メッセージBC 2025/10/23
エレミヤの預言と哀歌に関する注解
「涙を流す預言者」
NOTES ON THE PROPHECY AND LAMENTATIONS OF JEREMIAH
“The Weeping Prophet”
H. A. Ironside
目次
1928年版への序文
序文
導入
第1章 選ばれ、備えられた器
第2章 懇願と警告
第3章 悔い改めを条件とした未来の栄光
第4章 「神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。」
第5章 焼かれた枝とヨルダン川の増水
第6章 傷ついた帯「あなたはいつまでたっても、きよめられないのか。」
第7章 物質的および霊的な飢饉
第8章 血があるべきところにある罪
第9章 陶器師の家からの教訓
第10章 パシュルの新しい名前と預言者の嘆き
第11章 預言された包囲と捕囚
第12章 70年間の捕囚と主の怒りの杯
第13章 危険と救い
第14章 束縛とくびき
第15章 捕囚への手紙
第16章 ヤコブの苦難と最終的な回復
第17章 神の証しのための投獄
第18章 自由の代償としての束縛
第19章 レカブ人の家
第20章 記録に残る最初の破壊的な批評家
第21章 エルサレムの陥落
第22章 イシュマエルの裏切りとエジプトへの逃亡
第23章 バルクと私たちすべてへの言葉
第24章 諸国民に対する主の御言葉
第25章 バビロンの滅亡と残された者の救い
第26章 歴史に関する付録
第27章 エルサレムの荒廃
第28章 主の怒りの日
第29章 「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。」
第30章 失われた純金の輝き
第31章 主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御座は代々に続きます。
付録 I
付録 II
1928年版への序文
約22年の歳月を経て、本書は再版されることになりました。
出版社から、本書を注意深く読み直し、すべての訂正を行うよう依頼されました。
希望に応じて、本書を印刷する前に、私が訂正を行いました。
ところどころにわずかな変更を加えましたが、10箇所以上がいままで変更されておらず、より明確にするために数文を追加しました。
教えに関しては、変更すべき点が何も見当たらないことに、私自身驚きました。
そして、何よりも神に心から感謝します。
何年も前に受け入れた解釈の原則は、現在も、かつてないほど明確に感じられます。
本書の教えの大きな概要は、年月を経てようやく私の心に確固たるものとなりました。
神の恵みにより、私は今日も、約30年前にこの「ノート」を書き始めた当時と同じ考えを持ち続けています。
本書の教えの正しさを、これまで以上に確信しており、本書が神の真理を示され確信をもって、再び本書を世に送り出します。
H.A.アイアンサイド
1928年9月
序文
本書は、エレミヤ書と哀歌の注解よりも、むしろ5年近くにわたる多忙な生活の中で、断続的に書き留められた黙想による一連の研究から成り立っています。
そのため、本書の内容の多くは断片的なものです。
本書は解説的にも文学的にも未完成のように見えるかもしれません。
しかしながら、主の民の良心を鍛え、霊的な愛情を活気づけるのに役立つとともに、多くの人にとって未開の地とも言える聖書の一部分を解き明かすのに役立つことを願っています。
章の配列が年代順とは全く無関係であるため、研究者はこれらの書を注意深く調べるのに困難を感じています。
さまざまな方々の助けとなるよう、本書の巻末では、様々な預言と歴史的出来事を真実な関係性を示すように努めました。
それぞれの部分について権威ある見解を述べることは不可能であり、考え深い読者であれば、ここで提示されている順序をさらに改善できるかもしれません。
重要な預言章(30章、31章、50章、51節)は、他の章よりも詳しく扱われています。
これは、神がイスラエルとユダと過去、現在、そして未来にどのような関係を築いてきたことに(最初の2章がこのことに関連しています)、多くの誤解が存在するためです。
また、文字通りのバビロンの再建に関して、私たちの考えでは根拠のない憶測も数多く存在します。
これらの憶測は、後半の2章で十分に満たされていると私たちは信じています。
本書は批判的な学者のために書かれたのではなく、キリストの群れの羊と子羊たちのための適切な奉仕となることを願って出版しました。
著者は、J・N・ダービー氏が彼の優れた(Synopsis of the Books of the Bible)の中でエレミヤと哀歌の概要を述べていることに感謝したい。
J・B・ストーニー氏の(Discipline in the School of GOD)の中のエレミヤについての短い論文からも引用されています。
集まりの長が、これらのページを、主の民の多くが真実な益を得るために、主の誤りなき御言葉の一部を明らかにする助けとしてくださいますように。
― H・A・アイアンサイド 1906
導入
エレミヤ書の研究を始めるにあたって、この預言者の中で繊細な書を余すところなく解説しようとは思っていません。
ただ、これらの書を読み進めていく中で特に心に刻まれたことを書き留め、他の人々、特に若いクリスチャンが私と同じようにその恩恵を得られることを願うだけです。
詩的な付録を伴った預言は、聖書の中でもたましいを揺さぶる感動に満ちた部分です。
預言を単に未来を預言するもの(特にメシアの王国の栄光を明らかにするもの)と考えるならば、イザヤ、エゼキエル、ダニエルといった主要な預言者たちと並んで一般的に分類される人物ほど、その内容は豊かに存在していません。
預言はイザヤのような荘厳さも、エゼキエルのような広大な幻も、ダニエルのような驚くべき比喩性も持ち合わせていません。
これらの特徴はどれも、主に良心に訴える一連のメッセージには期待できません。
しかし、新約聖書における預言の意味、つまりたましいを神の御前に導くものと考えるならば、ここでまさにそれが適応できることがすぐに分かります。
エゼキエル書についても大部分において同じことが適応されますが、最初から民は見放され、完全に背を向けていたように思われます。
彼らの一部はすでに捕虜となっていて、預言者自身の場合も同様です。(エゼキエル書1章1節)
しかしエレミヤ書では、少なくとも書の前半では、さまよう心を彼らが見捨てた方のもとへ呼び戻すことを目的とした働きが明らかに見られます。
今、私たちの前に立ちはだかるのは、すでに予告されていた裁き(列王記第二22章12~20節)を延期する手段として、彼らを神のもとへ復帰させることです。
これがこの書全体の特徴となり、その特徴を際立たせています。
エゼキエル書において描写されているもの――シェキーナがゆっくりと、そしてしぶしぶ立ち去っていく様子(10章4、18、19節は、エゼキエル書の前半部分では、民の堕落した状態を深く悲しむ、優しい心を持つ預言者の、聖霊による真摯な嘆願と良心を喚起する懇願によって、私たちの前に示されています。
私は、エレミヤとネヘミヤに見られる特徴的な類似性に、しばしば心を打たれてきました。
* 両者とも、神の民と街に対する同じ熱烈な愛によって動かされていました。
* 二人とも砕かれ悔いる心を持った人であり、主の御言葉に震える人でした。
二人とも非常に感動しやすい人であり、よく涙を流しています。
後期のしもべよりも、おそらくより高潔な性格で、より自分を忘れる傾向が見られます。
例えば、ネヘミヤはこのように言っています。
「私の神。どうか、このことのために私を覚えていてください。
私の神の宮と、その務めのためにしたいろいろな私の愛のわざを、ぬぐい去らないでください。」
(ネヘミヤ書13章14節)
これは何度も呼び戻される心情です。
エレミヤはこのようには語っていません。
自分のメッセージが拒まれ、ユダの悔い改めの望みが消え、彼らが彼に対して邪悪な策略を巡らせているのを見て、かつて彼は叫んでいます。
「私があなたの御前に立って、彼らに対するあなたの憤りをやめていただき、彼らについて良いことを語ったことを、覚えてください。」
(エレミヤ書18章20節)
しかしながら、彼は他のしもべほど生まれつき勇敢な男ではありません。
彼の心の弱さは何度も明らかにされたが、これは(ギデオンとエズラの場合のように)神がその力を現すより良い機会を与えるだけです。
「私が弱いとき、私は強い」のは、「力ある方」に頼る「弱さに抵抗した力」です。
ネヘミヤもまた、バビロニアのくびきに服従するよう勧めた人物というよりは、いわゆる愛国者だったように思われます。
しかし、この点において、両者がそれぞれの時代に神の御心を持っていたことは明らかです。
一方は衰退と背教の道の終着点に立っており、もう一方は一時的な回復と祝福という新たな時代の始まりに立っていました。
どちらも神の人でした。
私たちも、神の恵みがそれぞれにもたらしたものに倣うことができますように。
さて、エレミヤ書そのものについて考えてみると、それは自然に二つの主要な部分に分かれており、もちろん同じように聖霊の霊感を受けてはいるものの、後代の人によって付録が加えられていることに気づきます。
1章から24章では、過ちを犯し反抗的な民に対するヤハゥエの哀れみ深い嘆願が語られます。
この部分は、出来事を預言することよりも、倫理的な内容が強調されています。
25章から51章では、以前のメッセージが拒否された結果、ネブカドネザルを通して神が下した裁きについてさらに詳しく説明されています。
ただし、70年間の捕囚期間が終了したときに未来の祝福と回復が約束されています。
メシアが断たれて以来の現在の散乱期間全体は、沈黙のうちに過ぎ去っています。
「ここまではエレミヤの言葉です。」
52章は、預言されながらも長らく延期されてきた裁きの執行に関する歴史的記述です。
列王記第二24章18~20節、25章1~17節と比較してみてください。
最後の節は、復讐の預言がこのように成就したように、回復の預言も成就することを暗示しています。
なぜなら、ヨヤキンは獄中で死ぬことを許されず、バビロン王の寵愛を受けるからです。
これは、これから起こることの真剣さを示すものです。
哀歌の中で、私たちは悲しみに暮れる預言者が、自ら預言した事が成就したことを嘆き悲しむ、心の吐露を聞くことができます。
もし、民が救われていたなら、この神の愛するしもべが、自分の預言がすべて偽りとなり、自らが恥をかくことをどれほど喜んだことでしょうか!
この点において、彼はヨナとは幸いなことに異なっています。
ヨナは、悔い改めたニネベの人々に恵みが示されたときに、おそらくは自分の預言者としての評判を犠牲にして、あるいはイスラエルが苦しめられたニネベが罰を受けずにはいられない望みを捨てて、怒ったのです。
エレミヤの悲しみをさらに深くしているのは、反抗的でかたくなな民が受けるべき報いであったにもかかわらず、彼はそれでもヤハゥエに救いと新生を求めています。
「主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。」
(哀歌5章21節)
ああ、今日、群れの羊や子羊を世話しようとする人々が、この愛すべき神のしもべの特徴である愛と自己犠牲にもっと目配りできれば良いと思います。
その者の心は拒まれて傷つくことはなく、侮辱と屈辱を浴びせられるほどに、愛が深まりました。
まさに、真実の悲しみの人そのものです。
実際には、ラビたちはエレミヤに苦しむ忍耐を見出そうとしているのを、イザヤ書53章から見出そうとしていました。
私たちが知っているように、このような言葉が本当に適応できるのはただ一人だけです。
しかし、それは多くのことを物語っています。
深い深い悲しみの中で、エレミヤは愛をもって耐え忍びました。
それは、エレミヤが「だれかほかの人」(使徒の働き8章34節)だとし、キリストを拒む研究者たちがカルバリの聖なる受難者の代わりに置きました。
私たちも地上において、主の祝福された道にますます従うことができますように。
主は「御子の足跡に従うべき模範を私たちに残してくださ」いました。
第1章 選ばれ、備えられた器
(1章)
エレミヤが預言者として召された話は、非常に教訓的で、非常に興味深いものです。
考え深い読者は、エレミヤがいかに人間味にあふれた人物であり、そして、主がいかに寛大で哀れみ深き御方なのかを、すぐに感じ取ったと思います。
主の教えを背教した民に伝える使命を与えられたしもべには、後ずさりと震えしかありません。
それはせいぜい報われない仕事だと思います。
なぜなら、神から離れ、しかも自分の境遇を知らないことを誇らしげに受け入れている人々は、光を当てて物事のありのままを明らかにしようとする人に、大抵感謝を示さないものだからです。
一般的に、道に迷った聖徒たちの必要を満たすよりも、あわれで失われた罪人たちに福音を宣べ伝える方が、はるかに楽しく、心地よい仕事です。
神の前で自らが非常に卑しい者でなければ、これを成功させることはできません。
兄弟の足を洗おうとすれば、身をかがめて行わなければなりません。
しかし、すべての真実な奉仕と同じ様に、この奉仕においても人は神に頼らなければなりません。
神は、使者を遣わす時、その使者が話すべき言葉をその口に授けることは行いません。
また、神がその召使いに適格と認めない奉仕を命じることもありません。
同様です。
彼は復活の神に信頼を置くべきです。
かつて、神は乾いた木から芽を出し、花を咲かせ、アーモンドの実を実らせました。
そして、愚かな者、弱い者、卑しい者、軽く見られた者を喜んで取り上げ、それらを用いて賢い者、力ある者、高貴な者を辱め、この目的のためなのです。
「神の御前でだれをも誇らせないためです。」
(コリント人への手紙第一1章26~29節)
これが神の行動の奥義です。
主の御前に礼拝することは、主の恵みによって主のもとに導かれたすべての人々にでき、またそうすべきです。
主を賛美し、礼拝することは自由にできますが、主の前で栄光を現すことはできません。
すべての人は、自分たちが哀れみの器に過ぎず、受けていないものは何も持っていないことを認めなければなりません。
そして、主は常に与え主でなければなりません。
「受けるよりも与えるほうが幸いである」からです。
救われた罪人がさらに祝福された部分を持つことは不可能です。
ですから、神が頼りにされるのは、聡明な人でも、自己満足や自信に満ちた人でもありません。
神は、空になった器を満たし、それを御自分に都合よく用いることを常に喜びとされます。
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。
それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」
(コリント人への手紙第二4章7節)
それで、この予備的な章を少し注意深く見てみると、主の御言葉がエレミヤに与えられた時、彼は明らかにかなり若者(エレミヤは「子供」と言っています。7節)であったことが分かります。
エレミヤ自身もまだ若者で、治世13年目であり、邪悪な父アモンの後を継いでユダの王となった時、彼はまだ8歳でした。(歴代誌第二34章1節)
*これは御使いがゼカリヤに言ったのと同じ言葉です。
「あの若者にこう告げなさい。」
(ゼカリヤ書2章4節)
預言者の宣教活動は、王たちの治世下で40年以上にわたりました。
王族がユダとその君主たちのもとを去り、何千人もの民が捕囚となった後も、預言者は、まだその地に残された「群れの中の貧しい人々」の間で神のために立っており、以前は服従を促し、神の遺産を荒廃させることを許したまさにその勢力の滅亡を待ち望んでいました。
神の召しを受けて主の御言葉を公に宣べ伝える以前の彼の幼少期については、確かな記録は残っていません。
聖書は彼について沈黙しており、後年の宣教活動について時折述べられている(歴代誌第二35、36章)のみです。
もし、裏付けが必要であれば、現存する書物における彼自身の記述がそれを裏付けています。
彼の父の名はヒルキヤ、彼の奉仕は祭司、故郷はベニヤミンのアナトテです。
これらは最初の節で語られていますが、詳細は不明です。
人々は、後に名声を得る人々の教育や幼少期について知りたいと思うかもしれません。
しかし、神は単なる空虚な好奇心を満たすためだけに、そのようなことをなさることはありません。
たましいが真実に神と共に始まるまでは、神の事柄はすべて無意味です。
この若い祭司にとって、その忘れ難い時期(彼が自覚して神と共に歩まなければならない時期)は明らかに上記の年月の頃でした。
バプテスマのヨハネと同じ様に、彼は生まれる前から聖化され、堕落したユダだけでなく諸国民の預言者として任命されていました。
しかしながら、彼がこの時まで自分の尊い使命を認識していたかどうかは分かりません。
すでにこの国には、少なくとも外見上は、ある程度の回復と祝福が見られていました。
ちょうど1年前、ヨシヤはユダとエルサレムから偶像崇拝の残骸を一掃し始めていました。
マナセは謙虚になり悔い改めたにもかかわらず、その残骸を取り除くことはできず、悪名高く謙虚さを欠いたアモンは偶像崇拝を助長し、支持していました。
律法の書はまだ回収されておらず、7年ほど経ってから回収されました。(歴代誌第二34章)
その貴重な書物は、まだ修復されていない主の宮に(きっと、それ以前の暗黒の時代に、ある忠実な人が安全に保管していたと思われます)隠されていました。
主の時が来れば、書き記るさせ、見守ってきた主が、律法の書を世に出します。
その時まで、そして後に、その書に関連していることを、主は預言者を通して語られます。
ここで、私たちが持っている他の預言者たちの著作との関係において、エレミヤの立場に注目するのはよいことかもしれません。
言い伝えが真実であるならば、イザヤがエルサレムで主を崇拝すると告白していた人々の父祖たちによって鋸で切られてから、約1世紀が経っていました。
ヘブル人への手紙11章37節を参照にしてください。
* ホセア、ヨエル、アモス、ミカ、ナホムは、いずれも少なくともイザヤと同時期には、はるか前に姿を消しており、国民は相変わらず頑なになっていました。
* ゼパニヤとハバククはともに存命でしたが、彼らが「互いに語り合う」特権を持っていたのかは何も書かれていません。
* エゼキエルとオバデヤも彼の晩年の同時代人であったが、バビロンの捕虜の中にはエゼキエルだけがいました。
* ダニエルはその後、征服者たちの宮殿で預言をしました。
ご存知のとおり、彼は偉大な先駆者の著作を研究し、この書物から捕囚期間が70年と定められたことを知りました。
* ヨナは他のどの人物よりもずっと先に存在していました(列王記第二14章25節)が、異邦人の大都市ニネベへの使命以外の彼の働きについては、何も知られていません。
* 残りの三人の小預言者、ハガイ、ゼカリヤ、マラキは、彼らの土地に復帰した残された民に主のメッセージを伝える者でした。
エレミヤ書と最後の書の間には、一般的に約300年の期間が適応されています。
さて、この章に戻りましょう。
主がエレミヤにどのような言葉を語られたのかは、私たちには分かりません。
突然、このように告げられます。
「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」
(エレミヤ書1章5節)
すぐに神の主権が彼の前に示されました。
エレミヤは最初から、自分が関わるべきは永遠、全知、全能の主であることを理解させられました。
生まれながらの人間はこれに尻込みするかもしれませんが、聖徒のたましいはこれを深く心に書き記し、喜びに満たされます。
「大昔からこれらのことを知らせておられる主が、このように言われる。」
(使徒の働き15章18節)
神にとって、何事も不意打ちとなることはありません。
つまり、神には後付けの考えなどあり得ません。
すべては、実際に起こるはるか前から予見され、すべては備えられていました。
サタン、罪、そしてそれらに伴う悪は、神の目的を少しも妨げることはできません。
神は「みこころによりご計画のままをみな実現される方」なのです。
もし、罪の赦しがなかったら、神の恵みはどこにも現れていません。
もし、蛇が喜びの園に入ることを拒んでいたなら、十字架の栄光はどこにも存在しなかったのです。
悪は恐ろしいものですが、それは神の愛と恵みの驚くべき目的を浮き彫りにする暗い背景に過ぎません。
信者のたましいがこのことを理解し、それに安らぐのは良いことです。
たとえ、溢れる悪によってどれほど心がいらだち、妨害されようとも、永遠の平和、神の平和の中に留まる方がおられることを忘れてはなりません。
神は悪に無関心なのではありません。
私たちには見ることができませんが、愛する御子の栄光のために、すべての出来事がいかに祝福に満ちたものになるかを、神は見ておられます。
私たちの罪の意識によって、イエスの尊厳を捨ててしまうことがあります。
イエスを御使いよりも少し低い者と見てしまい、死の苦しみを受ける必要さえ無くなり、私たちのイエスに対する思いは大きく違ってしまします。
罪が私たちに仲介者を必要としないのであれば、私たちはイエスを人として知ることはありません。
イエスが主権的に救われることが必要な者となることを選ばれたなら、私たちはイエスを必要としていません。
ならば、イエスを主と呼ぶことしかできず、その尊い血によって私たちを神のもとへ贖われた救い主として知ることはありません。
ならば、私たちはイエスに感謝することもありません。
私たちの深く苦しい必要性によって、神の心を私たちに明らかにしました。
木の実を禁じられた時と、御自身の手で皮の衣を着せられた時とでは、アダムの主への思いは大きく異なっていたはずです。
キリストを通して神を知った者は、神の選びの愛について深く考えることを恐れる必要はありません。
それは、神の永遠の安全を保証するものにほかなりません。
まだ神を「父」と呼ぶことができない人々は、この愛にあずかる機会から締め出されているのかと疑う必要はありません。
なぜなら、神はすべての人にこう言われているからです。
「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」
(ヨハネの黙示録22章7節)
飲むのです。
そうすれば、他の誰にも必要とされていませんが、あなたのために用意された水であることを知るのです。
エレミヤへの主の御言葉は、詩篇139篇の美しい聖句を心に思い起こさせます。
紙面の都合上、全文を引用することはできませんが、その中から特に優れた部分を抜粋し、読者の皆様に時間と機会が許す限り静かに黙想していただきたいと思います。
1~5節で現在の状況に関して神の全知を認め、7~12節で神の遍在を認めた後、歌い手の心は神の予知の思慮深さを考えることに浸ります。
「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。
私のたましいは、それをよく知っています。
私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいません。
あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。
私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。
神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。
その総計は、なんと多いことでしょう。
それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。
私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。」
(詩篇139篇13~18節)
信頼するたましいは、確信をもってこの神に立ち返り、このように祈ることができます。
「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」
(詩篇139篇23、24節)
エレミヤは、はるか昔から主の関心と心つかいを確信していたので、その言葉に応えてこのように答えました。
エレミヤはこのように叫んでいます。
「そこで、私は言った。
「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」
(エレミヤ書1章6節)
しかし、創造する前から彼を知り尽くしていた神にとって、それが何の意味を持つことができるのでしょうか?
しもべを選ぶ時に、神は間違いを犯しません。
神自身が人の口を作ったのではないでしょうか?
そして今、あらゆる源を自らに有する神が、御自分の民の使者に委ねるというのでしょうか?
ああ、それは神らしくない行動です。
エレミヤ自身も理解していません。
肉に頼らず、神を完全に信頼するという偉大な教訓がエレミヤに示されなければなりません。
肉については、ある程度は既に理解していると考える人もいるかもしれません。
もし、彼が本当に理解していたなら、自分の無能さを思い返しても落胆することはありません。
それは単に自然な後進性であり、肉自体は実際には否定されていません。
そうでなければ、彼は能力がなくても悩むことも、能力があっても高揚することもなかったのです。
能力がなくても、神は十分でした。
しかし、能力があっても、神はすべてでなければなりません。
そうでなければ、何の役にも立ちません。
主の答えによれば、すべての責任は主が負います。
しもべはただ従うだけでよいのです。
彼は力の問題、そして新約聖書の言葉で言う「賜物」の問題に耳を傾けます。
「まだ若い、と言うな。」
(エレミヤ書1章7節)
つまり、自分自身については一切語ってはいけません。
霊的な事柄においては、巨人は幼児と同じ立場しか与えられていません。
偉大な者であることが何かを意味しているのではありません。
使徒パウロはこのように述べています。
「植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」
(コリント人への手紙第一3章7節)
この場合、植えたのはパウロです。
「わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。
彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ。――」
(エレミヤ書1章7、8節)
これで全てが決まりました。
後の預言者については、このように記されています。
「そのとき、主の使いハガイは、主から使命を受けて、民にこう言った。「わたしは、あなたがたとともにいる。――主の御告げ。――」」
(ハガイ書1章13節)
この民は、以前のエレミヤと同じように、弱り果てて恐れていました。
しかし、そのようなメッセージが宣べ伝えられるとすぐに、指導者たちとすべての民の霊が奮い立ったことが書かれています。
マルコが復活し昇天した主について最後に記録しているのは、宣教に出かけた人々と共に主が働かれたことです。
また、その後に続くしるしによって、御言葉を確証したのは主であったこともくりかえし注目されています。
このように、私たちが主のみこころのにおいて働くのであれば、私たちの弱い、もしくは強い自己かという問題ではなく、主御自身の問題となります。
その道具は弱いかもしれませんが、全能の御手によって支えられ、用いられます。
エレミヤの場合、人の口を造られた方は、御手を伸ばし、恐れおののくしもべの唇に触れ、こうして御自身の言葉を預言者の口に置かれました。
実際に、主はこのことによって、人を預言者にするのです。
イザヤの手腕は、おそらくいくつかの点でこれとは異なっています。
イザヤは自分の卑劣さと生来の堕落を悟っていました。
セラフィムは、裁きの青銅の祭壇から燃える炭火を携えて飛び立ちました。
そこでは、全焼のいけにえ(人間に対するすべての祝福された答え)が、神への甘い香りとして捧げられていました。
怒りは別の者によって担われ、自分のことを告白し悔い改めた罪人から罪と恐怖を取り除きます。
* イザヤにとって、その接触は清めを意味していました。
* エレミヤにとって、これは力について語っています。
清める者はまた奉仕としてもふさわしい存在です。
これは二人の預言者が私たちに与える二重の教訓です。
イザヤが奉仕にふさわしくないことではありません。
後の節(イザヤ書6章)が示すように、彼は奉仕にふさわしかったのです。
しかし、そこで強調されているのは、その点ではありません。
その後、エレミヤは諸国と諸王国を治める立場に任命されます。
彼は「引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる」(エレミヤ書1章10節)よう命じられます。
つまり、裁きと荒廃、転覆と破壊について語らなければなりません。
しかし、主の復讐は壮大で恐ろしいものとなるに違いありませんが、それは哀れみのない裁きではありません。
なぜなら、彼は回復と復興、祝福と新生についても語っているからです。
イスラエルを散らした方は、定められた時にイスラエルを再び集められます。
苦難の手が諸国民に重くのしかかろうとも、この時が必ず来ます
「わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」
(イザヤ書11章9節)
「まことに、水が海をおおうように、地は、主の栄光を知ることで満たされる。」
(ハバクク書2章14節)
これらすべては、次の幻で保証されています。
アーモンドの木の杖は民数記17章と関連して簡単に読み取れる象徴です。
それは「死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリスト」について語っています。
(ローマ人への手紙1章4節)
エレミヤは、自然の力がすべて尽きたときに介入する、復活の神として主を知るべきでした。
主がそのような方であるからこそ、まず破壊と根こそぎの働きにおいても、建てることと植えることは確実です。
ヘブル人はアーモンドを「急ぐ木」と呼びました。
冬の寒さが去ったばかりの頃に早く芽を出すからです。
「わたしは、わたしの言葉を速やかに成し遂げよう」というのが、この幻に対する神の答えです。(11、12節)
数年後、ハバククに御言葉が与えられました。
(前述のように、彼はエレミヤと同時代人です。)
「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。」
(ハバクク書2章3節)
ヘブル人への手紙の著者はこれを引用していますが、主人公を変えており、聖霊の導きによって、ある人物が私たちの前に連れてこられます。
「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。」
(ヘブル人への手紙10章37節)
預言者たちが預言した祝福をイスラエルとこの地にもたらすのは、主イエス御自身です。
私たちが今、天において完全な祝福を待ち望んでいるのは、まさにこの祝福された御方なのです。
恵みのうちに来られた時、急ぎの木の杖はイスラエルにとってただの枯れた棒で、価値のないものでした。
人々の目から隠されたまま、木の杖は「杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んで」、天の聖所に安置されました。
箱の中の杖は、復活した人が王座に座していることを物語っています。
民数記17章全体を参照にしてください。
どれほど早くそのようになるかは誰にも分かことはありませんが、やがて、軽視されていたイエスが栄光のうちに現れ、すべての国々はイエスの陰に喜び、イエスの実に力を見出します。
そして、その花の美しさに私たちの目は喜ぶのです。
「それは、なんとしあわせなことよ。」
(ゼカリヤ書9章17節)
それまでは、悲しいことに、「煮え立っているかま」(13節)があり、 「イエスを受け入れなかった」イエスの民はそこに投げ込まれています。
これは間違いなく、エジプトの煙の立つかまど(創世記15章)に似ています。
かつて、パロは彼らを圧制していました。
今やネブカドネザルが彼らを捕らえることになります(14~16節)
しかし、この幻の全容は明らかに、すべての国々がエルサレムに向かって集結するところまで続きます。
煮えたぎる鍋*は、ゼカリヤ書の最後の章で、その恐ろしさのすべてが描写されています。
「見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。
わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。
町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。
しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。」
(ゼカリヤ書14章1節)
* この点に関してはエゼキエル書24章2~14節も注目してください。
しかし、炎が激しくなり、人々が完全に焼き尽くされそうになった時、アーモンドの木である主が聖所に安置される前に立っていた場所にあるオリーブ山に再び立たれます。
「私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。」(5節)
(ゼカリヤ書14章5節)
杖と煮えたぎる鍋の幻を見たエレミヤは、単純でありながら、驚くべき表現力を持っています。
さらに励まされ、警告を受けます。
彼は困難な奉仕に備えて「腰に帯を締め」なければなりません。
主の前に立ち「わたしがあなたに命じることをみな語れ」(17節)と言われます。
彼が喜ばせるべきはただ一人であり、敵対者たちの顔色を伺っても尻込みしてはなりません。
彼らが屈服させようとも、彼は主の力によって立ち向かう限り「ユダの王たち、首長たち、祭司たち、この国の人々に対して、城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁」とされます。
もし、恐れるなら、それは彼がまだ血肉を滅ぼしていないことの証拠であり、彼らの前で彼は打ち負かされます。
もし、尻込みしないなら、彼らは彼と戦うかもしれませんが、勝つことはできません。
「わたしがあなたとともにいて、――主の御告げ。――あなたを救い出すからだ。」」
(ゼカリヤ書14章19節)
これがエレミヤの力となります。
エレミヤはこれに頼ることができました。
この約束は二度繰り返されています。
なぜなら、神は彼に完全な証言を与えることを計画しており、エレミヤは恐れる必要はないからです。(18、19節)
次の章では、彼が公の宣教に携わる様子が描かれます。
エレミヤはこれまで神と密かに交わっており、今や公然と人々に向き合う準備ができているのです。
第2章 懇願と警告
(エレミヤ書2章1節~3章5節)
エレミヤの民に対する最初のメッセージは、少なくとも記録された最初のものであり「私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」と言った者にとって、確かに注目すべきメッセージです。
雄弁さは言うまでもなく、真実な哀れみと優しさにおいて、これを超える聖書箇所を見つけるのは難しいと思います。
侮辱され、忘れ去られた主の切実な訴え、罪深い民への主の恵みと哀れみ、そして、もし、主のもとに心を戻さなければ恐ろしい日々が訪れるという厳粛な警告があります。
これら全てが合わさって、石さえも動かすほどのメッセージを構成しています。
しかし悲しいことに、頑固で強情なユダはこれに対し何の反応も示していません。
冒頭の言葉は驚くほど美しいものです。
「さあ、行って、主はこう仰せられると言って、エルサレムの人々の耳に呼ばわれ。
わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている。
イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。
これを食らう者はだれでも罪に定められ、わざわいをこうむったものだ。――主の御告げ。――」
(エレミヤ書2章2、3節)
神にとって民の最初の愛を思い出すことは大きな喜びです。
彼らの心は神に忠実であり、神が彼らの間に住むことを考えて、彼らのたましいに喜びがこみ上げてきます。(出エジプト記16章)
救世主であり、神であり、私たち自身も永遠に彼のものであると知った時、私たちの心の信頼が彼の恵みの中に確立された時、私たちにとっても同じことだったことを私たちはよく覚えているのではないでしょうか?
その時、私たちにとって神は偉大な存在だったはずです。
この世の多くのきらびやかな装飾品は貧弱なものに思えたはずです。
かつて、喜びとしていたすべてのものを捨て、イエスにおいて現された主を追い求めるために、私たちは喜んで出て行ったはずです。
主はこの光景とは別に、拒まれた方として存在しておられました。
ゆえに、私たちもこの光景から離れなければなりません。
かつて、私たちにとってエジプトの潤いのある平原であったものが、今や私たちの心にとって何もない、干からびて乾ききった砂漠のようになっていました。
私たちはこの上ない喜びをもって「私のすべての泉はあなたの中にあります」と叫び、「主の愛の中に見出される宝」として喜び歌いました。
その愛こそが、まさに「私たちを地上の巡礼者にした」のです。
キリストが初めて信仰によって私たちの心に住まわれた時、それは真実な輝かしく幸福な日々でした。
キリストが私たちのうちにあって喜び、私たちもキリストのうちにあって喜びを感じた日々でした。
しかし、私たちは自分自身に問いかけてみませんか。
今もそうですか?
イエスは過去を振り返って「私は覚えています」と言うでしょうか?
それとも、私たちがまだイエスのことで頭がいっぱいで、喜びの下にあるこれらのものすべてを喜んで数え、「わたしはあなたのために何かをしたい」と叫んでいるでしょうか?
ああ、そうでないなら大変なことです!
他のすべてのことがが順調に進んでいた時、黙示録にあるイエスが新しく設立された教会に対して最初に言った不満はこれです。
「あなたは初めの愛から離れてしまった。」
(ヨハネの黙示録2章4節)
そして雅歌にはこのように記されています・
「シオンの娘たち。ソロモン王を見に出かけなさい。御自分の婚礼の日、心の喜びの日のために、母上からかぶらせてもらった冠をかぶっている。」
(雅歌3章11節)
もし、私たちの喜びが大きかったなら、私たちの心が初めて主の手に渡った時、主の喜びも深かったはずです。
愛する者よ、私たちは今、私たちの実際の行い、そして私たちの行いの源である心の愛によって、主に喜びを与えているでしょうか?
それとも、私たちの冷淡な無関心、無情さのために、主の御霊は悲しんでおられるでしょうか?
これは冷たさよりも悪いことなのです。
これから述べる箇所にある、主のさらなる恵み深い御言葉に目を向けてみましょう。
「あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけて、わたしから遠く離れ、むなしいものに従って行って、むなしいものとなったのか。」
(エレミヤ書2章5節)
すべてを負っていた主が、彼らになぜそんな質問をされたのか、考えてみてください。
主は彼らを奴隷の身分から解放し、砂漠の地を無事に通り抜け、祝福の地にある彼らの相続地へと導きました。
美しい土地に彼らを定住させ、その果実と恵みを味わせたのです。
ああ、彼らはその土地を汚してしまいました。
* 彼らは神の恵みを好色に変え、神の遺産を忌まわしいものにしました。
* 彼らは益とならないものを追い求めました(4~8節)
恐ろしい告発です!
卑劣な恩知らずです!
愛する皆さん、私たちは自分自身に問いかけてみましょう。
私たちは彼らより罪が少ないのでしょうか?
いいえ、私たちはもっと大きな救済、もっと素晴らしい保護、もっと高価な相続財産を知らないのでしょうか?
それなのに、私たちの心もまた、むなしく無益な地上のものを追い求めてはいないでしょうか?
杉材、ヒソプ、緋糸が雌牛の焼却炉に投げ込まれたことを(民数記19章)を忘れてはいませんか?
信仰のために、この世のすべての栄光が十字架上で終わったことを忘れてはいませんか?
主が掛けられた木はこの世から彼を完全に拒絶したことを証言しています。
それは本当に、主が無視された場面から私たちを本当に切り離しているのでしょうか?
主が拒まれて、十字架と墓しか見つからない場所で、私たちはいまだに恩恵と権力と立場を求めているのでしょうか?
これはどういうことでしょうか?
私たちの心は、主の中にどんな罪を見出して、このように容赦なく主から離れることができるのでしょうか?
ああ、私たちはこのことを主のせいにすることはできません。
私たち自身の中にのみ罪が見出されていることを告白しましょう。
私たちの栄光を、益とならないものと取り替えてしまったのは、私たち自身なのです。
主はこのように仰せになっています。
「天よ。このことに色を失え。おぞ気立て。干上がれ。――主の御告げ。――
わたしの民は二つの悪を行なった。
湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」
(エレミヤ書2章12、13節)
しかし、神に対して変わってしまった人々に対して、理由は神自身が変わったからなのでしょうか?
決してそんな考えをしてはいけません。
神は御自分の民を深く愛しておられ、不従順の道で栄えることをお許しになりません。
イスラエルを懲らしめ、懲らしめを重ねられましたが、神の愛の心は変わることはありません。
彼らは、私たちが犯しそうな危険にさらされているのに、神が容易に防ぐことができたはずだと神に責めるかもしれません。
しかし、神はこのように言っています。
「あなたの神、主が、あなたを道に進ませたとき、あなたは主を捨てたので、このことがあなたに起こるのではないか。」
(エレミヤ書2章17節)
神は、心をその策略からすべての祝福の源である神自身へと立ち返らせるために、心の堕落した者たちに神の計画の果実を食べさせなければなりません。
「心の堕落している者は自分の道に甘んじる。善良な人は彼から離れる。」
(箴言14章14節)
エジプトやアッシリアに目を向けるのは無駄です。
それぞれが世界の異なる側面を語っています。
なぜなら、神を知っている人が、他の場所でどうして活気と休息を見つけることができるのでしょうか?
*かつて、どこから流れてくるのか誰も知らない神秘のナイル川だと考えられているシホル川の水は、天から直接降る雨を喜んだ人々をもはや満足させることはできていません。
*エジプトは、私たちがその残酷な束縛感に嘆いていたときに知っていた世界です。
アッシリアはむしろ、神の民の公然たる敵としての世界です。
このように神の民は、これらのいずれかに慰めを見つけることができますか?
しかし、救われたものであっても、心は神から離れると、すぐにかつて死んだ状態に戻ってしまいます。
時には、かつて、享受していた真理そのものに反抗してしまうのは、真実なのでしょうか?
このような状況で、他の治療法が効かなかった場合、19節で述べられている原則を用いて、迷える人を正気に戻さなければならないことは珍しくありません。
「あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める。
だから、知り、見きわめよ。あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦々しいことかを。
――万軍の神、主の御告げ。――」
(エレミヤ書2章19節)
これは、他の方法でたましいが主のもとに戻されない場合は、これが主の最後の手段なのかも知れません。
「それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」
(コリント人への手紙第一5章5節)
父との交わりを失った神の子は、世間からも非難されるような悪に堕ちてしまうとよく言われます
そして、堕落の深淵が神によって矯正され、叱責されます。
これは間違いなく真実です。
それはダビデの場合も同じです。
彼は自分の罪を告白し、自分がここまで堕落させられたことを認めました。
「それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」
(詩篇51篇4節)
ペテロも同じです。
しばらくの間、彼は自信過剰の傾向にありましたが、最後に自信が彼を正しました。
コリント人への手紙第一6章の哀れな人も同じで、恐ろしい背信行為がその人を戒めました。
彼は、コリント人への手紙第二2章で、彼の砕かれた心と悔い改めが、再び会衆の交わりに受け入れられる理由となるまで、サタンに引き渡され、放っておかれなければなりません。
前の章で既に示されているように、神の知恵において、罪は必ず報いを受けることを知ることは幸いなことです。
海底の水は、罪深い自己意志を物語っていますが、創世記1章の5日目の働きのように、神の栄光のために豊かに湧き出るようになります。
これは決して罪を許すためではなく、むしろその逆です。
神はその恐ろしさを用いて、神から迷い出たたましいを謙虚にし、ひどく卑しいものにします。
これからこの聖句を読み進めていく中で、この国が主と契約関係にあった当時、それはまだ新しい契約ではなく、シナイ山で結ばれた契約であったことを思い出すのは良いことです。
これらはそれでも、人間に何かを期待を与えました。
「あなたは昔から自分のくびきを砕き、自分のなわめを断ち切って、『私は逃げ出さない。』」
(エレミヤ書2章20節)
しかし彼らはその契約を続けるどころか、むしろ罪を犯し、その同意を破ってしまったのです。
主は彼らにこのように言われています。
「あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。」
(エレミヤ書2章21節)
また、彼ら自身の中にも源はありません。
「たとい、あなたがソーダで身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前では汚れている。――神である主の御告げ。――」
(エレミヤ書2章22節)
彼らが自らに課した契約は、彼らの罪と無力さを明らかにしたに過ぎません。
神だけが彼らの救い主なのです。
そして私たちは、神がこれから救い主を遣わし、その尊い血によって、信じるすべての罪人のために、いかなる「ソーダと灰汁」、つまり、さまざまな人間の努力を現わす、これらの物が清めることのできない罪を清めてくださることを知っています。
しかし、これはまだエレミヤの使命ではありません。
当面の彼の目的は、彼らが主に立ち返らない限り、彼らの状況、完全な絶望を彼らに印象づけることです。
そこで彼は次に、彼らを、いかなる矯正も拒む、砂漠の飼いならすことのできない野ロバに例えられています。
彼らは服従するように勧められて、答えています。
『あきらめられません。私は他国の男たちが好きです。それについて行きたいのです。』
(エレミヤ書2章25節)
彼らはある程度の恥と表面上の悔い改めを全く感じていなかったわけではありません。
なぜなら、この時すでに彼らの間で回復が始まっていたからです。
しかし、少なくとも多くの者においては、真実な良心に基づく働きは見られていません。
「盗人が、見つけられたときに、はずかしめられるように、イスラエルの家もはずかしめられる。」
(エレミヤ書2章26節)
彼らは偶像崇拝が明るみに出ることを恥じていました。
しかし、罪そのものを恥じていたわけではありません。
主への信仰を完全に捨て去ったわけではありません。
外面的に物事が順調な時は偶像崇拝も有効だったかもしれません。
しかし、困難に陥ると彼らは神に頼りました。
現在、私たちはこのことを知っているでしょうか?
しかし、もし、彼らが静寂の時に神の御顔を求めないなら、真実な自己判断と罪の告白を伴わない限り、悲しみの日には彼らは神を見ることはありません。
(27、30節)
31、32節の非難は本当に悲しいことなのです。
「あなたがた、この時代の人々よ。主のことばに心せよ。
わたしはイスラエルにとって、荒野であったのか。あるいは暗黒の地であったのか。
どうしてわたしの民は、『私たちはさまよい出て、もうあなたのところには帰りません。』と言うのか。
おとめが自分の飾り物を忘れ、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。
それなのに、わたしの民がわたしを忘れた日数は数えきれない。」
(エレミヤ書2章31、32節)
このことは、他のすべての道を開かれました。
彼らが認めようとしない罪の証拠を見つけるために、深く掘り下げる必要は全くありません。
(34節にある言葉の意味と似ています。)
ああ、神を忘れ去り、たましいを神の存在から遠ざけ、不敬虔な行いの多くが、驚くほどの自信と厚かましさで、恥ずかしげもなく行われるようになってしまったのです!
そのような人々に対する主の御言葉が記されています。
「主があなたの拠り頼む者を退けるので、あなたは彼らによって栄えることは決してない。」
(エレミヤ書2章37節)
しかし、これは神が彼らを見捨てたという意味ではありません。
決してそうではありません。
神は彼らを懲らしめ、罰することはあっても、それでも彼らを愛しており、その愛を彼らに保証します。
なぜなら、ユダの淫らな行いにもかかわらず、最初の夫が離縁され、他の男の妻となった妻に、神は「しかも、わたしのところに帰る」と叫ばれているからです。
(エレミヤ書3章1節)
これは本当に忍耐強く、比べることのできない恵みです。
私たちも主から迷い出ていないでしょうか?
私たちは次の言葉を忘れていないでしょうか?
「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。」
(ヤコブの手紙4章4節)
ああ、それなら、心の痛みと自己批判の悔い改めをもって、私たちが再び主のもとに立ち返り、主の聖さに反する汚れた愛の悪を告白し、主の回復の慈しみの甘さを証明できることを願います。
しかし、私たちの神は雨を降らせません。
(エレミヤ書3章3節)
それは、私たちが主との交わりから離れた人生の不毛さを証明するためです。
神は、私たちの背信の深さに気づき、私たちの心が次の聖句のように叫びながら主のもとに立ち返る瞬間を待ち望んでおられます。
「父よ。あなたは私の若いころの連れ合いです。」
(エレミヤ書3章4節)
しかし、このことは私たちには与えられていますが彼らには与えられていません。
養子縁組の霊による「アバ、父よ」と叫ぶこととは完全に異なっています。
イスラエルは国家として神の子でした。
(ホセア書11章1節、出エジプト記4章22、23節)
十字架の時代以降、信者たちはイエスを、単に国家的な養子縁組ではなく、個人的な父としての関係において知り、またイエスから命を得て、復活の子によって「わたしの父であり、あなたがたの父である」と啓示された者として知ることができます。
私たちの特権は彼らのものよりはるかに大きいのです。
私たちの命はどれほど聖いものなのでしょうか?
第3章 悔い改めを条件とした未来の栄光
(エレミヤ書3章6節~6章30節)
次の預言は、6章の終わりまで続く、広範囲にわたる預言であり、敬虔な王ヨシヤの治世中に語られました。
(エレミヤ書3章6節)
しかし、具体的な時期については明かされていません。
北王国と南王国(前者はすでに捕囚されていた)が神から離れた経緯の詳細がここでさらに詳しく述べられています。
しかし、そこには、たとえ深い苦難を経験しても、神の哀れみによって彼らが悔い改めれば回復と祝福が得られるという貴重な約束が散りばめられています。
「背教したイスラエル」は、ヤロブアムの金の子牛が建てられた日から公然と主に背を向けてきました。
神の中心は否定され、神の御言葉は軽蔑されました。
特に申命記12章を参考にしてください。
よく指摘される事実として、彼らの王のうち主を求めたとされているのはただ一人の王だけであり、それもアラム人の侵略に追い込まれた時だけでした。
(列王記第二13章4、5節)
その時、それぞれが自分の目に正しいことを行なったと述べられている士師記の時代と同じ様にこのように記されています。
「主がイスラエル人にひとりの救い手を与えられたとき、イスラエルの人々はアラムの支配を脱し、以前のように、自分たちの天幕に住むようになった。」
(列王記第二13章5節)
しかし、神は恵み深く、人々のわずかな必要の兆候にも応えてくださったにもかかわらず、人々は変わることがありません。
続けて、このように記されています。
「それにもかかわらず、彼らはイスラエルに罪を犯させたヤロブアム家の罪を離れず、なおそれを行ない続け、アシェラ像もサマリヤに立ったままであった。」
(列王記第二13章6節)
これは神が「わたしに立ち返れ」と言われたにもかかわらず、イスラエルが戻ってこなかった多くの例の一つに過ぎません。
イスラエルは姦淫の妻として、十部族がアッシリアへ連れ去られた際に追い出されました。(エレミヤ書3章6、7節)
しかし、「裏切る女、妹のユダ」の場合は完全に異なっていました。
だいたいにおいて、ユダは主への従順を告白していました。
少なくとも、あからさまな偶像崇拝がユダの特徴だったわけではありません。
背信は、ユダの常習的な罪というよりは、むしろ裏切りでした。
神殿礼拝の外面的な儀式には厳格に従いながらも、心は異邦の汚れを追い求めるのが、ユダの常套手段でした。
それはソロモンの時代でさえもそうでした。
ソロモンは主の宮を建て、異教徒の妻たちの神々に祭壇を築きました。
これこそが、現在のキリスト教世界と呼ばれているものの顕著な特徴です。
主への献身やキリストへの忠誠について語られますが、悲しいことに、主を辱めるものから離れることについては何も知られていません。
実際、この書におけるエレミヤの立場は、キリストを支持し真理に歩む現在の立場とよく似ていると思います。
ユダは結局のところ、イスラエルを模倣したに過ぎませんでしたが、必ずしも公然と従ったわけではありません。
「このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心を尽くしてわたしに帰らず、ただ偽っていたにすぎなかった。――主の御告げ。――」
(エレミヤ書3章10節)
王や、当時始まっていた信仰復興運動で王に従うたくさんの人々は、確かに実在しました。
しかし、教会の初期のアナニアとサッピラのように、信心深さと献身的な信仰の評判を求めながら、蔓延する不義から完全に離れようとしなかった者もいなかったわけではありません。
これは大きな罠であり、現代でもよく見られるものです。
実際、それはラオデキア主義の真髄なのです。
神の事柄に対する生ぬるさはキリストへの裏切りです。
それよりは冷淡な方が良いのです。
ですから、彼はここでこのように言っています。
「背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった。」
(エレミヤ書3章11節)
いずれにせよ、彼女は自分の境遇を隠そうとはしませんでした。
主は離婚証書を渡していたにもかかわらず、優しく彼女に帰って来るよう招き、それでもなおユダと結婚していることを保証しました。
(エレミヤ書3章12~14節)
ユダの息子たちが「来たるべき世」にシオンへの道を尋ね求め、神のもとに帰ることを知るのは、何より貴いことです。
しかし、主の聖さはただ一つだけ要求しておられます。
「ただ、あなたは自分の咎を知れ。」
(エレミヤ書3章13節)
主の哀れみが発せられることを切望していました。
主の怒りは既にほぼ過ぎ去っています。
しかし、告白は必要なのです。
ユダは自分の行いを裁き、背信を悔い改めるべきです。
告白は明確でなければならず、悪は具体的に示されるべきです。
一般的に失敗を単に認めるだけでは不十分です。
(1)あなたは自分の神、主にそむいて、
(2)すべての茂った木の下で、他国の男とかってなまねをし、
(3)わたしの声を聞き入れなかった。
それは単なる国家的な悔い改めではありません。
国家が悔い改めるのではありません。
悔い改めるのは個人の努力にほかなりません。
ですから主は、「背信の子らよ。帰れ」と言われます。
妻という形はそれでも維持されていますが、国家は残された者たちによって救われるのです。
「わたしが、あなたがたの夫になるからだ。わたしはあなたがたを、町からひとり、氏族からふたり選び取り、シオンに連れて行こう。
また、あなたがたに、わたしの心にかなった牧者たちを与える。
彼らは知識と分別をもってあなたがたを育てよう。」
(エレミヤ書3章14、15節)
ヤロブアムは、多くの後継者とともに悪い羊飼いとなり、これまで人々を誤った道に導き、その果実を彼らは今食べています。
しかし神は、彼らのために、たましいが神に関することで栄養を見いだせる緑の牧草地へと喜んで彼らの足を導く羊飼いたちを用意しておられました。
ここで、預言者が全体を通して語っているのは、散らされたイスラエル人が、彼らが連れ去られた土地にある文字通りのシオンに文字通り帰還することである、と述べるのが適切だと思います。
このことは、私たちが30、31章を見るとより詳しく分かると思います。
その言葉はあまりにも単純で明確なので、誤って、霊的に解釈する必要はありません。
16節には契約の箱に関する最後の言及があります。
また、歴代誌第二35章3節にも、契約の箱に関する最後の歴史的記述があります。
第二神殿には契約の箱はありません。
エゼキエルが千年王国について描いたものにも契約の箱はありません。
単なる伝説によれば、町と神殿が破壊された時、エレミヤは契約の箱と香の祭壇を洞窟に隠しました。
この話はマカベア書第二2章48節という、信憑性の非常に疑わしい外典に記されています。
それがどうであれ、来たるべき王国の時代である「その日」について、このように記され、私たちは確信しています。
「――主の御告げ。――彼らはもう、主の契約の箱について何も言わず、心にも留めず、思い出しもせず、調べもせず、再び作ろうともしない。」
(エレミヤ書3章16節)
あるいは、英訳聖書の欄外の参照によれば「彼らはそれを恋しく思わず、それは二度と作られない」となっています。
昔、最初の契約はイスラエルの中にある主の王座でした。
「そのとき、エルサレムは『主の御座』と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、二度と彼らは悪いかたくなな心のままに歩むことはない。」
(エレミヤ書3章17節)
その日には、それに型として示された主イエスは、すなわち、木と金、人間性と神性がひとりの人の中に見いだされる方が、彼らの中におられます
主をかすかに予知されていた契約の箱は、もはや必要なくなります。
この章の終わり19節から終わりにかけては、信仰によって良い行いを積んだ民の悔い改めが記されています。
これは、彼らが長らく無視されてきた主以外の何者にも救いを期待することは無駄であることを悟った時に何が起こるかを預言しています。
これは、まず主がユダの天幕を救われた後に起こります(ゼカリヤ書12章)
4章の最初の2節には、彼らの苦悩の叫びに対する神の応答と、彼らが実際に神のもとに戻ったときに約束された祝福が記されています。
ここからのメッセージはユダに向けられ、当時行われていたような表面的な働き以上のものを求める呼びかけとなっています。
荒れ果てた、いばらに覆われた地に種を蒔くだけでは、神のために真実な実を結ぶことは期待できません。(エレミヤ書4章3節)
確信という鋤は、心の固まった土を堀り返さなければなりません。
「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」
(エレミヤ書4章4節)
「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。」
(ローマ人への手紙2章28、29節)
そして、同じ使徒は、真実な割礼とは「人間的なものを頼みにしない」ことだと宣言しています。
(ピリピ人への手紙3章3節)
もし、このメッセージが無視されるなら、裁きが下されるに違いありません。
そして既に異邦人を滅ぼす者が現れていました。
5節から13節は、エルサレムが神の手によって陥落する様子を鮮やかに描いています。
ネブカドネザルの告知はあまりにも衝撃的で、預言者自身も驚愕し(エレミヤ書4章10節)、主が御自分の民をこのように扱われるとは信じられません。
逃げ道は一つしかなく、神は「心を洗って悪を除け」と指摘しています。
(エレミヤ書4章14節)
これは、御言葉を受け入れ、良心に働きかけることによってのみ可能となります。
すぐに、エレミヤはこの街が必ず滅ぼされることを、恐れおののく思いを抱かせる言葉で詳しく述べられています。(エレミヤ書4章15~21節)
ユダの人々は、使徒パウロがローマの聖徒たちに望んだこと(ローマ人への手紙16章19節)とは正反対です。
彼らは「悪事を働くのに賢くて、善を行なうことを知らない」(エレミヤ書4章22節)のです。
23節から最後まで、この地の荒廃が鮮やかに描かれています。
エレミヤの前に立ちはだかるのは、地上ではなく、パレスチナの地です。
これは、イザヤ書24章が明確に示している通りです。
この言葉遣いは確かに非常に詩的ですが、それでも十分に信頼できるものです。
詩的というよりは比喩的と言うべきかもしれません。
というのも、この表現は近年乱用されているからです。
この主題は5章でも続き、より明瞭に描かれています。
より多くの人が私たちの前に現れます。
「エルサレムのちまたを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場で捜して、だれか公義を行ない、真実を求める者を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう。」
(エレミヤ書5章1節)
預言者がこのようにと言わざるを得なかった時、彼らの状態は激しく悪化していました。
これは、もし、アブラハムがソドムのためにさらに弁護する信仰を持っていたらどうなっていたのかを物語っているのではないでしょうか?
アブラハムは10人で止まりました。(創世記18章)
しかし、10人を見つけることはできなかったのです。
ここで、1人のために裁きを回避できたはずです。
悲しいことに、彼らは皆、主の懲らしめを軽く見て(エレミヤ書5章3節)真理から背を向けてしまいました。
預言者エレミヤはこれには驚きました。
彼は自分の国の完全な背教状態を何も信じることができません。
どこかに必ず義人がいるはずです。
エレミヤは彼らを探し出そうとしました。
「そこで、私は思いました。「彼らは、実に卑しい愚か者だ。
主の道も、神のさばきも知りもしない。
だから、身分の高い者たちのところへ行って、彼らと語ろう。
彼らなら、主の道も、神のさばきも知っているから。」
ところが、彼らもみな、くびきを砕き、なわめを断ち切っていました。」
(エレミヤ書5章4、5節)
偉大な人々への訪問についてはここでは触れられていません。
後にそのようなことは何度も起こります。、
しかし、それはただ、卑しい者も高貴な者も神の御言葉を拒む点では同じことを証明しているに過ぎません。
たとえ、成就するまでに何年もかかったとしても、裁きは必ずその通りに来ます。
この点について、エレミヤは6~19節まで続けて語っています。
7節の告発は恐ろしいことです!
「わたしが彼らを満ち足らせたときも、彼らは姦通をし、遊女の家で身を傷つけた。」
(エレミヤ書5章7節)
現在の神の民にとっては驚くべき言葉です。
キリストにおけるあらゆる霊的祝福に恵まれ、教会の一員であると告白する者たちが、かつてユダがしたように、この世とその愚行に堕落してしまうことがあります。
このような、明白な事実として考えるならば、それは恐ろしいです。
彼らの祝福は地上的で一時的なものであったにもかかわらず、彼らはとても低い次元にいます。
「これらに対して、わたしが罰しないだろうか。
――主の御告げ。――このような国に、わたしが復讐しないだろうか。」
(エレミヤ書5章9節)
キリスト教世界に対して、主はこのように言われています。
「わたしの口からあなたを吐き出そう。」
(ヨハネの黙示録3章16節)
「あなたがたが、『何のために、私たちの神、主は、これらすべての事を私たちにしたのか。』と尋ねるときは、あなたは彼らにこう言え。『あなたがたが、わたしを捨て、あなたがたの国内で、外国の神々に仕えたように、あなたがたの国ではない地で、他国人に仕えるようになる。』
(エレミヤ書5章19節)
種まきの後には刈り取りが続きます。
イスラエルの刈り取りは恐ろしいものでした、
しかし、背教したキリスト教世界である「大いなるバビロン」の刈り取りはもっと恐ろしいものとなります。
(ヨハネの黙示録17、18章)
彼らの倫理的状態は、説明できないほど明白な言葉でさらに明らかにされ(20~29節)、すべてが最後の節に要約されています。
「恐怖と、戦慄が、この国のうちにある。
預言者は偽りの預言をし、祭司は自分かってに治め、わたしの民はそれを愛している。その末には、あなたがたは、どうするつもりだ。」」
(エレミヤ書5章30、31節)
本当に尊い言葉です。
読者の皆さん、この言葉をよく考えて、現在の偉大な世界教会を描写するには厳しすぎる言葉であることを考えてみてください。
エルサレムの邪悪な状態が完全に明らかになった6章は、ベニヤミンの子たちにエルサレムから逃れるよう呼びかける言葉で始まります。
そうして初めて、彼らはエルサレムの罪に加担することから逃れることができるのです。
彼らはエルサレムに留まり、共に堕落しました。
現代において宗教的腐敗に巻き込まれた人々への戒めとしてこのように記されています。
「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」
(テモテへの手紙第二2章19節)
また、このようにも記されています。
「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。
汚れたものに触れないようにせよ。」
(コリント人への手紙第二6章17節)
後に、霊的バビロンに住む者たちにはこの叫びが響き渡ります。
「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」
(ヨハネの黙示録18章)
現在は妥協できる時ではありません。
私たちを救い、すべてのものの主である方は、御自身への聖別において、霊的、教会的、そして肉体的なさまざまな悪から明確に分離されることを願っておられます。
当時のユダと同じ様に、キリスト教世界全体にとって、訴えかけることは無意味であり、主もそうされていません。
「彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは、彼らにとって、そしりとなる。彼らはそれを喜ばない。」
(エレミヤ書6章10節)
そのため、ペルガモの日の後の時代、ヨハネの黙示録2、3章では、呼びかけは勝利者だけに向けられており、大勢に向けられていないことがよく指摘されています。
エレミヤの時代に事態をさらに恐ろしくしたのは、偽預言者たちの嘲笑でした。
彼らは罪を犯した民の恐れを抑え、なめらかなことを預言して、真理の鋭さをそらしていました。
報酬への愛が彼らの運命の根底にあります。
現在、この報いを受ける者がいるでしょうか?
「なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行なっているからだ。
彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。」
(エレミヤ書6章13、14節)
これとほぼ同時期のエゼキエルの時代にも、同様のことが起こっていました。
(エゼキエル書13章10~12節)
しかし、真実が拒否されても、その性質は変わりません。
彼らは、預言者の言葉によって聞き取れなかったことを、裁きによって学ばなければなりません。
その一方で、神を愛する心を持つ人々への呼びかけは行われていますが、応答がありません。
「主はこう仰せられる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。
しかし、彼らは『そこを歩まない。』と言った。
また、わたしは、あなたがたの上に見張り人をたて、『角笛の音に注意せよ。』と言わせたのに、彼らは『注意しない。』と言った。」
(エレミヤ書6章16、17節)
神は、常に失敗の時に民を「初め」に導いてくださいます。
常に人間は新しいものを追い求めることによって神から遠ざかっています。
なぜなら、神は永遠の昔から存在し、古きものだからです。
このディスペンセーションの時代において、真理には進化が存在しません。
そこから背を向けることは常に悪です。
そこに戻る以外に回復はありません。
聖書の外には発展の余地はありません。
メッセージは拒否され、諸国民は主が非常に反抗的な民を正当に扱われたことを認めるよう求められます。
(エレミヤ書6章18~21節)
そして、この章では裁きが再確認されて終わりっています。
「彼らは廃物の銀と呼ばれている。主が彼らを退けたからだ。」
(エレミヤ書6章30節)
第4章 「神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。」
(エレミヤ書7~10章)
このセクションでは、私たちの前に立ちはだかるのはむしろ神殿であり、偶像崇拝的な慣習とそれに伴う悪が容認されているだけではありません。
この慣習が熱心に続けられている一方で、神殿に対して大きな尊敬の念を表明することへの矛盾が述べられています。
以前、預言者は民を、むしろ社会的な共同体として語りかけていました。
今、彼は彼らを、新たに清められた主の宮とのつながりにおいて見ています。
エレミヤのメッセージは「主を礼拝するために、この門にはいるすべてのユダの人々」(2節)に向けられています。
しかし、これはすべてが単なる見せかけに過ぎないことが示されます。
なぜなら、彼らは神殿について声高に語り、それをスローガンにしていたにもかかわらず、彼らの生き方は、神の神殿となった聖さとは完全に一致することがないからです。
「あなたがたは、『これは主の宮、主の宮、主の宮だ。』と言っている偽りのことばを信頼してはならない。
もし、ほんとうに、あなたがたが行ないとわざとを改め、あなたがたの間で公義を行ない、
在留異国人、みなしご、やもめをしいたげず、罪のない者の血をこの所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、
わたしはこの所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住ませよう。」
(エレミヤ書7章4~7節)
神の御名が不義と誇らしげに結び付けられることほど、神にとって不快なことはありません。
現在、ある人々が「主の集会における主の権威」について高言し、「神の支配」について語りながら、ある人と隣人の間にある裁きを意図的に拒んでいながら、その責任を一切放棄するのを耳にするのは、本当に恐ろしいことなのです。
いや、さらに悪いことに、神の民のただ中に住まわれる義なる方に、その責任を押し付けようとしています。
「きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」
(テモテへの手紙第二2章22節)
この重要な言葉が、これほど見過ごされているとは、実に不思議です。
これがローマの信条です。
もっと分別があるべき人々が、少なくともこの点においてはローマの後を追っているのを見ることは、悲しく、そして厳粛なことです。
神の集会への敬意をどれほど表明しようとも、義を軽く見たことは償えないと確信できます。
「主は正しく、正義を愛される」(詩篇11編7節)のです。
私たちが関わるべきは、「聖にして真実」なる方、すなわち「少しも暗いところのない」御方なのです。
8~10節に記されている恐ろしい状態ほど、主にとって忌まわしいものはありません。
それは立場と身分の離脱、つまり教会の立場を重んじながら、それに伴う真理とは全くかけ離れた歩みをすることです。
立場は重要です。
実際、それ以上に大切なものはありません。
しかし、それにふさわしい実践を怠らないよう、注意深く努めましょう。
恵みによって非聖書的な制度から主イエス・キリストの尊い御名のみに集められた人々は、その歩みが与えられた特権にふさわしいものであるよう、注意深く見極めることが必要です。
次の節は、注目すべきことに、主が細い縄で鞭を作り、両替人や物売りを神殿の庭から追い払ったときに述べられています。(マタイによる福音書21章13節)
この時、主は2つの聖句を結び付けています。
最初はイザヤ書56章7節からの「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」です。
キリストの王国が権力を握ったときにも、このことは真実になります。
しかし、王がへりくだった姿で現れたとき、主の判断は「それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」というものでした。
これはエレミヤ書からの引用です。
「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた。――主の御告げ。――」
(エレミヤ書7章11節)
その結果、シロのように荒廃させられ、偽りの崇拝者たちは彼らの土地から追い出され、もはや祈りも彼らにとって役に立たなくなります。
そして、裁きは必ず下されます。
(エレミヤ書7章12~16節)
「天の女王」は、現在のローマと同様、当時も崇拝の対象でした。
というのは、マリア崇拝は、ここで述べられている偽りの女神の崇拝の継続にすぎず、さまざまな名前で広く認められていたことはよく知られています。
「子どもたちはたきぎを集め、父たちは火をたき、女たちは麦粉をこねて、『天の女王』のための供えのパン菓子を作り、わたしの怒りを引き起こすために、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いでいる。」
(エレミヤ書7章18節)
その暗黒の日の悪が、その後急速に背教へと移行していくのを見るのは恐ろしいことです。
現代のキリスト教世界に対して「わたしの怒りを引き起こす」と主は言われています。
「彼らはわたしの怒りを引き起こすのか。――主の御告げ。――自分たちを怒らせ、自分たちの赤恥をさらすためではないか。」
それで、神である主はこう仰せられる。
「見よ。わたしの怒りと憤りは、この場所と、人間と、家畜と、畑の木と、地の産物とに注がれ、それは燃えて、消えることがない。」」
(エレミヤ書7章19、20節)
神殿の儀式はヨシヤ王によって再開されましたが、民衆の間では服従については完全に忘れ去られていました。
「しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。」
(エレミヤ書7章24節)
これは、主が彼らをエジプトから連れ出した日から彼らの特徴でした。
主は毎日朝早く起きて、預言者たちを彼らのもとに遣わしました。
そして、このように行ったのです。
「彼らはわたしに聞かず、耳を傾けず、うなじのこわい者となって、先祖たちよりも悪くなった。」
(エレミヤ書7章26節)
預言者たちの使命は、明らかに絶望的になっていました。
神の御言葉はそれでも宣べ伝えられるべきであり、何一つ隠されるべきではなりません。
しかし、国民の反応を期待する望みは絶たれていました。
ついに、判決が下されました。
「そこであなたは彼らに言え。この民は、自分の神、主の声を聞かず、懲らしめを受けなかった民だ。
真実は消えうせ、彼らの口から断たれた。」
(エレミヤ書7章28節)
主は彼らを拒みました。
そして、このように主は語りました。
「あなたの長い髪を切り捨て、裸の丘の上で哀歌を唱えよ。
主は、この世代の者を、激しく怒って、退け、捨てたからだ。」
(エレミヤ書7章29節)
彼らが追放された結果、恐ろしい荒廃がもたらされることになりました。
「それは、ユダの子らが、わたしの目の前に悪を行なったからだ。――主の御告げ。――彼らは、わたしの名がつけられているこの家に自分たちの忌むべき物を置いて、これを汚した。
また自分の息子、娘を火で焼くために、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテに高き所を築いたが、これは、わたしが命じたこともなく、思いつきもしなかったことだ。
それゆえ、見よ、その日が来る。――主の御告げ。
――その日には、もはや、そこはトフェテとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。人々はトフェテに、余地がないほどに葬る。
この民のしかばねは、空の鳥、地の獣のえじきとなるが、これを追い払う者もない。
わたしは、ユダの町々とエルサレムのちまたから、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶やす。この国は廃墟となるからである。」
(エレミヤ書7章30~34節)
ユダの王や君主たち、そして祭司、預言者、そしてエルサレムの住民の骨さえも墓から運び出され、生前崇拝していた天体の前に撒かれます。
燃えがらにとっては、その邪悪な日の恐怖よりも死の方が望ましいのです。
疑いなく、これらすべてはカルデア人の征服と後期マカベア時代に成就しました。
しかし、「聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない」ゆえに、それはまた、これから来る恐ろしい苦難をも描いています。
主は裁きの中で喜びを見出しているゆえに、神の民が迫害されているわけではありません。
まさに主の不思議な行為ですが、これがイスラエル自身が迷ったの当然な結果でした。
彼らは「絶えず背教し」、何度も嘆願されたにもかかわらず悔い改めていません。
「なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、背信を続けているのか。彼らは欺きにすがりつき、帰って来ようとしない。
わたしは注意して聞いたが、彼らは正しくないことを語り、『私はなんということをしたのか。』と言って、自分の悪行を悔いる者は、ひとりもいない。
彼らはみな、戦いに突入する馬のように、自分の走路に走り去る。」
(エレミヤ書8章5、6節)
彼らは自分たちの知恵を自慢していますが、渡り鳥のような識別力は持っていません。
「空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。」
(エレミヤ書8章7節)
律法学者に対する主の御言葉も同じです。
「そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。」
(マタイの福音書16章3節)
それでも彼らはこのように言っています。
「私たちは知恵ある者だ。私たちには主の律法がある。」
(エレミヤ書8章8節)
現実に、彼らにとって神の御言葉は無駄でした。
神の御言葉は今日、多くの人が丁重に頭を下げ、神の御言葉への尊敬を表明しながらも、不従順な歩みをしています。
しかし、同じように、否定しているわけではありません。
「平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。」
(エレミヤ書8章11節)
宗教家も信者も同じ様に聖なるお告げを偽って語ります。
その結果、訪れの時は長くは延期できません。
8章14節から10章の終わりにかけて、神によって「沈黙させられてしまった」人々の失われた財産に対する痛ましい嘆きが語られています。
つまり、神の御前に罪が明らかにされ、神の前で言葉が出ない人々のことです。
エレミヤは彼らの感情を深く理解し、彼らと共に嘆き悲しみます。
「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。」
(エレミヤ書8章20節)
もちろん、ここで述べられていることは世の救いです。
神が彼ら国民に対して忍耐を示してくださった日は終わり、すべての希望は今や空虚なものとなりました。
「乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。
それなのに、なぜ、私の民の娘の傷はいやされなかったのか。」
(エレミヤ書8章22節)
この痛ましい叫びは、実に印象的です。
エレミヤ書46章11節も参照にしてください。
ああ、ギレアデの乳香をもっていても、傷はあまりにも深すぎます。
「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。」
(エレミヤ書9章1節)
エレミヤはまさに「涙の預言者」と呼ばれています。
彼の霊は、他人の荒廃した証言の上に自分の聖さを立てるパリサイ人の霊とは異なっています。
イスラエルは彼の民です。
彼は荒廃した国民の一部として、自分を完全にその国民と一体化していました。
確かに、詩篇55篇6~8節のダビデのように、彼らから逃れて荒野の旅人の宿舎に避難したいと切望していたが、それでも彼は彼らと一体でした。
彼らの行動は、神との交わりを持ち、常に彼らと共にいるため、たましいは深く悲し実の中にあります。
しかし、彼ら自身に対しても、神は深い愛と哀れみを抱いており、今、彼らは神の民のすべてに対して、このように共にいるのです。
しかし、悲しいことに、外面的には悪から離れていても、冷酷で批判的な精神が伴うことがよくあります。
現在、私たちは皆、荒廃した教会の一部であり、その荒廃した責任を負っていることを、簡単に忘れてしまいます。
エレミヤは民に彼らの深い罪と神からの離反を告げなければならない立場です。
しかし、彼ら全員を慕い、彼らのために深い悲しみに暮れる者として、張り裂けるような思いで裁きを告げていることが分かります。
21節の言葉は、戦争の惨禍に続く壊滅的な疫病を生々しく描写しています。
「死が、私たちの窓によじのぼり、私たちの高殿にはいって来、道ばたで子どもを、広場で若い男を断ち滅ぼすからだ。」
(エレミヤ書9章21節)
この世界において、人が時間や感覚という空しいものに誇りを持つというのは、本当に不思議です。
しかし、次の聖句を常に心に留めておくことは、私たちのたましいにとても大切なことです。
「主はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。
つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。
誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。
わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。――主の御告げ。――」
(エレミヤ書9章23、24節)
この章の終わりには、心の割礼を受けていないイスラエルが、周囲の割礼を受けていない諸国民と同じように扱われています。
彼らは、彼らが従ってきた偶像崇拝の諸国民と同じ様に裁かれなければなりません。
10章については、あまり述べる必要はありません。
イザヤ書44章とよく似ています。
偶像崇拝に対する主の断罪が記されており、民が頼ってきた木や石とは対照的です。
「ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である。」
(エレミヤ書10章10節)
「ヤコブの分け前」であり、「万物を造る方」である主は、苦しむ民を慰めようと願ったにもかかわらず、「わたしはこの国の住民を、今度こそ放り出し」、彼らに「ああ、私は悲しい。この傷のために。」と叫ばせました。
11節はカルデア語で書かれており、異教徒が自分たちの言語で偶像崇拝に対する非難として読むことができるように書かれています。
この部分を締めくくる言葉は厳粛です。
「主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。
主よ。御怒りによらず、ただ公義によって、私を懲らしてください。そうでないと、私は無に帰してしまうでしょう。」
(エレミヤ書10章23、24節)
容赦ない裁きが異教徒に下され、最後には回復につながる懲らしめが神の民に与えられなければなりません。
第5章 焼かれた枝とヨルダン川の増水
(エレミヤ書11章、12章)
この二つの章は確かに尊く考え深いものですが、私が述べることは何もありません。
これは、どれほど放浪を好んだとしても、常に主の心に留まっていた人々に対する主の継続する戒めです。
主は、エジプトで彼らを見つけ、鉄の炉から救い出した時の、彼らの悲しみと奴隷状態にあった時代の始まりへと振り返っています。
彼らは解放の喜びの中で、主の戒めに従うことを誓いましたが、その後の彼らの歩みは、彼らの不信仰を明らかにするばかりでした。
その結果、律法が彼らに、あるいは他の誰にも与えることのできた唯一のものであった呪いが、彼らに降りかかってきたのです(エレミヤ書11章1~8節)
ながらも、契約を破り偶像崇拝に身を委ねてしまいました(エレミヤ書9、10節)
ついに裁きが彼らに下る時、彼らは自ら選んだ神々に救いを求めても無駄に終わります。
しかし、彼らには救いの力はありません。
彼らの恥ずべき偶像崇拝の祭壇は至る所に見られましたが、唯一救いをもたらすことのできる神のもとには、祈りも逆境の叫びも届いていません。
今、神はこのように宣言されます。
「彼らのために叫んだり祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいに会ってわたしを呼ぶときにも、わたしは聞かないからだ。」
(エレミヤ書11章14節)
神がそれでも「わたしの愛する者」と呼んでおられたイスラエルには、もはや神の家に居場所がありません。
イスラエルの責任ゆえに、すべてが失われたからです。
16節は、ローマ人への手紙11章における使徒の論述の本文であることは間違いありません。
祝福のオリーブの木の枝、「美しく、良い実を結ぶ」枝は、裁きの火で滅ぼされます。
使徒は預言者が語っていないことを確かに語っています。
野生のオリーブの枝は、その枝の代わりに接ぎ木されるべきなのです。
しかし、もし、それらも神の慈しみにとどまらないなら、切り取られ、イスラエルは再び接ぎ木されるのです。
なぜなら「神は全能の神」だからです。
18~20節では、エレミヤ自身が「神の証しを持つ忠実な残された者たち」の立場を取って語っています。
迫害された彼は、自分が任務を遂行した方に訴えます。
そして、復讐の責任を負う方は、「アナトテの人々」への正当な報復を約束されます。
預言者が自分の故郷や町で尊敬されないことは、主の場合と同様、エレミヤにも適応されました。
エレミヤがここで主の敵の滅亡を祈っているのは、旧約聖書と神の支配に完全に一致しています。
これは確かに福音の恵みによるものではなく、神の倫理的支配の義によるものです。
ヨハネの黙示録5章にも同じことが見られます。
この章では祭壇の下にいるたましいたちが、現在の恵みのディスペンセーションが終わった後の患難時代におけるユダヤ人の殉教者であり、むしろ「父よ、彼らをお赦しください」あるいは「この罪を彼らに負わせないでください」と祈るクリスチャンではないことを示しています。
12章で預言者は、間もなく下される復讐について神に嘆願しています。
永遠に住まわれる高貴なる神に語りかける彼の聖なる親しみには、深く美しく感動的なものがあります。
平原の町々を見下ろすアブラハムを思い起こさせます。
「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。
あなたは彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて、実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの思いからは遠く離れておられます。」
(エレミヤ書12章1、2節)
このように話していただけることは、驚くべき神の恵みです!
エレミヤは従順に自分の心を暴露します。
不満を述べるためではなく、主の御心を知ろうと努めながら、すべての人が共通の破滅に巻き込まれることがないように、悪人が虐殺のために群衆から分離され、嘆きの地に祝福がもたらされるようにと嘆願しています。
(エレミヤ書12章1~5節)
神の答えの中で、群衆が神の義の考えから遠く離れていることが知らされています。
預言者は彼らの不義について、より深く、より厳粛な認識を持っていなければなりません
エレミヤは歩兵と共に走っているだけです。
イスラエルが罪を犯しながら急ぐのを見て、エレミヤは心を痛めました。
しかし、戦いに備えた馬のように、騎兵隊の突撃のように、エレミヤは悪がはびこるのを目の当たりにしなければなりません。
エレミヤはどうやってこの悪と闘うことができるのでしょうか?
これまでエレミヤは平和の地にいて、広い範囲に憤りが注がれないことを期待してきました。
しかし、彼らの罪と反逆によって彼は疲れ果てていました。
彼は、収穫期のヨルダン川の増水のように(ヨシュア記3章15節)神の裁きが激しく注がれ、すべてを彼らの前に押し流すのを見ることになります。
その日、義人も悪人も、ユダに注がれる荒廃の災いの中で苦しむのです。
その時、エレミヤはどうなるのでしょうか?
エレミヤの近い親族でさえ、彼が伝える言葉を拒み、彼に不誠実な態度を取るのです。
(エレミヤ書12章5、6節)
彼らのために嘆願するには遅すぎます。
主は御家を捨て、御自身の相続するものを捨てられました。
主の「愛する者」は敵の手に渡されるのです。
森で吠える獅子のように、彼らは傲慢にも主に逆らいました。
今、森の鳥に迫害されるまだらのある鳥のように、集まった諸国民は彼らを滅ぼすのです。
牧者たちは彼らを荒廃したぶどう園のように荒廃させ、神の取り分を踏みにじりました。
その後に起こる荒廃を心に留める者は誰もいません。
このように、地の果てから果てまで、主の剣は彼らを滅ぼし、肉なる者は誰も平安を得ることはありません。
恐ろしい刈り取りの時、主の激しい怒りの日が来ました。
「多くの牧者が、私のぶどう畑を荒らし、私の地所を踏みつけ、私の慕う地所を、恐怖の荒野にした。
それは恐怖と化し、荒れ果てて、私に向かって嘆いている。全地は荒らされてしまった。だれも心に留める者がいないのだ。
荒野にあるすべての裸の丘の上に、荒らす者が来た。主の剣が、地の果てから地の果てに至るまで食い尽くすので、すべての者には平安がない。
小麦を蒔いても、いばらを刈り取り、労苦してもむだになる。あなたがたは、自分たちの収穫で恥を見よう。主の燃える怒りによって。」
(エレミヤ書12章10~13節)
この章の最後の箇所では、周辺諸国に向けられた言葉が述べられています。
「悪い隣国の民」と呼び、イスラエルに対する神の以前から変わらない懸念が暗示されています。
なぜなら、彼らはイスラエルの隣人であるだけでなく、神の隣人でもあるからです。
これから選ばれる民と、選ばれる民の両方に祝福が預言されます。
散らされた人々と、千年王国を待ち望む神に立ち返るすべて諸国民にです。
イスラエルの民は、神が地上を扱う際の中心となり、周囲の民に祝福をもたらします。
「しかし、彼らが聞かなければ、わたしはその国を根こぎにして滅ぼしてしまう。――主の御告げ。――」
(エレミヤ書12章17節)
第6章 傷ついた帯「あなたはいつまでたっても、きよめられないのか。」
(第13章)
「主は私にこう仰せられた。「行って、亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ。水に浸してはならない。」」
(エレミヤ書13章1節)
主は今、明らかに幻を通して教えを説こうとしています。
実際にエレミヤが帯をユーフラテス川まで運んだとは考えられないからです。
もし、それが文字通りの出来事だとすれば、それは神の戒めに対する彼の従順さを例証するに過ぎません。
帯は働きのしるしであり、多くの聖書箇所で見ることができます。
主イエスはくりかえしこのことについて語っておられます。
例えば、ルカによる福音書12章35節では、主はしもべたちに「腰に帯を締め、あかりをともしていなさい」と命じておられます。
また、同じ章37節では、来るべき世々にわたって主が贖われた者たちのために永遠に仕えることについて語られています。
ヨハネによる福音書13章では、主が弟子たちの足を洗い、地上の汚れから清められて「主と共に預かる」ように、手ぬぐいを取って腰にまとって帯を締めたしもべとして描かれています。
また、パトモス島で愛弟子の前に栄光のうちに現れた時も「胸に金の帯を締めた」姿でした。
イスラエルは旧約の時代から、主に仕える帯を締めたしもべでした。
しかし、悲しいことに、キリスト教世界同様に不信仰な者となりました。
帯は働き、奉仕の印です。
エレミヤは体に帯を締めたのです。
主の御言葉が再び彼に告げられました。
「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、すぐ、ユーフラテス川へ行き、それをそこの岩の割れ目に隠せ。」
(エレミヤ書13章4節)
不信仰な民はバビロンへ連れ去られ、ユーフラテス川によって汚されるはずでした。
エレミヤは命じられたとおりに行いました。
「私はユーフラテス川に行って、掘り、隠した所から帯を取り出したが、なんと、その帯は腐って、何の役にも立たなくなっていた。」
(エレミヤ書13章7節)
これはイスラエルがユーフラテス川で捕囚され、そこへ連れ去られるところを示しています
応用は容易です。
捕囚によって人々の心の状態が変わることはありません。
真実に自分を裁く者だけがこれを実現するのです。
イスラエルは人の腰帯のように主にすがるように仕えました。
「なぜなら、帯が人の腰に結びつくように、わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。
――主の御告げ。――それは、彼らがわたしの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなるためだったのに、彼らがわたしに聞き従わなかったからだ。」
(エレミヤ書13章11節)
ゆえに、彼らは不誠実なしもべとして排斥されます。
彼らの空虚さは、つぼのたとえ話によって明らかにされます。(エレミヤ書13章12節)
彼らは主の喜びではなく、強い迷いの酒で満たされ、その酒は彼らを自信に酔わせ、滅びへと導きます。
預言者のたましいはこの恐ろしい言葉に完全に入り込み、彼は苦悩する心から叫びます。
「あなたがたの神、主に、栄光を帰せよ。
まだ主がやみを送らないうちに、まだあなたがたの足が、暗い山でつまずかないうちに。
そのとき、あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗やみとされる。
もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れた所で、あなたがたの高ぶりのために泣き、涙にくれ、私の目は涙を流そう。主の群れが、とりこになるからだ。」
(エレミヤ書13章15~17節)
主は、光を拒む民が裁きの闇に引き渡されようとしているのを御覧になります。
それでもなお、主は彼らを、彼らの置かれた状況の厳粛さに目覚めさせます。
もし、彼らが眠り、耳を傾けようとしないなら、エレミヤは預言が成就するにつれ、激しく泣かれます。
生まれつきの闇、選択の闇、裁きの闇には違いがあります。
エペソ人への手紙4章18節には、異邦人の状態が述べられています。
「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。」
(エペソ人への手紙4章18節)
長年にわたり神から背を向けてきた結果、人は生まれながらの闇の中に生まれます。
しかし神は、この暗闇の中に光を送り込みました。
ヨハネによる福音書にはこのように記されています。
「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。」
(ヨハネによる福音書3章19、20節)
これは意図的に生まれた闇です。
ユダとエルサレムの人々は、神が預言者を通して彼らの良心に語りかけましたが、光に近づくことを拒みました。
必然的に生じる結果は、裁きとしての闇です。
彼らは自ら選んだ闇に引き渡されるのです。
教会が永遠に主のもとに連れ去られた後、恵まれたキリスト教世界にも、さらに恐ろしい意味で、同じことが起こります。
「それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」
(テサロニケ人への手紙第二2章11、12節)
主の命令によって、預言者は責任ある指導者である王と王妃、おそらくエホヤキムとその王妃に直接語りかけています。
そして、謙虚になって座り込むよう呼びかけます。
彼らの戦争準備は、どう考えても無駄です。
必要なのは武器や兵士ではなく、悔い改めです。
捕囚は布告されました。
ユダは、かつてのイスラエルと同じ様に、その地から連れ去られます。
「北から来る者たち」(20節)とは、バビロニア軍を指しています。
不忠実な王に投げかけられた「あなたに賜わった群れ、あなたの美しい羊の群れはどこにいるのか」(13章20節)という問いは、感動的で、それでいて厳粛な質問です。
王は彼らにとって、神への服従の模範ではなく、むしろ神への反抗に対する模範です。
そこで彼は、「主があなたを罰するとき、あなたは何と言おうとするのか」と尋ねられます。
産婦の苦しみが突然訪れるように、彼の悲しみも突然訪れます。(エレミヤ書13章21節)
実際、その直後にそのことは起こりました。
「あなたが心の中で、「なぜ、こんなことが、私の身に起こったのか。」と言うなら、それは、あなたの多くの咎のために、あなたのすそはまくられ、あなたのかかとがそこなわれたからだ。」
(エレミヤ書13章22節)
では、彼らは神の目に清くなれるのでしょうか?
決してなれません。
悪を行うことに慣れてしまった者が善を行うことは、エチオピア人が白くなることや、ヒョウの斑点を変えることと同じくらい不可能でした。
文化という宗教の現代の使徒たちは、このことに何も関心がないのです!
黒人の黒い肌を洗うことで変えることができないように、たましいに神の働きがない限り、単なる人間の努力による改革は真実な変化をもたらすことはできません。
「 これがあなたの受ける割り当て、わたしがあなたに量り与える分である。
――主の御告げ。――あなたがわたしを忘れ、偽りに拠り頼んだためだ。
わたしも、あなたのすそを、顔の上までまくるので、あなたの恥ずべき所が現われる。」
(エレミヤ書13章25、26節)
罪は彼らを完全な堕落者、忌まわしい淫婦と定め、その恥ずかしめは公然と暴露されることになりました。
偶像崇拝は彼らを滅ぼしました。
「ああ。エルサレムよ」と主は叫びます。
しかし、神は哀れみ深く、忍耐強いので、このように懇願されます。
「あなたはいつまでたっても、きよめられないのか。」
(エレミヤ書13章27節)
悲しいことに、彼らは愚かにも、自分たちを清めることができる唯一の存在から背を向け、破滅の黒雲が急速に頭上に集まってきています。
第7章 物質的および霊的な飢饉
(エレミヤ書14、15章)
旧約の時代、主が「ヤコブを群れのように導き」、愛する民をエジプトの過酷な奴隷状態から導き出された時、主は彼らの前に祝福と呪い、生と死、善と悪を置かれました。
地上の繁栄と名誉は、神への忠誠心を伴うものです。
イスラエルが主の御言葉に従い、その掟に従って歩む限り、いかなる敵も彼らを害することができません。
いかなる干ばつも彼らを苦しめず、いかなる飢饉も病気も彼らを滅ぼすことはできません。
その反面、神への無関心と神の御言葉への反抗は、これらのすべての厳しい試練を必然的にもたらしました。
したがって、ユダの人々が食糧と水の不足で大きな苦悩に陥っているのを見るならば、神の方法と完全に一致しています。
真実な飢餓は内部でした。
外面的な悲惨さは、倫理的状態の反映に過ぎません。
この地にもたらされた荒廃を預言者が描写した言葉は、深く心を打つともに、非常に詩的でもあります。
「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫び声をあげる。
その貴人たちは、召使を、水を汲みにやるが、彼らが水ためのほとりに来ても、水は見つからず、からの器のままで帰る。
彼らは恥を見、侮られて、頭をおおう。
国に秋の大雨が降らず、地面が割れたため、農夫たちも恥を見、頭をおおう。
若草がないために、野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。
野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないためだ。」
(エレミヤ書14章2~6節)
この言葉は実に哀れで、人々の状況は胸が張り裂けるほどです。
子供たちは舌を乾かし、熱でひび割れた唇で水を求めて泣き叫んだが、水は手に入りません。
絶望した貴族たちの命令で、彼らは乾いた井戸へと向かいましたが、無駄でした。
そこでは何も得ることができません。
農作業はすべて停止しました。
雨が降らないことは、作物も食料もないことを意味します。
野獣たちでさえ、この荒廃にあえいでいました。
動物の中で最も優しい雌鹿でさえ、「草がないから」と子鹿を見捨てます。
野ロバは、わずかな草の穂先を探して目を細めていました。
カナンには、毎年氾濫する川はありません。
「しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。」
(申命記11章11節)
そこは常に主が見守る地です。
主は、豊かな恵みの雨を与え、また民の状態に応じて雨は控えられました。
ミツライムの川はとめどなく流れ、毎年、谷を氾濫させていました。
たとえ、エジプトの状況がどうであろうと、主の地ではそうではありません。
そして私たちは今日、このことから学ぶべきことがあります。
世の人は、全くの不敬にもかかわらず、くり返し繁栄が許されています。
ああ、彼らは高いところに持ち上げられて、最後には激しく落ちるのです!
その反面、神の子たちは神の特別な心つかいの下にあります。
「主は愛する者を懲らしめ」(あるいは訓練し)、彼らの永遠の益となるようにされます。
キリストの羊は羊飼いの傍らから迷い出れば、この世のさまざま冷風を感じ、厚い毛皮を持っているわけではありません。
交わりのないクリスチャンは、必ずむちの下を通らなければなりません。
イスラエルにはこのように言われました。
「わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。
それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。」
(アモス書3章2節)
この原則は現在の私たちにも同じことが適応されます。
次の3節で、エレミヤは再び仲介者の立場に立ち、主の御名によって召された人々のために優しく弁護しています。
エレミヤはイスラエルの罪を自分の罪として認めます。
それは「私たちに不利な証言」があり、そしt「私たちの背信」し、「私たちはあなたに罪を犯しました」からです。
エレミヤは功績を弁護するのではなく「あなたの御名をもって」と叫んでいます。
「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。なぜあなたは、この国にいる在留異国人のように、また、一夜を過ごすため立ち寄った旅人のように、すげなくされるのですか。
なぜ、あなたはあわてふためく人のように、また、人を救うこともできない勇士のように、されるのですか。
主よ。あなたは私たちの真中におられ、私たちはあなたの御名をもって、呼ばれているのです。私たちを、置き去りにしないでください。」
(エレミヤ書14章8、9節)
預言者の悲しみと、主への揺るぎない信仰は、共にたましいを揺さぶります。
民に哀れみを示すことを喜んでいたはずの預言者は、主の存在をイスラエルが認識する限り、ただの来訪者にすぎません。
しかし、拒まれた預言者こそが、イスラエルの唯一の「希望」です。
エレミヤは実際には退去していません。
シェキーナはそれでも神殿にありました。
群衆に認識されず、求められもしなかったが、主の住まいは彼らの「真ん中」にありました。
主の答えはこのようです。
「このように、彼らはさすらうことを愛し、その足を制することもしない。
それで、主は彼らを喜ばず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」
(エレミヤ書14章10節)
聖なる者が不正を続けることは不可能です。
裁きは神の家から始まらなければなりません。
主は彼らをあまりにも愛しておられ、彼らが罰を受けずに思いのままに生きることを許すことはできません。
ですから主はこのように言われます。
「この民のために幸いを祈ってはならない。」
(エレミヤ書14章11節)
新約聖書にはこのように記されています。
「死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。」
(ヨハネの手紙第一5章16節)
もし、懲らしめを軽んじ、恵みの御霊を侮辱するなら、嘆願や懇願では手遅れになる時が来ます。
神の聖なる支配の最後の行為として、過ちを犯した者は断ち切られ、事件はキリストの裁きの座に委ねられます。
* この例として、アナニアとサッピラが挙げられます。
二人とも罪を犯して断ち切られました。
* 中にも、記念の晩餐において主を辱めた人々がいました。
聖霊はこのように言われます。
「そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」
(コリント人への手紙第一11章30節)
* そして、私たちが直面しているイスラエルの事件も同じです。
恵みが遅すぎました。
彼らは神の支配を完全に理解する必要がありました。
断食も捧げ物も、剣、飢饉、疫病を阻止するのに何の役にも立ちません。
(エレミヤ書14章12節)
それでも、エレミヤは弁護を続けます。
今度は、人々が偽預言者に惑わされ、巧みな言葉を語り、聞き手には罪は軽いものだと思わせたという理由がここにあります。
主はエレミヤに答えて、これらの邪悪な教師たちは裁きを受け、他の者たちと共に滅ぼされると告げています。
しかし、それは彼らの追随者たちを解放するものではありません。
彼らは自分の邪悪な欲望のために喜びました。
「もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」
(マタイの福音書15章14節)
これらの聖句は、私たちが知るキリスト教世界を厳粛な姿として描いています。
サタンの使者たちは、聞き手を真理から引き離し、作り話へと導こうとしています。
羊の皮を被った狼たちはキリストのしもべを装いながら、聖書の真理と権威に対する素朴な人々の信頼を揺るがしています。
そして、キリストの血を踏みにじる者たちを待ち受ける贖罪と永遠の裁きという偉大で聖なる真理をあざけ笑い、攻撃しています。
悲しいことに、聞き手たちはメッセンジャーたちが破滅に陥るのを見ることになります。
彼らは滑らかなものを求め、真理が示されてもそれを拒み、罪への純粋な愛ゆえに欺く者たちにしがみつきます。
彼らは共に「コラのようにそむいて滅びました。」(ユダの手紙11節)
この章の残りの部分の悲哀は筆舌に尽くしがたいものです。
預言者は打ちひしがれ、慰めようがありません。
彼はモーセとパウロと共に、もし、民が救われるなら、彼ら自身も同じように断ち切られてもかまわないと主張する三人の一人である。
飢饉と剣は町と野に致命的な打撃を与え、癒しの兆しはありません。
彼のたましいは深く揺さぶられ、苦悶の祈りを続けるしかありません。
「御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座をはずかしめないでください。
あなたが私たちに立てられた契約を覚えて、それを破らないでください。」
(エレミヤ書14章21節)
それは、かつてのヨシュアの叫びです。
「カナン人や、この地の住民がみな、これを聞いて、私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。」
(ヨシュア記7章9節)
しかし、神の民が自分の生き方によって神を辱める時、たとえ割礼を受けていない者たちが神に栄光を帰したとしても、神は必要な懲らしめを惜しみません。
神の民が罪を犯し続けるよりも、「キリストのために」世の前で自分が辱められる方がましなのです。
神は御自身の方法と時において、御名を立証されます。
15章の最初の9節における主の厳粛な答えは、救いの希望を与えていません。
モーセとサムエルが立ち上がって彼らのために嘆願したにもかかわらず、聞き入れられませんでした。
民は「出陣」しなければなりません。
そして、もし、彼らが絶望して「どこへ行くのか」と尋ねるならば、恐ろしい答えが返ってきます。
「主はこう仰せられる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、ききんに定められた者はききんに、とりこに定められた者はとりこに。」
(エレミヤ書15章2節)
剣、犬、鳥、そして地の獣は、皆、滅ぼす業を実行するために定められています。
これらを逃れた者は、地上のさまざまな王国に連行されるのです。
これは、彼らがマナセの罪に加担したことを悔い改めないためです。
誰も憐れんだり、気にかけたりしてはなりません。
主を捨てた者たちに、主が彼らに手を伸ばされるからです。
老いも若きも、滅ぼされなければなりません。
「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」
(ヘブル人への手紙10章31節)
「私たちの神は焼き尽くす火です。」
(ヘブル人への手紙12章29節)
神の宣告の全容が彼のたましいに突きつけられると、エレミヤは言葉に尽くせないほどの孤独感に襲われます。
神のために立ち上がり、神を憎みあざけ笑う者たちへの幸福を願う一人の人として、彼は深く自分の無力さと孤独を感じていたはずです。
エレミヤの祈りは無駄に思えました。
神は明らかにエレミヤの声に耳を傾けようとしていません。
民はエレミヤの言葉に耳を貸そうとしていません。
エレミヤは苦悩のあまり叫びました。
「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は国中の争いの相手、けんかの相手となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている。」
(エレミヤ書15章10節)
すぐに主は深い哀れみをもって応え、御自身と、真実な主の御顔を求める者には「必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。」と保証しています。
しかし、不義を行う者にはしかるべき罰が下されます。
現実に自分の叫びが聞き届けられず、無視されていない証拠に勇気づけられ、彼はより確信を持って祈ることができました。
「主よ。あなたはご存じです。私を思い出し、私を顧み、私を追う者たちに復讐してください。あなたの御怒りをおそくして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けているのを、知ってください。
私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」
(エレミヤ書15章15、16節)
ここでは、聖書の他の箇所で密接に結びついている二つの事柄、すなわち「御言葉」と「御名」が出てきます。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。
なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」
(ヨハネの黙示録3章8節)
また、ヨハネの黙示録2章13節の「わたしの名」と「わたしに対する信仰」も参照してください。
これらは御言葉によって宣言されています。
当時の分離主義者(コリント人への手紙第二6章14~18節、イザヤ書52章11節)であったエレミヤは、主の民を愛していながらも、彼らの邪悪な道に従う交わりから悲しいことに離れてゆきました。
「悪から離れる者も、そのとりこになる。」
(イザヤ書59章15節)
この衰退の時代に神への聖別の道を歩もうとする他のすべての人々が、真理は失われ、悪から離れる者も、そのとりこになることを学ばなければなりません。
主はこれを見て、公義のないことに心を痛められました。
すでに見てきたように、エレミヤは深い心の優しさと、主の遺産に対する強い愛情を特徴とする人物でした。
(エレミヤ書9章1~3節)
しかし、忠実であるがゆえに、エレミヤはイスラエルから離れ、イスラエルのやり方を非難するしかありません。
その結果、エレミヤ「みな、私をのろっている」と言われるしかありません。
同じように、パウロもガラテヤの信者たちにこのように問いかけました。
「それでは、私は、あなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。」
(ガラテヤ人への手紙4章16節)
これは、彼らが聖徒たちに一度伝えられた信仰から離れていることを証言した時のことです。
また、コリントの信者たちにはこのように言われています。
「私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。」
(コリント人への手紙第二12章15節)
これらの愛すべき神の人たちは、他の人々との敬虔な交わりを拒まれながらも、時には孤独な道を追求し、御言葉と御名の中に活力と力を見出していることがわかります。
17節でエレミヤはこのように言っています。
「私は、戯れる者たちの集まりにすわったことも、こおどりして喜んだこともありません。私はあなたの御手によって、ひとりすわっていました。あなたが憤りで私を満たされたからです。」
(エレミヤ書15章17節)
このようにエレミヤが言うことができたまさにこの時こそ、神の御言葉がエレミヤにとってかつてないほど大きな意味を持つようになります。
主の民はエレミヤに悲しみしか与えませんでしたが、神の御言葉はエレミヤを喜びで満たしました。
イスラエルの背教的な状態を思い巡らすと、エレミヤの心は張り裂けるほどです。
しかし、エレミヤが神の確かな言葉に目を向けた時、心は喜びに満たされました。
ヨブとダビデは、当時のエレミヤと同じ言葉で語ることができました。
ヨブはこのように叫んでいます。
「私は神のくちびるの命令から離れず、私の定めよりも、御口のことばをたくわえた。」
(ヨブ記23章12節)
これは、神がその愛するしもべになさる方法が完全に理解不能に思え、神を知ろうともがき苦しんでいた時のことです。
それでもヨブは「神の御口の御言葉」を深く心に留め、それに頼って、このように大胆に言いました。
「神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。」
(ヨブ記23章10節)
ほむべき羊飼いは「水盤の詩篇」(119編)の中で、御言葉の尊さと清めの効力を優しく称え、「涙を流す預言者(エレミヤ)」と共にこのように宣言されています。
「私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。」
(詩篇119編111節)
「それゆえ私は、すべてのことについて、あなたの戒めを正しいとします。私は偽りの道をことごとく憎みます。」
(詩篇119編128節)
97節、113節、119節、163節も参考にしてください。
このように、族長、支配者、預言者が、主の証言の豊かさを同じ様に証言しています。
これまで秘められていた事柄を明らかにされ、この宝が加えられ、より豊かで豊かになったその御言葉を、今やクリスチャンは無関心に扱うべきではありません。
残念ながら、多くの人々は、その聖なるページに何も興味を示していません。
その理由を探すのに難しくありません。
現実に悪から離れることがなく、心に定めて主にすがることが何もないからです。
それでも、一つだけ、私たちは安心できます。
拒まれた方の御名のもとに、真実に集められることに深く関与する人々は、必ずや御言葉を尽きることのない喜びの源泉と見なします。
キリストと心から一体になることは、御言葉に対する心からの感謝につながります。
最も切望すべきことは、主イエス・キリストと共に静かに謙虚に歩み、この終わりの日に蔓延する罪、それは極端なものも、喜ばしいものもありますが、その罪から離れることです。
ゆえに、神の御言葉をあなたの助言者としてください。
日々、神の御言葉を友としてください。
その貴重なページを、祈りを込めて、粘り強く読み進めてください。
そうすれば、やがてあなたは、ますます大きな喜びをもって神の御言葉を味わうことができるようになります。
ある年老いたクリスチャンがかつて、このように言いました。
「信じた時、聖書を読み始めました。
10年間読み続け、とても良い本だと思いました。
心から楽しめました。
さらに10年間読み続け、素晴らしい本だと思いました。
たましいを揺さぶられました。
さらに10年間読み続け、この世で最もかけがえのない本だと思いました。
私にとって聖書は食べ物であり、飲み物です。
今では40年間読み続けており、開くたびにその美しさと奥深さに喜びと驚きで満たされます。」
読者と筆者が、この「確かな証し」に対する愛がますます深まることを、もっと知ることができますように。
たとえエノクの時代のように、全世界が別の道を歩むことになったとしても、私たちは主と共に歩むことに喜びを見いだすことができます。
神がそのしもべたちが悪から離れることを心掛けることが、この部分の残りの数節で明確に示されています。
「それゆえ、主はこう仰せられた。
「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせよう。
もし、あなたが、卑しいことではなく、尊いことを言うなら、あなたはわたしの口のようになる。
彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。」
(エレミヤ書15章19節)
他の人々が何を考え、何を言おうと、何をしようと、エレミヤは、はびこる悪のすべてから離れて歩まなければなりません。
必要ならば、一人で歩んでもよいのです。
彼らに善を行なってあげようというむなしい望みを抱いて、悪や悪の中にいる者たちと混ざってはいけません。
他の人々が彼と同じ立場に立ったとしても、それは良いことです。
エレミヤは彼らと共に、彼自身の分離の道を歩むのです。
しかし、「あなたは彼らのところに帰ってはならない。」というのは明白な言葉です。
テモテへの手紙第二2章では、教会の衰退と崩壊の中で神の人を導くために、同じ原則が強調されています。
彼は神の御言葉に反するすべてのものから、また現代の教会の不法を容認し黙認する人々から「自分自身をきよめ」なければなりません。
こうして彼は「尊ばれる器、聖別された器、主の御前にふさわしい器」となるのです。
もちろん、これは、教義や実践の細部において意見が合わない聖徒たちからパリサイ人のように分離する意味ではありません。
神の民に「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」と努めるよう神が命じているのです。
一致は必ずしも完璧である必要はありません。
その呼びかけは、神にとって聖くないもの、神にそむくものからの分離を言っています。
霊的でないクリスチャンは、世的な人々と同様に、この「神の御言葉」に基づいて行動する者を間違いなく誤解し、虐待しています。
しかし、もし私たちが神の啓示された御心に暗黙のうちに従うならば、神はその結果を見ておられます。
神はエレミヤを青銅の壁のようにすると約束し、このように保証されました。
「わたしはあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても、勝てない。
わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。――主の御告げ。――
また、わたしは、あなたを悪人どもの手から救い出し、横暴な者たちの手から助け出す。」」
(エレミヤ書15章20、21節)
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」
(ローマ人への手紙8章31節)
暗闇が深まり、裁きの雷鳴がさらに激しく轟くにつれ、彼の信仰は厳しく試されます。
「わたしがあなたとともにいて」という言葉は、どんな試練にも耐えることができます。
悪魔は猛威を振るい、人々は悪意に満ちた憎しみに歯ぎしりするかもしれません。
神の摂理に逆らうように見えても、永遠の神の約束に信仰を託せる人は決して恥をかくことはありません。
第8章 血があるべきところにある罪
(エレミヤ書16章、17章)
今、私たちが注意してみている「主の御言葉」のこの箇所には、ユダのために預言者が捧げた優しい嘆願ではありません。
預言者は、迫り来る災難を回避できる希望があるように思われた間は、疲れを知らずに嘆願しました。
しかし、民は悔い改めず、神の聖なる性質は、神の御名と深く結びついた者たちの罪を軽々しく見過ごすべきではないことを要求しています。
この箇所は、たとえ、主の心がまだ彼らに味方しているとしても、なぜ主の手が彼らに向けられなければならないかを示しており、主の厳粛な訴えなのです。
預言者は結婚を控えるよう命じられています。
なぜなら、当時の悲惨な状況下では、夫婦の幸福など考えられないからです。
その状況で生まれた子供たちは、悲しみと嘆きの場へと放り出され、嘆き悲しまれぬ死を前にして、ただ悲嘆に暮れるだけなのです。
(エレミヤ書16章1~4節)
親も子も、共に破滅に巻き込まれることになります。
預言者は喪の家にも祝宴の家にも行ってはなりません。
彼らは神のさばきも神の御言葉も受け入れていません。
主の御心が明確に示され、民の嘆きに加わって行かなければなりません。
「わたしはこの民から、わたしの平安と、いつくしみと、あわれみとを取り去った。」
(エレミヤ書16章5節)
心のかたくなイスラエルを慰めようとすることは、懲らしめの鋭さをそらすことです。
エレミヤはイスラエルを厳しく放っておくべきでした。
イスラエルは神の御手の中にあるからです。
新約聖書では、集会の規律についても同じことが述べられています。
邪悪な者は聖徒たちの仲間から引き離され、排斥されるべきです。
心の砕かれた心が現れると、霊的な心を持つ人々の同情はすぐに湧き上がります。
しかし、不敬虔に固執し、主の規律に従っている人々を容認したり、奨励したりすることは、回復と祝福を妨げるだけです。
6節から、ユダの人々が多くの異教の慣習を日常的に実践していたことが明らかです。
死者のために「身を傷つけず、髪もそらない」という布告は、このことが実践されていなければ、発せられていません。
それは申命記14章1、2節への明白な反抗です。
「あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。死人のために自分の身に傷をつけたり、また額をそり上げたりしてはならない。
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」
(申命記14章1、2節)
この国の身分の高い者や低い者が死んでも葬られず、だれも彼らをいたみ悲しまず、彼らのために身を傷つけず、髪もそりません。
ああ、主の「特別な民」が、周囲の異教諸国の最も下劣な慣習に陥るほど堕落してしまったのです!
「邪悪な交わりは善良な習慣を汚す」とはまさにこのことを言ったことわざです。
体の毛を剃ったり頭を剃ることは、異教の神々、さまざまな名前で崇拝されている太陽神バアルに敬意を表すためです。
「だれも、死んだ者を悔やむために葬儀に出て、パンを裂くこともなく、その父や母を慰める杯を彼らに飲ませることもないだろう。」
(エレミヤ書16章7節)
この箇所は、聖書の中で、死んだ者を悔やむ慰めの杯を飲むことが初めて述べられている箇所です。
主イエスは「裏切られたその夜」に、この祝宴を設定されました。
イエスは、パンを裂くことが、私たちの罪のために恥の十字架上で尊い体が砕かれたことを象徴することを宣言し、パンを裂くことに新たな意味を与えました。
その反面、杯は私たちにとって「祝福の杯」、すなわち「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるもの」となり、「罪の赦しを得させる」ものとなりました。
死んだ者を偲んでパンを裂くことも、慰めの杯を飲むこともなかったことは、明らかに完全に忘れてしまったことを意味していました。
ですから、主はこのように言われました。
「わたしを心に留めるために、このように行いなさい。」(直訳)
私たちの心がそのようにに応えられますように。
「喜びと悲しみが入り混じる中、私たちはあなたを思い出します。」
(讃美歌)
エレミヤは記念の祭りにも、また喜びの季節にも加わってはいけないのです。
民の悲しみや喜びに、エレミヤは加わってはいけません。
エレミヤにはさまざまなことが禁じられました。
「あなたは宴会の家に行き、いっしょにすわって食べたり飲んだりしてはならない。」
まことにイスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「見よ。わたしは、この所から、あなたがたの目の前で、あなたがたが生きているうちに、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶やす。」
(エレミヤ書16章8、9節)
彼らはすっかり麻痺し、無感覚になっていました。
メシアの時代の子供たちのように、嘆き悲しんでも嘆かず、笛を吹かれても踊らなかったのです。
彼らの喜びも悲しみも、このようにさまざまな方法においても彼らを扱っている御方を認識できなかったのです。
それゆえ、彼らの悲しみはますます深くなり、彼らの笑いは心の苦悩に変わります。
これらの言葉がすべてが宣べ伝えられた時、彼らの良心が麻痺しており、このように問うことは、当然予想されていました。
「あなたがこの民にこのすべてのことばを告げるとき、彼らがあなたに、『なぜ、主は私たちに、この大きなわざわいを語られたのか。私たちの咎とは何か。」
(エレミヤ書16章10節)
ここに記された恐ろしい結果の一つとして、罪の心をかたくなにする理由があります。
「人の子が、その栄光を帯びて、その栄光の位に着きます。」
すべての国民が彼の前に集められる時でさえ、驚くほど厚かましく、このように問う者たちが出てきます。
「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。」
(マタイの福音書25章44節)
彼らは、生涯を通じて神のしもべと神の御言葉をないがしろにしてきたという事実を自覚しています。
エレミヤは反論者たちにこのように答えます。
「あなたは彼らにこう言え。『あなたがたの先祖がわたしを捨て、――主の御告げ。――
ほかの神々に従い、これに仕え、これを拝み、わたしを捨てて、わたしの律法を守らなかったためだ。
また、あなたがた自身、あなたがたの先祖以上に悪事を働き、しかも、おのおの悪い、かたくなな心のままに歩み、わたしに聞き従わないので、
わたしはあなたがたをこの国から投げ出して、あなたがたも、先祖も知らなかった国へ行かせる。
あなたがたは、そこで日夜、ほかの神々に仕える。わたしはあなたがたに、いつくしみを施さない。』」
(エレミヤ書16章11~13節)
イスラエルの捨て去られた状態は永遠に続くわけではありません。
「イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る。」
(エレミヤ書31章10節)
かつて、主が彼らをエジプトの地から導き上ったように、近い未来にもこのように言われるのです。
「それゆえ、見よ、その日が来る。――主の御告げ。――その日にはもはや、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる。』とは言わないで、
ただ『イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる。』と言うようになる。
わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」
(エレミヤ書16章14、15節)
何世紀にもわたり、「さまよい歩くの民族」は、イスラエルの離散について神の御言葉の真実性を証明してきました。
そして、彼らの帰還と回復に関する預言は、文字通り成就するのです。
エズラとネヘミヤの時代にバビロンから上ったことは、この約束を完全に成就したわけではありません。
当時、数千人、ほんの一握りの人々が帰還しましたが、キリストを拒み再び散らされました。
「万物の更新の時」が来ると、イスラエルは救われます。
「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。
「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」」
(ローマ人への手紙11章26、27節)
それまでは「異邦人の時」であり、「聖なる都」は異邦人によって踏みにじられ、「異邦人が満ちるまで」イスラエルは盲目になります。
これは預言者たちの変わることのない証言ですが、多くの人々によって不思議なことに見過ごされています。
彼らは、神を恐れおののき、神の御心を理解するために聖書を読むのではなく、自分の理論を裏付けるために聖書を読んでいるのではないかと懸念されています。
終わりの日にどれほど完璧に集合させられるかに注目するのは興味深いことです。
しかし、それは人々が最後の大患難時代を乗り越えた後、敬虔で忠実な者たちが現れ、悔い改めない背教者たちが断ち切られた後のことです。
16~18節はこのことについて語られています。
「見よ。わたしは多くの漁夫をやって、――主の御告げ。――彼らをすなどらせる。
その後、わたしは多くの狩人をやって、すべての山、すべての丘、岩の割れ目から彼らをかり出させる。
わたしの目は彼らのすべての行ないを見ているからだ。彼らはわたしの前から隠れることはできない。
また、彼らの咎もわたしの目の前から隠されはしない。
わたしはまず、彼らの咎と罪に対し二倍の報復をする。
それは彼らがわたしの国を忌むべきもののしかばねで汚し、忌みきらうべきものを、わたしの与えた相続地に、満たしたからである。」」
(エレミヤ書16章16~18節)
「イスラエルの家の滅びた羊」を探し出し、彼らを故郷に連れ戻されます。
多くの人が不信仰のまま戻り、それに応じて裁きが下されます。
しかし、その結果、悔い改めた残された民は父祖の家に再び立ち返り、ダビデの幕屋が再建されます。
彼らがさまよっている間も、神の目は彼らの「すべての道を見守って」おられます。
このことはエステル記に印象的に表れています。
そこには、認識されず求められもしなかったにもかかわらず、神が彼らを見守り、気遣っておられることが記されています。
(この興味深く、教訓的な聖書の部分の解説については、同じ著者による「エステル記注解」を参照してください。)
神は自分を忘れ、顧みないと信じ込ませるようサタンに誘惑された、試練と苦悩に苦しむ聖徒の目には、これらの言葉は映るのでしょうか?
「わたしの目は彼らのすべての行ないを見ているからだ。」という言葉は、すべてのイスラエル人だけでなく、すべてのクリスチャンにも確かに真実です。
ああ、疑い深い愛する者よ、目を上げて、主の懲らしめに屈してはいけません。
主の目は一瞬たりともあなたを見失わず、常にあなたを気にかけているからだ。
主はあなたのあらゆる状況を注意深く見守っておられ、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と仰せになりました。
すべてが暗闇の中にあっても信頼し、子どものような信仰をもって「私の時は、御手の中にあります!」と歌うのは、本当に素晴らしいことなのです。
イスラエルの拡大は諸国民にも祝福をもたらします。
「もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。」
(ローマ人への手紙11章12節)
「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。」
(ローマ人への手紙11章15節)
私たちは、19~21節で、異邦人が復活したイスラエルと彼らのもとに来ると言われています。
神はこのように言われました。
「私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽るもの、何の役にも立たないむなしいものばかりだった。
人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない。」と。
「だから、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手と、わたしの力を知らせる。彼らは、わたしの名が主であることを知る。」」
(エレミヤ書16章19~21節)
預言者は栄光の日をほんの一目見たにしか過ぎません。
主がしもべの弱った心を慰めるために、一瞬、暗雲を払いのけ、義の太陽として翼に癒しを携えて昇るメシアの支配の姿を垣間見せてくださるかのようです。
今、エレミヤは民に彼らの罪を明らかにするという、厳しい任務に戻らなければなりません。
「ユダの罪は鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。
彼らの子たちまで、その祭壇や、高い丘の茂った木のほとりにあるアシェラ像を覚えているほどだ。」
(エレミヤ書17章1、2節)
これは、恐ろしい物語をとても明確に物語っています。
彼らの罪は、贖罪の血が注がれるべき場所に記されました。
だからこそ、容赦のない裁きが下されなければならなかったのです。
神は、祭司、あるいは会衆全体の罪のために、ささげ物の血を金の祭壇、すなわち香ばしい香の祭壇の角に塗ることを定められました。
それは、神との交わりを保つためでした。
レビ記4章7、18節を参照にしてください。
支配者や一般民衆が罪を犯した場合、その血は青銅の祭壇、すなわち全焼のいけにえの祭壇の角に塗られなければなりません。
それは、その罪のせいで主がその罪人を捨てられたのではなく、その者を赦す正当な根拠が備えられたことを、すべての人に分かるようにするためでした。
レビ記4章25、30節を参照にしてください。
ああ!エレミヤの時代には、主への捧げ物がなおざりにされ、諸国の偽りの神々への捧げ物があらゆる青々とした木の下で煙を上げていました。
それゆえ、主の聖なる目は、愛する御子の犠牲を物語るために定められた血ではなく、罪深いイスラエルの罪が彼らの心に、そして祭壇の角に刻まれているのを見るのです。
「野にあるわたしの山よ。わたしは、あなたの財宝、すべての宝物を、獲物として引き渡す。あなたの国中にある高き所の罪のために。」
(エレミヤ書17章3節)
主の「野の山」、エルサレム、それは主が御名を置かれた場所です。
主の栄光が宿る場所は、そのすべての宝物とともに、敵の略奪品、獲物として与えられ、彼らの高き所は、彼らの領土全体で罪のために引き渡されなければなりません。
主は裁きを喜ばれるからではなく、彼らが自ら相続地への権利をすべて放棄してしまったのです。
主の戒めを破り、定められた捧げ物と血の注ぎかけを無視したことにより、彼らは土地に対する権利がすべて失われてしまいました。
彼らは異邦人となるべき地へ連れ去られなければいけません。
なぜなら、主はこう言うことができたからです。
「あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃えよう。」
(エレミヤ書17章4節)
責任ある立場に置かれた人間の歴史は、常にこのようです。
エデンの園のアダムから、千年王国の救世主のもとで祝福された世界まで、人間の物語を一言で表すとすれば「失敗」です。
人は頼りになりません。
「主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。
そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。」
(エレミヤ書17章5、6節)
イスラエルの歴史、そして人類の歴史は、確かに「肉に頼るな」という重要な教訓を人々に教えています。
しかし残念なことに、多くの人にとって、少なくとも自分自身でさえも、信頼できると考えています。
「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。
その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。」
(エレミヤ書17章7、8節)
これは詩篇一篇の祝福された人です。
神の御言葉を糧とし、主のみに信頼を置く人です。
その完璧な模範は主御自身です。
主を救い主と知りながら、実際に私たちは主に従っていません。
すべてが順調な時は、自分を欺き、主に信頼していると思い込んでいますが、実際には肉の腕に頼っています。
試練の時だからこそ、私たちの信頼が本当にどこにあるのかが明らかになります。
「もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。」
(箴言24章10節)
残念ながらこうなのです。
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」
(エレミヤ書17章9節)
そして、神御自身が問いかけています。
「だれが、それを知ることができよう。
わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」
(エレミヤ書17章9、10節)
すべての人が生まれながらの人は欺く心を持っています。
そして、人は転落した結果として堕落を経験します。
イザヤ書44章20節には「灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて」とあります。、
申命記11章16節ではモーセは心が欺かれることを警告しています。
しかし、これらの箇所では、それは人間の生まれながらの状態ではなく、大いなるペテン師である悪魔の誘惑に耳を傾けた結果であるとされています。
すべての人は偽りの心を持っています。
神の御言葉に従わない者だけが、偽りの心を持っています。
心を試し、心を探る方は、それぞれの行いの実に応じて報いてくださいます。
「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」
(ガラテア人への手紙6章7節)
神の支配に逆らって戦うことは無駄です。
そして、このように記されています。
「しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公義によらないで富を得る者がある。彼の一生の半ばで、富が彼を置き去りにし、そのすえはしれ者となる。」
(エレミヤ書17章11節)
主の王座は高く栄光に満ち、まことに、主は永遠に住まわれる高く尊い方です。
すべての人は、主の前では秤の小さな塵にすぎません。
次のように主は述べています。
「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。」
(エレミヤ書17章13節)
この聖句はヨハネによる福音書8章の印象的な場面に、鮮やかな光を投げかけています。
律法学者とパリサイ人が姦淫の罪で捕らえられた哀れな女をイエスのもとに連れて来た時、イエスは身をかがめて地面に何かを書きました。
彼らは高慢な態度から、イエスに裁きを求めました。
イエスは人の心を見透かし、彼らの中で罪のない者にまず石を投げるように命じ、もう一度身をかがめて地面に何かを書き記しました。
死刑の宣告は彼ら全員に下されたのです!
主の御言葉が明らかにされていることを感じ、彼らは主の臨在の罪を自覚させる光から一人ずつ出て行き、罪人と救い主だけが残りました。
詩篇22篇で主はこのように言われます。
「あなたは私を死のちりの上に置かれます。」
(詩篇22篇5節)
使徒がこのように言っています。
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。」
(ローマ人への手紙5章12節)
主は恵みによって死の塵によって身をかがめられましたが、悔い改めて神に立ち返るすべての人を救われたのです。
主の恵みを拒む者は「地に名を刻まれ」ます。
つまり、彼らは死に定められているのです。
しかし、主イエスを来るべき怒りからの救い主として受け入れていたならば、彼らは救われたかもしれません。
主は「生ける水の源」であり、望む者は皆、そこから飲み、永遠の命を得ることができます。
14節は、神の救いの必要性を訴える預言者の叫びです。
「私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。
私をお救いください。そうすれば、私は救われます。
あなたこそ、私の賛美だからです。」
(エレミヤ書17章14節)
「ああ、彼らは私に言っています。「主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。」」
(エレミヤ書17章15節)
これは懐疑主義のあざけりです。
エレミヤは、破滅の預言が成就するのを無理に心配していたわけではありません。
エレミヤは悲惨な日を望んでいません。
エレミヤ自身の性向が預言者の役割を引き受けるように導いたわけではありません。
しかし、神は、エレミヤが語った言葉が啓示されたとおりの誠実なものであったことを証しされました。
主は、敵対者たちが混乱し、落胆させられる災いの日の希望でした。
預言のこの部分を締めくくる個の箇所には安息日に関することが記されています。
一見すると、これまで注目してきた事柄から、この箇所に移るならば、思考の連鎖が途切れたように思えるかもしれません。
しかし、安息日はイスラエルと主との契約関係を、毎週、記念していた日であることを忘れてはなりません。
安息日は、エジプトの奴隷状態からの解放を永遠に思い起こさせるものとして聖なるものとされています。
(申命記5章15節)
人類のあらゆる労働が終わり、救われた者たちが新たな創造の平穏な至福へと入っていく、最終的な安息が示されています。
(レビ記23章3節)
したがって、主の聖日を彼らがどのように評価していたかによって、人々の状態が明らかになります。
もし、彼らが「安息日を喜びと呼び」、その特権を喜んでいたなら、彼らの心が主に忠実であることの確かな証拠となります。
もし、その日に彼らが自分の楽しみを求め、安息日に関する律法の規定を無視していたなら、彼らの惨めな状態にあり、それ以上の証拠を求める必要はありません。
このことを議論の余地なく明らかにするために、エレミヤは門(裁きの場)に立ち、王とエルサレムのすべての住民が町に出入りする時に聞こえるように叫ぶことが命じられました。
「主は私にこう仰せられる。「行って、ユダの王たちが出入りする、この民の子らの門と、エルサレムのすべての門に立ち、
彼らに言え。これらの門のうちにはいるユダの王たち、ユダ全体、エルサレムの全住民よ。主のことばを聞け。
主はこう仰せられる。『あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門のうちに持ち込むな。
また、安息日に荷物を家から出すな。何の仕事もするな。
わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりに安息日をきよく保て。」
(エレミヤ書17章19~22節)
安息日に関するこの召命は、神の過去の救いと未来の約束を思い起こさせるものです。
しかし、人間は無駄な労働を好みます。
「しかし、彼らは聞かず、耳も傾けず、うなじのこわい者となって聞こうとせず、懲らしめを受けなかった。」
(エレミヤ書17章23節)
この後の時代にも、もし彼らがこのように神に立ち返り、第七日目を聖別することによって神への服従を示すならば、神の恵みが継続すると約束されています。
ユダとベニヤミンのすべての町から、人々は昔のようにエルサレムに群がり、再び彼らの手から犠牲と供え物が主に受け入れられるのです。
しかし、もし彼らが主に耳を傾けることを拒み続けるならば、その町とそのすべての宮は完全に滅ぼされます。
確かに、これほど優しく懇願され、これほど忠実に警告された民はかつて、ありません。
しかし、彼らの中には「生ける神から離れ去る不信仰の邪悪な心」がありました。
懇願も、命令も、いわば自分を破滅させるように意図的に耳を閉ざした者たちの耳に届かなかったのです。
彼らを非難するのは簡単です。
しかし、読者の皆さん、私たち自身の生き方を吟味し、彼らの模範と御言葉を通して今私たちに語りかけてくださっている神を、私たち自身も拒みているのではないか?と自問してみましょう。
神から離れ、心が冷たくなることが常態化しています。
最後の大いなる背教は急速に進行しています。
真理である聖書は、キリスト教の牧師を装いながら聖書のあらゆる根本的真理を非難しています。
見せかけだけの異教徒たちの命令で、容易に手放されつつあります。
第9章 陶器師の家からの教訓
(エレミヤ書18章、19章)
聖書には陶器師の家から取られた比喩が数多くあります。
土器を作る職人は、ヘブル人の間でも、また周辺諸国の間でも軽んじられない人物です。
歴代誌第一4章22、23節では、陶器師たちは「王の仕事をするため、王とともにそこに住んだ」者たちの中に含まれています。
彼らは王の保護と監視の下にありました。
彼らは主との交わりについて語っており、主の御心にかなう仕事をするためには絶対に不可欠です。
働き手は「主に喜ばれる」ためには、主と共に住まなければなりません。
詩篇2篇9節とヨハネの黙示録2章27節では、メシアは憤慨した陶器師の役を演じ、価値のない器を粉々に打ち砕きます。
イザヤは壮大な預言の中で29章16節と64章8節、そしてパウロはローマ人への手紙9章20節と23節で、エレミヤ書のこの章が私たちに示しているのと同じ比喩を用いています。
神は陶器師であり、私たちは神の御手の中の粘土にすぎません。
イザヤ書30章14節も参照にしてください。
ダニエル書2章41節にある異邦人の力と支配権を表す大きな像の足は、一部は鉄で一部は陶器師の粘土でできています。
鉄は強い権威を、陶器は不安定な大衆を表わしています。
そして、この地上の真実な王が再び現れる時、間もなく天から落ちてくる石によって、すべてが同じように打ち砕かれます。
主イエスを裏切る代価として支払われたお金で「陶器師の畑」が、よそ者を埋葬する場所として購入されたことも注目に値します。
この地球は陶器師の畑にほかなりません。
ここはずっと主のものでしたが、厳粛な意味で、神の子の苦しみによって購入されたのです。
驚くべき大きさの埋葬地ではないでしょうか!
天のよそ者であった主自身がそこに埋葬されましたが、勝利のうちによみがえり、永遠に生きるのです。
間もなく、主は地と海からすべての聖徒を塵から生き返らせ、すばらしい栄光にあずからせます。
そして後に、悔い改めない者たちを審判への召しによって目覚めさせられます!
陶器師の家では、尊く必要な教訓が学ばれました。
それは、取るに足らない人間の傲慢さと自己満足に対する教訓です。
主はエレミヤに言われました。
「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」
(エレミヤ書18章2節)
「私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。
陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。」
(エレミヤ書18章3節、4節)
すぐに主の御言葉がしもべにのぞみました。
目の前で起こった出来事を、主はそれを、罪によって傷つき、醜く変貌してしまったイスラエルをこれからどのように扱うのか、その方法に例えられています。
イスラエルだけでなく、後には地上の多くの国々をも扱うことになります。
神の学校で初めて学んだ神の主権という偉大な教訓(1節)が、今、彼のたましいの益のために、例証され、さらに詳しく説明されています。
「それから、私に次のような主のことばがあった。
「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。
――主の御告げ。――見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。」
(エレミヤ書18章5、6節)
これは議論の余地のない事実です。
そのため、裁きの宣告が下された後、ニネベが救われたように、イスラエルの国を救った神の義を誰も否定することはできません。
ただし、罪深い民が悪の道から立ち返り、神の御顔を求めることが条件です。
彼らは皆、このことを認めました。
反対の立場は受け入れにくいかもしれませんが、同じ様に真実です。
たとえ、神がある国を祝福し「王国を建て、それを植える」と語られたとしても、この国が神の声に従う道から離れ、神の目に悪と映る行いを続けるのなら、神は彼らに恵みを与えると約束された良きことを思い直すのです。(7~10節)
「わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、
もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。
わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、
もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。」
(エレミヤ書18章7~10節)
-最初の命題は、ユダとイスラエルに残された唯一の希望の根拠です。
-最後の命題は彼らの破滅を意味しました。
なぜなら、それはまさに彼らの状況を描写していたからです。
それゆえ、再びエレミヤはユダの人々とエルサレムの住民のもとへ行き、主が彼らに対して災いを企てたことを警告するともに、彼らに悪の道から立ち返り、その道と行いを善くするよう勧めなければなりません。(エレミヤ書18章11節)
しかし、彼らには悔い改めの兆しは見られず、悔い改めどころか、悔い改めの兆しさえありません。
神から遠ざかる人々にしばしば見られるあの恐ろしい大胆さで、彼らはこのように答えました。
「だめだ。私たちは自分の計画に従い、おのおの悪いかたくなな心のままに行なうのだから。」
(エレミヤ書18章12節)
彼らは反逆と裏切りの道に身を投じ、神に背く自分の道以外何も望んでいません。
神の心つかいと導きを多く知っている者でさえ、良心が失われた時、どれほどの深淵に陥るか、誰が知るでしょうか?
主の忍耐と恵みは、以下の聖句に顕著に示されています。
長く延期されていた裁きは、間もなく執行されます。
「それゆえ、主はこう仰せられる。『さあ、国々の中で尋ねてみよ。だれが、こんなことを聞いたことがあるか。おとめイスラエルは、実に恐るべきことを行なった。
レバノンの雪は、野の岩から消え去るだろうか。ほかの国から流れて来る冷たい水が、引き抜かれるだろうか。」
(エレミヤ書18章13、14節)
言い換えれば、主が彼らに与えてくださった恵み深い慰めが果たされず、彼らは主を忘れ、虚栄のために香を焚いてしまいました。
彼らはかつての道からつまずき、小道に、まだ築かれていない道に行かせ、つまり主が彼らのために定めておられない道を歩んでしまったのです。
彼らの地は荒廃し、通り過ぎる人々は皆驚き、彼ら自身も東風、つまり逆境の風に吹き飛ばされるように散らされます。
それからの数世紀、この言葉の真実性は証明されてきました。
これらの言葉が語られた当時、預言者の話を聞いた人々はそれを信じようとしていません。
そして、主の御言葉を利用して、「さあ、私たちは計画を立ててエレミヤを倒そう」と言いました。
彼らは彼を責任者に仕立て上げ、主の御言葉に従う代わりに、しもべに復讐しようとしました。
虚栄心に満ちた自信に満ち溢れた彼らは、「預言者からことばが滅びうせることはないはずだから。さあ、舌で彼を打ち、彼のことばにはどれにも耳を傾けまい」と叫びました。
もちろん、彼らが述べていたのは、神が遣わしていない、油を注いでいない、彼ら自身の偽りの祭司、教師、預言者たちのことでした。
彼らはこのように言ったのです。
「さあ、私たちは計画を立ててエレミヤを倒そう。祭司から律法が、知恵ある者からはかりごとが、預言者からことばが滅びうせることはないはずだから。さあ、舌で彼を打ち、彼のことばにはどれにも耳を傾けまい。」
(エレミヤ書18章18節)
彼らと争う代わりに、エレミヤは自分を遣わした方に嘆願します。
「主のしもべは争ってはならない」からです。
彼らが激しい憎しみと敵意でエレミヤのいのちを「取ろうとして穴を掘った」まさにその時、エレミヤは祈ります。
「私があなたの御前に立って、彼らに対するあなたの憤りをやめていただき、彼らについて良いことを語ったことを、覚えてください。」
(エレミヤ書18章20節)
しかし、彼らが自分の哀れみを軽んじ、強情な行いを続けたため、エレミヤはエリヤのように彼らに対して執り成就の祈りを捧げ、預言の成就を祈り求めます。(エレミヤ書18章21、23節)
19章1節で、彼は陶器師の「土の焼き物のびん」を取りに行くよう命じられ、民の長老たちと祭司たちを証人として連れて行くよう命じられます。
ヒンノムの子たちの谷へ出かけ、そこは後に町の残骸が焼かれた場所です。
当時はまだ忌まわしいモロク崇拝の儀式が行われていました。
エレミヤは、ユダの王たちとエルサレムの住民に、民の罪と、彼らに下されるであろう裁きについて、改めて告げ知らせることになりました。
(エレミヤ書19章2~5節)
すぐにヒンノムの谷は虐殺の谷として知られるようになります。
なぜなら、彼らがその恐ろしいトフェテで息子たちをバアルとモロクへのささげ物として殺したので、神は彼らを敵の剣でそこで倒し、埋葬されていない死体を天の鳥と野の獣の餌食にしたからです。
(エレミヤ書19章6~9節)
その時、びんは長老たちの目の前で割られ、エレミは主のメッセージを宣言しました。
「万軍の主はこう仰せられる。陶器師の器が砕かれると、二度と直すことができない。このように、わたしはこの民と、この町を砕く。人々はトフェテに葬る余地がないほどに葬る。」
(エレミヤ書19章11節)
異教徒の偶像のために神を拒んだ彼らの結末をこのように記しています。
「そこでエレミヤは、主が預言のために遣わしたトフェテから帰って来て、主の宮の庭に立ち、すべての民に言った。
「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはこの町と、すべての町々に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじのこわい者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。』」
(エレミヤ書19章14、15節)
主が警告し、嘆願し、懇願しましたが、彼らの心は折れません。
彼らは主の怒りの杯の苦さを知るに違いありません。
第10章 パシュルの新しい名前と預言者の嘆き
(エレミヤ書20章)
これまで、私たちの預言者は、実際の迫害というよりは、冷淡な無関心で対処されました。
今、エレミヤは、他の多くの人々よりも、良いことが期待されていた人物の手によって、肉体的な苦しみを経験することになります。
主の家の祭司であり総督であったパシュルは、エレミヤの忠実なメッセージに憤慨し、力ずくでそれを阻止しようとします。
聖書の他の箇所では、この人物について何も述べられていませんが、この書には同じ名前の人物が数人登場します。
ここでは、彼がイメルの子であったこと、つまり祭司職の第16階級に属していたことだけが記されています。(歴代誌第一24章14節)
パシュフルは「これらのことを預言した」と聞き、公に見せしめにしようと決意しました。
預言者エレミヤを打ちのめし、「主の宮にある上のベニヤミンの門にある足かせにつないだ」(1、2節)と記されています。
こうしてエレミヤは、民の嘲笑の的となり、汚名を着せられる目に遭いました。
一昼夜、彼はこの状態に放置されました。
そして、翌日、迫害者は「足かせから解いた」のです。
屈辱と苦難は、神の人を少しもひるませません。
当然のことながら、私たちが見てきたように、臆病で内気な人であった彼は、宣教を始めた時に主から与えられた約束に従い、今や獅子のように勇敢です。
ユダとエルサレムの石の心を持つ人々のために幾度となく涙を流してきた者は、今や自分自身のことを心配することも、背教した祭司に優しい言葉をかけることもありません。
「エレミヤは彼に言った。「主はあなたの名をパシュフルではなくて、『恐れが回りにある』(Magormissabib)と呼ばれる。」
(エレミヤ書20章3節)
パシュフルは一般的に「繁栄」を意味すると言われています。
彼は主の油注がれた者たちに手を上げ、主の言葉を拒み、二度と繁栄することはありません。
「マゴルミサビブ(Magormissabib)」は「四方からの恐怖」(あるいは恐れ)を意味します。
パシュフルの未来はまさにそのような状態になります。
パシュフル自身とすべての友人にとって恐怖の対象となり、来る日も来る日も命の危険に脅えながら暮らします。
これがパシュフルの報いとなり、捕囚としてバビロンへ連行され、そこで死に、無割礼の地に埋葬されます。
偽りの祭司は何の返答もしていません。
エレミヤの言葉の力は、どれほど彼を憎んでいたとしても、深く心に響いたはずです。
ゆえに、エレミヤは偽りの祭司を自分の前から追い払ったのです。
そして今、主の御言葉を軽蔑する者の前で、大胆に振るまった男が、主の前で砕かれ、恐れさえ感じていたのを私たちは目にすることができます。
彼は決して禁欲的な人間ではありません。
自分の立場が非難されることを痛切に感じたのです。
7節からこの章の終わりまで、一種の独り言が展開されます。
彼はまず不満を、次に賛美を、そして再び意見を万軍の主の耳に注ぎます。
「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。
あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。
私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。」
(エレミヤ書20章7節)
エレミヤは迫害や嘲笑を好んではいません。
それどころか、軽く見られ、自分のメッセージが嘲笑されることに、エレミヤは深く傷つきました。
しかし、主は彼を説得しました。
エレミヤは信じたのです。
それゆえに、エレミヤは語ったのです。
エレミヤのメッセージは最初から暴力と略奪に満ちていました。
そのため、主の御言葉は彼にとって屈辱となり、毎日のように嘲笑の的となりました。
(エレミヤ書20章8節)
もし、エレミヤが巧みな預言をし、罪に陥った人々を慰める言葉を語っていたなら、エレミヤは尊敬を集めていたはずです。
しかし、そのようにはしません。
なぜなら、エレミヤは主から与えられた言葉を宣べ伝えなければならないからです。
さまざま所で非難や拒絶に遭うことはエレミヤの敏感な性質にとって非常に苦痛だったので、エレミヤはこれ以上預言しないと決心しました。
「私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。」と思いました」
(エレミヤ書20章9節)
しかし、彼にとってこれは理解できないこことなるのです。
「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」
(エレミヤ書20章9節)
異邦人の使徒はこのように宣言しました。
「もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。」
(コリント人への手紙第一9章16章))
宣べ伝えられなければ、安らぐことはできません。
これは、現代の多くの牧師の大雑把な奉仕とはまったく異なります。
「燃えさかる火」が噴き出している必要があります。
このように、神の御言葉がこのように胸に湧き上がっているなら、彼はひたすらメッセージをしなければなりません。
このことを単に真似をしようとすることは愚かなことです。
どんな霊的な人でも、そして全く信仰のない多くの人にとっても、聖霊によって心の奥底に植え付けられたものを伝えることと、作り上げられたメッセージの単なる空虚さの違いは簡単に見分けることができます。
まさに「四方から多くの人に中傷される」ことによって、エレミヤをますます神に向かわせ、彼が宣べ伝えた真理のために戦うこと、いわば勇気づけるものとなりました。
エレミヤに友情を誓う者たち、つまり「親しい人々」たちは、彼がそそのかされるのを見守りました。
そして、彼が誘惑されて復讐することを期待しました。
エレミヤがパシュフルに告げたように、周囲は恐怖に包まれていた。
しかし彼はこのように言うことができました。
「しかし、主は私とともにあって、横暴な勇士のようです。
ですから、私を追う者たちは、つまずいて、勝つことはできません。
彼らは成功しないので(明らかにパシュフルという名を指しています)、大いに恥をかき、それが忘れられない永久の恥となりましょう。」
(エレミヤ書20章11節)
それゆえ、万軍の主、義人を試み、その心と心を見通す主に、エレミヤは自分の訴えを託し、ユダの平和を脅かす敵に対する神の報復を見届けるよう懇願しました。
強い信仰によって、彼はまだ起こっていないことをすでに起こったかのように数え、高揚した心で叫んでいます。
「主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行なう者どもの手から救い出されたからだ。」
(エレミヤ書20章13節)
「主は救い出してくださる」ではなく、「主は救い出してくださった」と信仰は語っています。
同じ人間が、ある瞬間にこの真実な祝福されたたましいの状態にあり、その後すぐに、残りの数節の深淵に突き落とされるなどと誰が想像できるでしょうか?
ああ、それが神の子供たちの多くに共通する経験です。
* 信仰が実践されている間、すべては明るいのです。
* 自分に目を向けると、すべてが暗くなります。
これまで考察してきた聖句において、主は預言者のたましいの前に立ちました。
しかし、続く聖句において、エレミヤは御自身のことで頭がいっぱいです。
その結果、預言者の霊は突然落ち込み、ヨブの時のような状態になります。
「ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。」
(ヨブ記3章1節)
実際、エレミヤがウツの地の長老たちと主の道について語る書物(ヨブ記)に精通していたという推測を、否定することができません。
ヨブ記3章全体とこれらの5節を比較すると、これらの敬虔な預言者たちの訴えと似ていることが分かります。
預言者は、自分の誕生の日と、男の子が生まれたという知らせを父に伝えた男を呪っています。
彼は、その男が胎内で殺されていれば、あるいは生まれてこなければよかったと願っています。
そして、このように絶望の中で問いかけています。
「なぜ、私は労苦と苦悩に会うために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。」
(エレミヤ書20章18節)
このことは、救いの神から目を背けた弱く繊細な心が砕け散ることです。
たましいの奥底の感情を知り尽くした神は、すべてを正しく評価し、聖所の天秤で、打ちのめされたしもべの悲しみを量られました。
第11章 預言された包囲と捕囚
(エレミヤ書21章~24章)
本書に収められているエレミヤのさまざまな預言は、年代順に並んでいるわけではありません。
21章から24章に記されている一連の預言は、ゼデキヤ王の末期、つまりバビロンへの最終的な移動が行われた時代に記されています。
次の預言はエホヤキム王の治世4年に、そして、その次の預言はエホヤキム王の治世第1年に語られました。
これらの預言は明確な倫理的秩序に従っており、民の状態がいかに絶望的なのかを示しています。
このことから、これらの預言をこのようにまとめることには神の意図があったことは明らかです。
この部分が始まった時点で、ネブカドレザルはすでにエルサレムの包囲を開始していました。
ネブカドレザルの名前の表記は、ダニエル書や他の箇所、さらにはこの書の後半部分で見られるものとは若干異なっていることに気づくはずです。
ここで与えられた綴りは、バビロニアで後年発掘された碑文と、おそらくは別の文章よりも一致しています。
おそらく、ヘブル語化された形式です。
この強大な君主は、まだ王子だった頃にパレスチナを征服しました。
また、悪いことに、エルサレムはバビロンへの貢物としてエホアハズの兄弟エホヤキムを王位に残しました。
ネブカドレザルはパレスチナからエジプトへ進軍し、パロ・ネコの軍勢を既に敗走させていました。
滞在中に父ナボポラッサルの訃報が届き、王位継承を確実なものとするため、軽装の部隊を率いて直ちにカルデアへ帰還しました。
残りの軍勢は、王族の捕虜を多数護送した後、より遠回りのルートでエジプトへ向かいました。
その後まもなく、エホヤキムはネブカドレザルに反逆し、バビロンへ捕囚されて罰せられました。
列王記第二24章1節を参照にしてください。
彼の息子、エホヤキン、あるいはエコニヤが王位に就きましたが、彼もまたすぐに反抗しました。
ネブカドレザルは再びエルサレムへ進軍し、彼と約一万人の民を捕虜として連行しました。
エゼキエルとモルデカイがバビロンへ連行されたのもこの時です。
勝利したカルデア人は、退位した王の叔父であるマタヌヤを王位に就け、彼の名をゼデキヤと改めました。
マタヌヤは「ヤハの贈り物」を意味し、ゼデキヤは「ヤハの義」という意味です。
このユダヤ人の王子は、即位した当時まだ21歳の若者でしたが、極めて不信心な人物であり、その治世は7年間続きました。
彼については、このように記されています。
「彼は、すべてエホヤキムがしたように、主の目の前に悪を行なった。
エルサレムとユダにこのようなことが起こったのは、主の怒りによるもので、ついに主は彼らを御前から投げ捨てられたのである。その後、ゼデキヤはバビロンの王に反逆した。」
(列王記第二24章19、20章)
再び、カルデア軍はこの聖都の前に姿を現し、ほぼ一年に及ぶ長い包囲戦が始まりました。
この苦難と混乱の時期に、ゼデキヤはメルキヤの子パシュフルと、祭司マアセヤの子ゼパニヤをエレミヤのもとに派遣しました。
この二人の使者のうち最初の人物については、38章を考察する中で詳しく見ていきます。
また、黙想を進める中でゼパニヤについても触れています。
ゼパニヤの名前は幾度となく述べられていますが、その功績を示すものはありません。(エレミヤ書29章25節 37章3節 列王記第二25章18節)
ゼデキヤが反乱を起こし、バビロン王との誓約を破ったという事実自体が、彼の不信仰で服従しない心を明らかにしています。
神はユダの罪ゆえに征服者を遣わされた。
その悪を悔い改めなければ、いかなる人間の力も救いには何の役にも立ちません。
しかし、ユダの王は武力によってそのくびきを断ち切ろうと考えました。
今、無力感に苛まれたゼデキヤは主の預言者に使者を遣わしましたが、罪を犯したという自覚は全く示していません。
したがって、彼の嘆願には、悔恨や悔い改めを表す表現は完全に欠けています。
ゼデキヤのメッセージはこのように記されています。
「どうか、私たちのために主に尋ねてください。バビロンの王ネブカデレザルが私たちを攻めています。主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行なわれたように、私たちにも行ない、彼を私たちから離れ去らせてくださるかもしれませんから。」
(エレミヤ書21章2節)
すべては敬虔に聞こえますが、彼は主に立ち返るような生き方や行いをしていません。
ゼデキヤは自分が窮地に立たされていると感じています。
可能であれば、神の力を利用しようとしながらも、神の要求を無視しようとしています。
このように行動したのは彼が最初でも最後でもありません。
しかし、そのようなすべての者に言えるように、彼にも平安の答えがありません。
エレミヤは使者たちに主君のもとへ戻るよう命じました。
主は主のために戦うことを拒否するだけでなく、彼らと戦い、彼らの手に武器を返させるまで戦うことを告げます。
町はカルデア人の手に渡り、住民の大部分は剣と大疫病で死にます。
ゼデキヤを含む残された者たちはネブカドレザルの捕虜となり、ユーフラテス川沿いの帝都へと連行されます
(エレミヤ書21章3~7節)
しかし、民には選択肢が与えられました。
「命の道と死の道」が彼らの前に示されました。
町に留まる者は皆死ぬべきであり、出て行って包囲軍に倒れる者は生き残ります。
「生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる。」
(エレミヤ書21章9節)
町そのものは火で焼かれます。(エレミヤ書21章8~10節)
ユダ王の家には、特別な勧告と警告がありました。
朝ごとに正義が執行され、略奪された者たちを圧制者の手から救い出すことが求められました。
詩篇101篇8節を参照にしてください。
さもなければ、主の怒りは、消し去ることのできない火のように彼らに向かって燃え上がります。
「ユダの王家のために。――「主のことばを聞け。
ダビデの家よ。主はこう仰せられる。朝ごとに、正しいさばきを行ない、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。さもないと、あなたがたの悪行のために、わたしの憤りが火のように燃えて焼き尽くし、消す者はいない。」
「ああ、この谷に住む者、平地の岩よ。あなたに言う。――主の御告げ。――あなたがたは、『だれが、私たちのところに下って来よう。だれが、私たちの住まいにはいれよう。』と言っている。
わたしはあなたがたを、その行ないの実にしたがって罰する。――主の御告げ。――また、わたしは、その林に火をつける。火はその周辺をことごとく焼き尽くす。」」
(エレミヤ書21章11~14節)
主御自身が彼らに敵対し、彼らの堕落した不敬虔な行いに応じて罰を与えました。
王の使いに対する返答の結果は語られていません。
ゼデキヤはそれが真実であることを恐れていたものの、それに基づいて行動する勇気がなく、完全に無視されたと推測するしかありません。
第22章の冒頭には、主から王宮に遣わされた預言者が登場します。
その者は真実なキリスト教が普及する前のジョン・ノックスのようです。
「主とその力ある力によって強く」、自身は弱々しく震えやすい人であったにもかかわらず、王たちを戒める者、貧しい人々の牧師でした。
訳者注)ジョン・ノックス(英国:(John Knox)1510年 - 1572年11月24日)は、スコットランドの牧師、宗教改革の指導者、長老派教会の創立者です。
彼の言葉にはためらいや迷いは全くありません。
彼が伝えるのは「主の御言葉」です。
彼は「神の厳粛な宣言」として語ります。
彼の演説は義への呼びかけです。
もし、王が、これまで神への反逆の指導者として、今や神に立ち返る指導者となるならば、ダビデの王座に座り、王たちは、王家の門から入ることができます。
そうでなければ、「この家は必ず廃墟となる」のです。
主はこう仰せられる。「ユダの王の家に下り、そこで、このことばを語って
かつて、神の前に栄華と美を誇ったギレアデとレバノンは、乾ききった荒野となり、諸国の民は驚いて、通り過ぎる時「なぜ、主はこの大きな町をこのようにしたのだろう」と尋ねます。
その答えは「彼らが彼らの神、主の契約を捨て、ほかの神々を拝み、これに仕えたから」と述べられています。
(エレミヤ書22章1~9節)
預言の重荷がどれほど重たいのか、幾世紀にもわたる歴史によって証明されます。
現在、エルサレムは、諸国民にとって塩の柱となります。
地上のすべての王国に「思い出せ!」と叫んでいます。
死者は少なくとも、先祖の地に墓を見つけるべきです。
その場所はやがてメシアの足元に聖化されます。
彼らのために泣く者はいません。
去っていく者のために「大いに泣け」べきです。
「彼は二度と、帰って、故郷を見ることがないから」からです。
(エレミヤ書22章10節)
シャルム、別名エホアハズは、わずか3ヶ月の邪悪で信用のない支配の後、約18年前にパロ・ネコによってエジプトへ連れ去られました。
歴代誌第一3章15節、列王記第二23章30、32節を参照にしてください。
敬虔なヨシヤ王の息子であるシャルムが、いつか救世主として戻ってくるのではないかと期待した人もいたかもしれません。
しかし、預言者は「彼は二度とここには帰らない。
彼は引いて行かれた所で死に、二度とこの国を見ることはない。」と告げています。
(エレミヤ書22章10~12節)
この預言は、その後まもなく成就しました。
ヨシヤがメギドの平原での早すぎる死を遂げて以来、彼の信用できない後継者たちは不正行為で有名になります。
「「ああ。不義によって自分の家を建て、不正によって自分の高殿を建てる者。隣人をただで働かせて報酬も払わず、
『私は自分のために、広い家、ゆったりした高殿を建て、それに窓を取りつけ、杉の板でおおい、朱を塗ろう。』と言う者。」
(エレミヤ書22章13、14節)
常に主は貧しい人や困っている人のことを気遣っておられます。
ヨシヤが公正と義を行った時、彼は幸いでした。
彼は苦しむ人や貧困に苦しむ人々の訴えを裁きました。
そして、主はこれが「主を知ること」であったと宣言されます。
エレミヤの時代のこの嘆かわしい罪は、この終わりの時代に千倍にも増幅されています。
富める者は他人の労働によって富を蓄え、貧しい者を踏みにじります。
傲慢と尊大さから宮殿を建て、まるで神が彼らの不正な富の獲得手段を忘れたかのように暮らします。
しかし、最も高い者よりも高い神は、単純に黙示しているのではありません。
主はこのように言われました。
「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。
あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、
あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。
あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。
見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。
そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。」
(ヤコブの手紙5章1~4節)
刈り取った者の叫びは、万軍の主の耳に入ります。
「あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。
あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。」
(ヤコブの手紙5章5、6節)
主の復讐の時が来ようとしています!
その反面、主の名を信頼する貧しい人々や謙遜な人々への言葉はこのようです。
「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。
見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。」
(ヤコブの手紙5章7、8節)
神は、表面上は無関心で永遠に見過ごすことはありません。
時代を超えて犯されたあらゆる過ちは、必ず正されます。
神の都が、そのさまざまな悪行のために異邦人の圧制者に引き渡されたように、悪を行う者たちは速やかに報復されます。
貧しい祭司が傲慢なゼデキヤに面と向かって、このように断言するには、並大抵の勇気ではありません。
「しかし、あなたの目と心とは、自分の利得だけに向けられ、罪のない者の血を流し、しいたげと暴虐を行なうだけだ。」
(エレミヤ書22章17節)
これは尊く恐ろしい告発であり、邪悪な王は何も答えられません。
ヘロデ王の場合と同じ様に、彼の良心は告発者の側に立っていました。
エホアハズの運命は、エジプトで死ぬと宣告されました。
パロ・ネコによって立てられた後継者エホヤキムにも、彼と同じ運命が待ち受けていました。
エホヤキムはエリアキムから改名されていました。(列王記第二23章34節)
エホヤキムはこの7年前にバビロンへ連行されており、誰も嘆く者はいません。
しかし、捕囚の身で死に、「エルサレムの門まで、引きずられ、投げやられて、ろばが埋められるように埋められる」運命でした。
エレミヤ書22章18、19節、36章30節も参照にしてください。
このようにユダの王たちは一人ずつ滅ぼされる運命でした。
「あなたが繁栄していたときに、わたしはあなたに語りかけたが、あなたは『私は聞かない。』と言った。
わたしの声に聞き従わないということ、これが、若いころからのあなたの生き方だった。」
(エレミヤ書22章21節)
民の羊飼いたちは皆、捕囚の身となり、そのすべての悪行のゆえに恥じ、辱めを受け、産婦の苦しみの苦悩が彼らに臨んだ時、彼らは哀れみ深くなり、神の意志に従うようになりますす。
捕囚されていたユダの王がまだ一人いました。
コニヤ(エコニヤ、エホヤキン、エホヤキム、ヨアキムなどさまざまな呼び名で呼ばれた)は、わずか3ヶ月余りの短く信用できない支配の後、同じ様にバビロンへ連行されました。
また、彼も帰還することは許されていません。
彼は異邦人の地で「喜ばれない器」(24、28節)として死ななければなりません。
このように民が希望を託していた者たちが、一人ずつ裁きによって連れ去られていきました。
決して、彼らは学ぶことはありません。
「地よ、地よ、地よ。主のことばを聞け。
主はこう仰せられる。「この人を『子を残さず、一生栄えない男。』と記録せよ。
彼の子孫のうちひとりも、ダビデの王座に着いて、栄え、再びユダを治める者はいないからだ。」」
(エレミヤ書22章29、30節)
ソロモン王朝の継承は彼で終わり、王位はダビデの息子ナタンの血統に引き継がれます。
これは、新約聖書に主の系図が二つある理由を説明しています。
まさにマタイはこのコニヤを通してヨセフの血統を記しています。
しかし、もし、キリストが彼を通して来られたなら、王座に座ることはできません。
ルカは明らかに、ヨセフの義父ヘリの娘マリアの血統をナタンを通して記しており、こうしてコニヤの呪いを避けながらダビデの血統を保っています。
「子を残さず、一生栄えない男。」という言葉は、あえて霊的に解釈するならば、クリスチャンにとって尊い言葉です。
キリストの血によって救われた者は皆、たましいの勝利者となることを切望すべきです。
「穀物を売り惜しむ者は民にのろわれる。」
(箴言11章26節)
読者が新しく生まれ変わったなら、今や宝を所有していることになります。
あらゆる場所で、貧しい男女がそれを失い、罪の中で死に、キリストのいない永遠の世界へと堕ちていきます。
あなたに託された偉大で貴重なものを、彼らと分かち合うよう努めてください。
神が人々を御自身へと導くために用いられる者となるよう努めてください。
「正しい者の結ぶ実はいのちの木である。」
(箴言11章30章)
そうすれば、信仰を持つあなたの子供たちを見上げる喜びを得ることができます。
彼らは、その日にあなたの喜びの冠となるのです。
「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」
(テサロニケ第一2章19、20章)
もし「子を残さず」と記されなければならないとしたら、誰がその損失を想像できるのでしょうか?
イスラエルの牧者たち、すなわち王たちは、その尊い職務を、託された羊たちの祝福のために用いることを大いに怠っていました。
特にエルサレムで支配した最後の四人は、背教した羊飼いたちで、私腹を肥やすことばかりに気を取られ、羊の群れを顧みませんでした。
23章の冒頭では、主の牧場の羊たちを滅ぼし散らした彼らに対して「苦難」が宣告されています。
「「ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち。――主の御告げ。――」
それゆえ、イスラエルの神、主は、この民を牧する牧者たちについて、こう仰せられる。
「あなたがたは、わたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ。わたしは、あなたがたの悪い行ないを罰する。――主の御告げ。――」
(エレミヤ書23章1、2節)
神の民の指導者が愚かな者たちを迷わせ、群れを導き守るべき者たちが彼らを脇道に導き、危険にさらしました。
実に哀れなことです。
主がこれらのことの責任を問われる時、厳粛な責任が問われます。
エゼキエル書34章を参照すれば、読者はこれらの邪悪な羊飼いたちの行いをより深く理解できます。
注意して1節から6節を見てください。
あらゆるところで、人間の牧者たちがひどく失敗し、主御自身が追い払われたすべての国々から残りの羊を集め、再び囲いに連れ戻し、そこで彼らは子孫を豊かに増やすという、心温まる保証が記されています。(エレミヤ書23章3節)
これはユダヤ人がキリスト教を信じることとは関係ありません。
しかし、この約束は、現在の律法が終わり、教会が天に移された後、ユダヤ人が将来的に文字通り故郷に帰還することを示しています。
こうして彼らは父祖の故郷、そしてかつて、拒みた王のもとに帰還し、このように言いました。
「わたしは彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる。
彼らは二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない。――主の御告げ。――」
(エレミヤ書23章4節)
私たちはこれらの羊飼いのうち12人を知っています。
なぜなら、私たちの主が使徒たちにこう言われるからです。
「そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」
「よく聞きなさい。
(マタイの福音書19章28節)
ユダは罪によってその立場を失いましたが、空席となった使徒職はマティアスに与えられました。
約束されたメシアを通して、ダビデの契約に基づくこれらの哀れみは成就するのです。
「見よ、主は言われる。
わたしはダビデに正しい若枝を立てる日が来る。
王が治めて栄え、地に公正と正義を行う。」
(エレミヤ書23章5節)
主が植えたこの枝のことを、預言者たちの中でくりかえし述べられています。
イザヤは、主の美しさと栄光について、このように語っています。
「その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。
オンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。
主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、」
(イザヤ書4章2~4節)
この聖句全体は、千年王国の情景を描いています。
ゼカリヤ書3章8節で主はこのように言っています。
「見よ。わたしは、わたしのしもべ、一つの若枝を来させる。
――わたしはまた、その国の不義を一日のうちに取り除く。」
(ゼカリヤ書3章8、9節)
また、同じ書の6章12、13節にはこのように記されています。
「彼にこう言え。『万軍の主はこう仰せられる。見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す。
彼は主の神殿を建て、尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。
その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。』」
(ゼカリヤ書6章12、13節)
ためらうピラトがイエスを群衆の前に立たせ、何も考えず預言者の言葉を口にして「さあ、この人です。」と叫んだ時、彼はイスラエルの視線を主の枝へと向けていた。
彼らは知らなかったが、その枝にすべての希望が集中していました。
「その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。」
(エレミヤ書23章6節)
イスラエル自身には祝福を受ける資格がなく、かつて、拒まれたメシアの中にすべてを見つけることができます。
偉大な模範となるユダヤ人、タルソのサウロ(テモテへの第一の手紙1章16節)のように、彼らについてこのように書かれています。
「キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」
(ピリピ人への手紙3章9節)
「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」
(コリント人への手紙第一1章30章)
「それゆえ、見よ、このような日が来る。――主の御告げ。――その日には、彼らは、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる。』とはもう言わないで、
『イスラエルの家のすえを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる。』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」」
(エレミヤ書23章7、8節)
クロスの時代に部分的な帰還が行われたことをこの約束の成就とみなす人もいるが、それは明らかに誤った解釈です。
* まず最初に、この聖句が示す、私たちに期待させる普遍的な回復はその時代には起きていません。
* 次に、イスラエルは、すぐに再び散らされ、その地に住まず、現在ではすべての国々の間に散らばっています。
イザヤははっきりとこのように告げています。
「主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。」
(イザヤ11章12節)
エレミヤが言及しているのは、二度目、つまり究極的に救出されること指しています。
次に、この本でくりかえし登場するもう一つの対比を紹介します。
メシアの支配の栄光について少しの間、語った後、パウロは、千年王国の祝福の日に起こる状況とは全く異なり、彼の民の状態に対する嘆きを語ります。
「預言者たちに対して。――私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのようだ。
ぶどう酒に負けた男のようになった。主と、主の聖なることばのために。」
(エレミヤ書23章9節)
預言者の職にある他の人々への不当な嫉妬はエレミヤにはありません。
偽りの預言者たちが弟子たちを神から遠ざけ、惨めな境遇に安住させていることに、彼の心は深く動揺しました。
国中が民の姦淫と冒涜のために嘆き悲しんでいます。
そこには、預言者と祭司は共に、当時広く行われていた不義の指導者がいます。
「それゆえ、彼らの道は、暗やみの中のすべりやすい所のようになり、彼らは追い散らされて、そこに倒れる。」
(エレミヤ書23章12節)
彼らは、主の訪れによって滅びるのです。
(エレミヤ書23章10~12節)
こうした状況はユダだけでなく、はるか昔に北王国の十部族がアッシリアに連れ去られたサマリアでも同じです。
預言者たちが「バアルに預言」し、その地に残された民を惑わしました。
(エレミヤ書23章13節)
しかし、悪が顕著に現れたのはエルサレムでした。
そこでは、放縦で不誠実な預言者たちが悪行者たちの手を強め、悔い改めを妨げ、その町はソドムとゴモラの堕落のようになっていました。
このため、彼ら(預言者たち)は神の怒りの苦よもぎを与えられ、神の裁きの毒の水を飲まされるのです。(14、15節)
民は彼らの言うことに耳を傾けないよう懇願されます。
彼らは偽預言者によって虚しくされ、自分の心の幻を語り、主から何も受け取っていません。
主を軽蔑する者たちに彼らは、「主は『あなたたちは平安を得る』と言われました」と宣言し、自分の心の思いに従って歩む者には災いは臨まないと保証しました。(16、17節)
その結果、主の激しい暴風が起こり、主は預言者と民の両方に対して、御自身の心の思いによって罰せられます。
そして、主の勧告と御言葉は成就します。
主から離れたために懲らしめとしてこのように扱われていることを、終わりの日に彼らはそれをよく考え、理解すべきでなのです。(エレミヤ書23章18~20節)
神から遣わされたわけでもなく、神からの言葉も受けていないこれらの自称預言者たちは、人々をその悪の道から引き戻すことはできず、むしろ罪を助長するばかりです。
悲しいことに、ユダヤ教世界とキリスト教世界の両方にこのような後継者が数多くいることは、考え深い人なら誰でも明らかなはずです。
そのような教師やメッセンジャーはたくさんいるのではないでしょうか?
そして、盲目の群衆は「耳がかゆいと感じながら、真理から離れ」、自分から選んだ欺く者たちの後を追うのです。
しかし、「遠い神ではない」主の目はすべての上にあり、「天地に満ちている主から隠れることはできない」のです。
(エレミヤ書23章23、24節)
主は、私たちが考察してきた暗黒の時代に、自分の心のペテンから語る預言者たちの嘘を聞き、そして現在の空虚なすべての言葉に注目しておられます。
主の確実で忠実な言葉の代わりに、単なる空虚な夢が神の御言葉として語られています。
(エレミヤ書23章25~28節)
「夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。
麦はわらと何のかかわりがあろうか。――主の御告げ。――」
(エレミヤ書23章28節)
あらゆる人々の輝かしい思いや高潔な想像も、純粋で混じりけのない神の御言葉と比べれば、取るに足らないもみ殻に過ぎません。
真実な牧師はこのように語っています。
「恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。」
(コリント人への手紙第二4章2節)
サタンの卑劣な偽物とはまったく違います。
「わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。――主の御告げ。――」
(エレミヤ書23章29節)
神の単純な真理には、人間の空想や哲学では決して持ち得ない力があります。
それは石の心さえも砕く力です。
しかし、これらの預言者たちは、人々に受け入れられるために自分たちの夢や推測を語りましたが、実際には主の御言葉を盗んでいます。
それゆえ、主は彼らに敵対し、彼らは人々にとって何の益にもならないとされました。(エレミヤ書23章29~32節)
その反面、祭司、預言者、あるいは民の誰かが、困惑と恐れを抱いてエレミヤのもとに来て、「主の宣告とは何か」と尋ねる場合、エレミヤは、彼らの愚かさに応じて、「あなたがたが重荷だ。だから、わたしはあなたがたを捨てる」と答えなければなりません。
その反面、他の「重荷」を持っていると主張する者はすべて罰せられ、「主の宣告」は二度と口にされません。
「各人の言葉は、その人の重荷となる」のです。
つまり、彼らは神からの言葉を得ることなく、生ける神の御言葉を曲げたので、自分自身の考えに身を委ねることになります。
「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」(箴言29章18節)という真理を知らなければなりません。
彼らはこのようになります。
「永遠のそしり、忘れられることのない、永遠の侮辱をあなたがたに与える。」
(エレミヤ書23章40節)
24章は、エコニヤが連れ去られた後、つまりゼデキヤの治世初期に与えられた幻について述べているため、付録としてここに追加されています。
エレミヤは幻の中で、主の神殿の前に置かれた二つのいちじくのかごを主から示されました。
(エレミヤ書24章1節)
いちじくの木はユダの象徴として広く知られており、ぶどうの木はイスラエル全体の象徴です。
主イエスはユダを「ぶどう園に植えられたいちじくの木」に例えました。
続く幻(エレミヤ書24章1~6節)では、一つのかごには良い果物が入っていました。
また、もう一つのかごには食べられないほど腐ったいちじくが入っていました。
これらは、主が民を分けた二つの人たちを示しています。
カルデア人に捕らえられた人々は「彼らの益のために」送り出されました。
主は恵みによって彼らを見守り、最終的に彼ら(残された民)を彼らの土地に復帰させ、再び植え付け、二度と引き抜かれることがないようにされます。
この最後の句は、エズラとネヘミヤの時代に約束が成就したと考える不当な理論を効果的に否定しています。
彼らは「再び引き抜かれた」のでしょうか?
確かにそうです。
しかし、主が定められた時が来れば、彼らは彼らの土地に定着し、二度とそこから根こそぎにされることはありません。
その日には、神は彼らに神自身を知る心を与え、彼らは神の民となり、神は彼らの神となります。
彼らは、以前の残された者たちが決してしなかったことを行うからです。
「心を尽くしてわたしに立ち返るからである。」
(エレミヤ書24章7節)
これらは主が蓄えるべき良いいちじくです。
全く価値のない悪いいちじくは、ゼデキヤとエルサレムの残された民、そしてエジプトの地で神の御言葉に逆らって暮らす人々を象徴しています。
彼らは「害のために」(他のいちじくは「益のために」)地上のあらゆる王国に追放されます。
「わたしは彼らを地のすべての王国のおののき、悩みとし、また、わたしが追い散らすすべての所で、そしり、物笑いの種、なぶりもの、のろいとする。」
(エレミヤ書24章9節)
二千年以上もの間、歴史の出来事として誰もが知っている出来事を、神の霊感を受けた者以外に、現実のはるか昔に、これほど忠実に預言できた者はいたでしょうか?
第12章 七十年間の捕囚と主の怒りの杯
(25章)
「重荷」は、私たちが今考察してきたものより17、8年ほど遡ります。
最初の節の日付は、エホヤキム王の治世第4年、ネブカドレザル王の治世第1年です。
前者については、このように記されています。
「彼はエルサレムを罪のない者の血で満たした。
主はそれを赦されなかった。」
(列王記第二24章4節)
しかし、彼の父は敬虔で献身的なヨシヤ王であり、主の御言葉に震え上がり、偶像崇拝を国から追い払おうとしました。
恵みは受け継がれるものではありません。
「あなたがたは新しく生まれなければならない」という言葉は、聖徒の子孫にも罪人の子孫にも等しく力を持ちます。
預言者はユダとエルサレムの民に語りかけ、支配者たちに語りかけたのではありません。
彼は23年間、彼らの間で職務を遂行し、主の御言葉を宣べ伝えました。
ヨシヤ王の治世第13年、改革が続いていた頃から、偶像崇拝が蔓延していた現在に至るまで、ヨシヤは人々に「早起きして語り」ましたが、彼らは耳を傾けません。
ヨシヤに先立つ他のしもべや預言者たちもいましたが、彼らは同じように耳を貸しません。
皆のメッセージは、大体において似通っています。
彼らはこう言いました。
「また、主はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび送ったのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けることもなかった。
主は仰せられた。「さあ、おのおの、悪の道から、あなたがたの悪い行ないから立ち返り、主があなたがたと先祖たちに与えた土地で、いつまでも、とこしえに住め。
ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んではならない。
あなたがたが手で造った物によって、わたしの怒りを引き起こしてはならない。
そうでないと、わたしもあなたがたにわざわいを与える。
それでも、あなたがたはわたしに聞き従わなかった。
――主の御告げ。――それで、あなたがたは手で造った物でわたしの怒りを引き起こし、身にわざわいを招いた。」」
(エレミヤ書25章5~7節)
「わたしのしもべ」と呼ぶネブカドレザル率いる北軍が、彼らと、彼らを偶像崇拝に誘惑した周囲の諸国民に攻め寄せます。
さまざま喜びと楽しみ、そして人々が日常生活を送ることを物語るあらゆるものが消え去り、全土は荒廃します。
しかし、それは永遠に続くのではありません。
「これらの国々はバビロンの王に七十年仕える」と記されています。
この期間は最も重要な期間です。
イスラエルがその地に入る時、主は彼らに7年ごとに 安息日には土地は休耕状態となります。
「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたがはいったとき、その地は主の安息を守らなければならない。
六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。
七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。
あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの年である。
地を安息させるならあなたがたの食糧のためになる。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のため、
また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのため、その地の収穫はみな食物となる。」
(レビ記25章2~7節)
守れば繁栄が保証されるという約束も与えられました。
次のように書かれています。
「あなたがたが、『もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか。』と言うなら、
わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。
あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。
九年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。」
(レビ記25章20~22節)
彼らが安息年を守り、土地に安息日を与えれば、不足はなく、むしろ豊かに供給されます。
こうして彼らは神の所有を認め、自らも主のしもべであることを認めたのです。
出エジプト記23章10、11節には、安息年を守るという命令が簡潔に記されています。
「六年間は、地に種を蒔き、収穫をしなければならない。
七年目には、その土地をそのままにしておき、休ませなければならない。
民の貧しい人々に、食べさせ、その残りを野の獣に食べさせなければならない。
ぶどう畑も、オリーブ畑も、同様にしなければならない。」
(出エジプト記23章10、11節)
しかし、ここに主の貧しい者への恵みを示す一節が付け加えられています。
「民の貧しい人々に、食べさせ、その残りを野の獣に食べさせなければならない。」
主はいわば家を開放し、貧しい人々は主の恵みを受け、一般的な農作業の義務から解放されるこの年に休息し、食事をさせます。
主は、御言葉に従うならば祝福を約束しただけでなく、モーセを通して、戒めに耳を傾けないならば裁きを受けると厳粛に警告されました。
もし、彼らが主に逆らうならば、主も彼らに逆らうであろう、そして主はこのように宣言されました。
「わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる。
その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間、そのとき、その地は休み、その安息の年を取り返す。
地が荒れ果てている間中、地は、あなたがたがそこの住まいに住んでいたとき、安息の年に休まなかったその休みを取る。」
(レビ記26章33~35節)
そして同じ章の43節で、主はこのように言っています。
「その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない。
実に彼らがわたしの定めを退け、彼らがわたしのおきてを忌みきらったからである。」
(レビ記26章43節)
つまり、主はまさにこの言葉を成就しようとしています。
民は70年間バビロンに捕囚されることになっていました。
現在の不十分な年表では、数字に頼りすぎることは避けるべきです。
しかし、神殿の奉献から破壊に至るまでの全期間、安息年は守られていなかったようです。
これは約490年間に相当します。
70の安息日が無視されたのです。
その70年間、彼らはその土地が安息を守っている間、異邦人の国に居住しなければなりません。
歴代誌第二36章21節には、捕囚の脅威が実際に起こったときのことが記されています。
「これは、エレミヤにより告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。
この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。」
(歴代誌第二36章21節)
神に逆らうことは不可能です。
自己中心なユダは、安息の年を守らずに過ごせば時間を稼ぎ、富を早く蓄えられると考えたはずです。
彼らはこれらの言葉の真実を学ばなければなりません。
「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる」
(サムエル記第一2章30節)
それ以来、多くの自己中心な神の子たちも同じです。
主を待ち望む時間は、失われた時間と見なされてきました。
多くの人は忙しすぎて、主にその分を捧げることができません。
仕事、娯楽、つまり自己に始まり自己に終わるすべてのことが最優先され、主のための時間は全く残っていません。
しかし、主は必ず最後にはバランスをとらせてくださいます。
多くの聖徒が、長く倦怠感に満ちた月日、何年もの歳月を、健康で活力のある日々に押し出され、神のことがなおざりにされたという単純な理由で、無駄な時間を過ごしてきました。
神の御名がほめたたえられますように。
地上の民の場合と同じ様に、捕囚の日々は実り豊かな日々となりました。
ユダが偶像を忌み嫌うことを学んだのは、バビロンのくびきに服従していた時です。
それ以来、ユダは偶像を忌み嫌うことで罪を犯したことは一度もありません。
主の懲らしめの時期は、無駄な時間ではありません。
その後、それによって鍛えられた人々に、義という平和な実を結ばせるのです。
懲らしめが終わり、失われた安息年が補填され、彼らは故郷に戻ることが許されることになりました。
「七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、――主の御告げ。――
またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。
わたしは、この国について語ったすべてのことば、すなわち、エレミヤが万国について預言し、この書にしるされている事をみな、この地にもたらす。
多くの国々と大王たちが彼らを奴隷に使い、わたしも彼らに、そのしわざに応じ、その手のわざに応じて報いよう。」
(エレミヤ書25章12~14節)
バビロンの陥落は、イスラエルの救いが近づいたことを示すしるしとなるはずです。
ダニエルは、ご承知のとおり、過去の預言者たちの書物を研究しこのように記録されています。
「私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。」
(ダニエル書9章2節)
エレミヤは神の確かな言葉を持ち、頼ることができることを知っていました。
エレミヤは、全能者の霊感によって与えられた言葉を語ったに過ぎません。
バビロンはエルサレムを破壊することを許され、主の懲らしめの道具でした。
しかし、今度はそのさまざまな忌まわしい行いのゆえに完全に破壊されたというのは注目すべきことです。
「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。」
(ペテロの手紙4章17節)
諸国民は逃れることはできません。
15節から26節には、主の激しい怒りの酒杯を唇に押し付けるべきさまざまな民族の詳細なリストが記されています。
エレミヤはそれぞれの民に順番にそれを渡します。
「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。飲んで酔い、へどを吐いて倒れよ。
起き上がるな。わたしがあなたがたの間に剣を送るからだ。」
(エレミヤ書25章27節)
「万軍の主はこう仰せられる。あなたがたは必ず飲まなければならない。
見よ。わたしの名がつけられているこの町にも、わたしはわざわいを与え始めているからだ。あなたがたが、どんなに罰を免れようとしても、免れることはできない。」
(エレミヤ書25章28、29節)
いいえ、それはあり得ません。
「義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」
(ペテロの手紙第一4章18節)
諸国民がどのようにして主の力の前に飲まされ、屈服させられたのかは、長きにわたり真実の歴史として語り継がれてきました。
主が諸国民とその羊飼い、あるいは王たちと争う日が、終結節(30~38節)において、武勇伝的な韻律と生き生きとした描写で描かれています。
注解は不要である。
その描写の簡潔さと壮大さは、解釈を必要としません。
第13章 危険と救い
(26章)
先ほど考察した主の御名による宣言の少し前、エレミヤは民の罪を示し、間もなく下される確かな裁きを彼らの前に示したという彼の忠実さゆえに、命の危険にさらされていました。
「エホヤキムの治世の初め」(エレミヤ書26章1節)という記述以外、正確な日付は記されていません。
エレミヤは主から神殿の庭に立つように命じられていましたが、それは明らかに、年に一度の祭りの時でした。
そして、このように記されています。
「主はこう仰せられる。主の宮の庭に立ち、主の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。一言も省くな。」
(エレミヤ書26章1節)
メッセージの内容については、エレミヤには選択の余地がありません。
なぜなら、彼は主が命じられた「すべての言葉」を語るように命じられていたからです。
この言葉は、言葉によって霊感に反対する人々が私たちに信じ込ませようとして、単に彼自身の選んだ言葉で表現された考えや概念ではありません。
「一言も省くな」
(エレミヤ書26章2節)
コリント人への手紙第一2章13節を参照にしてください。
使徒が語った言葉は、エレミヤの場合と同じ様に、聖霊が教えられた言葉そのものであったことに注目してください。
「彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしは、彼らの悪い行ないのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直そう。
だから彼らに言え。『主はこう仰せられる。もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、あなたがたの前に置いたわたしの律法に歩まず、
わたしがあなたがたに早くからたびたび送っているわたしのしもべである預言者たちのことばに聞き従わないなら、――あなたがたは聞かなかった。――
わたしはこの宮をシロのようにし、この町を地の万国ののろいとする。』」」
(エレミヤ書26章3~6節)
預言者は「天的な幻」に従い、任務を受けたとおりに行い、すべての人々は神の言葉を聞きました。
預言者が演説を終えるや否や、主の家の庭で仕えていた祭司たちと偽預言者たちが暴徒と結託し、聖所の平和を乱す者、そして王と祖国への裏切り者として預言者を逮捕しました。
それは驚くべき光景だったはずです。
預言者は、まだ明らかにされていなかったキリストの苦しみと非難にあずかるという特権を大いに享受しました。
「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ」群衆が預言者の血を求めて叫ぶのを聞きました。
預言者は叫びました。
そして、このように記されています。
「祭司と預言者とすべての民は、エレミヤがこのことばを主の宮で語っているのを聞いた。
主がすべての民に語れと命じたことをみな、エレミヤが語り終えたとき、祭司と預言者とすべての民は彼を捕えて言った。「あなたは必ず死ななければならない。」
なぜ、主の御名により、この宮がシロのようになり、この町もだれも住む者のいない廃墟となると言って預言したのか。」こうしてすべての民がエレミヤを攻撃しに、主の宮に集まった。」
(エレミヤ書26章7~9節)
この状況では、このように弱々しく臆病な男が、憂鬱と恐怖に襲われるのは当然なことです。
しかし、彼は打ちひしがれることも、脅えることもしていません。
自らが宣べ伝えた主の御言葉に大胆に信頼を置き、彼は激怒する民衆に動揺することなく立ち向かいました。
ユダの君たちは騒動を知ると、すぐに宮殿から神殿の新しい門へと駆けつけ、そこで直ちに調査が開始されました。
祭司たちと偽預言者たちは激しくエレミヤを非難し、このように言いました。
「ユダの首長たちはこれらのことを聞いて、王宮から主の宮に上り、主の宮の新しい門の入口にすわった。
祭司や預言者たちは、首長たちやすべての民に次のように言った。「この者は死刑に当たる。彼がこの町に対して、あなたがたが自分の耳で聞いたとおりの預言をしたからだ。」」
(エレミヤ書26章10、11節)
エレミヤは自ら語ることを許されました。
少しもためらうことなく、また、自分自身の結末を全く気にすることなく、彼は大胆に宣言しました。
「主が、あなたがたの聞いたすべてのことばを、この宮とこの町に対して預言するよう、私を遣わされたのです。」
(エレミヤ書26章12節)
そのメッセージはしもべからではなく、主からです。
彼らはエレミヤが偽善的に主に仕えていると告白しています。
これはユダとその主との間の争いです。
もし、彼らが裁きと荒廃の脅しを聞きたくないならば、その実現を避ける確実な方法がありました。
「さあ、今、あなたがたの行ないとわざを改め、あなたがたの神、主の御声に聞き従いなさい。
そうすれば、主も、あなたがたに語ったわざわいを思い直されるでしょう。」
(エレミヤ書26章13節)
使者を殺すことによってではなく、その宣告に耳を傾けることによって、主の怒りは鎮められたのです。
「このとおり、私はあなたがたの手の中にあります。私をあなたがたがよいと思うよう、正しいと思うようにしなさい。」
(エレミヤ書26章14節)
声を震わせることもなく、頬に青ざめることもなく、もし、彼らが死を決意をするなら、自ら進んで死に向かいます。
それでもなお、エレミヤはその結果を彼らに警告しています。
「ただ、もしあなたがたが私を殺すなら、あなたがた自身が罪のない者の血の報いを、自分たちと、この町と、その住民とに及ぼすのだということを、はっきり知っていてください。なぜなら、ほんとうに主が、私をあなたがたのもとに送り、あなたがたの耳にこれらすべてのことばを語らせたのですから。」
(エレミヤ書26章15節)
それは、聖なるものの義に頼りながら、自分自身の誠実さを自覚する者の勇気です。
クルーマンのロバート・モファットは、野蛮人の槍に胸をさらしたのと同じ精神で、ニューヘブリディーズ諸島のパトンもタンナ島の激怒した人々に恐れることなく立ち向かいました。
同じ様に、何千人もの敬虔な聖徒たちが真理のために命を危険にさらし、自分の安全よりも、彼らが仕えていた恩知らずの民のことをはるかに心配していました。
エレミヤの言葉の影響は極めて顕著でした。
ほんの少し前までは彼の処刑を叫んでいた諸侯たちや気まぐれな民衆も、今や彼に有利な判決を下しました。
このように彼らは言います。
「この人は死刑に当たらない。私たちの神、主の名によって、彼は私たちに語ったのだから。」
(エレミヤ書26章16節)
ああ、彼らはこの事実を認めながらも、勧告に耳を傾けなけていません!
そこで、当時のニコデモのような長老たちが立ち上がり、彼のために弁護しました。
最初に引用されるのは、モラシュ人ミカの例です。
ヒゼキヤの時代に、彼は預言してこう言いました。
「万軍の主はこう仰せられる。シオンは畑のように耕され、エルサレムは廃墟となり、この宮の山は森の丘となる。」
(エレミヤ書26章18節)
(エレミヤ書26章17、18節、ミカ書3章12節も参照にしてください。)
ヒゼキヤはこの厳粛な宣告のために彼を死刑に処したのでしょうか?
むしろ、それは彼に主に恐れおののくことを一層深めさせ、このように記しています。
「主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。
ところが、私たちは我が身に大きなわざわいを招こうとしている。」
(エレミヤ書26章19節)
次に、もう一人の神の人ウリヤについて述べています。
彼の場合、王は正反対の行動をとりました。
そのことが災いをもたらすかどうかは、まだ分かりません。
なぜなら、当時王位に就いていたこのエホヤキムの治世において、ウリヤは主の名において、エレミヤが用いたのと同じ言葉で、町と国に対して預言したからです。
この預言者は恐怖に駆られ、エジプトに逃げました。
しかし、エホヤキム王はウリヤを滅ぼそうと躍起になり、逃れた街から連れ出しました。
「王は彼を剣で打ち殺し、そのしかばねを共同墓地に捨てさせた。」
(エレミヤ書26章20~23節)
主は確かに、この時まで、このしもべに対するこの汚名を着せられた仕打ちの復讐はしてはいません。
しかし、その結果を判断するにはまだ時期尚早かもしれないので、これ以上の言及は控えます。
シャファンの子アヒカムが立ち上がり、エレミヤのために、民の手に引き渡されて殺されることを阻止しました。
(エレミヤ書26章24節)
このように、再び神はそのしもべを義とされ、守られました。
もし、ウリヤが神への同じ信仰と信頼を持っており、ウリヤは守られていないとは言えません。
「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。」
(箴言18章10章)
第14章 絆とくびき
(エレミヤ書27章、28章)
27章と28章は密接に関連しています。
どちらもバビロニアのくびきへの受動的な服従という一般的な主題を扱っています。
聖書に記されている、地上における神の人間に対する取り扱いに精通していない者には不思議に思えるかもしれません。
しかし、ネブカデネザルを立て、神の民と異邦の諸国を彼の手に渡したのは神御自身です。
このこと、そして人間の側の失敗は、ダニエル書に詳細に記されています。
特にカルデアの王が「金の頭」と宣言されていたことに注意してください。
イスラエルとユダは、自分たちの罪のゆえにダビデの家から領土を奪い、異邦人に与えたのは神の義であることを認めるべきです。
既に述べたように、ゼデキヤはそのようにはしていません。
現状から判断すると、彼とエドム、モアブ、アモンなどの周辺諸国の王たちは、バビロン王に対抗する組織的な連合を結成しようとしていたように見えます。
それゆえ、エレミヤはゼデキヤとその同盟者たちに、その試みが無益であることを警告する任務を与えられました。
ユダ最後の王ゼデキヤの治世初期、エレミヤは束縛とくびきを作り、まず自分の首にかけ、それからエドム、モアブ、アモン、ティルス、シドンの王たちに、ヘブル人の王ゼデキヤと協議するためにエルサレムに来たそれぞれの使いの手によって、それを証しとして送るよう命じられました。(エレミヤ書27章2、3節)
エレミヤはそれぞれの王に象徴的な束縛とくびきを与えるだけでなく、同じ様に説明も与えなければなりません。
「彼らがそれぞれの主君に次のことを言うように命じよ。
『イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。あなたがたは主君にこう言え。
わたしは、大いなる力と、伸ばした腕とをもって、地と、地の面にいる人間と獣とを造った。
それで、わたしの見る目にかなった者に、この地を与えるのだ。
今、わたしは、これらすべての国をわたしのしもべ、バビロンの王ネブカデネザルの手に与え、野の獣も彼に与えて仕えさせる。
――彼の国に時が来るまで、すべての国は、彼と、その子と、その子の子に仕えよう。
しかし時が来ると、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷とする。――」
(エレミヤ書27章4~7節)
現時点での抵抗は愚かです。
無益どころか悪質です。
バビロン王は主のしもべでしたが、彼はそれを知りません。
彼は神の許しを得て行動するしかなく、神と争った民を罰するために彼を鞭打つことは神の御心でした。
その目的が達成されれば、彼の権力は打ち砕かれるはずです。
しかし、それまでは、彼の勝利の軍隊に対抗できる力は存在しません。
彼のくびきに首を差し出すことを拒む国民は、剣、飢饉、疫病といった、より厳しい罰を受けることになります。
そして、ついには完全に滅ぼされるのです。
(エレミヤ書27章8節)
彼らは、異教徒の間に多く存在していました。
預言者や占い師、また夢想家、呪術師、魔術師を装うペテン師たちの言うことを聞かないように警告されました。
一般的に彼らは最も好意的に受け入れられると思われるメッセージを伝えます。
しかし、「だから、あなたがたは、バビロンの王に仕えることはない」と彼らが語った時、彼らは偽りの預言をしており、彼らの預言を信じて行動する者たちへの神の復讐をますます導くことになりました。
もし、諸国民がくびきに服従するならば、彼らはネブカドネザルへの貢納者として自分の地に留まることを許されるべきでした。
(エレミヤ書27章9~11節)
ゼデキヤにも個人的な警告と嘆願が与えられました。
彼は反乱を起こすのではなく、くびきに屈服し、自らと民を救うよう促されました。
彼の宮廷には偽預言者たちもおり、バビロンへの服従を脱しようとするゼデキヤの試みが成功すると預言していました。
しかし、主は彼らを遣わしていません。
彼らは主の名において偽りの預言をしていたのです。
(エレミヤ書27章12~15節)
祭司たちと民衆にも同じメッセージがなされています。
偽預言者たちはこのように宣言しました。
「見よ。主の宮の器は、今すみやかにバビロンから持ち帰られる。」
これは完全な偽りであり、エレミヤは民に騙されないよう懇願しています。
「もし彼らが預言者であり、もし彼らに主のことばがあるのなら、彼らは、主の宮や、ユダの王の家や、エルサレムに残されている器がバビロンに持って行かれないよう、万軍の主にとりなしの祈りをするはずだ。」
(エレミヤ書27章18節)
主が彼らを聖都に連れ戻し、帰還させる定められた日まで、捕囚の町に留め置かれることを告げておられます。
「 まことに万軍の主は、宮の柱や、海や、車輪つきの台や、そのほかのこの町に残されている器について、こう仰せられる。
――これらの物は、バビロンの王ネブカデネザルがエホヤキムの子、ユダの王エコヌヤ、およびユダとエルサレムのすべてのおもだった人々をエルサレムからバビロンへ引いて行ったときに、携えて行かなかったものである。――
まことに、イスラエルの神、万軍の主は、主の宮とユダの王の家とエルサレムとに残された器について、こう仰せられる。
『それらはバビロンに運ばれて、わたしがそれを顧みる日まで、そこにある。――主の御告げ。――そうして、わたしは、それらを携え上り、この所に帰らせる。』」
(エレミヤ書27章19~22節)
これらの回復の記録はエズラ記1章7~11節に記されています。
次の出来事が示すように、主の御言葉は主の時代に文字通り成就し、偽預言者の証言は嘘であることが証明されました。
「その同じ年、すなわち、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の第五の月に、ギブオンの出の預言者、アズルの子ハナヌヤが、主の宮で、祭司たちとすべての民の前で、私に語って言った。
「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。わたしは、バビロンの王のくびきを打ち砕く。」
(エレミヤ書28章1、2節)
ハナニヤは、主の宮の器が間もなくバビロンから戻ってくるという声明を繰り返し、明確な期限「二年以内」を設定しました。
また、エコニヤがユダのすべての捕虜とともに帰還することを預言し、主がバビロン王のくびきを断ち切ろうとしていることを宣言しました。
「二年のうちに、わたしは、バビロンの王ネブカデネザルがこの所から取って、バビロンに運んだ主の宮のすべての器をこの所に帰らせる。バビロンに行ったエホヤキムの子、ユダの王エコヌヤと、ユダのすべての捕囚の民も、わたしはこの所に帰らせる。
――主の御告げ。――わたしがバビロンの王のくびきを打ち砕くからだ。」
(エレミヤ書28章3、4節)
たとえ、彼自身の言葉が完全に失敗に終わったとしても、もし、それが真実であったなら、エレミヤは心から喜んだはずです。
しかし、主の奥義を知っていた彼は、それが全く逆の結果になることを知っていました。
ハナニヤに答えて、彼は主の宮に集まったすべての祭司と民の前で言いました。
「そこで預言者エレミヤは、主の宮に立っている祭司たちや、すべての民の前で、預言者ハナヌヤに言った。
預言者エレミヤは言った。「アーメン。そのとおりに主がしてくださるように。あなたが預言したことばを主が成就させ、主の宮の器と、すべての捕囚の民がバビロンからこの所に帰って来るように。」
(エレミヤ書28章5節、6節)
柔和で忠実なエレミヤは、ユダを心から愛する者として、民の苦しみがこのように終わることをどれほど喜んだことでしょうか!
しかし、彼はそれが叶わないことを知っていました。
「しかし」と彼は続けます。
「しかし、私があなたの耳と、すべての民の耳に語っているこのことばを聞きなさい。
昔から、私と、あなたの先に出た預言者たちは、多くの国と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病とを預言した。
平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、ほんとうに主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。」
(エレミヤ書28章7~9節)
エレミヤは非難の矛先を向けることも、無益な議論に巻き込まれることもありません。
彼らが持っていた過去の預言者たちの書物と彼の言葉は一致していました。
しかし、ハナニヤの言葉は正反対でした。
もし、それが成就するなら、彼は主が自分を遣わしたことを認めるはずです。
主のしもべは争ってはいけません。
しかし、ハナニヤは、神の人の平静さが聴衆に何らかの影響を与えることを恐れ、劇的な行動を取りました。
そして、主の命令(27章2節)に従ってエレミヤが首にかけていたかせを取り、それを打きながら、このように言いました。
「主はこう仰せられる。『このとおり、わたしは二年のうちに、バビロンの王ネブカデネザルのくびきを、すべての国の首から砕く。』」そこで、預言者エレミヤは立ち去った。」
(エレミヤ書28章11節)
誤りはいつも通りに執拗で独断的です。
そして、それがより強く、より真実から遠ざかるほど、たびたびこのようになります。
主のしもべは何も答えません。
エレミヤには守るべき評判はなく、言葉の誇示によって民を自分に縛り付けたくないのです。
彼は待つ余裕があります。
なぜなら、自分が主の御心であり、それが時が来れば証明されることを知っているからです。
私たちは単純にこのように記しています。
「預言者エレミヤは立ち去った。」
(エレミヤ書28章11節)
神の御前に独り佇む中で、かつて、彼は神に打ち勝とうとし、神の御言葉に抵抗した男へのメッセージを受け取りました。
ハナニヤのもとへ行き、自分が木のくびきを砕いたに過ぎないことを告げよと告げられました。
主は鉄のくびきを造り、それを彼が前に述べたすべての国々の首にかけ、バビロンの王に仕えるという命令が再び下されます。
(エレミヤ書28章12~14節)
ハナニヤ自身に対して、最も尊い言葉が付け加えられました。
彼は死に至る罪を犯しました。
神の聖なる義なる支配において、彼は死ななければなりません。
「そこで預言者エレミヤは、預言者ハナヌヤに言った。
「ハナヌヤ。聞きなさい。主はあなたを遣わされなかった。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。
それゆえ、主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたを地の面から追い出す。
ことし、あなたは死ぬ。主への反逆をそそのかしたからだ。』」
(エレミヤ書28章15、16節)
厳粛な責任は「空論に走る者、人を惑わす者」(テトスへの手紙第二1章10節)に課せられており、彼らは「なめらかなことば、へつらいのことば」(ローマ人への手紙16章18節)によって、単純な人の心を欺きます。
「主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」
(出エジプト記20章7節)
これは冒涜だけを指すのではなく、主の聖さを汚す生活を送りながら主の御名を唱えること、あるいは主から何のメッセージも受け取っていないのに主の御名によって語ると告白することを指しています。
厳粛に預言された裁きが詐欺師に降りかかるまで、わずか2ヶ月しか経っていません。
「預言者ハナヌヤはその年の第七の月に死んだ。」
(エレミヤ書28章17節)
哀れみにおいても裁きにおいても、神の道はすべて正義です。
第15章 捕囚の手紙
(エレミヤ書29章)
群れの中の貧しい者たちと、その地に残っていた傲慢な支配者たちだけに仕えるよう任命されたのではありません。
捕囚の民にも仕えるよう任命されました。
奴隷の地で彼らのもとへ自ら赴き、仕えることは、エレミヤの務めではありません。
神はこの仕えるために、移送された民の一人であったエゼキエルを立てられました。
エゼキエルは「ケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき」(エゼキエル書1章1節)預言しました。
悲しみに暮れるヒルキヤの子は、手紙を通して、離散した同胞に主のメッセージを伝えなければなりません。
彼らの中には偽預言者が現れ、彼らに偽りの希望を与えていました。
捕囚されても彼らの心は変わりませんでした。
エゼキエルは彼らに叱責の言葉を与え、同時に、それを受け入れる信仰を持つ人々には励ましの言葉を与えなければなりません。
「預言者エレミヤは、ネブカデネザルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、長老たちで生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、およびすべての民に、エルサレムから手紙を送ったが、そのことばは次のとおりである。
――これは、エコヌヤ王と王母と宦官たち、ユダとエルサレムの貴族たち、職人と鍛冶屋たちが、エルサレムを出て後、ユダの王ゼデキヤがバビロンの王ネブカデネザルのもとに、バビロンへ遣わした、シャファンの子エルアサとヒルキヤの子ゲマルヤの手に託したもので、次のように言っている。――
イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。」
(エレミヤ書29章1~4節)
この手紙を携えた使者たちは、主にゼデキヤの反乱を起こした宮廷から、偉大なカルデアの王と交渉するために派遣された大使です。
しかし、彼らはどちらの王よりもはるかに偉大な王、万軍の主からのメッセージを携えていました。
主はこのようにして捕囚の民と意思疎通を図りました。
主がまず彼らに告げられたのは、彼らに起こったことは偶然の不幸などではなかったことです。
彼らを捕囚させたのは、主御自身でした。
もし、彼らが本当にこのことを信じたなら、彼らのすべての行いに多大な影響を受けることになります。
主の聖なる戒めに抵抗することは無駄であることを理解するでしょう。
しかし同時に、主が真実な彼らのことを気にかけておられることも、彼らには明らかになります。
そうでなければ、主は彼らが自ら選んだ道を妨げられることなく進むのを放っておかれたかもしれません。
ああ、主は彼らをあまりにも深く愛しておられました。
それは、今なお「世にいる自分のものを愛された」をあまりにも深く愛しておられるからであり、彼らが御心に反する道を長く歩み続けることを、懲らしめの鞭を感じさせずにお許しになることはできません。
主が私たちを敵としてではなく、息子として扱ってくださることを覚えておくのは幸いなことです。
「父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」
(ヘブル人への手紙12章7節)
ヘブル人への手紙12章全体は注目すべき箇所ですが、試練を受けた聖徒たちはこれをしばしば見落としています。
彼らはそれによって「鍛えられる」のではなく、その訓練を軽く見たり、弱り果てたりするのです。
ユダの離散した人々にとって、そのメッセージは、彼らが苦難を神自身の手から受けるということであり、定められた時が来る前に救出を試みる代わりに、生活の義務にまじめに取り組むこと、そして捕虜となっていた「町の繁栄を求め」ること、「そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから」と命じられています。
(エレミヤ書29章5~7節)
同じ傾向を持つのは、後の時代の寄留者や巡礼者たちです。
ペテロの手紙第一(2章11~17節)とパウロのテモテへの手紙第一(2章1~4節)の両方で述べられています。
ペテロの手紙第一は内容が充実しており、現代の落ち着きのない、あるいは無謀とも言える時代には見過ごされがちな教えが含まれています。
このように私たちに告げられています。
「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。
というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。」
(ペテロへの手紙第一2章13~15節)
言及されている他の部分では、クリスチャンは「すべての人のために、王たちのために、そしてすべての権威ある人々のために」祈るようにと教えられています。
私たちはこの世で決して安らぎを得ることはできません。
安らぎを求めるのは実に残念なことです。
しかし、私たちは主の御心によってここにいるのです。
そして主は、私たちが「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」という偉大な真理を実際に受け入れることを望んでおられます。
だからといって、私たちが世俗的な政治家になるわけではありません。
シナルの地で捕囚されたユダの民がそうであったように、私たち自身も政府と関わる必要はありません。
私たちは真実な塩となり、社会と政治の仕組み全体を腐敗から守るのです。
「自己主張」や「権利を主張」するのは私たちの役目ではありません。
私たちは、権利ではなく不当な扱いを受けるためにこの場に来られた主の側に立つべきです。
ですから、主のように、私たちも、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返すべきです。
「まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。あなたがたが夢を見させている、あなたがたの夢見る者の言うことを聞くな。
なぜなら、彼らはわたしの名を使って偽りをあなたがたに預言しているのであって、わたしが彼らを遣わしたのではないからだ。――主の御告げ。――」」
(エレミヤ書29章8、9節)
いつの時代にも、主の御名によって語ることを誓う人は多くいます。
彼らの告白は、神の御言葉によって、また彼らの成果によって、試されます。
人々に神の律法に抵抗させながら、神から離れた人々に平和を預言することは、聖なる方にはできません。
ここで言われている占い師たちは、主の重荷の代わりに、自分たちの愚かな夢を 、自分たちの卑屈な心の欲望に従って代用しているのです。
主の重荷を背負うために、従わない心を養うべきです。
主は既に約束しておられ、今それを繰り返しておられます。
「バビロンの王に七十年仕えた」に主は彼らを訪れ、彼らに対する御言葉を実行します。
エレミヤ書25章11~14節を参照にしてください。
それから主は彼らをエルサレムに帰還させますが、それ以前には帰還させることはしません。
預言の時が来るまで、彼らの回復を成し遂げようとするさまざまな努力は無駄に終わります。
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
(エレミヤ書29章11節)
彼らが望んだことは、神が彼らに対して望んでおられることでもありました。
待ち望まれた終末は必ず来ますが、それは神の定めの時にだけ来るのです。
このように、神が聖徒一人ひとりの幸福を深く気遣っておられることを知ることは、何と尊いことでしょうか?
神の愛する御子の尊い血によって贖われた人々に対する神の思いは、常に平和の思いであり、決して悪い思いではありません。
ダビデはこう叫んだ時、このことを深く心に留めています。
「神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。
それを数えようとしても、それは砂よりも多いのです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。
(詩篇139篇17、18節)
しかし、私たちは神が次のように宣言しておられることを決して忘れてはなりません。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」
(イザヤ書55章8、9節)
神は悲しみと災難がわたしたちの足元に降りかかることをお許しになります。
しかし、最終的にはわたしたちを「神の民に安息が残されている」定められた港へと導いてくださいます。
イスラエルの神は私たちのものであり、神が彼らに対してなさる道は、私たちに対してなさる方法の型です。
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」
(伝道者の書3章1節)
彼らにとって、現在の世界からの解放が定められた時は70年の完了です。
私たちにとって、永遠の解放の朝は「主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められること」によって迎えられます。
彼らの懲らしめの目的は徹底的な悔い改めに導くことでした。
このことが成就すれば、彼らは主に呼び求め、主は耳を傾けてくださいます。
主の御言葉はこのようです。
「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」
(エレミヤ書29章13節)
ならば、主は確かに彼らに見つけられ、彼らの捕囚を解き、故郷に連れ戻されます。
「主は私たちのために、バビロンでも預言者を起こされた」と高慢に言いながら、鞭に屈しなかった者たちの不従順のゆえに、彼らの祖先の地にはさらに大きな裁きが下されるのです。
「あの悪いいちじくのようです。」
(エレミヤ書24章8節)
残された民は追い出され、滅ぼされます。
主が呼びかけられた時、彼らは耳を傾けなかったからです。
こうして、現状回復へのあらゆる希望は打ち砕かれます。
(エレミヤ書29章15~19節)
偽預言者のうちの二人、アハブとゼデキヤの名前が挙げられています。
彼らの発言は明らかに偽りであると宣言されています。
その証しをした彼らはネブカデネザルの手に引き渡され、騙された者たちの目の前で殺されるはずでした。
彼らの運命は恐ろしく、悪行のゆえに「火で焼いた」のです。
ダニエル書3章から読み取れるように、この形の処罰は明らかにバビロン王にとって通常に行われていることです。
これらの偽預言者たちを救う者はいません。
ドゥラの平野に立てられた像にひれ伏すことを拒んだ3人の忠実なヘブル人のようです。
彼らは偽りを語っただけでなく、彼らの生活は不義と淫行に満ちていました。
主はそれを知っており、その証人でした。
(エレミヤ書29章20~23節)
捕囚の民への手紙はこれで終わりです。
この手紙は、離散した民の一人、ネヘラム人シェマヤ、つまり「夢見る者」として知られる人物からの返答を呼び起こしました。
この名前が示すように、彼もまた偽預言者でした。
彼はエルサレムに残っていたユダヤ人、そして祭司マアセヤの子ゼパニヤと他の祭司たちに手紙を送りました。
そして、このように断言されました。
「主は、祭司エホヤダの代わりに、あなたを祭司とされましたが、それは、あなたを主の宮の監督者に任じて、すべて狂って預言をする者に備え、そういう者に足かせや、首かせをはめるためでした。」
(エレミヤ書29章26節)
そこで彼は、ゼパニヤがアナトテのエレミヤをなぜ責めないのかと尋ねられています。
エレミヤは自分の事を預言者だと名乗ったのです。
神から遣わされていない者たちは、主の真実なしもべたちを、自己中心的な人間だと非難したがります。
サタンのやり方は実にペテンに満ちています。
エレミヤの手紙は民にこのように告げていました。
「それは長く続く。家を建てて住みつき、畑を作ってその実を食べなさいと、言わせたのです。」
(エレミヤ書29章28節)
これはシェマヤの怒りを買いました。
ゼデキヤの反乱が成功しそうになるならば、民の希望を打ち砕き、反乱を起こさないように仕向けることになると明らかにシェマヤは考えていたからです。
祭司ゼパニヤはエレミヤの前で手紙を読み上げました。
それに応じて主の御言葉が再び彼に臨み、彼は「すべての捕囚の民」に宛てた第二の手紙を書きました。
彼は、夢を見る者を主が遣わしていない預言者であり、民に偽りを信じさせていると非難しました。
このため、主は彼とその子孫を罰します。
彼の一族は完全に根絶されるべきです。
この民の中に一人も残されるべきではありません。
彼は、今や弾圧され散らされている人々のために神が約束された良きことを見るために生き残ることを許されるべきではありません。
なぜなら、「彼が主に対する反逆をそそのかしたからである。」
(エレミヤ書29章30~32節)
こうして、三人の大ペテン師は滅びる運命にあります。
民は、彼らが何度も悲しませてきた方の御言葉に耳を傾けるべきです。
第16章 ヤコブの苦難と最終的な回復
(30章、31節)
私の知る限り、聖書の中で、大患難時代に先立つイスラエルの最終的な、文字通りの回復について、今、私たちが注目しているこの部分ほど明確な指示を与えている箇所は他にありません。
マタイによる福音書24章、25章、ローマ人への手紙11章、ダニエル書、そしてヨハネの黙示録と併せて読むと、神が地上の民のために用意しておられることの明確な概要を理解するために、大いに役立たせることができます。
この点においてこの部分は極めて重要であるため、以前の部分のように急いで概観するのではなく、一節ずつ見ていくことにします。
「主からエレミヤにあったみことばは、次のとおりである。
イスラエルの神、主はこう仰せられる。「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書きしるせ。」
(エレミヤ書30章1、2節)
聖書全体と同じ様に、ここでも神御自身が語っておられるという事実を、私たちは心にしっかりと刻む必要があります。
「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」
(アモス書3章7節)
このようにイスラエルに対する御計画を告げておられます。
ゆえに、神の心にこれほど明らかに近いものについて知ろうと努めることは、私たちにとって益となり、祝福となることを確信できます。
「見よ。その日が来る。
――主の御告げ。――その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの捕われ人を帰らせると、主は言う。
わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」」
(エレミヤ書30章3節)
*ソロモンの治世後、二つの王国に分裂し、国民の大半を占める十部族は「イスラエル」として区別され、ユダ族とベニヤミン族は「ユダ」王国を形成しました。
ユダだけではなく、イスラエルとユダの両国が故郷に帰還することが明確に告げられています。
また、70年の期間完了に伴う一時的な回復も、この預言の条件を成就するものではありません。
なぜなら、彼らは父祖の故郷に帰還した時、土地を所有することになるからです。
しかし、ゼルバベルのもとに帰還した者たちは明らかにそうではありません。
彼らの子孫は再び諸国民の間に散らされ、現在に至るまでこの状態が続いています。
その時も、十部族から少数の者がユダの残された民と共に帰還しましたが、イスラエルの再集合は実際には起こっていません。
主がシオンを覚える定められた時が来ると、十二部族それぞれから一万二千人が異邦人の手から救われます。
ヨハネの黙示録7章を参考にしてください。
この数字は比喩的なものかもしれませんが、少なくとも各部族から立派な集まりが選ばれることを意味します。
「主がイスラエルとユダについて語られたことばは次のとおりである。」
(エレミヤ書30章4節)
ここでも、北王国と南王国が明確に述べられていることに注目してください。
両王国は散らされました。
そして、両王国とも神の裁きと恵みの計画に含まれています。
「まことに主はこう仰せられる。
「おののきの声を、われわれは聞いた。恐怖があって平安はない。」
(エレミヤ書30章5節)
祝福の約束が成就する前に、主の憤りの杯を味わい尽くさなければなりません。
ゆえに、これらの言葉が私たちに示しているのは「大患難時代」です。
マタイによる福音書24章21節、ヨハネの黙示録7章14節を参照にしてください。
イスラエルがかつて拒んだメシアが現れ、王国が樹立される前に、この恵まれた民はかつてないほど、圧制者の力とサタンの悪意にさらされます。
これは、主の油注がれた者を十字架につけ、殺したことに対する、彼らへの特別な罰です。
「男が子を産めるか、さあ、尋ねてみよ。わたしが見るのに、なぜ、男がみな、産婦のように腰に手を当てているのか。なぜ、みなの顔が青く変わっているのか。」
(エレミヤ書30章6節)
その試練の時は非常に恐ろしいものとなります。
しかし、その後に訪れる喜びは確実です。
そのため、それは出産前の産みの苦しみに例えられます。
強い男たちは、陣痛に苦しむ女のように苦悩するのです。
「ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。
それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。」
(エレミヤ書30章7節)
教会への約束はこのようです。
「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」
(ヨハネの黙示録3章10章)
このディスペンセーションの聖徒たちは苦難の時を免れます。
しかし、次の時代の聖徒たちは苦難から救われるのです。
彼らは苦難を乗り越えます。
そして、主が栄光のうちに再臨される時に、ついには解放を見出します。
この短くも恐ろしい悲しみの時は、まさにヤコブの苦難の時です。
必然的に、他の人々もこの苦難に巻き込まれるのです。
実際、すべての「地に住む者」は、この時代が続く間は苦しまなければなりません。
これは特別な時代である。
イスラエルはふるい分けられます。
神は彼らのすべての罪を倍にして報います。
聖書は、教会がこの前例のない苦難を通ることを示していません。
これはキリストのからだである者たちを試すためではなく、イスラエルを懲らしめるためです。
「その日になると、――万軍の主の御告げ。――わたしは彼らの首のくびきを砕き、彼らのなわめを解く。他国人は二度と彼らを奴隷にしない。
彼らは彼らの神、主と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えよう。」
(エレミヤ書30章8、9節)
ここで述べられているくびきは、最後の偉大な異邦人勢力、ヨハネの黙示録13章の十本の角を持つ獣のくびき、すなわちローマ帝国の最後の恐ろしい形での復活のことです。
獣の力は主イエス・キリストが天のすべての軍勢を率いて、燃える火の中に現れ滅ぼされます。
(ヨハネの黙示録17章)
その後、イスラエルは祖国に復帰し、メシアの哀れみ深い支配の下で安息に入ることになります。
「イスラエルの王ダビデ」とは、間違いなく王冠をかぶっていたエッサイの長男のことではなく、主の支配が、ダビデの血統から、倒れた彼の幕屋を再建し、その王座に座させる者を起こすという主の約束の成就を指しています。
「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
(ルカの福音書1章32、33節)
ガブリエルによって伝えられたこの宣言は、今のディスペンセーションでは成就されていません。
主イエスは一瞬たりともダビデの王座に座ったことはありません。
今は父の王座に座っておられます。
(ヨハネの黙示録3章21節、ヘブル人への手紙1章3節)
この時代の終わりに、主はその王座から立ち上がり、敵が御自身の足台とされます。
(ヘブル人への手紙1章13節、詩篇110篇1節)
そのときガブリエルとすべての預言者によって語られた約束を成就するために地上に降臨されます。
「わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。――主の御告げ。――イスラエルよ。おののくな。
見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から、救うからだ。
ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、おびえさせる者はだれもいない。」
(エレミヤ書30章10節)
クロスの許しを得てユダが帰還した時にこのことが本当に実現したのでしょうか?
彼らは安らぎを得ていたのでしょうか?
誰も彼らを恐れさせなかったのでしょうか?
ネヘミヤ記とマカベア外典、そして福音書自体がその答えを与えています。
帰還からティトゥスによるエルサレムの破壊に至るまで、私たちは長きにわたる不安と戦争の記録を目にすることができます。
この言葉の実現を、私たちは近い将来に起きることを待ち望まなければなりません。
「わたしがあなたとともにいて、――主の御告げ。――あなたを救うからだ。
わたしは、あなたを散らした先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。
しかし、わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが。」
(エレミヤ書30章11節)
異邦人の間で彼らが長く滞在することはは、まさにこの成就に過ぎません。
不死でありながらも常に動き続ける放浪するユダヤ人の伝説は、ここに根源があります。
しかし、主の選びの民を滅ぼすことは不可能です!
帝国は興亡を繰り返すかもしれないし、諸国家は天の流星のように消え去るかもしれません。
しかしイスラエルは存続し、ついには勝利を収め、全地を支配します。
「まことに主はこう仰せられる。「あなたの傷はいやしにくく、あなたの打ち傷は痛んでいる。
あなたの訴えを弁護する者もなく、はれものに薬をつけて、あなたをいやす者もいない。
あなたの恋人はみな、あなたを忘れ、あなたを尋ねようともしない。
わたしが、敵を打つようにあなたを打ち、ひどい懲らしめをしたからだ。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために。」
(エレミヤ書30章12~14節)
預言者や聖見者たちは癒しの言葉を適用しようとしましたが、無駄でした。
災難と捕囚さえも、回復には至りません。
人間の力では全く癒えない傷が、十字架によって間もなく明らかになります。
キリストである神は、謙虚な恵みをもって彼らの間を歩まれました。
しかし、彼らはキリストを十字架に釘付けにした。
しばらくの間、彼らは主から見放されます。
偽りの羊飼いである反キリストは、彼らが最も深い苦難に出会う日に彼らを支配します。
彼らの「愛人たち」、つまり彼らが信頼していた偶像は、彼らに何の役にも立ちません。
彼らはこのことを十分に理解しなければなりません。
「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」
(ヘブル人への手紙10章31節)
しかし、彼らの苦しみの原因となる異邦の国民は、今度は主の怒りのムチを知ることになります。
「しかし、あなたを食う者はみな、かえって食われ、あなたの敵はみな、とりことなって行き、あなたから略奪した者は、略奪され、あなたをかすめ奪った者は、わたしがみな獲物として与える。」
(エレミヤ書30章16節)
何世紀にもわたって、諸国民はこの聖句の真実を知るようになりました。
イスラエルを弾圧した者は、長く繁栄した者はいません。
バビロンとアッシリアはもはや存在しないが、ペルシャとギリシャは今もなお、存続しています。
現代の国家においても同じです。
少なくとも、英国とアメリカ合衆国の強さの一つの源泉は彼らが総じてユダヤ人と友好関係を築いてきたことにあることは疑いようがありません。
その反面、主の民に手を伸ばした勢力の歴史は、次から次へと災難をもたらしてきました。
スペインはこれを証人として証言しており、ゴグの大国ロシアもまた、その証人として証言しています。
「わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやすからだ。
――主の御告げ。――あなたが、捨てられた女、だれも尋ねて来ないシオン、と呼ばれたからだ。」
(エレミヤ書30章17節)
傷ついた者によってイスラエルの傷は癒され、彼らはもはや追放されません。
そして、このように呼ばれるのです。
「あなたは、尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる。」
(イザヤ書62章12節)
「主はこう仰せられる。「見よ。わたしはヤコブの天幕の捕われ人を帰らせ、その住まいをあわれもう。
町はその廃墟の上に建て直され、宮殿は、その定められている所に建つ。
彼らの中から、感謝と、喜び笑う声がわき出る。
わたしは人をふやして減らさず、彼らを尊くして、軽んじられないようにする。
その子たちは昔のようになり、その会衆はわたしの前で堅く立てられる。
わたしはこれを圧迫する者をみな罰する。」
(エレミヤ書30章18~20節)
かつてのイスラエルのように彼らは一時的な祝福を期待しています。
古代の遺跡に再建された街は喜びと楽しみで満たされ、ゼカリヤも預言しているように、若者も老人も同じように祝福されるのです。
「再び、エルサレムの広場には、老いた男、老いた女がすわり、年寄りになって、みな手に杖を持とう。
町の広場は、広場で遊ぶ男の子や女の子でいっぱいになろう。」
(ゼカリヤ書8章4、5節)
「その権力者は、彼らのうちのひとり、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。――主の御告げ。――
あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」
(エレミヤ書30章21、22節)
「君主」は、エゼキエル書の最後の5章でくりかえし言及される君主と同一人物であると考える十分な理由があります。
エゼキエル書44章3節、45章7節、46章2節などを参考にしてください。
その者はダビデの直系の子孫であり、地上の支配者となり、すべての点で栄光あるインマヌエルに従います。
「聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時」のこの日に、人々の心は完全に主に向けられます。
使徒の働き3章21節を参照にしてください。
これは、残された者たちの思いです。
なぜなら、背教した国民の一部は、この章の最後の節で再び私たちに知らされる大患難において滅ぼされます。
「見よ。主の暴風、-憤り。――吹きつける暴風が起こり、悪者の頭上にうずを巻く。
主の燃える怒りは、御心の思うところを行なって、成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを悟ろう。」
(エレミヤ書30章23、24節)
「終わりの日」という表現は明らかにダニエル書12章9節の「終わりの時」と同じ意味です。
そして、このようにあります。
「多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。」
(ダニエル書30章10節)
主の怒りは反キリストの不敬虔な支配下にある国民のうち不信心な者たちに恐ろしい力で降りかかります。
しかし、「獣の刻印」(ヨハネの黙示録13章)を拒み、主の御言葉を尊ぶ者たちは、その時、祝福を受けます。
31章では、一般的な主題が続き、特に、義なる残された者の救いと、彼らとの新しい契約の確立について詳しく述べられています。
「その時、――主の御告げ。――わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」
(エレミヤ書31章1節)
ホセア書1章9節のロ・アミに関する言葉は永遠に廃止されます。
そこにはこのように記されているからです。
「イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる。
彼らは、「あなたがたはわたしの民ではない。」と言われた所で、「あなたがたは生ける神の子らだ。」と言われるようになる。」
(ホセア書1章10節)
「主はこう仰せられる。「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。」」
(エレミヤ書31章2節)
これは終末の時の信仰的な残された者たちを指しているに違いありません。
エゼキエルも同じメッセージを与えています。
「わたしは、力強い手と伸ばした腕、注ぎ出る憤りをもって、あなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集める。
わたしはあなたがたを国々の民の荒野に連れて行き、そこで、顔と顔とを合わせて、あなたがたをさばく。
わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地の荒野でさばいたように、あなたがたをさばく。――神である主の御告げ。――
わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。
わたしは彼らをその寄留している地から連れ出すが、彼らはイスラエルの地にはいることはできない。
このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。」
(エゼキエル書20章34~38節)
マタイの福音書24章21節で述べられている、前例のない苦難の期間に、イスラエルの背教者たちは主の裁きによって滅ぼされます。
その後、主の道を忠実に歩もうと努めた者たちが、この地に定着します。
これらすべては純粋な恵みです。
なぜなら、彼らの心を主に引き寄せるのは、主御自身の慈しみがあるからです。
それゆえ、このように記されています。
「主は遠くから、私に現われた。
「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」
(エレミヤ書31章3節)
彼らの最終的な祝福を確かなものにしたのは、彼らが神を愛したからではなく、神の永遠の愛です。
私たちについても同じです。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。」
(ヨハネの手紙第一4章10章)
イスラエルと同じように、私たちの中にもこの愛を引き出すもの、つまり私たちの深く苦しい必要以外に何もなかった時、神は私たちに心を向け、御自身のために私たちを招き入れました。
神はこのように地上の民を扱われました。
神は、一度、彼らに愛情を抱いたなら、彼らを見捨てることは決してありません。
「おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。」
(エレミヤ書31章4節)
何世紀にもわたり、彼らの竪琴は柳の木に掛けられてきました。
「私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。」
(詩篇137篇4節)
紅海の岸辺でミリアムが率いた踊りと歌の光景は、やがて、より壮大に、より力強く繰り返されます。
彼らのすべての敵が永遠に打ち倒される時です。
その日、彼らはこのように言います。
「再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。」
(エレミヤ書31章5節)
エルサレムの神殿は、これまでにない壮大な規模で再建され、諸部族は再びそこに集まり、主の祭りを祝われます。
「エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう。』と呼ばわる日が来るからだ。」
まことに主はこう仰せられる。「ヤコブのために喜び歌え。国々のかしらのために叫べ。告げ知らせ、賛美して、言え。『主よ。あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者を。』」
(エレミヤ書31章6、7節)
主が御自分の民の捕囚を解き放つ時、「歌の季節」(雅歌2章12節)が現実に来るのです。
「見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。
その中にはめしいも足なえも、妊婦も産婦も共にいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。
彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。
わたしは彼らを、水の流れのほとりに導き、彼らは平らな道を歩いて、つまずかない。わたしはイスラエルの父となろう。エフライムはわたしの長子だから。」」
(エレミヤ書31章8、9節)
旧約聖書では神は個別の意味で父として啓示されていません。
* アブラハムにとって、神は全能者、あるいはすべてを満足させる者として知られていました。
* モーセにとっては主は預言する者として至高者です。
* エズラとネヘミヤの時代の残された者たちには天の神です。
主イエスは私たちに父なる神を啓示されました。
「わたしの父であり、あなたがたの父」だと主は言われます。
これは幸いなことに個人的なものです。
すべての聖徒は子どもであり、聖霊によって「アバ、父よ」と叫ぶことができます。
イスラエルは国家的には神の子です。
彼らをそのように認識している者として、神は父と呼ばれています。
しかし、それはより近い意味ではありません。
「まことに、あなたは私たちの父です」と、未来において残された民は言う権利があります。
「まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です。
あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。」
(イザヤ書63章16節)
私たちが学んでいる聖書の中で、主の感動的な訴えに気づいているはずです。
「今でも、わたしに、こう呼びかけているではないか。『父よ。あなたは私の若いころの連れ合いです。」
(エレミヤ書3章4節)
父は、しばしば悲しみながらも愛情深く、彼らが再びシオンへの道を尋ねる時、彼らを喜ばせます。
「諸国の民よ。主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。
「イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る。」と。」
(エレミヤ書31章10節)
彼らは「イスラエルの羊飼い」によって守られるために連れ戻され、二度と群れから迷い出ることがなくなります。
「主はヤコブを贖い、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されたからだ。」
(エレミヤ書31章11節)
神は贖いの目的を決して放棄しません。
彼らは民として、血によって裁きから守られ、力によってパロの奴隷状態から救い出されました。
神はエジプトからイスラエルを導き出されました。
それ以来、神はその観点から彼らを思い巡らしておられます。
たとえ、彼らの行いがその間どれほど懲らしめを必要としたとしても、神の恵みは彼らを最終的に祝福の満ち溢れる境地へと導くことを決して怠ることはできません。
ヤコブの苦難の時代を無事に乗り越えた時、彼らはモーセと小羊の歌を歌うのです。
(ヨハネの黙示録15章)
彼らの最終的な解放は、過去の束縛からの救いと深く結びついています。
「彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、穀物と新しいぶどう酒とオリーブ油と、羊の子、牛の子とに対する主の恵みに喜び輝く。彼らのたましいは潤った園のようになり、もう再び、しぼむことはない。
そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも共に楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。
また祭司のたましいを髄で飽かせ、わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。――主の御告げ。――」
(エレミヤ書31章12~14節)
これらすべてを霊的に解釈し、このことを現在の時代の教会に適応することは、完全に誤った解釈体系です。
言葉遣いは簡単で簡潔です。
これは千年王国を描いたもので、この世にメシアの王国が設立された時の喜びを描写しています。
15~17節では、再び患難時代について言及されています。
そして、最終的には祝福が与えられるという慰めの保証が与えられています。
15節の言葉は、聖霊によって、ヘロデ王の残酷な布告の下、ベツレヘムで幼児が虐殺されたことを指していることは、よく知られています。
「そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。
「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。
ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」
(マタイによる福音書2章17、18節)
これも同じの事例であり、この聖句の適切な成就ですが、続く2節は、2度目の、より完全な成就が予期されていることを示しています。
ラケルが失った子供たちは「敵の国から帰ってきて」、そして「自分たちの国境に帰ってくる」ことがはっきりと述べられています。
ここで予期されているのは、虐殺だけでなく、捕囚のことです。
預言の二重の適用は聖書において一般的であり、例えばペンテコステの日にペテロが預言者ヨエルの言葉を引用したことがその証拠となります。(使徒の働き2章)
この言葉は、終わりの日に神の国の到来と関連して、より確実に実現されます。
18~21節まで、10部族の悔い改めが鮮明に描かれています。
2つの部族にユダという言葉が含まれています。
ゆえに、しばしばエフライムという名前で呼ばれています。
「わたしは、エフライムが嘆いているのを確かに聞いた。
『あなたが私を懲らしめられたので、くびきに慣れない子牛のように、私は懲らしめを受けました。
私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。主よ。あなたは私の神だからです。」
(エレミヤ書31章18節)
ホセアはこのように宣言しました。
「イスラエルはかたくなな雌牛のようにかたくなだ」
(ホセア書4章16節)
これはここで彼ら自身の告白として取り上げられていますが、彼らは長らく拒み、彼らが罪を犯してきた方に目を向けます。
真実な自己批判の中で、エフライムはこう叫んでいます。
「私は、そむいたあとで、悔い、悟って後、ももを打ちました。
私は恥を見、はずかしめを受けました。私の若いころのそしりを負っているからです。』と。」
(エレミヤ書31章19節)
これは、主が彼らを連れ戻してくださった恵みへの感謝の表れです。
ももを打つことは、再び聖約に入ることを象徴する表現だと私は思います。
この息遣いに主はすぐに応え、このように叫ばれます。
「エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。
わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。
それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。――主の御告げ。――」
(エレミヤ書31章20節)
だからこそ、諸国の地からパレスチナにある祖先の故郷へと続く道を辿るように呼びかけているのです。
「あなたは自分のために標柱を立て、道しるべを置き、あなたの歩んだ道の大路に心を留めよ。おとめイスラエルよ。帰れ。これら、あなたの町々に帰れ。」
(エレミヤ書31章21節)
ひどく汚れていた民をおとめと認めるとは、驚くほどの計り知れない恵みです。
「裏切り娘よ。いつまで迷い歩くのか。主は、この国に、一つの新しい事を創造される。
ひとりの女がひとりの男を抱こう。」
(エレミヤ書31章22節)
いわゆる「教父たち」は、この聖句を受肉に適用するように習いました。
彼らにとって、女は聖母マリア、男は彼女の聖なる御子です。
しかしながら、これは全く根拠がなく、疑わく感じる空想的な解釈に思えます。
ここで述べられている女は、前の節に出てくるイスラエルのおとめである可能性の方が高いと思います?
その場合、男は異邦人の手にある権力の象徴となる可能性があります。
ダニエル書2章のネブカドネザルの夢を参考にしてください。
女性のように弱いイスラエルは、諸国の力を封じ込め、あるいは打ち負かすのです。
これは文脈と調和しています。
確かにこの聖句は明らかに難解で、意味も不明瞭です。
「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「わたしが彼らの捕われ人を帰らせるとき、彼らは再び次のことばを、ユダの国とその町々で語ろう。『義の住みか、聖なる山よ。主があなたを祝福されるように。』
ユダと、そのすべての町の者は、そこに住み、農夫も、群れを連れて旅する者も、そこに住む。
わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満たすからだ。」
(エレミヤ書31章23~25節)
クロスの許しを得て帰還してから5世紀も経った後、エルサレムが「義の住みか、聖なる山」と呼ばれるのは一体いつのことなのでしょうか?
これらの約束は、いかなる矛盾をも超えて、未だ成就されていません。
これはユダを指しており、教会を指しているわけではありません。
ですから、この言葉が成就されるためには、ユダヤ人は故郷に帰還し、主を恐れおののき、そこに定住しなければなりません。
「聖書は廃棄されるものではないからです。」
(ヨハネの福音書10章35節)
預言者は、未来の栄光と安息の幻が明らかにされている間、まるで眠りについた人のようでした。
今、彼は目覚め、民に対する神の御旨に歩みを進める中で、甘く信頼に満ちた平安に心を満たしています。
「――ここで、私は目ざめて、見渡した。私の眠りはここちよかった。――」
(エレミヤ書31章26節)
続く数節は、エゼキエルがほぼ同じ時期に語った酸いぶどうのたとえ話を思い起こさせます。
「見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。
かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。――主の御告げ。――
その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。
人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。」
(エレミヤ書31章27~30節)
エゼキエル書18章には、このことわざがユダの人々の間でよく口にされていたことが記されています。
彼らは自分の罪に気づかず、自分たちの不幸は先祖の悪行に対する主の怒りによるものだと考えていました。
しかし、エゼキエルとエレミヤが証言しているように真実ではありません。
彼ら自身の罪が、当然の裁きを招いたのです。
彼らは酸いぶどうを食べたため、歯がゆい思いをしていました。
「罪を犯した者は、その者が死ぬ」のです。
(エゼキエル書18章20節)
彼らは深い悲しみの時に、この罪を告白せざるを得なくなりました。
その結果、主はかつて、彼らを引き抜き、苦しめなければならなかった土地に、再び種を蒔き、建て、植えるのです。
これに続いて、新しい契約が彼らと結ばれます。
注目すべき重要な点は、新しい契約の祝福は私たちのものですが、教会と結ばれるとは一度も言われていないことです。
ヘブル人への手紙では、先ほどの箇所と同じ様に、それは「イスラエルの家やユダの家」と結ばれことをはっきいと述べています。
(ヘブル人への手紙8章8~13節)
その契約の仲介者は主イエス・キリストです。
新しい契約の血は、主が私たちの罪のために流された血です。
ゆえに、信者は今、それが保証する特別な祝福を喜びます。
その契約そのものは天の民ではなく、地上の民と結ばれます。
「見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。――」
(エレミヤ書31章31、32節)
私たちに以前の契約が結ばれていないのですから、教会との新しい契約について話すのは愚かなことです。
しかし、イスラエルとユダの場合は違います。
彼らはシナイ山で行いによる契約を結びました。
その契約には二人の当事者がいました。
彼らがそれぞれの役割を果たせば、神はその義務を果たしてくださるはずです。
悲しいことに、彼らはその契約の石板が山から下される前に、すべてを失ってしまったのです。
彼らには律法な義が全くありません。
新しい契約においては、神のみが責任を負います。
したがって、彼らは受益者の立場に置かれます。
これは純粋な恵みです。
私たちもこの根拠に基づいて救われているので、どちらの場合も同じ原則が働いていることは明らかです。
しかし、新しい契約自体は、イスラエルだけに関係があります。
次の2つの節でその内容がわかります。
「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。
――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。
それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。
――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」
(エレミヤ書31章33、34節)
ここでは、すべての誓約が神の側にあるため、失敗する可能性はありません。
したがって、この契約は一度結ばれると、決して破棄されることはありません。
この契約は「永遠の契約であり、すべての点で整えられ、確かなもの」です。
清められ、悔い改められ、赦されたイスラエルとユダは、この地で一つの国民となり、二度と主の恵みを失うことはありません。
彼らは永遠に主の恵みに頼ります。
「主はこう仰せられる。主は太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名は万軍の主。
「もし、これらの定めがわたしの前から取り去られるなら、――主の御告げ。――イスラエルの子孫も、絶え、いつまでもわたしの前で、一つの民をなすことはできない。
主はこう仰せられる。「もし、上の天が測られ、下の地の基が探り出されるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行なったすべての事のために退けよう。――主の御告げ。――」」
(エレミヤ書31章35~37節)
上なる天と下なる地の広大さは、イスラエルに対するこの計り知れない哀れみを証明しています。
この一節を前にして、かつて、恵を与えていた国を最後は拒むのだと教える者たちに、一体どのような根拠があるのでしょうか?
注意)ここでは、教会を通じて、また教会に組み入れられることによって、イスラエルを祝福に導くという約束ではありません。
彼らの国家的存在であり、クリスチャンとしてではなく、イスラエル人としての祝福です。
彼らは、自分たちの国に復帰し、再び国民として認められ、主に完全に従わされて、かつて拒んだメシアを王として、また救い主として受け入れなければなりません。
さもなければ、この章の預言は成り立たなくなります。
ここにあるものはすべて、極めて文字通りの解釈です。
残りの節ほどこれが顕著であり、説明の必要はありません。
「見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、この町は、ハナヌエルのやぐらから隅の門まで、主のために建て直される。
測りなわは、さらにそれよりガレブの丘に伸び、ゴアのほうに向かう。
死体と灰との谷全体、キデロン川と東の方、馬の門の隅までの畑は、みな主に聖別され、もはやとこしえに根こぎにされず、こわされることもない。」
(エレミヤ書31章38~40節)
これらの言葉は過去のどんな時代にも適応できません。
主の時代にも、ヒンノムの谷の汚れた悪臭は空気を汚染していました。
それは主にとって決して聖なるものではありません。
約束に一致し、それを超越する成就は、未来においてのみ期待ができるのです。
「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
(イザヤ書9章7節)
第17章 神の証しのために投獄される
(32章、33章)
預言者ゼデキヤの熱烈な訴えは、明らかに無駄に終わりました。
ゼデキヤの心は神から離れようとしていました。
しかしながら、9年以上もの間、彼による具体的な迫害の記録は残っていません。
むしろ、その逆です。
記録によれば、彼は自身の不義を厳粛かつ恐るべき方法で告発する者を恐れていました。
彼の良心は、ヘロデ王のように、告発者の側に立っていたのです。
治世十年目に、バビロン王の軍隊がエルサレムを包囲したため、彼は大きな窮地に陥っていました。
苦境に立たされた彼は主に頼らず、厚かましくも主の御言葉に抗おうと心を閉ざしました。
特にエレミヤは彼にとって厄介な存在でした。
彼は彼を黙らせようと決意しました。
そこで彼は逮捕を命じ、やがて預言者エレミヤは逮捕され、王宮に隣接する監獄の中庭に閉じ込められました。
表向きの理由は、主がエルサレムが包囲軍の手に陥落することを保証し、彼の言葉によってエルサレムの民の防衛は無駄であると宣言することで、彼らの抵抗を弱めました。
ゼデキヤについても、彼は悪い預言しかしていません。
彼は逃げることはなく、必ずネブカデネザルの手に引き渡され、捕虜としてバビロンへ連行されます。
(エレミヤ書32章1~5節)
これは、わがままな王にとって、全く歓迎できない知らせです。
謙遜する考えも持たず、預言者のメッセージに従うよりも、黙らせることを選びました。
これは、さまざまな時代の人々の共通の悩みの種であり、自分の道に固執する人々は、来たるべき裁きが告げられると怒りを覚えるのです。
獄中でエレミヤは主から、多くの人にとっては賢明でない任命と思われることを行うように指示されます。
叔父シャルムの息子で、従弟のハナメルはアナトテに畑を持っていました。
彼は当時の苦難に追われていたに違いありませんが、その畑を売って金銭を得ようとしました。
買い手を見つけるのは困難でしたが、民の捕囚を預言したまさにその人のところへ直接行くように指示されました。
エレミヤは「買い戻しの権利」を持つ人物に畑を売ることを申し出ました。
つまり、律法によれば、彼はガエル人、つまり親族の買い戻し人だったのです。
彼がその畑を購入することで、その土地は彼の父祖の家から失われることはありません。
ハナミールは牢獄の庭へ行き、そこで従兄弟がひどく監禁されているのを見つけました。
主はすでにエレミヤにその目的を告げていました。
「どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。
あなたには所有権もあり、買い戻す権利もありますから、あなたが買い取ってください。」
(エレミヤ書32章8節)
主からの贈り物だと確信したエレミヤは、ためらうことなく銀17シェケルを支払い、問題の土地を購入しました。
こうして、当時の法律と慣習に定められた手順に従い、証人によって適切に証明された、エレミヤへの土地譲渡証書が作成されました。
権利証書は二つの巻物に収められていました。
一つは開封済み、もう一つは封印されていました。
通常であれば、開封済みのものは公式な保管所に保管されるはずです。
その反面、封印済みのものは70年間の隷属期間が終了するまで安全に保管され、その期間が過ぎれば、エレミヤの相続人の取り分を決定する際に役立つはずでした。
この文書はバルクに渡されました。
バルクについては今回初めて述べられていますが、彼は明らかに預言者の筆写者であり、信仰的な人物です。
バルクにこのように命じられました。
「すなわち、証書に署名し、それに封印し、証人を立て、はかりで銀を量り、命令と規則に従って、封印された購入証書と、封印のない証書を取り、おじの子ハナムエルと、購入証書に署名した証人たちと、監視の庭に座しているすべてのユダヤ人の前で、購入証書をマフセヤの子ネリヤの子バルクに渡し、彼らの前で、バルクに命じて言った。
『イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。これらの証書、すなわち封印されたこの購入証書と、封印のない証書を取って、土の器の中に入れ、これを長い間、保存せよ。
まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。再びこの国で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるのだ。』と。」」
(エレミヤ書32章11~15節)
このように、この購入はエレミヤの明確な信仰の行為であったことが分かります。
神は、70年の猶予期間が完了すれば、残された民がバビロンから必ず帰還することをエレミヤに告げていました。
エレミヤはその言葉を無条件に信じ、今では価値のない土地と思われた土地を購入しました。
彼自身も相続人も、その土地に入ることはできません。
定められた時期に、土地証書が封印され、正当な所有者がその土地を所有することになります。
思慮深い聖書研究者なら、この衝撃的な出来事の中に、ヨハネの黙示録の七つの封印された書物の幻を理解する鍵を見出さずにはいられません。
七つの封印された書物は紛れもなく世の権利証書です。
それは正当な相続人が進み出てそれを主張するまで封印されたままです。
その相続人、すなわち価値ある方は、まず裁きによって御自身の相続財産を清め、それから所有権を得なければなりません。
封印が開かれることは、まさにその方が御自身の既得権を行使するという宣言です。
私たちの章に戻ると、16節から25節までは、証書に署名したときのエレミヤの祈りがあります。
続いて(26節から終わりまで)、その土地にはイスラエルが再び住み、畑が再びそこで買われるという主の約束が繰り返されています。
預言者は祈りの中で、主の力と慈愛を認め、民の罪ゆえに下される主の裁きの正しさを認めています。
彼は祈っています。
「ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。」
(エレミヤ書32章17節)
彼は全能の神の御言葉に信頼を置いています。
これが彼の確信の根拠です。
「あなたは、恵みを千代にまで施し、先祖の咎をその後の子らのふところに報いる方、偉大な力強い神、その名は万軍の主です。」
おもんぱかりは大きく、みわざは力があり、御目は人の子のすべての道に開いており、人それぞれの生き方にしたがい、行ないの結ぶ実にしたがって、すべてに報いをされます。」
(エレミヤ書32章18、19節)
神は普遍的な倫理的支配者と認められ、すべての者をそれぞれの行いに応じて扱います。
神の目に留まらないほど小さなものもなく、神の能力に及ばない大きなものもありません。
「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。」
(ヘブル人への手紙4章13節)
主の目は全地を行き巡り、すべての人にそれぞれの行いの実に応じて報います。
主は、主を敬おうとする者には力強く、軽んじる者には敵のように見えます。
しかし、主がそのような方であるはずがありません。
「主の恵みはとこしえまで」とあるからです。
しかし、悪人からは御顔を隠されます。
エレミヤは、エジプトにおける国の始まりに立ち返り、残酷な圧制者から彼らを救い出し、約束の地へと導く恵みを認めています。
主が約束されたことはすべて豊かに成就しました。
しか、彼らは主に従わずに、彼らにさまざまの災いが降りかかったのです。
(エレミヤ書32章20~23節)
カルデア人は愛する都を包囲し、飢饉と疫病が蔓延していました。
「あなたの告げられた事は成就しました。ご覧のとおりです。」
(エレミヤ書32章24節)
しかし、主はこのようにと言われました。
「神、主よ。あなたはこの町がカルデヤ人の手に渡されようとしているのに、私に、『銀を払ってあの畑を買い、証人を立てよ。』と仰せられます。」
(エレミヤ書32章25節)
ここで彼は突然言葉を止めますが、主はすぐに彼に答えています。
イスラエルとユダの罪をより詳細に描写するともに、永遠に続く彼らとの契約を保証されています。
27節で、主は御自身がすべての肉なるものの神であることを宣言し「わたしにとってできないことが一つでもあろうか」と問いかけています。
これは、エレミヤが祈りの冒頭で用いた表現です。
何事も不可能なことのない方と交わりは、尊いことなのです。
牢獄に捕らわれた主のしもべにとって、自分が頼るのは全能の神であることと知ることは、大きな慰めとなるのです。
神は続けてこのように言われています。
「それゆえ、主はこう仰せられる。見よ。わたしはこの町を、カルデヤ人の手と、バビロンの王ネブカデレザルの手に渡す。彼はこれを取ろう。
また、この町を攻めているカルデヤ人は、来て、この町に火をつけて焼く。
また、人々が屋上でバアルに香をたき、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いで、わたしの怒りを引き起こしたその家々にも火をつけて焼く。
なぜなら、イスラエルの子らとユダの子らは、若いころから、わたしの目の前に悪のみを行ない、イスラエルの子らは、その手のわざをもってわたしの怒りを引き起こすのみであったからだ。――主の御告げ。――
この町は、建てられた日から今日まで、わたしの怒りと憤りを引き起こしてきたので、わたしはこれをわたしの顔の前から取り除く。」
(エレミヤ書32章28~31節)
王たち、君主たち、祭司たち、預言者たち、そしてユダとエルサレムの民は皆、心を一つにして、主の目に悪と映る行いをしていました。
彼らは主に背を向け、主が彼らを御前に連れ戻そうとする指導者を与えたにもかかわらず、彼らはこれらの教えに耳を傾けようとはしません。
主の宮にさえ、彼らは忌まわしい偶像を安置し、聖域を汚し、口にするのも憚られる偶像崇拝を行いました。
主は「わたしが命じたこともなく、語ったこともなく、思いつきもしなかったことだ」(エレミヤ書19章5節)と仰せになっています。
(エレミヤ書32章32~36節)
このように、救いようがありません。
主は、御自身の懲らしめによって「平和な義の実」が結ばれるまで、彼らを見捨てられました。
しかし、その日のことを、主はこのように約束されています。
「わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、」
(エレミヤ書32章39節)
彼らが真実に悔い改め、主のもとに立ち返る時、主は彼らをこのようにされるのです。
「わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。」
(エレミヤ書32章40節)
そして「真実をもって、心を尽くし思いを尽くして」彼らのために喜び、善を施されます。
驚くべき感動的な人間味あふれる言葉です。
(エレミヤ書32章41節)
預言されたすべての悪は、文字通り成就します。
同じ様に、神はすべての善き約束を文字通り成就されます。
決して、神の御言葉は成就しないことはありません。
イスラエルは回復し、その地は再び平和と安全のうちに人が住むようになります。
「ベニヤミンの地でも、エルサレム近郊でも、ユダの町々でも、山地の町々でも、低地の町々でも、ネゲブの町々でも、銀で畑が買われ、証書に署名し、封印し、証人を立てるようになる。それは、わたしが彼らの捕われ人を帰らせるからだ。――主の御告げ。――」」
(エレミヤ書32章44節)
33章は二つの異なる預言から成っていますが、これらを前の預言とまとめています。
それは、エレミヤが牢獄の庭に閉じ込められていた時も、同じように与えられていました。
エレミヤの肉体は監禁されていたとしても、神の御言葉が神の人のたましいに伝えられることを妨げるものは何もありません。
最初のセクションは1節から18節までです。
前述と同じ様に、このセクションも土地の回復について述べていますが、バビロンでの70年間の終焉後の帰還に限定されるものではありません。
神はそのしもべに「理解を越えた大いなる事」を示そうとしています。
エルサレムの滅亡を彼らの罪のために許し、御顔を隠してこられた方は、必ずエルサレムに健康と癒しをもたらし、「平安と真実を豊かに」彼らに示してくださいます。
神はイスラエルとユダの捕囚を帰還させ、彼らに赦しの恵みを知らせ、すべての罪から彼らを清めてくださいます。
(エレミヤ書33章1~8節)
エルサレムはいまだに「世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる」となる運命にあります。
なぜなら、エルサレムに対する神の慈しみの名声が全世界に広まるからです。
エルサレムはしばらくの間、荒廃を経験します。
しかし、その街路は再び喜びにあふれ、神を恐れおののく群衆で満たされ、契約を守る神への賛美を歌い上げるようになるのです。
(エレミヤ書33章9~11節)
イスラエルでは、羊飼いたちが再び羊の群れを飼うようになり、彼らを恐れさせる者は誰もいなくなり、町々は再建され、廃墟となった場所にも人が住み、主が祝福の約束をすべて成就する日が来ます。
(エレミヤ書33章12~14節)
その時、何世紀にもわたって人々の心を覆っていた覆いが取り除かれます。
かつて、詐欺師として拒まれた卑しいナザレ人が栄光のうちに再び現れ、すべての人々から主に油を注がれた者として受け入れられます。
「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を芽生えさせる。彼はこの国に公義と正義を行なう。
その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの町は、『主は私たちの正義』と名づけられる。」」
(エレミヤ書33章15、16節)
22章6節で、この意味のある名前で呼ばれているのは主であることは、すでに私たちはわかっています。
ここでは、この名前が回復されたエルサレム、つまりエルサレムに適応されます。
主の義はエルサレムに与えられ、救いの衣をまとい、インマヌエルの支配のもとで喜びに浸ります。
ダビデに与えられた約束は成就します。
「まことに主はこう仰せられる。「ダビデには、イスラエルの家の王座に着く人が絶えることはない。
またレビ人の祭司たちにも、わたしの前で全焼のいけにえをささげ、穀物のささげ物を焼き、いつもいけにえをささげる人が絶えることはない。」」
エレミヤ書33章17、18節)
二つ目のセクションでは、19章から26節までの残りの部分で構成されています。
31章35~37節の断言に似ていますが、より詳細です。
もし、昼と夜の契約が破ることができるなら、ダビデとの契約も無効にできます。
天の星が数えられず、海の砂が量れないように、神はダビデの子孫と、神に仕えるレビ人の子孫を増やされます。
つまり、ありえないことを描写しているのです。
(エレミヤ書33章19~22節)
彼らは不信仰で、主の約束を破り、主は二つの部族を捨てたと非難しています。
しかし、イスラエルとユダは主が選ばれた者であり、彼らの訴状で訴えられているのはカルデア人に対してです。
「彼らはわたしの民をもはや一つの民ではないと見なして侮っている。」
(エレミヤ書33章24節)
彼らの推論は完全に間違っています。
彼らが神の民であるがゆえに、神は「彼らの罪悪を罰する」のです。
たとえ彼らが杖の下を通過しても、神は彼らを完全に見捨てることはありません。
もし、神の契約が昼と夜とではなく、天と地の秩序を定められないなら、神はヤコブとダビデの子孫を滅ぼします。
そうでなければ、神は必ず「彼らの捕囚を帰らせ、彼らを憐れんでくださります。」(エレミヤ書33章25、26節)
近い未来、おそらく今地球上にいる多くの人々が生きている間に、神はこれらの約束を成就させてくださります。
第18章 自由の代償としての束縛
(34章)
ゼデキヤとユダの貴族たちの独特な優柔不断な性格は、私たちが今注目している預言的なメッセージの中でとても明確に示されています。
敬虔なヨシヤに従った三人の王は、バビロンへの服従を主張するエレミヤに意図的に反対しました。
彼らの政策は、エジプトに頼り、パロと同盟を結ぶことでカルデア人のくびきを断ち切ることです。
しかし、既に述べたように、エレミヤは常に正反対のことを勧めています。
バビロンの王は神によって任命され、諸国の支配権を握っていました。
エジプトは折れた葦に過ぎません。
唯一安全で正しい対策は、主が定められた権威に服従し、イスラエルとユダの罪が国家の堕落に値することを認めることです。
ゼデキヤはネブカドネザルによって任命されたために、前任者たちほど熱心にエジプトとの同盟を主張したわけではありません。
実際、エジプト軍が大勝利を収めた後、かつて彼は強大だったエジプトに身を投じ、主君に反旗を翻すことを決意しました。
ゼデキヤはエレミヤを心から尊敬し、くりかえし助言を与えていました。
しかし、ゼデキヤは神の前に正しくなく、二心のある者でした。
ゆえに、彼に伝えられた神の御言葉に対する従順さに著しく欠けていました。
ついに、窮地に陥り、街が陥落寸前になると、ゼデキヤは預言者を投獄しました。
エレミヤの戒めに耳を貸していません。
しかし、今回のように良心が目覚めたように思えても、残念ながら、またすぐに眠りに落ちてしまうこともありました。
ここに記された出来事は、おそらく前の章で論じた投獄以前に起こったものと思われます。
これは、安息年を認めるという極めて重要な問題について、長らく無視されてきた神の律法を強制しようとする試みです。
ネブカドネザルの名で呼ばれている軍隊は、カルデア人と「彼の支配する地のすべての王国」からの従属軍団で構成され、聖なる街を包囲していました。
その時、預言者はゼデキヤのもとへ行って話すように命じられました。(エレミヤ書34章1節)
そのメッセージは暗黒と破滅についてです。
主はこの街をバビロニアの略奪者の手に渡そうとしており、王自身も捕囚されなければならないというものです。
ゼデキヤには神の御言葉に対する、わずかな敬意とユダの国への心つかいといった、いくつかの良い点がありました。
ゆえに、剣で死ぬのではなく、安らかに死ぬことが告げられ、君主の死に際して慣習的に行われる敬意が彼の遺体にも敬意払われることが告げられました。
ゼデキヤは、以前の王たちには行われなかった方法で弔われるのです。
(エレミヤ書34章25節) 。
エレミヤは命じられたとおり神の啓示を伝えました。
このことが、どれほどこの不幸な王に影響を与えたのかは不明です。
敵はほぼ全域で勝利を収めていました。
ユダの守備都市のうち、首都以外では征服されなかったのはラキシュとアゼカの二つだけでした。
エルサレムの西に位置し、約15マイル(約24キロ)しか離れていません。
これらの街は包囲され、これ以上持ちこたえられる望みは絶たれました。
(エレミヤ書34章6節、7節)
ゼデキヤは自分の逆境を痛感していました。
彼は、苦悩のあまり、主人と奴隷の関係に限って、安息年を守るという契約をすべての民と結びました。
しかし、土地に関しては、カルデア軍の食料調達者たちによって畑がすべて荒らされ、農民たちは連れ去られるか殺されたために、実行することができません。
律法(出エジプト記21章1~6節、申命記15章12~18節)は、イスラエルにおける奴隷制を規制し、ヘブル生まれの男子奴隷、および主人またはその息子と婚約していないすべての乙女は、最大6年間仕え、7年目には自由の身とされることが命じられていました。
ただし、奴隷として妻を与えられた場合は、奴隷が自分の意志で従属状態のまま妻と共に留まることを選択することができます。
強欲と貪欲さにより、この律法は長年、形骸化していました。
今、王と民はこれを遵守し、このように誓約しました。
「ゼデキヤ王がエルサレムにいるすべての民と契約を結んで、彼らに奴隷の解放を宣言した後、主からエレミヤにあったみことば。
――それは各自が、ヘブル人である自分の奴隷や女奴隷を自由の身にし、同胞のユダヤ人を奴隷にしないという契約であった。」
(エレミヤ書34章8、9節)
これは主の御心と完全に一致していました。
もし、このことを心に誓い、過去の罪を真実な悔い改めるのなら、主の目に受け入れられたのです。
しかし、人は放っておくと安定しません!
この宣言は、発布されるや否やすぐに撤回されてしまいました。
おそらく、彼らを覆っていた暗雲にわずかな隙間ができて、彼らは自分たちの状況の深刻さが誇張されていたと感じたかも知れません。
その結果、真実な裁きを受けることのなかったかつての生き方に戻り、召使いや侍女たちを再び服従させました。
(エレミヤ書34章10、11節)
それゆえ、主は再びしもべの口に言葉を授け、優柔不断で不安定な民のもとへ遣わされました。
主は、先祖たちをエジプトから導き出した際に結ばれた契約と、前述の申命記15章に記されている免除の年の規定を彼らに思い起こさせました。
主は、彼らが解放を宣言した行為を、神の目に正しいものとして描写しておられます。
しかし、彼らは契約を破り、しもべたちを再び奴隷状態に陥れたことで、神の名を汚しました。
今、主は彼らに対して解放を宣言し、剣と疫病と飢饉に至らせようとしています。
(エレミヤ書34章12~17節)
蒔かれたものは必ず刈り取らなければならないというのは、人間の場合と同じで、諸国民にも当てはまります。
神の御言葉への従順は祝福をもたらします。
不従順は裁きの確実な前兆です。
「正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。」
(箴言14章34節)
ユダの君主たちと民は、貪欲さゆえに、いとも簡単に破ってしまう契約を最も厳粛な方法で締結されました。
彼らはこのようにしました。
「また、わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、わたしの契約を破った者たちを、二つに断ち切られた子牛の間を通った者のようにする。」
(エレミヤ書34章18節)
古来より、この方法は厳粛な契約を締結する当事者は習慣的に形式として行っていました。
犠牲が捧げられ、その断片あるいは部分が祭壇の上に整然と並べられ、誓約する者たちはそれらの断片の間を通りました。
アブラハムの時代に、神がこのように誓約されたのを私たちは知っています。
族長はこれらのものを取るように命じられました。
「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひな」
(創世記15章9節)
これらはすべて、唯一の真実な犠牲である主イエス・キリストの型であり、それぞれが何らかの特別な側面で主を表しています。
*子牛は、他者に食物を与える忍耐強いしもべとしてのキリストのことを語っています。
*マタイの福音書25章では、雌やぎは罪人を象徴するために使われています。
私たちがその雌やぎにあって神の義となるために、神が私たちのために罪となったヤギを示しています。
*雄羊は奉献の捧げ物であり、主の死に至るまでの従順さを物語っています。
*他の人が示しているように、山鳩は愛と悲しみの鳥です。
そして、愛も悲しみも主ほど偉大なものはありません。
-もちろん、ひなも同じです。
ともに天から来たものであり、私たちの救いのために地上で死ぬために天から来た方を示しています。
まだ、名前が変わっていなかったアブラムは「それら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった」のです。
(創世記15章10節)
アブラムはそれぞれの部分を並べて、それを見張り、それらを食べようと集まる汚れた鳥、猛禽を追い払いました。
今日のクリスチャンが偉大な「敬虔の奥義」のために熱心に戦うように求められています。
汚れた者が「キリストの教え」についての真理を奪うことを許しません。
夜が更け、番人は疲れ果て、深い眠りに落ちました。
「ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。」
(創世記15章12節)
これは主の御顔が隠されることの象徴であり、彼の子孫は必ずやこのことを経験することを描写しています。
その時、神は近づき、選ばれた民への祝福の約束を繰り返しました。
しかし、同時に彼らの未来の悲しみと最終的な解放についても告げられました。
このように、神は驚くべき方法で契約を確証しました。
エジプトの奴隷状態における彼らの苦悩を象徴する「煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎ」ました。(創世記15章17節)
この燃えているたいまつ、文字通り火のたいまつは、神の臨在の目に見える現れです。
このようにして、神は愛する御子の十字架を通して、御自身の契約をすべて成就されることが誓約されました。
そして、アブラムが同じことを求められなかったことに注目してください。
アブラムは誓約をしていません。
何も求められません。
これは純粋な恵みによる契約です。
このようにして、ユダの人々は解放の安息年に関する契約を確定しました。
彼らは主に子牛を捧げ、「その部分の間を通った」のです。
これ以上の尊い行為はありません。
彼らは、様々な誓いの中でも最も強い誓いを立て、ヘブル生まれのあらゆる奴隷男女に解放を宣言することを誓いました。
しかし、真実な自己反省と真摯に悔い改めないため、すぐに昔の習慣に戻ってしまいました。
その結果、「二つに分けた子牛の間を通った」これらの不忠実な誓いを立てた者たちは皆、死刑に処されるべきです。
なぜなら、彼らがそうした行為は、事実上、契約を破れば命を失うという宣言だったからです。
これらの言葉はそのまま受け止められるべきです。
主は彼らを敵の手に渡し、彼らの死体はアブラムのように猛禽類を追い払う者もなくこのようになります。
「そのしかばねは空の鳥、地の獣のえじきとなる。」
(エレミヤ書34章20節)
神を軽んじることは恐ろしいことです。
神は焼き尽くす火です。
聖徒たちでさえ、永遠に住まわれる高く尊い神と関わることの厳粛さをどれほど理解していないことでしょう。
最後の節(エレミヤ書34章21、22節)から、民が不忠実にも撤退した直接の理由は、包囲軍が一時的に撤退したことであったことがわかります。
彼らは明らかに天幕を撤収し、一時的に町を放置しました。
これは包囲が放棄されたことを意味すると解釈されました。
以前は必死だった者たちは、今や有頂天になり、油断しました。
彼らの自己満足は時宜を逸していました。
主はこう命じられました。
「彼らをこの町に引き返させる。彼らはこの町を攻め、これを取り、火で焼く。
わたしはユダの町々を、住む者もいない荒れ果てた地とする。」
(エレミヤ書34章22節)
ユダの町々は荒廃し、住む人もいなくなります。
第19章 レカバイトの家
(35章)
先ほど考察した章に記録されている優柔不断と裏切りの物語とは著しく対照的です。
しかし、このことは、今、私たちの注意を引いている非常に教訓的な出来事です。
預言者はレカブ人の家に行き、彼らに挨拶した後、このように命じられました。
「レカブ人の家に行って、彼らに語り、彼らを主の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ。」
(エレミヤ書35章2節)
これはエホヤキムの治世中のことであり、したがって最後の章で述べられている契約破棄の数年前のことです。
しかしながら、この文脈で見るのであれば美しい倫理的秩序があります。
この書のさまざまな部分が後世の編集者によって無計画にまとめられたという不敬虔な憶測を完全に排斥します。
これらのレカブ族は元々イスラエルの血筋ではなく、ケニ族という部族に属していましたが、その起源は謎に包まれています。
モーセの義父エテロがケニ族に属していたことから(士師記4章11節)、彼らはミディアン人の血筋であったと通常は考えられています。
ケニ族のヘベルは妻ヤエルと共に、シセラ率いるカナン族との戦いでイスラエル側に付きました。
シセラはヤエルの天幕に避難した際にヤエルに殺されました。
歴代誌第一2章55節には、レカブ族がユダ族の子孫として数えられていることが記されています。
「ヤベツに住んでいた書記の諸氏族は、ティルア人、シムア人、スカ人。彼らはレカブ家の父祖ハマテから出たケニ人である。」
(歴代誌第一2章55節)
彼らが初めて特別な名声を獲得したのは、彼らの勇敢な代表者、レカブの子ヨナダブを通じてです。
エリシャがラモテ・ギレアデに遣わした名もなき預言者によってイスラエルの王に油を注がれた後、エフーを迎えに出たのも彼でした。
アハブの卑しい家と、ユダの王アハズヤの家の多くの者を滅ぼした後、エフーはサマリアに向かって馬を走らせていました。
「彼がそこを去って行くと、彼を迎えに来たレカブの子ヨナダブに出会った。
エフーは彼にあいさつして言った。
「私の心があなたの心に結ばれているように、あなたの心もそうですか。」ヨナダブは、「そうです。」」
(列王記第二10章15節)
エフーは劇的に「それなら、こちらに手をよこしなさい」と叫びました。
エフーがそのようにすると、エフーは彼を馬車に乗せてこのように言いました。
「私といっしょに来て、私の主に対する熱心さを見なさい。」
(列王記第二10章16節)
既にエフーはヨナダブが主の礼拝に身を捧げ、偶像崇拝を忌み嫌う人物であることをよく知っていたという結論は否定できません。
父レカブの敬虔さは、息子に与えられた名前に表れており、「主は惜しみなく与えた」という意味を持ちます。
エフーの命令でサマリアの神殿でバアルの崇拝者たちが虐殺されされようとしていました。
その前にヨナダブは熱心だが残酷な王といっしょに、主のしもべがバアルの崇拝者たちと混ざっていないか調べる任務を指揮しています。
この章に至るまで、再びヨナダブについて述べられていません。
主の御言葉に従い、エレミヤは別のエレミヤの子ヤアザヌヤとその兄弟たち、そしてレカブ人の全家を連れて、神殿にある神の人ハナンの子らの部屋に連れて行きました。
そこでエレミヤは彼らの前にぶどう酒の入った壺を置き、「さあ、ぶどう酒を飲め」と言いました。
(エレミヤ書35章3~5節)
彼らは公然とこの招待を断りました。
その理由は、ここではレカブの子ヨナダブと呼ばれているエホナダブが、300年近く前に、酒を飲むことも、家を建てることも、種を蒔くことも、ぶどう畑を所有することもせずに常に天幕に住んで、異邦人となったこの地で長く暮らすように命じられた事実を挙げています。
彼らはヨナダブの時代から、ネブカドネザルがこの国を征服するまで、文字通りこの命令に従っていました。
エレミヤの軍隊の存在により、彼らは以前の無防備な生活を送ることができなくなりました。
そこで彼らは命を守るためエルサレムに移りました。
しかし、城壁で囲まれた町に住まざるを得なかったのですが、彼らはぶどうの実を飲むことを禁じる戒めには違反していません。
(エレミヤ書35章6~11節)
イスラエルとユダの堕落した状態を考えるならば、彼らの偉大な先祖に対する尊敬と従順さはより一層際立ちます。
彼らは、彼らを知る者すべてにとって、律法への服従に関する生きたメッセンジャーだったのです。
それゆえ、エレミヤはこのように命じられました。
『あなたがたはわたしのことばを聞いて懲らしめを受けようとしないのか。」
(エレミヤ書35章12、13節)
彼らの記録によれば、彼らは神の律法を破るためにだけ、律法を知っていたという結果になります。
荒野で子牛を造った日からエレミヤが彼らに仕えるまで、彼らの歴史は神の御言葉への不従順と意図的に拒んだ長く恥ずべき記録です。
それよりはるか以前に、神はイザヤを通してこのように叫んでおられます。
「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。
「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。
牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。
それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」」
(イザヤ書1章2、3節)
滅びる獣よりも鈍感な彼らは、神の律法に耳を背け、神の戒めの道を歩むことを拒みました。
この恐ろしい告発は、クリスチャンにとって厳粛なメッセージとなります。
キリストの尊い血によって「代価を払って買い取られた」者たちの中にさえ、同じ強情な霊が蔓延しています。
私たちのうち、主の真実を知っている者として行動している人はどれくらいいるでしょうか?
私たちは自分自身のものではなく、すべての持ち物売り払って私たちを買い取ってくださった主のものです。
一体主はどのような取引をしたのでしょうか?
私たちの主の飼い葉桶が、クリスチャンの家庭でたびたび軽く見られています。
これは大切にされていない神の聖なる言葉です。
御言葉には豊かな食物が詰まっています。
そして、すべての御言葉はキリストの羊のためにあります。
なぜ、この世界の抜け殻のような言葉が求められるようになったのでしょうか?
ユダが滅亡した時代の状態と、今日の神の家との間には、倫理的な違いは何もないのではないかと危惧されます。
私たちは、この忠実なレカブ人たちから教訓を学ぶように努めるべきです。
聖書では、ぶどう酒は喜びの象徴です。
(士師記9章13、詩篇104篇15節)
古代のナジル人はぶどう酒を遠ざけるよう命じられました。
なぜなら、彼らは荒廃した創造物に喜びを見出せなかったからです。
レカブの子らは、異邦人であり巡礼者であったため、地のぶどうの木から生じるものに触れません。
彼らは、この世が決して与えることのできない、より高く、より深く、より永続的な喜びを求める人々の型です。
彼らはこの世に永続する街を持たず、巡礼者の天幕に住み、この地上の世界に何の土台も築かず、来たるべきものを求めています。
これは、現代に迎合する軽薄な人々や、エレミヤ時代の不信仰な民や君主たちとは、対照的な存在です。
さらに、主はヨナダブの言葉は彼の子孫によって信仰的に実行されたと述べています。
しかし、主が御言葉を与えられたにもかかわらず、民は耳を傾けません。
預言者たちは次々と遣わされ、民に悪行を慎み、偽りの神々から真実な主に立ち返り、行いを改めるよう命じました。
もし、民が主の声に従うなら、主はそれでも彼らを繁栄させ、彼らの国に留まってくださると告げられました。
しかし、何の反応もありません。
彼らは耳を傾けず、主の願いにも耳を傾けなかったのです。
ゆえに、彼らを深く愛し、彼らのために心を痛めた者にとって、やがて彼らに下されるであろう運命を告げることは、再び苦難に満ちた義務となりました。
主が彼らに対して宣告されたすべての災いは、まもなくこの街とこの国に降りかかります。
なぜなら、主が語られても彼らは耳を傾けず、主が呼びかけられても彼らは答えなかったからです。
(エレミヤ書35章16、17節)
これは箴言1章28節の正反対です。
そこでは、道を踏み外した者たちに対して、神がこのように言われる時が来ると警告しています。
「そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。」
(箴言1章28節)
これは、実のないユダ、同じ様に実のないキリスト教世界がたどったよ歩みの恐ろしい結末です。
レカブ人の家に関しては、主御自身の権威によって、彼らが父ヨナダブの戒めを忠実に守りました。
ゆえに、主は永遠に主の前に立つ者を一人も失うことはないと告げられました。(エレミヤ書35章18、19節)
この献身的な者の家族は、聖なる歴史と世の歴史の両方から長い間失われていました。
この約束から、この世界のどこかに彼の子孫がまだ存在していることがわかります。
そして、イスラエルとユダに関するすべての預言が成就する千年王国には、再び、レカブの家が登場し、このような神への忠実さの証しとなります。
「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。
人の子ではなく、悔いることがない。
神は言われたことを、なさらないだろうか。
約束されたことを成し遂げられないだろうか。」
(民数記23章19節)
その日、レカブ人は、インマヌエルの臨在の場から溢れ出る純粋な喜びを味わいます。
また、人類ゆえに地上に呪いが降りかかっている間、彼らにとってぶどうの果実が禁じられていたことは苦痛ではありません。
第20章 記録に残る最初の破壊的な批評家
(36章)
大衆の心にキリスト教の根幹をむしばむ現代の数々の悪の中で、いわゆる高等批評ほど大胆かつ不敬虔に神の真理を攻撃するものは他にはありません。
信仰によって疑う余地のない書物の真正性を判定しようとする敬虔な学問を装い、この破壊的な学派の支持者たちは、真理である聖書を躊躇なく切り刻み、主イエス・キリストの言葉そのものを意図的に偽造します。
少なくとも、万物を知りつくしたイエス・キリストは、旧約聖書の一字一句が神から与えられた権威を持つことに何の疑いも持っていません。
聖書はイエスにとって、聖霊の霊感を受けた言葉です。
同じ様に、使徒たちも、律法、預言者、詩篇といった聖書のさまざまな箇所を、神が被造物に伝える誤りのないメッセージとして受け入れました。
当時、聖書の正典として受け入れられていたもののどのような箇所においても、その完全な権威を認めることに、わずかな躊躇も見ることができません。
健全な判断力と真実な敬虔さを欠いた現代の理論家たちは、私たちの主とその最初の弟子たち(彼ら自身も霊感を受けた人々)が「神の預言」として何の疑いもなく受け入れた真正性に異議を唱え、この真実性を疑っています。
このように神の聖なる言葉への信仰を損ない、単純な人々をキリストの道から誤りと混乱の道へと導こうとする者たちの裁きは、実に恐ろしいものとなります。
そして悲しいことに、多くの場合、まったく不信仰な道に誘惑されてしまいます。
少なくとも良心を抑制してきた神と神の御言葉に対する責任感から解放されて心から喜ぶかもしれません。
宗教的な菓子の売り手の毒のような甘さをあまりにも貪欲に受け入れる人々の永遠の状態はどうなるのでしょうか?
親愛なる同胞の皆さん、ご安心ください。
私たちの信仰は、難攻不落の岩の上に築かれたものです。
それを拒む者は、自分の破滅を招くことになります。
破壊的な批判者たちの乱暴な思いつきは、今まさに迫り来る大背教の前兆に過ぎません。
神に感謝すべきことに、キリスト教世界の大衆の心に暗い不信仰の恐ろしい夜が訪れる前に、教会は父の家において主と共にいるために連れ去られます。
聖霊がキリストのからだとともにこの場を去ると、すぐに反キリストが現れ、その時代、キリストを信じていいないすべての傲慢の学識が主にひざまずくことになります。
「それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」
(テサロニケ人への手紙第二2章11、12節)
聖書の完全な霊感という重要な真理に反対する者たちは、反キリストのバプテスマのヨハネ、つまり、反キリストの道の準備者たちに他なりません。
旧約聖書を誠実に読む人なら、そのすべてのページに霊感の刻印があることに気づくはずです。
イエスはそのことを繰り返し断言しています。
イエスは、旧約聖書を引用する際に、この主題に関する最終的な結論を述べるかのように、反論の余地のない言葉を発しています。
誘惑においては注目すべき点があります。
サタンを打ち負かす際に引用されている各箇所では、批評家たちから激しく攻撃される申命記から引用されています。
万物を知っておられたイエスは、その著名な著者やその聖なる権威を疑うことはしていません。
また別の箇所では、イエスは厳粛にこのように宣言しておられます。
「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」
(マタイの福音書5章18節)
聖書は至る所でイエスを証ししており、イエスは聖書の成就とみなされています。
荒野でも、働きの生涯でも、十字架上の受難でも、律法と預言者と詩篇にイエスについて書いてあることが「成就するため」に、次々と語られ、行われました。
そして、復活においても同じです。
エマオへ向かう二人にイエスは聖書を開き、聖書のあらゆる箇所で御自身について語られたことを説明されました。
使徒たちについても同じです。
ペテロ、パウロ、ヤコブ、ユダにとって、聖書の証しは論争の終着点です。
「聖霊が語られた」、「聖霊はこう言われる」、「書いてあるとおりです」。
これらは旧約聖書の三つの大きな部分から聖句を紹介する際に用いられる表現です。
彼らは恐れおののく思いをもって、すべての言葉を生ける神から直接言われた言葉として受け入れました。
新約聖書の書物に関しては、神の権威の刻印がすべてのページに刻まれています。
主イエスは使徒たちに「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者」だと言われました。
(ルカの福音書10章16節)
そしてヨハネはこのように書いています。
「私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。」
(ヨハネの手紙第一4章6節)
ヨハネは最も厳粛な方法でヨハネの黙示録の権威を封印し、このように証言しています。
「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。
もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれます。」
(ヨハネの黙示録22章18、19節)
ペトロもまた「愛する兄弟パウロ」の手紙を「他の聖書」と同列に扱い、その聖なる源泉を証明しています。
そして、異邦人への偉大な使徒は、紛れもない言葉で完全な霊感によるものであると主張しています。
「この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。」
(コリント人への手紙第一2章13節)
そして、コリント人への手紙第一14章37節ではこのように書いています。
「自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。」
(コリント人への手紙第一14章37節)
このように認めることは永遠の祝福をもたらします。
これを拒む者は、「リベラルな考え」を持つ者たちの称賛が永遠に沈黙した後に、恥と永遠の混乱をもたらすのです。!
パウロの手紙のある部分は、神の権威を否定しながらも、個人的な意見を述べている箇所があると言われることがあります。
この主題の重要性と、それによって困惑する読者のために、ここで少し脇道に逸れてこれらの箇所について考察したいと思います。
コリント人への手紙第一7章では、パウロは夫婦の関係について書き、冒頭で夫婦が家庭の中で持つ真実な位置づけを示しています。
5節ではこう述べています。
「互いの権利を奪い取ってはいけません。
ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません。 あなたがたが自制力を欠く時、サタンの誘惑にかからないためです。」
(コリント人への手紙第一7章5節)
そしてすぐにこのように付け加えています。
「以上、私の言うところは、容認であって、命令ではありません。」
(コリント人への手紙第一7章6節)
パウロは家庭によっては混乱を招く可能性のある別居期間を命じているのではありません。
それが有益な場合にのみ許可しているだけです。
これを歪曲して、使徒パウロが直接の霊感を否定していると教えることができるのは、不敬虔な意志だけです。
12節も同じ教えを説いていると思われます。
10、11節と比較すると、すべてが明確になります。
「次に、すでに結婚した人々に命じます。命じるのは、私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。
――もし別れたのだったら、結婚せずにいるか、それとも夫と和解するか、どちらかにしなさい。
――また夫は妻を離別してはいけません。」
(コリント人への手紙第一7章10、11節)
これらはすべて、マタイの福音書19章で主が直接命じられたものです。
ゆえに、パウロは「命じるのは、私ではなく主です」と言っています。
すでに、主は語っておられたのです。
さて、次の節を見てください。
「次に、そのほかの人々に言いますが、これを言うのは主ではなく、私です。」
(コリント人への手紙第一7章12節)
つまり、主がこれから書くことは、いままで語られていないということです。
使徒自身がこのことについて神の御心を述べています。
「私です。信者の男子に信者でない妻があり、その妻がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。」
(コリント人への手紙第一7章12節)
ここでは、さまざまなケースが起こり得ることに対する指示が与えられています。
17節の権威ある口調に注目してください。
「私は、すべての教会で、このように指導しています。」
(コリント人への手紙第一7章17節)
ここには意識的な霊感と権威の両方が表れています。
25節で彼はこのように書いています。
「処女のことについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみによって信頼できる者として、意見を述べます。」
(コリント人への手紙第一7章25節)
この箇所は、部分的あるいは非霊感によるという考えを否定しています。
彼は神から与えられた立場に基づき、霊感による判断を下しています。
40節も同じです。
パウロの判断は神の霊に導かれたものです。
啓示と霊感には違いがあります。
ここでは後者が用いられていますが、必ずしも前者とは限りません。
パウロの著作の普遍性、すなわちすべての信者への適用性については、私たちがこれまで見てきたこの手紙の冒頭の数節が最も力強く述べています。
パウロはこのように書いています。
「コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。
主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。」
(コリント人への手紙第一1章2節)
これ以上に明確な言葉があるでしょうか?
聖書に少しでも従う者なら、これらのの言葉が宛てられた手紙の適用範囲を制限するものでしょうか?
ローマ人への手紙の序文で、パウロが自分自身についてどのように述べているかにも注目してください。
「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。
それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。」
(ローマ人への手紙1章5節)
手紙から手紙へと読み進めていくと、彼が書いたものは聖霊の啓示によるものなので、すべての聖徒の良心に拘束力があることを示す彼の意識にある同じ根拠を指摘することができます。
さて、これから読む章に目を向けてみましょう。
そこには、神の御言葉が書き記されたこの不浄にも切り刻まれ拒まれたことが、記録に残る最初の例として記されています。
今では一般的に行われていることです。
この主題の極めて重要な点ゆえに、これほど長い余談が許されています。
エホヤキム王の治世第4年、エレミヤは主から巻物を取り、ヨシヤの時代に預言者としての務めが始まって以来、命じられた時まで、イスラエルとユダ、そして周辺諸国に対して主が語られたすべてのことを書き記すようにと命じられました。
(エレミヤ書36章1、2節)
これ以前に彼が書いたものは何も記録されていません。
29章の手紙は数年後に書かれたものです。
主のメッセージはすべて口頭で伝えられていました。
今、それらは書物としてまとめられ、王とユダの家が神の御言葉をより深く理解できるようになろうとしています。
主はさらにこのように言われています。
「ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。
そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる。」
(エレミヤ書36章3節)
神は彼らの回復を切望されていました。
神は彼らの裁きを喜ばれていません。
もし、悔い改めと心の痛悔の証拠が少しでもあったなら、神は喜んで赦しを与えていたはずです。
したがって、バルクはエレミヤの口述に従って「ことごとく巻き物に書きしるした」のです。
預言者自身は「閉じ込められ」(どのような理由で閉じ込められたのかは分かりません)、主の宮に行くことができません。
しかし、バルクは、当時の悲惨な状況のために宣言された断食の機会に、集まった群衆に書き記されたすべてのことを読むために遣わされました。
その時、ユダのすべての街がエルサレムに集まることになっていました。
このように屈辱とたましいの苦しみのために集まった人々は、主の大いなる怒りと、主が彼らに対して宣告されたことを知った時、神の御言葉に耳を傾け、さまざまな罪から立ち返るかもしれません。(エレミヤ書36章6、7節)
この断食はエホヤキムの治世第五年の第九の月に行われました。
その日、ネリヤの子は神殿に行き、主の家の新たな門の入口で、書記官シャファンの子ゲマリアの部屋の入口に立って、すべての民の前で書物を朗読しました。
このゲマリアの子ミカヤは、自分が聞いた言葉に深く感銘を受けたようです。
その言葉で心も頭も満たされた彼は、王宮の書記官の部屋に下りて行き、そこで一群の指導者たちが集まっているのを見ました。
その中には、彼自身の父と、エリシャマという書記官、その他の民の指導者たち、さまざまな君主たちがいました。
若者は彼らに、バルクが朗読した巻物から聞いたことの概略をすべて話しました。
少なくともその瞬間は、彼らは明らかに注意を引いています。
というのは、彼らはすぐに使者を遣わして、預言者のしもべにその書物を持って彼らの会議場に来るように命じたからである。
そして来て、彼らは「さあ、すわって、私たちにそれを読んで聞かせてくれ」と言いました。
バルクはその日二度目の厳粛なメッセージを読み上げましたが、彼らは恐れて、読み上げた者に言いました。
「私たちは、これらのことばをみな、必ず王に告げなければならない。」
(エレミヤ書36章16節)
彼らは、その書物が主がエレミヤを通して伝えた一連のメッセージであること、そして、本当に主張している通りのものなのかを確かめるためにバルクに尋ねました。
「さあ、どのようにして、あなたはこれらのことばをみな、彼の口から書きとったのか、私たちに教えてくれ。」
(エレミヤ書36章17節)
エレミヤは答えました。
「エレミヤがこれらすべてのことばを私に口述し、私が墨でこの巻き物に書きしるしました。」
巻物の内容の重要性をある程度認識していたことは明らかです。
しかし、それを公布した者たちに対する王の怒りを恐れ、預言者の安否を気遣っていた王子たちは、バルクに警告して言いました。
「行って、あなたも、エレミヤも身を隠しなさい。だれにも、あなたがたがどこにいるか知られないように。」
(エレミヤ書36章19節)
書記エリシャマの部屋に巻物を置いた後、王子たちと高官たちは急いで王宮へ行き、そこに記された言葉の要旨をエホヤキムに伝えました。
エフディはすぐにそれを取りに行き、王と傍らに立つ王子たちの前でそれを読み始めました。
読者が三、四段ほど読み進めたところで、せっかちな王は「書記の小刀」それを切り取り、王の目の前でわざと火の中に投げ込みました。
3人の王子は王に聖なる巻物を燃やさないよう懇願しましたが、無駄でした。
王は不敬虔な態度を貫き、王自身も家臣たちも、主への侮辱に対して何の恐れも懸念も示していません。
それどころか、バルクとエレミヤの両者を逮捕する命令が出されましたが、主は彼らのことを気にかけ「ふたりを隠された」のです。(エレミヤ書36章20~26節) 。
このように王は聖書に記録されている神の御言葉を切り刻んだ最初の人物としてその名を記録に残しました。
その日以来、どれくらい多くの人が彼の足跡をたどってきたのでしょうか!
彼は霊感を受けたメッセージを意図的に拒むことで自分の運命を決定づけました。
そのことを彼自身も、そして無謀な友人たちも全く知る余地はありません。
それ以来、「書記の小刀」はしばしば真理の言葉を切り刻み、破壊するために用いられてきました。
そのようにする者は皆、最終的に悲しむことになります!
「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」
(マタイの福音書24章35節)
この真理は破壊できません。
それは不変であり、不敬虔な「学問」の意志によっても決して無視されることはありません。
また、ローマの使者も教皇の迫害の時代にこれを終わらせようとしました。
何千冊もの聖書が火に投げ込まれましたが、それらは何百万冊もの聖書を生み出す種となりました。
不信心が猛威を振るい、聖書の信用を失墜させるために最悪の手段を講じました。
それでも聖書は勝利を収めています。
他のどんな書物も、このように扱われたなら、とっくの昔に記憶となり、地上から消え去っていたはずです。
しかし、神は聖書を守ってくださいました。
いわゆるキリスト教の学者たちは、正当な批評を装ってローマ教会や無神論を模倣し、聖書を酷評し、その大部分を信頼できず霊感も受けていないとして安っぽい軽蔑と嘲笑の炎に投げ込んでいます。
彼らは自分たちが批判している本自体が最高の批評家であることをまだ学んでいません。
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」
(ヘブル人への手紙4章12、13節)
神の御言葉、キリストの人格についても、次のように言えます。
「また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」
(マタイによる福音書21章44節)
その厳粛な日に「書物が開かれる」時、エホヤキムは自分が軽率にも破壊しようとした巻物が炎に焼かれても傷つかず、自分の罪深いたましいに対する証拠として持ち出されるのを見ることになります。
そして今、何を主張しようと、真理を攻撃し、聖書が神の御言葉であることを信用できないものとする者たちは、その時、彼らが今拒否していることによって裁かれます。
キリスト教の説教壇に陣取り、無知な者や盲目の者に見せかけの不信を垂れ流し、自らと喜んで聞く者たちを破滅に導いてきた人々が、その日、どれほどの恐ろしい目覚めを経験することか、誰が想像できるでしょうか?
「大いなる白い御座」に座し、その御言葉に敢えて異議を唱えてきた主と対面した時、彼らは目覚めさせられることになります。
彼らはその栄光の中で、自分たちの次の言葉を目にすることになります。
* 「神話のアブラハム」は神を信じた。
*「無名の」イザヤは、主イエスが来られるのをはっきりと語っています。
* 彼らはヨナの物語自体をあざけ笑らい、ダニエルの経験を彼らは比喩として分類します。
しかし、これらすべての真実の生きた人々は、光と至福の住処にしています。
悲しいことに、自分たちの存在そのものをあざ笑った者たちは、永遠に外の暗闇に投げ込まれ、二度と神の御言葉を疑うことさえできません。
エホヤキムによる聖書の破壊の試みは、その後のあらゆる試みと同じ様に、完全に無駄に終わります。
主の御言葉は再びエレミヤに臨み、このように命じました。
「あなたは再びもう一つの巻き物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた先の巻き物にあった先のことばを残らず、それに書きしるせ。」
(エレミヤ書36章28節)
炎に投げ込まれた預言は書き直され、永遠に保存されるだけでなく、さらに多くのことが書き加えられることになりました。
不敬虔な君主には、他の人々が神の御言葉を軽く見たり拒みたりしないよう学ぶために、相応の罰が下されることになります。
「ユダの王エホヤキムについてはこう言え。主はこう仰せられる。あなたはこの巻き物を焼いて言った。『あなたはなぜ、バビロンの王は必ず来てこの国を滅ぼし、ここから人間も家畜も絶やすと書いたのか。』と。
それゆえ、主はユダの王エホヤキムについてこう仰せられる。彼には、ダビデの王座に着く者がなくなり、彼のしかばねは捨てられて、昼は暑さに、夜は寒さにさらされる。」
(エレミヤ書36章29、30節)
ダビデの王座に座る者がいないという彼の宣言は、捕囚後、息子のエホヤキム、あるいはエコニヤが王位に就いたことで、明らかに失敗したと思われた人もいるかもしれません。
しかし、わずか3ヶ月と10日という信用できない支配の後、彼は22章30節で同じ預言者によって宣告された破滅に従い、多くの民と共にバビロンへ連れ去られています
主がユダとエルサレムに対して宣告されたすべてのことは、一つたりとも無駄になりません。
巻物を読むことを拒んで、火で焼却しても、決して無効になりません。(エレミヤ書36章31節)
この言葉に従ったことをこのように記しています。
「エレミヤは、もう一つの巻き物を取り、それをネリヤの子、書記バルクに与えた。
彼はエレミヤの口述により、ユダの王エホヤキムが火で焼いたあの書物のことばを残らず書きしるした。さらにこれと同じような多くのことばもそれに書き加えた。」
(エレミヤ書36章32節)
第21章 エルサレムの陥落
(37章~39章)
さて、私たちはこの本の特に歴史的な部分について述べていきます。
エレミヤの訓戒的な務めは終わりに近づいていた。
ヨシヤの時代以来(つまり30年以上もの間)、彼は忠実に、そして熱心に、背信的で不誠実な民に警告し、嘆願し、懇願してきました。
しかし、真実な応答はありません。
彼らは主の御言葉を背に置き、主の助言からますます遠ざかってゆきました。
主が辛抱強く待っておられる間、長らく告げられてきた裁きは、今やもはや延期されることなく、民の上に恐ろしい怒りをもって下されます。
2世紀前にホセアを通して語られた言葉は、ついに成就します。
「彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで(あるいは、罪を認めるまで)、わたしはわたしの所に戻っていよう。
彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう。」
(ホセア書5章15節)
驚くべき恵みと哀れみによって、彼らはこれまで最後の打撃を免れてきました。
しかし今、救いようはありません。
主の憤りを静めるものは何もありません。
彼らは捕囚の身で、自分の国では教えられなかったことを学ぶことになります。
37章と38章には、エジプトの侵攻に際してバビロニア軍が一時的に撤退した様子が詳細に記されています。
これは、すでに34章で述べたように、人々の希望を一時的に高めます。
主の奥義を知っているエレミヤは、この一時的な猶予は、カルデア人がもうすぐ戻ってきてエルサレムを完全に滅ぼすでことを民に確実にします。
この尊敬すべき神のしもべが、滅びの定めの町から逃げようとしていたことが分かります。
それは明らかに過ちです。
しかし、私たちはそれを批判するつもりはありません。
彼は心身ともに疲弊し、証しは拒まれ、彼自身も憎まれ、迫害されました。
自分の使命を終えたと感じたエレミヤが、ベニヤミンの地にある古巣に静寂と安息を求めるのは、自然なことだったのです。
確かに自然なことでしたが、霊的なものではありません。
だからこそ、主はこの目的を遂行することを彼にお許しになっていません。
エレミヤは逮捕され、偽りの告発と投獄という結果に至りました。
しかし、彼は奇跡的に死から救われました。
39章では、この街の陥落が記されています。
預言者は征服者の好意を受けていました。
ベニヤミンに逃げる必要はありません。
神の御手は、この悲惨な日に、そのしもべを守るために差し伸べられました。
しかし、この出来事はより詳細に考察する必要があります。
なぜなら、非常に興味深く、多くの教訓を含んでいるからです。
「ヨシヤの子ゼデキヤは、エホヤキムの子エコヌヤに代わって王となった。バビロンの王ネブカデレザルが彼をユダの国の王にしたのである。
彼も、その家来たちも、一般の民衆も、預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従わなかった。」
(エレミヤ書37章1、2節)
すでに述べたように、この書の構成には年代順には記されていません。
むしろ、預言と出来事がまとめて、倫理的な順序で語られており、神から離れていく感覚がますます強くなり、ついには、神から与えられた遺産を拒み、相応の裁きが下されるに至ることを感じさせます。
この二節には、主の御言葉に無関心だった11年間だったゼデキヤの治世全体が簡潔に記されています。
この王は、前任者たちのように大胆で不敬虔な人物ではありません。
神が彼と民に求めていることをある程度は理解していましたが、ヒゼキヤやその父ヨシヤのように、神の御顔を求め、神の目にかなうことを行おうと真剣に努めることはありません。
この王は無気力で軽薄でした。
これほど深刻な時期に、信じられないほどです。
次の節には、神がエホカルと祭司ゼパニヤ(エレミヤ書21章と29章で知り合いました)をエレミヤのもとに遣わし、「どうか、私たちのために、私たちの神、主に、祈ってください。」と頼んだことが書かれています。
これはゼパニヤが少し前に行っていたのと同じ出来事です。(エレミヤ書21章1、2節)
悔い改めの言葉も、告白も、ユダのひどい罪に対する悲しみもありません。
ある意味で主を認め、主の助けを求めていますが、すべてが利己的で、主の前にひれ伏すたましいはありません。
パロの軍隊は、ヘブル王を救援するためにエジプトから出陣しようしてました。
しかしが、ヘブル王はパロに「馬と多くの軍勢を得ようとした」と懇願する使節を遣わしました。(エゼキエル書17章15節)
この動きを耳にしたカルデア人は、直ちにエルサレムの包囲を解き、この新たな敵が真実な優位に立つ前に戦いを挑むために出発しました。
(エレミヤ書37章5節)
ユダヤ人にとってこれは吉兆と思われ、彼らの希望は大きくよみがえりました。
今、長らく無視されてきた神が助けてくださるなら、彼らは決定的な勝利を収め、エジプトと結束することで憎むべきバビロニアのくびきを振り払うことができるかもしれません。
しかし、それは叶いません。
ゼデキヤの願いに対し、預言者はこのように答えています。
「そのとき、預言者エレミヤに次のような主のことばがあった。
「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。
『わたしに尋ねるために、あなたがたをわたしのもとに遣わしたユダの王にこう言え。
見よ。あなたがたを助けに出て来たパロの軍勢は、自分たちの国エジプトへ帰り、
カルデヤ人が引き返して来て、この町を攻め取り、これを火で焼く。』
主はこう仰せられる。『あなたがたは、カルデヤ人は必ず私たちから去る、と言って、みずから欺くな。彼らは去ることはないからだ。
たとい、あなたがたが、あなたがたを攻めるカルデヤの全軍勢を打ち、その中に重傷を負った兵士たちだけが残ったとしても、彼らがそれぞれ、その天幕で立ち上がり、この町を火で焼くようになる。』」」
(エレミヤ書37章6~10節)
神は恵みにおいても、裁きにおいても、御言葉をすべて成就されます。
強情でわがままなユダには救いはありません。
なぜなら、彼らには自己を裁くことも謙遜になることもなかったからです。
まるで狂気じみた熱狂が民を支配しているかのようです。
彼らは「神の訪れの時を知らなかったからだ。」のです。
(ルカの福音書19章44節)
これは後の時代の彼らの子供たちに起こったことです。
彼らの状況は、キリスト教世界の状況と驚くほど似通っていました。
「彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」
(ペテロの手紙第二2章3節)
人は自分の欺きの心に基づく虚栄心で自分を欺くことを好みます。
彼らは神の確かな証言を無視しています。
「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」
(ヘブル人への手紙10章30節)
教師と人々、あるいは非聖書的な呼び方で聖職者と信者は、キリスト教と文明が成し遂げた偉大な進歩を自らに誇っています。
しかし悲しいことに、それはキリストにそぐわない単なる宗教心と、心に全く影響を与えない文化に過ぎません。
彼らが神と神の御言葉から遠ざかっていることは、あらゆるところで明白に示されていますが、罪の告白も悔い改めも必要としていません。
その代わりに、人々は互いに祝福し合い、寛大さと気前の良さを自慢し、キリストにある道と聖書の簡潔さを軽く見ています。
教会とこの世は不道徳な妾関係に結び付けられ、その結果、神は汚名が着せられ、神の主張は無視されています。
預言の言葉は、信仰を告白する集まりに下る恐ろしい裁きを指し示しているに違いありません。
彼らは、現状では、天の召命を知らない単なる地上の人間で構成されているからです。
キリストの忠実な牧師は皆、「絶え間なく、声をあげる」人々に罪を示さなければならない時です。
キリストの聖なる名と御言葉を執拗に冒涜するこの空虚な信仰告白の結末は、霊的バビロンへの服従であることを私たちは知っています。
霊的バビロンの権力は、宗教的事柄において地上で最高権力を持つにはまだ短い期間ですが、すでに神はバビロンへの裁きを宣告しています(ヨハネの黙示録17、18節)
イスラエルとユダの背教と御言葉の忘却に関して神が定められたことは、文字通り成就しました。
はるかに罪深いキリスト教世界に関して神が宣言されたことも同じ様に成就されます。
民の悔い改めの望みが絶たれ、確実に怒りが彼らを待ち受けていることを悟ったエレミヤは、長年仕えてきた町を離れ、ベニヤミンの地、おそらくは故郷へ向かおうと試みました。
エレミヤがアナトテという部族の町の祭司であったことを忘れてはいけません。
すでにエレミヤは中年を過ぎており、これまでの苦難のせいで早すぎる老齢を迎えていたのかもしれません。
そして、もはや彼の役に立たなくなったように見えました。
エレミヤを突き動かすのは恐怖ではありません。
エレミヤは神の恵みによって、その恐怖を克服しています。
むしろ、悲しみと失望に満ちた過酷な人生を送った後の安息への切望であるように思われます。
預言者エレミヤはカルデア軍の撤退に乗じて、自分の目的を達成しようと努めています。
(エレミヤ書37章11、12節)
その目的がどれほど善く正しく見えても、それは主の御心にかなうものではありません。
自分の道筋を計画したり、自分にとってより簡単な道を探したりすることは安全ではありません。
この時、預言者は明らかに自然の力に導かれて行動しています。
それでも、神はエレミヤに仕える用意があり、時が来れば、反逆の町が滅ぼされた後でさえも明らかにされます。
エレミヤは献身的なしもべでしたが、自分の選択において誤りを犯しました。
パウロでさえ、聖霊の明白な証言に反して、肉による親族に対する自然な愛情に惹かれてエルサレムに行きました。
このように、今、私たちの預言者は神への絶対的な依存の道からそれてしまいました。
波乱に満ちた人生を終え、安息と静寂を求める思いに突き動かされたのかも知れません。
他の預言者たちと同じ様に、彼は人の道は人の手に委ねられていないことを学ぶことになります。
しかし、まだ主はエレミヤを見捨てていません。
エレミヤには、剣から救われるべき貧しい人々、そしてこの地に残されたすべての人々のための務めがあります。
症状を改善しようと努力した結果、彼は誤解され、さらに深い苦悩に陥りました。
エレミヤがベニヤミンの門にいた時、守護の長イリヤが彼を捕らえ、「あなたはカルデヤ人のところへ落ちのびるのか」(エレミヤ書37章13節)と言いました。
エレミヤは自分の無実と、その告発が全くの虚偽であることを訴えましたが、無駄でした。
イリヤはエレミヤの釈明を信じず、彼を首長たちの前に引き出しました。
彼らが本当にエレミヤが有罪だと信じていたとは考えにくいことです。
しかし、これは彼らにこれまで繰り返し自分たちを責めてきた男に憎しみをぶつける機会が与えられました。
エレミヤは汚名を着せられ、殴打され、審問も受けずに書記ヨナタンの家に投獄されました。
(エレミヤ書37章15節)
エレミヤに起こったことから、神から動くようにとの命令がない時は、じっと座っていることが常に最善であることを学ぶことができます。
一番の優れたしもべ、最も忠実な人々でさえ、物事を自分の手で行おうとすると失敗します。
たとえその時は気づいていなくても、たとえそのようにするつもりであっても、自分のために行動することは、実際には神の愛と心つかいへの信頼の欠如を意味します。
信仰は、神が御自分の子供たちを深く気にかけておられ、彼らの益となることを何一つ見逃すはずがないと確信し、神を待ち望むことができます。
だからこそ、変化する状況の中でも、信仰は静寂と安らぎで満ちているのです。
不信仰は神を忘れ、行動を起こさなければならない、機会は逃げ去っている、何かをしなければならない、すぐにしなければならない、と追い立てます。
これは、生まれつきの心には健全な判断力と常識のように見えます。
しかし、悲しいことに、実際に行動に移すと、事態は良くなるどころか、むしろ悪化することが多いと思います。
自然な力に軽率に飛び込み、達成しようとする目的そのものにおいて敗北するよりも、決して尽きることのない知恵を持ち、初めから終わりを見通す神を静かに待ち望む方がはるかに望ましいのです。
王が、預言者がイリヤによって逮捕された罪状に関して無実であることを知っていたことは、この章の残りの節から明らかです。
(エレミヤ書37章16~21節)
エレミヤは地下牢に投げ込まれ、牢獄に閉じ込められました。
おそらくは地下室で、薄暗く湿っぽい部屋だったと思います。
エレミヤはそこで何日も放置され、無視され、裏切りの罪を晴らす機会も与えられません。
ついにゼデキヤは人を遣わし、エレミヤを宮殿に呼び出して、ひそかに会議を開き「主から、みことばがあったか」と尋ねました。
驚くべき光景がここに描かれています。
王座に座る男と牢獄から出てきた男が向かい合い、前者は後者の優位性を認めざるを得なくなりました。
不当に告発された囚人は主の奥義を知り、傲慢な君主は囚人が主の目的を知ることを期待しています。
不安に満ちた質問に対し、エレミヤはかつてからの答えを与えます。
確かに主からのメッセージがあります。
それは以前から何度も与えられ、無視されてきたものと同じメッセージである。
「ありました」とエレミヤは言いました。
そして、「あなたはバビロンの王の手に渡されます」と答えました。
(エレミヤ書37章17節)
恐ろしい真実を覆い隠そうとする努力も、素晴らしい言葉で王の好意を得ようと努力する努力も一切ありません。
ありのままの、歓迎されない真実が告げられ、そして謝罪もお世辞もなしに、彼は王の前で自分の訴えを主張しました。
「あなたや、あなたの家来たちや、この民に、私が何の罪を犯したというので、私を獄屋に入れたのですか。
あなたがたに『バビロンの王は、あなたがたと、この国とを攻めに来ない。』と言って預言した、あなたがたの預言者たちは、どこにいますか。
今、王さま、どうぞ聞いてください。どうぞ、私の願いを御前にかなえて、私を書記ヨナタンの家へ帰らせないでください。そうすれば、私はあそこで死ぬことはないでしょう。」
(エレミヤ書37章18~20節)
バビロン王の軍隊が再び町を包囲したのは明らかです。
エレミヤの言葉は真実となり、偽預言者たちは恥をかきました。
神の人に対する不正と不当な扱いを確信したゼデキヤは、彼の境遇を少しでも耐えやすいものにするよう命じましたが、彼を釈放することも、彼の無実を告白することもしていません。
祖国に対する罪という恥ずかしめが彼にのしかかる中、エレミヤは地下牢から連れ出され、牢獄の庭に場所が与えられました。
「町からすべてのパンが絶えるまで、パン屋街から、毎日パン一個を彼に与えさせた。」
(エレミヤ書37章21節)
飢餓での配給は量り売りで行われています。
終わりはそう遠くありません。
しかし、国王の大臣の中には、悲観的な預言者に対して、国王とは全く異なる感情を抱いている者も少なくありません。
そのうちの何人かには、エレミヤが民にこのように語ったという報告がありました。
「主はこう仰せられる。『この町にとどまる者は、剣とききんと疫病で死ぬが、カルデヤ人のところに出て行く者は生きる。』
そのいのちは彼の分捕り物として彼のものになり、彼は生きる。』
主はこう仰せられる。『この町は、必ず、バビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを攻め取る。』」
(エレミヤ書38章2、3節)
知っている通りに、これらの預言は実際に語られていました。
ほぼ同じ言葉が21章9節に記録されています。
マルキヤ(あるいはメルキヤとも呼ばれています)の子パシュフルは、ゼデキヤ王からエレミヤに遣わされた使者の一人です。
彼は今や、シェパティヤ、ゲダリヤ(別のパシュフルの子)、ユカルと共に、エレミヤを告発する者の一人となっています。
エルサレム陥落は幾度となく、はっきりと預言されていました。
主のように、エレミヤは私は何も隠してはいないと言うことができました。
民衆、貴族、祭司、そして王の前で、彼は滅びゆく都に関する神の真理を公然と忠実に宣言しました。
そのため、彼は憎まれました。
彼の言葉は、貴族や将軍たちにとっては裏切りと映るものを、さらに強調しているように思われました。
自分たちの計画や策略がすべて無意味であることを厳粛に宣言した者に対して彼らは憤慨し、王の前でエレミヤを告発し、彼を反逆者として処刑するよう要求しました。
彼らはこのように嘆願しました。
「どうぞ、あの男を殺してください。彼はこのように、こんなことばをみなに語り、この町に残っている戦士や、民全体の士気をくじいているからです。あの男は、この民のために平安を求めず、かえってわざわいを求めているからです。」
(エレミヤ書38章4節)
世の人間は、人々に対する真実な愛が人々に彼らの罪と危険を忠実に示すよう導くことを理解していません。
実のところ、この四人の告発者たちは、「涙の預言者」が彼らのために経験した深い悲しみと心の苦悩を、何も理解することができません。
パウロのように、彼が彼らを深く愛すれば愛するほど、彼らから愛されることは少なくなっていました。
このように善行が悪く言われ、愛情そのものが悪意と誤解されるのは、献身的なしもべにとって耐えなければならない辛い試練の一つです。
なぜなら、そのような状況では、沈黙を守り、人々が罪の中で眠り続けるのを黙って見過ごすことは不可能になるからです。
ある程度、真実な敬虔なたましいを持つすべての者が飲まなければならなかった杯は、まさにそのような杯です。
そして、私たちの祝福された主御自身ほど深く、そしてくりかえしこのことを味わった者はいません。
世は偽預言者を高く評価し、真実な預言者は地の汚れのように扱われます。
この場合、ゼデキヤは常軌を逸した弱虫で、家臣たちの要求に屈してしまいます。
ゼデキヤはエレミヤの死に同意しますが、その言葉は彼の無力さを如実に物語っています。
しかし、ピラトの言葉と同じ様に、ゼデキヤの罪を少しも軽減するものではありません。
「今、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない。」
(エレミヤ書38章5節)
王の同意を得た四人の陰謀家たちは、エレミヤを捕らえ、牢獄の中庭にあるマルキヤの地下牢に縄で吊るしました。
そこは水のない、悪臭を放つ泥沼のような汚らしい穴です。
エレミヤはそこに沈み、無情にもこの悲惨な境遇に置き去りにされました。
その目的は、民衆に知られることなく、彼を死なせるためでした。
民衆は、主の名において語ると告白する男を逃がすことに、迷信や良心的なためらいを感じていたかもしれません。
シェファテヤとその仲間たちは、この忌まわしい泥沼の地下牢で、誰にも求められずに、エレミヤが孤独に餓死するのを許したのです。
しかし、神は別の考えを持っており、そのしもべの殉教を許していません。
すべての苦しみと恥ずかしめは、愛する主が必要な懲らしめだと考えたからです。
主はヨブがそれらに伴う屈辱と苦悩から逃れることを許していません。
しかし、ヨブと同じく、ヨブの命は侵すことのできないものです。
預言者が窮地に陥った時、そうでなければ決して耳にすることがなかった友が立ち上がります。
彼は王宮の召使で、エチオピア人の宦官エベデ・メレクである。
この物語に関する限り、おそらく名前ではありません。
なぜなら、エベデ・メレクは単に「王の召使」と訳され、固有名詞ではないかもしれないからです。
この召使の心の中には、哀れみと同情、そして4人の告発者たちが知らなかったエレミヤの聖なる働きに対する認識を知り、燃え上がりました。
使徒の働き23章16節でパウロの救い出すのに用いられた若者のように、ここでも神はこのしもべをエレミヤの救出のために備えられていました。
預言者エレミヤが牢獄の汚れた穴に置き去りにされ、滅びようとしていると聞いたこのエチオピア人は、大胆に王の好意を請い、求めに行きました。
王は「ベニヤミンの門に座って」いました。
律法の代表者と自称し、正義を執行するために門に立っていたのです。
しかし、この許しがたい不正は、王の同意のもとに犯されました。
(エレミヤ書38章7、8節)
宦官は真剣に、そして忠実に神の人の訴えを述べます。
「王さま。あの人たちが預言者エレミヤにしたことは、みな悪いことばかりです。
彼らはあの方を穴に投げ込みました。もう町にパンはありませんので、あの方は、下で、飢え死にするでしょう。」
(エレミヤ書38章9節)
再び、ゼデキヤは典型的な心変わりの人であり、最後に自分の耳に届いた者に心を支配され、自分の判断を覆します。
エベドメレクは命じられます。
「あなたはここから三十人を連れて行き、預言者エレミヤを、まだ死なないうちに、その穴から引き上げなさい。」
(エレミヤ書38章10節)
王は主の使者をこのように扱ったことについての罪を告白していません。
また、預言者が慰めを与えると約束しましたがず、不当に侮辱を浴びせらたことについて、謝罪の言葉の一言も発していません。
エチオピア人にとって、愛する囚人の苦しみを和らげる許可が得られただけで十分であり、彼は急いで彼を救い出そうとしました。
思慮深く、優しく、王宮の宝物庫の下から古い布とぼろ布を取り出し、それを縄で地下牢に下ろし、縄の下にあるエレミヤの腕の下に入れておくように指示しました。
(エレミヤ書38章11、12節)
これは一見取るに足らないことのように見えるが、愛の心によってこれらのことを導き、それを永遠に残る記録として神は残しておられます。
主の名において与えられる冷たい水の一杯ごとに必ず報いが与えられるその日には、神の人の苦痛を和らげるために使われたエベドメレクの「着ふるした着物やぼろ切れ」は記憶され、正しく考慮されるのです。
このように弱り衰弱した預言者守られ、宦官と30人の助け手によって泥沼の地下牢から優しく引き上げられます。
エベドメレクは、次の章で主の称賛のために再び記られています。
その後、彼は舞台から姿を消し、救われた者たちの群れと共に、当然の報いを受ける場所に着きます。
エルサレムの状況は絶望的な状況に陥り、ゼデキヤは苦悩のあまり、再びエレミヤを呼び寄せ、秘密の会談を申し入れました。
かつて、自分が恥ずべき仕打ちをしたエレミヤが主の御心であることを心の底で知っていたゼデキヤは、エレミヤにこのように言いました。
「私はあなたに一言尋ねる。私に何事も隠してはならない。」
(エレミヤ書38章14節)
恐れのあまり、ゼデキヤは神が啓示されたことを知りたいと願うようになります。
しかし、以前の彼の経歴が示すように、神が啓示された御言葉に真実な心を傾けることはありません。
ゼデキヤは二心の者であり、あらゆる面で不安定です。
ゼデキヤの心は、イスラエルの神の栄光ではなく、自己中心的で利己的な利益に支配されていました。
当然の、しかし痛烈な返答が彼に下されます。
「もし私があなたに告げれば、あなたは必ず、私を殺すではありませんか。
私があなたに忠告しても、あなたは私の言うことを聞きません。」
(エレミヤ書38章15節)
このように大胆に答えました。
残酷な仕打ちによって、彼のたましいが奴隷のような恐怖に満たされることは決してありません。
神の自由人として、彼は王の良心に語りかけているのです。
罪深い王は、密かに、自分に傷つけず、以前のように、王の命を狙う者たちを自分の手中に渡されることをしないことを誓いました。
(エレミヤ書38章16節)
その誓約を受け入れたエレミヤは、主の御言葉を王に伝え、このように言いました。
「イスラエルの神、万軍の神、主は、こう仰せられる。
『もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのいのちは助かり、この町も火で焼かれず、あなたも、あなたの家族も生きのびる。
あなたがバビロンの王の首長たちに降伏しないなら、この町はカルデヤ人の手に渡され、彼らはこれを火で焼き、あなたも彼らの手からのがれることができない。』」
(エレミヤ書38章17、18節)
ゼデキヤが主の名において厳粛に与えられた助言を受け入れることは、完全かつ無条件の降伏を意味しています。
勝利したカルデア軍は再びエルサレムの周囲に天幕を広げ、精力的に包囲を続けていました。
エジプト軍は敗北を喫し、自分の国へ帰還していきました。
このこと自体がエレミヤの預言の真実性を証明するものです。
偽預言者たちがネブカデネザルの権力が崩壊したと宣言した時、彼はパロ軍の打倒とバビロニア軍の早期帰還による街の再包囲を強く主張しました。
ゼデキヤは明らかに彼を恐れ、漠然と、不確かな感覚で神が彼と共にいることを実感していました。
しかし、ゼデキヤは創造主に対して平気で罪を犯し、仲間の嘲笑や怒りには耐えられないタイプの人間です。
堕落した人間にとって、世に反して正しいことを行うのを恥とし、ある種の誇りを持って悪を行うのは当然のことです。
ヨシヤの信用できない子はまさにこのタイプです。
彼は「神の誉れよりも人の誉れを愛した」のです。
エレミヤへのためらいがちな返答の中で、彼は自分の心の狭さ、心の傲慢さを明らかにしています。
「私は、カルデヤ人に投降したユダヤ人たちを恐れる。カルデヤ人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするかもしれない。」
(エレミヤ書38章19節)
主が、降伏すれば助かると言っているのに、これは恐ろしい不信仰です。
すでに破滅した者にとって、あざけ笑われることをこれほど辛く感じさせるとは、恐ろしくみじめな傲慢です。
忠実に、預言者は優しく、彼に従順を促し、彼が恐れているように引き渡すことはないことを保証しました。
そして、このように懇願しました。
「彼らはあなたを渡しません。どうぞ、主の声、私があなたに語っていることに聞き従ってください。
そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたのいのちは助かるのです。」
(エレミヤ書38章20節)
その反面、もし、出陣を拒否するならば、「ユダの王の家に残された女たちはみな」が捕虜としてバビロン王の君主たちの元へ連れて行かれる屈辱を味わうことになることを、ヨセフは厳粛に警告しました。
そして、彼らはヨセフの汚名を着せられた反逆とその恐ろしい結末をあざけり、非難しました。
ヨセフもまた捕虜にされ、町は火で焼かれます。
その責めを負うのはヨセフ自身だけです。
(エレミヤ書38章22、23節) 。
気むずかしく、取り乱していた王は、主の権威に従うつもりがあるのかを示す返答を一切していません。
それどころか、エレミヤに対し、二人の間で交わされた会話の内容については口を閉ざすよう厳しく命じました。
もし、君主たちが何が起こったのかをしつこく尋ねてきたとしても、エレミヤは牢獄から釈放してほしいと願った件についてにだけ述べ、それ以上は何も語ってはならないとされました。
(エレミヤ書38章24~26節)
予想通り、君主たちは会談の意図を知ろうとしましたが、彼は求められた通り、すべてではないにせよ真実を慎重に答え、君主たちは彼を監獄の庭に残すことで満足しました。
彼は包囲に関する預言が成就するまでそこに留まりました。
「彼はエルサレムが攻め取られたときも、そこにいた。」
(エレミヤ書38章28節)
この本のこれまでの部分で示されてきたこの恐ろしいクライマックスは、39章で到達されます。
神の寛容なる忍耐はついに裁きへと変わり、栄光は去り、「平和の礎」あるいは「平和に築かれた」という意味を持つエルサレムは異邦人の手に渡されます。
地上で、これほどまでに悲哀と悲劇に満ちた歴史を持ち、その名に反するほど恐ろしい街が他にあるでしょうか?
しかし、預言の言葉は、エルサレムが最終的に平和のうちに確立され、もはや滅ぼされることはないことを保証しています。
ネブカデネザルの包囲は、エジプト王と向かい合うために軍隊を撤退させた短い休止期間を除いて、18か月間続きました。
この長い期間、住民の苦しみは凄まじいものだったはずです。
しかし、その中には良心の鈍さと心の硬さ、そして主の目に忌まわしい、自己満足的な独りよがりがありました。
苦難は、たましいがその苦難の中に神の御手による支配を認めない限り、悔い改めにはつながりません。
最後の大患難時代の恐ろしい日々でさえ、人々は猛烈な熱で焼かれますが、神の名を冒涜し、悔い改めて神に栄光を帰すことはしません。
そして、獣の王国(その日の十の王国の、サタンに感化されている支配者)が暗闇に満ちる時、人々は苦痛のために舌を噛み、天の神を冒涜し、自分の行いを悔い改めはしません。
(ヨハネの黙示録16章9、11節)
必然的に刑罰は悔い改めをもたらすという、現在、広まっている誤解があります。
この誤解に基づいて、死後の裁きにおいて神は神の御言葉よりも優れ、神の御言葉は本質的に永遠ではないとして、自分を納得させようとする人々がいます。
なぜなら、神の御言葉は、裁きを受ける者を自分への裁きへと導いているからです。
聖書はそのような希望を差し伸べていません。
キリストを拒む者の未来を、終わりのない永遠の時代を通して照らす光は一本もありません。
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
(ヨハネの福音書3章36節)
聖霊が人々に懇願する地上でさえ、苦しみが必ずしも人々の告白とたましいの悔い改めによって主に立ち返ることにつながるわけではありません。
時が過ぎ去り、聖霊が努力をやめたときにも、それは起こりません。
ユダとエルサレムの人々の場合、この恐ろしい悲劇の最後の出来事は、彼らが相変わらず冷酷で無反応であることを示すものです。
「ゼデキヤの第十一年、第四の月の九日に、町は破られた。」
(エレミヤ書39章2節)
主が永遠に覚えておられる明確な日付です。
主のゆずりの地は他国の者に引き渡され、主の牧場の羊は諸国の野獣に食い尽くされました。
ゼデキヤの第十一年、第四の月の九日は、永遠に主の心に位置づけられました。
彼らは邪悪な日を先延ばしにしようと努めましたが、むなしいものでした。
主が心の砕けるほどのしるしが与えられていた間は、恵みによって長く延期されましたが、ついにその時が来なければなりません。
かつて、世界の大きな街であった街が陥落した理由を説明することは簡単なことです。
「町は破られた」 この言葉には深い苦悩と悲しみが込められています。
*救いの時が過ぎて手遅れになったゼデキヤの逃亡の試みが無駄になったことを除いて、詳細はすべて省略されています。
*ナイアガラ川の滝のすぐ上流に、小さな岬があることを覚えている人は多いと思います。
そこは「リデンプション・ポイント」と呼ばれています。
一度そこを通った船は、一度も破滅を免れたことがないからです。
人の人生にも「リデンプション・ポイント」は存在します。
小アジアにおける大きな街の略奪の恐ろしさは、筆舌に尽くしがたいものがあります。
年齢も性別も容姿も、血に酔った征服者たちの残酷な行為を免れることはできません。
死、恥ずかしめ、そして奴隷制こそが、この恐るべき物語を物語っています。
エルサレムが陥落した時、ネブカデネザルは直接はそこにいませんが、彼の首席将軍たちはいました。
「そのとき、バビロンの王のすべての首長たちがはいって来て、中央の門に座を占めた。すなわち、ネルガル・サル・エツェル(宦官の長)、サムガル・ネブ、ラブ・サリスのサル・セキム(魔術師の長)、ラブ・マグのネルガル・サル・エツェル、およびバビロンの王の首長の残り全員である。」
(エレミヤ書39章3節)
欽定訳聖書(KJV)では翻訳されていないラブ・サリスとラブ・マグは、固有名詞ではなく称号であることに注意してください。
これは、ネルガルシャレゼルという名を持つ二人の君主を区別するのに役立ちます。
後者は、魔術師、つまりバビロンの秘儀の司祭の長です。
これはローマの最高神官(Pontifex Maximus)に似た称号で、時々、バビロンの王たちがこの称号を用いていました。
ゼデキヤとその兵士たち(飢饉、疫病、戦争により戦力が悲惨なほど減少していた)は、町を救うためのあらゆる努力が無駄になったと分かると、エルサレムを出て、暗闇に紛れて「王の園の道伝いに、二重の城壁の間の門を通って」逃げました。
王都、すなわちダビデの町とエルサレムの低地は、強固な城壁によって隔てられていたことを記憶していると思います。
王都とその周辺はまだ無傷のままでしたが、陥落はせいぜい数日のうちに起こり、救援の望みはないことは明らかです。
ゼデキヤは最後まで要塞を守り抜き、そこに留まれば狂気の沙汰となり、無用な虚勢を張ることができる時だけ逃げました。
小さな部隊は、発見されることを避けようと、ひっそりと平原の道を進みました。
しかし、彼らの努力はすべて無駄に終わりました。
カルデア軍に追われ、エリコの平原で追い詰められたのです。
逃げることができた者たちは王を見捨て、荒野へと逃げました。
(列王記第二25章4~6節)
そして、王自身も捕虜となりました。
エレミヤを通して語られた主の御言葉が、今、成就したのです。
ネブカデネザルはリブラ(34年前、パロ・ネコがヨアハズを縛った場所)にいました。
ゼデキヤに反逆し、誓いを破り、1年半もの間軍を占領してエルサレムを滅ぼした家臣に、征服者として復讐を果たすために、ゼデキヤはそこへ急ぎました。
エレミヤの言葉に耳を貸さず、王冠と王の杖を失った哀れな男は、目の前で息子たちが殺されるのを見る苦悩に耐えました。
しかし、生涯この光景を消し去ることのできないように、自分の両目をえぐり取られました。
そして、彼は汚名を着せられ、鎖に繋がれ、バビロンへと連行されます。
このことをゼデキヤは知ることもなかったかもしれませんが、エゼキエルを通して主がゼデキヤに語った言葉はこのようでした。
「わたしはまた、彼の上にわたしの網をかけ、彼はわたしのわなにかかる。
わたしは彼をカルデヤ人の地のバビロンへ連れて行く。
しかし、彼はその地を見ないで、そこで死のう。」
(エゼキエル書12章13節)
同17章12~21節も参照にしてください。
エレミヤが歴史として語っていることは、離散の預言者によってすべて預言されています。
このように、聖霊はゼデキヤに降りかかる災いが実際に起こる前に、詳細に知らせていました。
このことが文字通り成就した時、すべての人が神の御言葉であったことを知るためです。
ユダの王たちの宮殿は、町の占領に続き大火で完全に破壊されました。
52章13節から分かるように、主の神殿も破壊を免れていません。
町の略奪は完了し、城壁は破壊され、門は火で焼かれました。
長い間、民の心を先祖の神に立ち返らせようと努めてきた人が、たましいの激しい苦しみの中で叫ぶのも無理はありません。
「ああ、人の群がっていたこの町は、ひとり寂しくすわっている。
国々の中で大いなる者であったのに、やもめのようになった。諸州のうちの女王は、苦役に服した。」
(哀歌1章1節)
イスラエルの主に対する不忠実さのゆえに、イスラエルに裁きが下りました。
(エレミヤ書39章8節)
殺されなかった残された民は、処刑長ネブザルアダンによってバビロンへ捕囚として連行されました。
エレミヤの声に従い、町が略奪される前にカルデア人の陣営に出て行った者たちも、死刑の苦しみを免れましたが、預言者が預言した通り、ユーフラテス川沿いの女王の町へ捕囚として送られました。
エレミヤを通して語られた言葉は、一歩一歩、細部に至るまで成就していきました.
(エレミヤ書39章9節)
もう一人の預言者、クシの子ゼパニヤは、この時代でさえ、下層階級の少数の民をこの地に住まわせるよう命じていました。
これもまた成就されなければなりません。
ゼパニヤはヨシヤの時代に生きており、エレミヤを個人的に知っていました。
ゼパニヤはこのように言いました。
「わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。彼らはただ主の御名に身を避ける。」
(ゼパニヤ3章12節)
国民の大多数が完全に背教していた暗い時代に、少数の人々に対する神の哀れみと真実な敬虔さを示すこの例は輝かしいものでした。
この言葉に従い、ネブザルアダンはイスラエルの神の宣言を成就したことを知らずにこのように行いました。
「何も持たない貧民の一部をユダの地に残し、その日、彼らにぶどう畑と畑を与えた。」
(エレミヤ書39章10節)
ここで示される教訓は、実に印象深いものです。
幸いなのは、心の貧しい人々、つまり自分の無力さを認める人々です。
彼らは何も持たず、貧しさを隠そうともしません。
そして主は、彼らにぶどう畑と畑の両方を与えられました。
前者は喜びを、後者は糧を物語っています。
他のすべてが失われたとしても、主御自身の中に、この両方を見つけることができます。
主は、御自分に信頼を置く者であれば誰であっても、その必要を満たすことができます。
預言者ハバククもそのような人物でした。
彼は、神が選ばれた民を支配する方法に当初はひどく困惑しましたが、義人は目に見えるものではなく、信仰によって生きるという偉大な教訓を学びました。
だからこそ、私たちが考察してきたまさにその破滅を前にして、このように歌うことができたのです。
「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。
しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」
(ハバクク書3章17、18節)
どんなに暗い日でも、主は人から離れ、御自身に立ち返るすべてのたましいの光となります。
どんなに深い悲しみでも、主との交わりは苦い水を甘くします。
どんな試練にも主は近くにおられ、どんなに落胆と憂鬱の時でも、主は変わらず忠実であり続けます。
「彼にはご自身を否むことができないからである。」
(テモテへの手紙第二2章13節)
国に残されたわずかな人々は、人生において価値のあるすべてのものを失っているように思えるかもしれません。
しかし、彼らには主がおり、彼らは主の御名を呼ぶことができました。
もし、主が御自身の聖なる性質に忠実に彼らの罪を懲らしめられたのであれば、今、彼らが謙虚な心で罪を告白し、主の御顔を求めた時、主は彼らのために憐れみの心を動かされたことを彼らは知っていたのです。
主は、抵抗する民の中で長きにわたり主のために証しをしてきた年老いた男の利益にも配慮しておられます。
その際、主はしばしば御自身の目的を成し遂げるために用いられるように、人々が自然な出来事と呼ぶものを用いられました。
エレミヤがバビロニアのくびきに服従するよう助言し、ユダの王たちが忠誠の誓いを破ったことを責めたことは、ネブカデネザルにも明らかに報告されていました。
そこで彼は、預言者エレミヤについてネブザルアダンに特別な使者を送り、このように命じました。
「彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ、彼があなたに語るとおりに、彼にせよ。」
(エレミヤ書39章12節)
王からのこの知らせの対象となった者を探しに向かったのは、大将自身とネブシャスバン、もう一人の宦官の長、ポンティフェクス・ネルガルシェゼル、そして、バビロンのすべての君主たちが集まりました。
彼らは監獄の庭でエレミヤを見つけました。
エレミヤはそれでもそこに幽閉されていました。
明らかに、町が陥落した時、誰も彼のことを気に留めていません。
彼らはエレミヤを釈放し、何度か父親が彼と親しかったアヒカムの子ゲダリヤに彼を預けました。
ゲダリヤは彼を家に連れて帰り、生活に気を配るよう指示しました。
すでに、ゲダリヤはその地の総督に選ばれていました。
彼はエレミヤに、望むところどこへでも行く自由を与えました。
「こうして彼は民の間に住んだ。」
明らかに、既に見たように、彼らは残された貧しい人々のことです。
(エレミヤ書39章13、14節)
すでに、エレミヤは神が忘れていない別の人へのメッセージを受け取っていました。
獄中で、主の御言葉が彼に告げられました。
「行って、クシュ人エベデ・メレクに話して言え。『イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。見よ。わたしはこの町にわたしのことばを実現する。幸いのためではなく、わざわいのためだ。それらは、その日、あなたの前で起こる。
しかしその日、わたしはあなたを救い出す。――主の御告げ。――あなたはあなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。
わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちはあなたの分捕り物としてあなたのものになる。それは、あなたがわたしに信頼したからだ。――主の御告げ。――』」
(エレミヤ書39章15~18節)
こうして、忠実なエチオピア人の働きは報われました。
神は誰に対しても借りを作ることはありません。
最後の節は、エベドメレクの献身の秘訣を物語っています。
エベドメレクは主に信頼を置いていました。
イスラエルの国ではよそ者でしたが、エベドメレクは信仰を通して神の子です。
そして、エベドメレクの信仰は愛によって動かされていました。
この節では、さまざまな情景が私たちの目に留まりました。
すべてを心に留め、黙想を通して永遠の利益を見つける恵みが与えられますように。
第22章 イシュマエルの裏切りとエジプトへの逃亡
(40章~第44章)
エルサレムの崩壊の翌年、ネブカドネザルの哀れみによってその地に残された民が経験した変化は万華鏡のようです。
総督ゲダリヤは真実な敬虔で、高潔な信念を持つ人物です。
しかし、故郷を襲った不穏な時代にリーダーシップを発揮する人物ではありません。
勇敢で高潔、そして疑いを知らない人物ではあったが、真実なリーダーシップを発揮する才能と、時代が求める悪に立ち向かうための厳しさを欠いていました。
そのため、もうすぐ彼は悪魔的な陰謀の犠牲者となり、暗殺されてしまいます。
その陰謀は、彼があまりにも寛大な心で無条件に信頼していた人物によって行われました。
そして、その人物が死を免れたのは、彼が卑劣にも殺害した人物のおかげでした。
ネブザルアダンがエレミヤに自由を与えたので、前述の通り、エレミヤは総督のもとに身を寄せました。
カルデア人の将軍はエレミヤに居住地を自由に選ぶ権利を与え、彼が望むならバビロンで安全で快適な逃れる場所を与えることさえ申し出ました。
この者が、主が民を懲らしめる方法をどの程度、理解していたかは分かりません。
しかし、彼は少なくともエゼキエルとエレミヤの語った言葉に精通していたようで、エレミヤとの会見でそのことを主張しています。
「あなたの神、主は、この所にこのわざわいを下すと語られた。」
(エレミヤ書40章2節)
また、エレミヤはこの不思議な取引の正しい理由も述べています。
ユダが罪を犯し、神の声に従わずに、神は彼らにこれらの苦難をもたらしました。
この異教徒の征服者が、ユダヤ人の指導者の大多数よりも真理を明確に理解していたことは悲しいことです。
彼はエレミヤを鎖から解き放ち、王の言葉を彼に伝えました。
「そこで今、見よ、私はきょう、あなたの手にある鎖を解いてあなたを釈放する。
もし、私とともにバビロンへ行くのがよいと思うなら、行きなさい。私はあなたに目をかけよう。
しかし、もし、私といっしょにバビロンへ行くのが気に入らないならやめなさい。
見よ。全地はあなたの前に広がっている。あなたが行くのによいと思う、気に入った所へ行きなさい。」
(エレミヤ書40章4節)
そして、明らかに預言者の心を読み、善意からのバビロン行きの申し出を断る気まずさから預言者を救い出そうと、ネブザルアダンは、最終的に民を弾圧する者の力を象徴するバビロン行きを断りました。
そして、ネブザルアダンは、このように付け加えました。
「バビロン王がユダの町々の総督に任命したシャファンの子アヒカムの子ゲダルヤのもとへ戻り、彼とともに民の中に住みなさい。
あるいは、あなたにとって都合が良いと思われるところへ行きなさい。」
(エレミヤ書40章5節)
エレミヤはこの申し出を受け入れ、総督を捜しに出かけました。
侍衛長から食料と報酬を受け取り、エレミヤはミツパでゲダリヤと出会います。
そこはイスラエルを愛する者にとって決して忘れられない、歴史的な密会の地です。
そこでは、士師記の不安定な時代から王朝初期の時代まで、この地では多種多様な出来事が繰り広げられてきました。
ゲダリヤはここで質素で控えめな宮廷を開き、エレミヤは「国に残された民の中」でゲダリヤと共に暮らしました。
(エレミヤ書40章5、6節)
それは神と共に歩み、神の臨在の光の中で物事を見ることができた者の選択です。
征服者の街に招かれ、賢者、預言者として称えられ、征服者の街への抵抗とエジプトへの依存政策に断固反対した王からさまざまな感謝の印を受けることは、多くの人にとって素晴らしいことなのです。
しかし、これらすべてにおいて、決してエレミヤはカルデア皇帝の従者でも道具でもありません。
彼は最後まで、主の純真な預言者であり続けました。
-エレミヤが征服者の街への服従を勧めたのは、主の御言葉がそのように指示していたからです。
-エレミヤが君主たちと民にエジプトとの同盟に頼ることの愚かさについて警告したのは、彼が主の考えを持っていたからです。
しかし、征服者の街が象徴するものすべてに対する彼の個人的な嫌悪感は変わっていません。
その忌まわしい異教信仰と残酷な圧制を、エレミヤ以上に知る者はいません。
また、間もなくその地に降りかかる破滅を、彼以上にはっきりと知っていた者もいません。
神の支配において、神はバビロンを用いて、誤った民を懲らしめました。
間もなく、バビロンもまた、神の復讐の鞭の下を通ることになります。
したがって、ユーフラテス川沿いのその街は、神の人にとって何の魅力もありません。
異邦人の圧制者の宮殿で大きな場所を得るよりも、インマヌエルの地で「群れの中の貧しい人々」の中にいる小さな場所を得る方がはるかに良かったのです。
エレミヤは世の保護を望んでいません。
世の怒りを恐れなかったからです。
この点において、エレミヤは今もなお「この世のものでないように、この世のものではありません」という神の人の一貫した型です。
それでも、エレミヤは世に仕えたことさえありました。
かつて、ロトを救い出したアブラハムが実際にはソドムに仕えていたようです。
しかし、世から認められることを求めず、すべてをキリストの裁きの座に委ねたのです。
間違いなく自己中心な心はエレミヤをバビロンへと導きました。
また、彼の摂理も、そのような行動を好んでいたのかもしれません。
なぜなら、数年後にメディア・ペルシアの宮廷でモルデカイとネヘミヤが果たした役割のように、エレミヤは帝国の会議では民にとって必要な存在でした。
しかし、信仰はエレミヤを荒廃したカナンの地、主の名を呼び求める貧しく苦悩する残された民の中に留まりました。
モーセのように、彼は征服者の街に住めば得られる、一時的な繁栄を享受するよりも、神の民と共に苦難に耐えることを選びました。
信仰は、単なる生まれながらの性質による嘆願とは常に相容れないものです。
主とその民へのこの無私無欲の献身とは全く異なる側面があります。
それは、ユダヤ人の放浪部隊の隊長たちについて考える中にあるものです。
この章の次の部分では、この点について論じます。
エルサレムが滅ぼされた後、征服されなかった戦士たちの部隊がいくつか残され、山の砦や荒野の隠れ家に逃げ込み、カルデア軍の攻撃から無事に逃れました。
これらの部隊は、いわゆる「ゲリラ部隊」として編成され、大胆で衝動的な指揮官によって率いられ、バビロン王の支配に屈しないことを決意していました。
彼らの一人であるゲダリヤが総督に任命され、ミツパに住処を構えたという知らせを聞くと、これらの追放された部隊は、独立と反乱を期待した者たちの周りに集結しました。
イシュマエル、コラヤの二人の息子(ヨハナンとヨナタン)、セラヤ、エザヌヤ、そしてエファイの子らとその一行が、そこへ向かいました。(エレミヤ書40章7、8節)
彼らはゲダリヤが約束を破り、カルデアのくびきを振り払うという計画を推し進めてくれる者を助けてくれると期待していたなら、彼らはすぐにその誤りに気づきました。
ゲダリヤは忠実に服従を勧め、このように命じました。
「カルデヤ人に仕えることを恐れてはならない。この国に住んで、バビロンの王に仕えなさい。
そうすれば、あなたがたはしあわせになる。」
(エレミヤ書40章9節)
彼自身は、ミツパに留まり、神が彼らを力づけたこの国に仕えるという強い決意を表明しました。
「私も、このように、ミツパに住んで、私たちのところに来るカルデヤ人の前に立とう。あなたがたも、ぶどう酒、夏のくだもの、油を集めて、自分の器に納め、あなたがたの取った町々に住むがよい。」
(エレミヤ書40章10節)
ゲリラ隊長やその部下たちから反対の声が上がったことは記されていません。
しかし、この記述から、彼らがいかなる犠牲を払ってでも平和を約束する政策に断固反対していたことは明らかです。
少なくともイシュマエルという一人の兵士の心の中には激しい憤りを燃やしていました。
彼は政治的な判断力を持っていたため、当面は自分の感情を隠していました。
たとえ悲惨な結末であったとしても、残酷な戦争が終わったことを聞いて彼らはこのようにしました。
「モアブや、アモン人のところや、エドムや、あらゆる地方にいたユダヤ人はみな、バビロンの王がユダに人を残したこと、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤを彼らの総督に任命したことを聞いた。
そこで、ユダヤ人はみな、散らされていたすべての所からユダの地に帰って来て、ミツパのゲダルヤのもとに行き、ぶどう酒と夏のくだものを非常に多く集めた。」
(エレミヤ書40章11、12節)
「蟻は力のない種族だが、夏のうちに食糧を確保する。」
(箴言30章25節)
その反面、アモン人の国から帰還中のイシュマエルは、密かにゲダリヤ暗殺を企てていました。
文脈から推測すると、彼は出発前にアモン王バアリスに、ゲダリヤが自分の手先になる覚悟がないなら暗殺を実行することを誓っています。
この信頼しすぎた総督は、不吉な名を持つ隊長がやって来たという不道徳な任務について警告されています。
追放されたさまざまな隊長たちの間には嫉妬と裏切りが蔓延していたため、ヨハナンと他の隊長たちはついに裏切り者を密告しました。
彼らはゲダリヤに、アモン人バアリスから遣わされた任務について告げました。
総督は純朴で正直者だったため、イシュマエルの堕落の噂を否定し、同胞にとってこの暗黒時代にとても貴重な彼の命を守るための措置を一切取っていません。
そこでヨハナンは、再び、今度は個人的に総督と面会し、以前の報告が真実であることを保証しました。
そして、誰にも知られないよう自らが秘密裏にイシュマエルの命を奪うという殺害を未然に防ぐよう依頼しました。
総督だけでなく、彼と共に集まったすべてのユダヤ人の死は、他に方法がないと訴えました。
高潔な心を持つゲダリヤはこのように答えました。
「そんなことをしてはならない。あなたこそ、イシュマエルについて偽りを語っているからだ。」
(エレミヤ書40章16節)
その後の記述は、彼の自信がいかに根拠のないものなのかを示しています。
この直後、エルサレムの略奪からわずか3ヶ月後、イシュマエルと10人の君主たちが再びミツパの総督の家にやって来て、皆で共に食事をしました。
彼が王家の血筋であったことが分かり、それがゲダルヤへの憎しみの大きな理由となっています。
これはオリエントの慣習に則った、完全な親睦の表現です。
しかし残念なことに、それは前回の過越の祭におけるユダの祝宴のようです。
ゲダルヤと共に食事をした者たちは、彼に対してかかとを上げました。
イシュマエルの合図で、彼と10人の君主たちは、哀れみ深い主人たちに反抗し、冷酷に彼を殺害し、ミツパにいたユダヤ人とカルデア人を虐殺しました。
(エレミヤ書41章2節)
ゲダリヤと関係のあった者たちは、誰一人として逃げおおせず、この恐ろしい大虐殺と流血の話を他の地域に伝えようとはしていません。
翌日、シェケム、シロ、サマリアから84人の男たちが主の宮に供え物を捧げるためにやって来ました。
彼らがいかに神への道を堕落させ、異教の慣習に染まっていたかは、剃り上げた髭、裂けた衣服、そしてバアルの崇拝者たちによく見られる肉体の傷跡から明らかです。
しかし、供え物と香は彼らの手に握られており、いかに無知であろうとも、彼らは主の御顔を求める必要性を感じていました。
イシュマエルの忌まわしい偽善と恐ろしい裏切りが再び現われました。
彼は、国の荒廃を深く嘆き悲しむ者の風格を装い、泣き叫びながら出て行き、総督ゲダリヤのもとへ案内役を申し出ました。
滅びゆく民を町の真ん中へ導くと、彼は突然仮面を脱ぎ捨て、仲間と共に、他の者たちと同じように、何も知らないこの男たちを殺し、その死体を穴に投げ込みました。
小麦、大麦、油、蜂蜜の隠された貯蔵庫を掘り出すため、10人だけを残しておきました。
(エレミヤ書41章5~8節)
殺害された者たちが投げ込まれた穴は、ユダ王アサの命により、ミツパ再建の際にイスラエルの王バシャに包囲された場合の隠れ場所として造られた地下室でした。
(列王記上 15章22節)
そこは今や、無邪気なゲダリヤとその従者たち、そして70人の訪問者たちの墓となりました。
(エレミヤ書41章9節)
イシュマエルは死者を処理した後に、王の娘たちと、虐殺に含まれなかったミツパに住むすべての人々(おそらく貧しい人々)を連れて、急いでアモン人の地へ撤退しました。
予想通り、彼の残忍な行為についての恐ろしいニュースはすぐに広まりました。
ヨハナンと他の隊長たちは、その知らせを聞くと、すぐに逃げる裏切り者を追跡し、ヨアブとアブネルが戦った古戦場である「ギベオンの大水」のそばまで追いつきました。
彼らは池の両側に陣取りました。(サムエル記第二2章12~17節)
そこは、ヨシュアがギベオンの人々を守った際に、カナン人の連合軍に大勝利を収めた歴史的な場所の近くです。
イシュマエルに従っていた略奪者たちは、ヨハナンの部下たちに抵抗しようとはせず、リーダーと共に逃走しました。
その反面、彼らが連れ去ろうとしていた民は皆、「身を翻して、カレアハの子ヨハナンのもとに帰って行った」のです。(エレミヤ書41章3~15節)
ヨハナンは疑いなく勇敢で愛国心に満ちた人物です。
しかし、ゲダリヤのような敬虔さは欠けていました。
行動力はあったものの、神に頼って自分の道を歩む人物ではありません。
ためらうことなく、主に尋ねることもなく、彼は同盟者と救出された一行を率いて、エジプトへの道であるベツレヘム近郊のキムハムへと向かいました。
ネブザルアダンが任命した総督とバビロンの衛兵をイシュマエルが暗殺したことで、カルデア人の怒りを恐れ、パレスチナの地を去ることを決意しました。(エレミヤ書41章6~18節)
こうして彼らは自分の道を決意し、それ以前やそれ以降の多くの人々と同じ様に、主の御心を求めるふりをします。
エレミヤはミツパから連れ去られた人々の中におり、民の代表者たちは彼のもとへ向かいました。
彼らの言葉は非常に公平で、適切なものです。
「すべての将校たち、カレアハの子ヨハナン、ホシャの子イザヌヤ、および身分の低い者も高い者もみな、寄って来て、
預言者エレミヤに言った。「どうぞ、私たちの願いを聞いてください。私たちのため、この残った者みなのために、あなたの神、主に、祈ってください。ご覧のとおり、私たちは多くの者の中からごくわずかだけ残ったのです。
あなたの神、主が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」
(エレミヤ書42章1~3節)
イスラエル王との同盟が結ばれ、約束を交わした後、ヨシャパテが神の御心を求めたと告白したことを思い出します。
しかし、これは神を軽く見る行為に過ぎません。
しかし、親愛なる読者の皆様、私たちは全くその点を気に留めていないかも知れません。
どれほどの多くの聖徒が、主の助言を求めることなく、ある道に心を定め、その後、不安と焦燥感に突き動かされ、自らで作り上げた計画に神の承認を得ようとしているのではないでしょうか?
ここで注目すべきは、人々が「私たちの神、主に」ではなく「あなたの神、主に」と言っていることです。
そこには距離感があります。
彼らは確信を持って神に近づくことができないと感じ、だからこそエレミヤに頼り、仲介者、つまり調停者の役目を果たしてもらいたいと願ったのです。
神に近づくことにためらいがある時、つまり、祈願者が自分の祈りよりも、仕えるしもべの祈りに信頼を置いている時、それは常に悪い兆候です。
それは紛れもなく、困難な時に確信を抱かせる神との交わりが欠乏していることを明らかにしています。
もし、神をあがめようとする欲望が魂の中にあるならば、全身は光に満ち、暗い部分はありません。
もし、神を賛美したいという願いがたましいの底にあるなら、人は恐れることなく導きを求めて神に頼ることができます。
しかし、何か大切な目的や自己中心な目的が心を支配している時、神への信頼は欠乏しているはずです。
これが、生き残った民の現状です。
エレミヤはこれについて何も述べず、静かにこのように答えます。
「そこで、預言者エレミヤは彼らに言った。「承知しました。今、私は、あなたがたのことばのとおり、あなたがたの神、主に祈り、主があなたがたに答えられることはみな、あなたがたに告げましょう。何事も、あなたがたに隠しません。」」
(エレミヤ書42章4節)
彼が彼らに自分の責任を押し付けていることに注目してください。
彼は「あなたがたの神」と言い、「主があなたがたに答えられる」と語っています。
エレミヤは彼らの代弁者であり、仲介者ではありません。
極めて厳粛な宣言です。
そして、同じ境遇にいた多くの人々と同じ様に、彼らも本当にそのようにするだろうと考えていたはずです。
しかし、彼らはエジプトへ行くことを心に決めており、その肉的な決意を主が承認してくださることを期待していました。
彼らは答えました。
「主が私たちの間で真実な確かな証人でありますように。私たちは、すべてあなたの神、主が私たちのためにあなたを送って告げられることばのとおりに、必ず行ないます。」
(エレミヤ書42章5節)
それから彼らはさらに大胆になり、「私たちの神、主」という言葉を使って宣言しました。
「私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。
私たちが私たちの神、主の御声に聞き従ってしあわせを得るためです。」
(エレミヤ書42章6節)
これは確かに良い響きです。
しかし「善い言葉、美しい言葉」とは、本当に安っぽく、無意味なものです。
主がしもべにその思いを伝えるまでに、重要な10日間が経過しました。
シナイ山で与えられた十戒に定められているように、神と人に対する人間の責任を示す数字です。
この根拠に基づき、残された民は何も主張することができません。
返答が遅れたことは、彼らが神からどれほど遠く離れていたかがわかります。
彼らはひどく失敗していたにもかかわらず、悔い改めていません。(エレミヤ書42章7節)
エレミヤはすべての民の前で主の御言葉を宣言しました。
「あなたがたが私を遣わして、あなたがたの願いを御前に述べさせたイスラエルの神、主は、こう仰せられる。
『もし、あなたがたがこの国にとどまるなら、わたしはあなたがたを建てて、倒さず、あなたがたを植えて、引き抜かない。
わたしはあなたがたに下したあのわざわいを思い直したからだ。」
(エレミヤ書42章9、10節)
驚くほどの豊かな恵みがここに現れています。
彼らには十分な罪悪感がありません。
しかし、主の慈しみは驚くべきものです。
もし、彼らが今、弱く砕かれた状態にある時に主を信頼し、主の力強い御腕に頼り、主が彼らに与えてくださった地に住み、懲らしめを受け入れ、主の御言葉に身を委ねるならば、主は彼らを造り上げ、農夫が収穫した穀物を大切にするように彼らの世話をしているのです。
神の声に従うなら、彼らはバビロン王の怒りを恐れる必要はありません。
主はこのように言われています。
「あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな。彼をこわがるな。
――主の御告げ。――わたしはあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、彼の手からあなたがたを救い出すからだ。
わたしがあなたがたにあわれみを施すので、彼は、あなたがたをあわれみ、あなたがたをあなたがたの土地に帰らせる。』」
(エレミヤ書42章11、12節)
神の保護下では回復と祝福は、神に従うことの幸いな結果です。
その反面、エジプトに救いを求めるのは愚かというよりも悪いことです。
ひどい苦悩と裁きしか招かれないからです。
エジプトに戻ることは、クリスチャンが助けを求めて世に戻るようなものです。
「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」
(ガラテヤ人への手紙1章4節)
これはかつてのエジプトからの解放の型です。
主に贖われた者たちにとって、パロの地は奴隷の地であり、決して故郷となることはできません。
エジプトに平和と幸福に定住することは絶対に不可能です。
そのように試みることは、過越の血と紅海の分割を無視することです。
クリスチャンにとって、これはキリストの尊い血によって過去の罪が清められ、その祝福された方の死によってこの世から切り離されたことを忘れることを意味します。
キリストの十字架は信者と世界の間に入り込み、このように言うことができるのます。
「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」
(ガラテヤ人への手紙6章14節)
紅海がエジプトとイスラエルの祝福の地の間に波打ったように、もし、私が神の子であるなら、キリストの死は私をこの世から切り離したのです。
今では、この厳粛な事実を一時的に無視し、私にとって十字架は無に等しいかのように振舞う以外に、この世に戻ることはできません!
しかしながら、多くの親愛なる同胞の信者たちが、くりかえしこのように振舞ってきたのではないでしょうか!
このことは、何とも恥ずべきことではないでしょうか!
しかし、この点における私たちのみじめな失敗を、神の御前に顔を赤らめて告白することが必要なのです!
しかし、一つだけ疑問の余地があります。
真実な回心したたましいは、一度この世から解放された後、そこで決して安息を見つけることはできません。
ここに記された残された者の歴史は、すべての聖書と同じ様に私たちの良心に力強く語りかけるはずです。
「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」
(コリント人への手紙第一10章11節)
ユダヤ人にとって、エジプトへの帰還は、さらなる悲しみと災難を意味するに違いありません。
彼らは、豊かで静かな土地を見つけ、戦争や角笛の音に煩わされることなく、パンを腹いっぱい食べて平和に暮らせると自分に言い聞かせようとしたかもしれません。
しかし、それは幻想です。(エレミヤ書42章13、14節)
彼らが逃げようとした剣はそこで彼らを追いかけ、恐れていた飢饉はすぐ後に続き、主の怒りが彼らに注がれるので、エジプトは彼らにとって墓場と化すのです。(エレミヤ書42章15~18節)
確かにエジプト人は自分の土地で安全に暮らすことができるのかもしれません。
しかし、ユダヤの残された民は違います。
そして、世の者はこの場面で比較的静かで平和な生活を送ることもできるかもしれません。
しかし、神の子は世に甘やかされ、決して幸福にはなれません。
隊長たちや民衆が決して美しい言葉で主を欺いていなかったことは、以下のことから明らかです。
エレミヤは彼らにエジプトに行かないように忠実に警告し、そして彼らの心を明らかにしました。
預言者はこのように宣言しています。
「ユダの残りの者よ。主はあなたがたに『エジプトへ行ってはならない。』と仰せられた。きょう、私があなたがたにあかししたことを、確かに知らなければならない。
あなたがたは迷い出てしまっている。あなたがたは私をあなたがたの神、主のもとに遣わして、『私たちのために、私たちの神、主に祈り、すべて私たちの神、主の仰せられるとおりに、私たちに告げてください。私たちはそれを行ないます。』と言ったのだ。」
(エレミヤ書42章19、20節)
炎のように人間の内奥の奥義を貫く主を欺こうとするのは無駄です。
主の前ではユダヤ人たちは正しくありません。
主はそれをよく知っておられたので、恵みによって祝福の道を示し、破滅への道を警告されました。
言葉は彼らの前に示されました。
彼らのうつむいた顔が既に答えを示していました。
エレミヤは返事を待たず、このように告げました。
「だから、私は、きょう、あなたがたに告げたのに、あなたがたは、あなたがたの神、主の御声を聞かず、すべてそのために主が私をあなたがたに遣わされたことを聞かなかった。
だから今、確かに知れ。あなたがたは、行って寄留したいと思っているその所で、剣とききんと疫病で死ぬことを。」」
(エレミヤ書42章21、22節)
この言葉にユダの「高ぶった人」の胸は憤りに満ちました。
アザリヤと隊長ヨハナンは怒り狂って叫びました。
「エレミヤはすべての民に、彼らの神、主のことばを語り終えた。それは彼らの神、主が、このすべてのことばをもって彼を遣わされたものであった。
すると、ホシャヤの子アザルヤと、カレアハの子ヨハナンと、高ぶった人たちはみな、エレミヤに告げて言った。
「あなたは偽りを語っている。私たちの神、主は『エジプトに行って寄留してはならない。』と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。
ネリヤの子バルクが、あなたをそそのかして私たちに逆らわせ、私たちをカルデヤ人の手に渡して、私たちを死なせ、また、私たちをバビロンへ引いて行かせようとしているのだ。」」
(エレミヤ書43章1~3節)
まさに民にとって願望が思考の源泉です。
民はエジプトへ下る決意を固めていました。
神がそれを禁じたとは信じようとしません。
また、これまで謙虚な言葉を重ねてきた彼らには、エレミヤが自分の考えを神の啓示と偽って意図的に彼らを欺こうとしたと非難する厚かましさもありません。
バルクがエスケープゴートにされ、非難の矛先は彼に向けられました。
バルクは忠実に主君と共に戦い、幾度となく命を危険にさらしながらも、託された任務を果敢に遂行しています。
しかし、預言者を従者に操られる操り人形とみなすのは、全くの愚行です。
このように断定できるのは、はなはだしい不信仰と、強固な自己中心だけです。
すぐにヨハナンと隊長たちは残された者全員を集め、エレミヤとバルクもその一人として参加させ、主の御言葉に真っ向から反対してエジプトに向けて出発しました。
タフパヌヘスに到着するまで、何の遅延もなかったと記されています。
彼らはそこに定住することを決意しました。(エレミヤ書43章4~7節)
この街はエジプト北東部、歴史的な宝の町ピトンから約32キロのところにあります。
ピトンは奴隷時代に先祖が築いた、ユダヤのかつての堕落の跡であり、その名残を今に伝える場所です。
その場所はゴシェンの地にあり、異教の女神に捧げられていました。
ここで移民たちは、自分たちを長きにわたって苦しめてきた戦争、疫病、飢饉という恐ろしい三重の破滅からはるかに遠く離れていることを信じて、故郷を探しました。
しかし、それは不可能です。
彼らは主に反逆する道を歩んでいたからです。
主がかつて、彼らを救い出し、御自身のもとに引き離した地に、決して彼らは安住することはできません。
再び、エレミヤは神の怒りの嵐が迫っていることを人々に警告する任務が与えられました。
ある意味においては囚人だったかもしれません。
しかし、主の御言葉は縛られていません。
エレミヤは、実際に教訓と口頭による教えによって民を導くよう命じられました。
主の命令により、彼は大きな石を手に取り、ユダの人々の前で、町のパロの宮殿の入り口にあるレンガ窯の中に隠しました。
このことから、当時エジプト王が首都ではない、タフパヌヘスに居住していたことが分かります。(エレミヤ書43章8、9節)」
このように民の注意を引いた後、彼は万軍の主の名において、再び「わたしのしもべ」と呼ばれるネブカデレザルを遣わし、エジプト全土を彼の手に渡すと宣言しました。
彼の王座は隠された石の上に据えられ、その上に王の天幕が広げられました。
族長の時代に羊飼いの王たちが行っていたように、羊飼いとして、彼は「エジプトの地を着飾る」ことになります。
その日、エジプトの神々とその民は滅ぼされ、ユダの人々が彼の復讐からの救いを求めることが無駄となりました。
(エレミヤ書43章10~13節)
次の章では、同じテーマをさらに詳しく取り上げています。
主の御言葉は再びそのしもべにのぞみました。
「エジプトの国に住むすべてのユダヤ人、すなわちミグドル、タフパヌヘス、ノフ、およびパテロス地方に住む者たちについて、エレミヤにあったみことばは、次のとおりである。」
(エレミヤ書44章1節)
ミグドルは王家の要塞で、モーセの指揮下で救われた軍勢が救出されるために紅海が分けられた場所から遠くない場所にありました。
ノフは古代上エジプトの首都メンフィスと同じ場所だと考えられています。
パテロスという総称は、上エジプトのかなり広い地域を含んでおり、元々はパトロシム人が居住していました。
これらのさまざまな地域について述べられていることから、ユダヤ人はわずか数か月という短い期間で、国土の大部分に広がりました。
もっとも、ここで考察している移動以前にも、そこにいくつかの植民地が築かれていた可能性はあります。
主の訓戒は2節から14節に記録されています。
主は、エルサレムとユダのすべての町々で犯された恐ろしい悪行ゆえに、主がこれらの町々にもたらした災いについて考えるようにと、民に命じておられます。
「主は彼らに預言者たちを遣わして「どうか、わたしの憎むこの忌みきらうべきことを行なわないよう」と言わせ、彼らの幸福を願われました。
主が特に嫌悪されたのは偶像礼拝です。
しかし、彼らは預言者たちの警告や懇願に耳を傾けず、不義の道から離れようともしません。
そのため、主の怒りが注がれ、今や国は荒廃し、荒れ果てています。
彼らの現在の行いは悪をさらに悪化させるものであり、もし、これを続ければ、国家の自滅につながります。
エジプトでは、彼らは急速に偶像礼拝に逆戻りしつつありました。
彼らが悔い改めない限り、主は彼らを地の面から断ち滅ぼすことしかできません。
まことに、彼らは自分の愚かさによって、みずからを滅ぼしたのです。
彼らの記憶はとても浅いものです。
彼らには、父祖たちの悪行、ユダの王たちの悪行、そして彼ら自身の悪行、そしてユダの地における妻たちの悪行がありました。
これらの悪行がこれほど恐ろしい罰を招いたことを、すでに忘れてしまいました。
過去のすべての出来事を経てもなお、彼らは謙虚にならず、敬虔な畏れを示す様子も見せていません。
それも、彼らは神が彼らと彼らの父祖たちに定められた律法と定めを歩もうともしていません。
このように悪行を執拗に続けたため、神は彼らに災いを招き、すべてを滅ぼすのです。
小さい者から大きな者まで、エジプトに住むユダの人々は皆滅ぼされるべきです。
もちろん、自分の意志でエジプトに渡った者たちもです。
エレミヤとバルク、そして、ゲダリヤのかつての従者たちの多くは、強制的にエジプトに渡ったため、わがままな将軍たちやその家臣たちと一緒にいることはできません。
たとえ後者が帰還することを望んだとしても、それは許されません。
「エジプトの国に来てそこに寄留しているユダの残りの者のうち、のがれて生き残る者、帰って行って住みたいと願っているユダの地へ帰れる者はいない。ただのがれる者だけが帰れよう。」
(エレミヤ書44章14節)
この深刻な警告と真摯な抗議に対し、公然と、そして臆面もなく反抗的な態度が示されました。
人々の真実な姿はたちまち明らかになり、以前の抗議の偽善的な性質がはっきりと明らかにされました。
彼らは既に、かつて、この国で行われていたように、最も卑劣な偶像崇拝を密かに実践していました。
女たちが先導し、男たちが加担していたのです。(エレミヤ書44章15節)
男たちはこのように大胆に宣言しました。
「あなたが主の御名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。」
(エレミヤ書44章16節)
それは、真理に対する意図的で、計画的で、高圧的な反対です。
述べられた理由は、外見に関わらず、神の御言葉に頼るのではなく経験に頼ることの重大な危険性を如実に示しています。
信仰ではなく見えるものによって歩む彼らは、ユダの町々で主の御言葉を無視し、天の女王に香を焚き、酒の供え物を注ぐことで、ある程度の繁栄を得られると考えました。
少なくとも食物には事欠かず、健康で、何の災いも見いだしていません。
その反面、彼らはそのようにすることをやめた時から、「すべてのものが欠乏し、私たちは万事に不足し、剣とききんに滅ぼされた」と言っています。
(エレミヤ書44章17~19節)
したがって異教徒の神々の祝福は、彼らが天の女王に仕えていた間は明らかに彼らのものだったと、彼らは主張しています。
この祝福は、彼らが偶像崇拝の外的な象徴を捨て、主を崇拝すると告白した時に取り消されるのだと信じています。
彼らの詭弁はもっともらしく、まやかしだったのです!
しかし、今でも同じように考える人は多くいるのではないでしょうか?
彼らは、唯一の確かな導き手である神の御言葉ではなく、一時的な体験に訴えています。
エレミヤの答えは、彼らが認めるかどうかに関わらず、明確かつ説得力があります。
主の怒りを彼らにもたらしたのは、彼らの偶像崇拝の行いです。
主は耐えられなくなるまでそれを耐え、そしてついに裁きを下されました。
まさにこのために、彼らが訴えていたすべての災いが彼らに降りかかったのです。
(エレミヤ書44章20~23節)
主は女たちに特別な言葉を与えています。
彼女たちは神の御名を辱める指導者です。
そのため、このように主は語っています。
「エジプトの全土において、神である主は生きておられると言って、わたしの名がユダヤ人の口にとなえられることはもうなくなる。」
(エレミヤ書44章26節)
主は彼女たちを滅ぼし、善ではなく悪のために見張り、剣を逃れてユダの地に戻る少数の者を除いて、皆滅ぼされるまで、彼らを見守られました。
そうして、主の御言葉が実行されます。
「エジプトの国に来て寄留しているユダの残りの者たちはみな、わたしのと彼らのと、どちらのことばが成就するかを知る。」
(エレミヤ書44章28節)
来たるべき滅びのしるしも与えられました。
それは、滅びが来た時、彼らの裁きの時がもはや遅らされることのないことを知るためです。
エジプト王パロ・ホフラは敵の手に渡されることになっていました。
こうして、彼らが頼りにしていた折れた葦は折られるのです。
(エレミヤ書44章29、30節)
創造主に抵抗しようとする人間の努力は無駄です!
創造主と争うことは愚かなことです!
「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」
(ヨブ記28章28節)
第23章 バルクと私たち全員へのメッセージ
(45章)
わずか5節から成るこの短くも美しい章には、さまざまな時代の神の子たち、特に公的または公式の立場で主に仕えようとするすべての人々への教訓が詰まっています。
年代順に言えば、これは36章の続きであり、最初の節で明らかにされているとおりです。
「ネリヤの子バルクが、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたときに、預言者エレミヤが彼に語ったことばは、こうである。」
(エレミヤ書45章1節)
「これらのことば」という表現は、預言者バルクの口述によって、王とその顧問たちの前で読まれた巻物にバルクが書き記した言葉を指し、その巻物は軽蔑され火に投げ込まれました。
その後、同じ筆写者によって、言葉が追加された別の写本が書かれました。
このようにバルクは、神の御心を他の人々に伝えるために用いられた道具です。
しかし、彼はたましいをないがしろにしてはいけません。
だからこそ、聖書のこの部分に記されているように、彼に与えられたメッセージがここにあります。
他の人々に仕える者が、たましいの正しい状態に置かれることは、何よりも重要です。
聖徒や罪人に対してふさわしい神の真理を伝え続けながら、心が利己的であったり、しもべの私生活が不聖で主の前に謙遜さを欠いていることほど危険なことはありません。
これこそが、ある者が「感じることのできない真理を売買している」だけだと厳粛に非難した行為につながるのです。
真理が自分の心と良心に力を持つときのみ、真理は他の人々に安全に仕えることができます。
バルクの場合、王が神の御言葉を拒みたことを、巻物に記された文書を霊感によって記された主ではなく、自分自身と主君への侮辱と感じました。
その結果、バルクはひどく落胆しました。
したがって、預言者のメッセージはこのようです。
「バルクよ。イスラエルの神、主は、あなたについてこう仰せられる。
あなたは言った。『ああ、哀れなこの私。主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、いこいもない。』」
(エレミヤ書45章2、3節)
ネリヤの子が、民の惨めな状態と、彼らが聖さと真理から遠ざかっていることを痛切に感じたのは、当然のことです。
敬虔なたましいを持つ者なら誰でも、必然的にそのように感じたはずです。
私たちが知っているように、エレミヤもそうです。
エゼキエルは幻の中で、エルサレムの忌まわしい行いのために嘆き悲しむ人々の額に刻印が押されるのを見ました。
(エゼキエル書9章)
これは神を喜ばせるものであり、戒められた霊と聖なる感受性を示しています。
しかし、バルクの悲しみは、15章で預言者自身を蝕みかけた悲しみのように、より個人的なものです。
それは主に失望によって引き起こされました。
バルクは、主のしもべ、そしてエレミヤの筆写者として、自分が求めていた承認を得ることができません。
それゆえ、バルクは逆境の日に気を失ってしまいます。
なぜなら、彼の力が弱かったからです。
バルクはまだ自己否定を学んでいません。
それは単に自己否定することとは完全に違います。
彼は後者のことを知っていましたが、前者はまだ到達していません。
バルクはおそらく、このことに何も気づいておらず、これまでエレミヤにも気づかれていませんが人間からの評価を求めていました。
特に福音において主に仕えている人、あるいは神の子らを教えている人にとっては、この状態に陥るのはいとも簡単です。
しばしば、自分の立場を与えてほしいという密かな願いがあります。
その立場が拒否され、自分の働きが認められないときには、深い悲しみに襲われます。
これはくりかえし、神の御言葉が拒まれたことに対する悲しみと誤解されるかもしれません。
しかし、その場合、たましいはその言葉の作者に逃れの場所を見出し、試練に遭っても落胆することはありません。
なぜなら、真理が宣べ伝えられる時、このように知るからです。
「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。」
(コリント人への手紙第二2章15、16節)
バルクが動揺したのは、この理由からではありません。
彼は、個人的に軽く見られ、軽んじられ、そして自分の働きに対する侮辱を感じました。
神の御前から離れた繊細なたましいにとって、このことは耐え難いものです。
そのため彼は気を失い、安らぎを見いだすことができません。
しかし主は慈しみ深く彼の事情を顧み、彼に必要な戒めと慰めの言葉を与えてくださいました。
主の御言葉は、厳しく冷酷な叱責ではなく、厳しい鞭打ちでもありません。
バルクが、たとえ何も考えず、自らに言い聞かせていたとしても、結局のところ主を敬おうとしていたことを十分に知った上で、主は優しさと愛をもって、必要な御言葉を授けてくださります。
「あなたが主にこう言うので、主はこう仰せられる。
『見よ。わたしは自分が建てた物を自分でこわし、わたしが植えた物を自分で引き抜く。この全土をそうする。」
(エレミヤ書45章4節)
確かに、すべてが神にとって忌まわしいものであった時、それは個人的な野心を抱くことはふさわしくありません。
時代がこれほど邪悪であった時、それは私利私欲に溺れるには特にふさわしくない時期なのです。
ナアマンを欺いて物質的な利益を得たゲハジにエリシャが言った言葉を思い出します。
「今は銀を受け、着物を受け、オリーブ畑やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。」
(列王記第二5章26節)
哀れでみじめなゲハジは、滅ぼす御使いのような裁きが国中を堂々と歩く時代に、自分が安らぐための計画を立てていました。
このような時に、そのようなことに心を奪われることが出来るとは、驚くべき恐怖がここにあります。
使徒パウロも同じようにコリント人への手紙の中でこのように書いています。
「兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。今からは、妻のある者は、妻のない者のようにしていなさい。
泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のようにしていなさい。
世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。」
(コリント人への手紙第一7章29~31節)
これこそ、バルクなりに学ぶ必要があります。
神は、当時の秩序を裁きによって終わらせようとしていました。
それは、主イエス・キリストの来臨と、私たちが主のもとに集まることによって、私たちが生きるこの時代を間もなく終わらせるのと同じです。
そして、神の憤りの七つの封印された書物が開かれ、背教したキリスト教世界に極限の怒りが下る時が来ます。
バルクにとって、自己中心的に考えたり、神からひどく離れた民の尊敬を得られなかったからといって悩んだりする時ではありません。
この世の言語に絶する腐敗を証言するために遣わされた、キリストのしもべを自称する者が、そのようにすることで霊的な人ではない人々から尊敬されることに期待するとは、どのようなことでしょうか?
そのような者は、神の召しと、まもなく下る裁きに向けて今にでも成熟しつつある世界の状況を完全に理解できていません。
しかし、主は続けて、そのしもべに、一度与えられた信仰のために何らかの方法で戦うすべての人々が心に留めておくべき言葉を与えています。
「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。」
(エレミヤ書45章5節)
この聖句は私たち一人一人に適応できるぴったりのモットーです。
心は「大きなこと」を渇望しやすいのです。
しかし、そのようにすることで、しもべは主人とはかけ離れてしまいます。
主は自分を喜ばせようとはしていません。
しかし、このように言うことができます。
「常に私は主を喜ばせることを行います。」
そしてまた、「自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです」(ヨハネの福音書6章38節)とも言われます。
そして、主が地上でとられた立場こそが、私たちの唯一の正しい立場を決定づけることができます。
では、世について言えば、それは一体何なのでしょうか?
そして、常に主は拒まれた方でした。
イエスは誕生の時、「宿屋に居場所」がなかったのです。
イエスの人生には偉大な場所はありません。
死後も借り物の墓の中に居場所があるだけでした。
イエスは常に外側の者であり、常に権利ではなく不当な扱いを受けていました。
ある人が言ったように、屈辱の日々における「地上の住人」とは常に異なる道を歩んでいました。
しかし、もし、このように考えることができたのであれば、状況は大きく違っていたかもしれません。
イエスは、人々に拒まれた立場を受け入れる必要はありません。
イエスは、イエスの持つ真実な権利を正当に主張し、それに基づいて行動することができたはずです。
もし、イエスの中に少しでも自己中心性があったなら、他の人々のように、この世の強大な者たちの中に居場所を主張できたかもしれません。
しかし、イエスは父なる神の聖なる方であり、そのようなことはありえません。
地上のすべての王国とその栄光がイエスに与えられます。
それは、どのような条件なのでしょうか?
そこには、神の御言葉に何らかの違反を伴う条件があります。
これは、神の聖なる方にとって、忌ましいものがそこにあります。
そして、私たちがもっとイエスに似た者であることを願います。
このように主に忠実であったために、イエスは「拒まれた者」となり、最後に門の外で苦しみを受けられました。
私たちは次の聖句を常に心に留めておくべきです。
「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
(ペテロの手紙第一2章21~24節)
では、私たちは主に与えられなかった立場を望むべきでしょうか?
それを得るためには、主の御言葉に背き、聖霊を悲しませることになります。
この事実にもかかわらず、主のように神に忠実であることを求め続けることができるのでしょうか?
そのことを得ることはできないと知りながら、それでも、それを得るほどに切望できるのでしょうか?
罪深い人々や愚かな聖徒たちから高く評価されることは、本当にそれほどの価値があるのでしょうか?
私たちが主の裁きの座に立ち、主の御顔を見つめるのならば、そのことがどのように見えるでしょうか?
自分のために大いなるものを求めて主の承認の微笑みを失うよりも、ここで貧しく軽く見られても主に認められる方が、はるかに良いのです。
私たちの「大いなるもの」はやがてやって来ます。
信仰をもって、これらをしっかりと掴みましょう。
その時までに、私たちがこのように言える真実な恵みがありますように。
「主が悲しんでおられるところに私たちは喜びを見出せません。
主が貧しいところに私たちは富みを見出せません。」(讃美歌)
より簡単な道を求めて、あるいはこの世界でよりよい評価を得るために、真理に従うという狭い道からそれてしまいたくないならば、バルクへのこれらの言葉を思い出してみましょう。
「大いなるもの」が私たちを惹きつけ、誘惑しようとするなら、「それを求めてはならない」という言葉を思い出してみましょう。
主はさらにこのように言われます。
「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下すからだ。
――主の御告げ。――しかし、わたしは、あなたの行くどんな所ででも、あなたのいのちを分捕り物としてあなたに与える。』」」
(エレミヤ書45章5節)
バルクは、神が守護者である限り、人々がどれほど激しく怒ろうとも、何の害も受けることがありません。
飢饉、剣、疫病は滅ぼすかもしれませんが、バルクは守られます。
彼は、この世の祝福が神の恵みのしるしであった時代に生きました。
この霊的な時代における私たちの祝福は、それとは異なる性質を持っています。
たとえ肉体が滅ぼされるとしても、クリスチャンの永遠の命には何物も触れることができないことを知ることは、尊いことです。
そして、肉体に関してもこのように言うことができます。
「愛の神がふさわしいと思うまで、一本の力強い軸も適応できません。」讃美歌
私たちに「大きなこと」を求めないように命じた方は、私たちを支えてくださりこのように宣言されました。
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
ヘブル人への手紙13章5節
ですから、私たちは「わたしは信頼し、恐れない」と大胆に言えるのです。
第24章 諸国民に対するヤハウェの言葉
エジプト、ペリシテ、モアブ、アモン、エドム、シリア、アラビア、エラム、バビロン
(46章~49章)
反逆するユダの人々に対するエレミヤの務めは今や終わりを迎えました。
彼は異邦人に間もなく下る裁きを告げる使命を託されました。
神に預言者の職に召された時、エレミヤは諸国民への預言者に任命されました。(エレミヤ書1章5節)
それゆえ、今、主の御言葉は彼を通して、パレスチナの地を取り囲むさまざまな民族について語られています。
ここでは9つの異なる民族について取り上げます。
それぞれの民族について、与えられた順番に簡単に見ていきましょう。
エジプト
46章全体は、最後の2節を除いて、かつては豊かで人口の多かったこの国に降りかかる預言者が予見した裁きを宣言することに費やされています。
聖書において、エジプトは常に世の象徴であり、神の民を弾圧する者として、あるいは神の民の守護者となる者として描かれています。
したがって、エジプトの裁きは、現在の罪深い秩序にこれから下される裁きを物語っています。
現在の邪悪な秩序は、まず主を十字架につけ、追随者たちを死に至るまで迫害しました。
しかし、今や彼らを自分の保護の下に迎え入れようとしています。
このように、不在の主を待ち望む教会の特徴づけようとしました。
ゆえに、世の虚栄からの分離が失われてしまったのです。
この章には、約18年の間隔を置いて語られた二つの異なる預言があります。
最初の預言は、パロ・ネコがバビロン王の属州に侵攻し、その台頭する勢力を粉砕しようとした際に起こりました。
これは2章12節に記されています。
これは、ネブカデネザルとその無敵の軍勢によるエジプト軍の敗北を、終末論的に鮮やかに描写しています。
日付は前の章と同じです。
エジプト人についてこのように書かれています。
「何ということか、この有様。彼らはおののき、うしろに退く。
勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去った。恐れが回りにある。」
(エレミヤ書46章4節、5節)
激しい洪水のように、パロの支配下にあった各州、クシュ、プト、リディアの軍隊は、訓練されたエジプト軍に率いられて、カルデア人の地を侵略しようとしました。
しかし彼らは、主がネブカデレザルを起こしたこと、主がエジプトに復讐される日が来たこと、そして彼らが大きないけにえとしてユーフラテス川のほとりに捧げられることを知りません。
(エレミヤ書46章6~10節)
救いの望みはむなしく、「多くの薬」も効いていません。
エジプトに破滅の時が到来しました。
エジプトの数々の罪悪は主の復讐を招きました。
(エレミヤ書46章11、12節)
これらすべては、パロネコの壮大な軍隊の敗北によって文字通り成就しました。
次の節は後の裁きについて述べられています。
日付は記されていませんが、43章と44章と比較すると、エルサレム陥落後、残された民がエジプトに住んでいた時期にエレミヤによって語られたことが分かります。
この節は、聖書に記されている最後のパロ、パロ・ネコに次ぐパロ・ホフラの敗北により、ミツライムの地が完全に荒廃することを預言的に示しています。
彼は卑劣な精神の持ち主で、無謀で、ペテンに満ちていたことで知られています。
ネブカデネザルの台頭する勢力に抵抗しようと試みましたが、無駄です。
彼の勇敢な兵士たちは敗走する運命です。
「なぜ、あなたの雄牛は押し流されたのか。立たなかったのか。主が彼を追い払われたからだ。」
(エレミヤ書46章15節)
ネブカデネザルの力で彼の勝利が保証されるはずもなく、パロ・ホフラの臆病さで彼の敗北が決まるはずもありません。
万軍の主、戦いの神は、エジプト人の不信心と偶像崇拝のために彼らを滅ぼそうとしていました。
一つの国を貶め、別の国を高めるのは、まさに神です。
「それは、いと高き方が人間の国を支配し、」
(ダニエル書4章17節)
勝利したネブカデネザルも、やがて自分でこのことを学ばなければなりません。
エジプトとその神々、そして王たちには、容赦の余地はありません。
彼らは生けるまことの神に逆らいました。
神の力を知るまで、彼らは屈服させられます。
これが裁きであり、そして幾世紀にもわたる歴史が証明しているように、この御言葉通りに成就しました。
しかしながら、エジプトはもはや衰退して再び立ち上がれません。
終わりの日に、恵みがエジプトに示されます。
「その後、エジプトは、昔の日のように人が住むようになる。」
(エレミヤ書46章26節)
その日、ユダもイスラエルと呼ばれる十部族と共に救われ、このように述べられています。
「ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、おびえさせる者はだれもいない。」
(エレミヤ書46章27節)
主は選ばれた者を決して忘れません。
主は、彼らを正すために追いやった国々を完全に滅ぼすことはできます。
しかし、完全に滅ぼすことはしません。
彼らは正されなければなりません。
主の聖さは、彼らが全く罰を受けないことを要求しています。
主の恵みは、彼らが再び地に定住し、主の契約による哀れみを受けられることが保証されています。
エジプトに関して主の御心を述べた後、エレミヤは次にフィリスティアについての主の御言葉を述べます。
フィリスティア
ペリシテ人はカナンの地の西の境界に住んでいました。
彼らはもともとエジプト出身であり、そのため典型的には、祝福と特権の地に住む者としての立場を占め、世の改心していない者たちについて語られています。
彼らは救われていない信仰告白者であり、神の子であると偽りながら、実際には神の真理と神の民の敵です。
エレミヤによって預言され、その後すぐに文字通り成就した彼らへの世の裁きは、彼らが型となっているキリスト教世界にある背教の人たちに間もなく下る、さらに恐ろしい裁きを象徴的に告げるものです。
47章7節はこの主題に充てられています。
最初に語られた日付は明確に述べられていませんが、1節には「パロがまだガザを打たないうちに」であったと記されており、これはエジプトに関する最初の預言の頃とほぼ同じ時期だと考えられます。
北から「水が上って来て」、つまりバビロニア軍が彼らを圧倒することを意味します。
その反面、南のエジプトの勢力も彼らに逆らうことになっていました。
偽善者は世間からも憎まれます。
恐怖と苦悩が彼らを襲い、父子は恐ろしい大虐殺に圧倒されます。
ペリシテ人に起源を持つフェニキアの街、ティルスとシドンは、彼らを助ける力を持っていません。
ペリシテを滅ぼそうとしていたのは主です。
この好戦的で攻撃的な民の罪の杯は満ちていました。
彼らは主の怒りの力を知らなければなりません。
「カフトルの島」とは、アブラハムとロトの時代から彼らが占領してきた一帯の地域を指す総称です。
カフトルとはエジプト語で、約束の地におけるこれらの侵入者たちの古来の故郷と血統をはっきりと示しています。
「ガザは頭をそられ」とは、長らくユダの領土であったこの古代都市(ヨシュア記10章41節、士師記1章18節、列王記上4章24節)が、再び元の領主の手に落ちたことを示しています。
ガザは破壊に捧げられ、その徹底ぶりは、都市と人々を地の面から削ぎ落とすほどです。
これは預言者たちが完全な荒廃を表すためにくりかえし用いた比喩です。
(イザヤ書7章20節、エゼキエル書5章1、2節、アモス書8章10節など)
髪は神への依存の強さ(サムソンのように)と栄光(女性のように)を象徴します。
しかし、髪の毛のないことは両方の不在を示しています。
ペリシテは敵の前で弱く無力であり、栄光は単なる思い出となり力は失われました。
アシュケロンもまた、「アナク人の残りの者」(エレミヤ書47章5節)とともに滅ぼされることになっていました。
ここもヨシュアの時代にペリシテ人の領主たちが支配した五つの街の一つに住む者たちです。
立地と周囲の肥沃な土地において、他に並ぶものがないほど優れていました。
ユダの荒廃によってペリシテ人は再びこの地を占領することができたはずですが、彼らの安息の時は長く続いていません。
彼らは、反抗した主が遣わした軍勢の力の前に、打ち砕かれ、陥落しなければなりません。
「主の剣」は、アシュケロンへの任務が完了するまで静まることはできません。
任務が達成されたなら、さやに納められます。
神は、パロとネブカデネザルの軍隊による数え切れないほどの残虐行為を許したわけではありません。
しかし、御心に反するすべてのことにもかかわらず、神はそれらを用いて、長きにわたり御自分の民を弾圧し敵としてきた者たちに即座に復讐を果たされました。
神は世界の支配者であり、諸国民を支配しておられます。
「正義は国民を高め、罪は民の恥辱となる」という言葉は、当時も今も真実です。
ペリシテへの責任が終わると、預言者は突然、モアブ戻ります
モアブ
やや長い48章は、汚名を負ったロトとその哀れな長女の子孫に対する主の御言葉で占められています。
次の章では、その弟の子孫に降りかかる災難について部分的に扱っています。
これらのモアブ人は型として、現在の大規模で無頓着な人たちを描いています。
彼らは「生きているとされているが、実は死んでいる」(ヨハネの黙示録3章1節)人々であり、ヘブル人への手紙12章8節では「私生子であって、ほんとうの子ではない」者として呼ばれています。
私生児として生まれたモアブは、イスラエルに相続地を得る権利はありませんでしたが、死海の東岸に住む近隣の民です。
このように、生気のない、安易な信仰告白が示されています。
このような人々は、主の子供たちに与えられる懲らしめを受けずに、生涯を軽々しく過ごしてしまうかもしれません。
しかし、裁きは必ず来ます。
冒頭の節におけるモアブへの呼びかけ方は注目に値します。
「モアブについて。イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。」
(エレミヤ書48章1節)
これはモアブとイスラエルの密接な関係が浮き彫りにされています。
この国々の他のどの国に対しても、神は御自身を「イスラエルの神」と呼んでおられません。
モーセが約束の地を眺望したモアブの山ネボ、民数記32章37節でキルヤタイムと、何も知られていない要塞都市ミスガブに災いが告げられています。
「策略の町」ヘシュボンでは、その名の通りに「彼らは悪事を企てました。」
マデメン、つまり「糞の塚」は虐殺の場となります。
ホロナイムとルヒテも同じ様に略奪されます。
(エレミヤ書48章1~5節)
「もはやモアブの栄誉はない。」
(エレミヤ書48章2節)
住民たちは命を守るように逃げ、そして「荒野の中の野ろばのようになれ」(エレミヤ書48章6節)と警告されています。
なぜなら、神は彼らを完全に滅ぼされることを意図しておられないからです。
ここで野ろばと訳されていますが(文字通りには「裸の木」)は砂漠の低木で、生命力が豊かです。
この木はたとえ一部が親木から引きちぎられ、風に吹き飛ばされても、落ちた場所に根を張ります。
この比喩がモアブの残された民に適応できることは明らかです。
彼らの子孫は今日も生き続け、千年王国においても留まります。
17章6節では、同じ比喩が人に頼る者にも適応できますが、そこでは植物の裸の状態に注目されています。
モアブの守護神ケモシュは恥ずかしめを受けることになっていました。
「荒らす者がすべての町にはいって来る。一つの町ものがれることができない。谷は滅びうせ、平地は根絶やしにされる。主が仰せられるからだ。」
(エレミヤ書48章7、8節)
唯一の安全は逃げることです。
主の裁きの業を怠る者には主の呪いが下るからです。
それは容赦のないものとなり、血を流すことから剣を遠ざける者は裁きに専念しなければなりません。
(エレミヤ書48章9節、10節)
モアブは長い間、罰を免れてきました。
その結果、彼らは傲慢で無頓着な生活に落ち着いてしまい、至る所で行われていた忌まわしい行いに完全に無関心になっていました。
「モアブは若い時から安らかであった。彼はぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、かおりも変わらなかった。」
(エレミヤ書48章11節)
この状況はもはや容認できません。
主はこのように言われます。
「それゆえ、見よ、その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、彼に酒蔵の番人を送る。彼らはそれを器から移し、その器をあけ、そのつぼを砕く。」
(エレミヤ書48章12節)
その結果、彼らのケモシュへの信頼が打ち砕かれます。
「モアブは、ケモシュのために恥を見る。イスラエルの家が、彼らの拠り頼むベテルのために恥を見たように。」
(エレミヤ書48章13節)
ベテルとは、ヤロブアムが立てた子牛のことです。
モアブの滅亡が永遠に続くものではなかったいことは明らかです。
イスラエルも同じように、彼らも相応の罰を受けるはずでしたが、その懲らしめは最終的に矯正となりました。
14節から25節では、預言者は略奪者の軍隊が進軍してくる様子の幻を見ています。
この興味深い民族の街の住民の恐怖と最終的な敗走を鮮明に描写しています。
「モアブの角は切り落とされ」とは、彼のすべての力が打ち砕かれることを意味します。
彼は傲慢さから「主に対して高ぶり」、イスラエルが苦難に見舞われた時も、彼らを誇っていました。
「へどを吐き散らし、彼もまた物笑いとなる。」(エレミヤ書48章26、27節)
怒りの波が彼らに降りかかる前に、町の住民は安全のために「岩」に逃げるよう警告されます。
このように残された民が守られるのです。
彼らは「穴の入口のそばに巣を作る鳩のようになれ」(エレミヤ書48章28節)と勧められます。
高慢は滅びに先立ち、傲慢な心はつまづきに先立ちます。
この忌まわしい性質が、ロトの子孫に特に顕著でした。
「私たちはモアブの高ぶりを聞いた。実に高慢だ。その高慢、その高ぶり、その誇り、その心の高ぶりを。」
(エレミヤ書48章29節)
モアブが謙遜でないなら、謙遜にならなければなりません。
天の支配を認めない個人だけでなく、国家も謙遜にならなければなりません。
全地に神の御手が下ります。
たとえ異教徒の軍隊が用いられたとしても、それは神の御手だからです。
このような悲惨な悲しみを預言する者が、涙と激しい叫びをもって預言するのは、ふさわしいことなのです。
(エレミヤ書48章30~34節)
偶像崇拝は彼らの町々から廃絶され、このように述べられています。
「モアブのすべての屋根の上や、広場には、ただ嘆きだけがある。「わたしがモアブを、だれにも喜ばれない器のように、砕いたからだ。――主の御告げ。――」」
(エレミヤ書48章38節)
これは、はるか昔にイスラエルに関して用いられた陶器師と粘土の比喩と同じです。(18章)
「モアブは滅ぼされて、民でなくなった。主に対して高ぶったからだ。」
(エレミヤ書48章42節)
これはモアブの恐ろしい罪です。
多くの者がモアブの足跡に従ってきました。
そのような者たちにとって、長い眠りについたように見えるかもしれませんが、裁きは最後には確実に下されます。
たとえそれが一時的なものであったとしても、それが崩れ落ちる時、逃れる術はありません。
「恐れと穴とわなとが、あなたを襲う」のです。(エレミヤ書48章42~46節)
このようにバラムの預言は、主が「モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く」(民数記24章17節)時がついに成就するのです。
「しかし終わりの日に、わたしはモアブの捕われ人を帰らせる。
――主の御告げ。――」ここまではモアブへのさばきである。」
(エレミヤ書48章47節)
千年王国において、主が御自身の時に、祝福された唯一の君主、王の王、主の主である方が誰であるかを明らかにされる時、モアブは主の民と共に喜び、残された民は私たちの神とキリストの世界王国に入るために生き残ります。
隣国のアモン人の王国の責任
とても短く、次の章の冒頭の6節ですべてが説明されています。
前述の通り、アモン人はロトの末娘の子孫であり、典型的にはモアブと実質的に同じことが語られています。
しかし、シモン・マグスとその無数の親族のように、神の真実な教会を食い物にする者たちをも示している可能性があります。
彼らは常に好戦的な民族でした。
おそらくそのせいで相当数の人々が滅亡したのです。
というのも、今ここで考察している国家ほど広大な地域を占領した記録は見当たらないからです。
落ち着きがなく、略奪的で遊牧民であった彼らは、城壁で囲まれた街を数多く有していなかったし、モアブ人のような高度な文明も享受していません。
モアブの場合と同じ様に「彼らに争いをしかけてはならない」(申命記2章19節)と民に指示したにもかかわらず、彼らは最初からイスラエルの敵でした。
エレミヤの時代には、彼らはガドのいくつかの街、そしておそらくルベンとベニヤミンの街にも居住していました。
彼らの首都は昔と同じくラバトで、ガドの国境のすぐ向こう側です。
大胆で恐れを知らぬ者でしたが、大きな街を持たなかった彼らは、モアブに見られる国家の栄光を誇りとすることができません。
しかし、ここで彼らに対してなされている非難は、モアブが「あなたは自分の財宝に拠り頼んで、言う。『だれが、私のところに来よう。』」というものです。(エレミヤ書49章4節)
このように、彼らはより教養のある近隣の人々と同じ様に、神から孤立していました。
49章1節で主はこのように尋ねています。
「イスラエルには子がないのか。世継ぎがないのか。なぜ、彼らの王がガドを所有し、その民が町々に住んだのか。」
(エレミヤ書49章1節)
アモン人はイスラエルの捕囚とさまざまな苦難を利用して富を蓄え、自分の土地に隣接する領土を占領しました。
「それゆえ、見よ、その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、アモン人のラバに戦いの雄たけびを聞かせる。
そこは荒れ果てた廃墟となり、その娘たちは火で焼かれる。イスラエルがその跡を継ぐ。」と主は仰せられる。」
(エレミヤ書49章2節)
つまり、アモンの勢力は間もなく打ち砕かれ、イスラエルは奪い取った街を再び占領することになります。
すでにこれは部分的に成就しています。
千年王国において、イスラエルは自分の土地に住み、恐れる者が誰もいなくなる時、より完全な成就を迎えます。
預言者は、嘆きと悲しみがアモンの高慢と慢心に取って代わるであろうと宣言しました。
アモンの王は君たちや祭司たちと共に捕囚となり、剣を逃れた民は皆、国から追い出され、「あなたがたはみな、散らされて、逃げる者を集める者もいない」のです。
その後、懲らしめが祝福をもたらした時、アモンの民はモアブの場合のように回復します。(エレミヤ書49章3~6節)
エドムに対する預言の言葉はもう少し長く続きます。
エドム
「エサウ、すなわちエドム」の子孫は、常に兄ヤコブの子孫の敵でした。
オバデヤの短い預言と、これから述べる箇所を比較することで、読者はこの横暴な民族の罪と破滅の全体像を理解することができます。
それは、霊に逆らって常に欲望を抱く肉が、その象徴として現れています。
したがって、エドムの復興はあり得ません。
彼らは完全に断ち切られる運命です。
人間の知恵ではこの傲慢な国を救うことはできず、あらゆる計略は無駄に終わります。
「エドムの災い」は間近に迫っていました。
神がそれを定めたのです。
誰一人として救われるべきではありません。
「ぶどうを収穫する者たちが、あなたのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さない。盗人は、夜中に来るなら、彼らの気のすむまで荒らす。」
(エレミヤ書49章9節)
しかし、エサウの子孫は、民族性に関して言えば、完全に滅ぼされる運命にありました。(エレミヤ書49章7~10節)
この点に関して、後世の多くの苦難に遭った聖徒たちにとって計り知れない慰めの源となった貴重なメッセージを見つけることは、心を打つものです。
「あなたのみなしごたちを見捨てよ。わたしが彼らを生きながらえさせる。
あなたのやもめたちは、わたしに拠り頼まなければならない。」
(エレミヤ書49章11節)
これは、エドムの無力で弱い者たちにさえ神が恵み深く備えてくださいました。
これは、神の真実な同情心を何とも幸いに物語っています。
裁きは神の不思議な御業です。
神の聖さは、罪が扱われることを要求します。
神の義なる支配において、不義を働いた諸国民は滅びなければなりません。
しかし、神は卑しい者の叫びを忘れず、貧しい者や困窮している者を常に覚えておられます。
やもめと孤児は、神の愛と憐れみを特別に求める権利があります。
この要求が無駄になったことは一度もありません。
これはエドムの苦悩の暗い情景の中で唯一の明るい光です。
彼らは罰を免れることはできず、必ず主の怒りの杯を飲まなければなりません。
周辺諸国は、これをもたらすために用いられる道具となりました。
エドムが鷲のように高い巣を築こうとも、主は彼をそこから引きずり下ろし、その街と要塞を荒廃させるのです。
その破滅はソドム、ゴモラ、そして平原の街と同じ様に完全なものとなります。
ヨルダン川の隆起から出てくる獅子のように、敵は強い者の住まいに向かって立ち上がり、勇士たちの心は苦悩する女の心のようになるのです。(エレミヤ書49章12~22節)
預言者はここで唐突に結論づけています。
回復の言葉はありません。
オバデヤも証言しているように、それは完全かつ取り返しのつかない破滅です。
ダマスコ
次に、差し迫った破滅が告げられています。
かつて、大きな街であったこの街はすでに栄光を失いつつあり、シリア帝国はネブカドネザルの朝日を前に青ざめていました。
当時名を馳せたハマトとアルパドは困惑していました。
シリア軍敗北の悪い知らせが彼らに届いたのです。
「彼らは海のように震えおののいて恐れ、静まることもできない。
ダマスコは弱り、恐怖に捕われ、身を巡らして逃げた。産婦のような苦しみと苦痛に捕えられて。」
(エレミヤ書49章23、24節)
逃げるには遅すぎました。
征服者が戸口に迫っています。
「それゆえ、その日、その若い男たちは町の広場に倒れ、その戦士たちもみな、断ち滅ぼされる。――万軍の主の御告げ。――
わたしは、ダマスコの城壁に火をつける。その火はベン・ハダデの宮殿をなめ尽くす。」
(エレミヤ書49章25~27節)
このように、預言者はわずか5節で、古代における偉大な勢力の一つの没落を簡潔に描写しています。
アラビア
さまざまな部族を率いるハツォルもまた、ネブカデネザルの目的と最終的な勝利を知らされます。
ケダルとハツォルは征服されます。
四方八方に恐怖が広がります。
これらの牧畜民の羊や牛は征服者の軍隊の糧となります。
彼らの財宝はすべて略奪されます。
(エレミヤ書49章28~33節)
「ハツォルはとこしえまでも荒れ果てて、ジャッカルの住みかとなり、そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない。」
(エレミヤ書49章33節)
これらの獰猛なアラビア諸部族の父は、アブラハムとハガルの長子イシュマエルです。
ガラテヤ人への手紙に記されているように、彼らは肉に従って生まれ、律法的な行いを通して祝福の立場を得ようと努める者たちを描いています。
しかし、「奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない」(ガラテヤ人への手紙4章30章)という現実を目の当たりにしています。
エラム
不安定なゼデキヤ王の治世の初め、主の御言葉はエレミヤに臨みました。
エラムは強大なペルシャ王国の同盟国として、諸国の歴史において重要な役割を果たす運命にあり、後にメディア王国と同盟を結び、クロス王の下で帝位に就きました。(エレミヤ書49章34節)
当時、エラムはバビロニアの属州でしたが(ダニエル書8章2節)、後に独立した王国として繁栄しました。(創世記14章1~12節)
預言者が諸国民に証言する中で、エラムの責任は、先行する王国や部族と関連してここに示されています。
主は「わたしはエラムの力の源であるその弓を砕く」のです。
「わたしは天の四隅から、四方の風をエラムに来させ、彼らをこの四方の風で吹き散らし、エラムの散らされた者がはいらない国はないようにする。」
(エレミヤ書49章36節)
敵の前に脅え、彼らは主の激しい怒りを知るべきでした。
主は彼らを滅ぼすまで剣を彼らに送るのです。
彼らの王と君主たちが滅ぼされる時、主の王座はエラムに据えられるのです。
これはネブカデネザルの場合と同じです。
彼らは「エラムにわたしの王座」が置かれた(エレミヤ書49章35~38節)ことを知るべきでした。
この預言は、勝利を収めたマケドニア軍とその同盟軍が、アレクサンドロス大王率いる豪華なペルシア軍を駆逐した時に成就しました。
しかし、この時から預言が語られるまでの間に、エラムは取るに足らない王国から、世界が知る強大な帝国の一つの不可欠な一部へと成長し、バビロニア人を滅ぼし、ヨーロッパの弱小諸国を除く全世界を支配しました。
しかし、神が定めた時、エラムの力はすべて無力となり、預言の真実を証する者と化したのです。
しかし、エラムの最後には希望があります。
主がエラムの捕囚を再び解放することを誓われたからです。
ですから、何世紀にもわたる変化にもかかわらず、現在においても同じ人々が存在しているのがわかります。
そして、主の来るべき王国において、エラムの残された者たちは居場所を持ちます。
その時、生き残った国々は、メシアの哀れみ深く、正義に満ちた支配を受けます。(エレミヤ書49章39節)
このように主は、インマヌエルの地を取り囲む異邦の民に関して「来たるべきこと」を啓示されました。
神の復讐の杯は、互いに回されなければなりません。
裁きは神の家から始まり、イスラエルとユダが捕囚に引き渡されました。
異教徒の隣人たちは、彼らの敗北を喜びました。
しかし、彼らもまたその杯を飲み、「高ぶって歩む者をへりくだった者とされる」(ダニエル書4章37節)ことを学ばなければなりません。
エジプトとその娘ペリシテ、そしてイスラエルと密接な関係にあるモアブ、アモン、エドム、そしてシリア、アラビア、エラムも、皆同じように神の怒りのほうきで掃き清められます。
エレミヤは、それが歴史の出来事となるはるか昔から、そして、その後、事実となるはるか昔から、そのことを預言していました。
もう一つの国についても、神は同じ言葉を語っておられます。
それは、生ける神から離れたユダを懲らしめるために用いられたまさにその力です。
バビロンは、罪が満ちた時に滅ぼされなければなりません。
しかし、このことについては別の章に譲りましょう。
第25章 バビロンの滅亡と残された者の救い
(50章、51節)
新約聖書には、世的な栄光と、奥義として、あるいは霊的なバビロンの恐るべき滅亡を描写する厳粛な章が二つあります。
(ヨハネの黙示録17、18章)
私たちの預言者ヨハネの書には、ユーフラテス川沿いの街、文字通りのバビロンの栄光と滅亡を詳細に描写する二つの章があります。
この街は、ヨハネの黙示録のバビロンの型と対型として対応しています。
シナル平原の文字通りの街が再び建設され、世界の女王都市となる運命にあるのかどうかは、多くの人々の疑問となってきました。
そのように考える人々は、ヨハネの黙示録のバビロンとは、ローマとその不浄な政治的宗教体制ではなく、何世紀にもわたる眠りから目覚めたカルデアの街そのものを指すと考えています。
彼らは、バビロンもローマも七つの丘、あるいは塚の上に建てられたという事実を指摘しています。
また、エレミヤの預言がイスラエルの復興とバビロンの滅亡を非常に密接に結び付け、この街が再び世界の驚異となることが預言の正確さにとって不可欠だと考えています。
その反面、この見解に反対する者たちは、文字通りのバビロンの復活は空想に過ぎず、今私たちが目にするこれらの章の教えとは全く相容れないものだとみなしています。
彼らは、シナルの首都陥落に関するエレミヤの鮮明な描写を読めば、普通の人なら誰でもそこからシナルが永遠に滅ぼされたと推測できると主張しています。
彼らの判断では、特定の理論を唱えない限り、これがこの箇所のありのままの意味です。
彼らには、さまざまな時代の多くのクリスチャンが信じているように、終末論におけるバビロンをローマ以外のものと想定する正当な理由はないように思われます。
この描写は、過去の教皇と異教徒のローマと非常によく一致しているだけでなく、教会が巻き込まれた後の未来における教皇制の発展を容易に予測できるものとも一致しています。
この見解はダニエル書記長や旧約聖書と新約聖書の他の預言者の預言と非常に完全に一致しているように見えるため、「預言の確かな言葉」が実行されるために文字通りの街の再建が必要であると信じることは難しいと考えています。
筆者は、攻撃的で独断的な態度を取るつもりはありませんが、この類の立場に身を置いています。
以下では、エレミヤ書のこの部分をこの観点から考察せざるを得ません。
読者は「すべてのことを吟味し、良きものを堅く守る」よう、注意深く努めるべきです。
これらの相反する見解があるため、私たちは諸国民の預言を述べている他の章に関して行ったように、これらの章を簡単に見ることはできません。
しかし、読み進めるにつれて教えの全体的な傾向を指摘しようと努めながら、これらの章を節ごとに見ていきます。
「主が預言者エレミヤを通して、バビロンについて、すなわちカルデヤ人の国について語られたみことば。」
(エレミヤ書50章1節)
かつて、バビロンの台頭を預言した同じ人物が、今やその破滅を預言していることは注目に値します。
バビロンの権威に従うよう助言した人物が、今度はイスラエルの残された者がバビロンから逃れ、その罪と裁きに加担しないようにと勧告しています。
これは完全に一貫しています。
エレミヤは政治家でも、廷臣でも、人の機嫌を取る者でもありません。
彼は「心を試される神を喜ばせるように」語りました。
主がユダを懲らしめる時、主はネブカデネザルを杖として選びました。
バビロンが主に逆らって立ち上がった時、バビロンもまた倒れ、ユダよりもはるかに低く落ち、二度と立ち上がれません。
「諸国の民の間に告げ、旗を掲げて知らせよ。隠さずに言え。
『バビロンは捕えられた。ベルははずかしめられ、メロダクは砕かれた。その像ははずかしめられ、その偶像は砕かれた。」
(エレミヤ書50章2節)
神は存在しないものを、あたかも存在するかのように語っています。
バビロンを特徴である偶像崇拝の特殊な形態の崩壊と、クロスの一神教の軍隊によるその街の陥落を、神は鮮やかに描写しています。
ベルは太陽神であり、さまざまな民族からバアル、ゼウス、ユピテル、オシリスなどの名で崇拝されていました。
メロダクは、同じ悪魔神の別名に過ぎません。
バビロニアの碑文では、彼はマルドゥクと呼ばれています。
しばしばこの二つの名前はベル・マルドゥクのように結合して用いられます。
ベルは、古代アッカド人の間で彼が崇拝されていた名前です。
彼はニップルのベルと呼ばれることもあります。
主の力の前に、彼は恥ずかしめを受け、すべての像は粉々に打ち砕かれます。
「なぜなら、北から一つの国がここに攻め上り、この地を荒れ果てさせたからだ。ここには住む者もない。人間から家畜に至るまで逃げ去った。」
(エレミヤ書50章3節)
北の国はメディア・ペルシャ連合であり、その終焉については49章で述べました。
一般的にペルシャ人は、目に見えない唯一の神を信じ、火の象徴を用いて崇拝していました。
ペルシャ人は偶像崇拝を容赦ない憎悪をもって忌み嫌い、偶像を破壊する国です。
この民族を用いて、あらゆる偶像崇拝の根源であるバビロンとその強力な奥義の祭司階級を打倒するのは、まさにふさわしいことです。
この方法によって、捕囚されていたイスラエルとユダの民が故郷の地へ帰還する道が開かれました。
「その日、その時、――主の御告げ。――イスラエルの民もユダの民も共に来て、泣きながら歩み、その神、主を、尋ね求める。
彼らはシオンを求め、その道に顔を向けて、『来たれ。忘れられることのないとこしえの契約によって、主に連なろう。』と言う。」
(エレミヤ書50章4、5節)
クロスが与えた機会にこのように応じたのは、ほんの一握りの人々であったことが分かります。
しかし、彼らはその途中で繁栄しており、メシアが現れた時には、その地に定住しています。
しかし、永遠の契約は、彼らが未来に帰還するまでは真実な締結はされません。
最初の契約は、彼らが千年王国の祝福に導かれる最終的な回復の象徴に過ぎません。
主は、バビロンの支配下における御自分の民の苦悩を、感動的に描写しています。
「わたしの民は、迷った羊の群れであった。その牧者が彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。
彼らは山から丘へと行き巡って、休み場も忘れてしまった。
彼らを見つける者はみな彼らを食らい、敵は『私たちには罪がない。彼らが、正しい牧場である主、彼らの先祖の望みであった主に、罪を犯したためだ。』と言った。」
(エレミヤ書50章6、7節)
こうして諸国は結託して、他のどの国よりも祝福を享受していた破滅した国に、恥ずかしめと非難を浴びせかけました。
主は彼らを懲らしめるためにこれらすべてを許されました。
しかし、傲慢な異邦人勢力が示した憎しみにも気づかいていません。
主が御自身の民の解放と、彼らを弾圧する者たちの裁きのために目を覚ます時が近づいていました。
捕囚の指導者たちに主は、「バビロンの中から逃げ」(あるいは、移れ)、「カルデヤ人の国から出よ。群れの先頭に立つやぎのようになれ」(エレミヤ書50章8節)と命じました。
主のさまよえる羊たちは、「イスラエルの牧者」の導きと世話のもと、元々の囲いに戻されます。
「見よ。わたしが、大国の集団を奮い立たせて、北の地からバビロンに攻め上らせる。
彼らはこれに向かって陣ぞなえをし、これを攻め取る。彼らの矢は、練達の勇士の矢のようで、むなしくは帰らない。
カルデヤは略奪され、これを略奪する者はみな満ち足りる。――主の御告げ。――」
(エレミヤ書50章9、10節)
「北からの大国の集団」は、ペルシャ人とメディア人、そしてエラム人やその周辺の諸国民で構成されています。
彼らは強大な征服者に貢物を納めるようになったのですが、ダニエルはバビロン王の宮廷でクロスの勝利をはっきりと預言しています。
かつて、栄華を誇ったこの街が荒廃した理由は次の2節で、これらの国々の破壊の要約が示されています。
「わたしの相続地を略奪する者たち。あなたがたは楽しみ、こおどりして喜び、穀物を打つ雌の子牛のようにはしゃぎ、荒馬のようにいなないても、あなたがたの母はいたく恥を見、あなたがたを産んだ者ははずかしめを受けた。
見よ。彼女は国々のうちの最後の者、荒野となり、砂漠と荒れた地となる。」
(エレミヤ書50章11、12節)
神の御言葉に対する真実な信仰だけが、これほど成就しそうにない預言を、生まれながらの人間の心に信じさせる力を与えています。
エレミヤが語りました。
あるいは書いた当時、バビロンは世界最大の都市であり、難攻不落の防衛力を持つように見えていました。
百もの門を持つその巨大な城壁は、何世紀にもわたる包囲にも耐えられるように計算されていました。
特別に、耕作に適した広大な内部空間は、あらゆる飢饉の可能性を遮断していたようでした。
しかし、神は既に語られていました。
住民は知らなかったものの、傲慢で贅沢で偶像崇拝的なバビロンの運命は決定づけられていました。
かつて、街があった場所は、エレミヤとイザヤが預言した通り、今や全てが砂漠となっています。
イザヤ書47章を参照にしてください。
考古学者たちは、幾世紀もの瓦礫の下に深く埋もれていたその遺跡を発見するのにさえ、大変な苦労を要しました。
それは決して再建されることはありません。
偽ることのできない神がこのように宣言されたからです。
「主の怒りによって、そこに住む者はなく、ことごとく廃墟と化する。
バビロンのあたりを通り過ぎる者はみな、色を失い、そのすべての打ち傷を見てあざける。」
(エレミヤ書50章13節)
この節に照らし合わせると、他に裏付けとなるものがなければ、この街が再び破壊されるために再建されなければならないという考えは、全くあり得ません。
根拠となる理論がなければ、これらの言葉から、一度破壊された街は二度と復活することはない、という以外に結論づけることはできません。
エレミヤの話の聞き手たちは、きっとそのように理解したはずです。
エレミヤがクロスの治世中に始まった破壊とは別の破壊について言及しているという兆候は全くありません。
ベルシャザルがクロスの軍隊に征服され、殺害された時、荒廃はすぐには達成されなかったと主張するのは無意味です。
預言者は突然の消滅を預言しているわけではありません。
街はまず「国々のうちの最後の者」となり、やがて「荒野」となるのです。
まさにこれが起こりました。
神の御言葉は文字通り成就しました。
「聖書は廃棄されるものではないから」からです。
(ヨハネの福音書10章35節)
まるで侵略軍が街を包囲するのを見ているかのように、エレミヤはペルシャ軍団の猛攻を生き生きと描写しています。
「すべて弓を張る者よ。バビロンの回りに陣ぞなえをし、これを射よ。矢を惜しむな。彼女は主に罪を犯したのです。
その回りに、ときの声をあげよ。彼女は降伏した。その柱は倒れ、その城壁はこわれた。
これこそ主の復讐だ。彼女に復讐せよ。彼女がしたとおりに、これにせよ。
種を蒔く者や、刈り入れの時にかまを取る者を、バビロンから切り取れ。
しいたげる者の剣を避けて、人はおのおの自分の民に帰り、自分の国へ逃げて行く。」
(エレミヤ書50章14~16節)
「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ人への手紙6章7節)というのは神の支配の揺るぎない法であり、国家においても同じです。
バビロンが他者にしたように、バビロンにもそのようにされました。
新約聖書の預言者は奥義としてのバビロンについて、非常によく似た言葉を使っています。
ヨハネの黙示録18章6節を参照にしてください。
報復は長く遅れるかもしれませんが、恒星のように確実です。
「神は侮られるような方ではありません。」(ガラテヤ人への手紙6章7節)
神は今も宇宙の倫理的支配者として王座に座っておられます。
ですから、国家にとっても個人にとっても、主イエスの言葉を覚えて行動することは、とても重要なことなのです。
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」
(マタイの福音書7章12節)
再び、預言者はイスラエルに目を向け、神の揺るぎない約束を宣言します。
彼らは罪を犯しました。
それも非常に大きな罪を犯しましたが、神の御言葉がこのように無効にされることはありません。
「イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリヤの王がこれを食らったが、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで食らった。
それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはアッシリヤの王を罰したように、バビロンの王とその国を罰する。
わたしはイスラエルをその牧場に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食べ、エフライムの山とギルアデで、その願いは満たされる。」
(エレミヤ書50章17~19節)
アッシリアの傲慢な力が打ち砕かれたのと同じように、バビロンも陥落します。
この不可能に思える出来事が起こるのと同じように、イスラエルは先祖の故郷に帰還します。
ここで述べられていることは、エズラとゼルバベルのもとでの単なる一時的な帰還ではありません。
「その日、その時、――主の御告げ。
――イスラエルの咎は見つけようとしても、それはなく、ユダの罪も見つけることはできない。
わたしが残す者の罪を、わたしが赦すからだ。」
(エレミヤ書50章20節)
これらのことは、彼らが「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見る」(ゼカリヤ書12章10節)ときにのみ起こります。
ユダの残された者は、後の十部族の残された者と同じ様に言うのです。
「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。」
(ホセア書6章1節)
再び主題に戻ります。
エレミヤはバビロンの荒廃を幻のように描き続けます。
「メラタイムの地、ペコデの住民のところに攻め上れ。彼らを追って、殺し、彼らを聖絶せよ。
――主の御告げ。――すべて、わたしがあなたに命じたとおりに、行なえ。」
(エレミヤ書50章21節)
メラタイムは、権威ある権威者たちによれば「二重の反逆」を意味しています。
ここではカルデアを象徴的に指しています。
ペコドは「訪問」を意味すると考える人もいます。
また、エゼキエル書23章23節を参照すれば、首都への貢納をする街を指していると考えられます。
もし、そうであれば、現在ではその痕跡を見つけることは不可能です。
単に帝都の特定の地区または郊外を指しているのではないかと考える者もいます。
「国中には戦いの声、大いなる破滅。
万国を打った鉄槌は、どうして折られ、砕かれたのか。バビロンよ。どうして国々の恐怖となったのか。
バビロンよ。わたしがおまえにわなをかけ、おまえは捕えられた。
おまえはそれを知らなかった。おまえは見つけられてつかまえられた。おまえが主に争いをしかけたからだ。」
(エレミヤ書50章22~24節)
バビロンの大きな罪はまさにこれでした。
バビロンはいと高き方に逆らって自分を高めたのです。
偉大な街バビロンほど、偶像崇拝が恐ろしい形態と様相を呈した都市は他にありません。
前述の通り、バビロンはほとんどすべての異教の体系の母です。
秘儀主義的なバビロンもまた、多くの人が想像する以上に多くのものをバビロンから借用しました。
バビロンの恐るべき不敬虔さゆえに、ローマ教皇の大背教におけるほぼあらゆる非聖書的慣習は、バビロンの秘儀や儀礼にまで遡ることができます。
「主はその倉を開いて、その憤りの武器を持ち出された。
それは、カルデヤ人の国で、万軍の神、主の、される仕事があるからだ。」
(エレミヤ書50章25節)
バビロンを打ち破ることができたのは、クロスの優れた戦略でも、北軍の勇敢さでも、守備隊の不注意でもありません。
その強大な帝国の悪行が頂点に達した時、それを覆したのは神の御手です。
メディア・ペルシャ軍団は主を知らなかったが、主は彼らを呼び集めて言われました。
「主はその倉を開いて、その憤りの武器を持ち出された。それは、カルデヤ人の国で、万軍の神、主の、される仕事があるからだ。
その雄牛をみな滅ぼせ。ほふり場に下らせよ。ああ。哀れな彼ら。彼らの日、その刑罰の時が来たからだ。」
(エレミヤ書50章26、27節)
預言者の耳は、まだ来ていない事を聞くことに敏感で、未来の年月から伝わってくる音を聞き取ることができます。
「聞け。バビロンの国からのがれて来た者が、シオンで、私たちの神、主の、復讐のこと、その宮の復讐のことを告げ知らせている。」
(エレミヤ書50章28節)
その神殿はカルデアの冷酷な軍隊によって略奪され、焼き払われました。
聖なる器はバビロンへ運ばれました。
そして後にダニエル書から、ベルシャザルの不敬虔さの極みは、偶像崇拝の祝宴でこれらの聖なる器に偽りの神々への酒を注ぎ、イスラエルの神への最後の大きな侮辱となる恐ろしい祝宴に用いたことであったことが分かります。
「神殿の復讐」は確実です。
誰もそれを止めることはできません。
祝宴が続く間もなく、哀れな王の運命は決定された。
天秤にかけられた彼の力は及ばず、彼の王国は数えられ、終わりを迎え、メディア人とペルシャ人に与えられました。
「射手を呼び集めてバビロンを攻め、弓を張る者はみな、これを囲んで陣を敷き、ひとりものがすな。
そのしわざに応じてこれに報い、これがしたとおりに、これにせよ。主に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったからだ。」
(エレミヤ書50章29節)
それはバビロンの無知ではありません。
真実で生きている人々に次々と証しが与えられました。
バビロンはそれをすべて意図的に拒否し、全能者の「厚い盾の取っ手」(ヨブ記15章26節)に狂ったように襲いかかりました。
「それゆえ、その日、その若い男たちは町の広場に倒れ、その戦士もみな、断ち滅ぼされる。――主の御告げ。――」
(エレミヤ書50章30節)
神の裁きの手に落ちたバビロンは、悔い改めが遅すぎました。
そして、神の恐ろしい永遠の力を知りました。
「高ぶる者よ。見よ。わたしはあなたを攻める。
――万軍の神、主の御告げ。――あなたの日、わたしがあなたを罰する時が来たからだ。
そこで、高ぶる者はつまずき倒れ、これを起こす者もいない。
わたしは、その町に火をつける。火はそのまわりのものをすべて焼き尽くす。」
(エレミヤ書50章31、32節)
「高ぶる者はつまずき倒れ、これを起こす者もいない」という言葉は、この忌まわしい町が未来再建されることはあり得ないことを明白に示しているのではないでしょうか?
彼女には好機が訪れました。
彼女は自分の平和に属するものを盲目的に拒みました。
そして、最後の審判が下った時、彼女の没落は完全かつ決定的なものとなりました。
イスラエルの残された者たちと私たちにとって、次の言葉は貴重です。
「万軍の主はこう仰せられる。「イスラエルの民とユダの民は、共にしいたげられている。
彼らをとりこにした者はみな、彼らを捕えて解放しようとはしない。
彼らを贖う方は強く、その名は万軍の主。
主は、確かに彼らの訴えを支持し、この国をいこわせるが、バビロンの住民を震え上がらせる。」
(エレミヤ書50章33、34節)
イスラエルとユダは、主が救い主、すなわち、彼らを苦しめるすべてのものから解放してくださる神であることを知るべきです。
主は愛と憐れみによって、かつて、彼らを贖い、決して見捨てることなく、定められた時に立ち上がって彼らを救い出してくださいます。
主の慈しみは永遠に続きます。
たとえその対象がいかに取るに足らないものであっても、主の恵みは完全に示されなければなりません。
しかし、神の民に対する哀れみと憐れみについて読むならば、神の怒りの剣が敵を罰するために抜かれていることがわかります。
「剣が、カルデヤ人にも、――主の御告げ。――バビロンの住民、その首長たち、知恵ある者たちにも下る。
剣が自慢する者たちにも下り、彼らは愚かになる。剣がその勇士たちにも下り、彼らはおののく。
剣がその馬と車と、そこに住む混血の民にも下り、彼らは女のようになる。
剣がその財宝にも下り、それらはかすめ取られる。」
(エレミヤ書50章35~37節)
この聖句は容赦ない裁きが鮮やかに描写されています。
この裁きは明白なことなので、私たちの言葉は不要です。
次の聖句では、この恐ろしい大惨事の理由が明確に述べられています。
「その水の上には、ひでりが下り、それはかれる。ここは刻んだ像の国で、彼らは偶像の神に狂っているからだ。」
(エレミヤ書50章38節)
主の論争はバビロンとカルデアの人々だけと争ったのではなく、ニムロデの時代からシナルの平原に中心を置いていた悪魔組織全体と争っているのです。
「それゆえ、そこには荒野の獣が山犬とともに住み、だちょうがそこに住む。もう、いつまでも人は住まず、代々にわたって、住む人はない。」
(エレミヤ書50章38、39節)
確かにこのことは決定的なものです。
バビロンの復活を待ち望むのは、ただ滅ぼされることだけを願うのは、私たちの判断では、空虚な夢です。
バビロンは地の面から消し去られ、永遠に消え去ります。
「神がソドムと、ゴモラと、その近隣を滅ぼされたように、――主の御告げ。――そこには人が住まず、そこには人の子が宿らない。」
(エレミヤ書50章40節)
廃墟は完全で、取り返しのつかないものとなりました。
ユーフラテス川沿いの静かな塚は、死海沿いの塩原と同じくらい神の聖さをはっきりと証明しています。
41、42節は、ペルシャの騎兵隊とその同盟軍が贅沢にあふれた街を包囲するために進軍する様子を描写しています。
「見よ。一つの民が北から来る。大きな国と多くの王が地の果て果てから奮い立つ。
彼らは弓と投げ槍を堅く握り、残忍で、あわれみがない。その声は海のようにとどろく。
バビロンの娘よ。彼らは馬に乗り、ひとりのように陣ぞなえをして、あなたを攻める。」
(エレミヤ書50章41、42節)
槍と砦の森を率いる軍隊が、難攻不落を誇りとする街に近づく様子が目に浮かぶように描かれています。
「バビロンの王は、彼らのうわさを聞いて気力を失い、産婦のような苦しみと苦痛に捕えられる。」
(エレミヤ書50章43節)
カルデア軍の力、将校たちの才覚、そして首都を取り囲む城壁や要塞も、この恐ろしい災厄を食い止めることはできません。
バビロンは主に逆らって自分を高め、全能の神と力を比べようとしました。
しかし、二度と頭を上げることなどできないほど、塵によって砕かれます。
神に選ばれたクロスは、イザヤがはるか以前に名指しで呼ばれていました。
(イザヤ書45章1~4節)
彼は、ヨルダン川の増水から上って来る獅子として描かれ、水位の上昇によって荒野から人の住む地へと追いやられました。
「見よ。獅子がヨルダンの密林から水の絶えず流れる牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出そう。
わたしは、選ばれた人をそこに置く。
なぜなら、だれかわたしのような者があろうか。だれかわたしを呼びつける者があろうか。
だれかわたしの前に立つことのできる牧者があろうか。」
(エレミヤ書50章44節)
49章19節では、エドムの敵を描写するのとほぼ同じ言葉が使われています。
国家の罪に対する罰として神が遣わした軍隊の攻撃に、どんな堅固な居住地も耐えることはできません。
「それゆえ、バビロンに対してめぐらされた主のはかりごとと、カルデヤ人の国に対して立てられたご計画を聞け。
必ず、群れの小さい者まで引きずって行かれ、必ず、彼らの牧場はそのことでおびえる。」
(エレミヤ書50章45節)
主の戦いにおいては、最も弱い者でさえ強大な者を打ち負かすことができます。
主がただ一言告げるだけで、バビロンのあらゆる防備は崩れ落ちるエリコの城壁のようになってしまいました。
諸国民の驚愕は、この章の最後の節に表現されています。
「バビロンの捕えられる音で地は震え、その叫びが国々の間でも聞こえた。」
(エレミヤ書50章46節)
シリーズの最後となる次の章では、同じ一般的な主題が続きます。
「主はこう仰せられる。「見よ。わたしはバビロンとその住民に対し、破壊する者の霊を奮い立たせ、他国人たちをバビロンに送る。
彼らはこれを吹き散らし、その国を滅ぼす。彼らは、わざわいの日に、四方からこれを攻める。」
(エレミヤ書51章1、2節)
穀物がふるいにかけられ、もみ殻が風に吹き飛ばされるように、バビロンの住民も主の憤りの「滅びの風」によって吹き飛ばされます。
そこに見出される小麦は、罪のゆえに散らされたイスラエルとユダの弱々しい残された民だけでした。
「射手には弓を張らせ、よろいを着けてこれを襲わせよ。そこの若い男を惜しむことなく、その全軍を聖絶せよ。
刺し殺された者たちが、カルデヤ人の国に倒れ、突き刺された者たちが、そのちまたに倒れる。」
(エレミヤ書51章3節、4節)
あらゆる防衛戦の試みは無駄に終わる運命です。
主が滅ぼし尽くした街を救うために、弓兵も戦略も何の役にも立っていません。
「しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の主から、決して見捨てられない。
彼らの国は、イスラエルの聖なる方にそむいた罪に満ちていたが、」
(エレミヤ書51章5節)
イスラエルとユダは罪のゆえに主の懲らしめのムチの下にありましたが、彼らに対する主の契約に基づく憐れみは、何物も変えることができません。
彼らが関わらなければならなかったのは聖なる方です。
先に不義を見るよりも、清らかなことを見る目を持つ方です。
しかし、彼らの失敗でさえ、主の恵みの言葉と主の心の愛を変えることはできません。
主はそれでも彼らの味方であり、それゆえに彼らに敵対するすべてのものよりも、主は彼らの味方です。
それゆえ、主は彼らが倒れる前に裁きを告げ、滅びの都から立ち去るよう警告されました。
「バビロンの中から逃げ、それぞれ自分のいのちを救え。
バビロンの咎のために絶ち滅ぼされるな。これこそ、主の復讐の時、報いを主が返される。」
(エレミヤ書51章6節)
同じ様に、終末の鉢が地上に注がれる日々において、その恐ろしい時代の残りのユダヤ人たちに次の呼びかけがなされています。
「わが民よ。この女から離れなさい。
その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」
(ヨハネの黙示録18章4節)
義人ロトが天からの火が降りる前にソドムから救出されたように、ユダとイスラエルの人々にも主の怒りの訪れを逃れるためにバビロンから逃れる機会が与えられました。
エルサレムがテトゥス将軍によって占領される前と同じです。
クリスチャンたちは主イエスの言葉に従い、最後の攻撃の前に町から退却することを許されました。
同じ原則は、このディスペンテーションにおける教会にも適用されます。
教会は、七つの封印がされた書物が開かれ、罪深くキリストを拒むこの世界にラッパと鉢の裁きが下される前に、主のもとへ連れ去られるのです。
「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」
(ヨハネの黙示録3章10章)
「バビロンは主の御手にある金の杯。すべての国々はこれに酔い、国々はそのぶどう酒を飲んで、酔いしれた。」
(エレミヤ書51章7節)
偶像崇拝の酒は、ある国から別の国へと受け継がれてきましたが、その起源はバビロンにあります。
彼女の奥義としての対型は金の杯を手に持ち、彼女もまた「不品行のぶどう酒で」(ヨハネの黙示録17章1~6節)諸国民を酔わせます。
ここで、酒は霊的な姦淫、すなわち教会と世界の結合を象徴しています。
新約聖書のバビロンが、旧約聖書のバビロンといかに密接に結びついているかは、これから見ていくことになります。
「たちまち、バビロンは倒れて砕かれた。このために泣きわめけ。その痛みのために乳香を取れ。あるいはいやされるかもしれない。」
(エレミヤ書51章8節)
バビロンの陥落はあまりにも突然でしたが、前章で述べたように、彼女は瞬時に消し去られたわけではありません。
ここで、バビロンの陥落後、彼女を崇拝する者たちは彼女の回復のための治療法を提示しています。
しかし、時すでに遅かったのです。
彼女の終わりは定められています。
そこで残された民は宣言します。
「私たちは、バビロンをいやそうとしたのに、それはいやされなかった。私たちはこれを見捨てて、おのおの自分の国へ帰ろう。バビロンへの罰は、天に達し、大空まで上ったからだ。
主は、私たちの正義の主張を明らかにされた。来たれ。私たちはシオンで、私たちの神、主のみわざを語ろう。」
(エレミヤ書51章9、10節)
この尊い言葉をキリスト教世界の現状に適応させて考えてみることはできないでしょうか?
ローマ教皇とプロテスタントの教会が大いなるバビロンへと完全に発展したわけではありません。
しかし、信仰を告白する者には癒しがないことは、今なお明白です。
* 神の御言葉は拒まれ、その霊感に疑問が投げかけられます。
* 聖霊は消され、抵抗されています。
* 教会のかしらであるキリストの主権は事実上否定されます。
このような時代に、神の恵みと真理を重んじる者たちに残されたものは、こうした状況が蔓延するさまざまな集まりを捨て去ること以外に何があるでしょうか?
そして、ユダとイスラエルがシオンに戻ったように、私たちは再び古き道を願い求め、主イエスの御名のもとに集い、その尊い血によって私たちが神のもとに贖われた主の栄光を汚すことは、いかなる意味においても拒むべきです。
「私たちは、バビロンをいやそうとしたのに、それはいやされなかった。私たちはこれを見捨て」るのです。
(エレミヤ書51章9節)
決して清められないものを清め続けることは無駄なことです。
コリント人への手紙第一5章にもあるように、悪をもはや清めることができなくなった時、唯一の道は、テモテへの手紙第二2章15~21節にあるように、神と神の御言葉に反するすべてのものから自分自身を清めることです。
キリスト教の教師の地位に就く人々が、自分たちは単なる信心深さの見せかけの力を否定するなら、神とその真理に忠実であろうとする人々に残された道は、「こういう人々を避けなさい。」(テモテへの手紙第二3章5節)という戒めに絶対的に従うだけです。
再びエレミヤの言葉に戻ると、バビロンへの進軍の現実的な描写が目に入ります。
「矢をとぎ、丸い小盾を取れ。主はメディヤ人の王たちの霊を奮い立たせられた。
主の御思いは、バビロンを滅ぼすこと。それは主の復讐、その宮のための復讐である。
バビロンの城壁に向かって旗を揚げよ。見張りを強くし、番兵を立てよ。伏兵を備えよ。
主ははかりごとを立て、バビロンの住民について語られたことを実行されたからだ。」
(エレミヤ書51章11、12節)
50章28節を参照にしてください。
預言者は、敵の進軍を、目撃者の生々しさで描いています。
注意すべきは、クロス本人が全軍を指揮したわけではなく、「メディアの王たち」が率いていたことです。
ダニエル書5章31節によると、バビロンに派遣された軍の一部は、「メディア人ダリウス」の指揮下にあります。
同時代の歴史書はダリウスという実際の名前を使用していませんが、首都を包囲し略奪した軍隊を率いたのは勇敢なクロス自身ではなく、メディア人の首長であったことは確かです。
聖書は常に正確です。
それが生ける神の息吹そのものならば、間違いがあるはずがありません。
エレミヤはメディア軍の集結を生々しく描写するだけでなく、いくつかの傑作的な表現を用いて、皇帝の衛兵の自信に満ちた活動を示しています。
バビロンの安全を確実にするためにあらゆる予防措置が講じられました。
しかし彼らは、主の復讐の時が来たこと、侮辱され破壊された神殿に対する復讐の時が来たことを知りません。
「大水のほとりに住む財宝豊かな者よ」と一見安全に暮らし、と自惚れていましたこのように主に言われました。
「あなたの最期、あなたの断ち滅ぼされる時が来た。」
(エレミヤ書51章13節)
そして、続けてこのように言われました。
「万軍の主はご自分をさして誓って言われた。「必ず、わたしはばったのような大群の人をあなたに満たす。彼らはあなたに向かって叫び声をあげる。」
(エレミヤ書51章14節)
熱帯地方では一般的に存在する疫病である貪欲で這い回る生き物の猛攻撃によって緑のハーブ畑が破壊されました。
そのように、その庭園が七不思議の一つに数えられた古代世界の女王都市、傲慢なバビロンも破壊されるのです。
彼らが関係しているのは、諸国の無力な偶像のような者でも、また彼らの背後にいる悪意ある悪魔のような者でもありません。
「主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。」
(エレミヤ書51章15節)
蒸気、稲妻、そして雨を支配する全能者に対して、カルデア人は鎧を身にまとっていた。
偶像崇拝によって獣のように扱われ、息を呑むような偶像への信頼によって打ちひしがれた彼らは、自分の希望の空しさを知るのです。
「刑罰の時に、それらは滅びる。」
(エレミヤ書51章16~18節)
「ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である。」
(エレミヤ書51章19節)
恵みによってイスラエルと名付けられた、哀れで劣えてゆくヤコブの子孫を全能の創造主である神は引き抜くことをお望みになりました。
神はこの民を自分のために創造されました。
神は彼らを戦争に使われる鉄槌、武器として用います。
彼らによって諸国を粉砕し、弾圧者の王国を滅ぼすのです。
さまざまな人たちが、主がヤコブを選ばれたことを学ばなければなりません。
なぜなら、彼らと共に、戦士だけでなく、さまざまな人たちが打ち砕かれ、主の御言葉が成就されなければならないからです。
(エレミヤ書51章21~24節)
「わたしはバビロンとカルデヤの全住民に、彼らがシオンで行なったすべての悪のために、あなたがたの目の前で報復する。――主の御告げ。――」
(エレミヤ書51章24節)
こうしたすべてのことを考えると、カルデア王国の最後の夜、捕虜となったユダヤ人ダニエルがベルシャザルの宮殿の壁に書かれた奥義としての破滅の文字を読むならば、恐怖に脅える王にその解釈を与えたことは、深い意味を持っていたことがわかります。
「全地を破壊する、破壊の山よ。見よ。わたしはおまえを攻める。
――主の御告げ。――わたしはおまえに手を伸べ、おまえを岩から突き落とし、おまえを焼け山とする。
だれもおまえから石を取って、隅の石とする者はなく、礎の石とする者もない。おまえは永遠に荒れ果てる。
――主の御告げ。――」
(エレミヤ書51章25、26節)
バビロンの完全な破壊を宣言するのにこれほど明瞭な言葉はありません。
都市が再建されないだけでなく、他の多くの陥落した首都の場合のように、石そのものを他の場所の建設に使用することができません。
その基礎は呪われたものとして永遠に忌み嫌われ、その場所は絶え間なく荒廃のために放棄されます。
また、どのような推論によっても、この言葉が千年王国直前の未来に起きる滅亡を示していると解釈することは不可能です。
すでに、二千年以上もの間、バビロンの廃墟は神の確かな言葉の証しとなってきました。
その証しは永遠にあり続けるのです。
27、28節は、これまで見てきたことを要約し、さらに詳細な点を加えて強調しています。
アララト王国、ミニ王国、アシュケナズ王国は、メディア王国の下に位置づけられています。
「地は震え、もだえる。主はご計画をバビロンに成し遂げ、バビロンの国を住む者もない荒れ果てた地とされる。」
(エレミヤ書51章29節)
街の「両端」からの最後の侵入と、その守備隊の士気の低下が、実際の出来事が起きる前に、霊感によるペンによってのみ可能な言葉で描写されています。
「バビロンの勇士たちは戦いをやめて、とりでの中にすわり込み、彼らの力も干からびて、女のようになる。
その住まいは焼かれ、かんぬきは砕かれる。
飛脚はほかの飛脚に走り次ぎ、使者もほかの使者に取り次いで、バビロンの王に告げて言う。
「都はくまなく取られ、渡し場も取られ、葦の舟も火で焼かれ、戦士たちはおじ惑っている。」
(エレミヤ書51章30~32節)
ユーフラテス川の水はバビロンを直接流れていました。
ヘロドトスが述べているように、バビロンの町の流れを変えられ、ダリウスの戦士たちが城壁の下の乾いた川底に入るための入り口が両端に残されていました。
このようにして、民衆が軽薄さとお祭り騒ぎに明け暮れ、幾千もの領主たちが女々しいベルシャツァルの宮殿で楽しんでいた時に、彼らは突然、街に姿を現すことができたのです。
こうして終末を予知した預言者は、この不敬虔な街に対する主の恨みを語り続けます。
実り豊かな畑が脱穀場に準備されたバビロンの収穫は近かったが、ネブカドネザルがシオンとエルサレムの住民に対して厳しさを示し、バビロンには容赦のない裁きが下されることになりました。
イスラエルに対する暴虐はバビロンに、流血はカルデアの住民に臨んだのです(エレミヤ書51章33~35節)
主は、虐げられた民のために弁護されています。
「その海を干上がらせ、その泉をからす」のは、ダリウスだけではなく、主自身である。
その結果「バビロンは石くれの山となり、ジャッカルの住みかとなり」、住む者もなく、驚きとあざけりの地となります。
彼らは「彼らは共に、若獅子のようにほえ、雄獅子のように叫ぶ」のです。(エレミヤ書51章36~38節)
注目すべきは、この完全な荒廃は、未来に起きる滅亡ではなく、住民が頼りにしていた水の流れが変わったことによる略奪に続くものだからです。
彼らは「永遠の眠りについて、目ざめないようにする」と主は言われます。(エレミヤ書51章39節)
バビロンを守る者たちが宴会を開き、酒に酔っている間に、敵は川底から立ち上がり、海のように襲いかかります。
まさにその時、彼らは「子羊のように、また雄羊か雄やぎのように」引き渡されます。
こうして「シェシャク」は滅ぼされ、バビロンは諸国民の間で荒廃します。(エレミヤ書51章40~42節)
シェシャクはバビロンの象徴として用いられています。
この名は女神シャクに由来すると言われています。
「ああ、「バビロン(Sheshak)」は攻め取られ、全地の栄誉となっていた者は捕えられた。ああ、バビロンは国々の間で恐怖となった。」
(エレミヤ書51章41節)
訳者注)英訳聖書ではこの箇所のバビロンが「シェシャク(Sheshak)」となっています。
「その町々は荒れ果て、地は砂漠と荒れた地となり、だれも住まず、人の子が通りもしない地となる。」
(エレミヤ書51章43節)
かつて、繁栄を誇ったカルデアの地は、今まさにこの状態に陥っています。
千年王国においても、バビロンの裁きは、偶像崇拝に対する神の忌み嫌いを永遠に思い起こさせるものです。
「わたしはバビロンでベルを罰し、のみこんだ物を吐き出させる。
国々はもう、そこに流れ込むことはない。ああ、バビロンの城壁は倒れてしまった。」
(エレミヤ書51章44節)
唯一真実な神の怒りは、ベルによって象徴される悪魔に対して向けられました。
ネブカデネザルとカルデア人にユダを迫害させたのは、まさにこの神です。
彼らの罪ゆえに、主は彼らをバビロニア人の手に引き渡されました。
しかし今、主は彼らの残虐さと邪悪さを彼ら自身の頭上に報いようとしています。
この方法によってユダは救われるのです。
主は彼らにこのように言われます。
「わたしの民よ。その中から出よ。主の燃える怒りを免れて、おのおの自分のいのちを救え。
そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この国に聞こえるうわさを恐れよう。
うわさは今年も来、その後の年にも、うわさは来る。この国には暴虐があり、支配者はほかの支配者を攻める。」
(エレミヤ書51章45、46節)
主は、御自身の小さな群れを舌の争いから救い出し、御自身に頼り、御言葉に信頼させるつもりです。
何が起ころうとも、神は彼らを忘れることはありません。
戦争中の諸国は神の計画を実行するだけでよいのです。
「まことに、人の憤りまでもが、あなたをほめたたえ、あなたは、憤りの余りまでをも身に締められます。」
(詩篇76篇10節)
災いが近づいているという不安を掻き立てるうわさは、彼らの心に恐怖を植え付けたかもしれません。
しかし、それは彼らの弾圧者の権力の崩壊と「バビロンの刻んだ像」に対する裁きを指し示していました。
その時、「この国全土は恥を見、その刺し殺された者はみな、そこに倒れる」のです。
その時、天と地とその中にあるすべてのものは「バビロンのことで喜び歌う」のです。
なぜなら、略奪者が北からそこに来るからである。
「バビロンは、イスラエルの刺し殺された者たちのために、倒れなければならない。バビロンによって、全地の刺し殺された者たちが倒れたように。」と主は言われます。
(エレミヤ書51章47~49節)
残された者たちは、この恐ろしい裁きの時が来る時、神に頼るよう明確に告げられています。
それは彼らの救出の前兆に過ぎません。
「剣からのがれた者よ。行け。立ち止まるな。
遠くから主を思い出せ。エルサレムを心に思い浮かべよ。」
(エレミヤ書51章50節)
このことと完全に一致して、主はクロスが世界支配者となった最初の年に彼の精神を奮い立たせ、神殿の再建とユダヤ人の残された者たちの先祖の地への帰還を許可されました。
51節は、彼らが神に再び立ち返る時の心情をよく表しています。
「私たちは、そしりを聞いて、はずかしめを受けた。
他国人が主の宮の聖所にはいったので、侮辱が私たちの顔をおおった。」
(エレミヤ書51章51節)
これは、エズラ記に記されている帰還した者たちの態度を示す鍵となるかもしれません。
主の家に対する侮辱のゆえに、主がバビロンの偶像に裁きを下し、その傷ついた者たちを全土にうめかせる日が近づいていました。
(エレミヤ書51章3、52、53節)
「たといバビロンが天に上っても、たとい、そのとりでを高くして近寄りがたくしても、わたしのもとから荒らす者たちが、ここに来る。――主の御告げ。――」
(エレミヤ書51章53節)
主は、御自身の選民の復讐を果たすために、その力をもって立ち上がろうとしています。
それゆえ、このように言われます。
「聞け。バビロンからの叫び、カルデヤ人の地からの大いなる破滅の響きを。
主がバビロンを荒らして、そこから大いなる声を絶やされるからだ。
その波は大水のように鳴りとどろき、その声は鳴りどよめく。
荒らす者がバビロンを攻めに来て、その勇士たちは捕えられ、その弓も折られる。
主は報復の神で、必ず報復されるからだ。
「わたしは、その首長たちや、知恵ある者、総督や長官、勇士たちを酔わせる。
彼らは永遠の眠りについて、目ざめることはない。――その名を万軍の主という王の御告げ。――」
(エレミヤ書51章54~57節)
この章で軽蔑されたヤコブの怒った神がとられた称号は実に荘厳です。
「主は報復の神で、必ず報復される。」
一般の人々が神をこのような性格で考えることは本当に稀なことなのです。
24節で神はバビロンとカルデアに「、彼らがシオンで行なったすべての悪のために」行うと宣言しています。
ここで神は特別な仕方で復讐の神として御自身を現わしています。
詩篇94篇1節では、イスラエルの残された者が神に次のように呼びかけています。
「復讐の神、主よ。復讐の神よ。光を放ってください。」
詩篇94篇1節
そして新約聖書で使徒パウロは神がこのように言われたことを私たちに思い起こさせています。
「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
(ローマ人への手紙12章19節)
ヘブル人への手紙10章30節、申命記32章35節も参照にしてください。
だからこそ、主は苦しむクリスチャンたちに、自分で復讐するのではなく、むしろ神の怒りに身を委ねるよう願っているのです。
神の子である者は、自分を守ったりや自己弁護に心を奪われる必要などありません。
すべてを「主なる報いの神」の御手に委ねることができます。
いかなる力も神の支配の働きを阻むことはできません。
いかなる力も神の御手を止めたり、神の義の働きを妨げたりすることはできません。
そして、私たちにはこのように教えられています。
「つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。」
(テサロニケ人への手紙第二1章6、7節)
ですから、クリスチャンは「不正を行なう者は、自分が行なった不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません」(コロサイ人への手紙3章25節)という真理を知り、自分の事柄を無限の知恵の御手に完全に委ねることができます。
この原則ゆえに、エレミヤはバビロン王への服従と従順を常に勧めてきたのです。
神は、民が主からの苦難として受け入れ、弾圧する力に対処する責任を神御自身の道と時において神に委ねるよう望んでおられました。
その裁きを宣告し、定められた報いの内容を知らせる任務は、同じ預言者に与えられました。
「万軍の主はこう仰せられる。
「バビロンの広い城壁は、全くくつがえされ、その高い門も火で焼かれる。
国々の民はむなしく労し、諸国の民は、ただ火に焼かれるために疲れ果てる。」」
(エレミヤ書51章58節)
これらの言葉で、彼はバビロンの重たい責任を締めくくっています。
こうして、バビロンの栄華と神からの傲慢な独立は終焉を迎えることになります。
ヘロドトスの言葉を信じるならば、数台の戦車が並んで進入できるほどの広大な城壁は、完全に崩壊し、巨大な門は炎に焼かれてしまいました。
こうして、世界一の街を築こうとする人々の努力は、空しく終わるのです。
彼らは火で焼かれるために築いてきたのです。
とても深い意味のある言葉です。
この進歩的な時代における、人間の誇るエネルギーについても同じことが言えるのではないでしょうか?
人々は、まだ生まれていない世代の永遠の称賛となるものを築いているのだと思い込んでいます。
しかし、本人は気づいていないかもしれませんが、主の来臨は近づいています。
そして、その者が火で焼かれるために築いてきたに過ぎないことが、間もなく明らかになります。
エレミヤは諸国民へのこの一連のメッセージを終え、パレスチナを囲む異邦人の未来を知らせた後、「バビロンに下るわざわいのすべてを一つの巻き物にしるし」、ゼデキヤの侍従長セラヤの手に渡しました。
これらの預言は、この君主が捕虜にされる何年も前に語られたものです。
したがって、私たちが考察してきた書の中で、これらの預言がここに記されていることには、倫理的な理由があったことは明らかです。
セラヤは、ゼデキヤ王の治世第4年、ユダヤの王ネブカデネザルの宮廷への大使として、バビロンへ下る途中でした。
(エレミヤ書51章59、60節)
このように、エレミヤがバビロンへの服従を促していた時期の大半において、彼はバビロンの差し迫った破滅を予感していたことが分かります。
セラヤは目的地に着いたらその書物を読むように命じられ、それを読んだ後、このように言うことになっていました。
「主よ。あなたはこの所について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てさせる、と語られました。」
(エレミヤ書51章62節)
そして、このように言われています。
「この書物を読み終わったなら、それに石を結びつけて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、『このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいのためだ。彼らは疲れ果てる。』と言いなさい。」」
(エレミヤ書51章63、64節)
このように、二人の証人の口によって、バビロンの滅亡が決定的であることが明確に、そして疑いなく証明されました。
「ここまでが、エレミヤのことばである。」
(エレミヤ書51章64節)
ここまで、主のしもべとして尊敬されながらも迫害されたエレミヤのさまざまなメッセージについて簡単に見てきました。
それは、ヨシヤの復興期におけるユダへの初期の呼びかけから始まり、諸国民への言葉で終わっています。
それは、非常に幅広い預言的働きを含んでいます。
エレミヤの預言の実際の順序について言えば、44章の言葉が最も後ですが、ユダとイスラエルへのメッセージが最初に与えられ、次に異邦人へのメッセージが与えられるのは倫理的に適切です。
七十人訳聖書の順序はヘブル語訳の順序とは大きく異なりますが、ギリシャ語訳には、神の順序を改善しようとする「マール(mall)」氏の干渉のほんの一例に過ぎないことは明らかです。
この章の結びの言葉は、私たちの判断では、エレミヤが編集者であったことを伝えようとしています。
彼は聖霊の直接の導きによって、自分の書物を私たちの聖書の順序としてまとめたのです。
同じように神に霊感を与えられた後の著作では、以下の歴史的付録が追加されています。
第26章 歴史的付録
(52章)
ここに記されているゼデキヤ捕囚の歴史的記述が、神の元で誰の手によるものなのか、私たちには知る余地もありません。
神は、この記述のために選ばれた人物の名を明かさないことをお望みになったのです。
この章は、実質的に列王記第二24章18~20、25節などと重複しています。
聖霊が他の記録から書き写し、預言とその文字通りの成就の記録が同時に現れるようにされたことは疑いありません。
旧約聖書の各書の著者が誰なのかを正確に知る必要はなく、彼らが神の霊感を受けたことを確信できます。
「聖書は廃棄されるものではない」(ヨハネの福音書10章35節)と宣言することによって、このことに疑いの余地がありません。
このように、私たちが知っている律法、預言者、詩篇のあらゆる部分に、神のしるしが押されています。
聖霊も同じ様に、使徒パウロを通して「聖書はすべて、神の霊感によるもの」(テモテへの手紙第二3章16節)と告げておられます。
そして、この箇所は、その言葉が書かれた当時、聖書の一部として受け入れられていたことを忘れてはなりません。
偽預言者たちはゼデキヤがネブカデネザルに最後に勝利すると預言していました。
エレミヤは、ゼデキヤが圧倒的に敗北するという、一般的に考えられない真実を宣言しました。
歴史は彼の言葉の信ぴょう性を証明しています。
ゼデキヤは合わせて11年間支配しました。
ゼデキヤはエホアハズとエホヤキムの兄弟であり、敬虔なヨシヤの子です。
ゼデキヤの母は、先祖がリブナに住んでいた別のエレミヤの娘、ハムタルと同一人物です。(エレミヤ書52章1節)
すでに、述べたように、このゼデキヤは、その直前の二人の先駆者と同じ様に、父の道を捨てて「主の目の前に悪を行なった」のです。
ゼデキヤは兄がバビロンへ連れ去られた後、ネブカデネザルによって一種の副王として王位に就き、カルデア人に仕えることを誓っていました。
裏切り者であり、あらゆる意味で信用できないゼデキヤは、その後まもなく、数々の悪行に加え、忠誠の誓い(エレミヤ書52章2、3節)を破って主君に反逆し、エジプトとの同盟を求めました。
これによってバビロン王の軍隊を再びエルサレムの門に導いたのです。
包囲はゼデキヤ王の治世第9年、第10の月の10日に始まりました。
第11年の第4の月の9日、守備隊は戦争、疫病、そしてついには飢饉によって弱体化し、城壁に破れが生じました。
兵士たちは皆「夜のうちに、王の園のほとりにある二重の城壁の間の門の道から町を出た」のです。
ゼデキヤ自身も、39章で述べたように、彼らと共に行こうと試みましたが、エリコの平野でカルデア人に捕らえられました。
当時ネブカドネザルがいたリブラに連行されたゼデキヤは、最も厳しい仕打ちを受けました。
二人の息子は殺され、ゼデキヤ自身の両目もえぐり出され、足かせをはめられてバビロンに連行され、死ぬまで牢獄に閉じ込められました。
(エレミヤ書52章4~11節)
このようにゼデキヤは、主なる神を見捨てたことが、悪しき、苦いことであったことを学ばなければなりません。
ソロモンが建てた神殿も含めて、エルサレムは焼き払われ、城壁は破壊されました。
征服者の意図は、エルサレムを修復不能なほど荒廃させることにあったはずです。(エレミヤ書52章12~14節)
しかし、これは神の目的ではありません。
バビロン王がユダの首都に対して何をしようと考えていたかは、すでに、神が定めていました。
護衛隊長ネブザルアダンは、生き残った住民の大半をバビロンに移送し、最も貧しい少数の人々をぶどう栽培者や農夫として働かせました。
彼はおそらくそのことを知らなかったはずですが、このことによってさえ主の御言葉を成就しています。
(エレミヤ書52章15節)
彼は捕虜と共に神殿の家具や柱までも持ち去り、主の宮を荒らし、聖なるものを偶像に捧げました。
これらのさまざまな品物は神の書に詳細に記されており、神の愛する御子の御人格や御業をさまざまな側面から明らかにされる貴重なものです(エレミヤ書52章17~23節)
不敬虔なベルシャザルが、自分の祝宴の中で、偽りの神々を称えるためにこれらの品物を反抗的に用いた時、預言されていた裁きが、冒涜の頂点に達したあの夜に下されたのは、ふさわしいことでした!注)
注)その後間もなく、クロスの命令により、彼らはネブカデレザルが置いた偶像の神殿から連れ出され、厳密に数えられて、帰還した残された民とともにエルサレムに帰還しました。
エズラ記1章7~11節を参照にしてください。
多くの祭司、役人、君主たち、そして町の60人の男たちがリブラに連行され、そこで宮廷を開いていた傲慢な暴君の前で殺されました。
こうして、ユダは諸国の野獣に容赦なく食い尽くされました。(エレミヤ書52章24~28節)
バビロン王は三度にわたり、民の一部を捕殺しました。
治世第七年に、三千人以上のユダヤ人を捕囚しました。(列王記第二24章12節)
治世第十八年には、さらに八百三十人以上が奴隷にされました。
ここで述べられていることは、この出来事です。
その後、治世第二十三年には、七百四十五人を捕囚しました。
これは、三度の捕囚です。(エレミヤ書52章28~30節)
このようにユダは滅ぼされ、街は破壊され、畑は踏み荒らされ、民は殺され、あるいは捕囚されました。
神の律法を忘れたことが招いた悲惨な結果です。
しかし神はそれでもユダに憐れみの心を抱き、残酷な敵からの救いを与えようとしました。
このように、この書はより素晴らしい日々が来ることを示して締めくくられています。
エホヤキン捕囚の37年目に、紀元前561年にバビロンの王位に就いたエビル・メロダクは、退位させられたユダの王を牢獄から連れ出し、親切に話しかけることで、大きな栄誉を与えられています。
彼はバビロンの他の属国王よりも高い立場と王座を与え、獄中の服を着替えさせ、王の食事を与えました。(エレミヤ書52章31~34節)
このように、エビル・メロダクの好意により、エビル・メロダクはある程度の繁栄を取り戻し、死ぬまで定期的に手当を支給しました。
ゼデキヤは獄中で亡くなり、前任者は栄誉ある立場に昇進しました。
エルサレムはそれでも、インマヌエルの地の荒廃の中にあり、廃墟の山となっていました。
しかし、神の心は御自分の民に向けられ、免除の年が近づいていました。
第27章 エルサレムの荒廃
(哀歌1章)
どんな時代においても、神の子にとって、自分のすべての悲しみを慈しみ深く見守り、すべての苦難に共に苦しむ方が天におられることを知ることは、深い関心事であるべきです。
民の圧倒的な苦悩と聖都の荒廃を目の当たりにしたエレミヤの心の悲しみが聖書に記されていること以上に、このことを明確に示すものはありません。
これらの感情は正しく、適切なものです。
いや、神の霊が、神のしもべエレミヤの心にこのことが生み出されました。
イスラエルの神である神は、御自身が選ばれた民の苦悩、屈辱、苦痛を冷淡に黙示しているのではありません。
神の聖さは、彼らの罪悪を懲らしめを要求し、バビロン王を用いられました。
しかし、愛する父親が道を踏み外した息子を戒める際に深く心を痛めるように、神の心は彼らのために深く悲しんでおられます。
それゆえ、神は悲しみに打ちひしがれた預言者エレミヤのたましいの鍛錬を深く評価し、私たちの教えと慰めのために、彼の嘆きを記録に残すことを適切とされました。
その意味では、エレミヤは地に残された敬虔な人々、いわば彼らの代弁者です。
この哀歌の独特な構成は注目に値します。
ヘブル語形式では、最初の4章は多くの詩篇に見られる同じ要素を繰り返して構成されています。
1章、2章、4章はそれぞれ22節から成り、各節はヘブル語アルファベットの異なる文字で始まり、規則的な順序で並んでいます。
罪と悲しみの最も深い告白が記された3章は66節から成り、ここでは各文字に3節が割り当てられています。
つまり、最初の3節はそれぞれアルファベットの最初の文字であるアレフで始まり、次の3節はそれぞれ2番目の文字であるベスで始まり、最後のアルファベットまで続いています。
詩篇119篇には、それぞれ8節からなる22の区分があり、一般的な英語聖書でも同じ構成となっています。
そこでは、アルファベットのあらゆる文字(人間の言語の全範囲を表す)が、主の完全な律法を賛美するために用いられています。
哀歌では、すべての文字が、その律法を無視したり破ったりすることから生じる悲しみを表現するために必要とされています。
5章は、このくりかえしの例外となりますが、1章、2章、4章と同じ節数で構成されています。
この1章では、ユダの残された民は、主が彼らの苦難を許してくださったことを正当に認めながらも、その悲しい結果を目の当たりにして悲しみに満たされます。
彼らは自分の罪深さを認め、神の聖さを称えながら、神の怒りの道具である者への裁きを求めます。
冒頭の節では、かつて、主が御名を定められた廃墟となった街が、打ち砕かれた心と涙に濡れた目で見つめられています。
「ああ、人の群がっていたこの町は、ひとり寂しくすわっている。
国々の中で大いなる者であったのに、やもめのようになった。諸州のうちの女王は、苦役に服した。」
(哀歌1章1節)
忠実なイスラエル人にとって、それは実に悲痛な光景です。
国の律法が尊ばれ、神の御名が讃えられた、幸福で祝祭に満ちた日々において、今は廃墟となったこの街は、どれほどの喜びと歓喜に満ちていたことでしょうか?
恐ろしい変化です。
神から離れたことが、傲慢、自己中心、偶像崇拝という形で現れた恐ろしい結果です。
これほど不信仰で放縦なエルサレムが、どうして主の妻として認められ続けることができるのでしょうか?
ああ、神が悔い改めを許す日まで、エルサレムはやもめの雑草の中に孤独に佇むしかありません。
「彼女は泣きながら夜を過ごし、涙は頬を伝っている。彼女の愛する者は、だれも慰めてくれない。その友もみな彼女を裏切り、彼女の敵となってしまった。」
(哀歌1章2節)
主との契約に背いた時にエルサレムが頼った偽りの神々は、現在のエルサレムの悲しみを少しも和らげることはできません。
神の御言葉を捨てた時に頼ろうとした力は、エルサレムの現在の逆境には完全に無力です。
エルサレムが軽視した「永遠に愛する者」である主だけが、今もエルサレムを愛しています。
しかし、主はエルサレムを敵の手に渡し、明らかにエルサレムから顔を隠してしまいました。
「ユダは悩みと多くの労役のうちに捕え移された。彼女は異邦の民の中に住み、いこうこともできない。苦しみのうちにあるときに、彼女に追い迫る者たちがみな、彼女に追いついた。」
(哀歌1章3節)
ここでのユダはさまざまな時代の聖徒たちにとって、警告の灯台となりました。
神がユダに命じた隔離の場を守ることができずに、異教徒の隣人たちと乱交し、ユダの後を追うすべての人々と同じように、すぐに「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれる」(コリント人への手紙第一15章33節)ことを証明しました。
ユダは偶像崇拝者たちと共に歩み、彼らの行いを学びました。
その結果、神はユダを諸国民の間を放浪させ、偶像崇拝者の習慣に嫌気が刺すまでに至らせました。
神が世から分離し、自分の民とされたすべての集まりが、このような歴史を繰り返してきたのではないでしょうか?
かつてキリストの使徒たちが立ち上げた教会は急速に堕落した行きました。
中世の深い闇は、その報いとして教会を支配しました。
16世紀の輝かしい宗教改革に始まった運動は、さらに短期間で世的な追従にして腐敗しました。
ある人が「教会はどこにあるのか」と問いかけました。
そして、教会は「世にある」と答えました。
また「世はどこにあるのか?」と問いかけると「教会の中にある」と答えたのもわかります。
神は、幾度となくこの混ざり合った群衆の中から、小さな残りの集まりを御自身のもとに分け与えてこられました。
そして今度は、自分たちがかつて捨てたと告白していた世界に心を奪われてしまったのです。
彼らは、終わりの日に教会の一致と天からの召しを証しするために、人間の組織から召し出された、多くの人々よりも光明を得た者たちではなかったのでしょうか!
兄弟たちよ、力ある者たちは倒れてしまったのです。
かつては、幸先の良いスタートを切り、この運動は多くの希望を抱かせました。
この波瀾万丈な歴史は、言葉に尽くせないほど悲しいものになってしまいました。
世俗主義は、まるで潰瘍のように、命そのものをむしばんでいます。
傲慢、自己満足が至る所に蔓延しています。
神は裁きにおいて、分裂に次ぐ分裂を突きつけ、私たちを徹底的に滅ぼそうとしています。
どれほどの多くの虚栄心、どれほどの神の前での砕かれた心、そして、どれほど多くの無関心な心と鈍感な良心がそこに存在しているのでしょうか?
かつてのユダのように、私たちについてもこのように言われるのでしょうか?
「シオンへの道は喪に服し、だれも例祭に行かない。その門はみな荒れ果て、その祭司たちはうめき、おとめたちは憂いに沈んでいる。シオンは苦しんでいる。
彼女の仇がかしらとなり、彼女の敵が栄えている。彼女の多くのそむきの罪のために、主が彼女を悩ましたのです。彼女の幼子たちも、仇によってとりことなって行った。
シオンの娘からは、すべての輝きがなくなり、首長たちは、牧場のない鹿のようになって、追う者の前を力なく歩む。」
(哀歌1章4~6節)
また、「しっくいで上塗りしてしまう」こと(エゼキエル書13章10節)、つまり分裂の原因となった悪をごまかして分裂を癒そうとするかも知れません。
その結果、彼らの中にいる神の声を聞き逃すのであれば、この悲しい結果を避けることはできません。
ユダを救えた方法はただ一つしかありません。
それは、主の前に真摯に自分を裁き、心を砕き、民を「主のことばにおののく」ことでした。
これこそが、現在のさまざまな場所で必要なことです。
神の聖徒たちを祝福し救う新しい真理を探し求め、学ぶことではありません。
すでに私たちに委ねられている真理によって私たちの道を試し、その現実の中を歩むことを求めることです。
そうでないゆえに、ユダは捕囚され、キリスト教会は証しの燭台を失い、世が主の民に勝利するのを許してしまったのです。
かつて、喜びにあふれていた祝福を、すべてが思い出となってしまった今、振り返らなければならないのは、実に悲しいことです。
「エルサレムは、悩みとさすらいの日にあたって、昔から持っていた自分のすべての宝を思い出す。
その民が仇の手によって倒れ、だれも彼女を助ける者がないとき、仇はその破滅を見てあざ笑う。」
(哀歌1章7節)
安息日の他の日と同じように、街全体が静寂に包まれていました。
しかし、それは荒廃と死の静けさでした。
もはや、街の安息を妨げるものは何もありません。
主の働きはくりかえし重荷となっていました。
今や街はそれらすべてから解放された。
しかし、その代償は驚くべき恐怖です。
「喜びのない器」として取り残されたエルサレムは、静かに静寂に包まれました。
感傷的に預言者はこのすべての正義を次の4節でこのことを認めています。(8~11節)
エルサレムは重大な罪を犯しました。
そのため、エルサレムは「取り除かれ」、あるいは「汚れたもの」となりました。
もはや神に用いられるにふさわしくない状態なのです。
そのため、かつてエルサレムを尊敬していた人たちは、今ではエルサレムを軽く見ています。
エルサレムの裸は公然と明らかにされていた。エルサレムの不潔さは誰の目にも明らかです。
エルサレムはその結末を忘れ、エジプトの奴隷状態からエルサレムを救い出した神の目的を忘れました。
しかし、エルサレムがひどい恥ずかしめと苦悩に苦しむ時、忠実な心を持つ者たちはこのように叫びます。
「彼女の汚れはすそにまでついている。彼女は自分の末路を思わなかった。
それで、驚くほど落ちぶれて、だれも慰める者がない。「主よ。私の悩みを顧みてください。敵は勝ち誇っています。」」
(哀歌1章9節)
敵はエルサレムに勝利し、エルサレムの聖所を汚しました。
その罪は、割礼を受けていない者が主の会衆に入ってはならないと命じられたユダに課されたものでした。
ユダの尊いものが守らずに、それらは諸国の汚れた者たちに引き渡され、これらのことが通常的に行われていました。
もし、神の民が、神から託されたものを大切にしないなら、神はそれを彼らから取り上げ、敵のおもちゃにすることで、その価値を教えられます。
エルサレムの民はみなうめき、食べ物を捜しています。
たましいを癒す食べ物を求めて嘆き悲しむ残された者たちがこのように叫びます。
「主よ。私が、卑しい女になり果てたのをよく見てください。」
(哀歌1章11節)
これらは尊く必要な行為です。
過ぎ去った恵みの時代においても、これらの行いが彼らの特徴となって欲しかったのです!
ああ、兄弟たちよ、神の前に謙遜と告白の精神が、私たちの中にも見出されますように。
聖霊はこれに寄り添い、今もなおそのような人々を慰め、祝福してくださいます。
次の数節では、キリストの霊がエレミヤとユダの残された者たちを通して大声で語られます。
最初に、この言葉は疑いなく、私たちが検討してきたエルサレムとその地の住民に与えられた懲らしめが示されています。
「道行くみなの人よ」という問いかけは、深い苦悩に苦しむ彼らに同情どころか、むしろ彼らを誇っていた諸国民に向けられました。
しかし、聖書全体がキリストを指し示しているように、苦難の救い主が、ぶどう園の落ち穂のように生き延びた人々の悲しみに、心から入り込んでくださったことを無視しており、まったく目が見えていません。
このように言葉を見ると、さまざまな哀れな興味が一つ一つに結びついてきます。
「道行くみなの人よ。よく見よ。主が燃える怒りの日に私を悩まし、私をひどいめに会わされたこのような痛みがほかにあるかどうかを。」
(哀歌1章12節)
ユダの罪は、激しい怒りを彼らの頭に降らせました。
しかし、それは彼らが主から離れたことに対する正しい報いなのです。
カルバリの聖なる苦しみをお受けになった方が、神の怒りの圧倒的な洪水の下に頭を垂れたのは、御自身の罪のためではありません。
罪を知らない方が、私たちのために罪となられました。
それは、私たちが彼において神の義となるためです。
キリストは比類なき「悲しみの人」であり、悲しみを知り尽くしておられました。
それは、私たちがひどく怒らせた神との交わりに入る時、私たちの喜びが満ちあふれるためです。
この文章を読む人の中で、死にゆく小羊の胸を引き裂く問いかけに答えています。
「私にとって何の価値もないことです。
全く何でもないことです」と正直に告白する人がいるでしょうか?
* キリストが私たちの罪のために傷つけられ、私たちの不義のために打ち砕かれたことは、あなたにとって何の意味もありません。
神が肉体で現れ、その威厳に反抗する罪人たちを救うために自分を捧げたことは、あなたにとって何の意味もありません。
* 救いの杯があなた方に与えられるために、恐ろしい怒りの杯がキリストの乾いた唇に押し付けられました。
それは、あなた方にとって何の問題ではありません。
本当にそれはあなたにとって何でもないことなのでしょうか?
悲しいことです!
すべての私たちにとって、十字架の物語を聞いたり読んだりして感情が揺さぶられたとしても、それが私たちの罪深いたましいの必要を満たすためのものであると理解しない限り、そのことは私たちにとってはまったく無意味だった時代がありました。
聖徒、マックチェインは、多くの人が言うべきことを、うまく表現しています。
「私はイザヤの荒々しい詩やヨハネの簡潔な詩を、心を落ち着かせたり、心を動かしたりするために、しばしば喜んで読んでいます。
彼らが血をまき散らした木を描写した時でさえ、ヤハゥエ・ツィドケヌ(主は私たちの義)は私にとって何の意味も持ちませんでした。
「シオンの娘たちの涙が流れ落ちるように、水が彼のたましいを覆った時、私は泣きました。
しかし、私の罪がヤハゥエ・ツィドケヌの木に釘付けにされたとは思っていません。
それは私にとっては何でもないことです。」
そして、もし、神の至高の恵みがなかったら、私たちは今もなお、永遠に哀れみの及ばない失われた淵に陥っていたかもしれません。
私たちの困窮し失われた状態を神の霊によって示され、(長い間、冷たく無視されてきたとしても、)哀れみと赦しを求めて神のもとに逃げるように導かれたのです。
このように私たちは同じ詩人でありメッセンジャーでもある人とともに歌うことができます。
「無償の恵みが天からの光によって私を目覚めさせた時、律法の恐怖が私を震え上がらせ、私は死ぬほど震えました。
わたしの中には逃げ場所も安全も見出せません。
ヤハゥエ・ツィドケヌがわたしの救い主でなければなりません。
その甘美な名前の前で、私の恐怖はすべて消え去りました。
罪悪感も消え去り、私は勇気を持ってやって来ました。
泉から飲むと、命を与え、無料で飲めるのです。
ヤハゥエ・ツィドケヌは私にとってすべてです。」
救いの喜びの中で、私たちはかつて、誰よりも傷ついた主の顔を見上げ、心からこのように叫ぶことができます。
「主よ、あなたがこのように苦しみ、死んでくださったことは、私にとってすべてです!」
そして、私たちがこの素晴らしい光景を見るために立ち寄り、主の叫びを聞くとき、私たちのたましいは聖い恐れおののく思いで満たされます。
「主は高い所から火を送り、私の骨の中にまで送り込まれた。私の足もとに網を張り、私をうしろにのけぞらせ、私を荒れすさんだ女、終日、病んでいる女とされた。」
(哀歌1章13節)
しかし、私たちは、主が二度とこの苦しみを受けることはないと知り、喜びます。
主の悲しみと苦しみは今や永遠に過ぎ去り、言葉に尽くせない喜びをもってこのように語られています。
「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。」
(イザヤ書53章11節)
この点において「苦しみ」という言葉が表現力豊かに使われています。
かつて、二人の女性が息子について話しているのを耳にしました。
一人は孤児院から男の子を養子として迎え、もう一人は実の子の母親でした。
「私は確信しています」と最初の男の子は言いました。
「私の男の子への愛は、まるで本当にこの家族に生まれてきたかのように深く、これ以上愛せるとは思えません。」
相手は「そうなのですか!」と答えました。
「あなたはまだ本当の母の愛を知りません。
あなたは息子のために私が苦しんだように、息子のために苦しんだことがありません!」
愛する者よ、主は私たちのためにどれほど苦しまれたのでしょうか!
どれほどの苦しみに耐えられたのでしょうか!
どれほどの涙を流されたのでしょうか!
どれほどの血の汗を流されたのでしょうか!
私たちが永遠に救われるために、どれほどの恐ろしい苦難を経験しなければならなかったのでしょうか!
「主は高い所から火を送り」、かつて、火があった場所が私たちが逃げ場所となります。
そして、主の比べようのない恵みをすべて拒む者に降りかかり、その永遠の火から永遠に守られました。
敬虔な黙想のための、尊い聖なるテーマです!
次の二節は、主イエスには同じ意味では適応されません。
ここには罪の意識が関わっていますが、主イエスは罪のない方です。
しかしながら、この言葉はユダの人々の口にとってふさわしいものです。
彼らは、自分たちの罪のくびきが尊い手によって縛られていることを告白しています。
これらは花輪のように首に巻き付けられています。
このために、彼らの力は衰え、敵の手から逃れることができません。
彼らの勇士たちを滅ぼし、彼らを滅ぼすためにカルデア人を呼び寄せたのは、主御自身です。
ぶどうが酒ぶねで踏みつぶされるように、主はユダの娘を、その数々の罪のゆえに、怒りの圧搾場に投げ入れたのです。
「私のそむきの罪のくびきは重く、主の御手で、私の首に結びつけられた。主は、私の力をくじき、私を、彼らの手にゆだね、もう立ち上がれないようにされた。
主は、私のうちにいたつわものをみな追い払い、一つの群れを呼び集めて、私を攻め、私の若い男たちを滅ぼされた。主は、酒ぶねを踏むように、おとめユダの娘を踏みつぶされた。」
(哀歌1章14、15節)
これらのことのために、預言者は、これらが実現する前に、預言を告げる前に泣いたように、今、涙を流しています。
慰める者はいません。
ユダの民は荒廃しています。
シオンは手を伸ばしても、助ける者も、同情する者もいません。
シオンは主の怒りによって、汚れた女のようになっています 。
「このことで、私は泣いている。私の目、この目から涙があふれる。私を元気づけて慰めてくれる者が、私から遠ざかったからだ。敵に打ち負かされて、私の子らは荒れすさんでいる。
シオンが手を差し出しても、これを慰める者はない。主は仇に命じて、四方からヤコブを攻めさせた。エルサレムは彼らの間で、汚らわしいものとなった。」
(哀歌1章16、17節)
「主は正義を行なわれる。しかし、私は主の命令に逆らった」(哀歌1章18節)という率直な告白があります。
証しです。
彼らはただ、自分の行いにふさわしい報いを受けたに過ぎません。
そして、彼らはそれを心の悔い改めとたましいの屈辱をもって認めています。
彼らは他の愛人たちに欺かれていたのです。
「私は愛する者たちを呼んだのに、彼らは私を欺いた。
私の祭司も長老たちも、町の中で息絶えた。気力を取り戻そうとして、自分の食物を捜していたときに」
(哀歌1章19節)
彼らは大きな苦難の中に残されましたが、謙虚に「私が逆らい続けたからです」と告白しました。
これがすべてをとても苦しいものにしているのです。
彼らは、自分たちが耐えるように求められたすべてのことは当然のことだと悟りました。
敵は彼らの嘆きを聞いていました。
彼らは苦難を喜び、主が彼らをこのように扱ったことを喜びました。
彼らの苦難の時は近づいていました。
神は定められた日を彼らにもたらし、彼らの罪に対する神の怒りを知ることになります。
「彼らは私のため息を聞いても、だれも私を慰めてくれません。私の敵はみな、私のわざわいを聞いて、喜びました。あなたが、そうなさったからです。あなたが、かつて告げられた日を来させてください。そうすれば、彼らも私と同じようになるでしょう。」
(哀歌1章21節)
そこで、彼らのさまざまな悲惨が神の前に現れ、神が約束どおりになられる時が早まるようにと祈りが捧げられます。
「彼らのすべての悪を、御前に出させ、あなたが、私のすべてのそむきの罪に対して、報い返されたように、彼らにも報い返してください。私のため息は大きく、私の心は痛みます。」」
(哀歌1章22節)
これは復讐を求める叫びです。
クリスチャンとしての光と特権、そしてこの恵みのディスペンセーションとは相容れないが、ユダヤ人の祝福の特質と完全に一致しています。
彼らの救いは地上のものであるため、弾圧者たちの裁きが必要となります。
ある意味では、この最後の二節は、イエスの主権を認めようとしない者たちの運命を暗示しているとも言えます。
イエスもまた、その者たちについてこのように言うことができます。
「あなたが、かつて告げられた日を来させてください。そうすれば、彼らも私と同じようになるでしょう。」
(哀歌1章21節)
神の苦しみを軽蔑し、神の恵みを拒む人々は、神の怒りの恐ろしい力を知る必要があります。
第28章 主の怒りの日
(哀歌2章)
この章でエルサレムという町について考察されており、非常に特別な意味を持っています。
かつて、偉大な王の住まいとして名声を博したこの町は、今や焼け焦げた廃墟と化しました。
全体を通して、外部から来た敵が自分の意志で行動したのではなく、長きにわたりこの町の真ん中に住まわれた主御自身が、この町を滅ぼされたことが理解できます。
このことは最初の聖句で明らかにされています。
「ああ、主はシオンの娘を御怒りで曇らせ、イスラエルの栄えを天から地に投げ落とし、御怒りの日に、ご自分の足台を思い出されなかった。」
(哀歌2章1節)
かつて、「聖なる」と呼ばれた街が、主がもはや耐えられないほどに堕落し、背教してしまったことを考えると、悲しくなります。
しかし、イスラエルの美しさが「天から地へ投げ落された」のであって、「陰府(シェオル、またはハデス、死者の場所)へ」落とされたのではないことは注目に値します(マタイの福音書11章23節)
主はそこで多くの力ある御業を成し遂げ、かつてのエルサレムが享受していたものを超える証しをされました。
しかし、主と御言葉は完全に拒まれました。
それゆえ、「天に上げられた」カペナウムは「ハデスに落とされ」、その時代は永遠に終わりました。
「カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。」
(マタイの福音書11章23節)
エルサレムはそうではありません。
「地へ投げ落され」、諸国の民の町のように扱われ、まことに異邦人に踏みにじられましたが、それでもなお、かつて、経験したことのない栄光の立場を占める運命にあります。
逆境によって鍛えられなければなりませんが、永久に見捨てられたわけではありません。
偶像礼拝に対する主の憤りは、彼らの心の頑固さゆえに、憐れみを示さず「主は、ヤコブのすべての住まいを、容赦なく滅ぼし」ました。
主は「ユダの娘の要塞を、憤って打ちこわし」、それらを地に倒し、王国と君主たちを汚しました。
それはすべて罪のためでした。
主は彼らを心から愛しておられましたが、道徳的にこれほどまでにひどい状態にある彼らを平穏に去らせることはできませんでした。
それゆえ、主は「激しい怒りによって」イスラエルの角を折り、敵の前で、右の手を引き戻し滅ぼされたのです。(哀歌2章2、3節)
4、5節では、主は三度、彼らの敵であるかのように振る舞ったと言われています。
* 最初に「主は敵のように、弓を張り」とあります。
* 次に「右の手でしっかり構え、仇のように」とあります。
* 三番目に「主は、敵のようになって」とあります。とあります。
英訳聖書において「like(ように)」や「as(として)」という修飾語句に注目するのは良いことです。
主は決して敵ではありません。
しかし、彼らの行動によって、主はあたかも敵であるかのごとく振る舞うことが強いられました。
どれほど、同じように多くのクリスチャンが、このように主を知る必要があります。
どれほど、何回も主が敵になったように思われたことでしょうか?
しかし、信仰は目に見えるものすべてを超えて、主の愛と優しさが変わることがないことを知ることができます。
主が喜んで彼らに与えておられる交わりを、主の子供たちの罪が侵しました。
主は「不義を見ることさえできないほど清い目をお持ち」であり、贖われた者を一人たりとも見捨てることはありません。
「あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。」
(ハバクク書1章13節)
しかし、救われたからといって、その者の放縦な歩みや軽率な言葉遣いを容認することではありません。
現実には、正反対です。
「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
(ヘブル人への手紙12章6節)
これはユダの残された民が学ばなければならなかった教訓であり、苦いものでした。
6節の「幕屋」は、欄外にある「垣根」とすべきです。
詩篇80篇にも同じ比喩が用いられています。
イスラエルは、エジプトから持ち出され、異邦人が追放された地に植えられたぶどうの木に例えられています。
神の農夫によって垣根で囲まれ、世話をされたぶどうの木は、本来であれば自ら実を結ぶはずでした。
しかし、私たちは神の裁きを知っています(イザヤ書5章1~7節)
「ところが、酸いぶどうができてしまった。」
(イザヤ書5章2節)
このため、神は詩篇80篇12~16節にあるように、異教徒がそれを侵略することが許されました。
「なぜ、あなたは、石垣を破り、道を行くすべての者に、その実を摘み取らせなさるのですか。
林のいのししはこれを食い荒らし、野に群がるものも、これを食べます。
万軍の神よ。どうか、帰って来てください。天から目を注ぎ、よく見てください。
そして、このぶどうの木を育ててください。
また、あなたの右の手が植えた苗と、ご自分のために強くされた枝とを。
それは火で焼かれ、切り倒されました。彼らは、御顔のとがめによって、滅びるのです。」
(詩篇80篇12~16節)
ここで述べたのと同じ考えです。
かつて、主の園を周囲の異邦人から隔てていた囲いは主御自身によって打ち壊され、「例祭の場所」は破壊されたため、シオンにおける厳粛な祭りや安息日は廃れてしまいました。
主は祭壇を捨て去り、聖所を忌み嫌い、民の不忠実さのために汚れた者たちがそれを汚すことを許されました。
門やかんぬきを含む町の城壁は地に倒され、王や君たちは異邦人の間で捕らわれ、長らく軽蔑されてきた律法そのものはもはや存在せず、長年耳を傾けられなかった預言者たちは主からの啓示を受けられなくなりました。
シオンの長老たちは荒布をまとい、頭に塵をかぶって地面に座り、四方八方の荒廃を見つめながら、言葉も出ない悲しみに暮れていました。(哀歌2章7~10節)
これは彼らが主の御言葉を軽く見て、異教徒の道に従ったために主によってもたらされた、完全で圧倒的な破滅です。
エレミヤは深い悲しみの声でこのように叫びます。
「私の目は涙でつぶれ、私のはらわたは煮え返り、私の肝は、私の民の娘の傷を見て、地に注ぎ出された。
幼子や乳飲み子が都の広場で衰え果てている。
彼らは母親に、穀物とぶどう酒はどこにあるのか、と言い続け、町の広場で傷つけられて衰え果てた者のように、母のふところで息も絶えようとしている。」
(哀歌2章11、12節)
神との交わりの中でのみ、神の民は平安と豊かさを見つけることができます。
神から離れれば、不安と飢餓は必然的に生じます。
今日、神の聖徒たちの集会の中に、気絶する幼児や気を失う子どもたちが多くいるのは、まさにこのためでなのです。
今こそ、私たちの歩みを省み、主に立ち返るべき時です。
信者の集まりが、キリストにあって幼子たちに必要な栄養と、神の教えにおいて成長し、確立していくための助けを与える保育所のような場所になっていないなら、何かが根本的に間違っていると言えます。
そうでなければ、それは堕落した状態とその証しを予感させるものとなります。
シオンは海の波に押し流されるように押し流され、人間的な意味でその破滅を癒す術がありません。(哀歌2章13節)
28章に記されているハナニヤの場合のように、預言者たちはシオンのむなしく愚かなことを見て、巧みな預言をしながらもシオンの罪を明らかにしていません。
裁きを受けない罪がシオンにある限り、真実な平和はあり得ません(哀歌2章14節)
このようにエルサレムは通行人の遊び場となり、彼らはあざけ笑いながらこのように尋ねました。
「これが、美のきわみと言われた町、全地の喜びの町であったのか。」
(哀歌2章15節)
この2つの称号は詩篇の中でエルサレムに用いられています。
前者は詩篇50篇2節、後者は詩篇48篇2節です。
敵たちはシオンの破滅を喜び、「シオンを滅ぼした」ことを誇りとしました。
これは彼らが長年望んでいたことであり、主がシオンと争われたことを知らずに、今や自分たちの武勇伝としました。
(哀歌2章16節)
彼らをシオンに打ち負かしたのは、彼らの武力によるのではありません。
シオンを怒らせた主は、御自身が計画したことを行い、モーセの時代に与えられた御言葉を成就されたに過ぎません。(哀歌2章17節)
ゆえに、残されたの民は主に立ち返り、たましいの苦しみの中で叫び、昼も夜も休むことなく、弱り果てた子どもたちの命のために、絶えず主に手を差し伸べました。(哀歌2章18、19節)
これは当然のことで、心から神に立ち返ることを意味します。
最後の3節(哀歌2章20~22節)は祈りです。
そこでは「主の御怒りの日」の彼らの悲惨な状態が述べられています。
主はこのように言われました。
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」
(詩篇50篇15節)
それゆえ、彼らは主に立ち返り、自分の悪行の結果としての惨めさを嘆き、主の恵みを求めます。
彼らはやがて、主の耳が彼らの悲惨さに鈍くなく、主の目が彼らの悲惨さに盲目になっていないことを証明しています。
第29章「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。」
(哀歌3節)
前述のように、この章の66節は三文字のアルファベットの頭韻法で構成されています。
その中でエレミヤは残された民を代弁し、自らと彼らの苦悩を描写しながらも、神の慈しみに対する揺るぎない信仰を示しています。
そして、すべての人々に自分の道を模索し、試し、神に立ち返るよう呼びかけています。
主と同じ様に、民の苦い苦しみを自分の心に負いながら、エレミヤは主の御霊の言葉を明確に示す方法として、自分の悲しみを語ります。
一章の序文で述べたように、エレミヤは彼らのあらゆる悲しみに苦しみ、霊において彼らと共に歩みました。
ここでエレミヤは、かの聖なる方の型と見なすことができます。
なぜなら、他のどの預言者にも当てはまらず、彼には「悲しみの人」という称号が適合されるからです。
エレミヤはこのように言っています。
「私は主の激しい怒りのむちを受けて悩みに会った者。」
(哀歌3章1節)
そしてエレミヤは、自分が光ではなく闇に導かれたことを語り続けます。
「主は私を連れ去って、光のないやみを歩ませ、御手をもって一日中、くり返して私を攻めた。
主は私の肉と皮とをすり減らし、骨を砕き、」
(哀歌3章2~4節)
これは、神に喜ばれながら、民の悲しみに深く入り込んだ者の表現です。
5~17節は、民に降りかかった恐ろしい災難を前に、彼の嘆きが続きます。
苦悩にさいなまれ、死者の墓場のような暗い場所に立てこもり、周囲を囲まれ、重い鎖で縛られ、彼は泣き叫び続けたが、神は彼の祈りを拒んでいるように感じました。
このように心に浮かぶ重々しい境遇ほど、悲しむべきものはありません。
主は明らかに忘れ去られたか、あるいは敵とさえなってしまいました。
主はしもべの道を閉ざし、その道を曲げ、獲物を狙う熊や獅子のようになってしまいました。
荒廃させられ、矢の的とされ、主はしもべの手綱に矢を突き刺しました。
こうして彼はすべての民の嘲笑の的となり、一日中彼らの歌の的となりました。
これは、酔いどれの歌となった主に似ているのではないでしょうか!
「門にすわる者たちは私のうわさ話をしています。私は酔いどれの歌になりました。」
(詩篇69章12節)
苦味に満たされ、苦よもぎに酔いしれ、その歯は砂利のように砕かれ、彼自身は灰の中に転がり落ちました。
彼のたましいは平和から遠く離れ、繁栄は忘れ去られました。
これは、罪のために神の怒りを感じた人の悲痛な物語です。
しかし、倒れたとはいえ、彼は完全に打ちのめされたわけではありません。
確かに彼はこのように言いました。
「私の誉れと、主から受けた望みは消えうせた。」
(哀歌3章18節)
しかし、苦よもぎと苦味を思い出した時、彼の心は謙虚になり、このように言うことができました。
「私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。」
(哀歌3章21節)
しかし、22節ではまったく異なる調子が奏でられ、36節まで喜びに満ちた自信の高揚した調子が維持されます。
彼は、自分の苦しみが当然受けるべきものよりも大きかったと不平を言う代わりに、神の正しさを証しして、正義が恵みによって和らげられたことに感謝の意を表しています。
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。」」
(哀歌3章22、23節) 。
そのような時に、このように語ることができた信仰は、驚くべき尊さを持つことが出来ます。
試練を受けた聖徒には、正直にそのように言えるのです。
たましいが神の御前から離れた時にだけ、神の懲らしめはあまりにも厳しく、部分的には不当なものに思えます。
自分を責める信者で、自分の行いの報いを十分に受けていないことを認めない者はいません。
むしろ、神の恵みにより、重大な過ちさえも見逃し、部分的にしか正しません。
「主のあわれみは尽きないからだ。」
冷たく無関心な心でムチが向けられることはありません。
神は、御自分が選んだ民、愛する子どもたちに対して、他の誰にもできないほどの思いやりを持っておられます。
毎朝、神の慈愛の新たな証拠を目撃するのです。
これらの尊い真理を考え、霊感を受けた預言者はこのように言います。
「主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。」
(哀歌3章24節)
他のすべては失われるかもしれないが、主は変わらず存在してくださいます。
これこそがハバククの確信でした。
「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」
(ハバクク書3章18節)
パウロもこのように言っています。
「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」
(ピリピ人への手紙4章11節)
こうして、他に喜びの源がなくなっても、人は主にあって喜ぶことができます。
詩篇16篇5節にあるように、主はたましいのゆずりの地所となります。
「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。」
(詩篇16篇5節)
「私の杯は、あふれています。」
(詩篇23編5節)
「私の杯は、あふれています」と断言しているのも不思議ではない。
主がそれを満たしてくださるのに、満ちていないわけがありません。
「主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
主の救いを黙って待つのは良い。」
(哀歌3章25、26節)
ここで教えられている真理が何も取り上げられいません。
それは、単に、神を待ち望むことが現代のクリスチャンの間で「失われた働き」となっています。
時代の慌ただしさと「他への欲望」、つまり教会史におけるこの重要な時期を特徴づける世俗性が、イエスを救い主、主と告白する多くの人々にとって、神を待ち望む傾向を、現実に締め出しています。
その結果、神の哀れみが人々の必要を満たし、神の御顔を求めるたましいを満足させる力の存在は、実際には全く知られていません。
「主の救いを待ち望む人は良いことである」と書くのであれば、その者はたましいの救いではなく、道中の困難や混乱からの解放であることは言うことができます。
聖書のどこにも、たましいの永遠の救いが、忍耐と静寂の中で待ち望むべきものとして述べられている箇所はありません。
むしろ、その逆が繰り返し明確に述べられています。
預言者はそのような意味での救いについて語っているのではありません。
たましいの救いについて知るには、新約聖書、特にヨハネによる福音書と、パウロ、ヨハネ、ペテロの手紙に目を向けるべきです。
救いのこの二つの側面は明確に区別されなければなりません。
主は、悲しみや苦しみからの即時の解放をどこにも約束されていません。
義なる支配において、主が民に苦難を許される時、彼らは直ちに主の御顔を求め、主を待ち望むべきです。
肉体のすべてのとげを抜くことが主の御心ではないかもしれません。
しかし、そうでなくても、主は待ち望むたましいに、喜びをもって耐え抜く恵みを与えてくださいます。
すべての信者に程度の差はあれ、学ばなければならない「苦難の務め」があります。
3章27節にはこのように教えられています。
「人が、若い時に、くびきを負うのは良い。」
(哀歌3章27節)
もし、彼が神の前にそのことを自覚するなら、その結果、彼を慎み、謙虚にし、究極の祝福を生み出すことになります。
彼は独り座り、沈黙を守り、口を土につけ、救い主のように打つ者に頬を差し出すように求められるかもしれません。
しかし、彼は次のことを確信することができます。
「主は、いつまでも見放してはおられない。」
(哀歌3章31節)
ユダの場合のように、神は深く胸を締め付ける悲しみが与えられるかもしれません。
しかし、それでも主はこのように言われています。
「たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」
(哀歌3章32、33節)
神が懲らしめるのは、神自身の喜びのためではなく、私たちが神の聖さにあずかれるためです。
主はあまりにも深い愛をお持ちなので、私たちに不必要な重荷を負わせることはできません。
主はあまりにも聖なるので、必要な一撃をも省略することはできません。
主は不義を容認できません。
「地上のすべての捕われ人を足の下に踏みにじり、人の権利を、いと高き方の前で曲げ、人がそのさばきをゆがめることを、主は見ておられないだろうか。
(哀歌3章34~36節)
神の道はすべて平等です。
違うように見えるのは、人間の視力が不完全なためです。
ついに神が私たちの手を取り、共に道のすべてを歩み、一歩一歩に神の栄光の光が輝きます。
その時、今私たちは理解できないことですが、この場面を通して私たちを導く神の道が正しく真実なことを理解することができます。
神の許しなしに、神の民を襲うものは何もありません。
「主が命じたのでなければ、だれがこのようなことを語り、このようなことを起こしえようか。」
(哀歌3章37節)
このことは単純で基本的な原則ですが、多くの人が理解するのには長い年月を要します。
神が人生のあらゆる細部に直接関与しておられることをたましいが理解するならば、人は働きの手段にとらわれることから解放されます。
これは、シムイに呪われたダビデの場合に顕著に表れています。
ダビデは、熱烈なアビシャイが犯人に触れることを許しません。
なぜなら、主が彼に「ダビデを呪え」と言われたことを理解し、すべてを主に委ね、主が呪いを祝福に変えてくださることを信頼したからです。
ヨブもまた、試練の始めの頃、神の意志に従う素晴らしい例です。
そして、二次的な原因を考えることを拒み「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」と問いかけます。(ヨブ記2章10節)
同様にこの書にもこのように書かれています。
「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。」
(哀歌3章38節)
その反面で、神は私たちを懲らしめるために悪を許しておられます。
先ほど引用した例のように、神の恵み深い目的を達成するためにサタンを道具として用いることさえあります。
神の聖なる義なる支配を思い起こせば、このように言う方がはるかにふさわしいことです。
「生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。
私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。」
(哀歌3章39、40節)
これは、懲らしめが期待通りの効果を上げていることを示しています。
しかし、必ずしもすべての聖徒にそうであるわけではありませんがこのように記されています
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」
(ヘブル人への手紙12章11節)
悲しいことに、私たちにはこの敬虔な訓練が欠けています。
苦難が訪れると、たましいはそれに屈し、あるいは軽蔑され、禁欲的で自信過剰な態度をとろうとします。
しかし、それは神の御手に委ねられた者の姿にはふさわしくありません。
残念ながら、私たちの多くは、神の前に崩れ落ち、自分の道を模索し、試されること以外の場所から、さまざまな手段を使っても懲らしめの場から逃れようとしています。
ユダが嘆かわしいほど失敗したのはまさにこの点です。
神が彼らの罪のためにバビロン王を遣わした時、彼らはエジプト王に助けを求めました。
それは明らかに主の御言葉に反抗する行為です。
しかし、彼らは神から離れることの苦しみを、身をもって体験し、学ばなければなりません。
こうして、主の御前に謙遜になり、あらゆる偽りの希望を捨て、残された民は自分の道を模索し、試み、主の御前に至ります。
彼らは砕かれた心で叫びます。
「私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。」
「私たちはそむいて逆らいました。あなたは私たちを赦してくださいませんでした。
あなたは、御怒りを身にまとい、私たちを追い、容赦なく殺されました。
あなたは雲を身にまとい、私たちの祈りをさえぎり、」
(哀歌3章41~44節)
ここに重要な教訓があります。
罪を犯しながら祈るのは無駄です。
神と共に歩むことを求めない人は、神から何かを期待する権利はありません。
*「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」
(詩篇37篇4節)
*「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」
(ヨハネの福音書15章7節)
これが祈りが聞き届けられる鍵です。
従順は確信をもたらします。
聖霊を悲しませ、主イエス・キリストを辱める何かに執着している限り、信仰をもって祈ることは不可能です。
祈りが聞き届けられず、天が真鍮のように見えるなら、それはたましいの誤った状態を示す厳粛な兆候であり、自己を裁き、あらゆる悪の道を捨て去るべきです。
これらが欠乏しているために、ユダはおそろしく堕落しました。
「私たちを国々の民の間で、あくたとし、いとわれる者とされました。
私たちの敵はみな、私たちに向かって口を大きく開き、恐れと穴、荒廃と破滅が私たちのものになった。」
哀歌3章45~47節)
彼らの悲しみを深く心に留めずにいられる心は、実に辛かったはずです。
エレミヤはこのように言っています。
「私の民の娘の破滅のために、私の目から涙が川のように流れ、
私の目は絶えず涙を流して、やむことなく、
主が天から見おろして、顧みてくださる時まで続く。
私の目は私の町のすべての娘を見て、この心を苦しめる。」
(哀歌3章48~51節)
それは、民が主の懲らしめの御手の下にいる時、涙を恥じない男らしい悲しみでした。
それに対して無感覚であったならば、それは確かに非難されるべきことでした。
エレミヤは自分を過ちを犯した者たちと同一視し、彼らの訴えを弁護し続け、迫害者たちへの報復を求めました。
エレミヤは、理由もなく狩人に追われた鳥のようです。
しかし、エレミヤは、神が民に裁きを下された義を無視していたわけではありません。
その点において、十分な理由がありました。
しかし、バビロンによるユダへの弾圧は、人間の公平さの観点から完全に正しさを証ししていません。
ユダの戦争は、支配欲と権力欲によって支配されていた。
神は懲らしめとして、自分の民に悲しみを降りかけることをしばしば許すが、実際の苦難に関する限り、決して不当なことではありません。
例えば、ある聖徒が不当に告発され、それによって極度の精神的苦痛を被ることがあります。
その残酷な告発に対して自分は無実であり、不当に扱われていると感じながら、常に苦悩し続けます。
正しく見れば、これはキリストの苦しみにあずかる機会に過ぎないことが分かります。
なぜなら、キリストは「理由もなく」憎まれ、偽りの証人たちがキリストに敵対したはずだからです。
この状況は、たとえ血肉にとってどれほど苦痛なものであっても、たましいの教育において繰り返し不可欠な要素となります。
もし、その時、私たちが神との個人的な交わりにおいて失敗したことを自覚するなら、それは私たちが神の聖さにあずかるための懲らしめとして用いられます。
穴に投げ込まれて死ぬままにされた者のように、残された者は「下劣な地下牢から」主を呼び求め、信仰によってこのように言うことができます。
「あなたは私の声を聞かれました。救いを求める私の叫びに耳を閉じないでください。
私があなたに呼ばわるとき、あなたは近づいて、『恐れるな。』と仰せられました。」
(哀歌3章56、57節)
これは驚くべき慰めです。
神は、心が神の前に清廉である時、悩めるたましいの最初の叫びにすぐに応えてくださいます。
ゆえに、続く聖句では、必要な時に神が応答してくださることを称えています。
神は苦しむ者のたましいの訴えを弁護されています。
神はその命を贖われました。
神はすべての悪に目を留めておられ、確信をもってこの件を裁いてくださるよう懇願されています。
(哀歌3章58、59節)
哀れみ深い神の耳に、敵の冷酷さの物語が語られ、すべてのことが神に委ねられます。
また、弾圧者への報復も祈願していますが、すでに見てきたように、キリスト教の教えの霊ではなく、「目には目を」の原則が貫かれていた律法の精神があります。
(哀歌3章60~66節)
この恵みの時代に生きる私たちに対する主の教えは「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」というものです。(マタイの福音書5章44節)
それはすべての者である主が「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られたのと同じです。(ルカの福音書23章34節)
恵みは支配しています。
恵みに選ばれた私たちは、同じ恵みを他の人々に示す責任があります。
しかし、私たちがここで経験していることは、律法のディスペンセーションと完全に一致しています。
「ヤコブの苦難の時」の地上の救いは、敵に対する裁きを通して得られることができます。
つまり、残された者たちの口から発せられる言葉にも、この祈りがふさわしいものとなります。
第30章 失われた純金の輝き
(哀歌4章)
4章の嘆きに表現されている悲しみは、深い霊的な特徴を帯びています。
預言者の心を占めているのは、ユダとエルサレムの人々の現世的な悲しみではなく、神から遠ざかり、もはや地上において神の証しとなっていないという、彼らの不幸な状態です。
過去と現在は鮮明な対照をなしています。
過ぎ去った日々において、彼らにおおきな恵みが示されました。
今、悲しいことに、彼らは本当に堕落してしまったのです。
「ああ、金は曇り、美しい黄金は色を変え、聖なる石は、あらゆる道ばたに投げ出されている。
純金で値踏みされる高価なシオンの子らは、ああ、陶器師の手で作られた土のつぼのようにみなされている。」
(哀歌4章1、2節)
エバが手を伸ばして神が禁じたものを取って以来、さまざまなディスペンセーションの働きは失敗を特徴づけています。
神が人間に与えるあらゆる新たな試練は、人間の心の治癒不可能な悪をさらに表面化させる機会を与えるだけです。
* 良心の下では、アダムからノアに至るまで、腐敗と暴力が地球に満ちていました。
* ノアからアブラハムまでの支配下で、人間は宇宙の真実な支配者を見捨てました。
そして、神を自分の知識の中に留めておくことを好まず、創造主よりも被造物を崇拝し、仕えました。
* アブラハムからキリストに至るまで、約束と律法の下で、人間はさまざまな戒律を破り、あらゆる誓約を破りました。
そしてついに、人間の強情と反抗の恐ろしい道は、生命の君の十字架刑で頂点に達しました。
* 聖霊の現在の恵みのもとで、彼はその恵みを淫らなものに変え、教会に託されたあらゆる真理を腐敗させました。
アブラハムからキリストまでの長い期間を、容易に分類できる数多くの区分に細分化すると、それぞれの区分は同じ悲しい失敗の証人となります。
* 族長たちの時代には、ヤコブの息子たちの裏切りと、その結果としてのエジプトへの堕落が目撃されました。
* 荒野は神の忠実さと人間が信頼できないことを証明した40年間記録した場所です。
* 士師記の時代も同じ話が確認されています。
* ユダ王国とイスラエル王国の歴史は、人間の心のペテン性をさらに強調しました。
時々 、主は力と恵みをもって働き、回復と祝福を与えました。
しかし、すぐに人々は神の律法に飽きてしまい、自分たちの欲望を満たすことに専念し、もはや救いようがありません。
アッシリアとバビロンが、恵まれた人々を飲み込んでしまいました。
「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」
(ローマ人への手紙15章4節)
イスラエルの歴史は、信仰を告白する教会の歴史としばしば重なり合って見えます。
「水の中で顔と顔が答えるように、人の心も人に対して答える」からです。
ただ、キリスト教世界の腐敗はさらに忌まわしく、神からの離脱はさらに明白です。
その御名が祝福された神が、自分を証しされないままにしておかれません。
過去のディスペンセーションと同じ様に、現在のディスペンセーションにおいても、常に、特別な覚醒をもたらす力をもって働き、死者の間で眠っている者たちを、新たな活動へと、神の御言葉が非難されているのを見た者たちに対して、心からの判断が与えられ目覚めさせてきました。
しかし、次の世代の古い習慣、あるいはさらに悪い習慣に逆戻りしてしまうと、聖霊の現れたエネルギーはあっという間に衰えてしまいます。
ヨシュア記24章31節でイスラエルについて預言されていることは、主イエスの昇天と聖霊の降臨以来、何世紀にもわたって繰り返されてきました。
「イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行なわれたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。」
(ヨシュア記24章31節)
しかし、その後の世代はすぐに形式主義と世俗主義に逆戻りします。
純金はすぐに曇り、若い頃の新鮮さは消え去ります。
しかし、そうである必要はありません。
神の前に良心を保つよう注意し、交わりの場から離れようとする初めの兆候に注意し、何よりも祈りを捧げ、頼り続けるならば、若さのしずくは決して失われることはありません。
もし、失われるとしても、それは聖霊に満ちた老年の、より成熟した恵みに場所を譲ることになるだけです。
これは個人の場合と同じ様に働きにおいても適用されます。
ただ、働きについては困難が伴います。
なぜなら、働きは個人で構成されているからです。
それぞれの単位が神と共に歩むことによってのみ、大勢の者がそのような働きができるからです。
ユダの場合、それは、厳粛に明白に述べられているように、まったく異なるものでした。
「純金で値踏みされる高価なシオンの子らは、ああ、陶器師の手で作られた土のつぼのようにみなされている。」
(哀歌4章2節)
しかし、栄光は消え去り、若者を養う力もありません。
エレミヤはこのように嘆いています。
「私の民の娘は、荒野のだちょうのように無慈悲になった。」
(哀歌4章3節)
彼らは子孫を私腹を肥やすために放置しています。
「乳飲み子の舌は渇いて上あごにつき、幼子たちがパンを求めても、それを裂いて彼らにやる者もない。」
(哀歌4章4節)
神の民の集会が、生まれたばかりの幼子や若い聖徒たちが栄養のある、自分たちにふさわしい食物を見つけられる保育所ではないことは、言葉では言い表せないほど悲しみです。
子羊たちの必要はくりかえし忘れ去られてしまうのではないかと危惧されます。
そして悲しいことに、すべてが乾ききって干からびているため、彼らに与えるものが何もないことが多くあります。
年老いた聖徒たちがこの世のために生きているのであれば、幼子たちが喜びと証しに関して、周囲の枯れ果てた影響力に屈し、衰弱してしまうのも不思議ではありません。
ユダの母親たちは、自分の飢えのために子供たちを養うことができませんでした。
「ごちそうを食べていた者は道ばたでしおれ、紅の衣で育てられた者は、堆肥をかき集めるようになった。」
(哀歌4章5節)
そのため、ユダの母親たちは、一瞬にして滅ぼされたソドムよりも、さらに大きな罰を受けたように思われました。
その反面、ユダの苦しみは長く続きました。
「そのナジル人は雪よりもきよく、乳よりも白かった。そのからだは、紅真珠より赤く、その姿はサファイヤのようであった。
しかし、彼らの顔は、すすよりも黒くなり、道ばたでも見分けがつかない。彼らの皮膚は干からびて骨につき、かわいて枯れ木のようになった。」
(哀歌4章7、8節)
これらの節で預言者が何を指しているのかを理解するには、民数記6章に記されているナジル人の律法についてある程度の知識が必要です。
多くの読者にとって、知的興味をそそる聖書の個所としてよく知られていますが、違う読者もいるかもしれませんので、少し立ち止まって、そこに記されている内容を検討してみるのも有益です。
ナザレ人は、その名が示すように「分離する」という語源を持っています。
特別な意味で主なる神に分けられた人でした。
イスラエルは皆、神の民として贖われましたが、皆がナジル人だったわけではありません。
しかし、すべてのクリスチャンはナジル人として、主に自分自身を惜しみなく捧げるよう召されています。
使徒パウロが次のように書いたのは、救われたすべての人々に対してです。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。
いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
(ローマ人への手紙12章1、2節)
実際に、このことはすべての信者に適応できません。
もしかすると、他のどの時代にも適応できるわけでもないことが分かると思います。
主イエスは真実なナジル人であり、卑しい誕生から十字架の上での恥辱の死に至るまで、神に仕えられました。
私たちは確かに「主の足跡に従う」ように召されていますが、ナジル人の特質を保つ人が少ないことを知るならば、悲しくなります。
古代のナジル人には、主に三つの特徴がありました。
(1)民数記6章3、4節にはその者は「ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。」と記されています。
ぶどうの木の産物「種も皮も食べてはならない」ことが明確に規定されています。
(2)5節にはその者が「聖別の誓願を立てている間、頭にかみそりを当ててはならない」とあります。
彼は髪の毛を女性のように長く伸ばさなければなりません。
(3)また、6節にはその者が「身を聖別している間は、死体に近づいてはならない。」と記されています。
この点において、彼は父や母、あるいは親族の誰に対しても、自分を汚してはならないことが特別に述べられています。
それぞれの命令には、明確な教訓が含まれています。
聖書では、ぶどう酒は喜びを象徴しています。
(士師記9章13節、詩篇104篇15節)
ナジル人はぶどう酒を断たなければなりません。
この世は、神とともに歩む者の喜びに仕えることはできません。
多くのクリスチャンはこのことを学んでいないようです。
しかし、これが事実であり、早く学ぶに越したことはありません。
ナジル人に喜びがないわけではありませんが、ナジル人の喜びは、この世のぶどうの木が与えるものよりも、もっと深く純粋なものです。
地上のぶどう酒は想像力を刺激し、興奮させ、それによって一時的な快楽を引き起こすかもしれません。
しかし、エノクのように神とともに歩む者の特長である、あの深い音色の喜びを生み出すことはできません。
「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」
(ネヘミヤ書8章10章)
しかし、それは天から降って来るものです。
この罪に呪われた風景のどんな植物も、それを生み出すことはできません。
第二に、ナジル人は髪を伸ばすことを許しました。
コリント人への手紙第一11章によれば、長い髪は女性にとって適切な覆いであり、堕落以来の現在の秩序における女性の従属的な立場を物語っています。
(創世記3章16節、コリント人への手紙第一11章4節~15節)
男性が長い髪をしていると、それは彼にとっては恥ですが、女性にとっては栄光です。
「髪はかぶり物として女に与えられているからです。」
(コリント人への手紙第一11章15節)
つまり、長い髪は依存的な立場を物語っています。
ナジル人の中に、人が「彼の権利」と独立性と呼ぶものを自発的に放棄し、完全に神に服従する者を見ることができます。
主イエスはこの点においても、他のすべての点においても偉大な模範です。
なぜなら、主はこのように言うことができたからです。
「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」
(ヨハネの福音書6章38節)
イエスにおいて、これはさらに注目すべき点です。
なぜなら、イエスは御自分の意志を行う権利を持つ唯一の人であったにもかかわらず、自ら進んでその権利を放棄し、謙遜になり、完全な意味で主に従う人となったからです。
同じように、神の人は、自分の考えや性向を捨て去り、主の意志を人生において至高としなければなりません。
第三に、ナジル人は死者によって汚されてはいけません。
ですから、主に身を捧げようとする信者は、この場面におけるあらゆる汚れの影響から離れるよう求められています。
「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」
(マタイの福音書8章22節)
このイエスの言葉を聞いた信者は、聖霊を悲しませ、霊的な感受性を鈍らせるあらゆるものから直ちに離れ、主だけのものとなるべきです。
ある時はナジル人であり、ある時はそうでないことはよくあり得ることです。
この章の残りの部分は、汚れの厳粛な結果を示しています。
もし、死と接触すれば、それまでの分離の日々はすべて失われます。
なぜなら、彼の分離は汚れてしまったからです。
(哀歌4章9~12節)
ナジル人は、十字架とそこに掛けられた聖なる方を象徴する定められた捧げ物を携えて来ることによってのみ、特別な祝福と特権、そして責任の立場に復帰することができるからです。
分離の日々が終わるまで、ナジル人は頭を剃り、ぶどうの実を食べたり飲んだりする自由を得ることはできません。
信者にとって、それは荒野の旅が終わり、栄光の中に入る時にのみ与えられます。
その時、私たちを愛してくださった主と共に、父の王国で新しいぶどう酒を飲みます。
そこでは、罪に汚されていない純粋な喜びが、永遠に私たちの心に宿るのです。
神の霊がナジル人について伝えようとする真理を目の前に、私たちはこの章の7、8節に、優しくも悲しい関心を抱きながら目を向けます。
かつて、神に献身していた日々は、現在の彼らのひどい衰退と対照的です。
「そのナジル人は雪よりもきよく、乳よりも白かった。そのからだは、紅真珠より赤く、その姿はサファイヤのようであった。
しかし、彼らの顔は、すすよりも黒くなり、道ばたでも見分けがつかない。彼らの皮膚は干からびて骨につき、かわいて枯れ木のようになった。」
(哀歌4章7、8節)
本当に恐ろしい衰退です。
かつて、ユダの誇りであった、敬虔で善良な息子たちは、飢饉と疫病によってすっかり変わってしまいました。
今では街で忘れ去られています。
彼らの運命は、剣で殺された者たちよりもさらに過酷でした。
「剣で殺される者は、飢え死にする者よりも、しあわせであった。彼らは、畑の実りがないので、やせ衰えて死んで行く。」
(哀歌4章9節)
ナジル人が意図的に汚れたという痕跡は全く見当たりません。
しかし、死者は至る所に存在し、それによって汚れを免れることは不可能だったのです。
ナジル人は自分の属する国の苦難を共にするのです。
聖霊のバプテスマを通してキリストのからだである教会の成員となった人々については、さらに深い意味でこのことが適応されます。
「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」
(コリント人への手紙第一12章26節)
キリスト教世界の罪は、ある意味は私たち共通の罪です。
私たちは皆、ある程度、その失敗に責任を負っています。
ですから、私たちは、同胞が陥った悪や愚行を指摘して非難したり、あざけ笑ったりすることに時間を費やすべきではありません。
むしろ、その罪とその結果生じる破滅に私たちが加担したことを告白し、復活と祝福のために神の憐れみを仰ぎ見るのです。
エルサレムの苦悩の中で、モーセは恐ろしい預言をしています。
(申命記28章56、57節、レビ記26章29節)
そこでは、過去にも何度も成就してききたように(列王記第二6章26~29節)、今回も成就しています。
「あわれみ深い女たちの手」が、飢えた貧しい子供たちに伸ばされたということは、飢饉が最悪の事態を引き起こしたことは明らかです。
「私の民の娘の破滅のとき、あわれみ深い女たちさえ、自分の手で自分の子どもを煮て、自分たちの食物とした。」
(哀歌4章10節)
そのため、次の節ではこのように宣言しています。
「主は憤りを尽くして燃える怒りを注ぎ出し、シオンに火をつけられたので、火はその礎までも焼き尽くした。
地の王たちも、世に住むすべての者も、仇や敵がエルサレムの門に、はいって来ようとは信じなかった。」
(哀歌4章11、12節)
そして、続けてその理由が語られています。
「これはその預言者たちの罪、祭司たちの咎のためである。彼らがその町のただ中で、正しい人の血を流したからだ。」
(哀歌4章13節)
神は義なる怒りによってシオンをどん底に突き落としました。
そうでなければ、諸国はシオンに対して何ができたのでしょうか?
エレミヤ書5章1節で、主はシオンの中に義を執行し、真実を求める人が一人でもいれば、その町を赦すと約束されました。
「これはその預言者たちの罪、祭司たちの咎のためである。彼らがその町のただ中で、正しい人の血を流したからだ。
彼らは血に汚れ、盲人のようにちまたをさまよい、だれも彼らの着物に触れようとしなかった。
「あっちへ行け。汚れた者。」と人々は彼らに叫ぶ。
「あっちへ行け。あっちへ行け。さわるな。」彼らは、立ち去って、なおもさまよい歩く。諸国の民の中で人々は言う。
「彼らはもう立ち寄ってはならない。」
主ご自身も彼らを散らし、もう彼らに目を留めなかった。祭司たちも尊ばれず、長老たちも敬われなかった。」
(哀歌4章13~16節)
偽預言者と偽祭司たちは、義人たちを死に追いやったり、追放したりしました。
これらの忠実な人々はこのようにされたのです。
「また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、――この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。
――荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。」
(ヘブル人への手紙11章36~38節)
神の証人たちは、彼らが働きをしていたまさにその民から軽蔑され、憎まれました。
* ユダヤの伝承によれば、イザヤはのこぎりで切られました。
* エリヤの命はイゼベルとアハブに狙われました。
* オバデヤは主の預言者たちを洞窟に隠さなければならなかったのです。
* アマジヤはアモスを脅迫しようと努めました。(アモス 7章12、13節)
* エレミヤは何度か投獄され、エベドメレクがいなかったら穴の中で死ぬところでした。
* バラクの命は失われたと宣告されました。
こうして、この後ステパノはこのように問いかけることができました。
「あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。
彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。」
(使徒の働き7章52節)
彼らは神から遣わされた者たちを拒むことで、遣わした方を拒みました。
それゆえに、彼らに災いが降りかかったのです。
17節では、エジプトを明らかに「私たちを救うことのできなかった国」として述べられています。
ゼデキヤとその家臣たちは最後までパロの助けを頼りにしましたが、無駄でした。
神はエジプトを「傷ついた葦」と仰いましたが、まさにその通りになりました。
常に存在するバビロニア人の鋭い目から逃れることはできません。
ユダは注目を浴びていました。
彼らは街路に姿を現そうともしませんでした。
迫害者たちは「大空の鷲よりも速く、山々の上まで追い迫り、荒野で私たちを待ち伏せた」のです。
(哀歌4章18、19節)
王は忠実な家臣数名と共に逃亡を試みたにもかかわらず、捕らえられました。
「私たちの鼻の息である者、主に油そそがれた者までも彼らの落とし穴で捕えられた。
「この者のおかげで、諸国の民の中でも私たちは生きのびる。」と私たちが言った者なのに。」
(哀歌4章20節)
真実な「主に油を注がれた者」が来るまで、その陰に民が完全に安全に住める支配者は現れません。
エドムはユダの災難の日に歓喜しました。
杯は間もなく彼女に渡されます。
神の都の陥落と数々の罪に対する彼女の歓喜のゆえに、彼女は酔いしれ、裸にされなければなりません。
(哀歌4章21節)
シオンの娘への罰は既に執行されました。
捕囚に代わる回復は間もなく彼女の受けるべきものとなるが、エドムの裁きはまさに始まろうとしていました。
「義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」
(ペテロへの手紙第一4章18節)
第31章 「主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御座は代々に続きます。」
(哀歌5章)
この最後の章では、ユダの苦難の詳細な物語が主の前に展開されています。
しかし、他のすべてが滅ぼされても、ただ一人だけ残るという事実に、たましいは安らぎを得ます。
罪と不従順によってもたらされた悲惨な状況にもかかわらず、安らぎと確信が存在します。
すべては神の前に見直され、エレミヤと彼の民の残されたわずかな人々の心は、神にあって安らぎを見出すことができます。
神は、彼らの邪悪な行いがもたらす災いについて預言されたすべてのことを成就されました。
神は、未来の救済と哀れみの回復に関する約束を成就されることを決してお約束されません。
最後の数節は、3章22~26節のテーマと密接に結びついています。
この部分全体は、嘆きではなく祈りの形をとっています。
「主よ。私たちに起こったことを思い出してください。私たちのそしりに目を留めてください。顧みてください。」
(哀歌5章1節)
天には、神の子たちが受けるあらゆる試練を見守り、無限の知恵と愛によってすべてを秩序づけておられる方がおられることを感じることは、悩める心にとって大きな慰めとなります。
神の目が見守ってくださり、神が無関心に黙示していないことを知り、安らぎを得ることができます。
彼らは、これほどまでにひどく失敗したにもかかわらず、神がそれでも自分たちに深い関心を抱いておられることを確信し、苦悩と非難の原因を列挙しています。
「私たちの相続地は他国人の手に渡り、私たちの家もよそ者の手に渡りました。」
(哀歌5章2節)
美しい土地は、評価されることなく異邦人の支配下に置かれました。
神がそれを喜ばれたからではなく、神の民が神から離れることの愚かさを悟らせるためです。
「私たちは父親のないみなしごとなり、私たちの母はやもめになりました。」
(哀歌5章3節)
この言葉によって、彼らは孤児の父であり、未亡人の裁き主である神の特別な心つかいを受ける資格を得ました。
このように自分を語ることによって、彼らは自分の完全な無力さと、若い頃の導き手であった神への信頼を表現しています。
これほど真摯な嘆願は軽く見られることはありません。
困窮を感じ、真実な悔い改めた時に神に祈ったことが、無駄になったことは一度もありません。
「私たちは自分たちの水を、金を払って飲み、自分たちのたきぎも、代価を払って手に入れなければなりません。」
(哀歌5章4節)
この世が主から離れたたましいに与えるものはすべて高くつきます。
自分の道を歩み、神への恐れおののくことを捨て去ることで、多くのものが得られるように思えるかもしれません。
サタンはまた、神のために生きるには代償が大きすぎることを示し、他のものを欲しがり始めたすでに不幸な心を、魅力的な餌で誘い込みます。
しかし、それは結局、神への不従順は、誰も到底手にすることができません。
高価な放縦、不道徳な贅沢であることを証明するためだけです。
ここで金のために水を飲んだと不平を言う者たちは、愚かにもすべての人が自由に飲むことができる「生ける水の源」である主を捨て去ることです。
しかし、人はこの水ためをほります。
「水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」
(エレミヤ書2章13節)
主の敵から水を求められた時、彼らは代価を支払わなければなりません。
そして、彼らがそれほどまでに高く買ったものすべてについてこのように言うのです。
「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」
(ヨハネの福音書4章14節)
しかし、主の生ける水は疲れたたましいを満たします。
神から離れることは、恵みの子が行った最も愚かで最悪の投資です。
「私たちはくびきを負って、追い立てられ、疲れ果てても、休むことができません。」
(哀歌5章5節)
どうしてそのようにならないのでしょうか?
自分たちの道を行くことで安息が得られるのでしょうか?
あり得ません。
「あなたはわたしたちをあなたのために造られました。
私たちのたましいは、あなたに安息するまでは決して安息を得ることはできません。」
このようにヒッポのアウグスティヌスは言いました。
安息を求めるのは、他に類を見ない愚行です。
世の人々がそのような間違いを犯すことは、驚くには当たりません。
彼らは、サタンの領域の魅惑的な誘惑よりも良いものを何も知りません。
しかし、聖霊に従う人々に聖霊が与える深く真実な平和を共有した人が、唯一の安息の源に背を向けます。
そして、かつて、そこから解放されたこの世に安息を求めます。
それは、はるか以前に隠れた心の後退という理由以外では説明のつかない異常事態になります。
ユダの例がまさにその例です。
彼らはまず心が汚れたものを追い求め、次いでその足も同様に続きました。
しかし、箱舟から放たれた鳩のように、彼らには足の裏を休める場所がありません。
カラスは、あらゆる人間の中にある邪悪な性質の象徴であり、浮かぶ死骸の上に止まり、その死肉を食べます。
しかし、聖霊と、神のすべての子供たちが受け継いだ新しい性質の象徴である、清く純粋な鳩は、そのような状況では休む場所も食べ物も見つけることができません。
そして、両者にとってのキリストの象徴である箱舟に戻らざるを得なかったのです。
「私たちは足りるだけの食物を得ようと、エジプトやアッシリヤに手を伸ばしました。」
(哀歌5章6節)
しかし、エジプトはすぐに彼らを失望させ、アッシリアは彼らを圧迫しました。
人間の支えはすべて打ち砕かれ、残された民は神にのみ頼りました。
彼らは最初から神に頼るべきでした。
彼女たちは告白を続け、このように告白します。
「私たちの先祖は罪を犯しました。彼らはもういません。
彼らの咎を私たちが背負いました。」
(哀歌5章7節)
彼女たちは道を踏み外した先祖の子であり、同じ道に迷い込みました。
奴隷たちが自分たちを支配し、救い出す者がいないと、彼女たちは激しく不平を言います。
彼女たちは「荒野に剣があるために」(哀歌5章8、9節)、命の危険を冒してパンを運び入れました。
飢饉に見舞われ、彼女たちの皮膚は「かまどのように熱くなり」ました。
シオンの女たちとユダの町々の侍女たちは、偶像礼拝の軍隊の強姦者たちによって辱められました。
君主たちは汚名を着せられ、手で吊るされ、長老たちは辱められ、若者や子供たちは家政婦として連れて行かれました。
(哀歌5章10~13節)
裁きの場も歓楽の場も、どちらも空っぽです。
長老たちの姿はもはや門には見えず、若者たちの歌声も途絶えていました。
彼らの心の喜びは消え、踊りは葬式のような重々しい雰囲気に変わりました。
嘆き悲しむ者の声が、歌う者の声に取って代わったのです。
(哀歌5章14、15節)
彼らは、自分の悪行と苦難の直接的な関連性を痛感し、悔恨と悔悟の叫びを上げます。
「私たちの頭から冠も落ちました。ああ、私たちにわざわいあれ。私たちが罪を犯したからです。」
(哀歌5章16節)
哀れみ深い神のおかげで、たましいがこのように鞭に屈し、罰の正当性を告白する時、祝福はそう遠くありません。
「主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。」
(詩篇103篇9節)
ユダはひどく落ち込んでいましたが、必要な教訓が心に刻まれ、その実を結ぶ時、彼らを打ち倒した主は彼らを立ち上がらせることができます。
彼らは「シオンの山は荒れ果て」、狐の住処と化したその山のゆえに、涙で目がかすみ、気落ちしながらも、過去のすべての祝福を与えてくださった主、そしてすべての悲しみを乗り越える必要を感じてくださった主を仰ぎ見ます。
主こそが彼らの唯一の拠り所であることを知り、彼らは叫びます。
(哀歌5章17、18節)
「主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御座は代々に続きます。」
(哀歌5章19節)
他のすべては消え去ったかもしれませんが、主は永遠に存在し続けます。
親愛なる同胞よ、試練と苦難にあえぐ神の子たちにとって、この尊い事実は言葉に尽くせない慰めとなります!
状況は厳しく、次から次へと打撃が襲い、災難が次々に降りかかり、ついには傷ついた心には、地上で頼るものが何も残りません。
そんな時、サタンはたましいに「神も去ってしまった、もはや神の御心ではないのだ!神はそれを放置し、死なせてしまったのだ!」と信じ込ませようとします。
しかし、それはあり得ません。
信仰は見上げ「あなたの御座は代々に続きます!」と叫びます。
なぜなら、神は「昨日も、今日も、そして永遠に」変わらぬ存在だからです。
昔、スコットランドに住んでいた、未亡人となったクリスチャンの女性にまつわる実話があります。
彼女は数人の「子供たち」を養うため、ついに窮地に陥り、小さな家族の衣食住を確保するために、極めて厳しい節約を強いられました。
しかし、それでも彼女は心を主に定め、教えと実践の両方を通して、子供たちに信頼と確信の教訓を教えました。
しかしある日、財布は空っぽになり、食器棚は空っぽになりました。
穀物樽には小麦粉が一握りしか残っていません。
ザレパテの未亡人のように、彼女は小麦粉を取りに行き、空腹の子供たちの食欲を満たすために一口分の食べ物を作りました。
次の小麦粉がどこから出てくるのかも分かりません。
樽にかがみ込み、最後の小麦粉をかき集めていると、一瞬、彼女の心は張り裂けそうになり、疑念の発作で熱い涙が流れ始めました。
彼女は完全に見捨てられたように感じました。
彼女のすすり泣きを聞いて、幼い息子のロビーが慰めに近づいてきました。
彼女の服を引っ張り、彼女の注意を引くと、彼は驚いて彼女の顔を見上げ、古風なスコットランドなまりで尋ねました。
「お母さん、何を嘆いているんですか?
樽の底をかきむしっているのが聞こえますか?」
一瞬にして、彼女の衰えかけた信仰が再び力強く現れました。
ああ、確かに神は聞いてくださった。
他の全ては失われていたかもしれないが、神は存在し続け、神の御言葉は彼女のあらゆる必要が満たされると宣言しました。
そして、その通りになりました。
彼女が持っていた最後のものが失われた時、完全な予想外の源から助けが与えられたのです。
試練の時こそ、信仰が試される時です。
そして、その試練が自分自身によってもたらされたことに気づいた時ほど、信仰が試されることはありません。
今、このように問いかけています。
「なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。私たちを長い間、捨てられるのですか。」
(哀歌5章20節)
しかし、彼らは確信をもってこのように付け加えることができます。
「主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。
私たちの日を昔のように新しくしてください。」
(哀歌5章21節)
もし、主が彼らを立ち返らせてくださるなら、すべてはうまくいきます。
彼らは自分自身を信じることができません。
彼らはかつて、不誠実で偽り者でした。
しかし、主は御力の日に彼らを喜んで受け入れることができます。
その時、彼らは主の御心のままの者となります。
「それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか。」
(哀歌5章22節)
これは確かに真実でしたが、神の激しい怒りはすでに静まりつつありました。
間もなく神は立ち上がり、再び彼らの救い主となります。
これは、クロスの許しを得て、勇気ある者たちが皆、父祖たちや自分たちの一部が捕虜となった街へと帰還した時に、部分的に実現しました。
しかし、ユダの嘆きの日は、義の太陽が翼に癒しを携えて昇り、彼らのすべての涙をぬぐい、アブラハムに永遠の相続地として約束された地に彼らを復帰させるまで、真実な終わりはありません。
その時、シオンは荒布を脱ぎ捨て、美しい衣をまとって世界の女王の都となり、王が支配し繁栄します。
「その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。
城門をあけて、誠実を守る正しい民をはいらせよ。
志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたを信頼しているからです。
いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。」
(イザヤ書26章1~4節)
その時、エルサレムの喪は終わり、その戦争は終わります。
付録1
エレミヤ書を年代順に並べてみましょう。
(a)ヨシヤの治世(紀元前641年から610年)
紀元前629年 1章 エレミヤの召命。
2~6章 ユダとベニヤミンへの勧告。
(b)エホアハズ(シャルム)の治世 紀元前610年
この3か月の短い支配期間には具体的な部分はありませんが、22章10~12節を参照してください。
(c)エホヤキムの治世(紀元前610年から599年)
| 紀元前610年 | 26章 | 逮捕と無罪放免 |
| 607年(?) | 35章 | レカブ人 |
| 607年 | 36章 | 焼かれた巻物 |
| 607年 | 45章 | バルクの言葉 |
| 607年 | 52章 | 70年間の奴隷状態の預言 |
| 607年 | 46章 1~12節 | パロに対する裁き |
| 605年 | 18章、19章 | 陶器師と粘土 |
| 605年 | 20章 | エレミヤの最初の投獄 |
| 602年 | 13章 | 亜麻布の帯 |
| 602年 | 14章 | 飢饉 |
| 601年 | 15~17章 | 捕囚の預言 |
| 600年(?) | 7~10章 | 裁きの預言 |
| 600年 | 11、12章 | 勧告 |
| 600年 | 47~49章 | 諸国民に対する戦い |
(d)エホヤキン、またはコニヤ(エコニヤ) の治世 紀元前599年
紀元前599年 22章、23章 不忠実な羊飼い
(e)ゼデキヤ王の治世(紀元前599~588年)
| 599年 | 29章 | 最初の捕虜への手紙 |
| 599年 | 24章 | イチジクと悪いイチジク |
| 598年(?) | 30、31章 | 帰還の預言 |
| 595年 | 27章 | 絆とくびき |
| 595年 | 28章 | ハナニヤとの論争 |
| 595年 | 50、51章 | バビロンの滅亡 |
| 591年 | 34章 | 破られた契約 |
| 590年 | 33章 | 主の枝 |
| 589年 | 21章 | ゼデキヤの調査 |
| 589年 | 37章 | エレミヤの二度目の投獄 |
| 589年 | 38章 | ゼデキヤとの会談 |
| 589年 | 32章 | 土地の購入 |
| 588年 | 39章 | エルサレムの陥落 |
| 588年 | * 53章 | 歴史付録 |
| 588年 | 40章、41章 | ゲダリヤとイシュマエル |
| 588年 | 43章、44章 | エジプトの残された者たち |
| 587年 | 46章13~28節 | エジプトの裁き |
*エレミアの著作ではありません。
コメントをご覧ください。
付録II
比較のために、聖書にある倫理的順序を示します。
霊的な心を持つ人なら、ここに記されているのは単に散在した断片を人間がまとめたものではなく、単なる年代順ではなく、主題に従って神が配列したものであることは容易に理解できます。
エレミヤ書の道徳的順序による区分
| 1区分 | 悔い改めの呼びかけとその拒絶 | 1章から24章 |
| 2区分 | ネブカデネザルによる裁き | 25~29章 |
| 3区分 | 未来の回復と祝福 | 30章、31章 |
| 4区分 | 預言者の個人史とユダの最後の試練 | 32章から38章 |
| 5区分 | 執行された裁きと残された者たち | 39章から45章 |
| 6区分 | 諸国民に関する預言 | 46章から51章 |
| 付録 | エルサレム陥落の歴史的記述 | 52章 |
| 7区分 | ユダの悲しみと主への希望 | 哀歌 |
2025/10/23