メッセージAZ 2025/9/25
来たるべき君主
THE COMING PRINCE
By SIR ROBERT ANDERSON
目次
第1章:導入
第2章:ダニエルとその時代
第3章:王の夢と預言者の幻
第4章:ウライ川のほとりの幻
第5章:御使いのメッセージ
第6章:預言の年
第7章:複週の奥義の時代
第8章:「メシアの君主」
第9章:過越しの祝い(パスカル)の晩餐
第10章:預言の成就
第11章:解釈の原則
第12章:異邦人の完成
第13章:第二の山上の説教
第14章:パトモス島の幻
第15章:来たるべき君主
序文
付録
1.年表と時系列
2.その他:誰がいつ
注記A:ネヘミヤのアルタクセルクセス
注記B:降誕の日付
注記C:預言的解釈の継続的な歴史的システム
注記D:十の王国
ユダ王国史の年表
3. 回顧と返答
ユダの歴史の年代史
第1章 導入
生きている人間にとって、「生きている現在」ほど威厳のある時間は、それがどのような特徴を持つにせよ、他に類を見ることはありません。
そして、その深刻さは、世界史上類を見ない進歩の時代において、さらに深まっています。
しかし、私たちのこの時代が、厳密な意味で最後の時代であるがゆえに、比較にならないほど重大な時代という疑問が生じます。
世界の歴史は終焉を迎えようとしているのでしょうか?
運命の砂は尽き果てて、万物の崩壊は目前に迫っているのでしょうか?
誠実な思想家は、警鐘を鳴らす者の突飛な発言や、預言者らの気まぐれな言動に惑わされて、これほど深刻、かつ理にかなった探求から逸れることはありません。
「今の悪の世界」の行く末に定められた限界があることを疑うのは、不信心者だけです。
神がいつの日か善の勝利を確実にするために御力を行使されるということは、ある意味では当然のことです。。
啓示の奥義とは、神が行動を起こすことではなく、行動することを遅らせたことです。
私たちを取り巻く公的な事実から判断すると、神は地上における善と悪の不平等な闘争を無関心に黙視しているに過ぎません。
「私は再び、日の下で行なわれるいっさいのしいたげを見た。
見よ、しいたげられている者の涙を。彼らには慰める者がいない。
しいたげる者が権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。」
(伝道者の書4章1節)
天を支配する神が全能で善なる存在であるならば、どうしてこのようなことがあり得るのでしょうか?
悪徳、不敬虔、暴力、不正があらゆる場所で蔓延しているにもかかわらず、天は沈黙を守っています。
異教徒は、クリスチャンの神は神話に過ぎないという証拠として、この事実を引用します。[1]
クリスチャンは、自分が崇拝する神が忍耐強く、寛容であるというさらなる証拠をそこに見出します。「神は永遠であるがゆえに忍耐強い」、全能であるがゆえに寛容である、なぜなら怒りは力ある最後の手段だからです。
しかし、「われらの神は来て、黙ってはおられない。」(詩篇50篇3節)
これは意見の問題ではなく、信仰の問題です。
これに疑問を呈する者は、クリスチャンの名に値しません。
なぜなら、これは神の子の生と死の記録と同様に、キリスト教の本質的な真理だからです。
旧約聖書は真理に満ちています。
新約聖書の著者の中で、このことについて明確に語っていない者は一人もいません。
これは聖書に記録された最初の預言的な発言の要点であり(ユダの手紙14節)、聖書の最後の書である一章から最終章まで、この証言を確証し、さらに詳しく説明しています。
したがって、私たちが関心を寄せる唯一の問いかけは、危機の性質とそれが成就する時期に関するものです。
そして、この問いの鍵となるのは、預言者ダニエルの七十週の幻です。預言を正しく理解したからといって、預言できるようになるわけではありません。
預言が与えられた目的は、それではありません。[2]
しかし、それは研究における誤りを防ぐ十分な防御策となります。
特に、誤った預言的年表体系が信仰者を必然的に導く愚かな行いから私たちを守ってくれます。
世界の終わりが預言されたのは現代に限ったことではありません。
6世紀初頭には、大きな確信を持って待ち望まれています。
グレゴリウス1世の時代には、ヨーロッパ全土でその預言が鳴り響きました。
そして10世紀末には、その預言への懸念は一般大衆のパニックにまで達しました。
「当時、終末については頻繁に説教され、息を呑む群衆が耳を傾け、誰もが考え、誰もが話題にしていた。」
モシェイム氏はこのように述べています。
「こうした印象の下、数え切れないほどの人々が修道院や教会に財産を寄付し、パレスチナへと旅立ち、キリストが裁きのために降りてくるのを待ち望んでいます。
また、キリストの僕である者として、より軽い刑罰が下されることを期待し、教会や司祭の農奴となることを厳かに誓った者もいます。
多くの場所で、建物は将来必要のないものとして放置され、朽ち果てた。そして日食や月食の際には、人々は群れになって洞窟や岩場へと避難しました。」[3]
そして近年、次々と最大の危機の日付が自信を持って決められてきました。
しかし、それでも世界は動き続けています。
西暦581年は、この出来事が起こると最初に定められた年の一つでした。[4]
1881年は最後の年の一つです。
本書は、そのような預言の愚かさを永続させるために書かれたのではなく、そのようなあらゆる誤りから私たちを救い、それらがもたらす不名誉から学問を救うはずの預言の意味を謙虚に解明しようと努めるために書かれたものです。
この主題の重要性を強調するのに言葉は不要です。
しかし、すべての聖書が霊感によるものだと公言する人々でさえ、預言的な聖書を軽視していることは、よく知られた事実です。
この問題を最も低い次元に置けば、過去の知識が重要であるならば、未来の知識は、精神を広げ、現在を心の狭さ、かつ無知に黙想することによって生じるわずかなことを克服する上で、はるかに高い価値を持つに違いないと言えます。
神が人々に啓示を与えたのであれば、その研究は確かに熱狂的な関心を掻き立て、あらゆる才能を駆使して取り組むよう促すにふさわしいものです。
そしてこれは、特に現代において預言研究が特別な重要性を帯びるもう一つの根拠を暗示しています。
それは、預言研究が聖書の神性と起源を証しする点です。
かつての不信仰にも同様に現れています。
しかし、独自の旗印と陣営を持ち、宗教の霊的な力を知らないにもかかわらず、その教義に鈍い執着心で固執する大衆に衝撃を与えました。
しかし、現代特有の特徴として、思慮深い人々すべてに不安と恐怖を与えるのにふさわしいものがあります。
それは、宗教的懐疑主義とも呼べるものの台頭です。
啓示を否定するキリスト教、つまり、神の力を否定する神らしさと呼ぶ一つの形態の成長です。
(テモテへの手紙第二3章5節)
信仰は、神聖なものに対する人間の心の正常な態度ではありません。だからこそ、真剣に疑う者は尊敬と共感を受けるに値します。
しかし、信仰こそが本質的な特徴である宗教の聖職者を自称しながら、自らを疑う者と自称することを好む者たちには、どのような裁きが下されるのでしょうか?
現代には、聖職者制度や迷信に対する一般的な反乱に加わったからこそ、聖書への信仰が一層深く揺るぎないものとなっている人が少なからず存在しています。
そして、そのような人々は、自由な思想と信条や聖職者の束縛との闘争において、どちらかの側に立つことなど何も考えていません。
しかし、境界内の信仰と懐疑主義との闘争においては、彼らの共感はそれほど分かれていません。
一方には心の狭さがあるかもしれません。
しかし、少なくとも誠実さはあります。
そのような場合、霊的な活力と独立性を主張する前に、必ず道徳的な要素を考慮する必要があります。
さらに、そのような主張はすべて検討される必要があります。
どのようにして、どこで、どのような方法で得たとしても、自分が真理と考えるものを受け取り、教える自由を主張する人は、虚栄心や利己心で軽々しく非難されるべきではありません。
その人の動機は真実で、正しく、称賛に値するかもしれません。
しかし、もし彼が信条を受け入れているのであれば、そのような立場を取る際には慎重になるべきです。
英国教会の信条が曖昧であるという点に問題があるわけではなく、自由思想家であると豪語する人々は、自らが誓約し、補助金を受けて、守り教える教義を弱体化させるよりも、信条に署名することを拒否することで独立性を示しています。
ここにより尊敬に値する価値があります。
ここで私たちが懸念するのは、この最も微妙な段階にある合理主義が社会に活気をもたらしているという、紛れもない事実です。
大学はその主要な神学校であり、説教壇はその演壇です。
最も人気のある宗教指導者の中には、その使徒の一人もいます。
いかなる階級もその影響から逃れることはできません。
そして、もし現代社会を型として捉えることができれば、それはそれで良いことです。
しかし、私たちは下降の道を歩み始めており、それがどこへ向かっているのか見通せない者は、まさに盲目な者と言えます。
聖書の権威が揺るぎないものであるならば、重要な真理は一世代で失われ、次の世代で回復されるかもしれません。
もし、聖書の権威が揺るぎないものであれば、あらゆる真理の土台は揺るがされ、回復の力はすべて失われます。
今日のキリスト教化された懐疑論者は、やがてキリスト教化された異教徒に取って代わられます。
そして、その異教徒の弟子や後継者たちも、今度はキリスト教の輝きを一切失った異教徒となります。
確かに、逃れる者もいます。
しかし、多くの人々にとって、社会が急速に向かおうとしている目標を恐れる者にとって、ローマは唯一の避難所となります。
このように、勢力は、偽りの宗教の背教と公然たる不信仰の背教との間で将来預言されている大闘争に向けて動いているのです。[5]
聖書は神からの啓示なのでしょうか?
これは今や、あらゆる問いの中でも最大かつ最も切実な問いかけとなっています。
聖書には確かに啓示が含まれているという異論は、直ちに棄却して構いません。
聖書は、宝くじ袋と同義であり、無作為に抽選で選ばれた空白と賞品です
しかし、発見が手遅れになるまでは区別もつかないまま、引き出されるのでしょうか?
そして、この問題の現段階においては、聖書に誤って聖書の文節、あるいは書物が付け加えられた可能性があると主張するのも、同じ異論です。
私たちは、異教徒の無知と背教者の敵意をもって聖書に近づく者たちの哀れみに、聖書を明け渡すことを拒否します。
しかし、この論争の目的のためには、啓発された批評によって疑念の影が投げかけられたものはすべて排除することに同意することです。
しかし、これは真実な問題への道を開くに過ぎません。
真実な問題は、ある部分の真実ではなく、真実であると認められるものの性質と価値があります。
私たちは今や、霊感に関する対立する諸理論を議論する段階をはるかに超えています。
私たちが関心を寄せているのは、聖書が自ら主張する通り「神の預言」であるかどうかです。[6]
あらゆる面で増大する誤りと混乱と不確実性の真っ只中で、真剣で敬虔な魂は開かれた聖書を開き、そこに「永遠の命の言葉」を見出すことができるでしょうか?
「思考する心が超自然に対して抱く合理的な態度は、懐疑主義です。」[7]
理性は、いわゆる「教会の声」と呼ばれる、聖職者の口先だけの決まり文句や策略に屈するかもしれません。
しかし、それは単なる軽信に過ぎません。しかし、神が語るならば、懐疑論は信仰に取って代わられます。
これは単なる論点先取ではありません。
その声が真に神からのものであるという証明は、絶対的かつ決定的でなければなりません。
そのような状況は、懐疑論は霊的あるいは道徳的な堕落を意味しています。
信仰は理性の放棄ではなく、最高の理性の行為です。
そのような証明が不可能であると主張することは、私たちを造られた神が、神の声が神からのものだという確信を持つように私たちに語りかけることはできないと主張することと同じです。
これは懐疑、疑問ではなく、不信仰と無神論です。
神は御子を私の中に啓示することをよしとされた」た」というのが使徒パウロの改心の記述です。
彼の信仰の根拠は主観的であり、提示することは出来なかったのです。
他の者にそれらの真実性を証明するために、パウロは自身の人生における事実を訴えることしかできなかったのです。
しかし、それらは彼の確信の根拠ではなく、いかなる意味においても、またいかなる程度においても、その結果に過ぎません。
また、彼の場合も例外ではありません。使徒ペテロは、変容を含むあらゆる奇跡を目撃した三人の聖人の一人でした。
しかし、彼の信仰はそれらの奇跡の結果ではなく、彼自身への啓示から生じたものでした。
彼の告白に対して「あなたは、生ける神の御子キリストです。」とペテロは宣言しました。
「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」
(マタイの福音書16章17節)
また、これは使徒だけに与えられた特別な恩恵でもありません。
「私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ」
(ペトロの手紙第二1章1節)
これは使徒ペテロが信者全般に宛てた説教です。彼は信者を「神の言葉によって生まれ変わった」と表現しています。
使徒ヨハネも次のように語っています。
「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
(ヨハネの福音書1章13節)
この聖句は使徒ヤコブの同様の言葉です。
「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。」
(ヤコブの手紙1章18節)
これらの言葉の意味は何であれ、十分な前提から健全な結論に達する事など、十分な証拠に基づいて事実を受け入れること以上のことを意味しています。
また、これが、自然な手段によってこのように到達した真理によって自然に引き起こされた霊的、もしくは道徳的な変化に過ぎないと主張しても無駄です。
聖書の言葉は、この変化をもたらす証言の力が神の存在と働きに依存していたことを明白に示しています。
これを証明する引用文は何ページにもわたるかもしれません。
しかし、浮かび上がってくるのは2つだけです。
使徒ペテロは、彼らが福音を宣べ伝えたと宣言しています。
「天から送られた聖霊によって」(ペテロの手紙第一1章12節)
さらに、使徒パウロの言葉は明確です。
「わたしたちの福音は、言葉だけではなく、力と聖霊によってあなた方に伝えられたのです。」[8]
(テサロニケ人への手紙第一1章5節)
使徒たちから直接福音を受け取った人々にとって、このように新しい誕生とキリスト教の信仰がもたらされました。
ならば、証人たちとその証言から18世紀も隔てられた私たちにとって、それ以上のことがあっても何の役にたつことはありません。
今もなお、神はこの人々と共におられます。
そして、今も、神は昔のように人々の心に語りかけておられます。
霊感を受けた使徒たちを通してではなく、ましてや夢や幻を通してではなく、神ご自身が霊感を与えた聖書を通してです。[9]
その結果、信者は「神から生まれ」、罪の赦しと永遠の命の知識を得ます。
この現象は、証拠の研究から生じる自然なものではなく、全く超自然的なものです。
「思慮深い心」は、これを客観的に捉え、望むなら「合理的な態度」とでも言うべき態度を維持することができます。
しかし、少なくとも、ここで語られている経験の現実性を証言できる何千人もの信頼できる人々がいるという事実を認め、さらにそれが新約聖書の教えに完全に合致していることを認識すべきです。
そして、そのような人々はキリスト教の真理を先験的に証明しています。
彼らの信仰は、自らの経験による現象ではなく、啓示の偉大な客観的真理に基づいています。
しかし、これらが神の真理であるという彼らの根本的な確信は、懐疑主義が喜んで批判する「証拠」ではなく、懐疑主義が全く考慮しないことに基づいています。[10]
聖書そのものほど、聖書の代弁者として書かれた書物は他にありません。
人間の防御は人間の言葉です。
それは攻撃を撃退し、聖書の意味の一部を引き出すのに役立つかもしれません。
聖書は神の言葉であり、それを語った聖霊なる神は、聖書を通して、聖書に心を閉ざさない魂に語りかけています。[11]
しかし、それ以上に、よく教えられた信者は、聖書の中に、それが神から来たものであるという尽きることのない証拠を見出します。
聖書は神学や道徳の教科書、あるいは天国への導き手をはるかに超えるものです。
それは神が人類に与えてきた漸進的な啓示の記録であり、その啓示と関連した人類の神の歴史なのです。
無知な人は、聖書の中にヘブル民族や使徒時代の教会の宗教文献以上のものを見出せないかもしれません。
しかし、行間を読むことができる賢明な研究者は、時にははっきりとした大胆な輪郭をもって、時にはぼんやりとして、しかし、忍耐強く敬虔な探究者によって常に見分けられています。
このように、神がこの世界において、そしてこの世界のために永遠から永遠にわたって計画し、働かせてきた偉大な計画を見出すことができるのです。
預言の研究は、正しく理解すれば、これよりも狭い範囲にとどまるものではありません。
その主な価値は、「来たるべきこと」についての知識を、たとえそれが重要ではあっても、孤立した出来事として私たちにもたらすことではなく、聖書に啓示された神の偉大な目的と計画の一部として、未来と過去を結びつけることを可能にすることです。
キリストの生と死の事実は、旧約聖書が霊感によるものであることの圧倒的な証拠でした。
復活後、イエスは弟子たちの信仰を確証しようとされました。
「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされました。」
(ルカの福音書24章27節)
しかし、多くの約束が与えられ、多くの預言が記録されていました。
しかし、イスラエルの国家的滅亡とユダの背教という闇の中で、それらは失われてしまったかのようでした。
それらはすべてメシアにかかっています。
しかし、今、メシアは拒まれ、その民は異邦人が祝福を受けるために捨てられようとしています。
では、過去は永遠に消し去られ、神の地上に対する偉大な目的は人間の罪によって崩壊したと結論づけるべきでしょうか?
今、人々が啓示について判断する時、キリスト教は個人のための「救済計画」に過ぎなくなり、使徒ヨハネの福音書と数通の書簡さえ残っていれば満足することになります。
使徒パウロが示した心構えは異なっています!
使徒パウロの見解では、古の預言者たちが神の地上における目的について預言したすべての破滅と思われた危機は、それらすべての成就を含む、より広範でより栄光ある目的の扉を開くものでした。
そして、その黙想に心を奪われ、彼は叫びました。
「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。
そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」
(ローマ人への手紙11章33節)
真実な預言的研究とは、これらの計り知れない助言、神の知恵と知識の深遠な富を探求することです。
その光の下では、もはや、聖書は異質な宗教書の集大成ではありません。
調和のとれた一つの全体であり、そこからいかなる部分も省略すれば啓示の完全性が損なわれることはありません。
しかしながら、教会においてはこの研究は実際的な重要性を持たないものとして軽視されています。
もし、今、教会が懐疑主義に染まっているとすれば、この真実な、より広い側面における預言的研究を無視したことは、ドイツのあらゆる合理主義よりも悪を助長してきたと言えます。
懐疑論者は、学識のある教授や神学博士を仲間内で支持に支持していることを自慢することになります。
しかし、啓示の深遠な奥義について少しでも知り、証拠を示した者を一人でも挙げてみろと、彼らに問いかけてみるべきです。
高まる懐疑主義の波を鎮めようとする試みは絶望的です。
実際、この動きは、時代を特徴づける激しい霊的な活動の多くの側面の一つに過ぎません。
信条の支配は過ぎ去りました。
人々が先祖の教えを何の疑問もなく信じる時代は永遠に過ぎ去りました。
ローマは発展の過程において、特定の階層の人々に奇妙な魅力を放ち、合理主義も少なからぬ人々を魅了しました。
しかし、古い意味での正統性は死に絶え、もし正統性を取り戻そうとするならば、それは聖書のより深く徹底的な知識によってのみ可能となります。
これらのページは、この目的に向けたささやかな努力に過ぎません。
しかし、聖書研究の促進に少しでも役立つならば、その主な目的は達成されるはずです。
ゆえに、読者は一見取るに足らない価値に思える点においても、聖書の正確さが立証されることを期待すべきです。
ダビデがイスラエルの王位に就き、将軍を選任するにあたり、武勇や勇敢さで名を馳せた者たちを主要な指揮官に任命しました。
その最重要三人のうちの一人は、レンズ山を守り、ペリシテ人の軍勢を追い払ったと記録されています。
(サムエル記下23章11、12節)
他の人々にとっては雑草の茂みと何も変わりなく、戦う価値もないものだったかもしれません。
しかし、イスラエル人にとっては神から与えられた相続地の一部として貴重なものであり、さらには敵が拠点を奪うための結集の場として利用した可能性もありました。
聖書も同じです。それが本当に神から出たものであれば、すべては固有の価値を持っています。
さらに、攻撃され、重要ではないと思われても、私たちも永遠の命を得るために頼っている真理の鎖の環であることが証明されるはずです。
第1章 補足説明
[1]ミル氏によれば、世界の成り行きは神の力と善良さの両方が限られていることを証明しています。
彼の「宗教論」は、懐疑主義を維持することが事実上不可能な精神態度であることを明白に示しています。
ミル氏のように明晰で有能な推論者でさえ、懐疑主義は必然的に堕落した信仰へと堕落してしまいます。 「思考する精神が超自然に対して持つ理性的な態度は、懐疑主義であり、一方では信仰とは、他方では無神論とは区別される」と彼は断言しています。
すぐに、彼は信条を定式化しようとします。
それは神が存在するということではなく(それは可能性に過ぎないが)、もし神が存在するとしても、神は全能ではなく、人間に対する神の善良さには限界があることです。(Essays, etc., pp.242, 243.)
もちろん、彼は自らの信条を証明しているわけではありません。
その真実性は「思考する霊」にとって明白です。
太陽が地球の周りを回っていることも同様に明白です。
キリスト教を知らない異教徒と同じくらい天文学に無知な人でも、天空を眺めるたびに、この事実の最も明白な証拠を見つけることができます。
[2]預言は預言するために与えられたのではなく、時が来たときに神への証言として与えられたのです。」— PUSEY, Daniel, p.80.
[3]Elliott, Horae Apoc. (3rd Ed.), 1., 446: and see also ch. 3, pp.362-376
[4]Elliott, 1., 373. Hippolytus predicted A. D. 500.
[5]1878年2月号のマクミリアン誌に掲載されたゴールドウィン・スミス教授の記事から、以下の抜粋を差し控えることはできません。
「一言で言えば、神の存在と来世の否定は良心を退場させます。
そして、社会は、社会科学がその空位の座を埋めるまで、控えめに言っても危険な時期を経験することになります。
しかし、その間、人類、あるいはその一部は、政治秩序の目的のために、力による専制政治によって圧迫された利己主義の無政府状態に陥る危険にさらされることになります。」
科学と批評は、政治的努力によって勝ち取った言論の自由のおかげで、かつてないほどの自由をもって、私たちを暗く堕落させる迷信の山から解放してくれました。
私たちは、その解放者たちに心からの感謝しています。
そして、誤った信念、そしてそれに基づく権威や制度を排除することは、最終的には人類にとっての祝福以外の何物でもないと固く信じています。
しかし同時に、一般道徳の土台は必然的に揺るがされ、危機がもたらされました。
その重大さは誰もが見過ごすことはできず、唯物論の狂信者以外は、最も深刻な懸念を抱かずにはいられません。
人類史上、このような状況はかつてありません。
古代神話の衰退も、これに匹敵するものとは到底言えません。
宗教改革はとてつもない地震でした。
中世宗教の構造を揺るがし、宗教界の混乱の結果として、世界を革命と戦争で満たしました。
聖書の権威は揺るぎなく、人々の破壊の過程には限界があります。
しかし、人々は依然としてその堅固な意志が自分たちの足元に残っていると感じているかもしれません。
しかし、これらの問いかけの重要性を知的に、そして鋭く認識し、それらについて書かれたものすべてを情熱的なほど熱心に読み解く世界は、神のない存在という概念を自らに明確に提示することで、自らを危機に陥れています。[6]
「神のいろいろなおことば。(ta logia tou theou)」(ローマ人への手紙3章2節)
古代ヘブル語聖書は、神によって任命された管理者たちによってこのように扱われてきました。
ユダヤ人の中の敬虔な人々だけでなく、ヨセフスが証言しているように、すべての人々によって「正しく神聖であると信じられていた」ため、人々は聖書に反対するよりもあらゆる種類の拷問に耐え、さらには「喜んで聖書のために死ぬことさえ」選び抜きました。
(Josephus, Apion, 1., 8).
この事実は、この主題に関する主ご自身の教えと深く関連しています。
聖書のすべての言葉の神聖さと価値を信じる民と接する中で、主は彼らの信仰を確固たるものにする機会を決して逃していません。
新約聖書は、主が弟子たちにいかに惜しみなくそれを説き伏せたかを豊かに証明しています。
(聖書の聖典の期限と期限について、 Pusey, Daniel, p.294などを参考にしてください。)
[7]Mill, Essays on Religion
[8]「力と聖霊とによったからです。(alla kai en dunamei kai en pneumati agio )」(テサロニケ人への手紙第一1章5節)
これは、神と力、あるいは異なる種類の力との対比を意図したものではありません。
これが説教に伴う奇跡を指していると主張するのは、聖書を知らないことの証しです。
使徒の働き17章は、使徒が述べていた説教を表しています。
異邦人の教会に奇跡的な力が存在したことはコリント人への手紙第一12章から見ても明らかです。
問題は、それらの教会を生み出した福音が、それを確認するために奇跡を訴えたことです。
コリント人への手紙第一の最初の4章を読んで、その答えについて疑いを持つ人はいないと思います。
[9]神はどこにでも存在します。
しかし、父と子は地上ではなく天に存在しているというのは真実な表現です。
同じ意味において、聖霊も天ではなく地上に存在しています。
[10]このような信仰は救いと離すことができずに結びついており、救いは神の賜物です(エペソ人への手紙2章8節)
だからこそ、キリストは「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました」(マタイの福音書11章25節)と厳かに語られたのです。
[11]Pusey, Daniel 、 Pref.p.25。
第2章 ダニエルとその時代
「預言者ダニエル」
この名前にこれ以上の称号を持つ者はいません。
なぜなら、メシアが彼についてこのように語ったからです。
しかし、捕囚の偉大な君主であるダニエル自身は、間違いなくこの称号を否定したはずです。
イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、そして他の預言者たちは「聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」
(ペトロの手紙第二1章21節)
しかし、ダニエルはそのような「神の息吹を受けた」言葉を発したわけではありません。[1]メシア時代の「愛弟子」のように、彼は幻を見、見たものを記録しました。
七十週の大預言は、御使いが彼に伝えたメッセージであり、御使いは人間が人間に語りかけるように彼に語りかけました。
ダニエルは預言者の食事や預言者の服装を知りません。[2]
ダニエルは、東洋の宮廷のあらゆる豪華さと華やかさの中に住んでいました。
王の次に、彼は古代の最大の帝国の第一人者でした。
そして、彼がその本の後半の章に記録されている幻を受け取ったのは、長い政治的な仕事に費やした人生の終わりでした。
これらの預言を正しく理解するには、当時の政治史における主要な出来事を念頭に置くことが必要です。
イスラエルの国家的栄光の夏は、輝かしいほどに短命でした。
部族の地位を振り分ける際に、王の杖をユダの家に委ね、長子の権利をヨセフの寵愛を受けた一族に与えるという神の定めに、民は心から従うことはありません。[3]イスラエルの相互の嫉妬と確執は、ダビデの個人的な影響力とソロモンの統治の圧倒的な栄華によって抑制されていました。
しかし、レハブアムの即位とともに国家の分裂を引き起こしました。
ユダから反逆したイスラエル人は、神からも背教し、ヤハゥエへの崇拝を捨て、公然とした偶像崇拝に陥りました。
彼らの歴史に輝かしい出来事が一つもなかった2世紀半の後、彼らはアッシリアの捕囚となりました。[4]ダニエルが生まれたとき、彼らの国家が消滅してから1世紀が経過しています。
ユダは名目上の独立を保っていたものの、実際には既に完全な従属状態に陥っていました。
ナイル川とユーフラテス川の中間に位置していたユダヤの支配権は、必然的に、南の国境を越えた宿敵と、当時、天才ナボポラッサルが北で育てていた帝国にとって、ライバルの覇権の主張を試す試金石となっていました。[5]
ファラオ・ネコがカルデア侵攻に失敗したとき、彼はまだ少年でした。
その戦いにおいて、彼の親族であり君主であった善良なヨシヤ王はバビロン側につき、命を落としただけでなく、家系の運命と国の自由をさらに危うくさせました。(列王記第二23章29節、 歴代記第二35章20節)
ヨシヤの死を悼む民衆の嘆きが終わるや否や、ファラオは帰還の途上、エルサレムの前に姿を現し、国に多額の貢物を要求し、王位継承権を確定させることで自らの君主権を主張しました。
ヨシヤの次男エホアハズは父の死後王位に就きました。
しかし、ファラオによって廃位され、エルヤキムが王位に就きました。
エルヤキムは、父が彼を王位継承権から外すきっかけとなった資質によって、エジプト王に自らを推薦したに違いありません。
ファラオはエホヤキムの名をエホヤキムと改め、エジプトの臣下として王国に定着させました。
(列王記第二23章33〜35節、 歴代記第二36章3、4節)
これらの出来事から3年後、バビロンの君主ネブカドネザルは、エホヤキムは父の軍隊を率いて征服の遠征に出発し、ユダヤに入り、ユダの王に服従を要求しました。[6]
歴史には詳細が記されていない包囲の後、エホヤキムは町を占領し、王を捕虜にしました。
しかし、エホヤキムはバビロンに忠誠を誓うことで自由と王位を取り戻しました。
ネブカドネザルは神殿の聖器の一部を神の家に運んだ以外、何の戦利品も持たずに撤退しました。
また、ダニエルを含むユダの王族の若者数名を除いて捕虜は連れて行かず、彼らを属州君主として宮廷を飾るために選びました。
(列王記第二24章1節、歴代記第二36章6、7節、ダニエル書1章1、2節)3年後、エホヤキムは反乱を起こしました。
しかし、彼の治世の残りの間、彼の領土は「カルデア人の部隊」によって頻繁に侵略されたにもかかわらず、バビロンの軍隊がユダヤの征服を強化するために戻ってくるまで5年が経過しました。[7]
王位を継承したばかりの18歳の若者エホヤキンは、家族と従者と共に直ちに降伏しました。(列王記第二24章12節)
そして再びエルサレムはネブカドネザルの手に委ねられました。
ネブカドネザル、最初の侵攻では寛大な態度を示しています。
しかし、今度は覇権を主張するだけでなく、反逆者を処罰する必要がありました。
そこで彼はエルサレムからあらゆる貴重品を略奪し、「エルサレムのすべてを奪い去り」、国の最も貧しい民を除いては誰も残していません。
(列王記第二24章14節)
エホヤキンの叔父ゼデキヤは、主権者に忠誠を誓い、略奪され、人口が激減した街の王、もしくは総督として残されました。
預言者エゼキエルの時代によれば、これは「エホヤキン王の捕囚」であり、エゼキエル自身も捕囚の民の中にいます。(エゼキエル書1章2節)
バビロンへの隷属は、ヒゼキヤの時代から既に預言されていました。(列王記第二20章17節)
そして、それに関するイザヤの預言が成就した後、エレミヤは捕囚の民に希望の神のメッセージを託されました。
それは、70年が過ぎれば彼らは故郷に帰還するというものです。(エレミヤ書29章10節)
しかし、捕囚民がこのように良い約束で励まされている一方で、ゼデキヤ王と「エルサレムの地に残っていた者たち」は、バビロンのくびきに服従させる神の定めに抵抗すれば、これまで経験したことのないほど恐ろしい裁きが彼らにもたらされるという警告を受けました。
ネブカドネザルは再び彼らを「滅ぼし尽くす」ために、そして彼らの全土を「あざけりとし、永遠の廃墟とする」にするために、再び来臨しました。
(エレミヤ書24章8〜10節、25章9節、27章3〜8節)
しかし、偽預言者たちが立ち上がり、独立の早期回復を預言して国家の虚栄心を煽りました。(エレミヤ書28章1〜4節) エレミヤの深刻で度重なる警告と懇願にもかかわらず、弱く邪悪な王は彼らの証言に騙され、エジプトから軍事支援の約束を得て、公然と反乱を起こしました。(エゼキエル17章15節)
すると、カルデア軍は再びエルサレムを包囲しました。
当初、事態はゼデキヤの行動を正当化するかに見えました。
エジプト軍が急いで彼を助けに向かい、バビロニア軍は包囲を解いてユダヤから撤退せざるを得なかったからです。
(エレミヤ書37章1、5、11節)
しかし、ユダヤ人のこの一時的な勝利は、バビロン王を激怒させるだけとなり、ついにバビロンが彼らを襲った時、彼らの運命はさらに悲惨なものとなりました。
ネブカドネザルは反抗的な街と民に徹底的な懲罰を与えようと決意し、自らを帝国の全軍の指揮官に据え(列王記第二25章1、エレミヤ書34章1節)、再びユダヤに侵攻し、聖都を包囲しました。
ユダヤ人たちは、偽りの希望を呼び起こす盲目的な狂信をもって抵抗しました。
そして、18ヶ月間(列王記第二25章1〜3節)もの間、敵を寄せ付けず、ついには武力ではなく飢餓に屈したという事実は、古代エルサレムの自然の強さを現実のまま物語っています。
そして、エルサレムは火と剣に明け渡されました。
「そこで、主は、彼らのもとにカルデヤ人の王を攻め上らせた。
彼は、剣で、彼らのうちの若い男たちを、その聖所の家の中で殺した。
若い男も若い女も、年寄りも老衰の者も容赦しなかった。主は、すべての者を彼の手に渡された。
彼は、神の宮のすべての大小の器具、主の宮の財宝と、王とそのつかさたちの財宝、これらすべてをバビロンへ持ち去った。
彼らは神の宮を焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。
その高殿を全部火で燃やし、その中の宝としていた器具を一つ残らず破壊した。
彼は、剣をのがれた残りの者たちをバビロンへ捕え移した。
こうして、彼らは、ペルシヤ王国が支配権を握るまで、彼とその子たちの奴隷となった。
これは、エレミヤにより告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。
この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。」
(歴代記第二36章17〜21節)
主が荒野で40年間彼らの先祖を忍耐されたように、この最後の審判も40年間続きました。
「ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。」
(歴代記第二36章15節)
40年間、エルサレムでは預言者の声は静まることはありません。
「ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。」
(歴代記第二36章16節)[8]
これは、エルサレムの最初の破壊に関する聖なる年代記作者の記述です。
しかし、後の時代には、エルサレムが今なお、その影響に苦しんでいるあの出来事の恐ろしさに匹敵し、ユダの最大の破滅の預言が実現するこれからの時代には、さらにそれを上回ることが運命づけられています。[9]
第2章 補足説明
[1]ダニエル書の神聖な性質に対する私の信念は、これらのページを通して明白に明らかになると信じています。
ここで私が強調したいのは、人々が霊感を受けて語った預言と、ダニエルや使徒ヨハネのような、単に啓示を受けただけの預言との区別です。
これらの預言においては、彼らが受けたものを記録することから霊感が始まります。[2]これに反論するためにダニエル書1章12節を引用するのは、明らかに時代錯誤です。
さらに、ヘブル語の「豆(pulse)」という言葉は、一般的に植物性食品を指し、エサウが長子の権利を売ったほどの風味豊かな料理(創世記25章34節参考)も含まれます。
異邦人の食卓から動物性食品を食べることは律法違反にあたります。
そのため、ダニエルとその仲間たちは「菜食主義者」になったのです。
[3]ユダに長子の権利がありました。
「ユダは彼の兄弟たちにまさる者となり、君たる者も彼から出るのであるが、長子の権利はヨセフに帰したからである。」
(歴代記第一5章2節)
[4]混乱は紀元前 975年に起こり、アッシリアへの捕囚は紀元前721年頃に起こりました。
[5]紀元前625年です。
[6] ベロソスは、この遠征がナボポラッサルの存命中に行われたと主張しています。(Jos., Apion, 1. 19)
歴代記もそれを裏付けています。
これらの出来事の日付と当時の歴代について、付録Iを参考にしてください。
[7] 列王記第二24章1、2節のヨセフと一致しています。(Ant., 10. 6, Ch. 3)
ネブカドネザルは二度目の侵攻の際に、エホヤキムがまだ王位に就いているのを発見し、彼を処刑してエホヤキンを王位に就けました。
さらに、ヨセフはバビロン王がその後まもなくエホヤキンの忠誠心に疑念を抱き、再び彼を退位させ、ゼデキヤを王位に就けたと記しています。
これらの記述は列王記第二24章と完全に矛盾するわけではありません。
しかし、比較するとやや信憑性に欠けています。
ローリンソン司祭は「五人の偉大な君主(Five Great Monarchie) (vol. 3, p.491)」でこれらの記述を採用しています。
しかし、ピュージー博士は聖書の「記述 (Daniel, p.403)」に忠実に従っています。
[8]歴代記第二5章16節、この期間は、エゼキエル書4章6節に記されているユダの罪の40年間であることは間違いありません。
エレミヤはヨシヤ王の治世の13年(紀元前627年)からゼデキヤ王の治世の11年(紀元前587年)のエルサレム陥落まで預言しました。
エレミヤ書1章3節、25章3を参考にしてください。
エゼキエル書4章5節によれば、イスラエルの罪の390年は、預言者アヒヤがヤロブアムと結んだ十部族への祝福の契約の日から数えられたようです。
おそらく、崩壊の2年前、すなわち紀元前977年(列王記上11章29〜39節)に遡ると考えられます。[9]
ティトゥスによるエルサレム包囲と占領の恐怖は、歴史が記録する類似の出来事のすべてを上回っています。
自らもその目撃者であったヨセフは、その恐ろしい詳細を余すところなく記録しています。
エルサレムで命を落としたユダヤ人の数は110万人と推定されています。
「これらの前例のない恐怖に、血は凍り、心は病む。そして私たちは、歴史家が誇張しているのかも知れません。
ある種の絶望的な希望に安住しているように見えます。
「エルサレムは、まるで特異な呪いにかけられた場所のように思えるてきます。
おそらく、地上のどの場所よりも、はるかに多くの人々の悲惨を目撃してきた場所となります。」
ミルマン著「ユダヤ人歴史」(MILMAN, Hist. Jews.)
第3章 王の夢と預言者の幻
ダニエル書のヘブル語部分とカルデア語部分の違いがあります。[1]
本書は自然な区分が可能であり、全体を注意深く考察すればその重要性が明らかになります。
しかし、本稿の目的のためには、本書を最初の6章と最後の6章に分ける方が便利です。
前者は主に歴史的かつ教訓的な内容であり、後者は預言者の晩年に与えられた4つの偉大な幻の記録を含んでいます。
ここで特に注目するのは、これらの幻です。
3章、4章、5章、6章の物語は、預言と直接関係がないため、本書の範囲を超えています。
しかし、第2章は、後の幻の土台となるため、非常に重要です。[2]
ネブカドネザル王は夢の中で大きな像を見ました。
「その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、
すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。
あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。
そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。」
(ダニエル書2章32〜35節)[3]
解釈は次のようになります。
「王の王である王さま。天の神はあなたに国と権威と力と光栄とを賜い、
また人の子ら、野の獣、空の鳥がどこに住んでいても、これをことごとく治めるようにあなたの手に与えられました。
あなたはあの金の頭です。
あなたの後に、あなたより劣るもう一つの国が起こります。
次に青銅の第三の国が起こって、全土を治めるようになります。
第四の国は鉄のように強い国です。鉄はすべてのものを打ち砕いて粉々にするからです。その国は鉄が打ち砕くように、先の国々を粉々に打ち砕いてしまいます。
あなたがご覧になった足と足の指は、その一部が陶器師の粘土、一部が鉄でしたが、それは分裂した国のことです。
その国には鉄の強さがあるでしょうが、あなたがご覧になったように、その鉄はどろどろの粘土と混じり合っているのです。
その足の指が一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。
鉄とどろどろの粘土が混じり合っているのをあなたがご覧になったように、それらは人間の種によって、互いに混じり合うでしょう。
しかし鉄が粘土と混じり合わないように、それらが互いに団結することはありません。
この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。
その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。
しかし、この国は永遠に立ち続けます。
あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。
その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」
(ダニエル書2章37〜45節)
預言されたユダの主権は、イスラエルの各部族間の単なる覇権の枠をはるかに超えています。
それはダビデの子に託された皇帝の笏でした。
「わたしもまた、彼をわたしの長子とし、地の王たちのうちの最も高い者としよう。」
(詩篇89篇27節)
「こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。」
(詩篇72篇11節)
ソロモンが受け継いだ約束はまさにこれです。
ソロモンの統治の栄光は束の間でした。
もし、彼が愚かな行いに走らず、現世の官能的な快楽と引き換えに、かつて人間に開かれた最も輝かしい展望を手放さなかったならば、それらの約束がどれほど完全に実現されたことを証明しています。(歴代記第二9章22〜28節)
ネブカドネザルの巨大な像の夢と、その夢を解き明かしたダニエルの幻は、ダビデ家の失われた王の笏が異邦人の手に渡り、「天の神が永遠に滅びることのない王国を建てる」日まで異邦人の手に留まるという神の啓示でした。(ダニエル書2章44節)
この預言の前半部分についてここで詳しく論じる必要はありません。
実際、その全体的な性質と範囲については議論の余地がありません。
そして、疑わしいものと疑わしいものの区別を念頭に置けば、そこに記されているバビロニア、ペルシャ、ギリシャ、ローマといった帝国の正体についても議論の余地はありません。
最初の帝国がネブカドネザルの王国であったことは明確に述べられています。
(ダニエル書2章37、38節)
後の幻では、メディア・ペルシャ帝国とアレクサンドロス帝国が預言の範囲内の別個の「王国」として明確に挙げられています。
(ダニエル書8章20、21節)
したがって、第四の帝国は必然的にローマでなければなりません。
しかし、ここで強調したいのは、捕囚中のダニエルとエルサレムの混乱の最中のエレミヤに最も明白に示された事実、すなわち、ユダによって失われた地球の主権です。
しかし、このようにして異邦人に厳かに委ねられたという事実です。[4]生じる疑問は、第一に、像の崩壊と破壊によって象徴される最終的な破滅の性質、そして第二に、それが成就する時期に関するものだけです。
そして、提起されたいかなる難問も、預言の言語には全く依存せず、解釈者たちの先入観にのみ依存しています。
「人手によらずに切り出された石」がキリストご自身、あるいはその王国の予兆であったことに、クリスチャンならば疑いを持ちません。
この破滅は、第四の帝国が分裂し「一部は強く、一部はもろい」状態になった時に起こることも同様に明らかです。
したがって、その成就は最初の降臨の時期には属し得ません。
また、その成就は突然の危機であり、その後に「永遠に滅ぼされることがない王国」が樹立されることも、同様に明らかです。
したがって、それはこれから起こる出来事に関係しています。
ここで私たちが扱っているのは、預言的な理論ではなく、単純な言葉の意味です。
そして預言が預言しているのは、地上の王国の中に「霊的な王国」が起こり広がることではありません。
「これらすべての王国を打ち砕き、滅ぼす」王国が樹立されることです。[5]
王の夢の解釈により、捕囚の身であったベルシャザルは一躍バビロンの大宰相の地位に就きました。(ダニエル書2章48節)
これは信頼と名誉に満ちた地位であり、おそらくネブカドネザルの王位を継承した最後の二人の王のどちらかによって解任されるか、その職を退くまで保持していたと思われます。
ベルシャザルの祝宴の運命の夜の情景は、当時、彼がすでに長い間、隠遁生活を送っていたため、若い摂政ベルシャザルは彼の名声を全く知らなかったことを暗示しています。[6]
しかし、彼の名声は年長者の間で依然として非常に高く、衰えていたにもかかわらず、メディア王ダリヨスが城壁の高い街の支配者になったとき、再び彼は最高職に召し上げられました。[7]
しかし、繁栄の時も隠遁の時も、彼は父祖の神に忠実でした。
エルサレムで過ごした幼少期は、政治的には暗く混乱に満ちていたものの、ダニエルの国がかつてないほど輝かしい霊的復興を遂げた時代でありました。
ダニエルはネブカドネザルの宮廷へと、当時の世に蔓延するあらゆる逆境に耐え抜く信仰と敬虔さを携えて行きました。[8]
2章のダニエルは、まだ誰も知ることのない並外れた威厳と権力を帯びたキャリアを歩み始めたばかりの若者でした。
7章のダニエルは年老いた聖人であり、無傷で試練を乗り越え、約60年前に捕虜となり友人もいない異邦人として城壁の厚い街の門をくぐった時と変わらず、神と民に対する誠実な心を持ち続けていました。
最初の幻の日付はエホヤキムの反乱の頃で、人種と信条に対する抑えきれない傲慢さから、ユダヤ人は依然として独立を夢見ていました。
後の幻の時点では、エルサレムが廃墟と化してから40年以上が経過し、ダビデ家の最後の王が鎖につながれてバビロンの青銅の門をくぐった後でした。
ここでも預言の主要な概要は明らかです。
「異邦人の時代」に次々と主権を行使する運命にあった四つの帝国です。
ネブカドネザルの夢では大きな像が4つの部分に分かれていました。
しかし、ここでは4匹の野獣によって象徴されています。[9]2章の像の十本の足指は、第七章の第四の獣の十本の角と対応しています。
第四の帝国の性格と進路は、後の幻の主要な主題です。
しかし、両方の預言は、その最終段階において、地上における神の力の出現によって、この帝国が劇的かつ突然の終焉を迎えることを明確に示しています。
幻の詳細は興味深く重要なものです。
しかし、ここでは無視して構いません。
なぜなら、その解釈は非常に単純かつ明確であり、偏見のない心であれば、その言葉に疑いの余地はないからです。
「これら四頭の大きな獣は、地から起こる四人の王である。
いと高き方の聖徒たちが、国を受け継ぎ、永遠に、その国を保って世々限りなく続く。」
(ダニエル書7章17、18節)
その後、預言者は幻を要約し、その言葉は、今、引用した言葉から当然生じる唯一の疑問、すなわち「聖徒の王国」が第四の異邦人の帝国の終焉直後に続くかどうかという疑問に明確な答えを与えています。[10]
彼はさらにこのように付け加えています。
「それから私は、第四の獣について確かめたいと思った。
それは、ほかのすべての獣と異なっていて、非常に恐ろしく、きばは鉄、爪は青銅であって、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。
その頭には十本の角があり、もう一本の角が出て来て、そのために三本の角が倒れた。
その角には目があり、大きなことを語る口があった。その角はほかの角よりも大きく見えた。
私が見ていると、その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った。
しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行なわれ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。
彼はこう言った。「第四の獣は地に起こる第四の国。
これは、ほかのすべての国と異なり、全土を食い尽くし、これを踏みつけ、かみ砕く。
十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もうひとりの王が立つ。
彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。
彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。
彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。
しかし、さばきが行なわれ、彼の主権は奪われて、彼は永久に絶やされ、滅ぼされる。
国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。
その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。」」
(ダニエル書7章19〜27節)[11]
この預言の範囲内に該当する出来事が歴史に記録されているかどうかは意見の分かれるところです。
しかし、それが成就していないことは明白な事実です。[12]
ローマ帝国は、ある日、10の独立した王国に分割されます。
そのうちの1つから神とその民の恐ろしい敵が出現します。
その敵の滅亡は、キリストの再臨の出来事の1つとなります。
第3章 補足説明
[1]「ダニエル書のカルデア語部分は2章4節から始まり、7章の終わりまで続きます。」(TREGELLES, Daniel, p.8.)
[2]ダニエル書に関する以下の分析は、その研究に役立つかもしれません。
1章エルサレムの占領。ダニエルとその三人の仲間の捕囚、そしてバビロンでの彼らの運命(紀元前606年)
2章ネブカドネザルの大いなる像の夢。 (紀元前 603〜2年)
3章。ネブカドネザルはすべての臣民が崇拝するために金の像を建てる。ダニエルの三人の仲間は燃え盛る炉に投げ込まれる。
4章ネブカドネザルが自身の狂気について見た夢と、ダニエルによるその解釈。そして、その成就。
5章ベルシャザルの祝宴。メディア人ダリヨスによるバビロンの占領。(紀元前538年)
6章ダニエルはダリヨスに昇進します。
しかし、彼を崇拝することを拒否し、ライオンの穴に投げ込まれます。彼の救出とその後の繁栄。(紀元前537年頃)
7章ダニエルの四つの獣の幻。(紀元前541年頃?)
8章ダニエルの羊と山羊の幻。(紀元前539年頃)
9章ダニエルの祈り、七十週の預言。(紀元前538年)
10章〜12章ダニエルの最後の幻。(紀元前534年)
[3]この幻の日付(ネブカドネザル王の治世第2年)に関連する困難は、付録1で考察されています。
[4]ダニエル書2章38節、エレミヤ書27章6、7節を参考にしてください。。
創世記49章10節の記述は、一見すると「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。」と矛盾しているように見えるかもしれません。
しかし、出来事が証明するように、これはキリストが来られるまでユダの家が王権を行使することを意味するものではありません。
ヘングステンベルクはこれを正しく解釈しています。(Christology, Arnold's trans., Ch. 78)
「ユダは、偉大なる贖い主によって、より高い名誉と栄光に高められるまで、部族として存在し続けることも、その優位性を失うこともありません。
贖い主はユダから生まれ、ユダヤ人だけでなく、地上のすべての国々が従うのです。」
彼が指摘するように、 「まで」とはその後までを意味しています。 (例:創世記28章15節を参考にしてください。) したがって、この預言の意味は、ユダがキリストの時まで王権を行使し、その後、王権を失うということではありません。
しかし、ユダの卓越性はキリストにおいて取り消し不能に確立されることです。
実際に、これはダニエルが預言している王国に存在しています。
[5]そのような預言が実現すると信じることは狂信と愚かな行いの表れのように思えるかもしれません。
しかし、少なくとも聖書の言葉を受け入れ、預言者が預言したはずだと人々が推測することに基づいた理論の実現を期待するという盲目的な不合理に陥らないように注意すべきです。
[6]これはダニエル書5章10〜12節にある王母の言葉から分かります。
しかし、8章27節には、ダニエルが当時すでに宮廷で何らかの役職に就いていたことが示されています。
[7]ダニエル6章1、2節ではダニエルはこの時80歳未満ではなかったはずです。(年代表、付録1を参考にしてください。)
[8]ダニエルがネブカドネザル王の治世第2年に帝国の長に就いた時、21歳未満だったとは考えられません。
彼の生涯の年齢から判断すると、21歳以上であった可能性も同様にありえません。
したがって、ダニエルの誕生は、前述の通り、ナボポラッサルの治世である紀元前625年頃となります。
その約3年後にはヨシヤの過越祭が行われました。
これはサムエルの時代以来、イスラエルで行われたことのない過越の祭でした。(歴代記第二35章18、19節)
[9]以下はダニエル書7章2〜14節に記録されている幻です。
「ダニエルは言った。「私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、
四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた。
第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。
見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた。
また突然、熊に似たほかの第二の獣が現われた。その獣は横ざまに寝ていて、その口のきばの間には三本の肋骨があった。
するとそれに、「起き上がって、多くの肉を食らえ。」との声がかかった。
この後、見ていると、また突然、ひょうのようなほかの獣が現われた。
その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。
その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現われた。それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは前に現われたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。
私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。
よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。
私が見ていると、幾つかの御座が備えられ、年を経た方が座に着かれた。
その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、
火の流れがこの方の前から流れ出ていた。幾千のものがこの方に仕え、幾万のものがその前に立っていた。
さばく方が座に着き、幾つかの文書が開かれた。
私は、あの角が語る大きなことばの声がするので、見ていると、そのとき、その獣は殺され、からだはそこなわれて、燃える火に投げ込まれるのを見た。
残りの獣は、主権を奪われたが、いのちはその時と季節まで延ばされた。
私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。
その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」
(ダニエル書7章2〜14節)
[10]一部の著述家は、これらの幻を「四つの王国」をバビロニア、メディア、ペルシア、ギリシャに適用させる解釈を主張しています。
ウェストコット教授の名で特定されているこの見解は「演説者の論評(The Speaker's Commentary)」の偽作として、混同されてきた他の見解と区別するためにだけ注目されるべきことを主張しています。
(Vol. 6., p.333, Excursus on the Four Kingdoms)
「オルド・サエクロルム(Ordo Saeclorum )」 (Ch. 616, etc.)の学識ある著者は「「ラクンザ(Lacunza)」(Ben Ezra)」の後を継いだ「メイトランド(Maitland)」の言葉を引用し、メディウス王ダリヨスのバビロン王位継承は帝国の変化を伴わなかったと主張しています。
この見解によれば、王国は、1番目にペルシアを含むバビロン、2番目にギリシャ、3番目にローマ、4番目に最後の日に起こる未来の王国となります。
既に述べたように(p.32, ante)、ダニエル書は預言の範囲内でバビロン、メディア・ペルシャ、ギリシャを「王国」として明確に区別しています。
[11]ダニエル書7章19〜27節の幻、(Pusey, Daniel, pp.78, 79)を参考にしてください。
[12]ローマ帝国の崩壊時、あるいは崩壊後のヨーロッパの状態です。
それは、その成就として訴えられてきました。
しかし、アウグストゥスの統治領がアジアとアフリカの相当な地域を含んでいたという事実は無視されています。
しかし、それだけではありません。過去にそのような預言が部分的に成就した例が見つかってもおかしくありません。
しかし、論争の中で65の「王国」を含む28もの異なるリストが提示されたという事実は、そのような成就の証拠がいかに無価値であるかを物語っています。
実際、歴史解釈学派は、他の多くの点と同様に、この点においても、彼らの体系全体に対する信用を失墜させてきました。その体系には、注目すべき点が数多く含まれているからです。
付録2、ノートCを参考にしてください。
第4章 ウライ川のほとりの幻
「異邦人の時代」、キリストご自身が異邦人優位の時代をこのように描写されました。
人々は地球を自らの領土とみなすようになり、神が自分たちの事柄に干渉することを嫌うようになりました。
しかし、君主は王位を王権、剣、あるいは選挙によって得ているように見えます。
そして、君主個人の地位においては、その称号はこれらの力のみに基づいているのかもしれません。
彼らが行使する権力は神から委任されたものです。
「いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになる」
(ダニエル書4章25節)
この高い特権を行使して、イエスはダビデの家に託していた王の杖を取り戻し、それを異邦人の手に移しました。
そして、その王の杖の時代から異邦人の時代の終わりまでの全期間にわたる歴史は、預言者の初期の幻の主題です。
ダニエル書8章の幻は、より狭い範囲を扱っています。
それは、2章の像の中央部分、つまり腕と体で表された二つの王国のみを扱っています。
メディア・ペルシャ帝国と、若い方の国の相対的な優位性は、二本の角を持つ雄羊で表されています。
角の一本は、最後に生えたにもかかわらず、もう一本よりも高くなっています。
そして、アレクサンドロス大王によるギリシャ帝国の繁栄と、それに続く4人の後継者による分裂は、目の間に一本の角を持つ雄羊で象徴されています。
その角は折れ、代わりに四本の角が生えました。これらの角の一本から小さな角が生えました。
それは、神を冒涜し、神の民を迫害する者として悪名高い王を象徴しています。
アンティオコス・エピファネスの生涯
しかし、この預言の特別な意味と範囲に含まれていたことは疑いようもありません。
その最終的な成就は未来の出来事であることは、一般的にはそれほど認められていないものの、それでも十分に明らかです。
その証拠は二つあります。
第一に、その最も印象的な細部が全く未だに成就していないことを認識するしかありません。[1]第二に、ここで述べられている出来事は「終わりの憤りの時」(ダニエル書8章19節)であると明確に述べられており、それは終わりの日の「大患難」(マタイの福音書24章21節)であり、ユダの完全な解放の直前の「苦難の時」です。[2]
しかしながら、そのような議論によってこのページの主題をさらに混乱させる必要はありません。
本稿の直接的な関心事に関して言えば、この雄羊と雄やぎの幻は、主にそれに先立つ幻を説明するものとして重要です。[3]
第四の異邦人王国の預言との対照的な点が一つあり、非常に強調して述べられる必要があります。
アレクサンドロス大王の統治とそれに続く帝国の四分割の幻は、一連の出来事の急速な展開と、イッソスの戦いとイプソスの戦いの間の33年間の歴史を暗示している[4]。 預言の完全な実現は、この預言の完全な実現を含んでいます。
しかし、7章の幻における第四の獣の十本の角の出現は、8章の雄やぎの四本の角の出現と同じくらい短い期間に起こるように思われます。
一方、歴史の頁を見れば、ローマ帝国のこの十分割が未だかつて起こっていないことは明白です。
預言における最初の三つの王国の到来には明確な日付を割り当てることができます。
そして、アクティウムの海戦の日付を、預言者の幻の終盤の場面を埋め尽くした混血の怪物の時代とみなすならば(そして、それより後の日付を割り当てることはないだろう)、預言を解釈する際に、アウグストゥスの時代から現在までの世界の歴史を除外しても、幻の順序は失われないことになります。[5]
言い換えれば、預言者の未来への視線は、この19世紀という私たちの時代を完全に見過ごしています。
地平線上に連なる山々が一緒に立っており、広大な河川や野原や丘陵を挟んでいても、まるで触れ合っているかのようにそびえ立つように、預言者の幻には、今は遠い昔、そして、まだ未来の出来事が浮かび上がっています。
新約聖書を手にした今、クリスチャンの時代のこの長い期間をダニエルの預言の空白に残した意図を疑うことは、奇妙で故意の無知を露呈することになります。
9章のより明確な啓示は、メシアの最初の出現以前の年数を示しています。
しかし、もしこの19世紀が、約束された王国が到来する前に介入する期間として、年表に加えられていたとしたら、どうして主は、これらの預言がほぼ成就したことの証しを取り上げ、王国が近づいたと宣言されたのでしょうか?[6]
すべての人の心を知る神は、その結果をよく知っていました。
しかし、その宣言が厳密な意味で本物で真実ではなかったという考えは不敬虔です。
もし預言が、その約束が実現される前にイスラエルが拒まれる長い期間を預言をしていたら、それはまやかしで真実ではありません。
それゆえ、旧約聖書においてキリストの二度の降臨は一目見るのであれば同時に描かれているように見えます。
人間の責任と罪悪という表面的な流れは、神の予知と主権という不変かつ深淵な潮流によって揺るぐことはありません。
長らく約束されていた王であり救い主を拒んだ者たちの責任は現実のものであり、彼らの罪悪には言い訳の余地はありません。
彼らは、彼らを破滅へと引きずり込む容赦ない運命の犠牲者ではなく、自らの自由を活用して栄光の主を十字架につけた自由な行為者です。
「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」(マタイの福音書27章25節)と、ピラトの裁きの座の前で彼らは恐ろしく不敬虔な叫びを上げ、18世紀にわたって彼らに裁きが下されました。
「国が建国されて以来かつてなかったような苦難の時代」[7]の到来とともに、その恐るべき頂点に達しました。
これらの幻はダニエルにとって謎に満ち、老預言者の心を不安で満たしました。(ダニエル書7章28節、 8章27節)
約束された祝福が国民に実現するまでには、長い道のりが待ち受けているように思われます。
しかし、まさにこれらの啓示によって、それらの祝福はさらに確実なものとなりました。
間もなくダニエルはバビロニアの勢力が崩壊し、城壁の厚い街に異邦人が即位するのを目撃します。
しかし、この変化はユダに希望をもたらしません。
ダニエルは確かに、ネブカドネザルの治世下で長らく保持していた権力と威厳の地位に復帰しました。
(ダニエル書2章48節、 6章2節)
しかし、ダニエルは依然として亡命者であり、民は捕囚され、街は廃墟と化し、国土は荒野となっています。
そして、エレミヤの預言に目を向けると、その奥義はますます深まりばかりです。
預言は「エルサレムの荒廃」の時代を70年と定めていました。(ダニエル書9章2節)
そこでダニエルは「顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求め」、神に身を委ねました。
民の中の君主として、彼らは国家の背教を告白し、彼らの回復と赦しを懇願しました。
この祈りを読んで心を動かされない人がいるでしょうか?
「主よ。あなたのすべての正義のみわざによって、どうか御怒りと憤りを、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山からおさめてください。
私たちの罪と私たちの先祖たちの悪のために、エルサレムとあなたの民が、私たちを取り囲むすべての者のそしりとなっているからです。
私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、主ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。
私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。
私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。
主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行なってください。
私の神よ。あなたご自身のために遅らせないでください。あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです。」
(ダニエル書9章16〜19節)
ダニエルがこのように「祈りを唱えて」いると、ガブリエルが再び彼の前に現れました。(ダニエル書9章21節、8章16節参考)
ガブリエルは、後にベツレヘムでの救世主の誕生を告げた同じ御使いの使者です。
彼はダニエル祈りに応えて、預言者に七十週の偉大な預言を伝えたのです。
第4章 補足説明
[1]私は14節の2,300日と、8章25節の「君の君に向かって立ち上がる。しかし、人手によらずに、彼は砕かれる」という言葉について述べています。
[2]つまり、ユダヤ人です。
「国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。」
(ダニエル書12章1節)
[3]8章の幻は次のとおりです。
「私は一つの幻を見たが、見ていると、私がエラム州にあるシュシャンの城にいた。
なお幻を見ていると、私はウライ川のほとりにいた。
私が目を上げて見ると、なんと一頭の雄羊が川岸に立っていた。
それには二本の角があって、この二本の角は長かったが、一つはほかの角よりも長かった。その長いほうは、あとに出て来たのであった。
私はその雄羊が、西や、北や、南のほうへ突き進んでいるのを見た。
どんな獣もそれに立ち向かうことができず、また、その手から救い出すことのできるものもいなかった。
それは思いのままにふるまって、高ぶっていた。
私が注意して見ていると、見よ、一頭の雄やぎが、地には触れずに、全土を飛び回って、西からやって来た。
その雄やぎには、目と目の間に、著しく目だつ一本の角があった。
この雄やぎは、川岸に立っているのを私が見たあの二本の角を持つ雄羊に向かって来て、勢い激しく、これに走り寄った。
見ていると、これは雄羊に近づき、怒り狂って、この雄羊を打ち殺し、その二本の角をへし折ったが、雄羊には、これに立ち向かう力がなかった。雄やぎは雄羊を地に打ち倒し、踏みにじった。雄羊を雄やぎの手から救い出すものは、いなかった。
この雄やぎは、非常に高ぶったが、その強くなったときに、あの大きな角が折れた。
そしてその代わりに、天の四方に向かって、著しく目だつ四本の角が生え出た。
そのうちの一本の角から、また一本の小さな角が芽を出して、南と、東と、麗しい国とに向かって、非常に大きくなっていった。
それは大きくなって、天の軍勢に達し、星の軍勢のうちの幾つかを地に落として、これを踏みにじり、
軍勢の長にまでのし上がった。それによって、常供のささげ物は取り上げられ、その聖所の基はくつがえされます。
軍勢は渡され、常供のささげ物に代えてそむきの罪がささげられた。
その角は真理を地に投げ捨て、ほしいままにふるまって、それを成し遂げた。
私は、ひとりの聖なる者が語っているのを聞いた。すると、もうひとりの聖なる者が、その語っている者に言った。「常供のささげ物や、あの荒らす者のするそむきの罪、および、聖所と軍勢が踏みにじられるという幻は、いつまでのことだろう。」
すると彼は答えて言った。「二千三百の夕と朝が過ぎるまで。そのとき聖所はその権利を取り戻す。」
私、ダニエルは、この幻を見ていて、その意味を悟りたいと願っていた。
ちょうどそのとき、人間のように見える者が私の前に立った。
私は、ウライ川の中ほどから、「ガブリエルよ。この人に、その幻を悟らせよ。」と呼びかけて言っている人の声を聞いた。
彼は私の立っている所に来た。彼が来たとき、私は恐れて、ひれ伏した。
すると彼は私に言った。「悟れ。人の子よ。その幻は、終わりの時のことである。」
彼が私に語りかけたとき、私は意識を失って、地に倒れた。
しかし、彼は私に手をかけて、その場に立ち上がらせ、
そして言った。「見よ。私は、終わりの憤りの時に起こることを、あなたに知らせる。
それは、終わりの定めの時にかかわるからだ。
あなたが見た雄羊の持つあの二本の角は、メディヤとペルシヤの王である。
毛深い雄やぎはギリシヤの王であって、その目と目の間にある大きな角は、その第一の王である。
その角が折れて、代わりに四本の角が生えたが、それは、その国から四つの国が起こることである。
しかし、第一の王のような勢力はない。
彼らの治世の終わりに、彼らのそむきが窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ。
彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。
彼は、あきれ果てるような破壊を行ない、事をなして成功し、有力者たちと聖徒の民を滅ぼす。
彼は悪巧みによって欺きをその手で成功させ、心は高ぶり、不意に多くの人を滅ぼし、君の君に向かって立ち上がる。
しかし、人手によらずに、彼は砕かれる。
先に告げられた夕と朝の幻、それは真実である。しかし、あなたはこの幻を秘めておけ。
これはまだ、多くの日の後のことだから。」」
(ダニエル書8章2〜26節)
[4]アレクサンドロスがパレスチナを支配したのは、前年のグラニコスの戦いの勝利ではなく、紀元前333年のイッソスの戦いです。
ペルシア帝国を滅ぼした決定的な戦いは、紀元前331年のアルベラの戦いでした。
アレクサンドロスは紀元前323年に死去し、彼の領土は4人の将軍に明確に分配されました。
この分割において、セレウコスの領土にはシリア(「北の王」)が含まれ、プトレマイオスは聖地とエジプト(「南の王」)を支配しました。
しかし、パレスチナは後にセレウコス家によって征服され、支配されました。
カッサンドロスはマケドニアとギリシャを、リュシマコスはビテュニアの一部であるトラキアと、これらとメアンダース川の間の地域を支配しました。
[5]同じことが2章の幻にも適用されます。
、ローマ帝国の勃興、将来の分裂、そして最終的な破滅が1つの視点で提示されています。
[6]すなわち、ダニエルが預言した王国です。
「(Pusey, Daniel, p.84.)」を参考にしてください。
[7]ダニエル書12章1節、 マタイの福音書24章21節について。
ユダヤ人がキリストを受け入れていたら、その後の出来事はどうなっていただろうかと議論するのは、単なる軽率な行為に過ぎません。
しかし、ローマ帝国の十分割と「小さな角」の台頭がまず起こらなければならないことを考えるならば、預言に精通したユダヤ人がどのようにして神の国を期待できたのか?という質問は正しいものです。
アレクサンドロス大王の死後、ギリシャ帝国がいかに突如として分裂したかを考えれば、この難問は消え去ります。
同様に、ティベリウスの死はローマの領土の即時的な分裂と、預言されていた迫害者の台頭をもたらしたのです。
一言で言えば、ダニエルの預言で成就しなかったことはすべて、まだ続いていた七十週の期間に成就したのかもしれません。
第5章 御使いのメッセージ
「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。
それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。[1]
それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから[2]、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。
やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、[3]半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。
ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」」
(ダニエル書9章24〜27節)
これは、ユダとエルサレムへの哀れみを求める預言者の祈りに応えて御使いに託されたメッセージです。
誰にこの発言の解釈を求めるべきでしょうか?
ユダヤ人に求めるべきではありません。
なぜなら、彼ら自身が預言の主体であり、その意味に最も深い関心を持つ人々であっても、キリストを拒むのにあたり、歴史だけでなく自らの聖書をも偽造しなければならないからです。
また、預言理論を擁護しようとする神学者にも求めるべきではありません。
彼らは、イスラエルの歴史の中に70の7倍の時代を発見しただけで、問題を解決したと結論づけます。
しかし、この驚くべき民族の奇妙な歴史は、その全過程を通して70年とその倍数の年代周期によって特徴づけられているという事実を無視しています。
しかし、偏見のない心を持つ人であれば、聖書そのものと当時の歴史によって与えられる注釈以外の何の注釈もなしにこの言葉を読むなら、いくつかの主要な点において、その意味が明白であることを容易に認めることができます。
1.こうして、ユダヤ人に約束された祝福の完全な報いは、「77」と呼ばれる期間の終わりまで延期され、その後ダニエルの町と人々は 最も完全な祝福が確立されなければなりません。[4]
2.七週と六十二週で構成される別の期間も同様に確実に指定されます。
3.この第二の時代は、エルサレムを再建せよという勅令が出されたことに始まります。
神殿ではなく、街を再建せよという勅令です。
なぜなら、疑いの余地をなくすために言えば、「広場とほり(the street and wall)」が強調して述べられています。[5]
メシアの拒絶として描写されている明確な出来事がこの終わりを示しています。
4.六十九週の後にある、七十週を完了するために必要な週の始まりは、「来たるべき君主」と表現される人物による契約、もしくは条約の締結によって示されています。
その人物は週の半ばにユダヤ人の宗教を弾圧することによってその契約を破ることになります。[6]
5.それゆえ、七十週という完全な時代と、六十九週というより短い期間とは、同じ時代から始まります。[7]
したがって、最初に生じる疑問は、その時代の始まりを間違いなく示す出来事が歴史に記録されているかです。
クリスチャンとユダヤ教徒の両方の著述家の中には、七十週は預言の日付であるダリヨス帝の治世元年に始まったと仮定する者がいます。
こうして、まさに調査の入り口で絶望的な誤りに陥り、彼らの結論はすべて必然的に誤りとなります。
御使いの言葉は明白です。
「エルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間」です。
エルサレムが実際に要塞の街として再建されたことは、確かであり、疑いの余地はありません。
唯一の疑問は、歴史がその再建に関する勅令を記録しているかどうかです。
エズラ記に目を向けると、ペルシャ王による三つの勅令が注目に値します。
冒頭の節は、クロスが神殿建設を認可した奇妙な勅令について述べています。
しかし、ここで「イスラエルの神、主の宮」があまりにも明確に限定的に指定されているので、ダニエル書の言葉とは完全に矛盾しています。
実際、その勅令の日付は、それが七十週の始まりではなかったことを決定的に証明しています。
七十年はバビロンへの隷属期間として定められた期間でした。
(エレミヤ書27章6〜17節、28章10節、29章10節)
しかし、ゼデキヤの治世には、七十年間の「荒廃」という別の裁きが下されました。[8]
不服従と反逆が続いたためです。
隷属の期間と「荒廃」の期間の間には17年の期間があったため、第二の期間は第一の期間と17年重なっていました。
隷属はクロスの勅令によって終結しました。
荒廃はダリヨス・ヒュスタスペスの治世第二年まで続きました。[9]
それは荒廃の時代であり、ダニエルが考えていた奴隷の時代ではありません。[10]
クロスの勅令は、エレミヤ書第29章で捕囚民に与えられた約束を神が成就させたものです。
ゆえに、その約束に従って、捕囚民はパレスチナに帰還する完全な自由を与えられました。
しかし、荒廃の時代が終わるまで、モリヤ山の石を一つも積み重ねることは許されません。
そして、これは、権力の絶頂期に熱心な使者たちに与えられた神殿建設の勅令です。
しかし、クロスの死まで保留されたという、一見不可解な事実を説明しています。
なぜなら、少数の反抗的なサマリア人がいるからです。
しかし、東方の暴君によって発せられた最も深刻な勅令の執行を妨害することを許されたからです。
この勅令は、神の認可によってメディア・ペルシャ王の不変の意志が確証されたかのようでした。[11]
荒廃の年月が過ぎ去ると、聖所建設の神の命令が発布され、ユダヤ人はその命令に従い、首都の許可を待つことなく、長らく妨げられていた建設作業に復帰しました。(エズラ記5章1、2、5節)
ダリヨスをペルシアの王位に導いた政治的興奮の波は、マギの偶像崇拝に対する宗教的熱狂によってさらに高まりました。[12]イスラエル人にとって、それは吉兆です。
イスラエル人のヤハゥエへの崇拝はゾロアスター教徒の同情を集めていたからです。
エルサレムにおける彼らの扇動的な行動の知らせが宮殿に届くと、ダリヨスはクロスのバビロニア文書を調べ、前任者の布告を発見し、自らのために布告を発しました。(エズラ記6章)
そしてこれが七十週の始まりとなる可能性のある2番目の出来事です。[13]
ダリヨスはバビロニアのクロスの文書を探し、前任者の命令を見つけて、その命令を実行するために自分に代わって役人を派遣しました。
しかし、ダリヨスの行為が独立した勅令であるとみなされたり、クロスの勅令に実際的な効果を与えたとみなされたりして、それが預言的な新しい時代であることを証明するために、もっともらしい議論が駆り立てられているかもしれません。
しかし、その答えは、天使の言葉を満足させるものではないということは、明確です。
どう説明しても、「荒廃」は成し遂げられたものの、王の勅令の範囲も、その勅令に従ったユダヤ人の行動も、聖なる神殿の建設以上のものにはなりません。
一方、預言は街の建設、それも街路だけでなく、エルサレムの要塞の建設に関する勅令を預言しています。
この建物は5年で建設され、その後5世紀にわたってユダの神殿としての役割を果たしました。[14]しかし、ソロモンの壮麗さによってエルサレムの金が真鍮と同じくらい安価になった時代に彼らが建てた神殿とは著しく対照的に、アルタシャスタ・ロンギマヌスの治世第7年にユダヤ人が「主の宮を美しくする」という勅令を得るまで、第二の神殿には高価な家具は飾られていません。(エズラ記7章19、27節)
この手紙はさらに、エズラが同行を望むユダヤ人と共にエルサレムに戻り、神殿の礼拝と彼らの宗教の儀式を完全に復興することを許可しました。
しかし、この第三の勅令は神殿建設については全く言及しておらず、多くの著述家がこれを預言の時代と定めていなければ、見過ごされていたかもしれません。
神殿は既に何年も前に建てられており、13年後も街は依然として廃墟のままでした。
したがって、エズラ記で「エルサレムを再建し、建てよ」という命令について述べられているかどうかを探しても無駄であろう。
しかし、私たちが求めている記録を見つけるには、聖書正典の中でそれに続く書に目を向けるだけでよいのです。
ネヘミヤ書は、スサ(シュシャン)にいた時の出来事から始まります。[15]
そこで彼は偉大な王の酌官を務めていました。
その役目は「ペルシアにおいて少なからぬ名誉」 がありました。[16]
そこで、彼の兄弟の何人かがユダヤから到着し、彼は「捕囚から逃れて残ったユダヤ人たちについてこのように聞き、このような証言を聞くことから始まっています。
「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。
そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」
(ネヘミヤ書1章2節)
1章は、ネヘミヤが「天の神」に祈願した記録で終わっています。
2章は、「アルタシャスタ王の第二十年のニサンの月」に、彼が職務を遂行していた様子が描かれています。
アルタシャスタ王の第二十年のニサンの月に、王の前に酒が出たとき、私は酒を取り上げ、それを王に差し上げた。これまで、私は王の前でしおれたことはありません。
王の前に立った彼の表情は悲しみを露わにし、アルタシャスタ王は彼の苦しみを告げるように求めました。
「王よ。いつまでも生きられますように」とネヘミヤは答えました。
「私の先祖の墓のある町が廃墟となり、その門が火で焼き尽くされているというのに、どうして悲しい顔をしないでおられましょうか!」
そして、王は「「では、あなたは何を願うのか。」」と尋ねました。
そこでネヘミヤは答えました。
「王さま。もしもよろしくて、このしもべをいれてくださいますなら、私をユダの地、私の先祖の墓のある町へ送って、それを再建させてください。」
(ネヘミヤ書2章5節)
アルタシャスタはこの嘆願を承認し、直ちにそれを実行するために必要な命令を発しました。
4ヶ月後、熱心な手がエルサレムの廃墟となった城壁の修復に励み、仮庵の祭りの前に、町は再び門と城壁で囲みました。(ネヘミヤ書6章15節)
しかし、「アルタシャスタ20年の勅令は、ダリヨス1世の勅令がクロス1世の勅令を確認したのと同じように、彼の最初の勅令の拡大と更新に過ぎない」と主張されています。[17]この主張が偉大な人物の承認を得ていなかったなら、軽く注目されることさえなかったはずです。
もし、アルタクセルクセスの第七年の布告が彼の前任者たちの布告の「拡大と更新」にすぎないと主張されるなら、その声明は厳密に言うので正確だと考えます。
この勅令は主に、ユダヤ人に「主はエルサレムにある主の宮に栄光を与えるため」(エズラ記7章27節)の権限を与えたものであり、クロスとダリヨスが神殿の建設を許可した勅令の延長線上にあるものでした。
その結果、廃墟となった街の真ん中に壮麗な神殿が出現しました。
アルタシャスタ7年の運動は、主に宗教復興であり(エズラ記7章10節)、王の寵愛によって認可され、補助されました。
しかし、彼の20年の出来事は、ユダの統治権の回復に他ならなかったのです。
クロスが許可した工事の遂行は、ユダヤ人の敵が宮殿に持ち込んだ虚偽の告発によって中止されました。
彼らの目的は神殿だけでなく街の建設です。
しかし、彼の二十年の出来事は、ユダの統治権の回復にほかありません。
クロスが許可した工事の実行は、ユダヤ人の敵が宮殿に持ち込んだ、彼らの目的は神殿だけでなく都市を建設することだという偽りの告発によって中止されました。
「反逆の都市」であることを歴代のそれぞれの君主国に証明してきたが、「その理由」を、彼らは真実をもって宣言しました。
そして、その破壊が命じられ、このように付け加えました。[18]
「私たちは王にお知らせします。もしこの町が再建され、城壁が修復されたら、あなたはこのために川向こうの領土を失ってしまわれるでしょう。」
(エズラ記4章16節)
神殿建設の許可は、征服された民族に、彼らの神の律法に従って礼拝する権利を与えることに過ぎません。
なぜなら、ユダヤ人の宗教はシオンの丘以外への礼拝を認めていないからです。
人々がかつて名高い街の要塞を再建し、その城壁の背後に陣取り、ネヘミヤの治世下にあった士師記の古き政治体制を回復することを許された時、それは全く異なる出来事でした。[19]
これはユダの国家的存在の復活であり、したがって七十週の預言期間の時代として適切に選ばれたのです。
この点に関して提起された疑問は、聖書解釈を支配していると思われる異常な偏向を現実のままに物語っていると言えます。
その結果、言葉の明白な意味は、遠回しで信憑性の低い解釈に取って代わられました。
そして、ここで述べられている王がアルタシャスタ・ロンギマヌスであるかどうかについて、一部の人々が暗示している疑問も、同じ原因によるものであるに違いありません。[20]
この勅令の日付を正確に特定できるのか疑問が残ります。
そしてここで、極めて驚くべき事実が浮かび上がります。
聖書の物語の中で、七十週の始まりを告げる出来事の日付は、ペルシャ王の在位期間のみに基づいて定められています。
したがって、その時代を確定するには世俗史に頼らざるを得ず、歴史はまさにこの時代から始まっています。
「歴史の父」ヘロドトスはアルタシャスタと同時代人で、ペルシャ宮廷を訪れました。[21]
「歴史家の君主」トゥキュディデスもまた彼と同時代の人です。
マラトンとサラミスの戦い以降、ペルシャの歴史はギリシャの出来事と絡み合うようになり、それによって年代順を把握し検証することが可能になりました。
また、古代の主要な年代記が当時の主流でした。[22]
したがって、ネヘミヤの勅令の日付を正確かつ確実に特定するために必要な要素は何も欠けていません。
確かに、通常の歴史書では「アルタシャスタ20年」という記述は、彼の治世が彼の即位から数えられたのか、それとも父の死から数えられたのか疑問を残しています。[23]
しかし、ネヘミヤ書の物語はこの点に関する曖昧さをすべて払拭しています。
クセルクセスの暗殺と、略奪者アルタバノスの7ヶ月にわたる統治の始まりは紀元前465年7月であり、アルタシャスタの即位は紀元前464年2月です。[24]
したがって、これらのいずれかの日付はアルタシャスタの治世の紀元です。
しかし、ネヘミヤがキスレウ(11月)とそれに続くニサン(3月)を共に主君の治世の同じ年であると述べています。
そのことから、宮廷官僚として当然のことながら、彼が王の法的即位、すなわち紀元前465年7月から計算していることは明らかです。
したがって、アルタシャスタの治世20年は紀元前446年7月に始まり、エルサレム再建の命令は翌ニサンに与えられました。
こうして、預言周期の紀元はユダヤ暦紀元前445年のニサン月と明確に定められたのです。[25]
第5章 補足説明
[1]「その表現はどんな人にも適用されません。」(TREGELLES, Daniel, p.98.)
「これらの言葉はナザレ人に適用されます。
しかしながら、この表現は聖書全体を通して人物に適用されることはなく、常に神殿の一部、至聖所を指しています。」(DR. HERMAN ADLER, Sermons (Trubner, 1869).)
[2]「命令が出てから」(TREGELLES, Daniel, p.96.)
[3]契約ではありません。
この語は、神に関する事柄が問題となる場合には契約(covenant)と訳され、ここでのように通常の条約を指す場合には同盟(league)と訳されています。
(ヨシュア記9章6、7、11、15、16節を参考)
[4]24節と25節の言葉だけでは、ユダとエルサレムが預言の対象であるという確信が持てないのであれば、読者は前の節、特に2節、7節、12節、16節、18節、19節と比較するしかありません。
[5]文字通りならば「堀(trench)」、もしくは「切り立った城壁」。(TRECELLES, DanieI, p.90.)
[6]27節で述べられている人物はメシアではなく、26節で名指しされている第二の君主です。
主が宣教活動の初めにユダヤ人と7年間の契約を結んだという、広く信じられている説は、宗教思想の奇抜さをまとめた百科事典に重要な位置を占めるに値します。
私たちは、廃止された古い契約と、永遠に続く新しい契約について知っています。
しかし、神と人の間に7年間の契約を結ぶという突飛な考えは、聖書の文言に何の根拠もなく、その霊に全く反しています。
[7]「七十週全体は、七週、六十二週、一週という3つの連続する期間に分けられ、最後の週はさらに2つの半分に分割されます。
これらの部分、七週、六十二週、一週は全体、すなわち七十週と等しくそのように意図されていたことは明白です。」(PUSEY, Daniel, p.170.)
[8]これはエホヤキムの治世第4年、すなわち奴隷状態が始まった翌年に預言されていました。(エレミヤ書25章1、11節)
[9]聖書はこのように、部分的に同時進行する三つの時代を区別し、「捕囚」として語られるようになりました。
第一に、奴隷状態、第二に、エホヤキンの捕囚、そして第三に、荒廃です。
「奴隷状態」はエホヤキムの治世第3年、すなわち紀元前606年、あるいは紀元前605年ニサン1日(4月)以前に始まり、70年後にクロスの勅令によって終結しました。
「捕囚」は、聖書の紀元でネブカドネザルの治世第8年、すなわち紀元前598年に始まり、荒廃は彼の治世第17年、紀元前589年に始まり、ダリヨス・ヒュスタスペスの治世第2年に終わった。
これもまた70年間の期間です。ここでの年代に関する疑問については、付録1を参考にしてください。
[10]ダニエル書9章2節では、この点について明確に述べています。
「すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。」
(ダニエル書9章2節)
[11]「取り消しのできないメディヤとペルシヤの法律のように、そのことは確かである。」
(ダニエル書6章12節)
キャノン・ローリンソン氏は、神殿の建設はエズラ記4章に記されているアルタシャスタの勅令によって中止されるまで、15年か16年かかったと推測している(「五大モナ」第4巻 398ページ)
しかし、これは聖書とは全く矛盾しています。
神殿の土台はクロス王の治世第2年に築かれました。(エズラ記3章8〜11節)
しかし、ダリヨス王の治世第2年に再び土台が築かれるまで工事は進展していません。
なぜなら、神殿の石は一つも置かれていなかったからです。(ハガイ書2、10、15、18節)
建設は一度着工されると、5年以内に完成しました。(エズラ記6章15節)
捕囚民の帰還後すぐに祭壇が築かれ、犠牲が新たに捧げられたことを心に留めておく必要があります。(エズラ記3章3、6節)
[12]ローリンソン司祭は、ダリヨスの宗教的熱意がユダヤ人の行動の動機であったと推論しています。(Five Great Mon., vol. 4., p.405.)
しかし、これは全くの誤りです。(エズラ記5章を参考にしてください。)
[13]「メサイア 君主(Messiah the Prince)」の中で「ボサンケ氏(Bosanquet)」によって定義付けられた時代です。
[14]神殿はダリヨス王の治世の2年に着工され、6年に完成しました。(エズラ記4章24節、 6章15節)
[15]シュシャンの大宮殿の遺跡の説明については下記を参考にしてください。
(Mr. Wm. Kennett Loftus's Travels and Researches in Chaldea and Susiana, chap.28.)を参考にしてください。
[16](Herodotus, 3, 34.)
[17]ピュージー博士はこう付け加えています。(Pusey, Daniel. p.171.)
「エズラが連れて行った1683人の男性(女性と子供を含めると8400人ほど)からなる小さな植民地は、それ以前に帰還した人々にかなりの人数が加わったものであり、エルサレムの再建を伴っていました。
エズラによって始められ、ネヘミヤによって遂行され完成されたこの街の再建と政体の再編は、ダニエル書の「エルサレムを再建せよ、との命令が出てから」という言葉と一致しています。」(p.172.)
この議論は考え得る限り最も説得力に欠けています。
実際、アルタシャスタ7年の勅令へのこの言及はピュージー博士の著書にとって大きな汚点となっています。
8,400人の移住が街の再建を伴い、七十週の始まりを告げるものであるならば、78年前の49697人の移住については何と言えるでしょうか?(エズラ記2章64、65節)
これは再建を伴っていなかったのでしょうか?
しかし、ピュージー博士はさらにこう述べています。
「この用語は、キリストの時代とも一致しています。」
すなわち、483年は。明らかに、ピュージー博士が紀元前457年、あるいはより正確にはプリドー氏が示した紀元前458年を定めた真実な根拠はここにあります。
残念ながら、ピュージー博士はこの時点で参考にしてください。)の見解に従っています。
さらにナイーブな「関連性」の著者は、他の日付を割り当てたとしても年数は一致せず、アルタシャスタ7世の勅令が正しいに違いないと主張しています。
(Prid., Con., 1., 5, B. C. 458.)
しかし、このような解釈のシステムは、預言の研究全体の信用を失墜させる大きな要因となっています。
[18]すなわち、ユーフラテス川です。
(エズラ記4章16節)
[19]「この最後の命令は、都市の再建と建設に関する聖書に記録されている唯一の命令です。
都市としての場所の存在そのものが、このような法令に依存していたことを心に留めておかなければなりません。
以前は、捕囚の地から帰ってきた者は、寄留者の状態でしか行けなかったからです。
この法令によって、彼らに認められた独自の政治的存在が与えられたのです。」(TREGELLES, Daniel, p.98.)
しかし、アルタシャスタ20年に突如、ユダヤ系で王の酌官であったネヘミヤは、可能な限り迅速に街を再建するよう命じられました。
ペルシャ政治におけるこの変化の原因は、ユダヤ人の酌官の個人的な影響力というよりも、当時の外交史に求めるべきです。
ペルシャの勢力は、アテネの提督コノンがクニドスで勝利を収めたことで致命的な打撃を受けていました。
偉大な王は屈辱的な和平を受け入れざるを得ず、その和平条項には、沿岸街の放棄と、ペルシャ軍が海から3日以内の航海以内に接近してはならないという条件が含まれていました。
海岸からこの距離にあり、エジプトとの交通路に非常に近いエルサレムは、極めて重要な拠点となったのです。
(MILMAN, Hist. Jews (3rd Ed.), 1., 435.)
[20]アルタシャスタ1世は465年から425年まで40年間統治しました。
ヘロドトスはアルタシャスタ1世について一度(6. 98)、トゥキュディデスはアルタシャスタ1世について頻繁に述べています。
両著述家はアルタシャスタ1世と同時代の人物です。
エズラとネヘミヤをエルサレムに派遣し、要塞の修復を認可したのはアルタシャスタ1世であったと信じるに足る根拠は十分にあります。
(RAWLINSON, Herodotus, vol. 4., p.217.)
[21]オリンピック競技大会で彼が著作を朗読したと言われている年は、まさにネヘミヤが伝道活動を行った年でした。
[22]オリンピックの時代は紀元前776年に始まり、ローマの創設の年(A.U.C.) の時代は紀元前753年、ナボナッサルの時代は紀元前747年に始まりました。
[23]アルタバノスの7か月は、ある人々によってクセルクセスの最後の年に加えられ、またある人々によってアルタシャスタの治世に含められました。」 (CLINTON, Fasti Hellenici, vol. 2., p.42.)
[24]クセルクセスの即位は紀元前485年初頭と定められていることは既に示されています。
彼の即位20年目は紀元前465年初頭に完了し、彼の死はリュシテウスのアルコン就任の始まりと重なっています。
アルタバノスの7ヶ月で21年が完了するため、アルタシャスタの即位(アルタバノスの退位後)は、カノン(正典)で定められているナボナッサル284年、つまり紀元前464年初頭となります。
注b:「クセルクセスの死は、そのアルコン(すなわちリュシテウス)の第一の月、紀元前465年7月、アルタシャスタの即位は第八の月、紀元前464年2月とすることができます。」
(CLINTON, Fasti Hellenici, vol. 2., p.380.)
[25]アルタシャスタ・ロンギマヌスの治世の年表については、付録2、注Aを参考にしてください。
第6章 預言の年
英語圏の耳には、「週」という言葉を、その馴染み深い意味合い以外で使うのは、教義的に聞こえるかも知れません。
しかし、ユダヤ人にとっては全く違います。
ユダヤ人の律法は、「週」という言葉の効果は7日間を意味するのと同じくらい自然に、7年間を意味していました。
したがって、預言において後者を表すために「週」という言葉が用いられるのは、単なる勝手な象徴表現ではなく、馴染み深く、理解しやすい言葉の用法です。」[1]
ダニエルの祈りは70年の成就に言及していました。
その祈りに答えて与えられた預言は、70年を7倍する期間がまだ来ていないことを預言しています。
しかし、ここで、この主題の考察においてこれまで十分に考慮されてこなかった疑問が生じます。
時代が年単位であることを誰も疑う人はいません。
しかし、それはどのような年計算で構成されているのでしょうか?
ユダヤ暦が太陰太陽暦であったことは、ほぼ確実と思われます。
もし、伝承を信じるならば、アブラハムはカルデアの故郷で知っていた360日の年を家族の中で守ってきたことが考えられます。[2]
洪水の月の日付(2月17日から7月の同日までの間隔として150日が特定されている)は、この形式の年が人類にとって最も古いものであったことを示しているように思われます。
アイザック・ニュートン閣下は、「太陽年の長さが正確に知られるようになる前、すべての国々は月の運行で月を数え、冬と夏、春と秋の繰り返しで年を数えていました。
そして、祭典のための暦を作る際には、最も近い端数を用いて、太陰月を30日、太陰月を1年を12と数えました。
そこから黄道を360度に分割するようになった」と述べています。
そして、この記述を採用するにあたり、G.C.ルイス閣下は「すべての信頼できる証言とすべての先行する確率は、12太陰月を含む太陽年が決定された」という結果につながると断言しています。
ある程度の誤差の範囲内で、地中海沿岸諸国では古くから一般的に認められてきた。」[3]
しかし、こうした考察は、ここで提起された問いかけがいかに正しく、かつ重要であるかを証明するにとどまります。
通常の暦年に有利になる推定を覆す根拠が存在するかどうかは、依然として調査されています。
ところで、預言の紀年は、預言が与えられた当時ダニエルの心に浮かんでいた「荒廃」の70年の7倍であることは明らかです。
では、この小さな時代の年代の特徴を確かめることは可能でしょうか?
ユダヤの律法の特徴的な規定の一つは、7年ごとに土地を休ませることであり、この無視を怠ったことによって、神は荒廃の時代が定められました。
「これは、エレミヤにより告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。」
(歴代記第二36章21節)
この裁きの本質的な要素は、廃墟となった街ではなく、敵の侵略という恐ろしい災厄によって荒廃した土地でした。
(エレミヤ書27章13節、ハガイ書2章17節参考)
その影響は、神の怒りの継続的な証拠である飢饉と疫病によって継続されました。
したがって、真実な審判の時とは、一般に考えられているようにエルサレムの占領ではなく、ユダヤへの侵攻であることは明らかです。
バビロニア軍がこの地に侵入した時から、あらゆる農業活動は停止されました。
したがって、荒廃は首都が築かれた日、すなわちゼデキヤ王の治世第9年10の月の10日から数えることができます。
これは、ユーフラテス川のほとりで捕囚されていた預言者エゼキエルに啓示された時であり(エゼキエル書24章1、2節)、24世紀にわたり、ユダヤ人はあらゆる土地でこの日を断食日として守ってきました。
聖書では、この時代の終わりは「ダリヨスの第二年の第九の月の二十四日」と、同様に明確に示されています。[4]
「さあ、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。すなわち、第九の月の二十四日、主の神殿の礎が据えられた日から後のことをよく考えよ。
種はまだ穀物倉にあるだろうか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないだろうか。きょうから後、わたしは祝福しよう。」
(ハガイ書2章18、19節)
「よく考えよ」とは、預言の言葉が宣言された日です。
そして、「きょうから後、わたしは祝福しよう。」と続いています。
さて、紀元前589年テベテの月10日から[5]、紀元前520年キスレウの月24日[6]まで25202日の期間です。
したがって、「荒廃」の時代は、バビロニア軍がエルサレムを包囲した翌日から始まり、第二神殿の礎石が据えられる前日まで続き、360日の70年はちょうど25200日になります。
360日の70年であったと結論付けることができます。[7]
しかし、この問いかけはさらに深く掘り下げられるかもしれません。
安息年が軽視されたため、「荒廃」の期間は70年と定められていました。
(歴代記第二36章21節、レビ記26章34、35節)
ゆえに、「ユダに対する憤り」の70年間の終わりから70年を7倍遡れば、イスラエルが完全な国家的特権を獲得し、それによって完全な責任を負うようになった時期に至ると予想されています。
そして、実際に調べてみれば、その通りであることがわかります
ソロモンの神殿奉献の翌年から第二神殿の礎石が据えられる前の年までは、360日を1年とする490年でした。[8]
しかしながら、このような計算に基づく議論は最終的なものではないことを認めなければなりません。[9]
預言の年が360日から成ると断言できる唯一の根拠は、その紀元の一部を、それを構成する日数に細分化して示すことです。
他に完全に満足のいく証拠は存在しません。
しかし、もしそれが得られるならば、それは絶対的、かつ決定的なものとなります。
そして、まさにこれがヨハネの黙示録が私たちに与えているものです。
すでに述べたように、預言の時代は2つの期間に分かれており、1つは7+62ヘプタード(heptade)の期間、もう1つは1ヘプタードの期間です。[10]
ヘプタード(heptade)とは7の集まりという意味です。
これらの時代に関連して、二人の「君主」が特に述べられています。
第一にメシア、第二にエルサレムを滅ぼすのは民の君主です。
この君主は非常に卓越した存在であり、その到来はキリスト自身と同様に確実です。
第一時代はメシアの「断たれ」て終わり、第二時代の始まりは、この第二の「君主」が「多くの人々」と、あるいはおそらくは「多くの人々」に有利な「契約」あるいは条約に署名したことに始まります。[11]
それはユダヤ民族であり、おそらく彼らの中にいる敬虔な一部の人々とは区別されます。
七つの期間の半ばで、ユダヤ教の弾圧によって条約は破られ、迫害の時代が訪れます。
ダニエルの四つの獣の幻は、この点について印象的な解説を与えています。
第四の獣がローマ帝国と同一であることは疑いようがなく、ローマ帝国と領土的には繋がりを持つものの、歴史的には後の時代に属する「王」が出現すると記されています。
その王は「いと高き方の聖徒たち」を迫害する者となり、その没落の直後に、恵みを受けた民に対する神の祝福が成就します。
まさにこの出来事が「七十週」の終わりを告げます。
さらに、その迫害の期間は「ひと時とふた時と半時の間」と述べられています。
これは奥義的な表現であり、聖書の中で3年半、あるいは預言的な週の半分と同義語として再び用いられていなければ、その意味は疑わしいものでした。
(ヨハネの黙示録12章6、14節)
しかし、ヨハネの黙示録13章の最初の「獣」とダニエル書7章25の「王」が同一であることに、合理的に疑いの余地はありません。
ヨハネの黙示録では、王はひょう、熊、ライオンに例えられています。
これらはダニエル書の最初の3つの獣を表す比喩です。
ダニエル書には十の王国があり、十本の角で表されています。
ヨハネの黙示録でも同じです。
ダニエル書によれば、「彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする」とあります。
ヨハネの黙示録によれば、「そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた」とあります。
「彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許された」とあります。
ダニエル書によれば、「聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる」とあります。
ヨハネの黙示録によれば、「四十二か月間活動する権威を与えられた」とあります。
もちろん、預言によって、同じ状況で全く同じ道を辿り、同じような3年半という期間を過ごす二人の異なる人物の生涯を預言することは不可能ではありません。
しかし、より自然ではっきりとした仮説は、二人が同一人物であるということです。
この主題の性質上、二人の同一性を理論的に証明することはできません。
しかし、陪審員が犯罪で有罪判決を下し、有罪判決を受けた囚人が処罰されるのと全く同じ種類の証拠に基づいています。
さて、この第七十週は確かに七年間の期間であり、この期間の半分は「ひと時とふた時と半時」、あるいは英訳聖書では「時を分ける」と3回表現されています。
(ダニエル書7章25節、12章7節、ヨハネの黙示録12章14節)
さらに2回は42か月(ヨハネの黙示録11章2節、13章5節)、さらに2回は1260日(ヨハネの黙示録11章3節、12章6節)と表現されています。
そして、1260日はちょうど42か月(30日)、つまり3年半(360日)に相当します。
一方、ユリウス暦の3年半は11278日です。したがって、預言の年はユリウス暦ではなく、古代の360日年であると言えます。[12]
第6章 補足説明
[1]「(Smith's Bib. Dict., III., 1726,)には「週」、ギリシャとラテンの哲学者も「年を週で表す」という概念を知っています」と述べられています(PUSEY, Daniel, p.167.)
[2]「(Encyc. Brit. (6th ed.), title "Chronology)、同様に「Smith's Bib. Dict., 」のタイトル「("Chronology," p.314.)」を参考にしてください。)
[3]「(Astronomy of the Ancients, chap.1 & 7.)の記載です。」
クセルクセスの大祭の180日は6か月に相当することを意図しているのではないでしょうか?(エステル記1章4節)
[4](ハガイ書2章10、15〜19節)
ハガイ書とゼカリヤ書には、エズラ記(4章24節、5章1〜5節)の中では、ユダヤ人が神殿再建の作業に戻るための認可と動機として述べられている預言の言葉がすべて記されています。
[5]ゼデキヤの9年です。付録1を参考にしてください。
[6]ダリヨス・ヒュスタスペスの治世二年目です
[7]ユダヤ暦の基準となる過越しの祝いの新月の日付は、紀元前589年には3月14日の夕方、紀元前520年には4月1日の正午頃です。
月齢の経過から判断すると、前者の年の第1ニサンはおそらく3月15日、もしくは16日、後者は4月1日、もしくは2日です。
[8]神殿はソロモン王の治世第11年に奉献され、第二神殿は紀元前520年に建立されました。
その間の期間は、太陽暦で490年(太陰太陽年、360日)とのみ計算され、483年です。
ソロモン神殿の奉献から第二神殿の奉献(紀元前515年)までの期間が490年であったことは注目に値します。
カナンへの入国からサウルによる王国の建国までの間にも同様の期間が経過しています。
ヘブル史におけるこれらの70周期、そして70の倍数は、印象的で興味深いものです。
付録1をご覧ください。
[9]、それは、ユダヤ教の安息年が太陽暦ではなく教会暦と隣接していたという疑いのない事実によって明確に確認されています。
[10]六十九週を七週+六十二週と分けているのは、エルサレムの復興が完了した最初の49年間です。
その期間はユダヤ史における大きな危機、すなわち預言の終焉をもって終わったという事実によって説明されます。
つまり、紀元前445年から49年後まで、マラキの預言した年代となります。
[11]もしくは「群衆」です。(TREGELLES, Daniel, p.97.)
[12]この預言がバビロンで与えられたこと、そしてバビロニアの暦が30日を12ヶ月として構成されていたことは注目に値します。
預言の年が通常の年ではないことは、今に始まったことではありません。
16世紀前、「ユリウス・アフリカヌス(Julius Africanus)」は著書「年代記」の中でこのように説明しています。
「七十週はユダヤ暦(太陰暦)の週であり、第83回オリンピックの4年目であるアルタシャスタ20日から始まり、第202回オリンピックの2年目に終わると説明しています。
ユリウス暦475年は太陰暦490年と同じです。
第7章 複週の奥義の時代
前章で到達した結論は、ダニエルの初期の幻と七十週の預言の間に驚くべき類似点があることを暗示しています。
歴史には、七十週の預言の経過を裏付けるような出来事の記録は存在していません。
ヨハネの黙示録は、年代順にその期間が終わるはずの時期にさえ書かれていません。
また、それから18世紀が経過したにもかかわらず、ユダヤ人の復興は未だに楽観的な狂信者の空想に過ぎないように見えます。
そして、預言の目的は好奇心旺盛な人々を楽しませたり興味を抱かせたりするものではなかったことを忘れてはなりません。
必然的に、預言の言葉にはある種の奥義主義的な特徴がなければなりません。
そうでなければ、陰謀を企む人々によって「命令通りに成就」してしまう可能性があるからです。
しかし、預言がそれが語る出来事と並んで語られると、その関連性が疑わしければ、預言は主要な目的の一つを果たせなくなります。
預言とその成就のつながりを知りたい人は、イザヤ書53章を読み、それを受難物語と比較してみてください。
受難物語はあまりにも漠然としていて比喩的なので、預言されたドラマを実際に演じることは誰にも不可能です。
受難物語はあまりにも明確であり、一度成就すれば、どんなに幼い子供でもその大きさと意味を理解することができます。
同様に、七十週の時代を構成する出来事も同じように理解できるはずです。
ならば、ネヘミヤの使命とメシアの死は同じように明白で確実な預言と見ることができ、必然的にまだ未来に起こることとして理解できます。
このように、まさに私たちはダニエル書7章の研究を期待して学ぶことができるのです。
すべてのキリスト教解釈者は、第四の獣の出現と十本の角の成長の間に、この幻に空白、あるいは括弧があることに同意しています。
すでに述べたように、その空白には、キリストの時代からローマ帝国が十王国に分割され、そこから未来の大迫害者が出現するに至るまでの期間全体が含まれます。
さらに、この期間は、この書の他の幻においても明らかに見落とされています。
したがって、9章の幻においてこの期間が見落とされる可能性があります。
さらに、七十週の幻におけるこの奥義的な短縮には、他の幻における同じ理由があるだけではありません。[1]
しかし、この理由はここでは特に強く適用させることができます。
七十週は、ユダの祝福が延期される期間として定められたのです。
すべての預言と同様に、この預言の意味は最終的に成就したときに明白になります。
しかし、ユダヤ人をメシアを受け入れるという責任から解放するために、必然的に奥義的な形で伝えられました。
使徒の働き3章に記録されている、エルサレムの民に向けた使徒ペテロの霊感に満ちた宣言は、これに沿ったものでした。
ユダヤ人は単に国家の覇権の回復を待ち望んでいました。
しかし、神の第一の目的は、偉大な罪の担い手の死による救いです。
今や犠牲は成し遂げられ、使徒ペテロはカルバリの丘を預言者たちの語られた預言の成就としてこのように語りました。
「しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。」
(使徒の働き3章18節)
続けてこのように語っています。
「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。
それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。」
(使徒の働き3章19、20節)
これらの祝福が実現すれば、ダニエルの預言は成就し、第七十週は途切れることなく過ぎ去ったはずです。
しかし、ユダは悔い改めを拒み、頑固な態度を貫いたため、約束された祝福は再び、この異邦人による神の摂理という奇妙な時代の終わりまで延期されました。
しかし、これでは、キリストの十字架はこれらの祝福の成就ではなかったのか、と問われるかもしれません。
御使いの言葉(ダニエル書9章24節)を注意深く研究すれば、それらの一つたりとも成就していないことが分かります。
第六十九週はメシアの死で終わるはずでした。
第七十週の終わりは、ユダがその死によってもたらされる祝福を完全に享受するはずでした。
ユダの背きはまだ抑えられておらず、その罪は封印されていません。
ダニエルの民の罪悪のために泉が開かれる日はまだ来ていません。(ゼカリヤ書13章1節)
彼らのために義がもたらされる日はまだ来ていません。
「あらゆる幻の中で最も偉大な幻」(ヨハネの黙示録)がまだ与えられておらず、預言者の言葉が成就する日もまだ来ていないことを考えるならば、どのような意味で、幻と預言者はキリストの死によって封印されたのでしょうか? (ルカの福音書21章22節)
そして、「至聖所に油をそそぐためである。」(ダニエル書9章24節)ということにどんな意味が込められようとも、カルバリがその成就ではなかったことは明らかです。[2]
しかし、このように時間的に定義された時代が、その過程で無期限に中断されるべきであると主張することは、公正な議論や常識として認められることなのでしょうか?
常識と公平性があれば、という答えが出るかもしれません。
もし、人、間の判断がこの問題を決定できるのであれば、唯一の疑問は、「いのちの君を殺しました」(使徒の働き3章15節)という人々の恐ろしい罪のせいで、周期の最後の時期と、その終わりに約束された祝福が、永遠に失われたり失われたりしないかどうかということです。
ユダの背教のこの期間全体を通して、預言的な時の流れが逆戻りしたと考えることに、何ら異論はありません。
そして問題として、イスラエル史の奥義的な年代の中に、これに類する前例が見つかるかどうかです。
列王記によると、ソロモンはイスラエルの民がエジプトの地から出てから480年目に神殿の建設を開始しました (列王記第一 6章1)
この記述は、これ以上正確な記述は考えられないと思われるため、年代学者をひどく困惑させてきました。
ある者からは偽造と非難され、またある者からは失策として退けられました。
しかし、全員が一致してこれを否定しています。
さらに、聖書自体がこれと矛盾しているように見えます。
使徒パウロは、ピシデアのアンティオキアでの説教で、国家の歴史におけるこの時期の年代を次のように要約しています。
(使徒の働き13章18〜21節)
荒野での40年間、士師記の治世の450年間、そしてサウルの治世の40年間で、合計530年となります。
これにダビデの治世の40年間とソロモンの治世の最初の3年間を加えなければなりません。
列王記で480年と記されている期間を573年とします。
一見矛盾しているように見えるこれらの結論は、果たして調和できるでしょうか?[3]
士師記に記されたイスラエルの歴史を辿ると、ヤハゥエの民としての彼らの国家的存在は、五つの期間にわたって中断されていたことがわかります。
神は偶像崇拝への罰としてイスラエルを何度も見捨て、「敵の手に売り渡しました」。
彼らはメソポタミア王に8年間、モアブ王に18年間、カナンの王に20年間、ミディアン人に7年間、そして最後にペリシテ人に40年間奴隷として仕えました。[4]
しかし、8年+18年+20年+7年+40年を合計すると93年となり、573年から93年を引くと480年となります。
したがって、列王記における出エジプトから神殿までの480年は、人々が神によって捨てられたすべての期間を除外することによって形成された奥義的な時代であることは明らかです。[5]
したがって、この原理が歴史に関してユダヤ人に理解可能であったならば、七十週のような本質的に奥義的な時代に関してそれを導入することは自然であり、正しかったのです。
しかし、この結論は、どんなに健全な議論や、どんなに正しい推論にも左右されるものではありません。
キリストご自身の証言によって、紛れもなく証明されています。
弟子たち、地上における主の宣教活動の最後の日に主の周りに集まり、尋ねました。
「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。
あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
(マタイの福音書24章3節)
それに対して、主はダニエル書によって預言された患難について語りました。[6]
そして、その恐ろしい迫害の前兆となるのは、まさに七十週の真ん中に起こる出来事です。
すなわち「荒らす忌むべき者」による聖所の汚損です。
その者は偽りの君主であり、ユダヤ人の宗教を尊重し擁護するという条約上の義務に違反して神殿に自分の像を安置するだろうと警告しました [7]
この預言がローマのティトス将軍によって成就されなかったことは、歴史が証明する限り確実です。[8] しかし、聖書自体は、この点について何の疑いもありません。
すでに引用した箇所から、預言された患難は3年半続き、第七十週の中頃に条約が破られた時点から始まることが明らかです。
その後に起こることは、主ご自身が特に深刻な言葉で次のように描写されています。
「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
そのとき、人の子のしるしが天に現われます。
すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」
(マタイの福音書24章29、30節)
この預言は、神の摂理の終焉を告げるものであると推測されます。[9]
これらの場面は、時代が第七十週の範囲内である迫害の直後に起こるゆえに、その週の出来事はまだ未来の時代に属するという推論は疑いようがありません。[10]
したがって、邪悪な者たちがカルバリに十字架を立て、神がその民に恐ろしい「「わたしの民ではない」ロ・アミ(Lo-ammi)」 (ローマ人への手紙9章25、26節、ホセア書1章9、10節参考)を宣告した時、預言の時代は止まったままだと言えます。
そして、ユダの支配が回復されるまで、その時代は再び動き出すことはありません。
そして、ユダが諸国家への復帰を条約によって承認された瞬間から、その時代は始まったとするのが当然です。[11]
したがって、ここでは預言時代の前半はすでに完了しています。
しかし、最後の7年間の出来事はまだ成就していないと推定されます。
したがって、証明の連鎖を完了するために必要な最後の点は「君主であるメシア」の到来日を確定することです。
第7章 補足説明
[1]説明済みです。「See pp.44-47, ante.」
[2]これらの言葉はすべて、キリストの再臨の際に人々に実際的な形で与えられる実際的な恩恵を指し示しています。
イザヤ書1章26節は「義をもたらす」ことに関する注釈です。
これを神の義を宣言すること(ローマ人への手紙3章25節)と同義と解釈するのは、教義上誤りであり時代錯誤です。
「和解」についての見解が聖書におけるその語の用法に基づいていない人にとって、「不義を和解させる」ことは例外に思えるかも知れません。
ヘブル語の動詞「(caphar)」 (償いをする、和解させる)は、文字通りには罪を「覆い隠す」という意味です。 (創世記6章14節の用法を参考)
流血などによって(例:「とりなしによって」出エジプト記32章30節)人に対する告発を取り消し、神の恵みの中に確実に迎え入れることを意味します。
聖書の最初の3つの書でこの単語が使用されている箇所の一覧は次のとおりです。
創世記 6章14(pitch) 、32章20(appease) 、
出エジプト記29章33、36、37、30章10、15、16、32章30節、
レビ記1章4、4章20、26、31、35、5章6、10、13、16、18、6章7、30、7章7、8章15、34節、9章7節、10章17節、12章7、8節、14章18、19、20、21、29、31、53節、15章15、30節、16章6、10、11、16、17、18、20、24、27、32、33、34節、17章11節、19章22節、23章28節。
「(caphar)」 は、客観的に考慮される贖罪や流血を指すのではなく、それによって罪人にもたらされる結果を指すことが分かります。
それは、犠牲者の死と同時にもたらされる場合もあれば、血を塗る任務を負う祭司の行為を条件とする場合もあります。
ささげ物は贖罪そのものではなく、贖罪が行われる手段です。
したがって、「代用を表す前置詞は、 「(caphar)」 という語と関連して用いられることはありません」
(Girdlestone's Synonyms O. T., p.214.)
したがって、聖書におけるこの語の用法によれば、和解、あるいは償いを行うということは、罪人と神との間の実質的な疎遠を取り除き、罪の赦しを得ることを意味します。
そして、ダニエル書9章24節の言葉は、この恩恵がユダに確保される時を指し示しています。
「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。」(ゼカリヤ書13章1節)
つまり、カルバリの祝福が彼らのものとなり、民のために和解が成し遂げられます。
これに伴い、罪は抑制されます(創世記8章2節、出エジプト記36章6節におけるこの言葉の用法を参考にしてください。)
つまり、彼らは罪を犯さなくなります。
罪は封印されます。
これは手紙(列王記第一21章8節)や宝物の入った財布や袋(ヨブ記14章17節)を封印する通常の言葉です。
つまり、罪は実際的な意味で済まされ、取り除かれます。
そして、幻と預言者も同様に封印されます。
つまり、その役割は終了し、すべてが成就します。。
[3]「Browne (Ordo Saec., §§. 254 and 268) 」によれば、出エジプトは10日の金曜日です。
ヨルダン川の渡河は紀元前1586年4月14日、ヨルダン川の渡河は紀元前1546年4月14日、ソロモンの即位は紀元前1016年、神殿の創建は紀元前1013年4月20日とされています。
したがって、彼は使徒パウロの記述を全面的に受け入れています。
クリントン氏は、士師記の時代までに約27年間、サウルの選出までにさらに12年間の期間があったと推測し、出エジプトの日付を紀元前1625年と定め、全体の期間は612年に及ぶとしています。
ヨセフス氏はこれを621年と計算しており、ヘイルズ氏もこれを採用し、列王記の記述を「偽造」と呼んでいます。
他の年代学者たちは、ユリウス・アフリカヌスの治世741年からアッシャーの治世480年まで様々な期間を割り当てています。
アッシャー氏の出エジプトの年である紀元前1491年は、聖書でも採用されています。
しかし、少なくとも 93年は明らかに間違っています。
この問題は、「(Clinton in Fasli Hell., vol. 1., pp.312-313)」で、また「(Browne, reviewing Clinton's arguments, in Ordo Scec., §. 6)」などで詳しく論じています。
「ブラウン(Browne)」の結論には大いに称賛に値するものがあります。
しかし、他の人々が推測上の期間を挿入するのが正しいとしても、私の主張は変わりません。
なぜなら、そのような期間が存在したとしても、奴隷制の期間と同じ原理で480年からは明らかに除外されているからです。
この問題は 付録1で論じられています。
[4]士師記3章8、14節、4章2、3節、 6章1節、13章1節について。
士師記10章7、9節の奴隷状態はヨルダン川の向こう側の部族にのみ影響し、イスラエルの国家としての立場を揺るがすものではありません。
[5]イスラエル人は、他のどの民族にも決して当てはまらない、国家として神の民でした。
そのため、ある意味では、個人の場合と同様の原則に基づいて扱われました。
神なしの人生は死です。
義は厳格に記録し、厳しく裁かなければなりません。
そうでなければ、恵みは赦しを与えません。
そして、神が赦すなら、同様に罪も忘れてくださります。
(ヘブル人への手紙10章17節)
これは間違いなく、記録が消し去られ、その記録が記録されている期間は空白であるかのように扱われることを意味します。
私たちが悪に隷従していた日々は、神の年代では無視されています。
[6](thlipsis(ギリシャ語:悲しみ), Matthew 24:21; Daniel 12:1 )
[7](kai epi to hieronn bdelugma ton eramoseon(ギリシャ語:荒らす忌むべき者))(ダニエル9章27節)
(to bdelugma eramoseos(ギリシャ語:荒らす忌むべき))(ダニエル書12章11節)
(hotan oun idate to bdelugma tas eramoseos to rhathen dia Danial tou prophatou, estos en topo hagio)
「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの「荒らす憎むべき者」が、聖なる所に立つのを見たならば、」
(マタイの福音書24章15節
マカベラ書第一1章54節と比較してください。
(okodomasan bdelugma eramoseos epi to phusiastapion)
(マタイの福音書)
マタイの福音書のこの箇所は、七十週がキリストの到来、あるいは死をもって、つまり、ローマのティトス将軍によるエルサレムの滅亡の前に終わるとする解釈体系がすべて完全に誤りであることを、反論の余地なく証明しています。
そして、この出来事が実際には七十週の終焉ではなかったことは、マタイの福音書24章21〜29節とダニエル書9章24節から明らかです。
[8]ヨセフスの卑劣な時間つぶしやローマのティトスへの称賛をすべて考慮に入れても、この点に関する彼の証言はあまりに完全かつ明確であり、疑いの余地がありません。 (Wars, 6., 2, §. 4).
[9]このような聖句の意味を曖昧にする解釈体系があることは承知しています。
それらを詳しく論破しようとすることは無駄です。
(第11章の続きおよび付録Cの注釈を参考にしてください。)
[10]初期教会はそのように信じていました。
しかし、ダニエル書9章27節の異なる解釈を主張する現代の著述家たちへの敬意から、この問題は長らく議論されてきました。
3世紀初頭に著述を行った司教であり殉教者であったヒッポリュトスは、この点について最も明確な見解を示しています。
彼はこの聖句を引用し、次のように述べています。
「彼が一週と呼んだのは、全世界の終わりに訪れる最後の週のことです。
その週の半分は、二人の預言者エノクとエリヤが担当します。
彼らは1260日間、荒布をまとって説教します。」(Hip.on Christ and Antichrist).
「ブラウン(Browne)」氏 (Ordo Saec. p.386, note)によると、キリスト教年代学者の父、ユリウス・アフリカヌスも同様の見解を持っています。
先週の半分は成就した。
しかし、残りの3年半はまだ未来である、という主張は、「キャノン・ブラウン(Canon Browne )」(§339)によってなされています。
彼は、多くの現代の著述家が見逃している、この期間に属する出来事が反キリストの時代と関連していることを理解しています。
[11]すなわち、ダニエル書9章27節に記されている契約です。
第8章「メシアの君主」
敬虔と評判の人々が特定の分野で疑いの目を向けられるのと同じように、神の権威や認可を主張する著作は、必然的に不信感を抱かせるように思われます。
しかし、もし福音書記者たちが世の歴史家たちと同じように公正な聴取を受けることができ、彼らの記述が学者たちが過去の記録を判断するのと同じ原則に基づいて検証され、証拠が法廷で吟味されるならば、私たちの救い主がキレニウスがシリアの総督、ヘロデがエルサレムの王であった時代にベツレヘムで生まれたことは、確固たる歴史の事実として受け入れられます。
ルカの福音書の最初の2章の物語は、筆者の一般的な信用によって得られる正確さ以外には、何の保証もない、ありふれた歴史のページとは違います。
福音書記者は、自分が「最初から完全に理解していた」事実を扱っているのです。 (ルカの福音書1章3節) さらに、彼はそのことに個人的な関心を強く抱いており、そのことに関してたった一つの明白な誤りがあれば、彼の本の価値を損なうだけでなく、彼が人生を捧げ、永遠の幸福への希望を託した大義の成功にも悪影響を及ぼしたはずです。
このキレニウスへの言及は、あたかも付随的な言及に過ぎず、それに関する誤りは大したことではないかのように扱われてきました。
しかし、実際には極めて重大なものです。
真実な救世主はベツレヘムで生まれなければならないことはユダヤ人によって主張され、クリスチャンによって認められていました。
一方、ナザレ人がベツレヘムで生まれたことはユダヤ人が執拗に否定しました。
もし、現在、ユダヤ人がその事実を反証できるのであれば、彼らは自身の不信仰を正当化することをします。
なぜなら、私たちが礼拝するキリストが、生まれながらにしてダビデの王位を継ぐ者でなかったなら、彼は預言のキリストではないからです。
クリスチャンはすぐにこのことを忘れてしまいます。
もはや、ユダヤ教の揺るぎない戦線に対して信仰を主張するのではなく、異教徒の世界に対してこのことを称賛するだけになってしまいました。
しかし、それは使徒たちの直接の後継者たちによって忘れられることはなかったのです。
ゆえに、ユダヤ人に宛てた手紙の中で、殉教者ユスティノスは、キリストはキレニウスへの課税の間に生まれたと力説しています。
その当時、現存していて参考可能な文書として、その人口調査のリストに挙げられています。
ヨセフとマリアはナザレに住んでいたが、登録されるためにベツレヘムに上ったこと、そしてそのようにしてその子は軽蔑されたガリラヤの村ではなく、王の都で生まれたことが証明しました。[1]
そして、ナザレ人の家系と出生に関するこれらの事実は、一方が主張し、他方が否定しています。
イエスの神性とその使命が超越的な証拠によって確立されたという論争をまとめるほぼ唯一の根拠となりました。
イエスの行為が人間を超えたものであることに疑問を呈する者は誰もいません。
しかし、盲目と憎しみは悪魔の力によるものです。
そして、後世において、信仰のより深い敬意を拒む者でさえ、数百万の人々の称賛を集めてきた崇高な言葉も、このように偏見を持つ人々には魅力を持つことはありません。
しかし、母マリアをベツレヘムへ連れてきた課税に関するこれらの記述は、評価する道徳的適格性を必要とせずに理解できる明白な事実を扱っています。
このような事柄において、聖徒ルカのような筆者が誤りを犯すということは全く考えられません。
しかし、その誤りが修正されることなくそのまま残されるというのは全く信じ難いことです。
この福音書の記者からほぼ100年後に殉教者ユスティノスは、この事実を疑いの余地のない事実として引用しています。
したがって、キレニオの最初の課税がヘロデ王の死の前に行われ、その進行中にキリストがベツレヘムで生まれたという事実は、歴史上、真実に確実な事実の中でも最も確かなものの一つとして受け入れられてきました。
ほんの数年前であれば、この発言は嘲笑か憤慨をもって受け止められたかも知れません。
福音書の記者がキュレニウスについて言及していることは、全く時代錯誤としか思えません。
疑いようのない史実によれば、彼の総督在任期間と「課税」の日付は、キリスト降誕より9、10年後だったからです。
シュトラウスやその部族の他の者たちはこれを得意げに扱い、数え切れないほどの著述家たちは謎、もしくは誤りとして退けました。
しかし、近年、ベルリンのズンプト博士の研究によって正しい事が証明されています。
奇妙な偶然ですが、この時期の歴史には紀元前4年からの7、8年間の中断期間があります。[2]
したがって、シリア総督の一覧は私たちの知るところではありません。
そして、同じ時期に、ギリシャのキュレニウスであるP.スルピキウス・クィリヌスも歴史から姿を消しています。
しかし、ツムプト博士は、聖書とは無関係の一連の別個の調査と議論によって、クィリヌスが二度もこの属州の総督を務めたこと、そして彼の最初の任期は紀元前4年後半、クィンクティリウス・ウァルスの後を継いだ時であったことを立証しました。
この結論は全会一致で受け入れられているため、ここでこの問題について議論する必要はありません。
しかし、ここで、この点に関して一つ言及しておくことは適切だと思います。
ツムプト博士の結論の根拠は、状況証拠の連鎖と適切に表現することができています。
この結論は十分に確実であると批判者たちも同意しています。[3]
この確実性を絶対的なものにするには、名声ある歴史家による確固たる証言以外に必要なものはありません。
例えば、ディオン・カッシウスの歴史書の失われた断片の一つが発見されました。
そこにヘロデ王の治世末期にクィリヌスが属州を統治していたという記述が含まれていたとすれば、その事実はアウグストゥスがローマ皇帝であったことと同じくらい確実であるとみなされます。
キリスト教の著述家が聖徒ルカの証言に同等の重みを置くとしても、それは許されることです。
したがって、ここではキリストの誕生が紀元前4年の秋以降に起こったことは絶対的に確実であると仮定できます。[4]
英国でこれほど著名かつ信頼できる年代学者は他にいません。
そして、この結論が学識によって導き出されるあらゆる論点と整合していることを十分に保証するものです。
ファインズ・クリントン氏はこの件に関する議論を次のように要約しています。
「キリストの降誕はヘロデ王の死の18ヶ月前以内、あるいは5ヶ月、もしくは6ヶ月前以内です。
ヘロデ王の死は紀元前4年の春か紀元前3年の春のどちらかです。
したがって、降誕の最も古い日付は紀元前6年の秋(ローマ紀元748)であり、これはヘロデ王の死の18ヶ月前です。
最も遅い日付は紀元前4年の秋(ローマ紀元750)であり、これは彼の死の約6ヶ月前であり、紀元前3年の春と推定されます。」[5]
この意見に重みがあるのは、年代学者としての著者の名声のためだけではありません。
それはキリストの実際の誕生日についての彼の見解が、彼の公平な感覚がこのようにすることを許していたならば、キリストの誕生日の範囲をさらに狭めたかも知れないからです。
さらに、クリントン氏は、ツンプトが後にクィリヌスの人口調査に関して明らかにした事実を知らずに執筆しました。
この新たな要素をこの問題の検討に導入することで、クリントン氏の見解を採用し、ヘロデ王の死を紀元前3年のアダルの月、キリストの降誕を紀元前4年の秋とすることを絶対的な確信を持って割り当てることができたのです。
人類にとってこれほどまでに超越的な関心事である出来事の時期について、わずかですが不確実性が見られるということは、不思議な意味を持つ事実です。
しかし、神の子の誕生日についてどんな疑問があろうとも、地上における神の宣教の時期について同様の疑問が抱かれるならば、聖書のページに省略されているはずがありません。
聖書全体を通して、ルカの福音書3章の冒頭の数節ほど明確な年代は他にありません。
「皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、
アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」
(ルカの福音書3章1、2節)
さて、ティベリウス・カエサルの治世の日付は完全に正確に知られており、即位から数えて15年目は西暦28年8月19日に始まりました。
さらに、そのように計算された年に、この箇所で名前が挙げられている人物は皆、そこに割り当てられた地位に実際に就いていたことも知られています。
したがって、ここでは何の困難も疑問も生じないと思われるかもしれません。
しかし、福音書記者は主ご自身の宣教の始まりについて語り、「教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳」と述べられています。[6]
この記述は、一般的に生誕の日付と関連付けられています。
そのため、「ティベリウスの治世第15年」は彼の治世の時代ではなく、アウグストゥスの最後の2年間に彼に何らかの権力が授けられたことを歴史が証明しています。
つまり、より以前の日付を指すと解釈されるべきだとされてきました。
しかしながら、こうした仮説はすべて、一つの圧倒的な反論を受けます。
すなわち、西暦14年8月19日に始まったティベリウスの治世は、ルカの時代には、現代におけるヴィクトリア女王の治世と同じくらいよく知られた日付だったのです。
。
このように、ティベリウスの治世がこれ以外の方法で数えられた例は、これまでも、また今後も、一つとして挙げられることはありえません。」[7]
つまり、聖徒ルカのこれらの記述と、福音記者自身がキレニウスの指導のもとで定めた降誕の日付(紀元前4年秋)との間にも、何ら矛盾はありません。
なぜなら、西暦28年秋にさかのぼるのであれば主の宣教活動は、実際には31歳になる前に始まっていた可能性があります。
それよりも、その数か月後より遅い可能性はないからです。
「約30年」という表現には、そのような余裕が含んでいます。[8]
したがって、福音書の記者の言葉に強制的に特別な意味を付与することはまったく不必要であり、絶対に正しいとは言えません。
そして、ティベリウス帝の治世15年までに、全世界がルカが意味していたと想定したとするもの、つまり、ルカは西暦28年8月19日から始まる年を示していたはずなのです。
このように、議論や論争の領域を抜けて、私たちはついに、この調査において極めて重要な、十分に確認された日付に到達することができます。
地上で主が公の宣教をされた最初の過越の祭は、福音書の物語自体によって、明確に西暦29年のニサンと定められています。
そして、このように私たちは十字架刑の年を西暦32年と定めることができます。[9]
ピラト書や、ティベリウス帝の治世15年がキリストの死の年であると信じていた一部の教父たちの著作に具現されている伝承とは明らかに反対です。
ある者は、バプテスマの日と受難の日を混同したからです。
ある者は、両方とも一年間に起こったと仮定したからです。
他の者は、彼らが検査せずに彼らの前任者から転写したからなのです。[10]
西暦29年から33年までのどの年についても、膨大な数の名前を挙げることができます。
しかし、そのような証言は、優れた証言が見つからない限りにおいてのみ、有効です。
一見、完璧に見える状況証拠の連鎖も、疑いようのない真実性と価値を持つ一人の証人の証言の前には崩れ去ってしまいます。
たとえ、群れの半分の一致した意見であっても、一枚の羊皮紙に反する状況証拠の連鎖を支持することはできません。
このように、教会の伝承の積み重ねは、たとえそれが実際には矛盾に満ち曖昧であるのと同じくらい明確で明瞭であったとしても、ここで訴えている証拠に勝るものではありません。
しかし、もう一つ注目すべき点があります。
多くの著述家、その中には著名な人々も含まれます。
しかし、彼らはこの問題について、受難の日付を確定するには、ある一定の範囲内で、過越しの月が金曜日に満月となる年を見つければよいのかを論じてきました。
しかし、これは問題の複雑さを奇妙に忘れていることを物語っています。
確かに、今日のユダヤ暦の決定に用いられている制度が18世紀前に施行されていたならば、論争の焦点は特定の年の過越しの週の日付に絞られていたかもしれません。
しかし、当時用いられていたエンボリスム法に関する私たちの無知ゆえに、その日付には何の重みも与えることはできません。[11]
ユダヤ暦は360日の太陰太陽暦でした。
しかし、エジプトで何世紀にもわたって行われていたように、ヘロドトスが言う「補足日」を毎年追加することで調整していた可能性は否定できません。[12]
しかし、現在の年表を採用した後も、彼らがこれほど原始的な方法で暦を修正し続けたとは考えられません。
この目的でメトン周期を用いたのは比較的最近のことです。[13]
そして、彼らは太陰暦を用いて、セレウコス朝の時代にも、その調整のために古い8年周期を得ていた可能性が高くあります。
この周期は初期クリスチャンの間で過越しの祝いの計算に用いられていたという事実があります。[14]
これはユダヤ人から借用されたという推測を生じさせます。
しかし、この主題については確かな知識がありません。
実際、この件に関して唯一確かなことは、過越の祭。
しかし、天文学的な厳密な計算に基づいて計算された著者によって割り当てられた日に当たらなかったことです。
実際、この件に関して合理的で確実な唯一のことは、過越の祭が著者によって割り当てられた日には適用できないことです。
著者たちの過越の祭に関する計算は厳密な天文学的正確さでなされています。 [15]
ミシュナは、月の始まりは真実な新月ではなく、月盤の最初の出現によって決まるという明確な証拠を提供しています。
パレスチナのような気候では、緯度が不明解なため、月の始まりが遅れることはほとんどありません。
そして、ときおり「太陽も星も何日も現れない」という状況があったことは間違いありません。[16]
これらの考察は、どの年でもニサンの15日は金曜日であったという主張を正当化します。[17]
例えば、西暦32年、過越しの祭りの基準となった真実な新月の日付は、3月29日の夜(1時57分)でした。
したがって、月齢の法則によれば、ニサン1日の本来の日付は3月31日です。
しかし、実際には4月1日まで延期されていた可能性があります。
その場合、ニサン15日は4月15日の火曜日に当たるはずです。
しかし、暦はうるう日によってさらに乱されていた可能性があります。
8年周期の法則によれば、エンボリスム月は3年目、6年目、8年目に挿入され、西暦22年から45年までの暦を調べると、西暦32年はそのような周期の3年目であったことがわかります。
したがって、太陽暦と太陰暦の年差は11日なので、3年間で33日と4分の1となり、13番目の月(ヴェーアダル)の30日間のうるう日を挟んでも、まだ3日と4分の1の期間が残ります。
そして、「教会の月」は現実の月よりそれだけ早いので、祝日は福音書の記述通り、金曜日(4月11日)に当たります。[18]
さらに、これは、ゲッセマネの森や洞窟について詩的に語られたにもかかわらず、依然として難問が残る理由を説明しています。
ユダは、園の最も暗い影や奥深くまで主を追跡するのに松明もランタンも必要としていません。
そして、群衆が犠牲者を捕らえようと押し寄せるのも、彼が卑劣で罪深い任務を遂行するまでは、どうやら必要なかったようです。
そして、彼らが主を捕らえるためにこっそりと立ち去る勇気がなかったならば、サンヘドリンが裏切り者をそそのかして真夜中に憎悪の対象を彼らに売り渡す必要はなかったはずです。[19]
たいまつやランプが灯るたびに、周囲に眠っている何百万もの人々が目を覚ます危険性が高まります。
なぜなら、その夜、ユダの人々は皆、過越の祭を祝うために首都に集まっていたからです。[20]
もし満月がエルサレムの上空高く昇っていたなら、彼らの罪深い使命を急がせるのに他の光は必要はありません。
しかし、もしその木曜日の夜、過越しの祝いの月がまだ10日目か11日目だったとしたら、彼らが出発する前に地平線の下の方にあったことは間違いありません。
これらの指摘は、キリストの死の年月日に関する既に提示された証拠を裏付けるためではなく、一見すると致命的に見える反論に答えるのがいかに容易であるかを示すためだけになされたものです。
第8章 補足説明
[1]ベツレヘム、「ここでイエス・キリストがお生まれになりました。あなたがたも、ユダヤにおけるあなたがたの初代総督キュレニウスの時代に行われた課税の一覧表から知ることができるできます。」(Apol., 1., §34)
「私たちはキリストが150年前にキュレニウスのもとに生まれたと主張します。」(Ibid., §46)
「しかし、ユダヤでキレニウスが最初に登録手続きを行ったとき、パウロは住んでいたナザレから、ベツレヘムの地へ登録のために上りました。」などです。(Dial. Trypho, §78.)
[2]ここではヨセフス氏は物語に空白を残しており、写本が失われたため、この時代に関するもうひとつの権威であるディオン・カッシウスの歴史書は欠落部分を補うことができません。
[3]この問題に関するツンプト博士の研究は、初めて1854年にラテン語の論文として公表されました。
さらに最近になって、彼は彼の著書「Das Geburtsjahr Christi (Leipzig, 1869)」の中でそれらを発表しました。
英語圏の読者は、彼の議論の要約を「ルカの福音書2章1節の注釈(Dean Alford's Greek Test)」と「(Smith's Bible Dict)」の中の「キュレニウス(Cyrenius)」に関する論文の中で、彼の議論の要約を見ることができます。
彼は自分の議論を「非常に印象的で満足のいくもの」と評しています。
「ファラー博士(Dr. Farrar)」は、「「ツンプト(Zumpt)」は、信じられないほどの努力と研究をもって、クイリヌスがシリアの総督を二度務めたという極端な確率を証明することで、この問題における聖ルカの正確さをほぼ確立した」と述べています。 (Life of Christ, vol. 1. p.7, note)
また、1871年4月の「クォータリー・レビュー(Quarterly Review)」誌の記事も参考にしてください。。
同誌の記事では、ツンプトの結論は「ほぼ確実」「ほぼ確実」と評価されています。
この問題は、「ヴィーゼラー著「クロノス・シン」(Wieseler's Chron. Syn) (Venables's trans.) 」でも論じられています。
「メリヴェイル(Merivale)」氏は、ローマ史において、これらの結果を全面的に採用しています。
彼は(vol. 4., p.457)「アウグストゥス・ツンプト(Augustus Zumpt)」が『碑文学評論』第2巻で、「キリヌス(Quirinus)(ルカの福音書2章のキュレニウス)」が紀元前4年(A.U.750)の終わりから紀元前1年(A.U.753)までシリアの初代総督であったことを証明したことで、この点に注目すべき光が当てられました」と述べています。
[4]私たちの主の誕生は、ピアソンとフグによって紀元前1年、スカリゲルによって紀元前2年、バロニウス、カルウィシウス、ズスキント、パウルスによって紀元前3年、ラミー、ベンゲル、アンガー、ヴィーゼラー、グレスウェルによって紀元前4年、アッシャー氏とペタウィウスによって紀元前5年、イデラーとサンクレメンティによって紀元前7年とされました。
(Smith's Bible Dict., "Jesus Christ," p.1075)
なお、ツンプトの降誕日は、独立した根拠に基づいて紀元前7年と定められています。
イデラーに従って、ツンプトは、その年に起こった木星と土星の結合が、東方の三博士たち(Magi)をパレスチナへ導いた「星」であると結論づけています。
[5]Fasti Romani, A.D.29。
[6]ルカの福音書3章23節の訳は正しい訳です。
新改訳聖書では「教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で」と訳されています。
[7]Lewin, Fasti Sacri, p.53. Diss., chap.6.
グレスウェルが精緻に論じたティベリウス帝の共同帝位説は、彼のように磔刑を西暦29年、もしくは30年とする著述家にとって必要です。
サンクレメンティは実際、「歴史書、記念碑、貨幣のどこにも、この皇帝の在位期間を数えるそのような方法の痕跡は見当たらない」と結論付けています。
ルカの福音書3章1節の日付をバプテスマのヨハネの宣教活動ではなくキリストの死を指すものと解釈することで、この難題を解決しています。
ブラウンは、上記の仮説が「致命的な反論に直面する」ことを認識しつつ、これを修正した形で採用しています。
彼は、ローマの役人のために、そして一般的には異邦人のために書いたルカが彼らに確実に誤解されるような表現をしたとは「全く考えられない」と述べています。
したがって、福音記者の記述は、受難の日付に関する彼の結論と矛盾しているにもかかわらず、彼はそれを受け入れる義務があると認めています。
(Ordo Saec., §§71 and 95)を参考にしてください。
[8]「ディーン・アルフォード」は次のように述べています。
「この法律は かなりの自由度が認められる。
しかし、それは一方向、つまり30年以上にわたってのみです。」 (Gr. Test., in loco)
[9]「私たちの主の宣教活動は三年以上続いたことは、私には絶対的に確かであるように思われる」
(Pusey, Daniel, p.176, and see p.177, note 7)
この見解は今や広く受け入れられており、その根拠を詳しく述べる必要はもはやありません。
実際、近年の著述家は、主の宣教活動には四回の過越の祭が含まれていたと、証拠もなしに概説しています。
この問題について私が知る限り最も納得のいく議論は、ヘングステンベルクの『過越の祭』です。
(Christology, Arnold's trans., §§755-765).
使徒ヨハネは、主が臨在された三つの過越の祭について明確に述べています。
ヨハネの福音書5章1節の祭りが過越の祭であるならば、疑問は解決します。
現在では、その祭りはプリム祭か、過越の祭のいずれかであると一般的に認められており、後者を支持するヘングステンベルクの証拠は圧倒的です。
しかし、プリム祭は神の認可を受けていません。
それはクセルクセス13年(紀元前473年)にペルシア女王エステルの勅令によって制定されたもので、宗教的祭りというよりはむしろ社交的、政治的な祭りです。
会堂での礼拝は、この日を特徴づける過度の飲食に比べれば、全く副次的なものでした。
私たちの主がそのような祭りを守ったかどうかは疑わしいものです。
通常の慣習に反して、わざわざエルサレムまで行って祝ったというのは、全く信じ難いことです。
[10]Clinton's Fasti Rom., A. D. 29.
[11]月は月の満ち欠けから始まった。
ニュートンによれば、これは月齢が18時間になった時に起こりました。
したがって、14日目のニサンは月齢が13日18時間で、満月まであと1日22分という時に始まりました。
(満月の月齢では14日18時間22分となります。)
しかし、月齢が1日17時間になるまで延期されることもありました。
そして、最初のニサンが満ち欠けまで延期された場合、14日目のニサンは満月のわずか1時間22分前に始まることになります。
しかしながら、月に合わせて月を調整するというこの精密さは、実際には存在していません。
ユダヤ人は、太陰暦を採用し、その不足分を閏月で補った他の民族と同様に、完全な正確さを得ることをしていません。
キリスト教時代の彼らの計算方法がどのようなものであったかは、私たちには分かりません。
(Fasti Rom., vol. 2., p.240)
西暦28年から33年までの間、満月の満ち欠けが金曜日に重なったのは西暦30年のみです。
西暦29年には満月は土曜日、満ち欠けは月曜日に重なりました。
(Wurm's Table, in Wiesler's Chron. Syn., Venables's trans., p.407)を参考にしてください
[12]Herod. 2:4.
[13]ユダヤ人が暦の調整に19年のメトン周期を採用したのは、西暦360年頃のことです。
それ以前は84年周期を用いていました。
これは明らかに76年のカリプス周期にギリシャ語のオクタエテリスを加えたものでした。
一部の著述家は、この周期が主の時代にも用いられていたと述べています。
しかし、その記述は極めて疑わしいものです。
これは後代のラビたちの証言に基づいています。
一方、「ユリウス・アフリカヌス(Julius Africanus)」は著書「年代記」(Chronography)」の中で、「ユダヤ人は8年ごとに3つのうるう月を挿入する」と述べています。
現代のユダヤ暦については(Encyc. Brit(9th ed., vol. 5., p.714))を参考にしてください。
[14] Browne, Ordo saec,§4
[15]例として(Browne Ordo saec., §64)を参考にしてください。
彼は「ある年にパスカルの月が木曜日の日没から金曜日の日没までの間のどの瞬間にも満月であった場合、その二つの日没の間に含まれる日はニサンの15日です。
この根拠に基づいて、彼は西暦29年は、十字架刑の唯一の可能性のある日付です」」と述べています。
しかし、彼自身の表が示すように、この条件を満たす可能性のある年、つまり、西暦28年から33年の間の年には存在していません。
なぜなら、西暦29年の過越しの祝いの満月は3月18日金曜日ではなく、4月16日土曜日だからです。
この見解はファーガソン氏らも支持しています。
これはおそらく、近年までミシュナが英語に翻訳されていなかったという事実によって説明されます。
[16]使徒の働き27章20節
ミシュナの論考「ローシュ・ハシャナ」は、「第二神殿」時代の新月祭の規定方法について論じています。
サンヘドリンは、月を見たという事実を証明するために、二人の有能な証人による証言を要求しました。
そして、これらの証人の旅程と尋問のために定められた数々の規則は、彼らがくりかえし遠方から来たことを証明しています。
実際、彼らが「一昼夜、道中を」過ごしたという事例も挙げられています。(ch.i., §9)
したがって、サンヘドリンによる布告は、満ち欠けから一日、あるいは二日遅れることもあったかもしれません。
また、満ち欠けが月齢1日17分まで遅れることもあったかもしれません。(Clinton, Fasti Rom., vol. 2., p.240)
そのため、ニサン1日は真実な新月よりも数日遅れていた可能性があります。
さらに、現代のユダヤ暦のように、特定の祝祭日が不適合な日に重ならないようにする規則の適用によって、さらに遅延された可能性もあります。
ミシュナ「ペサヒム(Pesachim)」によれば、この目的のための現在の規則は施行されていなかったようです。
それでも、同様の規則が適用されていた可能性もあります。
[17](Fasli Rom., vol. 2., p.240,)を参考にしてください。
過越しの祭が金曜日にあった年を決定することが不可能であることについては、240ぺージを参考にしてください。
[18]以下は、「8年周期(octaeteris)」の図式です。
「太陽年の長さは365と1/4日で、太陰暦の12ヶ月は354日です。
この差は「エパクト(epact)」、もしくは「エパゴメネ(epagomene)」と呼ばれ、11と1/4日です。
これが最初の年の「エパクト」です。
したがって、2年目の「エパクト」は22と1/2日、3年目の「エパクト」は33と3/4日です。
この33と3/4日で30日の太陰月が作られ、これが3年目の閏月、もしくは13番目の月「エンボリスモス(embolismos)」として加えられ、余り、もしくは「エパクト」は3と3/4日となります。
したがって、4年目の「エパクト」は11と1/4+3と3/4=15日、5年目の「エパクト」は26と1/4、6年目の「エパクト」は37と1/2です。
これは、7年半の「エパクト」を持つ30日間の2番目の「エンボリズム(embolism)」となります。
したがって、7年目の「エパクト」は18と3/4、8年目の「エパクト」は18と3/4+11と1/4= ちょうど30となり、「エパクト」が残っていない3番目のエンボリズムとなります。
(BROWNE, Ordo Saec., § 424)
西暦22年から37年までの過越しの祝いの満月の日数は以下の通りです。
「エンボリズム」の年は、「8年周期(octaeteris)」に従って「E」と記されています。
西暦
22 4月5日
23 3月25日
24 4月12日
25 4月1日
26 3月21日
27E 4月9日
28 3月29日
29E 4月17日
30 4月6日
31 3月27日
32E 4月14日
33 4月3日
34 3月23日
35E 4月11日
36 3月30日
37E 4月18日
[19]ルカの福音書22章2〜6節
[20]ヨセフス氏は、祭りには「数え切れないほどの群衆」が集まったと証言しています。
(Ant.,17.,9,§3)
また、エルサレム包囲の前の過越の祭では、市内にいた外国人の他に、2,700,200人以上が実際に過越の晩餐に参加したと計算しています。
(Wars,6.,9,§3)
第9章 過越しの祝い(パスカル)の晩餐
証人の信頼性は、どれだけ真実が含まれているかではなく、誤りがないかどうかによって試されます。
たった一つの明白な誤りによって、最高の価値があると思われた証言の信用を失墜させることがあります。
この原則は、福音書の物語の信憑性を評価する際に特に強く適用されます。
この論争において生じる「裏切りは実際に過越しの祝いの晩餐の夜に起こったのか?」という疑問に、誇張しすぎることのできない重要性を与えています。
もし、一般的に主張されているように、福音書記者の一人、あるいは全員が明確かつ明白な事実において誤りを犯していたならば、彼らの著作がいかなる意味でも神の霊感を受けたものであると主張するのは無益なものとなります。[1]
最初の三つの福音書の証言は、最後の晩餐がユダヤ教の過越の祭で行われたという点で一致しています。
過越の祭の犠牲を伴わない、前もっての祝典であったことを証明しようとする試みは、たとえ最善の動機からなされたとしても、全く無駄です。
「さて、種なしパンの祝いの第一日目に、弟子たちがイエスのところに来て言った。
「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」」(マタイの福音書26章17節)[2]
これは主の申し出ではなく、過越の日とそれに付随する儀式を知っていた弟子たちが主のもとに指示を求めた提案でした。
使徒マルコはさらに明確に、この出来事が種なしパンの祝いの初日、過越の祭司たちがほふられた時に起こったと記しています。(マルコの福音書14章12節)
そして、聖ルカの言葉は、もし可能であるならば、さらに明確なものです。
「さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。」
(ルカの福音書22章7節)
しかし、使徒ヨハネの証言は、十字架刑がまさに過越の祭の犠牲の当日、そして時にはまさにその時刻に行われたという点において、同様に明確、明白であると確信を持って主張されています。
この見解を支持するために多くの著名な作家が引用され、その擁護のための論争は尽きることがありません。
しかし、聖書の完全性が問題となっている場合、偉人への敬意を訴えることは一瞬たりとも許されません。
福音書がここで絶望的な矛盾を抱えていることを証明するために尽力された学識にもかかわらず、福音書を神の啓示として尊重することを学んだ者なら、主要な問題がユダヤ教の法令とモーセの律法に関する一般的な無知に完全に依存していることに気付くとしても驚くことはありません。
これらの著者は皆、過越の晩餐を、その後に続く、その名を貸した祭りと混同しています。
晩餐は、出エジプト前夜にイスラエルの長子が贖われたことを記念するものであり、祭りは彼らが奴隷の家から実際に解放された記念日でした。
晩餐は祭りの一部ではありません。
仮庵の祭りがそれに先立つ満了の日の大きな罪の捧げ物に基づいていたように、それは道徳的に祭りが設立され土台となったものです。
しかし、週の祭りが一般的にペンテコステと呼ばれるようになったのと同じように、種なしパンの祭りは一般的に過越し祭と呼ばれていました。[3]
この名称は晩餐と祝宴に共通しており、この両方を含んでいます。
しかし、賢明なユダヤ人は決して両者を混同することはありません。
もし過越の祭の祝宴について強調して語るならば、晩餐を除外してこの祭りに注目します。[4]
この区別を、最後に公布された律法によってモーセ五書が与えた言葉以上に明確に表現できる言葉はありません。
「第一の月の十四日は主の過越の祭であり、この月の十五日は祭りです。」[5]
この簡単な説明に照らしてヨハネの福音書13章を開くならば、すべての困難は消えてしまいます。
その場面は、祭りの前夜の「過越の祭りの前の」パスカルの晩餐です。[6]
弟子たちの足を洗う物語の後、福音書の記者はユダが急いで立ち去ったことを語り続け、主が裏切り者に対して命じた言葉は、「祭りのために入用の物を買え」という意味だと解釈された人々もいたと説明しています。
(ヨハネの福音書13章29節)
祭りの日は安息日であり、商売は禁じられています。
祭りに必要な物資は前夜まで入手できたと思われます。
この論争に蔓延するもう一つの誤りは、ユダヤ人の日が常に夕方から始まるヌクタメロン(nukhtameron)とみなされていたという仮定です。[7]
疑いなく、これは一般的な規則であり、特に儀式的な清めの律法において明白な内容です。
まさに、この事実から、ユダヤ人が裁きの場に入ることで自らを汚すことを拒んだ過越の祭は、過越の晩餐ではないと疑いなく結論づけることができます。
なぜなら、過越の晩餐は、そのような汚れがなくなる時刻を過ぎてから食べられたからです。
律法の言葉によれば、日が沈めば、彼はきよくなり、その後、聖なるものを食べることができます。
「ただし、日が沈めば、彼はきよくなり、その後、聖なるものを食べることができる。それは彼の食物だからである。」
(レビ記12章7節)
祭りの日の聖なるささげ物についてはこのようではありません。
彼らは、汚れがなくなる時刻を過ぎてから食べなければならなかったのです。[8]
したがって、唯一の疑問は、祭りの和解のささげ物を食べることが「過越の食事」と適切に呼べるかどうかです。
モーセの律法自体がその答えを与えています。
「主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、羊と牛を過越のいけにえとしてあなたの神、主にささげなさい。
それといっしょに、パン種を入れたものを食べてはならない。」
(申命記16章2、3節)
申命記16章2、3節、歴代記第二35章7、8節と比較してください。
もし、使徒ヨハネの言葉がこのように解釈された場合にのみ理解可能です。
そして、このように解釈されたときに最初の三人の福音書の記者の証言と一致するならば、18章の出来事が祝祭日に起こったことを確信させる要素は何も欠けていません。
あるいは、まだ確認が必要ならば、まさにこの章の最後の節がそれを示しています。
なぜなら、引用されている慣習によれば、総督は祝祭日に囚人を民衆に釈放したからです。
ヨハネの福音書18章39節、マタイの福音書27章15節、マルコの福音書15章6節、ルカの福音書23章17節と比較してください。
祝祭日に民衆が主を捕らえることを恐れて、パリサイ人たちは、過越しの祝いの晩餐の夜にイエスを裏切ろうと躍起になりました。
(マタイの福音書26章5節、 マルコの福音書14章1、2節)
こうして、すべての福音書記者が述べているように、ピラトの前での罪状認否は祭りの日に行われました。
しかし、ヨハネは明確に「過越の祭の準備の日」と述べており、これは必ずしもニサン月の14日を意味しているのではないでしょうか?
答えは明白です。
聖書にも世俗の書物にも、その日についてこのように記述している箇所は一つも引用されていません。
一方、ユダヤ人の間では「準備の日」は安息日の前日を指す一般的な呼び名であり、すべての福音書の記者もそのように用いています。
読者はこの点を念頭に置き、ヨハネ福音書第19章14節を同章31節と42節と比較してみてください。
そうすれば、問題の言葉を「過越の祭の金曜日であった」と訳すのに何も困るようなことはありません。[9]
しかし、この論争では、使徒ヨハネのもう一つの記述が引用されています。
「その安息日は大いなる日であったので」と彼は述べており、したがって、ニサン月の15日であったに違いないと主張しています。
(ヨハネの福音書19章31節)
この「あったので(therefore)」という言葉の説得力によって、ニサン月の15日に捧げられたすべての大きな犠牲が、祭りの間毎日繰り返されたという事実を見過ごしていることに従っているからです。
(民数記28章19〜24節)[10]
ゆえに、安息日は「大いなる日」だったのです。
しかしそれだけでなく、安息日は神殿で収穫の初穂が捧げられる日として特に重要視されていました。
なぜなら、この儀式に関しても、聖書を唯一の指針とするカライ派ユダヤ人と、長老たちの伝統に従うラビ派ユダヤ人との間の後者では、他の多くの相違点と同様に完全に間違っているからです。
律法は、初穂の束を「(過越の)安息日の翌日」に主の前に揺り動かすことを命じています。(レビ記23章10、11節)
それは、その日から七週が数えられ、ペンテコステの祭りで終わりました。
しかし、申命記は週は収穫の初日から数えるべきであると明確に定めています。
申命記16章9節、レビ記23章15、16節も参考にしてください。
したがって、安息日の翌日は安息日ではなく、労働日であるべきであることは明らかです。
したがって、この儀式の真実な日は、過越の祭の翌日の「週の初めの日」である復活の日です。[11]
律法の趣旨によれば、大麦の収穫が始まり、最初に収穫された麦束が聖所に運ばれ、ヤハゥエの前で厳かに揺り動かされるはずでした。
しかし、ユダヤ人にとって、このすべては、律法に違反して数日前に収穫した穀物から作った少量の粉を神殿に捧げるという空虚な儀式によって忘れ去られていました。
この儀式は必ずニサンの16日に執り行われ、過越の祭と安息日の深刻な儀式と重なります。
そのため、その日は間違いなく「偉大な日」なのです。[12]
キリストの死が過越の子羊がほふられたまさにその日であったという証明論は、それがもたらす同時性の見かけ上の適合性から、作りごとの関心と価値を獲得してきました。
しかし、この問題をより深く研究し、モーセの型をより広い視野で見れば、この結論の力は薄れるはずです。
カルヴァン主義の独特の教えは、レビ記の偉大なる罪のいけにえに特別な位置を与えることに基づいており、そこでは最も明確、かつ最も狭い意味での代償が必要です。
一方、過越の祭は常に最も人気のある型でした。
しかし、他の典型的なささげ物は、現在の主要な神学学派の体系ではほとんど完全に無視されているにもかかわらず、聖書の中では少なからず重要な位置を占めています。
レビ記で最初に挙げられているささげ物は、ヘブル人への手紙、すなわち新約聖書「レビ記」の神学において大きな役割を果たしています。
しかし、過越の祭については一度も述べられていません。[13]
さて、これらのレビ記のささげ物の祭りは、福音書によれば「メシアが断たれた」日です。(民数記28章17〜24節)[14]
他にも、さらにはっきりとした意義深い同時性は数多くあります。
地上におけるイエスの宣教活動の間中、屈辱と非難の中で過ごされたとはいえ、ねばり強い懇願や敬虔で愛に満ちた働き以外、聖なる御方に対して手が触れられたことはありません。
しかし、敵がイエスを捕らえようとした時、彼らの憎しみが阻まれない、来るべき奥義的な時が告げられました。
ユダと罪深い不敬虔な仲間たちが園でイエスを取り囲んだ時、イエスはこのように叫びました。
「しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です」
(ルカの福音書22章53節)
イエスは、地上におけるご自身の使命について思いを馳せた時を「わたしの時」と呼び、その使命を成し遂げる中で、ご自身が彼らの手の届くところにあると感じた時を「彼らの時」と呼びました。
人々によってイエスに与えられた苦しみは、キリスト教世界の人々の心に深く刻まれてきました。
しかし、これらすべてを超えて、イエスの受難の奥義は、イエスが神に見捨てられ、呪われたことです。[15]
ある意味では、イエスが人々から受けた苦しみは、まさにこのことの結果に過ぎません。
だからこそ、ピラトにイエスはこう答えたのです。
「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。」
(ヨハネの福音書19章11節)
もし、人々がイエスを捕らえ、殺したとすれば、それは神がイエスを引き渡したからです。
定められた時が来た時、それまでイエスを暴虐から守っていた力強い御手は退きました。
イエスの死は苦しみの始まりではなく、終わりでした。
実に、それはイエスの勝利の時でした。
ゲッセマネの真夜中の苦しみは、このように、滅ぼす御使いが地を駆け抜けたエジプトの真夜中の光景の偉大な型でした。
そして、イエスの死が民の解放の成就であったように、それは「ちょうどその日に、主はイスラエル人を、集団ごとに、エジプトの国から連れ出された」の記念日に起こりました。[16]
第9章 補足説明
[1]「霊感、ギリシャ語の(theopneustos)」、テモテへの第二の手紙3章16節
この問題に関する徹底的な議論は(Browne's Ordo Saec., §§ 65-70)を参考にしてください。
これは「最初の三つの福音書はこの点において四番目の福音書と矛盾している」ことを証明しています。
この問題は無数の書物で扱われています。
ここでは論争の要点のみを扱います。
ニサン15日の安息日が十字架刑の朝の出来事と矛盾するという議論は無意味です。
「ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます」
(マタイの福音書23章24節)
この聖句はこれらの場面の登場人物たちの特徴です。
もしこれに疑問を持つ者がいるなら、ミシュナを読んでみてください。
ユダヤ人が聖餐の夜に家を出ることが禁じられていたといった点は、出エジプトの夜に与えられた戒律と、その毎年の祝典に関する律法を混同することに依存しています。
同様に、出エジプト記12章で命じられているように、主が帯を締め、靴を履いて立つのではなく、夕食のときに横になったため、主が律法違反を容認し、それに加担したとも主張するかもしれません。[2]
「さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。」
(マタイの福音書26章17節)
それは祭りの初日ではありません。
タ・プロタ・トン・アズモン、あるいは聖徒ルカが言うようにハ・ハメラ・トン・アズモン、すなわち家からパン種が追放された日、ニサン14日、その晩に過越の食事をした日です。
[3]ルカの福音書22章1を参考し、ヨセフス氏著「古代ローマ人への手紙」14章2、1節、および17章9、3節と比較してください。
「種なしパンの祭り、これを私たちは過越の祭と呼んでいます。」
[4]あるいは、最後の単語に重点が置かれたならば、過越しの祭りとペンテコステ、もしくは仮庵の祭との区別がつくことができます。
[5]民数記28章16、17節
出エジプト記12章14〜17節とレビ記23章5、6節を比較し、出エジプト記第23章の祭りのリストでは過越の祭(すなわち、過越しの祝いの晩餐)が完全に省略されていることに注目してください。
[6]ヨハネの福音書13章1節
「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」
英語版のこの聖句では「祝宴」という言葉がイタリック体で表記されていますが、原文には存在していません。
[7]たとえば、贖罪の日(レビ記23章32節)や週ごとの安息日などがそうです。
しかし、過越しの祭は午前6時から真夜中までの間に食べられました。
しかし、律法で定められたこの期間は、ニサン月15日の初めではなく、14日の夕方、もしくは夜でした。
(出エジプト記12章6〜8節、レビ記23章5節を参考)
15日、つまり祝祭日は、間違いなく翌朝6時から数えられました。
ミシュナ(ベラホト論)によれば、その日は午前6時に始まるからです。
これらの著述家たちは、弟子たちがそこで過越の祭の食事をしていたと思い込んでいたにもかかわらず、ユダが過越の祭に必要な物を買いに派遣されたと想像していたと私たちに信じこませようとしています。
[8]一日が6時に終わるからです。
さらに、ユダヤ人の著述家たちの記録によると、これらの供物(タルムードではハギーガーと呼ばれています)は3時から6時の間に食べられ、儀式上の汚れは6時まで続きました。
[9]過越しの祝いの「(de paraskeua tou pascha)」については、31節と42節、そしてマタイの福音書27章62節、マルコの福音書15章42節、ルカの福音書23章54節と比較してください。
ヨセフス氏(Ant.,16.,6,2)は、ユダヤ人が安息日、もしくは準備日の9時以降に法廷に出廷することを免除する勅令を引用しています。
ヨハネの福音書19章14節に冠詞がないからといって、「(paraskeua)」という言葉にこの意味を与えることができないと主張するのは不当です。
その箇所では「過越しの金曜日」という言葉が使われています。
引用されている他の5つの節のうち3つで、この語は無冠詞です。
なぜなら、実際にはこの言葉は当時からその日の一般的な呼び名となっており、「過越しの金曜日」という表現は、私たちにとって「過越しの祝いの月曜日」がそうであるように、ユダヤ人にとって自然なものだからです。
(Alford's note on Mark 15:42)を参考にしてください。
さらに価値のあるのは、マタイの福音書27章62節に関する彼の説明(explanation of Matthew 27:62)です。
[10]民数記28章19〜24節
(Josephus, Ant.,3:10,5.)と比較してください。
[11]現在のユダヤ暦は、ニサンの14日が安息日に当たらないように調整されています。
(Encyc. Brit., 9th ed., title, Hebrew Calendar)を参考にしてください。
これは間違いなく意図されています。
なぜなら、その日の義務は四番目の戒律の適切な遵守と矛盾しているからです。
ならば、安息日の翌日は必ず労働日となり、収穫の初日に束を揺らすという律法の規定は完全に一貫しています。
このように、初穂を捧げる真実な日が過越しの祭りの3日目となるのは、一定の周期においてのみです。
しかし、十字架刑の年には、偉大な原型であるキリストの死からの復活がまさに神が儀式のために定めた日に起こりました。
(コリント人への第一の手紙15章20、23節)
したがって、真実なペンテコステの日は常に週の最初の日でなければなりません。
(レビ記23章15、16節参考)
つまり、その同じ年に真実なペンテコステは、ユダヤ人が祭りを守った安息日ではなく、その翌日です。
この事実は、使徒の働き2章1節で意図的ながらあいまいに使われている「なって」という言葉は「通過した」もしくは 「達成された」という意味です。
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
(使徒の働き2章1節)
つまり、意味で教会が聖霊の贈り物を受け取ったのは 「週の最初の日」 に集まったときであるという推定を裏付けるものです。
[12]実際に、それは一年で最も偉大な安息日であったはずです。
また、これだけでは、安息日について述べられていることを説明することは不十分だとする主張は無意味です。
[13] ヘブライ人への手紙11章28節に記されている過越の祭りに関する歴史的記述も、もちろん例外ではありません。
それは使徒の書簡の教義には存在しません。
[14]全焼の捧げ物と、穀物の捧げ物、和解の捧げ物(タルムードのハギガー)、そして罪の捧げ物です(レビ記1章4節)
[15]イエスの苦しみと死が私たちの罪の償いであったという大きな事実を証言する限りにおいては、敬虔な心はそのような言葉の意味を分析はしません。
しかし、信者は、その意味の現実性と深さについて、疑いを抱くことを許しません
[16]出エジプト記12章51節
毎年の祝祭における過越の祭は、真実な型であったエジプトの過越の祭の記念に過ぎません。
それは、主の死の時刻ではなく、その時刻の後、9時から11時の間に殺されました。
(Josephus, Wars, 6., 9, 3)
現在では完全に無視されていますが、型としての教義の解明は将来の神学者にとって重要な問題を残しています。
「ヘングステンベルク(Hengstenberg)」著の[Christology (Arnold's Ed.), § 765] のこの格言は、今でも神学に対する当然の非難として記録されています。
しかし、時には、このような論議において書かれた多くのことがその真実性を証明するために引用されるかもしれません。
復活の日は、紅海を渡った記念日です。
また、箱舟がアララト山に着いた記念日でもあります。
(創世記8章4節)
ニサンはかつて第七の月でした。
しかし、出エジプトの時に第一の月となりました。
(Exodus 12:2; cf. Ordo. Saec., § 299.)を参考にしてください。
ニサンの月の17日、新たな大地が洪水の水から姿を現し、救われた人々は海の水から姿を現し、主イエスは死から復活されました。
第10章 預言の成就
「隠されていることは、私たちの神、主のものである。
しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。」
(申命記29章29節)
そして、「明らかにされたこと」の中で、成就した預言は最も重要な位置を占めています。
それが成就した出来事を前面に出すのであれば、その意味は表面的なものに過ぎません。
神の受難の事実を認めれば、詩篇22篇との関係は疑いようがありません。
詩篇作者の言葉には、それを成就させた事実の性質ゆえに、深い霊的な意味が込められています。
しかし、預言が与える証言はすべての人に向けられており、走る者はそれを読むことができます。
では、この七十週の預言の真実な解釈には、これほど多くの探求と議論が必要なのでしょうか?
このような反論は完全に正しいものです。
しかし、その答えは、預言自体に現れる問題点と、預言が引き起こした論争に完全に依存している問題点とを区別することで見つかります。
ダニエル書は聖書の他のどの部分よりも敵対的な批判の対象となっており、9章の最後の節は常に主要な攻撃点となってきました。
残念ながら、それは必然的なことです。
なぜなら、もしこの一節が預言であると証明されれば、この書が神の啓示であるという特徴を確立することになるからです。
ダニエルの幻は確かにネブカドネザルの時代からアンティオコス・エピファネスの時代までの歴史的出来事を描写しています。
したがって、懐疑論者は筆者がマカバイ時代に生きていたと想定しています。
しかし、まともな証拠のふりさえせずに提示されたこの想定は、後代に成就した預言の一部を示すことによって完全に反論されます。
したがって、懐疑論者にとって、七十週の預言を信用しないことは極めて重要な意味を持ちます。
この預言は、攻撃者からの攻撃は何も受けてはいませんが、支持者からは大きな打撃を受けました。
キリスト教の解説者たちが提起した難題がなければ、その意味を解明するのに複雑な議論は必要ないはずです。
もし、キリスト教の著述家たちがこの主題について記してきたすべてのことを消し去り、忘れ去ることができたとしても、この幻の成就は、実際に成就したものに限って、歴史の開かれたページに明らかになるはずです。
これらの著述家たちへの敬意と、この主題を正しく理解する上で致命的な偏見を取り除かれることを願って、ここでこれらの難題について論じます。
残るは、これまでのページで記された結論を要約することだけです。
ダビデの家に委ねられていた地上の権力の杖は、ネブカドネザルを通して異邦人に移され、「異邦人の時が満ちるまで」異邦人の手の中に留まることになります。
ユダとエルサレムに約束された祝福は、次のように記された期間が過ぎるまで延期されました。
「七十週」であり、この時代の六十九週目の終わりにメシアは「断たれる」はずです。
この七十週は、エルサレムの街「広場とほり」の再建を命じた勅令の発布から数えられる、預言的な7年 (360日) の70倍を表します。
問題の勅令は、アルタシャスタ・ロンギトマヌスが統治の第20年に出した布告であり、ネヘミヤにエルサレムの要塞を再建する権限を与えた。
アルタシャスタの治世の日付は、聖書解説者や預言者による精緻な論考からではなく、世俗の歴史家と年代学者の一致した意見によって、明確に特定することができます。
聖徒ルカの記述は、主の公の宣教がティベリウス帝の治世15年に始まったことを明確に示しています。
また、それが過越の祭の直前に始まったことも明らかです。
したがって、その日付は西暦28年8月から29年4月の間と特定できます。
したがって、十字架刑の過越の祭は西暦32年であり、キリストは過越の晩餐の夜に裏切られ、過越の祭の日に処刑されました。
もし上記の結論が正しいものであるならば、アルタシャスタの勅令からキリストの受難までの期間は預言的に483年であったと推測されます。
そして、この件の性質上許される限りの絶対的な正確さは、人間がここで要求する権利以上のものはありません。
神の年代には曖昧な計算は許されません。
もし、神が預言で預言された御自身の目的の成就を人間の暦に記すとすれば、最も厳密な精査をもってしても誤算や誤りは見つけ出すことはできません。
ユダの自立を回復したペルシャの勅令は、ユダヤ暦のニサン月に発布されました。
実際にはニサン月1日とされていた可能性もあります。
しかし、他に日付が記されていないため、ユダヤ人の慣習に従い、預言の期間はユダヤ暦の元旦から計算されなければなりません。[1]
したがって、七十週は紀元前445年ニサンの1日から計算されることになります。[2]
さて、ユダヤ教の聖年の大きな特徴は、過越の祭のささげ物によって血に染まったエジプトのイスラエルの小屋に春分点の月が光を放ったあの記念すべき夜以来、変わることなく受け継がれてきました。
そして、いかなる年であっても、ユリウス暦のニサン1日の日付を狭い範囲内で定めることに疑問も困難もありません。
紀元前445年には、過越の祭の基準となった新月は3月13日午前7時9分でした。[3]
したがって、ニサン1日は3月14日に割り当てられることになります。
このように、預言の言葉は明確です。
「引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週」
(ダニエル書9章25節)
したがって、紀元前445年3月14日から数えて六十九週、つまり預言上の483年からなる時代は、「君主メシアに来るまで」という言葉を満たす何らかの出来事で終わるはずです。
キリストの降誕の日付がその期間の終わりであったことはあり得ません。
なぜなら、そうであれば、六十九週はメシアの死の33年前に終わっているはずだからです。
主の公の宣教の始まりが定まれば、別の種類の困難が立ちはだかります。
主が宣教を始められた時、神の国は主の降臨によって成就した事実としてではなく、実現は間近ではあるものの、まだ実現されていない希望として示されました。
主はバプテスマのヨハネの「天の国は近づいた」という証言を取り上げられました。
主の宣教は、預言的な聖書の成就として、主がご自身をダビデの子、イスラエルの王であると公に宣言し、国民が敬うことを求める時へとつながる、神の国への準備でした。
地上における主の生涯のクライマックスが王座ではなく、十字架であったのは、国民の罪悪によるものです。
福音書の物語を研究する者なら誰でも、事実だけでなく、主のエルサレムへの最後の訪問が、目的においても主の宣教活動の危機でした。
同時に目指すべき目標であったことを理解しないはずがありません。
主のメシアとしての主張を国民が拒絶する最初の兆候が示された後に、主は公にこの拒絶を一切認めようとしません。
しかし今、主の言葉と御業による二重の証が完全に示され、主が聖都に入城したのは、主がメシアであることを宣べ伝え、同時に破滅を受けるためでした。
使徒たちは、主を人々に知らせてはならないと何度も訴えました。
しかし今、主は「弟子たち全員」の歓呼を受け入れてこのように言いました。
「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」
(ルカの福音書19章39、40節)
このように憤慨した叱責によって、パリサイ人の抗議を黙らせました。
ルカの福音書の続く言葉の真実な意味は、本文のわずかな挿入によって隠されています。
群衆がこのように叫んでイエスを迎えました。
「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」
(マタイの福音書21章9節)
しかし、イエスは聖都を見上げこのように言われました。[4]
「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。」
(ルカの福音書19章42節)
エルサレムへの訪問の時が来ました。
しかし、エルサレムはそれを知らなかったのです。
そして、その前に、民は主を拒絶していました。
しかし、これは彼らの選択が覆すことのできない、定められた日だったのです。
聖書の中でゼカリヤの預言の成就として明確に示された日です。
「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」
(ゼカリヤ書9章9節)
地上におけるキリストの働きのすべての日の中で、君主であるメシアに対する御使いの言葉をこれほど満足させるものは他にありません。
そして、その日付を確認することができます。
ユダヤ人の習慣に従って、主は「過越の祭の6日前」のニサン8日にエルサレムに上りました。[5]
しかし、過越の晩餐が行われたその年の14日が木曜日だったため、8日はその前の金曜日でした。
したがって、イエスは安息日をベタニアで過ごしていました。
そして、安息日が終わった9日の夕方、晩餐はマルタの家で行われました。
福音書に記されているように、翌日のニサン10日、イエスはエルサレムに入城されています。[6]
ニサン10日目のユリウス暦の日付は西暦32年4月6日日曜日です。
では、エルサレム再建の勅令の発布から「君主メシア」の公的な降臨まで、つまり紀元前445年3月14日から西暦32年4月6日までの期間はどれくらいだったのでしょうか?
この期間はちょうど173日目、つまり880日、あるいは360日の預言的な69年を7回重ねた日、つまりガブリエルの預言の最初の六十九週を含んでいます。[7]
聖書には、不信仰者が価値を認め崇拝しながらも、聖なるものとして受け入れることを完全に拒否する点が数多くあります。
しかし、預言には半信半疑は許されません。
「七十週」の預言は、甚だしく不敬虔な偽りなのか?
もしくは最も完全かつ厳密な意味で神の息吹によるものなのかのどちらかです。[8]
将来、ユダの偉大な帰還によってエルサレムにその土地の正しい所有者が帰還する時、ユダヤ人自身がその遺跡の奥深くから、偉大な王の勅令とナザレ人の拒絶の記録を掘り起こすかもしれません。
そして、預言を受けた人々は、預言の成就の証拠に直面することになります。
その間、公正で思慮深い人々は、この預言についてどのような判断を下すのでしょうか?
ここで詳述されている事実と数字が単なる幸運な偶然の一致に過ぎないと信じることが、ダニエル書を聖なるものと受け入れるクリスチャンよりも、はるかに大きな信仰を必要とします。
不信仰は不可能な限界点を超えており、真実を拒絶する心は、妄信という誤った信仰に逃げ込まざるを得なくなります。
第10章 補足説明
[1]「ニサンの1日は、王の治世の計算と祭りのための新しい年です。
(Mishna, treatise "Rosh Hash.)
[2]城壁はエルル月の25日、52日間で完成しました。
(ネヘミヤ書6章15節)
さて、エルル月25日から52日さかのぼると、アブ月3日になります。
したがって、ネヘミヤは遅くともアブ月1日までには到着し、おそらくそれより数日早く到着していたはずです。
(ネヘミヤ書2章11節)
これを13年前のエズラの旅と比較してみましょう。
「すなわち、彼は第一の月の一日にバビロンを出発して、第五の月の一日にエルサレムに着いた。
彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあった。」
(エズラ記7章9節)
したがって、ネヘミヤも第一の月の初めに出発したと推測できます。
エズラとネヘミヤのそれぞれの旅の年代的な類似性から、二人は共にエルサレムへ上ったという独創的な説が提唱され、エズラ記7章とネヘミヤ書2章は同じ出来事について述べています。
この説は、ペルシャ人の計算法によれば、アルタシャスタの在位年は彼の生年を起点としていたという仮説に基づいています。
しかし、この仮説は空想的で場当たり的であるものの、その著者は「決してあり得ないわけではない」と述べています。
(Trans. Soc. Bib. Arch., 2., 110: Rev. D. H. Haigh, 4th Feb., 1873).
[3]この計算は王立天文学者のご厚意によるもので、この件に関する私の質問に対する回答を添付します。
「グリニッジ王立天文台」
1877年6月26日
拝啓、私の助手の一人にラルトーの「月に関する知識の補足」1846年版の表から月の位置を計算してもらいました。
しかし、その正確さに疑いの余地はありません。
計算された位置は444年3月12日20時(フランス時間)、つまり3月12日午後8時です。
この時刻は新月より約8時47分短いため、パリ時間で3月13日午前4時47分に新月が起こったことになります。
「(署名(G. B. AIRY)」
エルサレムの新月は紀元前445年3月13日(天文暦444年)午前7時9分に起こりました。
[4]ei egnos kai su kai ge en ta hamera tauta ta pros eipanan sou k. t. l.
「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。」
(ルカの福音書19章42節)
受け取ったテキストには(hamera)の後に(sou)が挿入されています。
しかし、最高の写本 (Alex.Vat.Sin.など) はそれを省略することに同意しています。
kai sou,「あなたも、そしてこれらの私の弟子たちも 」
kai ge et quidem—さらに(Alford, Gr. Test. in loco)もです。
KJVでは、「もしあなたがこの日に知っていたなら」などと書かれています。
[5]すなわちニサンの月の8日目に、人々は大勢で無酵母パンの祭りに集まっていた」(Josephus, Wars, 6. 5, 3).
「さて、ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。多くの人々が、身を清めるために、過越の祭りの前にいなかからエルサレムに上って来た。」
(ヨハネの福音書11章55節)
「イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。」
(ヨハネの福音書12章1節)
[6](Lewin, Fasti Sacri, p.230.)
[7]アルタシャスタ(エルサレム再建の勅令)20年の最初のニサンの月の紀元前445年3月14日でした。
受難週(キリストのエルサレム入城)のニサンの月10日は、
西暦32 年4月6日です。
その間の期間は476年24日でした (預言の言語の規定とユダヤ人の慣習に従い、日数は包まれて計算されます。)
このように476×365=173,740日
(3月14日から4月6日まで)24日間を追加します。
閏年は116日を加算します
合計173,880日です。
そして、預言上の年は360日で、69週 (もしくは 69x7x360) で173,880日になります。
ここで2つの説明を述べておくのがよいと思います。
まず、紀元前1年から紀元後1年までの年を数える場合、常に1年を省略する必要があります。
たとえば、紀元前1年から紀元後1年までは2年ではなく1年であったことは明らかです。
紀元前1年は紀元前0年と記述されるべきですが、天文学者もそのように計算しており、歴史的な日付である紀元前445年を444年と記述します。
次に、ユリウス暦は11分10秒46秒、つまり1日の約129分の1であり、平均太陽年よりも長いです。
したがって、ユリウス暦では4世紀の間に閏年が3日多く含まれており、この誤りは、9月3日を9月14日と宣言し、4年のうち3年を平年として数えるグレゴリオ暦の導入によって英国の暦が修正された西暦1752 年に11日に達しました。
たとえば、1700年、1800年、1900年は平年であり、2000年は閏年です。
「旧クリスマス」は今でも私たちの暦に記されており、一部の地域では1月6日とされています。
そして今日に至るまで、ロシアではこの暦は修正されていません。
Appendix 4, p.306 note 8.)
[8]「霊感、ギリシャ語の(theopneustos)」 (テモテへの第二の手紙3章16節)
第11章 解釈の原則
「これは私が不十分だと思っている作品です。
この働きは賢明さと冷静さと敬意を持って行われならず、行われていません。」
ベーコン閣下は、自らが「預言の歴史」と呼ぶ作品の中でこのように書いています。
「このような作品の本質は、聖書のあらゆる預言を、世界のあらゆる時代を通して、その預言が成就した出来事と照らし合わせて整理することです。
この仕事は、信仰をより強固にするため、また、未だ成就していない預言の部分に関して教会をより良く理解するためです。
しかしながら、神の預言に受け入れられ、また馴染みのある自由度も考慮に入れるべきです。
預言の作者である彼にとっては、千年も一日と同じであり、それゆえ、一度に時間通りに成就するのではなく、多くの時代を通して、絶えず芽生え、成就していくものなのです。
もし、それ以来ベーコン閣下が指摘した不足を補うために、その後多くの著述家たちがこれらの賢明で重みのある言葉に十分な注意を払っていたのでしょうか?
ならば、預言研究は、信仰者たちが敵対する陣営に分裂するという非難を免れたかもしれません。
クリスチャンにとって、預言の成就は単なる意見の範囲、いや事実の範囲でさえありません。
それは信仰の問題です。
したがって、私たちは預言が明確であることを期待する権利があります。
聖書の時代に成就した預言の研究によって得られた解釈の原則と格言は、使徒時代以降の時代においても決して捨て去られるべきではありません。
この18世紀の歴史の中に、将来間違いなく最終的かつ完全な成就を受ける預言でさえ、一次的かつ部分的な成就が隠されていることを発見することに何ら疑いの余地はありません。
ただ、こうした探究には「知恵、冷静さ、そして敬意」が求められることを忘れてはなりません。
現代において、預言を学ぶ者たちは預言者となり、愚かさと大胆さを織り交ぜて、キリストの再臨の年を定めようと試みてきました。
おそらく、私たちの子孫は、キリスト教世界の歴史に新たな世紀が加わった時にこれらの預言を思い出すでしょう。
もし、こうした思い違いが、その作者にのみ不名誉をもたらすのであれば、それはそれで結構なことです。
しかし、聖書に真っ向から反する形で持ち出されたにもかかわらず、聖書そのものに非難され、その時代の軽率な懐疑主義を刺激する結果となりました。
他のどんなことが忘れ去られようとも、主イエスが地上で語った最後の言葉がこのように無視されることはないと、私たちは願うべきでした。
「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」
(使徒の働き1章7節)
しかし、純粋な信仰と力の時代に霊感を受けた使徒たちに拒否されたものを、この終わりの日の預言家たちはあえて主張し、その結果、主の再臨という深刻で祝福された希望は占星術師の預言のレベルにまで堕落し、信仰深い人々の混乱と悲しみ、そして世の人々の楽しみとなってしまったのです。
歴史と聖書の両方において、突飛で空想的な見解を避け、現在、もしくは過去の出来事を預言の相関関係として指摘する人は、思慮深い人々から冷静で偏見のない耳を傾けられます。
しかし、彼が引き合いに出す聖書がこのように「萌芽的な成就」を得たとしても、「その高さや豊かさは」まだ未来の時代を指し示すかもしれないということを忘れてはなりません。
聖書全体に当てはまることは、預言にも特に適用されます。
預言に意味を与えるのは私たちの役割です。
しかし、預言が神聖なものであると真に信じる人は、その意味を自分自身の理解の程度に限定することをためらうはずです。
反キリストの預言は、このことを現実のままかつ最も的確に示しています。
極端な言説によって生み出された偏見がなければ、預言を学ぶ者たちはおそらく、キリスト教世界の大背教が罪の人の多くの主要な特徴を概説していることに同意するはずです。
現代には、確かに歴史がローマ教会に与えた告発を無視するよう教える、偽りの寛大さが存在します。
しかし、少なくともイギリスにおいては、現在ローマ教会の助言を導いている人々の道徳的価値を認めることを拒む寛大な心を持つ者はいません。
しかし、真実な問題は、個人ではなく、ある組織の特徴に関わっているのです。
したがって、過去の記録は実に恐ろしい記録ですが、その体制を裁くための手段として探るのは、不寛容な偏見ではなく、真実な知恵の働きです。
私たちが問うべきは、ローマの境界内に善良な人々がいるかどうかではありません。
この世のあらゆる道徳的卓越性が、ローマの忌まわしい罪の記録を覆い隠すのに役立っているかのように!
私たちが真に問うべきは、この教化された時代にローマが真実な変化を遂げたかどうかです。
ローマ教会は改革されたのでしょうか?
その会堂にあるあらゆる祭壇から、どれほどの激しさでその答えが叫ばれたはずです。
もし、そうでなければ、暗黒の時代が再び訪れ、キリスト教世界史上最も忌まわしい光景と最も陰惨な犯罪のいくつかがヨーロッパで再現されるかもしれません。
「人の真実な試練は、何をするかではなく、その人がどのような信念を持って何をするかです。」
もしこれが個人について真実であるならば、共同体についてはさらに強く真実です。
したがって、背教の現在の発展としてのローマの本当の特徴を一般の人々の心に留めておく人々は、良い貢献をしています。
しかし、これらの著述家たちが、反キリストの預言は教皇制において完全に、そして最終的に実現していると主張すると、彼らの立場は真理にとって明白な脅威となります。
この立場は、最も明確な預言のいくつかを拒絶し、彼らが基づく聖書そのものに、いい加減な、あるいは空想的な解釈を加えるという犠牲を払って維持されているのです。
実際、この解釈体系の最大の実際的弊害は、聖書をいい加減に表面的に読む習慣を生み出し、助長しています。
預言をざっと読んだだけで得られる一般的な印象に捉えられ、体系化され、その土台の上に虚栄心に満ちた上部構造が築き上げられます。
既に述べたように、ローマ教会は罪の人の道徳的特徴を最もよく表しています。
したがって、この学派の解釈の原則は、十本の角を持つ獣が教皇制であることです。
しかし、その獣についてこのように記されています。
「彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。
地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。」
(ヨハネの黙示録13章7、8節)
これらの注釈者たちは、キリスト教世界の半分がローマの範囲外にあり、教皇制の主張に敵対していることに気づいているのでしょうか?
それとも、ギリシャ教会とプロテスタント教会に属するすべての人がいのちの書に記されていると彼らは考えているのでしょうか?
決してそうではありません。
しかし彼らは、この聖句は書かれている通りの意味ではないと言うのです。[1]
十本の角を持つ獣は教皇制、第二の獣、偽預言者は教皇庁の聖職者、バビロンは教皇ローマです。
しかし、バビロンの裁きの幻に目を向けると、その破滅は獣の働きによって成就されることが分かります。
「あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。
それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行なう思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。」
(ヨハネの黙示録12章16、17節)
「この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威とをその獣に与えます。」
(ヨハネの黙示録12章13節)[2]
したがって、キリスト教世界の政府は、ローマ教皇と聖職者に権力を貸し、教皇ローマを破壊することになります![3]
不条理はこれ以上透明、かつ完全なものになり得るのでしょうか?
ここで問題となっている問題は、誤った解釈によって偏見を持たれたり、あるいは、二次的な重要性を持つ付随的な点に目を背けることによって回避したりしてはいけません。
異教の崩壊、教皇権とイスラム教の台頭、そして16世紀のプロテスタント宗教改革といったキリスト教世界の歴史における大きな危機が、使徒ヨハネの幻の範囲内にあるかどうかという問題ではありません。
これは簡単に理解できます。
また、これらの出来事のいくつかの年代がダニエル書とヨハネの黙示録に記されている70の倍数を正確に構成する年周期によって特徴づけられているという事実です。
すべての出来事が一つの偉大な計画の一部であることをさらに証明しているかどうかという問題でもありません。
このような新たな発見はすべて、真理を愛するすべての人々によって歓迎されます
預言の正確さと明確さに対する信頼を弱めるのではなく、預言の絶対的かつ文字通りの成就を待ち望む信仰を強めるはずです。
問題は、キリスト教世界の歴史が預言の神聖な著者の視野に入っていたかどうかではなく、それらの預言が成就したかです。
また、聖書が歴史解釈者たちが付与する範囲と意味を持っているかどうかではなく、聖書が成就として挙げる出来事によって、それらの範囲と意味が尽くされ、成就されているかどうかです。
したがって、ここで歴史的解釈体系を詳しく検討する必要はありません。
なぜなら、もしそれがある重要な点で検証され、失敗すれば、それは完全に崩壊してしまうからです。
では、ヨハネの黙示録は成就した預言の範囲に属するのでしょうか?
それとも、議論をさらに限定的に捉えるならば、封印やラッパや鉢の幻は成就したのでしょうか?
この問いかけの提示方法が公平であることに異論を唱える人はいないと思います。
そして、この問題に対処する最も公平な方法は、主要な幻の一つを提示し、歴史解釈者たちがその意味として提示した内容を、ことごとく、そして完全に引用することです。
第六の封印が開かれた時、使徒ヨハネはこう記しています。
「そして、彼が第六の封印を開いたとき、私は見ていると、大きな地震が起こった。
太陽は毛糸の荒布のように黒くなり、月は血のようになり、天の星は、いちじくの木が大風に揺すられて、その時ではない実を落とすように、地に落ちた。
そして、天は巻物が巻き上げられるように消え去り、すべての山や島もその場所から移されました。
そして、地の王たち、高官たち、富める者、千人隊長たち、勇士たち、すべての奴隷、すべての自由人は、穴や山の岩陰に身を隠し、山や岩に言った。
「我々の上に倒れかかって、御座に座っておられる方の御顔と小羊の怒りから我々を隠してくれ。
御怒りの大いなる日が来たからです。
誰が我々から守ることができようか。
立ち上がることができるか?
「私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。
そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。
天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。
地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」」
(ヨハネの黙示録6章12〜17節)
以下はエリオット氏のこの幻に関する解説です。
「ローマ地上のキリストを冒涜する王たちが、クリスチャンの軍勢の前で支持者たちと共に敗走し、惨めに逃げては滅びる恐怖について考える時」だと彼は断言しています。
「聖書の比喩の通常の解釈によれば、その出来事は確かに、私たちの前にある預言的な幻の象徴によく対応していると考えられています。
その幻では、王や将軍、自由人や奴隷、権力の座に座す神の御顔、さらには子羊の怒りから身を隠すために、岩の洞窟に逃げ込み、そこを探している姿が描いています。」
「このように、この大地震の最初の衝撃でローマ帝国は動揺し、クリスチャンの敵は滅ぼされるか、あるいは敗走と驚愕に駆り立てられました。
政治的天界では、異教の覇権の太陽は暗くなり、月は欠けて血のように赤くなり、多くの星々が激しく地面に揺り動かされました。
しかし、預言はまだ完全には成就していません。
異教の天の星々はすべて落ちてはおらず、天界自体も巻物のように完全に巻き取られて消え去ってはいません。
コンスタンティヌスの最初の凱旋、そして敵対する皇帝とその軍勢による最初の恐怖の後、彼らの勅令はキリスト教に完全な権利と自由を与え、異教の礼拝にも自由な容認を与えました。
しかし、すぐに皇帝の任命においてクリスチャンとその信仰が著しく優遇される措置が続きました。
ついに、コンスタンティヌスが昇進するにつれ、異教徒への憤りと憤慨から、彼は彼らの犠牲への弾圧、神殿の破壊、そしてキリスト教以外の公の礼拝形態の一切を容認しないという勅令を発布しました。
彼の後継者たちも、同じ目的を遂行し、異教を公然と信仰する者には極めて厳しい罰則を科しました。
その結果、1世紀が終わる前に、その星々はすべて地に落ち、天界、すなわち政治・宗教体制そのものが消滅し、地上では古き異教の制度、法、儀式、そして礼拝はほぼ消滅しました。[4]
「これ以上に注目すべき不適切な解釈の例は想像できません。」[5]
人々が、神の怒りの大いなる日[6]について聞かされているのに、来たるべき怒りの恐ろしい警告を嘲笑するのも不思議ではありません。
そして、それはコンスタンティヌスの軍勢の前で異教徒の軍隊が敗走したに過ぎず、世界の歴史の中で千回も似たような出来事があったに過ぎなかったのです。[7]
論点を明確に見据えるべきです。
もし、コンスタンティヌス帝の治世やキリスト教世界の歴史における他の時代が、この幻の中間的な成就として挙げられるならば、それは弱々しいながらも無害な解釈として通用するかもしれません。
しかし、これらの解釈者たちは、この預言にはそれ以外の意味や範囲はない、と大胆に主張しているのです。[8]
彼らは第六の封印の幻が成就したことを証明しなければなりません。
そうでなければ、それに続くすべてのものも同様に成就しなければならないと主張するのは明らかです。
したがって、もし彼らの体系がこの点だけで失敗したとすれば、その失敗は絶対的かつ完全なものとなります。
しかし実際には、引用した例は、彼らが自らが説明していると公言する言葉の意味を消耗していることを示す良い例に過ぎません。
彼らは、私たちは今、鉢の時代に生きていると言います。
まさに今、神の怒りが地上に注がれています。[9]
人々は確かに「現在と過去を比べ、この時代はそれ以前のどの時代よりも恵まれ、より生きやすいと判断し、神の怒りとは、これくらいのものなのか!」と叫んでいます。
七つの鉢は最後の七つの災いであり、「神の怒りはそこに満ちています。」
そして、六番目の災いは、まさに今、トルコ帝国の崩壊という形で成就しつつであると伝えられています。
トルコ帝国の崩壊が、悔い改めない世界に対する神の審判であるなどと、自らの夢想の世界に迷い込んだ人間などいるだろうか![10]
周囲の悲惨さで食らう悪霊のような「パチャの一団(clique of Pachas)」にとっては、それはそのように見えるかもしれません。
しかし、数え切れないほど多くの人々は、これを苦しむ人類への祝福として歓迎し、驚嘆しながらこのように尋ねるはずです。
「もしこれが神の怒りの最高の証しであるならば、単純な魂はどのようにして神の恵みの証拠と神の最も恐ろしい怒りの証拠を区別できるのでしょうか?」
もしこの出来事が、来たるべき怒りの日に厳密に属する預言の、この恵みの日に起こった主要な成就として引用されるならば、それは敬意をもって考慮されるに値します。
しかし、トルコの分裂をその幻の完全な実現として訴えることは、聖書の深刻な言葉に対する軽視であり、常識に対する冒涜です。
しかし、この解釈体系には、表面的に見えるものよりもはるかに深く、より重大な原理が関わっています。
それはキリスト教の偉大な根底にある真理と真っ向から対立しています。
聖徒ルカは、誘惑の後、「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。」と語っています。(ルカの福音書4章14節)
イエスは「聖霊をガリラヤに遣わし」、安息日にいつものようにナザレの会堂に入り、聖書を読むために立ち上がられました。
そこでイザヤの預言の書が手渡され、皆の目がイエスに注がれる中、イエスはそれを開いて次の言葉を読まれました。
「すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。
主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
主の恵みの年を告げ知らせるために。」
(ルカの福音書4章17〜19節)
「われわれの神の復讐の日」という言葉は、主の前に開かれたページに切れ目なく続いていたはずの言葉です。
「主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、」
イザヤ書61章2節)
しかし、記録はこのように付け加えています。
「イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。」
(ルカの福音書4章17〜20節)
来たるべき時代に、預言が最終的に成就するとき、「復讐の日」は主の民にとって祝福と混ざり合っているのです。[11]
しかし、地上における彼の宣教の重荷は平和のみです。[12]
そして、それは今も福音の重荷です。
神の人に対する態度は恵みです。
「恵みは支配します。」
悔い改めた者や選ばれた者に恵みがあるということではなく、恵みこそが、キリストが今神の御座に座する原理であることです。
これらの章を比較してください。
「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
(ヨハネの福音書3章17節)
「また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。」
(ヨハネの福音書5章22節)
「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。
わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」
(ヨハネの福音書12章47節)
キリストが地上に与えられた使命は裁くことではなく、ただ救うことでした。
このように唯一の裁き主であるキリストは、今や救い主として高められ、キリストが座しておられる御座は恵みの御座です。
恵みは義を通して永遠の命に至るまで支配しています。
(ローマ人への手紙5章21節)
「この栄光に満ちた福音の光は、今、地上で妨げられることなく輝いています。
盲目の目はそれを遮っても、消すことも弱めることもできません。
悔い改めない心は怒りの日に向けて怒りを募らせるかもしれません。
しかし、この哀れみの日を暗くしたり、恵みの支配の栄光を損なったりすることはできません。」[13]
「神の怒りが満ちる」最後の七つの災いは、「怒りの日」にこそ全滅します。
深刻で恐ろしい真実を今まさに成就したなどと語るのは、軽薄な話に過ぎません。
この幻が今、どのような中間的な成就を迎えていようとも、それが完全に、そして最終的に実現するのは未来のことです。
本書は、預言の根本的かつ歴史的な成就、あるいはベーコン閣下の言葉を借りれば「幾世代にもわたる芽生えと発芽」について論じるものではありません。
私の主題は、預言が「高みと豊かさ」において属する「一つの時代」における、絶対的かつ最終的な成就のみにあります。
聖書自体にも、そのような中間的あるいは一次的な成就のはっきりとした数多くの例が記されています。
これらの例において預言の主要な概要は実現されています。
しかし、細部は実現されていません。
エリヤの到来に関する預言はその一例です。[14]
主は、バプテスマのヨハネの宣教がその預言の範囲内にあることを、最も明解な言葉で宣言されました。
そして、その預言は、偉大な預言者たちが地上に再び現れることによって、来るべき日に成就すると、明確に宣言されました。
(マタイの福音書11章14節、17章11、12節)
ペンテコステにおける使徒ペテロの言葉は、もう一つの例証となっています。
ヨエルの預言は、後に文字通り成就します。
しかし、聖霊のバプテスマは、霊感を受けた使徒ヨエルによって、その預言について述べられました
(ヨエル書2章28〜32節、 使徒の働き2章16〜21節)
成就したことを述べることは、非聖書的かつ虚偽の言葉を用いるに等しいのです。
さらに、背教に関する預言が最終的に成就したと確信を持って主張することは、全く根拠に欠けています。
聖書に成就が記録されている預言で、絶対的な正確さと細部に至るまで実現されなかったものは一つもありません。
そして、聖書が閉じられた後に新たな成就体系が始まったと想定することは全く根拠に欠けています。
2000年前に、救世主の預言が文字通り成就するなどと誰が信じたのでしょうか?
「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」
(イザヤ書7章14節)
「見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」
(ゼカリヤ書9章9節)
「私は彼らに言った。「あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。
もし、そうでないなら、やめなさい。」すると彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った。
(ゼカリヤ書11章13節)
ゼカリヤ書11章12、13節、マタイの福音書27章5、7節とを比較してください。
「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」
(詩篇22篇18節)
詩篇22篇18節、ヨハネの福音書19章23、24節と比較してください。
「犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。」
(詩篇22篇16節)
「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」
(詩篇69篇21節)
「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」
(イザヤ書53章8節)
預言者たち自身にとっても、そのような言葉の意味は謎でした。
(ペテロの手紙第一1章10〜12節)
ほとんどの人々は、それらを単なる詩や伝説としか考えていなかったはずです。
しかし、キリストが来られると死に関するこれらの預言は、その一点一点において成就しました。
したがって、成就の文字通りの意味は、預言研究において私たちを導く原理として受け入れられます。
第11章 補足説明
[1]これらの解釈者によれば、そのような記述は、「cum grano salis (素直に)」と解釈されなければなりません。
そして、同様の意見は、ヨハネのヨハネの黙示録13章の各節の解釈にも適用されます。
[2]ヨハネの黙示録17章16、17、13、16節では、改訂版では「獣の上に」ではなく「そして、獣」と読むのが最善です。
[3]エリオット氏のこのテーマに関するロマンスは、近年の出来事によってローマがイタリアの平和な首都となったことで終焉を迎えました。
獣と偽預言者については、「このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。」(ヨハネの黙示録19章20節)と記されています。
ローマの聖職者階級と聖職者がそのような運命のために「留保」されていると考えるのは、プロテスタントの熱意には喜ばしいことかもしれません。
[4](Horae Apoc., vol. 1., pp.219, 220.)
[5]もう一つの重要な点は、第六の封印の解釈にあると私は信じています。
もしそれが、今述べたことに既に示されているのであれば、なおさらです。
私たちは皆、聖書の残りの部分でその象徴が何を意味するかを知っています。
それを主の大いなる日の接近とは別の時期に帰属させるいかなる体系も、自らを非難することになります。
エリオット氏の連続歴史体系を例に挙げると、それはコンスタンティヌス帝による異教の滅亡を意味するものです。
これほどはっきりとした不適切な解釈の例は想像することができません。
最後に近づくにつれて、解釈上のもう一つの定説が存在しています。
七つの封印と同様に、七つのラッパと七つの鉢も、終わりが近づく時まで鳴り続けます。
それぞれに連続した終わりには、そのように記されている点が明確に示されています。
封印については既に述べました。
ラッパについては、10章7節、11章18節を参考にすれば十分です。
「鉢の名称には「(tas eschatas)」と16章17節の「gegonen」がありますが、同じです。
この三つの共通の結末を認めない体系は、それによって誤りを犯すものと私には思われます。」
(ALFORD, Gr. Test.,4., Part 2., ch.8., §§ 5, 21, 22.)
[6]「御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」
(ha hamera ha megala tas orgas autou)
(ヨハネの黙示録6章17節)
[7]もしこのような言明が、愚かさではなく、むやみに述べられたものであるならば、この聖句へ厳粛なことばの引用を暗示しています。
「また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」
(ヨハネの黙示録22章19節)
[8]歴史解釈者たちは、キリストの再臨の話になると、自分たちの意見を述べる勇気を失い、真剣に文字通りの解釈を主張します。
しかし、彼らの計画が本物であれば、預言されたキリストの再臨は、現在の宗教の復興と、同時に起こっているキリスト教の広がりの中で、確実に実現します。
[9]「また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。」
(ヨハネの黙示録15章1節)
「そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。
また、四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使いに渡した。」
(ヨハネの黙示録15章6、7節)
「また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」
(ヨハネの黙示録16章1節)
[10]オーストリアのペスター・ロイド紙は、トルコ問題に関する英国の政策方針について論評しました。
ビーコンズフィールド閣下率いる政府が「イスラム教とトルコ人を混同している」と非難しました。
トルコ人は、自らの力に気づいているすべてのイスラム教国家から、常にイスラム教のゴミとみなされてきました。
預言者の弟子たちは、この誤りに完全にとらわれているようです。
[11]イザヤ書63章4節と比較してください。
「わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。」
(イザヤ書63章4節)
[12]「それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。」
(エペソ人への手紙2章17節)
[13](The Gospel and its Ministry, p.136.)
確かに、神が世界を道徳的に統治する偉大な原則は変わることなく、罪は常に自らの裁きを執行しています。
しかし、これを神の裁きにおける即時の働きと混同してはなりません。
「主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」
(ペトロの手紙第二2章9節)
あるいは、ローマ人への手紙2章5節にはこのように述べられています。
「ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」
(ローマ人への手紙2章5節)
[14]「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」
(マラキ書4章5節)
第12章 異邦人の完成
預言の流れはヘブル史の流れに沿っています。
これはすべての啓示に適用できます。
創世記の11章は、アブラハムの召命以前の2000年間をカバーするのに十分であり、旧約聖書の残りの部分はアブラハムの家系に関係しています。
もし啓示の光がしばらくの間バビロンやシュシャンに注がれていたのは、それはエルサレムが荒廃し、ユダが捕囚されていたためでした。
今や異邦人は地上における祝福において最も重要な立場を得ています。
しかし、これは全くの例外であり、神が人類を扱う時には、正常な秩序が再び回復されます。
「それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。
その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」
(ローマ人への手紙11章25、26節)[1]
聖書は、その国民に有利な約束と預言で満ち満ちています。
しかし、その十分の一しか、いまだ成就されていません。
多くの古い預言が情熱的な聖句が、福音の祝福の誇張した描写として扱うための口実となっています。
しかし、ローマ人への手紙に関しては、そのような言い訳は通用しません。
異邦人への手紙の中で、異邦人の使徒は異邦人へのディスペンテーションの事実を前にして、この問題を論証しています。
イスラエル民族が自然な枝で表現され、地上の特権と祝福のオリーブの木から切り離され、「自然に反した」異邦人の血の野生のオリーブの枝が代わりに植えられました。
しかし、使徒の警告にもかかわらず、私たち異邦人は「自分の思い違いで賢くなって」おり、私たちが「根と豊かさ」を分け与えるオリーブの木が本質的にヘブル人であることを忘れています。
「神の賜物と召命とは変わることがありません。」(ローマ人への手紙11章29節)からです。
ほとんどの人々の心は、自らの経験というありふれた事実に囚われています。
復興したイスラエルの預言は、現在の電気と蒸気の勝利を予見された一世紀前の私たちの祖先に語られたように信じられないものとして、多くの人に語られました
このように判断することで独立した考えを持つ必要がありますが、その反面、それらは自らの無力さ、あるいは無知さを証明しているに過ぎません。
さらに、ユダヤ人が18世紀にわたって保持してきた立場自体が、これらの預言の成就を否定しているさまざまな憶測を排除しています。
マホメットのような偽りの宗教が、真実な信仰を前にしていかにして揺るぎない態度を保っているのか、という問題ではありません。
問題は大きく異なります。
かつての時代だけでなく、現在のディスペンテーションの初期においても、ユダヤ人は祝福において優遇されています。
現実に、神の恵みを独占していたと言っても過言ではありません。
初期のキリスト教会は本質的にユダヤ人のものでした。
教会の管轄下には、ユダヤ人は数千人、異邦人は数十人程度しか数えられていなかったのです。
しかし、後になって、同じ人々が福音に対して無関心となりました。
そして18世紀にもわたり、地上の他のどの階級の人々よりも深く無関心であり続けました。
使徒パウロが言うところの「この奥義」は聖書が説明しているように、すなわち、イスラエルへの特別な恵みの時代が使徒の働きの歴史的期間をもって終わりました。
彼らの歴史におけるこの危機以来、「一部がかたくなになった」(ローマ人への手紙11章25節)という説明以外に、どのように説明できるのでしょうか?
しかし、この言葉は、その真実性が公の事実によって明らかに証明されています。
このさばきとしてのかたくなは「異邦人の完成のなる時まで」のみ続くと宣言しています。
そして、霊感を受けた使徒はこう付け加えています。
「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。
「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。」
(ローマ人への手紙11章26、27節)[2]
当然ながら、これはイスラエルが福音の祝福の中に入れられるということだけを意味するわけではありません。
そして、ユダヤ人が福音とは全く相容れない原則に基づいて祝福されるということではないかという疑問が湧くかもしれません。
クリスチャンという体系は、かつてユダヤ人が祝福において特別な立場を与えていたという事実を前提としています。
「私は言います。キリストは、神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。それは先祖たちに与えられた約束を保証するためであり、
また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。
「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」
(ローマ人への手紙15章8、9節)
しかし、ユダヤ人は罪によって優位な立場を失い、今や滅びた人類という共通のレベルに立っています。
十字架は、ユダヤ人と神とを隔てていた「へだての壁」を打ち壊しました。
異邦人、すべての区別が平等化されました。
罪についてはこのように述べられています。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」
(ローマ人への手紙3章23節)
哀れみについてはこのように述べられています。
「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」
(ローマ人への手紙3章22節)
「同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。」
(ローマ人への手紙10章12節)
では、もし違いがないのであれば、違いがあるという原則に基づいて、どうして神は祝福を与えることができるのでしょうか?
一言で言えば、ユダへの約束の成就は、現在の神の教えの明確な真理と全く矛盾しています。
この問いかけは極めて重要であり、誠実な考察を必要とします。
ローマ人への手紙第11章が、この時代において異邦人は優先権はないものの有利な立場にあり、したがってイスラエルも将来同様の特権を享受できると想定していると主張するだけでは不十分です。
同じ啓示の一部が、恵みは異邦人のいる場所に身をかがめています。
しかし、異邦人としての立場を固めるのではなく、むしろそこから引き上げ、国籍を剥奪するのです。
なぜなら、この神の摂理、ディスペンテーションにおける教会には「ユダヤ人も異邦人もない」からです。[3]
その反面、ユダへの約束は、祝福がユダヤ人としてユダヤ人に届き、彼の国家的地位を認識するだけでなく、その中で彼を認識できることを暗示しています。
したがって、神がこのように行動する前に、現在のディスペンテーションにおける特別な恵みの宣言は終了し、人類を扱う新しい原則が開始されていなければならないという結論は避けられません。
しかし、ここでの困難はますます増大し、大きくなっているように思われます。
なぜなら、このディスペンテーションはキリストが地上に再臨するまで続く、という疑問が湧いてくるかもしれません。
では、キリストの再臨の際、ユダヤ人はどのようにして、過ぎ去った時代に彼らが享受していた国家的な祝福の立場に就くことができるのでしょうか?
聖書がそのような状況になることを教えていることは、誰もが認めるはずです。[4]
しかし、これが本当に意図されているのか、疑問は残ります。
聖書は「人の子が現れる日」の前に、地球に何らかの危機が介入すると述べているでしょうか?
この問いかけの答えを熱心に求める人は誰でも、一見すると聖書の記述に混乱が見られるという事実に、感銘を受けずにはいられません。
ある聖句は、キリストが地上に戻り、父のもとへ昇天する前に最後に足を休めたのと同じオリーブ山に再び立つことを証言しています。
(ゼカリヤ書14章4節、使徒の働き1章11、12節)
また、他の聖句は、キリストが地上ではなく、私たちの上空に来られ、ご自分の民を召して、ご自身と会い、共にいることを同様に明確に告げています。
(テサロニケ人への手紙第一4章16、17節)
これらの聖句はまた、キリストを信じる民が「引き上げられる」(テサロニケ人への手紙第一4章16、17節、コリント人への手紙第一15章51、52節)ことを最も明確に証明しています。
そして、世は定められた破滅へと向かう運命にあるのです。
一方、他の聖書箇所は、神の民ではなく悪人が排除され、義人が「父の王国で輝く」ことを明確に教えています。
(マタイの福音書13章40〜43節)
そして、聖書が、祝福を受ける義人をユダヤ人として表しているように見えることもあれば、ユダヤ人が神に捨てられたディスペンテーションのクリスチャンとして表しているように見えることに気づくと、明らかに混乱は増大します。
これらの困難を解決する唯一の方法は、単純でありながら満足のいくものです。
すなわち、私たちがキリストの再臨と呼ぶものは、単一の出来事ではなく、複数の明確な出現を含むことです。
最初の出現において、キリストは義なる死者と、当時地上に生きていた神の民を御自身のもとに召されます。
この出来事をもって、この特別な「恵みの日」は終わり、神は再び「契約」と「約束」に戻り、契約と約束の対象となる民(ローマ人への手紙9章4節)が、再び人類に対する神の働きの中心となります。
神が約束したことはすべて、信者の希望の範囲内にあります。[5]
しかし、これは近い将来に実現します。
すべての信者はその成就を待っています。
キリストが地上に再臨されるまで、まだ、多くの預言が成就していません。
しかし、聖書の一行も、キリストが来臨して民を御自身のもとへ連れて行かれるという教会の特別な希望の実現を阻むことは書かれていません。
さて、ここに大きな危機が訪れています。
この危機は恵みの支配に終止符を打ちます。
地上で最も厳しい試練である運命づけられた苦難、つまり「書かれているすべてのことが成就する報復の日」を招きます。
(ルカの福音書21章22節)
この重大な真理は、より教義的に明確に述べられたはずだと反論することは、教義的な教えと預言的な発言の区別を忘れていることです。
再臨の真理は預言に属するものであり、それに関する聖書の記述は、旧約聖書におけるメシアの預言と全く同じ特徴を備えています。[6]
「キリストの苦難とそれに続く栄光」は、旧約聖書を浅く読んだ者であれば、メシアが二度降臨することを見落とさないように預言されています。
また、預言の全体的な体系に精通していない注意深い研究者でさえ、道徳的には異なるものの、二度の降臨は時間的には密接に関連していると考えています。
未来についても同じです。
再臨を一つの出来事と考える人もいれば、その真実な特徴を認識しながらも、最初の段階と最終段階を隔てる期間を明確に認識していない人もいます。
再臨に関する真理を理性的に理解することは、未成就の預言を正しく理解するために必要です。
しかし、このように研究の指針となる主要な目印を明確に定めた以上、聖書が保証する以上に正確にこの期間を埋めようとする試みを、強く非難することはできません。
成就すべき出来事は確かに存在します。
しかし、その成就の時期や方法について、誰も勝手に決めつけることはできません。
過ぎゆく日々がこの世の悲しみと罪悪感の恐るべき量に積み重なる、苦しみと罪の恐るべき重みを正しく評価するクリスチャンは、終末が本当に近いことを切望せずにはいられません。
しかし、「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」(ペトロの手紙第二3章15節)という偉大な原則と、詩篇の言葉「あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです」(詩篇90節4節)ということを忘れてはなりません。
聖書には、終末が長く遅れることはないという希望を正しいとする箇所が数多くあります。
しかし、一方では、これらの最後の場面が演じられる前に、文明は東方の古代の故郷に戻り、おそらくは復興されたバビロンが人類の進歩と背教した宗教の中心地となっているであろうという考えを示すものも少なくありません。[7]
長い時代がまだ終わっていないと主張することは、今世紀中にすべてのことが成就すると確信を持って預言されていることと同様に、根拠のない主張です。
ダニエルの預言がこの年代の範囲内に入るのは、七十週の範囲内にある場合のみであり、ダニエルの幻は主にユダとエルサレムに関するものです。[8]
第12章 補足説明
[1]ローマ人への手紙11章25、26節
異邦人の満ちあふれる到来を、異邦人の時の満ちる時(ルカの福音書21章24節)と混同してはなりません。
前者は霊的な祝福を指し、後者は地上の権力を指します。
真実なダビデの子が王の杖を受け取るまで、エルサレムは異邦人の権力から独立した自由な国の首都となることはありません。
[2]ローマ人への手紙11章25、26節
すべてのイスラエル人ではなく、国家としてのイスラエルです(アルフォード、ギリシア語テスト、代読)
[3]ガラテヤ人への手紙13章28節
ヨハネの福音書4章22にある主の言葉「救いはユダヤ人から来る」と対照的に考えてみましょう。
[4]このことを証明するには、ダニエルの預言を引用するとよいはずです。
そして、後の預言、特にゼカリヤ書は、それをさらに明確に証明しています。
[5]「私たちは、神の約束に従って、新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(ペトロの手紙第二3章13節)
この希望が実現するまでには、長い歳月と数え切れないほどの出来事が経過しなければなりません。
しかし、それでも信者はそれを待ち望んでいます。
[6]預言のこうした特徴に関する素晴らしい論文については、ヘングステンベルクの「キリスト論」( Kregel Publications)を参考にしてください。
[7]イザヤ書13章は、バビロンの最終的な滅亡と、来るべき大いなる日とを結びつけているように思われます(1、9、10、19節と比較)
また、エレミヤ書1章では、同じ出来事が将来のイスラエルの二つの家の回復と統合と結び付けられています(20節)
しかし、私がこの提案をするのは、私たちが確かに神の摂理の終わりの日に至ったという考えに対する単なる警告としてです。
たとえキリスト教世界の歴史がさらに1000年続いたとしても、その遅れによって聖書のいかなる記述の真実性も揺るがされることはないでしょう。
[8]ダニエルの幻の中で、これほど広範囲に及ぶものは他にありません。
イザヤ、エレミヤ、エゼキエルはイスラエル(あるいは十部族)について述べています。
しかし、ダニエルはユダについてのみ述べています。
第13章 第二の山上の説教
過去と未来、預言が成就したことと成就しなかったことのつながりは、マタイの福音書の中に見出されます。
メシアに関する主要な約束は、ダビデとアブラハムの名にそれぞれ結び付けられた二つの大きなグループに分けられており、新約聖書は「ダビデの子、アブラハムの子」としてのメシアの誕生と宣教の記録で始まります。(マタイの福音書1章1節)
メシアの働きの一つの側面として、彼は「神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。それは先祖たちに与えられた約束を保証するため」(ローマ人への手紙15章8節)なのです。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」という東方の三博士の問いかけは、ユダの国家政治の一部であった希望を呼び起こしました。
当時王位を奪取した卑劣なイドマヤ人でさえ、その重要性を理解しています。
「ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。」[1]
その後、まずバプテスマのヨハネによって、そして最後に主とその使徒たちによって「天の御国は近づいた」という宣言がなされたとき、ユダヤ人はその意味をよく理解していました。
それは、私たちが今日理解しているような「福音」ではなく、ダニエルの預言が間もなく成就することを告げるものです。[2]
そして、その証言には二重の意味がありました。
「山上の垂訓」は、御国の福音に関連する偉大な真理と原則を具現していると記録されており、それに伴う奇跡は、すべてが神によるものであることを証明しました。
キリストの宣教の初期段階では、奇跡は御言葉に信仰が応答した者だけに与えられたものではありません。
その恩恵を受ける唯一の資格は、その受益者が恵まれた人種に属していることだけです。
「イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。
「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。
イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。
行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。
病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。
あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
(マタイの福音書10章5〜8節)[3]
その使命のもとに十二使徒は、すでに主の名声が彼らの前から広まっていたその小さな地方の隅々まで出かけて行きました。
(マタイの福音書4章24、25節)
しかし、国の権威ある責任ある指導者たちによる判決は、イエスの救世主としての主張を拒否するものでした。[4]
マタイの福音書第12章に記録されているキリストの行為と言葉は、パリサイ人に対する公然かつ意図的な非難と反抗であり、彼らは深刻な会議を開き、キリストの死を宣告しました。
(マタイの福音書12章1〜14節)
この時から、キリストの宣教は新たな段階に入りました。
キリストは苦しみに直面しながら、それを和らげることを拒むことはできなかったため、奇跡は続きました。
しかし、このように祝福された人々は、ご自分のことを知らせてはならないと命じられました。
「そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。」
(マタイの福音書12章16節)
神の国の福音は廃れ、キリストの教えはたとえ話によって語られ覆い隠されるようになりました。[5]
そして、弟子たちは、もはやイエスがメシアであることを証言することを禁じられました。
(マタイの福音書16章20節)
第13章ではイエスが拒まれてから、栄光のうちに再臨し、屈辱によって拒否された立場を獲得するまでの間に起こるであろう事を預言しています。
神の国を宣言する代わりに、イエスは彼らに「神の国の奥義」を教えました。
(マタイの福音書13章11節)
イエスの使命は特徴を変え、統治するために来た王の代わりに、種を蒔く種まき人として、ご自身を語られました。
続くたとえ話のうち、最初の三つは群衆に語られ、世における証しの外的な結果を描写しています。
最後の三つは弟子たちに語られました。[6]
霊的な心に明らかにされた隠された現実について語っています。
しかし、これらのたとえ話は、預言者たちが弟子たちに神の国に関して期待させていたすべてのことが延期されたことを、弟子たちに極めて明快に教えたと同時に、すべてのことが成就する日、すなわち悪が根絶され、神の国が正義と平和のうちに確立される日が必ず来ることをも、同様に明確に教えています。
(マタイの福音書13章41〜43節)
こうして弟子たちは、預言では考慮されない「時代」が来ること、そしてその終わりに再び「降臨」が来ることを知りました。
そして「第二の山上の説教」は「いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」という問いかけに対する主の答えです。[7]
マタイの福音書24章は「黙示録的解釈のいかり」であり「黙示録的体系の試金石」であるとよく言われます。[8]
15節は、ある出来事と時代を具体的に示しています。
これによって、私たちは主の御言葉を使徒ヨハネの幻、そしてその両方をダニエルの預言と結びつけることができます。
この一節全体は明らかに預言的であり、その成就は明らかに終末の時に関係しています。
したがって、この言葉の最も完全かつ明確な適用は、その成就を目撃する人々に向けられなければなりません。
彼らに対して、キリストがすぐに再臨するという誤った希望に惑わされないようにという警告が特別に向けられています。[9]
一連の恐ろしい出来事がこれから起こるのです。
しかし、これらは苦難の始まりであり、まだ終わりは来ていません。
これらの「苦難」がどれほど長く続くかは明らかにされていません。
終わりが近いことを示す最初の確かな兆候は、地上で救われた者たちが経験した中で最も激しい試練の到来です。
ダニエルの聖所の汚損に関する幻の成就は、即時の逃げる合図となります。
その時、ユダの歴史においても前例のない大患難が来ます。
(15〜21節、ダニエル書11章1節と比較してください。)
しかし、既に述べたように、この最後の大迫害はダニエル書第七十週の後半にあたります。
それゆえに、預言の中で予告された終末の場面を特徴づける主要な出来事の性格を決定し、その順序を定めるための重要な節目となります。
マタイの福音書から得られた手がかりによって、私たちは自信を持って次のことを研究することができます。
使徒ヨハネの黙示録的な幻が、マタイの福音書24章においては、ダニエル書と同様に、エルサレムが預言の中心となっていることを明確に認識しなければなりません。
そしてこれは必然的に、預言が成就する以前にユダヤ人がパレスチナに帰還していることを暗示しています。[10]
そのような出来事はあり得ないという前提に基づく反論は、預言と奇跡の関連性を指摘することで十分に反論できます。
預言と密接に関連しているアブラハムの民族の歴史は、奇跡的な介入の記録に他なりません。
彼らのエジプト脱出は奇跡的です。
約束の地への入城も奇跡的です。
その地での彼らの繁栄と不運、奴隷状態と解放、征服と捕囚、これらすべてが奇跡的でした。
アブラハムの召命から神殿の建立に至るまでの歴史全体は、奇跡の連続でした。
聖書の歴史家たちは、これらの出来事を記述することに専念していたため、それ以外の記録は何も残されていません。
聖書には、奇跡的な介入が中止された時期についての歴史家は存在していません。
マラキが使者を遣わして道を備えさせるよう宣言した後、霊感を受けた著者が次に記録するのは、使者の誕生です。
しかし、約束から成就までの400年間については、何も記されていません。[11]
メシアの誕生から民族の離散までの70年間は、奇跡と預言の成就において実り豊かな期間でした。
しかし、イスラエルという国家の存在は、いわば預言のドラマをその完全な形で展開できる唯一の舞台です。
使徒時代から現代に至るまで、地上への神の直接的な介入を疑う余地のない証拠となる公的な出来事は一つもありません。[12]
静かな天は、私たちが運命づけられたこの摂理の主要な特徴です。
しかし、イスラエルの歴史はまだ終わっていません。
そして、その国が再び舞台に立つ時、奇跡的に介入するという要素が、地上の出来事の流れに再び特徴を与えることになります。
一方、過去の推論から、突然の移行ではなく、一方の体制が他方の体制に融合していくことを予想しています。
そして、過ぎ去る出来事がまさにこの完成、つまりユダヤ人のパレスチナへの帰還へと向かっているのかどうかという疑問は、一般的な観点から特に興味深いものです。
イスラム勢力の衰退は、最も明白な公然の事実の一つです。
もし、トルコ帝国の解体がなお遅れているとすれば、それはひとえにヨーロッパ諸国の嫉妬によるものです。
ヨーロッパ諸国の利害が対立し、領土の友好的な分配を不可能にしているように思われるからです。
しかし、危機を無期限に先送りすることはできません。
そして、それが到来すれば、コンスタンティノープルの運命に次いで最も重要な問題は、パレスチナの将来です。
ヨーロッパの一国による併合は、極めてありそうにありません。
いくつかの一流国の利益がそれを禁じています。
こうして、ユダヤ人が彼らの意志や運命によって祖国の地へ帰還する時が来たとしても、道は開かれたままとなります。
敵対的な勢力が彼らの帰還を妨げることはなく、さらに、可能性は、歴史的にパレスチナに属していた人々によるパレスチナの植民地化にも有利です。
この種の動きが既に始まっていると信じるに足る理由がいくつかあります。
そして、レバント地方がインドへの幹線道路となるか、あるいは他の何らかの原因によって、かつて世界の商業の中心地であったこの海岸に少しでも繁栄が戻れば、ユダヤ人はあらゆる国から何千人も移住するはずです。
確かに、ある国を植民地化することと国家を創設することは別問題です。
しかし、聖書の証言は、ユダの国家としての独立は外交や剣によって回復されるのではないことを明確に示しています。
エルサレムは、ダニエルの幻が実現する日まで、異邦人の支配下に置かれ続けます。
聖書の言葉によれば、「異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」[13]。
しかし、ユダヤで十字架が三日月形に取って代わるには、ずっと時間がかかります。
そうでなければ、オマールのモスクがシオンの丘のユダヤ教神殿に場所を譲るなど信じがたいことです。
。
上記のような原因が作用し、イスラム勢力の衰退と相まって、パレスチナに保護されたユダヤ人国家が形成されます。
場合によってはヨーロッパの列強、もしくはその代理によるエルサレムの軍事占領につながるならば、ユダヤ人の間で宗教的復興が起こります。
そして、それが預言の成就への道を準備することになると考えられます。[14]
「神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。」
(ローマ人への手紙11章2節)
そして、現在のディスペンテーションが終わり、それが定められた偉大な目的が達成されます。
途切れた預言と約束の糸が再び取り上げられ、使徒の働きで歴史的に断絶されたディスペンテーション、つまりエルサレムが地上における神の民の中心地として定められた時代が再び始まるのです。[15]
ユダは再び国家となり、エルサレムは復興され、「荒らす憎むべき者」が立つ神殿が建てられます。[16]
第13章 補足説明
[1]マタイの福音書2章3節
王を動揺させたのは、宗教的な感情だったなどと考えてはなりません。
マギ(東方博士)の知らせは、王にとって、推定相続人にとっての世継ぎ誕生の知らせのような意味を持っていた。
マギは尋ねました。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか?」。
ヘロデはサンヘドリン(最高議会)に尋ねました。
「メシアはどこで生まれるのでしょうか?」。
ベツレヘムをはっきりと指し示す預言について尋ねられたヘロデは、その町とその地域のすべての幼児を滅ぼそうと決意しました。
ヘロデとサンヘドリンは、預言を霊的に解釈することを学んでいなかったのです。
[2](Pusey, Daniel、p.84)を参考にしてください。
[3]マタイの福音書10章5〜8節
この章は、この書の性格に沿って預言的な内容であり、末日の証しにまで及んでいます(出エジプト記23節を参考にしてください。)
[4]現代において、ユダヤ人は大胆にもミシュナの翻訳を出版しました。
その論文を熟読する読者は、主がこれらの惨めな人々の宗教をどれほど軽蔑し、憎悪していたかを推測できるでしょう。
「安息日」という論文は、マタイの福音書第12章の貴重な解説となります。
ミシュナは、ラビの口承伝承を紀元2世紀に編纂したもので、散逸を防ぐため編纂されたものです。
これらの伝承の多くは、主が地上にいた時代に広く信じられていたものであり、主は聖書を揺るがすものとして容赦なく非難されました。
なぜなら、当時も今も、ユダヤ人はそれらを神の認可を受けたものと見なしていたからです。
(リンド著「ユダヤ教法典」序文、ミルマン著「ユダヤ人史」第18巻参考)
[5]マタイの福音書13章3、13節
「「アルザト(ardzato)]という表現から マルコの福音書において、10節の弟子たちの問いかけ、そして34節と比較すると、これが主によるたとえ話による教えの始まりであったことが明らかです。
それは明確に語られ、正しくはたとえ話と呼ばれています。
そして、ここでの出来事の自然な流れは、マタイの福音書の配置と一致し、「エブラード(Ebrard)」のようにこの章全体を山上の垂訓よりも前に置く者たちに反して、それを裏付けています。
主は山上の垂訓でたとえ話を用いずにに語りました。
そして、その教えが拒まれ誤解された結果、ここで示された方針を裁定的に採用するまで、そうし続けました。
[6]種蒔きと毒麦のたとえ話の解釈も同様です。
[7]マタイの福音書24章3節
「イエスがオリーブ山に座っておられると、弟子たちがみもとに来た。」
マタイの福音書5章1節と比較してください。
「イエスは山に登り、座られると、弟子たちがみもとに来た。」
山上の垂訓は、王国が築かれる原則を明らかにしました。
王が国民に拒まれた後、二度目の山上の垂訓は、主の再臨に先立って起こるべき出来事を明らかにしました。
[8](Alford, Gr. Test., vol.4., Pt.2. Proleg. Rev.)
[9]マタイの福音書24章4, 6節
これは再臨の最終段階です。
テサロニケ人への手紙第一4章やその他の箇所で預言されている、何の前兆もないキリストの来臨ではありません。
5節をバルコカブの時代に述べられていることは、明らかな時代錯誤です。
15節から20節、つまり預言の前半部分で主に述べられているのは、エルサレムの滅亡で終わる時代です。
[10]彼らが霊的に祝福された場所へ回復されるかどうかという問題については、すでに議論されました。
[11](Clinton, Fasti H., vol.1., p. 243.)
[12]疑いなく、個人の改心という個人的な奇跡というものが存在し、信者は神の存在だけでなく、神の存在と人々に対する力の超越的な証拠を得ます。
[13]ルカの福音書21章24節。
つまり、25世紀前にネブカドネザルに委ねられた地上の主権が異邦人に留まる期間の終わりまでです。
[14]ユダヤ年代記からの以下の抜粋は、(Mr.Newton's Ten Kingdoms (2nd Ed., p. 401)に引用されています。
「ヨーロッパ列強は、ユダヤ人を個人的あるいは集団的に復興させるという手間をかける必要はありません。
パレスチナにアメリカ合衆国のような憲法を与えさえすれば、ユダヤ人は自ら復興するはずです。
そうすれば彼らは喜んで喜んでそこへ行き、そこで敬虔に、モーセの教えを本来の輝きに復興させる天の啓示を受けたメシアの到来を待つはずです。」
[15]当時、異邦人は、平等ではなく、ある意味では民族内で受け入れられていた改宗者として、公然と認められた。
教会は本質的にユダヤ人だった。神殿は彼らの拠り所でした。
(使徒の働き2章46、3章1、5章42節)。
彼らの証言は、国民に対する旧約の預言(同3章19〜26節)に沿ったものであり、迫害によって散り散りになっても、使徒たちは大都市にとどまり、国外に追放された者たちはユダヤ人の間でのみ伝道しました。
(同11章2〜18節、15章と比較してください。)
[16]人々の間に散らばった「残された者」は「神の戒めを守る者」となります。
「神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち」(ヨハネの黙示録12章17節)
ユダヤ人でありながらクリスチャンであり、ユダヤ人でありながらメシアを信じる者であり、メシアが現れる時まで国民はメシアを拒み続けます。
マタイの福音書24章のような預言は、成就の時と場面において、信じる民が慰められ、導かれることを暗示していることは、思慮深い人なら明らかであるに違いありません。
第14章 パトモス島の幻
解釈の狭さは黙示録研究の悩みの種です。
「この預言のことば」、そして「これは、すぐに起こるはずの事」とは、ヨハネの黙示録とその内容についての神の描写です。
したがって、その一部が将来に適用されることを否定する正しい理由は誰にもありません。
ヨハネの黙示録全体が預言的な書物です。
七つの手紙でさえ、当時存在していた教会に宛てられたことは疑いなく、キリスト教世界の歴史との中間的に述べられているのは明らかです。
しかし、終末に先立つ厳しい試練の中に人々にとって、次の時代において特別な声を持ちます。[1]
4章では、御座は天に置かれています。
現在、裁きは恵みを待っています。
しかし、恵みの日が過ぎ去ると、豊かな祝福を蓄えた約束と契約が成就する前に、裁きが介入しなければなりません。
しかし、御座に座っておられる方の開かれた手に握られている巻物を、誰が開くことができるでしょうか?
(ヨハネの黙示録5章2節)
宇宙のいかなる被造物も[2]誰もそれを見ようとはせず、神ご自身もその封印を一つも解くことはできません。
なぜなら、父なる神が裁きの権限を譲り渡したからです。
恵みの務めは恵みに恵まれたすべての人々に与えられています。
しかし、裁きの主導権を握ることができるのは、宇宙で唯一人の御子だけです。
(ヨハネの福音書5章22〜27節)
そして、王座を取り囲む天の者たちの賛美歌と、無数の御使いたちの高らかに響き渡る合唱。
しかし、神の全被造物によって反響する中、カルバリの十字架につけられた「ほふられた小羊」である御方。
しかし、その書物を手に取り、封印を解こうとされています。
(ヨハネの黙示録5章5〜14節)
年代の枠を越えるのは第五の封印においてです。[3]
したがって、初期の封印については、詳しく述べる必要はありません。
それらは明らかに、主がマタイの福音書24章で言及された、最後の大迫害に先立つ出来事を描写しています。
戦争と絶え間ない戦争の脅威、武装した王国が互いに滅亡へと突き進みます。
そして飢饉、そして再び疫病、飢餓、そして剣が犠牲者を出し続けています。
そして、こうした累積する災いの恐怖の中で、不可解で名状しがたい死に見舞われる者たちもいます。
(ヨハネの黙示録6章2〜8節)
マタイの福音書24章によれば、患難の直後には、昔の預言者たちが「主の大いなる恐るべき日」を告げるしるしと前兆が続くことになっています。
黙示録では、患難の殉教者たちが第五の封印(ヨハネの黙示録9章)に記されています。
第六の封印では、主がオリーブ山で語られた、そしてヨエルとイザヤが何世紀も前に預言した出来事が正確に記され、大いなる怒りの日の到来が宣言されています。[4]
激しい嵐の前に訪れる、重苦しく重苦しい静けさのように、最後の封印が解かれると天には静寂が訪れます。(ヨハネの黙示録8章1節)
復讐の日が始まったのです。
以前の封印に込められた出来事は、確かに神の裁きでした。
しかし、それは摂理的な性質のものであり、人間の二次的な原因で説明できます。
しかし、神はついに御自身を宣言されました。
そして過去と同様に、今、神の民に対する暴虐がその機会となっています。
殉教者たちの叫びが神の御前に呼び起こされ(ヨハネの黙示録3章)、それは長らく抑え込まれていた怒りのほとばしりを告げるラッパの音の合図となります。(ヨハネの黙示録6章)
一章という限られた枠内でヨハネの黙示録の解説を書くことは不可能であり、その試みは本書の本来の目的と主題から脱線することになります。
しかし、ヨハネの黙示録の幻の特徴と方法に注目し、それを念頭に置くことは必要です。
忘れてはならないのは、幻を見た者は5章の封印された巻物の「内側と裏側」に記された内容を一行たりとも読む特権を与えられなかったことです。
しかし、封印が破られるたびに、その内容の一部のはっきりとした特徴が幻の中で伝えられました。
したがって、一連の主要な幻は、時系列に沿って出来事を描いています。
しかし、その流れは時折、挿入句やエピソード的な幻によって中断されます。
時には、第六の封印と第七のラッパの間で終末の時に至るものが存在しています。
また、第六のラッパと第七のラッパの間では、より頻繁に、それ以前の幻の中で時系列に沿って詳細を描いています。
したがって、ヨハネの黙示録を正しく理解するための最初の、そして最も重要なステップは、この書物の連続的な幻とエピソード的な幻を区別することです。
以下の分析は、この主題についての探究を促進し、助けるために提示されています。[5]
6章 — 最初の6つの封印の幻
出来事が年代順に表されています。
(7章 — 挿入句:最初の幻は第五の封印の忠実な残りの者、あるいは第七の封印の裁きを考慮した選びに関係し、2番目の幻は最終的な救いに至ります。)
8章、9章 — 第七の封印の始まり。最初の6つのラッパが、時系列順に連続して行われた裁きです。
(第10章〜11章13節 — 挿入句:七つの雷の隠された奥義(10章3、4節)と証人の証言(後者はおそらく第五の封印の時代)を含んでいます。)
11章15〜19節 — 第七のラッパと3番目で最後の災い(8章13節、9章12節、11章14節と比較してください。)、
王国の樹立に先立って行われています。(10章7、11章15と比較比較してください。)
(12章〜18章 — 挿入句)
13章 — 終わりの日の二人の大冒涜者と迫害者の台頭と経歴の紹介
14章 — 7章には残された民が祝福の中で見られます。
6、7節:永遠の福音
8節:バビロンの滅亡
9〜11節:獣を崇拝する者たちの破滅
14〜20節:キリストの啓示と最後の審判
15章 — 8章の出来事、すなわち第七の封印が開かれる出来事を時系列で描いた幻です。
(これは、第五の封印の信者たちが、差し迫った裁きを前に神を賛美している様子が描かれていることは明らかです。
2〜4節を参考にしてください。
その裁きは第七の封印の中にあります。)
16章 — 七つの鉢:七つのラッパの出来事に関する第二の幻で、次のように現れます。
まず、第七のラッパと第七の鉢はどちらも最後の大惨事に関係しています。
第七のラッパの下では、神の奥義が成就します。(10章7節)
神殿が開かれ、いなずま、声、雷鳴、地震が起こります(11章19節)
第七の鉢の下では、「事は成就した。」という声が神殿から聞こえ、声、雷鳴、いなずま、そして、地震が起こります(16章17、18節)
第二に、両方が関連する系列の幻における裁きの同じ範囲にあります。
1、地球
2、海
3、川
4、太陽
5、穴、獣の座
6、ユーフラテス川
7、天国、空中
(17、18章 — 第七のラッパと第七の鉢によって陥落した「淫婦」とバビロンの発展と破滅に関する詳細な幻です。
第七の封印による最後の一連の裁きがあります。 (11章18、16章19節))
19章 — 淫婦の破滅が成就し (2節)、花嫁の栄光が続きます。 (7節)
キリストの栄光ある啓示と、それに伴う獣と偽預言者の滅亡が起こります。 (20節)
20章 — サタンは縛られます。
聖徒たちの千年王国(1〜4節)
千年王国の後、サタンは解き放たれ、再び諸国民を惑わします。
サタンは火の池に投げ込まれます。
大きな白い御座で裁きがあります。
第21章、22章1〜5節 — 新しい天と新しい地
22章6〜21節 ― 結論[6]
最後のラッパと最後の鉢は、栄光の王国の到来に先立つ復讐の日の最後の審判を含むものです。
必然的に、終わりの日の二つの大いなる反キリスト教勢力、すなわち十本の角を持つ獣に象徴される帝国と、緋色の女に象徴される教会の破滅をも含んでいます。
したがって、13章と17章の幻は、これらの勢力の台頭と発展を描写するものとして挿入されています。
したがって、これらの幻は、それ以前の封印における出来事と関連する詳細を私たちに与えてくれる。
なぜなら、第五の封印の殉教者たちは、13章の大いなる迫害者の犠牲者だからです。
前述の図式がおおむね正しいとすれば、ヨハネの黙示録に含まれる時代は次のように分けられます。
1.七つの教会:キリスト教会の終焉後の過渡期のディスペンテーションです。」[7]
2.七つの封印:王国が成就する前に預言されたすべての期間。
3.王国:最後の背教期間の後に起きます。
4.永遠の状態、新しい天と新しい地。
ダニエルの預言が成就したのは明らかに封印の期間内です。
次の調査は使徒ヨハネの夢とそれ以前の預言との接点を確かめることに向けられるべきです。
既に述べたように、預言が人間の年代記の範囲内に入るのは、七十週の範囲内に限られます。
さらに、七十週は明確な期間であり、その中間期と終末期が明確に区切られます。
最初の週、もしくは預言期間全体の時代の始めは、ユダヤ人のバビロンからの帰還でも神殿の再建でもなく、彼らの民族的立場を回復したペルシャの勅令の調印によって始まります。
同様に、最後の週の始まりも、ユダヤ人のユダヤへの帰還でも神殿の将来の再建でもなく、「来たるべき君主」による条約の調印によって始まります。
この条約は、おそらく彼らを再び民族として認めるのです。[8]
しかし、この人物がその出来事が起こる前に権力を握っていることも明らかです。
そして、彼の台頭は、後にローマ帝国の地を分割する十の王国の台頭よりも後に起こると明確に述べられています。(ダニエル書7章24節)
したがって、これらの王国の発展、そして終わりの日に皇帝の杖を振るう偉大な皇帝の台頭は、第七十週の始まりよりも前に起こっているはずです。[9]
そして、ある一定の範囲において、その後の出来事の順序も決めることができます。
聖所を汚すことによる条約違反は「週の半ばに」起こることになっています。(ダニエル書9章27節)
また、この出来事は反キリストによる大迫害の時代となります。(マタイの福音書24章15〜21節)
それは正確に3年半続くことになります。
なぜなら、反キリストがユダヤ人を迫害する力は、この定められた期間に限定されるからです。(ダニエル書7章25節、ヨハネの黙示録13章5節)
「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、」(マタイの福音書24章29節)
これはマタイの福音書第24章の記述であり、ヨハネの黙示録6章はまさにこれと一致しています。
なぜなら、第五の封印の幻は「苦難」の期間を包含しています。
第六の封印が開かれると「太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。」、そして、叫びが響き渡りました。
「主の御怒りの大いなる日」(ヨハネの黙示録6章12、17節)ヨエルの預言もまたこれと一致しています。
「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」(ヨエル書2章31節)
この復讐の日に起こる出来事は、第七の封印の幻の重荷であり、そこにはバビロンの裁き、緋色の女、あるいは宗教的背教が含まれます。
それは、皇帝の権力(ヨハネの黙示録17章16、17節)である獣によってもたらされ、その恐ろしい結末によって、この恐ろしい劇は終焉を迎えます。
(ヨハネの黙示録19章20節)
それゆえ、終わりの日の出来事を次のように順序づける明確な根拠があります。
1.十の王国が発展します。
2.これらの王国の領土内に11番目の「王」が現れ、10のうち3つを征服し、最終的にはすべての国から君主として受け入れられます。
3.この王がユダヤ人と、あるいはユダヤ人に第七十週の時代に有利な条約を締結します。
4.この王が3年半後に条約を破ります。
5.聖書にある「大患難時代」とは、終わりの日の恐ろしい迫害であり、3年半続きます。
6.ユダヤ人が大いなる敵から解放され、第七十週の終わり、祝福の中で最終的に安定を得ます。
7.「主の御怒りの大いなる日」は、第七の封印の期間です。
エルサレムの民に対するキリストの啓示で始まり、神の力の恐ろしい出現を伴い、キリストの最後の栄光ある降臨で終わります。
第七十週が神のディスペンテーションの最後の七年間です。
反キリストの統治の期間であるという考えは、ニケア以前の教父たちの著作と同じくらい古い歴史を持っています。
しかし、聖書の記述を注意深く検討すると、この見解にいくらか修正が加えられます。
聖書が明示的に述べているのは、ダニエル書9章24節に明記されているユダの祝福が成就することだけです。
反キリストはその後ユダヤから追放されます。
しかし、それ以外の方法で彼が力を失うと考える理由は全くありません。
すでに述べたように、第七十週は第五の封印の期間で終了します。
しかし、バビロンの陥落は第七の封印の時代に当たります。
その時代が長く続くと主張する者はなく、短期間です
しかし、その長さについて唯一確かなことは、それが反キリストの人生の範囲内であることです。
なぜなら、その終わりに反キリストは生きたまま捕らえられ、恐ろしい破滅へと投げ込まれるからです。
(ヨハネの黙示録19章20節)
過去の例えからすると、第七十週の終わりに起こると預言されている出来事は、その終わりの直後に起こると予想しがちです。
しかし、ダニエル書は、そこに一定の間隔があることを明確に教えています。
ダニエル書11章の前半をどのように解釈するにせよ、36節以降の「王」こそが終わりの日の偉大な敵であることは明らかです。
彼の戦争と征服は預言されています。[10]
12章は、マタイの福音書とヨハネの黙示録で預言されている苦難の時、「大患難時代」について言及して始まります。
7節では、「苦難の時」の期間が「ひと時とふた時と半時」と明記されています。
しかし、これは既に述べたように、半週、つまり1260日です。
しかし11節では、週を分ける出来事、そしてマタイの福音書24章によれば迫害の合図となる出来事の日から1290日が経過すると明確に宣言されています。
そして、12節では、祝福が預言の週の終わりから75日後の1335日に延期されます。
したがって、「主の日」が第七十週の終わりの直後に起こるとすれば、ユダの完全な解放はその最後の期間が始まらないと実現しません。
そして、これはゼカリヤ書14章にはっきりと確認されています。
これほど明確な預言は他になく、その解釈を困難にしている諸問題は、文字通りに解釈することを拒否しても、決して克服できません。
それは、その時エルサレムが諸国の連合軍によって占領され、多くの囚人が連行されるその瞬間に、神がエジプト脱出の際にファラオの軍隊を滅ぼしたように、何らかの奇跡的な方法で介入することを教えています。[11]
これらの結論を検証する最も確実かつ厳格な方法は、マタイの福音書24章の預言との比較です。
主は、時代を定め、終わりの日の大きな迫害の特徴を描写した後に、その終わりに起こる出来事を次のように列挙しておられます。
まず、預言された大自然現象が起きます。
次に、天には人の子のしるしが出現します。
そして、地の諸部族の嘆きがあります。[12]
続いて、栄光の到来があります。
迫害とそれに続く「天からの大きなしるし」(ルカの福音書21章11節)の間には、何の隔たりもないことが明確に述べられています。
それらは「患難の直後」に起こります。
一連の出来事の間にも一定の隔たりがあることも同様に明らかです。
聖所の汚損から、患難が終わり、天からの「恐ろしい光景」と「大きなしるし」が人々の心に恐怖を抱かせる日まで、1260日という明確な期間が設けられています。[13]
しかし、主は再臨について語る際、その日は父なる神のみが知っていると宣言されます。
民は目を覚まして待ち望むべきです。
主は既に、すべての事が成就する前に主の再臨を期待して欺かれないよう警告しておられます。(マタイの福音書24章4〜28節)
今、主は、すべての事が成就した後に背教しないよう警告しておられます。
なぜなら、その時でさえ、主の再臨の兆候となる遅延があるからです。[14]
キリストの言葉は紛れもなく真実であり、この希望の成就を妨げる時を除き、人々に御自分の来臨を期待して生きるように命じています
宿命論は、マホメットの崇拝者と同様に、クリスチャンの間でも広く信じられています。
そして、この18世紀に渡って神の摂理は一巡してきたものの、いつ終わりを迎えるか分からないという事実が忘れられています。
だからこそ、クリスチャンは「祝福された希望を待ち望みながら」生きるよう教えられています。(テトスへの手紙2章12、13節)
しかし、次の時代、すなわち現在の神の摂理が再臨の第一段階をもって終焉を迎える時には、状況は異なります。
現在ではこの聖句が適用されています。
「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」
マタイの福音書24章42節
その時代、この御言葉は適用されません。
すべてが成就する時に属する御言葉としてこのようになります。
「人に惑わされないように気をつけなさい。」
「これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。」
(マタイの福音書24章4、6節)
第14章 補足説明
[1]聖書は現在のディスペンテーションだけのために書かれたのではなく、あらゆる時代の神の民のために書かれたものです。
厳しい試練を受ける者たちがいます。
しかし、これから耐え忍ぶであろう試練を鑑みて、彼らに助言と慰めを与えるために特にふさわしい言葉を聖書の中に見つけられないとは、信じ難いことです。
「この預言」は、ヨハネの黙示録全体についての神の描写です。
(ヨハネの黙示録1章3節)
ヨハネの黙示録1章1節の「すぐに起こるはずの事」という表現と、22章6節の「すぐに起こるべき事」という表現を比較してみてください。
挨拶(1章4、5節)は、この書物のディスペンテーションにおける位置づけを未来に定めているように思われます。
それは父ではなくヤハゥエであり、主イエス・キリストではありません。
つまり、「忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト」です。
そして、この書物は、聖霊が人格として再び天に昇り、挨拶に加わる時について語っています。
しかし、新約聖書の書簡の中では聖霊はそのようなことは決して行っていません。
ヨハネの黙示録1章19節は、この書が分割されており、後半部分のみが預言的であることを証明するために頻繁に引用されます。
私はこれに反論するために、最も率直なヨハネの黙示録注釈者である「ディーン・アルフォード(Dean Alford)」に言及します。
彼はこの節を次のように訳しています。
「あなたが見たもの、それが意味するもの、そしてこれらの後に起ころうとしているものを書きなさい。」
彼は「あなたが見たもの」を「今あなたに与えられた幻」と説明しています。
また、結びの言葉は「これらの後に起こること、すなわち未来の幻」と説明しています。 (Greek Test., in loco)
第4章1節では、アルフォード氏は二つ目の(meta tauta)に 一般的な意味として「これから(hereafter)」という意味を与えようとしています。
しかし、この語は節の終わりでも冒頭と同じ意味です。
つまり「これらのことの後」で使われていると推定されます。
この語は、後続の幻の成就であり、先行する幻の成就に対して相対的に未来に起こるべき幻が与えられた時点に対して相対的ではない暗示を与えています。
もちろん、これは当然のことです。
[2]「わたしは、だれも閉じることのできない門を」(ヨハネの黙示録3章8節)
英訳(Revised Version)では「誰も」と正しく訳されています。
KJVでは「何も(no one)」となっています。
[3]第五の封印は、既に述べたように、第七十週の間に起こる将来の大迫害と関連しています。
最初の四つの封印は、マタイの福音書24章25節の成就に先立つ出来事と関連しています。
同章の六節と七節をヨハネの黙示録6章1〜8節と比較してみてください。
[4]「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。
〜主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
(ヨエル書2章1〜31節)
「見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。
天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。」
(イザヤ書13章9、10節)
「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」
(マタイの福音書24章29節)
「そして、日と月と星には、前兆が現われ、」
(ルカの福音書21章25節)
「私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。
そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。」
(ヨハネの黙示録6章12、13節)
ギリシャ語訳、マタイの福音書24章29節の以下の記述に、私は完全に同意します。
「このような預言は文字通りに理解されるべきであり、実際、そのような理解がなければ、その真実性と意義は失われます。
物理的な兆候は、この描写が象徴する恐ろしい事態の付随現象として、またその激化として起こります。」
この言葉は、人々が目撃し、心に恐怖を抱かせるであろう現象を描写しています。
[5]幻を含む括弧は、注釈とされています。
[6]12章は、解釈が非常に難しいので、あえて読み飛ばします。
「本文の比喩と象徴性について合理的な解釈は、現在あまりにも一般的に受け入れられています。
突飛な空想や言葉や比喩の思い付きな割り当てを伴う歴史的解釈よりも優れているように思われます。」
(Alford, Greek Test., Revelation 12:15,16)
私が目にした唯一の合理的な解釈は、「この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである」(ヨハネの黙示録12章5節)を主イエス・キリストとみなし、女をその民の代表として「人としては彼らから出られた」(ローマ人への手紙9章5節)民とするものです。
しかし、これにはかなりの反論があります。
最初に、過去の歴史的事実が未来に関する幻の中に持ち込まれている点です。
聖書の中でこのような例は他に知りません。
次に、5節以降の幻の主要な特徴は、事実によって説明されていません。
以下の記述は、調査の助けとなるものであり、この件に関する確固たる見解を表明するものではありません。
女が迫害された1260日間は、まさに「大患難時代」の期間です。
7節は、女性が逃亡している間、大御使いミカエルが彼女のために戦うことが宣言されています。
ダニエル書12章1節は、反キリストの勢力の時代について、このように記されています。
「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。
国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。」
(ダニエル書12章1節)
これは1260日間続く「大患難時代」を描写しています。
また、旧約聖書は、ユダヤ人を解放する未来のダビデの生涯をはっきりと示しています。
彼は当時のユダヤ人の地上の指導者となり、後にエルサレムで彼らを統治します。
例えば、エゼキエル書22〜25章には、君主ダビデについて記されています。
彼はエルサレムに宮殿を持ち、その地に定められた相続地を持ち、さらに全焼のいけにえなどを捧げることになっています。
ゆえこの者が、キリストではないことは明らかです。(エゼキエル書45章17節)
私は、これがイザヤ書43章1〜3節に出てくる偉大な軍事征服者ではないかと考えています。
ヨハネの黙示録12章は、地上においてキリストの代理人となり、事実上すべての国々を統治するこの人物を指しているのではないでしょうか?
[7]つまり、聖書のこの部分には預言的な側面があると仮定しています。
[8]彼がその時期までに権力の頂点に達するとは断言しません。
むしろ、ユダヤ人との条約は、彼が自らの立場を高めるための一つのステップとなる可能性が非常に高いのです。
そして、目的を達成するや否や、仮面を脱ぎ捨て、自らを迫害者と宣言します。
そのように「エイレナイオス(Irenaeus)」は教えており、おそらく使徒時代の伝統をそのまま伝えているのです。
[9]彼は北の王でも南の王でもありません。
なぜなら、この両王が彼の領土を侵略するからです。(40節)
すなわち、当時それぞれシリアとエジプトを所有する勢力です。
[10]「決戦の日」(ゼカリヤ書14章3節)
預言者はさらにこのように付け加えています。
「主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。」
(ゼカリヤ書14章3、4節)
どうしてこれが、マタイの福音書24章30節や他の聖書箇所に記されているような、栄光に満ちた偉大で最後の到来であると誰が考えられるのか、私には理解できません。
ゼカリヤ書14章の預言は文字通りのようです。
もし、反キリストが諸国の指導者であるならば、彼がその時エルサレムの神殿で神として座るという記述と矛盾しているように思えます。
つまり、外にいる反キリストは、市内にいる反キリストを包囲することになるのです。
しかし、困難は啓示を無視するものではありません。
この出来事は、一見困難な状況を解決します。」(Fausset's Commentary, in loco)
こうした事柄について憶測するのは無益です。
しかし、私は、彼が帝国軍の指揮を執る不在中に、この街が大敵に対して反乱を起こし、その後、彼は再びエルサレムを征服するために引き返してくると推測します。
歴史は繰り返されます。
さらに、彼がエルサレムに居住するとは考えられません。
しかし、おそらくそこに宮殿を構え、冒涜的な儀式の一環として神殿の王座に座ります。
そのような時にエルサレムが敵軍に占領されたとしても、まず、そこにいる真実な神の民は、これらの苦難の初めに街を離れるよう警告を受けます。
(マタイの福音書24章15、16節)
そして次に、首都の解放がユダ解放の最終段階となります。
ゼカリヤ書12章7節を参考にしてください。
このように考えれば、それほど奇妙には思えません。
[11]「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」
(マタイの福音書24章29、30節)
[12](kopsontai pasai ai phulai tas gas. )
ゼカリヤ書12章12節と比較してください。
(kopsetai ha ga kata phulas phulas)
[13]したがって、もし降臨がこれらの出来事と同時期に起こったとしたら、この時代、生きている誰もが患難の時代が分かれば、その日付を特定できるはずです。
一方、この章では、すべてが成就した後に、待つのに飽きてしまい、背教に転じる単なる信仰告白者を排除されます。(マタイの福音書24章48節)
そして、真実な弟子たちさえも眠りに誘い込み、主の再臨によって目覚めさせられます。(マタイの福音書25章5節)
主が戻られるのに十分な期間が経過することを明確に示しています。
[14]マタイの福音書24章42〜51節、25章10〜13節
天の御国は十人の処女にたとえられています。
つまり、 最後の章の終わりに語られている時代、すなわち主御自身が支配に来られる時のことです。
(Alford, Gr.Test., in loco.)
このたとえ話は、地上に人々が待ち望むあらゆる時代に適用できます。
しかし、終末の日に、預言が完全に成就したことを振り返る人々には、特に深く、特別な意味を持ちます。
24章31節から25章30節まで全体は、特にその時代に関連しています。
第15章 来たるべき君主
「ヨーロッパ全土が探しているものは何なのか?」
この言葉は、アガメムノンの墓の最近の発見に関するタイムズ紙の社説から引用されています。[1]
「ヨーロッパ全土が求めているものは何でしょうか?
それは人間の王、ギリシャ民族の偉大な長、千のガレー船と十万の兵士がその人格的資質を認めただけで服従し、10年もの長きにわたり従った人物です。
今、挑戦を待つアガメムノンの盾に自ら挑むことができる人物こそ、真実な東洋の皇帝であり、私たちが直面する困難から逃れる最も容易な手段です。」
この夢の実現は預言の成就となります。
確かに、この時代に特徴を与えるのは個人の知性の力ではなく、民衆の運動です。
しかし、今は暴徒の時代です。
文明が向かうべき目標は専制ではなく民主主義です。
しかし、民主主義が完全に発展すれば、専制への最も確実な道の一つとなります。
まず革命、次に住民投票、そして専制君主となります。
皇帝の杖はくりかえし暴徒が負っています。
さらに、並外れた偉大さを持つ人物は、必ずその時代に足跡を残しています。
そして真実な人間の王は、並外れた偉大な資質を兼ね備えていなければなりません。
「学者であり、政治家であり、揺るぎない勇気と抑えきれない行動力を持ち、豊富な資源を持ち、ライバルであろうと敵であろうと、正面から立ち向かう覚悟のある人物」でなければなりません。[2]
その機会もまた、彼の到来と同時期に訪れなければなりません。
預言の声は明瞭です。
時が来て、その人が来ます。
「アガメムノーン(Agamemnon)」(ギリシア神話のミュケーナイ王、トロイア戦争におけるギリシア軍の総大将)の再出現のこの夢や伝説に関連して、ダニエルの第二の幻の言葉が預言者が出現する場所としてギリシャを重視する人々を導いたことは注目に値します。[3]
そして、彼が古代ギリシャ帝国の領土内に現れることは間違いありません。
アレクサンドロス大王の死後、征服地が四つの王国に分割され、その形成を預言した御使いガブリエル、彼は神から任命された幻の解釈者です。
その者は、未来に起こるであろう出来事について次のように語りました。
「彼らの治世の終わりに、彼らのそむきが窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ。
彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。彼は、あきれ果てるような破壊を行ない、事をなして成功し、有力者たちと聖徒の民を滅ぼす。
彼は悪巧みによって欺きをその手で成功させ、心は高ぶり、不意に多くの人を滅ぼし、君の君に向かって立ち上がる。しかし、人手によらずに、彼は砕かれる。」
(ダニエル書8章23〜25節)[4]
7章の幻では、異邦人の最後の偉大な君主は冒涜者であり迫害者としてのみ描かれています。
「彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。」
(ダニエル書7章25節)
しかし、ここでは将軍であり外交官でもあると描写されています。
こうして預言の中で確固たる立場を得た彼は、続く幻の中で「来たるべき君主」(ダニエル書9章26節)として述べられています。
この人物はよく知られており、その到来は既に預言されています。
ダニエル書の四番目の、そして最後の幻における彼の言及は非常に明確であるため、この「王」の人格を確立することの重要性を考慮し、ここではその箇所を長々と説明しています。
王は自分の意志に従って事を行い、あらゆる神よりも高く、自らを高め、神々の神に対して驚くべきことを語り、憤りが成就するまで繁栄します。
定められたことは必ず成就するからです。
「この王は、思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高め、大いなるものとし、神の神に向かってあきれ果てるようなことを語り、憤りが終わるまで栄える。
定められていることが、なされるからである。
彼は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。
その代わりに、彼はとりでの神をあがめ、金、銀、宝石、宝物で、彼の先祖たちの知らなかった神をあがめる。
彼は外国の神の助けによって、城壁のあるとりでを取り、彼が認める者には、栄誉を増し加え、多くのものを治めさせ、代価として国土を分け与える。
終わりの時に、南の王が彼と戦いを交える。北の王は戦車、騎兵、および大船団を率いて、彼を襲撃し、国々に侵入し、押し流して越えて行く。
彼は麗しい国に攻め入り、多くの国々が倒れる。しかし、エドムとモアブ、またアモン人のおもだった人々は、彼の手から逃げる。
彼は国々に手を伸ばし、エジプトの国ものがれることはない。
彼は金銀の秘蔵物と、エジプトのすべての宝物を手に入れ、ルブ人とクシュ人が彼につき従う。
しかし、東と北からの知らせが彼を脅かす。彼は、多くの者を絶滅しようとして、激しく怒って出て行く。
彼は、海と聖なる麗しい山との間に、本営の天幕を張る。しかし、ついに彼の終わりが来て、彼を助ける者はひとりもない。
その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。
しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。」
(ダニエル書11章36節〜12章1節)[5]
ダニエルの預言の注目点はユダとエルサレムです。
しかし、愛弟子のヨハネの黙示録における幻はより広い範囲を扱っています。
同じ場面が時折描かれることもあります。
しかし、より壮大なスケールで描かれています。
同じ登場人物が登場します。
しかし、より重要な関心事や出来事との関連で描かれています。
ダニエル書において、メシアは地上の人々との関連でのみ述べられており、偽メシアが舞台に登場するのも、まさにこの関係においてです。
ヨハネの黙示録において、小羊は「あらゆる国民、部族、民族、言葉の中から」数え切れないほどの大群衆の救い主として現れます。
(ヨハネの黙示録7章9節)
そして、獣は地上でキリストの名を唱えるすべての者を迫害する者として描かれています。
さらに、使徒ヨハネの幻には開かれた天が含まれています。
しかし、ダニエルが預言された「来るべきこと」の予感は地上に限定されています。
これらの幻の細部の意味を解明しようとする試みは、最初の降臨で成就したメシアの預言から得られる教訓を無視することになります。[6]
旧約聖書は敬虔なユダヤ人に、キリストを個人として、つまり組織や王朝ではなく、人格として求めるよう教えました。
さらに、聖書はキリストの出現の主要な事実を予期することを可能にしました。
例えば、ヘロデ王の「キリストはどこで生まれるのでしょうか?」という問いかけに対して、ユダヤ人は「ユダヤのベツレヘム」という明確でためらうことのない答えを出すことができました。
(マタイの福音書2章4節、ミカ5章2節参考)
しかし、苦しみと栄光が混ざり合った幻のそれぞれの部分に、その位置と意味を与えることは、霊感を受けた預言者たち自身でさえ、到底不可能でした。」
(ペテロの手紙第一1章10〜12節)
反キリストの預言についても同じです。
実際、このケースはさらに強力です。
「イスラエルの救いを待ち望んでいた」人々は、不注意な読者には古代ヘブルの預言者たちの苦しみや王たちの栄光を指しているように思える聖書から、メシアに関する預言を拾い集めなければなりません。
しかし、反キリストの預言は、まるで預言ではなく歴史的事実のように、明確です。[7]
しかし、解説者の仕事は真実な困難に満ちています。
ダニエル書を単独で読めば、いかなる疑問も生じません。
「来たるべき君主」は、未来に復活したローマ帝国の君主であり、聖徒たちを迫害する者として描かれています。
彼に関する記述には、少しも難解なものは一つもありません。
しかし、使徒ヨハネの記述の中には、それ以前の預言と矛盾しているように思えるものがあります。
ダニエルの幻によれば、反キリストの統治権は十王国に限定されており、その生涯は第七十週の期間に限定されているように思われます。
では、これは次の使徒ヨハネの記述とどのように調和するのでしょうか?
「彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。
(ヨハネの黙示録13章7節)[8]
さらに、この者はこのように広大な超自然的能力に恵まれ、預言においてこのように素晴らしい立場を占める人物です。
しかし、ローマの土地の狭い範囲内に制限されるというのは信じられることでしょうか?
これらの点が聖書の真理に対する反論として主張されるならば、キリストの預言が同じような困難に悩まされていたことを指摘するだけで十分です。
こうした預言は、精巧で複雑なモザイクのばらばらのピースのようです。
一つ一つを適切な位置にはめ込むことは、私たちの最大限の創意工夫をも困惑させることになります。
私たちに期待できるのは、その核となる意図を明らかにすることだけです。
あるいは、それ以上のことを要求されても、どの部分も他の部分と矛盾していないことを示せば十分です。
そして、これらの結果は、ダニエル書と使徒ヨハネ書のヨハネの黙示録の幻を研究する者にとって、反キリストの生涯に関する一般的な粗雑な見解にとらわれずに、それらに取り組むならば、報いとなります。
これらの幻は歴史ではなく、ドラマです。
ヨハネの黙示録12章では、苦難に苦しむ女を見ることができます。
第21章では、彼女は最後の栄光のうちに姿を現します。
その間の章では、その間を埋める出来事を簡潔に垣間見ることができます。
本題に関連して特に注目すべきは13章と17章であり、後者の幻は時間的に先に起こる出来事を描いていることは明らかです。
偽りの教会と真実な教会は、類似した象徴によって象徴されています。
花嫁であるエルサレムは、淫婦であるバビロンにその対比を成しています。
新エルサレムがユダヤ教会であるのと同様に、バビロンはローマの背教です。
天の都は、過ぎ去った時代において贖われた者たちの母であり(ガラテヤ人への手紙4章26節)、地上の都は淫婦と地上の忌まわしい者たちの母です(ヨハネの黙示録17章5節)
反キリスト教の教皇ローマによる迫害で命を落とした犠牲者は5千万人と推定されています。
しかし、この恐ろしい記録でさえ、その運命を測るものではありません。
教皇制が成立する以前の時代、さらにはメシア以前の時代に殉教した「聖なる使徒と預言者たち」の血が復讐の日が来る時に、ローマに要求されます。[9]
教会が花嫁として明確に象徴されるのはユダヤ教の側面においてのみです。[10]
ゆえに契約の民が正常な関係を取り戻した時に、キリスト教世界の背教した教会は、その罪悪の極みにおいて、淫婦として現れるのです。[11]
さらに、この幻はこの女の影響力のはっきりとした復活の姿を示しています。
彼女は十本の角を持つ獣の上に座し、王家の色彩に身を包み、金と最高級の宝石で飾られています。
過ぎし時代のローマ教皇の悪名高き偉大さは、来るべき暗黒の日々における彼女の栄光の輝きによって圧倒されます。
その時、彼女は聖衣を纏い、地上においてキリストの名を奪う唯一のものとなるかもしれません。[12]
彼女は、異邦人世界の最後の偉大な君主を自らの自発的な家来であると主張するのです。
ローマ帝国の最後の勝利の時代がいつまで続いたかについては、聖書は何も語っていません。
しかし、その終焉をもたらす危機は明確に記されています。
「あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。」
(ヨハネの黙示録17章16節)
御使いが獣を淫婦と関連付けて描写する中で、特に注目すべき点が一つあります。
七つの頭には二重の象徴性があります。
淫婦との関係で見るとこのように記されています。
「この女がすわっている七つの山で、七人の王たちのことです。」
(ヨハネの黙示録17章12節)
しかし、獣との特別な関係においては、それらは異なる意味を持ちます。
御使いは付け加えて、 「そして、それらは七人の王である」と述べています。
これは「王国」です。
「その言葉は、その厳密な預言的な意味合いと、ここで特に述べられている預言の部分との推論に基づいて用いられている」のです。[13]
ダニエル書7章では、獣はローマ帝国と同一視されています。
ヨハネの黙示録では、彼は獅子、熊、ひょう、つまりダニエルの幻の最初の三つの「王国」と同一視されています。
もし、ここでは、彼はこれらの王国だけでなく、神とその民に敵対するすべての大世界の列強の相続人であり、代表者として描かれています。
七つの頭はこれらの勢力を象徴しています。
「五つは倒れ、一つは今も倒れています。」
エジプト、ニネベ、バビロン、ペルシャ、ギリシャは滅亡し、ローマが地上の主権の杖を握っています。
これは、既に挙げられた帝国に続く六番目の帝国でした。[14]
「五人はすでに倒れたが、ひとりは今おり、ほかのひとりは、まだ来ていません。
しかし彼が来れば、しばらくの間とどまるはずです。」
(ヨハネの黙示録17章10節)
ここでの預言は、ダニエルのそれぞれの幻において既に見られたのと同じ奇妙な「短縮」によって特徴が与えられます。
ローマが6番目の王国であったのに対し、7番目の王国は末日の同盟であり、「来たるべき君主」を筆頭としています。
来たるべき君主自身は、その力が完全かつ最終的に発揮された後、7番目の王国に属しながらも8番目の王国と呼ばれています。[15]
これらの結論の重要性は続編で明らかになります。
12章の主題は竜、産みの苦しみを味わう女、男の子の誕生と天への携挙、天における大御使いと竜の争いです。
(7節、ダニエル書12章1節と比較)
竜の地上への追放され、竜によって女が迫害され、そして女は荒野へ逃げ、そこで「ひと時とふた時と半時」、すなわち1260日間(6節、14節)(ダニエル書第七十週目の後半)生き延びることです。
この章は、女を滅ぼそうとして挫折した竜が存在しており、次の聖句の記述で終わっています。
「すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。」
(ヨハネの黙示録12章17節)
13章は、ダニエルの幻を横断する形で、竜の目的が預言者を通して成就する様子を描いています。
竜はこの目的のために預言者に力を注ぎます。
女の子の誕生と携挙にどのような意味が込められようとも、従順で忠実な「女の子孫の残りの者」とは、ダニエルの預言における迫害された「いと高き方の聖徒たち」、すなわち終日のユダヤ教会であることに、合理的な間違いはありません。
蛇、女、男は聖書の最初のページに共に現れ、そして最後のページにも再び現れます。
しかし、この変化はなんと重大で恐ろしいのです。
もはや狡猾な誘惑者ではなく、サタンは今やその恐ろしさのすべてを、巨大な火の竜として示しています。[16]
女の約束の子孫を滅ぼそうとする者。
そして、エデンの園で悔い改めた謙遜な者の代わりに、男が獣として現れます。[17]
力と邪悪さの両方において獣です。
蛇の犠牲者は自ら進んで奴隷となり、味方となりました。
神は御心をすべて成就する人を見つけ、天と地におけるすべての権威と共に御自身の王座をその者にお与えになりました。
しかし、これは後にサタンによって歪められ、来たるべき人は竜の「力と王座と大いなる権威」を持つことになります。
(ヨハネの黙示録8章2節)
竜と獣は共に冠をかぶっています。
(ヨハネの黙示録12章3節、13章1節)
聖書の中で王冠について述べられているのは、ただ一度だけです。
そしてそれは、「王の王、主の主」という名を持つ方がかぶっている王冠です。
(ヨハネの黙示録19章12〜16節)
獣と竜が王冠で神の力を主張するのは、その力を偽装する者として行っているのです。
サタンの人格と、人類の歴史を通して私たち人類に興味を抱いてきた密接な関係は、啓示の中で最も確実でありながら、最も奥義的な事実の一つです。
御使い、人間、悪魔といった、知的創造物を含む一般的な分類は誤解を招きます。
堕落した御使いたち[18]は裁きを受けます。。
「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。」
(ユダの手紙6節)
悪魔は福音書の物語の中でくりかえし述べられており、書簡の教義にも位置づけられています。
しかし、悪魔は偉大な御使いと同様に、自らの範囲においては比類のない存在であるように思われます。[19]
ここで注目すべきもう一つの事実は、蛇崇拝が人類に及ぼしてきた影響力です。
古代世界の国々において、蛇崇拝が宗教体系に含まれていない国は何もありません。
異教の神話においても、聖なる蛇と何らかの形で結びついていない英雄や神は何もありません。
「悪魔が支配する場所ではどこでも、蛇は特別な崇拝の対象とされていました。」[20]
このことの真実な意味は、偶像崇拝の本質を正しく理解するかどうかにかかっています。
一般に理解されているような偶像崇拝。
しかし、最も堕落し無知な人種以外に蔓延したことがあるかどうかは疑問です。
崇拝されているのは象徴そのものではなく、象徴が表す力や存在です。
使徒パウロがコリント教会に偶像崇拝に捧げられたあらゆる行為に関与しないよう警告した際、彼は偶像そのものが無価値であることを注意深く説明しています。
「いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。
私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。」
(コリント人への第一の手紙10章20節)
これは、終末の日に預言されている蛇崇拝の性格を洞察する手がかりとなります。[21]
サタンの巧みな嘘は、受肉の茶番劇です。
彼は、神の出現である人間を崇拝し、普遍的な崇拝を主張する人間を奮い立たせます。
そして、偽りのメシアだけでなく、奇跡の力においてメシアに匹敵する別の存在が現れます。
しかし、その唯一の使命は人類の崇拝を得ることです。
こうして、神の奥義は不義の奥義によって笑いものにされ、父、子、聖霊は、竜、獣、偽預言者という形で対応する存在を持つことになります。[22]
静かな天は、この恵みの時代を象徴しています。
旋風や地震や火が人々を畏怖させるかもしれません。
しかし、古代ヘブルの預言者の時代と同じように、[23]神はこれらの中にはおらず、「静かな細い声」の中におられます。
その声は哀れみを告げ、失われた人々を闇の力から御自身へと導き入れようと努めます。
しかし、神の御座が今や恵みの御座となったことを示すまさにその沈黙こそが神が単なる神話に過ぎないことを示す決定的な証拠として訴えられます。
そして、粗暴な冒涜者のお気に入りの策略は、全能の神に、何かはっきりとした裁きの行為によって御自身を明らかにせよと挑発することです。
やがて、この不敬虔な挑戦はサタンによって引き受けられ、獣の像の前にひれ伏すことを拒む者たちは死に襲われます。[24]
反キリストは、アンティオコス・エピファネスや異教ローマの皇帝たちのように俗悪で残忍な迫害者以上のものであり、「バルコカブ(Barcochab)」のような下品な詐欺師以上のものです。[25]
奇跡だけが背教者の懐疑心を黙らせることができます。
そして、竜に委ねられた力のすべてを活用し、獣は恵みを拒んだ世の人々の敬意を一身に集めるはずです。
「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。」
(ヨハネの黙示録13章8節)
もしそれが可能ならば、選ばれた者たちでさえも、彼の強力な「しるしと不思議」によって欺かれるはずです。
(マタイの福音書伝24章24節)
しかし、神から与えられた信仰は、軽信と迷信に対する唯一の確実な防御策です。
しかし、彼はそのキャリアの絶頂期に、まさにこうなります。
彼の出現は「小さな角」(ダニエル書7章8節)と描写されています。
マケドニアのアレクサンドロス大王のように、小王国の王です。
トルコが最終的に分裂した後に栄える新たな公国の長となるかもしれません。
ユーフラテス川のほとりか、あるいはエーゲ海のアジア沿岸かもしれません。
バビロンという名は、奇妙なことに未来の出来事と結びついています。
そして、最も卑劣な形態の蛇崇拝の発祥地であったペルガモは、聖書がサタンの王座と結びつけている地上唯一の場所です。
(ヨハネの黙示録2章13節)
ナポレオン降臨に先立って起こるであろう大きな政治的変化の中で、明確なのは、ユダヤ人のパレスチナ帰還と、預言されたローマ帝国の分割です。
前者については既に前章で考察していました。
しかし、後者については述べることは何もありません。
未来の十の王国を列挙しようとするのは無益な探究に終わります。[26]
歴史は繰り返されます。
そして、諸国家を苦しめる政治的病に周期的な要素があるとすれば、ヨーロッパは必然的に、18世紀最後の10年間を暗黒に染めたような危機を再び経験することになります。
そして、もし新たな革命が新たなナポレオンを生み出したとしても、王国がどれほど統合され、国境がどこまで変化するかを預言することは不可能です。
さらに、これらの預言の成就を予測するならば、私たちは、生きている人間の生涯のうちに起こる可能性があります。
しかし、実際には数世紀も遅れるかもしれない出来事を扱っています。
私たちの役割は預言することではなく、解釈することです。
。
そして、ヨハネの黙示録の幻が実際に実現するとき、その実現は奥義主義の教育を受けた人々にだけでなく、公的な事実を観察できるすべての人々に明らかになります。
その確信に私たちは満足してよいはずです。
徐々に展開していく影響によって、現在も作用しているかもしれません。
しかし、あるいは、将来のヨーロッパの大きな危機の結果として、この国家連合[27]が展開されます。
こうして、異邦人の優位の時代を終わらせる波乱に満ちた日々において、人類の偉大な指導者となる、あの恐ろしい存在が現れる舞台が準備されるはずです。
反キリストの進路について預言されている道筋を正しく理解するためには、それに関連するいくつかの点を明確に念頭に置く必要があります。
最初に、ある時代までは、彼はその卓越した立場にもかかわらず、単なる人間に過ぎなかったことです。
そして、ここで私たちは未来を過去によって判断しなければなりません。
アレクサンドロス大王は22歳で、ギリシャの小国の君主としてヘレスポントス海峡を渡った。
4年後、彼は帝国を築き、世界史に新たな方向を与えました。
ナポレオン・ボナパルトの経歴には、近代史においてさらにはっきりと完全な類似点が見られます。
今からちょうど100年前、ブリエンヌのフランス陸軍士官学校に入学した当時、彼は無名の若者で、地位や富がもたらす恩恵さえ受けていません。
彼の地位は全くもって無名であったため、コルシカ島総督の影響で入学できたばかりか、そのささやかな友好的な後援行為によって、彼の母親の名を貶めるという誹謗中傷に利用されたほどです。
このような人物が、その巨大な資質と、偶然の好機によって、歴史が彼に与えた地位を獲得できたのです。
ならば、この事実は、預言者たる彼の預言された経歴の信憑性に反論されるあらゆる反論に、最も完全な答えを与えています。
また、過去50年間に文明人の精神活動が著しく発達し、独立心が芽生えたため、ナポレオンのような偉業が将来再び起こるなどという推測は時代錯誤に過ぎないという主張は無駄なものです。
「精神修養の一般的な水準が高まり、人間が人間と同等になるにつれて、天才の並外れた力は衰えます。
しかし、その並外れた力は増大し、その影響力は深まり、その支配力はより強固になります。
人々は才能の成果とその行使に慣れてくるにつれて、その日常的な例を軽蔑し、無視することを学び、単なる有能な人々からより自立するようになります。
しかし、彼らは巨大な知性の力に完全に支配され、卓越した、近寄りがたい才能の奴隷となるだけです。」[28]
この預言者は、超越的な天才の力のみによって、この世で紛れもない卓越した立場を獲得します。
しかし、彼のその後の人生を理解するには、全く異なる種類の考察を考慮に入れなければなりません。
奇妙な危機が彼の歩みを特徴づけています。
当初は宗教の守護者、真実な「教会の長男」であった彼は、容赦なく世への迫害者へと変貌します。
最初はローマ帝国の地の忠誠を誓う人々の王に過ぎません。
しかし、後に自らを神聖であると主張し、キリスト教世界の崇拝を要求します。
そして、ダニエルの生涯におけるこの驚くべき変化がありました。
それによって未来の歴史において極めて重要な時期、すなわちダニエルの第七十週後半の1260日の始まりに起こることを私たちは見てきました。
そして、大御使いと竜の間で「天の戦い」と形容される奥義的な出来事が起こります。
この驚くべき戦いの結果、サタンとその御使いたちは「地に投げ落とされます。」
預言者は悪魔が人類の中に降りてきたことを嘆きます。
「さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。」
「悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」
(ヨハネの黙示録12章6、7、12節)
幻の次の特徴は、十本の角を持つ獣の出現です。
(ヨハネの黙示録13章1節)
これはダニエル書7章に記されている出来事ではありません。
獣はダニエル書とヨハネの黙示録の両方において、地上最後の大帝国を象徴する同一の存在でしてます。
しかし、ヨハネの黙示録においては、獣はより発展の進んだ段階で現れます。
ダニエル書には、獣の歴史における三つの時代が記されています。
第一の時代では十本の角を持ちます。
第二の時代では十本の角の中に小さな角が現れることから、獣は十本の角を持ちます。
第三の時代では、獣は八本になります。
十本目の角が力を増し、十本のうち三つが引き裂かれます。
ここまでのダニエルの幻は、獣を単に「地上の第四の王国」、つまり未来に復活したローマ帝国として描いています。
しかし、ここで幻は獣の歴史から離れ、小さな角の冒涜者、迫害者としての行動を描いています[29]
ヨハネのヨハネの黙示録十三章はまさにこの時代に始まります。
帝国の歴史における最初の三つの段階は過ぎ去り、第四の段階が展開されました。
もはや、条約によって結ばれた諸国家の連合ではなく、ナポレオンがその中から台頭し、覇権を争うような連合ではなく、一人の偉大な皇帝の副官である王たちの連合です。
皇帝は、その並外れた偉大さによって、誰もが認める優位性を確立しました。
そして、竜はまさにこの人物を、来るべき日に地上でその恐ろしい力を活用するために選び出す。
そして、竜がサタンに身を売った瞬間から、サタンによって力づけられ、
「あらゆる偽りの力、しるし、不思議」(テサロニケ人への手紙第二2章9節)によって、その後の彼の歩みを特徴づけています。[30]
これらの幻を、まるで解くべき奥義だと思い続けるならば、語られている出来事がいかに恐るべきものであるか、そしてそれらが成就する時にどれほど強大な力が働くかを忘れてしまうという危険があります。
この恵みの時代において、地上におけるサタンの力は極めて抑制されているため、人々は彼の存在そのものを忘れてしまいます。
まさにこれが、サタンの将来の勝利の奥義となるのです。
竜の力はどれほど言葉では言い表せないほど恐ろしいものでしょう。
主の誘惑を見れば明らかです!
このように記されています。
「また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、
こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。
ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」(ルカの福音書4章5〜7節)
この恐ろしい存在こそ。
しかし、獣にその王座と力と大いなる権威を与えられるのです。(ヨハネの黙示録8章2節)
キリストが屈辱の日々において拒んだすべてのものが与えられるのです。
この驚くべき事実を悟った心は、次に続く言葉を躊躇なく受け入れます。
「彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。
地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。」
(ヨハネの黙示録13章7、8節)
その後地上で必ず起こるであろう出来事について、私たちは深い深刻さと思慮深い慎重さをもって語らなければなりません。
突然の完全な暗闇という現象は、たとえ、それを生み出す原因を十分に理解した上で熱心に探究したとしても、想像を絶するほど恐ろしいものです。[31]
もしそれが予期せぬ、説明のつかない、そして長引く、あるいは何日も続くとしたら、その恐ろしさはどれほど言葉に尽くせないものとなります。
そして、聖書が地球最後の大患難の到来を告げると宣言している兆候は、まさにそのことなのです。[32]
サタンの力のしるしと奇跡は依然として人類から崇拝されます。
そして、もはや沈黙していない天の雷鳴は、背教した人類の上に轟きます。
その時、「最後の七つの災害」の時が訪れます。
そこでは「神の怒りが満たされる」のです。
「神の怒りの鉢」が地上に注がれます。(ヨハネの黙示録15章1節、16章1節)
そして、この恵みの日に、神の寛容なる哀れみの高さと深さがあらゆる人間の考えを超越するならば、神の怒りもまた、同様に神聖なものなのです。
「私たちの神の復讐の日」、「主の大いなる恐るべき日」、この名称は、前例のない恐怖の時代を描写するために神が与えられたものです。
しかし、最後の背教の真夜中の暗闇の中で、神の寛容が盲目にし、心を閉ざし、その哀れみによって、復讐の日の恐ろしい破滅を歓迎します。
なぜなら、その先に祝福があるからです。
次の時代が来ます。
聖書に記されている地球の歴史は、祝福と平和の安息の時代へと続きます。
天が地上を支配し、「主の栄光が、とこしえにありますように。主がそのみわざを喜ばれますように」(詩篇104篇31節)と言われる時代、そして御自身が創造されたすべての被造物の神であることを実証される時代へと続きます。
(詩篇145篇9〜16節)
さらに、幕が上げられ、その先の栄光に満ちた永遠を垣間見ることができます。
そこでは、罪の痕跡はすべて永遠に消し去られ、天と地が一つになり、「神の幕屋」、全能者の住まいが人々と共にあります。
「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、」
(ヨハネの黙示録21章3節)[33]
神の教会にとって、預言の光が実りのない論争の中で暗くなり、これらの幻の研究によって、悪しき日に神の聖徒たちを警告し、導き、元気づけるために神によって約束されていました。
しかし、全く益のないものとして片付けられてしまいました。
これらの幻には、神が御自分の民の信仰を養い、熱意を燃え上がらせるために意図された約束が数多く含まれており、それらを読み、聞き、大切にする人々には特別な祝福が与えられます。
(ヨハネの黙示録1章3節)
現代における最も希望に満ちた特徴の一つは、それらがあらゆる場所で喚起する関心の高まりです。
もしこれらのページが尽きることのないテーマの研究において、たとえ少数の人々の熱意を深め、導くのに役立つならば、その労力は豊かに報われることを願っています。
第15章 補足説明
[1](The Times, Monday, 18th December, 1876.)
[2](The Times, 18th December, 1876.)
[3]反キリストがローマ帝国の東部、そしてアレクサンドロスの後継者たちの支配下にあった東方地域から出現するという事実は、この章によって間違いがなくなります。
しかし、第11章で反キリストは北の王(すなわちシリアの王)と、また南の王(すなわちエジプトの王)と対立するとして述べられていることから、彼がエジプトやシリアから出現するのではないことは明らかです。
したがって、彼はギリシャ、あるいはコンスタンティノープルに隣接する地域から出現するに違いありません。
もし彼が後者から、あるいは4つの地域のいずれかから出現するのであれば、その起源はギリシャとみなされるはずです。
なぜなら、これら4つの地域はすべてギリシャ帝国の区分だからです。
しかし、彼が出現する場所はギリシャ本土である可能性の方がはるかに高いと思われます。
彼は南へ、東へ、そして美しい地へと勢力を拡大していくと描写されています。
つまり、エジプト、シリア、パレスチナに向かうという意味で、ギリシャにいるはずの人の立場に地理的にふさわしい説明です。
「さらに、個人としての象徴ではなく、君主としての象徴として見るならば、かつてギリシャにあった小さな君主国の出身で、今もモンテネグロの主権者の王座にその記念碑があるものにふさわしいシンボルです。」
(NEWTON Ten Kingdoms, p.193.)
[4]ダニエル書8章23〜25節
[5]ダニエル書11章36〜45節、12章1節
私はダニエル書11章5節から始まる箇所全体が将来成就すると信じています。
21節から始まる箇所に関しても全く疑いを持っていません。
特に31節をご覧ください。
しかし文に引用されている部分の将来的な適用については疑問の余地などありません。
この章の一部はアンティオコス・エピファネスについて述べています。
しかし、アンティオコスには全く対応するものがなく、アンティオコスの性格と全く矛盾する特徴があります。
しかし、使徒パウロが語る来たるべき反キリストの記述の中に再び現れている」とピュージー博士は述べています。
彼はさらにこう付け加えています。(Daniel p.93)
「旧約聖書における反キリストのイメージは、反キリスト自身の姿に溶け込んでいます。
反キリストの反宗教的性格のただ一つの特徴は、アンティオコスにも適用できました。
「彼は神々の神に反して驚くべきことを語ったのです。」
神への冒涜は、神に敵対するあらゆる権力や個人にとって必要な特徴です。
これはアンティオコスと同様にヴォルテールにも適用できます。
それ以外のものはすべて彼には存在していません。
この異教徒の王の特徴は、
(1)あらゆる神よりも自分を高く評価します。
(2)あらゆる宗教への軽蔑、
(3)真実な神への冒涜、
(4)父祖の神からの背教、
(5)女の欲望を無視すること、
(6)父祖が知らなかった神を敬うことです。
これら六つの特徴のうち、アンティオコスと一致するのは、ほんのわずかで、ただ一つだけです。
この一節全体は価値があり、議論は決定的です。
(p.96)の記述によると、ピュージー博士はこの王をヨハネの黙示録13章の第二の「獣」と同一視しています。
預言における「獣」は王権を象徴するという理由で、この見解を支持する人々もいます。
これはおよそ正しいのです。
しかし、ヨハネの黙示録13章の第二の獣は明確に「偽預言者」(ヨハネの黙示録19章20節)と呼ばれています。
この一節は、この獣が第一の獣と直接結びついており、最初の獣とは独立していかなる立場も主張していないことを証明しています。
この獣を自らの権利として王であると想定することの困難さは、克服しがたいものです。
[6]反キリストの特徴と歴史の主要な概要を認めようとしないという点にも、同様のことが適用できます。
成就した預言は、成就していない預言を研究する上で唯一の確実な指針となります。
[7]宗教的な懐疑論者は、預言の文字通りの意味を受け入れることを拒否します。
世的な懐疑論者は、敬虔な人々の空想的な解釈を拒否して、預言自体を信じられないものとして退けるかもしれません。
しかし、これは、預言の明確さが他の聖書に与えられる半信半疑の信仰を許さないほど明白であることのさらなる証明にすぎません。
[8]ヨハネの黙示録13章7、8節
7節の最も適切な読み方では、7章9節と同じ4つの単語「部族、民族、国語、国民」が出てきます。
[9]ヨハネの黙示録18章20節
17章6節でも同様に、聖徒たち(旧約時代に虐殺された人々)はイエスの殉教者と区別されています。
ルカの福音書11章50、51節は神の裁きの原則を述べています。
[10]聖書において、このディスペンテーションの教会はキリストのからだとして象徴されており、花嫁として象徴されていることはありません。
バプテスマのヨハネの宣教の終わり以降、花嫁はヨハネの黙示録に登場するまで一度も述べられていません。(ヨハネの福音書3章29、ヨハネの黙示録21章2、9節)
エペソ5章33節の「それはそうとして」という言葉の力は、教会が花嫁ではなくからだであるという事実にかかっています。
地上の関係は天の基準によって再調整されます。
夫と妻は一つのからだではありません。
しかし、キリストと教会は一つのからだです。
それゆえ、夫は妻を「自分自身のように」愛すべきです。
[11]これは「オーベルレン(Auberlen)」たちの見解の真実の要素であると私は信じています。
つまり、17章の女性は、12章の「どうして、遊女になったのか、忠信な都が。」(イザヤ1章21節)の女です。
[12]「私は、裁き(18章2節)と霊的淫行(18章3節)は、ローマで頂点を極めます。
それは、ローマに限定されるものではなく、キリストへの最初の愛から誘惑され、世俗的な虚栄や偶像に愛着を抱くようになった背教した教会全体、つまりローマ、ギリシャ、そしてプロテスタント教会にまで及ぶと考える傾向があります。」(REV. A.R.FAUSSET'S Commentary.)
[13](ALFORD, Greek Test)、ダニエル書7章17〜23と比較してください。
[14]かつて、獣の十本の角が人々にローマ帝国の領土の十の分割を試みさせたように、この七つの頭もまた、ローマ帝国における七つの連続した統治形態を暗示してきました。
これらの概念はどちらも、成就される預言がなければ、決して知られることはありません。
第二は、第一ほど先見的ではないが、「ピプト(pipto)」という言葉が古代バビロンの大災害や黙示録のバビロン(ヨハネの黙示録18章2節と比較してください)のような暴力的な滅亡を暗示しています。
しかし、それに反して古代ローマの統治に特徴を与えた変化を表現するには全く不適切です。
[15]ヨハネの黙示録17章10節は、第七の世の存続期間が短いことを明言しています。
ディーン・アルフォードのこの発言は、彼のいつもの率直さを欠いています。
11節の言葉は「(ek ton hepta)」です。
しかし、これは単に獣が「七つの後継者であり、その結果である」(Alford)という意味ではありません。
なぜなら、10節は継承全体を七つに限定しているからです。
その恐るべき卓越性ゆえに、獣は8番目とされています。
しかし、実際には7番目のかしらの最高位の者なのです。
[16](drakon purrhos megas)、ヨハネの黙示録12章3節
「彼は(purrhos)である おそらく、破壊的な火と血の赤さという相乗効果によるものです。」
(Alford, Greek Test., in loco)
下記の聖句と比較してください。
「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。」
(ヨハネの黙示録12章9節)
聖書と異教神話の両方に登場する竜は蛇であり、どちらもサタンを指しています。
ホメロスは、竜を巨大な体、蛇のようにとぐろを巻いた、血のように赤い、あるいは暗い色で、多くの頭を持つ姿で描写しています。
「彼は蛇について、(drakon)と(ophis)という語を区別なく使っています。」(Liddell and Scott)
[17]ヨハネの黙示録8章にある(tharion)、もしくは4章の(dzoon)、最も不幸にも獣と混同してはいけません。
[18]つまり、堕落する前は神の御使いだったのです。
「御使い」という言葉は、第二義的には使者、もしくは従者以上の意味はなく、サタンは御使いたちを従えています(ヨハネの黙示録12章7節)
この言葉は、ルカの福音書7章24節ではバプテスマのヨハネの弟子たちを指して使われています。
[19]悪魔という言葉は、人間以外の堕落した存在を指す一般的な用語として用いています。
しかし、語源となったギリシャ語にはそのような意味合いはありません。
中傷者であり、この言葉はテモテへの第一の手紙3章11節、テモテへの第二の手紙3章3節、テトスへの手紙2章3節で用いられています。
しかし、「ディアボロス(duibolos)」は サタンは新約聖書の他の箇所ではサタンのみを指しています。
ヨハネの福音書6章70節ではイスカリオテのユダを指して用いられています。
ダイモニオン(daimonion)という語は、福音書に52回、新約聖書の他の箇所では7回出現します。
しかし、使徒の働き17章18節(神々)を除き、常に悪魔(devil)と訳されています。
古典ギリシャ語では一般に神、特に下位の神を意味します。
しかし、新約聖書では悪霊、悪魔を意味します。
エゼキエル書28章の最後の言及はサタンを指しています。
その箇所ではこのように言われています。
「あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、しまめのう、碧玉、サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、これらはあなたが造られた日に整えられていた。
わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。」
(エゼキエル書28章13、14節)
ケルビムは私たちの人類や世界と特別な関係を持っており、幕屋とのつながりもそこにあります。
私たちの地球はかつて彼らの支配下にあり、サタンも彼らの仲間であり、サタンはアダムを、まさに栄光と堕落の舞台において、自分の後継者として任命された被造物と認識していたのです。
[20]Bp.スティリングフリート(Encyc. Metro)の「蛇崇拝」に関する記事を引用しています。
(Bryant's Ancient Mythology)にはこの文章の一般的な記述を完全に裏付ける、蛇崇拝に関する章があります。
[21]「その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、
そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣を拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。」と言った。」
(ヨハネの黙示録13章3、4節)
[22]ヨハネの黙示録13章11節に登場する子羊のような獣は、ヨハネの黙示録19章20節では偽預言者と呼ばれています。
13章3節と12節の言葉遣いは、主の復活を不敬虔に茶化すことを暗示しています。
[23]「主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。
風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。
地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。
(列王記第一19章11、12節)
[24]異教ローマの迫害において、カエサルの像を拝むことを拒否する者はくりかえし死刑に処されました。
しかし、ヨハネの黙示録13章15節は、未来のカエサルの像がまさにその前に姿を現すという、ある奥義的な死を明確に示しています。
偽預言者がカエサルの像に命を与える力と同じ力によって、その像を拝むことを拒否する者の命をも滅ぼすのです。
[25]ユダヤ人の歴史における最も暗黒の時代の一つ、ユダヤ人への迫害が続き、民族が絶滅の危機に瀕していた時、バルコカブは自らを救世主と宣言し、ローマ帝国に対する反乱を起こしました。
この反乱は、不運な民衆にとって、それ以前のどの虐殺よりも恐ろしい惨劇をもたらしたのです。(西暦130年から132年)
彼は、口から火を吹き出すなど、手品師のような技で人々を騙した、卑劣な詐欺師だったのです。
しかし、彼は非常に高い地位に上り詰めました。
また、あまりにも恐ろしい災厄を引き起こしたため、彼の生涯に反キリストの預言の成就だと主張する者もでてきました。
[26]付録2、注記Dを参考にしてください。
[27]国家という言葉を使うのは、慎重に考えたからです。
なぜなら、最終的には王国、すなわち君主制の統治下に置かれることになるとしても、皇帝の出現前は違うかもしれません。
ローマ帝国の領土分割が皇帝の出現前に行われることは明確に述べられています。
しかし、それが1年前なのか、10年前なのか、あるいは1世紀前なのかは、私たちには知らされていません。
[28](Alford, Gr.Test.Proleg.2 Thessalonians, § 36.)
[29]その聖句(ダニエル書7章2〜14節)は、全文が引用されています。
上記の相違点は、ダニエルの幻と前文に述べられているヨハネの黙示録との間の一見矛盾する点を明らかに示しています。
[30](ho anomos ... ou estin ha parousia kat energeian tou Satana en pasa dunamei, kai sameiois, kai tepasi pseudo)
(テサロニケ第二2章8,9節)
[31]王立天文学者(Sir G. B. Airy) は、1853年7月4日に王立研究所で行われた、1842年と1851年の皆既日食に関する講演で、次のように述べました。
「実際、この現象は人類が目撃する最も恐ろしい現象の1つです。
ある部分日食であっても、その恐ろしさを想像することはできません。」
[32]「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」
(ヨエル書2章31節)
[33]ヨハネの黙示録21章3節
これらの順序は前述の通りです。
序文
注記 第10版と第5版の序文は、読者が第1章のアンダーソンの最初の発言によって「来たるべき君主」をよりよく知ることができると信じて、続きのために本書の最後に置きます。
第10版への序文
「来るべき君主」は1年以上絶版となっています。
戦争中に再版するのは賢明ではないと判断されたためです。
しかし、戦争によってダニエルの預言への関心が高まったようで、本書の需要が高まり、遅滞なく新版を出版することが決定されました。
本書にはセンセーショナルな「ハルマゲドン」説が含まれているわけではありません。
「ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる場所」はフランスでもフランドルでもなく、パレスチナにあります。
そして、契約の地と民の未来は、この歴史的な平原でこれから戦われる大戦争の主要争点となります。
預言を学ぶ者は、二つの対立する解釈学派のどちらかの信仰者になりがちです。
「未来派」の教えは、このキリスト教の摂理は神の預言体系において全くの空白であることを示しています。
そして「歴史派」は、単純な言葉の意味を無駄にして、その成就を歴史の中に見出すことで、聖書の信頼性を貶めます。
本書は、これら二つの学派の誤りを避け、ベーコン閣下の格言「神の預言は幾世代にもわたって芽生える」が成就します。
しかし、その頂点や完成は特定の時代に属するかもしれない」という精神に基づいて書かれています。
そして、この世界大戦は、特定の聖書の成就ではないにしても、間違いなく預言の範囲内にあります。
何年も前、ロンドンのシナゴーグに所属する敬虔なユダヤ教ラビの説教集に目を留めました。
彼はその中で、メシアに関する特定の預言に対するキリスト教の解釈を貶めようとしています。
ダニエル書9章を論じる際には、キリスト教の解説者たちが七十週の預言をナザレの人々に当てはめようとする際に、年代記だけでなく聖書そのものも改ざんしていると非難されています。
この非難に対する私の憤りは、その後の研究でそれが決して根拠のない誹謗中傷ではないことが証明されたことで、苦悩に変わりました。
ドイツの異教徒による「高等な批評」運動によって既に揺るがされていたダニエル書への信仰は、こうしてさらに揺るがされました。
そして私は、聖書の言葉だけでなく、現代の最高の年代学者たちが定めた歴史の標準的な年代も、一切の疑いなく受け入れるという固い決意をもって、このテーマの研究に取り組むことを決意しました。[1]
以下は、「七十週」という偉大な預言に関する私の調査結果の簡潔な要約です。
私は当初、多くの標準的な文献を精読した結果、問題の時代はユダ捕囚の70年間を指し、メシアの到来とともに終わるという仮定を立てました。
しかし、すぐに驚くべき発見をしました。
これは全くの誤りでした。
捕囚はわずか62年間続き、七十週はエルサレムの荒廃という全く異なる裁きと関連していたからです。
さらに、ダニエル書9章25節に明確に記されているように、「君主メシアに至るまで」の期間は七十週ではなく、七週+六十二週でした。
奴隷状態、捕囚、そして解放という様々な裁きを区別できていなかったのです。
ダニエル書と聖書の歴史書の研究において、荒廃に関する記述は誤りの源泉となることが多くあります。
そして、この区別が批評家だけでなくクリスチャンによっても無視されているのは奇妙なことです。
国家の罪のために、ユダは70年間バビロンに隷属させられました。
これはエホヤキム王の治世第3年(紀元前606年)のことでした。
しかし、民は頑固な態度を取り続け、紀元前598年には捕囚という、はるかに厳しい裁きが彼らに下りました。
エルサレムがかつて占領された時にネブカドネザルは町と住民を平穏に放置し、ダニエルと王家の他の士官たちだけを捕虜にしました。
しかし、この二度目の機会に、彼は住民の大部分をカルデアへ移送しました。
しかし、エルサレムのエレミヤと捕囚民のエゼキエルを通して神の警告が与えられたにもかかわらず、ユダヤ人は依然として悔い改めません。
そしてさらに9年が経過した後、神は彼らに「荒廃」という恐ろしい裁きを下しました。
それは70年間続くと定められています。
こうして紀元前589年、バビロニア軍は再びユダヤに侵攻し、町は荒廃し、焼き払われました。
さて、「隷属」と「捕囚」は、紀元前536年にクロスが布告し、捕囚民の帰還を許したことで終わりました。
しかし、ダニエル書9章2節の言葉が明確に述べているように、七十週の預言の根拠となったのは、七十年間の「荒廃」でした。
そして、その七十年間の基点は、エルサレムが包囲された日、すなわちゼデキヤ王の治世九年、十の月テベトでした。
この日は、それ以来、あらゆる地のユダヤ人によって断食日として守られてきました。(列王記第二25章1節)
ダニエル書とヨハネの黙示録は、預言上の一年が360日であることを明確に示しています。
さらに、これはユダヤ暦の聖年であり、周知のとおり、東方諸国の古代の一年でもありました。
さて、360日の七十年は、ちょうど25,200日です。
ユダヤ暦の新年は春分点の月によって決まるため、12月13日を「ユリウス暦」589年十の月テベトとすることができます。
そして、その日から25,200日を数えると、520年12月17日、つまりペルシア王ダリヨス2年目の9の月24日に終わります。
まさにこの日に第二神殿の礎が築かれました。(ハガイ2章18、19節)
批評家とクリスチャンの両方に考えさせられる事実があります。
ペルシャ王の勅令は聖なるものとみなされ、それを妨害しようとする試みは通常、迅速かつ厳しい処罰の対象となりました。
しかし、権力の絶頂期にあったクロス王が発布した神殿再建の勅令は、地方の小領主たちによって17年間も阻止されました。
なぜそうなったのでしょうか?
その理由は、70年間の「荒廃」の最後の日まで、神はモリヤ山で石を一つも重ねることを許さなかったからです。
理論をすべて頭から追い出し、次の確実に確認された事実にたどり着きます。
1.七十週の時代は、エルサレムを修復し、再建する勅令が発布された時代でした。
(ダニエル9章25節)
2.エルサレムの再建についてはただ一つの法令しか存在していません。
3.すなわち紀元前445年のニサンの月に発布されました。
4.実際、この街はその法令に従って建設されました。
5.445年ニサンの月1日のユリウス暦の日付は3月14日でした。
6.六十九週年、つまり173,880日は、紀元前445年3月14日から計算され、西暦32年4月6日に終了しました。
7.六十九週が終わったその日に、主イエスがゼカリヤ書9章9節の預言を成就して、イエスはエルサレムに入城しました。
このとき、イエスの地上での生涯で最初で唯一の機会に、イエスは「ダビデの子、王なる君主、メシア」と歓迎されました。
ここでもまた、私たちは聖書に忠実でなければなりません。
神はキリストのベツレヘムでの誕生の日付をどこにも記録していません。
しかし、聖なるものであれ世のものであれ、歴史上、主が公の宣教を開始された年ほど明確に定められた日付はありません。
もちろん、私はルカの福音書3章1、2節を参考にしています。
私がこれを強く主張するのは、キリスト教の解説者たちがティベリアの治世に架空の日付を設定しようとしつこく試みられてきたからです。
したがって、主の宣教における最初の過越の祭は西暦29年ニサンの月でした。
そして、私たちは受難の日付を西暦32年ニサン付きと絶対的に確実に定めることができます。
もしユダヤ人や異教徒の著述家たちがこれらの時代の年代記を混乱させ、歪曲しようとしたとしても、私たちは驚きはしません。
しかし、私たちがこの邪悪な行為をしたのは、キリスト教の解説者たちなのです。
もし、幸いなことに、私たちは聖書の神聖な正確さを証明するために、世俗の歴史家や年代学者の努力に頼ることができます。
「第五版への序文」で簡潔に論じられたダニエル書に対する全般的な批判は、1902年に復刊された「批評家の巣窟におけるダニエル書」においてより詳しく扱われています。
読者は本書において、文献学と歴史学に基づく高等な批評によるダニエル書への批判に対する反論を見出します。
また、批評家たちが旧約聖書正典に関して自ら認めている点によって、その批判が反論されていることも理解できるはずです。
ドライバー教授が一世紀前のベルトルトの著作から引用したダニエル書の「歴史的誤り」の多くは、現代の博識と研究によって解消されています。
しかし、このテーマについて執筆していた時、メディア人ダリヨスの正体が依然として難題であることに気づきました。
もし、その後、私はエズラ記の一節にその難題の解決策を見出しました。
この一節は、これまでヴォルテールらによって聖書の信憑性を貶めるためにのみ用いられてきました。
エズラ記5章には、ダリヨス・ヒスタスピスの治世下、ユダヤ人がクロス大王が神殿再建を認可した勅令を訴えて王位に嘆願したことが記されています。
嘆願書の文面から、ユダヤ人指導者たちの知る限り、その勅令はバビロンの文書館に保管されていたことが明らかです。
しかし、そこでの捜索は成果を生まず、最終的にエクバタナ(もしくはアクメタ、エズラ記6章2節)で発見されました。
それでは、そのような国の文書がどのようにしてメディアの首都に移管されたのでしょうか?
この驚くべき事実に対する唯一の合理的な説明は、ダニエルがメディア人ダリヨスと呼んでいる属国の王にあります。
しかし、クロスの軍隊をバビロンに導いたゴブリアス(もしくはグバル)であったという一連の証拠を完成させるものです。
多くの著述家が指摘しているように、碑文の証言はその結論を指し示しています。
たとえば、クロスの年代記粘土板には、街の占領後、総督、もしくは長官を任命したのはゴブリアスであったと記録されています。
しかし、ダニエルは、その任命はダリヨスによって行われたと述べています。
彼がメディア王家の君主であり、おそらくメディア宮廷に住んでいたクロスによく知られていたという事実は、彼がそれほどまでに高い尊敬を集めた理由を説明しています。
彼は、その国が属州の地位に貶められた時に副王としてメディアを統治した人物です。
証拠の取り扱いに慣れた者なら誰でも、何らかの理由で彼が属州王位に復位し、エクバタナに戻る際にバビロンでの短い統治の記録文書を持ち帰ったと推論するのが自然なはずです。
クロスの即位からダリヨス・ヒュスタスピスの即位までの間、神殿令はユダヤ人自身を除いて誰からも忘れ去られていた可能性が高くあります。
ペルシャ王が発した命令の実行を妨害することは重大な問題でした。(エズラ記6章11節)
しかし、この例では、すでに述べたように、神の勅令がクロス王の勅令を覆し、彼らがそれに基づいて行動することを拒否しました。
以下に述べる七十週の幻の解明は、ダニエル論争における私の個人的な貢献です。
そして、この幻はこれまで受けてきた厳しい批判においても、誤りや欠陥は見出されていません。[2]
今や、ためらいもなく、また留保もなく受け入れることができます。
ドライバー教授がダニエル書の中でこの説について唯一批判的なコメントを述べたのは、それがユリウス・アフリカヌス氏の体系を「わずかに修正した形で復活させた」ものであり、第七十週を「説明していない」ということでした。
しかし、私の体系が「キリスト教年代学の父」の体系と同じ方向性にあるという事実は、確かに私の体系に非常に有利な推定を与えるものです。
そして、私は第七十週を説明せずに放置するどころか、初期の教父たちの信条に従ってこれらを扱いました。
彼らは聖書の反キリスト、すなわち「罪の受肉と濃縮された孤立した人格」を待ち望んでいたため、第七十週を未来のものと考えているからです。[3]
第10版 補足説明
[1]しかしながら、ユダヤ王の在位年に関しては、ファインズ・クリントン氏の月日を、ヘブル語ミシュナ(Fasti Helleniciが執筆された当時、英語圏の読者には封印されていた書物)に基づいて修正しています。
特に重要な日付については、故キャノン・ローリンソン氏と故サー・ジョージ・エイリー氏に深く感謝いたします。
[2] 補足説明で一つ指摘しておく価値があるかもしれない点があります。
使徒の働き13章20節のRV訳は、列王記第一6章1節の480年という難解な問題に対する私の解答を解決しているように思えます。
しかし、ここで校訂者たちは、いつものやり方に従い、専門家が矛盾する証拠を扱う際に従う原則を無視して、最古の写本のいくつかに盲目的に従いました。
そして、この箇所への影響は悲惨なものとなりました。
なぜなら、使徒パウロも福音書の記者も、イスラエルの土地の享受期間が450年に限られていたとは言っていません。
また、士師記の時代以前に450年が経過していたとも書いていないことは確かだからです。
したがって、校訂者たちが採用したテキストは明らかに誤りです。
ディーン・アルフォード氏はこれを「この節の複雑な年代記を訂正しようとする試み」とみなしています。
そして彼は付け加えて、「この言葉をそのまま受け取ると、士師記の時代が450年間続いたという以外に意味は与えられない」と述べています。
つまり、彼がさらに説明するように、士師記の統治が行われた時代です。
士師が450年間統治したわけではありません。
その場合は18節のように対格が用いられます。
しかし、与格の使用が示すように、士師記の統治を特徴とするサウルまでの期間が450年間続いたことです。
。
士師記10章7、8節に記されている奴隷状態を考慮に入れていないという反論は、何も必要ではありません。
その奴隷状態はヨルダン川の向こう側の部族にのみ影響を及ぼしていました。
[3](Alford's Greek Testment., Prol. to 2 Thessalonians Chapter 5.)
第5版への序文 「高等な批評」に対するダニエル書の弁護
この書は、ダニエルの幻に対する信仰を放棄させるに至ったとされる「識別力のあるすべての人々」による破壊的な批判を無視しているとして、一部で非難されています。
この非難は必ずしも正しいとは言えません。
本書では批評家たちの主要な反論のいくつかに答えられているだけでなく、本書の核心となる偉大な預言の真正さを証明することで、本書全体の信憑性が確立され、この主題に関する特別の章が設けられていない理由も説明できます。
宗教論争においてあまりにも一般的な慣行ですが、反対者の見解を一方的に提示し、彼ら自身の見解を受け入れることは決して満足のいくものではなく、公平であることも稀です。
批評家側には、短い論考の根拠となるほど簡潔でありながら、十分な内容と権威を備え、妥当なものとして受け入れられるだけの論文は存在していません。
しかし、この不足はドライバー教授の「旧約聖書文学入門」によって補われました。
[1]いわゆる「高等な批評」の成果を、著者自身の冷静な判断によって具現した働きです。
ドイツの合理主義者やそのイギリスの模倣者たちの悪意ある誇張を避けながらも、ダニエル書の真正性に反するとして、博識をもって公平に主張できるような根拠を一切省略していません。
そして、著者が提示する敵対的な根拠が誤りであり、決定的なものではないことが証明されれば、読者はその結果を、この問題に関する「論争の終結」として恐れることなく受け入れることができます。
[2]著者が自ら確立しようとしている論点は次のとおりです。
ダニエル書が示す事実に鑑みると、それがダニエル自身の著作であるという見解は支持することができません。
内部証拠は、それが紀元前300年頃より前にパレスチナで書かれたに違いないことを、反論の余地なく説得力を持って示します。
そして、少なくとも紀元前168年か167年、アンティオコス・エピファネスによる迫害下で書かれた可能性もあります。
ドライバー教授は、証明を次の3つの項目に分けて説明しています。
1) 歴史的事実
2) 言語的証拠
3) 聖書の神学
1)では、次のような点を列挙しています。
(a)ユダヤ正典におけるダニエル書の位置づけは、預言者書の中ではなく、「ハギオグラフ(Hagiographa)」と呼ばれる様々な書物集の中で、エステル記に近い位置にあります。
正典の聖書の成立については明確なことは何も知られていません。
しかし、「預言者」として知られる区分は「ハギオグラフ」とよりも前に形成されたはずです。
もしダニエル書が当時存在していたとしたら、それは預言者の著作として位置づけられ、前者の中に含まれていたと推測するのは妥当です。
(b)「シラ書の息子イエス(紀元前200年頃執筆)は、イスラエルの偉人たちを列挙した著書の中で、次のように記しています。
44〜50節では、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、そして(まとめて)十二小預言者について述べています。
しかし、ダニエルについては何も語っていません。
(c)ネブカドネザルが「エホヤキムの治世の3年目」(ダニエル書1章1節以降)にエルサレムを包囲し、聖なる器の一部を持ち去ったという説は、厳密に言えば反証できないものの、ありそうではありません。
列王記が何も言及していないだけでなく、エレミヤ書も翌年(エレミヤ書25章など)に、カルデア人について、彼らの武器がまだユダで見られなかったことを明らかに示すような言い方で語っています。
(d)ダニエル書における、「カルデア人」は賢者の階級と同義です。
この意味はアッシリア・バビロニア語には存在せず、それが現れる場所がどこであろうと、バビロニア帝国の滅亡後に形成されたものです。
したがって、ダニエル書が捕囚後に編纂されたことを暗示しています。(Schrader)
(e)ベルシャザルはバビロンの王として描かれており、ネブカドネザルは第5章全体を通して(2、11、13、18、22節)彼の父として述べられています。
(f)メディア人アハシュエロスの息子ダリヨスが「カルデア人の王国の王に即位」しています。
そのような支配者の入り込む余地はなかったように思われます。
他のすべての権威によれば、クロスはナブー・ナヒドの直系の後継者であり、ペルシャ帝国全体の統治者です。
(g)9章2節には、ダニエルが「書物によって」、エレミヤによればエルサレムが荒廃する年数を理解したと記されています。
この表現は、エレミヤの預言が聖書集成の一部であったことを暗示しています。
しかし、紀元前536年にその書物が編集されたわけではないことは間違いありません
(h)「この本が同時代の人の著作ではないことを示す他の証拠として、次のようなものがある」。
要点は、最初に、厳格なユダヤ人が「賢者」の階級に入ることや、賢者自身によって受け入れられることはあり得ません。
次に、ネブカドネザルの狂気と勅令、第三に、彼とダリヨスが偶像崇拝を保ちながらも神を認めるという絶対的な条件です。
(f)と(h)については、著者自身がいつもの公平さで、それらを強く主張することを拒否しているため、直ちに却下します。
「これらは慎重に扱うべきだ」と著者は認めています。
「メディア人ダリヨス」について述べられていることは、おそらくダニエル書の研究者が直面する最大の難問であり、それがもたらす問題は未だ解決を待っています。
多くの著名な著述家がこの物語を無条件に否定していることは、名声ある学者でさえ、この種の疑問については判断を保留することができないことを証明しているのに過ぎません。
当時の歴史はあまりにも不確実で混乱しており、勝手な議論を正しいとは言えません。
ドライバー教授が正しく指摘しているように、「慎重な批評は、碑文の沈黙を過度に重視するものではありません。
碑文には、明らかにされるべき多くのものが残されているのは確かです」。
セイス氏の最近の著作[3]では、 この注意書きは無視されています。
さらに、彼はクロスが自らについて述べていることを、過度に単純化した信仰をもってすべて受け入れています。
明らかに、彼にとってバビロニアの獲得は軍事的征服ではなく平和的な革命であったと描写することが有益です。
ダニエル書はどちらの仮説とも矛盾していません。
セイス氏はここで、常套手段であるように、聖書が全く述べも暗示もしていないことを「深読み」しています。
包囲や占領については一言も触れられていません。
ベルシャザルは「殺され」、ダリヨスは王国を「受け継いだ」のです。
しかし、これらの出来事がどのように起こったのかは、他の資料から学ぶ必要があります。
ドライバー教授はここで、「メディア人ダリヨス」は結論として歴史上の人物であった可能性がある」と明確に認めています。[4]
これで現在の目的には十分です。
残りの点については、順に議論していきます。
(a)これは当然のことながら、最も重要なものとして最初に位置づけられています。
しかし、詳しく調べれば調べるほど、その重要性は薄れていきます。
私たちの英語聖書は、ウルガタ聖書に倣って旧約聖書を39巻に分けています。
ユダヤ教の正典の聖書ではわずか24巻とされています。
これらは、トーラー、ネヴェイム、ケトゥヴィーム(律法、預言者、その他の書)の3つの項目に分類されています。
前者にはモーセ五書が含まれています。
後者には8つの書が含まれており、これもまた2つのグループに分類されています。
最初の4つ、すなわちヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記は「前預言書」と呼ばれ、後の4つ、すなわちイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、そして「十二預言者」 (つまり、1つの書として数えられた小預言者)は「後預言者」と呼ばれています。
三部目には11の書、すなわち詩篇、箴言、ヨブ記、雅歌、ルツ記、哀歌、伝道者の書、エステル記、ダニエル書、エズラ記とネヘミヤ書(一つとして数えられる)、そして歴代誌が含まれています。
さて、このリストを検討するならば、二つの結論のいずれかが避けられません。
正典の聖書は神の導きによって編集されたか、あるいは第二部と第三部の間の書の分類が勝手な判断であったかのどちらかです。
前者の立場をとるならば、ダニエル書が正典の聖書に含まれていますが、これはこの問題全体の決定打となります。
一方、この分類が人間による勝手な判断であったと仮定するならば、ダニエル書が第三グループに含まれているという事実は、この書が疑わしい評価を受けていたということではなく(もしそうであれば、正典の聖書から除外されていたでしょう)、捕囚という大いなる流刑が「預言者」とはみなされていなかったことを証明しています。
表面的には、これは全体を放棄しているように思えるかもしれません。
しかし、「預言者」という言葉を通常の意味で用いるならば、ダニエルはその称号を主張する資格はありません。
マタイの福音書24章15節がなければ、おそらく彼にその称号が与えられることはなかったはずです。
彼の幻には新約聖書に対応するものがあります。
しかし、「預言者ヨハネ」について語る者は誰もいません。
ペテロの手紙二1章21節によれば、預言者たちは「聖霊に動かされて語った」のです。
これはイザヤ、エレミヤ、エゼキエル、そして「十二使徒」の言葉に特徴を与えています。
それらは、それを語った人々の口を通して語られたヤハゥエの言葉でした。
預言者たちは神の証人として民から離れた立場に立っていました。
しかし、ダニエルの立場と働きは全く異なっています。
「私たちは、あなたの名によって語ったあなたのしもべである預言者たちにも耳を傾けませんでした」。
これが彼の謙虚な態度です。
高等な批評は、ここで強調されている区別を軽視するかもしれません。
もし、問題は、正典の聖書を定めた人々がそれをどのように捉えていたかです。
彼らの判断では、その重要性は計り知れないものがあります。
ダニエル書に記されているのは、預言者が語った神の息吹の言葉ではなく、預言者に語りかけた言葉、そして預言者に与えられた夢や幻です。
そして、この書の後半に記された幻は、60年以上も政治に携わった後に与えられたものであり、その記録によって、彼は政治家、そして統治者として民衆の心に名声を刻み込むことになります。
読者は、ダニエル書が正典の聖書の中でまさに期待通りの位置にあることに気がつくはずです。
批評家はダニエル書を「ハギオグラフ」と呼ばれる雑集の中にあり、その中でもエステル記に近い、後期の作品群の中に位置づけている」と述べています。
しかし、これを初期の著述家から引用した著者は、意図せぬ不誠実さを犯していると言えます。
ダニエル書は、詩篇を含む一連の書物の中で、エズラ記、ネヘミヤ書、歴代誌よりも前に位置づけられています。
ユダヤ人にとって、正典の聖書の中で詩篇以上に高く評価された書物はありません。
そして、その多くは、ユダヤ人が正典の中で最も高く、最も厳密な意味で預言的であると正しく考えていた詩篇でした。[5]
しかし、ダニエルは「エステルの近くに立場がある」と伝えられています。
批評家はここで何を意味しているのでしょうか?
彼は、エステルがユダヤ人から軽蔑されていると示すつもりはなかったはずです。
なぜなら、彼自身、エステルがユダヤ人から軽蔑されていると述べているからです。
「彼らによって、預言者たちの書と聖人伝の他のすべての部分よりも上位に位置づけられました。」
エステル記がダニエル書より先に来るという点については、エステル記が正典の中で、その前身となる四つの書、すなわちメギロト(Megilloth)と注意書きされていることを彼が見落とすはずはありません。
彼は(Kethuvim)の書が年代順に配列されていると示すつもりはないし、無知な偏見を植え付けたいとも思っていません。
したがって、この記述は謎であり、この点に関する議論は、(a)ユダヤ人が正典の第三部の書を「預言者」よりも神性が低いとみなしていたことを示すという一般的な指摘によって終結するかもしれません。
しかし、これには全く根拠がありません。
ヨセフス氏が述べているように、他の書と同様に、エステル記は「神聖であると正しく信じられていたため、彼らに反対するよりも、拷問や死さえもいとわなかったのです」[6]。
(b) しかし、これに対する答えは何も言う必要がありません。
ドライバー氏は、この議論は「単独では、主張するのは危険である」と認めており、(a)が反論された場合の彼の立場はまさにこれです。
もし、これが正式な預言者リストからダニエルの名前が省略されているという問題であれば、上で主張したすべてのことがここにも等しく適用できるはずです。
もし、読者は、シラの子がそのような一覧を提示しているとは考えてはなりません。
事実はこのようです。
ここで述べられている外典「(Ecclesiasticus)」は、「著名な人物」を称える叙事詩で終わっています。
確かに、この賛歌はダニエルの名前を省略しています。
しかし、どのような関係で彼の名前が含まれていたのでしょうか?
ダニエルは若い頃にバビロンに流刑にされ、その長い生涯において一日たりとも民と共に過ごすことはなく、彼らの苦難や悲しみに公然と関わることもありません。
さらに、この批評家は、シラの子に注目することに失敗しています。
シラ書は、アベル、メルキゼデク、ヨブ、ギデオン、サムソンといった偉人たちだけでなく、ダニエルとは異なり、国家生活において最も重要な役割を果たし、正典の一つにその名を記したエズラについても言及していません。
読者は、ダニエルとエズラの名前が登場する箇所を読んだ後、この点について自ら判断すべきです。[7]
もし誰かが、この欠落によってこの2冊の本の信憑性を否定するほどの精神状態にあるなら、私のいかなる言葉も彼に影響を与えることはありません。
(c)ダニエル書の冒頭にある歴史的記述は、二つの理由から信憑性に欠けるとされています。
最初に、「列王記はこの件について何も述べていません。」
次に、エレミヤ書25章がそれと矛盾しているように見えることです。
第一の点は明らかに誤りです。
なぜなら、列王記第二24章1節には、ヨヤキムの時代にネブカドネザルがエルサレムに攻め上ってきて、ユダヤ王が彼の臣下になったと明確に記されています。[8]
そして二つ目の点は誇張されています。
エレミヤ書25章はこの件について何も語っておらず、それ以上は何も言えません。
さて、ある特定の証人や文書が何らかの事柄について沈黙していることにどれほどの重みを与えるかは、証拠を扱う際によくある問題です。
それがどれほど重要か、どれほど重要でないか、あるいは全く重要でないかは、状況によって完全に左右されます。
列王記は歴史的記録である以上、ここでの沈黙は何らかの意味を持つはずです。
しかし、なぜエレミヤ書25章のような警告と預言に、数ヶ月前の出来事、エルサレムの誰一人として決して忘れることのできない出来事が記されているのでしょうか?[9]
しかし、この点についてこれ以上の議論は不要です。
なぜなら、ダニエル書の記述の正確さは、批評家が全く無視している根拠に基づいて立証できるからです。
私が言及しているのは、「隷属」と「荒廃」の時代に関する年代記です。
この二つの時代は、くりかえし「捕囚」と混同されます。
しかし、捕囚はそれらと部分的にしか同時進行していません。
これらの時代は、ユダに対する三つの連続した裁きを表しています。
これらの年代記は続編で十分に説明されており、また、余談への言及も含まれています。
この著作の中で、もしくはそれに続く表を一目見るだけでも、ダニエル書が主張する通り、奴隷状態がエホヤキムの治世の3年目に始まったという絶対的かつ完全な証拠が得られます。
(d)ここで問題となっている文献学的な問題については、第二の調査項目で触れたいと思います。
これは決して歴史的な難問ではありません。
(e) 読者はこの点について触れられていることに気づくはず。
ドライバー氏は次のように述べています。
「ベルシャルズルがバビロンで父のために指揮権を握っていた可能性は否定できません。
しかし、それが同時代の人から彼を王と呼ぶ資格を与えるとは考えられません。」
物語が示すように、ベルシャザルが摂政であったとすれば、廷臣が彼を王以外の言葉で呼ぶとは考えられません。
もし、そうならば、彼は首を切られていたかもしれません!
ダニエル書5章7節、16節、29節は、全く意図的でないがゆえに、より一層印象的な形でこの点を裏付けています。
ネブカドネザルはダニエルを王国の第二の支配者にしました。
なぜ、ベルシャザルは彼を第三の支配者にしたのでしょうか?
おそらく、彼自身が第二の地位しか持っていなかったからです。
批評家たちはこれを避けるために、アラム語の別の翻訳(改訂版の欄外に示されている)を根拠に、「三人の司令官」を推測しています。
しかし、ここで使われている言葉が6章2節の意味で三頭政治を意味していると仮定すると、それが実際の意味であるかどうかという疑問は歴史に基づくことによって解決されなければなりません。
そして歴史は、そのような統治体制がバビロニア帝国で優勢であったことを示すものを全く与えていません。
したがって、真実な聖書解釈は、ダニエルが第三位として統治し、不在の王が第一位、そして摂政王が第二位であるという、より自然な別の見解を支持しています。
また、ベルシャザルはネブカドネザルの息子と呼ばれています。
読者はこの反論にピュージー博士(Daniel, pp.406-408)が十分に答えられていることに気がつくと思います。
彼は正しくも、「征服された君主の家族、あるいは追放された王家との婚姻は、新たに獲得した王位を強化するための明白な手段であるため、ナブナヒトが自らの主張をこのように強化することは、おそらく理屈から言っても可能だ」と述べています。
ドライバー氏自身も(p.468)おそらく、王ネブカドネザルは、「この場合、後者はベルシャザルの父(ヘブル語では祖父)と呼べるかもしれない」と述べています。
私は2点だけ付け加えておきます。
第一に、批評家たちは、ダニエル書に関する彼ら自身の見解において、伝承の存在がその真実性の検証もしない証拠であることを忘れています。
第二に、もし略奪者がネブカドネザルの息子と呼ばれることを選んだとしても、その称号を主張する権利が全くないとしても、バビロンでは誰も彼を阻止しようとはしていません。
(g)ダニエル書9章2節にはこうあります。
「すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。」
(ダニエル書9章2節)
ここで述べられている預言は、明らかにエレミヤ書25章11、12節です。
ところで、ダニエル書9章2節で「書物」と訳されている「セフェール(sepher)」という言葉は、単に巻物を意味します。
聖書でくりかえし使われるように、書物を指す場合もあれば、単に手紙を指す場合もあります。
例えば、エレミヤ書29章1節(エレミヤがバビロン捕囚の民に書いた手紙)、もしくはイザヤ書37章14節(セナケリブがヒゼキヤ王に書いた手紙)を参考にしてください。
また、エレミヤ書36章1節と2節には、エホヤキムの治世第4年、つまりエレミヤ書25章の預言が与えられたまさにその年に、それまでに伝えられたすべての預言が「一つの書物」に記録されたと記されています。
そしてエレミヤ書51章60節と61節には、約10年後にさらなる「書物」が書かれ、バビロンに送られたことが記されています。
では、どこに難点があるのでしょうか?
さらに、ドライバー教授自身も自身の批判の中で、「エレミヤの著作が場合によっては、単独の預言、あるいは預言の小さな集合体として、しばらくの間、広く伝えられていたという仮説」を採用することで、完全な答えを示しています。
これらはダニエル書9章の巻物、あるいは「書物」だったのかもしれません。
しかし、仮に議論のために「書物」が当時の聖書を指すと認めたとしても、紀元前536年にそのような「集成された」ものが存在しなかったと断言する根拠は何でしょうか?
論争の場においてさえ、これほど思い付きの主張はかつてからありません。
律法の巻物がまとめて保管されていなかったとは、全く信じ難いことではないでしょうか?
ダニエルの深い敬虔さ、そしてネブカドネザル王の治世下で彼が自由に使えるであろう莫大な資源と財産を考えると、彼ほど聖書の写本をすべて所有していた可能性のある人物は、この世に他にいなかったと「断言」できるのではないでしょうか?[10]
さて、批評家の二つ目の根拠に移りましょう。
それはダニエル書の言語に基づくものです。
彼は第一に、そこに含まれるペルシャ語の単語の数、第二にギリシャ語の存在、第三に、ダニエル書の一部が書かれているアラム語の性質、そして最後にヘブル語の性質を主張しています。
外国語の存在を根拠とする議論の根底には、ユダヤ人はそれまで粗野な孤立の中で暮らしていた、文化のない部族だったという暗黙の前提があります。
しかし、ダニエルの時代より4世紀も前には、ソロモンの知恵と富は当時知られ世界中で語られていました。
彼は博物学者であり、植物学者であり、哲学者であり、詩人でした。
では、なぜ言語学者でなかったのでしょうか?
多くの外国人の妻たちとのやり取りはすべて通訳を通して行われていたのでしょうか?
彼は近隣諸国や遠方の諸国と貿易を行っており、言語が商業によってどのように影響を受けるかは誰もが知っています。
ネブカドネザルの名声がバビロンに外国人を引き寄せたことを疑う余地はありません。
彼が外国の宮廷とどのような関係を持っていたかは不明です。
ダニエルがペルシャ学者ではなかったのでしょうか?
ペルシャ統治下で彼に与えられた地位を考えると、その可能性は極めて高いと考えます。
ドライバー教授によると、この書物に出てくるペルシャ語の単語の数は「おそらく少なくとも15語」であり、以下が彼のコメントです。
「ペルシャ帝国が建国され、ペルシャの影響が優勢だった後に書かれた本に、このような言葉が見つかるというのは、予想通りのことです。」
しかし、ダニエル書が書かれたのはまさにこのような状況下でした。
10章の幻はペルシャ支配が確立されてから5年後に与えられ、これらの幻がダニエル書の土台となりました。
筆者は、その初期の部分と歴史的な部分についてのメモや記録を持っているはずです。
しかし、全体が幻を与えられた後に書かれたと考えるのが妥当なはずです。
ダニエル書のアラム語とヘブル語については、もちろん私自身の意見を述べることはできません。
しかし、この点における私の無能さによって、私の立場が損なわれることはありません
。
まず最初に、ここには何も新しい点はありません。
批評家は、ドイツ人が主張したことを要約した形で述べているに過ぎません。
そして、この分野全体はピュージー博士をはじめとする研究者によって既に取り上げられており、彼らは同様の博識と注意深さをもって検討した結果、全く異なる結論に達しています。
もし、次にそれは不要です。
ドライバー教授が自身の議論の結果を述べる際の際立った公平さゆえに、私はこの点に関して彼の言うことすべてを認め、その議論は次回に委ねることができるからです。
ここで彼の言葉を引用します。
「ダニエル書の言語に関する判断はこうして明確です。
ペルシャ語の単語はペルシャ帝国が確立された後の時代を前提としており、ギリシャ語の単語はアレキサンダー大王によるパレスチナ征服(紀元前332年)後の時代を要求し、ヘブル語はそれを裏付け、アラム語はそれを許容します。
現在の私たちの知識では、言語から明確に断言できるのはここまでである」(p.476)
言い換えてみます。
ペルシャ語の用語は、ダニエル書が特定の日付以降に書かれたという推定を生じさせます。
ヘブル語はこの推定を強め、アラム語はそれと整合し、ギリシャ語の単語はその真実性を立証します。
この主張と全く同様の問題として、私たちの国の裁判所で毎日のように判決されています。
訴訟の全体的な強さは、最後に述べられた点にかかっています。
議論上の推定はいくらでも反論できると思います。
しかし、ここでは、反論の余地のない証拠があると主張されています。
ギリシャ語の単語は、ダニエル書の真正性を破壊する日付を要求しているのです。
この上部構造の唯一の根拠は、3章の楽器一覧にギリシャ語の単語が二つ見つかるという主張だけだと、読者は信じられるでしょうか?
以前、ある大聖堂のある町で、教区司教の後援を得て開かれたバザーで、客の中に泥棒がいるという警報が発せられました。
そこにいた二人の女性が財布をなくしたのです。
その後の騒ぎの中で、盗まれた財布は、もちろん中身が空っぽのまま、司教のポケットから見つかったのです!
「高等な批評」なら、司教を警察に引き渡したはずです!
この余談については謝罪すべきかもしれません。
しかし、真面目に言えば、これらの批評家たちが証拠を吟味する科学の根幹を理解しているかどうか、問いただすのは当然のことです。
盗まれた二つの財布の存在は、司教の有罪判決を「要求」するものではありません。
また、二つのギリシャ語の存在がダニエルの運命を決めるべきではありません。[11]
しかし、疑問は残ります。
それらはどのようにしてそこにあったのか? セイス教授自身も批判的な権威者です。
しかし、記念碑の証拠は批評家のこの主張を完全に反論しています。[12]
現在では、ヒゼキヤの時代にはすでにパレスチナにギリシャの植民地が存在し、さらに古い時代にはギリシャとカナンの間に交流があったことがわかっています。
しかし、議論のために、これらの言葉は実際にはギリシャ語であり、捕囚時代のバビロンではそのような言葉が知られていなかったことを認めましょう。
これらの言葉が書物に存在するという推論は正しいものなのでしょうか?
ダニエル書の弁護者の中には、改訂された説を過度に主張する人もいます。
しかし、そのような説はこの種の難点を最も合理的に説明することができます。
「大会堂の人々がダニエル書を書いた」(つまり編集した)というユダヤの伝承の真実性を、なぜ疑うのでしょうか?
もし、それが真実なら、これらのギリシャ語の言葉は容易に説明できるはずです。
もし、編集者たちが楽器のリストや「賢者」の称号の中に、彼らにとって馴染みのない未知の言葉を見つけたのであれば、パレスチナのユダヤ人に馴染みのある言葉に置き換えたのは、自然なことだったのです。[13]
ネブカドネザルやアベドネゴといった名前を、当時一般的になっていた綴り方で綴るのも、実に自然なことでした。
まさに彼らが採用したであろう変更は、こうした類のものです。
重要な意味を持つものではありません。
しかし、彼らが代わって改訂した人々にとって、本書をより適切なものにするための変更でした。
批評家の最後の攻撃根拠は、ダニエル書の神学です。
彼は、これが「捕囚の時代よりも後の時代を指し示している」と断言しています。
ドライバー教授は冒頭から、いわゆる「誇張」でドイツ合理主義者とそのイギリスの模倣者たちの言説を否定しているため、誤りを指摘する意図はありません。
しかし、こうした人々との同盟は彼の判断力を歪め、彼らの無知と悪意が混ざり合った言葉に惑わされてしまいます。
ならば、一つ例を挙げれば十分なはずです。
「ダニエルは一般的な預言者たちとは大きく異なり、同時代の人々の幸福や将来に全く関心を示さなかったことも注目に値する」と彼は述べています。
神学論争においてさえ、これほど露骨に根拠がなく虚偽である記述は他に見ることがありません。
預言者の歴史全体、聖書全体を通して、ダニエル書9章ほど、同時代の人々の幸福や将来に対する感動的で誠実で情熱的な「関心」を示す記述は他に類を見ることはありません。
さて、ここで問題となるのは、ダニエル書の教義が真実であるかどうかではなく(これは議論の余地がない)、これほど高度で明確な真理が、啓示の体系のこれほど初期の時代に啓示されていたかどうかです。
こうした問題を議論すべき原則を定めることは容易ではありません。
また、この議論は、論争の焦点となる別の問いかけを提起することで回避できるかもしれません。
その問いかけへの答えが、論争の焦点となる問題全体を決定づけることになります。
私たちはダニエル書の「正式な見解」を知っています。
では、批評家は私たちにどのような代替案を提示するのでしょうか?
ここでは批評家自身の見解を述べてもらうことにします。
以下の二つの引用で十分なはずです。
「ダニエルは、歴史上の人物であり、バビロンに亡命したユダヤ人の一人で、3人の仲間とともに宗教の原則に忠実に従い、バビロンの宮廷で影響力のある地位を獲得し、ネブカドネザルの夢を解釈し、預言者としてカルデア帝国とペルシャ帝国の将来の運命を預言したことは疑いようがありません。」(p.479)
一方、著者が苦難の時代に生きた預言者であるならば、この書のあらゆる特徴が一貫して説明できます。
著者は、自分が関心を示し、語りかける慰めを必要とする時代に生きています。
彼は迫害が終わった後に書いたのではなく(その場合、彼の預言は無意味となる)、迫害の始まるの時に、試練の時期にいる敬虔なユダヤ人にとって彼の励ましのメッセージが価値を持つ時に書いたのです。
このように、彼は真実な預言を述べています。
そして、メシア時代の到来はアンティオコスの終焉の直後に起こり、イザヤ書やミカ書においてはアッシリアの滅亡の直後に起こるのと同じです。
どちらの場合も、未来が短縮されています。(p.478)
最初の引用はダニエル自身を指し、二番目の引用は彼の名を名乗る書物の著者とされる人物を指しています。
最初の引用において、私たちは一瞬、単なる理論と議論の霧と雲間から抜け出し、事実の明白で明確な光へと踏み出します。
「疑う余地はありません」、言い換えれば、ダニエルが「歴史上の人物」であるだけでなく、「予見者」、つまり預言者であったことは絶対的に確かです。
しかし、再び暗闇に引き戻され、私たちはアンティオコスの時代にもう一人の預言者、真実な預言者が存在したことを推測します。
なぜなら、彼は「試練の時期にいる敬虔なユダヤ人を励ますために、真実な預言を語る」からです。
懐疑論者の立場は、ある意味では揺るぎません。
彼は、壁に背を向けて証拠を信じようとしない頑固な陪審員のようなものです。
しかし、この妥協案が何を意味するかに注目してください。
既に述べたように、ダニエルはエレミヤやエゼキエルが身に着けていたような意味での預言者のマントを主張していません。
彼自身もそれを主張していません。(9章10節参考)
さらに、ダニエルはバビロンの宮廷という壮麗な孤立の中で生涯を過ごしました。
しかし、エレミヤやエゼキエルはエルサレムの混乱のさなか、エゼキエルは捕囚の民の中で、民衆の中心人物でした。
ですから、ダニエルの名声と名声が、民衆の記憶の中で彼らのように重要な位置を占めていなかったとしても不思議ではありません。
しかし、ここで私たちは、歴史の時代に生まれ、その「励ましのメッセージ」が崇高なマカベア戦争を通して誰もが知っていた一人の預言者が、国民の記憶から完全に消え去ったと信じるように求められています。
この闘争の歴史家はダニエルから一世代以上離れているはずがないのに、捕囚のダニエルについて非常に分かりやすく言及しながらも、ダニエルの存在を無視しています。[14]
預言者の声は何世紀にもわたって沈黙していました。
そんな時代に、新たな預言者の出現を国民はどれほど情熱的に歓迎しるはずです。
そして、激しい闘争の末に彼の言葉が真実であると証明されれば、彼の名声はかつての預言者たちを圧倒したはずです。
しかし、実際には、彼の名声も名前も微塵も残っていません。
聖書、世俗を問わず、彼のことを耳にした者はいないようです。
彼に関する伝承も残っていません。
これほど信じ難い空想があるでしょうか?
信仰と不信仰の間にそのような妥協は不可能です。
どちらの選択肢からも逃れることはできません。
ダニエル書は、自らが主張する通りのものであるか、そうでなければ全く価値がありません。
「すべては真実か、あるいはすべては偽りか」です。
後代の預言者の著作だなどと言うのは無意味です。
捕囚時代のバビロンに遡るか、あるいはアンティオコス・エピファネスの時代以降に捏造された文学的な作りごとです。
しかし、ではなぜそれがマカバイ記に引用されたのでしょうか?
偶然ではなく、全書の中で最も荘厳で印象的な箇所の一つ、老マタティアスの死に際の言葉に引用されたのでしょうか?
そして、なぜそれが正典に含まれるようになったのでしょうか?
批評家たちは正典聖書におけるその位置付けを強調します。
しかし、そもそもこのことが正典聖書に含まれる理由をどう説明するのでしょうか?
正典の最初の二つの部分がマカバイ記よりずっと以前に大シナゴーグによって制定され、その完成は遅くとも紀元前2世紀には大サンヘドリン、そして、この国で最も博学な人々で構成される大評議会によってなされたことはほぼ確実です。
しかし、現代の文学的偽造を受け入れたのか、もしくはそれに騙されたと仮定しなければなりません。
これは考え得る最も突飛で無謀な仮説の一つです。
批評家たちが、正典はアンティオコスの死後100年間も未だに未完成であったかもしれないと主張したとしても、この議論は理にかなって弱まることはありません。[15]
もし、それがこのように公開されていたならば、その事実は、最も熱心で用心深い注意が絶え間なく払われていたことの更なる保証と証拠となります。
ダニエル書がユダヤ正典に含まれているという事実は、批評家たちのあらゆる批判よりも重みのある事実です。
ダニエル書に固執しながらも、信仰がその影響に屈してしまうことを恐れ、この破壊的な批判に直面することを恐れる人々が何千人もいます。
しかし、ダニエル書が主張しているのは、その最も優れた論者の一人が述べたように、これだけです。
こうした敵対的な議論のすべてにおいて、新たな碑文の発見によって反論できないものは一つもありません。
未だ調査されていないバビロン遺跡から新たに発見された円筒碑文の存在下では、[16]このようなあり得ない可能性についての理論化や言葉の無駄遣いは一日で静まるかもしれません。
ならば、批判者たちが批判の重要性を誇張していることは、判断力が欠けていない者なら誰の目にも明らかです。
たとえ、彼らの主張がすべて真実で重みのあるものであったとしても、私たちは判断を保留するしかありません。
しかし、批判者たちは専門家であり、専門家は判断力に欠けるということわざにあります。
そしてこの点においては、神学者や学者を装うことのできない者でさえ、彼らと対等以上の立場で向き合うことが可能です。
彼らにとっては、ある種の証拠が一つの方向を指し示していれば十分です。
しかし、判断力が発達した者は立ち止まり、「反対側では何が言えるだろうか?」「提案された判決はすべての事実と調和するだろうか?」と問うはずです。
しかし、こうした問いかけは批判者たちには存在していません。
ドライバー教授がこれらの疑問を念頭に置いていたとしても、彼が自身の研究の全体的な結果を述べる際にそれらを考慮に入れなかったことは残念です。
そして、真実に到達しようと強く望んだ著者がそれらを無視したのであれば、懐疑論者や背教者の著作の中でそれらを探す必要はありません。
ここまで、私は推定、推論、そして議論について論じてきました。
これらに重みがないことを否定するのは不誠実であり、また無益です。
もし、ダニエル書がキリスト教時代に明らかにされていたなら、それらは正典聖書への編入を阻むのに十分であっただろうと認めるかもしれません。
しかし、クリスチャンにとって、この書は主イエス・キリスト御自身によって正典聖書として認められています。
この事実があるからこそ、これらの批判の力は太陽の前の霧のように消え去ります。
合理主義者が最も批判する預言こそ、未だ成就していない預言の鍵となる説教(マタイの福音書伝24章)の中で、主が採用されたのです。
もし、ダニエルが偽物であることが証明されれば、私たちが主として認めている主の信用も失墜することになります。
ドイツ学派の合理主義者たちは、このような議論を軽蔑します。
彼らにとって、エゼキエル書におけるダニエルの言及は何の価値もありません。
しかし、彼らの正典聖書によれば、それは彼らが挙げる多くの否定的証拠を圧倒するはずです。
ダニエルは他の預言者によって述べられていないため、彼らはダニエルは神話であると主張します。
エゼキエルの預言は三度彼について語っているため、彼らは別のダニエルを指していると推論しています。
彼らの議論は、ユダヤ教の聖書やその他の書物が沈黙していることに基づいています。
捕囚時代のダニエルのように著名な人物がこのように無視されるはずがない、と彼らは主張します。
それなのに、彼らは、存在自体が忘れ去られている、あるいはそれ以上に著名な別のダニエルの経歴を推測している!このような詭弁家たちと向き合うのは容易ではありません。
しかし、少なくとも彼らが私たちから奪うことのできない議論が一つあります。
彼らは2章と7章、そして、聖書の最後の幻を削除しました。
しかし、七十週という重要な中心預言は残っています。
これは、ダニエルの神聖な権威の証拠であり、決して破壊されることはありません。
彼らが聖書の年代をどこに定めようとも、彼らはこの点を説明できません。
エルサレム再建の勅令という明確に記録された歴史的出来事から、メシアの公的な出現という明確に記録されたもう一つの歴史的出来事まで、その間の期間の長さは預言されています。
そして、その預言はまさにその日に、絶対的な正確さで成就したのです。
この預言を解明するために本書が執筆され、その結果は論争への私自身の貢献となるため、その預言に至る過程を説明することをお許しいただきたい。
この幻は70の七年について述べています。
しかし、ここでは25節の69の「週」についてのみ論じます。
その言葉は以下の通りです。
「それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、」
(ダニエル書9章25節)
それは、困難な時代に、道路や堀が再建されるはずです。[17]
さて、エルサレムがネヘミヤによって、アルタ・クセルクセス(ロンギマヌス)の勅令の下、彼の治世20年に再建されたことは、紛れもない事実です。
したがって、論争によってあらゆるものに疑問が投げかけられるにもかかわらず、これが預言の時代の時代であったという結論は明白であり、否定できません。
しかし、その月の日付はニサンであり、ユダヤ人の聖年は過越しの祝いの月の満ち欠けから始まりました。
そこで私は、王立天文学者故ジョージ・エアリー閣下に、当該年の3月の月の位置を計算してもらうよう依頼し、こうして必要な日付、すなわち紀元前445年3月14日を確定しました。
これが解決された今、残る疑問はただ一つ、「この紀元はどのような年から成るのか」ということです。
そして、その答えは明確です。
それが古代の360日年であることは、二つの方法で明白に証明されています。
第一に、ダニエル書とヨハネの黙示録によれば、預言の3年半は1260日に等しいからです。
第二に、「荒廃」の70年がまさにそのような性質のものであったことが証明できるからです。
そして、「荒廃」の期間と「週」の紀元との関連は、この論争において普遍的に認められている数少ない事実の一つです。
「荒廃」は紀元前589年テベトの月10日(ユダヤ人が24世紀にわたって断食日として記念してきた日)に始まり、紀元前520年キスレウの月24日に終わりました。
終点と、それを構成する年の形が決まったので、残るは紀元の期間を計算することだけです。
こうして、その終点(terminus a quo)は確実に特定できます。
さて、483年(69×7)=360日は173,880日です。
そして、紀元前445年3月14日に始まる173,880日の期間は、十字架刑の週の日曜日に終わりました。
この時、主イエス・キリストは、その宣教活動において初めて、そして唯一、ザカリヤの預言を成就し、エルサレムに公然と入城し、「大勢の弟子たち」によってご自身のメシア性を公然と宣言されました。
(ルカの福音書19章)
ここでこれ以上議論する必要はありません。
続く章では、付随的な疑問はすべて十分に扱われ、あらゆる反論にも答えが示されます。[18]
繰り返します。
しかし、ここまで詳述した事実と数字を前にすれば、信仰を単に否定することは不可能です。
これらは何らかの形で説明されなければなりません。
「不信仰は不可能な限界点があり、真実を拒絶する心は、単なる軽信という誤った信仰に逃げ込まざるを得ません。」
ファラー大執事の「ダニエル書」が私の手に渡ったのは、前頁が印刷された後のことでした。
この種の著作を自分の著作と同じ括りに入れたことについては、ドライバー教授には多少の謝罪が必要かもしれません。
しかし、 この本の「序論」を知らない多くの人々は「解説者の聖書(Expositor's Bible)」を読むはずです。
両著者はダニエル書の真正性を疑うという点では一致しています。
しかし、相対的な立場は大きく異なり、議論や手法も大きく異なっています。
キリスト教の学者は学者のために書き、真実を明らかにすることだけを望んでいます。
民衆神学者は、簡単に惑わされる大衆を教え導くために、ドイツ懐疑論の行き過ぎた主張を売り物にしています。
一方の本からもう一方の本へと読み進めると、刑事裁判で責任ある検察官が担当する場合と、執念深い私人検察官が推進する場合とでは異なることを思い知らされます。
一方の場合、弁護士の目的は裁判所が公正な判決を下せるよう支援することだけであり、他方の場合、無謀、あるいは不道徳な発言に対しても備えておく必要があります。
ここで、キリスト教学者が真理のために正しく用いる高等な批評と、その名を名乗る合理主義運動とを区別しなければなりません。
もし、この運動が不信仰に繋がるならば、それは類は友を呼ぶという法則に従うことになります。
この運動自体が懐疑主義の産物です。
その創始者とされる人物は、聖書から神を排除するという意図的な計画を練りました。
懐疑論者の観点から見ると、アイヒホルンの理論は不十分であり、デ・ヴェッテ氏たちはそれを改良しました。
しかし、彼らの目的と目標は同じです。
聖書は自然原理に基づいて説明され、キリスト教は説明されなければなりません。
したがって、奇跡は排除されなければなりません。
そして、預言こそが最大の奇跡なのです。
メシア的聖書のほとんどにおいては、ドイツに夜霧のように降り注いでいた懐疑主義によって、その作業は容易なものとなりました。
しかし、ダニエル書は難題でした。
イザヤ書第53章のような箇所は軽々しく無視できるかもしれません。
しかし、不信心者はダニエル書のこれらの幻を全く理解出来ません。
この書は神の証人として際立っており、正しい手段であれ不正な手段であれ、それを沈黙させなければなりません。
そして、それを達成できる方法はただ一つしかありません。
陰謀家たちは、この書が預言したとされる出来事の後に書かれたことを証明しようと試みました。
彼らがかき集めた証拠は、軽窃盗で知られている泥棒を有罪にするには役立たない種類のものです。
実際、その多くはすでに破棄されています。
しかし、偏見のある法廷ではどんな証拠でも通用します。
このように、ダニエル書は最初から破滅させられる運命でした。
ファラー博士の著書は、この証拠の断片を、最も露骨で粗雑な形で再現しています。
この論争における彼の独自の貢献は、誤った議論の弱点を覆い隠す言葉使いと、最高位の権威者の判断によって認められた結果を時折、勝手に処分することに限られています。
二つの典型的な例を挙げれば十分なはずです。
最初は、純粋に学問的な問題に関するものです。
ダニエル書5章に言及して、彼は次のように書いています。
「筆者の正確さを主張しようとする者たちは、ワラにもすがる思いで、ダニエルが「王国の第三の支配者」に任命されたと主張することで、自分たちの主張を有利にしようとしています。
ナブナイドが第一の支配者、ベルテシャツァルが第二の支配者です!
彼らの非常に危ない仮説にとって残念なことに、「第三の支配者」という訳は全く受け入れられないようです。
それは「三人の委員会の一人」という意味です。
「全く受け入れることができない!」
この点に関する旧約聖書校訂者会の決定を考えるのならば、この発言は並外れた不注意、あるいは耐え難いほどの傲慢さを示していると言えます。
校訂者たちはこの問題を十分に検討し、最後の改訂版で初めて「三人のうちの一人として支配する」という別の訳文が欄外に追加されたことを私は断言する権限があります。
本文にそれを採用することは一度も検討されていません。[19]
5章29節の正しい訳は確かに「王国の第三の支配者」です。
しかし、7節と16節については権威者によって解釈が異なります。
ドライバー教授は、彼の意見では、そこの完全な字義通りの訳は「王国の三分の一として統治する」、あるいは少し言い換えれば「三人のうちの一人として統治する」であると述べています。
ケンブリッジ大学のカークパトリック教授は、ドイツの最新かつ最高の学術書として、カウツシュの「聖なる書物」(Die Heilige schrift des alten Testaments)を紹介してくださり、7節を「王国の第三の支配者」と訳し、 「すなわち、王国全体を支配する三人のうちの一人として(6章3節と比較)、あるいは王と王の母に次ぐ第三の支配者として」と注釈を付けています。
また、首席ラビは次のように記しています。
(ここで私へのご厚意に感謝申し上げます)
「「王国の第三の者」という訳語については、ラシとイブン・エズラという著名なヘブル語注釈者の二人の解釈に従っているため、全く非難の余地はありません。
一方、サアディア氏、ヤクヤ氏といった他の注釈者は、この箇所を「彼は王国の第三の支配者となるであろう」と訳しています。
この訳語は、ワイナー博士が著書「カルダイスムス文法(Grammatik des Chaldaismus)」で示したように、言葉の文字通りの意味に厳密に合致しているように思われます。
また、ヘンリー・ローリンソン閣下の驚くべき発見によっても裏付けられています。
それによれば、ベルテシャツァルはナボニドゥス王の長男であり、政府において彼と共謀していたため、次に名誉ある人物は三位にあったはずです。」
したがって、ファラー博士の発言は全く弁解できないことは明らかです。
これは学識の欠如によるものでしょうか、それとも率直さの欠如によるものでしょうか?
また、預言者の3番目の幻について、ファラー博士は次のように書いています。
「七十週の預言をキリストの到来と死に対して、あるいは直接的に関連付けようとする試みは、膨大な操作と、あまりにも粗雑に不可能な仮説によってのみ裏付けられ、ダニエルにとってもその後の読者にとっても預言を実質的に無意味なものにしてしまいました」(p.287)
このような記述を、たとえ常識的な敬意をもって扱うことさえ容易ではありません。
ダニエル書9章が預言であろうと偽りであろうと、24節に記されている祝福がメシア的であることを、正直な人なら誰も否定しありません。
この点については、すべてのキリスト教解説者が同意しています。
彼らの中には驚くほど奇抜な見解を持つ者もいます。
しかし、その最も突飛な見解でさえ、クーネン氏の解釈とは好対照をなすはずです。
クーネン氏の解釈は、その粗野な不条理さにもかかわらず、ファラー大執事によって採用されています。[20]
ドライバー教授の意見は、彼が高い権威を持つ分野において、最大の重みを持つものです。[21]
しかし、私は敢えてこのように言いたいのです。
彼の学者としての卓越性に関連する一般的な話題に関する彼の主張に過度の重みを与えており、見かけ上、矛盾する大量の証拠を扱う際に専門家にありがちな無能さを彼も共有しています。
彼の調査の口調とやり方は、今後新たな発見があれば自らの立場を再考する可能性を示しています。
これとは対照的に、ファラー博士の告発には遠慮がありません。
彼にとって、将来何が明らかになるとしても後退は不可能です。
しかし、彼の著書を論評することが私の目的ではありません。
ダニエルに対する起訴状における重大な罪状は既に指摘されています。
しかしながら、彼の論文は極めて重要な一般的な問題を提起しており、私は結論としてこの点について述べたいのです。
彼にとってダニエル書は、その不正確さと誤りの多さゆえに、同種の他のフィクションとは一線を画す、全くのフィクションです。
その歴史は単なる空想に過ぎず、奇跡は根拠のない作り話に過ぎません。
あらゆる点で、それは想像の産物です。
彼はそれを「自称フィクション(Avowed fiction)」(p.43)と呼んでいます。
なぜなら、それはあまりにも明らかにロマンスであるため、偽造されたという非難は、それを書いた「聖なる才能あるユダヤ人」(p.119)の目的と意図を誤解したキリスト教会の愚かさにのみ帰せられます。
これが彼の批判の結果です。
私たちはこれに対してどのような行動を取るべきでしょうか?
悲しいことに、しかし、意図的に、ダニエル書を聖書から引き離すべきではないのでしょうか?
決してそうではありません。
「この旧約聖書の黙示録の尊さを軽蔑するものではありません。
正典聖書のこの部分に私が抱く価値を、どんな言葉で言い表しても誇張しすぎることはありません。
正典聖書におけるこの部分の立場は疑いようもなく、議論の余地もありません。
旧約聖書の中で、神の人があらゆる善行に完全に備えられるよう、教え、戒め、矯正、義の訓練のために、これほど豊かに役立つ書は何もありません。」(p.4)
これは、慈善家が軽率な発言とみなすような、孤立した発言ではありません。
同様の言葉は、この本を称賛する際に何度も使われています。[22]
ダニエル書は単なる宗教小説に過ぎません。
しかし、 「旧約聖書の中でこれより価値のある書物はほかにありません。」
ここで問題となるのは、ダニエル書の真正性ではなく、聖書の特徴と価値です。
キリスト教の学者たちは、研究の結果、正典聖書の一部を否定する傾向があり、そうすることで残りの部分の権威と価値を高めると主張しがちです。
しかし、ウェストミンスター大司教はダニエル書を非難することで、聖書全体を貶め、軽蔑しています。
ウェストコット司教は、旧約聖書の中でダニエル書ほどキリスト教の発展に大きな役割を果たした書はないと述べています。[23]
あるいは、敵対的な証人の言葉を引用して、ベヴァン教授は次のように書いています。
「新約聖書の中でダニエル書は一度しか述べられていません。
しかし、この書の影響はほぼあらゆるところに明らかです。」[24]
ヘングステンベルグ氏は「ダニエル書ほど、新約聖書の証言、特に主ご自身によって神の権威が完全に確立されている書物は何もありません」と言います。
霧や嵐が堅い岩を覆い隠すように、この真理も詭弁や修辞によって覆い隠されるかもしれません。
しかし、それらが尽きると、真理は明白に浮かび上がってきます。
この論争の中で、ダニエル書の拒絶の結果の一つが完全に見落とされているか、あるいは巧妙に隠蔽されています。
「旧約聖書の黙示録」が正典聖書から排除されれば、新約聖書のヨハネの黙示録も正典聖書から排除されることになります。
遺言もその排除に加担しなければなりません。
使徒ヨハネの幻視は、捕囚時代の偉大な預言者の幻視と分かち難く絡み合っており、両者は共に成否を決します。
批評家はこの結果を軽視する権利があります。
しかし、説教者は決してこれを無視してはなりません。
そして、これは、高等な批評が決して認められない立場を主張しているという、あまりにも忘れられがちな事実を浮き彫りにします。
高等な批評の真実な居場所は、審判の座ではなく、証しの座にあります。
キリスト教神学者は、批評がその正しい範囲と機能を完全に放棄することなくは気づかない多くの事柄を考慮しなければなりません。
自分の目的に適うときに、ファラー博士ほど自由にこの立場に頼る人はいません。
彼は、私たちの主は、ご自身に帰せられる言葉を語ったことは一度もありません。
しかし、これはキリスト教の信条を揺るがすものです。
繰り返します。
しかし、キリスト教は受肉の上に成り立っており、福音書が神の啓示によるものでなければ、受肉は神話に過ぎません。
主はこの問いかけにどう答えるでしょうか?
彼の言葉を引用します。
しかし、キリストの受肉と奇跡に対する私たちの信仰は、幾度となく検証を重ねた結果、私たちにとって圧倒的な証拠に基づいています。
個人的な検証や聖霊の内なる証しといったあらゆる問題はさておき、この証拠は既存の記録だけでなく、無数の外部からの独立した証言によって裏付けられていることを示すことができます。
これは、単に問題となっている問題との関連性というだけでなく、この神学文献への並外れた貢献における著者の論理の好例であるため、最も注意深く検討する価値があります。
以下はキリスト教の根拠です。
ナザレの子は確かにマリアの子でした。
ユダヤ人は彼をヨセフの子であると宣言し、クリスチャンは彼を神の子として崇拝します。
ローマの建国者は、ウェスタの処女から神によって生まれた子とされました。
そして古代バビロニアの秘儀では、天の女王と称されたセミラミスの殉教した息子にも同様の家系が与えられていた。
では、ベツレヘムの奇跡的な誕生を、これらや古代世界の他の類似の伝説と区別する根拠は何でしょうか?
復活を指摘するのは明らかに論点先取です。
人間の証言に訴えるのは全く愚かな行いです。
この時点で、私たちは、単なる人間の証言だけでは、先験的な可能性すら与えることのできない事態に直面しています。[25]
では、キリスト教体系の核心となる重要な事実に対する私たちの信仰は、一体何に基づいているのでしょうか?
ここに避けられないジレンマがあります。
筆者のように福音書を軽視することは、私たちの信仰の土台がガリラヤの伝説に過ぎないことを認めることです。
しかし、ファラー博士が言うように、決してそうではありません。
私たちは「個人的な証明と聖霊の内なる証し」だけでなく、 「無数の外部の独立した証し」も持っているのです。
聖霊の証しを無視するクリスチャンはいません。
しかし、ここで問題となっているのは、事実の問題であることを忘れないでください。
キリスト教体系全体は、マタイの福音書1章の最後の節の真実性にかかっています。
私はこの節を引用しません。
では、聖霊は、そこに述べられている事実を、書き記された言葉によらなければ、どのようにして私に伝えることができるのでしょうか?
私はその記録を神の息吹を受けた聖書、天からの権威ある啓示として受け入れているからこそ、その事実を信じているのです。
しかし、個人的な検証を語ったり、何らかの超越的な本能や何万もの外部の目撃者に訴えたりすることは、言葉を思考から切り離し、知的な発言と常識の範囲から外れることです。[26]
第5版 補足説明
[1](An Introduction to the Literature of the Old Testament, by S. R. Driver, D. D., Regius
Professor of Hebrew, and Canon of Christ Church, Oxford. Third edition. (T.& T.Clark, 1892.))
私は、ドライバー教授に対し、私が敢えて尋ねた様々な質問に対し、惜しみなく回答をいただいたことに感謝の意を表します。
[2]本書の計画に沿って、第11章はダニエル書の内容の要約と解釈注釈で始まります。
これらの注釈は読者を後続の章に備えるためのもののように思えます。
しかし、私はこれについては気にすることはありません。
そして、2つの点を指摘して、これらを却下します。
最初に、9章24〜27節に対する彼の批判において、私が従ってきた解釈体系を無視しています。
それは彼が引用した複数の作家よりも、私の方が著名な複数の作家によって採用されているからです。
そして、彼が「一般的に理解されている」メシア解釈に対する4つの批判点については、本書で十分に論じられています。
次に、第11章に関する彼のコメントがあります。
「主題の変化も見られない連続した記述の中で、一部を型に、一部を原型に述べられていることは、ほとんど正しくない」
この言葉は、使徒時代以降の教父たちの時代から現代に至るまでほぼ普遍的に受け入れられてきた預言的解釈の標準を、驚くべきほどのナイーブさで否定しています。
[3](The Higher Criticism and the Verdict of the Monuments, by the Rev. A. H. Sayce.)
[4](Page 479, note)
しかし、著者が(f)で「他のすべての権威」に訴えているのは、ダニエルが唯一の同時代の歴史家であり、バビロン遺跡の調査がまだ完了していないことを考えると、何も公平とは言えません。
そして(h)に関しては、何も言う必要はありません。
ドライバー教授は率直に「ネブカドネザルの獣のようになったことは事実に基づいていると考えるに足る十分な理由がある」と認めています。
人間性を研究する者なら、神の存在と力の証拠に直面した異教徒の王たちの記録された行動に何ら奇妙な点を見出すことはありません。
私たちは、神の裁きと見なす出来事が自分たちに降りかかった時の不敬虔な人々の行動の中に、その類似点を毎日のように見ています。
そして、証拠の扱いに慣れた者なら誰でも、ダニエルが「カルデア人」になったという物語が、捕囚後の厳格な儀式で訓練されたユダヤ人によって捏造されたという説を受け入れることはありません。
ダニエルが大王の入学命令にもかかわらず大学への入学を拒否されたであろうという主張は、まったく答えるに値しません。
[5]詩篇として、ケルビムの中に最初に示されたゆえに、これらが全体の名前として与えられたのです。
(As the Psalms came first in the Kelhuvim they gave their name to the whole;)???
例として、主が「モーセの律法と預言者と詩篇」(ルカの福音書24章44節)について語ったとき、主は聖書全体を意味されました。
[6](Against Apion, 1.8.)
[7]「集会の書(Ecclesiasticus)」のこの部分は第44章から始まっています。
しかし、ここで問題となっている箇所は第49章6〜16節です。
[8]おそらくこの批評家は、エルサレムが実際に占領されたかどうかを疑問視していると思います。
すなわち、、強襲によって占領されたのではないかを疑問視しているのではないでしょうか?
この時点で。私は、認めますが、これらのページでこれを想定していました。
しかし、聖書にはそのような記述はどこにもありません。
すべてのことを総合すると、ネブカデネザルがエルサレムに攻め上って包囲し、何らかの方法でエホヤキムが彼の手に落ちて鎖につながれ、彼をバビロンに連れて行ったこと、そしてネブカデネザルが目的を変えて、彼をユダヤの臣下の王として残したことだけがわかります。
彼は、後に彼の息子で後継者として、カルデヤ王のもとに出て行ったかもしれません。(列王記第二24章12節)
この点でのエホヤキンの行動は、彼の父に示された寛大さによって示された可能性が高くあります。
[9]18節の「今日のように」という言葉は、ユダヤの征服が遂に達成されたことを暗示しているように思われます。
19節によれば、次にエジプトがネブカドネザルの前に陥落するとされており、46章2節には、この同じ年にネブカドネザルがエジプト軍に勝利したことが記されています。
[10]この点に関するベヴァン教授の示唆は、私の意見では支持すべきではありません。
しかし、より高度な批判の先進的な説明者(g)をどのように扱うことができるかを示すために、私はこれを引用します。
(Commentary on Daniel, p.146)
もし、レビ記が、ダニエル書より前に存在したとしても、それは当然のことかもしれません。
しかし、彼が念頭に置いていたのは安息年の律法であり、26章18節などではないことは、疑いようがありません。
[11]私はギリシャ語の二つの単語についてのみ言及しています。
なぜなら、「(kitharos)」は事実上、使われていないからです。
ピュージー博士はこれらの単語がギリシャ語起源であることを否定しています。(Daniel, pp.27-30.)
ドライバー博士は、紀元前5世紀には「文明生活の芸術と発明は東からギリシャに流れ込んだのであり、ギリシャから東へ流れ込んだのではない」と主張しています。
しかし、彼がここで用いている比喩は明らかに彼の判断を歪めています。
文明の影響は、水が流れるような意味で「流れ込む」のではありません。
常に交流があり、ある国から別の国へ運ばれた芸術と発明は、その名称も持ち合わせています。
私はこれらの文献学的な問題をこのように急いで通過するしかありません。
しかし、読者はピュージー博士らによってこれらの問題が十分に論じられていることに気づくでしょう。
ピュージー博士は、「アラム語もアーリア語も彼の実年齢に間違いない」と述べ、「彼のヘブル語は、彼が生きていた時代から予想される通りのものだ」としています。(p.578)
[12](Higher Criticism and the Monuments, pp.424 and 494.)
[13](the Bishop of Durham's article in Smith's Bible Dictionary.)を参考にしてください。
[14]マカバイ記第一2章60節、1章54節を参考にしてください。
マカバイ記第一は最も高い評価を得ている歴史書であり、その正確さは広く認められています。
[15]サンヘドリンはマカバイ戦争中に解散したものの、その終結後に再編されました。
(Dr.Ginsburg's articles "Sanhedrin" and "Synagogue" in Kitto's Cyclopaedia.)を参考にしてください。
[16]「ボルシッパ(Borsippa)の遺跡」は、ほとんど未調査です。
しかし、他のカルデア遺跡で発見された碑文の特徴を考えるのならば、今後、この首都に関する詳細な国家記録が得られることが期待できます。
[17]英訳RV聖書の欄外の読み方に従っています。
[18]第5章から第10章を参考にしてください。
[19]私はこれをテスト問題として取り上げていますので、詳しく調査しました。
[20]七十週に関する彼の章は、「英国神学はこんなところまで来てしまったのか!」という感嘆の声を引き起こします。
ガブリエルを「大天使」と呼んだり(p.275)、隷属の時代と荒廃の時代を混同したり(p.289)といった低レベルな失策について言及しているのではありません。
この脱線全体の文体と精神について言及しているのです。
「膨大な操作」と「全く不可能な仮説」という点において、近年の英国の論文はどれもこれに匹敵するものはありません。
[21]私は、ダニエル書のヘブル語とアラム語の特徴からその年代を確定しようとした彼の試みについて述べています。
さらに、この点は学者の間で意見が分かれる点です。
私はすでにピュージー博士の見解を引用しました。
チェイン教授は次のように述べています。
「ダニエル書のヘブル語から、その年代について重要な推論を安全に引き出すことはできません。」 (Encyc. Brit., "Daniel," p.804)
また、ダニエル書の年代を後期とすることを支持したとされる英国の偉大な権威の一人は、私が彼に尋ねた質問に対して、次のように答えています。
「私は現在、ダニエル書のいかなる部分の年代も、その言語から確定することは非常に困難な作業であると考えています。
したがって、この論争において私の名前が引用されるべきではありません。」
[22]例として(Pp.36, 37, 90, 118, 125.)を参考にしてください。)
[23](Smith's Bible Dict., "Daniel.")
[24](Com.Daniel, p.15.)
[25](A Doubter's Doubts, p.76)
[26]その後、ドライバー教授は、彼の序文の第3版の「補遺」の中の注釈に私の注意を喚起しました。
また、ベルテシャツァルを尊重して彼の導入を認めています。
彼はまた、サイス教授がそこで述べられている「高いアッシリア論理の権威」であると私に教えてくれました。
これにより、彼の撤回は無視できます。
上の序文の(e)について書いたとき、私の前には「高等な批評と記念碑」の524〜529ページが手元に置いてありました。
そこでベルシャツァルのダニエルの話に対する反論の力に感銘を受けました。
サイス教授の議論がキュロスの年表の板の誤読に基づいていることを知った時、私は強い嫌悪感を覚えました。
確かに、石板は全体を通してベルシャザールを「王の息子」と呼んでいます。
しかし、バビロン攻略時の彼の死を記録しているとき、サイス教授は「王の息子」ではなく「王の妻」と読んでいます。
さらに、この箇所にベルテシャツァルの名が記されていないことから、彼が当時バビロンにいたはずがないと主張しています。
「契約書」の日付が摂政ではなく王の治世に記されているというのは、まさに私たちが予想していた通りのことです。
ベルテシャツァルの問題について、私の(Daniel in the Critics'Den)で詳しく扱っています。
また、ディーン・ファラーの著書へのより詳しい反論も同書を参考にしてください。
年代記銘板の証言を考えるのならば、この問題は解決済みとみなせるはずです。
そして、もし、同書を執筆していた当時、J・アーカート牧師が「聖書の霊感と正確さ」の中でメディア人ダリヨスについて明らかにした内容を目の当たりにしていたならば、ダニエル書論争において唯一残された難問であるこの問題は、もはや深刻なものではないと考えるべきできでした。
付録
付録1 年表と時系列
聖書史における聖なる年代と世界の年代の接点、最初の確実な日付は、ネブカドネザルがバビロンの王位に就いた時です。
(ダニエル書1章1節、エレミヤ書25章1節参考)
この日付からキリスト、そしてアダムへとさかのぼっていきます。
主要な年代学者たちの一致した見解は、ダビデが紀元前1056年から1055年に統治を開始したことを十分に保証するものです。
したがって、この出来事以降のすべての日付は確実に特定できます。
しかし、この時代を過ぎると、確実性は失われています。
私たちの英語聖書の欄外の日付は、アッシャー氏大主教の主要年代では、次のようになっています。[*]
彼は年代学者として名声を博していたにもかかわらず、これらの日付のいくつかは疑わしいものであり、また他の日付は全く間違っています。
アッシャー氏の計画における疑わしい年代としては、ベルテシャツァルと「アハシュエロス」の治世を例として挙げられます。
特にベルテシャツァルのケースは興味深いものがあります。
聖書は、彼がメディア・ペルシア人によるバビロン征服時に王であり、ダリヨスが入城した夜に殺害されたことを明言しています。
一方、古代の歴史家はベルテシャツァルについて言及していないばかりか、バビロン最後の王はナボニドゥスであったという点でも皆が同意しています。
ナボニドゥスはペルシア人がバビロンを占領した際にはバビロンに不在であり、後にボルシッパで征服者たちに服従しました。
このように、歴史と聖書の矛盾は絶対的なものと思われていた。
懐疑論者はダニエル書の信憑性を疑うために歴史を拠り所にし、注釈者たちは歴史を否定することでこの難題を解決、あるいは回避しようとしました。
しかし、この論争は予想外にも、楔形文字碑文によって、そして満足のいく形で決着しました。
サー・H・ローリンソン氏がムギエや他のカルデア遺跡で発見した粘土の円筒に、ベルシャザール(ベルサルズル)がナボニドゥスによって長男として挙げられています。
父の治世後期、ベルテシャツァルがバビロンの摂政王であった推論は明らかです。
プトレマイオスの正典聖書によれば、ナボニドゥスは17年間(紀元前555年から紀元前538年まで)統治し、アッシャー氏はこの期間をベルテシャツァルに割り当てています。
他の多くの著者と同様に、アッシャー氏はエステル記の王はダリヨス・ヒュスタスペスであると仮定しました。
しかし、現在では、そこに記されているアハシュエロス(ギリシャ語のクセルクセスとつづる名前と一致しています。)はダリヨスの息子で後継者であるというのが一般的な見解です。[1]
エステル記第1章の偉大なドゥルバーは、彼の3年目に開催されました。 (3節)
これはおそらくギリシャに遠征を念頭に置いて行われたものと考えられます。(紀元前483年)
エステルの結婚は彼の7年目に行われました。 (2章16節)
しかし、ドゥルバーが遠征中に不在だったために延期されていました。
したがって、エステル記の欄外の年代は、現在の英語聖書に示されている紀元前521年ではなく、紀元前486年から始まるべきです。
しかし、これらは比較的些細な点であるのに対し、アッシャー氏の年代学における主要な誤りは本当に重要です。
列王記第一6章1節によれば、ソロモンは「イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目」神殿の建設を開始しました。
この480年という期間の奥義的な性質は、以前の章で既に指摘しています。
アッシャー氏は、この期間が厳密に年代順に記された期間であると仮定し、ソロモン王の治世第3年から遡って、出エジプトの年を紀元前1491年と定めました。
これはアッシャー氏の体系全体を損なう誤りです。
使徒の働き13章18〜21節で、使徒パウロは出エジプトからサウル王の治世の終わりまでの期間について論じる際に、40年、約450年、そして40年=530年という3つの期間を特定しています。
ダビデの即位から神殿が築かれたソロモン王の治世3年までは43年でした。
したがって、この数え方によれば、出エジプトから神殿までの期間は530年+43年=573年となります。
しかし、広く受け入れられている年代法を持つクリントン氏は、モーセの死から最初の奴隷状態まで27年、「預言者サムエル」(サムエル記上7章)からサウルの選出まで12年の期間があったと推測しています。
したがって彼は出エジプトから神殿建設までの期間を573+27+12=612年と推定しています。[2]
したがって、クリントン氏の主要な日付は次のとおりです。
紀元前4138年 — アダム
紀元前2482年 — 大洪水
紀元前2055年 — アブラハムの召命
紀元前1625年 — 出エジプト
紀元前1096年 — サウルの選出
紀元前1056年 — ダビデ
紀元前1016年 — ソロモン。
紀元前976年頃 — レハベアム。
紀元前 606年 — 捕囚(つまり、バビロンへの隷属)
この年代において、ブラウンは三つの修正を提案しています。(Ordo Sec., Ch.10,13)
すなわち、前述の27年と12年という二つの推測的な期間を否定し、大洪水と出エジプトの間の期間に2年を加算しています。
もし、この最後の修正が採用されるならば、大洪水とアブラハムとの契約の間の期間に3年を加算します。
この時代に関して最も有能な年代学者でさえ達成できると主張できるのはおおよその正確さだけを考えるならば、これは全く正しい考えです。
アブラハムとの契約の出来事は、おおよその年代になり、まさに天地創造と十字架刑の間の中心となります。
こうして大洪水の日付は紀元前2485年に戻され、天地創造は紀元前4141年となります。
このように確定された年表には、次のような最も印象的な特徴が見られます。
アダムからアブラハムとの契約まで(紀元前4141年から紀元前2055年)は2086年です。
アブラハムからキリストの磔刑まで(紀元前2055年から西暦32年)は2086年です。
アダムから大洪水まで(紀元前4141年から紀元前2485年)は1656年です。
大洪水から契約まで(紀元前2485年から紀元前2055年)は430年です。
契約からエジプト脱出まで(紀元前2055年から紀元前1625年)は430年です。
出エジプトから十字架刑まで(紀元前1625年から西暦32年)は1656年です。[3]
ここで述べられている契約とは、創世記12章にアブラハムの召命に関連して記されている契約のことです。
年代のこの部分に関する聖書の記述は、二つの点で説明が必要であるように思われます。
使徒の働き7章4節で、ステパノはアブラハムがハラン(もしくはカラン)から移されたのは父の死後であったと述べています。
しかし、アブラハムがカナンに入った時、彼はまだ75歳でした。
一方、創世記11章26節からアブラハムがテラ70歳の時に生まれたと記されていますので、召命を受けた時、彼は130歳だったはずです。
なぜなら、テラは205歳で亡くなっているからです。
(創世記11章26節、31節、32節、12章4節と比較してください。)
しかし、これらの記述から明らかなのは、アブラハムはテラの息子の中で最初に名指しされているにもかかわらず、長子ではなく末っ子だったことです。。
テラは長男が生まれた時70歳で、ハラン、ナホル、アブラハムという3人の息子がいます。
アブラハム誕生時の年齢を確認するには、歴史書をさかのぼらなければなりません。
そして、130歳であったことが分かります。[4]
つまり、これがアブラハムがロトに敬意を払った理由です。
ロトは甥ではあった。
しかし、ロトは年齢は同等、おそらくは年上で、さらにアブラハムの長兄の息子であり、名目上の家長だったのです。
(創世記13章8、9節)
繰り返します。
しかし、出エジプト記12章40節には「イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は四百三十年であった」とあります。
もしこれを、使徒の働き7章6節でステパノが引用している創世記15章13節の記述も暗示しているように、イスラエル人がエジプトに4世紀滞在したと解釈するならば、年代全体が変更されなければなりません。
しかし、使徒パウロがガラテヤ人への手紙3章17節で説明しているように、この430年はアブラハムの召命から計算されるべきであり、イスラエルがエジプトに下った時から計算されるべきではありません。
創世記15章13節の記述は、16節に続く言葉によって説明され、限定されています。
イスラエルの放浪期間全体は4世紀でした。
しかし、この箇所で彼らのエジプト滞在を明確に述べる際には、「四代目に彼らは再びここに来る」とあります。
この言葉はまさに成就しました。
なぜなら、モーセはヤコブの子孫の4代目だったからです。[5]
アブラハムとの契約から470年後、ようやく彼の子孫は地上の民族の一つとしてその地位を獲得しました。
しかし、彼らはエジプトで奴隷となり、荒野では放浪者となりました。
しかし、ヨシュアの導きのもと約束の地に入り、一つの民族となったのです。
そしてこの最後の出来事から、「七十週」の周期が始まりました。
カナンへの入国(紀元前1586〜5年)からサウルによる王国の樹立(紀元前1096年)までは490年でした。
その王国(紀元前1096年)からバビロンへの隷属(紀元前606年)までの期間は490年です。
奴隷時代(紀元前606年)からアルタシャスタ・ロンギマヌス王の治世第20年に勅令が出されるまで、ユダの国家としての独立は停止され、その日からダニエル書の預言の「七十週」を形成する490年間の奥義の時代が始まりました。
再び、ソロモン王の11年(紀元前1066〜5年)の最初の神殿の奉献からペルシアのダリヨス・ヒスタスペス王の治世6年(紀元前515年)は490年です。[6]
これらの結果は単なる偶然だと結論づけるべきでしょうか?
思慮深い人なら、世界の年代は神の計画、あるいは「時と季節の経済性」の一部であるという、より合理的な代替案をためらわずに受け入れます。
列王記第二、歴代記第二、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書によって与えられたデータによって示されている年代順の調査は、聖書の絶対的な正確性を確立するだけではありません。
七十週の時代と密接に関連している捕囚のさまざまな時代という主要な疑問に光を投げかけるので、非常に重要です。
ダニエル書を研究する者は、あらゆる段階で困難に遭遇します。
それは、公然たる敵対者や、聖書の疑似解説者によってもたらされます。
この書の冒頭の記述さえも、あらゆる方面から批判されてきました。
ダニエルがエホヤキム王の治世第3年に捕虜になったというのは、「単にキリスト教後期の作り話に過ぎない」と(Messiah the Prince (p.42))の著者は断言しています。
これは、自らの理論を裏付けるために、歴史を聖俗に振り回すこの著者のスタイルに合致しています。
ディーン・ミルマン氏の「ユダヤ人の歴史」の中で、この時代について述べている箇所は不正確な点だらけです。
まず、エレミヤ書25章で預言されている70年間の荒廃と、既に始まっていた70年間の隷属を混同しています。
次に、エレミヤ書25章の預言がエホヤキムの治世第4年に与えられたことを踏まえ、エルサレムの最初の占領をその年と定めています。
しかし、聖書にはエホヤキムの治世第3年に起こったと明記されています。(ダニエル書1章1節)
さらに、ミルマン氏はネブカドネザルの侵攻の年を紀元前601年と特定しています。
しかし、ここでの混乱はもはやどうしようもありません。
ミルマン氏は、その日から王の死までの間に3年間ずつの期間を2回言及しているにもかかわらず、王の死を紀元前598年と正しく位置付けているのです。
(Kitto's Cyclopaedia)に掲載されている、捕囚に関するF・W・ニューマン博士の記事は、表面上は聖書研究を支援するために書かれた標準的な書籍に見られていますが、批判の例として注目に値します。
「ダニエル書の冒頭の記述は、列王記と歴代誌の記述と直接矛盾しています。
列王記と歴代誌では、エホヤキムの治世は11年とされています。
エレミヤ書25章1節も同じです。
また、部分的には歴代記第二36章6節にも依存していますが、それ自体は列王記第二24章と完全には一致していません。
初期の史実では、戦争はエホヤキムの治世中に勃発し、彼は治世の終わりを迎える前に亡くなりました。
そして、彼の息子で後継者のエホヤキンが3ヶ月統治した後、街とその王は陥落しました。
しかし、歴代誌では、同じ出来事が3ヶ月と10日の間隔を置いて2回起こっているとされています。
(歴代記第二36章6、9節)
それでもなお、ダニエル書1章1〜3節の一般的な解釈とは一致していません。
この著者の結論は、ディーン・スタンリー(Jewish Church, vol.2., p.459)を採用しています。
スタンリーは、その中で、ネブカドネザル王の治世第8年にエホヤキンと共に捕らえられた捕虜の中に、エホヤキンが王位に就く、6年前にバビロンの宮廷で地位を得ていた預言者ダニエルの名前を挙げています。
列王記第二24章12節とダニエル書2章1節を比較してください。
(Five Great Monarchies (vol. 3., pp.488-494))と(Fasti Hellenici)を参考すると、この時代に関する聖なる歴史が歴史家や年代学者の心にいかに完全に一貫して映ているのか、さらにそれがベロススの歴史の現存する断片といかに完全に調和しているかが分かります。
エホヤキムは実際には11年間統治しました。
治世3年目にバビロン王の臣下となり、3年間貢物を納め、6年目に反乱を起こしました。
ダニエル書の冒頭の節が偽造であると信じる根拠は全くありません。
この書が神の認可を受けたという主張はさておき、君主の位と最高の教養を持ち(ダニエル書1章3、4節)、バビロニアの賢人や貴族の中でも最高位にまで上り詰めた著者が、自身の捕囚の時期と状況を知らなかったというのは、完全にばかげています。
しかし、ニューマン博士によれば、彼はその情報を得るために歴代誌を参考にする必要があり、それによって欺かれたのです!
列王記、歴代誌、ダニエル書の記述を比較すれば、それぞれの物語が独立しており、それぞれが他の書で省略された詳細を述べていることが明白です。
ダニエル書の第二節が他の部分と矛盾しているように思えるのは、ユダの生きた王が聖なる器と共にベルスの神殿の装飾品として置かれたと想像できる者だけでしょう。
ニューマン博士もこのように解釈しています。
そして、歴代記第二36章6節の矛盾は文脈を読み解くと消え去ります。
なぜなら、8節は、エホヤキムがエルサレムで統治を終えたことを筆者が知っていたことを示しているからです。
さらに、出来事の年代順を確定することで、歴史全体の正確さが明確に証明されます。
これは正確さを測る上で極めて重要な基準です。
エルサレムがカルデア人によって初めて占領されたのは、エホヤキム王の治世第3年でした。(ダニエル書1章1節)
エホヤキム王の治世第4年は、ネブカドネザル王の治世第1年と同年でした。(エレミヤ書25章1節)
これは、ネブカドネザルの最初の遠征は彼の即位前に行われたというベロススの巧みな記述(Jos.,Apion,1.19)と合致しています。
プトレマイオスの正典聖書によれば、その正確性は完全に確立されており、ネブカドネザルの治世は紀元前604年、すなわち彼の即位は紀元前604年の最初のトート月(1月に当たる)の始まりの年にさかのぼり、歴史上その年の初めであったことは間違いがありません。
しかし、エゼキエル書によれば、捕囚はネブカドネザル王の治世8年に始まりました。
エゼキエル1章2と列王記第二24章12を参考にしてください。
捕囚の37年目にネブカドネザルの後継者が王位に就いていました。(列王記第二25章27節)
これらのことからネブカドネザルの治世は少なくとも44年間だったことになります。
しかし、ベロソス氏もこれを裏付けていますが、正典聖書によれば、彼の治世はわずか43年間であり、紀元前561年にエビル・メロダク(聖書ではイルオラダム)が後を継ぎました。
したがって、聖書はネブカドネザルの治世よりも古く、紀元前605年からの期間を記していることになります。[7]
これは、エホヤキム王の治世第3年にエルサレムが征服されて以来、ユダヤ人がネブカドネザルを君主として認めていたという事実によって十分に説明できます。
しかしながら、これは彼らが統治年をニサンからニサンまで計算するという通常の原則に則っていることが見落とされてきました。
紀元前604年、ニサンの月1日は4月1日頃です。[8]
ユダヤ人の計算によれば、王の即位からどれほど最近であっても、その日から王の二年目が始まります。
したがって、「ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年、すなわち、バビロンの王ネブカデレザルの元年」(エレミヤ書25章1節)は、紀元前605年ニサンの日から始まる年であり、エルサレムが陥落し、隷属状態が始まったエホヤキムの治世第三年は、紀元前606年ニサンの日から始まる年です。
この結果はクリントン氏によってはっきりと確認されており、彼はネブカドネザルの最初の遠征の日付を紀元前606年の夏と定めています。[9]
このことは、ダニエル書の価値を貶めるために勝ち誇って引き合いに出されたダニエルの発言によってさらに裏付けられ、また説明も与えています。
バビロン王がダニエルを王位につける前に3年間の訓練をさせたと主張されているのなら、どうしてこの預言者は即位2年目に王の夢を解き明かすことができたのでしょうか?
(ダニエル書1章5、18節、2章1節)
バビロン市民であり宮人でもあったダニエルは、当然のことながら、当時使用されていた紀元に基づいて君主の治世を計算しています。
(後にネヘミヤも同様の状況でこのようにしています。)
しかし、この預言者は紀元前606年に追放されたため、3年間の試用期間は紀元前603年末に終了しました。
一方、ネブカドネザルの実際の即位から計算した治世2年目は、紀元前602年の初頭まで及んでいました。
繰り返します。
しかし、エホヤキンが捕囚されたのはネブカドネザル王の治世8年(列王記第二24章12節)、すなわちニサンの月から数えて8年目にあたります。
しかし、捕囚の第9年は、ゼデキヤの第9年、ネブカドネザルの第17年である10番目の月テベスの時点ではまだ有効でした。
エゼキエル24章1、2節と列王記第二25章1〜8節と比較してください。
エルサレムを滅ぼしたネブカデネザルの治世19年とゼデキヤ王の治世11年は、捕囚の12年とある程度一致していました。
列王記第二25章2〜8節とエゼキエル書33章21節を参考にしてください。
したがって、エホヤキン(エコニヤ)はユダヤ暦の終わりに捕らえられたに違いありません。
(「年が改まるに及んで。」歴代記第二36章10節を参考にしてください。)
それは紀元前597年ニサンの月1日の前の年であり、ゼデキヤは(短い空位期間の後)その日から始まる年の初めに王となりました。[10]
そして、ネブカドネザルの時代、ゼデキヤの時代、あるいは捕囚の時代から計算しても、紀元前587年は「町が滅ぼされた」年だったことがわかります。[11]
この年代の連鎖の最初の環はエホヤキム王の治世第3年であり、新たな環が加わるたびに、この年代の正確さと重要性が証明されます。
この年は、まさに聖なる歴史と世界の歴史の接点と称されてきました。
そして、ユダがバビロン王に隷属していた時代であることから、聖なる年代におけるこの年の重要性は計り知れません。
奴隷状態は、一般的にそうであるように、捕囚と混同されるべきではありません。
ネブカドネザルに皇帝の杖を託した神の勅令に対する反乱であり、ユダヤ人にさらなる裁き、すなわち国家追放と、さらに恐ろしい懲罰、荒廃をもたらしたのです。
この点において、エレミヤの言葉は極めて明確です。
「今、わたしは、これらすべての国をわたしのしもべ、バビロンの王ネブカデネザルの手に与え、野の獣も彼に与えて仕えさせる。」
「バビロンの王ネブカデネザルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない民や王国があれば、わたしはその民を剣と、ききんと、疫病で罰し、――主の御告げ。――彼らを彼の手で皆殺しにする。
だから、あなたがたは、バビロンの王に仕えることはない、と言っているあなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者、呪術者に聞くな。
彼らは、あなたがたに偽りを預言しているからだ。それで、あなたがたは、あなたがたの土地から遠くに移され、わたしはあなたがたを追い散らして、あなたがたが滅びるようにする。
しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える民を、わたしはその土地にいこわせる。――主の御告げ。――こうして、その土地を耕し、その中に住む。』」」
(エレミヤ書27章6、8〜11節)
エレミヤ書38章17〜21節も参考にしてください。
この奴隷状態は70年間と定められており、エレミヤ書第29章は捕囚の民への希望のメッセージであり、その期間が満了すればエルサレムに帰還できる(10節)と記されています。
25章は、奴隷状態が始まった後もエルサレムに留まった反抗的なユダヤ人に対する預言であり、彼らの頑固な不服従が彼らに完全な破滅をもたらし、70年間、全土が「荒廃」することを警告しています。
要約すると、捕囚の37年目はエビル・メロダクの即位時(列王記第二25章27節)であり、この王の治世は紀元前561年でした。
したがって、捕囚は紀元前598年ニサンの月からアダル597年までの年となります。
しかし、聖書の計算によれば、これはネブカドネザルの治世8年目にあたります。
したがって、彼の最初の年は紀元前605年ニサンの月から紀元前604年ニサンの月です。
エルサレムの最初の占領と隷属の始まりは、その前年、紀元前606年から紀元前605年の間に起こりました。
エルサレムの最終的な破壊はネブカドネザルの治世19年、すなわち紀元前587年に起こり、包囲は紀元前589年テベトの月の10日(12月25日頃)に始まり、荒廃の時代となりました。
エルサレムの焼失は、アッシャー氏やプライドー氏らが主張するように紀元前588年ではありません。[12]
その場合、捕囚は紀元前599年に始まり、37年目はエヴィル・メロダクの即位前に終了していたはずです。
ジャクソン・ヘイルズ氏らが主張するように紀元前586年であったとも考えられません。
なぜなら、その場合、37年目はエヴィル・メロダクの即位1年目には始まっていないことになるからです。[13]
この計画はクリントン氏の計画と実質的に同じです。[14]
彼の名前の正しさは、彼のものとは異なっていると言えます。
なぜなら、彼の名前が彼のものと異なるのは、彼がエホヤキムの治世を紀元前609年8月、ゼデキヤの治世を紀元前598年6月としている点のみです。
彼はユダヤ人がニサンの月を基準に治世を数える慣習を考慮していないからです。
一方、私はエホヤキムの治世を紀元前608年ニサンの月、ゼデキヤの治世を紀元前597年ニサンの月と定めました。
もちろん、ニサンの月が実際に即位の月日だったわけではなく、ミシュナの規則と国の慣習に従って、治世がそのように数えられたというだけです。
エホヤキムの治世は紀元前609年ニサンの月ではありません。
なぜなら、彼の治世4年目は紀元前609年の最初の年でもあったからです。
ネブカドネザル王の治世の第8年から数えて37年目はエビル・メロダクの治世の元年、すなわち紀元前561年です。
クリントン氏自身が最終的に主張しているように、この日付が全体の年代を決定づけます。[15]
このことから、ゼデキヤの年代は紀元前598年ではなく597年であることがわかります。
ピュージー博士が採用した年表[16]クリントン氏の説と本質的に同じです。
ここで提案する案は、上記に示した範囲と根拠においてのみ、クリントン氏の説と異なります。
彼の指摘、すなわち、エホヤキム王の第5年に布告された断食(エレミヤ書36章9節)は、王位継承第3年にエルサレムが占領されたことを指しています。
これはあり得ないものではなく、紀元前606年キスレウ(11月)がその出来事の日付であることを暗示しています。
上記の理由から、ピュージー博士が推測するように紀元前607年ではあり得ません。
また同じ議論は、ローリンソンの正典聖書がネブカドネザルの遠征の日付(紀元前605年)として提示した日付が1年遅いことを証明しています。[17]
この体系の正しさは、クリントン氏の年代との主要な相違点、すなわちユダヤ王の治世がニサンの月から数えられているという点に関しては認められるだろうと私は推測します。
ここで提示された結果とブラウンの仮説(Orda Saec., Ch.162-169)との相違点については依然として留意する必要があります。
ブラウンは、エホヤキンの捕囚とゼデキヤの治世が同じ日に始まったと場当たり的に仮定しています。
この仮定から、彼はさらに(1)それらが同じ日、すなわちニサンの月1日から数えられたこと、そして(2)ネブカドネザルの王位はニサンの月1日から紀元606年アブの月10日(Ch.166)の間のいずれかの日付から始まったことを仮定します。
しかし、これらの立場はどちらも支持することはできません。
(1)確かにユダヤ人は王の治世をニサンの月1日から数えていた。
しかし、捕囚のような通常の期間や時代の年数をそのように数えていたという証拠はありません。
(2)年代の同時性すべてによって裏付けられているように、ユダヤ人はダニエル書のようにカルデア人の計算法に従っています。
あるいは他の書のように彼ら自身のシステムに従ってネブカドネザルの王位を数えたという推定が強くあります。
表1 年表
次の表は、バビロンへの隷属、エホヤキン王の捕囚、そしてエルサレムの荒廃のそれぞれの時代を見やすく示しています。
表を使用する場合、すでに述べた2つの点を念頭に置くことが重要です。
1.最初の列に示されている年は、ユダヤ暦のニサンの月1日(3月〜4月)から始まる年です。
例えば、紀元前604年は紀元前604年4月1日から始まる年であり、紀元前589年は紀元前589年3月15日から始まる年です。
ミシュナによれば、[18]「ニサンの月の1日は、王の統治の計算と祭りのための新しい年です。」
英訳聖書の編集者は、次のような注釈を加えています。
「ユダヤ王の治世は、即位の時期が何であれ、常に前のニサンの月から計算されました。
そのため、例えば、ユダヤ王がアダルで統治を始めた場合、翌月(ニサンの月)が彼の治世2年目の始まりとなります。
この規則はすべての法的契約において遵守され、契約においては必ず王の治世が述べられていました。」
2.異なる紀元は部分的にしか一致していません。
例えば、荒廃の第一年は紀元前589年テベトの10日目(12月25日)から始まります。
捕囚はさらに後から始まり、ゼデキヤ王の第9年とネブカドネザル王の第17年は紀元前589年ニサンの月1日(3月15日)から始まります。
これらの点を念頭に置くと、表の年代順は、列王記、歴代誌、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書に含まれる、表に含まれる期間に関するすべての年代順の記述と調和していることがわかります。
年表 | ||||||
バビロンへの捕囚から、第二神殿の奉納までの期間 | ||||||
ユダヤ暦* | バビロンの王たち | ユダの王たち | 奴隷制の時代 | 捕囚の時代 | 荒廃の時代 | イベントとコメント |
紀元前606年 | ナボポラッサル20年 | 3年目 エホヤキム (エリアキム) |
1 | - | - | エホヤキムの治世第3年、 紀元前606年ニサン1日から紀元前605年ニサン1日まで、 エルサレムはネブカドネザルに占領(ダニエル書1章1、2節)された。 231ページを参照にしてください。 この出来事によりバビロンへの隷属が始まった。 サウルによる王国の建国から490年(70週年)後、 「エホヤキムの第四年、それはネブカデネザルの第一年であった」 すなわち、605年1日から始まる年です。 (エレミヤ書25章2節) |
605 | ネブカドネザル | 4 | 2 | - | - | |
604 | 2 | 5 | 3 | - | - | 大きな像の幻(ダニエル書2章) |
603 | 3 | 6 | 4 | - | - | - |
602 | 4 | 7 | 5 | - | - | - |
601 | 5 | 8 | 6 | - | - | - |
600 | 6 | 9 | 7 | - | - | - |
599 | 7 | 10 | 8 | - | - | - |
598 | 8 | 11 | >9 | 1 | - | この年には、ネブカドネザル王の治世第8年に捕囚が始まったエホヤキン (エコニヤ) の3か月間の統治が含まれています。 列王記第二24章12節 |
エホヤキン の3か月 |
||||||
597 | 9 | ゼデキヤ | 10 | 2 | - | 11年間の統治(列王記第二24章18節) |
596 | 10 | 2 | 11 | 3 | - | - |
595 | 11 | 3 | 12 | 4 | - | - |
594 | 12 | 4 | 13 | 5 | - | エゼキエルの預言の開始 ヨシヤの過越の祭から30年目 (列王記第二23章23節)、 捕囚から5年目(エゼキエル書1章1、2節) |
593 | 13 | 5 | 14 | 6 | - | - |
592 | 14 | 6 | 15 | 7 | - | - |
591 | 15 | 7 | 16 | 8 | - | - |
590 | 16 | 8 | 17 | 9 | - | - |
589 | 17 | 9 | 18 | 10 | 1 | ネブカドネザルによる三度目のエルサレム。 テベスの10日目 「断食のテベス」 「荒廃」の時代 |
588 | 18 | 10 | 19 | 11 | 2 | - |
587 | 19 | 11 | 20 | 12 | 3 | - |
586 | 20 | - | 21 | 13 | 4 | - |
585 | 21 | - | 22 | 14 | 5 | - |
584 | 22 | - | 23 | 15 | 6 | - |
583 | 23 | - | 24 | 16 | 7 | - |
582 | 24 | - | 25 | 17 | 8 | - |
581 | 25 | - | 26 | 18 | 9 | - |
580 | 26 | - | 27 | 19 | 10 | - |
579 | 27 | 28 | 20 |
11 | - | - |
578 | 28 | 29 | 21 | 12 | - | - |
577 | 29 | 30 | 22 | 13 | - | - |
576 | 30 | 31 | 23 | 14 | - | - |
575 | 31 | 32 | 24 | 15 | - | - |
574 | 32 | 33 | 25 | 16 | - | 捕囚の25年目は、エルサレムの破壊から14年目です。 (ユダヤ人が通常計算したとおり) (エゼキエル書41章1節) |
573 | 33 | 34 | 26 | 17 | - | - |
572 | 34 | 35 | 27 | 18 | - | - |
571 | 35 | 36 | 28 | 19 | - | - |
570 | 36 | 37 | 29 | 20 | - | - |
569 | 37 | 38 | 30 | 21 | - | - |
568 | 38 | 39 | 31 | 22 | - | - |
567 | 39 | 40 | 32 | 23 | - | - |
566 | 40 | 41 | 33 | 24 | - | - |
565 | 41 | 42 | 34 | 25 | - | - |
564 | 42 | 43 | 35 | 26 | - | - |
563 | 43 | 44 | 36 | 27 | - | - |
562 | 44 | 45 | 37 | 28 | - | 聖書では、イルオラダム(エヴィルメロダク)の即位は紀元前561年トートの月1日(1月11日)に始まる年です。 しかし、この表の562年はユダヤ暦、すなわちニサンの月1日(紀元前561年4月5日頃)の前の年であり、紀元前37年となります。 エホヤキンの捕囚の記録は、その年の終わり頃まで残っています。 この年、「ユダの王エホヤキンを釈放し、獄屋から」出されました。 (エレミヤ書52章31節) |
561 | エヴィルメロダク | 46 | 38 | 29 | - | - |
560 | 2 | 47 | 39 | 30 | - | - |
559 | ネリグリッサル、またはネルガルシェレザー | 48 | 40 | 31 | - | - |
558 | 2 | - | 49 | 41 | 32 | - |
557 | 3 | - | 50 | 42 | 33 | - |
556 | 4 | - | 51 | 43 | 34 | - |
555 | ナボニドゥス | - | 52 | 44 | 35 | 聖書のナボナディウスは、碑文ではナブンナヒトと呼ばれ、ヘロドトスではラビネトゥスと呼ばれています。 |
554 | 2 | - | 53 | 45 | 36 | - |
553 | 3 | - | 54 | 46 | 37 | - |
552 | 4 | - | 55 | 47 | 38 | - |
551 | 5 | - | 56 | 48 | 39 | - |
550 | 6 | - | 57 | 49 | 40 | - |
549 | 7 | - | 58 | 50 | 41 | - |
548 | 8 | - | 59 | 51 | 42 | - |
547 | 9 | - | 60 | 52 | 43 | - |
546 | 10 | - | 61 | 53 | 44 | - |
545 | 11 | - | 62 | 54 | 45 | - |
544 | 12 | - | 63 | 55 | 46 | - |
543 | 13 | - | 64 | 56 | 47 | - |
542 | 14 | - | 65 | 57 | 48 | - |
541 | 15 | - | 66 | 58 | 49 | (碑文では)今年、もしかはそれ以前にベルシャザール(ベルサルズルのダニエルは父ナボナディウスの存命中に摂政となりました。 ダニエルが四つの獣の幻を見たのはベルシャザルの治世1年目であり、雄羊と雄やぎの幻を見たのはベルシャザルの治世3年目となります。(ダニエル書7章、8章) |
540 | 16 | - | 67 | 59 | 50 | - |
539 | 17 | - | 68 | 60 | 51 | - |
538 | ダリヨス(メディア) | - | 69 | 61 | 52 | クロスがバビロンを占領する。 ダニエルの七十週の幻はこの年に現れました。 |
537 | 2 | - | 70 | 62 | 53 | - |
536 | サイラス | - | - | - | 54 | クロス大王の勅令により、ユダヤ人はエルサレムへの帰還を許可され、奴隷状態は終結しました。 (注:奴隷状態70年目は、西暦536年ニサン1日まで有効です。) |
535 | 2 | - | - | - | 55 | - |
534 | 3 | - | - | - | 56 | ダニエルの最後の幻の年 (ダニエル書10-12章) |
533 | 4 | - | - | - | 57 | - |
532 | 5 | - | - | - | 58 | - |
531 | 6 | - | - | - | 59 | - |
530 | 7 | - | - | - | 60 | - |
529 | カンビュセス | - | - | - | 61 | - |
528 | 2 | - | - | - | 62 | - |
527 | 3 | - | - | - | 63 | - |
526 | 4 | - | - | - | 64 | - |
525 | 5 | - | - | - | 65 | - |
524 | 6 | - | - | - | 66 | - |
523 | 7 | - | - | - | 67 | - |
522 | 8 | - | - | - | 68 | - |
521 | ダリヨス1世 | - | - | - | 69 | ダリヨス・ヒスタスペス |
520 | 2 | - | - | - | 70 | 荒廃の終わり。 第二神殿の土台はダリウスの2年9月24に築かれました。 ハガイ書2章18節 |
519 | 3 | - | - | - | - | - |
518 | 4 | - | - | - | - | - |
517 | 5 | - | - | - | - | - |
516 | 6 | - | - | - | - | 神殿はダリヨス王の治世6年目のアダル月の3日に完成しました。 (エズラ記6章15節) |
515 | 7 | - | - | - | - | 神殿の奉献は、515年ニサンの過越の祭です。 エズラ記6章15~22節 ソロモンの神殿の奉献(紀元前1005年)から490年後のことです。 そして、街建設の勅令の70年前となります。 |
表2 年代順の並行表
アブラハムの召命が創造と十字架刑の間の中心点であったことを示しています。
紀元前4141年:アダム(創造)
その期間は1656年です。
紀元前2485年:ノア(洪水)
その期間は430年です。
紀元前2055年:アブラハム(契約)
その期間は430年です
紀元前1625年:モーセ(律法)
その期間は1656年
紀元32年:キリスト(十字架)
つまり、アダムからアブラハムは2086年、
モーセからキリストまでが1656年、アブラハムからモーセが430年、合わせて2086年になります。
鍵は、
*これらの日付はクリントン氏の年表とは3年異なります。
*「私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。」
(ガラテヤ人への手紙3章17節)
表3 歴史上の特定の主要な日付、聖なるものと汚れたもの[19]
紀元前
2055年 :アブラハムとの契約。
1625年 :出エジプト、律法の授与
1585年 :ヨシュア率いるカナンへの入城
1096年 :サウル、王国の建国
1056年 :ダビテ
1016年 :ソロモン
1014年 :神殿の土台
1006年 :神殿が奉納
976年 :レハベアム、イスラエルはユダから反乱を起こし、ヤロブアムの治世下で独立した王国となる。
776年 :オリンピックの時代が始まります。
753年 :ローマ時代(A.U.C.)が始まります。
747年 :バビロンの王、ナボナッサルの時代が始まります。
726年 :ユダ王ヒゼキヤ(在位29年)
721年 :イスラエル(十部族)がアッシリアに捕虜として連れて行かれる。
697年 :マナセ(55歳)
642年 :アモン(2年)
640年 :ジョサイヤ(31歳)
627年 :エレミヤは預言を始めました。
608年 :エホヤキム(11歳)
606年 :バビロン、エルサレムがネブカドネザルに占領され、隷属状態が始まった。
598年 :エルサレムはバビロニア人に二度目の占領を受ける。
エホヤキン王の捕囚
589年 :エルサレムはバビロニア人によって三度目の包囲を受ける。
荒廃
587年 :エルサレムが占領され、破壊されました。
561年 :ネブカドネザルの死とエビル・メロダクの即位
559年 :クロスがペルシャを統治し始める。
538年 :ペルシャ
バビロンがメディア人とペルシャ人に占領される。
536年 :クロスがダリヨスの後を継いで帝国を統治
神殿建設の勅令が発布される。
521年 :ペルシャのダリヨス・ヒュスタスペス
520年 :第二神殿の創設。
ハガイとゼカリヤの預言
515年 :第二神殿の奉献。
490年 :マラトンの戦い。
485年 :クセルクセスがダリヨスの後を継ぐ。
エステル記のアハシュエロス
484年 :歴史家ヘロドトスが生まれる。
480年 :テルモピュライとサラミスの戦い
471年 :テミストクレスが追放される。
歴史家トゥキュディデスが生まれる。
468年 :ソクラテスが生まれる(399年没)
466年 :テミストクレスのペルシアへの逃亡。
465年 :ペルシャのアルタシャスタ・ロンギマヌス
458年 :神殿を美化するためのアルタシャスタの勅令(エズラ記7章)
449年 :ペルシャ軍がキプロスのサラミスでアテネ軍に敗北。
445年 :七十週の時代が始まり
アルタシャスタ治世第20年:エルサレムが回復されます。
ヘロドトス(紀元39年頃)が歴史書の執筆の着手
429年 :プラトンが生まれる(347年没)
424年 :ペルシャのダリヨス・ノトゥス(ネヘミヤ12章22)
405年 :ペルシャのアルタシャスタ・ネモン。
397年 :マラキ書。
「預言者」の時代が終わります。
ダニエルの七十週の最初の週が終わり
359年 :ペルシャのオコス。
336年 :ペルシャのダリヨス・コドマヌス。
333年 :ギリシャ、イッソスの戦い(グラニコスの戦い、334年;アルベラの戦い、331年)
323年 :アレクサンダー大王の死
312年 :セレウコス朝の時代が始まります。
301年 :イプソスの戦い
170年 :アンティオコス・エピファネスがエルサレムを占領
168年 :アンティオコスによって神殿が汚される。
165年 :ユダ・マカバイがエルサレムを奪還
神殿は清められ、奉献祭の設定
(マカバイ記第一4章52〜59節、 ヨハネの福音書10章22節)
63年 :ローマ、ポンペイウスがエルサレムを占領
40年 :ローマ人によるヘロデ大王のユダヤの王としての任命
37年 :ヘロデはエルサレムを占領し、ユダヤ人から王として認知
31年 :アクティウムの海戦
12年 :ローマ皇帝アウグストゥス
4年 :キリストの降誕
3年 :ヘロデの死
アルケラオスはユダヤの族長に任命され、ヘロデ・アンティパスによるガリラヤの統治
紀元14年 :ローマ皇帝ティベリウス(8月19日から)
紀元28年 :ティベリウス帝の治世15年、西暦28年8月19日から29年8月19日まで統治する。
主の宣教はこの年に始まりました (ルカの福音書3章)
紀元32年 :十字架刑(主の宣教活動の4回目の過越の祭において)
ニサン、もしくはアビブ(Nisan,or Abib) | 3〜4月 |
ジフ、もしくはイヤル(Zif, or Iyar) | 4〜5月 |
シヴァン(Sivan) | 5〜6月 |
タンムズ(Tammuz) | 6〜7月 |
アブ(Ab) | 7〜8月 |
エルール(Elul) | 8〜9月 |
ティスリ、もしくはエサニム(Tisri,or Ethanim) | 9〜10月 |
ブル、もしくはマルヘスヴァン(Bul,or Marchesvan) | 10〜11月 |
チスレウ(Chisleu) | 11〜12月 |
テベス(Tebeth) | 12〜1月 |
セバト(Sebat) | 1〜2月 |
アダル(Adar) | 2〜3月 |
ヴェアダール(Ve-Adar) | うるう月 |
現在の「ヘブル暦」に関する詳細な情報は、 「(Encyc. Brit. (9th ed.)」に掲載されている同名の論文、およびユダヤ教の著作であるリンドーの「ユダヤ暦」に記載されています。
ミシュナは、この暦に関する最も古い文献です。
付録1. 補足説明
[*]AV英訳聖書の編集を任されていたロイド司教は、この点に関していくつかの変更を行っています。
たとえば、ネヘミヤ書では、アッシャー氏の年代を拒否し、アルタシャスタ・ロンギマヌスの治世の実際の歴史的日付を挿入しています。
[1](Rawlinson's Herodotus, 4., p.212. Xerxes )
「クセルクセス(古代のペルシャ語で(Khshayarsha))は王を意味する「(Khshaya)」から派生した言葉だとローリンソン閣下(Sir H.Rawlinson)によって発見されました。
(Ibid. 3., 446, App.Book 6. note A)
[2]ヨセフス氏は(Ant.20:10 Ch.1)の中でこのことを裏付けているように考え、出エジプトから神殿建設までの期間を612年としています。
しかし、(Ant.8:3 Ch.1)の中では、同じ期間を592年としています。
この長い期間には、神殿と宮殿の建設期間である20年間も含まれていたと考えられます。
[3](Browne Ordo Saec. Ch. 13)を参考にしてください。
しかし、ブラウンの体系は、エルサレムの滅亡(西暦70年)をモーセの律法の終焉と規定せざるを得ないようにしています。
しかし、これは明らかに誤りです。
十字架刑は、ユダの歴史と世界の歴史における大きな危機でした。
[4](Clinton, F.H., vol.1., p.299)
アルフォードのこの件に関する傲慢なコメント(ギリシャ語新約聖書、使徒の働き7章4節)は、もしこの議論にふさわしい機会があれば、容易に無視できたはずです。
実際、創世記25章1、2節を軽く述べるだけでも、彼の発言は十分に修正されたはずです。
[5]彼の母はレビの娘でした。(出エジプト記2章1節)
[6]第二神殿の時代の時代がほぼ490年間の期間に存在していたのは驚くべき偶然です。
紀元前515年からおよそ紀元前18年、この時にヘロデが再建しました。
[7](Clinton,F.H., vol.1., p.367.)
[8]紀元前604年の過越しの祝いの新月は3月31日でした。
[9](F.H., vol.1., p.328.)
[10]これはエゼキエル書40章1節と列王記第二25章8節を比較することによって確認できます。
捕囚の25年目は、ユダヤ人の通常の慣習に従って全体的に計算すると、エルサレムの破壊後の14年目(つまり、ネブカドネザルの治世の19年目) です。
[11]これらの結果は、添付の表を参考することで一目でわかります。
[12]この出来事はネブカドネザル王の治世第19年に起こりました。(列王記第二25章8節)
しかし、捕囚は彼の治世第8年に始まりました。(列王記第二24章12節)
[13](Clinton,F.H.., vol.1., p.319.)
[14](Ibid., pp.328-329.)
[15](Fasti H., vol.1., p.319.)
[16](Daniel, p.401.)
[17](Five Great Mon., 4. 488.)
[18](Treatise, Rosh Hashanah, 1. 1.)
[19]これらの日付はクリントン氏によるもので、付録1の注釈を前提としています。
これらは主にダニエルの幻に光を当てるために選ばれています。
歴史家などの名前は、七十週の預言の時代が始まった時代の特質を示すために、紀元前5世紀に導入されました。
付録2 その他:誰がいつ
注記A アルタシャスタ・ロンギマヌスとその治世の年表
ネヘミヤのアルタクセルクセスが、今やロンギマヌスであると認められていることは、完全に一致しており、もはや証拠を示す必要はありません。
ヨセフス氏はこれらの出来事をクセルクセスのものとしています。
しかし、クセルクセスとアルタシャスタの治世に関するヨセフス氏の歴史は致命的な誤りを犯しており、全く価値がありません。
実際、彼はそれぞれの治世の出来事を入れ替えています。
(Ant.11.,caps 5: and 7.)を参考にしてください。
ネヘミヤの主君は32年間以上統治しました。た(ネヘミヤ書13章6節)
そして、彼の治世はダリヨス・ヒスタスペスの治世の後(エズラ記6章1節と7章1節参考)であり、ダリヨス・ノトスの治世の前(ネヘミヤ書12章22節)でした。
したがって、彼はロンギマヌスかムネモンのどちらかであるに違いありません。
なぜなら、ダリヨス・ヒュスタスペスが32年間統治した後、他にそのような王はおらず、ネヘミヤの使命がアルタシャスタ・ムネモンの治世の20年目、すなわち紀元前385年より遅くないことは確実だからです。
これは、第一に、歴史の全体的な流れから明らかです。
次に、この年代はマラキの預言よりも後であり、マラキの預言はネヘミヤの時代よりもかなり後だったことに違いありません。
三番目に、ネヘミヤがエルサレムに来た時の大祭司であったエリアシブは、クロスの元年に大祭司であったイエシュアの孫であったからです。
(ネヘミヤ書3章1節、12章10節、エズラ記2章2節、3章2節)
そして、クロスの元年(紀元前536年)からアルタシャスタ・ロンギマヌスの20年(紀元前445年)までは91年であり、ちょうど3世代に及んでいます。[1]
さらに、ダニエル書11章を正しく読むのであれば、預言の時代がロンギマヌスの時代から始まっていたことを確実に証明しています。
一般的に、2節と第3節との間に130年以上の空白があり、歴史の断片であるかのように解釈されることが多くあります。
しかし、この章は七十週の期間における出来事を連続的に預言しています。
エルサレム建設の勅令発布後、さらに「ペルシアには三人の王」が現れるとされています。(すなわち、エルサレム建設の勅令発布後)
彼らはダリヨス・ノトス(ネヘミヤ書12章22節に言及)、アルタシャスタ・ムネモン、そしてオコスです。
クセルクセス2世、ソグディアノス、そしてアログスの短い治世は、実際には全く重要ではなかったにもかかわらず、見過ごされてきました。
実際、プトレマイオス正典聖書では、そのうちの二人は省略されています。
「4代目」最後の王はダリヨス・コドマヌスであり、その2世紀にわたって蓄積された莫大な富はギリシャ人の貪欲を惹きつけました。
アレクサンドロスがシュシャンで発見した金の額は不明です。
しかし、アルベラの戦いで彼が押収した銀塊とヘルミオネの紫は[2]を2000万ポンド以上の価値がありました。
2節ではペルシャ帝国の終焉について述べられており、3節ではアレクサンダー大王の台頭が預言され、4節では彼の王国が4人の将軍の間で分割されることが述べられています。
クリントン氏(F.H., vol.2., p.380)によれば、クセルクセスの死は紀元前465年7月、アルタシャスタの即位は紀元前464年2月でした。
アルタシャスタは、もちろん、介入した略奪者の治世を無視し、自身の治世を父の死の日から起算しました。
また、宮廷の役人であったネヘミヤも同様の計算に従いました。
もし、彼が主君の治世を紀元前464年2月から起算していたならば、キスレウとニサンが同じ治世年に当たることはなかったはずです。
(ネヘミヤ書1章1節、2章1節)
ユダヤ人の慣習に従ってニサンから起算していたとしても、同じことはあり得なかったはずです。
ピュージー博士はここで次のように述べています。[3]
アルタシャスタの即位は、暗殺者アルタバヌスの7ヶ月後の紀元前464年半ばに当たります。
ネヘミヤ書1章2節とエズラ記7章7〜9節の月順から、キスレウは彼の治世においてニサンよりも早く、ニサンはアブよりも早く到来したことは明らかです。
したがって、アルタシャスタの治世は、アブとキスレウの間で紀元前464年に始まったと推定されます。
しかし、これは全くの誤りです。
既に述べたように、キスレウとニサンは同じ治世年にあたり、ニサンとアブの初日も同じです。(エズラ記7章8、9節)
紀元前459年(アルタシャスタ7年)のアブ1日は7月16日頃でした。
したがって、引用した箇所は従来の年代と完全に一致しており、日付をより正確に確定し、クセルクセスの死とアルタシャスタの治世の始まりを紀元前465年7月後半と決定するのに役立つだけでした。
この主題について預言書家たちが書いたものに精通していない人は、この日付が9年も遅すぎると非難されていることに驚くはずです。
すべての年代学者は、クセルクセスが紀元前485年に統治を開始し、アルタシャスタが紀元前423年に亡くなったことに同意しています。
そして私の知る限り、預言研究に偏りのない著名な著述家は、後者の王の治世の紀元を紀元前465年以外の日付とする者はいません。
もしくは464年、上記を参考にしてください。[4]
これはプトレマイオスの公式記録による日付であり、すべての歴史家が従ってきました。
また、ユリウス・アフリカヌスの独立した証言によっても確認されています。
彼は「年代」の中で次のように記しています。[5]
アルタシャスタ20年は、ペルシア帝国115年(クロスの治世紀、紀元前559年を基準とする)であり、第83回オリンピックの4年目とされています。
これは、紀元前464年をその王の最初の年として定めるものであり、実際には彼が実際に即位した年です。
この点について最初に疑問を呈したのはアッシャー博士でした。
1613年、ダブリンのトリニティ・カレッジで行われた「ダニエルの70年代」についての講義で[6]、ロンギマヌスの治世に関する諸問題から、ある調査が持ち上がり、最終的にロンギマヌスの治世を紀元前474年とすることを決定しました。
これは、彼が「(Annales Vet.Test.)」の中で示した年代です。
この年代は後にヴィトリンガ氏によって、そして1世紀後にはクルーガー氏によって採用されました。
しかし、この見解の主張者はヘングステンベルクとされ、その論文は彼の「年表(Chronology)」[7]に収録されています。
有利に主張できるものは何も省略していません。
一般に受け入れられている年代に対する反論は、主にトゥキュディデスの主張に基づいています。
その主張によれば、テミストクレスがペルシャ宮廷に到着したとき、アルタシャスタはすでに王位に就いていました。
テミストクレスの逃亡が紀元前464年という遅い時期にはあり得ないと主張しています。[8]
しかし、ピュージー博士が指摘するように、「それらは、ギリシャの歴史を扱った英国の著述家に何の影響を与えていません。」[9]
ドイツの著述家たちと同様に、ピュージー博士は論争の中でアッシャー氏を完全に無視しています。
しかし、トレゲレス博士[10]は、彼は、より早い年代を主張する人々の中で、学問の最高峰に位置すると正しく主張しています。
預言と年代を一致させることが明らかに困難であることから、ピュージー博士はプライドー氏に倣い、聖書に反してアルタシャスタ7年を七十週の元年と定めました。
一方、トレゲレス博士は[11]アッシャー氏の名に隠れて、その王の治世20年目として紀元前455年を採用しました。
ロイド主教は、アッシャー氏の年代を英語聖書に付記する際に、ネヘミヤ書を扱う際には、従来の年代法に立ち返りました。
この問題については、ここで議論する必要はありません。
新しい年表を支持する根拠を全て再現する以外に、その支持者を満足させる方法はありません。
そして、私の現在の目的にとって、その根拠に対する十分な答えは、創意工夫と博識によってその支持のために指摘され得るあらゆる根拠が主張されてきました。
それにもかかわらず、世の著述家によって拒まれてきたことです。
成就していない預言は信者だけのものです。
しかし、成就した預言はすべての人に語りかけています。
したがって、この七十週の預言の成就の証明は、ヘングステンベルクの預言のような、従来の年表を揺るがすような手の込んだ論考に依存していないことは幸いです。
ただ一つだけ指摘しておきたいことがあります。
クセルクセスの治世を11年に限定すべきだという主張は、彼の治世11年目以降の出来事について述べられていないという点です。
答えは明白です。
第一に、ペルシア史に関する知識は、主にクセルクセスの時代以降に著述を行ったギリシャの歴史家たちのおかげであることです。
第二に、テルモピュライとサラミスの戦いは、クセルクセスのような気質と性格の王に、怠惰な安楽と官能的な享楽に身を委ねるきっかけとなった可能性が高くあります。
しかし、さらに、クセルクセス12年はエステル記(3章7節)に明確に記されており、その記述は彼の治世が13年目の(ユダヤ暦の)12月まで続いたことを証明しています。[12]
ヘングステンベルクはこれに対し、ヘブル人作家の間では共同統治の年を統治紀元に含めるのが慣例であったと主張しています。
そして、そのような慣習の証拠としてネブカドネザルの事例を挙げています。[13]
もし、ネブカドネザルの治世が実際にこのように数えられていたとしたら、この一例だけではそのような慣習を証明することはありえません。
なぜなら、それはエルサレムのユダヤ人はバビロンの政治や慣習を全く知らないからです。
そして、ネブカドネザルの治世を独自の体系に基づいて数えていたことの証明に過ぎないからです。
しかし、私はネブカドネザルの治世に関するこの説は完全な誤りであると考えています。
聖書の歴史において、彼がユダヤへの最初の侵攻に関連してバビロンの王と呼ばれているのは、著者が彼と同時代人だからです。
「ビーコンズフィールド閣下はダービー閣下の政権下で財務大臣を務めた」という記述は、将来の歴史家によってなされたならば時代錯誤として当然非難されます。
しかし、まさにこの表現は、その時代活躍した政治家を知る同時代の著者が用いる表現なのです。
ユダヤ人はネブカドネザルの治世を、彼らの慣習に従って、即位前のニサンから数えていたことを、私は既に別の箇所で示しました。
(付録1を参考にしてください。)
したがって、クセルクセスの治世における共同統治説を支持する全く新しい根拠が提示されない限り、エステル記はアッシャー氏の説に完全に反し、広く受け入れられている年代を支持する決定的な証拠となります。
注記B 降誕の日付
主の誕生日について論じる際、ここで採用されているよりも早い日付を支持する根拠はあまりにも広く知られており、無視することはできません。
ファラー博士は「キリストの生涯(Life of Christ)」 (Excursus 1)の中で、この問題を次のように述べています。
最も確かな根拠は、キリストがヘロデ大王の死の前に生まれたという点です。
その出来事の日付は絶対的に確実です。
(2) ヨセフス氏は、キリストがローマ人によって王と宣言されてから37年後に亡くなったと述べています。
現在では、彼が王と宣言されたのは紀元前714年であることが分かっています。
したがって、ヨセフス氏は常にニサンからニサンまでの年数を計算し、ニサンの初めと終わりの端数を完全な年として数えられています。
ゆえに、ヘロデはローマ紀元750年ニサンから751年ニサンの間、すなわち紀元前4年から紀元前3年の間に亡くなったのに間違いありません。
(2) ヨセフス氏は、ヘロデがユダ、マティアス、そして彼らの共謀者たちを火刑に処せた夜に月食があったと述べています。
この月食は紀元前4年3月12日の夜に起こり、ヘロデは少なくとも7日前に亡くなっています。
ユダヤ暦の計算に従うならば、過越の祭は同年4月12日に当たります。
しかし、福音書の明確な記述によれば、イエスはヘロデ王の死の少なくとも40日前には生まれていたはずです。
したがって、いかなる状況下でも、降誕が紀元前4年2月より後に起こったことはあり得ないことは明らかです。[14]
この一節は、聖なる歴史家と世界の歴史家の記述に相対的な価値が付けられていることを典型的に示しています。
ヨセフス氏の歴史書において、日食や王の治世の長さについての偶発的な言及は「絶対的な確実性」を与えるのに十分です。
また、聖書の最も明確で明確な記述は、たとえ福音書の記者たちを単なる歴史家の分野に押し込めたとしても、筆者たちにとって極めて超越的な関心事に関するものであり、その記述に取って代わらなければなりません。
(Smith's Bible Dictionary)に寄稿された記事(イエス・キリスト)の中で、ヨーク大主教がこの疑問についてより穏やかに述べたものがあります。
ヨセフス氏によれば、ヘロデ大王は王位に就いてから37年目に亡くなりました。
彼の即位は、ドミティウス・カルウィヌスとアシニウス・ポリオの執政官就任と重なり、これがローマ起源714年という日付を決定させます。
ヨセフス氏がこのような計算においてニサンの月から同月までの年数を数えて、ヘロデの死が37年目の初め、つまり過越しの直前に起こったと考える理由があります。
もし、36年を足すならば、ヘロデの死の年はローマ起源750年となります。
一般に受け入れられているこの見解によれば、ヘロデの死はユダヤ暦の最初の6日間に起こり、これらの日数は彼の治世において完全な1年として数えられます。
ユダヤ人は時間を計算する際に、一般的に特定の期間の両端の単位を含めていたことが認められています。
このことを示すよく知られたはっきりとした例は、主ご自身が三日三晩死の中に横たわると宣言された言葉です。
この言葉はユダヤ人にどのような意味を伝えたのでしょうか?
主の埋葬から24時間後、彼らはピラトのもとに来てこう言います。
「こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる。』と言っていたのを思い出しました。
ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった。』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」」
(マタイの福音書27章63、64節)[15]
もし、その日曜日が過ぎても墓の封印が破られていなかったら、パリサイ人は大胆に勝利を宣言したはずです。
一方、私たちの計算方法によれば、復活は月曜の夜か火曜の朝まで延期されるべきでした。[16]
再び、ヘロデの即位は実際には紀元前40年から始まっていたと推測されるので、紀元前4年は彼の治世の37年目であり、最後の年でした。
さらに、彼は過越しの祭りの直前に亡くなった可能性が高く存在しています。
彼の死がユダヤ暦の初めか終わり頃だったのかは依然として疑問です。
ヨセフス氏によれば、事件が起こった時、「アルケラオス(Archelaus)」(ヘロデ・アルケラオス)は7日間隠遁生活を送り、その後民衆の前に姿を現しました。
当初の歓迎は好意的なものでした。
しかし、当時彼に迫っていた多くの民衆の要求に屈しなければならなかったのです。
儀式の後、彼は「神にささげ物を捧げ、それから友人たちと祝宴に加わりました」。
しかし、すぐに不満と不信がくすぶり始め、広がり始め、王に対して新たな要求が突きつけられました。
王は再びこれらの要求に屈しました。
しかし、以前ほど寛大ではありません。
将軍に民衆をいさめて、ローマから戻るまで請願を延期するよう説得するよう指示しました。
これらの訴えは、当時の不満をさらに増幅させるだけで、暴動を引き起こしました。
王は依然として反乱者たちと交渉を続けていた。
しかし、 「種なしパンの祭りが近づくと」、首都が地方から来たユダヤ人で溢れかえるようになると、事態は深刻化し、アルケラオスは暴徒たちを武力で鎮圧することを決意しました。
これは「祭りが近づくと」のことであり、ユダヤ人たちはニサンの8日目に過越しの祭りが「近い」と考え、祭りのためにエルサレムへ向かったのです。[17]
過越の祭はニサン月14日に始まりました。
この最後の暴動はその前の週に発生しました。
以前の暴動は、さらにその前、つまりユダヤ人が祭りのために侵入したニサン月8日よりも前に発生しました。
この暴動も、ヘロデ王の死を悼む宮廷の喪が7日間続いた翌日から数えて、ある程度の期間が経過しています。
したがって、歴史はヘロデ王の死が過越の祭の14日以上前、つまりユダヤ暦の初めではなく終わりに起こったことを確実に証明しています。
紀元前4年3月13日の日食の後だったに間違いありません。[18]
しかし、日食はその年の過越の祭のわずか一ヶ月前であり、王の死は過越の祭の少なくとも14日前でした。
では、ヨセフス氏が日食と王の死の間の出来事として記録している出来事が二週間以内に起こったと言えるでしょうか?
読者は「古代の歴史(Antiquities)」を読み、それが可能かどうかご自身で判断していただきたい。
史実から自然に導き出される推論は、死は日食から数週間ではなく数ヶ月後、つまり年末であったことです。
この結論の正しさは、歴史家の年代順の記述を参考にするという、あらゆるテストの中で最も厳格なテストを適用することによって確立できます。
「戦記(Wars)」 (2章7、3節)の中で、アルケラオスの追放を彼の統治9年目に定めており、後年の著作(「古代の歴史」17、13、3)では10年目に追放されたと述べています。
そして、これらの日付は明確かつ誤りである可能性を排除する形で示されています。
これらの日付は、アルケラオスが牛に食べられてしまった多数の穀物の穂(「戦記」では9本、「古代の歴史」では10本)を見たという夢の物語と関連しています。
これは彼の統治期間が突如として終焉を迎えることを予兆していました。
さて、統治者がクリスチャン、ユダヤ教徒、あるいはトルコ人であろうと、統治9年目は統治8周年から始まる年であり、統治10年目は統治9周年から始まる年です。
この件に謎や難点があると主張するのは、単なる詭弁に過ぎません。
歴史家の二つの記述の相違は意図的なものであり、二つの歴史書において、彼はエトナルクの統治期間を二つの異なる時代から計算していたことは明らかです。
しかし、もしこれらの著述家が主張するように、ヘロデがユダヤ暦の第一週に死んだとすれば、これは不可能です。
なぜなら、アルケラオスの実際の即位は、ユダヤ暦の計算による彼の即位と同時期だったはずだからです。
一方、もし彼の統治期間がユダヤ暦の終わり、つまり西暦6年[19]から始まっていたとすれば、 実際は彼の9年目となります。
しかし、ミシュナの計算規則によれば、彼の10年目はニサンから始まることになります。
この主題に関する多くの論文には、ヨハネの福音書2章20節の「この神殿は建てるのに四十六年かかりました」という記述に基づく議論が見られます。
ヨセフス氏によれば、「ヘロデ王による神殿の再建は、彼の治世の18年に始まった」とされています。[20]
そして、その日から46年後、西暦26年がこれらの言葉が語られた年、つまり主の宣教活動の最初の年が確定します。
著名な著者たちがこのように書いたことは、文学的現象と言えるかもしれません。
ヨセフス氏は、このように彼に帰せられていることを語っていないだけでなく、彼の物語がそのことを反論しています。
この主張の根拠は、彼が18歳か19歳だったことになります。[21]
ヘロデは神殿再建を提案する演説を行います。
しかし、歴史家はこう付け加えています。
「王は民衆に自分の意図と約束を完全に信じてもらえなかったため、民衆を励まし、神殿を完全に再建するための準備がすべて整うまでは取り壊さないと告げました。
そして、事前に約束していた通り、王は約束を破ることなく、神殿建設用の石材を運ぶための荷車千台を用意し、最も熟練した職人一万人を選び出し、祭司たちに祭服千着を買い与えました。
そして、彼らのうちの何人かには石工の技術を、また他の何人かには大工の技術を教えさせ、それから神殿の建設に着手しました。
しかし、これは工事の準備がすべて整うまで待たなければなりません。」[22]
これらの準備にどのくらいの期間がかかったかは、もちろん決定することは不可能です。
しかし、もしレウィンが推測するように、その作業が紀元前18年の過越の祭に開始されたとすると、46年後にちょうど西暦29年、つまり主の宣教活動の最初の過越の祭に至ります。
注記C 預言的解釈の継続的な歴史的システム
預言の歴史的解釈者たちは、ヨハネの黙示録の幻とキリスト教世界の歴史における出来事との驚くべき類似性によってその重要性が十分に証明される原則を理解してきました。
しかし、彼らはそれに満足せず、一方では世界の終末に関するでたらめで傲慢な預言によって預言研究の信用を失墜させ、他方では自らの解釈原則を体系化し、さらには趣味のレベルへと堕落させてしまいます。
しかし、この点において、結果は幸いでした。
悪は必ず自滅し、主張者たちが提唱してきたような形式とやり方で「連続的歴史解釈」が過去の気まぐれとみなされる時がそう遠くないからです。
今世紀前半の出来事はクリスチャンの心にその好意的な印象を与え、広く受け入れられるに十分でした。
しかし、故エリオット氏の偉大な著作は、その弱点を徹底的に暴露しました。
彼の著作の「黙示録の時(Horae Apocalypticae)」の最初の五章を読めば、読者は著者の構想の真正さと重要性を強く感じ取らずにはいられないはずです。
また、その博識と、それが巧みに用いられていることも理解できるはずです。
しかし、最初の五つの封印の解説から六番目の封印の記述に移ると、聖書の真実性と荘厳さを理解するほどに、強い嫌悪感を抱くはずです。
ヨハネの黙示録六章の最後の六節を読めば、その恐るべき荘厳さは聖書中にほとんど例を見ないと言えます。
そして、エリオット氏の著書に目を向け、そこに記された言葉が4世紀における異教の滅亡を預言したに過ぎないことを知った時、どんな気持ちになるでしょうか?
「御怒りの大いなる日」(ヨハネの黙示録6章17節)に関するヨハネの黙示録の幻の言葉は、イザヤ書(13章9、10節)の「主の日」に関する言葉です。
また、ヨエル書の預言(ヨエル書2章1、30、31節)の言葉でもあり、使徒ペテロがペンテコステの日に引用しています。(使徒の働き2章16〜20節)
しかし、それだけではありません。
マタイの福音書24章は、ヨハネの黙示録6章の幻に関する神の解説であり、それぞれの封印は、主の再臨に先立つ出来事に関する主の預言と対応しています。
そこでは、ここで述べられているのと同じ恐ろしい自然の激動について述べて終わっています。
したがって、たとえ第六の封印の幻のそのような解釈を受け入れるほどに心が「熟練」されたとしても、これらの他の聖書箇所は依然として説明がつかないままです。
エリオット氏の構想には、他にも同様に欠陥のある点が数多くあります。
例えば、二人の証人に関する骨の折れるエッセイは、彼らの天への昇天(ヨハネの黙示録11章12節)がプロテスタントが「政治的な威厳と権力への昇格」を得た時に成就したという驚くべきクライマックスで最高潮に達しています。(Horae. Ap., 2., 410)
さらにでたらめで無謀なのは、ヨハネの黙示録12章5節の解説です。
「女性がその苦しみの中でどんな希望を抱いていたにせよ、より小さな完成は、男の子の誕生と昇天、すなわちクリスチャンがまず政治体として認められるという昇格だということは明らかです」と彼は述べています。
そして、すぐにローマ帝国の王位の優位性へと移っていきます。」(vol.3.,12)
ヨハネの黙示録15章との関連でウィルバーフォース氏に言及している部分は、多くがグロテスクです。(vol.3.,430)
そして最後に、彼は、この誤った体系に従うすべての人が必然的に破滅する岩、すなわち預言の年代にたどり着くのです。
それは、累積的な証拠によって、1865年が千年王国の到来を告げる年、あるいは1865年でなければ1877年か1882年となることを主張しています。(vol.3., 256-266)
「すべてを説明するヨハネの黙示録的な注釈は、自ら誤りを認めてます」。
ダニエル・アルフォード(ギリシャ語訳聖書、ヨハネの黙示録11章2節)のこの格言は、エリオット氏の著書にも完全に適用することができます。
彼はこれらの幻が絶対的かつ最終的な成就を得たと主張しているため、すべてを説明する義務があります。
その結果、これらの叙述は、もし賢明な預言研究者によって書き直されれば、最高の価値を持つべき作品を損なっています。
聖書の言葉そのもののために闘わなければならない現在の時代に、それらを無害な幼稚なものと片付けることはできません。
それらは時代の懐疑主義を刺激し、クリスチャンに来たるべき怒りについての最も深刻な警告を、単なる舞台の雷鳴のように扱うように仕向けているのです。
現在、エリオット氏の覆いは『時代の終わりに近づいている』の著者にかかっています。
グラッタン・ギネス氏の太陰太陽の周期と影響に関する論文は、多くの人にとって本書の中で最も興味深く価値のある部分であると思われるかも知れません。
この書物の研究は、ダニエルの預言の時代の奥義的解釈の中に、異邦人の支配とクリスチャン・ディスペンテーションの年代が隠されているという、長い間私が抱いてきた印象を確証してきました。
しかしながら、バークス教授は正しくも次のように述べています。
「ギネス氏がこの理論の根拠としている専門性の多くは、多くの太陽暦と太陰暦の日数差の数の中から、もしくはその一部を無意識のうちに選んでいることに原因があるのではないのか?
そして、その一部の日数差の数と6、7、8、13の数との特別な関係は、すべての日数差の数を包括的に検討すれば、おそらく消え去るはずです。」
(Thoughts on Sacred Prophecy, p.64)
また、ある時は太陰年、ある時は太陰太陽年、ある時は通常のユリウス年を計算することによって得られる範囲によって、見かけ上の年代の一致や類似点のリストはさらに増えるかもしれないことも指摘しておきます。
ニカイア公会議(西暦325年)からグレゴリウス13世の死(1585年)までの期間は1260年でした。
ユスティニアヌス帝(533年)からフランス革命までは1260年です。
そして606年、フォカス皇帝がボニファティウス3世に教皇の称号を授け、世俗権力の打倒(1866〜1870)に至るまでの期間も、同じく1260年です。
これらの出来事は何を証明しているのでしょうか?
それは、述べられている期間がダニエルの幻の成就であるということではなく、これらの出来事の年代が70の倍数からなる周期によって特徴が与えられていることを証明していることになります。
しかしながら、ダニエルの幻はユダの歴史と関連しており、これらの出来事はユダの歴史とは全く関係ありません。
したがって、これらの事実は、神によって計画された「十分の一と周期(the tithes and seasons)」の良く知られた特徴であり、これらの幻が今後文字通り成就するという、先験的な推測を強化しています。
一言で言えば、これらの証拠は、それらが支持しようとしている大義に対して、あまりにも多くのことを証明しすぎていると言えます。
十本の角を持つ獣とヨハネの黙示録のバビロンが共にローマの型であると考えることの明らかな誤りに、私は既に気づいています。(ante)
時代の終わりに近づいて、この誤りは疑いも不安もなく受け入れられているようです。
なぜなら、著者はエリオット氏がそのような見解の不合理さを隠そうと試みた心地よいロマンスを採用することも、改良することもしてません。
淫婦が獣の働きによって破滅に至ったように、両者は同一ではないことは絶対的に確実です。
そして、これらの著述家たちがローマ教会がバビロンであることを証明するために主張するあらゆる証拠は、教皇庁が獣、罪の人ではないことを証明するのにも同じくなのです。
彼らのシステム全体は、試した瞬間にバラバラに崩れ落ちるトランプの家のようです。
歴史に疎い多くの人々がこのような書物を読むので、もう一度繰り返しておくべきです。
ローマ帝国が十王国に分割されたことは、まだ一度もありません。
分割されたことは明白な歴史上の事実であり、かつて十に分割されたことがあるというのは、この学派の著述家の単なる思い上がりに過ぎません。[23]
ギネス氏はダニエル書9章24〜27節について、「エルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間」と記しています。
これは、歴史学派が聖書を曖昧に解釈する典型的な例です。
預言の言葉は「エルサレムを再建し、再び建てよという命令が発せられてから、メシアなる君主の到来までは、七週と六十二週とされる」です。[24]
この誤りは、本書の主題である預言に関する彼の解説全体に根底にあるため、改めて論じる必要はありません。
彼はプリドー氏に従って、アルタシャスタ7年から週数を計算しています。
また、ほぼすべての注釈者と同様に、彼はユダの70年間の隷属とエルサレムの70年間の荒廃を混同しています。
彼が引用するエレミヤ書25章の預言はエホヤキムの治世第4年に与えられたものです。
しかし、隷属は彼の治世第3年に始まり、17年後に下される裁きを預言しています。
ベルテシャツァルとバビロンの最後の王ナボニドゥスを混同しているようなことは小さな誤りです。
このような書物は、預言の第一義的かつ部分的な実現として歴史的成就を肯定的に扱う限りにおいて有用です。
そして、ローマ教会に対する全面的かつ大胆な告発として極めて貴重です。
しかし、文字通りの成就を勝手に否定し、聖書にいかなる犠牲を払おうとも、ヨハネの黙示録が「キリスト教時代の出来事において成就した」と確証しようとする盲目的で頑固な決意において、このような書物は危険で有害なものとなることは間違いありません。
ここで真に問題となるのは、聖書の特徴と価値です。
もし、これらの著者の見解が正しいのであるならば、ヨハネの黙示録6章の終わりのような箇所における聖書の言葉遣いは、全くの誇張です。
そして、聖書の一部が極端な誇張を特徴としているならば、私たちはどの部分に信頼を置くことができるのでしょうか?
神の怒りの偉大な日が、比類なき深刻さという言葉で表現されているのであれば、はるか昔の戦争の歴史におけるほんの短い危機に過ぎなかったとしたら、祝福された者の喜びと悔い改めない者の破滅を告げる言葉は、結論として単なる誇張表現であり、クリスチャンの信仰は単なる信心ではありえません。
注記D 十の王国
「預言は私たちに預言させるために与えられたのではありません。」
そして、この研究を価値あるものとして追求してきた人なら誰でも、「未来のこと」を預言するという誘惑的な分野に踏み出すことに不安を感じるはずです。
辛抱強く考えれば、未来の情景の大枠をはっきりと見極めることができるかもしれません。
しかし、「夜明けまで」は、長さや詳細な部分に関する私たちの理解は不十分であり、誤りがあるはずです。
聖書にこれほど明白に啓示されている未来の重大な事実については、前のページで既に触れています。
以下は、真剣、かつ慎重な探究に基づく「敬虔な意見」にのみ敬意を現わすべきですが、それ以外には一切の敬意を払うものではありません。
聖書によれば、ユダヤ人の復興に次いで、未来の政治的特徴として最もはっきりしているのは、ローマ帝国の十分割です。
ダニエル書だけでなくヨハネの黙示録においても十の王国が強調され明確に定義されており、これらの言葉を、ローマ帝国の崩壊以来ずっと続いてきた権力の分割を単に描写していると解釈することは禁じています。
もっとも、これは確かに預言の特徴の一つです。
バビロン、ペルシャ、ギリシャ、そしてローマは、次々と世界支配権を獲得しようとしました。
諸国家が平和裡に共存する連邦国家の出現は、世界史のいかなる時代も指摘し得なかった概念でした。
この主題に関して聖書が申し出する主な手がかりは、これらの王国とローマ帝国との関係です。[25]
しかし、国境についてはある程度の自由度を認める必要があるはずです。
さもなければ、私たちは同様にあり得ない二つの選択肢のどちらかを選ばなければなりません。
すなわち、私たちの国が州の地位にまで落ちぶれ、アイルランドさえもその支配下に残ることはないのでしょうか?[26]
もしくは、イギリスは十の王国の一つに数えられ、この島を中心とする広大な帝国を含むことになるのでしょうか?
私たちの国があらゆる欠点を抱えながらも、自由と真実の主張者として掲げてきた高い立場から、来たるべき悪しき時代にどれほど堕落しようとも、終わりの世の下劣な同盟に加担するという堕落からは救われるという希望を、私たちは抱くべきではないでしょうか?
境界に関するこれらの考察は、程度は低いものの、ドイツにも適用されます。
そして、明らかにロシアは考えられません。
これらの結論の特別な関心と重要性は、まず反キリストが明らかにキリスト教世界の宗教的背教の守護者であり、支持者となることです。
そして、イギリス、ドイツ、ロシアがまさにローマの境界外にある三大強国であるという事実にかかっています。
しかし、エジプト、トルコ、ギリシャが十の王国に数えられることは疑いようがありません。[27]
そして、これらの国々はラテン教会の主張者であり、守護者として現れる人物の指導を受け入れることは、あり得ないことではないでしょうか?
この問題の驚くべき解決策は、十の王国が最終的に反キリストの君主としての権利を獲得する一方で、そのうち三つは武力によって屈服させられるという明確な預言の中に見出すことができます。
(ダニエル書7章24節)
再び西に目を向けると、フランス、オーストリア、イタリア、スペインの名が挙がり、7つの王国が挙げられています。
これでリストは完成するのでしょうか?
ベルギー、スイス、ポルトガルは残っています。
しかし、もし現在のヨーロッパを扱っているのであれば、これらも位置づけられるはずです。
しかし、ここで扱っているのは未来のことなので、これ以上この件を追求するのは無駄に思えます。
10王国は10本の足の指で象徴されていたのだから、10本の足の指は10本の足の指で象徴されているはずだと、ある人々は確信を持って主張してきました。
ネブカドネザルの像には、両足に5本づつ、東に5つの王国、西に5つの王国が築かれているはずです。
この議論は説得力があり、おそらくは正しいものです。
しかし、その最大の力は、預言者の視点では世界の中心はアドリア海ではなく、中東のレバントであり、ローマではなくエルサレムであったことを忘れていることです。
ここで示された構想に対して、当然ながら次のような反論が提起されるかもしれません。
「世界最強の国、イギリス、ドイツ、ロシアが終末の偉大な劇場に全く関与しないなどあり得るのでしょうか?」
しかし、最初に、これらの出来事が成就する時には、相対的な列強の大きさは異なるかもしれません。
そして次に、この種の困難は、聖書の沈黙、言い換えれば、私たち自身の無知に完全に依存しているかもしれないことを忘れてはなりません。
しかしながら、ダニエル書7章の一般的な解釈の妥当性に関して私の心に生じた疑問は、問題の困難に対するより満足のいく答えを示していると言うしかありません。
2章の幻では、世界を次々と支配することになる四つの帝国が具体的に示されており、7章でも四つの「王国」が列挙され、その四番目の王国が以前の幻の第四の王国と明確に同一視されていることから、両方の幻の範囲は全体を通して同じである推論は正しいように思われます。
そしてこの結論は、獅子、クマ、ひょうに象徴される王国について述べられているいくつかの詳細によって明らかに裏付けられています。
この見解を支持する見かけ上の根拠は非常に強力であるため、私はこれまでのページでこの見解から脱線することができません。
同時に、この根拠は見かけほど完全ではなく、それに関連して重大な困難が生じていることを認めるしかありません。
そこで、この件に関する調査を促進するために、以下の考察を暫定的に提示します。
最初に、ダニエル書2章と7章はどちらもカルデア語の部分にあるため、括弧で括られ、後続の部分とは分離されています。
したがって、これは、後の幻が前の幻の繰り返しではないことを、いずれにせよ成立するであろう推定を強固なものにします。
聖書において繰り返しは非常にまれなことです。
次に7章の幻が描かれたのはベルテシャツァルの治世元年であり、バビロニア帝国が滅亡するわずか2、3年前のことです。[28]
では、その帝国の繁栄が預言の主題となるのはなぜでしょうか?
17節は、これらすべての王国の繁栄が将来起こることとして明確に示しています。
三番目に、バビロニアの歴史において、最初の獣の預言された進路と一致するものは何も存在していません。
なぜなら、この幻がネブカドネザルの生涯を預言したものであったと考えることは不可能だからです。
ネブカドネザルは、この幻が与えられる20年以上前に既に死んでいました。
さらに、鷲の翼を持つ獅子から人間の状態への移行は、権力の衰退を象徴しているかもしれません。
しかし、道徳的および知的に著しい向上を明らかに象徴しています。
四番目にペルシアの歴史においても、預言に求められる正確さと完全さをもって、あの熊のような獣に述べられているものは何もありません。
文章の表現ではペルシアとメディアを指しているように思われます。
しかし、真実な翻訳は「それは一つの領土を定めた」であると思われます。[29]
「片側が起こした」のではありません。
五番目に、六節の象徴は見かけ上のギリシャ帝国を指し示しているように思われます。
しかし、よく調べてみると、ひょうが出現した当時は四つの翼と四つの頭を持っていたことがわかります。
これがひょうの本来の正常な状態であり、この状態で「支配権が与えられた」のです。
ダニエル書8章8節で描写されているものは、アレクサンドロス大王の帝国の歴史が実現したもの、すなわち単一の勢力の台頭と、その衰退期における分裂状態とは明らかに大きく異なります。
六番目に第二章に記された最初の三つの帝国(バビロン、ペルシャ、ギリシャ)は、それぞれ後継の王国に滅ぼされ、飲み込まれました。
しかし、七章に記された王国はすべて同時に存在し続けています。
ただし、「支配」は第四の王国にありました。(ダニエル書7章12節)
3節は四つの獣が同時に現れたことを暗示しているように思われます。
いずれにせよ、この幻の象徴表現は、2章とは対照的に、このことを表現しています。
しかし、一連の帝国がそれぞれ前の帝国を滅ぼしたことを示すものは何もありません。
ダニエル書8章3〜6節にある、次の幻の表現と比較してみてください。
7番目に第四の獣がローマであることは疑いようがありません。
しかし、7節と23節の言葉遣いから、それが復活した未来の段階にあるローマ帝国であることに間違いはありません。
メイトランドやブラウンなどの見解を支持するつもりはありません。
しかし、古代ローマの歴史において、この獣の主要な特徴に合致するものは、用いられている象徴を非常に大まかに解釈しない限り、何もなかったことを認めなければなりません。
「地を食い尽くす」「踏みつけ、粉々に砕く」という表現は、他の帝国についてもよく適用されます。
しかし、古代ローマはまさに征服に統治機構を加えた唯一の国であり、征服した諸国を踏みつけ、粉々に砕くのではなく、むしろ自らの文明と政体に合わせて形作ろうとしたのです。
これらすべて、そしてさらに追加される可能性があります。[30]
7章の幻全体が未来に言及している可能性を暗示しています。
既に述べたように、主権は最終的に一人の偉大な皇帝を頂点とする十カ国の連合体によって確立され、現在一流とされる列強のいくつかはその連合の外に位置します。
したがって、そのような覇権は、途方もない闘争を経なければ達成されないことはあり得ません。
現在、旧世界の国際政治は東方問題に集中しています。
しかし、それは結局は地中海における勢力均衡の問題に過ぎません。
ところで、ダニエル書7章2節は、四つの獣の戦いの舞台として地中海(「大海」)を明示的に挙げています。
では、この幻の冒頭部分は、いつか地中海における覇権をめぐる、そして間違いなく世界の主権をも巻き込むであろう壮大な闘争を指しているのではないでしょうか?
獅子はイギリスを象徴しているのかもしれません。
その強大な海軍力は鷲の翼に象徴されているかもしれません。
翼をむしり取ることは、海の女王としての地位の喪失を象徴しているのかもしれません。
そして、もし差し迫った戦いの結果としてそれが起こったとすれば、イギリスのその後の道は道徳的、霊的な卓越性によって特徴が与えられると、私たちは強く信じたいのです。
獅子は「人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた」と記されています。
もし、英国の獅子がこの幻の中に位置づけられるならば、モスクワの熊を省くことはまず不可能です。
そして、この預言の熊は、クロスとダリヨスのペルシャのみならず、今日のロシアを完全に表していると言えると、自信を持って断言できます。
この幻のひょう(あるいはパンサー)に関して用いられた象徴の明確さゆえに、この預言の部分をドイツ、あるいは特に石油資源国に結びつけることはより困難です。
こうした見解を支持する根拠を突きつけるのは容易です。
しかし、もしこの預言が未だ成就していないとしても、その時が来ればその意味は疑いようのないものとなることを指摘するだけで十分なのです。
ユダの歴史年表(784x1068ピクセル) ---新しいウィンドウ
アンダーソンの「ユダ史年表」は、ダニエルの民(ユダ)と都(エルサレム)における歴史と預言の両面を全体的に描いたものです。
「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。
それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。」
(ダニエル書9章24節)
アンダーソンは、世界史、ユダヤ史、エルサレムと神殿の歴史、ダニエルの「巨大な像」の幻(2章31節)、そして預言者たちの働きを時系列的に統合し、七十週における神の裁きの計画の成就を展望しています。(9章27節)
アンダーソンの意味を理解するために図表を研究するだけで、次の聖句の主題に対する理解が深まります。
「それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。」
(ペテロの手紙第一1章12節)
付録2. 補足説明
[1](Encyc. Brit., 9th ed., title "Artaxerxes." )
[2](W. K. Loftus, "Chaldea and Susiana," p.341.)
[3](Daniel, p.160.)
[4]「(Five Great Monarchie)」の著者に相談したところ、ローリンソン氏の厚意と親切により、次のような返答をいただきました。
「クセルクセスが紀元前465年に亡くなったことは、現在では年代学者の間でも合意されていると言っても過言ではないでしょう。
プトレマイオス、トゥキュディデス、ディオドロス、マネトの他のメンバーも同意しています。
唯一の対抗勢力はクテシアスです。
完全に信用できません。」
[5](Ante-Nicene Christian Library, vol.9., second part, p.184.)
[6](Works, vol.15., p.108.)
[7](Arnold's trans., pp.443-454.)
[7-2]クルーガー氏の主張は、クリントン氏によって(F.H., 2., p.217)で検討されています。
[8](Daniel, p.171, note.)
[9]例として(Mitford, 2., 226; Thirlwall, 2., 428; Grote, 5., 379; and of Germans see Niebuhr, Lect.Anc.Hist.(Schmitz ed.), 2., 180-181.)を参考にしてください。
[10](Daniel, p.266.)
[11](Ibid.p.99, note.)
[12]プリムの祭りの名は、ハマンがモルデカイの民を滅ぼそうとした時、計画を実行するための「幸運の日」を見つけるために毎日くじを引いたという事実に由来します。
こうして丸一年、すなわちクセルクセスの12年が過ぎ去りました。(エステル記3章7節)
そして、ユダヤ人虐殺の布告は翌年のニサン13日に発せられた(エステル記3章12節)
ユダヤ人虐殺に有利な布告は2か月後に発せられました。(エステル記8章9節)
その年の12月にその布告が執行されたことに関連して、クセルクセス王の名が述べられています。(エステル記9章1,13〜17節)
したがって、クセルクセスの治世は確かに13年目の最後の月まで続いたと言えます。
さらに、エステル記の最後の章は、彼の統治がエステル記に記録された出来事で終わったのではなく、モルデカイの昇進が彼の経歴における新しい時代の始まりであったことを明確に示しています。
[13](Christology (Arnold's trans.), Ch.737.)
[14]ファラー博士の著書は、これまでごく少数の人々にしか関心を示さなかった論争を広く世に知らしめ、大きく貢献しました。
したがって、ヘロデ王の死の日付に関する博士の包括的な記述は疑わしい点(クリントン氏著「Clinton, Fasti Rom., A D. 29)」)があることです。
そしてヨセフス氏が必ずしもここで示したように統治期間を数えているわけではないことに注意すべきです。
[15]マタイ27章63、64節
歴代記第二10章5〜12節も参考にしてください。
「ヤロブアムと、すべての民は、三日目にレハブアムのところに来た。王が、「三日目に私のところに戻って来なさい。」と言って命じたからである。」
(歴代記第二10章5節)
[16]このような計算方法が奇妙に見えるか自然に見えるかは、個人の思考習慣によって決まります。
神学の教授は授業でそれを支持するのに苦労するかもしれません。
しかし、刑務所の牧師は会衆にそれを説明するのに何も困るようなことはありません。
私たちの国の民間日はヌクタメロン(nukhtameron)、つまり真夜中に始まり、法律は一日の一部分を考慮しません。
したがって、懲役3日の判決の場合、規定の刑期は72時間に相当します。
しかし、囚人が夕方まで刑務所に到着することはめったにありません。
しかし、法律では真夜中が来た瞬間に1日の懲役を終えたとみなされ、看守は翌々日の朝、刑務所が開かれた瞬間に合法的に釈放することができます。
実際、3日間拘留された囚人が刑務所に40時間以上いることはめったにありません。
このような計算方法と言い方は、私たちの国の警察裁判所の常連客と同じくらいユダヤ人にも馴染み深いものなのです。
[17](ニサン)の月の八日目に、人々は大勢でたねなしパンの祭りに集まっていました。」
(Jos.,Wars, 6.5,3)、ヨハネの福音書11章55節、12章1節と比較してください。
「さて、ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。多くの人々が、身を清めるために、過越の祭りの前にいなかからエルサレムに上って来た。」
「イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。」
(ヨハネの福音書11章55節、12章1節)
[18]紀元前4年3月13日から紀元前1年1月9日までの間、エルサレムでは月食は観測されていません。
多くの著述家は後者をヘロデの月食と解釈し、彼の死をこの年に帰しています。
紀元前1年の月食は皆既月食で、皆既は午前0時15分に起こりました。
しかし、紀元前4年の月食は部分月食に過ぎず、最大の大きさになったのは午前2時34分です。
(Johnson, Eclipses Past and Future)
しかし、この人物に関するあらゆる考察は、ヘロデ王の死後(紀元前1年)を示しています。
しかし、重要な証拠は一般的に紀元前4年を支持していることです。
近年の著述家のうち、前者の年を採用しているのは、ゲイキー博士の「(Life of Christ, 6th ed., p.150)」と、特に故ボサンケット氏です。
ボサンケット氏は、著書「(Messiah the Prince)」の中でこの問題について議論しています。
1871年6月6日に聖書考古学協会で発表された論文ではより簡潔に述べられています。
[19]これはディオン・カシアスがエトナーク追放の年として指定した年です。
(Clinton,F.H., A.D. 6.)
[20](Farrar, Life of Christ, App.Exc.1.)
[21]それは「(gegonotos)」という言葉の意味によって異なります
この箇所では、18年目か19年目かは不明です。
物語全体は19年目を示しています。
(Lewin's Fasti Sacri, pp.56: and 92.)を参考にしてください。
[22](Josephus, Ant., 15. 11, 27.)
[23]エリオット氏の10の王国のリストは以下の通りです。
アングロサクソン人、フランク人、アルマン人、ブルグント人、西ゴート族、スエビ族、ヴァンダル族、東ゴート族、バイエルン人、そして、ロンバード人です。
もし、誰かがダニエル書7章とヨハネの黙示録13章を読んでそのような解釈を受け入れるなら、この問題を議論するための共通の土台は何も存在していません。
[24]本書や他の書物を書評することが私の目的であるという考えは、断固として否定します。
もし、そのように意図しているのなら、他にも同様の誤りを指摘できたはずです。
(Exodus gr., in Pt.III., chap.l)で、著者は淫婦とローマ教会の共通点を5つ挙げています。
しかし、そのうち最後の2つは全くの誤りです。
ヨハネの黙示録13章13、16節を参考にしてください。
「また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。」
「また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。」
(ヨハネの黙示録13章13、16節)
[25]この王国から十本の角が出てきます。
「十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もうひとりの王が立つ。彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。」
(ダニエル書7章24節)
[26]アイルランドは完全に、そして、スコットランドは部分的に、ローマ帝国の領土の境界外にありました。
[27]ダニエル書11章40節では、エジプトとトルコ(もしくは当時アジアで最高を所有する勢力)が、まさにこの時点では別々の王国として預言的な称号で明確に述べられています。
[28]付録の表1を参考にしてください。
[29](Tregelles, Daniel, p.34.)
[30]ダニエル書7章の獣は、ヨハネの黙示録13章2節で反キリストを表すために名指しされている獣です。
これは前述の説明を裏付けるものです。
しかし、同時に、上記の見解を支持する強力な根拠にもなり得ます。
付録3 回想と返答
「人に惑わされないように気をつけなさい。」
(マタイの福音書24章2節)
これは、「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう」(マタイの福音書24章3節)という問いかけに対する主の答えの最初の言葉でした。
そして、この警告は今もなお必要とされています。
「「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです」(使徒の働き1章7節)の言葉は、天に上げられる前に、主が地上で語ったほぼ最後の言葉でした。
もし、この知識が聖なる使徒や預言者たちに与えられなかったのであれば、今日の私たちにも明らかにされていないことは確かです。
主が宣言されたように、「父がご自分の権威をもってお定めになっています。」(使徒の働き1章7節)という奥義は、天文学的研究や高等数学の飛躍によっても解明できるものではありません。
しかし、一方で、思慮深いクリスチャンであれば、現代を象徴する兆候や前兆を無視することはできません。
本書の序章を執筆していた当時、不信仰の進行がこれほどまでに恐ろしいほど急速に進むとは、誰も思いもしません。
それからわずか数年の間に、教会内部における懐疑主義の高まりは、最も悲観的な予測さえも超えるものとなりました。
そしてこれと並行して、心霊術と悪魔崇拝の蔓延も恐るべきものとなっています。
その信者は数万人に上るとされ、アメリカではすでに心霊術は体系化され、公認の信条とカルト集団を形成しています。
しかし、現代のこれらの暗い側面は、たとえ印象的で深刻なものであっても、最も重要なものではありません。
警告されてきた終末の背教がこのように近づいているように思われる一方で、私たちは十字架の輝かしい勝利を喜びとしています。
国内外で、かつてないほどの自由さで、これほど多くの人々によって福音が宣べ伝えられているというだけではありません。
使徒時代以来、前例のない方法で、ユダヤ人がキリストの信仰に至りつつあるのです。
ここ数年、東ヨーロッパのユダヤ人の間でヘブル語版の新約聖書が25万部以上配布されました。
その結果、かつてのように一人二人ではなく、大規模かつ増加傾向にある彼らのキリスト教への改心がもたらされたことは、あまり知られていません。
ある地域では、共同体全体が神の言葉を読むことを通して、軽蔑されていたナザレ人を真実なメシアとして受け入れました。
これはペンテコステ派の時代以来、全く類を見ない出来事です。
一方で、ユダヤ人のパレスチナ帰還は、現代における最も不思議な事実の一つです。
農業従事者であれ、商人であれ、入植者にとってこれほど魅力的な国は世界中どこにもありません。
しかし、 「来るべき君主」が述べられて以来、クロス王の勅令によって奴隷状態が終結し、エズラと共に帰還したユダヤ人よりも多くのユダヤ人が父祖の地へ移住しました。
しかし、昨日までエルサレムが「城壁のない町に」居住する預言は、はるか遠い未来の話のように思えました。
門の外の家は少なく、夜になってからそこへ出かける人は誰もいません。
現在では、城壁の外に大きく成長を続けるユダヤ人の町が存在することは、すべての観光客が知っている事実であり、年々、移住と建設が続いています。
ヨーロッパの国際政治について触れるとしても、それはダニエル書7章の預言に関連して、ごく簡単に述べるにとどめます。
その幻の「歴史的」解釈だけではその意味を十分に説明できないと主張する理由については、既に詳しく述べました。[1]
そして、私はそのすべての部分に成就が待っている確信が深まっていることを認めます。
聖書の他の箇所と同様に、ここでの「大海」とは地中海を指しています。
そして、レバント(中東)地方における覇権をめぐる激しい争いがこの幻の前半の重荷となっています。
そのような争いが間近に迫っていることは、今やヨーロッパのあらゆる首都で懸念されており、国内ほど切実に議論されている場所はありません。
ピット氏の時代以来、これほど国民を不安にさせたことはかつてありません。
そして、地中海における勢力均衡の問題は、近年、これまで以上に重要かつ深刻な関心を集めています。
より疑わしい性質の話題には触れず、これらに限定します。
また、言葉でその重要性を誇張しようとも思いません。
しかし、私たちはここで重大な公の事実に直面しています。
一方では、不信仰と悪魔崇拝が蔓延し、終わりの日に起こる大いなる不信仰と悪魔に触発された背教への道を準備しています。
他方では、ユダヤ人の間で、彼らが離散してから18世紀を経ても全く前例のない霊的・民族的な運動が起こっています。
そして最後に、ヨーロッパの内閣は、預言が警告しているような闘争の始まりを、キリスト教世界の最後の偉大な君主の台頭を最終的に告げるものとして、不安げに見守っています。
これらすべてを無視してよいのでしょうか?
ここには、終わりが近づいているという、信念とは言わないまでも、誠実な希望を抱くのに十分な根拠があるのではないでしょうか?
もし、終わりが近いことが希望として提示されるなら、私はそれを大切にし、喜びます。
もし、それが教義、あるいは信仰箇条として主張されるならば、私はそれを完全に拒絶し、非難します。
これらの事柄について深く考えるにあたり、二重の注意を払う必要があるでしょう。
これらの出来事や動きは、それ自体が預言の成就ではなく、預言の成就の時が近づいている希望を抱くための単なる兆候に過ぎません。
一世紀前の奇妙で、驚くべき、そして深刻な出来事の中で聖書を調べた人は誰でも、その時危機が迫っていたと確信したはずです。
そして、今急速に進んでいるように見える潮流が再び引き潮になるかもしれません。
そして、まだ生まれていない世代のクリスチャンたちは、地上で待ち続け、見守っているかもしれません。
神の寛容に限界を設ける勇気のある者は誰でしょうか?そして、これが神ご自身。
しかし、ご自身の「怠惰」について説明しておられることです(ペトロの手紙第二3章9節)
テサロニケのクリスチャンたちが陥った過ちについて、私たちはさらに警告を受ける必要があります。
彼らの改心は、偶像崇拝から離れて真実な神に仕え、「天から御子を待ち望む」こととして描写されています。
そして、主の来臨は、死者を悼む彼らを慰め、喜ばせるために、現実的で差し迫った希望として彼らに示されました。
(テサロニケ人への手紙第一1章9、10、4章13〜18節)
しかし、使徒パウロが「時と時期」や「主の日」について語ると(テサロニケ人への手紙第一5章1〜3節)、彼らはその教えを誤解し、主の来臨が主の日と直接結びついていると仮定し、あの恐ろしい日が来ると結論づけました。
どちらの点においても、彼らは完全に間違っています。
使徒パウロはテサロニケ人への手紙第二の手紙の中でこう書いています。
「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。
霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙(第一の手紙)によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。」
(テサロニケ人への手紙第二2章2節)[2]
「時と時期」は、イスラエルの希望と、その実現に先立つ出来事と結びついています(使徒の働き1章6、7節)
教会の希望は、それらとは全く無関係です。
初期のクリスチャンが「祝福された希望を待ち望みながら生きる」ように教えられたのであれば、私たちはどのように教えられていますか?
預言の一節が成就する必要も、出来事が介入する必要もありません。
そして、これに反し、主の使徒たちの教えを偽る解釈体系、あるいは教義は、このようにして断罪されるのです。[3]
ですから、現代の運動や出来事がいかに偉大で深刻なものであっても、その重要性を誇張してしまうというよくある誤りに陥らないよう、私たちは気をつけましょう。
そして、クリスチャンは、これらの事柄を思い巡らすあまり、天の市民権と天への希望を忘れてしまわないように注意しましょう。
その希望が実現すれば、預言に預言されている地球史最後の大劇の舞台が開かれるに過ぎません。
もし、余談が許されるなら、この点を詳しく説明し、私の意図をより完全に説明しておくのがよいと思います。
再び、イスラエルが地上における特権と祝福の地位に回復されることは、意見の問題ではなく信仰の問題です。
それを、聖書を神聖なものと受け入れる者は誰もそれを疑うことはできません。
この点において、ヘブルの預言者の言葉は異例なほど明確です。
さらに、それが与えられた時代を考えると、ローマ人への手紙の証言はより強調されています。
この手紙の聖書の中で占める位置自体が、当時ユダヤ人が除外されていた事実を際立たせています。
新約聖書は、アブラハムの子でありダビデの子である方の誕生を年代順に記すことで始まります。
(マタイの福音書1章1節)
約束が与えられた子孫であり、かつてユダに託された王の杖の正当な相続人であったイエスのことを福音書が、恵みを受けた民の手によってイエスが殺されたことを記録しています。
福音書に続いて、その民への新たな哀れみの申し出と、彼らがそれを拒んだ物語が続きます。
「まずユダヤ人に」という言葉は使徒の働きのあらゆるページに刻まれており、この書が記録している過渡期のペンテコステのディスペンテーションに特徴を与えています。
ペンテコステにあった教会は本質的にユダヤ人教会でした。
異邦人は少数派であっただけでなく、エルサレム会議の記録が証明しているように、比較的保護された立場にありました。
使徒の働き15章、11章19節も参考にしてください。
異邦人の使徒でさえ、その宣教活動の全過程において、福音をまずユダヤ人に伝えました。
「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。」と、パウロはアンティオキアで彼らに語りました。
(使徒の働き13章46節、17章2、18章4節参考)
ローマで彼らがイエスの証を拒否して「去って行った」とき、パウロが彼らに向けて語った最後の言葉がこれです。
「ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう」
(使徒の働き28章28節)
聖書の次の書は、信仰を持つ異邦人に宛てられています。
しかし、まさにその書の中で、異邦人にこのように警告されています。
「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか」
(ローマ人への手紙11章1節)
不信仰によって枝は折られます。
しかし、根は残り、
「彼らを再びつぎ合わすことができるのです。」
(ローマ人への手紙11章23節)
「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。
「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。
それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」」
(ローマ人への手紙11章26節)
このようにと書いてあるとおりです。[4]
その日には、裁きと哀れみが混ざり合います。
なぜなら、「のみを手に持つ」主は、小麦を倉に集め、もみ殻を消えることのない火で焼き尽くすからです。
契約の民の真実な残りの者たちは、将来の祝福の時代に「すべてのイスラエル」となるのです。
その残りの民は、オリーブ山でイエスを取り囲んでいた「ガリラヤの人々」によって象徴されています。
「イエスは天に上げられ、雲がイエスを包み込み、彼らの目から見えなくなった」のです。
そして、彼らが目を凝らしてイエスを見つめていると、二人の御使いが現れ、神が何世紀も前に預言者ゼカリヤを通して与えた約束を新たにしました。
「このイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。」(使徒の働き1章1〜19節)
そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。
あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
(使徒の働き1章11節)
「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。」
(ゼカリヤ書14章4節)
この預言を一目見れば、そこで語られている出来事が完全に異なっていることを示すのに十分です。
テサロニケ人への手紙第一にある再臨について書かれています。
この時代において教会のために来られる主イエスと、後の時代におけるエルサレムに集まった地上の民のために来られる主イエスは、確かに同じ方です。
しかし、それ以外の点では、二つの「再臨」には全く共通点がありません。
後の出現、すなわちオリーブ山への再臨は、同じオリーブ山からの昇天と同様に、明確に地域限定された出来事です。
そして、その目的は、地上の民が最大の危機の時に、彼らに救いをもたらすことであると宣言されています。
前の再臨は、地域とは全く関係がありません。
全世界で、主の死者が埋葬されている場所ではどこでも、「神のラッパ」が彼らを、主と同じ「霊の体」で生き返らせます。
そして、生きている「聖徒」が見出される場所ではどこでも、彼らは「一瞬のうちに、またたく間に」変えられ、皆が空中で主と会うために一斉に引き上げられます。
不信心な懐疑論者はこれらすべてを嘲笑し、宗教的な懐疑論者はそれを無視します。
しかし、信者は主がこのように天に引き上げられたことを思い出します。
そして、その約束について深く考えると、その驚きは不信ではなく礼拝へとつながります。
そして、教会の本来の希望であるこの出来事は、地球の地理学と同様に、年代からも独立しています。
イスラエルの希望の成就には、「時と季節」、そしてそれらに付随する兆候や前兆が関係しています。
主が世界に向けて公に現れることは、この二つとは全く異なるもう一つの出来事です。
私たちのヤハゥエである神は、そのすべての聖徒たちと共に来られます。
(ゼカリヤ書14章5節)
そして、主イエスは燃える火の中に現れ、復讐を果たされます。[5]
「再臨」のこれらの段階がどの程度の間隔で区切られるのかは、私たちには分かりません。
それは明かされていない奥義です。
私たちが関心を寄せているのは、「真理の言葉を正しく分ける」こと、つまり、それらがあらゆる点で明確に区別されていることを確認することだけです。[6]
私は2回目の「再臨」という表現を、単に一般的な神学への譲歩として用いているに過ぎません。
聖書的な根拠がないからです。
むしろ、この表現を完全に捨て去った方が良いでしょう。
なぜなら、この表現は多くの思考の混乱を招き、少なからぬ明確な誤りを生じさせるからです。
これは純粋に神学的な用語であり、世界を裁くための偉大で最後の到来されるからこそふさわしいものです。
しかし、多くの人があの大いなる危機の時代まで、地上の民にキリストが啓示されることを信じようとしません。
しかし、聖書をより注意深く研究する人は、一般に「千年王国」と呼ばれる時代の前に「再臨」があるという最も明確な証拠を見出しています。
ここでもまた、「千年王国の前の再臨」を明確に認識しながらも、聖書に明確に記されている、現在の教会への再臨、エルサレムの地上の人々への再臨、そして不法者を滅ぼし王国を樹立するための再臨の違いに気づかない人々がいます。
しかし、「この表現はヘブル人への手紙9章の結びの言葉によって正しいのではないでしょうか?」と主張する人もいるかもしれません。
しかし、私はこのように答えます。
「二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」と聖書は記しています。
そして、この言葉は「彼の二度目の出現」と同義であるかのように解釈されています。
「出現」は「携挙」の同義語として認められています。
しかし、実際に使われている言葉は全く異なります。
それは一般的な言葉であり、復活後の弟子たちへの彼の出現について使われているまさにその言葉なのです。[7]
さらに、定冠詞は省略しなければなりません。
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」
(ヘブル人への手紙9章27、28節)
この発言は預言的なものではなく、教義的なものです。
そして、問題となっている教義は現れではなく、祭司の務めです。
これは、終末の時に地上に生きる者たちが認識する出来事を預言したものではありません。
地上での滞在がどのようなディスペンテーションに適用されるかに関わらず、すべての信者が認識すべき真理と事実を宣言したものです。
一度きりであるという教義を支持するために引用することはできません。
そして、「再臨」という表現はこの教義と非常に密接に結びついているため、聖書を賢明に学ぶすべての人々が一致してこの表現を捨て去るべきです。
キリストの到来は、あらゆる時代における神の民の希望なのです。
この著書「来たるべき君主」に対する唯一の否定的な批判は、この本が出版されてから出てきたものです。
時代の終わりが近づいています。
著者への尊敬と友情の気持ちは、私がこの作品に注目するきっかけとなりました。
しかし、そのような配慮は、私の批判に反論する彼の筆を阻むことはありません。
そして、これほど有能で、これほど激しく敵対的な著者が、ここで確立された主要な結論を一点たりとも疑おうとしなかった事実は、それらに反論の余地がないことを証明しています。
グラッタン・ギネス博士は、私が彼の著書に「返事」しようとしていないと不満を述べています。
私が同書に言及したのは、付録の注釈で偶然触れただけであり、「預言の根本的かつ部分的な実現」を扱っている部分については、あえて賞賛するにとどめました。
では、なぜ私がその著書の中で価値を認め、採用している点について「返事」する必要があるのでしょうか?
これらのページは、私が預言の歴史的解釈をいかに徹底的に受け入れているかを証明しています。[8]
なぜ、もっと重要視していないのかと問うのであれば、使徒たちがモーセの書の教えを軽視していると非難されたとき、使徒ヤコブがこのように答えたことを思い出します。
「昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」
(使徒の働き15章21節)
「それゆえ、教義の均衡を保つためには、彼らが恵みを教えることが必要でした。」
同じ様な根拠から、私がここで自らに課した課題は、預言の成就を扱うことです。
しかし、預言の「歴史的」解釈を展開することにあらゆる才能を費やす人々とは、私は何ら異論を唱えません。
私が争うのは、聖なる言葉の神の著作性を事実上否定し、自分たちの理解がその範囲の限界であり、その意味を使い古していると主張する人々だけです。
そして「来るべき君主」は、預言のページに「成就しまった」と敢えて書き記す体系に対する、痛烈な反論になるはずです。
「ここで真に問題となっているのは、聖書の特徴と価値です」だと、私はくり返し主張します。
ギネス博士は、終末論的な幻はキリスト教時代の出来事において成就したと主張しています。
私はギネス博士の主張をそのまま受け入れ、第6章の幻に言及し、このことを検証します。
博士が敢えて主張しているように、この幻は成就したのでしょうか?
この問いかけは極めて重要です。
なぜなら、この幻が未だ成就を待っているのであれば、それに続くすべての預言もまた成就を待っているからです。
読者は、この章の最後の節にこのように書かれ、この言葉で終わる箇所を読んで、自らこの問いかけに答えてください。
「御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」
(ヨハネの黙示録6章17節)
古代ヘブルの預言者たちは神の霊感を受けて「御怒りの大いなる日」の恐怖を描写し、まさに聖霊は彼らの言葉をここに再現しています。
イザヤ書13章9、10節、ヨエル書2章31節、3章15節、ゼパニヤ書1章14、15節を参考にしてください。
聖書には、これほど深刻かつ明確な警告は他にありません。
目的が満たされた法令の上に弁護士が「支出された」と書くように、、これらの預言者たちは私たちに聖なるページには「成就する」と記すように教えています。
彼らは確かに、この幻はコンスタンティヌス帝による大勢の異教徒の敗走を預言したに過ぎないと語っています。[9]
このように語るなら、「この預言の書のことばを少しでも取り除く者」たちが警告されている罪に、危険なほど近づいていることになります。
しかし、これらの教師たち自身に思いをはせる時、私たちは彼らの敬虔さと熱意を思い出すことによって抑制されます。
彼らは「福音の働きによって、すべての教会で称賛されて」いるからです。
そうすれば、私たちの心からあらゆる人の考えを追い出し、彼らが支持し支持する体系そのものに目を向けましょう。
ここでは、名声ある人物の名に訴えるような主張は一切聞き入れるべきではありません。
キリスト教世界の信仰を腐敗させる最も粗野な誤りを支持するために、彼らと同じくらい名声があり、しかも百倍も多くの人物の名前を挙げることができます。
では、聖書の最も恐ろしい警告を、虚偽と何も変わらない一種の極端な誇張として表現することで、真理の神を冒涜するような解釈体系に対して、私たちはどのような判断を下すべきでしょうか?
15世紀前の出来事、あるいは教会のディスペンテーションにおいて、他の時代の出来事が預言の範囲内であったと主張されるならば、私たちはその指摘をその価値に基づいて検討することができます。
しかし、預言がこのように成就したと言われると、私たちはその教えに口出しすることはできません。
それは聖書を軽視しているに過ぎません。
それどころか、キリスト教の偉大な憲章の真理と衝突します。
怒りの日が来たのであれば、恵みの日は過ぎ去り、恵みの福音はもはや人類への神のメッセージではありません。
怒りの日が恵みのディスペンテーションにおける出来事であると考えることは、恵みを知らないことを裏切り、神の怒りを軽蔑することです。
この恵みの日に神の恵みは人間の考えを超えています。
怒りの日に神の怒りもまた、神聖です。
第六の封印が破られたことは、その恐ろしい日の夜明けを告げるものです。
第七の封印の幻は、その言葉では言い表せない恐怖を明らかにしています。
しかし、鉢から怒りが注がれます。
「七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。」
(ヨハネの黙示録15章1節)
これは、今まさに成就しつつあると告げられています。
ですから、罪人は、神の怒りは舞台上の雷鳴に過ぎず、現実的で忙しいこの世では無視しても差し支えないという認識で、自らを慰めているのです。[10]
私はギネス博士の「エルサレムを再建し、再び建てよという命令が発せられてから、メシアなる君主の到来までは、七週と六十二週とされる」という記述に注目し、「これは歴史学派が聖書を軽視している典型的な例だ」と付け加えました。
この記述と、私が気づいた他のいくつかの誤りについて、博士が唯一主張しているのは、「厳密には正しくないが完全に正しい表現は、明らかに長文であるため、簡潔さのために採用されている」
というものです。
「69」ではなく「70」と書くことでどのように簡潔さが達成されるのか、私には理解できません。
この記述は聖書の完全な歪曲であり、誤った解釈体系の必要に迫られるために無意識のうちになされたにはずです。
預言は「君主メシアまで」の期間が六十九週であると明確に述べており、 七十週目は特定の時代の後に説明されることになります。
しかし、ギネス博士の体系は第七十週について合理的な説明を与えることができず、繰り返しています。
しかし、彼は無意識のうちに、この箇所を誤読することで難問を回避しています。
彼が正しく読み、預言期間の最後の七年間を説明していると主張するならば、彼の幻の解釈は直ちに反論され、暴露されることになります。
この筆者が聖書の言葉をこれほど軽々しく扱っている以上、私の言葉が彼の手によってひどい扱いを受けたとしても、驚くには当たりません。
彼は故意に誤った解釈をする能力など全くないのに、その根深い不正確さゆえに、 「来るべき君主」について述べられているほぼすべての点において、この解釈を誤ってしまったのです。[11]
実のところ、彼は預言解釈の二つの派閥、未来派と彼自身の流派しか知りません。
そのため、一方の派閥の心の狭さとと、もう一方の派閥の心の狭さとと荒々しさが混在する点を徹底的に批判する本書を理解することさえできないようです。
しかし、彼の個人的な言及は、著者自身にも、この主題にも値しません。
私は、彼の批判が一般的な関心や重要性を持つ唯一の点、すなわち、預言されたローマ帝国の地の分割と、反キリストと背教した教会の関係について論じることにします。
私の主張は次のようです。
「ローマ帝国が10の王国に分割されたことは、これまで一度もありません。
分割されたことは明白な歴史と事実として認識が必要です。
10に分割されたことがあるというのは、この学派の著述家たちの単なる思い上がりに過ぎません。」
ギネス博士はこれを「驚くほど無謀な主張」と断言しています。
しかし、ページをめくるだけで、博士自身の筆からその真実を最も明確に認める一文が得られます。
博士は、十の王国は「ギリシャの西側の領土内のみ」で探すべきであることを念頭に置くべきだと述べています。
そして、もしこの説を受け入れる覚悟があれば、境界について大きな考慮を払った上で、ローマ帝国の地において預言的に最も重要性の低いこの部分において、 「ヨーロッパ連邦の王国の数は、およそ平均10であった」ことがわかります。
ギネス氏は12のリストを挙げている、さらに100のリストを用意していると述べています。
万華鏡のような不安定さと曖昧さを伴いながら、あるいは彼の言葉を借りれば、「増大し、ほとんど無数の変動の中で、近代ヨーロッパの王国は誕生以来今日に至るまで、常に平均約10の王国数を維持してきた」ことを証明しています。
「平均して約10」とあります。
しかし、預言は10と明確に指定しており、11人目の者が立ち上がり、そのうち3人を征服すると述べることで、その絶対的な意味合いを帯びています。
これは「現代ヨーロッパ」です!
プロテスタントの大義への熱意が、これらの人々を聖書の最も明白な教えから遠ざけているようです。
神の預言によると、神がその民と交わる中心はローマではなく、エルサレムです。
ダニエルの幻を、ダニエルの街と民を無視する体系で説明しようとすることは、預言の教えの根本そのものを歪めています。
預言の地ではなく「現代ヨーロッパ」と解釈する、この誇張された解釈の標準は、繰り返します。
しかし、この学派の著述家たちの単なる思い上がりに過ぎません。
彼らはまず預言の言葉をすり替え、改ざんし、次に歴史の事実を自分たちの歪んだ解釈に合うように誇張し、歪曲するのです。
ギネス博士は私たちに問いかけます。
「彼らは、現在古代ローマの範囲を占めている大王国の10個のリストを変更したり、追加したりできるのでしょうか? イタリア、オーストリア、スイス、フランス、ドイツ、イギリス、オランダ、ベルギー、スペイン、ポルトガル。
10個以上はダメです!
それ以下はダメです!」
私は答えます。
はい、変更も追加もできます。
このリストには「古代ローマの範囲」には全く含まれていなかった領土が含まれており、ローマ帝国領土のほぼ半分が省略されています。
これだけで十分に悪いことです。
しかし、それだけではありません。
彼の発言を受け入れ、ヨハネの黙示録13章をそれに基づいて解釈しようとすると、彼はすぐに立場を変え、「プロテスタント国家」を十の角の中に数えること自体に異議を唱えます。
「年代順に考えると、あり得ない」と彼は言います。
ここに反キリストに関する幻の言葉があります。
「彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。
地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。」
(ヨハネの黙示録13章7、8節)
この極めて明確で深刻な言葉は何を意味するのでしょうか?
彼が私たちに告げているのは、「暗黒時代を通して」そして「プロテスタントが台頭する前」に、ローマ・カトリック教がローマ帝国の西方地域で優勢になることに他なりません。
そして、これが「預言の成就」であると宣言しています。
彼はこれを「説明している」聖書と呼んでいます。
ほとんどの人がこれを説明していると呼ぶでしょう!
最後のポイントです。
ギネス博士はこのように記しています。
「私たちの批評家たちは、バビロンが十本の角によって滅ぼされ、その後、十本の角は同意してその力を反キリスト、すなわち獣に明け渡すと主張しています。
つまり、彼らは十本の角によるバビロンの滅亡の後、反キリストの支配が始まると主張しているのです。」
この主張の根拠は著者自身の著作に求めなければなりません。
なぜなら、彼が批判している箇所には、それを説明するものは何も見当たらないからです。
同様の指摘は、続く段落で彼が「来るべき君主」に言及している箇所にも適用されます。
私はそれらについて詳しくは触れていません。
しかし、数行程度で彼が支持しようとしている立場を整理できます。
ヨハネの黙示録17章まで来ました。
彼の主張はこうです。
「獣の8番目の頭は王朝であるに違いありません。
獣は女を宿しています。
女はローマ教会です。
したがって、8番目の頭によって象徴される王朝は、ローマ教会が存続していたのと同じくらい長く続くのです。」
ここもローマです。
こうしてプロテスタントの解釈は「取り除くことのできない土台の上に」定着したのです。
ここで暗示されている仮定のいくつかがいかに根拠のないものであるかを示すために、立ち止まってみる価値もありません。
議論のために、それらすべてを受け入れてみましょう。
そして、これから何が起こるのでしょうか?
最初に、ギネス博士は、私がこの本で警告した見え透いた誤謬に絶望的に関与しています。
女は獣の働きによって滅ぼされます。
では、教皇を、教皇が頭である背教した教会から、一体どうやって切り離すのでしょうか?
教皇を、そのかしらなのでしょうか?
そして、「プロテスタントの解釈」によれば、教皇がもはやかしらとして認められなくなったら、その教会は背教した教会ではなくなるはずなのです。
歴史主義者はここで女と獣のどちらかを選ばなければなりません。
両者は幻を通して明確に区別され、終盤では直接対立します。
もし、淫婦がローマ教会を象徴するならば、彼の体系は獣について全く説明していません。
預言における最も重要な人物を完全に無視し、いわゆる「プロテスタント解釈」の誇る「根拠」は空虚に消え去ります。
あるいは、彼がジレンマのもう一方の角に逃げ込み、獣は背教した教会を象徴していると主張するならば、淫婦の説明は依然として残されます。
さらに、彼は獣がダニエルの幻の中で、エルサレムとユダとの関係において現れていることを忘れています。
ですから、もし彼の言うことをすべて認めたとしたら、それは何を意味するでしょうか?
ここで、ベーコン閣下の言葉をもう一度引用しますが、これらの預言が、「幾世代にもわたって、湧き起こり、成就する」という主張は、批評家たちが認める以上に、あるいは歴史の事実が保証する以上に、より豊かで明確である、という主張に過ぎません。
「彼らが最も豊かになるのは、来るべき時代のことである」というのは、明らかな真理です。
その時、ユダが再び約束の地に集められ、今はローマにぼんやりと灯っている預言の光が再びエルサレムに向けられます。
歴史的体系の人気が「プロテスタント精神」に訴えかけることに間違いはありません。
しかし、ローマ教会を非難する際には、確かに分別と公平さを保たなければなりません。
近い将来、敬虔なローマ教会を味方につけることになるかもしれない反キリスト教運動の高まりを見過ごしていませんか?
そのような状況下では、聖書は軽視されながらも、神の霊感を受けた言葉として依然として聖なるものとされています。
そして、私たちの聖なる主は、その神性の真実が誤りと迷信によって覆い隠されているとしても、あがめられ、礼拝されています。
ここで私は、1893年11月18日付の教皇による聖書研究に関する回勅(かいちょく)に言及します。
以下はその抜粋です。
「私たちは、より多くの信者が聖書の支持に取り組み、それに揺るぎなく従うことを熱望します。
そして何よりも、神の恩寵によって聖職に就いた人々が、日々、より厳格かつ熱心に聖書を読み、黙想し、解釈することに専念することを望みます。」
彼らの境遇にこれ以上ふさわしいものはありません。
こうした知識の卓越性と神の言葉への従順さに加えて、もう一つの動機として、聖書研究を勧めるべきだと私たちに信じさせています。
その動機とは、そこから生じる多くの利益であり、聖書の言葉によってそのことが保証されています。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」
(テモテの手紙第二3章16、17節)
それは、神の人が完全な者となり、あらゆる善行のために十分に備えられるためです。
神はこの目的のために、私たちの主イエス・キリストと、使徒たちがそれを示しています。
イエス自身も、神聖な使命を証しするために聖書に依存することに慣れていました。
少なくともある意味では、確かに共通の信仰の土台がここにはあります。
一人一人のクリスチャンにとっては、それは兄弟愛の絆として認められるかもしれません。
しかし、キリストの神性と聖書の霊感を否定する、ますます増え続けるいわゆるプロテスタントたちと私たちを隔てる、越えることのできない深い溝があります。
彼らは、最終的に反キリストの旗印の下に集結するであろう不信仰の大軍勢の中で、真実な地位を占めています。
私の抗議は教皇制を支持するためではなく、聖書を支持するためです。
もし、誰かが、旧約聖書であれ新約聖書であれ、反キリストに関する聖書の一節を一つでも挙げることができ、それを削ぎ落としたり、言葉の意味を無駄にしたりすることなく、カトリックにおいてその成就を見出すことができるとしたら、
私は公に撤回し、自分の過ちを告白します。
テサロニケ人への手紙第二2章4節を例として挙げましょう。
「罪人」は「神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ[ギリシャ語で礼拝の対象]、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」
これは単に、特定の状況において、サン・ピエトロ大聖堂における教皇の座が「聖別されたパン」が置かれている祭壇の高さよりも高く上げられることを意味するに過ぎない!
このような発言は、どんな名前が挙げられようとも、私たちの知性への侮辱であり、神の言葉への冒涜です。[12]
また、9節では「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴って」起こると言われています。
この言葉は、ヨハネの黙示録13章2節の獣の幻によって説明されており、「竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。」と宣言されています。
そして、私たちは祝福された主御自身の口から、サタンの力によってこのように行われます。
また、「できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます」という警告を受けています。(マタイの福音書24章24節)
一言で言えば、サタンの恐ろしく奥義的な力がキリスト教世界に及ぼされ、あまりにも恐ろしい影響力であり、人間の知性は完全に混乱させられます。
懐疑論と不信仰は、超自然的な力が働いているという圧倒的な証拠を前にして屈服します。
そして、神から与えられた信仰が試練に耐えられるとすれば、それは神が自らの選民を滅ぼすことが不可能だからに他なりません。
これらすべての意味を問うと、「カトリック」という答えが返ってきます。
しかし、カトリックの制度の「偉大なしるしと奇跡」はどこにあるのでしょうか?
すると、その答えとして、カトリックの帽子作り、仮面劇、そしてその特技である聖職者によるあらゆるよく知られた策略について聞かされます。
まるで、これらは神に選ばれた者を欺くようです!
単なるプロテスタントという低い立場から言えば、イギリスでは、彼らが捨て去った聖職者制と迷信によって既に衰弱し堕落した者を除いて、誰もローマの苦役に巻き込まれていないことは周知の事実です。
そして、ローマ・カトリック諸国では、大多数の人々がローマに対して、好意的、もしくは軽蔑的な無関心の態度を保っていることも、同様に周知の事実です。
さらに、獣の信仰者たちが終わりのない絶望的な破滅に運命づけられていることを念頭に置き、私たちは、これがすべてのローマ・カトリック教徒の運命なのかどうか、さらに問いかけます。
決してそうではないと確信しています。
なぜなら、ローマ教会の悪と誤りにもかかわらず、その信徒の中には「神の選民」に数えられる者もいるからです。
では、私たちはどのような結論に至るべきでしょうか?
聖書は決してそこに書かれている通りの意味を持たず、それを解釈の標準として受け入れるべきでしょうか?
聖書の言葉遣いはあまりにも曖昧で信頼性に欠け、事実上誤りであると考えるべきでしょうか?
私たちはそのような俗悪な指摘を拒絶し、唯一の可能な代替案として、これらの深刻な言葉はすべてまだ成就を待っていると大胆に主張します。
一言で言えば、私たちは反キリストがまだ来ていないという結論に閉じ込められているのです。
付録3 補足説明
[1]もし、私が今このメモを過ぎゆく出来事を考慮して書いているのであれば、ドイツと書いたところをフランスと具体的に述べ、ロシアが現在地中海の海軍基地を獲得しようと努力していることに述べられているべきです。
[2]テサロニケ人への手紙第二2章1、2節における「主の日」は誤った読み方です。
[3]コリント人への第一の手紙11章26節をご覧ください。
「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」
(コリント人への第一の手紙11章26節)
ロバート・アンダーソン氏の言葉
十字架以外に過去はなく、来臨以外に未来はありません。
信者を来臨から切り離すことは、十字架から切り離すことと同じくらい、キリスト教に対する重大な冒涜です。
[4]ローマ人への手紙11章、1、2、9、12、15〜26節を参考にしてください。
「イスラエルは皆」はすべてのイスラエル人を意味するわけではないことに注意してください。。
ギリシャ語には英語のような曖昧さがありません。
また、この章に見られる矛盾は、1、2節の「退けてしまわれた」が15節の「捨てられる」とは全く異なる言葉であり、11節の「違反」が12節の「失敗」とは全く異なる言葉である事実によって説明されます。
[5]テサロニケ人への手紙第二1章7、8節
この預言の「力ある御使いたち」とは、おそらくゼカリヤ書14章5節の「聖徒たち」のことだと考えます。
[6]最初の降臨と二番目の降臨の間には、少なくともベツレヘムへの降臨からイスラエルへの最初の降臨までの期間と同じくらい、あるいはおそらくはそれよりもはるかに長い期間が介在すると考えています。
二番目の降臨と三番目の降臨の間の期間が日数で測られるのか、それとも年数で測られるのか、私たちには全く判断できません。
その期間の長さを確かに示す唯一の兆候は、反キリストの力が一方によって破られ、他方によって実際に破壊されることです。
ここで私は、まだ成就していない出来事はすべて比較的短期間のうちに起こると仮定しています。
しかし、私がそう断言する考えには慎重でありたいと考えています。
天文学や数学の研究者が神が自らの力で明確に保持しておられた奥義を解いたと主張しています。
しかし、今では非常に一般的な考えを、私は強く非難します。
旧約聖書を学ぶ者の中で、キリストの受難と栄光の再臨の間に約2000年もの歳月が経過するとは想像できたでしょうか?
初期のクリスチャンはそのような考えを容認したでしょうか?
そして、教会が引き上げられるまでにさらに1000年が経過したとしても、あるいはその出来事とオリーブ山への再臨の間に1000年が経過したとしても、聖書の一字一句が破られることはありません。
私が述べたように、「預言が人間の年代の範囲内に入るのは、七十週の範囲内に収まる場合に限られる」のです。
1260年や2520年といった紀元に関する説は、くりかえし取り上げられています。
しかし、たとえそのような時代の時代区分を確実に特定できたとしても、その時代区分は、列王記第一6章1節の480年間のような奥義的な期間ではないという疑問が残ります。
[7]この表現はコリント人への第一の手紙15章5〜8節に4回出てきます。
[8]例として、第9章と付録注Cを参考にしてください。
[9](especially the quotation from Dean Alford.)を参考にしてください。
[10]このような教えが冒涜的だという非難を免れることができるのは、何も考えられないほどの愚かさのせいだけです。
[11]例えば、彼がダニエルの獣の預言的な幻と一緒にくくられていることを認める点で「すべてのキリスト教解釈者が一致している」私の主張を激しく非難しています。
彼は間違いなく、私がローマ帝国の「繁栄」ではなく「滅亡」について語っていることをこの箇所で読んだはずです。
この主張は紛れもなく真実であり、なぜなら、彼自身もそれを支持する「キリスト教解釈者」の一人に数えられているからです。
もう一つの例を挙げてみましょう。
十の王国の問題に関して、彼はこのように述べています。
「アンダーソン博士をはじめとする未来派の著述家たちは、
(1)十本の角はまだ立ち上がっていません。
(2)立ち上がったとしても、5本はギリシャ領土に、5本はローマ領土にのみ存在します。
そして、最終的に角が発達したとしても、
(3)預言では全く考慮されていない1400年の空白期間の後です。
(4)3年半続くことを教えています。」(p。737)
これらの文に番号を付けたのは、賢明な読者の皆様に、(1)を除いて、ここで私に帰せられたものはすべて、私の本の中の最も明白な記述のいくつかと全く反対であることを簡単に思い出させるためです。
同様に、彼は反キリストの活動期間が3年半に限られる空想も、私に帰属させています。
私は時折、彼が「来るべき君主」を読んだことがあるのだろうかと疑問に思ったことがあります。
私の肩書きに対する彼の批判について一言、言いたいことがあります。
もちろん、ダニエル書9章26節のヘブル語には冠詞がないことは承知しています。
しかし、彼が冠詞の省略から導き出した推論には惑わされていません。
もし、冠詞が使われていたとしたら、ここで意図されている君主は、明らかに25節の「君主メシア」です。
英語では冠詞にこのような主張はなく、したがって、翻訳者と校訂者の両方が認識しているように、正しく挿入されています。
トレゲレス博士はここでこのように述べています。
「この破滅は、ある民によってもたらされると述べられています。
それは、来るべき君主ではなく、彼の民によってもたらされることです。
これは、異邦人の統一された権力を最後に保持していたローマ人を指していると私は考えています。
遥か昔に彼らはこの破滅をもたらしました。
来るべき君主とは、ローマ帝国の最後の指導者であり、ダニエルが以前から多くの指示を受けていた人物です。」
この偉大な指導者の優れている点は、この預言において主ご自身と並んで一緒にくくられ、ローマ帝国の民が彼の民として描写されているほどです。
しかし、ギネス氏はテトォス将軍のことを指していると信じています!
実に、そのような指摘を議論する時代は過ぎ去っています。
ダニエル書9章27節の改訂訳は、ユダヤ人と7年間の契約を結んだのはメシアである幻想を覆すものであることを指摘しておきます。
ささげ物を中止させたことは、「週」の途中で起こった出来事ではなく、「週の真ん中」の契約違反です。
[12]神殿については、ダニエル書9章27節、12章11節、マタイの福音書24章15節で説明されています。
これらの教師たちは、ローマ教会が獣であり、淫婦であり、背教したキリスト教における腐敗と悪名高いすべてのものであるとしています。
その一方で、この背教の偉大な中心的な神殿である聖ペテロは、神の神殿として神によって所有されていることを信じるように私たちに求めています。
彼らはミサのささげ物を偶像崇拝であり冒涜的であると非難しています。
しかし、聖書がそれを地上における聖なるものすべてを表すものとして述べているとは考えられません。
聖なる言葉には、ただ一つの意味しかありません。
すなわち、反キリストが自らを神であると主張し、他のいかなる神への崇拝もすべて弾圧することです。
これらの解釈者たちの著作を損なっているのは、解釈と預言におけるあまりにも突飛で幼稚な点です。
本来、人々に敬意と畏怖の念を抱かせるべきこれらの幻を、「嘲笑の的」、奥義を主張する者や流行にとらわれた者たちの得意技となると見ています。
ですから、この学問を、この軽蔑の淵から救い出すための団結した継続的な努力が必要なのです。
認められている解釈学派はそれぞれ、対立する学派が否定する真理を持っています。
もし、クリスチャンが過去主義、歴史主義、未来主義といったこれらの学派すべてから目を離し、聖書を読むように預言を読むことを学ぶならば、新しい時代が始まります。
預言は、今、そして、かつて、そしてやがて来られる方、私たちのヤハゥエ神の言葉であり、神にとって、現在、過去、そして、未来は、ただ一つの「永遠の瞬間」に過ぎません。
ユダの歴史の年代史
「来たるべき君主」終わり。
2025/9/25