メッセージB 2000/1/20 2001/4/1修正
正義の神、救い主 J.N.ダービー
(A Just God and a Saviour by J.N.Darby)
ここにいる、確かな善と悪の知識を持っているすべての人たちが「これらの出来事は善」と言い、また「これらの出来事は悪」と二つの意見に分かれるでしょう。
恐らく二人の人は同じ基準を持っていないので、でどちらかが善であり、また悪だとも言い、また、人々は良き基準を自分自身に合わせ修正してしまい、悪い基準は自分自身ではなく、他人を基準に修正しようとするのです。
たとえば、大酒飲みは、飲酒にどんな有害もないと考えるでしょう。
また、考えてゆくといつのまにかにおおきな罪となってしまいます。
貪欲な人間は毎日、いくつか人をあざむき、またはごまかし続けて、このように「取引のための手段」と言って自己弁護をするでしょう。
この手段とは「ビジネス上の必要、慣例であり、すべての出来事において、私は飲酒をせず、他人を口汚く罵るようなことはしません。」と言うでしょう。
放蕩した人間のプライドは自分自身を寛大で他人に親切だと自負します。
また、その人は「自分以外の誰をもどんな害も加えない」と言うでしょう。
その人は素直で道徳的な人間、および奉仕者に見えます。
好意的な人柄は自分自身を満足させ、そして、見渡して悔いた罪人を哀れみその人は見つけることを自分の義務と称するでしょう。
しかし、自分の中にある多くの害悪、数多い罪深い欲望について考えはせず、その他の自分の胸のうちにある知られない事を覚えようとはしません。
人は外見の行いを見るが神は心の中を裁かれます
従って彼自身に害悪がなかったことを彼自身で喜び、彼自身と他の誰かのさまざま罪と比較し、彼は避けるようにうまくできたと考えます。
いま、人は他人を裁き、自分を正当化することにより、生まれながらの善悪の基準によっては自分自身を裁かないことを証明しています。
しかし、ここにすべてを比較できるものであり、すべて調和のとれた裁きを行うことのできる基準があります。
----正義の基準。
すべての者が神の義に達する義を持つなら、永遠の有罪になることはありません。
その時、人が他人と自分を比べることではなく、自分自身と神を比べることにより裁かれることを発見します。、
自分自身と神を比べることによってその時その人の良心は神の前に罪について考えることに目を覚まし始めます。
その時、本当にその人は彼自身が有罪で、破壊されていることが分かるでしょう。
その人は、自分よりも悪である誰か一人を見つけることを試み、そして自分自身で正当化するようには試みないでしょう。
しかし、彼が彼自身を知り、咎めて、彼を許し、または赦免することができる神の可能性にも知ることの前に彼は心配するでしょう。
イエスはオリーブ山に行かれた。 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」 新改訳聖書 ヨハネによる福音書 8章 1〜11節 |
ヨハネの福音書第8章でとても道徳的で信仰深い人々(律法学者とパリサイ人)たちのことを述べています。
その時、律法学者たちは彼らが告発した罪に捕らえられた哀れな女性を見つけ出し、彼女に対して非常に怒りひどく衝撃を受けていたです。
律法学者たちが考え、要求しているモーセの律法と償いに対してこの哀れな女に適応されてしまうだろう。
---こんな罪人が生きていることが気に入らない。---
それが、もし、律法学者とパリサイ人の中の一人が自分自身よりも悪い人間を見つけることができるなら、堕落している人間の心を慰めて静めるのです。
彼は他人により大きな罪が存在すると自分自身を忘れると考えているのです。
そして、一方で非難して、またもう一つを熱烈に攻撃して、自分の持っている害悪を忘れるでしょう。
彼らはこのように不正を喜びます。
しかし、これだけがすべてではなく、人間はこのように誇るだけではなく、他の人の堕落と破滅を喜ぶのです。
しかし、彼らは見ていることに我慢することができずにいるでしょうか?。それとも彼らは神は恵みを示すでしょうか?。
恵み--それはすべての罪とあらゆる悪害のための完全で自由な赦しを意味します。神は赦す一つの事柄さえも不当に要求したり、期待しているべきではないのです。
恵み---すべての人間の考え、身の程知らずの人間から遠く離れた道と大きく対立しているのが本質なのです。
彼はそれが嫌いなのです。
彼自身の心は、しばしば密かにそれを不公平と呼んでみたりします。
人間は、このような方法で自分自身を扱うことはぜすに、自分を見直させようとする神のこなど考えるたりすることはしません。
そして、人間は私たちがすべて救いのための恵みに扶養されていることを認めるしかなく、とても恥ずかしい思いをするのです。
私たちの恵みのために適する主題は、いるも私たちの苦痛、罪、破滅が恵みの上にあり、私たちの唯一の要求となります。
また、それは私たちから作りだされるものではなく、また将来私たちが作ることについてできる事でもないのです。
律法学者、およびパリサイ人は、これを理解することができなかったでしょう。
それは、彼ら自身がそうしたくないのは、罪人であることを告白することになるからです。
彼らはイエス・キリストを困らせ、イエスが婦人を赦すことを願っていました。
その時、律法学者たちはイエスが公正でないというかも知れません。
また、もしイエスが婦人を有罪と判決したら、その時イエスが情け深くなかったと言うでしょう。
律法学者たちは「こういう女を石打ちにするように命じています。」と言うのです。
しかし、本当はどのように言うべきでしょうか。
真実にその判決が正しかった、その女性の罪の証明には疑う余地はなかったのです。
そして、律法にも明らかに証明されることです。
でも、誰かが律法に書かれていることを実行することができるのなら、人間は容易に有罪と判決するかもしれないが、誰かに実行するその正義の力があるのでしょうか?
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
「罪がない」と誰が言うことができましたか?
彼らの中の「私には罪がない」と言う人がいましたか?
これらのことを言う者があれば、それはこの婦人への判決よりもひどいのです。
すなわち、「罪の支払う報酬は死である。」ローマ6章23節
ここはその時、不思議な場所でした。
すべての者が被告人であり、キリストが告発した同じ犯罪者がなのです。
今は「石が投げられるべき」時ではありません。
しかし、すべての者が石が投げられるべき罪人です。
年をとったものから最後の者へとすべて有罪と宣告された罪人です。
あなたはそのこと考えたことがあるでしょうか?---あなたと全世界の人たちが神の前に有罪です。
人間の考えがあなたの罪の量ではありません。
あなたは「罪が無い」と言うことが神の前で言うことができますか?
もし、そうでないなら、その時、死があなたの判決です。
「そのたましいは罪のゆえに死にます。」
そして、この悲しい条件はあなたに何をさせるのでしょうか。
たぶん、律法学者とパリサイ人と同じことをさせるでしょう
彼らが彼ら自身の良心によって有罪と宣告した時---罪の赦しを宣言することができるかけがいのないの存在にたどり着いたのです。
園にいるアダムも同じ事をしました。
アダムは自分自身で神から身を隠した、その時彼は罪の自覚がありました。
アダムが一番助けが必要だった、そのときに彼はかけがいのない友から離れました。
そして、アダムはとても気が休まりました。
人間は、赦す用意ができているかけがいのない方を恐れているからです。
あなたは、あなたがそれほどには悪くないと、自分自身を説得することができるかもしれません。
あなたは、他人をはっきりと悪いことを見つけるかもしれません。
あなたは、すべてにおいて罪人でしょうか?
あなたについて、神はどのように見ておられますか?
あなたの良心は「私は罪がない状態ではいられない」と言うかも知れません。
そのときはあなたは死刑の判決を受けることになるでしょう!
そして、私たちは「神はそこにいたが、私たちの希望はなかった」と聞くだろう。
しかし、イエスは正義の神、救い主です。
彼は有罪判決をすることができ、それ以上にそれを実行する権威を持っています。
残る唯一の質問は「イエスは赦すことができるか?」です。
イエスは左側に離れていました。そして婦人はその真中に立っていました。
婦人は唯一正しい方の前に立っていました。
「罪がない!」
誰がこのような理由を付けて石を投げることができますか!
婦人は残されました。
そして、この女は神について告白される唯一正しい方の方といっしょでした。
イエスの判決は何だったでしょうか。
律法はすでに彼女を有罪に判決をしています。
イエスはそれを実行したでしょうか?
彼女のため裁きが行わなければならなかったのです。
なんと激しく、悩む時を過ごしたのでしょうか!
この女の見方では、このすべて取り囲む環境ではどうすることもできませんでした。
しかし、彼女は生と死の問題を解決できる力を持っている方と共にいたのです。
すべてがイエスの言葉で休められました。
イエスは何と言うだろうか?
人間はあえて石をなげるようなことはしませんでした。
今、神は何をするでしょうか。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
これは裁き主によって宣言された、滅んだ罪人のための静かな慈悲深いメッセージです。
しかし、それは、裁き主の前に有罪と判決されたことを意識した破滅した罪人にとってのみ、それらのことが話されます。
正しいパリサイ人はそれを聞くことはありません。
このパリサイ人ももちろん有罪と宣告されています。
しかし、彼らはこれらの罪を認めることは好みません。
そして、彼らは自分自身の偽善行為(良き行い)にて、これらの罪の自覚を取り除く方法を模索しています。
そして、パリサイ人たちはここにいて欲しくない不快な婦人と同じ有罪の判決に自分自身を置きはしません。
この婦人はこの祝福された平和の言葉を得てとても穏やかな状態です。
もし、あなたが神の完全な、また自由な赦しをするために望むのならば、あなたが最初に立つ場所は有罪な罪人として立たなければなりません。
イエスキリストと二人だけで罪の意識を自覚するためなのです。
あなた自身と比べるものはほかにはなく、信頼する方以外何も持つことのないためです。
あなたがイエスの前にゆく前に、悔い改めの決意を作ったり、良き人間になるように努力することをしてはいけません。
有罪と判決する力を持っているその方の前で、非難されるための場所に立つために、あなたの罪によってイエスのところへ連れて行かれるのです。
イエスと二人だけであなたの罪の理由を責めるためにです。
そして、神は婦人にその罪を赦すために条件を何も出していません。
「私はあなたを有罪にするとも、もしあなたがこれ以上何も罪を犯さなければ。」とはイエスは言わなかった。
そう、「イエスは、最初に婦人に完全な、また完成した赦しを与えています。」
それは、婦人に将来、罪を避けることを可能にする赦しを与えていることを知ります。
もし、あなたがあなたの罪を超えた力を持つことを望むのなら、あなたはキリストによって神の赦しを初めに知らなければならないでしょう。
しかし、もしあなたが神の赦しを知る前に悪を克服しようと試みるなら、あなたがいままで神の前で潔白であると言う前に、あなたはすべての事からもっと自由で正当なはずなのです。
(神の赦しなしでいられるなら、あなたはもっと自由なはずです。)
今、ある者たちは、現実にキリストにあってこのことをはっきりと見ることもせずに、信じると告白するかもしれません。
そして、彼らは命のための聖霊、御霊の実によって平和を持つことを探しているのです。
初めからこの者たちが、完全な滅んだ罪人ということと、十分な罪の赦しをもっていることを認めていたのではありません。
彼らは赦しのための知識によって案内され、その時、彼らの命を得たのです。
その知識とは神の愛は神の哀れみの必要な創造でなければならないということです。
このように始まるのです。
「あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
あなたの平和はイエスキリストによって作られたもので十字架の血の中にある信仰から出てくるでしょう。
あなたの罪のための神の知識とその価値は、あなたの持っている知識よりはるかに深いのです。
神はその一人子の血を差し出しました。
神は「血がすべての罪を聖める」と言っています。
より、私たちは自分の罪を見て知るのであれば、それらの罪より遠く離れ、より、私たちはその尊い血の価値を知ります。
そして、私のより多くの願いは神の心を悲しませるような心配はかけないことなのです。
神の心とは神の持っている愛であり、私の罪のための贖うためにこんなにも素晴らしい犠牲を提供して下さっていることです。
ゆえに、より深く私が自分自身の罪を知れば、平和が作られたことを通して血の価値はより素晴らしく、より安全に私の平和を得るでしょう。
あなたはイエス・キリストの血に対する信仰を通して、あなたの罪の赦しを持ち、そしてその平和と喜びを知ることは素晴らしいことなのです。
それは、キリストの血はあなたを導き、あなたを虜にしていた罪の力に対しての勝利の結果なのです、
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 新改訳聖書 ヨハネの手紙 第一4章10節 |