンの破滅の前兆でした。
しかし、サタンの心は神と神が愛する人々に対する憎しみで満たされているため、自分の最後の審判が行われる前に、できる限り人類に復讐しようと決心しています。
他の聖句から、ルシファーが反抗したのは孤独ではなかったことが分かっています。
「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」
(ペトロの手紙二2章4節)
また、主は「悪魔とその使いたち」(マタイの福音書25章41節)について語っておられます。
これはヨハネの黙示録12章7節でも確認されています。
そこではミカエルとその使いたちと、竜とその使いたちとの間で天で戦争が起こると書かれています。
これらの邪悪な御使いたちは、この暗闇の世界の支配者たちです(エペソ人への手紙6章12節)
悪魔とその使いたちは諸民族の支配者たちの心を支配しようとして、支配者たちを扇動して神の御心に背かせようとしています。
ですから、この章の次の節で、バビロンの王がルシファーと混同されているように見えることも驚く必要はありません。
もちろん、実際の意味は、サタンが支配者を支配していた、もしくは制御していたという意味です。
サタンの没落は次のように描写されています。
「あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる。『この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、
世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。』
すべての国の王たちはみな、おのおの自分の墓で、尊ばれて眠っている。
しかし、あなたは、忌みきらわれる若枝のように墓の外に投げ出された。剣で刺し殺されて墓穴に下る者でおおわれ、踏みつけられるしかばねのようだ。
あなたは墓の中で彼らとともになることはない。あなたは自分の国を滅ぼし、自分の民を虐殺したからだ。悪を行なう者どもの子孫については永久に語られない。
先祖の咎のゆえに、彼の子らのために、ほふり場を備えよ。彼らが立って地を占領し、世界の面を彼らの町々で満たさないためだ。」
「わたしは彼らに向かって立ち上がる。――万軍の主の御告げ。――わたしはバビロンからその名と、残りの者、および、後に生まれる子孫とを断ち滅ぼす。――主の御告げ。――
わたしはこれを針ねずみの領地、水のある沢とし、滅びのほうきで一掃する。――万軍の主の御告げ。――」」
(イザヤ書14章16~23節)
主の日にイスラエルの最後の偉大な敵が完全に滅ぼされることをはっきりと表現しています。
エゼキエル書31章16〜18節も参照にしてください。
戦士の栄光と世界征服の誇りはすべて完全な崩壊に終わります。
生ける神に逆らうために高慢と傲慢に立ち向かった者は、サタンの愚かさの避けられない結果から逃れることができません。
終わりの日のアッシリヤは、イスラエルが異邦人の間に散らされて以来、イスラエルを苦しめてきたすべての迫害勢力の化身であると言えます。
「万軍の主は誓って仰せられた。「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおりに成就する。
わたしはアッシリヤをわたしの国で打ち破り、わたしの山で踏みつける。アッシリヤのくびきは彼らの上から除かれ、その重荷は彼らの肩から除かれる。
これが、全地に対して立てられたはかりごと、これが、万国に対して伸ばされた御手。
万軍の主が立てられたことを、だれが破りえよう。御手が伸ばされた。だれがそれを引き戻しえよう。」」
(イザヤ書14章24~27節)
ハルマゲドンの戦いのために諸国が集まるとき、主はアッシリア人を、キリストとその真理のすべての敵とともに滅ぼします。
イスラエルは完全に解放され、神は義の王国で栄光を与えられます。
最後の5節には、アハズ王の最後の年に与えられた、パレスチナとその人々についての別の預言があります。
「アハズ王が死んだ年、この宣告があった。
「喜ぶな、ペリシテの全土よ。おまえを打った杖が折られたからと言って。蛇の子孫からまむしが出、その子は飛びかける燃える蛇となるからだ。
寄るべのない者たちの初子は養われ、貧しい者は安らかに伏す。
しかし、わたしは、おまえの子孫を飢えで、死なせる。おまえの残りの者は殺される。
門よ、泣きわめけ。町よ、叫べ。ペリシテの全土は、震えおののけ。
北から煙が上がり、その編隊から抜ける者がないからだ。
異邦の使者たちに何と答えようか。『主はシオンの礎を据えられた。主の民の悩む者たちは、これに身を避ける。』」」
(イザヤ書14章28~32節)
これらのことがヒゼキヤの時代に起きました。
そして、ゼデキヤの短い支配の終わり時に終了したことを私たちは知っています。
最初に、この地はアッシリア人に侵略されました。
しかし、彼らは目的を達成することなく撃退されました。
そして、ユダの悔い改めと自己判断の欠如のために、最終的にネブカドネザルの軍隊がエルサレムを破壊し、何千人もの人々が殺害され、さらに多くの人々を捕虜にしました。
しかし、その滅びの地に降りかかる最後の苦難ではありません。
離散以降の長い年月を通じて、パレスチナはまさに戦場でした。
イスラエルの苦しみは筆舌に尽くしがたいものでした。
約束された救い主は、メシアとして身を低くされ恵みの中に来られました。
その国民が拒んだその方によって、彼らは解放されますが、その日はまだ来ていません。
15章、16章 モアブの宣告
短い15章では、預言者はモアブの最終的な滅亡を預言しています。
モアブというの名前を持つ国はエドムの地の北に位置しており、西は死海、東はアラビア砂漠に囲まれています。
北の境界は普通はアルノン川でした。
しかし、アンモン人との頻繁な争いのため、境界は時々変化していました。
時にはこの川の北数マイルまで広がることもありました。
モアブ人はロトの私生子とその長女の近親相姦による子孫です。
したがって、モアブは、神の子であると告白しながらも、実際にはその名を正当に主張できない人々を描いているのかも知れません。
言い換えれば、モアブは私たちにとって、新しい誕生の重要性を認識できない多くの人が満足している気楽な宗教的な信仰を表しているのかも知れません。
一般的に言えば、モアブはイスラエルに対していくぶん友好的でした。
しかし、イスラエルが約束の地の相続地に向かう途中で初めて彼らの国境を通過したとき、バラクは彼らによって滅ぼされることを恐れ、ベオルの息子バラムを雇って彼らを呪わせました。
しかし、私たちが知っているように、神はその呪いを祝福に変えました。
ルツ記は、飢饉の時期にエリメレクとその家族がモアブを訪れた時のことと、その滞在期間の不幸な結果について語られています。
ダビデはサウルに追われたとき、両親をモアブの国に連れて行き、その王の保護下に置きました。
しかし、年月が経つにつれて、モアブはエドムのようにイスラエルの敵になりました。
なぜなら、宗教が神の真実な子供たちに対して時にはどれほど友好的に見えても、主を真実に知っている人たちが自分たちより優れていると思うモアブ人に憤慨する日が必ず来るからです。
そのため、モアブがイスラエルとユダの敵と同盟を結んでいることが時折あります。
イザヤはここで、モアブの滅亡の日を最も鮮明に描写しています。
「モアブに対する宣告。ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、モアブは滅びうせた。ああ、一夜のうちにキル・モアブは荒らされ、滅びうせた。
モアブは宮に、ディボンは高き所に、泣くために上る。ネボとメデバのことで、モアブは泣きわめく。頭をみなそり落とし、ひげもみな切り取って。
そのちまたでは、荒布を腰にまとい、その屋上や広場では、みな涙を流して泣きわめく。
ヘシュボンとエルアレは叫び、その叫び声がヤハツまで聞こえる。それで、モアブの武装した者たちはわめく。そのたましいはわななく。
わたしの心はモアブのために叫ぶ。その逃げ延びる者はツォアルまで、エグラテ・シェリシヤまでのがれる。ああ、彼らはルヒテの坂を泣きながら上り、ホロナイムの道で、破滅の叫びをあげる。
ああ、ニムリムの水は荒廃した地となり、草は枯れ、若草も尽き果て、緑もなくなった。
それゆえ彼らは、残していた物や、たくわえていた物を、アラビム川を越えて運んで行く。
ああ、叫ぶ声がモアブの領土に響き渡り、その泣き声がエグライムまで、その泣き声がベエル・エリムまで届いた。
ああ、ディモンの水は血で満ちた。わたしはさらにディモンにわざわいを増し加え、モアブののがれた者と、その土地の残りの者とに獅子を向けよう。」
(イザヤ書15章1~9節)
これらすべての預言が過去にいつ、どのようにして最初に実現したのかは、私たちが歴史に十分精通していなければわからないかも知れません。
しかし、モアブが国家として完全に滅ぼされる日が来て、何世紀にもわたってその砂漠の土地にアラブ人が居住してきました。
モアブの滅亡は、主にアッシリアの軍隊、そして後にはバビロニアの軍隊によってもたらされました。
モアブの運命は、名声は生きながらえながら、神に対しては死んでいました。
モアブ、悔い改めて神に立ち返り、キリストに新しい命を見出すのではなく、空虚な信仰告白を続ける人々に最終的に下る裁きの厳粛な警告と見なすことができます。
次の章ではこのテーマが続き、まず、主御自身がモアブに、主の民に対する敵意を捨て、彼らの使節に友好の霊をもって迎え入れるようにと熱心に懇願されたことが示されます。
「子羊を、この国の支配者に送れ。セラから荒野を経てシオンの娘の山に。
モアブの娘たちはアルノンの渡し場で、逃げ惑う鳥、投げ出された巣のようになる。
助言を与え、事を決めよ。昼のさなかにも、あなたの影を夜のようにせよ。
散らされた者をかくまい、のがれて来る者を渡すな。
あなたの中に、モアブの散らされた者を宿らせ、荒らす者からのがれて来る者の隠れ家となれ。
しいたげる者が死に、破壊も終わり、踏みつける者が地から消えうせるとき、」
(イザヤ書16章1~4節)
モアブは主に羊や牛の飼育に専念し、ダビデとソロモンの支配時代、そしてその後も、イスラエルとユダに毎年一定数の羊や牛の群れを送って貢物を支払っていました。
しかし、イザヤの時代にモアブは反乱を起こし、この貢物を納め続けることを拒みました。
預言者は、神の啓示によって、その小羊をその地の支配者であるイスラエルの地に再び送るように、また、攻めてくる軍隊の恐怖におびえているときに、ヨルダン川を渡って避難しようとしている人々に対して報復的な行動をとるのをやめるように、モアブに訴えました。
このように主の民に友好的な態度を示すことにより、モアブは少なくとも当分の間は裁きを逃れることができたのです。
当時、預言者の言葉がこの国に、どの程度影響を与えたかは、私たちには知る余地もありません。
ここで、君主に与えられた権威を強調しながらも、神の油注がれた王であり、王座に座り、義をもって諸国を支配するメシアの到来を予見しています。
「一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行なう者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。」
(イザヤ書16章5節)
しかしながら、この嘆願に対しての反応がありません。
それどころか、預言者の嘆願に対して、モアブ人は冷淡かつ高慢な態度で応じ、それゆえに裁きが下されるのです。
「われわれはモアブの高ぶりを聞いた。彼は実に高慢だ。その誇りと高ぶりとおごり、その自慢話は正しくない。
それゆえ、モアブは、モアブ自身のために泣きわめく。みなが泣きわめく。
あなたがたは打ちのめされて、キル・ハレセテの干しぶどうの菓子のために嘆く。
ヘシュボンの畑も、シブマのぶどうの木も、しおれてしまった。国々の支配者たちがそのふさを打ったからだ。
それらはヤゼルまで届き、荒野をさまよい、そのつるは伸びて海を越えた。
それゆえ、わたしはヤゼルのために、シブマのぶどうの木のために、涙を流して泣く。
ヘシュボンとエルアレ。わたしはわたしの涙であなたを潤す。あなたの夏のくだものと刈り入れとを喜ぶ声がやんでしまったからだ。
喜びと楽しみは果樹園から取り去られ、ぶどう畑の中では、喜び歌うこともなく、大声で叫ぶこともない。
酒ぶねで酒を踏む者も、もう踏まない。わたしが喜びの声をやめさせたのだ。
それゆえ、わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために立琴のようにわななく。
モアブが高き所にもうでて身を疲れさせても、祈るためにその聖所にはいって行っても、もうむだだ。」
(イザヤ書16章6~12節)
神が預言者を通して熱心に嘆願し、邪悪な道から離れ神の権威に従うように懇願した他の多くの民と同じ様に、モアブの指導者たちは預言者の懇願に反抗し、イスラエルの神に従うようにという呼びかけに耳を傾けることを拒みました。
ゆえに、モアブは回復の望みはなくなりました。
モアブはまずセナケリブの支配下で、そして、その後は他の指導者の支配下で、アッシリア軍の侵略にさらされ、ついに国家としての存在は終焉を迎えます。
預言者が用いた言葉は実に感動的です。
モアブ自身が自分たちの救いを深く望みました。
彼らが主の命令に従うのをどれほど切望していたかを示しています。
この章の最後の2節では予備的な裁きが預言されています。
「これが、以前から主がモアブに対して語っておられたみことばである。
今や、主は次のように告げられる。
「雇い人の年期のように、三年のうちに、モアブの栄光は、そのおびただしい群衆とともに軽んじられ、残りの者もしばらくすれば、力がなくなる。」」
(イザヤ書16章13、14節)
現在では、古代の記録の大部分が破壊されています。
ゆえにこれらの言葉がいつ、どのように成就したのかは不明です。
また、私たちには分からないかもしれませんが、預言が予告どおり成就し、モアブの滅亡がイザヤの時代に始まったことは確かです。
17章 ダマスカスとエフライム
さて、ダマスカスへの宣言について考えてみましょう。
ユダとの決別後、エフライムとして知られるイスラエル国家はダマスカスと密接な関係がありました。
イスラエルは、ダマスカスを首都とする王国シリアと同盟を結んでいました。
そのため、この誇り高き都市とシリア王国に降りかかろうとしていた裁きに参加しなければなかったのです。
ダマスカスが世界最古の都市であると言われることもあります。
実際にそれは定かではありません。
しかし、数千年にわたって存在し、多くの戦争やその他の悲惨な経験を乗り越え、現在では美しい地区の真ん中にある大きな商業中心地として存在しています。
その美しさは、ムハンマドとその軍隊がこの都市の近くに到着し、丘の上からこの都市を見下ろしたとき、アラビアの偽預言者が信者の方を向いてこのように言ったと伝えられています。
「人間が入れる楽園はただ一つだけです。
ダマスカスへは行きません」
そして、彼とその仲間たちは立ち去りました。
イザヤが預言した当時、セナケリブの軍勢は急速にイスラエルとシリアに向かって進軍していました。
最初の節はこの猛攻についてこのように語っています。
「ダマスコに対する宣告。見よ。ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟となる。
アロエルの町々は捨てられて、家畜の群れのものとなり、群れはそこに伏すが、それを脅かす者もいなくなる。
エフライムは要塞を失い、ダマスコは王国を失う。アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる。――万軍の主の御告げ。――
その日、ヤコブの栄光は衰え、その肉の脂肪はやせ細る。
刈り入れ人が立穂を集め、その腕が穂を刈り入れるときのように、レファイムの谷で落穂を拾うときのようになる。」
(イザヤ書17章1~5節)
アロエルとして知られる都市、または地区が2つあります。
1つはモアブの地の死海の東にあり、もう1つはダマスカスの近くにあります。
ここで注目されているのは明らかに後者です。
アッシリアの攻撃の結果、ダマスカスとその周辺のすべての町や村がこの東の強国の餌食になりました。
イスラエルもまた、アッシリア人の手によって苦しめられることになりました。
イスラエルと諸国民に対して、もう一度行われる終わりの日に再び起こることが預言されています。
そのとき、かつてのように、主の御顔を求めるヤコブの残された者たちが救われるのです。
「オリーブを打ち落とすときのように、取り残された実がその中に残される。
二つ三つのうれた実がこずえに、四つ五つが実りのある枝に残される。――イスラエルの神、主の御告げ。――
その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、
自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない。」
(イザヤ書17章6~8節)
この残された者たちは多くの預言者の書の中で区別されています。
そして、新約聖書の中で再び私たちの前にはっきりと現されています。
「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」
(ローマ人への手紙11章26節)
多くの人は、これはヤコブの苦難の時に全国民が救われることを意味すると考えています。
しかし、この聖句を心に留めておく必要があります。
「なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、
アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。」
(ローマ人への手紙9章6、7節)
神がヤコブの真実な子孫であると認めるのは、残された者であることを覚えておく必要があります。
過去と同様に、最後の苦難の時にも護られており、彼らを通じてその地には再び人が住むようになるのです。
彼らは偶像崇拝を嫌悪し、父たちの神に頼り、神に保護を頼むと、神は彼らのために保護してくださいます。
「その日、その堅固な町々は、森の中の見捨てられた所のようになり、かつてイスラエル人によって捨てられた山の頂のようになり、そこは荒れ果てた地となる。
あなたが救いの神を忘れてあなたの力の岩を覚えていなかったからだ。 それで、あなたは好ましい植木を植え、他国のぶどうのつるをさす。
あなたが植えたものを育てるときに、朝、あなたの種を花咲かせても、病といやしがたい痛みの日に、その刈り入れは逃げうせる。」
(イザヤ書17章9~11節)
これらの言葉を文字通りに受け取るべきでしょうか?
それとも比喩的に受け取るべきでしょうか?
おそらくその両方だと考えます。
なぜなら、確かに、これらの聖句は過ぎ去った時代のイスラエルの愚かさを描いているからです。
彼らは、万軍の神、主から離れていたにもかかわらず、自分たちの罪深い状態の中で繁栄すると信じて自分たちを奮い立たせ、美しい庭園を植え、大きな町を建て、ついに神の裁きを受けました。
しかし、おそらくこれらの聖句は、過去に何度か文字通りに成就したことがあります。
そして、現在、再び成就していることを見ることになるかも知れません
トルコの悪政が長く続いていた間、パレスチナの土地はほとんど木が抜き取られていたことはよく知られています。
すでに、レバノンの森林は伐採され、木材はさまざまな用途に使われてました。
かつて、オリ―ブ山とスコポス山に生えていた木は、ヨセフスが語ったところによると、ローマのティトゥス将軍によって切り倒され、エルサレムの包囲中に用いられました。
トルコによる支配の最後の世紀に、オスマン帝国政府はすべての樹木に税金を課しました。
しかし、その税金があまりにも法外だったため、パレスチナの住民はそれに反発し、税金を支払う代わりに自分たちの領地にあるほとんどの樹木を切り倒しました。
しかし、第一次世界大戦後、パレスチナの委任統治が英国に委ねられると、英国政府が最初に着手したことがレバノンの山岳地帯の森林再生でした。
高地に何千本もの若い木が植えられ、また土地の排水を助けるために何千本ものユーカリ、またはブルーガムの木がオーストラリアから輸入され、レバノンの沼地の方に植えられました。
これに続いて、帰還したユダヤ人たちはすぐにオリーブ畑やオレンジなどの柑橘類の果樹園を作り始めました。
そのため、文字通り国土全体に奇妙な苗木が植えられ、パレスチナにはかつて素晴らしい繁栄の時代のように見えていました。
しかし、すべてがユダヤ人の希望通りになったわけではありません。
ユダヤ人に困難と災害が降りかかりました。
再びレバノンでは森林火災により多くの木々が破壊されました。
聖書にはヤコブがかつて経験したことのないような大きな恐ろしい試練が描かれているということ以外、未来に何が起こるのかは描かれていません。
確かに、収穫は悲嘆と絶望的な悲しみの日となりました。
これは、イスラエルの救いを神に叫び、エルサレムの平和を祈る私たちの心を動かすものとなりました。
「ああ。多くの国々の民がざわめき、――海のとどろきのように、ざわめいている。ああ、国民の騒ぎ、――大水の騒ぐように、騒いでいる。
国民は、大水が騒ぐように、騒いでいる。しかし、それをしかると、遠くへ逃げる。山の上で風に吹かれるもみがらのよう、つむじ風の前でうず巻くちりのように、彼らは吹き飛ばされる。
夕暮れには、見よ、突然の恐怖。夜明けの前に、彼らはいなくなる。これこそ、私たちから奪い取る者たちの分け前、私たちをかすめ奪う者たちの受ける割り当て。」
(イザヤ書17章12~14節)
過去におけるイスラエルの敵、特にイザヤの時代のアッシリヤ人や、後の時代のカルデア人の滅亡において預言が成就しました。
また、主御自身が預言された大患難時代と一致しています。
大患難時代の前の時代、すなわち、国民が国民に、王国が王国に敵対して立ち上がるとき、海と波がとどろき、あちこちで地震が起こり、人々は地上に起ころうとしていることを恐れて気落ちする時代が来ます。
苦難の最後の時が来ると、諸国はエルサレムに対して集結します。
異邦人の大軍は東から、北から、そして西からやって来て、血みどろの戦いを繰り広げ、インマヌエルの土地を奪おうとします。
しかし、主イエス・キリストが栄光のうちに現れ、最後の大戦争に終止符を打ちます。
獣と偽預言者と、彼らに従う者たちは主の息吹によって滅びます。
ゴグとマゴグの大軍と日の出る方の王たちは、神の民イスラエルの救いのために働く神の全能の力によって滅ぼされます。
18章 羽こおろぎの国
クリスチャンの学者、特に預言の解釈者たちの間で多くの意見の相違を生み出してきた章について考えてみます。
羽こおろぎの国がエジプトであることを当然のこととして受け入れた人は多くいます。
なぜなら、エジプトの記念碑の多くに現れ、実際にその力と偉大さの象徴であった翼のある太陽の円盤があるからです。
しかし、ナイル川がエチオピアから流れ、エジプトの真ん中を通り、北で地中海に注ぐとき、エジプトがエチオピアの川の向こう側にあったとは言えません。
過去1世紀半の間、再び、預言研究への関心が再燃しています。
そして、それ以来シンボルが米国を指していると考える人もいます。
なぜなら、米国の国章には翼を広げた鷲が描かれているからです。
他の国では、旗や紋章に鷲を使用していますが、アメリカで公式に使用されているように、翼をおおい隠すことはしていません。
他の多くの人たちは、それが間違いなく巨大な海洋勢力に言及しているので、かつて、海の支配を誇ったイギリスのことを預言していると考える人もたくさんいます。
そして、この預言がイギリスかアメリカのどちらかを確実に指していると特定することはできないようです。
もしくは、最後の大連合で結ばれた他の国々も含まれるかも知れません。
F.C.ジェニングスはイザヤについての記念碑的な著作の中で、この箇所で「エチオピア」と訳されているヘブル語のクシュとして知られる地域が二つあったことを指摘しています。
一つはユーフラテス川の岸辺にあり、もう一つは最近まで古代の名前が復元されるまでアビシニアとして知られていた地域です。
これら二つの土地の間にある広大な地域は、アブラハムに約束された地域に含まれています。
一時期ダビデとソロモンの両者によって支配されていました。
預言書を見るならば、イスラエルが千年王国の時代にこの土地すべてを所有することは明らかです。
見解によれば、ここで述べられている勢力は、これら2つの川の外側とその向こう側にあります。
そのため、西ヨーロッパの国々や、昔の預言者が知らなかった西半球の他の地域も含まれる可能性があります。
古代ローマ帝国から復興した十の王国が、攻撃と防衛の同盟によって結びつき、終わりの日に前線に現れます。
ヨハネの黙示録13章で「獣」と呼ばれる邪悪な人物が支配することになるということを私たちは知っています。
しばらくの間、この西洋の異邦諸国の最後の連合は自分たちの土地に復帰した国家としてのイスラエルの友人、および同盟者として行動します。
したがって、本章の冒頭で述べられているのはこれらの国だと結論するのが妥当です。
「ああ。クシュの川々のかなたにある羽こおろぎの国。
この国は、パピルスの船を水に浮かべて、海路、使いを送る。すばやい使者よ、行け。背の高い、はだのなめらかな国民のところに。あちこちで恐れられている民のところに。多くの川の流れる国、力の強い、踏みにじる国に。」
(イザヤ書18章1~2節)
この聖句にある「ああ」と訳されている語は、イザヤ書 55章1節で「ああ」と訳されている語と同じ言葉です。
つまり、注意を促す呼びかけです。
主は、エチオピアの川の向こうにあるこの偉大な勢力を、御自分の民を助けるために召し出しておられます。
間違いなく、その対象となっているのはイスラエルの人々です。
なぜなら、彼らは確かに何世紀にもわたって「散らされ、皮を剥がされた国民」であったからです。
訳者注)
新改訳「背の高い、はだのなめらかな国民のところに」
英語KJV訳
(a nation scattered and peeled)「散らされ、皮を剥がされた国民」となります。
他の民族もイスラエルと同じように苦しみ、あらゆる破壊の試みにもかかわらず、統一と国家としての存在を維持してきました。
しかし、イスラエルは最初から「恐れられている民」でした。
イスラエルが主の御告げどおりに出て行くのならば、イスラエルと向かい合った多くの民の上に恐れが走りました。
イスラエルの力は限りなく強大だったからです。
だが、イスラエルが従わないのならば、災いが下りました。
「世界のすべての住民よ。地に住むすべての者よ。山々に旗の揚がるときは見よ。角笛が吹き鳴らされるときは聞け。
主が私にこう仰せられたからだ。「わたしは静まって、わたしの所からながめよう。照りつける暑さで暑いころ、刈り入れ時の暑いときの露の濃い雲のように。」
刈り入れ前につぼみが開き、花ぶさが育って、酸いぶどうになるとき、人はその枝をかまで切り、そのつるを取り去り、切り除くからだ。
それらはいっしょにして、山々の猛禽や野獣のために投げ捨てられ、猛禽はその上で夏を過ごし、野獣はみな、その上で冬を過ごす。」
(イザヤ書18章3~6節)
明らかにここで描かれている帰還は、他の預言者たちの中で語られている帰還ではありません。
国民の悔い改めとイエスを救い主として認めることに基づいています。
船が彼らを陸に連れ戻しますが、主は見守ってはいますが、特別なで干渉をすることはありません。
山々に掲げられた旗は、何世紀にもわたって異邦人の間をさまよってきた人々がパレスチナに戻る合図となります。
このことは、すでに実現しているかも知れません。
彼らは今、この地に滞在しています。
他の国々から集まり、独立共和国として認められています。
彼らの苦しみは終わったと願うのは当然です。
しかし、将来、大患難時代の恐怖が猛威を振るい、彼らを襲います。
その時、さらに大きな苦難が彼らを待ち受けていることを知ることはありません。
そのように、願う人はいません。
多くの民から区別され、この残された者が主が特定されます。
「そのとき、万軍の主のために、背の高い、はだのなめらかな民、あちこちで恐れられている民、多くの川の流れる国、力の強い、踏みにじる国から、万軍の主の名のある所、シオンの山に、贈り物が運ばれて来る。」
(イザヤ書18章7節)
敵を裁き、残された者を主の民として認める時と一致しています。
大きなラッパが吹かれ、イスラエルの追放者たちは地上のあらゆる土地から彼らの旧約の祖国へ帰還するよう召集されます。
パレスチナと建国された新しい国家イスラエルについて、現在、起こっていることを見てみましょう。
神の教会がこの舞台から取り去られ、主のもとに引き上げられるのならばすぐに、これらすべてのことが簡単に、完全に成就するかを見ることができます。
常に神のみこころはイスラエルに向けられています。
イスラエルが神を訪れる時を知らなかったために、長い離散の時代を通して、神は彼らにひどい苦しみを経験することを許してきました。
しかし、彼らの罪が赦され、心が新たにされ、神のもとに回復され、川が何度も荒廃させた彼ら自身の土地に再び定住する日が必ず来ます。
これは預言書の中でよく知られているシンボルのことを述べています。
侵略軍はしばしば氾濫し破壊的な川として描写されています。
このような「川」は、キリストが拒絶され、約40年後にエルサレムと神殿が破壊されて以来、ほぼ2000年にわたってパレスチナの地を通り過ぎてきました。
こうしたさまざまな緊張の中で、パレスチナはほぼ継続的に戦場となってきました。
アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、エジプト、ローマ、そして後にはトルコやその他の勢力がこの土地をめぐって戦ってきました。
神の定められた時に、将軍 (後の支配者) アレンビーが一発も撃たずにエルサレムに入り、トルコ軍が土地の境界を越えて逃亡するまで、誰が勝ったとしてもユダヤ人は常に敗者でした。
神はイスラエルに対する目的の所儒に向けて摂理をもって働いてきました。
イスラエルは時には異邦人からの援助を受けながら、神ではなく、自分たちの知恵と力に頼ってきたため、これまで多くの失望を経験してきました。
そして、神の約束が完全に成就するまでには、今後も彼らの失望は増え続けるのです。
19章、20章 エジプトへの宣告
私たちがこれらの章を学ぶとき、たとえ言及されているさまざまな詳細を少ししか理解していなくても、私たちはこのかつての高慢で王国の報復的な裁きに対処する神の御手を認識しないわけにはいきません。
それは、その自主的な精神と主の民に対する高慢な態度のためです。
彼らは何世紀も前に残酷な束縛を受け、それ以来しばしばエジプトの暴力に苦しめられてきました。
イザヤが預言した時代、エジプトは表面的にはユダと同盟を結んでいました。
しかし、アハズや後にヒゼキヤを助けてアッシリア軍の猛攻に立ち向かおうとした時、エジプトは全く頼りにならないことがわかりました。
「人」を「国民」に、「彼」を「それ」に置き換えることで要約できるかも知れません。
国民は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
何世紀にもわたり、神の祝福は、義に従った国々に与えられてきました。
そして、堕落と暴力が神の御手に服従することに取って代わったとき、神の裁きは下されました。
歴史家や考古学者の間では、この章の最初の部分に含まれている預言が、いつ成就したのかについて肯定的に語れるほどの合意は得られていません。
しかし、これらの預言についての記念碑的な確証があるかどうかにかかわらず、すべての預言が神の御言葉どおりに実現したはずです。
イザヤの預言の頃、エジプトは数年間、内紛状態でした。
ファラオ自身も民衆はおろかエジプト軍さえも制御できないことが判明しています。
その結果、ファラオの王朝は倒され、いくつかの独立国家が起こされました。
しかし、結局、これらの国々を再び1つの帝国に統一できる王が現れました。
エジプトの記録は歴史の黎明期にまで遡ることを忘れてはいけません。
エジプトの宗教はもともと純粋な一神教でした。
使徒パウロがローマ人への手紙1章で異教徒について述べていることは、エジプトの国である程度現れていました。
彼らが神を知り、彼らは神から離れ、創造主ではなく被造物を崇拝し、仕え、像を立てました。
まず、最初に堕落した人間に似せた像を立て、彼らはそれらを自然のさまざまな力の神として認識しました。
後に彼らはトキのような鳥や雄牛やブバステスの猫(エジプト猫)のような獣を神格化しました。
ワニやコブラのような爬虫類を崇拝するまで堕落し、最後に私たちが最もよく知っているスカラベのような昆虫まで神格化しました。
。
人間の命も国家の命も、崇拝される神々の命より優れているわけではありません。
エジプトは政治的、道徳的、霊的に堕落し、ついにはかつて誇り高かった帝国は滅ぼされ、主要な領土の中にたくさんの卑しい王国になってしまいました。
19章の冒頭の節では、神が神の戦車に乗って天から降りてきて、この罪深い国民を罰する様子が描かれています。
「エジプトに対する宣告。見よ。主は速い雲に乗ってエジプトに来る。
エジプトの偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も真底からしなえる。
わたしは、エジプト人を駆り立ててエジプト人にはむかわせる。
兄弟は兄弟と、友人は友人と、町は町と、王国は王国と、相逆らって争う。
エジプトの霊はその中で衰える。わたしがその計画をかき乱す。
彼らは偽りの神々や死霊、霊媒や口寄せに伺いを立てる。」
(イザヤ書19章1~3節)
エジプトに対する神の忍耐はついに終わりを迎えました。
神はエジプトの偽りの神々に向かって、これらの神々がエジプトを救うことができないことを実証し、神御自身の全能を明らかにされています。
崇拝する人々は、自分たちが受けている苦しみに恐怖し、偽りの神々に助けを求めたが、無駄でした。
人々の心は衰え、絶望の中で、迷信の地で、すでに多く存在していた死霊を扱う降霊術師や、さまざまなペテン師に頼っていました。
もはや、自分たちを支配する王を尊敬しなくなり、次々と都市が反乱を起こし、独立した敵対国家が設立されました。
しかし、この新しい体制は、さまざまな名前や、州という組織による嫉妬のために、平和と安全をもたらすことはありません。
「わたしは、エジプト人をきびしい主人の手に引き渡す。力ある王が彼らを治める。――万軍の主、主の御告げ。――
海から水が干され、川は干上がり、かれる。
多くの運河は臭くなり、エジプトの川々は、水かさが減って、干上がり、葦や蘆も枯れ果てる。
ナイル川やその河口のほとりの水草も、その川の種床もみな枯れ、吹き飛ばされて何もない。
漁夫たちは悲しみ、ナイル川で釣りをする者もみな嘆き、水の上に網を打つ者も打ちしおれる。
亜麻をすく労務者や、白布を織る者は恥を見、
この国の機織人たちは砕かれ、雇われて働く者はみな、心を痛める。」
(イザヤ書19章4~10節)
数年にわたるほぼ絶え間ない内戦と内部抗争の後、歴史はプサメティコスとして知られる残忍で暴君的な指導者の台頭を記録しています。
彼は新しい王朝を創設し、少なくとも表面上は統一の様相をもたらすことに成功しました。
「残酷な領主」であると考えられています。
一方で、ここで私たちが知られているすべてのことが、そのままの順序で続いたのかどうか疑問が生じるかも知れません。
この預言は、エジプトが弱体化し、アラブ人、そして後にはオスマントルコの猛攻に抵抗できなくなる日を預言したものです。
残酷な君主とは特定の人物ではなく、エジプトを極めて厳しい隷属状態に置き、国民に課税して極度の貧困に陥れた歴代のオスマン帝国の支配者を指していると考える者もいます。
ここでは、エジプトがかつて優れていたさまざま偉大な商業事業の破壊について語っています。
その後の数世紀はこれらの預言が文字通り実現したことを証言しています。
エジプトの大規模な漁業は何らかの形で終焉を迎えています。
かつては魚が豊富にあったナイル川も魚を産まなくなりました。
かつて、エジプトは現在私たちが慣れ親しんでいる紙に代わるパピルス産業の中心地でした。
しかし、ナイル川の岸辺でパピルスが大量に生産しなくなったため、この材料の生産が中止されました。
エジプトの亜麻布がさまざまな文明国に輸出され、この産業がその土地の商人の莫大な収入源であったことはよく知られた事実です。
しかし、不思議なことに、そしてまさにこの預言どおり、亜麻の生産はほぼ終了しています。
エジプトの独占であったものが他の国々に引き継がれ、それ以来エジプトは本格的に亜麻布を生産する国ではなくなりました。
言葉は文字通り成就したのです。
「ツォアンの首長たちは全く愚か者だ。パロの知恵ある議官たちも愚かなはかりごとをする。
どうして、あなたがたはパロに向かって、「私は、知恵ある者の子、昔の王たちの子です。」と言えようか。
あなたの知恵ある者たちはいったいどこにいて、あなたに告げ知らせようというのか。万軍の主がエジプトに何を計られたかを。
ツォアンの首長たちは愚か者、ノフの首長たちはごまかす者。その諸族のかしらたちは、エジプトを迷わせた。
主が、彼らの中に、よろめく霊を吹き入れられたので、彼らは、あらゆることでエジプトを迷わせ、酔いどれがへどを吐き吐きよろめくようにした。
それで、頭も尾も、なつめやしの葉も葦も、エジプト人のために、なすべきわざがない。」
(イザヤ書19章11~15節)
ファラオの顧問たちが状況を適切に処理できないことが明らかになっています。
経済の大不況と政治的混乱の時代を明確に描写しています。
彼らのアドバイスは、国が直面している問題に対する本当の解決策を提供しなかったのです。
ゾアン(エジプトのタニス)の君主たちとノフ(メンフィスとして知られている)の君主たちは、彼らが直面している状況から抜け出す方法を無駄に探しました。
彼らの失敗の理由は、この区分の最後の節で明確に示されています。
彼らは、自分たちを助けることができる唯一の存在、つまり自分たちが軽蔑していたイスラエルの神に頼ることを拒みました。
霊にとらわれて、自分自身も国も制御できなくなりました。
これまで見てきたことを通して、私たちは、聖書の他の部分でとても明白に述べられていることを再び思い出します。
それは、エジプトは現在の邪悪な世界、つまりかつて神の民を奴隷として肉欲のムチの下で厳しく仕えさせていた不敬虔な組織の型であることです。
福音が宣べ伝えられ、主が御名のために民を召し出してきた何世紀にもわたって、この世は少しも良くなっていません。
むしろ、神と神の御言葉に対する態度が頑なになっています。
聖書はこのように告げています。
「しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。」
(テモテへの手紙第二3章13節)
現在、拒まれているキリストが燃える火の中を天から戻ってきて、神を知らない者たちに復讐するまで、この状況は変わりません。
そのとき、神の義の王国は人間が築いたすべての王国に取って代わり、その日、主のみが高く上げられます。
16節から始まる5つの異なるセクションがあります。
それぞれが「その日」という言葉で始まっています。
したがって、すべては主の日、主の勝利の日を待ち望んでいます。
「その日、エジプト人は、女のようになり、万軍の主が自分たちに向かって振り上げる御手を見て、恐れおののく。
ユダの地はエジプトにとっては恐れとなる。これを思い出す者はみな、万軍の主がエジプトに対して計るはかりごとのためにおののく。」
(イザヤ書19章16、17節)
これらの言葉は、まさに今まさに実現されつつあるという明確な証拠があります。
イスラエルが不信仰のまま自分たちの土地に戻るのを私たちは見てきました。
。そしてイスラエルの主な敵の一つは、かつてファラオによって奴隷にされたエジプトの国であり、その力が大きくなるのを恐れているように思われます。
しかし、これらの聖句によれば、エジプトの弱さが確認され、神の民が自分たちの土地に再定住することを許した神の明らかな力が確認されています。
それは、祝福の前兆であることが証明され、エジプトの敵意は、イスラエルが悔い改めて神に立ち返り、かつて拒んだメシアを受け入れる日に終わりを告げられるのです。
この預言をイザヤの時代のすぐ後の時代に関するものと解釈するならば、エジプトに対する恐れは、イスラエル人が増加してエジプトよりも強くなるのではないかという、昔と同じような恐れだけであることがわかります。
しかし、ユダはバビロンに連れ去られ、しばらくの間、主の証しはパレスチナの地では存在しなくなりました。
「その日、エジプトの国には、カナン語を話し、万軍の主に誓いを立てる五つの町が起こり、その一つは、イル・ハヘレスと言われる。」
(イザヤ書19章18節)
最初の神殿の破壊後に多くのユダヤ人がエジプトの地へ移住したことに関係しています。
何千人ものイスラエル人がエジプトの都市に住み、ここに会堂が建てられ、モーセの律法が読まれ、教えられた日が来たことが分かっています。
この聖句はこのことをに述べているのかも知れません。
エジプト人とユダヤ人の関係が非常に親密になり、両者が共に唯一の真の生ける神を認めるようになる将来の日を予見している可能性もあります。
ここで述べられている破壊の都市は、一般的には「太陽の都市」ヘリオポリスであると考えられています。
そのヘブル語名はIr-ha-cheresであったが、1文字の変化により イルハ、ここでは「破壊の都市」です。
街で生まれ、無慈悲な名前を持っていたと告白した巡礼者の元の故郷に、この名前を選んだのは賢明な判断でした。
「その日、エジプトの国の真中に、主のために、一つの祭壇が建てられ、その国境のそばには、主のために一つの石の柱が立てられ、
それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。
彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。
そのようにして主はエジプト人に御自身を示し、その日、エジプト人は主を知り、いけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。
主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。」
(イザヤ書19章19~22節)
この聖句の本当の意味については、さまざまな憶測がなされてきました。
私たちの多くは、ここで述べられている祭壇と柱は大ピラミッドを指していると主張しています。
現在「エホバの証人」として知られるラッセル派運動の創始者さえも含む、アングロ・イスラエル派やその他の人々の見解をよく知っています。
このピラミッドは神の指示によって建てられたと推測され、通路の長さなども考慮されています。
これは異邦人の時代の正確な時期を示すものです。
この時代が終わり、主イエスが来られる時期については、多くの学説がそれに基づいて立てられています。
しかし、かつて示唆された日付はすべて過ぎ去っており、その日と時刻は誰も知らないという言葉は今も真実のままなのです。
大ピラミッドは祭壇でも柱でもありません。
それは巨大な墓です。
エジプトが最後の日に主に立ち返るとき、主に礼拝が捧げられる何らかの記念碑の形のこの祭壇と柱がエジプトの国境に建てられたことは明らかです。
しかし、神がそれ以上の情報をどこに隠しているかを推測することは無意味です。
しかしながら、エジプトにこれから遣わされる救い主は、確かに、私たちの祝福された主イエスに他なりません。
主は、エジプトが受けた裁きによって教訓を学んだ後、エジプトを癒し、永続的な祝福をもたらすのです。
「その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。」
(イザヤ書19章23節)
これは確かに、これら二つの異邦人の大国を指しています。
もしくはもっと正確に言えば、その日にそれぞれの国に住む人々が互いに友好的な商業関係を持ち、イスラエルとともに主の民として認められる千年王国の時代を指しています。
(イザヤ書35章8~10節も参照)
次の2つの聖句で読むように、これらのかつての戦争勢力は完全な祝福を受けることになります。
「その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真中で祝福を受ける。
万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」
(イザヤ書19章24、25節)
このように、私たちは主自身がこの世界の支配を引き継ぐのならば、ユダヤ人と異邦人が約束された王国の祝福を共に楽しむのを見ることができます。
依然として、20章では神がエジプトに対処することについて言及されています。
ここでは具体的な日付が示されています。
「アッシリヤの王サルゴンによって派遣されたタルタンがアシュドデに来て、アシュドデを攻め、これを取った年、――
そのとき、主はアモツの子イザヤによって、語られた。こうである。
「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。」それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた。
そのとき、主は仰せられた。「わたしのしもべイザヤが、三年間、エジプトとクシュに対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いたように、
アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にし、はだしにし、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れて行く。
人々は、クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる。
その日、この海辺の住民は言う。
『見よ。アッシリヤの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げて来た私たちの拠り所は、この始末だ。私たちはどうしてのがれることができようか。』」」
(イザヤ書20章1~6節)
アッシリアの王サルゴンは、現代に記念碑にその名が記されるまで歴史的には知られておらず、イザヤの記録によって裏付けられました。
くりかえし、矛盾する古代の歴史や考古学的碑文によって証明される必要はありません。
なぜなら、私たちは、聖書が神の誤りのない言葉であり、したがって、たとえ古代の記録の一部が聖書と矛盾していたとしても常に正しいことを確信できるからです。
しかし、不信者が喜んで提起した疑問や質問に関して、神は考古学者のスコップを通して、神の御言葉の真実性を完全に確証することを繰り返して喜んでおられます。
サルゴンは短期間ではあったが、絶大な権力を行使しました。
アッシリア軍によってエジプト人にもたらされる苦難の兆しとなるように神から命じられたのです。
エジプト人が直面しなければならない状況を示すために、上着を脱ぎ捨て、サンダルを脱ぎ捨て、人々の前を「裸で裸足で」歩くように命じられました。
命じられたのは裸ではなく、はだしだったことに留意してください。
東洋人にとって、イエスの長い衣を脱ぐことは、イエスを裸のように見え、このようにしてイザヤは一つのしるしとなった。
また、預言者がエジプトの懲罰の3年間の間、このように過ごしなければならなかったとはここでは述べられていません。
しかし、おそらく、イザヤの3日間は、彼らが苦しむことになっていた3年間に対応していたのだと指摘する人もいます。
この章の残りの部分では、エジプト人は絶望の中で自分たちの無力さを認識し、救い主を求めて叫びます。
すでに述べたように、その救出者は主の来るべき日にはまだ現れていません。
21章 バビロン、ドゥマ、アラビア
私たちにとって共通の関心事があります。
なぜなら、そこで述べられているそれぞれの国が、イスラエルとユダの抑圧者、または敵として目立つようになったからです。
1~10節はバビロンについて語っています。
ここで預言者は遠い未来を見ています。
なぜなら、彼の生涯において、バビロンは神の民にとって潜在的な敵とさえ認識されていなかったからです。
この本に後ほど記されているように、ヒゼキヤの治癒後、友好的なバビロン王から使者がやって来ます。
ユダヤ王に祝福を伝え、その国で起こった奇跡、すなわちアハズの日時計の影が戻ったことについて尋ねています。
ヒゼキヤはためらいも疑いもなくこの使節団を迎え入れた。
しかし、後にイザヤは、彼らが見たものすべてが遠い土地に運び去られる日が来ることをヒゼキヤに知らせました。
神はすでに、そのしもべにバビロンが彼らが恐れなければならない圧倒的な敵であることを明らかにしていました。
この幻の中で、イザヤはこの偉大な敵の破滅を予見しています。
しかし、その予知はその敵が倒された日に実際に起こったことと完全に一致しています。
「海の荒野に対する宣告。ネゲブに吹きまくるつむじ風のように、それは、荒野から、恐ろしい地からやって来る。
きびしい幻が、私に示された。裏切る者は裏切り、荒らす者は荒らす。エラムよ、上れ。メディヤよ、囲め。すべての嘆きを、私は終わらせる。
それゆえ、私の腰は苦痛で満ちた。女の産みの苦しみのような苦しみが私を捕えた。私は、心乱れて聞くにたえない。恐ろしさのあまり、見るにたえない。
私の心は迷い、恐怖が私を震え上がらせた。私が恋い慕っていたたそがれも、私にとっては恐れとなった。」
(イザヤ書21章1~4節)
偉大で繁栄した都市バビロンを「海の荒野」と表現するのは奇妙に思えるかもしれない。
しかし、神は存在しないものを存在するかのように語るのであり、イザヤは、その偉大な政治的、宗教的、商業的中心地が完全に破壊され、ユーフラテス川が流れる荒れ果てた砂漠地帯の一部となる時を預言的に待ち望んでいました。
旧約聖書では、文字通りの都市バビロンは偶像崇拝の発祥地であり、その後の王たちの支配下で古代世界の一大商業中心地でした。
神へ反抗したゆえ、バビロンはついに完全に滅ぼされました。
これは本書13章に既に記されており、エレミヤ書50章と51章にも記されています。
文字通りのバビロンは永遠に廃墟となり、再建されることは決してありません。
しかし、何世紀にもわたって、その都市はゆっくりと台頭してきた偉大な宗教的、政治的、商業的なシステムの一つの形態です。
真実な教会が主に追いついた後に、その力が全うされるのです。
このバビロンについては、ヨハネの黙示録17、18章に書かれています。
しかし、この神秘的なバビロンの幻を見ようと御使いがヨハネに呼びかけたとき、ヨハネを荒野に連れて行ったことは重要な事柄です。
なぜなら、バビロンの原理が普及しているところでは、さまざまな真実な霊性が失われ、干上がった乾燥した荒れ地が広がっているからです。
ですから、ここでの幻が「海の荒野に対する宣告」と呼ばれていることに驚く必要はありません。
イザヤはバビロンが神聖なものの裏切り者であることを前もって見ているのです。
それは神の反抗的な民を罰するための無意識の道具であり、麦からもみ殻を分けるために脱穀するための殻かいです。
神の目的がこのように成就されると、バビロン自体が裁かれることになります。
そして、この裁きは非常に恐ろしいものでした。
神の霊がその形だけの町を恥ずべき終わりに至らせようとして恐ろしい圧倒的な災害を与えようとしています。
このことを預言者に明らかにしたとき、預言者のからだは深い不安でかき立てられました。
神は、この目的のために使用される強大な軍隊の国々の名前を宣言しています。
エラムはペルシャです。
メディヤはその中で連合することになっています。
ダニエル書5章に書かれているように、彼らはカルデア、エクバタナ、ボルシッパの主要な町を占領し、最後にバビロンを占領しました。
「彼らは食卓を整え、座席を並べて、飲み食いしている。「立ち上がれ、首長たち。盾に油を塗れ。」
主は私にこう仰せられた。「さあ、見張りを立たせ、見たことを告げさせよ。
戦車や、二列に並んだ騎兵、ろばに乗った者や、らくだに乗った者を見たなら、よくよく注意を払わせよ。」
すると獅子が叫んだ。「主よ。私は昼間はずっと物見の塔の上に立ち、夜はいつも私の見張り所についています。
ああ、今、戦車や兵士、二列に並んだ騎兵がやって来ます。彼らは互いに言っています。『倒れた。バビロンは倒れた。その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれた。』と。」
踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ。私はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ。」
(イザヤ書21章5~10節)
イスラエルの敵がさらされる恐ろしい苦しみを預言することは、イザヤに喜びを与えていません。
イザヤの優しい心は、偶像崇拝と腐敗がイスラエルにもたらすであろう荒廃と破壊を深く悲しんでいます。
ダニエルはベルシャツァルの最後の夜に起こった騒ぎの光景を、まるで目撃者のように語っています。
ヘロドトスによると、クロスが町の上空数マイルのユーフラテス川の水を止めた後、ユーフラテス川の乾いた河床を通ってバビロンに入った同盟軍の軍隊の流入に続く恐怖の光景が、わずかだが明快な言葉で描かれています。
歴史家の中にはこの話を否定する人もいるのは事実です。
ヘロドトスが正しかったかどうかは別として、メディア人とペルシャ人は何らかの方法で都市を占領するためのさまざまな障害を克服し、通りに群がって老いも若きも殺害しました。
反対にバビロンの君主たちは、このような予期せぬ攻撃に全く備えがなく、恐怖に駆られて都市の守備隊を結集しようとしていました。
しかし、もう遅かったのです。
「その夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは殺され、
メディヤ人ダリヨスが、およそ六十二歳でその国を受け継いだ。」
(ダニエル書5章30、31節)
イザヤは自分から番人となり、預言的な目で勝利した征服者たちの戦車を眺めています。
そして、新約聖書にあるような「倒れた。バビロンは倒れた。その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれた」という叫びを聞いています。
ついに、ここでこの偶像崇拝の大きな源泉は破壊されることとなりました。
バビロンの滅亡が「踏みにじられた私の民、打ち場の私の子ら」と呼ぶイスラエルの解放を意味することを理解して叫ばれています。
そして、厳粛にこの幻が神から与えられたものであることを主張しています。
次の2つの節で述べられている「ドマに対する宣告」は、私たちが最も注意深く注意を払う価値があります。
これは、神の最後の裁きが地上に下る前、さまざまな時においても適用されるメッセージです。
「ドマに対する宣告。セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」
夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」」
(イザヤ書21章11、12節)
「ドマ」は「沈黙」を意味し、ヘブライ語の単語は英語の「dumb」とほぼ同じです。
この街は、セイルと呼ばれるエドムの地の異名として、ここに存在しています。
これはエサウの相続地であり、戦争と狩猟を好む野性の男たち、エサウのような民族が住む険しい山岳地帯です。
彼らの祖先であるエサウは、偉大な狩人です。
恐れを知らない戦士として尊敬されていました。
イスラエルと密接に関係しているので、彼らはイスラエルの同盟国であると期待されていたかも知れません。
しかし、実際は逆でした。
ここで私たちが目の前にしているのは、大きな裂け目の反対側にいる二人の見張り番の描写です。
一方にはユダヤの荒野の都市、もう一方にはエドム人の要塞を思い浮かべるかも知れません。
見張りがこれらの町の城壁の上を行ったり来たりしていて、互いの声が聞こえるくらい近くにいます。
エドムの滅亡についてはユダヤの預言者によって何度も預言されてきたが、これらの預言はエドム人によって完全に無視されました。
疑わしげな声が聞こえてきます。
「夜回りよ。今は夜の何時か。」
つまり、「夜はどれくらい経ったか」ということです。
「栄光が現れる時はどれくらい近づいたか?」ということを言いたいのです。
答えは「朝が来る」です。
それは、神の御言葉を信じ、イスラエルが祝福に満ちた状態にされることを信じる信仰の宣言です。
しかし、見張りは「また夜も来る」と付け加えています。
イスラエルの栄光の日は、エドムの破滅の夜です。
そして、「尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」と真剣に懇願し続けています。
それは、神のしもべを通して語られる神の声です。
神のない世界の無感覚な人々を代表してエドムを呼んでいます。
実際に主が啓示されたことについて熱心に調査し、今もなお「来なさい」と言われています。
その招きを受け入れるすべての人を迎え入れるのを待ち望んでおられる方のもとに、彼らの罪と反逆から立ち返るように懇願しているのです。
アラビヤに対する宣告は短いものですが、イシュマエルの息子たちの都市について、実際に何が起こったのかは、私たちの知識が限られています。
ゆえに、明確に説明できないことがたくさん含まれています。
「アラビヤに対する宣告。デダン人の隊商よ。アラビヤの林に宿れ。
テマの地の住民よ。渇いている者に会って、水をやれ。のがれて来た者にパンを与えてやれ。
彼らは、剣や、抜き身の剣から、張られた弓や激しい戦いからのがれて来たのだから。
まことに主は私に、こう仰せられる。「雇い人の年期のように、もう一年のうちに、ケダルのすべての栄光は尽き果て、
ケダル人の勇士たちで、残った射手たちの数は少なくなる。」イスラエルの神、主が告げられたのだ。」
(イザヤ書21章13~17節)
ここに記録されているそれぞれの詳細を私たちが理解できるかはわかりません。
しかしながら、アラビアがアッシリア人の手によって明確な形で苦しめられていたことは明らかです。
少なくともしばらくの間、イシュマエル族の誇りは抑えられ、彼らの都市は略奪されました。
エドム人のように、彼らが最終的に滅ぼされるという兆候はありません。
なぜなら、アラビアは将来においても祝福されるからです。
約束に従って生まれた者の息子たちは、その罪過のために世界中に散らされてきました。
それでも、神は何世紀にもわたって、肉に従って生まれたアブラハムの息子の子孫を守ってきたのです。
22章 幻の谷
預言者は、エルサレムがセナケリブとその同盟者であるエラムとキルのアッシリヤの軍勢によって滅ぼされようとしている時、主からの御言葉をエルサレムの人々に伝えるために立ち上がります。
私たちが知っているように、エラムはペルシアの地で、何世紀にもわたってアッシリヤの敵でした。
しかし、この時代、エラムはペアッシリヤに従属し、ユダの地を征服しようとして、軍勢を遣わしてセナケリブに協力させました。
冒頭節でイザヤは、神の民であると告白しながらも、神を忘れ、神の御言葉に従うことから離れてしまった人々の実態を明らかにしています。
「幻の谷に対する宣告。これはいったいどうしたことか。おまえたちみな、屋根に上って。
喧噪に満ちた、騒がしい町、おごった都よ。
おまえのうちの殺された者たちは、剣で刺し殺されたのでもなく、戦死したのでもない。
おまえの首領たちは、こぞって逃げた。
彼らは弓を引かないうちに捕えられ、おまえのうちの見つけられた者も、遠くへ逃げ去る前に、みな捕えられた。
それで、私は言う。「私から目をそらしてくれ、私は激しく泣きたいのだ。私の民、この娘の破滅のことで、無理に私を慰めてくれるな。」
なぜなら、恐慌と蹂躙と混乱の日は、万軍の神、主から来るからだ。幻の谷では、城壁の崩壊、山への叫び。
エラムは矢筒を負い、戦車と兵士と騎兵を引き連れ、キルは盾のおおいを取った。
おまえの最も美しい谷は戦車で満ち、騎兵は城門で立ち並んだ。
こうしてユダのおおいは除かれ、その日、おまえは森の宮殿の武器に目を向けた。」
(イザヤ書22章1~8節)
この本の多くの箇所と同様に、これらの聖句は、パレスチナが、ユダヤ人を追放し、彼らの土地を奪おうとする東方の大国にさらされる最後の日に、明らかに二回目の成就を迎えることを示しています。
しかしながら、これらの言葉の主な適用対象は、ヒゼキヤの時代にセナケリブの軍勢の接近を恐れていた人々でした。
それでもなお、主に心を向け救いを求めるのではなく、笑いと軽率さで恐怖を押し殺そうとした人々に対して、最初に適用されています。
民の状態は預言者に激しい心の苦悩をもたらしました。
いわば、二世紀後にバビロニア人によって滅ぼされる都市を見下ろしながら、預言者はその都市を嘆き悲しんでいます。
それは、後に私たちの祝福された主が、オリーブ山からヘロデ王が建てた壮麗な神殿を見下ろし、エルサレムが訪問の時を知らず、滅ぼされなければならないという事実を嘆いたのと同じです。
そして、その後ヨシヤ王の忠誠心によってその破壊は延期されました。
それでも預言者は聖都が明らかに残酷で貪欲な異邦人の国の餌食になるであろうという事実を認識していました。
次の聖句ではイザヤは、ヒゼキヤが都市が包囲の脅威に抵抗できるように準備したことについて語られています。
「おまえたちは、ダビデの町の破れの多いのを見て、下の池の水を集めた。
また、エルサレムの家を数え、その家をこわして城壁を補強し、
二重の城壁の間に貯水池を造って、古い池の水を引いた。
しかし、おまえたちは、これをなさった方に目もくれず、昔からこれを計画された方を目にも留めなかった。」
(イザヤ書22章9~11節)
ヒゼキヤの知恵と先見の明を示すこれらの予防措置については他の箇所でも読むことができます。
しかし、これだけでは町を救うことはできません。
アッシリア軍を滅ぼしエルサレムを救ったのは神の介入によることだけです。
私たちが知っているように、ヒゼキヤは主に心から立ち返ったが、民は違いました。
重大な危険な時に、意識的に民は神の御前に導けたはずです。
また、民が神の顔を求め、神の哀れみを頼りにする立場に立つことができたはずです。
しかし、民はその自己判断に導くこともできません。
「その日、万軍の神、主は、「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ。」と呼びかけられたのに、
なんと、おまえたちは楽しみ喜び、牛を殺し、羊をほふり、肉を食らい、ぶどう酒を飲み、「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから。」と言っている。
そこで万軍の主は、私の耳を開かれた。
「この罪は、おまえたちが死ぬまでは決して赦されない。」と、万軍の神、主は仰せられた。」
(イザヤ書22章12~14節)
民は自分たちの危険な状態も、自分たちの悲惨なほど低い霊的な状態も本当に認識していないようです。
断食と祈り、その他の悔い改めの証しをもって主を待ち望むべきときに、宴会を開いて喜び、あたかも人生が陽気さと軽薄さのためだけに存在しているように暮らしていました。
まさにコリン人への手紙に書かれている通りです。
「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」
(コリント人への手紙第一15章32節)
使徒パウロはキリストを信じる信仰によって救われたと言いながら、復活を否定する人々の愚かさを示し、これらの言葉を引用していることを覚えておくべきです。
これではクリスチャンは絶望的になってしまいます。
彼らはキリストの名のためにこの世の快楽を放棄しました。
しかし、それでも永遠に期待するものは何もなかったのです。
ここでエピクロス派の詩人アラトゥスとクレアンテスの主張を採用していません。
彼らは、イザヤの時代の無頓着で物質主義的なユダヤ人と同じ感情を表現しています。
彼らも「食べたり飲んだりしよう。明日は死ぬのだから」と書いています。
これは思慮ある者にとって、愚行の極みです。
このような世界に生き、その先には幸福、もしくは悲惨な永遠の世界が待っていることを知るというのは重大なことです。
ならば、すべての良識ある人は、人生は快楽を求めて消費されるために与えられたのではありません。
「永遠の価値観を考えて」、神を恐れながら賢明に使われるために与えられたという事実を認識するはずです。
この章の最後の部分はまったく異なる特徴を持っています。
ヒゼキヤの支配で信頼される地位にあった二人の人に向けられています。
イザヤ書の36章と37章でもこのことについて、くりかえし読むことができます。
シェブナは、ヒゼキヤの首相であり、もしくは大蔵大臣です。
もしくは、我が国でより一般的な用語で言えば、財務長官とも言える人物でした。
利己的で、貪欲で、狡猾で、野心的な性格の持ち主であり、自分の富と栄光のために自分の地位を利用していました。
万軍の主なる神は明確にこのように言われています。
「万軍の神、主は、こう仰せられる。さあ、宮廷をつかさどるあの執事シェブナのところに行け。
あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。
ここはあなたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。」
(イザヤ書22章15、16節)
シェブナは、ユダの王たちが葬られた石灰岩の岩の上に、自分のために大きな墓を建てさせました。
シェブナはこのようにして自分の記憶を何年にもわたって永続させたいと考えていました。
しかし、人と同じように見ない神は、シェブナの品性の無価値さを見抜いて、彼をさばこうとしています。
シェブナは職務を解かれ、捕囚され、遠い地で死ぬことでした。
自分のために用意した墓に誰が埋葬されるのでしょうか?
多くの人はこの男を終わりの日の反キリストの型だと考えました。
この解釈は正しいのかも知れません。
いずれにせよ、罪の人の性質とシェブナの性質は互いに類似しています。
そして、それぞれの裁きは、神の目的を成就させるために別の存在として認識することができます。
シェブナの後継者はエリアキムです。
明らかにシェブナは、反キリストが滅ぼされたときにこの世の支配権を引き継いだ私たちの主イエス・キリストの象徴です。
「ああ、ますらおよ。主はあなたを遠くに投げやる。主はあなたをわしづかみにし、
あなたをまりのように、くるくる丸めて、広い広い地に投げ捨てる。あなたはそこで死ぬ。あなたの誇った車もそこで。主人の家の恥さらしよ。
わたしはあなたをその職から追放し、あなたの地位から引き降ろす。
その日、わたしは、わたしのしもべ、ヒルキヤの子エルヤキムを召し、
あなたの長服を彼に着せ、あなたの飾り帯を彼に締め、あなたの権威を彼の手にゆだねる。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。
わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。
わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。
彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。子も孫も、すべての小さい器も、鉢の類からすべてのつぼの類に至るまで。」
(イザヤ書22章17~24節)
エリアキムは信頼できる人物であり、真実な政治家であり、ヒゼキヤの忠実なしもべでした。
彼は単なる政治家ではなく、政治家でした。
彼は祖国に対する心からの愛に突き動かされ、神を恐れる性質を持っています。
エリアキムはシェブナが退いた職を引き継ぐことになっていました。
エリアキムにはダビデの鍵、すなわち王家の宝物庫の鍵が託され、必要に応じて開け閉めする権限が与えられました。
ここで、私たちの祝福された主の非常に愛すべき型を見ることができます。
主は、ここでフィラデルフィアの教会に話しかけるときに、まさにここで私たちが目にする表現が使われています。
ヨハネの黙示録3章7節にはこのようにあります。
「聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。」
(ヨハネの黙示録3章7節)
神から与えられた導き手、守護者として彼を尊敬する人々に対して、神は神の真理の宝庫を開き、神が御言葉の中に蓄えた貴重なものを彼らに明らかにします。
エリアキムは、確かな場所に打ち込まれた釘のようになるはずです。
これは、幕屋の支柱に打ち込まれた木の杭のことです。
この杭には、野営生活で使われる容器や、テントで暮らす人々の衣服が掛けられました。
このように、神がご自分の民のために備えられた糧と慰めはエリアキムにかかっていたのです
私たちはこの描写の中に、救いのためにキリストに信頼を置いた人々の平安の実例を見ることができます。
確かに、エリアキムは確かな場所に打ち付けられた釘です。
小さな盃から大きな旗に至るまで、さまざまな容器を彼の上に掛けることができたのです。
これらの者たちの安全は、彼ら自身が釘に引っ掛ける能力にあるのではありません。
この者たちが釘に掛けられているという事実にあります。
釘自体がその場所に留まっている限り、彼らは安全であり、私たちの祝福された主のために失敗はありません。
古い創造はアダムにおいて堕落しました。
しかし、新しい創造はキリストにおいて成り立っており、神の家の栄光のすべてがキリストの上にかかっています。
最後の節は明らかにシェブナに戻っています。
これはエリアキムについて言及している可能性は決してありません。
なぜなら、それは先ほど宣言されたこととエリアキムとは直接矛盾するからです。
「その日、――万軍の主の御告げ。――確かな場所に打ち込まれた一つの釘は抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取りこわされる。主が語られたのだ。」
(イザヤ書22章25節)
「その日」という表現は明らかに、シェブナが退けられ、エリヤキムがその職に就く、前に述べた日を指しています。
サタンに属するものが滅ぼされ、破壊され、神に属するものだけが残る日はそう遠くありません。
そのとき、私たちの主イエスは、御父から授けられた権威を引き継ぎ、すべてのことが御心のままになり、御心によって支えられるのです。
23章 ツロに対する宣告
さて、私たちは、イスラエルが関係しなければならなかった諸民族や諸都市について、これらの特別な預言の最後の部分に行きます。
これらのうちの三つは、キリストが私たちを救うために死んでくださった、現在の邪悪な世の明確な型として考えることができます。
エジプトは、私たちが生まれつきの状態で初めて知った世界、つまり暗闇、束縛、そして死の光景を語っています。
ファラオは、王としてだけでなく、神として人々に認められ、神の栄誉が与えられました。
このように、これらの国々はこの世の君主であり神であるサタンについて私たちに語っているのです。
イスラエルは過越の小羊の血と全能の神の力によってエジプトから救い出されました。
神はイスラエルを葦の海の干上がった川床に導き、彼らのあとから飛び込んで来たパロの軍勢を滅ぼしました。
葦の海の向こう側の岸で、このように彼らを驚くべき救い出した神を彼らは讃美して歌いました。
私たちも神の恵みにより、そのような解放を経験しました。
そして、エジプトがイスラエルに対して、またイスラエルがエジプトに対して死んだのと同じように、私たちが十字架につけられた救い主と一体となることにより、私たちは世界に対して、そして世界も私たちに対して死んだと言えるのです。
むしろ、バビロンは神の啓示に基づかず、人間の虚しい想像力に基づく宗教であり、神の御心に従わない宗教のことを言っています。
この偶像崇拝の都市から、古代世界のいたるところに偶像崇拝が広まりました。
現在、この偶像崇拝は、力のない神としての形態を持つ世的な宗教として見ることができます。
私たちは、ヨハネの黙示録にある偉大なる王バビロンの奥義の中で、その全容を見ることができます。
これは、教会が主と元に引き上げられた後に起きる、世界の大部分を支配する巨大な宗教、政治、商業的組織なのです。
ついには、地球の王国の支配者がこの悪夢に飽き、これを完全に破壊します。
ツロは、世界の偉大な商業システムとして語られています。
そこでは、人々は物質的な追求を通じて自分と家族を豊かにしようとします。
しかし、さまざまな種類の贅沢を楽しみますが、神を忘れています。
現在、国家が次から次へと商業的利益のために手を伸ばし、前世紀には知られていなかったような贅沢な規模で人々が生活しています。
これが私たちが知る現在の世界に広く見られる一つの側面です。
しかし、人々が心を傾けてきたこれらすべてのものが破壊され、現在の世界システムが消滅する日がやがてやってきます。
ツロの破滅についての預言の中でも、私たちはこのように見ることができます。
「ツロに対する宣告。タルシシュの船よ。泣きわめけ。ツロは荒らされて、家も港もなくなった、とキティムの地から、彼らに示されたのだ。
海辺の住民よ。黙せ。海を渡るシドンの商人はあなたを富ませていた。
大海によって、シホルの穀物、ナイルの刈り入れがあなたの収穫となり、あなたは諸国と商いをしていた。
シドンよ、恥を見よ、と海が言う。海のとりでがこう言っている。
「私は産みの苦しみをせず、子を産まず、若い男を育てず、若い女を養ったこともない。」
エジプトがこのツロのうわさを聞いたなら、ひどく苦しもう。」
(イザヤ書23章1~5節)
当時、世界で知られていたすべての港に船が到着していた大都市としてのツロが完全に破壊されることを預言者は予見しました。
シドンは母都市でしたが、娘都市ツロの偉大さに達することはありません。
ツロはシドンを去った商人たちが海岸沿いに大きな都市を建設するために定住した都市です。
一部は陸地、一部は海岸から少し離れた岩の島の上に建設され、その二つは石の土手道で結ばれていました。
ツロの歴史はスリリングなロマンスのように読むことができます。
時間をかけて、知るならば人には必ず報いを与えられると思います。
シドン人はフェニキア人であり、活動的かつ進歩的な民族でした。
そこからより進歩的な現代の民族の一部が生まれました。
自分たちの考えを書面で表現するために象形文字を使用していた時代に、彼らはアルファベットを発明したとされています。
私たちのアルファベットは多くの点で古代フェニキア文字と関連しています。
イザヤの預言の当時、ツロが思い出の地と化すとは信じ難いことのように思われたはずです。
しかし、その預言は文字通り成就しました。
現在のツロは、古代の偉大な大都市の汚い名残りに過ぎません。
この都市の破滅は、エジプトのような近い国々からタルシシュのような遠い国々まで影響を及ぼすことになりました。
なぜなら、彼らの商品はツロの船を通じて、利益を上げて、取引されていたからです。
「海辺の住民よ。タルシシュへ渡り、泣きわめけ。
これが、あなたがたのおごった町なのか。その起こりは古く、その足を遠くに運んで移住したものを。
だれが、王冠をいただくツロに対してこれを計ったのか。その商人は君主たち、そのあきゅうどは世界で最も尊ばれていたのに。
万軍の主がそれを計り、すべての麗しい誇りを汚し、すべて世界で最も尊ばれている者を卑しめられた。」
(イザヤ書23章6~9節)
ある程度タルシシュは一般的な用語のようで、確かにスペインを含んでおり、おそらく英国も含まれています。
ツロの商人がタルシシュから錫、鉛、その他の金属を持ってきたと言われています。
「タルシシュは、おまえがあらゆる財宝に豊かであったので、おまえと商いをし、銀、鉄、すず、鉛を、おまえの品物と交換した。」
(エゼキエル書27章12節)
これらの鉱物はスペインとイギリスの鉱山で発見されました。
その島国ブリタニアの古代名で「錫の国」を意味する「ブリタニア」という言葉が由来となっています。
反対に、列王記第一10章22節には、ソロモンの海軍がタルシシュから金、銀、象牙、さる、くじゃくをパレスチナにもたらしたと記されています。
「王は海に、ヒラムの船団のほか、タルシシュの船団を持っており、三年に一度、タルシシュの船団が金、銀、象牙、さる、くじゃくを運んで来たからである。」
(列王記第一10章22節)
くじゃく後のものはもともとインドから来たものなので、タルシシュは西ヨーロッパだけでなく東アジアも指していると思われます。
ソロモンの海軍は3年に1度往復航海を行いました。
彼らは地中海を通り、ヘラクレスの柱を越えて広い大西洋に出て、南下してアフリカの海岸を通り、喜望峰を回り、インド洋を通ってヒンドゥスターンに戻ってくる長い航海を行いました。
ソロモン王の所有であったにもかかわらず、ツロの船で行われたことは注目に値します。
ツロの偉大な商人王たちが、地上の名誉ある人々とみなされていました。
現在でも、商業を通じて巨額の富を築いた人々に敬意が払われているのと同じです。
残念なことに、このように裕福になった人々は、巨額の富を稼ぐ能力を与えた神に栄光を帰すことはほとんどありません。
ツロは神を全く考慮に入れなかったので、神は他の大国をツロに差し向け、「すべて世界で最も尊ばれている者を卑しめられた」ことになりました。
なぜなら、神は肉なる者が神の前で誇ってはならないと定めたからです。
現在の私たちクリスチャンにとって、地上の偉大な者たちが拒んだキリストの十字架の恥ずべき死を語ります。
しかし、その死によって、私たちは地上の栄光のすべての終わりを見ることができます。
ですから、使徒パウロとこのように同じことを言うことができます。
「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」
(ガラテア人への手紙6章14節)
「タルシシュの娘よ。ナイル川のように、自分の国にあふれよ。だが、もうこれを制する者がいない。
主は御手を海の上に伸ばし、王国をおののかせた。主は命令を下してカナンのとりでを滅ぼした。
そして仰せられた。「もう二度とこおどりして喜ぶな。しいたげられたおとめ、シドンの娘よ。
立ってキティムに渡れ。そこでもあなたは休めない。」」
(イザヤ書23章10~12節)
ツロの破壊は、ツロによって設立された、もしくはあるいはツロと緊密な同盟関係にあった多くの大商人都市の多くの威信を失うことになりました。
スペインのタルテソンは、フェニキア人によって設立されたので、ツロの娘と呼ばれています。
同じことがカルタヘナでも、北アフリカのカルタゴでも適応されます。
キッティム、すなわちキプロスは、主にツロとの取引によって繁栄しました。
これらの商業中心地の商人たちは、これらの大都市を繁栄の主な源として期待していました。
ゆえに、彼らはこれまで無視してきた神の裁きを受け、わめき散らしたのです。
「見よカルデヤ人の国を。――この民はもういない。アッシリヤ人がこれを荒野の獣の住む所にした。――彼らは、やぐらを立てて、その宮殿をかすめ、そこを廃墟にした。
タルシシュの船よ。泣きわめけ。あなたがたのとりでが荒らされたからだ。
その日になると、ツロは、ひとりの王の年代の七十年の間忘れられる。七十年が終わって、ツロは遊女の歌のようになる。
「立琴を取り、町を巡れ、忘れられた遊女よ。うまくひけ、もっと歌え、思い出してもらうために。」
七十年がたつと、主はツロを顧みられるので、彼女は再び遊女の報酬を得、地のすべての王国と淫行を行なう。」
(イザヤ書23章13~17節)
ツロの滅亡というこの預言を達成するための直接の仲介者は、ネブカデネザルとそのカルデア軍でした。
バビロンは、もともとニムロドによって設立され、バベルとして知られていました。
しかし、ネブカドネザルの時代よりずっと昔にアッシリア人によって拡大され、支配されるまで、何世紀にもわたって存在していましたが、世界の大国になることはありませんでした。
アッシリアから分離し、最終的にはユーフラテス川西側の地域で支配的な勢力となりました。
ネブカドネザルはツロを包囲し、部分的に破壊し、住民の多くを捕虜として連れ去りました。
イスラエルが捕囚されていた同じ70年間、フェニキアの都市は衰退し崩壊していました。
ネブカドネザルの死後、そして数年後にメディア人とペルシャ人がバビロンを占領した後、ツロの大部分は再建されました。
しかし、再び商業都市になることはありませんでした。
ツロはその不幸を挽回するために、周囲のさまざまな民族と親密な関係を築こうとしました。
ペルシャが世界を支配していた時代に、ツロはある程度繁栄しました。
しかし、最終的にはアレクサンダー大王がペルシャを打ち破り、西アジアとエジプトのほとんどを征服したときに、彼の軍隊によって、ツロはほぼ完全に破壊されました。
ツロは目立つことはなかったが、祝福の未来が預言されています。
私たちを現代を超えて、主イエス・キリストの救い主の王国の樹立へと導いているのは明らかです。
ツロの廃墟の上に新しい都市が建てられ、支配する権利を持つ神に従い、その栄光と名誉を神の足元にもたらすのです。
この預言は、ここでも詩篇45篇12節でも述べられています。
そこではイスラエルが再び主の妻として認められ、ツロの娘が彼女の祝福を喜び、王に贈り物を捧げる人々の中にいることがわかります。
「ツロの娘は贈り物を携えて来、民のうちの富んだ者はあなたの好意を求めよう。」
(詩篇45篇12節)
「その儲け、遊女の報酬は、主にささげられ、それはたくわえられず、積み立てられない。
その儲けは、主の前に住む者たちが、飽きるほど食べ、上等の着物を着るためのものとなるからだ。」
(イザヤ書23章18節)
24章 来たるべき破壊と荒廃
私たちが今取り上げる章は、前例のない破壊と荒廃の場面を描いており、エレミヤ書4章23〜31 節の同様の箇所と密接に関連しています。
この章にはさまざまな解釈がなされてきましたが、創世記1章2節で述べられているように、地球が本来の創造の栄光から落ちた後の混沌とした状態を描いていると考える人もいます。
また、たとえばセブンスデー・アドベンチスト派のホワイトミセス・エレン・G・ホワイトは、これを千年王国の地球を指すと解釈しています。
なぜなら、その期間中の現実のキリストの王国を否定し、地球をサタンが最後の審判と火の池での滅びまでさまよう底なしの穴としているからである。
しかし、両方の聖句を注意深く研究すると、それらが主に、これから起こる大患難時代の最も暗い時期のパレスチナの地について述べていることがわかります。
その地だけではなく、預言的な地球全体、つまりかつてローマ帝国が占領していた地域について言及していることが明らかになります。
この章を通して、ヘブライ語の「エレツ(eretz)」は「土地」、「世」、「地」と訳されています。
欽定訳聖書を作成した学者たちは同義語の使用を非常に好んでいます。
ギリシャ語またはヘブル語で単語が繰り返して使われる箇所には、適切と思われる限り多くの異なる用語を使用しました。
しかし、少なくともこの章の初めの部分では、世そのものが描かれているのではありません。
預言者が、契約の民が終わりの日に経験する恐ろしい経験ゆえに、虚しく荒れ果てていると見ているイスラエルの地が描かれています。
「見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。
民は祭司と等しくなり、奴隷はその主人と、女奴隷はその女主人と、買い手は売り手と、貸す者は借りる者と、債権者は債務者と等しくなる。
地は荒れに荒れ、全くかすめ奪われる。主がこのことばを語られたからである。」
(イザヤ書24章1~3節)
パレスチナは聖書の中では乳と蜜の流れる地としてよく描写されていますが、ここでは全く反対に、主の裁きによる恐怖から逃げる住民を支えることのできない、干からびて乾ききった地として描かれています。
「主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして」という表現に注目してください。
不信仰なイスラエルが信頼していたものはすべて粉々に打ち砕かれるのです。
彼らが抱いてきた希望はすべて、空虚な夢に過ぎないことが証明されます。
なぜなら、イスラエルは現在のように不信仰なまま自分たちの土地に戻り、自分たちの能力と勇気を頼りに、祖先たちの故郷に再び偉大な国家を建てようとしているからです。
しかし、彼らの前には、これまで経験したことのないほど大きな災害が待ち受けています。
彼らが主に立ち返り、自分たちが突き刺した主を仰ぎ見るまでは、彼らの望みは実現しません。
それまでは、イスラエルは次から次へとひどい失望を味わう運命にあります。
彼らは、その失望はあらゆる階層の人々が共有することになるのです。
「地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。天も地とともにしおれる。
地はその住民によって汚された。彼らが律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破ったからである。
それゆえ、のろいは地を食い尽くし、その地の住民は罪ある者とされる。それゆえ、地の住民は減り、わずかな者が残される。
新しいぶどう酒は嘆き悲しみ、ぶどうの木はしおれ、心楽しむ者はみな、ため息をつく。
陽気なタンバリンの音は終わり、はしゃぐ者の騒ぎもやみ、陽気な立琴の音も終わる。
歌いながらぶどう酒を飲むこともなく、強い酒を飲んでも、それは苦い。
乱れた都はこわされ、すべての家は閉ざされて、はいれない。
ちまたには、ぶどう酒はなく、悲しみの叫び。すべての喜びは薄れ、地の楽しみは取り去られる。
町はただ荒れ果てたままに残され、城門は打ち砕かれて荒れ果てる。」
(イザヤ書24章4~12節)
ここで描かれている荒廃の理由は、はっきりと述べられています。
神の律法は破られ、創世記9章16節に記されている永遠の契約は、神が世に対して慈愛を示すことを誓約したものです。
しかし、イスラエルはそれを完全に無視しました。
「虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」
(創世記9章16節)
彼らは、過ぎゆく季節ごとに神の哀れみを仰ぐのではなく、自分たちの努力で災難を避け幸福を手に入れようと考えました。
堕落した人類に対して限りない哀れみを示した神を信じることができなくなっているのです。
十戒の律法に契約であると考えるのは間違いです。
なぜなら、これに永遠の契約であると宣言されている箇所はどこにもないからです。
ガラテヤ人への手紙から分かるように、律法は人間の罪深さと救い主の必要性を完全に示す手段としてやって来たのです。
また、これらのことばは、アブラハムとの契約をさしているのではありません。
なぜなら、神御自身がその契約の唯一の当事者であるからです。
人間に関して言うのであれば、約束された子孫を拒むことが契約の破棄だと理解しない限り、神御自身が唯一の当事者であるため、人間がその契約を破ることは不可能だからです。
ダビデに確認された約束に従ってメシアが来られたとき、ダニエル書9章26節が預言されたように、メシアは拒絶され、断たれました。
「その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。
その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。」
(ダニエル書9章26節)
確かにイスラエルは、自分たちの力で全力を尽くして、永遠の契約を破ったのです。
最後のかしらと契約を結び、彼ら自身の救い主に対する忠誠を否定することになります。
その契約は70週の最後の週に結ばれ、三年半の終わりに、罪の人が唯一の崇拝の対象であると宣言するときに破られます。
しかし、ここで述べられていることは、おそらく、宇宙の創造者であり維持者である神が、神への信頼に応じて実り豊かな畑と豊かな収穫を与える契約を指していると考えられます。
ノアの下で神は人間の政府を設立しました。
そのことについては旧約の時代を扱った聖句には何も書かれていません。
このことは、支配者として諸国の民を神に服従させることを意味しています。
しかし、イスラエルだけでなく異邦人の国々もこのことを認めていません。
哀れみと人間の責任を永遠に思い起こさせるはずだった雲の虹は、不信仰と故意の不服従によって意味を失ってしまいました。
そのため、地上に安定した政府を築き、諸国間に平和を築こうとする人間のあらゆる努力は、失敗する運命にあります。
ここで私たちの主自身の言葉が思い浮かびます。
大患難時代の恐ろしさ、血なまぐさい戦争における国家同士の抗争について論じたとき、イエスはこのように言われました。
「もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。」
(マタイの福音書24章22節)
現代の戦争兵器の恐るべき破壊力によって、ほんの数瞬のうちに都市全体が消滅してしまうことを私たちは知っています。
ゆえに、これらの言葉を文字通り受け入れることに何の困難も生じません。
パレスチナは、この訪問の時期を知らなかったために、おそらく他のどの国よりも大きな範囲で戦争の荒廃を経験することになります。
しかし、これらのさばきが、聖絶の地と隣接する領土に下される日には、残された者が民の大半から分離され、主に立ち返り、自分たちの罪を認め、みことばに信じて、主の聖なる御心に喜んで服する者が起こされます。
彼らには神の恵みが明らかにされ、燃え盛る世界にいるように彼らを助け、気遣い、最後には彼らが望んでいた安息の地、彼ら自身の土地に平和に住めるように導かれます。
「それは、世界の真中で、国々の民の間で、オリーブの木を打つときのように、ぶどうの取り入れが終わって、取り残しの実を集めるときのようになるからだ。
彼らは、声を張り上げて喜び歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ。
それゆえ、東の国々で主をあがめ、西の島々で、イスラエルの神、主の御名をあがめよ。」
(イザヤ書24章13~15節)
それゆえ、火の中で主をあがめ、イスラエルの神、主の御名を海の低地であがめなさい.
「東の国々で主をあがめ」という表現は、地上に裁きが下る時期に残された者が忠実であることを示すものとして私たちは考えがちです。
しかし、結論として、患難の暗黒時代が来たるべき祝福の日の先駆けであることを暗示しているように思われます。
訳者注)KJV訳(Glorify ye the Lord in the fires)、直訳「火の中で主をあがめ」、新改訳聖書では「東の国々で主をあがめ」となっています。
その日には、イスラエルの残された者だけでなく、異邦人の中から救われた大群衆が、かつて拒まれた神のキリストの再臨を期待して待つ場所に連れて行かれ、神の国の時代にある完全な祝福に入ることになります。
預言者は、苦難の時代における民の苦しみと国の荒廃を思い描きながら、たましいの苦しみの中で叫び続けます。
「私たちは、「正しい者に誉れあれ。」という地の果てからのほめ歌を聞く。しかし、私は言った。「私はだめだ、私はだめだ。なんと私は不幸なことか。裏切る者は裏切り、裏切り者は、裏切り、裏切った。」」
(イザヤ書24章16節)
イザヤは預言的な幻で荒廃の後の栄光を目にしました。
しかし、民が神のもとに、そして自分たちの土地に戻る前に経験しなければならない苦しみを悟ったとき、イザヤの全身が揺さぶられました。
「私はだめだ、私はだめだ」という表現の意味は、 F・C・ジェニングスによって示されたのは「私の惨めだ、私の惨めだ」です。
いずれにしても、預言者が神からの離れと契約の破棄の結果を考えている時、最大の霊的苦痛を感じているのは明らかです。
続く聖句では、イザヤはこの章が始まったときの状態に戻ります。
「地上の住民よ。恐れと、落とし穴と、わなとがあなたにかけられ、
その恐れの叫びから逃げる者は、その落とし穴に落ち、落とし穴からはい上がる者は、そのわなに捕えられる。
天の窓が開かれ、地の基が震えるからだ。
地は裂けに裂け、地はゆるぎにゆるぎ、地はよろめきによろめく。
地は酔いどれのように、ふらふら、ふらつき、仮小屋のように揺り動かされる。
そのそむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。」
(イザヤ書24章17~20節)
まさに、ここには終わりの日の悲惨さが生々しく描かれています。
人が安定していると思っていたものは、ことごとく打ち崩され、地は酔っ払いのようによろめくようになりmす。
実際、この中には見た目以上のものが含まれているかも知れません。
それは、この悲しみと嘆きの日々の恐怖を増す大地震を暗示しているのかも知れません。
その時、イスラエルと諸国の間違った指導者たちが裁きを受けるだけでなく、権威を握って人々の心と思いを支配しようとしてきた目に見えない支配権や勢力も裁かれます。
彼らはエペソ人への手紙6章でもこのように表現されています。
「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち」
(エペソ人への手紙6章12節)
「その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる。
彼らは囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じ込められ、それから何年かたって後、罰せられる。
月ははずかしめを受け、日も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである。」
(イザヤ書24章21~23節)
「天では天の大軍」とは明らかに、人々を神に敵対させ、神の不変の計画を妨害しようと無駄な努力をするよう人々の思いを支配しようとする天の邪悪な霊たちを指しています。
彼らと、彼らに喜んで仕え騙された者たちは主が最後の裁きで彼らを罰する時を待ち、一緒に牢獄に閉じ込められることになります。
主が立ち上がって大地を激しく揺り動かすとき、キリストが述べられた天の兆候に続いて、栄光に満ちた人の子が現れ、天の聖徒たちを伴って降りてきます。
この世の支配権を引き継ぎ、待ち望まれていた義の時代をもたらします。
25章 残された者たちの歓喜の歌
完全に滅ぼそうとしていた悪の勢力が主御自身によって再臨の時に一掃された後、新しい国家の核となるイスラエルの残された者の歓喜を考えるのならば、私たちはますます関心と喜びを高めてゆきます。
この残された者たちにとって、「歌の季節」がついに来るのです。
「地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。」
(雅歌2章12節)
何世紀にもわたり、人々はこの時がいつ訪れるのか分らずに、悲嘆と嘆きの叫びは大きく長く続いてきました。
しかし、かつて、軽蔑していたガリラヤ人を、自分たち自身の約束された救い主と認め、ついに彼らが突き刺した主を見つめたとき、彼らの心は、これから永遠に彼らの分となる主なる神への賛美と感謝であふれかえるのです。
節ごとにこの歌のことを考えてみましょう。
「主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。
あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、忠実に成し遂げられました。」
(イザヤ書25章1節)
イスラエルは主を拒み、十字架の死に引き渡すことで自分たちの聖書の教えを成就させてしまいました。
それにもかかわらず、過去にひどく惑わされていた人々は、主イエスが待ち望まれていた祝福をもたらすために現れたのならば、主の忠実さと真実の勧告は変わっていないことに気づくはずです。
しかし神は、まさにその十字架を、世の罪のために真の償いのささげ物が捧げられる偉大な祭壇とされました。
また、人々が「この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません」と言ったからといって、イエスは計画を変えることもなかったのです。
彼らが王として認めようとしなかったその方は、しばらくの間、栄光に上げられ、詩篇110篇1節の成就として、神の右の座に着いたのです。
「主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」」
(詩篇110篇1節)
不在だった長い年月の間、イスラエルは放浪の民となり、安息と平和をむなしく求めてきました。
彼らの心が切望するものを与えることができる唯一の平和の君が、彼らにとっては見知らぬ人だったのです。
しかし、来たるべき日に彼らは主を認識し、礼拝し、完全な喜びに入るのです。
「あなたは町を石くれの山とし、城壁のある都を廃墟にされたので、他国人の宮殿は町からうせ、もう、永久に建てられることはありません。
それで、力強い民も、あなたをほめたたえ、横暴な国々の都も、あなたを恐れます。」
(イザヤ書25章2、3節)
終わりの時に神に逆らう異邦人の勢力がすべて滅ぼされることがはっきりと示されています。
かつて、ユダヤ人の指導者たちは「カイザルのほかには、私たちに王はありません」(ヨハネの福音書19章15節)と宣言していました。
それ以来、イスラエルは皇帝の下で言葉では言い表せないほどひどい苦しみを味わってきました。
大患難時代の終わり、ヤコブの苦難の時に、イスラエルを抑圧してきたすべての勢力は滅ぼされます。
彼らは異邦人の圧制と迫害から永遠に解放されるのです。
「あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。
横暴な者たちの息は、壁に吹きつけるあらしのようだからです。」
(イザヤ書25章4節)
疑いもなく、この詩はイスラエルの離散と苦悩の全期間に適用されると解釈することができます。
なぜなら、イスラエルが御子を拒絶した時、民族そのものは神によって拒まれましたが、この現代の時代において恵みによって選ばれた者たちが残っていたからです。
苦しみとみじめさの中で神に立ち返り、聖書の中に御子が自分たちのメシアであり救い主であることの預言を見出したユダヤ人たちがいるからです。
彼らにとって、主は常に避け所であり、慰めであり、試練と悲しみの真っ只中にあっても、主の変わらぬ愛を喜ぶことができるようにしてくださります。
「砂漠のひでりのように、あなたは他国人の騒ぎを押え、濃い雲の陰になってしずまる暑さのように、横暴な者たちの歌はしずめられます。
万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。」
(イザヤ書25章5、6節)
シオンの山における主の王座が確立されることについての預言の言葉が成就します。
シオンの山から律法は全世界に広がります。
この恐ろしい日の裁きから逃れた人々はどこにいても神の豊かな恵みの富を楽しむよう招かれるのです。
ヨハネの黙示録7章に示されているように、イエスはイスラエルのためだけでなく、異邦人の中から救われた者たちのためにも食卓を用意されます。
文字通りの祝宴を指すものとして受け取るのではなく、その日にすべての人に提供される霊的な回復剤として受け取るべきです。
「この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、
永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。」
(イザヤ書25章7、8節)
罪がこの世に生まれて以来、人は永遠の真理である神の御言葉に対して盲目になってきました。
エペソ人への手紙4章にはこのように記されています。
「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。」
(エペソ人への手紙4章18節)
しかし、主御自身が栄光のうちに現れるとき、この盲目は消え去ります。
心におおいがかかり聖書を理解できないイスラエル人の目からだけでなく、異邦人の目からも消え去ります。
使徒はコリント人への第一の手紙15章で復活の真実を明らかにするために、8節を引用しています。
「最後の敵である死も滅ぼされます。」
(コリント人への第一の手紙15章8節)
この聖句は私たちが知る携挙の時にこのことが部分的に成就することをイザヤは示している。
その時、死者は甦り、生きている者は姿を変え、朽ちるものが朽ちないものになり、死ぬべきものが不死を着ます。
その時、確かに、イザヤがここで語っていることが実現します。
そのとき、生きている者も死んでいる者も、神のすべての子にとって、死は勝利に飲み込まれるのです。
大患難時代の終わりにさらなる成就があることは、ヨハネの黙示録20章4〜6節から明らかです。
最初の復活は患難時代と過去の時代の聖徒だけではありません。
大患難時代に獣とその像を拝むことを拒んだために死刑に処せられた者たちも含まれます。
これらの者たちが一団になって天の集団を構成し、イスラエルと諸国民のうち生き残った者たちがこの地上の千年王国に入ることになります。
その日は、人はこのように言うのです。
「その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」」
(イザヤ書25章9節)
かつて軽蔑されていたイエスを見つめ、イエスの中に彼らの父祖の神が肉体となって現れたのを見た残された人々の大歓声は想像するも、難くありません。
「主の御手がこの山にとどまるとき、わらが肥だめの水の中で踏みつけられるように、モアブはその所で踏みつけられる。
泳ぐ者が泳ごうとして手を伸ばすように、モアブはその中で手を伸ばすが、その手を伸ばしてみるごとに、主はその高ぶりを低くされる。
主はあなたの城壁のそそり立つ要塞を引き倒して、低くし、地に投げつけて、ちりにされる。」
(イザヤ書25章10~12節)
すでに見てきたように、モアブは偽りの宗教信仰のプライドを物語っていますが、もはや神の民の平和にとって脅威となることはありません。
主は祝福の日の喜びをそこなうものをことごとく滅ぼします。
このことは、人の努力によってではなく、人の才能によってでもなく、主御自身によってもたらされるのです。
主は、御心に従わない者をさばき、主に信頼する者を恵みとして、御手を伸ばされます。
26章 イスラエルの救出
私たちは、主の約束の成就され、イスラエルの残された者主を賛美し、抑圧者の力から解放され、メシアの義の支配の下で霊的に豊かになった喜びを体験していることが続けられています。
アブラハムへの約束に従って、神が永遠に彼らのものであると宣言した土地を地上の民が完全に所有するようになる時が来ます。
神の恵みによって天に属する私たちにとって、神がその民のために用意しておられる物を思い描くことは、確かに喜びであるはずです。
イスラエルの救いは二つの方向から見ることができます。
最初に何世紀にもわたって彼らをしいたげてきた敵の力から、第二に、彼らが罪から離れて、贖いの偉大な日の真実な意味を理解し、キリスト·イエスにあって、真実な罪のためのいけにえを見る時、彼らの罪から解放されるのです
ヨハネの黙示録15章2、3 節に見られるように、獣と反キリストの支配の中で殉教者として殺される人々の中にいます。
しくは、ヤコブの苦難の時代から生きて救われ、主御自身が現れる時に王国に入る準備が整った者がいます。
その日、イスラエルはモーセと小羊の歌を歌うのです。
そして、その日私たちは栄光の中で御座の周りに集まって新しい歌を歌う時を待ち望んでいます。
私たちは地上の力の打倒や、これらからの解放とは何の関係もありません。
しかし、イスラエルではそうではありません。
しかし、これには小羊の歌、すなわち、神の尊い贖いの血による救いの歌も含まれています。
今日、私たちはこの歌が私たちにもたらす、すべての霊的な事柄に属しています。
なぜなら、私たちはキリストにおいて天にあるすべての霊的な祝福を授かっているからです。
悪を行なう者の滅亡を喜ぶのはクリスチャンの態度ではありません。
しかし、敵の打倒が地上の人々にとって何を意味するかを考えてみると、私たちは彼らに十分同情することができます。
それでは彼らの歌を一節ずつ見ていきましょう。
「その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。
城門をあけて、誠実を守る正しい民をはいらせよ。
志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」
(イザヤ書26章1~3節)
確かに、この冒頭の言葉で、残された人々はこの街について物質的な意味ではなく霊的な意味で語っています。
エルサレムが全地への祝福の偉大な中心地となっています。
彼らは二度と敵に破壊されることのない要塞となることを待ち望み、主御自身が彼らの堅固な街であることを知ります。
そして、彼らは敵が二度と彼らを打ち負かすことはできないという確信に喜びを感じながら、期待を込めて歌っています。
しかし、また彼らは「城門をあけて、誠実を守る正しい民をはいらせよ」と叫びながら、実際の文字通りのエルサレムの再建についても考えています。
その日、神はイスラエルについてこのように言われました。
「あなたの民はみな正しくなり」
(イザヤ書60章21節)
エゼキエル書に与えられた約束のとおり、彼らの罪は清められ、彼らの心は言葉による水の洗いによって清められます。
「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。
わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。
わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」
(エゼキエル書36章25、26節)
彼らの目からおおいが取り除かれ、彼らは不信仰から解放され、満足することを見出します。
そして、かつて拒まれた救い主、イエスを救い主とします。
3節は、来たるべき日に残された者たちだけではなく、あらゆる時代のすべての信頼できる信者たちにも当てはまるかも知れません。
完全な平安、心と精神の安らぎ、心配や不安からの解放は、私たちがすべての自分の道を主に委ね、主が私たちのために引き受けてくださると完全に信頼することを学ぶときにのみ見出すことができます。
ピリピ人への手紙4章5、6節の勧告に耳を傾けるとき、人の思いすべてに勝る神の平和が、私たちの心を守備隊のように守ってくれます。
「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」
(ピリピ人への手紙4章5、6節)
ローマ人への手紙5章1節にはこのようにあります。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
(ローマ人への手紙5章1節)
しかし、イザヤが語る神の平和、この完全な平和はそれ以上のものです。
それは、たとえたましいがどんな逆境に直面しようとも、すべてがうまくいくという静かな確信です。
なぜなら、私たちの父がすべてを祝福のために整えておられることを理解しているからです。
ローマ人への手紙8章28節のような聖句を黙想し、信じることにより、数え切れないほどの人々が慰められてきました。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
(ローマ人への手紙8章28節)
「いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。
主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、これを下して地に倒し、これを投げつけて、ちりにされる。
貧しい者の足、弱い者の歩みが、これを踏みつける。」
(イザヤ書26章4~6節)
信仰、信頼、自信は同義語です。
主を信頼して仰ぎ見、すべてを主に委ねる人は、苦しみや不安を引き起こす可能性のあるすべてのものから解放されます。
詩篇にはこのようにあります。
「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。」
(詩篇103篇13節)
イスラエルでは、神は契約者の名である主で知られています。
これはヘブル語の複合語で、文字通りには「永遠に生きる者」、もしくは新約聖書にあるように「常にいまし、昔いまし、後に来られる方」を意味します。
フランス語の翻訳では、L' Eternelという語が適切に使用されています。
昔から自分を主、「わたしはある」と宣言した方の真の意味をよく表現しています。
ここでは、名前はいわば二重になっています。
主なる神は、文字通りには"JAH"、"JEHOVAH"です。
"JAH"という名前は、神の永遠性を表し、完全な名前は神とその民との契約関係を表しています。
彼らは、自分たちの完全な解放を神に帰しています。
自分たちの滅亡を求めてきた傲慢で残酷な迫害者たち、異邦人の大国たちを神がどのように扱ったかを讃えるのです。
「義人の道は平らです。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。
主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。
私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地に行なわれるとき、世界の住民は義を学んだからです。
悪者はあわれみを示されても、義を学びません。正直の地で不正をし、主のご威光を見ようともしません。
主よ。あなたの御手が上げられても、彼らは認めません。どうか彼らが、この民へのあなたの熱心を認めて恥じますように。まことに火が、あなたに逆らう者をなめ尽くしますように。」
(イザヤ書26章7~11節)
これらの節全体を通して、義と不義の対比が描かれています。
預言者ハバククから、義人は信仰によって生きることを学びます。
したがって、正直の道を歩む義人とは、主に信頼を置き、目に見えない主を見て、耐えることを学んだイスラエルの人々です。
恥を知らない不義な者たちは、生ける神から背を向け、神から独立して行動し、神のみこころに従おうとする者たちを迫害する者たちです。
神は不義な者たちにも恵みを注ぎ、義人にも不義な者にも同じ様に太陽を輝かせ、雨を降らせています。
それにもかかわらず、これらの悪人は神の哀れみに心を動かされることも、神の恵みに引き寄せられることもありません。
不義な者たちが心を強くできるのは、彼らに与えられた恩恵のおかげです。
神の裁きが彼らに降りかかり、すべての国々が彼らの罪と反逆のゆえに神の怒りを知るようになる時がきます。
その時、彼らはついには厳しい方法で義の重要性を学ばなければなりません。
主の力が現わせる日に、裁きが下った後に生き残った世界の住民は義を学び、イスラエルとともにメシアの支配の祝福に入るのです。
「主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。
私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。
私たちの神、主よ。あなた以外の多くの君主が、私たちを治めましたが、私たちは、ただあなたによってのみ、御名を唱えます。
死人は生き返りません。死者の霊はよみがえりません。それゆえ、あなたは彼らを罰して滅ぼし、彼らについてのすべての記憶を消し去られました。
主よ。あなたはこの国民を増し加え、増し加えて、この国民に栄光を現わし、この国のすべての境を広げられました。
主よ。苦難の時に、彼らはあなたを求め、あなたが彼らを懲らしめられたので、彼らは祈ってつぶやきました。
子を産む時が近づいて、そのひどい痛みに、苦しみ叫ぶ妊婦のように。主よ。私たちは御前にそのようでした。
私たちもみごもり、産みの苦しみをしましたが、それはあたかも、風を産んだようなものでした。私たちは救いを地にもたらさず、世界の住民はもう生まれません。」
(イザヤ書26章12~18節)
イスラエルの人々はついに、争いによる平和だけでなく、罪の問題に対する平和も、十字架の血によって平和を実現したキリストの中にのみ見出されるという教訓を学ぶことになります。
神はイスラエルに信仰によって神をつかみ、神と和解するように呼びかけましたが、無駄でした。
イスラエルは今まで一度も神に応答したことがありません。
何世紀にもわたる不信仰の後、イスラエルは平和は人の中にあること、そしてその人、すなわち主イエス・キリストが私たちの平和であることを学ぶのです。
私たちはこの平和の恵みを知っています。
大患難時代の苦悩を経験し、たましいの悲痛な苦しみを経たその日にそのことを知ります。
確かに、何世紀にもわたる異邦人の支配下での離散と、苦難の陣痛や産みの苦しみがありましたが、すべては失望に終わりました。
イスラエルの理解によれば、キリストはまだ来ていません。
しかし、その日にはイスラエルは「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる」(イザヤ書9章6節)という預言の完全な意味を理解できるようになります。
このように、イスラエルは意識的にイエスが「鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである」ことを認識します。
次の節は預言研究者の間で多くの論争を巻き起こしています。
ある者はこれを主の再臨の時、肉体の文字通りの復活を指していると解釈しています。
また、ある者は遠い昔の死者のように異邦人の間で墓からよみがえり、来たるべき王国の恵みに入るイスラエルの残された者の国家的、霊的な復活を指していると解釈しています。
「あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。
さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。」
(イザヤ書26章19節)
ここで述べられているのは肉体の復活ではなく、むしろエゼキエル書37章に記録されている幻と関係していることは明らかです。
エゼキエルは乾いた骨でいっぱいの谷を見ました。
それはイスラエルの全家であると私たちは宣言しています。
そして、ついにこれらの骨が骨と骨がくっつき、肉がつき、ついには息が吹き込まれたように見えました。
神の御霊がそれを解釈することによって、その意味は明らかになります。
彼らはイスラエルの全家、すなわち終わりの日の残された者たちです。
彼らは全イスラエルを代表する者たちです。ローマ人への手紙11章26節で述べられている者たちです。
「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。」
(ローマ人への手紙11章26節)
私が間違っていなければ、ダニエル書12章2節ではこの同じ国家の復活について語られています。
ここには義人だけでなく不義な者も含まれています。
「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。」
(ダニエル書12章2節)
今日でも、イスラエルが再びこの地で国家として復活したのを私たちは見ています。
しかし、他の聖書箇所から、義人と不義な者との間の大きな分離がまだ起こっていないことが分かっています。
この章の最後の2つの節は、詩の一部とみなす必要はありません。
むしろ、ここには特別な預言のメッセージが記されています。
苦難の時代から救われ、今、私たちが考えてきた歌を歌えるようになった残された者たちを守るために主が用意する備えについて告げています。
さあ、わが民よ。あなたの部屋にはいり、うしろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。
見よ。主はご自分の住まいから出て来て、地に住む者の罪を罰せられるからだ。地はその上に流された血を現わし、その上で殺された者たちを、もう、おおうことをしない。
(イザヤ書26章20、21節)
残された者が獣と反キリストから身を守る特別な隠れ場所、おそらくペトラの廃墟の町々などを指していると考える人もいます。
しかし、むしろ主御自身が彼らの保護者となり、「民の荒野」(エゼキエル書20章35節)に彼らを隠されると思われます。
これは、ダニエルと私たちの祝福された主の両方で預言されているように、荒廃をもたらす忌まわしいものが聖なる場所に設置される時が来ます。
その時、残された者たちは獣の実際の支配下に完全には置かれません。
真実のために、これらの追放者たちに避け所を与えられます。
そして、彼らは遠く離れた異教の国々に逃げることを意味していると、私は解釈します。
「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。」(箴言18章10節)という言葉の真実を、今、理解しているすべての人にとっての祝福です。
全能者の陰に留まることによって、すべての神の民は敵の力から守られます。
27章 ヤハゥエのぶどう園の回復
ここでは、再びぶどう園の詩が歌われています。
しかし、5章に記録されている前の歌とはまったく異なる状況を描かれています。
わたしたちは主がぶどうを探し、野生のぶどうしか見つけられないのを見ました。
肉に従うイスラエルは神のために実を結ばなかったからです。
今ではすべてが変わり、ぶどうの木には甘美なぶどうが実り、所有者の心を満足させています。
このように、神の御霊は、イスラエルが主のもとに回復され、花が咲き、芽吹き、世界の面を果実で満たす時、主がその民の中に見出される喜びについて私たちに告げています。
しかしながら、最初の詩は、歌そのものとは何の関係もありません。
この節の後の章を振り分けた方が、前の章に振り分ける方がよかったかも知れません。
ここで、悪魔でありサタンである古い蛇に下される裁きについて語っています。
この地球全体に神の御国が力と栄光をもって樹立される時、この敵対者が長い間人々の心と思いを支配してきました。
しかし、そのときにサタンは縛られ、千年間底なしの穴に投げ込まれるのです。
「その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。」
(イザヤ書27章1節)
主が巨大な竜がこのようにして倒されました。
今、私たちは主御自身が救い出された民を喜び歌い上げている声を聞くことができます。
「その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。
わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。」
(イザヤ書27章2、3節)
聖書では、ぶどう酒は喜びの象徴です。
士師記9章18節には、酒は神と人を元気づけると書かれています。
「私は、神と人とを喜ばせる私の新しいぶどう酒を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。」
(士師記9章13節)
詩篇104篇15節にも同じような表現があります。
適度に使用するならば、爽快な効果があり、霊的を元気づけられ、心を喜ばせるものがあります。
「また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。油によるよりも顔をつややかにするために。また、人の心をささえる食物をも。」
(詩篇104篇15節)
長年にわたる反抗と利己心の後に悔い改めと自制心をもって主のもとに戻るのならば、主御自身が喜ぶ機会を見い出すことができます。
その時、彼らの人生は聖霊の恵みによって実り豊かになり、神は花婿が花嫁を喜ぶように彼らを喜ばれます。
「若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。」
(イザヤ書62章5節)
もはや、主のぶどう園は不忠実な農夫たちに貸し出されることはありません。
主御自身によってぶどう園は守られ、実りをなくしたり破壊するあらゆるものから守ってくださります。
「わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。
しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。
時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」
(イザヤ書27章4~6節)
もはや、主は主の御名によって呼ばれる民が道を踏み外したからといって、イスラエルに対して憤りを表わされることはありません。
イスラエルに対して神の御霊は静められました。
再び、彼らが神に逆らって立ち上がることは実に愚かなことです。
そうすることは、いばらやあざみを焼き尽くす火のような、即座の破滅に直面することになります。
悔い改めと告白の気持ちで神に立ち返ることによって、イスラエルに向けられるはずだった神の怒りと和解されるのです。
これは聖書の中で、人が神と和解することを示している唯一の箇所です。
この和解が永遠の事柄と関係しているのではなく、この世における神の支配への服従と関係していることに注目すべきです。
罪の問題を解決することは、自分のいかなる努力によっても神と和解できる人は存在しません。
福音の栄光ある真理は、キリストが十字架の血によって平和を実現しました。
私たちがキリストを信頼した瞬間にこの平和が私たちのものとなったのです。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
(ローマ人への手紙 5章1節)
イエス自身が私たちの平和なのです。
私たちは神の子の死を通して神と和解しました。
神の支配の問題となると、人間は神に従うよう求められます。
神のみこころに従い、神の律法に反抗することの愚かさを認識します。
来たるべき日にこの状態に入るのです。
イスラエルの罪過のせいで、イスラエルは諸国民の間で呪いとなりました。
「わたしは剣とききんと疫病で彼らを追い、彼らを、地のすべての王国のおののきとし、わたしが彼らを追い散らしたすべての国の間で、のろいとし、恐怖とし、あざけりとし、そしりとする。」
(エレミヤ書29章18節)
神が初めから意図したように、主の名が異邦人によって冒涜される代わりに、イスラエルは全地への祝福の手段となります。
神はイスラエルを通して地の果てまで救いを知らせる祭司の国民となるのです。
「主は、イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれただろうか。あるいは、イスラエルを殺した者を殺すように、イスラエルを殺されただろうか。
あなたは彼らを追い立て、追い出し、彼らと争い、東風の日、激しい風で彼らを追放された。
それゆえ、次のことによってヤコブの不義は赦される。祭壇のすべての石を粉々にされた石灰のようにし、アシェラ像と香の台をもう立てなくすること、これが、自分の罪を除いて得られる報酬のすべてだ。」
(イザヤ書27章7~9節)
他の箇所で、主はイスラエルについてこのように宣言しています。
「わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。
それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。」
(アモス書3章2節)
神が異邦人の勢力によってイスラエルを懲らしめることを許しました。
次に神の民を矯正するための鞭であった諸国を滅ぼしたように、他の国々も神の日に処罰されるのです。
しかし、イスラエルは守られ、苦難の時代が過ぎた後に神の恵みに回復されるのです。
その時、イスラエルは過去に自分たちが従っていた偶像崇拝と忌まわしい行いのせいで自分自身を嫌悪します。
しかし、彼らの愚行の証拠はすべて完全に破壊され、イスラエルが立ち直って悔い改める日には、主の御名だけが讃えられるのです。
防備を固めた町は荒れ果て、住まいは見捨てられ、荒野のようになります。子牛はそこで草を食い、伏して、その枝を食べるのです。
「城壁のある町は、ひとり寂しく、ほうっておかれる牧場のようになり、荒野のように見捨てられる。
子牛はそこで草をはみ、そこに伏して、木の枝を食い尽くす。 その大枝が枯れると、それは折られ、女たちが来てこれを燃やす。これは悟りのない民だからだ。
それゆえ、これを造った方は、これをあわれまず、これを形造った方は、これに恵みを与えない。」
(イザヤ書27章10、11節)
これらの言葉は諸国の都市だけでなく、イスラエルの背教した部分も指しているのかも知れません。
神が、人間の神の権威に対する反抗に対処するために怒りに燃える時がきます。
その時、神に抵抗し続ける者すべてが抹殺されるまで、神は復讐をやめません。
罪は、どのような性質のものであれ、狂気です。
それは乱れた心の現れです。
ルカ15章の放蕩息子のたとえ話の中で、主は、若者が我に返って「立って、父のところに行って、こう言おう」と言ったことが語られています。
人々は、神の御言葉を額面通りに受け入れるには自分たちは賢すぎるとか、教養がなさすぎると考えるかも知れません。
彼らはその不信仰とプライドさこそが、自分たちこそが理解力のない人々であるという事実を明らかにすることをほとんど理解していません。
イスラエルが神から背を向けたときも、同じことが起こりました。
神の聖なるみこころに従うことを拒む人間も同じです。
「その日、主はユーフラテス川からエジプト川までの穀物の穂を打ち落とされる。
イスラエルの子らよ。あなたがたは、ひとりひとり拾い上げられる。
その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリヤの地に失われていた者や、エジプトの地に散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する。」
(イザヤ書27章12、13節)
主イエスの再臨のとき、主が人の子として地上に神の御国を建てるために来られる時がきます。
イスラエルの追放者たちをシオンに呼び戻し、彼らが待ち望んでいたメシアのもとに集められ、メシアの恵みを喜ぶために、大きなラッパが吹かれます。
「シオンで角笛を吹き鳴らせ。断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。
民を集め、集会を召集せよ。老人たちを集め、幼子、乳飲み子も寄せ集めよ。花婿を寝室から、花嫁を自分の部屋から呼び出せ。」
(ヨエル書2章15、16節)
これら二つの節をマタイの福音書24章31節と比較してください。
「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。
すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」
(マタイの福音書24章31節)
ネヘミヤの時代に、残された者がパレスチナに戻ってエルサレムの町と神殿を再建したときに成就したと言うことは無駄です。
主はイスラエルをもう一度集めると宣言しています。
これらの節は、未来に起きるこの集合の時について述べています。
28章 過去と未来における裁き
この章では、28〜33章までにある網羅する新しい連続した預言メッセージが紹介されています。
この区分は、5章の災いを思い起こさせる6つの災いによって特徴づけられています。
すべて、特に終わりの日にイスラエルとその周辺諸国と関係しています。
しかし、最初の聖句は、紀元前721年にアッシリアの王シャルマネゼルが北王国を倒したときにサマリアに下された裁きにおいて、すでに多くが部分的に成就しています。
その裁きはイスラエルが帰還し、異邦人の勢力によって独立国家として認められたその地に、さらに大きな災難が降りかかる前兆でした。
1〜4節自体で完結しています。
アッシリア人がエフライム、もしくはサマリアの地を侵略し、都市を破壊し、イスラエル人の大多数を捕虜にすることを神が許した時、神がエフライム、もしくはサマリアに対してどのような対応をしたのかを私たちに教えてくれます。
「ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠、その美しい飾りのしぼんでゆく花。
これは、酔いつぶれた者たちの肥えた谷の頂にある。
見よ。主は強い、強いものを持っておられる。それは、刺し通して荒れ狂う雹のあらしのようだ。
激しい勢いで押し流す豪雨のようだ。主はこれを力いっぱい地に投げつける。
エフライムの酔いどれの誇りとする冠は、足の下に踏みにじられ、
肥えた谷の頂にあってこれを美しく飾る花もしぼみ、夏前の初なりのいちじくの実のようになる。
だれかがそれを見つけると、それを手に取って、すぐのみこんでしまう。」
(イザヤ書28章1~4節)
捕囚前のサマリアに広がっていた贅沢な生活を非常に鮮明に描写しています。
ヤロブアム2世とその後のイスラエル王の支配下では、サマリアの街は壮大で栄華を極めた大都市になりました。
高い丘の上に築かれ、斜面には段々畑が作られ、美しい庭園や木立が植えられており、おそらくパレスチナ全土で最も美しい街でした。
下の谷はエズレエル、またはエズレエルの大平原にまで達し、果樹園、ぶどう園、肥沃な畑が豊富にありました。
神がその恩恵を全地域の人々に惜しみなく与えてくださり、人々はその賜物を楽しむあまり、賜物を完全に忘れ、周囲の国々から模倣した最も下劣な偶像崇拝に陥りました。
彼らは偽りの神々を崇拝するとともに異教徒の道にも転向し、贅沢にふけり、酒と放縦にふけり、ついには神御自身が彼らを許すことができないほど堕落した民となりました。
それで、神はアッシリヤの王の心に、この美しい地を欲しがらせ、大軍を率いてこの地に攻め寄せました。
しかし、自信と根拠のない楽観主義に支えられたイスラエルは、自分たちの力に安心して、侵略者の力を軽蔑したのです。
しかし、試練が訪れると、彼らの軍隊は完全に敗北し、アッシリア人はさまざまなところで勝利を収めました。
このように、サマリアは私たちにとって、神の全能の力よりも自分自身を信頼したという愚かさに対して警告となりました。
もし、イスラエルが神のために生き、神を礼拝していたなら、あらゆる敵から神を守ってくれると信頼できたはずです。
しかし、神はずっと以前から、このように宣言しています。
「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」
(サムエル記第二3章20節)
それは昔からそうであったし、これからもそうなのです。
「その日、万軍の主は、民の残りの者にとって、美しい冠、栄えの飾り輪となり、
さばきの座に着く者にとって、さばきの霊となり、攻撃して来る者を城門で追い返す者にとって、力となられる。
しかし、これらの者もまた、ぶどう酒のためによろめき、強い酒のためにふらつき、祭司も預言者も、強い酒のためによろめき、ぶどう酒のために混乱し、強い酒のためにふらつき、幻を見ながらよろめき、さばきを下すときよろける。
どの食卓も吐いた汚物でいっぱいで、余す所もない。
「彼はだれに知識を教えようとしているのか。だれに啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。
彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し。』と。」
まことに主は、もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる。
主は、彼らに「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある。」と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。
主は彼らに告げられる。「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し。」これは、彼らが歩くとき、うしろざまに倒れ、手足を折られ、わなにかかって捕えられるためである。」
(イザヤ書28章5~13節)
しばらくの間、主は御自分の民の注意を、御自分の力が発揮される来たるべき日に向けられます。
聖書の預言で使われる「その日に」という表現は、ほぼ例外なく、主が敵を裁き、主に信頼を置く残された者を救うために立ち上がられる時を指しています。
来たるべき栄光を垣間見た直後、預言者は、ユダの人々が当惑し混乱していた状態に注意を喚起するために過去を振り返ります。
ユダの人々は主の神殿を持ち、ダビデの家に忠実であることを誇りにしていました。
しかし、実際には北の同胞と同じくらい神から遠く離れていました。
主の言葉に従うことを拒み、誤った教えに耳を傾けることによってもたらされる霊的な泥酔した状態を表現するためによく使われます。
義の道を教えられる者を彼らのもとに遣わし、幼子を扱うように彼らを教えようと努めました。
ユダの人々が耐えられる限り「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し」という教えが与えられてきました。
しかし、彼らはそのような注意深い教えから益を得ることなく、真理から背を向け、現在の多くの人々のように真理の代わりに人間の言い伝えを受け入れてしまいました。
したがって、ついに長く延期された審判は彼らに下されるのです。
依然として、彼らは戒めに「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則」を重ねるのです。
しかし、それは、生ける神を捨て、自分で選んだ道を歩む者すべてを待ち受ける破滅に備えるためでした。
大患難時代のある日、ヤコブの苦難の時に、国家のうち背教した一部の人々は、この現実を完全に知ることになります。
その日、獣と反キリストの命令に従うことを拒み、代わりに神の御言葉に従う道を選んだ忠実な残りの人々を主は救い出します。
ユダ族がこの御言葉を聞くことを拒んだため、神は、ヘブル人が知らない言語を話す敵の軍隊をユダ族に送ります。
彼らが神から離れることの愚かさをユダ族に教えるのです。
このように、イエスはどもった唇と異国の言葉を持つ人々を通して彼らに教えられたのです。
しかし、新約聖書では、使徒ペテロはこの聖句を引用しています。
しかし、ペテロはペンテコステの日に弟子たちが非常に多くの異なる言語で福音を宣べ伝えたときの奇跡的な異言の賜物にそれを適応させています。
このようにイエスは、異言語の人々に恵みのメッセージを伝えたのです。
この一節が誤って適用されたと一瞬たりとも考える必要はありません。
その本来の意味は、ユダに攻めてきて、平和な時代には学ばなかったことを災難によって教える諸国の民を指していることは明らかです。
しかし、この福音の時代においては、神の御霊自身がこの聖句を取り上げ、指示されたとおりに適用しています。
できるだけ速やかに福音を伝えるために、この方法を用いることを望まれました。
今日、人々は異言の賜物について語り、多くの人がそれを持っていると告白します。
しかし、それでも、聖書には異言を話すことを禁じてはならないと明確に告げられています。
一度も学んだことのない言語で福音を説くことができる人はどこにいるでしょうか?
このような奇跡的な出来事が起こったとしても、正しい考えを持つクリスチャンなら誰も反対しないはずです。
単に意味のないたわ言を発しているだけならば、そのような出来事に働いているのは神の聖霊ではないと確信できます。
「それゆえ、あざける者たち――エルサレムにいてこの民を物笑いの種にする者たちよ。主のことばを聞け。
あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。
たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。
私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」」
(イザヤ書28章14、15節)
エジプトのいずれかの勢力から自分たちを守るために、アッシリアまたはエジプトと同盟を結ぼうとしている試みを指しています。
彼らは、まずこれらの国々の一方と、そして次に他方と、確実な協定を結ぶことを考えています。
このように、自分たちは破滅から守られるという確信に安住しようとしました。
しかし、すぐにその楽観主義が根拠のないものであったことに気づくことになります。
この箇所が未来の出来事に適用されることは、預言の知識のある研究者なら誰も疑問に感じません。
なぜなら、終わりの日に、その時代のユダヤ国家のかしらであるエルサレムの「強情な王」と、十か国のかしらである「獣」との間に契約が結ばれるからです。 その帝国は、ダニエル書2章の像の足の10本の指、ダニエル書7章の最後の獣では10本の角、また、ヨハネの黙示録13章と17章の獣の10本の角によって表現されています。
週の半ば、つまり3年半が経過すると契約は破られます。
このことを死と地獄との契約として描写しています。
イスラエルの地に戻った国民は、パレスチナとその増大する富を貪欲な目で見ている東と、北の敵から守られるよう努力することになります。
しかし、イスラエルは主ではなく人に頼ることで、守ろうと望んでいた平和と安全を維持できなくなることに気づきます。
かつて、イスラエルが拒んだメシアにおいてのみ、永続する祝福が見出すことができるのです。
次の聖句はこのことについて語っています。
「だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。
これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。
わたしは公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする。雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。」
(イザヤ書27章16、17節)
ペテロの手紙第一2章6節から、ここで述べられている石は私たちの主イエス・キリスト御自身であることが分かります。
「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
(ペテロの手紙第一2章6節)
イエスはイスラエルに身を低くし、恵みによってやって来ましたが、拒絶されました。
詩篇118篇22節にはこのように書いてあるようです。
「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。」
(詩篇118篇22節)
イスラエルとユダ、そして異邦人世界に対するすべての祝福は神と結びついています。
証言を拒むことは、意図的に永遠の裁きを選択することです。
イエスを受け入れるということは永遠の命と祝福を意味します。
悲しいことに、イスラエルは長い間盲目にされてきました。
恵みを受けて来られた王を受け入れることができなかったために、何世紀にもわたる放浪の間、信じられないほどの苦しみに耐えなければなりません。
さらに、彼らが故郷に戻った後も、さらに大きな苦しみが待ち受けていました。
ついには、自分たちが突き刺した王を仰ぎ見て、ひとり子を失ったように王のために嘆くのです。
「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。
彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」
(ゼカリヤ書12章10節)
苦難の日が来ると、獣や反キリストへの忠誠を拒む人たちは、異邦人の覇権の現わすの偉大な像の足の上に落ち、粉々に砕いてしまう、この生ける石の出現を信仰の中で待つことになります。
信じる者は急ぐことはないという真理を理解して、静かに待つのが彼らの務めです。
神の計画は神の定めた時に成就されます。
そのとき、義と公正が勝利し、まやかしの避け所は完全に一掃されます。
「あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。
にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。
それは、押し寄せるたびに、あなたがたを捕える。それは朝ごとに押し寄せる。
昼も夜も。この啓示を悟らせることは全く恐ろしい。」
(イザヤ書28章18、19節)
主の出現により、まやかしの避け所は破壊され、死との契約と地獄との協定は無効になります。
獣の刻印とその名の数字を受け入れた者はすべて、ふさわしい裁きを受けることになります。
しかし、主に信頼を置く者が目に見える力をもって地上に立てられた時、その正しさが証明され、来たるべき栄光に満ちた神の御国で自分の場所を与えられます。
その日まで、主に背を向ける人々は、自分の救い計画に頼り、次の節に描かれている寝苦しい眠りの人のようになるのです。
「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。
実に、主はペラツィムの山でのように起き上がり、ギブオンの谷でのように奮い立ち、そのみわざを行なわれる。
そのみわざは異なっている。また、その働きをされる。その働きは比類がない。
だから今、あなたがたはあざけり続けるな。あなたがたを縛るかせが、きつくされるといけないから。
私は万軍の神、主から、全世界に下る決定的な全滅について聞いているのだ。」
(イザヤ書28章20~22節)
昔、神はその民を荒野から約束の地へと導き、自分たちの力の現れによって彼らを敵から救い出し、たとえ彼らが敵に比べれば弱かったとしても、彼らが打ち勝つことができるようにしました。
同じように、来たるべき日に、神は残された者を、神に逆らって立ち上がるすべての者たちから救い出され、神の名を軽べつするすべての者たちに神の裁きを下されます。
主はこれに喜びを感じていません。
主の心はすべての世界中の人に向けられています。
神はすべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
神は悪人の死を喜ばず、むしろすべての人が神に立ち返って生きることを喜ばれます。
しかし、もし人々が神の哀れみを拒み、神の慈愛を拒むなら、神は義をもって彼らを裁かなければなりません。
裁きは神の不思議な働きであり、神の不思議な行為です。
非難したり裁くよりも、哀れみを示して救うことを好んでいます。
神は人間の意志の聖さを尊重しています。
もし、人々が神に頼って命を見つけようとしないなら、彼らは自覚しているか関係なく、故意に自分で死を選んでいることになります。
「あなたがたは、私の声に耳を傾けて聞け。私の言うことを、注意して聞け。
農夫は、種を蒔くために、いつも耕して、その土地を起こし、まぐわでならしてばかりいるだろうか。
その地面をならしたら、ういきょうを蒔き、クミンの種を蒔き、小麦をうねに、大麦を定まった場所に、裸麦をその境に植えるではないか。
農夫を指図する神は、彼に正しく教えておられる。
ういきょうは打穀機で打たれず、クミンの上では脱穀車の車輪を回さない。ういきょうは杖で、クミンは棒で打たれるからである。
パンのための麦は砕かれない。打穀をいつまでも続けることがないからだ。脱穀車の車輪を回しても、馬がこれを砕きはしない。
これもまた、万軍の主のもとから出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしい。」
(イザヤ書28章23~29節)
ここでは、クミンや穀物の栽培から貴重で重要な教訓が得られます。
まず、耕して土地をよく準備し、次にすき込みによってさらに土を耕します。
その後、種をまきます。
そして、クミンや穀物が収穫できる状態になったら、それぞれの性質に応じて処理します。
そこで神は、神の真理という鋤と、人生の道について注意深い指導によって、神に対する人間の反抗という固い土壌を破壊しようと努めています。
善良で誠実な心の地に種を蒔くと、豊かに実を結ぶことができます。
神はその真理に応じた者たちが実を結ぶ能力に応じて、彼らを扱う異なる方法を持っておられます。
注意深く農夫が、硬い穀物を扱うのと同じように、柔らかい野菜を脱穀しないのと同じように、農夫はすべての作物を同じように扱うのではありません。
主の名において種を蒔きに行く人々は、助けようとする人々と賢明に付きあわせます。
これらの原則を心に留めておく必要があります。
29章 第二、第三の苦難
この章の冒頭で、この区分で神がそのしもべである預言者を通して宣言された、第二の苦難に私たちは耳を傾けます。
そして、この章のさらに下の方では第三の苦難が語られます。
最初のメッセージはアリエルに直接宛てられたものですが、この名前はイザヤ書の中ではこれまで見たことがありません。
これは2つの異なる方法で理解される可能性があります。
アリエルは、サムエル記第二23章20節で「ライオンのような」と訳されているものと同じです。
欄外では「神のライオン」と訳されていますが、エゼキエル書43章16節では違います。
この単語の最初の部分は「祭壇」と訳されています。
ゆえに、アリエルは「神のライオン」または「神の祭壇」のいずれかであると考えられます。
しかし、これは間違いなく、ダビデの都市エルサレムを指しています。
「ああ。アリエル、アリエル。ダビデが陣を敷いた都よ。年に年を加え、祭りを巡って来させよ。
わたしはアリエルをしいたげるので、そこにはうめきと嘆きが起こり、そこはわたしにとっては祭壇の炉のようになる。
わたしは、あなたの回りに陣を敷き、あなたを前哨部隊で囲み、あなたに対して塁を築く。
あなたは倒れて、地の中から語りかけるが、あなたの言うことは、ちりで打ち消される。あなたが地の中から出す声は、死人の霊の声のようになり、あなたの言うことは、ちりの中からのささやきのようになる。
しかし、あなたの敵の群れも、細かいほこりのようになり、横暴な者の群れは、吹き飛ぶもみがらのようになる。しかも、それはにわかに、急に起こる。
万軍の主は、雷と地震と大きな音をもって、つむじ風と暴風と焼き尽くす火の炎をもって、あなたを訪れる。」
(イザヤ書29章1~6節)
ダビデはエルサレムを占領した後、そこを首都とし、シオンの山に宮殿を建てました。
その後の数年間、神の栄光は驚くべき形でそこに現れました。
ソロモンの時代に、主の神殿は聖都の別の地域であるモリヤ山に建てられました。
そして神への奉仕は、神の代表者として神から油を注がれた祭司たちによって続けられました。
彼らは神と民の間に立って犠牲とささげ物を捧げていましたが、時代が経つにつれて衰退が起こりました。
ユダは主への恐れることから離れ、真実な霊的礼拝の代わりに形式主義が取って代わりました。
ついには、契約関係を結んだ民にしばしば見られた不誠実と偽善を、神は容認できなくなったのです。
彼らは、契約にある自分たちの役割を完全に実行することができません。
それゆえ、神の獅子であったエルサレムは、敵の冷酷な敵意によって、住民がささげ物となる捧げられる大きな祭壇の炉のようになったのです。
これは、セナケリブとその軍隊による滅亡の脅威を指しているはずがありません。
なぜなら、そのとき、神は介入してエルサレムを救い、アッシリア軍を滅ぼしたからです。
ここで預言されていることが実現するのを、私たちは未来の出来事として期待しなければなりません。
ゼカリヤ書14章にあるように、終わりの日、ヤコブの苦難の時に、神はすべての国々をエルサレムに対して戦わせるために集められ、その後アリエルに対する裁きが完了するのです。
人々の苦しみはひどく激しく、彼らは塵の中から神に叫ぶように叫びます。
そして、その声は死者の霊と交信していると公言する者たちのささやきのようになるのです。
それでも、主は最終的に彼らを救い、彼らの敵を滅ぼすために現われます。
「アリエルに戦いをいどむすべての民の群れ、これを攻めて、これを取り囲み、これをしいたげる者たちはみな、夢のようになり、夜の幻のようになる。
飢えた者が、夢の中で食べ、目がさめると、その腹はからであるように、渇いている者が、夢の中で飲み、目がさめると、なんとも疲れて、のどが干からびているように、シオンの山に戦いをいどむすべての民の群れも、そのようになる。」
(イザヤ書29章7、8節)
イスラエルという国を地球上から消し去ろうとするサタンの試みが確実に成功すると思われるまさにその時、主は出陣し、戦いの日に戦った時のようにアリエルを包囲する国々と戦います。
そして、彼らは獲物を失ったことに気づくのです。
世界征服の「夢」の後で、彼らは目覚めて、ユダだけでなく主も共に戦っていたことに気づきます。
主の力は、御自身のために分けられた民を消し去ろうとする彼らの試みを完全に無効にします。
まさに食べようとしている夢を見て、目が覚めると自分が飢えていることに気づくのと同じようです。
もしくは喉の渇いた人が、乾いた喉を潤すものが豊富にある夢を見て、目が覚めると自分の状態が前よりも悪いということに気づくのと同じように神と神の民に罪を犯して反対するすべての国々もそのようになるのです。
「のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。彼らは酔うが、ぶどう酒によるのではない。ふらつくが、強い酒によるのではない。
主が、あなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。
そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「これは、封じられているから読めない。」と言い、
また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「私は、読み書きができない。」と答えよう。」
(イザヤ書29章9~12節)
再び、預言者はユダが悔い改めて神に立ち返るまで神がユダを裁きに引き渡す理由を描写しています。
神のみこころについての啓示が神の御言葉を通して彼らに知らされ、神の預言者によって確証されていました。
それにもかかわらず、彼らは自分の考えに背を向け、自分の心の空想に従って歩んできました。
酒に酔った人のように、彼らは神の御言葉を無効にした人間の言い伝えに酔いしれ、主から彼らに送られたメッセージに従って行動することも、理解することさえできません。
神の御言葉が彼らにとって理解不能なものとなったのは、表現が明瞭でなかったり、教えが簡潔でなかったりしたからではありません。
新約聖書に記されているように、彼ら自身が不信仰によって盲目にされ、心におおいをかぶった人々のように読んでいるからです。
「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。
というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。
なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。」
(コリントの人への手紙第二3章14節)
その言葉がこの世の賢者に伝えられると、それは封印された宣言となり、彼らには理解できないものとなりましt。
読み書きのできない人々にそれを提示すると、彼らはそれを拒み、自分は教育を受けていないと主張します。
新約聖書には、ヨハネの黙示録という偉大な預言書が一つあります。
私たちは、彼らの預言的記録に対するイスラエルの立場に、神が天から御子を帰る前に人間に語った最後の言葉であるこの厳粛な書物に対する今日のキリスト教界の多くの人々の態度の実例を見ることができないだろうか。
イスラエルの預言の記録に対する立場の中に、神の子が天から戻られる前に人間に与えられた最後の言葉であるこの厳粛な黙示録には、現在のキリスト教世界の多くの人々に対する例証を見ることが出来ます。
いわゆるキリスト教の学者や著名な説教者の中には、ヨハネの黙示録を封印されたまま研究するのは無駄だと断言する人もいます。
また、もしくは意味も一貫性もない奇妙な夢の集まりに過ぎないと断言する人がいくらか存在しています。
その反面で、それを理解できるのは学識のある者だけであり、単純なクリスチャンがその謎を解くことは期待できないという立場を取る人もいます。
しかし、主御自身が、この書物を読む人々と、その教えを守る人々に対して二度祝福を宣言されています
「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」
(ヨハネの黙示録1章3節)
「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」
(ヨハネの黙示録22章7節)
「そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。
彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。
それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。
この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」」
(イザヤ書29章13、14節)
この故意の盲目さのせいで、神は政治的な盲目さを送り、神の御言葉に心を持たない人々が強い惑いに陥り、反キリストの嘘を信じるようにします。
このように、真理に従わずに不義を喜んだ者たちすべてが裁かれます。
彼らは外面的には宗教の形を保ち、父祖の神を崇拝し敬うと告白しながらも、行いにおいては神を否定していました。
このため、長く延期されていた裁きが下されなければなりません。
そして、神の御言葉に対する彼らの不従順と、神が用意した救い主を拒んだゆえに、最初に神の御手が彼らに下って以来、何世紀にもわたって、このことは真実です。
終わりの時に彼らの不信仰は完全に完成し、彼らは神のキリストの代わりに偽りの救い主、罪の人を受け入れます。
このように自分たちの罪の杯を縁まで満たすのです。
その後、神は容赦ない裁きで彼らを扱います。
国家的に背教した部分を滅ぼされます。
そして、絶望的な悲しみの時に神に立ち返る残された者を救い、メシアが栄光のうちに現れ、神の御国をこの地上に目に見える形で打ち立てられます・
また、自分が十字架につけられた町、そこから天に昇った町に戻るときに、メシアの支配の下で祝福される新しい国家の中核となるのです。
その日、イエスの足はオリーブ山の上に立ち、イエスは偉大な力と支配権を引き継ぎます。
「ああ。主に自分のはかりごとを深く隠す者たち。彼らはやみの中で事を行ない、そして言う。
「だれが、私たちを見ていよう。だれが、私たちを知っていよう。」と。
ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。
造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった。」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言えようか。」
(イザヤ書29章15、16節)
さて、神よりも賢いと自負する者たちに、三番目の災いが宣告されます。
私たちはかつて、使徒パウロが聖霊に導かれて、ローマ人への手紙の9章で陶工と粘土の同じ比喩を用いたことを思い出しました。
自分の不信仰とわがままによって招いた悲惨と惨めさを神のせいにしたりするのは、最も愚かなことです。
ヨブ記にはこのように書かれています。
「なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばに神がいちいち答えてくださらないといって。」
(ヨブ記33章13節)
人間は全知全能の創造主の前で謙虚になり、その聖なるみこころに従うのがよいことなのです。
これこそが、被造物にとっての祝福の道です。
ユダとすべての国の失敗のせいで、神は報復的な正義を働かせ、神の恵みを拒んだ者たちに神は怒りを注がなければなりません。
それでも、神はアブラハムとの契約も、来るべき子孫、すなわち私たちの主イエス・キリストを通して全地に祝福をもたらすという約束も決して忘れてはいません。
ここで、裁きが執行された後にアリエルとパレスチナの地に祝福がもたらされるということがもう一度書かれています。
「もうしばらくすれば、確かに、レバノンは果樹園に変わり、果樹園は森とみなされるようになる。
その日、耳しいた者が書物のことばを聞き、盲人の目が暗黒とやみの中から物を見る。
へりくだる者は主によっていよいよ喜び、貧しい人はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。
横暴な者はいなくなり、あざける者は滅びてしまい、悪をしようとうかがう者はみな、断ち滅ぼされるからだ。
彼らは、うわさ話で他人を罪に陥れ、城門でさばきをする者のあげあしを取り、正しい人を、むなしい理由でくつがえす。」
(イザヤ書29章17~21節)
それは、私たちが今見つめるよう求められている千年王国の描写です。
数世紀にわたってパレスチナを覆ってきた荒廃が取り除かれます。
かつて、すべての国々の栄光であったその国が、主に救われた人々が地球上のすべての国々から探し出され、回復され、彼らの古代の伝統に連れ戻されます。
再び、実り豊かで人口が多くなり、メシアの哀れみ深い支配の下で歓喜し繁栄するようになる時、その日、イスラエルの心を長い間覆っていた盲目は取り去られます。
彼らにとって、神の御言葉は明らかになり、光り輝き、彼らは神が知らせた啓示を喜びます。
彼らが長い間苦しめられてきた異邦人の勢力は、もはや彼らを怖がらせることはありません。
おそらく「横暴な者」はおそらく直接的に獣を指しています。
「あざける者」は罪の人を指しています。
ユダヤ人を抑圧する彼らと関係するすべての者は、神によって滅ぼされ、神の民は彼らの力から解放されます。
「それゆえ、アブラハムを贖われた主は、ヤコブの家について、こう仰せられる。
「今からは、ヤコブは恥を見ることがない。今からは、顔色を失うことがない。 彼が自分の子らを見、自分たちの中で、わたしの手のわざを見るとき、彼らは私の名を聖とし、ヤコブの聖なる方を聖とし、イスラエルの神を恐れるからだ。
心の迷っている者は悟りを得、つぶやく者もおしえを学ぶ。」」
(イザヤ書29章22~24節)
過去にこれらの言葉が成就したことは一度もありません。
しかし、神が語られたことは決して無駄にならないと確信できます。
これらの言葉は、イスラエルの生き残った人々が神に教えられてみんな義人となり、過去のように自分の心の空虚な想像に従うのではなく、神の聖なるみこころに完全に従う立場に導かれる時を告げています。
「そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」」
(エレミヤ書 31章34節)
そのとき、アブラハムとその子孫に約束された祝福の豊かさが、神の友と呼ばれたアブラハムの血縁者たちだけでなく、約束どおりにすべての国民に祝福として現れるのです。
30章 ユダの失敗 ― 神の忠実さ
イザヤの時代のユダの内情に私たちの注意を向けさせます。
ユダは、セナケリブ率いるアッシリアの脅威にさらされ、かつては救い出されたエジプトに助けを求めました。
これは、神の目には、重大な罪であり、神自身に対する彼らの信頼の欠如と、かつて彼らを奴隷にし、その束縛から解放した力そのものからの助けを得るという彼らの希望の欠如を示しています。
彼らは、最初に過越しの子羊の血によって、次に、彼らを紅海を勝ち誇って通過させ、紅海の水を両側に散らし、このように彼らを荒野で神のもとに集め、最終的に約束の地に彼らを定住させた神の全能の力によって解放されたのです。
今、助けを求めてエジプトへ下るということは、彼らが過去に神が彼らと取り交わしてくださったことを忘れ、現在の救いのためにもはや神に頼ろうとしないということを意味しています。
冒頭の聖句には、この続きの4番目の悲しみが記されています。
「ああ。反逆の子ら。――主の御告げ。――彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。
彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。
しかし、パロの保護にたよることは、あなたがたの恥をもたらし、エジプトの陰に身を隠すことは、侮辱をもたらす。
その首長たちがツォアンにいても、その使者たちがハネスに着いても、
彼らはみな、自分たちの役に立たない民のため、はずかしめられる。その民は彼らの助けとならず、役にも立たない。かえって、恥となり、そしりとなる。」
(イザヤ書30章1~5節)
アッシリアの侵略は、神の民の不道徳さに対する神の怒りの証拠の一つに過ぎません。
彼らは、自分たちが罪を犯した者に立ち返り、自分たちの不義を告白し、自分たちの偶像崇拝と空想のために自分たちを裁くのではなく、神殿礼拝に関連してさえ、侵略者に対する援助を期待して、自分たちの古い敵に頼ったのです。
疑いなく、彼らの指導者たちにとって、アッシリアに対する強化のためにエジプトと友好関係を結ぶことは賢明な道と考えました。
しかし、それは単なる人為的な方策であり、失敗する運命にでした。
彼らはそのような同盟によって差し迫った危険を回避することを望んでいました。
もし、彼らが神に対して悔い改めの道を歩み、この世的な考えを持つ指導者ではなく、当時のイザヤや他の預言者を通して彼らに語りかけていた神御自身に助言を求めていたなら、彼らは賢い道を歩んだはずです。
私たちは彼らの態度の中に、現在の私たちに対する教訓を見ることができるはずです。
私たちはストレスを感じると、生ける神に頼る代わりに、人間の手段に頼りがちです。
クリスチャンが、主に頼るのではなく、世に助けを求めるのは、常に堕落の証拠です。
主の御手は、裁かれていない罪のために、彼らを懲らしめるのです。
神は常に恵みによって御自分の民に会う用意ができています。
ヨハネの手紙はこのように書かれています。
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
(ヨハネの手紙第一1章9節)
全能の神に頼る代わりに、人間の手段で困難から抜け出す道を見つけようとしがちです。
ユダは愚かにもエジプトに頼ってさらに深刻な問題に巻き込まれたのと同じように、私たちも神に頼る代わりに、自分の失敗によって陥った困難な状況から抜け出すために肉的な手段で努力しようとします。
しかし、常に状況が悪化してゆきます。
「ネゲブの獣に対する宣告。「苦難と苦悩の地を通り、雌獅子や雄獅子、まむしや飛びかける蛇のいる所を通り、彼らはその財宝をろばの背に載せ、宝物をらくだのこぶに載せて、役にも立たない民のところに運ぶ。
そのエジプトの助けはむなしく、うつろ。だから、わたしはこれを『何もしないラハブ』と呼んでいる。」」
(イザヤ書30章6、7節)
ここでは、ジャングルに見られるような貪欲な獣の国として描かれています。
しかし ユダは、エジプトの支配者の好意を得ようと、ラクダやロバに豊かな財宝を積んだ大使をこの地に派遣しました。
彼らにとってはそれが唯一の解決策であるように思われます。
しかし、彼らは間違いなく、かつての敵を親密な同盟者にしようとする自分たちの抜け目なさや政治的戦略を自画自賛しました。
しかし、彼らの行為は神を完全に忘れ去るものだったので、神にとって不快なものとなりました。
彼らは気づいていません。
アッシリア人がどんどん近づいてきてじっと座り、イスラエルの聖なる神に頼るなら、定められた時に完全な救いを与えてくれると確信することができたはずです。
彼らは、静かに神を待ち望むことで、彼らの強さが示されたはずです。
しかし、神が介入するのを待つことは常に困難です。
聖書には、災難を避けるために何かをしなければならないと感じ、急いで行動を起こし、自分から問題を招いた人々の例がいくつもあります。
しかし、もし彼らがその問題を神の御手に委ねていたなら、神は必要な時間に立ち上がり、御自身の恵みの目的を果たしていたはずです。
神を期待することと神を待つことを区別する必要があります。
苦難の時に神のもとへ行き、神の救いの力を懇願することと、神が私たちのために行動すべき時が来たと分かるまで、神の無限の愛と知恵を感じながら静かに休むことは別のことです。
「今、行って、これを彼らの前で板に書き、書物にこれを書きしるし、後の日のためとせよ。代々限りなく。
彼らは反逆の民、うそつきの子ら、主のおしえを聞こうとしない子らだから。
彼らは予見者に「見るな。」と言い、先見者にはこう言う。
「私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの預言をせよ。
道から離れ、小道からそれ、私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ。」
それゆえ、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。
「あなたがたはわたしの言うことをないがしろにし、しいたげと悪巧みに拠り頼み、これにたよった。
それゆえ、このあなたがたの不義は、そそり立つ城壁に広がって今にもそれを倒す裂け目のようになる。
それは、にわかに、急に、破滅をもたらす。
その破滅は、陶器師のつぼが容赦なく打ち砕かれるときのような破滅。
その破片で、炉から火を集め、水ためから水を汲むほどのかけらさえ見いだされない。」」
(イザヤ書30章8~14節)
明らかに、これらの言葉は、神はユダの失敗の記録を、後世の人々に有益な教訓とすることを意図しています。
この目的のために、神はそれが世代から世代へと受け継がれるように、さまざま書物に書き記したのです。
イザヤの時代のように、これから何世紀にもわたって、多くの人々が神の声を聞こうとせず、使者を黙らせ、真理から離れ、偽預言者を求めることは、神はよくご存じです。
なぜなら、現在のクリスチャンたちと同じように、耳が痛い話、自分を裁くこと、悔い改めを求めるものよりも、心地よい話を好むからです。
ここに記録されているように、ユダの人々が多くの言葉で語ったと考える必要はありません。
しかし、彼らの態度は彼らの心の中にあるものを表していました。
これは現在の膨大な数の人々にも適応されると思います。
彼らは表向きには、聖書と私たちの主イエス・神の権威を従うと告白しています。
しかし、彼らの生活を見るならば、彼らが真実な信仰を持っていないことは明らかです。
また、キリストの真理が自分の欲望に反していることがらは、愛することをしません。
このような態度は、主の御名を告白する者の側では、真理から離れて、神の言葉に頼ることよりも、生まれつきの肉的な心にはるかに満足させていると思われます。
自分の肉を喜ばせるものに従う者に、神を軽蔑させるだけです。
ユダはそのことを知りません。
彼らは高い城壁のそばに立っている人たちのようでした。
その土台はくずされ、すでにふくらみ、今にも倒れそうです。
陶工師の器のように、すぐに粉々に砕かれてしまいます。
水を汲むのに十分な大きさも、何の役にも立たません。
「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。
あなたがたは言った。「いや、私たちは馬に乗って逃げよう。」それなら、あなたがたは逃げてみよ。「私たちは早馬に乗って。」それなら、あなたがたの追っ手はなお速い。
ひとりのおどしによって千人が逃げ、五人のおどしによってあなたがたが逃げ、ついに、山の頂の旗ざお、丘の上の旗ぐらいしか残るまい。」
(イザヤ書30章15~17節)
15節の言葉は実に美しく神の民にとって、彼らがどんな苦しみや耐え忍ぶことを求められても、それは常に真実の言葉です。
悔い改め、現在の赦しと清めの保証に信頼しながら神を待つことを学ぶのなら、私たちは良心の平安だけでなく心の平安も見いだし、不安や恐れを引き起こしたあらゆるものからも救われることができます。
私たちが単純な信仰をもって生ける神に頼り、自分自身の努力をすべてやめ、神だけが与えることのできる助けを世に求めることを拒むのなら、私たちは試練を乗り越える力を見出すことができます。
しかし、ユダの人々はこのメッセージを受け入れることを拒みました。
意図的に彼らは、神が自分たちに呼び戻すために遣わした預言者の助言を無視しました。
彼らは神の御言葉に耳を傾けず、鼻に息のある人間を遠ざけようともしていません。
主は、不信仰のために心を痛める人々にくりかえしこのように言われました。
「「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。」
敵が近づき、助けが間に合わなければ馬に乗って逃げる準備がすべて整えられていました。
なぜなら、彼らはエジプトに頼ることが結局は無駄になるかもしれないと心の中で知っていたからです。
「それなら、あなたがたは逃げてみよ」と神は言いました。
彼らは馬の速さで捕らわれずに済むと信じていました。
しかし、敵は彼らよりも速く、追いついて滅ぼすだろうと彼らは考えていました。
神は彼らをエジプトから連れ出し、荒野を導いた時、もし彼らが神の御言葉に従って歩むなら、戦いの日に主の力によって、一人で千人を追撃し、二人で万人を敗走させるので、敵を恐れる必要はないと彼らに告げていました。
「あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。」
(レビ記26章8節)
しかし、今、彼らの不信仰と不従順のせいで状況は逆転しています。
ユダの千人が1人のアッシリア人から逃げ、五人の冷酷な敵の手によって、彼ら全員が引き出されることになります。
多くの人が行ってきたように、民が肉に信頼を置いて、肉は何の役にも立たないことを証明するとは愚かなことなのです。
契約を思い出し、神の民が罪のゆえに懲らしめられるのなら、神は最終的に彼らを祝福に導くと宣言し、次のように記されています。
「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。
ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。
たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。
あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。」
(イザヤ書30章18~21節)
ここでの預言は、明らかに千年王国の祝福を語っています。
イスラエルとユダが何世紀にもわたって苦しめられた後、彼らが主に立ち返り、悔い改めた悔い改めた心に与えようとされている赦しを主に見いだす日です。
その日、主の力の日に、主は彼らを永遠の祝福の中に導いてくださいます。
過去の苦しみは、彼らが目を覚ました悪い夢のようにしか見えなくなります。
彼らがかつて軽蔑し、拒んだメシアの顔を見上げ、そのメシアの中に十分な救い主を見出します。
もはや、彼らは人間の知恵や偽りの幻によって迷わされることはありません。
主御自身によって義の道に彼らは導かれます。
右にそれる危険があるように思える時においても、左にそれる危険があるように思える時においても、主の声が彼らを導きこのように言われます。
「これが道だ。これに歩め。」
すると、彼らのすべての涙は拭い去られ、苦しみはすべて永遠に消え去ります。
これらの言葉が過去に実現したと考える人は誰もいないと思います。
その日、彼らはイスラエルの栄光のうちに得るものを指し示しています。
彼らは教訓を学び、かつて従うことを拒んだ御方の命令に従うようになります。
「 あなたは、銀をかぶせた刻んだ像と、金をかぶせた鋳物の像を汚し、汚れた物としてそれをまき散らし、これに「出て行け。」と言うであろう。
主は、あなたが畑に蒔く種に雨を降らせ、その土地の産する食物は豊かで滋養がある。その日、あなたの家畜の群れは、広々とした牧場で草をはみ、
畑を耕す牛やろばは、シャベルや熊手でふるい分けられた味の良いまぐさを食べる。
大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる日に、すべての高い山、すべてのそびえる丘の上にも、水の流れる運河ができる。
主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。」
(イザヤ書30章22~26節)
過去には、偶像崇拝によって、くり返し彼らの破滅の原因となりました。
来たるべき日には、彼らは自分たちが犯した愚かさを思い起こして忌み嫌います。
彼らを取り囲む危険から救うことができない、見ることも聞くこともできない無意味な像を崇拝し、彼らは真実な唯一の生きた神を捨てていたのです。
偶像を捨てて、彼らは主にあって喜びを見いだします。
主は生きたパンで彼らを養い、いのちの水で彼らを清めてくださいます。
23節が文字通りの成就であることは疑いようがありません。
なぜなら、メシアの日には、貧しい人々をパンで満たしてくださるからです。
しかし、私たちはここに大きな霊的祝福の約束を見ることができます。
なぜなら、神の御言葉は、それを黙想する者の心の糧となり、神の御心を知り、御言葉を実行する力を持つために、内なる者を力づけるからです。
丘や山から流れ落ちる生ける水の流れも、命の水の川のことを私たちに語っているかも知れません。
その水は、天だけでなく、まだ確立されていない地上の王国の側においても、神の人々の心に喜びをもたらします。
それは、よみがえられたキリストに対する聖霊の証しとなるのです。
「見よ。主の御名が遠くから来る。その怒りは燃え、その燃え上がることはものすごく、くちびるは憤りで満ち、舌は焼き尽くす火のようだ。
その息は、ほとばしって、首に達するあふれる流れのようだ。破滅のふるいで国々をふるい、迷い出させる手綱を、国々の民のあごにかける。
あなたがたは、祭りを祝う夜のように歌い、主の山、イスラエルの岩に行くために、笛に合わせて進む者のように心楽しむ。
しかし、主は威厳のある御声を聞かせ、激しい怒りと、焼き尽くす火の炎と、大雨と、あらしと、雹の石をもって、御腕の下るのを示される。
主の御声を聞いてアッシリヤはおののく。主が杖でこれを打たれるからだ。
主がこれに下す懲らしめのむちのしなうごとに、タンバリンと立琴が鳴らされる。主は武器を振り動かして、これと戦う。
すでにトフェテも整えられ、特に王のために備えられているからだ。それは深く、広くされてあり、そこには火とたきぎとが多く積んである。主の息は硫黄の流れのように、それを燃やす。」
(イザヤ書30章27~33節)
これらの終わりの聖句は、さばきと祝福が混ざり合って語られています。
世紀にもわたって、イスラエルをひどく苦しめてきた国々へのさばきが行われます。
その時、契約の民が主のもとに立ち返り、すべての物質的、霊的な繁栄について主の約束が彼らに対して成就し、彼らに祝福が与えられます。
疑いもなく語られているさばきは、まず最初にセナケリブとその軍隊に降りかかった裁きを指しています。
しかし、私たちが見てきたように、、これらの言葉は時代を確かに超えて、もう一つの偉大な異邦人の力が、神に逆らう力によって立ち上がり、ユダを滅ぼし、インマヌエルの地を占領しようとする最後の日まで及んでいます。
来たるべき日にアッシリア人に怒りの壺を注ぎ、アッシリア人の滅亡を完全かつ永遠のものとするのです。
アッシリア人と共に、契約国家の平和を脅かした他のすべての敵にも裁きが下ります。
最後の聖句はいくぶん難解ですが、他の聖書の助けを借りて理解するのに苦労する必要はありません。
ペテロの手紙第二1章20節に記されているように、聖書の預言はどれも独自の解釈によるものではないことを覚えておく必要があります。
「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。
すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。」
ペテロの手紙第二1章20節
ここでの「私的解釈」とは、ローマカトリック教会が教えるように、教会の権威者の指示から離れて個人が聖書を理解しようとする努力を意味するのではありません。
聖書の預言はすべて同じ聖霊によって与えられ、互いに密接に関連しているため、全体として考える必要があるということです。
それで、ここで私たちは「すでにトフェテも整えられ、特に王のために備えられているからだ。それは深く、広くされてあり」と読むことができます。
アッシリアの王は分かっていますが、ここで述べられている王は誰でしょうか?
ダニエル11章36節に目を向けると、大患難時代に背教したユダヤ民族の指導者となる強情な「王」について書かれています。
彼は明らかに、テサロニケ人への第二の手紙2章に登場する不法の人、罪人と同じ人物です。
ヨハネの黙示録13章に登場する、子羊のように見えるが竜のように話す第二の獣とも同じ人物です。
この邪悪な者と「獣」は両方とも生きたまま火の池に投げ込まれます。
このことはヨハネの黙示録19章19、20節に記されています。
「また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。
すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。
そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。」
(ヨハネの黙示録19章19、20節)
アッシリア人を獣と同一視する人もいます。
それは正しいかもしれませんが、現在の筆者にとっては、獣はダニエル書7章にある小さな角です。
アッシリア人、つまり北の王はダニエル書8章の小さな角なので、両者は異なる人物であるように考えられています。
神とその民のすべての敵は、主の御前から、そして主の力の栄光から永遠に滅ぼされる運命です。
昔、トフェトはヒノムの子の谷の底、そこはすなわちゲヘナです。
エルサレムの町の汚物とごみが、罪人や獣の死体とともに捨てられる場所でした。
イスラエルの最悪の偶像崇拝の時代に、モロクの像が立てられ、この卑劣な神に人間のいけにえがささげられました。
小さな子供や若い娘は、真っ赤に熱せられ燃える炉であった獣の像の真っ赤に熱せられた腕の中に生きたまま投げ込まれました。
モロクの祭司たちが太鼓を打ち鳴らし、偶像崇拝の歌を歌い、焼かれる犠牲者の叫び声をかき消そうとしてました。
神はこのようにして現れた恐ろしい邪悪を嫌悪の眼差しで見つめていたのです。
このように、トフェトは最下層の地獄の同義語となりました。
そして、主の日が到来し、人類の時代が終わるとき、神の最後の敵が外なる暗闇の場所に投げ込まれます。
31章 未来の祝福を約束した戒め
前の章のメッセージはユダの王と貴族たちにほとんど影響を与えていません。
それは明らかでした。
そのため、再び、主はそのしもべイザヤを遣わしています。
そして、エジプトに助けを求めることの愚かさについて警告しました。
このように、すでに考察した第4の災いと同じように第5の災いがもたらされます。
「ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。
しかし主は、知恵ある方、わざわいをもたらし、みことばを取り消さない。
主は、悪を行なう者の家と、不法を行なう者を助ける者とを攻めたてられる。」
(イザヤ書31章1、2節)
昔、彼らをエジプトから勝利のうちに彼らを導き出し、聖なる契約を与えてくださいました。
御言葉に従っている限り、彼らは祝福と救いを約束してくださいました。
彼らはその方に頼るのではなく、国難の時にエジプトに助けを求めたのです。
主はそのような人々を痛烈に叱責しています。
彼らは主に頼る事が出来ずに、緊急事態が発生すると、かつて彼らを奴隷にしていた権力に助けを求めました。
キリストが十字架上で私たちのために御自身を捧げて私たちをこの世界から救ってくださいました。
私たちが知っているように、エジプトの力はこの世界を型として物語っています。
現在のクリスチャンが、生ける神に頼らずにこの世界に戻ることは、私たちを自分たちの元に救い出してくださった神の名を辱めることになります
主は、主を信じるたましいを決して失望させないと約束しておられます。
しかし、困難が生じて危険に陥ると、私たちはついこのことを忘れてしまいがちになります。
主はこのように言っています。
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
(ヘブル人への手紙13章5節)
そのため、私たちは絶望のあまり、 このようにと言われた主に頼るのではなく、助けのないところに助けを求めてしまいます。
神が恵みについて語られるときも、裁きについて語られるときも、神は決して約束を破ることはありません。
しかし、わたしたちは愚かにも、神が約束した以上のことをなさるだろうと空想したり、神が祝福の約束を果たしてくださらないのかと恐れたりして、信じようとしません。
信じるかどうかに関わらず、神の忠実さは変わりません。
「エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。
主が御手を伸ばすと、助ける者はつまずき、助けられる者は倒れて、みな共に滅び果てる。」
(イザヤ書31章3節)
命を与えるのは御霊である。肉は何の役にも立たません。
イスラエルにとって、エジプトは大きな力と権力を誇示するかのように見られるでしょう。
しかし、もしイスラエルのために働くのであれば、アッシリア人の抵抗に遭い、エルサレムとユダの地が占領されるのを効果的に阻止できます。
しかし、イスラエルの望みはむなしかったのです。
なぜなら、真実な力は神にのみ見出されるからです。
エジプト人は神を知らず、神もこの時点では彼らを神の直接の代理人として認めていません。
民がエジプトに依存したのは、肉の腕が救いをもたらすと考えるに間違いを犯したからです。
ゆえに、イスラエルは強大な力を持つ主の腕を無視しました。
「まことに主は、私にこう仰せられる。「獅子、あるいは若獅子が獲物に向かってほえるとき、牧者がみなそのところに集められても、それは、彼らの声に脅かされず、彼らの騒ぎにも動じない。そのように、万軍の主は下って来て、シオンの山とその丘を攻める。
万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。」」
(イザヤ書31章4、5節)
エジプトがいれば、アッシリア軍は無敵に見え、エジプトの助けが必要に思われました。
しかし、主はまだご自分の民のことを考えておられました。
エルサレムに攻めてきた強大な軍勢を滅ぼすために、すぐにその全能を示されました。
この預言は、後に私たちが読む、戦争の武器によらずに、主の息吹によってセナケリブの軍隊が一夜にして壊滅した預言に直接言及しています。
これは未来の出来事、キリストが復活して終わりの日にエルサレムに攻め上って来る者すべてを滅ぼすとき、この預言の偉大な成就が起こります。
私たちが知っているように、すべての国の軍勢がその信仰的な都市に対して集結します。
しかし、すべての希望が失われたように見えた時、主はその力をもって立ち上がり、戦いの日に彼らと戦うために出陣するのです。
イエスが燃える火とともに天から現れ、神を知らない者たちに復讐するとき、イスラエルの敵はイエスの御前で消え去り、彼らの指導者たちはさばきによってまとめられます。
このことを考えるのなら、主は再び民に悔い改めて主のもとに立ち返り、自分たちの罪を認め、すべての偶像を捨て去り、偶像崇拝の習慣から離れるよう呼びかけておられます。
「イスラエルの子らよ。あなたがたが反逆を深めているその方のもとに帰れ。
その日、イスラエルの子らは、おのおの自分のために自分の手で造って罪を犯した銀の偽りの神々や金の偽りの神々を退けるからだ。
アッシリヤは人間のものでない剣に倒れ、人間のものでない剣が彼らを食い尽くす。アッシリヤは剣の前から逃げ、若い男たちは苦役につく。
岩も恐れのために過ぎ去り、首長たちも旗を捨てておののき逃げる。――シオンに火を持ち、エルサレムにかまどを持つ主の御告げ。――」
(イザヤ書31章6~9節)
ユダがこのようにして主に立ち返り、そのすべての悪行をこの地から清めることによって悔い改めのためのわざを行う時が来ます。
このようにユダが主に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをし、国中から彼らの悪行をすべて清める時が来ます。
神がイスラエルのために行動を起こし、イスラエルが恐れていた敵は、イスラエルを主に選ばれた者として認め、イスラエルに従うようになります。
異邦人の勢力は彼らを憎んだり軽べつすることはなく、彼らの破滅を求めたりしません。
イスラエルを主に愛された者として認め、彼らの好意を求めるようになります。
32章 来たるべき王国への準備
アッシリアに対するさばきの宣言である6番目の災いを口に語る前に、私たちはここに、苦悩する神の民への希望と慰めのメッセージを語ることができます。
そして、このことを主イエス・キリストの再臨の時に到来するメシア王国の栄光をこれらの事の前に示しています。
「見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる。
彼らはみな、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになり、砂漠にある水の流れ、かわききった地にある大きな岩の陰のようになる。」
(イザヤ書32章1、2節)
ここで語られている義の王を特定することは私たちにとって困難ではありません。
目の前に迫っている王国について語ったときに拒まれた、神に油を注がれた者以外にはありえません。
「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。」
(ルカの福音書19章12節)
また、ダビデは神の栄光ある支配を預言してこのように言っています。
「イスラエルの神は仰せられた。イスラエルの岩は私に語られた。『義をもって人を治める者、神を恐れて治める者は、
太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らすようだ。』」
(サムエル記第二23章3、4節)
イエスが帰って来て支配権を握るとき、イエスは、自分が拒まれたときにイエスに忠実であった人々の中から選ばれた特定の人々を君主として自分に従わせ、裁きを下されます。
彼は王としてだけではなく救い主として私たちの前に来られたのです。
「風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場」と宣言する預言者が用いた比喩表現は美しく感じられます。
避け所を求めてイエスのもとに逃げるすべての人々に避け所を提供するために、裁きの嵐の矢面に立たれる御方です。
永遠の岩として見てきました。その岩の裂け目に、悩めるたましいの隠れ場所として見ることができます。
イエスは砂漠の岩として描かれ、太陽の猛烈な熱から身を守る場所を与えています。
これは、イエスが信頼を置くすべての人に惜しみなく与えてくださる救いの別のもう一つの美しい描写です。
「見る者は目を堅く閉ざさず、聞く者は耳を傾ける。
気短な者の心も知識を悟り、どもりの舌も、はっきりと早口で語ることができる。」
(イザヤ書32章3、4節)
キリストにすべてにおいて確かなな救い主を見出す人々は、キリストの御言葉を通して教えを得ることができます。
それによって恵みと知識が成長し、破壊者の道から守られます。
初めてキリストに来るとき、素朴で無学な人がいるかも知れません。
また、どれほど他人を通して教えや助けを受けることに慣れていなかった者がいるかも知れません。
しかし、キリストは、御言葉に従おうとする人々に真理を明らかにすることをキリストは喜ばれています。
そして、キリストのうちに、必要な知識と知恵をすべてが見つけられます。
「もはや、しれ者が高貴な人と呼ばれることがなく、ならず者が上流の人と言われることもない。
なぜなら、しれ者は恥ずべきことを語り、その心は不法をたくらんで、神を敬わず、主に向かって迷いごとを語り、飢えている者を飢えさせ、渇いている者に飲み物を飲ませないからだ。
ならず者、そのやり方は悪い。彼はみだらなことをたくらみ、貧しい者が正しいことを申し立てても、偽りを語って身分の低い者を滅ぼす。
しかし、高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする。」
(イザヤ書32章5~8節)
反対に、神の真理をいい加減に扱う愚か者、つまり、ずる賢い者は、自分で選んだ道を追求する中で、霊的な啓示を見出すことを期待することはありません。
主の力の日に、そのような者は裁きを受け、もはや、他人の教師や指導者として認められなくなります。
彼らの真実な特徴が完全に明らかになり、それに応じて裁かれます。
これらの高慢で軽蔑的な者たちは、もはや人々を惑わすことを許されません。
しかし、神から義の道を学び、その道を歩むことに喜びを見出した者たちは神から栄誉を受けます。
神の御国に居場所を見つけ、そこで神から授かったものを他の人々にどのように分配したかに応じて報いを受けます。
私たちの主はこのように言われています。
「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
(マタイの福音書10章8節)
「のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。
うぬぼれている女たちよ。一年と少しの日がたつと、あなたがたはわななく。ぶどうの収穫がなくなり、その取り入れもできなくなるからだ。
のんきな女たちよ。おののけ。うぬぼれている女たちよ。わななけ。着物を脱ぎ、裸になり、腰に荒布をまとえ。
胸を打って嘆け。麗しい畑、実りの多いぶどうの木のために。」
(イザヤ書32章9~12節)
3章で主はシオンの娘たちを厳しく叱責していました。
彼女たちは虚栄心と軽薄さで生き、主を軽蔑し、自己満足のことしか考えていません。
今、イエスは再び、良心を働かせて、それゆえ義の道に人を導くべきでした。
しかし、イエスは神のさばきが間もなく自分たちの上に下ることを認識せず、さまざまな贅沢品に囲まれ、あらゆる世俗的な愚行を楽しみ、今この瞬間のためだけに生きている人々に語られています。
貧困が彼らの利己的な欲望を満たすこれらすべてのものを奪う日がすぐに来ます。
ついに、彼らは神を忘れ、肉体的な快楽と自堕落だけを考えていた愚かさに気が付きます。
畑やブドウ畑が侵略軍によって破壊され、その他の生活手段が終わる時が来ます。
その時、彼らは神を賛美する責任を忘れていた自分たちがいかに愚かであったかを、手遅れになってから気が付きます。
「いばらやおどろの生い茂るわたしの民の土地のために。そして、すべての楽しい家々、おごる都のために。
なぜなら、宮殿は見捨てられ、町の騒ぎもさびれ、オフェルと見張りの塔は、いつまでも荒地となり、野ろばの喜ぶ所、羊の群れの牧場となるからだ。」
(イザヤ書32章13、14節)
包囲と陥落、さらに後の大患難時代の悲惨な出来事まで預言されています。
エルサレムは「平和のうちに築かれた」という意味です。
しかし、この都市は世界の歴史上おそらく他のどの都市よりも戦争と紛争に苦しんできました。
そして、未来の出来事として、主が戻ってシオンの山に王として支配される直前には、さらに大きな恐怖がこの都市に待ち受けています。
その日まで、決して、永続的な平和は得ることはありません。
「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。
公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。
義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。
わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。
――雹が降ってあの森を倒し、あの町は全く卑しめられる。――」
(イザヤ書32章15~19節)
聖書は主イエス・キリストの初臨と再臨を教えるだけでなく、聖霊の初臨と再臨も預言しています。
聖霊の最初の再臨は、信じる者を一つのからだにバプテスマし、世界中に福音を伝える力を与えるために、ペンテコステに起こりました。
ペテロは、そのとき起こったことにヨエル書2章の言葉に適応しました。
それは、その注ぎによって預言が成就したということではありません。
イスラエルが神のもとに連れ戻され、聖霊が天から彼らの上に注がれ、救われたすべての国々がそれに応じて祝福される時に起こることと同じ性質のことが起きたということを示しています。
この聖句はこのことについて語っています。
戦争と争いが終わり、病気と悲しみが消え去り、貧困と苦悩が消え去り、人々が主の哀れみを楽しみ、あらゆる必要が豊かに満たされる時、それはこの哀れな世界にとって祝福の時となるのです。
その時、地球は非常に実り豊かになり、ハーブの庭は森のようになり、荒野はバラの花のように咲くのです。
文字通り実現することを否定するのは大きな間違いです。
その時、確かに大きな霊的祝福もあります。
しかし、霊的なものと結びついて、この預言は他の預言と共に文字通り成就します。
すべての理解を超える神の平和は御国に入ります。
メシアの支配の恵みを楽しむ人々の分け前となります。
しかし、彼らが平和な居住地に住むという約束は、絶対的な文字通りの意味で受け止められるべきことは間違いありません。
メシアが支配を引き継いだ時にはあらゆる災いから守られます。
「ああ、幸いなことよ。すべての水のほとりに種を蒔き、牛とろばとを放し飼いするあなたがたは。」
(イザヤ書32章20節)
この章の最後の節は、現在のデスペンテーションにいる神のしもべたち全員が心に留めておくべきです。
というのは、ヤコブの苦難の時のイスラエルの残された者たちと同じように、現在の私たちにも真実な祝福があるからです。
私たちは涙を流しながら貴重な種を携えて出かけますが、喜びにあふれた束を携えて再びやって来ることを確信しています。
33章 第6の災いと祝福の約束
さて、私たちは続けて6つの災いの最後に到達しました。
これは神の民の敵、主にアッシリアに対して宣告されます。
しかし、イスラエルとユダを滅ぼそうとした他の国々も含まれています。
「ああ。自分は踏みにじられなかったのに、人を踏みにじり、自分は裏切られなかったのに、人を裏切るあなたは。
あなたが踏みにじることを終えるとき、あなたは踏みにじられ、あなたが裏切りをやめるとき、あなたは裏切られる。」
(イザヤ書33章1節)
そして、このような真実な原則が聖書にて述べられています。
「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」
(ガラテア人への手紙6章7節)
これは個人だけでなく国家にも当てはまります。
一方的にイスラエルに報復した勢力は、神がその民を懲らしめるために彼らを駆り立てた後、今度は裁きを受けなければなりません。
歴史を振り返ってみると、ユダヤ人がひどい苦しみを味わったさまざまな国が関連しています。
アッシリア、バビロン、エジプト、古代ローマ帝国、そしてスペイン、ポーランド、ロシア、ドイツなどの近代の国を例に挙げることができます。
これらの言葉が繰り返して成就してきたことがわかります。
未来において、契約の民を抑圧するために立ち上がる者たちは、神がその無限の知恵と正義において良いと判断する範囲までしか許されていません。
その後に彼らは滅ぼされイスラエルは解放されます。
「主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。
朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。」
(イザヤ書33章2節)
これは、過去においても、また、未来の出来事においても、獣と反キリストの時代に残された者たちの叫びなのです。
彼らは父たちの神を尊敬し、悔い改めて神に立ち返ることで救いを見出すのです。
すると、主は彼らのために介入し、救いと慰めの力の手を差し伸べてくださいます。
「騒ぎの声に国々の民は逃げ、あなたが立ち上がると、国は散らされます。
あなたがたの分捕り物は、油虫が物を集めるように集められ、いなごの群れが飛びつくように飛びつかれる。」
(イザヤ書33章3、4節)
信仰は神を信頼し、存在しないものを存在するかのように見ることです。
今もなお、これは主の力と彼らに対する主の介入を宣言する残された者の声なのです。
「主はいと高き方で、高い所に住み、シオンを公正と正義で満たされる。
あなたの時代は堅く立つ。知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である。」
(イザヤ書33章5、6節)
神を信頼する人々の心は、信仰によって神の御国が全地に確立されるのを見て、礼拝と感謝へと動かされます。
これらすべてを霊的なものと解釈し、シオンを教会、すなわちキリストのからだとすることは、確かに預言的な聖書の範囲の重大な誤用です。
裁きがユダヤ人やその抑圧者たちにすでに下ったか、もしくはこれから下るであろうという事実が確認できます。
この祝福を現代の教会に適用することは大きな矛盾です。
確かに、神の言葉に従わなかったために異邦人の手で苦しんできた人々は、この世界に神の御国が建てられ、シオンの山が全地の祝福の中心となる時、その特権に参加する人々と国家的には同じです。
「見よ。彼らの勇士はちまたで叫び、平和の使者たちは激しく泣く。
大路は荒れ果て、道行く者はとだえ、契約は破られ、町々は捨てられ、人は顧みられない。
国は喪に服し、しおれ、レバノンははずかしめを受けて、しなび、シャロンは荒地のようになり、バシャンもカルメルも葉を振り落とす。」
(イザヤ書33章7~9節)
ここで述べられている契約は、疑いなく、すでに述べたように、ユダヤ人がアッシリアに対して自分を強化するためにエジプトと結ぼうとした契約のことです。
しかし、その契約は全く価値がないことが判明しました。
しかし、私たちはまた、これらの節の中に、終わりの日に来る荒廃の描写を見ることができます。
それは、ダニエル書9章に預言されているように、獣とユダヤ人国家の長との間で結ばれた7年間の契約が、週の半ばに破られることです。
また、その日に、私たちの主がマタイの福音書24章で預言されたように、荒れ果てた忌みきらうべきものを礼拝することを拒む残された者たち上に、信じられないほどの苦しみが降るということです。
他の聖書は、主の日が始まるときに、民の背教のゆえにこの地に起こる荒廃が何かを私たちに示しています。
「「今、わたしは立ち上がる。」と主は仰せられる。「今、わたしは自分を高め、今、あがめられるようにしよう。
あなたがたは枯れ草をはらみ、わらを産む。あなたがたの息は、あなたがたを食い尽くす火だ。
国々の民は焼かれて石灰となり、刈り取られて火をつけられるいばらとなる。」
(イザヤ書33章10~12節)
終わりの日の主の敵である背教者のいかなる策略も、主の裁きを覆すことはできません。
主が立ち上がって大地を激しく揺り動かすとき、主の力は、主の名を否定する人々のいかなる妨害も許しません。
また、口先では主の名を尊んでいながら、行いにおいては主を否定する人々に対しても、主の裁きは必ず下ります。
「遠くの者よ。わたしのしたことを聞け。近くの者よ。わたしの力を知れ。」
罪人たちはシオンでわななき、神を敬わない者は恐怖に取りつかれる。 「私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう。私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。」」
(イザヤ書33章13、14節)
シオンの罪人とは、主の名を敬うと告白しながらも、その信仰のない生活によって不信仰を露呈する、上で述べられた人々のことです。
神が彼らに対処するために立ち上がると、彼らの宗教的な主張は失敗します。
ついに、彼らは偽善者は滅びることを知ることになります。
そして、真実な者だけが主の日に耐えることができるのです。
14節の質問は、よく誤解されているように思います。
預言者はここで、聖書が他の箇所で明確に教えている、最終的に悔い改めない者に対する永遠の罰について語っているのではありません。
「永遠の燃焼」とは地獄の火ではなく、神の聖さであり、その前には、どんなに信仰深いふりをしても、不義な人間は立つことはできません。
次の聖句がその箇所の答えを与えています。
「私たちの神は焼き尽くす火です。」
(ヘブル人への手紙12章29節)
神の聖なる御前で自分を裁き、今や神の前に真実と義をもって歩もうと努めている者だけが、神の前に留まることができます。
「正義を行なう者、まっすぐに語る者、強奪による利得を退ける者、手を振ってわいろを取らない者、耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者、
このような人は、高い所に住み、そのとりでは岩の上の要害である。彼のパンは与えられ、その水は確保される。
あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。」
(イザヤ書33章15~17節)
ここで、上記の聖句の質問に対する唯一の可能な答えを得ることができます。
これは詩篇15篇1〜3節と完全に一致しています。
「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。
正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。
その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行なわず、隣人への非難を口にしない。」
(詩篇15篇1~3節)
どのディスペンテーションにおいても、すべての救われた者は、永遠に主イエス・キリストの贖罪の御業にすべてを負わせることになります。
人が真実に神から生まれ、神の御前に義とされたことの証明は、義にかなった生活と神の聖なるみこころへの謙虚な服従の中に見ることができます。
神に服従し、仲間と誠実であることを特徴とする残された者たちに、これらの約束は実現します。
これらの人々は、王が預言的な聖書を成就するために戻られる時、その美しさと栄光をすべて見ることになります。
彼らはその地を見ることになります。
それは昔の神がアブラハムの子孫に約束した地であり、はるかに広がっています
エジプト川からユーフラテス川まで、すべてが神に回復されたときにイスラエルの相続地となります。
「あなたの心は、恐ろしかった事どもを思い起こす。「数えた者はどこへ行ったのか。測った者はどこへ行ったのか。
やぐらを数えた者はどこへ行ったのか。」
あなたは、もう横柄な民を見ない。この民のことばはわかりにくく、その舌はどもって、わけがわからない。」
(イザヤ書33章18、19節)
使徒パウロが、神の務めについて人間の霊的の限界を述べているときに、これらの言葉の一部を引用していることを思い出してください 。
「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。
神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」
(コリントの人への手紙第一1章20節)
イスラエルは御子を拒み「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」という恐ろしい呪いを自分たちの頭に叩きつけた国民」です。
この国民に対する神の祝福の目的を、神の御霊の助けを借りずに誰も理解することはできません。
彼らのあらゆる迷いにもかかわらず、神の計画は実行されます。
神は最後には彼らを千年王国だけでなく永遠にわたってイスラエルを祝福に導きます。
迫害する国々の激しさと憎しみによって、どんな苦しみを強いられるその間であっても、主イエスが降臨され、神が与えたすべての約束が成就されます。
最終的に彼らはすべての敵に対して勝利を収め、完全な祝福を受けることになります。
もはや、御名を崇める者たちは主に忠実であるゆえに、非難や苦しみに耐えるよう求められることはありません。
「私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、取り払われることのない天幕、エルサレムを見る。
その鉄のくいはとこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない。
しかも、そこには威厳のある主が私たちとともにおられる。そこには多くの川があり、広々とした川がある。
櫓をこぐ船もそこを通わず、大船もそこを通らない。
まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。
あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができず、帆は、張ることもできない。
そのとき、おびただしい分捕り物や獲物は分け取られ、足なえさえも獲物をかすめ奪う。
そこに住む者は、だれも「私は病気だ。」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。」
(イザヤ書33章20~24節)
ここに示された展望は栄光に満ちています。
長い間争いと戦争の町であったエルサレムは平和な住まいとなります。
なぜなら、平和の君主がエルサレムに住み、律法が全世界に伝えられるからです。
エルサレムは孤立しており、近い港もないが、その日には主御自身が守護者となり、聖都の人々にとっては広い川のようになります。
しかしその川では敵の船が航行することはなく、神が民の守護者となります。
悲しみと病気は消え去り、神の子らの最も弱い者たちでさえ、過去の最も強力な敵よりも強くなります。
自分の弱さと不十分さを認識し、全能の力に頼る人たちによって克服されます。
現代の教会に直接当てはめることは避けるべきですが、それでも、この聖句には私たちにとって有益な霊的な教訓が含まれています。
聖書の他の箇所で強調されているように、人の助けはむなしいが、生ける神に頼る者は、人間の敵であれ悪魔の敵であれ、恐れる必要がないということを教えてくれます。
信仰は常に世、肉、悪魔に打ち勝つ勝利です。
34章 ヤハゥエの復讐の日
この章とそれに続く章は、私たちがすでに考察してきたことと密接に関係しています。
一つは、神と神に選ばれた民であるイスラエルの敵に下る裁きを述べています。
もう一つは、長い間軽蔑されてきたこの民が、メシアの哀れみ深い専制政治のもとで楽しむ祝福を告げるものです。
同じ驚くべき出来事を、明確に伝える聖書の他の多くの箇所を思い浮かべずに、34章を読むことはできません。
まず、終わりの日にユダとエルサレムに攻めてくるすべての国々の破滅があります。
「国々よ。近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。地と、それに満ちるもの、世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け。
主がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し、彼らが虐殺されるままにされたからだ。
彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。」
(イザヤ書34章1~3節)
この預言はヨハネの黙示録19章19~21節と完全に一致しています。
実際にイザヤのこれらの言葉は、ヨハネの黙示録にある幻の解説および説明として見ることができるかも知れません。
ゼカリヤ書14章の前半部分ともよく一致しています。
すべての国々がエルサレムに対して集まる時、主は戦いの日に戦ったときのように出陣して彼らと戦うと私たちは告げられています。
その日、私たちの祝福された主は、地上の民を救い、昔のすべての預言者がイスラエルに立てた神の約束を成就させるために再臨されます。
その時、主はオリーブ山の上に足を置くのです。
「天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。
その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。」
(イザヤ書34章4節)
これは、ヨハネの黙示録の第6の封印の下にある裁きと関連しています。
また、詩篇102篇26節とヘブル人への手紙1章11 節で預言されているように、私たちの心を世の終わりへと導きます。
最初の成就は詩的または象徴的な意味で解釈されるべきだと考えます。
つまり、私たちは天、太陽、星を文字通りの天体ではなく、むしろ終わりの日の異邦人の支配権力と教会権力として理解すべきです。
義が宿る新しい天と新しい地をもたらすために、現在の状態が完全に過ぎ去ってしまうことを明確に示しているように思われます。
この二重の適用については、聖書の他の箇所や多くの箇所に同じことが書かれているので、難しいことはありません。
神は、後に文字通り成就するかもしれない特定の出来事を説明するために、しばしば象徴的な言葉を使うことがあります。
例えば、主は再臨の直前に大地震が起こると告げています。
ヨハネの黙示録にはそのような大地震について書かれています。
しかし、その書の象徴的な性格に見るならば、その地震は既存の制度が揺さぶられ、崩壊するようです。
つまり、現在、私たちが知る文明の破壊と関係しているように見えます。
次の節は、特にエドムに下る裁きについて述べています。
この裁きはまだ行われたことはありませんが、終末の日に文字通り成就すると確信します。
「天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。
主の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。子羊ややぎの血と、雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。
主がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。
野牛は彼らとともに、雄牛は荒馬とともに倒れる。彼らの地には血がしみ込み、その土は脂肪で肥える。
それは主の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である。」
(イザヤ書34章5~8節)
神はエドムの民を滅ぼすと宣言しました。
(オバデヤ18節)
そして終わりの日に、かつてエドムの君主が支配していたエドムの地に、ヤコブの子孫に対する嫉妬と憎しみが、昔のエドム人と同じような強い民の中に現れるのです。
そして、彼らには容赦ない裁きが下されます。
主の剣はさやから抜かれ、イスラエルの敵が全て滅ぼされるまでは、さやに戻されることはありません。
シオンとその街を代表する人々が異邦人の間に散らされてから、何世紀にもわたって受けてきたさまざまな苦しみに対する主の報いの日となります。
なぜなら、彼らは自分たちに訪れる時を知らなかったからです。
次にエドムの地の荒廃が描写されています。
しかし、そのことは反抗的な民に下される神の裁きを思い起こさせるものとなります。
また、主の力が及ぶ日であっても、シオンで支配する王に背を向けて反抗しようと考える人々への警告として、千年王国の時代全体を通じて続くことが考えられます。
「エドムの川はピッチに、その土は硫黄に変わり、その地は燃えるピッチになる。
それは夜も昼も消えず、いつまでもその煙は立ち上る。そこは代々にわたって、廃墟となり、だれも、もうそこを通る者はない。
ペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む。主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。
そのおもだった人たちのうち、王権を宣言する者が、だれもそこにはいない。すべての首長たちもいなくなる。
そこの宮殿にはいばらが生え、要塞にはいらくさやあざみが生え、ジャッカルの住みか、だちょうの住む所となる。
荒野の獣は山犬に会い、野やぎはその友を呼ぶ。そこにはこうもりもいこい、自分の休み場を見つける。
蛇もそこに巣を作って卵を産み、それをかえして、自分の陰に集める。とびもそれぞれ自分の連れ合いとそこに集まる。」
(イザヤ書34章9~15節)
ここで述べられている獣、鳥、爬虫類のすべてを特定することは困難です。
使われているヘブル語のそれぞれの正確な意味について、学者たちの意見も一致していません。
しかし、たとえ使われているそれぞれの用語を理解していなくても、この聖句の完全な意味、すなわち、かつては繁栄した王国であったエドムの地が完全に荒れ果て、野生の生き物だけが住む場所になるということを理解することはできます。
「主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。
それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。
主はこれらのもののために受ける割り当てをくじで定め、御手が測りなわで測ってこれを分け与えたので、とこしえまでも彼らはこれを所有し、代々にわたって、ここに住む。」
(イザヤ書34章16、17節)
主の言葉は絶対であり、確かです。
聖書の預言は必ず最終的に完全に成就します。
主の人格と贖いの御業の真理が、予型と型が一致するように、預言と成就も完全に調和します。
神が語ったことは、すべて信頼できることが証明されるのです。
裁きに関してであれ、恵みに関してであれ、決して約束は破られることはありません。
35章 千年王国の祝福
この貴重な聖句は、私たちの本の最初の部分を締めくくる、美しい霊感を受けた詩です。
ヨハネの黙示録20章1節に描かれているようにサタンが縛られ、私たちの主イエス・キリストが宇宙の支配者として即位された後にこの世界に広がる喜ばしい状況を私たちに示しています。
イザヤ自身も、人類の歴史を通じて悲しみと苦しみを引き起こしてきた長年の争いと邪悪の後の、平和と正義の時代を待ち望んでいました。
ゆえに、心を躍らせたはずです。
創造物自体も、主の力のその日の祝福に預かることになります。
ゆえに、次のように書かれています。
「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。
レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。」
(イザヤ書35章1、2節)
カルメル山やシャロン平原の美しさなど、現在の世界の情勢における美しいものはすべて、その新しい時代にも維持されます。
しかし、創造主がその力ある言葉によって創造したが、人間の罪の結果としてひどく損なわれた世界していました。
さらに、その世界に対する創造主の喜びの多くのさらなる証しが加えられます。
実り豊かな畑や果樹園、美しい庭園はどれも、メシアの時代にあらゆる場所で見られる光景を予感させるものです。
乾ききった砂漠は緑豊かな牧草地に変わり、呪いによってもたらされたイバラやアザミは消え去ります。
代わりに食欲をそそる果実と目を楽しませてくれる花のなる木々や低木が芽吹くのです。
全人類にもたらされる物質的、霊的な祝福は、これらすべての物質的な変化を超越するものとなります。
「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。
心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。
そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」
(イザヤ書35章3~6節)
「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。」
(箴言13章12節)
地上の人々は、何世紀にもわたって、人類を苦しめる数え切れないほどの災厄からの救いを切望してきました。
そこで、預言者は、信仰が弱く、心が恐れている人々に、目を上げて、神自身が地上に降りてきて苦難を終わらせ、新しい幸福な状態をもたらす時を待ち望むように勧めています。
イエスが初めて来られたとき、イエスの声やイエスの手に触れるだけで、あらゆる病気が消え去り、盲人の目が開かれ、耳の聞こえない人の耳が聞こえ、口のきけない人の舌が歌えるようになりました。
イエスは、来たるべき時代のさまざまな兆候を現したのです。
ある程度、これらのしるしは足の不自由な人や無力な人に「イエス・キリストの御名によって立ち上がり、歩きなさい」と権威をもって言うことができた使徒たちのメッセージに従うものです。
時には、彼らの影にさえ癒しの力があったのです。
しかし、これらすべての不思議は、千年王国時代にあらゆる場所で起こるであろうことのほんの前兆に過ぎません。
「焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。」
(イザヤ書35章7節)
ワニなどの有毒で有害な生物は、もはや人類を苦しめたり、子供たちの安全を脅かしたりすることはなくなります。
人間の快適さと安全に役立つものだけが残ります。
「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。
これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。
主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。
楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。」
(イザヤ書35章8~10節)
神の御前に至る道は常に聖さの道です。
主は彼らを聖なる道に沿って御自身のもとへと、主の王座が据えられるシオンの山へと導きます。
そこから主の律法が全地に広がります。
神の哀れみ深く義の支配のもとで、悲しみと嘆きは終わり、喜びと楽しみがそれに取って代わります。
キリストのからだである教会に属する私たちは、心を天の希望に定め、主イエスの再臨と、主のもとへ集まる日を待ち望んでいます。
イスラエルと地上の国々は、このような歴史の中で苦しい状況、変えることのできない状況のささげ物となってきました。
しかし、神がこのような祝福をイスラエルと地上の国々のために用意してくださっていることを知り、喜ばずにはいられません。
平和会議、今や機能不全に陥った国際連盟、そして現在の国連理事会にもかかわらず、私たちが誇る文明全体が戦争と圧制をまったく防ぐことができないと認識すると、人間の誇りは最も謙虚になります。
キリストだけが物事を正すことができます。
キリストの帰還は人類にとって永続的な平和への唯一の希望なのです。
36章~39章 歴史的な合間
ユダの王ヒゼキヤの生涯で起きた、重要な出来事を記した次の4章を眺めてみましょう。
ここで私が「眺める」と言ったいるのは、これらの章を節ごとに引用し、説明を試みることはせずに、本書の最初の預言的区分におけるようなアプローチ説明を努めるつもりはないということです。
これらの章は列王記第二18章13節〜21章26節とほぼ重複しており、主要な出来事は歴代記第二32、33章でも取り上げられています。
おそらく、これらの記録を書き、聖霊の導きによって、この長い方の記録を彼の偉大な預言書に移したのはイザヤだと思われます。
これら4つの歴史の章を私たちに与えたのには、特別な理由があります。
これらはすべて、ユダの希望が寄せられているのはダビデの子についてのものです。
その者は死の淵まで下りましたが、神の目的が成就されるために復活しました。
もちろん、実際に死に下り、神の計画を実行するために復活した私たちの主イエス・キリストを示しています。
そして、それらはヒゼキヤ王の生涯における特定の出来事と関係付けられました。
ヒゼキヤ王は自分が経験せざる出来事の中で、このことが予見されました。
ヒゼキヤ王の治世の14年目に、残酷で冷酷なセナケリブ率いるアッシリア人の侵略が起こりました。
セナケリブはたくさんの城壁で囲まれた街を破壊、占領した後に、大軍を派遣してエルサレムを包囲しました。
この軍勢は、ユダヤ人とその信仰を極度に軽蔑していました。
また、大胆だが下品で横柄な将校、ラビシャケという将軍の直接指揮下にいました。
セナケリブはエルサレムの城壁の外の目立つ場所に自分の声が聞こえるように立ちました。
彼は街の守備隊を簡単に倒し、彼らを完全に滅ぼす前にリーダーたちに降伏を求めたのです。
ラブシャケは主人の代理として、ユダヤ人が何を信頼しているのか尋ねました。
そして、あえて、主の命令に従うことを拒否しました。
もし、ユダヤ人が神の力によって救いが来ることを望むなら、彼らの期待は失望に終わる運命にあると、ラブシャケは横柄にも宣言しました。
セナケリブは周囲の国々の神々すべてに匹敵する以上の存在であることを証明したのです。
ヒゼキヤが主の祭壇を破壊し、その結果、ヒゼキヤが主を守る力を持っていたとしても、主に対して求める権利を失ったのなら、どうなるのでしょうか?
破壊された祭壇が偶像崇拝の神殿のものだとは気づかずに、ラブシャケはこれらがユダの神に捧げられたものだと推測しました。
(36章1~7節)
ラブシャケは、提示された条件をユダヤ人が従うことを誓約として、大量のみつぎ物によって承認される無条件降伏を要求しました。
また、セナケリブがユダに攻めてきたのは主の指示によるものだとまで主張しました。
ラブシャケは何らかの方法で私たちが考えてきた預言のいくつかに精通しているかも知れません。
彼はサマリヤが陥落したことを知っていました。
アッシリヤをユダヤ人の神がユダの不従順と不義のために罰する杖として用いられると宣言されたことを知っていたのかも知れません。
(8~10節)
これらの言葉が都市の守備隊の士気に悪影響を及ぼすことを恐れたユダヤ人の指導者たちは、アッシリアの将軍に、ヘブル語ではなく、彼らがよく知っている彼らの言語で話すように頼みました。
この要求はラブシャケをさらに傲慢にさせただけでした。
ラブシャケは、自分はヒゼキヤの代表者らと交渉するために派遣されたのではなく、エルサレムの全住民と交渉するために派遣されたと宣言しました。
即時、降伏の要求とアッシリア王への忠誠の約束に従うよう要求し続けました。
その際、彼は不快で反感を抱かせる言葉を使っています。
もし、降伏するならば、彼らの命は助かり、彼ら自身も戦争捕虜として他の土地に移送され、そこで平和かつ安全に暮らすことが許されます。
ラブシャケは嘲笑しながら、ユダヤ人の神を信頼することの愚かさを再び指摘しています。
ハマト、アルパド、セファルワイム、サマリアの神々がセンナケリブの力に対抗できなかったことを彼らに思い出させました。
主がユダヤ人のために介入し、エルサレムを破滅の危機から救ってくれるとユダヤ人が期待する理由は何だったのでしょうか?
こうした要求や嘲りに対して、王は民衆は「一言も言うな」と答えました。
エリアキムとその仲間たちは、傲慢で反抗的な言葉を王に報告しました。
そして、アッシリアの将軍と折り合いがつかなかった悲しみの印として、衣服を引き裂いてヒゼキヤのもとに戻りました。
ヒゼキヤもそれを聞いて「自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮にはいった」のです。
(37章1節)
そこでヒゼキヤは、大きな苦難と逆境のときに何度も民を救い出してくださった先祖の神に、自分の心を注ぎ出すことができました。
ヒゼキヤは助言と祈りの必要を感じて、エリアキム、シェブナ、および長老たちをイザヤのもとへ遣わしてこのように言いました。
「彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っておられます。
『きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。
おそらく、あなたの神、主は、ラブ・シャケのことばを聞かれたことでしょう。
彼の主君、アッシリヤの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。
あなたの神、主は、その聞かれたことばを責められますが、あなたはまだいる残りの者のため、祈りをささげてください。』」」
(イザヤ書37章3、4節)
そのような信仰に報われないことはありません。
神はすべてを神に委ねる者を決して見捨てません。
主はこのように言われました。
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」
(詩篇50編15節)
まず彼の信仰が厳しく試されるにもかかわらず、すぐにこの約束の真実性を証明することになりました。
イザヤの答えは大変励みになり、安心させるものでした。
「イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。主はこう仰せられる。
『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。」
(イザヤ書37章6節)
それは二つの対立する勢力間の問題でも、ラブシャケとヒゼキヤの間の問題でもありません。
アッシリア人はあえて主の力に挑戦しました。
神御自身が挑戦に立ち向かいました。
神の力と威厳を明らかにして、神が単なる偶像ではなく、信じる者を破滅から救うことができない異教徒の神々のような想像上の神でもないことを示しました。
セナケリブとそのしもべたちは、全能者の厚い盾の取っ手を取っておこがましくも向かって突進しました。
「それは彼が神に手向かい、全能者に対して高慢にふるまい、
厚い盾の取っ手を取っておこがましくも神に向かって馳せかかるからだ。」
(ヨブ記15章25、26節)
そして、天地を創造し、預言者を通して宣言された全知全能の神とあえて戦うことの愚かさを、彼はすぐに証明することになりました。
「今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。
彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す。」
(イザヤ書37章7節)
その「噂」とは、エチオピア王ティルハカがアッシリアと戦うために向かっているという報告でした。
アッシリアの軍隊は、一部はエルサレムを包囲し、一部はリブナと戦っていました。
ラブシャケは不本意ながら包囲を解いてアッシリアへ撤退せざるを得なかったのです。
軍が撤退する際にユダ王に最後の反抗的なメッセージを送りました。
「「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな。
おまえは、エルサレムはアッシリヤの王の手に渡されないと言っている。
おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを聞いている。
それでも、おまえは救い出されるというのか。」
(イザヤ書37章10、11節)
他の国の神々よりも、強力であると思わせることの愚かさについてヒゼキヤを嘲笑しました。
アッシリア人の陣営から、この言葉を届けた使者からヒゼキヤが受け取った手紙の形で伝えられました。
それは冒涜的な手紙でした。
ヒゼキヤが自分でそれに答えようとしなかったのは正しいことです。
その代わりに、彼はそれを主の家に持ち込み、神の前に広げました。
彼は主の前で頭を垂れ、主が介入して民を救ってくださるよう懇願しました。
ヒゼキヤは諸国の偽りの神々には救いの力がないことを率直に認めました。
そして、生ける神は神を信頼する者たちのために尽力してくださるという確信を告白しました。
結びの言葉はとても美しく、感動的です。
「私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。
そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。」
(イザヤ書37章20節)
このような信頼が報われないはずはありません。
また、このような祈りが聞き届けられないはずもありません。
その答えはイザヤからの別のメッセージを通して与えられました。
神が彼の願いを聞いておられ、彼の願いに答えようとしていることを彼に確信させました。
「処女であるシオンの娘はあなたをさげすみ、あなたをあざける。エルサレムの娘は、あなたのうしろで、頭を振る。」
(イザヤ書37章22節)
「処女であるシオンの娘」は、最初は無敵に見えた軍隊の横柄な敵を軽蔑するようになるのです。
ラブシャケは主を非難しました。
ラブシャケはユダの神を冒涜しました。
ラブシャケは傲慢と愚かさから、イスラエルの聖なる方に敵対しました。
ラブシャケは、彼の膨大な軍勢、すなわち戦車と騎兵の数を信頼していました。
彼はエルサレムを征服し、その住民を捕虜として連れ去ることは、ささいなことだと思っていました。
しかし、ラブシャケはすぐに、異教徒の無意味な偶像と、ヒゼキヤが信頼していた方との違いを知ることになりました。
(イザヤ書37章21~28節)
それゆえ、主の言葉が彼に臨んで言われました。
「あなたがわたしに向かっていきりたち、あなたの高ぶりが、わたしの耳に届いたので、あなたの鼻には鉤輪を、あなたの口にはくつわをはめ、あなたを、もと来た道に引き戻そう。」
(イザヤ書37章29節)
ヒゼキヤには、敵に侵略された土地が二年間で自然に生い茂り、三年目には種を植えて豊かな収穫をもたらすという約束が与えられました。
その反面、アッシリアの手から逃れたユダの残された者は再び繁栄します。
「ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。
エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする。」
(イザヤ書37章31、32節)
狙撃することも、またいかなる形であれ再びエルサレムを脅かすことも許されありません。
ラブシャケは来た道を戻って行かなければならなかったのです。
主は、御自身のため、そしてそのしもべダビデのためにエルサレムを守ることを約束しておられるからです。
裁きは長く延期されることはありません。
なぜなら、神はアッシリア人の陣営に恐ろしい疫病を送ったからです。
疫病は非常に深刻で、一夜にして18万5千人が死亡しました。
かつては大軍であったセナケリブの散り散りになった残党は、敗北して意気消沈した支配者に率いられて、自分たちの土地に向けて出発しました。
ラブシャケが故郷に着いて彼の神の宮で礼拝をしていると、彼は自分の息子のうちのふたり、アドラムメレクとシャレゼルに襲われました。
彼らは不名誉な父を剣で殺し、アルメニアに逃れました。
そして、彼らの兄弟の一人であるエサルハドンは、父親に代わって王となりました。
ユダヤ人に降りかかろうとしていた差し迫った破滅から解放したのです。
38章にはヒゼキヤの病気と回復について書かれています。
神が応えてその民のために介入してくださったという驚くべき経験の後、ヒゼキヤは主に近づき、二度と神の愛と配慮を疑うことはなく、常に神の承認の太陽の光の中で生きていたと思われるかも知れません。
しかし残念なことに、私たちの場合と同じく、ヒゼキヤの場合も状況はまったく異なっていました。
新たな試練が訪れると、疑念と恐怖が再び広がりました。
神の恵みだけが、その哀れな失敗したしもべを耐えさせることができたのです。
最初の試練は病気を通してもたらされました。
ヒゼキヤは「死ぬほどの病気だった」と伝えられています。
預言者イザヤは彼にこのように告げるために遣わされました。
「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」
(イザヤ書38章1節)
悲嘆に暮れる王にとって、この言葉はまさに悪い知らせでした。
彼はまだ比較的若者でした。
というのは、25歳で即位し、その支配期間はわずか29年であったからです。
したがって、このとき彼はまだ39歳でした。
長寿は従順なイスラエル人に対する約束の一つでした。
死ぬという告知は、ヒゼキヤにとって神の不機嫌の証拠のように思われました。
ヒゼキヤは本当に悲嘆しながら預言者のメッセージを受け取り、自分に課せられた刑罰の執行猶予を嘆願しました。
ヒゼキヤの祈りを読むならば、私たちは、旧約聖書の聖徒たちがどんなに神を敬っていても、現在、神の子供たちに与えられているような来たるべき世の光を持っていないことを思い出す必要があります。
私たちの主イエス・キリストは福音を通して命と不死を明らかにされています。
「それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。
キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」
(テモテへの手紙第二1章10節)
彼は、神を愛する人々のために神が用意しておられるものについての真理を明らかにしています。
「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。
これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」
(ヘブル人への手紙2章14、15節)
現在、私たち信じる者にとって、死とは単に肉体を離れて主とともにいることを意味しています。
「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」
(コリントの人への手紙第二5章8節)
また、これが地上でのいかなる経験よりもはるかに良いことだと知っています。
「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。
私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」
(ピリピ人への手紙1章23節)
しかし、このすべては、私たちの主イエス・キリストが来られる以前には知られていません。
主はこのように宣言されました。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」
(ヨハネの福音書8章51節)
そのため、ヒゼキヤが死ななければならないという知らせを受けたとき、彼の心は恐怖で満たされました。
この悲惨な状況の中で神に叫び、自分の命が延ばされる理由として神の命の尊厳を嘆願しました。
時には、神は私たちの願いを聞き入れながらも、私たちのたましいに衰弱をもたらします。
「そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた。」
(詩篇106篇15節)
神は、ヒゼキヤの叫びを聞き、もう一度預言者を彼のもとに遣わしました。
今度は、ヒゼキヤの祈りが聞き届けられたこと、神が彼の命をさらに15年延ばし、アッシリア王の邪悪な陰謀からエルサレムを守り続けることを告げるためでした。
その約束を確認するために、驚くべき奇跡を伴うしるしが与えられました。
神はこのように言われました。
「見よ。わたしは、アハズの日時計におりた時計の影を、十度あとに戻す。」すると、日時計におりた日が十度戻った。」
(イザヤ書38章8節)
これが実際に起こったとき、ヒゼキヤは、預言者が神の権威によって語られたことを疑いなく知りました。
ここは奇跡そのものについて議論する場ではありません。
惑星系内の何らかの驚くべき出来事によって引き起こされたのか、もしくはそれが屈折の奇跡であったのか、私たちは判断する必要はありません。
しかし、バビロンの天文学者がそのことを知っていたという事実は、それが広範囲に及ぶ重大な意味を持つものであったことを示しています。
ヒゼキヤは回復後、吹き上げる思いに対する訓練について書き記し、死刑宣告を受けたと感じたときの経験を生き生きと描写しました。
残りの人生も奪われようとしていると激しく嘆きました。
ヒゼキヤにとって、この世を去ることは主の御前から追放されることのように思われました。
神がヒゼキヤを「滅ぼす」であろうという命令が実行されるのを恐れながら、ヒゼキヤは昼も夜も肉体だけでなく霊的にもひどい苦痛で満ちていました。
ヒゼキヤは「鳩のように」うめき、「目は、上を仰いで衰えました。」
しかし、ヒゼキヤは自分が主の手の中にいることを知り、心から主に助けを求めて叫んだのです。
ヒゼキヤの訓練が続くにつれて、彼のたましいは、人が契約を守る神の保護にあるときはすべてがうまくいくという真実に、より安らぎを得ていったのは明らかです。
「主よ。これらによって、人は生きるのです。私の息のいのちも、すべてこれらに従っています。
どうか、私を健やかにし、私を生かしてください。
ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。
あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。」
(イザヤ書38章16、17節)
これらの貴重な言葉は、健康が回復した後のヒゼキヤの神の哀れみ深さと知恵によって認識していることを表現しています。
なぜなら、ヒゼキヤは神が彼のすべての罪を赦し、永遠に消し去った証拠として受け止めたからです。
悟ることのできない旧約聖書の信者として、ヒゼキヤは早死をある意味では神の不承認の表現としか考えられなかったのです。
ヒゼキヤは墓の中で暗闇と忘却以外何も見えていません。
主は生きている間に賛美されるが、冥界では賛美されません。
もちろん、ヒゼキヤは自分が理解した状況について書いています。
しかし、その文章の最後は、新たな体力と寿命の延長に対する賞賛と感謝の言葉で締めくくられています。
救いは非常に単純な方法で行われました。
王は悪性の腫れ物に苦しんでいたが、イザヤが処方したイチジクの湿布によって毒を抜き取られ、王は回復に向かい始めました。
ヒゼキヤが39歳で亡くなっていたら、ユダの王座に座った最も邪悪な王であるマナセは生まれていなかったであろうことは指摘するまでもありません。
なぜなら、マナセが支配を始めたとき、彼はまだ12歳だったからです。
「マナセは十二歳で王となり、エルサレムで五十五年間、王であった。」
(歴代記第二33章1節)
マナセは父親がしたことに対して、すべてを元に戻そうとしました。
ヒゼキヤは偶像崇拝の祭壇を破壊し、国中から偶像を一掃しました。
マナセは、それまで知られていなかったほど多くの偶像崇拝を持ち込み、心霊術師や霊媒師のもとを訪れ、死者と話せると公言する者たちで国中を満たしました。
これは神が禁じていた行為です。
そしてマナセは、犯された腐敗と罪のゆえに、ユダに対して神の怒りを招きました。
しかし、神の哀れみは素晴らしいのです。
ついに、50歳になり、ほぼ永遠の命に直面していたこの不敬虔な王に、神は悔い改めをもたらしました。
マナセは崩れ落ち、長い不敬虔な生活の罪を告白し、再び国から偶像を一掃し、改革を試みたものの、人々を取り戻すには遅すぎました。
マナセの息子アモンは父の罪をそのまま引き継ぎました。
しかし、次の世代では、神は再び驚くべき恵みを与え、ダビデのもう一人の息子、ヨシヤ王を立てました。
ヨシヤ王は若い頃から主を敬い、ユダに偉大な復興をもたらすきっかけとなりました。
39章では、主に神の意志に献身していたこの王のもう一つの失敗について述べられています。
歴代記第二32章31節には、ヨシヤ王についてこのように記されています。
「バビロンのつかさたちが彼のもとに代言者を遣わし、この地に示されたしるしについて説明を求めたとき、神は彼を試みて、その心にあることをことごとく知るために彼を捨て置かれた。」
(歴代記第二32章31節)
実際、このような試みに耐えられる人はほとんどいません。
私たち自身の心が明らかにされ、私たちの内なる思いが明らかにされるために、神に放置されることは、道徳的または精神的な崩壊を意味するだけです。
ヒゼキヤが自信を持ったゆえの失敗であり、ヒゼキヤが直面した試練です。
主に導きを求める代わりに自分自身の判断に基づいて行動したのです。
その結果は祝福ではなく害をもたらすだけです。
主がヒゼキヤの願いを哀れみ深く聞き入れ、彼を墓の淵からよみがえらせた後のことを次のように伝えています。
「そのころ、バルアダンの子、バビロンの王メロダク・バルアダンは、使者を遣わし、手紙と贈り物をヒゼキヤに届けた。
彼が病気だったが、元気になった、ということを聞いたからである。」
(イザヤ書39章1節)
偶像崇拝の源であった大きな街の君主からのこの一見友好的な申し出に、ユダの王はどのように反応したのでしょうか?
ラブシャケが冒涜の手紙を送ったとき、ヒゼキヤは聖所に入ってそのことを主の前に広げました。
しかし、この手紙と贈り物が届いたとき、彼はそのことを神の前に持って行く必要性や、神からの指示を求める必要性を感じていません。
私たちはみんな、世と交わる時、私たちが最も大切にしている神に対する公然たる反対者として世を見ているのではありません。
むしろ敵意のこぶしの代わりに友情の手を差し伸べ、明らかに友好的で見下すような態度で私たちに近づいてきます。
世はこの自信について少なくとも知っているはずです。
しかし、このような時ほど、私たちが神の御心を見失う大きな危険にさらされることはありません。
贈り物に添えられた手紙は、冒涜の手紙よりもはるかに大きな危険を隠している可能性があります。
バビロニアの使節とその付添人の訪問に明らかに意気揚々としており、贈り物に満足していました。
主に助言を求める必要性を感じず、ためらうことなく使節を受け入れました。
「ヒゼキヤはそれらを喜び、宝庫、銀、金、香料、高価な油、いっさいの武器庫、彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤがその家の中、および国中で、彼らに見せなかった物は一つもなかった。」
(イザヤ書39章2節)
これはまさにカルデア人が望んでいたことでした。
疑いなく、彼らはこれらすべてのものを貪欲な目で見ていました。
いつの日かユダを征服し、この莫大な宝を自分たちのものにするために、どうすれば最善を尽くせるかを心の中で考えていたのです。
彼らがヒゼキヤの前から立ち去るとすぐに、イザヤが現れて王に二つの質問をしました。
「あの人々は何を言いましたか。どこから来たのですか。」ヒゼキヤは答えた。「遠い国、バビロンから、私のところに来たのです。」
(イザヤ書39章3節)
これからユダに攻め寄せようとしている北東部の予備勢力についてイザヤが語った預言を知らないはずはありません。
その勢力は、神の民が無視した神によって、ユダの不服従を罰するための杖として使われるのです。
「イザヤはまた言った。「彼らは、あなたの家で何を見たのですか。」ヒゼキヤは答えた。
「私の家の中のすべての物を見ました。私の宝物倉の中で彼らに見せなかった物は一つもありません。」」
(イザヤ書39章4節)
ヒゼキヤは、このことの重大な意味をまったく理解していません。
なぜなら、君主たちが実はスパイであり、その地を探し出し、発見したものすべてをバビロン王に報告するために来ていたことに気づいていなかったからである。
何も知らない王にとって、イザヤがこのように言ったとき、それは本当に衝撃だったはずです。
「「万軍の主のことばを聞きなさい。
見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。
何一つ残されまい、と主は仰せられます。
また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕えられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。」」
(イザヤ書39章5~7節)
数年後、これらすべてのことは、ネブカドネザルがユダを征服し、王家の血を引く大勢の人物を含むユダの首長たちを捕虜としてバビロンへ連れ去ったときに実現しました。
そして、まさにその財宝も連れ去られました。
「彼は、神の宮のすべての大小の器具、主の宮の財宝と、王とそのつかさたちの財宝、これらすべてをバビロンへ持ち去った。」
(歴代記第二36章18節)
ヒゼキヤが預言者の言葉を聞いたとき、どれほど失望し、悔しがったかは想像することは難くありません。
彼はただ頭を下げて、それを神の裁きの啓示として受け入れることしかできません。
「ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」
彼は、自分が生きている間は、平和で安全だろう、と思ったからである。」
(イザヤ書39章8節)
ユダの後の歴史は、時々復活したにもかかわらず、事態が悪い方から悪い方へと進みました。
ついには、その悪い状態に救済手段がない状態になりました。
「ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。」
(歴代記第二36章16節)
ゼデキヤの時代に預言されたさばきが成就したことを示しています。
J・N・ダービーによって、多くの人が真理の御言葉を正しく分かち合われ、多くの恩恵を受けています。
彼は、この本の最初の部分で、「私たちはイスラエルの外面的な歴史を見てきました。
しかし、今では、彼らの道徳的または内面的な歴史を見るならば、キリストとの関係、および残された者との分離における、ユダの偶像崇拝に対するあかしの場所だったと適切に指摘しています。
イザヤの偉大な予言の次の部分が明確に示すように、その内なる歴史は完全な失敗でした。
40章 慰め主である神
「「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。
「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。
そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」
荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」
「呼ばわれ。」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう。」と答えた。
「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。
草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」」
(イザヤ書40章1~8節)
イザヤ書の後半部分、ある意味では3部構成の最後です。
なぜなら、すでに述べたように、この書の前半部分は2つの部分に分けられているからです。
1つは預言的な箇所と、もう1つは歴史的で型と見える部分です。
イザヤ書のこの部分は40章から始まっています。
ある人たちが「偉大なる無名人」、もしくは彼らの言葉を借りれば「第二のイザヤ」ということになります。
彼らはバビロン捕囚後に書き記した無名の預言者の著作であり、その著作が後の編集者によってイザヤ書に取り入れられたと考えられています。
しかし、新約聖書はこれを明確に否定しています。
この部分をイザヤ自身に帰しています。
「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」」
(マタイの福音書8章17節)
「すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。
主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
主の恵みの年を告げ知らせるために。」」
(ルカの福音書4章17~19節)
したがって、私たちはそのような根拠のない批判理論に悩む必要はありません。
私たちにとってこの問題は解決しています。
この章は「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。
「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。
そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」」という言葉で始まっています。
神はご自分の民を慰めようとしています。
しかし、そのためには、神の目の前に彼らの真実な状態をはっきりと示さなければなりません。
それから神の救いが始まることを示さなければなりません。
このメッセージの最初の部分はあまり慰めにならないかもしれません。
しかし、それでも神はそのように始めなければなりません。
神は癒すために傷つけ、生かすために殺すのです。
私たちは自分の資源が尽きるまで、主が私たちを支え慰めてくださる力を十分に理解することはできません。
いつでも神は、恵み深い慰めの働きにおいて、まず、私たちが神の全能の力を必要とし、それに依存しなければならないことを示してくださいます。
この40章で、神は預言者に「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と言っています。
それから彼のメッセージの性質についてしもべに指示を続けます。
「呼ばわる者の声がする。」
イザヤは尋ねました。
「何と呼ばわりましょう。」
その答えは「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
そのすべての美しさは野の花のようだ」でした。
常に、これが神の秩序です。
初めて、私たちは主が与えようと待ち望んでいる慰めを受けることのできる立場に立つことができます。
新約聖書では、祝福された三位一体の各位格がこの慰めの務めに携わっていることがわかります。
父なる神は「すべての慰めの神」と呼ばれています。
「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。」
(コリント人への手紙第二1章3節)
聖霊なる神は、主が弟子たちに語った最後のメッセージの中で4回「慰め主」として言及されています。
(ヨハネの福音書14章16節、26節、15章26節、16章7節)
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。
その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」
(ヨハネの福音書14章16節)
主の働きと奉仕の特徴の一つは、「悲しむすべての者を慰める」ことです
「主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、」
(イザヤ書61章2節)
イエスは「父に対する弁護者」とも呼ばれています。
「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。
もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」
(ヨハネの手紙第一2章1節)
「弁護してくださる方」という言葉は、ギリシャ語ではヨハネの福音書の「慰め主」という言葉と全く同じです。
父と子と聖霊との交わりの中にいることは、何と幸いなことです。
その交わりの中に入ることは、三位一体の神が喜んで与えてくださる慰めの中に入り、この慰めを楽しむことができるのです。
私たちは耐えなければならない困難やひどい失望に直面することがあります。
すべての慰めの神の変わらぬ存在を楽しむことができる以上に、この地上で私たちが得られる特権はありません。
苦しむ人々にとって、神がどのような存在であるかを決して理解することはできません。
苦難の時に私たちが主に叫ぶとき、主は必ず私たちの悩みの原因を取り除いてくださるわけではありません。
しかし、私たちが耐えなければならないどんなことに対しても耐えるために必要な恵みを常に与えてくださいます。
天で私たちが涙の意味を知り、神が私たちの人生で何を成し遂げようとしていたのかを知る時が来ます。
私たちはすべての試練と苦難において神を賛美するのです。
なぜなら、それらすべてに父の愛と私たちを神に従わせたいという神の願いの証拠を見るからです。
神が罪の赦しとたましいの救いの知識という慰めを与えるならば、まず神は人間の完全に失われた状態、その無力さ、罪深さを強調させます。
それによって人間が神の前に悔い改め、告白し、自分の不義を認めるという真の立場を取るように導きます。
しかし、ここで神は、イスラエルの不義がすべて取り除かれる時を待ち望んでいます。
主がこのように語っていました。
「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。
そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」
(イザヤ書40章2節)
これは、イスラエルが自分たちの罪に対して受けるべき罰の二倍を受けるということを意味するのではありません。
決して神はそんなことはしません。
エリフはヨブに語り、神は人間に不当な罰を与えることはないと明確に述べています。
神は各人を、その人の光と知識、そして実際に犯した罪に応じて扱います。
「あなたが反対するからといって、神はあなたの願うとおりに報復なさるだろうか。
私ではなく、あなたが選ぶがよい。あなたの知っていることを言うがよい。」
(ヨブ記34章33節)
誰にも、神はその罪にふさわしい以上の罰を与えることはありません。
しかし、「そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと」という表現は宣伝的に述べられたものです。
借金を返すために債権者に家や農場を明け渡す場合、その詳細をすべて記載した書類が作成されます。
1部は不動産に抵当を置いた人が保管し、もう1部は戸口の柱に釘付けにされ、この不動産が一時的に別の人に譲渡されたことが誰にでもわかるようにしました。
精算が終わって、すべての支払いが終わると、ドアの柱に貼られた通知書は二重に重ねて留められ、覆われました。
それはすべてが解決したことを示しています。
「そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと」とあるのは、その勘定が完全に支払われたことを言っているかのようです。
エルサレムの罪が赦され、もう苦しむことはありません。
このことはこの区分の冒頭で宣言されています。
人々には目指すべき目標であります。
その後、人々がどのようにしてその目標に到達したかが語られます。
まず最初に、私たちにはバプテスマのヨハネの到来についての預言があります。
それは荒野で叫ぶ者の声です。
「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」
あるパリサイ人がバプテスマのヨハネに、彼がメシアなのか、それともモーセがこのように語った者なのかと尋ねました。
「神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。
この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。」
(使徒の働き3章22節)
ヨハネはこのように答え、彼らはこのように問いています。
「彼は告白して否まず、「私はキリストではありません。」と言明した。
また、彼らは聞いた。
「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。
「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」
そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。
私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」
彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」」
(ヨハネの福音書1章20~23節)
このようにヨハネはイザヤの言葉を自分自身に適応したのです。
その声は「叫ぶ」のです。
「呼ばわる者」だと言いました。
神は使わす者を遣わしてこのように言われます。
「せいいっぱい大声で叫べ。」
(イザヤ書58章1節)
主は宣言をなさります。
そして「何と呼ばわりましょう?」という疑問が湧いてきます。
「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。
草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
(イザヤ書40章6~8節)
神の民を慰めるために、この聖句はどのような意味を持つのでしょうか?
「肉なるものはみな草です。
彼らはただの貧しく無力な罪人です。
誇るべきものは何もないのです。」
人の栄光はすべて草の花のようなものであり、草は枯れ、その花も散ります。
このようにを彼らに伝えなさい。」
ここに何か慰めがあるのでしょうか?
しかし、それは私たちが最初に知る必要があるということです。
もし、私たちが自分たちの完全な無力さの教訓を学ばなければ、私たちは決して神に救いを求めることはできません。
もし、私たちが自分を救うことができると考えるなら、神が私たちの救いのために用意してくださった備えを利用することはできません。
ですから、主は「「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」と言われます。
ペテロの手紙第一1章でこの聖句を引用し、次のような重要な注釈をしています。
それは私たちにもたらず福音のメッセージです。
「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」
(ペテロの手紙第一1章24、25節)
永遠に立つ主の言葉とは、福音の良い知らせです。
「シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。
力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」
見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。
主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」
(イザヤ書40章9~11節)
「神のことばは永遠に立つ」という言葉のすぐ後に「シオンに良い知らせを伝える者よ」と述べられています。
そして、「見よ。神である主は力をもって来られ」と述べられています。
「良い知らせ」、それが福音です。
ここには「聖書の静かな視線」があるだけではなく、主が最初に来られる事について語る四福音書すべての最初の章と密接に結びついています。
マタイは、ここで述べられている出来事はイザヤや他の預言者によって語られたことの成就であるとはっきりと述べています。
「来るべき方はインマヌエル」、「神は私たちとともにおられる」、「主なる神が来られる」そして、「優しい羊飼い」としての特徴が与えられています。
主イエスが実際に来られたとき、彼はまさにイザヤが語った言葉を語られました。
「わたしは、良い牧者です。」
(ヨハネの福音書10章11節)
「わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」
(ヨハネの福音書10章15節)
神がイスラエルにもたらす良い知らせの中で、イエスは優しい羊飼いとして描かれています。
こひつじを胸に抱き、群れを優しく導き、子連れの羊を優しく導く羊飼いです。
しかし、良き羊飼いとして優しく私たちの前に現れるこの方は、真実な人間であり、絶対的に聖くで、親切で、思いやりがあり、愛情深い人間であり、全能の神であり、どこにでも存在し、全知であり、地上のすべてを創られた創造主なのです。
神自身が力と威厳をもって語り、イスラエルの人々の多くが頼ってきた異教徒の無力な人間の偶像とは対照的です。
「だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか。
だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。
主はだれと相談して悟りを得られたのか。だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。
見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。
レバノンも、たきぎにするには、足りない、その獣も、全焼のいけにえにするには、足りない。
すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる。
あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。
鋳物師は偶像を鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ、銀の鎖を作る。
貧しい者は、奉納物として、朽ちない木を選び、巧みな細工人を捜して、動かない偶像を据える。」
(イザヤ書40章12~20節)
ここで天の創造主、全能の力と全知の知恵を持つ者として語られる祝福された方、イスラエルの羊飼いは、信仰に立つための資源を持っています。
主はあまりにも偉大で、ふさわしい捧げ物を捧げることはできません。
16節にはこのようにあります。
「レバノンも、たきぎにするには、足りない、その獣も、全焼のいけにえにするには、足りない。」
罪は聖なる神に対するひどい侮辱です。
人がどんなに大きなささげ物を捧げても、罪を消し去ることはできません。
「あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。
地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。
主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。
主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。
君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。
彼らが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。
暴風がそれを、わらのように散らす。
「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか。」と聖なる方は仰せられる。
目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。
この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。
ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。
「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。
あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。
疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
(イザヤ書40章21~31節)
なぜ、神はこのように御自身を真実に描写したのか、私たちは問いかけるべきでしょうか?
それは、神がそのように優しい配慮を持つ者たちが、弱り果て、疲れ果て、力を失っているからです。
だからこそ、神は彼らを力の源として自分に向けさせ、ただ、神を待ち望むようにさせるのです。
この聖なる神は、すべての人に関心を持っています。
試練や苦難から即座に解放されないのは、力が足りないからではありません。
神が私たちに苦難が降りかかり、私たちを圧迫し続けることを許す時でも、神は私たちを祝福するために独自の計画を実行しています。
ヨブに与えられた教訓を私たちは学ばなければなりません。
人間は神の計画を推測することはできません。
神の摂理的な取り扱いに疑問を持たずに従うように努めるべきだというものです。
神は自分が経験していることを忘れてしまったかと、自分の苦しみが長引くと無関心であると考えてしまいがちです。
しかし、これは常に間違っています。
神は、常に御自分の民のことを心配しておられ、時が来れば、救いを与えてくださいます。
そして、そのときまで、神の恵みは、目に見えない神を見ているように耐えることができるよう、たましいを支え、強めてくれます。
「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。
ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
(コリントの人への手紙第二12章9節)
神は、私たちが直面することを許されるあらゆる試練を乗り越えるために必要な力を与えてくださいます。
「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。」
霊的、精神的な大きな緊急事態に直面せざるを得ないときには、単なる自然力や肉体力は役に立ちません。
しかし、すべてを神に委ね、静かに神を待つことを学んだ人には、気分の沈んだ状況を乗り越えるために必要なさまざまな力が与えられます。
このように彼らは太陽に向かって飛ぶ鷲のように天に向かって昇り、忍耐強く自分の道を走り、自分たちが常に神の愛と配慮の対象であることを知りながら、新たな自信と勇気をもって神とともに歩むことができるのです。
それは主を待つことです。
主のために待つのとは全く別のことです。
わたしたちが主を待ち望むのなら、わたしたちは主の似姿に変えられます。
主を忍耐強く待つならば、私たちは心配やいらだちから解放されます。
なぜなら、神は決して遅れることはないからです。
神が定められた時に、私たちが必要とする助けを与えてくださると知っているからです。
ある人は、イザヤの31節の言葉を、さまざまな時代のクリスチャンや神の子たちを表すものとして適用することを提案しました。
若い信者たちは、希望と期待の翼を掲げて、天の高みへと舞い上がる鷲のように昇ります。
中堅にもなって来ると自分たちの前に置かれた競争を忍耐強く走り続けてるようにも見えます。
しかし、老年に達した人々は、聖徒たちの永遠の故郷の入り口に近づきつつも、神とともに静かに歩み続けています。
41章 永遠に強い者
「島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。
われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。
だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。
彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように吹き払う。
彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く。
だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。
わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。」
(イザヤ書41章1~4節)
41章でも、神は依然として人間の弱さと対比されています。
なされた約束ですが、神の威厳の物語に従うものであり、人間はその弱さの中で、限りなく強い神に頼るのです。
これらは、イスラエルが神に戻った時になされた約束です。
しかし、神の威厳の記録に従うものであり、人間はその弱さの中で、限りなく強い神に頼るのです。
「島々は見て恐れた。地の果ては震えながら近づいて来た。
彼らは互いに助け合い、その兄弟に「強くあれ。」と言う。
鋳物師は金細工人を力づけ、金槌で打つ者は、鉄床をたたく者に、はんだづけについて「それで良い。」と言い、釘で打ちつけて動かないようにする。」
(イザヤ書41章5~7節)
「しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。
わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。
「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、恥を見、はずかしめを受け、あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる。
あなたと言い争いをする者を捜しても、あなたは見つけることはできず、あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。
あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。
恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。
――主の御告げ。――あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。
見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。
あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。」
(イザヤ書41章8~15節)
神を知り、神を信頼することは無敵となることです。
信頼する者を実際に傷つけることは誰にもできません。
なぜなら、主に信頼を置く者にとっては、悪と思えることすべてを善のために働かせることができるからです。
このようにして、心の致命的な敵である恐怖は克服されるのです。
神は、しかるべき時に、神の民を傷つけようとする者たちを罰するのです。
神は、聖徒たちを悩ます者たちに正しい裁きを下すのです。
「つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、
苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。
そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。」
(テサロニケ人への手紙第二1章6、7節)
信じる者は自分の手にすべてを委ねる余裕があるので、良い評判でも悪い評判でも、静かに自信を持って進むことができます。
報復は神の手中にあるので、神の民の敵はすぐに消え去り忘れ去られます。
しかし、神のみこころを行う者は永遠に存続します。
わたしたちには「恐れるな。わたしがあなたを助ける」という心強い約束があります。
この言葉を与えたのは神御自身です。
信仰はそのことを知り、心は安らぎを持ち、御子を私たちのために死なせるほどに私たちを愛してくださった神が、神に自分の道を委ねる人々を決して見捨てないということを知って満足しています。
これらの約束は、全く助けることができない無意味な偶像に頼ることの愚かさを主が指摘する前に、励ましとなる序文として出てきます。
ここでの「わたしの友アブラハム」という言葉が、アブラハムが「神の友」と呼ばれているヤコブの手紙2章23節に述べられています。
「そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」
(ヤコブの手紙2章23節)
神が「私の友」と言えるとは素晴らしいことなのです。
主イエスは弟子たちにこのように言われました。
「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。
わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」
(ヨハネの福音書15章15節)
しもべは言われた通りにするべきです。
「なぜこれをしなければならないのか?」と尋ねるのはしもべではありません。
しかし、友人の前では人は心の重荷を打ち明けます。
そして主はアブラハムを「私の友人」と呼んでいます。
神はソドムの裁きに関してアブラハムを信頼しました。
神は最後まで、友人たちに対して心と思いを開くことを喜んでおられます。
それが預言的聖書の目的です
彼らは神の真理を明らかにし、神の友人たちがその真理を知り、神がしようとしていることを理解できるようになります。
神がイスラエルを「新しいもろ刃の打穀機」にするという言葉は、終わりの日にイスラエルの残りの者が主のもとに立ち返り、主によって用いられて多くの人を悔い改めさせて主の前に導き、彼らが宣べ伝えるメッセージに信仰を抱くようになる、大収穫の時を指し示しています。
キリストのしもべとして、私たちも「新しいもろ刃の打穀機」でなければなりません。
多くのメッセージの「歯ごたえ」がほとんどありません。
人類の邪悪さと罪の甚だしい罪深さを忠実に指摘すべきです。
メッセージには「歯ごたえ」が必要です。
そうでなければ、メッセージは全く無力で色彩がなく、救われている人も救われていない人も座ってメッセージを聞き、楽しむだけになってしまいます。
42章 選ばれたしもべ
42章ではメシアが私たちの前に現れます。
荒野で叫ぶ者の声について語られてきました。
今、救い主御自身が紹介されています。
さらに詳しく取り上げられることになりますが、ここではイスラエルが神の計画を前にして、生きている真実な神から離れて無意味な偶像に背を向けることがいかに愚かなことであるかを悟るよう示されています。
「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。
わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。
彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。
彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。」
(イザヤ書42章1~4節)
この聖句は、マタイの福音書12章17~21節で私たちの主に明確に適応されます。
「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく」。
神に頼りたいという心の願いが少しでもあれば、神はそのことを活気づけ、励まし、ついには完全な信仰の確信へと導いてくださいます。
これが、ここでの主の働きの特徴です。
私たちとは大違いです!
私たちは極端になりがちです。
誰かのたましいについて話したり、個人的な仕事をしたりすることを好まなかったり、壇上からメッセージする以外は、人々が何を言ったり何をしたりしても注意を払わなかったりします。
もしくは非常に押しつけがましく自己主張が強くなり、私たちが示すべきクリスチャン文化と何も一致しないことが多くあります。
この聖句は私が若い頃に有益でした。
私は救世軍の将校として働き始めました。
60年前、救世軍はこの国で善を行う強力な力を持っていました。
少数のブラスバンドとともに1000人以上の人たちでサンフランシスコの街を行進しました。
何百人ものたましいをキリストに導きましたが、徐々に組織はたましいの探求から離れてしまいました。
そこから規模は縮小し、ほとんど今では単なる偉大な慈善団体となっています。
しかし、おそらく、私たちは熱心ゆえに極端に行き過ぎて、賢明ではないことをする傾向がありました。
人々に神への印象を与える代わりに、私たち自身に対して不均衡な印象を持っていると思わせるものでした。
個人的には私は律法の力に縛られていました。
路面電車に乗ってすぐに立ち上がって証言をしないのは罪悪感を感じました。
角を抜けるとすぐに私は立ち上がってこのように言いました。
「友よ、私はイエス・キリストについて証しをしたいと思います。
そして、神がどのように私を救ってくださったかをお話ししたいと思います。」
車掌がやって来てこのように言いました。
「座ってください。」
私たちはあなたをここに教会の礼拝を執り行うために招いたのではありません。
その時、私は彼に対してかなり失礼な態度を取ってしまいました。
私はこのように言いました。
「あなたがそうおっしゃるなら、私は座ります。
しかし、あなたはこれらの人々が福音を聞くのを妨げたことについて、神の裁きの場で答えなければなりません。」
私は鉄道の列車でも同じことをするはずです。
駅を出るとすぐに、私は乗客たちと向き合って証しを始めました。
私はそうしなければならない、さもなければ彼らのたましいに責任を持たなければならないと感じました。
これが失礼だとは気づきませんでした。
私が最後にこのように電車の中で立ち上がったのは、ちょうど出発したばかりの時でした。
ローマカトリックの司祭が立ち上がってこのように言ったのです。
「これは何だ?
これは何ですか?
この電車の中で侮辱されなければならないのですか?
プロテスタントの礼拝では座らなければなりませんか?
車掌を呼んでください!
若者よ、そんなことはしてはいけません。
鉄道に乗っているときに他人の宗教に干渉する権利はありません。」
それで私は座らなければなりませんでした。
そのことが気になりました。
悪魔はあなたを黙らせようとしたり、無理なことをしなければならないと思わせようとしています。
私を救い、無関心と無礼の間の黄金の境界線があることを教えてくれたのは、まさにこの聖句でした。
主について何と言っていますか?
「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。」
(マタイの福音書12章19節)
ここで、彼はとても穏やかで静かな方法で神のために奉仕していました。
人々がイエスのもとに来て、永遠の命を得る方法、救われる方法を知りたいと願うのならば、イエスは常に彼らに会い、スカルの井戸の女のように失われた人々を捜し出すのです。
騒々しいことや無作法なことをしたという記録はありません。
彼はまさに「神の紳士」です。
初めてその表現が彼に適応されているのを見たとき、私はかなり驚きました。
私は数年前にロンドンで、1600年初頭に出版された小さな本、古い世界史を手に入れました。
ローマ帝国とアウグストゥス帝の時代になると、聖書にはこのように記されています。
「その時代に、ユダヤのベツレヘムに、あの立派な紳士、イエス・キリストが生まれた。」
そのことを瞑想したとき、私は思いました。
なぜその称号が彼に当てはまらないのだろうか?
紳士とは何ですか?
優しい人、哀れみ深い人です。
イエスはまさにその通りで、常に優しく哀れみ深い方でした。
罪を厳しく叱責するときでさえ、イエスは決して騒々しいことや、粗野な印象を与えるようなことはしていません。
「わたしは盲人に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。
彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。」
(イザヤ書42章16節)
もし、神がその道のすべてを私たちに前もって説明して下さったなら、私たちはもはや信仰によってではなく、目に見えるものによって歩んでいたのかも知れません。
神は私たちを不思議な方法や新しい独特な経験に導き、いかに神の恵みが素晴らしく支えとなり、神の知恵がいかに祝福に満ちた計画となるかを私たちに学ばせてくださいます。
前方の道を見る必要はありません。
必要なのは、私たちのガイドを信頼することだけです。
神は初めから終わりまでを知っており、祝福の目的から決して外れることはありません。
ついに、神の都に到達します。
その時、これまで歩んできた道を振り返り、私たちは神の守りに感謝し、すべての試練の理由を理解することになります。
43章 神の忠実さを証しする者たち
主のイスラエルに対する恵み深い守りは継続されます。
主は驚くべき方法で彼らの悲しみの中に入られます。
「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。
あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。
わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。」
(イザヤ書43章1~3節)
主は紅海とヨルダン川を通ってイスラエルを安全に導き、三人の信仰深いヘブル人の若者とともに燃える炉の中を歩きました。
どんなに厳しい試練の時でも、苦悩する民にとって今も変わらぬ頼りになる存在です。
信仰を持つ者は、あらゆる困難、一見すると敗北に見える状況、あるいは深刻な危険に直面しても、主の支えとなる恵みと祝福された交わりに頼ることができます。
何百万もの人々が主の約束の忠実さを試し、証明してきました。
神はその民に対する哀れみ深い配慮をもって、その証人たちをここに導きます。
「あなたがたはわたしの証人、――主の御告げ。――わたしが選んだわたしのしもべである。
これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。
わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。
わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。
このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。あなたがたのうちに、異なる神はなかった。
だから、あなたがたはわたしの証人。――主の御告げ。――わたしは神だ。
これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行なえば、だれがそれをとどめることができよう。」」
(イザヤ書43章10~13節)
主はイスラエルに対して、「あなたがたはわたしの証人」だと言われました。
彼らが主に従順であろうと不従順であろうと、地上の内であろうと外であろうと、律法を守っているか破っているかに関わらず、彼らにとってこのことは真実です。
なぜなら、神はモーセや他の預言者を通して証しを与え、何世紀にもわたって神の民をさまざまな方法で扱ってきました。
彼らは従順に歩むならどのような祝福が彼らに与えられ、不従順であれば、どのような呪いと裁きが彼らに降りかかるかを示してこられました。
歴史は神が宣言したことの真実を示しており、したがって、イスラエルは神の御言葉の真実な証人です。
ヴォルテールの不可知論に耳を傾けていたフリードリヒ大王は、かつてイシュクールの牧師の一人にこのように尋ねました。
「聖書が真実であるなら、明快かつ簡潔な証言ができるはずです。
聖書が真実かどうかを尋ねると、たいていの場合、私には読む時間も忍耐力もない長い学術書が渡されます。
もしあなたの聖書が真実であるなら、その証拠を一言で示してください。」
牧師は答えました。
「陛下、イスラエルです」
そしてフレデリックは、これがまさに聖書が真実であること、生ける神の御言葉であることの証拠であることを認めました。
しかし、イスラエルの過去の証しには「あなたがたはわたしの証人」という言葉が付け加えられています。
イスラエルは、神の忠実さの忠実で真実な目撃者です。
42章1~9節で、私たちは主と主の働きの特質を見るように求められています。
「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。
彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。
彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。
天を造り出し、これを引き延べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた神なる主はこう仰せられる。
「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。
こうして、盲人の目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。
わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。
先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」」
(イザヤ書42章1~9節)
この証言の目的は次のように述べられています。
「あなたがたはわたしの証人、――主の御告げ。――わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。
わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。」
(イザヤ書43章10~11節)
この時から、主は偶像崇拝者たちに、イスラエルの中に預言の霊が働いているという証拠を示すように要求されます。
これから何が起こるのか教えてください。
今までになかったことを教えてください。
過去について説明してください。
世界の起源を説明してください。
イスラエルはできなかったのです。
しかし、これらすべてのことを神だけが成し遂げたのです。
44章 神の祝福の不変の目的
神は、とても貴重で驚くべき方法で私にこのことを継続させてくださいます。
「今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。
あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。
「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。
わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」
(イザヤ書44章1~3節)
「恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。
あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。」
(イザヤ書44章8節)
その時、高い所からイスラエルに御霊を注ぐという神の約束がなされます。
このことはまだ起こっていません、
そして、ペンテコステの日と混同してはいけません。
それはヨエルの預言(2章28、29節)の中で示されています。
「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」
(ヨエル書2章28、29節)
次に偶像崇拝についての主の直接の言葉が続きます。
「偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。
彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。」
(イザヤ書44章9節)
「彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。
また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。
それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。
また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。
その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。
また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。
その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。
彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。
彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。』とさえ言わない。
灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか。』とさえ言わない。」
(イザヤ書44章14~20節)
9節では、偶像を作る者たちは自分たちの愚かさを自分で証明していると言われています。
イザヤは、森へ出かけて気高い木を見つける人を風刺的に描いています。
枝を全て取り除き、道具を使って木で作り始めます。
やがてその者は木を人の姿にします。
そして、飛び散る木片、つまり像を作るのに不要な部分を集めて、それを燃料として使います。
その者は料理を作りながらこのように言います。
「これはいいぞ!」
この火でからだを温め、私は同じ木から生まれた神を崇拝しよう!」
イザヤの注目すべき風刺と嘲笑は偶像崇拝の愚かさを示しています。
預言者エレミヤも偶像崇拝について、同じ様な言葉をエレミヤ書10章で語っています。
神がイスラエル人のためになさったすべてのことを後にして、愚かな偶像に背を向けることは、イスラエル人にとって何とも愚かなことなのです。
このように民は愚かなのです。
歴代誌の王たちは、イスラエルやユダの人々が敵と戦い、打ち負かしたときでさえ、さまざまな機会に征服した国々の神々を持ち帰りました。
そして、これらの神々のために神殿を建てて崇拝しました。
しかし、これらの神々の崇拝者のことを守る力がなかったことが証明されていました。
偶像崇拝は人間の心に根付いています。
確かに、ある者たちは銀、青銅や鉄の偶像を崇拝していないかもしれません。
しかし、神に背を向ける人はみんな、心の中に何らかの偶像を立てています。
その者は自分自身を崇拝しています。
もしくは愚かさ、快楽、名声を崇拝しています。
キリストを尊敬するしもべが、ある時「自力で成功した人」として紹介された時に、適切な言葉を残しています。
彼は、そのように呼ばれたことを残念に思うと言いながらも、その親切な心遣いには感謝し、このように言いました。
「なぜなら、こういう自力で成功した人たちは、いつも自分の作ったものを崇拝しているのに気づいているからです。
もし、人が唯一の生けるまことの神を知らなければ、自分を偉大な神として立て上げ、自分を崇拝することを知っています。」
「ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。
あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。
わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。
わたしは、あなたを贖ったからだ。」
天よ。喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。
林とそのすべての木も。主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現わされるからだ。
あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。
「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。」
(イザヤ書44章21~24節)
神はイスラエルのために用意しているもの、まだ来るべき救い主、その到来を告げる先駆者、神の御言葉を信じて神に信頼を置く人々に対する神の慰めについて告げています。
神はイスラエルが通過しなければならない危険と悲しみ、彼らが通らなければならない深い水を予見しておられます。
しかし、もし、イスラエルの中に真実な信仰があるならば、神は彼らのすべての悲しみとすべての困難の中で、彼らとともにいることを約束しておられます。
そして、この章の最後の言葉では突然の変化があります。
カルデヤ人の勢力からイスラエルを救うためにまだ来ていない者について語っています。
誰も知らない名前を呼んでいます。
それがペルシアの王クロスです。
「わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる。』と言う。
エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる。』と言う。」」
(イザヤ書44章28節)
イザヤは、バビロン捕囚の70年よりもずっと前にこれらの言葉を書いています。
つまり、クロス自身が現れるまでには何十年も経過することになります。
クロスが来ることはずっと前から予言されていました。
彼が来たとき、イスラエルはこれが主の救出の時であることを知るのです。
英語の聖書では、章や節の区切りが間違った場所になっていることがあります。
章と節に分かれているのは、霊感によるものではありません。
それは単に、主題を分け、特定の文章を定義するのに役立つと考えた人間の編集者側が調整するための問題です。
章や節があるのは大変便利ですが、その一方で、途中で区切られていると誤解を招きやすく、聖句の完全な内容が理解できないこともあります。
時々、編集者は判断を誤ったように思われます。
たとえば、ヨハネの福音書7章と8章の間の区切りを見てみましょう。
ヨハネの福音書7章の最後の言葉はこのようにあります。
「そして人々はそれぞれ家に帰った。」
(ヨハネの福音書7章53節)
ヨハネによる福音書第8章の冒頭の言葉はこのようです。
「イエスはオリーブ山に行かれた。」
(ヨハネの福音書8章1節)
彼らは「しかし」と訳すべき小さな単語を一つ翻訳し損ねており、その省略によって文が二つに分かれてしまったのです。
つまり、「そして人々はそれぞれ家に帰ったが、イエスはオリーブ山に行かれた。」ということです。
イエスは、自分の手で作り上げたこの世界では、ホームレスのよそ者だったのです。
その夜、他の人々が快適な家に帰っていきました。
しかし、イエスは山腹、おそらくゲッセマネの園へ出かけ、裸の地面に横たわり、父と語り合いながら夜を過ごしたのです。
44章の最後の節と45章の最初の節の間には、中断があってはならないことは明白です。
45章 クロスの到来が預言される
「主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。
「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。
わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。
わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。
それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。
わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。
あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。」
(イザヤ書45章1~4節)
不信仰な批評家たちがイザヤ書は一人の人物によって書かれた者ではないと主張していますが、その証拠してこの聖句を取り上げています。
この箇所は、イザヤ書の最初の部分を書いたイザヤが、これらの言葉を書いていないと証拠として上げています。
しかし、すでに述べたきたように、それは単に霊感に対する問題を無視しているだけです。
新約聖書にはこのようにあります。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
(テモテの手紙第二3章16節)
このことを信じるクリスチャンであれば、神がクロス王の台頭と、王が民のためになさることを預言したことを理解することができます。
これは主イエスの世に降りてきたことと、王が成し遂げる贖罪、すなわち主の最初の到来と再臨、そしてイスラエルの人々によって主が拒まれることと、最終的に受け入れることの両方が預言されているのを理解するように簡単に理解することができます。
これらすべてのことは前もって預言されていました。
同じように、神はイザヤを通してクロスの台頭を預言したのです。
ペルシャ人のクロスは、メディア王キュラクサレスの甥でした。
そして、メディアとペルシャは、一般的に近い関係にありました。
彼らは同じ血統から生まれたものであり、キュラクサレスとクロスの指導の下でこれらの王国が統一されました。
その結果、カルデアは最終的に征服され、バビロンはペルシャ帝国の主要都市の1つとなり、最終的に完全に滅ぼされました。
世界の歴史は、その征服についてより詳しい情報を与えています。
ヘロドトスはこれについてより多くのことを語っています。
他の古代の記録には、キュラクサレスとクロスが同盟を結んでバビロンに進軍し、最終的にクロスがユーフラテス川の水を別の水路に変えてバビロンを占領し、川の門である二枚扉の門の下の川底に侵入したことが記されています。
そのことがここに示されているのです。
神はこれらすべてを預言していました。
クロスは単なる伝説上の人物ではありません。
クロスの壮大な墓にある壮大な砲火跡は、今でもイランのパサルガルデに残っています。
原文の碑文は次のように締めくくられている。
「ペルシャ帝国を建国し、アジアの王となった人物がいます。
だから、この記念碑のことに恨みをみせないでください。」
クロスとペルシャ人がイスラエル人と友好関係を結んだ理由の一つは、ペルシャ人もイスラエル人と同様に一神教徒だったからです。
彼らは偶像崇拝を信じていません。
彼らは偶像崇拝することはなく、そのことを嫌っていました。
ペルシャ人は太陽のシンボルの下で神を崇拝し、またアーリマンと呼ぶ偉大な力も信じていました。
オルマズドは彼らにとっての神の呼び名です。
アーリマンは闇の力の名称です。
ペルシャ人は光の神と闇の神という二大神を信じているとして、彼らを二神論者だと考える人もいます。
しかし、彼らは本当に唯一の真の生ける神を信じていたいました。
しかし、大いなる敵対者が神の計画の遂行を妨害しようとしていた、という可能性の方が高そうです。
ペルシャ人は太陽によって象徴される唯一の神を信じていました。
しかし、彼らは実際に太陽を崇拝していたわけではありません。
そのように、イスラエルが偶像を崇拝していないことを知った時、彼らを好意的に見たのです。
偶像崇拝のせいで、イスラエルは偶像崇拝の源であるバビロンに捕虜として連行されました。
そして、このことによって偶像崇拝から解放されました。
バビロンに到着後すぐに、イスラエルは偶像崇拝を拒否すると死刑になるということを知りました。
「ネブカデネザルは彼らに言った。
「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。あなたがたは私の神々に仕えず、また私が立てた金の像を拝みもしないというが、ほんとうか。
もしあなたがたが、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときに、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。
しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」」
(ダニエル書3章14、15節)
確かに、無知のために偶像崇拝者となったユダヤ人がいたはずです。
しかし、イスラエルの国家としてもバビロンで見たことから偶像崇拝を嫌悪することを学んだのです。
そこでイスラエルは王国が崩壊するまで、この偶像崇拝的な王国の恐ろしい状況によって、70年間苦しみ続けました。
そして、彼らは二度と偶像崇拝の民ではなくなりました。
今日に至るまで、彼らはいかなる偶像も嫌悪しています。
これが、ローマカトリック教会、ギリシャカトリック教会、ギリシャ正教会、その他のカトリック教会の宗派がユダヤ人に感銘を与えるのに苦労してきた理由の一つです。
なぜなら、ユダヤ人が彼らの教会の中を覗き見るのならばと、彼にとってはそれは単なる異教の寺院にしか見えないからです。
そこにはあらゆる種類の聖像や画像があり、人々は線香やろうそくに火を灯し、それらにひれ伏しています。
ユダヤ人にとってそれは忌まわしいことです。
彼はそのことを憎み、嫌悪しています。
ユダヤ人に憐みの心で示されたときにだけ、ユダヤ人に何らかの印象を与えることができます。
確かにユダヤ人はいたが、その改心は迫害を逃れるための単なる口実であった場合が多かったのです。
外見上はローマ教会に従っていたものの、隠れた礼拝は昔と同じように会堂での礼拝の中で行われていました。
しかし、真実な意味で新しい誕生がありました。
ユダヤ人が真のクリスチャンになる場合、彼はこうした偶像崇拝のすべてから離れます。
なぜなら、偶像崇拝は彼のたましいそのものを嫌悪するものだからです。
しかし、神の繰り返した警告と願いとは不必要なものではありません。
イスラエルにとって最大の試練は、これから起こる大患難時代の間に起きるのです。
滅びの子がまず立ち上がり、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反対し、これらの上に自分を高く上げます。
そして神のように神殿に座し、自分は神であることを示そうとします。
「彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」
(テサロニケ人への第二の手紙2章4節)
彼は偶像を造らせ、その偶像に命を与え、その偶像が語り、その偶像を拝もうとしない者を殺すようにされます。
「また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。
それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。」
(ヨハネの黙示録13章14、15節)
死を恐れる多くの人々は失敗し、悲惨な結果に陥ります。
「また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。
「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、
そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。
また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。
獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。」
(ヨハネの黙示録14章9~11節)
その反面、、像に打ち勝ち、神の聖なる名を讃える人々もいます。
「私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。
獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。
彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。
「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。
もろもろの民の王よ。
主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。
すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」」
(ヨハネの黙示録15章2~4節)
もう一度繰り返しますが、イザヤ書にある神の継続的な警告と嘆願は不必要なものではありません。
神はクロス王の台頭を預言しました。
神は残りの者たちがエルサレムに戻る道を開くはずでした。
しかし、もちろん、これは部分的な復帰に過ぎません。
イスラエルの帰還についての預言はすべてすでに成就したので、未来の出来事が成就することを期待する必要はないと主張する人々がいます。
しかし、神はまさにこのイザヤ書の中でこのように語っています。
「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。」
(イザヤ書11章11節)
民が自分たちの土地に再び集まり始めています。
このように、神はすでにそのことを始めています。
クロス王についての啓示に続いて、神は以前取り上げていた主題に戻っています。
人々が求めていた偶像とは対照的に、人間の小ささ、弱さ、功績のなさ、そして神の威厳と力と栄光を強調しています。
「わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。
あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。
それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。
わたしが主である。ほかにはいない。
わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。
わたしは主、これらすべてを造る者。」」
(イザヤ書45章5~7節)
この聖句はペルシャの信仰と関連しており、とても印象的です。
彼らの聖典、たとえば「アヴェスター」では、光の神であり、唯一の真の生ける神であるオルマズドに重要な地位を与えています。
神と絶えず対立する超自然的な敵として非常に大きな位置を占めています。
一方は光の神であり、他方は闇の悪霊です。
一方は平和の神であり、他方は戦いの霊です。
一方は善の神であり、他方は悪の霊です。
そこで、これに答えて、神はクロス王に話しかけるかのようにこのように言っています。
「わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。
わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。」
私と全能性を共有できる他の力はありません。
「平和をつくり、わざわいを創造する」とはどういう意味なのでしょうか?
極端に高位のカルヴァン主義者はこのように主張します。
「地上で起こるすべてのことは神があらかじめ定めており、したがって神がその救いの恵みを示す機会を得るために人間は罪を犯すのです。」
しかし神が「平和をつくり、わざわいを創造する」と言うのは、そういうことではありません。
わざわいという意味での悪です。
言い換えれば、雷雨によって大きな被害が出た場合、神は「私が全責任を負う」と言うことです。
大きな地震がある場合、その背後には神がいるのです
すべてが順調な場合、神は「これらのことは私から来ている」と言います。
それが何であれ、わたし、主が平和をつくり、わざわいを創造するのです。
そして、アモス書にはこのように書かれています。
「町で角笛が鳴ったら、民は驚かないだろうか。町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか。」
(アモス書3章6節)
直接、働くことは必ずしもなくても、他者に働くことを許すことがあります。
例えば、神はサタンがヨブを試すことをお許しになりました。
しかし、ここでのポイントは、宇宙には互いに対立する二つの偉大な力、つまり善なる神と邪悪な神が存在するのではありません。
神は一つであり、神に敵対する邪悪な力が働いているということです。
「ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。
粘土は、形造る者に、「何を作るのか。」とか、「あなたの作った物には、手がついていない。」などと言うであろうか。」
(イザヤ書45章9節)
「諸国からの逃亡者たちよ。集まって来て、共に近づけ。木の偶像をになう者、救えもしない神に祈る者らは、何も知らない。
告げよ。証拠を出せ。共に相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。
わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない。
地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」
(イザヤ書45章20~22節)
なんと驚くべき宣言なのでしょう!
神は、旧約聖書の時代に、義の神、救い主として御自身を知られていました。
罪の問題を絶対的に義で扱う神であり、しかも御自身の無限の神聖さと王座の正義と一致する道を見つけ、それによって悔い改めと信仰で神に立ち返る罪人の救い主となることができる神でした。
まさに神であり救い主です!
昔、ギリシャではソクラテスやプラトンのような賢人たちが罪の赦しについて議論しました。
ソクラテスはプラトンの方を向いて「神は罪を許すことができるのかもしれないが、私にはその方法が分からない」と言いました。
それは注意すべきことです!
この異教徒の哲学者は、かなりの範囲で神の実在に目が開かれていました。
「神は罪を許すことができるのかもしれないが、その方法が私には分からない。」
ソクラテスはどういう意味で言ったのでしょうか?
もし、神が宇宙の道徳的支配者であり、神が義の裁判官であり、すべての人間が神の前に出向き、肉体で行った行為について裁かれるのであれば、どうして神は罪を許すことができるのでしょうか?
裁判官の役割は犯罪者を許すことではなく、悪行者に判決を言い渡し、その判決が執行されるのを見届けることです。
では、義の神がどうして罪を赦すことができたのでしょうか?
ずっと昔、ソクラテスより2世紀半も前に生きたイザヤは、イスラエルにおいて神は公正な神であり救い主であると宣言しています。
そして、ソクラテスのほぼ5世紀後に書かれたローマ人への手紙では、神がいかに正しい方であり、イエスを信じる者を義とするかが教えられています。
これは驚くべき福音の一節です。
「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」
今、神は主イエス・キリストにおいて啓示され、まさにこの同じ言葉が主について用いられます。
なぜなら、主はこのように言われているからです。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
(ヨハネの福音書14章6節)
ペテロはこのように言っています。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。
世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
(使徒の働き4章12節)
「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」
神を仰ぎ見るとはどういう意味でしょうか?
簡単に、直接神と接触できるかを人々に示すために、このような単純な言葉を用いています。
しかし、 「信じる」と「見る」という単純な言葉は難しく感じさせます。
ここで「見る」とは、唯一私たちを救うことができる方、私たちに見るように命じる方に目を向けることを意味します。
すべてを決定づけるのは人です。
私たちは自分自身に目を向けず、自分たちの無力な状態を知りながら、期待と従順の視線を主に向けます。
「わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」
「救われよ」という招きは世界中で行われ、祝福された結果をもたらします。
ヘブル人への手紙12章2節にはこのようにあります。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」
(ヘブル人への手紙12章2節)
イエスは栄光ある人です。
民数記21章8、9節で蛇に噛まれて瀕死のイスラエル人について述べられています。
イスラエルはモーセが掲げた青銅の蛇を真剣に見つめて生き延びたのです。
「すると、主はモーセに仰せられた。
「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。
もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」
(民数記21章8、9節)
45章から48章は、40章から48章に含まれる区分であり、そこでは主と偶像との論争が述べられています。
神は自身の力と威厳を強調しています。
ロバート・G・インガーソル大佐は著書の講義の中でこのように語っています。
「聖書の神は何を自慢しているのだろう。
神は、御自分のこと、また御自身が行ったこと、出来ることについて、繰り返して多くの事が語られている。」
不信仰な者がこのように言うことは理解できます。
宇宙を創造した神以外に誰が自慢する権利があるというのでしょうか?
なぜ、神は御自分の栄光と威厳と力を現すのでしょうか?
なぜ、神は御自分の知恵と力と能力を強調するのでしょうか?
それは、人々が神とつながって生きることの大切さと、他の誰かに頼ることの無益さに気づかせるためです。
46章 神と偶像との終わりなき対比
神は御自身を偶像と対比しておられます。
偶像は自分自身を救うことさえできないと神は述べています。
クロスがバビロンを攻撃し、その都市が陥落すると、偶像崇拝の祭司たちは無力な神々を荷車に乗せて運び出し、どこか別の場所に設置しました。
救うことのできなかった偶像は、絶対的な破滅から崇拝者によって救われなければなりませんでした。
「「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。
彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。
彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。
わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。
胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。
わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。
袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。
彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。
これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。
このことを思い出し、しっかりせよ。そむく者らよ。心に思い返せ。
遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。」
(イザヤ書46章1~9節)
つまり、神はこのように言っているのです。
「私は、作り手によって運ばれなければならないこれらの神々とは全く違います。
私はあなたを運ぶことができます。
私はあなたをこれまで運んできたし、これからも運び続けますだ。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」
神は森の木から神々を作り出されたことを風刺しました。
神は、さまざまな金属で彫像を作る者たちを嘲笑しています。
金細工師は金属を取り、それを形作り、加工し、それを組み立てて「これは神だ」と言います。
しかし、それは動きません。
歩くこともできません。
見えません。
聞こえません。
何もできないので、危険なときには誰かに守ってもらう必要があります。
なんという哀れな神なのでしょうか!
ここにある風刺と皮肉、そして私たちの前にもたらされた素晴らしい貴重な約束に注目してください。
神は言われます。
「イスラエルよ、私はあなたに対して間違った行動をしたかも知れません。
私は何世紀にもわたってあなたがたを支え、世話してきました。
あなた方がそのことを知っているのに、どうしてあなたがたは偶像崇拝のような無意味なことに目を向けることができるのですか!
過去を振り返って、私が何をしたか見てください。
そして、私は将来、あなたのために同じように素晴らしい守りがあることを約束します。」
47章 バビロンの滅亡
「「おとめバビロンの娘よ。下って、ちりの上にすわれ。
カルデヤ人の娘よ。王座のない地にすわれ。もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないからだ。
ひき臼を取って粉をひけ。顔おおいを取り去り、すそをまくって、すねを出し、川を渡れ。
あなたの裸は現われ、あなたの恥もあらわになる。わたしは復讐をする。だれひとり容赦しない。」
私たちを贖う方、その名は万軍の主、イスラエルの聖なる方。
「カルデヤ人の娘よ。黙ってすわり、やみにはいれ。あなたはもう、王国の女王と呼ばれることはないからだ。」」
(イザヤ書47章1~5節)
この本の最初の部分では、バビロンがまさに偶像崇拝の源泉であったという事実に注目しました。
最も確かな記録によれば、偶像崇拝はバビロンから始まりました。
著名な本「(二つのバビロン)The TwoBabylons 」(アレクサンダー・ヒスロップ著)には、このことが詳細に証明されています。
魔術や魔法によって諸国民を魅了したと言われています。
偶像崇拝の習慣を身をもってバビロンに従った国は後を絶たなかったのです。
バビロンの偶像は「王の女王」と呼ばれ、その富と文化は周囲のどの国よりも優れていました。
しかし、神は、クロスとその軍隊がバビロンに立ち向かう時をはるかに先に見て「あなたはもう、王国の女王と呼ばれることはないからだ」と言われています。
カルデヤ人の娘の衣服が剥ぎ取られ、バビロンのすべての宝物が破壊され、すべてが奪われる日が来ようとしていました。
その時、神はバビロンの偶像にはまったく力がなく、神の御言葉は有効であることが証明されました。
神は、バビロンが自信を得るために星占い師や占星術師、毎月の預言者に頼った愚かさについて語っています。
「さあ、若い時からの使い古しの呪文や、多くの呪術を使って、立ち上がれ。
あるいは役立つかもしれない。おびえさせることができるかもしれない。
あなたに助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。
さあ、天を観測する者、星を見る者、新月ごとにあなたに起こる事を知らせる者を並べたてて、あなたを救わせてみよ。
見よ。彼らは刈り株のようになり、火が彼らを焼き尽くす。
彼らは自分のいのちを炎の手から救い出すこともできない。これは身を暖める炭火でもなく、その前にすわれる火でもない。
あなたが若い時から仕え、行き来してきた者たちは、このようになる。
彼らはおのおの自分かってに迷い出て、あなたを救う者はひとりもいない。」」
(イザヤ書47章12~15節)
民が唯一の真実の生ける神から背を向け、神の御言葉を拒むところでは、民には常に他のものへと目を向ける準備ができているものです。
偉大な指導者たちが神と神の御言葉への信頼を捨てるならば、彼らはさまざまな詐欺師の餌食になっているというのが、何世紀にもわたる特徴として見ることができます。
悪名高いヒトラーにさえ、幸運な日や不運な日、そして国家を攻撃するのに適した時期について相談する特別な占星術師がいました。
ヒトラーは星図を調べて、何が示されるかを確認しました。
それはバビロンから始まったのです。
何世紀も前、彼らには占星術師、星占い師がいました。
占星術師と天文学者を混同してはいけません。
天文学は正確な科学ですが、占星術は詐欺であり、偽物です。
しかし、どれだけの人がそれに気が付いているでしょうか?
私たちの新聞の多くには、占星術師による毎月の報告が掲載されており、人々は愚かにもそのことを信じています。
信頼できる情報源によると、ニューヨーク市の市場で最も有力な経営者の中には、大きな取引をする際には占星術師に相談せずに何もできない者がいると聞いています。
人々はいまだに愚かさよりも、このような悪い考えを信じています。
彼らは生ける神の御言葉から離れ、空想話に目を向けるのです。
何年か前、ロサンゼルスにいた時のことです。
ある日、土曜日にちょっとリラックスしようと、ロングビーチまで電車に乗って行きました。
私はたくさんの会議で疲れ果てており、席に着くとすぐに、ブルガリア人のジプシーが赤いドレスを着て、胸元に飾りをつけ、黒髪の長い三つ編みをしてやってきました。
彼女は私のすぐ隣に座り、私の手を握りました。
それから彼女は言いました。
「旦那様、私の手のひらに銀貨25セントをクロスさせてください。
25セントです。
私はあなたに過去、現在、未来を教えます。
私は七番目の姉妹の七番目の娘です。
私はベールをかぶって生まれました。
私はすべての謎を解くことができます。」
私は彼女の手を掴んで言いました。
「それは必要ありません。
それはもう全部聞いています。 」
彼女は「でも、私は専門家です。過去、現在、未来を非常に正確に知っています。」と言いました。
「そうです。
私は専門家から教えてもらいました。ここに小さな本に書いてあります。」
もう一方の手で新約聖書を取り出し、エペソ人への手紙2章を開きました。
私は「ここに私の過去、現在、そして未来があります」と言いました。
過去はこのように書かれています。
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」
(エペソ人への手紙2章1~3節)
彼女は「それは何ですか?
私は間違った人に話してしまったようです。」
では、行きます。」
私は「ダメです」と言いました。
「私は離しません。ここに降りてきて私を捕まえろなんて頼んでいません。」
今、私はあなたを捕まえたので、あなたはここにいてください。
では、残りをお伝えします。
さて、私はあなた方にプレゼントをあげます。
「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」
(エペソ人への手紙2章4、5節、8節)
「それが私へのプレゼントですか!
何も問題ありません。
もう十分です。
さようなら。」
私は言いました。
「ちょっと待ってください。
まだ全部は渡していないんです。」
私は言いました。
「これが私の未来の出来事です。」
「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」
(エペソ人への手紙2章7節)
彼女は「はい、旦那様、もう十分です」と言って、手を引っ張り勢いよく去っていきました。
そして、彼女は「私は間違った人を捕まえた」と言って電車を降りました。
ある日、鉄道の乗客が聖書を読んでいると、おしゃれな紳士がやってきて、これを見てこのように言いました。
「聖書を読んでいるのですか?
聖書を信じているのですか?
聖書を信じているとは思っていませんでした。
教育を受けた人がいまだに聖書を信じているとは思いませんでした。
あなたは教養のある人のように見えます。
聖書を読んでいることに驚きました。
私たちの先祖のように、人々が聖書を信じず、幽霊や魔女を信じるようになる日がすぐに来ると信じています」
聖書を読んでいる紳士は「友よ!人々は聖書をもはや信じないところまで来ると、また魔女や幽霊を信じるようになるのです。 」
確かにそうです。
それは真実です。
どれほどの多くの人が神の御言葉から離れて、心霊術や神智学、死者と関係があるとされるその他のオカルトに心奪われてきたのでしょうか!
これが何世紀にもわたって受け継がれてきたバビロニア主義なのです。
神はこのようなオカルトのすべて裁き、すべてを脇に置きます。
なぜ人間にこれが必要なのでしょうか?
神は「ここに、私は無限の知恵と力と威力を持っており、私の顔を求める人に私自身を恵みをもって明らかにする用意ができている」と語っています。
48章 神とイスラエルとの論争
「これを聞け。ヤコブの家よ。
あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、誠実をもってせず、また正義をもってしない。
確かに彼らは聖なる都の名を名のり、イスラエルの神――その名は万軍の主――に寄りかかっている。」
(イザヤ書48章1、2節)
この章では、神がイスラエルの民とどのように関わってきたかが述べられています。
イスラエルのような苦しみを味わった国は他にありません。
しかし、現在に至るまでイスラエルは国家として無傷のままであり、これからも最後まで傷を負うことはありません。
最後にイスラエルがすべての苦難と苦難と困難を乗り越えたとき、彼らは10節の意味を理解するのです。
神はイスラエルを苦難と苦難を通して精錬され、最終的には、来るべき時代を通して、神の栄光を讃え、神の額に王冠を戴く者となるのです。
「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。」
(イザヤ書48章10節)
「あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。
「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。
あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。」
(イザヤ書48章17、18節)
「バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。喜びの歌声をあげて、これを告げ知らせよ。地の果てにまで響き渡らせよ。
「主が、そのしもべヤコブを贖われた。」と言え。
主がかわいた地を通らせたときも、彼らは渇かなかった。
主は彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させた。
「悪者どもには平安がない。」と主は仰せられる。」
(イザヤ書48章20~22節)
過去に、神がイスラエルのためになさったように、これからもそうしてくださります。
神は彼らの悲しみによって彼らを精錬します。
悔い改めて主に立ち返る人々、主が備えてくださった救い主を受け入れる人々は、完全な祝福に導かれるのです。
この区分は「悪者どもには平安がない」という厳粛な言葉で終わります。
ここでは「主」、ヤハゥエが語られています。
なぜなら、主は、従順であるならば、平和が川のようであったとされる民に語っているからです。
(18節)
「主」は、イスラエルが救いと助けを求めて頼ることと、完全に失望させた偶像とは鮮明な対照をなしています。
次の区分の終わりには「私の神」とあり、悔い改めて謙虚な心を持つすべての人が「平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ」という約束に含まれています。
「わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。
わたしは彼をいやそう。」と主は仰せられる。」
(イザヤ書57章19節)
ここに記された約束と警告は、イスラエル人であろうとなかろうと、すべての聞く人に適応されます。
さて、私たちはイザヤ書の貴重で重要な部分に触れることになります。
使徒ペテロは「尊く、非常に大きな約束」について語っています。
一見すると必ずしもそう思えないかもしれませんが、すべての神の御言葉は尊いものなのです。
聖書はすべて重要です。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
(テモテの手紙第二3章16節)
時には、神の御言葉のある箇所が、他の部分よりも力強く私たちに語りかけることもあります。
そして、私たちがこれから始める箇所は、主イエス・キリストを知り、愛するすべての人にとって非常に大きな意味を持ちます。
なぜなら、この箇所は、私たちの前に主と明確に会うことができるからです。
イザヤ書後半の最初の区分が終了しました。
この本のこの大きな3つの区分には3つの小区分があります。
まず、すでに述べたように、主が偶像崇拝に関してイスラエルと論争した話が40章から48章で語られています。
最後は「「悪者どもには平安がない。」と主は仰せられる。」で終わります。
メシアの扱いについて、主とイスラエルとの論争は49章から始まり、57章で終わります。
ここでも「「悪者どもには平安がない。」と私の神は仰せられる」という言葉で締めくくられています。
これらの終わり方がいかに適切に終わっているのを見てください。
唯一の真実の生ける神の代わりに、何か他のものを代用する者には平安がありません。
真実な神の代わりに何かに頼ると、人は平安を見つけることはできません。
その反面、、神が備えてくださった救い主を拒む者には平安はありません。
「悪者どもには平安がない。」と主は仰せられる。
49章 軽蔑されたメシア、神の答え
「島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。
主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した。
そして、私に仰せられた。「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす。」
しかし、私は言った。「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。
それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」
今、主は仰せられる。――主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。
私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。――
主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。
わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」」
(イザヤ書49章1~6節)
49章では、イスラエルは主のしもべとして私たちの前に現わされています。
しかし、国家としてのイスラエルはその点でひどく失敗していました。
そして、イスラエルはこのように語り、言うのです。
「主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。.」
そして、私に仰せられた。「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす。」
実際、イスラエルの立場を取られたのは主イエス・キリスト御自身であり、真実なイスラエルなのです。
ここでのしもべは、もはや国家そのものではありませんが、冒頭の節では国家について語っています。
国家としての立場を取られるのは主イエスです。
他の聖書箇所でもこのことを示しています。
ホセア書の中で神は、国民をエジプトから連れ出すことについて語っています。
「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。」
(ホセア書11章1節)
「わたしの子をエジプトから呼び出した。」
その預言は主イエス・キリストを指しています。
幼子としてエジプトへ連れて行かれ、そしてその地に連れ戻されたことを指しています。
マタイの福音書ではこのように語られています。
「ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。」
(マタイの福音書2章15節)
ですから、最初の子はイスラエルでしたが、実際に神の御心の前にいたのは、真実なイスラエルである主イエスでした。
国民全体を個人に置き換えて、同じような言葉をよく使われています。
誇り高きフランス君主ルイ14世は、ある時このように叫びました。
「フランスは世界を支配しなければならない。そして、我はフランスである。」
そしてナポレオン・ボナパルトはこのように言いました。
「国家は至上であり、そして私は国家である。」
もし霊感を受けていない人間がそのように言葉を使うのであれば、キリストは「私はイスラエル、真実なイスラエルである」と言う権利がもっとあるはずです。
「イスラエル」という名前そのものは「神と共にいる君主」を意味しています。
イスラエルが国家としても個人としても完全に失敗し、キリストこそ真実な君主、主のしもべとして現れたのです。
次に、イスラエルによってキリストが拒まれ、そして異邦人の召しについて注目すべき預言が続きます。
メシアはこのように言っています。
「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。」
(4節)
つまり、イスラエルに関する限り、メシアの地上での働きは失敗に終わったように思われました。
「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
(ヨハネの福音書1章11節)
しかし、メシアはすべてを主に委ねて宣言します。
「主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。」
(イザヤ書49章5節)
そして、神はこのように言われます。
「主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」
(イザヤ書49章6節)
イスラエルによってメシアが拒まれ、さらに偉大な御業が成し遂げられるのです。
そして、そのメッセージは異邦人の世界に伝わるのです。
「イスラエルを贖う、その聖なる方、主は、人にさげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる。
「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。」」
(イザヤ書49章7節)
旧約聖書では、現代がはっきりと示されていません。
しかし、旧約聖書の預言者は、2つの山の頂上を眺める人のようなものです。
1つはもう1つの頂上より少し遠くにあり、最初の頂上よりも高いため、2つの山の頂上の間にある谷を見ることができません。
そこで預言者たちは、キリストの初臨の時の苦しみと、再臨の後に起こる栄光について証しています。
その間に起こるすべてのことについて、はっきりとした教えや概要は与えられていません。
新約聖書から、神は永遠の昔から私たちを心に留め、ユダヤ人と異邦人の中から神の御子の花嫁となるべき民を神の名のもとに呼び出すように望んでおられたことが分かります。
ですから、主イエスが力と栄光をもって支配するために戻られるとき、主は独りで戻られるのではありません。
花嫁がおり、その花嫁は主イエスとともに王座に座るのです。
現代について、まだ明確な指示をイザヤが与えていないとしても、そのような預言が千年王国を見据えるだけでなく、現代においても対象としていることは明らかです。
その預言は千年王国の日に成就し、この世のすべての王国は私たちの神とキリストの王国となります。
ここで主は、人が軽蔑し、国民が忌み嫌う人に語られています。
この表現は、主イエス・キリストに対するイスラエルの感情を表すには、あまり強くない表現です。
ユダヤの書物やタルムードなどで、主について、「らい病人」や「絞首刑にされた者」、つまり国民が忌み嫌う方という言葉が使われています。
彼らは理解できなかったのです。
パウロこのように語っています。
「もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」
(コリント人への手紙第一2章8節)
しかし、彼らは知らなかったのです。
神は国民が忌み嫌うその方を讃えています。
そして、地上の王や君主たちはその方を認め、その前にひれ伏すのです。
預言者たちは預言していませんが、驚くべきことに、それは現代においても真実です。
なぜなら、初期の数世紀の間、福音が国から国へと広まるにつれて、さまざまな国々が主イエスへの服従を告白するようになり、多くの王が自分を主の配下にあると宣言しました。
現在に至るまで、諸国民の中には主イエス・キリストの権威を告白する指導者たちがいます。
イギリス、オランダ、スカンジナビアの支配者はみんな、クリスチャンであると告白しています。
必ずしも彼ら全員が新しく生まれ変わっているという意味ではありません。
しかし、彼らすべてがクリスチャンであると告白しており、少なくとも外面的には主イエス・キリストの権威を認めています。
米国の多くの指導者も同じ立場を取っています。
フランクリン・D・ルーズベルトはクリスチャンであると告白し、米国聖公会の牧師を務めていました。
そして、トルーマン大統領は最初の記者会見の後、祈りが必要だと言って祈りを求めました。
彼はキリスト教の信仰を告白しており、その意味では主イエス・キリストの権威を認めています。
イギリスに来て女王に拝見したとき、信仰をはっきりと告白しました。
トルーマン大統領は尋ねました。
「陛下、大英帝国の偉大な繁栄の要因は何だとお考えですか?」
女王は彼に聖書を手渡し、「この本」と言いました。
彼はこの本を民衆のもとに持ち帰り、これが大英帝国の繁栄の基盤であると伝えました。
ヴィクトリア女王は生涯の終わりに「私は主イエス・キリストの再臨を固く信じています」と公に述べました。
そして、私は時々、主が私にとても長く支配の座にいることをお許してなりました。
主が再び来られるときに、私が王冠を主の足元に置くまで、決して王冠を手放すことはないと考えました。
それは主への服従の素晴らしい表現でした。
ビクトリア女王は明らかにキリストを救い主として知っていました。
毎年夏になると、彼女はスコットランドの美しいバルモラルに行き、周囲の丘陵地帯の小さなコテージに住むハイランド地方の女性たちを訪ねるのが習慣でした。
彼女は彼ら全員と知り合いになり、一人一人と会話で交わしました。
もちろん、彼らは女王が注目してくれたことに大喜びしました。
最後に、彼女はロンドンに戻る途中、ある年老いた田舎者に別れを告げに来ました。
老婦人は言いました。
「陛下、もう私は地上であなたにお会いできないかも知れません。
陛下に一つ質問してもよろしいでしょうか?」
彼女は「はい、好きなだけどうぞ」と言いました。
彼女は「それでは」言いました。
「陛下は天国で私に会っていただけますか?」
女王は「はい。イエスの全能の血によってお会いしましょう」と答えました。
この言葉は強大な帝国の支配者からの良い証しです。
王たちは主イエス・キリストの前にひれ伏しました。
イスラエルの国民は主イエスを拒みました。
イスラエルは理解していませんが、神はその名を全世界に栄光を与えました。
千年王国では地上のすべての王たちが自分たちの富と栄光を新しいエルサレムに持ち込むのです。
もちろん、この聖句は千年王国の時代に完全に成就することを期待しています。
「主はこう仰せられる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。
わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。
わたしは捕われ人には『出よ。』と言い、やみの中にいる者には『姿を現わせ。』と言う。
彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘の至る所が、彼らの牧場となる。
彼らは飢えず、渇かず、熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、水のわく所に連れて行くからだ。
わたしは、わたしの山々をすべて道とし、わたしの大路を高くする。」
(イザヤ書49章8~11節)
この聖句の二つの部分は新約聖書の中ではっきりと私たちに示されています。
コリントの人への手紙第二6章2節にはこのようにあります。
「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」
(コリントの人への手紙第二6章2節)
これは、神の恵みの福音が全世界に広まっている今、神がこの御言葉を現在に適用していることを意味します。
この聖書の後半部分は、世界中の人々が主イエス・キリストを認識するようになる目覚めの時代まで私たちを導いています。
それはヨハネの黙示録7章に描かれています。
イスラエルの封印された144、000人の幻を私たちに与えた後、ヨハネはこのように言っています。
「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
彼らは、大声で叫んで言った。
「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」」
(ヨハネの黙示録7章9、10節)
彼らは獣と偽預言者の支配下で殺される殉教した聖徒たちであり、今は天で目撃されていると述べています。
しかし、これは完全な間違いであることが明らかです。
この大群衆は、主イエス・キリストが地上に来られる時に、その栄光の王国の中核を形成する人々です。
というのは、長老の一人がヨハネの方を向いてこのように言っているからです。
「長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。
そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。
すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」
(ヨハネの黙示録7章13、14節)
文字通りにはここには定冠詞が二つあります。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」
大きな患難から上がってきた血で洗われた大群衆がいます。
彼らは天に昇ったわけではありませんが、すべての試練の期間を乗り越え、神によって守られてきました。
主はヨハネの黙示録7章16、17節で彼らについてこのように言っています。
「彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。
また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」」
(ヨハネの黙示録7章16、17節)
イザヤ書の類似箇所は、この両方いかに正確に一致するかを示しています。
彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘の至る所が、彼らの牧場となる。
彼らは飢えず、渇かず、熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、水のわく所に連れて行くからだ。」
(イザヤ書49章9、10節)
主イエス・キリストの栄光の千年王国のために救われる地上の同じ集まりについて述べています。
おもにイスラエルの残された者たちですが、彼らと共に、主イエス・キリストの権威を認めるよう導かれる異邦人の中からの大きな集団も存在しています。
かつて拒まれた救い主が今や彼らの救い主であり、彼らの主となるのです。
ですから、神の御霊は、いわば主イエス・キリストにこのように語っているのです。
「確かに、国民はあなたを認めず、あなたはむだに労苦し、力を無駄に費やしたように見えます。
しかし、あなたが地上にいて認められず、誤解されていた間に、あなたの愛の労苦から莫大な収穫がもたらされたことが、来たるべき日に明らかになるのです。」
50章 イスラエルが除外された理由
次に、現代においてイスラエルがなぜ除外されてきたのかが示されます。
主はこう仰せられる。「あなたがたの母親の離婚状は、どこにあるか。わたしが彼女を追い出したというのなら。あるいは、その債権者はだれなのか。わたしがあなたがたを売ったというのなら。見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られ、あなたがたのそむきの罪のために、あなたがたの母親は追い出されたのだ。
「あなたがたの母親の離婚状は、どこにあるか?」という質問がなされます。
神はなぜ地上の花嫁と離婚したのでしょうか?
イスラエルは主の妻と言われていますが、現時点では離婚した妻のような状態です。
神はもはやイスラエルを神との契約関係にある者として認めておらず、なぜかという疑問が生じています。
「あなたがたの母親の離婚状は、どこにあるか?」
神は何を根拠に彼女を除外したのでしょうか?
彼女はなぜ離婚したのでしょうか?
すると答えが出てきます。
「なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。
わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか。
見よ。わたしは、しかって海を干上がらせ、多くの川を荒野とする。その魚は水がなくて臭くなり、渇きのために死に絶える。
わたしは天をやみでおおい、荒布をそのおおいとする。」
神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。
神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、
打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」
(イザヤ書50章2~6節)
なんと素晴らしい聖句ではないでしょうか!
思慮深いユダヤ人にこれをよく考えてられるように求めてみて下さい。
なぜならここで主はイスラエルを脇に置いた理由を語っておられるからです。
なぜ、わたしが来たとき、だれもいなかったのですか?
いつ、誰が来ましたか?
私たちは尋ねなければなりません。
ラビは主がイスラエルを訪れたとき、次のように言われたことを認めなければなりません。
ラビは、主がイスラエルを訪れた時に「わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか」と言われたことを、疑いなく認めなければなりません。
「わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。」
「見よ。わたしは、しかって海を干上がらせ、多くの川を荒野とする。その魚は水がなくて臭くなり、渇きのために死に絶える。
わたしは天をやみでおおい、荒布をそのおおいとする。」
彼は、紅海の水を干上がらせ、その後イスラエルが通れるようにヨルダン川の水を干上がらせた時のことを言っています。
創造の神です。
どのようにして地上の屈辱を受けたかを語り続けても、その人に変化はありません。
その者は、天を黒で覆い、海を干上がられると仰せになります。
創造の力を持つ者です。
ここに三位一体の現れています。
ここで「神である主は、私に弟子の舌を与え」と述べられています。
つまり、弟子であるわたしが、天を黒く覆う者として地上に降り立ち、弟子の立場に立ったのです。
いわば、正当な立場を放棄することを選んでいます。
その者は神性を捨てたわけではありません。
その者にはそれができなかったのです。
しかし、その者は自身の持つ全能の力で行動することを拒み、地上で神の御言葉を学び、聖霊に従うことを選んだのです。
イエスについてこのように述べられています。
「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」
(ルカの福音書2章52節)
その者はユダヤ人のリーザー聖書の解説の中でこのように示されています。
「主は、私に弟子としての力を与えてくださいました。
それは、私がみことばによって疲れた者を慰める方法を学ぶためです。」
救い主御自身の招きとは、どのような点で一致しているのでしょうか?
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイの福音書11章28節)
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
(ヘブル人への手紙4章15節)
イエスはこの地上に降りて来て、罪以外のあらゆる人間の経験を経験しました。
私たちの悲しみ、嘆き、完全な苦難を通り、疲れた人々を言葉で慰める方法を実際に学んだのです。
そして、イエスはどのような仕打ちを受けたのでしょうか?
「打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」
(イザヤ書50章6節)
ピラトの法廷にいたそのみすぼらしい男は兵士たちに引き渡されました。
兵士たちは彼の周りに集まり、下品な言葉で嘲笑し、彼を殴り、あらゆる種類の俗悪な行為やみだらな行為に彼をさらしました。
イエスは神が肉体となって現れた姿です。
このことは、この分離した国家が、その時代、なぜ、イスラエルが脇に置かれているのかを物語っています。
来られた救い主を拒んだからです。
「見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。
あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。
このことはわたしの手によってあなたがたに起こり、あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる。」
(イザヤ書50章11節)
イスラエルほど国家的に苦しんだ国はありません。
これほど、大きな悲しみを経験した国はありません。
かつて、キリストを拒んだ私たちも、神の恵みによって目が開かれ、キリストを救い主として受け入れる者とされました。
目がまだ見えないイスラエルに対し、私たちの心は切なる愛と同情の念を抱くべきなのです。
私たちは、とても忘れやすいことですが、イスラエルのために祈る必要があります。
あるヘブル人のクリスチャンが、私たちの祈り会で、目の見えない同胞について話したことがあります。
彼は、彼の聞き手たちがイスラエルのためにどのように祈ったかについて話してくれました。
もし、彼がそのように語ってくれなれば、イスラエルのためへの請願が行われることがなく、ただ、繰り返して祈り会が行われていたかもしれません。
祈りは他のすべてのもののために、そして他のすべてのもののために高まったが、特別な注意が喚起されない限り、誰もイスラエルのために要求を口にしなかった。
そのように、他のすべての者、すべての人々のために祈りが捧げられました。
特別な配慮が求められない限り、イスラエルのために願いを口にする人は誰もいませんでした。
しかし、神はこのように言われています。
「エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。
おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」
(詩篇122編6、7節)
ああ、イスラエルは自分で自分の火を燃やしたのです!
イスラエルはラビの教えの光の中を歩もうとしました。
しかし、イスラエルは悲しみの上に悲しみが重なり、自分たちが突き刺した主を仰ぎ見て、ひとり息子を失った悲しみのように、また長子を失った苦々しい思いを抱く者のように主のために嘆く日が来るのです。
その日が来るまで、決してイスラエルは解放されることはありません。
正確な意味においては、完全に解放されることはありません。
51章 目覚めへの呼びかけ
51章では、神はイスラエルの不従順とそれによる彼らの苦しみを強調しています。
また、メシアが認められて完全な祝福が与えられる日が来ることをも強調しています。
「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。
あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。
まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。
そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。」
(イザヤ書51章1~3節)
神は約束したすべてを成就させます。
神は「あなたがたの父アブラハムを考えてみよ」と言われています。
神はアブラハムにこのように言われました。
「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」
(創世記22章18節)
この祝福をイスラエルは成就していません。
しかし、約束は依然として有効です。
イスラエル自身がアブラハムの子を通じて完全な祝福に入り、彼らが来たるべき日に祭司の国民となるのです。
全地に祝福を与える者とされ、すべての異邦人の国民を祝福するために神に用いられる日が来るのです。
かつて、イスラエルを迫害した国々は苦しまなければなりません。
しかし、神が敵、つまり神の御言葉に反対して現行犯として捕らえられた人々を滅ぼした後、これらの罪を犯したことのない国々は主を救い主として見いだすのです。
そして、彼らは千年王国の日に祝福に入ります。
この章の残りの部分と 52章の前半には、目を覚ますようにという呼びかけが3回あります。
最初は主の腕に呼びかける「さめよ。さめよ」です。
そして、今、苦しみと悲しみに暮れるエルサレムに向けられた呼びかけがあり、立ち上がるよう呼びかけられています。
そして、主がシオンとエルサレムを祝福へと導く次の日には、シオンとエルサレムへの呼びかけがなされています。
「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか。」
(イザヤ書51章9節)
「さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。」
(イザヤ書51章17節)
9節のラハブを切り刻んだ竜はエジプトを指しており、ここではその土地を指す言葉として使われています。
52章 すべての人に述べられる良き知らせ
そして次の章でもう一つの呼びかけが続きます。
「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。
聖なる都エルサレム。無割礼の汚れた者が、もう、あなたの中にはいって来ることはない。
ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム。あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ。
まことに主はこう仰せられる。「あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される。」
(イザヤ書52章1~3節)
「さめよ」というこの3つの連続した呼びかけは、非常に明瞭、かつ明確です。
まず最初の呼びかけは、悲しみと苦難の中にある人々に対する呼びかけです。
「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。」
(イザヤ書51章9節)
かつて、主の御腕が自分たちのためにどのように現れたかを思い出し、彼らは心の底から叫んでいます。
神よ、来て私たちを受け入れてください!
主の御腕よ、さめよ。
53章でわかるように、主の御腕は人格的なものです。
つまり、それは主イエス・キリスト御自身です。
ですから、人々には分からないかもしれませんが、実際に話しかけられているのはイエスなのです。
「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。」
イスラエルはイエスに彼らの救いのために立ち上がるよう呼びかけいます。
そして、神に感謝すべきことに、イエスはしかるべき時に立ち上がってくださいます。
これは最初に起こることの一つです。
イスラエルの残された者たちは、過去の失敗と罪を認めて、主のもとに立ち返ります。
ここでは次の言葉が適応されます。
「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。
そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」
(イザヤ書55章6、7節)
「さめよ。さめよ。主の御腕よ。」という叫びに応えて、神は現在の砕かれた状態のイスラエルに語りかけ、このように言われています。
「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。
聖なる都エルサレム。無割礼の汚れた者が、もう、あなたの中にはいって来ることはない。
ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム。
あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ。」
(イザヤ書52章1、2節)
そして実現されるなら、救いがもたらされます。
主は続けて、主が定められた時に彼らをシオンに連れ戻し、主に贖われた者たちは永遠の喜びを頭に載せて帰って来ることを示しています。
この時、悔い改めの働きがようやく人々のたましいにもたらされます。
イスラエルが神に立ち返り、祝福の日が来た時に、ここで神は回復した人々に語りかけておられます。
主は「さめよ。さめよ。シオン」と語り、異邦人の土地から出て来て、自分たちの土地に再び戻るのです。
神は、神との幸せな和解と、神が備えてくださった救い主に喜んで従うために、喜びをもって歌うようにとイスラエルに呼びかけています。
「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。
平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。」
(イザヤ書52章7節)
終わりの日に残された者たちは山々を越えて世界に出て行き、平和の福音、神の国の福音を宣べ伝えます。
その福音は私たちが今日宣べ伝えている福音と異なるものではありません。
福音は一つだけです。
使徒パウロはこのように言っています。
「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。
もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」
(ガラテヤへの手紙1章8、 9節)
福音はただ一つ、神の御子についての神の福音だけです。
しかし、その福音は、神の摂理に従って、異なる時期に異なる様相を呈します。
バプテスマのヨハネは神の御国の福音を宣べ伝えました。
その福音は罪人たちに救われる方法を教えなかったということではありません。
バプテスマのヨハネはこのように叫びました。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
(ヨハネの福音書1章29節)
しかし、イエスは「イスラエルが王を迎え入れ、王国に入る責任があること」を強調して、メッセージしていました。
主イエスが宣教を始められたとき、主は町から町へと行って神の国の福音を宣べ伝えました。
そして、この福音を宣べ伝えるために弟子たちを全イスラエルに遣わされました。
しかし、神の国が拒まれたとき、新しい福音が入って来ました。
今、私たちは神の恵みにある栄光ある福音を宣べ伝えています。
その福音についての知識の光は、イエス·キリストの御前に輝いています。
それは、恵みとまことがイエスによってもたらされたからです。
「「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」
(コリントの人への手紙第二4章6節)
しかし、それは私たちが、その王とその王国について沈黙しなければならないという意味なのでしょうか?
復活後、地上に現れた40日間に、弟子たちに「神の御国について」話されたと記されています。
「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」
(使徒の働き1章3節)
そして、それから何年も経って、パウロは自分の借りた家に2年間住み、神の御国を宣べ伝え続けています。
「そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。
神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。」
(使徒の働き28章23節)
「大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」
(使徒の働き28章31節)
この時代が終わり、教会が召し上げられます。
神がダニエル書12章3、10節にある思慮深い人々と呼ばれる、マスキリムと呼ばれる小さな一団を呼び出されます。
「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」
(ダニエル書12章3節)
「 多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。
悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。」
(ダニエル書12章10節)
彼らは美しい足を持つ者となります。
平和の君が戻って来る時が近づき、全世界に彼らを通して祝福という喜ばしい知らせを宣べ伝えて出かけて行きます。
イザヤが旧約聖書全体の中で最も完全な形で救い主の預言を述べています。
まさに、私たちが至聖所に到達する直前に、これらの言葉がイザヤ書で語られていることは適切なことなのです。
53章 苦しむ救い主
霊感を受けた著者は、苦しんでいる救い主の生々しい肖像画を私たちに与えています。
罪の問題が永遠に解決され、限りなく聖なる方である神が完全に満足するようになるために、救い主が成就された栄光に満ちた働きについて私たちに語っています。
この偉大なメシア預言は新約聖書の中で何度も述べられています。
マタイの福音書8章17節、使徒の働き8章 32~35節、ペテロの手紙第一2章21~25節のように、それぞれの例で私たちの主イエス・キリストに直接適応されています。
ここでキリストは、罪深い人間の罪のない身代わりとして示されています。
私たちの罪はキリストに負わされ、それによって、キリストを信じる私たちに神の義が与えられます。
彼の謙遜な生涯、彼自身の民からの拒絶、彼が自分で十字架の苦しみに服従したこと、彼の贖いのささげ物、栄光ある復活、そして多くの罪人たちの救いにおける福音の勝利、これらすべてがここで明確かつ簡潔に預言されています。
主イエスがこの世に来られるずっと前から、主イエスの性格と働きを、これほど驚くべき描写をもって、私たちに与えることができたのは、神以外にはありえません。
イザヤは、イエスがベツレヘムで生まれる約700年前にイエスについて書かれたすべてのことを成就するためにこの預言を記したのです。
神は御子が耐えるべきすべてのことをあらかじめ知っています。
神はこのメッセージをイザヤに与えて、未来の出来事の起きる世代に伝えさせました。
52章13節の驚くべき聖句はこのように始まっています。
「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」
(イザヤ書52章13節)
ここで説明されている方は、53章で引き続き語られている方と同じ方です。
ここに聖句の空白部分にヘブル語の詩が埋め込まれています。
そして、それぞれ3つの節に区分されています。
主が耐えられた恥辱に匹敵する栄光をもった、主のしもべとして紹介されています。
「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。――
そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。
彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。」
(イザヤ書52章13~15節)
そして、53章では、神のしもべである、苦しむ救い主が紹介されます。
「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。
彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」
(イザヤ書53章1~3節)
「私たちの聞いたことを、だれが信じたか?」という質問に対して、使徒パウロはローマ人への手紙10章16節で、イスラエルの不信仰の証拠として私たちの注意を喚起しています。
「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。
「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。」
(ローマ人への手紙10章16節)
イスラエルは何世紀にもわたって救い主の到来を待ち望んでいた民です。
しかし、救い主が来られたとき、彼らは救い主を拒むことで自分たちの聖書の教えを成就しました。
イスラエルは、現在の大勢の人類と同様に、イエスの中に彼らの救いのために差し伸べられた「主の御腕」を見ることができません。
クリスチャンはよく、自分たちが改心していなかったころには主は乾いた地から出てきた根のような存在であったが、今では主はまったく愛すべき存在だと言われます。
容姿や美しさに欠けるという意味ではなく、主イエス・キリストが神の前に新芽、根として成長したという意味です。
この人こそ「枝」と呼ばれる人であり、形式主義的なイスラエルの乾いた地から出た根です。
それは、主が見て認めた唯一の愛らしい植物であり、主は天を開いてこのように言うことができました。
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
(マタイの福音書3章17節)
神にとって、祝福された主とは、イスラエルと人類全体の乾いた土地から生える、柔らかい植物、名声と美しさを持つ植物でした。
神にとってイエスは言葉では言い表せないほど尊い存在でした。
しかし、信じない人々にとってはイエスには姿形もなく、美しさもなく、何の美しさもありません。
つまり、イ常にエスが示してきた道徳的な愛らしさを人間は認識することができなかったのです。
クリスチャンの教師の中には「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」という表現を誤解し、人としての主イエス・キリストの容姿は明らかに不快であり、誰も彼を見たいと思うことはないだろうと信じている人がいます。
しかし、それは他の聖書の教えとは一致していません。
詩篇45篇2節には私たちの祝福された主についてこのようにあります。
「あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。」
(詩篇45篇2節)
主イエス・キリストはこの世に生まれた唯一の罪のない子供であり、完全な人間のからだと汚れのない美しさを持ってこの世に来られたと信じる十分な理由があります。
イエスは青年として成長し、後に円熟するにつれて、美しく立派な容貌を呈するようになりました。
しかし、イエスの教えを聞いても自分の罪を愛し、イエスに怒った人々は、イエスに憧れるような美しさを全く見出すことができなかったのです。
これは肉体的な特徴の問題ではありません。
イエスが受けた苦しみのせいで、イエスの顔はどんな人よりも傷つき、イエスの姿は人の子供たちよりも傷ついたのです。
この地上の人として、第二の人として、最後のアダムとして、彼はその人間としての姿、顔、特徴ともに完全に完璧でした。
しかし、イエスの教えは人々が愛する生活の妨げとなったため、軽蔑と侮蔑の目でイエスを見ました。
ここでは「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」と書かれています。
そこで預言者はこのように言います。
「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」
(イザヤ書53章3節)
これらすべては、私たちの主が地上で宣教活動を行っていた時代に成就しました。
彼が軽蔑され拒まれたということは示されていません。
イエスについて私たちが聞けるわずかなことは次の通りです。
「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」
(ルカの福音書2章52節)
宣教活動が始まる前、イエスはどこへ行っても受け入れられたはずです。
ナザレの会堂で朗読者であったことは明らかです。
なぜなら、イエスはそこへ行き、公にこのイザヤ書を読み始めたからです。
そのため、町の人たちの目に好意を持って見られていました。
やがて、イエスが偉大な使命のために出かけて行かれたました。
その時、人々はイエスに背を向け、軽蔑し、拒みました。
悲しみの人で、病を知っていました。
ゆえに人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかったのです。
しかし、彼は私たちに代わって苦しまれたのです。
拒絶され、軽蔑されながらも、イエスは自分に浴びせられたあらゆる恥辱に辛抱強く耐えました。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」
(イザヤ書53章4節)
人々は、イエスが受けた悲しみを、イエスの罪に対する神の裁き、イエス自身の性質ゆえに当然受けるべきものとみなしました。
あたかも、神がイエスに怒っているかのように見ていたのです。
しかし、イエスは罪が人類にもたらした私たちの悲しみと苦しみの中に入り込んだのです。
イエスは、その謙遜な生涯を通じて、罪がどんな悲惨さをもたらしたかを目にしてきました。
人々はイエスに悪魔が取りついていると言い、イエスをサマリア人と呼び、欺瞞者とみなしました。
そして、イエスが耐え忍んだ苦しみは当然のものであると考えたのです。
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
(イザヤ書53章5、6節)
このように私たちは十字架に導かれ、そこでイエスは私たちの罪が受けるべき裁きを身代わりとして受けてくださいました。
そして、その傷によって私たちは癒されるのです。
十字架の上でイエスは大いなる罪の供え物でした。
また、和解の供え物でもありました。
この十字架でイエスは「十字架の血によって平和を実現されたのです」
「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。
地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」
(コロサイ人への手紙1章20節)
確かにここには代償的な償いがあります。
時々、人は、聖書に「身代わり」という言葉は出てこないという理由でこれに反対します。
しかし、人が他の人の代わりを務めるとき、人が他の人にふさわしいものを受けるとき、それは身代わりです。
ここには「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」という明白で明確な言葉があります。
「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」のです。
わたしたちに平安をもたらした裁きが彼に降りかかりました。
その結果、「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」のです。
6節では、いわば、神は世界の帳簿のバランスについて述べています。
つまり、 2つの借方と1つの貸方です。
2つの借方とは「私たちはみな、羊のようにさまよい」ということと、堕落した全人類のこと、つまり私たちは「自分かってな道に向かって行った」ということです。
また、貸方とは、各個人の罪のことです、
もし、人々が受け入れるなら神の帳簿上でそのことをすべて清算されます。
つまり、「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」ということです。
ここでは聖書の物語全体が要約されています。
つまり、人間は性質と習慣のその両方において破滅していることとと、神の驚くべき十分な救済策です。
この聖句はこのことすべてにおいて始まり、すべてにおいて終了しています。
不安なたましいはこの聖句に導かれ、平安を見つけることができます。
後になって、その者はこのように言うことができます。
「最初に私は身をかがめて入りました。
そして、最後にまっすぐ立って出てきました。」
一つ目は、私たちの深い必要性を認識することです。
いかに、キリストの十字架において完全に成就されたかを示しています。
そこで行われた贖罪の業を通して救いを得た人々の中に数えられることは、何とも幸いなことなのです。
私にとって6節は聖書の中で最も素晴らしい聖句です。
60年間メッセージしようとしてきましたが、これが私がメッセージした最初の聖書箇所です。
その時、私はまだ14歳の少年で、ロサンゼルスの路上で救世軍と一緒にその聖句について5分間話すつもりで話し始めました。
しあし、30分後に隊長が身を乗り出してこのように言いました。
「おいおい、私たちは20分前にホールにいるべきだったな。続きはまた今度話してくれ。」
私は残りの部分を何年も伝えようとしてきましたが、それは決して書き終えることのない文章です。
次に主の模擬裁判が預言されます。
「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」
(イザヤ書53章7、8節)
ある場所から別の場所へと連れて行かれ、彼の訴えは聞かれたが、彼に代わって弁護する者は誰もいません。
これらのことはすべて律法に反していましたが、神はそのことを許しました。
彼は自分のことについては何も言いません。
ピラトは彼の沈黙に大いに驚きました。
ヘロデはイエスに口を開かせようとしたが、ほふられる小羊のように、また毛を刈る者の前に黙った雌羊のように引かれて行かれました。
しかし、イエスは口を開かなかったのです。
罪深い罪人たちを救う他の方法がありません。
そのため、イエスは一言も文句を言わず、自分を邪悪な人々の手に引き渡して十字架につけられました。
すると、「彼の時代の者で、だれが思ったことだろう」、もしくは「誰が彼のいのちについて宣言したのでしょうか?」という問題が生じます。
神は、御自分の命について宣言されるのを、注意深く見ておられました。
偽りの証拠により、イエスはローマ帝国の首長であるカエサルに対する反乱の罪で有罪となりました。
そして、重罪人として死刑を宣告されました。
しかし、神はイエスのいのちを明らかにし、その結果、イエスは裁判官の前で義、つまり、無罪であることが認められました。
ピラトの妻は彼にこのように言いました。
「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」
(マタイの福音書27章19節)
ピラトは自分で公然と水を取り、手を洗い、このように言いました。
「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
(マタイの福音書27章24節)
そして、十字架にかけられ、重罪人として死ぬために放置されていた時、彼の傍らにいた泥棒が仲間にこのように 言いました。
「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。
だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
(ルカの福音書23章40、41節)
神は、まさに十字架上で「この方は、悪いことは何もしなかったのだ」という宣言がなされました。
しかし、イエスには苦しむことを許されました。
なぜでしょうか?
それはイエスは偉大な罪の捧げ物だったからです。
「しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」
彼は牢獄から、そして裁判から連れ出されました。
彼の時代の者で、だれが思ったことだろう?
彼は生ける者の地から断ち切られました。
彼は生ける者の地から断ち切られた。わたしの民が背き、彼を襲ったからです。
イエスは、裁判の場から裁きの場へと急がされ、ついには十字架に釘付けにされ、そこで私たちの罪が受けるべき罰をすべてを受けました。
「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。
もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」
(イザヤ書53章9~11節)
彼らは「彼を悪人とともに墓に葬むりました。」
それが人間の意図でした。
彼らはイエスの尊い遺体を外に投げ捨てて、ハゲタカやジャッカルに食べさせたり、ヒンノムの谷にある町の残骸を焼く火で焼かせることができたはずです。
しかし、神はイエスの絶対的な聖さと霊の完全さの証しとして、イエスは「富む者とともに葬られ」ました。
ここに私たちの主イエスの生と死、模擬裁判と非難の物語の驚くべき要約があります!
十字架刑についての4つの記述を総合すると、十字架の働きの完全な意味が分かります。
イエスは、人間によって与えられた恥辱と肉体的苦痛に3時間もの間、耐えられたことが描写されています。
その間、イエスは霊的に動揺した様子を一切見せていません。
イエスは父と完全に交わり、他の人々に対して優しい思いやりを示しました。
しかし、自分の苦しみに対して自分を哀れんだり、同情の言葉はありません。
そして、最後の3時間、イエスは私たちの罪が受けるべき裁きを受けるという恐ろしい試練に耐えられました。
義の裁判官である神が、罪人たちの保証人として、内なる精神的な苦しみにイエスを見捨てなければならなかったのです。
これが、彼の孤独の叫びであり、より深い苦しみの鍵となります。
その時、イエスの肉体だけでなく、たましいも罪の償いの供物となったのです。
注目してください。
十字架にかけられたキリストを裁いたのは、主なる神ご自身なのです。
罪を償うものとなったのは、イエスの肉体的な苦しみだけではありません。
イエスの聖なる汚れのないたましいが偉大な罪の供え物となったのです。
ゆえに、イエスが心の底で耐え忍んだのです。
言い換えれば、不義を償うために人が神に対して行ったことではなく、神が神の御手に耐えたのです。
それは、インマヌエルの孤児のような叫びであり、詩篇22編の「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」につながっています。
私たちが神の恵みに受け入れられるために、彼は見捨てられたのです。
そして、復活の際には「彼は末長く、子孫を見ることができ」るのです。
そして「満足する」のです。
死からよみがえり、十字架上で成し遂げられた御業を通して救われたすべての人々から成る新しい創造物のかしらとされました。
このように、ここではイエスの死と復活の両方が描かれています。
「産みの苦しみ」という言葉は、苦しみの一種、つまり、出産の苦痛を指します。
イエスは、何百万もの人々が神の御言葉と霊的から生まれ、永遠の喜びと満足を得られるよう、心の中で苦悩されました。
福音は、イエスが十字架上で耐え忍んだことに基づいており、このメッセージは聞く耳を持つすべての人に届けられるのです。
「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。
彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」
(イザヤ書53章12節)
罪のいけにえとしてイエスのからだを捧げることで彼の生涯が終わるのではありません。
さらに、イエスは生涯を延ばすことになります。
そして、イエスは復活の命をもって墓から甦るのです。
ここに「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる」という約束があります。
明らかに、ここでの強い者は、サタンを人間の大きな敵として示しています。
主イエスはこのように言われました。
「確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。
そのあとでその家を略奪できるのです。」
(マルコの福音書3章27節)
イエスはその表現をサタン自身の典型的な表現として用いており、福音を宣べ伝えようとする人々にとって素晴らしい励ましとなっています。
「彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる」のです。
多くの人は、天国にいる人よりも地獄にいる人のほうがはるかに多いだろうと考えています。
しかし、神の御言葉はそのことを保証していません。
誰かがすぐに弟子たちの質問、「主よ。救われる者は少ないのですか」を思い出すと思います。
しかし、主はその質問に対して「はい、救われるのはわずかです」とは答えられていません。
イエスは「努力して狭い門からはいりなさい」と言われました。
言い換えれば、多くの人が手遅れになってから入ろうとするので、真剣に取り組む必要があるということです。
しかし、聖書の証言とは何でしょうか?
救われる人は少ないでしょうか?
天国にいる人は地獄にいる人よりはるかに多いのです。
(なぜなら、すべての幼い者たちが天国にいるからです。
責任を負わされる年齢に達する前に未熟なまま亡くなった何百万もの人々も、みんな天国にいるのです。)
イエスはこのように言われました。
「このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」
(マタイの福音書18章14節)
そして、霊的に欠陥があり、キリストを受け入れることも拒むこともできなかったすべての人々は、キリストの血によって覆われるでしょう。
そして、それに加えて、悔い改めて主に立ち返り、主を救い主として信頼するすべての人々も同様です。
そこでイエスは「強者たちを分捕り物としてわかちとる」のです。
が成し遂げたことに対する神自身の考えに従って、主イエスに報いを与えます。人々はイエスの栄光ある働きを軽く考えるかもしれませんが、神は決してそうしません。
御子イエスが成し遂げたことに対する神自身の考えに従って、神は主イエスに報いを与えます。
人々はイエスの栄光ある働きを軽く考えるかもしれませんが、神は決してそうではありません。
54章 残された者たちへの歌の呼びかけ
「「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。
喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。」と主は仰せられる。
「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。
あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。」
(イザヤ書54章1~3節)
十字架の暗闇、陰鬱、苦しみ、悲しみのすべてが過ぎた今、次の章の最初の言葉は「喜び歌え」です。
そうです。
イエスがしてくださったことすべてを歌うのです。
かつて、神の御霊は子孫を残さなかった民に喜びを呼びかけています。
ここでは終わりの日にイスラエルの残された者に向けられた言葉です。
「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。」
その日、イスラエルが主に立ち返り、神に用いられて大勢の異邦人を導きます。
神は長い間別居していた既婚の妻よりも、多くの子供を孤独な者たちが持つようになることを描いています。
神はその残された者たちを用いて、来たるべき日に大軍を御自分のもとに連れて来られます。
この時に両方で救われるすべての人が、イザヤ書53章で明確に語られている栄光ある働きを通して救われるのです。
それで、「喜び歌え」という呼びかけの後に、神の約束が続いています。
「恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。
あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。
あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。
主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか。」とあなたの神は仰せられる。
「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。
怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。」とあなたを贖う主は仰せられる。
「このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ。
わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う。
たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」とあなたをあわれむ主は仰せられる。」
(イザヤ書54章4~10節)
これはすばらしい約束です!
これはイスラエルに対する神の御言葉です。
私たちクリスチャンは泥棒です。
イスラエルに属する多くのものを盗み、そのことを自分たちのものにしようとします。
貴重ですが古いなバグスター聖書のイザヤ書の多くの章の冒頭には、「ユダヤ人への呪い」「ユダヤ人への罰」「ユダヤ人への裁き」と書いてあります。
約束について言えば、「教会の祝福」、「教会の喜び」として述べられています。
裁きについてのすべての箇所は明らかにユダヤ人に適用されています。
しかし、栄光に関するすべての箇所は教会に適用されました。
しかし、これらの見出しは、このようなことを神の御言葉として与えたとは告白していません。
霊感を受けていない人々によって書かれたものです。
ここでの約束はイスラエルの祝福について言及しており、神は彼らを御自身のもとへ連れ戻すでしょう。
神は永遠に怒り続けることはありません。
神は「「このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ」と言われています。
なぜなら、神は二度と地球が洪水によって破壊されることはないと約束されたからです。
確かに神はイスラエルの民に、彼らが完全に滅ぼされることはなく、いつの日か残された者が救われて大いなる国民となり、イスラエルは花を咲かせ、芽を出し、全地を善で満たすであろうと約束しておられます。
55章 偉大なる招待
「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。
さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。
なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。
わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。
耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。
わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。
見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。
見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。
これは、あなたの神、主のため、また、あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方のためである。」
(イザヤ書55章1~5節)
もし、イザヤ書53章に述べられている真理がなかったら、この恵み深い招待はあり得なかったのです。
イザヤ書のこの部分全体(49~57章)を通じて、神は選ばれたしもべである私たちの主イエス・キリストを、イスラエルと世の救い主として紹介しています。
キリストの最初の来臨の際の拒まれることは予知されており、はっきりと預言されていました。
そして、キリストの贖罪の働きによって、邪悪な罪人たちが神との和解とすべての罪の赦しを得る道を開くことになりました。
神はこの御働きによって、あらゆる場所のあらゆる人々に、神の救いに預かるための恵み深い招待を送ることができるのです。
イザヤは「福音の預言者」と呼ばれてきましたが、まさにそのように呼ばれるにふさわしい人物です。
旧約聖書の中で、この素晴らしい本ほど主の人格と働きが明確に、かつ完全に述べられている箇所は他にありません。
人間は霊的に完全に破産しており、義に欠け、神に対して何の権利も持たない者として描かれています。
しかし、主の罪のないしもべであるキリストは、その無限のささげ物を通して、信仰をもって主に近づく者すべてが主の前で義と認めることのできる、偉大な罪の捧げ物として描いています。
キリストの救いは義に基づいています。
十字架において、罪の問題は正しい方法で解決されました。
神は信仰をもって神のもとに来る者すべてを救うことができるのです。
生まれながらの人間にとって、神の恵みの豊かさを理解するのは困難です。
何かを売る商人として考えることは簡単です。
しかし、その真実は、神はその救いを、誰かに売ることができるほど罪人は豊かではないということす。
もし、神が救いに値段をつけるとしたら、私たちはみな貧しすぎてそれを買うことができません。
それぞれの時代において、救いはただ神の恵みだけでもたらされました。
聖書の時代、十字架以前のさまざまな時代に救われた人々はみんな、神の子が最終的にカルバリの丘で成し遂げた働きのおかげなのです。
光にはさまざまな明るさがあり、この世での神に対する責任について人々はさまざまな制約を受けていました。
しかし、動物のささげ物(ヘブル人への手紙10章4節)や「律法の行いによって」(ローマ人への手紙3章20節)救われる人は一人もいません。
イザヤは、神に油を注がれた者が死ぬはずであった贖罪の死を明確に述べました。
その後で、すべての貧しく悩むたましいに対し、信仰によって、このように描写された恵み深い備えを受け入れるよう呼びかけたのです。
渇いたたましいに対する彼のメッセージは、後に主イエスによって宣言されたものと同じものです。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」
(ヨハネの福音書7章37節)
新約聖書は同じの宣言で終わりを迎えています。
「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」
(ヨハネの黙示録22章17節)
イザヤはここで、すべての人に命の水を自由に与える神の恵みを強調するだけでなく、神の御言葉の活気と権威ある力も強調しています。
なぜなら、その言葉を信じることによって、人は神の命を受けるからです。
命の水なのです。
聖霊は、死んだ罪や過ちに命を与えます。
決して、この哀れな世が提供するものでは決して真の満足を見いだすことのできない渇いたたましいを元気づけ、満たすために、御言葉を生ける水として用います。
サマリアの女に対する主の言葉を思い出すかも知れません。
「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。
わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
(ヨハネの福音書4章14節)
ここでは「わたし」とされていますが、ここで述べられているのは主イエス御自身です。
救い主となるためにこの世に遣わされた神の証し人です。
イスラエルはイエスの到来を期待して待つように教えられていました。
しかし、イエスが救いの恵みをもって来られたとき、彼らはイエスの要求を拒否し、拒みました。
主イエス・キリストの御名の中にダビデの子を認めることができなかったときに、異邦人が召されることをはっきりと預言しています。
それから、恵みは、これまで約束の契約を知らない民族にも及んだのです。
「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。
そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」
(イザヤ書55章6、7節)
「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」
人には主に頼り、主を自分たちの救い主として見出す責任があります。
隠れていて、探し出さなければならないということではありません。
神に立ち返り、神の声に耳を傾けるという目的を真剣に果たすように呼びかけているのです。
神は、あまりにも繰り返して拒絶されると、神に対して心を閉ざす人々の心と良心をもはや働かせることができなくなるかもしれません。
ゆえに、哀れみ深くなるのを待っておられるのです。
「悪者はおのれの道を捨て」と言われているように、真実な悔い改めと完全な無力さの認識をもって神に立ち返り、このように生まれつきの心の思いを拒み、主に立ち返るのです。
その者には、神が「豊かに赦して」ために待っておられることが確信できます。
なぜなら、神は、信頼し悔い改める者を恵みのうちに迎えることを喜ばれているからです。
そして、罪を告白して神に立ち返り、神の愛を信頼する人々を神が喜んで受け入れてくださることが示されるのです。
「「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。
必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。
まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。
山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。
いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。
これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」」
(イザヤ書55章8~13節)
イザヤがこの宣言を述べたとき、彼自身のたましいは激しく感動したはずです。
そして、神の御言葉は、神が御言葉を送った目的を成就すると宣言しておられることを覚えておく必要があります。
これは、キリストのすべてのしもべにとって何と大きな励ましとなるのです。
鉄壁に向かって話しているように思って、少し落胆することがあるかも知れません。
しかし、神の御言葉は決して空しく神のもとに帰ることはありません。
ですから、預言の言葉は神の定められた時に完全に成就するのです。
56章 義への励まし
これに続く章は非常に現実的な側面を持っているため、私たちは時々、そのような部分をうっかり飛ばしてしまいます。
また、未来に起こる大きな出来事や、神が過去にその民と取り引きしたことを語る箇所に注意を集中する傾向があるかも知れません。
しかし、繰り返しますが、預言の使命の大きな目的は、単に人々を未来の出来事でいっぱいにすることではありません。
神の民が預言された将来の光の中で、現在を生き、将来の真理を良心に刻み込むことです。
それは旧約のイスラエルでも同じです。
そして、現在の教会時代においても私たちにも適応されます。
多くの人々は預言に対してかなりの知的な興味を持っており、そのようなメッセージを聞きに集まります。
神の御言葉の預言的な部分を伝えるキリストのしもべは誰でも、救われた説教者が預言的な言葉にもっと注意を払えば、正統派に迷い込む自称クリスチャンは少なくなることに気が付くはずです。
人々が他の組織へと出ていくのは、未来を知りたいという欲求があるからです。
それがセブンスデー・アドベンチスト教会のラジオ放送であることを知らない多くの人々に、この「預言の声」は訴えかけています。
未来を切り開こうとするとき人は興奮します。
次に、聞き手は聖書研究コースのいずれかを受講することが提案されます。
決して、彼らは「これはセブンスデー・アドベンチストの宣伝です」と放送でアナウンスしません。
彼らはこのことをを厳重に隠しており、生徒が聖書コースをかなり進めて初めて、それが本当は何なのかが分かるのです。
しかし、毎年、この国中で何千人もの人々が、預言に対する興味というだけの理由で、セブンスデー・アドベンチスト派に引き込まれてきました。
聖書から適切な教えを受けていたら、彼らは同じ危険に陥ることはなかったはずです。
「エホバの証人」も同じ原則に基づいて活動しています。
主の再臨に関する真実、特にその二つの側面があります。
いわゆる、ラッセル牧師やラザフォード判事の馬鹿げた教えから人々を守る必要があります。
それは主はすでに来られ、1874年から地上におられ、特別な霊性を持つ人々にのみ現われています。
そして、千年王国は1914年に始まったというものです。
驚くべき千年王国です。
しかし、聖書の明確な教えをよく教えられている人が、そのような思い違いに流されるようなことはありません。
その反面、聞き手がダニエル書やヨハネの黙示録に述べられているような未来の輝かしいイメージや預言に夢中になることがあります。
自分の生活に無頓着にならないように、すべてのメッセージに現実的な側面が組み込まれていることを理解することが重要です。
かつて私が主の再臨について講演を依頼されたとき、集会が始まる前に誰かが入ってくると、隣に座っていた講演者がこのように言いました。
私たちのコミュニティには不敬虔な人がいます。
誰かが預言について講演する時はいつも彼はかたわらにいます。
彼は未来についてあらゆることを知りたがっています。」
私がメッセージを終えると、この人が私のところにやって来ました。
「兄弟よ」と彼は言いました。
「あなたが再臨を信じておられることを嬉しく思います。
私もそう信じています。」
私は尋ねました。
「あなたはそう思いますか?」
それをあなたはしっかりと信じていますか?
あなたが再臨を信じるということと、そのことによって他の何かを信じるということは全く別のことです。
聖書はこのように言っています。
「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」
(ヨハネの手紙第一3章3節)
この聖句の言っていることは、あなたの心と人生に何か影響を与えていますか?
彼は言いました。
「誰が私についてあなたに話していたのですか?」
明らかに何かが間違っていました。
多くの人はダニエルの角やヨハネの黙示録の獣について、さまざまことを知りたがっています。
しかし、自分の良心を探られることを望んでいません。
しかし、私たちはイザヤ書のような書物の中で、適切な割合で預言の働きを目にすることができます。
何度も繰り返し未来の状況を語った後、自分が語っていた当時の人々の実際の状況について語っています。
56章でイザヤは非常に実践的な区分を始めています。
イザヤは、現在において神にふさわしい生き方をすることの大切さを指摘しています。
また、将来においては諸国民が正義を追い求めることを学ぶときに王国の祝福が彼らのものとなると述べています。
「主はこう仰せられる。「公正を守り、正義を行なえ。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現われるのも近いからだ。」
(イザヤ書56章1節)
まったく同じ原理です。
「公正を守り、正義を行なえ」というのは、これらの事がすぐに起こるからです。
言い換えれば、その時のことを考慮して、現在を生きるということです。
「幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行なう人、これを堅く保つ人の子は。
主に連なる外国人は言ってはならない。
「主はきっと、私をその民から切り離される。」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ。」と。
まことに主はこう仰せられる。
「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。」
(イザヤ書56章2~5節)
神に誠実に立ち返るならば、来たるべき祝福を逃すことはないことを教えています。
旧約聖書の時代には、主の奉仕にいかなる形においても関わることを禁じられた者たちがいました。
宦官は聖職に就くことはできません。
また、よそ者は聖職に就くことができません。
しかし将来、その人の身体的状態や国籍に関係なく、主を求め、神の御心を行うことを心から真剣に願うなら、その人は他の人と同じように神の国で同じ立場を得ることができます。
誰でも参加できます。
したがって、この章では現実的な正義の重要性を強調しています。
「また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。
彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」
(イザヤ書56章6、7節)
この聖句は主イエス・キリストが神殿から両替人たちを追い出した時の御言葉です。
「そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。
それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」」
(マルコの福音書11章17節)
このように、主は私たちにこの聖句を実際に適用するための鍵を与えてくださいます。
これはイスラエルに対する神の御言葉であるだけでありません。
異邦人に対しても、神の御顔を求め、アブラハムの契約を固く守るならば、彼らも祝福に預かることができると保証する言葉でもありました。
「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
(創世記22章18節)
ユダヤ教の律法が続く限り、大患難時代から千年王国に至るまで、安息日を守ることは主への忠誠と主の権威の承認の外的な表れだったのです。
今日、私たちはユダヤ教の安息日を認めていません。
なぜでしょうか?
キリストの十字架において私たちのために廃止された律法の一部だったからです。
主はこれを取り除いて、十字架に釘付けにされました。
ですから、御言葉はこのように言っています。
「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。
これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」
(コロサイ人への手紙2章16、17節)
旧約の神の光はキリストを照らし、キリストが来られる前に影を落としています。
そして安息日は、この影の一面、つまり六日間の労働期間の終わりの休息でした。
主イエスはこのように言われています。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイの福音書11章28節)
まさに安息日の成就がこの御言葉なのです。
ユダヤ教の安息日の代わりに、私たちは今、主の日を定めています。
「主日」という用語を週の最初の日に適用することに反対する人もいます。
ヨハネの黙示録でヨハネが「私は、主の日に御霊に感じ」たと言っています。
彼らは「主日」と「主の日」は同じものだと主張しています。
そして、私たちは、この2つの表現、「主日」と「主の日」が同じ意味であることを当然のこととして受け入れるかも知れません。
もしそれが正確に翻訳されたなら、それはそうなるかも知れません。
しかし、ここでは「主」という用語は所有格ではなく、 「主」という言葉から形成された形容詞が使用されています。
それは主のような日です。
私たちが「クリスチャン」の聖霊、クリスチャンの教会、クリスチャンの持つ雰囲気について話すとき、「キリスト」という言葉から形容詞が形成されているのと同じです。
これは「主のような」と翻訳されるべきですが、これは他の日よりも優れた日を示しているだけで、その考えは伝わりません。
主日とは、すなわち私たちの前で祝福された主の死からの復活をもたらした日です。
初期のクリスチャンは、20世紀の私たちよりも、黙示録にある謎めいた表現の意味をよく知っていました。
古代から何世紀にもわたって、週の最初の日はクリスチャンによって主の日として認識されてきました。
ギリシャ人がこの日を主の日をキュアコス(kuriakos)と唯一の名前として呼んでいました。
ラテン語では主の日は「ドミニカルデー(Dominical Day)」と呼ばれていますが、どちらも同じ意味です。
そして、それは何世紀にもわたって知られてきました。
もし私たちがホワイトハウスにいて、その家具を見て、警備員が「あれは大統領所有の椅子です」というのと、「あれは大統領のための椅子です」と言うのなら、その言葉は同じ意味になります。
しかし、「大統領のような椅子」について言えば、それはまったく別の話です。
「主日」とは、キリスト教会が創立当初から、主イエス・キリストの復活を記念して自発的に守ってきた日です。
その自発性こそが、主の目に価値を与えるのです。
訳者注)逆にわかりにくくなったので説明を加えます。
黙示録にある主のような日というのはヨハネが主の霊感を感じた日と理解すべきです。
初代の教会たちは、主日を主が復活された日として記念しています。
それは主を覚えるために重要なものとするべきですが、黙示録がこの主日の根拠にはなりません。
黙示録にあるのは「主のような日」です。」
親しい友人があなたに誕生日プレゼントをくれた場合、そのプレゼントの特別な価値は、それが彼の親切な思いを示すことにあります。
「あなたからのプレゼントを期待しています」と書いていたら、その手紙はまったく価値を失ってしまいます。
そこで、セブンスデー・アドベンチストは私たちにこのように挑戦しています。
「週の最初の日を守るようにと命じている戒めを新約聖書の中に示してください。」
私たちは言います。「戒めはありません。
私たちは律法の下ではなく、恵みの下にあります。」
彼らは「なぜそれを行うのですか?」と尋ねます。
「週の初めの日に、死人の中からよみがえられた主イエスに対するわたしたちの心からの感謝のためです。」
週の最初の日は、使徒の働きとコリント人への第一の手紙の中で特別な立場が与えられています。
その特別な立場は、キリスト教会の始まりから現在まで注目されてきました。
旧約のイスラエルが安息日を認めることによって主への愛と主の名への尊敬を示したように、私たちも主の日を守ることによって同じことを表現します。
クリスチャンは主日の使い方について注意するべきです。
それを単なる普通の日として扱い、その主張に無関心であってはなりません。
主日が私たちから奪われたと仮定しましょう。
もし、この国がロシアのようになり、毎日が世俗的な日となったとしましょう。
私たちに与えられてきたような特別な特権がなくなったとしたらどうでしょう。
主日がなくなるのなら、私たちはどんなに寂しくなるのではないのでしょうか?
私たちは、主の日を不注意に扱ったことをどんなにひどく後悔するはずです。
私たちはこのことから霊的な教訓を得ます。
旧約イスラエルにとってはそれは完全に律法にかなうものだったのです。
肉に従って歩むのではなく、御霊に従って歩む私たちのうちには、律法の義が成就すると教えられています。
私たちはキリストのからだにおいて律法に対しては死んでいますが、聖霊の力によって歩むとき、律法の義にかなった要求はすべて私たちの中で満たされるのです。
57章 よそ者と追放者たちの集まり
57章は、主に忠実であろうと努めながら、死に至るまで他人の手によって苦しむ人々に対する特別な慰めで始まっています。
「義人が滅びても心に留める者はなく、誠実な人が取り去られても、心を向ける者もいない。
まことに、義人はわざわいから取り去られて、
平安にはいり、まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。」
(イザヤ書57章1、2節)
将来の祝福の約束が果たされる前に死んだ人たちは、その約束を失ったと考えてしまう危険が常にあります。
テサロニケの人々も、キリストの再臨の前に自分たちの何人かの仲間が亡くなるのではないかと心配していました。
「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。
あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」
(テサロニケへの手紙第一4章13節)
イエスは、主イエス・キリストが王国をお受けになるときに、死んだ人たちも他の人々と共に携挙に参加し、栄光にあずかることを示しました。
ですから、イスラエルには、約束は将来のことだと考える人々がいました。
次々と仲間が死んでいくにつれて、仲間の信じる者たちは、自分たちがその祝福にあずかれないのではないかと恐れていたのです。
時代が来て、多くの人が殺されたとき、彼らは多くのことを逃したと感じました。
また、彼らは王国のためにここにいるはずがないとと思ったかもしれません。
しかし、「義人はわざわいから取り去られている」のです。
そして、ここから連れ去られ、神は彼らのために備えておられることがあります。
誰もが神の前で自分の義を守り、祝福を受けるでしょう。
先に逝った人々を悲しむ必要はありません。
彼らは祝福された主の保護下にあり、主とともに故郷へ帰ったのです。
それから、再び主は敬虔さの重要性を強調しています。
「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。
「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。
へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」
(イザヤ書57章15節)
これは私たちの欽定訳聖書(KJV)の中で「永遠」という言葉が出てくる唯一の箇所です。
ヘブル語は他の多くの箇所でも見ることができますが、英語の翻訳者がこの言葉を使っているのはここだけです。
「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。」
つまり、その時代に住む方です。
詩篇90篇にはこのようにあります。
「山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。」
(詩篇90篇2節)
これは同じ言葉なので「とこしえからとこしえまであなたは神です」と簡単に読むこともできます。
しかし、ここでは「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる」という言葉がはっきりとかたられています。
神はすべての時代に存在します。
なぜなら、永遠とは時代の連続だからです。
説教者は永遠を描き出そうとして、時々それを不変の期間として語ります。
ある意味ではそれは真実です。
彼らはヨハネの黙示録10章6節の「もはや時が延ばされることはない」という表現を使用し、これを人類が地上で過ごす時代全体を含むものとして考えます。
そして、ついに人がこの世を去ります。
もしくは、時代が終わると、彼らは突然、もはや時代が存在しない時間へと旅立つのです。
しかし、それは真実ではありません。
この世界が存在する前の過去の時代、そしてそれ以降も長い時代がありました。
しかし、神の永遠の日、神の大いなる日を通して、長い時代から長い時代へと続くのです。
私たちの素晴らしい神の知恵、恵み、愛、力に関連して、さらに素晴らしいことが現れます。
そして、神はすべての時代に存在しています。
永遠の神である存在ですが、謙虚で悔いる心を持ち、神の御言葉に震える人の心に住まわれます。
だからこそ、預言的真理は良心に刻まれるべきです。
良心は人々をしばしば震え上がらせ、神の前で人々を訓練させてゆきます。
主が教会のために来られるという真理は、すべてのクリスチャンの心を奮い立たせ、次のような問いを抱かせるはずです。
「私は、いつでも主イエスが来られることを喜び、喜んで受け入れるような生き方をしているだろうか?」
私たちの多くは、突然、主が来られたら恥ずかしいと思うような計画を立てたり、付き合いをしたりします。
何年も前、第一次世界大戦の前に、ドイツの有名な預言教師であるシュトローター教授は、国中を回って、講演を行い、図表を使って神の摂理を説いていました。
彼の講義はドイツ皇帝ヴィルヘルム皇帝の注目を集めました。
ヴィルヘルム皇帝は、多くの奇妙な癖があったにもかかわらず、熱心な聖書研究者であり、宮殿の礼拝堂で何度もメッセージをしていました。
皇帝は、自分が講義している内容を説明するために、ストローター教授を宮殿に招きました。
教授は図書館に連れて行かれ、テーブルの上に彼の図表を広げました。
皇帝は、主の再臨までの時代におけるさまざまな事柄を教授の指摘通りに従いました。
長い会話の後、皇帝はこのように言いました。
「あなたの言っていることを正しく理解していますか?」
つまり、イエス・キリストは文字通り戻って来られるということ、そして彼が戻った時に世界のすべての王国は滅ぼされ、その廃墟の上に彼の王国を建てるということでしょうか?」
するとストローター教授は「その通りです、陛下」と答えました。
皇帝は「ああ、だめだ、それはよくない!
主の来臨がすべての私の計画に干渉している!」と言いました。
皇帝の計画は妨害されています。
率直に言えば「主のすべての来臨は私のすべての計画を妨げる」と言う人はたくさんいます。
しかし、私たちがあるべき姿で神とともに歩んでいるなら、私たちが悔い改めた心を持ち、御言葉に震えているなら、私たちは祝福された主の再来を歓迎できるたましいの姿勢を持つことができます。
ですから、イザヤはこの時代の人々に、この来臨を待望し、準備する霊的な重要性を印象づけています。
この57章は「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる」という言葉で終わります。
前の区分40〜48章では、神とイスラエルの間で偶像崇拝について論争が起こりました。
その区分は「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる」という言葉で終わります。
そして、49〜57章では、メシアに関して神とイスラエルが論争した様子が描かれています。
そして、その箇所は「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる」という言葉で終わっています。
58章 神に喜ばれる断食と安息日
この章はイザヤ書の最後の区分の始まりです。
58~66章では、主に、来るべき栄光の幻が語られています。
預言者が主の来臨の際に起こる素晴らしい出来事を私たちの前に示しています。
しかし、神は依然として現実的な事柄を扱っておられます。
国民に、神の声に耳を傾け、神と和解し、裁きを避け、祝福を確実に受けられるように呼びかけます。
「せいいっぱい大声で叫べ。角笛のように、声をあげよ。わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ。
しかし、彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。
義を行ない、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。
「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。
私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」見よ。
あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。」
(イザヤ書58章1~3節)
58章は「せいいっぱい大声で叫べ」という言葉で始まります。
「わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ」と語られ、それから預言者はイスラエルの罪を強調し続けます。
イザヤが強調する大きな罪とは、心が神から遠く離れているときに、儀式や儀礼の単なる形式的な遵守に頼ることです。
イザヤは特に断食の問題を取り上げています。
ユダヤ人は数多くの断食を厳格に守っており、レビ記23章には主の定められた時と関連して定められた断食が明確に記されていました。
しかし、これに加えて、彼らは他のものも導入し、他の断食も加えました。
特定の日に飲食を断つことを誇り、これが神を喜ばせるものであると当然考えていました。
その反面、神は、他の事柄から心を離し、聖霊について注意を向けることができるようにするために、まったく異なる動機で断食した人々を称賛しています。
形式的な断食には賞賛はなく、むしろ非難されるだけです。
「見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ちつけるためだ。
あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない。」
(イザヤ書58章4節)
彼らは断食を利用して他の犯罪を隠蔽しました。
現在、ある人々は「愛は多くの罪をおおうからです」(ペテロの手紙第一4章8節)という聖句を誤用しています。
「その通りだ!慈善事業にいくらか寄付すれば、他のものも補えるからね」と彼らは言います。
それは主が意図したことではありません。
イスラエルは他の罪を隠すために断食し、断食を厳格に守ることで、実際には争いや議論を鎮めているのだと考えています。
「わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。
葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。
これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。
わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。
飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか」
(イザヤ書58章5~7節)
神は断食を通して、彼らに自己判断の重要性を認識するよう呼びかけました。
断食は、神の前に出て、神が自分たちに対してどのように接してくださったか、また自分自身の失敗や罪について黙想し、それらを告白し、それから困っている人々に対して神の哀れみを実際に実行する機会を彼らに与えました。
言い換えれば、神の御心は、単に少しの食物を我慢するということではありません。
常に自己否定の生活を送り、神から与えられたものを他の人々と分け合い、貧しい人々や困っている人々と分かち合うということなのです。
主イエスも同じことを語っています。
イエスはこのように言っています。
「断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。
彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。
まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。
そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」
(マタイの福音書6章16~18節)
人々は彼らを見て「あの人は敬虔な人だ。昨日の午後3時から何も食べていない」と言うものです。
しかし主はこのように言われます。
「断食をする時は、それをあなたと神との間のこととし、人々の中では喜びと幸福と明るい表情を保ちなさい。」
主イエスの言われることは実際にイザヤと完全に一致しておられます。
両者を通して同じ御霊が語られたのです。
そして主は、イザヤとマタイの両方を通して、もし、現実であれば報いを与えると約束しています。
「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。
あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。
そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。
もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、
飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。
主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。
あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。
あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、
「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者。」と呼ばれよう。」
(イザヤ書58章9~12節)
これは素晴らしいご褒美です!
それから安息日についての話題が続いています。
クリスチャンにとって、週の最初の日が自発的に、ユダヤ人にとっての契約のしるしである安息日に代わったことを私たちは見てきました。
しかし、彼らの定められた日に与えられる祝福は、私たちにも豊かに与えられます。
「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、
そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。
「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。」と主の御口が語られたからである。」
(イザヤ書58章13、14節)
人間は神にとって、たとえ神が自分で考案した形式や儀式よりも大切な存在であることを理解することがとても重要です。
「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」
(マルコの福音書2章27節)
「安息日の主」である神は、私たちができる範囲で、主の聖日を用いて苦難にある人々を祝福し助け、苦しんでいる人々を救うことを喜ばれています。
週の最初の日を主に対して聖なる日として守るということは、休息、礼拝、そして他者への働きのためにこのようなことに使われることを意味します。
休息のことだけを考え、この日を快楽の追求に費やすことは、この日を誤用し、神が私たちのためにその特権を保存しておかれた目的を達成できないことを意味します。
「週中は仕事の重荷でとても疲れてしまうので、日曜日には休息と運動をしなければなりません。
それで私は主日の午後を利用して病院を訪問し、友人のいない人々を慰め、助けようと努めています。」と、あるクリスチャンは言いました。
月曜日に元気を取り戻し、次の6日間の労働に備えて職場に戻ります。
私たちは、自分たちの特権を大切にし、一方でそのことを軽視したり、他方で聖書に根拠のない律法を制定して、そのようなことを制限したりしてはいけません。
59章 毒蛇の卵とクモの巣
この章では、神が人々に悔い改めを呼びかけ、その後、メシアの支配下で起こるであろう素晴らしい祝福の約束を与え、厳粛な言葉があります。
「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。
実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。」
(イザヤ書59章1~3節)
パウロは、彼らが主を求めたのに主が答えたり、聞いてくださらなかったのはなぜか、その理由を説明しています。
それは、対処する必要のある、裁かれていない罪があったからです。
かつて、詩篇作者はこのように書いています。
「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」
(詩篇66編18節)
彼らは罪を隠し、外見上の形式を守り、儀式に参加することで神を喜ばせようとしていました。
しかし、神は彼らについて「彼らはコカトリス(または、まぬし)の卵をかえし、蜘蛛の巣を織る」と言っています。
「正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。
彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇がとび出す。
そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。
彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。
彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。
彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。
彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。
彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。」
(イザヤ書59章4~8節)
この箇所はローマ人への手紙3章で取り上げられています。
「彼らの足は血を流すのに速く、」
(ローマ人への手紙3章15節)
ここには主のものであると告白する人々が描かれています。
彼らは、神殿の礼拝に参加し、ささげ物を捧げ、人々の前で断食するなど、外面的なすべての宗教行為を続け、それによって神に満足していただける義を示すことを望んでいます。
しかし、神は、それは毒蛇の卵をかえすようなものだ、メッセージや教えはまやかしであり、有毒である、と述べています。
「その卵を食べた者は死にます。」
人々がこのまやかしの教えを受け入れたとき、それは彼らに永遠の破滅をもたらしました。
彼らは蜘蛛の巣を織っています。
しかし神はこのように言われます。
「そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。」
蜘蛛の巣は単なる糸であり、蜘蛛から生じています。
とても綺麗です。
多くの説教者は、これらの蜘蛛のように、自分自身の頭の中で巣を紡ぎます。
神の御言葉から、彼らはそのことを導き出しているのではありません。
自分の義を身にまとおうとする人は、蜘蛛の巣で衣服を作るような人のことです。
たが、それは不可能であることがわかります。
蜘蛛の巣と絹のまゆは、どちらも生き物から生まれています。
一つは蜘蛛から、もう一つは蚕から生まれるのは対照的です。
繭は、王や君主たちの最も美しく長持ちする衣服を作る材料を提供しますが、その反面、、繭はすぐに消えてしまう小さな糸です。
数年前、南カリフォルニアの大都市ロサンゼルスに、いわゆる「人間ハエと言われる、ヒューマン・フライ」がやって来ました。
ある日、彼が大きなデパートの建物の壁を登ると発表され、約束の時間よりずっと前に何千人もの熱心な観客が集まり、彼が不可能と思われる偉業を成し遂げるのを見守りました。
彼はゆっくりと慎重に高く登り、窓枠につかまりました。
次に突き出たレンガにつかまり、建物の装飾品につかまりました。
彼は明らかに克服できない困難に立ち向かいながら、どんどん高く登っていきました。
ついに、彼は頂上に近づきました。
彼は、自分の体重を支え、さらに前進させてくれるしっかりした物を、右や左、頭の上まで探しているようでした。
そして、彼は滑らかな壁から突き出ている灰色の石片か、もしくは変色したレンガのようなものを見つけたようでした。
彼はそれに手を伸ばした。
しかし、それは彼の手の届かないところにありました。
彼はバネのような動きで思い切って突起物を掴みました。
しかし、観客の恐怖の目の前で地面に倒れて粉々に砕け散りました。
彼の死んだ手の中に蜘蛛の巣が見つかりました!
彼が明らかに固い石かレンガだと勘違いしていたものは、ただの乾いた泡だったことが判明しました。
悲しいかな、多くの人が自分の力で天に登ろうと考えています。
結局、彼らはすべて蜘蛛の巣の上を冒険し、永遠に失われてしまうのです。
キリストだけが救うことができます。
キリストの福音は揺るぐことなく、平和をもたらします。
それは毒蛇の卵でも蜘蛛の巣でもありません。
「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」
(ローマ人への手紙1章16節)
神の恵みを信じるすべての人々のために、神自身が御子の死を通して備えられた「救いの衣」、「最高の衣」、「義の衣」です。
神は重苦しい霊に賛美の衣を与えています。
不信仰な者を神の存在に適合させる人間の努力は無駄なのです。
蜘蛛の巣はキリストを拒む罪人たちの道徳的な裸を覆うことはできません。
蜘蛛の巣は衣服にはなりません。
彼らは自分の行いで身を隠すこともできません。
蜘蛛の巣で編まれたドレスのことを聞いたことがある人はいますか?
蚕から作られた物とはまったく違います。
この驚くべき小さな生き物は非常に強い糸を紡ぎます。
蚕の糸は簡単にこの上なく美しい布に織り込まれ、栄光の衣服に仕立てられます。
蚕の糸を利用するためには、蚕は死ななければなりません。
自然の中の、屈辱の淵で「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです」と叫ぶことのできた神がいます。
そして、私たちが栄光をまとうことができるように命を捧げた神の姿を、ほんの少しだけ感じることができる、と言うのは言い過ぎだとは思いません。
全知なる神が私たちを救い出してくださるのです。
「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。
そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」
(イザヤ書59章16節)
「 「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」――主の御告げ。――
「これは、彼らと結ぶわたしの契約である。」と主は仰せられる。
「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。」と主は仰せられる。」
(イザヤ書59章20、21節)
そうです、「贖い主が来られる」のです。
罪深い人間、イスラエル、そして諸国民にとってのすべての希望は、神の右に座する人にあるのです。
ここで語られているのは主イエス・キリストです。
仲介者も、救出者もいなかったため、「ご自分の御腕で救いをもたらし」たのです。
人々は彼の到来を待ち望んでいます。
最初に恵みによって来られ、十字架上で罪の問題を解決されました。
彼は栄光をもたらすために再び来られます。
60章 残された者の中にある栄光の神
「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」
(イザヤ書60章1節)
その呼びかけの後、預言者は彼らにこの光の必要性を示し続けます。
そこは闇です。
「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。
国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」
(イザヤ書60章2、3節)
回復されたイスラエルは、全地に対する神の計画と祝福の最前線に立たされます。
王たちは彼らにひれ伏し、かつて彼らを迫害した国々も来て神が彼らと共にいることを認め、彼らとの交わりと親交を求めます。
これは文字通りに受け取るべきです。
神はその民イスラエルをこのように扱い、かつて、終わりの日に彼らを敵視し迫害した諸国民をこの祝福された調和の中に導くのです。
「外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える。実に、わたしは怒って、あなたを打ったが、恵みをもって、あなたをあわれんだ。」
(イザヤ書60章10節)
「あなたは捨てられ、憎まれ、通り過ぎる人もなかったが、わたしはあなたを永遠の誇り、代々の喜びの町に変える。」
(イザヤ書60章15節)
「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。
あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。
主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。」
(イザヤ書60章19、20節)
何世紀にもわたる苦難と喪の日々の後、イスラエルにとって、これは素晴らしい日となるのです。
これは私たちを千年王国の栄光から永遠の状態へと導きます。
神は神の民を決して諦めないからです
いつも、神の民は神の心の中に特別な場所を持っています。
同様に教会もまた、持っています。
神にはさまざまな集まりがあります。
すべての集まりは神の助けの中でそれぞれの場所を持っています。
同様にすべての集まりは、主イエス・キリストの尊い血によって同じように贖われています。
61章 油そそがれたしもべとその働き
61章には、主イエスがナザレの会堂に入ったときに、聴衆の注意を向けさせた箇所があります。
ヨルダン川でバプテスマを受け、荒野で誘惑を受けた後、イエスはユダヤを通ってガリラヤへ行き、ユダヤで御言葉を授け、育った町ナザレに入りました。
そこで、イエスは安息日の習慣に従って、会堂へ入られたと伝えられています。
それは非常に意義深いことです。
すでに述べたように、主イエス・キリストの初期の時代については、私たちにはほとんど情報が残されていません。
人々は、主が幼少期から、ヨハネからバプテスマを受け、その偉大な業に身を捧げた30歳までの間に何が起こったのかを想像しようとしてきました。
しかし、あらゆる種類の無駄な想像が膨らんでいきました。
数年前、あるロシア人が、チベットのラマ僧院で見つけた、イッサの旅の記録であるとされる記録の翻訳であるとする本を執筆しました。
イッサはイエスと同一視され、パレスチナからインドを経てチベットにやって来て、ラマ僧たちから奇跡を起こす奥義を学んだと考えられていました。
最終的に彼はパレスチナに戻って仕事を始めましたが、ユダヤ人の指導者たちから彼らの教えを覆そうとしていると疑われ、ついには十字架刑に処せられたとされています。
最初は、多くの人がこれをイエスの知識を増やす素晴らしい発見として歓迎しました。
しかし、最終的に著者はそれが偽造であり、自分で書いたものであることを認めました。
人々はイエスがその間に何をしていたかを想像しようとしました。
聖書には、町の住民の何人かがイエスの話を聞きに来たとき、「この人は大工の息子ではありませんか」と言ったと記されています。
彼らはイエスを大工として知っていました。
安息日の習慣どおりに会堂へ行かれたと述べています。
これは、主イエスが神から与えられた律法に従うだけでなく、ラビたちが行っている通常の規則にも従い、会堂の礼拝に出席し、明らかにそれに参加していたことを示しています。
彼らは、イエスが壇上に上がって聖書を読む権利を持つ方であると認めたのです。
ナザレの会堂で、預言者イザヤの書がイエスに手渡されました。
この本、預言書イザヤと呼ばれている本の最後の部分でした。
「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、」
(イザヤ書61章1、2節)
そして、イエスは本を閉じました。
彼は文章の途中まで読みましたが、その後、本を閉じました。
なぜイエスはイザヤの言葉を続けなかったのでしょうか?
それは、最初に来られたときに何をしに来たかを告げているからです。
イザヤ書のこの章では、イエスの最初の到来と二度目の到来が密接に結び付けられています。
「「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。
捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
主の恵みの年を告げ知らせるために。」
(ルカの福音書4章18、19節)
この箇所でイエスは止まりました。
あなたと私が生きるこの時代全体をその間に入れてくださったのです。
今年は依然として主が受け入れられる年です。
わたしたちは、イエスが本を閉じたその地点から一歩も進んでいません。
なぜ、そこで閉じたのでしょうか?
この文の残りの部分は、今の時代が終わった後の主の日へと私たちを導くからです。
今こそ受け入れられる時であり、今こそ救いの日です。
比喩的に言えば、イエスが再び来られるとき、イエスは再びその書を開いてこの箇所の残りの部分を示し、すべてが文字通り成就します。
「われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、
シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。
彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。」
(イザヤ書61章2、3節)
そこには最初の到来と第二の到来の素晴らしいつながりがあります。
主の恵みの年を宣べ伝えるために来ました。
そして、私たちの神の復讐の日を宣べ伝えるために再び来ます。
神が、神自身と神の民イスラエルの敵に反対する者を現行犯で滅ぼします。
その時、それは神の復讐の時となるのです。
その時が来れば、主は多くの苦しみを味わった人々に慰めと祝福を与えてくださいます。
主はすべての悲しむ人々を慰めてくださいます。
この栄光ある預言は、主の日の裁きが邪悪な者たちに下された後、文字通りイスラエル全体に対して成就します。
その間、キリストを信じる各個人の魂は、ここに列挙されている祝福を受けることができます。
キリストは、灰と重苦しい衣服が表す喪主の葬儀用の衣装の代わりに、賛美の結婚式の衣装を与えてくださいます。
この世で平和と満足をむなしく求め、その熱望が失敗した人々がいます。
彼らは、すべての聖徒の中で栄光を受け、彼らの永遠の祝福の中に喜びを見出すキリストの中に、喜びと満足で満ち溢れることを見出すことができるのです。
英語の「comfort」という単語は、ラテン語の「con(共にいる)」と「fortis(強い)」という2つの語源から来ています。
文字通りには「仲間との絆によって強くなる」という意味です。
暗い夜に長い道のりを歩かなければならない子供は、恐怖でいっぱいになるかも知れません。
しかし、父親が一緒に手を引いて歩いていれば、夜の暗闇の中を一緒に歩くのであれば、すべての恐怖は消え去ります。
ですから、神は、私たちが時間と感覚の変化する場面を通過する時、すべての人がさらされる試練と悲しみに直面するときに、神が私たちとともにおられるという祝福された現実を認識させることを望んでおられます。
これこそが、心を平安に保ち、恐れから霊的に解放するのです。
主を知る者には、主の愛が許すもの以外何も起こりません。
そして、私たちが主の聖なるみこころに従い、主自身に絶対的に依存しながらこれらのことを経験するならば、主はそのことを私たちの祝福のために用いてくださいます。
「灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせる」
これらの外見は葬儀と結婚式を示しています。
ユダヤ人は葬儀の際、頭に灰をかぶって悲しみ嘆き、結婚式では美しい花嫁の冠と賛美の衣裳を着ます。
イスラエルの何世紀にもわたる喪が終わり、イスラエルは主との結婚の喜びとそれに伴うあらゆる祝福を受けるのです。
私たちは今、ダニエル書の69週と70週の間、つまり主の恵みの年の始まりと私たちの神の復讐の日の間に生きています。
他の箇所にも同じ考えが書かれています。
例えば、使徒ペテロは、良い日々を望む人々、平和を求め、そのことを達成する人々について語っています。
なぜなら、主の顔は不義を行う者たちに向けられているからです。
神はそこで立ち止まります。
旧約聖書は続けてこのように述べています。
「主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。」
(詩篇34編16節)
その日はまだ来ていません。
依然として、神が悪と腐敗に反対している悪を行う者たちの記憶を地上から消し去る日はまだ来ていません。
私たちは、神の恵みの福音を宣べ伝え、最悪の罪人に救いを与えることができます。
最も邪悪な罪人、最も悪いことをした人々に、神は恵みを与えておられます。
私たちはキリストの最初の到来と二度目の到来の間のこの時代に生きています。
最初の到来はこれらの初期の預言の成就と関係しています。
二度目の到来はイスラエルの回復と全異邦人の世界の祝福と結びついた後の預言と関係があります。
「しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。
あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。」
(イザヤ書61章6節)
その時、イスラエルの国民は祭司の国民となり、地上の他のすべての国民を代表して神の御前に出向き、彼らに対する神の使者となるのです。
「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。
主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽生えさせるからだ。」
(イザヤ書61章10、11節)
これらのすばらしい約束は、神の地上の民にとっておおきな意味のあります。
そして、私たちはその約束に深く関心を抱いています。
私たちの祝福は天からのものです。
彼らの救いの大部分は地上的なものですが、彼らの救いは私たちの救いとまったく同じです。
その日、彼らは「主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせた」と歌うことができます。
それは現在の私たちにも適応できるのではないでしょうか!
かつては、自分の不義という汚れた布切れで身を隠そうとしていました。
このわたしたちも、今ではそれを捨て去り、「主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせた」と言えるようになりました。
神は、自分自身の義を持たない人々に義を与えました。
人間としての見せかけの義をすべて捨て去り、彼らに授けられる神の義を喜ぶのです。
預言者エレミヤはこの時代についてこのように言っています。
「その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』[エホバ・ツィドケヌ]と呼ばれよう。」
(エレミヤ書23章6節)
そして、この少し先の預言で、エルサレムとその復興について語ったこのように言っています。
「その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの町は、『主は私たちの正義』と名づけられる。」」
(エレミヤ書33章16節)
エルサレムは自分たちの義はなく、イスラエルの人々が主なる神御自身のうちに自分たちの義を見出す日が来ることを認めています。
今でもその教訓を学べるというのは、幸いなことなのです。
そのことを学んだことがない人が多くいます。
何年も前、ダラスに初めて黒人向けの学校が開校したのは決して簡単なことではありませんでした。
援助はなく、人々の関心を引こうと無駄な努力をするうちに、私はこれらの有色人種のために何かをする価値があるのか疑問に思い始めました。
3年目、私が講義のためにダラスにいたころ、ある夜、学校に行ってそこで講演をしました。
私は息子にこのように言いました。
「これを運営するには多額の費用がかかります。
君はそのために命を懸けていますが、本当に価値があるのかどうか分かりません。」
彼は私を不思議そうに見て「この人たちにどう思うか聞いてみたらどうでしょう?」と言いました。
それでその夜、話を始める前に、私はこのように言いました。
「皆さんがどう思うか知りたいのです。
これは価値のある投資でしょうか?
これで十分満足しますか?
何分間も音がしませんでした。
彼らはうつむいた顔でここに座っていて、誰も一言も発しません。
ついに一人の男が立ち上がりこのように言いました。
「私がこのことを正しく聞いていたか、迷っていたんです。」と言いました。
続けて彼は「私はこの学校を閉じることだと理解しました。
もし、この学校が閉鎖されたら、私たちダラスの貧しい有色人種にとって最後の光が消えてしまうような気がします。
そして、私たちはただ暗闇の中に取り残されることになります。
そして、いかに私が暗闇の中にいたことを語りましょう。
私は13年間教会の牧師をしていましたが、私は福音を知りませんでした。
罪人がどのように救われるのか知りませんでした。
私はメッセージをしていました。
人々が集まり、私は彼らにバプテスマを授け、彼らは教会に加わり、叫びながら進んで行きました。
たくさん「興奮」させてみんなを興奮させれば、それが聖霊の力になるのだと思いました。
私はこの学校のことを聞いていましたが、白人がそのことを運営していると聞いて、少し偏見を抱きました。
何か変なことがあるはずだと思いました。
しかし、ついに私はある夜、ここに来ました。」
彼は私の方を向いて続けました。「あなたの息子さんはその夜、ローマ人への手紙の最初の3章について話してくれました。
そして、13年間築き上げてきた信仰のすべてを奪い去ったのです。
裸になって神の前に立つまで、私はただぼんやりとここに座っていました。
私には自分の義がなかったのですが、私には義がたくさんあったと思っていました。
私はとてもうまくやっていると思っていました。
その夜、私は教室を出て家に帰り、このように言いました。
「これからどうしよう?
天に適応するために私がやろうとしたことはすべて無駄になってしまった。
何も残っていません。
2日後の次の講義が待ちきれません。
その夜、彼はローマ人への手紙3章の途中から話し始め、神は自分自身の義を持たない人々に対しても義を持っておられることを示し続けました。
ああ、それが私にとってどんなに意味したかは、言葉では言い表せません!
自分の義を用意する必要はなく、神が用意してくださっていて、主イエス・キリストを信じるだけで、私は彼の中で神の義にされるということを知りました。
その日から今日まで、私は神の義を説き続け、私の人たちはこの偉大な真理を理解するように学んできました。
私の知る限り、私たち有色人種にこのようなものを開放しているのはここだけです。」
多くの人々は自分自身の義を築き上げようとします。そして、哀れなイスラエルはそのことを行っています。
使徒パウロはこのように言っています。
「彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」
(ローマ人への手紙10章3節)
来たる日にすべてが変わります。
彼らの救い主を見、喜びをもって「主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ」と歌うことができるのです。
62章 残された者への宣言
「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。
その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。
そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。
あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。
あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。」
(イザヤ書62章1~3節)
これはなんと尊い聖句なのでしょう!
現在においても、これらの言葉は不信仰の暗闇の中をさまよう民を思い、エルサレムの平和を祈り、すべての人がこの知識に導かれる日を待ち望む、救われたすべてのヘブル人の心を自然に満たすことができます。
ですから、まさに患難時代の初めに、残された者がこのメッセージをすべての同胞に伝え、神への執り成しをするよう召集されます。
エルサレムが全世界で称賛される日が早まるよう神が待ち望んでいます。
この章は、主が恵みによってイスラエルを御自身のもとに回復し、彼らをアブラハムの契約のあらゆる祝福に導いたことについて語り続けています。
「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。
主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。
主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。
主は右の手と、力強い腕によって誓われた。「わたしは再びあなたの穀物を、あなたの敵に食物として与えない。
あなたの労して作った新しいぶどう酒を、外国人に決して飲ませない。
取り入れをした者がそれを食べて、主をほめたたえ、ぶどうを取り集めた者が、わたしの聖所の庭で、それを飲む。」
通れ、通れ、城門を。この民の道を整え、盛り上げ、土を盛り上げ、大路を造れ。石を取り除いて国々の民の上に旗を揚げよ。
見よ。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。
「シオンの娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。』と。
彼らは、聖なる民、主に贖われた者と呼ばれ、あなたは、尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる。」
(イザヤ書62章6~12節)
これらすべてが実現する日が来ます。
言葉は明快で、わかりやすいので、コメントはほとんど必要ありません。
63章 エドムの戦士征服者
ここに、イスラエルの救い主が敵の血で赤く染まった衣をまとい、敵が通常やってくる東からやって来るという素晴らしい描写があります。
当時、シリアがイスラエルを圧迫しており、アッシリヤはモアブとエドムの地を通ってイスラエルに攻め寄せようとしていました。
そこで、最後の日、患難時代の大試練の時を見つめて、イザヤは、イスラエルの敵を自分の前に追い払い、選ばれた民を救うためにイスラエルの敵に復讐する征服者として神を描いています。
神は助けてくれる人を探していました。
誰もいなかったので、イエス御自身が来られました。
イエスが自分で十字架上で彼らの罪のために死ぬために来られたように、イエスはイスラエルの敵からの最終的な救い主となるのです。
ここでの救いは敵からのものです。
イスラエルを抑圧してきたあらゆる権力からの解放です。
イスラエルの土地に祝福をもたらすものを覚えて、この荘厳な聖句は注意深く記録されています。
「「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。
その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」
「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」
「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。
わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。
わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。」
(イザヤ書63章1~4節)
この聖句は繰り返して誤用されてきました。
ひとりで酒ぶねを踏んだ」という言葉は、私たちの祝福された主がゲッセマネの園の苦しみを経験しているときによく使われてきました。
そして、ある意味では、主がそこで「酒ぶねを踏んでいる」と考える人もいるかもしれません。
ここでの全体的な文脈は、イスラエルの敵に対する裁きとして酒ぶねを踏んでいることを示しています。
これはヨハネの黙示録14章15~20節と関連しています。
そこでは収穫が行われ、地のぶどうの木は完全に熟して、神の怒りの大きな酒ぶねに投げ込まれると述べられています。
「すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。
「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」
そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。
また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。
すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。
「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」
そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。
その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。」
(ヨハネの黙示録14章15~20節)
それはアジアでの描写です。
ぶどうを摘み、大きな酒搾り場に投げ入れ、それから若者たちは衣服の一部を脱ぎます。
裸足でぶどう酒の樽の中に足を踏み入れ、果実を踏みつけ、ぶどうの赤い血にまみれます。
それはいつも大きな喜びの時でした。
ギリシャ人にとってこれはバッカス神またはディオニュシウス神を讃える祭りでした。
しかし、ヘブル人の間でも毎年ぶどうを踏む習慣がありました。
ここで描かれているのは、神がイスラエルのすべての敵、すなわち神の選民を滅ぼそうとしたすべての者を酒ぶねに入れ、その酒ぶねを踏む者を探しているということです。
誰もいなかった。
見てみた...
何もありませんでした。」
それで主は来られたのです。
「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。」
そして、彼が言ったのです。
「それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。」
ここではイスラエルの敵の血で汚れていると見なされています。
ヨハネの黙示録19章には、主が大きな白い馬にまたがった力強い戦士として天から降りてくるという素晴らしい幻が描かれています。
そこでイエスは、血に浸した衣を着ていたと言われています。
それはイエス自身の貴重な血であり、脇腹の傷から流れ出た血で、当然のことながら衣を汚すはずの血でした。
それは神の民に対する神の愛の象徴です。
敵の血で汚れています。
それが私たちの神の復讐の日です。
その日が来れば、神に反対する者はすべて滅ぼされることになります。
注意深く調べ、そのことをヨハネの黙示録と結び付けると、主の再臨のときに世界に対して下される裁きには2つの異なる特徴があることがわかります。
戦士の裁きがあり、諸国が集まり、主が天から力強く降りてきて彼らを滅ぼします。
それが、ここで私たちが経験している酒ぶねを踏むことです。
人の子が、その栄光のうちに、すべての聖なる御使いたちといっしょに来るときには、いわゆる聖別のための裁きがあります。
イエスは羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをひとりひとり分けられるのです。
(マタイの福音書25章)
主が相手にされるのは、神とその民に敵意をむき出しにしている諸民族ではなく、その日に裁かれる者たちです。
彼らは、王の到来を宣べ伝えて世界中を回ったイスラエルの使者に対する態度に応じて裁かれます。
一つの裁きにおける二つの側面は区別することはできるが、分離することはできません。
主イエスは、神を知らない者、福音に従わない者、救われる機会が十分にあったにも関わらず背を向け、神と神の民の敵となった者に対して復讐するために、燃える火の中に現れます。
教会の裁きにおいては、福音のメッセージがこれまで伝えられたことのない国々が、神の民に対する態度に応じて裁かれます。
たとえば、羊は神の民に対して行った行為のせいで救われるのではありません。
また、他の羊が神の民に対するひどい扱いのせいで失われるわけでもありません。
どちらの場合も、彼らがキリストを信じていたかどうかが問題です。
本当の信仰があったなら、それは神の使徒に対する彼らの対応に表れています。
信仰がなければ、それは彼らに対する無関心として現れるでしょう。
メッセージを携えた人々に対するそれぞれの態度について語っています。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」
(マタイによる福音書25章40節)
イザヤ書63章では、酒ぶねを踏むことは戦士の裁きです。
主イエスが燃える火とともに天から現れ、神とその民に対して明確に公然と反対する者すべてが滅ぼされます。
「わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。
わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。」
私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。
主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。
主は仰せられた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ。」と。こうして、主は彼らの救い主になられた。
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。
その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」
(イザヤ書63章5~9節)
この貴重な部分は、いかなる時代においてもすべての神の民に対する神の配慮に適応することができます。
ここでは主として終わりの日に苦しむ聖徒たち、そしてイザヤの時代に真理のために苦しむ人々について述べています。
しかし、神は常に聖徒たちのことを気にかけておられるので、どんな時代の苦しむ神の人々もこの部分を心に留めることができるのです。
ウェイマスはペテロの手紙第一5章7節を美しく言い換えてこのように言っています。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
(ペテロの手紙第一5章7節)
ですから、ここでは「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った」のです
神は聖徒たちの苦しみを黙って見ている傍観者ではありません。
哀れみの心は彼らすべての者に向けられています。
神が苦しみが続くことを許すのは、神自身の顔が彼らの中に完全に現れるように、銀を精錬する者のように彼らから不純物を取り除こうと待ち構えているからです。
終わりの日に獣と偽預言者のもとでひどく苦しみながらも王の出現を待つイスラエルの残された者にとって、このような聖句は大きな慰めとなるのです。
主が来られると、彼らの苦しみは終わり、彼らは主が預言したすべての祝福を受けるのです。
64章 残された者たちの心の叫び
この本の最後の3つの章(64章、65章、66章)はすべて密接に関連しています。
64章には、終わりの日に残された者たちの心の叫び、祈りとも言えるものが記されています。
これは試練や苦難のときに神の介入の必要性を感じている神の民にとってふさわしいものです。
実際の預言の適用において、この聖句は獣と反キリストのもとで苦しむ終わりの日のイスラエルの人々の心を私たちに明らかにします。
彼らは主が自分たちのために降りて来てくださるよう叫んでいます。
「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。
火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるように、あなたの御名はあなたの敵に知られ、国々は御前で震えるでしょう。
私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行なわれるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。
神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」
(イザヤ書64章1~4節)
使徒パウロは、コリント人への手紙の中で七十人訳聖書から次の言葉を引用しています。
「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」」
(コリント人への手紙第一2章9節)
しかし、パウロはすぐにこのように付け加えます。
「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」
(コリント人への手紙第一2章10節)
将来のために取っておいたさらなる啓示が与えられました。
人々はしばしば、その言葉がイザヤの時代と同じように今日でも適応できるかのごとく引用します。
彼らは、パウロがすぐに追加の啓示を与えていることを忘れています。
「いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。」
(コリント人への手紙第一2章16節)
終わりの日に、イスラエルの残された者の唇と心からの助けを求める叫びは、とてもふさわしいことなのです。
国々が集まっているときに、人間には助けがないと考え、神に介入を呼びかけています。
神はゼカリヤ書の中でこのように言っています。
「わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。」
(ゼカリヤ書14章2節)
残された者たちはその不吉な集まりを見て、「ああ、神よ、あなたは介入されないのですか?
あなたは天を裂いて降りて来られないのですか?
汝は自分でこれらの諸国民を扱い、私たちの心が切望する救いを与えようとしないのか?」と叫びます。
「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。
私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。
しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎のゆえに、私たちを弱められました。
しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」
(イザヤ書64章6~8節)
残された者たちは、神が彼らのために引き受けてくださるなら、神の前に正しい地位を占めなければならないことを認識して、神の前で告白し、自己を裁き、悔い改めます。
彼らは神がイスラエルに対して何度も示してきた忍耐を知っているので、自分を正当化することはできません。
彼らは自分たちの功績や忠実さを理由に介入を求めたのではありません。
彼らは「私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます」というのです。
私たちと私たちの父祖たちが何世紀にもわたって苦しみ続けてきた理由を理解するのです。
私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」
それは単に、路上で衣服を引きずることによって汚れた汚れではなく、内部からの汚れによって汚染されたものでした。
それらはすべて、心の腐敗のゆえに汚れたものなのです。
しかし、彼らは神に立ち返ります。なぜなら、はっきりと神はこのように約束しておられるからです。
「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。
それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」
(箴言28章13節)
ダビデは詩篇25篇11節でこのように叫んでいます。
「主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。」
(詩篇25篇11節)
大きいのです!
もしダビデが私たちの中の誰かのようであったなら、私たちはダビデの言葉を予想できたかも知れません。
「主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。」
本当は咎という意味ではありません。
現在の人はこのように言うかもしれません。
「失敗した、申し訳ないという意味で、悪いという意味ではありませんです。」
しかしダビデは「主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を」と言っています。
偉大な神だけが、大きな罪を赦すことができるのです。
したがって、ここにいる残された者たちは、自分を正当化したり、隠したりしようとせず、自分たちの罪と不義を完全に率直に告白し、自分たちには弁護すべき義がないことを認めています。
彼ら自身の思い描いた義はすべて、聖なる神の目には汚れたぼろきれにすぎません。
このような態度を神の前に取るならば、私たちは神の祝福の答えが期待できるのです。
65章 新しい天と新しい地
「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。
わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ。」と言った。
わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。
この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こし、園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、
墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ、
「そこに立っておれ。私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている。」と言う。
「これらは、わたしの怒りの煙、一日中燃え続ける火である。」
(イザヤ書65章1~5節)
神は説明しておられます。
たとえ、私がこの言葉を使ったとしても、神には説明する必要がありません。
しかし、神はここにおられます。
このように、恵みのうちに残された者たちに会い、なぜこれらの裁きが民に下されたのかを、彼らに明らかにされます。
これらの罪は、あるものは明らかにされ、あるものは隠されています。
神の聖なる律法を無視し、周囲の異教徒の慣習を持ち込んだイスラエル人にとって「墓の中」に住むことは汚れた事でした。
ここで人々が陥った汚れを描写しています。
これらの汚れのせいで、神は顔を背け、本来望んでいたように彼らを扱うことができなかったのです。
現在でも、主は御自分の民に周囲の悪から離れるよう呼びかけておられます。
「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、」
(コリント人への手紙第二6章17節)
また、不つり合わぬくびきについてこのように言っています。
「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。
正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。
光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。
信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。」
(コリント人への手紙第二6章14、15節)
この聖句は、神の御言葉に公然と従わない人々との交わりから完全に離れるように呼びかけています。
この後にパウロはすぐにこのように言っています。
「わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
(コリント人への手紙第二6章18節)
確かに神はすべての人々の父です。
しかし、常に神が望む通りに私たちの父となれるわけではありません。
哀れみ深い父親は、子供たちに対する愛情深い関心を次々と示すことを喜びとしています。
そして、私たちの父なる神はそのことを望んでおられます。
それは私たちにとって父となることを意味しています。
確かに。神は私たち一人一人の父です。
しかし、もし、私たちが不従順に歩むなら、神自身の聖さが、神が心から望んでいることを神御自身が妨げています。
旧約のイスラエルは諸国民との交わりによって汚れており、周囲の異教徒と同様に「悪い交わりは良い習慣を汚す」ようになっていました。
神がその民に世から出て離れるようにと命じる理由は、彼らが世に留まりながらクリスチャンの証しを保つことはできないからです。
多くの人の考える世に勝つ方法は、彼らと一緒に「歓迎される仲間」になることだと考えています。
それは、少年たちが二羽のスズメを捕まえて、小さな籠を作り、スズメが成長するにつれて歌い方を教えようとするようなものです。
彼らはとても美しく歌うカナリアを飼っていたので、他の鳥の声を聞いたことがなくてカナリアの美しい声だけを聞いているうちに、スズメたちがカナリアのように歌えるようになるだろうと考えてました。
そして、スズメのカゴをカナリアのカゴの両側に置きました。
しばらくは、成果は得られません。
ある日、彼らは言いました。
「聞いてください、私たちのカナリアがスズメのように鳴いています!」
スズメはカナリアの長年大切にしてきた美しい歌を学ぶ代わりに、カナリアのように鳴いていました。
それが、神の民が不信仰な者たちと交わりを持った結果です。
不信仰な者たちがキリストの道を学ぶ代わりに、神の子供たちはすぐに不信仰な者たちの道に従うようになります。
別居するには確かに結婚関係が伴います。
聖書は、神の子と救われていない人は結婚を考えるべきではないと明確に述べています。
昔の熱心な信仰者は「あなたが神の子であるのに悪魔の子と結婚したら、義父との間に問題が起きるのは目に見えている」と奇妙なことを言いました。
また、もっとお金を儲けたいと願って、救われていない人と共同事業を始め、すぐに不公平な状況に陥ったことに気づくクリスチャンが多くいるのではないしょうか!
良心的なクリスチャンができない多くのことを、ビジネスにおいて救われていない者が自由に行うことができると感じていませんか!。
彼はパートナーに対抗するか、それとも彼と共に行くかのどちらかを選ばなければなりません。
後者を選んだ場合、彼はクリスチャンとしての証しを失うことになります。
あらゆる種類の社会との関わりにおいても、同じことが起こります。
二つの聖句が私たちをそれらすべての事柄から遠ざけてくれるはずです。
最初に、イエスはこのように言われました。
「隠れて話したことは何もありません。」
(ヨハネの福音書18章20節)
したがって、イエスは秘密結社やそのメンバーであったはずがありません。
すでに述べられたもう一つの聖句は「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」です。
いくつかの修道会には救われた人々と救われていない人々がいます。
キリストについて明るい証言を持ちたいのであれば、その不釣り合いなくびきから離れなければなりません。
パウロが言及しているのは旧約聖書の次の聖句です。
「牛とろばとを組にして耕してはならない。」
(申命記22章10節)
牛は清らかな動物であり、神にささげ物として捧げることができました。
ロバは儀式上不浄なものとみなされていました。
ゆえに、二頭を一緒につなぐことは許されませんでした。
イスラエルが不従順に諸国と交わり、悪行を実践し始めたとき、神は彼らに裁きを下さなければなりませんでした。
しかし、彼らが神に立ち返り、罪を告白したとき、神は無限の恵みで彼らを救い出す用意ができています。
「主はこう仰せられる。「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、『それをそこなうな。
その中に祝福があるから。』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、その全部は滅ぼさない。 わたしは、ヤコブから子孫を、ユダからわたしの山々を所有する者を生まれさせよう。
わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。 わたしを求めたわたしの民にとって、シャロンは羊の群れの牧場、アコルの谷は牛の群れの伏す所となる。」
(イザヤ書65章8~10節)
何の役にも立たないように見えるただ大きいだけのぶどうの房に、神はこのように言われます。
「それをそこなうな。
その中に祝福があるから。」
神はその民を完全に滅ぼすのではなく、終末の日に来たるべき国家、回復された国家の核となる部分を彼らから取り出すのです。
神はアコルの谷を彼らへの祝福の手段とするのです。
そこは、民が初めてその地に入った時に、アカンとその家族が罪を犯したために石打ちで殺された場所でした。
「問題」を意味するアコルは、私たちが自分の意志で招いた問題を表現しています。
しかし、神は恵みによって、それらの悲しみを私たちは最終的に祝福の手段とすることができるのです。
ゆえに、イスラエルの過去のすべての間違いは、神が彼らを正しく祝福するために用いられます。
これはエレミヤが語ったとおりです。
「あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める。」
(エレミヤ書2章19節)
神は、その民が心を入れ替えてのなら、来るべき日に彼らの助けとなり、祝福となる教訓を学ぶとき、その民の失敗をも覆します。
「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。
先の事は思い出されず、心に上ることもない。
だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。
見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。
そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。」
(イザヤ書65章17~19節)
その時から、律法の下で従順であった国に住む従順な人々に対して約束されていた約束が実現します。
「そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。
百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。
彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。
彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。
わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。
彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。
彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。
彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。
狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。」
(イザヤ書65章20~25節)
そうです、神は彼らを引き受けてくださります。
新しい天と新しい地をわずかに見せるためにここに私たちを導いてくださいます。
このことについての記述はなく、その時点で何が行われるかについての指示もありません。
神はただ「新しい天と新しい地を創造する」と言っています。
それから同じように「見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする」と付け加えています。
神が新しいものをもたらし神はイスラエルになされたすべての約束を成就し、エルサレムを全世界への喜びと祝福の中心とします。
再び反逆者たちは警告を受けています。
神が呼びかけたのに、彼らは答えなかったからです。
神が話した時彼らは聞かなかったが、千年王国の時代に生きる人々に対しては、神は彼らが呼ぶ前に答え、彼らがまだ話している間に聞いてくれると約束しています。
これは守られる約束です。
これは霊的なものと関係があります。
ゆえに、現在の神の民はそれを主張することができます。
私たちは、キリストにあって天にあるすべての霊的な祝福を受けています。
ゆえに、旧約聖書にある霊的なすべてのものを適切に適用することができます。
また、それに基づいて行動することができます。
しかし、単に世的なものに関係する約束を自由に引き継ぐことはできません。
65章では主の答えが記されています。
神の憤りは多くの人々に向けられています。 それは彼らの偶像崇拝と、彼らが犯した忌まわしい行為と、彼らが現実を見ていないためです。
だがイザヤは、信じる者を遺し、真実に神に心から頼る者たちに、神がイスラエルのために介入されようとしていることを保証しています。
66章は、神の心を動かし、敵の力に屈服させた罪を、再びこの国の反逆者たちの前に示しています。
また、神を信じる者たちには、神の約束は一つも破られず、祝福に満ちたものにされることを保証しています。
私たちは旧約聖書の預言者を、山脈を眺める人に例えました。 一つの大きな峰が見え、その後雲が上がり、その向こうにさらに高い峰が見えます。
65章と66章では、預言者は望遠鏡を少し高く持ち上げ、その二番目の大きな山の向こうを見ています。
神がその民のために永遠に用意しておられるものを一瞬だけ垣間見るのです。
イザヤは新しい天と新しい地を見ています。
これらの二つの聖句は使徒によって述べられています。
ペテロは主の日の過ぎ去りし日と、神の日の到来について語っています。
その時、人間が長年かけて築き上げてきたものはすべて崩れ去り、天と地は猛烈な熱で溶けてしまいます。
使徒はこのように言っています。
「そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。
その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。」
(ペテロの手紙第二3章13節)
「しかし、私たちは神の約束に従って、新しい天と新しい地を待ち望んでいます。ここには正義が住んでいます」(ペテロの手紙第二3章13節)と使徒は言っています。
この約束はここに記されています。
また、この約束はイザヤ書65章と66章以外にはどこにも書かれていません。
ヨハネの黙示録では、ヨハネは幻の中で千年王国の栄光の先を見てこのように言っています。
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。
以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」
(ヨハネの黙示録21章1節)
新しい創造物は絶対的に完全な状態で現れます。
また、彼は永遠の状態で贖われた者の祝福についていくつかの記述を私たちに与えています。
イスラエルの救われた者たちの永遠の住まいが主と共に、千年王国の栄光を楽しむ者は新しい地にいます。
この二つの章で述べられていることを考えると、私たちは自然にその結論に達することができます。
キリストのからだである教会は、旧約聖書のすべての聖徒たちと、千年王国の初めまでの間に亡くなった人々とともに、新しい天国に居場所を持ちます。
これら2つのグループの間には素晴らしい親密なつながりが生まれ、いわば天と地が一つになるのです。
聖書は教会が花嫁と花婿の友人はキリストと共に天の聖徒となることを語っています。
また、新しく生まれ変わったイスラエルはキリストと共に新しい地上にいることを語っています。
その日が来れば、私たちはみな、物事について不完全な概念を持っていることに気づくかも知れません。
私たちは神の聖霊の導きを、神が私たちに直接与えてくださった言葉の中に授けられていますが、 誤解されています。
主が来られる前に、明らかにされたイエスの再臨に関連する一連の出来事を考えることがあります。
しかし、多くの者が困惑し、混乱し、おそらく非常に間違った結論に達することになります。
実際に、主が来られ、預言された通りの出来事が次々と起こると、これらすべてのことを預言していた預言者たちは、その出来事が起こる順序を誤解していた可能性があることがわかります。
預言者自身も、書き終えた後にこのように言っています。
「彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。」
(ペテロの手紙第一1章11節)
預言者イザヤを研究するとき、イザヤが預言者イザヤを研究したと考えたことがあります。
神が啓示によって彼に与えたものを書き終えた後、彼は自分の巻物の前に座りました。 そして、神が彼に書かせたことを注意深く研究し、一連の出来事、物事が起こる順序、そして、彼に啓示されたものを読み返しました。、 他の預言者たちについても、まだ完全に理解する時は来ていません。
その多くの事柄は将来のために取っておかれるものであり、彼らはこれらのことを自分たちにではなく、私たちのために知らせたのだと私たちは知るのです。
そして今、彼らは天から遣わされた聖霊によって開かれているのです。
「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。
彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。
彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。
そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。
それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。」
(ペテロの手紙第一1章10~12節)
したがって、まだ実現されていないこと、まだ将来に起こることについては、あまり独断的に語るべきではありません。
66章 主の啓示の終わり
この最後の章でも、神は民の失敗を強調され、そして、最後にこのように締めくくられています。
王国の時代に支配する素晴らしい状況について語り、さらに新しい天と新しい地を垣間見ることができます。
「主はこう仰せられる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。
わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。
――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。
牛をほふる者は、人を打ち殺す者。羊をいけにえにする者は、犬をくびり殺す者。穀物のささげ物をささげる者は、豚の血をささげる者。
乳香をささげる者は、偶像をほめたたえる者。実に彼らは自分かってな道を選び、その心は忌むべき物を喜ぶ。
わたしも、彼らを虐待することを選び、彼らに恐怖をもたらす。
わたしが呼んでもだれも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの喜ばない事を彼らが選んだからだ。」
主のことばにおののく者たちよ。主のことばを聞け。
「あなたがたを憎み、わたしの名のためにあなたがたを押しのける、あなたがたの同胞は言った。
『主に栄光を現わさせよ。そうすれば、あなたがたの楽しみを見てやろう。』しかし、彼らは恥を見る。」」
(イザヤ書66章1~5節)
もう一度強調したいのは、天と地を満たしている神は、ここのどの家にも閉じ込められることはありません。
神は、謙虚な人や悔い改めた人の心の中に住むことを望まれています。
わたしは、哀れな人、悔い改めた心を持つ人、わたしの言葉に震える人を顧みます。
そして、私は神の御言葉に反するかもしれないと恐れています。
御言葉に震える人々は、主御自身が彼らのために必ず受け取ってくださるという確信を持つことができます。
しもべたちに偉大な能力や素晴らしい雄弁さを求めているのではなく、神の真理に従う心を求めているからです。
神がその民のためにこれらのことを介入してくださることを知ります。
しかし、単なる形式主義者、霊的な事柄の現実を知らない人たちは、これらを軽視し、おそらく狂信者とみなします。
彼らはさまざまな種類の罪、愚行で彼らを非難するのです 。
ここで主はこのように言っています。
「「あなたがたを憎み、わたしの名のためにあなたがたを押しのける、あなたがたの同胞は言った。『主に栄光を現わさせよ。そうすれば、あなたがたの楽しみを見てやろう。』」
しかし神は、それが「わたしの名のため」であると言っています。
イスラエルの残された者たちは、彼らの義務を果たさない者たちから軽蔑され、見下されました。 これは神の前に悔い改めの場となりました。
しかし、主は彼らの栄光のために現れ、彼らの敵は恥を見るのです。
66章では、神の聖さと恵みの方法の要点がまとめられています。
「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。
「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」
(イザヤ書57章15節)
天は神の王座です。
しかし神は、悔い改めて謙遜な心を持つ者とともに住まわれます。
神を喜ばせる形だけを持つ者たちの捧げ物は冒涜となります。
(65章12節)
しかし、神の声を聞いた人々は、次のような約束を聞いたのです。
「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」
(イザヤ書65章24節)
主は、その民に川のような平和を与えると語られました。
そして、創造主である神として、遠くにいる者にも近くにいる者にも平和があると言われました。
「わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。
遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう。」と主は仰せられる。」
(イザヤ書57章19節)
しかし、厳粛な保証が二度も与えられています。
「「悪者どもには平安がない。」と主は仰せられる。」
(イザヤ書48章22節)
「わたしは、あなたの義と、あなたのした事どもを告げよう。
しかし、それはあなたの益にはならない。」
(イザヤ書57章21節)
「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」
(イザヤ書66章13節)
神の民に対する神の計画とみこころについては、40章と61章を比較してください。
ヘブル語 この節で「慰め」と訳されている語源は、「ため息をつく」という意味です。
「母に共にため息をつくように、わたしもあなたと一緒にため息をつき、エルサレムであなたがたは慰められる。」
愛情深い母親が、子供たちの苦しみにさまざまな方法で寄り添うことを私たちは知っています。
母親はその子を腕に抱き、子供が泣きじゃくるのを一緒にため息をつきます。 母親の胸には悲しみが宿っています。
私たちも試練のときに、神に同情されます。
かつて、イスラエルについてこのように言われました。
彼らはエジプトの奴隷状態でしたた。
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。
わたしは彼らの痛みを知っている。」
(出エジプト記3章7節)
常に、神は苦しむ子供たちに対する関心においては同じです。
神の大きな愛の心は、罪が引き起こした破壊と、それが全人類にもたらした苦しみを見て、同情の念を抱かれます。
神を優しく愛情深い父としてではなく、厳しい裁き主として考え、自分の悩みを神に委ねることに戸惑ってしまいます。
「見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。
その戦車はつむじ風のようだ。その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責めたてる。
実に、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばく。主に刺し殺される者は多い。
おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たちはみな、絶ち滅ぼされる。――主の御告げ。――
「わたしは、彼らのわざと、思い計りとを知っている。
わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。」
(イザヤ書66章15~18節)
ヨハネの黙示録がこのことを証言しています。
「わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。
すなわち、タルシシュ、プル、ルデ、メシェク、ロシュ、トバル、ヤワン、遠い島々に。
これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。
彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る。」と主は仰せられる。
「それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて来るのと同じである。
わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし、レビ人とする。」と主は仰せられる。
「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、――主の御告げ。――あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。
毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る。」と主は仰せられる。
「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。」」
(イザヤ書66章19~24節)
「そしてわたしは彼らの中に一つのしるしを立て、彼らの中から逃れた者を諸国の民に遣わす。 弓を引くタルシシュ、プル、ルド、トバル、ヤワン、遠い島々にまで、彼らはわたしの名声を聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともありません。しかし彼らは異邦人の中でわたしの栄光を告げ知らせるであろう。
65章22節には、千年王国の人々の寿命についてこのように記されています。
「わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく」
(イザヤ書65章22節)
もし100歳で死んだら、その人は子どもとみなされます。
死と呪いがあるということは、死は王に反逆し、王に罪を犯した者にしか訪れないということを示しています。
祝福の場所にいる者たちは時々、殺された者たちの死体を見るだけになります。
その時「彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」と述べられています。
主イエスは、永遠に失われた者の最後の財産について語られています。
そして、イザヤの言葉をくりかえして引用しています。
「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。
不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。
もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。
片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。
片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」
(マルコの福音書9章43~48節)
そして、このイザヤ書は、神の聖さと栄光が明らかにされ、拡大され、神の慈悲とともに終わっています。
ここでは、神の明るい特徴が知らされています。
被造物は、神の栄光のうち、義と恵みのどちらが最も輝いているかを推測することはできません。。
一方、神の旧約の人々と同じ様に、それは私たちにとっても真実です。
「あらゆる時間の翼に乗って、私たちはあなたの忍耐を今も読み続けます。」
訳者注)これがハリー・A・アイアンサイド氏の遺作となる最後の注解書の最後の言葉になります。
私たちは神の忍耐の中で、学ばなければならないことが、いまだに多く存在しています。
2025/8/23