メッセージAY 2025/9/17

やがて起ころうとしていること
Things to Come
聖書終末論の研究
J. Dwight Pentecost


目次

目次
序文
導入

第一部 預言の解釈

第1章 解釈の方法
第2章 解釈の歴史
第3章 解釈における一般的な考慮事項
第4章 預言の解釈

第二部 聖書の契約と終末論

第5章 アブラハム契約
第6章 パレスチナ契約
第7章 ダビデ契約
第8章 新しい契約

第三部 現代の預言

第9章 現代の流れ
第10章 部分携挙主義
第11章 患難時代後再臨主義
第12章 患難時代中再臨主義の立場
第13章 患難時代前再臨主義
第14章 携挙後の教会の出来事

第四部 患難時代の預言

第15章 聖書における患難時代の教理
第16章 教会と患難時代の関係
第17章 聖霊と患難時代の関係
第18章 イスラエルの苦難
第19章 患難時代の異邦人
第20章 ハルマゲドンでの軍事行動
第21章 患難時代の審判

第五部 再臨に関する預言

第22章 再臨の教理の歴史
第23章 再臨に伴う復活
第24章 再臨に伴う裁き

第六部 千年王国の預言

第25章 旧約聖書における王国概念
第26章 新約聖書における王国計画
第27章 現代における王国計画
第28章 千年王国に関する聖書の教義
第29章 政府と千年王国における支配
第30章 千年王国における礼拝
第31章 千年王国における生ける聖徒と復活した聖徒の関係

第七部 永遠の状態の預言

第32章 永遠の王国への準備
第33章 天の都、新しいエルサレム

BIBLIOGRAPHY


序文

私たちが生きる現代において、聖書的終末論への関心は急増しています。
一世代前のある神学者は「通常、終末論は愛を実践する人々の精神的な広さの二乗に反比例して愛される傾向にある」と書いてます。[1]
しかし、現在の別の神学者は「終末論の問題は、まだ起きていないとしても、まもなくアメリカの神学的議論の枠組みになります」と書いています。[2]
ほんの一世代前までは終末論的な問題を完全に無視するか、現在において軽蔑的に扱ってきた神学者がこのような態度をとるならば、その考え方はすでに時代遅れです。
過去の世代の安易な楽観主義は、二度の世界大戦、不況、インフレ、そしてそれに伴う社会的・道徳的悪によって打ち砕かれました。
その時代の神学的思考を特徴づけていた人文主義的な強調は誤りであることが証明されました。
楽観主義は現実主義に取って代わられ、人々は罪に呪われた世界への希望の源として、終末論的な考察に目を向けざるを得なくなりました。
聖書と聖書に含まれる啓示は、未来における唯一の希望と自信の源であることが証明され、人々は現在の暗闇の中で光を求めて聖書に頼るようになりました。
時代の設計者たる神は、未来への計画について私たちに確信を与え、御言葉の中で御自身の目的と計画を詳細に明らかにされました。
聖書において預言は他のどの主題よりも、多くの部分を占めています。
それは聖書が書かれた時代、聖書の約4分の1が預言的な内容だからです。
預言の大部分は神の計画の展開に向けられています。
聖書において預言が重要な位置を占めており、この主題について当然、多くの著作が書かれてきました。
また、預言という主題を扱った優れた書物も数多く出版されてきました。
しかしながら、預言の扱いは一般的に弁証論的、もしくは解説的です。
また、それぞれの主題は啓示された計画全体との関連性から切り離されて個別に展開されてきました。
そのため、私たちの知識の多くは断片的で関連性のないものとなりました。
預言の分野全体を統一された聖書の教理に統合しようとする試みはほとんど行われていません。
そのため、聖書預言の総合的な研究と提示が強く求められています。
この必要性に応えるために、著者は本書で預言的な聖書を体系的かつ完全な聖書終末論に統合しようと試みました。
これらの研究が博士論文として最初に提出され、今、その許可を得てこうして提出されるに至ったダラス神学校の教員の皆様に深く感謝申し上げます。
特に、これらの研究を個人的な指導のもと進めてくださった同神学校の学長兼組織神学教授のジョン・F・ウォルフォード博士、そして原稿の校閲と修正をしてくださった組織神学准教授のチャールズ・C・ライリー博士には深く感謝申し上げます。
原稿のタイプ打ちに尽力してくださったナンシー・ミラーさん、そしてヤコブ・H・ライリー夫妻には深く感謝申し上げます。
この巻の出版にあたり物質的な援助をいただいたケリー氏に感謝します。
広い範囲で研究分野を可能な限り簡潔に網羅するため、著者は他者から収集した要約資料を多用しました。
したがって、本書の構想に大きく貢献した著者および出版社の皆様には、深く感謝の意を表します。
御子を与え、その最初の来臨によって私たちは救いを与えられ、その二度目の来臨によって私たちは栄光に導かれます。
また、御子に聖霊を与え、その聖霊を通して「やがて起ころうとしていることをあなたがたに示す」(ヨハネの福音書16章13節)父なる神が、多くの人に神の真理を知るようになるために、この本を神の栄光のために用いてくださいますように。

新約聖書文学と聖書解釈学助教授
J.ドワイト・ペンテコステ

[1] Walter Rauschenbush, A Theology for the Social Gospel, p.209.
[2] Henry P.VanDusen, “A Preview of Evanston,” Union Seminary Quarterly Review, IX:8, March, 1954.


導入

聖書的終末論は組織神学の頂点を成すものです。
それは神学研究の頂点であり、終末と完成だけでなく、終末論の提示は神学の技巧の最高の実証でもあります。
おそらく、キリストの位格に関する教義を除けば、他のどの分野にも増して、聖書釈義、総合、解釈学、そして組織神学という重要な道具立てがここで発揮されます。
霊的・比喩的な解釈とは対照的に、文字通りに解釈すべきものを見極めるための鋭い判断力が求められます。
旧約聖書と新約聖書に含まれる神の啓示全体の一貫性は維持されなければなりません。
預言の複雑な詳細は矛盾なく語られなければなりません。
確実に、そして明白に啓示されたものと、まだ不明瞭なものとを注意深く区別しなければなりません。
重要な論点と詳細な点は区別しなければなりません。
必然的に調査の分野は成就した預言と成就していない預言の両方を含む必要があり、前者は後者に含まれる預言の性質を理解するための重要な指針となります。
終末論は、他のどの主要神学分野よりも、その解釈者たちの手によって多くの苦しみを味わってきました。
神の霊感を受けた御言葉への信頼を揺るぎなく持つ人々の間でさえ、大きく異なる解釈の派閥が存在します。
そのため、一部の神学者は、死者の復活、再臨、そして最後の審判といった終末論の主要な出来事を述べることに満足し、他の預言的な事柄を扱う聖書の大部分を無視してきました。
終末論の分野では、標準的な神学に欠けている情報を提供するために多くの学者が著作を残してきましたが、本書のように千年時代前終末論を詳細に提示しようと試みた者はほとんどいません。
ペンテコステ博士は、類まれな手腕で多くの論争を巻き起こす問題を扱い、多くの預言的問題に直面してはそれを解決し、預言の言葉の核心を体系的、かつ神学的に要約してきました。
博士は、大規模な預言書庫にも収蔵されていない膨大な資料を凝縮し、多くの議論の余地のある点に対して独自の解決策を提示しています。
博士の結論は、千年時代前終末論者の多くの者に広く共有されています。
本書は全体として、聖書終末論の標準的かつ包括的なテキストとして分類されるに値し、今後長きにわたり、私たちの世代にとってその役割を担うものとなることになります。

ジョン・F・ウォルフォード、テキサス州ダラス。


第一部 預言の解釈

第1章 解釈の方法


終末論を学ぶ者にとって、預言的聖書の解釈に用いるべき方法という問題ほど重要なものではありません。
様々な解釈方法が採用され、様々な終末論的立場が生まれ、預言を学ぶ者が直面する体系内における相反する見解が説明されています。
千年王国前再臨主義と無千年王国主義、そして患難前再臨主義者と患難後再臨主義者の間の根本的な違いは、解釈学上のものであり、相容れない相反する解釈方法の採用から生じています。
千年王国前再臨主義と無千年王国主義の間の基本的な問題はアリス氏によって明確に描かれており、彼は次のように書いています。

千年王国前再臨主義のさまざまな形態における際立った特徴の一つは、聖書の文字通りの解釈を重視することです。
千年王国前再臨主義の支持者たちは、文字通りに解釈されて初めて聖書は真実に解釈されるのだと主張しています。
自分たちと同じように文字通りの解釈をしない者を「霊的解釈者」もしくは「比喩的解釈者」として非難しています。

ディスペンセーション主義者ほど、この非難を鋭く実行した者はいません。
したがって、文字通りの解釈と比喩的な解釈のどちらが適切かという問題は、まさに最初から向き合うべき問題です。
(強調は著者による)[1]

アリス氏は「常に文字通りの解釈は千年王国前再臨主義の際立った特徴であった」ことを認めています。
しかし[2]、それはフェインバーグの次の言葉に同意しているからです。
初期の教会が千年王国前再臨主義を唱えた理由は、聖書を文字通りに解釈したことが原因だと言えます。
一方、教会史の後期においてこの見解から脱線した原因は、特にオリゲネス氏に始まる解釈方法の変化に直接起因しています。[3]

ハミルトン氏は次のように述べています。
旧約聖書の預言を文字通り解釈すると、千年王国前再臨主義者が描くメシアの地上における支配と完全に同じ姿が描かれるということを、私たちは率直に認めなければなりません。
これは、キリスト時代のユダヤ人が旧約聖書の約束を文字通り解釈した上で求めていたメシアの王国です。
サドカイ派が肉体の復活という概念を嘲笑した時に語っていたのも、まさにこのような王国です。
主は彼らに「聖書も神の力も知らないからです」と言われた時、新約聖書に記されている未来の特徴を最も明確に示しています。
(マタイの福音書22章29節)

ユダヤ人は、エルサレムにメシアによって設立される地上のユダヤ王国におけるユダヤ人が卓越した立場を占めると語る千年王国前再臨主義者が期待するような王国を、まさに求めているのです。[4]
このようにアリス氏は、無千年王国論者と千年王国前再臨主義者との間の根本的な違いは、聖書が千年王国前再臨主義者が教えるような地上の王国を教えているかどうかではなく、まさにそのような地上の王国を教える聖書をどのように解釈すべきかにあることを認めています。
アリス氏は、「旧約聖書の預言は、文字通り解釈すれば、既に成就した、もしくはこの現代において成就する可能性があると見なすことができない」ことを認めています。[5]
したがって、預言的な聖書と終末論の教理に関するあらゆる議論の前提は、全体を通して用いられる基本的な解釈方法を確立することです。
この点はピーターズ氏によってよく指摘され、彼は次のように書いています。
神の民に関する旧約聖書の預言は、他の聖書と同じ様に通常の意味で解釈されるべき、もしくはキリスト教教会に適切に適用できるのかという問題は、預言の霊的解釈の問題と呼ばれています。
これは聖書解釈における主要な問題の一つであり、神の御言葉を真剣に研究するすべての人々が直面する問題です。
これは、千年王国前再臨主義支持者と大多数のキリスト教学者の間の意見の相違を決定づける主要な鍵の一つです。
前者はそのような霊的解釈を拒み、後者はそれを採用します。
そして、この点で合意が得られない限り、議論は果てしなく、無益なものとなります。
(強調は著者による)[6]

A.問題点。

ラトガース氏が千年王国前再臨主義者について「彼らの聖書解釈は根本的な誤りである」[7]と述べています。
また、千年王国前再臨主義と無千年王国主義の認められた相違が聖書解釈に用いられる方法論という基本命題に基づくのであれば、また、彼の発言が正しいとすれば、終末論を考察する上でまず最初に検討すべき根本的な問題は預言の解釈学です。
本研究の目的は、現在の聖書を解釈する適切な方法として提唱されている重要な方法を検証し、それらの方法論の違いを明確に理解することです。
また、教義の歴史を研究し、異なる方法論の源泉をたどることができるようになることです。
そして、確立された解釈方法を正しく適用できるように解釈において用いられるべき規則を要約することです。

B.研究の重要性。

「解釈学の体系にとって最も大切なことは、神の御言葉の意味を確かめることです。」[8]千年王国前再臨主義と無千年王国主義、患難時代前再臨主義と患難時代後再臨主義といった大きな見解のずれがすべて正しくないことは明らかです。
解釈者は人間が創った書物ではなく、神の御言葉を扱うので、正確な解釈方法を身につけていなければなりません。
そうでなければ、研究の必然的な結果として誤りが生じることになります。
神の御言葉は、正しい解釈方法と健全な解釈規則なしには正しく解釈できないという事実こそが、研究に究極の重要性を与えているのです。
聖書解釈の歴史の中で、聖書を解釈する様々な方法が提唱されてきました。[9]現在における、終末論に決定的な影響を与える解釈方法は二つしかありません。
それは比喩的解釈と文法的・歴史的解釈です。
文字通りの解釈は一般に文法的・歴史的解釈と同義とされ、本書でもこの二つの解釈方法を同義として用いています。
以下では、これら二つの解釈方法について詳細に検討します。

I.比喩的方法

現在、復活している古代の解釈方法は比喩的解釈法です。

A.比喩的手法の定義。

アンガス・グリーン氏は比喩的解釈主義を次のように定義しています。
文字通りの解釈が可能であるにもかかわらず、道徳的もしくは比喩的な解釈を必要とすることです。
もしくは正当に許容する、想定上の事実に関する記述は比喩的なたとえ話と呼ばれます。
語られたことや物語にとっての比喩は、語句の文字通りの意味に道徳的もしくは精神的な意味を付加するのと同じです。
たとえ話は、放蕩息子の物語のように、純粋なもの、つまりその適用に直接的に言及がない場合もあります。
また、詩篇80篇のように、それが明確に暗示されている場合のように、複雑な場合もあります。(17節)
ユダヤ人はぶどうの木に現わされています。[10]

ラム氏は比喩的手法を次のように定義しています。
「比喩的解釈主義とは、文学的な文章として解釈する方法です。
また、文字通りの意味を、より霊的で深い二次的意味の媒介とみなす手法です。」[11]
この手法では、歴史的な意味合いは否定されるか無視され、二次的意味に重点が置かれるため、元の言葉や出来事はほとんど、もしくは全く意味を持ちません。

フリッチュ氏はこれを次のように要約しています。
「この方法によれば、聖書の文字通りの意味と歴史的意味は完全に無視されます。
そして、すべての言葉と出来事は神学上の困難から逃れるため、もしくは特定の宗教的見解を維持するために、何らかのたとえ話にされます。」[12]
比喩的手法の目的は、聖書を解釈することではありません。
より深い、より霊的な意味を求めるという見せかけの下で、聖書の真実な意味を歪曲することだと思われます。

B.比喩的な方法の危険性
比喩的方法は、聖書の解釈者にとって受け入れ難い多くの危険をはらんでいます。

1.比喩的解釈の第一の大きな危険性は、聖書を解釈していないことです。
テリー氏はこのように述べています。
「このような習慣は、言葉の一般的な意味を無視し、さまざまな種類の空想的な憶測に翼を与えていることにすぐに気がつくはずです。
それは作者の言語の正当な意味を引き出すことではありません。
解釈者の気まぐれや空想が望むものを何でもそこに押し込むことです。
したがって、体系として、それはさまざまな明確に定義された原則や法則を、自ら外側に置くことになります。」[13]

アンガス・グリーン氏は、次のように記して同様の危険性を述べています。
「原理が認められ、説明の唯一の根拠が説明者の心の中に見出されるならば、想像力の余地は限りなく存在します。
この図式は、おそらくいくつかの貴重な真理を説明することができるかもしれませんが、適切にいわゆる解釈をもたらすことはできません。」[14]

2.上記の引用は、比喩的解釈方法における二つ目の大きな危険性を示しています。
それは、解釈における基本的な権威が聖書ではなく、解釈者の霊的な状態に向けられるということです。
そうなると、解釈は解釈者の教義的立場、所属する教会の権威、社会的・教育的背景、その他多くの要因によって歪められてしまう可能性があります。
ジェローム氏は「最も誤った教え方は、聖書の意味を歪め、聖書の言葉を自分の意志に従わせ、自分の想像力で聖書の謎を作り上げること」だと訴えています。[15]

ファラー氏はさらにこのように付け加えています。
「比喩的な解釈の原理が認められると、つまり聖書の文章や書全体が、あることを言っているのに別の意味を持っているという規則から出発すると、読者は解釈者の気まぐれに手足を縛られることになります。」[16]

3.比喩的解釈法における三つ目の大きな危険性は、解釈者の結論を検証する手段が全くないことです。
前述の著者は次のように述べています。
「教会によって命じられたこと以外には、人間は絶対に何も確信することができません。」[17]
そして、あらゆる時代において、「教会」の権威は、誤った通説による傲慢な暴政のために、誤って主張されてきました。
さらに、ラム氏は次のように付け加えています。
「聖書の主要な意味は二義的な意味にあります。
解釈の主要な方法は「霊的解釈」であると主張することは、ほとんど制御されない憶測と想像への扉を開くことになります。
だからこそ、私たちは解釈における制御は文字通りの解釈方法であると主張してきたのです。」[18]
このような危険が存在し、その解釈方法が聖書を歪曲するために使われていることは、終末論の分野で比喩的手法を擁護するアリス氏自身も認めており、次のように述べています。
「ある箇所の比喩的もしくは「霊的」な解釈が正しいのかどうかは、それが真実な意味を伝えているかどうかにのみ左右されます。
もし、それが言葉の持つ明白で明白な意味を空にして、言葉が明確に意図しているものを読み取ろうとするならば、比喩的解釈や霊的解釈は当然、非難されるべき言葉となります。[19]
したがって、このシステムに内在する大きな危険は、聖書の権威を奪い、解釈を検証できる根拠をまったく残さず、聖書を解釈者にとって合理的と思われるものに限定し、その結果、聖書の真実な解釈を不可能にしてしまうことです。」

C.新約聖書における比喩的解釈の使い方
比喩的手法の使用を正当化するために、新約聖書自体がこの手法を用いています。
ゆえに、それは正当な解釈方法であるはずだとくりかえし主張されています。

1.まず最初に、ガラテヤ人への手紙4章21〜31節がたびたび参照されます。
そこではパウロ自身が比喩的な手法を用いていると言われています。
このたとえ話の使い方について、ファラー氏は次のように述べています。
「フィロン氏や教父、スコラ学者たちのたとえ話に少しでも類似するたとえ話は、新約聖書には一つしか見当たりません。」
(ガラテヤ4章21~31節)
それは単に人身攻撃的な議論を意図したものかもしれません。
一般的な議論には全く本質的ではなく、論証力も微塵もありません。
いずれにせよ、実際の歴史には触れていません。
しかし、どのような見解をとるにせよ、パウロの手紙にそのようなたとえ話が一つ現れたからといって、この手法が普遍的に適用されることが正当化されるわけではありません。
それは、新約聖書におけるハガダへの言及のことがいくつかあるからといって、ミドラシュムの集積を受け入れるよう強いられるわけでも、ギリシャ詩人の引用がいくつかあるからといって、あらゆる異教文学の神聖な権威が証明されるわけでもないのと同じです。」[20]

ギルバート氏も同様の論調で、次のように結論づけています。
「パウロは旧約聖書の歴史的出来事の一つを比喩的に説明しています。
比喩的な解釈の原理を他の箇所にも適用できる可能性を認めていた可能性が高く存在しています。
しかし、彼の手紙に他に明白な例えが見られないという事実は、彼には聖書の比喩的な意味を解明する能力があるとは考えていなかったのかも知れません。
もしくは、より可能性が高いのは、読者に文章の基本的な意味を分かりやすく伝えることで、全体として満足していたかのかも知れません。」[21]

他の新約聖書著者によるこの方法の使用に関して、ファラー氏は次のように結論づけています。
「キリスト教によって純化された、より優れたユダヤ教の理論は、古い旧約の時代の教えを文字通りに受け止めることになっています。
しかしながら、使徒パウロと同じ様に、そこに未来への展開の影と源を見出しています。
比喩的な解釈は、使徒パウロが簡単な例えとして用いたとしても、他の使徒たちには知られておらず、決してキリストによっても認められるものではありません。」[22]
ガラテヤ人への手紙4章21〜31節でパウロが旧約聖書を解釈する時に比喩的な方法を用いているのではなく、例えとして説明していたことに注意すべきです。
これらは全く異なるものです。
聖書には、型、象徴、たとえ話などであふれています。
これらは思考を伝える手段として広く受け入れられ、正しく用いられています。
これらは比喩的な解釈方法を必要とするものではありません。
比喩的な解釈方法は、文字通りもしくは歴史的な先行事象を否定し、解釈者の想像力を掻き立てる単なる踏み台として用いられています。
比喩的な解釈方法は、特別な種類の解釈学を必要としますが、これについては後ほど考察することにします。
しかし、例としての使用は比喩的な解釈方法を正当化するものではありません。
ガラテヤ人への手紙における旧約聖書の使い方は比喩的解釈の一例にしか過ぎません。
比喩的解釈方法を聖書全体に普遍的に適用することを正当化するものではないと結論付けられます。

2.比喩的解釈を正当化する二つ目の論拠は、新約聖書における型の使用です。
新約聖書は旧約聖書を型として適用していることが認められています。
この根拠に基づき、新約聖書は比喩的解釈方法を用いて、型による解釈と適用は比喩的解釈方法であると主張しています。

アリス氏は次のように論じています。
「ディスペンセーション主義者は極端な文字通りの解釈主義者ですが、一貫性に欠けています。
預言の解釈において、文字通りの解釈をしますが、歴史の解釈においては型としての解釈の原則を極端にまで推し進め、最も熱心な比喩的解釈者でさえその限界を超えることは滅多にありません。[23]
型として解釈しておきながら、比喩的な方法を用いているという非難に対して、型の解釈は比喩的な解釈と同じではないことを強調しておかなければなりません。
型の効力は、文字通りの先行事象の文字通りの解釈にかかっています。
私たちが馴染みのない霊的な領域についての真理を伝えるためには、私たちが馴染みのある領域における教えがなければなりません。
そうすれば、一方の領域における文字通りの真実を転移させ、もう一方の領域における真実を学ぶことができます。
型に何らかの価値を持たせるには、「型」と「対型」の間に文字通りの平行性が必要になります。
型を比喩化する者は、決して真実な解釈に到達できません。
型の意味を理解する唯一の方法は、文字通りの考えを自然的領域から霊的領域へ転移させることです。

チェイファー氏は次のように巧みに書いています。
様々な種類の比喩的解釈、つまりたとえ話、型、象徴を研究する時には、解釈者は、比喩的表現で表現された言語に求められるのと同じように、聖書の単純な記述を解釈しないように注意しなければなりません。
すでに述べた真理は、ここで改めて述べる価値があります。
聖書の比喩的に解釈することと、単純な聖書をたとえ話化することとの間には、あらゆる差異が存在します。[24]
したがって、聖書における型の用い方は、比喩的な解釈方法を正当化するものではないという結論になります。

II.文字通りの解釈方法

比喩的な解釈方法と正反対なのは、文字通りの解釈方法、つまり文法的・歴史的解釈方法です。

A.字義的解釈法の定義。

字義的解釈法とは、各語に、書き言葉、話し言葉、もしくは思考のいずれにおいても、通常の、日常的な、慣習的な使い方で用いられるのと全く同じ基本的な意味を与える解釈法です。[25]
言葉の意味は文法的考察と歴史的考察の両方によって決定されるという事実を強調するために、この解釈法は文法的・歴史的解釈法と呼ばれています。[26]

ラム氏はこの解釈法を次のように定義しています。
単語の慣習的、かつ社会的に認められた名称は、その単語の文字通りの意味です。
単語の「文字通りの」意味とは、その単語が持つ基本的、慣習的、社会的に与えられた意味です。
単語や表現の霊的、もしくは奥義的な意味は、文字通りの指定の後に生じ、その存在が文字通りの指定に依存しています。
文字通りに解釈するということは、通常の、通常の指定に基づいて解釈するということと同義です。
写本のよってその指定を変えられるのであれば、直ちに解釈者は解釈方法を変える必要があります。[27]

B.文字通りの解釈方法を支持する証拠。

文字通りの解釈方法を支持する強力な証拠を提示することができます。
ラム氏は包括的な要約を示しています。
彼は次のように述べています。

文字通りの働きかけを擁護するためには、次のように主張できると考えます。

(a)文章の文字通りの意味を尊重することが、さまざまな言語において通常に働きかけできるということです。
(b)文書、比喩、型、たとえ話、象徴のすべての二次的意味の存在自体が、その単語の以前の文字通りの意味に依存しているということです。
(c)聖書の大部分は文字通りに解釈すれば十分な意味を成すということ。
(d)文字通りの解釈では、比喩的表現や象徴、たとえ話、類型を盲目的に排除するわけではありません。
しかし、文章の性質がそのように要求しているのなら、簡単に二つ目の意味に譲る必要があります。
(e)この方法は、人間の想像力をチェックする唯一の健全かつ安全な方法となります。
(f)この方法は、霊感の本質と一致する唯一の方法です。

聖書の完全な霊感は、聖霊が人々を真理へと導き、誤りから遠ざけると教えています。
この過程において、神の御霊は言語を用いています。
そして、言語の単位(音ではなく意味として)は、言葉と思考です。
思考は言葉を繋ぎ合わせる糸です。
したがって、私たちの聖書解釈は、さまざまな意味ある言葉の二つの基礎である言葉と文法の研究から始めなければなりません。[28]
神が神の御言葉を人々に啓示として与えられた以上、その啓示は文法と言語の法則に従って解釈すれば神の考えが正確に伝わり、理解されるのです。
このように、正確かつ具体的な言葉が与えられることが期待されます。
このような推定的証拠は文字通りの解釈を支持します。
なぜなら、比喩的な解釈方法は、神が人々に伝えたメッセージの意味を曖昧にしてしまうからです。
聖書が、かつて書かれたものの文字通りの解釈を絶えず示しているという事実は、御言葉を解釈する時に用いられるべき方法に関して証拠を加えています。
文字通りの解釈方法を支持する最も強力な証拠の一つは、おそらく新約聖書が旧約聖書を用いていることです。
新約聖書において旧約聖書が用いられる場合、それは文字通りの意味でのみ用いられます。
この事実を立証するには、キリストの最初の降臨、その生涯、宣教、そして死において成就した預言を研究するだけで十分です。
完全に成就した預言は、文字通りに成就した以外の方法で成就したことはありません。[29]
新約聖書では、ある出来事がその預言の部分的な成就であることを示すために預言が引用されることがあります。
(マタイの福音書2章17、18節参照)
または出来事が神の定められた計画と一致していることを示すために預言が引用されることがあります。
(使徒の働き15章参照)
しかし、それは文字通りではない成就を必要としたり、未来における完全な成就を否定したりするものではありません。
なぜなら、そのような預言の適用は預言の成就を網羅するものではないからです。
したがって、そのような預言への言及は、文字通りではない方法論を主張するものではありません。
これらの考察から、文字通りの解釈方法の妥当性を裏付ける証拠があると結論付けられます。
文字通りの解釈方法を支持するさらなる証拠は、後述する解釈の歴史の研究の中で提示されます。

C.文字通りの解釈方法の利点

文字通りの解釈方法には、比喩的な解釈方法よりも優れた利点がいくつかあります。
ラム氏はそれらのいくつかを次のように要約しています。

(a)解釈は事実に基づいて行われます。

文法、論理、語源、歴史、地理、考古学、神学といった客観的なデータに基づいて解釈を確立しようとすることです。

(b)それは、科学的方法における実験が行うのと同じ制御を解釈に対して行使します。

正当化とは解釈に対する制御です。
文字文化批評的方法の規範に及ばないものはすべて拒まれます。
もしくは、疑わしいとされます。
さらに、この方法は、聖書に二重の意味の解釈を課すという絶え間ない脅威に対する唯一の信頼できる制止手段を提供しています。

(c)この解釈は神の御言葉の解釈において最も大きな成功を収めています。

聖書解釈が本格的に始まったのは、教会が1500年も経ってからです。
ルターとカルヴァンの字義解釈主義によって、聖書の光は文字通り燃え上がりました。
「この文字通りの解釈方法は、保守プロテスタントにおける最高のスコラ哲学的伝統の尊ばれた方法です。
ブルース、ライトフット、ザーン、A・T・ロバートソン、エリコット、マッケン、クレマー、テリー、ファラー、ランゲ、グリーン、エーラー、シャフ、サンペイ、ウィルソン、ムール、ペローネ、ヘンダーソン、ブローダス、スチュアートなど、ここでは代表的な釈義学者のほんの数例を挙げたにすぎません。[30]

上記の利点に加えて、
(d)解釈を検証するための基本的な権威が与えられることも付け加えておきます。
比喩的方法は、解釈者の合理主義的な働きかけや、もしくは、あらかじめ定められた組織神学への適合されることに依存されています。
そのため、基本的な権威ある検証ができていません。
また、文字通りの解釈方法では、聖書は神の霊感を受けた言葉として権威があり、すべての真理を検証するための基準である聖書と比較することができます。

これに関連して、
(e)解釈の必要条件としての理性と神秘主義の両方から私たちを解放してくれることにも気がつくはずです。
人は知的な訓練や能力、もしくは奥義的な知覚の発達に頼る必要はありません。
むしろ、一般に受け入れられている意味で書かれていることを理解するだけでよいのです。
このような基礎があって初めて、平均的な個人は自分で聖書を理解し、解釈することができるようになります。

D.文字通りの解釈方法と比喩的表現

聖書が比喩的表現に富んでいることは誰もが認めるところです。
このことから、比喩的表現を使用するには、比喩的な解釈が不可欠であるとしばしば主張されます。
しかし、比喩的表現は文字通りの真理を明らかにする手段として用いられます。
私たちがよく知っているある領域では文字通り真実であることが、私たちがよく知らない別の領域に文字通り持ち込まれ、その未知の領域で真実を教えてくれることがあります。

文字通りの真理と比喩的表現の関係は、ジゴット氏によってくりかえし示されています。
「言葉が自然で原始的な意味合いで用いられる場合、それが表す意味は正確な字義通りの意味です。
一方、比喩的、派生的な意味合いで用いられる場合、その意味は、たしかに、字義通りではありますが、通常では隠喩的、もしくは比喩的意味と呼ばれています。
例えば、ヨハネによる福音書1章6節で「ヨハネという人が現われた」と読むならば、ここで用いられている単語は、著者が実在の人物、つまり実在の人物、ヨハネについて語っていることから、正確に、かつ物理的に解釈されていることは明らかです。
一方、バプテスマのヨハネがイエスを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネによる福音書1章29節)と言った時に、あらゆる比喩的表現や人物像をを排斥して見るならばヨハネが「小羊」という言葉から見て、実在の小羊を指し示していたことになります。
つまり、ここでは正確な字義通りの意味で用いていなかったことは明確です。
ヨハネが言葉の文字通りの意味を、つまり直接的、かつ類似的に表現しようとしていたのは、派生的な意味と比喩的な意味において、イエスは「神の小羊」と呼ばれることができるからです。
前者の場合、言葉は本来の文字通りの意味で用いられ、後者の場合、その比喩的な意味で用いられています。
聖書には文字通りの意味(先ほど説明したように、固有の意味または比喩的な意味)があります。
つまり、霊感を受けた受けた作家たちが直接的に意図した意味は明白な真理です。
そのことは、同時に広く認められていることであり、ここでそれを主張するのは無駄です。
聖書のさまざまな箇所において、一つ以上文字通りの意味なのでしょうか?
「聖なる書物が人間によって、また人間のために書かれた以上、当然、著者が人間関係の最も基本的な法則に従ったことは誰もが認めることです。
つまり、話し手や書き手の言葉が直接的、かつに類似的に意図する意味は、ただ一つ正確な意味に限られるという法則があります。」
聖書の一節に、複数の文字通りの意味はありません。
聖書は人間によって人間のために書かれたものであるため、その著者が話し手または著者の言葉によって直接的に意図される意味はただ1つだけです。
人間同士の交流における最も基本的な法則に当然従っていたことは、誰もが認めるところです。」[31]

クレイヴン氏は比喩的な言葉と文字通りの真実との間に同様の関係を述べています。
預言解釈学の二大派閥を区別するのに、「文字通りの解釈」と「霊的解釈」という言葉ほど不適当な言葉はないと考えます。
これらの言葉は対立するものではなく、また、それらが特徴づけるために用いられているそれぞれの体系の特殊性を意味するものでもありません。
これらの言葉は紛らわしいものです。
「文字通りの解釈」は「霊的解釈」ではなく「比喩的解釈」と対立しています。
霊的は、反面的に物質的であり、(悪い意味で)他方では肉的と対立しています。
いわゆる、文字通りの解釈主義者は、預言において比喩的な言語、つまり比喩が用いられることを否定する者でも、そこに偉大な霊的真理が提示されることを否定する者でもありません。
彼らの立場は、単純に、預言は他のあらゆる発言と同じ様に、つまり、受け入れられる言語法則に従って、通常通りに解釈されるべきです。
また、明らかに比喩的なものは比喩として見なされるべきです。
いわゆる、霊的解釈主義者の立場は、この言葉によって適切に示されることはありません。
彼らは預言のある部分は通常の解釈で解釈されるとしながら、その一方では他の部分は奥義的な意味合いを持つとみなすべきであると主張する者たちです。
例えば、いわゆる霊的解釈主義者たちは、メシアが「悲しみの人で病を知っていた」(イザヤ書53章3節)として語られる場合、預言は通常の解釈で解釈されるべきことを否定していません。
しかし、メシアが「天の雲に乗って」来ると語られる場合、その言葉は「霊的に」(奥義的に)解釈されるべきであると断言します。
各派閥を適切に表現する単語は、「通常」と「奥義」になります。[32]
このように、文字通りに解釈する人は比喩的な解釈の言語の存在を否定するわけではないことが分かります。
しかし、文字通りに解釈する人は「比喩的表現の使い方によって、意図された文字通りの真実を損なう形で行われている」のであれば、その使い方を否定します。
文字通りの真実は比喩を通して理解されるべきです。

E.文字通り解釈する方法に対するいくつかの反論

アリス氏は文字通り解釈する方法に対して3つの反論を述べています。

(1)聖書の言葉には比喩的表現がくりかえし用いられます。
特に詩的な表現においてはそれが際立っています。
詩篇にある詩的な表現、格調高い文体の預言、そして単純な歴史叙述の中にさえ、明らかに文字通りには解釈できない、もしくは文字通りには理解できない比喩的表現が用いられています。

(2)聖書の大きなテーマは、神と人類に対する神の救済の働きです。
神は霊であり、聖書の最も尊い教えは霊的なものです。
こうした霊的かつ天的な現実は、しばしば地上の物や人間関係という形で表現されます。

(3)旧約聖書が新約聖書の予備的かつ準備的なものであるという事実は、明白であり、証明を必要としません。
使徒パウロは、コリントのクリスチャンに警告と訓戒として出エジプトの出来事を言及した時に、これらの出来事は「型」であると宣言しました。
つまり、それらは将来起こることを予告していました。
このことは、旧約聖書の多くの箇所に特別な意味と重要性を与えています。
このような解釈は、新約聖書の成就という観点から、旧約聖書の多くの箇所の言葉が、旧約聖書の文脈や関連性から見て取るよりも、より深く、はるかに素晴らしい意味を持つことを認識することができます。[33]
最初の議論への返答として、比喩的表現が用いられていることを認識する必要があります。
既に強調したように、比喩的表現は言葉そのものよりも力強く文字通りの真理を教えるために用いられる場合があります。
また、比喩的な解釈を正当化するものではありません。
二番目の議論については、神が霊的な存在であることは認められているものの、私たちがまだ踏み込んでいない領域において神が真理を明らかにできる唯一の方法は、私たちが今生きている領域から類似点を見出すことです。
すでに知られた領域における文字通りの真理を未知の領域に移すことによって、その未知の領域が私たちに明らかにされるのです。
神が霊的な存在であるという事実は、比喩的な解釈を要求するものではありません。
霊的なもの(spiritual)と霊的な存在(spiritual)とを区別する必要があります。
第三の点に関して言えば、新約聖書は旧約聖書を展開するものであることは認識されていますが、旧約聖書は先見的であり、新約聖書で啓示される完全性は、旧約聖書で型として示されたものの比喩化を通してではなく、むしろ、型としての文字通りの成就と文字通りの真理の展開を通して啓示されています。
型は文字通りの真理を教えることができます。
しかし、旧約聖書における型の使用は比喩的な解釈方法を支持するものではありません。

フェインバーグ氏は次のように的確に指摘しています。
霊的解釈者たちは、啓示は徐々に与えられたため、預言や啓示された事柄が後から与えられたものであればあるほど価値があると考えていたようです。
しかし、啓示が徐々に与えられたという事実は、解釈の方法を決定する力を持ちません。
さらに、コリント人への手紙第二3章6節の適切な解釈は、私たちの立場を少しも損なうものではありません。
パウロが「文字は殺し、御霊は生かすからです」と言った時、彼は聖書を霊的に解釈することを認可していたわけではありません。
もし文字通りの解釈が殺すのであれば、なぜ神はそのような形でどのように御言葉を与えられるのでしょうか?
使徒パウロが言いたいのは「聖霊の働きを伴わずに文字をただ受け入れるだけで死に至る」ということは明らかです。[34]

NOTE

[1]Oswald T.Allis, Prophecy and the Church, p.17.
[2]Ibid., p.244.Cf.pp.99, 116, 218, 227, 242, 256 where further reference is made to literal interpretation as the basis of premillennialism.
[3]Charles L.Feinberg, Premillennialism or Amillennialism, p.51.
[4]Floyd E.Hamilton, The Basis of Millennial Faith, pp.38-39.
[5]Allis, op.cit., p.238.
[6]Albertus Pieters, The Leader, September 5, 1934, as cited by Gerrit H.Hospers, The Principle of Spiritualization in Hermeneutics, p.5.
[7]William H.Rutgers, Premillennialism in America, p.263.
[8]Bernard Ramm, Protestant Biblical Interpretation, p.1.
[9]Cf.Milton S.Terry, Biblical Hermeneutics, pp.163-74 where such methods as the Halachic, Hagadic, Allegorical, Mystical, Accommodation, Moral, Naturalistic, Mythical, Apologetic, Dogmatic, and Grammatico-historical are traced.
[10]Joseph Angus and Samuel G.Green, The Bible Handbook, p.220.
[11]Ramm, op.cit., p.21.
[12]Charles T.Fritsch, “Biblical Typology,” Bibliotheca Sacra, 104:216, April, 1947.
[13]Terry, op.cit., p.224.
[14]Angus-Green, loc.cit.
[15]Cited by F.W.Farrar, History of Interpretation, p.232.
[16]Ibid., p.238.
[17]Ibid.
[18]Ramm, op.cit., p.65.
[19]Allis, op.cit., p.18.
[20]Farrar, op.cit., p.xxiii.
[21]George H.Gilbert, The Interpretation of the Bible, p.82.
[22]Farrar, op.cit., p.217.
[23]Allis, op.cit., p.21.
[24]Rollin T.Chafer, The Science of Biblical Hermeneutics, p.80.25Ramm, op.cit., p.53.
[26]Cf.Thomas Hartwell Horne, An Introduction to the Critical Study and Knowledge of the Holy Scriptures, I, 322.
[27]Ramm, op.cit., p.64.
[28]Ibid., pp.54 ff.
[29]Cf.Feinberg, op.cit., p.39.
[30]Ramm, op.cit., pp.62-63.
[31]Francis E.Gigot, General Introduction to the Study of the Holy Scriptures, pp.386-87.
[32]John Peter Lange, Commentary on the Holy Scriptures: Revelation, p.98.
[33]Allis, op.cit., pp.17-18.
[34]Feinberg, op.cit., p.50


第2章 翻訳の歴史

千年王国前再臨主義と無千年王国主義の間の基本的な論争は解釈学上の論争です。
そのため、文字通りの解釈方法の権威を確立するためには、これらの解釈の根拠となる二つの異なる解釈方法、つまり文字通りの解釈方法と比喩的解釈方法の進展を追跡する必要があります。

I.解釈の始まり

解釈学の歴史を研究する者の間では、ネヘミヤ記8章1~8節に記されているように、エズラの治世下でイスラエルがバビロン捕囚から帰還した時に解釈が始まったという点が一般的に認められています。
まず最初に、このような解釈が必要だったのは、イスラエルの歴史においてモーセの律法が忘れ去られ、軽視されていた長い期間があったからです。
ヨシヤ王の治世にヒルキヤが忘れ去られていた「律法の書」を発見したことで、律法は一時的に再び重要な位置を占めるようになりました。
しかし、捕囚の時代には再び忘れ去られてしまいました。[1]
さらに、ユダヤ人が捕囚中に母語をアラム語に切り替えていたことも、解釈が必要だった理由です。
帰還したユダヤ人にとって、聖書は理解不能でした。[2]
エズラは、忘れ去られ、理解不能になった聖書を人々に説明する必要があります。
エズラの解釈が、書かれていたことを文字通りに解釈したことは疑いようがありません。

II.旧約聖書のユダヤ的解釈

この文字通りの解釈は、旧約聖書解釈の際立った特徴でもあります。
「異端者(heretical)」は、厳格な文字通りの解釈方法を拒み、文字通りの解釈を「ユダヤ的」と呼んでいました。
ユダヤ的な者たちが簡単に異端となる可能性があることを暗示し、「霊的な」解釈よりも劣ると繰り返し述べています。[3]
「異端者」の考えでは、文字通りの解釈とユダヤ的解釈は同義語であったようです。
「祭司主義(Rabbinism)」がユダヤ民族にこれほどの影響力を持つようになったのは、祭司と王の権威が一つの系統に統合されたからです。
「祭司主義」において律法学者たちが用いた方法は、比喩的な方法ではなく、文字通りの解釈方法でした。
その文字通りの解釈は、律法のあらゆる霊的な要件を回避していました。[4]
彼らは誤った結論に達しましたが、それは文字通りの解釈方法の誤りではなく、書かれたものの文字以上のものを無視するというものです。
その方法の誤用によって、誤った結論に達していたのです。
ブリッグズ氏は、ラビによる解釈を規定する13の規則を要約した後、次のように述べています。
「いくつかの規則は優れており、その時代の実践論理から見て、異論の余地はありません。
ラビによる解釈の欠陥は、規則そのものよりもむしろその適用にあります。
しかし、規則に潜む誤謬は簡単に発見でき、議論の誤りを十分に防ぐことはできません。(強調は著者による)[5]
ユダヤ人のラビ主義のすべての誤りにもかかわらず、彼らは文字通りの解釈方法に従ったと結論付けなければなりません。

III.キリスト時代の文字通りの解釈

A.ユダヤ人による文字通りの解釈

キリストの時代のユダヤ人の間では、文字通りの解釈が一般的でした。

ホーン氏はそれを次のように示しています。
聖書の比喩的な解釈は、捕囚の時代からユダヤ人の間で広まっていた、もしくはキリストとその使徒たちの時代のパレスチナのユダヤ人の間で一般的であったとかは、歴史的に証明することはできません。
サンヘドリンやイエスの教えを聞いた人々はしばしば旧約聖書に言及しましたが、比喩的な解釈については全く示されていません。
ヨセフス氏でさえ、比喩的な解釈については全く触れていません。
エジプトのプラトン派ユダヤ人は、異教徒のギリシャ人に倣って、1世紀に旧約聖書を比喩的に解釈し始めました。
この手法を実践したユダヤ人の中でも、アレクサンドリアのフィロン氏は際立っていました。
彼は、この手法は斬新で前例のないものであり、それゆえに他のユダヤ人から反対されたと擁護しています。
したがって、イエスは、その時代のユダヤ人の間では、特にイエスが教えを説いたパレスチナでは、比喩的な解釈という慣習に従わなければならないわけではありません。[6]
この立場は、現代の無千年王国論者も基本的に同意しています。[7]

無千年王国論の熱心な支持者であるケース氏は次のように認めています。
古代ヘブルの預言者たちは、確かにヤハゥエの恐ろしい日の到来を告げ、古い秩序が突然消滅することを告げました。
後の預言者たちは、捕囚民の復興の日を預言しました。
その日には、すべての自然が奇跡的に変化し、ダビデの理想的な王国が樹立されます。
その後の時代の預言者たちは、神の真実に天的な支配の到来を描き、信者たちが千年王国の祝福にあずかる時を描きました。
初期のクリスチャンたちは、キリストが文字通り天に昇る幻を見たように、雲に乗って再び来られるのを間もなく見ることを期待していました。
この種の比喩を用いる限り、千年王国主義は正当に聖書的であると主張することができます。
確かに、聖書の著者の中には、世界の破滅的な終末を預言していた者もいました。
彼らは、最終的な破滅の直前に訪れる苦難の日々を描写し、天のキリストの目に見える再臨を宣言し、新しいエルサレムの啓示を熱心に待ち望んでいました。
聖書の比喩的表現におけるこうした文字通りの意味を回避しようとする試みは、無駄に終わります。
オリゲネス氏の時代以来、一部の聖書解釈者たちは、イエスの再臨に関する最も印象的な記述でさえ比喩的に理解すべきだと主張し、千年王国主義を否定しようとしました。
また、ダニエル書とヨハネの黙示録は、過去、現在、未来を問わず実際の出来事に言及することを意図したものではなく、ミルトンの「失楽園」やバニヤンの「天路歴程」のように純粋に霊的な意味を持つ、極めて奥義的で比喩的な作品であると言われていました。
これらは、古代人の鮮明な期待を無視しながら、聖書を現代の状況に調和させるために考案された、回避策です。
マカバイ時代の苦難に苦しむユダヤ人たちは、比喩的なものではなく、文字通りの苦難の終焉を要求していました。
そして、ダニエルは彼らに新しい天における政権の実際の樹立以外の何も約束していません。
初期のクリスチャンは、同じように現実的な見方でこのように記しています。

「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」
(マルコの福音書14章62節)

「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」
(マルコの福音書9章1節)


この預言が、復活後のイエスの出現、ペンテコステにおける弟子たちのもうろうとした体験、もし、マルコ、もしくは死に際して一人一人のクリスチャンが救われる時に既に実現していると聞かされていたら、大きな衝撃を受けるはずです。
そして、もしマルコが、現代風に、キリストの再臨に関する彼の預言が、ルター派の宗教改革、フランス革命、ウェスレー派のリバイバル、奴隷解放、海外宣教の拡大、ロシアの民主化、もしくはかつての世界大戦の結末において成就されていると聞かされていたら、大きな衝撃を受けたはずです。
千年王国前再臨主義者が、聖書の重要な一節を比喩化したり、霊的解釈したりして、聖書の語句を保持しながらもその本来の意味を完全に歪曲する反対者に対して抗議するのは、完全に正しい行為です。[8]
ユダヤ人の解釈者たちの文字通りの解釈が、現代の文法的・歴史的解釈と同じだと主張する人はいません。
退廃的な文字通りの解釈は、聖書のあらゆる意味を歪めてしまいました。

ラム氏は的確に指摘しています。
「エズラが始めた善良な運動の最終的な結果は、イエスとパウロの時代のユダヤ人の間で流行した、退廃的な過剰な字義的解釈でした。
ユダヤの字義的解釈主義学派は、字義的解釈主義の最悪の形です。
文字を過度に崇拝し、真実な意味をすべて失わせるものです。
偶発的な出来事を極端に誇張し、本質的な部分を無視し見落としています。[9]
しかし、文字通りの解釈が受け入れられた方法であったことは否定できません。
その方法の誤用は、その方法自体に悪影響を及ぼすものではありません。
問題だったのは方法そのものではなく、むしろその誤用です。

B.使徒たちによる文字通りの解釈

この文字通りの解釈は使徒たちの方法です。

ファラー氏はこのように述べています。
キリスト教によって純化された、より優れたユダヤ教の理論は、旧約聖書の教えを文字通りに受け止めるが、使徒パウロと同じ様に、そこに未来への展開の影と広がりを見出すことができます。
比喩は、使徒パウロが一時的な例えとして用いたことは確かにありました。
しかし、他の使徒たちには知られておらず、キリストによっても決して認められていません。[10]
ガードルストーン氏のような有能な学者は、これを裏付けるように次のように書いています。
結論として、新約聖書の著者たちは皆、ヘブル語聖書の解釈と適用において、共通の統一された方法を採用していたという結論に至ります。
まるで彼らが皆、一つの学校に通い、一人の師の下で学んだかのようです。
しかし、彼らが通っていたのはラビの学校だったのでしょうか?
ガマリエル、ヒレル、もしくは他のラビ指導者の恩恵を受けたのでしょうか?
その時代の教え方に関するあらゆる知識は、この説を否定するものです。
この方法の源泉は、他の誰でもなく、主イエス・キリストでした。
この意味において、そして他の多くの意味でも、イエス・キリストは世に光として現れたのです。[11]
ブリッグス氏はリベラルな人物であったにもかかわらず、イエスがその時代のやり方やその時代の人々の誤った考えに従わなかったことを認識していました。
彼はこのように述べています。
新約聖書の使徒と弟子たちは、その時代の人々の方法ではなく、主イエスのやり方を用いています。
新約聖書の著者たちは、それぞれの思考の傾向においてそれぞれ異なっていました。
しかし、彼らすべてが、主イエスのやり方こそが他の方法に勝り、それらをより貴重なものにしています。[12]

使徒たちは旧約聖書を正しく理解するために別の方法を採用する必要はなく、むしろ既存の方法をその極端なものから清める必要があったのです。
新約聖書著者による旧約聖書の比喩的使用の唯一の引用は、ガラテヤ人への手紙4章24節にあるパウロの象徴の説明であり、たとえ話の説明と比喩的解釈方法の使用には違いがあることが以前に示されています。
そのため、新約聖書著者は旧約聖書を文字通りに解釈したと結論付けなければなりません。

IV.レゴリズムの台頭

紀元1世紀の聖書著者たちは、数々の困難に直面しました。
彼らは旧約聖書にも新約聖書にも確立された正典を持たず、聖書の不完全な翻訳に依存していました。
彼らはラビ学派が定めた解釈の規則しか知らず、解釈の原則を誤って適用することから自分の事を解放する必要があります。
彼らは異教、ユダヤ教、そしてあらゆる種類の異端に囲まれていました。[13]
この迷路から、教父時代後期に3つの異なる解釈学派が生まれました。
ファラー氏は次のように述べています。
3世紀以降の教父たちは三つの釈義学派に分けられます。
テルトゥリアヌス氏を代表とする字義・写実主義派、オリゲネス氏を筆頭とする比喩的解釈主義派、そしてアンティオキアで栄え、モプスエスティアのテオドロスをその指導者として広く認められた歴史・文法主義派です。[14]
比喩学派が進展する中で、ファラー氏はアリストブロス氏に立ち戻りました。
実際のこの仕事は解釈史にとって非常に重要です。
彼はフィロン氏を名指しこそしなかったものの、参考にした先駆者の一人でした。
彼は、後に広く受け入れられ、釈義学の分野において多くの誤った結論につながることになる二つの論文を初めて提唱しました。
その一つ目は、ギリシャ哲学は旧約聖書、特にモーセの律法から借用されたという主張です。
二つ目は、ギリシャ哲学者、特にアリストテレスの教義はすべて、正しい探究方法を用いる者によってモーセと預言者の中に見出されるという主張でした。[15]

フィロン氏はこのアリストブロス氏の考えを採用し、モーセの律法とギリシャ哲学の調和を図り、モーセの律法がギリシャ人の心に受け入れられるように努めました。

ギルバート氏は次のように述べています。
「フィロン氏にとって、ギリシャ哲学はモーセの哲学と同じでした。
そしてフィロン氏の目的は、ユダヤ教と古典哲学とのこの調和を明らかにし、例示すること、もしくは究極的には、ユダヤ教を教養あるギリシャ世界に推奨することでした。
これが彼が自らに課せられた尊い使命であり、ヘブル法を世界の文化と哲学の言葉で解説する目的でした。[16]
この調和を実現するために、フィロン氏は聖書を解釈する比喩的な方法を採用する必要がありました。
フィロン氏の影響は、アレクサンドリアの神学界で最も強く感じられました。

ファラー氏は次のように述べています。
伝承によれば聖マルコによって設立されたアレクサンドリアの偉大な教理学院において、キリスト教釈義学の最高学派が進展しました。
その目的は、フィロン氏と同じ様に、哲学と啓示を統合し、エジプトから借り受けた宝石を用いて神の聖域を飾ることでした。
したがって、クレメンス氏はアレクサンドリアとオリゲネス氏は、テルトゥリアヌス氏とイレナエウスの正反対の立場を取りました。」
この学派で最初に名声を博した教師は、ストア派に転向した高名なパンタイヌスでした。
彼の著作は断片のみが残っているのみです。
彼の後を継いだのはアレクサンドリアのクレメンス氏で、ギリシャ哲学の神聖な起源を信じ、すべての聖書は比喩的に理解されるべきであるという原則を公然と提唱しました。[17]
オリゲネス氏はこの学派において、聖書に適用する比喩的手法を進展させました。

公平な立場から見て、シャフ氏はオリゲネス氏の影響を次のように要約しています。
「オリゲネス氏は、ユダヤ系プラトン主義者フィロン氏の比喩的解釈法と関連づけて、解釈の形式理論を初めて確立した人物です。
彼はこの理論を、勤勉さと創意工夫に富んだ、しかし確固とした成果は乏しい、長きにわたる一連の釈義書にまとめました。
彼は聖書を、プラトン心理学に倣い、人間の肉体、魂、霊魂に対応する三つの要素からなる生きた有機体とみなしました。
したがって、彼は聖書に三つの意味を帰しました。

(1)身体的、文字通り、もしくは歴史的な意味
これは言葉の意味によって直接的に提供され、より高い次元の観念を覆い隠す役割しか果たしていません。
(2)霊的もしくは道徳的な意味
これは前者を活性化し、一般的な啓発に有益です。
(3)哲学的知識の高みに立つ人々にとって、霊的もしくは奥義的、観念的な意味です。
この理論の適用において、彼はフィロン氏と同じ様に、聖書の文字を霊的に消し去る傾向を示しています。
これは聖書の意味を単純に引き出すのではなく、あらゆる種類の異質な思想や無関係な空想をそこに持ち込んでいます。
この比喩的解釈はその時代の流行に合致しました。
そして、豊かな知性と堂々とした学識によって、オリゲネス氏は初期教会の聖書解釈の神託者となりました。
しかし、その正統性は評判を落とすまで続きました。[18]
比喩的解釈の採用に大きな弾みをつけたのは、聖職者主義の台頭と、あらゆる教義上の問題における教会の権威の認識です。
ファラー氏によれば、アウグスティヌスは聖書を教会の解釈に合わせようとした最初の人物の一人です。
聖アウグスティヌスの聖書解釈には、最も明白な欠陥が見られます。
彼は、聖書は教会の正統性に照らし合わせて解釈されなければならないという規則を定めました。
また、彼は聖書の表現は他のものと矛盾してはならないとしました。
聖書の中で非正統的または不道徳に見えるものはすべて奥義として解釈しなければならないとし、何世代にもわたって繰り返されてきた古代フィロン氏派とラビ派の規則を彼は持ち出してきました。
その明白な意味に解釈すると問題となる多くの「聖霊によって書かれた」という箇所があることを認めることで、超自然的な霊感による教義に混乱を招いています。
また、利己的な空想にも扉を開きました。[19]
ひとたび、比喩の原理を認め、聖書の全体の一節や文章があることを言っているのに、別の意味を持っているという規則を一旦受け入れると、読者は解釈者の気まぐれに手足を縛られてしまうことになります。
読者は教会によって命じられたこと以外、絶対に何一つ確信を持つことができません。
さまざまな時代において「教会」の権威は、誤った通説の傲慢な専制政治のために、不当に主張されてきました。
ジャスティン・マルティールとオリゲネス氏の時代、クリスチャンは強迫観念によって比喩的解釈へと駆り立てられました。
それは、福音書をユダヤ教の束縛から解き放った衝撃に対処するために彼らが知る唯一の手段でした。
彼らはそれを、狂信的な異端の粗野な字義解釈を打ち破るために、もしくは哲学の教えと福音書の真理を調和させるために用いました。
しかし、アウグスティヌスの時代には、この手法は創意工夫を披露し、教会主義を支えるための芸術的手法へと堕落してしまいました。
それは、認めようとしない不信心、理解しようとしない無知、そして聖書に溢れている本当の困難を解決することを拒む怠惰の源となっていたのです
教会にとって不幸なことに、また聖書の真実な理解にとって不幸なことに、比喩的解釈主義者たちは抗議にもかかわらず、彼らは完全に勝利しました。[20]
これまでの研究から、比喩的手法が聖書研究から生まれたのではなく、ギリシャ哲学と神の御言葉を統合したいという願望から生まれたことが明らかになりました。
それは神の御言葉の真理を提示したいという願望から生まれたのではなく、それを歪曲したいという願望から生まれたのです。
それは正統派ではなく、異端派の産物でした。
アウグスティヌスはオリゲネス氏の聖書歪曲の手法に基づく新たな解釈方法を教会に浸透させることに成功しました。
しかし、この時代にも依然として元の文字通りの解釈方法に固執する人々がいました。
アンティオキア学派の中には、アレクサンドリア学派が導入した解釈方法に従わない者もいました。」

ギルバート氏は次のように述べています。
「テオドロスとヨハネは、聖書を有益に活用するためには、聖書の本来の意味を解明する必要があることを明瞭に認識していた点で、聖書解釈の科学的手法に大きく近づいたと言えます。
この目的を常に念頭に置いたことは、偉大な功績でした。
彼らの解釈は、アレクサンドリア学派とは対照的に際立っていました。
彼らの解釈は、オリゲネス氏の解釈と比べて極めて平易で簡潔でした。
彼らは比喩的な解釈方法を完全に拒絶しました。」[21]

この学派の価値、重要性、影響力について、ファラー氏は次のように述べています。
「アンティオキア学派は、千年の間にそれ以前にも後にも存在したどの学派よりも、真実な聖書解釈法について深い洞察力を持っていました。
彼らの聖書解釈体系は、世界中の改革派教会が現在採用しているものに、他のどの体系よりも近似していました。
もし、彼らが怒りの舌によってあまりにも冷酷に破門され、支配的な正統派の鉄の手によって押しつぶされていなかったら、彼らの注釈の研究と彼らの注釈体系の採用によって、教会の注釈は何世紀にもわたる無益さと誤りから救われたかもしれません。」
タルソスのディオドロスは、アンティオキア学派の真実な創始者とみなされるべきです。
彼は卓越した学識と疑いのない敬虔さを持ち合わせた人物でした。
彼はクリュソストモスとモプスエスティアのテオドロスの師でもありました。
彼の著作は聖書を文字通りの意味で解説することに捧げられており、「比喩的解釈と霊的洞察の違いについて」という論文を著したが、残念ながら現在は失われています。」
しかし、アンティオキア学派の最も有能で、最も決断力があり、最も論理的な代表者は、モプスエスティアのテオドロス(428)です。
この明晰で独創的な思想家は、「古代の釈義の泥沼に浮かぶ岩のように」際立っています。
彼は響き声ではなく、声そのものでした。
空虚な音だけを繰り返す、何千もの響き声の中にある声でした。
彼はオリゲネス氏の理論を拒んだが、特に新約聖書の注釈において、言語的細部への配慮が不可欠であることをオリゲネス氏から学んでいました。
彼は助詞、法、前置詞、そして一般的な単語法に細心の注意を払いました。
彼は使徒パウロの文体の特異性を指摘しています。
「彼は、例えばエペソとコロサイへの手紙への序文に見られるように、解釈学的な事柄に多大な注意を払った、ほぼ最初の著述家です。
彼の最大の功績は、各節を「それぞれのテキストの孤立した集合体」としてではなく、全体として研究しようと絶えず努めたことです。
彼はまず思考の順序を考察し、次に語法とそれぞれの節を吟味し、最後にくりかえし鮮やかで特徴的で、深い暗示に富む解釈を提示しています。[22]
アンティオキア学派の方法が優勢であったならば、解釈の歴史は異なっていたはずです。
健全な解釈にとって残念なことに、比喩的解釈法に立場を依存する国教会の教会主義が優勢となり、アンティオキア学派の見解は異端として非難されました。

V.暗い時代

その時代の一般的な傾向から予想されるように、聖書を正確に解釈しようとする努力は行われず、受け継がれた解釈の原則は変わることはなかったのです。

ベルクホフ氏は次のように述べています。
「この時期には、聖書の四つの意味(文字通りの意味、比喩的意味、比喩的意味、解析的意味)が一般に受け入れられ、聖書の解釈は伝統と教会の教義に適応しなければならないという確立された原則となりました。」[23]
アウグスティヌスによって蒔かれた教会主義の種は実を結び、教会への従順の原則が確固たる立場を築きました。

ファラー氏はこの時代全体を次のように要約しています。
「7世紀から12世紀にかけての暗黒時代、そして12世紀から16世紀にかけてのスコラ学の時代には、この分野で尽力した多くの人々のうち、神の御言葉の解釈に本質的な原理を一つでも加えたり、独創的な貢献を一つでも果たした者は、わずかしかいなかったと言わざるを得ません。
この9世紀の間には、教父による解説の「かすかな兆しと衰退」以外には、ほとんど何も残っていません。
その後も存続した学問の多くは、釈義のために捧げられていましたが、釈義が真実に意味するものについて真実な理解を示した著述家は、数百人いた中に一人もいなかったのです。」[24]

VI.宗教改革時代

健全な聖書解釈が再び生み出されるのは、宗教改革時代になってからです。
宗教改革運動全体は、聖書を文字通りに解釈するという方法への回帰によって活性化したと言えます。
この運動は、人々を本来の文字通りの解釈方法へと回帰させた先駆者たちの影響から始まりました。

ファラー氏によれば、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラン教会参事会員のヴァッラ氏は、ルネサンスと宗教改革を繋ぐ重要な存在です。
彼は、文学の復興から、聖書は文法と言語の法則によって解釈されなければならないことを学んでいました。[25]
エラスムス氏は、聖書原典の研究を重視し、神の御言葉の文法的解釈の基礎を築いたという点で、もう一つの繋がりとして捉えられています。
ファラー氏によれば、彼は「近代のテキスト批評と聖書批評の創始者として位置づけられるべきです。

彼は聖書解釈者の間では常に尊敬されるべき人物です。」[26]
宗教改革の火を灯すのに大きく貢献した翻訳者たちは、聖書を文字通り理解したいという強い願望に突き動かされていました。

ファラー氏は初期の翻訳者たちについてこのように書いています。
「確かに、ウィクリフ氏は「聖書の知識におけるすべての誤り、そして無能な人々による聖書の堕落と偽造の源は、文法と論理の無知であった」という重要な発言をしました。」[27]

そして、ティンダル氏についてはこのように述べています。
「偉大な翻訳者ティンダル氏の言葉です。
「私たちは聖書から比喩や象徴を借りて、それを自分の目的に適応させることができます。
しかし、それらの象徴は聖書の意味ではなく、聖霊の自由によって聖書とは無関係に与えられた自由なものです。
そのような象徴は何も証明しません。
単なる直喩に過ぎません。
神は霊であり、神の御言葉はすべて霊的なものであり、文字通りの意味も霊的なのです。」

ベラルミン氏に反対するウィテカー氏はこのように述べています。
「これらの3つの霊的感覚については、聖書には、言葉そのものが伝達されています。
つまり、受け入れられるのと同じ数の感覚があると言うことは、非常に愚かです。
言葉は比喩的に、類似して、比喩的に、もしくは他の方法で適用され、受け入れられるかもしれません。
しかし、だからといって聖書に様々な意味、様々な解釈、解釈があるわけではありません。
ただ一つの感覚、文字通りの感覚があり、それは様々に受け入れられます。
そして、そこから様々なものを集めることができるのです。」[28]

聖書の文字通りの解釈を決して、支持しないブリッグス氏はティンダル氏自身の言葉を引用し次のように述べています。
「それゆえ、聖書にはただ一つの意味、つまり文字通りの意味しかないことを理解すべきです。
そして、その文字通りの意味はすべての根源であり土台であり、決して失われることのない錨となります。
もし、あなたがそれに固執するならば、あなたは決して道を誤ることも、道から外れることもありません。
そして、もしあなたが文字通りの意味から離れるならば、あなたは道から外れるしかありません。
しかし、聖書は他のすべての言葉と同じ様に、ことわざ、比喩、謎かけ、たとえ話を用いています。
しかし、ことわざ、比喩、謎かけ、たとえ話が意味するものは文字通りの意味を超えています。
あなたはそれを熱心に探し求めなければなりません。」[29]
宗教改革の基礎は、文字通りの解釈方法への回帰が築かれました。
宗教改革期において、聖書の真理を説いた二人の偉大な人物、ルターとカルヴァンが際立っています。
二人とも、聖書の文字通りの解釈方法を強く主張したことで知られています。

ルターはこのように言っています。
「すべての言葉は、その本来の意味において存在すべきであり、信仰がそれを強いない限り、その意味は放棄されるべきではありません。
聖書の特質は、互いに関連し合う節や場所によって自分の事を解釈し、信仰の規範によってのみ理解できることです。」[30]
ルターが、現在において文法的・歴史的方法と呼ばれる立場を主張していたことは、彼自身の著作から分かります。
ルターは、「イザヤ書」(1528年)の序文をはじめとする著作の中で、聖書解釈の真実な規則と彼が考えるものを明示しています。
ルターは、
(1)文法的知識の必要性
(2)時代、状況、条件を考慮することの重要性
(3)文脈の遵守
(4)信仰と霊的啓示の必要性
(5)ルターが「信仰の均衡」と呼ぶものを守ること、そして、
(6)聖書全体がキリストに述べられていることを主張しています。[31]

ルターは、人々に神の御言葉を伝えるだけでなく、それを解釈する方法を教えたいという強い願いを持っていたので、次のような解釈の規則を定めました。
(i)その中で最も重要なのは、教会の権威や干渉から離れた、聖書そのものの最高かつ最終的な権威です。
(II)二番目に、彼は聖書の最高権威だけでなく、その完全性をも主張しました。
(IIi)他のすべての改革者たちと同じ様に、彼は四重の意味という退屈な架空を捨て去りました。

ルターはこのように言いました。
「聖書の文字通りの意味だけが、信仰とキリスト教神学の真髄です。」
あらゆる異端と誤りは、広く主張されているように聖書の単純な言葉から生じたのではなく、聖書の単純な言葉を無視し、純粋に主観的な比喩や推論を装うことから生じたのだと私は観察してきました。」
「神学の派閥では聖書は文字通り、比喩的に、道徳的に、そして解読的に、四つの方法で理解されるべきであるという規則がよく知られています。
しかし、もし私たちが聖書を正しく扱いたいのであれば、私たちの唯一の努力は「単一の、単純な、共通の、そして明確な文字通りの意味」としての言葉の意味を得ることです。
それぞれの一節には、それ自身の明確で明確で真実な意味があります。
他のすべてのものは、疑わしい不確実な意見しか過ぎません。」

(iv)したがって、ルターが他の多くの改革者と同じ様に比喩的解釈の妥当性を否定したことは言うまでもありません。
ルターは比喩的解釈が霊的な解釈としてみなされるべきだという主張を完全に否定しましtた。
(v)ルターもまた聖書の簡潔性を主張しました。
時々、ルターは「聖書は他の本と同じように解釈されるべき」という現代の発言に近づきました。
(vi)ルターは全力を挙げて、おそらく歴史上初めて、個人的判断の絶対的不可侵の権利を主張しました。
これは、すべてのクリスチャンの霊的司祭職の教義とともに、すべてのプロテスタント主義の土台となっています。[32]

カルヴァンは解釈の歴史において特異な立場を占めています。
ギルバート氏は彼についてこのように書いています。
「カルヴァンは千年ぶりに、非比喩的な解釈の際立った例を示しました。
カルヴァンほどフィロン氏の方法論を完全に拒絶する例を見つけるには、アンティオキア学派の最高傑作にまで遡らなければなりません。
初期の教会で提唱され、その後、数世紀にわたり著名な解釈者たちによって支持されてきた比喩的な解釈、例えばノアの箱舟やキリストの継ぎ目のない衣の解釈などは、無価値なものとして片付けられました。
この事実だけでも、カルヴァンの解釈研究に揺るぎない、卓越した名誉が与えられます。
カルヴァンが比喩的な解釈を特異なサタン的行為として拒んだ理由があります。
それは、オルレアンとブールジュでの法学教育によるものか、それとも生来の判断力によるものかは定かではありません。
しかし、その事実は明白であり、彼の解釈の際立った特徴となっています。[33]

カルヴァンは自身の立場をとても明確に述べています。

「ガラテヤ人への手紙注解の中で、カルヴァンはこのように書いています。
「聖書の真実な意味は自然で明白な意味であることを知り、それを断固として受け入れ、従うべきです。」[34]
ローマ人への手紙の序文で、カルヴァンはこのように述べています。
「翻訳者の第一の務めは、著者が実際に述べていることをそのまま述べることです。
著者が言うべきであると考えることを著者に帰属させることではありません。」」[35]

カルヴァンの貢献について、シャフ氏はこのように書いています。
カルヴァンは文法的・歴史的釈義の創始者です。
カルヴァンは、聖書著者は他の賢明な著述家と同じ様に、読者に理解できる言葉で一つの明確な考えを伝えようとしたという健全な解釈原則を肯定し、実践しました。
ある一節は文字通りの意味を持つこともあれば比喩的な意味を持つこともあるが、同時に二つの意味を持つことはできません。
神の御言葉は尽きることなく、あらゆる時代に適応されるが、説明と適用には違いがありまあすが、適用は説明と一致していなければなりません。」[36]

この全期間に関してファラー氏は次のように書いています。
「宗教改革者たちは聖書解釈の科学に大きな刺激を与えました。
彼らは聖書をすべての人に分かりやすくし、何世紀にもわたってあらゆる書物とそのテキストにまき散らされてきた独断的な伝承の濃い蜘蛛の巣を剥ぎ取り、風に吹き飛ばしました。
彼らは外典を聖書よりも格段に低いレベルに置き、原語を丹念に研究し、平易で文字通りの意味を進展させ、それを霊的生活の強化と刷新のために用いました。」[37]

そしてギルバート氏はこのように要約しています。
「この時代における聖書解釈の通常の形態は、テキストの文字通りの意味を重視していたと言えます。
リチャード・フッカー(1553〜1600)の言葉は、この時代を通して広く適用されています。
「聖書の解釈において、文字通りの解釈が成立するならば、文字から最もかけ離れた解釈が、往々にして最悪である、というのが私の信条です。
錬金術が金属の物質を、もしくは金属の物質を、望むままに作り変え、あらゆるものを無に帰すように、言葉の意味を変えてしまいます。
この欺瞞的な術ほど危険なものはない」と彼は述べています。
一般に、カルヴァンが比喩的な解釈を拒んだ例は、その後2世紀の指導的な神学者や学者たちにも継承されました。[38]
宗教改革者たちの神学に立ち返るならば、彼らの神学の根拠となっている解釈の方法を受け入れなければなりません。

(VII)改革後の時代

宗教改革後の時代は、文字通りの解釈、もしくは文法的・歴史的解釈の方法論を適用することで、改革者たちの足跡を忠実に継承し台頭した人々によって特徴づけられました。

ファラー氏は次のように書いています。
「ルターが宗教改革の預言者ならば、メランヒトンは教師でした。
ツヴィングリ氏は完全な独立性をもって、この問題に関してルターの考えとすべての本質的な点で一致する見解に達しました。
多くの宗教改革論者が、ドイツとスイスの宗教改革者によって導かれた真理を広めようと努めました。
ここでは、エコランパディウス(1581)、ブツァー(1551)、ブレンツ(1570)、ブーゲンハーゲン(1558)、ムスクルス(1563)、カメラリウス(1574)、ブリンガー(1575)、ケムニッツ(1586)、ベーザ(1605)の名前を挙げるだけで十分だと思います。
これらの人々の間には、スコラ哲学的手法の拒絶、教父権威と教会の伝統の排他的優位性の否定、これまで支配的であった四重の意味の否定など、原則的に一致した見解があります。
比喩的解釈を避けること、原語の研究、文字通りの意味への細心の注意、聖書の明確さと十分性への信念、聖書全体の研究とその全内容をキリストに結びつけることなどです。」[39]

字義通りの解釈方法の基礎が築かれたのだから、この基礎の上に聖書釈義が本格的に進展するだろうと期待されるかもしれません。
しかしながら、解釈の歴史を振り返ると、信条や教会の解釈に固執しすぎて、この時代に健全な聖書解釈の進歩はほとんど見られていません。[40]
それでも、この時代から、ライデン大学教授のジョン・コッホ(1669年)、聖書にも他の書物と同じ様に解釈の原則が適用されると主張したバーゼル大学教授のジョン・ヤコブ・ウェットシュタイン(1754年)、批評と解説への貢献で名声を博し、ライトフット、ウェストコット、エリコットなどの現代の釈義家の基礎を築いたジョン・アルバート・ベンゲル(1752年)などの釈義家や学者が輩出されました。
文字通りの解釈方法の体系化に大きな影響力を持った人物の一人にジョン・オーガスタス・エルネスティがいます。
テリー氏は彼について次のように書いています。
「18世紀の聖書解釈史において、おそらく最も著名な人物はヨハネス・オーガスタス・エルネスティだと思います。
彼の著書「新約聖書解釈の原理」(Institutio Interpretis Nove Testamenti、Lipz.(1761))は、四世代にわたる聖書学者によって解釈学の標準教科書として受け入れられてきました。

ハーゲンバッハ氏は次のように述べています。
「彼は新しい聖書解釈学派の創始者とみなされます。
その原理は、聖書はその言語に従って厳密に説明されなければならないということです。
つまり、この説明においては、教会のいかなる外部権威にも、私たち自身の感情にも、(神秘主義者にしばしば見られたような)遊び心のある比喩的な空想にも、そして最終的にはいかなる哲学体系にも惑わされてはならない、というものです。」[41]

ホラティウス・ボナーのこの言葉は、あらゆる真実な聖書解釈の土台となった釈義の原則を要約したものとみなされます。
彼は次のように述べています。
「私は、神の御言葉全体 -歴史的、教義的、預言的 -の文字通りの解釈について、より大きな確信を感じています。
「もし可能ならば文字通り」こそが、創世記からヨハネの黙示録に至るまで、神の御言葉を貫く唯一の格言だと私は信じています。」[42]
教条主義と信条主義が解釈に課そうとした束縛にもかかわらず、この時代から、その後の数世紀の偉大な聖書解釈学の著作の基礎となった、確かな解釈の原則が生まれました。

これらの原則はベルクホフ氏によって次のように要約されています。
「聖書は他の書物と同じ様に解釈されなければならないという原則が確立されました。
聖書の特別な神学的要素は一般的に軽視され、解釈者は通常、歴史的・批判的な問題に関する議論に限定されました。
この時代の永続的な成果は、聖書の文法的・歴史的解釈の必要性に対する明確な認識です。
この学派は、新約聖書の解釈に関する重要な著作を書いたエルネスティによって設立され、その中で彼は4つの原則を定めた4つの原則を定めました。

(a)聖書の多様な意味は拒絶し、文字通りの意味のみを保持します。
(b)比喩的解釈や類型的解釈は、著者が文字通りの意味と別の意味を結びつける意図を示した場合を除き、認められません。
(c)聖書は他の書物と文法的な意味を共有しているため、どちらの場合も同じ様に確認されるべきです。
(d)文字通りの意味は、想定された教義的な意味によって決定されてはなりません。
文法学派は本質的に超自然主義的です。
彼らは、「テキストの言葉そのものを、真正な解釈と宗教的真理の正当な源泉とみなし」(エリオット)と自分の事を縛り付けていました。[43]
この解釈の歴史を要約すると、すべての解釈はエズラ記の字義通りの解釈から始まったということが注目されます。
この字義通りの方法はラビ主義の基本的な方法となりました。
新約聖書では旧約聖書の解釈に用いられた容認された方法であり、主とその使徒たちもこれを採用しています。
この字義通りの方法は、プラトン哲学と聖書を調和させるために考案された比喩的方法が採用されたオリゲネス氏の時代まで、教父たちの方法でした。

アウグスティヌスの影響により、この比喩的方法が国教会にもたらされ、すべての真実な解釈は終焉を迎えました。
この体系は宗教改革まで続いています。
宗教改革で字義通りの解釈方法がしっかりと確立され、教会がすべての解釈を採用された信条に一致させようとする試みにもかかわらず、字義通りの解釈は存続し、すべての真実な解釈の根拠となりました。
したがって、解釈の歴史を研究すれば、最も偉大な解釈者である主が用いられた文字通りの解釈法こそが、本来の、そして広く受け入れられた解釈方法であったという結論に至ります。
そして、それ以外の解釈法は異端を助長するために導入されたのです。
したがって、今日、あらゆる教義分野において、文字通りの解釈法は正しい解釈のための基本的な方法として受け入れられるべきです。

NOTE
[1]Cf.F.W.Farrar, History of Interpretation, pp.47-48.
[2]Cf.Bernard Ramm, Protestant Biblical Interpretation, p.27.
[3]Farrar, op.cit., p.232.
[4]Cf.ibid., pp.60-61.
[5]Charles Augustus Briggs, General Introduction to the Study of Holy Scripture, p.431.
[6]Thomas Hartwell Horne, An Introduction to the Critical Study and Knowledge of the Holy Scriptures, I, 324.
[7]Cf.Floyd Hamilton, The Basis of Millennial Faith, pp.38-39、Oswald T.Allis, Prophecy and the Church, p.258.
[8]Shirley Jackson Case, The Millennial Hope, pp.214-16.
[9]Ramm, op.cit., p.28.
[10]Farrar, op.cit., p.217.
[11]R.B.Girdlestone, The Grammar of Prophecy, p.86.
[12]Briggs, op.cit., p.443.
[13]Farrar, op.cit., pp.164-65.
[14]Ibid., p.177.
[15]Ibid., p.129.
[16]George Holley Gilbert, The Interpretation of the Bible, pp.37 ff.17Farrar, op.cit., pp.182-83.
[18]Philip Schaff, History of the Christian Church, II, 521.
[19]Farrar, op.cit., pp.236-37.
[20]Ibid., p.238.
[21]Gilbert, op.cit., p.137.
[22]Farrar, op.cit., pp.213-15.
[23]Louis Berkhof, Principles of Biblical Interpretation, p.23.
[24]Farrar, op.cit., p.245.
[25]Ibid., pp.312-13.
[26]Ibid., p.320.
[27]Ibid., pp.278-79.
[28]Ibid., p.300.
[29]Briggs, op.cit., pp.456-57.
[30]Ibid.
[31]Farrar, op.cit., pp.331-32.
[32]Ibid., pp.325-30.
[33]Gilbert, op.cit., p.209.
[34]John Calvin, Commentary on Galatians, p.136, cited by Gerrit H.Hospers, The Principle of Spiritualisation in Hermeneutics, p.11.[35]Cited by Farrar, op.cit., p.347.
[36]Philip Schaff, cited by Hospers, op.cit., p.12.
[37]Farrar, op.cit., p.357.
[38]Gilbert, op.cit., pp.229-30.
[39]Farrar, op.cit., p.342.
[40]Cf.ibid., pp.358-59.
[41]Milton S.Terry, Biblical Hermeneutics, p.707.
[42]Cited by Girdlestone, op.cit., p.179.
[43]Berkhof, op.cit., pp.32-33.


第3章 解釈における一般的な考慮事項

解釈の歴史は、正しい解釈方法を採用したからといって、必ずしもその方法を支持する者が正しい結論に至るとは限らないことを示しています。
文字通りの解釈方法を用いたラビ主義は、その方法の誤用によって多くの誤った見解や解釈を生み出しました。
したがって、正しい解釈方法を確立した後であっても、その方法が誤用されて誤った結論に至ることのないよう、解釈の原則を定めることが必要です。

I.言葉の解釈

言葉が思考を伝える媒体であることは疑いの余地なく認められています。
したがって、健全な聖書解釈はすべて、必然的に言葉そのものの解釈から始まらなければなりません。
ホーン氏は、その貴重な著書「聖書の批判的研究と知識への序論」の中で、言葉の解釈に用いられる原則を優れた形で要約しています。

1.「語法の習慣(usus loquendi)」を確認します。
つまり、現在または過去にその言語を話した人々によって、特にその概念が付け加えられた文脈において、一般に言葉に付け加えられた概念を明らかにすることです。

2.単語の受け継がれた意味は、重大かつ必要な理由により放棄または無視される必要がある場合を除き、保持されるものとします。
3.単語が一般的に複数の意味を持つ場合、問題の文章に最も適しており、著者のすでに知られた特徴、感情、状況、および著者が書いたすでに知られた状況と一致するものを選択する必要があります。

4.特定の単語の力は語源からのみ導き出されますが、その不確実な科学に過度の信頼を置くべきではありません。
なぜなら、単語の本来の意味は、その一般的な意味とは大きく異なることがよくあるからです。

5.一見同義語である単語間の区別は、慎重に調べて考慮する必要があります。

6.聖書の著者らが導入した形容詞も、すべて宣言的または説明的な力を持っており、あるものを他のものと区別したり、これら2つの性格を結び付けたりするものであるため、慎重に評価し、考慮する必要があります。

7.一般単語は、時にはその全範囲にわたって使用され、時には限定された意味で使用されるが、どちらの意味で理解されるかは、範囲、主題、文脈、および類似箇所によって決まります。

8.どの文章についても、最も単純な意味、つまり十分な知識を持ち、慎重に知的な読者に最も簡単に思い浮かぶ意味が、おそらく真実な意味です。
9.神に用いられた著者たちが、最初にヘブライ語やギリシア語で書いたのと同じ言説を、私たちの言語で表現するのが解釈の意図なのです。
ゆえに、私たちの解釈や版が正しくあるためには、霊感のある筆人たちが書いたときに肯定したり否定したりする以上のことを、さらに肯定したり否定したりすべきではないことは明らかです。
ゆえに、私たちは、聖書から感覚を引き出すよりも、聖書から感覚を引き出すことにもっと積極的になるべきなのです。

10.テキストの意味を結論づけ、それによって何かを証明する前に、その意味が自然理性に反しないことを確認しなければなりません。[1]

アンガス・グリーンはホーン氏の主張を補足して次のように述べています。
「聖書の言葉は、その意味が文中の他の言葉、議論または文脈、または聖書の他の部分と矛盾することが示されない限り、共通の意味で解釈されなければなりません。
二つの意味のうち、一般的には、聞き手や霊感を受けた箇所を最初に読んだ読者にとって理解しやすい意味の方が優先されます。
これは、その時代の一般的な思考様式や、一般的な規則から外れないほど馴染み深い比喩的表現を考慮に入れた上での判断することです。
したがって、聖書のどの箇所の真実な意味も、言葉が持つすべての意味ではなく、それ自体が真実であるすべての意味ではなく、霊感を受けた著者、もしくは著者自身によって不完全に理解されていたとしても聖霊によって意図された意味となります。」[2]
したがって、言葉は通常の、自然な、文字通りの意味で解釈されなければなりません。」

II.文脈の解釈

二番目に考慮すべき重要な点は、どの文章がどのような文脈で登場するかです。
文脈解釈を導く一定の規則が存在します。

ホーン氏はそれを次のように要約しています。
1.前後の部分を慎重に考慮することで、問題の箇所に最も適した意味が文字通りか比喩的かを判断することができます。
2.聖書の講話や書物の文脈は、1節、数節、全期間または全区分、全章、または全書で構成される場合があります。
3.聖書が一つの主題や議論だけで構成されていることがあります。
その場合には、その全体が先例と後例を参照しなければならず、一緒に検討する必要があります。

節の前後関係を調べるには、次のことが望ましいと考えます。
1.すべての節の各単語を調べることです。
そして、そのつながりは助詞によって形成されるので、これらは常に主題と文脈が要求する意味を受け取る必要があります。
2.文章全体を慎重に調べてください。
3.詩や一節は、より近い文脈よりも遠い文脈の方が一致する場合を除き、遠い文脈と結び付けられてはなりません。
4.著者が論説を続けているかどうかを調べてください。
そうしないと、著者は現実には同じ主題を主張しているのに、別の議論に移行しようとしていると推測されます。
5.聖書に現れる介入、注釈は特に注意されるべきです。
特に、十分な理由がなければ介入を挿入すべきではありません。
6.文脈に合う説明以外は認められません。
7.各書物の前後部分とのつながりが見つからない場合は、つながりを探す必要はありません。[3]

IIi.歴史的解釈

あらゆる解釈において第三の考慮事項は歴史的解釈であり、そこでは直接的な歴史的背景と影響を慎重に考慮する必要があります。
ベルクホフ氏は、この解釈段階における考慮事項を優れた形で要約しています。

1.歴史解釈の基本的な前提

a.神の御言葉は歴史的な方法を起源としています。
ゆえに、歴史の光の中でのみ理解されます。
b.言葉は、生きた言葉として認識されるまでは完全に理解されることはありません。
つまり、それは作者の魂を起源としているものなのです。
c.適切な歴史的背景を踏まえて見ない限り、著者を理解しその言葉を正しく解釈することは不可能です。
d.場所、時間、状況、そして世界や人生全般に対する一般的な見方が、その時間、場所、状況の条件下で生み出された文章に自然に色を付けることになります。

2.釈義者への要求
これらの前提を踏まえると、歴史解釈は釈義者に次のような要求が課されます。

a.その者は、自分が説明しようとしている作品の作者について、その出自、性格や気質、知的、道徳的、宗教的特徴、さらには彼の人生の外的状況など、知ろうと努めなければなりません。
b.研究者には、入手可能な歴史的資料と歴史的仮説を用いて、可能な限り、検討対象となるそれぞれの著作が生まれた環境、つまり作者の世界を再構築する義務があります。
著者は、著作が書かれた国土の自然的特徴、そして著作が書かれた人々、もしくはその人々のために書かれた人々の性格や歴史、慣習、道徳、宗教について情報を得なければなりません。
c.著者は、検討中の著作の性格をより直接的に決定づけたさまざまな影響、たとえば、元の読者、著者が念頭に置いていた目的、著者の年齢、心境、著者がその本を執筆した特別な状況などを考慮することが、最も重要であることに気づくはずです。
d.さらに、著者は霊的に紀元1世紀、そして東洋の環境へと移行しなければなりません。

著者の立場に身を置き、著者の魂の奥深くに入り込み、いわば著者の人生を生き、著者の思考を巡らせるまで至らなければなりません。
これはつまり、著者を現代に置き換え、20世紀の言語を話させようとする、よくある誤りに慎重に注意しなければならないことを教えています。[4]

iv.文法的解釈

いかなる解釈においても、第四の考慮点は、その文章が元々用いられた言語の文法の解釈です。
もちろん、これは原文の知識なしには不可能です。

セルリエ氏の訳を手がけたエリオット氏とハルシャ氏は、この基本原則を次のように述べています。
「翻訳者は、聖書文献学の助けを借りて、テキストの文法的意味を研究することから仕事を始めるべきです。
他のあらゆる著作と同じ様に、文法的意味を出発点としなければなりません。
語句の意味は、言語的使い方と文脈に基づいて決定されなければなりません。」[5]

テリー氏は次のように付け加えています。
「デイヴィッドソン氏はこのように述べています。
「文法的解釈と歴史的解釈は、正しく理解するならば同義です。
聖書の著者たちが言語を用いて用いた特別な文法則は、彼らの特殊な状況の結果であり、歴史だけが私たちをこうした状況へと引き戻します。
聖書の著者たちのために新しい言語が作られたのではありません。
彼らはその国と時代の言語に従っただけです。
そうでなければ、彼らの著作を理解することはできません。
彼らは自分たちが見つけた使い方としての「語法の習慣(usus loquendi)」をそのまま採用しました。
当然のことながら、彼らが考え、執筆した内的・外的関係によってそれを修正していきました。
同著者はまた次のように述べています。
「文法的・歴史的意味は、文法的考察と歴史的考察の適用によって形成されます。
究明すべき最大の目的は、あらゆる言語の基礎を成す普遍文法の法則もしくは原理を含む、意味としての「語法の習慣(usus loquendi)」です。
解説者が認識し、従う文法原理の主題となるのは、霊感を受けた著者たちの意味としての「語法の習慣(usus loquendi)」です。
私たちは、歴史的調査を通して、この特有の意味としての「語法の習慣(usus loquendi)」に関する知識を獲得することができます。」[6]

テリー氏は文法史的方法論とその意図を的確に説明しています。
「彼は次のように述べています。
キリスト教学者の判断力と良心に最も合致する方法として、文法史的解釈を挙げることができます。
その基本原則は、聖書そのものから、著者が伝えようとした正確な意味を汲み取ることです。
それは、他の書物に適用するのと同じ原則、文法的プロセス、そして常識と理性の行使を聖書にも適用します。
適切な知的、教育的、そして道徳的資質を備えた文法史的解釈者は、聖書の主張を偏見や先入観なしに受け入れる必要があります。
また、その真偽を証明しようとする野心を持たずに、各書の言語と意味を恐れのない独立性をもって探求する必要があります。
その者は著者の言語、彼が用いた特定の方言、そして独特の文体と表現様式を習得します。
そして、彼が執筆した状況、その時代の風俗習慣、そして彼が意図した目的や目標を探求します。
著者は、分別のある著者であれば、故意に自分自身と矛盾したり、読者を当惑させたり誤解させたりしようとしたりはしないだろうと想定する権利があります。」[7]

V.比喩的言語の解釈

解釈者が直面する大きな問題の一つは、比喩的な表現の解釈です。
預言書は比喩的な表現をくり返して用いているため、このコミュニケーション形式は詳細に研究されなければなりません。

A.比喩的表現の使用

比喩的表現は、装飾によって言語を豊かにするため、また、抽象的な概念を伝達するために用いられることが一般的に認識されています。
人間の知性にとって、霊や霊的真理に関わる事実は、物質的なものから借用した言葉で表現されなければなりません。
霊的もしくは抽象的な言葉だけでは、明確な概念を付与することはできません。
神は喜んで私たちの必要に応えてくださいます。
神はすでに知られていることを通して、私たちを新たな知識へと導いてくださいます。
神は以前からよく知っていた言葉で御自身を明らかにされています。[8]

B.言語はいつ文字通りに解釈され、いつ比喩的に解釈されるのでしょうか?
翻訳者が直面する最初の問題は、言語がいつ文字通りに解釈され、いつ比喩的に解釈されるかを判断することです。

この問題の含意は、ホーン氏によって次のように述べられています。
「聖書の比喩的な言語を完全に理解するためには、まず、何が本当に比喩的なのかを確かめて決めることが必要です。
そうしないと、主の弟子たちやユダヤ人たちがよくやったように、比喩的なものを文字通りに解釈したり、比喩的な解釈によって言葉の文字通りの意味を曲解したりしてしまう可能性があります。
そして、次に、何が本当に比喩的なのかを確かめた後、それを正しく解釈して、その真実な意味を伝える必要があります。」[9]

ロックハート氏は、文字通りの意味と比喩的な意味を判断するための簡単なルールを次のように示しています。
「単語や表現の文字通りの意味が、そのつながりの中で意味を成す場合、それは文字通りの意味です。
しかし、文字通りの意味が意味を成さない場合は比喩的な意味です。」[10]
後に同じこの著者はこのように付け加えています。
「文字通りの意味とは言葉の最も一般的な意味であり、したがって比喩的な意味よりもはるかにくり返して出現しています。
そのため、異なる理解をする十分な理由がない限り、どの単語も文字通りの意味として扱われます。
言葉の文字通りの意味、つまり最も一般的な意味は、一貫性がある場合には、比喩的な意味やあまり一般的ではない意味よりも優先されるべきです。」[11]
したがって、解釈者は、他に判断すべき正当な理由がない限り、その言葉は文字通りの意味を持つという前提に基づいて解釈を進めることになります。
預言における比喩的解釈の使用を主張するハミルトン氏は、まさにこの前提を述べています。
預言の文字通りの解釈について従うべき良いルールは次の通りです。

(a)聖書箇所に明らかに比喩的な表現が含まれている場合です。
(b)新約聖書が文字通り以外の解釈を認めている場合です。
(c)文字通りの解釈が新約聖書の非比喩的な書物に含まれる真理、原則、または事実の記述と矛盾する場合を除き、受け入れるべきであるということです。
従うべきもう一つの明白なルールとは、旧約聖書に含まれる曖昧な啓示や部分的な啓示ではなく、非比喩的な書物に記された新約聖書の最も明確な箇所が預言の解釈の基準となるべきであるということです。
言い換えれば、聖書のより難解な部分の真実な意味を理解するための基礎として、聖書の明確で単純な部分を受け入れるべきなのです。[12]
比喩的な表現であれば、たいていの場合は明白です。

フェアバーン氏はこのように述べています。
「多くの場合、特に地方言語の場合は、その言語の性質、もしくはそれが置かれている関係性から、地方言語であるという事実が明らかだということに配慮すべきです。
また、大抵の場合、この比喩的表現が極めて簡単に見分けられる別の類の文章としては、いわゆる提韻(代名詞的な置換(synechdoche))が普及した文章があります。」[13]
同じ著者は、ある聖書の一節が文字通りか比喩的かを判断するためのいくつかの原則を次のように示しています。
最初に、文字通りに解釈すると、その主題の本質と矛盾するような発言があった場合、その言葉は地方言語のはずだという原則があります。
そのような場合に適用される二つ目の原則は、もしその言葉を文字通りに解釈すると、何か不調和な、もしくは道徳的に不適切な意味を含む場合、文字通りの意味ではなく比喩的な意味が正しい、という原則であります。
第三の原則として、言葉が文字通りなのか比喩的なのか依然として疑問がある場合は、同じ主題をより明確に、もしくはより詳細に扱っている類似の文章(もしあれば)を照らし合わせて、疑問を解消するよう努めるべきである、という点が挙げられます。[14]
この問題を解決するにあたって、セルリエ氏は次のように書いています。
「この調査は、知的な科学だけでは成功のうちには達成できません。
判断力と誠実さ、批判的な機転と公平さが必要です。
この点に関しては、いくつかの一般的な指標を挙げるにとどめます。

(a)先験的。
詩的または叙述的な文章、そして弁論や俗説においては、言語が比喩的である可能性は高くあります。
一般的に、書き手が状況、主題、または目的によってそのような言語を用いるよう促されたと推測できる場合、この可能性はさらに高まります。
検討対象の文章が生き生きとしていて高度に練られており、別の性質の対象を暗示しているように思われる場合、同様の可能性が、もちろんはるかに強くなります。
(b)後験的。
文字通りの意味が不合理であると思われる場合、可能性はさらに高くなります。
しかしながら、これらの可能性はすべてまだ不十分です。
さらに、批判的、解釈的、そして忠実に、文章のあらゆる細部を精査する必要があります。
比喩的な意味は、真実な解釈として信頼できる前に、これらすべてのプロセスによって維持されなければなりません。」[15]

言語が比喩的な場合と文字通りの場合の問題全体は、テリー氏によってうまく要約され、次のように解説しています。
「言語が比喩的に用いられ、文字通りに用いられる場合を区別するための具体的な規則を定めることは、ほとんど必要ではありません。
実際には全く不可能です。
言葉は、明らかな矛盾や不合理を伴わない限り、文字通りの意味で理解されるべきであるというのは、古くから繰り返されてきた解釈原則です。
しかしながら、この原則を実践に移すと、それは単に各人の理性的な判断に訴えるだけになるということに注意すべきです。
ある人にとって非常に不合理で、不可能に思えるものが、別の人にとっては全く単純で首尾一貫している場合があります。
特定の書物の全体的な特徴と文体、著者の意図と目的、そして問題の特定の箇所の文脈と範囲を参照する必要があります。
特に、すべての並行箇所を徹底的に照合・比較することによって決定される聖書の著者の使い方には、厳密な考慮を払うべきです。
文法的・歴史的意味を確定するのと同じ一般原則が、比喩的表現の解釈にも適応できます。
聖書の比喩的表現は、最も平凡な章と同じくらい確実で真実であることを決して忘れてはなりません。
隠喩、たとえ話、たとえ話、象徴は、神の託宣を表明するために神によって選ばれた形式であり、その意味があまりにも曖昧で不確実で、解明不可能であると考えるべきではありません。
一般に、聖書の比喩的表現は、多くの人が想像するほど理解しにくいものではないと私たちは信じています。
解釈者は、慎重に思慮深い識別によって、それぞれの比喩の特徴と意図を決定し、言語の一般的な法則、そして著者の文脈、視点、そして計画と調和して説明することを目指すべきです。」[16]

クーパー氏は、文字通りに解釈すべき時と比喩的に解釈すべき時を見極める指針となる規則を慎重に述べています。
彼はこのように述べています。
「聖書の単純な意味が常識的に通用するときは、他の意味を求めてはいけません。
したがって、関連する聖句や公理的かつ基本的な真理に照らして研究した直接的な文脈の事実が明らかに別の意味が示されない限り、すべての単語をその主要な、通常の、通常の、文字通りの意味に解釈してください。」[17]
これは翻訳者の公理になるかも知れません。

C.比喩的表現の解釈

比喩的表現の使用から生じる二つ目の問題は、比喩的表現を解釈する時に用いられる方法です。
まず最初に、比喩的表現の目的は文字通りの真実を伝えることであり、比喩を用いることで他のどの方法よりも明確に伝えられる可能性があることに配慮すべきです。
文字通りの意味は、文字通りの言葉よりも重要です。

チェイファー氏は次のように述べています。
「比喩的表現に用いられる言葉の文字通りの意味は、比喩的表現そのものの意味ではなく、むしろその比喩的表現の使用によって意図される意味として捉えられるべきです。
したがって、そのような場合、意味は一つしかありません。
そのような場合、文字通りの意味は意味そのものではありません。
この点に関して、セルリエ氏は次のように述べています。
「ヨハネの黙示録は、東洋の習慣に強く影響を受けた、いわば比喩的、詩的、比喩的な形式をまとっています。
そして、それらは言葉の文字通りの意味とは異なる意味を伝えています。
しかし、たとえそうであったとしても、文字通りの意味と比喩的な意味という二つの意味が存在するわけではありません。
比喩的意味だけが真実な意味であり、文字通りの意味は意味として存在せず、前者を媒介するものに過ぎず、それ自体には結果も真理も含まれていません。
したがって、真実な意味は一つしかありません。」
[Ma.d'Hermen.、p.41節)」[18]

ホーン氏は、あらゆる描写に暗示される意味を適切に判断するための広い意味で規則を設けています。
「1.言葉の文字通りの意味は、詩的な聖書よりも歴史的な聖書の中で保持されなければなりません。

2.言葉の文字通りの意味は、それが不適切であったり、不可能なことを含んでいる場合があります。
または言葉を正しく解釈した場合に聖書の他の部分で説かれている教義や道徳的戒律に反する内容が含まれている場合には、放棄されなければなりません。

3.比較されるものとそれが比較されるものが、それぞれどのような点で一致するか、またどのような点で類似性や類似性があるかを調べることです。

(1)比較されている物や目的の類似性がすぐに認識できるほど明確であれば、比喩的な文章の意味はわかります。
(2)神に関する比喩では、通常、特定の1つによって表される主要なものであるため、比喩の意味は、そのことが現れる文章の文脈を考慮することによって説明されます。
(3)比喩的な表現の意味は、聖書著者自身の説明からわかることが多くあります。
(4)比喩的表現の意味は、同じことが適切かつ文字通りに表現されていることです。
または同じ単語が使われている類似の箇所を参照することによっても確かめられます。
そうすることで、意味を簡単に把握できるようになります。
(5)歴史を考慮することです。
(6)教義のつながりと比喩的な箇所の文脈を考慮してください。
(7)隠喩によって表される意味を確定する場合、比較は拡張されすぎたり、表現されている人物や物に適切に適用できないものまで拡張してはいけません。
(8)一般的な比喩的表現、特に聖書の道徳的な部分に現れる比喩的表現の解釈においては、そのような表現の意味は、明白な表現によって規制されるべきです。
4.最後に、聖書の比喩的言語を説明する時には、現代の使い方から文字の適用を判断しないよう注意する必要があります。
なぜなら、東方の住民は、表現された概念に、私たちが通常目にするものとはまったく異なる特徴を付与することが非常に多いからです。」[19]
これらの規則から、比喩的言語の解釈にも、他の言語に適用されるものと同じ基本原則が適用されることがわかります。
比喩的言語の使用は、必ずしも非文字的な解釈を必要とするわけではありません。
他の分野で求められるのと同じ健全な解釈が、この分野でも求められています。

NOTE
[1]Thomas Hartwell Horne, Introduction to the Critical Study and Knowledge of the Holy Scriptures, I, 325-26.
[2]Joseph Angus and Samuel G.Green, The Bible Hand-Book, p.180.
[3]Horne, op.cit., I, 336 ff.
[4]Louis Berkhof, Principles of Interpretation, pp.113 ff.
[5]Charles Elliott and W.J.Harsha, Biblical Hermeneutics, p.73.
[6]Milton S.Terry, Biblical Hermeneutics, pp.203-4.
[7]Ibid., p.173.
[8]Angus-Green, op.cit., p.215.
[9]Horne, op.cit., I, 356.
[10]Clinton Lockhart, Principles of Interpretation, p.49.11Ibid., p.156.
[12]Floyd Hamilton, The Basis of Millennial Faith, pp.53-54.
[13]Patrick Fairbairn, Hermeneutical Manual, p.138.
[14]Ibid.
[15]Elliott and Harsha, op.cit., pp.144-45.
[16]Terry, op.cit., pp.159-60.
[17]David L.Cooper, The God of Israel, p.iii.
[18]Rollin T.Chafer, The Science of Biblical Hermeneutics, pp.80-81.
[19]Horne, op.cit., I, 356-58.


第4章 預言の解釈

I.預言に関する一般的な観察

終末論を学ぶ者にとって特に懸念される問題は、聖書の預言的部分の解釈です。
預言の解釈を規定する具体的な規則を検討する前に、預言的言語の性質に関する一般的な考察をいくつか挙げておく必要があります。

A.預言の特徴

預言的聖書の際立った特徴のいくつかは、エーラー氏によって示され、彼は次のように要約しています。
「旧約聖書の預言の特徴は以下の通りです。
(1)啓示の対象は直観という形で預言者に与えられたため、未来は預言者にとって、現在、完了、もしくは進行中の出来事として現れます。
(2)預言の対象が直観という形で与えられたという事実は、常に預言が、それ自体で完結する特定の出来事においてその対象が実現すると考える理由も示しています。
つまり、預言は一つの出来事として現れるかもしれませんが、現実には二重、三重、もしくは四重に成就することがあります。
(3)預言の対象は多数のそれぞれの事実として見られるため、それぞれの預言が互いに矛盾しているように見えることがあります。
しかし、実際には、それらは啓示された考えが分割された部分に過ぎず、互いに補完し合っています。
例えば、メシアの苦しみの状態と栄光の状態における対照的な描写などがあります。
(4)預言の問題は直感という形をとり、さらにその形に関する限り、それは見る者自身のレベルにあることを意味します。
つまり、預言者は彼自身の社会と経験の観点から将来の栄光について語ったのです。」[1]

フォン・オレリ氏はこれらの基本的な観察に次のことを付け加えています。
「(1)預言は伝えられた直後に成就することもあれば、ずっと後になって成就することもあります。
(2)預言は道徳的に条件付けされます。
つまり、預言の一部は、受け手の行動によって成就するかどうかが条件付けられます。
時には預言を思い出させることさえあります。
(3)預言は連続的に成就することもあります。
(4)預言が与えられた通りに成就することを、融通が利かない状態で要求してはいけません。
オレリがここで言いたいのは、預言の核心と、その時代の装いの殻とを切り離さなければならないということです。
(5)多くの預言、特にキリストに関する預言は、文字通り成就します。
(6)預言の形式と性質は、預言者の時代と場所によって条件付けられます。
(7)預言はしばしば全体の一部を形成するため、他の預言と比較されなければなりません。
(8)預言者は、成就において大きく隔たっている事柄を一緒に見ています。」[2]

B.預言における時間的要素

預言において時間的要素が占める割合は比較的小さいことに注意すべきです。
アンガス・グリーン氏はこれらの関係を次のように要約しています。
「預言の言葉、特に将来に関する言葉に関しては、以下の点にも注目すべきです。
1.預言者たちはしばしば、未来の出来事をあたかも自分たちの目にすでに現存しているかのように語っています。
(イザヤ書9章6節)
2.彼らは未来のことを過去のことのように語っています。
(イザヤ書53章)
3.それぞれの出来事の正確な時間が明らかにされていない時、預言者たちはそれらを連続的なものとして描写しています。
彼らは未来を時間ではなく空間で捉え、そのため全体が短縮されて見え、実際の距離ではなく遠近法で捉えています。
彼らはしばしば、一般の観測者が星を描写するように、未来の出来事を、星の実際の位置ではなく、見える形で分類して語るようです。」[3]

C.二重言及の法則

預言的な聖書の解釈において、二重言及の法則ほど遵守すべき重要な法則はありません。
成就の時期が大きく離れた二つの出来事が、一つの預言の範囲内にまとめられることがあります。
これは、預言者が自身の時代だけでなく、未来の時代に対するメッセージも持っていたためです。
大きく離れた二つの出来事を預言の範囲内にまとめることで、両方の目的が成就します。

ホーン氏は次のように述べています。
「同じ預言がしばしば二重の意味を持ち、異なる出来事を指し示しています。
一つは近い将来、一つは遠い将来、一つは現在の世界的な出来事、もう一つは霊的な出来事、もしくは永遠の出来事などです。
このように預言者たちは複数の出来事を念頭に置いているため、その表現は部分的には一つの出来事に、部分的には別の出来事に適応される場合があり、その変換は必ずしも容易ではありません。
最初の出来事で成就しなかったことは、二番目の出来事に適応されなければなりません。
そして、すでに成就したことは、しばしばこれから成就すべきことの型とみなされることがあります。」[4]
神は近いものと遠いものの両方の見通し、一方の実現が他方の実現の保証となるようにしています。

ガードルストーン氏は次のように強調しています。
「遠い未来に関する預言に対する人々の信仰を確固たるものにするために、もう一つの備えが設けられています。
そのような事柄を語る預言者は、しばしば、間もなく起こる他の事柄を預言する任務も与えられていました。
そして、これらの預言がその時代の人々に確証されたことで、人々はより遠い未来を指し示す他の預言を信じる正当性を得ました。
一方は実質的に他方の「しるし」であり、一方が真実であることが証明されれば、他方も信頼できるものとなります。
このように、最もあり得ない状況下でのイサクの誕生は、アブラハムが彼の子孫によって地上のすべての家族が祝福されると信じることを助けたのです。[5]

D.条件付き預言。
アリス氏は「命令や約束には、具体的に述べられていない条件が伴うことがあります。
これはヨナの行動に例えられる」と述べています。[6]

ヨナのメッセージに基づいて、あらゆる預言には成就の取り消しの根拠となる隠された条件が伴うと繰り返し示されています。
ホーン氏はこのような主張に対して、次のように答えています。
預言は、来たるべき審判を告発するものですが、それ自体は絶対的な未来の出来事を語るものではなく、預言を受けた人々が何を期待すべきか、そして神がその脅しと出来事の間に介入しない限り、確実に起こるであろうことを告げるものです。[7]

ガードルストーン氏は条件付き預言の問題について長く論じています。
彼はこのように述べています。
「預言の性質と成就に関わる諸点の中で、ある預言は条件付きであり、他の預言は絶対的であるという点以上に特別な注意を払うべき点はほとんどありません。
聖書の多くのカ所(例えばレビ記26章)は、異なる先見を示しています。
しかし、預言の条件付きの性質は、聖書の中で必ずしも明確に述べられているわけではありません。
例えば、ヨナは40日以内にニネベが滅ぼされると説教したと言われています。
人々はヨナの説教を聞いて悔い改め、ニネベは滅ぼされません。
しかし、私たちの知る限り、人々が悔い改めれば裁きは下らないと告げられたわけではありません。
この種の預言は数え切れないほど多く存在しており、そのような場合すべてにおいて、神が預言の文字通りの成就から逸脱することを正当化する、何らかの暗黙の、しかし根底にある条件があったことに違いないと結論づけられます。
その条件が何であるかは、エレミヤ書18章やエゼキエル書33章といった章から読み取ることができます。
エレミヤが陶工の仕事ぶりを見て、神の主権という偉大な教訓を学んだ後、さらに一つのメッセージが彼に与えられました。

「わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、
もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。
わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、
もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。」
(エレミヤ書18章7~10節)


エレミヤはこの原則に基づき、祭司や預言者たちが彼を殺そうとした時、首長たちにこのように語りました。

「エレミヤは、すべての首長とすべての民に告げてこう言った。
「主が、あなたがたの聞いたすべてのことばを、この宮とこの町に対して預言するよう、私を遣わされたのです。
さあ、今、あなたがたの行ないとわざを改め、あなたがたの神、主の御声に聞き従いなさい。
そうすれば、主も、あなたがたに語ったわざわいを思い直されるでしょう。」
(エレミヤ書26章12、13節)


もし民がある意味で悔い改めるなら、主は別の意味で悔い改めます。
そして、どのような根拠に基づいて悔い改めるでしょうか?
それは、神の本来の本質的かつ永遠の属性、そしてこれらの属性の結果として神が先祖たちと結ばれた古い約束と契約に基づくのです。」[8]

ガードルストーン氏は、裁きの預言が悔い改めを条件とする場合があり、また神が罪と罪人に対して普遍的に対処されるという教えに従えば、罪人が神に立ち返れば裁きは回避される可能性があることを認めています。
「預言の他の領域では何も述べられていない条件を暗示的に提示できるとは考えていません。
彼は、この誤った結論を覆すために、次のように付け加えています。
すべての預言的な発言は条件付きであると言えるでしょうか?
決してそうではありません。

「主は誓い、そしてみこころを変えない。」
(詩篇110篇4節)

このように言われた事柄がいくつかあります。
これらの取り消し不可能な約束は、人間の善良さではなく、神の善良さにかかっています。
たとえそれがいつ、どこで実現されるかという条件が付いていても、その実現は絶対的です。
時と季節は変更されるかもしれませんし、日が短くなるかもしれませんし、出来事は早まったり遅れたりするかもしれませんし、個人や国家は約束の範囲内に入るかもしれませんし、外に立つかもしれません。
しかし、出来事そのものは秩序があり確実であり、神の誓いによって封印され、神のいのちそのものによって保証されています。」[9]

預言の条件付きと無条件の側面の関係はピーターズ氏によって観察され、彼は次のように解説しています。
「神の王国の樹立に関する預言には条件付きのものと条件なしのものの両方があります。
この逆説は、単に、神の王国は選民の先行する集合によって成就が条件付けられ、したがって延期される可能性があるということを意味しています。
しかし、神の王国の究極的な成就に関しては条件付けられておらず、人間の行いによって妨げられることはありません。
神の王国そのものは神の目的に属するものであり、神聖な契約の対象です。
ゆえに、厳粛な誓約によって確認され、救済の過程において意図されています。
つまり目的であるべきであり、したがって破られることはあり得ず、破られることはありえません。
しかし、神の王国の継承者たちは条件付けられており、その数は神のみが知る一定数です。
そして、神の王国そのものは、あらかじめ定められています。
しかし、その現れに関しては、彼らが獲得されることに依存しています。」[10]

したがって、人間の行為に依存する預言は条件付きであるかもしれません。
しかし、神に依存する預言は、条件が明確に示されない限り、条件付きではあり得ないという結論に至ります。
不変の契約に基づく預言には、いかなる条件も加えることはできません。
したがって、預言の成就に何らかの条件を付す根拠はありません。

II.預言的啓示の方法

未来の出来事は、預言的な直接的な発言に加えて、型、象徴、たとえ話、夢、そして預言的な恍惚状態を通して啓示されています。
こうした預言的啓示の解釈には伴う問題があるため、預言全体の解釈という問題を考える前に、まずこれらの問題を一つ一つ検討する必要があります。
なぜなら、預言の理解は、その伝達経路を理解することなしにはあり得ないからです。
したがって、学生は預言の言語、つまりその比喩や象徴、そして伝達方法に精通しなければなりません。

テリー氏は次のように述べています。
「聖書の預言的部分を徹底的に解釈するには、比喩的言語、そして型や象徴の原理と法則を熟知していることが不可欠です。
また、幻を見る恍惚状態や夢の性質についてもある程度の知識が必要です。」[11]

A.予型による預言的啓示

テリー氏は「型」について簡潔で分かりやすい定義を与えています。
「神学において、型とは正確には、旧約聖書の特定の人物、出来事、制度が、新約聖書の対応する人物、出来事、制度と予め定められた代表関係を持つことを教えています」。[12]

この基本概念はアンガス・グリーン氏によってさらに拡張され、特に以下の点に配慮する必要があると指摘しています。

「1.象徴されるもの、つまり「対型」は、型に対応しながらもそれを超越する、理想的または霊的な実体が存在します。
2.予表するものとは独立して、型は独自の位置と意味を持つことがあります。
例えば、青銅の蛇は、それが象徴するはずのより偉大なる救いとは別に、イスラエル人に癒しをもたらしました。
3.したがって、その型は当時、その偉大な特徴が理解されていなかった可能性があります。
4.一般的な象徴に関しては、型の本質は付帯されている出来事とは区別されなければなりません。
5.型を適用するための唯一の安全な権威は、聖書に見られます。
単に解析するだけでは不十分です。
解説者たちはしばしば、実際には何も存在しないのに、もしくは、たとえ存在したとしても、神の特別な意図を証明することは何もないとしても、やり取りがあったことを想像してきました。
マーシュ主教の言葉を借りれば「一般的に聖書において理解されているように、あるものを別のものの型として適応するには、単なる類似性以上の何かが求められます。
前者は後者に似ているだけでなく、後者に似るように設計されていなければなりません。
それは元々そのように設計されていたはずです。
後者の準備として設計されていたはずです。
型も対型も、神の摂理という同じ全体的枠組みを構成する要素として予め定められていなければなりません。
この予め定められた設計と、この予め定められた結びつきこそが、型と対型の関係を構成するのです。」[13]

フリッチュ氏は型を慎重に定義するだけでなく、型と象徴の区別についても有益な説明をしています。
これは注目すべき点です。
彼は次のように書いています。
「神学的な意味での「型」という言葉に私が提案する定義は次のとおりです。
型とは、神によって定められた制度、歴史的出来事、または人物です。
キリスト教に関連する何らかの真理を効果的に予告するものです。
まず、型を制度、歴史的出来事、または人物として定義することにより、型はそれ自体で意味があり現実的でなければならないという事実を強調しています。
この点で、型はたとえ話とは異なります…たとえ話は架空の物語であり、もっと率直に言えば、たとえ話では扱われている物語の歴史的真実が受け入れられることもあれば、受け入れられないこともあります。
しかし、類型論では、対型の成就は元の型の現実に照らしてのみ理解することができます。」

二番目に、型と対型の間には、神が意図した繋がりがなければなりません。

ウェストコット司教はこのように述べています。
「型は、時代を超えて歴史の中で成し遂げられてきた目的を前提としています。
たとえ話は最終的には想像力の中にあります。」
三番目に、型はそれ自体として現実的かつ有効であるだけでなく、型として直接的な環境において効力を発揮します。
型が対型を効果的に予告できるのは、対型において完全に実現される効力の少なくとも一部を、型が既に内在しているからです。
四番目に、前述の点でも述べたように、類型の最も重要な特徴は、キリスト教に関連する何らかの真理、もしくはキリスト御自身を預言するものであるのは事実です。
類型論は、厳密な意味での預言とは、預言の手段においてのみ異なります。
預言は主に言葉によって預言しますが、類型論は制度、行為、もしくは人物によって預言します。
型と象徴を区別することは非常に重要です。
なぜなら、初期教会において、比喩的な解釈方法は旧約聖書の真実な意味を曖昧にし、正当な類型論の存在を不可能にしてしまったからです。
この解釈法によれば、聖書の文字通りの意味と歴史的意味は完全に無視され、あらゆる言葉と出来事は、神学上の難題から逃れられるため、もしくは特定の宗教的見解を維持するために、何らかの象徴として扱われているのです。」[14]
疑いなく、この最後の区別を守らなかったために、聖書における型の使用は比喩的な解釈を正当化すると考える人々が存在します。

フェアバーン氏も同じような見解を示しており、これは心に留めておくべきです。
「ユダヤ教とキリスト教のディスペンセーションに関係する二重の意味が付け加えられた預言を解釈する場合、どちらの場合も言葉の解釈に関係しています。
ある解釈によればある出来事に適用される同じ言葉が、別の解釈によれば別の出来事に適用されるからです。
しかし、たとえ話の解釈においては、まず最初に言葉の解釈にのみ関心が向けられています。
二つ目の意味、つまり通常比喩的意味と呼ばれるものは、物事の解釈です。
言葉の解釈は、平易で簡潔な物語そのもの(たとえ話は一般に物語の形をとる)以上のものが与えられていません。
一方、たとえ話の教訓は、それらの言葉が意味する事柄を、それらに類似した他の事柄、つまり前者が暗示しようとしていた事柄に適応させることによって理解されます。
したがって、たとえ話の解釈と二重の意味を持つ預言の解釈の間には根本的な違いがあります。」[15]
類型は本質的に預言的な性格を帯びています。」

さらにフェアバーン氏はこの点について次のように指摘しています。
「すでに説明され理解されているように、予型は必然的に預言的な性格を帯びています。
通常、預言と呼ばれるものとは性質というよりは形式において異なっています。
前者は将来の現実を象徴し、前兆となるが、後者はそれを預言しています。
前者においては比喩的行為や象徴が、後者においては言葉による描写が、神が近づいた未来においてその民のために成し遂げようと計画されたことを前もって示すという目的を果たしています。
この違いは、この二つの主題の本質に影響を与えるほどのものではありません。」[16]

予型を通して啓示された預言を解釈する時には、これまで確立されてきた健全な解釈の原則がここにも適応されることに配慮することが重要です。

アンガス・グリーン氏は次のように適切な要約をしています。
「これらすべての型、および二次的または霊的な暗示における歴史の解釈においては、厳密に言うとたとえ話や象徴を解釈するときと同じ規則を使用します。
つまり、歴史または型を、型と対型の両方が体現する一般的な真実と比較します。
いくつかの詳細では一致しますが、すべてではありません。
各部分の解釈は、全体の意図と、聖書の他の部分で与えられた神の教義の明確な啓示と調和させる必要があります。」
注意:これらの規則を適用する時には、霊感を受けた著者たちが、霊的な意味を確立するために聖書の歴史的な意味を決して破壊しなかったこと、また、言葉の中に隠された意味を見出したのではなく、各節の事実の中にのみ意味を見出したということ、そして、著者たちが、実用的または霊的に重要な何らかの真理を説明する解説にとどまったということを覚えておくことが重要です。」[17]

B.象徴による預言的啓示

預言的啓示の二つ目の方法は、象徴を用いることです。
ラム氏は、一般的に受け入れられているパターンに従って、預言的な性格を持つ象徴は6種類あると述べています。
「(1)人物、(2)制度、(3)役職、(4)出来事、(5)行為、(6)事物です。」[18]

バール氏は、このような象徴の解釈のガイドとして次の規則を示しています。
「(1)象徴の意味は、まず最初にその本質に関する正確な知識によって決定されなければなりません。
(2)一般に、モーセ・カルトの文化の象徴は、モーセの教えの宗教的思想と真理、および明確に表現され認められた原則と一致する意味しか持つことができません。
(3)それぞれの象徴の意義は、まず最初にその名称から探らなければなりません。
(4)それぞれの象徴は、一般的に、ただ一つの意味しか持ちません。
(5)それぞれの象徴は、それがどのように異なる関係で現れようとも、常に同じ根本的な意味を持っています。
(6)さまざまな象徴において、それが物であれ行為であれ、象徴化されるべき主要な概念は、必然的にその適切な表現のみに有益です。
したがって副次的な目的しか持たない概念と慎重に区別されなければなりません。」[19]

テリー氏は、象徴を扱う際の3つの基本原則を提示しています。
彼は次のように書いています。
「私たちは象徴主義の3つの基本原則として以下を受け入れます。
(1)象徴の名前は文字通りに理解されるべきです。
(2)象徴は常にそれ自体とは本質的に異なる何かを示しています。
(3)象徴と象徴されるものの間には、多かれ少なかれわずかな類似点が見られます。
したがって、象徴の解釈者にとっての大きな問題は、この象徴とそれが表そうとするものとの間に、どのような類似点が考えられるか、ということです。
そして、この質問に答えるにあたって、すべての象徴に適応されるような、緻密で厳格な規則は期待できないことは、思慮深い人なら誰でも明らかわかることです。
一般的に、上記の質問に答えるにあたっては、解釈者は、
(1)著者または預言者の歴史的立場、
(2)範囲と文脈、そして
(3)他の場所で使用されている類似の象徴や図像の解析と意味を厳格に考慮しなければならないと言えます。
つまり、あらゆる象徴の真実な解釈とは、これらの条件を最も完全に満たし、事実、理性、解析によって明確に裏付けられる範囲を超えて、類似点を一切強調しようとしない解釈なのです。」[20]

上記の著者たちが一般的な象徴の解釈について述べたことは、預言的な象徴の解釈にも適応されます。

しかし、テリー氏は、この専門的な象徴の分野に関して、次のような特別な言葉を付け加えています。
「したがって、この種の預言を解説する上で、聖書の象徴の解釈原則を判断力と技能をもって適用することが最も重要です。
この過程には特に次の3つのことが求められます。
(1)何が象徴で何がそうでないかを明確に識別し、判断できること。
(2)象徴を、偶発的な類似点ではなく、広く印象的な側面から考察すること。
(3)一般的な意味と使い方について十分に比較検討し、統一的で首尾一貫した解釈方法に従うこと。
最初の点を守らないと、象徴と文字通りの意味が際限なく混同されてしまいます。
2番目の点を守らないと、詳細で重要でない点が誇張され、より重要な教訓が曖昧になり、全体の範囲と意義を誤解してしまうことがよくあります。
3番目の原則を慎重に守ることで、類似した象徴の類似点だけでなく、相違点にも気づくことができるようになります。」[21]

預言の解釈を研究する多くの研究者が見落としている点が一つあります。
それは、聖書が自らの象徴を解釈しているという事実です。

フェインバーグ氏は次のように述べています。
「預言の中には比喩的な言葉によって伝えられるものもあります。
しかし、そのような場合、象徴は直接的な文脈、つまりそれが記されている書物、もしくは聖書の他の箇所で説明され、人間の想像力に説明の余地は残されていません。」[22]

同じ事実はガードルストーン氏の次の言葉によって証明されています。
「ヨハネの黙示録全体を見てみると、イザヤ書、エゼキエル書、ダニエル書、ゼカリヤ書に深く根ざしていない人物像や幻はほとんど見当たりません。
おそらく、老年期にこれらの書を研究したことで、預言者は近い将来もしくは遠い将来に関する幻を見るための備えができていたと思われます。」[23]

これが真実であるので、比喩的な部分を正確に解釈するには、熱心に御言葉を探求する必要があります。」

C.たとえ話による預言的啓示

将来の出来事を啓示する三番目の方法は、たとえ話を用いた教え方です。

アンガス・グリーン氏によれば、たとえ話とは「重要な真理を伝えるために作られた物語」を意味します。[24]
「主は預言的啓示の手段として、この方法をくりかえし用いられています。
したがって、たとえ話の解釈は極めて重要です。」

ラム氏はたとえ話の解釈を導く規則を簡潔に述べています。
「(1)たとえ話の物質的、または自然な部分を形成する習慣、慣習、要素の正確な性質と詳細を特定します。
(2)このたとえ話が教えようとしている中心的な真理を一つ特定します。
(3)たとえ話のうち、どの程度が主御自身によって解釈されているかを判断します。
(4)文脈の中にたとえ話の意味を知る手がかりがあるかどうかを調べます。
(5)たとえ話を一人歩きさせずに、伝えようとしている唯一の中心となる真実や主要なメッセージに焦点を当ててください。
(6)たとえ話を教義的に用いる時には注意するべきです。
(7)たとえ話の多くは、その時代背景を明確に理解することが、完全な解釈に必要です。」[25]

アンガス・グリーン氏が私たちに与えたルールでは、一貫性が特に重視されています。
これらはこのように書かれています。
「解釈の第一のルールは、文脈や類似の箇所を照らし合わせて範囲を確認することです。
そして、たとえ話が伝えようとしている唯一の真実を把握し、それをそれに隣接する他のすべての真実と区別し、たとえ話で説明されている部分をこの唯一の真実と調和して説明するべきです。
たとえ話や比喩のいかなる解釈も、それが含んでいると思われる偉大な真実と矛盾する場合は、拒否されなければなりません。
聖書に記されたたとえ話の霊感を受けた解釈から、私たちは、全体の意図だけを考慮すべきだとする極端な考え方や、すべての節に二重の意味があると主張する極端な考え方の両方を避けるべきです。
解釈の二つ目の規則は次の通りです。
たとえ話や型の意図と一致する教義であっても、そのどちらかのいかなる部分からも、神の真理の他の明確な啓示と矛盾する結論を導き出してはならなりません
解釈の第三の原則は次の通りです。
たとえ話を聖書の教義の第一、もしくは唯一の源泉とすべきではないことが重要です。
たとえ話によって証明された教義は、たとえ話によってさらに説明されたり、裏付けられたりすることはあります。
しかし、たとえ話の描写のみによって、もしくは主として教義を導き出すべきではありません。」[26]

たとえ話を扱う時には、本質的な部分と、テーマに伴うだけの部分を区別することが極めて重要です。
そうしないと、たとえ話に誤った強調が置かれ、誤った結論が導き出される可能性があります。」

ホーン氏はたとえ話の解釈を導くための、慎重かつ徹底的な規則体系を提示しています。
彼は次のように書いています。
「1.たとえ話の第一の素晴らしさは、よく知られていて、主題に当てはまり、意味が明確で確定的なイメージに基づいていることです。
この状況は、あらゆる種類のたとえ話に不可欠な明快さを与えるからです。
2.しかしながら、イメージは適切で親しみやすいだけでなく、それ自体が優雅で美しくなければならず、そのすべての部分が明快で適切でなければなりません。
なぜなら、たとえ話、特に詩的なたとえ話の目的は、ある命題をより完璧に説明するだけでなく、しばしばそれに活気と輝きを与えることにあるからです。
3.すべてのたとえ話は3つの部分から成ります。
1)感覚的な類似性-樹皮ー
2)説明または奥義的な意味-樹液または果実ー
3)それが向かう根源または範囲
4)たとえ話を正しく説明し適用するには、たとえ話の全体的な範囲と意図を確かめなければなりません。
5)イエスの言葉がさまざまな意味を持つように思われる場合、それを聞き手が理解できるレベルに最も達するものが真実であると私たちは確信を持って結論付けることができます。
6)すべてのたとえ話には、文字通りの意味、つまり外的な意味と、奥義的な意味、つまり内的な意味の2重の意味があるため、文字通りの意味をまず説明して、その意味と奥義的な意味の対応をより簡単に認識できるようにする必要があります。
7)たとえ話を解釈する時に、一つ一つの単語を心配して主張する必要はありません。
また、たとえ話が教え込む霊的な意味に、あらゆる部分が過度に適合または適応されることを期待すべきでもありません。
なぜなら、たとえ話には、単に装飾的な、類似性をより楽しく興味深いものにするための多くの状況が導入されているからです。
8)歴史的状況に注意を払い、また、たとえ話の元となった物事の性質や特性を知ることは、本質的にたとえ話の解釈に貢献することになります。
9)最後に、イエス・キリストは多くのたとえ話の中で教会の将来の状態を描写していますが、たとえ話を解釈する時に決して見失ってはならない重要な道徳的教訓を伝えることを意図しています。」[27]

D.夢と恍惚状態を通じた預言的啓示

預言的啓示の初期段階では、啓示はしばしば夢や恍惚状態を通してなされました。
テリー氏は預言的啓示のこの段階について次のように書いています。
「夢、夜の幻、そして霊的な恍惚状態は、人々がそのような啓示を受ける形態と条件として述べられています。
民数記12章6節にはこのように記されています。

「わたしのことばを聞け。
もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。」
(民数記12章6節)


夢は初期の神の啓示の形態において顕著に見られるが、後期にはその頻度は低下しています。
聖書に記録されている最も注目すべき夢の例としては、アビメレク(創世記20章37節)、ベテルのヤコブ(28章12節)、ギレアデ山のラバン(31章24節)、束と灯台に関するヨセフ(37章5~10節)、ミディアン人(士師記7章13~15節)、ソロモン(列王記第一3章5節、9章2節)、ネブカドネザル(ダニエル書2、4章)、ダニエル(ダニエル書7章1節)、ヨセフ(マタイによる福音書1章20節、2章13~19節)、そして東方の博士たち(マタイの福音書による福音書2章12節)が挙げられます。
「夜の幻」は本質的には夢と同じ性質のものであったようです。(ダニエル書2章19節、7章1節、使徒の働き16章9節、18章9節、27章23を参照)
しかし、夢はむしろ、神の啓示のより初期かつ低次の形態であることを私たちは観察しています。
より高次の形態は預言的恍惚状態であり、そこでは預言者の霊は神の霊に取りつかれ、人間の意識と感情を保ちながらも、全能者の幻視に引き込まれ、人間が自然に知覚することのできない言葉や物事を認識するようになります。
預言的な心の高まりは、明らかに霊的な光景、超自然的な啓示です。
時には肉体の目は閉じられるか、通常の機能を停止し、内なる感覚が、示された光景、または啓示された神の御言葉を鮮明に捉えています。」[28]

夢や預言的恍惚を通して与えられた預言の解釈には、特別な解釈上の問題は生じません。
預言の方法は独特であったとしても、与えられた内容は明確な言葉で述べられた預言と変わりません。
そのような啓示においては、言葉ではなく方法が異なっているため、新たな問題が生じることなく解釈できます。

III.預言の解釈の規則

前節では、預言の解釈に関わる言語の性質に原因となる諸問題について論じました。
ここでは、預言の内容が明確に理解された後に、預言の解釈に関係する一般原則について考察します。
預言の解釈には、言葉、文脈、文法、歴史的状況といった、あらゆる解釈の分野において受け入れられている原則と同様の配慮が必要です。

テリー氏は次のように述べています。

「預言の特殊性を正しく認識しつつも、その解釈においては、他の古代の書物の解釈と本質的に同じ重要な原則を用いなければならないことが分かります。
まず、預言者の歴史的立場を解明し、次にその書の範囲と計画を解明し、さらにその言葉と象徴の使い方と意義を解明し、最後に、対応する聖書箇所を十分かつ的確に比較検討する必要があります。」[29]
預言の解釈を導く規則のリストは数多く存在します。[30]

おそらくラム氏が暗示したものが最も有益です。
「(1)預言者とその預言の歴史的背景を解明します。
(2)固有名詞、出来事、地理的言及、慣習や物質文化への言及、動植物への言及の完全な意味と重要性を解明します。
(3)その箇所が預言的か教訓的かを判断します。
(4)預言的であれば、成就したか、成就しなかったか、もしくは条件付きかを判断します。
(5)同じテーマや概念が他の箇所でも扱われていないかを判断します。
(6)念のために、その箇所の流れを鮮明に記憶する、つまり文脈に注意を払います。
(7)預言の中で純粋に地域的または一時的な要素に注目します。
(8)預言の文字通りの解釈を、預言的解釈における限定的な指針とします。」[31]

A.文字通りに解釈します。
預言の解釈に関して最も考慮すべきことは、聖書解釈の他のすべての分野と同じ様に、預言も文字通りに解釈しなければならないということです。
預言的啓示がどのような形でなされるかに関わらず、その形式を通して何らかの文字通りの真理が明らかにされます。
その真理を発見するのは解釈者の役割です。

デイビッドソンは次のように断言しています。
「これが私が預言解釈の第一原則と考えるものです。
つまり、預言者を文字通り読むこと、文字通りの意味が預言者の意味であると仮定すること、預言者が象徴ではなく現実の間、国民のような具体的なものの間、教会や世界などの抽象的なものの間ではなく、人々の間で動いていると仮定することです。[32]
文字通りではない解釈方法が採用される理由は、ほぼ例外なく、聖書箇所の明白な解釈を避けたいという願望によるものです。
聖書の教えを、教義を聖書と調和させるのではなく、何らかの既成の教義体系と調和させたいという願望が、この方法を存続させてきたのです。」[33]

「預言を文字通りに解釈する方法の最大の確証は、すでに成就した預言を成就するために神が用いた方法を観察することから得られることは間違いない」とマッセリンク氏は言っています。
したがって、私たちは成就した預言から成就していない預言を解釈する方法を導き出すことができます。
なぜなら、新約聖書に記録されている成就した預言から、成就していない預言を解釈するための指針を安全に導き出すことができるからです。[34]

私たちの視点から見ると、預言は成就したものと成就していないものに分けられます。
神の視点から見ると、預言は時間的に分割できない単位です。
単位であり、したがって分割できないため、現在成就している預言に用いられた方法は、将来、成就を待つ預言を成就させる方法でもあります。
成就した預言という分野において、文字通りに成就した預言以外を指摘することは不可能です。
新約聖書は、旧約聖書を成就させる他の方法を知りません。
このようにして、神は神聖な原則を確立しています。

フェインバーグ氏は次のように述べています。
「まだ成就していない預言を解釈する時には、すでに成就した預言が型となります。
神が将来の預言をどのように成就されるかを知る唯一の方法は、神が過去にどのように成就されたかを確認することです。
苦難のメシアに関する預言はすべて、キリストの最初の降臨において文字通り成就しました。
栄光を受け、支配するメシアに関する預言が、他の方法で成就すると信じる理由はありません。」[35]

結論としては、新約聖書の文字通りの成就方法は、未成就の預言に関して文字通りの方法が神の方法であることを確立している、ということになるでなります。」

B.預言の調和に従って解釈します。

二つ目のルールはペテロの手紙二1章20、21節に定められています。
著者は預言は「個人的な解釈」によるものではないと断言しています。
預言は預言全体の計画と調和して解釈されなければなりません。

フェインバーグ氏は次のように述べています。
「預言の解釈には、明確に定義されたいくつかの法則があります。
聖書自体が、それらの中で最も重要かつ最初の法則を定めています。
ペテロは第二の手紙の中でこのように述べています。

「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。
すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」
(ペテロの手紙二1章20、21節)


これは、私人が預言を解釈できないという意味ではありません。
使徒が意図したのは、御言葉の預言は、それ自体のみを照らし合わせて解釈されるべきではなく、預言的啓示の他のすべての部分も考慮に入れ、熟考すべきであるということです。
すべての預言は、驚くべき啓示の計画の一部です。
あらゆる預言の真実な意味を理解するには、預言の計画全体と、計画における各部分の相互関係を念頭に置く必要があります。」[36]

これには、預言の一般的なテーマだけでなく、特定のテーマに関連するすべての聖句を慎重に研究して、調和のとれた見解を得ることが必要です。
なぜなら、1つの預言が他の預言に光を投げかけることがよくあるからです。

C.預言の視点を観察してみましょう。
互いに何らかの関連性を持ち、一つの計画の一部である出来事、もしくは別の計画に型として示されているため二重の言及がある出来事は、成就の時期が大きく離れていても、一つの預言としてまとめられることがあります。

フェインバーグ氏は次のように述べています。
「預言の解釈において、視点に十分な注意を払わなければなりません。
将来の出来事の中には、現実には異なる距離にあるにもかかわらず、ある限られた視野の中にまとめて見られるものがあります。
これは特に、いわゆる大預言者たちの預言に適応できます。
バビロン捕囚、主の日の出来事、バビロンからの帰還、イスラエルの世界的な離散、そして彼らが将来、地の隅々から再び集まることに関する預言が、一見ほとんど無差別にまとめて見られることが多くあります。」[37]
この原則を守らないと混乱が生じます。」

D.時間関係に注目してください。
既に指摘したように、成就の時期が大きく離れている出来事が、一つの預言の中で扱われることがあります。
これは特にキリストに関する預言において顕著で、第一再臨と第二再臨の出来事が、あたかも同時に起こるかのように一緒に語られています。
同じ様に、ユダヤ人の第二離散と第三離散も、預言の中では途切れることなく起こるものとされています。

フェインバーグ氏はこの原則について次のように述べています。
「預言的解釈におけるもう一つの規則は、短縮法と呼ばれるもので、アーサー・T・ピアソン博士によれば、これはいくつかの形態をとる可能性があります。
類似した性質を持つ2つ以上の出来事が、共通の輪郭で描写されることがあります。
さらに、短縮法のよくある重要な例として、未来の出来事が並んで描かれているのに、成就の出来事には大きな隔たりがあるというケース氏が際立っています。」[38]

預言者は、遠く離れた出来事を連続したものとみなしたり、将来の出来事を過去または現在としてみなしたりすることがあることに注意することが重要です。

E.預言をキリスト論的に解釈しましょう。

すべての預言の中心テーマは主イエス・キリストです。
キリストの御人格と御業こそが、預言の物語の壮大なテーマです。
ペテロはこのように書いています。

「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。
彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。」
(ペテロの手紙第一1章10、11節)

ヨハネはこのように記しています。

「イエスのあかしは預言の霊です。」
(ヨハネの黙示録19章10節)


まさに、二人ともこの事実を強調しています。

F.歴史的に解釈する
解釈を行う前に、預言者とその預言の歴史的背景を知らなければならないことは、言うまでもありません。

ラム氏はこのように述べています。
「歴史の研究は、預言が教訓的なものであれ預言的なものであれ、あらゆる預言研究の絶対的な最初の出発点です。」[39]この歴史的背景には、「…すべての固有名詞、出来事、地理的な言及、慣習や物質文化への言及、そして動植物への言及の完全な意味と重要性」が含まれています。」[40]

G.文法的に解釈する
この点については既に十分に述べられています。
ここでは預言の解釈者に対し、文法的解釈を規定する厳格な規則が、この研究分野にも同じ様に慎重に適用されなければならないことを念頭に置いておくだけで十分です。

H.二重言及の法則に従って解釈する
これについては以前にも同じ様に論じました。
預言は近い将来と遠い将来が存在することを思い出すだけで十分なのです。
これらの預言のうち、近い将来はすでに成就し、遠い将来はまだ成就していないかもしれません。
もしくは両方とも成就した預言の領域にあるのかもしれません。
また、似たような性質を持つ二つの出来事が二重に述べられている可能性もあり、どちらも遠い未来に起こる出来事となります。
預言の一部が成就したが、残りの部分が成就していないという事実は、その未成就部分を比喩的もしくは文字通りではないに成就させる方法を支持するものではありません。
しかし、そのような部分的な成就は、完全に全体が将来、文字通りに成就することを約束するものとなります。

I.一貫した解釈を心がけましょう。

預言の分野において、複数の解釈方法を混ぜることは不可能です。
一つの解釈方法を採用し、一貫して用いる必要があります。
預言の解釈における問題は、この一貫性の問題にあると言っても過言ではありません。
健全な解釈原則の適用において一貫性がなかった分、私たちは結論や解釈において誤りを犯してきました。
預言の解釈におけるこれらの健全な規則を遵守することで、聖書を正しく解釈することができます。

NOTE

[1]Gustav Friedrich Oehler, Theology of the Old Testament, pp.488 ff.
[2]C.Von Orelli, “Prophecy, Prophets,” International Standard Bible Encyclopaedia, IV, 2459-66, summarized by Ramm, op.cit., p.158.
[3]Joseph Angus and Samuel G.Green, The Bible Hand Book, p.245.
[4]Thomas Hartwell Horne, Introduction to the Critical Study and Knowledge of the Holy Scriptures, I, 390.
[5]R.B.Girdlestone, The Grammar of Prophecy, p.21.
[6]Oswald T.Allis, Prophecy and the Church, p.32.
[7]Horne, op.cit., I, 391.
[8]Girdlestone, op.cit., pp.25 ff.
[9]Ibid., pp.28 ff.
[10]George N.H.Peters, The Theocratic Kingdom, I, 176.
[11]Milton R.Terry, Biblical Hermeneutics, p.405.
[12]Ibid., p.336.
[13]Angus-Green, op.cit., pp.225-26.
[14]Charles T.Fritsch, “Biblical Typology,” Bibliotheca Sacra, 104:214, April, 1947.
[15]Patrick Fairbairn, The Typology of Scripture, pp.131-32.
[16]Ibid., p.106.
[17]Angus-Green, op.cit., p.227.
[18]Bernard Ramm, Protestant Biblical Interpretation, p.147.
[19]Cited by Terry, op.cit., pp.357-58.
[20]Terry, op.cit., pp.356-57.
[21]Ibid., p.415.
[22]Charles L.Feinberg, Premillennialism or Amillennialism, p.37.
[23]Girdlestone, op.cit., p.87.
[24]Angus-Green, op.cit., p.228.
[25]Ramm, op.cit., pp.179 ff.
[26]Angus-Green, op.cit., pp.230-33.
[27]Horne, op.cit., I, 366-68.
[28]Terry, op.cit., pp.396-97.
[29]Ibid., p.418.
[30]Cf.Ramm, op.cit., pp.157-162 for a summary of the rules by various writers on hermeneutics.
[31]Ramm, op.cit., pp.163-73.
[32]A.B.Davidson, Old Testament Prophecy, p.167.
[33]Cf.Angus-Green, op.cit., pp.247-48.
[34]William Masselink, Why Thousand Years!, p.36.
[35]Feinberg, op.cit., p.39.
[36]Ibid., p.37.
[37]Ibid., p.38.
[38]Ibid.
[39]Ramm, op.cit., p.163.
[40]Ibid., p.164.


第二部 聖書の契約と終末論

第5章 アブラハム契約


導入
聖書に含まれる契約は、御言葉を解釈する者、そして終末論を学ぶ者にとって極めて重要です。
神の終末論的計画はこれらの契約によって規定され、また、個人の終末論体系はこれらの契約の解釈によって規定され、制限されます。
これらの契約は、聖書的終末論の基礎として、熱心に研究されなければなりません。
この研究の冒頭で指摘しておかなければならないのは、聖書における契約は、契約神学者が提出された神学的契約とは全く異なるということです。
契約神学者は歴史の時代を、神と罪人との間に結ばれた契約の進展と捉え、神はキリストの死の価値を通して、信仰によって神のもとに来るすべての者を救うと考えました。
契約神学者の考える契約は、以下のように要約できます。

贖罪の契約(テトスへの手紙1章2節、ヘブル人への手紙13章20節)
通常、神学者たちはこの契約において、神の位格は永遠の昔から結ばれており、神の御言葉に啓示されているように、それぞれの現在の受け分である、偉大な贖罪の計画における役割を担っていると考えています。
この契約において、父は御子を与え、御子は傷のない御自身を父に捧げ、聖霊はこの契約のあらゆる部分において、実行するために力を与えています。
この契約はわずかな啓示に基づいています。
むしろ、それが合理的かつ必然的であるように見えるという事実によって支えられています。
行いの契約とは、神が人間に与え、人間の功績を条件とする祝福を神学者が定義したものです。
堕落以前、アダムは行いの契約によって神と結ばれていました。
救われるまで、人間は創造主の人格に倣い、神の御心を行うという生来の義務を負っています。
恵みの契約とは、神学者たちがあらゆる時代における神の人間への恵みのあらゆる側面を指すために用いる言葉です。
神の恵みの行使は、キリストの死によってもたらされた神の裁きの償いによって義にかなうものとなります。[1]

契約神学者の立場には聖書と一致する点が数多くあります。
しかし、契約神学は聖書を終末論的に説明するには完全に不十分です。
なぜなら、終末論の計画全体を規定する聖書の契約という広大な領域を無視しているからです。

前述の著者は次のように述べています。
「神学単語である「行いの契約」と「恵みの契約」は、聖書には見当たりません。
もしこれらが維持されるべきならば、聖書の権威とは全く無関係でなければなりません。
改革派神学は、人間が考案したこの二つの契約に基づいて、構築されてきました。
改革派神学は、神が罪人を赦すことができるのは、御子のささげ物によって確保された自由によってのみであるという経験的真理によります。
―旧秩序において予見され、新秩序において実現されました。
このことをを認めていますが、この神学は、時代の目的、つまりユダヤ人、異邦人、教会と神との関係の多様性、そしてそれぞれの神との関係の性質から直接かつ避けられない形で生じる、特異で一貫した人間の義務を全く理解できていません。
悔い改めた罪人に対する神の恵みはどの時代でも不変であるという点を発見する以上の聖書の教えを説いていません。
不変の恵みという唯一の真理の上に、時代を超えて続く普遍的な教会という概念を構築する神学は、啓示の広大な領域を無視しているだけでなく、部分的な真理が生み出す避けられない混乱と誤った方向に進んでいます。」[2]

したがって、この研究は、改革派神学に含まれる契約ではなく、むしろ聖書に規定されている決定的な契約に焦点を当てています。

A.聖書における「契約」という言葉の使い方

単語索引を調べれば、「契約」という言葉が旧約聖書と新約聖書の両方にくり返して登場することがわかります。
神と人、人と人、国家と国家の関係において用いられています。
また、現在の世界的な事柄にも永遠の事柄にも用いられています。
聖書には、小さな契約や現在の世界的な契約に関する記述があります。
契約は個人間で結ばれます。(創世記21章32節、サムエル記第一18章3節)
個人と集まりの間で結ばれることもあります。(創世記26章28節、サムエル記第一11章1、2節)
ある国家が別の国家と結ぶこともあります。(出エジプト記23章32節、34章12、15節、ホセア記12章1節)
社会的な領域においても契約は存在しました。(箴言2章17節、マラキ書2章14節)
特定の自然法は契約とみなされていました。(エレミヤ書33章20、25節)
神によって定められたこれらの最後の法則を除き、上記のすべての使い方は人間同士の関係を規定しています。
聖書には、神が人間と交わした五つの主要な契約についても述べられています。

リンカーン氏はこれらを次のように要約しています。
「わたしは~する」という表現で示される無条件の契約は次の箇所で見られます。
(1)創世記12章1〜3節に7回。
(2)申命記30章1〜10節に12回。
(3)サムエル記第二7章10〜16節に7回。
(4)エレミヤ記31章31〜40節に7回。

「もしあなたがたが望むなら」という表現で示される条件付きの契約は見られます。
(5)出エジプト記19章5節以降、申命記28章1〜68節。

1~14節「もしあなたがたが熱心に聞き従うならばー祝福」、15、68節「もしあなたがたが聞き従わないならばー呪い」とあります。
終末論の研究は、人間同士が結んだ小さな契約や、神と人間が結んだモーセの契約には関係しないことは明らかです。
なぜなら、これらはすべて一時的であり、将来の事柄に関しては決定的なものではないからです。
終末論の研究は、神が預言の計画に関して自らに義務を負わせた、神によって与えられた4つの永遠の契約のみに関係しています。

B.契約の定義
契約は以下のように定義されます。
神の契約とは、
(1)神が人間と無条件または宣言的な契約を締結し、神の恵みによって「わたしは~する」という制約のない定型句によって、契約相手に明確な祝福をもたらすことを自らに義務付けられます。
もしくは、
(2)神が人間と条件付きまたはお互いの契約を締結し、「もしあなたがたがそう望むなら」という付随的な定型句によって、人間が特定の条件を完全に満たす限り特別な祝福を与え、満たさない場合は明確な罰を執行することを約束する、神の提案です。[4]
この定義は、人が締結し、その人の行動方針が拘束される法的契約としてのこの言葉の慣習的な定義および使い方から逸脱するものではないことに配慮すべきです。

C.契約の種類
神がイスラエルと結ばれた契約には、条件付きのものと無条件のものの二種類があります。
条件付きの契約では、契約の成就は契約を交わす者ではなく、契約を受ける者によって左右されます。
契約の交わし手が約束を成就する義務を負う前に、契約を受ける者が一定の義務や条件を満たさなければなりません。
これは「もし」という条件が付帯する契約です。
まさに神がイスラエルと結ばれたモーセの契約はそのような契約です。
無条件の契約では、契約の成就は契約を交わす者のみによって左右されます。
約束されたことは、契約を受ける者の功績や反応とは無関係に、契約を交わす者の権威と誠実さに基づいて、契約の受け手に主権的に与えられます。
これは「もし」という条件が一切付帯しない契約です。
この点に関する思考を保護するために、無条件の契約は契約を締結する者を特定の行動に拘束するが、その契約には、契約の受益者の反応を条件とする祝福が伴う場合があります。
これらの祝福は元の契約から生じるものであるが、これらの条件付きの祝福は契約の無条件の性質を変えるものではないことに配慮すべきです。
無条件の契約に条件付きの祝福が伴う場合があることを認識しなかったために、多くの人が、条件付きの祝福は条件付きの契約を必要とするという立場に陥り、イスラエルの決定的な契約の本質を歪めてきました。

D.契約の性質。
神が交わされた契約に関して、注目すべきいくつかの事実があります。

1.まず最初に、これらの契約は文字通りの契約であり、文字通りに解釈されるべきです。
ピーターズ氏はこの命題を的確に述べています。
「あらゆる地上の取引において、一方が他方に価値ある約束を与える約束、合意、もしくは契約が締結される場合、そのような関係とその約束を、文法や日常的な慣習に含まれるよく知られた言語法則によって説明するのが普遍的な慣習です。
それ以外の観点から見れば、不合理で取るに足らないものと見なされます。
契約の本質は、それが何世紀もかけて進展していくような隠された、もしくは奥義的な意味ではありません。
決定的な意味を伝えるような言葉で表現され、明確に表現されることを要求しています。[5]
こうした解釈は、確立された文字通りの解釈方法と調和します。

2.二番目に、聖書によれば、これらの契約は永遠です。
リンカーン氏は次のように指摘しています。
「イスラエルの契約はすべて永遠のものと呼ばれていますが、モーセの契約は一時的なものと宣言されています。
つまり、約束の子孫が来るまでしか存続しないことになっています。
詳細については、以下を参照してください。
アブラハムの契約は
(1)創世記17章7節、13節、19節、歴代誌第一16章17節、詩篇105篇10節で「永遠」と呼ばれています。
(2)パレスチナ契約はエゼキエル書16章60節で「永遠」と呼ばれています。
(3)ダビデ契約はサムエル記第二23章5節、イザヤ書55章3節、エゼキエル書37章25節で「永遠」と呼ばれています。
(4)新しい契約はイザヤ書24章5節、61章8節、エレミヤ書32章40節、50章5節、ヘブル人への手紙13章20節で「永遠」と呼ばれています。[6]

3.三番目に、これらの契約は文字通りのものであり、永遠であり、その成就は神の完全性にのみ依存するものである以上、無条件の性質を持つものとみなされなければなりません。
この問題については後ほど詳しく検討します。

4.最終的に、これらの契約は契約の民であるイスラエルと結ばれました。
ローマ人への手紙9章4節ではパウロは、イスラエルという国が主から契約を受けていたと述べています。
一方、エペソ人への手紙2章11、12節では、異邦人はそのような契約を受けておらず、したがって神との契約関係を受け取っていないと述べています。
この二つの箇所は、否定的に言えば異邦人は契約関係を持たなかったこと、肯定的に言えば神がイスラエルと契約関係を結んでいたことを示しています。」[7]

I.アブラハム契約の重要性

神がイスラエル国家と結んだ4つの重要な契約のうち最初のものはアブラハム契約です。
この契約は契約計画全体の基礎として考えられなければなりません。
聖書には、神がアブラハムと結んだ契約に関する記述が数多くあり、その適用は様々な領域で見られます。
この契約は救済論の教理に重要な意味を持っています。
パウロはガラテヤ人への手紙の中で、信者はアブラハムに約束された祝福にあずかることを示しています。[8]
ローマ人への手紙におけるパウロの記述は、アブラハムと交わしたまさにこの契約の約束に基づいています。[9]
人間の堕落直後、神は罪人に救いを与えるという御自身の目的を明らかにされました。
この計画は、神によって人間へと徐々に展開されました。
アブラハムへの約束は、この啓示における前進的な一歩を表しています。
アブラハムにおいて、神の目的はより具体的、詳細、簡潔、明確、そして確実なものとなりました。
具体的とは、アブラハムを他の種族から区別し、区別することであり、詳細とは、救いの目的に関連するより詳細な点を示すことです。
簡潔とは、メシアを彼の直系に導き、彼の「子孫」とすることであり、明確とは、彼の神として彼と契約関係を結ぶことであり、そして確実とは、誓約によって彼の契約関係を確認することです。[10]
この契約もまた、復活の教理と重要な関係を持っています。
この契約に含まれる約束は、復活の事実に対するサドカイ派の不信仰を主が反論する根拠となっています。[11]
復活の可能性を否定する人々に対して、主は復活は可能であるだけでなく、必要になると断言されました。
神はアブラハム、イサク、ヤコブの神として御自身を啓示し(出エジプト記3章15節)、彼らと契約関係を結ばれました。
そして、これらの人々は約束の成就を受けることなく死んでいました。(ヘブル人への手紙11章13節)
契約は破られるべきではないため、神は御言葉を成就するためにこれらの人々を死からよみがえらせる必要があったのです。
パウロはアグリッパの前で(使徒の働き26章6〜8節)、この教理を擁護する中で、「先祖への約束」と死者の復活を結びつけています。
このように、肉体の復活の事実は、たとえそれが肉体の復活を伴うものであったとしても、神が契約を遂行する必然性から、主とパウロによって証明されています。
したがって、信者の復活の事実は、アブラハムと結ばれた契約の種類という問題と結びついています。[12]

さらに、この契約は終末論の教義に極めて重要な意味を持っています。
イスラエルに国家としての永続的な存在、約束の地への永遠の所有権、そしてキリストによる物質的・霊的な祝福の確実性を保証し、異邦の諸国にもこれらの祝福にあずかることを保証するこの契約の永遠の側面は、神の御言葉の終末論的計画全体を決定づける。
この契約は、後にイスラエルと結ばれる契約の種となります。
アブラハム契約の本質的要素である国土、子孫、そして祝福は、イスラエルとその後結ばれる契約においてさらに拡大されます。
リンカーン氏は次のように比較しています。
神とイスラエルとの永遠の恵み深い契約の相互関係は、次のように図示することができます。[13]

(一般的な、アブラハムとの基本的契約)//(その他の契約)
1.国土の約束//1.パレスチナ契約は、イスラエルに対し、国土の最終的、かつ恒久的な回復について特別の保証を与えています。
申命記30章3~5節、エゼキエル書20章33~37節,42~44節

2.国家的で普遍的な贖罪の約束
創世記12章3節、
22章18節、ガラテヤ人への手紙3章16節 //
2.新しい契約は、特にイスラエルの霊的祝福と贖罪との関係
エレミヤ書31章31~40節、ヘブル人への手紙8章6~13節など

したがって、アブラハム契約における国土の約束はパレスチナ契約において、子孫の約束はダビデ契約において、そして祝福の約束は新しい契約において展開されていると言えます。
この契約は、イスラエル国家の将来の計画全体を決定づけるものであり、聖書の終末論における重要な要素となっています。

II.アブラハム契約の規定

創世記12章1~3節でアブラハムと結ばれた契約は、創世記12章6、7節、13章14~17節、15章1~21節、17章1~14節、22章15~18節で確認され、さらに拡大され、いくつかの基本的な約束を定めています。

これらは以下のように要約されています。
神が約束された内容は以下の通りです。
1.アブラハムの名は偉大となります。
2.アブラハムから大いなる国民が生まれます。
3.アブラハムは大いなる祝福となり、地のすべての民族が彼によって祝福されます。
4.アブラハム自身(あなた)とその子孫に、パレスチナが永遠に相続地として与えられます。
5.アブラハムの子孫の数は地の塵のように多くなります。
6.アブラハムを祝福した者は祝福され、彼を呪った者は呪われます。
7.アブラハムは多くの民族の父となります。
8.アブラハムから王が生まれます。
9.契約は永続し、「永遠の契約」となります。
10.カナンの地は「永遠の所有地」となります。
11.神はアブラハムとその子孫にとって神となります。
12.アブラハムの子孫は敵の門を占領します。
13.彼の子孫によって地のすべての民族が祝福されます。[14]

これらの詳細を分析すると、アブラハムには特定の個人的な約束が与えられています。
アブラハムの父祖であるイスラエルという国家に関する特定の国家的な約束が与えられ、そしてすべての国々を含む特定の普遍的な祝福が与えられたことが分かります。

ウォルフォード氏はこれらを次のように述べています。
「アブラハム契約の言葉は平易で要点を突いています。
最初の契約は創世記12章1〜3節に記され、創世記13章14〜17節、15章1〜7節、そして17章1〜18節には、その内容の確認と補足が記されています。
約束の一部はアブラハム個人に、一部はアブラハムの子孫に、そして一部は異邦人、つまり「地のすべての家族」(創世記12章3節)に与えられています。」

アブラハムへの約束

アブラハム自身も、偉大な国民の父となるという約束を受けています。(創世記12章2節)
この約束には「子孫」以外の王や国家も含まれます。(創世記17章6節)
神はアブラハムに御自身の祝福を約束されます。
彼の名は大いなるものとされ、彼自身も祝福の源となります。
アブラハムの子孫への約束…その国民は大きく(創世記12章2節)、数え切れないほど多く(創世記13章16節、15章5節)なるというものです。
国民は国土の所有を約束されました。
アブラハム契約は「永遠の」(創世記17章7節)と明確に記されています。
国土の所有は「永遠の所有物」(創世記17章8節)と定義されています。
異邦人への約束、つまり「地のすべての民族」に祝福が約束されています。(創世記12章3節)
この祝福が何であるかは明記されていません。
一般的な約束として、おそらく広い意味で成就することを意図している思われます。[15]
この契約を研究するにあたって、約束が交わされた様々な領域を明確に念頭に置くことが極めて重要です。
なぜなら、ある領域で交わされた契約を別の領域に移せば、その後の解釈に混乱が生じるだけだからです。
個人的な約束を国家に移すことはできず、イスラエルへの約束を異邦人に移すこともできません。

III.アブラハムブラハム契約の特徴

アブラハム契約は、イスラエルがパレスチナの地の所有権を取得し、その地を所有する国家として存続すること、そして王の支配下でその地の恵みを受け取ることができるように贖いを受けることを定めています。
このように、この契約の成就する方法を決定することは極めて重要です。
もしこれが文字通り成就されるべき契約であるならば、イスラエルは守られ、改心し、回復されなければなりません。
もしこれが無条件の契約であるならば、イスラエルの国家的な生活におけるこれらの出来事は避けられないものとなります。
これらの質問への答えが、終末論的な立場全体を決定づけます。

A.アブラハムとの契約計画における条件的要素

アブラハムが偶像崇拝者テラの家に住んでいた時(ヨシュア記24章2節)、神はアブラハムに語りかけ、ウルの地を去るように命じました。
それは彼の知らない異国の地への旅を伴うものでした。(ヘブル人への手紙11章8節)
しかし、神は彼にこの従順の行為を条件とする具体的な約束を与えました。
アブラハムは親族から離れることなく、部分的に従順を示し、ハランへと旅立ちました。(創世記11章31節)
アブラハムはそこでは何の約束も実現していません。
父の死後(創世記11章32節)、アブラハムは神から与えられた約束を少しずつ実現し始めました。
父の死後、神はアブラハムをその地へ導き(創世記12章4節)、そこでアブラハムへの当初の約束を再確認しました。(創世記12章7節)
この契約の計画と従順との関係を観察することは重要です。
神がアブラハムとの契約の計画を定めるかどうかは、アブラハムが国土を去るという従順の行為にかかっていました。
この行為が成就し、アブラハムが神に従うと、神は取り消し不能で無条件の計画を定めました。
この計画の根拠となった従順は、創世記22章18節で述べられています。
そこでは、イサクを捧げることが、アブラハムの神に対する態度を示すもう一つの証拠となっています。
ウォルフォード氏は、この事実を次のように明確に述べています。
聖書に記されているように、アブラハム契約はただ一つの条件に基づいて契約されました。
それは創世記12章1節に記されています。
最初の契約は、アブラハムが故郷を離れ、約束の地へ行くという従順さに基づいていました。
父の死後、彼がこの命令に従うまで、彼にそれ以上の啓示は与えられません。
カナンに入ると、主は直ちにアブラハムにその地の最終的な所有を約束し(創世記12章7節)、その後、最初の約束をさらに拡大し、繰り返しました。
一つの条件が満たされたので、アブラハムにそれ以上の条件は課されません。
厳粛に立てられた契約の成就は、神の真実性にかかっています。[16]
アブラハムとの契約の計画が成されるかどうかは、アブラハムの従順の行為にかかっていました。
アブラハムが一度従うと、そこで成立した契約は、アブラハムの継続的な従順ではなく、それを制定した方の約束にかかっていました。
契約の成立そのものは従順さにかかっていました。
どのような契約が成立するかは、アブラハムやその子孫の継続的な従順とは全く関係がありません。

B.契約の無条件性を支持する論拠アブラハム契約が条件付きか無条件かという問題は、アブラハム契約の成就に関する議論全体の核心とみなされます。
この契約の無条件性に関する千年王国前再臨主義を支持する広い意味での論拠が提示されてきました。

ウォルフォード氏は、この契約が無条件であると信じる10の理由を挙げています。
彼は次のように論じています。

(1)イスラエルの契約はモーセの契約を除き、すべて無条件です。
アブラハム契約は永遠であり、したがって無条件であると多くの箇所で明確に宣言されています。(創世記17章7、13、19節、歴代誌第一16章17節、詩篇105篇10節)
パレスチナ契約も同じ様に永遠であると宣言されています。(エゼキエル書16章60節)
ダビデ契約も同様な言葉で表現されています。(サムエル記第二7章13、16、19節、歴代誌第一17章12節、22章10節、イザヤ書55章3節、エゼキエル書37章25節)
イスラエルとの新しい契約もまた永遠です。(イザヤ書61章8節、エレミヤ書32章40節、50章5節、ヘブル人への手紙13章20節)

(2)故郷を離れて約束の地へ行くという当初の条件を除いて、契約には何の条件も付いていません。

(3)アブラハム契約は繰り返し述べられ、拡大されて確認されています。
これらの例のいずれにおいても、追加された約束はアブラハムの子孫やアブラハム自身の忠実さを条件としていません。
アブラハムやその子孫の将来の忠実さを条件とすることについては一切述べられていません。

(4)アブラハム契約は、血を流し、ささげ物の部分を交わすことを象徴する、神によって定められた儀式によって厳粛に成立しました。(創世記15章7~21節、エレミヤ記34章18節)
この儀式は、アブラハムの子孫が創世記15章18〜21節で彼に与えられた正確な境界内で国土を相続することを保証としてアブラハムに与えられました。
この文脈において、この約束には何の条件も付されていません。

(5)個人として約束を受け継ぐ者と、アブラハムの肉体的な子孫に過ぎない者を区別するために、割礼という目に見えるしるしが与えられました。(創世記17章9~14節)
割礼を受けていない者は、約束された祝福を受けられません。
しかしながら、アブラハム契約の最終的な成就と子孫による国土の所有は、割礼における忠実さに左右されるものではありません。
実際、国土の約束は、割礼の儀式が導入される前から与えられています。

(6)アブラハム契約はイサクとヤコブの誕生によって確認され、二人への約束は元の形で繰り返されました。(創世記17章19節、28章12-
13節)

(7)注目すべきは、不従順な行為があったにもかかわらず、契約が繰り返し述べられ、部分的に早期に成就されたという事実です。
アブラハムが神の御心から脱線したことは明らかです。
不従順な行為においても、アブラハムに対して約束は繰り返されました。

(8)契約のその後の確認は背教の真っ只中に与えられました。
重要なのは、イスラエルが国家として永遠に存続するというエレミヤを通して与えられた約束です。(エレミヤ書31章36節)

(9)新約聖書は、アブラハム契約が不変であることを宣言しています。(ヘブル人への手紙6章13~18節、創世記15章8~21参照)
これは約束されただけでなく、神の誓いによって厳粛に確認されています。

(10)旧約聖書と新約聖書の両方に含まれるイスラエルと将来に関する聖書の啓示全体を文字通り解釈するならば、アブラハムに与えられた約束の無条件の性質を確認し、支持することになります。[17]
これらの考察から、千年王国前再臨主義は多くの多様で重みのある議論に基づいていることを認めなければなりません。[18]

創世記15章に記されている出来事については、この契約の無条件性という問題に関係するため、少し説明が必要です。
創世記14章では、アブラハムは神を信頼していたため、ソドムの王から富を受け取ることを拒みました。
アブラハムの心に、このように神を信頼したことが間違いだったのではないかという疑問が生じないように、神はアブラハムの守り(盾)であり、備え(報酬)であるという保証を与えました。(創世記15章1節)
約束された相続人についてアブラハムが質問すると、神は彼に息子が生まれることを確約し、「彼は主を信じた」のです。(創世記15章6節)
アブラハムの信仰に対して、彼が神を信頼したことが無駄でなかったことの確証し、この約束が成就するというしるしが神から与えられました。(創世記15章9~17節)
アブラハムとの子孫と国土に関する契約(創世記15章18節)を再確認するため、神はアブラハムに、共に血の契約を結ぶためにささげ物の動物を用意するよう命じました。

この儀式について、カイル氏とデリッチ氏は次のように述べています。
「この手順は、多くの古代諸国で広く行われていた慣習によく似ています。
契約を結ぶ時に動物を屠殺し、それを切り分けた後、互いに向かい合うように置き、契約を結ぶ者がその間を通れるようにするのです。
こうして、神はカルデア人の慣習に従うことをお許しになり、カルデア人アブラムへの誓いを最も厳粛な方法で実行されました。
これはエレミヤ書34章18節から明らかであり、後の時代のイスラエル人の間でも慣習となっていました。」[19]

アブラハムは、拘束力のある契約を結ぶこの方法をよく知っていました。
神が定めた多数の動物は、契約の成立に動物一匹で十分であったことから、アブラハムにこれから成立する契約の重要性を強く印象づけたことは間違いありません。
ささげ物が準備された時、アブラハムは分けられた動物を通して神と共に歩むことを予期していたはずです。
血の契約を結んだ二人は、ささげ物の間を一緒に歩むのが慣習だったからです。
アブラハムは、この儀式が厳粛なものであることを認識していました。
なぜなら、この儀式は、契約を結ぼうとする二人が血によってその契約を遂行する義務を負うか、もしくは契約を破る者は、彼らを縛った動物の血が流されたように、自らの血を流す義務を負うかのどちらかを意味していたからです。
しかし、契約が取り結ばれる時、アブラハムは眠りにつきました。
なぜなら、彼は契約の当事者にはなれず、契約の受益者となるだけで、何の義務も負わなかったからです。

カイル氏とデリッチ氏はこの一節を次のように説明しています。
「しかし、この契約の性質から、神だけが御自身を比喩的に表すために、その断片を一つ一つ切り分け、アブラムはこのような切り分けをしなかったという結論が導き出されました。
契約は常に二人の人間の間に相互的な関係を確立するものだが、神が人間と結んだ契約においては、人間は神と対等な立場に立ったわけではありません。
神は約束と人間への哀れみ深い謙遜によって、交わりの関係を確立したのです。」[20]

神はこのように、アブラハムに与えられた子孫と国土に関する約束を、最も厳粛な血の契約によって無条件に成就という誓約を御自身に課しておられたのです。
アブラハムに約束されたものが何の条件もなくアブラハムに与えられ、神の誠実さのみによって成就されたことを、これ以上の方法によって神が明確に示せることは不可能だと思います。

C.契約の無条件性に反する無千年王国論

無千年王国論の代表的な論者の一人であるアリス氏は、この解釈学派の考え方を体系化し、契約の無条件性に反するいくつかの論点を提示しています。

(1)まず最初に、命令や約束には、具体的に明示されていなくても条件が伴う場合があることに注意すべきです。
これはヨナの生涯によく表れています。
ヨナは、無条件で、無条件に裁きを宣べ伝えるよう命じられました。
「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」
この暗黙の条件は、慈悲と憐れみの神としての神の御性質そのものに前提とされていました。
エリの家に対する裁き(サムエル記第一2章30節)はこの原則を非常に鮮やかに示しています。[21]
したがってアリス氏は、明示されていない条件が暗示される可能性があると主張しています。
この議論に対する反論として、アリス氏はまず極めて有害な告白から始めていることが簡単に分かるはずです。
つまり、無千年王国論者が自らの立場を確証するために、参照できるような明示的な条件は聖書には存在しない、という告白となります。
アリス氏の主張全体は沈黙、つまり暗黙の、もしくは暗黙の条件に基づいています。
エリの場合には、全く類似点がありません。
エリはモーセの律法の下で生活していましたが、それは条件付きの特徴を持っていました。
そして、モーセの律法はアブラハムの契約とは無関係だったからです。
モーセの契約が条件付きだからといって、アブラハムの契約も条件付きである必要はありません。
そしてまた、ヨナに関しても、類似点がないことが理解されなければなりません。
ヨナの説教の言葉は契約ではなく、アブラハムの契約とは全く類似点していません。
悔い改めによって裁きは取り除かれるという聖書の原則は確立されていました。
(エレミヤ書18章7~10節、26章12、13節、エゼキエル書33章14~19節)
民は悔い改め、裁きは取り除かれました。
しかし、ヨナの説教は概要しか記されておらず、アブラハム契約の性質を全く変えるものではありません。

(2)アブラハムとの契約において、従順は条件として明示的には述べられていないのは事実です。
しかし、従順が前提とされていたことは、二つの事実によって明確に示されています。
一つは、従順はあらゆる状況下における祝福の前提条件であるということです。
二つ目は、アブラハムの場合、従順の義務が特に強調されているということです。
創世記18章17節以降には、神がアブラハムを選ぶことによって、敬虔な養育によって「主の道を守る」義なる子孫を生み出そうとされたことが明確に述べられています。
それは、そのような従順の結果として、そしてその報いとして、「主はアブラハムについて約束されたことを彼に実現させる」ためです。」[22]
アリス氏は再び、聖書には条件が規定されているという記述はどこにもないことを認めています。
これだけでも十分なはずですが、この議論には他にも考慮すべき点があります。
まず最初に、従順は常に祝福の条件であると述べることは誤りです。
もしこれが真実なら、罪人は一体どのようにして救われるのでしょうか?

ウォルフォード氏は次のように書いています。
「従順が常に祝福の条件であるというのは真実ではありません。
アブラハムの子孫はあらゆる道徳的側面において不従順でした。
しかし、その不従順にもかかわらず、彼らは契約の約束の多くを果たされました。
恵みの原理そのものは、神がふさわしくない者を祝福するということです。
信者の安全は、人間の価値や忠実さとは全く無関係です。
カルヴァン主義者として、アリス氏の無条件選びの教理はどこにあるのでしょうか?」[23]

繰り返しになりますが、無条件の契約は契約の計画を確実にします。
しかし、条件付きの祝福が伴う場合があることに注意してください。
計画は成就しますが、個人はその祝福が左右する条件に従うことによってのみ、その計画の祝福を受けることができます。
これはアブラハム契約にも適応できます。
さらに、神がアブラハムとの契約計画を制定されたかどうかは、彼が故郷を去るという従順な行為によって決まりました。
しかし、契約が一旦発効すると、いかなる条件も付されなくなることは既に指摘されています。
そして最後に、アブラハムが明確な不従順の行為を行った後、契約は再確認され、アブラハムへの適用範囲が拡大されています。
(創世記12章10~20節、16章1~16節)

(3)従順がアブラハム契約と極めて密接に結びついていたことは、割礼というしるしが契約と結びついていたという事実によって特に明確に示されています。
割礼の儀式を守ることが極めて重要視されていました。
契約の民から切り離されることは、それを守らなかったことに対する罰です。
この儀式自体が従順の行為なのです。(コリント人への手紙第一7章19節)[24]
この主張に対する反論としては、創世記17章9~14節に記されている割礼の儀式が、契約の成立から何年も経ち、アブラハムへの契約が繰り返し再確認された後に行われたことを指摘するだけで十分です。(創世記12章7節、13章14~17節、15章1~21節)
契約はしるしが成立する前から明らかに有効でした。
なのに、契約を継続するためにしるしを求めることに何の意味があるのでしょうか?
さらに、この儀式を研究すれば、割礼は契約の成立や継続ではなく、契約の祝福を受け取ることに関連していることがわかります。

ウォルフォード氏は次のように述べています。
「契約に基づく祝福を個人が受け取ることができるかどうかは、個人の信仰と従順に大きく依存していることは、誰もが認めるところです。
これは、契約全体の成就が国家全体の従順を条件としていると主張することとは全く異なります。」[25]

同様の一般的な考え方に関連して、アリス氏は次のように続けています。

(4)アブラハム契約は完全に無条件であったと主張する人々が、現実にはそう考えていないことは、ディスペンセーション主義者が、この契約による祝福の前提条件としてイスラエルが「その地にいる」ことに大きな重要性を置いていることからも明らかです。[26]

(5)ディスペンセーション主義者がアブラハムの契約を完全に無条件とみなしていないことは、彼らがエサウがカナンの地に復帰し、アブラハムの契約のもとで全面的な祝福を受けることについて語ったことを一度も聞いたことがないという事実によっても示されています。

しかし、アブラハムの契約が無条件であったなら、なぜエサウは契約の祝福から除外されているのでしょうか?[27]

これら二つの議論には、同時に答えることができます。
いずれの場合も、重要なのは祝福との関係であり、契約の継続との関係ではないことが分かります。
前述のように、祝福は従順、つまり祝福の場所に留まることを条件としていました。
しかし、契約自体は、彼らがその地にいるか、祝福の受益者であるかに関わらず有効でした。
逆に、不従順と地からの追放によって契約が無効になった場合、エサウがその地に留まっているかどうかは問題ではなくなります。
しかし、祝福は契約の民に与えられるので、エサウは不信仰であったため祝福を受ける資格がなく、除外されました。
エサウが軽蔑した長子の権利(創世記25章27〜34節)こそ、アブラハム契約において彼が相続する約束であったことが分かります。
契約は神の誠実さに基づいているため、エサウは神が御言葉を成就できます。
もしくは、成就するであろうと信じなかった人物とみなされなければなりません。
同じ様に、失われた祝福(創世記27章)は、契約に基づいてエサウが当然得るべき祝福であり、長子の権利を放棄するという不信仰のゆえに失わなければなりません。
エサウの拒絶は、契約が選択的であり、神御自身が選ばれた血統を通して成就されるべきであったことを示しています。

(6)契約の成就の確実性は、それが無条件であるという事実によるものではありません。
また、その成就が罪深い人間の不完全な従順に依存するものでもありません。
契約の成就の確実性と、その下にある信者の安全は、究極的にはキリストの従順のみにかかっています。[28]
この時点で、論理の筋道が完全に変わったことに気づかずにはいられません。
これまでは、契約は条件付きであるため成就しない、と論じられてきました。
しかし今や、契約はキリストの従順に基づいて成就すると論じられています。
私たちの霊的な祝福はこの契約の産物(ガラテヤ人への手紙3章)であるため、無千年王国論者は、この契約がいくらか成就することを認めざるを得ません。
もしこの契約が廃止されたなら、キリストは決して来られなかったはずです。
もしこの契約のもとで提供される保障が条件付きであれば、救いの保証はどこにも存在していません。
すべての成就はキリストの従順の上に成り立っている、という点については広く同意されています。
しかし、その事実は、キリストの来臨を必須とした契約の本質的な性質を変えるものではありません。
もし、キリストが契約の部分的な成就として来られたのであれば、その来臨は完全な成就を約束するものです。

アリス氏はこの契約の成就に関して次のように書いている時、別の論法をとっています。

(1)子孫に関しては、契約に出てくる言葉そのものが、ソロモンの時代のイスラエル国家について使われていることに注目すべきです。
これは、この点において約束が王政の黄金時代に成就したと考えられていたことを示しています。

(2)国土に関しては、ダビデとソロモンの支配はユーフラテス川からエジプト川まで及んでいました。
イスラエルは族長たちに約束された国土を確かに所有しました。
イスラエルはそれを所有しましたが「永遠に」ではありません。
その国土の所有は不従順によって失われました。
それは最初の降臨の何世紀も前に成就したとみなすことができます。[29]

アリス氏は現在においてこの契約は歴史的にすでに成就しているので、将来も成就することはないと主張しています。
契約の歴史的成就の問題は後ほど考察することにします。
現時点では、イスラエルの歴史は、ダビデ王朝とソロモン王朝の栄光の時代でさえ、アブラハムに最初に約束されたことを決して成就しなかったとだけ述べておけば十分だと思います。
したがって、引用された歴史的経験を契約の成就と解釈することはできません。
さらに、もし契約が条件付きであったとしたら、イスラエルは契約の制定からダビデの王座の確立までの間に何度も不従順を犯したので成就を説明することはできません。
ダビデ王朝の時代以降の不信仰は、それ以前の不信仰と性質において何も変わっていません。
もし、その後の不信仰が契約を破棄したのであれば、それ以前の不信仰は契約の成就のすべてを妨げていたはずです。

D.千年王国前再臨主義は契約の部分的成就を支持しています。

アブラハム契約のうち、部分的もしくは完全に成就した部分を検証すれば、その契約は文字通り無条件の契約として解釈されるべきであるという主張が裏付けられます。

ライリー氏は次のように述べています。

「アブラハムの契約の一部を成就する神の方法は文字通りのものです。
(1)個人的な約束の成就として、アブラハムは神から特別な祝福を受けました。

リンカーン氏は次のように指摘しています。
a.アブラハムは個人的に物質的な祝福を受けました。
1)アブラハムは国土を持っていました。(創世記13章14、15、17節)
2)アブラハムは召使いを持っていました。(創世記15章7節など)
3)アブラハムは多くの家畜、銀、金を持っていました。(創世記13章2節、24章34、35節)

b.アブラハムは霊的な面で個人的に祝福を受けました。
1)神に身を捧げる幸福な生活を送りました。(創世記13章8節、14章22、23節)
2)神との尊い交わりの生活を楽しみました。(創世記13章18節)
3)常に祈りの生活を送りました。(創世記28章23~33節)
4)神から絶えず支えられました。(創世記21章22節)
5)従順な生活から来る平安と確信を持っていました。
(創世記22章5、8、10、12、16~18節)

(2)アブラハムには素晴らしい名前があります。
(3)アブラハムは、聖書、救い主、福音を通して、自分の家族や子孫だけでなく、世界全体を祝福したので、他の人々に神の祝福を伝える媒介者でした。
(4)歴史は、イスラエルを迫害した国々が、たとえそれが神の懲罰の成就であったとしても、アブラハムの子孫を扱ったことで罰せられたという事実を実証しています。
これは祝福と呪いの両方において、王たちの虐殺(創世記14章12~16節)、メルキゼデク(創世記14章18~20節)、アビメレク(創世記20章2~18節、21章22~34節)、ヘテ(創世記23章1~20節)、そしてイスラエルの歴史におけるその他の出来事においても同様です。
(申命記30章7節、イザヤ書14章1、2節、ヨエル書3章1~8節、マタイによる福音書25章40~45節)
(5)アブラハムにはサラによる相続人がいました。(創世記21章2節)
前述の約束が果たされたことを否定するのは幼稚です。」[30]

この点は詩篇69篇によく示されています。
キリストの屈辱と苦難に関する預言はすべて文字通り成就しました。
キリストの死に続く出来事は、契約の成就であると見られます。
詩篇作者はこのように述べています。

「まことに神がシオンを救い、ユダの町々を建てられる。こうして彼らはそこに住み、そこを自分たちの所有とする。
主のしもべの子孫はその地を受け継ぎ、御名を愛する者たちはそこに住みつこう。」
(詩篇69章35、36節)


メシアの死の描写が文字通り成就しました。
ゆえに、契約の成就としてメシアの死から生じるものも文字通り成就すると結論づけるしかありません。[31]
神が歴史的に成就した預言を成就するために用いた方法は、すべての預言を成就する時にも用いられることは明らかです。
成就した預言はすべて文字通り成就している以上、一貫性を保つためには、まだ成就していないかもしれない預言聖書の部分にもこの方法が採用されなければなりません。
アブラハム契約の成就した部分が文字通り成就したので、成就していない部分も同じ様に成就すると結論づけられます。
なく、したがってその成就は確実であると理解していたことは明らかです。[32]
ヤコブが去った時、イサクがヤコブに語った言葉がそれを裏付けています。

「全能の神がおまえを祝福し、多くの子どもを与え、おまえをふえさせてくださるように。そして、おまえが多くの民のつどいとなるように。
神はアブラハムの祝福を、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫とに授け、神がアブラハムに下さった地、おまえがいま寄留しているこの地を継がせてくださるように。」」
(創世記28章3、4節)

IV.アブラハム契約の終末論的意味

アブラハム契約はイスラエルと結ばれた無条件の契約であり、したがってイスラエル国家以外の人々によって破棄または遂行されることはないと判断されました。
ゆえに、イスラエルは国土と子孫に関する約束を受けており、それが神の将来の計画を決定づけるものであることが明らかになります。
これらの「国土」と「子孫」という言葉は、「祝福」という言葉と共に、契約の終末論的な部分の本質的な特徴を要約しています。
神がアブラハムに与えた約束を検証すれば、この約束におけるこの二重の強調が明らかになります。

「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」
(創世記12章7節)

「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。
もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。」
(創世記13章15、16節)

その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。
「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。」
(創世記15章18節)


「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。
わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。
わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。
わたしは、彼らの神となる。」
(創世記17章7、8節)


この約束には、アブラハムの肉体的な子孫に関する特徴と、その子孫に与えられた国土に関する特徴が含まれていたという結論を避けることはできません。
したがって、子孫と国土の範囲を検証し、それらが将来の出来事にどのような影響を与えるかを判断する必要があります。

ライリー氏はこの協定の意味を要約し、次のように述べています。
「アブラハム契約は神の御言葉の中でも傑出した契約の一つであることに誰もが同意します。
千年王国前再臨主義との関連で、この契約が持つ重要な論点は二つあります。

(1)アブラハム契約はイスラエルに国家としての永続的な存在を約束しているのでしょうか?
もし、約束しているなら、教会はイスラエルの約束を果たしているのではなく、国家としてのイスラエルにはまだ未来が約束されています。

(2)アブラハム契約はイスラエルに約束の地の永続的な所有を約束しているか?
もし、約束しているなら、イスラエルは歴史上一度もその地を完全に所有したことがないので、まだその地を所有していないことになります。」[33]

A.アブラハムの子孫とは誰でしょうか?

聖書の明白な教えを故意に歪曲しようとしていない人なら誰でも、「アブラハムの子孫」という言葉が必然的にアブラハムの肉体的な子孫を指すことは明らかです。

ウォルフォード氏はこのように書いています。
「アブラハム契約の全体的な文脈を検証すると、まず最初に、それがアブラハムの肉体の子孫であるイサクと極めて密接に結びついていたことがわかります。

「すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。
あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」
(創世記17章19節)


アブラハムはここで「子孫」という言葉をどのように理解していたのでしょうか?
明らかに、それは肉体の子孫であるイサクとその肉体の子孫を指していました。
神は肉体の子孫以外の人々には霊的な祝福が与えられないとは言われません。
しかし、イサクの肉体の子孫は「アブラハムの子孫」に与えられた約束を受け継ぐと言われたのです。
アブラハム、イサク、ヤコブが「子孫」という言葉を自分たちの肉体的な血統を指すものとして理解していたことは、これ以上明白なことはありません。」[34]

また、「イスラエル」という言葉です。
これはヤコブに与えられた称号であり、神の君主を意味し、ヤコブの肉親の子孫を指すのによく使われてきました。[35]
このことはあまりにも明白です。
無千年王国論の有力者の次の発言を読むと、少なからず驚かされます。
彼らは、千年王国主義の特徴である文字通りの解釈をほとんど前例のないほど極端にまで推し進め、イスラエルはイスラエルを意味しなければならないと主張し、旧約聖書にある王国の約束はイスラエルに関するものであり、文字通りイスラエルに対して成就されるべきであると主張しています。[36]

千年王国前再臨主義者が主張する見解は、文字通りの解釈の「前例のない極端な」ものと呼ぶことはほとんどできないと指摘できると思います。
というのは、千年王国前再臨主義者以外にも、解釈の一貫性のためにそうせざるを得ない人々は、イスラエルとはその言葉が意味する通りの意味であると主張してきたからです。

千年王国後再臨主義者のホッジ氏[37]や無千年王国主義者のヘンドリクセン氏[38]も同じような見解をとっています。
アブラハム自身に対する個人的な約束、アブラハムの子孫に対する国家的な約束、そして「地のすべての家族」に対する普遍的な約束を区別しなければならないことに注意することが重要です。
アブラハム契約がアブラハムの肉体的な子孫でない人々に普遍的な祝福を与えることは否定されないが、国家的な約束は国家自身によってのみ果たされ得ると断言されています。
したがって、イスラエルという言葉は、通常の文字通りの意味で、アブラハムの肉体的な子孫を意味すると解釈されます。

B.アブラハムの子孫に関する無千年王国主義

無千年王国主義の代表的な論者であるピーターズ氏は、この子孫を次のように定義しています。

「聖書における「アブラハムの子孫」という表現は、目に見える共同体を指し、その構成員はアブラハム契約を通して神との関係にあり、したがってアブラハムの約束の相続人です。」[39]

彼はこれをさらに次のように説明しています。
「神がユダヤ人に特定の約束をしたという議論に出会うたびに、[特定の]事実が関連しています。
神はいかなる人種に対しても、人種として、いかなる約束もしていません。
すべての約束は、その人種構成員や個人の祖先に関係なく、継続する契約共同体に対してなされたのです。
したがって、現在、世界で「ユダヤ人」と呼ばれている人々がアブラハムの子孫であるという証拠は、たとえ提供できたとしても(不可能ですが)、彼らが神の約束の成就を受ける資格があることを証明するのに何の役にも立ちません。
これらの約束は「アブラハムの子孫」と呼ばれる契約集団に対してなされたものであり、その共同体に対して成就されなければなりません。
必要なのは、自分がその集まりの一員であることを証明することです。」[40]

ウォルフォード氏はこの見解を簡潔に次のように要約しています。
「ピーターズ氏が代表する無千年王国主義は、次のような立場をとっています。
(1)神はアブラハムの肉体的な子孫であるアブラハムにいかなる約束もしていません。
(2)アブラハムへの約束は、アブラハムの霊的な子孫、つまり「継続する契約共同体」にのみに与えられました。
(3)今日のユダヤ人は、(a)霊的な子孫ではないため、(b)そもそも肉体的な子孫であることを証明できないため、アブラハムへの約束を主張する権利はありません。」[41]
無千年王国主義によれば、子孫とは「信仰の家」全体、つまりあらゆる時代のすべての信者を指します。
したがって、この議論全体において決定的な要素となるのは解釈の方法です。
聖書を比喩的に解釈するのであれば無千年王国主義が理にかなっていますが、文字通りに解釈するのであれば千年王国前再臨主義が不可欠です。

C.聖書に記されている子孫の種類

聖書がアブラハムに生まれた種をただ一種類だけ示しているわけではないことに気づくと、この問題全体が明確になるかもしれません。
聖書におけるこの区別を見逃したことが混乱を招いてきました。

ウォルフォード氏は次のように書いています。
「アブラハムの子孫であると言えるには、三つの異なった意味があります。
最初に、自然の血統、つまり生まれつきの子孫です。
これは主に十二部族のヤコブの子孫に限られます。
神は彼らに対して、彼らの神となることを約束しました。
彼らには律法が与えられ、旧約聖書においてイスラエルの地が与えられました。
神は彼らに対して特別な扱いをされました。
二番目に、生まれながら霊的な血統です。
これらは神を信じ、律法を守り、現在、契約の祝福を受け取るための条件を満たしたイスラエル人です。
将来の千年王国において最終的にその地を所有する者たちも、霊的なイスラエル人です。
三番目に、生まれながらのイスラエル人ではないアブラハムの霊的な子孫です。
ここで「地のすべての民族」への約束が登場します。
これはガラテヤ人への手紙3章6〜9節におけるこの表現の明確な適用です。
言い換えれば、異邦人、つまり異邦人から来たアブラハムの子孫(霊的な意味で)は、イスラエルに関する約束ではなく、そもそも異邦人に関するアブラハム契約の側面を成就します。
ガラテヤ人への手紙の文脈において、異邦人がアブラハムの子孫となり得る唯一の意味は、「キリスト・イエスにあって」ということです。(ガラテヤ人への手紙3章28節)
そして、次の通りに書かれている通りです。

「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」
(ガラテヤ人への手紙3章29節)


彼らは霊的な意味でのみアブラハムの子孫であり、「地のすべての民族」に与えられた約束の相続人です。
千年王国前再臨主義支持者は、アブラハムの霊的な子孫に異邦人が含まれるという事実については無千年王国主義支持者と同意するかもしれません。
しかし、それが生まれつきの子孫に与えられた約束を成就すること、もしくは「アブラハムの子孫」への約束が異邦人の信者によって成就されることを否定します。
すべての国々に約束された祝福を、アブラハムの子孫に約束された祝福と同一視することは、根拠のない結論です。」[42]

この区別は、教会が国家の約束が成就する契約の民ではないにもかかわらず、契約の約束とどのように関係するのかを説明します。
私たちは新生によって霊的にはアブラハムの子孫です。
しかし、それは私たちが族長の肉体的な子孫であることを意味するわけではありません。

D.教会はイスラエルではありません。

この議論から導き出される唯一の論理的結論は、現代の異邦人信者はアブラハムの子孫とみなされているものの、国家の約束が成就されるべき子孫ではないということです。
これは、新約聖書における単語の使用におけるいくつかの事実を観察することによって十分に証明されます。

(1)新約聖書では、生まれながらのイスラエルと異邦人は対比されています。
(使徒の働き3章12節、4章8節、21章28節、ローマ人への手紙10章1節)
教会が設立された後もイスラエルは国家として扱われ、「ユダヤ人」という単語が教会とは区別して使用され続けているという事実があります。
(コリント人への手紙第一10章32節)は、異邦人が神の契約計画においてイスラエルに取って代わるものではないことを示しています。

(2)新約聖書では、生まれながらのイスラエルと教会は対比されています。
(ローマ人への手紙11章1~25節、コリント人への手紙第一10章32節)
ローマ人への手紙11章では、神はイスラエル国民を一時的に祝福の場から取り去ったが、教会に対する神の計画が終了したときに、彼らをその祝福の場に復帰させると示されています。
この考察は、教会が神の契約の計画においてイスラエルに取って代わるものではないことを示しています。

(3)霊的イスラエルの一部となるユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンは新約聖書で対比されています。
(ローマ人への手紙9章6節でパウロは、肉によればイスラエルに属するこれらの約束と、信仰によってそれに入るイスラエルに属する約束を対比しています。
ガラテヤ人への手紙6章15、16節では、パウロはキリストの全身に宣言された祝福の中で、特に信じるユダヤ人について述べています。)[43]
ゆえに、現在の教会はこれらの契約が成就するイスラエルではないという点は十分に確立されています。
無千年王国論者は、契約は条件付きでありイスラエルがその条件を満たさなかったため成就する必要はないと主張しています。
さらに、歴史的にはソロモン王国で成就したため成就しないと主張しながら、今や教会によって成就されていると主張するのは不思議です。
もし、契約が条件付きであったり、既に成就していたりするのであれば、なぜ契約の約束を完全に無視しないのでしょうか?
なぜそれを問題にするのでしょうか?
唯一の答えは、契約は神の御言葉に対する期待全体の土台を形成するものであり、たとえその存在や終末論との関連性を否定する人々でさえも無視することはできないということです。

E.教会と契約との関係

教会は契約が最終的に文字通り成就する子孫ではないので、教会と契約の計画全体との関係について考察するのは良いことです。
教会が約束との間に保っているあらゆる関係は、肉体的な誕生ではなく、新たな誕生に基づいており、個人が「キリストにある」からこそ教会のものとなります。

ピーターズ氏はこの点を的確に指摘しています。
「「子孫」が地を受け継ぐと言われています。
そして、これはヨシュア記、士師記、そして列王記の時代におけるユダヤ人の歴史において成就したと、多くの方々が語っています。
しかし、聖霊によって与えられた事実とは一体何なのでしょうか?
確かに、契約の約束を解釈するにあたっては、聖書が自分の事を解釈者として受け入れるべきです。
そうすることで、神の意図する意味を確かめることができるのです。
ゆえに、人間ではなく、神御自身が説明しています。
「さて(ガラテヤ人への手紙3章16節)、アブラハムとその子孫に約束が与えられました。
神は、「子孫に」と多くの人についてではなく、一人について「あなたの子孫に」と言われました。
もし言葉に明確な意味があるならば、神が「あなたの子孫にこの地を与える」と約束された時、カナンの地はアブラハムの子孫である一人の方、とりわけ子孫、つまりイエス・キリストによって受け継がれるということを、ここに明確に宣言していることは疑いありません。」[44]

教会が約束を受けるのは、その約束が成就する御方との関係においてだけです。
教会は、契約を成就させるために主が行うすべてのことに、主と共に参加します。
使徒の働き3章25節でアブラハム契約を引用したペテロは、その契約の普遍的な側面のみを、自分が語りかける人々に適応しています。
国家的な側面は、イスラエルという国家によって将来成就されるのを待たなければなりません。

F.子孫は国土を所有するのでしょうか?契約に関するこれまでの議論から、アブラハムの肉体的な子孫には国土の永遠の所有が約束されていたことは明らかです。

ウォルフォード氏はこのように述べています。
「アブラハムの子孫が国土を所有するという約束は、契約の際立った特徴であり、その約束の与えられ方によって重要性がさらに高められています。
与えられた約束は、
(1)その原則において恵みであること、
(2)国土が子孫の相続財産であること、
(3)その所有が永遠に与えられること、
(4)国土が永遠に所有されること、
(5)約束された国土には境界によって定められた特定の領土が含まれることを強調しています。」[45]

この約束は旧約聖書における期待の根底であり、預言者たちのメッセージの本質です。[46]
もし、イスラエルが不信仰のために国家として拒まれたのであれば、、旧約聖書のこの偉大な預言は成就する可能性はありません。

ライリー氏はイスラエルが見捨てられたという主張に的確に答えています。
彼はこのように書いています。
「イスラエルは神に完全に拒まれたと主張する人がいるので、聖書の二つの箇所を慎重に検討する必要があります。
一つ目はマタイの福音書です。

「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」
(マタイの福音書21章43節)


この聖句を正確に解釈するには、何が取り上げられるのか、誰から取り上げられるのか、そして誰に与えられるのかという質問に答えなければなりません。
彼らから奪われたのは神の王国です。
神の王国は神への真実な信仰の範囲です。
主はこれらのユダヤ人たちに、主を拒んだので神の王国に入ることはできません。
なぜなら、次のように書かれているからだと言えます。

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
(ヨハネの福音書3章3節)


神の国は誰から取られたのでしょうか?
「あなた」とは、主が語られた世代を指しているのは明らかです。
王国は誰に与えられるのでしょうか?
「その実を結ぶ国民」とは、適用上、キリストに立ち返るあらゆる世代を指すかもしれません。
しかし、厳密な解釈では、千年王国に入る前に主に立ち返り、救われるイスラエル国民を指しています。
イスラエルが回復されることを決定的に示す二番目の聖句は、イスラエルの未来の救済について述べているローマ人への手紙です。

「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。
「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。
それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」」
(ローマ人への手紙11章26、27節)


注意深い解釈者たちは、この箇所におけるイスラエルとはイスラエルのことを指していることに同意しています。
したがって、この箇所は、今日救われている残された民とは対照的に、キリストの再臨の時には全イスラエルが救われることを教えています。
この二つの箇所から、イスラエルは捨てられたのではなく、将来祝福の場所に回復されることは明らかです。
イスラエルは相続権を剥奪されていないため、アブラハムとの契約を成就する立場にあります。」[47]

G.アブラハム契約は成就したのでしょうか?

この契約は過去にすでに成就したため、将来も成就しないと主張する人々がいます。

マレー氏は次のように述べています。
「神が成就されたという御言葉から十分な証拠が挙げられます。
アブラハムとアブラハムの子孫に、カナンの地を所有するという約束が与えられました。
現在、アブラハム、イサク、ヤコブの灰は「カナンの地のマムレに面したマクペラの畑地」(創世記49章30節)の土と混ざり合っています。
アブラハムはそこを「墓地の所有地」として買いました。
彼は地上の生涯の間、カナンの地を所有し、その灰は復活の時までカナンに安置されています。
彼の子孫であるイサクとヤコブについても、「彼と共に同じ約束の相続人」として同じことが言えます。
神は確かに、アブラハムとその子孫にその地に永遠の居場所を与えるという約束を果たされました。」

創世記15章13、14節を引用した後、彼はこのように述べています。

「この契約には「永遠に」という言葉は含まれていませんが、その全条件はまだ成就されておらず、イスラエル人がここで述べられているほどの国土を所有したことは一度もないと主張する人もいます。
幸いなことに、神の御言葉はここでも真実かつ最終的な答えを与えています。
読者の皆様には、列王記第一4章21節と24節をご覧ください。
そこにはこのように記されています。」[48]

「ソロモンは、大河からペリシテ人の地、さらには、エジプトの国境に至るすべての王国を支配した。」
(列王記第一4章21節)

「これはソロモンが、大河の西側、ティフサフからガザまでの全土、すなわち、大河の西側のすべての王たちを支配し、周辺のすべての地方に平和があったからである。」
(列王記第一4章24節)


歴史的成就を主張するためには、この契約が永遠性を有していたことを否定する必要があります。
無千年王国論者がこの「永遠」という言葉をどのように扱うかは興味深いものがあります。
同じ著者は次のように書いています。
「文字通りに解釈する人は、「永遠」という言葉を思い起こさせますが、彼らにとってこの言葉は最も重要な言葉です。
私たちはしばしば、「永遠」は「永遠に」を意味するはずだと教えられます。
これは文字通りに解釈する人にとってさえ、容易なことではありません。
人が地球上のどの場所を所有するにしても、それは永久的なものではありません。

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」
(ヘブル人への手紙9章27節)


物質的な所有物に関する賃貸借契約や契約は必ず終了します。
では、神は何を意味しているのでしょうか?
アブラハムは「永遠」という言葉をどのように理解したのでしょうか?
もし、ある人が家から追い出されると脅され、約束を果たす能力が証明された友人が、その家を永遠に所有できると約束したとしたら、アブラハムはその言葉をどのように解釈するでしょうか?
アブラハムはそこで永遠に暮らすことを期待します。
その約束から期待できるのはせいぜい、そこで天寿を全うし、死後、塵がそこに安らぐことくらいです。
これは神がアブラハムに明確に約束し、果たしたことでした。
彼は、人が国土を所有できるあらゆる意味でカナンの地を所有しました。」[49]

アブラハムの遺灰がその土に埋まっていることで、国土の契約上の所有は果たされたと主張するのは、なんとも空虚なことです。

歴史の成就を主張する議論に対して、ピーターズ氏は次のように書いています。
「これらすべてがパレスチナ占領、つまりアブラハムの子孫による準備的もしくは開始的な領有によって成就されたと主張することは、聖書に反するだけでなく、事実上約束を限定するものとなります。
クルツ氏は「歴史が証明するように、子孫はナイル川からユーフラテス川に至るアブラハムに約束された国土を決して所有しなかったと指摘しています。」[50]

そして、彼は次のように主張することで、この主張にさらなる説得力を与えています。
「カナンの一時的な所有について何が言われようとも、もしくは「まだ彼の腰の中にいる」子孫について何が主張されようとも、聖書は一つのことを明確に述べています。
つまり、この約束は族長たちの間で、不信仰によって主張されたいかなる形でも成就していないということです。
聖霊はまさにこの反論を予見し、私たちの信仰がつまずかないように、それに対抗する備えをなさいました。
このように、聖霊に満たされたステパノは、次のように語っています。

「ここでは、足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。
それでも、子どももなかった彼に対して、この地を彼とその子孫に財産として与えることを約束されたのです。」
(使徒の働き7章5節)


これは決定的な意味を持っています。
特にパウロ(ヘブル人への手紙9章8、9節、11章13、40節)によって確証されているように、決定的な意味を持っています。
パウロは、族長たちが「約束の地」に「相続地」として「旅人、寄留者」として滞在し、彼らは信仰のうちに死んだことをのべこのように明確に伝えています。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。
約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」
(ヘブル人への手紙11章13節


このような証拠があるにもかかわらず、彼ら自身について直接主張されていることを、彼らの子孫だけに帰することができるのでしょうか?」[51]

このアブラハム契約は、アブラハムへの個別の約束、国家の存続、そしてその国家による国土の所有という約束を含んでおり、特定の契約の民に与えられました。
この契約は無条件かつ永遠であり、未だ成就されていないため、将来の成就を待たなければなりません。
イスラエルは国家として存続し、その国土を継承し、この継承を可能にする霊的な祝福を受けなければなりません。

ウォルフォード氏は的確に結論づけています。
「イスラエルの回復は、アブラハム契約に関する教義の壮大な構造の頂点を成すものです。
千年王国前再臨主義に関連するこの契約を綿密に考察する時には、聖書の真理に対するこの啓示の戦略的重要性に改めて注意を向けるべきです。
この契約には、アブラハムだけでなく、アブラハムの肉体の子孫であるイスラエル、そしてアブラハムの霊的な子孫、つまり、この時代にユダヤ人であれ異邦人であれ、アブラハムの信仰に従うすべての人々に対する規定も含まれていたことが分かっています。
アブラハムがこの契約を文字通り、主に彼の肉体の子孫に関するものとして解釈したことも示されています。
この契約の無条件性、つまり神の約束と忠実さのみに基づく契約であることが実証されています。
現在までに記録されている部分的な成就は、約束を文字通り成就させるという神の意図を裏付けています。
イスラエルが国土を永久に所有するという約束は、アブラハムに与えられ、その子孫に確証された一般的な約束の不可避的な一部であり、結論であることが示されました。
これらの約束に暗示されているイスラエルの国家としての存続は、旧約聖書と旧約聖書の継続的な確証によって支えられてきました。
新約聖書の教会は、イスラエルに与えられたこれらの約束を決して成就していないことが示されました。
最後に、これらの約束の自然な結果としてのイスラエルの回復は、聖書全体の明確な教えとして提示されました。
聖書の啓示を慎重に検討した上で得られたこれらの結論が健全かつ合理的であるならば、千年王国前再臨主義こそがアブラハム契約と調和する唯一の満足のいく教義体系であるという結論が導き出されます。」[52]

NOTE

[1]Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology, I, 42.
[2]Ibid., IV, 156.
[3]Charles Fred Lincoln, “The Covenants,” p.26.
[4]Ibid., pp.25-26.
[5]G.N.H.Peters, The Theocratic Kingdom, I, 290-91.
[6]Lincoln, op.cit., p.181.
[7]Cf.ibid., pp.174-76.
[8]Galatians 3:14, 29、4:22-31.
[9]Romans 4:1-25.
[10]Peters, op.cit., I, 293.
[11]Matthew 22:23-32.
[12]Cf.Peters, op.cit., I, 295-97.
[13]Lincoln, op.cit., pp.206-7.
[14]Peters, op.cit., I, 293-94.
[15]John F.Walvoord, “Millennial Series,” Bibliotheca Sacra, 108:415-17, October,1951
[16]Walvoord, op.cit., 109:37.
[17]Ibid., 109:38-40.
[18]Cf.Charles C.Ryrie, The Basis of the Premillennial Faith, pp.53-61.
[19]C.F.Keil and Franz Delitzsch, The Pentateuch, I.214.
[20]Ibid., I, 216.
[21]Oswald T.Allis, Prophecy and the Church, p.32.
[22]Ibid., p.33.
[23]Walvoord, op.cit., 109:40-41.
[24]Allis, op.cit., p.34.
[25]Walvoord, op.cit., 109:42.
[26]Allis, loc.cit.
[27]Ibid., p.35.
[28]Ibid., p.36.
[29]Ibid., pp.57-58.
[30]Ryrie, op.cit., pp.50-52.
[31Cf.Peters, op.cit., I, 303-4.
[32]Cf.ibid., I, 294.
[33]Ryrie, op.cit., pp.48-49.
[34]Walvoord, op.cit., 109:137-38.
[35]Ibid., 109:139.
[36]Allis, op.cit., p.218.
[37]Charles Hodge, Commentary on Romans, p.589.
[38]William Hendriksen, And So All Israel Shall Be Saved, p.33.
[39]Albertus Pieters, The Seed of Abraham, pp.19-20.
[40]Ibid.
[41]Walvoord, op.cit., 109:137.
[42]Ibid., 108:420.
[43]Cf.Ryrie, op.cit., pp.63-70.
[44]Peters, op.cit., I, 302.
[45]Walvoord, op.cit., 109:218.
[46]Cf.Isa.11:1-11、14:1-3、27:12-13、43:1-8、49:8-16、66:20-22、Jeremiah 16:14-16、30:10-11、31:8, 31-37、Ezekiel 11:17-21、20:33-38、34:11-16、39:25-29、Hosea 1:10-11、Joel 3:17-21、Amos 9:11-15、Micah 4:4-7、Zeph.3:14-20、Zech.8:4-8.
[47]Ryrie, op.cit., pp.70-73.
[48]George Murray, Millennial Studies, pp.26-27.
[49]Ibid., p.26.
[50]Peters, op.cit., I, 297.
[51]Ibid., I, 294-95.
[52]Walvoord, op cit., 109:302-3.


第6章 パレスチナ契約

申命記の終章において、アブラハムの肉体的な子孫であるイスラエルの民は、国家存亡の危機に直面しています。
彼らは、モーセの確固たる指導力から、ヨシュアの確固たる指導力へと移行しようとしています。
彼らは、神が彼らに約束した国土の入り口に立っています。
その国土は、次のような言葉で記されています。

「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」
(創世記12章7節)

「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。
わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。
わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。
わたしは、彼らの神となる。」
(創世記17章7、8節)


しかし、この地はイスラエルの敵に占領され、彼らはイスラエルが約束の地へ入ろうとするいかなる試みにも抵抗する姿勢を示しています。
彼らがかつての奴隷国家の地位に戻ることは不可能であり、「寄留者、巡礼者」として旅していた地は彼らの前に閉ざされているかのようです。
その結果、イスラエルはいくつかの重要な問題に直面せざるを得なくなりました。
パレスチナの地は依然として彼らの所有物なのでしょうか?
誰もが条件付きであると認めるモーセの契約の発効は、無条件のアブラハムの契約を無効にしたのでしょうか?
イスラエルはこのような反対に直面しながらも、自らの地を永久に所有することを望むことができたのでしょうか?
これらの重要な疑問に答えるために、神は申命記30章1〜10節で、イスラエルの国土の所有と相続に関する契約上の約束を再び述べられました。
この記述は、アブラハムの契約における国土の約束とイスラエルとの関係という質問に答えているため、私たちはこれをパレスチナ契約と呼んでいます。

1.パレスチナ契約の重要性

この契約は、
(1)イスラエルに対し、約束の地の所有権をはっきりと再確認する点で、とても重要な意味を持っています。
アブラハムとの約束の時からその時に至るまで、イスラエルの歴史においてしばしば見られた不忠実と不信仰にもかかわらず、この契約は破棄されません。
その地は依然として約束によって彼らのものです。

(2)さらに、当時イスラエルが従っていた条件付きの契約の導入は、神の御心に関する元々の恵み深い約束を無効にすることはできず、また無効にすることもありません。
この事実は、パウロが次のように書いている論拠の根拠となっています。

「私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。」
(ガラテヤ人への手紙3章17節)


(3)この契約は、元々のアブラハム契約を確認し、拡張したものです。
このパレスチナの契約は、アブラハムの契約における国土の特徴を補足するものです。
国家生活における故意の不信仰と不従順の後に生じたこの補足は、不従順にもかかわらず、当初の約束は成就するように与えられたという主張を裏付けるものです。

II.パレスチナ契約の条件

パレスチナ契約は申命記30章1〜10節に次のように記されています。

「私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、
あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、
あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。
たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。
あなたの神、主は、あなたの先祖たちが所有していた地にあなたを連れて行き、あなたはそれを所有する。主は、あなたを栄えさせ、あなたの先祖たちよりもその数を多くされる。
あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。
あなたの神、主は、あなたを迫害したあなたの敵や、あなたの仇に、これらすべてののろいを下される。
あなたは、再び、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を、行なうようになる。
あなたの神、主は、あなたのすべての手のわざや、あなたの身から生まれる者や、家畜の産むもの、地の産物を豊かに与えて、あなたを栄えさせよう。まことに、主は、あなたの先祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。
これは、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従い、このみおしえの書にしるされている主の命令とおきてとを守り、心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主に立ち返るからである。」
(申命記30章1~10節)


この箇所を分析すると、そこで展開される計画には7つの主な特徴があることがわかります。
(1)国民は不忠実のゆえに国土から引き離されます。
(申命記28章63~68節、30章1~3節)
(2)イスラエルは将来悔い改める。(申命記28章63~68節、30章1~3節)
(3)彼らのメシアが戻ってくる。(申命記30章3~6節)
(4)イスラエルは国土に復帰する。(申命記30章5節)
(5)イスラエルは国家として改心する。(申命記30章4~8節、ローマ人への手紙11章26、27節参照)
(6)イスラエルの敵は裁かれる。(申命記30章7節)
(7)そして国家は全面的な祝福を受ける。(申命記30章9節)

この契約の計画を定めたこの一節に含まれる広い意味での範囲を考察すると、神がイスラエルとこの国土との関係を極めて重要視していることを強く感じることができます。
神は彼らにその国土の所有を保証するだけでなく、イスラエルの敵をすべて裁き、取り除き、彼らをこの地に住まわせる前に、彼らに新たな心、つまり改心を与える義務を負っておられます。
この同じ契約は、イスラエルの歴史の後の時代にも確証され、エゼキエルの預言の主題となります。
神はイスラエルが幼少期にあった時に、イスラエルへの愛を表明されています。(エゼキエル書16章1~7節)
そして、イスラエルがヤハゥエに選ばれ、結婚によって結ばれたことを思い出しています。(8~14節)
しかし、イスラエルは淫行を犯しました。(15~34節)
そのため、離散という罰がイスラエルに下されました。(35~52節)
しかし、これはイスラエルの最終的な断絶ではありません。
なぜなら、回復があるからです。(53~63節)

この回復は、次の約束に基づいています。

「だが、わたしは、あなたの若かった時にあなたと結んだわたしの契約を覚え、あなたととこしえの契約を立てる。
わたしが、あなたの姉と妹とを選び取り、あなたとの契約には含まれていないが、わたしが彼女たちをあなたの娘としてあなたに与えるとき、あなたは自分の行ないを思い出し、恥じることになろう。
わたしがあなたとの契約を新たにするとき、あなたは、わたしが主であることを知ろう。」
(エゼキエル書16章60~62節)

このように、主はパレスチナ契約を再確認しており、これを主が従う永遠の契約と呼んでいます。

III.パレスチナ契約の特徴

神がイスラエルと、その国土に関する関係において結ばれたこの契約は、無条件の契約であると理解されなければなりません。
これを支持する理由はいくつかあります。
最初に、エゼキエル書16章60節で神はこの契約を永遠の契約と呼んでいます。
この契約が永遠となるためには、その成就が人間の責任から切り離され、永遠なる神の御言葉に委ねられる必要があります。
二番目に、この契約はアブラハム契約の一部を拡大・拡張したものに過ぎません。
アブラハム契約自体も無条件の契約であり、したがって、この拡大もまた永遠かつ無条件でなければなりません。
三番目に、この契約は、その成就に不可欠な必要な改心を神が成就してくださるという保証を与えられています。
ローマ人への手紙11章26、27節、ホセア書2章14〜23節、申命記30章6節、エゼキエル書11章16~21節は、いずれもこの点を明確に示しています。
この改心は聖書において神の主権的行為とみなされ、神の誠実さゆえに確実なものとして認められなければなりません。
四番目に、この契約の一部はすでに文字通り成就しています。
イスラエルは不忠実に対する裁きとして離散を経験しました。
イスラエルは国土の回復を経験し、最終的な回復を待っています。
イスラエルの歴史には、裁かれた敵の例が数多くあります。
これらの部分的な成就は文字通りの成就でした。
しかし、すべては未成就の部分が将来同じ様に文字通り成就することを示しています。

申命記30章1〜3節の「するなら」という記述から、この契約は条件付きであると主張する人もいるかもしれません。
しかし、ここで条件となるのは時のみであることに配慮すべきです。
計画は確実であり、この計画が成就する時が国民の改心にかかっています。
しかし、時に関する条件が、計画全体を条件付きにするわけではありません。

IV.パレスチナ契約の終末論的意味

この契約の条件が最初に述べられたときから、文字通りの成就を前提として、イスラエルは国家として改心し、世界中に散らされた状態から再び集められ、所有させられた国土に定住し、敵に対する裁きを目撃し、与えられた血肉的な祝福を受けなければならないことが簡単に分かります。
したがって、この契約は私たちの終末論的な期待に広い意味で影響を及ぼすと考えられます。
これらのことはいまだ成就しておらず、永遠で無条件の契約には成就が求められるため、私たちは将来の出来事の概要において、まさにそのような計画を盛り込まなければなりません。
これは、イスラエルに手紙を書いた預言者たちの期待です。
イザヤ書11章11、12節、14章1~3節、27章12、13節、43章1~8節、49章8~16節、66章20~22節、エレミヤ書16章14~16節、23章3~8節、30章10、11節、31章8、31~37節、エゼキエル書11章17~21節、20章33~38節、34章11~16節、39章25~29節、ホセア書1章10、11節、ヨエル書3章17~21節、アモス書9章11~15節、ミカ書4章4~7節、ゼパニヤ書3章14~20節、ゼカリヤ書8章4~8節。
これらは聖徒たちに与えられた約束でした。
メシアがこれらの約束を確証するのを見るまで生きようと、もしくは復活によってその地にたどり着こうと、彼らは神の約束を待ち望みながら平安を得ることができました。

[1]Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology, IV, 317-23


第7章 ダビデ契約

アブラハム契約の終末論的な意味合いは「国土」と「子孫」という言葉に表れています。
国土に関する約束はパレスチナ契約を通して拡大され、確証されます。
イスラエルの次の偉大な契約、ダビデとの契約において、神は子孫に関する約束を拡大し、確証します。
これは、ダビデ契約の成立に関する箇所で言及されます。

「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。」
(サムエル記第二7章12節)

「わたしは、わたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデに誓っている。
わたしは、おまえのすえを、とこしえに堅く立て、おまえの王座を代々限りなく建てる。」
(詩篇89章3、4節)

「天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす。」
(エレミヤ書33章22節)

「主はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら、
わたしは、ヤコブの子孫と、わたしのしもべダビデの子孫とを退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないようなこともあろう。しかし、わたしは彼らの捕われ人を帰らせ、彼らをあわれむ。」」
(エレミヤ書33章25、26節)


アブラハムの契約に含まれる子孫の約束は、今やダビデの約束の中心となっています。
子孫の約束全般、そしてダビデの子孫の系譜、そして彼の王国、家、そして王座がさらに強調されています。

1.ダビデ契約の重要性

ダビデ契約には、終末論を研究する者が直面する多くの重要な問題が内在しています。
文字通りの千年王国はあるのでしょうか?
教会は王国なのでしょうか?
神の王国とは何でしょうか?
キリストの王国とは何でしょうか?
イスラエル国家はメシアのもとに再び集められ、回復されるのでしょうか?
王国は現在のものでしょうか、それとも未来のものでしょうか?
これらの問題、そしてさらに多くの重要な問題は、ダビデと交わされた契約を正しく解釈することによってのみ解決できます。

ベルクホフ氏は無千年王国論者の代表として次のように言っています。
「この理論、つまり「文字通りの千年王国という千年王国前再臨主義」の唯一の聖書的根拠は、旧約聖書の内容を注ぎ込んだヨハネの黙示録20章1~6節であります。」[1]
このような見解は、聖書の中で非常に大きな決定的位置を占めるダビデ契約、つまり王国と王の約束について詳しく述べることによってのみ反論できます。

II.ダビデ契約の条件

神がダビデに与えた約束はサムエル記第二7章12〜16節に記されています。

「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。
もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。
しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。
あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」」
(サムエル記第二7章12~16節)


ダビデ契約の歴史的背景はよく知られています。
ダビデは王国で権力と権威を握り、今や杉の家に住んでいました。
ゆえに、ダビデの権威と支配の源泉である方が依然として皮張りの家に住んでいるというのは、不釣り合いに思えました。
ダビデの目的は、神のためにふさわしい住まいを建てることでした。
しかし、彼は軍人であったため、この家を建てることが許されません。
その責任は平和の君ソロモンに委ねられました。
しかし、神はダビデに、その家の永続性に関して確かな約束を与えました。

ダビデ契約の条件には、次のようなものが含まれています。
(1)ダビデには、まだ生まれていない子がいて、ダビデの後を継いで王国を建てます。
(2)この子(ソロモン)がダビデに代わって神殿を建てます。
(3)彼の王国の王座は永遠に確立されます。
(4)たとえソロモンの罪が懲罰に値するとしても、王座は彼から剥奪されません。
(5)ダビデの家、王座、そして王国は永遠に確立されます。[2]
この契約の終末論的な本質は、サムエル記第二7章16節に出てくる「家」「王国」「王座」という三つの言葉に暗示されています。

ウォルフォード氏はこの契約で使われているこれらの言葉を明確に定義しています。
ウォルフォード氏はこのように書いています。
「契約の主要な条件は何を意味するのでしょうか?
ダビデの「家」とは、ダビデの子孫、つまり彼の肉体的な子孫を指していることは疑いようがありません。
彼らは決して全員が殺されることも、他の一族に完全に取って代わられることもないことが保証されています。
ダビデの血統は永遠に王統です。
「王座」とは、物質的な王座ではなく、王としてのダビデが持つ至高の威厳と権力を指していることは明らかです。
支配権は常にダビデの子孫に属していました。
「王国」とは、イスラエルに対するダビデの政治的王国を指しています。
「とこしえに」という表現は、ダビデの権威とイスラエルに対するダビデの王国、もしくは支配権がダビデの子孫から決して奪われないことを意味します。
支配権は決して他の一族に譲渡されることはなく、その取り決めは永遠に続くように設計されています。
形が変わっても、一時的な中断や懲罰があったとしても、常にダビデの血統はイスラエルを支配する権利を持ち、現実にこの特権が実行されるのです。」[3]

イスラエルの他の契約と同じ様に、この契約も後の聖書の中で再び述べられ、確認されています。
詩篇89篇で詩人は神の憐れみを称えています。
3節では、これらの憐れみが以下の理由でもたらされたと述べられています。

「わたしは、わたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデに誓っている。
わたしは、おまえのすえを、とこしえに堅く立て、おまえの王座を代々限りなく建てる。」
(詩篇89篇3、4節)

これらの約束は、次の理由により確実です。

「わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。
わたしは、かつて、わが聖によって誓った。わたしは決してダビデに偽りを言わない。
彼の子孫はとこしえまでも続き、彼の王座は、太陽のようにわたしの前にあろう。」
(詩篇89章34~36節)


このことはイザヤ書9章6、7節、エレミヤ書23章5、6節、30章8、9節、33章14節、17節、20、21節、エゼキエル書37章24、25節、ダニエル書7章13、14節、ホセア書3章4、5節、アモス書9章11節、ゼカリヤ書14章4節、9節などの聖句でも再び確認されています。
ダビデに対するこの約束は神によって正式な契約として確立され、その後、王国、家、王座に関して神が行動を起こす基礎として述べられています。

III.ダビデ契約の特徴

これまでの契約と同じ様に、決定的な要素は契約そのものの特徴です。
それは条件付きで一時的なものでしょうか、それとも無条件で永遠のものでしょうか?
無千年王国論者は、条件付きの契約と霊的な成就を主張せざるを得ません。
つまり、キリストが今や父の右に座しておられる王座が契約の「王座」となり、信仰の家が契約の「家」となり、教会が契約の「王国」となります。

マレー氏は、広く受け入れられている無千年王国論の見解を次のように示しています。
「ダビデ契約については、これまで多くのことが語られてきましたが、それは彼の子孫が彼の王座に座るというものであり、ソロモン王の治世において自然な成就を見ました。
その永遠の側面には、ダビデの子孫である主イエス・キリストが含まれています。
使徒の働きの中でペテロは、キリストの復活と昇天によって、ダビデの子孫が彼の王座に座るという神の約束が成就したと主張しています。
(使徒の働き2章30参照)では、聖書が霊的な成就を示したと証明している約束が、なぜ文字通りに成就したと主張するのでしょうか?」[4]
契約の現在の世界的な側面はすべてソロモンによって成就され、永遠の側面はキリストの教会に対する現在の支配によって成就されたとされている点に注目すべきです。
これにより、教会は契約で約束された「子孫」であり「王国」となります。
王国は地上のものではなく、天のものです。
ダビデの支配はキリストの支配の単なる型となります。
このような見解は、広い意味で比喩化によってのみ得られるものです。」[5]

A.ダビデ契約は本質的に無条件です。

契約における唯一の条件要素は、ダビデの子孫が継続的に王座に就くかどうかです。
不従順は懲罰をもたらすかもしれませんが、契約が破棄されることは決してありません。

ピーターズ氏は次のように述べています。
「ある人々は、卓越した御方、卓越した子孫に関して最も明確に反対の宣言がなされているにもかかわらず、この約束全体が条件付きであると誤って推論しています。
確かに、ダビデの普通の子孫に関しては条件付きでした。(詩篇89章30~34節を参照)

「もし、その子孫がわたしのおしえを捨て、わたしの定めのうちを歩かないならば、
また、もし彼らがわたしのおきてを破り、わたしの命令を守らないならば、
わたしは杖をもって、彼らのそむきの罪を、むちをもって、彼らの咎を罰しよう。
しかし、わたしは恵みを彼からもぎ取らず、わたしの真実を偽らない。
わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。」
(詩篇89章30~34節)

33節には「しかし」とありますが、英訳聖書では「それにもかかわらず(nevertheless)」と訳されており、その言葉に注目してください。。
もし、ダビデの子孫が従順であったなら、ダビデの王座は、卓越した子孫が来るまで決して空位になることはなかったはずです。
しかし、不従順であったために王座は倒され、子孫によって再建され回復されるまでは、「倒れた幕屋」「荒れ果てた家」のままです。
読者は、もしソロモンにおいて成就し、子孫を尊重するならば、例えばエレミヤ書33章17~26節など、その後に与えられた預言がいかに不釣合いで的外れなものになるかに気づかずにはいられないはずです。[6]
ダビデは、自分の王家が途切れることなく王座を継ぐことはないと予期していましたが、それでもなお、契約の永遠性を主張しています。
詩篇89篇でダビデは、約束されたことが実現する(20~29節)前に、自分の王国が滅びることを預言しました。(38~45節)
しかし、彼は約束の成就を待ち望み(46~52節)、主を祝福しています。」[7]
これがダビデの信仰です。
この契約が無条件であるという立場を支持する理由はいくつかあります。

(1)まず最初に、イスラエルの他の契約と同じ様に、この契約はサムエル記第二7章13節と16節、23章5節、イザヤ書55章3節、エゼキエル書37章25節で永遠と呼ばれています。
永遠と呼ばれる唯一の理由は、それが無条件であり、その遂行が神の忠実さにかかっているからです。

(2)繰り返しますが、この契約は、無条件であることが示された元のアブラハム契約の「子孫」の約束を増幅させるものであり、したがって元の契約の性格を受け継ぐことになります。

(3)さらに、この契約は、国民の度重なる不従順の行為の後、再確認されました。
ダビデの子であるキリストは、何世代にもわたる背教の後、ダビデの王国を提供するために来られました。
もし、この協定が国家側の何らかの反応を条件としていたならば、こうした再確認はなされなかっただろうし、なされることもなかったはずです。

B.ダビデ契約は文字通りに解釈されるべきです。

ピーターズ氏は、おそらく他のどの著者よりも徹底的に、文字通りの成就という問題について論じています。
「彼は契約の文字通りの解釈を次のように主張しています。
ユダヤ人がイエスが文字通りダビデの王座と王国を回復すると信じていたことを非難する前に、公平を期すために、契約の文言そのものによって彼らがそうすることが正当化されていたことを考慮に入れなければなりません。
人間の利益と幸福に関わり、神自身の真実性にもほとんど触れるような極めて重要な事柄において、神が彼らに言葉を用いるとは、信じ難いことです。
もし、その言葉が、明白で常識的な意味で真実でなければ、幾世代にもわたって敬虔で神を恐れる人々を欺くことになります。

(1)言葉や文は、その単純な文法的解釈において、彼らの信仰を明示的に教えています。
これは誰からも否定されず、たとえ言語を霊的に解釈しようとする人々でさえも否定できません。
(2)この契約はユダヤ民族と明確に関連しており、他のどの民族とも関連していません。
(3)これは永遠の契約、つまり永遠に続く契約と呼ばれます。
確かに、その成就には時間がかかるかもしれません。
国家にとっては、一時的には背後に追いやられることさえあるかもしれませんが、最終的には必ず実現されます。
(4)それは誓いによって確認され(詩篇132章11節、89章3節、4節、33節)、その誓いによってその預言が十分に成就するという最も強力な保証が与えられました。
(5)いかなる疑いも残さず、不信仰を全く許されないものとするため、神は簡潔、かつ力強く、その決意を次のように示しています。

「わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。」
(詩篇89篇34節)


現代では霊的という言い訳のもとに、ユダヤ人が契約を変え、その言葉が含む明白な意味を受け入れることを拒んだことは、完全な恐れと盲目であったからだと考えます。
そして、たとえ、最も敬虔な意図のもとであっても、契約の言葉を故意に変え、それに異質な意味を付与する者たちには、重い責任が課せられます。」[8]

次に彼は、ダビデの王座と王国という概念全体が文字通りに理解されるべきだと信じるの理由を挙げ、次のように書いています。[21]
「ダビデの王座と王国を文字通りに理解するならば、他のすべての約束も必然的に実現します。
そして、この文字通りの成就を受け入れることが多くの人々の心の中で主な困難を形成するので、なぜそれを受け入れなければならないのかという理由を簡潔に述べておきます。

1.それは厳粛に契約され、誓いによって確認されたので、変更、または破棄することはできません。
2.文法的な意味合いだけでも契約になりえます。
3.ダビデに与えた印象が誤っているとすれば、それは彼の預言者としての職務を軽視するものとなります。
4.ソロモンは(歴代誌第二6章14〜16節)、それが文字通りの王座と王国を指していると確信していました。
5.ソロモンは、契約は彼自身において成就したが、それは彼自身もダビデの子としてダビデの王座に座したという点においてのみであると主張しています。
6.この言葉はエレミヤ書17章25節と22章4節に示されているように、ダビデの文字通りの王座と王国を表すために通常用いられる言葉です。
7.預言者たちも同じ言葉を用いており、神の導きのもとで繰り返し用いられていることは、文法的に明確な意味が意図されている証拠です。
8.何世紀にもわたって広く信じられてきた信仰、つまり霊感を受けた人々の教えのもとでこの言葉によって生み出された国民的信仰は、この言葉がどのように理解されるべきかを示しています。
9.この王座と王国は約束と相続のものであり、したがって神としてではなく人としてのイエスを指しています。
10.同じことがダビデの子に「肉において」、現実に実現することが明確に約束され、したがって、彼は約束どおり神権政治の王として現れなければなりません。
11.これを文字通り以外の方法で解釈すべきであるという暗示は、私たちには全くありません。
それ以外の解釈は、純粋な推論の結果です。
12.文字通りの解釈以外のいかなる見解も、極めて重大な自己矛盾をはらんでいます。
13.契約の文字通りの受領を否定することは、相続人から契約による相続財産を奪うことになります。
14.ダビデの王座を第三の天にある父の王座とする文法的規則を定めることはできません。
15.後者を「比喩的」または「型として見る」という概念のもとで試みる場合、契約の信憑性と意味は人間の解釈に委ねられ、ダビデ自身が創造主の「象徴」または「型」(被造物)になります。
16.ダビデの王座が天にある父の王座であるなら(通常の解釈)、それは永遠に存在していたはずです。
17.もし、そのような契約上の約束が比喩的に受け止められるならば、その比喩的な性質がどこかで直接的に肯定されることなく、現在の形で与えられることは考えられません。
神は(文字通りではないとしても)何世紀にもわたって、それらが、例えばダビデからキリストに至るまで、誤った期待を掻き立て、助長するものとして際立って機能することを予見していました。
18.神は約束に忠実であり、契約の言葉で誰も欺くことはありません。
19.もし、ダビデの子に約束されたこの王座が何か別の意味を持つのであれば、その王座が与えられた形で明確に約束される必然性は存在しません。
20.回復されるのは、倒された王座と王国そのものなのです。
21.しかし、契約上の言葉が文字通りに受け止められる主な直接的な理由は、次の通りです。

「ダビデの王座と王国は、すでに神が定めておられますが、現在は準備が完了するまで保留されています。
これは神の権利の元に秩序が誇示されています。
また、ダビデの王座と王国は、ユダヤ民族の復興と高揚されるためであり、現在においてもこの目的のために保たれています。
また、神の権限のもとに行われる祝福である人類の救済のために存在しており、呪いから解放された新たな世界の支配のために必要不可欠なものとなります。」
そのような王座と王国は、すでに提案されている神権路線における神の目的の統一を保つために必要なのです。」[9]

この提案全体は、特定の追加証拠によって裏付けられています。

1.成就した契約の部分は文字通り成就しました。
前述のように、部分的な成就は、未成就の部分で用いられる方法を決定します。
ライリー氏は次のように述べています。
「ダビデに息子が生まれたこと、ダビデの王座が確立したこと、ダビデの王国が確立したこと、ソロモンが神殿を建てたこと、ソロモンの王座が確立したこと、そして彼が不従順のために罰せられたことだけを簡単に述べる必要があります。」[10]

2.ダビデがどのように理解したとしても、その証拠が加わります。
ダビデは、それが文字通りの契約であり、文字通り成就されるべきものであるとしか考えていなかったのです。」

ピーターズ氏はこのように述べています。
「ダビデ自身はこの契約をどのように理解していたのでしょうか?
これはダビデ自身の言葉で述べられているのを見ることが最も適切です。
例えば、ソロモンよりもはるかに優れた御子について述べている詩篇72篇を読んでみてください。
詩篇132篇11節を熟考してみてください。

「主はダビデに誓われた。それは、主が取り消すことのない真理である。「あなたの身から出る子をあなたの位に着かせよう。」
(詩篇132篇11節)


使徒の働き2章30節と31節でペテロは明確にイエスを指しています。
このように記されていることに注目した後、この詩篇や他の詩篇(89篇、110篇、72篇、48篇、45篇、21篇、2篇など)にある数多くのメシアに関する暗示について考えてみてください。
これらは新約聖書において霊感を受けた人々によって深く考慮され、明確に引用されています。
ダビデが神を「私の主」と呼び、「地上の王たちよりも高い」と呼び、いかなる死ぬべき王も到底到達できない地位、力、支配力、不滅性、永続性を神に与えたという事実を深く考えてみてください。
そして、ダビデ自身が「あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」という契約の目的に従って、神の子であり主である神の王国にいて、その祝福を目撃し、経験することを期待していたと信じることは間違いではありません。」[11]

「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」
(サムエル記第二7章16節)


また、ダビデ自身も、最期の言葉(サムエル記第二23章5節)の中で、力強くこのように述べています。

「とこしえの契約が私に立てられているからだ。このすべては備えられ、また守られる。
まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる。」
(サムエル記第二23章5節)


預言者イザヤはこれを繰り返して語っています。
これを「とこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約」(イザヤ書55章3節)と宣言しています。

バーンズ氏(Com.loci.Bible)は次のように述べています。
「この契約は「変わることなく揺るぎない契約、破棄されない契約」です。
また、「破棄されることなく永続する契約」、そして「神が承認された契約を承認」を意味していることは、誰の目にも明らかです。」[12]

さらにこうあります。
「ダビデ自身が約束の文字通りの成就を期待していたことは、契約を交わした後にダビデが述べた言葉からも明らかです。
そして、この文字通りの約束を期待して、ダビデは神に感謝を捧げ、自分の家を誉れあるものとして選び、それを永遠に堅く立ててくださったことを賛美しています。(サムエル記第二7章8節、歴代誌第一17章16節など)
ダビデが契約の本質について誤った考えを持って感謝を捧げ、祈りを捧げたと考えるのは、傲慢なことです。」[13]
したがって、ダビデは神に導かれて契約を文字通りに解釈していたことは明らかです。

3.イスラエル国民による契約の解釈は、契約の文字通りの解釈を裏付ける証拠となります。
旧約聖書の預言書全てにおいて強調されている文字通りの解釈の側面について述べています。
この文字通りの解釈の強調は、ユダヤの歴史を通じて継続されています。

ライリー氏は次のように述べています。
「その時代のユダヤ人がこの王国について持っていた概念は、地上的、国家的、救世主的、道徳的、そして未来的という5つの特徴に要約できます。
地上の王国への希望でした。
イスラエルはパレスチナが外国の支配下にあるのを見て、その希望はさらに強まりました。
なぜなら、彼らが期待していた王国は地上に樹立され、当然のことながら外国の支配からの解放を伴うものだったのです。
その王国は国家的なものでなければなりません。
つまり、期待される王国はイスラエルと特別な関係があり、その国だけに約束されていました。
王国は道徳的な王国となります。
イスラエルは国家として清められます。
明らかに、主イエス・キリストの初臨の時点では、王国はまだ存在しておらず、したがって未来のものでした。
ダビデとソロモンの治世における栄光でさえ、期待されていた王国とは比べものになりません。
したがって、この王国に関するイスラエルの信仰はすべて、実現されない希望という性質のものでした。
イスラエルは未来に目を向けていたのです。」[14]

4.新約聖書におけるダビデとの契約に関する記述は、文字通りの解釈を裏付ける証拠となります。

ウォルフォード氏は新約聖書全体について次のように述べています。
「新約聖書にはダビデについて全部で59回述べられています。
キリストの現在の座についても多くの言及があります。
新約聖書を調べてみると、キリストの現在の座とダビデの王座を結びつける記述は一つもありません。
ダビデについてこれほど多く言及され、父の王座におけるキリストの現在の座についてもこれほどくり返して述べられているにもかかわらず、両者を権威ある形で結びつける記述が一つもないというのは信じ難いことです。
新約聖書には、天の父の王座がダビデの王座と同一視されるべきであるという明確な教えが全く欠けています。
キリストが父の王座に座っていることは明らかです。
また、これはダビデの王座に座っていることとは全く同じではないという推論は明らかです。」[15]

ヨハネ(マタイの福音書3章2節)、キリスト(マタイの福音書4章17節)、十二使徒(マタイの福音書10章5~7節)、七十人(ルカの福音書10章1~12節)による御国に関するすべての説教において、イスラエルに与えられた御国は、文字通り地上の御国以外の何物でもないことが示されています。
イスラエルがその提示を拒み、御国の奥義が告げられた後でさえ(マタイの福音書13章)、キリストはそのような文字通り地上の御国を予期しておられます。(マタイの福音書25章1~13節、31~46節)[16]
新約聖書は、ダビデに約束された御国をキリストの現在の召命と結びつけてはいません。
興味深いのは、御使いが自らメッセージを始めたのではなく、神から与えられたものを告げ、マリアにこのように言ったことです。

「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
(ルカの福音書1章31~33節)

御使いのメッセージは、元々のダビデ契約の3つのキーワード、つまり王座、家、王国を中心にしており、それらすべてがここで成就すると約束されています。
ダビデ契約は、第一教会会議における議論において重要な位置を占めています。

ウォルフォード氏は、この契約について議論されている使徒の働き15章14〜17節について、次のように解説しています。
「この箇所の問題は、以下の疑問に集約されます。
(1)「ダビデの幕屋」とはどういう意味でしょうか?
(2)「ダビデの幕屋」はいつ再建されるのでしょうか?
最初の疑問は、その出典であるアモス書9章11節とその文脈を考察することで解決されます。
それ以前の章と9章前半は、イスラエルに対する神の裁きについて扱っています。
それは、引用の直前の2節に要約されています。

「見よ。わたしは命じて、ふるいにかけるように、すべての国々の間でイスラエルの家をふるい、一つの石ころも地に落とさない。
わたしの民の中の罪人はみな、剣で死ぬ。
彼らは『わざわいは私たちに近づかない。私たちまでは及ばない。』と言っている。」
(アモス書9章9、10節)


この裁きの箇所のすぐ後には、裁きの後の祝福の約束が続きます。
使徒の働き15章に引用されている聖句はその最初のものです。
この箇所の文脈はイスラエルの裁きについて述べています。
この箇所全体は「ダビデの幕屋」がイスラエルの裁きを指す表現であることを確認しています。
イスラエル国民全体、そして異邦人の諸国民と対照的にヤコブの引用の意味は何でしょうか?
ヤコブは、事実上、神の目的はイスラエルだけでなく異邦人も祝福することでしたが、その順序は異なっていると述べています。
神はまず異邦人を訪れ「御名をもって呼ばれる民をお召しになった」(使徒の働き15章14節)のです。
ヤコブはさらに、これは預言者たちの教えと完全に一致すると述べています。
なぜなら、彼らはユダヤ人の祝福と勝利の時代は異邦人の時代の後に来るべきだと述べていたからです。
異邦人の改心の時代をダビデの幕屋の再建と同一視するのではなく、最初の時代(異邦人の祝福)とその後(イスラエルの来るべき栄光)を慎重に区別しています。
この箇所は、教会とイスラエル国家に対する神の目的を明確にするのではなく、特定の時間的順序を定めています。
イスラエルの祝福は「わたしが戻る」まで来ません。
神はまずイスラエルの離散の時代に異邦人のための御業を終え、それからイスラエルに約束された祝福をもたらすために戻ってくるのです。
言うまでもなく、これはキリストが現在ダビデの王座に座り、預言者たちが預言したようにイスラエルに祝福をもたらしているのではありません。
むしろ、父の王座に座り、地上の王国の到来を待ち、教会を形成する自身の民のために執り成しをしているという解釈を裏付けています。」[17]

ライリー氏は同じ箇所を取り上げ、次のように解説しています。
「使徒の働き15章14〜17節のアモスの引用について、ガエベライン氏はヤコブの言葉を思考の展開における4つの点を挙げながら、巧みに分析しています。
最初に、神は異邦人を訪れ、彼らから御名のために民を召されます。
言い換えれば、神はイスラエル人だけでなく異邦人も祝福すると約束されています。
しかし、それぞれに定められた順序で祝福を与えるということです。
最初に異邦人への祝福です。
二番目に、キリストが再臨されます。
これは、御名のために民が召し出された後に起こります。
三番目に、主の来臨の結果として、ダビデの幕屋が再建されます。
つまり、ダビデ契約で約束されたように、王国が確立されます。
アモスはこの再建が「昔の日のように」(9章11節)行われると明確に宣言しています。
つまり、祝福は地上的かつ国家的なもので、教会とは一切関係がないということです。
四番目に、残された人々は主を求めます。
つまり、王国が樹立された後、すべての異邦人が主を知るようになるということです。
イザヤ書2章2節、11章10節、40章5節、66章23節も同じ真理を教えています。」[18]

したがって、新約聖書全体を通じても、旧約聖書全体においても、ダビデ契約はどこでも文字通りに扱われています。

C.文字通りの成就の問題点

ダビデ契約を文字通りに解釈すべきだという立場には、問題点がないわけではありません。
ここでは、それらの問題点のいくつかについて考察します。
1.キリストと契約との関係に関する問題があります。
2つの矛盾する答えが示されています。
成就の問題は、キリストが約束を成就する方であるかどうかという問題ではなく、キリストがどのように契約を成就し、いつ成就するかという問題です。
この問題については、主に二つの答えがあります。
(1)キリストは、現在、天の父の右の座に座しておられることによって約束を成就されます。
(2)キリストは再臨し、千年王国の間に地上で義なる支配を行うという約束を成就されます。[19]

これらの解釈の最初のものに対して、ピーターズ氏は次のように書いています。
「霊的化、象徴化、類型化といった詭弁によっても、ダビデの王座と王国の約束を、父の王座、神の主権、恵みの王国、福音のディスペンセーションなど、何か他のものに変えることは不可能です。
その理由は単純で、今や覆されたその王座と王国こそ、メシア御自身によって再建されると約束されているからです。
(アモス書9章11節、使徒の働き15章16節、ゼカリヤ書2章12節、ゼカリヤ書1章16節、17節など)
神権の冠が投げ落とされ、神としての王座が覆され、神の王国がひっくり返されたことこそ、キリストが回復すべき冠、王座、王国なのです。
これらはキリストの「権利」(エゼキエル書31章25〜27節)であり、「キリストに与えられる」ものなのです。
これらもまた、ユダヤ民族の復興と結びついています。
(エレミヤ書33章14節、ミカ書4章6、8節など)
これらの事実、つまりかつて王座が存在し、一時期存在せず、また、再び王座が回復し、そして、その回復時に元の王国を形成した古代の人々や国土と王座が結びつきます。
しかし、これらの事実、そしてこれから取り上げる他の多くの事実は、言葉で表現できる限り完全に、契約に基づく言語への旧約の信仰を捨て去っていないことを示しています。」[20]

確立された解釈の原則によれば、ダビデ契約は文字通りの成就を要求します。
これは、キリストが地上においてダビデの王座に就き、ダビデの民を永遠に支配しなければならないことを意味します。

2.二つ目の問題は、ダビデとソロモンの時代以降のイスラエルの歴史に関連しています。
ライリー氏はこの問題について次のように書いています。
「答えなければならない質問は、次の通りです。
歴史的に部分的に成就したからといって、将来の文字通りの成就が否定されるのでしょうか?
歴史が提起する主な難題は3つあります。

(1)ダビデの政治的王国は、継続的な進展や権威を維持してこなかったこと、
(2)イスラエルの捕囚と王国の滅亡は、文字通りの成就を将来の成就と解釈することに反論しているように思われること、
(3)キリストの初臨以来数世紀が経過した事実は、文字通りの成就は期待できないことを示しているように思われること
千年王国主義の立場では、これら4つの理由から、歴史上、部分的に成就したからといって、将来の成就の可能性が軽減されたわけではないと主張します。
最初に、旧約聖書の預言者たちは、イスラエルが大いなる背教の時代においてさえ、文字通りの成就を期待していました。
二番目に、契約は文字通りの解釈を要求しており、それはまた将来の成就を意味します。
三番目に、新約聖書は、王国の現在の奥義形態が、将来の文字通りの成就を決して否定するものではないと教えています。
四番目に、契約の言葉そのものが、ソロモンが不従順であったとしても契約は有効であり、ソロモンの子孫に永続的な継承が約束されたわけではないことを教えています。
唯一必要なのは、王座が永続的に保持されることではなく、血統が失われないことです。」[21]

王国の中断は、計画全体が放棄されたことを意味するものではありません。
王座大権が維持されている限り、王国は再建される可能性があります。

ウォルフォード氏は次のように述べています。
「イスラエルにおける永遠の王座と永遠の王国の約束を成就するはずだった血統は、ナタンからキリストに至るまで、現実には王座に就くことのなかった血統を通して神によって守られました。
ゆえに、王国の実際の運営において血統が途切れることなく続くことは必要ではなく、むしろ血統、王権、そして王座継承権が、罪、捕囚、離散の時代においても守られ、決して失われないことが重要なのです。
ゆえに、継続的な政治的支配が機能している必要はありません。
血統が失われないことが必要なのです。」[22]
新約聖書の多くの箇所は、既に述べられているように、文字通りの成就が期待されていたことを示しています。
ダビデ王国の中断は、新約聖書の著者たちにとって、同じ王国の文字通りの復興への期待を阻むものではありません。

D.この契約は歴史的に成就したのでしょうか?

無千年王国論者は、この契約はソロモン王国において歴史的に成就したと主張します。
彼らの主張は、列王記第一4章21節に記されているソロモンの支配地が契約を成就したため、将来成就することはないというものです。
これに対しては、次のように反論できます。
無千年王国論者は、この聖句を用いること自体で、契約が文字通り成就したことを認めています。
では、なぜ教会による霊的な成就を期待するのでしょうか?
しかしながら、ソロモンによって成就されなかった4つの点を指摘することはできます。
アブラハムに約束されたように、国土は永久に所有されてません。
すべての国土が所有されたわけではありません。
「エジプトの川から」(創世記15章18節)と「エジプトの国境から」(列王記第一4章21節)は、地理的に同義語ではありません。
ソロモンはこの国土すべてを占領したわけではなく、単に貢物を集めただけなのです。
一時的な支配権は永遠の所有ではありません。
最後に、ソロモンの時代から数百年経った今でも、聖書には将来の国土の所有に関する約束が数多く記されています。
これは、無千年王国主義を支持するかどうかに関わらず、神とその預言者たちがソロモンがアブラハム契約を全うしていなかったことを認識していたことを証明しているはずです。[23]

この契約はイスラエルの歴史の中で文字通りには成就されていないが、その無条件の性質ゆえに、将来的には文字通り成就されるはずです。

IV.ダビデ契約の終末論的意味

将来、文字通りの成就が予期されているため、イスラエルの未来に関するいくつかの事実が明らかになります。
(1)まず最初に、イスラエルは国家として維持されなければなりません。

ピーターズ氏は次のように書いています。
「契約に基づくダビデの王座と王国は、ユダヤ民族と同盟を結んでいるため、必然的に国家の存続を必要とします。
これは既に成就されており、最強の国家や最強の帝国を含む敵国が滅んだにもかかわらず、今日私たちはその国家が現在まで見事に存続しているのを目にしています。
これは偶然の産物ではありません。
もし私たちの見解が正しければ、国家の復興なしにダビデの王国を復興することは不可能であるため、これは必須です。
契約の言葉、神の誓い、イエスの血による約束の確証、預言の言葉、これらすべては、諸国民の不信仰にもかかわらず、その存続を必要とします。
それによって最終的に神の約束と誠実さが立証されるのです。
神はそのようにして、御言葉が成就するように備えてくださっています。
考えてみるならば、私たちが街で出会うすべてのユダヤ人は、メシアがいつの日かダビデの王座に就き、その王国を支配し、世界中に支配を広げるという生きた証拠なのです。」[24]

(2)イスラエルは国家としての存在を確立し、その相続地に戻らなければなりません。
ダビデの王国には明確な地理的境界があり、その境界はダビデの息子の支配に関する約束の一部であったため、その地はイスラエルの国家の祖国としてこの民族に与えられなければなりません。

(3)ダビデの子、主イエス・キリストは、ダビデ契約の王国を支配するために、肉体を持って、文字通り地上に再臨しなければなりません。
キリストが父の王座に座り、霊的な王国である教会を支配しているという主張は、契約の約束を全く果たしていません。

(4)再臨したメシアが支配する、文字通りの地上の王国が樹立されなければなりません。
ピーターズ氏は次のように述べています。
「契約の約束の成就は、この回復されたことを考慮すると、ダビデの王座と王国、メシアの王国は目に見える外的なものです。
王国は、霊的なもの、神聖なものを含むものではありますが、単に霊的なものではありません。
王国の可視性と、それに応じた承認は、約束の言葉と切り離せない特徴があります。」[25]

(5)この王国は永遠の王国とならなければなりません。
「王座」「家」「王国」はすべてダビデに永遠に約束されていたので、メシアがダビデの王座からダビデの王国を支配することに終わりはありません。
したがって、ダビデ契約は将来の出来事を理解する上で極めて重要であることは明らかです。

NOTE

1]Louis Berkhof, Systematic Theology, p. 715.
[2]John F. Walvoord, “Millennial Series,” Bibliotheca Sacra, 110:98-99, April, 1953.
[3]Ibid.
[4]George Murray, Millennial Studies, p. 44.
[5]G. N. H. Peters Theocratic Kingdom, I, 344-45.
[6]Ibid., I, 343.
[7]Cf. ibid., I, 319
[8]Ibid., I, 315-16.
[9]Ibid., I, 343-44.
[10]Charles C. Ryrie, The Basis of the Premillennial Faith, p. 78.
[11]Peters, op. cit., I, 314.
[12]Ibid., I, 316.
[13]Ibid., I, 342.
[14]Ryrie, op. cit., pp. 89-91.
[15]Walvoord, op. cit., 109:110.
[16]Cf. Ryrie, op. cit., pp. 91-102.
[17]Walvoord, op. cit., 109:110.
[18]Ryrie, op. cit., pp. 102-3.
[19]Walvoord, op. cit., 109:110.
[20]Peters, op. cit., I, 347.
[21]Ryrie, op., cit., p. 80.
[22]John F. Walvoord, “The Fulfillment of the Davidic Covenant,” Bibliotheca Sacra 102:161, April, 1945.
[23]Ryrie, op. cit., pp. 60-61.
[24]Peters, op. cit., I, 351.
[25]Ibid.


第8章 新しい契約

神がイスラエルと結んだ4つの重要な契約のうち、最後のものが新しい契約です。

1.新しい契約の重要性

新しい契約は、イスラエルのすべての祝福の土台として、改心した心を保証しています。
旧約聖書の原則によれば、そのような改心は血を流すことなしには永続的に達成できません。
そのため、この契約は、神に受け入れられるささげ物をその土台として必要とします。
神の子を捧げられることが、時代を超えた贖いの計画の中心であり、この契約がこのささげ物を伴う以上、この契約は極めて重要な意味を持つはずです。
さらに、契約全体が重要になります。
なぜなら、無千年王国主義は、現在の教会が血によって贖われているため、教会がイスラエルの契約を全うしていることを示そうと試みるからです。
教会にこの契約を遂行されたならば、イスラエルと結んだ他の契約も遂行できるはずであり、地上の千年王国は不要になります。
これらの点を考慮すると、この契約は検証されなければなりません。

II.新しい契約の条件

イスラエルに約束された新しい契約はエレミヤ書31章31~34節に述べられています。

「見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。
わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。――
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。
――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。
それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。
――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」」
(エレミヤ書31章31~34節)


ライリー氏はこの契約の条件を次のように要約しています。
「新しい契約の期間である千年王国において、新しい契約の民であるイスラエルに対して成就する以下の規定が旧約聖書の中にあります。

(1)新しい契約は、神の「私はする」に基づく無条件の恵みの契約です。
エレミヤ書31章31~34節におけるこの表現の頻繁さは印象的です。
エゼキエル書16章60~62節も参照してください。

(2)新しい契約は永遠の契約です。
これは、それが無条件であり、恵みによって結ばれるという事実と密接に関係しています。
(イザヤ書61章2節、エゼキエル書37章26節、エレミヤ書31章35~37節参照)

(3)新しい契約はまた、新生とも言える新たな心と精神を与えることを約束しています。
(エレミヤ書31章33節、イザヤ書59章21節参照)

(4)新しい契約は、神の恵みと祝福への回復を規定しています。
(ホセア書2章19、20節、イザヤ書61章9節参照)

(5)罪の赦しもこの契約に含まれています。
「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」
(エレミヤ書31章34節b)

(6)聖霊の内住も含まれています。
エレミヤ書31章33節とエゼキエル書36章27節を比較すると分かります。

(7)聖霊の教えの働きが現れ、神の意志が従順な心に知られるようになります。
(エレミヤ書31章34節)

(8)イスラエルがその地にいるときはいつもそうであるように、イスラエルは新しい契約の規定に従って物質的に祝福されます。
(エレミヤ書32章41節、イザヤ書61章8節、エゼキエル書34章25~27節)

(9)エルサレムに聖所が再建されます。

「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。
わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。
わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
(エゼキエル書37章26、27節)


(10)ホセア書2章18節によれば、戦争は止み、平和が支配します。
これが千年王国(イザヤ書2章4節)の明確な特徴です。
この事実は、新しい契約が千年王国で成就するという事実をさらに裏付けています。

(11)主イエス・キリストの血は、新しい契約のすべての祝福の土台です。

「あなたについても、あなたとの契約の血によって、わたしはあなたの捕われ人を、水のない穴から解き放つ。」
(ゼカリヤ書9章11節)


要約すると、旧約聖書における新約の教えに関して言えば、その契約はユダヤ民族と結ばれたと言えます。
その成就の時期は、救い主が来られる時を起点として、永遠にわたって続く未来にまでさかのぼります。
イスラエルという国家に対するその規定は輝かしく、すべて神の御言葉に拠り所とされています。[1]
この契約は、イザヤ書61章8、9節で「永遠の契約」と呼ばれていることで確証されています。
また、エゼキエル書37章21〜28節にも、以下の点が記されています。
(1)イスラエルが再び集められます。
(2)イスラエルが一つの国となり、一人の王によって支配されます。
(3)イスラエルはもはや偶像崇拝をせず、清められ、赦されます。
(4)イスラエルが再び集められた後、その地に「永遠に」住みます。
(5)彼らとの平和の契約が永遠に続きます。
(6)神の幕屋が彼らと共にあること、つまり、神が目に見える形で彼らと共にいます。
(7)イスラエルは神に祝福された国として異邦人の間で知られます。
これらの約束はすべてエレミヤ書の基本的な箇所に暗黙的に含まれていますが、契約を確証し、豊かにし、拡大しています。[2]
したがって、この契約は、イスラエルの新生、赦し、義認、聖霊の注ぎとそれに続く働き、イスラエルの再集結と祝福の場所への回復と関係があり、すべてはイエス・キリストの血に基づいています。

III.新しい契約の特徴

ここでも、イスラエルのすべての契約と同じ様に、この契約は文字通り無条件の契約であるという原則が示されています。

(1)イザヤ書24章5節、61章8節、エレミヤ書31章36、40節、32章40節、50章5節では、この契約は永遠の契約と呼ばれています。

(2)この契約は、エレミヤ書31章33節にあるように、その成就は神の「私はする」に完全に依存している恵みの契約です。
人間に依存するものではありません。

(3)この契約は、元のアブラハム契約の3番目の重要な領域である「祝福」の領域を拡大しています。
これは、無条件で文字通りであることが示された元のアブラハム契約を拡大したものに過ぎない以上、この契約も同様でなければなりません。

(4)この契約は、主に罪からの救いと新しい心の付与という問題に取り組んでいます。
救いは神のみによる御業です。
したがって、イスラエルという国家に救いを保証する契約は、いかなる人間の介入も受けず、無条件のものでなければなりません。

IV.新しい契約の成就

無千年王国論者は、新約聖書における新しい契約の記述を、教会が旧約聖書におけるイスラエルへの約束を成就していることを証明するために用いています。
教会が王国である以上、将来の地上における千年王国は必要ないということになります。

アリス氏はヘブル人への手紙8章8~12節を論じる時に、この主張を代表しています。
そして次のように述べています。
この箇所は新しい契約について語っています。
この新しい契約は既に導入され、「新しい」という名によって、それが置き換える契約は「古い」ものとなり、古いものは消え去ろうとしていることを宣言しています。
旧約聖書において、エレミヤ書のこの箇所ほど福音時代を明確に示している箇所は他にありません。[3]
こうした主張に答えるには、新しい契約に関するいくつかの重要な事実を観察する必要があります。

A.契約が結ばれた国

既に引用した聖句を全体的に見れば、この契約がアブラハムの肉による子孫であるイスラエルと、そして、イスラエルにだけ結ばれたことは明らかです。

これは以下の3つの理由から明らかです。
まず、契約締結の言葉という事実によってそれが分かります。
エレミヤ書31章31節です。
そして、この事実を裏付ける他の聖句は、イザヤ書59章20、21節、61章89節、エレミヤ書32章37~40節、50章4、5節、エゼキエル書16章60~63節、34章25、26節、37章21~28節です。
二番目に、旧約聖書が新しい契約はイスラエルのためであると教えていることは、その名称自体からも明らかです。
モーセの契約とは対照的です。
新しい契約は、モーセの民と同じ民と結ばれています。
聖書は、モーセの律法の契約はイスラエルという国家とのみ結ばれたと明確に教えています。
ローマ人への手紙2章14節、ローマ人への手紙6章14節、ガラテヤ人への手紙3章24、25節、コリント人への手紙第二3章7~11節、レビ記26章46節、申命記4章8節などによって証明されます。
律法が誰に適用されるのかについては疑問の余地はありません。
律法はイスラエルのみに適用されるものであり、この古い契約がイスラエルと結ばれたように、新しい契約も同じ人々と結ばれるのです。
他の集まりや国家は考慮されていません。
三番目に、旧約聖書が新しい契約はイスラエルのためであると教えていることは、その設立においてイスラエル国家の永続と国土への復帰がそれに極めて重要に結びついているという事実からもわかります。(エレミヤ書31章35~40節)
したがって、私たちは、文章の言葉そのもの、名前そのもの、そして国家の永続性とのつながりという、これら3つの議論の余地のない理由から、旧約聖書の教えに従った新しい契約はイスラエルの人々のためだと結論付けます。[4]

B.新しい契約の成就の時

新しい契約の成就の時は未来であるとの見解で一致しています。
旧約聖書の預言において述べられている箇所では、常に未来とみなされてきました。
ホセア書(2章18~20節)、イザヤ書(55章3節)、エゼキエル書(16章60、62節、20章37節、34章25、26節)はいずれも、それを未来として語っています。
そして、それはいまだ未来とみなされています。
なぜなら、神がイスラエルを救い、その地を回復するまで、この契約はイスラエルによって実現されていないからです。

ライリー氏はこのように述べています。
「預言者(エレミヤ書32章37節、40、41節)が立てた一連の出来事は、まずイスラエルが再び集められ、その地に復帰し、その後、その地で新しい契約の祝福を経験するというものです。
しかし、歴史にはそのような順序は記録されていません。
イスラエルが一つの国家として再び集められない限り、神は契約を成就することができません。
イスラエルの完全な回復は新しい契約によって要求されていますが、これは世界の歴史においてまだ実現していません。
預言の成就には、イスラエル全体の再集結、彼らの霊的な新生、そしてキリストの再臨が必要です。」[5]

この契約は、キリストの再臨後に成立します。
この契約で期待されている祝福は、イスラエルの救済が実現するまで実現しません。
そして、この救済は救世主の再臨後に成立します。

「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。
こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」」
[ローマ人への手紙11章26、27節)


ここで述べられている契約は、必然的に新しい契約なのです。
なぜなら、それは罪の除去を明確に規定する唯一の契約だからです。
そして、それは救い主の来臨後に実現すると言われています。
この契約は千年王国において成就されます。
エレミヤ書31章34節、エゼキエル書34章25節、イザヤ書11章6~9節などは、新しい契約が成就する時に経験される祝福を描写しています。
そしてm新しい契約が千年王国においてイスラエルによって成就されることを示しています。[6]
したがって、結論としては、預言者の時代にも新約聖書にも未来であるこの契約は、千年王国時代のキリストの再臨の後にのみ実現できるということになります。

C.教会と新しい契約の関係

新約聖書には、新しい契約について明確に述べられている箇所が5箇所あります。
ルカの福音書22章20節、コリント人への手紙第一11章25節、コリント人への手紙第二3章6節、ヘブル人への手紙8章8節、9章15節です。
これらに加えて、マタイによる福音書26章28節、マルコによる福音書14章24節、ローマ人への手紙11章27節、ヘブル人への手紙8章10~13節、12章24節の6箇所においても述べられています。
ここで、現代の信者とエレミヤ書31章31~34節の新しい契約との関係について疑問が生じます。
この疑問は重要です。
なぜなら、既に述べたように、無千年王国論者の主張は、教会が現在これらの旧約聖書の預言を成就しているため、地上の千年王国は必要ないというものです。

1.イスラエルと結ばれた新しい契約と教会の関係については、千年王国前再臨主義には3つの見解があります。

a.最初の見解はダービー氏の見解です。
彼は聖書にはイスラエルとユダの家と結ばれ、将来実現する唯一の新しい契約があり、教会とは一切関係がないと述べています。
彼はこのように書いています。
「この文字の契約は、私たちとではなく、イスラエルと結ばれたものです。
しかし、私たちはその恩恵を受けています。
イスラエルが祝福を受け入れなかったため、神は教会を導き出されました。
そして、契約の仲介者は高い所に昇られました。
私たちは仲介者と結ばれています。
それはやがてイスラエルで成就します。[7]

また、福音は契約ではなく、神の救いの啓示です。
福音は偉大な救いを宣言します。
私たちは確かに、新しい契約の本質的な特権をすべて受け取っています。
その基礎は神の側からキリストの血によって築かれましたが、私たちはそれを文字通りではなく、霊によって受け取っているのです。
新しい契約は千年王国においてイスラエルと正式に締結されます。[8]
さらに、新しい契約の土台は、仲介者の血の中に据えられました。
使徒がエレミヤ書から引用した契約の条件が私たちに成就したわけでも、私たちがイスラエルでありユダであるわけでもありません。
しかし、この契約は、祝福を受けるべき生ける民の従順と、生ける仲介者によって流されたささげ物の血に基づくのではなく、仲介者御自身の死に至るまでの従順に基づくものであり、この確実で不変の恵みの土台としての従順こそが契約の土台となっています。[9]
そして最後に、私たちが対処しなければならないのは、契約に伴う状況であり、古い条件に基づいて行われた形式的な祝福ではありません。
もっとも、それらのいくつかは、ある意味では、私たちに実現されています。」[10]

したがって、ダービー氏の見解は、新約聖書におけるすべての言及において、新しい契約はエレミヤ書31章の契約と同一視されるべきである、ということです。
新約聖書では、この契約は現在の世界の教会には全く言及されていませんが、血が「多くの人のために流された」ため、その契約の祝福はイスラエル以外の人々にも与えられています。
しかし、この契約は千年王国において文字通り成就します。
ダービー氏の見解には、完全に同意できる主張がいくつかあります。

(1)エレミヤ書31章の新しい契約は仲介者の働きを必要とし、キリストの死こそが新しい契約を可能にするものです。

(2)新しい契約はもともとイスラエルとユダの家と結ばれ、千年王国において文字通りそれらの家において成就します。
この契約は、結ばれた者たちによってのみ文字通り成就されますが、教会はイスラエルではないため、教会はその契約を成就することはできません。

(3)今日教会にもたらされるすべての祝福は、新しい契約を可能にするために必然的に流されたキリストの血に基づいています。

b.二つ目の見解はスコフィールド氏の見解です。
ダービー氏の見解よりも広く受け入れられているこの見解は、「新しい契約は、イスラエルの永続性、将来の改心、そして祝福を確保している。」[11]と述べています。
また、「信じるすべての者の永遠の祝福をしている」としています。[12]
したがって、この見解によれば、一つの新しい契約は二重の適用範囲を持っています。
一つは将来のイスラエルに、もう一つは現在の教会に適用されます。
リンカーン氏はこのように述べています。
「カルバリの十字架上で流された新しい契約の血は、現代における信者のあらゆる祝福の土台です。
したがって、信者は罪人にとって新しい契約の価値にあずかり、新しい契約の血を記念して主の晩餐にあずかります。(コリント人への手紙第一11章25節)
また、信者は新しい契約の奉仕者でもあります。(コリント人への手紙第二3章6節)
また、信者は信仰によってアブラハムの子であり(ガラテヤ人への手紙3章7節)、キリストの子である(ガラテヤ人への手紙3章29節)と言われています。
さらに、信者はアブラハムとイスラエルであるオリーブの木の根と肥沃さにあずかると言われています。(ローマ人への手紙11章17節)
同じ様に、未信者の異邦人である者は「異邦人」であり「寄留者」(エペソ人への手紙2章12節)ですが、もはや、信者はそのような者ではないと言われています。(エペソ人への手紙2章19節)
なぜなら、彼はキリストの血によって神に近づいたからです。(エペソ人への手紙2章13節)
信者は新しい契約において、イスラエルの共同体の一員としてではなく、聖徒たちと同じ国民、神の家族の一員として(エペソ人への手紙2章19節)恩恵を受けています。(エペソ人への手紙2章12節)」[13]

グラント氏はこのように言っています。
「私たちは、ここで神が明らかに天の民ではなく、地上の民について語っておられることを覚えておかなければなりません。
この契約を結ぶ民は、その日に完全に神の思いどおりの民となります。」
これによれば、新しい契約は私たちにどのように適用されるのか、という疑問が生じるはずです。
他の聖句は、たとえ私たちが契約を結んでいなくても、契約が語るすべての祝福において、私たちにも与えられると保証することで、この質問に明確に答えています。」[14]

この見解は、教会を新しい契約の下に置き、その関係を契約の部分的な成就とみなします。
スコフィールド氏は、キリストの血がイスラエルとの新しい契約、そして教会がキリストに対して維持するあらゆる契約関係の土台であるという考えに同意しています。
なぜなら、キリストがイスラエルのために一度死に、そして教会のために再び死ぬ必要はなかったからです。
しかしながら、教会をイスラエルの契約の下に置くことはできません。
スコフィールド氏は、契約は主にイスラエルのために結ばれ、彼らによって成就されるというダービー氏の見解に完全に同意します。
スコフィールド氏の立場のように、教会へのいかなる適用も、イスラエルへの本来の適用を無効にするものではありません。

c.第三の見解は、二つの契約説です。[15]

この見解は、新約聖書には二つの新しい契約が提示されているとします。
一つはエレミヤ書31章で約束された契約を再確認するイスラエルとの契約であり、もう一つは現代の教会との契約です。
この見解は、本質的に、新約聖書における新しい契約への言及を二つの集まりに分けます。
福音書とヘブル人への手紙8章6節、9章15節、10章29節、13章20節は教会との新しい契約に言及し、8章7~13節と10章16節はイスラエルとの新しい契約に言及し、ヘブル人への手紙12章24節はおそらく両方に言及し、仲介が成就し、契約の計画が確立されたという事実を強調しているが、その受益者を特定していません。
この見解は、イスラエルの新しい契約はイスラエルのみによって成就されるべきであるというダービー主義の考えを受け入れています。
さらに、教会は彼らと結ばれた新しい契約によって神との関係を結ばれると見なします。
教会と新しい契約の関係という問題について、千年王国前再臨主義支持者の間で意見の相違を解決することは、本書の目的ではありません。
ここでは、ただ一点だけ明らかにしておけば十分です。
これら三つの見解で説明されている教会と新しい契約の関係にかかわらず、一つの一般的な合意点があります。
それは、エレミヤ書31章31~34節の新しい契約は、イスラエル国家によってのみ成就されなければならず、また成就されるのであって、教会によって成就されるのではないということです。
これはアブラハムの肉体的な子孫と交わされた文字通りの契約であるから、その契約で要求される教会と血とのいかなる関係も、契約自体にある神の本質的な約束を変えることはできません。
教会とこの血とのいかなる関係を別にすれば、その契約はまだ成就されておらず、将来の文字通りの成就を待っているのです。

2.ヘブル人への手紙8章の中で、なぜエレミヤ書31章が引用されているのかという疑問が生じるかもしれません。

教会がその契約を全うしていないならば、それは不適切です。
アリス氏はヘブル人への手紙8章は「この新しい契約がすでに導入されていることを宣言している」と主張しています。
しかし、この箇所にはそのような記述や暗示はありません。[16]
それどころか、エレミヤ書は、古い契約自体が効果のない一時的なものであると認識され、最終的には有効な契約に取って代わられることを示すために用いられていることになります。
ゆえに、ヘブル人は、より良い契約が宣べ伝えられていることに驚いてはならず、また、廃止された契約にも信頼を置いてはいけないことになります。

ウォルフォード氏はこのように述べています。
「ヘブル人への手紙8章の論証は、キリストがモーセよりも優れた契約、つまりより優れた約束に基づく契約の仲介者であるという真理を明らかにしています。(ヘブル人への手紙8章6節)
この論証は、モーセの契約は欠点のない契約ではなく、永遠の契約となることを意図したものではなかったという点にかかっています。
(ヘブル人への手紙8章7節)
この点を裏付けるように、エレミヤによる新しい契約が長々と引用されています。
これは、新しい契約がモーセの律法に取って代わると預言されたことで、旧約聖書自体がモーセの律法の終わりを予期していたことを証明しています。
ヘブル人への手紙の著者は、引用全体から「新しい」という一語だけを取り出して、この言葉がモーセの律法を自動的に古いものにしてしまうと主張しています。
(ヘブル人への手紙8章12節)
さらに、古い契約は「古くなり」、「消え去る」とも述べられています。
この箇所のどこにも、イスラエルとの新しい契約が有効であると宣言されていないことに注意すべきです。
唯一の議論は、常に真実であったこと、つまり、新しい契約の預言は自動的にモーセの契約が永遠の契約ではなく、一時的なものだと宣言されていることです。」[17]

したがって、ヘブル人への手紙8章でエレミヤの約束が引用されているのは、旧約、つまりモーセの契約が最初から一時的なものであり、イスラエルは一時的なものに頼ることはできず、永遠のものに期待しなければならなかったことを証明するためだけでした。
ここでも、ヘブル人への手紙10章16節と同じ様に、エレミヤの預言が引用されているのは、そこで約束されていることが今まさに有効である、もしくは効力を持っていると述べるためではなく、むしろ旧約は一時的で無力であり、永続的で効力を持つ新しい契約の先駆けであったと述べるためでした。
ヘブル人への手紙の著者が、イスラエルの新しい契約が今や教会において有効であると教えていると断言するのは、著者の考えを誤って伝えていることになります。

3.歴史的な背景から考えると、主が亡くなる前夜、屋上の部屋で新しい契約について語るのを聞いた弟子たちは、主がエレミヤ書31章の新しい契約について述べられていると理解したはずです。
この時の言及の記録に関して、いくつか注目すべき点があります。
マタイによる福音書26章28節とマルコの福音書14章24節では「これは新しい契約のわたしの血である」という記述が記録されています。
この記述では、その契約の救済論的な側面が強調されています。
捧げられた血は、約束された新しい契約によって要求されたものであり、罪の赦しを与えるためのものです。
ルカの福音書22章20節とコリント人への手紙第一11章25節には、「これはわたしの血による新しい契約である」という記述が記録されています。
この記述は、新しい契約の終末論的な側面を強調し、新しい契約はイエスの死によって成立すると述べています。
これはヘブル人への手紙9章16、17節の原則に沿ったものです。

「遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。
遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力はありません。」
(ヘブル人への手紙9章16、17節)


弟子たちは、あの時、新しい契約について言及されたことを、イスラエルが待ち望んでいたエレミヤとの契約のことだと理解していたはずです。
ゆえに、主はまさにその契約が御自身の死によって制定され、彼らがその契約の血(救済的側面)の奉仕者であることを述べておられたはずです。
(コリント人への手紙第二3章6節)
しかし、この契約を主に、そして元々結ばれた者たちは、キリストの再臨の時にそれが確認され、実現されるまで、その成就も祝福も受けることはありません。
再臨の時、この御言葉が実現します。

「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」」
(ローマ人への手紙11章26、27節)


契約の制定とその恩恵の実現の間には、確かに違いがあります。
キリストは死によってイスラエルの契約の土台を築きましたが、イスラエルがその恩恵を受けるのは再臨の時までです。

4.教会が現在イスラエルの新しい契約を成就していないという見解を支持するいくつかの考察があります。

(1)聖書の中で「イスラエル」という言葉は、アブラハムの肉体的な子孫以外を指す言葉として使われていません。
現在の教会は、民族の区別なくユダヤ人と異邦人の両方から成り立っているため、教会が国民に対してなされたこれらの約束を成就することは不可能です。

(2)新しい契約には、その規定が既に説明されているように、霊的な祝福と地上の祝福の約束があります。
教会はイスラエルと同じ様に、救い、罪の赦し、聖霊の働きを約束されていますが、イスラエルへの約束の一部であった、国土の相続、地上における物質的な祝福、そして抑圧からの安息は約束されていません。
新しい契約はイスラエルに救いを約束しただけでなく、すべての契約が成就する千年王国の地上における新しい命をも約束しました。
確かに教会はこの契約の物質的な部分を成就していません。

(3)教会はアブラハム契約(ガラテヤ人への手紙3章14節、4章22~31節)の祝福を信仰によって受けますが、その契約の下にあったり、その契約を成就したりする必要はありません。
同じ様に、教会は新しい契約の下にあったり、その契約を成就したりすることなく、その契約の祝福を受けることができます。

(4)契約自体に含まれる時間的要素は、その元の記述とヘブル人への手紙における再述の両方において、教会がその契約を成就する主体となることを妨げています。
この契約は、イスラエルが苦難の時代を過ごし、メシアの降臨によって救出されるまで、イスラエルによって成就され、実現されることはありません。
教会は迫害と苦難の時代を経験してきましたが、預言されている大患難時代を通過したことはありません。
確かに、教会は今、千年王国時代にはありません。
ローマ人への手紙11章26、27節は、この契約がメシアの再臨の後にのみ実現されることを明確に示しています。
患難時代、再臨、千年王国はまだ未来のことなので、この約束の成就もまだ未来でなければなりません。
したがって、教会は今この契約を成就することはできません。

V.新しい契約の終末論的意味

先に述べたように、この契約の条件はイスラエル国民に対しては未だ成就されていないものの、いずれ成就されなければならないものであり、この条件に言及すれば、いかに広い意味で終末論的計画が成就を待ち受けているかが分かるはずです。
この契約によれば、イスラエルはパレスチナの地に復帰し、そこを自分のものとして所有しなければなりません。
これはまた、国家の存続をも意味します。
イスラエルは国民的な改心を経験し、新生し、罪の赦しを受け、新しい心を植え付けられなければなりません。
これはメシアが地上に再臨した後に起こります。
イスラエルは聖霊の注ぎを経験しなければなりません。
聖霊は個人の内に義を生み出し、個人を教えて、知識で満たされます。
イスラエルは、彼らが属する王国の王の手から物質的な祝福を受けなければなりません。
パレスチナは回復され、再建され、義と平和が宿る新たな栄光の地の輝かしい中心とされなければなりません。
この契約の土台として来られ、血を流されたメシアは、イスラエル国家の救い、回復、そして祝福をもたらすために、自ら地上に再臨しなければなりません。
終末論におけるこれらの重要な研究分野はすべて、この契約によって必要不可欠なものとなりました。

結論

イスラエル国家との五つの契約のうち四つについて全体を見て、それらが無条件かつ永遠の契約であり、契約の民と結ばれたものであり、契約を与えられた人々と契約を結ぶ方の忠実さゆえに成就することを示しています。
これらの契約は、発効当時、国家と関係を持ち、神がイスラエルを扱う際の根拠となっただけでなく、終末論の進路を決定する将来の出来事に関する行動方針に神を拘束します。
契約を分析的に研究すると、決定的な七つの大きな特徴を見ることができます。
それは、(1)永遠の国家、(2)永遠の国土、(3)永遠の王、(4)永遠の王座、(5)永遠の王国、(6)新しい契約、(7)永続する祝福です。[18]
これら七つの特徴については、本研究の過程で後ほど詳しく述べることにします。

NOTE

[1]Charles C. Ryrie, The Basis of the Premillennial Faith, pp. 112-14.
[2]John F. Walvoord, “Millennial Series,” Bibliotheca Sacra, 110:197, July, 1953.
[3]Oswald T. Allis, Prophecy and the Church, p. 154.
[4]Ryrie, op. cit., pp. 108-10.
[5]Ibid., p. 111.
[6]Cf. ibid., p. 110-12.
[7]William Kelly, editor, The Collected Writings of J. N. Darby, XXVII, 565-66.
[8]J. N. Darby, Synopsis of the Books of the Bible, V, 286.
[9]Kelly, op. cit., III, 79.
[10]Ibid., p. 82.
[11]C. I. Scofield, editor, The Scofield Reference Bible, p. 1297.
[12]Ibid., p. 1298.
[13]C. Fred Lincoln, “The Covenants,” pp. 202-3.119
[14]F. W. Grant, The Numerical Bible, VII, 48.
[15]Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology, IV, 325; Walvoord, op. cit., 110: 193-205; Ryrie, op. cit, pp. 105-25.
[16]Allis, op. cit., p. 154.
[17]Walvoord, op. cit., 110:201.
[18]Chafer, op. cit., IV, 315.


第三部 現代の預言

第9章 現代の流れ

I.時代の神の計画


聖書を旧約聖書と新約聖書と呼ぶ人は誰でも、神がその計画を時間区分に分けたという事実を証ししています。
啓示の歴史は、神の啓示が時代を超えてどのように進展してきたかを証明しています。

チェイファー氏は次のように記して、この計画を提示しています。
「聖書のディスペンセーション研究は、神が指示する特定の明確に定義された期間を特定し、それぞれの期間に対する神の啓示された目的を研究することから成りたっています。
神の制限のない、主権的な目的は、時代の継承の秩序づけに見られます。
神が時代の計画をお持ちであることは、多くの聖句で明らかにされています。
申命記30章1~10節、
ダニエル書2章31~45節、7章1~28節、9章24~27節、
ホセア書3章4、5節、マタイの福音書23章37~25章46節、
使徒の働き15章13~18節、ローマ人への手紙11章13~29節、
テサロニケ人への手紙第二3章1~12節、
ヨハネの黙示録2章1〜22章31参照。
同じ様に、神の目的と関連して、明確に定義された期間が存在します。
使徒パウロはアダムとモーセの間の期間について書いています。(ローマ人への手紙5章14節)
ヨハネは律法はモーセによって与えられたものですが、恵みと真理はキリストによってもたらされると述べています。
(ヨハネの福音書1章17節)
キリストはまた、「異邦人の時」(ルカの福音書21章24節)についても語っています。
しかし、これは明らかにユダヤ人の「時と時期」(使徒の働き1章7節、テサロニケ人への手紙第一5章1節)とは区別されるべきものです。
同じ様に、キリストは二度の再臨の間にある、これまで予告されていなかった期間について語っています。
また、その特徴を明示し(マタイの福音書13章1~51節)、さらに将来訪れる「大患難」の時代を預言し、その特徴を定義づけています。(マタイの福音書24章9~31節)
イスラエルには「終末の日」(イザヤ書2章1〜5節)があり、教会にも「終末の日」(テモテへの手紙第二3章1〜5節)があります。
使徒ヨハネは千年王国を予期し、それをキリストの支配に結びつけています。
その時、キリストの花嫁である教会はキリストと共に支配します。(ヨハネの黙示録20章16節)
キリストがダビデの王座に座り、ヤコブの家を永遠に支配することは、御使いのガブリエルによって宣言されています。
(ルカの福音書1章31~33節)
また、永遠に続く新しい天と新しい地が来ることも、明らかに啓示されています。
イザヤ書65章17節、66章22節、
ペトロの手紙第二3章13節、
ヨハネの黙示録21章1節。
ヘブル人への手紙1章1、2節では、神が預言者を通して先祖に語られた「過ぎ去った時代」と、御子を通して私たちに語られる「この終わりの時代」との間に、明確な対比が描かれています。
同じ様に、過ぎ去った時代(エペソ人への手紙3章5節、コロサイ人への手紙1章26節)、今の時代(ローマ人への手紙12章2節、ガラテヤ人への手紙1章4節)、そして来たるべき時代(エペソ人への手紙2章7節、ヘブル人への手紙6章5節、エペソ人への手紙1章10節では、将来の時代が「時の満ちる時代」と呼ばれていることに注目)があることが明らかにされています。」[1]

したがって、この現代に目を向けると、人は神の永遠の計画のほんの一部を調べているだけです。

A.キリストと時代の関係

新約聖書の中で時代の計画について述べられている箇所を調べると、キリストがまさにその計画の中心であることが分かります。
ヘブル人への手紙1章2節では、キリストこそが時代の秩序を定めた方であると述べられています。
テモテへの手紙第一1章17節では、キリストは時代の計画と関連付けられ「世々の王」と呼ばれています。
ヘブル人への手紙9章26節とコリント人への手紙第一10章11節では、時代は世の罪のためのキリストの十字架の御業に中心を置くことが示されています。
この御業は、世が始まる前から計画されていました。
(コリント人への手紙第一2章7節、テモテへの手紙第二1章9節、テトスへの手紙1章2節)
そして、今、知られていることは、過去の時代には啓示されていません。(ローマ人への手紙16章25節)
このように、世とは、神が主イエス・キリストを中心とする神の目的と計画を啓示する期間です。

B.新約聖書における年齢の使い方

「時代(aiōn)」という言葉は、しばしば「世」と訳され、本質的には時間を表す言葉です。

アボット・スミス氏はこれを次のように定義しています。
「1.時間的な空間
例えば、人生、世代、歴史の一期間、無限に長い期間などです。
新約聖書では、無限に長い期間、時代、永遠を指しています。
2.時間の期間の総和。
その中に現れるすべてのものを含みます。」[4]

「世(kosmos)」は秩序ある宇宙、物質的なものの体系を指しています。
「人の住む場所(oikoumenē)」は、人の住む地球を指しています。
それに対し、この「時代(aiōn)」という言葉は、時間を軸に世界をとらえています。
テトスへの手紙2章12節のように、「人の住む場所(oikoumenē)」と同義語として、人の住む地球を指すように思われる場合もあります。
また、コリント人への手紙第二4章4節、エペソ人への手紙6章12節、テモテへの手紙第二4章10節のように、「世(kosmos)」と同義語として、サタンの支配下にある組織化されたシステムを指すように思われる場合もあります。
このように用いられる場合、「時代(aiōn)」は「世(kosmos)」と同じ道徳的な意味合いを持ちます。

アボット・スミス氏は「世(kosmos)」が「道徳的な意味で、不信心な者、神から離れた世界」として使われていると述べています。
神は、したがってその傾向において悪です。
ヨハネの福音書7章7節、14章17節、27節、コリント人への手紙第一1章21節、ヤコブの手紙1章27節、ヨハネの手紙第一4章4節などです。 [5]
「時代(aiōn)」は、永遠、すべての時代の合計という意味でくり返して使用されています。(マタイの福音書2章15節)
(数え上げればきりがありません。)
この言葉は、神が人間を扱うそれぞれの時代に関してもくり返して用いられます。
このように用いられる場合、この言葉は過去の時代、現在の時代、もしくは来たるべき時代を指すことがあります。
マタイによる福音書12章32節とマルコによる福音書4章19節ではイスラエルの現在の時代について、またマタイによる福音書12章32節、13章39、40節、24章3節、マルコによる福音書10章30節、ルカの福音書18章30節、20章35節ではイスラエルの未来の時代について述べられています。

教会の計画に関して、コリント人への手紙第一1章20節、ガラテヤ人への手紙1章4節、そして、エペソ人への手紙1章21節では未来の時代について述べられています。
これらの「世」と「未来の時代」という単語の使用においては、それらの意味合いが必ずしも同じではないことを念頭に置く必要があります。
パウロが語った教会の「世」は、キリストが語ったイスラエルの「世」とは異なります。

また、教会が未来の時代に期待されていることも、イスラエルが期待されていることとは異なります。
これらの単語の使い方を決定するには、この聖句の範囲と、それが誰に向けられているかを明確に定義する必要があります。
この区別が不十分であるために、混乱が生じています。
新約聖書でこの言葉が通常の使い方で使われているように、この現在の世界は、話し手または著者が当時生きていた時代を指します。
福音書でイスラエルについて使われているように、この現在の世界は、イスラエルがメシアの到来を待ち望んでいた時代を指します。
来たるべき時代は、メシアの到来によって開始される時代です。
教会に関して言えば、「世」という単語は、メシアがイスラエルに拒まれてから、メシアの再臨でイスラエルが受け入れられるまでの期間、つまり再臨間期間を指します。
来たるべき時代という表現は、教会が関係する地上的な側面(エペソ人への手紙1章21節)でも、永遠の側面(エペソ人への手紙2章7節)でも使われています。

新約聖書によれば、この現在の世界は不健全な時代と呼ばれています。
それは「悪の世界」(ガラテヤ人への手紙1章4節)と呼ばれています。
それは、世の「神」(コリント人への手紙第二4章4節)であるサタンの支配下にあるためです。
この時代は霊的な「暗闇」(エペソ人への手紙6章12節)によって特徴づけられています。
この暗闇は、光のない知恵を生み出します。(コリント人への手紙第一2章6、7節)
その結果、この時代は「不敬虔」と「欲」(テトスへの手紙2章12節)によって特徴づけられ、信者はたとえかつて世の知恵と基準に従って歩んでいたにもかかわらず(ローマ人への手紙12章2節)、それらから離れなければなりません。
(エペソ人への手紙2章2節)

C.現代と過去の時代との区別

この現代は、それ以前のすべての時代と多くの点で異なります。

(1)過去のすべての時代において、キリストは期待される存在でした。
しかし、現代においては、キリストは来られただけでなく、死に、復活し、今や父の右の座に着いておられます。

(2)過去の時代において、ある人々に与えられた使命を果たす力を与えるために降臨された聖霊は、すべての信者の中に住まわれました。

(3)過去の時代において、福音は予告的なものでした。
しかし、現代においては、福音の宣言は、キリストによる救いの完成を告げるものです。

(4)過去の時代における啓示は不完全でしたが、キリストが父を明らかにするために来られました。
しかし、現代においては、啓示は完了しています。

(5)現代は神と神の油注がれた者に対する敵意によって特徴づけられています。
そして、過去のどの時代にも当てはまらなかった、悪の時代という明確な特徴を有しています。

(6)したがって、この時代は、その神であるサタンの支配下にあり、その支配力は他に例を見ないほど強い存在です。

(7)イスラエルという国家は、神の特別な取り扱いの対象とされ、この時代にその約束が成就されることは期待できません。[6]

これらの七つの区別は、この現時代がそれ以前のすべての時代とは異なるという事実を確立します。

II.現在の神の目的

旧約時代は、神がイスラエルに対して定められたみこころが、神が締結し、拘束された契約において明示されていました。
しかし、そのみこころが実現されないまま幕を閉じました。
キリストの死後、神は新たな神の御計画を制定されましたが、それはイスラエルに対する御計画に取って代わるものではなく、神によって契約された計画を中断させるものでした。
この新たな計画は、ヨハネによる福音書13~16章にある「屋上の間」での説教において主によって予期され、ペンテコステにおける聖霊降臨後に現実のものとなります。
エルサレム会議(使徒の働き15章14節)は、「神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになった」と宣言しました。
したがって、「民をお召しになる」とは、神の現代における計画を構成するものです。
この民が教会を構成し、キリストはその体である教会のかしら(エペソ人への手紙1章22、23節)です。
キリストはその花嫁である教会の花嫁(エペソ人への手紙5章25~27、32節)であり、キリストはその枝である教会の支えであるぶどうの木(ヨハネの福音書15章1節)です。
また、キリストはその群れである羊飼い(ヨハネの福音書10章7~27節)、キリストはその神殿の隅石(エペソ人への手紙2章19~22節、ペテロの手紙第一2章5節)、キリストは奉仕する祭司である教会の大祭司(ペテロの手紙第一2章5~9節)、キリストはその新しい創造物の頭であり初穂(コリント人への手紙第一15章45節)なのです。
この召しの理由はエペソ人への手紙2章7節に述べられています。

「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」
(エペソ人への手紙2章7節)

教会を召し出す神の目的は、神の恵みの無限さを現すことです。

チェイファー氏は次のように書いています。
「神には、いかなる被造物も見たことのないものがあります。
彼らは神の栄光、威厳、知恵、そして力を見てきました。
しかし、御使いも人間も、神の恵みを見たことはありません。
他の属性は様々な形で示されるかもしれませんが、恵みの現れは、神の裁きを受けるに値するにもかかわらず、神の恵みの対象となっている人々に対して神がなさることに限定されます。
神の他のあらゆる属性や能力は、たとえ神自身の満足のためだとしても、完全に行使され、発揮されます。
また、神の恵みも同じ様に失われた者を救うという限定された働きの中で、限りなく完全に啓示されなければなりません。
罪人が恵みによって救われると言うことは、身代わりの死を根拠とし、その救い主への信仰に応えて、神がその全体において完璧で、他の存在の協力を必要としない働きをしたことを宣言することであり、このことは神にとって完全に満足のいく恵みを実証することになります。

この種の発言は、言葉が文を作るのと同じくらい簡単に行うことができます。
しかし、地上においても天においても、このような救いの無限性を理解できる者は誰でしょうか?
付け加えておくべきは、この証明は、まさにその性質上、こうして救われた一人ひとりの人生において輝かしい者となるということです。
もし、人類全体の中からたった一人でも、すべての被造物の前に永遠に主権的恵みの無限性を示すという最高の栄誉に選ばれたとしたら、その人の救いは、あらゆる血族、部族、民族から選ばれた無数の人々の救いと何ら変わりないことが推測できます。」[7]
ならば、この現代において神は、その限りない恵みが永遠にわたって完全に示されるような計画を追求しているように思われます。

III.現在の時代の特徴

イスラエルがメシアを拒んだ時代から、メシアの再臨においてイスラエルが受け入れるまでのこの現代は、聖書において奥義とみなされます。
パウロは次のように記して、このことを明確にしています。

「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。
そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。
キリストのからだとは、教会のことです。
私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。
これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。
神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。
この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」
(コロサイ人への手紙1章24~27節)

この箇所で使徒パウロは、教会において展開される神の計画を明確に奥義と呼んでいます。
それは以前は啓示されておらず、したがって知られていなかったものですが、今や神によって明らかにされています。
この教えは他の聖書箇所にも示されています。
(ローマ人への手紙16章25、26節、コリント人への手紙第一2章7節、エペソ人への手紙3章5~9節)

現代では、この言葉は奥義や未知のものを指すのに対し、聖書では、神の神聖な目的や計画を指してこの語が用いられています。
それは永遠より神に知られていたものの、神によって啓示されなければ知ることのできなかった、また知ることもなかったであろうもの、つまり、他の時代には知られていなかったが、今や啓示によって知られるものを指しています。
奥義とは、これまで知られていなかったが、今や啓示によって知られる神の秘密です。
新約聖書における「奥義」という語の使い方において、奥義と呼ばれる真理の集まりは、この現代に関連する特定の真理であることが分かります。
(コリント人への手紙第一2章7節を除く)
これらの奥義は、旧約聖書の啓示を補足する、この現代に関して与えられた追加の啓示を構成しています。

チェイファー氏はエペソ人への手紙3章5節について次のように注釈しています。
「新約聖書の奥義について、この文脈で述べられている定義以上に適切なものはありません。
新約聖書の奥義とは、これまで隠されていた、もしくは「神の中に世々隠されていた」(9節)真理が、今や明らかにされたものです。
新約聖書におけるすべての奥義の総和は、旧約聖書では明らかにされていない、新約聖書に追加された真理の全体を表しています。
一方、新約聖書の奥義は、秘密が封印され、死刑に処せられるバビロンとローマのカルトの奥義とは区別されるべきです。
なぜなら、新約聖書の奥義は明らかにされる時、地の果てにまで告げ知らされ(9節)、生まれながらの人間の限界の範囲内にのみ限定されるからです。(コリント人への手紙第一2章14節)」[8]

神がイスラエルに対して立てられた計画を中断することになる世界では奥義として存在しています。(マタイの福音書13章11節)
イスラエルが盲目にされ、異邦人が神との関係を持つようになることも奥義でした。(ローマ人への手紙11章25節)
ユダヤ人と異邦人が一つの体として教会を形成することも奥義でした。
(エペソ人への手紙3章3~9節、コロサイ人への手紙1章26、27節、エペソ人への手紙1章9節、ローマ人への手紙16章25節)
救いに至る神のこの計画全体は奥義と呼ばれていました。(コリント人への手紙第一2章7節)
贖罪におけるキリストと人々との関係も奥義と呼ばれていました。(コロサイ人への手紙2章2節、4章3節)
受肉そのものも奥義と呼ばれています。(テモテへの手紙第一3章16節)
それは出来事としてではなく、その成就として奥義と呼ばれているのです。
罪の人において頂点に達する悪の進展(テサロニケ人への手紙第二2章7節)と、大背教宗教体制の進展(ヨハネの黙示録17章5、7節)は、どちらも奥義と呼ばれています。
神が死とは別に人々を御前に迎え入れる新しい方法があることも奥義です。(コリント人への手紙第一15章51節)
したがって、これらは今の時代に対する神の計画の主要な部分を構成しており、他の時代には明らかにされていません。
しかし、今や神からの啓示によって知られています。
イスラエルに対する神の計画を一時的に中断するだけの全く新しい時代の存在は、千年王国前再臨主義を支持する最も強力な論拠の一つです。
この解釈を否定する者は、教会そのものが神の計画の完成であることを証明する必要があります。
そのためには、この現在の世界において神の新たな啓示の計画は存在しないことを証明しなければなりません。
無千年王国主義を擁護するアリス氏は、これらの奥義について次のように書いています。
「ある人物や対象を奥義と表現することは、必ずしもその人物や対象が全く知られていないことを意味するわけではありません。
知られていても、完全には知られていないがゆえに奥義となる場合もあります。
したがって、パウロによれば、奥義とは信者だけが理解できる真理、もしくは信者にも部分的にしか知られていない真理のことであり、必ずしも全く新しいもの、もしくは全く未知のものとは限らないのです。」[9]

ユダヤ人と異邦人の両方から成る体の一体性の奥義について述べて、彼はこのように続けています。
彼はまず最初に、それを「他の世代には人の子らに知らされなかった」ものとして描写しています。
この宣言だけを見ると、それは全く新しいものであるように思われます。
そこで、この宣言は三つの補足的かつ限定的な記述によって同時に限定されていることに注目すべきです。

(1)「今や啓示されたとおりである。」
(2)「御霊によって、神の聖なる使徒たちと預言者たちに知らされました。」
(3)「異邦人も福音により、キリスト・イエスにあって共同相続人、共同体の構成員、共同の約束にあずかる者となる。」
この三つの限定的な記述を慎重に検討すべきです。」[10]

アリス氏は、ここで述べられていることは全く新しい真理の啓示であるように思われることを認めています。
アリス氏はエペソ人への手紙3章5節の「は」という節を限定的もしくは制限的な節とすることで、この真理が全く新しいという明白な含意を否定しています。

これに対してウォルフォード氏は次のように反論しています。
「啓示されていますが」という節の意味は何でしょうか?
新約聖書ギリシャ語を学ぶ者なら誰でも、学者がこのようにしてこの文法構造の他の可能性を無視していることに驚くはずです。」

アリス氏は、唯一の可能な解釈は制限節であると仮定しています。
ここで「は」と訳されているギリシャ語の単語[hōs]には、多くの解釈があります。
新約聖書では主に、関係詞的様態副詞および接続詞として用いられています。

A.T.ロバートソン氏は、この語に関する多くの議論の一つで、その様々な使い方を「感嘆詞的」「平叙的」「時間的」と列挙し、最上級、比較級、相関関係と共に用いられるとしています。
さらに彼は、基本的にこの種の節のほとんどは「形容詞的」であると指摘しています。
この箇所では副詞節で使用されているが、文法的にはその力は相対的です。

ロバートソン氏はこの点に関して重要なことを述べています。
「関係詞節は確かに原因、条件、目的、もしくは結果といった結果的効果を持つかもしれませんが、それ自体ではこれらのいずれのことも表現していません。
この点では分詞に似ています。」

アリスは「そこに書かれている以上の意味を読み取ってはならない」と述べていますが、通常は形容詞的な概念である節、つまり単に追加情報を与える節が、制限節、つまり先行する文を絶対的に限定する節であると仮定しています。
この節の独断的な分類を裏付けるために、彼は文法的な論拠を一切提示せず、あたかも自身の解釈が唯一の可能性であるかのような印象を与えています。[11]

パウロはそこで示された奥義を限定するのではなく、説明しているのです。
この時代全体とその計画は旧約聖書には啓示されておらず、この現代における新たな計画と新たな啓示の系譜を構成するという概念が貫かれていなければなりません。
この時代全体が旧約聖書に明らかにされていなくても、神の心の中に存在していたことが説明されました。
聖書には、現在の神の摂理が見過ごされていることが明白に表れている箇所が数多くあります。
そして、私たちは聖書を読む時に、主のように「本を閉じる」必要があります。
もし私たちがこれを怠り、いわゆる「空白」に気づかなければ、私たちが読む聖書を理解することは到底できません。
私たちは例としていくつか挙げますが、このマーク(—)は、以前の律法の時代と、現在の恵みのディスペンテーションの後に続く次の審判のディスペンテーションとの間にある現在の時代の介入を示しています。
次の聖句と比較してください。[12]

「家を建てる者たちの捨てた石。
(—)
それが礎の石になった。」
(詩篇118篇22節)

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
(—)
主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」
(イザヤ書9章6節)

「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。
もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
(—)
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」
(イザヤ書53章10、11節)

「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。
(―)
わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。
この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。」
(ゼカリヤ書9章9、10節)

「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
(—)
その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」
(ルカの福音書1章31、32節)


このように、この現代が考慮されたが、その実在は旧約聖書で具体的には明らかにされていません。
ペンバー氏はこの関係を次のように的確に述べています。
「教会の時代は、厳密には五番目の時代の一部ではなく、ユダヤ人の邪悪さのためにそこに挿入された介入に過ぎません。
旧約聖書の預言には知られていない挿入された期間であり、地上の人々ではなく、天の人々の準備をするために設けられました」[13]

IV.現在の時代の経過

イスラエルがメシアを拒んでから、イスラエルがメシアを受け入れるまでの時代が存在しています。
主の再臨は、聖書の二つの部分、マタイによる福音書13章とヨハネの黙示録2、3章に説明されています。
前者は神の御国の計画の観点から、後者は教会の計画の観点から述べられています。
この二つの箇所から、この時代の歩みをたどってみましょう。

A.マタイの福音書13章

マタイの福音書13章11節は、主が「天の御国の奥義」の道筋を示すために語っておられることを明らかにしています。
この教えは、ここに記されているたとえ話の適切な解釈を通して与えられます。
この章には、3つの異なる基本的な働きかけがあります。
まず最初に、この箇所から預言的な意味を切り離し、現代の信者に影響を与える霊的または道徳的な教訓のみを研究する人々がいます。
彼らは、人間の堕落から永遠の状態にいたるまで、神の目的の統一性を強調するため、イスラエルに対する神の計画と教会に対する神の計画を区別することができず、結果として、この部分には教会の真理しか見出せないのです。
このような方法には矛盾が伴うにもかかわらず、彼らはこのことにこだわっています。
これが、千年王国後再臨主義と無千年王国主義という、非ディスペンセーション主義的な働きかけです。
二番目に、イスラエルと教会の区別を認識した上で、この部分はイスラエルに対する神の計画に完全に限られ、神が来るべき王のためにイスラエルを備えさせる患難時代のイスラエルに関する啓示に過ぎないと主張する人々がいます。
これはウルトラ・ディスペンセーション主義的な働きかけです。
三番目に、この聖書箇所は、王が地上を去っていた期間における、王国の計画の進展に関する地上の状況を描写していると信じる人々がいます。
これらのたとえ話は、再臨と再臨の間の全期間の出来事を描写しています。
本研究では、この箇所をこのように解釈します。

1.比喩的解釈の使用

「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」(マタイの福音書13章10節)という質問には、驚きと驚嘆のニュアンスがあるように思われます。
この質問の解釈における強調点の違いから、この驚きの理由がいくつか考えられます。
「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」と読むと、主がマタイの福音書13章1〜3節で群衆に語られたように、なぜそうされたのかという疑問が生じています。
前の章で、イスラエルの民がキリストの御人格に関する聖霊の証しを明らかに拒んだ後、主は彼らを「邪悪で不義の世代」(39節)と特徴づけておられます。
したがって、問題はこうなります。
「なぜあなたは、あなたがたはサタンの子であると公言している民に、教え続けるのですか?」
続く節における主の返答の内容から判断すると、「なぜ彼らにたとえ話で語るのですか」という質問は、正しく理解されるべきものであったと言えます。
たとえ話を用いること自体は、特に目新しいことではありません。
主は、教え、また、伝えたい真理を説明するために、以前にもしばしばたとえ話を用いておられたからです。
弟子たちは、主の教え方に新たな重点が置かれていることに気づいたはずです。

弟子たちの問いかけに対し、主はこのたとえ話を用いた教え方について三つの目的を述べられました。
(1)それは、御自身がメシアであることを証明するための手段でした。(マタイの福音書13章34~35節)
主の主張を証明する他のしるしに加え、イザヤの預言に関するしるしもありました。
(2)それは、信じる聞き手に真理を伝えるための手段でした。(マタイの福音書13章11節)
(3)それは、信じない聞き手から真理を隠すための手段でした。(マタイの福音書13章13~15節)
なぜ真理を隠す必要があったのかは、以下の考察で明らかになります。

2.福音書の章の背景

マタイによる福音書は、主イエス・キリストをヤハゥエの王、イスラエルの救世主として紹介する福音書です。
メシアがイスラエルに紹介される過程を描いています。

スクロギー氏は次のように述べています。
「マタイによる福音書は、他のどの福音書よりも、テーマと調においてヘブル語聖書と密接に結びついています。
メシア、イスラエル、律法、王国、預言といった主題は、ヘブル語聖書の主題そのものです。
ユダヤ的な思想と単語が、この福音書全体を特徴づけています。
その証言は、マルコが書いたローマ人にも、ルカが書いたギリシャ人にも、感銘を与えなかったのです。
しかし、ユダヤ人にとっては、その重要性は避けられないものです。」[14]
この事実は次のような数多くの言及によって裏付けられています。

ダビデの子について
(1章1節、20節、9章27節、12章23節、15章22節、20章30、31節、21章9節、15節、22章42節、45節)
預言の成就
(1章22節、2章5節、15節、17節、23節、4章14節、8章17節、12章17節、13章35節、21章4節、42節、26章31節、54節、56節、27章9、10節)、ユダヤ人の慣習(15章1~2節、27章62節)、
モーセの律法
(5章17~19節、21節、27節、31節、33節、38節、43節、7章12節、11章13節、12章5節、15章6節、22章36節、40節、23章23節)、安息日(12章1~2節、5節、8節、10節、11節、12節、24章20節、28章1節)
聖都と聖所
(4章5節、24章15節、27章53節)

キリストは全体を通して預言と関係しています。
これは「天の御国」という単語の意味に重要な影響を与えています。
この13章は、福音書のテーマの展開において、特異な位置を占めています。
本書全体を通して、キリストはメシアとして描かれています。
1章と2章では、王座に対するキリストの法的権利が示されています。
3章では王の奉献が描写され、4章では王の道徳的権利が示されています。
5~7章では王の司法的権利が示されています。
8~10章では、イスラエルに対する王の宣教活動を通して示された王の権威が示されています。
11、12章では、王に対する反対が描かれています。
イスラエルが直面する大きな質問は「この人はダビデの子ではないか」(マタイの福音書12章23節)です。
イスラエルが否定的に答えていることは明らかです。
キリストは、御自身とその先駆者の両方が拒まれたこと(11章1~9節)、そしてこの拒絶が裁きをもたらすことを示しています。
(11章20~24節)
十字架が最終的に拒まれたからこそ、キリストは新たな招き(11章28~30節)、つまりすべての人々への招きを与えることができるのです。
12章では、この拒絶は最高潮に達します。
民衆はキリストの人格について議論していました。(12章23節)
パリサイ人の答えはこうでした。
「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」(12章24節)
聖霊はキリストの御言葉と御業を通してキリストの人格を証しされました。
そして、証拠を吟味した指導者たちは、キリストの資格は天国の資格ではなく、地獄の資格であると決定しました。
主は、裁きとしての盲目と裁きに対する重大な警告を国民に与えます。(12章31、32節)
この章の終わり(12章46~50節)で、主は、イスラエルが肉体的な誕生によって主と契約の約束に支えられてきたような、すべての自然な関係を捨て去り、信仰に基づく新しい関係を築くことを示されます。
ケリー氏はそれを次のように述べています。
イエスは今この瞬間、地上のあらゆるつながりを放棄されました。
イエスが今認める唯一の絆は、魂に受け入れられた神の御言葉を通して築かれた、天の父との関係です。
このように、この章では、証しの点において、主はイスラエルとの関係を終えられました。
次章では、主がこれから開こうとしていた新たな関係が、神学上どのように展開していくのかを見ていきます。[15]
イスラエルが差し出された王国を拒んだ今、当然の疑問が生じます。
「王国が拒否され、王が不在となった今、神の王国計画はどうなるのでしょうか?」
この王国は取り消し不可能な契約の対象であったため、放棄されることは考えられません。
本章は、王国計画が拒否された時から、国が王の再臨を迎え入れるまでの進展過程を描いています。

3.「天の御国」という単語の使い方

聖書において「王国、御国」という単語は7つの異なる意味で用いられています。
(1)異邦人の王国
(2)イスラエルとユダの王国
(3)サタンの王国
(4)神の普遍的な王国
(5)霊的な王国
(6)ダビデの千年王国
(7)奥義的な形態の王国
これらの分類のうち最初の4つについては、神学者の間で概ね合意が得られていることに注意してください。
最後の3つは終末論の領域に関係しており、議論の対象となっています。
これらについて、いくつかの考察を述べる必要があります。

a.神の普遍的な王国と密接に関係する霊的な王国は、聖霊の力によって新たな誕生を経験した、あらゆる時代の選民から構成されています。
この王国は、このような新たな誕生なしには入ることができません。
この王国は、マタイによる福音書6章33節、19章16、23、24節、ヨハネによる福音書3章3~5節、使徒の働き8章12節、14章22節、19章8節、20章25節、28章23節、ローマ人への手紙14章17節、コリント人への手紙第一4章20節、6章9、10節、15章50節、ガラテヤ人への手紙5章21節、エペソ人への手紙5章5節、コロサイ人への手紙4章11節、テサロニケ人への手紙第一2章12節、テサロニケ人への手紙第二1章5節などで述べられています。

b.千年王国は、キリストがダビデ契約の成就としてダビデの王座から支配します。
文字通りの地上の王国であると宣言されています。(サムエル記第二7章8~17節、マタイの福音書1章1節、ルカの福音書1章32節)
この王国は旧約聖書の預言の対象となっています。(サムエル記第二7章8~17節、イザヤ書9章6、7節、11章1~16節、エレミヤ書23章5節、33章14~17節、エゼキエル書34章23節、37章24節、ホセア3章4、5節、ミカ書4章6~8節、5章2節、ゼカリヤ書2章10~12節、8章20~23節、詩篇2章6節、8~10節、72章11節、17節、マラキ書3章1~4節)
この王国は、キリストの最初の降臨の時に「近づいた」と宣言されました。(マタイの福音書3章2節、4章17節、10章5~7節)
しかし、イスラエルによって拒まれ、延期されました。(マタイの福音書23章37~39節)
この王国は、患難時代に再びイスラエルに告げられます。(マタイの福音書24章14節)
そして、キリストの再臨の時にイスラエルに受け入れられ、設立されます。
(イザヤ書24章23節、ヨハネの黙示録19章11~16節、20章1~6節)

c.王国の奥義的な形態は、前述の二つとは全く異なる概念をもたらします。
神が地上に王国を樹立しようとしていたことは、もはや奥義ではありません。
天における最初の罪以来、神の主権が揺らぎを見せた時、神の主権は、神の支配する王国を樹立することによって明らかにされ、神は支配されます。
アダムが創造された時、彼には主権が与えられました。(創世記1章26節)
それは、アダムが任命された神に属する主権を彼に示すためでした。
しかし、アダムは罪を犯し、神の権威はそのような形では示されなかったのです。
良心の支配は、神の主権に対する個人の責任を個人に示すためのものでしたが、人間はこの試練に耐えられません。
人間の政府は、人々がその政府を神の主権の現れとして認識できるように定めましたが、人間はそれに反抗しました。
神は裁判官を任命し、彼らが神の権威を示せるようにしましたが、人間はこの主権の現れを拒絶しました。
神は神権政治を制定し、その中で神を主権者として認めましたが、この主権の現れを示すために選ばれた国民は反抗しました。
(サムエル記第一8章7節)
そして神は、支配するダビデの子孫を通して主権を示すという御自身の目的を明らかにされました。
(サムエル記第二7章16節)
そしてキリストが来られた時、神の主権を回復するというこの神の目的の現れさえも拒まれました。
罪深い人間は、神の権威の現れの一つ一つを一貫して拒絶してきました。
神のこの計画において、神が王国を樹立するという事実は、明かされていない秘密ではありません。
奥義とは、この計画が実現される方が公に示された時、その方が拒まれ、その拒絶と、その方が再臨されて主権という神の目的が成就するまでの間に、一つの時代が訪れるという事実です。
ゆえに、王国の奥義という形態は、キリストの二度の再臨の間の時代と関係があります。
天の御国の奥義は、王が不在の間、地上に広く見られる状態を描写しています。
こうして、これらの奥義は、この現在の世界を、神の王国に関する神の永遠の目的と結びつけています。
この神の御国の奥義の形態に関して、まず最初に、千年王国と同一視することはできないと指摘されます。
千年王国は奥義ではなく、旧約聖書において明確に預言されているからです。
二番目に、この神の御国の奥義の形態は霊的な王国を指すことはできません。
霊的な王国は新生によってそこに入る救われた人々のみで構成されます。
しかし、この神の御国の奥義の形態は救われた者と救われていない者(小麦と毒麦、良い魚と悪い魚)の両方で構成されるからです。
三番目に、この神の御国の奥義の形態は永遠の王国を指すことはできません。
なぜなら、これらの奥義は再臨までの期間に限定されているからです。
四番目に、この神の御国の奥義の形態は教会に限定することはできません。
なぜなら、この神の御国の奥義の形態は教会以上のものを含んでいるからです。
一方、この神の御国の奥義の形態は、これまで明らかにされていなかった事柄に関係し、時間的に明確に限定され、現代の信仰の全領域を表していることにも配慮する必要があります。
終末論的に言えば、「王国、御国」という単語のこれら3つの使い方を区別して区別しておくことが最も重要です。

d.「神の王国」と「天の御国」という単語については、同義語ではないものの、互換的に使用されていることに配慮すべきです。
両者に違いがあるのは、言葉自体に固有のものではなく、文脈における使い方によるものです。
これらの単語はどちらも、千年王国、霊的な王国、そして王国の奥義的な形態を指すために用いられています。
私たちは王国の計画における地上的な側面と永遠の側面の区別を認識しています。[16]
しかし、「神の王国」と「天の御国」という単語を絶対的なものと見なすことに注意が必要です。
これらの単語が伝えようとしている意味は、文脈によってのみ決定されます。

4.マタイの福音書13章における時間的要素
ライリー氏は、これらのたとえ話が再臨間期に限定されていることを示すために次のように記しています。
「天の御国は、たとえとして語られました。」
これは、たとえ話の主題の始まりの時期を定めています。
言い換えれば、キリストが地上で自ら宣教活動を行っていた当時、天の御国はたとえ話で描写されているような形をとってのです。
これらのたとえ話で扱われている期間の終わりは、「世の終わり」、正確には「世の終わり」(39~49節)という表現によって示されています。
これは、キリストが力と大いなる栄光を帯びて再臨される時です。
したがって、これらのたとえ話は、キリストが地上で語った時代からこの世の終わりまでの期間のみに関係していることは明らかです。
これは、「天の御国の奥義」という表現の意味を解き明かす手がかりとなります。[17]

5.この章の解釈

この箇所を解釈する時には、誤りを避けるための鍵となるものがいくつかあります。

(1)まず最初に、たとえ話のいくつかは主御自身によって解釈されています。
それらの意味についても、残りのたとえ話の解釈方法についても、不確かな点があってはなりません。
全体の解釈は、必然的に主によって解釈されたものと調和していなければなりません。

(2)二番目に重要な鍵は、たとえ話の多くは比喩的な表現で書かれていますが、これらの比喩的表現は聖書全体を通してよく知られています。
したがって、他の箇所で一貫して用いられているのと同じ使い方でここでも用いられるということです。
これらが孤立した描写ではないという事実により、解釈が簡単になります。

スクロギー氏は次のように書いて、解釈の鍵となるものを示しています。
「これらのたとえ話を解釈する鍵は、この章の52節にあるように私には思えます。

「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」
(マタイの福音書13章52節)


これらの言葉は、これから起きる事柄について語られています。
確かにたとえ話には新しいものと古いものがあると述べています。
しかし、どれが古く、どれが新しいのでしょうか?
1節には、主が「家を出て、湖のほとり」で教えられたとあります。
また、36節には、「イエスは群衆と別れて家にはいられ」、えられたとあります。
このように、たとえ話は公に語られた4つと、個人的に語られた3つに分けられます。
そして、これらの証拠から(52節が鍵となるならば)、最初の4つは真理の新しい宝であり、最後の3つは古いもの、つまり以前に啓示された真理であることが分かります。
これを前提とすると、現代は、王国の進路を奥義的に描写する7つの連続した描写の形で私たちの目に映ります。
新しいもの
1.種と土壌:王国の宣言。
2.小麦と毒麦:王国における偽りの模倣。
3.からしだねの木:王国の広く目に見える拡張。
4.粉の中のパン種:王国の陰険な腐敗

古いもの
5.宝物:イスラエル国家
6.真珠:患難時代のユダヤ人の残された者[18]
7.引き網:大患難時代の終わりにおける諸国民の裁き」[19]

6.たとえ話の解釈

現時点での、これらのたとえ話を詳細に解説することは不可能であり、必要もありません。
この終末論的考察においては、現在の世界の成り行きに関する主の啓示をたどるだけで十分です。

a.種まき人と国土(マタイの福音書13章3~9節、18~23節)

主が与えられた解釈から、この現代に関するいくつかの重要な事実が分かります。

(1)この時代は種まきを特徴とする時代です。
マルコの福音書4章14の並行箇所では、種は御言葉であると示されています。
しかし、ここでは御国の子である人々であることが示されています。
(2)この時代において、蒔かれた種を受け入れる土壌の準備には、際立った違いがあります。
(3)この時代は、世、肉、そして悪魔からの御言葉への反対によって特徴づけられます。
(4)時代の経過とともに、種まきに対する反応は「百倍」から「六十倍」、そして「三十倍」へと減少していきます。
これがこの時代の経過です。

マルコの福音書4章13は、このたとえ話とその計画の啓示が、説教中の他のたとえ話を理解するための基本的なものであることを明らかにしています。
残りのたとえ話は、種まきの計画の進展について扱っています。

b.麦と毒麦(マタイの福音書13章24~30節、36~43節)

この二番目のたとえ話も、主によって解釈されています。
このたとえ話を通して、時代の流れに関するいくつかの重要な事実が明らかにされています。

(1)最初のたとえ話で述べられている真実な種まきは、偽りの種まきによって模倣されることになります。
(2)この二つの種まきの結果として、善と悪が並行して進展します。
(3)時代の終わりに、善と悪を分ける裁きが行われます。
善は千年王国に受け入れられ、悪は排除されます。
(4)それぞれの種まきの本質的な性質は、外見的な観察ではなく、蒔かれたものの実りの豊かさ、もしくは実りのなさによってのみ判断されます。
多くの人は、この二つ目のたとえ話は特に患難時代に関連し、第一のたとえ話の種まきとは区別すべきだと考えています。[20]
最初のたとえ話では「言葉」が強調され、二つ目のたとえ話では「御国の子ら」(マタイの福音書13章38節)が強調されています。
最初のたとえ話では種は人々の心に蒔かれ、二つ目のたとえ話では世界に蒔かれます。
最初のたとえ話では裁きについては触れられていませんが、二つ目のたとえ話では時代は裁きで終わります。
これは、二度の種まきが暗示されているように思われます。
一回目は主に教会によって時代を通して蒔かれ、二回目は神が再びイスラエルを扱う時代の終わりの直前の患難時代に蒔かれます。
二つ目のたとえ話には、これが教会ではなくイスラエルに関連していることを示す兆候があります。

(1)マタイでは「御国の子ら」という言葉はイスラエルを指して使われています。(マタイの福音書8章11、12節)
(2)ここで説明されている裁きは、神が再びイスラエルという国家を取り扱う時、つまり世の終わりに関係しています。
(3)麦と毒麦は裁きの時まで一緒に成長しますが、教会は患難時代が始まる前に携挙されます。
(4)悪人に対する裁きは、義人が報いを受ける前に御使いを通して行われます。
そのため、ここでの千年王国は、悪人が排除され、義人だけが残ることを表しています。
(5)この裁きの直後に千年王国が樹立されます。
(6)教会は、誰が栄光に入り、誰が排除されるかを決定するために裁かれることはありません。
このことから、このたとえ話は主に患難時代のイスラエルについて述べられていると思われます。
しかし、時代全体が偽りの種まきと真実な種まきが競合する特徴を持つことは事実です。

c.からし種(マタイの福音書13章31、32節)

ユダヤの慣用句では、からし種は最小の量を量るために使われました。
このように、新しい王国の始まりが取るに足らないものであったことが強調されています。
からしは、種から1年で6メートルから9メートルの高さに成長する植物です。
このたとえ話のこの部分は、王国が導入されると、その大きな成長を強調しています。
王国は取るに足らない始まりから、大きな規模へと成長します。
歴史的に、新しい王国は、それを広める少数の人々から始まりましたが、それにもかかわらず、大きな規模に成長します。
ダニエルの預言(4章1~37節)では、木はネブカデネザルの王国を表していました。(20~22節)
木に止まっている鳥は、ネブカデネザルの王国から恩恵を受けた人々を表していました。(12節)
ここでからしだねは、新しい形の王国は小さな始まりを持つが、大きく成長し、大勢の人々がその恩恵を受けるであろうことを明らかにしています。

d.パン種は粉の中に隠されている(マタイの福音書13章33節)

聖書でパン種が使われるときは、パン種は、しばしば悪を暗示しています。
(出エジプト記12章15節、レビ記2章11節、6章17節、10章12節、マタイ16章6節、マルコの福音書8章15節、コリント人への手紙第一5章6、8節、ガラテヤ人への手紙5章9節)
キリストの人格と御業の完全さを表すいけにえにおいて使用されています。
(レビ記2章1~3節)
しかし、それが常にそのように使用されているわけではないことを示しています。
ここでは、パン種自体に重点が置かれてなく、その性質を強調されています。
つまり、パン種が粉の中に隠されているという事実が強調され、したがって、パン種が粉の中に加えられたときの働きが強調されています。
パン種が粉に加えられると、不可逆的なプロセスが始まり、それが発酵作用を完了するまで続きます。
これは、王国の新しい形がどのように進展するかを強調することを意図しています。
王国の力は外的なものではなく、内的なものです。
その内的な働きによって、外的な変化をもたらします。
以前の王国はすべて軍事力によってもたらされました。
バビロンはアッシリアを滅ぼすことで権力を握り、メディア・ペルシャはバビロンを滅ぼすことで支配し、ギリシャはメディア・ペルシャを征服することで勢力を拡大し、ローマは圧倒的なギリシャによって支配されました。
しかし、この新しい王国は軍事力ではなく、新たな原理、つまり内なる力によって繁栄します。
粉の中に隠されたからしだねとパン種のたとえ話は、王国の新しい形の進展を強調しています。

e.隠された宝(マタイの福音書13章44節)

このたとえ話の目的は、イスラエルとこの現代との関係を描写することです。
イスラエルは神によってこの時代が終わるまで取り分けられていますが、忘れ去られておらず、この時代はその計画と関連しています。
私たちは、
(1)主イエス・キリストという人物が宝を買っていることに気づきます。
この購入は十字架で行われました。
(2)この宝は畑に隠され、人々には見えませんが、購入者には知られています。
(3)この時代において、購入者は購入した宝を所有するのではなく、宝が置かれている場所を所有するだけです。
このたとえ話は、
キリストは、この時代にイスラエルが受け入れられるための土台を築いてくださいました。
たとえキリストが御自身の宝を所有することなく、この時代が終わるとしても、その宝は、キリストが御国を樹立するために来られる時に掘り出されます。
イスラエルは今、盲目ですが、御国を所有しているのです。

f.真珠(マタイの福音書13章45~46節)

真珠を、世の終わりに救われる信仰深い残された民と結びつける解釈者もいますが、ほとんどの解釈者は真珠を教会と結びつけています。
このように主は、この現在の世界において、宝であるイスラエルを獲得するだけでなく、傷つけられて生まれた教会も、御自身の所有物として獲得されることを示しています。
私たちは、次の事に注目します。

(1)教会は真珠のように、「商人」であるキリストによって購入されることによって所有物となります。
(2)教会は真珠のように、徐々に蓄積していくことによって形作られます。
(3)教会は真珠のように、それが形成された場所から引き上げられることによってのみ、キリストの装飾品となります。
これは、先に考察した現在の世界の目的と関連しています。

g.引き網(マタイの福音書13章47~50節)
このたとえ話は、網が海に投げ込まれることから(マタイの福音書13章47節)、時代が裁きによって、主に異邦人諸国民に終止符を打つことを示しています。
これは、二番目のたとえ話で描かれているイスラエルへの裁きとは対照的です。
救われていない者は、たとえ話で既に教えられているように、設立された王国から排斥され、義人はそこへ迎え入れられます。
マタイの福音書13章の「天の御国の奥義」とパウロが言及した奥義との間には類似点があることに注目すべきです。
種まき人の奥義は、テモテへの第一の手紙3章16節の敬虔さの奥義と密接に類似しています。
小麦と毒麦のたとえ話とからし種のたとえ話は、組織の頭である個人を描写するテサロニケ人への手紙第二2章7節の不法の奥義と類似しています。
パン種のたとえ話は、ヨハネの黙示録17章1~7節のバビロンの奥義と類似しています。
隠された宝のたとえ話は、ローマ人への手紙11章25節のイスラエルの盲目の奥義と類似しています。
真珠のたとえ話は、エペソ人への手紙3章3~9節、コロサイ人への手紙1章26、27節、ローマ人への手紙16章25節に記されている教会に適応される奥義と類似しています。

B.ヨハネの黙示録2、3章にある七つの教会への手紙

この現代の進路は、ヨハネの黙示録2、3章にある二つ目の重要な箇所で示されています。
マタイによる福音書13章が神の御国の計画との関連でこの現代を全体を見ていたのに対し、ヨハネの黙示録2、3章は教会における計画との関連でこの現代を要約しています。

1.ヨハネの黙示録2、3章の時代

ヨハネはヨハネの黙示録の中で、過去のこと、現在のこと、そして未来のことについて記されています。
(ヨハネの黙示録1章19節)
スコット氏はこのように書いています。
「この書の大きな区分は、神の教会の教えのためにここに記されていることです。
「あなたの見た事」とは、今、見たばかりのキリストの幻を指しています。(12~16節)
「今ある事」とは、信仰を告白する教会と、キリストとの関係における、まだ成し遂げられていない最終的な拒絶に至るまでの、一連の、広く定義されたいくつかの特徴を指しています。(2、3章)
「この後に起こる事」、この第三の区分では、世界とユダヤ人、そして付け加えれば、腐敗し背教した教会、つまり「吐き出される」べきものが、ヨハネの黙示録のこの厳密な預言的な部分に含まれています。(4~22章5節)
この書を解釈しようと試みられた誤った原理ほど、預言研究の信用を失墜させたものはありません。
扉にその解釈の鍵が掛かっています。
それを取り出して、使い、そして中に入ってください。
この書の主要な内容を過去、現在、そして未来に区分することは、簡潔で一貫性があります。」[21]
したがって、ヨハネが七つの教会に書き送る中で、教会の始まりから、再臨前の背教した教会の裁きまでのこの現代を描写していることは明らかだと思われます。
したがって、これらの章で扱われている期間は、マタイによる福音書13章で扱われている期間と本質的に並行していると考えられます。

2.七つの手紙の目的

七つの手紙が書かれたのは三つの目的があったと考えられます。

a.ヨハネは、それぞれの集会の必要を満たすために、七つの地方教会に手紙を書いています。
ペンバー氏はこのように述べています。
「主に、これらの手紙はそれが宛てられた共同体に向けて書かれたものであり、実際にこの時代の状況を扱っていることは疑いようがありません。」[22]
ゆえに、ここに記録されている事柄は、それぞれの七つの教会に直接、歴史的に適応されることになります。

b.これらの手紙は、様々な種類の個人や集まりを時代を通じて明らかにします。

セイス氏はこのように述べています。
七つの教会は、真実なクリスチャンと偽りのクリスチャンを七つの種類で表しています。
キリスト教を信仰する者は皆、宗教的特質においてエペソ人、スミルナ人、ペルガモ人、テアテラ人、サルディア人、フィラデルフィア人、ラオデキア人のいずれかです。
教会全体は、この七つの種類から構成されています…
キリスト教を信仰する人々のあらゆる共同体には、キリスト教世界全体を構成しているさまざまな階級が存在します。
プロテスタントのカトリック信者、カトリックのプロテスタント、宗派的反宗派主義者、分離主義者ではない党派主義者、離反や背教が蔓延する中にいる聖なる者、最も熱心で活発な信仰の中にある不聖な者、暗い場所に光があり、光の中に闇があります。
このように、私は七つの教会が、あらゆる教会において、これらの書簡を私たち自身、そしてあらゆる時代の信仰を告白するクリスチャンに直接適用することを、極めて厳粛かつ重要なこととみなしています。[23]

ペンバー氏はこのように述べています。
「これらを総合的に見るのであれば、キリスト教世界のさまざまな地域で見られるキリスト教社会のあらゆる側面が示され、それによって主は慰め、助言、勧め、警告、脅迫を与えることができ、そこから世の終わりまで神の民のあらゆる状況に適合するものを見つけることができるのです。」[24]
したがって、歴史的解釈に加えて、霊的な適用もあります。

c.手紙の中には、時代の推移に関する預言的な啓示があります。

ペンバー氏は次のように述べています。
「手紙が与えられた順序は、ヨハネが幻を見た時から主が来られるまでの間、名ばかりの教会が経るべき一連の主要な段階を予告していました。」[25]
ヨハネが語りかけることができた多くの教会のうち、七つの教会はたった七つに過ぎませんでしたが、その名称の意味から特に選ばれていたようです。
エペソは「愛する者」もしくは「安らぎ」を意味します。
スミルナは「没薬」もしくは「苦味」を意味します。
ペルガモスは「高い塔」もしくは「結婚した」を意味します。
テアテラは「絶え間ないささげ物」もしくは「絶え間ないささげ物」を意味します。
サルデスは「逃れてきた者たち」もしくは「刷新」を意味します。
フィラデルフィアは「兄弟愛」を意味します。
ラオデキアは「支配する人々、もしくは語る人々」もしくは「民の審判」を意味します。」[26]
これらの名称自体が、時代における各時期の進展の連続性を示しています。

この展開に関してスコット氏は次のように書いています。
「教会の虚栄心と初恋からの離脱は、使徒時代の終わりを特徴づけています。

エペソ(2章1~7節)
続いて殉教時代が訪れ、ディオクレティアヌス帝による第10次にして最後の迫害の終わりへと至りました。

スミルナ(2章8~11節)
コンスタンティヌス帝の即位とキリスト教の公的な保護から7世紀にかけて、霊性の低下と世俗性の増大は同時に進行しました。

ペルガモ(2章12~17節)
地上におけるサタンの傑作である教皇教会は、普遍的な権威を掌握し、神の聖徒たちを残酷に迫害したことでその悪行を証明しています。
その邪悪な支配は「中世」に及び、その道徳的特徴は「暗黒時代」とよく呼ばれています。
カトリックは触れるものすべてを腐敗させます。

テアテラ(2章18~29節)
宗教改革は、神が恵みと力によって教皇の権威を弱め、300年間、多かれ少なかれ輝きを放ち続けてきた光をヨーロッパにもたらした介入でした。
分裂と死に瀕したプロテスタントは、教会とキリスト教に対する神の理想からどれほどかけ離れているかをありのままに示しています。

サルデス(3章1~6節)
同じく神の御業であったもう一つの宗教改革は、前世紀初頭を特徴づけるものです。

フィラデルフィア(3章7~13節)
信仰を告白する教会の現在の一般的な状態は、生ぬるさに満ちていました。
これまでに描写されたものの中で最も憎むべき、吐き気を催すものです。
教会史の最後の段階、審判の前夜、キリストのいない時代をラオデキア(3章14~22節)と呼ぶのが適切です。

最初の3つの教会の歴史は連続しているのに対し、残りの4つの教会の歴史は重なり合い、その後、主の来臨という終わりまで実質的に同時に進んでいることに注意してください。[27]
これら7つの時代は連続しているように見えますが、次の時代が前の時代を終わらせるわけではないことに注意することが重要です。

ペンバー氏は次のように的確に指摘しています。
「マタイによる福音書13章のたとえ話と書簡の数は7つで、その数は神の摂理の完全性を表しています。
そして、この二つの預言のそれぞれにおいて、私たちは全体を含む七つの連続する段階、もしくは特徴的な時代を目の前にしています。
これらの時代は、与えられた順序で始まりますが、いずれの時代も、それに続くものと重なったり、多かれ少なかれその影響を世の終わりまで及ぼしたりするかもしれません。」[28]

3.マタイによる福音書13章とヨハネの黙示録2、3章との類似性

王国の奥義的な形態は目に見える教会と同義ではありませんが、二つの箇所の時代は本質的に同じであるため、進展の類似性があると合理的に予想できます。
以下の図は、この一般的な類似性を示しています。

マタイによる福音書13章  ヨハネの黙示録2、3章 名前の意味 おおよその期間  種まき、組織化、伝道の特徴的な時期 
種まく人 エペソの教会 望まれる人 ペンテコステから西暦100年までの迫害時代 迫害
良い麦と悪い麦 スミルナ ミルラ ネロから紀元300年の期間 敵の出現
からしだね ペルガモ 徹底的な結婚 紀元300年から800年までの期間 世界的な同盟 大きな外部成長
パン種 テアテラ 継続的な犠牲 紀元800年から1517年の期間 教皇の支配 教義の堕落
隠れていた宝 サルデス 兄弟から逃れてきた者たち 最後の日にある宗教改革の教会 空の告白 国教会の台頭
真珠 フィラデルフィア 兄弟愛 最後の時代 最後の日にある真の教会
地引き網 ラオデキア 民衆支配 終末 背教

この二つの箇所の啓示に同一性があると推論するものではありません。
むしろ二つの部分で啓示された時代の流れの進行に類似性があると推論するものです。

C.世の終わり

キリストの二度の再臨の間のこの現代において、神は二つの異なった計画を成就させておられます。
一つは教会に関する計画で、教会の携挙の時に完成します。
もう一つはイスラエルに関する計画で、キリストの再臨における携挙の後に完成します。
これら二つの計画には、それぞれの終末について描写的な箇所があります。
教会の「終末」(ペテロの手紙第一1章20節、ユダの手紙18節)と教会の「終末」(ペテロの手紙第一1章5節、ヨハネの手紙第一2章18節)について述べられています。
イスラエルの「終わりの日」(ダニエル書10章14節、申命記4章30節)と教会の「終わりの日」(テモテへの手紙第一4章1節)についても述べられています。
聖書はイスラエルの「終末の日」(イザヤ書2章2節、ミカ書4章1節、使徒の働き2章17節)と教会の「終末の日」(テモテへの手紙第二3章1節、ヘブル人への手紙1章2節)について述べています。
イスラエルにとっての「終わりの日」についても言及されています。(ヨハネの福音書6章39節、40節、44節、54節)
ただし、ここでの「日」は、特定の期間ではなく、計画を指している可能性があります。
これらの考察において重要なのは、特定の期間への言及は、それが属する計画と関連している必要があるということです。
イスラエルの計画に関して用いられる場合、教会の計画を指すことはできません。

チェイファー氏は次のように書いています。
「イスラエルにとっての「終わりの日」、つまり地上における王国の栄光の日々(イザヤ書2章1~5参照)と、教会にとっての「終わりの日」、つまり悪と背教の日々(テモテへの手紙第二3章1~5参照)を区別しなければなりません。
同じ様に、イスラエルと教会にとっての「終わりの日」と、教会にとっての「終わりの日」、つまりキリストにあって死んだ人々の復活の日(ヨハネによる福音書6章39、40、44、54参照)を区別する必要があります。」[29]

慎重に区別しなければなりません。
そうしないと、イスラエルにとっての終わりとなる出来事を教会の責任とみなすことになりますし、その逆も同様です。
本書では、イスラエルにおける世の終わりに関する出来事については考察しません。
これは後ほど考察するものであり、教会の天地移行後、キリストの再臨に先立つすべての預言も含まれます。
ここでは、教会に対する神の計画に関連して、世の終わりに関連する出来事について考察します。

教会の終末期について、チェイファー氏は次のように書いています。
「教会の終末については、聖書の膨大な箇所が述べています。
それは、まさに今の時代の終わりに当たる、しかし完全に今の時代の範囲内にある、限られた期間を指しています。
この短い期間は大患難時代の直前であり、ある程度は大患難への準備期間でもあります。
しかし、この二つの背教と混乱の時代は、歴史上比較できるものがないにもかかわらず、全く別のものです。
教会の終末について述べている聖書は、政治情勢や世界情勢を一切考慮せず、教会そのものに限定して述べています。
これらの聖書は、人々が信仰から離れていく様子を描いています。(テモテへの手紙第一4章1~2節)
そこには、信仰を装いながらも、新生されていない人々に見られる特徴が現れています。(テモテへの手紙第二3章1~5参照)
キリストの血の力を否定した。(テモテへの手紙第二3章5節とローマ人への手紙1章16節、コリント人への手紙第一1章23、24節、テモテへの手紙第二4章2~4参照)これらの義の指導者たちは、新生されていない人々です。
それ以上の霊的なものは何一つ生み出されることはありません。(コリント人への手紙第一2章14参照)
以下は、教会の終わりの時代に関する真理を示す聖句の一部です。
(テモテへの手紙第一4章1~3節、テモテへの手紙第二3章1~5節、4章3、4節、ヤコブの手紙5章1~8節、ペトロの手紙第二2章1~22節、3章3~6節、ユダの手紙1章1~25、30節)
教会はキリストの再臨が間近に迫っているという希望を与えられているため、その出来事がいつ起こるかについては、教会に何の兆候も与えられていません。
したがって、教会の終末期に関する「時の兆候」という主題についてはここでは触れません。
しかしながら、上記の聖書箇所には、世の終わりに信仰を告白する教会内の状態に関するいくつかの啓示があります。
これらの状態は、否認のシステムを中心に展開されます。
そこには、
神を否定する者(ルカの福音書17章26節、テモテへの手紙第二3章4、5節)
キリストを否定する者、ヨハネの手紙第一2章18節、4章3節、ペトロの手紙第二2章6節)
キリストの再臨を否定する者(ペトロの手紙2章3、4節)
信仰を否定する者(テモテの手紙1章4章1、2節、ユダの手紙3節)
健全な教えを否定する者(テモテの手紙第二4章3、4節)、神から離れた生活を否定する者(テモテの手紙第二3章1~7節)、クリスチャンの自由を否定する者(テモテの手紙1章4章3、4節)、道徳を否定する者(テモテの手紙第二3章1~8、13節、ユダの手紙18節)、権威を否定する者(テモテの手紙第二3章4節)などがあります。」[31]
この時代の終わりの状態は、キリストが教会への入会を求めるために立ち向かわなければならないラオデキア教会の状態と一致するように見受けられます。
その終わりを考慮すると、聖書の中でその時代が「邪悪な時代」と呼ばれているのも不思議ではありません。

NOTE

[1]Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology, I, xi-xii.
[2]Cf. B. F. Westcott, The Epistle to the Hebrews, p. 8.
[3]Cf. Chafer, op. cit., I, 254-55.
[4]G. Abbott-Smith, Manual Greek Lexicon of the New Testament, p. 15.
[5]Ibid., p. 255.
[6]Cf. A. C. Gaebelein, Studies in Prophecy, pp. 7-14.
[7]Chafer, op. cit., III, 228-29.
[8]Ibid., IV, 75-76
[9]Oswald T. Allis, Prophecy and the Church, pp. 90-91.
[10]Ibid.
[11]John F. Walvoord, “Millennial Series,” Bibliotheca Sacra, III:4-5, January, 1954.
[12]E. W. Bullinger, How to Enjoy the Bible, pp. 103-4.
[13]G. H. Pember, The Great Prophecies, p. 231.
[14]Graham Scroggie, A Guide to the Gospels, p. 248.
[15]Wm. Kelly, Lectures on the Gospel of Matthew, P. 262.
[16]Cf. Chafer, op. cit., VII, 223-24.
[17]Charles C. Ryrie, The Basis of the Premillennial Faith, pp. 94-95.
[18]Many see this as a reference to the church rather than to Israel.
[19]Graham Scroggie, Prophecy and History, pp. 123-25.
[20]J. F. Strombeck, First the Rapture, pp. 162-67.
[21]Walter Scott, Exposition of the Revelation, p. 50.
[22]Pember, op. cit., p. 278.
[23]Joseph Seiss, Lectures on the Apocalypse, I, 144-45.
[24]Pember, op. cit., p. 289.
[25]Ibid.
[26]Of. ibid., p. 279.
[27]Scott, op. cit., pp. 55-56.
[28][Pember, op. cit., p. 233.
[29]Chafer, op. cit., IV, 374-75.141
[30]Ibid.
[31]D. H. Prichard, “The Last Days,” pp. 51-58


第10章 部分携挙主義

真実な教会にとって、今の時代は教会が主の御前に移されて終わります。
教会の移動という教理は、新約聖書の終末論における主要な考察の一つです。
(ヨハネの福音書14章1~3節、テサロニケ人への手紙第二2章1節、テサロニケ人への手紙第一4章13~18節、コリント人への手紙第一1章8節、15章51、52節、ピリピ人への手紙3章20、21節、コリント人の手紙第二5章1~9節)
これは、現在聖書研究者の間で最も意見の相違が生じている問題の一つです。
千年王国前再臨主義の解釈者たちは、携挙の対象を問題とする部分携挙論者と、患難時代との関連において携挙の時期を問題とする患難前携挙論者、患難中期携挙論者、患難後携挙論者に分かれています。

I.単語の定義

ここで、新約聖書でキリストの再臨に関連して使われている様々な言葉、つまり「パルーシア(parousia)」、「アポカルプシス(apokalupsis)」、「エピファネイア(epiphaneia)」について説明しておくのが適切だと思います。

これらはしばしば専門用語であり、特定の意味を持つとされていますが、ウォルフォード氏は次のように書いています。
「これら3つの単語は、専門的な意味ではなく一般的な意味で使用され、携挙とキリストの栄光ある地上への再臨の両方を表しているというのが著者の見解です。」

I.「パルーシア(parousia)」

聖書の中でキリストの再臨を表すのにくり返して使われる言葉は「パルーシア(parousia)」です。
新約聖書の中では様々な文脈で24回登場します。
語源が示すように、この言葉は「近くにいる」または「隣にいる」という意味を持ちます。
英語の「プレゼンス」という言葉が暗示するすべての意味が含まれています。
単に「臨在」を意味するのではなく、臨在をもたらす行為、つまり個人の到来を意味するようになりました。
新約聖書におけるこの語の使い方を簡単に見てみると、コリント人への手紙第一16章17節、コリント人への手紙第二7章6、7節、ピリピ人への手紙1章26節、テサロニケ人への手紙第二2章9節、ペトロの手紙第二3章12節などがあります。
これらの使い方は一般的なものであり、専門的なものではないことは誰もが認めるところです。
この言葉が教会の携挙についてくり返して使われていることは、以下の箇所で明らかです。
(コリント人への手紙第一15章23節、テサロニケ人への手紙第一2章19節、4章15節、5章23節、テサロニケ人への手紙第二2章1節(?)、ヤコブの手紙5章7、8節、ペトロの手紙第二3章4節(?)、ヨハネの手紙第一2章29節)
しかしながら、この言葉は、多くの聖句の中で、キリストが教会とともに地上に再臨されることについても使われています。
(マタイの福音書24章3節、27節、37節、39節、テサロニケ人への手紙第一3章13節、テサロニケ人への手紙第二2章8節、ペトロの手紙第二1章16節)
これらすべての箇所で、同じ言葉が特定の意味ではなく一般的な意味で使われているという結論は避けられません。
この言葉が教義に貢献しているのは、キリストの肉体的な臨在を強調することです。

II.「アポカルプシス(apokalupsis)」

キリストの到来を表す二番目に重要な語「アポカルプシス(apokalupsis)」は、名詞形で18回、動詞形で26回出現します。
これは明らかに[apo]と[kaluptō]に由来しています。
後者は「覆う」もしくは「ベールをかぶせる」という意味で、接頭辞「明らかにする」もしくは「ベールを脱ぐ」を伴い、ひいては「明らかにする」という意味になります。
この言葉がキリストに関連して使われている箇所を調査すると、多くの場合、キリストの再臨について使われていることがわかります。
(ペテロの手紙第一4章13節、テサロニケ人への手紙第二1章7節、ルカの福音書17章30節)
しかし、他の箇所では、この言葉は明らかに、キリストが教会のために空中に来られることを指して使われています。
(コリント人への手紙第一1章7節、コロサイ人への手紙3章4節、ペテロの手紙第一1章7節、13節)
キリストに関連してこの言葉が使われる時に含まれた教義は、キリストの栄光が将来現れることを強調するものです。

III.「エピファネイア(epiphaneia)」

キリストの再臨について使われる3番目の語は「エピファネイア(epiphaneia)」です。
[epi]、そして[phanēs]から由来しています。
この言葉の語源は「光の中にもたらす」「輝かせる」「見せる」という語が、ギリシャ詩人のホメロスによって発見されています。
前置詞が加わることで、より強い意味が与えられます。
これは、キリストが受肉して地上に初めて来られたこと(ルカの福音書1章79節、テモテへの手紙第二1章10節)について使われています。
主の再臨についての使用では、教会の携挙を指している例が2つあり、キリストの再臨を指していると思われる例が2つあります。
テモテへの第一の手紙6章14節とテモテへの手紙第二4章8節を携挙を指していると分類するのが妥当な解釈と思われます。
しかし、テモテへの手紙第二4章1節とテトスへの手紙2章13節には、キリストの再臨について述べられています。
[エピファネイア]の使用において真実性が強調されているのは、キリストが現実に現れ、見られるようになり、目に見える形で現れることを私たちに安心させるためです。[1]
これらの言葉は、再臨に関する3つの大きな事実を強調しています。
キリストは目に見える形で存在し、その結果、キリストの栄光は完全に明らかにされ、キリスト自身が完全に現れされるということです。

II.部分携挙理論

教会の移転に関する最初の理論は、患難時代における移転の時期ではなく、むしろ移転の対象となる人々に関するものです。
教会の移転の際、すべての信者が連れて行かれるのではなく、その出来事を「見守り」「待ち望んでいる」人々、つまり、そこに含まれるにふさわしい程度の霊的到達に達した人々だけが連れて行かれると主張されています。
この見解は、R・ゴベット、G・H・ラング、D・M・パントン、G・H・ペンバー、J・A・セイス、オースティン・スパークスなど、数え上げればきりがありません。
この見解をワウ氏は次のように述べています。
「しかし、聖書を深く祈り深く学ぶ人々の中には、準備を整え、待ち望んでいる一部の信者だけが移されると考える者も少なくありません。
彼らは、ルカの福音書21章36節から、「目を覚まして」いないクリスチャンは「これから起こるすべてのことから逃れることはできない」し、「人の子の前に立つ資格はない」と明確に推測できると信じています。
彼らは、ピリピ人への手紙3章20節、テトスへの手紙2章13節、テモテへの手紙第二4章8節、ヘブル人への手紙9章28節などの聖句から、「主の出現を待ち望み」、「待ち望み」、「主の出現を心から愛している」者だけが移されると考えています。」

A.部分携挙説の教義上の問題点

部分携挙説は、聖書の教義に関するある種の誤解に基づいています。

1.部分携挙論の立場は、キリストの死の価値、つまり罪人を罪の裁きから解放し、神に受け入れられる者としてのキリストの死の価値についての誤解に基づいています。
この教義は、新約聖書の三つの言葉、「贖罪」「和解」「贖い(あがない)」に結びついています。

贖罪について、チェイファー氏は次のように書いています。
「キリストはゴルゴタで、いわば御自身の血をその体に振りかけられたことにより、現実に哀れみの座となられました。
キリストは贖罪者であり、罪に対する神の聖さの合法的な要求に応えることによって贖罪を行い、天を恵みの場とされました。
贖罪が存在するという事実は信じるべきものです。」
贖罪は、十字架上でのキリストの働きにおける神への側面です。
世の罪のためのキリストの死は、神との関係において人類の立場を根本的に変化させました。
なぜなら、人間が世に加わるかどうかに関わらず、神はキリストが世のために行ったことを認められるからです。
神は決して和解したとは言われていませんが、キリストの死を通して世と神との関係が根本的に変化した時、神の世に対する態度は変化します。」[3]

和解に関して、同じ著者はこのように述べています。
「和解とは、時計を時間合わせのためにクロノメーターに合わせるように、誰かもしくは何かが徹底的に変化し、基準となる何かに合わせることを意味します。
キリストが世のために死なれたことにより、全世界は神との関係において徹底的に変化しました。
キリストの十字架を通して神の聖なる裁きに関して、世界は大きく変化し、神はもはや彼らの罪を彼らに負わせません。
こうして世は救われるのです。
キリストの死によって神の御前における世界の立場は完全に変化したため、神御自身の人間に対する態度ももはや同じではなくなりました。
今、神はキリストが成し遂げられたことの光に照らして、魂を扱う用意ができています。
神は、キリストが成し遂げたことを完全に信じ、それを受け入れ、それによって救い主を和解として受け入れる罪人を義と認めることができるので、義であり続けることができるのです。」[4]

贖罪に関して彼はこのように書いています。
「贖罪とは、神の行為であり、それによって神御自身が、神の聖さと支配の激怒が要求する人間の罪の代価を身代金として支払うことです。
贖罪は罪の問題を解決します。
それは和解が罪人の問題を解決し、宥めが怒った神の問題を解決するのと同じです。
罪人のために用意され、提供される贖いは、罪からの贖いです。
神の贖いは、身代金である血と力によって行われます。」[5]

この三重の働きの結果は完全な救いであり、それによって罪人は義とされ、神に受け入れられ、キリストの中に位置づけられ、あたかも御子御自身であるかのように神に受け入れられるのです。
キリストのこの完全な立場を持つ人は、神に完全に受け入れられない者となることは決してありません。
「待ち」「見守っている」者だけが天国に召されると主張する部分携挙論者は、キリストにおける神の子の完全な立場を矮小化し、彼自身の実験的な義において父なる神の前に彼を差し出します。
ゆえに、罪人はキリストにおいて義とされておらず、完全ではない者でなければなりません。

2.部分携挙論者は、キリストのからだの一体性に関する新約聖書の教えを否定しなければなりません。
コリント人への手紙第一12章12、13節によれば、すべての信者はキリストをかしらとする体に一つに結ばれています。
(エペソ人への手紙5章30節)
このバプテスマの経験は、新生したすべての個人に適応できます。
もし携挙が贖われた者の一部だけを含むのであれば、キリストをかしらとする体は、キリストのもとに運ばれた時に、バラバラにされ、醜い体となります。
キリストが隅石となっている建物は不完全なものとなります。
キリストが大祭司である祭司職も、その一部を欠くことになります。
キリストが花婿である花嫁は醜いものとなります。
キリストが頭である新しい創造物は不完全なものとなります。
このようなことは想像もできません。

3.部分携挙論者は、信者の天への昇天における完全な復活を否定しなければなりません。
生きている聖徒全員が携挙されるわけではないので、論理的に、キリストにあって死んだ者全員が復活するはずもありません。
なぜなら、彼らの多くは霊的に未熟なまま死んだからです。
しかし、パウロは「私たちは皆変えられる」と教えており、「イエスにあって眠っている」者すべてを神が連れ戻すと教えています。(コリント人への手紙第一15章51、52節、テサロニケ人への手紙第一4章14節)
したがって、部分的な復活を認めることは不可能です。

4.部分携挙論者は、報酬に関する聖書の教えを混同しています。
報酬は、忠実な奉仕に対する報酬として神から無償で与えられるものです。
新約聖書は報酬についてとても明確に教えています。(ヨハネの黙示録2章10節、ヤコブの手紙1章12節、テサロニケ人への手紙第一2章19節、ピリピへの手紙4章1節、コリント人への手紙第一9章25節、ペテロの手紙第一5章4節、テモテの手紙第二4章8節)
報酬に関する教えのどこにも、携挙が見守ることに対する報酬として含まれているとは書かれていません。
このような教えは、報酬を神の恵みによる賜物ではなく、法的義務としてしまうのです。

5.部分携挙論者は律法と恵みの区別を混同しています。
もし部分携挙論者の見解が正しいとすれば、信者の神の前での永遠の立場は、その行いによって決まることになります。
なぜなら、その人が何をし、どのような態度を育んだかが、その人の受け入れの根拠となるからです。
神に受け入れられるかどうかは、キリストにおけるその人の立場のみに基づくものであり、携挙に向けてのその人自身の準備に基づくものではないことは言うまでもありません。

6.部分携挙論者は、イスラエルと教会の区別を否定しなければなりません。
後述する問題箇所の議論で分かるように、彼はイスラエルに対する神の計画に適応される聖書箇所を教会に適応しています。

7.部分携挙論者は、信仰を持つ教会の一部を患難時代に置かなければならないとしているが、これは不可能です。
患難時代の目的の一つは、後に来る神の御国に備えて世界を裁くことです。
キリストの死が無効でない限り、教会はそのような清めの裁きを受ける必要はありません。
したがって、これらの考察から、部分携挙論は支持できないと考えられます。

B.問題となる聖句

部分携挙論者が自らの立場を支持するために用いる聖句の中には、一見すると自らの見解を支持しているように見えるものがいくつかあります。

1.次の章で主に述べられているのは、既に患難時代にイスラエル国家が存在しており、したがって教会には適応できないことに注意してください。

「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」[6]
(ルカの福音書21章36節)


逃れるべき事とは、「やがて起ころうとしている」日に起こる裁きのことです。
34節、つまり主の日です。
教会は、移動に参加する資格があるかどうかとは別に、慎重に見守ることが義務付けられています。
(テサロニケ人への手紙第一5章6節、テトスの手紙2章13節)

2.この聖句はまた、主が既に患難時代にいるイスラエルに対する計画を要約する説教の中で語られています。

「ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」[7]
(マタイの福音書24章41、42節)


連れて行かれる者は裁きを受け、残される者は千年王国の祝福に委ねられます。
これは教会の将来ではありません。

3.この聖句の「彼を待ち望む人々」という表現は、「信者」もしくは「教会」と同義語として用いられています。

「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、御自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」
(ヘブル人への手紙9章28節)


なぜなら、このような態度は神に救われた者の通常の態度だからです。
信者とは「救い主を待ち望む」(ピリピ人への手紙3章20節)人々、もしくは「祝福された希望」(テトスへの手紙2章13節)を待ち望む人々のことです。
この箇所では、彼を待ち望む人々と待ち望まない人々が対比されているわけではありません。
単に、彼がかつて罪を取り除くために現れ(26節)、今、私たちのために天に現れたように(24節)、同じ人々に再び現れ(28節)、贖いの業を完成されるということを教えているのです。
つまり、彼が現れたのと同じ人々、そして今現れているのと同じ人々が、彼が再び現れる人々であるということです。

4.パウロは自身の携挙について疑念を抱いていたと考える人もいます。
しかし、文脈はこの見解を支持していません。

「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」[8]
(ピリピ人への手紙3章11節)


11節は8節に立ち返り、パウロがキリスト・イエスの知識の卓越した価値ゆえに、自分が信頼していたものをすべて手放し、「キリストを得る」ために、そしてキリストを見出して「死人の復活に達する」ために、キリストを見出したことを明らかにしています。
このように、復活は「キリストを得る」ことの結果であり、携挙の準備の結果ではないことが分かります。
パウロは、ダマスコの途上でキリストに出会って以来、キリストに完全に身を捧げてきたという、自身の奉仕の最も奥深い秘密を明らかにしたのです。

5.次の聖句は部分携挙論者が教会の復活における信者の階級の区分を教えるために用いたものです。

「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」
(コリント人への手紙第一15章23節)

しかし、パウロが教えているのは教会の復活の順序ではなく、教会の聖徒だけでなく、旧約聖書の聖徒や患難時代の聖徒も含まれる、復活の計画全体における区分、もしくは「行進隊」であることに配慮する必要があります。

6.この聖句は、この立場を支持する人々が携挙は部分的なものであることを示すために用いています。

「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。
かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。
私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」
(テモテへの手紙第二4章8節)


しかし、この箇所で述べられているのは携挙ではなく、むしろ報いの問題であることに注目すべきです。
神は再臨を清めの希望として意図されました。(ヨハネの手紙第一3章3節)
そのような清めによって、主の再臨への期待から新しい命が生み出されます。
ゆえに、真実に「御子の現われを待ち望む」人々は、報いをもたらす新しい命を経験します。

7.部分携挙論者は次の聖句をテサロニケ人への手紙第一4章13~18節、そしてコリント人への手紙第一1章15章51、52節を用いて、携挙の準備ができていなかった教会は、再臨の際、地上へ向かう主の雲の中で主と出会うと教えています。

「また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」[9]
(テサロニケ人への手紙第一1章10節)


このような見解は、患難後期説の解釈と一致しており、聖書の教えに反することが示されます。
部分携挙論者が自らの立場を支持するために用いる聖書箇所を検証すると、彼らの解釈が真実な聖書解釈と一致していないことが分かります。
この見解は真実な教理と真実な聖書解釈に反するものであり、拒まれなければなりません。

NOTE

[1]John F. Walvoord, “New Testament Words for the Lord’s Coming.” Bibliotheca Sacra, 101:284-89, July, 1944.
[2]Thomas Waugh, When Jesus Comes, p. 108.
[3]Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology, VII, 259.
[4]Ibid., VII, 262-63.
[5]Ibid., III, 88.
[6]Cf. G. H. Lang, Revelation, pp. 88-89.
[7]Cf. R. Govett, “One Taken and One Left,” The Dawn, 22:515-18, February 15, 1936.
[8]Cf. R. Govett, Entrance into The Kingdom, p. 35.
[9]Cf. G. H. Lang, op. cit., pp. 236-37.


第11章 患難時代後再臨主義

教会の携挙の時期を患難時代と関連付けて説明する説として、現在広く受け入れられているのが、患難時代後携挙説です。
この説によれば、教会は現在の世界の終わりに再臨するまで地上に留まり、その時に雲の中に引き上げられ、再臨のために天から地上へ向かう途中の空中に降臨した主と出会い、直ちに主と共に地上に戻るとされています。
この説の代表的な論者であるリース氏は、その主張を次のように述べています。
キリスト教会は、現在の世界の終わりにキリストが降臨するまでは、地上から取り去られることはありません。
携挙と再臨は、同じ危機の時に起こります。
したがって、その世代のクリスチャンは、反キリストのもとで、最終的な苦難にさらされることになります。[1]

I.患難時代後再臨主義の基本的根拠

この立場の支持者たちの議論を検討する前に、患難時代後携挙説の本質的な根拠を考察する必要があります。

(1)患難時代後携挙説は、ディスペンセーション主義とディスペンセーションにおけるあらゆる区別を否定することに基礎を置いています。
そうして初めて、彼らは教会を「ヤコブの苦難の時」(エレミヤ書30章7節)と呼ばれる時期に位置づけることができます。

(2)したがって、この立場はイスラエルと教会の区別を否定することに基礎を置いています。

(3)この立場は、患難時代の性質と目的に関する聖書の教えを否定することに基礎を置いています。
聖書はこの時期を描写する時に、怒り、審判、憤り、試練、苦難、滅びといった言葉を用い、この時期における神の目的は罪に対する裁きを注ぐことであると述べているが、この立場の支持者は、この聖書の本質的な教えを否定しなければなりません。

(4)患難時代後再臨主義は、聖書に記されている携挙と再臨の区別をすべて否定し、両者を同じ出来事とみなしています。

(5)患難時代後再臨主義は、主がいつでも来られるかもしれないとする切迫説を否定しています。
そして、主が来られる前に多くのしるしが成就しなければならないという教えに置き換えています。

(6)患難時代後再臨主義は、ダニエル書9章24~27節の預言が将来成就することを否定し、それは歴史的成就であると主張しています。

(7)患難時代後再臨主義は、自らの見解を裏付けるために、イスラエルに対する神の計画を要約する主要な聖書箇所(マタイの福音書13章、24、25章、ヨハネの黙示録4~19章)を教会に適応しています。
したがって、この立場は、聖書の積極的な解釈ではなく、患難前再臨主義者が持つ解釈を否定する体系に本質的に基づいていることが分かります。

II.患難時代後再臨主義の本質的な論拠

A.歴史的議論。

患難時代後再臨主義者は、いくつかの主要な論拠に基づいて主張を展開しています。
最初に歴史的議論です。
患難時代後再臨主義者の立場は、患難時代前再臨主義は過去100年間に出現した新しい教義であり、使徒的ではないため拒まれるべきだというものです。
リース氏は次のように述べています。
「1830年頃、千年王国前再臨主義の中に新たな学派が出現しました。
この学派は、使徒時代以来、すべての千年王国前再臨主義支持者によって既成事実とされてきたものを覆し、その代わりに、それまで聞いたこともない一連の教義を確立しようとしました。
私が言及する学派とは、J・N・ダービー氏によって設立された「ザ・ブレザレン」または「プリマス・ブレザレン」のことです」。[2]

キャメロン氏も同じような見解を述べています。
「その日付以前には、ポリカルポス以降のいかなるキリスト教文献にも、そのような信仰へのいかなる接近も暗示するものは見当たらないということを思い出すべきです。
教会建国後1800年間、キリスト教世界の全歴史と文献を通していかなる解説者も擁護者も見出せない教義、過去に教会の教父や教会博士によって教えられたことのない教義、19世紀半ばまでどの神学校にも承認を与える標準的なギリシャ語注釈者や教授がいません。
キリスト教世界の正統派教師や異端派の間でもその名前を挙げる友人さえいない教義、そのような父も母もない教義が前面に出て普遍的な受容を要求する時、それが「聖徒たちに一度だけ伝えられた信仰」の一部として認められ、一覧表に載せられる前に、慎重な精査を受けるべきです。」[3]
この議論に対する返答として、いくつかの点を指摘しておくべきです。

(1)このような議論は沈黙からの議論です。
もし同じ論理展開に従えば、信仰義認の教理は受け入れられないであろう。
なぜなら、この教理は宗教改革まで明確に教えられていなかったからです。
聖書の教えを識別できなかったからといって、その教えが無効になるわけではありません。

(2)初代教会は、キリストの再臨が間近に迫っているという信仰の光の中で生きてきました。[4]
彼らの期待は、キリストがいつでも再臨するかもしれないということです。
この切迫の教理と矛盾しない唯一の立場は、患難時代前再臨主義です。
もし沈黙からの議論に従うならば、証拠の重みは患難時代前再臨主義を支持します。

(3)教会史の各時代は、特定の教理論争に占められ、それが議論、修正、そして定式化の対象となり、ついには聖書の教えが一般に受け入れられるに至ったことを指摘しておくべきです。
このようにして、神学の全分野が時代を通じて定式化されていったのです。
終末論が教会の関心を集めるようになったのは、前世紀になってからのことでした。

この点は、オー氏によって詳しく論じられています。
オー氏は次のように書いています。
「教義の歴史的変遷と、組織神学の教科書における学問的順序との間に、実に特異な類似点があることに、あなたはこれまで気づいたことはありません。
教義の歴史とは、あなたがすぐにお気づきのとおり、何世紀にもわたって展開してきた神学の体系に過ぎません。
そして、これは教義の主題全般に関してだけでなく、その構成要素の明確な継承に関しても適応できます。
一つ確かなことは、どちらの体系も独断的なものではなく、その根底には法則と理性があるということです。
そしてもう一つ、私たちに突きつけられるのは、これら二つの展開、つまり論理的展開と歴史的展開の法則は同じであるということです。
教会の歴史における2世紀とは一体何だったのでしょうか?
異教やグノーシス派と対立する、あらゆる宗教、特にキリスト教の根本的な思想の弁証と擁護が存在していました。
進展の次の段階に移ると、そこには何が見られたのですか?
組織神学、つまり「神学の本質」、つまりキリスト教の神の教理、特に三位一体の教理において、次に何が来るのでしょうか?
この時期は、3世紀と4世紀のモナリキア論争、アリウス派論争、そしてマケドニア論争にあたります。
次に何が起こったのですか?
論理体系において神学が人類学に取って代わられたように、教義の歴史においても、私が挙げた論争の後に5世紀初頭にアウグスティヌス派とペラギウス派の論争が続き、そこで関心の中心は神から人間へと移ります。
アウグスティヌスの死後、教会はキリスト教論争(ネストリウス派、エウティキウス派、単性論、単神論)として知られる長く混乱した一連の論争に突入しました。
この論争は教会を絶えず動揺させ、5世紀と6世紀、さらには7世紀の終わり近くまで、最も非キリスト教的な情熱で教会を引き裂きました。
神学、人類学、キリスト論はそれぞれ、組織神学の秩序の中で、その時代を終えました。
歴史は今もなお、その秩序を慎重にたどっています。
しかし、救済論は、救済の適用という教義を進展させるという宗教改革者たちたちの次の段階に至りました。
これが、組織神学の次の大きな分岐です。
組織神学の残る一分野、終末論についてはどうなのでしょうか?
確かに、初期の教会には終末論が存在したが、それは神学的に構想されたものではありません。
中世の教会には、天国、地獄、煉獄という神話的終末論が存在していました。
しかし、宗教改革はこれを一掃し、至福と悲嘆の鮮明な対比を伴って、何かを正したとは到底言えず、問題の難しさに明確に立ち向かったとも言えません。
おそらく、私が要約した歴史的進展が一巡するまでは適切に実行できなかった組織神学全体の必要な改訂に加えて、現代の知性は終末論的な問題に特別な真剣さを注いできたと考えて間違いありません。
おそらく、世界の終わりが到来し、人類史における何らかの大きな危機が迫っているという厳粛な印象に突き動かされたはずです。」[5]
教義の進歩というこの概念全体は、この教義は初期の教会で明確に教えられていなかったため拒否されなければならないと主張する患難後再臨主義者に対する私たちの最も強力な反論となります。」

B.差し迫った事態に反対する議論

患難後再臨主義者は、キリストの再臨が差し迫っていることを否定する論拠です。[6]
キリストが間もなく再臨するという信仰が聖書の教理であるならば、教会は患難時代の兆候が現れる前に携挙されなければならないことは明らかです。
この論拠を持つ者は、キリストを待ち望むようにという教会への聖書の訓戒をすべて無視し、兆候を待ち望むように命じています。
患難後再臨主義者の論拠は、エルサレムの破壊、ペテロの死、パウロの投獄、マタイによる福音書28章19、20節に述べられている時代の計画などの出来事の告知、および背教の進行を伴う時代の概略的な流れはすべて、再臨を差し迫ったものにしています。
したがって、これらの出来事が起こるまで主は来られないという論拠に基づいています。
このような議論は、そのような告知を受けた人々自身が、歴史の展開する領域から信者を移すことによって、歴史の自然な流れが中断される可能性があると信じ、差し迫った帰還を主張していたことを見落としています。
聖書の中で、差し迫った教理は、ヨハネによる福音書14章2、3節、コリント人への手紙第一1章7節、ピリピ人への手紙3章20、21節、テサロニケ人への手紙第一1章9、10節、4章16、17節、5章5~9節、テトスへの手紙2章13節、ヤコブの手紙5章8、9節、ヨハネの黙示録3章10節、22章17~22節などで教えられています。
初代教会の見解については後ほど考察しますが、ここで初代教会が差し迫った教理を支持していたことを示すいくつかの引用を挙げておきましょう。

クレメンス氏はコリント人への手紙第一の中でこのように書いています。
「「木の実がもう少しで熟すのが分かります。
確かに、神の御心はすぐに、そして突然に成就されます。
聖書もこのように証ししています。
「主は速やかに来られ、遅れることはありません。」
「主は、あなたがたが待ち望んでいる聖なる方が、突然、その宮に来られる。」」[7]

また、クレメンス氏はこのように書いています。
「ですから、もし私たちが神の目にかなうことを行うなら、神の御国に入り、目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かんだこともない約束を受けます。
ですから、私たちは愛と正義をもって、常に神の御国を待ち望もうではありませんか。
なぜなら、私たちは主の出現の日を知らないからです。」[8]

ディダケ氏にはこのように記されています。
「自分の命のために目を覚ましていなさい。
ランプを消したり、腰を解いたりしてはいけません。
ただ、備えをしていなさい。
主がいつ来られるか、あなたがたには分からないからです。」[9]

キプリアヌス氏はこのように述べています。
「神の国が早く来るようにと祈る私たちが、地上での長い人生を待ち望むのは、自己矛盾であり、相容れないことでした。」[10]
これらのことは、教会に向けられた警戒の勧めが初期教会の希望となり、彼らがキリストの再臨を待ち望む光の中で生きていたことを証明しています。
聖書の証言と初期教会の証拠は否定できません。

C.患難時代の約束

患難後携挙論者の三番目の主要な論拠は、教会に与えられた患難時代の約束に基づく論拠です。[11]
ルカの福音書23章27~31節、マタイの福音書24章9~11節、マルコの福音書13章9~13節といった、イスラエルに患難時代を約束する聖句は、教会が患難時代を経験することを証明するために用いられます。
さらに、ヨハネの福音書15章18、19節、ヨハネの福音書16章1、2節、33節といった、教会に向けられた聖句も用いられます。
患難後携挙論者の論拠は、そのような具体的な約束に照らし合わせるならば、教会が患難時代前に携挙されると言うことは不可能であるというものです。
彼らの議論は、使徒の働きに記録されている教会が受けた迫害(使徒の働き8章1~3節、11章19節、14章22節、ローマ人への手紙12章12節)を、警告の部分的な成就として引用することによって実証されます。

1.この議論に答えるには、まず最初に、聖書にはイスラエルが清められる時代に入り、メシアの到来に続く千年王国に備えるための国家として備えられるという約束が数多く記されていることに配慮する必要があります。
しかし、神の摂理においてはイスラエルは教会とは区別されるべきであるため、イスラエルに患難時代を約束する聖書の箇所が、教会が患難時代を経験するということを教えるものと解釈することはできません。
イスラエルと教会は神の計画において二つの異なる存在であり、そのように見なされるべきです。

2.さらに、聖書の中で「患難」という言葉が様々な意味で使われていることにも注目すべきです。
それは、人が経験するあらゆる苦しみや試練の時期を指して、専門的でも終末論的でもない意味で使われています。
マタイの福音書13章21節、マルコの福音書4章17節、ヨハネの福音書16章33節、ローマ人への手紙5章3節、12章12節、コリント人への手紙第二1章4節、テサロニケ人への手紙第二1章4節、ヨハネの黙示録1章9節でそのように使われています。
また、ヨハネの黙示録2章22やマタイの福音書24章29節のように、患難時代の七年間全体を指して、専門的または終末論的な意味で使われています。
また、マタイの福音書16章10節のように、この七年間の後半を指して使われています。
24章21節、ヨハネの福音書16章33のように、教会に関して「患難」という言葉が使われる場合、それは通常の意味で用いられています。
つまり、教会はこの世の神から永遠にわたる敵対を受けると約束されているのです。
しかし、これは教会が専門的に患難時代と呼ばれる時代に導かれると教えているわけではありません。
そうでなければ、患難時代は既に1900年以上続いていると教えなければならないでしょう。
患難後再臨主義者は、教会は単に患難を約束されているだけでなく、教会がこれまで幾世紀にもわたって経験してきたように、今もなおその患難を経験していると主張するため、その期間を聖書に記されているものとは異なる特徴を持つものとみなさなければなりません。
聖書によれば、その期間の特徴は怒り、裁き、憤り、試練、苦難、滅びといった言葉で表現されていることは、後ほど詳しく説明します。
この立場を支持する者は、この本質的な特徴を否定しなければなりません。

D.ダニエル書9章24〜27節の歴史的成就。
患難後再臨主義者の4番目の主要な論拠は、ダニエル書の預言の歴史的成就です。[12]
彼らは、預言、特にダニエル書9章24〜27節の預言は、歴史的に完全に成就したと信じています。

ローズ氏は次のように書いています。
「新約聖書とキリスト教の経験のあらゆる証拠は、キリスト教会の偉大な教師たちの見解と一致しています。
ダニエルの預言の七十週は1900年以上前にすでに成就しているということです。
つまり、「携挙後の大患難」において成就する未来の七十週は存在しないということです。」[13]

彼は預言の六十九週と七十週の間には隔たりはないと主張し、次のように述べています。
「もし「空白」や「中断」があったなら、預言は曖昧で、誤解を招きやすく、欺瞞的なものとなります。
「62週」はすぐに「7週」に繋がり、それらを合わせた「六十九週」は「メシアに至るまで」に成就しました。
メシアの誕生は過ぎましたが、「凱旋入城」までは至らず、「公に油を注がれるまで」でした。
「六十九週目と七十週目」の間には「空白」はありません。
預言的な「七十週」の「1週目」は、バプテスマのヨハネから始まっています。
彼が初めて公に神の御国を宣べ伝えた時から、福音の時代が始まりました。
この七年間に483年を加えると490年になります。
こうして、預言のすべてが、それぞれの時代とそれに対応する出来事から、文字通り成就したのです。」[14]

さらに彼は次のように主張しています。
「ヨハネは「七十週」の到来とともに宣教を開始し、キリストはバプテスマを受け、誘惑され、数か月後に説教を始めました。
週の前半は、王国の福音を宣べ伝えることに使われました。
週の真ん中は過ぎ越しの時期になりました。
過越祭は、ちょうど「七十週の真ん中」、つまり「エルサレムを再建せよという命令」から486年半後のことでした。」[15]

この理論によれば、キリストは契約を確認する者となり、その宣教期間中にダニエル書9章24節の6つの大きな約束はすでに成就しました。

1.この解釈に対する反論として、ダニエル書9章24節に記されている6つの大きな約束の領域は、ダニエルの民とダニエルの聖都、つまりイスラエルという国家に関係していることが挙げられます。
これらの約束は、神がその国家と結ばれた契約から論理的に派生したものです。
国家としてのイスラエルは、まだ国家としての救済を経験していません。
教会が現在これらの約束を成就しているはずがありません。
したがって、これらの6つの領域は将来の成就を待っていると結論づけなければなりません。

2.ダニエル書9章27節の「彼」は、その前の節の「来たるべき君主」を先行語として持っているはずです。
この人物は、町と聖所を滅ぼした人々、つまりローマ人と関係があるため、契約を締結する人物はキリストではなく、キリスト(マタイの福音書24章15節)、パウロ(テサロニケ人への手紙第二2章)、ヨハネ(ヨハネの黙示録13章)が語る、イスラエルと偽りの契約を結ぶ罪の人です。
キリストの死後も西暦70年までささげ物と礼拝が続けられていたという事実は、これらのささげ物を終わらせたのはキリストではなかったことを示しています。
イスラエルの未来を語る終末論的な重要な箇所(マタイの福音書24、25章)において、主がダニエルの預言(マタイの福音書24章15節)が御自身の死後に成就すると語っておられることは興味深いことです。

3.最初の六十九週の預言が文字通り成就したことは重要です。
したがって、七十週目も時間と出来事の両面において文字通り成就することが必要不可欠です。

ウォルフォード氏はこのように書いています。
「重要な点は、最初の六十九週は、細部においても年代においても文字通り成就したということです。
七十週目に関する預言を解釈する作業に取り組む時には、六十九週の成就によって承認された原則に公平を期すならば、七十週目は細部においても年代においても文字通り成就することを期待しなければなりません。」[16]

患難後携挙の解釈は、預言が歴史的に成就するためには霊的に解釈されなければならないという文字通りの解釈の原則と調和しないので、否定されなければなりません。

E.復活論

患難後再臨主義者が最も強く依拠する五番目の論拠は、復活論です。[17]

リース氏に基づくこの論拠は、マクファーソン氏によって次のように要約されています。
「明らかに、聖なる死者の復活は教会の携挙の時に起こります。(テサロニケ人への手紙第一4章16節)
ゆえに、「復活のあるところには、携挙もある」のです。
主にある死者の復活、つまり第一の復活(ヨハネの黙示録20章5、6節)について語っている聖句を調べてみて下さい。
この第一の復活は主の来臨(イザヤ書26章19節)、イスラエルの改心(ローマ人への手紙11章15節)、神の御国の発足(ルカの福音書14章14、15節、ヨハネの黙示録20章4~6節)、報酬の授与(ヨハネの黙示録11章15~18節)、その前に大患難が来ること(ダニエル書12章1~3節)と関連していることが分かります。」[18]

スタントン氏は次のように書いてリース氏の考えを明確に述べています。
リース氏の議論は三段論法の形をとっています。
「その大前提は、
(1)旧約聖書は旧約聖書の聖徒の復活がキリストの啓示の時、つまり千年王国の直前であることを証明しています。
小前提は、
(2)すべてのダービー主義者は教会の復活がイスラエルの復活と同時期に起こることに同意しています。
したがって、
(3)したがって教会の復活は携挙の時を患難後に設定する、という結論が導かれます。」[19]

1.リース氏の結論に対する反論として、現代の多くの患難前再臨主義者は、携挙時の復活には旧約聖書の聖徒たちも含まれるというダービー氏の立場に同意していないことを指摘しておく必要があります。
旧約聖書の聖徒たちの復活は再臨の時に起こると考える方が適切であるように思われます。
この立場については後ほど詳しく検討します。

しかし、教会の復活とイスラエルの復活を切り離して考えるならば、リース氏の議論には説得力がありません。
スタントン氏の修正された三段論法は、この点を明確に示しています。

(1)旧約聖書の聖徒たちは患難時代の後に復活します。
(2)ダービー氏はイスラエルの復活は教会の復活とともに患難時代前に起こると述べています。
(3)したがって、ダービー氏はイスラエルの復活の時期に関して間違っていた。[20]

リース氏はダービー氏はくり返して間違っていると主張しています。
しかし、イスラエルの復活と教会の復活の関係については、ダービー氏が絶対正しいと主張するのは奇妙に思えます。

2.リース氏が主張する二つ目の論点は、復活の計画全体が一日のうちに起こるというものです。
リース氏はヨハネによる福音書5章28、29節、11章24節などの聖句を根拠に、次のように主張しています。
「私たちは、その復活の時期を比較的正確に特定することができました。
それは主の日に起こります。
反キリストが滅ぼされ、イスラエルが改心し、主の来臨によってメシアの時代が到来する時です。
「義人の復活」は。いずれの場合も「終わりの日に」起こります。
ここに非常に明確な時があります。
「終わりの日」とは、メシアの栄光の王国に先立つ時代の終わりの日であることに間違いありません。」[21]

3.この主張に対する反論としては、「主の日」もしくは「あの日」という言葉は、24時間という期間を指す言葉ではなく、患難時代、再臨の計画、そして千年王国全体を含む一連の出来事全体を指す言葉であることを指摘するだけで十分です。
それは、七十週の裁きから始まり、千年王国に至るまでの期間全体を指すと言えます。

チェイファー氏は次のように述べています。
「キリストは「盗人」のように来ます。
(マタイの福音書24章43節、ルカの福音書12章39、40節、テサロニケ人への手紙第一5章2節、ペトロの手紙第二3章10節、ヨハネの黙示録16章15節)
この期間は、来臨から、今ある天地が消え去り、諸元素が熱によって溶け去るまでに及びます。
したがって、この日には諸国民とイスラエルに対する神の裁きが含まれており、これらの裁きはキリストの再臨時に起こることがわかります。
それはキリストの再臨と、それに続く千年王国の両方を含みます。
そして、それは王国の終わりとなる最終的な崩壊まで続きます。」[22]

リース氏自身もこれに同意せざるを得ず、次のように述べています。
「これを支持する意見もあるかもしれません。
ペテロは「主のもとでの一日は千年のようだ」と言っているし、旧約聖書と新約聖書における「主の日」は、メシアが栄光のうちに来られる日だけでなく、メシアの支配期間も指すことがあるからです。」[23]
したがって、「その日」もしくは「終わりの日」が、すべての聖徒が同時に復活することを教えていると結論付けるのは誤りです。
また、リース氏が引用している福音書の箇所(ヨハネの福音書6章39~54節、ルカの福音書20章34~36節、マタイの福音書13章43節、ルカの福音書14章14、15節)はすべて、イスラエルに対する神の計画に適応されることにも配慮する必要があります。
この復活が再臨時に起こることが示されたとしても、教会が同じ時点で復活しない限り、患難時代後再臨主義を証明することにはなりません。
これは誤った前提です。

4.リース氏は、使徒の働きにおける復活(ローマ人への手紙11章15節、コリント人への手紙第一15章50~54節、テサロニケ人への手紙第一4章13~18節、コリント人への手紙第一15章21~26節)について、コリント人への手紙第一15章54節から復活の時について論じています。

「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。」
(コリント人への手紙第一15章54節)


リース氏の要点は次のようです。
「忠実な死者の復活と変貌は、旧約聖書の預言の成就として起こります。
これはイザヤ書25章8節に記されています。

「永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。」
(イザヤ書25章8節)


聖徒たちの復活と死に対する勝利は、神の支配する王国の制定、ヤハゥエの到来、そして生けるイスラエルの改心と時を同じです。」[24]

5.この反論に対して、パウロは復活の時期を確定するためにイザヤ書を引用しているわけではないことを指摘したいと思います。
千年王国の制定は、そこにいる人々にとって死の廃止を必要とします。
イスラエルは千年王国の始まりの時に復活を経験しますが、教会はそれ以前に復活しているはずです。
リース氏の誤りは、すべての義なる死者が同時に復活しなければならないと想定していることです。

6.ヨハネの黙示録20章4〜6節に記されている復活について、リース氏は、それが「最初の復活」と呼ばれている以上、数的にも必然的に最初のものであると主張しています。
リース氏はこのように書いています。
「ヨハネはヨハネの黙示録全体を通して、そのような復活について一言も言及していません。
ここでも、神の御言葉の他の箇所でも、それ以前の復活については全く言及されていません。
この理論が前提としているように、もし、ヨハネがそのような以前の復活を知っていたとしたら、彼がこの復活を最初の復活と呼ぶことはどうして考えられますか?
しかし、ヨハネが「最初の復活」と書いたという事実は、すべての率直な読者にとって、彼がそれ以前の復活を知らなかったことの証拠となります。」[25]

ここでリース氏が沈黙から議論を展開していることに気がつくはずです。
ヨハネが、患難時代の終わりに起こる、患難時代の聖徒たちだけに関係する出来事と関連して、それ以前に起こったキリストにおける死者の復活について言及するとは、ほとんど期待できません。
リース氏が復活に関する議論の中で見落としていると思われる重要な事実の一つは、コリント人への手紙第一15章23節の「しかし、おのおのにその順番があります。」という教えです。

第一の復活は、教会の聖徒、旧約聖書の聖徒、患難時代の聖徒という異なる集まりから構成されています。
これらの集まりはそれぞれ異なる時期に復活しますが、第一の復活計画の一部であり、その計画における「順序」です。
したがって、再臨の時に患難時代の聖徒が復活する(ヨハネの黙示録20章4〜6節)ことは、命に復活するすべての人がこの時点で復活することを証明することにはなりません。
この復活の教理全体については後ほど考察しますが、復活の教理が患難後復活説を支持していないことを示すには十分な説明が述べられています。

F.麦と毒麦のたとえ話に基づく論証

患難後期説支持者が用いる6番目の論証は、マタイの福音書13章の麦と毒麦のたとえ話に基づく論証です。
リース氏は、このたとえ話の患難前携挙の解釈であると彼が考えるものを提示しています。
31、32節の言葉を引用しながら、リース氏はその立場を要約しています。

「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、
どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」」
(マタイの福音書13章31、32節)


「「収穫の時」という表現は、様々な収穫の過程を伴う一定の期間を意味します。」
この期間の初めに、御使いたちは主が「教会のために」来られる直前に、純粋に摂理的な方法で遣わされます。
御使いたちは、ある奥義的な、秘密の、摂理的な方法で、信仰を告白する者たちを裁きのために束ねます。
しかし、まだ実際に裁きが行われることはありません。
その後、主は小麦に象徴される真実な教会のために来られ、それを御自身のもとに集められます。
しかし、御使いたちによって束ねられていた不敬虔な信仰を告白する者たちは、主が裁きのために来られるまで、何年もの間、この世に残されることになります。」[26]

したがって、患難時代前再臨主義者の解釈とは、御使いたちが世の終わり、携挙の前に毒麦を縛るが、小麦に象徴される教会を畑から連れ出し、毒麦は裁きのために縛られたまま再臨までそのまま残す、というものだと言うことができます。

リース氏は、この説明は主の言葉に反しているように思われると指摘しています。

「だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。
収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。
麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。」
(マタイの福音書13章30節)


リース氏はこの解釈に対して正当な不満を抱いているように思われます。
「マタイの福音書13章の目的は、教会の歴史を明らかにすることではなく、神の御国の歴史を奥義的な形で明らかにすることであることを心に留めておく必要があります。
ここで語られているのは、ペンテコステから携挙までの教会の時代ではなく、キリストの拒絶から再臨の受け入れまでの時代全体です。
ゆえに、多くの著述家が陥った誤りとして、たとえ話の麦は携挙される教会を表すという主張がありました。
もしそうであれば、患難後携挙の立場は、たとえ話の文字通りの通常の解釈に、より一貫して適応されるように思われます。
むしろ主は、この時代において種を蒔くこと(種まきのたとえ話)と、反対に種を蒔くこと(毒麦のたとえ話)があり、この状態が時代を通して続くことを暗示しておられるのです。
そして、時代の終わりには、神の御国の子であった者と、悪魔の子であった者に分けられます。
このたとえ話では携挙の問題は考慮されていないため、患難時代後携挙説を支持するために用いることはできません。
患難時代は、王の敵に対するすべての裁きをもって終わります。
こうして、すべての不信者は排斥されます。
これらの裁きの後、義人が連れて行かれる王国が設立されます。
これは、このたとえ話の教えと完全に一致しています。
患難後再臨主義者が提示した論拠を上に考察すると、その論拠が「ほとんど反論の余地がない」などというものではないことが分かります。」[27]

論拠の多くは重大に聞こえるかもしれないが、聖句を一貫して解釈すれば、それらの論拠に対抗できます。

NOTE
[1]Alexander Reese, The Approaching Advent of Christ, p. 18.
[2]Ibid., p. 19.
[3]Robert Cameron, Scriptural Truth About The Lord’s Return, pp. 72-73.
[4]Cf. G. H. N. Peters, Theocratic Kingdom, I, 494-96.
[5]James Orr, The Progress of Dogma, pp. 21-31.
[6]Cf. Reese, op. cit., pp. 108-19.
[7]Alexander Roberts and James Donaldson, The Ante-Nicene Fathers, I, 11.
[8]Cited by J. F. Silver, The Lord’s Return, p. 59.
[9]Roberts and Donaldson, op. cit., VII, 382.
[10]Cited by Silver, op. cit., p. 67.
[11]Cf. George Rose, Tribulation Till Translation, pp. 67-77.
[12]Cf. Ibid., pp. 24-66.
[13]Ibid., p. 62.
[14]Ibid., pp. 46-47.
[15]Ibid., pp. 64-66.
[16]John F. Walvoord, “Is the Seventieth Week of Daniel Future!” Bibliotheca Sacra, 101:35, January, 1944.
[17]Cf. Reese, op. cit., pp. 34-94.
[18]Norman S. McPherson, Triumph Through Tribulation, p. 41.
[19]Gerald Stanton, Kept From the Hour, p. 320.
[20]Ibid., p. 321.
[21]Reese, op. cit., 52-54.
[22]Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology, VII, 110.
[23]Reese, op. cit., p. 55.
[24]Ibid., p. 63.
[25]Ibid., p. 81.
[26]Ibid., pp. 96-97.
[27]Cf. McPherson, loc. cit.


第12章 患難時代中再臨主義の立場

患難時代後再臨主義ほど広く受け入れられていない見解として、患難時代との関係で携挙の時期を説明するのが、患難時代中再臨主義です。
この解釈によれば、教会はダニエル書七十週の最初の三年半の終わりに携挙されます。
教会は患難前半の出来事に耐えるが、患難時代中再臨主義者によれば、それは神の怒りの現れではなく、この説によれば神の怒りのすべてが注ぎ出される週の後半が始まる前に移されます。
携挙は、ヨハネの黙示録11章にある第七のラッパが鳴り響き、二人の証人が引き上げられることと関連して起こると言われています。
患難時代中再臨主義は、本質的には患難時代後再臨主義と患難時代前再臨主義の妥協案です。
この見解は、教会が再臨とは異なる出来事として携挙されるという点で、患難時代前再臨主義に一致しています。
また、テサロニケ人への手紙第二2章の拘束者は聖霊であり、教会は怒りからの解放が約束されていると主張しています。
患難時代後再臨主義と同じ様に、この見解は、教会は地上で患難を経験すると約束され、清められるが必要になりますという点、聖書は差し迫った患難時代の教理を教えていないという点、そして、教会はヨハネの黙示録4章1節以降に地上で現れるという点を主張しています。

I.患難時代中再臨主義の本質的基礎

患難時代中再臨主義を研究する上で、その本質的な土台の多くが患難時代後再臨主義の土台と共通していることに注目すべきです。

(1)患難時代中再臨主義は、聖書のディスペンセーション的解釈を否定するか、少なくとも弱めなければなりません。
(2)イスラエルと教会の厳格な区別を否定しなければなりません。
これは、この立場が、ダニエルの民と都に定められた七年間の最後の半分に教会を位置づけていることに表れています。
(3)この立場は、患難時代を二つの別個の、かつ無関係な半分に分けるという見解に立脚しています。
教会は、たとえ後半には関与していなくても、前半を経験することができます。
(4)この立場は、週の前半のすべての兆候が教会に適応されるため、臨在の教理を否定しなければなりません。
(5)この立場は、教会を奥義とみなす概念を否定しなければなりません。
教会時代が神の計画とイスラエルと重なる可能性があるからです。
(6)この立場は、ある程度、霊的解釈の方法に依存しています。
これは、患難時代の前半を扱っている聖書の部分の説明において特に明らかです。

II.患難時代中再臨主義の本質的な議論

患難中期携挙論者が自らの見解を支持するために用いる論拠を研究すると、患難時代後再臨主義者と同じ論拠を多く用いていることが明らかになります。

A.切迫の時の否定。
まず、患難時代中携挙論者は切迫の時の教理を否定しています。

ハリソン氏は次のように書いています。
「携挙が終わりのラッパの音で起こるとされることに、キリストの再臨が間近に迫っているという私たちの希望に反するという理由で反対する人たちもいます。
この問題に関して一貫して聖書に従うためには、次の点を考慮に入れる必要があります。

1.ペテロにとって、そのような経験はあり得ません。
主は彼に、彼が老齢まで生き、殉教の死を遂げると告げておられました。
(ヨハネによる福音書21章18、19節)
しかし、ペテロは希望の使徒となり、その時代の信者たちに勧めています。

「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」
(ペテロの手紙第一1章13節)


2.パウロにとって、主からの使命は、使徒の働き22章21節は生涯の大半においてキリストの再臨を予期できない長い説教生活を送ることを彼に突きつけました。
パウロは、まず背教が起こらなければならない(テサロニケ人への手紙第二2章3節)と警告し、「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。」(テモテへの手紙第二3章1節)と述べています。
しかし、パウロは常にキリストの再臨を、その時代のクリスチャンにとって聖なる生活を送るための動機として思い描いています。
(テトスへの手紙2章11~13節、コリント人への手紙第一15章51節、ピリピ人への手紙3章20節、テサロニケ人への手紙第一4章17節)

3.使徒たちは、大宣教命令の中に「全世界に」福音を伝えるという遠大な計画を持っていました。
(マルコの福音書16章15節)
しかし、使徒たちがその時代の信者たちに手紙を書いたときはいつでも、主の再臨について彼らに勧めることを怠っていません。

4.初代教会にとって、天から主は教会の七段階の歴史的進展を啓示されました。(ヨハネの黙示録2、3章)
これは明らかに長い期間を必要としました。
しかし、初代教会には「見よ、わたしはすぐに来る」(ヨハネの黙示録22章7節、12節、20節)という繰り返しの保証の言葉が与えられました。
聖書から、キリストはペテロの生きている間には再臨がなかったことが分かります。
使徒たちの時代にも、宗教改革以前にも、宣教計画が完了する前にも、背教が私たちを襲う前にも、私たちが生きていると思われる終わりの時代にも、再臨はなかったのです。」[1]

ハリソン氏は聖書の引用によって再臨の差し迫りの教理を反証しようとしているが、新約聖書の著者たち自身は再臨が差し迫っていると信じていたことは明らかです。
キリストの到来が近いことと、到来が差し迫っていることの間には区別があります。
聖書は再臨が近いと教えた箇所はどこにもなく、いつでも再臨が期待できると一貫して教えています。
キリストの再臨によって歴史が終結しない限り、歴史の自然な流れに関する預言は、著者たちから何かを奪うものではありません。
ハリソン氏の引用文自体が、差し迫った希望を示しています。
教会が患難時代の前半の兆候をすべて見極めなければならないという考えは、差し迫った希望の教理を崩壊させるため、患難時代中期説は否定されなければなりません。

B.患難時代の約束

患難時代中再臨主義の二つ目の論拠は、教会は患難を約束され、したがって患難時代間の前半を経験することを期待できるというものです。
この問題については既に論じたので、「患難」という言葉は、ダニエルの預言における七年間を指す専門的な意味でも、もしくはあらゆる試練や苦難の時期を指す通常な意味でも用いられるという事実に言及するだけで十分です。
教会に約束されている患難は、この通常考えられる種類の患難です。

C.教会を奥義として否定します。

患難時代中再臨主義の三つ目の主張は、教会の奥義という概念を本質的に否定するものです。
この世は奥義であり、現在の世界における教会の計画自体も奥義であることは既に示されています。
神がイスラエルと契約の計画を完結させるには、この奥義の計画が終結しなければならないことが実証されています。

ハリソン氏は次のように主張しています。
「時代が突然互いに隣接すると考えるのは致命的です。
その考えを終末を構成する一連の時代へと持ち込むのも同様に致命的です。
現実には、それらは重なり合っており、最終的には融合に至る可能性があります。
教会時代とユダヤ時代という二つの時代について言えば、教会は紀元30年に誕生して以来、ユダヤ時代と40年間並行して存在し、ユダヤ時代は紀元70年のエルサレムの滅亡とともに幕を閉じました。
これは、教会時代の終わりにも同様の重なりがあったことを示しています。
では、教会が患難時代まで存続すると考えてみましょう。
患難時代とは、主が教会を守ると約束された時代であり、イスラエルが患難時代が始まる三年半前に国家として回復していることを前提としています。
ここでも、同様の重なりが見られます。」[2]

この議論の誤りは、神がペンテコステの日以降、西暦70年のエルサレム滅亡に至るまで「まずユダヤ人」への招きを差し伸べていたにもかかわらず、その招きを受け入れた信者はキリストのからだである教会へと導かれたという事実にあります。
神は二つの計画ではなく、一つの計画を進めていました。
契約の計画と奥義教会の計画は重なり合うことはなかった。
教会の計画が始まった時、イスラエルの計画はすでに中断されました。
この論理展開には、この見解に内在する矛盾したディスペンセーション的適用が見て取れます。

D.封印とラッパの本質

患難時代中期携挙論者の4番目の論拠は、封印とラッパは神の怒りの現れではないという解釈です。

この見解はハリソン氏によって述べられており、彼は次のように書いています。
「封印を破ることは、心に留めておくべき重要な点です。
それは束縛の解除です。
封印は、何世紀にもわたって社会の保護と維持のために哀れみ深く機能してきました。
全面戦争と破壊をもたらす悪の勢力は、神の摂理によって制止されてきました。
驚くべきことに、解説者たちは封印の裁きについて執拗に語ります。
聖書はそれを裁きとは決して呼びません。
それは後の、より恐ろしい一連の出来事のために留保された名称なのです。」
人間が自ら招いた災厄を、なぜ神を責めるのだろうか?人間は神なき文明の音楽に合わせて踊ってきました。
それは力への崇拝という戦いの踊りだった。
今やバイオリン弾きに金を払わなければならないのに、なぜ神を責めるのだろうか?
神はこれらの制約を取り去りました。
それで人間は何を経験しているのだろうか?
ただ、種を蒔き、刈り取るという法則が働いているだけなのです!」[3]

ラッパについて、同じ著者は次のように述べています。
「これらの経験は、非常に厳しいものですが、裁きではありません。
解説者たちは決まってこれを「ラッパの裁き」と呼びます。
神は決してそうは呼びません。
そして、神はそれをご存知なのです。
神が御自身の特別な働きのために意図的に取っておかれた名前で、これらのもの「封印とラッパ」と呼ぶのは、全くの混乱です。
これらは確かに裁きのように見えます。
しかし、ヨブの経験から学ぶべきことがあります。
サタンは神から、試練と懲らしめによってヨブを苦しめることを許されましたが、サタンができることには限界がありました。
ラッパの中でまさにこのことが起こっています。
サタンが働き、神がそれを許すのです。」[4]

中心的な支持者の一人が提示した患難時代中再臨主義の見解によれば、封印は人間の計画の実行を、ラッパはサタンの計画の実行を表しており、神はそれを許可した代理人にすぎないとされています。
上記の著者が各系列において「欄外の注意」」として主張していること自体が、彼の見解に十分に反論しているように思われます。

ハリソン氏は次のように主張しています。
「どの順番においても、結果は必ず6番目の順番の後に説明されています。
読者が何が起こっているかを理解できるように、それぞれの順番にこの説明を与えていることは、「ヨハネの黙示録」の構成計画の一部です。」[5]

この観察に従って、ヨハネは(ヨハネの黙示録6章16、17節)そこで展開されている計画は「小羊の怒り」と関係があると述べています。
17節のアオリスト時制、「来た(ēlthen)」は、この後に起こる事ではなく、すでに起こったことを意味します。
したがって、封印の計画を展開する時に、ヨハネはこれらがすでに来た「怒り」を表わすと述べています。
同じ関係で、7つのラッパが鳴らされることに関して、ヨハネは再びこれらのラッパを神の怒りを注ぐ計画に関連づけています。
というのは、ヨハネの黙示録11章18節で、これらの出来事は「来た」(再びアオリスト時制)怒りと関係があると述べられているからです。[6]
したがって、封印もラッパも、地上に怒りを注ぐことに関連する神の計画から切り離すことはできません。

E.患難時代の長さ

この立場を支持する人々が用いる5番目の論拠は、患難時代の長さはわずか三年半であるというものです。
同じ著者は、ダニエル書の七十週がどのように2つの部分に分けられるかを示した後、次のように述べています。
さらに、これは、患難時代を七年間と捉えるというよくある誤解を避けるためのものです。
聖書は一度もそのようには述べていません。
むしろ、患難時代は七年間の真ん中から始まります。
それは後半の三年半のことです。
イエスは、それに至るまでのすべてを「苦難の始まり」と呼んでいます。[7]

もしくは、週の前半、つまり七年間は、ヨハネにとって、そして彼らにとっても同じ「甘い」期待でした。
条約の保護下で、彼らはいわゆる「平安」な暮らしを送ることになります。
しかし、後半は実に「苦い」ものでした。
条約は破られ、嵐が吹き荒れ、彼らは一方では反キリストの怒り、他方では神の怒りを経験します。
これは彼らにとっての「苦難の日」、つまり大患難時代の日なのです。[8]

1.ダニエルが七十週を二つの部分に分けることを予告したこと(ダニエル書9章27節)は認められており、また主もこの同じ期間について語る時に、その後半を「大患難時代」(マタイの福音書24章21節)と語っています。
しかし、聖書のどこにも、この期間が互いに無関係で、それぞれ異なる特徴を持つ二つの部分に分けられている箇所はありません。
患難時代中期説は、七十週を「七十週」と呼びながらも、本質的には二つの独立した部分に分け、教会は前半と後半の性格が異なるため、前半も経験できると主張します。
しかし、これは不可能です。
聖書の中でこの期間が予期されている場合、時間的要素や注がれる怒りの激しさの度合いによって分割されているとしても、その性質に関しては常に一つの単位として扱われます。
ダニエル書の七十週はイスラエルの計画において統一されているため、それを二つの別々の部分に分けることはできません。
封印とラッパの下で明らかにされたすべての出来事が、厳しい裁きを受ける者にとって「甘い」ものとなると、著者がどうして主張できるのか理解に苦しみます。
この見解は、霊的解釈によってのみ得られるのです。

2.さらに、教会が患難時代の最初の三年半に入ると、14万4000人が救われて教会に加わるという点を指摘しておく必要があります。
なぜなら、教会はまだ地上にあるからです。
しかし、彼らはその期間全体を通してユダヤ人の証人として見られています。
もし彼らが、神がまだキリストのからだに加わわりながらも救われ、天に召された時に取り残されたとしたら、キリストのからだはバラバラになり、不完全なものとなります。
契約の計画を始める前に奥義の計画を終わらせる必要があるという事実は、患難時代が週の半分だけに限定されてはならないことを示しています。

3.繰り返しますが、もし患難時代が偽りの契約の締結から始まるとすれば(ダニエル書9章27節)、教会は天に召された時を知ることになります。
メシアの到来に先立ってイスラエルにはしるしが与えられましたが、教会にはそのようなしるしは与えられません。
教会へのメシアの到来の時が神の奥義であり、人間はそのようなしるしによってその時を予測することはできません。

4.ヨハネの黙示録7章14節は最終的な証拠を示しているように思われます。
第六の封印と第七の封印の間の介入の中で、幻全体の範囲が示され、その時に救われた人々は「大患難」から抜け出したと言われています。
これは、封印によって覆われた時代が患難時代の一部であるとみなされていることを明確に示しています。

F.ヨハネの黙示録11章からの議論

この立場を擁護する6番目の議論は、携挙がヨハネの黙示録11章に記述されているという議論です。
この見解を支持するために、ハリソン氏は、2人の証人は「より大きな証人の集まり」の象徴であり、携挙の際の死者と生者という2つの集まりを表し、「パルーシア(parousia)」、つまり主の臨在を表し、大きな声はテサロニケ人への手紙第一4章16節の叫びであり、ラッパは同じ節のラッパであると主張しています。[9]

1.これは完全に解析による議論であり、解釈によるものではないことに配慮すべきです。
このような議論は常に説得力に欠けます。
この箇所では、二人の証人が教会の比喩的な代表者としてではなく、二人の個人として扱われていることに注目すべきです。
「二本のオリーブの木」としてイスラエルと関係があるという事実(ゼカリヤ書4章2、3節)は、彼らが教会を代表している可能性を否定します。
この二人がモーセとエリヤであり、したがって携挙の際の死者と天国へ引き上げられた者たちを代表しているという主張は確実ではありません。
雲は聖書において神の臨在を表すために広く用いられているため、特にこの箇所はイスラエルに関する部分であり、ユダヤ人にとって雲が携挙を意味することはないため、この時点で「パルーシア(parousia)」と関連付ける必要はありません。
ヨハネの黙示録には権威の声に関する記述が何度も見られますが、それがパウロが語った「声」と同じものであるとは断言できません。
この解釈は厳密に文字通りの解釈に基づくものではなく、むしろ霊的解釈の方法に基づくものであることに注意する必要があります。

2.ヨハネの黙示録11章で携挙が起こらないことの最も強力な証拠は、おそらく第七のラッパが吹かれた後の結果を慎重に観察することです。
描かれている場面は携挙ではなく、キリストが地上に現れる場面です。
この出来事には、世界の国々がキリストの権威に服従すること、メシアによる支配の就任、諸国民への裁き、メシアの支配にあずかる者たちへの報い、「地を滅ぼす」獣への裁きなどが関連づけられています。
この出来事の時系列は携挙とは決して関連づけられておらず、むしろ再臨と関連づけられています。
第七のラッパが吹かれた後の結果は、教会の天上移動ではなく、再臨においてキリストがすべての敵に勝利し、御国を樹立することです。

3.この議論の必然的な結果として、患難時代中再臨主義の解釈があります。
それは、神の成就した奥義(ヨハネの黙示録10章7節)こそが教会の奥義計画であるというものです。[10]

アイアンサイド氏の説明は、より適切な解釈を示しています。
アイアンサイド氏は次のように述べています。
「これが七つの封印をされた巻物のテーマです。
神の宇宙において長きにわたり悪を容認してきた聖なる神の証明です。
「なぜ神は不義がこれほどくり返して勝利することをお許しになるのか?」という質問以上に、人間の心を突き動かし、混乱させる謎はありません。
これは神の奥義です。
神は時が来ればそれを明らかにされ、すべては昼間のように明らかになります。
あらゆる悪に対する神の最終的な勝利こそが、ヨハネの黙示録の急速に変化する情景の中で鮮やかに描かれています。」[11]
今、神は悪によってそのプログラムを終了させようとしています。

G.ヨハネの黙示録の時系列

第七の論点は、ヨハネの黙示録の時系列の解釈に依存します。
この見解によれば、既に述べたように、七つの封印と七つのラッパは、七十週の最初の三年半の出来事を私たちに示し、この期間は11章で起こる携挙で終わります。
七つの鉢は、12~19章で展開される、患難時代の最後の三年半における神の怒りの注ぎ出しを描写しています。
したがって、4~11章は週の前半を、12~19章は週の後半を描写しています。
私たちはこの年代には誤りがあると考えています。
ヨハネは、封印の下での患難時代の前半(4章1節~7章17節)、ラッパの下での患難時代の後半(8章1節~11章14節)の出来事を要約し、主の再臨と支配(11章15~18節)でこの期間を締めくくっています。
第六のラッパと第七のラッパの間で、ヨハネは次の聖句で告げられた時が存在しています。

「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」
(ヨハネの黙示録10章11節)

「もう一度(palin)」という言葉について、セイヤー氏は「それは行動の更新、もしくは繰り返しを意味する」と述べています。[12]
これは、ヨハネが一度この期間全体を案内したので、神はヨハネにもう一度この期間をたどるように意図されているという、神の予告であるように思われます。
そのため、12章から、ヨハネはこの期間をもう一度全体を見て、七十週の出来事において非常に重要な役割を果たす個人に重点を置いています。
鉢(ヨハネの黙示録16章1~17節)は明らかにこの期間の終わりに現れ、その期間はごく短く、この期間の最後の三年半にわたって展開することはできません。
この二つ目の全容は、最初の全容と同じ様に、キリストの再臨とそれに伴う敵への裁きによってこの期間を終わらせています。
(ヨハネの黙示録19章)
したがって、ヨハネの黙示録19章11~16節が携挙を示しているのではなく、ヨハネの黙示録11章15~18節は啓示を指名してといるという観測は、ヨハネの黙示録の時系列を解釈する患難時代中再臨主義者の立場としては支持できないものとしています。
この立場は、特にヨハネの黙示録11章を携挙と解釈する時に、比喩的な解釈方法に依存していることに配慮する必要があります。

H.終わりのラッパの正体

患難時代中期携挙論者の8番目の論拠は、ヨハネの黙示録11章15節の第七のラッパと、コリント人への手紙第一15章52節およびテサロニケ人への手紙第一4章16節の終わりのラッパは同じであるという論拠です。

ハリソン氏は患難時代中期の見解を次のように述べています。
「使徒パウロは聖霊の導きによって、キリストの到来による聖徒の復活と携挙を「終わりのラッパとともに」(コリント人への手紙第一15章5、52節)と明確に位置づけています。
これは、この出来事を具体的に位置づけています。
聖霊がこの事実を明らかにされ、その記録を霊感によって記されたことは疑いありません。
誰がそれをそれ以外の場所に位置づけることができるでしょうか?
使徒パウロによって、そして使徒パウロを通して示された場所以外の場所に携挙を仮定し、神の御言葉の完全性を保っていると主張できるでしょうか?
マタイの福音書24章29~31節を開いてください。
ここでイエスは「大きなラッパの音」によって患難時代を次のように描写しています。
これは、記録されている最後の出来事です。
しかし、ヨハネの黙示録の終わりのラッパ、つまり一連の終わりのラッパに達すると、その出来事が現実に起こっているという満足のいく証拠が数多く見つかるはずです。」[13]

彼の議論全体は、7つのラッパの最後のものを、コリント人への手紙第一15章52節で携挙に関連してパウロが述べた終わりのラッパと同一視することに依存しています。
この議論は、両方の出来事に関連して「終わり」という単語が使われているかどうかに基づいています。
ハリソン氏自身も、「「終わり」という言葉には二つの意味があります。
時間的に終わり、もしくは順序的に終わりである」と認めています。[14]
このように述べることで、ハリソン氏は順序的に最後であることと時間的に最後であることは必ずしも同じではないことを認めています。
「終わり」という言葉は、ある計画を締めくくるものを意味するかもしれませんが、必ずしも最後に存在するものであるとは限りません。
教会の計画はイスラエルの計画とは異なるため、それぞれの計画は、正しくは終わりのラッパと呼ばれるラッパが吹かれることによって終了するかもしれませんが、最後の二つのラッパが時間的に同一で同期しているわけではありません。」

終わりのラッパを第七のラッパと同一視することについて、ティーセン氏は次のように書いています。
「エリコット氏に同調し、私たちはこう主張しています。
「ここにヨハネの黙示録の第七のラッパ(ヨハネの黙示録11章15節)のことを述べていると仮定する十分な根拠はありません。
使徒パウロはこの「ラッパ(salpigx)」をここでエスカテ「終わり(eschate)」と呼んでいます。
しかし、これは先行する一連の出来事を指すのではなく、この「時代(aion)」の終わり、そしてこの世界史の最後の場面と関連づけています。」

この点については、私たちは同意するが、キリストが来られる時、この時代の歴史が終わるという点だけが異なっています。
エリコット氏は千年王国前再臨主義を唱えた人物であり、彼がこの発言で意味しているのは間違いなくこれです。
マイヤー氏も同じような見解をとっており、その理由は、テサロニケ人への手紙第一4章16において「ラッパは一つしか言及されておらず、その一つは周知の事実として当然のこととされている」と述べている点です。
パウロが「終わりのラッパ」に言及した後、「ラッパが鳴る」(ギリシャ語参照)という非人称表現を用いていることからも、同様の結論を導き出すことができます。
もし、パウロがこのラッパを七つのラッパの一つと考えていたなら、彼は間違いなく次のように言ったはずです。
「ラッパが鳴らされて、終わりのラッパが鳴らされる時が来ると、キリストにあって死んだ人々はよみがえらされるからです。」
いずれにせよ、コリント人への手紙第一15章52節の「ラッパ」をヨハネの黙示録の第七のラッパと同一視する根拠はありません。[15]

これら二つのラッパを区別できないようにする観察がいくつかあるようです。

(1)コリント人への手紙第一15章52節のラッパは、患難時代中再臨主義を唱える者でさえも同意する通り、神の怒りが下る前に鳴らされます。
一方、既に示されているように、ヨハネの黙示録の年代は、ヨハネの黙示録11章15節のラッパが怒りの時の終わり、つまり再臨の直前に鳴らされることを示しています。

(2)教会を召集するラッパは神のラッパと呼ばれ、第七のラッパは御使いのラッパと呼ばれています。
ストロムベック氏は次のように的確に指摘しています。
「したがって、「終わりのラッパ」を探し求める時には、それが神御自身によって鳴らされるラッパであるという事実を指針としなければなりません。
このことを考えるのならば、神の終わりのラッパが、アロン神権の祭司たちが吹く一連のラッパの最後であると主張することは、まず不可能です。
彼らは神のラッパと同列ではありません。
御使いは人間よりほんの少しだけ上位に過ぎないことを念頭に置くと、「終わりのラッパ」、つまり神御自身のラッパが、御使いたちが吹く一連のラッパの最後であると言うことは、論理の法則に反することになります。
人間も御使いも神の被造物です。
創造主のラッパを吹くことはできません。」[16]

(3)教会のためのラッパは比類ないものです。
これより前に鳴らされたラッパはないので、一連のラッパの最後だとは言えません。
患難時代を締めくくるラッパは、明らかに七つの一連のラッパの最後です。

(4)テサロニケ人への手紙第一4章では、ラッパを鳴らす声は死者と生きている者を召喚するものであり、したがって復活の前に聞かれます。
ヨハネの黙示録では復活について言及されていますが(11章12節)、ラッパは復活の後でなければ鳴らされません。
これは、二つの異なった出来事が予定されていることを示しています。

(5)テサロニケ人への手紙第一のラッパは祝福、命、栄光を意味し、ヨハネの黙示録のラッパは神の敵に対する裁きを意味します。

(6)テサロニケ人への手紙の一節では、ラッパは「たちまち、一瞬のうち」に鳴り響きます。
ヨハネの黙示録10章7節には、第七のラッパが一定期間、おそらくその裁きの期間中、鳴り続けることが暗示されています。
ヨハネは「ラッパを吹き始める」御使いについて語っているからです。
その期間の長さは、これら二つのラッパの区別を証明しています。

(7)テサロニケ人への手紙第一におけるラッパは、明らかに教会を指しています。
神は患難時代に特にイスラエルと、そして一般的には異邦人と関わっています。
ゆえに、患難時代に鳴るこの第七のラッパが教会を指し示すと、教会とイスラエルの区別が失われてしまいます。

(8)ヨハネの黙示録の一節は、何千人もの人々が殺される大地震と、神を礼拝する残りの信者たちが恐怖に襲われる様子を描いています。
テサロニケ人への手紙の一節には地震については何も書かれていません。
携挙の時に、ヨハネの黙示録11章13節の恐怖を経験する残りの信者たちは残されていません。
このような見解は、部分携挙主義だけが一致します。

(9)教会は携挙の時に報いを受けるが、「あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち」に与えられる報いは、携挙の出来事ではありません。
ヨハネの黙示録11章18節に記されている報いは、キリストの再臨後、敵に対する裁きの後に地上で起こるとされています。
教会は携挙後に空中で報いを受けるので、これらは二つの異なる出来事です。
マタイによる福音書24章31節に照らし合わせるならば、患難時代中期携挙論者が、ヨハネの黙示録11章15節を時系列上の意味で終わりのラッパであると解釈するのは困難です。
ヨハネの黙示録のラッパは、メシアの再臨前に完成します。
マタイは主御自身の御言葉を記録し、再臨後にラッパが鳴り響くことによってイスラエルが再び集められると教えています。
もし「終わり」が時系列上の最後を意味するのであれば、ヨハネの黙示録とテサロニケ人への手紙第一の両方のラッパがマタイによる福音書24章のラッパと一致すると主張すべきはずです。

コリント人への手紙第一15章52節の「失われた切り札」という表現の使用に関して、イングリッシュ氏は次のように書いています。
コリント人への手紙第一15章52節の「終わりのラッパ」という言葉の意味は、このラッパの響きが一連のラッパの一つではないことから、集合の呼びかけ、もしくは警報の意味合いを持つものだったかもしれません。
民数記10章には、民の集会と旅立ちを告げるラッパの響きが記されています。
イスラエル人の各陣営に向けられた特別な呼びかけと、会衆全体に向けた特別な呼びかけがありました。

これに関連して、カール・アーマーディング博士は興味深い説明をしています。
「終わりのラッパは、会衆全体がついに出発したことを象徴しています。
ある意味で、これはコリント人への手紙第一15章23節にある「各人はそれぞれの順番(もしくは階級、(tagmati))に従っています。
キリストが初子であり、その後、キリストが来られるときにキリストに属する者たちです。」
これらの最後の者たちは、少なくとも二つの集まりに分けられます。
「眠った人々」と「生き残っている私たち」です。」

アーマーディング博士はさらに続けます。
「「一瞬のうち」と「たちまち」という表現は、世界中で突然性と迅速性を示すために使われています。
三番目のフレーズ「終わりのラッパとともに」がこれらの言葉と非常に密接に関連していることから、これも同じように理解されるべきだと私たちは考えます。
もしそうであれば、それは警報のようなもので、まさに民数記10章6節で「陣営の旅」に関連して使われている言葉です。
活気づけることと集合させることはすでに成就しています。
前者は主の声によって、後者は大御使いの声によります。
(テサロニケ人への手紙第一4章16節)
すべてを動かすために必要なのは、あと一つだけです。
それは「終わりのラッパ」です。
それが、あの重要な機会に鳴らされる最後の音となります。[17]
患難時代中携挙説の立場を検証すると、その見解の本質的な議論は聖書の真実な解釈の検証に耐えられず、誤りとして拒まなければならないことが分かります。

NOTE

[1]Norman B. Harrison, The End, pp. 231-33.
[2]Ibid., p. 50.
[3]Ibid., pp. 87-88.
[4]Ibid., pp. 104-5.
[5]Ibid., p. 91.
[6]Harrison’s view that the verb may be translated “has only now come” (p. 119) is not borne out by the aorist tense.
[7]Ibid., p. 229.
[8]Ibid., p. 111.
[9]Ibid., p. 117.
[10]Ibid., pp. 107-8.
[11]H. A. Ironside, The Mysteries of God, pp. 95-96.
[12]Joseph Henry Thayer, Greek-English Lexicon of the New Testament, p. 475.
[13]Harrison, op. cit., p. 75.
[14]Ibid.
[15]Henry C. Thiessen, Will the Church Pass through the Tribulation! pp. 55-56.
[16]J. F. Strombeck, First the Rapture, p. 109.
[17]Schuyler English, Rethinking the Rapture, p. 109.


第13章 患難時代前再臨主義

患難時代に関連した携挙の時期に関する3番目に一般的な解釈は、患難時代前再臨主義の解釈です。
これは、ダニエル書の七十週が始まる前に、キリストのからだである教会全体が復活と移動によって地球から取り去られるとしています。

I.患難前携挙の立場の本質的根拠

患難時代前再臨主義は、基本的に一つの大前提、つまり聖書の文字通りの解釈に基づいています。
これに不可欠な補足として、患難時代前再臨主義者は神の御言葉をディスペンセーション的に解釈することを信じています。
教会とイスラエルは、神が共に神の計画を持つ二つの異なる集まりです。
教会は奥義であり、旧約聖書には明らかにされていません。
この現在の奥義の時代は、イスラエルがメシアの最初の降臨を拒んだために、神のイスラエルに対する計画に介入しています。
神がイスラエルに対する計画を再開し、完了させるには、この奥義の計画が完了しなければなりません。
これらの考察はすべて、文字通りの解釈方法から生じています。

II.患難時代前再臨主義の本質的な主張

患難時代前再臨主義を支持する論拠は数多く提示される可能性があります。
それらのすべてが同等の重みを持つわけではありませんが、積み重ねられた証拠は強力です。

A.文字通りの解釈方法

無千年王国論者は、千年王国前再臨主義者と彼ら自身の間の論争における基本的な論点は、預言の解釈に用いるべき解釈方法の問題であることを率直かつ率直に認めています。
アリス氏は、「したがって、文字通りの解釈か比喩的な解釈かという問題は、まさに最初に直面しなければならない問題である」と述べています。[1]
アリス氏は、聖書の文字通りの解釈方法が正しいとすれば、千年王国前再臨主義こそが正しい解釈であると認めています。
このように、キリストが千年王国前に再臨して文字通りの王国を樹立するという私たちの教義は、旧約聖書の約束と預言を文字通りに解釈する方法の結果であることがわかります。
したがって、携挙の問題の解釈においても、同じ基本的な解釈方法を用いなければならないのは当然のことです。
文字通りの解釈方法に基づいて千年王国前再臨主義体系を構築し、その後、関連する問題を考慮する時にその方法から逸脱することは、極めて非論理的です。
文字通りの解釈では、教会の患難前携挙を要求することは簡単に理解できます。
患難後再臨主義者は、ヨハネの黙示録を歴史的に解釈するか(これは基本的に霊的解釈です)、もしくはヨハネの黙示録をまだ未来の出来事として扱いつつ、自らの解釈の光の中で他の聖書箇所と調和させようとして、出来事の文字通りの意味を霊的解釈で取り除くかのいずれかをしなければなりません。
どちらの解釈も文字通りの解釈の原則に反します。
患難時代中携挙論者は、七十週の後半には文字通りの解釈を適用しますが、前半の出来事は教会がそれらに遭遇できるように霊的解釈します。
これもまた、根本的な矛盾です。
千年王国前再臨主義を確立するために一つの方法が用いられ、携挙の約束の解釈に別の方法が用いられることはあり得ません。
一貫して文字通りの解釈方法を用いるならば、教会は七十週前に携挙されるという結論以外には至りません。
ちなみに、この方法はウルトラ・ディスペンセーション主義につながるものではないことに注意する必要があります。
なぜなら、そのシステムは、より文字通りに解釈することから生まれたものではなく、むしろ解釈上の考慮に基づくものだからです。

B.七十週の本質

旧約聖書と新約聖書の両方において、七十週の期間を説明するために用いられている言葉が数多くあります。
それらを総合的に考えると、この期間の本質的な性質や特徴が分かります。

(1)怒り(ヨハネの黙示録6章16、17節、11章18節、14章19節、15章1、7節、16章1、19節、テサロニケ人への手紙第一1章9、10節、5章9節、ゼパニヤ書1章15、18節)
(2)審判(ヨハネの黙示録14章7節、15章4節、16章5~7節、19章2節)
(3)憤り(イザヤ書26章20、21節、34章1~3節)
(4)刑罰(イザヤ書24章20、21節)
(5)試練の時(ヨハネの黙示録3章10節)
(6)苦難の時(エレミヤ書30章7節)
(7)滅び(ヨエル書1章15節)
(8)暗闇(ヨエル書2章2節、ゼパニヤ書1章14~18節、アモス書5章18節)

これらの言及は、その期間の一部ではなく、その全体を描写していることに配慮する必要があります。
つまり、その期間全体がこの特徴を有するということです。

患難時代の性質、ただし、週の後半に限定するのであれば、ハリソン氏は次のように述べています。
「患難時代の本質をはっきりと心に留めてください。
それは神の「怒り」(11章18節、14章8、10、19節、15章1、7節、16章1、19節[6章16、17節を省略]と神の「裁き」(14章7節、15章4節、16章7節、17章1節、18章10節、19章2節)なのです。
私たちは、祝福された主が私たちのために神の怒りと裁きを負ってくださったことを知っています。
それゆえ、主にいる私たちは「裁きを受けません。」
テサロニケ人への手紙第一5章9節との対比が決定的な証拠です。

「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」
(テサロニケ人への手紙第一5章9節)


その他の者には怒りです。
私たちにとっては「目ざめていても、眠っていても」携挙が救いです。」[2]

C.七十週の範囲

この期間に神の怒りが全地に注がれることは疑いようがありません。
ヨハネの黙示録3章10節、イザヤ書34章2節、24章1節、4、5節、16、17節、18〜21節、そして他の多くの聖句がこれをとても明確に示しています。
しかし、全地が対象とされているとはいえ、この期間は特にイスラエルとの関係が重要です。
エレミヤ書30章7節は、この期間を「ヤコブの苦難の時」と呼び、この点を明確にしています。
七十週の出来事は、「主の日」もしくは「ヤハゥエの日」の出来事です。
神の名がこのように用いられていることは、神とイスラエルとの特別な関係を強調しています。
ダニエル書9章でこの期間が予期されている時、神は預言者にこう言われます。

「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。」
(ダニエル書9章24節)


この期間全体は、ダニエルの民であるイスラエルと、ダニエルの聖都エルサレムに特別な関係を持っています。
新約聖書の多くの箇所、例えばエペソ人への手紙3章1~6節、コロサイ人への手紙1章25~27節は、教会が奥義であり、ユダヤ人と異邦人から成るその本質が旧約聖書では明らかにされていなかったことを明確に示しています。
そのため、この預言や他の旧約聖書の預言において、教会が言及されていません。
教会はキリストの死後(エペソ人への手紙5章25、26節)、キリストの復活後(ローマ人への手紙4章25節、コロサイ人への手紙3章1~3節)、昇天後(エペソ人への手紙1章19、20節)、そしてペンテコステにおける聖霊の降臨と信者への働きの始まり(使徒の働き2章)まで存在していなかったため、この預言の最初の六十九週においては、教会が存在していたはずはありません。
最初の六十九週はイスラエルに対する神の計画にのみ関係しています。
そして、聖書はそれには関与していないので、教会に対する奥義的な計画が終わった後のイスラエルに対する神の計画に再び関係する七十週目にも関与することはできません。
聖書の、患難時代に関する主要な箇所を詳しく論じ、次のように結論づけています。
「ここで主張されている見解は、聖書が大患難について述べているあらゆる箇所を綿密に調査した結果に基づいています。
もし、他にこのことに述べられている箇所があれば、ぜひ教えていただきたいのですが、私はそれらを知りません。
私は、大患難が到来した時に、地上にクリスチャンもしくは教会が存在することを暗示する言葉を一つでも指摘していただけるかどうか、彼らに尋ねます。
旧約聖書と新約聖書、エレミヤ書、ダニエル書、主イエス・キリスト、そして使徒ヨハネの教義は、主が栄光のうちに現れる直前に、イスラエルに最後の、そして前例のない苦難が訪れるが、ヤコブはそこから救われます。
そして、「大患難」が起こり、そこから多くの異邦人が生まれます、しかしヤコブと異邦人はクリスチャンや教会とは全く異なる、というものであることを、私たちは見てきたはずです。
クリスチャンに関して、主の明確な約束は、主の忍耐の言葉を守った者は、地上に住む者を試すために居住可能な世界全体に来ようとしている試練の時から守られるというものです。」[4]
上記の著者は、患難を扱っているすべての箇所がそれをイスラエルに対する神の計画と関連づけていることから、患難時代の規模が教会がそれに参加することを妨げると結論づけなければなりません。

D.七十週の目的

聖書は、七十週において達成されるべき二つの主要な目的があることを示しています。

1.最初の目的は次の聖句に述べられています。

「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」
(ヨハネの黙示録3章10節)


この試練の時に誰がいるのかという質問とは別に、この節には他にもいくつか重要な点があります。

(1)まず最初に、この期間は「地上に住む者たち」を指しており、教会を指しているわけではないことが分かります。
この同じ表現はヨハネの黙示録6章10節、11章10節、13章8節、12章、14章、14章6節、そして17章8節にも見られます。
これは地理的な描写ではなく、道徳的な区分を示しています。

ティーセン氏は次のように書いています。
「ここで使われている「住む」という「言葉(katoikeo)」は強い意味を持つ言葉です。
これはキリストに宿った神の豊かさを表すために使われています。(コロサイ人への手紙2章9節)
また、キリストが信者の心に永久に住まわれること(エペソ人への手紙3章17節)、そして悪霊が戻ってきて人を捕らえること(マタイの福音書12章45節、ルカの福音書11章26節)にも使われています。
これは、「住む(oikeo)」という意味の一般的な単語や、「滞在する(paroikeo)」という意味とは区別されるべきです。
セイヤー氏は、「言葉(katoikeo)」という語には永続性という概念が含まれていると指摘しています。
したがって、ヨハネの黙示録3章10節で述べられている裁きは、その日の地上に住む人々、つまり地上を真実な住処として定住し、地上の商業と宗教に自分の事を同一視している人々に対して向けられたものなのです。」[5]

この期間は「地上に住む者」、つまり定住して永住する者たちと関係があるので、もしこの世にいたら同じ経験をするであろう教会とは関係がありません。

(2)ここで注目すべき二つ目の点は、目的を表すのに不定詞「試みる(peirasai)」が使われていることです。
セイヤー氏はこの語を、神が主語となっている場合には「その人の人格と信仰の堅固さを証明するために、その人に災いを及ぼす」と定義しています。[6]
父なる神は、キリストにおいて完成された教会以外には、決して教会を見ることはないので、この期間は教会とは関係がないはずです。
真実な教会は、その信仰が本物かどうか試される必要がないからです。

2.七十週の二つ目の主要な目的は、イスラエルとの関係です。
マラキ書4章5、6節にはこのように記されています。

「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」」
(マラキ書4章5、6節)


預言者は、このエリヤの務めは、間もなく来られる王のために民を備える務めであったと述べています。
ルカの福音書1章17節には、ザカリヤの子が「エリヤの霊と力で主の前ぶれをし」、まさにこの務めを果たし、「整えられた民を主のために用意する」と約束されています。
イスラエルにとってのしるしとなるはずだったエリヤの来臨について、主はこのように述べています。

「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。
では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。
しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。
そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。」
(マルコの福音書9章12、13節)


主は弟子たちに、バプテスマのヨハネが、主のために民を備えるという務めを担っていることを示しておられました。
そして、すべての疑いを晴らすために、マタイによる福音書11章14節の言葉は決定的です。

「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」
(マタイによる福音書11章14節)


ヨハネの務めは、イスラエルの民を王の来臨に備えるという務めでした。
ゆえに、主の大いなる恐るべき日に先立って来るエリヤには、ただ一つの務め、つまりイスラエルの残された民を主の来臨に備えるという務めしか与えられないという結論に至ります。
教会は生まれながらにしみやしわなど一切なく、聖く傷のない存在であるため、そのような務めは必要ないことは明らかです。
地上の住人を試すこと、そしてイスラエルを王のために準備することという二つの目的は、教会とは全く関係がありません。
これは、教会が七十週にはいないことを裏付ける証拠です。

E.七十週の統一性

前述の三つの考察から、預言において七十週が描写され、預言されている時、その全体が念頭に置かれていることがわかります。
ダニエル書9章27節、マタイによる福音書24章15節、そしてヨハネの黙示録13章に基づき、週はそれぞれ三年半の二つの部分に分けられていることに誰もが同意するであろうが、週の本質と特徴は一つであり、両方の部分に完全に浸透しています。
教会が一つの単位として週の中に存在することは不可能となり、教会は七十週の一部から免除されているとしても、その本質は全体を通して同じであるため、その前半に存在することができるという立場をとることも同じ様に不可能となります。
教会を後半に含めることが不可能であるということは、教会を前半に含めることも同じ様に不可能です。
なぜなら、聖書は週の時間を区分しているものの、その二つの部分の性質と特徴については何ら区別していないからです。

F.教会の本質

教会とイスラエルの間には、聖書に明確に記されているにもかかわらず、ここでの考察ではしばしば無視されている、ある種の相違点が存在します。

(1)信仰を告白する教会と国家イスラエルの間には違いがあります。
信仰を告白する教会は、キリストへの信仰を告白する者たちから成っていることに配慮すべきです。
この告白は、ある者にとっては現実に基づいており、ある者にとっては全く現実に基づいていません。
後者の集まりは患難時代に突入します。
なぜなら、ヨハネの黙示録2章22節は、救われていない信仰を告白する教会がこの怒りの訪れを経験することを明確に示しているからです。
国家イスラエルと呼ばれる集まりのメンバーシップは、肉体的な誕生に基づいています。
そして、この集まりの中で、救われて携挙によって取り去られず、携挙の時に生きている者は皆、信仰を告白する教会と共に、患難時代の怒りに服することになります。

(2)真実な教会と信仰を告白する教会の間には違いがあります。
真実な教会は、この時代にキリストを救い主として受け入れたすべての人々で構成されています。
これとは対照的に、キリストを受け入れると公言するが、現実には受け入れていない人々で構成される、信仰告白する教会があります。
真実な教会だけが携挙されます。

(3)真実な教会と真実な、もしくは霊的イスラエルには区別があります。
ペンテコステ以前には救われた個人はいましたが、教会はなく、彼らは霊的イスラエルの一部であり、教会ではありません。
ペンテコステの日の後、携挙まで、キリストのからだである教会はありますが、霊的イスラエルはありません。
携挙の後、教会はなくなり、再び真実な、もしくは霊的イスラエルが存在します。
これらの区別をしっかりと心に留めておく必要があります。
携挙によって連れ去られるのは、キリストへの信仰を告白する者全員ではなく、新たに生まれ、キリストの命を受けた者だけです。
目に見える教会の未信者たちは、イスラエル国民の未信者たちと共に、患難時代へと送られます。

1.教会は体であり、キリストはそのかしら(エペソ人への手紙1章22節、5章23節、コロサイ人への手紙1章18節)、花嫁であり、キリストはその花婿(コリント11章2節、エペソ人への手紙5章23節)、愛の対象(エペソ人への手紙5章25節)、枝であり、キリストはその根であり幹(ヨハネの福音書15章5節)、建物であり、キリストはその土台であり隅石(コリント3章9節、エペソ人への手紙2章19~22節)です。
したがって、信者と主の間には結びつきと一体性が存在します。
信者はもはや主から分離されているのではなく、主との最も親密な一体性の中に導かれています。
もし教会が七十週にあるなら、教会はその期間を特徴づける怒り、裁き、憤りにさらされます。
そして、教会がキリストと一体であるがゆえに、キリストも同じ様に同じ訪れにさらされることになります。
ヨハネの手紙一4章17節によれば、これは不可能です。
なぜなら、キリストは再び裁きを受けることはできないからです。
教会は完全にされ、すべての裁きから解放されているので(ローマ人への手紙8章1節、ヨハネの福音書5章24節、ヨハネの手紙一4章17節)、もし再び裁きを受けるなら、神の約束は無効となり、キリストの死は無効となります。
キリストの死がその目的を果たせないなどと、誰が主張できるだろうか。
教会員たちは経験的に不完全であり、経験的に清めを必要とするかもしれませんが、キリストのからだである教会はキリストにあって完全な立場にあり、そのような清めを必要としません。
ヨハネの黙示録3章10節に述べられているように、七十週における試練の本質は、個人を清めることではなく、新生されていない心の堕落と必要性を明らかにすることです。
教会の本質が、そのような試練を阻んでいるのです。

2.さらに、ヨハネの黙示録13章7節は、七十週にあるすべての者は獣に服従し、獣を通してサタンに服従し、サタンは獣にその力を与えることを明確に示しています。
もし教会がこの期間にあるとしたら、教会はサタンに服従し、キリストはかしらとしての立場を失うか、もしくは教会との結びつきゆえに、キリスト自身もサタンの権威に服従することになります。
そのようなことは考えられません。
したがって、教会の性質とその救いの完全性は、教会が七十週にあることを妨げていると結論付けられます。

G.教会を奥義とみなす概念

前述の考察と密接に関連しているのは、新約聖書において教会は奥義であるという概念です。
神がユダヤ人に救いを与えること、もしくは異邦人が救いの祝福を受けることは、奥義ではありません。
神がユダヤ人と異邦人を等しく一つの体に形づくるという事実は、旧約聖書では決して明らかにされていません。
それはパウロがエペソ人への手紙3章1~7節、ローマ人への手紙16章25~27節、コロサイ人への手紙1章26~29節で語る奥義を構成しています。
この奥義の計画全体は、イスラエルがキリストを拒絶するまで明らかにされません。
マタイによる福音書12章23、24節が拒まれた後、主はマタイによる福音書16章18節で、来るべき教会について初めて預言されました。
使徒の働き2章で教会が始まったのは、十字架が拒まれた後のことです。
イスラエルによる最終的な拒絶の後、神はパウロを異邦人の使徒として召し、教会の本質に関するこの奥義が彼を通して明らかにされました。
教会は明らかに、イスラエルに対する神の計画の中断です。
この計画は、イスラエルが神の御国の提示を拒絶するまでは存在していません。
論理的に言えば、神がイスラエル国家との交渉を再開する前に、この奥義の計画自体が終結していなければなりません。
神は以前に示されているように実行されます。
始まりにおいて非常に明確に区別されていたこの奥義の計画は、終結においても確かに別のものとなります。
神がイスラエルに対する計画を再開し、完結させる前に、この計画は終結していなければなりません。
教会のこの奥義の概念は、患難前携挙を必然的なものにしているのです。

H.イスラエルと教会の相違点

チェイファー氏はイスラエルと教会の24の相違点を挙げ、これら二つの集まりを一つに統合することはできず、神が特別な計画をもって対処する二つの別個の存在として区別しなければならないことを決定的づけています。(7)
これらの相違点は次のように要約できます。

(1)聖書の啓示の範囲:イスラエルは聖書のほぼ5分の4です。。
教会は約5分の1です。
(2)神の目的:イスラエルは契約における地上の約束です
教会は福音における天の約束です。
(3)アブラハムの子孫:イスラエルは肉体の子孫であり、その一部は霊的な子孫となります。
教会は霊的な子孫です。
(4)誕生:イスラエルは肉体の誕生によるものです。
教会は霊的な誕生です。
(5)指導者:イスラエルはアブラハムです。
教会はキリストです。
(6)契約:イスラエルはアブラハムの契約およびそれに続くすべての契約です。
教会はアブラハムの契約および新しい契約に間接的に関係しています。
(7)国民性:イスラエルは一つの国民です。
教会はすべての国民から成り立っています。
(8)神の取り扱い章:イスラエルは国民的および個人的です。
教会は個人のみです。
(9)神の支配する時代:イスラエルはアブラハム以来すべての時代に見られます。
教会はこの現在の世界でのみ見られます。
(10)働き:イスラエルは宣教活動はなく、説教すべき福音はありません。
教会には果たすべき使命があります。
(11)キリストの死:イスラエルは国民的に罪を犯してた。キリストの死によって救われます。
教会は現在、キリストによって完全に救われています。
(12)父:イスラエルは特別な関係によって、神は国民の父です。
教会は個人的に父として神と関係しています。
(13)キリスト:イスラエルにとってメシア、インマヌエル、王です。
教会にとって、救い主、主、花婿、かしらです。
(14)聖霊:イスラエルには一時的にある人々に降りて来ました。
教会はすべての人に宿っています。
(15)支配原則:イスラエル—モーセの律法制度によります。
教会は恵みの制度によります。
(16)神による力:イスラエルにはありません。
教会には内在する聖霊があります。
(17)二つの告別説教:イスラエルにはオリーブ山の説教が適応されます。
教会には屋上の部屋での説教が適応されます。
(18)キリストの再臨の約束:イスラエルは力と栄光のうちに裁きを受けます。
教会は御自身のもとに迎え入れられます。
(19)立場:イスラエルはしもべであり、教会は家族の一員です。
(20)キリストの地上における支配:イスラエルは支配される側です。
教会は共同支配者です。
(21)祭司職:イスラエルには祭司職がありました。
教会は祭司職です。
(22)結婚:イスラエルは不貞の妻です。
教会は花嫁です。
(23)裁き:イスラエルは裁きを受けなければなりません。
教会はすべての裁きから救われています。
(24)永遠における立場:イスラエルは新しい地上で完全にされた義人の霊です。
教会は新しい天の長子たちの教会です。

イスラエルと教会の区別を示すこれらの明確な対比は、教会が七十週を通過する時に必要となります。
両者を一つの計画の中で識別することを不可能にしています。
これらの区別は、患難時代前再臨主義をさらに裏付けています。

I.主が間近に迫っているという教理

イスラエルの国民には、再臨に先立って多くのしるしが与えられ、主の再臨が近づく時を待ち望む国民としました。
イスラエルは主がいつ来られるかその日も時刻も知ることはできません。
しかし、これらのしるしの成就を通して、自分たちの救いが近づいていることを知ることはできます。
教会にはそのようなしるしは与えられていません。
教会は主が間近に迫っているという光の中で生き、主の御前にそれらを伝えるようにと告げられました。
(ヨハネの福音書14章2、3節、使徒1章11節、コリント人への手紙第一15章51、52節、ピリピ人への手紙3章20節、コロサイ人への手紙3章4節、テサロニケ人への手紙第一1章10節、テモテへの手紙第一6章14節、ヤコブ書5章8節、ペテロの手紙第一3章3、4節)
テサロニケ人への手紙第一5章6節、テトスへの手紙2章13節、ヨハネの黙示録3章3節はすべて、信者に対し、主の来臨に先立つ兆候ではなく、主御自身を待ち望むように警告しています。
確かに、七十週の出来事は携挙の前兆となります。
しかし、信者の注意は常にキリストに向けられており、これらの前兆に向けられることはありません。
この切迫性、つまり「いつ何時でも来る」という教理は、ダービー氏にとって新しい教理ではないと非難されることもあるが、彼は確かにそれを明確化し、体系化し、普及させました。
このような切迫性への信仰は、初期教父たちや新約聖書の著者たちの千年王国前再臨主義の特徴です。

この点について、ティーセン氏は次のように記しています。
「彼らはキリストの来臨を千年王国前再臨主義と見なしただけでなく、その来臨は差し迫ったものとも考えていました。
主は彼らに、主の再臨はいつでも来ると教えられたため、彼らは主が自分たちの時代に来られることを待ち望んでいました。
それだけでなく、彼らは主の再臨がすぐに来ると教えました。
この真理に反対したのはアレクサンドリア教父たちだけでした。
しかし、これらの教父たちは他の根本的な教義も否定しました。
したがって、初期の教会は主を常に待ち望み、将来の患難時代の可能性には関心がなかったと言えます。」[8]

初期教会の終末論は、その主題が真剣に検討されることはなかったため、すべての点において完全に明確であったとは言えません。
しかし、彼らがキリストの再臨が間近に迫っていると信じていたことは、証拠から明らかです。
この切迫性に関する見解は、宗教改革者たちの著作にも明確に見られます。
彼らは終末論的な問題に関して異なる見解を持っていたはずです。
チェイファー氏は、改革者たちがキリストの再臨が間近に迫っていると信じていたことを示すために、一部の改革者たちの言葉を引用しています。
「ルターはこのように記しています。
「終わりの日に先立つすべての兆候は既に現れていると信じています。
キリストの来臨は遠い未来のことなど考えてはなりません。
頭を上げて見上げ、救い主の来臨を熱心に、そして喜びをもって待ち望みましょう。」
「カルヴァンもまたこのように断言しています。
「聖書は一貫して、キリストの来臨を待ち望むようにと命じています。」
これにジョン・ノックス氏の証言が加わるかもしれません。
「主イエスは速やかに再臨されます。
これは、かつて存在したこともなく、これからも存在し得ない地球の姿を、正義の王であり裁き主である方が万物を回復するために現れるまで、改革することにほかなりません。」

同じ様に、ラティマー氏の言葉も同じです。
「神がこの末日に世に警告を与えるために遣わした、優秀で学識のある人々は皆、聖書から、終わりの日がそう遠くないことを悟っています。
もしかしたら、それは私の代、つまり年老いた私の時代に来るかもしれませんし、私の子供たちの時代に来るかもしれません。」[9]
差し迫りの教理は、教会が七十週のいかなる部分にも参加することを禁じています。
イスラエルに期待を抱かせるために与えられた数々のしるしは、教会にも向けられたものであり、これらのしるしが成就するまでは、教会はキリストを待ち望むことはできません。
教会にはしるしが与えられず、むしろキリストを待ち望むように命じられているという事実は、教会が七十週に参加することを禁じています。

J.テサロニケ人への手紙第二2章における拘束者の働き

テサロニケのクリスチャンたちは、携挙がすでに起こり、自分たちが主の日に来ているのではないかと恐れていました。
1章で述べられているように、彼らが耐え忍んでいた迫害が、彼らにこの誤った考えを抱かせました。
パウロは、そのようなことは不可能であることを彼らに示すために手紙を書きました。
まず3節で、主の日は、ある者が去るまでは来ないことを彼らに示しています。
この去ることが、信仰からの離脱なのか、それとも1節で既に述べられているように、聖徒たちが地上から去ることなのかは、ここでは問題ではありません。

二番目に、彼は罪の人、つまり不法の者の現れが、ヨハネの黙示録13章でさらに詳しく述べられていることを明らかにしています。
パウロが7節で論じているのは、当時、不法の奥義、つまり不法の体制が機能し、その頂点に至って不法の者の人格が現れしていたにもかかわらず、この不法の者は、制止者が排斥されるまでは現れできないということです。
言い換えれば、サタンの目的が成就するのを阻んでいる方がおられ、御自身が排斥されるまで、この働きを続けられるということです。(7、8節)
この制止者の人格について、人間の政府、律法、目に見える教会といった説明だけでは不十分です。
なぜなら、これらはすべて、この不法の者の現れ後も、ある程度存続するからです。
これは本質的に解釈上の問題ですが、そのような制止の働きを行える唯一の方は聖霊であるように思われます。
この問題については後ほど詳しく検討します。
しかし、ここで暗示されているのは、聖霊が神殿である教会に宿っている限り、この制止の働きは続き、罪の人は現れないということです。
神殿である教会が取り除かれた時にのみ、この制止の働きは終わり、不法は不法な者を生み出すことができるのです。
注目すべきは、教会が取り除かれたとしても聖霊の働きは止まないし、教会が取り除かれたとしても聖霊の遍在性も止まないということです。
しかし、制止の働きは止むのです。
したがって、この制止者の働きは、神の神殿が地上にある限り続き、不法の者が現れる前には終わらなければなりませんが、教会の患難前携挙を必要とします。
なぜなら、ダニエル書9章27節は、その不法の者が週の初めに現れると明らかにしているからです。

K.間隔の必要性

使徒の働き28章15節で「会う(apant ē sis)」という意味の言葉は、「共に帰るために出会う」という意味で用いられています。
テサロニケ人への手紙第一4章17節で使われている同じ言葉も同じ意味を持ち、それゆえ教会は携挙され、主と共に地上に瞬時に帰還しなければならないとよく議論されます。
携挙と帰還の間に間隔があることは否定され、不可能になります。
ギリシャ語のこの言葉自体がそのような解釈を必要としないだけでなく、教会が携挙された後に起こると預言されているいくつかの出来事が、そのような解釈を不可能にしています。
これらの出来事とは、
(1)キリストのさばきの座
(2)教会がキリストに引き出されます。
そして、
(3)小羊の結婚です。

1.コリント人への手紙第二5章9節、コリント人への手紙第一3章11~16節、ヨハネの黙示録4章4節、19章8節、14節といった聖句は、教会がその管理責任について吟味され、キリストの再臨の時に報いを受けていることを示しています。
この出来事が、ある一定の期間を経ずに起こるとは考えられません。

2.教会は父から子への贈り物として捧げられるべきものです。

スコフィールド氏はこのように書いています。
「これは主の最高の喜びの瞬間であり、主の救済の業がすべて完了する瞬間です。」

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のために御自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
御自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
(エペソ人への手紙5章25~27節)

「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、」
(ユダの手紙24節)[10]


3.ヨハネの黙示録19章7~9節では、キリストと教会の結合の完成が再臨に先立つことが明らかにされています。
マタイによる福音書25章1~13節、22章1~14節、ルカの福音書12章35~41節など、多くの箇所では、王が再臨の時に花婿の役を演じており、結婚が成立したことを示しています。
この出来事も同じ様に、一定の期間の満了を必要とし、携挙と啓示が同時に起こるという見解を不可能にします。
この考察では時間の長さは示されていませんが、携挙と啓示の間には一定の間隔が必要になると考えられます。

L.携挙と再臨の区別

携挙と再臨の間には、聖書において両者が同義語として見なされていないことを示す多くの対照点があります。
この二つの別々の計画という事実は、聖書において二つの出来事の間に描かれている多くの対照点によって最もよく分かります。

(1)携挙はすべての信者のからだの変換を伴いますが、再臨は御子の出現または現れを伴います。
(2)携挙は聖徒たちが空中に引き上げられるのを伴い、再臨においてキリストは地上に戻ります。
(3)携挙においてはキリストは花嫁を迎えるために来られますが、再臨においては花嫁と共に戻って来られます。
(4)携挙は教会のからだの変換と患難時代の始まりをもたらし、再臨は千年王国の樹立をもたらします。
(5)携挙は差し迫っていますが、再臨に先立って多くの兆候が起こります。
(6)からだの変換は慰めのメッセージをもたらしますが、再臨は審判のメッセージを伴います。
(7)からだの変換は教会の計画に関連していますが、再臨はイスラエルと世界の計画に関連しています。
(8)からだの変換は奥義ですが、再臨は旧約聖書と旧約聖書の両方で預言されています。
(9)からだの変換の時、信者は裁かれますが、再臨の時、異邦人とイスラエルは裁かれます。
(10)からだの変換は創造物を変えませんが、再臨は創造物の変化を伴います。
(11)からだの変換の時、異邦人は影響を受けませんが、再臨の時、異邦人は裁かれます。
(12)からだの変換の時、イスラエルの契約は果たされませんが、再臨の時、その契約はすべて果たされます。
(13)からだの変換は悪に関する神の計画とは特に関係がありませんが、再臨の時、悪は裁かれます。
(14)神の御前へのからだの変換は怒りの日より前に起こると言われていますが、再臨は怒りの日の後に起こります。
(15)神の御前へのからだの変換は信者だけのためのものですが、再臨はすべての人に影響を及ぼします。
(16)教会は神の御前へのからだの変換に関して「主は近づいた」(ピリピ人への手紙4章5節)と期待しており、イスラエルは神の御国が近づいた。(マタイの福音書24章14節)と期待しています。
(17)教会は神の御前へのからだの変換の時に主の御前に迎え入れられることを期待していますが、イスラエルは再臨の時に神の御国に迎え入れられることを期待しています。[11]
これらの点や、他に挙げられる対照的な点は、これら二つの異なる計画であり、一つの出来事として統合することはできないという主張を裏付けています。

M.二十四人の長老

ヨハネの黙示録4章4節で、ヨハネは、白い衣をまとい、金の冠をかぶり、天の神の御前に座す二十四人の長老の幻を見ます。
この二十四人の正体については、いくつかの答えが示されています。
ある人たちは、この書物に登場する四つの生き物と関連づけられていることから、彼らは御使いだと主張します。
これは、文字通りの同一視は彼らの考えに反するため、その解釈を回避しようとする試みのようです。
二十四人の長老について語られていることは、御使いには適応できません。
なぜなら、御使いは報酬として受け取る勝利者の「冠(stephanos)」を戴くことも、王の威厳と特権を象徴する「王座(thronos)」に座ることも、審判の結果として白い衣を着ることもないからです。
この見解が不可能であることから、二つ目の見解が支持されます。
二つ目の見解では、彼らは復活した贖われた人々であり、天の王族と関連して衣をまとい、冠を授かり、王座に座っているとされています。

スコフィールド氏は、彼らが教会の代表者であるという見解を裏付ける証拠を提示し、次のように記しています。
「長老たちが教会を代表することを示す、誤りのない5つの特徴があります。
それらは、
(1)彼らの地位です。
彼らは虹で囲まれた中央の王座の「周囲」に座しています。
教会と、贖われたすべての集まりの教会にのみ、共同で王座に就くことが約束されています。(ヨハネの黙示録3章21節)
キリストはまだ地上で御自身の王座に着いてはおられませんが、これらの王たちは、傷のない者として、主の大きな喜びをもって、主と共にいるはずです。
(ヨハネの福音書17章24節、テサロニケ人への手紙第一4章17節)

(2)聖書において数字が象徴として非常に大きな役割を果たしているこの書において、これらの代表的長老たちの数は重要です。[24]
というのは、レビ人の祭司職が分けられた合唱団の数です。(歴代誌第一24章1~19節)
そして、贖われた者たちのすべての集まりの中で、教会だけが祭司職なのです。(ペトロの手紙第一2章5~9節、ヨハネの黙示録1章6節)

(3)王座についた長老たちの証言は、彼らが教会を代表していることを示しています。


「彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。
あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」」
(ヨハネの黙示録5章9、10節)


教会だけが、そして教会だけが、このように証言することができます。

(4)長老職は代表職です。(使徒の働き15章2節、20章17節)
(5)長老の霊的な知性は、彼らが最も内なる神の計画に与る者であることを示しています。
(例えば、ヨハネの黙示録5章5節、7章13節)

「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。
わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」
(ヨハネの福音書15章15節)


長老たちは比喩的に教会であり、聖書が教会に割り当てている場所に天で現れます。
それは、封印が開かれる前、もしくは災いが告げられる前、そして神の怒りの鉢が注がれる前のことです。
そして、20章に至るまで、教会は地上にあるとは一度も言及されていません。」[12]

ヨハネの黙示録5章8節によれば、この24人は祭司の務めに携わっており、御使いについてそのようなことは一度も言われていません。
ゆえに、彼らは大祭司と関係のある信者であり祭司です。
イザヤ書26章19~21節とダニエル書12章1、2節によれば、イスラエルは七十週の終わりまで復活せず、主の再臨まで裁きも報いも受けないことから、彼らは今の時代の聖徒たちの代表者でなければなりません。
彼らは七十週の初めに復活し、天で裁かれ、報いを受け、即位すると見られることから、教会は七十週が始まる前に携挙されていたに違いないと結論付けられます。
もし、ある人々が主張するように、教会がここで復活し天に上げられず、ヨハネの黙示録20章4節までではないとしたら、ヨハネの黙示録19章7~11節で教会が天にいるはずがありません。
この問題についてはさらに研究されることになるが、そのような考察は患難時代前再臨主義をさらに裏付けるものとなります。

N.テサロニケ人への手紙第一4章13~18節の背後にある問題点

テサロニケのクリスチャンたちは復活の事実を知らなかったわけではありません。
これは十分に確立されているため、説明や弁明は必要ありません。
パウロが彼らにこの啓示を与えたのは、復活と、キリストにあって携挙まで眠りについている聖徒たちとの関係を彼らが誤解していたからです。
パウロは、復活の事実を教えるために書いたのではなく、携挙において生きている者がキリストにあって死んだ者よりも優位に立つことはないという事実を教えるために書いたのです。
もし、テサロニケの人々が、教会が七十週を通過すると信じていたなら、兄弟たちの中にはこの苦しみの期間を逃れ、怒りの注ぎを経験することなく主と共にいる者がいると喜んだはずです。
もし教会が患難時代を通過していたなら、七十週の出来事を待つよりも主と共にいる方が良かったのです。
彼らは、兄弟たちが主の祝福を逃したと感じていたのではなく、これらの出来事を免れたことを主に感謝したはずです。
これらのクリスチャンは、教会が七十週を終えることはないと信じていたようで、キリストの再臨を待ち望みながら、この出来事の祝福を逃したと考えた兄弟たちのために嘆き悲しんでいたのです。

O.平和と安全の告知

テサロニケ人への手紙第一5章3節で、パウロはテサロニケの教会に、主の日が「平和と安全」の告知の後に来ると告げています。
この偽りの安心感は、主の日に関して多くの人々を無気力状態に陥らせ、その日が盗人のように来るように仕向けます。
この無気力状態を生み出した告知は、主の日に先立って発せられたものです。
もし、教会が七十週の段階にあったとしたら、信者たちが獣によってかつてないほど迫害されている時期に、このようなメッセージが宣べ伝えられ、人々に受け入れられ、人々が自己満足に陥ることはありえません。
あらゆる兆候が、彼らが「平和と安全」の時代にはいなかったことを示しているはずです。
怒り、裁き、そして暗闇の訪れが、このような告知の後に起こるという事実は、その時期が始まる前に教会が携挙されなければならないことを示してたのです。

P.教会と政府の関係

新約聖書では、教会は政府のために祈るよう教えられています。
なぜなら、政府は神によって任命されたものであり、権威を持つ者たちが救われ、その結果、聖徒たちが平和に暮らせるようにするためでした。
これはテモテへの第一の手紙2章1~4節の教えです。
さらに、ペトロの手紙第一2章13~16節、テトスへの手紙3章1節、ローマ人への手紙13章1~7節では、教会はそのような権力に服従するよう教えられています。
なぜなら、これらの政府は神の御心を行う神の代理人だからです。
ヨハネの黙示録13章4節によると、七十週の政府はサタンに支配され、不法の現れを通してサタンの意志と目的を全うします。
この時代における教会と政府の関係、そして七十週におけるサタンによる政府の支配ゆえに、教会はこのサタンの政府が現れる前に救われなければなりません。
教会はそのような政府に服従することはできません。
イスラエルは七十週の間、当然のことながら、そのような不敬虔な者たちに神の裁きを招き、憎悪に満ちた詩篇に見られるように、神が御自身の義を証明してくださるよう叫び求めます。
しかし、これは今の時代の教会の働きや、教会と政府との関係の在り方ではありません。

Q.書簡における患難に関する沈黙

ヤコブの手紙、ペテロの手紙第一、そしてある程度はテサロニケの手紙第二は、教会への迫害が差し迫っていたことを考慮して書かれました。
ヨハネの福音書15章18~25節、16章1~4節、ペテロの手紙第一2章19~25節、4章12節、ヤコブの手紙1章2~4節、5章10、11節、テサロニケの手紙第二1章4~10節、テモテの手紙第二3章10~14節、4章5節など、多くの箇所は、迫害に関する啓示を与え、その理由を述べ、信者がそれを耐え忍ぶことができるように助けと援助を与えるために書かれました。
明らかに、書簡の著者たちは教会が七十週目を耐え抜くことは知りません。
なぜなら、彼らは過去の迫害への援助に心を砕いていたため、人類が経験した中で最も厳しい迫害に立ち向かうための助けと導きを与えたに違いないからです。
彼らは、すべての人に共通する迫害に備えようとはしていません。
信者がこれらの迫害に巻き込まれることを想定しての特別な助けと支援を必要とする怒りの噴出を無視しています。

この点についてスコフィールド氏は次のように書いています。
「教会が大患難時代に入ると断言する聖書の一節もないばかりか、その約束を説明する上院での説教、新しい約束、書簡のいずれにも、大患難時代についてはほとんど触れられていません。
教会のために特別に書かれた、あの膨大な霊感を受けた書物の中に、この表現は一つも見当たりません。」[13]

この世の迫害と七十週の怒りは、激しさだけでなく、種類や性質においても多様であるため、小さな迫害に備えれば、大きな迫害にも備えられると言うだけでは不十分です。
教会が患難時代に備えることができないままとなる書簡における沈黙は、教会がその時期に全く存在しなかったことを物語っています。

R.二人の証人のメッセージ

ヨハネの黙示録11章3節では、二人の特別な使者がイスラエルに遣わされます。
彼らの宣教には、旧約聖書における預言的なしるしの使い方に倣い、彼らのメッセージの神からの起源を証明するしるしが伴います。
彼らの説教の内容は明らかにされていませんが、その内容は使者たちの服装から推測することができます。

彼らは「荒布(sakkos)」を着ていると言われていますが、これはセイヤー氏によって次のように定義されています。
粗い布、特に動物の毛で作られた黒くて粗い布。
袋のように体にフィットする同様の素材の衣服で、喪主、悔悛者、嘆願者などが着用していました。
また、ヘブルの預言者のように質素な生活を送る人々も着用していました。」[14]

列王記第二1章8節のエリヤの働きとマタイによる福音書3章4節のバプテスマのヨハネの働きは、背教の時代にイスラエルに遣わされて国民に悔い改めを呼びかけていたという点で類似しています。
しかし、この二人の証人の働きを比べてみると、どちらの場合も彼らのメッセージのしるしは同じで、毛糸の衣であり、国民の喪と悔い改めのしるしであったことがわかります。
彼らの特徴的な服装から、二人の証人はヨハネがしたのと同じメッセージ、つまり王が来られるので悔い改めるというメッセージを告げていると結論付けることができます。
彼らの良い知らせはマタイによる福音書24章14節の「御国の福音」です。
彼らは十字架の説教を怠っていません。
ヨハネの黙示録7章14節とゼカリヤ書13章8、9節が、七十週における御国の福音の説教には十字架の説教が伴うことを示しているからです。
教会に託されたメッセージは恵みのメッセージです。
教会には他にメッセージはありません。
告げられたメッセージが、裁き、悔い改め、そして王の来臨に備えるためであるという事実は、教会がもはや存在していないことを示しています。
なぜなら、教会にはそのようなメッセージが託されていないからです。

S.教会の運命

教会の運命が天の運命であることは誰も否定できません。
教会の約束と期待はすべて天のものです。
七十週に救われた者の運命を研究すると、彼らの期待と約束は天のものではなく、地上のものであることがわかります。
マタイによる福音書25章34節はこれをとても明確に述べています。
もし教会が七十週に地上にあるなら、その期間に救われた者は皆、肉体の中で救われることになります。
もし携挙が七十週の終わりまでに起こらず、救われた者の一部は地上の祝福に、一部は天の運命に送られたとしたら、キリストのからだはバラバラになり、一体性は破壊されてしまいます。
そのようなバラバラはあり得ません。
これは、この七十週に救われて千年王国に入る者は、教会の計画が終了した後に救われたことを暗示しているに過ぎません。

T.ラオデキアへのメッセージ

ヨハネの黙示録3章14~22節で、ヨハネはラオデキアの教会にメッセージを与えています。
この教会は、信仰を告白する教会の最終形態を表しています。
この教会は、その信仰告白の非現実性ゆえに主から拒まれ、主の口から吐き出されます。
もし教会が、信仰告白の部分だけでなく、全体として七十週に入るならば、このラオデキアの教会こそ真実な教会の姿であると結論づけられます。
このことから、いくつかのことが明らかになります。
真実な教会は、七十週の迫害を経験しながら、主に対してなまぬるいままでいることはできません。
迫害は火を煽り、なまぬるさを猛烈な熱に変えるか、そうでなければ火を完全に消し去ってしまいます。
過去において、常に迫害の働きはそうでした。
もしこれが真実な教会を表すならば、さらに明らかなのは、この教会は主の前から吐き出され、完全に拒まれることになります。
これは、真実な教会の一員でありながら、最終的には完全に追放される可能性があることを教えていません。
そのようなことはあり得ません。
唯一の選択肢は、真実な教会はフィラデルフィア教会とともに終わりを迎えるということです。
フィラデルフィア教会は、患難時代が始まる前にヨハネの黙示録3章10節の約束に従って地上から取り除かれます。
そして、携挙によって真実な教会が切り離され、偽りの信仰を告白する教会は後に残され、主に拒まれ、七十週に吐き出されます。
その偽りの信仰告白の本質が明らかになり、主によって正しく拒まれるようになります。

U.異邦人の年代

ルカの福音書21章24節で主は、エルサレムが「異邦人の時代が満ちるまで」異邦人の支配下にあり続けることを示しています。
ゼカリヤ書12章2節、14章2、3節は、獣の軍勢が主によって滅ぼされる再臨の時までは、それが終わらないことを示しています。
これはヨハネの黙示録19章17~19節で主がこのようにされる様子が示されています。
ヨハネの黙示録11章2節の第六のラッパと第七のラッパの間の期間の中に、異邦人の時代への言及があります。
ヨハネは、エルサレムが依然として異邦人の支配下にあり、この期間によって中断されている一連の裁きの始まりから異邦人の支配の終わりまでが三年半であることを示しています。
これは注目すべき重要な点です。
なぜなら、患難時代中再臨主義によれば、ラッパは七十週の最初の三年半に起こる出来事だからです。
もしこれらの見解が正しいとすれば、異邦人の時は週の半ば、もしくは少なくとも七十週の終わりまでに終わるはずです。
もし、そうなればエルサレムは再臨の主以外の何らかの出来事もしくは人物によって解放されなければならないことになります。
ヨハネの黙示録11章2節に示されているこの時間的要素は、この見解を支持できないものにしています。

V.再臨を待ち望む残された民

マラキ書3章16節、エゼキエル書20章33~38節、37章11~28節、ゼカリヤ書13章8、9節、ヨハネの黙示録7章1~8節など、多くの聖句は、主が地上に再臨される時、イスラエルには主の再臨を待ち望む信仰を持つ残された民が存在することを明確に示しています。
また、マタイによる福音書25章31~40節、マタイによる福音書22章1~13節、ルカの福音書14章16~24節などのたとえ話も、異邦人の中にもたくさんの信者が存在しており、主の再臨を信じて待ち望むことを示しています。
主が再臨の時にアブラハム契約、ダビデ契約、パレスチナ契約、そして新しい契約における約束を成就するためには、主が支配し、契約が成就される、信仰を持つ残された民が必要です。
また、信仰を通して主の支配における契約の恩恵を受けることができる、信仰を持つ異邦人の集まりも必要です。
これらの集まりは、救われながらも死と復活を経験することなく、生まれつきのからだのまま千年王国に入ります。
もし教会が再臨の時まで地上に存在していたならば、これらの救われた人々は教会の地位に救われ、その時に携挙されていたはずです。
その結果、地上には救われた人は一人も残っていないことになります。
では、誰がキリストの再臨を待ち望むのでしょうか?
キリストはイスラエルと交わした契約を文字通り誰と成就できるのでしょうか?
これらのことを考えるなら、教会の患難前携挙が必要となり、それによって神は患難時代の間に残された民を呼び出し、保護し、彼らを通して約束が成就されるのです。

W.イスラエルから証印を押された14万4千人

教会が地上にある限り、特別なユダヤ人の関係に救われる者は一人もいません。
救われる者は皆、コロサイ人への手紙1章26~29節、3章11節、エペソ人への手紙2章14~22節、3章1~7節に示されているように、キリストのからだである地位に救われます。
七十週の間、教会は不在でなければなりません。
なぜなら、ヨハネの黙示録7章14節によれば、イスラエルに救われた残された民の中から、神は各部族から1万2千人ずつ、合計14万4千人のユダヤ人に証印を押されるからです。
再び、神がイスラエルとこの国家関係において交渉し、彼らを国家的認識として分けられ、教会の証人の代わりに彼らを諸国民への特別な代表者として遣わすという事実は、教会がもはや地上にあってはならないことを示しています。

X.ヨハネの黙示録の年代

患難時代中携挙と患難時代後携挙の両方の立場を扱うにあたり、ヨハネの黙示録の年代は検証されてきました。
ここでは、さらなる証拠としてのみ述べられています。
1~3章は、この現代における教会の進展を描いています。
4~11章は、七十週の期間全体の出来事を扱い、11章15~18節でキリストが地上に戻って支配するところで締めくくられています。
したがって、封印は最初の三年半の出来事であり、ラッパは最後の三年半の出来事です。
ヨハネによる福音書10章11節で与えられた指示に従い、12章~19章は、七十週をもう一度全体を見て、今回は劇の舞台上の役者を明らかにすることを目的としています。
この年代は、患難時代中携挙説を不可能にします。
なぜなら、11章15~18節のいわゆる患難時代中携挙は、患難時代後の地上への帰還であり、携挙そのものではないと考えられるからです。
これは、患難時代前携挙説をさらに裏付ける証拠となります。

Y.サタンの攻撃の最大の標的

ヨハネの黙示録12章によれば、患難時代におけるサタンの攻撃の標的は、子を産んだ「女」です。
この子は「鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧する」(ヨハネの黙示録12章5節)ために生まれたので、支配する権利を持つキリストを指しているはずです。
詩篇作者は詩篇2章9節でこの解釈を確証しており、これは明らかにメシア的な解釈です。
キリストの出自はイスラエル以外にあり得ません。
サタンが天から追放される時(ヨハネの黙示録12章9節)、「悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったから」(ヨハネの黙示録12章12節)です。
教会はここに存在してはいけません。
なぜなら、教会は「キリストのからだ」であり「キリストの花嫁」であり、したがってキリストにとって尊い存在であるから、もしここにいたら、古今東西を問わずサタンの攻撃の標的となってしまうからです。(エペソ人への手紙6章12節)
サタンがイスラエルに敵対する理由は、教会がその場にいないこと以外に説明できません。

Z.背教の期間

信仰を告白する教会側が当該時代に完全に背教したため、教会はこの世に存在することが不可能となりました。
患難時代に述べられている組織化された教会は、イゼベルの組織(ヨハネの黙示録2章22節)と淫婦の組織(ヨハネの黙示録17、18節)だけです。
真実な教会が地上にあったとすれば、背教組織とは別個に言及されていないことから、教会は背教組織の一部であったはずです。
しかし、そのような結論はあり得ません。
当該時代に改心した信仰の証人たちは、この背教組織による汚れから自分の事を守ったと明確に述べられています。(ヨハネの黙示録14章4節)
教会もまたこの組織から身を守ったとは述べられていないことから、教会はこの世には存在しないと結論づけるしかありません。

AA.真実な教会への約束

聖書には、教会が七十週の前に取り去られることを明確に約束する箇所がいくつかあります。

1.「全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」
(ヨハネの黙示録3章10節)
ヨハネの黙示録3章10節。
ヨハネは「守ろう(tēreō)」という語を用いています。
セイヤー氏は、この動詞が「(en)」と共に用いられる場合、「あることに堅く立つ、もしくは耐えさせる」という意味になり、「(ek)」と共に用いられる場合、「守ることによって、安全に逃れさせる」という意味になると説明しています。(15)
ここで「(ek)」が用いられていることから、ヨハネは試練の領域から取り除かれることを約束しているのであって、試練を通り抜けて守られることを約束しているのではないことが暗示されます。
これは「時」という言葉の使用によってさらに裏付けられます。
神は試練から守るだけでなく、地上に住む者たちに試練が臨むまさにその時からも守っておられるのです。

ティーセン氏はこの箇所について次のように述べています。
「私たちは動詞「守る(tereso)」と前置詞「から出て行く(ek)」の意味を知るべきです。

アルフォード氏は前置詞「(ek)」について、「〜の中から出て行く」という意味であると述べています。
「それが〜からの免れるのか、それとも安全に通り抜けることによるのか、前置詞は明確に定義していません。
したがって、彼は文法的にはこの二つの単語は同じ意味を持つ可能性があります。
ヨハネの黙示録3章10節は「悪を無傷で通り抜ける」という意味ではなく、「悪から完全に免れる」という意味だと指摘しています。
文法的には、その期間からの絶対的に「免れる」という解釈が可能です。」
他の学者も前置詞ek(〜から出て行く、〜へ入って行く)について同様のことを述べています。

バットマン・セイヤー氏は、「(ek)」と「(apo)」は「しばしば同じ関係を示すために使用される」と述べています。
ヨハネの福音書17章15節、使徒の働き15章29節、ヨハネの黙示録3章10節をこの使い方の例として挙げています。

アボット氏は「七十人訳聖書とヨハネ福音書において、「(ek)」が「(sozo)」や「つまり、救う、保つという動詞(tereso)」)と共に用いられる場合、常に、人が救われる悪がすでに存在していたことを暗示しているのかどうか」に疑問を呈しています。

ウェストコット氏は、「救う(ek sozo)」について、必ずしも、そこから救われることが現実に実現されていることを意味するわけではないと主張しています。
(コリント人への手紙第二1章10、参照)
しかし、一般的にはそうです。
(ヨハネによる福音書12章27節)と述べています。
同じ様に、テサロニケ人への手紙一1章10には、イエスが私たちを「(ek)来たるべき怒りから」救ってくださると記されています。
これは、そこから保護されるという意味では到底あり得ません。
むしろ、そこから免除されるという意味があります。
ゆえに、前置詞「から」は、預言されているものからの完全に免れることをを意味すると解釈できるのは明らかです。
文脈や聖書中の他の記述から、この解釈が必要になることは明らかです。
文脈に関して言えば、約束は単に誘惑から守られるべきものではなく、誘惑の時から、つまり試練の期間そのものから守られるべきであり、試練の期間中の試練から守られるべきではないことに注意してください。
また、もし使徒がまさにそのことを言いたかったのであれば、簡単に「その時に(en te hora)」と書くことができたはずです。
に、なぜ「その時から(ek tes horas)」と書いたのでしょうか?
確実に、神の霊が彼が用いたまさにその言葉によって彼を導いています。[16]

2.テサロニケ人への手紙第一5章9節

「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」
この箇所における対比は、光と闇、怒りとその怒りからの救いです。
テサロニケ人への手紙第一5章2節は、この怒りと闇が主の日のそれであることを示しています。
この箇所をヨエル書2章2節、ゼパニヤ書1章14~18節、アモス書5章18節と比較すると、ここで述べられている闇は七十週の闇であることが分かります。
ヨハネの黙示録6章17節、11章18節、14章10節、19節、15章1節、7節、16章1節、19節と比較すると、主の日の怒りが分かります。
パウロは9節で、私たちが待ち望んでいるのは怒りと暗闇ではなく、救いであると明確に教えています。
そして、10節では、その救いの方法、つまり「神とともに生きる」ことを示しています。

3.テサロニケ人への手紙第一1章9、10節

「私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」


ここでパウロは、私たちが待ち望んでいるのは怒りではなく、「天から来る御子」の出現であると明確に示しています。
これは、七十週の怒りが地上に降りかかる前に御子が現されなければ、起こり得ないことです。

B.解析論の一致

解析による議論はそれ自体では弱い議論です。
しかし、もしある教えがすべての類型論に反するならば、それは真実な解釈とはなり得ません。
聖書には、信仰によって歩む者は不信者を襲う裁きの試練から救われたと教える類型が数多くあります。
そのような類型はノアとラハブの経験に見られますが、おそらく最も明確な例はロトの例でしょう。
ペテロの手紙二2章6~9節で、ロトは義人と呼ばれています。
この神聖な解説は、創世記19章22節に光を当てます。
そこで、御使いが「急いでそこへのがれなさい。
あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。」と言ってロトの出発を急がせようとしました。
一人の義人の存在がソドムの町に当然の裁きが下されることを防いだのであれば、まして地上の教会の存在は、教会が滅ぼされるまで神の怒りが下されることを防ぐことできるはずです。
患難時代前再臨主義を信じる根拠は数多く提示されてきました。
その中には、特に患難時代中再臨主義に適応されるものもあれば、患難時代後再臨主義に適応されるものもあります。
ただし、すべての論拠が同等の重要性や重みを持つとは主張していないことを念頭に置く必要があります。
患難時代前再臨主義はこれらの論拠を単独で根拠としているのではなく、むしろ、ダニエル書の七十週が始まる前に教会が携挙によって救われるという累積的な証拠として捉えられています。

NOTE
[1]Oswald T. Allis, Prophecy and the Church, p. 17.
[2]Norman B. Harrison, The End, p. 120.
[3]Wm. Kelly, Lectures on the Second Coming of the Lord Jesus Christ, pp. 186-237.
[4]Ibid., p. 235.
[5]Henry C. Thiessen, Will the Church Pass Through the Tribulation? pp. 28-29.
[6]Joseph Henry Thayer, Greek-English Lexicon of the New Testament, p. 498.
[7]Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology, IV, 47-53.
[8]Thiessen, op. cit., p. 15.
[9]Chafer, op. cit., IV, 278-79.
[10]C. I. Scofield, Will the Church Pass Through the Great Tribulation! p. 13.
[11]W. E. Blackstone, Jesus Is Coming, pp. 75-80
[12]Scofield, op. cit., pp. 23-24.
[13]Ibid., p. 11.
[14]Thayer, op. cit., p. 566.
[15]Ibid., p. 622.
[16]Thiessen, op. cit., pp. 22-24.


第14章 携挙後の教会の出来事

聖書には、携挙後に教会が導かれる二つの出来事が描かれており、それらは終末論的に特別な意味を持っています。
それは、キリストの審判の座と小羊の結婚です。

1.キリストの裁きの食卓

コリント人への手紙第二5章10節とローマ人への手紙14章10節では、後者の箇所では「神のさばきの座」と正しく訳されていますが、信者は神の御子の御前で審問を受けると述べられています。
この出来事はコリント人への手紙第一3章9~15節でより詳細に説明されています。
このような重大な事柄には、細心の注意が必要です。

A.さばきの座の意味

新約聖書には「さばきの座」と訳されている二つの言葉があります。
一つ目は、ヤコブの手紙2章6節、コリント人への手紙第一6章2節と4節で使われている「(critērion)」です。
セイヤー氏によれば、この言葉は「何かを審理したり裁いたりするための道具や手段、人が判断する時に用いる基準」、もしくは「判決が下される場所、裁判官の法廷、裁判官の席」を意味します。[1]
したがって、この言葉は、判決を下す際の基準や規準、もしくはそのような判決が下される場所を指していると考えられます。
二つ目は「(bēma)」で、セイヤー氏はこれについて次のように述べています。
「階段状の高い台、演壇、護民官、裁判官の公席を指しています。
使徒の働き18章12、16節ではキリストのさばきの座を指しています。
ローマ人への手紙14章10節、ヘロデがカイサリアの劇場に建てた王座のような構造物を指しています。
そこからヘロデは競技を観戦し、民衆に演説を行ないました。」[2]

その意味と使い方について、プラマー氏は次のように書いています。
「「(bēma)」とは、裁判所の執政官のための聖堂、もしくは軍営における指揮官の規律執行や軍隊への演説の場だとしても、法廷を指します。
いずれの場合も、法廷は壇上に議長の座席(sella)が置かれていました。
七十人訳聖書では、「(bēma)」は座席ではなく、壇上または足場を指すのが一般的です。(ネヘミヤ記8章4節)
新約聖書では、一般的に座席を指しています。
しかし、いくつかの箇所では座席が置かれた壇上を指すこともあります。
アレオパゴスでは「(bēma)」は石の壇上でした。
使徒パウロは軍事的な比喩や、キリスト教生活を戦争に例えることを好んでいました。
しかし、ここで軍事法廷について考えていたとは考えられません。」[3]

セール・ハリソン氏によれば、
「アテネの古代ギリシャ競技場では、かつての闘技場には高くなった台があり、闘技場の審判長がそこに座りました。
審判長はここからすべての競技者に褒賞を与え、またすべての勝者にも褒賞を与えました。
この台は「ベーマ(bēma)」もしくは「褒賞席」と呼ばれています。
審判席として使われることは決してありません。」[4]

したがって、この言葉には、正義や裁きという概念よりも、卓越性、尊厳、権威、名誉、報酬といった概念が結び付けられています。
パウロがこの出来事が起こる場所を表すために選んだ言葉は、その場所の特質を示しています。

B.キリストの「ベーマ(bēma)」の時にここで述べられている出来事は、教会がこの地上の領域から移された直後に起こります。
これを裏付けるいくつかの考察があります。

(1)まず最初に、ルカの福音書14章14節によれば、報酬は復活と関連しています。
テサロニケ人への手紙第一4章13~17節によれば、復活はからだの変換の不可欠な部分であるため、報酬はその計画の一部でなければなりません。

(2)主が花嫁を連れて地上に戻って支配される時、花嫁はすでに報酬を受けていることが示されます。
これはヨハネの黙示録19章8節に見られ、「聖徒たちの義」は複数形であり、信者の分であるキリストから授けられた義ではなく、吟味に耐え、報酬の根拠となった義を指していることに配慮する必要があります。

(3)コリント人への手紙第一4章5節、テモテへの手紙第二4章8節、およびヨハネのヨハネの黙示録19章10節では、報酬は復活と関連していることがわかります。
また、ヨハネの黙示録22章12節では、報いは「その日」、つまりキリストがご自分の民を迎えに来られる日と結び付けられています。
したがって、教会への報いは携挙とキリストの地上への啓示の間に行われなければならないことに配慮する必要があります。

C.キリストの「ベーマ(bēma)」の場所

この審問が天の領域で行われなければならないことは、言うまでもありません。
テサロニケ人への手紙第一4章17節には「生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです」とあります。
「ベーマ(bēma)」はこのからだの変換に従っているので、「空中」がその場所です。
これはさらに、コリント人への手紙第二5章1~8節によって裏付けられています。
そこでパウロは、信者が「むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよい」(コリント人の手紙第二5章8節)ときに起こる出来事について述べています。
したがって、この出来事は「天の領域」における主の臨在の中で起こらなければなりません。

D.「ベーマ(bēma)」における裁き主であるキリスト

コリント人への手紙第二5章10節は、この審問が神の御子の御前で行われることを明確に示しています。
ヨハネによる福音書5章22節は、すべての裁きが御子の手に委ねられていると述べています。
ローマ人への手紙14章10節でこの出来事が「神のさばきの座」と呼ばれていることは、神がこの裁きを御子の手に委ねられたことを示しています。
キリストの昇栄の一部は、裁きにおいて神の権威を現す権利です。

E.キリストの「ベーマ(bēma)」の主題

キリストのベーマが信者のみに関係していることは疑いようがありません。
コリント人への手紙第二5章1~19節では、最初の人称代名詞があまりにもくり返し使われているので、この点を見逃すことはできません。
信者だけが「手で造られていない、天にある永遠の家」を持つことができます。
信者だけが「死ぬべきものがいのちにのまれてしまう」ことを経験することができます。
信者だけが「神は、その保証として御霊を下さいました」神の働きを経験することができます。
信者だけが「私たちが肉体にいる間は、主から離れている」という確信を持つことができます。
信者だけが「私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいく」ことができます。

F.キリストの「ベーマ(bēma)」における審問の根拠

ここで問題となるのは、裁かれる者が信者であるか否かを判断することではないことに注意すべきです。
救いの問題は考慮されていません。
キリストを信じる者に与えられた救いは、彼をあらゆる裁きから完全に解放されました。(ローマ人への手紙8章1節、ヨハネの福音書5章24節、ヨハネの手紙第一4章17節)
信者を罪の問題に関して、つまり新生前の罪、新生後の罪、もしくは新生後の告白されていない罪に関して裁くことは、キリストの死の効力を否定し、「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない」(ヘブル人への手紙10章17節)という神の約束を無効にすることになります。

プリダム氏は次のように書いています。
「聖徒は、生まれながらの罪、もしくは受け継いだ罪によって、二度と裁きを受けることはありません。
なぜなら、彼はすでにキリストと共に司法的に死んでおり、もはや生まれながらの責任に基づいて認識され、扱われることはないからです。
人間として、彼は計量され、欠陥があると認められました。
その者は生まれながらの怒りの遺産として、罪の宣告の下に生まれ、彼の肉体には善が何も見出されていません。
しかし、彼の罪は救い主の血によって消し去られ、彼は救い主のゆえに、自由に、そして正当に赦されています。
キリストは死者の中から復活したので、彼はもはや罪の中におられません。
彼は信仰によって義とされ、義なる方の御名と功績によって神の御前に立てられています。
そして、この新しく、永遠に祝福された受け入れの資格の生ける証印であり、証人である聖霊は、それゆえ、彼自身のために裁きを受けることはできません。」[5]

このプログラム全体は、信者における神の義の現れを通して神の栄光が現されることと関係しています。

ケリー氏はコリント人への手紙第二5章10節について次のように述べています。
「ここでも、コリント人への手紙第一3章8節と14節にあるように、奉仕に報いを与えるという問題ではなく、善であれ悪であれ、それぞれの行いに応じて神の義なる支配において報いを受けるという問題なのです。
これは、正しい者であれ正しくない者であれ、すべての者に適応できます。
人の行うすべての行いが、生者と死者の審判者である神によって定められた神の御前に、ありのままに現れるのは、神の栄光のためです。」[6]

コリント人への手紙第二5章10節で「現れる」と訳されている語は、「明らかにされる」と訳した方が適切だと思います。。
つまり、この節は「私たちはみな、キリストのさばきの座に明らかにされる」となります。
これは「ベーマ(bēma)」の目的が、個人の本質的な性格と動機を公に示し、実証し、啓示することであることを示しています。
プラマー氏の「私たちは集まりで、もしくは階級ごとに裁かれるのではなく、一人一人、それぞれの功績に応じて裁かれるのです」[7]という発言は、これが主の御前で信者一人ひとりに下される個別の裁きであるという事実を裏付けています。
信者の行いは「肉体にあってした」(コリント人への手紙第二5章10節)と呼ばれ、善であるか悪であるかを判定されるために裁きを受けます。
「悪(phaulos)」という言葉に関して注目すべきは、パウロが「悪(kakos or ponēras)」を表す通常の言葉を用いていないことです。
どちらも倫理的または道徳的に悪いことを意味します。

しかし、トレンチ氏によれば、それは次の意味を持ちます。
「積極的または受動的な悪意というよりも、別の側面では悪であり、むしろそれが何の役にも立たず、そこから真実な利益が生まれることはあり得ないという悪です。
この無価値という概念が中心的な概念があります。」[8]

したがって、裁きは道徳的に何が善で何が悪かを決めることではなく、何が受け入れられ、何が価値がないかを決めることです。
主がここで御子の罪を罰することではなく、主の名においてなされた奉仕に対して報いることが主の目的なのです。

G.キリストの「ベーマ(bēma)」における審査の結果

コリント人への手紙第一3章14、15節では、この審査には二つの結果、つまり報酬を得るか、報酬を失うかが宣言されています。
報いを受けるか受けないかを決めるのは、火による試練です。
パウロはこのように記しています。

「もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」
(コリント人への手紙第一3章14、15節)

パウロはコリント人への手紙第二5章10節で使われているのと同じ言葉を使って明らかにしています。
火によって明らかにされ、その日がそれを明らかにします。

そして、「その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」
(コリント人への手紙第一3章13節)


この言葉から、まず最初に、試練を受けるのは信者の行いの範囲によることが分かります。
さらに、その試練は外見に基づく外的な判断ではなく、むしろ内面の性格と動機を見極める試練であることが分かります。
火による試練の目的は、何が滅びるもので何が滅びないものかを見極めることです。
使徒は「神と共に働く者たち」が、既に据えられた土台の上に建物を建てる時に用いる建築資材には二種類あると断言しています。
金、銀、宝石は不滅の材料です。
これらは神の御業であり、人間はそれを自分のものとして用いるだけです。
木、草、わら、刈り株は滅びる材料です。
これらは人間が自らの力で造り出したものです。
使徒は、キリストの「ベーマ(bēma)」における吟味は、神が個人を通して成し遂げたことと、個人が自らの力で成し遂げたこと、神の栄光のために成し遂げたことと、肉の栄光のために成し遂げたことを見極めるためであることを明らかにしています。
外見的な観察によって、ある「仕事」がどちらの種類に該当するかを判断することはできません。
ゆえに、その仕事は、その真実な性質が試されるために、試練の場にかけられなければなりません。

1.この試練に基づいて、二つの決定がなされます。
火によって滅びることが証明されたものは、報いを受けられません。
肉の力と栄光のために行われたことは、それがどのような行為であれ、非難されます。
パウロはこの事実を踏まえ、聖霊の力ではなく肉の力に頼ることへの恐れを次のように表現しています。

「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。
それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」
(コリント人への手紙第一9章27節)

パウロが「捨てられた(adokimos)」という言葉を用いた時、彼は救いを失うことへの恐れを表現しているのではなく、むしろ自分の行いが「無益」とされるであろうことを表現しているのです。

この言葉についてトレンチ氏はこのように書いています。
古典ギリシャ語では、専門単語で試験を受けることにお金をかけ「証明(dokimos)」することを表す言葉です。
これらは証明されるための忍耐を意味しています。
そして、これらが失敗(承認されずに拒まれ(adokimos))するのです。[9]
損失を被ることは救いを失うことを意味するという解釈を防ぐために、パウロはこのように付け加えています。

「もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」
(コリント人への手紙第一3章15節)


2.火の試練によって不滅であることが証明された働きには、報いが与えられます。
新約聖書には、報いについて具体的に述べられている5つの分野があります。

(1)古い人を克服する者には朽ちない冠が与えられます。(コリント人への手紙第一9章25節)
(2)魂を勝ち取る者には喜びの冠が与えられます。(テサロニケ人への手紙第一2章19節)
(3)試練に耐える者には命の冠が与えられます。(ヤコブの手紙1章12節)
(4)主の再臨を愛する者には義の冠が与えらます。(テモテへの手紙第二4章8節)
(5)神の羊の群れを養うことを喜んで行う者には栄光の冠が与えらます。(ペテロへの手紙第一5章4節)
これらは、報いが与えられる分野を暗示しています。

「冠(stephanos)」を表す言葉には、冠や褒美といった性質が暗示されています。
マヨール氏は、この言葉が次のように使われていると述べています。
「(1)競技会での勝利の花輪として使われています。
(コリント人への手紙第一9章25節、テモテへの手紙第二2章5節)
(2)祭りの装飾として使われています。
(箴言1章9節、4章9節、雅歌3章11節、イザヤ書28章1節)
(3)目立った奉仕や個人的な価値に対して与えられる公的な栄誉として、例えばデモステネスに与えられた金の冠として使われています。」[10]

この単語を「[diadema]」と対比させてトレンチ氏は次のように書いています。
「英語の「冠(crown)」は両方の意味を持つため、これらの言葉を混同してはいけません。
古典文学において「冠(stephanos)」が王冠または皇帝の冠を指して使われている箇所はどこにも見当たらないのではないかと私は強く疑っています。
新約聖書において、使徒パウロが語る「冠(stephanos)」は常に征服者のものであり、王のものではないことは明らかです。
(コリント人への手紙第一9章24~26節、テモテへの手紙第二2章5節)
「冠(stephanos)」が王冠を指して使われていると思われる唯一の箇所は、マタイによる福音書27章29節です。
マルコによる福音書15章17節、ヨハネによる福音書19章2も参照してください。」[11]

ゆえに、パウロが報酬を表すために選んだ言葉は、まさに勝利者に授けられる名誉と尊厳と結びついた言葉なのです。
私たちはキリストと共に支配しますが、王冠はキリストだけのものであり、勝利者の冠は私たちのものなのです。
ヨハネの黙示録4章10節では、長老たちが礼拝と崇敬の行為として、自分の冠を御座の前に投げ出す場面が描かれています。
しかし、その冠は受け取る者の永遠の栄光のためではなく、与える方の栄光のために与えられることが明らかにされています。
これらの冠は永久に所有されるものではないため、報酬そのものの性質に関する疑問が生じます。
聖書から、信者は神に栄光を帰すために贖われたことが分かります。
(コリント人への手紙第一6章20節)
これがその者の永遠の運命となります。
報酬の物質的なしるしを御座に座っておられる方の足元に置く行為(ヨハネの黙示録4章10節)は、その栄光を帰す行為の一つです。
しかし、信者はそれで神に栄光を帰すという運命を終えるわけではありません。
これは永遠に続きます。

聖書の多くの箇所で、報酬は輝きや光と結び付けられています。
(ダニエル書12章3節、マタイ書13章43節、コリント人への手紙第一15章40、41、49節)
したがって、信者に与えられる報酬は、永遠にわたってキリストの栄光を現す能力なのかもしれません。
報酬が大きいほど、神に栄光をもたらす能力も大きくなります。
したがって、信者が報酬を行使する時には、報酬によって栄光を受けるのは信者ではなく、キリストです。
栄光を輝かせる能力はそれぞれ異なりますが、各信者が自分の能力の限界まで満たされ、次の聖句のような使命を果たすので、個人的な欠乏感はありません。

「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」
(ペトロの手紙第一2章9節)


II.小羊の結婚

新約聖書の多くの箇所において、キリストと教会の関係は、花婿と花嫁という比喩を用いて明らかにされています。
(ヨハネの福音書3章29節、ローマ人への手紙7章4節、コリント人の手紙第二11章2節、エペソ人への手紙5章25~33節、ヨハネの黙示録19章7、8節、21章1~22章7節)
教会の天への昇天において、キリストは花婿として現れ、花嫁を御自身のもとへ迎え入れます。
こうして、誓約された関係が完成し、二人が一つとなります。

A.聖書では、結婚の時期は教会の天への携挙と再臨の間と明示されています。
携挙以前、教会は依然としてこの結びつきを待ち望んでいます。
ヨハネの黙示録19章7節によれば、この結婚は再臨の時に行われています。
なぜなら、「小羊の結婚が来た」と宣言されているからです。

「来た」と訳されているアオリスト時制の「(ēlthen)」は、完了した行為を意味し、結婚が完結したことを示しています。
この結婚はキリストの「ベーマ(bēma)」の出来事に続くものと考えられています。

なぜなら、妻が現れる時、彼女は「聖徒たちの正しい行ない」(ヨハネの黙示録19章8節)のうちに現れるからです。
これは、キリストのさばきの座で受け入れられたものだけを指します。
したがって、結婚そのものはキリストのさばきの座と再臨の間に置かれなければなりません。

B.結婚の場所は天でのみ可能です。

これは、天にあると示されているキリストのさばきの座に従うものであり、また、主が再臨される時、教会は空中から降りてきます。
(ヨハネの黙示録19章14節)
ゆえに、結婚は天で行われなければなりません。
天の民にとって、他の場所はふさわしくありません。(ピリピ人への手紙3章20節)

C.結婚の参加者

小羊の結婚は、明らかにキリストと教会だけが関わる出来事です。
ダニエル書12章1~3節とイザヤ書26章19~21節によれば、イスラエルと旧約聖書の聖徒たちの復活はキリストの再臨の時まで起こらないことが後に示されます。
ヨハネの黙示録20章4~6節も同じ様に、患難時代の聖徒たちもその時まで復活しないことを明確にしています。
これらの集まりを観察者の立場から排斥することは不可能ですが、彼らがこの出来事自体の参加者となることは不可能です。
この点に関して、小羊の結婚と結婚の晩餐を区別する必要があるように思われます。
小羊の結婚は教会に特に関係する出来事であり、天で行われます。
結婚の晩餐はイスラエルに関係する出来事であり、地上で行われます。
マタイによる福音書22章1~14節、ルカの福音書14章16~24節、マタイによる福音書25章1~13節では、イスラエルが花婿と花嫁の帰りを待っていますが、結婚の宴、つまり晩餐は地上で行われ、特にイスラエルに関係しています。
したがって、結婚の晩餐は千年王国全体を比喩的に表すものとなり、イスラエルは患難時代にこの招待に招かれます。
多くの人がこの招待を拒絶し、追い出されますが、多くの人が受け入れ、受け入れられます。
拒まれたため、招待は同じ様に異邦人にも届き、彼らの多くも含められることになります。
イスラエルは再臨の時、花婿が結婚式から帰って来て、彼らを晩餐に招待するのを待ちます。
その晩餐で花婿は花嫁を友人たちに紹介します。(マタイの福音書25章1~13節)

ヨハネの黙示録19章9節の「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ」という宣言については、二つの解釈が可能です。
チェイファー氏はこのように述べています。
「この時点で、キリストの再臨前に天で執り行われる婚宴と、結婚の宴(マタイの福音書25章10節、(ルカの福音書12:37節)それは主が再臨された後に地上に来るものです。」[12]

この見解は、再臨に先立つ天での晩餐と、再臨後の地上での晩餐という二つの晩餐を予期するものです。
もう一つの解釈は、この告知は、結婚と再臨の後に地上で執り行われる結婚の晩餐を予期するものであり、その晩餐のために地上に戻る前に天で告知がなされる、というものです。
ギリシャ語原文では「結婚の晩餐」と「婚宴」を区別しておらず、どちらも同じ言葉で表現しています。
「結婚の晩餐」は一貫して地上のイスラエルを指して用いられているため、後者の見解を採用するのが最善でしょう。
つまり、小羊の結婚は、教会がキリストと永遠に結ばれる天での出来事であり、結婚の晩餐もしくは晩餐は、ユダヤ人と異邦人が招かれ、地上で行われる千年王国であり、その期間中、花婿はそこに集まったすべての友人たちに花嫁を披露することで敬意を表す、というものです。
教会は、神の現代における計画でしたが、今や天に移され、復活し、父なる神から御子なる神に差し出され、神の永遠の栄光が永遠に現れるためのものとなりました。
こうして現代は「御名をもって呼ばれる民」(使徒の働き15章14節)という神の御心の始まり、進展、そして完成を目撃することとなります。

[1]Joseph Henry Thayer, Greek-English Lexicon of the New Testament, p. 362.
[2]Ibid., p. 101.
[3]Alfred Plummer, A Critical and Exegetical Commentary on the Second Epistle to the Corinthians, p. 156.
[4]L. Sale-Harrison, Judgment Seat of Christ, p. 8.
[5]Arthur Pridham, Notes and Reflections on the Second Epistle to the Corinthians, p. 141.
[6]William Kelly, Notes on the Second Epistle of Paul the Apostle to the Corinthians, p. 95.
[7]Plummer, op. cit., p. 157.
[8]Richard C. Trench, New Testament Synonyms, pp. 296-97.
[9]Ibid., p. 260.
[10]J. B. Mayor, The Epistle of James, p .46.
[11]Trench, op. cit., p. 79.
[12]Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology, IV, 396.


第四部 患難時代の預言

第15章 聖書における患難時代の教理


I.主の日

旧約聖書全体にわたって、そして新約聖書にも続く主要な預言の一つは、主の日に関する預言的真理です。

A.主の日における時間的範囲

主の日の範囲は、聖書解釈者たちの間で議論の的となってきました。
主の日を患難時代の年のみを指すと考える人もいれば、キリストの地上への再臨と、それに直接関連する裁きと関連付ける人もいます。
しかし、この問題には大きく分けて二つの解釈があります。

一つはスコフィールド氏の見解で、彼は次のように述べています。
「ヤハゥエの日(「その日」や「大いなる日」とも呼ばれる)とは、主が栄光のうちに再臨される時に始まり、新しい天と新しい地の準備として天と地が火によって清められる時に終わる、長い期間のことです。」
(イザヤ書65章17~19節、66章22節、ペトロの手紙第二3章13節、ヨハネの黙示録21章1節)[1]
したがって、主の日とは、キリストが地上に戻ってから千年王国後の新しい天と地に至るまでの期間を指すことになります。

もう一つの見解は、アイアンサイド氏が述べているものです。
「恵みの日がついに終わると、主の日がそれに続く。主の日は[携挙]の後に来ます。
それは神の裁きが地上に注がれる時です。
主がすべての聖徒たちと共に降臨し、敵に裁きを執行し、王国を支配します。
そして、栄光に満ちた千年間、正義のうちに支配することが含まれます。」[2]

この2番目の見解は、終結点に関しては前の見解と一致します。
しかし、主の日が患難時代から始まるため、患難時代、再臨、千年王国の出来事はすべて主の日の範囲内に含まれます。
「主の日」という単語は、以下の聖句に出てきます。
イザヤ書2章12節、13章6、9節、エゼキエル書13章5節、30章3節、ヨエル書1章15節、2章1、11、31節、3章14節、アモス書5章18節(2回)、20節、オバデヤ書15章、ゼパニヤ書1章7節、14節(2回)、ゼカリヤ書14章1節、マラキ書4章5節、使徒の働き2章20節、テサロニケ人への手紙第一5章2節、テサロニケ人への手紙第二2章2節、ペテロの手紙第二3章10節。

さらに、「その日」もしくは「その日」もしくは「大いなる日」という表現は、旧約聖書に75回以上出てきます。
この表現の出現頻度は、預言的な聖書におけるその重要性を証明しています。
これらの聖句は、審判の概念がすべての聖句において最も重要であることを示しています。
このことはゼパニヤ書1章14~18節で非常に明確に示されています。
この裁きには、再臨に伴う患難時代の終わりにイスラエルと諸国民に下される特定の裁きだけでなく、聖句自体を考察すると、再臨以前の期間に及ぶ裁きも含まれています。
したがって、主の日には患難時代も含まれると結論付けられます。
ゼカリヤ書14章1~4節は、再臨の出来事が主の日の計画に含まれていることを明確に示しています。
ペテロの手紙第二3章10節は、千年王国全体をこの期間に含める根拠を与えています。
もし主の日が再臨まで始まらなかったとしたら、その出来事には前兆が先行するからです。
ゆえに、主の日はテサロニケ人への手紙第一5章2節で言われているように、「夜の盗人」のように、予期せぬ、予告のないものとして来るはずがありません。
この日が世界に突然訪れる唯一の方法は、教会の携挙の直後に始まることです。
したがって、主の日とは、患難時代の始まりである携挙後の神のイスラエルへの働きかけから始まり、再臨と千年王国を経て、千年王国後の新しい天と新しい地の創造に至るまでの、長期間にわたる期間であると結論付けられます。

B.主の日の出来事

主の日に起こる出来事は実に重大であり、この期間の研究には預言聖書の大部分の研究が不可欠であることは明らかです。

そこには、患難時代に預言された出来事、例えば、ローマ帝国の成立(ダニエル書2章と7章)、この帝国の政治的支配者の台頭とイスラエルとの契約(ダニエル書9章27節、ヨハネの黙示録13章1~10節)、偽預言者による偽りの宗教組織の形成(ヨハネの黙示録13章11~18節)、封印による裁きの注ぎ出し(ヨハネの黙示録6章)、14万4千人の証人の分離(ヨハネの黙示録7章)、ラッパによる裁き(ヨハネの黙示録8~11章)、神の証人の台頭(ヨハネの黙示録11章)、イスラエルの迫害(ヨハネの黙示録12章)、鉢から注ぎ出される裁き(ヨハネの黙示録16章)、偽りの信仰を告白する教会の滅亡(ヨハネの黙示録17、18章)、ハルマゲドンの戦いにおける出来事(エゼキエル書38、39章、ヨハネの黙示録16章16節、19章17節)、御国の福音の宣教(マタイの福音書24章14節)などが含まれます。

また、再臨に関連する預言された出来事、例えば主の再臨(マタイの福音書24章29、30節)、旧約時代の聖徒と患難時代の聖徒の復活(ヨハネの福音書6章39、40節、ヨハネの黙示録20章4節)、獣とそのすべての軍勢、そして偽預言者と獣崇拝におけるその追随者たちの滅亡(ヨハネの黙示録19章11~21節)なども含まれます。
諸国民への裁き(マタイの福音書25章31~46節)、イスラエルの再集結(エゼキエル書37章1~14節)、生けるイスラエルへの裁き(エゼキエル書20章33~38節)、イスラエルの国土への復帰(アモス9章15節)、サタンの封印(ヨハネの黙示録20章2、3節)
さらに、千年王国におけるすべての出来事、サタンの最終的な反乱(ヨハネの黙示録20章7~10節)、大きな白い御座における裁き(ヨハネの黙示録20章11~15節)、そして地の清め(ペトロの手紙第二3章10~13節)も含まれます。
これらと、関連する多くの主題を研究しなければなりません。

C.キリストの日

これに非常に関連した単語として、一部の人々に混乱を招いているのが「キリストの日」という単語です。

スコフィールド氏は次のように述べています。
「キリストの日」という表現は次の聖句に出てきます。
コリント人への手紙第一1章8節、5章5節、コリント人の手紙第二1章14節、ピリピ人への手紙1章6、10節、2章16節(AV訳聖書では「キリストの日」としているが、これは誤りです。)、テサロニケ人への手紙第二2章2節などがあります。
「主の日」を意味します。(イザヤ書2章12節、ヨハネの黙示録19章11~21節)」[3]
「キリストの日」は、主の来臨における聖徒たちの報いと祝福にのみ関連しており、「主の日」は審判と結びついています。

スクロギー氏は次のように書いています。
「「キリストの日」と呼ばれるこの出来事は、テサロニケ人への手紙第一5章2節、テサロニケ人への手紙第二2章2節(RV訳聖書の「主の日」)とは区別されなければなりません。
後者の表現は旧約聖書に由来し、キリストの全世界の王国に関連しています。
しかし、前者の表現は新約聖書にのみ見られ、教会のためのキリストの降臨に関連しています。」[4]

したがって、これら二つの表現が用いられる場合、二つの別々の時間領域ではないものの、二つの別々の計画が念頭に置かれていることが示されているように思われます。
これらを同じ出来事を指すものとすることはできません。
「キリストの日」が用いられるいずれの場合も、それは教会の期待、教会の天への移動、栄光化、そして報いのための審査を指して具体的に用いられています。
聖書で使われている「日」という言葉は、必ずしも時間を表す言葉ではなく、どの期間に起こる出来事にも使われることがあります。
パウロはコリントの信徒への手紙二6章2節で「救いの日」について語る時にこの言葉を使っています。
ある人たちはこの点を理解しておらず、聖書が「主の日」と「キリストの日」について述べているので、これら二つは別々の時期に来るに違いないと考え、たいてい「キリストの日」は患難時代の出来事を指し、「主の日」は再臨とそれに続く千年王国に関係した出来事を指すと言います。
確かに、この二日間には二つの異なった計画が予定されていますが、それらは同じ時間帯に当たることもあります。
ゆえに、たとえ二つの異なった計画が予定されていたとしても、その二日間は同じ始まりを持つのかもしれません。
コリント人への手紙第一1章8節で「主イエス・キリストの日」について述べられているのは、主が「主であり、またキリスト」です。
使徒の働き2章36節)ため、この2つの日に関係があることを示しているのかもしれません。

II.聖書における患難時代

この主題については以前の記事でも簡単に触れましたが、この重要な終末論の教義に関する聖書の教えを説明する必要があります。

A.患難時代の性質

聖書における患難時代の概念を理解するには、聖書そのものに語らせること以上に良い方法はありません。
この主題に関する御言葉の宣言をすべて列挙することは不可能です。
いくつか挙げるだけで十分です。
啓示の系譜は旧約聖書の初期から始まり、新約聖書まで続いています。

「あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従うのである。
あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。」
(申命記4章30、31節

「主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩のほら穴や、土の穴にはいる。」
(イザヤ書2章19節)

「見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。」
(イザヤ書24章1節)

「地は荒れに荒れ、全くかすめ奪われる。主がこのことばを語られたからである。」
(イザヤ書24章3節)

「それゆえ、のろいは地を食い尽くし、その地の住民は罪ある者とされる。それゆえ、地の住民は減り、わずかな者が残される。」
(イザヤ書24章6節)

「 地は裂けに裂け、地はゆるぎにゆるぎ、地はよろめきによろめく。
地は酔いどれのように、ふらふら、ふらつき、仮小屋のように揺り動かされる。
そのそむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。
その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる。」
(イザヤ書24章19~21節)

「さあ、わが民よ。あなたの部屋にはいり、うしろの戸を閉じよ。
憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。
見よ。主はご自分の住まいから出て来て、地に住む者の罪を罰せられるからだ。
地はその上に流された血を現わし、その上で殺された者たちを、もう、おおうことをしない。」
(イザヤ書26章20、21節)

「 ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。」
(エレミヤ書30章7節)

「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。
荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」
(ダニエル書9章27節)

「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。
国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。
しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。」
(ダニエル書12章1節)

「ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。」
(ヨエル書1章15節)

「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。
この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。
やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。
このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。」
(ヨエル書2章1、2節)

「ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。」
(アモス書5章18節)

「ああ、まことに、主の日はやみであって、光ではない。暗やみであって、輝きではない。」
(アモス書5章20節)

「主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。聞け。主の日を。勇士も激しく叫ぶ。
その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、」
(ゼパニヤ書1章14、15節)

「彼らの銀も、彼らの金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出せない。
そのねたみの火で、全土は焼き払われる。主は実に、地に住むすべての者をたちまち滅ぼし尽くす。」
(ゼパニヤ書1章18節)

「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。
しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。」
(マタイの福音書24章21、22節)

「そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、
人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。
天の万象が揺り動かされるからです。」
(ルカの福音書21章25、26節)

「人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。
ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。」
(テサロニケ人への手紙第一5章3節)

「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」
(ヨハネの黙示録3章10節)

「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」
(ヨハネの黙示録6章15~17節)


これらの聖書箇所から、この時代の性質や特徴は避けることはできません。
怒り(ゼパニヤ書1章15、18節、テサロニケ人への手紙第一1章10節、5章9節、ヨハネの黙示録6章16、17節、11章18節、14章10、19節、15章1、7節、16章1、19節)、

審判(ヨハネの黙示録14章7節、15章4節、16章5、7節、19章2節)、

憤り(イザヤ書26章20、21節、34章1~3節)、

試練(ヨハネの黙示録3章10節)、

苦難(エレミヤ書30章7節、ゼパニヤ書1章14、15節、ダニエル書12章1節)、

破壊(ヨエル書1章15節、テサロニケ人への手紙第一5章3節)、

暗闇(ヨエル書2章2節、アモス5章18節、ゼパニヤ書1章14~18節)、

荒廃(ダニエル書9章27節、ゼパニヤ書1章14、15節)、転覆(イザヤ書24章1~4節、19~21節)、罰(イザヤ書24章20、21節)などです。

B.患難時代の源

患難後再臨主義者は、教会が耐え忍ぶこの時代の患難と、地上に到来する前例のない、比類ない患難時代を区別することを拒み、患難時代の厳しさは人間、もしくはサタンの働きによってのみもたらされると主張し、神をその時代から完全に切り離しています。

リース氏は次のように書いています。
「ダービー氏とこれを信じる者たちによれば、大患難時代は、ユダヤ人がキリストを拒んだことに対する神の怒りです。
聖書によれば、大患難時代は、反キリストを拒絶しキリストに従う聖徒たちに対する悪魔の怒りです。
読者はこの点に関する聖書の真理を一度理解し、ダービー主義者の出来事は、憶測、誤った発言、感情に基づく軍事行動として暴露されます。」[5]

患難時代には、イスラエルに対するサタンの怒り(ヨハネの黙示録12章12~17節)と、聖徒たちに対するサタンの操り人形である獣の怒り(ヨハネの黙示録13章7節)が目撃されます。
しかし、この怒りの現れでさえ、その日に噴き出す怒りの全てを消し去るものではありません。
聖書には、この期間は人間の怒りでも、サタンの怒りでもなく、神の怒りの時であると主張する箇所が数多くあります。

見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。」
(イザヤ書24章1節)

「見よ。主はご自分の住まいから出て来て、地に住む者の罪を罰せられるからだ。地はその上に流された血を現わし、その上で殺された者たちを、もう、おおうことをしない。」
(イザヤ書26章21節)

「ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。」
(ヨエル書1章15節)

「彼らの銀も、彼らの金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出せない。そのねたみの火で、全土は焼き払われる。主は実に、地に住むすべての者をたちまち滅ぼし尽くす。」
(ゼパニヤ書1章18節)

「山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」」
(ヨハネの黙示録6章16、17節)

「諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。
死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」
ヨハネの黙示録11章18節)

「彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」」
(ヨハネの黙示録14章7節)

「そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。」

「そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。」
(ヨハネの黙示録14章19節)

「主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。
ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」
(ヨハネの黙示録15章4節)

「また、四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使いに渡した。」
(ヨハネの黙示録15章7節)

「また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」」
(ヨハネの黙示録16章1節)

「また私は、祭壇がこう言うのを聞いた。「しかり。主よ。万物の支配者である神よ。あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」」
(ヨハネの黙示録16章7節)

「また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。」
(ヨハネの黙示録16章19節)

「この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。
「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。
神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」」
(ヨハネの黙示録19章1、2節)


これらの聖書箇所から、この時期が、神の怒りと裁きが地上に下る特異な時期であることは否定できません。
これは人間の怒りでもサタンの怒りでもありません。
神が御心を実行するための手段としてこれらの存在を用いるからです。
これは神からの苦難です。
この期間は、その激しさだけでなく、苦難の種類においても、それ以前のすべての苦難とは異なります。
なぜなら、それは神ご自身から来るからです。

C.患難時代の目的

1.患難時代の第一の大きな目的は、イスラエル国民をメシアの到来に備えることです。
エレミヤ書(30章7節)の預言は、この来るべき時が特にイスラエルに関係していることを明確に示しています。
それは「ヤコブの苦難の時」です。

スタントン氏は次のように述べて、この時代がユダヤ人にとってどのような特徴を持つかを示しています。
「患難は主にユダヤ人に起こります。
この事実は旧約聖書によって裏付けられています。
聖書(申命記4章30節、エレミヤ書30章7節、エゼキエル書20章37節、ダニエル書12章1節、ゼカリヤ書13章8、9節)、
キリストのオリーブ山の説教(マタイの福音書24章9~26節)、
そしてヨハネの黙示録(ヨハネの黙示録7章4~8節、12章1、2節、17節など)によって示されています。
それは「ダニエルの民」、「偽メシア」の到来、「神の御国の福音」の宣教、「安息日」の逃亡、神殿と「聖所」、ユダヤの地、エルサレムの都、「イスラエルの子らの十二部族」、「モーセの子」、天の「しるし」、獣との「契約」、「聖所」、神殿の儀式における「ささげ物と儀式」などに関するもので、これらはすべてイスラエルについて語っており、患難時代は主に神が約束の王国に入る前の旧約の民と関わる時期であることを証明しています。
イスラエルはさらに、神がこの国を扱う将来の時を暗示しています。(申命記30章16節、エレミヤ記30章8~10節など)」[6]

神が患難時代におけるイスラエルに与えられた目的は、多くのユダヤ人を改心させることです。
彼らは神の御国の祝福にあずかり、イスラエルのすべての契約の成就を経験します。
王が間もなく再臨するという福音が宣べ伝えられ(マタイの福音書24章14節)、イスラエルは救い主に心を向けます。
バプテスマのヨハネがイスラエルを最初の到来に備えるためにそのようなメッセージを宣べ伝えたように、エリヤはイスラエルを再臨に備えるために宣べ伝えます。

「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。
それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」」
(マラキ書4章5、6節)


この証しは、患難時代に多くのユダヤ人が改心し、メシアを待ち望んでいることから(ヨハネの黙示録7章1~8節、マタイの福音書25章1~13の賢い処女たち)、効果的であることが分かります。
また、残りの信仰深い民の宣教を通して贖われた、救われた異邦人の大群で千年王国を満ち足りた状態にすることも神の目的です。
これは、「あらゆる国民、部族、民族、言葉」から来た大群(ヨハネの黙示録7章9節)と、「羊」(マタイの福音書25章31~46節)が千年王国に入ることで実現します。
つまり、神の目的は、イスラエルと異邦人の中から大勢の人々を御自分のもとに連れて来ることによって、千年王国を満ち足りた状態にすることです。

2.患難時代の二つ目の大きな目的は、不信仰な人々と諸国民に裁きを下すことです。
ヨハネの黙示録3章10節には「わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう」と記されています。
この箇所については既に考察しました。
この期間がすべての国々に及ぶことは、他の聖書箇所でも明確に教えられています。

「万軍の主はこう仰せられる。見よ。わざわいが国から国へと移り行き、大暴風が地の果てから起こる。
その日、主に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らはいたみ悲しまれることなく、集められることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。』」
(エレミヤ書25章32、33節)

「見よ。主はご自分の住まいから出て来て、地に住む者の罪を罰せられるからだ。
地はその上に流された血を現わし、その上で殺された者たちを、もう、おおうことをしない。」
(イザヤ書26章21節)

「それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」
(テサロニケ人への手紙第二2章12節


これらの聖書から、神は地上の諸国民を、その不敬虔さゆえに裁いておられることがわかります。
地上の諸国民は、淫婦の組織の偽りの教えに惑わされ(ヨハネの黙示録14章8節)、彼女の「激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒」を飲んできました。
彼らは偽預言者に従い、獣を崇拝してきました。(ヨハネの黙示録13章11~18節)
この不敬虔さゆえに、諸国民は裁かれなければなりません。
この裁きは「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が」に下されます。(ヨハネの黙示録6章15節)
彼らは皆「神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった」のです。(ヨハネの黙示録16章9節)
後に来る王国は義の支配であるため、この裁きは、メシアが支配するために罪に対処するという神の計画の進展における新たな段階と見なさなければなりません。
罪人に対するこの裁きの計画は、患難時代の二つ目の大きな目的を構成しています。

D.患難時代の時

患難時代の時間的要素を理解するには、ダニエルの預言に戻る必要があります。
そこでは、イスラエルの未来の歴史の年表が七十週の大預言(ダニエル書9章24~27節)の中で説明されています。

1.ダニエルの七十週の預言の重要性

この預言には多くの重要性が伴います。

a.預言の文字通りの解釈方法を確立しました。
ウォルフォード氏は次のように書いています。
「ダニエルの預言は、正しく解釈すれば、預言は文字通りに解釈されるべきであるという原則の優れた例となります。
預言そのものに反対する者も含め、ほぼすべての解釈者は、ダニエルの七十週の少なくとも一部は文字通りに解釈されるべきであることに同意しています。
ダニエルの最初の六十九週が文字通り成就したのであれば、最後の七十週も同じ様に成就するであろうという強力な論拠となります。」[7]

b.それは聖書の真実性を証明しています。

マクレイン氏は次のように述べています。
「七十週の預言は、聖書の真実性を証明するものとして計り知れない証拠価値を持っています。
最初の六十九週に関する預言の部分は、すでに正確に成就しています。
全知の神だけが、500年以上も前に、まさにその日が来ることを預言できたのです。
メシアはエルサレムに乗り込み、イスラエルの「君主」として自分の事を現すのです。」[8]

c.この預言は、教会は存在しなかった奥義であるという見解を支持しています。
旧約聖書に啓示されています。
ウォルフォード氏は言っています。
「ダニエル書の七十週は、正しく解釈すれば、キリスト教教会とイスラエルが神の目的において明確に位置づけられていることを示しています。
ダニエル書の七十週は、イスラエルと異邦人勢力との関係、そしてイスラエルのメシアの拒絶にのみ述べられています。
あらゆる国から民を召し出して教会を組織するという神の特別な目的と、現在の世界の計画は、この預言のどこにも見られません。」[9]

これは、教会がヨハネの黙示録4~19章には登場せず、イスラエルの計画が再開される前に携挙されていたに違いないことを裏付ける証拠となります。

d.この預言は、神の預言の年代順を私たちに示しています。
マクレイン氏は次のように解説しています。
「七十週の預言は、新約聖書の預言を解き明かす上で欠かせない年代の鍵となります。
マタイとマルコに記された主の偉大な預言的説教は、イスラエルの最後の、そして最大の苦難の時が、ダニエルの預言における七十週の期間内に確実に到来することを暗示しています。(ダニエル書9章27節、マタイによる福音書24章15~22節、マルコによる福音書13章14~20節)
そして、ヨハネの黙示録の大部分は、同じ七十週によって要約された年代の枠組みの中で、ダニエルの預言を単純に拡張したものに過ぎません。
七十週は二つの等しい期間に分けられ、それぞれが1260日、つまり42ヶ月、つまり三年半に及びます。(ヨハネの黙示録11章2、3節、12章6、14節、13章5節)
したがって、ダニエルの七十週の詳細を理解しない限り、新約聖書の預言を解釈しようとする試みは、ほとんど失敗する結果になります。」[10]

2.ダニエルの預言における重要な要素

ダニエルを通して与えられた預言の主要な強調点に注目する必要があります。

マクレイン氏はそれを次のように要約しています。[11]
1.この預言全体はダニエルの「民」とダニエルの「街」、つまりイスラエル国家とエルサレムの街に関係しています。(24節)
2.二人の異なる君主について言及されていますが、混同してはいけません。
最初の君主は「メシアなる君主」(25節)と呼ばれ、二番目の君主は「来るべき君主」(26節)と呼ばれています。
3.関係する全期間は七十週(24節)と正確に指定され、この七十週はさらに三つのより短い期間に分けられます。
最初は七週間の期間、その次は七十二週間の期間、そして最後に一週間の期間です。(25節、27節)
4.七十週の全期間の始まりは、「エルサレムを再建し、建て直せという命令が発せられた時」(25節)に明確に定められています。
5.七週と七十二週(六十九週)の終わりには、イスラエルの「君主」としてのメシアの出現によって特徴づけられます。(25節)
6.その後、最初の七週の後の「七十二週の後」(つまり、六十九週の後)に、君主であるメシアは「断たれ」、エルサレムは、まだ来ていない別の「君主」の民によって再び破壊されます。(26節)
7.これら二つの重要な出来事の後、私たちは最後の週、つまり七十週を迎えます。
その始まりは、来るべき君主とユダヤ民族の間で「一週間」(27節)の期間にわたる堅い契約または条約が締結されることによって特徴づけられます。
8.この七十週の「最中」に、来たるべき君主は明らかに条約を破り、ユダヤ人のささげ物を突然やめさせ、この民に「週の終わりまで」続く怒りと荒廃の時をもたらします。(27節)
9.七十週の期間が完全に完了すると、イスラエル国家にとって偉大で比類のない祝福の時が到来します。(24節)
これらの祝福とは、
(1)違反を終わらせること、
(2)罪を終わらせること、
(3)不義を償うこと、
(4)永遠の義をもたらすこと、
(5)幻と預言を封印すること、
(6)最も聖なる者に油を注ぐことです。」[12]

約束された六つの祝福は、メシアの二つの業、つまり死と支配に関係しています。
最初の三つはメシアのささげ物に特に関連しており、これは国家から罪が取り除かれることを予期するものです。
後の三つはメシアの支配に特に関連しており、これはメシアの支配の確立を予期するものです。
「永遠の義」は、イスラエルに約束された千年王国にのみ言及できます。
これはイスラエルに与えられたすべての契約と約束の目標であり、期待されたものであり、その設立において預言は成就します。
この王国は、千年王国の神殿における聖なる者、もしくは聖所が油を注がれた時にのみ確立されます。
千年王国は、イスラエルがメシアを迎え入れ、シェキーナが至聖所に戻ることをも目撃します。
このように、預言はイスラエルに対するメシアの業全体を予期していることがわかります。
メシアは、預言に定められた時が満了した時に、贖いを行い、支配します。

3.週の意味

この預言の年代順を決定する前に、まずダニエルがここで用いられている「週」という単語の意味を理解する必要があります。
この点について、マクレイン氏は次のように書いています。
「ヘブル語の「シャブア」は文字通り「七」を意味し、この箇所を次のように読むのが適切だと思います。。
つまり、ダニエル書9章24節は、単に「七十七が定められている」と主張しているに過ぎません。
そして、この「七」が何であるかは、文脈と他の聖書箇所から判断する必要があります。
その証拠は、以下の通り、極めて明確かつ十分です。
ユダヤ人には「七」年と「七」日がありました。
そして、聖書に記されたこの「週」年は、「週」日と同じくらいユダヤ人にとって馴染み深いものでした。
ある意味では、さらに重要でした。
ユダヤ人は6年間、自由に国土を耕し、種を蒔くことができましたが、七年目は厳粛な「国土の安息の安息日」(レビ記25章3、4節)とされていました。
この重要な週年、つまり「七つの安息年」の倍数に基づいて、大ヨベル年が定められました。
ダニエルの預言における「七十七」が、このよく知られた「七」年を指していると信じる理由はいくつかあります。
最初に、預言者ダニエルは日数ではなく年数だけでなく、「七」の倍数(10×7節)で考えていました。(ダニエル書9章1、2節)
二番目に、ダニエルはバビロン捕囚の期間が長かったのは、ユダヤ人が安息年という神の律法を破ったためであることを知っていました。
歴代誌第二36章21節によれば、ユダヤ人は70年間の安息のためにその地から追放されたので、安息年は490年間、つまり正確に70×「七」年にわたって破られたことは明らかです。
したがって、これらの違反に対する裁きの終わりに、御使いが遣わされて、ユダヤ人に対する神の対応の新しい時代の始まりを告げるのは、適切なことなのです。
その時代は、安息年に対するユダヤ人の違反によってカバーされた年数と同じ数、つまり490年周期、つまり「七十七」年(ダニエル書9章24節)にまで及ぶことになります。
さらに、預言の文脈から判断すると、「七十七」は年数で理解する必要があります。
もし「七」日とすれば、その期間はわずか490日、つまり1年強に過ぎません。
この短い期間に街が再建され、そして再び破壊されることを考えると(24節の壮大な出来事は言うまでもありませんが)、そのような解釈は全くあり得ず、支持できないことが明らかになります。
最後に、ヘブル語の「週(shabua)」は、この書の中で預言者が「三週間」喪に服し断食したと述べている箇所(10章2、3節)にのみ見られます。
ここで文脈から判断すると「週」日数であることが完全に明らかです…そして重要なのは、ここでのヘブル語は文字通り「三七日間」と読めるということです。
もし、9章で著者が「七十七」が日数で構成されていると理解させようとしたのであれば、なぜ10章で用いられたのと同じ表現を用いなかったのでしょうか?
明白な答えは、ダニエルが「週」と呼ばれる年数について言及する時にはヘブル語の「週(shabua)」のみを用いていたということです。
しかし、10章で「三週」の断食について語る時には、9章の「週」と呼ばれる年数と区別するために、それを「週の日数」と明確に表現しています。[13]

創世記29章27節には、興味深い裏付けとなる記述があります。
「それで、この婚礼の週を過ごしなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげましょう。その代わり、あなたはもう七年間、私に仕えなければなりません。」
ここでの「週」は、一週間、もしくは七年を指しています。
この考察において、預言書における一年は360日から成ることにも注目すべきです。
同じ著者は次のように述べています。
「聖書の預言的な年は360日、つまり30日の12か月で構成されていることを示す決定的な証拠があります。
最初の議論は歴史的なものです。
創世記の記録によると、大洪水は第二の月の17日に始まり(7章11節)、第七の月の17日に終わりました。(8章4節)
これはちょうど5か月の期間であり、幸いなことに、同じ期間の長さは日数で「百五十日」(7章24節、8章3節)と記されています。

したがって、聖書の歴史で使われている最も古い月は明らかに30日の長さであり、そのような月が12か月あれば1年は360日になります。
二つ目の論点は預言的なものです…ダニエル書9章27節にはユダヤ人の迫害の期間が記されています。
この迫害は七十週の「真ん中」に始まり、「終わり」まで続くので、その期間は明らかに三年半です。
ダニエル書7章24、25節では、同じローマの君主と同じ迫害について語っており、その期間を「ひとときと二時と時を分けること」、アラム語では「三時半」と定めています。
ヨハネの黙示録13章4~7節では、同じ偉大な政治支配者と、ユダヤ人の「聖徒たち」に対する彼による迫害が「四十二か月」続いたと語っています。
ヨハネの黙示録12章13、14節では同じ迫害について言及しており、ダニエル書7章25節と全く同じ言葉で期間を「一時と二時と半時の間」と述べており、この期間はヨハネの黙示録12章6節でさらに「千二百三十日」と定義されています。
このように、同じ期間が三年半、42か月、もしくは1260日などと様々に表現されています。
したがって、七十週の預言における1年の長さは、聖書自体によって正確に360日と定められていることは明らかです。[14]

4.六十九週の始まり

ダニエルは、この490年の期間は「それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ」始まると告げられました。(ダニエル書9章25節)
聖書には、バビロン捕囚からのユダヤ人の帰還に関するいくつかの勅令が記されています。
歴代誌第二36章22、23節のクロスの勅令、エズラ記1章1~3節、エズラ記6章3~8節のダリウスの勅令、そしてエズラ記7章7節のアルタクセルクセスの勅令があります。
しかし、これらすべてにおいて神殿の再建は許可されたものの、街の再建については何も述べられていません。
エズラ記4章1~4節では、ユダヤ人が許可なく街を再建していたため、神殿の再建は中止されました。
これらの勅令のどれも、ダニエル書9章25節の条件を満たしていません。
ネヘミヤ記2章1~8節に記されている、アルタクセルクセス20年目の勅令に目を向けると、エルサレムの町の再建が初めて許可されたことが分かります。
これは、神がこの預言の中で定めた預言的な時代の始まりとなります。
したがって、アルタクセルクセスの勅令の日付を確定することが必要となります。

この点についてアンダーソンは次のように書いています。
「アルタクセルクセスの治世の日付は、聖書解説者や預言者による精緻な論考からではなく、世俗の歴史家と年代学者の一致した意見によって、明確に特定することができます。
ユダの自治を回復したペルシャの勅令は、ユダヤ暦のニサン月に発布されました。
現実にはニサン月1日から遡った可能性があります。
したがって、七十週は紀元前445年ニサン月1日から計算されます。
ユダヤ教の聖年の大きな特徴は、過ぎ越しのささげ物によって血に染まったエジプトのイスラエルの小屋に春分点の月が光を放った記念すべき夜以来、変わることなく続いています。
そして、いかなる年であっても、ユリウス暦のニサン1日を狭い範囲内で定めることに、疑問も困難もありません。
紀元前445年、過ぎ越しの祭りを定めた新月は3月13日午前7時9分でした。
したがって、ニサン1日は3月14日とみなされるかもしれません。」[15]

5.六十九週の成就

ダニエル書の七十週の問題については、ロバート・アンダーソン卿の「来るべき君主」ほど綿密な研究は行われていない。
アンダーソンは六十九週の年代を次のように計算しています。
「「エルサレムを再建し建て直せという命令が発せられてから、君主メシアまで七週と七十二週です。
」したがって、紀元前445年3月14日から数えて69「週」、つまり預言的な483年からなる時代は、「君主メシアまで」という言葉を満たす何らかの出来事で終わるはずです。
福音書の物語を学ぶ者なら誰でも、主が最後にエルサレムを訪れたのは、事実だけでなく、その目的においても、主の務めの危機であったことを理解しているはずです。
今や、イエスの言葉と業による二重の証言は完全になされ、イエスが聖都に入城したのは、自らの救世主としての立場を宣言し、裁きを受けるためでした。
そして、その日付も特定できます。
ユダヤの慣習に従い、主はニサン8日、「過越祭の六日前」にエルサレムに上られました。
しかし、過越祭の晩餐が執り行われた14日がその年の木曜日であったため、8日はその前の金曜日でした。
したがって、主は安息日をベタニアで過ごされたはずです。
そして、安息日が終わった9日の夕方、晩餐はマルタの家で執り行われました。
福音書に記されているように、翌日のニサン10日、主はエルサレムに入城されました。
ニサン10日目のユリウス暦の日付は、西暦32年4月6日日曜日です。
では、エルサレム再建の勅令が発布されてから「君主メシア」が公に降臨するまでの期間、つまり紀元前445年3月14日から西暦32年4月6日までの期間は、どれくらいの長さだったのでしょうか?
その期間は、ガブリエルの預言の最初の六十九週である、預言上の69年(360日)の7倍である173,880日、まさにその日その日を含んでいます。[16]
アンダーソンは次のような数字を導き出しました。
アルタクセルクセス20年(エルサレム再建の勅令)の第1ニサンは紀元前445年3月14日でした。
受難週のニサン10日目(キリストのエルサレム入城)は西暦32年4月6日でした。
その間の期間は476年24日でした。(預言の言葉の規定とユダヤ人の慣習に従い、日数は包括的に計算しました。)

1年を365日で計算してみる。
476年×365=173470日
3月14日から4月6日は24日
うるう年分は116日
合計173880日

そして預言の年は六十九週、360日(69×7×360節)で、173,880日になります。」[17]

このようにアンダーソンは、六十九週はエルサレム再建の布告とともに始まり、主の死の週の日曜日にエルサレムへの凱旋入城をもって終了したことを示しています。
主がその日にエルサレムに入城された時に語られたルカの福音書19章42節の訂正された読み方は、極めて重要です。
「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。」[18]
ダニエルの預言の正確さは、「その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。」(ダニエル書9章26節)と述べている点に表れています。

6.六十九週と七十週の間には隔たりがあるのでしょうか?

患難後再臨主義者は無千年王国論者と共に、次のように主張します。

a.ダニエル書の預言の七十週は、キリストの死の直後の年に歴史的に成就しました。
ある者は、キリストは六十九週の終わりに断たれ、その死の直後に七十週が続いたと考えています。
また、キリストは七十週の半ばで断たれたため、七十週の後半はキリストの死の直後に続いたと考える者もいます。[19]
中には、現代全体が七十週であると主張する者もいます。[20]
この連続的な見解の誤りは、預言を霊的に解釈することによってのみ、ダニエル書9章24節に説明されているメシアの働きの結果が成就したと言えるという点に見られます。
この預言の対象となったイスラエルは、メシアの到来によって預言された恩恵を一つもまだ経験していません。
この解釈は受け入れられない解釈方法に依存しているため、この見解は否定されなければなりません。

b.七十週目は年代的に連続しているという見解に反対する見解として、七十週目は他の六十九週目から一定期間隔てられているという見解があります。
この見解を支持するいくつかの考察があります。

(1)このような隔たりは聖書の多くの箇所に見られます。
ウォルフォード氏は次のように書いています。
アイアンサイド博士は、神の計画における介入の例を数多く挙げています。
1)「主の恵みの年」と「われらの神の復讐の日」の間の期間。
(イザヤ書61章2節― すでに1900年以上も続いている介入期間です。)
2)ダニエル書2章の大像の鉄の脚で象徴されるローマ帝国と十本指の足の間にある介入された期間。
ダニエル書7章23~27節、8章24、25節も参照にしてください。
3)ダニエル書11章35節と36節の間にも同じ介入期間が見られます。
4)ホセア書3章4と5節の間、そしてホセア書 5章15と6章1の間にも大きな介入があります。
5)詩篇22章22と23の間、そして詩篇110章1と110章2の間にも大きな介入があります。
6)ペテロは詩篇34篇12~16節を引用する際、節の途中で止まり、神の現在の働きと、神が将来罪に対処することを区別しています。
(ペテロの手紙第一3章10~12節)
7)マタイによる福音書24章の偉大な預言は、現代をダニエル書9章26節と27節の間の介入として考えることによってのみ理解可能となります。
8)使徒の働き15章13~21節は、使徒たちが、旧約聖書の預言は現代では成就しないが、「この後」、神が「倒れたダビデの幕屋を建て直す」(使徒の働き15章13節)時に成就することを十分理解していたことを示しています。
9)イスラエルの年間の祭りのスケジュールは、キリストの死と復活とペンテコステを予告する祭りと、イスラエルの再集結と祝福を語る祭りとの間に大きな隔たりがあることを示しています。
10)ローマ人への手紙9~11章は、特に11章のオリーブの木の将来について、この介入を明確に規定しています。
11)教会が一つの体であるという啓示は、神の過去のイスラエル国家との関わりと将来の関わりの間に介入を必要とします。
12)現在の介入の完成は、ダニエル書の先週の中断された出来事を再開させるような性質を持っています。[21]
啓示された預言的計画に介入がない場合、預言は文字通り成就することはできません。
なぜなら、多くの主要な預言では出来事が連続していなかったからです。
ダニエルの預言の空白は、神の御言葉の確立された原則と一致しています。

(2)二番目に、ダニエル書9章26節の出来事には空白期間が必要です。
2つの主要な出来事は、六十九週の後、そして七十週の前に起こると言われています。
それは、メシアの断ち切りと、エルサレムの都と神殿の破壊です。
これら2つの出来事は七十週目には起こりません。
七十週は27節まで言及されておらず、六十九週と七十週の間の期間に起こったからです。
メシアの断ち切りは六十九週が終了して数日後に起こりましたが、都と神殿の破壊は西暦70年、つまり六十九週終了から約40年後まで起こりません。
数日の空白期間が認められるならば、40年の空白期間が存在する可能性を認めるのは難しくありません。
40年の空白期間が認められるならば、その空白期間が現代にまで及ぶ可能性があることも簡単に理解できます。

(3)三番目に、イスラエルは神の裁きによる償いが行われるまで取り分けられている(マタイの福音書23章37~39節)という新約聖書の教えは、最後の二週間の間に空白期間を必要とします。
もし七十週が成就したならば、約束された六つの祝福も同じ様にイスラエルに成就しているはずです。
しかし、これらの祝福はどれもイスラエル国民によって経験されていません。
教会はイスラエルではないので、教会が現在これらを成就することは不可能です。
神は文字通り約束されたことを成就されるので、これらの祝福はイスラエル国民に対して成就されなければなりません。
したがって、彼らがこれらの約束を拒否してから成就するまでの間には、必ず空白期間が必要になることがわかります。

(4)四番目に、約束された祝福はすべてキリストの再臨と結びついているので(ローマ人への手紙11章26、27節)、もし空白期間がなければ、主は死後三年半、もしくは七年後に再臨し、約束を成就されたはずです。
しかし、主の再臨は依然として待ち望まれているため、預言の最後の2週間の間には空白期間があります。

(5)最後に、主は預言を扱う時に、ある空白を予期しておられます。
マタイによる福音書24章15節では「荒らす憎むべきもの」の到来が言及され、これはイスラエルにとって大患難時代が近づいていることを示すしるしです。
(マタイによる福音書24章21節)
しかし、この時代にも希望はあります。

「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
そのとき、人の子のしるしが天に現われます。
すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」
(マタイによる福音書24章29、30節)


このように、主はダニエル書の七十週を、御自身の再臨の直前の時代の終わりに位置づけておられます。
これを使徒の働き1章6~8節と合わせると、預言の六十九週と七十週の間には、期間の定まっていない一つの時代が介在することがわかります。
結論として唯一言えるのは、七十週の出来事はまだ成就しておらず、将来文字通り成就するのを待っているということです。

7.七十週の始まり

ダニエル書9章27節から、七十週は「多くの者」と一週、もしくは七年間の契約を結ぶことから始まることが明らかです。
この「一週」は、六十九週の解釈方法に倣うと、問題の期間が七年間続くことを示しています。
ここで問われるべき問題は、この七年間の始まりを示す契約を結ぶ者が誰なのかということです。
ダニエル書は9章27節でその者を「彼」と呼んでいます。
これは、前の節の「来たるべき君主」を指しているはずです。

マクレイン氏はこの人物を特定し、次のように記しています。
「そこには二人の君主が述べられています。
一つは「君主メシア」、もう一つは「来たるべき君主」です。
「来たるべき君主」という表現が「君主メシア」を指すことはあり得ません。
なぜなら、メシアの死後、エルサレムを滅ぼすのは「来たるべき君主の民」だからです。
そして、エルサレムが西暦70年にユダヤ人ではなくローマ人によって滅ぼされたことは今や歴史の事実です。
ゆえに、「来たるべき君主」はユダヤ人のメシアではなく、ローマ帝国から出現する偉大な君主であると言えます。」[22]

この人物について、ガエベライン氏はこのように述べています。
「将来、ローマ帝国から一人の君主が起こります。
第四帝国のこの君主、もしくは首長は、ダニエル書7章の小さな角と同一人物です。」 (23)

さらに、この人物はダニエル書8章23節の「横柄で狡猾なひとりの王」、ダニエル書11章36節の「思いのままにふるまう」王、テサロニケ人への手紙第二2章の「罪の人」、そしてヨハネの黙示録13章1~10節の「海から出てきた獣」と同一視されます。
メシアがイスラエルと結んだ契約はすべて永遠の契約であるため、メシアが契約を結ぶことはあり得ません。
なぜなら、それは一時的なものだからです。
イスラエルに彼らの国土の所有権と宗教的および政治的な自治権の回復を保証するこの契約は、アブラハム契約の誤った成就とみなされるべきです。
この契約はイスラエルの多くの人々を欺き、この「罪人」が神であると信じ込ませます。
(テサロニケ人への手紙第二2章3節)
この偽りの契約の宣言こそが、七十週の始まりを告げるものです。

8.七十週のプログラム

マクレイン氏はこのプログラムの6つの特徴を述べており、預言的な描写との関係をよく要約しています。

1.この七十週は、預言的には教会の転移とキリストの栄光の再臨の間にある七年間の期間です。
2.この七十週は、ヨハネのヨハネの黙示録の6~19章に記録されている偉大な出来事の正確な年代順の枠組みも提供します。
3.七十週は、来たるべきローマの君主とユダヤ人の間で「堅い契約」が結ばれることから始まります。
4.七十週の半ばに、ローマの君主は突然ユダヤ人に対する友好的な態度を逆転させ、いけにえとささげ物をやめさせます。
5.ユダヤ人とローマ君主との間の「堅い契約」の破棄は、ユダヤ人にとって前例のない「荒廃」の時代の始まりとなります。
6.この最後の七年間の終わりは七十週の連続の終わりを告げ、ダニエル書9章24節でイスラエルに約束された大いなる祝福の到来を告げるのです。

NOTE

[1]C. I. Scofield, Reference Bible, p. 1349.
[2]Harry A. Ironside, James and Peter, pp. 98-99.
[3]Scofield, op. cit., p. 1212.
[4]Graham Scroggie, The Lord’s Return, pp. 53-54.
[5]Alexander Reese, The Approaching Advent of Christ, p. 284. 6Gerald Stanton, “Kept From the Hour,” pp. 30-31.
[7]John F. Walvoord, “Is Daniel’s Seventieth Week Future!” Bibliotheca Sacra, 101:30, January, 1944.
[8]Alva J. McClain, Daniel’s Prophecy of the Seventy Weeks, p. 5.
[9]Walvoord, loc. cit.
[10]McClain, op. cit., pp. 6-7.
[11]Ibid., pp. 9-10.
[12]Dan. 9:24.
[13]McClain, op. cit., pp. 12-15.
[14]Ibid., pp. 16-17.
[15]Robert Anderson, The Coming Prince, pp. 121-23.
[16]Ibid., pp. 124-28.
[17]Ibid., p. 128.
[18]Ibid., p. 126.
[19]Cf. Philip Mauro, The Seventy Weeks and the Great Tribulation, pp. 55ff.
[20]George L. Rose, Tribulation Till Translation, pp. 68-69.
[21]Walvoord, op. cit., 101:47-48.
[22]McClain, op. cit., p. 42.
[23]Arno C. Gaebelein, The Prophet Daniel, p. 142.
[24]McClain, op. cit., pp. 45ff.


第16章 教会と患難時代の関係

教会が患難時代にはいないことは、すでに証明されています。
教会とこの時期との特別な関係は、ヨハネの黙示録に登場する二十四人の長老たちの立場と活動に見られます。
ヨハネは、ヨハネの黙示録が三つの部分に分かれていることを示しています。(ヨハネの黙示録1章19節)
「あなたの見た事」が第一部を構成し、第一章のキリストの幻を具体化しています。
「今ある事」が第二部を構成し、第二章と第三章に含まれる七つの教会への手紙を含み、現在の教会時代全体を要約しています。
そして「この後に起こる事(meta tauta)」が第三部を構成し、4~22章で啓示されたすべてを含みます。
ヨハネがこの後に起こる事を書き始めると、4章1の導入部の言葉によって、彼が第三の主要な区分を始めていることを示しています。
なぜなら、この章は「この後に起こる事(meta tauta)」で始まっているからです。
ヨハネは天に引き上げられる際、王座と、その王座に座しておられる方を見ます。
そして、王座に座しておられる方と関係のある二十四人の王座に座る者、つまり「二十四人の長老」を見ることができます。

「また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。」
(ヨハネの黙示録4章4節)


これらの人物を特定することによって、教会と患難時代の出来事との関係が明らかにされます。

I.長老の務め

「長老」という単語に関して、オットマン氏は次のように書いています。
イスラエルの長老たちは、民の代表者であるだけでなく、民の裁き人であり、それゆえ民を裁く神の代表者でもありました。
彼らは裁きの執行において神と同一視されていました。
今、私たちの前にいる神の御座と関連して二十四人の長老たちも、地上に執行されようとしている裁きにおいて、御座に着き、神と同一視されています。[1]
新約聖書における長老の基本的な概念は、人々の代表者、つまり神に代わって人々を支配したり裁いたりする人です。(使徒の働き15章2節、20章17節)

ヨハネの黙示録に登場するこれらの代表者に関して、スコット氏は次のように書いています。
「長老」という単語は12回出てきます。
彼らが行う様々な行動や礼拝から、彼らが贖われ復活した聖徒たちの代表であることが十分にわかります。
彼らは王座に着き、ひれ伏して礼拝します。
彼らのうちの一人が泣いている聖見者を慰め、天の御心を説明します。
彼らは立琴と香の瓶を持ち、歌を歌います。(御使いについては決して言われていません)
王座と小羊に最も近い集まりであり、地上の贖われた者たちについて理性的に説明し、神の千年王国と永遠の勝利を祝い、淫婦、つまり地上の堕落した女に対する裁きに「アーメン」や「ハレルヤ」を唱えます。
この言葉が出てくる箇所は次のとおりです。
4章4節、10節、5章5節、6節、8節、11節、14節、7章11節、13節、11章16節、14章3節、19章4節。[2]
彼らの活動が述べられている箇所を調べると、神の王国を樹立し、悪魔の王国を打倒するという神の計画における新たな一歩が彼らの前に展開されるたびに、長老たちが神に礼拝と栄光を捧げているという事実が強調されます。
これらの長老たちの数には、意味がないわけではありません。
スコット氏は次のように述べています。
しかし、なぜ「24」なのでしょうか?
この数字の意味は歴代誌第一24章と25章に求めなければなりません。
ダビデは祭司職を二十四の階級、もしくは組に分け、各組が順番に奉仕しました。(ルカの福音書1章5、8、9節)
これらの組のそれぞれの長老、もしくは指導者は、レビ人の祭司職全体を代表していました。
こうして、二十四人の祭司長と一人の大祭司がいたことになります。
彼らの多様な奉仕は、天の長老たちの奉仕と一致していました。
なぜなら、神殿(幕屋に劣らず)は、その構造、器具、そして奉仕において、天にあるものに従って造られていたからです。
神の民は「聖なる」祭司職(ペトロの手紙第一2章5節)と「王の」祭司職(9節)と呼ばれており、ここでは両方の意味で彼らの活動が描かれています。[3]
したがって、彼らは、時代の終わりの展開において、偉大なる大祭司であるキリストと関係のある、天の祭司職全体の代表者であると思われます。

II.二十四人の長老のアイデンティティ

翻訳者たちは、これらの長老たちの身元をめぐって3つの階級に分かれてきました。

A.御使いのような存在
最初の解釈は、彼らが御使いのような存在であるというものです。

リース氏はこの見解を次のように述べています。
(i)彼らは神への賛美と礼拝を率先して行う栄光ある天の存在です。
(ii)彼らは、王国の完成に向けての出来事の前進におけるそれぞれの危機を喜びをもって祝います。
(iii)彼らは、争い、罪、赦し、そして勝利の経験を一度も知らないようです。
しかし、それらを経験し得た人々の祝福を喜び、克服した人々の勝利における神の恵みに栄光を捧げます。
(iv)彼らは、終わりのラッパの音と共に復活し、報いを受ける、過去の預言者、聖徒、敬虔な人々とは明確に区別されています。
この箇所は、新しい審判者、天で救われた大勢の者たちが主イエスの再臨の時に王座に着き、共に裁きを行う時、彼らは舞台から姿を消すことを示しています。
本書20章4参照、コリント人への手紙第一6章2節、マタイによる福音書19章28節参照。」[4]

最初の二つの命題には異論はないが、そのような職業に就くために御使いである必要はないことに注意すべきです。
そのような活動は、この世に移された贖われた者たちによりふさわしい。
三番目の命題に関しては、長老たちが勝利者の冠、ステパノスを戴冠していることを観察するだけで、彼らが闘争、罪、赦し、そして勝利を知っていたことが分かります。
四番目の命題に関しては、もしこれらの人々が教会の聖徒であるならば、彼らが、ヨハネの黙示録11章16~18節で復活し報いを受ける患難時代の聖徒たちから距離を置くのは当然であろう。
なぜなら、患難時代の聖徒たちはキリストの血によって贖われているとはいえ、キリストのからだの一部ではないからです。
五番目の命題に対する答えとして、リース氏が主張するように、ヨハネの黙示録20章4節で長老たちがその座を退き、患難時代の復活者がその座に就く必要があると述べる必要はありません。
復活者が入る座がこれらの座と同じであると主張する根拠はありません。
マタイによる福音書19章28節では、千年王国の権威と支配を現すための座が設けられると弟子たちに約束されています。
ヨハネの黙示録20章4節は患難時代の聖徒たちをこの千年王国の権威と結びつけているが、長老たちの座の解任を必ずしも必要としているわけではありません。

スコット氏は、これらの長老たちが御使いであるはずがないことを実証しています。
彼はこのように書いています。
「長老たちは、獣や生き物、そして御使いたちとは別の集まりです。
5章では、長老たちの行動は御使いたちの行動と区別され、両者を同一視することは不可能です。
11節では、三つの集まりを名称で区別しています。

「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。」
ヨハネの黙示録5章11節


長老たちは歌っています。(5章9節)
御使いたちは語ってます。(5章12節)
御使いたちは数えられていません。(ヘブル人への手紙12章22節)
長老たちは数えられています。
代表的な数字である「24」は6回出てきます。
御使いたちは冠を授かるとは言われていませんが、長老たちは授かっています。
天の合唱による賛美(竪琴と歌の両方)は、長老たち特有の役割のようです。
天の知性、特に贖罪に関するテーマや主題は、御使いたちではなく長老たちに帰せられます。
したがって、長老とは、贖われた無数の聖徒たちの集まりを指します。
彼らは復活し、変えられ、空中でキリストに会うために引き上げられました。(テサロニケ人への手紙第一4章17節)
彼らの冠と王座は王としての威厳を、竪琴と歌は礼拝の喜びを、そして彼らの衣と鉢は祭司としての人格と行いを象徴しています。」[5]

B.旧約聖書と新約聖書の聖徒たち

二つ目の見解は、これらの長老たちが旧約聖書と新約聖書の聖徒たちを代表しているというものです。
アイアンサイド氏はこの見解を次のように要約しています。
「天の長老たちは、天の祭司職全体、つまり過去に亡くなった、もしくは主の再臨の時に生きるすべての贖われた者たちを代表しています。
現代の教会と旧約聖書の聖徒たちも同じ様に含まれています。
皆が祭司であり、皆が礼拝します。
イスラエルには十二人の族長と、新しいディスペンテーションを導入した十二使徒がいました。
この二人を合わせると、完全な二十四人となります。[6]
この見解は、携挙の時にイスラエルと教会が区別なく一つの集まりとして統合されるというものです。
この見解は最初の見解ほど異論はないものの、イスラエルがここでの出来事の一部であるという解釈を否定する理由があるように思われます。
最初に、この見解は、イスラエルと教会が共に携挙の時に復活し、共に天に移されるという仮定に基づいています。
イスラエルの復活の問題は後で考察しますが、聖書のいくつかの箇所(ダニエル書12章1、2節、イザヤ書26章19節、ヨハネ書11章24節)は、イスラエルの復活がメシアの地上への再臨と結び付けられるべきであることを示しています。
したがって、イスラエルが天に移されることはあり得ません。

二番目に、携挙は教会を永遠の祝福へと導くための計画です。
イスラエルに関する計画は全く別物であり、異なる主題を伴い、異なる時期に起こります。
イスラエルは、その時代の終わりまで復活し、報いを受けることはできません。
これら24人の長老は復活し、報いを受け、栄光を受けるが、教会は神の計画の中でこれらのことをこれまで経験した唯一の団体であるため、旧約聖書の聖徒たちはこの集まりに含めることはできません。

C.この時代の聖徒たち

3番目の見解は、二十四人の長老は、この時代の聖徒たち、つまり教会を象徴しており、彼らは復活して天に移されたというものです。
この見解を裏付ける重要な考察がいくつかあります。

1.祭司職全体を表す24という数字(歴代誌第一24章14、19節)は、ダビデが代表権を与えるために分割したように、これが教会であることを示しています。
イスラエルは祭司職に召されましたが(出エジプト記19章6節)、その国民は罪のゆえにこの主要な職に就くことはありません。
患難時代の聖徒たちには、千年王国において祭司として仕えるという約束が与えられています。(ヨハネの黙示録20章6節)
しかし、患難時代の初めの時点では、イスラエルはまだ祭司国家の地位に回復されていません。
なぜなら、彼らがその特権を実現するには千年王国を待たなければならないからです。
同じ様に、患難時代の聖徒たちも、それを実現するには千年王国を待たなければなりません。
教会は、大祭司のもとで仕える祭司の役割を果たすことができる、祭司職を明確に構成した唯一の団体です。(ペテロの手紙第一2章5、9節)

2.彼らの立場は、彼らが教会を代表していることを示しています。
ヨハネの黙示録4章では、長老たちは神の御座を取り囲む王座に座り、御座に座しておられる方と親密な関係を築いています。
教会はまさにこの立場を約束されています。(ヨハネの黙示録3章21節、マタイの福音書19章28節)
このような地位は、御座を取り囲むものの王座に座ることのない御使いには適応できません。
また、イスラエルにも適応できません。
なぜなら、イスラエルは御座の権威に従うだけで、その権威と関係を持つことはないからです。
リンカーン氏は巧みにこのように述べています。
彼らは神の前に座っています。
そうです、神の前に覆い、もしくは冠をかぶるのです。
確かに、最も高貴な被造物が神の前に座ったことはかつてなかったはずです。
ヨブ記1章から、御使いは常に神のすぐ前にいるわけではなく、特定の機会にのみいるように思われます。
そして、天の階層構造において明らかに高い位格であったガブリエルは、ゼカリヤへの言葉の中で、「私は「神の前に」立つガブリエルである」(ルカの福音書1章19節)と述べています。
また、列王記第一22章では、ミカヤは主が御座に座し、天の万象が神の傍らに立っているのを見たと述べています。(ダニエル書7章10節)
しかし、ここには実に全く新しい秩序が存在します。
つまり、現在のディスペンテーションにおいて贖われた聖徒たちが、天の故郷において、そして彼らの代表者として、頭まで覆いをかぶって神の前に座る姿が見ることができるのです

3.彼らの白い衣は、彼らが教会を象徴していることを示しています。
イザヤ書61章10節では、白い衣は信者に与えられた義を表すことが明確にされています。
サルデスの人々に白い衣を着せるという約束が与えられました。(ヨハネの黙示録3章4、5節)
この白い衣は変貌の時に初めて見られ(マルコの福音書9章3節)、本来キリストのものであったものが、これらの長老たちの所有物となったことを示しています。

4.彼らの冠は、彼らが教会を象徴していることを示しています。
この24人は、君主の「冠(diadēma)」ではなく、戦いで勝ち取った勝利者の冠(stephanos)をかぶっています。
したがって、彼らは復活した(霊は冠をかぶるはずがない)と同時に、裁きを受けた(裁きを受けなければ、報酬として冠を受け取ることはできない)のです。
さらに、裁きはつい最近行われたはずです。
なぜなら、彼らはキリストの足元に冠を投げ捨てているところが描かれているからです。(ヨハネの黙示録4章10節)[8]

5.彼らの礼拝は、彼らが教会を代表していることを示しています。
長老たちは、神の創造の御業(ヨハネの黙示録4章11節)、贖い(ヨハネの黙示録5章9節)、審判(ヨハネの黙示録19章2節)、そして支配(ヨハネの黙示録11章17節)のために、神に礼拝を捧げています。
ある人々は、本文から「私たち」という言葉を削除することで、長老たちと彼らが歌う贖い(ヨハネの黙示録5章9節)を切り離そうとし、その理由から彼らは教会の代表者ではあり得ないと主張しています。
この点については、いくつかの点に注意する必要があります。
最初に、その言葉が本文に含まれていることを裏付ける十分な写本証拠があります。[9]

本文上の理由でその言葉を削除する必要はありません。
二番目に、たとえその言葉が削除されたとしても、長老たちが自分たちの贖いを歌っていなかったということにはなりません。
出エジプト記15章13節と17節で、モーセとイスラエルの民は、自らが明らかに経験した神の裁きを賛美する時に、三人称で歌っています。
聖書は、主観的なものを客観的な事実として扱う前例を示しています。
そして三番目に、たとえ「三人称」という言葉が省略され、彼らが自ら経験していない贖いについて歌っていたことが証明されたとしても、長老たちが教会ではないことを証明する必要はありません。
なぜなら、これらの長老たちは、地上に注がれる神の裁きについて知るようになると、これらの経験を通して地上の聖徒たちの勝利を待ち望み、「あらゆる部族、言葉、民族、国民」(ヨハネの黙示録5章9節)から救われた聖徒たちを神に賛美することができるからです。
彼らは患難を経験し、その中で救われ、「王となり、祭司となり、地上で支配する」(ヨハネの黙示録5章10節、20章6節)ことになります。
彼らは、患難時代の期間に神が下す裁き(ヨハネの黙示録19章2節)を神に賛美すると同時に、患難時代の期間に神が成し遂げる救済についても神を賛美します。

6.長老たちは神の計画を深く理解しており、教会を代表していると考えられます。
ヨハネの黙示録5章5節、7章13、14節などの箇所では、神の計画が展開されるにつれて、長老たちが神の信頼を得ていることが示されています。
このような親密さは、ヨハネによる福音書15章15節で主が弟子たちに約束されたことの究極の成就です。
「長老」という言葉の使用自体が、霊的な理解におけるこの成熟を示しています。
なぜなら、聖書における長老とは、年齢または経験において成熟した人を指すからです。
コリント人への手紙第一13章12節に示されているように、このような成熟の約束は今や現実のものとなっています。
7.彼らが司祭職においてキリストと結びついていることは、彼らが教会を代表していることを示しています。
ヨハネの黙示録5章8節には、彼らが「竪琴と、聖徒たちの祈りである香料で満たされた金の鉢とを持っている」と記されています。

この奉仕について、スコット氏はこのように書いています。
「長老たちは仲介者や執り成しの役目を果たしません。
彼らは神にこれらの祈りを捧げることも、仲介によってその価値を高めることもありません。
天の長老たちは、地上で苦しむ聖なる者たちの兄弟です。
それゆえ、かつて自分たちが関わっていた地上の闘争や争いに、彼らが関心を持たないのは奇妙なことです。
しかし、彼らの態度は深い共感を示しながらも、受動的なものです。
聖徒たちの祈りに香を添える御使いであり祭司である者は、被造物ではありません。(8章3、4節)
キリストだけが、そうする力を持っているのです。」[10]

これらの長老たちが司祭職に就く時に結ばれた密接な関係は、奉仕する司祭として構成された教会がここで表現されていることを示しています。

アーマーディング氏が導き出した結論は、これらの長老たちの検証にふさわしい結論となると思います。
彼は次のように書いています。
「彼らについて最後に言われていることは、彼らが四つの生き物と共にひれ伏し、王座に座っておられる方を礼拝してこう言うことです。
「アーメン。ハレルヤ。」(ヨハネの黙示録19章4節)
この最後の行為は、彼らの特徴です。
実際、彼ら全体を通して三つの特徴が見られます。
それは、
(1)キリストを深く知ること、
(2)キリストに近づくこと、そして
(3)キリストを礼拝することです。
そして、主がご自分の民のために祈られた時、彼らが主を知り、主と共にあり、主の栄光を見ることができるようにと願われたことを私たちは思い出します。(ヨハネの福音書17章3、25節)
そして彼らは、父がこの世から主に与えてくださった人々に他なりません。」[11]

NOTE

[1]Ford C. Ottman, The Unfolding of the Ages, p. 108.
[2]Walter Scott, Exposition of the Revelation, p. 122.
[3]Ibid., p. 123.
[4]Alexander Reese, The Approaching Advent of Christ, pp. 92-93.
[5]Scott, loc. cit.
[6]Harry A. Ironside, Lectures on the Revelation, p. 82.
[7]William Lincoln, Lectures on the Book of Revelation, pp. 76-77.
[8]Cf. Gerald Stanton, “Kept from the Hour,” p. 290.
[9]Joseph Seiss, The Apocalypse, I, 249.
[10]Scott, op, cit., pp. 138-39.
[11]Carl Armerding, The Four and Twenty Elders, p. 10.


第17章 聖霊と患難時代の関係

患難時代を研究する時に考慮すべき重要な点の一つは、その時代と聖霊との関係、そして聖霊がその時代に成し遂げる働きです。

1.「制止者」の正体

聖霊と患難時代との関係に関する多くの疑問は、テサロニケ人への手紙第二2章7、8節の解釈によって決定づけられます。
テサロニケの人々は既に主の日の中にいると誤って伝えられていました。
この誤解を正すために、パウロは、罪の人が現れるまで主の日が来ないため、彼らは主の日が来ていないと述べています。
罪の人の現れは、その働きを続けるべき者の制止的な働きによって妨げられていました。
この制止者が取り除かれた後にのみ、罪の人は現れし、主の日が始まるのです。
チェイファー氏はこのように書いています。
「議論されている聖書箇所の中心的な真理は、サタンがずっと以前にその普遍的な世界に対する邪悪な計画を完成し、最後の人間の支配者を送り出していたにもかかわらず、サタンの計画が神の定められた時にのみ展開され、完了するように制止する制止者が存在するということです。」[1]

ヨハネは、罪の人を導入するこの計画が彼の時代にすでに始まっていたことを証ししています。(ヨハネの手紙第一4章3節)
このサタンの計画は時代を超えて続いてきましたが、制止者によって制止されてきました。

A.制止者とは誰ですか?

この制止者の正体については、様々な答えが提示されてきました。

1.制止者はパウロが生きていたローマ帝国であると主張する人もいます。
リース氏は次のように述べています。
「最も古く、かつ最も的確な解釈は、パウロがローマ帝国を念頭に置いていたため、自分の意図を言葉で表現することをためらったというものです。
非人格的な影響力とは、ローマ世界全体に広がる法と正義の壮大な制度であり、これが不法と不法の人間を制止しました。
そして、皇帝の系譜は、邪悪な個人の存在にもかかわらず、同様の影響力を持っていました。」[2]

2.これに密接に関連する二つ目の見解は、ホッグ氏とヴァイン氏による、人間の政府と法律が制止者であったという見解です。
彼らは次のように書いています。
「やがて、バビロニア帝国において、この言葉が王に語られました。
ペルシア人、ギリシャ人、そして使徒の時代に繁栄したローマ人に引き継がれました。
これらの国家がその存在を維持するための法律は、ローマがそれ以前の帝国から受け継いだのと同じように、ローマから受け継いだものです。
このように、既存の権威は神によって定められています。
構成された権威は無法状態を制止するために働きすることを意図しています。」

「存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」
(ローマ人への手紙13章1節)


これは明白です。
しかし、人間の力は、制止者が誰なのかという質問に対する満足のいく答えではないようです。

ウォルフォード氏はこのように書いています。
「しかし、人間の支配は、罪の人が現れる患難時代の期間においても存続します。
法と秩序の力はすべて罪を制止する傾向がありますが、それらはそれ自体の性質としてそうであるのではなく、むしろ神によってこの目的を達成するために用いられ、力を与えられるのです。
手段に関わらず、あらゆる罪の制止は聖霊の働きとして神から発せられるものと捉える方が、より好ましい解釈のように思われます。」

ティーセン氏はこのように書いています。
「では、制止するのは誰でしょうか?
デニー、フィンドレー、アルフォード、モファットは、これは法と秩序、特にローマ帝国に体現された法と秩序を指していると考えています。
しかし、人間の支配は聖霊の制止の働きにおける機関であるかもしれませんが、私たちは、人間の支配は教会の影響を受けていると確信しています。
そしてさらに、人間の支配の背後には、それを制定し(創世記9章5、6節、ローマ人への手紙13章1~7節)、支配する(詩篇75篇5~7節)神がいます。
ゆえに、不法の進展を制止するのは、御霊によって神なのです。」[4]

3.三番目の見解は、サタンが制止者であるというものです。
この見解を支持するある人物は次のように書いています。
なぜ皆が、この妨害者は何か良いものに違いないと結論づけるのでしょうか?
この制止力はサタン自身のはずです。
神が御子の受肉のために時を定めたように、サタンは滅びの子を現れさせる計画を持っていないのでしょうか?[5]

この主張に対する明白な答えは、主がサタンの力によってしるしを行っていると非難する者たちへの主の返答であろう。
「また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。」(マルコの福音書3章25節)
さらに、この制止者が取り除かれたとしても、サタンが制止者であった場合のように、世界はサタンの活動から解放されるのではなく、解き放たれた怒りと共にサタンを世界に突き落とすことになります。
(ヨハネの黙示録12章12節)

ウォルフォード氏はこのように述べています。
この考えは、聖書におけるサタンの啓示とはほとんど相容れません。
サタンの影響力は計り知れないものの、サタンが世界を支配する普遍的な権力を持つとはどこにも記されていません。
テサロニケ人への手紙第二2章3~10節を研究すると、罪の人が現れる前に、制止する者は舞台から排斥されることが分かります。
これはサタンには適応できません。
むしろ、患難時代こそサタンの働きが最も顕著に現れる時期です。
聖書は、サタンが地に投げ込まれ、その悲劇的な日々に怒りをぶちまけたと描写しています。(ヨハネの黙示録12章9節)
したがって、サタンが不法の偉大な制止者であるという説は支持できません。[6]

4.四つ目の解釈は、教会が制止者であるという見解です。
信者は保存料である塩と、浄化作用を持ち、闇を払う光に例えられたことが知られています。
教会は制止を感じる手段の一つではあっても、その経路である教会が同時に制止の主体となることはあり得ないという点には同意できると思います。

スタントン氏は次のように書いています。
教会のほとんどが不完全な組織体です。
確かに神の御前に立つことにおいては完璧ですが、人間の前に立つことは実験的なものであり、常に非難の余地がなく、非難されるところがないわけではありません。
人間の政府と同じ様に、教会は神によって用いられ、この現代における悪魔の完全な現れを阻止します。
しかし、それを効果的に制止するのは信者ではなく、信者に力を与える方、つまり内在する聖霊です。(ヨハネの福音書16章7節、コリント人への手紙第一6章19節)
聖霊の臨在なしには、教会も政府もサタンの計画と力を阻止する力を持つことはありません。[7]

5.五番目の解釈は、制止者は聖霊とする解釈です。
上記の著者は、この結論を支持する理由を挙げています。

(1)単純に除外してみると、聖霊が制止者でなければなりません。
他の提案はすべて、要件を満たすことできません。

(2)邪悪なる者は人格を持ち、その活動は霊的な領域にまで及んでいます。
制止者も同じ様に人格を持ち、霊的な存在でなければなりません。
反キリストが現れる時まで、彼を制止し続けるためには、単なる代理機関や非人格的な霊的力では不十分です。

(3)成し遂げるべきすべてを達成するためには、制止者は神の一員でなければなりません。
彼は罪の人よりも、そして彼に力を与えるサタンよりも強くなければなりません。
時代を超えて悪を制止するためには、制止者は永遠でなければなりません。
罪の舞台は全世界です。
したがって、制止者は時間と空間に制限されない者でなければなりません。

(4)この時代は、ある意味で「聖霊の時代」です。
なぜなら、聖霊は他の時代とは異例な方法で、神の子らの内にとどまる臨在として働かれるからです。
教会時代はペンテコステにおける聖霊の降臨とともに始まり、ペンテコステの逆転、つまり聖霊の退去とともに終わります。
これは、聖霊が働かなくなるという意味ではなく、もはやそこに住まわれなくなるという意味です。

(5)聖霊の降臨以来の働きには、悪を制止することが含まれていました。
(ヨハネの福音書16章7~11節、ヨハネの手紙第一4章4節)
しかし、患難時代においては、大きく異なります。

(6)旧約聖書の時代には聖霊は地上に宿っていません。
しかし、それでも制止する影響力を及ぼしていました。
(イザヤ書59章19節b)

B.患難時代における信者への聖霊の働き

聖霊が制止者であり、患難時代が始まる前に地上から取り去られるという事実は、聖霊がもはや遍在せず、この時代に働かないという意味に解釈されるべきではありません。
聖霊は人々の内に、そして人々を通して働きます。
ここで強調されているのは、この現在の世界における信者への聖霊の特別な働きは終了するということです。

バプテスマ、コリント人への手紙第一 12章12、13節 
内住 コリント人への手紙第一6章19節、20節
エペソ人への手紙1章13節、4章30節
満たし エペソ人への手紙5章18節


この点について、ウォルフォード氏は次のように書いています。
「信者が患難時代に聖霊に内住されたという証拠はほとんどありません。
患難時代ではいくつかの点で旧約聖書の時代に戻るように見えます。
旧約聖書時代においては、聖霊に満たされ、奉仕のために力を与えられた例はいくつか見られます。
しかし、聖徒たちが恒久的に内住されることは、散発的な例を除いて決してありません。
すべての要素を考慮すると、患難時代に信者の中に聖霊が内住するという証拠はありません。
しかしながら、もし信者が患難時代に内住されるならば、彼らは聖霊によって封印されているとも言えます。
その封印とは、彼らの中に聖霊御自身が臨在されることです。」[9]

現在、信者に対する聖霊の働きはすべて、聖霊の内在に依存しています。
ゆえに、このことが欠如するならば、患難時代の聖徒たちに対する聖霊に依存する働きはすべて妨げられます。

II.患難時代の救い

聖霊は取り除かれるべき制止者であるという見解によって開かれた研究分野の一つは、患難時代における救済の問題です。
ディスペンセーション主義的な千年王国前再臨主義に反対する人々が最もくり返して提起する疑問の一つは、まさにこの質問です。

アリス氏は次のように問いています。
「もし教会がペンテコステから携挙までの期間に救われた者たちだけで構成され、教会全体が携挙されるのであれば、携挙からキリストの出現までの期間、地上にクリスチャンは一人もいないことになります。
しかし、その期間にイスラエルでは14万4千人、異邦人からは無数の人々が救われることになります。(ヨハネの黙示録7章)
もし教会が携挙され、聖霊が地上から取り去られたとしたら、これはどのようにして実現されるのでしょうか?」[10]

著者は、このような質問を投げかけること自体がディスペンセーション主義に致命的な打撃を与えたと感じています。
なぜなら、教会の存在と働きなしに救いはあり得ないと考えているからです。
そして、このように続けています。
「ディスペンセーション主義者はこのように主張しています。
「天の御国は近づいた」という宣言は、それが「いつでも」設立され得ることを意味するという主張に対する最も重大な反論は、「キリストは苦しみを受け、栄光に入らなければならない」というイエスの明確な教えを無視することになるという事実です。
それは、メシアの栄光の王国が直ちに設立され得ると暗示することで、十字架を不必要なものとしました。
メシアの王国は永遠に続くはずであったため、十字架の存在の余地はなかった。
そして、もしイスラエルがイエスをメシアとして受け入れていたならば、旧約聖書のささげ物の儀式で罪を償えたであろうという結論に至っています。
このような主張から導き出せる唯一の結論は、教会は十字架を必要としたが、神の御国は必要としなかったということ、神の御国の福音は十字架を含んでいなかったが、神の恵みの福音は十字架を含んでいたということです。」
問題は、終末の時に残る「敬虔な」ユダヤ人たちが十字架を受け入れ、十字架を宣べ伝えるかこのように続けているかです。
「御国の福音」は十字架以前、つまり十字架の福音が宣べ伝えられる教会時代以前に宣べ伝えられました。
そしてその宣べ伝えられる教えは、教会時代が過ぎた後も、明らかに変更や追加なく再開されるはずです。
当然の結論は、最初の降臨の時に宣べ伝えられた時に十字架が含まれなかったのであれば、携挙後に宣べ伝えられる時にも十字架は含まれないということです。
ユダヤ人の残された民によって宣べ伝えられるのであれば、このような結論はなおさら必要となります。[11]
この立場には、患難後再臨主義者も全面的に同意しています。[12]
このような非難を考慮すると、患難時代における救いの問題に関する聖書の教えを明らかにすることが必要です。

A.旧約聖書における救いの本質

旧約聖書に説かれている救いの教義は、個人的救済と国家的救済という二つの別個の明確な側面を持ちます。

1.旧約聖書における救いの第一の側面は、個人の救いでした。
旧約聖書におけるこの救いの側面について、チェイファー氏は次のように書いています。

「旧約聖書の聖徒たちは神と正しく、神に受け入れられる関係にありました。
旧約時代におけるユダヤ人の立場については、次のことが言えます。

(a)彼らは神との契約関係の中に生まれ、神への信仰や神との交わりには何の制限もありません。
(b)契約上の立場ゆえに課せられた道徳的、霊的な義務を果たせなかった場合、契約上の特権を回復するための合法的な根拠として、ささげ物が捧げられました。
(c)それぞれのユダヤ人が行いを誤り、ささげ物を怠ると、最終的には神から否定され、追放されることもあり得ました。
(d)イスラエルの国家的な救済と赦しは、まだ将来の期待であり、救世主がシオンから来られる時に実現すると約束されています。
(ローマ人への手紙11章26、27節)
ユダヤ教における永遠の命については、非常に明確かつ包括的な聖書の一節が述べています。
しかし、そこでは永遠の命は相続財産として考えられています。
(a)イザヤ書55章3節
(b)ダニエル書12章2節
(c)マタイによる福音書7章13、14節
(d)ルカの福音書10章25~29節
(e)ルカの福音書18章18~27節
(f)マタイによる福音書18章8、9節
イスラエル人にとって永遠の命を受けることは、クリスチャンの場合と同じ様に、救いの特徴です。
そして、イスラエルの救いは、ローマ人への手紙11章26~32節において、今の時代の目的の後にある異邦人が満ちる時、イスラエルの盲目状態が解かれる時、すなわち、「「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う」(ローマ人への手紙11章26節)と宣言されています。」[13]

したがって、旧約聖書で示された救いは、信仰によって受け入れられる個人的な救いであり、血のささげ物に基づくものであり、これらのささげ物は来るべき真実なささげ物の前兆であったことは明らかです。
この救いは、現在の所有物としてではなく、将来受け継がれる相続財産として提示されました。
神を信じたそれぞれのイスラエル人は真実に救われましたが、その救いの完全性を経験する未来を待ち望んでいました。

チェイファー氏は次のように述べています。
「ささげ物を捧げ、その頭に手を置くことで、罪人は神の前で自らの罪を認め、罪人の代わりに身代わりの者が死ぬという賢明な取り決めに入りました。」
ヘブル人への手紙10章4節に述べられているように「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません」。
それでも神は罪人に解放を与えましたが、その解放の義なる根拠は、最終的には御子の唯一のささげ物の死によって確保されるという神自身の期待のもとに与えられました。
この死は、動物をほふるという行為によって象徴されました。
ローマ人への手紙3章25節では、キリストの死における神の目的はこのように宣言されています。

「今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」
(ローマ人への手紙3章25節)

このように個人に救済がもたらされました。

2.旧約聖書が暗示する救済の二つ目の側面は、国家的な側面でう。
この点についてチェイファー氏は次のように書いています。
「聖書は、メシアが地上に戻られる時、イスラエルという国家が罪から救われ、敵から解放されるという事実を証ししています。
現在、イスラエルという国家が救われていないことは明らかであり、また、ヤハゥエがその民と結んだ永遠の契約の特徴も、今はまだ現れていません。
その国家は、特定の反逆者たちが「清められる」(エゼキエル書20章37、38節)ことを除けば、救われるのです。
そして、それは彼ら自身のメシアがシオンから来られる時、メシアによって救われます。
(イザヤ書59章20節、マタイ書23章37~39節、使徒の働き15章16節参照)
ローマ人への手紙11章26節の「すべてのイスラエル」とは、明らかに、分離され、受け入れられたイスラエルであり、その国にこれから下される神の裁きに耐え抜いた者たちを指しています。
(マタイの福音書24章37~25章13参照)
使徒は国家としてのイスラエルと霊的なイスラエルを明確に区別しています。
(ローマ人への手紙9章6節、11章1~36参照)
ヤハゥエは、キリストの再臨とイスラエルの救済の一環として、「彼らの罪を取り去る」のです。
ヤハゥエは、これが彼らとの契約であると宣言しています。
(ローマ人への手紙11章27節)
過ぎ去った時代において、ヤハゥエがイスラエルの罪を扱われました。
それは、彼らの罪を一時的に覆い隠すに過ぎず、キリストは死によって、ヤハゥエが以前に見逃した罪に対する裁きを負われたことが指摘されています。
しかし、イスラエルのためになされたキリストの死の価値が最終的に適用されるのは、イスラエルの国民的改心の時です。
その時こそ、契約に従って、ヤハゥエは彼らの罪を「取り去る」のです。
ヘブル人への手紙10章4節には、雄牛ややぎの血が罪を「取り去る」ことは不可能であると述べられいます。
ローマ人への手紙11章27節には、イスラエルの罪は必ず取り去られると約束されています。
これらの箇所や聖書の他の箇所から導き出される結論は、ヤハゥエが将来、ごく短期間のうちに、イスラエルの救済の一環として、彼らの罪を取り去られるということです。
したがって、イスラエルという国家はキリストの血によって救われ、その罪は永遠に取り除かれると結論づけられます。」[15]

このように、神を信じたそれぞれのイスラエル人は救われていたものの、その救いは、神が再臨の時に全イスラエルのために行う将来の働きに基づいて保証されていたことに注目すべきです。
その働きの際、メシアは人々の罪に最終的な裁きを下します。
イスラエルにおいて救われた個人は、自身の救いを喜びつつ、同時に国家の救いを待ち望みます。
国家がまだ救われていないと告白することは、個人としての自身の救いを否定することではありません。
まさにこの点において、先に引用した私たちの立場に対する批判は根拠のないものです。
患難時代に救われた人々は、救いの経験を知るが、それでもなお、救世主の出現によって国家の救いが完成することを待ち望みます。
個人の救いの祝福を経験した彼らは、新たな喜びをもって、来るべき救世主とその解放によって、自分たちの経験の中で始まったことが完成されることを待ち望むのです。

B.旧約聖書における具体的な救いの約束

旧約聖書には、イスラエルに救いを約束する箇所が数多くあります。
国家の救いに重点が置かれているとはいえ、国家の救いは個人の救いに先行しなければならないことを心に留めておくべきです。
パウロ自身(ローマ人への手紙9章6節)は、ローマ人への手紙11章26の「イスラエル全体」を救われた個人に限定しています。
したがって、旧約聖書における救いの約束は、必ず両方の側面を含んでいます。

「ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。」
(エレミヤ書30章7節)


「わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、
あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。
わたしは彼らをその寄留している地から連れ出すが、彼らはイスラエルの地にはいることはできない。
このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。」
(エゼキエル書20章37、38節)

「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。」
(ダニエル書12章1節)

「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。
その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。」
(ヨエル書2章31、32節)

「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。」
(ゼカリヤ書13章1節)

「全地はこうなる。――主の御告げ。――その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。
わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。
彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民。」と言い、彼らは「主は私の神。」と言う。」
(ゼカリヤ書13章8、9節)


旧約聖書はイスラエルの救いを明確に約束しており、それは「その日」、つまり主の日と結び付けられています。
イスラエルはこの救いを経験していないため、患難時代に神が再び彼らを一つの民族として扱う時に、この民は必ずこの救いを経験しなければなりません。
このように、旧約聖書の未成就の約束は、患難時代に救いが経験されるという私たちに期待を抱かせます。
旧約聖書は主の来臨前にイスラエル人の救済を預言しているだけでなく、多くの異邦人の救済も預言しています。

「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」
(イザヤ書11章1節)

「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。
主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」
それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。
主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。
彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」
(イザヤ書2章2~4節)

「国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。
目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。
そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。
海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。」(イザヤ書60章3、5節)

「そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。」
(イザヤ書62章2節)


主は地上での宣教期間中、マタイによる福音書13章47~50節、マタイによる福音書24章13節、ヨハネによる福音書3章1~21節などで同じ約束を繰り返し述べられました。
その約束は無効にはなりません。

C.約束された救いの成就

ヨハネの黙示録7章は、旧約聖書で約束された個人の救いに関する約束の成就について、注目すべき記録を与えています。

1.イスラエル人個人に関する約束は成就しました。

この章の最初の8節は、神の印を押された14万4千人の僕たちの描写に充てられています。
この箇所では、彼らの救いの状況は暗示されているに過ぎません。
彼らが「生ける神の印を持って」と言われているという事実は、彼らの救いを暗示しています。
なぜなら、印は所有権の称号だからです。
また、彼らが「神のしもべたち」と呼ばれていることにも、彼らの救いが暗示されています。
このような称号は、救われた個人にのみ与えられます。
14章では、この14万4千人は「人々の中から贖われたのである」、「神への初穂」(4節)であると明確に述べられています。
彼らが神への礼拝において四つの生き物と二十四人の長老たちと結び付けられているという事実は、彼らの救いを保証しています。
したがって、個人の救いに関する約束は、その期間中に救われたイスラエル人のうちの一部にすぎない14万4千人において成就したと見られます。

2.異邦人に関する約束は成就しました。

9~17節は、異邦人の救いに関する旧約聖書の約束の成就を示しています。
なぜなら、ここでは数え切れないほどの人々が救いを経験する様子が描かれているからです。
彼らが「その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」という事実が、彼らの救いを証明しています。

3.国家救済の約束は成就します。

ヨハネの黙示録19章11節から20章6節は、旧約聖書に約束された救済の二つ目の側面の成就を描いています。
この部分では、主が「万王の王、万主の主」として再臨される様子が描かれています。
異邦の敵対勢力はすべて滅ぼされ、その指導者たちは火の池に投げ込まれます。
サタンは縛られます。
すべての約束と契約が成就する約束の王国は、王の臨在と支配によって始まります。
このように、ヨハネは国家救済の成就を描いています。

D.患難時代における救いの根拠

患難時代における救いの根拠、もしくは救済方法という重要な質問について考える時、いくつかの点が肯定されるかもしれません。

1.患難時代における救いは、確実に信仰の原則に基づいています。
ヘブル人への手紙11章1~40節は、神に受け入れられたのは神を信じる唯一の人であったことを明確に示しています。
6節の「信信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」という原則は、この時代に限られたものではなく、すべての時代に適応できます。
アブラハムの信仰は神に近づく方法の模範とされており(ローマ人への手紙4章2節)、患難時代における神への近づき方となります。

2.患難時代に救われた者たちの記述は、彼らが小羊の血によって救われたことを非常に明確に示しています。
救われたユダヤ人については彼らは「人々の中から贖われた」(ヨハネの黙示録14章4節)と記され、イスラエルは血以外の贖いを知ることはありえません。

救われた異邦人については「その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」(ヨハネの黙示録7章14節)と記されています。
「血で」という表現について、ギリシャ語を慎重に研究しているブリンガー氏は次のように述べています。
律法の下では何も「血によって洗われた」ことはなく、「血によって洗われた」ことで何も白くされることもありません。
血の中で洗ったという表現よりも、常に「によって」または「を通して」を意味しており、「によって」は142回、「を通して」は37回翻訳されています。
この誤った考えは、命題…(en)を無理やり文字通りに解釈したために生じました。
(マタイによる福音書9章34節、5章34節、35節、ガラテヤ人への手紙3章11節、テモテへの手紙第二2章10節参照)
まさにこの書(9節)では「によって」と訳されています。
ゆえに、この箇所と1章5節では、この意味なのは間違いありません。[16]

ヨハネの黙示録12章では、サタンがイスラエルの残された民を攻撃している場面が見られます。
この章における「女」の意味はまさにこれです。
この信仰を持つ残された民は、10節で「私たちの兄弟たち」と呼ばれています。
「兄弟たち」の勝利の手段は11節で示されています。
「小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った」と。
こうして、再び信者たちは「小羊の血」によって救われ、解放されるのです。
ヨハネの黙示録12章17節は、サタンが特別な敵意を抱く理由を述べています。
それは、彼らには「イエスのあかしを保っている者」からです。
この信仰を持つ残された民たちが宣べ伝えるメッセージゆえに、サタンは「怒っている」と言われています。
これは、患難時代に宣べ伝えられるメッセージのもう一つの例です。

3.救いは聖霊の働きによってもたらされます。
テサロニケ人への手紙第二2章7節で聖霊が制止者とされているのに対し、この見解に反対する人々は、聖霊がもはや神殿であるキリストのからだに内住しないので、患難時代にはこの世での働きも停止しなければならないとしつこく主張しています。
これは全く真実からかけ離れています。
旧約聖書において、聖霊はすべての信者に内住する働きをなさったわけではないことに注意する必要があります。
しかし、主がそのような状況下で信者に語りかけられたことは、救いが聖霊の働きによるものであることを明確に示しています。
(ヨハネによる福音書3章5、6節)
この内住の働きとは別に、旧約聖書の聖徒たちは聖霊によって救われると言われていましたが、聖霊は神殿として信者に内住していません。
ゆえに、患難時代には、遍在する聖霊が、神が以前イスラエルと関わっていた時と同じように、内住の働きなしに新生の働きをなさるのです。
現代の内住は、力づけ、つまり神殿との関係による信者同士の一致と関連しています。
しかし、内住は新生における聖霊の働きとは全く異なる、独立したものです。
したがって、たとえ聖霊が患難時代に内住していなくても、新生においては依然として働く可能性があることを明確に理解する必要があります。
ヨエル書2章28~32節は、イスラエルの救いを再臨前の聖霊の働きと関連付けています。

ヨハネの福音書3章について、ウォルフォード氏は次のように述べています。
「キリストとニコデモとの対話(ヨハネの福音書3章1~21節)は、患難時代にも救いがあり、それが聖霊の働きであることを確認するものと理解できます。」[17]

ケリー氏はさらにこのように付け加えています。
「私は自分自身の確信を明確に述べたいと思います。
救われたすべての人々の救いは常にキリストの働きにかかっています。
聖霊はあらゆる魂に救いを効果的に与える唯一の存在だからです。」[18]

ゆえに、小羊の血を通して与えられ、信仰によって受けられる救いは、聖霊の働きによって有効だと、確信を持って主張することができます。

E.この福音と御国の福音との関係

この立場を批判する者たちは、御国の福音が患難時代に宣べ伝えられている以上、十字架の宣べ伝えることはできないと主張してきました。
患難時代こそが御国の福音の宣べ伝える証人となります。
マタイによる福音書24章14節はこの点を非常に明確に示しています。
しかし、十字架の宣べ伝えることと御国の福音の宣べ伝えることは、互いに排他的なものではありません。
福音という言葉は、文字通りには単に「良い知らせ」を意味することを認識しなければなりません。
御国の福音とは、約束された王が間もなく現れ、約束された王国を提供するという良い知らせです。
このような使い方において、御国の福音は主として救済論的なものではなく、終末論的な概念です。
御国の福音は救いの道を提示したのではなく、イスラエルの終末論的な約束が成就するという希望を提示しました。
そして、その約束の中には、旧約聖書における救済の二つの側面について考察した時に既に見てきたように、救済論的な希望の成就が含まれていました。
ヨハネによる御国の福音の説教には二つの段階がありました。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイの福音書3章2節)と「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネの福音書1章29節)です。
どちらもヨハネのメッセージにおいて、等しく重要な部分を占めています。
この二つの宣言において、ヨハネは御国だけでなく十字架も宣べ伝えたと言えます。
患難時代においても同様です。
ヨハネのメッセージの救済論的側面は、「天の御国は近づいた」という言葉ではなく、「悔い改めよ」という言葉にあります。
神は、御自身によって契約の民と結ばれた人々と接する時に、過ちを犯した者にささげ物を捧げ、清めを受けることを要求されました。
それによって、その人は契約の祝福に復帰することができました。
こうしたささげ物とそれに続く清めは、旧約聖書における悔い改めと密接に結びついていました。
レビ人の血統に属するヨハネは、福音書に記されているように、そのようなささげ物を捧げ、水による清めを行うことができました。
ゆえに、ヨハネが説教した時、彼のメッセージにはこの二つの側面があったと結論づけなければなりません。
王の約束は、個人の無価値さを確信させ、それが個人に清めを求めるように導きました。
患難時代にも同じ様なことが起こります。
王が来るという福音の告知は、無価値さを確信させるのです。
そのような確信は、清めの良い知らせを伴ってもたらされます。
それは、来るべき神の小羊を予表するささげ物や儀式的な水の適用を通してではなく、「一度限りの」小羊の血を捧げる清めの方法を通してもたらされます。
ヨハネが王を告げ、予表として清めを捧げたように、信じる残された民たちも王を告げ、ヨハネが語った方を通して、完全かつ最終的な清めを捧げます。
御国の良い知らせが伝えられているという事実は、そのメッセージから救いの良い知らせを排斥するものではありません。

F.救いの結果

患難時代における救いについて述べている箇所は、いくつかの結果が予想されていることを示しています。

1.個人の清めが行われます。

ヨハネの黙示録7章9節、14節、14章4節などの聖句は、救われた人が神に受け入れられる者とされることを明確に示しています。
それ以外のいかなる根拠によっても、人が「神の御座の前に立つ」ことはできません。
これは、旧約聖書におけるそれぞれの救いの提供が成就した結果であると理解されなければなりません。

2.国家の救済が行われます。

そのような国家の準備(エゼキエル書20章37、38節、ゼカリヤ書13章1、8、9節)は、ローマ人への手紙11章27で約束されているように、再臨の時に国家の救済をもたらします。
国家の約束が成就するのは、神が聖霊によってイスラエルの残された民を贖われたからです。
彼らを通して、契約は彼らに対して成就されます。

3.千年王国の祝福があります。

ヨハネの黙示録7章15~17節、20章1~6節は、この期間に提供される救いが千年王国の地において成就することを明確に示しています。
奉仕、地位、そして神に近づくことといったすべての祝福と特権は、千年王国に及ぶことが示されています。
このようにして、国家の約束は、千年王国の地で受理される患難時代において、個人の救いを通して実現されます。
旧約聖書の約束は、イスラエル人、個人に救いを約束しており、それは相続財産として受け取られ、メシアの再臨による国家の救済の時に実現するものです。
個人と国家の救済に関するこれらの約束はまだ完全には実現されておらず、将来実現することになります。
再び、神がイスラエル国家と関わる時、救いはキリストの血に基づいて提供され、信仰によって受け取られ、聖霊によって適用されるものとなります。
これは、救済論と終末論の両方を備えた御国の福音の説教と完全に一致しています。
患難時代に提供されるこの救いは、多数のユダヤ人と異邦人によって受け取られ、彼らは個人的な救いを受け、イスラエルの国家の救済と、救われたすべての人々への完全な千年王国の祝福に至ります。
提案された解釈は、十字架、キリストの死、救済の永遠の目的に中心性を与え、アリス氏が言うように、私たちの立場を攻撃してくる敵対者の攻撃から守られます。
約束された王国の性質と「近づいている」という言葉の意味に関するディスペンセーション主義の教理を受け入れるならば、十字架は罪の償いのささげ物として、教会時代と教会の聖徒たちだけに関係するという見解に論理的に導かれることを強調しすぎることはありません。
そして、最初の来臨において説教されるときも、十字架を含んでおらず、また十字架を前提とすることもありません。[19]
このような非難は根拠がなく、真実ではないことが証明されます。

NOTE

[1]Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology, IV, 372.
[2]Alexander Reese, The Approaching Advent of Christ, p. 246.
[3]C. F. Hogg and W. E. Vine, The Epistles of Paul the Apostle to the Thessalonians, pp. 259-60.
[4]John F. Walvoord, The Holy Spirit, p. 115.
[5]Mrs. George C. Needham, The AntiChrist, p. 94.
[6]Walvoord, op. cit., p. 116.
[7]Gerald Stanton, “Kept from the Hour,” p. 110.
[8]Ibid., pp. 111-15.
[9]Walvoord, op. cit., p. 230.
[10]Oswald T. Allis, Prophecy and the Church, p. 12.
[11]Ibid., pp. 230-33.
[12]Cf. Reese, op. cit., pp. 112-14.
[13]Chafer, op. cit., IV, 24-26.
[14]Ibid., III, 103-4.
[15]Ibid., III, 105-7.
[16]E. W. Bullinger, The Apocalypse, pp. 290-1.
[17]Walvoord, op. cit., p. 229.
[18]William Kelly, Lectures on the Revelation, p. 164, footnote.
[19]Allis, op. cit., p. 234.


第18章 イスラエルの苦難

苦難の時代に達成される神の目的の一つは、イスラエルの契約を成就し、メシアが戻ったときに設立される王国にイスラエル国家を準備させることです。

I.生ける神の説教

イスラエル国家に関連して預言された出来事の詳細な年表は、マタイの福音書24章1節から25章46節にある主の重要な預言の中に記されています。

A.説教の背景

この説教は主の死の二日前(マタイの福音書26章1、2節)に語られ、パリサイ人への災いの告知(マタイの福音書23章13~36節)とイスラエル国民への裁きとしての盲目に関する告知(マタイの福音書23章37~39節)の後に語られました。

マタイの福音書23章37~39節について、チェイファー氏は次のように書いています。
「この説明はエルサレムの子供たちに向けられたもので、この場合はイスラエル国家の代表です。
マタイの福音書24章4節以降の説教全体は、まだユダヤ人として分類され、この演説で述べられている経験を経験する人々を代表する弟子たちに直接語られたもので、国全体、特にそこに描かれている試練に耐える人々に向けられています。
「あなたの子らを幾たび集めようとしたこと」(23章37節)という表現は、イエスがイスラエルに語りかけていることを明らかにするだけでなく、イスラエルが最終的に自らの国土に再集結することに関する多くの預言の成就を示しています。
「あなたの家」とは、ダビデ王朝を中心とするイスラエルの家を指しています。
「荒れ果てた」という言葉は、この時代を通して世界におけるイスラエルの状況を描写するために用いられるいくつかの言葉の一つです。
「決してわたしを見ることはありません。」とは、イエスが完全に不在になることを予期する断言であり、イエスが再臨する「まで」、イエスとイスラエルとの特別な関係について述べています。
再臨の時、「すべての目が彼を見る」(ヨハネの黙示録1章7節)、また、「人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」(マタイの福音書24章30節)のです。」[1]

したがって、この講話は、メシアの拒絶とその国に対する裁きとして課された盲目を背景に展開されます。

B.弟子たちの質問

マタイによる福音書23章で、主はパリサイ人への裁きと国民の盲目化を告げられました。
そして今、24章でエルサレムの滅亡を告げられます。(マタイの福音書24章1、2節)
弟子たちにとって、これらは終末論的な意味を持っていました。
なぜなら、その成就はメシアの到来と世の終末と結びついていたからです。
彼らは尋ねました。
「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。
あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」(マタイの福音書24章3節)
おそらく、主の再臨の約束(マタイの福音書23章39節)が、弟子たちにこの終末論的な連想を与えたのかも知れません。
最初の質問への答えはマタイには記録されていませんが、ルカの福音書21章20~24節に記されています。
この説教の部分は、西暦70年にティトゥス帝によってエルサレムが破壊されたことと関係しています。

次の2つの質問に関して、ガエベルライン氏は次のように書いています。
「次の二つの質問、「あなたの再臨と世の終わりのしるしは何ですか?」についてですが、弟子たちの心の中でこの質問が一つであったことは間違いありません。
イエスは御自身の再臨について繰り返し語っておられました。
真実なユダヤ人として、彼らはメシアによるメシア王国の樹立を当然のこととして待ち望んでいました。
彼らはイエスが拒まれたのを見て、勇気を奮い起こし、イエスの再臨のしるし、イエスが以前から語っておられた再臨について尋ねました。
この再臨とは、イエスが目に見える形で地上に栄光のうちに再臨されることです。
そして彼らは世の終わり、つまりユダヤ時代の終わりについて尋ねました。
それはまだ未来の出来事に過ぎません。」[3]

マタイによる福音書24章と25章全体は、この時代を終わらせるメシアの到来の兆候に関するこの質問に答えるために書かれました。
主は、イスラエルとイスラエルの計画に関連して、神の御国が樹立される前の時代の終わりの過程を語っておられます。
この計画は厳密な時系列に沿って展開されています。

チェイファー氏は、「新約聖書の中で、この箇所ほど完全な時系列で出来事が記録されている箇所はほとんどない」と述べています。[4]

C.説教の解釈

この箇所を理解する上で、解釈の方法ほど重要な問題はありません。
ガエベルライン氏は3つの主要な解釈方法を要約しています。
「この説教のこの部分について最も広く信じられている解釈は、すべては過去に成就したというものです。
大患難は過去のことであり、主イエス・キリストはエルサレムの滅亡において再び来られたのです。
これは愚かで霊的な解釈であり、神の御言葉に甚だしい危害を加えています。
オリーブ山の説教におけるこれらの最初の預言を説明するもう一つの方法は、私たちが生きているこのキリスト教の時代に適応させることです。
彼らは、主がこのキリスト教の時代全体、特にその終わり、つまり終末について語っていると語っています。
そして、教会はこの時代の終わりに地上に留まり、大患難時代を通過するべきであり、したがって、この章に含まれる勧告は、時代の終わりに生きるキリスト教信者に向けられていると主張しています。
主のこれらの言葉を解釈する三つ目の方法は、ユダヤ時代の終わりに関するこれらの預言をまだ未来のものと見なすことです。
これがこれらの聖句を理解するための正しい、そして唯一の鍵です。
主のオリーブ山での説教は、ユダヤ時代がどのように終わるかを預言しているのです。」[5]

最初のものは無千年王国主義、2番目は患難後携挙論者の見解、そして3番目は患難前携挙論者の見解です。

D.患難時代。
イスラエルの世の終わりの計画における最初の出来事は、マタイによる福音書24章4~26節に記されている患難時代です。
この時期の年代については、患難前携挙論者の間でも意見が分かれています。

1.第一の見解は、チェファー氏の見解です。[6]
彼は、マタイの福音書24章4~8節は、七十週の始まりに先立って起こり、「苦難の始まり」と呼ばれる現在の教会時代の出来事を描写しており、9~26節は患難時代を描写していると主張しています。
彼は4~8節について次のように述べています。
これらの出来事は、ユダヤ時代の終わりの兆候ではありませんが、予期せぬ介入時代、もしくは閏時代の特徴です。
この拡張された聖書箇所(マタイによる福音書24章9~26節)は、大患難に関してイスラエルに対するキリスト自身のメッセージを示しています。[7]

2.二つ目の見解はスコフィールド氏のもので、彼はこの箇所には二重の解釈があり、部分的には教会時代に、部分的には患難時代に適応されると主張しています。
彼は次のように述べています。
4~14節には二重の解釈があります。
それらは、
(1)時代の特徴、つまり戦争、国際紛争、飢饉、疫病、迫害、そして偽キリスト(ダニエル書9章26節参照)を示しています…
(2)しかし、同じ答え(4~14節)は、時代の終わり、つまりダニエル書の七十週に具体的に当てはまります… 時代を特徴づけてきたすべてのものが、終わりの時に恐るべき激しさを帯びてきます。[8]

3.3番目の見解は、イングリッシュ氏の見解です。
彼は次のように述べています。
マタイの福音書24章4~14節までは、その週の前半、つまり終わりの始まりについて述べています。
そして、15~26節は、後半、つまり大患難時代について言及しており、その後に終わりが来ます。[9]

4.4番目の見解では、4~8節が患難時代の前半を要約し、9~26節が週の後半を説明していると示しています。
解釈の一貫性は、主がイスラエルに対する預言的な計画を扱っている以上、この聖書箇所を教会や教会時代に適応させることを不可能にすると思われます。
さらに、解釈と適用の違いは、この箇所を二重に適用する見解を排斥すると思われます。
週の前半が4~8節に描写されているという見解を支持する証拠があるようです。
4~8節とヨハネの黙示録6章の類似性は、ここで患難時代の前半が描写されていることを暗示しています。

ゲーベライン氏は次のように述べています。
「もしこれが正しい解釈であるならば…マタイの福音書24章に含まれるオリーブ山の説教の部分と、ヨハネの黙示録6章から始まる部分との間には、完璧な調和があります。
そして実際、その通りです。」[10]

この類似性はイングリッシュ氏によって指摘され、彼は次のように書いています。
「第一の封印が開かれ、白い馬に乗った男が現れました。
その男は弓を持ち、征服するために出陣しました。
主イエスは白い馬に乗って来られますが、これはイエスではなく、一時的な平和を確立する偽キリストです。
マタイによる福音書24章の第一の預言は何でしょうか?
「わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(5節)
第二の封印が開かれ、赤い馬に乗った者が現れました。
その者は地上から平和を奪い去ります。
マタイによる福音書24章の二つ目の預言は6、7節にあります。
「また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。」
第三の封印が開かれ、黒い馬に乗った男が現れました。
その男は手に天秤を持っていました。
そして、「四つの生き物の中から声が聞こえ」て飢饉を告げました。
マタイによる福音書24章の第三の預言は、「飢饉が起こる」(7節)です。
第四の封印が開かれ、青白い馬に乗った者が現れました。
その名は「死」です。
マタイの福音書24章の第四の預言は、疫病と地震について述べています。
第五の封印は、神の御言葉のために殺された者たちと関係があります。
彼らは祭壇の下で「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」と叫んでいます。
マタイの福音書24章の五番目の預言とは何でしょうか?
「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。」(9節)」[11]

9~26節は、週の後半の出来事を描写している兆候があります。
荒廃をもたらす忌まわしいもの(24章15節)は、ダニエル書(9章27節)によって、週の半ばに現れ、週の終わりまで続くと明確に述べられています。
9節の「それから」という言葉は、イスラエルに約束され、ヨハネの黙示録12章12~17節で描写されている、イスラエルに対する大迫害の始まりを示しています。
ヨハネは、この迫害が患難時代の後半(ヨハネの黙示録12章14節)にわたって続くことを明らかにしています。
こうして、主が患難時代の出来事について示しておられる概要が明らかになります。
週の前半、イスラエルは4~8節(ヨハネの黙示録6章の封印)に記された出来事の懲罰を受けます。
しかし、偽りの契約(ダニエル書9章27節)の下で比較的安全に暮らします。
週の半ばには、荒らす憎むべき者(15節、テサロニケ人への手紙第二2章、ヨハネの黙示録13章1~10節)による大迫害が始まります。(9節、ヨハネの黙示録12章12~17節)
「荒らす憎むべき者」の出現は、イスラエルをその地から逃亡させることになります。(16~20節)
不信仰なイスラエルは偽預言者に欺かれ(11節、ヨハネの黙示録13章11~18節)、背教に陥ります。(12節、テサロニケ人への手紙第二2章11節)
信仰を持つイスラエルは、これらの出来事がメシアの到来を告げるという良い知らせを伝える証しの民となります。(14節)
この時代はメシアの再臨によって終わりを迎えます。(27節)
これは、主が患難時代の時系列を要約しておられるのです。

E.メシアの再臨

患難時代の描写に続いて、主は再臨について描写することで、出来事の年代をさらに進めます。(マタイの福音書24章30~37節)
この再臨については、いくつかのことが述べられています。

(1)それは「その日の患難のすぐ後に」(29節)起こります。
患難時代の出来事は、メシアの再臨によって終結するまで続きます。
(2)その前にはいくつかのしるしがあります。(30節)
これらのしるしが何であるかは明らかにされていません。
4~26節に記されているように、このしるしに先立って多くのしるしがありました。
しかし、これはメシアの到来を告げる唯一のしるしです。
(3)この到来は突然起こり、(27節)
(4)それは明白に示されます。(30節)
その時、メシアの力と栄光は全地に現れます。

F.イスラエルの再集結

31節は、再臨後に起こる出来事がイスラエルの再集結であることを示しています。
彼らはサタンの怒り(ヨハネの黙示録12章12節)と獣の荒廃(マタイの福音書24章15節)によって散らされていましたが、約束に従って、彼らは再び地に集められます。(申命記30章3、4節、エゼキエル書20章37、38節、37章1~14節)
この再集結は、特別な御使いの働きを通して行われます。
31節の「選ばれた者」とは、その時代神が扱っておられた計画、つまりイスラエルの聖徒たちを指しているに間違いありません。(ダニエル書7章18、22、27節)

G.たとえ話

世の終わりの出来事の時系列は、これらの出来事を目撃する人々への実際的な勧告を与えるために、一時的に中断されます。
これらの指示は32~51節に含まれています。
いちじくの木のたとえ話(32~36節)は、やがて起ころうとしていることが確実であることを示すために語られています。

チェイファー氏はこのように書いています。
「いちじくの木は他の聖書箇所ではイスラエル国家を象徴していることは疑いようがありません。(マタイの福音書21章18~20節参照)
しかし、この象徴の現在の使い方においては、この意味を求める必要はありません。
キリストが今話されたことが、苦難の始まりを含めて実現し始めると、キリストが戸口に近づいていることは確かなこととして受け入れられます。」[12]

前の節で与えられた兆候の成就は、いちじくの木の新しい芽が夏の到来を告げるのと同じくらい確実に、メシアの到来を告げるものとなります。
マタイの福音書24章34節の「時代」の解釈については意見が分かれています。
ある人たちは、これはキリストが語った現在の世代に当てはまり、この預言はすべて、神の滅亡によって成就したはずだと主張しています。

西暦70年のエルサレム 他の人々は、この言葉は未来を指しており、キリストは、この章の前半で述べられているしるしを目撃した人々は、その時代のうちに人の子の到来を見るであろうと言っているのだと主張しています。
この期間の始まりからメシアの到来までわずか7年、つまり、荒らす憎むべき者の出現からメシアの到来まで三年半しかかからないことが知られていたので、この事実を述べる必要はほとんどないように思われます。
しかし、このような解釈も可能です。
さらに他の人々は、世代という言葉は「人種、親族、家族、家系、種族」という基本的な使い方でとらえられるべきです。[13]
主はここで、荒らす憎むべき者がイスラエルを滅ぼそうとする働きにもかかわらず、国家イスラエルは再臨の計画が完了するまで保護されると約束しておられるのだと主張しています。
これが最善の説明であるように思われます。
主の再臨が確実であることを示すたとえ話の後には、時が不確実であるがゆえに用心深くあるようにとの勧めが続きます。(36~51節)

ノアの日に述べられている箇所(37~39節)は、ノアの時代の人々の放縦さを強調しているのではなく、むしろ裁きをもたらす出来事に対する備えのなさを強調しています。
主の再臨が予想外であったことは、畑にいた二人と臼をひいていた二人(40、41節)への言及、そして忠実な僕と忠実でない僕の例え(45~50節)によって強調されています。
出来事の予想外性を示す3つの例え話のそれぞれにおいて、登場人物たちはメシアの再臨について考えることもなく、日常生活に忙殺されていました。
そこから得られる教訓は、「目を覚ましていなさい」(42節)、「あなたたちも用意をしていなさい」(44節)、「思いがけない時に人の子は来る」(44節、50節も)という言葉にあります。

H.イスラエルへの裁き

預言された出来事の時系列は、マタイの福音書25章1節の「その時」という言葉による説明の後、再開されます。
十人の処女のたとえ話の中で、主はイスラエルの再集結(マタイの福音書24章31節)の後、地上の生きているイスラエルを裁き、誰が神の御国に入るかを決める次の出来事が起こることを示しています。
これはマタイの福音書24章28節で予期され、そこでは不信仰なイスラエルが、はげたかに引き渡される命のない死体に例えられており、裁きの象徴となっています。

1.このたとえ話に登場する処女たちの正体について、私たちのような一般的な見解を持つ人々の間では、主に二つの見解があります。
一つ目は、主はマタイの福音書24章4~44節まではイスラエルのみを扱っているが、24章45節から25章46節までは、この現代とその終末期を扱っており、ここでは教会が念頭に置かれているとする見解です。

この見解を支持するガエベライン氏は次のように述べています。
「主は弟子たちに語りかけますが、最初の部分では弟子たちがユダヤ人の弟子であり、ユダヤ時代末期のイスラエルの残された者の型として見なされていたのに対し、ここでは主は弟子たちを、キリスト教という新しいものとすぐに結びつく存在として見ておられることを理解するべきです。」[14]

そしてさらにこのように述べています。
「これらのたとえ話は、この説教の前半で非常に目立つように取り上げられているユダヤ時代や地上の残された民とは何の関係もありません。」[15]

この見解は、賢い処女たちが持っていた油が、患難時代前に取り去られるはずだった聖霊を象徴しているという事実に基づいています。
さらに、患難時代のユダヤ人信者は、メシアの再臨が近いことを示す兆候があるため、眠りに落ちているわけではないという観察に基づいています。[16]

処女たちがこの現代における教会を表わすという見解を否定する理由はいくつかあるように思われます。

(1)「その時」(マタイの福音書25章1節)という言葉で示される時は教会時代を指すのではなく、主が最初の質問に答え続ける中でイスラエルの出来事の年代の続きだと考えられます。
この年代は24章32節の「時」によって中断されたのです。

(2)主は花婿として結婚の宴に地上に戻られるので、花嫁を伴って来られるはずです。
したがって、地上で待っている者たちは花嫁ではあり得ません。

(3)油は聖霊の予型ではあるが、教会時代に限って用いられるわけではありません。
患難時代の聖徒たち、特に主の証人となる者たちと聖霊は関係を持つので、聖霊を指すのが適切だと考えます。

(4)たとえ話では、賢い者だけでなく、怒りに定められた賢くない者も花婿を迎えに行きました。
これは携挙を描写するものではありません。
なぜなら、その時、救われていない者は誰も主を迎えに出て行かないからです。

(5)「そこで泣いて歯ぎしりするのです」(マタイの福音書25章30節)という表現は、福音書の中でイスラエルについて言及する時に、他のさまざまな箇所で用いられています。(マタイの福音書8章12節、13章42、50節、22章13節、ルカの福音書13章28節)
そして、ここでもイスラエルを指していると思われます。

(6)ヨハネの黙示録19章7~16節では、結婚の晩餐は結婚式の後に行われます。
ルカの福音書12章35、36節は、結婚は天で行われるのに対し、結婚の宴は地上で行われることを暗示しています。
つまり、このたとえ話は、花婿と花嫁が結婚の宴のために地上に来る様子を描写していることになります。
その宴には五人の賢い処女が招かれ、愚かな処女は招かれません。

2.2番目の見解では、処女たちはイスラエル国家を象徴しているとされています。
結論としては、次のようにするのが最善と思われます。
十人の処女は、教会が取られた後のイスラエルの残された民を表しています。
五人の賢い処女は信仰を持つ残された民、愚かな処女はメシアの力ある到来を待ち望んでいると公言するだけの不信仰な者たちです。[17]

このたとえ話における主要な考察は10節にあるようです。
用意のできていた者たちは、イエスと共に婚宴に出たのです。
このように主は、再臨とイスラエルの再集結の後、地上で生けるイスラエルのための裁きが行われ、たとえ話で「婚宴」と呼ばれている御国に入る者と入らない者が決定されることを教えているのです。
光のある者は受け入れられ、光のない者は排除されます。
命のある者は受け入れられ、命のない者は拒まれます。

タラントのたとえ話は、イスラエルが再臨の時に裁かれ、誰が千年王国に入り、誰が除外されるかが決定されるという同じ真理をさらに示しています。
イングリッシュ氏はこのように述べています。
「主イエスが力をもって再び来られる時、主はイスラエルの残された民と会い(エゼキエル書20章)、誰が御国の祝福を受けるかを決定します。
「わたしは彼らを喜んで受け入れ」とは、御国の祝福を受けるための地への入り口であり(エゼキエル書20章40~42節)、外なる暗闇に投げ込まれた無益な僕の運命は、エゼキエル書20章37、38節の「彼らはイスラエルの地にはいることはできない」という教えに相当します。」[18]

I. 異邦人に対する裁き

世の終わりの過程を記述する出来事の年表は、再臨後にイスラエルのすべての敵に下る神の裁きの描写で終わります。
この裁きについては後ほど詳しく検討します。
ここでは、この裁きが異邦人の中で誰が「世の初めからあなた方のために用意されている御国を受け継ぐ」(マタイの福音書25章34節)ことを許されるかを決定する裁きであることを指摘すれば十分です。
これは再臨後に生きた異邦人個人に対する裁きであり、復活して大きな白い御座の前に現れる死者に対する裁き(ヨハネの黙示録20章11~15節)とは何の関係もないことに配慮する必要があります。
この裁きに先立って、14万4千人と残りの信仰者たちによって御国の福音が宣べ伝えられてきました。
この裁きは、この宣教に対する個人の反応を決定します。

異邦人に対するこの裁きに関して、ケリー氏は次のように書いています。
「ここにある裁きは単純かつ唯一の問題であり、すべての国の今生きている時代にのみ適応できます。
終わりが来る前に、王の使者たちがこの御国の福音を宣べ伝えた時、あなたたちは彼らをどのように扱ったのでしょうか?
今や終わりは明らかに近づいています。
この試練は明白で否定できない事実でしたが、それは彼らが来るべき王への信仰を持っていたかどうかを証明するものです。
御国の使者を敬う者たちは、その行いによって信仰を示しました。
そして、彼らを軽蔑する者たちは、その不信仰を明らかにしました。
この試練は公正であっただけでなく、恵み深いものであり、「王」はそれに従って宣言されました。」[19]

このように、主はこのオリーブ山の説教において、七十週の出来事を年表で示されました。
主の年表は、その期間の出来事の順序を解釈する上で正確な指針となります。

II.ヨハネの黙示録12章における「女」の正体
患難時代のイスラエルを扱う上で、預言的啓示の中で明確にしておきたい点の一つは、ヨハネの黙示録12章の「女」の正体です。
ヨハネの黙示録11章19節から20章15節で主に強調されているのは、その時代、神が扱っておられる民に対するサタンの攻撃です。
この攻撃は13章で、偽りの救世主とアブラハム契約の偽りの成就を主張する獣を通して行われます。
17章と18章では、神の王国であると偽って主張する背教した宗教組織を通して行われます。
19章では、この民とその王に敵対して結成された諸国の同盟を通して行われます。
主は、来臨の時にこの同盟を滅ぼされます。
ヨハネの黙示録のこの部分における主要な動きは、12章で「女」と呼ばれている人物に対するものであるため、この書の中で非常に重要な位置を占めるこの人物を特定することは重要です。
ヨハネの黙示録12章は三人の人物を中心に展開します。
他の二人を特定することは、女を特定する上で助けとなります。
幸いなことに、文脈によって彼らの特定は簡単です。

A.大きな赤い竜

9節でこの人物の正体が明らかにされています。
それはサタンに他なりません。
20章2節もこの正体を裏付けています。
サタンこそ、この書で後述する神の民への攻撃の創始者であり扇動者であることが明確に示されています。

スコット氏は次のように的確に述べています。
「なぜ竜はサタンの象徴として用いられているのでしょうか?
エジプト王パロは、神の民に対する残酷さと、神に対する傲慢で傲慢な独立性から、「偉大な竜(わに)」と呼ばれています。(エゼキエル書29章3、4節)
ネブカデネザルも同じ様に、その暴力と残酷さについて言及されています。(エレミヤ書51章34節)
詩篇や最初の三大預言者の中で、海の王わにが竜と同一視されていることが数多く言及されています。
しかし、その飽くなき残酷さが主な特徴であるように思われます。
エジプト人は、象形文字によれば、わに、もしくは竜をあらゆる悪の源であり創造主とみなし、テュフォの名で崇拝していました。
竜の赤は、その残忍で血に飢えた性格を表しています。
聖書の中で直接サタンが竜として言及されるのは、これが初めてです。
異教の君主であるパロとネブカドネザルは、神の民を奴隷化し、抑圧し、それまでサタンの力で行動していたため、竜という呼び名に値しました。
しかし、この章で扱われている時代において、サタンは世界の君主であり、事実上の支配者です。
ローマ帝国は、サタンが行動するための道具です。
したがって、ここで初めて「大きな赤い竜」という称号がサタンに対して用いられています。」[20]
竜は七つの頭と十本の角を持ち、その頭に七つの冠をかぶっています。(ヨハネの黙示録12章3節)
これは、13章と17章に登場する獣が持つものと同じです。
13章2節には、この竜がサタンから権威を得ていることが明確に述べられています。
これは、サタンが女の「残された民」(12章7節)に対する支配権を求めていることを示しています。
そして、その権威はキリスト御自身に正当に属するものです。

B.男の子

誰もがメシア詩篇であると認める詩篇2篇からの引用は、ここでの男の子がイエス・キリストに他ならないことを示しています。
誕生の事実、この子の運命(彼は「鉄の杖をもってすべての国々を支配する」)の事実、そして昇天の事実(彼は「神のもとに、その御座に引き上げられた」)の事実、これらすべてが、主イエス・キリストという一人の御方を指し示すものです。
なぜなら、この三つの記述は、他の誰にもできないからです。

C.太陽をまとった女
前述の二人の人物の正体については、あらゆる分野の解説者の間で概ね合意が得られているが、この箇所の鍵となる人物については、解釈に大きなばらつきがあります。

1.この女の正体については、これまで多くの誤った解釈がなされてきました。
マリアであるとする説もあります。
しかし、マリアは迫害されたことも、荒野に逃げたこともなく、1260日間も世話をされたこともありません。
そのことから、この解釈を可能にするのは母であるという点だけです。[21]
また、ある人々は、この女こそがキリストを諸国民にもたらすために苦闘している教会であると主張しました。[22]
しかし、これは解釈の比喩的原理に基づくものであり、否定しなければなりません。
教会がキリストを生み出したのではなく、キリストが教会を生み出したのです。
ヨハネの黙示録4〜19章には地上に教会は登場しないので、この女性によって教会を代表させることはできません。
さらに他の人々は、この女性をある特定の宗派の指導者であるとしました。
しかし、現代のある人物をここでの解釈に押し込めるには、想像力を働かせればきりがありません。

2.ディスペンセーション主義的千年王国前再臨主義者は、この箇所の女性はイスラエル国家を象徴していると解釈してきました。
この解釈を支持する考察は数多くあります。

a.この箇所が置かれている全体的な文脈から、ヨハネが扱っているのはイスラエル国家です。

ガエベライン氏はこのように書いています。
「ヨハネの黙示録11~14章は、預言的に私たちをイスラエルへと導きます。
イスラエルの地、イスラエルの最後の苦難、ヤコブの苦難の時代、そして敬虔な残された民の救済です。
11章の舞台は「霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられた」場所です。
その都はローマではなくエルサレムです。
12章は、14章で終わる一連の預言から始まります。」[23]

グラント氏はヨハネの黙示録11章19節についてこのように述べています。
「天の神殿で見られる箱は、イスラエルに対する神の忘れられない恵みのしるしです。」 [24]
このように、この箇所が置かれている文脈は、神が再びイスラエルと関わっていることを示しています。[25]

b.旧約聖書では太陽、月、星がしばしばイスラエルについての言及に使われます。[26]

創世記37章9節では、ヤコブの子らが明確に理解されています。
天体がイスラエルの歴史と関連づけられている次の箇所から比較してください。
エレミヤ書31章35、36節、ヨシュア記10章12~14節、士師記5章20節、詩篇89篇35~37節

c.12という数字の意味

12という数字は、イスラエルの十二部族を表す数字ですが、聖書では政府の数字として使われています。[27]
ダービー氏はこのように言っています。
「個人の救済や神との関係という質問の次に、聖書には二つの大きな主題が提示されています。
一つは教会、つまりキリスト御自身とともに栄光と祝福の中に居場所を与えてくださる主権的恵みです。
もう一つは、イスラエルが中心であり直接的な領域を形成する、神の世界の支配です。」[28]

女は地上における神の支配を示すものを表し、イスラエルはその目的のために神に任命された道具です。
ゆえに、この女はイスラエルと同一視されなければなりません。

d.「女性」という単語の使用

この章では「女性」という単語が8回使われており、さらに8回、代名詞「彼女」または「女」が女を指して使われています。
この単語は旧約聖書の中で、イスラエルという国家を指すのにくり返して使われています。
イザヤ書47章7~9節、54章5、6節、エレミヤ書4章31節、ミカ書4章9、10節、5章3節、イザヤ書66章7、8節などで使われています。
教会は「花嫁」もしくは「処女」と呼ばれていますが、「女」と呼ばれる箇所は一度もありません。

e.敵対者の名称

竜という名称は旧約聖書全体を通して、イスラエルという国家の特定の敵対者を指すために用いられています。
この章でこの名称がサタンに用いられているのは、竜という名称を持つ迫害者たちが皆、サタンの手によってもたらされるであろうこの大迫害の前兆に過ぎなかったからです。
迫害者を指して竜という名称を用いることで、神の御言葉における過去の使い方から、迫害される者はイスラエルであることが分かります。

f.「荒野」という単語の使用

荒野は避難場所であると言われています
逃げる女に与えられた恵み(ヨハネの黙示録12章14節)は、荒野がイスラエルの国家史において特別な意味を持つことは否定できません。
イスラエルは「エジプトの国の荒野」に連れて行かれました。(エゼキエル書20章36節)
イスラエルは約束の地に入るために神に従うことを拒んだため、40年間再び荒野に戻されました。
イスラエルの不信仰は、エゼキエルに神の目的を宣言させた。
「わたしはあなたがたを国々の民の荒野に連れて行き、そこで、顔と顔とを合わせて、あなたがたをさばく。」(エゼキエル書20章35節)
ホセア書は、イスラエルが「荒野」で過ごす長い期間に神が彼らに恵みを施すことを明らかにしています。(ホセア書2章14~23節)[29]

g.男の子

ヨハネの黙示録12章とミカ書5章の類似性は、この女がイスラエルであることを示しています。
ミカ書5章2節には、支配者の誕生が記されています。
この支配者の拒絶は、この民の退位(「それゆえ、神は彼らを捨てられる」ミカ書5章3節)をもたらします。
この民は「それゆえ、産婦が子を産む時まで、彼らはそのままにしておかれる」のです。(ミカ書5章3節)
つまり神の目的が成就するまで、産みの苦しみを味わうことになります。
ヨハネの黙示録12章にも、同じ計画が示されています。

ケリー氏は、この預言は理解されなければならないと記しています。
「「イスラエルに対する神のみこころの成就と結びついて、キリストが誕生しました。」(ミカ書2章)
そして、キリストは拒まれます。
預言は教会に関するすべての事柄を省き、キリストの誕生を比喩的に取り上げ、神のみこころの展開と結びつけています。
神のみこころはそれ自体が誕生によって象徴されています。
ここでは、イスラエルに関わる神のこの偉大なみこころが誕生するまで、シオンが苦悩する様子が比喩的に表現されています。」
終末に神の地上におけるみこころが実現し始めると、その時代の残された民はイスラエルの一部となり、古来のユダヤ人の立場を取り戻します。
自然の枝は、それぞれのオリーブの木に接ぎ木されます。」[30]

h.聖書の具体的な記述

ローマ人への手紙9章4、5節でパウロはイスラエル人について「またキリストも、人としては彼らから出られたのです」(ローマ人への手紙9章5節)と書いてあります。
「男の子」は確実に特定でき、男の子を産むのはイスラエルであると言われているので、その女もイスラエルです。[31]

i.千二百六十日

この箇所では、三年半という期間について二度言及されています。(ヨハネの黙示録12章6、14節)
これはダニエルの七十週の預言の後半の週を指しています。(ダニエル書9章24~27節)
この預言は特に「あなたの民とあなたの聖なる都」(ダニエル書9章24節)に向けられています。
これはダニエルに向けられたものであるため、イスラエルとエルサレムにのみ述べられていると考えられます。
聖書の中でこの期間が言及されるたびに、千二百六十日、四十二か月、三年半、もしくは「一時と二時と半時の間」などと表現される場合でも、それは常にイスラエル、そして神がその国と関わる期間を指しています。

J.ミカエルへの言及

ダニエル書12章1節では、御使いミカエルは「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる」と呼ばれています。
主がダニエルに語ったこの言葉によって、ミカエルはイスラエル国家の運命と結びつきます。
ヨハネの黙示録12章7節では、ミカエルは天の戦いに関連して再び登場します。
ここでミカエルが登場するという事実は、神が再びイスラエル国家と関わっていることを示しており、イスラエルの運命が関わっているため、ミカエルはここで重要な役割を果たしているのです。

以上の点を踏まえると、ムーアヘッド氏の結論は正論です。
彼は次のように書いています。
「11章19節にはこのように記されています。
「それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。」
これは厳密にはユダヤの領域です。
神殿、契約の箱、契約はイスラエルに属し、ヘブル人と神との関係、そしてヘブル人の特権を表しています。
聖霊はここで、ユダヤ的な事柄、ユダヤ人の立場、契約、希望、危険、苦難、そして勝利を取り上げます。」[32]
その女は、神が契約を交わし、その契約が遂行されるイスラエルに他なりません。

III.患難時代の残された民

現在の終末論的論争に至るまで、預言書者たちは、患難時代におけるイスラエルの残された民の存在、性質、使命、そして存続について概ね一致しています。 [33]
現在、残された民の教理は無千年王国主義者から攻撃を受けています。[34]
彼らは、教会が契約を全うしており、それ以上の遂行は不可能であると主張するため、残された民の存在を認めることができません。
また、患難時代後再臨主義者からも攻撃を受けています。[35]
彼らは、教会が患難時代を通過しているので、それを証しする残された民となると主張するため、残された民の存在を認めることができません。
理由は異なりますが、無千年王国主義者と患難時代後再臨主義者は、この教理を攻撃する時に手を組んでいます。

A.残された民の必要性

終わりの日に残された民が存在することは、神がイスラエルの民と結ばれた契約と密接に結びついています。
これらの契約は無条件であったため、その本質上、これらの契約が残された民に、そして残された民を通して成就されることが不可欠です。

1.アブラハム契約

神がアブラハムと結んだこの契約は、預言的な質問全体の根底を成すものです。
神によって無条件に表明され、確認されたこの契約(創世記12章1~3節、13章14~17節、15章4~21節、17章1~8節、22章17、18節)において、神はアブラハムに国土、子孫、そして普遍的かつ永遠の祝福を与えるという約束をなさっています。
したがって、この契約は、約束された子孫である残された民を必要とします。
彼らは子孫に与えられた国土を占有し、約束された祝福が彼らを通してもたらされます。

2.パレスチナ契約

神によってこの契約が定められました。
(申命記30章1~9節、エレミヤ記32章36~44節、エゼキエル書11章16~21節、36章21~38節)
この契約は、アブラハム契約においてアブラハムの子孫に最初に与えられた国土をイスラエルが占領するための土台となるものです。
この契約は、約束された国土の相続を受けるために、残された民の存在を必須としています。

3.ダビデ契約

この契約もまた、神によって無条件に保証されています。
(サムエル記第二7章10~16節、エレミヤ記33章20、21節、詩篇89節)
この契約はアブラハムの子孫に王、王国、そして王座を約束しています。
この契約は、ダビデの子が支配する永遠の地上の王国を約束しています。
この契約もまた、ダビデ契約の約束が成就される残された民を必要とします。

4.新しい契約

神がイスラエルと無条件に締結した第四の契約があります。
(エレミヤ書31章31~34節、エゼキエル16章60節、イザヤ書59章20、21節、ホセア書2章14~23節)
この契約は、イスラエルが国家として回復し、罪が赦され、心が清められ、新生に基づいて新しい心が植え付けられることを約束しています。
他の契約に含まれる約束が完全に成就する前に必要なこれらの約束が成就するためには、神が御言葉を成就できる、国家の残された民が存続していなければなりません。

5.神の性質

神はイスラエルという国家にこれらの厳粛な約束をなさったので、その成就は神の御性質そのものにかかわる問題です。
もし、神の約束が約束通りに成就しないなら、神は偽り者であると証明されることになります。
ゆえに、神の完全性ゆえに、残された民の存在は不可欠なのです。

B.イスラエルの歴史における残された民

イスラエルの記録された歴史をざっと調べるだけでも、神が国民の中にいる信仰を持つ残された民と関わってきたという原則が明らかになります。
カレブとヨシュア(民数記13、14章)、デボラとバラク(士師記4章)、ギデオン(士師記7章)、サムソン(士師記13~17章)、サムエル(サムエル記第一2章)、ヤロブアムの時代のレビ人(歴代誌第二11章14~16節)、アサ(歴代誌第二15章9節)、エリヤの時代の7000人の忠実な者たち(列王記第一19章18節)は、いずれもこの点を例証しています。

イスラエルの初期の歴史における残された民の存在について、ガエベライン氏は次のように的確に述べています。
「主は、民が大背教に陥った時でさえ、残された民、忠実な残された民を持っておられました。
これがここでの考えであり、論拠です。
イスラエルの背教は決して完全な背教ではありません。
主には常に、主と彼らの間の契約に忠実な残された民がおられます。」[36]

神は、背教、迫害、無関心の時代に、忠実で、信仰を持ち、証しをする残された民を御自身のために残されているのです。

C.預言者における残された民

預言書における残された民への言及をすべて引用することは不可能です。
この主題が預言的啓示の主要な流れであることを示すために、いくつかの箇所を引用します。
イザヤ書は1章9節、4章3、4節、6章12、13節、10章21節、26章20節、49章6節、51章1節、65章13、14節でこの主題について述べています。
26章、33章、35章、65章など、丸々1章がこれに充てられています。
エレミヤ書も15章11節、33章25、26節、44章28節などで同じ主題を扱っています。
30~33章までの全節は、残された民の存在に基づいています。
エゼキエル書は14章22節、20章34~38節、37章21、22節などでこのテーマを取り上げています。
また、他の預言者書にも、ホセア書3章5節、アモス書9章11~15節、ゼカリヤ書13章8、9節、マラキ書3章16、17節でこのテーマが再び述べられています。

これらの記述は、ダービー氏の結論を裏付けるものです。
ダービー氏は次のように述べています。
「私がこれらの預言を詳しく検討したのは、残りのユダヤ人の民の教理、つまり、ヤハゥエが救い出してくださる前にヤハゥエを待ち望む敬虔な残された民、そしてその敬虔さと信頼はヤハゥエがお持ちである残された民の教理が、憶測や難解な聖句の解釈の問題ではなく、神の霊の明確で首尾一貫した、印象的で傑出した証言であることを読者がはっきりと理解できるようにするためです。」[37]

D.新約聖書における残された民

新約聖書には、旧約聖書の約束が再確認される、信仰と期待に満ちた中核となる人々がいます。
ザカリヤとエリサベツ(ルカの福音書1章6節)、バプテスマのヨハネ(ルカの福音書3節)、マリアとヨセフ(ルカの福音書1章とマタイの福音書1、2章)、シメオン(ルカの福音書2章25節)、そして弟子たちがその例です。
彼らはイスラエルの残された民の中にある残された民、つまり救済された民族の中の信仰の集まりを構成しています。
ヨハネによる主の地上での宣教の時から、民族に拒まれるまで、主の地上での宣教は、その民族にのみ確証されました。
ヨハネ、キリスト、十二使徒、そしてキリストによって遣わされた七十人の証人によって差し出された王国は、イスラエルのみに向けられたものでした。
神はキリストの地上での生涯を通して、当時存在していた残された民とのみ関わっていたという原則を心に留めなければなりません。
キリストがイスラエルに拒まれた時から、神が七十週に再びイスラエルと具体的に交渉される時まで、イスラエルという国家の残された民について言及することは不可能です。
キリストのからだにおいて、あらゆる民族的区別は消滅します。
救われるすべてのユダヤ人は、民族的な関係において救われるのではなく、信者の体におけるキリストとの関係において救われます。
したがって、現在では神が特に交渉しておられるイスラエルの残された民は、もはや存在していません。
ローマ人への手紙11章5節の「今も、恵みの選びによって残された者がいます」を根拠に、教会は残された民となり、「霊的な」イスラエルに対する神の約束が成就する証人となると主張する人もいます。
教会とイスラエルの対照性、教会を奥義とみなす概念、教会とキリストとの特別な関係、そして教会の明確な目的など、こうした解釈は不可能です。

したがって、新約聖書が期待しているのは次のようになります。
「ユダヤ人の残された民、つまり神が御自分の民を捨てておられないことを力強く証しする者がまだ存在しています。
この未来のヘブル人の信仰深い残された民は、教会が完成し、地上から取り去られるとすぐに召されます。
恵みによって召されるこの残された民は、この時代の初めの残された民に適応されます。」[38]

E.ヨハネの黙示録における残された民

パウロはローマ人への手紙11章25節で、イスラエルの盲目は一時的な盲目であると明確に述べています。
この国が今や盲目になっているため、神はその国の中に、契約を成就させる残された民を持つことはできません。
ローマ人への手紙11章26、27節にはこのように記されています。

「 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。
こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」
(ローマ人への手紙11章26、27節)


以前、パウロは(ローマ人への手紙9章6節)、神はアブラハムの肉体的な子孫すべてを子孫として数えるのではなく、約束は信仰にある者たちに与えられると宣言しました。
したがって、ローマ人への手紙11章26の「すべてのイスラエル」とは、この信仰を持つ残された民、つまりキリストの再臨の時に信仰を持つユダヤ人を指していると理解できます。
新約聖書の預言書は、残された民に関する教えの展開と結論を示しています。

1.残された民の存在

サタンは天から追放され(ヨハネの黙示録12章13節)、神が特に関与しておられる集まり(教会は地上にいないため)に復讐を捧げようとしますが、教会は地上にいないため、サタンはイスラエルの民を攻撃します。
不信仰のままに地に集められたこの民(エゼキエル書37章8節)は、サタンの攻撃から逃れるために逃げなければなりません。
(ヨハネの黙示録12章13~17節)
このように、患難時代にはこのような残された民が存在することがわかります。
神はこの残された民を、イスラエルのすべての契約と約束の成就のために備えておられます。

2.残された民の状態

イスラエル国民が携挙の後、復活したローマ帝国の君主によって制定された契約によって故国に帰還するとき(ダニエル書9章27節)、イスラエルは依然として不信仰の中にいます。
しかし、神はこの国民を救いに導くために、明確に働きかけておられます。
ダニエル書の七十週全体は、王の到来のための準備期間です。
悔い改めを必要とする御国の福音が宣べ伝えられています。
このメッセージは受け入れられます。
神は七十週の間に「すべてのイスラエル」を救いに導くために、様々な手段を用いています。
神の御言葉は入手可能であり、飢え渇いているユダヤ人がキリストを知る知識を求めてその言葉を求めるために用いられます。
聖霊は、この時代のように神殿に宿ってはおられませんが、それでもなお働いており、罪を悟らせ、啓発する働きをされます。
イスラエルをヤハゥエを知る知識へと導くためのしるしが与えられます。
そのようなしるしの一つは、北の王の滅亡です。(エゼキエル書39章21~29節)
イスラエルに封印された14万4千人の働き(ヨハネの黙示録7章)と二人の証人の働き(ヨハネの黙示録11章)があり、これらはすべて、国民を悔い改めと救いに導くためのものです。
神の怒りが注がれるのは、人々を悔い改めに導くためであるとされています。(ヨハネの黙示録16章9、10節)
大多数の人々は悔い改め、これらのしるしによってヤハゥエに立ち返る人も起こされます。
したがって、患難時代の初めに救われていなかった国民は、様々な種類の証人によって多くの証人を受け、その期間を通して個々人が救いを経験し、最終的に再臨の時に国民は救われるという結論に至ります。(ローマ人への手紙11章26、27節)
ヨハネの黙示録12章10、11に記されている兄弟たちが小羊の血と彼らの証の言葉によって勝利したという事実は、患難時代に多くの人が救われたことを示しています。

3.残された者たちの救済の手段

アリス氏は問いかけています。
「このディスペンセーション主義の教理が提起する難問は、明らかにこうです。
「贖われた者たちのこの大集団はどのようにして誕生したのか?」
ダービー氏とスコフィールド氏によれば、教会全体が携挙され、彼らが「引き留める者」(テサロニケ人への手紙第二2章6節)と聖霊は取り去られています。
では、患難時代の聖徒たちはどのようにして救われるのでしょうか?」[39]

この質問については、すでに詳細に検討しました。
ここでは、聖霊が制止者であり、聖霊は取り去られると結論づけられていますが、聖霊は遍在する存在であることを認識しなければなりません。
聖霊はキリストのからだに内住するという特別な働きを終えられますが、それは聖霊が働かなくなるという意味ではありません。
ペンテコステの前に、主はニコデモに、人は聖霊によって新しく生まれなければならないと告げられました。(ヨハネの福音書3章5、6節)
聖霊が体に内住し始める前に人が新しく生まれ変わることができたのであれば、聖霊がその特別な働きを終えた後にも、確かに新しい生まれ変わりを経験できます。
内住の働きは、信者がクリスチャンとして歩むための力を与えることと関係しており、救いの方法や手段とは関係がないことに配慮すべきです。
マタイによる福音書24章14節は、宣べ伝えられる福音が「御国の福音」であることを明確に示しています。
しかし、しばしば見落とされがちなのは、ヨハネによる「御国の福音」の宣教において、彼のメッセージには二つの明確な側面があったという事実です。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイによる福音書3章2節)と「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネによる福音書1章29節)です。
ヨハネの黙示録は、救いが小羊の血を通して得られることを明確に示しています。
そして、彼らは小羊の血と自分たちの証言の言葉の力で彼に打ち勝ち、死に至るまでも自分の命を惜しまなかったのです。
(ヨハネの黙示録12章11節)
彼らは、大きな苦難を逃れてきた者たちであり、その衣を小羊の血で洗って白くした者です。(ヨハネの黙示録7章14節)
コリント人への手紙第一15章8節にあるパウロの言葉は、患難時代における残された民の救いにおける神の主権を示していると思われます。

エヴァンズ氏はこのように書いています。
「サウロの改心は、主イエスがこの世にいる御自身の民のために来られる聖徒たちの携挙後に起こる多くの出来事を暗示しています。
サウロが神の教会に対して抱いていた盲目と憎しみは、迫害によって明らかになりましたが、主が天に戻られた後、その憎しみは消え去りました。
サウロの改心は、彼が福音を携えて熱烈な伝道者として出陣し、福音を伝えられるすべての人に福音を伝えようと努める結果となりました。
ダニエル書七十週の福音の使徒たちは、まさにこのような立場を取るのです。」[40]
したがって、神が使徒パウロを神の啓示によって主権的に召されたように、その期間の神の証人となる者たちも召されると考えられます。

4.残された民の働き

ヨハネの黙示録12章11節と17節から、信仰を持つこの残された民が患難時代に証しする者としての立場にあることは明らかです。
サタンが特に敵意を抱くのは、彼らが「イエス・キリストの証しを持っている」(ヨハネの黙示録12章17節)からです。
旧約聖書は、イスラエルを地上の諸国民に対する神の証人として描いています。
イスラエルはこの働きに不忠実でした。
神は患難時代に忠実な証人を立て、この国のための本来の目的を果たします。

5.14万4千人と残された民の関係

旧約聖書の預言を考察する中で、神は残された民の中に残された民を持っていることが指摘されました。
ヨハネの黙示録7章と14章に登場する14万4千人は、イスラエルの残された民の中でも特別な存在であり、神の主権的行為によって選ばれ、患難時代に特別な証人となると考えられています。
ここではいくつかの重要な考察が必要です。
まず、14万4千人が文字通りの数字なのか比喩的な数字なのかという点です。
これは、患難時代に救われた無数のイスラエルの民を象徴する数字であると考える人もいます。

ダービー氏は次のように述べています。
「この数字は比喩的なものです。
イスラエルの残された民から逃れる人々の完全な数です。
神のみが、御自身が封印する者の数を知ることができます。[41]

スコッ氏トも同じ見解で、次のように書いています。
「証印を押された者の数は、もちろん比喩的なものであり、神がイスラエルの特定の、完全な、しかし限られた数の者を御自身のために確保されたことを単に意味しているにすぎません。」[42]

こうなると、14万4千人は患難時代に救われたイスラエル人と同じ者ということになります。
今や、イスラエルの聖徒たちの多くが患難時代に殺されることが明らかになっています。
(ヨハネの黙示録13章7節、20章4節)
しかし、この14万4千人は証印を押され、明らかにその期間を通して彼らが保護されるという見地からそうなっているのです。
したがって、死に服する国民の残された民は、死に服さない14万4千人と同一ではあり得ません。
彼らは別の集まりとして見なければなりません。

オットマン氏の言葉を借りれば、「ここで文字通りのイスラエルを見失うことは、この主題全体に暗闇のベールを投げかけることになる」と結論づけるのが良いように思われます。[43]

さらに、「十二部族から封印されたこの集まりの中に、イスラエルは、どんな反対の意見が述べられようとも、明白かつ文字通り私たちの前にいる」とも言うべきです。[44]
そして、ここでのイスラエルと部族は文字通りである以上、数字も文字通りに解釈するのが最善であろう。
もし、この14万4千人が残された民全体の一部に過ぎないと考えるならば、救われた異邦人の数(ヨハネの黙示録7章9節)と比較した時の比較的少ない数は、何も問題を引き起こすことはありません。
そして、もし神がこれらの人々を主権的に任命された証人として選んでおられるのであれば、なぜ特定の数の証人が任命されないのでしょうか?
ローマ人への手紙11章26節の残された民はキリストの再臨まで改心せず、14万4千人は教会が携挙された直後から封印された証人として働いていることに注目すべきです。
したがって、14万4千人はイスラエルの残された民の一部ではあっても、残された民全体ではないようです。
パウロは自分の事を「月足らずで生まれた者と」(コリント人への手紙第一15章8節)と表現した時に、これらの証人の一人に自分を例えていたのかもしれません。

スコフィールド氏は次のように述べています。
「ギリシャ語で「時が来る前に(ektromati)」という意味の言葉があります。
パウロはここで、自分の事を、民族的に新しく生まれる時がまだ来ていないイスラエル人であると考えています。
(マタイの福音書23章39節参照)
ゆえに、主の栄光の現れによる彼の改心(使徒の働き9章3~6節)は、イスラエルの未来の民族的改心の前兆、もしくは例証でした。
(エゼキエル書20章35~38節、ホセア書2章14~17節、ゼカリヤ書12章10~13章6節、ローマ人への手紙11章25~27参照)」[45]

彼らは、パウロが原型となった、聖別された証人たちです。
主の宣教期間中、証人として遣わされた特定の集まり(十二使徒と七十人)がいたように、ここでも特別に任命された集まりが任命されます。
ヨハネの黙示録7章と14章に登場する14万4千人は同じ集まりであるのかという疑問が生じます。
これらは異なる集まりであると主張する注釈者もいます。

ケリー氏は14章の集まりについて次のように述べています。
「残された民は、単に神の僕として封印されただけでなく(7章のイスラエルの十二部族の同様の集まりのように)、シオンの小羊、つまり神の恵みにおける王としての御計画に連なる者です。
彼らはユダの苦しみを味わう者であり、他の残された民が経験したとは記されていない、比類のない苦難を経験します。」[46]

彼の推論は、これらの人々がシオン山に立っているので、ユダ族の出身でなければならないというものです。
さらに、14章の人々は患難時代を経験しており、7章の人々は経験していないと主張しています。
7章の人々は地上におり、これらの人々は天にいると一般に考えられているため、シオン山は天の都、新しいエルサレムとなります。
14章の人々は小羊と同一視されていますが、7章の人々はそうではありません。
7章の人々は「印を押されている」が、14章の人々は「額に父の名が書かれています。」
この2つの集まりの出現の時期は異なると主張されています。
しかし、これらの議論には決定的な点は何もありません。
14章の人々がユダ出身であるという証拠は何もありません。
シオン山は文字通りのシオンとして捉えるのが最善であるため、これらの人々がユダ出身である必要はありません。
さらに、14章に登場する人々は天に置かれる必要はありません。
14章の「父の名」は、7章の印が何であったかをさらに詳しく説明したものに過ぎないのかもしれません。
14章の集まりが冠詞なしで述べられているという事実は、一部の人々がその多様性を示す論拠として用いていますが、決定的な要因ではありません。

なぜなら、セイス氏が述べているように、「他の点では同一性が明白である場合、冠詞の挿入は不要である」からです。[47]

二つの章にある特定の事柄を霊的に解釈して二つの別々の集まりにする必要があり、文字通り解釈すればそれらは同一になってしまうため、両者を同じものと見なすのが最善と思われます。
7章では、大患難時代が始まる前に、14万4千人が神によって証印を押され、特別な奉仕に任命されます。
彼らはまさに患難時代の始まりに証印を押されたようです。
続く箇所(ヨハネの黙示録7章9~17節)に記されている大勢の異邦人は、おそらくこの集まりの奉仕を通して救いの知識を得たと考えます。
14章では、同じ集まりが患難時代の終わり、王国が樹立された時に描かれています。
再臨する王は、預言されていた通り(ゼカリヤ書14章4節)、シオンの山にいます。
再臨の際、忠実な証人たちは贖われ(ヨハネの黙示録14章4節)、背教のさなかでも忠実に証しを続けた(ヨハネの黙示録14章4、5節)ので、主のもとに集まります。
彼らは「神と小羊にささげられる初穂」(ヨハネの黙示録14章4節)と呼ばれています。
つまり、彼らは千年王国に到来し、千年王国の地上に居住することになる患難時代の収穫の初穂です。
バビロン(ヨハネの黙示録14章8節)、獣(ヨハネの黙示録14章9~12節)、異邦人(ヨハネの黙示録14章14~17節)、そして不信仰なイスラエル(ヨハネの黙示録14章18~20節)に裁きが下ろうとしている今、この14万4千人は、その時代の初穂となるために、地上が経験するあらゆる出来事を通して守られると考えられています。

スティーブンス氏は次のように簡潔にまとめています。
「十四万四千人のこの一団の中に、今や勝利者以上の者、立ち上がった者、天に移され栄光を受けた者、そして7章で紹介されているのと同じ数の一団、つまりイスラエルのすべての部族から選ばれた一団を見出すのは、自然であり、また理にかなっているように思われます。
彼らは額に「生ける神の印」を押され、神の「しもべ」として封印されます。
これらのイスラエル人は、第七の印の時代から信仰の特別な旗手として任命されたことが示されました。
14章では、この一団が、彼らの歩みを終えた後に与えられる報酬と称賛を受けている姿が再び描かれています。
注目すべきは、その中の誰一人として失敗した者がいないということです。」[48]

6.残された民の運命

ヨハネはヨハネの黙示録7章15、16節で、14万4千人の働きを通して主のもとに導かれた人々についてこのように記しています。

「だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。
そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。」
(ヨハネの黙示録7章15、16節)


そして、彼らは「御座の前に」(ヨハネの黙示録14章3節)現れます。
したがって、この残された民の運命は、キリストが「ダビデの王座」から支配する王国です。
これらの約束は天のものではなく、地上のものであり、千年王国において成就します。

IV .イスラエルの盲目の除去

新約聖書は、イスラエルという国が盲目であると教えています。
彼らはメシアを故意に拒んだために霊的に盲目になっているだけでなく、神の裁きが彼らに下され、裁きの結果として盲目になっています。
イザヤはまさにこの状況を預言して、このように記しました。

「すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。
自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」」
(イザヤ書6章9、10節)


この箇所は新約聖書で引用され、イスラエルのキリストに対する態度がその預言の成就をもたらしたことを示しています。
(マタイの福音書13章14、15節、マルコの福音書4章12節、ルカの福音書8章10節、ヨハネの福音書12章40節、使徒の働き28章26、27節)

ヨハネは、イスラエルの不信仰をこのように言っています。

「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。」
(ヨハネの福音書12章37節)


また、イザヤ書を根拠にこのように言っています。

「彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。
それは、彼らが目で見、心で理解し、改心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」」
(ヨハネの福音書12章39、40節)


パウロは、イスラエルに対して裁きが下されたこと(マタイの福音書23章38節)が、民の継続的な状態であったことを明確に示しています。
彼は次のように述べています。

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。
というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。
なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。」
(コリント人への手紙第二3章14、15節)


しかし、ここでもこの状況は変わることが予想されています。
パウロはこのように言っています。

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。」
(コリント人への手紙第二3章16節)


この主題を扱っている最も長い箇所はローマ人への手紙11章です。
パウロは(17~27節)イスラエルが祝福の場所から取り分けられたのは、異邦人が祝福の場所に導かれるためであることを示しています。
イスラエルはそこから切り離され、そして彼らは再びそこに戻るのです。
パウロの教えは次の言葉に集約されています。

「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。
それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。
その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、
ということです。こう書かれているとおりです。」
(ローマ人への手紙11章25、26節)


この箇所は、イスラエルの盲目に関するいくつかの重要な要素を明らかにしています。

(1)この特定の盲目は奥義です。

聖書における奥義という言葉の使い方は、既に述べたように、神によって人間に啓示されなければ知ることのできなかった、また知ることのできなかった神の計画を指します。
この盲目が奥義であるという事実は、それがこれまで啓示されていなかった一種の盲目であることを示しています。
したがって、それは、アダムの子孫として罪の呪いの下にあったイスラエルが経験した霊的な盲目と、啓示された光に反して罪を犯したイスラエルが経験した故意の盲目の両方と区別されなければなりません。
これは、これまで人間が経験したことのない新しい形の盲目です。
それは、メシアを拒絶するという国家的な罪のために、神がイスラエルを訪れたことでした。(マタイの福音書27章25節)

(2)この盲目の本質は明らかにされています。

「盲目(pōorōosis)」という言葉は、文字通り「皮膚で覆うこと」を意味し、「厚い皮で覆う、皮膚で覆って硬くする」という意味の動詞に由来しています。[49]
これは、与えられた啓示を繰り返し拒んだために、厚くて貫通できない覆いが生じ、それが今や定着した状態になったことを示しています。

(3)パウロはこの盲目は「部分的」であると述べています。

これは、盲目が普遍的なものではなく、今日ユダヤ人が誰も信じることができないという事実を明らかにしています。
国家は司法的に盲目にされていますが、個人が救われる可能性は存在します。

(4)国家から盲目が取り除かれる明確な時があることに注目すべきです。

パウロは「イスラエルに部分的に盲目が起こったが、「まで」」と述べています。
ロバートソン氏はこの節を「その時まで」という意味の「一時的節」と呼んでいます。[50]
50これは、定められた時に盲目が取り除かれることを予期しています。

(5)最後に、この盲目が取り除かれる時が「異邦人が、完成するまで」という表現で述べられています。
したがって、「異邦人の完成のなる時まで」という単語を特定することが必要です。

この点についてウォルフォード氏は次のように書いています。
「異邦人の祝福の期間の終了に関して、依然として問題が残っています。
ルカの福音書21章24節で、キリストは「異邦人の時」はエルサレムが「異邦人に踏みにじられている」限り続くと述べています。
ルカの福音書で述べられているのは、捕囚時のエルサレム陥落に始まり、今日まで続いている、異邦人によるエルサレムの政治的支配です。
この単語自体は、関連する二つの箇所の文脈から見て重要ではありません。
しかし、「異邦人の時」という表現は異邦人の政治的支配を指し、「異邦人が満ちる」という表現は、この現代における異邦人の祝福と機会を指していることは明らかです。
もしこの分析が正しければ、「異邦人の時」と「異邦人が満ちる」は全く異なる概念です。
異邦人の時はキリストの遥か前から始まり、キリストが再臨して御国を樹立するまで続きます。
異邦人の満ち足りた状態はペンテコステに始まり、現在の恵みの時代までしか続きません。
終末論の観点から重要なのは、異邦人の満ち足りた状態は異邦人の時代が終わる前に終わるということです。
教会が天に引き上げられる時、異邦人の満ち足りた状態は突然終わることは明らかです。」[51]

したがって、パウロは、異邦人の特権の時代が終わり、イスラエルが祝福の場所に回復される時、教会の携挙のときにこの盲目が取り去られることを暗示しています。
この盲目の除去は、個人にとって霊的な真理が明確に啓示されることを意味するわけではないことに注意すべきです。
その人は依然として罪深い性質による盲目性にとらわれています。
しかし、それは神がイスラエルを異邦人と共に再び祝福の場に復帰させたことを意味します。
神はその時、メシアを拒絶して以来、顧みられなかったこの国と交渉を始められます。
さらに注目すべきは、盲目の最終的な除去、つまり彼らが未だ受け継いでいる霊的な盲目の除去は、キリストの再臨の時まで成し遂げられないということです。(ローマ人への手紙11章26、27節)
裁きとしての盲目の除去により、イスラエルは、その日に宣べ伝えられる御国の福音(マタイの福音書24章14節)を聞くことができるようになります。
それは、彼らが個人としても国家としても救われるためです。
この盲目が除去されることにより、14万4千人の分離、残りの信仰者の召集、そして患難時代にイスラエルが諸国民に対して宣教活動を行うことが可能になります。

V.二人の証人

患難時代におけるイスラエルの立場に関する重要な考察は、ヨハネの黙示録11章3~12節に示されています。
そこでは二人の証人の働きが描写されています。
この箇所の解釈には大きな意見の相違があります。

A.比喩的解釈

二人の証人の比喩的解釈には、主に二つの見解があります。

(1)一つ目は、二人の証人は患難時代の真ん中に携挙される教会を表わすという見解です。
この見解によれば、携挙は12節で起こります。
これは患難時代中期携挙論者の立場であり、既に考察しました。

(2)二つ目は、二人の証人は患難時代の残された民全体を表わすという見解です。[52]
この見解は、2という数字は証人の数であり、14万4千人は患難時代の証人であるため、ここでは比喩的に表されているに違いないという観察に基づいています。
これらの見解はどちらも、文字通りではない解釈方法に基づいています。
これらの見解にはいくつかの反論があります。

1)ヨハネの黙示録が象徴を用いていることは認められますが、そこで啓示されるすべてを比喩的であると受け取るのは間違いと思われます。
ヨハネの黙示録1章1節の「示す」という言葉は、主に「象徴によって知らせる」という意味ではなく、むしろ何らかの霊的な意味を持つ歴史的事実を指しています。
ヨハネの福音書の7つの「しるし」は単なる象徴ではなく、霊的な意味が伴う実際の歴史的出来事です。
「示す」の使用は、ここで非字義的な解釈の根拠とはなりません。
字義的な方法との一貫性を保つためには、例えばヨハネの黙示録12章3節、9節のように本文が明らかに別の意味を暗示していない限り、啓示されることは字義どおりに理解される必要があります。

2)この箇所の他の数字が字義どおりに解釈されるので、この数字2も字義どおりに解釈されなければなりません。
四十二ヶ月(11章2節)、千二百六十日(11章3節)は、文字通りに解釈され、七十週の半分を表すものと理解されます。
三年半(11章9節、11節)を文字通りに解釈しない理由はないように思われます。
したがって、他の数字が霊的に解釈されていないのであれば、二という数字も霊的に解釈されるべきではありません。

3)証人たちは皆、ある時点で滅びます。(11章7節)
そのため、彼らの証言は途絶えます。
私たちは、獣の活動によって滅ぼされたとしても、信じる残された民が主の再臨までの期間を通して存続することを知っています。
継続的な証人は、彼らを残された民と同一視することに反論しているように思われます。

4)残された民の一部が存続する限り、喜ぶ理由はありません。(11章10節)
喜びは、この特定の証人が終了したために生じます。
したがって、これは信仰を持ち証しする残された民ではなく、神によって特別に選ばれ、「わたしの二人の証人」(11章3節)と呼ばれる、文字通り二人の個人を指しているという結論に至ります。
ゼカリヤの二本のオリーブの木がゼルバベルとヨシュアを指していたように、二本のオリーブの木(11章4節)は文字通り二人の個人を表わしています。
彼らの奇跡、働き、昇天はすべて、彼らが一人の人間であることを示しているように思われます。

B.文字通りの解釈

文字通り解釈する人々は、その解釈において二つの集まりに分かれます。
これらの二人は以前に生きていた二人の男性で、この使命のために地上に復帰したと考える人々がいます。
また、彼らは文字通りの人物であると信じながらも、誰なのか特定できないと考える人々もいます。
これらの人々は以前に生きていた人々であるという見解を持つ人々は、二人の証人のうちの一人はエリヤであると主張します。
この見解にはいくつかの根拠があります。

(1)マラキ書3章1~3節、4章5、6節では、エリヤが再臨の前に来て、メシアの道を備えると預言されています。
(2)エリヤは肉体的な死を経験しませんでした。(列王記第二2章9~11節)
そのため、証人たちと同じように、再臨して死を経験することができました。
(3)証人たちは、雨に関してエリヤに与えられたのと同じしるしを持っています。(列王記第一17章1節、ヨハネの黙示録11章6節)
(4)エリヤの時代の干ばつの期間(列王記第一17章1節)は、証人たちの宣教活動の期間と同じ長さでした。(ヨハネの黙示録11章3節)
(5)エリヤは変貌のときに現れた二人のうちの一人で(マタイの福音書17章3節)、すべての目撃者が指摘する「彼の死」について話しています。

証人の一人をエリヤとする人々の多くは、二人目の証人をモーセとしています。
この解釈を支持するいくつかの理由が挙げられています。

(1)モーセは、キリストの死が語られた変貌の際(マタイの福音書17章3節)、エリヤと共に現れました。
(2)モーセが水を血に変える働き(出エジプト7章19、20節)は、証人たちの働き(ヨハネの黙示録11章6節)と同じです。
(3)申命記18章15~19節はモーセの来臨を要求しています。
(4)モーセの体は、彼が回復できるように神によって保存されました。(申命記34章5、6節、ユダの手紙9節)
このように、律法(モーセ)と預言者(エリヤ)は、王の到来を告げる時に、キリストの証人として共に現れたことになります。
しかし、モーセが証人の一人であると特定するには、いくつかの困難があります。

1)申命記18章15節の「私に似た者」という表現は、モーセ自身が証人の一人である可能性を排除しているように思われます。
なぜなら、預言者はモーセではなく、私に似た者だったからです。
モーセ。
2)奇跡の類似性は同一性を意味するものではありません。
モーセが行った奇跡はイスラエルにとってのしるしでした。
証人たちのしるしも同じ様に、その国民にとってのしるしとなります。
もし神が、かつてイスラエルにとって大きなしるしであったそれらのしるしを再び起こされるなら、しるしを受けた人々にとってそれは驚くべきことです。
3)変貌は千年王国と同一視されています。(ペトロの手紙第二1章16~19節)
しかし、患難時代や証人たちの奉仕とは全く同一視されていません。
彼らが変貌の時に現れたということは、主が御国のために来られる時に、彼らが主と親しい関係にあることを意味しています。
しかし、だからといって彼らが証人であるとは限りません。
4)変貌のときのモーセの体は復活した体ではなかった。
なぜなら、キリストは復活の初穂だからです。
(コリント人への手紙第一15章20、23節)
また、不死の体でもなかったため、ユダの手紙9章に基づいてモーセの体が保存されたのは、彼が戻って死ぬためであったと主張することはできません。

証人の一人をエリヤとする人たちは、二人目の証人をエノクとします。
この主張にはいくつかの根拠があります。
1)エノクは死を見ることなく天に移されました。(創世記5章24節)
2)エリヤとエノクは天に移された時点で不死をまとっていました。
(コリント人への手紙第一15章53節)
しかし、今や不死を持っているのはキリストだけでです。(テモテへの手紙第一6章16節)
したがって、この二人は不死を経験することなく、再び死ぬために守られています。
3)エノクはエリヤと同じく裁きの預言者であり(ユダの手紙14、15節)、このことは二人の証人の務めと一致します。
なぜなら、彼らは裁きのしるしである荒布をまとって預言するからです。(ヨハネの黙示録11章3節)
4)ヨハネの黙示録11章4節の「ある」という言葉は、彼らがヨハネの時代にすでにそこにいたこと、そしてすでに天に移された二人の人物であることを示しています。
したがって、エリヤとエノクだけがこの条件を満たすことができたと考えられます。

これらの証人の一人をエノクであると特定することに対しては、いくつかの反論があるようです。
1)エノクが天に移された目的は「死を見ることのないように移されました」と明記されています。(ヘブル人への手紙11章5節)
このことを考えるのならば、彼が戻って死ぬとは言い難い内容です。
2)洪水前の預言者は、神がイスラエルと交渉している時代に遣わされることはないと思われます。
3)天に移されたエノクとエリヤの立場は、肉体の死を通して主の前にいる旧約聖書のすべての聖徒たちと変わりません。
彼らの天への入り口は異なりましたが、入った後の立場は異なっていません。
したがって、彼らが携挙されたという事実は、彼らの状態の違いを必然的なものにならず、また彼らが戻って死ぬことを必然的なものにしません。
4)証人たちは死ぬべき体を持っており、死にます。
変貌の山上のエリヤとモーセは明らかに死ぬべき体を持っていません。
なぜなら、彼らは「栄光のうちに現れた」からです。
再び、彼らに死ぬべき肉体が与えられる可能性はありません。

イングリッシュ氏はこれらの見解に関して次のように結論づけています。
「もし、この二人の証人が旧約聖書の時代に地上に現れた人物であると確実に言えるのであれば、その二人はエリヤとモーセであると結論づけなければならないと私は考えます。
前者は再び来る者とされているのなら、後者は変貌の山でエリヤと関係があり、彼の証人の性質から、そしてエリヤが預言者を代表しているように、モーセが律法を象徴しているからであり、両者はともに来るべき栄光の主を証ししているからです。」[53]
両者の同一性に関する困難と聖書の沈黙を理由に、両者を同一視することはできないと主張する人々がいます。

イングリッシュ氏は、この集まりの代表として次のように書いています。
「この二人の証人は誰なのか特定できません。
しかし、エリヤの霊と力を持って現れるに過ぎません。
二人の証人は死ぬべき体を持つことになります。
「すべてのこと」が可能な神は、遠い昔に主のもとへ召された人々を地上に呼び戻すことも可能です。
しかし、聖書にはそのような人々の再臨に関する前例や言葉はありません。
確かに、ラザロやツァレファテのやもめの息子、そして他の人々も死から蘇った時に死ぬべき体を持っていました。
しかし、彼らの死は一時的な経験に過ぎず、神の御子(もしくは預言者)の奇跡的な力によって彼らの復活によって神が栄光をお受けになるために許されたのです。
主は死者の中から復活した後、再び、栄光の体で現れました。
すでに述べたように、変貌の山でモーセとエリヤは「栄光のうちに現われて」(ルカの福音書9章31節)、つまり、その機会のために栄光に輝いた体で現れたのです。
このことから、この二人の証人は誰なのかは特定できないが、イスラエルの民が受け入れる心を持っていたならばバプテスマのヨハネが果たしたであろう運命を、彼らは将来果たすだろうと結論づけられます。」[54]
これらの人々の正体は不明であると結論付けるのが最も妥当だと考えます。
彼らはおそらく、以前に生きていて回復した人々ではなく、特別な証人として立てられ、しるしを行う力を与えられた二人の人物です。
彼らの務めは、粗布の衣服が示すように、裁きの務めです。
彼らは獣によって殺されます。(ヨハネの黙示録13章1~10節)
彼らの死の時期については、同じ著者が次のように述べています。
二人の証人に託された預言の期間、つまり1260日は、三年半に及ぶことが計算してすぐに分かります。
では、これらの証人たちは患難時代のどの時期に預言するのでしょうか?
それとも、彼らの証言は七年間のどちらかの半分に限定されるのではなく、一方の半分からもう一方の半分へと続くのでしょうか?
この点について断定的な判断はできないと思います。
彼らの証言はダニエルの預言週の前半に行われ、彼らの殉教は獣がユダヤ人との契約を破った後の最初の迫害行為となります。(ダニエル書9章27節)
その議論には、考えさせられる理論があります。
彼らの宣教活動には敵に対する力も伴いますが、ダニエル書7章21節によれば、「小さな角」(この獣とは誰のことでしょうか?)が聖徒たちと戦い、彼らに勝利を収めます。
そのことが週の後半に起こります。
一方、ヨハネの黙示録11章2節の「四十二か月」は明らかに患難時代の後半を指しており、二人の証人の証言の期間もこれと同時期であるように思われます。
さらに、彼らの証言は第七のラッパが吹かれる直前に記録され、この出来事は私たちを千年王国へと導きます。
しかし、この時代の信者にとって、証言が行われる正確な時期は重要ではありません。
それは神の定められた時に行われるものであり、私たちはそれを知っています。
そして、それが適切な時なのです。[55]

VI.再び、エリヤは戻ってくるでしょうか?

これまでの議論と結びついている疑問は、エリヤに関するものです。
彼はすでに来たのか、文字通り再び来るのか、それとも預言者自身ではないものの、エリヤの霊と力を持つ者が来るのしょうか?
このこと自体が重要な事柄であり、証人たちの身元にも関係します。

A.再び、エリヤは来ないという論証

この疑問に対する解釈として、バプテスマのヨハネが先駆者について預言されたことをすべて完全に成就したため、エリヤは再び来ないという解釈があります。[56]

この立場の根拠となる重要な論拠はいくつかあります。
(1)聖書に確立された隔たりの原理が証拠として挙げられます。
この見解によれば、マラキは預言の中で二つの大きく離れた出来事(4章5、6節)を見出し、それを一つのものとして扱っています。
したがって、ヨハネは最初の部分をキリストの初臨で成就したが、残りの部分はキリストの再臨を待たなければなりません。
(2)エリヤは「主の大いなる恐ろしい日が来る前に」(マラキ書4章5節)来ると言われています。
したがって、ヨハネがエリヤであったと言わなければなりません。
そうでなければ、エリヤは患難時代前に来なければならず、そうなればエリヤは差し迫った存在であるという教理は崩壊してしまいます。
(3)マタイによる福音書24、25章は、患難時代のイスラエルの計画を要約しています。
しかし、その時期のエリヤの働きについては言及していません。
(4)二人の証人の働きは裁きの働きであり、エリヤの働きは「心を向けさせる」働きです。
そのため、ヨハネの黙示録4~19章までの年代には、エリヤのような働きについては何も書かれていません。
(5)キリストはマタイによる福音書11章14節と17章12節で、ヨハネが預言のエリヤであったことをはっきりと述べています。

これらの議論に対して、次のように述べることができます。
1)ギャップ原理は明確に認識されているが、ギャップが存在する可能性はあっても、必ずしも存在するとは限りません。
これは、この立場を支持するための調整です。
(2)エリヤが「主の大いなる恐るべき日が来る前に」(マラキ書4章5節)来るのは事実です。
しかし、「主の日」とは、その句が含む期間全体、つまりダニエル書の七十週の初めから千年王国までを指す場合もあれば、その名称で呼ばれるその期間に起こる出来事のいずれかを指す場合もあることに注意すべきです。
したがって、エリヤは主の日の「前」に来るので、教会時代に現れると考える必要はありません。
これは、主の日の出来事である再臨の直前、そして再臨に関連して下される恐ろしい裁きの前にエリヤが現れることを意味するのかもしれません。
実際、偉大で恐ろしいという形容詞は、この預言をまさにその経験と関連づけているように思われます。
(3)マタイによる福音書の年表では多くの重要な出来事が省略され、他の聖書箇所からそれを補わなければならないことに注意しなければなりません。
したがって、省略によってそのような働きが不可能になるわけではありません。
(4)ヨハネの黙示録は決定的に語られていますが、そこに含まれていない旧約聖書の出来事もあり、省略されているからといってこの働きを否定する必要はありません。
証人たちが審判を告げるという事実は、それに恵みのメッセージを結びつける可能性を排除するものではありません。
(5)ヨハネがエリヤであるという主の発言は、偶然性に基づいた発言でした。
「あなたがたが進んで受け入れるなら」ヨハネはエリヤでした。(マタイの福音書11章14節)
主は、彼らが提供された王国を受け入れるなら、ヨハネがエリヤの働きを行う者になることを示しました。
しかし。彼らはこの提示を拒んだのです。(マタイの福音書17章12節)
そのためため、ヨハネは預言を成就する者となることができなくなりました。

B.再び、エリヤは自ら来て働くのです。

二番目に有力な見解は、ヨハネは預言を成就していません。
主はエリヤの将来の奉仕を期待しておられる(マタイの福音書17章11節)という解釈です。
したがって、エリヤは再び来て働かなければなりません。

この見解を支持する論拠がいくつか提示されています。
(1)ルカの福音書1章17節では、ヨハネはエリヤではなく、「エリヤの霊と力で主の前ぶれ」とする者とされ、ヨハネは文字通りのエリヤではなく、したがって文字通りのエリヤはまだ来なければならないことが示されています。
(2)ヨハネは自分がエリヤであることを否定しました。(ヨハネの福音書1章21節)
(3)マタイの福音書17章11節では、「来なさい」という言葉は現在形です。
しかし、「回復する」という言葉と結びついて未来形であるので、未来の現在形として解釈されなければなりません。
したがって、主はエリヤの将来の働きを暗示していることになります。
(4)ヨハネの黙示録11章の証人たちの働きとエリヤの働きの類似点は、エリヤが将来再び現れることを示しています。
(5)敬虔なユダヤ人は預言の成就として今もエリヤを待ち望んでいるという歴史的議論がくり返し用いられています。
(6)ヨハネがすべてのものを回復したわけではありません。
ゆえに、それを望む者が必ず来ます。

聖書を文字通りに解釈する観点からすると、これらの議論は説得力があり、エリヤが必ず再臨するという事実を立証しているように思われます。
しかし、これに反する一つの考察があります。
ルカの福音書1章17節では、ヨハネは「エリヤの霊と力で主の前ぶれ」として来たる者とされています。
主が「もしあなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです」と言われました。
(マタイの福音書11章14節)
また、「エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです」
(マタイの福音書17章12節)と言われました。
その時、主は文字通りのエリヤではなく、エリヤの霊と力をもって来て預言を成就した者を指しておられました。
弟子たちは、主がこのようにヨハネを特定したことをはっきりと理解していました。(マタイの福音書17章13節)
イスラエルがメシアとその王国を受け入れて初めてヨハネがエリヤになったとキリストは述べられています。
(マタイの福音書11章14節)

ヨハネが預言されていたエリヤになったかどうかは偶然の一致によるものでした。
確かに、ヨハネが預言を成就する者かどうかは、イスラエルが差し出された王国を受け入れるか拒否するかによって決まりました。
しかし、王国に対する態度がヨハネの人格を変えることはありません。
彼はいかなる状況下でも文字通りのエリヤではありません。
また、エリヤになることもできません。
そして、王国を受け入れることで彼がエリヤになることもありません。
ヨハネは預言を成就する者でした。
なぜなら、預言は主によって、文字通りのエリヤではなく、エリヤの霊と力を持って来る者によって成就すると解釈されているからです。
もし、文字通りのエリヤが現れなければならないなら、キリストは真実に王国を提示しているとは言えません。
なぜなら、文字通りのエリヤが現れなければならず、ヨハネはその条件を満たしていなかったからです。
しかし、もしエリヤの霊と力を持って来る者が条件を満たすなら、真実に王国を提示することができたのです。
主の言葉に基づいて、エリヤ自身が現れる必要はないものの、この務めを果たすために誰かが現れるという結論が導き出されます。
(マタイの福音書17章12節)

C.エリヤの霊と力を持つ者が来る。

三つ目の主要な見解は、預言はヨハネの福音書において成就しておらず、将来の成就を待つというものです。
しかし、エリヤ自身は預言を成就する義務を負っていません。
ゆえに、預言されたことを成就するために、エリヤの霊と力を持つ者が来るとされています。
(マラキ書4章5、6節、マタイの福音書17章10、11節)

この質問について、イングリッシュ氏は次のように書いています。
「変貌の後、弟子たちは主に、主が力と栄光をもって来られることについて尋ねました。

「そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。
「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」
イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。」」
(マタイの福音書17章10、11節)


もしエリヤの来臨について他に言及がないのであれば、ヨハネの黙示録11章の二人の証人のうちの一人であると結論づけるしかありません。
しかし、ここで考えてみましょう。
変貌の少し前に、獄中にあったバプテストのヨハネは、二人の弟子を遣わして主イエスに、主がメシアなのか、それとも別の方を探すべきなのかを尋ねさせました。
主は、ヨハネに御自身の奇跡的な働きこそが、預言者たちが預言した方であることを示す十分な証拠であると促し、群衆にバプテストのヨハネの偉大さと、がまさにマラキが語った使徒であることを告げられました。(マラキ書3章1節)
そして主はこう付け加えられました。

「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。
あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」
(マタイの福音書11章12、14節)

主は何を言おうとされたのでしょうか?
その時、もし、イスラエルが主を受け入れる用意と意志を持っていたなら、主は彼らに提供された王国を樹立していたはずです。
そしてもしそうなれば、ヨハネの働きは預言的エリヤの成就となる、ということを主は彼らに告げておられたのです。
したがって、マラキの預言は、霊とエリヤの力を持って来る者(ルカの福音書1章17節)を指しており、その者は文字通りエリヤである必要はありません。
主は、既に言及した変貌後の弟子たちとの対話の中で、このことをもう一つ暗示しておられます。
エリヤが本当に来ることを弟子たちに保証した後、こう付け加えられました。

「しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。
ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。
人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」
そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」
(マタイの福音書17章12、13節)
神の御言葉は、来る者が文字通りのエリヤではなく、仮想のエリヤであることを明確に示しているように思われます。[57]

この二人の証人の問題に関連して、イングリッシュ氏は次のように結論づけています。
「もしイスラエルがそれを受け入れる意志を持っていたならば、バプテスマのヨハネがエリヤであったかもしれないのなら(マタイの福音書11章13、14節)、将来のその日にエリヤの霊と力を持って来る証人たちは、マラキと私たちの主の預言を確実に成就することができるのです。
(マラキ書4章5節、マタイの福音書17章10、11節)[58]

イスラエルが差し出された王国を拒んだため、ヨハネは預言を成就できくなりました。
そのため、マラキ書4章5、6節の預言が成就したと主張することは不可能だと考えられます。
ヨハネはエリヤ自身ではなかったにもかかわらず、この預言を成就できたという事実は、預言を成就するためにエリヤが直接来る必要がなかったことを示しているように思われます。
再臨に先立つ期間、そして地上に裁きが注がれる前に、エリヤの霊と力を持つ者による働きが行われ、この預言は成就します。

NOTE

[1]Lewis Sperry Chafer, Systematio Thcology, V, 116-17.
[2]Cf. ibid., V, 118-19.
[3]Arno C. Gaebelein, The Gospel According to Matthew, II, 175-76.
[4]Chafer, op. cit., V, 114.
[5]Gaebelein, op. cit., II. 167-70.
[6]Chafer, op. cit., V, 120-25.
[7]Ibid., V, 120-21.
[8]C. I. Scofield, Reference Bible, p. 1033.
[9]Schuyler English, Studies in the Gospel According to Matthew, p. 173.
[10]Gaebelein, op. cit., II, 182.
[11]English, op. cit., pp. 173-74.
[12]Chafer, op. cit., V, 127.
[13]Scofield, op. cit., p. 1034.
[14]Gaebelein, op. cit., II, 220.
[15]Ibid., II, 225.
[16]Cf. English, op. cit., p. 183.
[17]Ibid., p. 185.
[18]Ibid., pp. 187-88.
[19]William Kelly, The Lord’s Prophecy on Olivet in Matthew xxiv., xxv., p. 68.
[20]Walter Scott, Exposition of the Revelation of Jesus Christ, pp. 249-50.
[21]Cf. F. C. Jennings, Studies in Revelation, pp. 310-11.
[22]Cf. Ford C. Ottman, The Unfolding of the Ages, p. 280.
[23]Gaebelein, loc. cit.
[24]F. W. Grant, The Revelation of Christ, p. 126.
[25]Cf. Ottman, op. cit., pp. 278-79.
[26]Cf. ibid., p. 282.
[27]Cf. Jennings, op. cit., p. 312.
[28]William Kelly, editor, The Collected Writings of J. N. Darby, Prophetical, XI, p. 190.
[29]Cf. W. C. Stevens, Revelation, Crown-Jewel of Prophecy, II, 212-13.
[30]William Kelly, Lectures on the Revelation, pp. 254-57.
[31]Cf. Ottman, loc. cit.
[32]William G. Moorehead, Studies in the Book of Revelation, p. 90.
[33]Cf. Kelly, editor, Collected Writings of J. N. Darby, Prophetical XI, 182-204.
[34]Oswald T. Allis, Prophecy and The Church. Cf. Index, Jewish Remnant, where ten passages are cited where this doctrine is attacked.
[35]Alexander Reese, The Approaching Advent of Christ. Cf. Index, Jews, the Remnant, where eleven passages are devoted to the attack on this doctrine.
[36]Arno C. Gaebelein, Hath God Cast Away His People! pp. 21-22.
[37]Kelly, editor, op. cit., p. 204. The reader should consult pp. 179-204 for an extended treatment of the prophecies of Isaiah dealing with the remnant.
[38]Gaebelein, op. cit., p. 28.
[39]Allis, op. cit., p. 224.
[40]J. Ellwood Evans, “New Testament Contribution to Israel’s Eschatology,” p. 134.
[41]Kelly, editor, op. cit., II, 37.
[42]Scott, op. cit., p. 166
[43]Ottman, op. cit., p. 165.
[44]Ibid., p. 180.
[45]Scofield, op. cit., p. 1226.
[46]Kelly, Lectures on the Book of Revelation, p. 318.
[47]Joseph Seiss, The Apocalypse, III, 19.
[48]Stevens, op. cit., II, 240.
[49]Joseph Henry Thayer, Greek-English Lexicon of the New Testament, p. 559.
[50]A. T. Robertson, Word Pictures in the New Testament, IV, 398.
[51]John F. Walvoord, “Israel’s Blindness,” Bibliotheca Sacra 102:287-88, July, 1945.
[52]Cf. Harry A. Ironside, What’s the Answer? p. 124; Scott, op. cit., p. 213.
[53]Schuyler English, “The Two Witnesses,” Our Hope, 47:665, April, 1941.
[54]Ibid., pp. 669-70.
[55]Ibid., p. 671.
[56]Cf. Carl Armerding, “Will There Be Another Elijah!” Bibliotheca Sacra, 100:89-97, January, 1943.
[57]English, op. cit., p. 666.
[58]Ibid., p. 670.


第19章 患難時代の異邦人

異邦人諸国民に対する神の計画があり、それは患難時代に成就することになっています。
この主題については膨大な預言が捧げられており、患難時代の出来事を明確に理解するためには、それらを深く掘り下げなければなりません。

1.患難時代と「異邦人の時」

ルカの福音書21章24節で主が「異邦人の時」と呼んでいる時代は「異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます」と述べられており、預言的な聖書の中で重要な時代の一つです。[1]
イスラエルと患難時代の関係については既に考察してきました。
次に、「異邦人の時」に注目しながら、異邦人に関する出来事について考察します。

A.異邦人に対する計画

神は異邦人に対して、千年王国における彼らの救いと祝福へと導く計画を持っておられます。
その計画は以下のように説明されています。

1.最初の異邦人への預言

ノアは、地球に再び人間を住まわせる人種の祖先として、彼の三人の息子それぞれが示すであろう性格について壮大な預言をしました。
(創世記9章25~27節)

2.イスラエルに隣接する諸国に対する裁きがあります。

これらの預言は旧約聖書のさまざまな部分で述べられています。
例えば、バビロンとカルデア(イザヤ書13章1~22節、14章18~27節、エレミヤ書50章1~51章64節)、
モアブ(イザヤ書15章1~9節、16章1~14節、エレミヤ書48章1~47節)、
ダマスコ(イザヤ書17章1~14節、エレミヤ書49章23~27節)、
エジプト(イザヤ書19章1~25節、エレミヤ書46章2~28節)、
ペリシテとティルス(イザヤ書23章1~18節、エレミヤ書47章1~7節)、
エドム(エレミヤ書49章7~22節)、
アモン(エレミヤ書49章1~6節)、
エラム(エレミヤ書49章34〜39節)などがあります。

3.異邦人の時

イスラエルに対する神の配慮を表す「時」や「季節」とは対照的に(使徒の働き1章7節、テサロニケ人への手紙第一5章1節参照)、異邦人に対する神の配慮を表す「異邦人の時」という表現があります。
後者は「エルサレムが異邦人の支配下に置かれる期間が測られます。
異邦人の時は約560年間、測られます。
しかし、この期間は教会の介入によって中断されます。
この期間は期間が不明確であるため、異邦人の時が終わる期間に不確定な要素をもたらします。
しかしながら、教会が取り去られた直後に経験する七年間を除けば、異邦人の時は既に終了していることは明らかであり、この介入は教会が取り去られることによって終わりを迎えます。

4.君主制の継承、ダニエルは四つの世界大国、つまりバビロン、メディア・ペルシャ、ギリシャ、そしてローマを予見されています。

預言者ダニエルが予見したように、これらの大国は異邦人の時代を支配し、キリストの栄光ある到来によって終わりを迎えます。
その時、メシアの王国があらゆる人間の支配と権威に取って代わります。

5.異邦人の国の裁き

この驚くべき出来事は、旧約聖書の中で十分に予期されていました。
(詩編2章1~10節、イザヤ書63章1~6節、ヨエル書3章2~16節、ゼパニヤ書3章8節、ゼカリヤ書14章1~3を参照)

6.異邦人と火の池

反対する異邦人の滅亡も旧約聖書で予期されていますが、彼らの裁き主であるキリスト御自身が、彼らの実際の運命を宣言しておられます。
(マタイの福音書25章41節)

7.異邦人と神の御国の預言は、イスラエルの王国における異邦人の権利を予見しています。
(イザヤ書11章10節、42章1節、6節、49章6節、22節、60章、62節、63章参照)

後の啓示(マタイの福音書25章31~40節)は、王の権威によって、そして世界の創造以来父なる神によって予め定められていたとおりに、異邦人が神の御国に入ることを断言しています。[2]

B.「異邦人の時」の期間

「異邦人の時」とは、エルサレムが異邦人の権威の支配下にあった期間として主に定義されています。
(ルカの福音書21章24節)
この期間は、エルサレムが異邦人の手に落ちたバビロン捕囚から始まりました。
それは現在まで続いており、異邦人の勢力が裁かれる患難時代まで続きます。
異邦人の支配は、メシアが地上に再臨した時に終わります。

スコフィールド氏は、この期間の制限を次のように定義しています。
「異邦人の時代とは、ネブカドネザル王によるユダのバビロン捕囚に始まり、「人手によらずに切り出された石」(ダニエル書2章34節、35節、44節)による異邦人世界勢力の滅亡、つまり主の栄光の到来(ヨハネの黙示録19章11節、21節)によって終わる長い期間です。
その時までエルサレムは政治的に異邦人の支配下に置かれます。」(ルカの福音書21章24節)[3]

C.「異邦人の時代」の経過

この時代についての最も詳細な記述は、預言者ダニエル書に記されています。
デネット氏はこのように書いています。
「ダニエル書には、エルサレムの破壊からキリストの出現までの異邦人勢力の進路と性格、残された民の立場、異邦人が支配権を握っている間のユダヤ人の苦難、そして最後に神が御自身の目的を忠実に遂行、介入し、御自身の栄光のために、選ばれた地上の民の救済と祝福のために働かれるまでのことが記されています。」[4]

1.この時代の流れに関する最初の預言的概略はダニエル書2章に示されています。
そこでは、巨大な像を通して、エルサレムを支配することになる歴代の帝国が説明されています。
チェイファー氏はこれについてこのように記しています。
五つの世界王国が次々と出現することが予見されています。
そのうち四つは像の部分によって表され、五つ目は神の裁きが下った時、四つの王国の残骸の上に出現する王国です。
五つ目は天の神によって立てられるべきものであり、永遠に存続します。
最初の王国、金の頭であるバビロンは、ダニエルが解釈を与えた当時、既にその勢力の頂点にありました。
二番目はメディア・ペルシャであり、ダニエルもこの王国に共に生きました。
三番目はアレクサンドロス大王の治世下にあったギリシャであり、四番目はローマであり、ローマはキリストが地上にいた時代に最も進展を遂げていました。
この鉄の王国は、最終的に鉄と粘土の足へと融合します。
鉄と粘土の足の時代に、鉄の石が打ち砕かれるのです。

2.この時代における二つ目の預言的概要は、ダニエル書7章に示されています。
ダニエル書2章では世界帝国の成り行きが人間の視点から描かれていますが、ダニエル書7章では同じ帝国の成り行きが神の視点から描かれています。
そこでは、帝国は魅力的で栄光に満ちた姿ではなく、目の前のすべてを食い尽くし、滅ぼす、それゆえに裁きを受けるに値する、貪欲な4頭の野獣として描かれています。

ガエベライン氏はこの箇所を次のように説明しています。
「夢の像に描かれた金と最初の獣は、バビロニア帝国を象徴しています。
初めは翼を持つライオンでしたが、翼は抜かれ、力を失い、人の心を持っていてもなお獣のままです。
熊はメディア・ペルシア帝国を象徴し、銀、胸部、腕を持つ帝国として描かれています。
片方の足が上がっているのは、ペルシア人の要素がメディア人よりも強かったためです。
熊の口には3本の肋骨がありました。
スシアナがリディアと小アジアはこの勢力によって征服されました。
四つの翼と四つの頭を持つヒョウは、ギリシャ・マケドニア帝国の象徴であり、ネブカドネザル王の像の青銅のももに相当します。
四つの翼はその速さを、四つの頭はこの帝国がシリア、エジプト、マケドニア、小アジアに分割されたことを象徴しています。
異邦人の時代を支配するこれらの世界大国を象徴する獣の選択において、神は彼らの道徳的性質が獣的であることを私たちに告げています。
ライオンは貪り食い、熊は粉砕し、ヒョウは獲物に飛びかかるのです。
そして第四の世界帝国、鉄の帝国、ローマがあります。
それは他のどの帝国とも異なる描写で描かれています。
強烈で、恐ろしく、非常に強く、巨大な鉄の歯を持っています。
貪り食い、粉々に砕き、踏みにじります。
十本の角があり、その真ん中に小さな角が一本生えています。
その角には人間の目のような目があり、大きなことを語る口があります。」[6]
このように聖書は、ダニエルの時代からキリストの再臨の時にエルサレムが異邦人の支配から解放される時まで、4つの大帝国が興亡を繰り返すであろうことを明らかにしています。

3.イスラエルのために定められた「時と季節」の最後の七年間は、異邦人の時代の最後の七年間でもあります。

ダニエル書9章24~27節の預言によれば、両者の終わりは同じだからです。
したがって、患難時代は異邦人の時代における計画の展開における最終段階です。
このように、異邦人のために定められた計画は、終末論的な計画に重要な影響を及ぼします。
ダニエル書の前述の章から、以下の出来事が起こります。

(1)第四世界帝国の最終的な形態を形成するために、諸国家の再編が行われます。
この帝国は「石」によって打ち倒される帝国です。(ダニエル書2章35節)
10の異なる部分から構成されます。(ダニエル書2章33節、7章7節)
そして、支配権を握る中で既存の国家元首のうち3人を倒した一人の首長がいます。(ダニエル書7章8節)
(2)この帝国の首長は冒涜者です。(ダニエル書7章8節、25節)
聖徒たちを迫害する者であり(ダニエル書7章25節)、神とイスラエルに対する神の計画の特別な敵として三年半(ダニエル書7章25節)存在し続けます。
(3)この帝国の長はイスラエルと契約を結び、彼らの主権を回復します。(ダニエル書9章27節)
しかし、その契約は破られます。(ダニエル書9章27節)
(4)この指導者はパレスチナに侵攻し(ダニエル書11章41節)、そこに本部を置きます。(ダニエル書11章45節)
(5)彼は主の再臨の時に裁かれます。(ダニエル書7章11、26節)
(6)この指導者とその軍勢の滅亡により、エルサレムは異邦人の支配から解放されます。(ダニエル書7章18、22、27節)
(7)この救出はメシアの再臨の時に起こります。(ダニエル書7章13節、2章35節)

II.異邦人世界権力の最終形態

異邦人による世界権力の最終的な形態という問題に重要な関係を持つ聖書の重要な箇所がいくつかあります。

A.ダニエル書2章

ダニエル書2章における異邦人の時代の描写において、預言者はパレスチナを支配した四つの帝国について概略的に述べています。
そして、異邦人世界勢力の終わりについては非常に具体的に述べています。
彼はこのように記しています。

「第四の国は鉄のように強い国です。鉄はすべてのものを打ち砕いて粉々にするからです。
その国は鉄が打ち砕くように、先の国々を粉々に打ち砕いてしまいます。
あなたがご覧になった足と足の指は、その一部が陶器師の粘土、一部が鉄でしたが、それは分裂した国のことです。
その国には鉄の強さがあるでしょうが、あなたがご覧になったように、その鉄はどろどろの粘土と混じり合っているのです。
その足の指が一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。
鉄とどろどろの粘土が混じり合っているのをあなたがご覧になったように、それらは人間の種によって、互いに混じり合うでしょう。
しかし鉄が粘土と混じり合わないように、それらが互いに団結することはありません。
この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。
その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。
しかし、この国は永遠に立ち続けます。」
(ダニエル書2章40~44節)


これらの節には、異邦人の権力の最終形態に関するいくつかの重要な特徴が見られます。

(1)異邦人の権力の最終形態は、第四の偉大な帝国であるローマ帝国から派生し、最終的に進展したものです。
この最終形態は、足と十本の足指によって表されています。(ダニエル書2章41、42節)

(2)この権力の最終形態は、分裂によって特徴づけられます。(ダニエル書2章41節)
十本の足指と粘土と鉄に重点が置かれているのは、まさにこのためです。

トレゲレス氏は次のように記しています。
「この第四の王国は、分裂状態にあり、堕落していた時代に、特に私たちの前に現れたと言えます。
足の指の数は、十の分割を暗示しています。
これはここで私たちに与えられたヒントと捉えることができますが、より具体的な事実は本書の後半で述べられます。
この王国はその後、いくつかの部分に分割されますが、聖書の他の部分(特に7章)から、その部分がちょうど10であることが分かります。」[8]

(3)異邦人の権力の最終的な形態は、弱いものと強いものの連合、独裁政治と民主主義、鉄と粘土(ダニエル書2章42節)によって特徴づけられます。

ケリー氏は次のように述べています。
「時代が終わる前に、一見矛盾する二つの状態、つまり普遍的な帝国の首長と、それに加えてそれぞれ独立した王国が、それぞれに王を持つという、驚くべき統合が起こります。
しかし、一人の人物がこれらすべての王の皇帝となります。
その時が来るまで、様々な王国を一つの首長の下に統合しようとするあらゆる努力は、完全に失敗します。
その時になっても、それらは一つの王国に統合されるのではなく、それぞれの独立した王国がそれぞれ王を持ち、全てが一つの首長に従属することになります。
神は、それらは分裂すると述べられています。
そして、まさにこれがここで私たちに示されています。
「鉄が粘土と混じり合わないように、それらが互いに団結することはありません。」
そして、もし世界でこの矛盾した王国の体系を象徴する部分があるとすれば、それは現代ヨーロッパです。
鉄が優勢であった間は、一つの帝国がありました。
しかし、その後、粘土、つまり異質なものが入り込んできたのです。
鉄のおかげで世界共通の君主制が築かれ、粘土のおかげで別々の王国が築かれるのです。」[9]

鉄と粘土の混合は不自然なものであるため、この連邦は力によってもたらされたのではない、と暗示されているように思われます。
そうでなければ、この状態は持続しません。
しかし、これはお互いの合意によってもたらされたものであり、同盟の各構成員はそれぞれのアイデンティティを維持します。
これはヨハネの黙示録17章13節と一致します。

(4)この最終的な分裂状態は、現時点では歴史的なものではなく、預言的なものです。
「この王たちの時代」(ダニエル書2章44節)は、「人手によらずに山から切り出された石」(ダニエル書2章45節)が現れるまで存在しません。

アイアンサイド氏はこのように述べています。
「注釈者たちは一般的に、ローマ帝国が十本の指を持つ状態になったのは5世紀と6世紀、北方からの蛮族がローマ帝国を侵略し、帝国がおよそ10の異なる王国に分裂した時だと説明しています。
十の王国それぞれについて、様々な一覧表が作られてきましたが、実際の区分については意見が一致する著述家はほとんどいません。
彼らは皆、見落としているように思われる点があります。
それは、十の王国は数世紀にわたる期間ではなく、同時に存在し、すべてが一つの連合を形成するということです。
ヨーロッパの王国の過去の歴史には、これに答えるものは何もありません。
彼らは一般的に互いに敵対し、互いに滅ぼし合います。
したがって、私たちは十本の指に関するこの解釈を断固として否定します。」[10]

このローマ帝国は、キリストの最初の到来時に存在する形態からキリストの再臨時の最終形態までの連続的に発展したと見るのが最も良いように思われます。
厳しい言葉に聞こえるかもしれませんが、事実がそれを完全に裏付けています。
中世史を学ぶ学生の10人に1人でさえ、中世史を解き明かす鍵となる、このテーマ全体を貫く唯一の鍵を真実だと理解していません。
その鍵がなければ、中世史は単なる理解不能な混沌としてしまいます。
その鍵とは、ローマ帝国の存続に他なりません。
帝国が476年に滅亡したと教えられている限り、その後の千年間を真実に理解することは全く不可能となります。
その時代の人々の考えでは、ローマ帝国、アウグストゥス帝、コンスタンティヌス帝、そしてユスティニアヌス帝の帝国は過去のものではなく、現在のものであったことを常に念頭に置かない限り、その時代全体の政治も文学も理解することはできません。[11]
そうすると、問題は帝国の復活というよりも、継続する権力の領域を最終的な十本指の形に作り変えられることだと考えます。

B.ダニエル書7章

異邦人による世界権力の最終形態を扱った二番目の重要な箇所はダニエル書7章です。
そこでは、その勢力の進路が四つの貪欲な獣を通して明らかにされています。
異邦人による世界権力の終わりに関して、ダニエルはこの預言の中でいくつかのことを明らかにしています。

(1)前の預言と同じ様に、異邦人による世界権力の最終形態は、十人の王とその王国の連合体として存在すると啓示されています。
(ダニエル書7章7節)
この第四の獣の特異な点は、その強さでも、凶暴性でも、それ以前の他の獣をすべて滅ぼしたという事実でもなく、十本の角を持っていたことです。

(2)これらの角こそが、帝国の最終形態となります。
ケリー氏は次のように述べています。
「ローマ人の特異性は「十本の角」を持つことです。
しかし、この幻の中に歴史の実際の展開を求めるべきではありません。
もしそうであれば、ローマの獣が預言者の目に初めて映った時、十本の角は見られなかったことは明らかです。
実際、ローマが帝国として存在してから数百年を経て初めて、複数の支配者を持つようになった。
神の霊は、始まりではなく終わりに見られる特徴を、まさに最初の姿の中に明らかに描き出しています。」[12]

ダニエル書7章24節から、これらの十人の王は、第四の偉大な世界王国から生じる十の王国の長であることが明白です。
十人が第四の王国から「出現し」生じるという事実は、第四の王国が存在を消滅させて再び復活するものではなく、むしろ十本の角の状態が融合するまで何らかの形で存続すると考えられていることを暗示しています。

ヤング氏は次のように述べています。
「十本の角は生きている獣に現れます。
獣は死んで、その十本の角で再び生き返るわけではありません。
むしろ、これらの角は生きている獣から生え出るのです。
したがって、それらは獣の歴史における第二の段階を象徴するものであり、獣の存在の復活した形ではありません。[13]

(3)十の王国の中から、十人の王の領土全体を統制する一人の人物が出現します。
(ダニエル書7章8、24節、ヨハネの黙示録13章1~10節、17章13節)
この人物が権威を獲得するにあたり、十人の王のうち三人は倒されます。

(4)この帝国における最終的な権威は、冒涜、神の民への憎しみ、既存の法と秩序の無視を特徴とする人物によって行使され、その支配期間は三年半に及びます。(ダニエル書7章26節)
(5)この最終的な世界強国は、世界的な影響力を持ちます。(ダニエル書7章23節)

C.ヨハネの黙示録13章1~3節ではヨハネは、異邦人の権力の最終的な形態に関する啓示の筋道を継続しています。
いくつかの注目すべき点があります。

(1)既に啓示されているように、最終的な権力の形態は、それ以前のすべての形態の後継者です。
なぜなら、出現する獣は、ヒョウ、熊、ライオンの特徴を持つ複合的な獣だからです。(ヨハネの黙示録13章2節)

(2)この世界権力の形態は十本の角によって特徴づけられています。(ヨハネの黙示録13章1節)
ヨハネの黙示録17章12では、獣が支配する「王たち」として説明されています。

(3)王国全体に関して存在しなくなった、以前の支配方法が回復されます。
ヨハネは、この獣には七つの頭があり(ヨハネの黙示録13章1節)、現在の頭は死ぬほど傷つけられています。
(ヨハネの黙示録13章3節)
そして、その傷は癒されたと述べています。
ヨハネの黙示録17章10節によれば、これらの長とは、ローマが支配していた王、もしくは支配形態を指します。
通常、王、執政官、独裁官、十人貴族、護民官、皇帝などとみなされます。

スコフィールド氏は、癒された致命的な傷(ヨハネの黙示録13章3節)について次のように述べています。
「古代ローマ帝国の断片は、それぞれの王国として存在し続けています。
帝国の支配形態は消滅し、その一つの頭は傷つけられて死にました。
ヨハネの黙示録13章3節に預言されているのは、十の王国からなる連邦帝国において、帝国の形態そのものが回復されるということです。
「かしら」は「癒される」、つまり回復され、再び皇帝、つまり獣が現れるのです。」[14]
これは、世界を驚かせたのは、十の王国連合を率いる絶対君主が権力を握り、絶対的な権力を振るったことだったことを示しています。

(4)この出来事全体はサタンの力によるものとされています。(ヨハネの黙示録13章4節)
ローマ帝国は、キリストの初臨の時にサタンが攻撃する手段であったように、最終的な形態をとったローマ帝国は、メシアの再臨の時にサタンが攻撃する手段となります。

D.ヨハネの黙示録17章8~14節は異邦人の世界権力の最終的な形態を扱ったもう一つの重要な箇所です。
いくつかの重要な考察を提示しています。

(1)ヨハネは、ローマが「七つの丘を持つ街」であることから、終末における権威の座について述べています。
(ヨハネの黙示録17章9節)

(2)異邦人の権力の最終的な形態は、「八番目」王と呼ばれる人物にあり、彼は以前の七人の王によって支配されていた王国の権威を継承します。(ヨハネの黙示録17章10、11節)
この八人目の王については様々な解釈がなされています。

スコット氏は次のように書いています。
「獣の7つの頭は、第4の普遍的な帝国の発展からその歴史を通じてその終わりに至るまでの7つの連続した政治形態を表しています。
「五人はすでに倒れた。」
彼らは国王、執政官、独裁官、十人組の貴族、そして護民官です。
「ひとりは今おり」は、これはユリウス・カエサルによって樹立された六番目の、もしくは帝国の形態です。
ヨハネはこの支配の下、ドミティアヌス帝の治世下でパトモス島に追放されています。
それ以前の権力形態は消滅していました。
「ほかのひとりは、まだ来ていません。」
こうして、帝国の崩壊から将来の悪魔的な再出現まで、幾世紀も経過します。
これが第七の段階です。
それは、13章1節で示された新たな状況下での、崩壊した発展した帝国です。
「また、昔いたが今はいない獣について言えば、彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです。」
ローマの巨大な連合は、ここではその本質において常に同じであるとみなされます。
彼は「第八の獣」です。」[15]

このように、ここでは様々な支配形態が考えられます。
二つ目の見解は、これら七人は歴史上のローマ皇帝七人を表し、そのうち五人は既に亡くなっており、1人はヨハネの治世下で、もう1人は将来来るべき皇帝であり、その皇帝の系譜に八人目の獣が現れるというものです。[16]
三番目の見解は、これら八人はイスラエルと関係を持っていた八つの帝国を表しており、それら全てが獣に至って頂点に達するというものです。
アルドリッチ氏は次のように書いています。
「七つの偉大な王国を指しています。
ヨハネはここでダニエルの預言よりもさらにさかのぼり、神の民の敵として立ちはだかったすべての大帝国を包含していると考えられています。
滅亡した五つの王国とは、エジプト、アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャです。
第六の王国は、ヨハネが書いた時点で権力を握っていた帝国です。
ヨハネの黙示録における第六の王国はローマ帝国であり、つまり第七の王国(それに関連する第八の首長と共に)は、その帝国の別の形態、もしくは段階に過ぎません。[17]
これらの見解のどちらを採用するにせよ、最後の支配者は、以前存在したすべての異邦人の権威の相続者であることは明らかです。
異邦人の世界権力は、彼において最終的な頂点に達します。

(3)10人の別々の王による連合が存在し、それぞれの王国を帝国の長の権威の下に置きます。(ヨハネの黙示録17章12節)

(4)帝国は力ずくで建設されるのではなく、お互いの同意によって建設されます。(ヨハネの黙示録17章13節)

(5)この第4の世界帝国の進路はヨハネの黙示録17章8節に示されています。

「あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れぬ所から上って来ます。
そして彼は、ついには滅びます。
地上に住む者たちで、世の初めからいのちの書に名を書きしるされていない者は、その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて現われるのを見て驚きます。」
(ヨハネの黙示録17章8節)

「いた」とは、帝国が無力な時期にあることを表現しています。
「底知れぬ所から上って来ます」とは、帝国の将来の形を示しています。
「滅びます」とは、将来の滅びることを描いています。

(6)異邦人世界勢力の最後の形態が憎む唯一の対象はイエス・キリストです。

「この者どもは小羊と戦います。」
(ヨハネの黙示録17章14節)

世界支配を求める世界勢力の不敬虔さは、すべての支配権を与えられた方に対する敵意を見せて現れます。
(ピリピ人への手紙2章9、10節、ヨハネの黙示録19章16節)

III.ローマ帝国の最後の形態の領域

ローマ帝国の最終段階は、地理的に見て、かつてのローマ帝国の領域と正確に一致すると一般的に考えられてきました。
これは、ローマ帝国が西暦476年のローマ帝国滅亡時に十本の指と十本の角を持つ段階に入ったという見解に基づいています。
したがって、この見解によれば、帝国の復興形態は以前の規模と全く同じものとなります。
最後の異邦人世界強国の最終的な将来の境界は、必ずしも以前の境界と一致する必要はなく、むしろそれを大きく超える可能性があるという見解には、十分な理由があるように思われます。

(1)すでに暗示されているように、十の王国連合はローマ帝国滅亡時に実現したのではなく、この状態に達する前の最後の日々を待っています。
この十の王国連合はまだ未来のものであり、歴史的に存在したことがないため、将来の十の王国がいかなる歴史的領域にも従うことは不可能です。
これらの十の王国は、以前の進展段階からの派生に過ぎず、以前の状態そのものの復活ではありません。

(2)聖書は、ローマが現在まで維持してきた帝国よりもさらに巨大な帝国を暗示しているように思われます。

「彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。」
(ヨハネの黙示録13章7節)

さらに、ヨハネの黙示録13章2節では、この獣は先行する三つの帝国の後継者として描かれています。
これは権力の概念だけでなく、地理的な範囲も暗示しています。
つまり、この異邦人の権力の最終形態は、先代の帝国が維持してきたすべての領土を含む可能性があります。

(3)獣と女の関係(ヨハネの黙示録17章)は、この帝国の規模を示しています。
ジェニングス氏は次のように記しています。
「聖書は、かつてローマが所有していた世界帝国が再びローマに回復されることを明確に告げています。
そして私の目的は、あらゆる恵みの神が御言葉を通して与えてくださった光、つまり、復活した世界帝国の規模と限界について、その光を集めることです。
将来の帝国は、当時と全く同じ地理的境界を持つと想定されていました。
これは根本的な誤りだったと私は考えています。
なぜなら、それは地球に別の、そして基本的かつ特徴的な要素が導入されたことを完全に無視しているからです。
単なる地理的境界は、この時代特有の霊的な性質とはほとんど調和しません。
独特の霊的要素が導入されるには、地上の境界、つまり霊的な尺度さえも必要となります。
ヨハネの黙示録17章に目を向けると、舞台全体が「獣」と「女」という二人の人物で満たされているのが分かります。
この二人は、預言された未来の地球を描いています。
預言の限界、もしくは領域内にある地球の一部を支配し、特徴づけることになる世的、教会的な状況の両方について語っており、議論の余地はありません。
この「獣」と「女」に答えるもので、すべてが満たされるのです。
このように、この二人は不可分な相互関係にあり、すべてが何に向かっているのかを物語っています。
それは、最終的に一つの世界帝国と一つの世界教会が誕生し、現在キリスト教世界と呼ばれている世界全体を覆うということです。
一つの帝国が一つの教会を支え、聖書の「獣」は「女」を支え、「女」は「獣」に支えられているのです。
(ヨハネの黙示録17章3節)つまり、どちらか一方が存在する場所には、必然的にもう一方が存在し、一方の境界は必然的にもう一方の領域を示すことになります。
帝国の境界は、公言しながらも完全に背教したキリスト教の領域となることを、私たちは理解するしかありません。
そして逆に、背教した教会の境界は、帝国の境界と全く同じものとなると考えます。
しかし、それが確実かつ明白である以上、復活したローマ帝国は…背教したキリスト教を主張するあらゆる国、つまり北米と南米を含むであろうことは、疑いの余地がありません。」[18]

IV .終末期にローマ帝国に対抗する勢力

歴代の四大国には、支配権を争う敵がいたように、異邦人の世界強国が終わりを迎える時には、ローマ帝国の権威を争う王国や国家連合が存在します。

A.北方連合

獣とその軍勢であるローマ帝国の権威に対抗する最初の勢力は、北方の大連合です。
この連合はエゼキエル書38章1節から39章25節(38章15節、39章2節参照)、ダニエル書11章40節、ヨエル書2章1~27節(2章20節参照)、イザヤ書10章12節、30章31~33節、31章8、9節に記されています。
この同盟を描写する主要な箇所はエゼキエル書38章2~6節です。
ここで問題となるのは、ゴグとマゴグ、そして彼らと同盟を結んだ諸国です。
彼らは一体何者なのでしょうか?
この問題は、改訂版英訳RVの正しい読み方によってある程度は明確になります。

「人の子よ。メシェクとトバルの大首長であるマゴグの地のゴグに顔を向け、」
(エゼキエル書38章2節)


「首長の君」もしくは「ロシュの君主」(改訂版)について、ケリー氏は次のように述べています。
[ロシュ]は、文脈上、一般的な呼称として用いられる場合、「かしら」または「首長」を意味することは事実です。
しかし、この意味こそが、今回の場合、混乱を招いています。
したがって、これは固有名詞として解釈されるべきであることは疑いようがなく、一般的な読み方が正しいならば、ここでは創世記26章2節にあるような人間ではなく、人種を指しています。
これは直ちに適切な意味を与え、その前に来る語句と後に続く語句によってさらに強化されます。
メシェクとトバルは[ロシュ]を異邦人の名前[ロシュ]と定義しています。」[19]
ロシュの君主はエゼキエル書38章3節でゴグと呼ばれています。
ゴグはこの同盟の指導者に与えられた名前であり、彼の領土はマゴグと呼ばれ、ロシュ、メシェク、トバルの3つの部分から構成されています。

これらの名前について、ガエベライン氏は次のように述べています。
創世記10章2節から、マゴグはヤペテの次男であったことがわかります。
ゴメル、トバル、メシェクもヤペテの息子でした。
トガルマはヤペテの孫で、ゴメルの三男でした。
マゴグの領土は、今日で言うコーカサス山脈とその周辺の草原地帯に位置していました。
そして、三つのロシュ、メシェクとトバルは古代スキタイ人によって呼ばれ、遊牧民として放浪していました。
黒海とカスピ海の周辺とその北の地域で、最も野蛮な野蛮人として知られていました…綿密な調査により、次の事実が判明しています。
ロシュはロシアです。
したがって、ロシュの君主は、ロシア帝国の君主または王を意味します。[20]

バウマン氏は、その特定をさらに詳細に追跡し、次のように記しています。
マゴグはヤペテ(創世記10章1、2節)の次男であり、ノアの三人の息子の一人です。
世界史が始まる以前、彼の子孫はコーカサス地方とアルメニア北部にのみ居住していたようです。
「コーカサス」という言葉自体が「ゴグの砦」を意味することは興味深いことです。

ヨセフス氏はこのように述べています。
「マゴグは、彼からマゴギ人と呼ばれるようになった人々を創出しました。
しかし、ギリシア人からはスキタイ人と呼ばれていました。」
スキタイ人自身には、彼らの祖先はもともとアルメニアのアラクセスから来たという伝承があります。
これは、ノアの直系の子孫がアルメニアにいたとする神の記録と一致しています。
歴史的に見ると、スキタイ人(マゴギ人)は非常に古い時代に北方へと移住したはずです。
歴史家たちは、マゴギ人が2つの異なる人種、つまりヤペテ人、つまりヨーロッパ人とトゥラン人、つまりアジア人に分かれていたという点で一致しています。
ヤペテ人族は、ギリシャ人とローマ人がサルマタイ人と呼んだ人々で構成されていましたが、現代ではスラブ人またはロシア人と呼ばれています。
サルマタイ人はメディア人とスキタイ人の混血で、小さな集まりに分かれて黒海沿岸地域、バルト海からウラル山脈にかけて移住しました。
トゥラン民族は、中央アジアの広大な高原に住んでいたアジアのマゴグ人(スキタイ人)で構成されていました。
今日、彼らの子孫はタタール人、コサック人、フィン人、カルムイク人、モンゴル人として知られています。

現代の辞書編集者に、現在「ロシュ」を表す国はどこかと尋ねると、ほとんどの解説者とともに、ほぼ全員がロシアと答えます。
ヘブル語辞典が改訂されることのないゲゼニウスは、「ゴグ」は間違いなく「ロシア人」であると述べています。
彼は「ロシュ」は当時タウルス山脈の北、ヴォルガ川流域に居住していた部族の呼称であると断言し、この名称と部族に「ルス」、つまりロシア国家の歴史における最初の痕跡が見られると主張しました。
ゲゼニウスはまた、「メシェク」を、ヨーロッパにおける現代ロシアの首都モスクワとしました。
「トバル」は、アジア系ロシアで最も早く植民地化された州であるトボリスク、そしてピョートル大帝がモスクワのクレムリンを模して古い要塞を建設した街の名であるとしました。
モスクワはヨーロッパにおけるロシアを、トボリスクはアジアにおけるロシアを象徴しています。

「聖書神学辞典」にはこのように記されています。
「マゴグは国または民族を意味し、ゴグはその国の王を意味します。
ヨーロッパとアジアの北方諸国、もしくはタウルス山のコーカサス山脈の北方地域の総称である。」(417ページ)

「新シャフ・ヘルツォーク宗教知識百科事典」は次のように述べています。
「より厳密に地理的に位置づけると、マゴグの居住地はアルメニアとメディアの間、おそらくアラクス川の岸辺に位置することになります。
しかし、人々はコーカサス山脈を越えてさらに北に広がり、ヘブル人の北の地平線の最北端を占めていたようです。
(エゼキエル書38章15節、39章2節)
アッシリアの碑文には、メシェクとトバルがこのようにくりかえし述べられています。
(ムシュクとタバル、ギリシア語ではモスコイとティバレノイです。)」(第5巻14ページ)[21]
したがって、ロシュが現代のロシアであると特定することは十分に証明され、一般的に受け入れられているように思われます。
マゴグと同盟を結ぶと「多くの国々の民を率いて来る。」(エゼキエル書38章15節)と預言されています。
エゼキエル書38章7の欄外の「汝は彼らの指揮官となれ」という箇所は、その日にロシアが重要な立場を占めることを示しています。
ロシアと最初に同盟を結んだ国はペルシャ(エゼキエル書38章5節)です。
これは、現在のイランとして知られるペルシャの古代領土を指しています。

2番目の同盟国はエチオピアと呼ばれています。
ヤング氏のコンコーダンスによると、この名称は聖書の中でアフリカの地域を指して9回、アラビアの一部であるクシュの地を指して11回使われています。

「新シャフ・ヘルツォーク宗教知識百科事典」は「クシュ」を次のように定義しています。
「旧約聖書にくり返して登場する部族名および地名です。
一般的に「エチオピア」と訳されている版では、最近まで常にエジプト南部の地域を指すと考えられていました。
楔形文字碑文の解読、そしてアッシリア、バビロニア、アラビアの歴史的碑文のより徹底的な調査により、この語形は他の2つの地域および民族を表わす可能性があることが発見されました。
(1)中央バビロニア東部の地域に住み、カシュ人またはコシュ人(ギリシア語:コサイオイ)として知られ、紀元前17世紀から12世紀にかけてバビロニアを支配した人々です。
(2)北アラビアの国土および民族です。[22]

バウマン氏の結論は次のとおりです。
「エゼキエルはゴグについてこのように言っています。
「あなたは、北の果てのあなたの国から、多くの国々の民を率いて来る。」(38章15節)
そして「クシュ」はゴグと共に「北の果て」から来るとされる「多くの民」の一つなので、エゼキエルの預言における「クシュ」はアフリカの「エチオピア」ではなく、ペルシャに隣接するどこかの国であることは明らかです。」[23]

3番目に挙げられる同盟国はリビア、もしくはプットです。
通常、これはアフリカのリビアと同一視されますが、バウマン氏は次のように述べています。
「もしアフリカのリビアがここに視野に入っているとすれば、ゴグの軍勢に合流するためには、リビア軍はゴグに敵対するあらゆる勢力です。
つまり強大で無数の軍勢が集結するであろう地を直進しなければなりません。
軍は東へエジプトを通り、アラビアを北上し、パレスチナを抜けてゴグの地へと進軍し、そして引き返してゴグと共に再びパレスチナの地へ進軍し、ゴグが必ず遭遇するであろう強大な敵と戦わなければなりません!
もし、ジョン・D・デイビスが「聖書辞典」の中で正しく、そして「プト」が「クシュ」の南か南東に位置し、預言の「クシュ」がペルシャに隣接していると考えているのであれば、「プト」の人々が、地球のその同じ場所から出撃し、そこから他のすべての国々が出て来て、巨大な「北東連合」を形成するのではないかと考えるべきです。」[24]

したがって、プトはペルシャまたはイランと隣接している可能性があります。
4番目に述べられている同盟者はゴメルです。
これは現代のドイツを指しているという説を裏付ける証拠があるようです。
ゲーベライン氏は次のように述べています。
タルムードには貴重な情報が記載され、ゴメルはゲルマン人、つまりゲルマン人であると記されています。
ゴメルの子孫が北方に移動し、ドイツの一部に定住したことは、確立された事実のようです。[25]
この同定はほとんどすべての評論家や歴史家によって支持されています。[26]
ロシアの五番目の同盟国はトガルマと言われています。
これは一般的にトルコまたはアルメニアを指すとされているが、中央アジアを含むと考える者もいます。

リマー氏はこの人々について次のように記しています。
「地理的に言えば、トガルマは今日私たちがアルメニアと呼んでいる国土であり、アッシリアの記録にもその名が記されています。
アッシリアの年代はタキトゥスのような古代の著述家たちの手による豊富な裏付けがあるため、知識人であればこの特定の同定に異論を唱える人はいません。
実際、アルメニアのあらゆる文献は、この地とその人々を「トガルマの家」と呼んでおり、彼らは彼らの文献よりも何世紀も前から続く、ヤペテの孫にまで遡る途切れることのない伝統を守っています。」[27]

バウマン氏は次のように付け加えています。
「トガルマは、おそらくシベリア、トルコ人、アルメニア人とともに中央アジアのトゥルコマン族です。
トガルマとその大群は、北アジアから太平洋まで広がるシベリアの大部族とほとんど同じです。」[28]

この民族がトルコやアルメニアを越えてどの程度まで広がっているかは明確には特定できませんが、ロシアと連邦を形成したアジアの民族も含まれる可能性があります。
エゼキエル書の預言から、マゴグの地に出現する者、つまりロシアの指導の下に、北方同盟として知られる大同盟が結成されたことが分かります。
ロシアと同盟を結ぶのは、イラン(ペルシャ)、一部のアラブ諸国(プトまたはエチオピア)、ドイツ、そしてトガルマとして知られるアジアの諸民族で、この同盟にはアジアの諸勢力の広い意味で連合が含まれる可能性があります。
これが網羅的なリストではないことは、エゼキエル書38章6節の「それに多くの国々の民があなたとともにいる」という言葉から分かります。
この預言は、ロシアと共に、終わりの日にイスラエルとローマ帝国に抵抗する勢力による広い意味で同盟を予期しています。

B.東の王たち

ヨハネの黙示録16章12節によれば、ローマの指導者とその軍隊の活動の中心地となるパレスチナは、ユーフラテス川の向こう側から来る「東の王たち」の軍勢として知られる大軍に侵略されます。
これは、獣の権威に挑戦する第二の勢力同盟を表しています。

ヨハネの黙示録のこの箇所について、スコット氏は次のように書いています。
「ユーフラテス川はローマ帝国の東征服の限界であり、後に拡大されたパレスチナの東の境界でもありました。
それは常に地理的障壁、つまり西と東を隔てる自然の防壁として存在してきました。
この裁きの行為によって障壁は取り除かれ、東方の諸国はより簡単に軍隊をカナンに投入できるようになりました。
川での神の裁きの理由は、「太陽の昇るところから(「欽定訳聖書(KJV)」の「の」ではなく)王たちの道が備えられるため」です。
問題となっているのは東の王ではなく、東から来た人々、つまりユーフラテス川の東側に住む人々です。」[29]

したがって、異邦人に対する第二の大きな反対勢力は、ローマ帝国の首長による世界支配の脅威に対抗して団結するアジアの諸国の連合体で構成される勢力であると結論付けることができます。

C.南の王

ローマ帝国と対立する第三の勢力は、ダニエル書11章40節に記されている南の王です。
この勢力はパレスチナに進軍し、諸国の侵攻を引き起こしてパレスチナを滅ぼします。
この南の王は明らかに北の王と同盟を結んでおり、両者は同時にパレスチナに侵攻します。(ダニエル書11章40節)
聖書の中でエジプトはしばしば南の地と呼ばれているため、解釈者たちの間では南の王はエジプトを指しているというのが一般的な見解です。
患難時代における異邦諸国の連合を研究すると、次のようなことが分かります。

(1)獣の指導下にある第四王国、つまりローマ帝国の最終形態となった十の王国連合(ヨハネの黙示録13章1~10節)、
(2)北方連合、つまりロシアとその同盟国、
(3)東方またはアジア連合、そして
(4)北アフリカの勢力。
患難時代におけるこれらの四つの連合国のパレスチナに対する動きは聖書に明確に記され、預言の主要なテーマの一つとなっています。

V.帝国の長である獣の立場と務め

聖書は、終末の時に異邦人の十の王国連合の長として現れる人物について多くのことを語っています。
その人物の人格と働きは、エゼキエル書28章1~10節、ダニエル書7章7、8、20~26節、8章23~25節、9章26、27節、11章36~45節、テサロニケ人への手紙第二2章3~10節、ヨハネの黙示録13章1~10節、17章8~14節;に示されています。
これらの箇所の真理を総合すると、彼の活動に関する以下の事実が明らかになります。

(1)彼はイスラエルの歴史の「終わりの時」に登場します。(ダニエル書8章23節)

(2)彼は主の日が始まるまでは現れません。(テサロニケ人への手紙第二2章2節)

(3)彼の現れは制止者によって妨げられています。(テサロニケ人への手紙第二2章6、7節)

(4)この出現に先立って、彼は去ります。(テサロニケ人への手紙第二2章3節)
これは信仰からの離脱、もしくは聖徒たちが主のもとへ去ることのいずれとも解釈できます。(テサロニケ人への手紙第二2章1節)

(5)彼は異邦人です。
彼は海から昇天し(ヨハネの黙示録13章1節)、海は異邦人の国々を象徴している(ヨハネの黙示録17章15節)ので、異邦人起源でなければなりません。

(6)彼はローマ帝国から出現します。
エルサレムを滅ぼした人々の支配者だからです。(ダニエル書9章26節)

(7)彼は異邦人による世界支配の最後の形態の長です。
ヒョウ、熊、獅子のようです。(ヨハネの黙示録13章1節)、(ダニエル書7章7、8節、20、24節、ヨハネの黙示録17章9~11節参照)
このように、彼は政治的指導者です。
七つの頭と十本の角(ヨハネの黙示録13章1節、17章12節)は彼の権威の下に連合しています。

(8)彼の影響力は世界中に及びます。
なぜなら、彼はすべての国々を支配しているからです。(ヨハネの黙示録13章8節)
この影響力は、彼が他の国々と結んだ同盟を通してもたらされます。(ダニエル書8章24節、ヨハネの黙示録17章12節)

(9)彼は権力を握るにあたり、3人の支配者を排除しました。(ダニエル書7章8、24節)
彼が権威を持つ王国の一つは復興します。
王国または王を表す頭の一人(ヨハネの黙示録17章10節)が癒されたからです。(ヨハネの黙示録13章3節)

(10)彼の台頭は、彼の平和計画によってもたらされました。(ダニエル書8章25節)

(11)彼は知性と説得力(ダニエル書7章8、20節、8章23節)と、巧妙さと策略(エゼキエル書28章6節)によって特徴づけられます。諸国家に対する彼の地位は、彼ら自身の同意によって成り立ちます。(ヨハネの黙示録17章13節)

(12)彼は絶対的な権威をもって連合諸国を支配し(ダニエル書11章36節)、自らの意志に従って行動する姿が描かれています。
この権威は、法律や慣習の変化を通して示されます。(ダニエル書7章25節)

(13)彼の最大の関心事は力と権力です。(ダニエル書11章38節)

(14)連合帝国の長として、彼はイスラエルと七年間の契約を結びます。(ダニエル書9章27節)
しかし、それは三年半後に破られます。(ダニエル書9章27節)

(15)彼は偶像崇拝を導入し(ダニエル書9章27節)、その中で自分の事を神とみなします。
(ダニエル書11章36、37節、テサロニケ人への手紙第二2章4節、ヨハネの黙示録13章5節)

(16)彼は神性を帯びているため、冒涜者としての特徴を持っています。
(エゼキエル書28章2節、ダニエル書7章25節、ヨハネの黙示録13章1節、5、6節)

(17)この者はサタンによって動かされ(エゼキエル書28章9~12節、ヨハネの黙示録13章4節)、サタンから権威を受け取り、悪魔の傲慢さに支配されています。(エゼキエル書28章2節、ダニエル書8章25節)

(18)彼はサタンの不法な体制の頭であり(テサロニケ人への手紙第二2章3節)、彼が力と神性を主張していることは、サタンの力によって行われたしるしによって証明されています。(テサロニケ人への手紙第二2章9~19節)

(19)民の盲目さゆえに、彼は神として受け入れられ、支配者として受け入れられています。(テサロニケ人への手紙第二2章11節)

(20)この支配者はイスラエルの巨大な敵となります。(ダニエル書7章21、25節、8章24節、ヨハネの黙示録13章7節)

(21)彼に対抗する同盟が結成され、彼の権威に挑戦します。(エゼキエル書28章7節、ダニエル書11章40、42節)

(22)続く紛争で、彼はパレスチナと隣接地域を掌握し(ダニエル書11章42節)、エルサレムに本拠地を置きます。(ダニエル書11章45節)

(23)この支配者は、権力の座に就くと、淫婦、つまり腐敗した宗教組織を利用して権力を高め、その結果、宗教組織は彼を支配しようとします。(ヨハネの黙示録17章3節)

(24)この制度は支配者によって破壊され、彼は妨害されることなく支配できるようになります。(ヨハネの黙示録17章16、17節)

(25)彼は君主の君主(ダニエル書8章25節)、その計画(テサロニケ人への手紙第二2章4節、ヨハネの黙示録17章14節)、そしてその民(ダニエル書7章21、25節、8章24節、ヨハネの黙示録13章7節)の特別な敵対者となります。

(26)彼は七年間権力を握り続けますが(ダニエル書9章27節)、彼のサタン的な活動は患難時代の後半に限定されます。(ダニエル書7章25節、9章27節、11章36節、ヨハネの黙示録13章5節)

(27)彼の支配は神からの直接の裁きによって終わりを迎えます。
(エゼキエル書28章6節、ダニエル書7章22、26節、8章25節、9章27節、11章45節、ヨハネの黙示録19章19、20節)
この裁きは、彼がパレスチナで軍事行動を行っている時に行われ(エゼキエル書28章8、9節、ヨハネの黙示録19章19節)、彼は火の池に投げ込まれます。(ヨハネの黙示録19章20節、エゼキエル書28章10節)

(28)この裁きはキリストの再臨の時に行われ(テサロニケ人への手紙第二2章8節、ダニエル書7章22節)、彼のメシアとしての権威の現れとなります。(ヨハネの黙示録11章15節)
(29)彼が支配していた王国はメシアの権威に移り、聖徒たちの王国となります。(ダニエル書7章27節)
聖書の中で、この人物には多くの名前や称号が与えられています。

アーサー・W・ピンク氏は、彼に適用される名前のリストを挙げています。[30]
主は血を流す者と欺く者(詩篇5章6節)、
悪者(詩篇10章2~4節)、
地から生まれた人間(詩篇10章18節)、
勇士(詩篇52章1節)、
敵(詩篇55章3節)、
敵(詩篇74章8~10節)、
多くの国の長(詩篇111篇6節(彼ら))、
暴虐の者(詩篇140篇1節)、
アッシリア人(イザヤ書10章5~12節)、
バビロンの王(イザヤ書14章4節)、
暁の子、明けの明星(イザヤ書14章12節)、
略奪者(イザヤ書16章4、5節、エレミヤ書6章26節)、
釘(イザヤ書22章25節)、
横暴な者たち(イザヤ書25章5節)、
悪に汚れたイスラエルの君主(エゼキエル書21章25~27節)、
小さな角(ダニエル書7章8節)、
やがて来たるべき君主(ダニエル書9章26節)、
卑劣な者(ダニエル11章21節)、
強情な王(ダニエル11章36節)、
偶像の羊飼い(ゼカリヤ11章16、17節)、
罪の人(テサロニケ人への手紙第二2章3節)、
滅びの子(テサロニケ人への手紙第二2章3節)、
不法の人(テサロニケ人への手紙第二2章8節)、
反キリスト(ヨハネの手紙第一2章22節)、
底知れぬ穴の御使い(ヨハネの黙示録9章11節)、
獣(ヨハネの黙示録11章7節、13章1節)などです。
これらに加えて、ほかの人がその人自身の名において者(ヨハネによる福音書5章43節)、横柄で狡猾なひとりの王(ダニエル書8章23節)、荒らす憎むべき者(マタイによる福音書24章15節)、荒らす者(ダニエル書9章27節)も挙げられます。


このように、この人物に関する啓示がいかに広範囲に及ぶかが分かります。
これは驚くべきことではありません。
なぜなら、この人物は神の計画を模倣したサタンの傑作だからです。

A.獣は復活した者なのでしょうか?

多くの解説者たちは、ヨハネの黙示録13章3節と17章8節に基づき、支配する獣はサタンの手によって死と復活を経験するため、膨大な支持を得るだろうと主張してきました。
ある者は、獣はネロの生まれ変わりであると主張し、またある者は、獣は生き返ったユダであると主張しました。[31]
ある者は、獣が復活した者だと言い張りましたが、その人物を特定しようとはしません。[32]
そこで、この獣がキリストの死と復活の奇跡を模倣した復活した者なのかどうかという疑問が生じます。
この者はサタンの活動によって権力を握った(ヨハネの黙示録13章2節)と言われており、致命的な傷を負っていたが癒されます。(ヨハネの黙示録13章3節)
そして、底知れぬ所から出てきた(ヨハネの黙示録17章8節)と言われているにもかかわらず、いくつかの理由から、これを死と復活として理解するのは賢明ではないようです。

(1)ヨハネの黙示録13章3と17章8 では、獣は複合王国として説明されています。
癒しの言及は、長い間死んでいた異邦人の王国の権力の復活を指しています。

(2)サタンはヨハネの黙示録9章11節で「底知れぬ所の御使い」または「底知れぬ所」と呼ばれています。
ゆえに、ヨハネの黙示録17章8節は帝国の頭が底知れぬ所から現れたとは教えていません。
むしろ帝国自体が「底知れぬ所から」、つまりサタンによって生じたと教えています。

(3)聖書は、人々が神の子の声によって墓から連れ出されるということを明らかにしています。

「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」
(ヨハネの福音書5章28、29節)

サタンには命を与える力はありません。
キリストのみが復活の力を持っているため、サタンは人を生き返らせることはできません。

(4)悪人は大いなる白い御座(ヨハネの黙示録20章11~15節)まで復活しません。
もしこの時点で悪人が復活すれば、神が定めた復活の計画は無効になってしまいます。

(5)この人物に関するあらゆる記述は、彼を超自然的な存在ではなく人間として描いているため、彼が復活した人物であるとは考えられません。
つまり、獣は復活した人物ではないという結論になります。

B.獣の破滅

獣の活動について言及するほぼすべての箇所に、その最終的な破滅についての記述が含まれているのは奇妙なことです。
獣は神の計画において大きな位置を占めているはずです。
獣の終わりはエゼキエル書21章25~27節、28章7節、10節、ダニエル書7章11、27節、8章25節、9章27節、テサロニケ人への手紙第二2章8節、ヨハネの黙示録17章11節、19章20節、20章10節に示されています。
獣の打倒に至る動きは後ほど明らかになります。
しかし、この時点で注目すべきは、神がこの欺瞞と偽りの傑作であるサタンを暴力的に打倒しようとしているということです。

ピンク氏はこのように書いています。
「聖書は、様々な高貴な悪人の最期を厳粛に記録しています。
ある者は水に呑み込まれ、ある者は炎に呑み込まれ、ある者は大地の顎に飲み込まれ、ある者は忌まわしい病に冒され、ある者は不名誉な屠殺を受け、ある者は絞首刑に処され、ある者は犬に食べられ、ある者はうじに食われました。
しかし、地上の罪深い住人の中で、「罪の人」、つまり「邪悪な者」だけが、主イエス御自身の出現の輝きによって焼き尽くされるという恐ろしい栄誉を与えられることはありません。
これが彼の前例のない運命であり、彼の卑しい出自、驚くべき生涯、そして比類なき邪悪さの頂点を極めるにふさわしい結末となります。」[33]

VI.偽預言者、宗教指導者の人物とその働き

連邦帝国の長である獣と密接な関係にあるのが、「偽預言者」(ヨハネの黙示録19章20節、20章10節)として知られるもう一人の人物で、ヨハネの黙示録13章11~17 で「第二の獣」と呼ばれ、そこで最も詳細な描写が与えられています。
その聖書箇所には、この人物について注目すべき重要な要素がいくつか挙げられます。

(1)この人物は明らかにユダヤ人です。
なぜなら、地、つまりパレスチナから起こるからです。(13章11節)
(2)彼は宗教問題に影響力を持っています。(13章11節、「小羊のような二つの角」)
(3)彼は最初の獣と同じくサタンに動かされています。(13章11節)
(4)彼は委任された権威を持っています。(13章12節、「最初の獣の力」)
(5)彼は最初の獣の礼拝を推進し、地上の人々に最初の獣を神として礼拝するように強制します。(13章12節)
(6)彼の使命は、彼が行うしるしと奇跡によって証明され、彼が来るべきエリヤであることが明らかに証明されます。(13章13、14節)
(7)彼は不信仰な世界を欺くことに成功します。(13章14節)
(8)彼は偶像崇拝推進します。(13章14、15節)
(9)彼は人々に獣を礼拝するように強制する死の力を持っています。(13章15節)
(10節)彼は経済の分野ですべての商業を管理する権威を持っています。(13章16、17節)
(11節)彼は、その日に生きる人々に彼の身元を証明する刻印を持っています。(13章18節)
ヨハネの黙示録は、第二の獣を第一の獣と関連付ける時に、第二の獣を第一の獣に従属する者として描いていることに配慮すべきです。
第二の獣は「偽預言者」(ヨハネの黙示録16章13節、19章20節、20章10節)と呼ばれ、第一の獣の預言者、もしくは代弁者として、第一の獣と結びついて仕えます。
こうして、私たちはサタンの三位一体、不浄な三位一体、もしくは地獄の三位一体、つまり竜、獣、そして偽預言者(ヨハネの黙示録16章13節)を目にすることになります。
神の計画において神が占めていた地位はサタンが担い、キリストの地位は第一の獣が担い、聖霊の働きは偽預言者が担うのです。

VII.反キリストと二つの獣との関係

「反キリスト」という言葉はヨハネの手紙にのみ登場します。
ヨハネの手紙第一2章18、22節、4章3節、そしてヨハネの手紙第二7節で用いられています。
これらの箇所を研究すると、ヨハネが主に、キリストの位格を否定するという、差し迫った教理上の誤りについて述べられていることがわかります。
強調されているのは、特定の人物の将来の啓示ではなく、むしろ現在における偽りの教理の現れです。
ヨハネにとって、反キリストは既に存在していました。
そこで、ヨハネの手紙に登場する「反キリスト」とヨハネの黙示録に登場する獣との関係について疑問が生じます。
接頭辞「anti」は「代わりに」もしくは「反対に」の意味で使われることがあります。

アルドリッチ氏は正しく次のように述べています。
「反キリストの身元確認問題の解決は、反キリストがそもそもキリストの最大の敵なのか、それとも偽キリストなのかという疑問に光が当てられるかどうかにかかっているように思われます。」[34]

これらの可能性の存在は、セイヤー氏によって裏付けられています。
彼は、この前置詞には主に2つの使い方があると述べています。
「1つ目は「〜に反対」または「〜に反する」、2つ目は「〜の代わりに」または「〜の代わりに」という交換を示す使い方です。[35]
ヨハネの手紙における「反キリスト」の5つの使い方を研究すると、交換ではなく「反対」という概念が明確に示されます。」

トレンチ氏は次のように述べています。
「私にとって、聖ヨハネの言葉は、キリストへの抵抗と反抗、キリストの性格や職務を裏切ることではなく、これこそが反キリストの本質的な特徴は決定的なものであるように思われます。
それゆえ、私たちは彼の名前に具現化されていると期待すべきものです。
そして、この意味で、すべてではないにしても、多くの教父たちはその言葉をこのように理解しました。」[36]

聖書では、「反キリスト」という言葉は「偽キリスト」と対比されています。
この言葉はマタイによる福音書24章24節とマルコの福音書による福音書13章22節で用いられています。
この2つの言葉の対比について、同じ著者は次のように述べています。
[偽キリスト]はキリストの存在を否定しません。
それどころか、そのような人物に対する世間の期待を基にして、それを自分に当てはめ、自分は神の約束と人々の期待が実現される預言された者であると冒涜的に断言するだけです…
したがって、その区別は明白です。
[アンチクリストス、反キリスト]はキリストの存在を否定し、[偽キリスト、偽りのキリスト]は自分がキリストであると主張します。[37]
ヨハネは交換という概念ではなく、対立という概念を念頭に置いているように思われます。
キリストに直接対抗するというこの概念は、最初の獣の特質であるように思われます。
なぜなら、獣は自らの王国を神の子の王国と対立させているからです。
もし反キリストを二頭の獣のどちらかと同一視しなければならないとすれば、それは最初の獣と同一視されます。[38]
しかし、ヨハネは二頭の獣のどちらかではなく、むしろそれらの獣を特徴づける不法な体制について述べられているのかもしれません。
(テサロニケ人への手紙第二2章7節)
ヨハネは現在の教理的逸脱の危険性を強調しているため、そのような教えは、パウロが既に作用していると考えていたサタンの反キリスト哲学の教えであることを彼らに思い出させています。(テサロニケ人への手紙第二2章7節)
ヨハネが言及するサタンのこの反キリスト哲学は、獣たちの共同体としての働きにおいて頂点に達することは疑いありません。
第一の獣は、イスラエルに国土を与えるという契約を偽って果たす者としてキリストに真っ向から反対し、第二の獣は、本来キリストに属する宗教的領域における指導者の立場を奪います。
しかし、ヨハネは、これらの獣のいずれかを反キリストと特定しようとしているのではなく、キリストの人格を否定する者たちに、彼らがその体制の中に歩んでいることを警告しようとしています。
そして、その体制は最終的に、両方の獣の活動における無法の体制の現れへと至ります。
彼らは、共同体としての一体性において、無法を極めるのです。

NOTE

[1]Cf. Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology, VII, 170.
[2]Ibid., IV, 379-81.
[3]C. I. Scofield, Reference Bible, p. 1345.
[4]Edward Dennett, Daniel the Prophet, p. 9.
[5]Chafer, op. cit., IV, 333.
[6]Arno C. Gaebelein, The Prophet Daniel, pp. 73-76.
[7]Cf. Robert Anderson, The Coming Prince.
[8]S. P. Tregelles, The Book of Daniel, p. 19.
[9]William Kelly, Notes on Daniel, p. 50.
[10]Harry A. Ironside, Lectures on Daniel, The Prophet, pp. 37-38.
[11]G. H. N. Peters, Theocratic Kingdom, II, 643.
[12]Kelly, op. cit., pp. 125-26.
[13]Edward J. Young, The Prophecy of Daniel, p. 160. While exception is taken to this author’s interpretation of the book, his observation is justified here.
[14]Scofield, op. cit., p. 1342.
[15]Walter Scott, Exposition of the Revelation of Jesus Christ, pp. 351-52.
[16]William R. Newell, The Revelation, p. 271.
[17]Roy L. Aldrich, “Facts and Theories of Prophecy,” pp. 120-21.
[18]F. C. Jennings, “The Boundaries of the Revived Roman Empire,” Our Hope, 46i: 387-89, December, 1940.
[19]William Kelly, Notes on Ezekiel, pp. 192-93.
[20]Arno C. Gaebelein, The Prophet Ezekiel, pp. 257-58. 21Louis Bauman, Russian Events in the Light of Bible Prophecy, pp. 23-25.
[22]Samuel Macauley Jackson, ed., New Schaff-Hertzog Encyclopedia of Religious Knowledge, III, 328.
[23]Bauman, op. cit., p. 31.
[24]Ibid., p. 32.
[25]Gaebelein, op. cit., p. 259.
[26]Cf. Bauman, op. cit., pp. 34-36.
[27]Harry Rimmer, The Coming War and the Rise of Russia, p. 62.
[28]Bauman, op. cit., p. 38.
[29]Scott, op. cit., pp. 331-32.
[30]Arthur W. Pink, The Antichrist, pp. 59-75.
[31]Pink, op. cit., pp. 50-55.
[32]Newell, op. cit., p. 186; Joseph Seiss, The Apocalypse, II, 397-400.
[33]Pink, op. cit., pp. 119-20.
[34]Aldrich, op. cit., p. 39.
[35]Joseph Henry Thayer, Greek-English Lexicon of the New Testament, p. 49.
[36]Richard C. Trench, Synonyms of the New Testament, p. 107.
[37]Ibid., p. 108.
[38]Cf. Newell, op. cit., pp. 195-201 for arguments to support this view.


第20章 ハルマゲドンでの軍事行動

「地と全世界の王たち」は、三位一体の働きを通して、地獄から「万物の支配者である神の大いなる日の戦い」(ヨハネの黙示録16章14節)と呼ばれるものに至るまで、一堂に集められます。
この地上の諸国の合流は、ハルマゲドンと呼ばれる場所で起こります。(ヨハネの黙示録16章16節)
そこで神は、イスラエルに対する迫害(ヨエル書3章2節)、罪深さ(ヨハネの黙示録19章15節)、そして不敬虔さ(ヨハネの黙示録16章9節)のゆえに、諸国に裁きを下されます。
ハルマゲドンの戦いは、キリストが地上に再臨する直前に起こる単発的な出来事であると一般的に考えられてきました。
神が「地と全世界の王たち」(ヨハネの黙示録16章14節)と対決するこの大運動の規模は「万物の支配者である神の大いなる日の戦い」(ヨハネの黙示録16章14節)が単発的な戦いではなく、むしろ患難時代の後半に及ぶ一連の戦いであることを理解しなければなりませんん。
ヨハネの黙示録16章14節で「戦い」と訳されているギリシャ語の「(polemos)」は戦争や作戦行動を意味し、「戦闘(macheē)」は、時には一騎打ちを意味します。
この区別はトレンチ氏[1]によって示され、セイヤー氏[2]とヴィンセント氏[3]もこれに従っています。
ヨハネの黙示録16章14節で使用されている「(polemos)」(軍事行動)という言葉は、再臨の際のハルマゲドンでの集合に至る一連の出来事が、神によって1 つの連続した軍事行動としてみなされていることを意味します。

A.遠征の地

パレスチナ中北部、ヨルダン川の西側、ナザレの南約10マイル、地中海沿岸から内陸約24キロに位置するメギドの丘は、イスラエルの多くの戦いが繰り広げられた広大な平原でした。
デボラとバラクはここでカナン人を打ち破りました。(士師記4、5章)
ギデオンはここでミディアン人に勝利しました。(士師記7章)
サウルはここでペリシテ人との戦いで殺されました。(サムエル記第一31章8節)
アハズヤはここでエヒウに殺されました。(列王記第二9章27節)
そしてヨシヤはここでエジプトの侵攻で殺されました。(列王記第二23章29、30節、歴代誌第二35章22節)

ヴィンセント氏はこのように述べています。
「メギドはエスドラエロンの平原にあり、「アッシリア王ナブコドノゾルの時代から、ナポレオン・ボナパルトがエジプトからシリアへ進軍した悲惨な出来事に至るまで、パレスチナで繰り広げられたあらゆる戦いにおいて、ここは陣地として選ばれてきた。
ユダヤ人、異邦人、サラセン人、キリスト教十字軍、反キリスト教のフランス人、エジプト人、ペルシャ人、ドルーズ派、トルコ人、アラブ人、天下のあらゆる民族の戦士たちが、エスドラエロンの平原に天幕を張り、タボルとヘルモンの露に濡れた彼らの国の旗を見てきました。」[4]
この作戦には、他にもいくつかの地理的な場所が関係しています。

(1)ヨエル書3章2、13節は「ヨシャパテの谷」で起こった出来事について述べています。
しかし、これはエルサレムの東に広がる地域を指しています。
エゼキエル書39章11節は「旅人の谷」について述べていますが、これはエルサレムから遠ざかる旅路であったことから、ヨシャパテの谷と同じ地域を指しているのかもしれません。

(2)イザヤ書34章、63章は、主が裁きから戻られる際、エルサレムの南にあるエドムまたはイドマヤから来られる様子を描いています。

(3)エルサレム自体が戦闘の中心地とみなされています。(ゼカリヤ書12章2~11節、14章2節)
このように、この作戦は北はエズラエロン平野からエルサレムを南下し、東はヨシャパテの谷、南はエドムまで及ぶものとして描かれています。
この広大な地域はパレスチナ全土を覆い、この作戦のあらゆる側面は、エゼキエルが「侵略者たちが地をおおう」(エゼキエル書38章9、16節)と描写したことを裏付けるものとなります。
この地域は、ヨハネがヨハネの黙示録14章20節で描写した範囲と一致します。

シムズ氏の結論は妥当です。
「聖書によれば、万物の支配者である神の大いなる日のこの最後の大戦は、ハルマゲドン、つまりメギドの谷をはるかに超えて広がると思われます。
ハルマゲドンは主に、地の四隅から軍隊が集結する場所のようで、ハルマゲドンから戦いはパレスチナ全土に広がりますう。
ヨエルは最後の戦いがエルサレムに近いヨシャパテの谷で戦われると述べており、イザヤはキリストが血まみれの衣をまとって「エドムから」来ることを示しており、エドムはパレスチナの南にあります。
ゆえに、ハルマゲドンの戦いは、パレスチナ北部のメギドの谷からエルサレム近郊のヨシャパテの谷を通り、パレスチナ最南端のエドムまで広がると思われます。
そして、預言者エゼキエルの言葉、つまりこの大戦の軍隊が「地をおおう」という言葉もこれと一致します。
ヨハネの黙示録には、血が1600ハロンにわたって馬の手綱のくつわにまで流れるとも記され、1600ハロンはパレスチナ全土を覆う長さとも言われています。
しかし、ハルマゲドンの戦いにおいて、エルサレムが注目の中心となることは間違いありません。
神の御言葉には「わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる」(ゼカリヤ書14章2節)と記されているからです。[5]

B.戦役への参加者

患難時代における諸国家の連合については既に論じました。
四つの大世界勢力が存在することが示されました。
(1)獣の支配下にある十の王国連合
これは第四大世界帝国の最終形態を構成します。
(2)北の連合、ロシアとその同盟国
(3)東の王たち、ユーフラテス川の向こうのアジア諸民族
(4)南の王、北アフリカの勢力
この戦役に主が積極的に参加するため、もう一つの大国が加わらなければなりません。
(5)主と天からの軍勢です
最初の4人の敵意は、お互いに対して、またイスラエルに対して向けられています。
(ゼカリヤ書12章2、3節、14章2節)
特にイスラエルの神に対して戦っています。
(詩篇2章2節、イザヤ書34章2節、ゼカリヤ書14章3節、ヨハネの黙示録16章14節、17章14節、19章11、14~15、19、21節)

I.北部連邦による侵攻

ダニエル書9章26、27節によれば、ローマ帝国の君主はイスラエルと七年間の契約を結びます。
この契約は明らかにイスラエルを世界の諸国家の間で立場を回復させ、イスラエルの統一はローマ帝国によって保証されます。
これは、イスラエルのパレスチナ領有権をめぐる諸国家間の長年の争いを解決しようとする試みであるだけではありません。
イスラエルに国土の所有権を与えたアブラハム契約の成就をサタン的に模倣したものです。
ヨハネ(ヨハネの黙示録6章2節)はこの行為を、平和的交渉によって主権を与えられた征服のために進軍する騎手として描いています。
この状態は三年半続き、その後ローマ当局によって契約は破られ、大患難時代(マタイの福音書24章21節)として知られる時代が始まります。
この地上における患難は、明らかにサタンによって引き起こされたものです。
サタンは患難時代の半ばに天から地上に投げ落とされます、
(ヨハネの黙示録12章9節)
サタンは激しい怒りをもって(ヨハネの黙示録12章12節)、イスラエルの残された民と神の聖徒たちを攻撃するために出陣します。
(ヨハネの黙示録12章17節)
その時代の諸国家を動かしていたサタンの活動は、ヨハネの次の言葉によって明確に描写されています。

「また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。
彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。
万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。」
(ヨハネの黙示録16章13、14節)


これは、この期間が神の罪深い人々に対する怒りの期間ではないと推論するわけではありません。
しかし、神がその怒りを注ぐために、サタンが全世界に対して怒りの計画を実行することを許可していることを示しています。
ハルマゲドンの軍事行動における出来事については、多くの理論があります。

(1)ハルマゲドンはローマ帝国と北方同盟の間の紛争です。[6]
(2)ローマ帝国と東方の王たち、またはアジア列強の間の紛争です。[7]
(3)ハルマゲドンはすべての国家と神との間の紛争です。[8]
(4)4大世界列強間の紛争です。[9]
(5)ローマ帝国、ロシア、アジア列強の間の紛争です。[10]
(6)ロシアは除外されるが、ロシアを除外するローマ、東方、北方の列強の間で起こります。[11]
これは、エゼキエル書38、39章が千年王国に起こるという理論に基づいています。(7節)
ハルマゲドンではロシアが唯一の侵略者です。[12]
これは、ローマ帝国が復活することはないという理論に基づいています。
この作戦における出来事の時系列については、意見が大きく分かれていることがわかります。
ハルマゲドンの戦いにおける軍隊の大移動は、北の王と南の王によるパレスチナ侵攻から始まります。(ダニエル書11章40節)
ローマ帝国の首長とイスラエル国家の首長は、契約によって連合関係にあります。(ダニエル書9章27節)
一方への攻撃は他方への攻撃となります。
この侵攻により、全世界を揺るがす戦いの出来事が始まります。
この最初の動きはエゼキエル書38章1節~39章24節に記されています。
この章で描かれている勢力は、既にロシアとその衛星国であることが分かっています。
したがって、ここでは出来事の概略のみを述べます。
聖書研究者の間では、出来事の概要について概ね合意が得られています。
ロシアはペルシャ、エチオピア、リビア、ドイツ、トルコと同盟を結びます。(2節、5節、6節)
イスラエルが格好の獲物に見えたため(11節)、
この連合軍は略奪のためにその地を侵略することを決意します。(12節)
この侵略に対して抗議がなされますが(13節)、無視されます。

この侵略の規模は、類似箇所から学ぶ必要があります。
エゼキエル書は侵略の進行過程を省略し、むしろイスラエルの山々における侵略者の滅亡(39章2~4節)を、自然の激動を通じた神の介入の結果として描写しています。(38章20~22節)
死者の処理には7ヶ月(39章12節)、瓦礫の処分には七年(39章9、10節)が費やされます。
この滅亡の舞台はイスラエルの山々(39章2~4節)とされ、時は「終わりの年」(38章8節、38章16節)とされています。
この滅亡は諸国民(38章23節)とイスラエル(39章21~24節)へのしるしです。

ゴグの侵略は(エゼキエル書38章)はハルマゲドンの戦い(ヨハネの黙示録16章16節)とは異なります。
(1)ゴグの戦いでは明確な同盟国が言及されていますが、ハルマゲドンではすべての国々が参戦します。
(ヨエル書3章2節、ゼパニヤ書3章8節、ゼカリヤ書12章3節、14章4節)
(2)ゴグは北から来ますが(エゼキエル書38章6節、15節、39章2節)、ハルマゲドンでは全地から軍隊がやって来ます。
(3)ゴグは略奪するために来ますが(エゼキエル書38章11、12節)、ハルマゲドンでは国々が神の民を滅ぼすために集まります。
(4)ゴグの侵略に対して抗議がありますが(エゼキエル書38章13節)、ハルマゲドンではすべての国々がエルサレムに対して連合しているので抗議はありません。
(5)ゴグは侵略の際、軍勢の先頭に立つが(38章7節)ハルマゲドンでは獣が侵略の先頭に立ちます。(ヨハネの黙示録19章19節)
(6)ゴグは自然の激動により倒されるが(38章22節)、ハルマゲドンでは軍勢はキリストの口から出る剣によって滅ぼされます。(ヨハネの黙示録19章15節)
(7)ゴグの軍勢は野に整列しているが(エゼキエル書39章5節)、ハルマゲドンではエルサレムの町に見られます。(ゼカリヤ書14章2~4節)
(8)主はゴグに対する裁きを執行するために助けを求めます。(エゼキエル書38章21節)
しかしハルマゲドンでは主が一人で酒ぶねを踏んでいると見られます。(イザヤ書63章3~6節)[13]
そこで、二つの異なった動きを認めなければなりません。

A.一般的な時期の特定

最初に解決すべき問題は、この侵攻の時期の問題です。
1.これはイスラエルの歴史における過去の出来事を指すものではありません。
これまでの章で述べられている詳細から明らかなように、イスラエルの歴史において経験したいかなる侵略も、この預言の成就とはみなされません。
過去にも、この地と民に苦難をもたらした侵略はありましたが、ここで述べられている詳細に該当するものはありません。

2.これはイスラエルの経験における将来の出来事に述べられているに過ぎません。
この見解を裏付ける考察は数多くあります。

a.本書の文脈

37章は民イスラエルをその国土に帰還させることが、進行中の過程として描かれています。
預言者は骨が骨と骨が繋がり、筋で結ばれ、皮で覆われる過程を見ているからです。
これは不信仰における再集結であり、預言者は集められた死体には命がなかったと述べています。(8節)
40章は千年王国へと続きます。
このように、文脈から判断すると、ゴグとマゴグの動きは、イスラエルが国土に帰還し始めた時期と千年王国の間に起こったことがわかります。

b.この箇所における具体的な記述

38章には、時間的な要素について二度述べられています。
それは「終わりの年」(8、16節)起こるとされています。
これは、神がイスラエルの民と関わられた後の年と日に具体的に言及しており、千年王国(40章)より前の出来事であるため、ダニエルの預言の七十週における、神がイスラエルと関わられた時期に当たると考えられます。

c.それは回復の始まりの後です。

なぜなら、イスラエルは自らの国土に住んでいたと記されているからです。(38章11節)
これは、ダニエル書9章27節の「来たるべき君主」が結んだ契約の後に起こったことを示しています。

d.この預言はイスラエルの改心と関連しており、それは明らかに未来の出来事です。

なぜなら、侵略者の滅亡は、主への目を開く民にとってのしるしとなるからです。(39章22節)
その民の盲目が最終的に取り除かれるのは再臨の時まで待たなければならないので、この預言はその出来事と明確な関連があります。

e.国土が再森林化されるという指示(39章10節)はこの結論を裏付けています。

イスラエルは常に木材の供給を他の国に依存してきました。[14]

したがって、この箇所自体から私たちが導き出す結論は、ここに記されている出来事は、神が再び国家としてのイスラエルと関わる将来に起こるに違いありません。

B.特定の出来事と関連した時

エゼキエルが記した侵略は、その時期に関してほぼすべての主要な預言的出来事と関連づけられてきました。
この出来事がいつ起こるかを可能な限り慎重に判断するためには、これらの見解のいくつかを検証する必要があります。

1.まず最初に、この侵略は教会の携挙よりも前に起こると主張する人もいます。

デイビッド・L・クーパー氏もその立場をとっており、彼は次のように述べています。
「この預言の成就を千年王国の後に位置づけることは全く不可能です。
千年王国の初めにも、患難時代の終わりにも位置づけることはできません。
したがって、患難時代より前に位置づけられるはずです。
なぜなら、他の3つの日付が不可能であるため、他に起こり得る場所がないからです。
今から患難時代の始まりまでの間に、ユダヤ人が城壁のない町々に住み、安息している時が来ます。」[15]

これはいくつかの考察から見て、不可能な主張であるように思われます。

(1)新約聖書は携挙が差し迫っていると教えているため、このような出来事がまず成就しなければならないということはあり得ません。
(2)預言の文脈自体が、携挙は「終わりの年」(8、16節)起こると述べています。
この預言はイスラエルに向けられているので、預言で述べられているのは彼らの年と日です。
イスラエルと教会は神が関わっている二つの異なる集まりであるため、携挙前に成就した場合のように、イスラエルの終わりの年を教会の終わりの年に適応させることは不可能です。
(3)現時点では、イスラエルは「来たるべき君主」がイスラエルと契約を結ぶまで、その国土に対するいかなる所有権も得ることも、そこに戻る権利も持ちません。(ダニエル書9章27節)
異邦人の時が満ちるまで、イスラエルは地から追い出され、エルサレムは踏みにじられるとされています。(ルカの福音書21章24節)
この説によれば、イスラエルに偽りの平和を与える契約は携挙以前に結ばれたか、異邦人の時代は携挙で終わるかのいずれかを主張する必要があります。
しかし、これは御言葉の解釈ではありません。

2.次に、侵略は患難時代の終わりに起こると教える人たちもいます。
時間的要素に関してこの解釈を採用する聖書研究者は多くいます。[16]
しかし、この立場には受け入れがたい難点があります。

(1)エゼキエル書には戦いについて何も書かれていません。
そこでの破壊は主の手による自然の激動によるものです。(38章20~23節)
21節の剣は国家であると証明されるべきですが、戦争による破壊ではなく、主がこの破壊の主体であるとされています。
ハルマゲドンの大惨事では、主とその万軍と集まった諸国民の間で大戦いが繰り広げられ、そこで王の王が勝利者となります。

(2)エゼキエル書では、侵略は北の王とその同盟国によるもので、その数は限られています。
ゼカリヤ書14章とヨハネの黙示録19章では、地上のすべての国々が大惨事のために集められることが示されています。

(3)エゼキエル書では、イスラエルの山々で滅亡が起こります。(39章2~4節)
ハルマゲドンの出来事はエルサレム(ゼカリヤ書12章2節、14章2節)、ヨシャパテの谷(ヨエル書3章12節)、エドム(イザヤ書63章1節)で起こると言われています。

(4)エゼキエル書では、イスラエルは平和と安全のうちにその地に住んでいると言われています。(38章11節)
ヨハネの黙示録12章14~17節から、イスラエルは七十週の後半の間、平和と安全のうちにその地に住むのではなく、サタンの攻撃の特別な標的となることがわかります。
したがって、この侵略は、大患難時代の終わりに起こるゼカリヤ書14章とヨハネの黙示録19章の出来事と同一視することはできないと結論付けられます。

3.また、侵略は千年王国の初めに起こると主張する人々もいます。

この見解を提唱しているアルノ・C・ガエベライン氏は次のように述べています。
「この侵略はいつ起こるのでしょうか?
その答えは聖書の中にあります。
8節には、ゴグとマゴグ、そして彼らと共にいる他の諸国民が「その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められた」地を侵略し、「イスラエルの山々に住んでいる」と記されています。
11節では、侵略者の邪悪な企みが明らかにされます。
このことから、この侵略は主がご自分の民を連れ戻し、イスラエルの残された民との関係を回復された時に起こったことがわかります。
この侵略は、獣の頭を持つ獣の帝国と、偽預言者、個人的な反キリストが裁きを受けてからしばらくして起こります。
17節の物語を裏付けています。」
引用された聖書箇所は、上記の命題を証明しているように見えるかもしれませんが、これは不可能な説明であることを証明する議論があります。

(1)エゼキエル書は、死体によって地が7か月間汚されると語っています。(39章12節)
メシアの再臨によってもたらされる清めを考えると、このような描写は不可能に思えます。

(2)エレミヤ書25章32、33では、主が再臨の時に地上のすべての悪人を滅ぼすと述べられています。
これはヨハネの黙示録19章15~18節でさらに詳しく説明されています。
エゼキエル書に記されているような大群が、主の再臨の時に滅びを逃れ、間もなく主に反抗して立ち上がるなどということは、考えられないことのようです。

(3)マタイ書25章31~46節では、すべての異邦人が裁き主の前に連れてこられ、誰が千年王国に入るかが決定されます。
ユダヤ人であれ異邦人であれ、救われていない者は誰もその王国に入ることはできないので、エゼキエルの預言を成就するような救われた者の背教は考えられません。

(4)イザヤ書9章4、5節は、千年王国が始まった後、すべての戦争兵器が破壊されることを預言しています。
この預言に照らして、北の王の軍隊はどこで武器を確保するのでしょうか?

(5)イザヤ書2章1~4節は、キリストの降臨と千年王国の制定とともに戦争が終わると述べています。

(6)ヨハネの黙示録20章1~3節によれば、サタンは千年王国の初めに縛られるので、イスラエルに対してそのような運動を起こすことはできません。

(7)神は、教会の天へ携挙された後、七十週の初めにイスラエル国家との交渉を始められます。
その民は、不信仰ではあるものの、戒律を通して来るべきメシアに備えるために、故郷に連れ戻されようとしています。
(エゼキエル書38章11節、37章1~28節)
ゆえに、ミカが「アッシリヤが私たちの国に来て」。この人(キリスト)が平和の源となる」(5章5節)と正しく述べていると言えます。
これらの出来事はキリストの再臨前に起こるものです。
ミカの預言は、キリストの目に見える臨在を必然的なものとしているわけではありませんが、キリストの保護を約束しています。

4.また、この侵略は千年王国の終わりに起こると教える者もいます。
この立場を支持する者は、エゼキエル書のゴグとマゴグとヨハネの黙示録20章8節のゴグとマゴグは同一人物であると主張します。
しかし、以下の点から、これは不可能であるように思われます。
(1)エゼキエル書は侵略に関与したとして北の連合軍についてのみ述べています。
ヨハネの黙示録では、地上のすべての国々が一堂に会しています。

(2)エゼキエル書では、サタンが介入したことや、この侵略に先立ってサタンが千年間拘束されていたことについては特に言及されていません。
しかし、ヨハネの黙示録では両方とも強調されています。

(3)エゼキエル書の文脈から、この侵略は千年王国が制定される前の出来事であることがわかります。
ヨハネの黙示録では、千年王国はすでに千年間続いています。

(4)エゼキエル書では、殺害された者の遺体を処分するには7ヶ月の労力が必要とされています。(39章12節)
ヨハネの黙示録20章9節では、殺された者たちは火によって「焼き尽くされる」と述べられており、そのため、処理の必要はありません。

(5)エゼキエル書では、侵略の後に千年王国(40~48章)が続くとされています。
ヨハネの黙示録では、この動きの後に新しい天と新しい地が続きます。
確かに、新しい地が7ヶ月間も埋葬されていない死体によって汚染されるなど考えられません。

したがって、こららのことを考えるなら、侵略の時期に関するこの理論を受け入れることは不可能になります。

5.最後に、この侵略は七十週の半ばに起こると暗示されています。
ヨハネの黙示録12章14~17節に記されているように、神が対決する民、つまりイスラエル国民に対するサタンの攻撃のきっかけは、週半ばに北の王がパレスチナの地に侵攻したことにあると暗示するいくつかの考察があるようです。

a.この侵略は、イスラエルが自国の領土に居住していた時代に起こります。(エゼキエル書38章8節)
ダニエル書9章27節の「来たるべき君主」との契約の時まで、イスラエルが自国の領土を占領する権利を得るとは示されていません。
この君主は、復活したローマ帝国の君主として与えられた権威ゆえに、イスラエルに領土を占領する権利を与えることで、アラブとイスラエルの紛争を解決しようとしています。
この侵略は、この契約が成立してからしばらく経ってから起こります。

b.侵略はイスラエルがその地に平和に住んでいたときに起こります。(エゼキエル書38章11節)
この侵略が千年王国の初めに起こると信じる者たちは、この平和をメシアが約束した平和だと解釈します。
しかし、この聖句には、これが真実なメシア的平和であることを示すものは何もありません。
むしろ、イザヤ書28章18節で「地獄との契約」と呼ばれている契約によってイスラエルに保証され、偽りの平和のように思えます。
イスラエルはまだ不信仰の中にいます。
なぜなら、キリストの再臨の後でなければ、この国は信仰を持つ国にはならないからです。
この再集結はエゼキエル書37章に描かれており、8節には国の生気のない状態が明確に示されています。
イスラエルは患難時代の終わりに平和であるとは言えません。
なぜなら、国は侵略によって破壊され(ゼカリヤ書14章1~3節)、人々は散らされたからです。(ゼカリヤ書13章8、9節)
しかし、週の前半は、パレスチナの民は比較的平和な暮らしを送っているかもしれません。

クーパー氏はこのように述べています。
「患難時代の最初の裁きがパレスチナに影響を与えず、その地の美しさと繁栄が破壊される可能性は十分にあります。」[18]

c.エゼキエルは38章で2つの表現を使っています。
一つはこの侵略の時期について、8節には「終わりの年」という表現が見られ、16節にはイスラエルの歴史における「終わりの日」が出てきます。
もちろん、これは教会時代の「終わりの日」を指すものではありません。
なぜなら、神はこの時、神の摂理の中でイスラエルと関わっておられるからです。
この時点で、いくつか類似した表現が使われているので、説明が必要かもしれません。
「終わりの日」という単語は、復活と審判の計画に関連する表現です。
(ヨハネの福音書6章39、40、44、54節、11章24節、12章48節)
「終わりの日」という単語は、神の御国時代におけるイスラエルの栄光、救い、祝福の時期に関連しています。(イザヤ書2章2~4節、ミカ書4章1~7節)
「終わりの日」または「終わりの年」という単語は、終末の日または千年王国時代の前の時期、つまり患難時代に関連しています。
申命記4章27節で、モーセは不忠実による散乱を預言しますが、回復を約束しています。

30節で彼はこのように述べています。
「あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、」ここで「後の日」は患難と結び付けられています。
ダニエル書2章28節で預言者は「終わりの日に起こること」を明らかにし、それから七十週目に王国を異邦人による世界強国の最終的な形態へと導きます。
またダニエル書8章19節と23節でも「憤りの時」について論じた際、預言者は「彼らの王国の終わりの時」について語られています。
さらにダニエル書10章14節でも「終わりの日」という言葉は千年王国に先立つ出来事を指して使われています。
エゼキエルがこれらの表現を用いていることから、エゼキエルが描写する出来事は七十週以内に起こるに違いないという結論になります。
ダニエル書11章40節も同じ期間を指しています。
預言者はこれらの出来事を「終わりの時」としているからです。
この表現は、出来事と「終わり」そのものを区別しているように思われます。

d.多くの解説者はダニエル書11章41節を占領に関連して解釈しています。
獣はパレスチナの地を侵略します。
獣が侵入するきっかけとなった出来事は、北の王による北からのパレスチナ侵攻です。(ダニエル書11章40節)
獣が結んだ契約(ダニエル書9章27節)は、明らかにイスラエルにその地に対する不可侵の権利を保証していました。
獣が契約を破棄するには、何らかの出来事が必要でした。
契約は週の半ばに破られたとされ(ダニエル書9章27節)、北からの侵攻が契約破棄の原因とされていることから(ダニエル書11章41節)、この侵攻は週の半ばに起こったと結論付けられます。

e.週の後半の出来事は、サタンが天から追放されたことによって引き起こされたことが認識されています。(ヨハネの黙示録12章7~13節)
明らかに、サタンがイスラエルに対抗する最初の行動は、北の王をこの侵略へと駆り立てることです。
これは、週の半ばに始まり、主の再臨によって異邦人の勢力が滅ぼされるまで続く偉大な作戦の始まりです。
ヨハネの黙示録16章14節で「戦い」と訳されている語は、セイヤー氏の辞書によれば、「作戦」と訳した方が適切であることが指摘されています。
これは軍隊の動きを意味し、単独の戦闘とは対照的だからです。
つまり、神はこれらの軍隊の動きすべてを一つの偉大な作戦と見なし、キリストの再臨によって滅ぼされるという見解です。
この解釈が正しければ、この作戦は三年半にわたって展開されます。

f.イザヤ書30章31~33節、31章8、9節、そしてミカ書 5章5節では、この北からの侵略者は「アッシリア人」と呼ばれています。
アッシリアは以前、主の手の中でイスラエルの罪を罰するための杖であったように、主は再び同じ目的で杖を取ります。
この来たるべき天罰も、イスラエルを懲らしめるという使命の本質から、同じ名前が付けられます。
イザヤ書28章18節は、神がイスラエルを罰する「死との契約」と「陰府との協定」について語っています。
これはダニエル書9章27節の契約を指しているはずです。
イスラエルは主の手ではなく、人間の手から平和を求めました。
この契約のために、イザヤは「にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる」と語っています。
この災いは、契約の当事者であった獣による占領を指すことはまず考えられません。
むしろ、主がイスラエルを懲らしめるために用いる「アッシリア人」の侵攻を指しているはずです。
ここで述べられている箇所におけるアッシリア人の滅亡は、エゼキエル書38~39章におけるゴグの軍勢の滅亡と類似しているように思われ、したがって、これらは類似点の言及であると考えられます。
神は、この偽りの契約が結ばれるまでは、イスラエルを罰することができません。
このことから、侵攻は週の半ばに起こるという説がさらに有力視されるようです。

g.ヨハネの黙示録7章4~17節には、患難時代に救われるユダヤ人と異邦人の大群について記されています。
信者に対する激しい迫害の中で、どのようにしてその時代に神を知る者が現れたのか、不思議に思う人もいるかもしれません。
エゼキエル書38章23節では、ゴグの軍勢の滅亡が諸国民へのしるしとして用いられていることが明らかにされ、39章21節でも同じ事実が再び述べられています。
39章22節では、同じ出来事がイスラエルにとって大きなしるしとなっています。
ヨハネの黙示録は、患難時代の終わりだけでなく、その最中に多くの人々が救われることを描いて、エゼキエルの預言にあるこの出来事は、多くの人々を主のもとへ導くしるしとして用いられていることから、この出来事は患難時代の終わりよりも前に、その期間中のある時点で起こったはずです。
この破壊は明らかに主の手によるものであり、主が人々の盲目を取り除き、多くの人々に主についての知識をもたらすために行われた出来事です。

h.ヨハネの黙示録13章7節では、獣は世界的な権力を持つと描写されています。
これは、患難時代の最中に獣が世界の支配者として現れした時点では真実です。
「北の連合の力が打ち砕かれていないのなら、どうして獣が世界的な権力を持つことができたのか?」という疑問が生じます。
週の半ばに獣が地上を支配しているという事実は、北の王が滅ぼされたという説を裏付けています。
この滅亡は世界情勢に混乱をもたらし、詩篇2篇に見られるように諸国家が団結し、その時、獣をかしらとする政府が樹立されます。
北の王が活動している限り諸国家の統一はあり得ないので、この統一は北の王の滅亡後に実現されなければなりません。

i.ヨハネの黙示録19章20節には、主が再臨の際、特に獣と偽預言者を処罰されると記されています。
旧約聖書全体を通して、そして新約聖書にも続いて、「異邦人の時代」の最後の劇において役割を果たす三人の人物、つまり、獣、偽預言者、そして北の王、つまりアッシリア人が登場します。
主が世界的な権威を現す前に、これらの人物のそれぞれが処罰されなければなりません。
ヨハネの黙示録19章20節 が、述べられている二人の滅亡のみを記録しているのには、理由があります。
前述のように、三人目の人物が千年王国が始まってからも続くということはあり得ません。
三人目の人物が裁きを逃れるということはあり得ません。
三人目の人物とその軍隊は、以前に既に処罰されているはずです。

J.これらの出来事を扱ったいくつかの重要な聖句の年代は、この説を裏付けているように思われます。
イザヤ書30章と31章には、北の王の滅亡が記されています。
続いてイザヤ書33章と34章ではすべての国々の滅亡が記され、さらにイザヤ書35章では千年王国が記されています。
ヨエル書にも同様の年代が見られます。
ヨエル書2章には北軍の侵攻(20節)が記され、続いてヨエル書3章で諸国の滅亡が記され、そして3章17~21節で千年王国が記されています。
これら2つの聖句の年代は同じです。
北軍は、諸国の軍隊の滅亡に先立ち、別の時期に、明確な動きの中で滅ぼされ、その後千年王国が到来します。
これらの出来事を週の真ん中に位置付けることは、これらの長い聖句の年代と唯一、一致する考え方です。

このような見方をすると、次のような出来事の時系列が浮かび上がります。
(1)イスラエルは獣と偽りの契約を結び、偽りの安心感の中でその地を占領します。
(ダニエル書9章27節、エゼキエル書38章8節、11節)
(2)北の王は、容易な獲物である獣をささげ物にして略奪しようと、サタンの動機によってパレスチナに侵攻します。
(エゼキエル書38章11節、ヨエル書2章1~21節、イザヤ書10章12節、30章31~33節、31章8、9節)
(3)獣はイスラエルとの契約を破り、その地に進攻します。(ダニエル書11章41~45節)
(4)北の王はイスラエルの山々で滅ぼされます。(エゼキエル書39章1~4節)
(5)パレスチナの地は獣の軍勢に占領されます。(ダニエル書11章45節)
(6)この時、諸国家が大連合を形成し、獣のもとに一つの政府が形成されます。(詩篇2篇1~3節、ヨハネの黙示録13章7節)
(7)東の王たちが獣の軍勢に立ち向かいます。(ヨハネの黙示録16章12節)
これは明らかにゴグの政権が崩壊した結果として起こります。
(8)地上の諸国民がエルサレム(ゼカリヤ書14章1~3節)とヨシャパテの谷(ヨエル書3章2節)の周りに集まると、主は再び来られ、異邦人の世界勢力をすべて滅ぼし、自ら諸国民を治められます。
このことはゼカリヤ書12章1~9節、14章1~4節、イザヤ書33章1~34章17節、63章1~6節、66章15、16節、エレミヤ書25章27~33節、ヨハネの黙示録20章7~10節にも記されています。

II.獣の軍勢による侵略

北の同盟によるパレスチナ侵攻は、獣とその軍勢をイスラエルの守護者として防衛に向かわます。
この侵攻はダニエル書に記されています。

「終わりの時に、南の王が彼と戦いを交える。
北の王は戦車、騎兵、および大船団を率いて、彼を襲撃し、国々に侵入し、押し流して越えて行く。
彼は麗しい国に攻め入り、多くの国々が倒れる。しかし、エドムとモアブ、またアモン人のおもだった人々は、彼の手から逃げる。
彼は国々に手を伸ばし、エジプトの国ものがれることはない。
彼は金銀の秘蔵物と、エジプトのすべての宝物を手に入れ、ルブ人とクシュ人が彼につき従う。
しかし、東と北からの知らせが彼を脅かす。彼は、多くの者を絶滅しようとして、激しく怒って出て行く。
彼は、海と聖なる麗しい山との間に、本営の天幕を張る。しかし、ついに彼の終わりが来て、彼を助ける者はひとりもない。」
(ダニエル書11章40~45節)

この章に登場する諸国の行動を特定するのは困難です。
多くの人は、上記の侵略は北の王と南の王の侵略を記録していると考えています。
しかし、36節では、以前獣と呼ばれていた「強情な王」が登場し、その行動はその後に説明されています。
40~45節は、北の王と南の王の連合軍の行動を描写することはほとんど不可能です。
「彼ら」という代名詞が使われているからです。
「彼」が使われていることから、この箇所は強情な王の行動をさらに詳しく描写していると考えられます。

この点について、ピーターズ氏は次のように書いています。
「「国々に侵入し」、これはおそらく、ある人物から別の人物へと突然移行する箇所であるため、批評家たちにとって最も困難な箇所だと考えます。
この預言だけに限定すると、諸国に進入する王がどの王なのか、つまり北の王なのか、南の王なのか、もしくはローマ帝国の王なのかを、その言葉から判断することは不可能です。
しかし、この点については推測するしかありません。
このようにして終末の時に勝利する王は、ダニエル書2章と7章、そしてヨハネの黙示録17章において、第四の獣、ローマ帝国と同一視されています。
他の預言を解釈に適応させると、これはローマ帝国の最後の頭の下にある王を指し、他の国々に侵攻することになります。
つまり、南の王と北の王は彼に打ち勝てなかったということです。[19]

この箇所から、この侵略の動きに関するいくつかの特徴が読み取れます。
(1)この軍事行動は、南の王が獣と偽預言者の連合軍に対して進軍するところから始まります。(11章40節)
これは「終わりの時に」起こります。
(2)南の王は北の同盟軍と合流し、北の同盟軍は陸海を越えて強情な王を攻撃します。(11章40節)
この攻撃の結果、エルサレムは滅ぼされ(ゼカリヤ書12章2節)、北の同盟軍も壊滅します。(エゼキエル書39章、ゼカリヤ書12章4節)
(3)獣の全軍がパレスチナに進軍し(11章41節)、その全土を征服します。(11章41、42節)
エドム、モアブ、アンモンだけが逃れます。
明らかに、この時にヨハネの黙示録17章13の連合軍が形成されます。
(4)獣がエジプトに支配を広げている時、獣に恐怖を与える知らせがもたらされます。(11章44節)
それは、北の同盟が滅ぼされたため、獣の権威に挑戦するために集まった東の王たちの接近に関する知らせかもしれません。(ヨハネの黙示録16章12節)
(5)獣はパレスチナの地に本拠地を移し、そこに軍隊を集結させます。(11章45節)
(6)獣の滅びはそこで訪れます。(11章45節)

III.東方軍の侵攻

ヨハネの黙示録16章12節は、アジアの勢力がパレスチナ地域に侵入して獣の権威に挑戦することを阻んでいたものが、何らかの超自然的な出来事によって取り除かれることを明らかにしています。

ウォルフォード氏はこのように書いています。
「ユーフラテス川の干上がりは、劇の最終幕への序章であり、最終幕そのものではありません。
したがって、ユーフラテス川の干上がりに関する最も可能性の高い解釈は、紅海やヨルダン川の水がそうであったように、神の働きによってその流れが断ち切られるというものである、と結論づけるしかありません。
今回は、イスラエルではなく、東方の王と呼ばれる者たちに道が開かれます。
したがって、証拠は、ユーフラテス川に関してヨハネの黙示録16章12節を文字通りに解釈することです。[20]
東の王として象徴されるこれらの軍勢が一体何者なのかは定かではありません。
しかし、彼らの到来はハルマゲドンの戦役の最終段階へと私たちを導きます。
彼らはエズドラエロン平原へと導かれ、獣の軍勢と激突します。

IV .主とその軍隊による侵攻

南の王が獣の軍勢に敗れ、北の同盟軍がイスラエルの山々で主によって敗れた時、二つの敵対する軍勢、つまり獣の軍勢と東の王たちの軍勢が戦列を組んでいました。
この戦いが合流する前に、天にしるし、人の子のしるしが現れました。(マタイの福音書24章30節)
このしるしが何であるかは明らかにされていませんが、その効果は明らかです。
それは両軍を互いへの敵意から転じさせ、主御自身と戦うために団結させるのです。
ヨハネはこのように言っています。

「また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。」
(ヨハネの黙示録19章19節)


これは、ゼカリヤ書14章3節、ヨハネの黙示録16章14節、17章14節、19章11~21節に描かれている終末的な敵対関係の描写です。
この時点で、獣と東の軍隊は主によって滅ぼされます。(ヨハネの黙示録19章21節)

ハルマゲドンの全過程を全体的に見ると、いくつかの結果が見られます。
(1)南軍はハルマゲドン作戦で壊滅します。
(2)北軍は主によって打ち倒されます。
(3)獣と東軍は主の再臨によって滅ぼされます。
(4)獣と偽預言者は火の池に投げ込まれます。(ヨハネの黙示録19章20節)
(5)不信者はイスラエルから追放されます。(ゼカリヤ書13章8節)
(6)これらの侵略の結果、信者も追放されます。(ゼカリヤ書13章9節)
(7)サタンは縛られます。(ヨハネの黙示録20章2節)
このようにして、主はメシアとして地上を支配する権利に挑戦するあらゆる敵対勢力を滅ぼされます。

NOTE

[1]Richard C. Trench, New Testament Synonyms, pp. 301-2.
[2Joseph Henry Thayer, Greek-English Lexicon of the New Testament, p. 528.
[3]Marvin R. Vincent, Word Studies in the New Testament, II, 541.
[4]Ibid., II, 542-43.
[5]A. Sims, The Coming War and the Rise of Russia, p. 7.
[6]Cf. L. Sale-Harrison, The Resurrection of the Old Roman Empire, pp. 108-10.
[7]Harry A. Ironside, Lectures on Daniel the Prophet, pp. 215-16.
[8]William Pettingill, God’s Prophecies for Plain People, pp. 109-10.
[9]Alva J. McClain, The Four Great Powers of the End Time, p. 3.
[10]Milton B. Lindberg, Gog All Agog, p. 31.
[11]W. W. Fereday, “Armageddon” Our Hope, 46i:397-401. December, 1940.
[12]Harry Rimmer, The Coming War and the Rise of Russia, p. 27.
[13]Cf. Louis Bauman, Russian Events in the Light of Scripture, pp. 180-84.
[14]I Kings 5:1-10.
[15]David L. Cooper, When Gog’s Armies Meet the Almighty, pp. 80-81.
[16]Cf. Bauman, op. cit., pp. 174-75.
[17]Arno C. Gaebelein, The Prophet Ezekiel, pp. 252-55.
[18]Cooper, op. cit., p. 84.
[19]G. N. H. Peters, Theocratic Kingdom, II, 654.
[20]John F. Walvoord, “The Way of the Kings of the East,” Light for the World’s Darkness, p. 164.


第21章 患難時代の審判

この患難時代全体が、主の御手による裁きによって特徴づけられる時代であることは、既に証明されています。
そこには、いくつかの異なる裁きの計画が見られます。

ヨハネの黙示録における裁きについて、スコット氏は次のように書いています。
「(携挙と再臨の間の)間隙において、封印、ラッパ、そして鉢による七つの審判が行われます。
これらの神の懲罰は、一つの審判から次の審判へと移るにつれて、厳しさを増していきます。
これらの審判は同時ではなく、連続的に行われます。
ラッパは封印の後、鉢はラッパの後です。
厳密な時系列が守られています。
封印が開かれたのは、神の未来の啓示の連続部分が、信仰を持つ者だけに明らかにされるためでした。
多くの者は、これらの審判を単なる摂理と見なすと思います。
そのようなことは以前にも起こりました。
しかし、御使いによるラッパの大きな吹奏は、非常に裁きとしての性格を持つ人々に対する公の対応を暗示しています。
これらの奥義的なラッパは、背教したキリスト教世界の隅々まで警鐘を鳴らしています。
こうして、罪深く背教的な状況への神の公の介入が暗示されています。
そして、三番目の一般的な象徴、つまり注ぎ出された鉢、もしくは杯において、神の集中した怒りが天下の預言の情景全体を圧倒します。
16章は、これまで類を見ないほどの範囲と厳しさを持つ一連の裁きを明らかにしています。[1]

I.封印

神の御子が封印された巻物を開く場面は、ヨハネの黙示録6章に描かれています。
これは神の裁きの計画の始まりです。
この書全体を通して、裁きの計画の遂行に関連して御使いが登場します。

オットマン氏は次のように述べています。
「最初の封印が破られると、ケルビムの声が聞こえます。
「来なさい。」…それは、ケルビムの1体が神の裁きの道具を呼び出す声です。
ケルビムは今も神の政府と執行関係を保っています。
その政府は、今裁きが執行される地球に配慮しています。
封印が破られると次々と起こる災いは、神の政権の命令と制御下にあります。
ケルビムの呼びかけによって呼び出されるまで、裁きの道具は現れません。」[2]

ダービー氏は封印を「イエスの到来に対する神の政府の摂理的な準備」と呼んでいます。[3]
神は怒りをもって(ヨハネの黙示録6 章16、17節)、人間の行為を通して、地球に裁きを下すのです。
封印の解釈については、解説者たちの間で概ね合意が得られています。
最初の封印(6章2節)は、地上に平和を確立しようとする人々の平和運動を象徴するものとして広く認められています。
これは、地上に平和を確立するために獣が結んだ契約と関連しているのかもしれません。
2番目の封印(6章3、4節)は、地上から平和が取り去られ、戦争が地上を巻き込むことを象徴しています。
3番目の封印(6章5、6節)は、戦争による荒廃の結果として生じる飢饉を象徴しています。
4番目の封印(6章7、8節)は、人々が平和を確立できなかった後に訪れる死を予兆しています。
5番目の封印(6章9~11節)は、神の聖徒たちが信仰と復讐への熱烈な嘆願のために死に至ったという事実を明らかにしています。
6番目の封印(6章12~17節)は、全地を揺るがす大激動について語っています。
これは、あらゆる権威と勢力が人々に対する制御力を失い、無秩序が支配する状態を象徴しているのかもしれません。

ケリー氏はこのように述べています。
「迫害する勢力とその支配下にある者たちは裁きを受け、地上の権威は完全に崩壊します。」[4]
ゆえに、これらの封印は、地上における神の裁きの始まりです。
これらは裁きの計画が段階的に展開していくものですが、一度展開されると、その期間を通して継続することもあります。
これらは主に人間の手段を通じて行われる神の裁きです。
それらは患難時代の最初の時期に地上に降りかかり、患難時代を通して継続します。

II.ラッパ

裁きの計画の二つ目の部分は、七つのラッパを吹くことによって明らかにされるものです。(ヨハネの黙示録8章2~11章15節)

ラッパの使用に関して、ニューウェルは次のように書いています。
神はイスラエルにおいて、ラッパを、君たちや会衆の召集、陣営の旅の途中の警報、または公の告知のために使用しました。
(民数記10章1~6節)
ラッパはイスラエルの「喜びの日」や「定められた祭り」、そして月初めのささげ物を捧げる時にも吹かれ、「あなたたちの神の前に記念として」鳴らされることになっています。
ヤハゥエもこれらを愛されました。(民数記10章10節)
しかし、ラッパには特別な用途があります。
それは、ヤハゥエの軍勢を奮い立たせて敵と戦わせることです。(民数記10章9節)
エゼキエル書33章1~7と比較してみてください。
そこでは、見張りの者が忠実に吹いたラッパは、「警告を受け入れる」者すべてを救うことができたと記されています。

七人の御使いも同様です。
彼らは、ヨシュアとイスラエルがエリコに対してラッパを吹いたように、「ノアの時代のように…ソドムの時代のように」なった地球に対して、天のラッパを吹き鳴らします。[5]
これらのラッパによる裁きの解釈については、注釈者の間で大きな意見の相違があります。
ある者は厳密に文字通りに解釈しますが、他の者は比喩的に解釈します。
比喩的な解釈の幅は実に広いのです。
最初の四つの裁きは、最後の三つの裁きとは区別され、後者の三つは特に「災い」の裁きと呼ばれています。
最初のラッパ(8章7節)は、地に下る裁きを告げており、住民の三分の一が殺されます。
第二のラッパ(8章8、9節)は、海に下る裁きを告げており、やはり住民の三分の一が殺されます。
この書ではくり返し語られていますが、ここではパレスチナの地を、海は諸国民を表わしているのではないかと考えられています。
このように、これら二つのラッパは、地上のすべての住民に対する、想像を絶するほどの規模の神の裁きを描いています。
第三のラッパ(8章10、11節)は、川や水の源に下る裁きを象徴しています。
聖書では、これらは命の源、さらには霊的な命の源として用いられており、これは偽りを信じたために生ける水を奪われた人々への裁きを象徴しています。(テサロニケ人への手紙第二2章11節)
第四のラッパ(8章12、13節)は、太陽、月、星に下る裁きを象徴しています。
これらは支配権を表し、世界の支配者たちへの神の裁きを象徴しているのかもしれません。
第五のラッパによる裁き、つまり第一の災い(9章1~12節)は、地獄の力によって力を得た者が、地上に前例のない規模の苦しみを解き放つ様子を描いています。
これらのラッパは、イナゴが本来持っているものを食べないという意味で、文字通りのイナゴではないと一般的に考えられています。
第六のラッパによる裁き、つまり第二の災い(9章13~19節)は、大軍が解き放たれ、破壊的な力をもって地の面を行進する様子として描かれています。

この二つの災いの裁きについて、ケリー氏は次のように書いています。
「まず、国土に苦悩の災いが降りかかるが、それはイスラエルの十二部族から封印された者たちには降りかかりません。
次に、ユーフラテスの騎兵が西方諸国に解き放たれ、キリスト教世界全体を、特に神の裁きの特別な対象として圧倒します。
前者は、堕落したユダヤ人に対するサタンの強烈な苦悩であり、後者は、東方から、腐敗し偶像崇拝に染まった西方世界に対する、人間の攻撃的なエネルギーによる、最も痛烈な打撃です。
ただし、それだけではありません。
人類の三分の一の殺害は、単に肉体的な終わりを意味するのではなく、唯一真実な神との関係を告白するすべての信仰の破壊をも意味しています。」[6]

これは、二つの災いが、一つはイスラエルに対して、もう一つは異邦人に対して進軍する大軍であり、地球の人口の三分の一を滅ぼすであろうことを示しています。
サタンがイスラエルに対して用いる武器は北方連合であるため、それは第五のラッパで、異邦人に対する戦争は第六のラッパで象徴されていると言えます。
第七のラッパと第三の災いである裁き(11章15節)は、キリストの地上への再臨と、ハルマゲドン計画の終結に伴うすべての敵対勢力の滅亡をもたらします。
7つのラッパによる裁きと、先に要約した七十週の計画には、類似点があるように思われます。
週の半ばは、同盟を結ぶ大軍事勢力の台頭で始まります。
これは最初のラッパに相当します。
以前の王国は倒され、第二のラッパのように死をもたらします。
第三のラッパでは、偉大な指導者である獣が現れます。
その獣の出現は、第四のラッパのように政府や権威の倒壊をもたらします。
この時期には大規模な軍事行動が起こります。
第五のラッパのように北の同盟軍が国に侵攻し、第六のラッパのように異邦人の勢力が勢力争いを繰り広げ、大きな破壊をもたらします。
これらすべては、第七のラッパに見られるように、キリストの再臨によって最高潮に達します。

III.小瓶または鉢

神の怒りの注ぎ出しを完結させる第三の裁きは鉢です。(ヨハネの黙示録16章1~21節)
この鉢は4つあり、ラッパと同じ場所に注がれますが、同じ裁きではないようです。
ラッパは患難時代の真ん中から始まり、週の後半全体にわたる出来事を描写しています。
鉢は、キリストの再臨直前の患難時代の終わりのごく短い期間を描写しています。
これらの鉢は、神の特別な怒りを受ける不信者(16章9、11節)と、獣とその追随者(16章2節)に特に関係しています。
第一の鉢(16章2節)は、第一のラッパのように、地に注がれます。
この裁きにおいて、神はすべての獣崇拝者に怒りを注ぎます。
第二の鉢(16章3節)は、第二のラッパのように、海に注がれます。
この裁きの結果は霊的な死です。
ここで海は「死人の血のように」命を失うとされています。
第三の鉢(16章4~7節)は、第三のラッパのように、川や水の源に注がれ、それらは命を養い、満たし、支える力を失います。
これは、獣に従った者たちから命を得る可能性を奪うことを意味しています。
第四の鉢(16章8、9節)は、第四のラッパのように、太陽に落ちます。
太陽が「彼」と呼ばれていることから、個人が想定されていることが分かります。
これは、獣に従う者たちを盲目にする神の裁きを指しているのかもしれません。
第五の鉢(16章10、11節)は、獣の権力の中心に暗闇を及ぼすことと関係しており、メシアの王国を自称する帝国の滅亡を予期しています。
第六の鉢(16章12節)は、東からの王たちの侵攻への道を備え、彼らと獣の軍勢がハルマゲドンで裁きを受けることを予期しています。
第七の鉢(16章17~21節)は、人々が「激しい怒り」(16章19節)を経験する中で、秩序だった社会秩序を完全に覆す大激動と関係しています。

IV .バビロンに対する裁き

ヨハネの黙示録17章は、患難時代に存在する大淫婦、つまり背教した宗教体制に対する裁きを要約しています。
信仰を告白する不信仰な教会は患難時代に入り(ヨハネの黙示録2章22節、3章10節)、大淫婦の支配下にある偉大な宗教体制が出現しました。

A.淫婦の描写

ヨハネはこの制度を描写する多くの詳細を記しています。
(1)この制度は淫婦の特徴を備えています。(ヨハネの黙示録17章1、2、ヨハネの黙示録17章15、16節)
キリストの花嫁であると主張していたが、純粋な立場から堕落し、淫婦となりました。
(2)この制度は教会の諸問題を主導しています。(ヨハネの黙示録17章2、5節)
聖書における霊的な淫行は、偽りの組織への固執を指しています。
(3)このシステムは政治の指導者であり(ヨハネの黙示録17章3節)、
それが座っている獣。
(4)この体制は非常に富み、影響力を持つようになりました。(ヨハネの黙示録17章4節)
(5)この体制は、キリスト教世界の進展においてこれまで明らかにされていなかった一面を表している(ヨハネの黙示録17章5節)ので、「奥義」と呼ばれています。
(6)この体制は聖徒たちを迫害してきた大いなる存在です。(ヨハネの黙示録17章6節)
(7)この体制は世界的規模の組織化された体制です。(ヨハネの黙示録17章15節)
(8)この体制は、ローマ連合の頭である獣によって滅ぼされ、その覇権が脅かされることがないようにされます。(ヨハネの黙示録17章16、17節)[7]

B.淫婦の正体

ヒスロップは、綿密な記録に基づく著書「二つのバビロン」の中で、古代バビロンと、ミステリー・バビロンと呼ばれる淫婦の組織の教義と実践との関係をたどっています。
アイアンサイド氏も同様の展開をたどり、次のように記しています。
「女は宗教組織であり、少なくともしばらくの間は、民権を掌握していました。
額に刻まれた名前を見れば、簡単に彼女を特定できるはずです。
しかし、そのためには旧約聖書に立ち返り、文字通りのバビロンについて何が明らかにされているかを確認するのが良いでしょう。
なぜなら、どちらか一方が他方に光を当ててくれるからです「
バベル、つまりバビロンの創始者はニムロドであったことが分かります。
彼の不敬な行いについては創世記10章で読むことができます。
彼は族長時代の背教者でした。
彼は仲間やこれを信じる者たちを説得して「天に届く街と塔を建てる」よう結集させました。
主の言葉に従わない者たちの神殿、もしくは結集拠点とするためでした。
彼らは自分たちの街と塔をバベル、つまり神の門と呼びました。
が、すぐに神の裁きによってバベル、つまり混乱へと変えられました。」

それは最初から見るならば非現実性の印が帯びてきました。
「石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた」(創世記11章3節)と記されているからです。
現実と真実の模倣が、以来、あらゆる時代におけるバビロンの特徴です。
ニムロデ、またはニムロウド・バル・クシュは、ノアの不名誉な息子ハムの孫でした。
ノアは洪水を通して真実な神の啓示をもたらしました。
一方、ハムは洪水をもたらした背教の影響をあまりにも簡単に受けてしまったのです。
自己批判の兆候が見られないからです。
彼の名前は「浅黒い」、「黒ずんだ」、より正確には「日に焼けた」という意味です。
そして、その名前は人の魂の状態を示しています。
天からの光によって暗くなりました。
[ハム]は「黒い者」クシュという名の息子をもうけ、彼は同世代の背教者の指導者ニムロデの父となりました。
古代の伝承が今、私たちを助けてくれます。
ニムロデ・バル・クシュの妻は、悪名高きセミラミス1世であったと伝えられています。
彼女はバビロニア秘儀の創始者であり、偶像崇拝の最初の高位聖職者であったと伝えられています。
こうしてバビロンは偶像崇拝の源泉となり、世界中のあらゆる異教と異教の制度の母となりました。
そこで生まれた秘儀宗教は、様々な形で全地に広がり、現在も私たちの中にあります。
聖霊が去り、ヨハネの黙示録のバビロンが支配する時に、最も進展します。
セミラミスは、来るべき女の子孫という太古の約束に基づき、息子を産みました。
彼女はその子が奇跡的に身ごもったと宣言し、人々に紹介すると、約束の救世主として歓迎されました。
このタンムズこそが、捕囚の時代にエゼキエルが非難した崇拝者です。
こうして、母と子の奥義、つまり人類が知る他のいかなる偶像崇拝よりも古い形態がもたらされました。
この崇拝の儀式は奥義とされています。
この秘儀を知ることは、秘儀参入した者だけに許されていました。
これは、神の真理に酷似した偽物で人類を欺き、時が満ちて女の子孫が来られた時に、真実な子孫を認識させないようにしようとするサタンの企てです。
バビロンからこの秘儀は周辺諸国に広まりました。
どこでも象徴は同じで、どこでも母子崇拝が一般的なシステムとなり、その崇拝は最も忌まわしく不道徳な慣習をもって祝われました。
腕に幼子を抱いた天の女王の像はどこでも見られたが、言語が異なれば名称も異なることがありました。
それはフェニキアの秘儀となり、フェニキア人によって地の果てまで運ばれました。
この勇敢な冒険家の母子であるアストレテとタンムズは、エジプトではイシスとホルス、ギリシャではアフロディーテとエロス、イタリアではビーナスとキューピッドとなり、さらに遠い地ではさまざまな名前で呼ばれました。
1000年のうちに、神の啓示を否定するバビロニア教が世界の宗教となりました。
この中心的な奥義と結びついた、無数のより小さな奥義がありました。
その中には、死後の煉獄での清め、司祭による赦免、聖水の散布、エレミヤ書に記されている天の女王への丸いパンの供え物といった無数の秘跡による救済、文字通り聖別された売春である処女の神へのささげ物、息子を死から蘇らせたとされるイースターの大祭の前に40日間タンムズのために泣くことなどがありました。
タンムズは猪に殺され、その後生き返ったと教えられていたからです。
タンムズにとって卵は復活の奥義を象徴する神聖なものでした。
同じ様に常緑樹は彼の象徴として選ばれ、冬至に彼の誕生を祝うために立てられました。
冬至には彼の闘いを記念して猪の頭が食べられ、多くの奥義的な儀式とともにクリスマスの薪が燃やされました。
タンムズにとって、十字架の印は生命を与える原理を象徴し、また彼の名前の最初の文字として神聖なものでした。
それは数多くの古代の祭壇や神殿に描かれており、多くの人が考えているようにキリスト教に由来するものではありません。
族長アブラハムは神の召命によって、この秘儀から分離されたのです。
そして、彼から生まれた国家は、この同じ邪悪なカルトと絶えず対立していました。
フェニキアの王女イゼベルの治世下において、このカルトはアハブ王の時代に北王国イスラエルの宗教の残滓に接ぎ木され、最終的に捕囚の原因となりました。
ユダはこれによって汚されました。
バアル崇拝はバビロニア秘儀のカナン的形態に過ぎず、ユダはバビロンに捕囚されることで初めて偶像崇拝への熱中からは癒されました。
バアルは太陽神であり、生命を与える神であり、タンムズと同じ神です。
バビロンという街は長らく記憶の彼方にあったものの、その秘儀はバビロンと共に消滅したわけではありません。
街と神殿が破壊されると、大祭司は一団の秘儀参入者たちと聖器や聖像を携えてペルガモへと逃れた。
そこでは蛇の象徴が隠された知恵の象徴として掲げられていました。
彼らはその後、そこから海を渡りイタリアへと移住しました。
そこで古代の崇拝はエトルリア秘儀の名の下に広められ、最終的にローマはバビロニア教の中心地となりました。
大祭司たちは、魚の神であり生命の主であるダゴンに敬意を表して、魚の頭の形をしたミトラをかぶりました。
これはイスラエルの古くからの敵であるペリシテ人の間で進展したタンムズ秘儀の別の形です。
ローマに定着した大祭司は「最高神官(Pontifex Maximum)」の称号を授かり、この称号は彼のミトラにも刻まれました。
ユリウス・カエサル(良家の若いローマ人全員と同じ様に、入信者であった)が国家元首となった時、彼は「最高神官(Pontifex Maximum)」に選出され、この称号はそれ以降、コンスタンティヌス大帝に至るまですべてのローマ皇帝によって守られてました。
大帝は、教会の長であると同時に異教徒の大祭司でもあった。
この称号は後にローマの司教に授けられ、今日の教皇が主張しています。
教皇は、漁師の使徒ペテロの後継者ではなく、バビロニア秘儀の大祭司の直接の後継者であり、魚の神ダゴンのしもべであると宣言されました。
偶像崇拝を行った先人たちと同じ様に、彼はダゴンのために漁師の指輪をはめています。
教会史の初期の数世紀において、不義の奥義は驚くべき影響を及ぼし、バビロニアの慣習と教えはキリスト教会の名を称する組織に大きく吸収されました。
聖書の真理は多くの点で完全に覆い隠され、偶像崇拝的な慣習がキリスト教の秘跡として人々に押し付けられ、異教の哲学が福音の教えに取って代わりました。
こうして、1000年の間ヨーロッパを支配し、人々の肉体と魂を操った驚くべきシステムが形成されたのです。
そして、16世紀の偉大な宗教改革によって、ある程度は救済がもたらされました。[8]
ローマ教団に見られる誤った教義と慣習は、コンスタンティヌス帝がローマをキリスト教帝国と宣言した時に、この異教がキリスト教と融合したことに直接起因していると言っても過言ではありません。
したがって、淫婦は、一つの頭の下に一つの組織として統合された、すべてのキリスト教信仰を公言する人々を象徴していると言えます。

C.淫婦への裁き

ヨハネはこの腐敗した体制への裁きを次のように明確に描写しています。

「 あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。
それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行なう思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。」
(ヨハネの黙示録17章16、17節)


淫婦の組織(ヨハネの黙示録17章3節)に支配されていた獣は、彼女に反旗を翻し、彼女とその制度を完全に滅ぼします。
淫婦の組織は、偽預言者によって推進された獣の宗教的崇拝と競合していたことは疑いようがありません。
そして、この淫婦の組織の滅亡は、獣が自分の事を神であると主張する偽りの崇拝の唯一の対象とするためにもたらされました。

V.獣とその帝国に対する裁き

ハルマゲドンの戦役をたどる中で、神が異邦人世界勢力を裁き、滅ぼす様子が描かれています。
北の同盟は、患難時代の真っ只中、イスラエルの山々で神の裁きを受けました。
東の王たちとその軍勢、そして獣の軍勢は、キリストの再臨の時に滅ぼされることが示されました。
獣とその城塞に対するこの裁きのより詳細な描写は、ヨハネの黙示録18章に記されています。
そこでは、政治帝国と偽りの宗教帝国が極めて密接に結びついており、この二つの章では二つの異なる存在が描かれているにもかかわらず、両者は同じ名前で呼ばれていることが示されています。

スコフィールド氏は簡潔に次のように述べています。
「ヨハネの黙示録では二つの「バビロン」が区別されています。
一つは教皇制を頂点とする背教したキリスト教世界である教会的バビロン、もう一つは獣の連合帝国であり、異邦人による世界支配の最後の形態である政治的バビロンです。
教会的バビロンは「大淫婦」(ヨハネの黙示録17章1節)であり、政治的バビロンによって滅ぼされます。
(ヨハネの黙示録17章15~18節)
獣が唯一の崇拝の対象となるためです。
(テサロニケ人への手紙第二2章3、4節、ヨハネの黙示録13章15節)
政治的バビロンの力は、主の栄光の再臨によって滅ぼされます。
古代バビロンの跡地に文字通りのバビロンが再建されるという考えは、イザヤ書13章19~22と矛盾します。
しかし、ヨハネの黙示録18章(例えば10、16、18節)の表現は、贅沢と交易の「街」である「バビロン」を、教会の中心地であるバビロン、つまりローマと同一視していることは疑いようがありません。
教会の中心地であるバビロンを憎んだ王たちこそ、商業の中心地であるバビロンの滅亡を嘆いているのです。[9]
獣の権力の座の破壊は、神が火で裁きを下すことによって達成されます。(ヨハネの黙示録18章8節)
患難時代に関する預言的啓示の主要な流れを全体的に見ると、この時代における神の計画の啓示が預言研究の主要な部分の一つを構成していることが明らかになります。
イスラエルのための計画、異邦人のための計画、そしてサタンの計画はすべて、キリストの再臨直前の時期に最高潮に達します。

NOTE

[1]Walter Scott, Exposition of the Revelation of Jesus Christ, p. 176.
[2]Ford C. Ottman, The Unfolding of the Ages, p. 153.
[3]William Kelly, editor, The Collected Writings of J. N. Darby, Prophetic V, 30.
[4]William Kelly, The Revelation Expounded, p. 104.
[5]William R. Newell, The Revelation, p. 119.
[6]Kelly, op. cit., pp. 123-24.
[7]Cf. Ottman, op. cit., pp. 278-81.
[8]Harry A. Ironside, Lectures on the Revelation, pp. 287-95.
[9]C. I. Scofield, Reference Bible, pp. 1346-47.


第五部 再臨に関する預言

第22章 再臨の教義の歴史


聖書全体が待ち望み、歴史全体が切望しているのは、主イエス・キリストの地上への再臨です。
その時、御子がこの世に来られた神の目的は実現します。
贖いは成し遂げられ、地上に主権が現れされます。
この再臨とそれに伴う出来事については、膨大な預言が残されています。
聖書解釈者たちは、千年王国論の教理に関して、いくつかの異なる学派に分かれています。
聖書研究と解釈の領域では長らく重要視されてこなかった千年王国論の問題は、神学の領域全体に決定的な影響を及ぼすことから、主要な教理の一つとみなされるようになりました。
千年王国主義(Chiliasm)、[chilioi](「千」の意味)からその名が付けられ、一般的には千年王国、つまりまだ到来していない王国時代を示しています。
ブリタニカ百科事典(第14版、s. v. )には「キリストが再臨して千年間支配する」という教義が記されています。
この教義の特徴は、キリストが千年王国の到来前に再臨し、自らの臨在と合法的な権威の行使によって千年王国を特徴づけ、その期間に帰せられる地上のあらゆる祝福を確保し、維持するということです。
千年王国主義(Chiliasm)という単語は、千年王国前再臨主義(premillennialism)という名称に取って代わられました。
そして、この単語には、単に千年王国を指す以上の意味が込められています。
それは、人類の最初の復活と二度目の復活の間にあると言われる千年です。
この千年の間に、イスラエルとの地上におけるすべての契約が成就します。
旧約聖書の期待のすべてが、地上の王国、イスラエルの栄光、そしてエルサレムのダビデの王座に座る約束のメシアとともに、成就されます。[1]

I.再臨の見解

歴史的に、キリストの再臨に関しては4つの主要な見解があります。

A.文字通りではない、もしくは霊的な見解
文字通りではない見解は、キリストが文字通り、肉体を持って、個人的に地上に再臨することを否定します。

ウォルフォード氏はこの見解を次のように要約しています。
「主の再臨に関する現代の一般的な見解は、いわゆる霊的見解です。
キリストの再臨を教会におけるキリストの永続的な前進と捉え、多くの具体的な出来事を含むものとしています。
例えば、ウィリアム・ニュートン・クラーク氏は、再臨の約束は「キリストが民と共に霊的に臨在すること」によって成就すると主張しました。
これはペンテコステにおける聖霊の降臨によって始まり、エルサレムの陥落を伴い、最終的には教会における継続的な霊的前進によって成就します。
言い換えれば、再臨は一つの出来事ではなく、キリストの御業であるキリスト教時代のすべての出来事を含むものです。
この見解は、現代の多くのリベラル派が支持しています。[2]

この見解では、再臨はエルサレムの破壊、ペンテコステの日、聖徒の死、個人の改心、もしくは歴史や個人の経験におけるあらゆる危機において成就するとされています。
彼らの論争は、文字通りの再臨があるかどうかという点にあります。
言うまでもなく、このような見解は神の御言葉への不信、もしくは霊的解釈の方法論に基づいています。

B.千年王国後再臨主義

宗教改革後の契約神学者の間で広く支持された千年王国後再臨主義は、ウォルフォード氏によれば、次のように主張されています。
「福音の宣教を通して全世界がキリストの再臨前にキリスト教化され、福音に服従するようになるという説です。
この説の名称は、キリストが千年王国の後に再臨(post millennium)するという内容に由来しています。[3]
この見解を信じる者は、文字通りの再臨と文字通りの千年王国を信じ、概ね旧約聖書におけるその王国の本質に関する教えに従っています。
彼らの論争は、誰が千年王国を制定するのか、キリストと千年王国の関係は何か、そしてキリストの到来時期と千年王国との関係は何かといった問題を中心に展開されます。

C.無千年王国主義

無千年王国主義は、再臨後、地上に文字通りの千年王国は存在しないとしています。
神の御国に関するすべての預言は、再臨の時期に教会によって霊的に成就しています。
この説に関して、次のように述べられています。
その最も一般的な特徴は、キリストが地上において文字通り支配することを否定する点です。
サタンはキリストの初臨時に縛られると考えられています。
初臨と再臨の間の現代は、千年王国の成就期です。
これを信じる者たちは、千年王国が地上で成就するのか?(アウグスティヌス)、それとも、天の聖徒たちによって成就するのか(ウォルフォード氏)について意見が分かれています。
この考えを要約すると、今ある千年王国がそれ以上続くことはなく、永遠の状態はキリストの再臨の直後に訪れるという考え方です。
これは、彼らが千年王国と考えるものの後にキリストが来るという点で、千年王国後再臨主義に似ています。[4]
彼らの論争は、イスラエルに文字通りの千年王国が訪れるのかどうか、もしくは千年王国に関する約束が現在、地上または天国の教会で成就しつつあるのかどうかという問題をめぐって起きています。

D.千年王国前再臨主義

千年王国前再臨主義は、キリストが千年王国が始まる前に文字通り、肉体を持って地上に再臨し、その臨在によって王国が樹立され、キリストが支配するという説です。
この王国において、イスラエルのすべての契約は文字通り成就します。
王国は千年間続き、その後、御子によって御父に与えられ、御子の永遠の王国と統合されます。
この立場における中心的な問題は、聖書が文字通り成就するのか、それとも比喩的に成就するのかです。
実際、このことが問題全体の核心です。

熱心な無千年王国論者であるアリス氏は、「旧約聖書の預言を文字通り解釈するならば、それは既に成就した、もしくはこの現代において成就する可能性があると見なすことができない」と認めています。[5]
これらの4つの見解を隔てる問題は、どのような解釈方法を用いるべきかという問題を解決することによってのみ解決できると言っても過言ではありません。

II.初代教会における再臨の教理

使徒時代直後の数世紀にわたる教会の見解は、キリストの再臨を千年王国前再臨主義と見なしていたことは広く認められています。

無千年王国主義のアリス氏は次のように述べています。
「千年王国前再臨主義は初代教会で広く信じられていましたが、どれほど広範であったかは定かではありません。
しかし、その支持者の多くが地上の報酬と肉欲の喜びを重視したため、広い意味で反対を招き、アウグスティヌスの「霊的」見解に大きく取って代わられました。
宗教改革の時代には、特にアナバプテストの間で、千年王国前再臨主義が大胆な形で再び現れました。
ベンゲルとミードは、この説を最初に支持した著名な近代学者の一人です。
しかし、近代において千年王国前再臨主義が広く影響力を持つようになったのは、20世紀初頭になってからでした。
それ以来、千年王国前再臨主義はますます広く受け入れられ、現在の教会における福音派の指導者のほとんどが千年王国前再臨主義者であるという主張がくり返してなされています。[6]
一般的に千年王国後再臨主義の創始者とみなされているウィットビー氏は次のように書いています。
千年王国の教義、つまり聖徒たちが地上で千年間支配するという教義は、現在ではすべてのローマカトリック教徒と大多数のプロテスタントによって否定されています。
しかし、それでもなお、それは使徒の伝統として、優れたクリスチャンの間では250年間受け入れられてきました。
このように、二、三世紀の多くの父祖たちによって伝えられており、彼らはそれを私たちの主とその使徒たち、そして彼ら以前に生きたすべての古代人の伝統として語られています。
彼らは伝えられたまさにその言葉、その時代にこのように解釈された聖書を私たちに教えてくれる人たちです。
そして、それはまさに正統派であったすべてのクリスチャンによって信じられていたと述べています。
この教えは、教会の東方のみならず、パピアス(フリギア)、ユスティノス(パレスチナ)にも受け入れられただけでなく、イレネオス(ガリア)、ネポス(エジプト)、アポリナリス、メトディオス(西方および南方)、キプリアヌス、ウィクトリヌス(ドイツ)、テルトゥリアヌス(アフリカ)、ラクタンティウス(イタリア)、セウェルス、そしてニカイア公会議(西暦323年頃)にも受け入れられました。[7]
反千年王国前再臨主義支持者がこのような譲歩をするのは、キリストの死後250年間、そのような千年王国前再臨主義が教会の普遍的な信仰であったという事実が歴史に記録されているからに他なりません。[8]

シャフ氏は次のように書いています。
ニカイア以前の終末論において最も印象的な点は、際立った千年王国主義、もしくは千年王国主義です。
これは、キリストが復活した聖徒たちと共に地上で栄光のうちに千年間支配し、その後に復活と審判が行われるという信仰です。
これは確かに、教会の教義が信条や信仰の形態として体現されたものではなく、著名な教師たちの広く受け入れられた見解でした。[9]

ハルナックは次のように述べています。
キリストの再臨と王国のこの教義は、非常に早くから現れているため、キリスト教の本質的な部分としてみなされるべきではないかという疑問が生じるかもしれません。[10]

A.千年王国前再臨主義の支持者

おそらく、最初の数世紀の千年王国前再臨主義支持者に関する最も詳細な集成は、ピーターズ氏によるものです。
彼は以下のように列挙しています。

1.千年王国前再臨主義、1世紀の支持者たちは次の通りです。
a:(1)アンデレ、(2)ペテロ、(3)フィリポ、(4)トマス、(5)ヤコブ、(6)ヨハネ、(7)マタイ、(8)アリスティオ、(9)長老ヨハネです。
これらすべてはパピアスによって引用されています。
イレナエウスによれば、パピアスはヨハネの教えを聞き、ポリュカルポスと親しかったと言われています。
使徒たちへのこの言及は、私たちが証明した事実と一致します。
(a)イエスの弟子たちは、今世紀初頭において、メシアによる支配というユダヤ教の見解を抱いていました。
(b)彼らはそれを捨て去るのではなく、再臨と結びつけていました。
次に、
(10)ローマのクレメンス氏(ピリピ人への手紙4章3節)は、西暦40~100年頃に存在していました。
(11)バルナバ、西暦40~100年頃。
(12)ヘルマス、西暦40年から140年。
(13)イグナティウス、アンティオキアのバヒオ、トラヤヌス帝の治世下、西暦50~115年頃死去。
(14)ポリカルポス、スミルナのバヒオ、使徒ヨハネの弟子、西暦70~167年頃生きていました。
(15)パピアス、ヒエラポリスのバヒオ、西暦80~163年の間生きていました。
b:その反面、
(1)私たちに積極的に反対するものとして引用できる名前、または
(2)何らかの形で、または意味において、反対者の教義を教えているとして引用できる名前を1つも挙げることはできません。

2.千年王国前再臨主義、2世紀の支持者
a:(1)ポティヌス、殉教者、紀元 87~177 年。
(2)ジャスティン殉教者、紀元100~168年頃。
(3)メリト、Bh.サルディス、紀元100~170年頃。
(4)ヘギシッポス、紀元130~190年頃。
(5)タチアン、紀元130~190年頃。
(6)殉教者エイレナエウス…紀元140~202年頃。
(7)ヴィエンヌとリヨンの教会群。
(8)テルトゥリアヌス、西暦150年から220年頃。
(9)ヒッポリュトス、西暦160~240年の間。
b:その反面で、今世紀に千年王国論に反対した著述家は一人もおらず、引用されている人物の名前さえ一つも挙げられていません。

さて、学生諸君、よく考えてみてください。
二世紀でありながら、私たちの教義に直接反対するものは全く現れず、教会の系譜をたどるまさにその指導的かつ最も著名な人々によって、私たちの教義は支持されています。
私たちはどのように結論づけるべきだろうか?
(1)教会の共通の信仰は千年王国論であったこと、そして
(2)このような信仰の普遍性と統一性は、教会の創始者たちと彼らによって任命された長老たちによってのみもたらされたことです。

3.千年王国前再臨主義、3世紀の支持者
a:(1)キプリアン、西暦200~258年頃。
(2)コモディアン、西暦200~270年の間。
(3)アルシノエのバビロン、ネポス、西暦230~280年頃。
(4)コラキオン、西暦230~280年頃。
(5)ヴィクトリヌス、西暦240~303年頃。
(6)メトディウス・Bh・オリンパス、西暦250~311年頃。
(7)ラクタンティウス…西暦240~330年頃。[11]
上記の人物全員の証言は必ずしも明確ではありませんが、中には千年王国前再臨主義を明確に支持した者もいます。

ローマのクレメンス氏は次のように書いています。
「聖書も証ししているように、確実に神の御心はすぐに、そして突然に成就されます。
「主は速やかに来られ、遅れることはありません。」
「主は、あなたがたが待ち望んでいる聖なる方が、突然その神殿に来られる。」」[12]

殉教者ユスティノス氏は、トリフォンとの対話の中でこのように書いています。
「私やすべての点で正しい考えを持つクリスチャンは、死者の復活とエルサレムでの千年が起こり、預言者エゼキエルやイザヤなどが宣言したように、エルサレムがその後に建てられ、装飾され、拡張されることを知っています。
さらに、私たちと一緒にいたキリストの使徒のひとり、ヨハネという人が、彼に与えられた啓示によって、私たちのキリストを信じる者たちがエルサレムで千年を過ごし、その後、すべての人の一般的な復活、簡単に言えば永遠の復活と審判が同じ様に起こると預言しました。」[13]


リヨンの司教イレナエウスは、次のように書いて、よく練られた終末論を示しています。
「この反キリストがこの世のすべてを破壊した後、彼は3年6か月間支配し、エルサレムの神殿に座ります。
その後、主が父の栄光のうちに雲に乗って天から来られ、この人と彼に従う人々を火の池に送ります。
しかし、義人のために王国の時代、つまり安息、神聖な第7日をもたらし、アブラハムに約束された相続財産を回復します。
その王国では、主が「東から西から来る多くの人が、アブラハム、イサク、ヤコブと共に座る」と宣言されました。
したがって、預言された祝福は、義人が死から蘇って支配する王国の時代に間違いなく適応されます。」[14]

テルトゥリアヌス氏は次のように証ししています。
「しかし、私たちは、地上に王国が約束されていることを告白します。
それは、天に先立って、別の存在状態においてのみであり、彼らが復活した後、神が築いたエルサレムの都で千年間住むことになるからです。」[15]

ユスティノス氏とイレネオス氏によれば、三種類の人がいます。
「(1)異端者
肉体の復活と千年王国を否定します。
(2)正統派
復活とキリストの地上における王国を主張しています。
(3)信者。
正義の側には同意するが、キリストの合法的な支配を説く聖書箇所をたとえ話化し、比喩にしようと努めています。
信者は、キリストの地上における支配を主張する正統派よりも、否定する異端者に賛同する感情を抱いています。」[16]

ユスティノス氏は明らかに千年王国前再臨主義を「完全な正統性の基準」と認識していました。
「トリフォンとの対話」の中で彼はこのように書いています。
「クリスチャンと称しながらも、不敬虔で不敬虔な異端者の中には、あらゆる点で冒涜的で無神論的で愚かな教理を教える者もいます。」[17]

彼は千年王国前再臨主義を否定する者をこの分類に含めるつもりだったことを示しています。
なぜなら、彼は千年王国前再臨主義と関連する教えである復活を否定する者たちもこの分類に含めているからです。

ピーターズ氏の次の言葉で結論づけるのが無難だと考えています。
「歴史的背景を全体的に見るならば、使徒教会と原始教会における千年王国主義の広い意味で影響を主張する著述家たちの主張は、間違いなく正しい結論に至らせるものです。
したがって、私たちは「それはほとんどすべての教師によって普遍的に受け入れられた」とし、 (Ch. His. , vol. 2,pp. 450, 452) ジャスティンとともに「全正統派コミュニティ」について言及しています。
「ミュンヒャー(Muncher)」(p. 415)として自分たちの事を表現する人々を心から支持しています。」[18]

B.千年王国前再臨主義に対する反対者

紀元3世紀には、千年王国前再臨主義に対する最初の肯定的な反対論が出現しました。

ピーターズ氏は次のように要約しています。
「最古の時代から現代に至るまで、私たちに反対するリストに名を連ねたすべての著述家は、これらの反対者しか見つけることができなかった。
私たちは、彼らが敵対者として姿を現した年代順に彼らを紹介します。
彼らは4人いるが、そのうち3人は強力な悪行を働き、急速に支持者を獲得しました。
最初の人物は、
(1)カイウス(またはガイウス)、3世紀初頭。
(2)クレメンス・アレクサンドリヌス、アレクサンドリアの教理学校の教師であり、193年から220年まで教師として(オリゲネス氏をはじめとする人々に)強い影響を与えた。
(3)オリゲネス、185年頃~254年頃。
(4)ディオニュシウス、190年頃~265年頃。
これらは、千年王国主義に直接敵対したとされる擁護者たちです。」[19]

1.アリス氏によれば、この反対は「その支持者の多くが地上の報酬と肉欲の快楽を重視したため、広い意味で反対を引き起こしました」。[20]
この反対は、まず最初に、オリゲネス氏が主導的な提唱者となったアレクサンドリア学派の基本教義が神学界に広い意味で影響を与えたことに原因となると断言する方が正確だと考えます。
オリゲネス氏の霊的解釈法は、千年王国前再臨主義の土台となっていた文字通りの解釈法に終止符を打ちました。
モシェイム氏は、オリゲネス氏のこの影響を裏付けるものとして引用されています。

モシェイム氏は「救世主が世の終わりの前に千年間人々の間で支配するという教えは、前世紀には多くの人々に、誰の非難も受けずに信じられていた」と宣言した後、このように付け加えています。
「この世紀には、千年王国主義は、特にオリゲネス氏の影響によって評判を落としました。
オリゲネス氏は、この説が自身の見解に反するとして、この説に激しく反対していましたた。」
「オリゲネス氏の時代に至るまで、この説を支持する教師たちは皆、公然とこの説を唱え、教えました。
しかし、オリゲネス氏は、この説が彼の哲学に反するものであったため、激しく攻撃しました。
そして、彼が発見した聖書解釈体系によって、この説の支持者たちが依拠していた聖書のテキストに別の解釈を与えています。」
3世紀には、この説の評判は低下し、特にオリゲネス氏の影響によって、エジプトで初めてこの説が評判を落としました。
しかし、この説は瞬く間に根絶されることはなかったのです。
依然として、尊敬すべき支持者がいたのです。
モシェイム氏は様々な箇所で、哲学的で極めて暴力的な解釈体系によって、いかにして文字通りの解釈が「自分の哲学的教義や概念に反する神の預言のあらゆる部分を、ひどく歪曲し、ねじ曲げ始めた」のかを明らかにしています。
彼は二つの解釈体系が採用した解釈を次のように対比させています。
「彼(オリゲネス氏)は、言葉の文字通りの明白な意味を無視し、言葉の包みの中に隠された不可解な意味を探そうとしました。
しかし、キリストの地上の王国を主張する者たちは、聖書の特定の表現の自然で適切な意味のみにその主張を拠り所としました。」[21]

2.反対は、神学的な考え方を変えた誤った教義の台頭によって起こりました。
初期にグノーシス主義は優勢であり、キリスト教のほぼすべての教義が多かれ少なかれその影響に苦しめられました。
特に神の御国の教義は、その柔軟な操作によって、聖書や初期教会の教義とは大きく異なるものとなりました。
グノーシス主義は、ダビデの子である人の子の約束された王権に大きな打撃を与えました。
物質の本質的な腐敗を信じる禁欲主義は、これに対抗しました。
「ドケティズム(Docetism)」は、キリストであるイエスの人体という現実を否定し、神の御国の理解へのあらゆる道を事実上閉ざし、肉体だけでなく、メシアであるイエスに関連するあらゆるものを霊的なものとしました。
これらの相反する傾向を調和させるために、別の後継の勢力が生まれました。
彼らは理性が審判の立場を占めると仮定し、理性の演繹から両者の媒介者を確立し、解釈に関してはグノーシス主義と千年王国論の両方から何らかの要素を維持しました。
神の御国を霊的に解釈し、教会に適用し、両者の間の仲介者となったのです。[22]

3.使徒時代に始まったユダヤ教の存続は勢いを増し、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間に敵意が高まりました。
この敵対関係は最終的に、千年王国が「ユダヤ的」であるという理由で拒まれるに至りました。
ユダヤ教の律法主義と儀式主義を押し付けようとする異邦人クリスチャンのユダヤ教に対する敵意は、ついに極限にまで追い込まれ、ユダヤ教に対する彼らの評価において重視されていたものはすべて捨て去られました。
もちろん、ユダヤ教徒が長年抱いてきた王国という概念も含まれていました。[23]

4.コンスタンティヌス帝による政教分離は、千年王国主義の希望を消滅させました。
スミス氏は、「使徒時代とコンスタンティヌス帝の時代との間の期間は、ヨハネの黙示録的解釈における千年王国主義時代と呼ばれていた」と述べた後、次のように述べています。
コンスタンティヌス帝の勝利直後、抑圧と迫害から解放され、支配的かつ繁栄したクリスチャンたちは、主の速やかな再臨への鮮明な期待と、神の王国に対する霊的な概念を失い始め、キリスト教の現在の世界における優位性を、キリストが地上に約束された支配の成就とみなすようになりました。
キリスト教化されたローマ帝国は、もはや預言的な非難の対象ではなく、千年王国の進展の舞台とみなされました。
しかし、この見解はすぐに、千年王国をすべての真実な信者の心におけるキリストの支配と比喩的に解釈するようになりました。[24]

5.教父たちの立場に敵対する者たちが教父たちの影響力の継続を最小限に抑えようとして彼らの著作を抑圧したことで、この中心となる教えは軽視され、彼らの人生と著作の中で差し迫った希望が占めていた場所が消滅する傾向でした。

6.パウロから宗教改革までの間、他の誰よりも神学的な考え方に貢献し、無千年王国主義を体系化し、ローマの教会制度に教会論をもたらしてくれたアウグスティヌスの影響は、千年王国前再臨主義の終わりに極めて重要な要素となりました。

7.ローマ教会は地上における神の王国であり、その長は地上におけるキリストの代理人であると教えましたが、ローマ教会の勢力の増大が大きな要因です。
千年王国前再臨主義に反対する人々がこの教えに対抗するために用いる手法に注目することは極めて興味深いことです。
(1)ガイウスとディオニュシウスはまず、ヨハネの黙示録の真正性と霊感に疑問を投げかけました。
ヨハネの黙示録への訴えは、却下できないと考えたからでしょう。
(2)文字通りの意味を否定し、比喩的または比喩的な意味に置き換えることで、契約と預言は事実上改変されました。
(3)旧約聖書の中で、文字通りに教義を教えている部分は、その預言的な霊感によるものとは信用されなくなりました。
(4)預言的な部分をすべて受け入れ、教会に都合よく象徴化して適用できない部分は、天によって成就するとされました。
(5)ユダヤ民族に直接与えられた約束は、条件付きであったり、もしくは異邦人に与えられる祝福の型に過ぎないとされました。[25]

したがって、千年王国前再臨主義への反対は、不信仰を特徴とする人々から生じたことを指摘しておかなければなりません。
彼らの教義は、教会史の時代を通じて、一般的に信者から非難されてきました。
彼らは千年王国前再臨主義が非聖書的であるからではなく、自分たちの哲学や解釈方法と矛盾するから反対したのです。

III.千年王国論の台頭

アウグスティヌスの神学思想への貢献により、無千年王国論が注目を集めるようになりました。
オリゲネス氏が非文字的解釈法を確立する基礎を築いた一方で、千年王国に関する非文字的見解を体系化し、今日では無千年王国論として知られるものにしたのはアウグスティヌスでした。

A.アウグスティヌスの重要性

アウグスティヌスと教義全体との関係は、ウォルフォード氏によって次のように述べられています。
「彼の思想は、彼以前の神学を明確にしただけでなく、カトリックとプロテスタントの教義の土台を大きく築いたのです。
B・B・ウォルフォード氏はハルナックの言葉を引用し、アウグスティヌスを「使徒パウロと宗教改革者ルターの間で、キリスト教教会が所有した比類なき偉大な人物」と評しています。
アウグスティヌスの貢献は主に教会の教理、「ハマルティオロジー(hamartiology)」、恵みの教理、そして予定説の分野で認められているが、彼は無千年王国論の初期の歴史においても最大の記念碑的存在です。
無千年王国論の歴史におけるアウグスティヌスの重要性は、二つの理由から生じます。
最初に、アウグスティヌス以前には、無千年王国論の有力な支持者が存在しないことです。
アウグスティヌス以前、無千年王国論は、アレクサンドリアの比喩的・霊的神学派によって生み出された異端と結び付けられていました。
これらの学派は、千年王国前再臨主義に反対するだけでなく、聖書のあらゆる文字通りの解釈を覆しました。
アウグスティヌスの無千年王国論の重要性の二つ目の理由は、彼の見解がローマ教会の支配的な教義となり、アウグスティヌスの他の多くの教えと共に、プロテスタントの改革者たちのほとんどによって様々な形で採用されたことです。
実際、アウグスティヌスの著作は、組織化された教会のほとんどが千年王国前再臨主義を棚上げにするきっかけとなりました。」[26]

B.アウグスティヌスの千年王国論における見解

アウグスティヌスは、彼の有名な著作「神の御国」において、目に見える教会こそが地上における神の御国であるという考えを提示しました。
この著作の重要性について、ピーターズ氏は次のように述べています。
「アウグスティヌスの代表作「神の御国」ほど、古代の教義を覆すほどの強力な影響力を持った著作は、おそらく他に類を見ることはありません
この著作は、地上の、もしくは人間の王国と並んで、もしくは同時に教会における神の王国の存在を教えるために特別に設計されたものです。」[27]
教会を王国と解釈したこの基本的な教会論から、アウグスティヌスは千年王国の教義を展開しました。

これはアリス氏によって次のように要約されています。
「彼は、千年王国はキリスト教会において成就した霊的な解釈をすべきだと教えた。
サタンの縛めは主の地上での宣教活動の間に起こった(ルカの福音書10章18節)、第一の復活は信者の新たな誕生である(ヨハネの福音書5章25節)、したがって千年王国は中間降臨期、つまり教会時代に対応するはずだと彼は主張しました。
これは、ヨハネの黙示録20章1~6節を、19章に示された出来事を時系列的にたどる新しい時代を描写するものとしてではなく、それ以前の章の「要約」として解釈することを意味しています。
教会史の最初の千年王国の前半に生きたアウグスティヌスは、当然のことながらヨハネの黙示録20章の1000年を文字通りに解釈し、その期間の終わりに再臨が起こると期待した。
しかし、彼は、千年王国を人類史の第六千年王国の残りの期間と同一視するという矛盾した考えを持っていたため、この期間は、悪の大爆発、ゴグの反乱とともに西暦650年頃に終了し、その後にキリストが審判のために来臨すると信じていました。」[28]

アウグスティヌスは、終末論的思考を形作るいくつかの重要な主張を行ないました。
(1)再臨後に千年王国が到来することを否定し、
(2)再臨間期に千年王国が到来すると主張し、
(3)教会こそが王国であり、イスラエルに与えられた約束が文字通りに成就することはない、と説きました。
これらの解釈は、何世紀にもわたって神学的思考を支配した終末論体系の中核を形成しています。
サタンが縛られていないこと、私たちは千年王国にいて、そこに入る者に約束されたすべてのことを経験していないこと、そしてキリストが西暦650年に来られなかったことが歴史によって証明されているという事実は、この体系のこれを信じる者を思いとどまらせるのに十分ではありません。。
明らかな失敗にもかかわらず、この体系は今でも広く信じられています。

IV.千年王国前再臨主義の終わり

ローマ教会が自らの組織こそが神の王国であるという考えに傾倒し、千年王国前再臨主義は急速に衰退しました。

オーベルレン氏は次のように述べています。
「ローマ教皇カトリックの進展に伴い、千年王国主義は消滅しました。
教皇庁は、希望の対象であり、十字架への従順と謙遜によってのみ到達できる栄光を、盗み取るかのように奪い取ったのでsy。
教会が淫婦となった時、教会は花婿を迎えに行く花嫁ではなくなりました。
こうして千年王国主義は消滅したのです。
これが、プロテスタントによる反教皇主義的なヨハネの黙示録解釈の根底にある深遠な真理です。」[29]

ピーターズ氏は次のように述べています。
「教皇制の精神と目的全体が、切望された教会権力と世俗権力、首座主教の手中にある広い意味で管轄権に基づいており、初期の教会の見解に敵対しているということは自明の事実として簡単に述べることができます。
聖人の支配はすでに始まっており、ローマ司教がキリストに代わって地上を支配し、呪いからの解放は第三の天でのみ実現します。
王国としての教会には「貴族制」があり、これにためらうことなく従わなければなりません。
メシアの王国に関する預言的告知はローマの優位性、栄華、富の中で成就しています。
降臨ではなく、聖人の報奨と昇格は首座主教の判断に左右されないことを決定する制度が創設され、現存する王国等に宿る権力に依存しており、これらの主張や教義にとって非常に不快で不快な千年王国主義は、それに対して及ぼされた強力で世界中に浸透する影響力の下に陥りました。」[30]

ローマの無千年王国主義が台頭したにもかかわらず、千年王国前再臨主義を唱える少数の残された者が依然として存在していました。
ライリー氏は、ワルド派、パウリキア派、そして使徒的信仰を奉じたカタリ派を挙げています。[31]
ピーターズ氏はさらに、千年王国前再臨主義を唱えたアルビジョワ派、ロラード派、ウィクリフ派、そしてボヘミアのプロテスタントを挙げています。[32]

宗教改革以来の千年王国主義

宗教改革期において、改革者たちの関心は救済論という偉大な教義に集中しており、終末論の教義にはほとんど、もしくは全く注意が向けられていません。
改革者たち自身も、主にその教義領域が議論の対象となっていなかったため、大部分においてアウグスティヌス派の立場を貫きました。
しかしながら、千年王国前再臨主義の台頭への道を開く土台が築かれました。

ピーターズ氏は次のように記しています。
「改革者たちは、それぞれ、再臨を待ち望むすべての信者の義務、迅速な再臨、イエスの再臨前には千年王国の栄光は来ないこと、教会は最後まで混沌とした状態のままであること、現在の神の摂理の構想、採用された解釈の原則、再臨前に不信仰が再び広がり拡大すること、この地球の新生など、千年王国主義と一致する教義を記録しています。
彼らに関する単純な真実は、彼らは千年王国主義を支持する上で物質的に有益ないくつかの点を説いていたものの、千年王国主義者ではなかったということです。」[33]

宗教改革運動の土台となった文字通りの解釈方法への回帰は、千年王国前再臨主義信仰の復活の土台を再び築きました。

A.千年王国後再臨主義の台頭

宗教改革後の時代には、千年王国後再臨主義として知られる解釈が生まれ、プロテスタント教会において、アウグスティヌス流の無千年王国論に取って代わることになりました。
アウグスティヌスが解釈した無千年王国論が歴史的事実に合致しなかったため、彼の教義は再検討されることになりました。
クロミンガ[34]によれば、キリストが千年王国後に再臨し、一般審判と復活によって終末をもたらすという立場を最初に提唱したのは、12世紀のローマカトリックの著述家、フロリスのヨアキム氏です。

ウォルフォード氏は彼について次のように述べています。
「ヨアキム氏の千年王国観は、聖霊の支配によって始まり、継続するというものでした。
彼は三つの摂理を念頭に置いていました。
第一はアダムからバプテスマのヨハネまで、第二はヨハネから始まり、第三は修道院の創設者である聖ベネディクトゥス(480~543節)までです。
三つの摂理はそれぞれ、父、子、聖霊の摂理です。
ヨアキム氏は、1260年頃に最終的な展開が起こり、正義が勝利すると預言しました。[35]
16世紀から17世紀にかけて、ネーデルラントでは多くの人々が、千年王国は未来のものだという考えを抱いていました。
ベルクホフ氏は、コッチェユス、アルティング、二人のキトリンガ、デウトラン、ヴィツィウス、ホーレンベーク、コールマン、そしてブラーケルを千年王国後再臨主義者として挙げています。[36]
しかし、体系としての千年王国後再臨主義は、一般的にダニエル・ウィットビー(1638~1726)に帰属するとされています。[37]

ウィットビーについて、ウォルフォード氏は次のように書いています。
ウィットビー氏自身はユニテリアンでした。
特に神格に関する著作は公然と焼却され、異端者として糾弾されました。
彼はリベラルで自由思想家であり、教会の伝統や従来の概念に縛られることはありません。
彼の千年王国に関する見解は、その時代の考え方に深く合致していなければ、おそらく決して受け継がれることはなかったのです。
知的自由、科学、哲学の高まりは、ヒューマニズムと相まって、人類の進歩という概念を拡大し、明るい未来像を描き出しました。
教会の黄金時代が来るというウィットビー氏の見解は、まさに人々が聞きたかったものであり、時代の考え方にも合致していました。
変化する世界の中で再調整を模索する神学者たちが、ウィットビー氏の中にまさに必要な鍵を見出したのも不思議ではありません。
それはあらゆる種類の神学にとって魅力的でした。
保守派にとって、聖書解釈のより実践的な原則を提供したように思われました。
結論として、旧約聖書の預言者たちは、平和と正義の時代を預言した時、自分たちが何を語っているのか分かっていました。
人類の世界に関する知識の増大と、やがて訪れる科学の進歩は、この構想に合致します。
一方で、この概念はリベラルで懐疑的な人々にとって魅力的でした。
彼らは預言者を信じなかったとしても、少なくとも人類が自らと環境を改善できるようになったと信じていました。
彼らもまた、黄金時代が到来すると信じていたのです。[38]

千年王国後再臨主義が魅力的だった二つの集まり、つまりリベラル派と保守派は、すぐに二つの異なった型の教えを生み出しました。
(1)聖書にその素材を見出し、神にその力を見出す聖書的千年王国後再臨主義です。
(2)進化論的もしくは自由主義的神学です。
人間は自然の手段によって進歩を達成できるという確信に基づいてその証明を行ないました。
これら大きく異なる二つの信仰体系には、究極的な進歩と現在の諸問題の解決という共通点があります。[39]

千年王国後再臨主義は、過去数世紀にわたり神学思想を支配してきた神学者たちの終末論的立場となりました。
この体系の一般的な特徴は次のように要約できます。
千年王国後再臨主義は、預言の比喩的解釈に基づいており、難解な箇所の意味を解釈する時に幅広い自由度が認められています。
この自由度の高さは、千年王国後再臨主義の解釈における統一性の欠如に反映されています。
地上における義なる王国に関する旧約聖書の預言は、再臨間期における神の王国において成就します。
この王国は、物質的かつ政治的なものではなく、霊的かつ目に見えないものです。
神の王国の神聖な力は聖霊です。
キリストが座すると預言されている王座は、天における父の王座です。
この世における神の王国は急速に進展しますが、危機の時代が訪れます。
神の王国を前進させるためにあらゆる手段が用いられます。
神の王国は神の摂理の中心です。
特に、福音の宣教とキリスト教の原理の普及は、その進展を示すものです。
主の来臨は一連の出来事とみなされます。
人間の状況における神の摂理的な取り扱いは、すべて主の来臨です。
主の最後の再臨はクライマックスであり、非常に遠い未来に起こります。
近い将来、ましてやこの世代内に主が再臨されるという希望はありません。
無千年王国論と同じ様に、千年王国後再臨主義も、人間と御使いに対するすべての最後の審判は本質的に一つの出来事であり、全人類の復活後、永遠の状態に入る前に起こると信じています。
千年王国後再臨主義は、千年王国を未来、再臨後とみなす千年王国前再臨主義とは区別されます。
千年王国後再臨主義は、その楽観主義、神の王国が世界において最終的に勝利するという確信、そして地上における千年王国論の相対的成就によって無千年王国論と区別されます。
ホッジ氏のような神学者は、イスラエルの改心と国家としての回復を含む、むしろ文字通りの成就を見出しています。
スノーデン氏のような神学者は、ヨハネの黙示録20章で語られている千年王国を天国を指すものと見ています。[40]
千年王国後再臨主義はもはや神学上の問題ではありません。

第二次世界大戦によってこの体制は崩壊しました。
その崩壊の原因は、
(1)解釈の霊的化の原則に基づくため一貫性がなかったという千年王国後再臨主義の固有の弱点によるものです。
(2)解釈の霊的化の原則のために千年王国後再臨主義が満たすことのできなかった自由主義への傾向が見られました。
(3)歴史の事実に適合していないとみなされました。
(4)人間は罪人であることを認め、千年王国後再臨主義が期待する新しい時代をもたらすことができないとする、新正統主義に見られる神学と哲学における現実主義への新しい傾向が見られました。
(5)教義の基礎として宗教改革神学への回帰から生じた無千年王国主義への新しい傾向、などにあると考えられます。[41]
神学界における現在の千年王国論的議論において、千年王国後再臨主義の擁護者や提唱者はいません。

B.無千年王国主義の近年の台頭

無千年王国主義は、ここ数十年で大きな人気を博しましたが、これは主に、大多数の神学者が信奉していた千年王国後再臨主義の崩壊によるものです。
無千年王国主義は、千年王国後再臨主義と同じ霊的解釈の原則に基づいており、また、千年王国後再臨主義と同じ様に、千年王国を再臨に先立つ再臨間期と捉えていたため、千年王国後再臨主義者が無千年王国主義に移行するのは比較的容易でした。
今日、無千年王国論は二つの陣営に分かれています。

(1)アリス氏とベルクホフ氏が支持する第一の陣営は、ある程度の改良が必要になりますことを認めつつも、アウグスティヌス派の無千年王国論を本質的に支持しています。
これはもちろんローマ教会の見解でもあります。
旧約聖書における神の御国と神の御国の祝福に関するすべての約束は、キリストが父なる神の御座から地上の教会を支配することによって成就すると考えます。

(2)第二の陣営は、デュスターディーク氏とクリーフォート氏が提唱し、米国ではウォルフォード氏が推進した見解です。
この見解は、神の御国は地上にあるとするアウグスティヌス派の立場を批判し、神の御国を天の聖徒たちに対する神の支配と捉え、天の御国とみなしました。

ウォルフォード氏はこの見解を次のように要約しています。
しかしながら、ウォルフォード氏を例に挙げると、全く新しい型の無千年王国論が出現した。
アリス氏はこの見解をデュスターディーク氏(1859)とクリーフォート氏(1874)にさかのぼらせ、ヨハネの黙示録20章は教会時代の要約であるというアウグスティヌス派の根本理論を覆すものとして分析しています。
この新しい見解は、千年王国は再臨に先行するものの、教会時代とは異なるという教えに沿っています。
この解釈と、不信仰と罪の世界という厳然たる事実との相関関係の問題を解決するため、彼らは千年王国を、ある期間の描写ではなく、天国における聖徒たちの祝福された状態を描写するものとして解釈しました。

ウォルフォード氏は、クリーフォート氏の協力を得て、千年王国を次のように定義しています。
「この幻は、一言で言えば、主にあって死んだ者たちの平和の幻です。
そして、私たちへのそのメッセージは、14章13節の言葉に具現されています。
「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。」
この一節の、現在はまさにその延長線上にあるに過ぎません。
ここで私たちの前に提示されているのは、要するに「中間状態」の姿、つまり、地上の戦争を特徴づける混乱した喧騒と血に染まった衣から逃れ、安らかに終末を待つために天に集められた神の聖徒たちの姿なのです。」

保守派に分類される無千年王国論者の中には、二つの主要な見解があります。
(1)現在の世界の地上の教会において成就する見解と、
(2)天の聖徒たちにおいて成就する見解です。
後者は前者よりも、ヨハネの黙示録20章だけでなく、地上における義なる王国の黄金時代を語る旧約聖書の多くの箇所すべてを霊的に解釈することを要求しています。[42]

無千年王国主義が現在人気を集めている理由は数多くあります。
(1)この説は包括的な説であり、リベラル・プロテスタント、保守的プロテスタント、ローマ・カトリックなど、あらゆる階層の神学的思想を含むことができます。
(2)千年王国前再臨主義を除けば、最古の千年王国主義であるため、古めかしさを帯びています。
(3)宗教改革者たちが採用し、多くの信条の基礎となったという点で、正統派の風格を備えています。
(4)無千年王国主義にとって神の計画全体の中心である目に見える教会を重視する現代の聖職主義に合致しています。
(5)復活と審判は一度だけで、未来に対する預言的な計画はほとんどない、単純な終末論的説です。
(6)いわゆる「契約神学」の神学的前提に簡単に合致します。
(7)それは、千年王国の「肉欲的な概念」と呼ばれる文字通りの解釈ではなく、聖書の「霊的な」解釈として多くの人に訴えかけます。

無千年王国解釈の方法には7つの危険性が指摘できます。
(1)彼らが聖書を霊的解釈する方法を用いる時、それは終末論に大きく限定されるわけではないにしても、キリスト教の教義を完全に破壊するであろう方法で聖書を解釈しています。
(2)彼らは預言全般に関しては霊的解釈の方法を用いず、千年王国前再臨主義を否定する必要がある場合にのみ用いることができます。
(3)彼らは霊的解釈の方法を預言成就の問題を解消する手段として正当化します。
それは釈義の自然な産物というよりは、想定された必要性から生まれたものです。
(4)彼らは、自らの教義体系を維持するために必要であれば、預言以外の分野でも霊的解釈を用いることを躊躇していません。
(5)ほぼ完全に無千年王国主義を唱える現在の近代主義に見られるように、霊的解釈の原則は神学的真理のあらゆる基本的領域に簡単に浸透することが歴史によって証明されています。
(6)無千年王国主義の方法は、一貫した組織神学の確固たる土台とはなりません。
無千年王国主義の解釈方法は、保守的なカルヴァン主義、自由主義的な近代主義、そしてローマ神学を同じ様に正当化してきた。
(7)無千年王国主義は歴史的に、預言的な聖書の研究から生じたのではなく、むしろ、無視したことから生じたのです。[43]

無千年王国主義の解釈システムの影響は、教義の3つの主要分野において最も深刻に感じられます。

(1)救済論の分野では、無千年王国主義は契約神学に共通する縮小的誤りを犯しています。
契約神学では、詳細な点をプログラムの主要点にしてしまいます。
そして、神の全プログラムを救済プログラムとみなし、あらゆる時代は救済契約の前進的な啓示における変化形であるとみなしています。

(2)教会論の分野では、あらゆる時代のすべての聖徒を教会のメンバーとみなしています。
これでは、イスラエルに対する神のプログラムと教会に対する神のプログラムとの間の区別がすべて見失われ、教会は現代まで啓示されなかった奥義であるという聖書の教えを否定せざるを得なくなります。
無千年王国主義は、神の御国の全プログラムが、再臨と再臨の間の期間の教会において成就するか、さもなければ今天にいる聖徒において成就すると考えています。
彼らは教会をキリストの固有の体という概念を持たず、それを単なる組織とみなしています。
この概念全体が、千年王国前再臨主義と無千年王国主義の基本的な相違点の一つです。

(3)終末論の分野では、千年王国前再臨主義の解釈は普遍的に否定されている一方で、無千年王国主義の各派の間ではほとんど合意が得られていません。
リベラルな無千年王国主義は、復活、審判、再臨、永遠の罰、および関連する主題といった教義を否定します。
ローマの無千年王国主義は、煉獄、リンボといった非聖書的な教義を進展させ、彼らの体系の一部となっています。
保守的な無千年王国主義は、復活、審判、永遠の罰、および関連する主題といった文字通りの教義を依然として支持しています。
したがって、無千年王国主義終末論を体系化することは困難です。
しかし、千年王国前再臨主義および聖書の立場からの最も大きな乖離が感じられるのは、この分野です。

C.千年王国前再臨主義の復活

宗教改革者たちは聖書の千年王国前再臨主義的な解釈を採用しなかったものの、例外なく聖書を文字通りに解釈する方法に立ち戻りました。
これが千年王国前再臨主義の本質的な土台です。
この解釈方法の論理的適用は、宗教改革後の多くの著述家をすぐにこの立場へと導きました。

ピーターズ氏は次のように述べています。

「古き教父信仰の本質的な形態への回帰をもたらした、数人の先駆者たちに、私たちは特に恩恵を受けています。
その代表的なものとしては以下のものです。
深い聖書学者ジョセフ・ミード(1586年生まれ、1638年没)の、今もなお高く評価されています。
「ヨハネの黙示録の鍵」(英訳)と「ペテロの解説」などがあります。
Th.ブライトマン(1644年)の「ダニエル書とヨハネの黙示録の解説」、
J.A.ベンゲル(1687年生まれ、1752年没)の「ヨハネの黙示録の解説」と「ヨハネの黙示録に関する演説」、
そしてTh.グッドウィン(1679年)、Ch.ドーブズ(1730)、ピスカトール(1646)、MFルース(1770)、アルステディウス(1643年以前)、クレセナー(1689)、ファーマー(1660)、フレミング(1708)、ハートリー(1764)、J.J.ヘス(1774)、ホームズ(1654)、ジュリュー(1686)、マトン(1642)、ピーターソン(1692)、シャーウィン(1665)、その他に、コンラーデ、ガルス、ブラーエ、ケット、ブロートン、マーテン、サー・I・ニュートン、ホイストンなどがあげられます。[44]

これらの人々の影響から、聖書解釈において千年王国前再臨主義を再び重要な地位に押し上げた釈義家や解説者たちが次々と現れました。[45]
彼らの中には、ベンゲル、シュタイアー、アルフォード、ランゲ、マイヤー、フォーセット、キーチ、ボナー、ライル、リリー、マッキントッシュ、ニュートン、トレゲル、エリコット氏、ライトフット、ウェストコット、ダービーなど、教会が知る偉大な釈義家や解説者たちがいます。
フランス革命以降のヨハネの黙示録解釈者たちについて語ったアルフォード氏の次の言葉は、まさに的を射ています。
「数においても、学識においても、そして研究においても、大多数は、聖書の明白で否定しようのない意味に従い、千年王国前再臨主義を採用しています。」[46]

アリス氏が次のように言うのは間違いなく正しいことです。
今日のディスペンセーション主義の教えは、例えばスコフィールド・リファレンス・バイブルは、1830年頃にイングランドとアイルランドで発展したブレザレン運動に直接遡ることができます。
その支持者は、プリマスが初期のブレザレン運動の中心地の中で最も強固であったことから、しばしばプリマス・ブレザレンとして知られています。
また、最も著名な代表者であるジョン・ネルソン・ダービー(1800~82節)にちなんで、ダービー主義とも呼ばれています。[47]
ダービー氏とその追随者たちが推進した聖書研究は、聖書の千年王国前再臨主義の解釈を普及させました。
この解釈は、成長を続ける聖書会議運動、聖書学院運動、そして聖書研究に特化した多くの定期刊行物を通じて広められ、今日の我が国における保守的な神学運動全体と密接に結びついています。
このように、歴史的全容は、初代教会が全会一致で支持していた千年王国前再臨主義の解釈が、オリゲネス氏の比喩的解釈法の影響を受けてアウグスティヌス派の無千年王国主義に取って代わられたことを示しています。
無千年王国主義はローマ教会の見解となり、プロテスタント宗教改革まで支配的であり続けたが、宗教改革後、文字通りの解釈法への回帰が再び千年王国前再臨主義の出現をもたらしました。
この解釈は、ウィットビー氏の時代以降に台頭し、世界大戦期に急速に衰退するまで続いた千年王国後再臨主義の台頭によって挑戦を受けています。
この衰退は無千年王国主義の台頭をもたらし、現在では千年王国論的問題を解釈する方法として千年王国前再臨主義と競合しています。

VI.結果として得られた観察

主イエス・キリストの再臨という教義は、どれほど重視してもしすぎることはありません。
チェイファー氏はこのように述べています。
「キリストの再臨に関する全体的なテーマは、人間が語った最初の預言(ユダの手紙1章14、15節)であり、昇天したキリストからの最後のメッセージであると同時に、聖書の最後の言葉(ヨハネの黙示録22章20節)でもあるという、特異な特徴を持っています。
同じ様に、キリストの再臨というテーマは、他のどの教義よりも聖書本文の大部分を占め、旧約聖書と新約聖書の両方において際立った預言テーマであるという事実において、特異なものです。
実際、他のすべての預言は、この最高の出来事、つまりキリストの再臨を完全に示すという、一つの偉大な目的に大きく貢献しています。」[48]
再臨に関しては、いくつかの事実が観察されるかもしれません。

A.再臨は千年王国前です。

前述のように、聖書を文字通りに解釈すると、主が千年王国前に再臨される必要があると分かります。

B.再臨は文字通りの降臨です。

御言葉に記されたキリストの来臨に関する約束(使徒の働き1章11節)を成就するためには、キリストの降臨は文字通りの降臨でなければなりません。
そのためには、キリストが肉体を持って地上に再臨することが必要です。

C.再臨は必要です。

成就していない預言がたくさんあります。
そのことから、再臨は絶対に必要になりますことが分かります。[49]

主御自身が来られること(使徒の働き1章11節)、
死者が主の声を聞くこと(ヨハネの福音書 5章28節)、
主が見守る僕たちに仕えること(ルカの福音書12章37節)、
主が再び地上に来られること(使徒の働き1章11節)、
主が昇天されたのと同じオリーブ山に(ゼカリヤ書14章4節)、
燃える火の中(テサロニケ人への手紙第二1章8節)、
力と大いなる栄光とを伴って天の雲に乗って(マタイの福音書24章30節、ペトロの手紙第一1章7節、4章13節)、
地上に立たれること(ヨブ19章25節)、
主の聖徒たち(教会)が主と共に来ること(テサロニケ人への手紙第一3章13節、ユダの手紙14節)、
すべての目が主を見ること(ヨハネの黙示録1章7節)が約束されています。
イエスは反キリストを滅ぼします。(テサロニケ人への手紙第二2章8節)
そして、王座に着きます。(マタイの福音書25章~31節、ヨハネの黙示録5章13節)
すべての国々がイエスの前に集められ、イエスが彼らを裁きます。(マタイの福音書25章32節)
ダビデの王座に就きます。(イザヤ書9章6、7節、ルカの福音書1章32節、エゼキエル書21章25~27節)
その王座は地上にあります(エレミヤ書23章5、6節)
イエスは王国を持ちます。(ダニエル書7章13、14節)
聖徒たちと共にその王国を治めます。(ダニエル書7章18~27節、ヨハネの黙示録5章10節)
すべての王と国々がイエスに仕えます。(詩篇72篇11節、イザヤ書49章6、7節、ヨハネの黙示録15章4節)
この世の王国が神の王国となります(ゼカリヤ書 9章10節、ヨハネの黙示録11章15節)
人々が神のもとに集まってきます。(創世記49章10節)
すべての膝が神にかがめます。(イザヤ書45章23節)
人々が来て王を礼拝します。(ゼカリヤ書14章16節、詩篇86篇9節)
神がシオンを建てます。(詩篇102篇16節)
神の王座はエルサレムにあります。(エレミヤ書3章17節、イザヤ書33章20、21節)
使徒たちが12の王座に座ってイスラエルの12部族を裁きます。(マタイの福音書19章28節、ルカの福音書22章28~30節)
神がすべての国々を治めます。(詩篇2篇89節、ヨハネの黙示録2章27節)
神が公正と正義をもって治めます。(詩篇9篇7節)
エルサレムの神殿が再建されます。(エゼキエル書40~48章)
主の栄光が神殿に入ります。(エゼキエル書43章2~5節、44章4節)
主の栄光が現れます。(イザヤ書40章5節)
荒野が肥沃な畑となります。(イザヤ書32章15節)
砂漠がバラのような花を咲かせます。(イザヤ書35章1、2節)
そして主の安息は栄光に満ちます。(イザヤ書11章10節)
イスラエルとの契約計画全体は未だ成就しておらず、メシアの地上への再臨を必要としています。
文字通りの成就の原則は、キリストの再臨を不可欠としています。

D.再臨は目に見える形で現れます。

聖書の中で繰り返し述べられている箇所は、再臨が神の御子の地上への完全かつ目に見える現れであるという事実を確立しています。
(使徒の働き1章11節、ヨハネの黙示録1章7節、マタイ24章30節)
御子は公に拒まれ、拒まれたように、再臨においても神によって公に示されます。
この再臨は栄光の目に見える現れと結びついています。
(マタイの福音書16章27節、25章31節)
なぜなら、裁きの完了と主権の現れにおいて、神は栄光を受けるからです。
(ヨハネの黙示録14章7節、18章1節、19章1節)

E.再臨から生じる実際的な勧告

聖書では、キリストの再臨の教理が勧告の根拠として広く用いられています。

警戒
マタイの福音書24章42~44節、25章13節、
マルコの福音書13章32~37節、
ルカの福音書12章35~38節、
ヨハネの黙示録16章15節。

節制
テサロニケ人への手紙第一5章2~6節、
ペトロの手紙第一1章13節、4章7節、5章8節。

悔い改め
使徒の働き3章19~21節、
ヨハネの黙示録3章3節。

忠実
マタイの福音書25章19~21節、
ルカの福音書12章42~44節、19章12、13節。

キリストを恥じない(マルコの福音書8章38節)

世俗性に反対する(マタイの福音書16章26、27節)

節度を守る(ピリピ人への手紙4章5節)

忍耐
ヘブル人への手紙10章36、37節、
ヤコブ書5章7、8節。

肉の禁欲(コロサイ人への手紙3章3~5節)

誠実さ(ピリピ人への手紙1章9、10節)

実践的な聖化(テサロニケ人への手紙第一5章23節)

奉仕者としての忠実さ(テモテへの手紙第二4章1、2節)

使徒の教えに従うよう促す(テモテへの手紙第一6章13、14節)

牧会的な勤勉さと純潔さ(ペトロの手紙第一5章2~4節)

純潔さ(ヨハネの手紙第一3章2、3節)

キリストにとどまる(ヨハネの手紙第一2章28節)

さまざまな誘惑と厳しい信仰の試練に耐える
(ペトロの手紙第一1章7節)

主のために迫害に耐える(ペトロの手紙第一4章13節)

聖さと敬虔さ(ペトロの手紙第二3章11~13節)

兄弟愛(テサロニケ人への手紙第一3章12、13節)

天の市民権を心に留めること(ピリピ人への手紙3章20、21節)

再臨を愛する(テモテへの手紙第二4章7、8節)

主を待ち望むこと(ヘブル人への手紙9章27、28節)

キリストが御業を成し遂げてくださると確信する(ピリピ人への手紙1章6節)

終わりまで希望をしっかりと保つ(ヨハネの黙示録2章25節、3章11節)

世の欲を離れ、敬虔に生き(テトスへの手紙2章11~13節)

突然であるがゆえに用心深くある(ルカの福音書17章24~30節)

性急な判断を避ける(コリント人への手紙第一4章5節)

豊かな報酬への希望を持つ(マタイの福音書19章27、28節)

弟子たちに喜びの時を保証する
コリント人の手紙第二1章14節、
ピリピ人への手紙2章16節、
テサロニケ人への手紙第一2章19節。

キリストの逝去を前にして使徒たちを慰める。
ヨハネの福音書14章3節、
使徒の働き1章11節。

信者が待ち望んでいる主要な出来事
(テサロニケ人への手紙第一1章9、10節)

主の日に非のうちどころのないことを保証し、最高の恵みであること
(コリント人への手紙第一1章4~8節)

しもべたちと清算する時であること(マタイの福音書25章19節)

それは生きている異邦人の裁きの時です。
(マタイの福音書25章31~46節)

救われた人々の復活計画が完成する時です。
(コリント人への手紙第一15章23節)

聖徒たちの出現の時です。
(コリント人の手紙第二5章10節、コロサイ人への手紙3章4節)

慰めの源(テサロニケ人への手紙第一4章14~18節)

救われていない人々の患難と裁きと関連しています。
(テサロニケ人への手紙第二1章7~9節)

主の食卓で宣言されています。
(コリント人への手紙第一11章26節)[50]

NOTE

[1]Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology, IV, 264-65.
[2]John F. Walvoord, “The Millennial Issue in Modern Theology,” Bibliotheca Sacra, 106:44, January, 1948.
[3]Ibid., 106:45.
[4]Ibid., 106:45-46.
[5]Oswald T. Allis, Prophecy and the Church, p. 238.
[6]Ibid., p. 7.
[7]Cited by G. N. H. Peters, Theocratic Kingdom, I, 482-83.
[8]Cf. ibid., for a list of historians who concede the fact.
[9]Philip Schaff, History of the Christian Church, II, 614.
[10]Cited by Chafer, op. cit., IV, 277.
[11]Peters, op. cit., I, 494-96.
[12]Cited by Charles C. Ryrie, The Basis of the Premillennial Faith, p. 20.
[13]Ibid., p. 22.
[14]Ibid., p. 22-23.
[15]Ibid., p. 23.
[16]Daniel Whitby, Treatise on the Millennium, cited by Peters, op. cit., I, 483.
[17]Cited by D. H. Kromminga, The Millennium in the Church, p. 45.
[18]Peters, op. cit., I, 498.
[19]Ibid., I, 497.
[20]Allis, loo. cit.
[21]Peters, op. cit., I, 500.
[22]Ibid., I, 501.
[23]Ibid., I, 504.
[24]Cited by Peters, op. cit., I, 505.
[25]Ibid., I, 502.
[26]Walvoord, op. eit, 106:420-21.
[27]Peters, ibid., I, 508.
[28]Allis, op. cit., p. 3.
[29]Cited by Peters, op. cit., I, 499.
[30]Ibid., I, 516-17.
[31]Ryrie, op. cit. pp. 27-28.
[32]Peters, op. cit., I, 521.
[33]Ibid., I, 527.
[34]Kromminga, op. cit., p. 20.
[35]Walvoord, op. cit., 106:152.
[36]Louis Berkhof, Systematic Theology, p. 716.
[37]A. H. Strong, Systematic Theology, p. 1013.
[38]Walvoord, op. cit., 106:154.
[39]Ibid.
[40]Ibid., p. 165.
[41]Cf. ibid, 106:165-68.
[42]Ibid., 106:430.
[43]Ibid., 107:49-50.
[44]Peters, op. cit., I, 538.
[45]Ibid., I, 542-46. Peters lists some adherents of this position among the leaders of eleven denominations in this country, and some 470 writers and ministers of Europe who espoused the premillennial cause.
[46]Henry Alford, Greek Testament, II, 350.
[47]Allis, op. cit., p. 9.
[48]Chafer, op. cit., IV, 306.
[49]Cf. W. E. Blackstone, Jesus Is Coming, pp. 24-25.
[50]Ibid., pp. 180-81.


第23章 再臨に伴う復活

旧約聖書は、復活の希望を主の日におけるメシア的な希望と結びつけていました。
ダニエル書では、復活(12章2節)は荒らす憎むべき者(12章1節)による苦難の時代の後に起こる出来事とされています。
イザヤ書では、復活(26章19節)は「憤り」(26章20、21節)に関連して語られています。
ヨハネによる福音書では、復活は「終わりの日」、つまり主の日(11章24節)と結びついた希望として述べられています。
これが真実であるならば、再臨を復活の計画との関連において考察する必要があります。
この点において、復活の教理全体を考察することは不可能であり、その教理の終末論的もしくは預言的な側面に限って研究する必要があります。
復活の教理が神の御言葉の基本的な教理であることは簡単に理解できるはずです。
キリストの復活後の使徒たちの宣教において、キリストの復活というテーマは彼らの説教をほぼ支配し、キリストの死はほぼ無視されました。
新約聖書の中で復活について述べられている箇所は40箇所以上ありますが、ルカの福音書2章34節を除けば、復活は常に文字通りの復活を指し、霊的な意味や文字通りではない意味では用いられておらず、肉体の復活と関係しています。
この点は現時点では想定され、議論の余地はありません。

I.復活の種類

聖書では、神の復活の計画において、生いのちへの復活と裁きへの復活という2種類の異なる復活が予期されています。

A.いのちへの復活

復活の計画におけるこの特徴的な部分を教える聖書箇所は数多くあります。

「祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。
その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」
(ルカの福音書14章13、14節)


「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」
(ピリピ人への手紙3章10~14節)

「女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。
またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。」
(ヘブル人への手紙11章35節)

「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」
(ヨハネの福音書5章28、29節)

「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。
この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」
(ヨハネの黙示録20章6節)


これらの記述は、復活の計画の中に「義人の復活」「死者からの復活」「さらに優れた復活」「命の復活」「最初の復活」と呼ばれる部分があることを示しています。
また、これらの表現は分離を示しています。
つまり、死者の一部が復活し、その復活によって一部の死者は変化しない一方で、復活した人々は完全な変貌を遂げるということです。
ブラックストン氏は次のように述べています。
もし、キリストが不信心な者たちより千年も早く義人を復活させるために来られるのであれば、前者の復活は、死者の中からの復活、つまり残りの死者が残された復活と呼ばれるのは自然で避けられません。
この注解は、聖書の言葉の中で最も慎重に行われてます。
それは、ギリシャ語のテキストで、「(ek nekron)」という言葉が使われています。
これらの言葉は「死者の中から」を意味し、もしくは死者の中から、他の死者が残っていることを暗示しています。
「(nekron)」 または 「死者からの(ek nekron)」復活は、すべての人がよみがえるので、両方の階級に適用されます。
しかし、「死者の中から(ek nekron)」復活は、一度も不敬虔な人に適用されていません。
後者の句は、合計49回使用されています。
つまり、34回は、死者の中からよみがえらされたことがわかっているキリストの復活を表しています。
3回は、ヘロデが考えていたように、死者の中からよみがえらされた想定上のヨハネの復活を表しています。
3回目は、やはり死者の中からよみがえらされたラザロの復活を表しています。
3回は、罪の死からの霊的な命を表す比喩的な表現として使用されています。(ローマ人への手紙6章13節、11章15節、エペソ人への手紙5章14節)
これは、ルカの福音書16章31節でも使用されています。

「アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」」
(ルカの福音書16章31節)


そして、ヘブル人への手紙11章19節では、神はイサクを死から蘇らせることができるというアブラハムの信仰の中でもこの語句が使用されています。
そして残りの4回は、死者からの将来の復活を表すために使われています。
具体的には、次のように使われています。

「人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」
(マルコの福音書12章25節)

「次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。
彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。」
(ルカの福音書20章35、36)

「彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、
この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て」
(使徒の働き4章1、2節)

「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」
(ピリピ人への手紙3章10、11節)

文字通りには死者の中からの復活と訳され、この独特な言語構成により、これが死者の中からの復活であるという考えが特に強調されています。
これらの箇所は、死者からの復活がまだ起こっていないことを明確に示しています。
つまり、死者全員が復活する前に、一部の死者が復活するということです。

オルシャウゼン氏は、「この表現は、死者の大群の中から一部の者が最初に復活するという考えから派生したものでなければ、説明することができない」と述べています。[1]
この復活は、通常「第一の復活」と呼ばれますが、いくつかの要素から成り立っていることから、より明確に「いのちへの復活」(ヨハネの福音書5章29節)と呼ぶこともできます。
これは、個人が永遠の命へとよみがえる復活の計画の一部です。
この復活には、いつ、誰が永遠の命へとよみがえるかがすべて含まれています。
ある出来事が復活の計画のどの部分に該当するかは、時ではなく運命によって決まります。

B.滅びへの復活

聖書は、救われていない者たちに関わる復活の計画のもう一つの部分を予期しています。
それは第二の復活、つまり、滅びへの復活です。

「善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」
(ヨハネの福音書5章29節)

「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。」
(ヨハネの黙示録20章5節)

「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。」
(ヨハネの黙示録20章11~13節)


第一の復活は千年王国が始まる前に完了しています。
(ヨハネの黙示録20章5節)
また、ヨハネの黙示録20章11、12節で述べられている「死んだ人々」とは、死者の中から外の復活の時に残された者たち、つまり、裁きのために復活させられる者たちのことだけを指しています。
第二の復活、より正確には裁きの復活と呼ばれるものは、永遠の裁きのために復活させられるすべての者たちを含みます。
第二の復活に誰が属するかを決めるのは年代順ではなく、復活させられる者の運命です。

II.復活の時

復活の計画の各段階における時間的要素の区別は、弟子たちを驚かせました。
主の変貌に関しては、次のように記されています。

「さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。
そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。」
(マルコの福音書9章9、10節)


ブラックストーン氏は次のように的確に指摘しています。
「三人の弟子たちが「死者の中からの復活とは一体何を意味するのか」と論じ合っていた理由が分かります。
彼らは死者の復活が何を意味するのかを完全に理解していました。
なぜなら、それはユダヤ人の間で広く受け入れられていた教義だったからです。
(ヘブル人への手紙6章2節)
しかし、死者からの復活は彼らにとって新しい啓示でした。[2]
旧約聖書は復活の事実を明確に教えています。(ヘブル人への手紙11章17、18節、ヨブ14章1~13節、19章25、26節、詩篇16篇10節、49章15節、ホセア5章15節、6章2節、13章14節、イザヤ書25章8節、26章19節、ダニエル書12章2節、ヨハネの福音書5章28、29節、11章24節)
しかし、復活の時間的要素については啓示されていません。
実際、新約聖書に含まれる啓示がなければ、無千年王国主義の説のように、救われた者と救われなかった者が共に復活し、それぞれの最終運命へと分けられます。
ゆえに、一般的な復活が起こると結論づけられていたかもしれません。
しかし、新約聖書には、それとは正反対の明確な啓示が含まれています。
一般的な復活という誤った教義を教える時に一般的に用いられる聖句がいくつかあります。
その最初の復活はダニエル書12章2、3節で、預言者はこのように記しています。

「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。
思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」
(ダニエル書12章2、3節)


ここでは時間的な区別はされていないように考えられ、一般的な復活が教えられていると結論付けられます。
トレゲレス氏はこの箇所について巧みに解説しています。
この節の正しい翻訳は、
「地の塵の中で眠る者たちの中から多くの者が目覚めます。
彼らは永遠の命を得るのです。
しかし、残りの眠りの者たち、つまり現時点で目覚めない者たちは、恥と永遠の軽蔑を受けるのです。」
私はこのように訳すると疑う余地はありません。
私たちの「欽定訳聖書(KJV)」で二度「ある者」と訳されているこの言葉は、ヘブル語聖書の他のどの箇所でも、前述のような一般的な集まりを配分的に取り上げるという意味で繰り返されていません。
このことは、この語がここで最初に使われる箇所を目覚める多くの人々全体、二度目を眠りの者たち、つまり現時点で目覚めない者たちの集まりに適用する根拠として十分であると私は信じています。
これは明らかに、全体的な復活ではなく、「その中から多くの者が」です。
そして、この意味でこの語句を解釈することによってのみ、地の塵の中で眠り続ける者たちがどうなるかについて何らかの情報が得ることができるのです。
この一節は、私が述べた意味においてユダヤ教の注釈者たちによって理解されてきました。
もちろん、心に覆いをかぶせているこれらの人々は旧約聖書の使い方については導き手にはなりません。
しかし、文や単語の文法的、辞書学的な価値については助けとなります。
この預言者について注釈を書いたラビには、サアディア・ハガオン(紀元10世紀)とアベン・エズラ(紀元12世紀)の二人がいます。
後者は並外れた才能と正確な思考力を持つ著述家でした。

彼はこの節を次のように説明しています。
「その解釈は、「目覚める者は永遠の命に至るが、目覚めない者は永遠の軽蔑に至る恥に至る」というものです。」[3]
預言者は復活の事実と復活の普遍性を肯定しているが、復活の各部分が起こる特定の時期については断言していないと結論づけなければなりません。
一般的な復活の考えを裏付けるためによく用いられる二つ目の聖句は、ヨハネによる福音書5章28、29節です。

「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」
(ヨハネによる福音書5章28、29節)


主が「時」という言葉を用いたことは、救われた者と救われていない者の両方の復活を必要とすることが断言されています。
しかし、この言葉が必ずしもそのような一般的な復活の計画を意味するわけではありません。

ハリソン氏はこのように書いています。
「しかしながら、この言葉は復活の同時性を要求するものではないと認めなければなりません。
ヨハネは5章25節で 「(hora)」という言葉を使用しているため、長期間にわたる可能性があります。
4章21節、23節についても同様です。
イエスは、歴史の遠い地平線上で垣間見た出来事を時間的に区別することなくまとめて話した旧約聖書の預言者たちのやり方で話しています。
同じ特徴は共観福音書にあるイエスの終末論的な説教にも見られるが、そこではエルサレムの差し迫った陥落とそれに伴う災いは、大患難に関連する遠い出来事の描写から切り離すことはほとんどできません。
異なるカテゴリーではあるが、いくぶん類似しているのは、イエスが一つの言葉で霊的な蘇りと肉体的な蘇りを包括的に語っています。
ヨハネの福音書5章21節がその一例です。
この箇所で主は、復活の計画の普遍性と、その計画における差異について教えておられますが、様々な復活がいつ起こるかは教えておられません。
この箇所でそのように教えようとするのは、本来の意図を歪めてしまうことになります。
ヨハネの黙示録20章では、復活の計画の二つの部分が千年の間隔を置いていることが明確に示されています。
ヨハネはこのように書いています。

「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。
また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。
彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。
彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」
(ヨハネの黙示録20章4~6節)

5節の冒頭部分、「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった」は、キリストの再臨によって最初の復活が完了した後、死の領域に残された人々に何が起こるかを説明する介入書きであることに注意してください。
この箇所は、最初の復活、つまりいのちへの復活と、残りの死者の復活(ヨハネの黙示録20章11~13節によれば、裁きへの復活)の間には千年が経過することを教えています。
この箇所の明白な教えを覆す唯一の方法は、この箇所を霊的に解釈し、肉体的な復活ではなく、主の御前にいる魂の祝福について語らせることです。

この解釈について、アルフォード氏は次のように書いています。
「私は、千年王国の教義がもたらすであろう困難や誤用の危険を理由に、その言葉をその単純な意味と預言における年代順から歪曲することに同意することができません。
使徒たちと300年間教会全体に生きた人々は、それを単純な文字通りの意味で理解していました。
そして、古代を敬う最初の解釈者たちが、原始古代が示す最も説得力のある一致の例を、自己満足的に無視しているのを、今日では奇妙な光景です。
本文自体に関しては、いかなる正当な解釈も、現在流行している霊的解釈と呼ばれるものを押し付けることはできません。
もし、ある箇所で二つの復活が言及され、ある魂が最初の復活の時に生き、残りの死者は最初の復活の後の特定の期間の終わりにのみ生きたとしたら、そのような箇所で最初の復活はキリストと共に霊的に復活することを意味するのに対し、二度目の復活は文字通り墓から復活することを意味すると理解されるならば、そうなれば、言語の持つ意味は完全に消滅し、聖書は何かの明確な証言として消え去ってしまいます。
最初の復活が霊的なものであるならば、二番目の復活も霊的なものであり、おそらく誰もそれを主張できるほどの勇気を持つ者はいません。
しかし、二番目の復活が文字通りのものであるならば、最初の復活も文字通りのものであり、私は原始教会全体と多くの優れた現代の解説者たちと同じ様に、これを信仰と希望の箇条として主張し、受け入れます。[5]
結論として、旧約聖書には復活の計画の二つの部分の時間的関係に関して明確な啓示はないが、新約聖書では生いのちへの復活と裁きへの復活は千年の間隔で分けられていることが明らかにされています。

III.復活の計画

使徒パウロはコリント人への手紙第一15章で、復活の計画における出来事の概要を述べています。

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。」
(コリント人への手紙第一15章20~24節)


復活の計画に区分があることは、「おのおのにその順番があります」(23節)という表現から暗示されています。
ロバートソン氏とプラマー氏は「これは軍事的な比喩であり、「中隊」、「部隊」、「隊列」、「隊列」といった意味です。
それぞれの「軍団」もしくは部隊が、それぞれの正しい位置と秩序に従って進軍してくると考えるべきだ」と述べています。[6]
復活の各段階は、整然とした勝利の行進行進の大隊に例えられます。
しかし、この言葉の軍事的概念は過度に強調するべきではありません。

ハリソン氏は次のように述べています。
「この関係において世界の軍事力にこだわるべきかどうかは極めて疑わしものです。
なぜなら、この節の冒頭で用いられている比喩は「初穂」であり、既に見たように、初穂と性質が類似した収穫を暗示しているからです。
この概念は、「大隊(tagma)」の力よりも、より確実に意味を規定するものとみなされなければなりません。
パウロが「大隊(tagma)」を用いることで伝えようとしたのは、間違いなく順序という概念だけです。[7]

この復活の行列の一連の流れにおいて、キリストは確かに大隊のリーダー、もしくは収穫の「初穂」であり、定められた収穫の時に、後に続く豊かな収穫を約束しています。
復活の計画のこの段階は、キリストが三日目に復活した時に達成され、この復活の計画全体の始まりを示しています。
2つ目の集まりは「その後」という言葉で始まります。
この言葉「(epeita)」は、期間の限定されない時間の経過を意味します。

エドワーズ氏は、「彼は、ある出来事が他の出来事の直後に起こるとは言っておらず、また、それがどれほど早く続くかについても述べていません」と注解しています。[8]
ここでは、キリストの復活から「キリストの再臨の時にキリストに属する者たち」の復活までの期間をカバーする余地があります。
二つ目の集まりに誰が想定されているかについては意見の相違があります。
ある人たちは「キリストに属する者たち(hoi tou Christou)」という語を、22節の「キリストにある者たち」(en tō Christo)と同義語としています。
これは、この現代における聖徒とキリストの関係を述べる専門単語です。
したがって、これはテサロニケ人への手紙第一4章16節で述べられている教会の復活であると結論付けられます。

この見解は、しばしば携挙に適用される「来る(parousia)」という言葉への言及によって裏付けられています。
したがってパウロは、復活の行列における二つ目の大きな集まりは、教会の携挙の時にこの現在の世界から復活する人々であると述べていることになります。
この見解を支持する人々はさらに、パウロがここで、患難時代の聖徒たちの復活や、計画にある旧約時代の聖徒たちの復活については言及していないと主張しています。
しかし、パウロは偉大な復活計画を要約しています。
ゆえに、これらの重要な集まりが省略されているとすれば奇妙に思われます。
「キリストに属する者たち」という表現は、教会、旧約時代、そして患難時代のすべての贖われた者たち、つまりキリストの「来臨」の時に復活するすべての者たちを専門単語ではなく指しているという別の見方をとる方が良いかもしれません。
したがって、「来る」という言葉は、携挙だけでなく、再臨とその計画に適用される最も広い意味で解釈されることになります。
したがってパウロは、二つ目の大きな集まりとは、キリストに属するゆえに復活するあらゆる時代の聖徒たちであり、これは再臨によって成し遂げられるだろうと述べていることになります。
「それから終わりが来ます」(24節)という句の意味については、解説者たちの間で激しい議論があります。
ある人たちは、復活という言葉は「それから復活の終わりが来る」とあるので、パウロは千年王国の終わりに救われていない死者の復活によって復活計画が終結することを語っていると解釈する人もいます。
一方で、救われていない者たちは考慮に入れられておらず、パウロはマタイの福音書24章6、14節、ルカの福音書21章9節にあるように、復活の後にこの現在の世界の終わりが来ると教えている(それから世の終わりが来る)と考える人もいます。
この問題は、22節の「すべて」という二つの使い方の関係を解釈することによって決まります。
それらは同じ範囲に及ぶのでしょうか?
それとも異なるのでしょうか?

この問題に対する最初の見解は、アダムにあって死ぬ「すべての人」は、キリストにあって生かされる「すべての人」と同じではないというものです。
この立場を支持する人々は、この聖句を、アダムにあって生きるすべての人は死ぬが、ここで説明されている復活は「キリストにあって」救われる人々だけを含み、「終わり」は世の終わりを指すはずだと教えていると解釈します。

ハリソン氏はこの立場に関する議論を次のように要約しています。
この解釈を支持するためにしばしば引用される22節の解釈では、2番目の「すべて(pantes)」が1番目の「すべて(pantes)」と等しいとされています。
「すべて」はどちらの場合も普遍的な意味を持ちます。
まさにこの点から、要約した見解は困難に直面し始めます。
別の文脈で述べたように、「命を与える(zoopoiethesontai)」という言葉は、すべての人に用いるにはあまりにも強い、霊的な意味合いが強すぎます。
すべてを包括する復活の自然な表現は「よみがえらされる(egeiresthai)」だと考えます。
「キリストにあって」という言葉は、他の箇所で用いられている意味よりも低い意味を持つことはできません。
この部分は、キリストとの最も親密で強力な救済論的つながりを語っています。
未信者はこれに該当しません。

マイヤー氏とゴデット氏は、「キリストにあって(enchristo)」がここでは未信者にも適用できるほどの希薄な意味を持つと想定していますが、これは誤りです。

そのような適用には、「キリストにあって(enchristo)」ではなく「キリストを通して示されるでしょう(エレミヤ書33章9、15節、ゼカリヤ書9章17節、イザヤ書52章7節)(diachristou)」が用いられます。

第二の難点は、この章全体を通して信者のみを論じている点です。
少なくとも、他の誰かについて明確に述べられている点はありません。

三番目に、直近の文脈は好ましいものではありません。
パウロは読者の注意を、キリストをクリスチャンの死者の初穂として集中させています。
「初穂(aparche)」[aparche]という言葉と「眠る(koimao)」という動詞は、どちらも信者にのみ適応できます。
キリストは他の人々の初穂ではありません。
なぜなら、彼らは復活においてキリストと全く異なる存在でなければならないからです。
また、非クリスチャンの死者は「眠る」のではなく、死ぬのです。

第四の難点は、この構文に必要とされる「(telos)」の不自然で前例のない使い方にあります。
この言葉は「終わり」を意味し、絶対的な意味での終結または終結を意味します。
時折、目的や目標の意味で用いられます。
しかし、形容詞(終結-復活)の同義語として用いられる例は他にありません。
この困難は、通常の名詞的な意味合いで捉え、「復活の」という言葉を補うことで対処できるかもしれません。
その場合、この節全体は「それから復活の終わりが来る」と訳されます。
しかし、その完全性にとって決定的に重要な言葉を補うことを必要とする理論には、ある程度の疑念を抱かざるを得ません。[9]

同じ見解はヴァイン氏によって支持され、彼は次のように述べています。
「アダムが自然的人種の頭であり、彼とのこの自然的関係のゆえに、死は人類共通の運命であるように、キリストが霊的人種のかしらであるという事実のゆえに、キリストとの霊的関係を持つすべての者は生かされます。
二番目の記述を一番目の記述と比較するところに、人類の普遍主義という概念は全く存在しません。
未信者が「キリストにあって」いるというのは、聖書の教えに全く反しています。
したがって、新しく造られ、霊的な命を持ち、したがってこの現在の世界の経験において「キリストにあって」いる者だけが、二番目の記述の「すべての者」に含まれ、「生かされる」のです。」[10]

したがって、この見解によれば、パウロは最初の復活の計画における2つの大きな段階をとらえています。
それは、キリストの復活と、教会の聖徒、患難時代の聖徒、旧約聖書の聖徒を含む、キリストに属するすべての人々の復活です。
彼らは再臨の時までによみがえり、その復活の後に世の終わりが来ます。
しかし、この箇所を解釈して、パウロが復活の計画の終わりをその教えに含めていると理解する人もいます。
したがって、「キリストにあって」という表現は、キリストによってもたらされる手段と理解されるべきです。

ロバートソンとプラマー氏は次のように述べています。
「おそらく使徒パウロは、終末の少し前に死者の中から復活する、キリストの子ではない第三の「秩序(tagma)」のことを考えていたのかも知れません。
しかし、この箇所全体を通して、不信者や邪悪な者たちは、もし言及されるとしても、完全に背景に隠れています。」[11]

フェインバーグ氏は次のように書いています。
「文脈は復活について語っており、多くの注釈者によれば、ここでは終末の復活が念頭に置かれています。
私たちも後者の見解に同意します。
使徒パウロは、死者の復活には明確な段階があることを示しました。
最初に、キリストが初穂です。
二番目に、キリストの来臨の時にキリストに属する者たちです。
三番目に、すべての未信者の終末の復活です。」[12]

プリダム氏はこの順序を次のように述べています。
「使徒は、神の力の現れとしての復活の大業を、明確かつ明確に区別された三つの行為に分けました。
1.主イエスの復活
2.主の来臨における主の民の覚醒
3.御子による王国の支配の終わりにすべての墓が最終的に空にされ、最初の復活に含まれなかった死者は、小さい者も大きい者も共に神の前に立って裁きを受けます。」[13]
「終わり」(テロス)という言葉は、その基本的な使い方では行為や状態の終わりを指し、プログラムの終了と関係があります。[14]
パウロはここで描かれている行進する集まりの中に最終的な、もしくは終わりの復活を含めていると理解するほうがよいかもしれません。
ここでも、パウロはキリストに属する者たちの復活と終末、つまり世の終わりか復活計画の終わりの間に、ある一定の器官があることを予期していることに注意する必要があります。

ヴァイン氏はこのように述べています。
「それから」と訳されている語は「それからすぐに(tote)」ではなく、「時間的な順序(eita」)であり、一定の間隔をおいて「それから」という意味です。
例えば、マルコの福音書4章17節、28節、そしてこの章の5、7節がそうです。
ここで24節で暗示されている間隔とは、主が義と平和の千年王国を支配される期間です。[15]

IV.イスラエルの復活

復活の計画の出来事を適切に要約するためには、イスラエルの復活の時期を確定し、正しい順序を遵守できるようにする必要があります。
ディスペンセーション主義者の間では、テサロニケ人への手紙第一4章16節の復活には、旧約聖書の聖徒たちと教会の聖徒たちが含まれると一般的に教えられてきました。
この二つの集まりに対する神の計画の本質的な違いを無視して、彼らの復活はいくつかの根拠から同時であると言われています。

(1)イスラエルの救済はキリストの働きに依存しており、教会の救済も同様であるため、彼らは「キリストにあって」おり、一緒に復活すると言えます。

(2)テサロニケ人への手紙第一4章の「御使のかしらの声」は、教会にとっての「神のラッパ」と同じ様に、イスラエルにとって特別な意味を持っているため、両方とも含まれています。

(3)ヨハネの黙示録の二十四人の長老には、新約聖書の聖徒だけでなく旧約聖書の聖徒も含まれているため、両者とも復活しているはずです。

(4)ダニエル書12章2、3節は文字通りの復活ではなく、国家の復興について語っており、この箇所はイスラエルの復活の時ではなく、むしろその回復の時を示しています。[16]

これに対し、いくつかの指摘がなされるかもしれません。
(1)に関して、イスラエルはキリストの血によって贖われたにもかかわらず、聖霊のバプテスマを受けていないため「キリストのうちに」置かれたため、この表現はキリストと関係のある現代の聖徒たちのみを指し示すものとなります。

(2)に関して、御使いがイスラエルに対して特別な奉仕を行っていることから、「御使いの長」という表現には必然的にイスラエルが含まれるという考え(ダニエル書12章1参照)ですが、このような主張は、ヨハネの黙示録において御使いの奉仕が再臨に先立つ裁きの計画と再臨そのものに関連して述べられています。
この事実によって、そしてその出来事がイスラエルに関係する場合だけでなく、他の出来事にも関係しているという事実を見落としていることに配慮する必要があります。

(3)に関して、二十四人の長老がいるためイスラエル国家が含まれるという考えについては、彼らは教会のみを代表しており、イスラエルをそこに含める必要はないことが既に示されています。
最後に、

(4)についてですが、ダニエル書12章2、3節を比喩的に解釈することは、文字通りの解釈の原則全体に反することになりかねません。

トレゲレス氏の説明は既に述べられています。
ウェスト氏は次のように付け加えています。
ダニエル書12章2、3節の正確な訳は、文脈を踏まえると、「その時、多くのあなたの民の地の塵の中に眠る者の中から目覚めます。(もしくは分け出される)
これら、目覚めた者は永遠の命を得るが、その時、目覚めない者はそしりと永遠の忌みを受ける」となります。
これは、最も著名なヘブル語学者や、最も優れたキリスト教釈義者たちが訳しているものです。
そして、改訂版聖書の欠点の一つは、ヤコブ王訳聖書が与える誤った印象がそのまま残っています。[17]

ギャバライン氏はこの箇所について次のように述べています。
「この章の2節では肉体的な復活は教えられていません。
もし教えられていたら、新約聖書における復活に関する啓示と矛盾することになります。
一般的な復活はありませんが、義人だけが参加する第一の復活と、邪悪な死者が永遠の意識のある罰を受けるために蘇る第二の復活があります。
繰り返しますが、このメッセージは肉体的な復活とは全く関係がありません。
しかし、肉体的な復活は、その時代のイスラエルの国家復興の象徴として用いられています。」[18]

この解釈は、教会とイスラエルが共に復活するという先入観と、ダニエル書12章2節を文字通り解釈すれば、一般的な復活を教えているに違いないという誤った解釈に基づいているように思われ、したがってこの箇所を霊的に解釈する必要があると感じられたという誤った解釈に基づいているように思われます。
この霊的解釈は、この箇所の解釈から生じたのではなく、現実には存在しない特定の矛盾を解消しようとする試みから生じたものであることに注意する必要があります。
この箇所は文字通りの肉体的な復活を教えていると理解する方がはるかに適切と思われます。

イスラエルの復活を扱ったイザヤ書26章19節のもう一つの類似箇所でも、ケリー氏は復活を再び霊的に解釈し、回復を教えるものとして解釈しています。
彼はこのように述べています。
「26章では復活の暗示は比喩として用いられています。
文脈から、それが文字通りの事実を指すものではないことが証明されているからです。
もし文字通りの事実を指すのであれば、不義なる者たちが復活することを否定することになるからです。」[19]
しかし、ここでは救われていない者の復活という問題は考慮されていません。

ハリソン氏はこのように述べています。
「14節は、イスラエルを支配してきた君主たちの復活、つまり不義なる者たちの復活を教えていないように思えるかもしれません。
しかし、この節が彼らについて述べられているという証拠は見当たりません。
「死んだ」と「影」(RV訳「(deceased)」)という二つの言葉には定冠詞がありません。
明らかに、ここに含まれていたのは、経験に関する限り、死はその力に屈した者たちを支配し続けているという観察だけです。
そして19節には大きな例外が現れます。
文脈の中で、不義なる者たちが復活しないということについては、何の言及もないように思えます。」[20]
したがって、これらの聖句はイスラエルの文字通りの復活に述べられているものとして解釈されなければなりません。

この点に関連して、エゼキエル書37章の乾いた骨の谷の幻について一言述べておく必要があります。
エゼキエル書37章13、14節の「墓」という表現は、ここでは復活が念頭に置かれていることを示していると考える人もいます。
なぜなら、それは「諸国民の中の場所」ではなく、「埋葬地」を意味しているように思われるからです。
しかし、骨は墓の中にあるのではなく、谷間に散らばっています。
エゼキエルはここで埋葬と復活という比喩を用いて、回復を教えています。

「主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。』と言っている。
それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。
わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。――主の御告げ。――」」

「彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、イスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く。
わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。」
(エゼキエル書37章11~14節、21、22節)


エゼキエルは幻の説明(21、22節)の中で、回復が視野に入っていることを明確に述べています。
ここでエゼキエルが語っているのは復活ではなく、回復であると結論づけられます。

ギャバライン氏はこのように述べています。
この乾いた骨の幻の中で、肉体の復活はイスラエルの国家的復興の象徴として用いられています。
「エゼキエル書で墓について読む時、それは文字通りの墓を意味するのではなく、異邦人の中に埋葬された国家を象徴しています。
もしこれらの乾いた骨が国家の肉体的な死者を意味するのであれば、彼らが「私たちの骨は乾き、私たちの希望は失われた」と語るのはどのように説明できるでしょうか?」[21]
したがって、イスラエルの復活は携挙の時に起こるのではないという結論に至ります。
なぜなら、その復活は「キリストにある」者だけを対象としており(テサロニケ人への手紙第一4章16節)、イスラエルはそのような立場にないからです。
さらに、教会は奥義であり、神はイスラエルとの計画を再開する前に、教会のための計画を完了させるであろうということも、この点を裏付けています。
復活は終結の出来事とみなされ、イスラエルの復活はその計画が終結するまでは起こり得ません。
最後に、ダニエル書12章2節とイザヤ書26章19節を回復に霊的に解釈することが不可能であることから、教会とイスラエルの復活は二つの異なる時期に起こることが不可欠となります。
すでに引用した旧約聖書の記述は、イスラエルの復活がキリストの再臨の時に起こることを示しています。
ダニエル書12章1、2節では、復活は「その時」に起こると言われていますが、これは前述の時、もしくは獣の終わりが訪れる七十週の最後の出来事の時です。
「その時」には、解放(1)と復活(2)の両方が起こります。
この箇所は、復活が再臨における獣からの解放行為と関連していることを示しています。
同じ様に、イザヤ書26章19節は、約束された復活による解放は「憤りの過ぎる」(20節)まで来ないことを示しています。
この憤りとは、まさに患難時代のことであり、イスラエルの復活はその期間の終わりに起こると言われています。
携挙の時に教会とイスラエルの両方が復活すると主張するのは誤りであるように思われます。
聖書は、イスラエルは患難時代の終わりに復活し、教会はそれ以前に復活することを示しています。

復活プログラムにおける出来事の順序は、
(1)復活プログラムの始まりとしてのキリストの復活(コリント人への手紙第一15章23節)
(2)携挙の際の教会時代の聖徒の復活(テサロニケ人への手紙第一4章16節)
(3)患難時代の聖徒の復活(ヨハネの黙示録20章3~5節)
(4)キリストの地上への再臨の際の旧約聖書の聖徒の復活(ダニエル書12章2節、イザヤ書26章19節)
そして最後に、(5)千年王国の終わりの際の救われていない死者の最終的な復活(ヨハネの黙示録20章5節、11~14節)となります。
最初の4つの段階はすべて、すべての人が永遠の命を受けるため、最初の復活、つまり生いのちへの復活に含まれます。
そして最後の段階は、すべての人がその時点で永遠の審判を受けるため、第二の復活、つまり断罪への復活です。

NOTE

[1]W. E. Blackstone, Jesus Is Coming, pp. 59-61.
[2]Ibid., p. 62.
[3]S. P. Tregelles, Remarks on the Prophetic Visions in The Book of Daniel, pp. 16566.
[4]Everett F. Harrison, “The Christian Doctrine of Resurrection,” p. 46.
[5]Henry Alford, Greek Testament, IV, 730-31.
[6]Archibald Robertson and Alfred Plummer, First Epistle to the Corinthians, p. 354.
[7]Harrison, op. cit., p. 192.
[8]T. C. Edwards, The First Epistle to the Corinthians, p. 414.
[9]Harrison, op. cit., pp. 191-92.
[10]W. E. Vine, First Corinthians, p. 210.
[11]Robertson and Plummer, loc. cit.
[12]Charles Feinberg, Premillennialism or Amillennialism, p. 233.
[13]Arthur Pridham, Notes and Reflections on the First Epistle to the Corinthians, p. 392.
[14]Joseph Henry Thayer, Greek-English Lexicon of the New Testament, pp. 619-20.
[15]Vine, op. cit., p. 211.
[16]Cf. William Kelly, Lectures on the Book of Daniel, p. 255.
[17]Nathaniel West, The Thousand Years in Both Testaments, p. 266.
[18]Arno C. Gaebelein, The Prophet Daniel, p. 200.
[19]William Kelly, Exposition of Isaiah, p. 265.
[20]Harrison, op. cit., p. 30.
[21]Arno C. Gaebelein, The Prophet Esekiel, p. 246.


第24章 再臨に伴う裁き

聖書は、神がすべての人々に下すであろう裁きを予告しています。
詩篇作者もそのように予期していました。

「確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。
主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。」
(詩篇96篇13節)


パウロは次のように言って同じ真理を証明しています。

「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。
そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
(使徒の働き17章31節)

裁きという主題は神の御言葉の中で大きなテーマです。
十字架上の裁き
(ヨハネの福音書5章24節、ローマ人への手紙5章9節、8章1節、コリント人の手紙第二5章21節、ガラテヤ人への手紙3章13節、ヘブル人への手紙9章26~28節、10章10節、14~17節)
懲らしめにおける信者への裁き(コリント人への手紙第一11章31、32節、ヘブル人への手紙12章5~11節)
信者自身の裁き(ヨハネの手紙第一1章9節、コリント人への手紙第一11章31節、詩篇32篇、51節)
キリストのさばきの座における信者の行いに対する裁き(ローマ人への手紙14章10節、コリント人への手紙第一3章11~15節、4章5節、コリント人の手紙第二5章10節)などの裁きを包含します。
既に考察した最後の裁きを除いて、これらの裁きは神の終末論的な計画とは無関係です。

終末論的な意味合いを持つ4つの裁き
イスラエル民族への裁き
(エゼキエル書20章37、38節、ゼカリヤ書13章8、9節)
諸国民への裁き(マタイの福音書25章31~46節、イザヤ書34章1、2節、ヨエル書3章11~16節)
堕御使いへの裁き(ユダ書6節)、そして大きな白い御座の裁き(ヨハネの黙示録20章11~15節)について考察する必要があります。

I.イスラエル国に対する審判

聖書は、将来の裁きの計画がイスラエル国民への裁きから始まると教えています。
彼らには、契約を通して、ダビデの子であるメシアが支配する王国が約束されていました。
メシアが地上に再臨してこの王国が樹立される前に、イスラエルに対する裁きが行われ、この王国に入る者が決まらなければなりません。
なぜなら、「なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく」(ローマ人への手紙9章6節)と明確に啓示されているからです。

A.裁きの時

イスラエルの裁きの時を最も明確に示しているのは、マタイの福音書24章と25章に記された、主が預言された出来事の年表です。
前述のように、これらの章は次のように年代を記しています。
(1)患難時代(24章4~26節)、
(2)メシアの地上への再臨(24章27~30節)
(3)イスラエルの再集結(24章31節)
(4)イスラエルへの裁き(25章1~30節)
(5)異邦人への裁き(25章31~46節)
(6)王国が続きます。
この綿密に展開された出来事の年表によれば、イスラエルへの裁きは、キリストの地上への再臨と、それに続くイスラエルの国家としての再集結の後に起こります。

B.裁きが行われる場所

イスラエルは地上の民であるため、この裁きは主が地上に肉体を持って再臨された後に地上で行われなければなりません。
(ゼカリヤ書14章4節)
死後の魂の裁きなどと教えるために、これを霊的なものに解釈することはできません。
主が地上におられる以上、裁きは主のいる場所で行われなければなりません。
エゼキエルはこのように述べています。

「わたしは、力強い手と伸ばした腕、注ぎ出る憤りをもって、あなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集める。
わたしはあなたがたを国々の民の荒野に連れて行き、そこで、顔と顔とを合わせて、あなたがたをさばく。
わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地の荒野でさばいたように、あなたがたをさばく。――神である主の御告げ。――
わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、
あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。わたしは彼らをその寄留している地から連れ出すが、彼らはイスラエルの地にはいることはできない。
このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。」
(エゼキエル書20章34~38節)


この記述から、裁きはカデシュ・バルネアでイスラエル人に神の裁きが下されたように、その地の境界で行われると推測されます。
その時代、反逆者はその地に入ることを許されていません。
ゆえに、この裁きは、その日に反逆者がその地に入ることを禁じることになります。

C.裁かれる者たち

先ほど引用したエゼキエル書の箇所、そしてイスラエルの復興を扱った多くの箇所から、この裁きは生き残ったすべてのイスラエルに下され、彼らは皆再び集められ、裁かれることが明らかです。
マタイによる福音書25章1~30節は、全イスラエルに対する裁きを描いています。
復活したイスラエルは報いを受けるために審査されなければならず、これは間違いなく再臨におけるイスラエルの復活と関連して行われます。
しかし、この裁きには復活したイスラエルは含まれていません。

D.裁きの根拠

マタイによる福音書25章1~30節の研究から、神がイスラエルにおいて救われた者と救われていない者を分けるために裁きをなさることは既に示されています。
個人の行いは裁きの対象となります。
エゼキエルはこれを明確に示しています。

「わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、
あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。」
(エゼキエル書20章37、38節)


マラキはさらにこのように述べています。

「だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現われるとき立っていられよう。まことに、この方は、精練する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。
この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする。
彼らは、主に、義のささげ物をささげる者となり、
ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日のように、ずっと前の年のように、主を喜ばせる。
「わたしは、さばきのため、あなたがたのところに近づく。
わたしは、ためらうことなく証人となり、呪術者、姦淫を行なう者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人をしいたげ、やもめやみなしごを苦しめる者、在留異国人を押しのけて、わたしを恐れない者たちに、向かう。――万軍の主は仰せられる。――」
(マラキ書3章2、3,5節)


救われる者と救われない者を分けるこの審判において、人の行いは心の霊的な状態をはっきりと明らかにされるのです。

E.裁きの結果。
この裁きには二つの結果があります。
(1)まず最初に、救われない者は地から断ち切られます。

「彼らはイスラエルの地にはいることはできない。」
(エゼキエル書20章38節)

「役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。
そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
(マタイの福音書25章30節)


このように、救われない者は千年王国が始まる前に滅ぼされます。

(2)二番目に、救われた者は千年王国の祝福に迎え入れられます。

「わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、」
(エゼキエル書20章37節)


「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」」
(ローマ人への手紙11章26、27節)
このように、神は再臨の時にイスラエルの民を再び集め、救われた者と救われない者を分けられます。
救われない者は断ち切られ、救われた生けるイスラエルは、神が彼らの契約を成就するために設ける千年王国へと導かれます。

II.異邦人への裁き

A.裁きの時

マタイによる福音書24章と25章の年代では、異邦人への裁き(マタイによる福音書25章31~46節)はイスラエルへの裁きの後に起こるとされています。
この裁きはキリストが地上に再臨した後に起こります。
ヨエルはこのように記しています。

「見よ。わたしがユダとエルサレムの捕われ人を返す、その日、その時、
わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。
彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。」
(ヨエル書3章1、2節)

預言者は、異邦人に対するこの裁きは、主がイスラエル民族を彼らの国土に復帰させる時、つまり再臨の時に起こることを明らかにしています。
したがって、この裁きは、イスラエルの再集結と裁きの後、再臨の時に下されます。
この裁きは、千年王国の設立に先立って行われなければなりません。
なぜなら、この裁きに受け入れられた人々は、その王国に迎え入れられるのです。
(マタイの福音書25章34節)


B.裁きが行われる場所

この裁きは再臨後に起こるものであるため、地上で起こる出来事でなければなりません。
永遠の状態で起こるとは言えません。

ピーターズ氏はこのように述べています。
「これらの国々が死からよみがえったという記述はなく、また、その一部が裁きを受けるために天から降りてきたという記述もありません。
この言葉は、それ以前の理論に影響を受けない限り、単に、何らかの形で再臨の時に集まったこの地上の国々を描写しているに過ぎません。」[1]

ヨエル書3章2節は、この裁きが「ヨシャパテの谷」で行われると述べています。
この場所を特定するのは容易ではありません。
ヨシャパテがモアブ人とアンモン人を打ち破った「ベラカの谷」(歴代誌第二20章26節)と同義であると考える人もいます。
この勝利によって、この地は新たな名前を得ました。

しかし、ベワー氏はこのように述べています。
「著者が、歴代誌第二20章20~28節でヨシャパテがモアブ人、アンモン人、メウニ人に対して勝利を収めたベラカの谷を念頭に置いていなかったことは確かです。
その谷の名前だけでなく、距離も不利です。
古代にエルサレムの近くにヨシャパテ王の名にちなんで名付けられた谷があったかどうかは不明です。
エルサレムの外にあるキドロンの谷だと主張する人もいます。
しかし、エルサレムのすぐ外に、聖都とオリーブ山を隔てる深い峡谷があり、現在もこの名が付けられていることはよく知られています。
しかし、この名が付けられたのは、この預言にちなんで付けられただけだと考えます。
ヨエルが語った当時、もしくはその後何世紀もの間、そう呼ばれていたわけではありません。
なぜなら、この名が付けられたのは、紀元4世紀になってからです。」[3]

おそらく、関係する場所についての答えは、ゼカリヤ書14章4節で、主がオリーブ山に戻られるときに大きな谷が開けると述べられていることにあります。

「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。
オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」
(ゼカリヤ書14章4節)
再臨の時には、今日存在しない谷が出現すると考えます。
ヨシャパテという名は「ヤハゥエは裁く」という意味なので、エルサレム郊外に新たに開かれた谷は、そこで起こる重大な出来事のために、その名を名付けられたかもしれません。

C.裁きの対象

この裁きに引き渡されるのは、生きている個人であり、復活して裁きを受ける死者ではないことに注意すべきです。
ピーターズ氏はこのように述べています。

「私たちが問うべき問題は、「すべての国民」には「死んだ人々」も含まれるのか、それとも生きている国民だけなのか、ということです。
この点を判断するにあたって、次の点が重要です。

(1)「死んだ人々」については何も述べられていません。
彼らが述べられていると推測されるのは、この箇所が(誤って)ヨハネの黙示録20章11~15節と同期させられているという事実から推察されます。

(2)批評家や学者の一貫した証言によれば、「国民」と訳されている語は、特別な例外がない限り、「死んだ人々」を指すために用いられることは決してない。

(3)この言葉は、生きている、存在する国民、そしてほぼ例外なく「異邦人」の国民を指すために用いられています。

(4)聖霊は、まさにそのような生きている国民の集合が裁きの酒ぶねの直前に起こることを豊かに証ししています。
時代が始まり、再臨と審判の両方があると考えます。

(6)国家の審判は、生きている現存する国家にのみ下されるのであり、国家や国家の概念に属する組織を欠いている死者には下されません。

(7)これらの国民のいずれかが死者の中からよみがえったという記述がないように、彼らの一部が裁きを受けるために天から降りてきたという記述もありません。」[4]

ストロング聖書コンコーダンスによると、「国民」(ethnos)という語は「人々」と2回、「異教徒」と5回、「国民」と64回、「異邦人」と93回翻訳されています。
これは、キリストの再臨の際、生きている異邦人に対する裁きであると理解されなければなりません。

D.裁きの根拠

この裁きにおいて裁きが下される根拠は、「わたしの兄弟たち」と呼ばれる集まりが受けた扱いです。

「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」
「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』」
(マタイの福音書25章40、45節)

ヨエル書3章2節から、イスラエルが裁きの計画全体の中心であることが分かります。

「わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。
彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。」
(ヨエル書3章2節)


イザヤの預言は、イスラエルへの言及を信仰を持つ証人たちに限定し、特定の集まりの宣教活動について述べられているように思われます。
なぜなら、彼は次のように書いているからです。

「わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、ルデ、メシェク、ロシュ、トバル、ヤワン、遠い島々に。
これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。
彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る。」と主は仰せられる。
「それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて来るのと同じである。」
(イザヤ書66章19、20節)


ヨハネの黙示録によれば、神は患難時代の始まりに、信じる残された民、14万4000人に封印します。
彼らは患難時代全体を通して証しをする残された民となり、彼らの働きの成果はヨハネの黙示録7章9~17節に記され、そこでは大勢の人々が贖われたことが示されています。
「兄弟たち」とは、明らかに患難時代のこの信じる証人たちのことです。
この裁きは、裁かれる者の霊的な状態を判定するための裁きでなければなりません。
裁かれる者が救われるか救われないかを判定するための裁きです。
この聖句をざっと読むと、これは行いに基づく裁きであり、裁かれる者の行いによって結果が左右されるように見えます。
しかし、より深く観察してみると、この結論は支持されません。

(1)まず最初に、聖書では、人は決して行いによって救われることはないというのが原則として受け入れられています。
なぜなら、救いが行いに基づいて提供される箇所はどこにもないからです。
マタイによる福音書25章46節にはこのようにあります。

「こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」
(マタイによる福音書25章46節)

このように、裁きの前に現れる人々の永遠の運命が決定されていたことがわかります。
これは行いによる裁きではあり得ません。
なぜなら、永遠の運命は決して行いに基づいて決定されるのではなく、私たちのためになされたキリストの働きを受け入れるか拒否するかによって決定されるからです。

(2)さらに、「兄弟たち」に食事を与え、飲み物を与え、衣服を与え、訪問した人々は義人と呼ばれました。
もしこれが行いによる裁きであるならば、彼らは行った行いに基づいて義とされなければなりません。
それは聖書の教えに反します。
兄弟たちの宣教期間中、このように述べられています。

「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」
(マタイの福音書24章14節)

この御国の福音には、救いの道としてのキリストの死とキリストの血を宣べ伝えることが含まれることは、すでに証明されています。
これらの兄弟たちは、まさにそのような福音を宣べ伝えていた。
この裁きの際、異邦人は、兄弟たちによって宣べ伝えられた福音を受け入れるか拒否するかによって、受け入れられるか拒まれるかが決定された。
彼らの福音を受け入れた者は使者を受け入れ、彼らの福音を拒んだ者は使者を拒んだのです。

「言われた。「まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」
(マタイの福音書18章3節)


この御国の福音は、個人の信仰と新たな誕生を必要としました。
そのような信仰と新たな誕生は、彼らが行った業によって最も強く証明されました。

ピーターズ氏はこのように語っています。
「救い主は、この主題に関する聖書の一般的な例えに従って、栄光のうちに聖徒たちと共に来られ、諸国から御自身の王国を建て上げようとしました。
積極的な同情と援助の行為によって生きた信仰を示した者たちは、彼らに先立つ者たちと共に王国を継承する(つまり、王国の王となる)と宣言しています。」[5]

ギャバライン氏も同じ様に書いています。
「ある国々は彼らの証しを受け入れます。
彼らは御国の福音、この最後の偉大な証しを信じます。
彼らは信仰の真実さを行いによって示します。
伝道する伝道者たちは、迫害され、人々から憎まれ、苦しみ、飢え、中には投獄される者もいます。
彼らの証しを信じるこれらの国々は、彼らに食べ物を与え、衣服を与え、獄中で彼らを訪ね、愛を示すことによって信仰を示しています。
ラハブの例は、型的な予兆と見ることができます。
彼女は信じました。
それはエリコ(世界の型)に裁きが迫っていた時のことでした。

「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」
(ヘブル人への手紙11章31節)


また、彼女についてこのように記されています。

「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。」
(ヤコブの手紙2章25節)


彼女は信仰を持ち、信仰を行いによって示しました。
こうしてこれらの国々は使者たちを信じ、親切に接したのです。
彼らが信じ、恵みが彼らを覆いました。[6]
このように、これらの異邦人は、患難時代間中に残された民による福音の説教を受け入れたか拒んだかによって、救われるか失われるかを決定します。
そのために、彼らの行いに基づいて裁かれると結論付けられます。
この全体的な考察に関連する疑問は、諸国家がここで裁かれるのは国家単位か、それとも個人単位かということです。
この問題については意見が大きく分かれています。
しかし、いくつかの考察は、ここで裁かれる人々は国家単位ではなく個人として裁かれるという見解を支持しています。

(1)諸国家は、御国の福音のメッセージを受け入れるか拒否するかに基づいて裁かれます。
伝えられるメッセージはどれも、個人的な反応を期待して伝えられます。
このメッセージは信仰と、それに伴う新たな誕生を必要としたので、メッセージへの反応によって裁かれる人々は、個人的な反応によって裁かれなければなりません。
ヨハネの黙示録7章9~17節は、大勢の人々が患難から出て来て、このことを明らかにしています。

「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」
(ヨハネの黙示録7章14節)


彼らは個人としてのみ救われることができました。

(2)この裁きが国家単位であるならば、諸国家全体が千年王国に入ることを許されなければなりません。
したがって、救われた人々だけで構成された国家は存在しないので、救われていない者は千年王国に入ることになります。
聖書は救われていない者は千年王国に入ることはないと教えています。
(ヨハネの福音書3章3節、マタイの福音書18章3節、エレミヤ書31章33、34節、エゼキエル書20章37、38節、ゼカリヤ書13章9節、マタイの福音書25章30、46節)
したがって、救いの事実を決定するのは個別の裁きでなければなりません。

(3)もしこれが国家的な裁きであるならば、諸国民は信じることができないので、行いに基づいていなければなりません。
これは、行いに基づく新しい救いの方法を聖書に導入することになります。
聖書のどこにも、行いに基づいて人に永遠の命が与えられることを示すことができないので、これは個別の裁きでなければなりません。

(4)神の裁きの計画におけるその他の裁きはすべて個別の裁きです。
この計画の他の部分は、個別に解釈されるのでなく、したがってこの解釈は計画全体と調和します。

(5)他の類似箇所では、再臨と関連して世の終わりの審判について言及されていますが、これは個別の審判のことと思われます。

「だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。
収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。」
(マタイの福音書13章30節)

「また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」
(マタイの福音書13章47~50節)

「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。
すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」」
(ユダの手紙14、15節)


千年王国以前に救われていない者と救われた者を取り分けるという、同じ裁きの過程を描いたこれらの例のそれぞれにおいて、これは個人的な裁きです。
これらの箇所を国家レベルで解釈する人はいません。
マタイの福音書25章も同じ様に、この個人的な裁きを描いていると結論づけなければなりません。
「諸国民」という語が個人に対して適切に用いられるかどうかは疑問です。
この言葉はマタイによる福音書6章31、32節、12章21節、20章19節、28章19節、使徒の働き11章18節、15章3節、26章20で個人に関連して用いられています。
したがって、他の箇所でも個人に対して用いられているように、マタイによる福音書25章31節においても個人に対して用いられている可能性があります。

E.裁きの結果

生きている異邦人に対する裁きには、二つの結果があります。
(1)次の聖句に示される招きが差し伸べられます。

「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」
(マタイの福音書25章34節)


(2)次の聖句に示される裁きが宣告されます。

「それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。
『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」
(マタイの福音書25章41節)

一方の集まりは御国に迎え入れられ、王の国民となります。
もう一方の集まりは御国から排除され、火の池に投げ込まれます。
王国に迎え入れられたこの異邦人の集まりは、たとえこれがイスラエルの王国であっても、異邦人の大集まりが王の支配下に置かれるという預言を成就するものです。
(ダニエル書7章14節、イザヤ書55章5節、ミカ書4章2節)

III.堕落した御使いの裁き

A.審判の時

ユダは御使いたちが裁きを受けるという事実を明らかにしています。

「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。」
(ユダの手紙6節]


時間的な要素は「大いなる日」という言葉の中にあります。
これは主の日であり、すべての裁きが成就する日です。
これらの御使いたちは、サタンの裁きにおいて明らかに関与しており、その裁きは大きな白い御座の裁きに先立って行われるとされています。
(ヨハネの黙示録20章10節)
したがって、堕御使いたちは千年王国が終わった後、大きな白い御座の裁きの前に裁かれると結論付けられます。

B.裁きの場所
聖書はこの裁きがどこで行われるかについては何も述べていません。
しかし、これは御使いたちに対する裁きであるため、御使いの領域で行われると考えるのが理にかなっているように思われます。
彼らを裁く者は、彼らの活動の中心であったまさにその領域の王であるため、彼らの活動の場が裁きの場となる可能性があります。

C.裁きの対象。
ペテロは、堕落した御使い全員がこの裁きに含まれることを明確に述べています。

「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」
(ペテロの手紙第二2章4節)


D.裁きの根拠

堕御使いたちは、神に反逆したサタンに従ったという唯一の罪のために、裁きを受けます。
(イザヤ書14章12~17節、エゼキエル書28章12~19節)

E.裁きの結果

この裁きを受ける者は皆、永遠に火の池に投げ込まれます。

「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。
そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」
(ヨハネの黙示録20章10節)


IV.大いなる白き御座の審判

この大きな白い御座における裁き(ヨハネの黙示録20章11~15節)は、まさに「最後の審判」と呼ぶにふさわしいものです。
それは、神の復活と裁きの計画の終結を意味します。

A.審判の時。
この審判はキリストの千年王国の終了後に行われることが明確に示されています。

「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。」
「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。
そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。
死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。」
(ヨハネの黙示録20章5、12、13節)


B.裁きが行われる場所

この裁きは天でも地でもなく、両者の中間のどこかで行われます。

「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。
地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」
(ヨハネの黙示録20章11節)


C.裁きの対象

この箇所自体から、この裁きは「死者」と呼ばれる者たちへの裁きであることが明白です。
救われた者たちの復活の計画は、千年王国が始まる前に完了していたことが既に証明されています。
復活せずに残されたのは、救われなかった死者だけです。
ゆえに、彼らが裁きの対象です。

ピーターズ氏はこのように述べています。
「ヨハネの黙示録20章11~15節の千年後の審判は、生ける民族の審判ではなく、主に「死せる者たち」への審判です。
死せる者たちだけが言及され、(普遍的な審判をするために)そこに「生ける民族」を加える者は、間違いなく預言に付け加えていることになります。
まさにそのような裁きこそが、神の義の執行するにあたって秩序で欠けていた、適切な割合で補うために求められています。
なぜなら、もし酒ぶねのさばきの時代の終わりに「死せる者たち」の審判に関する預言がなければ、当然のことながら、私たちの信仰体系の重大な欠陥と見なされます。
ゆえに、私たちは調和のとれた全体性を持つことができるのです。[7]

D.裁きの根拠

この裁きは、一般に誤解されているのとは異なり、この裁きの前に立つ人々が救われるかどうかを決定するものではありません。
救われるべき人々は皆救われ、永遠の状態に入っているのです。
永遠の祝福を受けるべき人々は祝福の中に入っています。
これはむしろ、救われていない人々の悪行に対する裁きです。
彼らには「第二の死」の宣告が下されるのです。

「そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。
死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。」
(ヨハネの黙示録20章12節)

異邦人の裁きにおいて、行いが信仰の有無を示したように、ここでも行いは命の不在を示しています。
救われない者たちには段階的な罰が下されることは、他の聖書箇所(ルカの福音書12章47~48節)からも暗示されています。
しかし、第二の死の宣告はすべての人に下されます。
最初の死とは、アダムが受けた霊的な死でした。
この第二の死は、最初の死によってもたらされた神からの分離を確証し、永遠のものとするためのものです。

E.裁きの結果

この裁きの結果は、ヨハネの黙示録20章15節で非常に明確に示されています。

「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
(ヨハネの黙示録20章15節)

救われていない者の永遠の運命は、神からの永遠の分離です。
聖書には、それぞれ時、場所、主題、根拠、結果が異なる八つもの異なる裁きが記されているのを見ると、神の御言葉が一般的な裁きという考えを支持することはできないことは、何気なく見ている人でもわかるように思われます。
そのような一般的な裁きを主張する人たちは、異邦人の裁き(マタイによる福音書25章31~46節)を大きな白い御座の裁き(ヨハネの黙示録20章11~15節)と同一視します。
この二つの裁きには多くの違いがあり、同じ裁きとすることは不可能です。
マタイによる福音書では、裁きの前に復活はなく、選民の集合があるのみです。(24章31節)
一方、ヨハネの黙示録ではすべての悪人の復活があります。
マタイによる福音書では生きている諸国民の裁きであるが、ヨハネの黙示録では死者の裁きです。
マタイによる福音書では諸国民が裁かれますが、ヨハネの黙示録では国家的存在について裁かれることはあり得ません。
なぜなら天と地は消え去っており、諸国民は地上に限られているため、同じ出来事を描写することはできないからです。
マタイによる福音書では地上で裁きが行われますが、ヨハネの黙示録では天と地は消え去っています。
マタイによる福音書では参照すべき書物は提示されませんが、ヨハネの黙示録では書物が開かれ、命の書が提示され、そこに記されていない者は地獄に投げ込まれました。
マタイによる福音書では裁きはキリストが地上に戻った時に起こりますが、ヨハネの黙示録ではキリストが地上に存在して1000年が経過した後に起こります。
マタイによる福音書では義人と悪人の2つの階級が登場しますが、ヨハネの黙示録では悪人だけが登場します。
マタイによる福音書ではある者は御国に行き、ある者は罰を受けましたが、ヨハネの黙示録では誰も祝福を受けず、全員が永遠の罰を受けます。
マタイによる福音書では、裁き主は「その栄光の位」(25章31節)に座っていますが、ヨハネの黙示録では「大きな白い御座」に座っています。
マタイによる福音書では、裁きの基準は兄弟たちの扱いですが、ヨハネの黙示録では、裁きは彼らの邪悪な行いに基づいています。
マタイによる福音書ではキリストの到来が先行していますが、ヨハネの黙示録ではキリストが千年王国の間、地上にいたため、到来については何も述べられていません。
マタイによる福音書では、人の子、3つの階級の人々(羊、山羊、兄弟たち)と御使いについて述べられていますが、ヨハネの黙示録では神と1つの階級の人々しか見られません。
マタイによる福音書では、裁きの原因が分かる前に判決が言い渡され、分離が行われますが、ヨハネの黙示録では、書を慎重に調べた後でなければ裁きはありません。
マタイによる福音書には、飢え、渇き、裸、旅人、病人、牢獄に囚われた人々が記されているため、千年王国時代は前置きされていません。
しかし、ヨハネの黙示録では、この出来事に先立って千年王国時代が存在します。(ヨハネの黙示録20章5節)
これらの考察は、これらが一つの裁きではなく、神の裁きの計画における二つの別々の部分であるという主張を裏付けるのに十分であるように思われます。
再臨は、神の計画におけるクライマックスとなる出来事です。
悪に対処する計画においては、サタンが縛られ、正義が現れるという点でクライマックスとなります。
裁きの計画においては、神の計画に敵対するすべての者が裁かれるという点でクライマックスとなります。
地の計画においては、呪いが解かれて地球が喜ぶという点でクライマックスとなります。
復活の計画においては、すべての義人が復活し、神の栄光にあずかるという点でクライマックスとなります。
主権を現す計画においては、御子が御国の栄光のうちに現れるという点でクライマックスとなります。
このような出来事を軽視したり、神の永遠の計画における正当な位置から削除したりすることはできません。

NOTE

[1]G. N. H. Peters, Theocratic Kingdom, II, 375.
[2]J. A. Bewer, International Critical Commentary, “Obadiah and Joel,” p. 128.
[3]Harry A. Ironside, Notes on the Minor Prophets, p. 129.
[4]Peters, op. cit., II, 374-75.
[5]Ibid., II, 376.
[6]Arno C. Gaebelein, The Gospel According to Matthew, II, 247.
[7]Peters, op. cit., II, 382.


第六部 千年王国の預言

第25章 旧約聖書における王国の概念


神の王国計画は聖書の大部分を占めています。
しかし、聖書がこの主題について語る多くの記述にもかかわらず、神の王国計画の本質と目的については、実に多様な解釈や説明が存在します。
ある人々にとって、神の王国は永遠の状態、つまり死後に人が至る天と同義であり、地上とは全く関係がありません。
またある人々にとって、神の王国は非物質的、つまり「霊的な」王国であり、神が人々の心を支配するため、現在の世界と関係はあるものの、地上とは無関係です。
さらに別の人々にとって、神の王国は純粋に地上的なものであり、霊的な実体が伴わないため、人々の努力によって達成されるべき政治的・社会的な構造であり、人々が切望する社会経済的進化の目標となります。
同じ概念を持つ他の人々にとって、神の王国はイスラエルの国家主義運動と関係があり、その国家は政治的領域においてイスラエルを独立した国家として再建するものです。
また、王国を目に見える組織化された教会と同義とみなす人々もいます。
教会が王国となり、王国は霊的であると同時に政治的な存在となります。
さらに、王国を神の普遍的な主権が地上に現れたもの、つまり神が人類の営みを支配するものとみなす人々もいます。
そのため、王国は概念上、霊的であると同時に物質的でもあると考えられています。
このような解釈の迷路を通り抜けるのはほぼ不可能です。
王国に関する真理は、人間の著作を吟味することによってではなく、この偉大な主題に関する神の御言葉の教えを帰納的に研究することによってのみ導き出されます。

1.永遠の王国

聖書全体を通して、神が支配する王国に関する啓示の筋道に矛盾が見られるように思われます。
一方では王国が永遠のものとみなされる一方で、他方では明確な歴史的始まり、進展、そして終わりを持つ一時的なものとみなされます。
また、王国は普遍的であると同時に局所的であるとも描写されています。
さらに、それは神の主権の直接的な支配であると同時に、任命された君主による間接的な支配であるとも見られています。
このように、神が支配する王国には、永遠と一時的、普遍と局所、直接的なものと間接的なものという、二つの異なる側面があることを理解する必要があります。

A.時代を超えた側面

聖書には、神は常に絶対的な主権を持ち、王として支配してきたという命題を証明する箇所があります。

「主は世々限りなく王である。国々は、主の地から滅びうせた。」
(詩篇10篇16節)

「主は、大洪水のときに御座に着かれた。まことに、主は、とこしえに王として御座に着いておられる。」
(詩篇29篇10節)

「確かに、神は、昔から私の王、地上のただ中で、救いのわざを行なわれる方です。」
(詩篇74篇12節)

「しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。」
(エレミヤ書10章10節)


「しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御座は代々に続きます。」
(哀歌5章19節)

認められた主権とその主権が行使される領域がなければ、神は正しく王と呼ばれることはできません。

B.普遍的な側面

神の主権の無限の範囲について述べられています。

「主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。
主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。
富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。」
(歴代誌第一29章11、12節)

「主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。」
(詩篇103篇19節)

「この宣言は見張りの者たちの布告によるもの、この決定は聖なる者たちの命令によるものだ。
それは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、生ける者が知るためである。」
「あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれます。
こうして、七つの時が過ぎ、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになります。」
「あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、こうして七つの時があなたの上を過ぎ、ついに、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。」
(ダニエル書4章17、25、32節)


この主権は天と地の両方に行使されると考えられています。

C.摂理的な側面

聖書は、神が絶対的な権威を行使する一方で、この主権は二次的な原因としての個人を通して行使されることもあると述べています。

「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。」
(箴言21章1節)

「ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるむちは、わたしの憤り。
わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。」
(イザヤ書10章5、6節)

このことは、エレミヤ書25章8~12節、27章4~8節、51章11~24、27節、イザヤ書44章24節、45章7節、エズラ記1章1節によってさらに詳しく示されています。
神は人間を通して主権的に行動されます。
人間の中にはそれを認める者もいれば、拒む者もいれば、知らない者もいますが、それでも神の御心は成就されます。
これは人間界だけでなく、自然界にも適応できます。
詩篇作者はこのように言っています。

「火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行なうあらしよ。」
(詩篇148篇8節)


D.奇跡的な側面

この主権は、神が人間の営みに直接介入し、奇跡によって主権が示されることによって現れることがあります。

「わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行なおう。
パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す。
わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」」
(出エジプト記7章3~5節)


奇跡に関する全体的な問題は、無限の支配者が、自らが支配する領域内でその力の実証に介入する力と権利を持っているかどうかという問題に過ぎません。

E.「王国」という言葉の使い方。
ラッド氏はこの言葉の使い方を次のようにうまく説明しています。
新約聖書で王国を意味する語「(basileia)」の本来の意味は、「領土」や「民」ではなく、「支配」です。
近年、批評家たちはこの主題に多大な関心を寄せており、「(basileia)」の根底にあるのは「領土」や「民」ではなく、「王権、権威」であるという点でほぼ全員が一致しています。
「一般的な言語的使い方において、私たちが通常「領土」や「王国」と訳す「(basileia)」という語は、まず最初に王の存在、性格、立場を指していることに配慮すべきです。
王に関するものである以上、私たちは王の威厳、権威について語るのが最も適切です。」(シュミット「新約聖書神学辞典」I、579ページ)
新約聖書には、「(basileia)」のこの抽象的な意味を示す例がいくつか見受けられます。
イエスがエルサレムに来られた時、人々は神の御国がすぐに現れると考えました。

イエスは、ある貴族が「国(basileia)を受けるために遠い国へ行き、それから戻ってくるというたとえ話を語りました。
国民たちは彼を憎み、使節を送って、彼を支配者として受け入れたくないと宣言しました。
貴族は「国(basileia)」を受け取って帰国すると、すぐに国民に対して、忠実な者には報いを与え、反抗的な者には罰を与えるという、新たに授けられた王権を行使しました。
ここで「(basileia)」とは、明らかに領土でも国民でもなく、与えられた領土において王として民を支配する権威を指しています。
(ルカの福音書19章11~27節)

同様の使い方はヨハネの黙示録17章12節にも見られます。

「あなたが見た十本の角は、十人の王たちで、彼らは、まだ「国(basileia)」を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます。」
(ヨハネの黙示録17章12節)


明らかに、まだ受けていない「(basileia)」は「王としての権威」と同義です。
ヨハネの黙示録5章10節では、「(basileia)」は贖われた民を指していますが、彼らが「(basileia)」を構成するのは、王の国民であるからではなく、王の王権に与っているからです。[1]

「私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
(ヨハネの黙示録5章10節)


この概念によれば、この永遠の王国は、神の王としての支配と「天と地のすべての知性体、そして神の意志に従っているすべての知性体」に対する主権です。
神は主権を行使してます。[2]

F.普遍的な王国への挑戦

神の永遠の主権的支配権に対する最初の挑戦は、エゼキエル書28章11~19節とイザヤ書14章12~17節に記録されています。

「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。
密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』
しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。
あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる。『この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、
世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。』」
(イザヤ書14章12~17節)


チェイファー氏は次のように述べています。
「この箇所では、ルシファーの罪は神の意志に反する5つの恐ろしい「私の意志」であったと述べられています。
サタンのこれら5つの「私の意志」は明らかに1つの罪のさまざまな側面だと言えます。
サタンの5つの「私の意志」は次のとおりです。

1.「私は天に上ろう。」(イザヤ書14章12節)

これはサタンの罪の第一の側面であり、サタンは神と贖われた者たちが住まわれる第三の、もしくは最高の天に住まうことを提供したように思われます。(コリント人への手紙第二12章1~4節)
サタンは地位によっても贖罪によっても、その領域を自らの住処であると主張する権利を持っていません。
この宣言に表れているサタンの利己的な意図は、創造主の計画と目的に反するものです。

2.「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ」(イザヤ書14章13節)

この言葉によって、サタンは神の王座の守護者として任命されていたにもかかわらず、自らの王座を所有し、「神の星々」を支配することを切望していたことが明らかにされています。
明らかに御使いたちはそこにいました。
王座を手に入れようとするサタンの目的の罪深さは明らかです。

3.「北の果てにある会合の山にすわろう。」(イザヤ書14章13節)

「山」という表現は、明らかに地上における神の支配の座を指しています。(イザヤ書2章1~4節)
また「会衆」という表現も明らかにイスラエルを指しています。
したがって、この特定の仮定は、少なくとも(「また」という言葉に注目してください)地上におけるメシアの支配に与ることを目指しているように考えられます。

4.「密雲の頂に上り。」

聖書には雲について150回以上言及されています。
しかし、そのうち100回は神の臨在と栄光に関連しています。
サタンは明らかに神のみに属する栄光の一部を自分のものにしようとしているのです。

5.「いと高き方のようになろう。」

これが彼の動機と手段を理解し、追跡するための鍵となります。
ほぼ普遍的な印象があるにもかかわらず、サタンの理想は神に似ないことだといわれます。
ここではサタンが神のようになるという目的に突き動かされていることが明らかにされています。
しかし、この野望は、いかなる被造物も決してなれない、自存する方であるヤハゥエのようになることではなく、「天地の所有者」を意味する称号を持つ、いと高き方のようになることです。(創世記14章19節、22節)
つまり、サタンの目的は天地を支配する権威を得ることです。[3]
これらの観察を慎重に研究すれば、サタンの原罪の各段階は、神の定められた権威に対する反逆行為であり、その主権を自らのものにしたいという貪欲な欲望に突き動かされていたという結論に至ります。
サタンの堕落をもたらしたこの罪のゆえに、神が支配する王国に対抗する、サタンが支配する王国が形成されました。
サタンはこの世の神(コリント人への手紙第二4章4節)、空中の権威を持つ支配者(エペソ人への手紙2章2節)、そして世界の王国の所有者として描かれています。

なぜなら、次のように記されているからです。

「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」」
(マタイの福音書4章8、9節)


キリストが、これらの王国を明け渡すというサタンの権利に異議を唱えなかったことは重要です。
キリストは、これらの王国はサタンの支配下にあるとみなし、サタンが望むままに扱う権利があると考えたのです。
神の王国を支配する神の権利を露骨に脅かすこの行為を鑑み、神は世界の創造に先立ち、あらゆる被造物の前に神の主権を現れする計画を制定されました。
主は、千年王国の祝福にあずかるよう招かれた者たちにこう仰せになります。

「さあ、わたしの父に祝福された人たち。
世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」
(マタイの福音書25章34節)


永遠の御国へと続くこの御国は(コリント人への手紙第一15章24節)、神の永遠の計画の一部であるとされています。
そして、サタンの権威の中心であり、サタンの王国の舞台であった地球は、まさにこの御国を神が示すために選ばれた場所となります。

ミラー氏はこのように述べています。
「私たちは創造の広大さや神の王国の果てしなさに計り知れないほど驚嘆します。
しかし、天体の中で最も小さな地球が、神の偉大な業を披露する舞台となることを悟ると、その驚きは驚嘆へと変わります。
神はこの地球において、神の恵みの豊かさを、その普遍的な王国の果てしなく広がる地へと知らしめることを選ばれたのです。」[4]
神の主権を実証し、神の王国の普遍性を明示するこの神の計画は、ディスペンテーション的な王国計画と呼ぶことができます。

ピーターズ氏はこのように述べています。
「ディスペンテーション的な政治の設立とそれに伴う要求、そして神御自身による称賛は、その望ましい性質を示すだけでなく、それが神の定められた目的であることを示しています。
神は最終的にその優位性を確立しています。」[5]

II.神政王国

神の主権をこの地上における支配によって明らかにするという神の計画の始まりから、その計画の完成、つまり普遍的な主権が認められる時(コリント人への手紙第一15章24節)に至るまで、その計画は一貫して、連続的に、そして前進的なに進展してきました。
計画には様々な段階があり、その主権が行使される媒体も様々であったかもしれませんが、それは一つの計画の進展でした。
この計画全体をディスペンテーション王国と呼ぶことができます。
神権政治という言葉は次のように定義されています。
「神政政治とは、神の直接の指示による国家の支配です。
ヤハゥエは、地上の王が民を支配するのと同じ直接的な方法で、イスラエルを支配することをお許しになりました。」
「神は、自らにふさわしい知恵をもって、アブラハムの子孫に対して、宗教的優位性だけでなく、政治的優位性も主張しました。
その最も厳密な意味で、神はイスラエルの王と自分の事を位置づけ、その結果、イスラエルの政府は厳格かつ文字通り、神政政治となりました。」[6]

マクレイン氏はこの神権政治の王国を次のように定義しています。
「神に代わって発言し行動する、神によって選ばれた代表者による神の支配です。
この支配は最終的には普遍的なすべてのことを含むものの、特に人類に関係するものであり、その調停者となる支配者は常に人類の一員です。」[7]
この議論全体を通して、「神の王国」および「天の御国」という通常の呼称は用いられていません。
千年王国前再臨主義者は、永遠の王国を神の王国、地上の計画を天の御国と呼ぶことに慣れています。
このような断定的な区別は、聖書の使い方に裏付けられていないように思われます。
どちらの単語も永遠の王国に関して用いられています。
(マタイの福音書6章33節、18章3~6節、7章21節、19章14節、マルコの福音書10章14節を参照)
また、どちらの単語も将来の千年王国に関して用いられています。
(マタイの福音書4章17節、マルコの福音書1章14、15節、マタイの福音書3章2節、5章3、10節、6章10節、マルコの福音書9章1、47節、14章25節、ルカの福音書19章11節、21章31節を参照)
どちらの単語も、現在の王国の形態を指して用いられています。
(マタイの福音書13章11節、マルコの福音書4章11節、ルカの福音書8章10節)
両者の違いは、単語自体にではなく、文脈における使い方にあります。

フェインバーグ氏は次のように述べています。
「ヴォス博士の説明が示されています。
マタイはユダヤ人に宛てて手紙を書いていました。
ユダヤ人は「神」という名に特別な畏敬の念を抱いていました。
神の王国の本質に対する彼らの認識が極めて欠如していたにもかかわらず、この点に注目してください。
彼らは「天の御国」の意味を簡単に理解したはずです。
一方、マルコとルカは異邦人に宛てて手紙を書いているため、「神の王国」ではなく別の表現を用いています。
この王国が天の御国として特徴づけられるのは、それが天とその完全性を模倣しているからです。
この名称には、この支配の永遠かつ永続的な価値も暗示されています。
さらに、そこには王国の天的な起源と源泉、つまり天の神がそれを建てるという考えが込められています。
「神の王国」という名称が用いられているのは、それが支配と支配の霊的な性質を指し示しているからです。
神の栄光こそが、その主たる唯一の目的です。
キリストは父なる神に栄光を帰すことのみを願っておられますが、その御業は神が栄光をお受けになった時に完成します。
これが神の御国の目的であり、目標です。」[8]

ウォルフォード氏は次のように解説しています。
「ディスペンセーション主義者は「天の御国」という語を将来のメシアの王国と関連付けて強調する傾向があります。
しかし、この言葉は現在の世界の王国にも適応できます。
「神の王国」という語は、現在の世界と将来のメシアの王国の両方に用いられているのも事実です。
言い換えれば、「神の王国」も「天の御国」も、それ自体がメシアの王国に適用される専門単語ではありません。
それぞれの言及の文脈から、それが現在の形態の王国を指しているのか、それとも将来のメシアの王国を指しているのかを判断できます。」[9]
神の王国と天の御国という単語が、王国の二つの異なる側面が考慮されているにもかかわらず、互換的に用いられていることから、永遠の側面を永遠の王国、そしてその王国の時における進展を神権王国と呼ぶことが適切であるとみなされてきました。
この神権王国の計画全体は、聖書を通してたどらなければなりません。」[10]

A.エデンにおける神権政治

真実な神権政治は天地創造の時に確立されました。
神は主権者として認められ、神に属する主権は人間に委任され、人間は間接的な権威を行使して地上を支配することになりました。
この神権政治において、アダムは神から権威を授けられたと見なされ、従順に従うよう求められた以上、支配権は神のものでした。
神権政治における支配権はアダムに属していなければなりません。
そうでなければ、支配するキリストをアダムと対比することができず、「最後のアダム」という名はキリストに属することになります。
(コリント人への手紙第一15章22~24、45節)
「支配させよう」(創世記1章26節)という聖句は、神権政治の関係を確立しました。
地を「従わせる」責任は、神権政治における権威の行使でした。
アダムは神権政治において神から任命された支配者であったため、エバには夫への服従が義務付けられていました。

フェインバーグ氏は次のように述べています。
「神の王国はエデンの園において現実に実現されました。
そこで神は至高の支配権を握り、すべての国民は王にふさわしい服従を示しました。
地上における神の王国からもたらされるあらゆる祝福がそこにありました。
しかしながら、最高の理想は達成されていません。
永遠の命は人間の完全な服従にかかっており、もしそれが実現していたなら、永遠の王国はその栄光のすべてを伴って存在していたはずです。
罪が入り込んだ時、それは人が王である神の絶対的な支配から自分の事を解放したに過ぎません。
この不服従は、この世に別の王国、つまりサタン自身の王国が樹立されるきっかけとなりました。」[11]

アダムの不従順によって神の権威が否定されたことを受けて、神は(創世記3章15節)否定された権威を現す計画の開始を告げられました。
それは、「女の子孫」を通して新たな創造物を創造し、自ら進んで神に従う者とすることでした。
贖いの計画は今や神の御国計画の進展と並行しており、神の御国計画に不可欠な付属物ではありますが、同じものではありません。
神の権威を確立する方法は贖いを通してですが、その権威の回復こそが神の主たる目的であり続けます。
堕落後、神権政治はエバに生まれた敬虔な血統を通して支配されました。
創世記4章1節のエバの「私は、主によってひとりの男子を得た」という発言は「わたしは主からひとりの人を得ました」という意味ではありません。[12]
この言葉には、神権政治がこの血統を通して支配されることを暗示しています。
アベルの死後、セツがアベルの立場を引き継ぎます。(創世記4章25節)
セツの名前は「任命された」という意味で、おそらく神権政治における任命という概念が込められていました。
歴史の時代は、人類の罪深さゆえに洪水で終わります。(創世記6章6、7節)
その罪深さ自体が、神の支配権を拒絶することになりました。

B.人間の支配下における神権王国

大洪水の後、神は人間の支配を樹立し(創世記9章1~7節)、この支配を通して神権王国が支配されました。
この権威を持つ者への畏怖は、王国の計画の運営に内在していました。(創世記9章2節)
パウロは、支配者は「神の奉仕者」であると明確に述べています。(ローマ人への手紙13章1~4節)
この王国の計画の運営は、バベルにニムロデ王国が樹立され、この形態の権威が否定されるまで続きました。
ニムロデ王国において、新たな権威が認められ、新たな礼拝制度が確立されました。(創世記10章8~10節、11章1~9節)

C.族長たちの支配する神権王国

神はアブラハムを召し、地上における神の目的を定め、すべての人が祝福を受けるべき一人の人を選びました。
アブラハムに対する神の目的は、国土、子孫、そして祝福に関する約束を中心としており、それらは永遠かつ無条件の契約として結ばれています。
この契約については既に詳細に研究されているため、ここで繰り返す必要はありません。
ここで重要なのは、この計画全体が成就すると予期されているのは、王となるべき方を通してであるということです。
(創世記49章10節)

フェインバーグ氏はこのように書いています。
「老齢のヤコブは臨終の床で預言者の幻を受け、息子たちの運命を預言します。
ユダへの祝福と彼に関する預言は、私たちの研究にとって特に興味深いものです。
この預言は、約束された子孫をユダ族に絞り込み、王国のもう一つの、そして最も重要な要素である王の存在を付け加えています。
族長の12人の息子たちは、王権の象徴である杖は、民が集まるシロが来るまで、ユダからも、布告を発する者からも決して離れないと告げられます。
多くの人は、シロはエゼキエル書21章27節で預言者がこのように叫んでいると信じています。

「廃墟だ。廃墟だ。わたしはこの国を廃墟にする。このようなことは、わたしが授ける権威を持つ者が来るまでは、かつてなかったことだ。」
(エゼキエル書21章27節)


シロは平和と安息の人を指していると考える人もいます。
いずれにせよ、聖書を正統派かつ敬虔に研究する大多数の人々は、ここでユダの血統に来るメシアについて直接述べられていると考えています。
メシアの支配範囲は「主のもとに民(諸国民)が集まる」と明らかにされています。
メシアの王国の平和な性質と、そこに存在する豊かさがすべて暗示されています。
最後に、王の比類なき美しさも、非常に比喩的な言葉で表現されています。」[13]

この神権的な計画の成就は、民数記24章17~19節にも予期されていると述べられており、「イスラエルから一本の杖が起こり」と約束されています。
この「杖」とは、権威を宿す方であり、敵を滅ぼし、イスラエルを高貴な地位に引き上げる方です。
族長の時代、この神権政治は神によって任命された特定の代表者を通して運営されていました。
だからこそ神は、モーセとアロンの関係について「あなたは彼に対して神の代わりとなる」(出エジプト記4章16節)、そしてパロとの関係について「わたしはあなたをパロに対して神とし」(出エジプト記7章1節)と仰せになりました。
神権政治の任命された代表者として、モーセは神と呼ばれることができたのです。
モーセがこの神権政治王国において重要な位置を占めていたからこそ、神は来るべき支配者について「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう」(申命記18章18節)と仰せになりました。
そして、モーセはこの立場においてイスラエルを荒野で導きました。
イスラエルが繰り返し不平を言うという罪がどれほど重大であったかは、ここに見て取れます。
モーセに対して不平を言うことは、神権政治において神によって任命された代表者に対して不平を言うことだったのです。
火の蛇は「民は神とモーセに逆らって言った」(民数記21章5節)ために裁きをもたらしました。
「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました」(民数記21章7節)と告白したことによってのみ、事態は収拾しました。
ヨシュアはこの時代に神の支配者として民を導いた最後の人物でした。(ヨシュア記1章2~9節)
彼の指導の下、民は神の権威に服従させられました。

「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。
あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。
もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」
すると、民は答えて言った。
「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません。
私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちを、エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行ない、私たちの行くすべての道で、私たちの通ったすべての民の中で、私たちを守られた方だからです。
主はまた、すべての民、この地に住んでいたエモリ人をも、私たちの前から追い払われました。私たちもまた、主に仕えます。主が私たちの神だからです。」
(ヨシュア記24章14~18節)


D.士師による神権王国

イスラエルがヤハゥエの支配を受け入れた時、神は神権王国の新たな支配、つまり士師による支配へと移行されました。
(士師記2章16、18節、使徒の働き13章20節)
ギデオンの言葉は明快です。

「そのとき、イスラエル人はギデオンに言った。
「あなたも、あなたのご子息も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミデヤン人の手から救ったのですから。」
しかしギデオンは彼らに言った。「私はあなたがたを治めません。
また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます。」」
(士師記8章22、23節)


ギデオンは絶対的な権威の立場を拒みました。
そのような権威は神に属するものだったからです。
サムエルと主との交わり(サムエル記第一3章1~18節)は、神がこの人間を通してイスラエルの諸事を積極的に管理していたことを示しています。
イスラエルがサムエルを受け入れたました。(サムエル記第一3章19~4章1節)
そのことは、サムエルが神によって任命された神権政治の代表者であることを民が認めたことを意味します。
このような支配はサムエルの生涯の終わりまで続き、以下の出来事が起こりました。

「そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、
彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。
どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」」
(サムエル記第一8章4、5節)


イスラエルの霊的な衰退は、士師記の時代末期の歴史において顕著に記されています。

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」
(士師記21章25節)


この霊的状態は、神が支配してきた神権政治の形態を拒絶し、他の諸国民と同じ様に王を求めることにつながった。
神はサムエルに、そのような行為は神権政治の拒絶を意味することを明らかにされました。

「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。」
(サムエル記第一8章7節)


それゆえ、神は神権政治の王国を新たな支配へと移行させました。
それは、イスラエルを支配する王たちによる支配です。

E.王による神政王国。
君主制の政治形態は、神が神政王国に理想としていたものでした。
そのような王は、アブラハム(創世記17章5~7節)とヤコブ(創世記35章11節)に約束されていました。
王国の権威は、最終的には王に帰属することになっていました。(創世記49章、民数記24章17節)
サウルが王座に就いた際、その任命は神による任命とみなされました。
サムエルはこのように宣言したからです。

「今、見なさい。あなたがたが選び、あなたがたが求めた王を。見なさい。主はあなたがたの上に王を置かれた。」
(サムエル記第一12章13節)


しかしサムエルはイスラエルに対し、かつての神権政治を否定したことで彼らが罪を犯したことを思い起こさせ「あなたがたの神を退けて」(サムエル記第一10章19節)と言いました。
さらにこのように付け加えています。

「あなたがたは王を求めて、主のみこころを大いにそこなったことを悟り、心に留めなさい。」
(サムエル記第一12章17節)


ピーターズ氏は次のように述べています。
「そのような願いほど、神への深い侮辱はないでしょう。
彼らの支配者となられた御方、その御方が約束された祝福、そしてこうして直接的に国の王となることで御方が意図された計画を考えれば、このことが分かります。
サムエルが暗示するように、そのような「邪悪」に対する唯一の酌量の余地は、不信仰によってもたらされた彼らの苦難の状況に見出されます。」[14]

この王国形態の神権政治の確立は、神権王国を究極の完成へとさらに一歩前進させるものです。
王自身については、次のように述べられています。
王は、ある意味でイスラエルにおける総監督でもありました。
彼の王権は完全に宗教的な性格を持ち、ユダヤの代理として「イスラエルを治める主の王座」に着きました。
(歴代誌第一17章14節、28章5節、29章23節)
ヤハに油を注がれた者(サムエル記第一24章10節、26章9節、サムエル記第二1章14節)、また「ユダヤの子」および「長子」という称号を通して、イスラエルに対する天と地の支配の一体性を暗示しています。[15]
イスラエルにおけるこの神政政治を、単に将来の神政政治の型として捉えるのは誤りです。

ピーターズ氏はこのように述べています。
「ランゲ氏は神権政治を、神の王国の型としての形態と呼んでいます。
おそらく、このような誤りを招いたのは、型としての儀式や一時的な行事が神権政治と結び付けられていたという事実です。
しかし、確かにそうですが、これらの儀式や行事を一時的に採用した神権政治の秩序や支配は、決して型として表現されていません。
これは、契約、預言、そして事実によって完全に否定されています。
神権政治は何か他のものを暗示したのではなく、それ自体が神の王国の型としての形態、つまり地上の王としての神の支配の始まりです。
もしユダヤ人が要求された服従を示していたならば、その支配は拡大し、すべての国々がその影響と服従の下に置かれるまで拡大していたはずです。」[16]

これが神権的な王国計画の継続的な部分であったことは、神が王たちの完全な従順を要求したという事実から分かります。
サムエル記によれば、神は国王を含め、国王を依然として最高君主として認め、選ばれた国王が権威を持つ上位者から与えられた法を執行するという条件で、国を赦免します。
この一連の行為を通して、神の神権政治は完全に維持されます。
地上の王は一定の制約を受け、不服従の場合には、依然として認められている国の長である王の興味を無くし、罰を受けるという脅威にさらされていました。
このことは、サウル(サムエル記第一13章12節、28章15節)、ダビデ(サムエル記第一6章20節、7章23~26節など)、ソロモン(列王記第一3章8、9節、6章12~14節、また8章など)をはじめとする多くの人々によって感じられ、率直に告白されています。[17]
サウルの治世の初期には、神が彼を拒んだと告げられました。(サムエル記第一13章11~14節)
権威はダビデに移譲され(サムエル記第一16章1~13節)、彼の治世は特に神権王国の進展と結びついていました。
これは二つの点で顕著です。

(1)神は御自身の王国をダビデの王国と同一視されました。

ピーターズ氏はこのように記しています。
「神は、その王座と王国を受け取り、それを自らの王座と王国として採用しました。
神権政治とダビデの王国は、両者の間にある特別かつ特異な契約関係によって一つとみなされ、将来においては運命において完全に同一であり、不可分に結び付けられると考えられました。
このことは次の3つの事実によって証明されています。」

1)ダビデの王座と王国は主のものだと呼ばれています。

例えば歴代誌第一28章5節では「イスラエルを治める主の王座」であり、歴代誌第二13章8節では「主の王国」であり、歴代誌第二9章8節では、王は神によって「その王座にあなたを着かせて、あなたの神」と述べられています。

2)王は明示的に「主に油を注がれた者」と呼ばれています。(サムエル記第一24章6節、サムエル記第二19章21節など)

3)預言者たちは、ダビデの王座と王国が樹立された後、常に、それを通して現された栄光に満ちた神の王国、祝福された神権政治を特定しています。
例えばエレミヤ書33、36章、アモス書9章などです。
その理由は、堅固で永遠の結びつきにあります。[18]

(2)神はダビデと永遠かつ無条件の契約を結ばれました。(サムエル記第二7章16節)

この契約において神は、ダビデの王国こそが、ダビデの血統に属する者が永遠に支配する、神権王国が完全に実現する王国となることを保証されました。
この契約については既に詳細に検討されているため、ここで詳しく説明する必要はありません。
神は今や神権王国を、神によって任命された王が支配する君主制へと進展させ、メシアがその形で計画を完成するために来られる、と述べておけば十分です。

F.預言者による神権政治

神に任命された最後の支配者ソロモンの後を継いだ王たちの治世下で国家が衰退するにつれ、預言者の役割の重要性が高まっていきました。
預言者は神に任命された神の代弁者であり、王たちに神のメッセージを伝えました。
王たちは時には従ったが、従わないことの方が多くありました。

ピーターズ氏はこのように述べています。
「王と祭司は預言者が最高の王の意志を直接明らかにしたという理由だけで、預言者の権威に屈することになりました。」[19]

預言者エゼキエルは、旧約聖書で神の臨在の象徴であったシェキーナの栄光の去りゆく様子を描いています。
シェキーナの栄光が神殿から去ったゆき、神はイスラエルの過去の歴史における神権王国の終わりを告げました。
そそいで、その王国を現すことになっていた国民と王たちは、その地から散らされました。
(エゼキエル書8章4節、9章3節、10章4節、10章18節、11章22節、23節)

「異邦人の時代」が始まり、その間、イスラエルはメシアが来るまで取り分けられます。
今や、将来の神権王国が預言者たちのメッセージの主要なテーマとなります。
小さな流れとして始まったその啓示の流れは今や大河となり、最終的に樹立される王国に関する知識で御言葉をあふれさせます。
これは、旧約聖書のほとんどがさまざまな預言者によって述べられています。
イザヤ書2章1~4節、4章2~6節、9章6、7節、11章1~13節、24章1~23節、32章1~5節、14~20節、33章17~24節、35章1~10節、40章1~11節、42章1~4節、52章7~10節、60章1~61章6節、65章17~25節、66章15~23節、
エレミヤ書23章1~8節、31章1~37節、33章14~26節、
エゼキエル書20章33、42節、34章20~31節、36章22~36節、37章1~28節、39章21~29節、43章1~7節、
ダニエル書2章31~45節、7章1~28節、9章1~3、20~27節、12章1~4節、
ホセア書3章4、5節、
ヨエル書2章28~3章2、9~21節、
アモス書9章9~15節、
オバデヤ書1章15~21節、
ミカ書4章1~5章5節、
ゼパニヤ書3章8~20節、
ハガイ書2章1~9節、
ゼカリヤ書2章1~13節、6章11~13節、8章1~8、20~23節、9章9、10節、12章1~10節、14章1~21節、
マラキ書3章1~5節、4章1~6節。
さらに,詩編でもくり返して述べられています。
詩編2編1~12節、22編1~21、27編31節、24編1~10節、45編1~17節、46編1~11節、48編1~14節、67編1~7節、72編1~17節、89編1~50節、96編1~13節、98編1~9節、110編17節。

これらの預言や他の預言は,王国の教理全体を進展させるために後で詳しく研究されますが,ここでは神権王国の預言的な先取りに関するいくつかの事実を見ることができます。

チェイファー氏は教えを要約して、王国が次のものであることを示しています。

a.神権政治の執行

王は「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」となります。
なぜなら、彼は人間の誕生によってダビデの王座の合法的な継承者となり、ベツレヘムの処女から生まれたからです。
イザヤ書7章14節、マタイによる福音書1章22、23節、イザヤ書11章1~5節、エレミヤ書23章5節、エゼキエル書34章23節、37章24節、ホセア書3章4、5節、ミカ書5章2節などです。

b.天の特質を持っています。

イザヤ書2章4節、イザヤ書11章4、5節、エレミヤ書33章14~17節、ホセア書2章18節などです。

c.エルサレムと世界中に存在しています。

最初に、インマヌエルの王国は地上に存在します・
詩篇2篇8節、イザヤ書11章9節、イザヤ書42章4節、エレミヤ書23章5節、ゼカリヤ書14章9節です。

二番目に、インマヌエルの王国はエルサレムを中心とします。
イザヤ書2章1~3節、イザヤ書62章1~7節、ゼカリヤ書8章20~23節です。

三番目に、インマヌエルの王国はイスラエルに再び集められ、改心させられます。

申命記30章3~6節、イザヤ書11章11、12節、イザヤ書14章1、2節、エレミヤ書23章6~8節、エレミヤ書32章37、38節、エレミヤ書33章7~9節、エゼキエル書37章21~25節、ミカ書4章6~8節などです。

四番目に、インマヌエルの王国は地上の諸国にまで広がります。
詩篇72篇11、17節、詩篇86篇9節、イザヤ書55章5節、ダニエル書7章13、14節、ミカ書4章2節、ゼカリヤ書8章22節などです。

d.帰還した王によって確立されます。

申命記30章3節、詩篇50篇35節、詩篇96篇13節、ゼカリヤ書2章10~13節、マラキ書3章1~4節などです。

e.霊的です。

王国は無形ではなく、
物質的なものではありますが、神の意志が支配と行動のあらゆる事柄に直接影響を及ぼすという点で、それは霊的なものでもあります。
神はすべての人に経験されます。

普遍的な世界は、完全な義と真実の聖さの中で行われています。
再び神の国は「ただ中に」にあります。

「『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。
いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」」
(ルカの福音書17章21節)


メシアなる王の御姿において現れ、七つの霊の恵みと力によって支配します。(イザヤ書11章2~5節)[20]

マクレイン氏は神権王国の預言的な期待を次のように要約しています。
「まず、その文字通りの意味についてですが、将来の王国は単なる理想的な王国ではありません。
それは歴史的なイスラエル王国と同じように文字通りの意味を持ちます。
最初から最後まですべての預言は、場所、性質、支配者、国民、関係する国家などの詳細において、文字通りの意味を持つことを主張し、暗示しています。
また、文字通りの王国を滅ぼし、取って代わるという事実、歴史的なダビデの王国の回復と継続として直接結びつくことなどについても述べています。
二番目に、その設立の時は何度も繰り返しますが間近に迫っているように思われます。
それは「もう少しで」来ます。
しかし、他の記述では、それは「多くの日」の後、はるか未来、「後の日」に来ると暗示されています。
三番目に、この将来の王国の支配者は人間であると同時に神でもあります。
彼は「人」、人の子、神の子、エッサイの子孫、ダビデの義なる枝、神、主なるヤハゥエ、不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれています。
四番目に、旧約聖書の預言に記されている王国は、君主制を体現しています。
支配者は「王座」に座り、政治は「彼の肩に」あります。
彼は権威を神から授かり、それを保持します。
政治のあらゆる機能は彼の人格に集約されています。
イザヤは彼を「裁き主」、「立法者」、「王」と呼んでいます。
第五に、外的な組織において、預言者たちは、仲介者である王を頂点とする王国を描いています。
この王と「君主たち」が関わり、「聖徒たち」が王国を所有し、イスラエル国家が優先的な立場を与えられ、国民にはすべての部族と国家が含まれます。
第六に、この王国の性質とそれが世界に与える影響について、預言者たちは皆、王国が完全に樹立されれば人間生活のあらゆる面に劇的な変化がもたらされ、その結果は「新しい天と新しい地」と呼ばれていることに同意しています。
旧約聖書の預言者たちは、仲介の王国をまず最初に霊的な事柄として描いています。
それは罪の赦し、霊的な清め、神の義の備え、新しい心と新しい霊、直接神を知ること、神の律法との内なる調和、すべての肉なる者への聖霊の注ぎ、そして人々の生活への喜びの回復をもたらします。
(エレミヤ書31章34節、23章5、6節、エゼキエル書36章24~28節、ゼカリヤ書8章20~23節、エレミヤ書31章33節、ヨエル書2章28節、イザヤ書35章10節)
王国はまた、その効果において道徳的なものとなります。
道徳的価値の適切な評価、道徳的不平等の調整が人間関係のあらゆる分野に広がります。
(イザヤ書32章5節、40章4節、エレミヤ書31章28~30節)
この王国の樹立は、社会的、経済的に大きな変化をもたらします。
戦争はなくなり、芸術と科学は経済的に利用されるようになります。
世界平和がもたらされ、すべての人々に社会正義がもたらされます。
(ゼカリヤ書9章10節、イザヤ書2章4節、9章7節、42章3節、65章21、22節、詩篇72篇1~4節、12~14節、ゼパニヤ書3章9節)
生命のより完全な肉体的側面も、この仲介の王国の影響を感じることになります。
病気は消滅し、長寿が回復されます。
死は、王国の法に反抗する、矯正不可能で頑固な個人主義者だけが経験することになります。
肉体的な生命に通常伴う危険は超自然的な制御下に置かれます。
地球は、風や波さえもその声に従う方の直接的な制御下に置かれます。
地質学的変化、気候の変化、土壌の肥沃度と生産性が大幅に向上します。
(イザヤ書32章14節、35章5、6節、65章20~22節、ゼカリヤ書14章3、4節、アモス9章13節、イザヤ書11章6~9節、32章15、16節)
いわゆる政治的領域において、国際紛争の解決のために中央当局が設立されます。
「シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ」…(イザヤ書2章3、4節、32章18節、アモス9章14、15節、エゼキエル書37章1以下、イザヤ書60章1~4節)
仲介の王国には教会的な側面も存在します。
至高の支配者は、御自身の中に王と祭司の職務を兼ね備えます。
教会と国家は、目的と行動において一つになります。
(詩篇110篇1~7節、エゼキエル書37章26~28節、43章1~7節、イザヤ書61章6節、66章23節、ゼカリヤ書14章16~19節)
これが、旧約聖書の預言に示された神の御国(神の御国)の本質です。
そしてここで私が言いたいのは、神の御国はあらゆる合法的な見解を満足させ、調和させるということです。
神の御国は、霊的、道徳的、社会的、経済的、物理的、政治的、そして教会的な側面を包含しています。
これらの側面のいずれか一つだけを取り上げて他の側面を否定することは、預言的な幻の幅を狭めることになります。」[21]

このように、主の臨在がイスラエルから去られ、神権国家が捕囚され離散したとしても、神権王国の樹立への期待が消え去ったわけではないことは明らかです。

ピーターズ氏は次のように述べています。
「預言者たちは声を揃えて、このように回復されたこの一つの王国を、最も栄光に満ちた付加物を表す言葉で描写しています。
彼らは詩篇作者からマラキに至るまで、倒された同じ王国の回復を預言しています。
それは、世界史上例を見ない祝福と栄光をもたらす、最も驚くべき出来事と結びついています。
神権政治によってダビデの王国が倒されて以来、これらの預言された出来事は描写通りには起こっておらず、したがって、預言された契約に基づく王国はまだ現れていません。
これらの付加物を受けるのは、倒されたまさにその王国であり、別の王国がそれを得るのではありません。
したがって、どれほど声高に宣言され、学識豊かに提示されたとしても、これらを欠いた王国は、私たちに受け入れられるべきではありません。
これらの追加は、その性質において非常に偉大であり、その特徴において非常に印象的であり、超自然的な介入を非常に明確に示しているため、この王国がいつ回復されるかを間違える人はいないはずです。
ダビデ王国の滅亡後、預言者たちはこの王国が未来のものであると預言しています。」[22]

NOTE

[1]George E. Ladd, Crucial Questions about the Kingdom of God, pp. 78-80.
[2]Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology, VII, 223.
[3]Ibid., II, 47-49.
[4]Earl Miller, The Kingdom of God and the Kingdom of Heaven, p. 14.
[5]G. N. H. Peters, The Theocratic Kingdom, I, 223.
[6]Cf. ibid., I, 216.
[7]Alva J. McClain, “The Greatness of the Kingdom,” unpublished classroom notes, p. 2.
[8]Charles Feinberg, Premillennialism and Amillennialism, pp. 163-64.
[9]John F. Walvoord, Bibliotheca Sacra, 110:5-6, January, 1953.
[10]Cf. Peters, op. cit., I, 161.
[11]Feinberg, op. cit., p. 160.
[12]Ibid., p. 54.
[13]Ibid., pp. 56-57.
[14]Peters, op. cit., I, 226.
[15]S. D. Press, “Kingdom,” International Standard Bible Encyclopedia, III, 1801.
[16]Peters, op. cit., I, 218.
[17]Ibid., I, 228.
[18]Ibid., I, 234.
[19]Ibid., I, 229.
[20]Chafer, op. cit., V, 334-40.
[21]McClain, op. cit., pp. 4-6.
[22]Peters, op. cit., I, 248.


第26章 新約聖書における王国計画

キリストの時代のユダヤ人が、旧約聖書の神権的な王国の約束が文字通り実現することを待ち望んでいたことは、よく知られた事実です。
次のように述べられています。
著名な著述家たち(ネアンダー、ハーゲンバッハ、シャフ氏、クルツなど)は、王国そのものに関するそれぞれの見解が何であれ、敬虔なユダヤ人も含めユダヤ人は、メシアの個人的な到来、ダビデの王座と王国の文字通りの回復、ダビデの王座におけるメシアの個人的な支配、その結果としてのエルサレムとユダヤ国家の高揚、およびその支配の千年王国の描写の成就を信じていたことを広く認めてきました。
また、ルカの福音書1章71節、使徒の働き1章6節、ルカの福音書2章26、30節などの発言には上記の信念が含まれており、少なくともペンテコステの日まで、ユダヤ人、弟子たち、そして使徒たちでさえもそのような見解を抱いていたことが認められています。
彼らは預言と契約による約束を文字通り(つまり、そのままの文法的意味)とみなしました。
そして、その成就を信じて、預言された王の威厳にふさわしい増大した力と栄光を伴ったメシアによるダビデ王国の復興を待ち望んでいました。
また、過去の敬虔な人々が死から蘇って同じ祝福を受けるとも信じられていました。[1]

I.キリストの初臨の時に提供された神権王国

キリストの最初の降臨の時に告げられた王国については、現在さまざまな見解があります。
リベラルな見解は、イエスがその時代の人々の社会的、政治的願望を取り入れ、旧約聖書の預言に基づいてイスラエルが期待していたものとほぼ一致する王国を告げたというものです。
しかし、イエスの生涯の中で、イスラエルがイエスが提供した王国を受け入れないことが明らかになったため、反対とその後の落胆のために、イエスはその期待を捨て去りました。
霊的な見解は、イエスが旧約聖書の預言者の霊的な要素を取り入れ、すべての政治的、国家的な側面を捨て去り、信じる者すべてに霊的な王国を約束したというものです。
新約聖書の研究によって裏付けられている文字通りの見解は、主イエスによって告げられ、提供された王国は、旧約聖書の預言者を通して預言されたのと同じ神権的な王国であったというものです。

A.旧約聖書の神政政治が提示しています。

イスラエルに提示された王国は、旧約聖書で予期されていた神政政治そのものでした。

ブライト氏はこのように述べています。
「神の王国について何度も言及しながらも、イエスは一度もその定義に立ち止まりません。
また、聞き手がイエスを遮って「先生、あなたがよく使う「神の王国」という言葉はどういう意味ですか」と尋ねることもありません。
むしろ、イエスはその言葉が理解されると確信しているかのように使い、実際その通りです。
神の王国はすべてのユダヤ人用語の中にあります。
彼らはそれを理解し、切望していたのです。」[2]

同じことが再び述べられているだけです。
新約聖書は、王国の告知を、それが以前からよく知られていたことを示す言葉で始めています。
王国の宣教、その簡潔な告知、その意味や性質を一切説明しようとしない姿勢、ユダヤ人に伝えられた言葉そのもの、これらすべては、王国がすべての人に馴染みのある主題であることを前提としていました。
バプテスマのヨハネ、イエス、そして七十人は皆、王国を、定義や説明なしに、聞き手がその意味を知っていることを示す方法で宣教しています。[3]

ブライト氏は、福音書で示された王国は預言者たちが予期していた王国と同じであると指摘し、次のように書いています。
「キリストの御業と教えの中には、預言的な神の御国のあらゆる側面が見出されます。
それは基本的に霊的なものであり、「人は新しく生まれなければ神の御国を見ることはできません」というものです。

その道徳的な側面は山上の垂訓で十分に述べられています。
「社会悪の是正は、キリストが神の御国の樹立を預言された時に、そのような悪すべてが超自然的な力によって厳しく排除されるという預言の中に示されています。
神の御国の教会的な性質は、キリストが両替屋を神殿から追い出す時に認められます。
もし一部の人々が言うように、神がイスラエルと神権政治の理念に見切りをつけたのであれば、なぜ、神殿を無視しなかったのでしょうか?
それどころか、イエスはユダヤの神殿を主張し、その行動を擁護するために神の御国の預言を引用します。

「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」
(マルコの福音書11章17節)


預言の王国の政治的側面さえも、マタイの福音書25章で重要な位置を占めています。
そこには、キリストが栄光の王座に座り、地上の諸国民を裁く御自身の姿が描かれています。
神の王国の物理的な側面については、新約聖書の、盲人が見えるようになり、足の不自由な人が歩くようになり、耳の聞こえない人が聞こえるようになり、らい病人が清められたという記録を読んでください。
超自然的な力によって大勢の人々が養われた記録を読んでください。
風や嵐や暴力の危険から救われた記録を読んでください。」[4]

B.メシアの認識

キリストは誕生と同時にメシアとして認識されました。
御使いはマリアにキリストの誕生を告げ、マリアの御子の働きについて明確に述べました。

「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
(ルカの福音書1章31~33節)

マリアが歌った感謝の賛美歌(ルカの福音書1章46~55節)からも、マリアが御使いの知らせをこのように理解していたことが分かります。
エリサベツは聖霊に動かされて(ルカの福音書1章41節)、主の誕生前に「私の主」の降臨を預言的に語りました。
(ルカの福音書1章43節)
「イスラエルの慰めを待ち望んでいた」(ルカの福音書2章25節)シメオンには、その事実が明らかにされ、キリストの御人格が明確に認識されました。
これは、彼の預言から分かります。(ルカの福音書2章29~35節)、
「エルサレムで救いを待ち望んでいた」(ルカの福音書2章38節)女預言者アンナは、現れたメシアによって自らの希望が実現するのを見ました。

博士たちは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(マタイの福音書2章2節)を捜し求め、自分たちの希望が実現する方を見つけたという神の証しを受けました。
マタイは、イエスをイスラエルのメシアとして紹介するために、その記録を系図から始めます。
それは、イエスが贖いの業を担うアブラハムの系譜だけをたどるのではなく、ダビデの系譜をたどり、支配の業を担うダビデの系譜をたどるものです。
イエスの誕生に関連するすべての出来事は、イエスがメシアであることを証明しています。

C.メシアは使者によって告げられました。

キリストの前には、神の御国の到来を告げる先駆者がいます。
主御自身の言葉(マタイの福音書11章13、14節、17章10~13節)によれば、バプテスマのヨハネの務めは、マラキ書(4章5、6節)が予期していた務めであり、イスラエルの王の到来を告げる務めでした。
ヨハネの言葉は重要です。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
(マタイの福音書3章2節)


彼は自分の心の中で神の御国の概念を定義することなく、神権政治の差し迫った到来を告げています。
ヨハネによって執り行われたバプテスマは、水をかけることによる清めの儀式であり、罪の告白に基づいており、メシアの到来を待ち望むものであり、祭司の血筋に生まれた者によって執り行われました。
それは、罪深さと必要性、そして旧約聖書の期待に沿う形でその必要を完全に満たしてくださる方の到来を待ち望む告白でした。
それは、ヨハネのようにメシアを待ち望んでいた人々を特定しました。

D.キリストによって告げられた神権政治

イエス・キリストは、御自身の宣教活動と弟子たちに託された宣教活動の両方において、神権政治の王国が近づいたことを告げられました。
伝令官の宣教活動が終わった後(マタイの福音書4章12節)、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイの福音書4章17節)と告げて公の宣教活動を開始しました。
十二使徒を遣わすにあたり、イエスは彼らに「天の御国が近づいた」(マタイの福音書10章7節)と宣教の使命を与えました。
七十人が遣わされ「『神の国が、あなたがたに近づいた。』と言いなさい」(ルカの福音書10章9、11節)と命じられました。
これらの使者たちに、御言葉が語られました。

「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。
あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。」
(ルカの福音書10章23、24節)


「近づいた」という表現は、王国が間近に迫っていることを告げています。
これは、王国がすぐに樹立されることを保証するものではなく、差し迫っていたすべての出来事が取り除かれ、王国が今や間近に迫っていることを意味します。

E.神権的なメッセージはイスラエルに限定されていました。

宣言された王国はイスラエルにのみにだけ告げられました。

「イエスはこの十二人を遣わし、彼らに命じて言われた。
「どんな家にはいっても、まず、『この家に平安があるように。』と言いなさい。
もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。
その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。」
(マタイの福音書10章5~7節)


「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」
(マタイの福音書15章24節)


だからこそパウロは、「神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。それは先祖たちに与えられた約束を保証するためであり、」(ローマ人への手紙15章8節)と言うことができたのです。
イスラエルが神権王国の実現を経験し、その王国と王によって諸国民が祝福を受けるまでは、アブラハム契約の普遍的な祝福が異邦人にも適用されることはあり得なかったのです。

F.神権的なメッセージはそれを確証しました。

御国の提供するものの真正さは、しるしと奇跡によって実証されました。

バプテスマのヨハネがキリストに「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」(マタイの福音書11章3節)と尋ねた時、ヨハネは、先駆者が拒まれればメシアを受け入れることはできないと感じていたはずです。

「イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。
だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」」
(マタイの福音書11章4~6節)

キリストが示したしるしは、神権政治の王に宿る力の証拠であり、王国にもたらされる祝福の現れでした。

ピーターズ氏は次のように的確に述べています。
「キリストの奇跡は神の御国と深く結びついており、互いに損なうことなく切り離すことはできません。
イエス御自身が「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」(マタイの福音書12章28節)と述べているように、これは次のことを示しています。

1.神の御国と奇跡の間には関係があり、後者がなければ前者は明らかにされません。
2.奇跡は、イエスが神の御国を樹立する時に行使する、神の力の現れです。
3.悪魔、つまりサタンを追い出す奇跡は神の御国と結びついた出来事であり、イエスを通してそれが成し遂げられることは、例えばヨハネの黙示録20章16節で預言されているように、このようにして証明されます。
4.イエスによる悪魔の追い出しの奇跡は、変貌のように、神の御国そのものの予感、期待、予告、もしくは予兆です。
したがって、奇跡は、預言されたとおりに神の御国が到来することを保証するものです。
イエスの奇跡は、神の御国という観点から見て非常に多様で意義深いため、神の御国の様々な要件と側面において、それらがどのように必要な確信を与えてくれるかは簡単に理解できます。
死者の復活は神の御国と結びついています。
死の鍵がキリストの帯にかかっていることは、(死者を蘇らせる)奇跡に示されています。
神の御国の継承者によって病気と死は追い払われます。
様々な病気を癒し、死に瀕した者を蘇らせる数々の奇跡は、それを行う力が存在することを証明します。
神の御国では、肉体の究極の完成が受け取ることができます。
これは、盲目、足の不自由、聾唖、唖の除去によって予告されます。
神の御国では、飢え、渇き、飢餓などが豊かさに取って代わられます。
何千人もの人々に食事を与える奇跡は、それを成し遂げると預言された力の証です。
その神の御国では、自然界は完全にメシアの支配下に置かれます。
魚が集まる奇跡、嵐が静まる奇跡、船が目的地に到着する奇跡、海上を歩く奇跡、魚が貢物を運ぶ奇跡、実を結ばないいちじくの木が枯れる奇跡、そして嘲笑の的となった水がぶどう酒に変わる奇跡は、この王国を建てる方が確かに自然を支配する力を持っていることを示しています。
霊的で目に見えない世界は、預言されているように、この王国と接触し、交流することになっています。
そしてイエスは、変貌の奇跡、悪霊にとりつかれた者の治癒、悪霊の軍団の追放、群衆の中を人目につかずに通り抜ける奇跡、そしてイエス自身の死、復活、昇天の奇跡によって、このことを証明しています。
実際、神の特別な働きによって形成されると預言されているこの王国の特徴で、それを実現させる力の片鱗によっても確認されないものはほとんどありません。
王国は、人間と自然から呪いを取り除き、新生した人間と自然に最も素晴らしい祝福を与えるために設計されています。
しかし、これらすべては、超自然的な力を行使してそれを成し遂げると言われる方を通して行われます。
したがって、計画そのものの展開の一部として、人間と自然を新生させる方が最初に来られる時、人間と自然に対する、それ以前のすべてのものよりも豊かで優れた力の現れが示され、神とその王国への私たちの信仰を確固たるものにすることが期待されるのは当然です。」[5]

したがって、主が行われたすべての奇跡は、メシアの神権的な力の証明であるだけでなく、神権的な王国が樹立されたときに存在するであろう状況を描写するものでもあると理解できます。

G.旧約聖書の預言と関連した神権を提供します。

御国に提供されたものの信憑性は、旧約聖書の約束に依拠することで実証されます。
主は幾度となく、疑問が提起されていた行動方針を説明する時に、旧約聖書におけるメシアの約束に依拠し、メシアが来臨の時に行うであろうことを自ら成就したことを示されました。
神殿を所有し、それを清めるという主の権利は、メシア的であると認められた詩篇(ヨハネによる福音書2章17節と詩篇69篇)に依拠することで正当化されます。
会堂におけるメシアの初公の出現は、メシアの働きを暗示するものです。
(ルカの福音書4章18、19節、イザヤ書61章1節)
約束された使者が主の前に現れたかどうかという疑問は、メシアに関する聖書の記述によって立証されています。
(ルカの福音書7章27節とマラキ書3章1節)
イエスがメシアとなる資格を有するかどうかという質問は、メシアの約束(ルカの福音書20章41~44節)の解説を伴います。
神殿の最終的な清めも、メシアの約束に訴えることによって正当化されます。(マタイの福音書21章13節、イザヤ書56章7節)
復活の宣教において、キリストは旧約聖書の預言者と御自身との関係を明確に示されました。(ルカの福音書24章25~27節)
こうした引用は、キリストが御自身の行動方針を説明するために、常に神権的な王国の約束に訴えていたことを示すのに十分です。

H.キリストとこの提供との関係
王国は王という人格において差し出されました。
主はこのように言われました。

「いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
(ルカの福音書17章21節)


主は、神の王国が人々の心の中にある霊的な王国であると主張しておられるのではありません。
そのような主張は神の御言葉の全体的な目的に反します。
主は、人々が待ち望んでいた王国が、王という人格において既に「近づいて」いたと主張しておられるのです。
合法的な王がそこにおられ、国民が悔い改め、キリストを神権的なメシアとして受け入れることだけが求められたのです。

I.提示の偶発性

神の御国の提示は偶発的な提示でした。
神はイスラエルという国が神の御国の提示にどのように反応するかを十分にご存じでした。
しかし、神権的な王国の樹立は、国民の悔い改め、バプテスマのヨハネを約束の先駆者として認めること、そしてイエス・キリストを神権的な王として受け入れることにかかっていました。

ブライト氏はこのように述べています。
「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」というキリストの最後通告に、多くの解説者がつまずいてきました。
唯一適切な説明は、主が明確に理解しているように、神の王国のメッセージが偶発的な性質を持つことを理解することです。
一言で言えば、神の王国が直ちに完全に確立されるかどうかは、神の約束と契約が属するイスラエル国民の態度にかかっていたのです。
主が御国のメッセージが偶発的な性質を持つことを明確に理解していたことは、バプテスマのヨハネとその華々しい経歴に対する主の評価から明らかです。
賢明なユダヤ人は皆、旧約聖書最後の預言者の最後の言葉が、御国の樹立の前兆としてエリヤの出現を預言したことを知っていました。
そしてイエスはマタイによる福音書第11章14節でヨハネについて、「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです」と宣言しています。
さらに後世、歴史的出来事がユダヤ民族の手によって主が拒まれ、殺されることが確実であると証明すると、主は再びヨハネに言及していますが、今や運命は決まっています。
「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです」(マタイによる福音書第17章11節)と主は弟子たちに保証し、さらにこのように付け加えています。

「しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。
ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。」
(マタイによる福音書第17章12節)


ここに、王国に関する新約聖書終末論の最も不可解な問題の一つを解く鍵がある、と私は躊躇なく言えます。
それは、地上に仲介王国が直ちに樹立されるかどうかは、イスラエルの態度次第だったのです。[6]

旧約聖書と旧約聖書の両方において、神権王国の祝福は個人の悔い改めとメシアからの新しい心の受け入れにかかっていました。
旧約聖書の神権支配においてさえ、不信者と汚れた者は、信仰を持ち準備された民との交わりから切り離されていました。
これは使徒の働きの中でペテロが民に悔い改めを呼びかけたときに明確に示されています。(使徒の働き2章38節、3章19節)

J.忠実な提示

この王国の提示は、それでもなお誠実な提示でした。
もしそれが真実な提示でなければ、神が神権的な王国を提示することは嘲笑に等しいでしょう。

ピーターズ氏はこのように述べています。
「この王国は誠意をもって国民に提供されました。
つまり、国民が悔い改めたならば授けられたはずのものです。
国民の自由意志に基づく限り、結果が予知されていたとしても、提供の是非は関係ありません。
結果は自発的な選択から生じたものでした。
国民の不信仰は神の忠実さを変えることはなかったのです。
(ローマ人への手紙3章3節)
この使命を他の見方でとらえることはキリストの使命を軽視することになります。
また、国民が受け入れることを願うイエスの誠実さと願いは、エルサレムへの涙、エルサレムへの呼びかけ、絶え間ない働き、十二使徒と七十人を派遣すること、そして哀れみと愛の働きに見ることができます。
したがって、ユダヤ人には王国を受け入れる特権が与えられており、もしそれに伴う条件が満たされていたならば、ダビデの王国はメシアのもとで最も輝かしい形で再建されていたはずです。[7]
最初の降臨において王国が真実に提供されたことは、十字架を軽視し、神の救済計画の成就の余地を残さないと主張する人々が多くいます。」[8]

この主張に対しては、神権的な王国の提供と拒絶こそが神の永遠の目的を現実に達成するための神の計画であったと言えます。
キリストの死を通して救済という神の目的を成し遂げたのは、イスラエルに提供された王国を拒んだことでした。

ピーターズ氏は的確にこのように述べています。
「血を流すことによってどのように贖罪が成されたのかという質問は、この提示の誠実さとは全く関係がありません。
なぜなら、「神の豊かな知恵」は、他の時期に遡って、もしくはそれ以前に備えておくことによって、もしくは私たちには分からない他の方法で、この緊急事態に対処できたはずだからです。
実際、神の目的、神の明確な計画は、国民の予見された自発的な選択によって形作られました。
神は哀れみを与えようとしていましたが、国民の堕落がその賜物を阻みました。
国民が信じていたならば、神の御国は設立されていたであろうことは、申命記32章、歴代誌第二7章12~22節、イザヤ書48章18節、詩篇81篇8~16節などから明らかです。
ローマ人への手紙におけるパウロの議論は、国家には選択の力があり、国家は故意に悪を選び、神は哀れみによって異邦人の救いのためにその堕落を覆したという仮定に基づいて展開されています。
彼らがつまずき、堕落したのは、必然性によるものではなく、神の目的がそれを要求したからでもなく、ただ彼ら自身の不信仰によるものでした。
そして、全知なる神の計画は、それを予知された結果として受け入れ、それに応じた備えをしていたのです。」[9]

たとえそれが受け入れられないことが予知されていたとしても、神は真摯な提示をなさるという原則は聖書にも認められています。

チェイファー氏は次のように指摘しています。
「この最初の王国の提示は、カデシュ・バルネアでの出来事によって型として示されていました。
すでに砂漠の苦難を味わっていたこの同じ民は、そこで約束の地にすぐに入るための機会を与えられていました。
しかし、選択を迫られたにもかかわらず、彼らは入ることができず、再び40年間荒野をさまよい、さらなる裁きを受けることになりました。
彼らは祝福のうちにその地に入ることができたかもしれません。
神は彼らがそうしないことを知っていました。
それでも、祝福が延期されたのは、彼ら自身の選択によるものでした。
後に彼らは荒野での裁きと苦難を経験した後、再びその地へと導かれました。
しかし、今回は彼らの選択とは関係がありません。」[10]

旧約聖書はまずイエスの苦しみが、その後に栄光が訪れると預言していたため、この提示は真実な提示ではなかったと主張する者もいます。[11]
この順序は必然的に死を先にもたらすため、神の御国への真実な提示はあり得なかったと主張する者もいます。
預言者たちは、この出来事を、偶然の順序ではなく、拒絶という光の中で、現実に起こった順序で見ていたことを指摘するだけで十分です。
この順序は、提示の真正性に反するものではなく、提示の拒絶が神の望まれた目的を達成するための定められた手段であったことを示しています。
主もヨハネもイスラエルに地上の王国を約束したのではなく、霊的な王国だけを約束したと主張する人もいます。[12]
このような見解は、ヨハネ、主、そして弟子たちが説いた「王国」の本質を全く理解していません。
彼らが説いたのは、旧約聖書が約束し、イスラエルが期待していたまさにその王国であり、概念に何の変化もなかったという事実が証明されています。

II.マタイが記録した神政王国の提示と拒絶

マタイによる福音書の執筆目的は、イエス・キリストがメシアとして示されたこと、イエスと彼が提示した王国に対するイスラエル国民の反対、そしてイスラエルによるその王と王国の公式かつ最終的な拒絶を記録することでした。
マタイによる福音書の主題を分析することで、この議論の軌跡をたどります。
これは、王国の概念と計画全体と極めて重要な関係にあるからです。

マタイによる福音書には、
(1)王の紹介と認証(1章1~11章1節)
(2)王への反対(11章2~16章12節)
(3)王の最終的な拒絶(16章13節~28章20節)という3つの主要な動きがあります。

A.王の誇示と証明

マタイは福音書の最初の部分を、イエスがイスラエルの救世主として誇示され、証明されたことに費やしています。(1章1~11章1節)

1.この区分の最初の部分は、イスラエルの王の描写です。(1章1~4章11節)

その中でマタイは、王の到来(1章1、2章23節)を描写し、王位継承権を示すために王の系譜(1章1~17節)を描写し、処女懐胎を通して王位継承権の法的根拠を示すために降臨(1章18~2章23節)を記しています。
王の誕生時に与えられた名前(1章24、25節)は、民を平和と安息の地と生活へと導いたヨシュアと王を結びつけています。
王の幼少期(2章1~23節)には、異邦人からの敬意(2章1~12節)とユダヤ人からの拒絶(2章13~15節)が描かれています。
さらにマタイは、王の使節(3章1~12節)を描写し、預言的な聖書の成就を示しています。
この提示に続いて王の承認(3章13、4章11節)が続きます。
この部分でマタイは、メシアが神に承認されたこと、また、サタンに対する勝利の証(4章1~11節)を記録しています。
この勝利で、メシアの支配の道徳的権利が確立されます。

2.この部分の第2節では、マタイは王の宣言(4章12~7章29節)を記録しており、そこでは王の司法権が確立されています。

王権は、人々を従順に導く能力において示されています。(4章12~22節)
王の資格証明は王によって提示されます。(4章23~25節)
王の宣言(5章1節~7章29節)は王権を実証しています。
イエスとヨハネは、神の御国が近づいていることを告げました。
奇跡によって、その告げられた神の御国への入るための条件が何であるかを群衆は知りたがっています。
山上の垂訓は、この待ち望まれた神の御国への入るための条件をより詳細に説明するために語られました。
御国の民が描写され(5章1~16節)、王と律法の関係が確立され(5章17~20節)、律法の要求に関するパリサイ人による誤った解釈が暴露され(5章21~48節)、パリサイ人の誤った行いが明らかにされます。(6章1~7章6節)
御国に入ろうとする者たちには、祈り(7章7~11節)、真実な義(7章12節)、御国に入る道(7章13、14節)、偽教師(7章15~23節)、そして二つの土台(7章24~29節)について指示が与えられます。

3.福音書のこの部分の第三部は、王の権威(8章11~11章1節)を示し、メシアとしての立場を確証するものです。

メシアの権威は、らい病人(8章1~4節)、中風患者(8章5~13節)、高熱病患者(8章14、15節)を癒すという病の領域において証明されています。
また、悪霊の領域(8章16、17節)、人間の領域(8章18~22節、9章9節)、自然の領域(8章23~27節)、罪の領域(9章1~8節)、伝統の領域(9章10~17節)、死の領域(9章18~26節)、そして闇の領域(9章27~34節)においても示されます。
これらすべての権威の示しは、メシアとしての立場を確証するためのものでした。(9章35節)
この権威の最終的な証明は、イエスがこの権威を他者に委任できるという点に見られます。(9章35~11章1節)
この権威の委任は、イエスがメシアとしての特権を最も強く示す証拠となります。
なぜなら、権威を持つ者だけが、その権威を他者に委任できるからです。
福音書のこの部分において、メシアは憐れみに駆り立てられ(9章35~38節)、弟子たちを召命し(10章1~4節)、彼らに任務を与えます。(10章5節~11章1節)
弟子たちに託されたメッセージ(10章5~15節)は、イスラエルの失われた状態(10章6節)ゆえに、イスラエルのみに向けられたメッセージ(10章4、5節)であることが示され、ヨハネとキリストが宣べ伝えたメッセージ(10章7節)と同じメッセージを中心に展開され、イエスがメシアであることを証明した同じしるしによって実証されるはずでした。(10章8節)
この宣教は、イスラエルへの宣教の延長であり、イエスが彼らに伝えた同じメッセージの告知に他なりません。
御国のメッセージは、ヨハネがそれを宣べ伝えた時と同じように受け入れられたはずです。
彼らは宣べ伝えたために迫害され、拒まれるのです。(10章16~23節)
しかし、彼らは御父の特別な配慮の対象であるという点で慰められるべきです。(10章24~33節)
この働きのために分裂が生じるとしても(10章34~39節)、彼らの宣教と、彼らから宣教を受ける人々には報いが与えられます。(10章40~42節)
マタイは福音書の中でここまで、国民に一人の人物を慎重に示してきました。
その人物の法的権利、道徳的権利、司法的権利、そしてメシアの王座に対する預言的権利が証明されました。
この主張を裏付ける完全な証拠が提示されています。

B.王への反対と拒絶

マタイによる福音書の第二部は、イスラエル国民による王への反対と拒絶について述べています。(11章2節~16章12節)

1.まず、マタイは拒絶の始まり(11章2~27節)を描いています。

それは先駆者であるヨハネへの反対(11章2~15節)から始まり、批判的な立場(11章16~19節)へと続き、不注意な者への反対(11章20~24節)で頂点に達します。
マタイの福音書11章20節の「それから」という副詞は、キリストに対するこの態度から生じる、キリストの宣教における重点の変化を示しています。
こうした反対にもかかわらず、幼子のような者への招待が差し伸べられています。(11章25~30節)

2.次に、マタイは権威者たちとの論争をたどります。

最初の論争は安息日に関するもの(12章1~8節)、二番目は同じく安息日に関するもの(12章9~21節)、三番目は悪霊にとりつかれた者の癒しに関するもの(12章22~37節)です。
この奇跡によって、メシアはサタンの力と権威によって仕えていると非難されます。
キリストは、サタンの王国に分裂はあり得ないことを示してこの非難を反論します。(12章25、26節)
また、悪魔払い師たちはサタンの力によって非難されているわけではありません。(12章27節)
これはメシアの権威の証明として解釈されるべきです。(12章28節)
この論争全体に続いて、聖霊によるキリストの御人格への証しを拒む罪の重大さについて、厳しい警告が与えられます。(12章31~37節)
四番目の論争(12章38~42節)は、キリストがメシアであることを示すさらなる証拠を求めることを中心に展開されます。
この論争の結論はマタイの福音書12章43~50節に示されています。
そこでキリストは、イスラエルが御自身に支えられていたような自然な関係を否定し、これから確立される信仰に基づく新しい関係を予期しています。
この論争全体を通して注目すべきは、国民の前にただ一つの本質的な質問が投げかけられているということです。
「この人は、ダビデの子なのだろうか。」(12章23節)

3.マタイは拒絶の結果を描いています。(13章1~52節)

この章のたとえ話の中で、メシアはイスラエルによるメシアの拒絶を踏まえた神の御国計画の展開を要約し、イスラエルがメシアを拒んだ時点から、イスラエルが将来の再臨においてメシアを受け入れるまでの期間を要約しています。

4.マタイは、国家による拒絶の頂点を描いています。(13章53~16章12節)

ナザレでの拒絶(13章53~58節)、ヘロデによる拒絶(14章1~36節)、そして、
シロフェニキアの女の娘の癒しのしるし(15章21~28節)、多くの人の癒しのしるし(15章29~31節)、そして四千人に食事を与えるしるし(15章32~39節)があったにもかかわらず、律法学者とパリサイ人(15章1~39節)はメシアを拒絶しました。
最終的な拒絶はパリサイ人とサドカイ人(16章1~12節)によって行われ、その結果、ヨナのしるし、つまりメシアの死と復活のしるし以外の、イスラエルへのあらゆるしるしは撤回されました。
このように、マタイによる福音書のこの部分全体(11章2~16章12節)は、メシアに対する前進的なな反対の記録です。
それはまずメシアの先駆者への反対、そしてメシア自身への反対として現れました。
この反対は、メシアと国の指導者たちとの間の公然たる対立という形をとりました。
この反対と予期された拒絶の結果、メシアは拒絶から受け入れられるまでの御国の計画を要約します。
反対は国内のさまざまな党派による公然たる拒絶にまで進展し、ついには国民がイエスを救世主として受け入れる可能性はなく、イエスの死は必然であることが明らかになった。

C.王の最終的な拒絶

福音書の第三部では、イスラエルによるメシアの最終的な拒絶が描かれています。(16章13節~28章20節)

1.この部分でマタイは、この拒絶を考慮して、メシアによる弟子たちの準備について述べています。(16章13節~20章34節)

弟子たちには啓示が与えられます。
イエスの来るべき死を念頭に置いたイエスの御人格(16章13~16節)
続いて、教会に対するイエスの計画(16章17~20節)、イエスの死の計画(16章21~26節)、そして神の御国に対する計画(16章26節~17章21節)が啓示されます。
変貌は、人の子が栄光のうちに来られることの啓示であり(16章27節)、メシアが栄光のうちに再臨し、神の御国を樹立されることの、縮図的かつ早熟な描写として理解されなければなりません。(ペトロの手紙第二1章16~18節)
マタイは、メシアの死を念頭に置いたイエスの指示を示しています。(17章22~20章34節)
この節には、迫害(17章22、23節)、息子の特権(17章24~27節)、謙遜(18章1~5節)、罪(18章6~14節)、懲戒(18章15~20節)、赦し(18章21~35節)、離婚(19章1~12節)、子供の受け入れ(19章13~15節)、富(19章16~26節)、奉仕(19章27~20章16節)、イエスの死(20章17~19節)、野心(20章20~28節)、メシアの権威(20章29~34節)に関する指示があります。

2.この区分の二つ目の箇所で、マタイは王の正式な登場と拒絶を記録しています。(21章1節~27章66節)

この節では、ダニエル書9章24~27節で予告されているメシアの到来の時と一致する、王の凱旋入城(21章1~17節)における正式な登場が記されています。
神殿の清め(21章12、13節)は、メシアが父の名において父の神殿を所有するために行動していることから、メシアの正式な登場の更なる部分です。
病人の癒し(21章14節)は、メシアの権威が示された、更なる正式な登場です。
メシアとしての正式な登場の最後の行為は、民衆からの称賛を受け入れることです。(21章15~17節)
この正式な登場の後、メシアはエルサレムから撤退しました。(21章17節)
これは、メシアが国民から拒まれたことを考えると、重要な行為です。
これに続いて、メシアはいちじくの木に呪いをかけます。(21章18~22節)
聖書においていちじくの木はイスラエルの民を象徴するために用いられているため、この呪いは、メシアがイスラエルの民を拒んだため、メシアが彼らを退けた行為として解釈されます。

3.この区分における第三の動きは、国家との最終的な対立です。(21章23~22章46節)

祭司と長老たちとの対立(21章23節)では、神の権威をめぐる問題が取り上げられています。
この悲劇的な対立は、三つのたとえ話によって描写されています。
二人の息子のたとえ話(21章28~32節)は、ヨハネの宣教に対する彼らの態度を示しています。
家の主人のたとえ話(21章33、46節)は、神御自身に対する態度を示しています。
そして、結婚の婚宴のたとえ話(22章1~14節)は、神の御国に入るよう招かれたことに対する彼らの態度を示しています。
ヘロデ党員との対立(22章15~22節)は、税金の問題をめぐる対立です。
サドカイ派との対立(22章23~33節)は、復活の問題をめぐる対立です。
パリサイ派との対立(22章34~46節)は、律法の解釈の問題をめぐる対立です。

4.4番目の動きは、イスラエル国民がキリストとその王国を拒んだためにキリストに拒まれたこと(23章1~39節)へと私たちを導きます。

この章は、パリサイ人に対する災いの宣告を記録しており、それは裁きの宣告(23章33節)と荒廃の最終的な宣告(23章38節)で最高潮に達します。

5.この拒絶は王の預言(24章1~25章46節)をもたらし、この部分でイスラエル国家の出来事の時系列が展開されます。

弟子たちが町と国家の将来について尋ねると、イエスは患難時代(24章4~26節)、再臨(24章27~30節)、そしてイスラエルの再集結(24章31節)について語ります。
時系列の展開は中断され、用心深くあるようにというたとえ話による指示が与えられます。(24章32~51節)
出来事の時系列は、イスラエルへの裁き(25章1~13節、25章14~30節)と異邦人への裁き(25章31~46節)に関する啓示で再開され、救われた者だけがメシアの再臨に続く千年王国に入ることが示されます。

6.6番目の動きは、王の受難の描写です。(26章1~27章66節)

王の死に先立つ出来事が描写されています。(26章1~27章32節)
死期の告知(26章1、2節)、陰謀(26章3~5節)、塗油(26章6~13節)、裏切り(26章14~16節)、過越祭の遵守と聖餐の制定(26章17~30節)、ペテロによる否認の預言(26章31~35節)、園での経験(26章36~46節)、メシアの逮捕と裁判(26章47~27章32節)
この裁判で、裁判所が問うべき唯一の問題は、イエスが神の子、メシアであるかどうかでした。(26章63節)
イエスの死と埋葬の出来事が要約されています。(27章33~66節)
十字架刑自体にも、ユダヤ人が処刑しようとしていたのがメシアであったことを示す証拠となる出来事が数多くあります。
「ユダヤ人の王、万歳!」と叫んだ兵士たちの嘲笑は、このことを物語っています。
衣服が裂かれたこと(27章35節)は、メシア詩篇の成就とみなされ、この出来事はメシア御自身と関連しています。
十字架の銘刻(27章37節)も、このことを物語っています。
イエスが嘲笑されたこと(27章40節)は、イエスがメシアの力を主張したためでした。
祭司たちが嘲笑したこと(27章42、43節)は、イエスがメシアだけが人々に提供できる救いを人々に提供したという事実に対するものでした。
超自然的な暗闇(27章45節)、イエスの唇から発せられる叫び(27章46節)、そして酢の供え物(27章46節)は、詩篇作者がメシアの死について預言した事柄の成就です。
イエスの死に伴う奇跡(27章45節、51節、52節)は、イエスが真実に神のメシアであったことの証拠と見なすことができます。
イエスの埋葬(27章57~60節)は、旧約聖書のメシアに関する核心部分であるイザヤ書53章の成就です。
墓に封印を求めるという命令(27章62~66節)には、指導者たちがイエスがメシアであることを知っていたにもかかわらず、墓が空っぽであれば自分たちの判断が誤っていることが証明されるのではないかと恐れ、墓を可能な限り安全にしようとしていたことが、かすかに暗示されています。
イスラエルとの契約を成就するというイエスの目的が一見失敗に終わったように見えるキリストの死と埋葬でさえ、メシアの証しに満ちています。

7.福音書のこの部分の最後の楽章は、王のメシア的権利の証明、つまりメシアの復活(28章1~20節)の記録です。

空の墓(28章1~8節)と復活後の出現(28章9、10節)は、メシアがメシアであることの十分な証拠であり、空の墓を説明するために作り話が作り出されるほどです。(28章11~15節)
イスラエルはキリストの人格に関する偉大なしるしを与えられてきました。
弟子たちへの最後の使命(28章16~20節)は、キリストのメシア的権威の最後の証明です。
マタイによる福音書は、イスラエルにメシアを紹介し、メシアに対する国民の態度を記録するために書かれました。
この書の第一段階は、メシアの紹介と承認に関するものです。
メシアは、王座に対する法的、道徳的、司法的、そして預言的な権利を有することが示され、これらの権利は王によって奇跡によって完全に承認されます。
第二段階は、イスラエル国民によるメシアへの反対と拒絶です。
この反対は、国民による公然たる拒絶へと進展します。
この拒絶の結果、新しい時代のための奥義的な計画が明らかにされます。
第三の大きな段階は、メシアの死において拒絶が頂点に達することです。
十字架につけられたのはユダヤ人の王でした。
十字架につけられた方の復活は、メシアのすべての主張が神によって承認され、メシアとして承認されたことを意味します。
イスラエルはメシアを拒んだため、メシアが来られて国を救い、すべての人からメシアとして迎えられ、栄光のうちに支配するまで、彼らは罪を負うことになります。

III.神政王国の提示の撤回

イスラエルによる拒絶後に延期されました。
マタイによる福音書の主題をたどっていくと、主のイスラエルへの宣教における転換点は12章にあることが示されました。
そこでは、イスラエルがキリストを拒んだという宣言に基づき、キリストがイスラエルを拒絶し、王国の提示を撤回したことが記録されています。
ギャバライン氏は11章と12章の出来事について次のように述べています。
「これはこの福音書における大きな転換点であり、それとともに、主がイスラエルに王として提示されたこと、そして王国の提示が撤回されたのです。」[13]

バーンハウス氏は、マタイによる福音書12章14、15節に記録されている出来事の重要性について次のように述べています。
[15]
「宗教指導者たちの心の中の憎しみは、イエスを滅ぼすために会議を開くほどにまで達していました。
その時、劇的で重大な出来事が起こりました。
私たちはそれを見逃してはいけません。

「パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。
イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。」
(マタイの福音書12章14、15節)


それはイスラエルにとって悲しい日でした。
イスラエルのメシアが民から退かれた時、彼らの胸には苦い思いしか残らなかったのです。」[14]

国民が主を拒んだため、主は国民と結びついていたあらゆる自然の絆を断ち切ると宣言しました。(マタイの福音書12章46~50節)
主が国民の拒絶を告げられたこの言葉から、神の御国への提示の撤回という明確な動きが見て取れます。
主はたとえ話(マタイの福音書13章1~50節)の中で、王の不在期間における神権的な王国の進展計画を要約し、全く新しく、予期せぬ、そして予期せぬ計画、つまり教会の設立を告げられます。(マタイの福音書16章13~20節)
主は弟子たちに、イスラエルに関する神の御国計画が長期間延期されることを告げられます。(ルカの福音書19章11~27節)
主は再臨を約束され、その時にイスラエルにおける神の御国計画が再開されます。(マタイの福音書24章27~31節)
そして、再臨を告げるしるしを国民に示されます。(マタイの福音書の福音書24章4~26節)
主は弟子たちを新しい時代の働きに備えさせ(ヨハネの福音書14~16章)、遅れて入るものの、御国にあずかることを約束されました。
(マタイの福音書19章28~30節、ルカの福音書22章28~30節)
主は弟子たちに、キリストが再臨して御国を樹立されるという、縮小された、そして時期尚早の姿さえも示されます。
(マタイの福音書16章27~17章8節)
このように、主は弟子たちを、御国の計画が完成する前に、御国の提示を取り下げ、新しい計画と時代を確立するために備えさせておられることがわかります。
主の公の宣教において、神の御国への提示が撤回されたことを宣言する一連の告知がなされます。
国の指導者たちへの災いの告知(マタイの福音書23章)は、彼らが裁き以外には何も期待していないことを意味します。
主の宣言は最終的なものです。

「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。
わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。
それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。
あなたがたに告げます。
『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」
(マタイの福音書23章37~39節)

「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
(ルカの福音書19章42~44節)

「人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」
(ルカの福音書21章24節)

「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。
『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』
だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」
(マタイによる福音書21章42、43節)


神の御国が今や与えられる「国民」については、二つの解釈があります。

(1)第一の解釈は、「国民」という言葉を「世代」と理解し、この聖句を次のように解釈します。
つまり、この世代に提供されている神の御国は、もはやこのイスラエルの世代には提供されず、キリストの降臨前の未来に生き、行いによってメシアの来臨への信仰を示すイスラエルの世代に提供される、ということです。
つまり、当時提供されていた神の御国は、再臨に先立ってイスラエルにも再び提供されるということです。
これは、神の御国の福音が再び宣べ伝えられ、イスラエルの残された民に受け入れられるという約束(マタイの福音書24章14節)と一致しています。

(2)第二の解釈は、「国民」という言葉を異邦人を指して解釈します。
キリストの死後、福音は彼らに伝えられ、神の御国の計画(マタイの福音書13章の奥義の計画)は、再臨において最終的に実現されるまで、彼らを通して展開されるのです。

ピーターズ氏は次のように書いてこの見解を述べています。
「神の目的が達成されないことを防ぐために、ユダヤ民族に与えられたこの神の王国は、他の養子に与えられるべきものです。
この王国は、アブラハムの子孫との契約による約束によって組み込まれています。
その子孫は選ばれますが、契約で明らかにされた神の目的が国民の不信仰と堕落によって達成されないことのないよう、それに伴う条件によって王国を拒み、アブラハムのもとに別の子孫が起こされなければなりません。
その子孫に、特別な意味で王国が与えられます。」[15]

また、約束によってアブラハムの合法的な子孫であるユダヤ民族にのみ属する王国は、接ぎ木された民族には与えられなかったのです。
神の約束は確かなので、この民、この国家は、アブラハムの選ばれた子孫と接ぎ木され、組み込まれなければなりません。
このように貴重な御言葉が無駄になるよりは、神は必要であれば石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことができるのです。
(マタイの福音書3章9節)
しかし、そのような結果を生み出すために奇跡的な介入に頼る代わりに、神はキリストへの信仰を通して異邦人を接ぎ木し、アブラハムに義と認める信仰によって彼らをアブラハムの子孫とみなすことによって、アブラハムの子孫を異邦人から起こすのです。[16]
どちらの見解を採用するにせよ、主の言葉は、イスラエルが主をメシアとして拒んだため、その時代のイスラエルへの王国の提示が撤回されたことを告げるものです。

ピーターズ氏は次のように述べています。
「イエスは、宣教活動の終わりごろ、神の御国はまだ近づいていないと説教しました。
国の代表者たちが会議を開き、イエスを死刑に処そうと陰謀を企てた直後、イエスは最初の使命から解放されると、説教のスタイルも変化しました。
神の御国が国に近づいていると宣言する代わりに、イエスは今や、まだ近づいていないことを直接的に暗示し、宣言しました。
マタイによる福音書21章43節の「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」という言葉は、すでに決定的な意味を持っています。
しかし、より明確な告知があります。
例えば、ルカの福音書19章41~44節では、王国の到来ではなく、恐ろしい災いが迫り来るという恐ろしい脅しが示されています。
また、マタイの福音書23章37節、38節では…彼らの王国が到来するどころか、彼らの悔い改めない状態ゆえに、離散と街の滅亡が決定されます。
ルカの福音書21章31節では、国の代表者たちが現実にイエスの死を予期したため、提示は撤回され、王国の到来が延期され、彼らにはまだ近づいていないことが、王国が再び近づく前に起こるいくつかの出来事の列挙によって直接的に述べられています。
これらの出来事はどれも、彼らの発言からペンテコステの日までの間には起こりません。
したがって、王国は樹立されなかったのです。
ルカの福音書19章11~27節は、私たちの命題を力強く証明しています。
イエスがこのたとえ話を語ったのは「彼らは神の御国がすぐに現れると思っていたから」です。
このたとえ話は、神の御国がすぐに現れるのではなく、不特定の期間が経過した後に現れることを示すために語られています。
キリストは、宣教活動の終わりごろになって初めて、御自身の苦しみと死を公然と預言しました。
(マタイの福音書の福音書20章17~20節、ヨハネの福音書12章32~34など)
これは意図的に行われたことです。
キリストが拒まれ、滅ぼそうとする企てがなされた時、キリストは神がこの拒絶を踏まえてさらに意図していたことを自由に展開し、それを覆すことができました。」[17]

NOTE

[1]G. N. H. Peters, Theocratic Kingdom, I, 183.
[2]John Bright, The Kingdom of God, pp. 17-18.
[3]Peters, op. cit., I, 181.
[4]Alva J. McClain, “The Greatness of the Kingdom,” unpublished classroom notes, pp. 7-8.
[5]Peters, op. cit., I, 89-90.
[6]McClain, op. cit., pp. 8-9.
[7]Peters, op. cit., I, 377.
[8]Cf. Oswald T. Allis, Prophecy and the Church, pp. 74-75.
[9]Peters, op. cit., I, 378.
[10]Lewis Sperry Chafer, The Kingdom in History and Prophecy, p. 56.
[11]Cf. Allis, op. cit., p. 75.
[12]Philip Mauro, God’s Present Kingdom, pp. 172-73.
[13]Arno C. Gaebelein, The Gospel of Matthew, I, 234.
[14]Donald Grey Barnhouse, His Own Received Him Not, But…, pp. 114-15.
[15]Peters, op. cit., I, 386.
[16]Ibid., I, 396.
[17]Ibid., I, 379-83.


第27章 現代における王国計画

神がその全体的な神権的王国計画の進展を継続しておられることは、マタイの福音書13章のたとえ話の研究において既に示されました。
旧約聖書では、メシアが地上に来臨し、王国を提示してから、それが受け入れられるまでの間に、長い期間が経過することは全く知られていません。
マタイの福音書13章のたとえ話は、メシアが最初の降臨の時にイスラエルに拒まれたことから、再臨の時にイスラエルにメシアとして受け入れられるまでの、神権的王国の進展の全過程を明らかにしています。

ルカの福音書19章11~27節を解説する中で、ピーターズ氏はこの計画全体を展開しています。
彼はこのように書いています。
「イエスがこのたとえ話を語ったのは、「彼らは神の御国はすぐに現れるはずだと思っていたから」です。
イエスの返答には、ユダヤ人が神の御国についての考えを誤っていた、もしくは現代の考えが正しければ神の御国は既に到来し、設立されていた、といった暗示は一切ありません。
もしそうであれば、イエスの返答はひどく的外れなものとなります。
しかし、神の御国についての正しい概念においては、この返答は見事に一貫性があり、力強く表現されています。
なぜなら、彼らが待ち望んでいた神の御国、つまりメシアなる神の御国がまだ未来にあると信じていたことが間違っていたという断言は一切ないからです。(あり得ないことですが)
彼らはただ、「神の御国はすぐに現れるはずだ」という、慎重に宣言された意見において間違っていたのです。
このたとえ話は、神の御国がすぐに設立されるというこの信念を正すために語られていますが、それは不特定の期間が経過した後にのみ、というものです。
というのは、イエスは御自身を貴族として表し、王国の権利を持つ者として「遠い国に行き」(御自身の称号を確認し)「王国を受け取って帰って来る」とあります。
イエスが留守の間、イエスのしもべたちは「私が来るまでそこに住みます」。
そして、はっきりとは述べられていない期間が過ぎ、イエスが王国を受け取って支配に着く時期が来ると、イエスは戻って来られ、裁きが下されます。
そして、イエスを拒んだ者たち(「この人に王座を継がせるつもりはない」と言って)は滅ぼされます。
ここで、

(1)ユダヤ人たちは王国が今や現れると考えていた。

(2)しかし、それは近づいていなかった。
なぜなら、

a)イエスは去られるからです。
b)彼らはイエスが差し出した支配を拒んだからです。
c)しかし、イエスに忠誠を誓う者たちはイエスが戻るまで「そこに住み」なければならなかったからでです。
d)イエスが留守の間、支配権を受けるために去られたため、王国は存在しなかったからです。

(3)イエスは戻って来て、獲得した力を…自らの王国の樹立において明らかにするからです。

こうしてキリストの不在と「出現と王国」が明らかになります。」[1]

神権王国とこの現代との関係は、神権王国の民であるイスラエルと現在の計画との関係に見ることができます。
これはローマ人への手紙11章に示されています。
パウロはそこで神の働きをたどりながら、いくつかのことを述べています。
神はイスラエルを捨て去ってはおられません。(1、2節)
なぜなら、神は常に御自身のために残された民を保っておられます。(3、4節)
そして、恵みの選びに従って、今もなお残された民が存在しているからです。(5節)
国民イスラエルは、裁きとして盲目にされました。(7節)
この盲目は旧約聖書において予期されていました。(8~10節)
このイスラエルの盲目化を通して、神は異邦人に対する計画を制定されました。(11、12節)
その中で、自然の枝が祝福の場所から取り去られた後(13~16節)、野生の枝、つまり異邦人が祝福の場所に接ぎ木されました。(17~24節)
しかし、異邦人が満ち足りた後、つまり異邦人との約束が完了された後、神はイスラエルを再び祝福の場に導き入れ(25~29節)、その国に救いをもたらします。(26節)
なぜなら、それは神の取り消し不可能な契約だったからです。(27~29節)
この救い(26節)は、旧約聖書においてイスラエルに約束された救いであり、メシアが千年王国を樹立した時に実現することになっていました。
ゆえに、パウロは、イスラエルが拒まれた後、つまり、差し出された御国が拒まれたために、神は異邦人を祝福の場に導き入れ、その計画が現代まで続いていることを示しています。
その計画が完了すると、神はメシアの再臨の時に神権王国を発足させ、契約で定められたすべての祝福を成就させます。
このように、新約聖書全体を通して、御国はすでに確立されたものとして説教されているのではなく、依然として待ち望まれているのです。
使徒の働き1章6節で、主は、まだ来ていない王国に対する弟子たちの期待が間違っていたからと彼らを叱責したのではなく、その王国の時期は、たとえ将来であっても、弟子たちには分からないとだけ述べたのです。

ペンテコステにおける教会の設立と恵みの時代の始まりの後、イスラエルに神権的な王国計画が提示されたと考える人は多くいます。

スコフィールド氏は使徒の働き3章19~21節を解説して次のように述べています。
「ここでの呼びかけは、ペテロの最初の説教(使徒の働き2章38、39節)のように個人ではなく、ユダヤ人全体に向けた国民的な呼びかけです。
ペテロの最初の説教では、心を刺された者たちが邪悪な民の中から自分の事を救うよう勧められましたが、ここでは全民に語りかけられており、国民の悔い改めへの約束は国民の救済です。
「そして神はイエス・キリストを遣わし」、預言者たちが預言した時をもたらします。
公式の回答は使徒たちの投獄と説教の禁止であり、ルカの福音書19章14節を成就しました。」[2]

ペッティンギル氏はこのように述べています。
「使徒の働きの最初の数章で、キリストはユダヤ民族に王国を樹立するもう一つの機会を与えたでしょうか?
はい。
使徒の働き3章17~21節にその提示が記されています。」[3]

この見解は多くの優れた聖書研究者によって共有されている。
しかし、キリストが拒まれた後、再臨の前に神の御国の福音が宣べ伝えられるまでは、神の御国が再び提供されることはなく、また提供され得ないという見解を堅持する理由もあるように思われます。

(1)マタイの福音書24章とルカの福音書21章でキリストが言及した、神の御国が設立される前に起こるはずだったすべてのしるしは成就していなかったため、使徒の働きでは神の御国が再び提供されることはありません。

(2)ペテロは、キリストがその時神の御国を再建することはできないという神の原則を確立しました。
彼はキリストについて「あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません」(使徒の働き3章21節)と述べています。
この時代とその計画は、キリストの不在中に進行します。

(3)ペンテコステの日に教会が設立され、その計画のすべてを伴うため、当時は神の御国が提供されることは不可能となりました。

(4)キリストの新しい命令「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒の働き1章8節)は、御国の設立に先立っていなければならない御国の福音とは一致しません。

(5)御国の提示は、王の臨在なしには正しく行うことはできません。
主は昇天の際、教会のために御業を始められ、その計画が完了するまでそれを続けなければならないので、主の臨在を必要とする御国の提示はできません。

(6)ペテロが命じたバプテスマ(使徒の働き2章38節)は、ヨハネのバプテスマのもう一つの例として御国の提示と関連付けることはできません。
なぜなら、このバプテスマは「イエス・キリストの名によって」行われるからです。

これは新しい時代と関係があり、古い時代と関係がありません。
使徒の働き2章でペテロがヨエル書を引用し、千年王国における聖霊の満ち満ちた時代を約束していることから、ペテロはイスラエルに再び神の御国を差し出していると主張する人もいます。
しかし、ペテロが彼らの目の前の経験をヨエルの預言の成就として引用し、彼らが神の御国にいるとみなすべきだと言っているのではなく、むしろ、イスラエルが聖書を通して知っていた、聖霊による満ちるという経験が可能であることを実証するためにヨエルの預言を引用している、と理解する方が適切だと思います。。
ヨエル書の引用のクライマックスは「しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる」(使徒の働き2章21節)という言葉です。
ペテロが復活したキリストを通して宣べ伝えているのは、まさにこの救いです。
「すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(使徒の働き2章36節)
このように、ペテロは彼らに悔い改めてバプテスマを受けるよう呼びかけます。

アイアンサイド氏は次のように説明しています。
「そこでペテロは「態度を変えなさい」と言います。
彼は、罪の宣告を受けているこの国から目に見える形で彼らを引き離す行動をとるよう彼らに呼びかけます。」[4]

「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」
(使徒の働き2章38節)


バプテスマは、彼らをイスラエル共同体から連れ出し、キリスト教共同体の一員と認めさせる行為でした。
この段階に進む前に、キリストに対する態度に関して完全な心の変化が必要です。
使徒の働きにおいて、御国の再提供を証明するもう一つの箇所は、使徒の働き3章19~21節のペテロの箇所です。
この箇所では、足の不自由な人の癒しの出来事がもたらした影響により、ペテロはイスラエルに対し、イエス・キリストに関するもう一つの宣言を行う特権を得ています。
神は「そのしもべイエスに栄光をお与えになりました」(使徒の働き3章13節)ので、ペテロはイスラエルの民に対し、神への思いを変えるよう、つまり「主の御前から慰めの時が来るように」(直訳)悔い改めるよう呼びかけています。
この「慰めの時」は、使徒の働き3章20節で再臨が強調されていることから、メシアの支配の実現と関連しているはずです。
千年王国の祝福はキリストの再臨と切り離しては成り立たず、その出来事はイスラエルの民の救いと悔い改めを伴うという、旧約聖書で確立された原則は新約聖書でも同じ様に適応できます。
ペテロの訴えは、このような根拠に基づいてなされています。
ペテロの説教は神の御国を再び提供するものではありませんが、十字架につけたキリストに対する国民の心を変える責任を強調するものです。

アイアンサイド氏はこのように付け加えています。
「「イスラエルが主に立ち返るなら、主イエスが再び来られ、全世界に清めをもたらす時が早まるのです。」
これは今も真実です。
哀れな世界にとっての最終的な祝福は、イスラエルの悔い改めにかかっています。
イスラエルの人々が悔い改めて神に立ち返る時、彼らは全世界に祝福をもたらす者となります。」[5]

そこでペテロは、いかなる形の祝福を受ける前にも国民が常に求められてきたこと、つまり神に立ち返ることを彼ら一人ひとりに求めているのです。
ゆえに、王が不在のこの現代において、神権王国は、地上に現実に樹立されたという意味では、休止状態にあります。
しかし、それは神の決定的な目的として存続しています。
パウロは「神の王国を宣べ伝えていた」(使徒の働き20章25節)時に、この目的を宣言しました。
信者は新生を通して「愛する御子のご支配の中(王国)」(コロサイ人への手紙1章13節)に導かれました。
未信者は、その王国にあずかることはできないと警告されています。
(コリント人への手紙第一6章9、10節、ガラテヤ人への手紙5章21節、エペソ人への手紙5章5節)
他の人々はパウロと共に「神の王国のために」働いたことが知られています。(コロサイ人への手紙4章11節)
信者は「あなたがたを神の国にふさわしい者とするため」ために、苦しみを受けるよう命じられました。(テサロニケ人への手紙第二1章5節)
パウロは「天の御国に救い入れて」保たれることを望んでいました。(テモテへの手紙第二4章18節)
こうした言及は、疑いなく永遠の王国と関連しており、信者がそこにおいて果たす役割を強調するものです。
教会が御言葉のすべての預言を成就する地上の王国であるという説を支持するものではありません。

1.イスラエルに神権王国が提供されました。

ヨハネ(マタイの福音書3章3節)、特別な任務を与えられた弟子たち(マタイの福音書10章7節)、七十人(ルカの福音書10章9節)、そして主(マタイの福音書4章17節)によって告げられた「御国の福音」は、約束された御国が「近づいた」という良い知らせを宣べ伝えました。
主は、この同じ良い知らせが再び告げられることを暗示しておられます。

「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」
(マタイの福音書24章14節)


最初の再臨の知らせはイスラエルに限定されていましたが、再臨の前には、イスラエルだけでなく全世界に告げられるのです。

患難時代(ヨハネの黙示録7章)の残されたの信者による説教、また二人の証人(ヨハネの黙示録11章)やエリヤ(マタイの福音書17章11節)による説教は、神権王国計画の実現における最終段階の始まりを示しています。

II.再臨時に設立される神権王国

御使いの告知は、次のような言葉で神権王国の樹立を告げています。

「「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、
言った。「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。」
(ヨハネの黙示録11章15~17節)

「また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。」
(ヨハネの黙示録14章6節)

「彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」」
(ヨハネの黙示録14章7節)


「永遠の福音」とは、神の永遠の目的が今まさに成就しつつあるという告知です。
永遠の福音は、神の御国の福音と本質的に同じです。
それは、神の永遠の目的である王国を樹立するために王が近づいているという良い知らせです。

ケリー氏は永遠の福音について次のように述べています。
「マタイはこれを「御国の福音」と呼んでいます。
「御国の福音」と「永遠の福音」は本質的に似ています。
ヨハネの黙示録においてこのように表現されているのは、神の御心の中に、傷つけられた女の子孫を通して敵を打ち砕き、地上の人間自身を祝福することが常にあるからです。
マタイは、自らの意図に従って、むしろこれを「御国の福音」と呼んでいます。
なぜなら、キリストは世界の創造以来備えられていた御国の王となるからです。」[6]

世界は王の権威に服従し、神への礼拝が捧げられます。
合法的な王の祈りが捧げられ、答えられました。(詩篇2篇8節)
そして、神の名において地を所有する神に主権が与えられました。
この神権的な王国が絶対的に必要になる理由はいくつかが挙げられます。

(1)神の御性質の完全性を保つために必要です。

ピーターズ氏は次のように書いています。
「神御自身が設立されたような神権王国が、この地上に恒久的に、そして栄光のうちに再建されないならば、神の支配の樹立に向けた努力と、そこに示された神の関心は、永続的な成果をもたらさないという結果になります。
言い換えれば、神自身の王国は失敗に終わったということです。
神の名誉、威厳などは、直接この回復に関係しています。
そうでなければ、全能の神が、人間のせいで成し遂げられなかった働きを引き受けたと言われることになります。」[7]

(2)神が地球上で完璧な支配を成し遂げるという目的を達成するために必要です。

これは事実と真実における神政政治です。
なぜなら、この再編された王国において、私たちは神政の理念、つまり神の完全な支配の理念が完全に完成されているのを見るからです。
支配権は、人間性と神性を自ら一体化する唯一の位格に、安全、かつ力強く宿ります。
そして、「永遠の契約」と「ダビデの確かな慈しみ」(イザヤ書55章3、4節)に従って、「諸国の主、司令官」となります。[8]

(3)神とその創造物、超自然と自然の間の本来の調和を回復することが必要です。

王国は、かつて自然と超自然の間に存在していた本来の調和を回復し、現れさせることを目的として設計され、聖書はそのような調和をもってその王国で締めくくられています。
超自然なしには王国は生まれません。
なぜなら、預言されているように、超自然的な方法で備えられた超自然的な王と、超自然的な変革の力を経験した支配者が必要だからです。
この構想と準備段階、そして最終的な現れにおいてさえ、王国は神と分かち難く結びついています。
王国と超自然は決して切り離すことはできません。
超自然的な起源を持ち、超自然の力によって栄光を与えられたイエスが、救いのために再び来られる時、その超自然の力は、この王国のために、最も驚くべき方法で行使されます。[9]

(4)その力はは地球にかけられた呪いから地球を救うために必要です。

預言者たちは声を揃えて、この王国が樹立され、そこで人は罪と悪から完全に解放されるであろうと宣言します。
この王国が樹立されるのは、罪によってもたらされる呪いから、人間と自然が幸いにも救われるためです。
罪によって、人々は苦しみ、嘆き悲しむのです。[10]

(5)それは、神がイスラエルと結んだ永遠の契約をすべて成就するために必要です。

地上の神権王国なしには、イスラエルに国土の所有、国家の永続、その国家を通しての普遍的な祝福を約束したアブラハム契約は成就しません。
王国なしには、イスラエルにダビデの血統の王、その王が支配する王座または公認の権威の座、そして王が支配する民または王国を約束したダビデ契約は成就しません。
その王国なしには、イスラエルに国土の所有とそれを所有することによる祝福を約束したパレスチナ契約は成就しません。
その神権王国なしには、イスラエルに改心、新しい心、そして神の祝福の満ち溢れを約束した新しい契約は成就しません。

(6)これは、堕落した人類に最終的な試練を与えるために必要です。

人は最も理想的な環境に置かれます。
外的な誘惑の源はすべて取り除かれ、サタンは縛られ、あらゆる欲求が満たされ、貪欲なものがなくなる中で、千年王国に堕落した罪深い性質を持って生まれる人々を通して、人は堕落し、裁きを受けるに値することが示されます。
王の目に見える臨在と、王から与えられるあらゆる祝福にもかかわらず、千年王国の終わりに反逆することで、人々の心の腐敗が証明されます。
(ヨハネの黙示録20章7~9節)

(7)キリストが支配する王国において、キリストの栄光を完全に現すことが必要です。

この主題をあらゆる角度から見ると、預言されたような神権政治は適切、かつ必要になります。
契約、神の忠実さ、地球の運営などから導かれる理由に加え、王イエスの屈辱、苦難、そして死の舞台が、彼の高揚と栄光の証となることは、実に適切であるように思われます。
聖書は、私たちに示された嘆願に加えて、キリストが栄光に満ちた者として公然と目に見える形で認められる時が来ることを示しています。
キリストは第二のアダムとして愛によって自分の事を代身し、新たに始まった運命において人類の有効なかしらです。
キリストは贖い主として神の償いを捧げ、神の正義を尊び、今や救いの成果を現実に示しています。
キリストは預言者として償いを教え、今や御前で行われた業によって証明された真理として御自身を現しています。
祭司として受け入れられるささげ物を捧げ、今やその収穫として世に示し、王として、神との結合の力によって、そして導きや支えなどによってそれを示して、今や主権者としての特別な定めによってこれを現します。
つまり、この神権政治とは、再び人と共に住み、近づきやすく、イエスを絶対的なかしらとする神の回復が行われます。

それはまさに世が必要としているものであり、人々が長年待ち望んできたものであり、ダビデの子が苦しみ死を遂げた世において、彼に栄誉と栄光を与えるものです。
神の子でありダビデの子であるイエスの過去の扱いと短い滞在は、勝利の帰還と、彼が救う人々の間で権力を握ることを保証し、神権政治的な意味でのインマヌエル、つまり「我らと共にいる神」という名を確証するものです。[11]

NOTE

[1]G. N. H. Peters, Theocratic Kingdom, I, 382.
[2]C. I. Scofield, Reference Bible, p. 1153.
[3]William Pettingill, Bible Questions Answered, p. 114.
[4]Harry A. Ironside, Lectures on the Book of Acts, p. 68.
[5]Ibid., p. 93.
[6]William Kelly, The Revelation Expounded, p. 173.
[7]Peters, op. cit., II, 125-26.
[8]Ibid., II, 123.
[9]Ibid., I, 80-81.
[10]Ibid., I, 102.
[11]Ibid., II, 129.


第28章 千年王国に関する聖書の教義

千年王国という主題については、他のどの主題よりも多くの預言的聖書が捧げられており、その特徴と条件を進展させています。
神の目的が地上で完全に実現されるこの千年王国は、多大な注意を払う必要があります。
そこで、この神権王国の本質的な事実と特徴を聖書そのものから導き出す試みがなされます。
千年王国については多くのことが記されていますが、聖書に明確に啓示されているものこそが、この期間の本質と特徴を理解するための唯一の真実な指針となり得ます。

1.千年王国とイスラエルの契約

この時代において、神がイスラエルと結ばれたすべての契約が完全に成就することを示すために、これまで多くのことが語られてきました。
ここでは、地上の王国がそれらの契約の完全な成就と見なされ、千年王国がそれらの契約を成就するために必要に迫られて設立されたことを聖書から示すだけで十分です。

A.アブラハム契約

アブラハム契約における国土と子孫に関する約束は、千年王国において成就します。
(イザヤ書10章21、22節、19章25節、43章1節、65章89節、エレミヤ書30章22節、32章38節、エゼキエル書34章24、30、31節、ミカ書7章19、20節、ゼカリヤ書13章9節、マラキ書3章16~18節)
イスラエルの永続性、国土の所有、そして祝福の相続は、直接この契約の成就と関係しています。

B.ダビデ契約

ダビデ契約における王、王座、王家に関する約束は、千年王国においてメシアによって成就されます。
(イザヤ書11章1、2節、55章3、11節、エレミヤ書23章5~8節、33章20~26節、エゼキエル書34章23~25節、37章23、24節、ホセア書3章5節、ミカ書4章7、8節)
イスラエルが王国を持ち、ダビデの子が王として支配しているという事実は、このダビデ契約に基づいています。

C.パレスチナ契約

パレスチナ契約における国土の所有に関する約束は、千年王国においてイスラエルによって成就されます。
(イザヤ書11章11、12節、65章9節、エゼキエル書16章60~63節、36章28、29節、39章28節、ホセア1章10~2章1節、ミカ2章12節、ゼカリヤ書10章6節)
これらの国土の所有に関する記述は、パレスチナ契約の成就を約束するものです。

D.新しい契約

新しい契約の約束である、新しい心、罪の赦し、聖霊の満たしは、千年王国において改心した民において成就します。
(エレミヤ書31章31~34節、32章35~39節、エゼキエル書11章18~20節、16章60~63節、37章26節、ローマ人への手紙11章26~29節)
イスラエルが受けるすべての霊的な祝福は、この契約の成就です。
このように、千年王国時代には神がイスラエル国家に約束したことがすべて完全に成就することがわかります。

II.サタンと千年王国の関係

再臨後すぐに、サタンは千年間縛られます。
ヨハネはこのように書いています。

「また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。
彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。
サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。」
(ヨハネの黙示録20章1~3節)


サタンは、この時代の神(コリント人への手紙第二4章4節)として、神の目的と計画を打ち砕くために活動を続けてきました。
千年王国は、神の義が示される時代となるべきです。(イザヤ書11章5節、32章1節、エレミヤ書23章6節、ダニエル書9章24節)
また、最も理想的な状況下で、堕落した人類に対する神の最終的な試練の時代となるべきです。
人間がサタンの影響から離れて、真実な姿を明らかにするために、あらゆる外的な誘惑の源は取り除かれなければなりません。
義が完全に現れ、外的な誘惑から離れて人類が試練を受けるためには、サタンをこの世から排除しなければなりません。
それゆえ、再臨の時、サタンは縛られ、千年王国の全期間にわたってこの世から排除されるのです。

III.キリストと千年王国の関係

主イエス・キリストの御自身の臨在なしには、地上の神権王国は存在し得ず、また存在し得ないことは明らかです。
この時代全体は、約束されたように主が地上に再臨されることにかかっています。
千年王国に存在するすべてのものは、現された王に起源を持つのです。
いかにして呪いは取り消され、いかにして死は克服され、いかにして人間と自然に関わるあらゆる恐ろしい悪は取り除かれ、言葉では言い表せないほど偉大な祝福が得られるのです。
これらすべては、メシアの治世下にあるこの王国において、かつて世界が目撃したことのない、そして弱く死ぬべき人間の限られた力の理解を超えた、強大な超自然的力の現れなしには実現されることはありません。
聖書に明白に示されている真理があるとすれば、それは、今は廃墟となっているものの、後にダビデの子によって壮麗に再建されたダビデの幕屋であるこの王国は、全能の力の最も驚くべき現れなしには実現できません。[1]
千年王国は、全時代が依存しているキリストの現れから切り離して存在することはできません。

A.千年王国におけるキリストに与えられた名前と称号

キリストが千年王国と多様な関係を維持していることは、その期間中にキリストに与えられた多くの名前と称号に見て取ることができます。
それぞれが、その時代のキリストの人格と働きに関するいくつかの事実を示しています。

枝(イザヤ書4章2節、11章1節、エレミヤ書23章5節、33章15節、ゼカリヤ3章8、9節、6章12、13節)
スコフィールド氏は次のように述べています。
キリストの名前は次の4つの意味で用いられています。
(1)「ヤハゥエの枝」(イザヤ書4章2節)、つまりキリストの「インマヌエル」の特徴(イザヤ書7章14節)は、神の栄光のうちに再臨された後(マタイの福音書25章31節)、回復され改心したイスラエルに完全に表されます。
(2)「ダビデの枝」(イザヤ書11章1節、エレミヤ書23章5節、33章15節)、つまり「肉によればダビデの子孫」(ローマ人への手紙1章3節)のメシアであり、王の王、主の主として地上の栄光において表されます。
(3)ヤハゥエの「しもべ、枝」(ゼカリヤ書3章8節)、イザヤ書52章13~15節、53章1~12節、ピリピ人への手紙2章5~8節によれば、メシアは死に至るまで屈辱を受け、従順になります。
(4)「その名は若枝」(ゼカリヤ書6章12,13節)つまり、人の子、「最後のアダム」、「第二の人」(コリント人への手紙第一15章45~47節)としての御性質が、最初のアダムに与えられ、そして失われた支配権において、祭司であり王として地上を支配します。

万軍の主(イザヤ書24章23節、44章6節)、
汝の神(イザヤ書52章7節)、
われらの義なる主(エレミヤ書23章6節、33章16節)、
年を経た方(ダニエル書7章13節)、
主(ミカ書4章7節、ゼカリヤ書14章9節)、
いと高き方(ダニエル書7章22~24節)、
神の子(イザヤ書9章6節、ダニエル書3章25節、ホセア書11章1節)、
ヤハゥエ
イザヤ書2章2~4節、7章14節、9章6節、12章6節、25章7~10節、33章20~22節、40章9~11節、
エレミヤ書3章17節、23章5、6節、
エゼキエル書43章5~7節、44章1、2節、
ヨエル書3章21節。
これらの名前はすべて、支配する唯一の者が本当に神であることを示すものです。
したがってその支配は正当に神権政治と呼ぶことができます。

エッサイの杖(イザヤ書11章1節、11節)、
人の子(ダニエル書7章13節)、
しもべ(イザヤ書42章1~6節、49章1~7節、53章11節)、
若枝(イザヤ書53章2節、エゼキエル書17章22~24節)は、メシアの人間性と、人々との関係ゆえに人々を支配する権利を強調するために使用されています。

メシアの王権は、次のような名前で描かれており、王座に対する権利と王座に伴う王権が彼に帰せられています。
王として
イザヤ書33章17節、22節、44章6節、2章2~4節、9章3~7節、11章1~10節、16章5節、24章21~26章15節、31章4~32章2節、42章1~6節、42章13節、49章19節、51章4、5節、60章12節、
ダニエル書2章44節、7章15~28節、
オバデア書17~21節、
ミカ書4章1~8節、5章2~5、15節、
ゼパニヤ3章9、10節、3章18、19節、
ゼカリヤ書9章10~15節、14章16、17節。
裁き主として
イザヤ書11章3、4節、16章5節、33章22節、51章4、5節、
エゼキエル34章17、20節、
ヨエル書3章1、2節、ミカ書4章2、3節。
立法者として(イザヤ書33章22節)、
君主なるメシアとして(ダニエル書9章25、26節)、
主の主として(ダニエル書8章25節)。

人々に救いをもたらす贖い主としての王の働きとして、下記のような名称で強調されています。
贖い主(イザヤ書59章20節)、
義の太陽(マラキ書4章2節)、
門を打ち破る者(ミカ書2章13節)、
羊飼い(イザヤ書40章10、11節、エレミヤ書23章1節、3節、エゼキエル書(34章11~31節、37章24節、ミカ書4章5節、7章14節)
主は私たちの義であり(エレミヤ書23章6節、33章16節)、
石(イザヤ書28章16節、ゼカリヤ3章9節)、
光(イザヤ書60章1~3節)。
このように、メシアは御名を通して、神の御子であり人の子であり、贖いの業を行い、神の御国時代を通して支配する者として示されています。

B.千年王国におけるキリストの現れ

預言書は、メシアの再臨に伴う数々の働きと現れについて述べています。
再臨の事実は明確に確立されています。
イザヤ書60章2節、61章2節、
エゼキエル書21章27節、
ダニエル書7章22節、
ハバクク書2章3節、
ハガイ書2章7節、
ゼカリヤ書2章8節、
マラキ書3章1節。
キリストの来臨は、アブラハムの子として現れするものです。
創世記17章8節、
マタイの福音書1章1節、
ガラテヤ人への手紙3章16節。
神の名においてパレスチナの地を所有し、アブラハムの子孫によって王国を樹立するものです。
イエスはダビデの子として現れ、王座の合法的な継承者として王座に就き、支配します。
ルカの福音書1章32、33節、
マタイの福音書1章1節、
イザヤ書9章7節。
イエスは人の子として現れ、王国の始まりとその時代を通して裁きを執行します。
使徒の働き1章11節、
ヨハネの福音書5章27節。
イエスは神の神権的な王として現れ、義の王(イザヤ書32章1節)、イスラエルの王となります。
(ヨハネの福音書12章13節)
そして彼は王の王(ヨハネの黙示録19章16節)であり、全地の王となります。
(ゼカリヤ書14章9、ピリピへの手紙2章10節)そして、イエスは御子なる神として現れます。
(イザヤ書9章6節、詩篇134篇3節、ヘブル人への手紙1章8~10節)
ゆえに、「神の幕屋が人とともにある」(ヨハネの黙示録21章3節)と言えるのです。

これらの現れにおいて、イエスは
贖い主
イザヤ書59章20、21節、62章11節、
マラキ書4章2節。
裁き主
イザヤ書61章2節、62章11節、63章1節、
ダニエル書2章44~45節、7章9、10節。
聖徒への報い主
(イザヤ書62章12節)、
教師
イザヤ書2章3節、
ゼカリヤ書8章22節。

イザヤ書33章17~22節、40章9~11節、52章7節、
ダニエル書2章45節、7章25~27節、
ミカ書5章2~5節、
ゼパニヤ書3章15節。
預言者
申命記18章15節、18節。
立法者
イザヤ書33章22節、
創世記49章10節。
羊飼い
イザヤ書40章10、11節、
エレミヤ書23章1節、3節、
ミカ書4章5節、7章14節。
としての働きをします。
千年王国は、主イエス・キリストの栄光が完全に現れる期間です。[3]

キリストの人性に関連する栄光の現れがあります。
栄光に満ちた主権の栄光があり、その中でキリストは、死に至るまで従順であったことにより、アダムが失った主権に代わる普遍的な主権を与えられ、栄光に満ちた支配権を与えられ、ダビデの子であるキリストに絶対的な支配権が与えられます。
イザヤ書9章6節、
詩篇45篇4節、
イザヤ書11章4節、
詩篇72篇4節、2篇9節。
栄光に満ちた相続の栄光があり、その中でアブラハムに約束された地と子孫がキリストを通して実現されます。
創世記17章8節、15章7節、
ダニエル書11章16節、41節、8章9節。
そこには栄光ある司法の栄光があり、キリストが代弁者として神は、時代を通して神の御心と律法を告げ知らせます。
申命記18章18、19節、
イザヤ書33章21、22節、
使徒の働き3章22節、
イザヤ書2章3、4節、42章4節。
そこには栄光に満ちた家と王座の栄光があり、キリストはダビデの子として、ダビデに約束されたこと(サムエル記第二7章12~16節)を、その支配において成就されます。
イザヤ書9章6、7節、
ルカの福音書1章31~33節、
マタイによる福音書25章21節。
そこにはキリストが支配する栄光に満ちた王国の栄光があります。
詩篇72篇、
イザヤ書11章10節、
エレミヤ書23章6節、
ゼカリヤ書3章10節、
イザヤ書9章7節。
主イエス・キリストの神性に伴う栄光も現れます。
主の全知性が認められます。
(イザヤ書66章15~18節)
主の全能性は、時代を超えて存続します。
イザヤ書41章10、17、18節、
詩篇46篇1、5節。
主は神として礼拝されます。
詩篇45篇6節、
イザヤ書66章23節、
詩篇86篇9節、
ゼカリヤ書14章16~19節。
義が完全に現れます。
詩篇45篇4、7節、98章2節、
ダニエル書9章24節、
イザヤ書1章27節、10章22節、28章17節、60章21節、63章1節、
マラキ書4章2節。
神の慈しみが完全に示されます。
イザヤ書63章7~19節、54章7~10節、40章10~13節、
ホセア書2章23節、
詩篇89篇3節。
神の慈しみもまた、キリストを通して示されます。
エレミヤ書33章9、15節、
ゼカリヤ書9章17節、
イザヤ書52章7節。
神の御心はメシアを通して完全に啓示され、地上で成就されます。
(マタイの福音書6章10節)
神の聖さはメシアを通して明らかにされます。
イザヤ書6章1~3節、
ヨハネの黙示録15章4節、
エゼキエル書36章20~23節、
イザヤ書4章3、4節、35章8~10節、
エゼキエル45章1~5節、
ヨエル書1章10節、
ゼカリヤ書2章12節。
王を通して神の真理が栄光のうちに現されます。
(ミカ書7章20節、イザヤ書25章1節、61章8節)
こうして、王を通して神の属性が完全に示され、キリストが神として栄光を受けるのです。

IV.千年王国の霊的な特徴

無千年王国論者は、神の御国についての自らの見解を極めて「霊的」な見解として称賛し、地上の祝福の文字通りの物質的成就を要求する千年王国前再臨主義を軽視します。
ある人はこのように述べています。
「彼らが宣言した王国の本質とは何だったのでしょうか?
ヨハネとイエスによってユダヤ人に与えられた王国は、エッサイの子ダビデの王国に似た地上の王国であったというのが、すべてのディスペンセーション主義者の主張です。
ヨハネとイエスが告げた王国は、最初に、そして本質的に、道徳的かつ霊的な王国でした。
イエスはピラトに「わたしの王国はこの世のものではありません」(ヨハネの福音書18章36節)と宣言しました。
もし、イエスがディスペンセーション主義者が言うような王国を樹立するために来られたなら、ピラトにこのように答えることはできなかったはずす。
少なくとも、イエスの言葉は「わたしの王国は今はこの世のものではありません」という意味に解釈されるべきです。
なぜなら、ディスペンセーション主義者の見解によれば、それは世の王国であり、イエスがユダヤ人に提示し、もし彼らが受け入れる意志があれば与えたであろう、ローマの強制的な転覆を伴う王国だったからです。」[4]
このように、無千年王国論者は神の王国を「霊的な」王国と捉え、千年王国前再臨主義者はそれを「肉体的」もしくは「物質的」なものとしか見ていないと論じられます。
このような解釈は、千年王国の霊的な見方と千年王国における霊的な現実、もしくは霊的な王国と霊的な王国の見方を区別することができません。
神権王国は千年王国に与えられる多くの物質的な祝福を強調しているものの、地上に存在するにもかかわらず、本質的には霊的な王国です。

ピーターズ氏は次のように述べています。
「この王国は、世界を支配する目に見えるものではありますが、必然的に霊的なものでもあります。
この命題は、私たちが聖書において神の御国に与えられている単純な文法的意味を保持することに固執するあまり、甚だしい肉欲などと非難されている以上、なおさら必要とされています。
霊性のない、純粋に物質的で自然主義的な神の御国は非聖書的ですが、同じ様に、物質的もしくは自然的なものの聖化された結合を欠いた、完全な霊的な神の御国は、神の御言葉に完全に反するものです。」[5]

A.正義を特徴とする王国

ウッドリング氏はこのように書いています。
「「義人」だけが御国に入ることができます。

「すると、その正しい人たちは、答えて言います。」(マタイの福音書25章37節)

イスラエルについても同じ様に「あなたの民はみな正しくなり、とこしえにその地を所有しよう」(イザヤ書60章21節)と記されています。
シオンの門は開かれ、「誠実を守る正しい民をはいらせられます。」(イザヤ書26章2節)
千年王国において、義はメシアと同義の呼称となります。
御名を恐れる者には、「義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。」(マラキ書4章2節)
メシアの再臨の際、主は「わたしはわたしの義を近づける。それは遠くない」(イザヤ書46章13節、51章5節)と言われます。
メルキゼデクの位に従う祭司として、主は義の仲介者なる王です。(詩篇110章4節、ヘブル人への手紙7章2節)
キリストの千年王国のキーワードは正義と平和であり、前者はその根源であり、後者はその実りです。
「わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。」(イザヤ書32章18節)
「平和をあなたの管理者とし、義をあなたの監督者とする。(イザヤ書60章17節)
なぜなら、「彼の代に正しい者が栄え、月のなくなるときまで、豊かな平和がありますように」とあります。(詩篇72篇7節)
その時、「恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています」(詩篇85篇10節)という預言が真実に成就するからです。
メシアの臨在により、エルサレムは千年王国におけるすべての義がまばゆいばかりの栄光のうちに発散する源となります。
エルサレムの義は「日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃える。」
国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。」(イザヤ書62章1c~2a)
主はいと高き方で、高い所に住み、シオンを公正と正義で満たされる。(イザヤ書33章5節)
シオンは「正義の町」(イザヤ書1章26節)と呼ばれ、裁きと義で満たされるでしょう(イザヤ書33章5節)
義は、メシアの支配全体を特徴づける言葉です。
キリストは義をもって支配する王となります。(イザヤ書32章1節)
正義はその腰の帯となります。(イザヤ書11章5節)
彼は義をもって貧しい者を裁きます。(イザヤ書11章4節、詩篇72篇104参照)
そして、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに義を成し遂げます。(イザヤ書16章5節)
異邦人の間では、「主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。」と宣言されます。(詩篇96篇10節)
キリストの哀れみ深い支配のもとで「義に飢え渇いている者はは満ち足りるのです。」(マタイの福音書5章6節)、
そして、救いの神から義を受けます。(イザヤ書24章5節)
「あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。」(マラキ書3章18節)
「主に、義のささげ物をささげる者となり、」(マラキ書3章3節)
するとヤハゥエは「全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえ」を喜ばれます。(詩篇51篇19節)
イスラエルの変化する性格は、ヤハゥエの内在する義から生じる自発的な反応であり、過ぎ去った時代の偽りの律法主義とは大きく異なるものとなります。(マタイの福音書5章20節参照)
「地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽生えさせるからだ。」
(イザヤ書61章11節
「彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。」
(イザヤ書61章3節)
地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽生えさせます。

B.従順を特徴とする王国
最初の創造の重要な目的の一つは、従う者が神に完全に、そして進んで従う王国を樹立することでした。
園に木が置かれたのは、この従順さを試すためです。(創世記2章16、17節)
すぐに不従順が起こりました。
神は、すべてのものを御自身に従わせるという目的を放棄されません。
パウロはこの継続的な目的について次のように述べています。

「みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。
それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、
時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、」
(エペソ人への手紙1章9、10節)

「さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。」と言われた方に、すべてのものを従わせます(ヘブル人への手紙10章9節a)
千年王国における神の御心の遂行は、いくつかの理由により、大いに促進されます。

(1)新しい契約の成就を通して、イスラエルは心と思いを新たにし、神の律法を心の奥底に宿らせます。(エレミヤ書31章33節)

(2)聖霊がすべての肉なる者に注がれ、内住し、満たし、教えます。
(エレミヤ書31章33、34節;ヨエル書2章28~32節、エゼキエル書36章25~31参照)

(3)サタンは縛られ、悪を行う者は断ち切られます。(詩篇37篇9、10節、エレミヤ書31章29、30節)
そして、サタンの普遍的な邪悪な社会、宗教、経済、政治体制は清算されます。
(4)イスラエルにおける不一致は、シオンにおいて再び一致し、一致が見られるようになる(イザヤ書52章8節)

(5)主に関する普遍的な知識は、無知による神の御心への不用意な反対を排除します。

(6)キリストの権威に異邦人が広く服従するようになります(詩篇22篇27、28節、マラキ書1章11節)[7]

この完全な従順は千年王国の霊的な性格のもう一つの現れとなります。

C.神の王国は聖さを特徴としています。

アダムは創造によって、試されることのない純潔を与えられました。
これは、主への従順によって、疑いなく聖潔となったはずです。
しかし、彼の不従順の行為によって、この純潔は失われました。
神の王国において、被造物に聖潔を現すことが神の目的です。
千年王国における聖さの様々な側面は非常に広範囲にわたるため、現時点では簡潔な一覧表以上のものを示すことは不可能です。
とりわけ、聖さはユダヤ人の国民生活のあらゆる側面において、彼らを最も際立たせる特徴となります。
この「聖さ」は彼ら自身のものではなく、彼らの中におられるメシアによって授けられたものであり、信仰生活を通して彼らが所有することができます。

以下に簡単に要約します。
主は聖なる腕を現し(メシアの啓示)、敵に勝利されます。(詩篇98篇1節、イザヤ書52章10節)
聖なる子孫は、回復されたユダヤ国家の核となります。(イザヤ書6章13節)
シオンに残るすべての人々は、汚れを洗い流され、聖なる者と呼ばれます。(イザヤ書4章34節)
主に贖われた残された民がシオンに帰還できるよう、聖なる道が開かれます。(イザヤ書35章8~10節)
神は聖なる言葉を語り、その民に国土を分け与えられます。(詩篇60篇6節)
主は、今や聖なる地と呼ばれる地において、ユダにその割り当て地を相続します。(ゼカリヤ書2章12節)
そしてエルサレムは聖なる地となります。(ヨエル書3章17節)
主に捧げられる聖なる供え物は、聖所とその奉仕者のために特別に用意されます。(エゼキエル45章1~5節)
主は聖なる山を高く上げ、聖なる宮を建てます。(詩篇48篇1節、エレミヤ書31章23節、イザヤ書27章13節)
その律法は聖なるものとされます。(エゼキエル43章12節)
そこは主の住まい、主の足の足の踏む所となり、イスラエルはもはや主の聖なる御名を永遠に汚すことがなくなります。(エゼキエル書43章7節)
すべての国々は主、聖なる方がイスラエルに存在することを知るようになります。(エゼキエル書39章7節)
キリストは、ダビデとの契約を結んだ聖なる誓い(詩篇89篇35、36節)に従って、聖なる御座から地上の諸国民を治めます。
(詩篇47篇8、9節)
祭司たちは民に聖なるものと俗なるものの違いを教え(エゼキエル書44章23節)、聖なる装いでメシアの前に現れます。(詩篇110篇3節)

「その日、馬の鈴の上には、「主への聖なるもの」と刻まれ、主の宮の中のなべは、祭壇の前の鉢のようになる。」(ゼカリヤ書14章20節)[8]

D.真理を特徴とする御国

人々が「神の真理を偽りと取り代え」ことが裁きの理由です。(ローマ人への手紙1章25節)
「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネの福音書14章6節)と仰せになったメシアを通して、千年王国において真理が完全に明らかにされ、それによって御国の本質的な霊的特徴がさらに確立されます。
千年王国における真理の簡潔な要約として、以下が挙げられます。
地に真理を投げ捨てた不敬虔な小さな角(ダニエル書8章12節)は、真理と柔和と義のためにキリストの凱旋において打ち負かされます。(詩篇45篇4節)

ピーターズ氏はこのように述べています。
「確かに真理は最終的に勝利します。
しかし、それは人を通してではありません。
真理であるイエスが来て、真理を立証するからです。」(Peters op.cit. III,258])
罪の人に対する誤った確信の代わりに、逃れた残された民は「主に、まことをもって、たよる」のです。(イザヤ書10章20節)
「わたしは真実と正義をもって彼らの神」となられます。(ゼカリヤ書 8章8節、イザヤ書65章16参照)
彼らの誤った信頼の代わりに、主は真理と義において彼らの神となります。
「わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。」(ホセア書2章20節)
ヤハゥエの僕であるキリストは、真実に裁きをもたらします。
「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。」(イザヤ書42章3節)
そして、イスラエルに豊かな平和と真実を啓示します。
「見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。」(エレミヤ書33章6節)
真実は慈しみと共に出会い、地から湧き出てきます。
「恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。
まことは地から生えいで、義は天から見おろしています。」(詩篇85篇10、11節)
その時、イスラエルはこのように述べています。
「主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。」(詩篇98篇3節)
「一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行なう者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。」(イザヤ書16章5節)
「正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる」(イザヤ書11章5節)、神は真実をもって世界の民を裁きます。
国々の中で言え。「主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。」(詩篇96篇10節)
ヤハゥエの忠実さは、かつて忌み嫌われていた者の前で、王たちが立ち上がり、君たちが礼拝することを保証します。
「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。」
(イザヤ書49章7節)
エルサレムは忠実な町と呼ばれます。(イザヤ書1章26節)

「主はこう仰せられる。
「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。
エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれよう。」」
(ゼカリヤ書8章3節)
」[9]

E.聖霊の満ち満ちた王国

神権王国が樹立された時、ヨエルの預言が成就します。

「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」
(ヨエル書2章28、29節)


この体験についてウォルフォード氏は次のように書いています。
「千年王国を描写する預言は、信者における聖霊の働きが、千年王国において、これまでのどの時代よりも豊かに、より顕著に現れるという点で一致しています。
聖書から明らかなように、すべての信者は、今の時代と同じ様に、千年王国においても聖霊に内住されます。
(エゼキエル書36章27節、37章14節、エレミヤ書31章33参照)
聖霊が内在するという事実は、エゼキエル書36章24節以降に描かれているイスラエルの栄光ある回復の一部として明らかにされています。
エゼキエル書37章14節にはこのように記されています。

「わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。
わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。
このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。――主の御告げ。――」
(エゼキエル書37章14節)


聖霊の満たしは、他の時代には稀であったのとは対照的に、千年王国においては日常的なものとなり、主への礼拝と賛美、そして主への自発的な従順、そして霊的な力と内なる変化として表されます。
(イザヤ書32章15節、44章3節、エゼキエル書39章29節、ヨエル書2章28、29節)
現代の霊的な無関心、冷淡さ、そして世俗主義とは対照的に、霊的な熱意、神への愛、聖なる喜び、霊的真理の普遍的な理解、そして聖徒たちの素晴らしい交わりが見られます。
人生における義と霊の喜びが強調されています。」[10]

ピーターズ氏は、聖霊の満ち満ちた状態と時代の霊的性質との関係を正しく観察しています。
彼はこのように書いています。
「千年王国の描写に見られる聖霊の驚くべき驚くべき注ぎは、聖徒たちを変革し、栄光を与え、奇跡的な賜物を授けるほど強力です。
それは、ユダヤ民族全体に浸透して、最も小さい者から最も大きい者まですべての者が義とされます。
また、異邦人にも広く浸透して、彼らが与えられた光に喜び、その作用が地球全体にまで及ぶため、最終的には全地が栄光で覆われるのです。
聖霊は千年王国とそれに続く時代の壮大な描写と共に、内在し、永続し、伝達される神の崇高さを物語っており、それを熟考する者は、その霊性の現れに深く感動せずにはいられません。[11]
したがって、千年王国の際立った特徴はその霊的な性質にあることに配慮しなければなりません。
確かに地上の王国ではあるが、その性質は霊的なものです。

V.千年王国における諸条件

聖書の多くは、御国における主イエス・キリストの哀れみを通して地上に注がれる計り知れない祝福と栄光について述べることに充てられています。
その多くは既に言及されていますが、地上の状況を全体的に見れば、「御国の偉大さ」(ダニエル書7章27節)が明らかになります。

「国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。
その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。」
(ダニエル書7章27節)

A.平和

キリストの支配のもとで世界の諸王国が統一され、戦争が終結すること、そしてその結果として諸国家が莫大な軍事費を費やす必要がなくなるため経済的繁栄がもたらされることは、預言者たちの重要なテーマです。
国家と個人の平和は、メシアの支配の賜物です。
イザヤ書2章4節、9章4~7節、11章6~9節、32章17、18節、33章5、6節、54章13節、55章12節、60章18節、65章25節、66章12節、
エゼキエル書28章26節、34章25、28節、
ホセア書2章18節、
ミカ書4章2、3節、
ゼカリヤ書9章10節。

B.喜び

喜びが満ち溢れることは、この時代を特徴づけるものです。
イザヤ書9章3、4節、12章3~6節、14章7、8節、25章8、9節、30章29節、42章1、10~12節、52章9節、60章15節、61章7、10節、65章18、19節、66章10~14節、
エレミヤ書30章18、19節、31章13、14節、
ゼパニヤ書3章14~17節、
ゼカリヤ書8章18、19節、10章6、7節。

C.聖さ

神権王国は聖なる王国であり、その聖さは王と王の国民を通して表されます。
地は聖なるもの、都は聖なるもの、神殿は聖なるもの、国民は主にとって聖なるものとなります。
イザヤ書1章26、27節、4章3、4節、29章18~23節、31章6、7節、35章8、9節、52章1節、60章21節、61章10節、
エレミヤ書31章23節、
エゼキエル書36章24~31節、37章23、24節、43章7~12節、45章1節、
ヨエル書3章21節、
ゼパニヤ書3章11、13節、
ゼカリヤ書8章3節、13章1、2節、14章20、21節。

D.栄光

その王国は栄光に満ちた王国であり、神の栄光が完全に現れます。
(イザヤ書24章23節、4章2節、35章2節、40章5節、60章1~9節)

E.慰め

王はあらゆる必要を自ら満たし、その日に完全な慰めが与えられるようにしてくださいます。
イザヤ書12章1、2節、29章22、23節、30章26、40章1、2節、49章13節、51章3節、61章3~7節、66章13、14節、
エレミヤ書31章23~25節、
ゼパニヤ書3章18~20節、
ゼカリヤ書9章11、12節、
ヨハネの黙示録21章4節。

F.正義

すべての個人に対して完全な正義が執行されます。
(イザヤ書9章7節、11章5節、32章16節、42章1~4節、65章21~23節、エレミヤ書23章5節、31章23節、31章29、30節)

G.完全な知識

王の働きは、御国の民に完全な知識をもたらします。
聖霊による比類のない教えの働きが必ず起こります。
(イザヤ書11章1、2、9節、41章19、20節、54章13節、ハバクク書2章14節)

H.教え

この知識は王から発せられる教えを通してもたらされます。
イザヤ書2章2、3節、12章3~6節、25章9節、29章17~24節、30章20、21節、32章3、4節、49章10節、52章8節、
エレミヤ書3章14、15節、23章1~4節、
ミカ書4章2節。

I.呪いの除去

創造物にかけられた最初の呪い(創世記3章17~19節)が除去され、地球は豊かな生産力を持つようになります。
動物は変化し、毒と凶暴性を失います。
(イザヤ書11章6~9節、35章9節、65章25節)

J.病は取り除かれます

王の癒し手としての働きは時代を通じて見られるので、明白な罪に対する罰として用いられる場合を除いて、病気や死さえも取り除かれます。
(イザヤ書33章24節、エレミヤ書30章17節、エゼキエル書34章16節)

K.奇形の癒し

この働きに加えて、千年王国の始まりには、あらゆる奇形の癒しも行われます。
(イザヤ書29章17~19節、35章3~6節、61章1、2節、エレミヤ書31章8節、ミカ書4章6、7節、ゼパニヤ書3章19節)

L.保護

千年王国においては、王を通して生命を守る超自然的な働きがなされます。
イザヤ書41章8~14節、62章8、9節、
エレミヤ書32章27節、23章6節、
エゼキエル書34章27節、
ヨエル書3章16、17節、
アモス書9章15節、
ゼカリヤ書8章14、15節、9章8節、14章10、11節。

M.抑圧からの解放

その日には、社会的、政治的、宗教的な抑圧はなくなります。
イザヤ書14章3~6節、42章6、7節、49章8、9節、
ゼカリヤ書9章11、12節。

N.未熟さはなくなる

その日には、知力の衰えや体が矮小化することによる悲劇は起こらない(イザヤ書65章20節)ことを暗示していています。
このように、長寿が回復されます。

O.生ける民による生殖

生ける聖徒たちは、自然の体のまま千年王国に入り、その時代を通して子孫を残します。
地球上の人口は急増します。
この時代に生まれる人々は罪の性質を持たずに生まれるわけではないので、救いが必要です。
エレミヤ書30章20節、31章29節、
エゼキエル書47章22節、
ゼカリヤ書10章8節。

P.労働

この時代は怠惰な時代ではなく、王の指導の下、そのシステムにおける労働によって人々の必要が豊かに満たされる完璧な経済体制が築かれます。
完全に発達した工業社会が、王の国民の必要を満たします。
農業と製造業の雇用が生み出されます。
イザヤ書62章8、9節、65章21~23節、
エレミヤ書31章5節、エゼキエル書48章18、19節。

Q.経済的な繁栄

完全な労働環境は経済的な豊かさを生み出し、不足はなくなります。
イザヤ書4章1節、35章1、2、7節、30章23~25節、62章8、9節、65章21~23節、
エレミヤ書31章5、12節、
エゼキエル書34章26節、
ミカ書4章1、4節、
ゼカリヤ書8章11、12節、9章16、17節、
エゼキエル書36章29、30節、
ヨエル書2章21~27、
アモス書9章13、14節などです。

R.光の増加

この時代には太陽と月の光が増加します。
この光の増加は、地球の生産性向上の大きな要因であると考えられます。
イザヤ書4章5節、30章26節、60章19、20節、
ゼカリヤ書2章5節。

S.統一された言語

言語の壁は取り除かれ、自由な社交が可能になります。
(ゼパニヤ3章9節)

T.統一された礼拝

全世界が神と神のメシアを礼拝するために一つになります。
イザヤ書45章23節、52章1、7~10節、66章17~23節、
ゼカリヤ書13章2節、14章16節、8章23節、9章7節、
ゼパニヤ書3章9節、
マラキ書1章11節、
ヨハネの黙示録5章9~14節。

U.神の顕在的な臨在

神の存在が完全に認識され、神との交わりがかつてないほど深く経験されます。
エゼキエル書37章27、28節、
ゼカリヤ書2章2、10~13節、
ヨハネの黙示録21章3節。

V.聖霊の満ち満ちた状態

王の権威に従うすべての者は、神の臨在と力による助けを経験します。
イザヤ書32章13~15節、41章1節、44章3節、59章19、21節、61章1節、
エゼキエル書36章26、27節、37章14節、39章29節、
ヨエル書2章28、29節、エゼキエル書11章19、20節。

W.千年王国の永続性

千年王国を特徴は、一時的なものではなく、永遠のものとみなされています。
ヨエル書3章20節、
アモス書9章15節、
エゼキエル書37章26~28節、
イザヤ書51章6~8節、55章3、13節、56章5節、60章19、20節、61章8節、
エレミヤ書32章40節、
エゼキエル書16章60節、43章7~9節、
ダニエル書9章24節、
ホセア書2章19~23節。

王の存在による祝福が感じられる領域の多様性がこのようにしてはっきりと分かります。

VI.千年王国の存続期間

聖書では、キリストが最初の復活と二度目の復活の間に支配する王国は千年続くと教えられています。

「また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。
彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、
底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。
サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。
また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。
また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」
(ヨハネの黙示録20章1~6節)


千年という期間の文字通りの意味を否定する人々でさえ、この章で述べられている御使い、天国、地獄、サタン、諸国、復活は文字通りの意味を持つと一般的に考えられています。
これらの文字通りの意味を受け入れながら、時間という要素の文字通りの意味を否定するのは愚かなことです。

アルフォード氏は次のように述べています。
「使徒たちと300年間共に生きた人々、そして教会全体は、聖書を文字通りに理解していました。
古代を敬う先駆者たちが、原始古代が示す最も説得力のある合意の例を、今日では自己満足的に無視しているのを見るのは、奇妙な光景です。
聖書本文そのものについて言えば、いかなる正当な解釈も、現在流行している霊的解釈と呼ばれるものを押し付けるものではありません。」[12]

この箇所では、キリストの千年王国が千年間続くと6回述べられています。
聖書はキリストが永遠の王国を支配すると教えているが、千年王国前再臨主義に関して疑問が生じています。
これは次の聖句で確認されています。
サムエル記第二7章16、28、29節、
詩篇89篇3、4、34~37節、45篇6節、72篇5、17節、
イザヤ書9章6、7節、51章6、8節、55章3、13節、56章5節、60章19、20節、61章8節、
エレミヤ書32章40節、33章14~17、20、21節、37章24~28節、
エゼキエル書16章60節、43章7~9節、
ダニエル書7章13、14、27節、9章24節、ホセア書2章19節、
ヨエル書3章20節、
アモス書9章15節、
ルカの福音書1章30~33節、
テモテへの第一の手紙1章17節、
ヨハネの黙示録11章15節などです。

無千年王国論者はここに矛盾を見出し、キリストの王国の永遠性は地上における千年支配を許さないと主張します。
カルヴァンが千年王国前再臨主義を否定した理由は、千年支配はキリストの永遠の支配を無効にするという彼の考えでした。[13]
もし、千年王国前再臨主義者がキリストの支配を千年に限定していたとしたら、「彼らの作り話はあまりにも幼稚で、反論する必要も、反論に値することもない」という彼の主張は正しいことになります。[14]
しかし、そうではありません。
この議論に関係する重要な聖句は、コリント人への手紙第一15章24~28節です。

「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。
「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。
ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。
しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。
これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」
(コリント人への手紙第一15章24~28節)


これらの言葉で使徒は、神権王国の究極の目的を述べています。
「神が、すべてにおいてすべてとなられるためです」です。
これは、神権王国の設立という本来の目的が「世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」(マタイの福音書25章34節)という形で完全に達成されることを予見しています。
上記の聖句を言い換えると、パウロの前進的なな考えがより明確になります。
「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ」ました。(エペソ人への手紙1章22節)
このように言われた時、父御自身はこの服従から除外されていることは明らかです。
父が服従させたのですから。
そして、すべてのものが最終的にキリストに従う時、子自身も父に従うのです。

父はすべてのものをキリストに従わせました。
それは「神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」
万物が神に服従し、神が万物においてすべてとなる手段は、キリストが「あらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし」(コリント人への手紙第一15章24節)、王としての御自身の権威を父の権威と一つにすることです。
神の本来の目的は、御自身の絶対的な権威を現れすることでした。
そしてこの目的は、キリストが地上の神権政治を永遠の神の王国と一つにすることで実現されます。
したがって、キリストの地上における神権政治は、神の完全な神権政治を地上に現れするのに十分な1000年に限定されていますが、キリストの支配は永遠です。

この考え方はピーターズ氏によって次のように述べられています。
「聖書の中で、メシアの王国の終わり、もしくはその独自の終わりを説いているとされる箇所は、コリント人への手紙第一15章27、28節のただ一つだけです。
これらの節にどのような見解が接ぎ木され、もしくは派生したとしても、ほとんどすべての聖書は、その終わりがどのような意味を持つにせよ、イエス・キリストが神として、人類が従属する者として、もしくは神人として、今もなお支配していることを認めています。
ヴァン・ファルケンブルグ氏の言葉を借りれば、「万物が御子に服従させられた時、御父が例外とされたように、万物が御子に服従させられた時、御父も例外とされるのです。」
ゆえに、この箇所は、キリストの王国がいつか終わりを迎えること、もしくは御子が御子を御父に引き渡すことを暗示していません。
確かに、御国は敵から救い出され、神格に回復されますが、それはそのような意味ではなく、御子の御国は永遠の御国であり、御国の終わりがないことを意味します。
「24節で述べられている支配は「キリストが神に対して回復する」と述べられています。
つまり、キリストの支配ではなく、あらゆる反対勢力の支配を意味するものと解釈すべきです。
その支配は明らかに滅ぼされることが宣言されています。
それは、「この権力が神に回復されるためである」という立場を取り、さらに真実に、そして、最も力強く、「支配はキリストに回復される時に神に回復される」と付け加えています。
こうして彼らは、この一節をヨハネの黙示録11章15節の「世の国(もしくは主権)は私たちの主およびそのキリストのものとなった」と合致させるものとしています。
そして、これが実現すると、父と子はこの神権的な秩序と御人格において一体となり「彼は永遠に支配するのです。」
父と子の栄誉は、この神権的な王国の永続性と同一視されます。
なぜなら、それは父の王国であると同時に子の王国でもあるからです。
二人の間に存在する最も完全な結合は、支配と主権における一体性を構成しています。」[15]

息子が父に権威を譲り渡すという問題について、チェイファー氏は次のように書いています。
「傷つけられていない王国が神に引き渡されたということは、御子の権威が解放されたことを意味するのではありません。
(コリント人への手紙第一15章27、28節)で主張されている真理は、ついに王国が完全に回復される、つまり神の王国が神に回復されるということです。
注目すべき区別は、回復された権威が父に提示されることと、御子の王座が廃止されるという想定との間にあります。
後者は本文で求められておらず、暗示さえされていません。
ヨハネの黙示録22章3節で描かれているのは、永遠の状態にある新しいエルサレムの姿であり、「神と小羊との御座が都の中にあって」と宣言されています。
コリント人への手紙第一15章28節の「欽定訳聖書(KJV)」は明確ではありません。
「しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。
それは、神がすべてにおいてすべてとなるためです。」となっています。

“And when all things shall be subdued unto him, then shall the Son also himself be subject unto him that put all things under him, that God may be all in all.”

この記述は、万物が征服され、神の権威が完全に回復された時、千年の間、父の権威によって支配し、すべての敵を倒してきた御子が、父の権威のもとで、これまでと同じ様に第一位格に服従しながら支配を続けることを意味しています。
このより明確な意味の解釈により、永遠の支配とキリストの限定的な支配との間の矛盾が暗示されなくなります。
キリストは、他の箇所で十分に保証されているように、ダビデの王座において永遠に支配されるのです。」[16]

マクレイン氏はプログラムの完成について次のように要約しています。

「1.神の最後の敵が、仲介の王である私たちの主によって倒された時、仲介の王国の目的は達成されます。
(コリント人への手紙第一15章25、26節)
2.この時、キリストは仲介王国を神に引き渡し、永遠の王国に統合されます。
その結果、仲介王国は永遠に存続しますが、もはや別個のアイデンティティは持たなくなります。
(コリント人への手紙第一15章24節、28節)
3.これは主の支配の終わりを意味するものではありません。
主は仲介者としての王としての支配を終えるだけです。
しかし、永遠の御子、唯一の真実な神の第二位格として、主は最終的な王国において父なる神と王座を共有されます。
(ヨハネの黙示録22章3~5節、3章21参照)」[17]

メシアなる神権政治の王のもと、地上に千年にわたる神権政治を確立することにより、神は、その権威が初めて挑戦を受けた領域において、神の支配を示すという御自身の目的を成し遂げられました。
この地上の神権政治を永遠の王国と融合させることにより、神の永遠の主権が確立されます。
これが、神が神権政治の王国を計画し、歴史を通して段階的に進展させ、千年王国において即位したキリストのもとで神権政治の計画が最高潮に達するまでの神の目的でした。
サタンが最初に挑戦したその権威は、今やキリストによって神のみに属することが示されました。
神の支配権は永遠に立証されました。

NOTE

[1]1 G. N. H. Peters, Theocratic Kingdom, III, 220-21.
[2]C. I. Scofield, Reference Bible, pp. 716-17.
[3]Chester Woodring, “The Millennial Glory of Christ,” pp. 62-134.
[4]Oswald T. Allis, Prophecy and the Church, pp. 69-71.
[5]Peters, op. cit., III, 460.
[6]Woodring, op. cit., pp. 113-16.
[7]Ibid., p. 129.
[8]Ibid., pp. 132-34.
[9]Ibid., pp. 138-40.
[10]John F. Walvoord, The Holy Spirit, pp. 233-34.
[11]Peters, op. cit., III, 465.
[12]Henry Alford, The Greek Testament, IV, 732.
[13]John Calvin, Institutes of the Christian Religion, II, 250-51.
[14]Ibid.
[15]Peters, op. cit., II, 634-36.
[16]Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology, V, 373-74.
[17]Alva J. McClain “The Greatness of the Kingdom,” unpublished classroom notes, p. 31.


第29章 政府と千年王国における支配

I.千年王国における政府

聖書は神権政治について多くのことを語っています。
それは、王によって支配される政府は、神が再建しようとしておられる権威のまさに現れであるからです。

A.政府は神政政治となります。

これまで述べてきたことを踏まえれば、政府が神政政治となるという事実を改めて確認する必要はほとんどありません。

ピーターズ氏はこの政治形態について次のように述べています。
「一部の著者は神権政治を共和国にしようと努めています。
しかし神政政治は、その性質上、共和国ではありません。
サミュエル氏が言及したような、純粋に人間に起源を持つという意味での君主制ではありませんが、それでも最高の意味での君主制です。
立法権、行政権、司法権が潜在的に人民にではなく、王なる神に宿っているため、共和国ではありません。
だが、君主制と共和制の両方の要素をその内に包含しています。
君主制とは、絶対的な主権が唯一の偉大な王に宿り、他のすべてが従属するという点で君主制であり、共和制とは、最下層から最上層に至るまで、すべての個人の権利を保障するという点で共和制です。
言い換えれば、幸運な組み合わせによって、神の導きの下、したがって絶対確実な君主制は、よく指導された理想的な共和制の政府から得られる恩恵をもたらすが、人間の堕落と多様性のために、共和制だけではその恩恵を完全に実現することはできません。」[1]

この神権政治は、便宜的なものとしてではなく、絶対的な必要性として捉えるべきです。
これは次の例から明らかです。
人間とこの地球が至高の神に対して維持している関係は、神の名誉と威厳がこの地上における神政政治の樹立を要求することを要求し、それによって人類は神と人に等しく名誉ある政府の下に導かれます。

(1)神は天地創造のときにこの政治形態を定めていました。
(2)人間は不従順によって、神が彼を通して地球上で行使することになっていた支配権を失いました。
(3)神はその支配権を第二のアダムであるイエスにおいて回復することを決意しました。
(4)神は、この支配権が回復されたときにどのような政治形態に組み込まれるべきかを示すため、人間の現在の能力を試すため、そして将来のための不可欠な準備をするために、神政政治を樹立しました。
(5)人間は罪深さのために神政政治に不適格であったため、それは撤回されました。
(6)神は将来のある時にそれを回復することを約束しました。
(7)この神政政治は神が自ら選んだ政治形態であり、もし回復されなければ、神が提案した政治体制は失敗に終わりました。
(8)神は救済の備えをするために御子を遣わされました。
(9)この救済は最終的に実現される時には、まだ来るべきこの王国と必ず結びついています。
(10)神は、神政政治の将来の恒久的な確立を確実にするために、「キリスト」と結びつく支配者の一団を準備しておられました。
(11)この神政政治が樹立されるまで、人類は神に服従しません。
(12)この体制の設計がどれほど輝かしいものであろうと、贖罪には依然として不完全さがあり、「メシア」が来て神政政治を回復するまでそれは続きます。
(13)この神政政治が再建されると、キリストと聖徒たちの支配のもとに、人類そのものが神に服従するようになり、反乱を起こした州も元の忠誠心と祝福を取り戻すことになります。
(14)神政政治は、この結果を確実にするために最も見事に適合した政治形態です。
(15)神政政治はその本質上目に見える政治であるから、そのように完了した主権と救済は、世の目に見える形で示されなければなりません。
そうすれば、神に正当に属し、天国で行われているように、公に認められるようになります。
(16)楽園におけるアダム、過去に確立された神権政治、そして初臨におけるイエスを通しての人間に対する神の個人的な関係は、回復された王座と王国における将来の特別で継続的な個人的な関係を保証するものです。

神の至高性を最も具体的かつ満足のいく形で示すものであり、反抗的な民族と人種の回復、そして神の意志が天と同じように地上でも行われることの現れには、「人の子」である彼の人格におけるそのような個人的な関係が含まれます。 [2]

B.メシアは千年王国の王です。

聖書は、千年王国の支配がメシア、主イエス・キリストの支配下にあることを明確に示しています。
イザヤ書2章2~4節、9章3~7節、11章1~10節、16章5節、24章21~23節、31章4~32章2節、42章1~7節、13節、49章1~7節、51章4、5節、60章12節、
ダニエル書2章44節、7章15~28節、
オバデア書17~21節、
ミカ書4章1~8節、5章2~5節、15節、
ゼパニヤ書3章9、10、18、19節、
ゼカリヤ書9章10~15節、14章16、17節。

メシアの王権は普遍的であり、この地位は神によって任命されたものです。
詩篇作者はヤハゥエの言葉をこう伝えています。

「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」
(詩篇2篇6節)


父が人の子に王国を授けることは、契約の中で明確に教えられています。
それゆえ、ダニエル書7章13節と14節、イザヤ書49章、ルカの福音書22章29節と1章32節などの言葉は、この契約に一致しています。
神の主権は、このことを神に保証するものです。
ダニエル書(7章14節)には、「彼(人の子)には、主権と栄光と王国が与えられ、すべての民がそれを所有するようになった」などとあります。
ルカの福音書(1章32節)には、「神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります」などとあります。
救い主御自身も、十ミナのたとえ話(ルカの福音書19章15節)の中で、「王国を受けて帰って来たとき」などと述べています。
父が人の子に王国を与えられたことは、この王国が神によって行使される一般的な神の主権とは全く異なるものであることを示しています。
王国はそこから派生したものであり、神の主権はそれを通して示され、神権的な形態をとっています。
その支配権は、その入信形態においては二人の位格(つまり神とダビデ)によって分離されていましたが、今や幸いにも一つ、つまり「キリスト」に結び付けられ、それによって有効で、抵抗できず、永遠に続くものとなっています。[3]

新約聖書の記録は、キリストがダビデの王座を継承する権利をしっかりと確立しています。
ガードルストーン氏はこのように書いています。
1.マタイの福音書1章とルカの福音書3章に含まれる系図は、ヨセフがダビデの直系子孫であることを、それぞれ独立した根拠に基づいて十分に証明しています。
そして、ダビデの王座が再建されたとしても、その冠が置かれるのはヨセフの頭である可能性は、確実ではないにせよ、高いと言えます。
したがって、マタイの福音書1章20節とルカの福音書1章27節の両方で、ヨセフは「ダビデの子」と呼ばれています。
2.マタイの福音書1章とルカの福音書1章から、ヨセフが文字通りイエスの父ではなかったことは明らかです。
マリアは文字通りイエスの母でした。
しかし、ヨセフはイエスにとって父親のような役割を果たしました。
子はヨセフの保護のもとに生まれ、彼の庇護のもとで成長しました。
ヨセフはイエスを養子としました。
ルカの福音書3章23節では、彼は「父とされる者」と呼ばれています。
3.マリアがどの部族に属していたかは完全には定かではないが、エリザベスとの血縁関係は彼女がユダヤ系であることを妨げるものではありません。
ユダ族とレビ族の間の婚姻はアロンの時代にまで遡ることができます。
ルカの福音書1章32節の「神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります」という言葉は、マリアがダビデの血統であったという説以外のいかなる見解とも何も矛盾しておらず、この点に関してマリアは何も問題視していません。

4.しかし、福音書記者たちはマリアの系図については一切触れていません。
彼らはマリアの系図があればヨセフの主張を裏付けるのに十分だと考えているのです。
使徒の働き2章30節、13章22、23、33節、
ヘブル人への手紙7章14節、
ローマ人への手紙1章3節、
ヨハネの黙示録5章5節、22章16節参照。

5.したがって、人間的に言えば、マリアがダビデの子孫であったという事実ではなく、主がダビデの子であるという立場は、ヨセフが主を養子として迎えた行為によって確立されたという結論に至ります。
王座継承は誕生によってではなく任命によって行われました。[4]

C.ダビデは千年王国において摂政を務めます。
千年王国におけるダビデの摂政を立証する記述は数多くあります。
イザヤ書55章3、4節、
エレミヤ書30章9節、33章15、17、20、21節、
エゼキエル書34章23、24節、37章24、25節、
ホセア書3章5節、アモス書9章11節。
主イエス・キリストはダビデの血統に生まれ、王座継承権と法的権利を有していることから、地上の神権王国を支配されることは疑いようがありません。
マタイの福音書1章1節、
ルカ書1章32、33節。
引用されている聖句が問うているのは、主イエス・キリストがパレスチナを直接支配するのか、それとも摂政を通して間接的に支配するのかという点です。
この質問には、千年王国の支配を進展させる上で重要ないくつかの答えが与えられています。

1.最初の答えは、「ダビデ」という単語が型として用いられ、キリストを指しているというものです。
アイアンサイド氏は次のように述べてこの見解を示しています。
これはダビデ自身が復活し、王として地上に住むようになるという意味だとは私は理解していません。
その意味するところは、ダビデの息子である主イエス・キリスト御自身が王となり、ダビデの王座が再建されるということです。[5]

この見解は、
(1)多くの預言的な聖書がキリストがダビデの王座に座ると預言しており、支配権に関するあらゆる言及はキリストに適応されると想定されています。
(2)キリストの名前は聖書の中でダビデの名前と密接に関連しており、キリストはダビデの子と呼ばれ、ダビデの王座に座ると言われているという事実に基づいています。

この見解に対する反論は、
(1)聖書の中でキリストが一度もダビデと呼ばれていないという事実から生じます。
キリストは「ダビデの枝」(エレミヤ書23章5節)、「ダビデの子」(15回)、「ダビデの子孫」(ヨハネの福音書7章42節、ローマ人への手紙1章3節、テモテへの手紙第二2章8節)、「ダビデの根」(ヨハネの黙示録5章5節)、「根であり、ダビデの子孫(ヨハネの黙示録22章16節)であるが、ダビデ本人であることはありません。
(2)「わたしのしもべダビデ」という呼称は歴史上のダビデを指して繰り返し使われています。
(3)ホセア書3章5節、エゼキエル書37章21~25節、34章24節、エレミヤ書30章9節、イザヤ書55章4節では、ヤハゥエはダビデと明確に区別されています。
これらの箇所でダビデが型としてキリストを指していたとすれば、区別することはできず、また、それほど慎重に区別する必要もなかったはずです。
(4)この君主に関して、キリストにその称号を適応させることを不可能にする記述があります。
エゼキエル書45章22では、君主が自分のために罪のためのささげ物を捧げたと言われています。
後述するように、これらが記念のささげ物であったとしても、キリストは罪がなかったので、自分の罪のために記念のささげ物を捧げることはできません。
エゼキエル書46章2節キリストは千年王国において礼拝を受けますが、礼拝行為には関与しません。
エゼキエル書46章16節では、君主は息子たちをもうけ、彼らと遺産を分け合っています。
キリストにはそのようなことはできません。
これらの理由から、ダビデと呼ばれる君主はキリストではあり得ないと考えられます。

2.二つ目の答えは、ダビデとは文字通りダビデの息子であり、ダビデの王座に座る人物を指すというものです。
この見解は、キリストがこの君主について述べられているすべてのことを成し遂げることはできないことを認め、ダビデの直系子孫によって成就されると主張します。
また、この箇所をエゼキエルの預言の後半部分と慎重に比較すると、ダビデの血統の直系子孫(「君主」と呼ばれる)が、新しい天のエルサレムを首都とする方の権威のもと、回復された国家の地上での摂政を務めると思われます。[6]
エレミヤ書33章15節、17節、20、21節の記述は、この職務を果たす息子が生まれることを期待していることを示しています。

この見解にはいくつかの反論があります。
(1)エルサレムの破壊後、ユダヤ人は誰も自分の家系をたどることができていません。

オットマン氏は次のように書いています。
「ユダヤ人が自分の家族や部族についてどのような伝統的な信仰を持っていたとしても、自分がユダ族であり、ダビデの血統であり、ダビデの王座の合法的な継承者であるという法的証拠書類を提示できる者は誰もいません。
したがって、今日、ダビデから直接かつ疑いなく続く系図を提示できる唯一の生存者は、ユダヤ人の王として生まれ、ユダヤ人の王として十字架につけられ、そして再びユダヤ人の王として来られるナザレのイエスです。」[7]

(2)もしキリストの後に別の者が来なければならないとすれば、それはキリスト自身がダビデの約束を完全に成就したのではないということを意味します。

(3)文字通りの解釈は、ダビデが通常の使い方でその言葉が意味することを意味することを要求します。

3.三番目の解釈は文字通りの解釈で、ダビデとはキリストの再臨の時に復活して摂政となる歴史上のダビデを指しているというものです。
ニューウェル氏はこの見解を次のように示しています。
私たちはこの状況を混同してはいけません。
神の明白な言葉を信じなければなりません。
ダビデはダビデの子ではありません。
キリストはダビデの子として王となり、肉による父であるダビデは千年王国において君主となります。[8]

この解釈を支持するいくつかの考察があります。
(1)これは文字通りの解釈の原則に最も合致しています。
(2)ダビデだけが、ダビデの支配に関する預言に違反することなく、千年王国において摂政として座することができました。
(3)復活した聖徒たちは、報いとして千年王国において責任ある地位に就くことになっています。
(マタイの福音書19章28節、ルカの福音書19章12~27節)
ダビデは「神の心にかなう人」であったので、この責任に任命されるのは当然です。
千年王国の支配において、ダビデはパレスチナの摂政に任命され、君主としてその地を支配し、王であるイエス・キリストの権威のもとに仕えることになります。
こうして君主は、復活によってその地位に違反することなく、礼拝を導き、記念のささげ物を捧げ、割り当てられた国土を忠実な子孫に分配することができるはずです。

D.貴族と総督たちはダビデのもとで支配します。

千年王国において、イエス・キリストは「王の王、主の主」(ヨハネの黙示録19章16節)となります。
このように、イエスは多くの従属的な支配者たちの上に君臨します。
ダビデのもと、パレスチナの地はこれらの人々によって支配されます。
彼らの貴族は彼ら自身から出で、彼らの総督は彼らの中から出てきます。(エレミヤ書30章21節)

「見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる。」
(イザヤ書32章1節)

「二度とわたしの民をしいたげることなく、この地は部族ごとに、イスラエルの家に与えられる。
神である主はこう仰せられる。イスラエルの君主たちよ。もうたくさんだ。暴虐と暴行を取り除き、公義と正義とを行なえ。わたしの民を重税で追い立てることをやめよ。――神である主の御告げ。――」
(エゼキエル書45章8、9節)


新約聖書では、イスラエルの12部族に対する権威が12人の弟子の手に委ねられることが明らかにされています。

「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。
(マタイの福音書19章28節)


これは、ダビデのもとに多くの従属的な支配者が存在し、彼らが神権を行使して千年王国の政府を運営することを示しています。

E.多くのより小さな権威が支配します。

政府の運営には、さらに小さな権限の区分が設けられます。
ルカの福音書19章12~28節のたとえ話は、王国の十の町と五つの町を管轄する個人に権威が任命されることを示しています。
彼らは明らかに部族の長に責任を負い、部族の長はダビデに責任を負い、ダビデは王自身に責任を負います。
このような権威の地位は、忠実さに対する報酬として任命されます。
旧約聖書はまさにこのことを予期していました。

「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。
見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。」
(イザヤ書40章10節)

「万軍の主はこう仰せられる。
もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。
わたしは、あなたをこれらの立っている者たちの間で、宮に出入りする者とする。」
(ゼカリヤ書3章7節)


千年王国に導かれる者たちは「彼と共に千年の間支配する」と言われています。
報酬として権威ある地位が与えられることが期待されています。

F.裁き人が立てられます。

旧約聖書の裁き人は神によって任命され、神権王国を支配する代表者であったように、千年王国を支配する者たちも裁き人と同様の性格を持ちます。
それは、彼らの権威が神権政治の力の表れであることを明確にするためです。

「あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。」
(ゼカリヤ書3章7節)

「こうして、おまえのさばきつかさたちを初めのように、おまえの議官たちを昔のようにしよう。
そうして後、おまえは正義の町、忠信な都と呼ばれよう。」
(イザヤ書1章26節)


G.支配の性質。
この支配の幾つかの特徴は聖書の中で述べられています。

(1)それは普遍的な支配です。

キリストからダビデ、十二使徒、そして街の支配者たちに至るまで、上述のように細分化された権威はパレスチナに関係しています。
キリストは「王の王、主の主」となるので、この同じ細分化された権威は地球の他の地域にも及びます。
王の権威を持たない地域は地球上に一つもありません。
ダニエル書2章35節、7章14、27節、
ミカ書4章1、2節、
ゼカリヤ書9章10節。
そして彼に主権と栄光と王国が与えられ、あらゆる民族、国民、国語の者が彼に仕えるようになります。
彼の主権は永遠の主権であって、滅びることがなく、彼の王国は滅びることがありません。
そして、全天の下の王国と支配権、王国の偉大さは、いと高き方の聖徒の民に与えらます。
その王国は永遠の王国であり、すべての領土は彼に仕え、従うようになります。
(ダニエル書7章14節、27節)

(2)その支配は揺るぎない正義と公正の支配となります。

イザヤ書11章3~5節、25章2~5節、29章17~21節、30章29~32節、42章13節、49章25、26節、66章14節、
ダニエル書2章44節、
ミカ書5章5、6、10~15節、
ゼカリヤ書9章3~8節。

「この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。
正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。」
(イザヤ書11章3~5節)


(3)その支配は聖霊の満ち溢れる支配として行われます。

「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、」
(イザヤ書11章2、3節)


(4)政府は統一されます。

イスラエルとユダが分裂することも、諸国が互いに敵対して分裂することもなくなります。
人々が国際紛争の解決策として切望してきた「世界政府」が実現します。(エゼキエル37章13~28節)
その時、ユダの子らとイスラエルの子らは一緒に集められ、ひとりの頭を立てるであろう(ホセア書1章11節)

(5)政府は、いかなる罪の発生も即座に処罰します。

詩篇2篇9節、72章1~4節、
イザヤ書29章20、21節、65章20節、66章24節、
ゼカリヤ書14章16~21節、
エレミヤ書31章29、30節。

「口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。」
(イザヤ書11章4節)


王の権威に反するいかなる明白な行為も、肉体の死をもって罰せられます。
聖霊の満ち満ちた状態、主の知識の普遍性、サタンの除去、そして王の臨在の現れを通して、聖徒たちは罪を犯さないよう十分な力を与えられています。

(6)それは永遠の支配です。(ダニエル書7章14、27節)

II.千年王国における主題

主イエス・キリストの再臨によって設立される地上の神権王国には、主の再臨の時に生きているイスラエルの救われた人々と異邦人の救われた人々すべてが含まれます。
聖書は、王国が設立される前にすべての罪人が断ち切られることを非常に明確に示しています。
イザヤ書1章19~31節、65章11~16節、66章15~18節、
エレミヤ書25章27~33節、30章23、24節、
エゼキエル書11章21節、20章33、44節、
ミカ書5章9~15節、
ゼカリヤ書13章9節、
マラキ書3章2~6節、3章18節、4章3節。
諸国民の裁きの記録(マタイの福音書25章35節)の中で、救われた人々だけが王国に入ることが明らかにされています。
麦と毒麦のたとえ話(マタイの福音書13章30、31節)と良い魚と悪い魚のたとえ話(マタイの福音書13章49~50節)では、救われた者だけが神の御国に入ることが示されています。
ダニエルは、神の御国は聖徒たちに与えられることを明確に示しています。

「しかし、いと高き方の聖徒たちが、国を受け継ぎ、永遠に、その国を保って世々限りなく続く。」
「しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行なわれ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。」
「国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。」
(ダニエル書7章18節、22節、27節)


A.千年王国におけるイスラエル

1.イスラエルの回復

旧約聖書の預言の大部分は、この再集結なしには契約は成就し得なかったため、国家の国土への回復に関するものです。
この再集結が再臨と関連していることは、主の御言葉から分かります。

「そのとき、人の子のしるしが天に現われます。
すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。
すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」
(マタイの福音書24章30、31節)

この再集結は、以下の節でわかるように、預言的なメッセージの主要な主題です。
あなたたちは一人ずつ集められます。(イザヤ書27章12節)

「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。
わたしは、北に向かって『引き渡せ。』と言い、南に向かって『引き止めるな。』と言う。
わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。
わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」
(イザヤ書43章5~7節)

「しかし、彼らを引き抜いて後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ、彼らの相続地、彼らの国に帰らせよう。」
(エレミヤ書12章15節)

「わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。」
(エレミヤ書24章6節)

「わたしが、あなたがたの先祖に与えると誓った地、イスラエルの地に、あなたがたをはいらせるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。」
(エゼキエル書20章42節)

「神である主はこう仰せられる。わたしがイスラエルの家を、散らされていた国々の民の中から集めるとき、わたしは諸国の民の目のまえで、わたしの聖なることを示そう。
彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた土地に住みつこう。
彼らはそこに安らかに住み、家々を建て、ぶどう畑を作る。彼らは安らかにそこに住みつこう。
回りで彼らを侮るすべての者にわたしがさばきを下すとき、彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知ろう。」
(エゼキエル書28章25、26節)

「しかし、わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、主である。わたしは例祭の日のように、再びあなたを天幕に住ませよう。」
(ホセア書12章9節)

「見よ。わたしがユダとエルサレムの捕われ人を返す、その日、その時、」
(ヨエル3章1節)

「わたしは、わたしの民イスラエルの捕われ人を帰らせる。
彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。
わたしは彼らを彼らの地に植える。
彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない。」とあなたの神、主は、仰せられる。」
(アモス書9章14、15節)

「その日、――主の御告げ。――わたしは足のなえた者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を寄せ集める。」
(ミカ書4章6節)

「その時、わたしはあなたがたを連れ帰り、その時、わたしはあなたがたを集める。
わたしがあなたがたの目の前で、あなたがたの捕われ人を帰すとき、地のすべての民の間であなたがたに、名誉と栄誉を与えよう、と主は仰せられる。」
(ゼパニヤ書3章20節)

「わたしは彼らをエジプトの地から連れ帰り、アッシリヤから彼らを寄せ集める。
わたしはギルアデの地とレバノンへ彼らを連れて行くが、そこも彼らには足りなくなる。」
(ゼカリヤ書10章10節)


このように、預言的な聖書全体にわたる主要なテーマであるこの希望は、キリストの再臨のときに実現します。

2.イスラエルの新生

イスラエル国民は改心を経験し、メシアに出会い千年王国に入るための備えをします。
パウロは、この改心が再臨の時に成し遂げられることを次のように証明しています。

「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。
「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」」
(ローマ人への手紙11章26、27節)

再び、これが預言書の主要なテーマであることが分かります。
いくつかの参考文献を挙げるだけで十分です。

「シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる。」
(イザヤ書1章27節)

「シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。
主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、」
(イザヤ書4章3、4節)

「その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。」
(エレミヤ書23章6節)

「また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。
彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。」
(エレミヤ書24章7節)

「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――
わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。
それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。
――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」」
(エレミヤ書31章33、34節)

「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。
わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。
わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」
(エゼキエル36章25、26節)

「しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。
その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。」
(ヨエル書2章32節)

「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。
あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。
もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。」
(ミカ7章18、19節)

「わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。彼らはただ主の御名に身を避ける。
イスラエルの残りの者は不正を行なわず、偽りを言わない。彼らの口の中には欺きの舌はない。
まことに彼らは草を食べて伏す。彼らを脅かす者はない。」
(ゼパニヤ書3章12、13節)

「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。」
(ゼカリヤ書13章1節)

「わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。
彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民。」と言い、彼らは「主は私の神。」と言う。」
(ゼカリヤ書13章9節)


救われていない者は千年王国に入ることができないため、イスラエルは約束された王国に備えるための改心を待ち望んでいました。
再臨は、この国民、つまり真実なイスラエル全体の改心を目の当たりにすることになります。
そうすることで、彼らに与えられた契約は、メシアの支配の時代に成就します。

3.千年王国におけるメシアの国民としてのイスラエル

イスラエルは王の支配の国民となります。
イザヤ書9章6、7節、33章17、22節、44章6節、
エレミヤ書23章5節、
ミカ書2章13節、4章7節、
ダニエル書4章3節、7章14、22、27節。

国民となるためには、
(1)イスラエルは既に示されているように、改心し、元の国土に復帰する必要があります。

(2)イスラエルは国家として再び統一されます。
エレミヤ書3章18節、33章14節、
エゼキエル書20章40節、37章15~22節、39章25節、
ホセア1章11節。

(3)イスラエルは再び結婚によってヤハゥエと結ばれることになります。
イザヤ書54章1~17節、62章2~5節、
ホセア書2章14~23節。

(4)イスラエルは異邦人よりも高く上げられます。
イザヤ書14章1、2節、49章22、23節、60章14~17節、61章6、7節。

(5)イスラエルは義とされます。
イザヤ書1章25節、2章4節、44章22~24節、45章17~25節、48章17節、55章7節、57章18、19節、63章16節、
エレミヤ書31章11節、33章8節、50章20、34節、
エゼキエル書36章25、26節、
ホセア書14章4節、
ヨエル書3章21節、
ミカ書7章18、19節、
ゼカリヤ書13章9節、マラキ書3章2、3節。

(6)千年王国において、イスラエルは神の証人となります。
イザヤ書44章8、21節、61章6節、66章21節、
エレミヤ書16章19~21節、
ミカ書5章7節、
ゼパニヤ書3章20節、
ゼカリヤ書4章1~7節、4章11~14節、8章23節。

(7)イスラエルはヤハゥエに栄光を帰すために美しくされます。
イザヤ書62章3節、
エレミヤ書32章41節、
ホセア書14章5、6節、
ゼパニヤ書3章16、17節、
ゼカリヤ書9章16、17節。

B.千年王国における異邦人

普遍的な祝福を約束したアブラハム契約の普遍的な側面は、その時代に実現されます。
異邦人は王との関係に導かれます。

(1)異邦人が千年王国に参加するという事実は、預言的な聖書の中で約束されています。
イザヤ書2章4節、11章12節、16章1~5節、18章1~7節、19章16~25節、23章18節、42章1節、45章14節、49章6節、22節、59章16~18節、60章1~14節、61章8、9節、62章2節、66章18、19節、
エレミヤ書3章17節、16章19~21節、49章6節、49章39節、
エゼキエル38章23節、
アモス9章12節、
ミカ書7章16、17節、
ゼパニヤ2章11節、3章9節、
ゼカリヤ書8章20~22節、9章10節、10章11、12節、14章16~19節。
メシアの支配が普遍的なものとなるためには、このような受け入れが不可欠です。

(2)その時代、異邦人はイスラエルのしもべとなります。
イザヤ書14章1、2節、49章22、23節、60章14節、61章5節、
ゼカリヤ書8章22、23節。
過去の時代においてイスラエルの権威を奪取した諸国は、虐げられた民が高められ、自らも彼らの王国に服従するのを見ます。

(3)千年王国にいる異邦人は、入場前に改心を経験しています。
イザヤ書16章5節、18章7節、19章19~21、25節、23章18節、55章5、6節、56章6~8節、60章3~5節、61章8、9節、
エレミヤ書3章17節、16章19~21節、
アモス書9章12節、
オバデヤ書17~21節

(4)彼らはメシアに従います。
イザヤ書42章1節、49章6節、60章3~5節、
オバデヤ書21節、
ゼカリヤ書8章22、23節。
これらの異邦人は次のような招きを受けている者たちです。

「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」
(マタイの福音書25章34節)

Ⅲ.千年王国のエルサレムとパレスチナ

イスラエルと結ばれた契約によって彼らに国土の所有が保証され、それが千年王国時代に完全に実現されるため、パレスチナとエルサレムは預言の聖書の中で大きな役割を果たしています。

A.千年王国におけるエルサレム

その時代におけるエルサレムの位置に関する預言を研究すると、多くの事実が明らかになります。

(1)エルサレムは千年王国の中心となります。
イザヤ書2章2~4節、
エレミヤ書31章6節、
ミカ書4章1節、
ゼカリヤ書2章10、11節。
世界はイスラエルの王の支配下にあるため、パレスチナの中心が全地の中心となります。

(2)エルサレムは王国の支配の中心となります。
エレミヤ書3章17節、30章16、17節、31章6節、23節、
エゼキエル43章5、6節、
ヨエル3章17節、ミカ書4章7節、
ゼカリヤ書8章2、3節。
ダビデの支配の中心であったこの街は、ダビデの偉大な子の支配の中心となります。

(3)その町は栄光に満ちた町となり、ヤハゥエに誉れがもたらされます。
イザヤ書52章1~12節、60章14~21節、61章3節、62章1~12節、66章10~14節、
エレミヤ書30章18節、33章16節、
ヨエル書3章17節、ゼカリヤ書2章1~13節。
王はエルサレムと非常に密接な関係にあるので、その町も王の栄光にあずかることになります。

(4)その町は王の力によって守られ、二度とその安全を恐れる必要はありません。
イザヤ書14章32節、25章4節、26章1~4節、33章20~24節。

(5)その町は以前の地域よりも大きく拡張されます。
エレミヤ書31章38~40節、
エゼキエル書48章30~35節、
ゼカリヤ書14章10節。

(6)その日には、エルサレムはすべての人に開かれるので、王を求める者は皆、その城壁の内側で会見することができます。
(イザヤ書35章8、9節)

(7)エルサレムは、その時代の礼拝の中心地となります。
エレミヤ書30章16~21節、31章6、23節、
ヨエル書3章17節、
ゼカリヤ書8章8、20~23節。

B.千年王国におけるパレスチナ

預言の中で、その国土そのものに関するいくつかの重要な事実が示されています。

(1)パレスチナはイスラエルの特別な相続地となります。
エゼキエル36章8、12節、47章22、23節、
ゼカリヤ書8章12節。
これはイスラエルの契約を成就するために不可欠です。

(2)その国土は以前の面積に比べて大幅に拡張されます。
イザヤ書26章15節、33章17節、
オバデア書17~21節、ミカ書7章14節。
イスラエルは初めてアブラハムに約束された国土をすべて所有することになります。(創世記15章18~21節)

(3)その国土の地形は変化します。
イザヤ書33章10、11節、
エゼキエル書47章1~12節、
ヨエル書3章18節、
ゼカリヤ書4章7節、14章4、8、10節。
今日のパレスチナを特徴づける山岳地帯は、メシアの再臨によって広大な肥沃な平野へと変貌します。
(ゼカリヤ書14章4節)
こうしてパレスチナは真実に「高嶺の麗しさ」(詩篇48篇2節)となります。
この地形の変化により、川はエルサレムの町から流れ出し、海へと流れて地を潤します。(エゼキエル書47章1~12節)

(4)地は再び豊穣となり、生産力が回復します。
イザヤ書29章17節、32章15節、35章1~7節、51章3節、55章13節、62章8、9節、
エレミヤ書31章27、28節、
エゼキエル34章27節、36章29~35節、
ヨエル3章18節、アモス9章13節。
そして、地の豊穣により、耕す者が刈る者を追い越します。

(5)雨が豊かに降ります。
イザヤ書30章23~25節、35章6、7節、41章17、18節、49章10節、
エゼキエル3章10節。

(6)患難時代に荒廃した地は再建されます。(イザヤ書32章16~18節、49章19節、61章4、5節、エゼキエル36章33~38節、39章9節、アモス9章14、15節)
破壊の残骸は取り除かれ、地は再び清められます。

(7)パレスチナはイスラエルの12部族に再分配されます。
エゼキエル48章1~29節にこの再分配の概要が記されています。
その章では、国土が三つの部分に分けられていることが示されています。
北部では、ダン、アシェル、ナフタリ、マナセ、エフライム、ルベン、ユダの各部族に国土が配分されています。
(エゼキエル書48章1~7節)
国土は、パレスチナの広大な地域を東西に横切る線によって分割されます。
同じ様に、南部では、ベニヤミン、シメオン、イッサカル、ゼブルン、ガドに国土が割り当てられています。(エゼキエル書48章23~27節)
北部と南部の区分の間には、「聖なる供え物」(エゼキエル書48章8~20節)として知られる地域があり、それは主のために聖別された国土のことです。
これは長さと幅がそれぞれ2万5千キュビト(エゼキエル書48章8、20節)の区域であり、レビ人のために2万5千キュビト×1万キュビトの区域(エゼキエル書45章5節、48章13、14節)、神殿と祭司たちのために同じ区域(エゼキエル書45章4節、48章10~12節)、そして町のために2万5千キュビト×5千キュビトの区域(エゼキエル書45章6節、48章15~19節)に分けられることになっていました。
アンガー氏は次のように記しています。
しかし、キュビトの長さはどれくらいでしょうか?これは「六キュビト」と記され、「それぞれ一キュビトと一手幅」(40章5節)です。
「その一キュビトは、普通の一キュビトに一手幅を足した長さであった」(43章13節)と記されています。
では、真実な問題は、エゼキエルが指し示すキュビトの長さがどれくらいなのか、ということです。
考古学的調査により、古代バビロニアでは3キュビトが用いられていたことが立証されています。
最小の10.8インチ、つまり3パーム(手幅)は金細工に用いられました。
2番目は4パーム(14.4インチ)で、建物に使用され、3番目は5ハンド幅(18インチ)で、国土に使用されました。
3ハンド幅、つまりパーム(1パームは3.6インチ)の最も短いキュビトは10.8インチに相当し、これが基本単位となります。
預言者は、自身の幻における計測単位が「キュビトとハンド幅」(40章5節、43章13節)であると明確に述べているため、彼が意味しているのは、間違いなく、基本計測単位として3ハンド幅の最小キュビトに、ハンド幅1節、つまり中央の14.4インチに相当する値を加えたものです。
この計算では、キュビトの長さは7.2フィートになります。
聖なる供え物は、幅34マイル(約56キロ)の広大な広場で、面積は約1160平方マイル(約2800平方キロ)に及びます。
この地域は、千年王国の地上に設立される神の支配と礼拝のあらゆる関心の中心となります。[9]
もしより大きなキュビトが用いられれば、聖なる奉納の範囲は片道約80キロに拡大することになります。
これは、千年王国におけるパレスチナの境界に含まれる範囲の拡大を考慮すれば、初めて可能となります。[10]

NOTE

[1]G. N. H. Peters, Theocratic Kingdom, I, 221.
[2]Ibid., III, 583-84.
[3]Ibid., I, 577.
[4]R. B. Girdlestone, The Grammar of Prophecy, pp. 73-75.
[5]Harry A. Ironside, Ezekiel the Prophet, p. 262.
[6]Harry A. Ironside, Notes on the Minor Prophets, p. 33.
[7]Ford C. Ottman, God’s Oath, p. 74.
[8]William R. Newell, The Revelation, p. 323.
[9]Merrill F. Unger, “The Temple Vision of Ezekiel,” Bibliotheca Sacra, 105:427-28, October, 1948.
[10]Cf. Arno C. Gaebelein, The Prophet Ezekiel, p. 339.


第30章 千年王国における礼拝

回復された神権政治は、主イエス・キリストへの崇拝によって特徴づけられます。
イザヤ書12章1~6節、25章1~26章19節、56章7節、61章10、11節、66章23節、
エレミヤ書33章11、18、21、22節、
エゼキエル書20章40、41節、40章1~46章24節、
ゼカリヤ書6章12~15節、8章20~23節、14章16~21節。

「毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る。」と主は仰せられる。」
(イザヤ書66章23節)


I.千年王国の神殿

エゼキエル書の預言の大部分(40章1~46章24節)は神殿、つまりその構造、祭司職、儀式、そして奉仕について記されています。
この重要な預言については様々な見解が提示されています。
グレイ氏はそれらの見解を要約しています。
これらの章には5つの解釈があります。

(1)ある人たちは、これらはバビロン捕囚以前のエルサレムの神殿を描写しており、その記念碑を保存するために作られたものだと考えています。
しかし、列王記と歴代誌の記録により、そのような記念碑は不要だという反論があります。
また、この記述は、多くの点で上記の書物の内容と一致しないため、真実ではありません。

(2)これらの章はバビロンでの70年間の滞在から帰還した後のエルサレムの神殿について述べていると考える人もいます。
しかし、ここで述べられている神殿とあの神殿の間には類似点よりも対照点の方が多いため、そうではありません。

(3)ユダヤ人が70年後の帰還後に建てるべきだったものの実現しなかった理想的な神殿を描写していると考える人もいます。
しかし、これは神の御言葉の真価を貶めるものです。
エゼキエル書のこの預言が決して成就しないのであれば、なぜ与えられたのでしょうか?

(4)エゼキエル書のこの神殿は、現代における教会の霊的な祝福を象徴していると考える人もいます。
しかし、この説を支持する人々でさえ、彼らが語る象徴の意味を説明できないため、これはありそうにありません。
さらに、象徴としてさえ、大祭司による贖罪や執り成しといったキリスト教の重要な特徴がいくつか抜け落ちています。

(5)最後の見解は、前述の注釈において、千年王国時代に建てられる神殿についての預言がここに記されているというものです。
これは、先行する預言にふさわしい、理にかなった続編であるように思われます。[1]

上述のグレイ氏の見解にはそれ自体反論が含まれているが、ゲーベルライン氏は反文的解釈の見解にさらに詳しく答えています。
エゼキエルの預言のこれらの章がバビロンからの残された民の帰還によって成就すると考える見解について、ゲーベルライン氏は次のように記しています。
「残された民が建てた神殿は、エゼキエルが幻の中で見た壮大な建造物とは全く一致しません。
事実、もしこの神殿が文字通りの建物であるならば、それはまだ一度も建てられていません。
さらに、主の栄光が神殿に戻り、そこに住まわれたと明確に述べられています。
それはエゼキエルが神殿とエルサレムから去っていくのを見たのと同じ栄光です。
しかし、栄光は第二神殿には戻りません。
栄光の雲はその神殿を満たしません。
さらに、エゼキエルが描写する神殿の礼拝には大祭司の言及はありませんが、バビロンから帰還したユダヤ人には再び大祭司がいました。
また、エゼキエルが見た神殿から流れ出る癒しの水の流れも、バビロン捕囚からの復興には全く適応できません。[2]
同じ著者は、その幻が預言者自身の想像の結果であるという説明を価値のないものとして退け、預言者の言葉が比喩的に教会に適用されるという考えを次のように反論しています。
これは最も弱い説でありながら、最も広く受け入れられています。
しかし、彼の理論はテキストの解説を一切行っておらず、曖昧で、空想的な適用に富んでいます。
一方、この幻視の大部分は、その比喩的な意味においてさえも説明されていません。
なぜなら、明らかにそのような意味は全く存在しないからです。[3]
解釈の方法に関する彼の結論は次の通りです。
真実な解釈とは、これらの章をまだ成就していない預言と捉え、イスラエルが羊飼いによって回復され、神の栄光が再び民の中に現される時に成就する、文字通りの解釈です。
その時、預言的な幻に示された偉大な建物が出現し、すべてが成就します。[4]

アンガー氏も同じ様にこう結論づけています。
「エゼキエルの神殿は、千年王国の間にパレスチナに建設される予定の文字通りの将来の聖域です。」[5]
その国土における神殿の位置は聖書に明確に示されています。
神殿自体は、この広場(聖なる供え物)の中央(エルサレム市内ではなく)に、非常に高い山の上に建てられることになります。
神殿が建てられる時、この山は奇跡的にその目的のために整えられます。
この山は「ヤハゥエの家の山」であり、「山の頂」に築かれ、「丘々よりも高く」、すべての国々が流れ込む場所となります。(イザヤ書2章4節、ミカ書4章1~4節、エゼキエル37章26節)
エゼキエルは37章27節でこの光景を描いています。
「わたしの住まいは彼らとともにあり(もしくは「彼らの上に」)」預言者は、周囲のすべての国土を見渡す絶景を見下ろす、高台に建つ壮麗な建造物を目にします。」[6]

A.神殿の詳細

預言者エゼキエルを通して、千年王国時代の中心となるこの神殿について、多くの詳細が私たちに与えられています。
7神殿を取り囲む門と中庭が最初に描写されています。(エゼキエル書40章5~47節)
神殿の周囲全体は壁で囲まれており(40章5節)、これは汚れたものを隔てるためのものでした。
人々が集まる外庭が描写されています。(40章6~27節)
そこへは3つの門があり、そのうちの一つは他の門と同じ様に東門(40章6~16節)で、幅25キュビト、奥行50キュビト(40章21節)の広さです。
シェキーナの栄光がここから神殿に入り(43章1~6節)、神殿は常に閉じられています。(44章2、3節)
北側(40章20~23節)と南側(40章24~27節)に門があり、それぞれ7段の階段で入口があります。(40章26節)
西側には門はありません。(40章24節)
それぞれの門には、両側に3つずつ、計6つの小部屋がありました。(40章7~10節)
外庭の周囲には、門の両側に5つずつ、計30の小部屋があり、北、東、南の壁に沿って配置されていました。(40章17~19節)
これらの小部屋の前には、敷地の3辺を囲む舗装路があります。(40章17、18節)
預言者は次に内庭について描写しています。(40章28~47節)
そこは各側に100キュビトの広さがあり(40章47節)、祭司たちが奉仕する場所です。
内庭へは、外壁の門の真向かいに3つの門があり、それぞれ外壁の内側100キュビトの位置にあります。
門は南(40章28~31節)、東、北(40章32~37節)にあります。
この内庭へは八段の階段で行くことができ(40章37節)、外庭よりも高い位置にあります。
このエリアの北側の門に隣接して、いけにえを準備するための八つのテーブルがありました。(40章40~43節)
また、内庭の外には、奉仕する祭司たちの部屋がありました。(40章44~46節)
このエリアの中央には、いけにえが捧げられる祭壇があります。(40章47節、43章13~17節)
エゼキエルは次に神殿そのものについて描写しています。(40章48~41章4節)
まず神殿の玄関、もしくは間仕切りについて描写しています。(40章48~49節)
それは20キュビト×11キュビトの広さです。
玄関には2本の大きな柱が立っており(40章49節)、階段で上ります。(40章49節)
そのため、この場所は他の場所よりも高くなっています。
この玄関は「神殿」へと続いています。
そこは聖所となる場所で、40キュビト×20キュビトの広さで(41章2節)、中には木のテーブルが置かれています。(41章22節)
その奥には神殿の奥、つまり至聖所があり、20キュビト×20キュビトの部屋があります。(41章3、4節)
神殿の壁を取り囲むように、3階建て、つまり30階建ての部屋がいくつもありました。(41章5~11節)
預言者はこれらの部屋がどのように使われたのかについては何も語っていません。
神殿は、20キュビト×100キュビトの広さを持つ聖所(41章12~14節)に囲まれており、東側(玄関のある側)を除くすべての側面を囲んでいます。
神殿の内部は描写されています。(41章15~26節)
内部は木製の羽目板で覆われ(41章16節)、ナツメヤシの木とケルビムで装飾されていました。(41章18節)
聖所には二つの扉がありました。(41章23~26節)
注目すべきは、この描写全体を通して、聖櫃、贖罪所、垂れ幕、贖罪所の上のケルビム、石の板などについては一切触れられていないことです。
唯一描写されている家具は、神との交わりを象徴する供えのパンのテーブルに相当する、木製のテーブル、もしくは祭壇です。(41章22節)
神殿の区域には、囲い地の西側に位置する独立した建物(41章12節)、ささげ物を準備する場所(46章19、20節)、人々へのささげ物を準備する庭がある四隅の区域(46章21~24節)も含まれていました。
預言の中では、権威の座である王座について詳細な描写がなされています。(43章7~12節)
祭壇の描写は詳細に(43章12~18節)、続いて捧げられる供え物について詳述されています。(43章19~27節)
祭司の務めは要約され(44章9~31節)、礼拝の儀式全体が描写されています。(45章13、46章18節)
この幻は、聖所から流れ出る川の描写で最高潮に達します。(47章112ページイザヤ書33章20、21節、ヨエル3章18節、ゼカリヤ書14章8参照)
この川は神殿から南へ流れ、エルサレムの町を通り抜け、死海と地中海に流れ込み、両岸に生命を育んでいます。

B.神殿の目的

アンガー氏はこの神殿で実現されるべき5つの目的を挙げています。
「彼は神殿が建立された理由を次のように説明しています。
(1)神の聖さを示すためです。
ヤハゥエの本質と支配の無限の神聖さは…神の民と自称する人々の偶像崇拝と反逆によって冒涜され、疑問視されてきました。
これには、罪深いイスラエルの徹底的な暴露、告発、そして裁きが必要でした。
邪悪な周辺諸国に対する裁きの宣告も必要でした。
これに続いて、放蕩な国を神のもとへ回復させるという神の恵みが示されましたのです。

(2)神の栄光の住まいを提供します。

「人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。」
(エゼキエル書43章7節)


(3)ささげ物の記念を永続させます。
もちろん、それは救いを得る目的で捧げられるささげ物ではなく、ヤハゥエの啓示された栄光の前で維持される、成し遂げられた救いを記念するささげ物です。

(4)神の支配の中心となる場所を提供しています。
神の栄光が神殿に宿る時、神殿は神の住まいであり、礼拝の座であるだけでなく、神の支配の輝きの中心でもあることが告げられます。
「ここはわたしの玉座のある所」(43章7節)

(5)呪いに対する勝利をもたらすため(47章1~12節)
神殿の敷居の下から、預言者は驚くべき小川が東へと流れ出し、水を豊かに与えながら流れていくのを目にします。
その水は死海に流れ込み、死海の毒水は癒されます。
この驚くべき生命を与える水の流れを横切ると、預言者は両岸に枯れることのない葉と尽きることのない果実の木々が豊かに生い茂り、薬と食料の両方を提供してくれるのを目にします。[8]

II.千年王国に文字通りのささげ物は存在するだろうか?
旧約聖書における千年王国の記述を文字通り解釈することに伴う問題の一つは、エゼキエル書43章18節から46章24節、ゼカリヤ書14章16節、イザヤ書56章6~8節、66章21節、エレミヤ書33章15~18節、エゼキエル書20章40、41節といった箇所の解釈をめぐる問題です。
これらの箇所はすべて、千年王国における祭司職の回復と血のささげ物制度の復活を教えています。
この解釈と、旧約聖書におけるささげ物制度の廃止をもたらしたキリストの完成された御業に関する新約聖書の教えとの間に矛盾があるとする主張は、無千年王国論者によって、前千年王国制度を不合理なものに貶め、文字通りの解釈方法の誤りを肯定するために利用されてきました。
アリス氏は、次のように述べることによって、千年王国前再臨主義に克服できない障害を提示したと感じています。[9]
「その文字通りの解釈と旧約聖書の強調は、必然的ではないにせよ、ほぼ必然的に、千年王国の教義につながります。
それは明らかにユダヤ的なものとなり、福音の栄光から、福音の道を準備し、その必要な目的を果たした後、その有効性と妥当性を永遠に失った型としての儀式や儀礼への逆戻りを意味しています。」[10]
したがって、千年王国前再臨主義者が直面するのは、千年王国において血のささげ物が捧げられるという旧約聖書の教えと、キリストのささげ物によって旧約聖書時代のささげ物は廃止されるという新約聖書の教理を調和させる必要性です。
一貫した文字通りの解釈が、千年王国において文字通りのささげ物の採用につながるならば、なぜそのような制度を復活させるべきなのかという理由を示すことが必要となります。

A.モーセの秩序は再建されるのでしょうか?

千年王国における動物のささげ物の擁護者が直面する問題は、かつてのモーセの秩序と千年王国に施行されている秩序との関係性です。
アリス氏はこのように述べています。
「この問題全体の核心は、レビ人のささげ物の儀式の復活であることは疑いようがありません。
これは幾度となく言及され、もしくは暗示されています。
エゼキエル書46章には、全焼の供え物と罪の供え物が記されています。
雄牛、雄やぎ、雄羊が捧げられ、その血が祭壇に振りかけられます。
ツァドクの子孫であるレビ人である祭司たちが、その儀式を執り行います。
文字通りに解釈すると、これはアロンの祭司職と、モーセのささげ物の儀式が本質的に変わることなく復活することを意味します。」[11]

彼はさらにこのように述べています。
「ディスペンセーション主義者は、千年王国の描写を旧約聖書の王国預言の中に見出すことができます。
その結果として、その性格が著しくユダヤ的であることから、モーセの経済、その制度、および規則の再建という問題に彼らが取り組まなければならないのは当然です。」[12]
彼の観察と結論には重大な誤りが一つあります。
神の御国への期待は、アブラハム契約、ダビデ契約、そしてパレスチナ契約に基づいているが、モーセ契約に基づいているわけではありません。
契約は神の御国時代に成就すると主張されています。
しかし、これは必ずしもモーセ契約と神の御国を結びつけるものではありません。
したがって、決定的契約の成就を信じるからといって、モーセ契約の復活も信じなければならないと推論するのは誤りです。
モーセ契約は条件付きの契約であり、決定的でも終末論的でもない意図で、むしろ旧体制における神との関係において人々の生活を支配するために与えられたものでした。
千年王国における文字通りのささげ物の受け入れを阻む大きな障害の一つは、アロンのシステムと千年王国制度の間には多くの類似点がある一方で、両者を同一視することが不可能になるほど多くの相違点もあるという点を観察することによって取り除かれます。

1.アロン式と千年王国制には、いくつかの類似点があります。
千年王国制では、礼拝の中心は祭壇に置かれ(エゼキエル書43章13~17節)、祭壇には血が振りかけられ(43章18節)、全焼のいけにえ、罪祭、そして過越祭が捧げられます。(40章39節)
レビ人の秩序が再確立され、ツァドクの子らが祭司の務めのために分けられました。(43章19節)
穀物の供え物が儀式に組み込まれました。(42章13節)
祭壇の清め(43章20~27節)、奉仕するレビ人の清め(44章25~27節)、そして聖所の清め(45章18節)のための定められた儀式があります。
新月と安息日が守られます。(46章1節)
朝のいけにえは毎日捧げられます。(46章13節)
永遠の相続財産が認められます。(46章16~18節)
過越の祭りが再び祝われ(45章21~25節)、仮庵の祭りが年中行事となります。(45章25節)
ヨベルの年が祝われます。(46章17節)
祭司職の生活様式、服装、そして生計を規定する規定にも類似点が見られます。(44章15~31節)
この奉仕が遂行される神殿は、再びヤハゥエの栄光が現れされる場所となります。(43章4、5節)
このように、千年王国における崇拝の形態は、古きアロンの秩序と強い類似性を持つことがわかります。
神が、古来のアロンの秩序に奇妙なほど似た秩序を制定されたという事実自体が、異邦人とユダヤ人から成る現代の教会において千年王国が成就していないことを示す最も有力な論拠の一つです。
この礼拝が、贖われたイスラエルのために特別に計画されたことは、ケリー氏によって的確に指摘されています。

彼は次のように書いています。
「イスラエルはやがてその地に戻り、彼らの神であるヤハゥエのもとで、確かに改心し、祝福を受けます。
「しかし、それはイスラエルとしてであり、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、すべての信者がクリスチャンになるのではありません。
彼らは天のキリストに属し、そこではそのような違いは知られていません。
したがって、キリスト教の大きな特徴の一つは、キリストが頭を高く上げ、その体が天から遣わされた聖霊によって地上で形作られている間、そのような区別が消え去ることです。
エゼキエルの幻が成就する時、地上ではヤハゥエ・イエスの支配が始まり、イスラエルと異邦人の区別は再び確立されます。
ただし、それは律法のもとでの呪いのためではなく、新しい契約のもとでの祝福のためなのです。
天の民は一つのささげ物の上に安息し、キリストが神の右におられる至聖所に近づきます。
しかし、地上の民は、自分たちにふさわしい聖所と国土を持ち、それが彼らの礼拝のあらゆる儀式です。」[13]

ヘブル人への手紙は、イスラエルが旧体制においてアロン祭司職の秩序もしくは制度を通して神に近づこうとしたのに対し、私たちはキリストを通して神に導かれ、キリストが新しい秩序もしくは制度、つまりメルキゼデク祭司職において仕えるようになったと論じています。
ヘブル人への手紙7章15節では、キリストが新しい祭司職の秩序において仕えるために来られたことが特に強調されています。
二つの祭司職の要件や儀式が著しく異なっていなくても、それらは二つの異なる祭司職であると言えます。
どちらの祭司職もキリストを指し示しているので、類似点が存在するのは当然のことです。

2.アロン式と千年王国式には多くの基本的な違いがあります。
重要なのは類似点ではなく、むしろ二つのシステムの間にある際立った相違点です。
千年王国式は、アロン式の順序からいくつかの要素が省略され、それが二つのシステムを非常に異なるものにしています。

a.まず最初に、千年王国秩序に変化があります。
ウェスト氏はこの強調点を指摘しています。
この変化について彼はこのように述べています。
「神殿の規模は変化し、ソロモンの神殿でもゼルバベルの神殿でもヘロデの神殿でもないほどになりました。
外庭、門、城壁、敷地の寸法も変化し、神殿自体の位置も変化しました。
神殿は高い山の上に築かれ、町からさえ離れています。
聖所には、モーセの幕屋やソロモンの神殿にあったような家具はほとんど残っていません。」[14]
実際の神殿とその周辺におけるこの変化は非常に際立っていますため、エゼキエルはそれについて詳細な説明をする必要があります。
注目すべき大きな変化の一つは、レビ人とこの階級との関係です。
多くの箇所でレビ人の階級の存在が肯定されています。(エゼキエル書40章46節、43章19節、44章15~31節)
しかし、祭司として仕える人々はレビ人の血統全体から選ばれているのではなく、ザドクの子孫から選ばれていることに注目すべきです。
レビ人の血統全体は背教のために廃止されたからです。
ザドクの子孫を除いて、レビ人の務めは神殿の守護と維持に限られ、祭司としての務めからは除外されています。
ザドクの子孫について、グラント氏は次のように書いています。
「ザドクはダビデとソロモンの治世において大祭司としてイスラエルの歴史において重要な位置を占めています。
アブサロムの反乱の間もダビデに忠実であり続け、アドニヤが王位を狙った時には預言者ナタンと共にソロモンの立場を支持しました。
彼らと心を一つにしたダビデは、ザドクにバテシバの息子に油を注ぐよう指示しました。(列王記第一1章26、32~45節)
このように、ザドクは神に選ばれた王、そして神によってダビデの子孫に確立された王国、つまりキリストの型と結びついた祭司職の代表者として位置づけられています。」[15]
このように、神はレビ人の家系全体を彼らの背教のために排除し、その中からザドクの家系を選び出し、その子孫に千年王国における重要な祭司職を任命されたことが分かります。
部族の系譜は消滅し、ザドクの家系を確立するための系図は存在しないという主張がなされるとしても、無限の知恵をもってイスラエルの各部族から1万2千人を呼び出すことができる神(ヨハネの黙示録7章)は、ザドクの家系を守り、特定することができるという点に配慮すべきです。

b.千年王国制度は、最も影響力のあった多くのものを削除することで特徴づけられます。
アロンの体系における位置づけについて、ウェスト氏は鋭く指摘しています。
「契約の箱も、マナの壺も、芽を出すアロンの杖も、律法の板も、ケルビムも、贖罪所も、金の燭台も、供えのパンも、垂れ幕も、大祭司だけが入ることができる近寄ることのできない至聖所もありません。
罪を償い、民のために執り成しをする大祭司もいません。
これらはすべて存在しません。
レビ人は聖職としての立場を失いました。
祭司職はザドクの子らに限定され、特別な目的のためだけに与えられています。
夕べのいけにえもありません。
全焼のいけにえの祭壇の寸法はモーセの祭壇のものと異なり、ささげ物自体にもほとんど名前が付けられていません。
歌い手たちのための準備も以前とは異なっています。
モーセが力説した社会的、道徳的、そして市民的な規定はすべて欠けています。」[16]
アロンの秩序のもとで施行されていた五大供え物については述べられているものの、千年王国においてはこれらの供え物は異なる重点を置いています。
完全な制度が回復されたわけではありません。
同じ様に、エゼキエル書では過越祭が強調され、仮庵の祭りについても述べられている(エゼキエル書45章25節)ものの、ペンテコステの祭りについては一切言及されていません。
千年王国においてもアロンの制度の一部は見られるものの、不完全であり、以前守られていた多くのものが削除されています。
レビ人の制度は、贖罪の日、つまり大祭司が贖罪の血を贖罪所に振りかける儀式を中心に展開しています。
この重要な儀式に必要な要素、つまり大祭司、聖櫃と贖罪所、そして贖罪の日そのものまでが記録から省略されていることは、特筆すべき点です。
レビ人の制度にとって最も重要であったものが欠落していることは、千年王国時代にユダヤ教が再建されないことを示しています。

c.千年王国時代には、レビ記の律法に加えるべき事柄が付け加えられます。
再びウェスト氏の言葉を引用しましょう。
「栄光」がエゼキエルの神殿に入り、そこに永遠に住まわれること、祭壇の下から流れ出て広がる生ける水、郊外、素晴らしい治癒の木々、12部族に応じた国土の新しい分配、その中の均等な割り当て、部族自身の再調整、君主の割り当て、そして街の新しい名前「ヤハゥエ・シャマ」、これらすべては、回復された新しいイスラエルが「霊と真実をもって」神を崇拝する改心した民であることを証明しています。[17]
神によって定められたレビ人の旧秩序は、イスラエルが神の不変の聖性の姿を目の当たりにするため、変更されることなく固定されていました。
千年王国における秩序の変化は、全く新しい秩序を物語っています。
来たるべき千年王国において観察される最も大きな変化の一つは、「君主」の存在と奉仕です。
君主は王権だけでなく祭司としての特権も持ちます。
エゼキエルは、大祭司の職にある王にして祭司である人物について述べています。
この人物についてグラント氏はこのように記しています。
「「君主」は、他に類を見ない、非常に恵まれた地位に就いています。
ヤハゥエの栄光が差し入る東の門を占拠する特権を与えられ、民のささげ物は君主に捧げられ、君主によってささげ物の儀式のための管理が行われます。
民が自らささげ物を捧げるのではなく、日々の全焼のいけにえを含む定められた儀式のためにすべてを捧げるのは君主です。(45章17節)
民は君主によるささげ物の時に単に礼拝するだけだと言われていますが、ささげ物の行為は君主のものであり、祭司とレビ人はそれぞれの立場で行動します。
このように、君主は特定のささげ物に関して民を代表する立場に立っていますが、民はこれらすべてにおいて、まず君主にささげ物を捧げ(45章13~17節)、君主がささげ物を捧げる時には礼拝に加わるので、それぞれの役割を果たしていると言えます。
また、彼は東の門でヤハゥエと親しく交わる特権を与えられているので、人々に対して神の代表者としての立場を占めているようにも思われます。」[18]

この君主の人物と仕事について、同じ著者は別の場所でこのように書いています。
「この重要人物、君主は、明らかに国民の一人であり、キリスト御自身ではありません。
君主の息子たちについて言及されており(46章16節)、自ら罪の供え物を捧げています。(46章22節)
彼が代表的立場を占めていることは明らかですが、エゼキエルが言及していない大祭司や、かつてイスラエルで知られていた王の立場とは異なります。
彼にはどちらの特権も権力も与えられていません。
彼は民と祭司の中間的な立場を占めています。
なぜなら、民の礼拝の時には民の中にいるからです。(46章10節)
祭司たちの中にはいませんし、内庭に入る特権も与えられていませんが、民よりも近づいています。
なぜなら、彼は内庭に通じる東の門で礼拝することができ、民は外庭の門の入口に集まって礼拝するからです。(46章2節)
しかし、祭、新月、安息日、そしてイスラエルの家のあらゆる厳粛な儀式において、様々な供え物を供給する責任を負っており、それゆえ、民がこれらの機会に捧げる供え物の受け取り人であり、保管人でもあります。
そして、祭司たちもまた、国民の礼拝を執り行うために必要な供給を彼に求めています。(45章13~22節)
そして、彼は国土における特別な割り当てを与えられ、民の相続財産を一切取ってはならないと命じられていました。」[19]

このような重要な務めを担う人物は、千年王国時代特有の存在であり、レビ人の秩序にはこれに相当する人物はおらず、したがって、来たるべき千年王国時代における大きな変化を象徴していることは明らかです。
この人物は、メルキゼデクの秩序に従うキリストの王であり祭司である務めの地上における代表者、おそらくは前述のように復活したダビデなのです。
千年王国に発足する制度は、レビ人の秩序に取って代わる新しい秩序となります。
なぜなら、旧秩序にはあまりにも多くの変更、削除、追加が見られるため、文字通り解釈すれば、エゼキエルがレビ人の秩序の新たな制定を説いているという主張は成り立たないからです。
エレミヤ書31章の新しい契約の概念全体は、旧秩序の消滅後に全く新しい秩序が到来することを想定しています。

B.ささげ物の目的。
千年王国におけるささげ物には、それを完全に正当なものとするいくつかの要素が見られます。

1.まず最初に、千年王国のささげ物は贖罪の問題とは何の関係もないことに配慮すべきです。

それらは贖罪的なものではありません。
なぜなら、罪からの救済を目的として捧げられるとはどこにも述べられていないからです。

アリス氏は次のように書いています。
「これらは、レビ記に記されているささげ物が贖罪的であったのと全く同じ意味で贖罪的でなければなりません。
これらを他の見方で解釈することは、ディスペンセーション主義の根本である預言の文字通りの解釈の原則を放棄し、旧約聖書の王国預言が新約聖書に「全く変更されずに」入っているわけではないことを認めることになります。
確かに、それらの預言は、その効力の全てを十字架の光から得るならば、「弱く、貧弱な要素」に過ぎません。
しかし、それらは記念的なものではなく、モーセとダビデの時代には効力を持っていました。
そして、ディスペンセーション主義の解釈体系が真実であるならば、千年王国においても同じ様に効力を持つはずです。
そして、ヘブル人への手紙の教えを完全に無視しない限り、そのようではあり得ません。」[20]

これらのささげ物は論理的に、ディスペンセーション主義者によって贖罪として解釈されるべきであるという主張には、いくつかの誤りがあります。

(1)ダビデ契約の文字通りの成就を主張することは、モーセの秩序の再建を必然的にもたらすものではありません。
なぜなら、両者は互いに無関係だからです。
ダビデ契約は永遠かつ無条件であり、神が国家と将来的に交わす関係を規定していたのに対し、モーセ契約は一時的かつ条件付きであり、神と人間との関係を規定しました。
モーセ契約は一時的なものと考えられていたため、一方の成就は他方の成就を必ずしも必要としません。

(2)ささげ物が罪を消し去ることができた、もしくは現実に消し去ったと教えることは、救済論の教義における誤りです。
これは、アリス氏自身が引用しているヘブル人への手紙10章4節の明確な教え、「雄牛ややぎの血は罪を取り去ることはできない」と矛盾しています。
千年王国においてささげ物が有効であると主張する唯一の方法は、旧約聖書において有効であったと主張することであり、これは新約聖書全体と明らかに矛盾しています。
過去にはできなかったこと、現実にできなかったこと、もしくは意図されたことさえなかったことを、将来において儀式が達成できると主張することは、愚かなことです。

2.二番目に、ささげ物は記念的な性格を持っています。

千年王国に開始されたささげ物制度の目的については、千年王国前再臨主義者の間では概ね合意が得られています。
キリストの死の価値を説く新約聖書の光に照らして解釈すれば、ささげ物はキリストの死の記念でなければなりません。

グラント氏はそれを明確に述べています。
「これは、啓示された栄光の御前に維持される、ささげ物の永遠の記念です。
これは救いを得るためのささげ物ではなく、救いが成し遂げられたことの実現を願うささげ物です。」[21]

ゲーベライン氏は、ささげ物の記念的性格について同じような見解を示し、次のように書いています。
イスラエルがかつて捧げたささげ物には将来的な意味がありましたが、千年王国の神殿に捧げられたささげ物には回想的な意味があります。
この時代に神の民が定められた方法で主の食卓に着き、パンとぶどう酒を神の愛の記念として礼拝する時、それは回想です。
私たちは十字架を振り返り、主の死を示しています。
それは「主が来られるまで」です。
そしてこの記念の祝宴は永遠に終わります。
神の聖徒たちが地上を去り、栄光のうちに主とともにいるようになった後、主の晩餐が再び執り行われることはありません。
再開されるささげ物は十字架の記念であり、キリストの王国支配におけるイスラエルと地上の諸国民の救済の素晴らしい物語全体となります。
それらのささげ物には意味があります。
それらは過去のすべてを生きた思い出へと連れて行きます。
回想は、この地上でかつて見られなかった最も偉大な礼拝、賛美、そして崇敬の光景を生み出します。
十字架が意味し、十字架が成し遂げたすべてのことが思い起こされ、力強い「ハレルヤ・コーラス」が地と天を満たします。
これらのささげ物は、イスラエルのために命を捧げ、すべての被造物のために贖いの代価を払い、その栄光が今や深淵を覆う水のように地を覆っている主を、地の民に絶えず思い起こさせます。」[22]

アドルフ・サフィール氏は、キリストの死と関係する主の晩餐と、その死に関連する記念のささげ物との間に存在する類似性について次のように述べています。
「キリストの最初の到来以前に予型的であった、来るべき偉大な救済を指し示すものが、王国において達成された救済の記念となるのではないかと考えられませんか?
主の晩餐において、私たちはキリストの死を記念します。
キリストのささげ物の繰り返しというカトリックの教義を完全に否定します。
私たちはそのようなささげ物の更新を信じません。
しかし、キリストの死を記念し、外的な記念を世に示し、信仰を持つ参加者に外的な目に見えるしるしと印を与えるというキリストの命令には感謝をもって従います。
キリストの来臨とともに終わることが分かっている主の晩餐にも、同様の計画が続くべきはずです。
また、天の栄光を受けた聖徒たちと地上の諸国民が、千年王国の間に、型と現実の完全かつ精緻な調和を思い描く可能性もあります。
教会でさえ、レビ記の制度とその象徴に秘められた知恵の宝について、まだ表面的な知識しか持っていません。」[23]

ワレ氏はこの命題を次のように簡潔に述べています。
「主の晩餐のパンとぶどう酒は、信者にとって、既に成し遂げられた贖罪の、物質的かつ比喩的な象徴であり記念物です。
エルサレムで復活したささげ物も、まさにこの通りです。
古代のささげ物が予告的であったように、それらは記念的なものとなります。
なぜそうであってはならないのでしょうか?キリストのささげ物を予告する律法上のささげ物に、何か効力があったでしょうか?
全くありません。
それらの唯一の価値と意味は、キリストを指し示していたという事実に由来しています。
そして、神が将来の神殿で捧げられると宣言された将来のささげ物にも、同様の価値と意味があります。
読者が預言の成就にどれほど困難を想像しようとも、神がそれを言われたという事実だけで、私たちにとっては十分です。」[24]

したがって、これらのささげ物は罪の償いのささげ物ではないと結論づけられます。
なぜなら、いかなるささげ物も罪の完全な除去を成し遂げたことはなく、すべてのささげ物によって象徴される、世の罪を取り除く神の小羊の完全なささげ物の記念だからです。

C.検討すべき反論

この見解には、検討すべき反論がいくつかあります。

1.ささげ物の復活はヘブル人への手紙と矛盾すると主張する人もいます。
ヘブル人への手紙9章26節、7章27節、9章12節などの箇所では、キリストが神に受け入れられるささげ物を一度だけ捧げたのであり、それを繰り返す必要はないことが強調されています。
このような矛盾は、神の教会に対する計画とイスラエルに対する計画を、神の摂理の観点から区別できない場合にだけ生じます。

アンガー氏は、この区別を慎重に見守るべきことを的確に述べています。
「ヘブル人への手紙の教えとエゼキエルの預言との間の想像上の衝突については、一方の根拠と立場が他方の根拠と立場と全く異なることが分かると、この衝突全体が消滅すると言えます。
一方は、キリストが高き所におられる間に贖われたキリストのからだである教会の成員を念頭に置いています。
もう一方は地上のイスラエルに関係し、カナンの地に再び住まわれるヤハゥエの栄光を抱きます。
一方はユダヤ人も異邦人もいない、しかしすべての人がキリストにあって一つであるキリスト教に関係しています。
もう一方は回復されたユダヤ教を扱っており、そこではイスラエルが直接祝福され、異邦人はユダヤ人に対して間接的または従属的にのみ祝福されます。
これはキリスト教とは正反対の状態です。
文字通り未来的な解釈を受け入れる上で特に困難なのは、キリスト教世界がユダヤ人の堕落は最終的なものであり、異邦人が永遠にユダヤ人に取って代わったと想定する思い上がり(ローマ人への手紙11章15~26節)です。
イスラエルが祝福に呼び戻されたという真実を理解すると、エゼキエルの預言を文字通り未来的に解釈することが、この幻の通常の説明となります。」[25]

教会に関して言えば、キリストは永遠のささげ物を完成された者として立っています。
教会はキリストのみに目を向けます。
これがヘブル人への手紙の教えです。
しかし、イスラエルとキリストの将来の関係について述べると、ヘブル人への手紙8章8~13節と10章16節には、新しい契約の制定が予期されています。
エレミヤ書31章の新しい契約は、古い(モーセの)秩序が不十分であるがゆえに新しい秩序に取って代わられることを予告しました。
エゼキエルの神殿の幻は、イスラエルとの新しい契約が成就した後に神によって発足される新しい祭司の秩序について詳細に語っています。
このような解釈はヘブル人への手紙の教えと完全に一致しています。

2.復活したささげ物は贖罪の目的を持つべきだと主張する人もいます。

この問題については既に論じたので、この点に関しては、先に引用したワレの言葉に言及するだけに留めます。
彼はこのように述べています。
「キリストのささげ物を予告する法的なささげ物に、何か効力があっただろうか?
全くありません。
それらの唯一の価値と意味は、キリストを指し示していたという事実から生じたものです。」[26]
このような反論は、誤った救済論からのみ生じ得ます。

3.このような見解はエペソ人への手紙2章14~16節を否定すると主張する人もいます。

神はユダヤ人と異邦人を隔てる障壁を永遠に打ち壊し、彼らを一つにしたという反論が時々挙げられます。
この見解は、これが現在の世界における神の目的であり、千年王国における神の計画とは無関係であることを理解していないことから生じています。

この両者の関係について、サフィール氏は次のように的確に指摘しています。
「使徒パウロは、キリスト・イエスにあってはユダヤ人も異邦人もいないと教えています。
しかし、あなた方は、すでに取り壊された分離の壁を再び築き上げているのです!」確かに、キリストの教会においてはユダヤ人と異邦人は一つであり、神の御国においてもユダヤ人と異邦人は神に近づく道は一つ、赦しと新生の源泉は一つ、照らし、導き、力づける御霊は一つです。
しかし、だからといって、ユダヤ人と異邦人の立場が同じでなければならない、もしくは神の御国における彼らの異なる立場が、主イエス・キリストにおける彼らの一体性に反する、ということにはなりません。
キリストにおいては男も女もありませんが、男と女は依然として異なる立場にあり、教会においてさえ、特権においては平等であるにもかかわらず、女性は発言を許されていません。」[27]
神の地上の民イスラエルに対する計画と教会に対する計画を明確に区別できなければ、聖書は理解できません。

4.そのような礼拝を復活させることは地理的に不可能だと主張する人もいます。

神殿とその周辺は古代の神殿の敷地面積をはるかに超えており、文字通り理解することは不可能であるため、エゼキエルの預言を霊的に解釈する必要があるという議論もあります。
しかし、このような見解は、ゼカリヤ書で預言されている重要な地理的・地形的変化を見落としています。

「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。
オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。
山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」
(ゼカリヤ書14章4節)


パレスチナの地形のこのような予測された変化は神殿の敷地を十分に考慮したものなので、エゼキエルの預言を文字通りではない解釈する必要はありません。

5.エゼキエルの君主の存在はキリストの支配と矛盾すると主張する者もいます。
ダビデ契約の文字通りの成就はダビデの王座におけるキリストの支配を必要とするが、これはエゼキエルの「君主」の人格と奉仕に関する預言と矛盾するという主張があります。
ならば権威の象徴である物理的な王座との関係に関わらず、王座の権威を行使している時に支配していると言われることに配慮すべきです。
キリストは地上の文字通りの王座に座ることなく、ダビデ契約における約束を成就することができるかもしれません。

君主とキリストとの関係について、ゲーベルライン氏は次のように述べています。
「君主は主と同一ではありません。
では、君主とは誰なのでしょうか?
彼は王の代理であり、ダビデ家の将来の君主であり、地上において主を代表する者です。
ダビデの王座はエルサレムに築かれます。
主イエス・キリストは万物の上に君臨します。
その王座は新しいエルサレムにおいて地上の上にあります。
彼は地上を訪れ、万王の王、万主の主として栄光を現されます。
これはおそらく、諸国民が万軍の主である王を礼拝するためにエルサレムに代表者を送る仮庵の祭りの盛大な祝典の期間中に行われます。
(ゼカリヤ書14章16節)
ダビデの王座には、このダビデの君主が代理として座しています。[28]
聖書は、千年王国の支配はキリストの権威のもとで、キリストのもとで任命された人々によって行われると明らかにしています。
(マタイの福音書19章28節、マタイの福音書25章21節、ルカの福音書19章17節)、君主をキリストのもとでの副支配者と見なすことに矛盾はありません。

6.最後に、多くの人は、このような制度は退行であるとして、この解釈を否定します。
もしこのような制度の制定が退行であると主張されるならば、エゼキエルがこの制度(43章1~6節)を、イエス・キリストの御顔に示された神の栄光とは別に、地上が目にした神の栄光の最大の現れと見ていることに注目します。
もしこの制度が神によってイエス・キリストの記念として計画されたのであれば、パンとぶどう酒がキリストの砕かれた体と流された血の、弱く貧弱な記念であると言えるのと同じように、この制度が「弱く貧弱な要素」への退行であると言うことはできません。
この議論全体は、千年王国における救いの問題を提起します。
このような見解は、十字架を軽視し、その価値を現在の世界に限定するものだと一部の人々は考えています。[29]

そのような主張は正しくありません。
新しい契約(エレミヤ書31章31節)は、この千年王国に入るすべての人、そして千年王国に生まれ、したがって救いを必要とするすべての人に、
(1)新しい心(エレミヤ書31章33節)、
(2)罪の赦し(エレミヤ書31章34節)、そして
(3)聖霊の満ち満ちた状態(ヨエル書2章28、29節)を保証しています。
新約聖書は、新しい契約が主イエス・キリストの血に基づくものであることを明確に示しています。
(ヘブル人への手紙8章6節、10章12~18節、マタイの福音書26章28節)
したがって、千年王国における救いはキリストの死の価値に基づき、信仰によって得られるヘブル人への手紙11章6節)と断言できます。
それは、アブラハムが神の約束を受け入れて義とされたのと同じです。(ローマ人への手紙4章3節)
救いに至る信仰の表現は、現代に求められる表現とは異なりますが、ささげ物は単なる信仰の表現であり、救いの手段ではないと捉えなければなりません。
エゼキエルの栄光に満ちた幻は、その成就をイスラエルが知っていた過去のいかなる神殿や制度にも見出すことは不可能であり、キリストの再臨後に千年王国が制定された後の未来にのみ成就することを明らかにしています。
ささげ物の制度はユダヤ教の復活ではなく、すべての救いの土台であるキリストの御業を記憶することを目的とする新たな秩序の確立です。
エゼキエルの預言の文字通りの成就は、千年王国における神の栄光と人類の祝福の手段となります。

NOTE

[1]James M. Gray, Christian Worker’s Commentary, pp. 265-66.
[2]Arno C. Gaebelein, The Prophet Ezekiel, p. 272.
[3]Ibid., pp. 272-73.
[4]Ibid., p. 273.
[5]Merrill F. Unger, “The Temple Vision of Ezekiel,” Bibliotheca Sacra, 105:423. October, 1948.
[6]Ibid., 105:428-29.
[7]Cf. ibid., 106:48-57.
[8]Ibid., 106:57-64.
[9]Oswald T. Allis, Prophecy and the Church, p. 245.
[10]Ibid., p. 248.
[11]Ibid., p. 246.
[12]Ibid., p. 245.
[13]William Kelly, Notes on Ezekiel, pp. 236-37.
[14]Nathaniel West, The Thousand Years in Both Testaments, pp. 429-30.
[15]F. W. Grant, The Numerical Bible, IV., 270.
[16]West, loc. cit.
[17]Ibid.
[18]Grant, op. cit., IV, 239.
[19]Ibid., IV., 273.
[20]Allis, op. cit., p. 247.
[21]Grant, op. cit., IV, 238.
[22]Gaebelein, op. cit., pp. 312-13.
[23]Adolph Saphir, Christ and Israel, p. 182.
[24]Burlington B. Wale, The Closing Days of Christendom, p. 485.
[25]Unger, op. cit., 106:170-71.
[26]Wale, loc. cit.
[27]Saphir, op. cit. p., 183.
[28]Gaebelein, op. cit., pp. 314-15.
[29]Allis, op. cit., p. 249.


第31章 千年王国における生ける聖徒と復活した聖徒の関係

千年王国前再臨主義を唱える人々の間でさえ、教会時代の復活・天に召された聖徒たち、旧約聖書時代の復活した聖徒たち、そしてユダヤ人と異邦人の両方から来た生きた聖徒たち(いずれもその時代と何らかの関係を持つ)との関係について、広く混乱が生じてきました。
これらの様々な集まりがどのような立場を占めるか、活動範囲は何か、王の支配との関係、地上との関係、そして互いの関係については、明確な描写がなされていません。
教会はキリストと共に花嫁として支配することが認められています。
旧約聖書の聖徒たちは、その時代に復活し、報いを受けることが合意されています。
イスラエルの裁きにおいて義と認められる救われたユダヤ人と、再臨の時に異邦人の裁きにおいて義と認められる救われた異邦人は、共に千年王国において王の国民となります。
しかし、それらの時代との具体的な関係についてはほとんど語られていません。
ある著述家は、千年王国前再臨主義全体を嘲笑して次のように述べています。
「もう一つの疑問として、いわゆる千年王国において、復活し携挙された聖徒たちが、まだ死ぬべき肉体を持つ者たちと自由に交わり、交流するという主張から生じています。
復活した聖徒たちは千年王国の間、地上を支配し、キリストの律法を執行すると推定されています。
この点においても、千年王国前再臨主義は、復活した聖徒と死ぬべき罪人といった、和解しがたい者たちが同じ社会にいることによる和解について何ら考慮していません。
千年王国前再臨主義は、一方が死と復活の過程を経ており、他方がそうではないという事実があります。
つまり、彼らの有機体が物質的存在様式と霊的な存在様式という二つの異なる存在様式に適応しているという事実を無視して、二つの階級を混同しています。
実際、千年王国前再臨主義は、千年王国においてこれらの異なる要素から成る完全に正常な社会を暗示し、またこの期間に地球の人口が大幅に増加すると予測しています。
千年王国前再臨主義によれば、地球の千年王国人口は膨大な数の復活した聖徒で構成され、イエス・キリストは復活には結婚も性生活もないと明言したことを思い起こすと、これは当惑させられます。
もし復活した聖徒が御使いのような存在であるならば、彼らが千年間、肉体と死ぬべき肉体を保ったままの男女と自由に交わり、同じ条件下で共に暮らすなど、想像もできないし、ましてや断言もできません。
千年王国前再臨主義はこの質問を解決していません。
聖書もまた、この問題を解決していません。
それは単純に、聖書がこの問題を提唱していないからです。
聖書はこの問題を起源としていません。」[1]

こうした非難を踏まえるならば、問題は、復活した旧約聖書の聖徒たち、復活して天に移された教会の聖徒たち、そして千年王国に導かれるユダヤ人と異邦人の中から生きた聖徒たち、それぞれの集まりが王とその王国に対してどのような関係を持っているかを明確に区別しようとすることになります。
この課題はある程度、困難になります。
なぜなら、問題は千年王国前再臨主義者の異なる見解を調和させることではなく、千年王国前再臨主義者が一般的に沈黙している主題について聖書の教えを確立することだからです。
主が復活後、復活体となった弟子たちと何の困難もなく自由に交わったように、千年王国においても復活者は復活していない者と何の困難もなく自由に交わることができると指摘するだけでは、問題が存在しないかのようにこの問題を片付けるには不十分であるように思われます。

I.旧約聖書の希望の性質

旧約聖書には、「約束の相続人」を待ち受ける栄光と祝福の描写が数多く残されています。
栄光に満ちた期待は、聖徒たちの希望として明確に示されていました。
旧約聖書と新約聖書の聖徒、そして千年王国における復活した者と復活していない者との関係を明らかにするためには、旧約聖書において聖徒たちの希望として与えられた約束の特定の側面を区別する必要があります。

A.国家の約束

旧約聖書はイスラエルという国家にいくつかの約束を与えました。
将来の祝福と栄光に関する約束の大部分は、個人の希望を抱かせるために与えられたのではなく、国家の信頼と期待の土台として与えられたものです。
これらの約束は、神が国家と結ばれた永遠かつ無条件の契約に基づいており、その契約は国家自身によって成就されます。
アブラハム契約は、創世記12章1~3節に最初に記され、13章14~17節、15章1~21節、17章1~18節でも繰り返されています。
しかし、この契約にはアブラハムに対する個別の約束も含まれていましたが、アブラハムの子孫と、アブラハムに約束によって与えられた国土の所有に関するものでした。
その後の契約における約束はすべて、アブラハムを通して国家と結ばれたこの最初の契約の一部を繰り返し、拡大し、明確にしたものであり、国家としての特定の約束と希望を確立するものです。
サムエル記第二7章4~17節に記され、詩篇89篇でも繰り返されているダビデ契約は、元のアブラハムの契約における子孫に関する約束を取り上げ、その子孫をより大きな約束の対象としています。
王国、家、そして王座が約束されているのです。
この約束はダビデに与えられ、彼への特定の個人的な祝福も含まれていますが、この約束の成就は、その国自体においてであり、その国の個人においてではありません。
パレスチナ契約は申命記30章1~10節に初めて記され、アブラハム契約における国土に関する約束を継承し、その契約部分を拡張したものです。
これは、パレスチナ国民全体に与えられた国土の所有と祝福の約束です。
申命記30章6節にはこのような記述があります。

「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」
(申命記30章6節)


エレミヤ書31章31~34節に記されている新しい契約は、元のアブラハム契約に見られた祝福の約束を拡張の対象としています。
新約聖書は、この約束はキリストの再臨における国民の改心によってのみ成就されることを明確にしています。

「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」」
(ローマ人への手紙11章26、27節)


このように、イスラエルのあらゆる希望は、神が彼らと結んだ四つの決定的な契約に基づいていたことが分かります。
これらの契約は、特定の国家の希望と祝福を確証するものであり、文字通り成就するためには、国家の保全、継続、そして復興が不可欠でした。

チェイファー氏は次のように述べています。
「旧約聖書の王国に関する聖句は、メシアの支配の特質と栄光、イスラエルへの回復と地上の栄光の約束、異邦人への普遍的な祝福、そして被造物そのものの解放について主に記されています。
旧約聖書は、王国における個人の責任についてはほとんど明らかにしておらず、むしろ国家全体へのメッセージとなっています。
明らかに、個人の責任に関する詳細は、聖霊の御心の中で、王国が「近づいた」時に、王が個人的に教えるために取っておかれていたのです。」[2]

このように、旧約聖書は主に個人の期待ではなく、国家の約束や計画に焦点を当てていたことがわかります。

B.個人の約束

しかしながら、旧経済において、特定の個人の希望が示されていたことは事実です。
イスラエル人は復活の希望を与えられました。
イザヤ書26章19、20節、ダニエル書12章2、3節、13節、ホセア書13章14節、ヨブ記19章25~27節がこれを示しています。
イスラエル人は、イザヤ書40章10節、エゼキエル書11章21節、20章33、44節、22章17~22節、ダニエル書12章3節、ゼカリヤ書3章7節、13章9節、マラキ書3章16~18節、4章1節などの聖句に見られるように、個人の裁きと報いへの期待を与えられています。
イザヤ書65章17、18節、66章22節では、イスラエル人は新しい天と新しい地における祝福を約束されています。
聖書を文字通り解釈する者にとって、イスラエルの国家としての約束は、メシアの到来に続く千年王国において、国家自身によって成就されることに間違いありません。
契約によって定められた国家としての約束はすべて地上的な内容を持ち、メシアの地上における支配の時代に成就します。
それぞれの約束については、それがどの領域において成就するかについて明確な記述はありません。
個人の復活、個人の裁きと報いを教える箇所では、これらの規定はメシアの到来時に成就するとされているが、旧約聖書は個人の期待する領域を明確に示していません。

オットマン氏はヨハネの黙示録21章1~8節について次のように述べています。
「正義が宿る新しい天と新しい地は、古いものの消滅に続いて起こり、間違いなく現在の終末論的な幻の主題です。
この幻についてグラント氏はこのように述べています。
これは明らかにイザヤ書の次の聖句のことを示しています。

「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」
(イザヤ書65章17、18節)


これは単に一見した結果に過ぎません。
なぜなら、旧約聖書の預言者たちは、この言葉を除けば、私たちが「千年王国」と呼ぶようになった、このように限界が定められた王国の外に出ようとはしていないからです。
イスラエルにとって、そのような必然的な限界はありません。
彼らの前には明るい光景があり、その先に何があったとしても、それはさらなる祝福に過ぎないと確信し、目を留めるべきでした。」[3]

イスラエル人個人の希望がより具体的に描写されるのは、新約聖書になってからです。
ヘブル人への手紙の著者はこのように述べています。

「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」
(ヘブル人への手紙11章10節)

「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。
また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、」
(ヘブル人への手紙12章22、23節)


したがって、国家の約束は千年王国の時と千年王国において成就するのに対し、個人の約束は千年王国の時に成就します。
しかし、必ずしも千年王国の地上で成就するわけではない、というように思われます。
復活を教える箇所は、イスラエルの復活がキリストの再臨の時に完了することを暗示していますが、個人が千年王国の地上に復活するとは述べていません。
同じ様に、個人の裁きと報いを教える箇所は、裁きと報いが再臨と同時に起こることを暗示しています。
しかし、報いが千年王国において味わうのではなく、千年王国の時に味わうことが述べられています。
したがって、旧約聖書に与えられた約束を考慮すると、国家の約束は千年王国時代に地上で成就します。
しかし、個人の復活の約束は千年王国の時点で成就するが、必ずしも個人を千年王国自体に置くことによって成就するわけではないという結論になります。

II.千年王国の性質

旧約聖書と現代聖書の復活した聖徒たちの関係を理解するために新約聖書から千年王国に至るまで、千年王国の性質と目的に関する聖書の教えを明確に理解する必要があります。

ニューウェル氏は次のように簡潔にまとめています。

I.千年支配とは何でしょうか?
千年支配とは、主とその聖徒たちが地上において千年間直接支配する神の支配です。
地上におけるその中心はエルサレムとイスラエル国家ですが、キリストとその聖徒たちは新しいエルサレムにおいて天の復活体として支配し、現在御使いたちが占めている地位に就きます。
(ヘブル人への手紙2章5~8節)

II.千年支配の対象

1.父なる神の側から見るならば、
a.それは、人々が不名誉を受けた地上で、神の御子を公に讃えることとなります。
神がこの地球上において、
b.それは、「父ダビデの王座を彼に与える」という神の御子に対する約束と預言の実現となります。
c.それは、地球が滅びる前に、この地上の罪深い人間に与えられる最後の神の試練です。
d.それは、神の聖徒たちの祈りに対する神の答え(新しい地球が来る前に可能な限り)となります。

「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」
(マタイの福音書6章11節)


2.キリストの側から見るならば、

a.イエスは長い忍耐の末、神の右の座において、ずっと「待ち望んでいた」この世の王国を受け取ります。
そして、キリストはその義をもって支配します。

b.ついに、神は彼らに約束された場所と相続を地上の柔和な者たちに与えることができます。

c.キリストは王としての栄誉のすべてを聖徒たちと分かち合います!

3.聖徒の側から見るならば、

a.千年王国は、3つの階級の聖徒たち、そして、地上のイスラエルをも言葉では言い表せないほどの祝福の状態にするのです!

b.地球に加えられたまさに物理的な変化は、神が地上の聖徒たちの慰めと喜びのために取った愛に満ちた配慮をわずかながらも明らかにします。

4.諸国、地球上の人々の側から見るならば、

a.千年間、鉄の杖の王杖の下に諸国の民は置かれます。

b.しかし、確かに強制されますが、諸国の間には最終的に平和が訪れます。

c.すべての国民は、万軍の王ヤハゥエを崇拝し、仮庵の祭りを守るために、年ごとに上って行かざるを得なくなります。

5.「創造」の側から見るならば、

a.ローマ人への手紙にはこのように記されています。

「それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」
(ローマ人への手紙8章20~22節)


b.「神の子らの現われ」、キリストが地上に再臨される時、この救いが実現されます。[4]

千年王国は、イスラエルの国家的契約による祝福が成就する時であることは明らかです。
その間、神はメシアの支配を通して神の支配の絶対的な権威を神聖な形で示し、その間、生きている人々は王の権威によって服従し、試されます。
千年王国は、最も理想的な状況下で堕落した人類を最終的に試すために神によって設計されました。
王の支配に従うためのあらゆる手段が与えられ、外的な誘惑の源は取り除かれています。
こうして、堕落した人類のこの最後の試練においてさえ、人は見出され、失敗であることが証明されるのです。
このような期間、このような計画が実行される時、既に義人であるため試練を受ける必要がなく、また王に完全に服従しているため王の権威に服従させる必要もない復活した個人が、その時地上に正当な立場を持つことはあり得ないことは明らかです。
王の支配の厳しさを経験させるために、復活した個人を地上に送ろうとする人々は、千年王国における神の目的を理解していません。
千年王国の本質的な性格と目的から、復活した個人は千年王国に関与しているものの、王の支配の国民として地上にいるのではないという結論が導き出されます。

III.天のエルサレムの住人

アブラハムの希望は街生活の実現にあったと言われています。

「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」
(ヘブル人への手紙11章10節)


これがアブラハムだけでなく、旧約聖書の他の聖徒たちも待ち望んでいたことの証は、ヘブル人への手紙11章16節にあります。

「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。
それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」
(ヘブル人への手紙11章16節)


この聖句によれば、これらの信仰の英雄たちの希望は天の都であったことが分かります。
この同じ天の都は、ヘブル人への手紙12章22~24節でさらに詳しく描写され、そこでは天のエルサレムと呼ばれています。
ガラテヤ人への手紙4章26節では「上にあるエルサレム」、ヨハネの黙示録3章12節では「わたしの(キリストの)神の都」および「新しいエルサレム」、ヨハネの黙示録21章2節では「聖なる都、新しいエルサレム」、そしてヨハネの黙示録21章10節では「聖なる都エルサレム」と呼ばれており、教会の聖徒たちのあらゆる希望が実現する場所であることが明確に示されています。
これは間違いなく、主がヨハネによる福音書14章2節で、御自身が準備するために行ってくださり、私たちを連れて行かれると約束された「場所」です。
ゆえに、ヘブル人への手紙12章23節にあるように、この天のエルサレムに住む「長子たちの教会」を特定することは、それほど難しいことではありません。

ケリー氏は次のように書いています。
「クリスチャンのヘブル人は「天に登録された長子たちの教会」に来たと言われています。
この天の集まりを特定することに躊躇する必要はありません。
それは神の教会であり、使徒の働きやその他の書簡の中で私たちがくり返して耳にし、最も深い関心を寄せているものです。
主は地上で、教会が間もなく設立される(マタイの福音書16章18節)と語られました。
それは、ハデスの門が教会に打ち勝つことのないようにするためです。
ペンテコステの日(イエスの死、復活、昇天の後)に、初めてこの新しい光景が見られました。
それは、この書簡の神聖な意図に従って描写されています。
だからこそ、ここでは、キリストのからだや神殿、つまり聖霊による住まいといった、他の場所でよく知られている比喩ではありません。
つまり、教会を構成する長子たちの集合体、つまり長子たちを前に出しているのです。」[5]

この天の都が、部分的には、この現時代の教会、つまりキリストのからだから構成されるであろうことに、間違いありません。

サフィール氏は、この時代の聖徒たちに加えて、他の贖われた人々もその天の都にいると期待させる言葉を私たちに与えています。
彼はこのように書いています。
「総会(panēguris)」という言葉は、単に大勢ではなく、全員を意味します。
そして、すべての会員が集まるというこの状況は、その集会に厳粛で喜びに満ちた祝祭の特徴を与えます。」[6]

問題は、「堕落していない御使いと教会の聖徒たちと共に、その天の都の住民の全員を構成するのは誰なのか」ということです。
答えは「完全な者とされた義人の霊」という言葉にあります。

ケリー氏はこのように述べています。
「これらは旧約聖書の聖徒たちです。
福音書で知られるように、イエス・キリストによって義を通して永遠の命に至る恵みが支配する以前から、彼らは神と関わっていました。
約束に信仰が基づいていた時、彼らは来るべき方を待ち望んでいました。
そして、彼らもまた世界を裁くことになります。(コリント人への手紙第一6章2節)御国において祝福された役割を担うことになります。(ヨハネの黙示録20章)
「私たち」との同様の区別は、ヘブル人への手紙11章の最後の39、40節にも見られます。
そして、この例が示すように、彼らが将来あるべき姿ではなく、あるがままの姿で「完全な者とされた義人の霊」に示されたことは注目に値します。
彼らは「その日」が来た時、分離した状態にあるのではなく、キリストの御前に死者の中から復活するのです。」[7]

オットマン氏は問いかけます。
アブラハムや、同じような信仰を持つ人々は、彼らが探し求めていた都を見つけ損ねるでしょうか?
いいえ、彼らは見損なわれることはありません。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。
事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」
(ヘブル人への手紙人への手紙11章13~16節)


また、この注目すべき章の終わりには、「これらの人々は皆、信仰によって良い評判を得ましたが、約束は受けません。
同じヘブル人への手紙にはこのようにあります。

「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。
神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。」
(ヘブル人への手紙11章39、40節)


私たちなしには、彼らは全うされることはできません。[8]

そうすると、ヘブル人への手紙の著者は、堕落していない御使いたち、教会時代の復活して天国に移された聖徒たち、そして旧約聖書と患難時代のすべての復活した聖徒たちがキリストとともに集まる天の都の姿を私たちに伝えているように思われます。
この解釈は、ヨハネの黙示録21章12〜14節で「聖なるエルサレム」の城壁について描写されている箇所によって裏付けられています。
ここでも同様の三重の居住が暗示され、12節では御使いとイスラエルの子らの十二部族に言及され、14節では小羊の十二使徒の名に述べられています。
このように、御使い、イスラエルと旧約聖書の聖徒たち、そして教会の聖徒たちが城壁の内側に含まれています。

贖われた者たちの住まいを「町」と呼ぶグラント氏の言葉は、まさにこのことに関連しています。
彼はこのように書いています。
街は人間の欲求の表出であり、それを満たすものです。
争いと不安のさなか、人々は保護を求めて集まります。
しかし、それは街に込められた意味のほんの一部に過ぎません。
これよりも普遍的な欲求もあります。
例えば、協力や分業といった欲求は、神が私たちを相互依存へと導いた、能力の不平等から生じます。
こうして私たちの社会性は満たされ、世界を結びつける絆が形成され、強められます。
そして、精神と霊、心と心の交流は、あらゆる潜在能力を刺激し、発達してゆきます。
永遠の都は、私たちにとって交わり、友愛、交わり、そして「人が独りでいるのは良くない」という原初の言葉に暗示されたものの充実を意味します。
しかし、この永遠の都、つまり花嫁の都においては、この言葉はさらに深い意味を持ちます。
聖徒たちとキリストとの関係、神の栄光の灯火として聖徒たちを照らすキリストだけが、すべてを適切に説明します。
私たちはもはや「独り」でいることはできません。
「キリストと共に」、私たちの全人格は完全な答え、満足、そして安息を見出します。」[9]

したがって、この街は新約聖書の信者たちと同じ様に旧約聖書の聖徒たちにとっても重要な意味を持つことになります。
したがって、聖書の一貫した教えは、主が永遠の都において、堕落していない御使い、旧約聖書の聖徒たち、そして新約聖書の信者たちを御自身のもとに集め、そこで彼らは復活し栄光に輝く体で、文字通りの都とその栄光にあずかるということであると結論付けられます。
彼らは復活によってのみ、そこに入ることができます。
この天のエルサレムは、千年王国に入る救われた生者の領域ではありません。
彼らは再建された地上のエルサレムを首都と仰ぐからです。
むしろ、千年王国の間に復活した聖徒たちが住む場所であることに配慮すべきです。
生者は千年王国において旧約聖書の国家的約束の成就を実感し、復活者は千年王国において「基礎を据えた都」の期待の成就を実感するのです。

IV.関連箇所の検討

イスラエルの救われた者と教会時代の救われた者との間に大きな隔たりはなく、最終的な状態では両者は直接的な関係を保つであろうことを暗示していると思われる聖書箇所がいくつかあります。

「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。
わたしはそれをも導かなければなりません。
彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」
(ヨハネによる福音書10章16節)


この聖句は、救われたすべての人々が同じ羊飼いのもとで結ばれているため、互いに関係があることを暗示しているように思われます。
贖われたすべての人々は、一人の羊飼いのもとで一つの群れに結ばれていると考えられています。

「そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。
「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」
そこで、イエスは彼らに言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」
(マタイの福音書19章27、28節)


「あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。」
(コリント人への手紙第一6章2節)

この部分は、教会に含まれる聖徒たちが千年王国から完全に切り離されるべきではないことを示しています。
もし聖徒たちが千年王国から完全に切り離されてしまうと、十二使徒が約束された特権を行使できる唯一の方法は、キリストのからだにおける立場を失うことになってしまいます。
これは、地上に生きる聖徒たちと天のエルサレムに復活した聖徒たちとの間に、関係が維持されることを示しています。
今や、聖徒たちは御使いたちに委ねられている務めを果たすことになります。(ヘブル人への手紙2章5、6節)

「都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。
東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。」
(ヨハネの黙示録21章12~14節)


この街の居住者は、旧約聖書の時代、新約聖書の時代、そして堕落していない御使いたちであることは明らかです。
第一の復活にあずかる者は祝福され、聖なる者です。

「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。」
(ヨハネの黙示録20章6節)


第一の復活は、教会時代の聖徒たちだけから来るのではなく、年齢を問わず、永遠の命へとよみがえらされたすべての人々から来ます。
この復活は、様々な集まりにおいて、様々な時期に起こりますが、いずれの場合も結果は同じです。
つまり、永遠のいのちへの復活です。
復活した人々は祭司となり、キリストと共に支配すると言われています。
ヨハネの黙示録20章6節のこの第一の復活は、教会の聖徒たちだけに適応されるとは言えません。
なぜなら、ここで復活した人々は大患難時代を経験した者たちであり、教会の復活がこれに先立っていたので、キリストのからだには含まれないからです。
しかし、彼らは第一の復活にあり、キリストと共に支配します。
これは、第一の復活にあずかるすべての人々が、旧約聖書の聖徒であろうと新約聖書の聖徒であろうと、共通の運命、つまり新しいエルサレムにあずかり、そこからキリストの支配にあずかるということを意味しているはずです。

「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。
あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」
(マタイの福音書25章21節)


イスラエルの裁きと報いの事実を教えるこの箇所では、報いは千年王国における特権と責任の地位であると述べられています。
その反面、個人が千年王国自体に置かれるのではなく、千年王国の間に権威を行使すると述べられている点に注目すべきです。

「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。
「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」」
(ヨハネの黙示録21章3節)


ここでの記述を、神がイスラエルに人々と共に幕屋を建てると約束されたエゼキエル書37章27節、そして神が悲しみ、嘆き、そして死からの解放を約束したイザヤ書65章19節や25章8節と比較すると、ここで約束されていることは旧約聖書の聖徒たちが待ち望んでいたことの成就であることが分かります。
教会にも同様の約束があり、ヨハネの黙示録21章3節はイスラエルの約束ではなくこれらの約束の成就を指していると主張する人もいます。
しかし、この類似性はイスラエルがこの祝福に含まれていないと断言するにはあまりにも重要すぎるように思われます。
千年王国においてイスラエルに対するこれらの約束が地上で実現されないとは言い切れません。
しかし、復活したイスラエルが天のエルサレムで教会の聖徒たちと共にこれらの約束を経験するかもしれないことが暗示されています。
「民」と訳されている語は複数形であることに注目すべきです。
「彼らは彼の民となる」と複数形を示しています。

「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」
(ダニエル書12章3節)


この節を、イスラエルについて述べられている12節とヨハネの黙示録21章11節と18節と比較するならば、すべての光の源であるキリストの反映された栄光こそが、旧約の聖徒が待ち望んでいたものであったことが分かります。
この希望は、旧約の聖徒が参加する天の都において実現し、この約束の成就を経験することになります。

「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。
神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。」
(ヘブル人への手紙11章39、40節)


ここでは、キリストのからだが完成するまではイスラエルは完全ではないということが暗示されているように思われます。
イスラエルの聖徒たちの完成の場と、この時代の信者たちの完成の場が同一であれば、この言葉にはさらに意味が加わります。
そのような見解は、教会を復活したイスラエルと結びつけ、千年王国とその後に続く新しい地球との関係に教会を持ち込むことによって、教会から天の遺産を奪うことになると主張するならば、オットマン氏の観察に従うべきです。
教会は永遠のどこかに存在しなければなりません。
神が教会の戦いの場を永遠の栄光の場と定めたのであれば、誰が神の意図を無効にできるでしょうか?
教会が天から降りてきた文字通りの街と永遠に結びついているという具体的な概念は、唯物主義的で感覚的だと非難されるかもしれません。
しかし、多くの人が抱く永遠の概念を構成する漠然とした霧よりもましです。
この街は天ではあり得ません。
なぜなら、それは天から降りてきたと言われているからです。
天は街を失っても何も失いませんし、教会も、今や地上を栄光で満たすために来られた方との繋がりにおいて、天の遺産を失うことはありません。[10]

そのような見解が天国を空にし、神をその住処から奪ってしまうと主張されるならば、ニューウェル氏と同じ様に次のように結論づけられます。
「いくつかの考察から、新しいエルサレムは神の唯一の永遠の安息の地であるという結論に至ります。
1.新しい天と新しい地、そして新しいエルサレムが新しい地に降りてくるのを見るとすぐに(21章1節、2節)、私たちは「見よ、神の幕屋が人々と共にある」と言われます…新しい天と地の目的はこれを実現すること、つまり神がこの新しい創造の首都に永遠に住まいを持つことです。

2.新しい創造の首都以外に、神の永遠の住まいは見当たりません。

3.この天の都は神の栄光を備えています。(21章11節、23節、22章5節)

4.そこには神の王座があり、22章3節の「奉仕」、正確には祭司の奉仕、もしくは霊的な礼拝があります。

5.彼らは彼の顔を見るであろう。
したがって、ここは永遠に神が安息する場所に違いがありません。

6.わたしたちは、新しいエルサレムの住民が「世々限りなく支配する」(22章5節)ことを覚えておくだけで十分です。
これは、新しい創造の首都の住民以外の者について記されたものではありません。」[11]

この質問に対する結論は、旧約聖書が国家的な希望を抱かせ、それが千年王国において完全に実現する、ということになります。
旧約聖書のそれぞれの聖徒が抱いていた永遠の都への希望は、天のエルサレムにおける復活を通して実現されます。
そこでイスラエルは、その特質やアイデンティティを失うことなく、教会時代の復活・転向者たちと合流し、永遠に神の支配の栄光にあずかるのです。
千年王国は、王の義なる支配のもとで堕落した人類が試練を受ける期間であるため、復活した個人がその試練に参加することは不可能です。
したがって、千年王国は、救われながらも自然の肉体で生きている人々だけに関係することになります。
この天の都は、千年王国の初めに地上と関係を持ち、おそらく地上から見えるようになります。
この天の都から、ダビデの偉大な息子がメシアとしての支配を行使し、花嫁が支配し、報いを受けた旧約聖書の聖徒たちが政治の権威を行使します。
もしそのような解釈が正しいとすれば、復活した聖徒たちを地上に置き、千年王国の間に未復活の聖徒たちと自由に交わらせることから生じる厄介な問題の解決策が見つかるはずです。
イスラエルの国家としての約束は、復活した個人によってではなく、再臨の時に生きる生来の救われたイスラエルによって実現されます。
キリストにおける神の救済の目的の一致は、最初の復活した集まりを一つの場所に集めることによって保たれます。
そこで花嫁は神の支配にあずかり、神のしもべたちは永遠に神に仕えるのです。(ヨハネの黙示録22章3節)
このような見解は聖書と調和しており、前千年王国制度に内在するいくつかの問題を解決します。

NOTE

[1]George L. Murray, Millennial Studies, pp. 91-92.
[2]Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology, IV, 170.
[3]Ford C. Ottman, The Unfolding of the Ages, pp. 443-44.
[4]William R. Newell, The Book of the Revelation, pp. 318-22.
[5]William Kelly, Exposition of the Epistle to the Hebrews, p. 250.
[6]Adolph Saphir, The Epistle to the Hebrews, II, 849-50.
[7]Kelly, op. cit., pp. 250-51.
[8]Ottman, op. cit., p. 446.
[9]F. W. Grant, The Revelation of Christ, pp. 224-25.
[10]Ottman, op. cit., p. 447.
[11]Newell, op. cit., pp. 353-54.


第七部 永遠の状態の預言

第32章 永遠の王国への準備


神の御言葉は永遠の王国について多くの詳細を記しているわけではありません。
しかし、神の子が父と子との永遠の関係において待ち受ける栄光に満ちた期待について、十分な確信できる十分な記述が与えられています。
地上の神権王国が終わりを迎え、その王国が神の永遠の王国と統合されるまでの間に、いくつかの重大な出来事が起こります。
その結果、反逆の痕跡はすべて消し去られ、神が至高の支配者となります。
本研究では、永遠の状態に関する教理の広い意味で領域を考察するのではなく、その時代の預言に関連する疑問に絞って議論します。

I.永遠の王国のための清め

聖書には、永遠の王国が完全に実現するために、普遍的な世界から呪いの残滓を一掃する行為として見ることができる三つの出来事が預言されています。
それは、
(1)サタンの解放とサタンに導かれた反乱、
(2)火による地球の清め、そして
(3)大きな白い御座での罪人に対する裁きです。

A.サタンの解放とサタンに導かれた反乱
ヨハネは、千年王国の終わりに地上で起こる、想像を絶する光景を描いています。

「彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、
底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。
サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。」

「しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。」
(ヨハネの黙示録20章2、3節、7~9節)


アウグスティヌスから現代に至るまで、無千年王国論者は「しばらくの間」(ヨハネの黙示録20章3節)とは現在の世界を指すと解釈してきました。
1この見解によれば、サタンはキリストの地上での宣教期間中縛られていましたが(ルカの福音書10章18節)、この世の終わりに解放されることになっていました。
多くの人にとって「しばらくの間」は長い期間、おそらくは世全体を指し示しています。
しかし、ヨハネの黙示録20章は、サタンの縛りはキリストの再臨後に行われ、千年王国の終了まで縛られたままであると明らかにしています。
サタンが解放される「しばらくの間」は、千年支配が終了した後、神権王国と永遠の王国が結合する前のことです。
ヨハネの黙示録20章7節(「千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され」)とは、この解放の時を明確に示しています。
サタンが解放された目的は、解放された時の行動から簡単に見分けられます。
サタンは諸国民を欺き、神の神権政治に対する最終的な反乱を起こそうとします。
サタンは最初の罪の目的を達成するために、さらにもう一つ試みます。
聖書では、サタンの解放は人間の心の腐敗を明らかにする最後の試練とされています。
神は、神の御国と贖いの計画を進める中で、堕落した人類を数々の試練にかけました。
人間はあらゆる試練に失敗をしました。

スコット氏はこのように述べています。
「ああ、人間とは何なのか!
人間は善良、支配、律法、恵み、そして今や栄光の下で、あらゆる状況、あらゆる方法で試練を受けてきました。」 [2]

ゆえに、サタンが解放された目的は、王の支配と神の聖さの啓示の下で試されても、人間は失敗者であることを示すためでした。
千年王国に入る人々は救われましたが、完全にはなっていません。
千年王国時代に生まれた子孫は、両親と同じ堕落した罪深い性質を持って生まれ、その結果、新生を必要としました。
王が「鉄の杖」をもって支配した支配時代においては、外面的には神の律法に従うことが必須でした。
サタンを縛り、外面的な誘惑の源を取り除き、知識の充実と王からの豊かな恵みによって、心が新生されていない多くの人々が、王の律法に従うという義務を果たさざるを得ません。
この時代に生きる人々の真実な心の状態を見極めるには、試練が必要です。」

ジェニングス氏はこのように書いています。
「人間の本質は、少なくとも主権の恩寵を除けば、変化したのでしょうか?
肉の心はついに神と友となったのだろうか?
絶対的な権力と絶対的な哀れみが、制止されることなく千年もの間続いて来ました。
そのことで、あらゆる戦争は永遠に廃絶されたのだろうか?
これらの質問は、実践的な試練によって明らかにされなければなりません。
サタンを再び牢獄から解き放ち、かつて見慣れていた地上の微笑む野原を再び歩きました。
サタンは最後に、血に染まり涙で溢れかえる野原を見ました。
それは、サタン自身の支配の証であり、伴うものでした。
今、サタンはそれらが「満ち足りて笑っている」のを見たのです。
しかし、彼がこの祝福の中心であるエルサレムから遠ざかるにつれて、これらのしるしは次第に薄れ、ついには「地の果て」に、それらは完全に消え去ります。
なぜなら、彼は、その聖なる中心との密接な接触を本能的に避け、再び欺かれる覚悟のない無数の人々を見つけたからです。」[3]

この試みの結果はオットマン氏によって示され、彼は次のように述べています。
「そのような地上の支配権をもってしても、人の心は変わりません。
義なる支配と、それに伴うあらゆる祝福、そして呪いから救われた世界の完全な享受も、人を本来の姿とは異なるものに変えることはできません。
そして、このことの試練と証明は、千年が過ぎた後にサタンが解放されることによって成し遂げられます。
千年の獄中生活も、この邪悪な霊の本質に道徳的な変化をもたらしません。
彼は、くすぶる憎しみの炎で満たされた心を持って牢獄から出てきます。
その炎はたちまち燃え上がり、地の四隅にある諸国民の間に革命を引き起こします。[4]

「ゴグとマゴグ」(ヨハネの黙示録20章8節)と呼ばれる軍勢の起源に関する問題は、このように解決を見い出します。
神の御国を完全に「霊的な」ものとみなす無千年王国論者にとって、そのような反乱は考えられません。
彼らにとって、反乱の事実は、千年王国前再臨主義者が説くような千年王国は存在し得なかったことの証明であり、そうでなければ地上に反乱は起こらなかったはずです。

アリス氏はそれを次のように提示します。
「エゼキエル書によれば、王国の時代が到来する前にゴグの軍隊は完全に滅ぼされました。
しかし、ゴグは「海の砂のように多い」大軍をどこで起こし、「聖徒たちの陣営と愛された都」を攻撃するのかという問題は、デイビッド・ブラウン氏が何年も前に指摘したように、千年王国前再臨主義者にとっての難問でした。
ディスペンセーション主義者は、この質問に、おそらく三つの方法のいずれかでしか答えられないはずです。
つまり、千年王国後に悪人の種族が出現すると考えます。
もしくは、千年王国の範囲を地球の比較的小さな部分に限定します。
もしくは、千年王国は、善と悪が共存し、支配権を争う時代として、現在のディスペンセーションと少なからず類似するだろうと結論付けるかです。
その結果、メシアの王国内外を問わず、悪はダビデの王座に座する王の鉄の杖による支配によってのみ、制止されることになります。」[5]

最初の二つの説明は否定されなければなりません。
千年王国後に邪悪な人種が創造されたという聖書的証拠はどこにもありません。
地上におけるキリストの王国は普遍的なものとして提示されています。
三番目の見解は神の御言葉と一致します。
なぜなら、キリストの支配は常に揺るぎない正義の支配として提示され、王は「鉄の杖をもって」(詩篇2篇9節)支配するからです。
しかし、その日に新生されていない人々の中から、「ゴグとマゴグ」として知られる大群が現れ、「聖徒の陣営」(パレスチナ)と「愛された都」(エルサレム)に襲いかかります。
この反乱は、エゼキエル書38、39章に記されているゴグとマゴグの侵略と同一視することはできません。
しかし、悪魔に動機づけられたこの二つの運動の目的は神権政治の座と神権政治の国民を滅ぼすことであるという点で、同じ名称が付けられていることは既に証明されています。
このプログラム全体は確かに困難です。

このことについてチェイファー氏はこのように書いています。
「イザヤ書11章3~5節に記されているように、キリストが王座に着き、直接の権威を握っておられる中で、このような事業がどのようにして可能になるのか、理解するのは困難です。
この問題の解決は、普遍的な世界における悪の終わりを神がお許しになる以外にありません。
同じ様に、なぜキリストが普遍的な世界の王座に座しておられるにもかかわらず、御自身が憎む悪を許されたのか、という問題も浮かんできます。
天の理解の光の中で、一つの問題が解決されれば、もう一つの問題も解決されます。」[6]

人間の心の堕落の深さをある程度理解していなければ、「海の砂のように多い」(ヨハネの黙示録20章8節)群衆が、生涯を主の恵みの下で生きてきたにもかかわらず、どうして主イエス・キリストに反抗できたのか理解できません。
しかし、この反抗において、神が罪を裁く時に義なる御方であることが改めて示されます。
そして、その裁きは、サタンの指導の下に集まったすべての反逆者たちに、火を注ぐことによる肉体の死という形で下されます。(ヨハネの黙示録20章9節)
このようにして、神は神権王国からすべての不信仰を取り除き、永遠の神の王国との統合を予期しています。

B.被造物の清め

園におけるアダムの罪のために、神は地上に呪いをかけました。
神はこのように言われました。

「また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」
(創世記3章17、18節)


こうして、永遠の御国が現れるまでに、この呪いの痕跡を地上から完全に取り除くことが必要になりました。
この出来事はペテロによって次のように記されています。

「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。
その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」
(ペトロの手紙第二3章10~13節)


現在の地球のこの消滅は、多くの聖句で予期されています。
(マタイの福音書24章35節、ヘブル人への手紙1章10~12節、ヨハネの黙示録20章11節)
この地球の清めは千年王国に先立って起こると考える人もいます。
この見解によれば、この清めは千年王国の初めに起こり、呪いが取り除かれ、その間に地球の生産性が回復する原因となります。
この見解にはいくつかの根拠があります。

(1)彼らは、この出来事が起こるとされる「主の日」(ペトロの手紙第二3章10節)は審判の時であり、携挙から千年王国の制定とそれに伴う審判までの期間のみを含むと信じています。

(2)火による審判は再臨の際の神の怒りの訪れの手段であると言われています。
(イザヤ書66章15、17節、エゼキエル書39章6節、ヨエル書2章1~11節、テサロニケ人への手紙第二1章7~10節)
そのため、この清めは火によって行われるため、同じ出来事であるに違いないと主張しています。

(3)イザヤ書65章17節は新しい地球を約束しており、千年王国との関連で、清めは再臨の後、千年王国の前に起こるに違いないと論じています。

これに対する答えとして、既に述べたように、次の点を指摘できます。
1)主の日には、患難時代の始まりから千年王国後の新しい天と新しい地に至るまでの全計画が含まれます。
2)さらに、火は神の訪問の手段の一つではあるが、必ずしもそのすべての使用が同じ出来事の中で行われるとは限りません。
聖書全体を通して火は審判の象徴として用いられており、この出来事は呪われた地に対する審判です。
つまり、地から呪いの汚点がすべて取り除かれる時に、火による清めが行われると見るのが適切です。
3)さらに、千年王国の地は世の終わりに新しい天と新しい地と融合するので、イザヤは、永遠の住まいである新しい天と新しい地を念頭に置いて千年王国の情景を描写していると言えます。
その際、新しい天と新しい地が千年王国の初めに実現するとは述べず、その時点から予期されていたと述べているのです。
注目すべきは、ペテロが主の日が現在の地球の崩壊とともに始まるとは言っていないことです。
むしろ、主の日のうちにこの崩壊が起こると言っているのです。
ペテロはこのように言っています。

「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」
(ペテロの手紙第二3章10節)


さらにペテロはこのように述べています。

「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」
(ペテロの手紙第二3章7節)

この言葉でペテロは、現在の天と地の崩壊を、千年王国後の大きな白い御座での裁きにおいて起こると、ヨハネの黙示録20章11~15節から分かるように、不敬虔な人々の裁きと滅びの時と関連付けています。
ヨハネが「地も天もその御前から逃げ去って」(ヨハネの黙示録20章11節)と述べ、ペテロが「最後の審判の日まで火に焼かれるためにとっておかれ」(ペテロの手紙第二3章7節)と述べていることから、これが同じ時を指すものではないとすれば、ヨハネの記述は古い天と地が過ぎ去ったという事実を述べているものの、それがどのようにして達成されるのかについては言及していないのに対し、ペテロはどのようにしてその解体が起こるのかを述べているとすれば十分です。

ここに矛盾はありません。
したがって、この清めは、千年王国の終わりに神の権威に対する最後の反逆の後、反逆の舞台となった地球がその呪いのために裁かれるという神の行為であると結論付けられます。

C.罪人への裁き

大きな白い御座の前には、すべての「死んだ人々」(ヨハネの黙示録20章12節)が現れます。
復活した者たちは皆、千年王国の前に墓から呼び出されています。(ヨハネの黙示録20章3~6節)
ここで復活した者たちは、「第二の死」(ヨハネの黙示録20章14節)に定められると裁かれます。
これは、神の御国から永遠に分離されることを意味します。
これは、「神がすべてのものにおいてすべてとなるため」(コリント人への手紙第一15章28節)に制定された計画の最終段階です。
この計画は以前にも展開されているため、ここで繰り返す必要はありません。

ケリー氏の要約で十分です。
「死んだ人々」(は裁かれましたが、いのちの書から裁かれたわけではありません。
いのちの書は裁きとは全く関係がありません。

「死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。」
(ヨハネの黙示録20章12節)


では、なぜいのちの書について述べられているのでしょうか?
彼らの名前がそこに記されていたからではなく、記されていなかったことの証拠としてです。
いのちの書は、書物から集められたものを確証します。
もし書物が御座の前に立つ死者の悪行を告げるならば、いのちの書は神の恵みによって何の弁明もしません。
聖書には、裁かれた人々の中に名前が記されているとは記録されていません。
片面には否定できない罪の悲しい記録がありましたが、もう片面には名前は記されていません。
このように、書物を調べても、書物自体を調べても、すべてが神の最終的な覆すことのできない判決の正義、厳粛でありながら最も感動的な正義を宣言しているのです。
彼らは皆、その行いに応じて裁かれました。

「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
(ヨハネの黙示録20章15節)

したがって、この書物の使い方は否定的で排他的なものにすぎないように思われます。
裁かれた者たち(そして描写されている場面は裁きの復活のみである)がそこに記されているとされているわけではありません。
むしろ、彼らはこの書物には記されていなかったことが暗示されています。
海も、目に見えない世界も、もはや囚人たちを隠すことができません。

「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。」
(ヨハネの黙示録20章13節)


また、死とハデスは、敵として擬人化され、終わりを迎えると言われています。

「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」
(ヨハネの黙示録20章14節)


こうして、主の魂と体に関するすべての事柄、そしてどちらにも関係するすべての事柄が終結しました。
人類は今や、善のためであれ悪のためであれ、復活の状態にあり、それは永遠に続きます。
罪が支配する世界で長らく死刑執行人として、そして正義が支配する時代にも時折その役割を果たしてきた死とハデスは、罪の痕跡がすべて永遠に消え去る場所では消滅します。
神は「すべてにおいて」おられるのです。[8]

千年王国に先立つ裁きにおける神の目的は次の通りです。

「人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、
火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」
(マタイの福音書13章41、42節)


千年王国の終わりにおける神の目的は、「つまずきとなるもの、不義を行う者をことごとく御国から取り除く」ことです。
この裁きによって、神の絶対的な主権が今や明らかにされました。

D.失われた者の運命

失われた者の運命は火の池の中にあります。
(ヨハネの黙示録19章20節、20章10、14、15節、21章8節)
この火の池は永遠の火として描写されています。
(マタイの福音書25章41節、18章8節)
また、消えることのない火としても描写されています。
(マルコの福音書9章43、44、46、48節)
このように、失われた者への報復の永遠性を強調しています。

この点に関して、チェイファー氏は的確に次のように述べています。
「聖書の最も厳粛な教義を包括的に記述しようと試みる中で、より馴染みのある「罰」という言葉の代わりに「報復」という言葉が選ばれました。
「罰」という言葉は、規律や矯正を暗示しています。
しかし、この概念は、永遠に失われた者たちに対する神の最終的な処罰を明らかにする真理の体系には全く見ることができません。
「報復」という言葉は、その古く広い意味において、善悪を問わずあらゆる報いに対して用いられていたことが認識されています。
この言葉は、地獄の教義において、失われた者たちの永遠の滅びについて言及する時にのみ用いられます。」[9]

失われた者たちへの報復に関しては、国家が関与しているとはいえ、火の池は単なる国家ではなく場所であるという点に配慮が重要です。
天国は単なる心の状態ではなく、一つの場所であるように、罪に定められた者たちもそこへ行きます。
この真理は、ハデス(マタイの福音書11章23節、16章18節、ルカの福音書10章15節、16章23節、ヨハネの黙示録1章18節、20章13、14節)とゲヘナ(マタイの福音書5章22節、29、30節、10章28節、ヤコブの手紙3章6節)という言葉によって示されています。
ゲヘナとは「苦しみの場所」(ルカの福音書16章28節)の場所です。
ゲヘナが言葉では言い表せないほどの悲惨な状態であることは、その苦しみを描写するのに用いられる比喩的な表現、「永遠の火」(マタイの福音書25章41節)、「彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」(マルコの福音書9章44節)、「火と硫黄との燃える池」(ヨハネの黙示録21章8節)によって示されています。
「底知れぬ穴」(ヨハネの黙示録9章2節)、「外の暗闇」、泣き叫び歯ぎしりをする場所(マタイの福音書8章12節)、「消えることのない火」(ルカの福音書3章17節)、「燃える炉」(マタイの福音書13章42節)、「暗黒の闇」(ユダ1章13節)、「彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。昼も夜も休みを得ない。」(ヨハネの黙示録14章11節)といった表現が用いられています。
これらの場合、比喩的表現はそれが表す考えを修飾する許可を与えるものではありません。
むしろ、これらの箇所における比喩的表現は、言葉では言い表せないことを言葉で表現しようとする、弱々しい試みであることを認識すべきです。
これらの表現のほぼすべてがキリストの口から出たものであることも注目すべき点です。
この報復の場所について啓示されたことのほとんどすべてを、キリストだけが明らかにされたのです。
この恐ろしい真実のすべてを語れるような人間の著者はいないように思えます。[10]

1.聖書には、死者が復活の時まで過ごす場所を表すのに四つの異なる言葉が用いられています。
これらの言葉は永遠の状態を表すものではなく、死者が復活を待つ一時的な場所を表しています。
一つ目はシェオル(陰府)で、旧約聖書で65回用いられ、「地獄」と訳されているのは31回です。
申命記32章22節、
詩篇9篇17節、18章5節、
イザヤ書14章9参照。
墓と訳されているのは31回です。
サムエル記第一2章6節、ヨブ記7章9節、14章13参照。
そして「穴」と訳されているのは3回です。
民数記16章30節、33節、
ヨブ記17章16参照。
これは旧約聖書において死者の住まいを表す言葉でした。
それは単なる存在状態としてではなく、意識ある存在の場として示されています。
申命記18章11節、
サムエル記第一28章11~15節、
イザヤ書14章9節。
神はその場所を支配しておられました。
申命記32章22節、
ヨブ記26章6節。
それは一時的なものとみなされ、義人はそこから千年王国へと復活することを待ち望んでいました。
ヨブ記14章13、14節、19章25、27節、
詩篇16篇9〜11節、17章15節、49章15節、73章24節。
この「シェオル」という言葉について、次のように記されています。
いくつかの事実が非常に明確に浮かび上がってきます。

(i)ほとんどの場合、シェオルは「墓」と訳されていることがわかります。
したがって、上記のリストの中で、墓は最も適切かつ一般的な訳語として際立っています。

(ii)「穴」という言葉については、それが使われている3つの例(民数記16章30、33節、ヨブ記17章16節)のいずれにおいても、明らかに墓を意味しています。
そのため、直ちにこの語に置き換え、「穴」をシェオルの訳語として考慮の対象から除外することができます。

(iii)「地獄」という訳語については、辞書の定義でも口語的な使い方でも「地獄」はさらなる罰を受ける場所を意味するため、シェオルを表すものではありません。
シェオルにはそのような意味はなく、死の現在の状態を表すからです。
したがって、「墓」は適切な訳語です。
なぜなら、それは目に見えないもの、つまり死の状態を目に見える形で暗示するからです。
英語圏の読者にとって、前者が後者を表わすと解釈するのは必然的に誤解を招くに違いありません。

(iv.)研究者は、「墓」を文字通りにも比喩的にも解釈すれば、ヘブル語のシェオルの要件をすべて満たすことに気がつくはずです。
シェオルは特定の墓を意味するというよりは、一般的に墓を意味するのです。
聖書はシェオルという言葉を私たちに説明するのに十分です。

上記のシェオルという言葉の出現箇所を調べてみると、

(a)方向としては下を指すこと、

(b)場所としては地中を指すこと、

(c)性質としては死の状態を指すことがわかります。

死ぬという行為(英語にはそれを表す言葉がない)ではなく、死の状態もしくは持続時間を指します。
ドイツ語はより幸運で、死ぬという行為を表す語「(sterbend)」を持っています。
したがって、シェオルは死の状態、もしくは死者の状態を意味し、墓はその具体的な証拠です。
それは死者とのみ関係します。
墓は時折擬人化され、「墓の支配」という造語で表され、墓の支配権や力を意味します。

(d)関係性においては、生きている者の状態と対照的に用いられます。
申命記30章15、19節、およびサムエル記第一2章6~8節を参照。
対照的な表現を除き、生きている者と結び付けられることは決してありません。

(e)関連性においては、喪(創世記37章34~35節)、悲しみ(創世記42章38節、サムエル記第二22章6節、詩篇18篇5節、116篇3節)、恐怖や戦慄(民数記16章27~34節)と関連して用いられます。
また、泣き叫ぶこと(イザヤ書38章3、10、15、20節)、沈黙(詩篇31篇17節、6章5節、伝道の書9章10節)、知識の喪失(伝道の書9章5、6、10節)、罰(民数記16章27~34節、列王記第一2章6、9節、ヨブ記24章19節、詩篇9篇17節、復活前と同じように戻る)と関連して用いられます。

(f)そして最後に、存続期間について言えば、陰府もしくは墓の支配は復活まで続き、復活によってのみ終わり、復活はそこからの唯一の出口です。
(ホセア13章14などを参照、詩篇16篇10節を使徒の働き2章27、31節、13章35節と比較)[11]

2.死者の場所を表す二つ目の言葉はハデスです。

新約聖書では、この言葉はシェオルとほぼ同義語で、例外的に「地獄」と訳されています。(コリント人への手紙第一15章55節では「死」と訳されています。)
一般的にこの言葉は、救われず、苦しみの中にあり、大いなる白い御座への復活を待ち望む死者を指しています。
ハデスについては、次のように記されています。
新約聖書におけるハデスの11回の出現を慎重に検証すれば、以下の結論に達します。

(a)ハデスは常に死と結び付けられるが、決して生と結び付けられることはありません。
常に死者と結び付けられるが、生者とは決して結び付けられない。
ハデスにいる者は皆、死者から蘇るまで「再び生きることはない」(ヨハネの黙示録20章5節)
もし彼らが蘇るまで「再び生きる」ことがないとすれば、彼らが今生きているはずがないことは明白です。
そうでなければ、復活の教理は完全に否定されます。

(b)英語の「hell」は、ギリシャ語のハデスを決して表すものではありません。
既に述べたように、ヘブル語の同義語であるシェオル(陰府)の正確な意味を表現していません。

(c)ハデスは、シェオルが意味するところ、つまり「腐敗」が見られる場所(使徒の働き2章31節;13章34~37と比較)のみを意味し、そこからの唯一の出口は復活です。[12]

スコフィールド氏は、キリストの復活の前と後に、救われた死者の住処を区別するものを表現するものだとして次のように述べています。

(1)キリスト昇天前のハデス

この語が出てくる箇所は、ハデスがかつては二つの区分、つまり救われた者の住まいと失われた者の住まいに分かれていたことを明確に示しています。
前者は「パラダイス」、後者は「アブラハムのふところ」と呼ばれていました。
どちらの呼称もタルムードに由来するが、ルカの福音書16章22節、23章43においてキリストによって採用されています。
祝福された死者はアブラハムと共にいて、意識があり、「慰めらて」いました。(ルカの福音書16章25節)
信仰を持つ悪人は、その日、キリストと共に「パラダイス」にいるはずだった。
失われた者は救われた者から「大きな淵」によって隔てられていました。(ルカの福音書16章26節)
今ハデスにいる失われた者の代表は、ルカの福音書16章19~31章の金持ちです。
彼は生きていて意識があり、あらゆる能力や記憶力などを十分に発揮しながら、苦しみを受けていました。

(2)キリストの昇天以来、ハデスは存在し続けています。

救われていない死者に関しては、聖書の中で彼らの居場所や状態の変化は明らかにされていません。
大きな白い御座での裁きにおいて、ハデスは彼らを引き渡し、裁きを受け、火の池に落ちます。(ヨハネの黙示録20章13、14節)
しかし、パラダイスに影響を与える変化が起こりました。
パウロは「第三の天に引き上げられ、パラダイス」にいました。(コリント人への手紙第二12章1~4節)
したがって、パラダイスは今や神の御前にあります。
エペソ人への手紙4章8~10節は、この変化の時を示していると考えられています。

「そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」
――この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。
この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。――」
(エペソ人への手紙4章8~10節)


これは、ハデスの楽園の区分です。
現在の教会時代において、救われて死んだ人々は「肉体を離れ、主のもとにいます。」
ハデスで死んだ悪人も、「主のもとに」いる義人も、同じように復活を待ち望んでいます。
(ヨブ記19章25節、コリント人への手紙第一15章52節)[13]

3.三番目の言葉はタルタロスで、ペトロの手紙第二2章4節でのみ、邪悪な御使いたちへの裁きについて言及して使われています。

これは特に、邪悪な御使いたちの永遠の住まいを指しています。
タルタロスは、冥府やハデス、すべての人が死後に行く場所ではありません。
また、ゲヘナのように悪人が焼き尽くされ滅ぼされる場所でもありません。
また、いかなる状態の人でも住める場所ではありません。
この言葉はここでのみ使われており、しかも「罪を犯した御使いたち」(ユダの手紙6章参照)についてのみ使われています。
この物質界の境界、もしくは端っこを意味します。
この下層の空気の果て、サタンが「君主」(エペソ人への手紙2章2節)であり、聖書が「この世の闇の支配者たち」や「空中の邪悪な霊たち」がいると述べている場所でもあります。
「タルタロスは、この物質界の境界であるだけでなく、その冷たさからこのように呼ばれています。」[14]

4.死者の住処を表す4番目の言葉はゲヘナであり、新約聖書の中で12回用いられています。

マタイの福音書5章22、29、30節、10章28節、18章9節、23章15、33節、
マルコの福音書9章43、45、47節、
ルカの福音書12章5節、
ヤコブの手紙3章6節。
いずれの場合も、ゲヘナは地理的な単語として用いられており、救われていない者の最終的な状態を念頭に置いています。
裁きが前提とされ、ゲヘナは結果として生じる場所と状態です。

ヴォス氏は次のように記しています。
「新約聖書では、この場所を悪人が永遠の罰を受ける場所として指し、一般的には最後の審判と関連しています。
それは責め苦の源として火と結び付けられています。
肉体と魂の両方がそこに投げ込まれます。
これは、新約聖書が死後の状態を肉体を用いて比喩的に語っているという原則に基づいて説明されるべきではなく、復活を前提としています。
一部の英訳聖書では、ゲヘナは「地獄」と訳されています。
「ヒンノムの谷」が最後の審判の場所の専門的な名称となったのは、2つの理由によるものです。
最初に、この谷はモレクへの偶像崇拝の中心地であり、子供たちが火で焼かれて捧げられていました。
(歴代誌第二28章3節、33章6節)
二番目に、これらの慣習のために、この場所はヨシヤ王によって汚され(列王記第二23章10節)、その結果、預言において民に下される審判と結び付けられるようになりました。
(エレミヤ書7章32節)
また、その街の臓物がそこで集められていたという事実も、その地名が極度の汚れと同義語となる一因となったのかもしれません。」[15]

ゲヘナでは、悪人の運命として火の池での報復が想定されています。
マタイによる福音書25章41節で、主は悪人に対してこのように言われました。

「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」
それは悪魔とその使いたちのために用意されています。
この「用意された」という言葉は文字通り「用意された」という意味で、火の池が既に存在し、そこに住む者を待っていることを示しています。

火の池のような場所が今日の科学的に知られているというのは、当時ニューヨーク大学にいたC.T.シュワルツェの論文です。
彼はこのように書いています。
「「湖」という言葉は、液体の形態を持つ物質を暗示しています。
したがって、聖書が真実であるならば、この永遠の火は液体の形態をとっているはずです。
これまで論じてきた聖書箇所の極めて単純な証明は、ミゼット星または白色矮星として知られる天空の特異現象の存在にあります。
現時点では完全には解明されていませんが、ミゼット星とは、何らかの出来事により、実際の5,000倍以上の大きさになっている星のことです。
この考えを地球のような惑星に適応させると、地球は現実には直径8,000マイルですが、現実には直径約400マイルにまで縮んでいると考えられます。
この膨大な密度は、私たちの主題と非常に関係があります。
ほとんどの人は、太陽、つまり私たちの最も近い恒星がかなり熱いことを知っています。
恒星の中心またはその付近の温度は、華氏2,500万度から3,000万度の間であることは、一般的な見解です。
このような温度では、原子の破裂など、さまざまなことが起こり得ます。
これは、白色矮星の現象を説明するのに有益です。
華氏3000万度の温度では原子が爆発する可能性があります…
原子核と電子の間の引力は重力の10兆倍にもなるにもかかわらず、原子は電子を失うことになります。
分離した部分は、特にそのような高圧力下では、よりしっかりと閉じ込められます。
X線の継続的な活動により、原子壁は再形成されません。
そのため、小星に見られるような巨大な密度を達成することができます。
このような高温では、すべての物質は気体の状態になることに注意してください。
白色矮星では圧力が非常に高いため、気体は液体の粘稠度まで圧縮されますが、それでも気体の特性を示すことがあります。
このような恒星が冷えて徐々に暗くなる前に、通常の体積まで膨張しなければなりません。
つまり、現在の大きさの5000倍以上の大きさにまで膨張しなければなりません。
ここに難しさがあります。
膨張によって膨大な熱が発生し、恒星は完全に圧縮された状態を保つことになります。
そのため、天文学者や物理学者の知る限り、この小さな恒星は決して冷えることはないのです!
白色矮星は、事実上、燃え尽きることは決してありません。
神の御言葉である聖書が科学的に正確であることを示すために、要約しておきましょう。
最初に、私たちは燃え尽きることのない永遠の火を見出すことができます。
それは液体であるため、第二に火の湖です。
三番目に、それは消えることがありません。
なぜなら、水のような消火物質は、すぐに原子から電子が剥ぎ取られ、残りの原子と混ざってしまうからです。
四番目に、天文学者たちはこの不思議な現象を研究してきたし、今も研究を続けています。
つまり、火の湖はすでに準備され、今まさに準備が整っていることは明白です。
神が現実にこれらの火の湖を用いて御言葉を成就するとは言えないが、懐疑論者への答えは、火の湖がある天にあるということです。」[16]
明らかに、救われていない者の復活体は、そのような火の池の真っ只中であっても破壊されない性質を持つのです。

II.新しい天と新しい地の創造

千年王国の終わりに現在の天と地が消滅した後、神は新しい天と新しい地を創造されます。
イザヤ書65章17節、66章22節、
ペトロの手紙第二3章13節、
ヨハネの黙示録21章1節。
神は明確な創造の業によって、新しい天と新しい地を創造されます。
神が現在の天と地を神権的な御業の場として創造されたように、神は新しい天と地を永遠の神権的な神の王国の場として創造されます。
イスラエルの契約は、人々に国土、国家の存在、王国、王、そして永遠の霊的祝福を保証しています。
したがって、これらの祝福が成就する永遠の地球が存在しなければなりません。
イスラエルは古い地球からの移住によって新しい地球に導かれ、そこで神が彼らに約束されたすべてのものを永遠に受け取ることになります。
その時、この聖句が永遠に真実となります。

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、」
(ヨハネの黙示録21章3節)


新しい天と新しい地の創造は、神の永遠の王国を予期する最終的な準備行為です。
神が「正義の住む」(ペトロの手紙第二3章13節)王国をお持ちであることは、今や真実です。
教会の聖徒たちの永遠の運命に関して言えば、彼らの運命は場所ではなく、存在に関係していることに注目すべきです。
場所は重要であるが(ヨハネの福音書14章3節)、信者がその御前に導かれる存在によって、場所は影を薄められます。

「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
(ヨハネの福音書14章3節)

「私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。」
(コロサイ人への手紙3章4節)

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
(テサロニケ人への手紙第一4章16、17節)

「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。
しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。
なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」
(ヨハネの手紙第一3章2節)


教会の栄光ある期待を語るすべての箇所で強調されているのは、教会が連れて行かれる場所ではなく、教会の存在です。
主イエス・キリストが永遠の御国で新しい地に住むことは、ヨハネの黙示録21章3節などの聖句からすでに立証されています。
聖書が教会がキリストと共にいることを明らかにしている以上、教会の永遠の住まいも同じ様に新しい地、つまり神が聖徒たちのために特別に用意された天の都、新しいエルサレムにあると結論づけられます。
このような関係は、神から与えられた者たちへの主の祈りに対する答えとなります。

「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。
あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」
(ヨハネの福音書17章24節)


キリストの永遠の栄光は永遠の御国、その永遠の支配において現れるので、教会がそこに存在し、キリストの栄光を永遠に見るのは当然のことです。

NOTE

[1]O. T. Allis, Prophecy and the Church, p. 3.
[2]Walter Scott, Exposition of the Revelation of Jesus Christ, p. 407.
[3]F. C. Jennings, Studies in Revelation, p. 538.
[4]Ford C. Ottman, The Unfolding of the Ages, p. 437.
[5]Allis, op. cit., 239-40.
[6]Lewis Sperry Chafer, Systematic Theology, V, 361.
[7]Cf. G. N. H. Peters, Theocratic Kingdom, II, 506-23.
[8]William Kelly, The Revelation Expounded, pp. 243-44.
[9]Chafer, op. cit., IV, 429.
[10]Ibid., IV, 430-31.
[11]E. W. Bullinger, A Critical Lexicon and Concordance to the English and Greek New Testament, pp. 368-69.
[12]Ibid., p. 369.
[13]C. I. Scofield, Reference Bible, pp. 1098-99.
[14]Bullinger, op. cit., p. 370.
[15]Geerhardus Vos, “Gehenna” International Standard Bible Encyclopedia, II, 1183.
[16] C. T. Schwarze, “The Bible and Science on the Everlasting Fire,” Bibliotheca Sacra, 95:105-112, January, 1938.


第33章 天の都、新しいエルサレム

ヨハネの黙示録21章9節から22章7節ほど、ディスペンセーション主義的千年王国前再臨主義者の間で意見が大きく分かれる聖書箇所は他にほとんどありません。

この箇所を永遠の状態を描写していると解釈する人もいれば、千年王国を描写していると解釈する人もいます。
「街」をキリストとの関係における教会を指すと解釈する人もいれば、キリストとの関係におけるイスラエルを指すと解釈する人もいます。
文字通りの街と解釈する人もいれば、比喩的な表現と解釈する人もいます。
この聖書箇所には、多種多様な解釈がなされています。

I.ヨハネの黙示録21章9節から22章7節は預言的な状況はどのように適応されるのでしょうか?

神の御言葉の啓示全体と調和する立場を確立するために、この節の主要な解釈の主な特徴を検討しなければなりません。

A.ヨハネの黙示録21章9節から22章7節では千年王国について説明しています。

ダービー、ゲーベルイン、グラント、アイアンサイド、ジェニングス、ケリー、ペッティンギル、セイス、スコットらは、ヨハネがヨハネの黙示録21章1~8節で永遠の状態を描写した後、千年王国時代をより詳細に描写するために、その時代を要約している見解をこのように唱えています。
この解釈を支持する人々は、自らの見解を支持するために多くの議論を展開しています。

1.ヨハネの黙示録における回想の原則

この箇所が千年王国時代と関連しているという見解の第一人者の一人であるケリー氏は、次のように書いています。

「神はこの書において、回想的な記述をするのが常套手段です。
私がこのように述べるのは、前例のないことを主張しているわけではないことを暗示するためです。
例えば14章を見てください。
そこでは、7回にわたる規則的な一連の出来事を見てきました。
しかし、その中でバビロン陥落は3番目の位置を占めています。
そこではバビロンの位置づけが非常に明確に定められています。
しかし、預言の中でこの後ずっと後、神の霊が神の怒りの7つの鉢を与えた時、再びバビロンが登場します。
この場合、聖霊は14章で私たちをバビロン陥落後の出来事、さらには主の裁きの到来へと導きます。
そしてその後、聖霊は17~18章で、バビロンと獣、そして地上の王たちとの関わりについての詳細を私たちに示しています。
21章の出来事の順序に合致しているように私には思えます。

このような立場に対して、オットマン氏は次のように書いています。
「この新しいエルサレムの拡大された幻は、その解釈において、千年王国の時代に存在した状況への思考回帰を要求するものではありません。
千年王国は旧約聖書の預言のテーマであり、これらの預言が千年王国を超えることは稀です。
キリストの千年王国の支配の先にあるものを垣間見せる箇所はたった二つしかありません。
どちらもイザヤ書です。
これが旧約聖書の預言の一般的な特徴であり、メシアの地上における支配の先にあるものについては一切想定していません。
しかしながら、そのような限定は新約聖書のどこにも見当たらず、ヨハネのこの幻において千年王国の地上への回帰は矛盾を生じ、不可解なものとなります。」[2]

さらに、ケリー氏が言及する二つの箇所は平行事項ではないとも主張できます。
最初の回想では、ある時点からある出来事への回帰が描かれているのに対し、二番目の回想では永遠から時間への回想が描かれているからです。
こうして平行性は崩れています。

2.鉢の御使いの働き

多くの著述家は、ヨハネの黙示録17章1節と21章9節の場面を紹介する語り手の存在を理由に、この箇所を千年王国主義と特定するダービー氏の見解に同意しています。

ダービー氏は次のように述べています。
「9節を17章1節と比較すると、バビロンの様子を描写しているのは7つの鉢を持つ七人の御使いの1人であり、また、9節からの預言全体を通して、小羊の花嫁、聖なる都を描写しているのもその1人であるという類似点が分かります。
21章9~27節と22章1~5節に見られることは、歴史的にも預言的にも、それ以前の出来事の続きではありません。
それは新しいエルサレムの描写であり、この章の冒頭に記された出来事に先立つ多くの出来事が記されています。
御使いも同じ様に、バビロンが勝利を収めた後の状況を描写しています。」[3]

これに対して、これら二つの箇所における御使いの啓示には、真実な類似性は見られない、と反論できるかもしれません。
バビロンはヨハネの黙示録16章19節で紹介され、その直後に17章と18章で回想が続きます。
しかし、20章の終わりの出来事を明らかにする時に、21章9節から22章5節が千年王国を指しているならば、この出来事と関連付けられるはずであるが、この記述と回想と説明の間には永遠が介在しています。
こうして、この類似性は崩れ去ります。

3.ディスペンセーション的名称の使用

ケリー氏は自身の解釈をさらに裏付けるために、次のように述べています。
「また、千年王国に関する部分(つまり、21章9節から)には、全能の神である主や小羊など、時代区分的な名称が用いられているのに対し、永遠を明らかにし、神がすべてにおいてすべてである21章1~8節にはそのような名称は用いられていないことにも注目すべきです。」[4]
これに対する答えとして、これらの名前は必ずしも時代区分的な意味合いを持つわけではない、と述べることができます。
キリストに用いられた「小羊」という称号は、ペテロの手紙第一の手紙1章19節で用いられていることから、時代以前から用いられています。
ヨハネは律法の時代にこの称号をヨハネによる福音書1章29節で用いられています。
また、恵みの時代には使徒の働き第8章32節で用いられています。
さらに、ヨハネの黙示録第7章14節では患難時代に用いられています。
「小羊」という名は、キリストの完了したささげ物と永遠の贖いを考慮してキリストに与えられた永遠の名であり、特定の時代や民族に限定されるものではありません。
「全能者」という名は、族長以前のヨブ記で30回以上用いられており、特定の民族や時代に限定されるものではありません。
この名は、最後の敵の滅ぼしを通して神が全能者であることが実証された点で、新たな重要性を帯びることになります。

4.諸国民の癒し

ヨハネの黙示録22章2節で教えられているように、この箇所を千年王国として解釈することが必要であると主張されています。

ジェニングス氏はこのように述べています。
「癒しは、今もなお私たちの中にあり、諸国民の中にも存在する、あの邪悪な原理、罪の避けられない結果に適応できます。
哀れみと恵みは、癒しによってこれらの原理の結果に対処できます。」[5]

そしてケリー氏はこのように付け加えています。
「永遠の世界には、諸国民はもはや存在せず、誰も癒しを必要としません。」[6]

スコット氏はこの箇所とエゼキエル書47章12節の類似点を指摘し、次のように述べています。
「千年王国の国々は、光、支配、そして癒しのために、天の都に依存しています。
これらすべては、エゼキエル書47章の注目すべき章に示されています。

「その実は食物となり、その葉は薬となる。」
(エゼキエル書47章12節)

上の場面(ヨハネの黙示録22章)と下の場面(エゼキエル書47章)はどちらも千年王国であり、同時に存在しますが、前者の祝福は後者の祝福を無限に超越します。
生命の木は人々を支え、生命の川は喜びをもたらします。」[7]

この論法に対して、オットマン氏はこのように答えています。
「しかし、二つの幻は同じではありません。
エゼキエルの預言は千年王国を超える範囲には及びませんが、ヨハネの預言は永遠を扱っています。
それでもなお、エゼキエルの預言はヨハネの黙示録の預言の型です。
千年王国は天国を型として表しているに過ぎないことを忘れてはなりません。
たとえここで両者の描写単語が調和しているように見えても、混同してはいけません。
ここで述べられている諸国民の癒しは、必ずしも千年王国の状態への回帰を意味するものではありません。
キリストの千年王国の終わりに存在している諸国民は、後にもたらされる完全かつ最終的な祝福のために癒しを必要としているのです。」[8]
さらに、預言者たちの中では、癒しはしばしば文字通りの意味ではなく、霊的な意味で用いられていることにも注目すべきです。
したがって、千年王国的な解釈を必要とするような特定の罪や病に述べられているわけではありません。
さらに注目すべきは、園に生命の木があったのは、堕落していないアダムの命を支えるためだったということです。
園では生命の木は罪や病気とは関係がなく、ここでも関係ありません。

5.国家の存在

ケリー氏は、この箇所で国家に述べられていることは、千年王国時代への言及を必然的に意味していると長々と論じています。
「永遠の状態において、神は人々と関わります。
あらゆる時間的区別は終わりを迎えます。
そこでは王や国家といったものは存在しません…この章の後半を見てみると、私たちは再び国家や地上の王たちと関わっています…永遠が始まると、神は世界の秩序に従って物事を扱います。
王や国家、そしてそれらと同じような現在の世界的な性質の規定です。
これらすべては支配を意味します。
支配とは、抑圧を必要とする悪が存在することを前提としているからです。
したがって、この章の後半で私たちが持っているのは永遠の状態ではなく、以前の状態なのです。」[9]

この反論に対してオットマン氏は次のように書いています。
「たとえ地が火によって滅ぼされても、イスラエルは神の愛の対象であり続けます。
むしろ、国家としてこの裁きを生き残ります。
これは、千年王国を超えて、イスラエルが新しい天と新しい地との関わりにおいて存続することを宣言するイザヤ書の一節から完全に明らかです。
(イザヤ書66章22節)他の千年王国の国々が、地の滅びを同じように生き残ることは、ほとんど考えられません。
したがって、彼らもまた新しい地とのつながりを持つが、教会とイスラエルとは区別されます。」[10]

議論の多くは、ヨハネの黙示録21章26節の前置詞「(eis)」の解釈にかかっています。
ギリシャ語を慎重に研究するケリー氏はこのように述べています。
「(eis)」の意味は「〜の中にではなく、〜へ」です。
ギリシャ語では、それを表す語は「(eis)」しかありません。」[11]

彼はこの翻訳によって、ヨハネの黙示録21章26節のこの場面は千年王国であり、諸国民が都に近づくという自身の見解を裏付けています。

オットマン氏は「〜の中に」という翻訳を主張し、次のように述べています。
「千年王国の終わりにも、千年王国中と同じ様に、諸国家が存在します。
この考え方においては、何の困難もなく、彼らが聖都に近づき、栄光と誉れを携えてそこに至れるという事実にも何の困難もありません。」

ディーン・アルフォード氏はこのように言っています。
「もし地上の王たちと諸国民が彼らの栄光と財宝を教会に携えて来ても、いのちの書に名が記されていない者は、決して教会に入ることができないのであれば、これらの王たちと諸国民はいのちの書に名が記されているということになります。
キリストによって救われたにもかかわらず、キリストの目に見える組織化された教会の一員となることなく生きた者もいるかもしれません。」[12]

6.御使いの働き

スコット氏は、これは千年王国に違いないと主張します。
「永遠の世界では御使いの働きは見られなかったが、ここでは際立っています。」[13]
彼は、そのような奉仕には千年王国という解釈が必要だと考えています。
これに対し、ヨハネの黙示録21章1~8節で永遠の状態について与えられている記述は非常に簡潔であると指摘できます。
沈黙から、永遠に御使いの働きがないと推論するのは、反論に過ぎません。
ヘブル人への手紙12章22節では、御使いは生ける神の都である天のエルサレムに住んでいると言われています。
ヨハネの黙示録21章1~8節が沈黙しているからといって、御使いを永遠から排除する必要はありません。
これらが、この立場の支持者の主な主張であり、反対者による反論です。
ケリー氏は、千年王国主義を強く支持しながらも、「しかし、そこには永遠に真実である特定の特徴がある」と述べているが、これは興味深い指摘です。[14]

B.ヨハネの黙示録21章9節から22章7節では永遠の状態が説明されています。
ゴベット、ラーキン、ニューウェル、オットマンらは、ヨハネの黙示録21章1節から22章7節は永遠の状態を指しているという見解を唱えています。
彼らは自らの立場を支持するために、数々の論拠を提示しています。

1.形容詞「新しい」はヨハネの黙示録21章1、2節で使われています。

これらの節には、新しい天、新しい地、そして新しいエルサレムという3つの新しいものが述べられています。
2節の新しいエルサレムと10節の聖なるエルサレムは同じものでなければならないという議論があります。
そして、これは最初に永遠を表す新しい天と新しい地と関連しているため、二番目に永遠の立場を表しています。
この議論に対しては、10節の都は地上に降りる途中にあるのではなく、地上に浮かんでいる途中にあると反論できるかもしれません。
地上への最終的な降下は永遠の時(2節)までしか描写されておらず、その時、新しい天、新しい地、そして新しいエルサレムは互いに関係を持つことになります。

2.ヨハネの黙示録21章10節にある街の位置

ヨハネの黙示録21章10節に見られる街は地上に浮かんでいるという点で、どちらの解釈者も概ね同意しています。
この根拠として、これは千年王国の場面ではないという主張があります。
なぜなら、千年王国には主が地上に戻り、その足がオリーブ山に立つからです。
(ゼカリヤ書14章4節)
主は天のエルサレムではなく、地上のエルサレムから支配する、と主張されています。
この街は地上に存在しないので、千年王国の街ではありません。
なぜなら、そこは明らかに小羊の住まいの中心だからです。
これに対し、キリストは再臨の時に地上に戻り、ダビデの王座に座して支配するだろうという主張もあるかもしれません。
その権威の中心は地上のエルサレムであると認められています。
しかし、キリストが常にその王座に座しておられる必要はありません。
キリストは依然としてダビデの王座に座してダビデの王国を支配されるかもしれませんが、天のエルサレムを花嫁と共に住まわれます。

3.この都の特徴は千年王国ではなく永遠です。

この聖句が永遠の状態を指しているという立場を支持する人々は、その中にある永遠性を示す描写を数多く指摘します。
そこには「神の栄光」が宿っています。
救われていない者はその栄光に耐えられず、パウロのように打ち倒されるかも知れません。(使徒の働き9章3節)
そこには神殿はありません。(22節)
そしてエゼキエル書40~48章には、千年王国の地上に神殿があることが明確に預言されています。
そこには夜はなく(25節)、千年王国には昼と夜があります。(イザヤ書30章26節、60章19、20節)
神の御座はそこにあります。(22章3節)
そこにはもはや呪いはありません。(22章3節)
ゆえに、堕落の影響は取り除かれます。
そこにいる者はみな救われます。(21章27節)
ゆえに、これは永遠です。
なぜなら、救われていない者たちが千年王国の間に生まれるからです。
死はもうありません。(21章4節)
そして千年王国の間に人々は死にます。(イザヤ書65章20節)
ゆえに、それは永遠の状態を指しています。
これらの指摘に対して、マタイの福音書25章31節は、キリストが再臨の時に「栄光の王座」に着き、千年王国を通して必ずその王座に座されることを示している、と反論できるかもしれません。
神殿の不在は決定的な論拠にはなりません。
エゼキエルの神殿は地上のエルサレムにあり、小羊御自身が天のエルサレムにおられるので、神殿は必要ないからです。
同じ様に、夜がないことも決定的な論拠にはなりません。
千年王国の地上には夜がありますが、小羊が光を与えるので、天の都には夜は必要ありません。
この呪いは、罪による地上の呪いが解かれ、生産性が本来の能力に戻り、動物の毒と人間と動物の間の敵意が取り除かれている可能性があります。(イザヤ書11章)
ペテロの手紙第二3章10節に記されている大火災による呪いの最終的な除去を指すとは限りません。
救われた者だけがこの都に入り、そこに住むことができましたが、救われていない者も千年王国の間、その光の中で地上に住むことができます。
このような議論は、これらの言及が必ずしも永遠に限定されるわけではないことを示すために用いることができます。

4.支配の期間

ヨハネの黙示録22章5節には、聖徒たちは「永遠に」支配すると記されています。
ヨハネの黙示録20章4節では、千年王国にいる聖徒たちの支配について言及されていますが、彼らは「キリストと共に千年の間」支配すると言われています。
千年は永遠ではありません。
彼らは永遠に支配するので、千年王国ではなく、永遠を指しているはずです。
この議論に対しては、キリストの王国は千年に限定されるものではなく、永遠に支配するということを指摘できます。
千年王国は永遠の王国へと繋がるので、聖徒たちは千年の間支配すると言えるでしょうが、それでも彼らは永遠に支配し続けます。

5.永遠における国家の存在

ニューウェル氏は、この部分全体が永遠を描写しているという立場を擁護し、ヨハネの黙示録21章24~26節の「諸国民」の解釈について長々と述べています。
彼はこのように述べています。
「21章3節では、神の幕屋がついに人々の中にあると述べられていますが、「彼らは神の民となる」(ギリシャ語:laoi)とも記されています。
洞察力のある人々が、この複数形の「(laoi)」をまるで英語の「民(laos)」のように、意図的に翻訳しているのを見ると、驚きます。
英訳KJV聖書は「彼らは神の民となる」と正確に、そして明確に翻訳しています。
ならば、21章9節から22章5節が千年王国の場面に戻る箇所であるという、あり得ない推測を避けることができています。
少なくとも一つの国家と一つの子孫、イスラエルが新しい地球に属することを私たちは確信しています。
イザヤ書66章22節で神はイスラエルの「子孫と名」が天と地に、つまりヨハネの黙示録21章1節で始まる新しい秩序に残ると言っています。
イスラエルは神に選ばれた民です。
過去のことではなく、千年王国を通してでもなく、永遠に選ばれた民です。
しかし、もしイスラエルが選ばれた民であるならば、他の民族の存在が前提となるのです!
しかし、その国家の存在がなくなることはないことは、ゼパニヤ書3章20節に明確に示されています。

「その時、わたしはあなたがたを連れ帰り、その時、わたしはあなたがたを集める。
わたしがあなたがたの目の前で、あなたがたの捕われ人を帰すとき、地のすべての民の間であなたがたに、名誉と栄誉を与えよう、と主は仰せられる。」
(ゼパニヤ書3章20節)


最後に、ヨハネの黙示録22章の最初の5節、特に4節と5節の言葉は、21章の冒頭の言葉と同じ様に、その性質において永遠性を持っています。

「神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」
(ヨハネの黙示録22章4、5節)


なぜ、このような記述が、単に千年王国の状況を遡って描写することを意図した箇所と結び付けられるのでしょうか?
それは矛盾します。
さらに、最後の審判が執行され、新しい創造が始まった後、聖書が最後の審判と新しい創造以前の時代に戻るのは、私たちは不合理だと感じます。[15]

イスラエルという国家が永遠に存在し、他の国家も必然的に存続するというこの議論に対して、ケリー氏は次のように書いています。
「イザヤ書65章では、新しい天と新しい地が告げられています。
しかし、なんと違った意味でしょう!そこでは、この言葉は実に限定された意味で捉えなければなりません。
主について、「彼は永遠にヤコブの家を治め、その王国には終わりがない」と述べられています。
これは旧約聖書の希望ですが、新約聖書でも述べられており、もちろん、ヤコブの家が地上に存在する限り、主がそれを治めることを意味します。
地球が消滅し、イスラエルがもはや国家として見られなくなる時、彼らは間違いなく別の、より良い方法で祝福されるのです。
しかし、地上の民としてキリストが彼らを支配することはありません。
ゆえに、この王国は、地球が存在する限り終わりがないとはいえ、必然的に地球の存続によって制限されることになります。
新約聖書ではこの表現を「完全に、そして絶対的に」、つまり終わりのない状態として用いていますが、旧約聖書では、聖霊が当時語っていた地上の関係に結び付けられています。[16]

ニューウェル氏の立場をさらに裏付けるのは、マタイによる福音書25章34節です。
「救われた異邦人は、世の初めから彼らのために用意されていた御国を受け継ぐと述べられています。
彼らは命を受け継ぐと言われている(マタイによる福音書25章46節)ので、それは永遠の命です。
これは、個人が救われ永遠の命を得るものの、イスラエルとは異なる存在となることを示しています。
この聖句は千年王国ではなく永遠の王国を象徴しているという見解を支持しようとする人々が主に用いる論拠は、まさにこのようなものです。
有力者が強力な論拠を提示する一方で、同じ様に有力でありながら異なる見解を持つ者たちによって反論されてきたことが観察されています。
こうした論拠と反論の提示を踏まえるならば、この問題に何らかの解決策はあるのでしょうか?
新しいエルサレムに関するいくつかの記述を検討することで、解決策を見出すことができるかもしれません。」

C.ヨハネの黙示録21章9節から22章7節は、千年王国における復活した聖徒たちの永遠の住まいについて述べています。

1.この街は文字通りの街です。

ここで重要な検討事項は、ヨハネの黙示録21章と22章に記されている街が文字通りの街なのか、それとも奥義的な街なのかということです。

スコット氏は、この街を奥義的な街と考える人々の代表として、次のように書いています。
「読者の皆様には、ヨハネの黙示録における新しいエルサレム、つまり栄光を受けた教会と、パウロが語る天のエルサレム(ヘブル人への手紙12章22節)との区別に注意していただきたいと思います。
後者は前者とは異なり、人々を指すのではなく、生ける神の都、現実の都、天のすべての聖徒たちの居場所を指します。
これは、前の章で聖徒たちや族長たちが待ち望んだ(ヘブル人への手紙11章10~16節)物質的な都、つまり神御自身によって建てられ、備えられた、計り知れないほど壮大で広大な都、まさにその都です。
パウロの都は物質的な都であり、ヨハネの都は奥義的な都です。」[17]

スコット氏は自身の区別を裏付ける証拠を一切示さず、単に断言しているに過ぎないことに注目すべきです。
ヨハネの黙示録21章と22章に登場するこの街は、ヘブル人への手紙12章に登場する街と同じ様に、文字通りの街であることを示す証拠は数多くありまする。

ピーターズ氏は、この街が文字通りの街であることを証明する議論を要約しています。

1.東方の慣習では、王が首都に入り支配する時、もしくは君主が王座に就く時、それは結婚という比喩で表現されました。
つまり、王は結婚し、街、王座、もしくは民と親密かつ永続的に結びついています。
聖書におけるこの比喩の使い方は、教会に特に言及しない限り、それを限定すべきではないことを示しています。
それは、イザヤ書62章にある千年王国の描写において、その国土が「ベウラ」、つまり「結婚した」と呼ばれているように、民と国土の永続的な結びつきを意味します。
最後の時が来る時、すべての王の王とその首都の結びつきを同じ比喩で表現することは、最も親密で永続的な関係を暗示しており、不適切ではなく、むしろ極めて適切です。
このように、多くの人にとって文字通りの街という概念に対する主な反論となる結婚という比喩は、むしろその街を示す役割を果たしています。

2.なぜなら、この比喩自体が街の描写において非常に重要な形で説明され、かつて地上のエルサレムを指して用いられていたのとは対照的であるため、文字通りの街以外には到底適応できないからです。
「神と小羊の王座」はこの街にあると明確に宣言されています。
これは、神の御国の首都としてのこの街の神権的立場を確証するものです。

3.神の住まい、神がかつて常に人々の間に幕屋を張っていた場所(幕屋や神殿において)は、物質的な形をとりました。
栄光に満ちた人間性、神との一体性が人々と共に住む時代を待ち望んでいました。
かつて天幕、そして神殿であったその住まいは、今や街として表現されています。
しかし、依然として「神の幕屋」と呼ばれています。

4.街の肖像において、聖徒たち、もしくはその住民、そして義人たちは、街とは別個の、異なる存在として描かれています。

5.都には神殿(地上のエルサレムのような)がなかったという宣言(ヨハネの黙示録21章22節)は、物質的な都についてのみ述べられています。

6.聖徒と都の区別は、旧約の聖徒たちが「都を待ち望んでいた」こと、すべての信者が「永遠の都を待ち望んでいた」こと、そして神が「彼らのために都を用意しておられた」ことについて語る、多くの聖句によって証明されています。

7.これは、エルサレムが美しい衣をまとい、その市民の数、神聖さ、幸福さなどによって栄光の都となったことを描写する、他の聖句と一致しています。
イザヤ書54章11、12節、およびイザヤ書60章14~20節などです。

8.しかし、聖徒たちがここで言及されておらず、物質的な街を指しているという事実は、結婚式が招かれた客、つまり招待された客として行われる時に聖徒たちが表されているという事実を見出すことができます。
この場合、彼らは同時に客であると同時に花嫁であることはできません。

9.この神権的な秩序を認めてください。
この王の栄光、偉大さ、そして威厳に鑑みてください。
この高貴な御方に相応しい街が備えるべきです。」[18]

この街の文字通りの意味について、グラント氏は次のように書いています。
「ヘブル人への手紙12章には、さらに明確な証言があります。
そこには、「天に登録されている長子たちの教会」と「全うされた義人たちの霊」――言い換えれば、クリスチャンと旧約聖書の聖徒たち――が「生ける神の都、天のエルサレム」とは別個のものとして述べられています。
これは、ある意味では街とその住民を同一視することが容易であるとはいえ、両者を同一視することはできないことを示しています。」[19]

ニューウェル氏は、それが文字通りであるという考えを付け加えています。
「聖書の記述が文字通りであるからです。
もし金が金を意味しておらず、真珠が真珠を意味しておらず、宝石が宝石を意味しておらず、正確な寸法が実際の寸法を意味していないのであれば、聖書は正確で信頼できる情報を何も与えていないことになります。」[20]
したがって、この街が文字通りの街であるという見解を裏付ける十分な証拠があります。

2.街の住民

ニューウェル氏は、新しいエルサレムは「父なる神、子なる神、聖霊なる神の永遠の住まい、住まい」であるという命題を提示しています。[21]
彼は次のように書いています。
いくつかの考察から、新しいエルサレムは神の唯一の永遠の安息の地であるという結論に至ります。
1.新しい天と新しい地、そして新しいエルサレムが新しい地に降りてくるのを見るとすぐに(21章1、2節)、私たちはこう告げられます。

「見よ。神の幕屋が人とともにある。」
(ヨハネの黙示録21章3節)


新しい天と地の目的はこれを実現すること、つまり神がこの新しい創造の首都に永遠に住まいを持つことです。

2.新しい創造の首都以外に、神の永遠の住まいは見当たりません。

3.この天の都は神の栄光を備えています。(21章11、23節、22章5節)

4.そこには神の王座もあり、22章3節の「奉仕」は、正しくは祭司の奉仕、もしくは霊的な礼拝と呼ばれています。

5.彼らは彼の顔を見ます。
したがって、ここは永遠に神が安息する場所に違いありません。
6.わたしたちは、新しいエルサレムの住民が「彼らは永遠に王である」(22章5節)ということを覚えておくだけで十分です。

これは、新しい創造の首都の住民以外の者について記されたものではありません。[22]

この都は、父なる神、子なる神、聖霊なる神の住まいであるだけでなく、小羊の妻である花嫁の住まいでもあります。(ヨハネの黙示録21章9節)
御使いが花嫁の栄光と祝福を明らかにしようとする時、御使いは花嫁の住まいも明らかにします。
花嫁はそこと同一視されています。
この天の都は、教会の運命として約束されています。

「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。
また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、」
(ヘブル人への手紙12章22、23節)

「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。
わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。」
(ヨハネの黙示録3章12節)

疑いなく、これは主が次のように言われたときに念頭に置いていた場所と同じ場所です。

「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
(ヨハネの福音書14章2、3節)

「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」
(ヘブル人への手紙13章14節)


教会とこの街の関係は、ヨハネがそこに小羊の十二使徒の名前を観察していることからもさらに明らかです(ヨハネの黙示録21章14節)

街の住民について考えるのであれば、聖書は住民の中に教会以上のものも含んでいることに気づきます。
街は旧約聖書の聖徒たちが待ち望んでいたものと考えられています。
アブラハムについてこのように記されています。

「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」
(ヘブル人への手紙11章10節)


パウロはガラテヤ人への手紙4章で地上のエルサレムと天のエルサレムを対比させ、奴隷状態にあったユダヤ人が地上のエルサレムを切望したのに対し、より偉大な都、つまり住まいが約束されていることを述べています。

「しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。」
(ガラテヤ人への手紙4章26節)


旧約聖書の聖徒たちはこのような言葉で描かれています。

「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。
また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、」
(ヘブル人への手紙12章22、23節)


したがって、著者は教会だけでなく、旧約聖書で救われた人々、そして御使いたちも、新しいエルサレムの住民と共にここに含めているように思われます。

ジェニングス氏は次のように述べています。
「しかし、このようにして、エノクのような区別のない旧約の聖徒たち、ヨブのような異邦人、アブラハムのようなユダヤ人など、すべての聖徒たちがこの町に居場所を持つことができたのであるから、この町がユダヤ人の特徴を持つものとしてみなされるべきではありません。」[23]

また、新しいエルサレムという単語は厳密にはユダヤ教の概念ではありませんが、イスラエルがその街で役割を果たしていることが分かります。
ヨハネはイスラエルの12部族の名前を見て、イスラエルの贖われた者たちがそこに役割を果たしていることを示しています。(ヨハネの黙示録21章12節)
以上の考察から、この都は神、教会、イスラエルの贖われた者たち、そしてあらゆる時代の贖われた者たち、そして堕落していない御使いたちによって住まわれると言えます。
しかしながら、この都の主な特徴は、そこに住む花嫁から来ています。

3.都に入る方法

教会が、キリストが私たちのために用意してくださった場所に、携挙と復活によってのみ入ることができるということに配慮すれば、この問題全体の解決が簡単になります。
キリストのさばきの座と小羊の婚姻の後、花嫁は永遠の住まいに落ち着きます。
携挙と復活によって入ることが可能になります。
イスラエルは、復活によってのみ、イスラエルのために用意されたこの場所に入ることができます。
イスラエルの復活は再臨の時に起こるので、イスラエルの救われた者たちは、教会の携挙と復活、そして彼ら自身の復活が終わるまで、都に入ることはできません。
再臨の時に地上にいるイスラエル人と異邦人はこの都に入ることはできませんが、キリストの千年王国には入ります。
この基礎を備えた都を待ち望んでいた、救われた旧約聖書の聖徒たちは、復活によってこの都に入ります。
このように、この都に入る、あらゆる時代の贖われた者たちも、復活によって入るのです。
こうして、この街は復活したすべての聖徒たちの住まいとなり、彼らは復活の時にこの街に入ることになります。

4.この都と千年王国の関係

教会が花婿と結婚し、備えられた場所に据えられると、教会は二度とそこから移されることはありません。
教会は携挙によって永遠の状態に入ります。
主が花嫁と共に戻って支配される時、教会の住まいは千年間、空のまま放置されることはありません。
むしろ、住まいは天から地の上空へと移されます。
こうしてヨハネは「大いなる都、聖なるエルサレムが、神のもとを出て天から下って来る」のを見ます。
この住まいは空中に留まり、御子の輝きであるその光を地に投げかけます。

「諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。」
(ヨハネの黙示録21章24節)


第二の降臨、つまり、街が地上の上空に降り立つ時、教会の聖徒たちは、復活してその時に居住する旧約聖書の聖徒たちと合流します。
多くの作家は、この街を千年王国における教会の住まいと見ています。

ジェニングス氏はこのように述べています。
「私たちは千年、さらには永遠の境界をさかのぼり、花嫁、小羊の妻、そして千年王国における地球との関係について、これまで以上に注意深く考察しなければなりません。」[24]

スコット氏も同様の目的で書いています。
「キリストと彼の天の聖徒たちの千年王国について簡単に言及した後(20章4~6節)、私たちは永遠の状態についての考察から、イスラエルと世界全体との千年王国の関係における小羊の妻である花嫁についての長い説明へと戻されます。」[25]

ケリー氏は次のように書いています。
「このように、19章で花嫁を小羊と関連づけ、聖都である新しいエルサレムを永遠の状態と関連づけて考えていたとすれば、この章の9節以降は、小羊の結婚から永遠の状態における新しい天と地に至るまでの間、花嫁が神と人の目に非常に祝福された位置を占めていることを示しています。
これは教会の千年王国の象徴です。」[26]

もしくは、説明は21章の9節から22章の5節までのすべての記述に千年王国における天の都と地球の関係が示されています。[27]
このように、地球は永遠の状態ではなく、王が鉄の杖で地球を支配する必要があり、王の権威に対する反逆(彼らはどれほど光に反抗して罪を犯すのでしょうか!)があっても、教会に関しては永遠の状態にあり、永遠の交わりと救いの実りを味わっていることがわかります。
教会は、天の都から、万王の王、万主の主の称号を持つ方と共に支配します。
永遠ではありませんが、教会と世々救われた者たちは永遠の状態にあります。

ケリー氏はこれをうまく要約していると思います。
「天の都そのものを見れば、永遠であるということに心に留めておいてください。
千年王国で見ようと、それに続く永遠の状態で見ようと、都にとって大きく違いはありません。
21章には、都の二度の降臨が記されています。
一つは千年王国の初めに、もう一つは永遠の状態の始まりにです。
同章の2節は永遠の状態が到来した時の降臨を、10節は千年王国における降臨を述べています。
これは、千年王国の終わりに古い天と地が消え去り、当然のことながら都も激動の場から姿を消すからだと思います。
そして、新しい地が私たちの視界に現れると、天の都は再び降りてきて、義が宿る新しい天と地に永久にその立場を占めます。
これは注目すべきことです。
なぜなら、千年王国の終わりにはすべてが変わるでしょうが、それでも天の都は永遠に存続するからです。」[28]

もし、復活したイスラエルは教会とは何も関係がありません。
、地上に存在するよう定められており、キリストや教会とそれほど親密な関係にはない、と異議を唱える人がいるならば、いくつかの点について述べてみましょう。

(1)第一の復活には、キリストにある者たち(テサロニケ人への手紙第一4章16節)だけでなく、「キリストに属する者たち」(コリント人への手紙第一15章23節)も含まれます。

「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」
(コリント人への手紙第一15章23節)

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、」
(テサロニケ人への手紙第一4章16節)


(2)救われた族長たちと「全うされた義人たちの霊」(ヘブル人への手紙12章23節)の行く末は、復活によってのみ入ることができる新しいエルサレムであると言われています。

(3)旧約聖書の聖徒たちは、王の懲罰を受けません。

(4)旧約聖書の聖徒たちは、千年王国において教会(ヨハネの黙示録3章21節)と同じ様に支配することになっています。(ヨハネの黙示録20章3節)
そして、彼らは天の都から支配することができます。
それは、地上ではなくとも、地球との関係において、また地球の領域内にあると見なされるからです。
彼らには、自由に出入りすることを妨げるような制約はありません。
したがって、千年王国の間に天の都は地上に定住することはないにしても、地上と関係を持つようになると結論付けられます。
その都に住むあらゆる時代の復活した聖徒たちは、地上の物事には適応できないとしても、永遠の状態にあり、永遠の祝福を受けます。

5.この街と永遠の関係

ケリー氏の上記の引用文に再び注目してください。
「それは、この街自体、もしくはそこに住む人々の地位に関しては、御子が御父に王国を明け渡し、永遠が始まっても、何ら変化はないということです。
街の場所は変わるかもしれませんが、住民には何の変化もありません。
この街は、地の清めの時に取り去られるかもしれませんが(ペトロの手紙一3章10節)、新しい地に戻って居住地を得ます。(ヨハネの黙示録21章2節)
しかし、その内部には何の変化もありません。
ヨハネの黙示録21章9節から22章5節が千年王国に属するのか、それとも永遠の状態に属するのかという議論を調査した結果、賛否両論の説得力ある論拠によって裏付けられた、大きく意見の分かれる点が明らかになりました。
この研究の結果、どちらか一方を選ぼうとする点が誤りであるという結論に至りました。
この箇所には、千年王国における復活者の永遠の状態が見られるという中間的な見解が、より良い見解として提案されています。
都の住人について描写されている箇所では、彼らが永遠の状態にあり、永遠の相続財産を所有し、彼らの間に幕屋を張られた神との永遠の関係にあることが理解されなければなりません。
彼らの立場や関係には何の変化もありません。
地上の住人について描写されている箇所では、彼らは千年王国にいます。
彼らは彼らの上にある天の都と確固たる関係を持ち、その光の中を歩んでいます。
しかし、彼らの立場は永遠でも不変でもなく、千年王国なのです。
主は、御自身の民のために場所を用意すると約束されました。
教会の携挙と復活の際、この世の聖徒たちは裁きと結婚の後、その用意された場所に安置されます。
彼らは、再臨の復活の時に旧約聖書の聖徒たちと合流します。
花嫁のために用意されたこの住まいは、旧約聖書の聖徒たちが仕える場所(ヨハネの黙示録22章3節)であり、聖徒たちが支配権を行使する千年王国の間、パレスチナの地の上空に留まるために空中に移されます。
これらの聖徒たちは永遠の状態にあり、都は永遠の栄光を享受します。
千年王国の終わり、地球の刷新の際、住まいは大火災の時に取り去られ、再創造の後、新しい天と新しい地をつなぐ架け橋として再びその場所を見つけます。

II.永遠の都における生活

聖書は、永遠の神の王国における生活について、どこにも詳細を述べていません。
時折、その幕が開かれ、その生活のほんの一部が垣間見えることがありますが、私たちが現在神と共に経験しているのは、その生活の「神の栄光のほんの一部」に過ぎません。

A.神との交わりの生活

「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。
今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」
(コリント人への手紙第一13章12節)

「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。
後の状態はまだ明らかにされていません。
しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。
なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」
(ヨハネの手紙第一3章2節)

「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
(ヨハネの福音書14章3節)


そして彼らは彼の顔を見るです。

「神の御顔を仰ぎ見る。」
(ヨハネの黙示録22章4節)


B.休息の人生

「また私は、天からこう言っている声を聞いた。
「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。
「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。
彼らの行ないは彼らについて行くからである。」」
(ヨハネの黙示録14章13節)


C.完全な知識に満ちた人生

「今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」
(コリント人への手紙第一13章12節)

D.神聖な人生

「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。
小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。」
(ヨハネの黙示録21章27節)


E.喜びに満ちた人生

「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。
なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」」
(ヨハネの黙示録21章4節)


F.奉仕の人生

「もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え」
(ヨハネの黙示録22章3節)


G.豊かな人生

「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」
(ヨハネの黙示録21章6節)


H.栄光の人生

「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」
(コリント人の手紙第二4章17節)

「私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。」
(コロサイ人への手紙3章4節)


I.礼拝の人生

「この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。
「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。」
(ヨハネの黙示録19章1節)

「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、
言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」」
(ヨハネの黙示録7章9~12節)


救われた人は誰も、自分の前に置かれている栄光を完全に理解することはできません。
ヨハネは、待ち望まれていた栄光をこのように要約しています。

「キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。」
(ヨハネの手紙第一3章2節)


私たちが待ち望んでいる栄光とは、私たちが主の似姿に変えられ、罪と死がなく、成長の完全さを経験することです。
ああ、キリスト!彼こそが泉なのです
深く甘い愛の井戸です!
地上の川を私は味わった、天上のもっと深い川を飲みます!
そこに、彼の哀れみは海のように広がります。
そして栄光、栄光がインマヌエルの地に宿ります。
贖われた者は、自らの栄光を経験するという期待に囚われすぎて、神性の至高の栄光を見失ってしまうという危険があります。
永遠の状態において、私たちが抱くのは、自分の地位や栄光ではなく、神御自身です。
ヨハネはこのように書いています。

「私たちは、神のありのままの姿を見るのです」(ヨハネの手紙第一3章2節)

私たちはこのように心を奪われます。

「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」
(ヨハネの黙示録1章5、6節)


そして、このように言います。

「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」」
(ヨハネの黙示録5章13節)


そして、このように歌うのです。

「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」
(ヨハネの黙示録7章12節)


なぜなら。このようなお方だからです。

「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
(ヨハネの黙示録5章12節)

花嫁は自分の衣装ではなく、愛する花婿の顔に目を留めます。
私は栄光を見つめるのではなく、恵みの王に目を向けます。
主が与えるのは冠ではなく、その刺し貫かれた手です。
小羊はイマヌエルの国の栄光そのものです。

NOTE

[1]William Kelly, Lectures on the Revelation, pp. 460-61.
[2]Ford C. Ottman, The Unfolding of the Ages, p. 458.
[3]J. N. Darby, Notes on the Apocalypse, pp. 149-50.
[4]William Kelly, The Revelation, p. 460.
[5]F. C. Jennings, Studies in Revelation, p. 588.
[6]Kelly, op. cit., p. 488.
[7]Walter Scott, Exposition of the Revelation of Jesus Christ, pp. 440-41.
[8]Ottman, op. cit., p. 472.
[9]Kelly, op. cit., pp. 459-60.
[10]Ottman, op. cit., p. 470.
[11]Kelly, op. cit., p. 481, footnote.
[12]Ottman, op. cit., p. 469.
[13]Scott, op. cit., p. 429.
[14]Kelly, op. cit., p. 489.
[15]William R. Newell, The Book of the Revelation, pp. 343-45.
[16]Kelly, op. cit., pp. 463-64.
[17]Scott, op. cit., p. 421.
[18]G. N. H. Peters, Theocratic Kingdom, III, 42-46.
[19]F. W. Grant, The Revelation of Christ, p. 227.
[20]Newell, op. cit., p. 348.
[21]Ibid., p. 352.
[22]Ibid., pp. 353-54.
[23]Jennings, op. cit., p. 566.
[24]Ibid., p. 565.
[25]Scott, op. cit., p. 429.
[26]Kelly, op. cit, p. 462.
[27]Ibid., p. 489.
[28]Ibid., p. 488. Scott says, [the church is seen] “before the reign (chap. 19:7), after the reign (chap. 21:2), during the reign (chap. 21:9).” Op. cit., p. 420.


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著者について
J.ドワイト ペンテコステ神学博士
J・ドワイト・ペンテコステは、1955年からダラス神学院の聖書解説の名誉教授です。
ハンプデン・シドニー大学とダラス神学院を卒業し、ダラス神学院から神学博士号を取得しています。
以前はフィラデルフィア聖書学院の教員を務めていました。


2025/9/17


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