メッセージBB 2000/10/2
救いと歩み、その現実!ヨハネの手紙第一
by ウォーレン.W.ワーズビー
(It's Real!-1 John By Warren W. Wiersbe)
第一章 その現実! ヨハネの手紙第一 1章1〜4節
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
・・このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。・・
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 1章1〜4節
「昔、幼かった頃は...。」
それを、語ることが、どのくらい刺激的であるかを覚えていますか?
それは、偽りの刺激的な世界へ入るための開いたドアでした。
その夢の世界は、あなたが幼い頃のすべての問題を忘れさせてくれました。
しかし、あなたはその時代の奴隷です!
そして、「かつて、昔は...。」は子供だましです。
あなたが幼い頃の生活は、遊園地ではなく、戦場であるということを発見し、妖精のような物語なこととは理解していません。
あなたは現実に何かが欲しいのです。
現実の何かを探すことは新しいことではありません。
それは歴史を始めから続いていました。
人間は、富、スリル、征服、力、学問において、そして、信仰ににおいてでさえ、現実と満足を捜しました。
サーカスにおいて綿菓子を食べている子供のようです。
多くの人たちが何かに噛み付こうとしていますが、現実には口の中には何も残らないのです。
彼らは、現実に貴重な年月を空しさに置き換えています。
このことはヨハネの手紙第一が必要となるところです。
何世紀にも前に書かれ、今に至るまでこの手紙は永遠であるテーマを扱っています。
それは現実の命です。
ヨハネはすでに満足できる現実が、物事やスリルの中に見いだされないことを発見していました。
しかし、神の子イエスキリストの中にはあるのです。
あなたはヨハネの手紙第一1章1〜4節を読みました。
ゆえにあなたは命が現実であることについて3つの不可欠な事実を学んだのです。
第二章 信仰の歩みと、告白。 ヨハネの手紙第一 1章5節〜2章6節
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。
私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。
この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。
もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。
神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。
しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。
神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 1章5節〜2章6節
命を形作るものすべてに敵がいます。
昆虫は空腹な鳥を気をつけ、鳥は空腹な猫と犬の目に気を配らなければなりません。
人間でさえ自動車という、細菌を撃退しなければなりません。
現実の命も、同じように敵を持ち、そして、私たちは信仰について、このテーマの中に書かれていることを、すでに読みました。
この敵とは罪です。
9回これらの節の中でヨハネは罪を語っています。
その主題は、重要なテーマであることは明らかです。
ヨハネは光と闇を対比して、このテーマを説明しています。
神は光です。
罪は闇(暗さ)です。
しかし、ここで別の比較がされています。--それは「歩みと、告白」との比較です。
「もし、〜と言うなら」もしくは「神を〜と言う」という表現をヨハネは4回書いています。
(ヨハネの手紙第一1章6節、8節、10節、2章4節)
私たちクリスチャンの命はまず間違いなく、単に「告白」だけに留まってしまうことはよくあることです。
しかし、私たちは同じように「歩み」、もしくは、生きることが絶対的に必要な事となります。
私たちはそれを信じています。
もし、私たちが神と交わりを持つのなら(もし私たちが光の中を歩むのなら)、私たちの命は「私たちの唇に語る」ことを後ろから支えるでしょう。
もし、私たちが罪の中を歩むのなら(やみの中を歩んでいるなら)、その時、私たちの命は「私たちの唇に語る」ことを否定します。(唇だけの告白となります。その人は生きていません。)
そのことは私たちを偽善者にするのです。
新約聖書は、クリスチャンの命を「歩み」と呼んでいます。
この歩みは、私たちが救い主としてキリストに信頼する時、信仰のステップとして始まることです。
しかし、救いには終わりがありません−それは霊的な命の始めだけがあります 。
それはちょうど子供が歩くことを学ばなければならないように--そのようにして子供は多くの困難を克服しなければならないのです。
同じようにクリスチャンは「光の中を歩む」ことを学ばなければなりません。
そして根本的な障害はこの罪の問題を含んでいます。
もちろん、罪は見かけ上の不従順だけでありません
罪は、内側の反抗、もしくは欲望でもあります。
例えば、私たちには「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」について警告されています。(ヨハネの手紙第一2章16節)
それらすべては罪深いものです。
罪は、同じように律法に対する違反です。(ヨハネの手紙第一3章4節)それは文字通りの不法(律法なし)であり、神の律法から服従することを拒否することです。
不法(律法なし)、もしくは、律法から独立するということは、罪の本質を十分に持っています。
もし、信者が独立して生きることを決めるのなら、どのようにその人は神と交わりの中を歩むことができるでしょうか?
「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。」新改訳聖書 アモス書3章3節
旧約聖書、もしくは新約聖書においても、聖書は聖徒の罪に「しっくい(パテ剤)」を塗るようなことはしていません。
飢饉に逃れて、アブラハムは信仰において、もろくなり、エジプトに行ってファラオに嘘をつきました。(創世記12章)
そのあと、家長アブラハムはハガルと結ばれ、子をもうけ「神の助け」に反抗して、試みました。(創世記16章)
どちらの場合においても、神はアブラハムの罪を許しました。
しかし、アブラハムは彼が蒔いたものを収穫しなければなりませんでした。
神はその記録を清めることも出来るし、これからも清めるでしょう。
しかし、アブラハムの罪の結果は変わりません。
だれも、卵を元に戻すことができません。
イエスが逮捕された時、ペテロが主を三度も否定し、庭で人に殺されることを恐れていました。
サタンは偽り者であり、人殺しです。(ヨハネの福音書8章44節)
そして、ペテロは自分に有利に都合よく行動していました!
もちろん、ペテロが行ったことはイエスの証しを傷つけ、主の働きを妨げました。
クリスチャンが罪を犯すという事実は、特に新しいクリスチャンたちを悩まします。
彼らは古い性質を取り除かれずに新しい性質が受けたことを忘れています。彼らはそのように生まれたのです。
私たちが新しく生まれた時、それを受け取り、古い性質(それは私たちの物理的な誕生にその起源があります)は新しい性質に戦いをいどみます。(ガラテヤ人への手紙5章16〜26節 参照)
いかに自分を訓戒しようと、いかに人間の規則を制定したり、取り締まったりしますが、古い性質を制御することはできません。
古い性質を殺すことは神の聖霊だけが可能ことなのです。
(ローマ人への手紙8章12〜13節 参照)
そして、新しい性質を通して、御霊の実を私たちのうちに作り出すのです。
(ガラテヤ人への手紙5章22〜23節 参照)
聖徒が罪を犯すことについて、私たちを落胆させてしまうことは、聖書の中では言及されません。
しかし、私たちに警告しています。
「なぜ、あなたは罪について、私たちクリスチャンにメッセージし続けるのですか?」
怒った教会のメンバーは彼女の牧師に言いました。
「要するに、クリスチャンの命の中にある罪は救われていない人の命の中にある罪とは違っているということですね。そうですね」
牧師は答えました。「それは違います。それはとても悪いことです。」
私たちのすべてが、もし私たちの現実の命を楽しみたいのなら、このように私たちの罪を扱わなければならないのです。
この項目では、ヨハネは罪について3つの応用例を解説しています。
第三章 古いとは何か、新しいとは何か ヨハネの手紙第一 2章7〜11節
「愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。
しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。
光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。
兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。
兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 2章7〜11節
「私はその帽子がとても好きです!」
人は、昔話の焼かれた豆のように、古いファッションがとても大好きです。
「でも、お母さん、トムと私が愛し合っていることを知らないのですか?」
言葉はコインのように、長い間めぐりめぐってすり切れ始めています。
残念なことに、愛(love)ということば(今では時々luv(あなた)とつづられるようですが)、その価値を失くし、罪の多くを覆い隠すために使われているのが現状です。
人が自分の妻に愛を表現するために、愛という言葉をどのように使うことができるか、理解することが本当に難しいことです。
その時、不注意に言葉が使われ、彼らはその意味も十分に知らず、もしくは全く知らないのです。
ドル貨幣のようにこれらの価値が下がりました。
ヨハネが命について述べています。
彼は繰り返して3つの言葉を繰り返して使っています。
命、愛、そして光。
ヨハネは命、愛、そして光がともに一つであると説明しています。
この3つの項目を読んで見ましょう(ヨハネの手紙第一2章7〜11節、3章10〜24節、4章7〜21節)
何も支障されることなく、この節で言われていることと、あなたは命、愛、そして、光から引き離されてはならないということがわかります。
現在、私たちが学んでいる個所で(ヨハネの手紙第一 2章7〜11節)、私たちはどのようにクリスチャンの愛が、光と影に影響されるかを学びました。
灯りの中に歩いているクリスチャン(彼が単に神に従っていることを指しています)はその人の兄弟であるクリスチャンを愛するために前進します。
ヨハネの手紙第一3章10〜24節の中で、クリスチャンの愛が、生と死に関わる問題であることが私たちに語られています。
憎しみの中を生きることは霊的な死の中を生きることです。
ヨハネの手紙第一4章7〜21節の中で、クリスチャンの愛が真理と偽りに関わる問題であることを私たちは見つけることができます。
私たちは神の愛が私たちの方へ向けられていることを知るので、私たちは神の愛を他の者に示すのです。
その時、この3つの項目の中で、私たちは3つの秘訣を見つけます。
それは、なぜクリスチャンが、お互いが愛し合うかです。
1、神は愛することを私たちに命令しました。(ヨハネの手紙第一 2章7〜11節)
2、私たちは神から生まれなければならない者であり、そして神の愛が私たちの中に生きているのです。(ヨハネの手紙第一3章10〜24節)
3、最初に、神は神の愛を私たちに表しました。(ヨハネの手紙第一4章7〜21節)
「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」新改訳聖書 ヨハネの手紙第一4章19節
ヨハネは愛について単に書いたのではなく、同様に実践することも書いたのです。
ヨハネがこの手紙の読者への気に入って呼び名は「愛する者たち」です。
彼は彼らに愛を感じていたのです。
ヨハネは「愛の使徒」として知られています。
それは、彼の福音と彼の手紙の中で、彼はこのように他の使徒と違い卓越したテーマを与えているからです。
とはいえ、ヨハネはいつも「愛の使徒」ではありませんでした。
ある時、ヨハネと彼の兄弟にヤコブは非常に激しい気質を持っていたので、イエスは「ボアネルゲ」(マルコによる福音書3章17節)というあだ名を与えました。
その意味は「雷の子」と言う意味です。
別の時に、この二人の兄弟はサマリヤ人の町を滅ぼすために天から火を呼び下すことを求めました。
新約聖書がギリシャ語で書かれているので、作者はより正確な意味を読者に示すことが出来ます。
私たちが英語でいう「LOVE」(愛)が多くの暗い意味を持つことは、残念なことです。(これらのいくつかは矛盾しています)
私たちは「ヨハネの手紙第一」の中で「LOVE」(愛)と言う言葉を読みます。
そのギリシャ語では「agaph」(アガペー)と言う言葉です。
その言葉は人間の前にある神の愛であり、クリスチャンが他のクリスチャンに示す愛です。そして教会のための愛です。(エペソ人への手紙5章22〜33節)
他に、愛を示す言葉としては「filov」(フィロス)があり、他の個所で「友情愛」という意味を持っています。
これは神の「アガペー」の愛のように深い愛を表わしていません。
(ギリシャ語で「erwv」という単語があります。それは肉的な愛を示しており、新約聖書の中では使われていません。)
驚くべきことにこのクリスチャンの愛は古くて、新しい命令なのです。
これは矛盾しているように見えます。
愛自身、もちろん、新しいものではありません。
しかし、人が神と他の者を愛する戒めは新しいものなのです。
イエスご自身が旧約聖書の二つの戒め、つまり申命記6章5節とレビ記19章18節をマルコによる福音書12章28〜34節の中で一つにまとめています。
それはこの二つの戒めが、すべての律法と預言者を要約しているかです。
神を愛し、隣人を愛することは古い戒めであり、イエスが地に来られる前に十分に知られている責任です。
その意味するところに「お互いに愛しあう」、「新しい」戒めが含まれていました。(ヨハネの手紙第一2章8節参照)
もう一度、この問題に答えるためにギリシャ語の助けに目を向けてみましょう。
この「新しい(new)」と訳された二つの違ったギリシャ語の単語では、一つは「最近(new in time--neov(ネオス))という意味があり、もう一つは(新しい品質--kainov(カイノス))という意味があります。
例えば、あなたは最近のモデル、最新の車を書き表すのなら最初の言葉を使います。
しかし、根本的に違った革新的な車を購入することを書き表すのなら、あなたは二番目の言葉を使うべきです。
(現在の英語では「recent--最近」、「fresh--新しい特長」という単語にてこの区別を得ています。
お互いに愛し合うという戒めは新しい(最近)ものではありません。
しかし、新しい特徴を持っているのです。
それはイエスキリストが古い戒めである「隣人を愛しなさい」という言葉に新しい意味を加えたのです。
私たちはこの短い5節の中に新しい3つの重要な方法である戒めを学ぶのです
第四章 愛なる神は憎みます。ヨハネの手紙第一 2章12〜17節
子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。
父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。
小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。
世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 2章12〜17節
その一年生のグループはちょうど病院のツアーを終え、指導していた看護婦は彼らに問題がないのかと尋ね、彼らはすぐに手を上げました。
「ここで働く人々はどうしていつも手を洗っているのですか?」控えめに兄弟は尋ねました。
笑い声が静まったあと、看護婦はわかりやすく答えてくれました。
「彼らは次の二つの理由があっていつも手を洗っているのです。
一つは、彼らが健康を愛しているということです。
二つ目に彼らは細菌が嫌いです。」
いくつかの命の働く領域で、愛と憎しみは手を取り合い進んでいます。
夫は妻を愛し、妻に危害を加えるものに憎しみを働かせます。
「主を愛する者たちよ。悪を憎め。」
新改訳聖書 詩篇 97章10節
「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。」
新改訳聖書 ローマ人の手紙12章9節
ヨハネの手紙は私たちに愛を働かせることを気づかせます。---それは義の愛です。
今、不正(悪)の愛があること私たちに警告しています。---それは神を憎む愛です。
聖書はこの愛を「世を愛する愛」と呼んでおり、クリスチャンがなぜ、世を愛するべきではないか4つの秘訣があります。
第五章 真実、もしくは結果 ヨハネの手紙第一 2章18〜29節
小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。
彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。
あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持っています。
このように書いて来たのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからであり、また、偽りはすべて真理から出てはいないからです。
偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。
だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。
あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。
それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのちです。
私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。
あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。
そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。
もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行なう者がみな神から生まれたこともわかるはずです。
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章18〜29節
「あなたが本当に誠実ならば、その信仰には何の間違いも生じません。」
今日、その記事は多くの人々の個人的な哲学を表しています。
しかし、それはそれを実践している人々のうち、ほとんど者がそれを実際に成し遂げ、考えてきたかどうかは疑わしいところです。
「誠実」と言う言葉は何か真実を作る、不思議な要素を持っているのでしょうか?
もしそうならば、その時、あなたは単に信仰心だけではなく、あらゆる命の領域において適用されるべきなのではないでしょうか?
街の病院の看護婦は患者にあらゆる薬を投与しましたが、患者は激しい病気になってしまいました。
誠実な看護婦ですたが、薬が悪ければ、患者は死んでしまいます。
ある人はある夜、家の中の雑音を聞くと、泥棒が働いていると考えます。
彼は銃を手にとり、「泥棒」を撃ちます。
しかし、その人は自分の娘であることを発見します!
彼女は寝つきが悪く、何か食べるものがないかと思い起きていたのです。
彼女は父の「誠実」の犠牲者になりました。
より「誠実」を得るには、何か真実を生じなければなりません。
偽りの中にある信仰はいつも重大な結果を引き起こします。
しかし、真実の中にある信仰は決して間違って与えるようなことはありません。
そして、人間が何かを信じているなら、そこに間違いは生じません。
もしある人がシカゴからニューヨークまで車で行きたいのならば、ハイウェイは彼の車を誠実にとらえ、その人の誠実さは必要とされません。
その者は偽り、もしくは迷信ではなく、真実の上に自分の命を現実に建てたのです。
神は教会の家族(子どもたち)に光と闇が矛盾することについて(ヨハネの手紙第一1章1節〜2章6節)、そして愛と憎しみが矛盾することについて(ヨハネの手紙第一2章7〜17節)について警告しています。
今、ヨハネは彼らに第三の矛盾について警告します。
真実と誤りの間にある矛盾です。
そこに矛盾があるならば、そのクリスチャンは光の中を、そして愛の中を十分に歩んでいるとは言えません。
彼は真実の中をも歩まなければならないのです。
この問題は真実、もしくは結果でもあります。
ヨハネが、真実から立ち返る時の、悲劇の結果を説明する前に、彼は問題の重大性を強調しています。
ヨハネは二つの特別な単語を使ってそれを説明しています。
「終わりの時」、そして「反キリスト」この両方の言葉はクリスチャンがこの危機の時を生き、そして敵である悪魔の間違いに対して守らなければならないことを明確にしています。
この「終わりの時」という単語は新しい時代が始まるということを思い出させます。
「なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一2章8節
イエス・キリストの死と復活から、神はこの世の中で「新しい事」を行っています。
旧約聖書の歴史の全ては、十字架の上でキリストが成した御業の道を備えました。
すべての歴史はただ「終わり」に向かって道を備えているだけのことです。
その時、イエスは来られ、王国を確立します。
そこには「神が罪人を救わなければならない」という以上ことは何もありません。
あなたは「もしそれがヨハネのいう「終わりの時」なら、なぜ、キリストはまだ再臨されていないのですか?」と言うでしょう。
この質問は立派な質問です。
聖書は私たちにその答えを与えています。
神は時間によって制限されません。それが神の創造の方法なのです。
神は人の時間の中に働きません。しかし神は時間の上に働きます。
「すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第二3章8節
「終わりの時」はある時を示す句であり、継続する時間を述べているのではありません。
「後の時代」についてはテモテの手紙第一の中においても述べられています。
パウロは、ヨハネの様にヨハネのいう時について述べていません。
ちがう言い方をするとクリスチャンはいつもこの「終わりの時--危急の時」を生きてきました。
それゆえに、何を信じるか、なぜそれを信じるかをあなたが知ることは重要なことなのです。
二つ目の言葉、「反キリスト」は聖書の中でヨハネだけが使っています。
(ヨハネの手紙第一 2章18節、22節、4章3節、ヨハネの手紙第二 7節)
それは、3つのことを述べています。
1、キリストを反対する、もしくは否定する世にある霊。
2、偽の教師を具体化する霊
3、世の終わりに現れ、キリストに対して反乱を起こす人
反キリストの霊(ヨハネの手紙第一4章3節)は、すでにサタンが神に宣戦布告した時から世にいたのです。(創世記 3章)
反キリストの霊はあらゆる偽りの教理、そしてあらゆる宗教の後ろに隠れています。
それはキリストを持つクリスチャンの現実の歩みを入れ変えてしまうのです。
その接頭辞の「反—anti(アンチ)」には実際には二つの意味があります。
その意味はギリシャ原語でキリストに「反抗して」という意味とキリストの「変わり」にという意味があります。
逆上しているサタンは、キリストとキリストにある永遠の真実と戦っています。
そして、私たちの主イエスにだけに見つけられる「現実の歩み」の偽ものを作り、サタンは代用するのです。
「反キリストの霊」は今日、世にあるのです。
そのことは最後に「悪魔的のスーパーマン」の現れに導かれ、その者こそが、この聖書で反キリストと呼ばれる者なのです。
彼は「罪の人」、もしくは「不法の人」と呼ばれています。
(テサロニケ人への手紙第二 2章1〜12節参照)
この節は今日の世にあって働く、二つの戦力について説明しています。
真実は聖霊によって教会を通して働き、悪はサタンの力によって働いています。
クリスチャンの中に住む聖霊は不法を取り除いています。
しかし、教会が携挙(空中再臨)によって取り去られる時、サタンは一時的に勝利を完成して世界を手に入れます。
(ヨハネはこの世の支配者とこの支配者の悪のシステムについて黙示録の中で、特に13章1〜18節、16章13節、そして19章20節の中でより詳しく言っています。)
あなたが何を信じるかによって何か違いが生じるのでしょうか?
それはこの世界の中であらゆる違いを作るのです!
あなたは危急の日、終わりの時に生きているのです。
そして、反キリストの霊は世の中に働いているのです。
あなたが真実を知り、信じ、そして誤りを見破ることはきわめて重要なことです。
その時、彼らはあなたの方へ来るでしょう。
彼らは反キリストの霊にコントロールされているのです。
第六章 偽証者 ヨハネの手紙第一3章1〜10節
「私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。
罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。
キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。
だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。
子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。
罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。
だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。
そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章1〜10節
米国財務省の特別なグループの人たちの仕事は偽札造りを追跡して捕まえることです。
当然、彼らが偽札を見るとき、それが偽札である知識が必要になってきます。
どのように、彼らは偽札を確認することを学びますか?
不思議なことに、偽のお金を調査している時には訓練されていません。
むしろ、彼らは本物のお金を研究しているのです。
彼らは本物のお金になじんでいます。
それは彼らが何度も本物のお金を見ることによって偽物を見つけることができるようになる為です。
単純な感覚です。
これはヨハネの手紙第一3章で教えられていることであり、この警告は私たちに今日の世界にあってなされていることです。
そこに偽のクリスチャンがいるからです。彼らは悪魔の子です。
(ヨハネの手紙第一3章10節参照)
しかし、悪魔の子の邪悪な特徴を列記する変わりに、聖書は私たちに神の子供のはっきりとした特徴を述べており、この二つははっきりと対比できるのです。
ヨハネの手紙第一3章10節はこのことを述べている重要な節です。
真実な神の子は義を行い、自分と違いがあるにもかかわらずに他のクリスチャンを愛します。
ヨハネの手紙第一3章1〜10節で最初に取り上げられた内容と3章11〜24節でもう一度取り上げられています。
義を行い、兄弟を愛する。それはもちろん新しいテーマではありません。
これら二つの重要な主題は、ヨハネの手紙第一の、最初の2章にて取り扱われたものですが、3章において違うことが教えられています。
最初の2章において強調されていたのは交わりでした。
神と交わるクリスチャンは義を行い、兄弟を愛します。
しかし、ヨハネの手紙第一3〜5章では子であることが強調されています。
それは、クリスチャンが「神から生まれた」者だからです。
その者は義を行い、兄弟を愛します。
「神から生まれた」という考えはヨハネの手紙第一2章29節、3章9節、4章7節、5章1、4、18節)に基礎を置いています。
あなたが英語でKJV聖書のヨハネの手紙第一3章1〜10節を読んでいるのなら、6節と9節に驚くかもしれません。
それは1章8〜9節と矛盾しているように思えるからです。
KJVで翻訳されたこの動詞は正しくありません。
ギリシャ原語で書かれている本当の意味は次のとおりです。
「キリストのうちにとどまる者で罪を習慣として行う者はだれもいません。罪を習慣として行う者でキリストを見て、知るものはだれもいません。」
ヨハネの手紙第一3章6節 (著者の意見を参照にして訳者原語私訳)
訳者注)
ヨハネの手紙第一3章6節
KJV
"Whosoever abideth in him sinneth not: whosoever sinneth hath not seen
him, neither known him. "
新改訳聖書
「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」
神から生まれた者で罪を習慣として行う者は誰もいません。---その人は神から生まれたので彼は罪を習慣として行うことは出来ません。
ヨハネの手紙第一3章9節 (著者の意見を参照にして訳者原語私訳)
訳者注)
ヨハネの手紙第一3章9節
KJV
Whosoever is born of God doth not commit sin; --- and he cannot sin, because he
is born of God.
新改訳聖書
だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。---その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。」
それは時より犯してしまう罪に対して述べているのではありません。
クリスチャンは決して罪がない者ではありません。(ヨハネの手紙第一1章8〜10節参照)
しかし、真実のクリスチャンが罪を犯さないことを期待します。
常習的に罪を犯すことはありえません。
聖書で言及されている、あらゆる偉大な人たちがかつては罪を犯しました。
アブラハムは、彼の妻についてうそをつきました。
(創世記12章10〜20節参照)
モーセは我を失い、神に背きました。
(民数記20章7〜13節参照)
ペテロは三回、主を否定しました。
(マタイによる福音書26章69〜75節参照)
しかし、これらの人たちの罪は習慣的に行われたのではありません。
それらは彼らの人生にあって事件であり、習慣的に行われていることとは全く逆の行為です。
そして、彼らが罪を犯した時、彼らはこれらの罪を認め、神に罪を赦しを求めました。
救われていない人(もし、彼がクリスチャンであることを告白しても信じていないのなら)は習慣的な罪の生活を送ることができるのです。
罪--特に不信仰は--彼の生活においては日常茶飯事なのです。
(エペソ人への手紙2章1〜3節参照)
彼には神に頼る力の源がありません。
彼の信仰の告白は、もしいくらかでもあるとしても、それは本物ではありません。
この違いはヨハネの手紙第一3章1〜10節において認識できる違いです。
真実なクリスチャンには習慣的な罪の中を生きません。
その人は罪を犯すかもしれません。
時より、不正な行いを--しかし、その人は習慣的な罪を犯しません。
--習慣的な罪を置くことをしません。
その違いは、真実なクリスチャンは神を知っているということです。
偽のクリスチャンは神について話すかもしれません。そして宗教的といわれる活動に参加するかもしれません。
しかし、その人は本当の神を知りません。
キリストにある信仰を通して神によって生まれた者は父なる神、子なる神、聖霊なる神を知っています。
そして三位一体なる神を知っているので、その人は服従の人生を送ります。
その人は罪を習慣的に行ないません。
ヨハネは私たちに聖い生活を過ごすために、3つの秘訣を与えています。
第七章 愛、または死 ヨハネの手紙第一3章11〜24節
互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。
カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。
兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。
私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。
兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。
それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。
たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。
愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、
また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。
神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。
神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章11〜24節
ヨハネは同じ3つの話題に、繰り返し戻り続けるので、ヨハネの手紙は螺旋階段にたとえられます。
愛、服従と真実。
これらのテーマが繰り返されるけれども、単にこれらが、くどく繰り前しているだけの真実ではありません。
私たちがこの話題に戻るたびに、違った観点からこれらを見ることが出来、より深く学ぶことが出来ます。
私たちはすでに他のクリスチャンへの私たちの愛について学びました。
兄弟(-the brethren-ヨハネの手紙第一2章7〜11節)
しかし、ヨハネの手紙第一2章において「交わり」が強調されていました。
クリスチャンは光の中を歩む者であり、兄弟に対する愛を実践することにより証明されます。
私たちの現在学んでいる個所で、クリスチャンと他のクリスチャンとの関係が強調されています。
クリスチャンは神によって生まれたので、互いに愛し合っています。
そして、キリストにあってすべての者を兄弟、姉妹にしたのです。
服従と愛は、兄弟として子としての証拠となります。
私たちは神の子が義を習慣的に行うことを覚えておかなければなりません。(ヨハネの手紙第一3章1〜10節)
さて、私たちは兄弟への愛の問題に目を向けるべきです。(ヨハネの手紙第一3章11〜24節)
この真実は反対の立場をとって最初に述べられています。
「義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章10節
交わりという項目(ヨハネの手紙第一2章7〜11節)の中に、私たちは兄弟を愛することは光と闇の問題であると話します。
もし、私たちがお互いに愛し合わないのならば、どんなに私たちの告白が大きなものだとしても私たちは光の中を歩んでいません。
しかしこのヨハネの手紙第一3章11〜24節にある兄弟間の問題は、より深くこの手紙が詳細に調べ上げています。
私たちは兄弟を愛することは命と死の問題であると話します。
「兄弟を愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一3章14節
この愛の問題に関して言えば、4つの可能な「関係におけるレベル」があります。
いわば、その人が生きるようになるためです。
それは人殺し(ヨハネの手紙第一3章11〜12節)、憎悪(ヨハネの手紙第一3章13〜15節)、無関心(ヨハネの手紙第一3章16〜17節)、クリスチャンの哀れみ(ヨハネの手紙第一3章18〜24節)です。
最初の二つはクリスチャンのことを述べているのではありません。
三番目はややクリスチャンについてです。
そして最後の「クリスチャンの愛」だけがまったく矛盾していません。
第八章 愛の真相の究明 ヨハネの手紙第一 4章1〜16節
愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。
子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。
彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。
私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。
愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 4章1〜16節
私たちは愛の主題を考えるのは、三度目です。
これはヨハネが考えが尽きたのでなく、彼自身が繰り返していることを意味しています。
それはヨハネに聖霊が霊感を与えたことを意味しています。
その方法により、もう一度、より深い見解からその主題を提示しています。
最初に、神との交わりの証拠として兄弟への愛を示しました。(ヨハネの手紙第一2章7〜11節)
それから、子としての証拠として示しました。(ヨハネの手紙第一3章10〜14節)
前の節で、兄弟への愛が光と闇の問題でした。
次に死と命の問題です。
しかし、ヨハネの手紙第一 4章7〜16節で、私たちはもっと根本的な問題に取り組みます。
ここで私たちは、なぜ愛がこのように現実の命の一部として重要なことなのかを見つけます。
愛は私たちの交わりの、そして子としての有効なテストです。
それは神が愛だからです。
愛は神の存在と性質の、大切な要素だからです。
もし、私たちがキリストにある信仰を通して神につながるのなら、私たちはキリストの性質を共有します。
そして、神の性質が愛であるゆえに、愛は私たちの霊的な命の現実的なテストなのです。
航海士はコースを決めるためにコンパスを頼っています。
しかし、なぜコンパスに頼るのでしょうか?
それは航海士に方角を示すからです。
そして、なぜコンパスはいつも北を示しているのでしょうか?
それは地球を構成する要素である磁場に反応して、コンパスの針が指すのです。
コンパスは地球の性質に反応しているのです。
そう、クリスチャンの愛も同じです。
神の性質は愛です。
そして、その人は神を知り、神によって生まれ、神の性質に反応するのです。
コンパスが自然に北を示すように、クリスチャンは自然に愛を習慣的に行うのです。
それは愛が神の性質だからです。
この愛には強いられる責任ではありません。
それは自然な応答です。
ヨハネは神についての3つの根本的な現実を私たちに与えることにより、これらの忠告を支持しているのです。
第九章 愛、尊敬、そして服従 ヨハネの手紙第一 4章17節〜5章5節
このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。
イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。
私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 4章17節〜5章5節
新郎と新郎のフィアンセが結婚式の計画について牧師と話し合いをしていたので、新郎は極めて神経質になっていました。
「結婚式の誓いのコピーを見たいです」と青年が言いと、牧師は彼にプログラムを手渡しました。
彼は慎重にそれを読んで、返し、そして言いました。「ここに彼女が私に従うことについて何も書かれていないので、このようなことはしたくありません!」
彼のフィアンセも微笑み、彼の手を取り、言いました。
「愛しているから、従うという言葉はこの本の中に書きません。そのことはすでにわたしの心の中にある愛に書き込まれているのです。」
これはヨハネの手紙第一の中に見える真実です。
この箇所まで、互いにクリスチャンが愛し合うということに重点を置いてきました。
しかし、ここで私たちは深く、そしてより重要な論題に立ち返りましょう。
それはクリスチャンの御父への愛です。
私たちが私たちの天の父を愛することをしない限り、私たちは私たちの隣人または兄弟を愛することができないのです。
私たちは最初に私たちにすべてのこころをもって、神を愛さなければならないのです。
この項目のキーワードは完璧です。
神はイエスキリストの私たちへの愛と私たちのキリストへの愛を、私たちにあって完成させたいのです。
その完璧な言葉は成熟した、完全な考えに至ります。
クリスチャンがただ恵みと知識においてのみ成長するはずです。(ペテロの手紙第二3章18節)
しかし、そのクリスチャンは同様に御父へのキリストの愛によって成長します。
彼への御父の愛に答えてその人は成長するのです。
どれくらい私たちは神を愛しているでしょうか?
私たちのために神の御子が死ぬために送られたということが、私たちには十分な出来事なのです。(ヨハネによる福音書3章16節)
神はキリストを愛しているのと同様に、神は神の子供を愛しています。 (ヨハネによる福音書17章23節)
そして、イエスは神の子供であるために、神が子を愛す愛を父が欲していることを私たちに語っています。(ヨハネによる福音書17章26節)
別の言い方をすると、クリスチャンの命は神の愛にあって日々成長を経験することです。
それは、彼が愛の中で成長するとともに、より深い方法で天の御父を知るためにクリスチャンが至るべき必要があるのです。
クリスチャンの命を断片化し、そしてその全体の姿の代りに小さな断片に心を奪われることは簡単です。
あるグループは「聖め」を強調するかもしれません。
そして、罪を越えた勝利を得るためにそのメンバーを促すでしょう。
別の者は証言すること、もしくは世との分離を強調するでしょう。
しかし、それぞれ者が、何か他の副産物を強調しているのに過ぎないのです。
クリスチャンは父のために成長する愛を持っています。
成熟したクリスチャンの愛は、神の人々の中で偉大な変わらない必要なのです。
どのようにして、クリスチャンは御父への愛が完成されていることを知ることができるのでしょうか?
このヨハネの手紙第一の段落では4つの証拠を提示しています。
第十章 あなたは確実に何を知りますか? ヨハネの手紙第一 5章6〜21節
このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。
あかしするものが三つあります。
御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。
もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。
神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。
そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。
不正はみな罪ですが 、死に至らない罪があります。
神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。
私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 ヨハネの手紙第一 5章6〜21節
ベンジャミン・フランクリンは「死と税金以外に何も確定したことはありません。」1789年にこう書きました。
もちろん、フランクリンのような博学な人は同様に確かに他の多くのことも知っていました。
クリスチャンも同様にそこに多くの確かなことを知っています。
霊的な真実の確かなこと--クリスチャンは恐れずに「私たちは知っている!」と言うことが出来ます。
それは現実です。
その言葉をヨハネの短い手紙の中で39回、この終わりの章では9回使っているのを知っています。
人はこの確かなことを深く欲しようとします。そして人は確かな何かを見つけ出す努力としてオカルトにさえ手を出します。
牧師と夕食を食べているビジネスマンは彼に言いました。
「あなたは通りの向こう側にオフィスを見ますか?」
そこにこの町で最も影響力がある財界人の何人かが座っています。
彼らの多くは占い師に意見を聞くために定期的にここにやって来ます。
彼女は今ではここにいません。
しかし、数年前までは、この部屋の中で、男たちが彼女に相談するために期待し、何百万というドルを数えていました。
「その命は現実にイエス・キリストの中に見つけられる神の確かさの上に建てられました。」
しかし、それは「私は知っている」と言うことから彼を守ることはしません。
私たちは、このヨハネの手紙の最後の章の中で、5つのクリスチャンの確かなことを見つけました。
その確かなこととは、私たちの命を自信をもって建て上げられることが出来るのです。