メッセージBE 2025/12/13
マタイの福音書講義
H・A・アイアンサイド
Matthew
By H.A.Ironside
目次
1章
2章
3章
4章
5章
6章
7章
8章
9章
10章
11章
12章
13章
14章
15章
16章
17章
18章
19章
20章
21章
22章
23章
24章
25章
26章
27章
28章
マタイの福音書の概要は次のようになります。
1.イスラエルへの王と王国の提示(1章1節~12章50節)
A.王の系図(1章1~17節)
B.王の誕生(1章18~25節)
C.異邦人による王の崇拝(2章1~12節)
D.王の保全(2章13~23節)
E.王の油注ぎ(3章1~17節)
F.王の試練(4章1~25節)
G.王国の原則(5章1節~7章29節)
H.国王の信任状(8章1節~12章50節)
1.王の偉大な御業(8章1節~9章38節)
2.王への抵抗の増大(10章1節~12章50節)
II.イスラエルによる王と王国の拒絶(13章1節~28章20節)
A.キリスト教世界の発展(13章1節~20章34節)
B.イスラエルへの影響(21章1節~23章39節)
C.王の再臨(24章1節~25章46節)
D.死、復活、そして王の使命(26章1節~28章20節)
マタイの福音書1章
マタイの福音書はいつ書かれたのでしょうか?
一部の人が考えているように、マタイの福音書はヘブル語で初めは書かれたのでしょうか?
それとも元々はギリシャ語で書かれ、現在まで伝わっているのかさえ知る術はありません。
しかし、新約聖書の冒頭に正しく位置づけられていることは明白です。
この福音書は、間違いなく旧約の預言者たちと新しい恵みの時代を繋ぐ架け橋です。
預言書からの多くの引用は、神がそのしもべたちに霊感を与えた数々の預言に正確に従い、主イエス・キリストが約束されたイスラエルの王として来られたことを示すことが意図されています。
これらの預言は、アブラハムの時代からマラキの時代まで与えられました。
マラキの時代以降、預言的な証言は途絶え、400年間沈黙していました。
しかし、最後の預言者であるバプテスマのヨハネが現れて「近づいた(時が成就した)」と宣言しました。
マタイはまさに真実な意味でユダヤの福音書です。
これは、クリスチャンへのメッセージが全く含まれていないという意味ではなく、むしろ、聖霊によってキリストを提示され、信仰的なユダヤ人の探究者たちに、モーセと預言者たちが語ったのはキリストであることを明らかにするために書かれたものなのです。
1章1~17節には王の系図が、1章18~25節には王の誕生が記されています。
2章1~12節には異邦人が王に敬意を表する様子が、2章13~23節には王の保護について記されています。
3章では王の献身と油注ぎが、4章では王の試練が記されています。
5章から7章、いわゆる「山上の説教」では、王は御自身の王国の原則を明らかにします。
8章から12章では、王が偉大な御業によって権威を認められながらも、ますます多くの拒絶に向かう様子が描かれています。
13章から20章では、拒絶された王が天に戻った後、再び来られるまで続く新たな状態が描かれています。
天の御国は、全体を通して奥義の形で描かれています。
言い換えれば、それは私たちが一般的にキリスト教世界と呼ぶものの進展です。
イスラエルの頂点は21章から23章で描かれ、神の地上の民は、彼らの聖書に正確に従って王が来られたのに、王を受け入れを拒んだために、脇に置かれました。
24章から25章は、王の再臨について書かれています。
26章から28章では、王の死と復活が描かれ、最後に弟子たちに神の御国のメッセージを携えて諸国へ出ていくよう命じる使命が与えられます。
マタイの福音書に記されている系図は、イエスの養父であり、ダビデの直系子孫であり、王位継承者であるヨセフの系図です。
ヨセフを通して、王位継承権は主に継承されました。
イエスは紀元前5年後半か紀元前4年初頭にベツレヘムで誕生し、東方の三博士はその約2か月後に訪問し、その直後にエジプトへ逃亡しました。
イザヤ書7章14節で預言されているように、王の来られることについてさまざまな奇跡的な特徴があることに気づくことができるなら、驚くべきことはありません。
「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。
見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」
(イザヤ書7章14節)
主が地上に降り立った時、神の威厳と力にふさわしい形で私たちの世界に来られ、さまざまな自然法則が停止されました。
ゆえに、私たちはイエスを処女から生まれた者として理解することができるのです。
キリストの来臨は東方の博士たちに超自然的な方法で知らされ、神の計らいによってキリストの命が守られ、ヘロデの悪意によっても滅ぼされることもありません。
この物語の美しさと簡潔さは、私たちを驚きで満たし、言葉では言い表せない神の賜物への礼拝と感謝によって心が動かされます。
この福音の特別なディスペンセーション的な立場を守り、考慮することは非常に重要です。
しかし、この福音が律法によるのではなく、福音であることを理解しなければ、私たちは多くのものを失うことになります。
福音とは、神の御子に関する神のメッセージです。
ここで御子が王としての御姿で示されているのは、私たちが御子を王として敬い、御足元にひれ伏して服従することを学ぶためです。
「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」
マタイは、アブラハムからヨセフまでの主の系図から始めています。
しかし、これは血筋ではありません。
王家の系図であり、王位継承権を伴っています。
アブラハムの子として、主は約束された子孫であり、世界のすべての国々が祝福を受けるのです。
「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
(創世記22章18節)
ダビデの子として、主はダビデの王座において義をもって支配する王です。
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
(イザヤ書9章6~7節)
主のダビデからの実際の血筋は、母マリアを通して受け継がれました。
マリアはヘリの娘でしたが、聖なる子供が生まれる前にヨセフと結婚しました。
そのため、主は法的に、完全な王位継承権を有していました。
しかし、もし主が実際にヨセフの子であったならば、エコニヤへの呪いによって王位に就くことはできません。
「主はこう仰せられる。「この人を『子を残さず、一生栄えない男。』と記録せよ。彼の子孫のうちひとりも、ダビデの王座に着いて、栄え、再びユダを治める者はいないからだ。」」
(エレミヤ書 22章30節)
この系図は、注意深く研究する者ならすぐに参照できるます。
ゆえに、ここで引用する必要はありません。
17節に注目してください。
「それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。」
(マタイの福音書1章17節)
この節は系図を要約し、それぞれ14代ずつの三つのグループに分けています。
そのために、いくつかの名前は省略され、最後にマリアの名前を加えて14代とする必要があります。
ただし、他の人々が指摘しているように、イエスの誕生を13代目、キリストの再臨を14代目とみなす場合は別です。
このリストに5人の女性の名前が含まれていることに注目する人もいます。
しかし、これらはすべて、ユダヤ人の年代学者によっては認められない女性たちです。
創世記38章にある恥ずべき物語が記されているタマル、異邦人でありながら邪悪な特徴の女でありながらイスラエルの王子の妻となった娼婦ラハブ、同じく異邦人出身のモアブ人ルツ、そして、最初の夫の近親者であるボアズとのレビレート婚(逆縁婚)によって王統に入ったルツ、また、明確に「ウリヤの妻であった」として述べられていますが、ダビデの悲惨な失敗を思い起こさせるバテシェバ、そして最後に、そして何よりも愛すべきナザレの処女マリアです。
彼女は自然の秩序に反してイエスの母となったため、不信仰なユダヤ人によってこの美名が非難されてきました。
これは素晴らしいリストです!
神のみこころにある恵みを、神はその主権において、この5人の女性を約束の道に導くことを選ばれました。
不貞なタマル、ラハブ、バテシバの名前は、最も罪深く堕落した者にも及ぶ哀れみを物語っています。
忠実で献身的でありながら、よそ者であったルツの名前は、モアブ人への禁令にもかかわらず働いた恵みを物語っています。
「アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に、はいることはできない。
これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、あなたをのろうために、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇ったからである。
しかし、あなたの神、主はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。」
(申命記23章3~6節)
処女マリアを考える時、聖なる祝福された御子を、人間の器として彼女を通して私たちに与えてくださった神に私たちはひれ伏します。
さて、18~25節に書かれている王の誕生について考えてみましょう。
「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」
(マタイの福音書1章18~25節)
「ふたりがまだいっしょにならないうち。」
聖書はイエスの処女懐胎について明確に述べています。
母マリアはヨセフと婚約していましたが、ヨセフがマリアが聖霊の直接の働きによって、そして自然の誕生とは全く関係なく母となることを知りました。
しかし、まだ結婚していませんでした。
「内密に去らせようと決めた。」
もし、マリアが処女でなければ、律法によれば、その罰は死刑でした。
ヨセフは彼女をこの罰から救おうと考えました。
「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。」
受肉という素晴らしい奇跡が、御使いの働きによってヨセフに啓示されました。
「その名をイエスとつけなさい。」
ギリシャ語の「イエス」とヘブル語の「ヨシュア」であり、「救い主イエス」を意味しています。
「成就するためで。」
この言葉はこの福音書の中にある特徴的な表現です。
それは、霊感を受けた筆者の目的が、イエスが預言者たちによって約束されたメシアであることを示すことにあるため、繰り返して用いられています。
「その名はインマヌエルと呼ばれる。(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」
イザヤはこの預言が成就する約7世紀も前に預言していました。
この名前は、女の子における神と人の神秘的な結合を暗示しています。
「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」
(イザヤ書7章14節)
「その妻を迎え入れ。」
ヨセフはマリヤの境遇に関わらず結婚しました。
マリヤが母親になる前に、イスラエルで既婚女性としての地位を得られるようにするためです。
「その子どもの名をイエスとつけた。」
ヨセフは細部に至るまで従順であり、その子を「イエス」と呼ぶことで、自分たちの信仰の真実性を証ししています。
上で示したように「イエス」という名前は、ギリシャ語の「lesous」の英語化された形に過ぎません。
これはヘブル語の「ヨシュア」(ヤハウェの救い)に相当します。
救い主がこの世に来られる以前から、多くの人がこの名前をもっており、ギリシャ語の形でさえ珍しいことではありません。
コロサイ人への手紙4章11節には、「ユストと呼ばれるイエス」について書かれています。
しかし、私たちの祝福された主の受肉、死、そして復活以来、その名前は他のどの名前とも異なる、際立つ名前として区別されてきました。
クリスチャンにとって、この御前はすべての者が膝をかがめるすべての名前に勝る名です。
この地上でその名前を名乗った主は、この「イエス」という御名を来るべきさまざまな時代にわたって維持されています。
主の将来の到来を告げた二人の光り輝く者(使徒の働き1章10、11節)は、主のことを「天に上げられた(同じ)このイエス」と呼んでいます。
ヨハネの黙示録22章16節で、イエスはこのように言われています。
「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。」
(ヨハネの黙示録22章16節)
天からの最後のメッセージ「しかり。わたしはすぐに来る。」に応えて、預言する者はこのように答えました。
「アーメン。主イエスよ、来てください。」
(ヨハネの黙示録22章20節)
この御名によって、私たちは永遠の至福の中でイエスを知ることができます。
ただし、今、地上でイエスを、御自身の血によって私たちを神のもとに贖い出してくださった、私たちの救い主、イエスとして知ることが条件となります。
マタイの福音書2章
メシアについては、イスラエルだけでなく諸国にも祝福をもたらすと預言されています。
老いたシメオンは、イエスがこのような者だと宣言しました。
「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
(ルカの福音書2章32節)
そして、これらの約束を具現しました。
今、私たちが目にしている出来事は、まさにこの預言の真髄、予兆と言えます。
東方から来たこれらの賢者の訪問には、聖書に基づかない多くの思想や伝説が結び付けられてきました。
私たちが一般的に目にする描写とは異なり、彼らは王ではなく、マギ(東方出身の賢者)、すなわち古代の伝承の研究に身を捧げた賢者と呼ばれています。
彼らは確かに、バラム(東方出身)やダニエル書(ヘブル語とカルデア語で一部が書かれた)の預言など、特定の預言に多少なりとも精通していたはずです。
また、旧約聖書全巻が約2世紀前にギリシャ語に翻訳されていたことも忘れてはなりません。
この翻訳は七十人訳聖書(LXX)として知られ、世界中の学者が利用しており、多くの異邦人の聖書研究者によって利用されてきたことは間違いありません。
また、マギが3人だけだったと断言する根拠はありません。
これは、3種類の供え物が述べられていること(2章11節)から推測されたのかもしれません。
彼らの訪問を詩篇72篇10節の成就と見なそうとする試みによって、彼らが東洋の王であったという考えを生み出したと考えられます。
しかし、詩篇72篇はキリストの再臨の時に成就するものではありません。
次のように記されています。
「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」
(マタイの福音書2章1~12節)
ダビデの町ベツレヘムにおける主の降誕に関する状況は、ルカの福音書ではくわしく記されています。
マタイは、主がヘロデ王の時代にその町で生まれたことだけを述べています。
これは、主の生誕の日付が一般に受け入れられている記録よりも数年前であることを示しています。
主は少なくとも紀元前4年前に生まれました。
しかし、この問題は年代学者たちが多くの考察と研究を重ねてきた問題であり、いまだに正確な日付については意見が分かれているため、ここで議論する必要はありません。
賢者たち(マギ)は、約束の王の誕生を神の啓示によって知っていたのかも知れません。
もしくは、あるいはダニエル書9章0節の偉大な時に関する預言を解釈していたため、王がイスラエルに来ることを確信していました。
星に導かれ、彼らは王のいる場所を尋ねに来ました。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」という彼らの質問は、当時王座に座していた、史上最も邪悪な王の一人である老いた悪漢をひどく惑わせました。
ヘロデは祭司長と律法学者たちを集め、東からの訪問者の質問への答えを求めました。
賢者たち(はためらうことなく、ミカ書5章2節の預言をヘロデに示しました。
そこには七十人訳聖書から引用された次の一節があります。
「ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。
わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。」
彼らは聖書を知っていました。
しかし、その後の出来事は、彼らがその聖なる記録が語る主を迎える準備ができていなかったことを証明していました。
ヘロデは、もし、既に幼子の王が現れていたのならば、その王を滅ぼそうと心に決めていました。
謎の星が最初に現れたのはいつかについてマギたちと協議し、ベツレヘムへ向かうよう命じました。
そして、もし幼子を見つけたら戻ってきて報告し、自分も王に敬意を表すことを命じました。
しかし実際には、ヘロデの意図とは全く正反対でした。
エルサレムを出発する際に再び現れた星に導かれ、当時、彼らは聖なる家族が住んでいた家を見つけることに苦労することはありませんでした。
羊飼いたちが見つけた馬小屋に、マリアとヨセフが幼子と共に、まだそこにいたと考えることは明らかに間違いです。
彼らは今、より便利な住まいに住んでいました。
イエスの誕生から数週間、あるいは数ヶ月が経過していたことは間違いありません。
賢者たちはイエスを見つめ、その前にひれ伏し、厳選した贈り物を捧げました。
黄金は神性と義を象徴し、乳香はイエスの完全な人間としての命の香りを、没薬はイエスのささげ物の死を予兆していました。
マリアは、これらの東方の賢者たちが聖なる御子にこのように敬意を表しているのを見て、心が高揚したはずです。
ヨセフについては何も述べられていません。
ヨセフは異邦人の訪問時にはそこにいなかったのかもしれません。
神からの「夢」を見て、ヘロデのもとに戻らないようにと警告された賢者たちは、別の道を通って故郷へと出発しました。
聖なる幼子イエスは、幼少の頃から特別な意味で神の保護を受けていました。
神は肉体をもって現れたにもかかわらず、人間の苦しみから逃れることはできません。
御使いたちは天の護衛のように、イエスの幼少期を見守りました。
御使いたちは、ガブリエルがイエスの受肉を預言したように、イエスの誕生を告げ、マリアの体調の謎をヨセフに説明するために神から遣わされました。
そして、定められた時よりも前にイエスを殺そうとするヘロデやその他の者たちの復讐から、聖なる務めを守るために、ヨセフが取るべき一つ一つの行動を指示しました。
御使いたちは永遠の御言葉、御子によって創造されました。
御子は時が満ち、私たちの救いのために人となりました。
御使いたちは、イエスの来臨を告げ知らせ、地上での屈辱の中でイエスを見守り、仕えることを喜びとしていました。
博士たちが去る時、夢の中で御使いがヨセフに語りかけました。
これは、神がしばしば人々に御心を明らかにしてきた時を思い起こさせます。
(ヨブ記33章14~17節参照)
ヨセフは「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい」と命じられ、ヘロデの怒りから幼子を守るために、さらなる指示があるまでそこに留まりました。
ヘロデは、王位継承権を争う者を決して生かさないと固く決意していました。
御使いの命令により、ヨセフは「エジプトに立ちのき」ました。
そこで神は、聖なる幼子が平和と安全の中で成長できるよう、避難所を用意してくださいました。
ヨセフの家族はイエスと共にエジプトに留まり、ヘロデが死んだという知らせが届くまでそこに留まりました。
「これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。」
この言葉は、ヤハウェがホセアを通して語られたもので、主にイスラエルという国家を指しています。
「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。」
(ホセア書11章1節)
今、この言葉はイスラエルを贖うためにメシアが二度目に来られる時に成就することになっています。
ヤコブの家族のように、彼はエジプトへ下り、神の定められた時にそこから連れ出されました。
博士たちが彼に知らせを届けようとしなかったことに対するヘロデの反応は、恐ろしいものでした。
ヘロデは激怒し、ベツレヘムにいた2歳以下の罪のない子供たち全員を虐殺するよう命じました。
ユダヤ人の王として生まれたイエスを滅ぼそうとしたのです。
「そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。」
(マタイの福音書2章17節)
ここで述べられている預言は31章15節にあります。
「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。
慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている。」
(エレミヤ31章15節)
この言葉は、主にユダの母親たちが息子たちを捕囚に送った時の悲しみを指しています。
しかし、この箇所は、幼児を残酷に虐殺されたベツレヘムの母親たちの悲しみにまさに見事な適用として引用されています。
聖書には、このような二重の用法がしばしば見られます。
「ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現われて、言った。」
(マタイの福音書2章19節)
時が経つと、天からの訪問者によって御言葉がヨセフに与えられ、以前と同じように夢の中でこのように告げられました。
「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。」
(マタイの福音書2章20節)
幼子イエスとその母が故郷へ帰る道が開かれました。
ヘロデは亡くなり、その犯罪と残虐な生涯についてここに答えが出されました。
「そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地にはいった。」
(マタイの福音書2章21節)
ヨセフが御使いのメッセージ一つ一つに従順であったことは注目に値します。
ヨセフは何の疑問も抱かず、この超自然的な方法で与えられたすべての戒めを即座に守りました。
イエスの養父として選ばれたこの人の生涯と経験については、私たちはほとんど何も知ることはありません。
しかし、そのわずかな情報から、ヨセフが主の言葉に非常に敏感な人であったことがわかります。
ヨセフは、困惑し困難な状況下でも神の意志に絶対的に従うという、非常に貴重な模範を私たちに示しています。
「しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。」
(マタイの福音書2章22節)
ヘロデは自分の子孫の多くを殺害していました。
しかし、アケラオは生き残ることを許され、彼に王国を託しています。
ヨセフは、不信心な父と同じように残忍な人間になるのではないかと恐れ、実際に小さな家族をヘロデの支配下に置くことをためらいました。
しかし、神は再び夢の中でヨセフに現れ、ユダヤに留まらず「ガリラヤ地方に」立ちのくように警告されました。
そして、ヨセフは「ナザレという町に行って住んだ」と記されています
ルカの福音書によると、ガブリエルが初めてマリアに現れたとき、マリアはナザレに住んでいました。
「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。」
(ルカの福音書1章26節)
ヨセフもそこに住んでおり、二人はこの町からベツレヘムへと旅をし、そこでイエスは生まれました。
「ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」
(ルカの福音書2章4節)
こうして二人はかつての故郷に戻り、そこでイエスは幼子から成人へと成長しました。
イエスはナザレに住んでいたため、ナザレ人と呼ばれました。
この名前は、ゼカリヤ書6章12節をはじめとする聖書箇所に出てくる「枝」を意味するヘブル語の「ネツェル(Netzer)」と密接に結びついています。
二次的な意味としては、民数記6章2節にあるように「分けられた者」、ナジル人を意味しています。
なぜなら、イエスは誕生の時から神に分けられた真実なナジル人だったからです。
ナザレの町の名前は明らかにこの「ネツェル」という言葉に由来しており、おそらくその近辺で見つかった特別な木か新芽に由来していると思われます。
ゆえに、ナザレ人という名前を、主の枝、あるいは若枝、エッサイの根株から出た若枝(イザヤ書11章1節)であるイエスに関する預言と結びつけることは簡単です。
「その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。」
(イザヤ書4章2節)
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」
(イザヤ書11章1節)
しかし、敵対者たちがイエスに用いたナザレ人という名前は、非難の言葉でした。
しかし、初期のクリスチャンたちはこの言葉をいとも簡単に利用し、誇りとしました。
「この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人という一派の首領でございます。」
(使徒の働き24章5節)
マタイの福音書3章
主は、女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者はいないと語られました。
彼の偉大さは、単に彼の個人的な人格だけではありません。
バプテスマのヨハネは、高い立場に対しても信念を貫き、不義に対して揺るぎない姿勢を貫いた、献身的な神の人として区別されていました。
「それは、ヨハネが彼に、「あなたが彼女をめとるのは不法です。」と言い張ったからである。」
(マタイの福音書14章4節)
そして、バプテスマのヨハネが神に選ばれ、イスラエルの救世主、世界の救い主であるキリストの到来を告げ知らせました。
「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。
私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」」
(ヨハネの福音書1章29~31節)
彼はバプテスマを施し、神に油注がれた者として認めることで、正式に羊の囲いへの扉を開くという使命を帯びていました。
「しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。
門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」
(ヨハネの福音書10章2、3節)
キリストの先駆者としての彼の輝きは、時が経とうと薄れることはありません。
ヨハネは、自分が預言した方を見、知ることを許されました。
これは、それ以前のすべての預言者には与えられなかった特権です。
ルカはヨハネの宣教の始まりを皇帝ティベリアの治世15年と記しており、多くの権威者はこれを西暦26年としています。
ヨハネはユダヤ地方のヨルダン渓谷で宣教しました。
ヨハネの特別な宣教は、イスラエルの人々に悔い改めを呼びかけることでした。
ヨハネが「義の道を持って来た」のは、神が被造物に求める聖なる義を強調し、罪人であることを自覚する者だけが主の御前にふさわしいことを強調するためでした。
「あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。」
(マタイの福音書21章32節)
人々が罪の罪深さに対する意識を著しく失っている現在、このような宣教が強く必要とされています。
神の恵みの必要性を自覚していない人々に神の恵みの福音を宣べ伝えても無駄です。
たましいが目覚めて、聖なる神の目にその汚れと不義が映ったときにだけ、このようにと叫ぶことができるのです。
「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」
(ルカの福音書18章13節)
「そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」」
(マタイの福音書3章1、2節)
ユダヤの荒野とは、エルサレムの東と南の地域、ヨルダン川下流域と死海の西側を含む地域を指します。
ヨハネのメッセージは、自分を裁くことへの呼びかけでした。
彼は人々に、自分自身ではなく神の側に立つよう促しました。
この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。
このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。」
(マタイの福音書3章3~6節)
イザヤ書40章には、バプテスマのヨハネによって成就した預言が記されています。
イザヤのメッセージは「主の道を備えよ」でした。
「荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」
(イザヤ書40章3節)
イスラエルは何世紀にもわたってメシアを待ち望んでいましたが、メシアを受け入れる準備ができていません。
イスラエルには、神の前に自分の罪を正直に認めることによって得られる心の備えが必要でした。
ヨハネの衣服と食物について言及されています。
エリヤのように、彼は荒野の服装で現れ、荒野の食物で生活していました。
ヨハネは広大な平野に住む人であり、その生活様式がヨハネの言葉の力強さを物語っています。
彼が実際にイナゴを食べていたのか、それともここで使われている「イナゴ」という言葉がイナゴマメの実を指しているのかについては、議論の余地があります。
しかし、イナゴは今日でも食べられており、太古の昔から(干しエビのように)食料として用いられてきました。
しかし、ヨハネも実際にイナゴマメを食事に取り入れていた可能性も高いと考えられます。
ある時、イエスはヨハネの禁欲主義に注目しました。
「ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、」
(マタイの福音書11章18節)
「というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている。』とあなたがたは言うし、」
(ルカの福音書7章33節)
ヨハネが悔い改めの必要性を宣べ伝えると、人々は国中から彼のもとに集まり、「自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた」のです。
バプテスマ自体にはメリットがありません。
バプテスマを受ける人は、自分の罪による当然の報いとして裁きを受けることを認めるという意味を持っています。
こうして彼らは自分の事を罪に定め、神を義と認めたのです。
「ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。」
(ルカの福音書7章29節)
ヨハネが自分のバプテスマによって罪から解放されたと示したのではないことは、ヨハネの福音書1章29節に記録されている説教から明らかです。
「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」」
(ヨハネの福音書1章29節)
ヨハネは人々に、イエスこそが罪の赦しを得ることができる唯一の方であることを示しました。
悔い改めの兆候を示さない、傲慢な宗教家たちが他の人々と共にバプテスマを求めに来た時、ヨハネは彼らを厳しく叱責しこのように言いました。
「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。」
(マタイの福音書3章7節)
強い言葉が用いられたのは、これらの宗教形式主義者たちの偽善のためでした。
彼らは隠れた邪悪さによって、彼らを悪魔の子であると宣言しました。
イスラエルではパリサイ人が正統派であり、サドカイ人が異端派でした。
「サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。」
(使徒の働き23章8節)
しかし、両者とも自分たちの思い描いた義に安住していたため、悔い改める必要性を感じていません。
「というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」
(ローマ人への手紙10章3節)
ヨハネは、聖なるバプテスマの儀式を執り行う前に、「悔い改めにふさわしい実」を要求しました。
「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」
(マタイの福音書3章8節)
救いを得るという点では善い行いには価値がありません。
しかし、真実に悔い改めた者は、神に立ち返り自分の罪悪から離れ、新たな人生によって自分の信仰告白の存在を示します。
これらの宗教家たちは、自分たちはアブラハムの子孫なのだから悔い改める必要はないと憤慨して言い返そうとしました。
ヨハネは彼らの心の中を見抜き、このように叫びました。
「『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。
あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」
(マタイの福音書3章9節)
霊的な信仰を持たない宗教家が先祖の敬虔さに安住し、それを誇るのはよくあることです。
彼らの中にあったのと同じ信仰が私たちの中にも見出されなければ、私たちの誇りはむなしいものです。
土の塵から人を造られた神は、御心ならば石ころから信仰の子孫を起こすこともおできになります。
ヨハネはこのように付け加えました。
「斧もすでに木の根元に置かれています。
だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」
(マタイの福音書3章10節)
現代では、木の実に斧が置かれることを多く見ることがあります。
しかし、間違っているのは根です。
神のために実を結ぶためには、新しい人がいなければなりません。
木の根に斧を当てることは、生まれながらの人を完全に断罪し、新たな誕生の必要性を示しています。
「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。
私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」
(マタイの福音書3章11節)
この外的な象徴は、神に対して心からの悔い改めを告白し、困り果てた無力な罪人として神の憐れみに身を委ねる人々だけのものでした。
キリストが来られる時、キリストは聖霊と火によってバプテスマを授けられます。
「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
(マタイの福音書3章12節)
麦とは御国の子らです。
「畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。」
(マタイの福音書13章38節)
彼らは聖霊のバプテスマを受ける者たちです。
もみ殻とは、裁きの火でバプテスマを受ける悪人です。
ヨハネのバプテスマは主と、この二重のバプテスマに関する宣言以上に、主の神性を強調していました。
被造物が聖霊のバプテスマを受けるところを想像してみてください。
神である方だけが、このようなことができるのです。
そして、ペンテコステの日に、ペテロはためらうことなく、聖霊を送られたのは主であることを宣言しています。
「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」
(使徒の働き2章33節)
悔い改めない者を永遠の刑罰の火に投げ込むのは、主です。
「それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」
(マタイの福音書25章41節)
これは聖霊の清めの効力や、ペンテコステの日に現れた「火のような」舌と混同されるべきではありません。
「殻を消えない火で焼き尽くされます」という言葉は、「麦を倉に納め」ることとは正反対です。
「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。」
(マタイの福音書3章13節)
ついに王が現れる日が到来しました。
イエスは群衆の中に現れ、多くの罪人である告白者たちが受けた儀式を受けるために進み出ました。
罪人の代わりになるイエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために来られたのです。
それは、御自身が命を捧げる罪人たちと一つになるためでした。
「しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。
「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
(マタイの福音書3章14節)
バプテスマのヨハネにとって、罪のない者が罪の赦しを得るための悔い改めのバプテスマを受けるのは、不道徳に思えました。
彼はむしろ、イエスからバプテスマを受けることの必要性を感じていたのです。
「ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。
このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。」
(マタイの福音書3章15節)
これはあたかもイエスがこのように言われたかのようです。
「わたしは、罪深い人々のために、神の御座が求めるすべての義なる要求を成就するために来たことを、誓約します。」
主がこの世に来られたのは、公に十字架の御業に身を捧げるためでした。
バプテスマという行為を義の成就とするのは、実に浅はかな解釈です。
言い換えれば、イエスがバプテスマを受けたのは、私たちに良い模範を示すためではありません。
むしろ、破られた律法の呪いの下にあり、自分自身の義を持たない人々のために、すべての義なる要求を満たす責任を負う者として、御自身を罪人と同一視するためでした。
彼らは、神に手形を差し出す債務者のようです。
イエスはそれらの手形に署名し、全額の支払いを保証しました。
そして、その決済は十字架上で行われました。
次の二節では、神が御子への承認を驚くべき方法でどのように表明されたかが分かります。
「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。
すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」
(マタイの福音書3章16節)
主が公に御自身を献身された直後、主の頭上に「天が開け」、聖霊が目に見える形で主を油注ぎました。
神の栄光と失われた世の救いのために、主が成し遂げようとしていた偉大な御業のためでした。
ペテロが使徒の働き10章38節で述べ、イエス御自身もヨハネによる福音書6章27節で語っているのは、まさにこのことです。
イエスは預言者、祭司、王として油が注がれ、死にゆく世の必要を満たすことのできた唯一の神の聖なる方と同じ聖霊によって証印を押されました。
「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。
このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」
(使徒の働き10章38節)
「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。
それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
(ヨハネによる福音書6章27節)
マタイの福音書では、特にイエスが王として油を注がれたことに私たちの注目が向けられています。
マルコはイエスの預言者としての務めを強調し、ヨハネはイエスを偉大な大祭司として描いています。
しかし、これは父なる神がイエスに与えられた御業を成し遂げた後のことです。
「また、天からこう告げる声が聞こえた。
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」」
(マタイの福音書3章17節)
御父は御子への喜びをはっきりと宣言されました。
バプテスマにおいて、罪のいけにえとなるために御自身を神にささげた御子は、このようにして御子自身には罪のない方であることが証明されました。
なぜなら、罪のためのいけにえは最も聖なるものでなければならないからです。
「アロンとその子らに告げて言え。罪のためのいけにえに関するおしえは次のとおりである。
罪のためのいけにえは、全焼のいけにえがほふられる場所、主の前でほふらなければならない。これは最も聖なるものである。」
(レビ記6章25節)
御子には罪の汚れも、アダムの堕落したすべての息子たちが持つような生まれながらの悪もありません。
御子はこのように言うことができました。
「わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」
(ヨハネの福音書8章29節)
このように、御父は御子の完全さを思い描くことにおいて、常に御子に喜びを見出しました。
そして、私たちも御子を喜ばせたいと願っているのです。
マタイの福音書4章
主イエスが約束の王としてイスラエルの前に姿を現す前に、主は40日間の試練の期間を経なければなりません。
主は武装した力強い男サタンと出会い、彼を縛ってから公の宣教活動を始め、サタンの財産を奪いに行くのです。
イエスはなぜ誘惑されたのでしょうか?
誘惑されたことで、イエスが罪を犯し、救済計画全体を危険にさらしたり、無効にしたりする可能性はあったのでしょうか?
これらはよく問われる質問であり、私たちはそれらについて、聖書から答えを出せるようでなければなりません。
このことについて私たちが明確に考えようとするなら、私たちの主はかつて、そして今もなお、人であり神である者です。
二つの位格ではなく、一つの位格であることを忘れてはなりません。
主は永遠の御子なる神であり、罪深い人々を贖うために、人類を神性と一体化させました。
したがって、神性と人間性の二つの性質を持ちますが、一つの位格のままです。
ゆえに、地上の人間として、主は神性から離れて行動することはできません。
主が罪を犯す可能性と主張する人々は「では、その結果はどうなっただろうか?」と自問するでしょう。
人として主が使命を果たせない可能性を言うことは、主の聖なる神性が否定された人間性から分離された可能性があるということになります。
すなわち、驚くべき冒涜的な指摘を認めることになります。
したがって受肉は茶番劇であり、嘲笑であることを証明します。
しかし、一つの位格において神と人であった主が誘惑されたのは、罪を犯すかどうか、あるいは罪を犯せるかどうかを見るためではありません。
罪のない方であることが証明されるためであることを理解するならば、すべては明らかになります。
誘惑は確かに存在しました。
アダムが初めにそうであったように、罪はすべて外から来たものでした。
アダムは罪のない人間に過ぎません。
しかし、最後のアダムであるイエスは天から来られた主であり、神であることをやめることなく人となりました。
それは、私たちの親族であり、贖い主となるためです。
「彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権利がある。彼の兄弟のひとりが彼を買い戻すことができる。」
(レビ記25章48節)
誘惑とイエスの態度は、イエスが本質的にも行為においても罪ある人間ではないことを証明しました。
ゆえに、イエスは私たちの罰を御自身で引き受け、他の人々のために破られた律法の呪いを負うことができたのです。
なぜなら、イエスはその呪いの下にいなかったからです。
聖書は、イエスがこのような存在だと明確に述べています。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
(コリント人への手紙第二5章21節)
「 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」
(ペテロの手紙第一2章22節)
「キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。」
(ヨハネの手紙第一3章5節)
ゆえにイエスはこのように言うことができました。
「この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。」
(ヨハネの福音書14章30節)
外なる敵の声に答える、内に潜む裏切り者は存在していません。
「罪とは無関係でしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
(ヘブル人への手紙4章15節、直訳)
つまり、イエスを誘惑する罪は内にはなかったのです。
イエスは誕生の瞬間から、単に無垢なだけでなく、聖なる御方だったのです。
「御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。
それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」
(ルカの福音書1章35節)
伝承を信じるならば、イエスの誘惑はヨルダン川の西、エリコの向かい側、非常に険しく荒涼とした荒野、クアランタニア山で起こったとされています。
それはイエスのバプテスマの直後、西暦27年の初め、過越の祭の直前に起こりました。
「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」
(マタイの福音書4章1節)
完全な人であったイエスは、常に御霊の支配下に置かれました。
マルコは、御霊がイエスを荒野へ導いたと記しています。
「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」
(マルコの福音書1章12節)
イエスは荒野へ行くよう駆り立てられました。
なぜなら、宣教活動の初めから、イエスの聖さが示されることが必要だったからです。
誘惑とはまさに試練です。
イエスは、神と人の敵である邪悪な人格、サタンによって試されました。
最初のアダムを試し、彼に欠陥を見出したのもサタンでした。
今、彼は最後のアダム、第二の人によって打ち負かされなければなりません。
「聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」
(コリント人への手紙第一15章45節)
「第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。」
(コリント人への手紙第一15章47節)
「そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。」
(マタイの福音書4章2節)
イエスは試練の期間である40日間、断食されました。
すべてが終わって初めて、イエスは空腹になったと言われています。
そして、自然の弱さが限界に達した時、誘惑者が現れ、イエスを打ち負かそうとしました。
試練には三つあります。
肉体、たましい、霊への訴えであり、肉の欲望、目の欲望、そして人生の誇り、あるいは生活の虚栄心です。
マタイとルカの福音書では、誘惑の順序が異なります。
マタイの福音書は明らかに、三つの点を歴史的な順序で、出来事が起きた通りに伝えています。
ルカの福音書はヨハネの手紙第一2章16節に従って、道徳的な順序で伝えています。
「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」
(ヨハネの手紙第一2章16節)
つまり、最初の訴えは食欲、つまり肉体的な欲望への訴えでした。
次は美的性質、つまり目の欲望、つまりたましいへの訴えでした。
そして最後に、霊的な性質、人生の誇り、あるいは生きることへの虚栄心です。
主イエスは、あらゆる悪の誘惑に動じていません。
これらは、エデンで蛇がエバに与えた誘惑と本質的に同じです。
エバは、木の実が食べるのに良く(肉の欲望)、目に美しく(目の欲望)、そして賢くするために望ましい(人生の誇り)ものであることを知りました。
エバはあらゆる点で屈服し、アダムが神に背いてエバに加担したため、古い創造物は滅びました。
彼らは喜びの園、最も美しい環境で試されました。
イエスは、乾ききった荒野の野獣たちの中で誘惑されましたが、サタンのあらゆる策略と甘言に対して岩のように堅く立ち、こうして義の王、そして平和の王として戴冠されるにふさわしい方として御自身を現されました。
「このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。
またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。」
(ヘブル人への手紙7章1、2節)
罪を除いては、私たちと同じようにあらゆる点で試された後、敵に打ち勝ったイエスは、今や私たちの偉大な大祭司であり、私たちのために天に現れ、弱さと誘惑のあらゆる時に私たちを助ける準備ができているのです。
「すると、試みる者が近づいて来て言った。
「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」」
(マタイの福音書4章3節)
あらゆる試練が、イエスの神性と人間性という本質に対する直接的な攻撃でした。
イエスが石からパンを作って空腹を満たすことは、本質的に何ら悪いことではないように思えるかもしれません。
しかし、イエスは人となり、生ける父に頼られました。
「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」
(ヨハネの福音書6章57節)
したがって、イエスは父の御心のみに従って行動し、他の、反対の源からのいかなる暗示も受け入れることができません。
イエスは、空腹を満たすためであっても、敵の助言に従って行動することはありません。
「イエスは答えて言われた。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」」
(マタイの福音書4章4節)
イエスはそれぞれの誘惑に、神の明確な言葉、すなわち聖書からの引用をもって立ち向かいました。
この時、イエスは申命記8章3節を引用し、そこでモーセがイスラエルに、物質的な食物よりもはるかに大切なのは神の御言葉にある霊的な糧であることを思い起こさせたことを教えています。
「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」
(申命記8章3節)
神が子供たちに食物を与えるとき、パンの代わりに石を与えたり、石からパンを作ったりはされません。
しかし、私たちが父なる神に頼る立場から離れると、不信感が生まれ、神から来るものよりも良いと思っていても、固くて石のようなパンで歯を折ってしまう可能性が高くなります。
「すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、」
(マタイの福音書4章5節)
悪魔が実際に行ったのか、それとも幻の中でのことだったのかは語られていませんが、それを知ることも重要ではありません。
重要なのは、聖所でさえ誘惑の場となり得るということです。
なぜなら、恵みへの高ぶりは、私たちが陥りやすい最大の罠の一つだからです。
イエスはその高い場所から、下の庭に集まった群衆をご覧になりました。
サタンはこれを口実に、自分たちの力を誇示しようとしました。
「言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。
『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」」
(マタイの福音書4章6節)
サタンは詩篇91篇11、12節の一部だけを引用しました。
「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。
彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。」
(詩篇91篇11、12節)
最も重要な部分、「すべての道で、あなたを守るようにされる」を省略しました。
神の子が神殿の高い場所から派手に飛び降り、御使いの手によって支えられ、頭上に吊るされた姿を拝む群衆を驚かせることは、神の聖なる行いではありません。
これは約束の傲慢な利用だったのです。
サタンが聖書を引用する際は、その文脈をよく見て、重要な部分が省略されていないことを確認してください。
なぜなら、聖書の文言を本来の関連性を無視して引用して、部分的にしか表現せずに、重大な誤りをも裏付けてしまうことさえあるからです。
「イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」」
(マタイの福音書4章7節)
神が命じられる時、信仰は神の御言葉に従って行動することを促します。
アウグスティヌスが言ったように、「神の命令は神によって可能となるものである」ということを知っているからです。
しかし、不必要に危険に身をさらすことは神を試し、信仰の原則に反します。
「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、」
(マタイの福音書4章8節)
これらは万物の相続者であるキリストのものでした。
しかし、サタンはその相続財産を奪い取りました。
サタンはイエスに、いわば世界の支配への「近道」を提示しようとしたのです。
「言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」」
(マタイの福音書4章9節)
これらは神の許しによってのみ与えられるものでした。
なぜなら、このように書かれているからです。
「あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになります。」
(ダニエル書4章25節)
サタンはアダムから与えられた権威を奪い、邪悪な人々の心の中で略奪者として君臨していました。
しかし、この世の王国に対する明白な権利を持っていません。
サタンは、イエスが自分を拝むなら、十字架にかからずに王国を得られると申し出たのです。
「イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」」
(マタイの福音書4章10節)
神のもう一つの「御言葉」によって、敵は打ち負かされました。
イエスは、サタンが世界の王国を支配しているというサタンの言葉に異議を唱えていません。
議論によって勝利がもたらされるのではなく、御言葉そのものによって勝利がもたらされるのです。
「すると、悪魔はイエスを離れ、見よ、御使いたちが来て仕えた。」
(マタイの福音書4章11節)
誘惑は驚くべき栄光に満ちた結末を迎えました。
敗北した汚れた悪魔は逃げ去り、天の宮から聖なる使者たちが喜びをもってやって来て、創造主に仕えました。
創造主は恵みによって被造物の代わりになられました。
荒野やゲッセマネで御使いたちがイエスに仕えたことを考えてみましょう。
あの栄光ある存在を創造した御方が、今や御使いたちに仕えられるようになったということは、イエスが本当に人間となられたことを実感できます。
聖なる王は義のうちに支配しなければなりません。
罪人の身代わりは、傷のない子羊のように、外面的にも内面的にも欠点のない者でなければなりません。
それゆえ、人である主は、主が成し遂げるために来られた偉大な御業にふさわしい者であることを実証するために、最も厳しい試練を受けなければなりません。
もし、その試練によって、生まれながらの罪やさまざまな種類の道徳的腐敗の証拠が明らかになったなら、それはイエスが永遠の義をもたらし、不義をなだめるために定められた神の聖者ではなかった証拠となります。
しかし、サタンがイエスの性格に何らかの欠陥、その心に何らかの利己主義を見つけようとあらゆる手段を尽くした時ほど、イエスの完全性が明確に示されたことはありません。
王は試練を受け、父なる神がバプテスマの時に宣言された通りの者、すなわち神がその全き喜びを見出した者であることが証明されました。
ヘブル人への手紙2章18節には、主イエスが「誘惑を受けて苦しまれた」と記されています。
「主は、御自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」
(ヘブル人への手紙2章18節)
私たちは誘惑に抵抗することで苦しみを受け、それによって神に対して罪を犯すことから守られます。
「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。」
(ペテロの手紙第一4章1節)
ここに、聖なる方であるキリストと、悪を喜ぶ性質を持つ罪人である私たちとの間になる、大きな対照点を見ることができます。
神から生まれた私たちは、神の性質にあずかる者とされ、それゆえに私たちも不義を憎みます。
王は、すべての点で試され、完璧であることが証明された後、強力なしるしと不思議によって公の宣教活動を開始します。
イエスが真実な約束の救世主であることをすべてのイスラエルに明らかにされるのです。
「ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。
そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。
これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。
暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」」
(マタイの福音書4章12~17節)
イザヤ書からの引用は、旧約聖書にあるものとは異なります。
なぜなら、それは原文のヘブル語ではなく、当時一般的に用いられていた七十人訳聖書から取られているからです。
「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」
(イザヤ書9章1、2節)
イエスは各地を巡りながら、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と説教されました。
このメッセージは、バプテスマのヨハネのメッセージと同じです。
既に述べたように、「天の御国」という言葉は、この福音書でのみで使われています。
それは、天が地を支配することを意味しています。
イスラエル側に受け入れる用意があれば、この御国は今まさに設立されたはずでした。
しかし、それは国民的な悔い改めという土台の上にのみ設立されるものであり、民はそれに対する準備ができていません。
彼らは王を受け入れようとしてません。
その結果、その後の出来事が示すように、彼らは御国を失いました。
その御国がイスラエルに回復される前に、神はもう一つの計画を明らかにされました。
「そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」」
(使徒の働き1章6節)
それは、当分の間、人々の理解からは隠されていました。
マタイの福音書4章18~20節は、十二使徒の最初の使徒の呼びかけと応答について語っています。
「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らはすぐに網を捨てて従った。」
(マタイの福音書4章18~20節)
ご存知のように、これらの人々はすでにイエスに惹かれていました。
「ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。
彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」」
(ヨハネの福音書1章40~42節)
彼らはすべてを捨ててイエスに従いましたが、喜びと悲しみが待ち受けていることを何も知りません。
マタイの福音書4章21、22節にはヤコブとヨハネの召命が記されています。
「そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。
彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。」
(マタイの福音書4章21、22節)
彼らもまた、王の最も親しい友人として数えられ、イスラエルに証しすることになっていた。
後に、ヤコブは新時代の初めに殉教することになりますが、ヨハネは残りの選ばれた十二人全員よりも長生きする運命にありました。
イエスの宣教の本質と範囲はマタイの福音書4章23~25節に要約されています。
「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のさまざまな病気、あらゆるわずらいを直された。
イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。
こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。」
(マタイの福音書4章23~25節)
イエスはどこへ行っても、恵みを求める人々に祝福と救いをもたらされました。
そのため、多くの人々がイエスに従い、今にも王権を宣言し、ローマ帝国を倒してイスラエルに救いをもたらすことを期待していました。
しかし、それが成就する前に、もう一つ、はるかに偉大な御業、すなわち罪の問題の解決が成し遂げられなければなりません。
そのためにイエスはこの世に来られたのです。
王は、その偉大な力と支配権を行使する前に、ささげ物にならなければなりません。
こうして、群衆が一瞬拍手喝采し、民衆が喜んでイエスの教えに耳を傾けたにもかかわらず、イエスはカルバリと呼ばれる場所へと平穏な足取りで進んで行ったのです。
マタイの福音書5章
いわゆる「山上の垂訓」において、主は福音を説かれたのではありません。
それは御自身の弟子であると告白するすべての人々の人生の指針となるべき、御国の原則を示されたのです。
言い換えれば、これが御国の律法であり、王が現れる日を待ち望む忠実なしもべは、この山上の垂訓に従うことを特徴とすべきです。
律法全体を通して、主の支配に対する明確な反対勢力の存在が認められています。
しかし、主の権威を持つ者たちは、地上で主が屈辱を受けられた時代に見られたのと同じ、柔和で謙遜な精神を示すよう求められています。
ヤコブの手紙は、ここで示された教えとよく合致しています。
ヤコブはこれを「完全な自由の律法」と呼んでいます。
なぜなら、それは人が神から生まれたときに受ける新しい性質にふさわしいものだからです。
生まれながらの人間にとって、この説教は命の道ではなく、むしろ断罪の源です。
なぜなら、この説教が示す基準は非常に高く聖なるものであり、救われていない者には到達できないからです。
もしこの説教に挑戦する者が正直で良心的であれば、すぐに自分の完全な無力さを悟ることになります。
すべての信じる者に救いをもたらす神の力である福音は、聖書の他の箇所に求めなければなりません。
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」
(ローマ人への手紙1章16節)
地上で最も鋭敏な知性を持つ者たちは、山上の説教の中に人間への最高の倫理的教えを見いだし、その基準に達することができないことを自覚しながらも、その聖なる教えを称賛してきました。
したがって、救われていない者に関する限り、ここで与えられた教えは、C.I.スコフィールドが適切に述べたように、まさに「律法のN乗」となるのです。
しかし、信者にとって、律法の義なる要求でもあります。
「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」
(ローマ人への手紙8章4節)
このように、この説教で示された原則は、キリストの歩まれた道を歩もうとするすべての人々の人生においては実践的な例証となります。
私たちは、これらすべてを終末の日の残されたユダヤ人や、十字架前の弟子たちに完全に適応されるとはいえ、彼らにのみに押し付けることはできません。
ここで私たちは次の言葉を見出します。
「私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教え」
(テモテへの手紙第一6章3節)
従わない者は、次の聖句に描かれているような者となる恐れがあります。
「その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、」
(テモテへの手紙第一6章4節)
私たちは天の民であっても地上の責任があることを覚えておく必要があります。
そして、人間の行いに関する最も偉大な説教の中で、この責任が私たちに明確に示されています。
まず最初に、これを念頭に置いて聖書の冒頭にある比類のない祝福の言葉を見てみましょう。
「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」
(マタイの福音書5章1~12節)
「心の貧しい者は幸いです。」
彼らは、自分たちに霊的な財産がないことを認識し、自分の失われた状態を告白し、神の恵みにより頼む人々です。
「悲しむ者は幸いです。」
人が経験しなければならない悲しみは、「すべての慰めの神」である方を知っているなら、祝福の手段となります。
「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。」
(コリント人への手紙第二1章3節)
神は打ち砕かれた心をいやします。
「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」
(詩篇34篇18節)
私たちが神の愛を信頼し、すべてのことが神の益となることを確信して安らぐ時、私たちの悲しみは恵みにおける成長の手段となります。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
(ローマ人への手紙8章28節)
「柔和な者は幸いです。」
世は、押しつけがましく自己主張の強い人を称賛します。
しかし、イエス・キリストは柔和で謙遜な心をお持ちでした。
結局のところ、主の御霊にあずかる者こそが、人生から最も多くのものを得る者なのです。
なぜなら、彼らは「地を相続する」のです。
彼らはさまざまな自然の中に、父なる神の愛と配慮の証しを見ているからです。
「義に飢え渇いている者は幸いです。」
このような飢え渇き、深く誠実な願いは、新しい命の証しです。
これらの願いは、私たちを欺くために与えられたのではありません。
義は神にのみ見出されます。
ゆえに、このように神を慕い求めるすべての人に満足が約束されています。
「あわれみ深い者は幸いです。」
あわれみを示す人には、あわれみが与えられます。
これが神の御国の法律です。
冷酷で執拗な人、厳格な正義のみを貫く人でさえ、人生に失敗が訪れた時、同じように扱われます。
「心のきよい者は幸いです。」
清さとは、目的を一心に貫くことです。
心の清い人とは、神の栄光を何よりも優先する人です。
そのような人には神は御自身が現されます。
他の人々が神の摂理的な働きしか見ないのであれば、彼らは神の御顔を見ることになります。
「平和をつくる者は幸いです。」
争いと分裂は肉の働きです。
「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、」
(ガラテヤ人への手紙5章19、20節)
兄弟の間に不和をまき散らすことは、主が憎まれることの一つです
「主の憎むものが六つある。いや、主御自身の忌みきらうものが七つある。
高ぶる目、偽りの舌、罪のない者の血を流す手、邪悪な計画を細工する心、悪へ走るに速い足、まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いをひき起こす者。」
(箴言6章16~19節)
私たちは平和をもたらすものを追い求めるように命じられています。
「そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」
(ローマ人へ手紙14章19節)
そうすることで、私たちは平和の神である神の子としての神の性質を現わします。
「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。」
(ローマ人への手紙15章33節)
「義のために迫害されている者は幸いです。」
これは、ここで述べられている教えは、多くの人が主張するようにキリストの千年王国のためにあるのではありません。
これらはキリストへの追随者が不敬虔な世界の憎しみにさらされる、キリストが拒絶される時代の弟子たちのためであることを明確に暗示しています。
なぜなら、その時には義のために迫害されることはないからです。
「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。」
私たちは皆、偽りの告発を恐れます。
しかし、主御自身もこのことから逃れられなかったことを思い出すとき、慰めを見いだすことができます。
主との交わりの中でこれらの経験を乗り越えるとき、私たちは祝福を受けます。
自分を正しい者とさえせず、主の御心によって、主が御自身の方法と時によって私たちを清めてくださるようにゆだねるのです。
「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」
神は、不敬虔な世や偽りの兄弟たちの手や口先によって、神の民が受けているすべての苦しみを心に留めておられます。
そして、私たちが神の御顔を見る時、神は御自身の方法ですべてを償ってくださいます。
さまざまな時代の預言者たちも同様の仕打ちに耐えるよう召されてきました。
しかし、神はそれをすべて見ておられ、御心の慈しみに応じて報いてくださいます。
次のセクション、マタイの福音書5章13~16節では、キリストの弟子たちがさまざまな比喩で紹介され、キリストが私たちに託した信頼に対する忠実さの重要性について語っています。
「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
(マタイの福音書5章13~16節)
「あなたがたは、地の塩です。」
塩は腐敗から守ります。
主の弟子たちは、この世に残され、その不義を証しし、義の模範を示します。
味のない塩は、一貫性のないクリスチャンのように、何の役にも立ちません。
「あなたがたは、世界の光です。」
キリストはこの場にいた間、自身の事を光と呼びました。
「わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
(ヨハネの福音書9章5節)
キリストが不在の間、弟子たちはこの暗い世の光としてキリストのために証ししなければなりません。
「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、」
(ピリピ人への手紙2章15節)
光は、闇に隠されていた悪を明らかにします・
「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」
(エペソ人への手紙5章13節)
「あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。」
キリストの弟子であると告白しながら、自分の光を升の下に隠す人、つまりこの世の事柄に気を取られて自分の証を不明瞭にする人は、地域社会には良い印象を与えません。
しかし、一貫してキリストのために生きる人は、燭台の上のともしびのように輝き、家全体を照らします。
「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
単なる告白だけでは十分ではありません。
人生において神を語るべきです。
人々の前でキリストを生きるとき、私たちは光を輝かせます。
そうすれば、人々は私たちの良い行いを認め、そこに誠実さの証拠を見ます。
そして、証しと行動において忠実な人々のたましいにおける神の働きの現実を認めることによって、彼らは神に栄光を帰すのです。
私たちは、単なる告白によって光を輝かせるのではなく、主御自身が言われたようにこのことを覚えておく必要があります。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」
(ヨハネの福音書1章4節)
ですから、人々に光を与えることは、献身的で忠実な人生となることです。
17~30節では、主が律法の戒めをどのように適用されたのかが分かります。
主は戒めを無視したり、軽視したりすることなく、表面的に見える以上の深い意味が律法に隠されていることを示してくださいました。
正しく適用された戒めこそが、人間が本来の状態ではこの聖なる戒めを守ることに対して、完全な無力さを明らかにします。
この点について、イエスが何と教えられたか、注意深く見てみましょう。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。
しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。
昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、
供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。
あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。
そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。
まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。
『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」
(マタイの福音書5章17~30節)
「廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」
主はこれを3つの方法で成就しました。
主は完全な従順によって律法を高め、尊ばれました。
「主は、ご自分の義のために、みおしえを広め、これを輝かすことを望まれた。」
(イザヤ書42章21節)
主は死によって律法を破る者たちに対する律法の要求をすべて満たしました。
このように信じるすべての人にとって律法の目的が達成され、義とされました。
「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」
(ローマ人への手紙10章4節)
主は聖霊によって信じる者たちが律法の義の要求が成就できるようにされました。
「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」
(ローマ人への手紙8章4節)
「一点一画」
「一点」はヘブル語アルファベットの最小文字であるヨドです。
「一画」は文字の意味のわずかな変化を示す小さな記号です。
主の言葉は聖書の完全性を示しています。
「戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。」
人々が神の戒めの道徳的効果を弱めることは、神に対する義務を軽視するようにすることです。
神が啓示されたみこころの神の権威を無視する者は、神の御国において価値のない者とみなされます。
「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、」
律法学者とパリサイ人は極端な律法主義者であり、自分たちの義に頼り、神の義には従っていません。
「というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」
(ローマ人への手紙10章3節)
神が受け入れる義は、より高い基準のものです。
この高い基準の義は、続く聖句に示されています。
律法は殺人を禁じていました。
イエスは、理不尽な怒り自体が戒めの精神に反することを示しています。
「人を殺してはならない。」
心の状態の結果として、殺人が犯されます。
他者に対して卑劣な悪口を言うことは、人を殺させる憎しみの表れであり、それゆえに人を地獄の火の危険にさらされるのです。
神を礼拝していると告白しながら、意図的に他者を傷つけたり、心の中に悪意を抱いたりすることは、神にとって忌まわしいことです。
神の祭壇に供え物を携えて来る者は、まず自分が傷つけた兄弟を探し出し、それからささげ物を捧げるに近づくべきです。
たとえ合意に至る力があるとしても、他者に対する敵意を持ち続けるべきではありません。
罪は老化によって消えるものではなく、時が経つにつれて悪化するからです。
これらの言葉に耳を傾けていれば容易に解決できたはずの罪のために、多くの人がひどく苦しんできました。
マタイの福音書5章28節でイエスは、女性を不貞な目で見る、もしくは情欲をいだいて好色な視線を向けることは、神の目には第七戒に違反する行為であることを示しています。
このような基準で「無罪」と弁明できる者は誰かいるでしょうか?
ゆえに、罪を犯した者を死刑に処するという戒めは、どれほど重大なことでしょうか?
罪を認めなければ、より大きな罪に陥り、悔い改めなければ地獄で永遠の裁きを受けることになります。
正しき心を持つ人なら誰でも、この世界中の知的な人々の称賛を得ている比類なき説教を通して主が説かれた義は、生まれながらの人間が到達できる水準をはるかに超えるものであることを認めざるを得ません。
人は生まれ変わって初めて、基準の高い境地で生きることができるのです。
山上の垂訓だけで十分な信仰だと語る人は、主の言葉の意味を理解していないことの証拠です。
主は、超自然的な力、つまり福音を信じる者に聖霊が与える力によってのみ生きられる、超自然的な人を描いています。
次に、結婚関係に関する絶対的に権威ある宣言があります。
神は古来、人々のかたくなな心ゆえに、ある事柄を許しておられましたが、それはイエスの弟子たちには禁じられました。
イエスはこのように言われます。
「また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。』と言われています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。」
(マタイの福音書5章31、32節)
これらの節を、同じ福音書19章9節にある後の宣言と比較すると、神が人生のために意図しておられる結婚は、夫または妻のどちらかの重大な罪である不品行によって解消されることがわかります。
これにより、罪のない方は再婚の自由を得ますが、コリント人への手紙第一7章で示されているように、「主にある」場合のみです。
一部の人々が言うように、ここでの姦淫は結婚前の不道徳な行為を指し、それが後に発覚したもののみを指しています。
結婚後に犯された同じ罪については言及していないというのは不合理です。
「人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。」
(申命記24章1節)
そうすると、結婚の誓約違反は独身時代に犯した性的な罪よりも軽い罪とされてしまいます。
この聖句の明確な意味は明らかです。
姦淫を犯した夫または妻は、その絆を断ち切られます。
裁判所での離婚は別居を合法化し、罪のない方は神の前で、結婚したことがない者のように自由となります。
主は律法の最も完全な内容を強調することによって、律法を尊び続けます。
マタイの福音書5章34~37節で、主は誓いについてこう語っています。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。
だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」
(マタイの福音書5章34~37節)
この高い基準に照らして判断すると、主に従うと告白する者たちの会話のうち、多くがふさわしくないと言うことができます。
クリスチャンを告白する人々は、まるでイエスがこの件について語られたことがないかのように、軽率な言葉や愚かなことわざに耽溺しているのではないでしょうか?
この章の残りの部分は、キリストの弟子たちの生活における恵みの現れを述べているので、1つのセクションとして考えることができます。
「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。
『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
(マタイの福音書5章38~48節)
「目には目で、」
これは純粋な律法、すなわち絶対的な義です。
「目には目。歯には歯。手には手。足には足。」
(出エジプト記21章24節)
この基準で裁かれるなら、すべての人の境遇は絶望的です。
「悪い者に手向かってはいけません。」
神は自分の子供たちを恵みによって扱ってこられました。
ですから、神は子供たちにも他の人々に対して同じ恵みを示すことを期待しておられます。
「下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」
これは律法の要求をはるかに超えるものでした。
キリストの恵みが心を支配するとき、人はすべてのものを失っても恨みを抱かずに受け入れることができます。
「いっしょに二ミリオン行きなさい。」
当時の一般的な礼儀作法では、迷ったり遅れたりした旅人を案内するには、1マイルも歩くことが求められていました。
しかし、恵みにおいては2マイルも歩くのです。
「断わらないようにしなさい。」
キリストの弟子は、主のように、進んでコミュニケーションを取らなければなりません。
求められるものすべてを与えたり、望むものすべてを貸したりできる立場にはいないかもしれません。
しかし、援助や支援を求める人には、可能な限り応じる用意をしておかなければなりません。
「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われた」
旧約聖書の箇所は明らかに「隣人を愛し」と命じているが、「敵を憎め」と追加したのはラビの伝統です。
おそらく申命記23章6節や呪いの詩篇137篇9節などの箇所に基づいています。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。」
父なる神から遣わされた者として語られた主イエス・キリストは、ラビたちの誤った立場を正し、敵に対してさえも愛するという、神の完全な律法を示されました。
彼らに善を行い、彼らのために祈ることによって、私たちはキリストにならって悪に打ち勝つことができます。
たとえ、どれほどひどい扱いを受けても、私たちは彼らを助けようと努めるべきです。
私たちを呪う者を祝福し、たとえ彼らが憎しみを露わにしても親切にし、たとえ、彼らが私たちを迫害し、傷つけようとする者たちにも祈るべきです。
これは、キリストの御霊に支配され、神に服従した信者たちの人生に見られる、神の恵みの実践です。
これは罪深い人間には到達できない高い基準のなのでしょうか?
その通りです!
しかし、新生された人は、生まれながらの人間には不可能なことを行うことができます。
「天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」
つまり、ここで主が与えられた戒めに従うことは、私たちが天の父の子であるという事実を表明することとなります。
父は正しい者にも正しくない者にも等しく慈しみを注ぎ、私たちにもその姿にならうことを望んでおられます。
信者一人ひとりが分かち合っている神の性質こそが、この洞察に満ちた説教で描かれている人格に近づくことを可能にするからです。
「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。
それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」
(ペテロの手紙第二1章4節)
「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。」
最も露骨な世俗の人でさえ、自分のものを愛し、感謝を示す人に感謝することができます。
しかし、主に従う者はすべての人を愛すべきです。
たとえ、激しい反対によって、人生を惨めにされようとする人であってもです。
「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。」
最も嫌われている職業に就いている人々と同じように、キリストの弟子たちに対して関心を示さないとしても、それは取るに足らないことです。
取税人はユダヤ人から忌み嫌われていました。
イスラエルの取税人は、ローマ政府から職権を買い取り、「税金を徴収」し、同胞から可能な限りのものを巻き上げていました。
彼らは国家が任命した査定官に義務を負うものだけを納め、その収益で肥え太っていましたが、仲間は尊重していました。
「あだから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
これは、偏見が全くないという意味での完全さであり、人を差別せず、正しい者にも正しくない者にも同じ様に恵みを惜しみなく与える神にならうことです。
「そこでペテロは、口を開いてこういった。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、
どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。」
(使徒の働き10章34、35節)
神の最も優れた祝福は、神への恐れ、そして他者への柔和さと思いやりという同じ精神を示す人々に与えられます。
これらは、私たちの祝福された主が肉体を持ってこの地上を歩まれた時に、全てにおいて完全さを示されました。
「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」
(ヘブル人への手紙5章7節)
このように、生まれながらの人間には及ばないものが、このようにあってからこそ、キリストを救い主として信じることによって新しい命と性質を与えられた人々において成就されます。
主を知り、自分の人生に対する主の権威を認める人々の平穏は、いかなる逆境によっても乱されることはありません。
マタイの福音書6章
山上の主の説教のこの第二の大きな部分をもう少し注意深く掘り下げる前に、5章の検討の始めにすでに触れたいくつかの質問に少しの間戻りたいと思います。
なぜなら、非常に多くの熱心な信者が、戒律を避けようとし、反戒律的なジレンマに押しつぶされるという事実があるからです。
よく聞かれる質問が二つあります。
一つ目は「山上の説教はクリスチャンに向けられたものだったのか?」というものです。
現在の世界にある神の恵みは、聖霊によってキリストと結ばれるまでは、正しく誰もクリスチャンと呼ばれることはありません。
「先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。」
(エペソ人への手紙3章3節)
弟子たちはアンティオキアで初めてクリスチャンと呼ばれました。
「彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。
弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」
(使徒の働き11章26節)
しかし、彼らはすべてのクリスチャンと同じ様に弟子です。
主の地上での宣教活動の間、御言葉を受け入れた人々は主の弟子となりました。
主は彼らに、御自身が告げ知らせるために来られた御国の原則を示されました。
後に、これらの原則は教会に与えられた完全な啓示と完全に矛盾するものではありません。
前述のように、律法の義はこのように示されています・
「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」
(ローマ人への手紙8章4節)
つまり、この素晴らしい説教より素晴らしい基準の義は、聖霊によって再生され、支配されている人々の特徴となります。
二つ目の疑問は、「この説教は人々に救いの道を示しているか」ということです。
いいえ、そのような意図はありません。
この説教は、救われた人々が持つべき行いを示しています。
もし、人々が人間の努力によって救いを求めているなら、この説教は彼らの罪を現わすしかありません。
なぜなら、この説教はモーセの律法よりもさらに高い義の基準を提示しています。
ゆえに、罪人がそれを得ることの絶望を明らかにさせているからです。
自分の罪深さを告白し、信仰をもってキリストに立ち返り、ここで与えられた教えに従う人は、揺るぎない岩の上に築き上げられるのです。
この6章を注意深く検討すると、ここに記録されている主の教えに正確に適用して困惑している人々の心と霊に、さらにこれらのことが明確になるものと私は信じています。
最初のマタイの福音書6章18節で、イエスは神の事柄の現実性を強調し、祈りに関して重要な教えを与えています。
「それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」
(マタイの福音書6章18節)
では、マタイの福音書6章1~4節に注目しましょう。
これは、施し、つまり貧しい人や困っている人への慈善の表れについてです。
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。
まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
(マタイの福音書6章1~4節)
「あなたの義を人に見せびらかすな」(RV直訳)
ここで念頭に置かれているのは、同胞に対する義務を果たすという意味での義、つまり人々の必要に対して奉仕をすることです。
すべてはひけらかすことなく行うべきです。
「彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」
人々からの称賛を求めて報いを得たなら、キリストの裁きの座の前に立ったとき、それ以上の報いを期待することはできません。
「施しをするとき」
宣伝された慈善活動ほど忌まわしいものはありません。
それは受け取る者は極めて屈辱的であり、与える者のたましいを傷つけるものです。
「隠れた所で見ておられるあなたの父が」
神はすべての子に目を留め、御自身の栄光のためになされたすべてのことを正しく評価されています。
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と完全に一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」
(歴代記第二16章9節)
主の承認を得ていること、そして苦難にある人々に幸福を与えていることを知って、ひそかに善行を行うことは、神の真実な子にとって十分な報いとなります。
御名によってなされるすべてのことに目を留める神は、私たちが神のありのままの姿を見るとき、それを見過ごすことはありません。
マタイの福音書6章5~15節には、祈りに関する主御自身の教えが記されています。
これを、現在の世界において、神の恵みの真理に反して無視するなら、神の御言葉にある私たちが持つ最も貴重で重要な教えの一部を、私たちのたましいから奪うことになります。
偉大な執り成し主である御自身の足元に座り、祈り方を教えていただくという特権について考えてみてください。
これは、軽蔑されたり、他の時代の弟子たちに譲ったりしてはならない貴重な機会です。
私たちは、キリスト・イエスにおいて天にあるすべての霊的祝福を受けている以上、聖書には道徳的、霊的な事柄には何一つ私たちの受け継がれる必要のないものは何もないことを、改めて自覚する必要があります。
ですから、祈りを通して神に近づくことについて、説教のこの部分が実際に何を具体的に示されているのかを注意深く考える必要があります。
「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。
彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。
まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。
彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」
(マタイの福音書6章5~15節)
まず、私たちは形式的な祈りをすること、そして神の栄光への配慮よりも、他人に偽善と思われるものに心を奪われることについての警告を受けます。
神は現実を要求します。
現代のイスラム教徒やローマ教徒、その他の人々がそうであるように、パリサイ人の中には祈り自体に一定の価値があると考える人がいました。
正式な祈りは公共の場で唱えられ、祈りが長ければ長いほど、かたわらにいる人々に与える感動は強まりました。
彼らは、祈りの長さで人の敬虔さを判断する傾向がありました。
イエスは弟子たちに、祈りをこのように乱用することに対して警告しました。
公共の場で祈ることを禁じたわけではありません。
テモテへの手紙第一2章8節には、このことが明確に暗示されています。
「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」
(テモテへの手紙第一2章8節)
しかし、人々に見られるために祈ること、あるいは見せびらかすために、宗教的行為を行うことは、イエスは厳しく戒められました。
個人にとって、祈りにふさわしい場所は、人の目が見ず、人の耳が聞かない、神と二人きりの隠れた部屋、つまり隠れた部屋です。
隠れた所で見ている神は、聞いて、御自身の意志に従って答えてくださいます。
また、「言葉で主を疲れさせる」必要もありません。
「あなたがたは、あなたがたのことばで主を煩わした。」
(マラキ書2章17節)
無意味な、あるいは空虚な言葉を繰り返す、無駄な繰り返しは明確に禁じられています。
この聖書の光に照らせば、「ロザリオ」の祈りは不適当なものです。
私たちは「多く話しても」聞き入れられません。
私たちの必要を私たち自身よりもよく知っている神は、私たちが子供のように素朴に御前に差し出すことを望んでおられます。
私たちが絶えず求めることで、神は喜んで助けてくださることを求めておられるのです。
「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」
(マタイの福音書6章8節)
確かに、主は他の箇所で執拗な祈りについて語っておられます。
しかし、それは特定の敬虔な言葉を空虚に繰り返すことと混同されるべきではありません。
マタイの福音書6章9~13節には、美しく考えさせられる概要が記されています。
これは一般に「主の祈り」と呼ばれています。
この名称は、主が与えたから主の祈りであるという意味では誤りです。
しかし、実際には「弟子たちの祈り」です。
イエス御自身はこの祈りで祈ることはしていません。
なぜなら、この祈りには罪の赦しを求める願いが含まれており、イエスは永遠に罪のない方であったからです。
イエスがこの祈りをくりかえし唱えること、あるいは今日一般的に用いられているように、祈りや礼拝の一部として唱えることを意図していたと考える正しい理由はないと思われます。
使徒の働きに記されている初期のキリスト教会でこの祈りが用いられたという記述はなく、書簡にも述べられていません。
主はこれを祈りの概要、あるいは祈りの型として与え、神に語りかける方法と、私たちが神に捧げることのできる願いを示したと考えられます。
この祈りには、後の啓示と矛盾する表現はありませんが、その範囲は著しく限定されています。
聖霊が私たちの祈りを導くために来られた今、公の場であれ個人的な祈りであれ、私たちが神に近づくときに、ここで述べた言葉をそのまま使うように縛られるのは、不必要に形式的なことだと思われます。
「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕」
(マタイの福音書6章9~13節)
リクエストの順序をメモしておきましょう。
「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」
これは、神との交わりを認められた者たちによる礼拝と崇敬の表現です。
神は父として知られていますが、これは新生した者たちにのみ適応できます。
「御国が来ますように」とは、神の御国がこの世のすべてを治める権力が確立されるキリストの再臨を予見しています。
「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」
天では誰も神のみこころを回避しようとはしません。
地上では、自己中心が計り知れない苦しみをもたらしてきました。
人々が、天の聖徒や御使いが喜んで神のみこころを行うように、この地上でも神のみこころを行うことを学ぶ時、真実な黄金時代が到来するのです。
「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」
これは、日々の必要を生ける御父に頼る気持ちを表す言葉です。
神が私たちの必要を満たしてくださらない限り、私たちは明日のことを確信することはできません。
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
使徒書簡の中で、わたしたちは赦されたように赦しなさいと教えられています。
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
(エペソ人への手紙4章32節)
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。
主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」
(コロサイ人への手紙3章13節)
これは、他者から不当な扱いを受けたときに、わたしたちがどれだけ赦すかを示す尺度となるものです。
「私たちを試みに会わせないで、悪(サタン)からお救いください。」
これは、私たち自身の弱さを認め、誘惑者の声に圧倒されてしまうような状況に置かれることのないよう、神に祈ることです。
マタイの福音書6章13節の最後の部分は、最良の写本には見られず、ほとんどの改訂版では省略されています。
この祈りが儀式的な礼拝で用いられるようになった後に追加されたようです。
神が御自身の子供たちを父として支配されるのであれば、私たちが日々犯す過ちを赦されるかどうかは、私たちを傷つける人々に対する私たちの態度にかかっています。
もし私たちが過ちを犯した兄弟たちを赦すことを拒むなら、神は、私たちが罪と失敗を自覚した時に懇願するための回復のための赦しを与えてくださるのです。
もちろん、これは、罪を犯した者がキリストのもとに来る時に受ける永遠の赦しとは全く関係がありません。
それは、過ちを犯した子供に対する父なる神の赦しです。
その赦しは、過ちを犯した子供が、家族の他の者に対してどのような態度をとるかを必ず考慮に入れなければなりません。
続く節(マタイの福音書6章16~18節)で、主はマタイの福音書6章1~4節で以前に言われたことに戻っています。
「断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。
彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。
そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」
(マタイの福音書6章16~18節)
あらゆる偽善は厳しく叱責されます。
憂鬱な態度で敬虔な評判を得ようとすることは、あらゆる道において清廉潔白であり、弟子たちの行動に絶対的な誠実さを要求する神への服従を告白する者に常に求められる率直さとは全く相容れません。
むしろ、神と過ごす時間を増やすために食物、もしくはその他のものを断つ人は、父との交わりを楽しむ者にふさわしい明るい態度を養うべきです。
マタイの福音書6章19~24節には、現在の世界にある所有物に対する正しい態度が説かれています。
すべての所有物は神に服従し、神の導きに従って用いられるべきです。
「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、
もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。
だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。
あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
(マタイの福音書6章19~24節)
現実に永遠に触れている人は、地上の財産を軽んじる余裕があります。
世にある富はすぐに消え去り、他に何も持たない人を真実な貧しい者とします。
しかし、神のために費やし、また神のために費やされることで天の宝を蓄える人は、たとえこの世の貧しい人々の中に数えられていても、信仰に富んでいます。
そして、この世での人生を終える時、彼らは天に無限の宝が蓄えられていることに気付くはずです。
主の導きに従って、他の人々の祝福のために分け与えれば与えるほど、私たちは天により多くの富を蓄えています。
私たちは、富が蓄えられている場所に心を奪われるようにできています。
この世の人はこの世ですべてを得ますが、永遠に貧しいままです。
天を心に求める信者は、この世の富においては確かに貧しくても、神に対しては豊かです。
ですから、私たちが心配しなければならないのは、神の栄光を見つめる唯一の目です。
神のみこころを見極め、それに従って歩むです。
もし私たちが神のみこころに背を向けるなら、私たちは意志の闇に陥り、すぐに道を見失ってしまいます。
私たちは神に仕えるか、それとも富に仕えるかを自分で選ばなければなりません。
両方に仕えることはできません。
どちらか一方への愛は、もう一方への愛を締め出してしまうからです。
神のみこころは、神の子供たちが心配や不安なく生きることです。
これはこの章の最後の部分で述べられています。
「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。
いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。
けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
(マタイの福音書6章25~34節)
イエスが「思い煩うな」と言われるのは、弟子たちは不注意になったり、何も考えるなと言われたのではありません。
将来を前にして不安になったり、苦悩したり、困惑したりすることは禁じられています。
これまで私たちを救い、世話してくださった方は、最後まで私たちを支え、養ってくださると信頼することができます。
主は、天の父によって養われている空の鳥と、哀れみ深い創造主によって美しく装われた野の花に目を向けさせています。
私たちは思い煩っても、自分の背丈を伸ばすことさえできません。
では、なぜ将来の困難にどのように対処するかと心配するのですか?
野の草を着せる神は、神の子供たちにも着せると約束しておられます。
では、どうしてそんなに信仰が薄いのでしょうか?
世界の諸国民は、このように世にあるものを追求し、人生の主要な目的としています。
私たちは彼らにならうのではなく、むしろ何よりも神を喜ばせることに心を砕き、神の御国の義なる原則に従って行動を整えるべきです。
イエスは「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい」という言葉で、私たちへの全責任を要約しています。
これは「神の国を第一に求めなさい」という意味ではなく、むしろ神の国の利益を人生において最優先するという意味です。
このメッセージは、すでにキリストの弟子となっている人々に向けられたものです。
ですから、私たちは神の義、すなわち、祝福された主のしもべとして私たちに義務付けられている事柄を果たさなければなりません。
そうすれば、必要なこの世の恵みはすべて与えられるという確信を得ることができます。
そして、この章は今日神を喜ばせようと努めながら、明日は神に委ねなさいという勧めで終わります。
明日が来れば、神は私たちが直面するどのような問題にも、必要な恵みをすべて与えてくださいます。
今日が、私たちが神に栄光を帰す日なのです。
マタイの福音書7章
山上でイエス・キリストが弟子たちに与えられた教えについて学び続ける中で、ここで私たちが問うべきことは、新しく生まれていない人々のための福音ではなく、主イエスへの忠誠を告白し、イエスを地上の然るべき王と認める人々の生活を支配するべき聖なる原則であるということを改めて思い起こすべきです。
救われていない人々にとって、偽りの強奪者であるサタンがこの世の君主なのです。
「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」
(ヨハネの福音書12章31節)
「わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。」
(ヨハネの福音書14章30節)
しかし、真実なる王への忠誠は、必然的に主の言葉への服従を伴います。
「違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。
そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。」
(テモテへの手紙第一6章3~5節)
外面的な意味での神の御国は、今や休止状態にあります。
イエスは「遠い国」、すなわち天にまで行き、王国を受け、そして再び来られるのです。
「それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。」
(ルカの福音書19章12節)
イエスの再臨の際、この世の王国は私たちの神とそのキリストの王国となります。
「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」」
(ヨハネの黙示録11章15節)
イエスが不在の間も、聖霊によって臨在しておられ、人の目には見えません。
たとえ、反抗的な世の中にあっても、すべての新しく生まれた人々は神の御国に存在しており、世が拒む方に忠誠を尽くす責任を負っています。
このように彼らは神の御国の実体を知ることができます。
「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」
(ローマ人への手紙14章17節)
つまり、もはや世の事柄とは関係がありません
主が復活から昇天までの40日間、弟子たちに教えられたのは、御国のこの側面についてでした。
「お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。
イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」
(使徒の働き1章2、3節)
使徒たちは人々にキリストの主権を認めるよう呼びかけ、この御国を伝えました。
「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
(使徒の働き2章36節)
「皆さん。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています。」
(使徒の働き20章25節)
そして、これはパウロが最後まで説教したテーマでもありました。
「大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」
(使徒の働き28章31節)
復活したキリストはすべてのものの主であり、御名を信じるすべての者に罪の赦しを与えます。
このように神の御前に導かれ、純粋な恵みによって救われた人々は、今やすべてのことにおいてキリストの主権を認めるように求められています。
彼らはこの場に残され、主のために証しをし、まだ世に属する人々に主の恵みを知らせなければなりません。
彼らはすべての人々の幸福を求めなければなりません。
そのようにする中で、彼らはしばしば誤解され、残酷な迫害や報復的な扱いを受けることになります。
しかし、彼らは同じ方法で報復するのではなく、キリストの御霊の現れによって、善をもって悪に打ち勝つのです。
「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」
(ローマ人への手紙12章21節)
そして律法を厳守する市民であることを示すために、常に同胞の祝福を求めなければなりません。
この章で説明されている事柄について深く瞑想すればするほど、この箇所で教えられているキリストへの無私の献身の高みに達するには自分たちが及ばないことを痛感することになります。
聖霊がこれらの教えを力強く私たちの心に届けてくださる時、私たちは神の荘厳な言葉によって、ますます深く探求されていることに気がつくようになりです。
心の奥底に真実を求める方は、御子を通して語られました。
「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。」
(詩篇51篇6節)
いまだに、キリストが拒絶されているこの世界で、このことは人格の隠れた源泉のすべて明らかにし、すべての誠実なたましいに、私たちがキリストを正しく代表するためには、私たちが恵みとキリストの知識において成長する必要があることに気づかせれます。
このセクションの最初の5節で主は、私たち皆に共通する、多くの無意識的な偽善を暴いておられます。
それは、私たちが仲間を厳しく裁きながら、自分の罪をまるで取るに足らないものとして見過ごし、あるいは許してしまうことにつながります。
主は、祈りに期待通りの答えを得るためには、私たち自身が祈りの土台に立つ、必要性であることを示しています。
広い道と狭い道は鮮明な対比をなしています。
前者は、キリストに示された神の恵みと、それが人類に要求する権利を無視する人々が辿る道です。
後者は、仕えられるためではなく、仕えるために、そして多くの人のために命を贖いの代価として与えるために来られた方への献身の道です。
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」」
(マタイの福音書20章28節)
これは、単に人生の終わりに天国へ至る道ではなく、命へと至る道であることに注目してください。
「さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。
聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。
とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。
それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」
(マタイの福音書7章1~14節)
「さばいてはいけません。」
これは動機の問題です。
神の民は、キリスト教の道徳基準に反する者を裁くように命じられています。
「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。」
(コリント人への手紙第一5章12節)
これは、キリスト教の道徳基準に反する者を処罰し、教会の交わりから排斥することを意味しています。
(コリント人への手紙第一5章3~5節、 5章13節、 5章13節参照)
しかし、私たちは行動の隠れた源泉に基づいて裁こうとすべきではありません。
私たちは簡単に偏見に陥り、その即断的な判断はくり返し間違えます。
「私たちは心を読むことも、考えを見分けることもできません。
これは神のみに与えられた特権です。
もし、私たちがこの戒めに従わなければ、他の人々が同じように私たちを裁いても驚くには当たりません。
「あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」
私たちは、他の人に適用するのと同じ厳格な基準で自分自身も量られることになります。
「ちりと梁」
ここには実に感動的で見事な皮肉が込められています。
この箇所で使われている二つの言葉は、鮮烈な対照をなしています。
「ちり」と訳されている言葉は、もともと乾いた小枝や藁の切れ端を意味しています。
風が人間の目に吹き込み、視界をぼやけさせ、涙を流して排出させるものなのです。
「梁」という言葉は実際には木の棒を意味しますが、主が地上にいた時代のギリシャ語では、口語的に「破片」の同義語として使われていました。
破片はそれ自体は小さくても、それがもたらす痛みゆえに、まさに梁なのです。
数年前にエジプトで発見されたパピルスの記録の一つには、ある若者が母親に宛てた手紙の中で「梁」が親指の爪の下に突き刺さった経験による苦しみについて語られていました。
これは主のみこころを明確に示しています。
自分の人生に、他人が見つけたと思うものよりずっと悪いことがあるとき、その人を叱責できる人はいません。
それは、木の梁や破片がわらの塵や粒よりも大きいのと同じことです。
「兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。」
世間でさえ「あなたは貴重な存在」という言葉を使います。
その人は、自分の人生にもっとひどい欠点があるのに他人の欠点を正すことを期待してはいけません。
「偽善者たち。」
この言葉は元々ギリシャ語で俳優を指して使われました。
文字通りには、昔の俳優が演じる役柄を演じる際に仮面をかぶっていたように、もう一つの顔を意味しています。
私たちは「二面性」を持つと言います。
神は現実を要求されます。
私たちの主はこれを強く主張しています。
浅薄で空虚な信仰心は神には通用しません。
私たちは神の御顔を誠実に求めなければなりません。
でなければ、恵みと憐れみによって私たちの必要を満たそうと愛する父なる神を知ることはできません。
自分が罪を犯しながらも、他人を傲慢に裁くことは、神の目に忌まわしいことです。
もし、私たちが誠実に神を知ろうと求め、神のみこころを行う覚悟があるなら、神は私たちを狭い門、すなわちキリストの御心への服従へと導いてくださいます。
そして、神と、キリストが命を捧げてくださった人々の利益のために、無私の献身という狭い道へと導いてくださいます。
これこそがまさに命への道なのです。
「また豚の前に、真珠を投げてはなりません。」
聖さを望まない人々に神の啓示のより深くより貴い事柄を伝えようと努めるのは愚かなことです。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」
主はこの言葉で、祈りが神に届くことの重要性を強調しておられます。
それは、単に特定の言葉を無造作に、あるいは無意識に繰り返すことではありません。
私たちは求めるように、つまり、私たちの願いを神に知らせるように命じられています。
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
(ピリピ人への手紙4章6、7節)
そして、もしすぐに答えられないなら、そのことに関する神のみこころをより明確に知ろうと努め、さらに求めなければなりません。
そうすれば、光明に満ちた知性をもって祈ることができるのです。
「私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。
あなたのさばきが地に行なわれるとき、世界の住民は義を学んだからです。」
(イザヤ書26章9節)
そして、誠実な実践と信仰を伴う執拗な祈りで門をたたき、答えを得なければなりません。
(ルカの福音書11章5~10節参照)
神は祈りに答えてくださいます。
これは、いわゆる「啓示信仰」が超自然主義的であることの証拠の一つであり、単なる人間の哲学とは区別されます。
「信仰」という言葉はキリスト教そのものには広義すぎる言葉ですが、ここでは旧約聖書と新約聖書の両方で明らかにされています。
神と人間の関係の完全な説明を網羅するのに便利な表現であるため、この言葉を用いています。
神は、過去のさまざまな時代においても、また現在の時代においても、祈りを聞き、祈りに答える方として啓示されています。
(詩篇65篇2節、イザヤ書56章7節、マタイの福音書21章13節参照)
神は、私たちが願いを携えて神のもとに来るよう招いてくださり、必要に応じて与えてくださると約束しておられます。
「また、私の神は、キリスト・イエスにある御自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」
(ピリピ人への手紙4章19節)
「だれであれ」
神の条件が満たされるなら、答えは確実です。
一部の人ではありません。
神の啓示された御心に従って祈りを通して神に近づくすべての人です。
私たちが求めるものが常に正確に与えられるとは限りません。
神は御自身の知恵に従って答える権利を持っておられます。
神は決して御子たちの叫びを無視されることはありません。
「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。」
石はパンに外見は似ているかもしれませんが、食べることはできません。
たとえ食べられたとしても、栄養を与えたり、支えたりすることはできません。
地上の父親は子供たちの必要に配慮しています。
食べ物を求める子供たちを無視したり、食べ物を願っても使い物にならないものを与えたりして、子供たちを嘲笑することもありません。
「また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。」
一方は強くし、成長させる食物であり、もう一方は毒であり、死をもたらします。
真実な父親の心を持つ者は、子供にとって有害なものを与えるのではなく、むしろ益となるものを与えます。
「とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」
人間の親子関係は、神の父なる御心をわずかしか表現できません。
神は子供たちに益となるものを与えることを喜ばれます。
家庭において、父親は、御子らに永遠の益となるものを与えます。
そのことで彼らを祝福することを喜ばれる天の御父の愛とあらかじめの模範となるべきです。
祈りは、これらの恵みを受けるための定められた手段です。
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」
これこそが黄金律です。
これは祈りと結びついています。
なぜなら、隣人への積極的な哀れみを特徴としない者は、正しく祈ることはできないからです。
(ヨハネの手紙第一3章17~22節参照)
これは福音ではなく、福音の実りです。
人々はしばしば黄金律について軽々しく語ります。
それは、まるで守ることが比較的ささいなことであり、キリスト教全体に関わっているかのように語ります。
「黄金律があれば十分です。
誰もが必要とする信仰はこれだけです」という主張を、私たちは何回も繰り返して耳にしたことがあります。
しかし、この排他的な生き方の基準で裁かれたら、神の聖なる法廷に誰が合格できるでしょうか?
これは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という律法の要求を言い換えたに過ぎません。
私たちの祝福された主以外に、これを完全に実践できた者はいません。
したがって、黄金律は私たちの罪の意識を増し、恵みによる救いの必要性を強調するだけです。
キリストが受け入れられ、御霊によって私たちの内に住まわれることによってのみ、私たちはこの高く聖なる基準に達することができるのです。
主イエスとその教えを軽蔑する者たちは、黄金律は主が独自に考案したものではなく、単に以前に教えられた教えを改変したものに過ぎないとくりかえし主張してきました。
中国の聖徒、孔子は、キリストの数百年前にこれを説いたと言われています。
しかし、弟子たちに「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」と命じた主イエス・キリストの積極的な教えと、「自分がしてもらいたくないことは他人にもしてはならない」と説いた孔子の否定的な教えとの間には、大きな違いがあります。
前者は神の愛の現わしており、後者は単なる人間の教えに過ぎません。
「滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。」
これは自己中心の道、神の御言葉への不従順の道です。
自分の貧しい境遇を認めようとせず、キリストの要求を無視する者は皆、この広い道を歩んでいます。
すべての人は生まれながらにこの道を選んでいます。
この道に入るには広い門が必要です。
「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」
キリストを知ることなしに、真実な命はありません。
「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」
(ヨハネの手紙第一5章12節)
私たちが自分たちの意志を主に委ねるとき、私たちは狭い門をくぐり、狭い道へと入っていくのです。
これが命へと、すなわち最も豊かで満ち足りた意味における命へと導きます。
この命は、地上ではある程度与えられますが、祝福された永遠の世においては、その豊かさのすべてを享受することになるのです。
次の節では、命の道を求めている人々を惑わし、そらそうとする偽預言者に対して警告が与えられています。
「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
同じ様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」
(マタイの福音書7章15~20節)
「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」
この比喩は非常に感動的です。
羊の毛皮を体にまとった狼が群れの端をうろつき、何も知らない子羊や羊に襲いかかる機会をうかがっている様子を描いています。
同じ様に、偽りの教えを説く教師たちは、最初は本性を現さず、弟子たちを引き寄せるために、正体と意図を隠そうとします。
「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」
(使徒の働き20章30節)
安全な唯一の方法は、ヨハネの第二の手紙にあるように、そのような者をすべて御言葉そのもの、特にキリストの教えによって試すことです。
「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。」
これはさまざまな教義体系、そして、それを広める人々にとっての試金石です。
神から出たものは、神の栄光のために人生において実を結びます。
「良い木はみな良い実を結ぶが。」
この二つは、神から生まれた男女と、まだ新生していない人々を描写し、鮮烈な対比をなしています。
これは自然界からのたとえ話であり、私たちは皆、良い木か悪い木かのどちらかです。
私たちの行動は私たちの真実な性格を露わにします。
また、明らかにしたりするという偉大な真理を心に刻み込むために作られています。
ここでの善と悪は、箴言全体と同じ様に、相対的な意味で用いられています。
(箴言12章2節、箴言13章22節、箴言14章14節参照)
実際、新生によって生まれ変わるまでは、善なるものは何一つもありません。
「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
(ローマ人への手紙3章12節)
唇の証しは心の状態を示します。
「悪い木は悪い実を結びます。」
神に反抗する心は、人生において神に栄光をもたらすものを何も生み出すことはできません。
同じ様に、神のみこころに従う者は、神の聖なる名に不名誉をもたらす罪を犯し続けることはできません。
「みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」
神は邪悪な人々に対してさえも、忍耐強くあられます。
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
(ペテロの手紙第二3章9節)
しかし、悔い改めずに歩み続ける人々に裁きが下る日は、一人ひとりに刻々と近づいています。
このことをバプテスマのヨハネも宣言しています。
「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」
(マタイの福音書3章10節)
「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」
人がどんな職業に就こうとも、それを物語るのは生き方です。
(テサロニケ人への手紙第一 1章5節、 2章10節、 2章10節参照)
善人は清さと義を喜びとします。
悪人は罪深く腐敗したものにひれ伏します。
恵みがたましいに働くとき、御霊の良い実が生き方に現れます。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」
(ガラテヤ人への手紙5章22、23節)
真実に神から出たものは、それを受ける者の側に敬虔さを生み出します。
主は、その偉大な説教を終えるにあたり、主が宣言された言葉に対する私たちの態度にかかっている永遠の結果を、最も生々しく深刻な方法で示してくださいます。
「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」」
(マタイの福音書7章21~27節)
「『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく」
心と生活が神の御言葉に従っていなければ、口先だけの告白は無意味です。
私たちは行いによって救われるのではなく、良い行いこそが真実の証しなのです。
神から生まれた者は、父の御心に従うことを喜びとします。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」
(エペソ人への手紙2章8~10節)
「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。
『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』」
外見的な見せかけや一見成功したように見える奉仕は、キリストを信じていない告白と結びついているかもしれません。
主の現れの日には、私たちが主であると告白する主への個人的な信仰以外に、何の役にも立ちません。
「わたしはあなたがたを全然知らない。」
その日、主は誰に対しても、「わたしはあなたがたを知っていたが、今はもう知らない」とは言いません。
失われた者に対しては「わたしはあなたがたを全然知らない」と言います。
主は御自身の民すべてに対してこのように言われています。
「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」
(ヨハネの福音書10章27節)
「岩の上に自分の家を建てた賢い人」キリストの言葉を聞いて心に留める人は、真実な信者であり、キリスト御自身である岩の上に自分の家を建てたことを明らかにします。
「それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。」
いかなる逆境の嵐も、空中の権威を持つ君主のいかなる攻撃も、この永遠の岩の上に築かれた家を破壊することはできません。
「砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。」
耳で聞いても真理に従うことを怠る人は、沈む砂の上に家を建てているようなものです。
「倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
試練の時が来ると、キリスト以外の何かに永遠の希望を託した者は破滅に陥ります。
イエスは主ゆえに、御言葉への完全な従順を求めています。
イエスは王として語り、御国の礎となる原則を明確かつ簡潔に示されています。
それは地上の支配者や国家の利己的な政策とは完全に対照的です。
イエスを主として受け入れ、御言葉に従うことは、「物質と世界の崩壊」の中にも耐えうる家を建てることです。
主の声に耳を傾けないことは、この世においても永遠の損失を意味しています。
キリストは聖書の多くの箇所で、教会が建てられる岩のような土台として描かれています。
また、キリストは一人ひとりの信者が支えられる岩でもあります。
キリストを信頼する者は、決して揺るぎない堅固な土台の上に家を建てます。
「だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。
これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」
(イザヤ書28章16節)
「それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」」
(ローマ人への手紙9章33節)
他の人物、制度、あるいは想像上の功績に希望を置くことは、流れる砂の上に家を建てることと同じです。
裁きの日に、キリストとその完成された御業以外の何かに頼ってきた者は皆、永遠に失われ、希望を失います。
イスラエルでは、このような言葉はかつて聞いたことがなかったのです。
その言葉には確固とした権威があり、聞き手たちは深く感動しました。
彼らがどれほどその言葉に耳を傾け、それを宣べ伝えた神への忠誠を示したかは記されていません。
しかし彼らの態度は、この章の最後の二つの節に要約されています。
「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」
(マタイの福音書7章28、29節)
「群衆はその教えに驚いた。」
イエスは主に弟子たちに語りかけていたにもかかわらず、群衆は耳を傾けるために近づき、この偉大な説教が劇的な結末を迎えました。
すると、彼らはイエスの教えの明快さと深遠さに驚嘆しました。
「イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」
イスラエルの律法学者や他の教師たちは、通常、自分たちが説くすべての事柄を、先人たちの著名なラビたちの権威に基づいていました。
しかしイエスは、御自身が説かれたすべての主題について、最終的な決定を下すかのように、率直に語りました。
これが聴衆を驚かせたのです。
この説教はものさしのようです。
そして、彼らの義へのさまざまな主張が試みられました。
彼らは神の御前に正直に向き合い、自分の罪深さと救い主の必要性を認めたのでしょうか?
記録は残されていませんが、多くの人が、目の前に示された偉大な真理について深く考えながら家に帰ったことは間違いありません。
主が再臨され、神の御国が地上に完全に示される時、この説教で宣言された原則はさまざまな場所に浸透し、さまざまな国々に義と賛美が湧き出るのです。
「地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽生えさせるからだ。」
(イザヤ書61章11節)
それは地球の新生の時です。
「そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」
(マタイの福音書19章28節)
人は生まれ変わります。
「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」
(テトスへの手紙3章5節)
すると、神の前に聖さと義のうちに歩む力を与えられます。
「子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。
罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。
神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。
だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。
その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。
そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。」
(ヨハネの手紙第一3章7~10節)
イエスは道徳律を無視したり、軽視したりしたでしょうか?
そうではありません。
イエスは、昔から言われてきたことを聖く権威あるものとして述べられました。
しかし、イエスはその最も深い霊的な意味を付け加え、説明することで、人々がその真実な適用を理解できるようにされました。
道徳の原則は不変です。
どの時代においても同じです。
現在、神の御子は、キリストへの愛と聖霊の支配的な影響力を通して、単なる律法的な服従を超えた存在となっているのです。
マタイの福音書8章
王が御国の律法を宣言された教えに耳を傾けた今、私たちは主の御業について考察するよう求められています。
これらは主の王としての資格証明であり、主が真実に約束されたメシアであり、イスラエルにいやしと豊かさをもたらし、義と平和のうちに支配する者であることを証明するものだと考えることができます。
「彼の代に正しい者が栄え、月のなくなるときまで、豊かな平和がありますように。」
(詩篇72篇7節)
主イエス・キリストが行われた最初の奇跡について、このように記されています。
「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」
(ヨハネの福音書2章11節)
このことは主が行われたすべての驚くべきしるしにも適応できます。
それぞれの奇跡は、受肉の奥義を特別な方法で物語っています。
「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」
(コリント人への手紙第二5章19節)
「奇跡について、あなたは困惑しませんか?」と、ある科学者が別の科学者に尋ねました。
最初の科学者は、自称不可知論者でした。
その友人は最近、主イエス・キリストへの個人的な信仰を告白するよう導かれたばかりでした。
また、彼は「イエスを神の子と知ってからは、全く信じられませんでした」と答えました。
「その時から、イエスをきわめて最高な奇跡、つまり神が私の救いのために人となったことを信じることができました。
聖書が語るイエスの行ったさまざまな奇跡はすべて、容易に受け入れることができました。
イエスを知っているのであれば、イエスが行ったとされる奇跡は信じられないようなものではありません。」
イエス・キリストは、そのすべての力ある御業において、御自身の栄光を語っておられたのに過ぎません。
それらは、イエスがメシアであることの証しです。
なぜなら、イエスはこれらすべてを、人間性をまとった永遠の神として自分の意志で成し遂げたのではなく、聖霊に支配された従順な御子として成し遂げられたからです。
「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」
(使徒の働き10章38節)
イエスはすべてのことにおいて父に従うことを選ばれ、父は聖霊によって、御子において、そして、御子を通して、すべての御業を成し遂げられました。
「イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。
イエスが安息日を破っておられただけでなく、御自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」
(ヨハネの福音書5章17~19節)
「人の時代」(ヘブル人への手紙5章7節)、この地上において、イエス・キリストは神の活動的なしもべでした。
「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」
(ヘブル人への手紙5章7節)
それゆえに、イエスの宣教活動を特徴とする偉大な御業に驚く必要はありません。
逆にそうでなければ、はるかに不思議だと思います。
地上に降りて、私たちの血肉ある人間性を御自身の神性と一体にされた神が人間の苦しみに心を動かされずにこの世を生きました。
そのことを和らげるために何もなさらないなど考えることができません。
これらの奇跡は、イエスがなされたことの中で、何よりも偉大です。
イエスが力強く行動し、私たちの限られた理解力で奇跡と呼べることを成し遂げられました。
まさに、イエスは神であり人間でもあるという御性質に完全に一致する行為をなさりました。
この章と続く章を考察するとき、イエスの力と憐れみを等しく証明する奇跡的なしるしが次々と起こるという事実に私たちは感銘を受けます。
イエスは「良いわざをなし」たのです。
「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」
(使徒の働き10章38節)
イエスが従った人々を単に驚かせるために奇跡を行ったという記述はどこにもありません。
すべての奇跡は、人々の苦しみを和らげ、人類の必要を満たすために直接行われました。
非常に密接に結びついている8章と9章です。
イエスがらい病人を清めました。
(マタイの福音書8章1~4節)
百人隊長のしもべをいやしました。
(マタイの福音書8章5~13節)
ペテロのしゅうとめを病の床から起こしました。
(マタイの福音書8章14、15節)
荒れ狂う海を静めて弟子たちの命を救いました。
(マタイの福音書8章23~27節)
ガダラの悪霊にとりつかれた人々を解放しました。
(マタイの福音書8章28~34節)
そして、イエスが弟子たちを救い、彼らを救ったことが記されています。
中風の男に新たな力を与えました。
(マタイの福音書8章9章1~8節)
衣に触れた病に苦しむ女性をいやし、役人の娘を生き返らせ、二人の盲人をいやし、口のきけない男から悪霊を追い出しました。
(マタイの福音書8章18~34節)
そして、助けを求める雑多な群衆の様々な病を癒やしました。
(マタイの福音書8章35~38節)
これらの哀れみの業の記述の間には、弟子としての生き方に関する重要な教えました。
(マタイの福音書8章19~22節)
マタイによって呼びかけられました。
(マタイの福音書9章9節)
マタイの福音書8章10~15節における偽善に対する深刻な叱責、そして16、17節における新しい衣と新しい皮袋のたとえ話が散りばめられています。
まず、らい病患者の清めについて考えてみましょう。
「イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。
すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」
イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。
イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。
ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」」
(マタイの福音書8章1~4節)
もしイスラエルが神と正しい関係にあったなら、彼らの間には病気は存在しなかったはずです。
「そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。
わたしは主、あなたをいやす者である。」」
(出エジプト記15章26節)
パレスチナの病人は皆、恵まれた民の堕落した状態を悲しく物語っていました。
イエスが訪れる先々で、様々な病に苦しむ男女に出会われました。
彼らは皆、罪の結果を何らかの形で具現していました。
らい病は、罪の汚れと忌まわしさを物語っています。
それは、犠牲者の肉体に恐ろしい破壊をもたらす体質的な病気です。
罪が、その支配下にある者のたましいに破壊をもたらすのと同様です。
ひどい潰瘍や痛みを伴う腫れ物で容貌が損なわれていないからといって、その人はらい病患者ではありません。
それらは、体内で病が進行していることの証しに過ぎません。
しかし、人は罪を犯すから罪人ではありません。
罪人だからこそ、罪を犯すのです。
ここに、ある貧しいらい病人が主イエスのもとに来て、礼拝し、あるいは敬意を表し、救いを懇願しました。
しかし、イエスがそれを許してくださるかどうか確信が持てません。
彼は言いました。
「「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」
イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。」
すると、彼はたちまち汚れから解放されました。
そこで主は、レビ記14章に記されているように、神殿の祭司のもとへ行き、モーセが命じた供え物を捧げるように彼に命じました。
これは神がイスラエルで働いておられることを祭司に証しするためでした。
記録されている2番目の出来事は、百人隊長の召使いのいやしです。
「イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、
言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」
イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」
しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。
と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」
イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。
あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。
しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。」
(マタイの福音書8章5~13節)
ここにローマの百人隊長がいました。
明らかに彼はイスラエルの神を知るようになった人物で、その従者は中風に苦しんでいました。
この麻痺した男は、罪人の無力さを象徴しています。
私たちも皆、神の恵みによって救われるまではそのような状態だったのです。
私たちがまだ力を得ていなかった時に、キリストの死が私たちのために力を与えました。
百人隊長は、無力なしもべを案じて、イエスに病人をいやしていただくように願いました。
イエスは即座に応えられました。
「行って、直してあげよう。」
しかし、百人隊長は、自分はそのような栄誉を受けるに値しないと断言しました。
「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから」と彼は言いました。
人々は百人隊長について「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です」(ルカの福音書7章4節)と言いましたが、彼は「資格は、私にはありません」と言いました。
なぜなら、彼は自分の心を知り尽くしていたため、個人的な功績など主張できなかったからです。
彼の行動は、主の力に対する揺るぎない信仰の尊い表れでした。
ローマ軍の将校であった彼が、服従する者たちに権威をもって語ることができたように、イエスが病を去らせ、人々が従うように命じることができると確信していたからです。
このような確信はイエスの心を喜ばせました。
イスラエルにおいて、イエスはこのような信仰を見いだすことはなかったからです。
イエスは、この中に、後に集められるであろう異邦人の大収穫の保証を見ました。
それは、さまざまな国から来た信仰深い罪人たちが、アブラハム、イサク、ヤコブと共に神に栄光を捧げる時です。
しかし、多くの「御国の子ら」は、つまり、生まれながらにアブラハムの子孫でありながら、アブラハムのような信仰を持たない者たちは、拒まれ、外の暗闇へと追いやられ、長年待ち望んできた御国の喜びから締め出されてしまうのです。
彼らは泣き、歯ぎしりをすることになります。
一つは彼らが味わうであろう悲しみを、もう一つは心の憤りを物語り、悔い改めないことを示しています。
主は百人隊長に確信の言葉を与え、彼の信じたとおりに事が起こったので、立ち去るように命じました。
百人隊長が戻ると、召使いは癒されていました。
「王のことばには権威がある。」
(伝道者の書8章4節)
ゆえに、神に油を注がれた王がイスラエルの真ん中にいたことを証明しています。
マタイの福音書8章14、15節には、落ち着きのないたましいの熱病のような罪が、救い主のいやしの手によってすぐに反応するという話があります。
「それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。
イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。」
(マタイの福音書8章14、15節)
「ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。」
ペテロは既婚者で、しゅうとめも家族の一員でした。
この女性は熱病にかかり、苦しみながら寝床の上で寝返りを打っていました。
しかし、イエスが来るとすべてが変わりました。
「イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。」
その力強い接触にはいやしがありました。
病気は逃げ去りました。
イエスは命の主だからです。
回復した女性はすぐに働いて感謝を示そうとしました。
「彼女は起きてイエスをもてなした。」
イエスが罪の熱を叱責するとき、奉仕は喜びとなり、人生は喜ばしい経験となるのです。
これらすべての例において、主イエスは万物にふさわしい方でした。
さまざまな緊急事態に対応できる無限の力をお持ちである証拠を見ることができます。
主を驚かせるものは何もなく、主の注意を引かないといけない大きな必要などありません。
地上における主の生涯は、神の愛と憐れみの現れでした。
人々に神の慈しみと、神の子どもたちへの配慮について、完全な新しい理解を与えました。
主は地上における姿、すなわち栄光の中にもおられます。
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」
(ヘブル人への手紙13章8節)
主は常に同じ方法で力を働かされるわけではありませんが、ご自分の民に対する主の配慮は決して変わりません。
主の力は無限です。
主にとって、どんな問題も乗り越えられないものはありません。
身体的な病を癒すために宗教的なカルトが創設されています。
それらの一部の人々とは異なり、主は救いを求めて持ち込まれる問題を区別しません。
どんな病気であれ、どんな形の弱さであれ、主はそれをすべて癒されました。
このようにして、主は創造の力と人類への憐れみを示されたのです。
こうした驚くべきいやしの知らせが広まったため、近隣のさまざまな地域から人々がやって来て、多くの病からの解放を求めたのは、疑いようもありません。
次にこのように記されています。
「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。
そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。
これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」
さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。」
(マタイの福音書8章16~18節)
「病気の人々をみなお直しになった。」
イエスに願い求める者は誰も無駄にしません。
イエスの心は憐れみに満ちていました。
ゆえに、どんな病気で痛みや苦しみを引き起こしていようとも、イエスは来る者すべてを救いました。
「預言者イザヤを通して言われた事」
イザヤの預言は、イエスが日々の宣教において、深い同情をもって人々の病を負い、弱さを担われた際に、文字通り成就しました。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」
(イザヤ書53章4節)
これが十字架上でのイエスの贖いの業を指していると考えるのは誤りです。
イエスは、この地上で苦しむ人々の間を歩みながら、私たちの弱さを負い、人々の病と苦痛を取り除かれました。
聖書には、キリストが罪の贖いのように、病気の贖いをなさったという考えはどこにもありません。
病気は罪の裁きの結果であり、贖いを必要としません。
しかしながら、十字架の御業の結果として、主が御自身の民のために再臨される時、信者の体は贖われ、栄光に輝くことは事実です。
このように述べられています。
「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」
(コリント人への手紙第一15章53節)
それまでは、私たちの体は救われていない人々の体と同じように病気や死にさらされているのです。
イエスはカペナウムとその近郊で多くの偉大な御業を成し遂げられた後、「向こう岸に行くための用意をお命じになった」と記されています。
イエスの働きは、恵まれた少数の人々への奉仕ではなく、困窮しているすべての人々への働きでした。
ですから、イエスは他の困窮している人々へと向かわれたのです。
彼らがガダラの地とデカポリス地方へ行くための船に乗るために海岸に向かって歩いていたとき、イエスは周囲に群がる人々と弟子としての務めについて語り合っていました。
すると二人の男が興味を示して口を開き、そのうちの一人はすぐにはイエスにフルタイムの奉仕としてす従わない理由を述べましています。
マタイの福音書8章19~22節には、この二人についてこのように記されています。
「そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。
「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」
すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」」
(マタイの福音書8章19~22節)
「どこにでもついてまいります。」
このように軽々しく言った律法学者は、主に従うことが本当に何を意味するのかを何も理解していません。
イエスへの熱烈な称賛に心を動かされていましたが、イエスがこれから受ける拒絶については、完全に理解していません。
「枕する所もありません。」
万物を創造した主は、御自身の世界と御自身の民の中で、住む場所を失っていました。
主に従うことは、主の悲しみを分かち合うことでした。
イエスは、代償を計算せずに、決断する者を決して許しません。
なぜなら、主に従う者は、主の孤独と拒絶の道を歩む覚悟をしなければならないからです。
「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
彼の父親が亡くなっていたとは考えなくても構いませんが、この若者はイエスにすぐに従うことを拒む言い訳として、血縁関係を主張しました。
自分の都合でイエスに従うと言うことは、イエスが万物の主であることを理解していないことを意味しています。
私たちはイエスと取引をしようとしているのでしょうか、それともイエスの権威に全面的に服従しているのでしょうか?
この男に対する主の返答に注目してください。
「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」
つまり、霊的に死んだ者たちが、肉体的に死んだ者たちの遺体の処理に任せるべきだということです。
人生において最も大切なことは、主に従うことです。
続くマタイの福音書8章23~27節にかけて、私たちはキリストの力が創造主として現れています。
宇宙を創造した主は風と波を静めます。
すべての自然は主の言葉に従います。
「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。
すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。
弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。
人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」」
(マタイの福音書8章23~27節)
「イエスが舟にお乗りになる」とは、海を渡って東側へ行くため、弟子たちと一緒にカペナウムからガダラへ行くためでした。
カペナウムは北西の海岸にあります。
「大暴風」、
時が来る前にイエスを滅ぼそうとしたのは、空の権威を持つ君主だったのかも知れません。
どんな嵐も、イエスが航海していた船を沈めることはできません。
ガリラヤ湖は小さな湖ですが、高い丘陵地帯の奥深くに位置しているため、気層の変化と峠から吹き付ける猛烈な風によって、突発的に激しい嵐に見舞われます。
これらの嵐は急速に発生し、何の前触れもなく襲ってくることがよくあります。
「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
弟子たちがこのように叫んだのは、不信仰から生じた恐怖のためでした。
信仰があれば、主が共にいてくださるという事実に安らぎを見出すことができたはずです。
別の福音書にはイエスが弟子たちにこのように言われたと記されています。
「イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。」
(マルコの福音書4章36節)
これが彼らの自信の根拠となるべきでした。
イエスは湖で溺れるかもしれないという恐れから船に乗るように命じたのではなく、共に向こう岸へ行くように命じたのです。
もし彼らがこの言葉を覚えていたなら、彼らの信仰は失われなかったはずです。
「風と湖をしかりつけられる。」
まず、イエスは彼らの不信仰を叱責されました。
それから、自然の力も叱責されました。
マルコは、イエスが荒れ狂う風と波に、まるで怒った犬に話しかけるように直接命じられたことを記しています。
「黙れ、静まれ。」
(マルコの福音書4章39節)
するとたちまち、自然の力は静まり、激しい嵐も止みました。
風と海は、イエスが叱責されたとき、主の声を認識しました。
なぜなら、肉体の疲労で眠りについていた主こそが、宇宙の創造主だったからです。
「いったいこの方はどういう方なのだろう。」
彼らはまだ、主の受肉の奥義を理解していません。
主が彼らの間で力強く働かれるにつれ、彼らの理解は開かれ、主が真実に誰であるかを知るようになりました。
恐れの念と平安に満たされた彼らは、主を驚きの眼差しで見つめ、目の当たりにした権威の現れに驚嘆しました。
風や波さえも従うお方の御前にいることを悟り、彼らは主の不思議な力と人格を思い巡らし、驚嘆したのです。
ガダラ人の地方では、主の悪霊に対する力を示す一連の驚くべき出来事が起こりました。
しかし、その当時のその地域の人々には感銘を与えることはありません。
しかし後に、レギオンを追い出したことによって救い出された人の証しによって、多くの人々の態度は変化しました。
マタイの福音書8章28~34節を引用します。
「それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。
すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。
まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」
ところで、そこからずっと離れた所に、たくさんの豚の群れが飼ってあった。
それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」
イエスは彼らに「行け。」と言われた。すると、彼らは出て行って豚にはいった。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。
飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。
すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。」
(マタイの福音書8章28~34節)
「悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。」
マタイだけが二人の悪霊に取りつかれた人について言及しています。
マルコの福音書5章2節とルカの福音書8章27節では一人としか言及していません。
「イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。」
(マルコの福音書5章2節)
「イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。
彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。」
(ルカの福音書8章27節)
もちろん、ここに矛盾はありません。
この哀れな不幸な人は二人いました。
二人とも主イエスによって、社会から隔離され墓場へと追いやられていたこの恐ろしい呪いから解放されました。
しかし、この一人の人の経験は特に目覚ましく、そのいやしはマタイがガダラ人、あるいはゲルゲセン人と呼んでいた人たちにに深い感銘を与えました。
「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。
まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」
悪霊つきについては大きな謎がありますが、彼らがサタンの支配下にある堕落した霊であることは明らかです。
彼らはまだ地獄に閉じ込められておらず、人々を破滅に導く力を持っています。
彼らはすぐにイエスだとわかると、イエスが彼らの最後の審判を宣告する審判者であることを認識しました。
そして、恐怖に震え、後ずさりしました。
今日、悪霊つきは起こり得るのでしょうか?
もちろん可能です。
この恐ろしい苦しみを経験したキリストのしもべたちによって、多くの実例が語られています。
特に、サタンが絶対的な権力を握る異教の地では、このことが顕著です。
福音がもたらされると、地獄の勢力は団結して十字架のメッセージに抵抗します。
悪魔が追い出され、その支配下にあった人々が完全に解放された例は数多くあります。
「たくさんの豚の群れが飼ってあった。」
モーセの律法によれば、これらの汚れた動物は食用に適さないと考えられていました。
「それに、豚。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。」
(レビ記11章7節)
しかし、堕落したユダヤ人たちは豚を異邦人に売ることで利益を得ようとしていました。
放蕩息子の職業はまさにそれでした。
「それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。」
(ルカの福音書15章15節)
律法によれば、そのような職業はイスラエルの地では絶対に禁じられていました。
「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」
悪霊は何らかの形で受肉することを求めているようです。
宿っていた人間から追い出されると、彼らは汚れた豚の死体にとりつくことを許してくれるように願いました
「その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。」
豚の無節操な飼い主たちの商売道具がこのように破壊されたことは、当然の報いでした。
この出来事自体や、悪霊がどのように関与したかを説明する必要はありません。
このメッセージは、人間の悪への巨大な能力を強調しています。
2000匹の豚をもってしても、二人の堕落した男に住み着いた悪霊たちを抑えることはできていません。
「イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。
すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。」
(マルコの福音書5章13節)
「飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。」
豚飼いたちは驚きと恐怖で急いで町に戻りました。
起こった不思議な出来事を語り、悪霊にとりつかれた人々の解放と豚の滅亡について語りました。
「すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。」
金銭的な損失に憤慨し、主イエスが自分たちの悪行をさらに知ればさらなる悪影響が出ることを恐れたガダラの人々は、イエスに直ちに立ち去ってほしいと願いました
計り知れない祝福を与えてくれるのを拒むことは哀れなことです。
ガダラの人々にとって、豚は人のたましいよりもはるかに価値があったのです。
マタイは、癒された悪霊にとりつかれた者の一人がイエスに共にいさせて欲しいと願ったとは記していません。
しかし、主は彼に別の計画を用意しておられました。
それは、彼を解放してくださったキリストの偉大な力を、故郷の友人たちに証しすることでした。
これは救われたすべての者の特権であり、責任でもあります。
私たちは主イエスを知っているなら、他の人々も主の救いを経験できるように忠実な証しがされているでしょうか?
マルコとルカは、悪霊にとりつかれた者がイエスの弟子となったこと、そして、この人がキリストが彼にもたらした祝福の福音をどのように広めたかを記しています。
彼はガリラヤ湖の東側にある十の町、デカポリス全域に良き知らせを伝えました。
その後、しばらくしてイエスがその地方に戻られたとき、以前経験した反対とは対照的な歓迎を受けています。
「彼らは湖を渡って、ゲネサレの地に着き、舟をつないだ。
そして、彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついて、そのあたりをくまなく走り回り、イエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運んで来た。
イエスがはいって行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。」
(マルコの福音書6章53~56節)
この章に記されている様々な奇跡について思いを巡らし、貧しく苦しむ人類に対するイエスの憐れみを深く心に留めながら、私たちの心は礼拝と賛美へと駆り立てられます。
そして、神が御子を通して語られ、働きかけておられたことにも心を留めます。
神は、被造物の必要を満たすことを喜びとし、たましいを恐れで満たす苦難の状況から彼らを救い出し、どのような形であれサタンの虜から彼らを解放されます。
イエスは肉において現れた神です。
ゆえに、その御業は神の御業であり、人々に対する神の関心と姿勢を常に示しています。
私たちはイエスをもっと深く信頼することを学ぶ必要があります。
そうすることによってに、神の愛を信頼し、神の力の行使を頼りにする人々に対する神の関心がいかに現実的で、いかに明確であるかを、実体験によって知るようになります。
イエスは神のご性質のまさにその具現です。
(ヘブル人への手紙1章3節、直訳)
その恵みの御業の中に、私たちは神のみこころが明らかにされているのを見ることができます。
マタイの福音書9章
すでに述べたように、この章と前の章には、王としての資格が示されています。
イエスの力ある御業は、彼がメシアであると主張し、証明しています。
しかし、イエスのさまざまな奇跡は、自分の事を称えるためでも、人々に「偉大な者」(使徒の働き8章9節)と称えさせるためでもなく、苦しむ人類の苦しみを和らげるために行われたのです。
「ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。」
(使徒の働き8章9節)
神に油を注がれた王が、盲人の目を開き、耳の聞こえない人の耳を開き、足の不自由な人を鹿のように跳ねさせ、口のきけない人の舌に歌を歌わせるとは、遠い昔から預言されていました。
「そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。
そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」
(イザヤ書35章5、6節)
主イエスはこれらすべて、そしてそれ以上のことを成し遂げ、御自身の慈愛に満ちた心から、困っている人々に仕えられました。
ペテロはコルネリオにこのように教えました。
「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。
このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」
(使徒の働き10章38節)
この章には、苦しむ人類への関心が示されています。
しかし、この働きは、ごくわずかな例外を除き、イスラエルの家の滅びた羊に限定されていることを忘れてはなりません。
「イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。」
(マタイの福音書10章6節)
それは、選ばれた民に、彼らが待ち望んでいた王が彼らの中にいる証しとして行われたのです。
「主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。」
(ゼパニヤ書3章15節)
しかし、人々はイエスの神聖な権威の多くの証拠を目撃したにもかかわらず、民の指導者たちはイエスの主張に頑なに抵抗し、証しを拒みました。
「議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。」
(ヨハネの福音書7章48節)
しかし、一般の人々はイエスの教えを喜んで聞きました。
「大ぜいの群衆は、イエスの言われることを喜んで聞いていた。」
(マルコの福音書12章37節)
しかし、これらの指導者たちの中にも、イエスが行われた奇跡を見て、表面的にしか信じない多くの者がいました。
「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。」
(ヨハネの福音書2章23節)
信仰はキリスト御自身に向けられるべきであり、キリストが行うしるしや不思議に向けられるべきではありません。
キリストを偉大な教師、預言者、あるいは奇跡を行う者と認めることと、キリストを救い主として受け入れ、人生の主として認めることとは、同じではありません。
ここに記されている出来事と前の章に記されている出来事は、時系列順に並んでいるわけではありません。
しかし、イエス・キリストがメシアであることを証明する証として、道徳的な順序に従ってまとめられています。
これらはすべて、イエスの公の宣教活動の2年目に起こったと考えられます。
この章の冒頭で、ガダラ人に拒まれた主がガリラヤに戻り、すぐに友人たちと会い、中風の人をいやしに連れて来られる場面が描かれています。
マルコとルカは、この出来事が野原ではなく、家の中で起こったと記しています。
病人を助けていた4人は、戸口に群がる群衆を押し分けて進むのが不可能だと感じ、屋根に上がり、瓦をはがし、あるいは屋根をずらして、中風の人を縄でイエスの足元に降ろしました。
「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。
すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。
イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
すると、彼は起きて家に帰った。
群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。」
(マタイの福音書9章1~8節)
イエスはガリラヤ湖の北西岸に戻ると、この出来事が起こったカペナウムの家に入りました。
「イエスは彼らの信仰を見て、」
中風の男だけでなく、彼を連れて来た友人たちも、イエスが彼らの願いに応じていやしを与えてくださると心から信じていたことは明らかです。
イエスはすぐに、しかし彼らが予想もしなかった方法で応えられました。
「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」
こうして、最初にイエスはより大きな必要を満たされました。
近くにいた一部の律法学者にとって、これは最悪の冒涜でした。
神の特権を横取りしたようなものです。
神以外に罪を赦す者はいません。
そのような言葉を使うとは、イエスは一体何者なのでしょうか?
イエスは彼らの考えを知って、こう尋ねて彼らを叱られました。
『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
彼らにとっては、どちらも不可能なことでした。
人は心の罪よりも肉体の病を重んじる傾向があります。
また、神との正しい関係よりも肉体の健康と維持に気を配ります。
しかし、主はたましいの状態を重視していました。
主は人々に、心の腐敗を悟らせています。
「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」
(マタイの福音書15章19節)
また、罪の咎と力からの解放の必要性を悟らせています
「イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」」
(ヨハネの福音書8章34節)
これによって神との交わりの人生に入り、永遠の恵みを確信できることを願われました。
「イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」
(ヨハネの福音書14章23節)
主にとって肉体の病は、罪が世に存在する事実の証しに過ぎません。
罪の結果だけを扱うのではなく、常に原因にまで到達しようとされました。
しかし、人の子が地上で罪を赦す力を持っていることを人々に知らせようとしました。
イエスは中風の男の方を向き、起き上がり、床を取り上げて歩くように命じました。
主を批判する人々が驚きと恐れの念をもって見守る中、かつて無力だった男は、癒され、赦されて、跳ね上がり、自分の家へと歩いて行きました。
集まった群衆は喜び、神の恵みと力の驚くべき現れを讃えました。
これこそがイエスの望むものです。
イエスは、御子を通して働く御父に人々が敬意を表すことを喜ばれました。
次の節では、イエスに同行した選ばれた弟子たちの集まり、つまりペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネが属していた集まりに加わったもう一人の男について読むことができます。
「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。
イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」」
(マタイの福音書9章9~13節)
「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。」
マタイはレビとも呼ばれ、カペナウムの港町の取税人でした。
「イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。」
(マルコの福音書2章14節)
明らかに以前に彼は主イエスの御言葉を聞いて、イエスを探していました。
そして今、決断の時が来たのです。
救い主の召命に従い、マタイはすぐに仕事をやめ、キリストの弟子として全時間働くことにしました。
そして、神のもとで、この福音の創始者となったのです。
「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、」
これはマタイの家です。
マタイは新たな道を歩み始める前に、かつての仲間たちに送別会を催しました。
この会食には、主イエス・キリストと弟子たちが招かれていました。
「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
律法主義者は、値しない者、完全に失われた者に対する神の恵みを決して理解できません。
人間の功績とは主に人を委ねることだと考えていた彼らは、イエス・キリストが罪人と交わりを持つという考えに衝撃を受けたのです。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」
主は、自己義認的な批評家たちの反論に答えるにあたり、誰もが理解できるたとえ話を用いました。
医者を必要とするのは病人であり、主は罪に苦しむたましいを助けるために来られた偉大な医者でした。
「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」
イエスは、これらの律法主義者たちの注意を、ホセア書6章6節を通してヤハウェがなさった宣言へと導きました。
神にとって、貧しい人々に憐れみが示されることは、いけにえや供え物を受けることよりもはるかに大切です。
ですから、イエスは「義人」、つまり憐れみを必要としないと思っている人々を招くために来たのではなく、悔い改めへと招く罪人たちに使命を与えたのです。
次の4つの節では、他の箇所でバプテスマのヨハネまで優勢であったと伝えられている律法の原則 (ルカの福音書16章16節) と、イエス・キリストによってもたらされた恵みと真実 (ヨハネの福音書1章17節) との間の劇的な違いが示されています。
「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これにはいろうとしています。」
(ルカの福音書16章16節)
「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」
(ヨハネの福音書1章17節)
「するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。
「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。
しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。
だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。
そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。
また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。
そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。
新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」」
(マタイの福音書9章14~17節)
「するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来て」、断食について尋ねました。
ヨハネからバプテスマを受けた多くの人々はイエスに完全に身を任せることができていません。
しかし、イエスが約束のメシアであるというより明確な証拠を待っていたことは明らかです。
彼らは、ヨハネが教えた禁欲が、パリサイ人にとって徳とされていたにもかかわらず、イエスの弟子たちが実践していなかったことに心を痛めていました。
イエスは答えて、御自身が彼らと共にいる限り断食の必要はないと明言されました。
しかし、まだ彼らには理解されていませんが、主が彼らから離れる日が来たら、断食が当然のこととなります。
花婿の存在は喜びと歓喜を呼び起こします。
主の不在は、弟子たちに自己犠牲の必要性を強く感動づけ、たましいの鍛錬をもたらすのです。
「だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。」
イエスは律法の摂理に何かを加えるために来たのではなく、完全に新しいものでそれを置き換えるために来られたのです。
律法と恵みという二つの原則を融合させようとする試みは、双方の真実な意味を無効にしてしまうのです。
「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。」
(ローマ人への手紙11章6節)
恵みという新しいぶどう酒を、律法という皮袋に注いではなりません。
そのような試みは、両方を破壊するだけです。
このことを認識することは非常に重要です。
なぜなら、パウロが言うように、恵みによって救われた人々に律法の原則を押し付けようとする律法学者が現在のキリスト教世界には存在しているからです。
彼らは自分が何を主張しているのか理解せずにいるのです。
「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。
ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り、律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません。」
(テモテへの手紙第一1章5~7節)
マタイの福音書9章18~26節にかけて、二つの奇跡が織り交ぜられています。
どちらも、王の力と哀れみを示され、イスラエルの中にいながらも大多数の人々には認識されていません。
「イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。
「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」
イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。
すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。
「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。
イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。
イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、
言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。
イエスは群衆を外に出してから、うちにおはいりになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。
このうわさはその地方全体に広まった。」
(マタイの福音書9章18~26節)
「ひとりの会堂管理者が来て」
この人の名はヤイロです。
彼はカペナウムの会堂の指導者でした。
「すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し」
(マルコの福音書5章22節)
彼は明らかにイエス・キリストの教えを信じており、助けてくださるようイエスに願いました
彼の言葉を借りれば、幼い娘は「今にも死んでしまう」からです。
つまり、娘の病状がひどく、神の介入がなければ死に瀕していると悟っていたのです。
「イエスが立って彼について行かれると、」
救い主は深い憐れみを感じ、すぐにその役人の家に向かいました。
そして、「弟子たちもついて行った」と記されています。
「すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。」
体質的な病に侵され、命が危ぶまれていたこの女は、群衆を押し分けて進み、主の衣の端に触れました。
それはモーセの律法(民数記15章38~41節、申命記22章12節)に従っていました。
すべての敬虔なイスラエル人が身につけていた青い房飾りで、彼らが聖なる神のしもべであることを示すものでした。
「身にまとう着物の四隅に、ふさを作らなければならない。」
(申命記22章12節)
「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」
彼女は、このようにイエスにさわれば、すぐに癒されることを確信していました。
「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」
主は彼女の信仰を認め、そのおかげですべてが彼女の望み通りになったと確信を与えました。
彼女は完全に癒されました。
「イエスはその管理者の家に来られて、」
その間、少女は明らかに回復の望みを失っていました。
命は彼女の体から消え去り、イエスの訪問ももはや無駄に思えました。
すでに埋葬の準備が整い、雇われた会葬者たちは嘆き始めていました。
主イエス・キリストの来臨は、このすべてを変えることになりました。
主は悲しみに喜びの油を与えてくださるからである。
「シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。」
(イザヤ書61章3節)
「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」
少女はただ昏睡状態だったのでしょうか?
それとも本当に死んでいたのでしょうか?
ほとんどのキリスト教学者の間では、これは死の眠りだったという意見で一致しています。
しかし、ここでの「眠り」を表すギリシャ語が、他の箇所で「眠り」と「死」が同義語として使われているのとは異なっています。
そのことから、彼女は単に仮死状態だったという結論に至る人もいます。
いずれにせよ、人間の力で助けられる範囲では、彼女は死んでいたのです。
「少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。」
他の箇所では、イエスが優しく彼女に立ち上がるように命じ、イエスが彼女の手を取り、その時、少女はそれに応じて生き返り、食べ物を与えられたと書かれています。(マルコの福音書5章41~43節、ルカの福音書8章54、55節)
「しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」
すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。」
(ルカの福音書8章54、55節)
「このうわさはその地方全体に広まった。」
この話は人々から人々へと広まり、人々は起こった素晴らしい出来事に驚きの声を上げました。
それは、この地に現れた偉大な預言者、イエス・キリストの力の証しとなりました。
続く節には、イエスのメシア性を証明する二つの例が記されています。
しかし、これらの力ある業は、厳格で自己義認的なパリサイ人たちを納得させるどころか、イエス自身が悪霊の王ベルゼブルと結託しているという冒涜的な非難を招きました。
「イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。
家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。
そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。
すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく戒めて、「決してだれにも知られないように気をつけなさい。」と言われた。
ところが、彼らは出て行って、イエスのことをその地方全体に言いふらした。
この人たちが出て行くと、見よ、悪霊につかれたおしが、みもとに連れて来られた。
悪霊が追い出されると、そのおしはものを言った。群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない。」と言った。
しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言った。」
(マタイの福音書9章27~34節)
二人の盲人はイエスを約束のダビデの子であると認識し、その理由に基づいて哀れみを求めました
イエスは彼らの信仰を試すために「わたしにそんなことができると信じるのか。」と質問されました。
肯定の答えを受けると、イエスは彼らの目に触れながら「あなたがたの信仰のとおりになれ」と答えられました。
彼らはすぐに主を仰ぎ見、主の祝福された御顔を見る目を持ちました。
彼らの盲目は消え去りました。
彼らのためにこれほど偉大な御業を成し遂げてくださった主の名声を、彼らがどれほど喜んで広く宣べ伝えたかは、容易に想像できます。
しかし、主は彼らに、「決してだれにも知られないように気をつけなさい」と命じられました。
主は、単なる奇跡を行う者として知られることを望まれません。
彼らは興奮しすぎて、抑えきれず、イエスが彼らのために成し遂げたことを地域中に広めました。
イエスがなぜ彼らにこれらすべてを控えるよう命じたのか、不思議に思うかもしれません。
それは間違いなく、イエスが人々に御業ではなく御言葉に心を動かされることを望まれたからです。
ヘブル人への手紙1章3節に記されているように、イエスは地上におられた間、神の位格の完全なる写し、すなわち神の御性質の完全なる表現でした。
苦悩する人類に示されたイエスの憐れみは、罪が世にもたらした悲しみと苦しみを神が御覧になる御心を表しています。
主はどこへ行っても、サタンの悪意の証拠から人々を救い出そうとされました。
主の奇跡は、主の神性の真実性を証し、主の救世主としての立場を証ししました。
しかし、奇跡への信仰は誰も救いません。
しかし、奇跡を行われた方への信仰は、当時も今も、罪からの救い、そして罪の影響からの解放の手段です。
もう一つの奇跡において、再びイエスが悪霊に対して権威を持っていることが示されました。
福音書の中で「悪霊(デビル)」が複数形で使われている箇所は、常に「悪魔(デーモン)」であるべきであることを覚えておきましょう。
この人たちが出て行くと、見よ、悪霊につかれたおしが、みもとに連れて来られた。
悪霊が追い出されると、そのおしはものを言った。群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない。」と言った。
しかし、傲慢な宗教指導者たちは、イエスが救世主であることを示すさまざまな証拠に抵抗し、拒絶しようと決意しています。
そして、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と宣言しました。
これは、栄光の主がこれから直面すること、すなわち、主を受け入れるべき人々からの完全な拒絶への不吉な前兆となりました。
当分の間、イエスはこれらの冒涜者たちを叱らず、静かに偉大な働きを続けました。
この章の最後の段落にこのように記されています。
「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
(マタイの福音書9章35~38節)
イエスが入られた町や村はすべてガリラヤ地方でした。
「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」
(マタイの福音書9章35節)
イエスは弟子たちと共に町から町へと巡り、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、さまざまな病気を癒やしたと伝えられています。
この「御国の福音」という言葉は重要です。
それは、神がこの世に御国を建てるという良き知らせを宣べ伝えることでした。
神はイスラエルに御国を与えました。
しかし、彼らが悔い改めて王を受け入れるという条件付きのものでした。
ご存知のように、彼らはこの条件を満たせず、御国が彼らから取り去られ、必要な条件を満たす準備ができている他の人々に与えられるのです。
もちろん、「御国の福音」と「神の恵みの福音」には違いがあります。
しかし、これらを二つの福音として区別するべきではありません。
なぜなら、ガラテヤ人への手紙1章9節には、パウロ自身が世に宣べ伝えた福音以外の福音を宣べ伝えることは、神の呪いを招くと明確に記されているからです。
福音とは、神の御子に関する神のメッセージです。
時と場合によって様々な様相を呈しますが、すべてはキリストの福音です。
すでに見てきたように、マタイの福音書ではキリストは王として描かれています。
つまり、キリストの王権が強調されており、贖いの業は強調されていません。
しかし、後の章で見ていくように、贖いの業も無視されていません。
実際、この福音書の冒頭で御使いたちはこのように宣言しています。
「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
(マタイの福音書1章21節)
したがって、福音書の様々な側面は区別されるべきであり、混同してはなりません。
それらはすべて、神のキリストが世界の大いなる必要に対する唯一の救済策として提示されることに関係しているのです。
イスラエルを正しい道に導く者のいない群衆を見て、私たちの祝福された主の心は深く動かされました。
彼らは、良い羊飼いである主が来て、彼らを養い、世話するまで、羊飼いのいない羊のようでした。
イエスは弟子たちの注意を、御自身の真理を知る必要のある尊いたましいで満たされた広大な収穫の畑へと導きます。
彼らはこの収穫の畑へ出て行って刈り入れをします。
イエスは彼らに、収穫の主に、実った穀物を集める働き手を送り出すように祈るよう命じます。
これをシカルの井戸での主の言葉と結び付けて読むならば、私たちはイエスが失われた人々の救いを常に深く気にかけておられることを理解することができます。
ヨハネによる福音書4章35~37節で、イエスはこのように言われています。
「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。」
(ヨハネの福音書4章35~37節)
この言葉を心に留めておくのは良いことです。
主は私たちに畑を見渡し、種を蒔き、刈り取り、そして世界福音宣教という偉大な御業を担う人々がさらに多く立ち上がるよう祈るよう望んでおられます。
マタイの福音書10章
主の十字架刑に先立つ十二使徒の召命と使命を正しく理解するためには、主イエス・キリストがイスラエルに約束の王として御自身を示されたことを心に留めておく必要があります。
神は彼らを一つの国民として扱い、御子の権利を認める十分な機会を与えられました。
十二使徒は、その国民への使者として選ばれ、彼らの働きは、主の働きと同じ様に、主に「イスラエルの家の失われた羊」(5、6節)への奉仕でした。
「イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。
イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。」
(マタイの福音書10章5、6節)
十二使徒は使徒となる前は弟子です。
つまり、使徒として任命され、王の使者として遣わされ、待ち望まれていた天の御国が近づいたことを宣べ伝える前に、彼らはキリストの学校で学んでいたのです。
彼らの任務はこの10章に記されています。
これは、王が拒まれ、父のもとに戻ろうとしていたこの福音書の終わりに与えられた任務とは大きく異なります。
この最初の任務はイスラエルへの奉仕だけに関するものでした。
しかし、後の任務はすべての国々に及ぶものでした。
選ばれた民への王の使者として、彼らは王の忠実なしもべに歓待と旅の援助を期待して出陣することになっていました。
それゆえ、彼らは長旅をするように、財布も袋もその他の食料も持たずに出陣しなければなりません。
もし、平穏に迎えられたなら、主の力によって御国の福音を宣べ伝え、病人が癒されました。
もし、拒まれたなら、裁きが間もなく下ることを告げ、他の町や村へと旅を進めなければなりません。
主イエスは、ある場所で彼らが待ち受けるであろう虐待について事前に警告されました。
しかし、天の父が彼らを見守ると宣言されました。
十字架の後、これらすべては変わり、彼らは全世界に出て行って、さまざまな国の人々を弟子とする任務を与えられました。
この任務は一度も取り消されることはなく、今日もなお有効ですが、完全に遂行されたことはありません。
この区別を理解しなければ、私たちは混乱しがちです。
なぜなら、福音書にはそれぞれの使者の責任について、完全に正反対の指示が記されているからです。
確かに、多くのイスラエルはメッセージに応じる気持ちがありません。
しかし、状況は完全に異なっています。
神は御子イエスの拒絶を予知しており、イエスの犠牲的な死こそが、まさに世界への神の祝福の計画の土台だったからです。
しかし、ペテロが後に宣言したように、だからといってイスラエルの責任が軽減されるわけではありません。
「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」
(使徒の働き2章23節)
神の御国がまず、当然のごとくイスラエルに提供されました。
なぜなら、彼らは生まれながらに神の御国の子供であったからです。
約束は彼らに与えられ、彼らは何世紀にもわたって王の到来と、イスラエルを選民として全世界に王権が現されることを待ち望んでいました。
イスラエルを通して世界の残りのさまざまな地域に祝福がもたらされるのです。
(イザヤ書60章1~16節)
彼らが主と使徒たちから与えられたメッセージに従うことを拒むのであれば、王国は彼らから取り上げられ、他の国民に与えられました。
「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」
(マタイの福音書21章43節)
「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。
さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、
熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。
イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。
イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。
行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。
病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。
旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。
どんな町や村にはいっても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。
その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。
その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。
もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。
まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。」
(マタイの福音書10章1~15節)
十二使徒の召命は、長らくイエスが訓練を続けるための新たな、より広範な奉仕活動の最初の行為でした。
彼らは弟子、あるいは生徒として認められました。
イエスは、彼らに二人ずつ出て行かせ、天の御国が近づいたことをイスラエル全土に告げ知らせるよう命じました。
「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。」
しばらくの間、この十二人はイエスと共にいました。
今、イエスは彼らを他の追随者から分け、権威ある使者として区別されました。
2節で、彼らは初めて使徒、つまり「遣わされた者」、宣教師と呼ばれています。
彼らの名前は2~4節に記されています。
イエスは様々な階層の人々を見出し、彼らに託そうとしていた偉大な御業に備えるために、同胞として召し出されました。
イスカリオテのユダ、すなわちケリオテ人を除いて、皆が彼らの信頼に忠実でした。
「異邦人の道に行ってはいけません。」
まず、イスラエルに王が示され、彼らに王国が与えられなければなりません。
その両方をイスラエルが拒むまで、福音は全世界、そしてすべての国々に伝えられません。
(マタイの福音書28章19、20節、マルコの福音書16章15節、ルカの福音書24章46、47節、使徒の働き1章8節)
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
(使徒の働き1章8節)
「イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。」
十二使徒はこれらの人々を捜し出すために出かけて行き、イスラエルに罪を悔い改め、王を迎え入れ、神の御国に入る備えをする機会を与えました。
「行って、宣べ伝えなさい。」
彼らのメッセージ、あるいは宣言は簡潔なものだった。
「天の御国が近づいた。」
国民はこの御国を長い間待ち望んでいました。
今、それは彼らに受け入れるか拒むかを問うために提示されました。
「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
王の使者たちには、彼らの布告に信憑性を持たせるために奇跡の力が与えられました。
しかし、彼らは自分の利益のためにこれらの力を悪用してはなりません。
彼らは与えられたものを与え、自分の利益を求めてはいけません。
「胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。
旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。」
主は十二使徒を遣わすにあたって、費用のための金銀、あるいは着替えの衣服は持たせません。
彼らは王の代理人として、御自身の民のもとへおもむく者でしたから、王を待ち望むイスラエルの忠実な人々から世話を受ける権利がありました。
彼らは町から町へ、村から村へと巡り歩きながら、それぞれの場所で、その地にふさわしい人、すなわちイスラエルの救いを待ち望む敬虔で正しい生活を送る人として尊敬されている人を尋ねなければなりません。
彼らは主の家を訪れ、歓待を求めました。
もし、断られた場合は、そのまま進み、その家に対する証として履物の埃を払い落とさなければなりません。
彼らを受け入れた者は祝福を受け、拒んだ者は裁きを受けることになるのです。
その裁きは、かつてソドムとゴモラに降りかかったものに比べれば軽いものだったほど、厳しいものとなります。
これは、光には責任が増すという事実によるものでした。
彼らは平原の町々の人々が決して知らなかった特権を持っていました。
それは、王を迎えることを拒否し、王の使徒たちを侮辱した彼らの罪ははるかに重かったのです。
これらの使者たちが直面する苦難に関する主の言葉は、ガリラヤでの短い証しした期間中に彼らが経験した苦難をはるかに超えています。
つまり、主の十字架と復活の後、まずイスラエルに、そして異邦人に証言を続ける際に直面するよう求められる苦難に備えるためのものであったことは明らかです。
一方で、聖書は、ダニエル書12章の賢者(またはマスキリム)である忠実なユダヤ人信者のグループが、教会の携挙と人の子の再臨の間の患難時代にイスラエルに証言することを暗示していることを私たちは覚えておく必要があります。
これらの聖句は、反キリストが支配する暗黒の時代にかつて拒まれた王の再臨を告げ知らせるために出陣する証人たちにとって、導きと慰めとなります。
「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。
人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。
また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。
それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。
人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。
というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。
兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。
というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。」
(マタイの福音書10章16~23節)
「わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。」
この民はかつて預言者たちを殺しながら、主は御自身のもとへ立ち返るように願っていました。
今、イエスはこの民の中で、御自分の代表として送ります。
イエスはその意味に誤解を与えたくなかったのです。
弟子たちは、心のこもった友に出会えると期待したかもしれませんが、敵に立ち向かうために出かけていきました。
そのような状況下で、彼らは上から来る知恵を必要としていました。
民事裁判所や宗教的な裁判所に召喚されても、彼らはどのように弁明すべきかと不安になったり困惑したりする必要はありません。
なぜなら、「そのとき」に、彼らの内に語る父の御霊を通して、語るべきことが与えられるからです。
「父の御霊」という表現は一般的ではなく、必ずしも内在する慰め主の完全な真理を意味しているわけではありません。
慰め主は、イエスが栄光を受けた後に来ることになっていたからです。
ですから、主はこのやや曖昧な表現を用いていますが、聖霊の新しい時代が到来した時においても、十分適応できる言葉です。
彼らは、キリストへの忠実さゆえに生じる家族間の誤解や家庭内の確執に備える必要がありました。
世は然るべき王に激しく反対するため、主に忠実な者たちは御名のゆえにすべての人から憎まれるのです。
ですから、彼らは浅薄で非現実的なたましいを退けるような苦しみと迫害を覚悟しなければなりません。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者には救いが保証されています。
これは、私たち自身の忠実さや献身によって救われるという意味ではありません。
すべては神の恵みによるものです。
しかし、たましいの中に神の真実な働きがあるのなら、やがて来る大患難時代であろうと、この邪悪な時代であろうと、最終的な忍耐がもたらされます。
しかしながら、キリストの弟子は迫害を受けたり、無謀な方法で不必要に危険に身をさらしたりしてはなりません。
ある街で迫害を受けたなら、別の街に逃げなければなりません。
パウロは後年、迫害のためにテサロニケからベレアへ、そしてユダヤ人がベレアの人々を煽動しようとした際にベレアからコリントとアテネへ逃げたようです。
既に述べたように、主の命令のこの部分の最後の文は来たるべき患難の時に、この同じ使命を果たす証人たちの集まりが存在することを理解しない限り、適用することは困難です。
教会の召しは、今のところ、付随的に与えられています。
神のこの特別な御業が完成すると、教会は天に移され、中断されていた御国の証しは継続されることになります。
マタイの福音書10章24~39節で主は、主が拒まれる日に、主と同一視されることに満足しているすべての人々に対する父の配慮が語られています。
「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。
弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。
だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。
わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。
また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。
だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。
わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
さらに、家族の者がその人の敵となります。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」
(マタイの福音書10章24~39節)
「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。」
弟子とは学ぶ者です。
謙虚さは、その立場において弟子と一体となるものです。
キリストのしもべであり弟子である彼らは、御言葉に従う責任があります。
彼らは、師よりも良い扱いを期待するべきではありません。
「彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、」
ユダヤ人の思想によれば、ベルゼブル(おそらくペリシテ人の言葉)は悪霊の長でした。
冒涜的にイエスにこの名をつけた者たちがいました。
「隠されているもので知られずに済むものはありません。」
これは深刻な考えです。
神は人の秘密を裁かれる日に隠された動機や行為はすべて明るみに出されます。
「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。」
(ローマ人への手紙2章16節)
「屋上で言い広めなさい。」
教師である君主との素晴らしい交わりの中で、ひそかにイエスから学んだことを、彼らは公の場で大胆に宣べ伝えるべきのです。
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。」。
肉体の死はたましいの死をもたらしません。
肉体の死後、たましいは生き続け、復活において肉体と再び結合します。
そして、悔い改めない者の場合は地獄に投げ込まれます。
聖書では、「死ぬべき」と「不滅の」という言葉は肉体と結び付けられています。
(ローマ人への手紙8章11節、 ローマ人への手紙1章、 コリント人への手紙15章63節)
「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
(ローマ人への手紙8章11節)
しかし、これは肉体の死後も、たましいが生きるという事実を否定するものではありません。
人々がたましいの不滅について語るとき、一般的にこのことを意味しています。
28節の主の言葉は、この点について明確かつ断定的です。
人間には、病気も及ばず、暗殺者の武器にも滅ぼされることのできません。
人間はたましいを殺すことはできません。
神は、御自身の無限の義によって人間のたましいを扱われています。
「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。」
一アサリオンはごくわずかな硬貨でした。
しかし、二羽の雀を捌いて串を刺したものが、市場でこの金額で売られていました。
これらは最も貧しい人々の食料でした。
しかし、神は雀が一羽落ちるのを目に留めておられるのです。
「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。」
神が気づかないほど些細なことは何もありません。
神の配慮は私たちの生活の最も些細なことにまで及びます。
「たくさんの雀よりもすぐれた者です。」
神はすべての被造物を大切にします。
人間は神の心の中で特別な場所を占めており、他のすべての生き物よりも大切にされています。
「わたしを人の前で認める者はみな、」
キリストは私たちの人生に対する絶対的な権威を主張しています。
私たちは人々の前で公然とキリストを認めるべきです。
神の前に立つ日に、キリストは私たちの価値のない名前を告白してくださいます。
「わたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」
もし、今、わたしたちがキリストを救い主、主として受け入れることを拒むなら、審判の日にキリストはわたしたちを否定することになります。
「平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」
これは、イエス誕生時の御使いたちのメッセージを考えると不思議な言葉に思えるかもしれません。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
(ルカの福音書2章14節)
しかし、イエスは御自身が拒まれることを予見し、善と悪の戦いが御自身の再臨まで続くことを知っています。
イエスのしもべたちは、悪に対して勇敢に戦う備えをしなければなりません。
「わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせる」
キリストの主張は他のすべての主張を優先します。
弟子たちは、たとえ自分の家庭や最も近い親族からであっても、反対に向かう覚悟しておかなければなりません。
「家族の者がその人の敵となります。」
これは、当時の十二使徒の使命の結果として真実となっただけではありません。
その後、何世紀にもわたって悲しいことにこのことが成就してきました。
「わたしにふさわしい者ではありません。」
もし、イエスが神より劣る存在でならば、ここで彼が述べている主張は不条理なこととなります。
イエスは私たちの心の中で最高の地位を要求しておられます。
私たちは父や母、兄弟姉妹への愛よりも、イエスへの愛を優先すべきです。
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者」
十字架を背負うということは、拒まれた主と私たちが一体であることを認めることです。
十字架を背負う人は、死に身を捧げた人です。
そして私たちは、主が私たちの中で栄光を現されるために、日々死ぬように召されているのです。
「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。」
(コリント人への手紙第一15章31節)
「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」
自分のために生きることは、私たちが創造された目的を理解していないことです。
しかし、この世の人々が価値を置くものをすべて、主の御名のために手放すなら、私たちは永遠に得るものがあります。
主イエス・キリストは別の箇所でこのように言われました。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
(ヨハネの福音書12章24節)
この言葉は、命を救うことと失うことに関する主の教えを、見事に解説しています。
植えたのではなく「救われた」麦は、実際には失われます。
植えることによって失われたものは、来たる収穫において救われるのです。
キリストの使者を受け入れ、彼らの証しの証言に協力するすべての人に与えられる確実な報酬は、次のとおりです。
「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。
預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。
わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」」
(マタイの福音書10章40~42節)
主が御自身を現す者を、完全に御自身と同一視しておられるかを知ることは、祝福されています。
ですから、主から遣わされた者を受け入れることは、主を受け入れることと同じであり、その逆もまた同じです。
預言者を神に代わって語る者として迎え入れることは、預言者の報いに預かることを意味しています。
そして、同じ原則は義人を受け入れることにも適用できます。
しもべのためになされたことは、主によって祝福されます。
キリストの幼子の一人に一杯の冷たい水を与えることさえ、報いとして失われることはありません。
主は、彼らのためになされたことすべてを、御自身に対してなされたこととみなされます。
主を知る者で、このように哀れみ深い主に心から喜びをもって仕えない人がいるでしょうか?
従順は献身への試金石です。
もし、私たちが真に主を愛するなら、喜んで私たちの全て、そして持つもの全てを主に仕えるために捧げるのです。
主は救われた私たちに、福音のメッセージを託してくださいました。
これは、私たち全員が説教者や宣教師に召されているという意味ではありません。
しかし、私たちと同じように、他の人々が主に導かれるよう、人々の前で主を告白するよう求められているのです。
どれほど大きな代償を払うように思えても、主の召命に従うなら、私たちは人生で最も豊かで最良のものを見出すのです。
主の栄光のために捧げられた命は、救われた命です。
罪や自己のために捧げられた命は、失われた命です。
私たちのために御自身を捧げてくださった主にとって、どんなささげ物も大きすぎるものではありません。
マタイの福音書11章
主が恵み深い宣教を続けられるにつれ、多くのイスラエル、指導者たちも一般の人々も、主のメッセージを受け入れ、ローマの権威だけでなく罪とサタンの束縛から解放するために神から遣わされた油注がれた者としての主を認める気持ちがまったくないことが、ますます明らかになってきました。
この章では、イエスが御自身の偉大な御業のほとんどを成し遂げた、まさにその街に災いを宣告される様子が語られています。
神の恵みによって屈服させられるまで、私たち自身のかたくなな心を少しでも知らないとしても、主イエスのメシア性を示すこれほど明白な証拠に人々が抵抗できたとは、信じられないことだと思われるかも知れません。
しかし、人が悔い改めて神の前にひれ伏す時にのみ、キリストはたましいに啓示されます。
ろうそくを溶かす太陽は粘土を固めるとよく言われます。
福音の説教についても同じです。
ある人は感謝の気持ちをもってそれに応え、その祝福を享受しますが、ある人は不信仰のうちに福音から背を向け、罪の中に心を閉ざします。
このようにパウロは言っています。
「ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。」
(コリント人への手紙第二2章16節)
ここにはすべての説教者に必要な君主がいます。
特に貧しい人々、外見上罪深く堕落した人々の中には、熱心にメッセージを受け入れ、命といやしを見出した人々がいました。
しかし、神の恵みの必要性を感じなかった傲慢で自己義認的な宗教家たちは、そのメッセージと使徒を拒絶し、主自身が悪魔の王ベルゼブブの代理人であると冒涜的に宣言さえしました。
十二使徒に任命を与え、御国の福音を宣べ伝えるために遣わされた後、イエスは他の街で宣教するために独りで出発されました。
このように記されています。
「イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。」
(マタイの福音書11章1節)
使徒たちが去った後、バプテスマのヨハネの弟子二人が主のもとにやって来て、主が本当に来るべき方なのか、それとも別の方を待つべきなのかを尋ねました。
主イエスは病と悪霊に対する御力を示して答え、ヨハネとそのメッセージを適切に評価する機会を設けられました。
「さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、
イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」
イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。
だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」
この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。
でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。
でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。
この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。
まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。
あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。
耳のある者は聞きなさい。」
(マタイの福音書11章2~15節)
イエスの先駆者ヨハネの心に疑念が生じたのでしょうか?
それとも、弟子たちを主イエス・キリストのもとに遣わし、来るべき方がイエスなのかを尋ねさせ、信仰を確証させただけなのでしょうか?
そのことを推測する必要はありません。
ヨハネは当時、ヘロデが兄弟ピリポの妻ヘロデヤを愛人とした邪悪な行為を、忠実にけん責したために獄中にいました。
ヨハネが注目された時代は過ぎ去っていました。
伝承が正しければ、マカエロスの薄暗い要塞で衰弱していたヨハネは、イエスに関する証言をどこかで誤解していたのではないかと自問したのかもしれません。
あるいは、不安に駆られた弟子たちを安心させるために、二人の弟子をイエスのもとに遣わし、イエスが本当に「来るべき方」なのか、それともヨハネ自身のように、別の方の使者に過ぎないのかを尋ねさせたのかもしれません。
これらの質問に答えて、イエスは王の資格はすべて力において明らかにされていることを彼らに思い起こさせました。
イエスが行われた偉大な奇跡は、その主張を証明するものでした。
盲人は見えるようになり、足の不自由な人は歩けるようになり、らい病人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえるようになり、死者さえも生き返らせました。
これ以上のしるしが期待できるでしょうか?
貧しい人々には、王国の喜ばしい知らせが告げられました。
しかし、それは試練の時でした。
王の到来に当然期待される、外面的な華やかさや見せかけはありません。
ですから、神と神の御言葉への信仰が重要でした。
「わたしにつまずかない者は幸いです」とイエスは宣言されました。
柔和で謙遜なナザレのイエスの中に、ダビデの子として王として、正義の鉄の杖をもってすべての国々を支配する運命にある者として見るには、真実な信仰が必要だったのです。
ヨハネの弟子たちが去った後、イエスは機会を捉えて、バプテスマのヨハネとその証しについて最高の言葉を語りました。
群衆をヨハネに引き付けたのは何だったのでしょうか?
それは、外見的に壮麗さや威厳を見せつけたからではありません。
ヨハネは、王宮の侍従たちが着ていた、豪華な衣装や高価な装いで現れたわけではありません。
エリヤのように、貧しい服装で、ごく質素な食事をしながらやって来ました。
しかし、当時まで女から生まれた者の中で、彼は最も偉大な者でした。
なぜなら、イスラエルにメシアを紹介する使命を与えられたからです。
しかし、彼の特権がどれほど偉大であったとしても、天の御国で最も素朴で貧しい者でさえ、はるかに偉大です。
ヨハネは開かれた扉を指し示しましたが、御国が暗示する新しい状態に入ることは彼には与えられません。
ヨハネは一つの時代を閉じ、イエスは別の時代を開きました。
「ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。」
(マタイの福音書11章3節)
信仰によって、ヨハネは主の大いなる恐ろしい日が来る前にエリヤが来るというマラキの預言を成就しました。
このように言ってから、イエスは「耳のある者は聞きなさい」と叫びました。
耳で聞いても、心で真理を受け取れないのはよくあることです。
それから主は、ヨハネの宣教と御自身の宣教との違いを鮮明に対比させて示されます。
しかし、どちらに対しても何も反応がなかったことが示されます。
「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、
こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、
人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。
でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」」
(マタイの福音書11章16~19節)
「市場にすわっている子どもたちのようです。」
イエスは、メッセージを受け取った人々を何も理解していない無責任な子供たちにたとえています。
彼らは人生で最も幸せな経験や最も悲しい経験を演じることが出来るかも知れませんが、実際には何も理解していません。
『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
結婚式であろうと葬式であろうと、それは同じです。
どちらにも反応していません。
福音の喜びの響きも、悔い改めへの深刻な呼びかけも、大多数の人々には何の影響もありません。
「ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、」
ヨハネは禁欲主義者、荒野の人であり、ありふれた安楽を一切拒みました。
しかし、人々は彼を悪霊にとりつかれた者と断じました。
「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、」
イエスは民衆の味方です。
人々の間を自由に行き来し、宴会にも参加しました。
しかし、その優しさは誤解され、人々はイエスが自分の食欲を甘やかしていると非難しました。
マタイの福音書11章20~24節にかけての箇所で、イエスは、かつて最大の特権を受けていたにもかかわらず、多くの住民が不信仰に固執していた街を叱っています。
イエスが数々の偉大な御業を成し遂げた街の住民たちの悔い改めのなさやかたくなな心には、私たちは驚くばかりです。
いまや、私たちの心は、彼らの心以上に真理を受け入れる用意ができているでしょうか?
「それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。
カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。
しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」」
(マタイの福音書11章20~24節)
「悔い改めなかったので、」
主の御言葉を聞き、主の力ある御業を目にして最も恵まれていた街が、その無頓着な態度を変えることを拒み、罪を犯し続けました。
「ああコラジン。ああベツサイダ。」
これらの街はガリラヤ湖の北端近くに位置しており、一つは少し西に、もう一つは湖岸沿いにあります。
コラジンは現在ではほとんど見分けがつかないほどの廃墟となっています。
ベツサイダは非常に貧しい小さな村です。
「そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。」
これらはフェニキアの街であり、その悪行で知られ、何世紀も前に滅ぼされました。
しかし、人々は今もなお裁きの日を待っている状態です。
光を受け、拒んだ量に応じて、罰の度合いが定められることに心を留めてください。
「カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。」
カペナウムはガリラヤの他のどの町よりも恵まれた特権を得ました。
主が「御自分の町」として選び、他のどの場所よりも多くの力ある業を成し遂げられたからです。
この意味で、カペナウムは確かに高められました。
しかし、その訪れの時を知らなかったため、完全な滅びを宣告されました。
「おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。」
ソドムは、最も卑劣で不自然な罪の代名詞となっていました。
しかし、カペナウムの人々の方が罪深かったのです。
彼らははるかに大きな光と特権を持っていたにもかかわらず、罪を犯し続けたのです。
この章の最後の節を読むと、安堵感に満ちることができます。
主は、憐れみと哀れみの心を向けた多くの人々から拒まれました。
しかし、恩知らずの民が主の愛と恵みを冷たく、時にはひどい扱いで拒んだとしても、主は「意気消沈」することはありません。
私たちは同じように拒みました。
しかし、主は父なる神の御手からすべてを受け入れ、御自分に近づくすべての人々に救いと祝福を与え続けました。
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」」
(マタイの福音書11章25~30節)
「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。」
主が人々の無関心と反対の苦しみを経験していたまさにそのとき、主は父に向かい礼拝と賛美を捧げ、人々がイスラエルの偉大な主を拒みましたが、謙遜な民が主の言葉を受け入れたことを喜ばれました。
「そうです、父よ。」
これは父の御心に完全に従順であることを表す言葉です。
地上で父により頼む人として、父が予見していたことにイエスは完全に従順でした。
「父のほかには、子を知る者がなく。」
神と人が一つの位格に宿る受肉された神は、解き明かすことのできない人間の理解を超えた存在です。
しかし、父は「子が父を知らせようと心に定めた人」に知らされるのです。
人間の知恵では知られていない父なる神の性質は、子によって啓示されました。
御子は、御言葉を受け入れる人々に、すべての贖われた者の父として神を知らせました。
「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」
確かに、肉体に現れた神以外に、この言葉を正しく用いることのできる者はいません。
地上に知られる最も優れた人でさえ、この宣言をすることはできません。
神の御霊の導きに従って語る他のすべての人々は、良心の安らぎと心の平安を求めて、人々を自分自身からキリストへと導きます。
重荷を負い、重荷を負っている人々に「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言うことができるのはイエスだけです。
イエスはこの約束を成就する力によって、数え切れないほど御自身の神性を証明されました。
「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」
真実に主に服従する人は皆、人生のさまざまな苦悩のさなかでも、柔和で謙遜な主について学ぶことによって、心の安らぎを見出します。
くびきは意志を抑制し、人を制御下に置くためにあります。
罪という重荷を、主への服従という栄光のくびきと取り換える人は、このように善良な主に仕えることが真実に祝福されていることに気付くのです。
「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
多くの人は、自分が負う覚悟のできない大きな犠牲を払うことになるかもしれないと恐れ、主のくびきに従うことをためらいます。
しかし、主の権威を認め、自分の意志を主の意志と融合させる人は皆、この世の疲れた人々が決して知ることのない安息に入ることを見出します。
二つの安息があります。
一つは主イエスが、御自身に来るすべての人に惜しみなく与えてくださる安息です。
その安息は、罪の問題に関する良心の安息です。
罪悪感に苦しむ苦悩するたましいは、主のもとに来ます。
そして、偉大な罪の担い手である主を信頼する時、平安を見出します。
二つ目の安息は、心の安息です。
突然、逆境が襲い掛かり、心を恐れと不安で満たすこともあると思います。
しかし、キリストのくびきを負い、主について学ぶ人は、嵐の中でも平静でいられます。
洪水の上に座し、万物の主である主にすべてを委ねる時、人は完全な安息を見出します。
この二つの安息は、使徒書簡の中で示されている平安の二つの側面と同じです。
一つの側面は、良心の安息に与えられ、信仰によって義とされるすべての人が得る、神との平安に相当します。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
(ローマ人への手紙5章1節)
もう一つの側面は、たましいの安息に与えられ、すべての理解を超えた神の平安と同じです。
その平安は、すべてを主に委ねることを学ぶすべての人が享受します
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
(ピリピ人への手紙4章6、7節)
マタイの福音書12章
この福音書の最初の大きな区分、すなわちイスラエルに王と王国が差し出されたものであり、この章に記された出来事は提示された区分の終わりにあたります。
ここで、国の指導者たちはイエスを意図的に拒絶し、イエスの力ある業すべてをベルゼブルの業であると断定しました。
彼らは、イエスが行われた偉大な奇跡をベルゼブルの業に帰することでしか説明できず、しかも、それらの奇跡の中にイエスが約束の王としての資格を見ようとしていません。
最初の8節には、非常に興味深く、考えさせられる出来事が記録されています。
ここでイエスは御自身が安息日の主であると宣言し、それによって再び御自身の神である良心を証明されました。
なぜなら、安息日はヤハウェの創造の力と、イスラエルがエジプトの奴隷状態から解放されたことを証しする日だったからです。
「しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――
それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」
(出エジプト記20章10、11節)
「しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も。――そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。
あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。」
(申命記5章14、15節)
それは紛れもなく「ヤハウェの安息日」でした。
旧約聖書のヤハウェは新約聖書のイエスであり、他のすべてのものと同じ様に、安息日の主なのです。
「そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。
すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。
また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
人の子は安息日の主です。」」
(マタイの福音書12章1~8節)
「そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。」
主と弟子たちは静かに田舎を歩き、麦畑を通り過ぎました。
弟子たちは空腹だったので、麦の穂を摘んで食べ始めたと記されています。
これは律法の規定と完全に一致しています。
申命記23章25節にはこのように記されています。
「隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」
(申命記23章25節)
しかし、この出来事は安息日に起こったため、パリサイ人たちはすぐに異議を唱え「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」と叫びました。
モーセの律法にはこの点に関して全く禁じられていなかったが、長老たちの伝承には多くの追加の律法や規則があり、一般人は自分がそのどれに違反しているかどうかを見分けることがほとんど不可能な場合もありました。
これらの規則の中には、安息日にいかなる種類の果物や穀物も収穫してはならないという禁令があり、弟子たちが行っていたように手でこすり落とすことさえ、パリサイ人にとっては彼らが神聖視していたものへの違反と思われました。
しかし、主は律法の制限に従うことよりも、人の必要を満たすことの方が神にとってはるかに重要であることを指摘し、弟子たちを擁護されました。
主は、飢えていたダビデとその部下たちの例を挙げられました。
彼らは大祭司に、主の前の聖餐台から取られた供えのパンを食べることを許して欲しいと頼みました。
通常の状況下では、祭司たち以外にはこのパンを食べることは許されていません。
しかし、神に油を注がれた王が拒まれ、弟子たちが苦難に陥った時、彼らの必要はどんな律法的な禁止よりも重要でした。
主はまた、批判者たちに、祭司たちは神殿で安息日に働くので安息日を汚していると言われるかもしれません。
しかし、そうすることで彼らに罪はないということを思い出させました。
そしてイエスは、驚くべき宣言を付け加えました。
「あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。」
彼らはイエスの言葉を理解していません。
神殿のすべてのもの、神の御言葉に従って整えられたものはすべてのものが、イエスとその贖いの業について語っています。
イエスが自分から父の家と呼んだ場所に来られたにもかかわらず、彼らは自分たちの間で歩いているのが誰なのかを理解していません。
イエスの言葉は単に御自身の神性を宣言したものではありません。
神聖な建物であろうと、どんな権威のある規則や規則であろうと、神にとって人間こそが何よりも大切なものだったのです。
パリサイ人はそのことを正しく理解すべきだったのです。
もし、彼らが預言者ホセアの言葉を深く考えていたならば、彼らはこのことを理解し、無実の行為であるにもかかわらず、弟子たちを非難することはなかったはずなのです。
「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」
(ホセア書6章6節)
マタイの福音書12章8節にあるイエスの驚くべき「人の子は安息日の主です」という断言は、イエスが受肉した神であることを主張したことを意味しています。
ただの人間にはこの言葉を使う権利はありません。
しかし、その日、彼らの中に立っていたのは、律法のすべての安息日が指し示す方であり、これらに対して絶対的な権威を持っていました。
次のセクションを考慮するならば、再び、主が安息日に関して敵の偏見に反する行動をとっていることに気がついています。
「イエスはそこを去って、会堂にはいられた。
そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」
それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。
パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。」
(マタイの福音書12章9~14節)
村の会堂に入ると、イエスは片手の萎えた男を目にされました。
そこに集まっていた人々から、イエスに答えを求める試練の質問が上がりました。
彼らは尋ねました。
「安息日に人を癒すのは律法にかなっていますか?」
イエスは彼らに問いかけました。
「いいえ」と答えることは、人々の苦しみに完全に無関心であることを示すように思われます。
肯定的に答えることは自分の事を責めることになるので、彼らは答えていません。
(マルコの福音書3章4節、ルカの福音書6章9節参照)
それからイエスはもう一つの質問をされました。
それは彼らの多くに深く心に響く質問でした。
「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。?」
おそらく彼らの多くは、まさにこのことを何度も行っていたはずです。
彼らにとって羊は財産であり、安息日であっても財産を大切に扱わなければなりません。
イエスは答えを待たずに、自分たちの質問に答え、人は羊よりもはるかに優れており、安息日には常に良い行いをすることが許されていることを指摘しました。
そこでイエスは、期待を込めてご自分を見上げている男の方を向き、手を伸ばすように命じました。
するとたちまち、その萎えた手には新たな命が宿り、もう一方の手と同じように元通りになりました。
これは、どんなに偏見の強いパリサイ人でさえ、神の王が自分たちの中にいると確信したはずです。
しかし、彼らはあまりにもかたくなだったので、出て行ってイエスに反対する会議を開き、イエスを滅ぼすための手段を講じました。
イエスは彼らの心にあることを知っていたので、身を引いてどこか別の場所へ行きました。
「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、
そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。
これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。
争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。
異邦人は彼の名に望みをかける。」」
(マタイの福音書12章15~21節)
多くの民衆がイエスに従いました。
彼らの多くは病気で、イエスは彼らを皆癒されたと伝えられています。
しかしイエスは、御自身の驚くべき力について広く語り伝えないようにと、彼らに命じられました。
前の章で述べたように、イエスは奇跡を行う力によって人々の心を驚かせるために来られたのではありません。
預言者イザヤがメシアの出現時に見られると預言した、柔和さと謙遜さを現すために来られたのです。
マタイの福音書12章18~21節はイザヤ書42章1~4節からの引用です。
これらの出来事の後、再び主に悪魔に対する権威が現されたことがわかります。
「そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。
群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」
これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」
イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。
もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。
また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。
しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。
わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」
(マタイの福音書12章22~30節)
王がイスラエルに御自身を示されたことに関連して、危機が訪れました。
王は御自身が救世主であることを示す証拠を次々と示しましたが、最初に主を認めるべき人々は、それを拒みました。
今、主は再び、目に見えない世界に対する御自身の力を示されました。
それは、悪霊が宿っていた哀れな男を盲目にし、口をきけなくしていた悪霊を追い出すことでした。
イエスが悪霊を追い出すと、男は話すこともできるようになりました。
主の周りに群がっていた群衆は驚き「この人は、ダビデの子なのだろうか」と叫びました。
彼らはこの奇跡の中に、イエスがイスラエルを救うために来られたダビデの王である証拠を見ました。
しかし、パリサイ人たちは「ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」と叫び、群衆を黙らせました。
このような非難がなされたのはこれが二度目です。
しかし、今や彼らが悔い改めはないことは明らかでした。
これらの宗教指導者たちは、人々が「ダビデの子」と称賛したイエスを滅ぼそうと躍起になっていました。
イエスは彼らの思いを知り尽くし、その思いを人に告げてもらう必要もありません。
そして、彼らの方を向いてこのように言いました。
「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。」
さて、サタンは巨大な悪の王国の頂点に立っています。
そして、「もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう」と問いかけられました。
群衆の中には、主から悪霊を追い出す力を与えられた弟子たちもいます。
そこで、イエスは「もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか」と尋ねられました。
彼らは、イエスについて言われたことを語りたくはありません。
しかし、イエスが神の偉大な力を現しているのでしょうか?
それとも、サタンの影響によって人々を欺いているのでしょうか?
彼ら自身が明らかにしていました。
彼らはどちらを信じるか決めなければなりません。
イエスは弟子たちに、出来事の状態を認識するよう促します。
「もし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」
イエスが弟子たちに理解させたかったのは、まさにこのことでした。
王がそこにおられ、弟子たちの小さな集まりはイエスに認められたしもべであり、神の国はまさに彼らの中に芽生えつつありました。
彼らはそれを受け入れるのでしょうか?
それともそこに入る特権を拒むのでしょうか?
「強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。」
イエスは荒野で強い人サタンに出会い、サタンを打ち負かしました。
それ以来、イエスはイスラエルの地を巡り歩き、サタンの財産を奪い続けてきました。
今、イエスの話を聞く人々が明確な立場を取らなければならない時が来ました。
彼らはイエスに味方するか、敵対するかのどちらかでなければなりません。
中立ではだめです。
イエスに味方しない者、イエスの側に立つと宣言しない者は、実際にはイエスに敵対しています。
なぜなら、イエスと共に集まろうとしない者は皆、散らばっていたからです。
次の2つの節には、多くの人々を悩ませてきた事柄が記されています。
しかし、正しく理解すれば、主イエス・キリストの御人格に関する聖霊の証言を拒否しようと決意している人以外には、誰も悩むことはないはずです。
「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。
しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。
また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。
しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」
(マタイの福音書12章31、32節)
これはディスペンセーション的な罪であり、少なくとも全く同じ方法では、現在の個人が犯すことは絶対にできないと言えます。
イエスは聖霊の力によって来られ、イスラエルの然るべき王として御自身を示されました。
私たちが見てきたように、イエスの偉大な御業はイエスの証言を確証しました。
人々がイエスの恵みを認めず、かつその力を認める唯一の方法は、イエスの偉大な御業すべてを悪魔のせいにすることです。
そのようにする者たちは、良心が焼けた鉄で焼かれたように焼きつくされるまで罪を犯したという証拠を示しました。
よく知られた比喩を用いるならば、彼らは贖罪点を超えてしまいます。
それは、彼らが悔い改めていたら神が哀れみを示さなかったからではなく、彼らが罪に固執し、悔い改めた証拠も、悔い改めの望みも持たないからです。
もし彼らが人の子にただ反対のことを言っただけなら、彼らは赦されたはずだとイエスは言われました。
しかし、イエスは厳粛にこのように付け加えられました。
「しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」
ローマ・カトリック教会が説くように、たとえたましいに罪を抱えたままこの世を去ったとしても、来世では赦しが与えられることを示しているわけではありません。
主は二つの時代、すなわち、まさに終焉を迎えようとしている時代と、来たるべき時代、つまり正確に言えば千年王国について語っておられます。
現在の世界は当時、神のみこころの中に隠されていました。
しかし、それでもなお、主の御言葉をこの時代にも適応することができます。
なぜなら、キリストに関する聖霊の証しを意図的に拒む者は、ユダヤ教の時代においても、この時代においても、そしてその後のいかなる時代においても、赦しを受けることができないからです。
しかし、多くの愛するたましいは、ここで述べられている罪を犯しているという恐ろしい考えで自分自身を苦しめたり、悪魔に苦しめられたりしてきています。
しかし、彼らは心の奥底では主イエスの神性を十分に認識しており、主に働いている力を悪魔のせいにしようとは思っていません。
次のセクションでは、偽善的な宗教指導者たちがどんな代償を払おうともイエスを拒み続けると決心しました。
しかし、イエスはおそらく記録されている中で最も強い言葉を使っています。
「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。
まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。
良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。
わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。
あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」」
(マタイの福音書12章33~37節)
イエスは善と悪を明確に区別するよう求めました。
すべての木はその実によって知られています。
イエスの聖なる生涯は、イエスの主張の真実性を証明しました。
彼らの邪悪な生涯は、彼らの心が腐敗していることの証拠でした。
「まむしのすえたち」
彼らは蛇の子孫であり、神のキリストに対する態度において、悪魔であるあの古い蛇の性質を露わにしました。
彼らの口は、心の中からあふれだしたことを語りました。
このように、私たちの言葉は内なる人の状態を示しています。
恵みによって善良になった善人は、心の宝から善なる言葉を引き出します。
一方、生まれながらに邪悪な人は、口から発せられる言葉によって自分たちの邪悪さを現します。
裁きの日に、神は人々を、彼ら自身の言葉に従って処罰されます。
すべての言葉について説明責任が問われ、人々はそれらの言葉によって義とされるか、罪とされるかのどちらかとなるのです。
多くの律法学者やパリサイ人は主のもとに来てしるしを求めたが、主はそれを拒み、さらに追い打ちをかける事態に陥ったと言えます。
主は彼らの注意を過去の出来事へと向けさせました。
それは、彼らが神に言い開きをしなければならない日に、彼らの罪をさらに重くするだけでした。
「そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」
しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。
ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。
ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。
なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。
南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。
なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」
(マタイの福音書12章38~42節)
律法学者やパリサイ人は多くのしるしを見て、そして、すべて拒んだ後では、自尊心ゆえに新たなしるしを求めることはなかったと思われます。
彼らの要求に対し、イエスは「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。
だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」と答えました。
イエスは、間もなく起こる御自身の死からの復活について言及されましたが、ご存知の通り、復活によっても、これらの人々は自分たちの行いの愚かさと邪悪さを悟ることはできません。
他の人々が何を言おうとも、イエスはヨナ書の記録の信憑性について何の疑いも持たず、受肉された神であり、すべてをご存知でした。
イエスはヨナが海の怪物の腹の中に三日三晩いたと述べています。
これは、ヨナが地の底、すなわち墓の中に三日三晩いることになる人の子のしるしとなることを意味しています。
さらに、主はニネベの人々の悔い改めを証明されました。
ニネベの人々は、ヨナの説教によって悔い改めました。
ここでは、ヨナよりも偉大な者が彼らの前に立ちはだかり、主の証しを拒んだ今の邪悪な時代と共に裁きの時に立ち上がり、彼らを裁くのだとと宣言されました。
イエスはまた、旧約聖書からもう一人の証人、シバの女王を持ち出されました。
イエスは彼女を南の女王と呼んでいます。
彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てより来ました。
なぜなら、彼女のたましいが理解したいと切望していた主の御名に関する貴重な事柄をソロモンが明らかにしてくれることを知っていたからです。
彼女はソロモンの知恵を聞くために、おそらく千里の旅も惜しくはないと考えました。
しかし、真理を否定する者たちは、ソロモンの主が彼らの中におられたにもかかわらず、動じていません。
ついに彼らが神の法廷の前に罪に震えながら立ち、光を拒んだことを責めるために、南の女王が現れました。
しかし、彼女はその光を永遠に自分のものとするために、地の果てからの輝きを追い求めて来たのです。
次に、不信仰なイスラエルの過去、現在、そして将来の状態に関する注目すべきたとえ話があります。
「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。
そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。
そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」」
(マタイの福音書12章43~45節)
ここで描かれている汚れた霊とは、バビロン捕囚の結果、ユダヤ人の民から追い出された偶像礼拝の霊です。
バビロンから帰還して以来、彼らは掃除され飾り付けられた空っぽの家のようでした。
偶像礼拝からは解放されていましたが、一方で、主を彼らの間に住まわせてはいません。
来たるべき日に、この偶像礼拝の邪悪な霊は、自分よりもさらに邪悪な七つの霊を連れ、背教した民の中に入り込み、住み着いたのです。
その結果、反キリスト、つまり強情な王がメシアとして認められ、彼らの最後の状態は最初の状態よりも悪くなります。
イエスを拒んだ邪悪な世代は、それでも患難時代にも姿を現します。
この章の終わりには、主が民に語りかけているところに、主の母と兄弟たちが近づいてくる場面があります。
このことを主へ伝えるために使者が遣わされ、主はこのように答えられました。
「イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。
すると、だれかが言った。「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」
しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」
それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」」
(マタイの福音書12章46~50節)
母が御子の奥義をどの程度理解していたのかは分かりませんが、兄弟たちが御子の復活後まで御子を信じなかったことは確かです。
彼らは、御子の説教を中断し、自分たちの存在を知らせる者を遣わしました。
明らかに、御子が説教をやめて自分たちのところに来るように示したと思われます。
しかし、御子は、御自身の口から学ぶ用意のできている者たちに向かって手を伸ばし「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです」と言われました。
このように、天の御父の御心を行う者は皆、御子の兄弟、姉妹、母であることを付け加えられました。
これは、肉によるさまざまなつながりを断ち切ることです。
事実上、イスラエルとの決別は完全に行われ、御子は完全な新しい秩序を待ち望んでおられました。
マタイの福音書13章
この章は、神の御国の真理の提示に関連して、新たな啓示を私たちに与えています。
前章で、イスラエルの民の指導者たちが最終ラインを破り、意図的に王の資格をすべて否定することで、提供された王国を拒む様子を見ました。
彼らは王の力をベルゼブルに帰し、聖霊に対する罪を犯しました。
この罪は、その時代においても、また将来においても、決して赦されることはありません。
この結果、イスラエルは国家として一時的に中断され、神が永遠の昔から予見していた、これまで宣言されていない新しい秩序が導入されました。
この秩序は、ユダヤ人と異邦人から召し出された一つの体としての教会の奥義の完全な啓示を伴っていましたが、まだ明らかにされるべき時が来ていません。
しかし、その前提として、イエスは世界の創造以来隠されていた新しい奥義、すなわち天の御国の奥義について語られました。
マタイの福音書のこの時点から「天の御国」という用語は、神の御国が最終的に全地に樹立されることを意味するのではなく、王自身が天に帰った後、権力と栄光を帯びて再臨し、王国からすべての罪を根絶し、不義を行う者をすべて滅ぼすまで、隠された、むしろ奥義として現れることの意味として使われるようになりました。
この章では、その概要を説明しています。
これらのたとえ話の中で、主は御自身が拒まれた結果、地上の御国がどのような状態になるかを示されました。
これはすべて神に予知されており、そのための準備も整えられていました。
イスラエルの指導者たちに拒まれたキリストは、十字架上での犠牲的な死によって罪の償いをされました。
「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」
(使徒の働き2章23節)
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
(ヨハネの手紙第一4章10節)
そして、拒まれた人としてこの場を去り、天に昇り、神の右に高く座しておられます。
預言者の王国は、主が約束された再臨の時まで、つまり、倒れたダビデの幕屋を建て直すまで休止状態にあります。
「『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。」
(使徒の働き15章16節)
しかし、主が御自身で不在の間、聖霊は慰め主として新たな方法で来られ、主のしもべたちが罪を悟らせる力をもって御言葉を宣べ伝えることができるようにされています。(ヨハネの手紙第一16章7~11節)
福音が伝えられる所はどこでも、それは御国の種です。
「このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。」
(ルカの福音書8章11節)
その結果、現在の世界には、主イエスこそ地上の然るべき王であると認め、心から主に忠誠を誓う大勢の人々がいます。
さらに、心は主から遠く離れていても、口先だけで主に仕え、外見上は主の権威を自分のものとしている何百万もの人々がいます。
これらが合わさって、奥義としての形態の御国が構成されています。
「イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。」」
(マタイの福音書13章11節)
預言者たちがイスラエルに約束した王国は、選ばれた民が王を受け入れるかどうかにかかっていました。
イスラエルは王を拒んだため、その機会を失い、王国は彼らから奪われました。
「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」
(マタイの福音書21章43節)
イスラエルが主に立ち返るとき、主は栄光のうちに現れ、王国について書かれていることはすべて成就します。
その間、王国の御言葉が宣べ伝えられるにつれ、主イエスの権威を所有していると告白する混合した集まりが現れます。
彼らは奥義としての王国を構成します。
この集まりは教会よりも広い範囲をカバーし、真実に信仰を告白する者と偽りの信仰を告白する者の両方を含みます。
この二つの集まりは世の終わりに分離し、その後、人の子の王国が全地に樹立されます。
7つのたとえ話は次のように分類されます。
1.地上に蒔かれた王国の種とその結果
2.悪魔の模造:小麦の中に混じる毒麦
3.王国は善だけでなく、悪も抱える巨大な世界教会です。
4.偽りの教会が神の民の食物に腐敗した教えのパン種を混入します。
5.イスラエルは神の特別な宝であり、この世で買い取られたが、今の時代には諸国民の間に隠されています。
6.教会は真珠です。
そのために主が御自身が貧しくなられました。
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
(コリント人への手紙第二8章9節)
7.世の終わりに起きている物事の状態
この概要を念頭に置き、それぞれのたとえ話を個別に考えてみましょう。
この一連のたとえ話は、海辺の野外で語られた4つのたとえ話と、家に入った弟子たちにのみ語られた3つのたとえ話に分かれていることに注目してください。
「その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。
すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。
イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
耳のある者は聞きなさい。」」
(マタイの福音書13章1~9節)
この七部構成の最初のたとえ話は、他の六つとは異なり、神の御国のたとえ話として語られているわけではありません。
しかし、主が弟子たちにこのたとえ話を説明した時に、天の御国の奥義を知ることが彼らに与えられたと述べられました。
このように、御言葉を蒔くことと、神の御国が隠された、奥義としての形で世界中に広まっていくことを明確に結び付けています。
1節における主の行動、「家を出て、湖のほとりにすわって」とは、たとえ話の一部のようです。
それ自体が、私たちがすでに示しているようにイスラエルとの決別を示していると思われます。
しかし、群衆はイエスの周りに集まり、水辺に押し寄せました。
イエスは船に乗り込みました。
おそらく、ペテロの漁船だと思われます。
かつて、ルカはこの船が使われていたと記しています。
「イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。」
(ルカの福音書5章3節)
イエスは舟を説教壇として、岸辺に立つ群集に語りかけました。
この地の丘は岸辺から緩やかに盛り上がっており、自然の野外アリーナ、あるいは劇場のような役割を果たしました。
岸辺に立つ大勢の人々や丘の中腹に座る大勢の人々にも、イエスの声が簡単に届きました。
「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。」
最初の種をまく人とは主御自身のことです。
主は各地を巡り、神の御言葉の種を蒔かれました。
尊い説教者御自身が御言葉を説いておられた時でさえ、蒔かれた御言葉によって心に実を結んだ人は4人に1人しかいなかったという事実は、同じ祝福された働きに携わるすべての人々にとって励みとなります。
当時でさえ、実を結ぶ量には個人差がありました。
マタイの福音書13章4~7節には、種が落ちた実りのない土、踏み荒らされた道端、撒かれたのとほぼ同時に空の鳥が種を食い尽くした様子が記されています。
そして、最初は実りがありそうに見えた石だらけの土に落ちました。
種は根を張り、緑の芽が出てきたものの、種を蒔いた者の失望をよそに、太陽に干からびてしまいました。
他の種はいばらの中に落ち、すぐに若い芽を窒息させ、全く実を結びません。
良い地に落ちたものは根を張り、芽を出し、実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びました。
これがたとえ話です。
主はその時、何の適用も示さず、聞く人々に御言葉の真偽を問わせました。
「耳のある者は聞きなさい。」
機会が訪れ、群衆が去ると、弟子たちはイエスのもとに来て、たとえ話の説明を求めました。
イエスは彼らに説明を与えました。
「すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」
イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。
こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。
それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。
ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」」
(マタイの福音書13章10~23節)
主を信頼し、御言葉を大切にする人々に対して、主は彼らが理解しにくいと思えることでも、いつでも喜んで説明してくださいました。
「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか」という質問に対し、イエスは即座にこのように答えました。
「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。」
ここで使われている「奥義」という言葉は、必ずしも神秘的で理解しにくいという意味ではなく、むしろ信者にのみ明かされる秘密という意味です。
主は、真理を求める人々を、いつでも喜んで信頼してくださいます。
イエスは二つの目的のためにたとえ話を用いています。
一つは、聞き手が本当に神のみこころを知りたいと願っているかどうかを試し、もう一つは、御自身の説教を教えるためです。
既に人々が信仰を持ち、ある程度までイエスの証を受け入れている場合には、イエスはさらに多くを与える用意があります。
しかし、イエスのメッセージに真実に確信が持てない人には、たとえ話による教えは、簡単な言葉で語られた場合よりも、人々を当惑させるものでした。
ある人たちは、このことについて屁理屈をこねています。
それは、主イエスの側に、主の言葉に耳を傾ける人々の目をくらませ、耳をふさごうとする意図があることを示しているからです。
しかし、実際には完全に逆でした。
真理を知りたいと切望する者は、弟子たちのように、理解できない事柄について説明を求めてイエスのもとに来ています。
一方、訓練を受けず無関心な者は、イエスのたとえ話の意味を理解できず、不注意にも背を向け、ますます無関心になっていきました。
イエスは、まさにこの方法が預言されていたイザヤの預言を引用しました。
「すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。
自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」」
(イザヤ書6章9、10節)
神は誰かの心を固くしたり、真理から目を閉ざしたりすることを決して望んでおられません。
しかし、真理は人を和らげるか、あるいはかたくなになるのどちらかであるという原則は、神の御言葉全体にわたって貫かれています。
ロウを柔らかくする太陽が粘土を固めるのと同じように、正直な心を打ち砕き、悔い改めに導く福音のメッセージは、不正直な者の心を固くし、彼らを不従順の道へと導いてしまいます。
イエスは使徒たちに祝福を宣言しました。
彼らは見る目と聞く耳を持っていたからです。
彼らは特別な特権を持っていました。
何世紀にもわたって、多くの預言者や義人たちは信仰をもってメシアの到来を待ち望み、その時代イエスの弟子たちが見ているものを望み、イエスが与えていた教えを聞きたいと切望してきましたが、彼らはそれを得られていません。
主はそれからたとえ話を説明されました。
「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。」
これは、道端にまかれた種が空の鳥に食い尽くされるたとえの説明です。
このメッセージが「御国のことば」と明確に呼ばれていることに注目してください。
これは、御国が世界に広まるのは、御言葉を蒔くことによることを示しています。
サタンとその使者たちは、福音の宣教の効果を無効にしようと躍起になっています。
サタンの邪悪な目的は、聞き手の心と霊を偏見と不当な反対で満たし、説教者の口から発せられるメッセージを公正に評価させないようにすることです。
ここには、いかなる好意的な反応も生まれません。
外側にある耳だけで聞いた御言葉は、すぐに忘れ去られてしまいます。
このような完全に無関心な人々とは鮮やかに対照的に、次に挙げる「岩地の聞き手」たちについて考えてみましょう。
彼らは、福音の宣言とその明快さに耳を傾けるためなら、どんな宗教的宣伝にも飛びつく、熱狂的な人々です。
彼らは深い確信や悔い改めの証しを持たずに、ただ福音を信じていると告白し、表面上は喜んで受け入れているように見えますが、実際には根が無く、空虚な告白に過ぎないため、すぐに堕落してしまいます。
特に、キリスト教の生き方が苦難と迫害を伴うことを知った時、彼らはその傾向が顕著になります。
岩地の聞き手とは、一見するとメッセージを受け入れているように見えるものの、キリストへの信仰の代価を真実に考えたことがない人たちです。
彼らは片目ではなく、二心を持ち、この世の煩いに心を奪われ、富を追い求めています。
こうしたことに伴う世的な責任は御言葉を窒息させ、実を結ぶことはできません。
これらすべてとは対照的に、確信というすきによって土壌が整えられた「良い地の聞き手」がいます。
正直な心に落ちた御言葉は信仰によって受け入れられ、聖霊が心を開くにつれてメッセージが理解されます。
その結果、たましいは新しく生まれ変わり、人生は神のために実り豊かになります。
しかし、実りの豊かさには程度があります。
すべての人がキリストへの献身と真理への理解において同じ証拠を示すわけではありません。
ですから主は、ある人は百倍、ある人は六十倍、ある人は三十倍しか実を結ばない人々について語っておられます。
2番目のたとえ話は、明らかに天の御国を象徴するものです。
すでに指摘した点が、ここではとても明白になっています。
天の御国は天そのものではなく、マタイの福音書のこの部分で用いられているように、全世界がイエスを王として服従する、私たちの神とそのキリストの来るべき栄光の王国と混同されるべきありません。
これは、現代が最初からキリスト教世界に蔓延している、物事の複雑な状態を物語っています。
悪魔の子である毒麦が、神の子である小麦と混ざり合っています。
「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。
それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。
収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」」
(マタイの福音書13章24~30節)
このたとえ話も、この章の先で説明されています。
ここで注目すべきは、主が信仰を告白する者と真実な信者が共存する状況を描写しているということです。
両者の大きな違いは、本物は実を結ぶのに対し、そうでない者は実を結ばず、むしろ有益であるどころか害さえ及ぼすということです。
毒麦自体も、食べるのに良いものではなく、実際には毒です。
「彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った」とイエスは言われます。
その敵とは、私たちが知っている悪魔です。
しかし、家の主人のしもべたちが来て、毒麦を抜いてもいいかと尋ねたところ、答えは「だめ」でした。
収穫の時になって初めて、大きな分離が起こります。
3番目のたとえ話は、からし種のたとえ話です。
「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、
どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」」
(マタイの福音書13章31、32節)
主の言葉から、からし種は植物界全体の中で最も小さな種であり、庭の野菜の中で最も小さい種である、と理解すべきではありません。
しかし、成長するとすべての野菜の中で最も大きくなり、他のすべてのものよりも高くそびえ立ち、隠れ場所となります。
このたとえ話は記録に残っている限り説明されていませんが、他の聖書箇所に照らし合わせると理解しやすくなります。
このたとえ話は、天の御国が強大な世界大国へと発展していく様子を語っています。
そのような支配は、バビロン(ダニエル書4章)、アッシリア(エゼキエル書31章3節)、その他同じ様な勢力のように、しばしば枝の広がる大木にたとえられました。
この場所は小麦畑から始まりましたが、何世紀にもわたってからしの木へと成長したのです。
神の教会を信仰を告白する教会は諸国民の間で侮れない勢力となりました。
しかし、その枝はさまざまな種類の偽りの信仰告白者や邪悪な教師たちを隠れ家として保護されてきました。
空の鳥は悪の軍勢を象徴し、それらはからしの木の枝に宿ります。
これは、偽りの教会が世界を支配していたかに見えた何世紀にもわたるキリスト教世界の変遷を鮮明に表しています。
主は海辺に座っておられたとき、もう一つのたとえ話を語られました。
それは、粉の中に隠されたパン種のたとえ話です。
主の教えの中で、これほど誤解されているものはないと思います。
「イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。
女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」
(マタイの福音書13章33節)
クリスチャンの間ではここでの女は教会を、三サトンの粉は世界を、パン種は福音を象徴し、その結果、やがて全世界が回心すると考えられています。
これほど神の御言葉の教えに反する考えはありません。
福音が宣べ伝えられて20世紀近く経った現在でも、キリストが使徒たちに諸国民への伝道の任務を与えた当時よりも、多くの不信者が世界に存在していることは深刻な事実です。
聖書のどこにも、主イエス・キリストの再臨前に回心した世界が見られると期待できる根拠はありません。
このたとえ話を理解するには、パン種の意味を探る必要があります。
神の御言葉全体を通して、パン種は常に悪い意味で使われています。
昔、イスラエルの人々は過越しの祭の期間中、家からすべてのパン種を取り除かれました。
使徒パウロはこれを次のように説明しています。
「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。
あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」
(コリント人への手紙第一5章7、8節)
つまり、パン種は悪意と邪悪を意味し、クリスチャンはこれらを生活から排斥しなければなりません。
主イエスは弟子たちに、偽善と自己義認であるパリサイ人のパン種、偽りの教義と物質主義であるサドカイ人のパン種、そして世俗主義と政治的腐敗であるヘロデのパン種に用心するように警告されました。
レビ記(2章)には、パン種を入れてはならない穀物の供え物が記されています。
これは、主イエス・キリストの、罪を完全に犯さなかった人間性を表しています。
このたとえ話では、女が穀物の供え物の中にこっそりとパン種を隠しています。
三サトンの小麦粉は、世界を表すのではなく、むしろ神の御子に関する神の真理を表しています。
この女は教会そのものではなく、偽りの教会、つまりヨハネの黙示録2章20節に出てくるイゼベルという女です。
彼女は自分の事を女預言者と称し、神のしもべたちに信仰を覆す不聖な教えを教えています。
まさにこれこそ、過去約2000年にわたる教会史において起こってきたことなのです。
「不法の奥義」は使徒時代に始まり、何世紀にもわたって広がり、今日では偽教師によって歪められていない聖書の教理は何も存在しないと言えるほどです。
この4番目のたとえ話をもって、主はその時代の公の宣教とでも呼べるものを終えられました。
詩篇78篇2節で預言的に宣言されていた通り、主は神がそれまで隠しておかれた奥義を明らかにしました。
「イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。
それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。
「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」」
(マタイの福音書13章34、35節)
イエスは戸外の集まりを解散させ、弟子たちを従えて家の中に入りました。
この人里離れた場所で、イエスはさらに三つのたとえ話を語り、小麦と毒麦のたとえ話を説明されました。
「それから、イエスは群衆と別れて家にはいられた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください。」と言った。
イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。
畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、
火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」
(マタイの福音書13章36~43節)
使徒たちは再びイエスのもとにおもむき、さらなる説明を求めました。
使徒たちは畑の毒麦について尋ねました。
イエスは、御自身が良い種を蒔く方であり、畑とは世界であると説明されました。
この言葉を覚えておくことは、後に続く事柄を考えるときに重要です。
畑とは教会ではなく、教会が最終的に集められる世界です。
「良い種を蒔く者は人の子です。
畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです」とイエスは言われました。
ここに種蒔きの結果が示されています。
福音のメッセージを信じる者は小麦であり、サタンの教えを受け入れる者は毒麦です。
なぜなら、悪い種を蒔いた敵は悪魔だからです。
神のしもべが良い種を蒔いたところには、悪魔は常に毒麦を蒔き続けてきました。
しかし、キリストのしもべたちがこの時代に毒麦を滅ぼそうとすることはすべきことではありません。
私たちの理解力はあまりにも限られているからです。
ローマが犯した致命的な過ちを、私たちは犯してしまうかもしれません。
世の終わりに、主が念頭に置いておられるのは世界の終わりではなく、今の世の終わりです。
「人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、
火の燃える炉に投げ込みます。」
人の子が御使いたちを遣わすことに注目してください。
ここに、神の御子であることを示す、確かな証拠があります。
主は、神の御子であり、人の子でもある、祝福された、愛すべきお方なのです。
御使いたちは主のものであり、主の命令に従います。
それから、世の終わりまで続く王国に広がる混沌とした状態を観察してください。
御使いたちは、問題の原因となる者、すべてを神の御国から集めます。
世の終わりまで、偽りの信仰告白者たちが真の信仰告白者たちと混ざり合います。
「そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」
その日に主は御自身の民を集める王国の天側にいます。
再び、「耳のある者は聞きなさい」という挑戦が繰り返されます。
主が家の中で語られた三つのたとえ話を結び付けてください。
「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。
また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」
(マタイの福音書13章44~50節)
5番目のたとえ話における宝とは、キリストを探し求めている罪人ではなく、祝福された主御自身です。
キリストは天から地上に来られ、御自身にとって計り知れない価値を持つもの、すなわち御自身の民イスラエルを見つけ祝福されました。
イスラエルを御自身のもとに贖うために、主は十字架上で死なれましたが、彼らはまだ主を王として受け入れる準備ができていません。
そのため、宝は畑に隠され、主が再び来られるまで隠されたままです。
旧約より、イスラエルは神の特別な宝として認められていました。
「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」
(出エジプト記19章5節)
主は、この宝を見つけて隠した人によって表現されています。
カルバリの丘で、主はご自分の持ち物をすべて売り払い、畑、すなわち世界を買い取られました。
「畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。」
(マタイの福音書13章38節)
現在、宝は隠されたままです。
イスラエルが主に立ち返るとき、彼らはヤハウェの特別な宝として現れ、彼らを通してすべての異邦人に祝福がもたらされます。
「「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――
わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」
(マラキ書3章17節)
「天の御国」は次に「良い真珠を捜している商人にたとえられます。」
ここでも探し求めるのはキリストであり、キリストは栄光の御座からこの哀れな世にやって来て、永遠に冠を飾る宝石を探し求めました。
「すばらしい値うちの真珠」
これは教会です。
イエスの目に最も価値のあるものであり、イエスはそのために御自身をささげられました。
十字架において、イエスは「行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」
そこでイエスは文字通り貧しくなり、教会を御自身の選び抜いた真珠として買い取られました。
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のために御自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」
(エペソ人への手紙5章25節)
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
(コリント人への手紙第二8章9節)
多くの人は救いを真珠、罪人を商人にたとえますが、それは福音のメッセージを完全に逆転させています。
「天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。」
これは文字通り地引き網のことです。
これは、救われた者も失われた者も含め、膨大な数の人々が諸国の水から集められます。
「御使いはまた私に言った。「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です。」
(ヨハネの黙示録17章15節)
キリストへの信仰を告白する人々の中に数えられており、信仰を告白する教会の現在の働きを象徴しています。
「良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。」
引き網がいっぱいになると岸に引き上げられ、良い魚と悪い魚が分けられます。
「この世の終わりにもそのようになります。」
ここで見られているのは世の終わりではなく、現在の恵みの時代の完成であり、神の御国の時代が完全に現れる直前のことです。
「彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」
最後の表現は、裁きが必ずしも悔い改めをもたらすわけではないことを示しています。
最終的な分離が行われるとき、偽りの信仰告白者たちは裁きによって捨てられます。
その結果、彼らは苦しみのために嘆き、神とそのキリストに対する憎しみのために歯ぎしりをします。
「私の回りの、あざけり、ののしる者どもは私に向かって歯ぎしりした。」
(詩篇35篇16節)
「あなたの敵はみな、あなたに向かって大きく口を開いて、あざけり、歯ぎしりして言う。
「われわれはこれを滅ぼした。ああ、これこそ、われわれの待ち望んでいた日。われわれはこれに巡り会い、じかに見た。」と。」
(哀歌2章16節)
これらの驚くべき光景は現代全体を対象とし、患難時代にまで及びます。
また、イエスは、主の再臨での成就を見て、実際に弟子たちにこれらのことをどれほど理解しているのかを尋ねました。
「あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい。」とイエスに言った。
そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」
これらのたとえを話し終えると、イエスはそこを去られた。」
(マタイの福音書13章51~53節)
彼らはこれらのことを理解したと宣言しましたが、実際にはわずかにしか理解していないことは明らかです。
しかし、彼らの心と霊には、後世に築き上げていくための土台が築かれていました。
そこで主は彼らを、天の御国について教えられた律法学者にたとえられました。
彼らは後の世において、自分たちの宝物から新しいものも古いものも取り出すことができます。
こうしてイエスは、その特別な宣教期間を終え、ナザレに戻りました。
「それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。
すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。
この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。
妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」
こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」
そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。」
(マタイの福音書13章54~58節)
「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。」
イエスの故郷、つまりルカが記すナザレの町でさえ(ルカの福音書4章16~24節)、御国のメッセージに応答する者はほとんどいません。
彼らはイエスの教えを聞き、奇跡を目にして驚きましたが、イエスがメシアであることは認識できていません。
「この人は大工の息子ではありませんか。」
答えは、いいえです。
彼は神の永遠の子であり、処女から生まれましたが、ヨセフの養育を受けて、ヨセフから大工の仕事を学びました。
「いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」
彼らは率直に言って困惑しました。
イエスは町の他の人々とは完全に異なっていました。
イエスの知恵と力は、単なる人間的な観点からは説明できないものでした。
学問的な訓練を受けていなかったにもかかわらず、イエスは律法学者よりも深遠な存在でした。
「こうして、彼らはイエスにつまずいた」
つまり、彼らはイエスの卑しさにつまずき、イエスが、彼らがイエスを単なる職人として知っていた過去の日々の親しみゆえに、イエスが神の代弁者であるという事実に対して目をくらませていたことが示されたときに、つまずきました。
「イエスは、彼らの不信仰のゆえに。」
主御自身も、人の不信仰によって窮地に立たされています。
「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、」
(エペソ人への手紙3章20節)
主がこのような方であっても、心の冷たい反対や不信仰によって、御業が妨げられることがあります。
主の生涯におけるこの章が明確に示している一つの偉大な真理は、不信仰も、信仰も、知的な困難や、論理的議論に依存するものではないということです。
両者の鍵は良心の状態にあります。
自分が正しいと知っていることに反することを決意する人は、不信仰にとどまり、主イエス・キリストの権威に従うことを拒みます。
罪を悔い改め、誠実にそこからの解放を求めるなら、神が御子について与えてくださった証しを信じることに何の困難も感じません。
「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。」
(ヨハネの手紙第一5章11節)
もし聖書を信じることに知的な困難を感じると告白する人がいるなら、それは聖書が宣言する罪の中に生きており、そこから解放されることを望まず、それでもなお罪の中に生き続けることを決意しているからです。
このことを反論を恐れることなく自信を持って言えます。
裁かれていない罪は、神の証しに対する信仰の欠如が原因です。
この章の学びを終えるにあたり、既に述べた考えを改めて述べることは良いことです。
まず、神の御国と天の御国の違いに注目しましょう。
神の御国は万物を支配する(詩篇103篇19節、詩篇22篇28節)と教えられており、時代を超えて存続する(ダニエル書4章3節)とされています。
これは新約聖書では「神の御国」と呼ばれています。
この表現は古い啓示には見当たりません。
時代によって様々な形をとります。
現代においては、マタイの福音書においてのみ「天の御国」と呼ばれています。
王は人々に拒まれ、天に戻り、そこから地上の聖徒たちを導きます。
聖徒たちは神の御国の言葉を広めます。
このように人類の大群が、少なくとも外面的には、彼を地上の然るべき王として認めるようになります。
王が再臨されるとき、彼は御国から現実を見ない者すべてを集めます。
本者たちは、人の子の御国の天の領域でも、地の領域でも、その役割を果たすことになります。
これが千年王国における神の御国の様相となります。
人々はしばしば「王国を築く」と言います。
これはよく使われる表現ですが、聖書には決して見当たりません。
私たちはすべての被造物に福音を宣べ伝える使命を負っており、人々がそのメッセージを信じる時、彼らはキリストのからだである教会の一員となります。
このように、彼らは天の御国にも属しますが、私たちの主な目的は、彼らがイエスを救い主であり主であると認識するように導くことです。
新しい誕生を経なければ、誰も現実に神の御国に入ることはできません。
しかし、不在の王への忠誠を告白しながらも、心を神に捧げていない人が多くいます。
彼らは神の御国の領域内にいるものの、実際には神の御国に属していません。
私たちの信仰と告白が真実であることを確信すべきです。
マタイの福音書14章
このセクションの最初の部分は、バプテスマのヨハネの殉教の悲しい物語に充てられていますが、この章の残りの部分は、主イエスの自然に対する力を証明する 2 つの奇跡、すなわち、パンを増やしたこと、そして水の上を歩いて自然を制御したことについて語っています。
ヘロデは当初、バプテスマのヨハネと、彼が天の御国が近いことを宣べ伝えたことにいくらか関心を抱いていました。
しかし、この勇敢な砂漠の説教者によって自分たちの悪行が告発されると憤慨し、彼を牢獄に閉じ込め、最終的には裁判で殺害することで黙らせようとしました。
イエスの名声を耳にしたヘロデは、良心の呵責にさいなまれ、イエスは死からよみがえったヨハネに違いないと考えました。
しかし、自責の念や、自分たちの恐ろしい罪を告白する様子はありません。
イエスは驚くべき宣教活動を続け、至る所で驚くべきしるしによってイエスが救世主であることが証明されました。
これは、真理を誠実に求める者なら誰でも、イエスが自分から告白した通りの存在であることを確信したに違いありません。
しかし、宗教指導者たちは冷淡に距離を置いたり、神の前にへりくだろうとせずに、積極的に反対しました。
そして、イエスの教えを喜びをもって聞き、その恵み深い働きによって祝福を受けたのは、「群れの中の貧しい者たち」でした。
「その日、それは破られた。そのとき、私を見守っていた羊の商人たちは、それが主のことばであったことを知った。」
(ゼカリヤ書11章11節)
彼らはイスラエルの神が、油そそがれた者を彼らの中に遣わしてくださったことを賛美しました。
「そのころ、国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、
侍従たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」
実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、牢に入れたのであった。
それは、ヨハネが彼に、「あなたが彼女をめとるのは不法です。」と言い張ったからである。
ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである。
たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。
それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。
ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」
王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。
彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。
そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。
それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。
イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。
イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。」
(マタイの福音書14章1~14節)
「そのころ、国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて」
このヘロデは先祖たちと同じく堕落した悪の化け物であり、実の兄弟の合法的な妻と平気で姦淫を犯していました。
この卑劣で放縦な支配者の耳に、イエスの奇跡を行う力の知らせが届き、彼は恐怖に満たされました。
「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。」 不道徳な人間の多くと同じように迷信深いヘロデは、自分が不当な死に引き渡した荒野の厳格な預言者が墓からよみがえったに違いないと考えました。
「ヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、牢に入れたのであった。」
ヨハネの死の直接の原因は、邪悪な女でした。
彼女の罪の重大さを公然と非難した男に対する彼女の憎しみは、告発者を処刑することによってのみ満たされました。
「あなたが彼女をめとるのは不法です。」
ヨハネがヘロデの邪悪さをこのように指摘するには勇気が必要です。
ナタンのように、ヨハネは王の罪を痛烈に指摘しました。
しかし、その過程で命を失いました。
ヘロデはダビデとは異なり、自分たちの罪を悔い改めることを拒みました。
「ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。」
(サムエル記第二12章7節)
「ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである。」 ヘロデはヨハネの忠実さゆえに、ためらうことなく彼を直ちに処刑するつもりでした。
しかし、ヨハネを昔の預言者の後継者とみなしていた民衆の敵意を買うことを恐れました。
そのため、ヘロデはヨハネを直ちに処刑する代わりに、牢獄に閉じ込めました。
ヘロデの誕生日が祝われたとき、悪名高きヘロデヤの恥知らずな娘が王と侍臣たちの前に現れ、明らかに淫らな踊りを披露して彼らを喜ばせました。
老暴君はこれに大いに喜び、踊り子が求めるものは何でも与えると誓った。
邪悪な母と相談した後、彼女は大胆にも王の前に進み出て、バプテスマのヨハネの首を大皿に載せて差し出すよう要求しました。
ヘロデは腐敗していたとはいえ、ヨハネが死に値するようなことは何もしていないと悟り、当初の怒りもこの頃にはいくらか静まっていたに違いないと考え、後悔しました。
しかし、ヘロデは娘の願いを聞き入れると誓い、しかも廷臣たちの前でそれを宣言した以上、自分の愚かさを認める勇気はありません。
そこで、ヘロデはヨハネの首を切るよう命じました。
処刑が執行されたことを示す残酷な証拠は、大きな皿に載せられて運ばれ、乙女に渡され、乙女はそれを母親に差し出したと伝えられています。
ヘロデヤが、敵とみなしていた男の生首を見て、どれほどほくそ笑んだかは想像に難くありません。
なぜなら、ヘロデは大胆にも真実を告げ、後に神に言い開きをしなければならない汚名をヘロデヤに負わせたからです。
神を畏れない二人の支配者の近親相姦は、世間のスキャンダルとなりました。
「あなたが彼女をめとるのは不法です」と断言するには、バプテスマのヨハネのような大胆さが必要です。
ヨハネは忠実さゆえに殉教しましたが、その報いは確かなものでした。
ヘロデはますます悪に堕ち、自分たちの悪徳の惨めな犠牲者となって罪の中で死にました。
ヘロデヤは、虚栄心が強く、強情で、汚れた女でしたが、彼女が生きてきたように、最後まで悔い改めず、邪悪なまま死にました。
この二人は、不純な行いに手を出そうとするすべての人々への警告として際立っています。
ヨハネの死後、イエスはヘロデの領地を巡回せず、ピリポの領地に留まりました。
ヨハネの弟子たちにとって、これはまさに悲痛な出来事でした。
彼らは師の遺体を担ぎ上げ、敬虔に埋葬しました。
そして、「そして、イエスのところに行って報告した」と記されています。
この最後の言葉には、非常に尊いものがあります。
彼らは苦悩を抱え、イエスの深い理解と愛ある同情を確信して、イエスのもとへ行きました。
主はヨハネの死を聞き、船に乗り、人里離れた荒野へ行かれたと伝えられています。
湖の北端にある様々な町々から、大勢の群衆が主に従いました。
主イエスは彼らを見て、深く憐れまれ、病人を癒すことで王としての力を現されました。
「夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。
ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」
しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」
すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」
そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。
食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。」
(マタイの福音書14章15~21節)
これは四福音書全てに記されている主が十字架刑の前に行われた唯一の奇跡です。
神が私たちに学ばせようとされた特別な教訓が、この奇跡の中にあることは明らかです。
飢えた群衆、困惑する弟子たち、そしてキリストの恵みが鮮やかに描かれています。
詩篇132篇15節では、メシアが御霊によって行われた奇跡がこのように語られておられます。
「わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。」
(詩篇132篇15節)
そこで、神に油を注がれた方は五つのパンと二匹の魚を取り、それを増やし、女子供を含めて五千人の人々に豊かな食料を与えました。
夕方が近づくと、弟子たちがイエスのもとに来て、村に行ってめいめいで食物を買うように、暗くなる前に群衆を解散させて欲しいと願った彼らの心配の気持ちがよく分かります。
しかし、主はそのように考えておられません。
主はこのように言われました。
「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
十二使徒にとって、これは実に驚くべき使命でした。
これほど多くの人々に何かを食べさせることはできません。
辺りを見回した後、彼らはパン五つと魚二匹しか見つからなかったと説明されています。
別の箇所には、これらは少年が昼食として持ってきたものだと記されています。
イエスは「それを、ここに持って来なさい」と言われました。
わずかな食料を手にされると、イエスは群衆に草の上に座るように命じ、天を仰いで食物を祝福し、裂きました。
それから弟子たちに分け与え、弟子たちはそれを群衆に配りました。
皆は満腹になりました。
食事の後、十二のかごにパンの切れ端が残りました。
他の使徒たちが皆望んだものを食べた後、一人一人に一つのかごが与えられたと言えるかも知れません。
しかし、それは主イエスが絶えず行っておられることの単なる描写にすぎません。
なぜなら、地上のすべてのトウモロコシ畑に蒔かれた種を増やし、その結果、地面に蒔かれた少量の穀物で、食物としてパンに頼っている群衆を満足させるほどの豊かさが備えられるのは、主イエスだからです。
次の奇跡は、前の章で主が嵐を静めた記録とは少し異なる方法で、自然現象に対する主の力を示しています。
「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。」
(マタイの福音書14章22~33節)
これは美しいディスペンセーション的な描写です。
22節には、イエスが群衆を解散させる間、弟子たちを船に乗せ、先に湖の向こう岸へ向かわせた様子が記されています。
イエスの直接の臨席なしに船に乗った弟子たちは、ディスペンセーション的に、主イエスの死と復活の後に神の教会がどのような状況に置かれるかを示しています。
肉体を持っていた時代に弟子たちと共にいたイエスは、もはや彼らの間にはっきりと姿を現すことはありません。
彼らはまるで地上の状況という荒波を、救い主を再び見る時を待ち望みながら、独りで進んでいくようにされたのです。
イエスは御自身で山に登って祈りを捧げました。
これは、イエスが御自身の民のために現在も奉仕しておられることを示しています。
イエスは、私たちのために執り成しをするために、いつも住まわれる高い所に上ってこられました。
主が山頂で祈っておられる間、船に乗っていた人々は本当に困っていました。
彼らの小さな船は激しい嵐に見舞われ、波に翻弄され、乗員の目には難破しそうだったからです。
主が天の御父の御前で奉仕しておられる間、神の民は幾度となくそのような状況に置かれてきました。
神の愛する民はしばしば見捨てられ、忘れ去られたと感じてきましたが、主は常に彼らに目を留めておられました。
夜中の四時、まだ暗く、向かい風が吹いていた時、イエスは高所から見下ろし、苦難に陥る人々を御覧になりました。
驚いたことに、イエスは海の上を歩いて来られ、必要な助けを与えられました。
彼らはイエスを見て、慰められるどころか、むしろ不安に駆られ、恐怖のあまり「幽霊」だと叫びました。
しかし、その驚きの叫びに応えて、彼らがよく知っていた声、イエス御自身の声が聞こえました。
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」
常に衝動的でありながらも主に忠実なペテロは「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」と叫びました。
イエスはそれに応えて、「来なさい」と言われました。
一瞬の躊躇もなくペテロは船の側から降りて行きました。
そして、目の前にいるキリスト以外の何かを考えていたとすれば、ペテロ自身も驚いたことに、まるで地面の上を歩いているかのように、実際に水の上を歩いていることに気づきました。
イエスに目を留めている間はすべて順調でしたが、振り返って荒波を見ると、恐怖が彼の心を満たし、すぐに沈み始めました。
水が彼の上に押し寄せると、彼は「主よ。助けてください」と叫びました。 「そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
ペテロが覚えておくべきだったのは、主御自身の力に支えられなければ、穏やかな水面も荒波の上も歩くことができないということです。
そして、その力は嵐の中でも凪の中でも同じように偉大であるということです。
イエスとペテロが小舟に乗ると、たちまち風は止みました。
弟子たちはこのような全能の力の現れを目撃し、皆主の前にひれ伏して礼拝し「確かにあなたは神の子です」と言いました。
「彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着いた。
すると、その地の人々は、イエスと気がついて、付近の地域にくまなく知らせ、病人という病人をみな、みもとに連れて来た。
そして、せめて彼らに、着物のふさにでもさわらせてやってくださいと、イエスにお願いした。そして、さわった人々はみな、いやされた。」
(マタイの福音書14章34~36節)
イエスの証しと御業は、ゲネサレの人々にイエスの恵みと、彼らを苦しい病から救う力を与え、その力に感銘を与えたことは明らかです。
人々は周辺地域から、病人をイエスの足元に横たえるためにやって来ました。
先ほども述べた貧しい女性のように、彼らは、苦しむ人々がイエスの衣の裾に触れるだけで癒されることを信じていました。
それはまさに真実であり、イエスの衣に触れた者は皆、完全に癒されたと記されています。
着物のふさは、イエスが神の聖なる方、天の御方であり、人類の救済のために地上に降りてこられたことを表わしています。
イエスに触れることは、命と健康を意味しています。
マタイの福音書15章
次に、王が、主として御自身の主張と、主が告げられた王国に反対する多くの人々を叱責した箇所が記されています。
真理を心を開き、主を約束のメシアとして喜んで受け入れた残りの者たちもいました。
しかし、多くの人々にとって、この静かで謙虚なナザレの人の中に、ユダヤ民族をローマのくびきから解放し、ダビデとソロモンの時代のように再び偉大な民としてくれる偉大な世界の支配者への期待に応えるものを見出すことは困難でした。
彼らの王国に関する概念は完全に肉的なものでした。
なぜなら、彼らは霊的な実体を全く知らない単なる生まれつきの人間だったからです。
その結果、彼らは、回復されたイスラエルに関する預言が成就する前に、国民が悔い改め、個人としても集まりとしても神のもとに立ち返らなければならないことを理解していません。
「そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。
「あなたの弟子たちは、なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。
神は『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言われたのです。
それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、
その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。
偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言していますが、まさにそのとおりです。
『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」
イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」
(マタイの福音書15章1~11節)
批判者たちが提起した疑問は、正統派ユダヤ教徒が食事の前に必ず行うべき、ある種の儀式的な手のバプテスマに関するものでした。
これは、食卓に着く前に汚れを落とすために単に手を清めるという以上の意味を持ち、非常に長い儀式を伴うものです。
そこでパリサイ人たちは「あなたの弟子たちは、なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか」と問いかけました。
つまり、彼らは彼らの規則を無視していたのです。
よくあるように、主は彼らに直接質問することで答えられました。
「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。」
そして、律法の「父と母を敬え」で始まる戒めと、出エジプト記21章17節にある、父母を呪う者に関する律法の裁きを引用されました。
「自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。」
(出エジプト記21章17節)
彼らは神の御言葉を尊ぶと告白しながらも、自分たちの伝統の一つによって実際には神の御言葉を完全に無力なものにしていました。
つまり、人が自分の財産をヤハウェに捧げる際、「これはコルバンです」、つまり「贈り物です」と言えば、両親の必要を無視し、両親を支える責任を一切負わないことが可能になったのです。
こうして両親は財産に対する権利を一切持たず、むしろ不名誉とされ、神の戒めは無効にされてしまったのです。
預言者イザヤはこのように語っています。
「そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。
彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。」
(イザヤ書29章13節)
つまり、ヤハウェへの信仰を大々的に告白し心はわたしから遠く離れているのです。
彼らは心から神に忠誠を誓いません。
彼らが神に捧げると告白していた礼拝は、空虚で形式的なものです。
神の御言葉に従う代わりに、彼らは人の戒めを代わりに用いたのです。
イエスはパリサイ人から、周りに集まっていた群衆へと目を向け、イエスの欠点を指摘しようとする人々への言葉を聞いていた群衆へと語りかけ、人は食べ物によって汚れてはならないという事実に特に注意を払うように命じました。
口に入る食物が人を汚すのではなく、口から出るものが人を汚すのです。
「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。」
(マタイの福音書12章34節)
汚れた、聖くない言葉は話す人を汚すのであって、単に食事の準備に関する規則を怠ったからではありません。
パリサイ人が主の扱い方に非常に憤慨していたことは明らかです。
しかし、主イエスは真理を決して弱めるのではなく、彼らに感動づけたいと願っていたことをより明確に強調されました。
「そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」
しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。
彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」
そこで、ペテロは、イエスに答えて言った。「私たちに、そのたとえを説明してください。」
イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。
口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。
しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。
悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。
これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」」
(マタイの福音書15章12~20節)
弟子たちにとって、宗教指導者であるパリサイ人たちが主の教えに憤慨したことは、間違いなく大きな失望でした。
彼らは、彼らが誠実な探究者としてやって来て、神の御国を受け入れ、そこに入るよう導かれることを期待していたはずです。
彼らは地域社会において重要な人たちであり、使徒たちの中には、そのような人々がつまずいて背を向けるのを残念に思う者もいたはずです。
しかし、主はこのように答えられました。
「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。」
言い換えれば、心から神とその御言葉に従う者だけが主の弟子として留まるのです。
残りの者は、たとえ最初はどれほど励みになる態度を示しても、やがて背を向けてしまいます。
こうした者たちは、放っておくしかありません。
彼らは邪悪な道を歩み続けることを決意しており、盲人を導く盲人としか考えられません。
彼らの教えを受け入れて従う者たちは、神が彼らを罰する日に、教師たちと共に滅ぼされるのです。
ペテロは、主が汚れについて既に語っておられたことについて疑問を呈しました。
ペテロはユダヤ人としての生まれつきの偏見から、霊的な汚れよりも肉体的な汚れを重視していたはずです。
そこで、彼は主に懇願し「私たちに、そのたとえを説明してください」と言いました。
彼はキリストの言葉を文字通りの意味ではなく、たとえ話としてとらえていました。
イエスはその意味をより明確に、より深く説明し、ペテロの理解不足を優しく叱られました。
イエスは、人のたましいは食べ物によって汚されることはないと指摘されました。
食べ物は体内で消化されますが、人の霊やたましいには影響しません。
一方、心から発せられ、しばしば言葉で表現されるものは、確かに人を汚します。
なぜなら、それらは人の思考の過程に関係しており、ゆえに人の心と霊を汚すからです。
「口から出るものは、心から出て」来るのです。
こうした汚れたものこそが人を汚すのです。
洗っていない手やバプテスマを受けていない手で食べるだけでは、人を汚すことはできません。
このように、主はすべてのものをその源にまでさかのぼっておられます。
箴言にはこのようにあります。
「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。
いのちの泉はこれからわく。」
(箴言4章23節)
「彼は、心のうちでは勘定ずくだから。あなたに、「食え、飲め。」と言っても、その心はあなたとともにない。」
(箴言23章7節)
まず、イエスはパリサイ人とペテロとこの会話を交わしました。
その後、その場を離れ、異邦人の領土の境界まで、この地の北の方へ上って行きました。
そこで、異邦人の娘に注目すべき奇跡が起こりました。
「それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。
「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。」
(マタイの福音書15章21~28節)
ツロとシドンは、その邪悪さと汚れのために神の裁きが既に下された街でした。
しかしながら、元の街とは完全に同じではありませんが、隣接する地域にある程度再建され、再び人が住んでいました。
この地域から、イエスの名声を聞き、娘のひどい状態をイエスが治めてくださると確信していたカナン人の女がやって来ました。
彼女は叫びながら言いました。
「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
彼女自身、そしておそらく他の人々も驚いたことに、イエスは何の返事もしません。
イエスは神の聖なる方だったので、それは失礼な態度ではありません。
そして、彼女に切実に必要な教訓を与えるためでした。
ダビデの子として、イエスはイスラエルに仕え、最終的にはダビデの王座に就いて王として支配するために来られました。
ですから、今のところ異邦人の女はイエスに何の権利もありません。
そのため、イエスは彼女に一言も答えません。
彼女は懇願し続けたので、弟子たちはいらだち、イエスに彼女を追い払うよう願いました
ただイエスはこのように答えました。
「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」
これは、一瞬、貧しく不安な母親にとっては叱責のように聞こえたはずです。
しかし、彼女は絶望して背を向けるのではなく、礼拝者としてイエスの前にひれ伏し、「主よ。私をお助けください」と願いました
イエスはこのように答えました。
「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」
厳しい言葉でしたが、彼女の心の真意を表す言葉でした。
彼女は謙虚さと信仰をもって応え、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と叫びました。
「小犬。」
ここで彼女は小さな犬、子犬という指小辞を用いていました。
彼女が求めたのはそれだけでした。
イエスがイスラエルをこれほど豊かに扱ってくださったのですから、惜しみなく分け与えていただける恵みのパンくずを、少しでも分けていただければと思ったのです。
イエスは、謙遜な心と結びついた自信の表れを見て、心から喜びました。
イエスはすぐに彼女の願いを聞き入れ、「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」と言われました。
すると、彼女の娘はたちまち癒されたと伝えられています。
まさにその瞬間から、悪霊は追い出されました。
「それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこにすわっておられた。
すると、大ぜいの人の群れが、足なえ、不具者、盲人、おしの人、そのほかたくさんの人をみもとに連れて来た。そして、彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをおいやしになった。
それで、群衆は、おしがものを言い、不具者が直り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て、驚いた。そして、彼らはイスラエルの神をあがめた。」
(マタイの福音書15章29~31節)
「山に登って、そこにすわっておられた。」
イエスはカペナウムからガリラヤ北部、イツリア(ヘロデヤの夫ピリポの領土)を巡回した後、ガリラヤ湖の地方に戻り、弟子たちと山に登られました。
「大ぜいの人の群れが、足なえ、不具者、盲人、おしの人、そのほかたくさんの人をみもとに連れて来た。」
イエスが再び自分たちの近くに来られたことを知ると、群衆は道に群がり、イエスが座しておられる山に登り、病人や障害を持つ友人たちを連れてきました。
イエスは恵みをもって彼ら全員に会い、一人一人をいやし、こうして再びメシアとしての権威を示されました。
「心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。
そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」
(イザヤ書35章4~6節)
「彼らはイスラエルの神をあがめた」
田舎の人々は、友人や親族が耳の聞こえない者、足の不自由、盲人、そして様々な病気から救われるのを見て、神が御自身の民を訪れてくださったことを心の中で確信しました。
そして、これらの偉大な御業の中にイスラエルの救い主となる神の資格を認め、神を賛美しました。
罪と罪の影響からの解放の必要性を感じ、切望していた人々こそ、イエスが宣べ伝えた御国の福音を喜びをもって受け入れたのです。
この章の終わりの部分には、主イエスが大勢の人々に、一見するとごくわずかな量の食物を与えた別の出来事が記されています。
前回は女性と子供を除いて5000人でしたが、今回は4000人の男性でした。
「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」
そこで弟子たちは言った。「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手にはいるでしょう。」
すると、イエスは彼らに言われた。「どれぐらいパンがありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」
すると、イエスは群衆に、地面にすわるように命じられた。
それから、七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられた。そして、弟子たちは群衆に配った。
人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、七つのかごにいっぱいあった。
食べた者は、女と子どもを除いて、男四千人であった。
それから、イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダン地方に行かれた。」
(マタイの福音書15章32~39節)
再び、祝福された主が飢えた群衆に同情の心を向けられたことが分かります。
この時、彼らは三日間、主の働きを待ち望んでいましたが、その間に明らかに持ち合わせていた食料をすべて使い果たしていました。
主は「彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなる」ことを好まれません。
以前の経験の後では、弟子たちが「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手にはいるでしょう」と疑問を抱いたのは奇妙に思えます。
主はすでにパンと魚を増やす力を示していました。
ですから、弟子たちはこの時にも同じ力を示すことを期待していたはずです。
しかし、不思議なことに、彼らは主が過去になさったことを忘れていたようです。
「どれぐらいパンがありますか」というイエスの質問に、彼らは答えました。
「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」
イエスは以前と同じように、群衆に地に座るように命じられました。
それから、弟子たちが持っていたわずかな食べ物を手に取り、感謝の祈りを唱え、パンと魚を裂いて弟子たちに分け、群衆に与えさせました。
「人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、七つのかごにいっぱいあった」と記されています。
二つの集まりに食事を与えた記述では、「かご」を表す二つの異なる言葉が使われています。
最初の場面で、主が五千人に食事を与えた箇所で、「かご」と訳されている言葉は、旅の途中で人々が小物を入れる柳細工の旅行籠を意味しています。
ここで使われている言葉は、家庭の食料を買いに出かける人々がよく使っていた、大きな市場用の「かご」を意味しています。
今度は、使徒たち全員におそらく丸一日分の食料を提供できるほどの、砕かれたパンと魚が詰まった大きなかごが7つもありました。
その日、主の恵みにあずかった人が一体何人いたのか、私たちには知る理由もありません。
記録によると、女性と子供を除いて、男性は四千人でした。
後者の人数はそれほど多くなかったかもしれませんが、夫と連れ添った女性や、両親に付き添った子供たちがいたことは間違いありません。
主は群衆を解散させ、船でマガダンの海岸に向かわせました。
そこはマグダラのマリアが住んでいた地域で、彼女の名前の由来にもなっています。
マタイの福音書16章
マタイの福音書において、私たちは今、もう一つの大きな転換点に至ります。
これまで主は天の御国に関する事柄のみを語ってこられました。
今、主は初めて教会について語られます。
しかし、教会は御国から完全に切り離された存在としてではなく、むしろ、主が拒まれて天に昇られた後に教会が担うことになる新たな局面において、御国と結びついた存在として語られます。
ペテロの偉大な告白の中に、私たちは教会が築かれる確かな土台を見ることができます。
地上の御国、むしろ地上に築かれる天の御国は、キリストがダビデの子であるという真理の上に築かれます。
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」
(サムエル記第二7章12、13節)
世界の諸国民は、キリストがアブラハムの子、すなわちすべての民が祝福を受ける子孫であるアブラハムの子であるゆえに、その御国の祝福にあずかります。
「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
(創世記22章18節)
しかし、私たちの主イエス・キリストの教会は、主が生ける神の御子であるという尊い真理の上に築かれます。
ペテロが、生ける石で建てられたこの神聖な建物の礎石であると言うことは、彼自身が第一の手紙2章4~8節で教えている内容を否定することになります。
「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。
そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。」
(ペテロの手紙第一2章4~8節)
パウロもまた、イエス・キリスト御自身以外に土台となるものはないと証言しています。
「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」
(コリント人への手紙第一3章11節)
これは、エペソ人への手紙2章20節で彼が言及している使徒と預言者たちの土台です。
「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエス御自身がその礎石です。」
(エペソ人への手紙2章20節)
これらのことに関して与えられた啓示について考察する前に、この章には注目すべき二つの部分があります。
一つ目は、天からのしるしを求めてやって来たパリサイ人とサドカイ人に対する主の叱責です。
「パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。
しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、
朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。
そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。
悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」
そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。」
(マタイの福音書16章1~4節)
これらのパリサイ人とサドカイ人は、聖書のほとんどすべての教義に関して激しく対立していました。
しかし、神の約束された王である主イエスを意図的に拒むという点では一致していました。
彼らは預言者たちをよく知っていたので、メシアの出現前に起こる特定の兆候が預言者たちに示されていることを知っていました。
そこで彼らはイエスのもとに来ましたが、真理を知りたいという願望は全くなく、ただイエスを試し、誘惑するために、天からのしるしを見せてくださるようにと願いました。
彼らが求めていたのは、メシアの時代が近づいていることを示すしるしでした。
イエスは彼らの不信仰を叱られました。
彼らは天候や気候条件に関する天のしるしを読み取ることはできますが、時代のしるしを見分けることは全くできません。
もし、彼らの目が開かれていたなら、イエスのすべての奇跡的な御業は、それ自体が来たるべき時代のしるしであり、王の臨在を告げていることに気がつくはずなのです
メシアは彼らの中にいました。
「しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」
イエスはここでそのしるしが何を意味するのか説明していませんが、12章40節でこのように告げています。
「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」
(マタイの福音書12章40節)
つまり、預言者ヨナのしるしは主イエスの復活なのです。
しかし悲しいことに、その日が来たとき、その奇跡的なしるしさえも、律法主義的で偽善的な反論者たちを納得させることはできず、彼らは不信仰と心のかたくなさに閉ざしてしまいました。
「弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。
イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」
すると、彼らは、「これは私たちがパンを持って来なかったからだ。」と言って、議論を始めた。
イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。
まだわからないのですか。覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。
また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。
わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。
ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」
彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。」
(マタイの福音書16章5~12節)
主がこれらの宗教指導者たちと語り合った後、弟子たちはイエスのもとに来て、パンを持ってくるのを忘れたと言いました。
イエスは彼らに答える中で、それ自体が重要であるだけでなく、13章で学んだように、聖書におけるパン種の意味を理解する鍵となる警告を与えました。
弟子たちがパンを持ってくるのを忘れたことを認めると、イエスは彼らに「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」と言われました。
弟子たちはイエスの意図を理解できず、偽教師たちからパンを受け取らないように警告しておられるのだと考えました。
彼らは互いに「パンを持って来なかったからだ」と言いました。
イエスは彼らの考えに気づき、彼らを叱責して「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。」と言われました。
そして、五千人、四千人にどれほどのパンを惜しみなく与え、それぞれどれほどの量が余ったかを彼らに思い起こしました。
このことから、弟子たちは、イエスが物質的なパンについて語っていたのではなく、12節で「パリサイ人とサドカイ人の教え」と説明されているパン種に気をつけるように警告しておられたことに気づくべきだったのです。
パリサイ人のパン種はルカの福音書12章1節で偽善として説明されています。
「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。」
(ルカの福音書12章1節)
これに自己義認主義が加わりました。
サドカイ派のパン種は偽りの教義でした。
彼らはモーセの書を除く旧約聖書全体の権威を否定し、霊的な実在を信じません。
このような邪悪な教えはパン種のように作用し、それを容認し始める集会にまで広がります。
だからこそ、主は彼らに警戒するように警告されたのです。
さて、私たちはペテロがキリストを生ける神の子であると偉大な告白した話に移ります。
「さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。
このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。
わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。」
(マタイの福音書16章13~20節)
「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
イエスの真実な正体、そしてイエスが単に見かけ通りの姿なのか、それとも別の人物の生まれ変わりなのかについて、様々な憶測が飛び交いました。
主は弟子たちに、御自身の御人格の奥義を彼らがどのように理解しているかを記録して欲しかったのです。
「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」」
(テモテへの手紙第一3章16節)
この質問は、御自身を教化するためではなく、間もなくエルサレムへ弟子たちと共におもむき、そこで十字架につけられるという状況において、弟子たちから明確で確かな告白を引き出すことを望まれたからです。
弟子たちが、神でありながら人でもあるイエスの本質を知ることが、何よりも重要だからです。
「ある者はあなたをバプテスマのヨハネだと言っています。
また、エリヤだ、エレミヤあるいは預言者のひとりだと言っています」。
彼らはすぐに、イエスを、ヘロデが考えていたように死からよみがえったバプテスマのヨハネ、または「主の大いなる恐ろしい日」(マラキ書4章5、6節)を告げるエリヤだと考えていました。
「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」」
(マラキ書4章5、6節)
もしくは多くの人が再び現れてイザヤ書53章の偉大な預言を成就すると信じていたエレミヤだと考えました。
「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」
(イザヤ書53章7節)
「私は、ほふり場に引かれて行くおとなしい子羊のようでした。彼らが私に敵対して、「木を実とともに滅ぼそう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう。」と計画していたことを、私は知りませんでした。」
(エレミヤ書11章19節)
または「預言者のひとり」、おそらくは申命記18章18節でモーセが到来を預言していた「あの預言者」ではないかと、さまざまな人が推測していることを語り始めました。
「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。」
(申命記18章18節)
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
彼らは、観察と御霊の啓示を通して、主が本当はどのような方であるかを知っていたのでしょうか?
この明確な問いかけは、明確で積極的な告白を必要としており、主は彼らからこの告白を得たいと願っておられました。
「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
ペテロは彼ら全員を代表して語りましたが、残りの誰一人として、公然と自分の信仰を宣言する勇気を持っていなかったようです。
キリストとメシアは同義語です。
どちらも「油を注がれた者」を意味しています。
これは、来るべき救世主に預言的に与えられた称号です。
「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。」
(イザヤ書61章1節)
旧約において、預言者、祭司、そして王は皆、油を注がれました。
イエスはこれら三つの職務を担っており、そのすべてにおいて神の霊によって油を注がれました。
「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」
(使徒の働き10章38節)
人としての性質において、イエスはダビデの子であり、メシアであり、キリストです。
神としての性質において、イエスは生ける神の御子です。
人々が主イエス・キリストの本質と人格を正しく理解することは極めて重要です。
信仰によってキリストが生ける神の御子であり、永遠の父と同等であると認められて初めて、私たちは救い主としてキリストに自分たちのたましいを委ねることができるのです。
さまざまな被造物の中で最も高位の者と創造主御自身との間には、埋めることのできない深い溝があります。
キリストの教会は、どれほど聖潔で、啓発され、献身的であろうと、単なる人間の上に築かれるものではありません。
教会は、シモン・ペテロによって明確に宣言された真理の啓示の上にしっかりと築かれています。
そして、教会がこの祝福された現実の上に築かれているように、一人ひとりのたましいの救いも、神が私たちの罪の贖いの代価として御自身を捧げるために人となられたという事実にかかっています。
「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」
シモン・ペテロがこの結論に至ったのは、単なる直感や論理的思考によるものではありません。
父なる神が彼の理解を照らし、主の御人格とその神の子性に関する真理を彼に明らかにされたのです。
「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」
(マタイの福音書11章27節)
「あなたはペテロです。
わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」
「この岩」とはキリストのことです
「みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」
(コリント人への手紙第一10章4節)
教会はこのキリストの上に建てられます。
ペテロとは石、あるいは岩片のことです。
彼は教会の中に建てられるべきでした。
教会は彼の上に建てられるべきではありません。
生ける神の御子であるキリストの上に建てられた真の教会に対して、「陰府(ハデス)の門も打ち勝つことはできない」のです。
サタンとその軍勢のいかなる試みも、教会を滅ぼしたり、その証しの進展を阻むことはできません。
他の聖書箇所が示すように、唯一の真の妨害は教会内部から生じます。
注目すべきは、イエスは「わたしは建ててきた」とか「わたしは建てている」とは言わず、「わたしは建てる」と言っておられることです。
イエスが「わたしの教会」と呼べる集会は、まだ将来のことでした。
この霊的な神殿の建設は、イエスが昇天し、神の御霊が約束の慰め主として来られるまで始まりません。
この家において、ペテロは生ける石となるべきでした。
イエスが彼に与えた名前は、石、岩塊を意味しています。
しかし、「この岩」つまり今述べたこの偉大な真理の上に、主の教会が建てられるのです。
教会が建てられる土台となる岩は、ペテロではなくキリストです。
「天の御国のかぎ」
教会について語った後、再びイエスは御国について語ります。
御国の行く末は、すでに13章のたとえ話で概説されていました。
この御国の鍵はペテロに託されていました。
しかし、イエスはペテロに天の鍵を与えたのではありません。
そのような考えは、極めて深刻な迷信です。
鍵は扉を開けるためにあるのです。
ペンテコステの日にペテロはユダヤ人のために御国の扉を開き、コルネリオの家で異邦人のために扉を開きました。
「だれにも告げてはならないと命じられた。」
これは不思議に思えるかもしれません。
しかし、イスラエルがイエスを拒んだことは明らかだったので、イエスがメシアであることを宣べ伝え、キリストであると宣言する時ではありません。
イエスが死からよみがえられたとき、ペテロはこの真理を力強く宣言しました。
「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
(使徒の働き2章36節)
この時から、主はユダヤ人から最終的に拒まれること、御自身の苦しみと死、そしてその後の復活について、ますます詳しく語り始めました。
しかし、弟子たちは主の意図を理解するのにとても時間がかかりました。
いまだに、彼らの心は来るべき王国に向けられており、王が死刑に処されるなど想像もできなかったのです。
「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。」
(マタイの福音書16章21~27節)
「その時から」主の宣教の新たな時代が始まりました。
この時から、主は御自身の拒絶と迫り来る死、そしてそれに続く復活を強調されました。
「そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
これは、神に啓示された人が、単に人間の原則に従って行動すると、いかに簡単に重大な誤りに陥るかを示す深刻な例です。
「下がれ。サタン。」
ペテロは教会を建てるには哀れな岩でした。
イエスに十字架に架かることを勧めたことで、彼は知らず知らずのうちにサタンの代弁者となってしまいました。
ペテロが最初の教皇であると教えたかと思えば、教皇は絶対に誤りを犯さないと、まるで誰かが教えているかのように思われます。
ペテロは献身的で誠実な人でしたが、主が辱められていた時だけでなく、復活と昇天の後にも、他の使徒たちと同じくらいひどい過ちを犯しました。
パウロは、ペテロが偽善と人への恐れによって恵みの自由を危うくした罪を問われ、面と向かってペテロに抵抗しなければならなかったことを語っています。
「ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。
そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。
しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。
私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。
しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。」
(ガラテヤ人への手紙2章11~16節)
「自分を捨て」弟子としての道は、絶え間ない自己否定の道です。
主は、御自身に関する預言の言葉が成就した時に弟子たちが負うことになる責任に備えて、弟子たちを備えさせておられました。
彼らは肉の要求を無視し、十字架を背負うよう求められます。
それは、主と共に拒まれる立場を受け入れることを意味し、彼らは主の足跡に従いました。
キリストのために迫害を避け、命を救おうとして自分の境遇を改善しようとする者は、現実に命を失うことです。
しかし、キリストのために命を捨てる覚悟さえある者は、永遠の命に至るまで命を保ちます。
この世での死は、永遠の栄光への入り口に過ぎません。
たとえ、全世界を手に入れても、それでたましいを失うなら、何の価値もありません。
たましいはまさに命であり、自分です。
ですから、たましいを失うことは、人が創造された目的を見失うことです。
小教理問答が述べているように、人間は神を賛美し、永遠に神を喜ぶために造られました。
富を蓄えたり、キリストのいない世の好意を得たりすることを目的としている者は、最終的に価値あるものすべてを失うことになります。
次の質問に注目してください。
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。
そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」
聖書は、想像されるように「人はそのたましいと引き換えに何を得るべきか」とは言っていません。
人は「そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」かと書いてあります。
人のたましいは失われています。
それを償うために、人は何を差し出せるでしょうか?
差し出せるものは何もありません。
罪を犯し続けるなら、そのたましいは永遠に失われます。
しかし、キリストに立ち返るなら、キリストによって贖いを見いだすことができます。
キリストが父の栄光のうちに人の子として御使いたちと共に再臨されるとき、キリストはそれぞれの行いに応じて報いを与えてくださいます。
最後の節は、本当は17章の最初の節であるべきです。
この書を編集し、章と節に分けた者は誰であれ、区切りを間違えました。
「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」
(マタイの福音書16章28節)
イエスがこのように言われた時、イエスは「六日後」に起こった偉大な出来事、すなわち山上の変貌のことを言っておられます。
それは、使徒ペテロの言葉から私たちが知っているように、山上の変貌は弟子たちに父なる神の御国を確証するために、王国を胎児の状態で示された出来事です。
マタイの福音書17章
前章の結びの言葉で示したように、この17章の最後の節が冒頭にされなかったことは、非常に残念なことです。
マルコとルカの対応する記述において、主の告知は変容の場面と直接結び付けられています。
実際、この告知こそが、「神の御国が力をもって来る」ことを象徴するこの栄光の幻を正しく理解するための鍵です。
使徒ペテロは第二の手紙の中でこう述べています。
「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」
(ペテロの手紙第二1章16節)
「私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」
(ペテロの手紙第二1章18節)
そこで救い主は、偉大な力と支配を執るために再臨される際に現れる栄光のうちに現れました。
「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。」
(ヨハネの黙示録11章17節)
栄光のうちに主と共に現れた天の二人の聖徒は、主と共に御国を分かち合う二つの信者のグループを表しています。
モーセは、死後、栄光の体で復活する者たちを、エリヤは携挙の時に死を経ることなく天に引き上げられる信者を象徴しています。
「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、御自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」
(テサロニケ人への手紙第一4章13~18節)
主の栄光を仰ぎ見て、父なる神の御声を聞いた三人の恵まれた使徒たちは、終末の日にイスラエルが主のもとに回復され、諸王国の祝福に入ることを語りました。
山の麓の光景は、再臨の効果、すなわちサタンを縛り、苦悩する諸国民をサタンの力から解放する力を表しています。
この神学的描写に加えて、私たちは非常に祝福された道徳的、霊的に適用されることをも知っています。
栄光を受けたキリストに仕えることは、神のさまざまな行いに対するサタンの敵意が明らかになっている世界において、神に仕えるための準備です。
サタンの敵意を克服するには、祈りと断食によって示されるように、神に頼ること以外には方法はありません。
誰も自分の力でサタンに対抗することはできません。
祈りは神への依存の表現であり、神だけが勝利をもたすことができるのです。
断食は、霊的な祝福を深く願い、肉欲を満たすものへの欲求を抑制していることの証しです。
「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。
すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。
弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。
すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた。
それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。」
(マタイの福音書17章1~8節)
「六日たって」
主イエス・キリストは一週間前に、神の御国が力を持って来るのを見るまでは死を味わうことのない人々がいることを示しておられました。
今、イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネを高い山(ヘルモン山)に連れて行き、そこで、やがて現れる神の御国の幻を彼らに見せたのです。
「彼らの目の前で、御姿が変わり」
それは変貌あり、内面からの変化でした。
キリストの永遠の子としての栄光が肉体のベールを通して輝き、インマヌエル、つまり神と人が一体となった存在としてのキリストの真実な特徴を目に見える形で、弟子たちに証明されたのです。
「モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。」
過去のディスペンセーションの時代を代表する二人は、前述のように、二つの信者のグループを表しています。
一つは、御国が来る前に死んだ人々です。
もう一つは、千年王国の栄光の到来に備えて、主が再臨される際に、死を経ることなく変えられ、引き上げられる人々です。
「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」」
(ヨハネの福音書11章25、26節)
また、彼らは律法と預言者についてをも語っています。
彼らはキリストの贖いの死を証しする者であり、イエスはその死によって、義を持たない人々に義を与えることができます。
「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。」
(ローマ人への手紙3章21節)
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。
それは、御自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」
(ローマ人への手紙3章24、25節)
これらの説教の主題は、ルカの福音書9章30、31節で知ることができます。
「しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。」
(ルカの福音書9章30、31節)
彼らは、間もなく成し遂げられる主の贖いの業を語っていました。
「私が、ここに三つの幕屋を造ります、」ペテロの提案は、真剣に考えずに出たものでした。
彼は幻の栄光に圧倒され、この素晴らしい仲間たちと共に山に留まりたいと願っていました。
しかし、モーセとエリヤは神の優れたしもべでしかありません。
彼らを神の御子、すなわち受肉したイエスと同等に扱ったのは誤りです。
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」
雲が旧約聖書の偉人たちを遮り、イエスだけが残されました。
父なる神の声が再び天から聞こえ、御子の完全さと御子への喜びを証し、彼らはその声に耳を傾けるよう命じられました。
「弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。」
見聞きしたことに畏怖の念を抱いた三人は、主イエス・キリストに示された神の御前に、礼拝者としてひれ伏しました。
「イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた。」
主は愛に満ちた御手を差し伸べ、弟子一人一人に力強く触れ、何も恐れることなく立ち上がるよう命じられました。
主は、御自身の御前にいる者たちが安心することを願っておられました。
なぜなら、主は万物の主でありながら、私たちの親族であり贖い主であられ、私たちを神のもとへ導くために、罪から解放された私たちの人間性を身に受けられたからです。
「彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。」
今や三つの幕屋を考える余地はありません。
なぜなら、律法を与えたモーセと回復者であるエリヤは消え去り、主イエスだけが残されたからです。
イエスは昨日も、今日も、そして永遠に変わることなく存在されています。
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」
(ヘブル人への手紙13章8節)
イエスは、霊的な啓示と父なる神のみこころへの服従によって、他の誰よりも神に従われた単なる人間ではありません。
イエスは御子なる神であり、永遠の三位一体の御方として肉体に現れ、神と人との間の唯一の仲介者です。
ペテロの告白と変容後の父なる神の声は、同じ祝福された物語を語っています。
イエスがなさったことは、神の御子でなければ成し遂げられません。
神の御子でなければ、私たちの罪を償うことはできません。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
(ヨハネの手紙第一4章10節)
幻は消え去ったが、イエスは留まられた。
朝になると、イエスは弟子たちを特別な特権を持つ山から下山させ、谷底で罪の恐ろしい影響と向き合わせました。
神の御国が全宇宙の力と栄光をもって示される時はまだ来ていなかったからです。
「彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。」と命じられた。
そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」
イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。
しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」
そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」
(マタイの福音書17章9~13節)
「いま見た幻をだれにも話してはならない。」
イエスは拒まれることを予見し、選ばれた三人に、決して忘れることのできないあの時に見たものを、御自身が死から復活するまで誰にも話さないように命じました。
神の御国が来る前に、十字架が来なければなりません。
困惑した弟子たちは主に尋ねました。
「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」
律法学者たちは、このことについて十分な権威を持っていました。
マラキ書4章5、6節には、このようにはっきりと記されています。
「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
(マラキ書4章5、6節)
神の御国は主の大いなる恐るべき日に続きます。
それは実際、その日の予備的な裁きが終わった後の続きとして行われます。
では、エリヤはどうなのでしょうか?
最初に、エリヤを待たなければならなかったのでしょうか?
イエスは答えられました。
「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。」
しかし、イエスは、自分がすでに来ており、証しは拒まれ、自分も排斥されることを説明されました。
彼らは「彼に対して好き勝手なことをしたのです。」
彼らは先駆者を扱ったのと同じように、人の子をも扱うのです。
「そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」
ヨハネはメシアへの道を備えるために、エリヤの霊と力を持って来られました。
「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」
(ルカの福音書1章17節)
聖書の預言的な箇所から、主の裁きの現れに先立つ大患難時代の暗黒の時代に、エリヤによる同じ様な証言がなされることは明らかです。
ヨハネの黙示録11章の二人の証人の幻が、このことを裏付けているように思われます。
次の数節に描かれているように、彼らが話し合っていると大勢の困窮する人々に出会いました。
「彼らが群衆のところに来たとき、ひとりの人がイエスのそば近くに来て、御前にひざまずいて言った。
「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。
そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」
イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。
そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。
〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」」
(マタイの福音書17章14~21節)
幻の夜の後、平原に降りて行った彼らは、取り乱した父親を見つけました。
彼は悪霊に取り憑かれた息子を他の9人の弟子たちのところに連れて行き、助けを求めました。
しかし、彼らは事情が分からず、悪霊を追い出す任務を帯びていたにもかかわらず、この件に関しては無力でした。
「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
(マタイの福音書10章8節)
しもべたちに失望した父親は、主が近づいて来られたのを見て、すぐに息子を悪霊から解放してくださるよう懇願し始めました。
彼はひざまずき、主に憐れみを求め、息子をいやしてくださいと懇願し、弟子たちのところに連れて行ったのに治せなかったことを説明しました。
弟子たちが助けることができません。
しかし、父親の悲しみがどれほど深く、どれほど悲嘆に暮れたかは容易に想像できます。
しかし、その父親は心の底から主イエスに頼りました。
その後。多くの父親たちがそうしてきたように、様々な形で悪魔の支配下にあった子供たちの解放を願いました
「その子をわたしのところに連れて来なさい。」
イエスは9人の信仰の無さを叱られた後、少年を連れて来るように命じました。
父親の懇願に心を動かされたイエスは、悪霊に取りつかれた少年の方を向き、その汚れた霊を叱られました。
すると少年はただちに癒されました。
山上で弟子たちは神の信頼を得て、主の再臨の時に力と威厳をもって迎え入れられる御国の前兆を垣間見ました。
平野では、罪とサタンの荒廃を改めて目の当たりにしました。
今も、この哀れな世界はその荒廃に苦しみ、うめき声を上げています。
しかし、キリストの再臨のみが彼らを完全に解放します。
この悪い時代を通して、主イエスは信仰の祈りを聞き、御言葉に信頼を置く人々に救いを与えてくださることができるのです。
主にとって不可能なことは何もありません。
弟子たちの無力さが繰り返して表されています。
それは彼らが信仰を持たず、主の代理を務めるよう命じた命令から離れてしまい、自分たちでは何の働きができない無力さを認識していないゆえに、無力なのです。
群衆から離れて主と二人きりになった時、困惑した弟子たちは、なぜ今回悪霊を追い出せなかったのかと尋ねました。
答えは「あなたがたの信仰が薄いから」でした。
主はまた、もしからし種一粒ほどの信仰があれば、どんな困難も取り除くことができ、彼らにとって不可能なことは何もないと宣言されました。
しかし、真実な信仰と自己満足は両立しません。
ですから、主はこのように付け加えられました。
「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません」
信仰が育まれるためには、肉とその欲求を抑制しなければなりません。
さらに、神への真実な信頼感も必要です。
祈りは、その信頼感を絶えず表現されるものです。
主のこの言葉の中に、私たちの多くの祈りが聞き届けられない理由を見いだせるのではないでしょうか?
イエスは再び弟子たちに、自分が間もなく経験するべきことを予告しました。
しかし、弟子たちは心を痛めていたにもかかわらず、イエスの言葉の意味を完全には理解していません。
「彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。
そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。」
(マタイの福音書17章22、23節)
ガリラヤにおける誰にも認められない王の宣教は間もなく終わりを迎えようとしていた。
イエスは人の手によって自分に降りかかるであろうすべてのことを予見していました。
しかし、預言的な目をもって、神が死から甦らせるその先の復活を見据えていました。
イエスはこのことについてくりかえし、明確に語っていました。
ゆえに、弟子たちがその言葉を理解できなかったとは信じ難いことです。
すべてが成就するまで、弟子たちはイエスがはっきりと語られたことを思い出すまで、理解することができなかったのです。
この章の終わりに出てくる出来事は、ペテロの衝動性と主の驚くべき恵みの別の側面を明らかにしています。
「また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」
彼は「納めます。」と言って、家にはいると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。」
ペテロが「ほかの人たちからです。」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。
しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」」
(マタイの福音書17章24~27節)
ここで述べられている納入金とは、出エジプト記30章で、民を数える際に贖いの金として納めるよう命じられた半シェケル銀貨のことです。
時が経つにつれ、それは神殿の奉仕を支えるための人頭税とみなされ、徴収されるようになりました。
この税を徴収する者たちがペテロのところに来て、イエスが納めたかどうか尋ねました。
ペテロは主に相談することなく、納めたと答えました。
しばらくしてペテロがカペナウムの家に入った時に、イエスは彼より先に質問しました。
「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。
自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。」
ペテロが「ほかの人たちからです」と答えました。
少し前に、ペテロはイエスをキリスト、生ける神の子と告白しました。
ゆえに、イエスにはこの特別な税金を支払う義務はありません。
そこでイエスは、「では、子どもたちにはその義務がないのです」と宣言されました。
しかし、イエスが誰なのかを理解していない人々がつまずかないように、他の人々を気遣って、ペテロにガリラヤ湖へ行き、釣り針を投げて、釣れる魚を拾い上げ、そしてこう付け加えられました。
「その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」
その瞬間にコインが奇跡的に作られたと考える必要はありません。
むしろ、それが水に落ち、きらめく物に惹かれた魚がそれを飲み込もうとして、シェケルが喉に詰まっていたと考えてもおかしくありません。
ですから、ペテロがそれを陸に引き上げたとき、イエスが言われた通り、そこにお金はあり、さまざまな批判を黙らせることができました。
この時、イエスはあまりにも貧しかったので、この税金を支払うためのお金がなかったと考えられます。
あるいはイエスは、自分がすべての創造物の主であるという事実をペテロに印象づけるためにこの方法を選ばれたのかもしれません。
マタイの福音書18章
18章 王国の理想的なしもべと教会の規律
この章には、二つの事柄が対比されています。
霊的な側面における王国と、まだ存在していない主の死と復活の後に主によって創造される教会です。
教会は、正義の原則を維持し、悔い改めを拒む、反抗的または違反行為者を懲戒する責任がある信者の集まりとして、地域的な側面として見られています。
王国のセクションにはマタイの福音書18章1~14節が含まれます。
「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。
しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。
つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。
もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。
片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
〔人の子は、滅んでいる者を救うために来たのです。〕
あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」
(マタイの福音書18章1~14節)
天の権威が全地に確立される、来たるべき王国で際立つ存在になりたいという欲望から、いまだに解放されていなかった弟子たちは、イエスのもとに来て、「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」と尋ねました。
これは、真実に高潔な人なら決して尋ねたり、心配したりしない質問です。
弟子たちは献身的でしたが、王国は肉によって主張する場所と時であるという考えから逃れることができなかったのです。
主は以前、彼らをこのことで叱られました。
今回は、イエスは言葉と実物による教えの両方で答えられました。
イエスは幼子を呼びました。
その幼子は応答し、ためらうことなくイエスのもとに来ました。
イエスはその幼子を真ん中に立たせ、厳かにこのように言われました。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」
言い換えれば、御国の真実なしもべとは、イエスの声を聞き、その呼びかけに応じ、イエスの任命された場所に満足してやってくる、柔和で謙遜な人々のことです。
御国で最も偉いのは、最も低い場所を進んで受け入れ、苦しみと悲しみの場に仕えるために神の栄光のもとから来られたイエスの弟子であることを示す人です。
御名によって幼子を受け入れるということは、神を受け入れるということです。
なぜなら、神は御自身を信じるすべての者と一体となるからです。
神は、罪と放蕩の中で無駄に過ごした年月のために、赦しと清めの必要性を悟った人々の救い主であるだけではありません。
比較的無垢なまま、神の優しい関心によって神に惹かれる幼い者たちの救い主でもあります。
詳細が完全に真実であるかどうかは別として、「イエスの涙」について説教していた厳しい顔の牧師のよく語られる話には多くの真実がありました。
彼は「イエス様が泣かれたことは三度書いてあるが、微笑まれたことは一度もない」と叫びました。
説教壇の下にいた小さな女の子が、自分がどこにいるのか忘れたように「ああ、でもイエス様は笑っていることは知っています」と言いました。
牧師は中断されたことに驚き「なぜそんなことを言うのですか?」と尋ねました。
みんなの視線が自分に向けられていることに気づき、すっかりおびえた彼女は「聖書には、イエス様が小さな子供を呼び、その子供がイエス様のもとに来たと書いてあるからです。
もし、イエス様があなたのような顔をしていたら、その子供は怖がって来ませんよ」と答えました。
彼女は失礼なつもりはありません。
子供らしい率直さでしたが、それは素晴らしい真実を物語っていました。
子供たちはイエス様を恐れることはなく、イエス様は常に子供たちを祝福し、認めてくださる用意がありました。
イエスは、御自身を信じる幼い者たちの一人でもつまずかせる者に対して、厳しく言われたことはありません。
そのような者にとっては、石臼を首にかけられて海の深みに投げ込まれた方がましでした。
イエスはそのようなつまずきの石を予見されていましたが、聞き手たちにその中に入らないよう警告されました。
肉体のいずれかを用いてこれらの子供たちを惑わしたり導いたりする罪を犯すよりは、手足を切り落として自分の事を傷つける方がましです。
それは、永遠の審判であるゲヘナの火にさらされることを意味しました。
悲しいことに、イエスは幼子の無邪気さを邪悪に見るようにくりかえして導いてきた、悪意に満ちた好色な人々の目についても語っています。
父なる神は子供たちに特別な関心を寄せられています。
天では彼らの守護天使が常に御前に現れ、誰もこれらの小さな者たちを軽んじてはならないことが警告されています。
ただし、ここでの「御使い」とは、おそらく亡くなった子供たちの霊を指すと理解すべきです。
どちらの見解も敬虔な人々によって支持されてきましたが、このことに関してあまり独断的に考えない方が良いと思います。
なぜなら、ここでどちらが意図されているにせよ、どちらも紛れもなく真実だからです。
ルカの福音書19章10節で、イエスは大人について、このように語っておられます。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
(ルカの福音書19章10節)
ここで子どもたちについて語る際、イエスはただ彼らを救うために来たとだけ言っています。
彼らは失われた種族の一員ではありますが、故意に罪の道に迷い込んだわけではないので、捜し求める必要はありません。
罪の山で迷い出た失われた羊のたとえ話は、イエスが来られたのは子供たちを救うためだけではないからです。
無数の聖徒たちが安全に集められている天では迷える者が一人悔い改めるのなら、救われると、喜びが溢れます。
もし、これが真実なら、幼少期に救われ、神への反抗に長い年月を費やすことがない時への喜びは大きなものとなるはずです。
マタイの福音書18章14節は、責任を負う年齢に達する前に亡くなるすべての子供たちが、キリストの御業によって永遠に救われるという保証を与えています。
彼らのうちの誰かが滅びることは、父なる神のみこころではありません。
彼らの意志が神のみこころに反していない限り、彼らは父なる神の家でキリストと共にいると確信できます。
ペテロが偉大な告白をしたとき、主は御自身が建てるべき教会について初めて語られました。
今、主はその教会における規律と敬虔な秩序について指示を与えておられます。
その教会は世界に一つしかありません。
そして、地域によっては様々な場所でそれぞれ異なる集会として現されています。
「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」」
(マタイの福音書18章15~20節)
最も優れた写本の中には、「trespass(罪を犯した)」の後の「あなたに対して」という言葉が省略されているものがあります。
これは一人の個人に対する罪以上の意味合いを持つことを示しています。
「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、」
このことを知っていて心配する人は、それを外に誇らしげに吹聴すべきではありませんん。
また、何も知らないかもしれない他の人を汚したりせず、個人的に犯罪者のところに行って、その問題について彼に話し、彼を悔い改めさせるよう努力することが命じられています。
これはモーセの律法によるものでこのように記されています。
「心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。
そうすれば、彼のために罪を負うことはない。」
(レビ記19章17節)
ガラテヤ人への手紙6章1節にはこのようにあります。
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。
また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」
(ガラテヤ人への手紙6章1節)
過ちを犯した人に対しての行動として主はこのように言っています。
「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」
(ヨハネの福音書13章14節)
このようなことは主の戒めを成就することです。
罪を犯した兄弟の足に御言葉の水で洗うことは、その罪に気づいた人の義務です。
この原則は、旧約聖書と新約聖書の両方に適応できます。
しかし、もし不正行為者が強情でわがままで、事態を正す意志を示さない場合は、さらに一人か二人の兄弟を連れて再度面会しなければなりません。
これらの証人たちは、提示された事実に基づいて証言を聞き、判断を下さなければなりません。
もし証人たちが不正行為があったことに同意するなら、最初の証人と共に、反抗的な兄弟に罪を認めさせ、赦しを求めさせなければなりません。
もしこれが無駄で、侵入者がかたくなで、彼らの忠告を受け入れようとしないなら、その件は初めて地元の集会に持ち込まれ、そこで審理されます。
そして、原告の正しさが認められれば、被告人は再び自分の過ちを認め、事態を正すよう忠告されなければなりません。
もし被告人が教会の言うことを聞こうとしないなら、彼は懲戒を受け、部外者、つまり異教徒、世俗の者、取税人として扱われなければなりません。
ローマが重視する「教会に耳を傾けよ」という言葉は、この箇所にのみ見られます。
これは、教会の教えそのものに従うよう私たちに求めているのではありません。
ここで扱われているのは、懲戒を受けている者は会衆の判断を受け入れる責任を負っているということです。
教会そのものが権威ある教師であることは、どこにも述べられていません。
むしろ、教会は御言葉を通して聖霊が語ることに耳を傾けるよう命じられているのです。
マタイの福音書18章18節の縛りと解き放ちは、コリント人への手紙の中で例証されています。
これは教会、あるいは集会の規律と関係があります。
パウロがコリント人への手紙第一5章で、自分たちから邪悪な者、すなわち近親相姦者を追い払うように命じました。
パウロはその者が悔い改めるまで彼の罪を縛っていました。
コリント人への手紙第二2章5~11節で、彼が悔い改めた証拠があれば赦すように会衆に指示したとき、彼は彼を解き放ったのです。
神の御言葉に完全に従うならば、このような行為は天で縛られます。
マタイの福音書18章19節は、これよりもさらに尊いことを示しています。
人間の判断が誤り、聖徒たちが途方に暮れている状況を想像してみてください。
彼らは主御自身に光と助けを求めることができます。
二人が一致しているところ、すなわち、二人が神の御霊と互いに調和して祈っているところでは、神は彼らのために行動され、天でなされるように、地上の教会でも神の御心に従って実行されます。
主イエスの御名によって集まる信者のさまざまな地域集会は、その中心に主が臨在しておられることを確信させられることになります。
これは、キリストとのより親密な交わりを主張する特定の集まりを指しているのではありません。
主の御名によって集まるすべての集まり、たとえそれがどれほど小さな集まりであっても、主の臨在は約束されているのです。
教会が崩壊し、宗教的な傲慢さが蔓延している時代に、これは大きな慰めとなります。
この章の残りの部分では、特にいくつかの異なる段階における許しについて扱います。
クリスチャンはこの問題全体を容易に解決します。
神がキリストにおいて私たちを赦してくださったように、私たちも赦しあうべきです。
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
(エペソ人への手紙4章32節)
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。
主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」
(コロサイ人への手紙3章13節)
神の御国の観点から見るのであれば、赦しは罪を犯した人の悔い改めに基づいています。
キリストの弟子たちは、常に、そしてすべての人に対して赦しの姿勢を保つべきです。
しかし、彼らは「悔い改めます」と言う人にのみ、その赦しを与えるべきです。
「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。
かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
(ルカの福音書17章3、4節)
これを怠ると、赦さない者にも、神の支配において懲らしめの手にさらされることになります。
これは、同じ負債者の嘆願を拒んだかたくななしもべのたとえ話に見られます。
この原則は神の恵みの摂理においても適応できます。
なぜなら、恵みと支配は一体となるからです。
恵みの対象である者以上に、他者に恵みを示す責任を持つ者はいません。
私たちクリスチャンが受けなければならない懲らしめの多くは、私たちを傷つけた人々に対する私たちの冷酷で、しばしば容赦ない態度に起因しています。
もし私たちが他の人々に対してもっと注意深く思いやり深くあるならば、父なる神からの懲らしめによって多くの悲しみを味わうことはありません。
「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」
(ヘブル人への手紙12章6~11節)
「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍にするまでと言います。
このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。
しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。
彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。
しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」」
(マタイの福音書18章21~35節)
「何度まで赦すべきでしょうか。」
神が示した、ペテロが兄弟に示すべき恵みの本当の意味を理解していません。
「七度を七十倍するまでと言います。」
七は完全な数です。
主はこの数をいわば最高の力へと高めます。
私たちの赦しは、神が私たちに与えてくださった赦しにならうべきです。
七度を七十倍というのは、赦すことのできない罪の数のように思えるかもしれません。
しかし、神は私たちとの関係において、その数を何度も超えてきたのはずだと考えます
「王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。」
このたとえ話では、弟子は神の支配下にある王国のしもべとして描かれています。
神は私たちの父でありながら、民を矯正する懲らしめが執行されます。
「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」
(ペテロの手紙第一1章17節)
「一万タラントの借りのあるしもべ」
これは、金タラントであろうと銀タラントであろうと、莫大な金額です。
神の支配に対して大きな罪を犯した者を示しています。
「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」
犯罪者は道徳的に破綻しています。
誰も神に自分の犯した過ちを償うことはできません。
「その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。」
当時の法律では、支払い不能の債務者は奴隷として売られる可能性がありました。
「どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。」
神の聖なる律法の要求を全て満たせる人は誰もいません。
求めているのは、この債務者の悔い改めの態度です。
「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」
過ちを犯したしもべたちが神の御前で自分の罪と向き合い、神の義なる支配の権利を認めるのなら、神は彼らに対しても同じ様な対応をされます。
ここで注目すべきは、私たちの前にあるのは、救われていない人の赦しではなく、ひどく失敗した神のしもべであるということです。
「同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。」
その借金は、他の大きな借金に比べれば、ごくわずかな金額でした。
私たちの罪が聖なる神を怒らせたほどに、私たちを怒らせることは誰にもできません。
「借金を返せ」
神が私の大きな罪をこれほど慈しみ深く扱ってくださったのに、私を不当に扱った兄弟に全額の償いを求めるのは、恵みの原則に反する行為です。
「彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。」
彼は債権者に対して、相手が主人に対して取ったのと同じ態度を取って、同じ配慮を示すべきでした。
「彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。」
債権者はかたくなで、赦しを拒んだだけでなく、仲間のしもべをも債務者として牢に入れました。
おそらく、友人たちが助けに来て借金を支払ってくれることを期待していたのかも知れません。
「彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。」
この無価値な債権者の悪行に衝撃を受けた事件を知る者たちによって、この出来事は主人に報告されました。
「悪いやつだ。」
主人は、自分が哀れみ深く接してきた者の不誠実な行為に怒りをあらわにしました。
「主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。」
この例えのように、支配者による赦しは、その後に起きた問題のために赦しを受けた者が一切の補償を受ける権利を失い取り消されることを語っています。
ここで述べられていることは、神が信仰を持つ罪人に与える永遠の赦しではなく、既に神の御国にいて、はなはだしい失敗を犯した者への赦しであることに注目してください。
「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」
御父は御自身の家族の一員と接し、御自身の子供たちが過ちを犯した兄弟に対して示す厳しさや思いやりの欠如を決して見過ごすことはありません。
神の子供たちの中には、誰かを赦さないというだけの理由だけで、生涯、懲らしめを受け続けている人が大勢います。
この問題について、私たち自身の方法を探求し、試してみる必要があります。
新しい誕生によって御国に入ったすべての者たちは、純粋な恵みの土台の上に神の前に立つ、赦された罪人です。
「イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」
(ヨハネの福音書3章5節)
しかしながら、その者たちは神の家族の子として、父なる神の懲らしめを受け、神の支配の下にあります。
罪人として、裁きの神に対する責任が終わったその時、子として、父なる神に対する責任が始まりました。
この新しい関係において、私たちは神の性質による働きを現わすべきです。
それゆえ、私たちを怒らせる者に対しても、恵みをもって行動することが求められています。
もし、私たちがこのことを怠るならば、神の支配が神の家族において維持されるために、私たちは厳しく懲らしめられることになります。
赦しの様々な側面があります。
神の御言葉に示されている赦しの様々な側面を区別しなければ、キリストに改心した後、神は懲らしめとして扱われ、私たちはひどく混乱してしまいます。
神は私たちを救うとき、私たちを完全に、そして永遠に赦されました。
神は裁き主として、私たちの罪を二度と思い出すことはありません。
「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」
(ヘブル人への手紙10章17節)
私たちは、神の子として失敗するたびに罪を告白しなければなりません。
そして、神は回復のための赦しを与えてくださいます。
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
(ヨハネの手紙第一1章9節)
これらの失敗には、ある種の政治的な結果が伴うことがあります。
しかし、それは神が赦しを与えなかったことを意味するのではありません。
神は懲らしめを通して、神の目に罪がどれほど凶悪であるかを私たちに教えてくださるということを解釈すべきです。
(サムエル記第二13、14章参照)
私たちは自分自身が赦されたように、私たちに対して罪を犯した兄弟たちを赦すべきです。
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。
主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」
(コロサイ人への手紙3章13節)
神の義なる原則に背く教会員は懲戒を受けるべきですが、悔い改めの証拠を示す場合には赦されます。
「それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。
教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」
(マタイの福音書18章17節)
「あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。」
(コリント人への手紙第二2章7節)
罪の程度
主の教えは、罪には様々な程度があることを明確に示しています。
すべての罪は神の目には悪です。
しかし、光と特権が大きければ大きいほど、責任も大きくなります。
したがって、神の御言葉を知り、主との長年の交わりを享受してきた人の罪は、比較的無知で未熟な人の罪よりもはるかに重いものです。
罰の程度もそれに応じて異なります。
(ルカの福音書12章47、48節、ヨハネの福音書13章17節、ローマ人への手紙2章12節、ヤコブの手紙4章17節、ヨハネの手紙第一5章17節参照)
次の箇所では神の支配の実例が示されています。
1.ヤコブ:彼は父を欺きました。
(創世記27章18~24節)
彼の息子たちも父を欺きました。
(創世記37章31~35節)
2.モーセ:彼はメリバで神に栄光を現わすことができませんでした。
(民数記20章11節)
ゆえに、神は彼がその地に入ることを拒みました。
(民数記20章12節)
3.ダビデ:彼はウリヤの妻のことで罪を犯しました。
(サムエル記第二11章1~26節)
剣は彼の家から離れませんでした。
(サムエル記第二12章9~10節)
4.コリント人:彼らは主の食卓で神を辱めました。
(コリント人への手紙第一11章20~22節)
その結果、多くの人が病気になり、死にました。
(コリント人への手紙第一11章30節)
マタイの福音書19章
預言者たちが預言した王国が休止している期間、イエスは肉によるイスラエルとの別れを迎えます。
その間、王国の奥義が明らかにされた間は、イエスの追随者たちを導くために必要な明確な情報を権威を語り始ていますた。
イエスはガリラヤを去って、ヨルダン川の東のペレアを通ってエルサレムに向かわれました。
「イエスはこの話を終えると、ガリラヤを去って、ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方に行かれた。
すると、大ぜいの群衆がついて来たので、そこで彼らをおいやしになった。」
(マタイの福音書19章1、2節)
「ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方」という表現は、ユダヤに接する地域を指しています。
イエスは死へと向かって堂々と歩みを進めながら、身体のいやしを求めて御前に来るすべての人々に対して、恵みと力を行使し続けました。
しかし、宗教指導者や国の支配者たちには認められるものではありません。
このように、まさしくイエスがヤハウェに油を注がれた者であることが示されています。
「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。
このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」
(使徒の働き10章38節)
これらの高慢で横柄なパリサイ人のうちの数人がイエスのもとに来て、離婚についての質問しました。
これはイエスに、将来イエスの権威に服従する人々の間に広まる新しい秩序を明らかにする機会を与えています。
「パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」
イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、
『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。
それを、あなたがたは読んだことがないのですか。
それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
彼らはイエスに言った。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」
イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。
しかし、初めからそうだったのではありません。
まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」
弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」
しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。
というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。
また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」」
(マタイの福音書19章3~12節)
パリサイ人による質問は、明らかにイエスをモーセの律法に反対させるために行われたものです。
しかし、イエスはそれに答える際に、シナイやレビ記の制定された戒めから、将来の弟子たちの規則となる本来の結婚制度に戻っています。
パリサイ人は「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」と問いかけました。
一部のリベラルなラビの教えは非常に緩く、夫はささいな口実で妻を勘当し離婚することができました。
イエスは彼らに、創世記2章24節に記されているこの言葉を示しました。
「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」
(創世記2章24節)
これは神の理想、すなわち結婚という神聖な関係において、一人の男と一人の女が結ばれるというものです。
全人類はこのように神によって創造された最初の夫婦から生まれ、結婚式がその象徴でした。
そのように、キリストと教会の間に存在する奥義としての結びつきを象徴しています。
「「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」
(エペソ人への手紙5章31、32節)
「ふたりは一心同体となる。」
このことに注目してください。
「三人」や「五人」といった数字ではなく、彼らは単に「二人」です。
これ以外の表現は、創造主の本来の意図に反する歪曲です。
「こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
このように、人類(そして家族)の歴史の始まりに、神のみこころによって、結婚契約の不可侵性が明らかにされています。
この結びつきを破る者は、主の御言葉に背く者です。
当然のことながら、イエスに反対する者たちはこのように尋ねました。
「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」
イエスは、これは男性の心の冷酷さゆえに、モーセが認めた一時的な措置であると説明されました。
それは、愛されず、必要とされず、残酷な扱いを受ける家庭で生きていく苦難から妻を守るためでした。
不親切な夫の気まぐれの奴隷にするよりは、実家に送り返す方がはるかに良いことなのです。
しかし今、イスラエルの運命づけられた王として救い主が来られたので、イエスはこのように宣言されました。
「だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」
この言葉でイエスは結婚関係の聖さを断言しています。
神は結婚を生涯の結びつきとすることを意図しておられます。
信者は決してそれを破ることはありません。
もし不品行、つまり第三者との不義の関係によってその絆を破った場合、無実の者は不貞な者と離婚し、他の者と結婚する自由があります。
主の言葉のこの解釈に疑問を呈する人は多くいますが、他の意味は認められません。
ある人たちが主張するように、主は婚前不品行について言及しています。
「もし、人が妻をめとり、彼女のところにはいり、彼女をきらい、口実を構え、悪口を言いふらし、「私はこの女をめとって、近づいたが、処女のしるしを見なかった。」と言う場合、」
(申命記22章13、14節)
「しかし、もしこのことが真実であり、その女の処女のしるしが見つからない場合は、その女を父の家の入口のところに連れ出し、その女の町の人々は石で彼女を打たなければならない。彼女は死ななければならない。
その女は父の家で淫行をして、イスラエルの中で恥辱になる事をしたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。」
(申命記22章20、21節)
結婚後に犯されるこのような罪について言及していないと主張することは、あたかも未婚者が犯す同様の罪よりも罪が軽いかのように思われがちです。
しかし、それは結婚における不貞を軽視することになります。
この理論を支持するために、不品行という言葉は独身者の性的不純さのみを指すと主張されてきました。
しかし、コリント人への手紙第一5章はこのことを否定しています。
ここに記されている近親相姦の男は継母と同居しており、不品行の罪で告発されています。
したがって、イエスは、神の御言葉に従って結婚の高潔で聖い性質を認めています。
しかしながら、邪悪な配偶者の不貞のせいで、離婚した無実の当事者に、一人で人生を歩むという重荷を負わせることもしていません。
この点に関してイエスが明確に示された教えを無効にするために、別の説明が提示されています。
それは、イエスは律法の下にあった者として語られたため、ここで述べられている例外は、この恵みの時代においては適用されないものです。
この見解を支持する人々は、イエスが律法の下におられたこと、「律法と預言者はヨハネまでです」(ルカの福音書16章16節)ということを忘れています。
新しい時代の土台となる教えはイエスによって与えられました。
このように述べられているからです。
「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」
(ヨハネの福音書1章17節)
イエスは、その日から施行される結婚と離婚に関する原則を定められました。
弟子たちはこれに困惑し、動揺しました。
「もしこれが事実なら、結婚は人間の自然な性質に重すぎる制限を課すことになり、結婚しないほうがましです」と弟子たちは言いました。
主は、だれでも受け入れることができるわけではないが、この言葉は与えられた者、すなわち、結婚関係の神聖さを認め、神のみこころに従う用意のある者、あるいはパウロが後日述べたように、未婚であっても自分を清く保つことができるほどの自制心を持つ者のために与えられたものであることを認めました。
彼らは天の御国のための宦官のようです。
しかし、イエスはこのことに関して誰一人として束縛しません。
この言葉は、受け入れることのできる者のために与えられたのです。
結婚の真実な目的は、子供をもうけ、腐敗した世の只中でキリストの素晴らしい証となる敬虔な家庭を築くことにあることを忘れてはなりません。
何百万もの人々にとっての「家(home)」は、英語では最も美しい言葉の一つです。
それは多くの思い出を呼び起こします。
喜びに満ちた家庭の輪を思い出し、幼い心に刻まれた印象に思いをはせるとき、どれほど心が揺さぶられ、神への感謝が湧き上がってきます。
なぜなら、その後私たちは遠くへ旅立つかもしれませんが、家は今でも私たちが知る地上で最も聖い場所だからです。
しかし、多くの人々は、その奥義としての魅力を一度も知りません。
そして、地球上の多くの言語には、私たちの「家」という言葉と完全に同じ意味の言葉はありません。
異教の部族には、それに類する言葉はほとんどありません。
彼らは家、住居、あるいは避難所について話しますが、彼らにとって「家」とは、私たちが理解する意味では、全く知らないものなのです。
しかし、このように詩篇には述べられています。
「神は孤独な者を家に住まわせ、捕われ人を導き出して栄えさせられる。」
(詩篇68篇6節)
政治が設立されるよりずっと前、教会が存在するよりずっと前に、主は人類のために家庭を設立されました。
家を作るには、四方の壁と快適な家具だけでは不十分です。
真実な意味で、家とは愛が支配する場所です。
聖書の理想の家とは、巡礼者の幕屋であれ、大邸宅であれ、家族が愛と調和のうちに共に暮らし、互いに喜び合い、皆が全体の幸福を追求するのが住まいです。
そのような家は、世界が偶像崇拝に染まり、愛よりも恐れが支配していた時代にもイスラエルにありました。
キリストは家庭生活をさらに高い基準に引き上げ、深い霊的交わりと優しい愛の場とされました。
クリスチャンの家庭とは、父親、母親、そして子供たちが共に神の恵みと保護を感じ、家族全員がキリストを救い主であり、主を敬う場です。
そのような家庭からは、日々、祈りと賛美の声が絶え間ないささげ物として響き渡ります。
結婚の絆が弱まり、家庭の理想が軽視されていることは、おそらく現代における二つの大きな悪と言えます。
人々が結婚の聖い性質に関する聖書の教えをますます無視し、過度の愛と利己的な欲望に溺れるようになり、離婚は驚くべき速さで増加しています。
家庭の崩壊によって最も苦しむのは子供たちです。
私たちは国民として風を撒き散らしており、悔い改めて神に立ち返り、神の御言葉に謙虚に従い続けなければ、嵐を刈り取る運命にあります。
この国や他の国々で離婚が増加している現状から判断すると、救われていない人々にとって、間もなく多くの家族生活は、過去のものとなるでしょう。
神の子供たちは、結婚関係の永続性に関する主の教えに絶対的に従い、この邪悪な行為に加担することを避けるべきです。
この、やや長い余談の後、私たちは次の出来事について考えなければなりません。
それは、子供たちを祝福を求めてイエスのもとに連れてきたという、美しい道徳的秩序に従った出来事です。
「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。
天の御国はこのような者たちの国なのです。」
そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた。」
(マタイの福音書19章13~15節)
両親が幼い子供たちを主のもとに連れてきて、聖なる手を置いて祝福を与えてくださるよう願ったことは、主の恵みと力に対する真実な信仰の表れでした。
弟子たちは、これは主の時間と配慮を、不必要で邪魔するものと感じました。
彼らは、子供たちにそのような親切な配慮を願ってやって来る人々を止めようとしました。
しかし、イエスはすぐに口を挟み、両親を励ましてこのように言われました。
「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。」
以前、イエスは子供たちの純粋な信仰ゆえに、天国の理想的なしもべであると示し、宣言されました。
ここでイエスはこのことを再確認し、この御言葉によって、主を信じるすべての親たちに、子供たちを主のもとに連れて来るようにと励ましを与えています。
親が主の教えと訓戒の中で子供たちを育てようと努めるなら、主の祝福が彼らに与えられると確信しているからです。
イエスは手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれました。
そして、罪の償いとして命を捧げるエルサレムへと向かわれました。
次の出来事を正しく理解するためには、救いと弟子としての生き方を注意深く区別する必要があります。
神の救いは完全に無償です。
それは純粋で、無償の恵みという原則に基づいて人々に与えられます。
しかし、弟子としての生き方は全く別の土台の上に成り立っています。
文字通り、人が持つすべてのもの、つまり、すべてのものを失うことを犠牲にしなければなりません
「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」
(ピリピ人への手紙3章7、8節)
「あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」
(ルカの福音書14章33節)
十字架、つまり肉体の死を意味するものです。
十字架を負わず、世に拒まれながらも父なる神のみこころに献身するという主イエスの道に従わない者は、キリストの真実な弟子となることはできません。
キリストが人生においてただ一位を占めるだけでは、それは嘆かわしいことです。
キリストは極めて排他的であり、私たちの存在全体をキリストに委ねることを求めます。
どれほど近親者であっても、私たちとキリストへの忠誠の間に割り込むことは許されません。
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」
(ルカの福音書14章26、27節)
キリストへの愛は、たとえ親しい友人や親戚が私たちをキリストへの献身の道から引き離そうとするならば、彼らへの愛が憎しみに思えるほど熱烈であるべきです。
肉にとっては、これは厳しく、ほとんど哀れみのない要求のように思えるかもしれません。
しかし、真実に身を委ねたたましいは、自分たちの満足のために生きるよりも、御自身の血によって私たちを買い取ってくださった主にすべてを委ねることに、より深い喜びを見出します。
多くの人が、このような心からの忠誠の人生への呼びかけに長年抵抗してきました。
しかし、ついには、彼らは主イエスの要求を受け入れず、他のすべてを拒んだことで、計り知れないほどの損失を被ったことに気づくことになります。
十字架を背負って、世に拒まれる道をイエスに従うことは、肉と血によって耐えられないほど大きな犠牲を伴うように思えるかもしれません。
しかし、服従し、十字架を受け入れるとき、聖徒ラザフォードが表現したように「その十字架は、魚にとってのひれ、鳥にとっての翼のような重荷である」ことがわかります。
「すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。
もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。
父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。
そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。
まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」」
(マタイの福音書19章16~26節)
「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
この質問は、行いによって永遠の命を得る能力についてです。
この若者はまだ、自分の完全な罪深さと絶対的な無力さを知りません。
「わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。」
若者がイエス・キリストを「先生」と呼んだのは明らかに神に敬意を表したためだが、イエスは神だけが善であるという事実を指摘しています。
「善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
(ローマ人への手紙3章12節)
したがって、もしイエスがただの人間であったなら、この絶対的な意味では善ではありません。
そして、もし本当に善であるなら、イエスは神です。
この厳粛な宣言の後、主イエスはこの問いかけをする者を自身の立場から論じられました。
律法は律法を守る者に命を約束されていました。
「あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である。」
(レビ記18章5節)
「しかし律法は、「信仰による。」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる。」のです。」
(ガラテヤ人への手紙3章12節)
そこで主はこのように答えられました。
「もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
この宣言は、その立場では命を得ることができないことをその者に示すためのものです。
なぜなら、良心が働いていれば、彼はすでに律法を犯したことに気付くはずだからです。
「彼は「どの戒めですか。」と言った。」これは明らかに主の言葉の真髄を回避しようとする試みでした。
イエスはそれに応えて、主要な戒律のうち五つを引用し、最後にレビ記19章18節の「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」を引用して、隣人に対する義務に関する戒律をすべて要約しました。
これらすべてに直面しながら無罪を主張できるとしたら、それはたましいが目覚めていないことを示していると言えます。
人々が良い行いによって永遠の命を得ようと望むならば、律法は彼らに完全な服従を要求します。
すべての人が罪を犯したため、律法の行いによって義とされることは誰にも不可能です。
律法は目覚めた良心に恐ろしい力で語りかけ、人間の功績によって永遠の命を得ることの絶望を悟らせます。
「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
これらの言葉は確かに誠実な心から出た言葉でした。
しかし、真実に良心を働かせていなかったことを示しています。
自分を知りながら、誰もこのように語ることはできません。
彼は外見上は非の打ちどころのない生活だったかもしれません。
しかし、良心が働いていたなら、罪を告白したはずです。
これは、自分の道徳観に誇りを持ち、心の腐敗に気づかなかった者の、うぬぼれた自己義認でした。
「何がまだ欠けているのでしょうか」という質問自体が、彼がいかに自己満足していたのかを示しています。
「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。
そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
イエスは、彼の根拠のない自信を揺さぶるためにこのように言いました。
富に満足している人が、四方八方で困窮し貧困に苦しむ人々がいるのに、隣人を自分と同じように愛すると告白できるでしょうか?
キリストの弟子になること、つまり他人のために生きることです。
そして、その結果として「天に宝を積む」ことは、幼い頃から神の戒めに完全に従うと軽々しく語ってきた人にとって、全く魅力的ではなかったのです。
主は、富める人に持ち物をすべて売り払って貧しい人々に施し、天に宝を持つようにと命じることで、人間の心の欺きと利己心を明らかにしようとされました。
すべてを捨ててキリストに従うようにという呼びかけは、主の権威に完全に服従し、行いと真理において弟子となることへの呼びかけでした。
「青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである」
これは「大いなる拒絶」と呼ばれています。
この男が主イエス・キリストをどれほど尊敬し、どれほど霊的な命を切望していたとしても、それらはすべて、富と、当時の社交界で彼に与えていた地位への愛に比べれば取るに足らないものでした。
彼の「多くの財産」は、彼とたましいの救いの間に立ちはだかっています。
彼にとって、それらは永遠の命を知ることよりも大きな意味を持っていました。
「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。」
すでに見てきたように、天の御国とは天そのものではありません。
むしろ、地上にいる間、天の権威を認め、従うことを意味しています。
神から莫大な富を託された者にとって、所有するすべてのものを管理人として保持し、神の栄光のために用いる責任を負うことは容易なことではありません。
この若者のたましいの救いだけが危機に瀕していたのではありません。
キリストは真実なる弟子への道を示しておられたのです。
「弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」」
彼らは当然、恵まれた境遇にある人たちのほうが貧しい人や困っている人よりもイエスに従うことが容易だと考えました。
しかし、キリスト教の歴史を通じて、この世の貧しい人たちこそが最も信仰に富んでいるのです。
「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
富める者も貧しい者も、すべての人をキリストを救い主として信じ、主として従順に導くのは、神の全能の力だけです。
さまざまな回心と献身的な生活は、恵みの奇跡です。
裕福な者も、貧しい者も、あるいはいわば比較的裕福な中流階級の者も、聖霊によって自分の失われた状態を悟ったとき、初めて人はキリストに救いを求めます。
キリストにおいて、さまざまな階級の区別は消え去り、すべての人が神の前に一つの共通の土台の上に立っています。
金持ちの青年が主イエスと話をするに至った理由が何だったのかは、私たちには分かりません。
彼は心の中で、ここにすべての権威をもって語る方がおられ、それゆえにその言葉に従う資格があると感じていたのかもしれません。
しかし、彼は罪人としての自分の必要性を認識していなかったのです。
イエスを救い主ではなく、教師と考えていました。
そのため、彼は人生においてキリストを第一とする覚悟ができておらず、その後、主イエスにある程度惹かれた何千人もの人々と同じように、弟子となるための条件を知ると、物思いにふけりながら立ち去ってしまいました。
富の正しい使い方
富を持つことは罪ではありません。
富を過信の根拠とし、貧しい人や困っている人の苦しみを忘れて富がもたらす安楽に浸るのは罪です。
神が誰かに富を託すのは、それを授けた神の栄光のために、その人に託された管理職としてです。
悪なのは金銭そのものではなく、金銭への愛です。
「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」
(テモテへの手紙第一6章10節)
金銭は、キリストに従って用いるならば、計り知れない祝福の手段となるのです。
「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。
また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。
また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」
(テモテへの手紙第一6章17~19節)
弟子たちは、主と金持ちの若い支配者とのこの対話の間、ただ黙って傍観し、耳を傾けていました。
しかし、若者が背を向け、利己的な道を歩み始めた今、ペテロは彼ら全員を代表して声を上げました。
キリストの名のために自分を捨て去ったことの最終的な結果はどうなったのでしょうか?
彼らは心の不安を表明しました。
「そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」 そこで、イエスは彼らに言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。
また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。
ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」
(マタイの福音書19章27~30節)
「私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」
それは当然の質問に思えますし、ある意味では当然でした。
世間の目から見れば、彼らは富や昇進の希望をすべて失っていました。
イエスが約束のメシアであると信じて、すべてを危険にさらしたのです。
しかしイエスは、拒絶、苦しみ、そして死について暗い言葉を口にされました。
彼らはこれからの日々に何を期待するべきだったのでしょうか?
イエスは答えて、神の御国が完全に現れる時、すなわち地球の再生、すなわち新生の時代に、イエスに拒まれた者たちは、非常に顕著な形で栄誉と認識を受けることを保証されました。
彼らは十二の王座に座り、イスラエルの十二部族を裁くことが与えられたのです。
このように言った時、イエスは預言されていたユダの背教を見過ごしたわけではありません。
しかし、神の計画において、マッテヤがユダの代わりを務めることになっていました。
パウロの使徒職は、後に全く異なる秩序を持つものでした。
パウロは十二使徒に数えられず、エペソ人への手紙3章で語られているように、ユダヤ人と異邦人の区別のないキリストのからだの奥義を知らせるために選ばれた器です。
しかし、十二使徒が報いを確信していただけでなく、イエスはこのように宣言されました。
「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」
キリストへの過度の献身によって損をした人は一人もいません。
主の名のために放棄しなければならないものはすべて、この世でも来世でも豊かに報われます。
主のために世俗的な利益を放棄したと告白しながらも、デマスのように不忠実さのために報われない人は多くいます。
また、主のために多くのことを耐え忍んだようには見えなくても、主に拒まれた時に心から誠実であった人々は、その日には報われます。
このように、最初の者は最後に、最後の者は最初にあるべきです。
キリストがたましいの視界を満たされるのであれば、キリストのために他のすべてを捨て去るのは簡単です。
しかし、その者は最初にキリストが救い主として、そして主として知られるまでは、地上の物事は永遠の物事よりもはるかに価値があり、重要であると感じます。
人は自分の罪深さと無価値さを悟って初めて、救いを求めて主イエスのみにより頼み、この地上の人生のさまざまな側面において主の権威を受け入れる覚悟ができます。
キリストへの愛は自己を明け渡すことを簡単にします。
しかし、自己への愛はそれを不可能にします。
金持ちの若い支配者の大いなる拒絶と、多くの誤解と失敗にもかかわらず、すべてを捨てて主に従った使徒たちの集まりの献身的な忠誠を考えるならば、その対比がはっきりと浮かび上がります。
マタイの福音書20章
この章は、主への奉仕は、単にどれだけの仕事を成し遂げたかではなく、受け入れた機会に応じて報われることを示すために、王国のたとえ話で始まります。
「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」」
(マタイの福音書20章1~16節)
これは天の御国の奥義としての姿を表わしているため、当然、家の主人は主御自身を表わします。
働き手とは、大いなる収穫の畑で主の召しを聞く者たちです。
主人は最初に雇われた者たちに1日1デナリオンの賃金を約束した。
これは現代の25セント硬貨より少し小さい銀貨で、非常に少額に思えるかもしれないが、当時の日雇い労働者の通常の賃金であり、一日の同等の金貨よりもはるかに大きな購買力を持っていた。
したがって、合意された賃金は極めて公正であり、これらの者たちが受け取ることが期待できる金額でした。
日が暮れるにつれ、農夫は4回市場へ出かけました。
3時間目、6時間目、9時間目、さらには11時間目にも出かけていきました。
ここでは午前9時、12時、3時、そして、一日の終わりのちょうど1時間前の5時と表現されています。
ここでは3時、6時、9時、そして11時と表現されています。
農夫はそのたびに、手に入る労働者を雇い、仕事の報酬は彼らにふさわしい額を支払うと約束しました。
11時の労働者が失業した理由として挙げた言葉に注目してください。
彼らは雇ってくれる人がいなかったのです。
働く準備はできていましたが、機会が巡ってきません。
機会が巡ってくると、彼らはすぐにぶどう園で働くようにという依頼に応じました。
一日の労働の後、全員が当然受け取るべき報酬を受け取るよう求められました。
一同が驚いたことに、たった1時間働いた者にも一日分の賃金が支払われ、各グループのメンバーにも同額が支払われました。
一日中働いた者たちは、もっと多くの賃金が支払われるのは当然と考え、たった1デナリオンしか支払われなかったため、一日の重労働と暑さに耐えたのだと不満を漏らしました。
ところが、後から来た者たちは彼らと同額の報酬を受け取りました。
しかしながら、彼らは1日1デナリオンの労働契約を受け入れたという事実を見落としていました。
ぶどう園の主人はこの点を明確にし、自分は約束を守っている以上、彼らに不当な扱いはしていないと主張しました。
他の者たちに報酬を与えるかどうかは主人の自由です。
主人は、彼らの必要に応じて、そして彼らが最初に訪れた機会を喜んで受け入れるかどうかに応じて報酬を支払いました。
この原則は明確で「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」
そして、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」という言葉によって強調されています。
召しに応じる者はすべてが選ばれるので、奉仕の機会が与えられなかったとしても、雇用主を責めることはできません。
私たちにとっての教訓は明白です。
キリストのすべての弟子、主の命令に従い、奉仕への主の呼びかけに耳を傾けることが期待されています。
現れの日には、すべての人が単に時間の長さではなく、それぞれの働きの性質に応じて報われます。
イエスは長くは生きられませんでしたが、深い人生を送られました。
3年半の奉仕において、長い人生の中で誰よりもはるかに多くのことを成し遂げました。
この点において、多くの弟子がイエスにならってきました。
このたとえ話を聞いた後でも、弟子たちが王国で誰が一番偉いのかをまだ考えていたというのは悲しいことです。
「さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。
「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。
そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。
イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」
けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます。」と言った。
イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」
このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」」
(マタイの福音書20章17~28節)
「イエスは、エルサレムに上ろうとしておられた。」
イエスの教えといやしの働きは急いで終わりに近づいていました。
イエスは今、私たちのために最高のささげ物を払うために、エルサレムへ向かう決意を固めていました。
「彼らは人の子を死刑に定めます。」
自己中心と自己義認に目がくらんだ宗教指導者たちは、他のさまざまな罪に加えて、イエスを十字架の死に引き渡すという罪を犯すことになります。
霊的な生活と無縁の単なる宗教心は、信者たちをそこまで堕落させてしまうのです。
「三日目によみがえります。」
主は三日目に復活することを何度も明確に預言されましたが、弟子たちの心にはほとんど印象が残らなかったようです。
「ゼベダイの子たちの母」。
つまり、ヤコブとヨハネの母です。
彼女は明らかに、イエスがエルサレムで約束のメシアなる王として御自身を宣言することを期待しており、子供たちに新しい政府で最高の役職を二つも与えてもらいたいという野心を抱いていました。
マルコは、ヤコブとヨハネ自身も彼女の願いに同意したと記しています。
「ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」」
(マルコの福音書10章35節)
「ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」
彼女は息子たちが特別な評価を受けるに値すると感じていました。
その後の多くの母親と同じ様に、他の者が最善の役職に就き、自分たちが見落とされることのないよう、息子たちを前に進めようと努めました。
「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。」
イエスは拒まれ、十字架につけられる運命でした。
イエスと共に歩むことは、同じ道を歩むことを意味しました。
尊敬され、称賛されるのではなく、拒まれ、憎まれます。
「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。」
彼らは主の悲しみの杯にあずかり、死に至るバプテスマにあずかることになっていました。
後に主が義のうちに支配される際に、主の仲間たちを任命したのは父なる神です。
キリストの杯とバプテスマ
イエスは、御自身が飲まなければならない拒絶と憎しみの杯と、御自身が耐え忍ばなければならない死のバプテスマについて語られました。
ある程度、すべての弟子たちは、この両方を経験します。
しかし、イエス以外には誰も経験できない別の意味があります。
私たちのために飲み干された裁きの杯と、十字架上で耐え忍ばれた罪に対する神の怒りのバプテスマは、イエスだけが受けられるものでした。
「このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」
地上に示された神の御国は、聖徒たちが主と共に支配する領域です。
その王国において、各人は主に拒まれた期間における献身の度合いに応じて報いを受けます。
御父は、栄光の日に彼らに優先権を与えることを定められました。
「このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。」
他の二人の無謀さに憤慨したにもかかわらず、残りのすべての弟子たちは、同じ野心を抱いていました。
彼らは、自分たちよりも先に、最高の地位を手に入れようと企てたと感じたのです。
「偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。」
地上の王国では、人々は権力を握り、支配し、他者を自分の意志に従わせる能力ゆえに、下々の者から尊敬されます。
神の御国では全く逆です。
この世において偉大な人とは、断固たる意志と効果的な行動力を持ち、仲間に打ち勝つことができる人です。
しかし、キリストの王国において真の偉大さは、極度の謙遜さと、支配するよりも仕えることへの強い意志によって特徴づけられます。
「あなたがたの間では、そうではありません。」
天の御国では、柔和さと無私の奉仕が優先されます。
自分よりも他人を優先し、権力で支配するのではなく恵みをもって奉仕することは、私たちの王なる指導者の精神を現わすことです。
キリストの弟子たちの間では、地上の華やかさや世俗的な栄光の余地はありません。
個人的な出世を求め、兄弟たちに対して威張ろうとすることは、宇宙を創造したにもかかわらず、すべての人のしもべとなられた方の精神に完全に反します。
デオテレペス(ヨハネの手紙第三1章9節)の精神はキリストの精神から遠く離れており、すべてのしもべが避けるべきです。
しかし、エパフロデト(ピリピ人への手紙2章25~29節)の精神は、すべての人が見習うべき例です。
「私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません。」
(ヨハネの手紙第三1章9節)
「しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。
彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。
ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。
そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。
ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。」
(ピリピ人への手紙2章25~29節)
「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は」
競争があり、偉大になろうとするのではなく、小さくなろうとし、最高になろうとするのではなく、最低になろうとし、奉仕が重んじられ、世的な野心が嫌われるところには、キリストの御霊が現れ、神の御国の原則が示されます。
「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
ここで主は、御自身がなぜこの世に来られたのかをはっきりと教えています。
主はこの世が創造される前から父の御元で持っていた栄光を捨てていません。
そして、この場面でより大きな栄光を求めることになります。
「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」
(ヨハネの福音書17章5節)
主は人に仕えるために来られました。
それは、日々の物質的、あるいは霊的な必要を満たすためだけでなく、私たちのために命を捧げ、罪の償いとしてささげ物の死を遂げることによって、私たちを罪とその罰から贖うためです。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
(ヨハネの手紙第一4章10節)
主イエス・キリストは人に新たな理想を与えられました。
真実な偉大な人とは、自分の利益ではなく、他者の祝福を求める人であることを示してくださいました。
この地上においても、利己心のない生き方こそが最も満足のいく生き方です。
旧約のネリヤの子バルクに与えられた教えはこのように記されています。
「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。」
(エレミヤ書45章5節)
これは、生まれながらの人間の傲慢さと自己主張とは正反対です。
「彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。」
(詩篇49篇18節)
結局のところ、箴言の真理は変わりません。
「しかし、りっぱなことばは尊重しなければならない。」
(箴言25章27節)
この本質ゆえに、御自身を主張し、御自身が創造した人々から認められ、名誉を求める権利を十分に有していた主は、すべての者のしもべとなることを選ばれました。
主は人となるために御自身を低くされましたが、それだけでは十分ではありません。
人として、イエスはしもべの代わりになり、ついには十字架のささげ物となって私たちのために死にまで身を捧げ、私たちを神のもとへ贖い出してくださいました。
イエスは働きと自己犠牲の尊厳を栄光に輝かせ、その模範を示し、全く新しい偉大さの基準を与えてくださいました。
イエスは地上のさまざまな栄光で尊ばれている者を卑しめます。
それが単なる利己主義であり、神の是認に反するものであることを示してくださいました。
「万軍の主がそれを計り、すべての麗しい誇りを汚し、すべて世界で最も尊ばれている者を卑しめられた。」
(イザヤ書23章9節)
それは目先の利益のためではなく、他者を祝福し助けるために仕えることです。
そして、私たちにはキリスト・イエスを通して惜しみなく与えられた神の恵みと愛への感謝を表すことを示してくださいました。
これこそ、イエスを救い主、主として知るすべての人にとって、称賛に値する志です。
人々の間で高く評価されるものは、しばしば神のみこころと完全に相容れないものです。
「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。」
(ルカの福音書16章15節)
野心的で精力的な人は、仲間よりも優れた者となるべく先頭に立って奮闘し、世の人々の称賛を浴びます。
世の人々は、目先の利益こそが最大の望みであると考えています。
しかし、イエスは、柔和な者が地を受け継ぐと教えられました。
「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」
(マタイの福音書5章5節)
ある人は彼らを「恐ろしく柔和な者」と呼びました。
彼らは人々に見過ごされ、注目されないことに満足しますが、主の承認を何よりも大切にします。
彼らは信仰によって世に打ち勝ちます。
「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」
(ヨハネの手紙第一5章4節)
彼らは目先の利益を手放す余裕があります。
なぜなら、キリストの裁きの座で確かな報いを見いだすことを知っているからです。
主と弟子たちはエルサレムへと向かって進んでいました。
彼らはエリコの町に入りました。
ルカの福音書によると、イエスはそこでザアカイと出会いました。
ザアカイはキリストを知ることで人生が一変し、二人の盲人もそこで目が見えるようになりました。
「彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。
すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。
「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」
そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。
すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」
彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」
イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」
(マタイの福音書20章29~34節)
一見すると、こことマルコの記述と、ルカの記述の間に矛盾があるように思われます。
ルカの福音書にはこのように記されています。
「イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。」
(ルカの福音書18章35節)
マタイとマルコはどちらも、この出来事がエリコを出発する時に起こったと記しています。
しかし、ルカがバルテマイがイエスがエリコに近づいたときに道端に座って物乞いをしていたと記しています。
それに対し、他の二人の福音書記者は、実際のいやしはイエスがザアカイの家を訪問した後、エリコを出発する際に起こったと記しており、そのことを理解すれば、混乱は生じません。
福音書の記録におけるこれらの一見矛盾する点は、複数の筆者が共同で記述したからではなく、それぞれが自身の情報と聖霊の導きに従って出来事を語ったことでより確実にしています。
法廷で証言をする際によく知られている原則として、複数の証人が全く同じ言葉遣いをしている場合、彼らは相談しているか、弁護士から何を言うべきか指示を受けていることが明らかになります。
同じ物語がわずかな違いを伴って語られることもありますが、十分に調査すれば、それらは互いに全く矛盾せず、証言者の視点を強調することになります。
マタイはここで、道端に座っていた二人の盲人のことを述べています。
しかし、マルコとルカは一人だけ、それもバルテマイという名の盲人のことを述べています。
二人の盲人がいたのです。
聖霊はマタイにこの点に関して誤りを犯さないように導きました。
しかし、二人の中ではバルテマイの方が強く目立っており、マルコとルカの記述で注目しているのはバルテマイであることは明らかです。
イエスが通り過ぎるのを知った盲人たちは「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫びました。
これは、イエスがメシアであることを認めた証しです。
彼らはイエスが、盲人に視力を与え、その他にも驚くべき御業を行っていた約束されたダビデの子であるという真実を信じました。
群衆は、まるでイエスが彼らのような哀れな者たちを気に留めてないかのように、静かにするようにと彼らを叱責したと伝えられています。
しかし彼らは黙ることを拒み、ますます叫び続け、切実に必要としている助けをイエスに願いました。
イエスは立ち止まり、彼らを呼び寄せ、優しく尋ねました。
「わたしに何をしてほしいのか。」
イエスは彼らの望みをよく知っていましたが、常に人々が心にあることを告げてくれることを好まれました。
彼らは一瞬の躊躇もなく「主よ。この目をあけていただきたいのです」と答えました。
イエスは限りない哀れみによって、彼らの願いを聞き入れられました。
イエスが彼らの目に触れると、彼らはすぐに見えるようになり、イエスに従って道を歩み始めたと伝えられています。
イスラエルの有力者や権力者たちがイエスを拒む中、長年盲目の物乞いであったこの二人は、イエスをイスラエルの然るべき王と認め、喜んで受け入れたのです。
マタイの福音書21章
主のエルサレムへのいわゆる凱旋入城は、地上における宣教活動の最後の週の初め、すなわち死と埋葬、そしてそれに続く栄光の復活の中で、最高潮の出来事です。
この入場はこれらの時期の初めに行われましたが、これは詩篇118篇の部分的な成就です。
詩篇118篇では、主は拒まれた石として描かれ、最終的には隅石とされます。
まず少数の人々が「ホ・サンナ」(「今お救いください」)、もしくは「主の御名によって来られる方に祝福あれ」(詩篇118篇25、26節)と叫び受け入れました。
「ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。
主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。」
(詩篇118篇25、26節)
しかし、その時、王国が樹立されたのではありません。
次に起こったのは十字架でした。
主は、いわばささげ物の動物のように祭壇の角に縛り付けられました。
「主は神であられ、私たちに光を与えられた。枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。」
(詩篇118篇27節)
イエスがロバに乗ってオリーブ山の斜面を下り、聖都エルサレムに入城された時、エルサレムに迎え入れた人々は、イエスの勝利の時が来たと確信したはずです。
。
彼らは、イエスが王権を行使し、イスラエルと従属諸国に対する哀れみ深い支配を開始し、エルサレムが再生された世界の首都となることを信じていました。
これらはすべて神の定められた時に起こります。
しかし、イエスにはまず成し遂げるべき別の働きがありました。
この民衆の喝采の中、エルサレムに入城されたイエスは、ローマの十字架上での死の序章に過ぎません。
そこでイエスは、民の罪を和解ではなくのでなく、償うための贖罪の業をなさるのです。
「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」
(ヘブル人への手紙2章17節)
すでに述べたように、イエスにとって十字架なくして王国はあり得ません。
イエスが受けた歓迎が誠実なものであったことは、疑う余地もありません。
祭司長や律法学者たちの批判に対するイエス自身の言葉が、それらのことを明らかにしています
「そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。
「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」」
(マタイの福音書21章16節)
このようにイエスの来訪を喜んだ人々は、真実な状況を何も理解しておらず、預言者たちの預言も理解していません。
キリストが栄光に入る前に、まず拒絶され、多くの苦しみを受けなければならないという預言があります。
「するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」
(ルカの福音書24章25~27節)
「それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、
言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。
もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」
これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。
「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」
そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。
そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。
そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」
こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。
群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。」
(マタイの福音書21章1~11節)
主イエス・キリストがこの世を歩まれた際、そのすべての行為は預言の言葉と完全に一致しています。
ゆえに、御父の御心への服従を果たしました。
エルサレムに入城されたとき、イエスは御国の到来ではなく、すぐにでも受けるべき受難を知っていました。
しかし、御自身を遣わされた方への完全な服従の道からイエスをそらすものは何もありません。
イエスは御自身がとられたすべての立場でこれらのことを表現しました。
その比類なき完全さは、イエスのさまざまな行いに表れています。
イエスは、敵の冷酷で痛烈な批判に耐えられたのと同様に、恵みをもってイエスをダビデの子と称える子供たちや年長者たちの称賛を受け入れられました。
イエスにとって、生涯の唯一の至高の目的は、御父に栄光を帰すことです。
かつて聖なる都と呼ばれていたものの、今や罪によって汚され、形ばかりの敬虔さは力なきものになっていました。
その都に近づくにつれ、イエスの心はどれほど揺り動かされたことでしょうか!
イエスが王として現れる時が来ました。
そして、その準備として、イエスは二人の弟子を近くの村に遣わし、子ロバを手に入れさせました。
明らかに、これらのロバの所有者はイエスを知っており、イエスの主張を認めていた人々の中にいました。
なぜなら、その者たちはイエスがこの時点で自分の使用するロバの権利を直ちに認めたからです。
ゼカリヤは王が王都に入城すると預言していました。
「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」
(ゼカリヤ書9章9節)
イエスが調教されていない子ろばに乗ってオリーブ山を下り、エルサレムに入城され、この預言はすべて文字通り成就しました。
弟子たちは自分たちの着物をその子ろばの上に鞍として広げ、主イエス・キリストを座らせました。
この謙虚な被造物は救われるために来られた人々よりも、創造主であるイエスに深く従ったことは、意義深いことです。
「群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、」
まさに東洋的な光景です。
群衆の一部はイエスの前の道に衣を敷き詰め、またある者たちはヤシの枝を切り取ってイエスの行く道に撒き、イエスを然るべき王として称えました。
「ダビデの子にホサナ」
既に述べたように、この詩とそれに続く言葉は、勝利の詩篇、すなわち詩篇118篇からの引用です。
「ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。
主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。」
(詩篇118篇25、26節)
そこでは、王である民たちが自分たちの王を「偉大なダビデのさらに偉大な子」と称えています。
この詩篇の完全な成就は、後に主御自身が預言されたように、主の再臨を待っています。
「あなたがたに告げます。
『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」」
(マタイの福音書23章39節)
「都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。」
エルサレム中に歌声と歓喜の声が響き渡り、人々は驚きに心を躍らせ、自分たちの町にこれほどの喝采を浴びせたのは誰なのかと尋ねました。
これは、何世紀も前にソロモンが王として迎えられた時の出来事の再来でした。
「そこで、祭司ツァドクと預言者ナタンとエホヤダの子ベナヤ、それに、ケレテ人とペレテ人とが下って行き、彼らはソロモンをダビデ王の雌騾馬に乗せ、彼を連れてギホンへ行った。
祭司ツァドクは天幕の中から油の角を取って来て、油をソロモンにそそいだ。
そうして彼らが角笛を吹き鳴らすと、民はこぞって、「ソロモン王。ばんざい。」と叫んだ。
民はみな、彼のあとに従って上って来た。民が笛を吹き鳴らしながら、大いに喜んで歌ったので、地がその声で裂けた。」
(列王記第一1章38~40節)
ソロモンが予型に過ぎなかった者が今、彼らの中にいるにもかかわらず、多くの人は彼を知りません。
「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」
喜びにあふれた群衆は、熱烈な信仰をもってイエスを預言者であると宣言しました。
彼らのほとんどは、イエス主御自身が主張する通りの人物であると確信していたガリラヤの人々であったことは間違いありません。
イエスを声高らかに歓迎した子供たちやその他の人々は、イエスをダビデの真実な子、すなわちシオンで支配する者と称えた時、神の御言葉に完全に一致した行動をとっていました。
他の多くの機会と同じ様に、祭司長や律法学者たちは、御言葉の文字には精通していたにもかかわらず、この重大な出来事には全く無関心でした。
ゼカリヤの預言
この箇所(ゼカリヤ書9章9、10節)において、主の二度の再臨がどのように結び付けられているかは興味深い点です。
9節では、王が地上の首都に乗り込み、民に然るべき支配者として御自身を現す場面が描かれています。
しかし、10節はこれに非常に忠実に従っているにもかかわらず、そこに描かれている出来事は主が再臨されるまで完全には成就しません。
再臨の時、主は諸国民に平和を告げ、全世界に主権を確立されるのです。
「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。
わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。」
(ゼカリヤ書9章9、10節)
詩篇118篇
この詩篇は、イスラエルを救うために主が立ち上がられる時、すなわち彼らのすべての試練が終わり、正しい者の幕屋で得られる喜びと救いの祝福に入る時の事が述べられています。
「喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある。主の右の手は力ある働きをする。」
(詩篇118篇15節)
しかし、このすべての祝福は、最初に祭壇の角にささげ物として縛られた方にかかっています。
十字架の御業が成し遂げられるまでは、王国はあり得ないということは、永遠の昔から神のみこころによって定められていました。
イエスが受けられた歓迎は神の計画と完全に一致していました。
しかし、当時イエスを王として戴冠しようとした人々は、イエスがまず多くの苦しみを受け、十字架につけられ、そして死から復活しなければならないことを知らなければなりません。
神の定められた時に、残りの預言は輝かしい成就を見ることになります。
イエスは町に入ると、ユダヤ人の礼拝の中心地を訪れ、ヨハネが伝えているように、以前行ったようにそこでの権威を行使しました。
「彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。
その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。
そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。」
(マタイの福音書2章13~17節)
神殿の清めは、イエスにとっては、御父の家が汚された父の御子としての権威を主張することを意味していました。
「それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
また、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。
ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ。」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。
そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。
「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」」
(マタイの福音書21章12~16節)
「イエスは宮にはいって」
イエスにとって、神殿は御父の家でした。
そこはかつて、ヤハウェが御名を置かれた場所でした。
しかし、そこは汚れ、汚染され、世界中からヤハウェの年ごとの祭り、つまり定められた時を守るためにやって来る多くの巡礼者を助けるという名目で、商売の場と化していました(レビ記23章参照)
「わたしの家は祈りの家と呼ばれる。」
これは預言者イザヤが宣言した神の目的です。
「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」
(イザヤ書56章7節)
来るべき神の御国の日に、エルサレムが真に世界の礼拝の中心地となる時、すべての国々が集まる新しい神殿が建てられます。
当時モリヤ山に建っていた神殿は「強盗の巣」となり、神を辱め、人々をつまずかせるものとなっていました。
「宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。」
神殿の主であるイエスは、御自身の救いの力を現すためにおられました。
様々な身体の病に苦しむ人々はイエスを訪ね、イエスは恵みと憐れみによって彼らを癒されました。
「祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ。」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。」
傲慢で横柄な律法主義者たちは、イエスの慈しみと愛に満ちた優しさに憤慨しました。
感謝に満ちた民衆の称賛は、彼らにとって辛辣で痛烈なものでした。
人々が「ダビデの子にホサナ」と叫ぶのを聞いた時、彼らはイエスを喜んで認めるなどとは考えられません。
イエスの力ある御業は、イエスのメッセージの神性と権威を証ししています。
「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。
そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。」
(ヨハネの福音書5章30節)
彼らはイエスにそのような栄誉が与えられることに憤慨しました。
「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」
彼らは、イエスが人々に「ダビデの子」と呼ぶことを許したことを非難しました。
それはイエスをメシアと認めるに等しい行為であり、群衆を叱責するようイエスに求めました。
しかしイエスは彼らの激しい非難に耳を貸さず、詩篇の一節を彼らに示しました。
まさに、それはこの状況に適応していました。
「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。」
(詩篇8篇2節)
自己義認的な指導者たちが軽蔑していた子供たちや庶民は、その正直さと純朴さによって、神から教えを受けていたことを証明し、イスラエルの救い主としてこの世に来られた父なる神の遣わされた者としてイエス・キリストを敬いました。
夕方になると、イエスは町を出てベタニアへ出かけました。
記録によれば、イエスは逮捕されカヤパの家に連れて行かれるまで、エルサレムで一夜を過ごしてはいません。
友人のラザロ、マルタ、マリアの家に泊まったか、もしくは他の都合の良い場所に泊まったのかもしれません。
「イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。
翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。
それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」
イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。
もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。
あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」」
(マタイの福音書21章17~22節)
ベタニアの家はイエスにとって非常に大切な場所でした。
地上での滞在の最後の夜、イエスがそこの小さな家族と親しく交わっていたことは容易に想像できます。
イエスは毎朝、弟子たちと共に町へ向かわれました。
二日目の朝、彼らが町に入ると、イエスは実を結ばないいちじくの木を見て、深刻な裁きを宣告されました。
いちじくの木は、ぶどう畑に植えられたいちじくの木として、イスラエル、あるいはユダの象徴として広く知られています。
イエスが来られた時、そこには宗教儀式のための葉はありましたが、神のための実はありません。
こうして、彼らは今に至るまで、律法の不毛の中に引き渡されたのです。
この木が葉で覆われていたという事実は、当然ながら実を結んでいたことを示しています。
なぜなら、この木のほとんどの品種では、葉よりも先に実が実るからです。
イエスはこの事実をよく知っていました。
しかし、たとえ話を演じるために、実を探すためにこの木のところに行くことを選ばれました。
イチジクの木に関する三つの箇所には明確に繋がりがあります。
神がユダヤ人とどのように関わってきたかを、ディスペンセーション的な視点から描いています。
「イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」」
(ルカの福音書13章6~9節)
「イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。
翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。
それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」」
(マタイの福音書21章17~20節)
「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」
(マタイの福音書24章32、33節)
夕方、主がベタニアへ帰途に着かれると、弟子たちは、朝は全く実を結ばなかったにもかかわらず、青々と茂り木が、見事に枯れ果てていたこの木を見て驚きました。
弟子たちはこれに驚き、イエスは再び機会を捉えて、信仰の大切さについて教えを説かれました。
再び、イエスは以前と同じたとえを語りました。
「イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」
(マタイの福音書17章20節)
つまり、からし種ほどの信仰に対する返答として山が海に投げ込まれるというたとえを用い、「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」という、はっきりとした、心を鼓舞するような宣言を付け加えられました。
これは、神が私たちのさまざまな願いを聞き入れ、求めるものは何でも与えてくださるという保証として理解されるべきではありません。
信仰をもって祈るということは、神の啓示された御心に従って祈り、心の中に罪悪感を持たないことを意味しています。
しかし、人が神御自身と正しい関係にあり、その祈りが神の既知の御心と一致するという信仰に基づくものであるならば、神の応答は確実です。
別の機会に神殿で教えを説かれたイエスは、宗教指導者たちから、そのように行動する権威について問われました。
このように記されています。
「それから、イエスが宮にはいって、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。
「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」
イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。
もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。
ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」
すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。
しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」
そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません。」と言った。イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」
(マタイの福音書21章23~27節)
これらの祭司や長老たちは、しばしば非常に疑わしい権威に基づいて行動していました。
しかし、宮を「強盗の巣窟」にした者たちから宮を清め、イエスが行ったように民に教える権利があるかどうか疑問視していました。
イエスは、彼らのような批判者たちによく用いてきた慣例に従い、誘導的な質問をして答えました。
ヨハネのバプテスマについてはどうでしょうか?
それは神からの賜物だったのでしょうか?
それとも、ヨハネは純粋に人間的な観点から行動したのでしょうか?
彼らは自分たちの不正と不誠実さに囚われていることに気づき、「わかりません」と答えました。
もし、ヨハネが神から遣わされたと認めれば、なぜ彼を信じなかったのか説明できなくなることを彼らは知っていました。
信じなかったなら、ヨハネが約束のメシアと宣言した方を受け入れることができたはずです。
一方、もしヨハネの天からの使命を否定すれば、民衆の怒りを買い、民衆に対する影響力を失うことになります。
なぜなら、彼らはヨハネを主の預言者だと広く信じていたからです。
彼らが無知であり、答えられないことを認めると、イエスは静かにこのように答えました。
「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」
彼らを説得しようとするのは時間の無駄です。
なぜなら、よく言われるように、「見ようとしない者ほど盲目なものはない」からです。
この章は2つのたとえ話で終わりますが、どちらも主の証言と要求にすぐに従うことを拒むことの重大さを示すために作られています。
神の哀れみを軽視することは、極めて危険な行為です。
ユダヤ人の指導者たちは、イエスを拒むことで自分たちの破滅を決定づけていることに、何も気づいていません。
イエスは、もし彼らがイエスを受け入れていれば、神から遣わされ、彼らを完全な祝福へと導くはずです。
彼らは利己心に目がくらみ、彼らが崇敬すると告白していた預言者たちの聖句に示された全く同じメシア来訪したにもかかわらず、それを認めることができずに、その機会を逃したのです。
御言葉の文字だけを知っただけでは、誰も救われません。
神の書が語るキリストを信じる者こそ、「救いに至る知恵」を得る者なのです。
「また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」
(テモテへの手紙第二3章15節)
イエスを拒むことは、致命的な行為です。
これは今、私たちが取り組むべき深刻なテーマです。
キリストを拒むことの危険性を、誰が的確に描写できるでしょうか?
神は、想像し得る最も感動的な人物たちを用いて、神の恵みと救い主を拒む者が待ち受ける悲惨な運命を警告しておられます。
イエスに呪われた実を結ばないいちじくの木は、神のために実を結ばず、拒まれ、それ以来、いわば根こそぎ枯れ果ててしまった宗教国家を象徴しています。
二人の息子のたとえ話は、従順を装いながらも実際には実行しなかったユダヤ人の律法に固執する自己義認的な指導者たちと、福音の真理の御言葉を聞いて従ったユダヤ人と異邦人双方の哀れな罪人たちのたとえ話を対比させています。
ぶどう園のたとえ話は、地上の民が自分たちの聖書の教えに従って御子を拒むまで、神が彼らを顧み、忍耐強く見守ったことを物語っています。
結婚披露宴の物語も同じ真理を強調しています。
信仰の扉が異邦人にも開かれることを示していますが、結婚衣装を拒んだ男の場合のように、単なる告白は最終的に裁きしかないという警告も与えています。
「ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。
その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。
兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。
それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。
ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。
「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。
というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。
しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」
(マタイの福音書21章28~32節)
「ある人にふたりの息子がいた。」
この聖句は、口先だけの男性と、霊的な現実に誠実な関心を持つ人の二種類の姿を描いています。
「兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。」
この少年の中に、私たちは神の恵みによって屈服し悔い改めに至らしめられるまで不従順を貫いたわがままな息子の姿を見ることができます。
「弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。」
これは、シナイ山の麓で主の言われたことばを思い起こさせます。
「そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。「主の仰せられたことはみな行ない、聞き従います。」」
(出エジプト記24章7節)
その日から、イスラエルの律法主義の歴史が始まりましたが、その後の彼らの歩みは、一貫して神に服従していません。
「これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。」
(ローマ人への手紙2章24節)
「取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。」
自分が罪人であると告白した者こそ、恵みの必要性を感じ、悔い改めて神に立ち返り、新たな誕生を通して神の御国に入ります。
「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」」
(ヨハネの福音書3章3節)
「イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」
(ヨハネの福音書3章5節)
「ヨハネが義の道を持って来たのに」
ヨハネは神の被造物に対する義の要求を宣言し、この基準に達しなかった人々に悔い改めを呼びかけるために来ました。
律法主義者たちは無関心に背を向けましたが、困窮した罪人たちは従いました。
ぶどう園のたとえ話は、過去と未来の両方に適応できます。
このたとえは「神がイスラエルに対して過去にどのような道を歩み、彼らが神の使者を拒んだことを描いています。
同時に、イエス御自身がご自分の民に拒まれ、死に引き渡される数日後に成し遂げられることを預言的に描いています。
「もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。
すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。
そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。
しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。
すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』
そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。
このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」
彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』
だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。
また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」」
(マタイの福音書21章33~44節)
「ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って」
家の主人とは神御自身であり、ぶどう園とはイスラエルのことです。
(イザヤ書5章1~7節参照)
農夫たちはユダの指導者であり、民を正しい道に導く責任を負っていました。
「農夫たちのところへしもべたちを遣わした。」
これらは、ヤハウェの代表者として時折やって来て、神の要求を民に与えた預言者たちです。
「農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。」
イスラエルとユダは主の名のもとにやって来た者たちをこのように扱いました。
「あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。」
(使徒の働き7章52節)
「その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。」。
これは、主イエスを遣わされた神の恵みを、見事に描いています。
イエスは父なる神の代表としてパレスチナにきました。
「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」
(ヨハネの福音書6章38節)
「イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。
わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」」
(ヨハネの福音書7章28、29節)
しかしイエスは、彼らがかつて預言者たちを迫害したように、自分を拒むことをよく知っていました。
「あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。」
キリスト自身の民による拒絶は、すべての恵みの神に対する、サタンの悪意に動かされた自然の心の憎しみの最も完全な現れでした。
「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」
(使徒の働き2章23節)
「彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。」
ユダヤ人の指導者たちが主を死に引き渡した罪を免罪しようと試みるのは無駄です。
「ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。」
(テサロニケ人への手紙第一2章2節)
「兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。
彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。
ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。」
(テサロニケ人への手紙第一2章14、15節)
実際には、主を十字架につけたのは異邦人でしたが、潜在的にはユダヤ人が主を殺したのです。
両者とも、歴史上最大の犯罪、すなわち神のキリストの殺害に関与しています。
「地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。』
事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、」
(使徒の働き4章26、27節)
「ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」
イエスは、彼らが御自身をどのように扱うかを予見して、たとえ話をここまで聞いてきた人々に直接質問しました。
イエスは彼らに自分たちの罪を宣告させようとしました。
「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」
彼らは知らず知らずのうちに、神がこれから行おうとしていることを告げていました。
彼らの言葉は、エルサレムの滅亡と、ユダヤ人が異邦人の民に取って代わられたことで成就しました。
「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。」
イエスは詩篇118篇22節の明確な預言を人々の注意に促しました。
「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。」
(詩篇118篇22節)
イエス御自身が捨てられた「石」です。
しかし、イエスの復活によって、神はイエスを、これから建てる生ける石の新しい神殿の隅の礎の石とするのです。
ユダヤの伝説によると、この聖句は、ソロモンの神殿建設当初、石切り場から石が運び出されたが、職人たちはそれを置く場所が見つからず、モリヤ山の麓の谷に投げ込まれたというものです。
「家を建てる者たちの捨てた石」です。
後に彼らは礎石の準備ができたと連絡しましたが、石工たちはすでに礎石が送られたと主張しました。
最終的に、誰かがその拒まれた石を呼び戻し、谷を捜索した結果、それが発見されました。
それは再びモリヤ山に持ち上げられ、礎の石となりました。
「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」
肉のイスラエルは捨て去られることになっていました。
彼らが長らく待ち望んでいた神の御国は永遠に失われることになる。
新しく選ばれた民、新生したイスラエルが、やがて神の御国を所有することになります。
その間、神の恵みは異邦人にも及ぶのです。
キリストは救いの石であり、また裁きの石でもあります。
ユダヤ人はキリストにつまずき、打ち砕かれました。
「そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。」
(イザヤ書8章14節)
いつの日か、キリストは異邦人の力の像に落ちてそれを粉々に砕く石として再び来られます。
「あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。
そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。
そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。」
(ダニエル書2章34、35節)
たとえ話の適用に関しては、主の話を聞いた人々の心には何の疑いもありません。
「祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちをさして話しておられることに気づいた。
それでイエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。」
(マタイの福音書21章45、46節)
不忠実な農夫たちの姿に自分の姿を重ね合わせたパリサイ人たちは、悔い改めの兆しも、神の御言葉に従う意志も示していません。
それどころか、彼らはイエスへの反抗をますます強めているように見えました。
彼らはイエスは神の油注がれた者であり、父なる神の恵みによって遣わされた相続者であり、彼らを従順の道へと導き、イスラエルの指導者としての責任を認めさせる者でした。
もし、彼らに勇気があれば「イエスに手をかけ」、すぐに排斥しようと試みたはずです。
しかし、イエスを預言者とも信じていた群衆への恐怖によって、彼らは再び思いとどまりました。
神の恵みによって抑制されない限り、生まれながらの心の悪は、矯正不可能な悪なのです。
マタイの福音書22章
主が宣教の終わり頃、ゲッセマネの園へ行きました。
そして、そこから裁きの場、そして十字架へと向かいます。
その直前にエルサレムの人々に語られたこの印象的なたとえ話の中で、主はこの場面において神が人々をどのように扱われるかを、驚くべき摂理的観点から説明されました。
これは天の御国に関するもう一つのたとえ話です。
告白という領域と関係があります。
そして、これは主の不在の間に何が起こるかを物語っています。
「イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。
「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。
王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。
それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。
「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』
ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、
そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。
王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。
そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』
それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。
ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。
招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」」
(マタイの福音書22章1~14節)
「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。」
「王」とは神であり、王子とはキリスト御自身のことです。
結婚とは、キリストを信じる者とキリストとの結びつき、すなわちキリストに信頼を置き、このようにキリストと一つに結ばれた者のことです。
結婚の晩餐は、まさに福音の祝宴、すなわち神がその恵み深い招きを受け入れるすべての人のために備えてくださった良き祝宴です。
しかし、この祝宴は、神が御自身の愛する御子の喜びと栄光のために用意されたものであることに注目してください。
この思いは神の心に宿り、神は私たちを罪から救うために主イエス・キリストをこの世に遣わすことによって表現されました。
「王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった」と記されています。
この最初の招きは、イスラエルの家の失われた羊たちへのものでした。
王が用意した婚宴に来るようにと彼らに命じたのです。
彼らは恵み深い招きを拒みました。
「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
(ヨハネの福音書1章11節)
ユダヤ人がよくこのように尋ねてきます。
「もしイエスが、あなた方が言うように本当にメシアであるなら、なぜ、イスラエルはこれまで祝福を受けるどころか、苦しみ続けてきたのですか?」
答えは、イエス様イスラエルを救うために来られたが、彼らが拒んだため、異邦人にも招き入れられたのです。
王は家来たちを遣わしてイスラエルの民を招きました。
彼らは婚礼の招待状を持っていましたが、来ようとはしません。
イエスはこのように言われました。
「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」
(ヨハネの福音書5章40節)
彼らは祝宴に行かず、共に食事をしようともしません。
招きを受け入れるには、キリスト御自身を信頼しなければなりません。
次の節にはこのようにあります。
「それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』」
さて、これは同じ人々に差し出された二度目の、切迫した招きです。
招かれた人々に、婚宴の準備ができたと告げました。
それでも彼らは来ようとしません。
王は言いました。
「お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。」
使徒の働きの初めの章で、主イエスが昇天された後、ペテロと他の使徒たちがイスラエルに、キリストを拒んだことを悔い改め、主に立ち返り、主を信頼し、主を救い主と告白するようにと願ったことが分かります。
わずかな者は主を受け入れましたが、大多数の者は主を拒み、主のしもべたちを迫害しました。
「ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き」とあります。
農場を所有することに何か問題があるでしょうか?
商人であることに何か問題があるでしょうか?
全くそんなことはありません。
天に行けないのです。
もし、農場や商品に夢中になりすぎて、地上に目を向けることができなくなるなら、それは悲劇的な間違いです。
本来、正しいことでも、キリストと福音の代わりになれば、間違った選択になってしまいます。
このメッセージを受け取った人々はこう言いました。
「私たちには他にやらなければならないことが多すぎます。
農場を経営し、商品を売らなければなりません。
王の招待など、考える暇はありません。」
「そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった」と記されています。
そこには無関心な者もいれば、明らかに敵対的な者もいました。
彼らは実際にしもべたちを殺害しました。
初期の時代でさえ、神の愛する民、数百人が、神のメッセージを拒んだ者たちによって殺されました。
これを読んでいる人の中には、私はキリストに反対しているわけではありません。
教会にもキリスト教にも何も反対していません。
あまり興味がないのです。
他にやらなければならないことが多すぎて、気が回らないのです」と言う人がいるかもしれません。
あなたはまさに最初の部類の人々、つまり「ある者は畑に、別の者は商売に出て」行った人々のようです。
他の人々はキリストに敵対しているかもしれません。
しかし、次の点に注目してください。
どちらの部類の人々も結婚の宴に招かれなかったのです。
神の福音に単に無関心であろうと、実際に敵対していようと、結末は同じです。
ヘブル人への手紙2章3節には次のような質問があります。
「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。」
(ヘブル人への手紙2章3節)
この質問には、まだ答えが出ていません。
永遠に失われるためには、キリストに敵対する必要はありません。
「私はイエスを拒みます」と明確に言う必要もありません。
ただキリストを無視するだけでは、祝宴に招かれることはありません。
「やがて来る道は、永遠に至る家へ向かわせます。」
「いつか状況が変わったら、自分のたましいについて考えよう」と言うかもしれません。
しかし残念なことに、より都合の良い時を待っている間に人生の終わりが訪れ、あなたは永遠に暗闇の中に閉じ込められてしまいます。
次の節には「王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。」とあります。
キリストが拒まれ、十字架につけられた後も、神はイスラエルが悔い改めるのを40年ほど待ちました。
しかし、彼らは悔い改めません。
そこで神は軍隊を遣わされました。
軍隊?
そうです。
神は万軍の神、万軍の神です。
そして、ある国が神に対して罪を犯し、裁きの刑に処さなければならない時に、神は他の民の軍隊を遣わして彼らに裁きを下されました。
このとき、神はローマ軍にエルサレムへの侵攻と破壊を許されました。
エルサレムの最終的な破壊は、主イエスの言葉の成就です。
「まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
(マタイの福音書24章2節)
父なる神は御子を深く愛しておられ、人々が意図的に御子を拒み、軽蔑する時、神の憤りは燃え上がります。
イスラエルとの交渉において、神は実際にエルサレムを滅ぼし、それ以来人々は世界中に散らされてきました。
彼らは永遠の命に値しないことを示しました。
では、神の宴会場は空っぽなのでしょうか?
神の招待を受け入れ、御子の栄光のために出席する人は誰もいないのでしょうか?
いいえ、そんなことはありません!
神は結婚の宴に客が招かれるようにし、思いもよらない場所で彼らを見つけられます。
聖書にはこのようにあります。
「王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』」
今、私たちは福音が異邦人へと広まっているのを見ています。
イスラエルには機会がありました。
彼らは婚礼への招待を受けていたにもかかわらず、それに応じていません。
そこで神はしもべたちにこのように言われます。
『垣根や道に出て行き、さまざまな階層の人々のところへ行きなさい。
どんな境遇の人であろうと、どんなに汚れていようと、どんなに卑しく罪深い人であろうと、婚礼に招き入れ、中に入るように招き入れなさい。』」
そして、「しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めた。宴会場は客でいっぱいになった」と書かれています。
これは、過去1900年間の出来事を鮮やかに描いたものです。
神のしもべたちは国から国へ、街から街へ、そして地の果てまでも行き来してきました。
彼らはさまざまな所へ行き、貧しい、失われた人々を、神が御子のために用意された婚宴に招き入れてきました。
多くの人がその招きを受け入れました。
しかし、異邦人の中にキリストを拒み、来ることを拒んだ人々が大勢いるのです。
あなたもその一人でしょうか?
あなたはクリスチャンの家庭に生まれ、生涯を通してそのメッセージを聞いてきたかもしれません。
「お父さん」や「お母さん」と発音できるようになった後に初めて発音を覚えたのはイエスの御名だったかもしれません。
それでもあなたはまだ救われず、罪の中にあり、キリストを知らないままです。
今、あなたは言い表せないほどの危険の中にいます。
神の御言葉にはこのように記されています。
「責められても、なお、うなじのこわい者は、たちまち滅ぼされて、いやされることはない。」
(箴言29章1節)
今、神は恵みによってあなたを救うために待っておられます。
招待が差し伸べられています。
来ませんか?
キリストを自分から受け入れますか?
明日は扉が閉ざされるかもしれません。
福音の招きを受け入れると告白しながらも、実際にはキリストを救い主として信じていない人がいます。
聖書にはこのように記されています。
「王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。」
さて、東洋の慣習によれば、偉人が一族の結婚の宴を催す際、客が宴席に着く際に着るふさわしい衣装を自分から用意したと伝えられています。
誰もが婚礼の礼服を着る機会がありました。
ですから、今日、神はすべての人が受け入れ、着る義務のある義の衣を備えておられます。
あなたはこのように言うかもしれません。
「私は神にも天国にもふさわしくありません。
贖われた者の中に数えられる資格はありません。」
愛する友よ、あなたがふさわしくないからこそ、あなたは来るように招かれているのです。
そして、あなたをふさわしい者とするのは神です。
あなたはキリストを救い主として信じますか?
「神が求めるのは、あなたが神を必要としていることを感じることだけです。」
ですから、ふさわしくないことは言い訳にはなりません。
罪人が悔い改め、キリストを信じて来るとき、主は彼らに救いの衣、義の衣を着せてくださいます。
この衣は結婚の晩餐にふさわしい身なりとなるための婚礼の衣です。
この宴会に、招待に応じると告白しながらも、婚礼の礼服を着なかった男が一人いました。
この男は、今日「私はそんなに悪い人間ではない!
救い主など必要ない!
今の私のままで十分だ!」と言う多くの人々、つまり自分の義に頼っている人々です。
ローマ人への手紙10章3節にはこのようにあります。
「というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」
(ローマ人への手紙10章3節)
この男が入ってくる様子が目に浮かびます。
王の召使たちが、入口から入ってくる客に礼服を配っていました。
しかし、この男が来ると、「そんな礼服は必要ありません。
新しい服を買ったばかりで、他に何も必要ないと思います。
今の姿で十分です」と言います。
「しかし、この礼服は王が用意してくださいました。
皆に着てほしいとおっしゃっているのです」と召使は答えます。
男は「私と何の違いもありません。
王は今の私の姿で満足されるはずです」と言い張ります。
召使は彼を中に通しました。
そして、客たちが食卓に集まった時が来ました。
王がやって来て、客たちを見渡します。
王は、この男が婚礼の礼服を着ていないのを見て、「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか?」と尋ねます。
王は言葉を失いました。
彼は祝宴への招待に応じました。
しかし、せっかく用意されていた婚礼の礼服は断ったのです。
彼は、教会に入会してもキリストを個人的な救い主として受け入れていない多くの人々がいます。
これは、いつか起こることを示しています。
王が客を見渡し、このように尋ねます。
「友よ、婚礼の衣を着ないでここに来たとは、一体どういうことでしょうか?
あなたは真実に生まれ変わっていないのに、どうして我が子への信仰を告白する人々の中に居座っているのですか?
救われたこともないのに、どうしてクリスチャンの集まりに加わっているのでしょうか?」
これが真実な意味です。
そして、その日には、誰も言い訳をしようとはしません。
ああ、少し前までは、この男は王のしもべたちに説明する用意ができているのだと考えていました。
彼は自分の主張をうまくまとめていましたが、いざ王の前に立つと、言葉を失ってしまいました。
あなたはたましいの救いのために、自分の良い行いに頼っていたのかもしれません。
おそらく、子供の頃にある教会に入会したという事実に頼って、それが天に行けると考えているのかもしれません。
あるいは、バプテスマを受け、いわゆる聖餐式を受けたという事実、あるいは生活を変えて以前のような生き方をしなくなったという事実に頼っているのかもしれません。
しかしこのように記されています。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
(使徒の働き4章12節)
タルソのサウロはかつて婚礼の衣を拒否しました。
彼は婚礼の衣がなくても神にふさわしいと考え、キリストは必要はないと考えていました。
彼には自分自身の義がありました。
しかし、ダマスコへの途上で、彼は自分の義がすべて汚れた布切れのようなものであることを悟りました。
彼は栄光のうちに天の神の右に座しておられるキリストを目にして、このように叫びました。
「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。
私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」
(ピリピ人への手紙3章7~9節)
婚礼の衣は信仰による神の義です。
これはすべての人に与えられていますが、キリストを信じる者だけが持っています。
あなたは婚礼の礼服を着ているでしょうか?
もし王が今夜、客人に会いに来たら、「友よ、婚礼の衣を着ないでここに来たとは、一体どういうことでしょうか?」
あなたは何も言えず、言葉を失います。
ああ、神の前に誠実に悔い改め、キリストを救い主として受け入れることが最善ではないのでしょうか?
今、主に告白しましょう。
「私は生まれ変わっていません。
宗教的な信仰を告白しながらも、私はまだ罪の中にいます。
私は救い主を必要とする、失われた罪人です。」
もし、あなたがこの告白をし、主に立ち返るなら、主はあなたを救おうとしておられます。
「そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。
招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」
あなたは「私は選ばれる者の中には入れないかもしれない」と言うでしょうか?
呼びかけに耳を傾けない限り、あなたは決して選ばれることはありません。
招待とはとは呼ばれることなのです。
一体何人が選ばれるのでしょうか?
呼びかけに応じる者、義の賜物を受け入れる者、キリストを信じる者です。
何百万もの人々が召されますが、何千人もの人々が選ばれます。
なぜなら、大多数の人々が神の御言葉を受け入れようとしないからです。
今、キリストを救い主として受け入れますか?
あなたは召されています。
選ばれた者の一人になりますか?
主に心を委ねますか?
主はあなたの答えを待っています。
もし、あなたが拒むなら、あなたに待ち受けているのは外なる暗闇の悲惨と惨めさだけです。
それは、王の御前から永遠の悲しみの中で追放されることを意味しています。
主の話を聞いた多くの人々の罪に心を閉ざしていました。
そのため、このたとえ話が、何の感動も与えなかったことは、その直後に起こったことから明らかです。
「そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにイエスをことばのわなにかけようかと相談した。
彼らはその弟子たちを、ヘロデ党の者たちといっしょにイエスのもとにやって、こう言わせた。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれもはばからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです。
それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。
納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。
そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」
彼らは、「カイザルのです。」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。」
(マタイの福音書22章15~22節)
これらの節を読むならば、ユダヤの指導者たちの偽善と欺きを主が暴かれたことに驚嘆します。
彼らは、御言葉に基づいて詳細な礼拝には非常にこだわりましたが、たましいに湧き上がる神の愛については何も知りません。
受肉された真理である方が彼らの中におられました。
彼らは、できれば主を神の律法と自分たちの慣習に反する者としてイエスを仕立て上げようとしただけでした。
それは、人々の前で主の信用を失墜させることであり、主を拒む自分たちの邪悪さを弁解するためでした。
主は彼らに光を当て、彼らが宗教心という外套で隠そうとしていた悪を明らかにしています。
彼らは「どのようにイエスをことばのわなにかけようか」探し求めました。
しかし、これらの宗教指導者たちには現実味がありません。
彼らはイエスを罠にかけようと躍起になり、イエスが何らかの方法で自分で罪を犯すことを望みました。
そうすれば、イエスを民衆の嘲笑の的として、ローマの権威に対する反逆者として総督に告発されるからです。
「ヘロデ党の者たち」
彼らはユダヤ教における親ローマ派の一派で、貪欲で腐敗し、世俗的な考えを持っていました。
彼らは敬虔を標榜するパリサイ人たちと結託し、イエスを罠にはめました。
「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。」
これは、主イエスに媚びへつらい、不利な発言をさせようとする巧妙な企てでした。
「税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
これはユダヤ人にとって悩ましい問題でした。
パリサイ派は概して否定的に答え、ヘロデ党派は肯定的に答えました。
しかし、両者とも律法を守っていました。
「イエスは彼らの悪意を知って言われ」ました。
「また、イエスは御自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」
(ヨハネの福音書2章25節)
「いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」」
(ヨハネの福音書16章30節)
イエスはこれらのずる賢い質問者たちの偽善をすでに見抜いておられました。
「納め金にするお金をわたしに見せなさい。」
ユダヤ・パレスチナの硬貨はこの目的には使われず、はるかに価値の高い特別なローマの通貨が使われました。
「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」
これらの硬貨には皇帝の肖像と、皇帝の名前と階級がラテン語で刻まれていました。
「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
この言葉でイエスは、神の民は霊的な事柄においては神に対して責任があることに答えています。
また、世的、国家的な事柄においては権力者に従わなければならないことを示し、彼らの質問に明確に答えました。
「彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。」
彼らはイエスの返答の正しさと賢明さを理解しましたが、弟子になりたいという気持ちは全く示しません。
彼らは意図的にイエスに背を向け、自分たちの思いのままに行動したのです。
イエスの言葉の前半「カイザルのものはカイザルに返しなさい」を強調しながら、後半「神のものは神に返しなさい」ということを忘れることで、彼らはイエスが強調していた真理を完全に見失っています。
はたして、私たちは自分が属する国や自分が暮らす政府への忠誠と同じように、神への忠誠を大切にすることになるのでしょうか?
次にイエスをモーセの律法に反対させ、死者の肉体的復活の可能性についての議論に巻き込もうとしたのは、唯物主義的なサドカイ派の人々でした。
「その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問して、
言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない。』と言いました。
ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。
次男も三男も、七人とも同じようになりました。
そして、最後に、その女も死にました。
すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」
しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。
復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。
『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」
群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。」
(マタイの福音書22章23~33節)
これらの人々がイエスの前に持ち出してきた出来事が、実際に起きたのかどうかは疑わしいことです。
この物語全体は、復活の教義を嘲笑するために作られた架空のものだったのかもしれません。
彼らによると、ある女性が7人の兄弟の妻となり、それぞれが亡くなった兄弟の次に年上の兄弟をめとったというものです。
そして最終的に、その女性は彼ら全員より長生きした後に亡くなったとされています。
そこで生じる疑問は、復活の際、彼女は誰の妻になるのか?というものです。
死後の世界と最終的な復活の現実性を否定するこれらの狡猾な者たちにとって、これは答えようのない疑問だと思ったのかもしれません。
これは、イエスがこの件に対して真実であると宣言したパリサイ人の教義の不合理さを示すために作られたものでした。
しかし主は、彼らの反論を黙らせるような方法を取られました。
主は彼らが霊感を受けたと認識していた唯一の聖句、トーラー、すなわちモーセ五書から彼らの疑問を解き明かされました。
主は、彼らの疑問は聖典と全能の創造主の力に対する無知に基づいていると宣言されました。
そして主は、尽きることなく燃えた柴のそばで御自身を現されたヤハウェの言葉をモーセに引用されました。
そこで神はこのように言われました。
「また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」
モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。」
(出エジプト記3章6節)
主は、これらの族長たちが地上に生きていた間、彼らの神であったとは言われません。
何世紀も後にモーセに語りかけたまさにその時、主は彼らの神でした。
主は死者の神、つまり、死によって完全に消滅した人々の神ではなく、生きている人々の神です。
なぜなら、すべての人、肉体においては死んでいても、主のために生きているからです。
そして、これは必然的に将来の復活を伴っています。
なぜなら、神はアブラハム、イサク、ヤコブに、彼らの過去の地上での人生では成就されないが、彼らが死からよみがえったときに成就される約束をなされたからです。
これに対してサドカイ派は何も答えることができていません。
聞いていた群衆は、この聡明とされる神学者たちが沈黙させられたやり方に驚愕しました。
今度はパリサイ人がイエスを尋問する番でした。
彼らの代表者が投げかけた質問は、実に敵対的な性格のものでした。
それは主の教えがモーセの律法とどの程度一致しているか、あるいは相反しているかを見極めるために、主の教えを引き出すためのものでした。
「しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。
そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」」
(マタイの福音書22章34~40節)
「イエスがサドカイ人たちを黙らせた。」
イエスは死者の復活を教えることによりこれらの唯物主義者を黙らせました。
そのようにサドカイ派はそれを否定し、パリサイ派は信じていました。
「律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。」
モーセの律法の専門家であったこの男は、十戒のそれぞれの相対的な重要性について、何世紀にもわたってユダヤの権威者たちが議論してきた問題でイエスを混乱させ困らせようとしました。
「あなたの神である主を愛せよ。」
イエスは申命記6章5節を引用して答えました。
もし神が最高に愛するのであれば、神の命じられたことを誰も破ることはありません。
これは特に、神に対する人間の義務を定めた律法の最初の板にも適応できます。
「これがたいせつな第一の戒めです。」
したがって、これを破ることは、律法の定めにおいては、すべての罪の中で最も大きな罪を犯すことになります。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
これはレビ記19章18節からの引用であり、律法全体の二つ目を網羅しています。
ローマ人への手紙にはこのように記されています
「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」
(ローマ人への手紙13章10節)
このように人類を愛する者は、他者の権利についてのいかなる律法も犯すことはありません。
「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。
他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。」
(ローマ人への手紙13章8、9節)
「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
愛が支配するところには、他のすべても当然あるべき姿となります。
なぜなら、神と隣人を真に愛する者は、故意に罪を犯すことはないからです。
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」
(マタイの福音書7章12節)
ですから、律法と預言者全体は、イエスが引用したこの二つの戒めにかかっています。
なぜなら、私たちが犯すかもしれないさまざまな罪は、神御自身に対するものか、あるいは隣人に対するものかのいずれかだからです。
私たちに与えられた救いは、まず第一に、私たちのすべての罪を償うための贖罪、つまりなだめです。
次に、罪を捨てて神と隣人を愛することができるようになるための新生です。
心が神と正しく結びつき、神がきわめて最高に愛されているとき、人も利己心なく愛され、こうして人生全体が神の御言葉に従うように整えられます。
愛は愛する者に仕えることを喜びとし、それによって神を悲しませたり隣人を傷つけたりするさまざまなものから自分を守ります。
しかし、生まれながらの人間で、このように律法を全うした者は一人もいません。
私たちの本性に内在する利己心が、これを不可能にしているのです。
神の恵みによって新たにされると、神の愛は聖霊によって心に注がれるのです。
「この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
(ローマ人への手紙5章5節)
主の教えは、罪を自覚させ、再生の必要性を明らかにするために意図されています。
しかし、人は堕落によって神から疎外されてしまいました。
御言葉と聖霊によって新たに生まれるとき、人は永遠の命を受けます。
愛することは、この新しい命の本質です。
なぜなら、それは聖なるものだからです。
「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。
それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」
(ペテロの手紙第二1章4節)
それゆえ、愛はキリストにある人の人生の支配原理となります。
肉ではなく御霊に従って歩むとき、律法の義はキリストにおいて成就します。
「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」
(ローマ人への手紙8章4節)
かつては利己主義と他者への悪意の中で生きていたのと同じように、神と隣人を愛することが容易になります。
新たな力がその者を支配します。
これが新生の確かな証拠となります。
(ヨハネの手紙第一3章14節、ヨハネの手紙第一5章1~21節)
イエスは、自分に投げかけられたすべての質問に答えた後、2人の敵対者に質問をして、形勢を逆転させました。
「パリサイ人たちが集まっているときに、イエスは彼らに尋ねて言われた。
「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」
イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、『主は私の主に言われた。
「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。
ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」
それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問をする者はなかった。」
(マタイの福音書22章41~46節)
「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」
これらの質問は古びることはありません。
イエスが問いかけてから20世紀近く経った今でも、これらの質問は今もなお的を射ています。
そして、福音のメッセージを受け取るすべての人々から誠実な答えを求めています。
なぜなら、この福音は神の子であり、ダビデの子である方に関するものだからです
「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、 ――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」
(ローマ人への手紙1章1~4節)
この聖書の箇所によれば、キリスト、すなわちメシア、イスラエルに約束された王は、単なる人間以上の存在でした。
ミカは、キリストが生まれる場所を預言した際に宣言しました。
「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」
(ミカ書5章2節)
詩篇2篇によれば、ヤハウェはキリストを御子として認めました。
他の多くの聖書箇所も同じことを証明していました。
これらのパリサイ人たちはよく知られていました。
しかし、彼らはキリストが神から生まれたことを示す箇所を無視し「ダビデの子です」と答えました。
これは確かに真実でしたが、すべてが真実であるわけではありません。
そこでイエスは、ダビデ自身がメシアを自分の主として語っている詩篇110篇に彼らの注意を向けさせました。
「主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」
(詩篇110篇1節)
英語の新約聖書で小文字の「主」がヤハウェを表すことはよく知られています。
2つ目の言葉として述べられるのは「師」を意味しています。
ですから、御霊によって御子の賞賛を待ち望んでいたダビデは、主がヤハウェの右に座しておられるのを見て、主として認めたのです。
これをどのように説明できるでしょうか?
パリサイ人たちは何も答えることができません。
そして、この後、それ以上イエスに質問する勇気のある者は誰もいません。
聖書の最も明白な言葉にさえ従うことを心が拒み、自分の道を進もうと決心することは深刻な問題なのです。
私は先日このたとえ話について説教しました。
その時、私が取った素早いメモを大いに活用したと思っています。
マタイの福音書23章
主イエスは世を裁くためにではなく、御自身を信じるすべての人々を救うために来られました。
しかし、聖書の守護者を自称しながらも偽善的な生き方をし、御自身が宣べ伝える真理に反対し、それによって不注意な信者たちを惑わす者たちに対しては、非常に厳しい言葉で御自身を示されました。
しかし、彼らが会堂で律法を朗読する限り、主は人々に彼らが敬うと告白する神の御言葉に耳を傾けるように求めました。
しかし、それを説く者たちの堕落した生き方に倣わないように注意するよう促しました。
「そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、
こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。
ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。
彼らは言うことは言うが、実行しないからです。
また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。
彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。
また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、
広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。
あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。
だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」
(マタイの福音書23章1~12節)
「モーセの座」という言葉は、パリサイ人や律法学者たちが、モーセによって与えられた律法の公認された教師として占めていた地位を指しています。
彼らが律法の戒めを読み、説明するとき、聞き手は従う責任があります。
それは、彼らに与えられた固有の権威のためではなく、彼らが明らかにした真理のためでした。
しかし、イエスは彼らの言葉と行いを明確に区別されました。
彼らは、自分で実践しようともしないことを、他の人々に説き、説教しました。
説教者や御言葉の教師と呼ばれる地位を占める人々が、自分の人生に全く影響を与えない真理をただ口にしているだけというのは、恐ろしいことです。
イスラエルのこれらの指導者たちは、一種の聖職者階級を形成し、民衆全体の罪と弱点を公然と非難していました。
しかし、彼ら自身は宗教の外見的な兆候に細心の注意を払うだけで、ただ満足していました。
彼らは真実な敬虔さや心と生活の聖潔について何も知りません。
彼らは、自分たちが崇めると告白していた神からの称賛など気にすることもなく、常に人々の称賛を求めていました。
仲間の前で自分が敬虔であるという評判を維持しなければならず、常にそのような罠に陥っています。
実際よりも献身的に見えようとする誘惑に屈するのは容易です。
唯一正しいことは、神の前で生き、人々の称賛や非難に全く無関心でいることです。
パリサイ人は、服装によって、自分たちの信心深さをアピールしようとしました。
聖書を他の人よりも深く敬うことを示すかのように幅広の経札を身につけ、衣服の房飾りを人目を引くほど大きくしていました。
そのことで、彼らは自分たちに向けられる尊敬を楽しんでいました。
定められた祝宴や会堂の礼拝では上座を与えられ、公の場では一般に「ラビ、ラビ!」という高く評価された称号で迎えられました。
これらすべての中に、現在の多くの教会界でよく見られる光景を思い起こさない人がいるでしょうか?
こうした外面的な敬虔さの見せかけすべてに対して、イエスは弟子たちに厳粛に警告されました。
「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません」
彼らは仲間からの名誉ある承認を求めるのではなく、キリスト御自身が彼らの教師、すなわち主であり、彼らは皆一つの大家族の一員であることを理解すべきでした。
上から生まれた者として、彼らは地上の誰をも父と呼んではいけません。
なぜなら、神御自身が彼らの父であるからです。
この明確な戒めが、いわゆる司祭たちを父と呼ぶ者たちによってこれほどまでに無視されているのは、不思議なことではないでしょうか?
弟子たちが互いに尊敬し合おうとする傾向があったため、イエスは繰り返し次のように訓戒されました。
「師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。」
この言葉は実際には「指導者」を意味しますが、一般的には教師または主人として理解されています。
イエスは弟子たちがイエスが与える賜物をお与えになりました。
確かに教師という別の言葉が使われています。
そのことをを軽蔑すべきだと言っておられたのではありません。
それらは聖徒たちが自分を啓発するために与えられたものとして、自分で所有し、大切にすべきものです。
しかし、私たちは世的な利益のために他人を崇拝すべきではありません。
このように特別な働きを託された者たちは、利己的なことではなく、キリスト御自身の模範にならい、愛をもって奉仕すべきです。
なぜなら、高ぶる者は時が来れば低くされ、謙遜な者は主によって高く上げられるからです。
主は、御自身の栄光に目を留めてなされるすべての働きを高く評価されます。
続いて八つの災いが語られます。
これは、信仰告白に反する霊と行動をとった宗教指導者たちに対する主の裁きです。
最初の災いはマタイの福音書23章13節にあります。
「しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。」
(マタイの福音書23章13節)
この裁きは、彼らが関心を持たなかった御国の御言葉に反対し、他の関心が期待される人々を妨害したために下されるのです。
本来であれば天の御国に入る準備ができている人の邪魔をすることは、非常に重大な問題です。
第二の災いは、信仰深いという告白と外見を隠れ蓑として用いている人々に対するものです。
偽善者である律法学者、パリサイ人よ、あなたたちは災いを受けます。
あなたたちは未亡人の家を食い物にし、見せかけのために長い祈りをします。
それゆえ、あなたたちはさらに大きな罰を受けるのです。
「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、やもめたちの家を食いつぶしていながら、見えのために長い祈りをするからです。ですから、あなたがたは、人一倍ひどい罰を受けます。」
(マタイの福音書23章14節)
ソロモンは、悪人の祈りは主に忌み嫌われると語っています。
「耳をそむけて教えを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。」
(箴言28章9節)
ましてや、そのような祈りが、実際には偽善的な生き方をしながら、敬虔な評判を高めるために用いられるとしたら、なおさらです。
第三の災いは、ユダヤ教の伝道活動自体が理にかなっていないことに対してです。
「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。」
(マタイの福音書23章15節)
宗派主義者に共通する特徴として、彼らはキリストのために失われたたましいを勝ち取るよりも、自分たちの特定の信仰の告白者を獲得することにはるかに大きな関心を寄せていることです。
このように堕落した者は、自分が属する組織の熱烈な支持者となり、その組織に究極の救済を託すのが通例となり、伝道される前よりもさらに悪い状態に陥ります。
偽りのカルトの信奉者に働きかけ、目覚めさせることは、不敬虔な世俗の人々に自分たちの失われた状態と救いの必要性を気づかせることよりも難しいものです。
第四の災いは、むなしい、不敬な誓いを立てる者たちに対して臨みます。
「忌わしいものだ。目の見えぬ手引きども。あなたがたはこう言う。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
愚かで、目の見えぬ人たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。
また、こう言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。
ですから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。
また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。
天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。」
(マタイの福音書23章16~22節)
誰かの理にかなっていない推論の顕著な証拠の一つは、主要な事柄よりも二次的な事柄に重きを置くことです。
イエスが「目の見えぬ手引きども」と呼んだ彼らは、聖所そのものよりも、神殿の建物を飾り立てる金に重心を置いていました。
そのため、彼らにとって神殿の金に誓いを立てることが、旧約の神が住まわれた聖なる建物に誓うことよりも、より重要な意味を持っていました。
同じ精神で、彼らは供え物を聖別するために祭壇の上に置きましたが、その上に置かれた供え物を聖別したのは祭壇です。
その祭壇はキリストの象徴であり、供え物と供え物はキリストの働きの様々な側面を表していました。
しかし、キリストは、贖いの御業を行うために、神の永遠の御子が肉体を持たれ、祭壇はその御方でなければなりません。
したがって、祭壇にかけて誓うということは、その上に置かれたすべてのものにかけて誓うことであり、神殿にかけて誓うということは、そこに住まわれる方にかけて誓うことです。
また、繰り返して行われているように天にかけて誓うことは、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓うことであるのと同じことです。
かつて、そのようなすべての誓いは主によって明確に禁じられています。
「さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。
だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」
(マタイの福音書5章33~37節)
第五の災いは、律法の些細な点を過度に強調し、律法が扱っているより重大な事柄を完全に無視する人々に対して宣告されました。
「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。
ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。
目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。」
(マタイの福音書23章23、24節)
たとえ最も安価な薬草であっても、十分の一献金を捧げること自体は全く正しいことです。
しかし、それを特に強調し、あたかも並外れた几帳面さを示すかのように宣伝し、はるかに重要な事柄を無視することは、良心が鍛えられておらず、神に服従しない精神を示しています。
神は、律法に従うと告白する人々に、識別力と哀れみと信仰を注意深く働かせることを望んでおられます。
このように鍛えられた人は、より軽微で重要な事柄を怠ることはありません。
第六の災いは、清い心と清らかな生活の重要性を無視して、儀式的な清めを非常に重視する人々に対するものでした。
「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。
目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」
(マタイの福音書23章25、26節)
彼らは、杯やその他の器の外側を清潔に保つことに細心の注意を払っている家政婦にたとえられました。
しかし彼らの内側は汚れていて清められていません。
神は内側の真実を求めておられます。
信仰によって心が清められるなら、外側の行いもそれに従うはずです。
第七の災いはいくぶん似ていますが、敬虔さと忠誠心を装いながら隠れた腐敗を容認することに対するさらに強い非難が行われています。
「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。
墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、
あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」
(マタイの福音書23章27、28節)
これらの偽善者たちは、美しく飾られ、白く塗られた墓のようでした。
人々の目には美しく、しばしば荘厳に見えましたが、実際には腐敗した死体とさまざまな汚れで満ちていました。
人々の前では義人のように見えても、内面は偽善と不法に満ちているのです。
最後の災いは、過去の預言者たちの記憶を尊びながら、その言葉に従うことを拒んだ者たちに対して、偽善を徹底的に非難する宣告でした。
「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、
『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。』と言います。
こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。
あなたがたも先祖の罪の目盛りの不足分を満たしなさい。
おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。」
(マタイの福音書23章29~33節)
過去、数世紀に存在した、神の人々の忠実な証言を評価しない偽善者たちは、あきらかに誤りは特徴的なものでした。
当時、マルティン・ルターを中傷した人々の子孫が、現在、彼の才能と大胆さを競って称賛しています。
また、エイブラハム・リンカーンの姿勢を嫌悪した人々の子孫たちがしばしば最も声高に彼を称賛するのと同じようです。
これらのパリサイ人の父祖によって引き裂かれたイザヤ、当時の宗教指導者によって不潔な地下牢に投獄されたエレミヤを記念しています。
または預言者が非難した事柄のために、熱心な反対者によって玄関と祭壇の間で殺されたゼカリヤの記憶を記念しています。
しかし、これらの律法学者やパリサイ人が、自分たちが墓を飾った人々の忠告を受け入れ、それに従って行動したという証拠はありません。
しかし、彼らは自分たちの中にいる王に対する態度によって、不信心な父たちと同じ精神を持っていることを示しています。
昔の時代に生きていたなら、自分たちの反応は違っていたと豪語しながらも、彼らの現在の行動は正反対であることを証明しています。
栄光の主を最終的に拒むことで、彼らは先祖の計りを満たすことになります。
それゆえ、彼らには相応の裁きが待ち受けていました。
彼らの言葉と行いは、彼らが毒蛇の世代、蛇の子孫であることを証明しています。
悪魔でありサタンであるあの古い蛇の子孫であるならば、彼らは神の裁きに与ることを免れることができません。
その後、主はその不信仰な世代の罪を要約し、その破滅を宣言します。
「だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。
それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。
まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。」
(マタイの福音書23章34~36節)
神はイスラエルに次々と使者を遣わしましたが、彼らは彼らをことごとく拒みました。
彼らは、自分たちの罪と偽善を非難する者に対しても同じことをします。
道徳的には、アベルから最後の預言者の一人に至るまで、すべての義人の血を流した者たちと何ら変わりはありません。
彼らの心は変わらず、良心は焼き尽くされていました。
だからこそ、神の怒りは彼らに向けられるのです。
神はその聖なる性質を鑑み、彼らの邪悪さゆえに裁きによって彼らを裁く以外に道はないのです。
それにもかかわらず、主の心は彼らを深く悲しみ、彼らの救いを今もなお切望しておられます。
この最も深刻な説教を終えた主の嘆きは、実に痛ましいものです。
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。
わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。
あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」
(マタイの福音書23章37~39節)
偉大な王の都エルサレムは、王の訪れの時を知りません。
救いを与え、約束された御国の祝福をもたらす方が彼らの中におられるにもかかわらず、彼らはその方を知りません。
もし、彼らが悔い改めて主に立ち返るならば、めんどりがひなを殺そうとする鷹から守るように、主は彼らを裁きから守ってくださります。
しかし、彼らは主を受け入れようとしていません。
ゆえに、彼らは自分たちの裁きに責任を負わなければならなかったのです。
彼らがイエスを拒みました。
そして、イ今、エスは彼らを国家的に拒まれました。
彼らは、数日前、イエスが町に入城された際に「群れの貧しい者たち」がイエスに挨拶をしました。
「その日、それは破られた。そのとき、私を見守っていた羊の商人たちは、それが主のことばであったことを知った。」
(ゼカリヤ書11章11節)
詩篇118篇の言葉のようにこのように叫びました。
「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」
(マタイの福音書21章9節)
しかし、イエスを自分たちの王として受け入れる準備ができるまで、今後イエスを見るべきではありません。
その日が来る前に、この恵みのディスペンセーションの時代全体、すなわちキリストの唯一の体としての教会の奥義が啓示される時代が始まります。
現在、神はすべての国々から御子の御名のもとに民を集めておられます。
その御業が完成するまで、イスラエルは国民として、自分たちが刺し貫いた方を仰ぎ見て、贖い主、王として迎え入れることはありません。
マタイの福音書24章
24章と25章は非常に密接に関連しています。
ロバート・アンダーソン氏が「第二の山上の垂訓」と呼んだ内容が語られています。
ここに記されている内容はすべて、オリーブ山で主が弟子たちの問いかけに答えて語られたものです。
「いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
これらは、ここで述べるよりもはるかに注意深く考察する価値があります。
24章では、主は御自身が拒まれる時、そしてより具体的には、預言者ダニエルが「終わりの時」と呼ぶ、主が人の子として再臨し、この地上に天の御国を力と栄光のうちに築かれる直前の大患難時代に、世界がどのような状況に陥るかを示しています。
25章の三つのたとえ話では、まず処女たちのたとえ話において、主の不在中に民に課せられる責任と、主の再臨の際に主を迎える準備をしておくことの重要性が示されています。
タラントの預言において、私たちは、すべてのしもべがその日に、託された能力に応じて捧げなければならないという預言が思い起こされています。
最後に、人の子が聖なる御使いたちと共に天の雲に乗って来られ、栄光の王座に着かれるとき、生ける諸国民が裁かれることが記されています。
その時、地上の諸国民に下されるこの裁きは、神の御国の終わり、すなわち世の終わりに大いなる白い御座が立てられる時に行われます。
邪悪な死者たちへの裁きと混同されるべきではありません。
ヨハネの黙示録20章11~15節の場面と、マタイの福音書25章31~46節の千年王国の前にある裁きとの間には、非常に顕著な対比があります。
この二つの出来事には千年の隔たりがあります。
主は、偽善的な律法学者とパリサイ人を厳粛に非難し、エルサレムの人々の盲目と不服従を深く悲しんでいます。
その後、説教と教えを説いていた神殿の境内を去り、弟子たちと共にケデロン川を渡ってオリーブ山へと歩みを進められました。
町を去る前に、弟子たちは神殿の敷地にある美しい建物に対する主の驚きを呼び起こそうとしました。
「イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。
まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」」
(マタイの福音書24章1、2節)
イエスがこのように語った時、それは成就しそうにない預言のように思われたはずです。
弟子たちの目には、それらの建物は何世紀も立ち続けるだけの堅牢さを備えていたように見えました。
しかし、イエスの言葉は40年の試練の期間を経て真実であることが証明されます。
弟子たちは明らかに、イエスの預言を、かつて、イエスが再臨について語られたことと結びつけていました。
そこで、美しいけれども滅びる運命にある都を見下ろす丘に着き、座った後、彼らはイエスに三つの質問をしました。
イエスがオリーブ山に座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言いました。
「イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」」
(マタイの福音書24章3節)
質問を順番にメモしてください。
1.「いつ、そのようなことが起こるのでしょう。?」
つまり、エルサレムはいつ滅ぼされるのでしょうか?
この答えは、ルカによるイエスの説教の記録の中でより詳しく述べられています。
「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。
これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。
その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。
人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」
(ルカの福音書21章20~24節)
2.「あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
マタイの福音書のこの箇所とマルコの福音書13章の両方がこの質問に答えています。
3.「世の終わり[完成、あるいは完全な終わり]の前兆は何でしょうか?」
それは世、そのものではなく、彼らが語った時代です。
この質問への答えは、この箇所とマルコの福音書の対応する箇所にあります。
各福音書記者は聖霊の導きによって書き記しました。
マタイはマタイの福音書24章4~8節で、キリストの再臨までの現代の特徴を特に扱っています。
そして9~14節では、終わりの日の前兆を強調しています。
マタイの福音書24章15節では、ダニエル書12章11節にも預言されている大患難の始まりが述べられています。
マタイの福音書24章16~28節では、その苦難の時代の詳細が述べられています。
マタイの福音書24章29~31節では、世の終わりと人の子の到来について述べられています。
この章の残りの部分は、これまでの出来事に基づいたたとえ話や訓戒を与えています。
最初のセクションについて考えてみましょう。
「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。」
(マタイの福音書24章4~8節)
ここに描かれている状況は、主が天に戻って以来、幾世紀にもわたってその特徴が見られてきました。
それ自体が主の再臨の近さを物語っているわけではありません。
しかし、この哀れな世界がいかに有能な支配者を必要としているか、そして、すべての被造物が主の降臨を待ち望みながら、うめき声を上げていることが私たちに示しています。
「人に惑わされないように気をつけなさい。」
サタンは模倣によって働きます。
神から来るものすべてを偽造して、人を罠にかけようとします。
だからこそ、サタンの欺きに対して常に警戒する必要があるのです。
私たちは聖書によってすべてを吟味する必要があります。
「わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」
詐欺師や反キリストは数え切れないほどいます。
そのような男たち、そして、時には女たちも、しばしば狂気じみた前兆を見せてきましたが、その多くは意図的に人を欺く者たちでした。
もしキリストが、かつて誕生という門を通って地上に来られました。
同じ様に、再び地上に来られるのではないことを気に留めているのであれば、そのような偽善者たちに惑わされることはありません。
キリストは天から主として、天の軍勢を率いて来られます。
「終わりが来たのではありません。」
主が昇天されて以来、戦争や戦争の噂は、平和の君を拒む人間の愚かさを常に思い起こさせてきました。
しかし、これらは世の終わりの証拠ではありません。
国家間の紛争が再臨の兆しであると見なすのは誤りです。
7節は、多くの国家や王国が巻き込まれる一連の大戦争を描いています。
このような紛争は過去1900年間繰り返して発生おり、前世紀には激しさと恐ろしさを増しました。
1914年から1918年、そして1939年から1945年にかけての二度の世界大戦は、人類史上最悪の戦争となりました。
広範囲にわたる戦争の後には、必ず飢饉や疫病が起こります。
これらの災害に加えて、多くの場所で地震が発生しています。
この聖句は、これは終末が近づくにつれて自然災害が激増することを示しているように思われます。
「しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。」
人の子が現れ、最初にこの世に来られたときに拒まれた王国をもたらす前に、さらに悪く、さらに驚くべき状況が起こります。
終末の前の教会の携挙の奥義は、この偉大な預言的な説教の中では触れられていません。
イエスがこれらの言葉を語った当時、それはまだ隠された奥義でした。
携挙の時期は定められておらず、いかなる前兆も示されていません。
ここで示されているすべての前兆は、イエスが再び来られ、偉大な力と支配権を行使される王として天から啓示されることと関係しています。
人の子の到来は常にこの出来事を指しており、携挙のことを指しているわけではありません。
マタイの福音書24章9~14節に描かれている状況は、ダニエル書の第70週の未達成の前半と完全に一致しています。
したがって、携挙は8、9節の間に位置付けられる可能性が十分にあります。
一方、同様の状況は、いわゆるキリスト教の時代にも繰り返して起きてきました。
しかし、終末の時にはさらに顕著になります。
「そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」
(マタイの福音書24章9~14節)
「わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。」
この預言を考える上で、まず異教の支配下、次にローマ教皇の支配下、そして後に様々な邪悪な体制下における聖徒たちの殉教を無視してはなりません。
神の教会が連れ去られても、殉教は止むことはありません。
そして主は再びイスラエルを召し上げ、新たな証しを呼び起こされます。
そして、その暗黒の時代に、多くの証人たちは、終わりの日の無神論的な獣の帝国とその衛星的な存在である反キリストの支配下で、命を捧げるよう求められます。
このように、これらの預言は、現在の恵みの時代と、来たるべき審判の時代に、二重に成就します。
その後、大背教が起こり、多くの人がつまずき、神の忠実なしもべたちが近親者によって裏切られます。
これもまた、このディスペンセーションにおいても部分的に成就しました。
信仰を告白する教会においても、世界においても、歴史は繰り返されています。
終わりが近づくにつれ、サタンは自分の時が短いことを知り、ますます活発になります。
ですから、「にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。」
罪が蔓延し、キリストへの忠誠を告白する者たちは厳しい試練に遭います。
表面的な愛は冷たくなり、背教が蔓延します。
どの時代においても、現在の試練は忍耐です。
今もまた、そしてキリスト教世界を待ち受ける悲しみと苦悩の日々においても、それは変わりません。
「最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」
この深刻な言葉を、信者の永遠の安全について他の箇所で啓示された真理を適応させています。
必ずしも患難時代にのみ適応される必要はありません。
耐え忍ぶ者だけが最終的に救われるというのは、常に真実です。
ゆえに、神から生まれ、永遠の命を受けた人は、耐え忍びます。
「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」
(ヨハネの手紙第一5章4節)
キリストへの信仰を告白しながら、試練の時にそれを否定し、犬が吐いたものを、あるいは豚が洗われて泥の中を転げ回るかのように、逆戻りする人は、自分が神の御言葉と霊から生まれていないことを証明しています。
「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。
義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。
彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る。」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる。」とかいう、ことわざどおりです。」
(ペテロの手紙第二2章20~22節)
もし、そのような人が善き羊飼いに属する羊であったなら、豚が転げ落ちる場所には決して迷うことはありませんす。
大患難は、その完全な意味において、第七十週、すなわちダニエルの偉大な預言の最後の七年間の真ん中に始まります。
それは、荒廃をもたらす忌まわしいものの設置によって始まります。
これについては、次の節で述べています。
「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)
そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。
畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。
だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。
ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。
そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。
そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。
にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。
さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。
だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。
『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。
人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。
死体のある所には、はげたかが集まります。」
(マタイの福音書24章15~28節)
ここに、患難時代の目立った出来事が生々しく描写されています。
「国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。
しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。」
(ダニエル書12章1節)
かつて、荒廃をもたらす忌まわしいものとは、シリア王アンティオコス・エピファネスがエルサレムの神殿に立てた像です。
「彼の軍隊は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据える。」
(ダニエル書11章31節)
彼は祭壇に雌豚を捧げ、その血を聖所に振りかけて聖所を汚しました。
将来、荒廃をもたらす忌まわしいものは、背教した勢力と反キリストの主張の認識となることは明らかです。
この預言によって警告されていた時代の聖徒たちは、このことを認識し、エルサレムとパレスチナから「民の荒野」へ逃れる合図となります。
「わたしはあなたがたを国々の民の荒野に連れて行き、そこで、顔と顔とを合わせて、あなたがたをさばく。」
(エゼキエル書20章35節)
そこで彼らは獣とその追随者たちの怒りから「憤りが過ぎるまで」身を隠すことになります。
「さあ、わが民よ。あなたの部屋にはいり、うしろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。」
(イザヤ書26章20節)
これらは主の「兄弟たち」です。
主は次の章で、人の子が栄光のうちに来られるときに地上に住む諸国民に下される裁きについて語るとき、彼らについて語っています。
預言者たちが何度も語ってきたように、忠実な残されたユダヤ人たちは、反キリストの怒りが彼らに降りかからないように、財産や家財道具を持って逃げ出すのを待たずに、急いで逃げます。
彼らは、逃亡が冬や安息日にならないように祈るよう勧められています。
それ自体が、今の時代とは異なる状況を示しています。
この残された民はメシアの出現を待ちます。
しかし、彼らはまだ自由な恵みに入っていないので、律法の下、ユダヤ人の立場に立つことになります。
その時、大患難が起ります。
それは、世界の始まりからその時に至るまで、かつて経験したことのない苦難です。
あまりにも恐ろしい状況なので、神が憐れみによってその日数を短くされない限り、救われる者は一人もいません。
しかし、選ばれた者たちのために――教会の選民ではなく、イスラエルの選民のために――神はその日数を短くされます。
ヨハネの黙示録では、その日数は実際には1260日だと数えられています。
これは3年半に相当し、30日の月で構成されているため、1年を365日と数えた場合の全期間よりも多少短くなります。
苦難の時に、神に立ち返ったすべての人々は、人の子が戻ってきて救いを与えてくださることを待ち望んでいます。
サタンは偽キリストを提示し、とりわけ反キリスト自身を期待されている存在として提示することで、彼らを欺こうとします。
しかし、神を知り、神の御言葉を信頼する人々、すなわち「選ばれた者たち」は、そのような欺きをすべて拒む覚悟ができています。
メシアはすでに来られ、砂漠に姿を現すと言われても、彼らはそこへ行って主を探し求めてはなりません。
また、メシアがどこか秘密の場所に隠されていると言われても、彼らはそれを信じてはなりません。
なぜなら、主の来臨は、天空を貫く稲妻のように、目に見える形で現れ、栄光のうちに現れるからです。
大患難時代が頂点へと向かうにつれ、エルサレムを中心とする背教したユダヤ教は、鷲(あるいはハゲタカ)が群がる腐敗した死骸のようになります。
これは、ゼカリヤ書14章をはじめとする聖書箇所で預言されているように「わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。」という状況を鮮やかに描いています。
再臨は、サタンの勝利が完全に達成されたかのように見えることが、まさにその時に起こります。
「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。
すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」
(マタイの福音書24章29~31節)
「これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
そのとき、人の子のしるしが天に現われます。」
大患難時代は既に過ぎ去ったと主張し、教える人は多くいます。
それは異教ローマの下で2世紀以上続いた大迫害、あるいは宗教改革の前後のローマ教皇庁の下で行われたさらにひどい迫害を指していると主張しています。
しかし、主はここで、その苦難の時代の終わりと同時に、主の再臨が来ると明確に告げておられます。
ですから、この試練の日がまだ未来にあることは明らかです。
それが完全に成就する時、天体の間に驚くべき現れが起こり、「人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」
その時、地上の諸部族、あるいはもっと正確に言えば、その地の諸部族は、ゼカリヤ書第12章10~12節に預言されているように、かつて彼らが拒絶し、刺し貫いたその方を見つめ、ついにその方が王であり、彼らが長らくその到来を待ち望んでいた油を注がれた方であることを悟って嘆き悲しむのです。
「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。
彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。
その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう。
この地はあの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。」
(ゼカリヤ書第12章10~12節)
そのとき、大きな角笛が吹かれ、御使いたちは地球のさまざまな場所から選ばれた者たち、すなわちその試練の時に御国のメッセージを受け入れ、王の再来を歓迎する用意のできている者たちを集めます。
「その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリヤの地に失われていた者や、エジプトの地に散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する。」
(イザヤ書27章13節)
これは、テサロニケ人への手紙第一4章の携挙とは全く異なる出来事です。
そこでは、生きている聖徒も死んだ聖徒も変えられ、墓からよみがえり、空中で主と会うために引き上げられます。
しかし、人の子が地上に下られるとき、その選民は四方から集められ、彼らの王であり救い主である主を迎えます。
こうして、ついにダビデの王座がエルサレムに再建され、律法がシオンの山から発せられ、ヨハネの黙示録20章で学ぶように、キリスト御自身が千年間、栄光の義のうちに支配されるのです。
次のセクションでは、主は「あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう」という質問に対する答えを与えています。
「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」
(マタイの福音書24章32~35節)
人の子の出現の時が近づいたことを示す最も顕著な兆候は、いちじくの木の芽吹きです。
いちじくの木は、イスラエルの国民的象徴として広く知られています。
かつて、神の契約の民として所有されていた散らされたイスラエルの民は、何世紀にもわたって国家としての存在を持たずにいました。
しかし、現在、彼らは大勢でパレスチナに戻り、再び独自の国家であるという意識に浸っています。
このように、いちじくの木は緑の葉を茂らせ、まだ彼らのメシアであり王であると認められていない方の再臨が近いことを告げています。
現在、彼らは不信仰のままに帰還していますが、それは聖書が示している通りです。
なぜなら、多くの人がその地に戻った後に、国家は再生するからです。
いちじくの木に現れた新しい命がイスラエルの祝福の日の到来を告げるものであるならば、携挙の時はどれほど近いのでしょうか?
33節は、今日の神の民だけでなく、未来のイスラエルの残された民にも、深い意味を語りかけています。
「そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」
主の再臨は確実です。
主の言葉は決して失われることはありません。
たとえ天地が滅びても、主の言葉は決して滅びることはありません。
再臨の実際の時期に関する不確実性こそが、次のような警告の言葉の根拠となっています。
「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」
(マタイの福音書24章36~41節)
洪水前の世界と主の再臨後の世界を比較することは、多くの人々が抱いており、そして広めています。
それは、その日が来る前に全人類が改心するという考えを否定するものです。
そのような期待は、聖書の教えを裏付けるものではなく、単なる空想に過ぎません。
ノアの時代と同様、人の子の到来もそうなるのです。
大洪水前の時代、人々は無頓着で放縦な生活を送っていました。
腐敗と暴力が地に満ち、ノアを通して与えられた神のメッセージは、空想話として拒まれました。
人々が危険に気づいていない間に、大洪水が来て、すべてを滅ぼしました。
主の再臨の時も同じことが起こるのです。
その時、二人の人が畑で働いています。
一人は信者で、もう一人は不信者です。
後者は裁きによって取り去られ、もう一人は残されて御国に入り、その祝福を受けます。
朝食のために穀物を挽く二人の女にも、同じように扱われます。
この聖句はしばしば携挙における分離に適用されていますが、もちろん、そのように用いることも十分に可能です。
しかし、その場合、義人は空中で主と会うために連れ去られ、もう一人は患難時代の裁きに耐えるために残される、と理解することになります。
「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」
(マタイの福音書24章42~44節)
事前に人の子がいつ再臨されるかを知る者は誰もいません。
ですから、試練の日に生きるすべての人は、主が夜の盗人のように来られないよう、常に警戒していなければなりません。
神の出現を待ち望みながら、神のために生き、キリストの証人となる責任が、この章の最後の節で強調されています。
「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。
主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。
まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。
ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、
その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、
そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。
そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」
(マタイの福音書24章45~51節)
神の真理を僅かであっても託されるいることは、大きな責任です。
託されたものは、私たち自身のためだけでなく、他の人々にも伝えられるべきものです。
「このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。」
(コリント人への手紙第一4章2節)
それゆえ、主がその目的と計画を示された人々は神の多様な恵みの良き管理者として行動すべきです。
信仰の家族と霊的な糧を分かち合い、彼らを励まし、造り上げるように求められています。
このように責任を果たすしもべは、現れの日にしかるべき報いを受けます。
しかし、真理を軽視し、主の来臨を遠ざけ、利己的に生き、傲慢で横柄な精神を示す者は、予期せぬ時に裁き主に直面し、偽善者と同じ罰を受けることになります。
そのような偽りのしもべは、もちろん真実な神の子ではありません。
しかし、それでもなお、自分が行った信仰告白に応じて裁かれるのです。
自分が奉仕するよう召されている人々の必要を考慮することなく、神の真理に関する知識を自分のために用いることは、非常に重大なことです。
すべての奉仕は、王の再臨を見据えて行われるべきです。
そのとき、王の忠実なしもべたちは、証言の日における彼らの献身の度合いに応じて王国でそれぞれの地位を与えられます。
困惑している読者は、著者の『預言者ダニエルに関する講義』が助けになるかもしれません。
これらの講義では、七十週の預言が十分に説明されています。
5章 主の偉大な預言
これまで考察してきたことを踏まえ、主が十字架に架けられる直前、オリーブ山で語られた偉大な預言について考えてみましょう。
この預言は、マタイの福音書24章、マルコの福音書13章、ルカの福音書21章の三つの共観福音書に記録されています。
ダニエル書9章に記されている69週目が終わった時期に語られたことを思い出すならば、これらの言葉を正しく理解する助けとなります。
弟子たちはまだ、70週目が成就するまでにどれほど長い期間が経過することを知りません。
既に、彼らは主が苦しみを受け、死なれることをある程度、弱々しいですが理解していました。
しかし、主が復活された後になって初めて、人の子が十字架につけられ、三日目に復活すると主が告げられた時、彼らはその意味を真実に理解するのです。
彼らは、神の御国の現れを待ち望む、敬虔なユダヤ人の残された者の立場にありました。
彼らはまさにこのことを念頭に置いて、このように問いかけました。
「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
(マタイの福音書24章3節)
読者の多くは、欽定訳聖書にある「世の終わり」という表現がやや誤解を招くものであることをよくご存知だと思います。
彼らは世の終わりが七十週の終わりに来ることを知っています。
そして、その時がいつ終わるのかをどのようにして知るのかを主に尋ねていました。
使徒の働き1章を見ると、同じ弟子たちが復活した主に尋ねているのが分かります。
「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
(使徒の働き1章6節)
彼らの期待はすべてその王国に集中していました。
彼らは、私たちが「神の恵みの時代」と呼ぶ現在の期間については何も知りません。
教会、すなわち一つのからだという奥義はまだ明らかにされていません。
主はマタイの福音書16章と18章に記録されているように、教会について二度語られました。
しかし、彼らにとって教会とは義人の集まり以上のものではなかったことは明らかです。
主の心にあったことの完全な啓示は、後になって与えられることになりました。
彼らの問いかけに対し、救い主は、彼らが旧約聖書の預言を文字通りに解釈し、世の終わりに地上の王国が樹立されることを期待していたことを責めるのではなく、このように言われました。
「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
(使徒の働き1章7、8節)
当初、彼らはこのすべてが何を意味しているのか理解していません。
使徒の働き1章2、3節に暗示されているように、復活から昇天までの40日間、イエスは多くのことを説明されたことは間違いありません。
しかし、この時代におけるイエスの計画は、少しずつ明らかにされ、ついには、一体の体の奥義の摂理の完全な啓示が使徒パウロに与えられ、彼を通して他の人々に伝えられました。
ですから、マタイの福音書24章を考察するとき、私たちは当時の使徒たちの立場に自分を置いて、彼らの心構えを理解し、彼らが主に何を尋ねたのかを理解しようと努めるべきです。
そうすれば、主の答えも理解できます。
イエスは、イスラエルの時代がその時すでに終わったことを知っていました。
すでに、彼らにこのように仰っておられるからです。
「見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」
(マタイの福音書23章38節)
弟子たちが神殿とその周囲の壮大な建物を驚いて眺め「先生、ここにはなんと素晴らしい建物があるのでありませんか!」と叫んだのかも知れません。
しかし、イエスはこのように答えられました。
「ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
(マタイの福音書24章2節)
これは彼らを驚かせたはずです。
なぜなら、彼らはきっと、イエスが間もなく御自身を王でありメシアであると宣言すると考えていたからです。
その時、王がシオンで支配され、まさにこの神殿がヤハウェの崇拝の中心となるのです。
そこで彼らは驚きながら、三つの事柄について尋ねました。
最初に「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。」
つまり、「エルサレムはいつ滅ぼされるのでしょうか?
神殿はいつ倒壊されるのでしょうか?」という質問です。
マタイの福音書24章にはその答えは記されていません。
ルカの福音書21章0節、20~24節を読むと、その質問に対する完全な答えが分かります。
キリストの言葉は次のとおりです。
「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。
これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。
その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。
人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」
(ルカの福音書21章20~24節)
二つ目と三つ目の質問は密接に関連しています。
弟子たちは「あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう」と尋ねました。
彼らは、イスラエルにおける、そしてイスラエルへのメシアの現れを、世の終わりと正しく結び付けました。
主は、マタイの福音書24章、ルカの福音書21章の後半、そしてマルコの福音書13章に記されている言葉の中で、この二重の質問に答えておられます。
言い換えれば、主は使徒たちに、過去約2000年、つまり初臨と再臨の間の長い期間に何が起こるか、その概略を示されたのではないことを心に留めてください。
主は、神の御国を待ち望み、ダニエル書の時と時代に関する69週の預言が終わったことを知り、残された短い期間の成就と神の御国の到来を心配していたユダヤ人の残されたの者として、使徒たちに語られました。
4~8節には、この神学の全体を概説する内容が記されています。
「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。」
(マタイの福音書24章4~8節)
しかし、これらはダニエル書七十週の前半に実際に見られる状況です。
なぜなら、大患難の激しさは、最後の3年半、つまり1260日間のことを指しているからです。
前半の42ヶ月は、あの恐ろしい試練の時に至るまでの摂理的な裁きに費やされます。
まず地上の苦難は、教会の携挙に続いて神が再びイスラエルを召し上げ、異邦諸国が混乱と争いに陥る際に生じる混乱状態によって引き起こされます。
その後、イスラエルの残された民にとって、大いなる試練の時が訪れます。
彼らはその日に地上で神の証人となるよう召し出されます。
マタイの福音書24章9~14節は、特にこれらの人々に適応することができます。
「そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」
(マタイの福音書24章9~14節)
ここでイエスが語っているのは、これらのユダヤ人の使者たちが世界中に伝える良き知らせ、すなわち「御国の福音」と呼ばれる良き知らせであることに注目してください。
もちろん福音は一つだけですが、その福音は時代によって様々な側面を示します。
福音とは、神が祝福された御子に関する神のメッセージです。
エデンの園で神がこのように宣言された時、福音は宣べ伝えられました。
「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
(創世記3章15節)
アブラハムにはこのように言われました。
「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」
(創世記22章18節)
旧約聖書の預言者たちは、来るべきメシアについて語る福音の説教者でした。
バプテスマのヨハネが現れたとき、彼は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と声を大きくして宣言しました。
一方、バプテスマのヨハネが見て、このように神の子を証ししました。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
(ヨハネの福音書1章29節)
このように言って恵みの福音を宣べ伝えたことは、決して忘れるべきではありません。
主イエスは御国の福音を宣べ伝えながら巡回されました。
イスラエルに御自身を神の王として示されましたが、彼らは拒みました。
そこで、疲れ果てた群衆の方を向いて、このように言われました。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」
(マタイの福音書11章28節)
ヨハネの福音書は共観福音書よりも数十年後に書かれたものですが、パレスチナの地を巡回して御国の福音を宣べ伝えていた私たちの祝福された主の説教と教えが記録されていることも忘れてはなりません。
マタイの福音書24章では、証しに明らかに中断はありません。
もし、主の拒絶とこのオリーブ山の説教の成就の始まりの間にあることが理解できれば、すべてが明らかになります。
その試練の日に、神はダニエル書に記されているように、イスラエルに特別な証しを立てられます。
「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」
(ダニエル書12章3節)
「多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。」
(ダニエル書12章10節)
イスラエルのこれらの思慮深い者たちは、御国の福音を宣べ伝えます。
彼らの証しは、すべての国々が証しを聞くまで続きます。
そして、世の終わりが来ます。
これまで私が書き記してきたように、私がここで提示しようとしている真理を悪用し、来るべき時代に御国の福音を宣べ伝えるのはイスラエルの務めであるという理由で、現在の宣教活動から逃れようとする者はいないと信じています。
主はマルコに、御言葉を少し違った形で記録させるよう意図的に導かれたようです。
マルコの福音書13章10節にはこのようにあります。
「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。」
(マルコの福音書13章10節)
これは非常に広範な記述であり、後に神の御霊が啓示したことから、イスラエルの残された民の証しが終末の民に与えられるまでのこの暫定期間に、福音をさまざまな場所に伝える私たちの責任を理解することができます。
この章の15節は、週の真ん中に私たちを導き、最後の3年半の恐ろしい出来事を紹介しています。
主の言葉に注目してください。
「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)
そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。
畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。
だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。
ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。
そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。
そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。
にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。
さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。
だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。」
(マタイの福音書24章15~26節)
ここで述べられている荒廃の忌まわしい行為は、ダニエル書8章13節の荒廃の罪と混同されるべきではありません。
これは、アンティオコス・エピファネスの時代に聖所に偶像を立てて聖所を汚したことと関係しています。
しかし、ここではダニエル書12章11、12節を指しています。
「常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。
幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。」
(ダニエル書12章11、12節)
つまり、荒廃をもたらす憎むべきものを立てることは、この完全な意味が何であれ、終わりの日の残されたの者に対する合図となり、1260日で大患難が終わり、さらに30日で新しい秩序が始まることを彼らに知らせることになります。
待機期間を1335日にまで延ばす追加の期間は、エルサレムにおけるヤハウェの崇拝の再建と関係があります。
上で引用したこれらの聖句は、ルカの福音書21章と比べてみればわかるように、過去のエルサレムの破壊とは何の関係もありません。
しかし、ローマの君主と反キリストが現われた時の将来のエルサレムの包囲を描写しています。
その時、世の初めからかつてなかったような、また決して起きていないような大患難が起こります。
その時、サタンは偽キリストや偽預言者を起こして、待っている残された民を騙そうとします。
しかし、主は、その日のサタンに影響された指導者たちの偽りの証言を信じないようにと彼らに事前に警告しておられます。
マタイの福音書24章27~31節に記されているように、患難時代の終わりに、イエスの来臨は栄光のうちに現れます。
「人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。
死体のある所には、はげたかが集まります。
だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」
(マタイの福音書24章27~31節)
私はこの章を綿密に解釈しようとしているのではなく、大まかな概要にのみ注意を向けさせています。
しかしながら、この章を終える前に、いくつか注意すべき点があります。
28節は明らかに、その日に死骸となるエルサレムの町を指しています。
そして、エルサレムに対して、諸国の鷲、すなわち「ハゲタカ」、つまり死肉を貪り食う軍勢が集結します。
人の子が栄光のうちに現れる時、天には前兆が現れます。
ゼカリヤ書12章で預言されているように、地の諸部族は嘆き悲しみます。
そして人々は「人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」のです。
これは、コリント人への手紙第一15章とテサロニケ人への第一の手紙4章に描かれている教会の携挙とは全く異なるものです。
天において聖徒たちが主のもとに集まることはありません。
しかし、主は大きなラッパの音とともに御使いたちを遣わし、彼らは天の果てから果てまで、四方八方から選民を集めます。
これは天の聖徒たちではなく、地上の選民、すなわちヨハネの黙示録7章に記されているイスラエルの14万4千人と、贖われた大勢の異邦人です。
彼らは、キリストがエルサレムに現れ、オリーブ山に足を踏み入れ、敵が裁きを受ける前に、キリスト御自身のもとに集められます。
この章は興味深いものですが、現在の目的においてはこれ以上の考察は不要です。
探究心のある読者は、このテーマを注意深く探求したいのであれば、多くの優れた参考資料を見つけることができます。
私の目的は、主の預言の鍵はダニエル書第9章にあることを示すことだけです。
この注目すべき章を読む際に、そこに示されている注意書きを念頭に置くならば、すべてが完全に明らかになります。
1 マタイの福音書に関する優れた3冊の本をお勧めいたします。
ウィリアム・ケリー著『マタイの福音書講義』、そしてA・C・ガエベライン博士とE・スカイラー・イングリッシュ博士による解説です。
いずれも、この部分の詳細な説明を求める預言研究家にとって役立つはずです。
マタイの福音書25章
ここでは、前章で報告したのと同じ説教の続きが述べられています。
三つのたとえ話があり、それぞれがキリストの再臨に関連する真理の特別な側面を示すために意図されています。
十人の処女のたとえ話は、これまでかなりの論争の的となってきました。
その正確な適用方法については、混乱を招き、矛盾する疑問が提起されてきました。
しかし、それは神の民と自称する人々による、約束された花婿の再臨の成就を待ち望む期間に適応されると思われます。
これは確かに天の御国のたとえ話であり、13章以降のすべての御国のたとえ話と同じ様に、奥義としての形で表現されています。
したがって、このたとえ話を患難時代のみに適用し、処女たちを教会の責任ではなく、10という数字が示す責任として、残されたユダヤ人にだけに適応させることは誤りです。
「そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」
(マタイの福音書25章1~13節)
娘たち、処女という言葉には「乙女」という意味もあることを覚えておくとよいと思います。
しかし、ここでの処女の用法にあまり重点を置くべきではありません。
十人の処女は必ずしも新生した人々を表しているのではなく、地上で証しの立場にあると告白している人々を表現しています。
ともしびはこれを物語っています。
五人の娘たちは賢く、五人は愚かです。
賢い娘たちにはともしびを補充するための恵みの油があり、愚かな娘たちにはともしびはあっても油がありません。
皆、花婿を迎えに行くと告白しますが、花婿が遅れている間、皆は眠り込んでしまいます。
これは、暗黒時代にキリスト教世界で起こったことと完全に一致しています。
主の再臨の希望は見失われ、信仰を告白する教会全体が眠りに落ち、暗闇が深まる中「そら、花婿だ。迎えに出よ!」というラッパの音で目覚めさせられます。
宗教改革以来、この真夜中の叫びは鳴り響いてきましたが、終わりが近づくにつれて、その声はますます鮮明になっています。
それとともに、大いなる目覚めが起こりました。
救いに至る賢い者たちはともしびを整え、証しはより明るくなりました。
しかし、現実として考えていない者たちは、ともしびに油を補充する油がないことに気づきます。
賢い者たちは彼らに油を与えることはできず、供給源へと彼らを導きました。
そして、彼らが油を買いに出かけている間に花婿が来たことが伝えられています。
準備ができていた者たちは結婚の場に入りましたが、残りの者たちは外に残されました。
彼らは後になって入場を求めてノックしましたが、遅すぎたことに気づきます。
そして、中から花婿の声が聞こえ「私はあなたがたを知りません」と言うのです。
彼らは永遠に締め出されました。
続く訓戒は簡潔に「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです」というものです。
ここで述べられているのは花婿の再臨のことです。
二つ目のたとえ話について考えるとき、働きに対する報いと恵みによる救いを注意深く区別する必要があります。
主イエスを信じる者はすべて救われます。
これは人間の功績とは全く無関係です。
しかし、主を信じると告白する者は皆、主に仕え、自分の持つ賜物、能力、手段を主の栄光のために、そしてこの世における主の御心を促進するために用いる責任があります。
御霊によって生まれていないにもかかわらず、しもべであると告白する人もいます。
しかし、神は人が知っていること、告白していることに対して責任を問われます。
神の御言葉を信じる者は皆、私たち一人一人が言い開きをする日を前に、心から仕える義務があります。
その深刻な時、主のために生きることにあまりにも気を取られていたことを後悔する人はいません。
しかし、多くの人は、主の栄光のために用いることができたはずの時間を利己主義と愚かさに費やし、永遠の光の中で正しく投資されていればキリストの「よくやった」という称賛を受けることができたはずの才能を無駄にしたり、隠したりしたことで悔やみます。
神は、御言葉に従ったすべての者に報いを与えてくださいます。
「各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。
というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」
(コリント人への手紙第一3章13節)
主人が再臨された時、主はしもべたちの責任を問われます。
そして、主イエスが再臨される時、主はしもべたちを裁きの座に召し出されます。
それは、彼らの罪が裁かれるためではありません。
裁きは既に過ぎ去っています。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
(ヨハネの福音書5章24節)
彼らの働きの責任を問うためです。
イスラエルと教会の両方に、主の再臨の時に報いが与えられます。
「見よ。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。
「シオンの娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。』と。」
(イザヤ書62章11節)
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」
(ヨハネの黙示録22章12節)
邪悪で怠惰なしもべは神の子ではありません。
なぜなら、彼は外の暗闇に投げ込まれているからです。
彼には報いを受けるべきものは何もありません。
しかし、新生した人々は違います。
彼らについてこのように書かれています。
「そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」
(コリント人への手紙第一4章5節)
もちろん、これはすべての人を指しているのではなく、キリストの裁きの座に立つすべての人を指しています。
そこには信じる者だけが立ちます。
たとえそれがどんなに小さく、取るに足らないものであっても、神に頼って、どんな賜物でも用いるならば、奉仕の能力は絶えず増し加えられます。
私たちは、最善の賜物を熱心に求め、愛をもって用いるようにと教えられています。
「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。」
(コリント人への手紙第一12章31節)
この教訓が神学上のどの位置にあるのかを論じても何の益もありません。
この原則は、現在の教会に当てはめても、携挙後のイスラエルの残された民に適応したとしても同じことです。
重要なのは、主から受けたものを正しく用いることです。
「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
(マタイの福音書25章14~30節)
「旅に出て行く人」
このたとえ話は非常に広い適用範囲を持っています。
キリストが天に留まっている間のすべてのしもべたちを指しています。
キリストは彼らに「自分の財産を預け」ました。
彼らはキリストが再臨されるまで、この世でキリストの代理人として働いています。
「おのおのその能力に応じて」
誰もが何らかの才能を持っており、この場面において主の御業を促進するためにこれらを用いる責任があります。
「このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。」
(コリント人への手紙第一4章2節)
「それで商売をして」
五タラントの男も二タラントの男も、持っているものを忠実に使いました。
それぞれが、託されたお金を賢く、そして注意深く使うことで、主人のお金を倍増させました。
彼らに期待できることはそれだけです。
「地を掘って、その主人の金を隠した。」
この男は、他の者たちと比べて自分の金があまりにも少なく、どうにかしようと努力する価値がないと考えました。
無駄遣いしないことが最善だと考え、金を地中に隠しました。
彼は先見の明も真の責任感も持たない、取るに足らないしもべです。
「しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。」
主人は戻って来ると、それぞれに託されたものの使い方について報告を求めました。
救い主が再臨されるとき、キリストの裁きの座でも同じことが起こります。
「そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」
(コリント人への手紙第二5章9、10節)
「私はさらに五タラントもうけました。」
このしもべは喜びをもって報告することができました。
「ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」
(ヘブル人への手紙13章17節)
彼は自分の才能を忠実に用い、主人から褒められることを確信していました。
「あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。」
主人の不在中に誠実さと知恵を示したため、このしもべは主人の帰還後、特別な信頼と確信という報いを受けました。
試練の時に主に忠実であった者たちも、キリストの再臨の時には同じように扱われるのです。
「二タラントの者も来て言った。」
この人は、持ち物こそ少なかったものの、はるかに多くのものを持っていた仲間のしもべのように忠実でした。
私たちは、持っていないものについてではなく、持っているものについて責任を負うのです。
「もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。」
(コリント人への手紙第二8章12節)
「よくやった。良い忠実なしもべだ。」
この人ももう一人の人と同じ称賛を受けます。
彼もまた、託されたものを倍にしたからです。
こうして、彼にも王国における権威が与えられます。
「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。」
一タラントの男は、自分の生産力のなさを主人のせいにしようとします。
彼は、限られた才能を主のせいにする者たちのようでした。
彼らは、与えられたものが少ない者には、要求されることも少ないことを理解していません。
しかし、それでもなお、持っているものを忠実に用いる責任があるのです。
一方、多く受けた者は、より一層の責任を負います。
「しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。
すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」
(ルカの福音書12章48節)
「さあどうぞ、これがあなたの物です。」
彼はその才能が託された目的そのものに関して完全に失敗したが、それでも彼は自分の怠慢を弁解し、主人が満足すると考えました。
「悪いなまけ者のしもべだ。」
不従順であることは邪悪なことです。
精力的に行動しないことは怠惰です。
このしもべは、主人に告げられた目的を果たさなかったために苦しまなければなりません。
「おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。」
少なくとも、しもべは利息を付けて金を出し、受け取ったものにいくらかでも加えることができました。
彼は、キリストのしもべであると告白しながらも、実際にはキリストを全く知らず、御言葉に従おうとしない人々を代表しています。
永遠の問題は、主から受けたものを正しく用いるかどうかにかかっています。
怠惰なしもべはすべてを失い、職業さえも奪われました。
主の言葉は不思議に聞こえるかもしれませんが、才能を正しく用いたことによる利益を念頭に置いていると理解すれば、容易に理解できます。
彼が誤って用いたものは取り上げられ、最初のしもべの10タラントに加えられました。
一方、役立たずのしもべは外の暗闇に投げ込まれました。
これは東洋の言葉で、主人の不興を買ったことを意味しています。
彼はそこで、自分に下された裁きに怒りに歯ぎしりしながらも、失ったものを嘆き悲しみました。
この部分(22~25章)全体を通して、主がパリサイ人、サドカイ人、そしてイスラエルの他の指導者たちと論争し、再臨と諸国民の裁きについて偉大な預言が語られています。
しかし、一つだけ極めて明確な点があります。
それは、神にとって大切なのは、律法主義的な形式や儀式、儀礼に奴隷のように従うことではありません。
神の愛に支配された生き方であるということです。
これは新生の最も重要な証拠です。
「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」
(ヨハネの手紙第一3章14節)
現在のディスペンセーションにおいては、聖霊が内住していることの具体的な証拠です。
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
(ローマ人への手紙5章5節)
マタイの福音書のこの部分を、神が地上の民であるユダヤ民族、そしてイスラエルに対する異邦人への態度と関連付けて正しく理解することが重要です。
一方、もしこのディスペンセーション的な側面に限定してしまうと、私たち自身のたましいにとって大きな損失になるからです。
道徳的、霊的な現実はどの時代でも同じであり、ここで律法と預言者のすべてを成就すると宣言されている愛は「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む」すべての人の生活に現れることを私たちは覚えておく必要があります。
「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」
(ローマ人への手紙8章4節)
したがって、愛は真実な意味で、新しい命の法則、あるいは支配原理です。
それはヤコブの手紙で語られる、自由の完全な法則です。
「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。
こういう人は、その行ないによって祝福されます。」
(ヤコブの手紙1章25節)
愛がこのように呼ばれるのは、新しくされたたましいが、信仰の兄弟であろうと、悪しき者の世に属する者であろうと、神に栄光を帰し、同胞を祝福することを喜びとするからです。
「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。」
(ヨハネの手紙第一5章19節)
クリスチャンは、罪を憎みながらも、その罪人を愛します。
そして、このことにおいて、クリスチャンは神の性質を現します。
なぜなら、これもまた、神が世に対して抱く態度だからです。
私たちはキリストへの愛を、主の民への思いやりによって示します。
これはさまざまな時代においても真実です。
なぜなら、どの時代においても、信者が受ける新しい性質は同じだからです。
その最初の特徴は愛です。
教会が空中で主と会うために引き上げられた後、新しい証人が地上に立てられます。
イスラエルの賢い者たちは、御言葉によって照らされ、神のしもべとして証印を押され、諸国の民のもとへ行き、永遠の福音を宣べ伝えます。
諸国の人々の態度は、王が再臨し、裁きの王座を据えられる時、彼らの運命が決定づけられるのです。
「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。
おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、
わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」」
(マタイの福音書25章31~46節)
「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき」
人の子の来臨は常に主の再臨を指し、主が地上に現れた栄光のうちに再び来られ、預言者たちが預言した王国を建て上げられる時を指しています。
この表現は、主が教会のために空中に来られることと関連して用いられることはありません。
この説教が行われた当時、この奥義はまだ明らかにされていません。
「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。
私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。」
(コリント人への手紙第一15章51節)
「すべての国々の民が、その御前に集められます。」
この臨時の裁きは、ヨハネの黙示録20章 の大きな白い御座の裁きとは区別されます。
大きな白い御座の裁きは地上では決して行われず、死んだ邪悪な人々に対する裁きです。
ここで私たちの前に置かれている裁きは、千年王国に先立つ生ける諸国民への裁きです。
もう一つの、大きな白い御座の裁きは、千年王国が終わり、現在の秩序の天と地が消え去った後に行われます。
この裁きも他の裁きと同じ様に、行いに応じて行われます。
羊とは、キリストに属する人々に対する愛情深い配慮によって神の命が明らかにされる人々のことです。
山羊にはこの恵みがなく、キリストの使者に応答しなかった悔い改めない人々のことです。
「右」は受け入れの場所で、「左」は拒絶の場所です。
「世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」
ここで述べられている御国とは、ダニエル書をはじめとする預言書に記されている御国です。
「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」
(ダニエル書7章13、14節)
これは天の御国と混同されるべきではありません。
主の再臨の時にこの地上に設立されるものです。
主は万王の王、万主の主として現されます。
「その現われを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、」
(テモテへの手紙第一6章15節)
そして、主の世界御国は人間のすべての支配権を凌駕します。
「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。」
(ダニエル書2章44節)
「わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え」
私たちは、これらの異邦人の救いが行いに基づくと考えるべきではありません。
彼らの行いは、彼らの信仰の真実性を証明します。
同じ原則がヨハネの福音書5章28、29節にも示されています。
「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」
(ヨハネの福音書5章28、29節)
ここで主は、二つの復活について語っておられます。
一つは善を行った者のための復活、もう一つは悪を行った者のための復活です。
どちらの場合も、彼らの行いは心の状態を物語っています。
「その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ」
これらの「羊」が「正しい人」と呼ばれていることに注目してください。
このこと自体が新しい誕生を物語っています。
なぜなら、このことなしには義人はいないからです。
「義人はいない。ひとりもいない。」
(ローマ人への手紙3章10節)
彼らは自分自身の功績を認めようとしません。
彼らはキリストにふさわしい働きをしたという意識さえ持っていません。
だからこそ、そのような働きが行われたのかと問いています。
「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」
主イエスは、ご自分の同胞になされたことは、すべてご自分に対してなされたこととして常にみなされています。
「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。
その人は決して報いに漏れることはありません。」
(マタイの福音書10章42節)
「あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。」
(マルコの福音書9章41節)
また、ご自分の同胞になされた害悪は、すべてご自分に対してなされたこととしてみなしています。
「彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。」
(使徒の働き9章4節)
最も厳密な意味では、ここでの「兄弟たち」とは、終わりの日に残されたユダヤ人の一部です。
ヤコブの苦難の時代、大患難時代の暗黒の時代に神の証人となります。
「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。
しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。
地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。
思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」
(ダニエル書12章1~3節)
「ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。」
(エレミヤ書30章7節)
これは教会の携挙の後、神の御国が樹立される前のことです。
なぜなら、マタイの福音書25章21、23、29~30で見たように、その苦難の時代は人の子の到来によって終わるからです。
王の使者が世界を巡る時、彼らを受け入れ、そのメッセージを信じる者もいるでしょう。
彼らは羊です。
一方、彼らを拒み、彼らの証言を拒む者もいます。
彼らは山羊です。
キリストの兄弟
すべての信者がキリストの兄弟であるという考え方があります。
ここではこの語が特別な意味で用いられていることは明らかです。
なぜなら、羊、山羊、そして人の子によって「わたしの兄弟」と呼ばれた人々という三つの階級の人々が述べられているからです。
これらはイスラエル人であり、肉においても霊においてもキリストと関係があります。
現在の教会時代が終わる、来たるべき患難の時代にキリストの権威ある証人となる者たちです。
「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」
この永遠の破滅の宣告は、神のしもべたちに対して冷淡で無関心な態度を示し、彼らが世界に伝えたメッセージを信じなかった諸国民に下されます。
この宣告は、千年が終わった後、大いなる白い御座の前に立つ不義なる死者たちの宣告と一致します。
ゆえに、これは彼らにとっての最後の審判であるように思われます。
「しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
(ヨハネの黙示録20章7~15節)
「わたしが空腹であったとき、食べる物をくれ」
これらの失われた者たちに対する非難は、道徳律の重大な違反に関するものではありません。
キリストに対する無関心な態度こそが、彼らの破滅を決定づけます。
彼らは、キリストの代表者たちの苦しみに無関心であったことで、キリストとそのメッセージに対する信仰がないことを示しました。
この原則は、今においても、来たるべき患難の時代においても、変わらずに真実です。
「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。?」
彼らは、何かの不快感を与えたことに全く気づかないまま話しています。
しかし、主の王国が来るべき時に備えて、悔い改めを呼びかけるために遣わされた同胞たちの姿を認め、敬うことを怠っていました。
「この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。」
最も貧しく、弱く、苦しんでいる人々に同情を示さないことは、キリスト御自身に仕えることを怠ることです。
なぜなら、キリストは彼らの訴えを御自身のものとされるからです。
これは厳密に解釈すれば、前述のユダヤ人の残された民に関するものですが、キリストに属するすべての人に適応されます。
「この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」
この裁きの結末は永遠に及びます。
終わりのない刑罰を受けるか、あるいは終わりのない命を受けるかのどちらかです。
これは単なる延命をはるかに超えるものです。
悪人は滅ぼされ、直ちに悲惨な運命へと導かれます。
義人は千年王国において永遠の命に入り、その後、現在の創造物の滅亡後に続く、永遠の時代を通して、キリストと共に生きることになります。
これらはダニエル書7章18節に記されている聖徒たちであり、地上におけるメシアの栄光ある支配の祝福を享受する者たちです。
「しかし、いと高き方の聖徒たちが、国を受け継ぎ、永遠に、その国を保って世々限りなく続く。」
(ダニエル書7章18節)
二つの選び
このたとえ話の時代区分を明確に理解するために、新約聖書には二つの異なる選びがあることを理解することは有益です。
エペソ人への手紙1章4節では、この世の教会、すなわち世界の基が置かれる前からキリストにあって選ばれた者たちについて述べています。
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」
(エペソ人への手紙1章4節)
この箇所では、救われた者たちは「世界の基が置かれる前から備えられていた」御国に居場所を与えられています。
「世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」
(マタイの福音書25章34節)
これは、同じ民を念頭に置いているヨハネの黙示録13章8節と一致しています。
「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。」
(ヨハネの黙示録13章8節)
一つは天の選び、もう一つは地上の選びです。
この二つを混同して考えることは、「真理のみことばをまっすぐに説き明かす」ことができないことを意味します。
「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」
(テモテへの手紙第二2章15節)
真夜中の叫び
Loizeaux Brothers, Bible Truth Depot, New York
第4版 改訂増補版
序文とまえがき
パート1
パートII
パートIII
序文とまえがき
第4版への序文
この小冊子が1914年に初版発行されて以来、変化は急速でした。
預言された世の終わりへの道は著しく整備されています。
相当数の新たな内容を追加し、若干の改訂を加えることで、より現代に即したものにすることが賢明であると判断しました。
これらの改訂はいずれも、当初提示された見解を少しも変えるものではありません。
なぜなら、年月が経つにつれ、神の御言葉に啓示され、時の兆しによって確証された預言の計画の確実性を筆者は確信するようになったからです。
~H・A・アイアンサイド。
1928年6月
序文
主イエス・キリストの再臨という極めて重要なテーマに注目を集めた著者や説教者が、謝罪を迫られる時代は過ぎ去りました。
主の昇天以来、さまざまな時代の聖徒たちが切に待ち望んできた主の再臨が間近に迫っていることを、これほどまでに明白に示された時代の兆しを見分けられないのは、故意に盲目で、罪深いほど無知な者だけです。
かつて、前千年王国説の教師たちを「空想家」や「根っからの悲観主義者」と嘲笑するのが流行でした。
彼らは、人道支援団体ではなく王の到来だけが、御使いの軍勢が預言した地上の平和をもたらすと宣言したのです。
しかし、悲観主義者たちは今や反対側にいます。
ヨーロッパの恐ろしい激動は、かつて文明の成果と人類の進化の進歩を称賛していた何千人もの人々から嘆きの声を上げさせました。
ローマ派、ギリシャ派、プロテスタントを問わず、いわゆるキリスト教諸国は、見せかけだけの野蛮人であることが判明し、人の子の到来直前に広がると預言された状況が急速に展開しています。
小羊が受け取った巻物の封印はまだ解かれていませんが、四頭の馬に乗る者たちと地上の万物の揺さぶりに世界を備えるために必要な変化はほとんどないことは、識別力さえあれば分かります。
それゆえ、残されたわずかな時間の中で、目覚めの真夜中の叫びを、忠実に響き渡らせる必要があります。
「夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。」
(マタイの福音書25章6節)
夜も更け、真夜中は既に過ぎました。
明けの明星が輝き出す前の暗い時間が迫っています。
今すぐともしびを整え、油を注がないと、主と共に結婚式に参列するには遅すぎることになります。
眠っている者を起こすことが、この論文の目的です。
神がこのメッセージを速やかに伝え、現在の真理を祝福してくださいますように。
このディスペンセーションの時代も終わりに近づき「主の来られるのが近いからです。」という輝かしい事実の前では、他のすべてのものは取るに足らないものへと消え去るほどです。
主の民すべてに、力強い叫びが響き渡ります。
「眠っている人よ。目をさませ。」
(エペソ人への手紙5章14節)
主イエスは、花婿を迎えに出て行った十人の乙女について語られました。
それは教会史の初期、愛が温かく、聖徒たちがかつてカルバリの丘の上で傷つけられた主の御顔を、今や真昼の太陽よりも明るく輝いて見ることを切望していた時代を描いています。
使徒の説教者たちはどこへ行っても、恵みによって来られ、深い屈辱の中で、義なる方が不義なる者のために苦しみ、死なれ、人々を神のもとへ導かれた救い主の福音を伝えました。
それだけでなく、彼らは、かつて十字架につけられた方が再び来られ、天に御自身の民を招き、父の家へ迎え入れられることを、紛れもない言葉で、深刻な確信をもって宣言しました。
そして、すべての贖われた者と共に、驚くことに世の前に目に見える形で現れ、他のすべての支配を捨て去り、偉大な力と支配権を握られます。
旧約聖書は、イスラエルの救世主、そして全世界の救い主となる方の苦難とそれに続く栄光を預言しています。
使徒たちの説教は、この神の啓示の二つの偉大な柱に基づいていました。
主は苦難を受けるために来られました。
そして、栄光をもたらすために再び来られます!
このように、クリスチャンたちは、花婿の謁見に付き従い婚宴に招かれるのを待つ処女たちのように、主の再臨を待ち望みながら、栄光の門へと期待に満ちた顔を向けるのです。
しかし、日が経ち、月が経ち、年が経ちました。
待ち望まれていた方は、それを忘れてはいません。
主は来臨を故意に遅らせたのではなく、御自身の苦しみを通してまだ永遠の祝福を見いだしていない人々を心から慕われました。
そして、「ひとりでも滅びることを望まず」に、さらに多くの人が救われるまで、哀れみ深く待っておられます。
主を日々待ち望むのは正しいことでしたが、特定の世代に必ず来られると考えるのは間違いでした。
そしてここで、乙女たちは失敗したのです。
彼女たちは顔の見えない方を待ち望み、希望を裏切るように思える方を待ち望みました。
そして、平安に過ごし、待つ姿勢をあきらめ、死者の間で眠りました。
そして、眠っている間、彼女たちは夢を見ました。
その夢は不思議で素晴らしいものでしたが、目覚めているときに見ていた現実とはまったく異なっていました。
信仰を告白する教会全体が、まるで悪魔の麻薬に誘われて眠りに落ちたかのようです。
そして彼らは、改心した世界と、人間の力によってもたらされた千年王国を夢想し、地上の唯一の希望は来るべき方にあるという真理を心と霊から追い払いました。
眠りは断続的であり、またある時は深く重苦しい眠りに落ちました。
まるで信仰を告白する教会が長い夜を夢見ているかのようです。
しかし、不思議な真夜中、眠りに落ちた乙女たちの集まりに声が響き渡り、彼らは幻覚から目覚め、迎えに出かけた忘れ去られた方のために準備を整えました。
それは「そら、花婿だ。迎えに出よ。」という叫び声でした。
そして、その声はますます大きくなり、眠っているすべての聖徒たちを目覚めさせ、名前さえも持たない者をも目覚めさせました。
今日、地上で最も大きな声は、来臨するキリストを告げる者の声です。
真夜中の叫びは至る所で響き渡り、深刻な責任を伴い、多くの人々を恐怖に陥れ、一方で喜びに満ちています。
それは、何度も戦場で大砲の轟音とマスケット銃の轟音の中に聞こえてきました。
資本と労働の増大する騒乱と言葉の争いの中に響き渡ります。
キリスト教世界に蔓延する背教の中で、耳障りな作り話から、聖徒たちに一度だけ伝えられた信仰へと立ち返るようにと、大声で叫びます。
それは、さまざまな国のクリスチャンの間で起こる大覚醒の中で力強く響き渡り、彼らを聖書研究へと駆り立て、花婿の到来に備えて心と生活を備えるよう呼びかけました。
イスラエルもまた、知らず知らずのうちに、「主の来られるのが近いからです」という警告でありながら喜びに満ちた告知を叫ぶのに加担しています。
ユダの「いちじくの木」と異邦諸国の「すべての木」は緑の枝を伸ばして、夏が近いことを告げています。
こうしたことすべてを踏まえて、私は読者に厳粛に問いかけたいと思います。
主の来臨はあなたにとって何を意味するでしょうか?
あなたは来られる方をご存知ですか、それとも、嘆き悲しむこの被造物の、長く約束されてきた救い主をまだ知らないままでいることでしょうか?
主の来臨は刻一刻と近づいています。
「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。」
(ヘブル人への手紙10章37節)
では、あなたは、この知らせにどのような影響を受けるのでしょうか?
尊い贖いの血によって神のもとに贖われ、主にあって永遠の救いに救われているなら、もうすぐ救い主の御顔を拝見できると思うだけで、喜びに躍り出るはずです。
しかし、まだ罪の中にあり、「あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいる」(使徒の働き8章23節)のなら、今こそ自分の状態の深刻さに目覚めるべき時です。
なぜなら、あなたが主に会う準備ができているかどうかに関わらず、主は再び来られるからです。
そして、主の来臨は主自身にとっては祝福の充足を意味します。
しかし、主の恵みの申し出を踏みにじった人々にとっては容赦ない怒りを意味しています。
読者よ、目を覚ますべきです!
目を開け、耳を澄ませ、哀れみのひとときがまだ残っているうちに、目を覚ますのです。
真夜中の叫びが、大きく、そしてはっきりと響き渡ります。
「そら、花婿だ。迎えに出よ。」
さまざまな方角から嘲笑者や反対者の声が聞こえてきます。
不忠実なしもべは、時代の最も明白な兆候に目を閉じ「主人はまだまだ帰るまい」(マタイの福音書24章48節)と叫びます。
不信仰な嘲笑者は皮肉を込めて「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か」(イザヤ書21章11節)と尋ねてきます。
そして、答えを待たずに「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい」と答えます。
また、嘲笑的な皮肉屋は叫びます。
「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
(ペテロの手紙第二3章4節)
しかし、その者はすべてのものがそのまま続くわけではないという深刻な事実を、故意に、そして罪深く無視しています。
なぜなら、地の下と天の上では、政治的、宗教的、さらには物理的にも、非常に重要な変化と重大な結果が起こっているからです。
熱心なクリスチャンでさえ、おそらくためらいながら、しかしそれでもなお不信心なまま、このように問う人がいます。
「主イエスが天に昇って以来、常に待ち望んでいたわけでもないのに、今、主イエスを待ち望む特別な理由が何かあるのでしょうか?
初期の使徒たちや信者たちは皆、主の再臨を待ち望んでいました。
しかし、主は来られず、それから長い世紀が過ぎました。
主の再臨が今これほど近いこと、そして主の再臨までに既に過ぎ去った時間ほど長くはないかもしれないという証拠は何かあるのでしょうか?」
私たちはこれらの疑問がもっともな事柄であることを認めつつも、これらが明らかにする潜在的な不信仰に心を痛めています。
これらの疑問に答えることが筆者の現在の目的です。
そのためにはユダヤ人、異邦人、そして神の教会に関する多くの聖句を吟味する必要があります。
現時点では、それらを逆の順序で取り上げるのが最も有益なことだと考えます。
そこでまず、神の教会の過去の歴史と現在の状況から、現代が間もなく終焉を迎えます。
そして、主イエス・キリストが来臨することの意義は何なのかをと問いかけたいと思います。
マタイの福音書26章
イエスが多くの人のために命を捧げるために死ぬ時が近づいていました。
すべては永遠の昔から予見されており、イエスはこの明確な目的のために地上に来られました。
しかし、その時が近づくにつれ、イエスの聖なるたましいは深く揺り動かされていました。
「イエスは、これらの話をすべて終えると、弟子たちに言われた。
「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」
そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり、
イエスをだまして捕え、殺そうと相談した。
しかし、彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」と話していた。」
(マタイの福音書26章1~5節)
最後の公の説教を終えたイエスは、来たるべき過越しの祭について語り、その後裏切られ十字架につけられることになっていました。
そして、十字架の暗い影がイエスの霊を覆い隠していました。
過越しの祭の真実な意味を知っていたのはイエスだけでした。
なぜなら、イエスは過越しの祭の子羊の型であり、その血はイエスに信頼を置くすべての人々を神の裁きから守るものだからです。
その頃、祭司長、律法学者、長老たちは、ローマ人の好意によってその年の大祭司となっていた狡猾なカヤパの家で密かに会合を開いていました。
彼らはそこで、イエスを自分たちの手に引き入れ、死刑に処す最善の方法を協議していました。
ユダヤ教への熱意は、イエスの教えによって脅かされていると感じていた彼らは、民衆との衝突に巻き込まれない限り、イエスを排斥するためならどんなことでも厭わない覚悟がありました。
彼らは、迫り来る祭日にイエスを捕らえようと試みるのは、間違いなく反乱を引き起こすことになるため、避けるべきだと考えました。
これらの邪悪で陰謀を企む殺人者たちの考察から、6~13節に語られているマリアの献身の美しい物語へと目を転じれば気分が爽快になります。
「さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、
ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。
この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」
するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。
貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」」
(マタイの福音書26章6~13節)
らい病人シモンについては何も知られていません。
ここには彼の名前が記録されていますが、付け加えられた言葉は、彼がまだ患っていた病気、あるいはおそらくは主によって癒された病気を物語っています。
彼がすでに亡くなっていた可能性もあります。
家はシモンの家とされていますが、ヨハネの記述によれば、そこは二人の姉妹、マルタとマリア、そして兄弟のラザロの家だったようです。
もし、これが事実なら、シモンはイエスの献身的な三人の友人の父親だった可能性があります。
しかし、マタイの記述では、彼らの名前は誰一人として述べられていません。
香油の入った石膏の壺を持って来てイエスに塗油した女性はマリアであったことが分かっています。
ヨハネは彼女がイエスの足に塗油したと記しています。
マタイとマルコはイエスの頭に塗油したことを記しています。
もちろん、どちらも真実です。
それは愛に満ちた献身の行為でした。
マリアにとって、イエスは王でした。
イエスが食卓に座ったり、寄りかかったりすると、彼女のナルドの香りが部屋中に漂いました。
「王がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはかおりを放ちました。」
(雅歌1章12節)
「あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。それで、おとめらはあなたを愛しています。」
(雅歌1章3節)
マリアにとって、イエスにとって貴重すぎるものは何一つありません。
彼女はイエスに最上のものを惜しみなく捧げました。
弟子たちは、この時ユダには無駄遣いのように思え異議を唱えました。
「ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。」
(ヨハネの福音書12章4節)
香油は高く売れて、その金を貧しい人々に施すことができたはずだと彼は考えました。
ユダには、マリアがイエスの頭と足に最上の宝を注ぎ込むほどの愛を理解できません。
彼にとって、それは大きな無駄遣いでした。
イエスは不平を言う者たちを叱責し、女の正当性を主張し、彼女がイエスのためにりっぱな(文字通り「美しい」)働きをしたと宣言されました。
彼らには常に貧しい人々がいて、彼らに仕えることができました。
律法に定められていたように、彼らは決してこの地から出ることはありません。
しかし、イエスはまさに去ろうとしていました。
おそらく他の誰よりもこれから起こることをよく理解していたマリアは、イエスの埋葬のために遺体に油を注いだのです。
彼女の献身は深く感謝されたため、イエスはこのように付け加えられました。
「世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」
キリスト御自身は私たちにとってそれほど現実的で貴重な存在です。
私たちはキリストへの献身を示すためにどんな犠牲も払う覚悟があるでしょうか?
マリアの愛と誠実さとは対照的に、ユダの裏切りが今や明らかになりました。
「そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。」
(マタイの福音書26章14~16節)
哀れな裏切り者は祝宴の場を去り、明らかに既に親しかった祭司たちの陰謀を見つけ出しました。
彼はイエスを彼らの手に引き渡すという条件で、一定額の支払いを要求したのです。
彼らはイスラエルの羊飼いの裏切りに関するゼカリヤの預言を思い起こすことなく、銀貨30枚でイエスと契約を結びました。
「「あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでないなら、やめなさい。」すると彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った。」
(ゼカリヤ書11章12節)
聖書に関する知識を誇っていた彼らは、合意した取引の中で、知らず知らずのうちにその預言を実行していたのです。
ユダはキリストと使徒たちの仲間に戻り、彼らと付き合い続けました。
そして、、地獄との契約という自分の側の約束を履行する好機を待ちました。
その契約は、彼が踏み出した恐ろしい道に対して、彼の良心が時折激しく反発したはずです。
次のセクションでは、最後の過越しの祭について説明します。
「さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。
「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」
イエスは言われた。「都にはいって、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう。」と言っておられる。』と言いなさい。」
そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。
さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。
みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。
イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。
確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。」
(マタイの福音書26章17~25節)
「種なしパンの祝いの第一日」
この祭りは7日間続きました。
初日に子羊が屠られ、定められた食事が行われました。
7日間、イスラエル人の家ではパン種は一切許されません。
ユダヤ教の一日は日没から始まるため、過越しの祭は「二つの夕べの間」(出エジプト記12章6節 )に行われました。
イエスは過越しの祭の最初の日没後に祭りを執り行い、次の日没前に真の過越の子羊としてほふりました。
「わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう。」
エルサレムの住民にとって、町を訪れた人々が祭りを執り行えるよう客間を設けることは敬虔な行為とされていました。
イエスはこの特権を行使されました。
伝承によると、救い主と弟子たちによる最後の過越の祭りは、ヨハネ・マルコの家で執り行われたとされています。
「弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。」
神の指示通り、彼らは食卓に焼いた子羊、苦菜、そして種を入れないパンを並べました。
この典型的な祝宴が御自身を予表する方であることを知っていたイエスにとって、これらすべては大きな意味を持っていたのです。
(コリント人への手紙第一6章7、8節)
「イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。」
ユダはまだ夜の闇の中へ出て行ってません。
主を裏切ることを既に承諾していた彼は、残りの者たちと共に座っていました。
「あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
すべてを知っておられたイエスは、ユダが関与した邪悪な陰謀をご存じでした。
しかし、もし彼の良心が働いていたなら、イエスは彼に悔い改める余地を与えておられました。
「主よ。まさか私のことではないでしょう?」
彼ら全員がこの質問をしたと伝えられています。
11人は深い悲しみと困惑の中で、そして一人は、この邪悪な行いをするために意図的に契約を結んだという罪悪感を抱きながら尋ねました。
罪は心をかたくなにし、良心を焼き尽くすのです。
「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。」
ユダは最後まで、苦い野菜の皿にイエスと共に浸ることさえしながら、イエスの愛の優しい表現を楽しむことを許されました。
「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
この言葉は、普遍主義者のむなしい希望を打ち砕きます。
なぜなら、少なくとも一人の人間については、生きていなかった方がよかったと語られているからです。
もし、ユダが救われるとしたら、真実ではあり得ません。
「いや、そうだ。」
明らかに他の人々の疑いの的になっていると感じたユダは、隠し切れない恐怖と、しかし明らかに厚かましさをもって、再び尋ねました。
「先生。まさか私のことではないでしょう。」 イエスは肯定的に答えました。
しかし、他の人々は聞こえなかったか、理解できなかったかのどちらかでした。
ヨハネの福音書によると、この時点でユダは急いで立ち上がり、部屋を出て行きました。
「ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。」
(ヨハネの福音書13章30節)
ユダは次の出来事が起こった時には実際にはそこにいません。
つまり、過越しの祭の後に出かけたことになります。
この点は長年議論の的となってきました。
次に主の晩餐が制定されました。
これはキリスト教会においてユダヤ教の過越しの祭に代わる聖なる儀式です。
この二つは密接に結びついています。
過越しの祭を祝った後、イエスは弟子たちにパンとぶどうの実を与え、十字架上で捧げられる御体と、罪の赦しのために流される御血を象徴するものとして、それらを食べるよう優しく願われたからです。
あの深刻な夜から二千年近くが経ち、数え切れないほどの信者たちが、死に至るまで愛してくださった主を偲び、感謝に満ちたこれらの儀式に参加してきました。
聖餐は、いかなる意味においてもささげ物ではありません。
「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。
私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」
(コリント人への手紙第一10章16節)
それは、主がカルバリの丘で私たちのために御自身を捧げられた、唯一にして永遠のささげ物を記念するものです。
また、聖餐に救いの価値や固有の功績があるなどと考えて祝うべきでもありません。
聖餐は、私たちが完全に失われ、無力であったとき、キリストが私たちのために死んでくださり、私たちを神のもとへ贖ってくださったことを思い起こさせるものです。
私たちが救われた大きな代償を思い巡らし、私たちのためにこれほどの悲しみと恥辱に耐えてくださった主が今、永遠に生き、二度と死の苦しみに屈することがないことを喜ぶとき、賛美のいけにえは常に聖餐に付随するものなのです。
「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」
(ヘブル人への手紙13章15節)
私たちは、イエスを「信仰の創始者であり完成者」として心に留めています。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」
(ヘブル人への手紙12章2節)
イエスは間もなくそこから再臨され、御自身の血による贖いを求められます。
その時まで、私たちは十字架を振り返り、来るべき栄光を見つめながら、敬虔な心でこの祝祭を祝うのです。
「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」
(コリント人への手紙第一11章26節)
「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。」
(マタイの福音書26章26~30節)
「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
イエスは種なしパンの一つを手に取り、祝福して裂き、弟子たちに与え、自分の体として食べるように命じました。
明らかに、そこには実体変化はありません。
イエスは御自身の体のまま彼らの前に座り、彼らはそのパンを食べたのです。
それはまるで、肖像画を見せて「これはわたしの母です」と言うようなものです。
一方が他方を象徴しているのです。
「また杯を取り」
杯の中に何が入っていたのか、正確には語られていません。
次の節から「ぶどうの実」であったことは分かりますが、発酵したぶどう酒だったのか?
煮た干しぶどうの果汁だったのか?
その時期には新鮮なブドウには早すぎたため、記録には何も記されておらず、私たちはそのことについて議論すべきではありません。
重要なのは、それが何を意味するのかということです。
「これは、わたしの契約の血です。」
この尊い血はまだ流されていませんでしたが、イエスは十字架の御業がすでに成し遂げられたかのように語っています。
杯にはイエスの血は入っていませんでしたが、後世、罪の赦しのために流されたイエスの血を思い起こさせる血が入っていました。
「わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
イエスは御自身の死を記念する式典には参加されませんでした。
しかし、そのささげ物の結果として、御自身のすべての民が父の王国に集まり、贖いの栄光に満ちた実りを共に祝う時を待ち望んでおられました。
その時、イエスは御自身のたましいの苦しみを知り、満たされるのです
「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」
(イザヤ書53章11節)
「賛美の歌を歌ってから、」
言い伝えによると、これは詩篇135 篇 、ユダヤ人の間では小さなハレルヤとして知られ、イスラエルのエジプトからの解放を祝うもの、あるいは、詩篇115 篇から 118 篇であると考える人もいます。
教会に託された中心的な儀式である愛の記念祭は、イエス御自身をたましいの前に立たせるために設けられました。
それは愛への訴えかけです。
イエスは去って行かれました。
イエスは深く愛した人々に忘れ去られることを望まれません。
イエスは、いつどこで執り行われるとしても、イエスを鮮やかに思い起こすことができるように、この聖餐を制定されました。
イエスの愛は死よりも強く、多くの裁きの水も消すことのできなかった愛です。
「私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。
愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。
大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。
もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」
(雅歌8章6、7節)
イエスは私たちを思い出すために、象徴など必要とされません。
しかし、私たちの愛は非常に変わりやすく、すぐに忘れてしまいます。
私たちの愛を活気づけ、イエスへの思いをよみがえらせるものが必要なのです。
そして、マリアのように、私たちも石膏の箱を携えてイエスの御前にそれを割り、礼拝の香りをイエスに注ぎ、家がこうして解き放たれた香りで満たされるまで続けるべきです。
イエスが制定された聖餐に先立って、イエスのキリストへの献身の物語が語られることは、ふさわしいことだったのです。
クリスチャンが聖餐にあずかることを妨げるのは、告白されていない罪だけです。
そして、その罪が十字架の光の中で裁かれるのが早ければ早いほど、聖餐に復帰するのも早くなります。
ダビデはこのように言いました。
「私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。」
(詩篇104篇34節)
私たちは主の食卓に着き、主の愛を思うことを喜びとしているでしょうか?
ローマ教会のミサと聖餐におけるイエスの真の臨在に関する教義は、真実とは正反対です。
パンとぶどう酒という形で、イエスの体と血が生者と死者の罪のためのささげ物として祭壇上で絶えず捧げられていると教えることは、私たちがキリストを思い起こす源であるキリストの個人的な不在を否定するものです。
また、十字架上でのキリストの唯一の捧げ物の完全性、そして二度と繰り返されることのない完全性を否定するものです。
正しく理解すれば、私たちは主の晩餐に臨むとき、神の血によって神に贖われた者として臨みます。
そして今、私たちの罪のために十字架上で御自身をささげ物にしてくださった神の栄光ある御方と、その遍在する愛を改めて思い起こすことを私は願っています。
私たちを主の晩餐にあずかるにふさわしい者とするのは、キリストの血です。
しかし、私たちは、ふさわしくない態度、つまり軽率な態度で、あるいは不注意な態度であずかることのないよう、注意しなければなりません。
主イエスの二つの来臨が、記念祭によってどのように結び付けられているかに注目してください。
私たちは、主が来られるまで、主の死を告げ知らせます。
「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」
(コリント人への手紙第一11章26節)
これらの出来事が起こった場所から、イエスが弟子たちと何度も訪れたオリーブ山への道をゆっくりと進んでいくと、イエスは、すぐに起こるであろうことについて弟子たちに警告し始め、彼ら自身の心の信頼性のなさを印象づけています。
「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。
しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。」
(マタイの福音書26章31~35節)
イエスが弟子たちに、その夜、すべての者が自分のゆえにつまずき、憤慨するであろうと告げた時、イエスが言及したのはゼカリヤの預言の一つでした。
旧約の時代、この預言者は神の霊によってこのように語っていました。
「牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける。」
(ゼカリヤ書13章7節)
この言葉は文字通り成就しようとしていました。
しかし、その時、すべての弟子たちは、これほど深く愛するイエスを見捨てるなどあり得ないと感じていました。
しかし、自分の心の奥底にある悪の深さを測り知ることは誰にもできません。
それを克服できるのは、神の恵みだけです。
イエスは、復活したら彼らより先にガリラヤへ行き、そこで彼らと聖なる会合を交わすという、心強い約束を付け加えられました。
しかし、それは現時点では彼らにとって意味のないものでした。
ペテロは自分の肉体の弱さに気づかず、他の皆はつまずくかもしれないが、自分はつまずかないと言い張りました。
しかしイエスは、鶏が鳴く前、つまり夜明け前に、三度主を否認すると宣言しました。
自信に満ちたペテロは、そんなことは決してあってはならないと主張しました。
たとえイエスのために死ぬよう召命を受けても、決してイエスを否認しないと言ったのです。
皆、このことを心に留めていました。
ああ、彼らはなんと自分自身を知らないのでしょうか!
その自信ゆえに、試練の時が来た時に、実行できないことを悟ったのです。
肉は自分の善良さを主張する傾向があります。
「多くの人は自分の親切を吹聴する。しかし、だれが忠実な人を見つけえよう。」
(箴言20章6節)
オリーブ山に到着すると、彼らはイエスがくりかえし祈り、御父と交わりをしていた西斜面の園に着きました。
「それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。
イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。
それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。
立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」」
(マタイの福音書26章36~46節)
ゲッセマネ!
この言葉には、どれほど深い悲しみ、大きな苦悩が暗示されています。
それは、他に類を見ないものです。
「しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。
それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」
(ルカの福音書12章50節)
この聖句の内なる意味を言い表しているようにも思われます。
主が弟子たちと幾度となく集い、父なる神との途切れることのない交わりを幾度となく味わわれたこの園で、主は私たちのために罪とされるという現実を思い描き、たましいの苦悩に身を委ねられていました。
「ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。」
(ヨハネの福音書18章2節)
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
(コリント人への手紙第二5章21節)
主はこれを待ち望みながら、このように叫ばれました。
「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」
(ヨハネの福音書12章27節 )
詩篇102篇はしばしば「ゲッセマネの詩篇」と呼ばれています。
これを読むとき、救い主が、神に見捨てられ、救うために来られたまさにその人々から軽蔑された者の孤独感に浸りきったときの、心の息遣いが聞こえてきます。
これは、救い主の聖なる人間性が凝縮した杯でした。
父なる神が常に喜びを見出された完全な御方(ルカの福音書3章22節、ルカの福音書9章3節、ルカの福音書9章5節)が、罪人の代わりになるのです。
それは言葉では言い表せないほど恐ろしく、ぞっとするような行為であるにもかかわらず、追放者として扱われ、まさにその目的のために天から来られたのです。
私たちに代わって死ぬために、人間性を与えられたのです。
しかし、イエスが神の裁きのバプテスマを受け、罪を赦す時が近づくにつれ、イエスがそのような恐ろしい試練から身を引くのであれば、イエスは聖なる御方ではなかったということになります
しかし、ゲッセマネで耐え忍ばれた苦しみは、それ自体が罪の償いではなかったことを覚えておく必要があります。
ゴルゴタ、恥辱の十字架上で、私たちの罪はイエスに負わされました。
「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました」
(ヨハネの手紙第一4章10節)
もし、神が恵みによって介入してくださり、私たちが受けるべきであった罰をイエスは完全に受けられました。
ゲッセマネは、私たちの罪悪によって満たされた苦よもぎと胆汁の杯を、イエスが底まで飲み干されたカルバリの先駆けでした。
「ゲッセマネという場所」。
その名は「油搾り場」を意味しています。
そこはケデロン川のすぐ向こうにあるオリーブ畑でした。
エルサレムの町から容易に行くことができました。
イエスは8人の弟子を入り口近くに残し、森の奥深くへと進んで行き、祈りを捧げました。
「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
この言葉は、入り口近くに残された8人に向けられたものでした。
弟子全員に同じように愛と共感を持っていたわけではないことは明らかです。
「ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれた。」
彼らは他の弟子たちよりもイエスを理解し、感謝しているように見えたので、彼らとの絆は強かったのです。
イエスは彼らに、御自分が苦しんでいる時の心の動揺を語られました。
この三人は、他の機会にイエスのより深い体験を分かち合っています。
「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。」
(マタイの福音書17章1節)
「イエスは家にはいられたが、ペテロとヨハネとヤコブ、それに子どもの父と母のほかは、だれもいっしょにはいることをお許しにならなかった。」
(ルカの福音書8章51節)
しかし、彼らはイエスが深く悲しんでおられることを分かっていましたが、その原因を理解することはできません。
「ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
彼らも後に残されなければならない時が来ました。
しかし、彼らは、来たるべき試練が信仰にとって大きすぎるものとならないように、目を覚まして祈るように命じられました。
「いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。」
(ルカの福音書22章40節)
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」
イエスの言葉は彼らを大いに困惑させたはずです。
なぜなら、彼らはまだ、イエスが以前に話された裏切り、死、そして復活に何が含まれるのか理解していなかったからです。
「それから、イエスは少し進んで行って、」
イエスが御父に心を注ぎ出しました。
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と言われた時、もはや、彼らはついて行くことができません。
父の御心に対するイエスの服従は完璧でしたが、もし他の方法で罪人たちが救われるのであれば、それが明らかにされることをイエスは嘆願されました。
「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。」
イエスは三人のところに戻ってこられると、皆が眠っていました。
イエスを悼む悲しみに打ちひしがれていたのです。
イエスはペテロを優しく叱られました。
ペテロがイエスへの愛と忠誠をあれほど力強く語ったにもかかわらず、目を覚ましていなかったからです。
「ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」」
(ヨハネの福音書13章37節)
「心心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
イエスは弟子たちの献身の態度を認めておられましたが、同時に、最も優れた聖徒たちにあっても、人の心が信頼できないものであることもご存じでした。
そこでイエスは、誘惑に不意を突かれないよう「目をさまして、祈っていなさい」と命じられました。
試練の時に耐えられなくなることのないよう、用心深く神の助けを求めるよう懇願されました。
イエスは、彼らが心の中では誠実でありたいと願っていることをよくご存じでしたが、肉体に宿る人間としての弱さを警告されました。
「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
イエスは、それがイエスにとってどんな悲しみや苦しみを意味するとしても、父なる神のみこころに完全に従われたのです。
イエスはまさにこの目的のためにこの世に来られました。
「そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」」
(ヘブル人への手紙10章7節)
「イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」
(ヨハネの福音書4章34節)
意志の衝突はありません。
イエスは父なる神のみこころにかなうことなら何でも従いました。
杯がどれほど苦くても、失われた罪人たちの救いが他に方法がないのであれば、イエスはそれを飲まれるのです。
「イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。」
彼らはイエスが自分たちのために何をなさっているのか理解できず、イエスのたましいの苦悩の時に共に目を覚ましていられなかったのです。
主は神であると同時に真の人間であり、人間として人間の同情と理解を切望されました。
イエスは憐れみをかけてくれる人を求められました。
「そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした。」
(詩篇69篇20節)
最愛の弟子たちはイエスの期待を裏切り、イエスの悲しみをさらに深めました。
キリストの苦しみにどれほど深く関わっているか、自分の心に問いかけてみることは必要です。
不敬虔な世に拒まれているこの時代に、私たちは目を覚まして祈ることができるでしょうか?
油断せずに怠惰に、祈りを捧げる代わりに怠惰に陥った者は、厳しい誘惑の瞬間に耐えることはできません。
祈りを怠ることは、神の御言葉への明確な不服従であり、呪いや誓いの言葉と同じくらい神に対する真の罪であることを理解すれば、試練の時に必要な恵みを天から得るために神が与えてくださる機会を、注意して活用できるはずです。
「イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。」
これは、イエスを心から愛しながらも、この出来事の重大さに耐えられなかった人々に見られます。
最善を尽くしてもなお貧しく脆弱な人間の本質を痛切に物語る言葉です。
「三度目の祈りをされた。」
イエスは再び父の前に独りでひれ伏し、完全に服従したが、目の前の恐ろしい試練に聖なるたましいは怯えていました。
その試練は、私たちの哀れな心が罪によって麻痺しているため、この完全さを理解することはできない試練なのです。
「もう一度同じことをくり返して」
無駄な繰り返し、つまり無駄な叫びを、イエスは御自身を非難されています。
「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」
(マタイの福音書6章7節)
しかし、執拗な祈りは神のみこころにかなうものであることが示されました。
「友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。
すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」
(ルカの福音書11章6~10節)
イエスは繰り返し御父の前に御自身の思いを述べられましたが、この点において、イエスは私たちにとって模範です。
「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。」
裏切り者がすぐそこに近づいています。!
彼らは、あの試練の時の厳粛さを、理解していなかったのです。
彼らが眠くて危険に気づかない間に、祭司たちの使者たちが園に入ってきていました。
「わたしを裏切る者が近づきました。」
逃げようとする者は誰もいません。
時が来たのです。
イエスは完全に平静を保ち、裏切り者と、自分を捕らえに来た暴徒たちに会いに出て行きました。
苦悩は終わりました。
イエスは今、完全に落ち着き払っており、まるでほふり場に引かれて行く小羊のように、自分から進んで、自分を滅ぼそうと追い求める者たちに会いに出て行きました。
イエスが父の御心に完全に身を委ねていたことは、これらすべての終末の経験、特にゲッセマネの経験に表れています。
大いなる罪の供え物となり、私たちの罪とされることの恐ろしさは、イエスの人間としてのたましいと霊を圧倒しました。
しかし、私たちが見てきたように、イエスは神のみこころに完全に従順であり、決して離れることなど考えられません。
そこには私たちの心には決して測り知れない深みがありますが、イエスにとってはすべてが完璧です。
もしイエスが十字架のささげ物に関わるすべてのことを平静に思い巡らすことができたなら、イエスはあのような完全な人間ではありません。
しかし、イエスはすべてを知り、ご自分が私たちの救いの創始者となるには他に方法はないことを悟りました。
「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」
(ヘブル人への手紙2章10節)
主は神が栄光を受け、罪深い人々が裁きから救われるために、ひるむことなく試練に立ち向かわれたのです。
杯の意味
この杯が語っているのは、単に死や肉体の苦しみだけではありません。
イエスはこれらの苦しみを恐れていません。
父なる神が聖なる御子に差し出そうとしていた杯を満たした、罪に対するヤハウェの激しい憤りこそが、イエスのたましいの激しい苦しみを引き起こしました。
その苦しみはイエスの体にも深く響き、血の汗が皮膚の穴から流れ出ました。
ある人たちは、この杯は、イエスが十字架に架かる前にサタンに殺されるかもしれない、もしくはサタンの力によって狂気に陥り、罪のささげ物として御自身を捧げることができなくなるかもしれないという恐怖から生まれたものだと言っています。
これらは根拠のない推測です。
サタンは神の許しを得ない限り、イエスに対抗する力を持つことができません。
イエスが自分で命を捨てるまで、誰もその命を奪うことができなかったという事実を考慮に入れていません。
「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」
(ヨハネの福音書10章17、18節)
イエスはすでに強い人を縛っておられ、園で彼を恐れてもいません。
「強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができるましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。」
(マタイの福音書12章29節)
怒りの杯は旧約聖書に記されています。
それは悪人のために用意された杯です。
「主は、悪者の上に網を張る。火と硫黄。燃える風が彼らの杯への分け前となろう。」
(詩篇11篇6節)
また、罪に対する神の憤りの杯です。
「主の御手には、杯があり、よく混ぜ合わされた、あわだつぶどう酒がある。主が、これを注ぎ出されると、この世の悪者どもは、こぞって、そのかすまで飲んで、飲み干してしまう。」
(詩篇75篇8節)
よろめかす杯です。
「さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。」
(イザヤ書51章17節)
「あなたの主、ご自分の民を弁護するあなたの神、主は、こう仰せられる。
「見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない。」
(イザヤ書51章22節)
そして、ヤハウェの激しい怒りの杯でもあります。
「まことにイスラエルの神、主は、私にこう仰せられた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。」
(エレミヤ書25章15節)
これらすべて、いや、それ以上のことが、私たちが救いの杯を得るために主が飲まなければならなかった杯に込められています。
「私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。」
(詩篇116篇13節)
その杯には死と呪いが込められています。
おお、キリストよ、その杯はあなたには満ちあふれています。
しかし、あなたは最後の暗い一滴まで飲み干されました。
今は、私にとっては空っぽです。
イエスの神性は、罪人の代わりに私たちの咎の重荷を負う裁きの杯を飲むことを躊躇されたことに表れています。
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
(イザヤ書53章5、6節)
イエスは限りなく清い方でした。
それは、神が、神の死によっていのちのささげ物を受け、その死によって義とされるすべての者を平安のうちに受け入れるためでした。
私たちのために罪とされること、すなわち、型として罪の供え物となることが何を意味するのか、恐れ以外の何物でもありません。
これがイエスの苦悩を説明するものです。
それは父なる神のみこころにイエスが完全に服従したことと同様に、イエスの人間性の完全さの証拠でもありました。
ゲッセマネは、イエスが傷のない、汚れのない小羊であり、その血が罪から清め、裁きから守る力を持つことを明らかにしています。
「わが父よ。できますならば」
ゲッセマネにおいて、神の御子の十字架上の無限のささげ物以外に、罪の償いは不可能であることが断定されました。
もしこの状況に一致して、神の正義の要求を満たす他の方法があったなら、それは祝福された主の熱烈な祈りに応えて、あの時に明らかにされたはずです。
しかし、何もありません。
神はすべての人をキリストとその完成した御業に閉じ込められました。
罪深い罪人には、神の御座の前で義とされる他の名は与えられていません。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
(使徒の働き4章12節)
他の道も知られていません。
「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。
モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」
(使徒の働き13章38、39節)
繰り返しますが、罪の問題が解決され、不義の償いがなされたのは、ゲッセマネではなくカルバリの丘です。
しかし、園での苦悶は、十字架の暗闇への適切な前兆です。
私たちの罪を適切に償うためには、身代わりは人間である必要がありました。
しかし、イエスは人間以上の存在です。
そうでなければ、彼のささげ物はすべての人々の身代金となるほどの価値を持つことはできません。
イエスは死と裁きを受けない人間でなければなりません。
つまり、試練を受け、完全に罪がないことが証明された人、つまり、思い、言葉、行いにおいて神の聖なる律法を一度も犯したことのない人でなければなりません。
イエスのこの無罪性こそが、私たちのために罪とされることを予期して耐え忍んだ苦しみを説明しています。
しかし、そこには心の葛藤などありません。
イエスは、御自身がどんなに恐ろしいささげ物を払うことになっても、御父の目的を遂行する覚悟ができていました。
聖書における神のみこころの証拠として注目すべきなのは、三つの共観福音書では私たちの目が園でのキリストの苦悩に向けられているのに対し、ヨハネの福音書にはこのことについて何も触れられていないことです。
ヨハネの福音書には、イエスの変容や死の際の幕の裂けたことについて何も書かれていないのと同じです。
共観福音書では主の人間性に重点が置かれています。
ヨハネの福音書では、私たちの前に主の本質的な神性が示されています。
主の生涯のさまざまな行為と、主が語ったすべての言葉の中に、栄光が輝いているのが見て取れます。
すべては完璧です。
なぜなら、聖書は神の霊感によって書かれたものだからです。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
(テモテへの手紙第二3章16節)
真夜中にイエスが逮捕されたとき、すべての弟子たちは、イエスを一人残して約束を忘れて逃げてしまったという話が続いています。
「イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。
イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。
それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で。」と言って、口づけした。
イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。
すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。
そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。
だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」
そのとき、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。
しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。」
(マタイの福音書26章47~56節)
ユダは、祭司長、長老、そして群衆を剣と棒を手に、こっそりと待ち合わせ場所へと導きまた。
そこにはきっとイエスが祈っておられるはずです。
良心が少しでも働いていたなら、彼はひどく動揺していたはずです。
しかし、ユダはそれを表に出すことなく、群衆を率いてイエスが三人の弟子と立っている場所へと歩み寄りました。
「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と、ユダは彼らに合図を送っていました。
こうした悪行を思い描くと、人は恐怖に襲われます。
しかし、欺きに満ちた生まれながらの心では、誰にでも起こり得ることなのです。
ユダは大胆にイエスの前に進み出て、「先生。お元気で。」と叫び、何度も接吻しました。
イエスは静かに彼を見つめ、「友よ。何のために来たのですか」と尋ねました。
そして、敵が自分を捕らえ、逮捕するのを許しました。
突然、激しい感情に駆り立てられた一人は、ペテロであることが分かっています。
彼は剣を抜き、大祭司の召使に切りかかり、その耳を切り落としました。
ペテロは祈りに備えて目を覚ましているべき時に眠っていました。
しかし、冷静で信頼しているべき時に、彼は興奮し、活動的になっていました。
それが彼の肉の活動です。
剣を振り回しながら、彼はマルコスの耳を切り落としました。
マルコスはイエスを捕らえるという点では、何も責任を負っていません。
ペテロが恐れていた惨事を回避しようとしましたが、実際には何も成し遂げられていません
イエスは彼の愚かな行為を叱責し、剣をさやに納めるように命じました。
キリストを守り、弁護するために、肉の武器は必要ありません。
キリストは父なる神に、御自身を救うために十二軍団の御使いを遣わしてくださるよう願うだけでよかったのです。
ならば、罪深い人々の身代わりとしてキリストが死ぬことを預言した聖書の御言葉は、どのように成就できたのでしょうか?
イエスは、周囲を取り囲む群衆の方を向き、「剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか」と問いました。
イエスは、いつでも神殿で教えを説いている姿を見ていたことを彼らに思い出させました。
真夜中にこのような奇妙な出没をする必要はありません。
しかし、これらすべての出来事を通して、預言者を通して与えられた神の御言葉が成就したのです。
イエスが弟子たちに従順に身を委ねると、弟子たちはパニックに陥り、すべての者がその場から逃げ去りました。
もし、イエスがこの屈辱に屈服していないなら、敵たちはイエスの前で無力だったはずです。
しかし。イエスは、神のみこころが成就されるように、自分の事を弟子たちの手に委ねました。
この従順さの中に、父なる神への、そしてイエスがこれから命を捧げる人々への、イエスの愛の表れを見ることができます。
イエスを捕らえた者たちは、日没から日の出までの間に罪を犯した者を裁判にかけることを禁じる自分たちの律法を無視し、鶏が鳴く直前、つまり真夜中過ぎの3時にイエスをカヤパの家へ急がせました。
そこには、イエスに速やかな裁きを下すために、指導者たちが待機していた場所でした。
イエスの教えは多くの人々に権威への信頼を失わせ、イエスをすぐに排斥しなければ、さらに多くの支持者を得るのではないかと彼らは恐れていました。
「イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。
しかし、ペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まではいって行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわった。
さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。
偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。しかし、最後にふたりの者が進み出て、
言った。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる。』と言いました。」
そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」
しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。
「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」
イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」
すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。
どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる。」と言った。
そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、
こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」」
(マタイの福音書26章57~68節)
最初の恐怖から立ち直ったペテロは、一行に加わり、イエスの後に少し離れて付き従い、この不法な行為がどのような結果をもたらすのかを見守っていました。
ペテロは大祭司の宮殿の廊下に入り、中で何が起こっているのか見渡せる場所に召使たちと共に座りました。
証人たちはイエスに不利な証言をするために急いで召喚されましたが、彼らは皆、イエスに対する陰謀の首謀者たちに取り入るために偽証をいとわない者たちです。
それでも、彼らの証言は一致しません。
最終的に二人の男が連れて来られ、かつてイエスが「わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる」と言ったと証言しました。
半分真実というよりは、全くの嘘です。
確かに、イエスはこれと似たようなことを言いました。
しかし、彼らはイエスの言葉の意味を完全にくつがえすように伝えました。
イザヤが預言したように、イエスは弁明を試みず、口を開きません。
「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」
(イザヤ書53章7節)
このことがカヤパを非常に怒らせ、彼は叫びました。
「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」
しかし、大祭司がイエスに誓いを立てさせ、生ける神にかけて、イエスが神の子キリストであるかどうかを答えさせようとします。
しかし、イエスは答えようとはしていません。
すると主は厳粛に宣言されました。
「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」
これは、イエスが救世主であること、そして永遠の子としての神性の両方を明確かつ積極的に宣言した言葉です。
しかし、カヤパにとっては冒涜です。
祭司は衣服を引き裂くことを禁じる律法の戒めを忘れ、衣を二つに引き裂きました。
「兄弟たちのうち大祭司で、頭にそそぎの油がそそがれ、聖別されて装束を着けている者は、その髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならない。」
(レビ記21章10節)
この行為は、祭司職の終焉を意味していました。
彼はそのことに気づいていません。
しかし、神はもはやレビ人たちの聖職を認めていません。
彼は神への恐れの念を大げさに装いました。
そして、イエスを冒涜の罪で告発し、もはや証人は必要ないと主張しました。
彼は他の評議会の者たちに呼びかけ「さあなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。
どう考えますか」と尋ねました。
すると彼らは皆、「彼は死刑に当たる」と答えました。
実際には、彼らは既にこの件について先入観を持って裁きを下し、判決を下していました。
そして、哀れな無防備な人々の権利を守るべきこれらの者たちは、恥知らずな方法でイエスの顔に唾をかけ、最も侮辱的な方法でイエスを殴り、殴打し始めました。
彼らはイエスをあざけりながら、両手で平手打ちし「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか」と言いました。
イエスは何も答えず、辛抱強く耐えています。
一方、ペテロは宮殿の中庭に座っていて、反対者たちが軽蔑していた聖なる苦難者に対する関心を少しも示していません。
「ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」
しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。
そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」
それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。
しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。
すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。」
(マタイの福音書26章69~75節)
ペテロをにらんでいた女中が、大胆にもペテロに近づき、ガリラヤのイエスといっしょにいたと非難しました。
不意を突かれたペテロは、それが事実だと告白する勇気がありません。
それどころか、皆の前でそれを否定し、言われたことは何も知らないと主張しました。
玄関に出ると、もう一人の女中が叫んで「この人はナザレ人イエスといっしょでした」と言い張りました。
ペテロは再び誓いを立て、宮殿の中でそのような苦しみに耐えているその人について、一切知らないと否定しました。
その後、一人の男が口を開いた。
「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」
皆の前でペテロのガリラヤなまりは、彼が北の国から来た者だと決めつけられました。
興奮し、ひどく恐れたペテロは我を忘れ、呪い、誓い始め、再びその人を知らないと誓いました。
彼は名前さえ呼んでいません。
神の子であっても、主との交わりを失い、肉の支配下にあるならば、人は恐ろしい深みに落ち込むことができるのです!
背を向けた哀れな弟子は、話している最中に鶏の鳴き声に驚きました。
イエスが語られた言葉がよみがえってきたのです。
自分のひどい失敗を悟った彼は、そこに集まっていた一行を離れ、暗闇の中へと出て行き、激しく泣きました。
それは感激の涙でした。
彼のたましいの中で回復の御業が始まったことを物語っていたからです。
「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」
(コリント人への手紙第二7章10節)
そして、これが真実な悔い改めの始まりであり、イエスが死からよみがえられた後、たましいの完全な回復へと繋がります。
背教と堕落には大きな違いがあります。
ユダは背教者でした。
彼は新生の現実を全く知りません。
使徒として選ばれていたにもかかわらず、彼は悪魔でした。
「イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」
イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。」
(ヨハネの福音書6章70、71節)
彼には立ち直る術がありません。
しかし、ペテロは典型的な背信者です。
彼は真の神の子でしたが、自己過信と祈りの欠如によって失敗しました。
しかし、後に回復し、キリストの忠実な証人となりました。
背教とは、かつて信じていると告白していた真理を放棄することです。
背信とは、かつて享受していた経験から霊的に堕落することです。
この違いは計り知れません。
この違いを明確に理解することで、多くの思考の混乱から救われることができます。
第26節
ミサと聖餐
By Dr. Harry Ironside
先週の終わり頃、シカゴで開催された聖餐大会の翌日曜日に、ムーディー教会で、ハリー・アイアンサイド氏を講師に迎え、プロテスタント系の大集会を開催できる可能性を牧師は知りました。
大規模な宣伝を行うには期間が短すぎましたが、土曜の新聞での告知と、集会に出席した多くの市内の牧師たちの協力により、この取り組みは多くの人々に知られるようになりました。
ジョン・オヘア牧師とヤコブ・グレイ牧師は、大変親切にも、それぞれのラジオの聴衆に集会について伝えてくださいました。
オヘア牧師が集会の司会を務め、3500人以上が参加しました。
今日お話しするように、「プロテスタント」に対して「カトリック」という言葉を使うことは可能です。
もしそうだとしても、それは単に口を滑らせただけです。
なぜなら、私は真実なプロテスタントは本物のカトリックであり、主イエス・キリストをすべての信じる者は、神の御子の尊い血によって買い取られた唯一の聖なるカトリック教会の一員であると考えているからです。
しかし、私はカトリックとローマカトリックを区別しています。
ある時、カリフォルニアで電車の中で出会ったローマカトリックの司祭と話していた時、彼は私の職業を尋ねました。
私は「カトリックの司祭です」と答えました。
彼は私のえり首を見て「きっと冗談を言っているのですね」と言いました。
私はこのように答えました。
「いいえ、人生でこれほど真剣に考えたことはありません。
私は聖なるカトリック教会の司祭です。
つまり、主イエス・キリストを信じるすべての信者から成り、聖なるカトリック教会を形成する、あの聖なる王なる司祭団の一員なのです。」
ですから、私が「ローマ主義者」という意味で「カトリック」という言葉を使ったとしても、皆さんは私の言っていることを理解していただけるはずです。
私はローマ教会に対して何か失礼なことを言うためにここに来たわけではありません。
友人のオヘア兄弟があなたに思い出させてくれたように、我が国はすべての人に対し、宗教上の特権に関して完全な良心の自由の権利を保証しています。
私たち自身もその自由を享受したいと願うのであれば、喜んで他の人々にもそれを認めます。
しかし、私はただローマ教会の教えのいくつかを検証し、神の御言葉の教え、特にローマ教会の偉大な中心教義である「聖体秘跡」、すなわち「ミサの秘跡」について比較検討したいのです。
問題の核心
ローマカトリックのすべての司祭、ローマ教会の主張の成否は、ミサにおけるキリストの真実な臨在という教義にかかっていると述べています。
ミサの秘跡で用いられるパンとぶどう酒は、司祭によって聖別されます。
すると、何らかの不思議な方法で主イエス・キリストのからだ、血、たましい、神性に変えられ、実際にパンを受け取った私たちの主イエス・キリストのからだ、血、たましい、神性を口に入れて食べることになり、消化したときに真実となります。
そして、ローマ教会はキリストの真実な教会として、私たちのすべてがその一員となるというものです。
しかし、もしこれが偽りであり、神の御言葉の教えに完全に反するのであれば、ローマ教会は背教した教会であり、忠実なすべての信者、ローマ教会の罪の責任を負わぬように、ローマ教会から離れるべきです。
16世紀の偉大な改革者たちは、このことを明確に認識し、聖体拝領やミサに関するローマ教会の教義が神の御言葉に完全に反し、冒涜的であるだけでなく偶像崇拝的であると確信しました。
だからこそ、彼らは、この背教的な体制に抗議し、クリスチャンの多大な血のささげ物を払って、今、私たちが受け取っている自由を勝ち取りました。
しかし、私たちは、このような立派な父祖たちの不相応な子孫として、自由を無駄にし、先祖たちが大変な努力で逃れたこの邪悪な体制に、私たちの子孫が再び陥ることを許しています。
基本的な真実
まず最初に、ヘブル人への手紙第10章にある一節に注目していただきたいと思います。
一見すると、この一節は問題の主題とは何の関係もないように思われるかもしれません。
しかし、これから読んでいくうちに、この一節が単にこの主題と関係しているだけでなく、それに関する基本的な真理を示していることが分かると思います。
ヘブル人への手紙第10章11節から始まります。
「また、すべて(レビ人の)祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。
しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。
「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。
「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」」
(ヘブル人への手紙第10章11~17節)
キリストは神の奥義において、神であり、人であり、祝福され、栄光に満ちた一つの存在です。
決して、分離されることのない御方なのです。
ここで、私が皆さんに理解していただきたい重要なテキストをここに示します。
「これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。」
(ヘブル人への手紙第10章18節)
キリストの完成された働き
ヘブル人への手紙の中で、使徒パウロは旧約聖書時代の儀式制度と、イエス・キリストが私たちの贖いのためにカルバリの十字架上で御自身を捧げられた時に成し遂げられた栄光の御業を対比させています。
パウロは、古い体制下では罪の問題が解決されずに、祭司の仕事が終わっていないという事実に私たちの注意を促しています。
世の罪を償うのに十分な価値のあるささげ物が見つかずに、人々は再び罪を犯すたびに、新たなささげ物を捧げなければなりません。
捧げ物が絶えず捧げられ、祭司が幕屋や主の神殿に座るための備えさえありません。
罪が取り除かれなかったため、祭司の仕事も終えていません。
しかし。パウロは続けて、これらのささげ物を通して、年ごとに罪が再び認識されいるとと述べています。
つまり、旧約聖書の教えのもとで、礼拝者は信仰をもって神のもとへ行き、自分の罪を告白し、牛一頭、羊一頭、あるいは鳥二羽など、動物のささげ物を捧げました。
その者は自分の罪を告白し、これらのささげ物がその者のために捧げられました。
これらは彼の罪を帳消しにしたり、彼の心を清めたりはしません。
むしろ、これらは人が借金の返済のために債権者に渡す約束手形のようなものです。
ある人が一定の金額の借金を抱えていたとしましょう。
その人はその金額を約束手形に書きます。
期限までに返済できないので、彼は別の約束手形を作成します。
そして、その約束手形には、毎年、借金の返済が記されています。
ゆえに、古代の約束手形においては、単に毎年、罪の返済が記されていたのです。
ある時に、人が約束手形を書かなければならず、その約束手形に署名してくれる親切な裕福な友人がいたとしましょう。
その約束手形に裏書することで、友人は「約束手形の支払期日までにあなたが支払えない場合は、私が代わりに支払うことを誓います」と言ってくださったのです。
罪の問題の解決
旧約の人々が繰り返しささげ物を携えて、神にささげ物を捧げていました。
永遠の御子でありながら、かつて、肉体を持っていない私たちの主イエス・キリストはすべてを記録し、このように言われました。
「さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。」
(ヘブル人への手紙第10章7節)
時が満ちて、イエスは女から生まれ、律法の下に造られ、カルバリの十字架へとむかれました。
そして、そこで、過去のすべての罪を一つにまとめ、清算し、すべての信者の責任を世の終わりまで完全にし、人々の罪のために自分をささげ物に捧げられたと語りました。
十字架上で、この唯一にして十分な捧げ物によって、イエスは罪の問題を神の満足のいく形で解決されました。
今や神は義なる方であり、イエスを信じる者を義と認めてくださるのです。
主イエス・キリストのささげ物には、過去と未来の両面があります。
それは、ささげ物の血によってのみ覆われていた過去のすべての罪を消し去ることです。
また、彼を信じるすべての人々のために、将来のすべての罪を消し去るだけの十分な備えをしました。
哀れな罪人がキリストの完成された御業にあずかる手段は極めて単純です。
罪人は、神の前に失われた罪人として立ち、自分の罪を認め、十字架で死んだ主に信頼を置くことです。
「モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」
(使徒の働き13章39節)
この新約聖書の秩序において、キリストは唯一のささげ物を捧げる祭司であり、唯一にして十分なささげ物です。
キリストは罪の償いをし、死からよみがえり、神は十字架の御業において、御自身の義なる満足を示されました。
そして、キリストを天の御自身の右座に座することによって実現しました。
愛の饗宴
主イエスは、このすべてを予見して去られる前に、弟子たちに愛の饗宴を与えられました。
この饗宴は、私たちが一般的に「主の晩餐」と呼んでいます。
主の晩餐において、この贖いの奥義が素晴らしく美しく描かれています。
新約聖書の中で、この饗宴について語られている様々な聖句を皆さんに紹介してみたいと思います。
この愛の饗宴について語る一つ一つの聖句を読み、皆さんがそれを耳にし、最近、皆さんが目にして、読んだりしている偶像崇拝の饗宴と、自身の心の中で比較していただければと思います。
そして、皆さんに自問自答していただきたいのです。
この一週間、無数の人々が熱心に行ってきたこの儀式と、何か関連のあるものはあるでしょうか?
罪のためのいけにえは存在するでしょうか?
いけにえを捧げる司祭は存在するでしょうか?
香を焚くのに何か規定があるのでしょうか?
聖母マリアを崇拝するために何か規定があるのでしょうか?
きらびやかな衣をまとった偉大な聖職者には何の意味があるのでしょうか?
先日、マンデレインでの祝典中に雨で20万ドル相当の祭服が台無しになったという記事を読みました。
使徒全員、復活後に主を見た500人、そして初期のクリスチャン全員を雨や雹の中に放り出したとしても、10ドルの服が台無しになることもありません。
ここ数日にこの町とその周辺で行われた儀式に匹敵するものがあるのでしょうか?
それは、私たちの主がここで話されていることの続きであると思われます。
マタイの福音書26章には、主が弟子たちと過越の食事をした直後の26節から次のように書かれています。
「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。」
(マタイの福音書26章26~30節)
主の晩餐の最初の儀式は、その簡素さの中にある美しさは何なのでしょうか?
ローマ・カトリック教会のまさに中心となるこの神秘的な儀式とはまったく異なっています
他のバージョン
さて、マルコの福音書を開いて、同じ聖餐についての彼の記述を読んでみましょう。
マルコの福音書14章22節にいわゆるミサの秘跡を取り巻く教義に何らかの根拠を与えているような記述がないのでしょうか?
マタイが省いたものや、マルコが何か挿入しているかのか、どうかを見てください。
「それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。
イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」
まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
そして、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行った。」
(マルコの福音書14章22~26節)
「それから、みなが食事をしているとき」
この点に注目していただきたいと思います。
すべてのローマカトリック教徒は、断食中にミサの秘跡を受けるように指示されています。
「彼らが食事をした後、イエスはパンを取られた」と読んだことがあるのでしょうか?
彼らは過越の食事を終えようとしていました。
そして、「イエスはパンを取られた」のです。
覚えておいてください。
これは「イエス・ホミヌム・サルバトール(救世主)」を意味するとされる神秘的な文字「IHS」が刻まれた特別なケーキではありません。
しかし、これはエジプトの神々「イシス」「ホルス」「セブ」を意味していると考えています。
彼らはずっと昔、同様の儀式でそのようにしていました。
さて、私たちの兄弟ルカ、愛する医師ルカが記した物語をご覧ください。
「それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」
食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」
ルカの福音書22章19、20節
パウロの告白
使徒ヨハネは主の晩餐の制定について何も記述していません。
しかし、キリストの昇天後、タルソのサウロが改心して使徒パウロとなった後、特別な啓示が与えられました。
そして、コリント人への手紙第一11章にその全容が記されています。
20節から読んでみましょう。
「しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。
食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。
飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。
私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」
(コリント人への手紙第一11章20~26節)
この祝祭が、キリスト教の二つの偉大な事実、すなわちキリストの死と再臨をどのように結びつけているかに注目してください。
主の晩餐は、亡くなった方を記念して執り行われますが、私たちはそれを執り行うことで、主の再臨を待ち望むのです。
主が来るまで
少し前に友人が教会で講演をしていたとき、主の再臨について話したところ、礼拝後に牧師が友人のところに来てこう言いました。
「その話題に触れて申し訳ありません。
私たちはここではキリストの再臨を信じていません。」
「信じていないのですか?」
「はい、信じていません。」
「説教壇の前にあるテーブルは何ですか?」
「あれは主の食卓です。」
「それで何をするんですか?」
「私たちは主の晩餐を受けるときにこれを使います。」
「あなたは何のために聖餐を受けるのですか?」
「神の御言葉がそのように告げているからです。」
「いつまでそれを行う予定ですか?」
「私たちがここにいる限りだと思います。」
「聖書は何と言っているのですか?
「何を言っているのか分かりません。」
「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」
主の再臨を信じないなら、この言葉は読まない方がいいと思います。
これは、死んだキリストが再臨されることの証しです。
主はこのように言っています。
「主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」
(コリント人への手紙第一11章26、27節)
そして、同じ手紙の10章16節にはこのようにあります。
「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」
(コリント人への手紙第一10章16節)
「あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。
主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。」
(コリント人への手紙第一10章21節)
教えは明確です
私はこれらすべての聖句を読みました。
なぜなら、そこには新約聖書には、すべての主の晩餐について明確に述べている節が載っているからです。
そこから、その教えが分かります。
私たちの祝福された主は死ぬために出て行かれ、弟子たちのもとを去る前に、彼らにこの記念の祝祭をお与えになりました。
預言者エレミヤ書には、イスラエルに恐ろしい裁きが下ることを預言する感動的な一節があります。
エレミヤは、あまりにも多くの人が死ぬので、彼らのためにパンを裂く者も、慰めの杯を与える者もいなくなるだろうと述べています。
これは明らかに、誰かが死んだ時、愛する友人たちが残された人々と集まり、座って愛する人を偲んで飲食し、おそらくその人の美徳について語り合い、愛する人たちを慰めようとするという古い慣習を指していると思います。
私たちの主イエス・キリストは、地上での33年間の輝かしい生涯を終えました。
主は死を迎えるために出て行かれます。
主はその目的のために来られたのです。
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
(マタイの福音書20章28節)
今、主は弟子たちの小さな集まりを囲んでいます。
彼らは過越の祭、つまり神が認めた最後の過越しの祭を祝っています。
実際、彼らは過越の祭を祝い、キリストはその同じ日に死なれました。
なぜなら、ユダヤ人の一日は夕方に始まり、次の夕方まで続いたからです。
ですから、主は最初の夕方に弟子たちと共に過越の祭の食事をとり、次の夕方の前、つまり二つの夕方の間に、十字架上で死なれました。
私たちの過越の祭であるキリストは、私たちのためにささげ物となられたのです。
追悼の祝祭
これらすべてを目の前にして、主はパンを取りました。
それは普通のパン、過越しの祭で使われていたパンでした。
おそらく種なしパンでしょう。
しかし、それが必ず種なしパンであるべきだと明確に示す聖書の記述はありません。
神の御言葉が、パンが発酵したものであるべきか種なしであるのか?
ぶどう酒が発酵したものであるのか?
もしくは種なしであるのかを、明確に規定しているようには思えません。
しかし、そこに神の知恵を見ることができると思います。
なぜなら、もしそのような規則があったとしたら、神の子たちの多くがパンにあずかることができなかった状況もあるからです。
しかし、主はパンを取り、それを手に持ち、弟子たちに言われました。
「これはあなたがたのための、わたしのからだです。」
注目してください。
主はそこで食卓に座っておられました。
主はパンに何らかの変化が起こったことを示しているわけではありません。
主はそこに、完全な人間のからだで存在しており、このパンを手に持ち、「わたしのからだ」だと述べたのです。
主が何を語っておられるのか理解できない者は盲目だと思います。
主が語っておられるのは、このパンです。
このパンは、私のからだが罪のためにささげ物にされるという真理を、あなた方に伝えるためのものだと理解してほしいのです。
主はまだささげ物にされておられないのに、あたかもすでにささげ物にされたかのように語られます。
「わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
そして、主はパンを彼らに回されます。
そこには神秘的な祭司職も、高価な祭服も、儀式的に灯るろうそくも、立ち上る香も存在しません。
彼らは一度食事を共にし、そして主はこの美しい記念の晩餐を与えられます。
主はそこで市債を任命することさえされません。
主は彼らを兄弟と呼び「わたしを覚えて、これを行ないなさい」と力強く言われます。
シンプルで美しい
兄弟の皆さん、主の晩餐について考える時、私たちはよりシンプルであればあるほど良いと思います。
以前読んだ話ですが、ある村に住んでいたヒンドゥー教徒の方に宣教師が初めてやって来ました。
そして、「来なさい。あなたはあるものを見る必要があります」と言われました。
宣教師はその男の家に行きました。
白人の男が聖書を持ってやって来るのを見ると、宣教師は立ち上がり、挨拶をし、足元に頭を下げました。
宣教師は言いました。
「お立ちなさい。私もひとりの人間です。」
「はい」とヒンドゥー教徒は言いました。
「あなたは聖書を持って来られました。
私はそれを20年間待ち望んでいました。」
「それはどのようなものでしょうか?」
「私は20年前、長い旅をしました。
市場で、あなたのような人が本を読んでいるのを耳にしました。
彼は、愛の偉大な神が御子を罪人のために遣わし、死なせたという物語を話していました。
私は本を買いました」
彼は、ほとんど一枚も残っていないほど擦り切れたマタイの福音書を取り出しました。
「家に持ち帰りました。
その本を読みました。
何度も何度も読みました。
村の人たち全員に読み聞かせました。
神が誰かを送って、もっと詳しく教えてくれるよう、ずっと祈っていました」
私は彼に一緒に食事をしようと誘いました。
主人は少し恥ずかしそうに、ご飯を一杯持っていて、相手の男性の方を向いて言いました。
「食事の前に、私はいつもイエスの言われた通りにしています。」
宣教師は理解できません。
そして、私は言いました。
「どうぞ、邪魔はしません。」
ヒンドゥー教徒は目を閉じ、キリストが自分のために死んでくださったことに感謝しました。
「主イエスの体が私のために十字架につけられたので、私はこの米を食べています」と言いました。
それから彼はその土地で一般的な飲み物を取って言いました。
「主イエスが私のために死んでくださったので、私はこれを飲みます。」
米を与えたのと同じように宣教師にも分け与え、二人は一緒に飲食しました。
宣教師は言いました。
「これをどれくらいやっているのですか?」
「20年間です。」
「どのくらいの頻度で行っているのですか?」
「食事をするたびにです。」
彼は聖書の中に、どれほど頻繁にそのようにすべきかを示すものは何も見つけることができなかったのです。
ですから、繰り返しますが、私たちはよりシンプルであればあるほど良いのです。
これは単純な記念であり、それだけです。
「聖体拝領」とはどういう意味ですか?
皆さんはこのように尋ねます。
「聖体におけるキリストの真実な臨在を信じていないのでしょうか?」
聖体という言葉の意味を知らない人もいるかもしれません。
それは「感謝」です。
そうです、親愛なる友よ、教えを受けたすべてのクリスチャンは聖体におけるキリストの真実な臨在を信じています。
しかし、パンがパン以外の何物でもなくなるとは信じていません。
そして、ぶどう酒がぶどう酒以外の何物でもなくなるとも信じていません。
穀物のパンとぶどう酒がイエス・キリストのからだ、血、たましい、そして聖さへと奇妙で神秘的な変化を遂げるなどとは信じていません。
しかし、次の言葉を信じています。
「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
(マタイの福音書18章20節)
私の人生の中で最も美しい瞬間は主の食卓で過ごし、昔から「わたしを覚えて、これを行ないなさい。」と言われた聖なる方と交わりです。
そこで、信仰の目でそこに立ち、傷を示し、両手を広げておられる主を見分けることができることです。
セントルイスに住むローマカトリックの信徒は、自分たちの宗教を熱心に宣伝することでプロテスタントを大いに恥をかかさせています。
最近、こんな広告を出しました。
「カトリックは聖体におけるキリストの真実な臨在を信じ、プロテスタントはキリストの真実な不在を信じています」
しかし、これは誤りです。
プロテスタントはパンとぶどう酒が神秘的な変化を起こすとは信じていません。
しかし、キリストを記念して飲食するとき、キリストは美しく素晴らしい方法で臨在し、愛する民の心に御自身を現し、信仰によってキリストを糧にすることができると信じています。
私たちはキリストを記念して糧にし、過去を振り返り、キリストが負われた悲しみを思い起こします。
私たちは、キリストの十字架と苦い受難を思い描き、そうしながら、キリストの肉を食べ、キリストの血を飲みます。
そして、キリストを味わうとき、キリストが十字架上で命を捧げた目的に対する私たちの愛は薄れてゆきます。
逆にキリストが私たちを新しい生きた道、幕をくぐり最も聖なるところへと導いてくれる祝福された事柄についての私たちの愛は増していきます。
なぜなら、私たちは、私たちが食べている者のようになるからです。
クリスチャン間には区別はありません
この祝宴において、キリストはパンを与え、それからぶどう酒をお与えになります。
キリストは信者を聖職者と信徒に分け、聖職者に「ぶどう酒はあなたたちのものであり、パンは信徒のものです」とは言っていません。
聖書にはそのような区別はありません。
キリストの福音がこの世に宣べ伝えられ始めてから2世紀半の間、信頼できる教会史を調べてもそのような区別は見つかりません。
教会には役員がいました。
長老と執事もいました。
長老は特別な監督権を持っていましたが、クリスチャンを信徒と聖職者に分け、聖職者が神に特別に近づき、神の秘義を授ける特別な権限を持つというような区別はありません。
これはキリスト教の初期には知られておらず、初期の時代には聖餐は簡素に執り行われました。
私たちはそのことについて明確な記録を残しています。
調べてみれば、ビティニア総督だった小プリニウスがトラヤヌス帝に宛てた手紙で、クリスチャンがどのような罪を犯し、根絶すべきなのかを尋ねていることがわかります。
彼は要約するとこのように述べています。
「私は彼らについてできる限りの情報を得ようと努めてきました。
疑われることなくキリスト教の礼拝に参加できるよう、スパイを雇ってクリスチャンを自称させ、バプテスマを受けさせたことさえあります。
私の予想に反して、クリスチャンたちは真夜中、もしくは早朝に集まり、キリストを神として讃美歌を歌い、自分たちの聖典を読み、パンとぶどう酒と水(全員に十分な量になるようにぶどう酒を薄めて水を加えている)という極めて質素な食事を摂っていることがわかりました。
私が知る限りでは、彼らは互いに政府に従うよう勧め合い、すべての人のために祈っていることです。」
プリニウスはなぜ彼らが迫害されるのか理解できなかったのです。
豪華な祭壇も、ささげ物を捧げる司祭も、信者たちがひれ伏して受肉した神として礼拝する祭壇上の特別なケーキも知りません。
しかし、彼のスパイたちは、クリスチャンたちがパンとぶどう酒と水というごく質素な食事を共にしているのを見つけています。
ほぼ同時期に著述を行った殉教者ユスティノスは、聖餐がどのように執り行われていたかを非常に明確に記しています。
彼は聖職者制度も祭壇も神秘的な変化も知りません。
もちろん、聖母マリアへの祈りも知りません。
昇る香など、そのようなものも全く知りません。
今日の福音派クリスチャンの集まりで見られるような聖餐の執り行われ方を描写しています。
長老の一人が司式し、人々が共に賛美歌を歌い、パンとぶどう酒で感謝を捧げ、信者たちにそれらを分配し、病気で出席できない人々にも分け与える様子が描かれています。
福音書に記されているように、その簡潔さが美しいのです。
その時、チャンスが訪れました。
しかし、キリスト教時代を数世紀さかのぼると、すべてが変わってしまったことに気づきます。
キリスト教の教会に入ると、主の食卓が見事に姿を消しています。
食卓の代わりに祭壇があります。
キリスト教の教会に祭壇があるのです。
それも、この祭壇はユダヤ教に属していました。
しかし、この祭壇はキリスト御自身の象徴でした。
そして、その栄光ある御方が捧げ物を聖別し、キリストが架けられた十字架を象徴しています。
キリスト教の祭壇はキリストの十字架ですが、コンスタンティヌス帝以降の数世紀の教会には再び祭壇が見られます。
そこでは特別な祭服を着た司祭が仕えています。
ユダヤ教の司祭職が用いたものではなく、何世紀も前のバビロンの司祭が着ていたものと全く同じ祭服です。
何がこの変化をもたらしたのでしょうか?
それはただ一つ、キリスト教が迫害され、クリスチャンがローマ政府によって禁じられていた間は簡素さと現実が優勢でした。
しかし、国家がキリスト教の守護者となり、古代の異教とローマ帝国を新たなキリスト教と融合させようとする動きが起こりました。
その結果、異教の形式や儀式が徐々に持ち込まれ、簡素で美しく、聖書に基づいた初期キリスト教の形式は取って代わられました。
祭壇はユダヤ教から持ち込まれたものではありません。
いわゆる、キリスト教の教会には、ユダヤ教のような祭壇は一度もみることがなかったのです。
異教
数年前、カリフォルニア州オークランドでインド系の若者たちを指導していました。
彼らに教会史を教えていたのですが、ある日、実践的なレッスンをするために、サンフランシスコにある3つの中国寺院を訪れ、その後2つのローマカトリック教会を見学しました。
訪問後、私は若者たちに「それぞれの場所で何を見たか話してください」と言いました。
すると彼らはすべて書き出しました。
「どの建物にも入り口に聖水がありました。
どの建物にも祭壇がありました。
どの建物にも高価な祭服を着た司祭が祭壇の下で頭を下げていました。
どの建物にもろうそくと線香がありました。
どの建物でも、参拝者がひざまずく時には鐘が鳴っていました。」
このように、ローマ教会と異教の寺院は、ほとんど同じだったのです。
古代異教の崇拝の歴史に通じる人なら誰でも、現在では聖餐の秘跡と呼ばれるものと結びついているこれらの形式や儀式がどこから来たのか理解できます。
同様の慣習は、キリストの500年以上前にバビロニアの司祭たちによって実践されていました。
バビロンの神殿や祭壇には、腕に子供を抱いた女性の像がありました。
この女性は天の女王と言われていました。
彼女の子供は「子孫」と呼ばれていましたが、これは明らかに「女の子孫は蛇の頭を砕く」という言葉に含まれる真理をサタンが真似したものです。
この女性には、丸い月形のパンからなる血のないささげ物が捧げられました。
そして、彼女に捧げられたパンは祭壇に置かれ、信者たちは敬意を表してひれ伏しました。
エレミヤ書第44章では同じ崇拝がパレスチナに伝わり、その後エジプトに散らばり、ユダヤ人の間で観察されたことを私たちは読みました。
「彼らがユダの町々や、エルサレムのちまたで何をしているのか、あなたは見ていないのか。
子どもたちはたきぎを集め、父たちは火をたき、女たちは麦粉をこねて、『天の女王』のための供えのパン菓子を作り、わたしの怒りを引き起こすために、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いでいる。」
(エレミヤ書7章17、18節)
エレミヤ書44章では、民は偶像崇拝から立ち返ったものの、再び偶像崇拝に戻ると宣言しています。
15節にはこのように記されています。
「すると、自分たちの妻がほかの神々に香をたいていることを知っているすべての男たちと、大集団をなしてそばに立っているすべての女たち、すなわち、エジプトの国とパテロスに住むすべての民は、エレミヤに答えて言った。
「あなたが主の御名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。
私たちは、私たちの口から出たことばをみな必ず行なって、私たちも、先祖たちも、私たちの王たちも、首長たちも、ユダの町々やエルサレムのちまたで行なっていたように、天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはその時、パンに飽き足り、しあわせでわざわいに会わなかったから。」
(エレミヤ書44章15~17節)
妥協
この丸いケーキを捧げるという古代の習慣は、背教した教会によって受け継がれました。
彼らはこう言いました。
「最良の方法は、様々な宗教を一つにまとめ、この異教の儀式をキリスト教の儀式に変えることです。
この丸いパンを、キリストの体、血、たましい、そして神性と呼ぶことにしましょう。」
これが聖体と呼ばれるものです。
完全に丸くなければなりません。
教会に持ち込まれ、司祭が祝福します。
たとえ一部が欠けていても、これはただのパンですから、誰でも食べられます。
ローマカトリック教会は、主が「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい」と言われた時に、この教えが教えられましたとあなた方に言います。
しかし、主が彼らと一緒にそこにいると言ったように、彼らのためにパンを一つも裂かれることはありません。
イエスは彼らにこのパンを渡され、彼らはそれを食べ、このパンがキリストを養うことの価値の示す神の素晴らしい方法であることを明らかに私たちに理解させました。
私たちはパンを食べて体力をつけ、キリストを糧にして霊的な力を得るのです。
しかし、今では司祭が祝福するとパンは変化すると教えられています。
私たちは、ひれ伏してパンを拝むことは偶像崇拝だと非難しています。
ローマ・カトリック教会は、パンはキリストそのものだと説いています。
彼らは「パンは文字通りキリストの体、文字通りキリストの体、血、たましい、そして聖いものであることを理解してほしいのです?」と言います。
「いいえ、文字通りではありませんが、神秘的にそうなるのです。」
ローマの司祭たちが祭壇で毒殺されたという話はよく知られています。
聖体は祝福され、キリストの体、血、たましい、そして神性に変わるはずだったのですが、敵がそこに毒を注ぎ込んだのです。
つまり、聖体は毒殺されたのです。
彼らは、自分たちが宣言するような変化は実際には起こらないことを理解しています。
しかし、聖別された瞬間にキリストが来られ、聖体に入ると彼らは言います。
ここに像を作っている者がいます。
あなたは言うでしょう。
「これらの像は本当に神なのだろうか?」
「いいえ、まだです。」
「では、いつ神になるのでしょうか?」
司祭がそれらを受け取り、祝福し、それらが象徴する神に聖別します。
すると神はそこに宿り、そこに宿ります。
そのため、崇拝者が頭を下げても、それは単なる神像ではなく、そこに宿る神のたましいを崇拝しているのです。
キリストのささげ物に対する冒涜
ローマ教会の教義とそれらとの間に何か違いはあるのでしょうか?
全くありません。
パンは司祭が祝福するまでパンであり、その後、何らかの神秘的な方法でキリストの体、血、たましい、そして神性がパンと同一視されるようになります。
新約聖書における礼拝は、聖霊の力によって父なる神と子なる神にのみ捧げられます。
そして、ローマ教会は、この聖体は生者と死者の罪のための絶え間ない無血のささげ物であると教えています。
キリストは十字架上で一度死にましたが、ローマ教会の祭壇ではキリストが毎日捧げられています。
私たちは、これは主イエス・キリストの唯一の捧げ物の完全性を否定するものだと主張します。
罪を消し去るささげ物が見つからない限り、一つのささげ物が次々と捧げられる必要がありました。
しかし、キリストがこの世に来られ、御自身を汚れのない姿で神に捧げられた時、神殿の幕は上から下まで二つに裂けました。
これによって、聖所への道が明らかにされました。
すべての信者が神の御前に出る資格を持ち、神の御子の無限の価値ある贖いの業を通してさまざまな罪から清められ、さまざまなものから義とされたことを意味しています。
さて、地上の人間が、生きている者と死んだ者の罪のために絶えずささげ物を捧げるなどということは、主イエス・キリストのささげ物に対する冒涜であるだけでなく、全くのナンセンスです。
なぜなら、神の御言葉はこのように述べているからです。
「また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」
(ヘブル人への手紙9章22節)
血を流さないものは罪を償う価値がありません。
そして、既にイエスの贖いがなされているので、罪を償う必要がなく、無価値なのです。
プロテスタントには復興が必要です。
ですから、私はこう言います。
ローマ・カトリックのミサの教義と聖書の聖餐の教義の間には、途方もない隔たりがあります。
聖餐は記念の祝宴です。
キリストの体であるクリスチャンは、自分たちのために命を捧げ、罪を消し去ってくださった方を思い起こすために集まるのです。
そして、それは自分たちの罪が消し去られたからです。
教えを受けたクリスチャンは、赦しを求めて聖餐に臨むことはありません。
私は、主イエスの贖いの血によって自分の罪が永遠に消し去られたからこそ集まります。
そして、その偉大なささげ物を捧げ、聖なる神の御前に立つにふさわしい者となってくださった方を、感謝の気持ちを込めて思い起こすのです。
二つの体制の間に妥協はあり得ません。
プロテスタント教会が眠っている間に、ローマは宗教改革の成果を盗み続けてきました。
彼らが些細なことで口論している間、ローマには多くの弱ったプロテスタントが集まってきました。
彼らは神の恵みの尊い福音を聞いてこなかったため、霊的な助けを求めながら虚しく探し求めていたのです。
プロテスタント教会は、教義的な説教の復活、宗教改革の偉大な真理の宣言、特別な司祭職のようなものを廃しました。
そして、すべての信者が普遍的な司祭職を持つこと、イエスの血によって洗われ、罪の問題を永遠に解決した唯一の捧げ物への信仰によって、すべてのものから義とされたすべての人がキリストのからだの一員となること、聖餐ではなく記念の祝宴として主の晩餐を行うことを復活しなければなりません。
これらの偉大な真理が再び強調され、信仰と聖霊への信頼をもって御言葉が説教される所ではどこでも、宗教改革の時代のように、神はこれらを用いて、たましいに喜びと平和と歓喜を与えてくださいます。
ルターが証明に火を灯しました。
ルターのことを思い出してください。
彼はまだアウグスティノ会の修道士だった頃、修道会の用事でローマへ行きました。
彼は喜んで行きました。
落ち着きがなく、不幸な男だった彼は、教会が提供するさまざまなものを試しても神との和解を得られず「聖都ローマに行けば、望むものはすべて手に入るだろう」と言いました。
そして、神に会えることを切望してローマへ行きました。
後に彼は証言の中でこう語っています。
「生きたローマは私を不信心な者にしました。
しかし、死んだローマは私をクリスチャンとして保ってくれました。」
彼がローマに到着し、司祭たちの聖職売買と教会の腐敗を目の当たりにしたとき、彼の心は恐怖に満たされました。
彼は言いました。
「ローマでは、金のためにすべてを売り渡します。
赦しも、罪を犯す権利も売り渡します。
ローマでは父と子と聖霊さえも売り渡すのです!」
そしてついに、街を歩きながら、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラン教会に辿り着いた彼は、そこにキリストがピラトの裁きの場から降りてきた階段があるという伝説を知った。
四つん這いでその階段を登れば、頂上に着く頃には偉大な霊的祝福が得られると言われていました。
このドイツ人修道士はあまりにも真剣で、平安をもたらすためなら何でもする覚悟で、階段を上り始めました。
そして、その最中、突然、聖書の一節が彼のたましいの奥底に突き刺ささりました。
「義人は信仰によって生きる。」
(ローマ人への手紙1章17節)
彼は飛び上がって言いました。
「私はなんて愚か者なんだろうか!
『義人は信仰によって生きる』としたら、どうして私はこの階段を登っているんだろうか?」
彼はドイツに戻り、何百年もの間、私たちのプロテスタント諸国の灯火となってきたあの灯火に火を灯しました。
ローマは、もしそれが可能ならば、その灯火を消そうと、執拗に、そして断固として努力してきます。
ローマは信教の自由を求めており、私たちも喜んでそれを認めています。
しかし、この国や他のプロテスタント諸国においてローマが再び覇権を握れば、私たちはもはや開かれた聖書も、公立学校も、私たちが大切にしてきたさまざまな制度も失ってしまいます。
神は、私たちの先祖たちをあわれみをもって救い出された奴隷の地を、私たちの子孫に残さないために、私たちは目覚めるべきなのです。
マタイの福音書27章
ローマ政権下では、ユダヤ人は誰かに死刑を宣告する権限がありません。
後に主と同じ様に冒涜の罪で告発されたステパノの場合と同じです。
(使徒の働き7章54~60節)
そのため、自分たちの手で物事を進め、カエサルの政府が彼らに課した掟に反して行動しない限り、冒涜者に死刑を宣告するレビの律法を実行することができません。
「あなたはイスラエル人に告げて言え。自分の神をのろう者はだれでも、その罪の罰を受ける。
主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。
在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。」
(レビ記24章15、16節)
イエスの場合、祭司長たちをはじめとする指導者たちは、イエスの教えを喜んで聞いていた人々が怒って自分たちに襲いかかるのを避けるため、イエスの死の責任をローマ人に転嫁しようと躍起になっていました。
そこで彼らは、イエスを死刑に値すると宣言した後、次の行動として、当時のユダヤの総督であったピラトの前にイエスを連れて行きました。
「さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した。
それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。」
(マタイの福音書27章1、2節)
状況が許すや否や、イエスは鎖につながれ、ピラトの法廷に連行されました。
ピラト総督はイエスのことを知っていました。
おそらくは彼をユダヤ教の一派の無害な熱狂者と見なしていたのです。
そこで総督は、民衆を奮い立たせてローマに反逆させ、カエサルに代わって彼を自分たちの王として認めようとしていた扇動者として、イエスを裁くよう求められました。
その時、裏切り者のユダが祭司長たちと長老たちの前に現れました。
ユダは自分が犯した行為の重大さに気づき始め、深い後悔の念にさいなまれました。
多くの人がユダを弁護しようと試みました。
それは、ユダがメシアの王国の樹立を切望しすぎていたため、主を滅ぼそうとする徒党に裏切ることで、いわば主を迫り、ユダヤ人の王と宣言させようとしたものです。
しかし、聖書にはこのことについて何の暗示も見当たりません。
ユダが銀貨30枚で主を売った強欲な男として描かれている以外、何も書かれていません。
今やイエスを待ち受ける運命に気づき始めたユダは恐怖に襲われています。
その強い不安の中で、自分が犯した恐ろしい過ちを帳消しにしようと試みましたが、手遅れです。
「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、
「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。
それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。
祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから。」と言った。
彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。
それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。
そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの人々に値積もりされた人の値段である。
彼らは、主が私にお命じになったように、その金を払って、陶器師の畑を買った。」」
(マタイの福音書27章3~10節)
ユダの悔い改めは、彼が犯した罪に対する真実な自分への裁きではありません。
ここで使われている「悔い改めた」という言葉は、心や態度の完全な変化を意味する通常の「考えを変えた」という言葉とは異なります。
むしろ「後悔する」という意味であり、真の悔い改めとは別に、激しい後悔となりました。
ユダは銀貨30枚を受け取った人々に返し「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と叫びました。
ユダはイエスの聖さと義をよく知っていました。
ユダは3年以上イエスと共に過ごし、イエスの性格には何の欠点もなく、その行いにも悪意はなかったことを悟っていました。
祭司たちは冷たく答えました。
「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」
冷淡な偽善者たちは、自分たちの獲物を自分の力で操っていると信じており、イエスにかけられた告発の真偽など気にも留めていません。
彼らはイエスを断罪することに固執していたのです。
恐怖と絶望に打ちひしがれたユダは、神殿の金を投げ捨て、狂乱のあまり外へ飛び出し、人里離れた場所を探して首を吊って自殺しました。
ペテロはここで省略された詳細を補足しています。
「ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。」
(使徒の働き1章18節)
この二つの記述を合わせると、おそらくやや肥満体だったこの哀れな男が、おそらく自分の体重で折れた木か梁に首を吊り、地面に落下する際に体がひどく裂け、ペテロが描写したような状態に陥ったと考えられます。
ともあれ、かつて多くの希望を抱かせた人生にとって、実に悲しく恐ろしい結末でした。
祭司たちは血の代金を神殿の宝物庫に入れることに慎重でした。
そのため、協議の末、その代金で陶工の畑、つまり陶器を作るための粘土が採取された土地を購入することに決めました。
こうしてユダ自身が、罪の代償としてその土地を実際に購入したのです。
この荒れ地は、他に埋葬の手配ができない異邦人を埋葬するための墓地として確保されました。
その地は「血の畑」と呼ばれたのです。
祭司たちとユダが関与した悪行を常に思い起こさせるものでした。
9節の正しい理解について疑問が提起されています。
ゼカリヤ書には、銀貨30枚についてこのように記されています。
「「彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。」
そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。」
(ゼカリヤ書11章13節)
この箇所はここで引用されている箇所と非常に似ていますが、完全に同じではありません。
「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの人々に値積もりされた人の値段である。
彼らは、主が私にお命じになったように、その金を払って、陶器師の畑を買った。」
エレミヤ書にあるのは誤りである可能性があります。
写字生が、同じく写したと思われる別の写本、つまり、エレミヤが陶工の家を訪れたことを記したものを念頭に置いて、ゼカリヤの代わりに誤って書き記した可能性があります。
そして、後代の写字生が本文中にこの名前を見つけたとき、自由に書き換えることができなかったのかもしれません。
あるいは、ゼカリヤの預言そのものが明確に述べられているのではなく、エレミヤが書き記したのではなく、語り伝えた何かが伝承によって伝えられた可能性もあるます。
J・N・ダービーは、ゼカリヤ書はエレミヤの預言から始まる巻物の一部であり、したがってエレミヤの名を冠し、「エレミヤ」に記された言葉と言えるのではないかと示しています。
いずれにせよ、ここには聖書の権威を否定するものは何もないことは確かです。
ユダの卑劣な物語を離れ、再びピラトの法廷に戻り、祭司長たちが彼の前に連れてきた囚人がどうなるかを見てみましょう。
「さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。
しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。
そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。」
それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。
ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。
そのころ、バラバという名の知れた囚人が捕えられていた。
それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。」
(マタイの福音書27章11~18節)
総督の「あなたは、ユダヤ人の王ですか」という質問に対し、イエスは冷静に「そのとおりです」と答えました。
つまり、あなたが行っていることは、わたしがその通りの者だということです。
このように、イエスはポンテオ・ピラトの前で、立派な告白を目撃されました。
「私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。」
(テモテへの手紙第一6章13節)
イエスは敵対者たちによる虚偽の、復讐に満ちた告発には何も答えていません。
しかし、総督自身がイエスに話しかけた際には、ためらうことなく真実を告げられました。
ピラトは主が示した静かな自信に驚嘆しました。
ピラトは、このような告発にも動揺せず、弁明しようともしていません。
イエスには何の罪もないと確信していたものの、告発者たちの容赦ない性質を知っていたピラトは、狡猾で悪徳な宗教指導者たちの機嫌を損ねることなくイエスを釈放する方法を探りました。
時は過越の祭の時期で、ユダヤ人への恩恵として、何年もの間、自国の著名な囚人を釈放するのが慣例となっていました。
もし、彼らがイエスを反逆罪で告発することに真剣であれば、告発を取り下げ、囚人を釈放することは喜ばしいことではないでしょうか?
当時、もう一人の反逆者、バラバが処刑を待っていました。
彼は政府に対する反乱を率いていました。
そこでピラトは群衆の前に二人の名前を挙げこのように尋ねました。
二人は同じ罪で告発されていました。
それでは、なぜイエスが釈放されることで人々は満足できなかったのでしょうか?
イエスを告発する者たちと彼らの周りに集まった暴徒たちがこの件について興奮して議論している間に、総督の妻から一通の知らせが総督のもとに届きました。
「また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」
しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。
しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。」
(マタイの福音書27章19~23節)
教会の伝統では、ピラトの妻クラウディア・プロクラが聖徒とされています。
伝説によると、彼女はユダヤ教への改心者で、イエスを信じるようになったと言われています。
しかし、聖書はここに記されている以上のことは何も語っていません。
彼女は、戸惑い、時を過ごす夫に夢の中で苦しめられた「あの正しい人」とは一切関わらないようにとメッセージを送りました。
ピラトがこれに対してどのような反応を示したかは記されていません。
しかし、目の前の問題に正面から向き合い、イエスの件を徹底的に法的・司法的な方法で取り上げる以外に方法はなかったのでしょうか?
彼は、いまだに模索していました。
この囚人の無罪放免しか方法がなかったと考えました。
これは、ピラトを告発する者たちの激しい憤りを招きます。
彼らはおそらく、反逆者として断罪されるべきピラトに関して職務を果たさなかったとして、ピラトをローマの信頼できない臣下として皇帝に訴え、偽証するはずです。
ユダヤ人たちは総督を滅ぼすためにさまざまな手段を講じていたのです。
イエスは民衆の選択を待ちました。
どちらを釈放すべきでしょうか?
イエスでしょうか?
バラバでしょうか?。
答えはすぐに出ました。
祭司長や長老たちの働きかけで、群衆は声高にバラバ支持を表明しました。
「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」
ピラトは弱々しく尋ねました。
イエスの物語が知られている場所ならどこでも、遅かれ早かれ誰もが直面する質問です。
群衆は声を揃えて「十字架につけろ」と叫びました。
こうして、決定的に、イスラエルの王、ヤハウェに油そそがれた者は拒まれ、ユダヤ人の希望は一時的に打ち砕かれる運命となりました。
然るべき支配者が拒まれ、殺害された時、彼らに王国はあり得ません。
興奮した宗教家たちの群衆を相手にする自分の無力さを悟ったピラトは、水を要求し、群衆の前で劇的に手を洗いながら叫びました。
「そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」」
(マタイの福音書27章24節)
しかし、彼は皇帝の王座の代表者としてそこにおり、有罪者を有罪とし、無実の者を無罪放免する責任がありました。
ピラトの名前が偏見に満ちた告発者たちに弱々しく明け渡しました。
忍耐強く苦しむイエスの名と、今後永遠に結び付けられる運命にあるとは、ピラトは全く気づいていません。
まだ生まれていない数え切れないほどの人々が、その後の何世紀にもわたって、このように唱えられることになったのです。
「私は神を信じ、ポンテオ・ピラトのもとでで十字架につけられた神の子イエス・キリストを信じます」
ユダヤ人は恐るべき無謀さで「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」と叫び、自分たちに呪いをかけました。
この不幸な国民が過去二千年にわたって耐え忍んできた悲惨な苦悩と苦しみは、彼らが恵みによって彼らを贖うために来られた方よりも殺人者を選んだあの日の選択にまでさかのぼることができます。
彼らの中の一人一人、そして他のすべての人々で悔い改めて神に立ち返る者にとって、救い主の執り成しによって呪いは取り払われました。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
(ルカの福音書23章34節)
ピラトは彼らの要求に屈し、イエスを彼らの意のままに引き渡しました。
イエスは兵士たちに引き渡され、兵士たちはイエスにさらなる侮辱を与えました。
「そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。
それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。
そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。」
(マタイの福音書27章26~28節)
その当時の恐ろしい慣習に従い、ピラトはイエスをムチ打つよう命じました。
それは極めて残酷な刑罰で、イエスの背中を金属片が留められたムチで叩き、肉を細切れに引き裂くというものでした。
そのため、イエスの体はすぐに文字通り血に染まりました。
しかし、イエスの聖なる唇からは非難の言葉は一切漏れません。
イエスが王を自称したために有罪となったことを知った兵士たちは、イエスの上着をすべて剥ぎ取り、脱ぎ捨てられた緋色の衣を着せ、いばらの冠をかぶせ、あざけり笑いながらイエスの前にひれ伏しました。
「それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」
また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。
こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。
そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた」
(マタイの福音書27章29~32節)
彼らは知らなかったが、彼らの行動は極めて重要です。
それは、イエスの青白い額にいばらの輪を押し付けた時でした。
神は人間の罪のために地を呪い、いばらとあざみを生えさせました。
「土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」
(創世記3章18節)
いばらは呪いの実であり、イエスは、自分を卑劣に扱った者たちとすべての人々のために呪いとなろうとしていました。
それは、イエスを信じるすべての者が律法の呪いから救われるためです。
下品な兵士たちはイエスの前にひれ伏し、葦を杖に見立ててイエスの手に渡し、嘲笑の調子で「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と叫びました。
彼らにとって、この従順で無防備な囚人が、自分を王だと想像したり、弟子たちにそう思わせたりすることは、まさに冗談でした。
彼らの目には、イエスに王らしさなど全く映っていません。
しかし、信仰の目には、罪人たちによる反抗を、聖なる忍耐と父なる神のみこころへの服従をもって耐え忍んだ時ほど、イエスを王らしく映ったことはありません。
兵士たちは、ユダヤ人がカヤパの家でやったように、イエスの顔に唾を吐きかけました。
ユダヤ人と異邦人は、イエスを拒むことにおいて一体となりました。
彼らはイエスの粗野で下品な扱いにうんざりし、イエスの着物を脱がせて元の衣服を着せました。
それは、十字架につけるためでした。
聖書ではなく伝承によれば、イエスは十字架の重みに耐えかねて一度ならず三度も倒れたとされています。
しかし、これは確かな記録に基づくものではありません。
しかし、イエスの体力は失血と過度の苦痛によって著しく衰弱していたようです。
冷酷な兵士たちでさえイエスが十字架を担ぐのに助けが必要だと悟り、そこへ向かっていたキレネ人シモンを捕らえて無理やり助けさせたのは明らかです。
これはシモンにとっては大きな特権でした。
彼がその特権をどれほど感謝していたかを私たちは確かに知りたいと思います。
初期のクリスチャンは、マルコの福音書15章21節にシモンの息子として言及されているアレキサンデルとルポスは二人ともイエスの熱心な信者となり、彼らの父親もイエスの仲間であったと述べています。
「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。」
(マルコの福音書15章21節)
私たちは、これが根拠のない伝承以上のものであることを願うばかりです。
ついに彼らはエルサレムの城壁の外にある小さな丘に到着しました。
ユダヤ人はそこを「ゴルゴタ」、ラテン語では「カルバリ」(どくろの場所)と呼んでいました。
そこでは、さまざまな時代の悲劇が演じられることになっていました。
旧約聖書のさまざまな捧げ物が型としていたささげ物が、現実に私たちのために神に捧げられるのです。
「ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、
彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。
こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、
そこにすわって、イエスの見張りをした。
また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。
そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。」
(マタイの福音書27章33~38節)
十字架刑に処せられる者には、恐ろしい試練に耐えるために、麻痺させる飲み物を与えるのが慣例でした。
酸っぱいぶどう酒(または酢)に胆汁または没薬を混ぜた飲み物がイエスに差し出されましたが、イエスはそれを拒みました。
イエスは、精神を麻痺させたり、受けている苦しみを和らげたりするようなものは一切摂取していません。
十字架の下で、イエスの処刑に関わった兵士たちは、千年前にダビデが語った預言に従い、イエスの衣服を分け合い、縫い目のない上着を賭けてくじを引きました。
「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」
(詩篇22篇18節)
この6時間の間に、預言は次々と成就しました。
マタイの福音書27章36節は私たちの心に響きます。
「そこにすわって、イエスの見張りをした。」
この言葉には暗示に富んでいます。
冷酷で無関心な兵士たちは、十字架にかけられたイエスを何気なく見ていました。
読者の皆さんも、この壮大な光景を目に留めてみてはいかがでしょうか?
神の聖なる御子が、その偉大な力に命を懸けていた人々の手によって、言葉に尽くせないほどの苦しみを味わわれています。
そこに座り、御自身の罪ではない罪のために血を流し、死んでいくイエスを見つめる時、私たちは多くのことを学ぶことができます。
罰を受ける罪を示す札を立てるのが慣例でした。
そこでピラトは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた文書を用意させました。
これは、イエスが皇帝に反逆して自分を王位につけたために十字架につけられたというものでした。
二人の強盗が一人ずつ、両側にイエスと共に十字架にかけられました。
このようにイエスは罪人たちの中に数えられました。
「道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。
「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」
同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」
イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」
(マタイの福音書27章39~44節)
通り過ぎる人々の心は、主の苦難に心を動かされていません。
彼らは主をあざけ続け、かつての非難を再び持ち出して、「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ」と言いました。
彼らはこのように挑発したのです。
宗教指導者たちも他の人々と共にイエスを軽蔑し、嘲笑しました。
「彼は他人を救ったが、自分は救えない」と、彼ら自身も理解していない大きな真理を口にしました。
私たちの知るクリスチャンの詩人は、次のように書いています。
「彼は自分のことを救うことはできなかった。
彼は十字架上で死ななければなりません・
哀れみは来ません。
滅びゆく罪人たちが近づいています。」
祭司や長老たちは、イエスの死の真実な意味を知らず、群衆がしたようにイエスに挑戦し、もし、本当に「イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか」と命じました。
もしそうなら、彼らはイエスを信じると宣言しました。
彼らは詩篇22篇を、まるで意識していないかのように引用しこのように言いました。
「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
(詩篇22篇8節)
イエスは御自身が神の子であると述べています。
彼らは十字架から降りてきて、神の子であることを証明するようイエスに求めました。
盗賊たちもまた、同じように彼の顔に唾を吐きかけたと伝えられています。
マタイは、盗賊のうちの一人がその後悔い改めたことについては何も述べていません。
その点についてはルカの記述を参照する必要があります。
午前9時から正午12時までの3時間にわたるこの時点まで、イエスは人々の手によって苦しみを受けていました。
罪を取り去るために苦しんでいたのではありません。
続く数節は、最後の3時間に起こった驚くべき出来事を要約しています。
イエスは偉大な罪過のいけにえとして神の怒りに耐え、このように語ることができました。
「それで、私は盗まなかった物をも返さなければならないのですか。」
(詩篇69篇4節)
「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。
また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った 」
(マタイの福音書27章45~49節)
恐ろしい暗闇が一面に広がったとき、イエスのたましいがどれほどの悲しみと苦悩に沈んだかを、限りある知性では測り知ることはできません。
それは、人となったキリスト・イエスが私たちのために罪を犯されたことで、私たちがキリストにあって神の義となるためにイエスが陥った霊的な闇の象徴でした。
その時、神は私たちすべての罪をイエスに負わせ、イエスのたましいを罪の供え物としたのです。
嵐の恐ろしい声が聞こえました。
その声がキリストに降りかかりました。
あなたの開かれた胸は私の守り手です。
ゆえに私は嵐に耐えました。
暗闇が過ぎ去ろうとするまさにその時、主が「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶのを耳にしたとき、私たちはこれが主にとって何を意味していたのか、わずかながら理解することができます。
信じる者なら誰でも「それは、私が見捨てられないためでした」と答えることができます。
主は私たちの代わりになり、私たちの罪が受けるべき神の怒りに耐えられました。
これは、主がゲッセマネで身を引いた杯でした。
今、主はそれを唇に押し当て、残りまで飲み干されました。
彼にあるのはニガヨモギと胆汁です。
彼は呪いを負い、すべて耐えました。
彼の、苦痛の悲鳴が聞こえます、
わたしたちの罪を彼が支えてくださりました。
アラム語でイエスの鋭い叫びを聞いた人々の中には「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉の意味を知らず、預言者エリヤに助けを求めているのだと思った人もいました。
ある者は走って行き、スポンジに酸いぶどう酒を含ませ、イエスの乾いた唇に当てて飲ませました。
イエスはそれをお飲みになりました。
他の人々は無関心に「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言いました。
しかし、イエスを救える者は誰もいません。
私たちが決して滅びないように、イエスは死の苦しみに耐えなければなりません。
「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。
百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。
そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。
その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。」
(マタイの福音書27章50~56節)
イエスに与えられたすべての御業が成し遂げられたとき、イエスは大声で叫びました。
ヨハネはイエスの言葉を私たちに伝えています。
「完了した。」
(ヨハネの福音書19章30節)
それからイエスは息を引き取られました。
イエスは疲労で亡くなったのではなく、御業を成し遂げられたとき、自分から命を捧げられたのです。
神殿の聖所と至聖所を隔てていた幕は、すぐに上から下まで真っ二つに裂けました。
神の見えざる手がその幕を引き裂き、至聖所への道が今や明らかにされたことを示しました。
神はもはや濃い闇の中に住まわれることはありません。
光の中に出て来られ、贖いの血によって贖われた人は、大胆に神の御前に入ることができるのです。
マタイだけが言及しているいくつかの自然現象も起こりました。
大地震、岩の裂け目、墓の裂け目です。
墓に眠っていた聖徒たちは、イエスの復活後、よみがえり、墓から出て多くの人々に現れました。
十字架にかけられた犠牲者たちを守るために派遣された兵士たちの隊を率いていた百人隊長は、見聞きしたすべてのことに深く感銘を受け、恐れの念に満たされて「この方はまことに神の子であった」と宣言しました。
英訳KJV訳聖書にあるように、この方には定冠詞を用いていません。
古代のネブカドネザルが炉の中に謎めいた第四の御方を見た時のように、この兵士はあの中央の十字架で息を引き取った聖なる苦しみの御方は単なる人間ではないと確信しました。
「すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。
しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」」
(ダニエル書3章25節)
遠く離れた場所に、多くの敬虔な女性たちが、複雑な思いを胸に抱いて立っていました。
彼女たちは、なぜイエスが助けもなく苦しみ、死ななければならなかったのか理解できずにいたものの、最後までイエスに忠実でした。
その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセの母マリア、そしてヤコブとヨハネの母ゼベダイの妻もいました。
祝福された主が罪人の代わりに御自身を神に捧げておられた間に、敵はさまざまな恥辱を主に浴びせることを許されていたことは特筆に値します。
しかし、聖霊と共に、贖いの成就の証人であった血と水が、主の傷ついた脇腹から流れ出た瞬間から、神はあたかも「触るな」と仰せになったかのようでした。
「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。」
(ヨハネの手紙第一5章6節)
「御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」
(ヨハネの手紙第一5章8節)
その瞬間から、汚れた手は聖なる御子の体に触れることはありません。
愛する友たちは十字架から体を降ろし、新しい亜麻布で包み、ニコデモから送られた香料の床に、アリマタヤのヨセフの新しい墓に安置しました。
「前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。
そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。」
(ヨハネの福音書19章39、40節)
それはまさに王の埋葬でした。
「アサは、彼の先祖たちとともに眠った。すなわち、その治世の第四十一年に死んだ。
そこで、人々は、彼が自分のためにダビデの町に掘っておいた墓に彼を葬り、香料の混合法にしたがって作ったかおりの高い香油や香料に満ちたふしどに彼を横たえた。そして、彼のために非常にたくさんの香をたいた。」
(歴代記第二16章13、14参照)
「夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。
この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた。
ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。
そこにはマグダラのマリヤとほかのマリヤとが墓のほうを向いてすわっていた。」
(マタイの福音書27章57~61節)
「アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。」
彼は神の御国を待ち望む数少ない富裕層の一人でした。
「それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。
まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」」
(マタイの福音書19章23、24)
「アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。
ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。」
(マルコの福音書15章43節)
しかし、それまで公然とイエスの弟子であるとは宣言していません。
「そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。
それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。」
(ヨハネの福音書19章38節)
彼は隠れた弟子であったが、試練が訪れた時、忠実さと勇敢さを示しました。
「この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた。」
こうしてイエスの遺体は更なる侮辱から守られ、イザヤ書53章9節が成就しました。
イエスは死ぬ時、富める者たちと共にいなければなりません。
「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。」
(イザヤ書53章9節)
「ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み」
ユダヤ人の埋葬の慣例に従い、遺体は単に布で覆われるのではなく、長い亜麻布で完全に包まれました。
「墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。」
この石は入り口全体を覆っており、崖の壁に掘られた溝にはめ込まれた大きな石臼のようなものだったと思われます。
「そこにはマグダラのマリヤとほかのマリヤとが墓のほうを向いてすわっていた。」
七つの悪霊を追い出されたマグダラのマリアとヨセフの母マリアは、安息日が過ぎてから墓に行き、愛し、すべての希望を託していたものの、今は亡き冷たい方の遺体を厳重に防腐処理するために、行われたすべての出来事を見守っていました。
「また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、」
(ルカの福音書8章2節)
「マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。」
(マルコの福音書15章47節)
「さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、
こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる。』と言っていたのを思い出しました。
ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった。』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」
ピラトは「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい。」と彼らに言った。
そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。」
(マタイの福音書27章62~66節)
「すなわち備えの日の翌日」とは、私たちが時間を数えるように、イエスが亡くなった日の夕方のことです。
しかし、ユダヤ人にとって、新しい日は日没から始まりました。
ですから、ニサン14日の直後、月の15日を迎える夕方になると、パリサイ人やその他の人々はピラトのもとへ急いで行き、自分たちの要求を受け入れさせました。
「人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる。』と言っていたのを思い出しました。」
主の敵である彼らが、主の弟子たちが忘れていたことを覚えていたとは、実に不思議です。
主の預言が広く知られるようになっていたことは明らかです。
「ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。」
彼らは危険を冒すことはしません。
イエスが約束を成就したという噂が少しでも広まれば、イエスの教えの効果を打ち砕こうとする彼らの努力は無駄になると悟っていたからです。
ヨセフの新しい墓からイエスの遺体が消え去ることは、彼らにとって悲劇であり、多くの人々にイエスの復活の証拠として受け入れられると彼らは考えていました。
ですから彼らは、弟子たちが墓を荒らして遺体を隠そうと画策するのではないかと恐れていました。
だからこそ、そのような企てを効果的に阻止することが重要だったのです。
「できる限り確実にしろ」ピラトは、彼らの恐怖と不安に激怒しただけでなく、面白がっていたはずです。
彼は彼らにローマ兵の分遣隊を与え、墓の警備を命じました。
できる限り確実にしろという彼の厳しい言葉は、ほとんど皮肉めいているように聞こえます。
彼らは間もなく、神の時が来た時、自分たちがどれほど無力であるかを知ることになります。
「そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。」
その封印を破ることは最大の犯罪であり、弟子たちは誰もそれを敢えて試みることはないと考えました。
また、兵士たちの警備は、3日が経過するまでは誰も遺体を盗むことができないと考えたと思います。
イエスが三日目に復活するという宣言は、弟子たちよりも敵対者たちの心に深い感動を与えたことは明らかです。
「そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
(マタイの福音書20章19節)
イエスは幾度もそのことを語っておられましたが、弟子たちはその言葉の意味を理解することはありません。
彼らは死者からの復活が何を意味するのか疑問に思いました。
「そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。」
(マルコの福音書9章10節)
「それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」と話しておられたからである。
しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。」
(マルコの福音書9章31、32節)
「彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。
しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。」
(ルカの福音書18章33、34節)
そのため、イエスが十字架につけられた後でさえ、彼らはイエスの復活を期待していません。
「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」
(ヨハネの福音書20章9節)
しかし、イエスに断固として反対していた民衆の指導者たちは、イエスの言葉を覚えていました。
そして、このことが成就するとは期待していなかったものの、弟子たちが何らかの策略を使って、信じやすい民衆をイエスが実際に死に打ち勝ったと信じ込ませるのではないかと恐れました。
そこで彼らはピラトに使節を送り、墓からイエスの遺体が消えてしまわないようにさまざまな予防措置を講じるよう要請しました。
しかし、すべては無駄に終わりました。
墓の入り口を覆っていた石は封印され、ローマ兵の警戒も厳重だったにもかかわらず、石は転がされ、救い主は死からよみがえり、多くの信頼できる目撃者たちの前に姿を現した。
彼らはイエスの復活の真実を証言しました。
マタイの福音書28章
過越しの祭の後の最初の安息日の次の週の最初の日である初穂の祭の朝、イエスは死からよみがえり、眠っている人々の初穂となりました。
「「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたがはいり、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る。
祭司は、あなたがたが受け入れられるために、その束を主に向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。
あなたがたは、束を揺り動かすその日に、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊をささげる。
その穀物のささげ物は、油を混ぜた小麦粉十分の二エパであり、主への火によるささげ物、なだめのかおりである。その注ぎのささげ物はぶどう酒で、一ヒンの四分の一である。
あなたがたは神へのささげ物を持って来るその日まで、パンも、炒り麦も、新穀も食べてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。」
(レビ記23章10~14節)
「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
(コリント人への手紙第一15章20節)
「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」
(コリント人への手紙第一15章23節)
イエスの復活は、贖罪が成就したことの証しです。
神は御子イエスの御業に完全に満足されたため、イエスを死から甦らせました。
「この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、」
(使徒の働き4章2節)
また、御自身の右に座らせ、主でありキリストであることを認められました。
「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」
(使徒の働き2章33節)
「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。
すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
(使徒の働き2章36節)
イエスが多くの人のために命を贖いの代価として与えると宣言しました。
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
(マタイの福音書20章28節)
もし、主イエス・キリストの遺体が墓から出てこなかったなら、その宣言は、イエスが欺く者であることを示す無言の証拠となります。
イエスは、自分の事を真理と信じていただけであり、自分の野心のために殉教した、ただの一人の殉教者になってしまいます。
しかし、三日目に復活するという預言通りの復活は、イエスの主張を裏付け、実際にイエスの死が罪の償いであり、神がその働きを受け入れたことの証明となりました。
すでに見てきたように、主イエス・キリストはカルバリの丘で罪人の代わりになり、私たちが受けるべき裁きを受けられました。
その裁きには、不義の神との永遠に分離されることを意味しました。
罪とされた主イエスは「わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫びました。
主は無限であり、私たちは有限であるため、主のささげ物と苦しみは世の罪に対する十分な償いとなりました。
贖罪がなされた後、父なる神はイエス・キリストを死からよみがえらせました。
私たちは「神に打たれ、苦しめられ」るべき個人的な失敗の非難から完全に無罪放免にされました。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」
(イザヤ書53章4節)
イエスの贖いの苦しみはすべて他者のためであり、御自身の罪に対する罰ではありません。
イエスを死からよみがえらせることによって、父なる神は御子の御業が完全であることを証しされました。
イエスの空の墓は、イエスの復活の事実を静かに、しかし力強く証ししています。
もし遺体が見つかれば、弟子たちはそれを受け取り、丁寧に埋葬したはずです。
そして、もし敵がそれを持ち出すことができたなら、三日目に復活するというイエスの預言が完全に誤りであったことの確かな証拠として、悪魔のような喜びをもってそれを誇示したはずです。
しかし、友も敵もそれを見つけることができません。
なぜなら、神は十字架のささげ物における完全な満足の証として、御子を死から甦らせたからです。
最初の主日の朝、墓が空だったのは、弟子たちが夜中にやって来て、兵士たちが眠っている間に遺体を盗み出したからでも、祭司長たちとその使者たちが、墓の入り口を覆う石のローマの封印を破ろうとしたからでもありません。
それも、兵士たちが眠っている間に遺体を盗み出すというのは前代未聞の行為です。
イエスが、もし彼らが御自分の遺体の神殿を破壊したなら、三日後にそれを復活させると宣言した言葉を成就したからです。
復活は御父、御子、そして聖霊に帰せられます。
「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、」
(ヘブル人への手紙13章20節)
「イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。」
(ヨハネの福音書2章19~21節)
「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」」
(ヨハネの福音書10章17、18節)
「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
(ローマ人への手紙8章11節)
私たちの罪のために死んだ方が、私たちを義とするために復活された時、この栄光に満ちた出来事、すなわち時代を超えた最高の奇跡に、三位一体の神全体が関与しました。
アリマタヤのヨセフは、今や永遠に生きた方の遺体が数時間安置される場所となる新しい墓を準備していた時、自分が受けることになる栄誉について何も考えることさえしません。
「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。
イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。
では、これだけはお伝えしました。」
そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」」
(マタイの福音書28章1~10節)
「安息日が終わって」
ユダヤ教の安息日は今や終わりを迎え、新たな時代、新たな一日が始まろうとしていました。
「週の初めの日の明け方」
安息日の翌日の早朝、二人のマリアは「墓を見に」出かけました。
死の日に慌ただしく安息日に安置された遺体の防腐処置の準備をしに来たのです。
「主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、」
この石が転がされたのは、復活した主を外に出すためではありません。
既に主は墓から出ておられました。
復活の体を持つ主を閉じ込める障壁は何もありません。
墓が開かれたのは、女性たちと弟子たちを中に入れるためでした。
「その顔は、いなずまのように輝き」
御使いは超自然的な存在であり、純粋な霊であり、意のままに人間の姿をとり、突然姿を消すこともあります。
「いなずまのよう」とは、「燃える炎」のように燃えていると言われる者たちを暗示しています。
「また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」と言われましたが、」
(ヘブル人への手紙1章7節)
「番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」
この天からの御使いの出現に驚いた衛兵たちは、その恐ろしい顔を見ることすらできず気を失いました。
「御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。」」
御使いは女たちの恐怖を静め、彼女たちの探し出していることを自分が正確に理解していることを告げました。
しかし、御使いは彼女たちに良き知らせを持っていました。
「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。」
これが私たちのすべての希望の土台です。
アーノルドが書いたように、今もイエスの遺体がシリアの墓に眠っているというのは真実ではありません。
その墓は空っぽです。
主が横たわっていた場所は、イエスの遺体を包んでいた、しわくちゃになっていない埋葬衣の存在によって、イエスの復活の無言の証拠となっています。
「そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。
シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、
イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。」
(ヨハネの福音書20章3~8節)
二人のマリアの注意は、あの尊い遺体が冷たく横たわって安置されていた空の墓に向けられていました。
地上のいかなる手によっても、その遺体は取り除かれていません。
イエスは神が定められた時に復活し、墓を永遠に後にされました。
「ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。」
これらの敬虔な女性たちは、新しい時代の最初の伝道者となる特権を与えられていました。
それは、不信仰ゆえに悲しんでいる弟子たちに、復活した救い主の喜ばしい知らせを伝えることでした。
十字架に架けられる前に、イエスは彼らにこのように言われました。
「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
(マタイの福音書26章32節)
この定められた待ち合わせ場所へ、女性たちは弟子たちを案内し、そこで復活した主に会えるように命じられました。
「彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。」
愛と喜びが彼らの足に翼を与え、彼らは喜びの知らせを伝えるために急ぎました。
御使いのメッセージが真実であることに、彼らの心には疑いはありません。
「すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。」
イエスは御自身で彼らに現れ、彼らは御使いの言葉と空の墓の光景に頼るだけでなく、復活した主のからだを見たという証言も得ることができました。
こうして彼らの信仰は目に見えるものとなりました。
イエスは弟子たちにこの福音を伝え、約束されたガリラヤの集合場所へ行くように命じました。
女たちが主が死に勝利したという知らせを使徒たちに伝えようと急いでいる間、ローマの兵士たちは早朝の出来事に動揺しており、何が起こったかを祭司長たちに伝えるために町に向かっていました。
「女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。
そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、
こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。』と言うのだ。
もし、このことが総督の耳にはいっても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」
そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。」
(マタイの福音書28章11~15節)
宗教的にかたくな者にとって、どんなに卑劣な欺きや策略でも、どんなに卑劣なことがあっても、彼らは選んだ道を最後まで貫き通そうと決意しています。
兵士たちが何が起こったのかを説明すると、これらの司祭たちと、すぐに彼らに加わった長老たちは、イエスの弟子たちが夜中に、衛兵が寝ている間にやって来て遺体を盗み出したと伝えるよう兵士たちに助言しました。
もし、事実ならば、そのような告白は彼らに厳しい罰をもたらすことになります。
しかし、祭司長たちは、この件が総督の耳に入ったら彼らのために執り成しをすると約束しました。
彼らは兵士たちに多額の賄賂を与え、この件への協力を確約させました。
そこで彼らは立ち去り、指示された通りにこの話を広めました。
そして、マタイによれば、この話は「今日に」、つまり少なくとも復活後数年間は広く伝えられました。
「しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(マタイの福音書28章16~20節)
「ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。」
弟子たちと過ごした最後の日々、エルサレムに近づいていた時、イエスは御自身の死と復活が近づいていることを彼らに告げ、すべてが成就した後に彼らと会うガリラヤの特定の山について述べられていました。
「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
(マタイの福音書26章32節)
「ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
(マタイの福音書28章7節)
「ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」」
(マルコの福音書16章7節)
以前にもイエスは個人や様々な集まりに現れていますが、ガリラヤでは「キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。」
「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」
(コリント人への手紙第一15章6節)
少なくともほとんどの注釈者はそう考えますが、この時イエスは明らかに最初に11人の使徒と会い、その後大勢の前に現れたようです。
「彼らは礼拝した。」
彼らはイエスを目にし、それがまさに復活したキリストであることを知った時、イエスが墓から勝利のうちに現れた神の御子であることを知り、イエスを礼拝したのです
「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」
(ローマ人への手紙1章4節)
「しかし、ある者は疑った。」
これは、人間の心の救いようのない悪である、深刻な証拠です。
不信仰は聖霊の力によってのみ克服できます。
この小さな集まり全員が信じるまでには、しばらく時間がかかりました。
「しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現われて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。」
(マルコの福音書16章14節)
これはマルコの福音書16章17節を理解する助けとなります。
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。」
(マルコの福音書16章17節)
奇跡的なしるしが続き、それによって彼らの証言が真実であることが約束されたのは、信じる使徒たちだけでした。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」
十字架の死に至るまで御自身を低くされた従順な方として、イエスは父なる神によって人として高められ、すべてのものの上に立つ位に就かれました。
「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
(ピリピ人への手紙2章9~11節)
イエスは神の家の御子として立てられました。
「しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」
(ヘブル人への手紙3章6節)
神のすべてのしもべたちはイエスに従うべきです。
現代の宣教計画の総責任者はイエス御自身です。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」
これが第一の使命です。
この命令は、すべての国民を教える、つまり弟子とすることです。
「バプテスマを授ける」という言葉は副次的なものです。
彼らが遣わされたのはバプテスマを施すためではなく、諸国の人々に命の道を教えるためでした。
もちろん、バプテスマを施すことも大切です。
御言葉を受け入れる人々は、信仰の表れとしてバプテスマを受けるべきです。
バプテスマの式文は三位一体の御名によって行われ、彼らの説教と教えも、御名ではなく、父と子と聖霊の御名によって行われます。
神の位格のそれぞれは、救いの御業において過去も現在も役割を果たしており、それゆえ、クリスチャンのバプテスマは、すべての位格が認められ、告白されます。
父は子を遣わし、子は永遠の聖霊の力によって命を捧げました。
「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」
復活から昇天までの40日間、イエスは弟子たちに、自分が遂行すべき計画を明らかにし、さまざまな国の人々に教えるべき戒めを与えました。
「お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。
イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」
(使徒の働き1章2、3節)
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
聖霊によるイエスの臨在は、イエスの使命を遂行しようとするすべての人に約束されました。
「世の終わりまで」
最後の言葉は実際には「時代」です。
これは物質宇宙ではなく、時間の世界を指しています。
厳密に言えば、イエスが言及していた時代は、イエスが栄光のうちに現れ、全世界に御国を建てるまで終わることはありません。
しかし、ペンテコステから携挙までの教会の召命の期間は、必然的にその「~まで」という言葉に含まれています。
その間、つまりイエスがこれらの言葉を語った時から神の御国の時代が到来するまでの間、福音は宣べ伝えられ、イエスの御霊は忠実な使者たちと共にあり、彼らが人類の祝福のために力強くメッセージを宣べ伝えることができるようにされたのです。
世界に福音を伝えるという大宣教命令は、どの福音書にも全体としては記されていません。
その全体を理解するには、三つの共観福音書と使徒の働き1章の関連する箇所をすべて読む必要があります。
それぞれの箇所で、この命令には様々な側面が強調されています。
さらに、ヨハネの福音書20章には、主が11使徒に与えられた命令があります。
これらはすべて、主が約束どおりに再臨されるのを待ちながら、恵みのメッセージをさまざまな場所にいるすべての人に伝えることが私たちの責任であるという点で一致しています。
マタイの福音書が王と王国を説くという性格を踏まえ、ここで与えられたこの命令は、すべての国々がキリストの権威を認め、バプテスマによって三位一体の御名への忠誠を宣言することを念頭に置いています。
この命令は、その完全な意味では、未だに成就されていません。
それは教会時代が終わった後に完成し、ユダヤ人の残された者たちが王国樹立の準備としてこの主の指示を実行されます。
しかしながら、これは私たちが世において可能な限りこのことを実行する責任を免除するものではありません。
マルコは、メッセージを伝える者たちの信仰の重要性を強調し、それは「続くしるし」によって証明されるべきだとしました。
ルカは福音書と使徒の働きの両方において、主観的なものと客観的なもの、すなわち罪人の悔い改めと神の赦しを結びつけています。
ヨハネは復活したキリストの権威について詳しく説明し、キリストはご自分のしもべたちに、信じる者すべてに罪の赦しを、そしてメッセージを拒む者には裁きの存在を告げるよう命じました。
しかし、誰もが一様に、証し、つまり福音の宣教を、可能な限り短期間で世界のすべての国々に伝えることの緊急性と重要性を宣言しています。
悲しいことに、教会はこの点において悲しいほどに失敗してきました。
19世紀にわたる福音宣教の後も、イエスの名を一度も聞いたことがなく、十字架上での贖いの死によってイエスが獲得された救いについて何も知らない、闇と死の影の中に座す何百万もの男女がいるということは、恐ろしい事実です。
主が示された計画は、一度も修正されたり廃止されたりしたことはありません。
それは今もなお、鉄の公爵(ウェリントン)が教会組織における「行進命令」と呼んでいます。
しかし、クリスチャンを自称する大多数によって無視されてきました。
現代の最初の6世紀は、宣教への熱意が著しく、時には全国民が少なくとも表面的にはキリストへの信仰を告白するに至りました。
しかし、次の1000年間のことを、ボーンは「信仰の時代」と呼びました。
しかし、クリスチャンが正しく「暗黒時代」と呼んでいるこの時代では、真実な福音活動の衰退が大きく特徴づけられています。
プロテスタント宗教改革の到来とともに、宣教への新たな関心が生まれ、モラヴィア派がその先駆者となりました。
その後、ここ150年の間に、教会が地域を超えて福音を伝える責任について、大きな目覚めが起こりました。
現在では、情報不足や宣教活動に対する熱意の欠如を言い訳にすることはできません。
教会時代の私たちが、ここで与えられたこの任務に従って行動すべきことを全く否定し、これは来たるべき大患難時代にユダヤ人の証しとなるためのものだと主張する人々がいます。
これは極めて空想的です。
この任務の正確な性質に関するいかなる論争よりもはるかに重要なのは、贖いの愛の物語をさまざまな場所のすべての人々に伝えるという私たちの責任が真実であるということです。
この責任は、正式な牧師や特別に任命された宣教師と考えられる人々だけでなく、主イエス・キリストを信じるすべての信者に与えられています。
恵みの日が続く限り、主を他の人々に知らせ、できる限り多くの尊いたましいを獲得するよう努めることは、この務めです。
これは、生ける神の教会のすべての会員にとって、最も大切な第一の務めです。
すべての人は、それぞれの程度に応じて証人となるように召されています。
わたしたちの務めは「出かけて行く」です。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」
(マタイの福音書28章19節)
また、「祈る」ことです。
「だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
(マタイの福音書9章38節)
そして、故郷や友人を後にして遠い地へ急ぎ出て、福音を彼方へと伝える者たちを送り出すのを助けることです。
「そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。」
(使徒の働き13章3節)
そして、支えることです。
「彼らは教会の集まりであなたの愛についてあかししました。あなたが神にふさわしいしかたで彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それはりっぱなことです。
彼らは御名のために出て行きました。異邦人からは何も受けていません。
ですから、私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです。」
(ヨハネの手紙第三1章6~8節)
すべての国民を教え、弟子としなさいという命令は、異教徒を世俗的な方法で教育することがわたしたちの責任であるという意味ではありません。
これは宣教師としての奉仕の副産物かもしれませんが、十字架の使者の至高の働きではありません。
宣教師の多額の資金が、キリストの十字架の激しい敵を生み出した学校や大学の設立と維持に費やされてきたことは、嘆かわしい事実です。
もし同じ資金とエネルギーが福音の宣教に注がれていたなら、結果は全く違ったものになっていたはずです。
学校で教えることは称賛に値する職業ですが、福音の証と混同されるべきではありません。
しかし、すべての教師が恵みの喜ばしいおとずれを宣べ伝える者でもあるなら、それは幸せで祝福されたことになります。
主の指示は未だ完全には守られておらず、この恵みの時代にすべての国々がメッセージを受け入れるわけではないことは私たちも承知しています。
しかし、私たちは三位一体の神の名において出陣し、復活した王の権威を宣言し、すべての人が喜んで主に服従し、天国から主が再び来られるのを待ちながら平和と祝福に入るよう命じられています。
マタイは主が使者を遣わすところで終わります。
ここではキリストの昇天については書かれていません。
これは重要な意味を持ちます。
なぜなら、聖霊が強調したかったのは、王が使者に任命を与えることだったからです。
私たちが最後にキリストを見るとき、主は御自分の使者たちにすべての国々へ行き、さまざまな場所の人々に、主を救い主として認め、御心に従うよう呼びかけています。
指揮官が命じれば、忠実な兵士はただ従うだけです。
「主の軍の将」はこのように言いました。
「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」
(ヨシュア記5章14節)
私たちは主の指示に従って行動しなければなりません。
神の祝福は、宣教の精神を持つ個人や教会に常に特別な形で注がれてきました。
復活した主の命令に従うことで、誰も損をすることはありません。
遠い国で失われた者を探すよりも、国内に多くの異教徒がいることに注意を向けるべきだと言うとき、国内にいるすべての人が、もし興味があれば福音に容易にアクセスできるということを忘れています。
一方、異教の地では、人生の道を知らず、聖書や聖書が明らかにする救世主について聞いたこともない無数の人々が死んでいます。
初代教会には宣教団体は存在しません。
なぜなら、信者全体が世界への福音宣教という偉大な御業に携わるべきだったからです。
教会全体がこのビジョンを失った後、宣教活動への関心を高め、推進するために団体が設立されました。
明確なクリスチャンとしての体験を持たない人たちを宣教師として派遣することは、最悪の愚行です。
それは盲人が盲人を導くようなもので、二人とも溝へと落ちていきます。
「彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」」
(マタイの福音書15章14節)
国内で宣教師として活動していない者は、海外で宣教師として活動する資格はありません。
航海に出たからといって、宣教師になれるわけではありません。
キリストの名において異教世界に福音を伝えるために出発する準備が整う前に、失われたたましいに対する神の愛が植え付けられていなければなりません。
キリストへの真実な改心の最初の証拠の一つは、キリストを他の人々に知らせたいという願いです。
かつて、何百万もの人々が一度も福音を聞いたことがないのに、それを何百回も聞く権利が誰にあるというのか、と問われてきました。
私たちはキリストの使節となるよう召されているのですから、この点について苦悩するのは当然です。
これは、諸国民への福音宣教に関する主の教えを実行しようとする人々にパウロが与えた称号です。
「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」
(コリント人への手紙第二5章20節)
私たちの救い主御自身が天において、神の威光の右に座っておられる間、私たちはこの世において主を代表するよう召されています。
「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」
(ヘブル人への手紙1章3節)
天地の神の権威に反抗する者たちのもとへ行き、御子を恵みによって遣わし、すべての人が御子を通して命と平和を得られるようにしてくださった神と和解するようにと、彼らに懇願するのです。
もし私たちが、自分に課せられた命令に従わず、同胞が警告も受けず、命の道を知らずに罪の中で滅びるのを許すなら、私たちは実に不忠実な代表者となります。
2025/12/13