メッセージBG 2026/2/11

預言書エゼキエル書の解説
EXPOSITORY NOTES ON THE PROPHET EZEKIEL
By H. A. Ironside


1章 神の戦車の幻

「第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。
それはエホヤキン王が捕囚となって連れて行かれてから五年目であった。その月の五日に、
カルデヤ人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルにはっきりと主のことばがあり、主の御手が彼の上にあった。」
(エゼキエル書1章1~3節)


この書は、預言者が30年に神の幻を見たという宣言で唐突に始まります。
学者の間でも30年目がどの年を指すのかは一致していません。
ある学者は、バビロニア帝国を建国したネブカデレザルの父、ナボポラッサル王朝の30年目を指すと考えています。
また、エゼキエルの生涯の30年目、つまり、もし万事順調で彼がイスラエルの地にいたならば、祭司としての責務に就いていたはずの年を指すと考える人もいます。
いずれにせよ、彼が預言者として召命を受けたという事実は否定できません。
彼は、ネブカデレザルの最初の勝利と、捕虜のカルデアへの二度目の移送の後、イスラエルとユダの証人となるよう神から任命されました。
彼はケバル川のほとりでこれらの人々と共に暮らしていました。
彼には天が開かれ、神の幻が与えられました。
異邦人の時代について記したダニエルの預言と、諸国民の間で、あるいは諸国民を支配する神の支配について語ったエゼキエルの預言の間には非常に密接なつながりがありますが、特にエゼキエルには天が開かれたのです。
彼はいわば全能者の王座の間を覗き込み、その王座に荘厳で威厳に満ちた御方が、人々と諸国の出来事をどのように支配しているかを理解することができました。

不敬虔な王エホヤキンが捕囚されてから5年後、その年の5月に、エゼキエルは捕囚の民への主の預言者として高位に召されました。
彼は祭司ブジの息子でしたが、そのことについては語られていません。
彼の叙任は「主の御手が彼の上にあった」という言葉で表現されています。
主の御手がどのような人にも置かれ、神から背を向けた世に対して神を代表するよう召命を受けることは幸いなことです。
現在においても、真実にこのように言える人は本当に幸いなことなのです。

「神の子キリストは、闇の地を通って私を遣わされました。
刺し貫かれた手によって、偉大なる任命が与えられました。」

兄弟たちから、あるいは信仰を告白する教会内の何らかの権威ある団体から公式に推薦されるかではなく、神から聖なる務めを果たすよう任命されることは素晴らしいことなのです。

「私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった。
その中に何か四つの生きもののようなものが現われ、その姿はこうであった。彼らは何か人間のような姿をしていた。
彼らはおのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。
その足はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏のようであり、みがかれた青銅のように輝いていた。
その翼の下から人間の手が四方に出ていた。そして、その四つのものの顔と翼は次のようであった。
彼らの翼は互いに連なり、彼らが進むときには向きを変えず、おのおの正面に向かってまっすぐ進んだ。
彼らの顔かたちは、人間の顔であり、四つとも、右側に獅子の顔があり、四つとも、左側に牛の顔があり、四つとも、うしろに鷲の顔があった。
これが彼らの顔であった。彼らの翼は上方に広げられ、それぞれ、二つは互いに連なり、他の二つはおのおののからだをおおっていた。
彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。
それらの生きもののようなものは、燃える炭のように見え、たいまつのように見え、それが生きものの間を行き来していた。火が輝き、その火から、いなずまが出ていた。
それらの生きものは、いなずまのひらめきのように走って行き来していた。」
(エゼキエル書1章4~14節)


芸術家たちは、永遠なる神が栄光の戦車に乗り宇宙を駆け巡るこの荘厳な幻を描こうと試みてきました。
しかし、その複雑な細部までを人間の心に思い描くことは不可能です。
預言者の言葉を読むとき、私たちは天が地よりも高くあるように、神の思いは私たちの思いを超え、神の道は私たちの道よりも高いことを改めて思い知らされます。
全体としてこの幻は私たちの理解を超えているかもしれません。
しかし、注意深く研究するにつれて、多くのことが明らかになってきます。

エゼキエルが天を見上げると、北から嵐のような風、明らかに旋風が吹き荒れるのが見えました。
北はイスラエル人にとって神秘と暗闇、そして苦悩の地です。
身を切るような北風は荒廃と荒廃をもたらしました。
バビロンの軍団は北からこの地に侵入し、行く先々で荒廃を広げていきました。
偽預言者たちは「平和、平和」と叫び、人々の恐怖を静めようとしました。
しかし、指導者と民の不従順と不服従のために、平和は訪れず、むしろ滅亡へと向かいました。
嵐が来ようとしていました。
神ご自身が、その義なる支配においてそれを定めたのです。

預言者が雲を見つめると、非常に高い車輪が付いた大きな戦車と、それを取り囲む神の威厳に満ちた従者たち、そして天空を勝ち誇って馬で進む人の姿を認識しました。

生き物は黙示録の生き物と同一ですが、描写は多少異なります。
黙示録ではそれぞれのケルビムは1つの顔しかありませんが、ここでは4つの顔があります。
そして、それぞれ知性を象徴する人間の顔、威厳と力を象徴する獅子の顔、忍耐強い奉仕を象徴する子牛の顔、そして、裁きを執行する際の速さと遠くからの鋭い識別力の象徴である鷲の顔をしています。
ここでは、それぞれのケルビムは4つの顔を持っています。
これらは、人間、野獣、農場の牛、そして鳥の王国という4つの創造の秩序の頭です。
箱の上には2体のケルビムがおり、贖罪所に繋がれており、裁き(識別力)と正義(義)、つまり神の王座の住まいを表しています。
エゼキエル書と黙示録における4つのケルビムは、世界の支配に関係してこれらの力について語っています。
ダニエル書2章、7章などにあるように、4は世界列強の数字です。

ここでケルビムは、諸国民の営みにおける神の働きと関係して描かれています。
彼らは神の属性の表れです。
彼らが実際に御使いのような、あるいは御使いと同類の被造物であるのか、それともこれらの属性の象徴的な表現であるのかは、議論の余地があります。
いずれにせよ、私たちは彼らの中に、諸国民に対する義なる支配において働く神の性質の具現として見ることができます。
初期教会の教父たちの時代から、これらのケルビムは四福音書におけるキリストの描写方法と結び付けられてきました。
時には非常に空想的で、その意味を真に理解していないように思われます。
例えば、「聖マルコの獅子」はよく知られており、マルコがイエスをユダ族の獅子として描いていることを暗示しています。
しかし、これは明らかに誤りです。
イエスをそのように描写するよう命じられたのはマタイであり、マルコの記録は、神と人のしもべである忍耐強い雄牛によってより適切に象徴されています。
ルカは、人間の姿、すなわち主の人間性の完全な姿を、私たちに鮮やかに伝えています。
ヨハネは、主を天の御方、永遠の御子が肉体を与えられた者として描き、鷲の姿で物語を締めくくっています。
キリストには、あらゆる豊かさが宿っています。
キリストは、神のあらゆる属性の完全な現れです。

より霊的な心を持つ人ならより深く理解できるかもしれない細部がいくつかありますが、筆者の知る限り、これ以上の綿密な説明は不可能です。
ケルビムは翼によって天空と繋がっており、王座に座する神の御前では、翼によって覆われています。
翼の下には人間の手があり、必要に応じて救いや援助を、あるいは必要に応じて裁きの打撃を与える準備ができています。
ここには主観的なものは何もありません。
すべては、すべての被造物を心に留める神の支配下にあります。

「おのおの正面に向かってまっすぐ進んだ。」
神の支配の揺るぎない原則を覆すものは何もありません。
人間の策略も、神の言葉の誇示も、神の義なる支配を妨害しようとする巧妙な試みも、何の役にも立ちません。
主の戦車は着実に進み、主が意図した目的を達成します。

ケルビムは皆、人間の顔をしていました。
これが最も顕著な顔のようです。
他の創造物の典型的な頭は、従属的な位置を占めています。
人間の顔は、天が私たちの問題を真に理解し、私たちの問題に介入してくださることを物語っています。
主はご自分の民を心に留め、ご自分が創造されたすべての被造物に心を寄せておられます。
これらのケルビムは、セラフィムが神の恵みの代理人であるように、神の裁きを執行する者です。(イザヤ書6章0節)
しかし、裁きは神の不思議な御業であり、恵みが無視されたり拒絶されたりした場合にのみ執行されます。

生き物の翼は、礼拝と奉仕のために用いられます。
セラフィムのように、彼らは二つの翼で顔を覆い、天の威厳の前に礼拝を捧げます。
残りの二つの翼は、神の使命を果たすために用いられます。
私たちはこのことから、まず礼拝があり、次に奉仕があるという教訓を学ぶことができます。

「彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。」
神の言葉には無駄なくりかえしはありません。
この言葉が繰り返されるという事実は、神の計画の不変性を私たちに強く印象づけます。
人間の力であれ、悪魔の力であれ、いかなる力も神の計画を覆すことはできません。
すべては、神の働きの表れであり、宇宙全体で常に働いている御霊によって導かれています。
生き物の姿は、霊的な燃えるたいまつのようなものでした。
聖書にはこのようにあります。

「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」
(詩篇104篇4節、ヘブル人への手紙1章7節)


御使いは神の摂理の使者であり、神は彼らを通して現在の被造物を支配します。
しかし、このようにも記されています。

神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。」
(ヘブル人への手紙2章5節)


その世は、贖われた者たち、すなわちキリストと共に御座に座する者たちによって支配されます。

このように記されている通りです。

「聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。」
(ダニエル書7章22節)


生き物たちの間で燃え盛る火は、シェキーナの栄光、すなわちイスラエルの神の具現した存在です。
かつて荒野の幕屋の至聖所とソロモンが建てた神殿の贖罪所の上とケルビムの間に宿っていた、創造されていない光です。
エゼキエルはこの栄光が神殿を去り、天に帰るのを見ました。
いつの日か、それは再び地上に戻り、聖都の上空に舞い上がり、その栄光はすべてのものを守るものとなります。

「主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。」
(イザヤ書4章5節)


諸国民の時代が長く続いた間、ユダヤ人は散らされ、神殿跡地はイスラムのにせ預言者のモスクに占拠されていました。
その間、栄光は地上から去っていきました。
この光景全体に「イカボド(Ichabod)」という言葉が刻まれています。
その意味は「栄光はどこにあるのか」という意味です。
ゆえに、キリストが神の右に高く座しておられるその場所を、信仰によって見上げる必要があります。

生き物たちは、王の務めを全うする速やかな使者として、稲妻のように現れたり消えたりしています。
彼らには時間の制限がありません。
彼らは、皇帝である主の命令を遂行するため、瞬時に宇宙の果てまで駆け巡ります。
主が二度目に地上に来られる時も、まさにそのような姿で臨むのです。

「いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。」
(ルカの福音書17章24節)


次に、全能者の戦車が威厳をもって前進するとき、恐るべき回転をする車輪について考えてみます。

「私が生きものを見ていると、地の上のそれら四つの生きもののそばに、それぞれ一つずつの輪があった。
それらの輪の形と作りは、緑柱石の輝きのようで、四つともよく似ていて、それらの形と作りは、ちょうど、一つの輪が他の輪の中にあるようであった。
それらは四方に向かって行き、行くときには、それらは向きを変えなかった。
その輪のわくは高くて、恐ろしく、その四つの輪のわくの回りには目がいっぱいついていた。
生きものが行くときには、輪もそのそばを行き、生きものが地の上から上がるときには、輪も上がった。
これらは霊が行かせる所に行き、霊が行かせる所には、輪もまたそれらとともに上がった。生きものの霊が輪の中にあったからである。
生きものが行くときには、輪も行き、生きものが立ち止まるときには、輪も立ち止まり、生きものが地の上から上がるときには、輪も共に上がった。生きものの霊が輪の中にあったからである。
生きものの頭の上には、澄んだ水晶のように輝く大空のようなものがあり、彼らの頭の上のほうへ広がっていた。」
(エゼキエル書1章15~21節)


これらの車輪は戦車と大地を繋いでいます。
上には翼があり、下に車輪があり、両者は完全に調和しています。
主は聖所と海においてその道を歩まれます。(詩篇77篇13節、詩篇77篇19節)
主は天の神であり、全地の主です。
すべてのものは主の力に仕えます。
主に「あなたは何をなさるのですか」と尋ね、その力に抵抗できる者はいません。

「まことに、人の憤りまでもが、あなたをほめたたえ、あなたは、憤りの余りまでをも身に締められます。」
(詩篇76篇10節)


車輪は、時代を超えて絶えず回転しながら、人々や国家が経験する大きな変化を暗示しています。
静止しているものは何もなく、すべては絶えず動いています。
これは、自然界、物質宇宙においても、道徳的・精神的な領域においても真実です。
ソロモンは、世界の大きな車輪が回転するのを見て驚嘆しました。
彼はこう叫びました。

「一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。
日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。
風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。
川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。」
(伝道者の書1章4~7節)


歴史は繰り返すと言われています。
これは車輪が絶えず回転しているということを言い換えているだけです。

車輪の中には車輪があり、その複雑な構造を追うことはできません。
しかし、私たちは至る所でこれらのことを見ています。
世界、政治、教会、そして人間社会のあらゆる側面において、異なる原理が同時に働いています。
これは常に真実であり、様々な動きをすべて心に留めておこうとすると、心は混乱し、ついにはすべてが完全な混乱に見えてきます。
宇宙には秩序も正気もないと考えてしまうほどです。
しかし、生き物の霊は車輪の中に宿っており、すべては単なる人間の力、あるいは盲目的な偶然、あるいは人々が運命と呼ぶものよりも高い力によって支配されています。
さらに、車輪には目があり、それは知性と注意深い識別力と分別力を表現しています。

「主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。」
(箴言15章3節)

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」
(歴代記第二16章9節)

「主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。」
(詩篇34篇15節)


ゆえに、車輪が動き続けるならば、たとえ私たちが神のなさることを完全に理解できないほど高いとしてもても、私たちはこの尊い真理に安らぎを見出すことができるのです。
それは、神の命令、あるいは神の許しによってのみ動くという真理です。

第七の御使いがラッパを吹き始める時、神が長きにわたり悪を容認してきた奥義のすべてが明らかにされます。
そこには一時的に勝利を収めたかに見えた者たちの邪悪な行為があります。
また、神の民に対する残虐行為や、義人が沈黙の中で苦しんでいる時も、神の態度が無関心に見えるかも知れません。
しかしながら、車輪は高く、神の支配の神秘は私たちの現在の理解力を超えているとしても、すべては神の支配下にあり、すべてが神の計画に従って、ちっぽけな人間には何も理解できない方法で働いているのです。
車輪は創造物から切り離されたことはありません。
何も偶然に任せられることはありません。
人間のすべての行動は神の管理下にあり、族長ヨブに対する神の対応の記述からわかるように、サタンでさえ神が許可した場合にのみ行動することができます。

「生きものの頭の上には、澄んだ水晶のように輝く大空のようなものがあり、彼らの頭の上のほうへ広がっていた。
その大空の下には、互いにまっすぐに伸ばし合った彼らの翼があり、それぞれ、ほかの二つの翼は、彼らのからだをおおっていた。
彼らが進むとき、私は彼らの翼の音を聞いた。それは大水のとどろきのようであり、全能者の声のようであった。それは陣営の騒音のような大きな音で、彼らが立ち止まるときには、その翼を垂れた。
彼らの頭の上方の大空から声があると、彼らは立ち止まり、翼を垂れた。
彼らの頭の上、大空のはるか上のほうには、サファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。
私が見ると、その腰と見える所から上のほうは、その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見えた。その腰と見える所から下のほうに、私は火のようなものを見た。その方の回りには輝きがあった。
その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。」
(エゼキエル書1章22~28節)

大空、天空は創造物の上にあります。
なぜなら、神の支配は天の下で行われるからです。
様々な神の機関や神の計画の間には、いかなる衝突もありません。
人間の有限な心には複雑で混乱しているように見えているかも知れませんが、神のすべての御業とその方法の背後に神を見る霊的な者には明らかです。
ケルビムたちは完璧な調和の中で行動し、互いに結びついています。
彼らは皆、頭上の声、すなわち、地上で荒れ狂うあらゆる嵐にも動じず、御座に揺るぎなく座しておられる神の声に従って行動しています。

エゼキエルが見上げると、その王座に人の姿が見えました。
これは、神の御心に従う人、主イエス・キリストが、常にその力と威厳の座に座されていることが明確に示されています。
預言者が見たのは、受肉前のキリストの「人の姿」でした。
今、贖いが成し遂げられたので、人なるキリスト・イエスは、栄光に満ちた人間の体で永遠の御座に座っておられます。
黙示録にある、人の子が燭台の間を歩く描写を考えるのであれば、このことと密接に結びついていることに注目してください。

再び、黙示録にも登場する王座の周りの虹は、神がノアと結んだ不変の契約を象徴しています。
どんな災難が今起ころうとも、神の見守りの目は常にこの地上に注がれており、そのことが続く限り、夏も冬も、種まきも収穫も止むことはないという確信を与えています。
嵐が吹き荒れ、太陽が天から消え去ったように見えても、私たちの神の言葉は永遠に続きます。
神は契約を破ることも、御自身の口から発せられた言葉を変えることもなさりません。
信仰はこの上に拠り所を置き、苦難の日においても平穏を得るのです。


2章 預言者の使命

「その方は私に仰せられた。「人の子よ。立ち上がれ。わたしがあなたに語るから。」
その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちにはいり、私を立ち上がらせた。そのとき、私は私に語りかけることばを聞いた。
その方は私に仰せられた。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。
彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす。あなたは彼らに『神である主はこう仰せられる。』と言え。
彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。
人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。
彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。
人の子よ。わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」
そこで私が見ると、なんと、私のほうに手が伸ばされていて、その中に一つの巻き物があった。
それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。」
(エゼキエル書2章1~10節)


神が人を召し、ある特定の立場で神のために働くようにされるならば、神はその人をその奉仕にふさわしい者とされます。
アウグスティヌスは「神の命令は、神によって可能となるものである」と的確に述べています。
肉は大きな務めに尻込みするかもしれませんが、神に頼る者は「私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち」(ミカ書3章8節)と言うことができます。
自分の意志で、あるいは自分の力で行動するように、ましてや自分の知恵に導かれるように、神は人を遣わされることはありません。
これはモーセ(出エジプト記4章10~15節)やエレミヤ(エレミヤ書1章4~19節)の場合にも明確に示されています。
そして、エゼキエルが預言者の職に召された時にも、そのことは明確に示されています。
すでにエゼキエルは神の幻を見ていました。
今、彼はイスラエルと諸国民に対する神の代弁者として任命されました。
今もなお、ヤハウェは2500年が経過しても、力強く明瞭に語っておられます。

この章の冒頭の言葉は、非常に難解です。
主はエゼキエルにこのように言われました。
「人の子よ。立ち上がれ。わたしがあなたに語るから。」
この「人の子」という表現は独特です。
旧約聖書では、この表現が人類に対して用いられています。
(ヨブ記25章6節、ヨブ記35章8節、詩篇144篇3節、詩篇146篇3節)
また、預言書のいくつかの箇所でも用いられています。
(イザヤ書51章12節、イザヤ書56章2節、エレミヤ書49章18、エレミヤ書49章33節、エレミヤ書50章40節)
この称号は預言的に詩篇144篇3節とダニエル書7章13節でキリストご自身について用いられています。
また、ヘブル人への手紙を見るのであれば、詩篇8篇4節の「人の子」が私たちの祝福された主であることも分かります。
しかし、これはエゼキエル特有の称号であり、この書には85回も登場します。
ダニエルには一度だけこの称号が用いられていますが、他の預言者には用いられていません。
これは、主が救うために来られた失われた世界との繋がりを示すために用いていられている、お気に入りの称号です。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
(ルカによる福音書19章10節)


「神の子」という称号が神性を強調するのと同様に、この称号は主の人性を強調しています。

人の子として、エゼキエルは神に召され、超自然的な霊感を受けたとはいえ、神から与えられた言葉を宣べ伝えるべき他の人々と同様に、自分自身もただの人間に過ぎないことを理解すべきでした。
主が彼に高く聖なる職務を委任する間、彼はいわば直立不動の姿勢で立つように命じられました。
エゼキエルは既に祭司でしたが、今や預言者、神に代わって民に、自分に語られた言葉を語る者となるのです。

エゼキエルは、間違いなく彼の中に入っていた聖霊によって動かされ、力づけられ、主の前に敬虔に立ち、自分に語りかける声に畏敬の念を抱きながら耳を傾けました。

彼が召された働きは決して容易なものではありません。
主は、何世紀にもわたってエゼキエルが堕落してきた反逆の民のところへ行くことを明らかにしています。
父祖たちは神から離れて偶像崇拝に走り、子孫もその轍を踏んでいました。
捕囚の民も、その地に残された者たちも、先祖たち以上に喜んで耳を傾け、従うようになる見込みは全くありません。
彼らは皆「あつかましくて、かたくなな子ら」でした。
それでもエゼキエルは彼らのもとへ行き、より悲惨な災難を避けるために、もう一度悔い改める機会を与えるのです。

彼は自分から語ってはならず、権威をもって「神である主はこう仰せられる。」と宣言しなければいけません。
これこそがヤハウェの使者に威厳と力を与えるものです。
自分の思いや心に浮かんだことを仲間の前に出て宣言する者は、主の使者ではありません。
他人の功績を誇示したり、自分の労働を称えたりする雄弁な言葉で人々を喜ばせるのは、神の使者の務めではありません。
神のしもべの唯一の務めは、主の言葉を忠実に、しかし優雅さと謙遜さをもって宣べ伝えることです。
「王のことばには権威がある」(伝道者8章4節)とあります。
神は偉大な王であり、その言葉は決してむなしく神のもとに戻ることはなく、神が遣わした目的を成し遂げます。

「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」
(イザヤ書55章11節)


エゼキエルは説教を「用意」したり、学術的な講話を書いたりする必要はありません。
彼はただ、主なる神から御言葉を受け取り、御霊の力によって、自分が仕えるよう召された人々にそれを伝えなければなりません。
これは、今日のすべての油注がれた神のしもべにも適応されます。
彼らは主から御言葉を説教するよう召されたのです。
人間の哲学や、見せかけの推論や、結局のところ悪でしかない空虚な想像ではなく、絶えず説教するよう召されたのです。

「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」
(創世記6章5節)


これはしばしば説教者の自己否定を伴うかもしれません。
パウロのように、説教者は言葉の知恵に頼らないよう注意しなければいけません。
そうでなければ、真実なメッセージであるキリストの十字架が無意味になってしまうからです。
著名なリベラルな雄弁家、ハリー・エマーソン・フォスディック博士は、解説説教は「想像の余地がほとんどない」ことは、説教壇での働きの中で最も劣悪な形態であると非難しました。
しかし、説教とはクモが獲物を捕らえるためにレースの罠を作るように、自分自身で雄弁の網を編み上げるのではありません。
神の人が聖書の貴重な真理を明らかにするために語ることが誇るべき理由となるのです。

エゼキエルは、人々が彼のメッセージに対してどのような態度をとろうとも、神から与えられたものを伝えなければいけません。
人々が聞くにせよ、聞かざるを得ないにせよ、つまり耳を傾けようとしなかったにせよ、預言者が宣べ伝えた言葉が成就した時、彼らは預言者が彼らの中にいたことを知ることになります。

エゼキエルは、身体に危害を加えると脅す者を恐れるべきではありません。
彼は、自分を遣わした方に信頼を置くべきでした。
たとえ、いばらやとげに覆われ、サソリの中に住まうことで苦しみがもたらされたとしても、自分に託された任務からひるむこともせず、反逆的なイスラエルの家の怒りに満ちた表情にもエゼキエルは動揺してはいけません。
逆境の中で神のために立ち上がることは、常に苦しみを伴うものです。
しかし、必要に応じて恵みが与えられ、目に見えない神を見ているかのように、耐え忍ぶことができたのです。

7節で主は、これまでのすべてのことをくりかえし、要約して述べています。
「彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。」
預言者の使命が一見失敗に終わったとしても、ヤハウェの代弁者としての権威は無効にはなりません。
世間が成功者と呼ぶような人である必要はありません。
何よりも重要なのは、自分に託された信頼に忠実であることです。

本当の危険は、エゼキエルが闘いに疲れ果て、反対と証言への反応のなさのために落胆し、弱気になってしまうことです。
そこで主は彼に警告しました。
あなたは「反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。」
そして、奇妙な命令を与えました。
「あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」

エゼキエルが見上げると、ケルビムから伸びる手が見えました。
そこには巻き物と、哀歌がありました。
これはエゼキエルが民に伝える預言のメッセージです。
それを開くと、嘆きと、悲しみ、そして災いに関する恐ろしい預言が明らかにされました。
これらが彼のメッセージの重荷となるのです。
この巻物を食べるということは、神の言葉を自分の中に取り込み、いわば自分の一部とし、捕囚の民の残りの者たちにそれを伝える準備をすることでした。


3章 巻き物を食べる

「その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」
そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、
そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。」
(エゼキエル書3章1~3節)


預言者は幻の中で、万軍の主に仕える者が主の御言葉が記された巻物を食べるように命じるのを聞きました。
ヨハネもパトモス島で同様の幻を見ました。
ヨハネとエゼキエルは共に、文字通りその巻物をむさぼり食べる姿が描かれています。
エレミヤの宣言、「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました」(エレミヤ書15章16節)という言葉が思い起こされます。
また、族長ヨブの断言、「私は神のくちびるの命令から離れず、私の定めよりも、御口のことばをたくわえた」(ヨブ記23章12節)という言葉も思い出されます。
父なる神の命令なしに行動し、石からパンを作ろうとする悪魔の誘惑に応えて、私たちの祝福された主は申命記8章3節を引用し「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイの福音書4章4節)と言われました。
御言葉によって養われることによってのみ、私たちは主と主の力によって強くなることができます。
エゼキエルは神の御言葉を他の人々に伝えるために出かける前に、巻物を食べなければなりません。
つまり、彼はその御言葉によって養われたのです。
主の証しは、彼が仕える人々がその力強さを確信に感じることができるように、いわばエゼキエル自身の存在の一部とならなければなりません。

預言者は最初、巻物を口に入れましたが、飲み込む様子がありません。
この点において、彼は聖書の真理についてある程度の知識や知識は持っていても、それを実際に自分のものとしたことのない多くの人々と似ていました。
ですから、エゼキエルにとって「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ」という言葉に命令的に臨みました。
神は心の奥底に真理を求めておられます。
ダビデはこう言うことができました。
「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」(詩篇119篇11節)
その真理は私たちの存在そのものを支配しなければなりません。
私たちはその甘美さを味わうだけでなく、それを糧とし、心の奥底に受け入れ、それが私たちの生活を完全に支配するようにしなければなりません。
そして、その時、初めて、私たちは真理を他の人々に伝える準備が整うのです。
神の奉仕者は、御言葉を黙想し、心の中で消化し、自分たちの一部とすることによって、自分たちの御言葉を享受しなければなりません。
そのとき、彼は、神の計画のすべてを、それを欠いて飢えている人々に告げ知らせる用意ができるのです。

「 その方はまた、私に仰せられた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。
わたしはあなたを、むずかしい外国語を話す民に遣わすのではなく、イスラエルの家に遣わすのだ。
あなたを、そのことばを聞いてもわからないようなむずかしい外国語を話す多くの国々の民に、遣わすのではない。もし、これらの民にあなたを遣わすなら、彼らはあなたの言うことを聞くであろう。
しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らはわたしの言うことを聞こうとはしないからだ。イスラエルの全家は鉄面皮で、心がかたくなだからだ。」
(エゼキエル書3章4~7節)


神は、しもべが、そのメッセージの効果や、主の言葉を宣べ伝えるために遣わされた人々の態度について、いかなる幻想も抱かせていません。
エゼキエルは異教徒のもと、あるいは異国の言語と野蛮な振る舞いをする国へ行くべきではありません。
彼は、神の律法を持ちながらも従わなかった自分たちの民、すなわち国民のもとへ遣わされたのです。
彼らはシナイ山で語られた言葉に耳を傾けなかったように、預言者が彼らに伝える言葉にも耳を傾けようとしません。
しかし、エゼキエルの務めはメッセージを宣べ伝えることです。
結果として、神に委ねることができたのです。
それは現在でも同じです。
福音を宣べ伝えるよう与えられた人々は、聞き手がそれを受け入れるかどうかについて責任を負うことはありません。
人々が信仰をもって御言葉を受け入れるなら、それは彼らにとって命に至る香りとなり、従うことを拒むなら、それは死に至る香りとなります。
しかし、神のしもべたちが聖霊の啓示に従って神に代わって語るとき、神は栄光を受けます。
神の言葉はむなしく神のもとに帰ることはなく、神がそれを遣わした目的を成し遂げると約束されました。
メッセージを聞く者は、与えられた光によって、より責任感を持つようになります。
すべての心の秘密が明らかにされる日に、御言葉が彼らを裁くことになります。

「見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし、あなたの額を、彼らの額と同じように堅くする。
わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。」
その方は私に仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに告げるすべてのことばを、あなたの心に納め、あなたの耳で聞け。
さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行って、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう仰せられる。』と彼らに言え。」」
(エゼキエル書3章8~11節)


エゼキエルは神によって遣わされましたが、それはパレスチナの地に残っていた民のためというより、すでに捕虜として連れ去られていた人々のためでした。
彼らの苦難は彼らの心を柔和にし、良心を柔和にし、苦悩の中で主に大きく立ち返るだろうと人は思ったかもしれません。
しかし、全く逆でした。
彼らは自分たちに降りかかった苦難に激怒するほど、ますますかたくなになっていきました。
彼らは全能者の裁きを軽んじて、経験するよう求められた苦難から何も利益を得ることはできません。
このように、エゼキエルが遣わされたのは、人々が彼のメッセージを評価する限り、報われない使命となりました。
当然のことながら、彼はこうした状況に打ちひしがれ、自分の言葉に何の反応も得られないと落胆したかもしれません。
しかし、神は彼に任務を与え、そのしもべを支え、その任務を果たすために彼を強め、人々が神に敵対するのと同じくらい、彼を神のために強くすることを約束されました。
預言者は、自分が遭遇するであろうあらゆる状況に対して、断固として立ち向かう必要があります。
彼の強さは、恐れや偏見なく神の真理を宣べ伝えるよう神から任命されたという認識にあります。
もし、捕虜が主の声に耳を傾け従うことを拒んだとしても、それは彼らの責任であり、エゼキエルの責任ではありません。
すべての神の人はこのことを理解する必要があります。
自分が助けようと努める人々から軽蔑や公然とした反対を経験するように求められることほど、自分をすべてのものから高めることができるものはありません。

「それから、霊が私を引き上げた。そのとき、私は、うしろのほうで、「御住まいの主の栄光はほむべきかな。」という大きなとどろきの音を聞いた。
それは、互いに触れ合う生きものたちの翼の音と、そのそばの輪の音で、大きなとどろきの音であった。
霊が私を持ち上げ、私を捕えたので、私は憤って、苦々しい思いで出て行った。しかし、主の御手が強く私の上にのしかかっていた。
そこで、私はテル・アビブの捕囚の民のところへ行った。彼らはケバル川のほとりに住んでいたので、私は彼らが住んでいるその所で、七日間、ぼう然として、彼らの中にとどまっていた。」
(エゼキエル書3章12~15節)


これは、諸国民を支配する神の力に関する新たな啓示であり、まさに宣教を始めようとしていた預言者を励ますために与えられたものでした。
彼は自分自身には力がなく、単なる人間の力で続けることはできないことを学ばなければなりません。
神の御霊が御座から発せられ、エゼキエルを引き上げ、神の支配の下におきました。
これは、私たちの祝福された主が辱められていた年月において、常に真実でした。
主は常に、御子なる神が人となり、本来持つ全能性によって行動するのではなく、聖霊の導きと支配の下に身を置きました。
「御霊に導かれて荒野に上って行かれた」のであり、主が悪霊を追い出し、すべての力ある業を成し遂げたのも神の御霊によるものでした。

主のしもべたちもまた、証しのために出かける時も、同じ権威の下にいなければなりません。
エゼキエルのたましいを揺さぶった「大きなとどろきの音」は、約束された慰め主が百二十人の弟子たちの上に降り、彼らを一つの体とするためにバプテスマを施し(コリント人への手紙第一12章12、13節)、奉仕の力を与えたペンテコステの時の激しい風のような音を思い起こさせます。
使徒の働きは、使徒の働きというよりも、聖霊の働きとして位置づけることができます。
ペテロとヨハネ、そして他の人々に証しの力を与えたのは聖霊です。
エチオピアの高官との働きを終えたピリポは、主の聖霊によって連れ去られました。
同じ聖霊がパウロとその仲間たちのために扉を開いたり閉じたりしています。
そして、聖霊によって、キリストのためのすべての証しは、それ以来何世紀にもわたって維持されてきました。

エゼキエルが神の代弁者となる立場を求めていなかったことは明らかです。
彼が口にした「哀歌と、嘆き」のせいで、彼自身の心は苦々しさで満たされていました。
彼は、自分が宣べ伝えなければならない主の重荷の悲しみを痛感しています。
しかし、聖霊に導かれ、彼はケバル川沿いのテルアビブで捕虜たちのもとにいました。
彼は神から与えられたものを彼らに伝えることになっていました。
しかし、彼の心の苦悩はあまりにも大きく、彼は丸一週間、悲しみに言葉を失い、彼らの現状を見つめ、彼らの心のかたくなさ、そして、彼が彼らに宣べ伝えるために遣わされたことに耳を傾けようとしないことを悟りました。
七日が過ぎた時、神は再び語られました。

「七日目の終わりになって、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。
あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。
わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。
そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。
もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。
もし、正しい人がその正しい行いをやめて、不正を行なうなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。
それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行なった正しい行いも覚えられないのである。
わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。
しかし、もしあなたが正しい人に罪を犯さないように警告を与えて、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を受けたのであるから、彼は生きながらえ、あなたも自分のいのちを救うことになる。」」
(エゼキエル書3章16~21節)


神ご自身が、見張り役として、そして神の民に神に代わって語る者として召された者に、与えられた責任は厳粛なるものです。
使徒パウロがエペソの長老たちに「ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません」と宣言した時、彼が念頭に置いていたのは、間違いなくこのことと、33章にあるのと同様の箇所でした。
パウロは彼らの間で、夜も昼も涙を流しながら証を述べ、神の計画全体を宣べ伝えることをためらっていません。

以前のディスペンセーションの時代において、エゼキエルの心に課せられたのと同じ重荷です。
神によって聖別され、ユダの見張り役に任命された彼には、途方もない責任が課されました。
もし、悪人が神の聖なる律法に背き続けるならば、裁きが来ることを彼は警告しなければなりません。
同様に、神の戒めに従って行動しようと努める人々に語りかける時に、義の道を歩み続けることの大切さを強調する責任もありました。
もし、彼がこれを怠り、悪人が裁きが下るまで悪の道にとどまり続け、義に歩んでいたにもかかわらず警告を受けずに不義を犯すようになったなら、彼らは罪の中で死ぬべきでした。
そして、彼らの血は見張り役の手に委ねられました。
エゼキエルは民に警告を与えなかったので、神に説明責任を負わなければなりません。
それは恐ろしい責任です。
そして、現在、同じ責任が、キリストに選ばれたすべてのしもべに課せられています。

これらの聖句を考察する時に、問題となっているのはモーセの律法に従った義であることを忘れてはなりません。
ここには神の恵みの福音は示されていません。
その栄光ある啓示の時はまだ来ていなかったのです。
律法は「それを行なう人は、それによって生きる」(レビ記18章5節)と述べています。
ガラテヤ人への手紙の中で明確に述べられているように、これは福音とは正反対のものです。

旧約聖書の時代においては、神への真実な信仰は、神の言葉への喜びと神の律法への従順によって表されました。
しかし、たましいにおける真の恵みの働きがなくても、外見上は律法に従うこともあります。

イスラエルは神の契約の民として神の支配の下にあり、ゆえに、神の前に義をもって歩む責任を負っています。
もし、彼らがそうするならば、現在の世界において祝福を受けます。
もし、彼らが強情で不従順になれば、裁きを受けることになります。

預言者の使命は、民を義に呼び戻し、いかなる悪行にも従うことの愚かさを警告することです。
主がエゼキエルを捕囚の民に御言葉を宣べ伝えるために遣わされた時、主が強調されたのはまさにこの点でした。
もし、エゼキエルが神の御言葉を宣べ伝えることに忠実であれば、たとえ説教が聞き入れられなかったとしても、少なくとも自分のたましいは救われることができます。
しかし、もし警告を与えなければ、知識の欠如のために滅ぼされた人々の血について、神の前に責任を問われます。

この章は、預言者がこれから担う偉大な使命にさらに備えるために与えられた、神の支配におけるもう一つの幻について語ることによって終わっていす。
主はこのように言われます。

「その所で主の御手が私の上にあった。主は私に仰せられた。「さあ、谷間に出て行け。そこでわたしはあなたに語ろう。」
私はすぐ、谷間に出て行った。すると、そこに、主の栄光が、かつて私がケバル川のほとりで見た栄光のように、現われた。
それで私はひれ伏した。
しかし、霊が私のうちにはいり、私を立ち上がらせた。主は私に語りかけて仰せられた。
「行って、あなたの家に閉じこもっていよ。
人の子よ。今、あなたに、なわがかけられ、あなたはそれで縛られて、彼らのところに出て行けなくなる。
わたしがあなたの舌を上あごにつかせるので、あなたは話せなくなり、彼らを責めることができなくなる。彼らが反逆の家だからだ。
しかし、わたしは、あなたと語るときあなたの口を開く。あなたは彼らに、『神である主はこう仰せられる。』と言え。
聞く者には聞かせ、聞かない者には聞かせるな。彼らが反逆の家だからだ。」
(エゼキエル書3章22~27節)


ここでくりかえし語られる物語が聖書にはあります。
神の御前に出なければ、神を代表して他の人々の前に出る資格はありません。
また、神の具現を一度経験するだけでは、これから起こるすべてのことに対して強くなることはできません。
人は、神の命令によって遣わされた者として、霊の清さとたましいの活力をもって、仲間の前に立つことができるように、神の栄光、力、愛、そして知恵について、何度も新たな啓示を受ける必要があります。

神を知り、意識的に神の臨在の中にいることは、常にたましいの屈辱と完全な無価値感をもたらしますが、同時に礼拝と崇敬へと導きます。
エゼキエルの場合もそうでした。
ヤハウェの栄光の幻に圧倒されたエゼキエルはひれ伏しました。
聖霊によって力づけられ、彼は立ち上がると、エゼキエルの使命は最終的な形を与えられました。
肉の力では、彼は何もしてはならず、主から与えられた言葉以外を語ってはいけません。
しかし、主からのメッセージを受けると、彼の口は開かれ、彼は揺るぎなく「神である主はこう仰せられる」と宣言しました。
神のしもべは、自分自身の言葉や言葉の知恵で語るのではなく、聖霊と御言葉を通して伝えられたことを語る時に、説教された御言葉には常に権威が与えられます。
そうすれば、人々が聞いても聞かなくても、同じです。
メッセージは伝えられ、神は栄光を受けます。
そして使者は、自分に課せられた義務を果たしたことを知って、平安を得るのです。

このように、私たちの主は、律法学者たちのようにではなく、権威をもって、人が話したことのないように語られました。
神に選ばれた代表者たちは、自分たちの知恵や力ではなく、神が与えられた能力としてみことばを宣言するのです。


4章 実物を使った授業

この章と次の章の前半で、神は預言者に、これから告げる言葉に注意を向けさせるために、いわば幼稚園児的な方法を用いるように命じています。
預言者は一連の実物を用いて、エルサレムの町、そしてイスラエルとユダの家に対する神の働きを具体的に示すことになります。
最初に、エルサレムの包囲が描かれています。

「人の子よ。一枚の粘土板を取り、それをあなたの前に置き、その上にエルサレムの町を彫りつけよ。
それから、それを包囲し、それに向かって塁を築き、塹壕を掘り、陣営を設け、その回りに城壁くずしを配置せよ。
また、一枚の鉄の平なべを取り、それをあなたと町との間に鉄の壁として立て、あなたの顔をしっかりとこの町に向けよ。
この町を包囲し、これを攻め囲め。これがイスラエルの家のしるしだ。」
(エゼキエル書4章1~3節)


これらはすべてのことは、捕虜の注意を引き、そのしるしや象徴の意味を尋ねさせるためでした。
預言者がこのようにエルサレムの包囲を描写していたその時、カルデア軍は滅亡の運命にある街の周囲に非常線を張り、完全な降伏、さもなければ東方の略奪の恐怖にさらされることが迫っていました。
偽預言者たちは捕囚の民を説得しようと努め、神は聖なる街と美しい聖域が偶像崇拝に明け暮れるネブカデレザルの軍隊によって侵略され破壊されることをお許しにならないだろうと信じ込ませようとしました。
しかし、これらの楽観主義者たちは神の啓示や霊感によってではなく、自分の心から語っていたのです。
そして、彼らの発言の虚偽はすぐに明らかになりました。
考慮されるべき厳粛な事実は次の通りでした。
ユダの人々の邪悪な行いによって既にその町は拒絶されており、長年にわたり聖所には異教の神々の像が立てられ、汚されていました。
ですから、ねたむ神であり、自分たちの栄光を他者に譲ることを拒む神は、御名がこれほどまでに汚された場所を、義をもって守ることをしなかったのです。
神は大変忍耐強く、反抗的で反抗的な民を長い間待ち続けられました。
しかし今、神の寛容なる慈悲は終わりを迎え、神は御自身の民に対して敵として立ち、ユダの罪と数々の背きを懲らしめるために、いわば彼らの残酷な敵の領域に引き渡されました。
神の民に対する心が変わったのではなく、神の聖さが彼らの罪を扱われることを要求したのです。
彼らの邪悪さは敵の前で彼らを無力にし、圧制者に抵抗する力を失わせました。

次の兆候は異なる性質のものです。
しかしながら、それ以前の兆候と密接に関係しています。

「あなたは左わきを下にして横たわり、イスラエルの家の咎を自分の身の上に置け。あなたがそこに横たわっている日数だけ彼らの咎を負え。
わたしは彼らの咎の年数を日数にして三百九十日とする。その間、あなたはイスラエルの家の咎を負わなければならない。
あなたがその日数を終えたら、次にまた、あなたの右わきを下にして横たわり、ユダの家の咎を四十日間、負わなければならない。
わたしは、あなたのために一年に対して一日とした。
それから、あなたは顔を、包囲されているエルサレムのほうにしっかりと向け、腕をまくり、これに向かって預言せよ。
見よ。わたしはあなたになわをかけ、あなたの包囲の期間が終わるまで寝返りができないようにする。」
(エゼキエル書4章4~8節)


ここに記録されている時代の正確な意味を理解するのは容易ではありません。
J・N・ダービーはこのように述べています。
「これらの時代は、ユダ王国を除いたイスラエル王国、もしくははユダ王国の存続期間を指しているのではないことは確かです。
なぜなら、イスラエル王国は約254年しか続かなかったのに対し、ユダ王国はサマリア陥落後約134年続いたからです。」
したがって彼は続けてこのように述べています。
「ここで述べられている長い期間は、レハブアムの治世下で十部族が分裂した時点から計算され、イスラエルの年数として数えられています。
なぜなら、その瞬間からイスラエルは独立した存在となり、国民の大部分を構成しているからです。
一方、ユダは40年間続いたソロモンの治世の間、すべてを構成していました。
ソロモンの治世後、ユダはエゼキエルの通常の習慣に従ってイスラエルという一般的な名称に含まれることになります。
しかし、ゼデキヤの立場と神の将来の取り扱いを考慮して、特定の場面で両者を区別しています。」(Synopsis of the Books of the Bible, p. 413, new ed.)
これは、捕囚の民が見守る中、エゼキエルがまず片側に、それから反対側に横たわりました。
一年を一日で表す期間のどれよりも、おそらく良い説明ができます。
エゼキエルは彼らのしるしとなり、神が彼らの父祖たちに対して示してきた長きにわたる忍耐を告げ、神の慈悲のこの日が急速に終わりに近づいていることを暗示しています。
ヤハウェの手が彼の上にあり、彼がこれらの疲れる徹夜を成し遂げられるようにされました。
そうでなければ、肉と血に生きる者にとってはほとんど不可能だったはずです。

3番目のしるしは、ヤハウェの民が時折陥った偶像崇拝の習慣に伴う下劣な忌まわしい行為に対するヤハウェの嫌悪感を表すために作られました。

「あなたは小麦、大麦、そら豆、レンズ豆、あわ、裸麦を取り、それらを一つの器に入れ、それでパンを作り、あなたがわきを下にして横たわっている日数、すなわち、三百九十日間それを食べよ。
あなたが食べる食物は、一日分二十シェケルを量って、一日一回それを食べよ。
あなたの飲む水も、一日分一ヒンの六分の一を量って、それを一日一回飲め。
あなたの食物は大麦のパン菓子のようにして食べよ。それを彼らの目の前で、人の糞で焼け。」
それから主は仰せられた。「このように、イスラエルの民は、わたしが追いやる国々の中で、彼らの汚れたパンを食べなければならない。」
そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。私はかつて、自分を汚したことはありません。幼い時から今まで、死んだ獣や、野獣に裂き殺されたものを食べたことはありません。また、いけにえとして汚れている肉を口にしたこともありません。」
すると、主は私に仰せられた。「では、人の糞の代わりに牛の糞でやらせよう。あなたはその上で自分のパンを焼け。」
そして、私に仰せられた。「人の子よ。見よ。わたしはエルサレムで、パンのたくわえをなくしてしまおう。それで彼らはこわごわパンを量って食べ、おびえながら水を量って飲むであろう。
それはパンと水が乏しくなるからだ。彼らは自分たちの咎のために、みなやせ衰え、朽ち果てよう。」
(エゼキエル書4章9~17節)


敬虔なユダヤ人にとって、主の最初の戒めに従って預言者の食物を調理する方法は、言葉では言い表せないほど忌まわしいものでした。
不信心な者たちはこれらの指示を誤解し、聖なる神がそのような指示を与えることができたという推測を激しく非難してきました。
人間の排泄物で食物を調理するという命令を、預言者が食べる野菜に汚れた汚物を混ぜるという意味だと誤解したことが、このような事態を招きました。
しかし、その臓物は燃料として使われるべきであり、食物として使われるべきではありません。
そして、エゼキエル(カイサリアのペテロのように)が、汚れたものを口に入れたことなどないと抗議しました。
その時、神はそのしもべを憐れみ、代わりに牛の糞を使うように命じました。
西部の平原で水牛の糞で火を焚いたことがある人なら、その意味をすぐに理解できるはずです。
食物自体は実際には汚染されていません。
しかし、その調理法は、諸国の偽りの神々の崇拝に関わるあらゆるものに対する神の忌まわしい嫌悪を、捕囚の民に印象づけるためのものでした。
偶像崇拝は常軌を逸しており、極めて忌まわしいものでした。
ヤハウェの目にこの忌まわしい性質が映し出されるのであれば、それ以上に汚れた存在はあり得ないことなのです。

飢餓の時代、人々は飢えを満たすために、最も忌まわしい食べ物に頼りました。
エルサレムはそのような窮地に陥り、包囲が進むにつれて状況はますます悪化してゆきました。
ユダの人々が、神のしもべである預言者を通して語られる神の声に耳を傾けようとしない限り、彼らの苦しみは軽減されません。
まさにこの時、聖都エレミヤはカルデアの捕虜の中でエゼキエルと同様の証言をしていました。
しかし、人々は耳を傾けようとせずに、裁きは下されるしかありません。


5章 神の裁きの脅迫

この章の冒頭には、床屋のかみそりとして使われる鋭い剣の描写に、4番目の実物的な教訓が出てきます。

「人の子よ。あなたは鋭い剣を取り、それを床屋のかみそりのように使って、あなたの頭と、ひげをそり、その毛をはかりで量って等分せよ。
その三分の一を、包囲の期間の終わるとき、町の中で焼き、またほかの三分の一を取り、町の回りでそれを剣で打ち、残りの三分の一を、風に吹き散らせ。わたしは剣を抜いて彼らのあとを追う。
あなたはそこから少しの毛を取り、それをあなたの衣のすそで包み、
そのうちからいくらかを取って、火の中にくべ、それを火で焼け。火がその中から出て、イスラエルの全家に燃え移ろう。」」
(エゼキエル書5章1~4節)


鋭い剣は血なまぐさい戦争の象徴として理解され、神の摂理による裁きでユダの地を侵略することを許された冷酷で勝利に満ちたカルデア軍と、背教したイスラエルの民には抵抗する力がなかったことを物語っています。

預言者は、床屋のかみそりのように、この鋭利な剣を用いて頭髪とあごひげを剃り落とし、その毛を三つに分けるように指示されました。
一つは火で焼き、一つは剣で打ち、三つ目が風に吹き散らせました。
これは、神に対するユダヤ人の反逆のゆえに彼らに降りかかるであろうことを象徴、あるいは型とするものでした。
その三つ目がエルサレムの包囲中に滅ぼされ、もう一つがネブカデレザルの軍勢によって容赦なく倒され、残りは、以前から何度も警告されていたとおり、地上のあらゆる国々に散らされることでした。
しかし、わずかな残りの者は、ヤハウェの憤りの時にも守られることになっています。
なぜなら、彼らは神の顔を求め、神の証しを守ったからです。
これらは、預言者の外套のすそに留められ、束ねられていた数本の髪の毛によって象徴されていました。
しかし、後にそれらさえも火の中に投げ込まれました。
なぜなら、イスラエルの義人たちは、国外に追放されていた長い年月、不義な人たちと共に苦しみを受けなければならなかったからです。
このすべては、続く聖句によって明らかにされています。

「神である主はこう仰せられる。「これがエルサレムだ。わたしはこれを諸国の民の真中に置き、その回りを国々で取り囲ませた。
エルサレムは諸国の民よりも悪事を働いて、わたしの定めに逆らい、その回りの国々よりもわたしのおきてに逆らった。実に、エルサレムは、わたしの定めをないがしろにし、わたしのおきてに従って歩まなかった。」
それゆえ、神である主はこう仰せられる。「あなたがたは、あなたがたの回りの諸国の民よりも狂暴で、わたしのおきてに従って歩まず、わたしの定めを行なわず、それどころか、あなたがたの回りの諸国の民の定めさえ行なわなかった。」
それゆえ、神である主はこう仰せられる。「今、わたしもあなたを攻め、諸国の民の目の前で、あなたにさばきを下す。
あなたのしたすべての忌みきらうべきことのために、今までしたこともなく、これからもしないようなことを、あなたのうちで行なう。
それで、あなたのうちの父たちは自分の子どもを食べ、子どもたちは、自分の父を食べるようになる。わたしは、あなたにさばきを下し、あなたのうちの残りの者をすべて四方に散らす。
それゆえ、――わたしは生きている。神である主の御告げ。――あなたはあなたのすべての忌むべきものと、すべての忌みきらうべきことで、わたしの聖所を汚したので、わたしはあなたを取り去り、わたしはあなたを惜しまず、また、あわれまない。
あなたの三分の一はあなたのうちで疫病で死ぬか、あるいは、ききんで滅び、三分の一はあなたの回りで剣に倒れ、残りの三分の一を、わたしは四方に散らし、剣を抜いて彼らのあとを追う。」
(エゼキエル書5章5~12節)


ヤハウェが御名を定められた街、聖都と定められたエルサレムは、神を知らない異邦人の道に従っていました。
神からあまりにも遠く離れ、神の喜びではなく、鼻を突く悪臭、忌み嫌うものとなってしまいました。
エルサレムはこれらの国々よりもはるかに邪悪な存在でした。
なぜなら、エルサレムは他の国々より多くの知識をもっていたからです。彼らが偶像を崇
異邦人の国々は唯一のまことの生ける神を知らずに、偶像を崇拝しました。
イスラエルは神を知っていながら、神を捨て、神が与えた聖なる律法を拒絶し、神の預言者たちの祈りを無視しました。
その結果、彼らが拒絶した神は、彼らを裁きによって取り扱われるしかなかったのです。
彼らを深く愛しておられた神が、彼らの敵となるしかなかったのです。
イスラエルは苦しみと苦悩の中で、神の証しから離れ、彼らを束縛から救い出し、長きにわたり彼らの慣習に耐えてきた神への従順から遠ざかることの苦しみを学ばなければなりません。
今、神の忍耐は終わりを迎え、裁きが下されるのです。
もはや、主は彼らを憐れむことも、哀れみの心を向けることもありません。
彼らは自分たち蒔いた種の苦い実を食べなければならないのです。
これは、蒔いたものは必ず刈り取るという、聖書全体に貫かれている原則の厳粛な例となります。

「わたしの怒りが全うされると、わたしは彼らに対するわたしの憤りを静めて満足する。わたしが彼らに対する憤りを全うするとき、彼らは、主であるわたしが熱心に語ったことを知ろう。
わたしは、あなたの回りの諸国の民の中で、通り過ぎるすべての者の目の前で、あなたを廃墟とし、そしりとする。
わたしが怒りと憤りと譴責とをもって、あなたにさばきを下すとき、あなたは回りの諸国の民のそしりとなり、ののしりとなり、戒め、恐れとなる。主であるわたしがこれを告げる。
わたしがひどいききんの矢をあなたがたに放つとき、あなたがたは滅びてしまおう。わたしがそれを放つのは、ききんをいっそうひどくして、あなたがたのパンのたくわえをなくし、あなたがたを滅ぼすためである。
わたしはあなたがたにききんと、悪い獣を送る。彼らはあなたに子を失わせる。疫病と虐殺とがあなたのうちに起こる。わたしはあなたに剣を臨ませる。主であるわたしがこれを告げる。」」
(エゼキエル書5章13~17節)

このように、エルサレムは自分たちの罪によって罰せられるだけでなく、周囲の諸国民にとっての教訓となるのです。
罪は常に苦難と悲しみをもたらすこと、そして諸国民が神の前に義をもって歩むときのならば、神の承認と祝福が得られることを悟らせることになります。
現在、イスラエルは人々が見る目と理解する心さえあれば、全世界にとってそのような教訓となっています。

神は御自身の民の罪を扱わなければなりませんが、決して彼らを見捨てることはありません。
イスラエルは契約によって依然として神のものです。
来たるべき日に神は残された民を御自身のもとに呼び戻し、苦難の中で彼らを慰めてくださいます。
神は永遠に怒りを留めておくことはありません。
しかし、彼らが悔い改めて神に立ち返るとき、神は彼らを再び御自身の選民として認め、かつて経験したよりもさらに大きな祝福へと再び導いてくださいます。
その間、彼らは約25世紀にわたる悲しく恐ろしい苦難とともに、諸国民の間で荒廃と侮辱となる運命にあります。


6章 イスラエルに宣告された裁き

長い忍耐と幾度もの警告の後、神はついに、正義においてイスラエルをもはや御自身の民と認めることができなくなりました。
彼らは、ホセアが宣言したように、これから先、そして将来の回復の時まで、「ロ・アミ」、すなわち「わたしの民ではない」者とされなければならなかったのです。
過去二千五百年間、彼らはこのような状態でした。

「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」
(ゼカリヤ書12章10節)


最初の7節では、イスラエルが罪を犯し続けたためにヤハウェに拒絶されるというメッセージが語られます。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。あなたの顔をイスラエルの山々に向け、それらに向かって預言して、
言え。イスラエルの山々よ。神である主のことばを聞け。神である主は、山や丘、谷川や谷に向かってこう仰せられる。見よ。わたしは剣をあなたがたにもたらし、あなたがたの高き所を打ちこわす。
あなたがたの祭壇は荒らされ、あなたがたの香の台は砕かれる。わたしはあなたがたのうちの刺し殺された者どもを、あなたがたの偶像の前に投げ倒す。
わたしは、イスラエルの民の死体を彼らの偶像の前に置き、あなたがたの骨をあなたがたの祭壇の回りにまき散らす。
あなたがたがどこに住もうとも、町々は廃墟となり、高き所は荒らされる。あなたがたの祭壇は廃墟となり、罪に定められる。あなたがたの偶像が砕きに砕かれ、あなたがたの香の台は切り倒され、あなたがたのしたわざは消し去られ、
刺し殺された者があなたがたのうちに横たわるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。」
(エゼキエル書6章1~7節)


初めて十二部族がカナンの地に入ったとき、神は彼らが御言葉に従って歩む限り、あらゆる現世の祝福を約束されました。
その地は神の喜びのさまざまな証しとなるはずでした。
その祝福は実り豊かで、豊かに実り、その結果、彼らの羊や牛の群れは増え、彼ら自身も健康に保たれるものでした。
彼らは強くなり、いかなる敵も彼らに立ち向かうことはできないはずでした。
しかし今、すべてが変わりました。
彼らは罪を犯し、もはや救いようがありません。
そこで神はエゼキエルに、イスラエルの山々に顔を向け、彼らに預言し、あるいは彼らに敵対するように命じました。
エゼキエルは山々、丘、川、谷に直接語りかけます。
その地はヤハウェの怒りの対象となり、それは以来何世紀にもわたって続きました。
人々は散らされ、国土は荒廃しました。
神は彼らに剣、ネブカデレザルとカルデア軍の剣を下すと宣言されました。
神は、彼らが偶像を崇拝していた場所を滅ぼし、祭壇と偶像を倒すと宣言されました。
そして、これらの偶像に仕えていた者たちは、偽りの神々の像の前で打ち倒され、殺されるのです。
多くの人々は埋葬さえされず、彼らの骨は悪霊に犠牲を捧げた祭壇の周りに散らされます。
彼らの街は荒廃し、聖域は荒廃に陥り、彼らが頼っていた偶像は完全に破壊され、無力であることが証明されるのです。
イスラエルを残酷な敵から救うために手を伸ばす者はいません。
国中の至る所で刺し殺された者があなたがたのうちに横たわるのです。

このように裁きが下されるのです。
しかしながら、民がどれほど邪悪になり、どれほど堕落し、恩知らずになったとしても、神はアブラハムとの契約を忘れることはできません。
神はアブラハムの子孫が地を受け継ぐと約束されました。
必ず神の言葉は成就します。
ゆえに、続けて神は最終的に剣から連れ戻される残された民について語っておられます。

「しかし、わたしは、あなたがたのある者を残しておく。わたしがあなたがたを国々に追い散らすとき、剣をのがれた者たちを諸国の民の中におらせる。
あなたがたのうちののがれた者たちは、とりこになって行く国々で、わたしを思い出そう。
それは、わたしから離れる彼らの姦淫の心と、偶像を慕う彼らの姦淫の目をわたしが打ち砕くからだ。彼らが自分たちのあらゆる忌みきらうべきことをしたその悪をみずからいとうようになるとき、
彼らは、わたしが主であること、また、わたしがゆえもなくこのわざわいを彼らに下すと言ったのではないことを知ろう。」」
(エゼキエル書6章8~10節)


この残された民は預言書の多くの箇所に現れています。
パウロは現代においても、「恵みの選びによって残された民がいます」(ローマ人への手紙11章5節)と語っています。
つまり、クリスチャンのディスペンテーションを通して、主イエス・キリストを受け入れ、敬虔で献身的な生活によって信仰を証ししてきたユダヤ人が数多く存在してきたということです。
確かに、大きな集まりとして言うのであれば、異邦人が満ちあふれるまで、イスラエルは部分的に目が見えなくなりました。
しかし、諸国民の間で現在行われている神の恵みの御業が完成します。
その時、教会がこの場面における証しを終えます。
その時、神は再びイスラエルに目を向け、その中から残された民を救い、彼らが神の国の時代のために新しく再生されたイスラエルの中核となるのです。

しかし、ここで述べられている残された民とは、主イエス・キリストの離散から十字架刑までの期間、悔い改めて神に立ち返り、神の裁きが民に下される間もなお、神を敬い、栄光を帰そうと努めたイスラエルの人々を指しています。
神はそのような人々について「あなたがたのある者を残しておく。わたしがあなたがたを国々に追い散らすとき、剣をのがれた者たちを諸国の民の中におらせる」と言われました。
ダビデが「平穏な人々」(詩篇35編20節)と呼ぶこれらの隠れた者たちは、それでも神への証しを保ちます。
この残された民は、捕囚される諸国民の中に存在しています。
そして、神から離れ、偶像礼拝を行ったためにイスラエルに裁きが下ったことを悟ります。
彼らは犯した悪のために自分たちを忌みきらい、自分自身と民のために神への悔い改めを始めます。
そのような人々について「彼らは、わたしが主であること、また、わたしがゆえもなくこのわざわいを彼らに下すと言ったのではないことを知ろう」と記されています。
そして彼らは、神が国民に災いをもたらすと言われたことは、むだではなかったことを知るであろう。

神について教えられた者にとって、傍観したり無関心に過ごしたりできる状況ではありません。
エゼキエル自身も、悪に対抗するために積極的に立ち上がるよう召されたのです。

「神である主はこう仰せられる。「あなたは、手をたたき、足を踏み鳴らして、剣とききんと疫病とによって倒れるイスラエルの家の忌みきらうべきすべての悪に対して、『ああ。』と叫べ。
遠くにいる者は疫病で死に、近くにいる者は剣に倒れ、生き残ってとどめられている者はききんで死ぬ。彼らへのわたしの憤りは全うされる。
彼らのうちの刺し殺された者が、彼らの偶像の間、その祭壇の回りや、すべての高い丘の上、山々のすべての頂、すべての青木の下や、すべての茂った樫の木の下、彼らがすべての偶像になだめのかおりをたいた所に横たわるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
わたしが彼らの上に手を伸ばし、すべて彼らの住む所、荒野からリブラまで、その地を荒れ果てさせて荒廃した地とするとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」」
(エゼキエル書6章11~14節)


主がご自分のしもべに、イスラエルの家の忌まわしい行いを大声で非難する時、手で打ち、足で踏みつけるように命じられた印象的な語りかけ方に注目してください。
この当時の状況は、眠っている良心を目覚めさせるため、激しい非難を必要としていました。
彼らの罪と悔い改めを拒んだゆえに、神は彼らが剣と飢饉と疫病によって倒れると宣言されました。
彼らが神の命令を拒み、神の哀れみを踏みにじった神の復讐の手から、遠くても近くても逃れることはできません。
彼らが何をしようと、定められた摂理の裁きからは逃れられません。
すべての恐ろしい預言が成就した時、彼らが耳を傾けようとしなかった証こそが、まことの唯一の生ける神であったことを彼らは認めます。
彼らは神から離れて見ることも聞くことも話すこともできない、荒廃が地を襲った時も何の助けにもならなかった偶像に背を向けます。
神の恵みの多くの証拠を享受していた彼らは、自分たちの国が荒野と化すのを見ることになります。
彼らは、自分たちと共に住まわれたのは、自分たちと共におられる永遠の神、ヤハウェであることを確かに知ることになります。


7章 来るべき終わり

この章をもって、預言者のメッセージは、罪深い民も含むパレスチナの地に向けられたものでした。
そしてが、今や明確にその対象となりました。
神の嘆願と抗議はすべて無駄に終わりました。
民は自分の道を行くことに固執していました。
既に述べたように、エゼキエルはすでに捕囚の民の中にいました。
ネブカデレザルの軍隊は再びこの地を脅かしています。
偽預言者たちはイスラエルに対し、神が介入して国を救ってくださると保証しました。
偽預言者たちは民の罪を全く軽視し、彼らはヤハウェに選ばれた民である以上、ヤハウェが彼らのために介入してくださると宣言しました。
しかし、そのような預言はすべて、間もなく全くの偽りであることが証明されます。
既に述べたように、神の忍耐は限界に達していました。
神は怒りと憤りのうちに、彼らを敵の力に引き渡し、死によって滅ぼすか、奴隷として売り飛ばそうとしていました。

「ついで、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。イスラエルの地について神である主はこう仰せられる。『もう終わりだ。この国の四隅にまで終わりが来た。
今、あなたに終わりが来た。わたしの怒りをあなたのうちに送り、あなたの行ないにしたがって、あなたをさばき、あなたのすべての忌みきらうべきわざに報いをする。
わたしはあなたを惜しまず、あわれまない。わたしがあなたの行ないに仕返しをし、あなたのうちの忌みきらうべきわざをあらわにするとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。』」
(エゼキエル書7章1~4節)


「この国の四隅にまで終わりが来た」という言葉に注目してください。
もはや、希望はありません。
彼らの良心は完全にかたくなになり、悔い改めの兆候は微塵もありません。
そのため、神はイスラエルを彼らの行いに応じて裁きます。
彼らは神の預言者の言葉に耳を傾けず、偶像礼拝から離れなかったために、彼ら自身の忌まわしい行いの報いを受けるのです。
神は彼らを容赦せず、憐れみも示されません。
神の心が彼らに対してかたくなになったのではなく、神は依然として彼らを愛しておられました。
しかし、神の聖さゆえに、彼らの邪悪な行いに付き合うことを禁じられたのです。
神の裁きが彼らに注がれる時、彼らは、自分たちが関わらなければならないのは確かにヤハウェでした。
そして、彼らを苦難と絶望に引き渡したのはヤハウェであることを知るべきでした。

「神である主はこう仰せられる。「わざわいが、ただわざわいが来る。
終わりが来る。その終わりが来る。あなたを起こしに、今、やって来る。
この地に住む者よ。あなたの上に終局が来る。その時が来る。その日は近い。しかし、山々での歓声の日ではなく、恐慌の日だ。
今、わたしはただちに、憤りをあなたに注ぎ、あなたへのわたしの怒りを全うする。わたしはあなたの行ないにしたがって、あなたをさばき、あなたのすべての忌みきらうべきわざに報いをする。
わたしは惜しまず、あわれまない。わたしがあなたの行ないに仕返しをし、あなたのうちの忌みきらうべきわざをあらわにするとき、あなたがたは、わたしがあなたがたを打っている主であることを知ろう。」
(エゼキエル書7章5~9節)


民は善を求めたが、無駄でした。
災い、唯一の災いが彼らに降りかかろうとしていました。
預言者は再び「終わりが来る。その終わりが来る」という言葉をくりかえしました。
神の忍耐が尽き、悔い改めの兆候さえ示せば喜んで救い出してくださるはずの者たちに、神の怒りが容赦なく降りかかるのは、実に厳粛なことでした。
かつては、事態が非常に悪化していた時でさえ、わずかにでも自分を裁く兆候があれば、脅迫される罰を免れることができました。
しかし、今、民は完全に不義に染まっています。
彼らは神の律法を背後に投げ捨てました。
我々が知るように、彼らの中には敬虔な者もいました。
しかし、国の現状は、自分たちの行く末を案じていた者たちが、他の民と共に苦しむようなものでした。
地震、竜巻、疫病といった自然災害によって滅びがもたらされるとき、義人も悪人と共に苦しみます。
ある国で血なまぐさい戦争が激化する時も同様です。
ゆえに、忠実な残された民でさえ、背教した民と共に、この恐ろしい試練の時代を経験しなければならなかったのです。
その後、ネブカデレザルが都を占領した時、一部の民がその地に留まるための措置が講じられ、それでも、神をおそれる者たちには荒廃した地域で静かに暮らす機会が与えられました。

「あなたを起こしに、今、やって来る。」と読む代わりに、「車輪の回転が来た」と訳した方が良いと言われています。
つまり、神の支配の大きな車輪は回り続けており、何物もそれを止めることはできないということです。
多くの預言者が預言した苦難の日が実際に起こる時が来ました。
嵐が近づくにつれ、彼らは山々からの単なるこだまではなく、神の雷鳴を聞きました。

8節と9節は極めて心を揺さぶるものです。
神はイスラエルに激しい怒りを注ぎ、彼らの上に怒りを成就させようとしていました。
神は彼らの行いに応じて彼らを裁きます。
憐れみはかけられません。
慈悲をかけるには遅すぎました。
裁きは必ず下されるのです。
そして、これらすべての恐ろしい預言が成就した時、イスラエルは、彼らをこのように打ったのは主であることを知るのです。

この最後の表現は、「ヤハウェ・メッカデシェムト(Jehovah-Mekkadeschemt)」、つまり「打つ者ヤハウェ」という意味を持つ複合語とみなせます。
神を「ヤハウェ・ラヒ(Jeho-vah-Rahi)」「牧者であるヤハウェ」)、もしくは「ヤハウェ・イレー(Jehovah-Jireh)」(「供給者であるヤハウェ」)として認めない人は,神を「打つ者ヤハウェ」として知ることになります。

「見よ。その日だ。その日が来る。
あなたの終局がやって来ている。杖が花を咲かせ、高慢がつぼみを出した。
暴虐はつのって悪の杖となり、彼らも、その群集も、彼らの富もなくなり、彼らのために嘆く者もいなくなる。
その時が来た。その日が近づいた。買う者も喜ぶな。売る者も嘆くな。燃える怒りがすべての群集にふりかかるから。
売る者は、生きながらえても、売った物を取り返せない。幻がそのすべての群集にあっても、群集は帰らない。
だれも、自分の不義のうちにいながら、奮い立って生きることはできないからだ。」
(エゼキエル書7章10~13節)


もはや猶予は許されません。
破滅の日はすでに来ていました。
イスラエルの罪の杯は満たされ、その高慢の木は花を咲き、芽を出しています。
神がその数々の罪のゆえにイスラエルを罰する時が来ました。
カルデア人の軍隊は国を襲撃し、エルサレムはすでに包囲されていました。
イスラエルの暴力は邪悪の杖へと発展したため、彼らは暴力によって罰せられるべきでした。
時が来ました。
その日が近づいていました。
買い手が喜ぶにも、売り手が嘆くにも遅すぎです。
神の怒りはすでに群衆の上に注がれていました。
商業は終焉し、売買の余地はもはやなくなり、全土は荒廃させられることになります。

預言者は、次の聖句でエルサレムの包囲を描写しています。

「ラッパが吹き鳴らされ、みなの準備ができても、だれも戦いに行かない。わたしの燃える怒りがそのすべての群集にふりかかるからだ。
外には剣、内には疫病とききんがあり、野にいる者は剣に死に、町にいる者はききんと疫病に滅ぼし尽くされる。
それをのがれた者が逃げて、山々に行っても、彼らは谷間の鳩のようになって、みな自分の不義のために泣き悲しむ。
彼らはみな気力を失い、彼らのひざもみな震える。
彼らは荒布を身にまとい、恐怖に包まれ、彼らはみな恥じて顔を赤くし、彼らの頭はみなそられてしまう。
彼らは銀を道ばたに投げ捨て、彼らの金は汚物のようになる。銀も金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出すことはできない。
それらは彼らの飢えを飽き足らせることも、彼らの腹を満たすこともできない。それらが彼らを不義に引き込んだからだ。」
(エゼキエル書7章14~19節)


町の防衛のためにラッパが鳴り響きました。
誰もが準備を整えるよう召集されたが、誰も戦いに赴こうとはしていません。
城壁の外には至る所に敵の軍勢が見えました。
包囲の厳しさから、町内には疫病と飢饉が蔓延していました。
野にいた者は剣に倒れ、町にいた者も周囲の状況により死に瀕していました。
確かに少数の者は逃れたかもしれないが、彼らは廃墟となった町を見下ろす嘆きの鳩のようでした。
すべての手は弱り、すべての膝は水のように弱かったのです。
ユダには残忍な敵に立ち向かう力など全く残っていません。
彼らは嘆き悲しみ、荒布を身にまとい、恐怖がたましいを支配したとしても、希望はありません。
彼らは神がもはや彼らの叫びを聞かなくなるまで罪を犯し続けました。
蓄えられた銀と金も、神の怒りの日に彼らを救うことはできません。
全てが終わりを迎えました。
エルサレムは滅ぼされ、パレスチナは敵の手に渡される運命にありました。

「彼らはこれを、美しい飾り物として誇り、これで彼らの忌みきらうべきもの、忌むべきものの像を造った。それで、わたしはそれを、彼らにとって汚物とする。
わたしはそれを他国人の手に獲物として渡し、この国の悪者どもに分捕り物として渡し、それを汚させる。
わたしは彼らから顔をそむけ、わたしの聖なる所を汚させる。強盗はそこに入り込み、そこを汚そう。
鎖を作れ。この国は虐殺に満ち、この町は暴虐に満ちているからだ。
わたしは異邦の民の中で最も悪い者どもを来させて、彼らの家々を占領させ、有力者たちの高ぶりをくじき、彼らの聖所を汚させよう。
苦悩がやって来る。彼らは平和を求めるが、それはない。
災難の上に災難が来、うわさがうわさを生み、彼らは預言者に幻を求めるようになる。祭司は律法を失い、長老はさとしを失う。
王は喪に服し、君主は恐れにつつまれ、民の手はわななく。わたしが彼らの行ないにしたがって彼らに報い、彼らのやり方にしたがって彼らをさばくとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」」
(エゼキエル書7章20~27節)

これらの言葉を読むだけでも、そこに描かれている悲しみと絶望をたましいで感じることができます。
多くの偶像礼拝と、それに伴う忌まわしい事柄のゆえに、ヤハウェはご自分の民に敵意を向け、彼らの町々と土地を異邦人の手に渡し、略奪品としてお与えになりました。
確かに、彼らは地上の邪悪な者たちであり、ユダが陥ったのと同じくらい、あるいはそれ以上に卑劣な者たちだったかもしれません。
しかし、違いは次の点にあります。
カルデア人は神との契約関係を一度も結んだことのない異教徒でした。
しかし、ユダの民は神ご自身から分離されていました。
神は彼らに律法と御言葉を与えておられましたが、彼らは神に反抗しました。
ゆえに、神は最も邪悪な諸国民さえも用いて彼らを懲らしめようとされました。
神は彼らに敵意を向け、盗賊たちが国に入り込み、それを汚すことを許されたのです。

23節の「鎖を作れ」という表現は、何千人もの人々が自分たちの罪の鎖に縛られ、捕囚されることを示しています。
彼らは物質的な鎖に繋がれ、敵の手に引き渡されるのです。
やがて、異教徒の中でも最悪の者たちがその地を占領し、聖地が汚されることになります。

24節には、アレンビーがエルサレムに入り、トルコ人が追放されるまで、約12世紀にわたってパレスチナを支配し、支配していたイスラム勢力によるパレスチナの占領についての預言が記されていると見る人々もいる。

彼らが平和を求めることは無駄でした。
なぜなら、彼らは平和を与えることのできる唯一の方から背を向けたからです。
それゆえ、災いが彼らに降りかかり、次から次へと惑わす噂が彼らを悩ませました。
苦悩の中で彼らは預言者の幻を求めますが、答えは得られていません。
律法は祭司から、助言は長老から消え去ります。
不安定で狡猾で偽善的なゼデキヤ王は嘆き悲しみ、指導者たちは荒廃をまとい、民の手は震えます。
神はこのように宣言されました。
「わたしが彼らの行ないにしたがって彼らに報い、彼らのやり方にしたがって彼らをさばく。」
これらすべてが成就したとき、彼らはヤハウェが彼らを苦しめていたことを知るのです。

もちろん、ネブカデレザルの時代を超えてこの章に大患難時代の恐ろしさの描写を見ることもできます。
確かに、理にかなった適用ではあるが、実際には二次的なものです。
なぜなら、実際の成就はカルデア軍による街の包囲と占領と関係があるからである。

異邦人である私たちは、ユダヤ人が神を忘れ、その結果悲惨な結末を迎えたからといって、彼らを軽んじてはなりません。
私たちもまた、一つの民族として、私たちに与えられた特権に全く値しないことを証明してきたことを忘れてはなりません。
そして、やがて、キリスト教世界もまた、その背教と反逆のゆえに主に拒絶されるのです。


8章 偶像崇拝の忌まわしさ

この章でエゼキエルは新たな一連のメッセージを開始し、それは11章まで続きますが、それ以前のメッセージと密接に関係しています。
与えられた日付は、1章から7章までの幻と預言の日付より1年後です。
このセクション全体を通して、神は依然として人々に悔い改めを呼びかけています。
なぜなら、裁きはまだ下っていないからです。
ご存知のように、エゼキエル自身はケバル川のほとりで捕虜となっていましたが、この8章では、彼は霊においてエルサレムの町、主の神殿にいます。

「第六年の第六の月の五日、私が自分の家にすわっていて、ユダの長老たちも私の前にすわっていたとき、神である主の御手が私の上に下った。
私が見ると、火のように見える姿があった。その腰と見える所から下のほうは火で、その腰から上のほうは青銅の輝きのように輝いて見えた。
すると、その方は手の形をしたものを伸ばし、私の髪のふさをつかんだ。すると、霊が私を地と天との間に持ち上げ、神々しい幻のうちに私をエルサレムへ携え行き、ねたみを引き起こすねたみの偶像のある、北に面する内庭の門の入口に連れて行った。
なんと、そこには、私がかつて谷間で見た姿と同じようなイスラエルの神の栄光があった。」
(エゼキエル書8章1~4節)


ユダの長老たちの集まりの中にいた時、預言者は周囲のすべてに意識を奪われたことは明らかです。
この恍惚状態の中で、彼は栄光に満ちた御方、明らかに御使いを目にしました。
御方は人間の姿で現れましたが、その姿は火のようでした。
これは詩篇作者の言葉を再び思い起こさせます。

「風(霊)をご自分の使いとし、焼き尽くす火をご自分の召使とされます。」
(詩篇104篇4節)

「神は、御使いたちを風(霊)とし、仕える者たちを炎とされる。」
(ヘブル人への手紙1章7節)


この栄光に満ちた御方は手の形を伸ばし、預言者の髪の毛を掴みました。
すぐに、エゼキエルは霊によって天と地の間に引き上げられたことに気づきました。
そして、神の幻の中で、彼はエルサレムの神殿の内庭の門の入り口、北側の扉へと連れて行かれました。
そこで彼は「ねたみの像」と呼ばれる大きな偶像を目にしました。
なぜなら、律法に「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神」(出エジプト記20章5節)と書かれてあるからです。

神との関係でねたむについて考えるとき、肉欲に溺れる人々の心にくりかえし荒廃をもたらす卑劣な情熱と混同してはいけません。
神がねたむのは、私たちが神から離れて他の崇拝の対象に目を向けるのであれば、自分たちの害になることを神がご存じだからです。
使徒パウロがコリント人への手紙の中でこのように書き送ったとおりです。

「私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。
私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」
(コリント人への手紙第二11章2節)


ヤコブは、私たちの内に住む霊はねたむ深く願うと述べています。
神は、私たちが主御自身に完全に心を奪われることを切望しておられます。

神はイスラエルに、他のどの民にも示さなかったほど、ご自身を明らかにされました。
慈悲深く、哀れみ深く、契約を守る神でありながら、その聖さゆえに罪は裁きによって裁かれることを要求される方です。
神は彼らにはっきりと「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出エジプト記20章3節)と告げています。
彼らがひれ伏して礼拝するようないかなる彫像を作ることも禁じられました。
しかし、彼らは神の言葉を背に投げ捨て、パレスチナ周辺の諸国の偶像崇拝に傾倒し、ヤハウェの聖所にさえ偶像を建てたのです。

預言者は見上げながら、イスラエルの神の栄光、すなわち、1章で彼が見た神の支配の戦車の幻を再び見ました。
ここに示された、ねたむの像とヤハウェの栄光は対照的なものだったのです。
主は預言者に直接語りかけ、神殿に据えられた偶像に彼の注意を向けさせました。

「その方は私に仰せられた。「人の子よ。さあ、目を上げて北のほうを見よ。」
そこで、私が目を上げて北のほうを見ると、北のほうの祭壇の門の入口にねたみの偶像があった。
この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは彼らのしていることが見えるか。
イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌みきらうべきことをしているではないか。
あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」」
(エゼキエル書8章5、6節)


エゼキエルは偶像を見つめながら、心の奥底まで揺さぶられたはずです。
彼はヤハウェの声が聞こえました。
「イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌みきらうべきことをしているではないか。
あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」
この言葉の哀れさは計り知れません。
神はイスラエルにとって父のような存在でした。
彼らをエジプトから導き出し、以来何世紀にもわたって彼らを守り続けてきました。
そして今、彼らは神にこのような報いを与えたのです。
神の言葉を拒絶し、他の神々に従い、見ることも聞くこともできず、試練の時に彼らを救うこともできない木や石や金属の像を崇拝したのです。

しかし、それだけではありません。
預言者は他にも大きな忌まわしい出来事を目にすることになります。

「それから、この方は私を庭の入口に連れて行った。私が見ると、壁に一つの穴があった。
この方は私に仰せられた。「人の子よ。さあ、壁に穴をあけて通り抜けよ。」私が壁に穴をあけて通り抜けると、一つの入口があった。
この方は私に仰せられた。「はいって行き、彼らがそこでしている悪い忌みきらうべきことを見よ。」
私がはいって行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた。
また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っており、その中にはシャファンの子ヤアザヌヤも立っていて、彼らはみなその手に香炉を持ち、その香の濃い雲が立ち上っていた。
この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行なっていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた。』と言っている。」
さらに、私に仰せられた。「あなたはなおまた、彼らが行なっている大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」」
(エゼキエル書8章7~13節)

御使いはエゼキエルを神殿の境内の戸口まで導きました。
そこで彼は壁に穴が開いているのを見ました。
その穴は隠し扉に通じており、その扉は秘密の部屋に通じていました。
そこは通常、通行人には発見されません。
エゼキエルはこの扉から中に入るように命じられ、中に入ると、周囲の壁には、エジプトの神殿の壁に今も見られるような、あらゆる種類の這うもの、忌まわしい獣、偶像が描かれていました。
これらの腐敗した迷信と偶像崇拝の邪悪さの証拠の前に、シャファンの子ヤアザヌヤに率いられたイスラエルの家の70人の尊敬すべき長老たちが立っていました。
彼らは明らかに祭司でした。
なぜなら、それぞれが手に香炉を持ち、そこから偽りの神々の描写の前で香の雲が立ち上っていたからです。

御使いはエゼキエルにこのように言いました。
「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行なっていることを見たか。」
 人は悪行を犯すと、光よりも闇を好みます。
ですから、これらの長老たちは、壁に飾られた偶像を崇拝しながら、この暗い部屋で不敬な崇拝を行っていました。
彼らは、自分たちがヤハウェの目には見えないぐらい隠れていると考えていました。
実際、彼らはヤハウェが自分たちの国を見捨てたと自分に言い聞かせていました。
しかし、実際、神を見捨てたのは彼ら自身でした。
彼らはこうした無意味な偶像に頼り、ついには生ける神以外のものに頼ることの愚かさを学んだのです。

しかし、それだけではありません。
さらに深い罪悪が明らかにされます。
そこで導きの御使いは言いました。
「あなたはなおまた、彼らが行なっている大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」

「ついでこの方は私を、主の宮の北の門の入口へ連れて行った。するとそこには、女たちがタンムズのために泣きながらすわっていた。
この方は私に仰せられた。「人の子よ。これを見たであろうが、あなたはなおまた、これよりも大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」」
(エゼキエル書8章14、15節)


タンムズはバビロニアの神です。
信者たちは、タンムズは創世記(3章15節)に記されている女の子孫であると信じていました。
バビロニアの秘儀に関係して語り継がれた神話では、タンムズは巨大な雄牛、あるいは巨大な竜との戦いで殺されたとされています。
しかし、しばらくしてタンムズは復活し、民を敵から解放する力を持つとされていました。
タンムズの崇拝に関係してタンムズの死の物語が語り継がれるならば、ユダヤ人の女たちが、この異教の神の苦難のために泣き叫んでいたヤハウェの家の門のすぐそばで同じ光景を目にした時、エゼキエルの心は大きな衝撃を受けたはずです。
再び、次のような言葉が発せられました。
「あなたはなおまた、これよりも大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」

「そして、この方は私を主の宮の内庭に連れて行った。すると、主の宮の本堂の入口の玄関と祭壇との間に二十五人ばかりの人がおり、彼らは主の宮の本堂に背を向け、顔を東のほうに向けて、東のほうの太陽を拝んでいた。
この方は私に仰せられた。
「人の子よ。あなたはこれを見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしているような忌みきらうべきことをするのは、ささいなことだろうか。彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。見よ。彼らはぶどうのつるを自分たちの鼻にさしている。
だから、わたしも憤って事を行なう。わたしは惜しまず、あわれまない。彼らがわたしの耳に大声で叫んでも、わたしは彼らの言うことを聞かない。」」
(エゼキエル書8章16~18節)


エゼキエルは案内人に従い、ヤハウェの家の内庭、聖所の入口へと導かれました。
そこで彼は、玄関と祭壇の間に、ヤハウェの神殿に背を向け、東を向いて地面にひれ伏し、昇る太陽を崇拝する25人の男たちを見ました。
このように彼らは創造主の代わりに被造物を置いたのです。

イスラエルのように主への畏れを教えられ、太陽が置かれた天と、栄光に照らされる地を創造した真実な神について学んだ民が、一瞬の天の光を崇拝しようとし、ケルビムの間の贖罪蓋の上にシェキーナの栄光が輝く神殿に背を向けるなどとは、考えられないことでした。
しかし、彼らはそのような罪の深みに陥っていったのです。
その結果、国は暴力に満ち溢れ、民が神への服従を拒み、心のさまざまな腐敗した情欲が解き放たれたように思われました。
彼らは主の怒りを買ったのです。
主は彼らを深く愛し、救いたいと切望していたにもかかわらず、このように御言葉を拒み、聖なる律法を破った者たちに、裁きを下す以外に道はありません。

彼らは嘲笑しながら、つるを鼻に当てたと伝えられています。
この表現は評論家たちの間で少なからぬ疑問を招いています。
しかし、明らかに軽蔑のしぐさを意味し、彼らが最大限の忠誠を誓う聖なる方に対する態度を表しています。

彼らの邪悪さゆえに、神は彼らを怒りでしか対処できず、このように宣言しました。
「わたしも憤って事を行なう。わたしは惜しまず、あわれまない。
彼らがわたしの耳に大声で叫んでも、わたしは彼らの言うことを聞かない。」

神の恵みを軽んじる者は、神の激しい怒りを知らなければならないことを心に留めておくのは良いことです。
従順の道から離れ、神の啓示された御心に故意に反する歩みをするとき、彼らは自分たちこの怒りを招くのです。

これらすべてのことには、イスラエルだけでなく私たちにも厳粛な教訓があります。
神は彼らの悲惨な失敗から、神から離れ、自己中心的な道を歩むことがどれほど邪悪で苦いことかを私たちに学ばせようとしておられます。
従順の中に祝福があり、不従順はそれ自身の裁きをもたらします。
これは私たちがなかなか理解できない教訓ですが、もし、私たちが他の人々の経験や神の言葉の直接の宣言から学び取ろうとしないなら、苦い苦しみと失望を通して、神の御心に従うことを拒むことの愚かさを学ぶしか方法が無いのです。


9章 筆入れを持つ男

周囲の罪と汚れに対する聖なる畏怖の念を特徴とする時、それはたましいに働く恵みのしるしです。
これは「私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている。」(イザヤ書65章5節)という態度を意味するのではなく、自分自身が不義で反抗的な民の一員であるという事実を認識することです。
これはダニエル、ネヘミヤ、エズラのように、自分の民の罪を自分の心に負い、彼らとともに神の前で告白する人のことです。
エゼキエルの時代に主がユダの民をご覧になったとき、この自分を裁く精神の兆候はほとんど見られません。
かつて、ソドムに十人の義人がいれば平野の町々を救われたと言われた主は、ユダヤにおいて、蔓延する悪のために主の前に嘆き悲しむ目立った集まりを捜し求めましたが、無駄でした。
主はそのような人々を背教した民から分けられ、残された民を裁く時に、彼らをご自身と共にされます。
驚くべき幻の中で、このことが預言者によって明らかにされました。

「 この方は私の耳に大声で叫んで仰せられた。「この町を罰する者たちよ。おのおの破壊する武器を手に持って近づいて来い。」
見ると、六人の男が、おのおの打ちこわす武器を手に持って、北に面する上の門を通ってやって来た。もうひとりの人が亜麻布の衣を着、腰には書記の筆入れをつけて、彼らの中にいた。彼らははいって来て、青銅の祭壇のそばに立った。
そのとき、ケルブの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルブから立ち上り、神殿の敷居へ向かった。それから、腰に書記の筆入れをつけ、亜麻布の衣を着ている者を呼び寄せて、」
(エゼキエル書9章1~4節)

この中には、解釈者の家の巡礼者が見た主の戦いへの献身への呼びかけを描いたジョン・バニヤンの生々しい絵のインスピレーションを見ることができます。
バニヤンの心は聖書で満たされ、彼の思考と著作のすべてを彩っています。
エルサレムの権力者たちに、裁きの剣を手にして近づいたという聖所から呼びかける声が聞こえます。

この呼びかけに、幻の中で六人の男が応えました。
彼らは皆、神の律法に背く者に対処するために武装しています。
その中には、当時の習慣に従って、義の象徴である亜麻布の衣をまとい、筆記用の筆入れを傍らに持つ秘書官、つまり記録官がいました。
彼らは皆、青銅の祭壇のそばに立ちました。
この祭壇は、主イエス・キリストの十字架の御業を象徴し、悔い改めない全世界がその光の中で裁かれることを意味しています。

預言者は、イスラエルの神の栄光が、贖罪所の上のケルビムの間にあった場所から昇り、今や家の敷居の上に浮かんでいるのを見ます。
神の御座はもはや恵みの御座ではなく、裁きの御座となっています。
恵みは拒絶され、神の聖性は無視されたからです。

再び声が聞こえ、それはヤハウェご自身の声であることが分かります。
彼は亜麻布を着て筆入れを持つ人に、エルサレムの町中を巡り、至る所で行われている様々な忌まわしい行いのために嘆き悲しむことで、たましいの鍛錬を示した人々の額に印をつけるように命じます。
大患難がその恐ろしい怒りをもって世界を襲う直前に、イスラエルの全部族から選ばれた14万4千人の額に印を押されたことが思い起こされます。
そして、現在私たちは、悔い改めて神に立ち返り、主イエス・キリストを信じた人々が聖霊によって印を押され、主の再臨の時に「アナテマ・マラナタ(Anathema Maranatha)」、つまり裁きに捧げられる人々から区別されることを考えます。
この夢の中で印を押された人々の額の刻印の特徴は示されていません。
しかし、その刻印は確かに彼らが神の前で自分たちを裁き、ユダの罪に対する神の姿勢に同調したことの印でした。

「また、私が聞いていると、ほかの者たちに、こう仰せられた。「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。惜しんではならない、あわれんではならない。
年寄りも、若い男も、若い女も、子どもも、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、あのしるしのついた者にはだれにも近づいてはならない。まずわたしの聖所から始めよ。」そこで、彼らは神殿の前にいた老人たちから始めた。
ついで主は彼らに仰せられた。「宮を汚し、死体で庭を満たせ。さあ行け。」彼らは出て行って、町の中で打ち殺した。」
(エゼキエル書9章5~7節)


これらの言葉を読むとき、私たちはペテロの手紙第一4章17節から18節の厳粛なメッセージと結び付けずにはいられません。

「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。
さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。
義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」
(ペテロの手紙第一4章17、18節)


武装した義の執行者たちはエルサレムを巡り、額に印章のない者をすべて打ち倒すよう命じられ、「まずわたしの聖所から始めよ」と命じられました。
こうして、主の名を汚した主の祭司から裁きが始まりました。
しかし、現在、主の名を唱えながら、その力を否定し、形ばかりの敬虔さを装う者すべてに、神は厳しい報復を与えられます。
もし、教会員が神の言葉を拒み、神の恵みを踏みにじり、その恵みを淫らな行いに変えてしまうなら、主は、主の名を唱える教会には容赦しません。
ユダの人々は偶像崇拝によって神殿を汚しました。
神は、神に反抗した者たちの死体によって神殿をさらに汚すように任されました。

「彼らが打ち殺しているとき、私は残っていて、ひれ伏し、叫んで言った。「ああ、神、主よ。あなたはエルサレムの上にあなたの憤りを注ぎ出して、イスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか。」
すると、主は私に仰せられた。「イスラエルとユダの家の咎は非常に大きく、この国は虐殺の血で満ち、町も罪悪で満ちている。それは、彼らが、『主はこの国を見捨てられた。主は見ておられない。』と言ったからだ。
だから、わたしも惜しまず、あわれまない。わたしは彼らの頭上に彼らの行ないを返す。」
ちょうどそのとき、腰に筆入れをつけ、亜麻布の衣を着ているその人が報告してこう言った。「あなたが私に命じたとおりに私は行ないました。」
(エゼキエル書9章8~11節)


祭司と民の虐殺がカルデア軍によって間もなく実現するという幻に、エゼキエルは心の底から動揺し、神の前にひれ伏し、エルサレムに怒りを注ぐ時にも、イスラエルのすべての残された民を滅ぼさないよう懇願しました。
もはや、神は裁きを遅らせることはできない状況であり、民全体が神から離れ、悔い改めて神の御顔を求めるさまざまな嘆願を拒否しています。
そのため、彼らには容赦のない裁きが下されるべきであると宣言されました。

しかし、これは、改善できない状況に嘆き悲しむ、この地の少数の人々を主が忘れたという意味ではありません。
主はすでに滅ぼす者たちに「あのしるしのついた者にはだれにも近づいてはならない」と命じておられました。
これは、忠実な残りの者たちに対する主の配慮をはっきりと示しています。

幻の最初の部分が終わると、筆入れを持った男はこのように報告しました。
「あなたが私に命じたとおりに私は行ないました。」
これは、神の前にへりくだり、ユダの罪のために嘆き悲しんだ人々について預言者を安心させるためでした。


10章 神の戦車が再び現れる

この10章は、9章に記録されている幻の続きです。
亜麻布をまとい、傍らに筆入れを持った男は今も私たちの前に立ち、裁きにおいて神の直接の代理人として行動しています。
エゼキエルの注意は地上の聖所から天へと向けられていました。
彼はこのように述べています。

「私が見ていると、ケルビムの頭の上の大空に、サファイヤのような何か王座に似たものがあって、それが、ケルビムの上に現われた。
主は亜麻布の衣を着た者に命じて言われた。「ケルブの下にある車輪の間にはいり、ケルビムの間の炭火をあなたの両手に満たし、それを町の上にまき散らせ。」すると、この人は私の目の前でそこにはいって行った。
その人がはいって行ったとき、ケルビムは神殿の右側に立っていて、雲がその内庭を満たしていた。
主の栄光がケルブの上から上り、神殿の敷居に向かうと、神殿は雲で満たされ、また、庭は主の栄光の輝きで満たされた。
そのとき、ケルビムの翼の音が、全能の神の語る声のように、外庭にまで聞こえた。
主が亜麻布の衣を着た者に命じて、「車輪の間、すなわちケルビムの間から火を取れ。」と仰せられたとき、この人ははいって行って、一つの輪のそばに立った。
すると、一つのケルブはケルビムの間から、ケルビムの間にある火のほうに手を伸ばして、その火を取り、亜麻布の衣を着た者の両手にそれを盛った。この人はそれを受け取ると、出て行った。
さらに、ケルビムの翼の下から人の手の形のものが現われた。」
(エゼキエル書10章1~8節)


この幻はあまりにも素晴らしく崇高であるため、それを完全に理解し、認識することは人間の力の及ばないところまで来ています。
1章と同様に、ここでも私たちは、ヤハウェが自分たちの意志の計画に従ってすべてを統制する、神の戦車が荘厳に宇宙を駆け巡るのを見ます。
預言者は見上げ、ケルビムの頭上の大空に、サファイアの石が王座のようなものとして現れたのを見ました。
それは宇宙の道徳的支配者の王座です。
地上がいかに混乱し、混沌とした状況に陥ろうとも、

「 主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。」
詩篇103編19節


神の命令により、亜麻布をまとった男がケルビムの下の回転する車輪の間に入るのが見えました。
そこで彼の手は、これらの栄光に満ちた存在の間から燃える炭火で満たされました。
その火は町中に撒き散らされ、審判の時が来たことを示していました。

ヨハネの黙示録8章にも、これと非常によく似た場面があります。
そこでは、御使いである祭司が金の祭壇の前に立ち、地上で苦しむ聖徒たちの祈りとともに、香の煙を神の前に捧げています。
この祈りに応えて、御使いは香炉を取り、祭壇の火で満たし、地上に投げつけます。
これは、神の裁きがこの罪深い世界に注がれることを示しています。
そして、エゼキエル書10章では、神の忍耐が尽き、ユダの人々が悔い改めの望みを失ってしまうまで罪を犯し、彼らの破滅の時が到来したと記されています。
彼らは天で何が起こっているのかを見ることができません。
ケルビムの間から燃える炭火が町の上に撒き散らされていることにも気づきません。
しかし、彼らは間もなく、このすべての恐ろしさと恐怖の意味を知ることになります。

預言者が見たように、男が家に入ると、ケルビムは家の右側に立ち、雲は内庭を満たしたと伝えられています。
それから、彼はヤハウェの栄光がケルビムから昇り、雲に満ちた家の敷居の上に吊るされているのを見ました。
内庭もまたヤハウェの栄光の輝きで輝いていました。

ユダの罪人たちの耳には何も聞こえなかったが、ケルビムの翼の音は、全能の神が語る声のように、外庭まで聞こえました。
神は亜麻布を着た人に、ケルビムの間から回転する車輪の間から火を取るように命じ、その命令にすぐに従いました。
以前は神の支配を執行するこれらの人々の翼の下に隠されていた手が伸びて火を取り、この人の手に渡すと、人は火を受け取ると出て行きました。
翼の下に見えたのは人の手の形であり、神が手を伸ばしてその被造物の手を握り、もし彼らがそれを受け入れる準備ができていたなら、豊かな恵みを彼らに注いでいたであろうことを示していました。
しかし今、神は裁きを下さなければなりません。

「私が見ると、ケルビムのそばに四つの輪があり、一つの輪は一つのケルブのそばに、他の輪は他のケルブのそばにそれぞれあった。その輪は緑柱石の輝きのように見えた。
それらの形は、四つともよく似ていて、ちょうど一つの輪が他の輪の中にあるようであった。
それらが行くとき、それらは四方に向かって行き、行くときには、それらは向きを変えなかった。なぜなら、頭の向かう所に、他の輪も従い、それらが行くときには向きを変えなかったからである。
それらのからだ全体と、その背、その手、その翼、さらに輪、すなわちその四つの輪には、その回りに目がいっぱいついていた。
私はそれらの輪が「車輪」と呼ばれているのを聞いた。
そのおのおのには四つの顔があり、第一の顔はケルブの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、第四の顔は鷲の顔であった。」
(エゼキエル書10章9~14節)


1章で見たように、支配の車輪はケルビムと密接に結びついています。
車輪の中に車輪があるのは、神の計画が人間には理解できないにもかかわらず、実行されていることを表しています。
主は忠実な残された民に対して非常に強い支配力を持っていました。
ゆえに、主が御名を置かれた町を裁きに訪れなければならなかった時でさえ、高慢な異邦人のようなしいたげた者でさえ、彼らにあわれみを示そうとする心がありました。
何も、これらの支配の車輪を、頭が向いた場所、すなわち戦車の先頭へとそらすことはできません。
彼らはそれに従い、進むにつれて方向を転換することはありません。
取るに足らない人間が神に逆らおうとしますが、それはこれらの強力な車輪の下に押しつぶされるだけです。
神に心を閉ざした者は誰も繁栄していません。
しかし、これらの車輪は単なる主観的な運命を表しているのではなく、車輪自体が目で満ちていました。
周囲の目、知性を物語る目、あらゆる場所で善と悪を見守る主の目です。
神の裁きは真実に基づいて行われます。
神の支配には気まぐれなところが何もありません。
神は人に正しい以上の事柄を与えることはありません。

私たちはすでに1章の解説の中でケルビムの四つの顔の意味を知っているので、それについて詳しく説明する必要はありません。

「そのとき、ケルビムが飛び立ったが、それは、私がかつてケバル川のほとりで見た生きものであった。
ケルビムが行くと、輪もそのそばを行き、ケルビムが翼を広げて地上から上るとき、輪もそのそばを離れず向きを変えなかった。
ケルビムが立ち止まると、輪も立ち止まり、ケルビムが上ると、輪もいっしょに上った。それは、生きものの霊が輪の中にあったからである。」
(エゼキエル書10章15~17節)


エゼキエルはこの生き物の幻を、以前ケバル川のほとりで見たものと明確に同一視していますが、ここでも車輪がケルビムの直接の支配下にあった事実を強調しています。
ケルビムが翼を広げて地上から昇るとき、車輪もケルビムの傍らを離れず、ケルビムが立っているとき、車輪は静止していました。
そして、ケルビムが天に舞い上がるとき、車輪も共に上りました。
なぜなら、一方の霊がもう一方の霊に宿っていたからである。

「主の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまった。
すると、ケルビムが翼を広げて、私の前で、地上から上って行った。彼らが出て行くと、輪もそのそばについて行った。
彼らが主の宮の東の門の入口で立ち止まると、イスラエルの神の栄光がその上をおおった。」
(エゼキエル書10章18、19節)


エゼキエルはこの驚くべき光景を見つめ続けているうちに、シェキーナの栄光が家の敷居から現れ、天へと昇り、ケルビムの上に立つのを見ました。
まるで神の戦車に乗って宇宙を雄大に駆け抜けるかのように、シェキーナの栄光はヤハウェの家の東の門の入口まで渡り、しばらくの間、その入口の上に浮かんでいるように見えました。
まるでヤハウェがご自分の聖所を捨てることを惜しんでおられるかのようです。
ヤハウェは御名を定められた場所に留まったが、民の側に悔い改めた形跡はありません。
このように、間もなく栄光は天に昇り、主イエス・キリストがこの地上に現れるまで二度と見ることはありません。

「彼らは、かつて私がケバル川のほとりで、イスラエルの神の下に見た生きものであった。私は彼らがケルビムであることを知った。
彼らはおのおの四つずつ顔を持ち、おのおの四つの翼を持っていた。その翼の下には、人間の手のようなものがあった。
彼らの顔かたちは、私がかつてケバル川のほとりでその容貌としるしを見たとおりの顔であった。彼らはみな、前のほうへまっすぐ進んで行った。」
(エゼキエル書10章20~22節)


再び、預言者はこの幻をケバル川のほとりで見た生き物と同一視しています。
その生き物がイスラエルの神の下にいることに着目してください。
神ご自身は目に見えません。
神の特質はケルビムに表れています。
詩篇作者は「義と公正は、あなたの王座の基」(詩篇89篇14節)と語り、これらの特質は御使いの姿と例証しています。

「まっすぐ進んで行った」という言葉のくりかえしは、とても厳粛です。
人間の力で神の意志を阻むことができると考えることの愚かさを知ることができます。


11章 幻の終わり

11章は、8章11節に記されているように、エゼキエルが6年目に見た驚くべき幻の最後の部分を描いています。
預言者は、聖霊によってエルサレムの情勢とそれに対する神の態度を目の当たりにしたとき、自分が見たものについて今も語っています。
主がこれらのことをエゼキエルに知らせたのは、捕虜となった人々の良心に、兄弟的な預言者エレミヤが与えた主の言葉に耳を傾けることの重要性を深く理解させるためでした。
エレミヤは捕虜となった者たちに、征服者たちによって置かれた土地に定住し、家を建て、ぶどう畑を作り、少なくとも70年間、異邦人の土地に滞在する準備をするようにと命じました。
その間、その土地は安息日を守ったのです。

この命令に、多くの人が反抗しました。
彼らは主が介入し、パレスチナへの帰還の道を開いてくれると信じていました。
現れた偽預言者たちは、彼らのこの期待を煽りました。
エゼキエルのメッセージの多くは、これらの人々に向けられたものです。

「そのとき、霊が私を引き上げて、主の宮の東に面した東の門に連れて行った。ちょうど、その門の入口には二十五人の者がいて、その中に、私は、民の長であるアズルの子ヤアザヌヤと、ベナヤの子ペラテヤがいるのを見た。
主は私に仰せられた。「人の子よ。この者たちは、この町で、邪悪な計画を立て、悪いはかりごとをめぐらし、
『家を建てるにはまだ間がある。この町はなべであり、私たちはその肉だ。』と言っている。
だから、彼らに向かって預言せよ。人の子よ。預言せよ。」」
(エゼキエル書11章1~4節)


エゼキエルは霊によって再び神殿の東門へと導かれました。
そこで彼は門の入口に、イスラエルの君主たち、神に対する民の態度を象徴する二十五人の男たちを見ました。
その中には、アズルの子ヤアザヌヤとベナヤの子ペラテヤという二人の名前が挙げられています。
この二人は民の中では特別な影響力を持っていたはずです。
ゆえにこのように取り上げられています。

主の言葉がこのように告げられました。
「人の子よ。この者たちは、この町で、邪悪な計画を立て、悪いはかりごとをめぐらし、」
エルサレムはカルデア軍に包囲されました。
神はエレミヤを通して敵の要求に屈服するよう勧め、自分たち進んで降伏する者は捕囚となるが、命は救われることを約束しました。
一方、従うことを拒む残りの者たちは、主の言葉に反抗し、エレミヤの助言を嘲笑する指導者たちによって完全に滅ぼされるのです。

彼らは、今は捕囚の地に家を建てる時ではないと主張し、嘲笑しながら「この町はなべであり、私たちはその肉だ」と叫びました。
つまり、彼らはエルサレムが上下に生ける火を持つ大釜のようなものであることを認識し、その中の肉を好んだのです。
それでも彼らは、平和などないのに「平和、平和」と宣べ伝え、間もなくカルデア軍はエルサレムから撤退し、聖都は裁きから守られると民に保証した。

彼らの楽観的な預言に反して、再び神はエゼキエルを通して語られました。

「ついで主の霊が私に下り、私に仰せられた。「主はこう仰せられる、と言え。イスラエルの家よ。
あなたがたはあのように言ったが、わたしは、あなたがたの心に浮かぶことどもをよく知っている。
あなたがたはこの町に刺し殺された者をふやし、死体でその道ばたを満たした。
それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたが町の中に置いた死体は肉であり、この町はなべである。
しかしわたしは、あなたがたをその中から取り出そう。
あなたがたは剣を恐れるが、わたしはあなたがたの上に剣をもたらす。――神である主の御告げ。――
わたしはあなたがたを町から連れ出して、他国人の手に渡し、あなたがたにさばきを下す。
あなたがたが剣に倒れ、わたしがイスラエルの国境であなたがたをさばくとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
この町はあなたがたにとってなべとはならず、あなたがたはその中の肉とはならない。わたしは、イスラエルの国境であなたがたをさばこう。
あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
あなたがたが、わたしのおきてに従って歩まず、わたしの定めを守らず、あなたがたの回りにいる諸国の民のならわしに従ったからである。」」
(エゼキエル書11章5~12節)


すべてを知る御方は、これらの指導者の言葉を聞いただけでなく、彼らの心の思いも知っておられ、このように宣言されました。
「イスラエルの家よ。
あなたがたはあのように言ったが、わたしは、あなたがたの心に浮かぶことどもをよく知っている」
町では殺された者が増し、通りは死体で満たされていました。
これらはまさに肉であり、町はまさに大釜でした。
そして、主が預言者を通して語った言葉のとおり、エルサレムは敵に占領され、殺されなかった者たちは連れ出され、エルサレムの住民に裁きを執行するための神の道具となる異邦人の手に引き渡されました。
逃れることは不可能です。
彼らはどんなに努力しても、残酷な敵から逃れることはできません。
彼らは全土で裁きに引き渡され、これらのことが成就したとき、ヤハウェが語られたことを知るのです。
エルサレムだけでなく、イスラエル全土において、カルデア人の復讐は、街の包囲が長引くにつれてますます激しくなることを、彼らは知ることになります。
イスラエルには神の助けを乞う資格はありません。
彼らは神の律法を歩まず、神の定めを執行せず、周囲の異教徒の慣習に従って行動していたからです。

「こうして、私が預言しているとき、ベナヤの子ペラテヤが死んだ。そこで、私はひれ伏し、大声で叫んで言った。
「ああ、神、主よ。あなたはイスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか。」」
(エゼキエル書11章13節)


エゼキエルは、その言葉が口にある間にも、幻の中でペラテヤが倒れて死ぬのを見ました。
明らかに、これはその時エルサレムで実際に起こったことです。
自分の言葉が成就し始めたことに心の奥底から動揺したエゼキエルは、ひれ伏して神の前で嘆き、このように言いました。
「ああ、主なる神よ! あなたはイスラエルの残りの者を完全に滅ぼされるのですか?」

主は答えて、過ちを犯した民に対する主の心の愛を明らかにし、捕囚の地であっても主に頼る者には恵みをもって会うことを約束しました。
一方、主の声を聞こうとしない者には裁きが下されることを約束しました。

「そのとき、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。あなたの兄弟、あなたの同胞、あなたの身近な親類の者たち、またイスラエルの全家のすべての者に対して、エルサレムの住民は、『主から遠く離れよ。この地は私たちの所有として与えられているのだ。』と言った。
それゆえ言え。『神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。
しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。』
それゆえ言え。『神である主はこう仰せられる。わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える。』
彼らがそこに来るとき、すべての忌むべきもの、すべての忌みきらうべきものをそこから取り除こう。
わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。
わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。
それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。
こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
しかし、彼らの忌むべきものや、忌みきらうべきものの心を、自分の心として歩む者には、彼らの頭上に彼らの行ないを返そう。
――神である主の御告げ。――」」
(エゼキエル書11章14~21節)


ヤハウェの言葉は、以前と同じ様に「人の子」と呼ばれるエゼキエルに向けられました。
エゼキエルの近親者も主に反逆した者たちの中におり、彼らも他の人々と共に遠く諸国に追いやられました。
しかし、捕囚の地で神に立ち返る者を神は決して忘れられません。
神はこのように言われました。
「しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。」
神殿は破壊されるかもしれません。
地上のいかなる場所も、もはやヤハウェが御名を置かれた場所とはされなくなりますが、神をむだに求める者は一人もいません。
神の民がどのような状況にあっても、もし誰かが心を尽くして神に立ち返るなら、神は彼らにご自身を現し、自分たち彼らの聖所となられます。
さらに、神は定められた時に、ご自分の民の残りの者をそれぞれの土地に集められます。

明確な約束に注目してください。
『神である主はこう仰せられる。わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える。』
彼らがそこに来るとき、すべての忌むべきもの、すべての忌みきらうべきものをそこから取り除こう。

その日が来ると、残された民は神に国家として受け入れられ、再生されます。
神はこのように言われます。
「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。
わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。
それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。
こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」

この約束は未だ成就されていません。
現在、多くのユダヤ人が未だ不信仰のままパレスチナに帰還していることは、ある意味ではこの預言の部分的な成就です。
また、その準備段階であることに疑いありません。
しかし、実際に成就する時、人々は自分たち主のもとに立ち返り、自分たちの罪を裁き、神の前にひれ伏して罪を告白します。
現在、私たちが知っているように、それは約束されたメシアを拒絶した罪です。
そして、このように心から神に立ち返る時、神は彼らをこの地に定着させ、救いを求めて主イエス・キリストに立ち返るすべての人々にそのようにします。
そして、彼らに新しい誕生を通して新しい性質を与えてくださいます。

しかし、彼らが来た時、自己中心的な道を歩み続け、罪の中に反抗し続ける者たちには祝福はありません。
主の御言葉はこうである。
「自分の心として歩む者には、彼らの頭上に彼らの行ないを返そう。」

「ケルビムが翼を広げると、輪もそれといっしょに動き出し、イスラエルの神の栄光がその上のほうにあった。
主の栄光はその町の真中から上って、町の東にある山の上にとどまった。
また、霊が私を引き上げ、神の霊によって幻のうちに私をカルデヤの捕囚の民のところへ連れて行った。そして、私が見たその幻は、私から去って上って行った。
そこで私は、主が私に示されたことをことごとく捕囚の民に告げた。」
(エゼキエル書11章22~25節)


幻が終わり、エゼキエルはケルビムが翼を広げ、その傍らに支配の車輪を従えるのを見ました。
そして、イスラエルの神の栄光が彼らの上空に輝いているのを見ました。
たとえ、その慈悲が軽蔑されていたとしても、神は依然として慈悲を留めておられたことは明らかです。
ヤハウェの栄光が町の中心から昇り、町の東側にある山の上に立ったのです。
これは、至聖所のケルビムの間に宿っていたシェキーナの栄光です。
今、その栄光はオリーブ山の上に立っていました。
そこは、主イエスご自身が天に昇る前に立っただったまさにその場所です。
預言者がこの幻の中で最後に見た栄光は、まるで神が民を見捨てることをためらっているかのように、山頂でまだそこに留まっていました。

幻が過ぎ去ると、エゼキエルは目を開けると、自分がケバル川の岸辺のカルデアの地にいることに気づきました。
そして、捕虜の集まりが彼の周りに集まっているのに気づきました。
エゼキエルは彼らに自分が見たり聞いたりしたすべてのことを話しました。


12章 迫りくるエルサレムの破壊

12章から16章には、預言されたエルサレムの滅亡とユダの民の捕囚に関する一連の預言が記されています。
神はこれほどまでに辛抱強い方でした.
しかし、ユダの邪悪さをもはや容認することはできません。
ですから、深く愛しながらも神の聖なる御心に全く無関心だった民に対し、裁きを下す以外に道はありません。
エレミヤが忠実に証ししたゼデキヤは、悔い改めの兆候を全く示さなかったため、ヤハウェの王座に座するゼデキヤ(エレミヤ書29章21節)は、王位が剥奪されるだけでなく、ネブカデレザルの臣下として、視力を失ったままバビロンに下る運命でした。
この章の前半で、エゼキエルはエルサレムからの出発を演じることで捕虜の仲間の注意を引くように命じられました。

「ついで、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。あなたは反逆の家の中に住んでいる。彼らは反逆の家だから、見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞こうとしない。
人の子よ。あなたは捕囚のための荷物を整え、彼らの見ている前で、昼のうちに移れ。彼らの見ている前で、今いる所から他の所へ移れ。もしかしたら、彼らに自分たちが反逆の家であることがわかるかもしれない。
あなたは、自分の荷物を昼のうちに彼らの見ている前で、捕囚のための荷物のようにして持ち出し、捕囚に行く人々のように、彼らの見ている前で、夕方、出て行け。
彼らの見ている前で、あなたは壁に穴をあけ、そこから出て行け。
彼らの見ている前で、あなたは荷物を肩に負い、暗いうちに出て行き、顔をおおって地を見るな。わたしがあなたをイスラエルの家のためにしるしとしたからだ。」
そこで、私は命じられたとおりに、私の荷物を捕囚のための荷物のようにして昼のうちに持ち出し、夕方、自分の手で壁に穴をあけ、彼らの見ている前で、暗いうちに荷物を背負って出て行った。」
(エゼキエル書12章1~7節)


エゼキエルは神の人であったにもかかわらず、見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞こうとしない、愚かさと利己心の道を歩み続ける反抗的な民のまん中に住んでいました。
エゼキエルは移動するために持ち物を準備するよう命じられました。
まるで現在の居住地を離れる準備をするかのように、すべてを荷造りしなければなりません。
そして、夜が近づくと、新しい場所へ移動することになりました。
しかし、私たちが伝えるところによると、人々が亡命先へ出ていくように、ひっそりと移動しなければなりません。
彼は住んでいた囲い地の門を通るのではなく、壁を掘り抜き、できた穴から持ち物を運び出すよう命じられました。
エゼキエルの顔は、地が見えないように覆われなければなりません。
なぜなら、彼はイスラエルの家にとってしるしとなり、カルデア人から逃れようとしたユダの何千人もの人々が、最終的に彼らに捕らえられ、異邦人の地へと連れ去られる状況を彼らに示そうとしたからです。

預言者は命じられたとおり、間違いなく好奇心を持って見守る人々の目の前で、荷物を肩に担いで暗闇の中を出て行きました。

「翌朝、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。反逆の家、イスラエルの家は、あなたに、『何をしているのか。』と尋ねなかったか。
彼らに言え。『神である主はこう仰せられる。この宣告は、エルサレムの君主、およびそこにいるイスラエルの全家にかかわるものである。』
また言え。『私はあなたがたへのしるしである。私がしたようなことが彼らにもなされる。彼らはとりことなって引いて行かれる。
彼らのうちにいる君主は、暗いうちに荷物を背負って出て行く。
出て行けるように壁に穴があけられる。彼は顔をおおうであろう。彼は自分の目でその地をもう見ないからである。』
わたしはまた、彼の上にわたしの網をかけ、彼はわたしのわなにかかる。
わたしは彼をカルデヤ人の地のバビロンへ連れて行く。しかし、彼はその地を見ないで、そこで死のう。
わたしはまた、彼の回りにいて彼を助ける者たちや、彼の軍隊をみな、四方に追い散らし、剣を抜いて彼らのあとを追う。
わたしが彼らを諸国の民の中に散らし、国々に追い散らすとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。
彼らが行く先の諸国の民の中で、自分たちの、忌みきらうべきわざをことごとく知らせるために、わたしが彼らのうちのわずかな者を、剣やききんや疫病から免れさせるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」」
(エゼキエル書12章8~16節)


前の節の劇的なたとえ話の翌日、ヤハウェの言葉は再びエゼキエルに臨み、彼の行動が反抗的なイスラエルの家にどのような影響を与えたかを尋ねました。
もし、彼らが「あなたは何をするのか」と尋ねたなら、彼はエルサレムの君ゼデキヤと、まだその地に残っていたイスラエルの全家に関するヤハウェの重荷を彼らに知らせなければなりません。
彼は、自分自身が彼らのしるしであり、彼がしたように、彼らにも同じようになるべきであることを説明しなければなりません。
彼らは皆、捕囚の運命にありました。
君主であるゼデキヤ王でさえ、一般民衆の一人として、わずかな持ち物を肩に担ぎ、町からの脱出を試みます。
ネブカデレザルの捕虜化の企てを阻止しようと、彼は城壁を掘り抜いて暗闇に紛れて逃げ出し、逃亡者となって近づきがたい場所に隠れることで命を救おうとします。
しかし、彼は捕らえられ、罠にかかった鳥のようにバビロン、カルデア人の地へと連れて行かれることになります。
しかし、彼は、たとえ何年もそこに住み、ついに死が彼を解放するまで、その地を見ることは決してない運命でした。
この預言は、ご存知の通り、恐ろしい成就を遂げました。
彼の二人の息子が彼の目の前で殺され、その後、その両目が潰されました。
そのため、彼が見たものの中で最後に記憶に残ったのは、子供たちの死だけでした。

王の捕囚に続いて、ユダは地上のさまざまな地に散らされることになります。
しかし、これで彼らの裁きが完了するわけではありません。
彼らが行く所々で神御自身が剣を抜き、彼らは深い悲しみと苦悩を通して、主なる神を見捨てたことの愚かさを知ることになるからです。
諸国に散らされ、諸国に散り散りになった彼らは、依然として孤立した民であり、隣人たちは激しい敵意に燃え上がることになります。

それでも、彼らのうちの少数の者は剣や飢きんや疫病から救われ、彼らが向かった国々の中で自分たちの忌まわしい行いをすべて告白、あるいは認めることになります。
こうして彼らは、自分たちがヤハウェと関係があることを知ることになります。

「ついで、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。震えながらあなたのパンを食べ、おののきながら、こわごわあなたの水を飲め。
この地の人々に言え。『神である主は、イスラエルの地のエルサレムの住民について、こう仰せられる。彼らは自分たちのパンをこわごわ食べ、自分たちの水をおびえながら飲むようになる。その地が、そこに住むすべての者の暴虐のために、やせ衰えるからである。
人の住んでいた町々が廃墟となり、その地が荒れ果てるそのとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。』」」
(エゼキエル書12章17~20節)


このようにエゼキエルは民にとってのしるしであり続けました。
主の言葉に従い、彼は震えながらパンを食べ、震えながら、そして恐れながら水を飲みました。
エゼキエルは、ユダの人々が自分たちの土地から連れ去られ、街が破壊され、土地が荒れ果てた後に暮らすことになる悲惨な状況を思い描くことになりました。

命の危険が差し迫り、いつどんな災難が降りかかるか全く分からず、不幸な捕虜たちは敵の暴力に常に怯えています。
ネブカデレザルに支配された時代だけでなく、その後の何世紀にもわたって、イスラエル国民の不幸はまさにこのことでした。
彼らはどこにも安らぎを見出すことができず、絶え間ない恐怖と不安の中で生きていました。
それはすべて、いつ災難が降りかかるか分からなかったからです。

長年にわたり、神の預言者たちは民に対し、ヤハウェの言葉に従わないのなら、恐ろしい災いが降りかかると警告してきました。
しかし、民はこれらの証言を軽視し、預言者たちを虐待しました。
彼らの悪行に対する裁きがすぐには執行されていません。
彼らは裁きの日を先延ばしにし、自分たちの時代には決して来ないことを願っていました。
このことについて、次のように記されています。

「さらに、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。あなたがたがイスラエルの地について、『日は延ばされ、すべての幻は消えうせる。』と言っているあのことわざは、どういうことなのか。
それゆえ、神である主はこう仰せられると言え。『わたしは、あのことわざをやめさせる。それで、彼らはイスラエルでは、もうくり返してそれを言わなくなる。かえって、その日は近づき、すべての幻は実現する。』と彼らに告げよ。
もう、むなしい幻も、へつらいの占いもことごとく、イスラエルの家からなくなるからだ。
それは、主であるわたしが語り、わたしが語ったことを実現し、決して延ばさないからだ。
反逆の家よ。あなたがたが生きているうちに、わたしは言ったことを成就する。――神である主の御告げ。――」」
(エゼキエル書12章21~25節)


イスラエルとユダの人々の大多数は、現代の人々と同じ精神を持っています。
主イエスが再び来られるという真理を聞くと、彼らは嘲笑して叫びます。

「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。
先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
(ペテロの手紙第二3章4節)

それで、昔の人々は「その日々」、つまり、神がご自分の民に裁きを下す前に哀れみをもって待っておられた日々は「日は延ばされ、すべての幻は消えうせる」と言いました。
彼らは預言者の幻が実現するのを待ち望んでいませんでしたが、神の言葉がこのように言われています。

「わたしは、あのことわざをやめさせる。
それで、彼らはイスラエルでは、もうくり返してそれを言わなくなる。」
彼らの言ったことに反して、その日が近づき、すべての裁きの幻が成就しようとしていたのです。
さらに、偽預言者はヤハウェの怒りによって断ち切られます。
もはや、偽りの幻も、お世辞の占いもあってはなりません。
神の言葉だけが貫かれるのです。
神は既に語られました。
その言葉は成就されるべきであり、預言された破滅はもはや延期されるべきではありません。
彼らの時代に、神はその反逆の家に裁きを下す最後の戒めを与えると宣言されました。

「さらに、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。今、イスラエルの家は言っている。『彼が見ている幻はずっと後のことについてであり、はるか遠い将来について預言しているのだ。』
それゆえ、彼らに言え。『神である主はこう仰せられる。わたしが言ったことはすべてもう延びることはなく、必ず成就する。』――神である主の御告げ。――」」
(エゼキエル書12章26~28節)


ヤハウェは二度目に、そのしもべを通して同じメッセージをお与えになりました。
主がこのように明確に語られたにもかかわらず、イスラエルの家は愚かさと不信仰のために「彼が見ている幻はずっと後のことについてであり、はるか遠い将来について預言しているのだ。」と言い続けました。
彼らは無謀な楽観主義で邪悪な日を脇に置き、預言された裁きからは逃れられ、もし、裁きが来るとしてもそれは後の世代に降りかかるだろうと考え、罪と不敬虔に無頓着に生き続けました。
しかし、神は御言葉はもはや何一つ延期されるべきではないと宣言されました。
今、御言葉は直ちに実行されなければならないのです。
このように、人々は御言葉を決して取り消さない神と関係があることを知ることになります。

これらすべての中に、現代のキリスト教世界に蔓延している状況を垣間見ることができます。

聖書は、私たちがこのディスペンセーションの終末期に生きていることを明確に示しています。
しかし、信仰を告白する教会は、ごくわずかな例外を除いて、この世に安住し、その指導者たちは、神の家から始まる裁きについて語る者たちは誤った狂信者であり、今の状況よりも良いことは決してなかったと人々に信じ込ませようとしています。
しかし、神の言葉は「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです」(マタイの福音書24章37節)と宣言しています。
洪水以前の世界に腐敗と暴力が満ちていたように、今日、あらゆるところに腐敗と暴力が見られます。
教会自体にも、テモテへの手紙二3章に描かれている終わりの日の特質が至る所に蔓延しています。
私たちは見る目と聞く耳を持ち、時代の兆しを理解し、主の言葉に注意を払わなければなりません。


13章 叱責される偽預言者

当時、イスラエルにはこれらの摂理的な裁きが下されていました。
エゼキエルの預言は悪意のある悲観主義者の戯言とされました。
そして、エルサレムの解放とユダの勝利の時は近い、カルデア軍はパレスチナの地から追い出され、敗北し、徹底的に屈辱を受けるだろうと、あえて宣言する偽預言者が少なくも存在していました。
このような虚栄心の強い楽観主義者たちに対し、エゼキエルはヤハウェの名において語り、主の怒りが彼らに降りかかる時、彼ら自身も背教した他の民と共に滅びる運命であると宣言するよう命じられました。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。預言をしているイスラエルの預言者どもに対して預言せよ。自分の心のままに預言する者どもに向かって、主のことばを聞けと言え。
神である主はこう仰せられる。自分で何も見ないのに、自分の霊に従う愚かな預言者どもにわざわいが来る。
イスラエルよ。あなたの預言者どもは、廃墟にいる狐のようだ。
あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。
彼らはむなしい幻を見、まやかしの占いをして、『主の御告げ。』と言っている。主が彼らを遣わされないのに。しかも、彼らはそのことが成就するのを待ち望んでいる。
あなたがたはむなしい幻を見、まやかしの占いをしていたではないか。わたしが語りもしないのに『主の御告げ。』と言っている。」
(エゼキエル書13章1~7節)


これらの偽預言者たちは主の霊によって語ると公言しながらも、ただ自分たちの霊のうながしに従ったに過ぎません。
彼らは、当時進行中の紛争の結果となるかもしれないという、空虚な希望を語ったに過ぎません。
彼らの態度は、すべて希望的観測の結果でした。
ユダの苦しみの原因を認識していません。
したがって、ヤハウェがその名によって呼ばれる民に対してどのような態度を取ったかを理解せず、彼らは実現することを熱望する事柄だけを預言していました。

このように、彼らは助ける者というよりむしろ邪魔者となり、民を罪の中に安住させていました。
彼らは砂漠の狐のように、あるいはむしろ荒野で死肉をむさぼるジャッカルのようです。
彼らはヤハウェからの言葉を持たず、役に立たない使者だったのです。

彼らは、イスラエルをここまで迷わせ、ヤハウェの顔を彼らから隠した偶像崇拝とそれに伴うあらゆる悪を裁くようイスラエルに要求し、問題の根源を解明しようとはしません。

彼らは、主が彼らを遣わして来たるべき救いを保証すると宣言しながら、決して確証のない偽りを人々に信じさせました。
彼らの幻は空虚で虚しいものであり、偽りの占いです。
なぜなら、彼らはヤハウェを代表すると自称していたにもかかわらず、主は彼らを通して語っておられないからである。

神が、ご自分の民を罪と背教のゆえに処罰してきたどの時代にも、偽預言者がいました。
彼らは、万事順調であり、裁きが下る恐れはないと保証し、偽りの自信で罪人たちを眠らせようとしました。
現在のキリスト教世界には、このような預言者が多く存在しています。
裁き主が戸口に立っているにもかかわらず、彼らは「平和だ、平和だ、平和がないのに!」と叫び続けているのです。

「それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたは、むなしいことを語り、まやかしの幻を見ている。
それゆえ今、わたしはあなたがたに立ち向かう。――神である主の御告げ。――
わたしは、むなしい幻を見、まやかしの占いをしている預言者どもに手を下す。
彼らはわたしの民の交わりに加えられず、イスラエルの家の籍にも入れられない。イスラエルの地にもはいることができない。
このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう。
実に、彼らは、平安がないのに『平安。』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう。
しっくいで上塗りする者どもに言え。『それは、すぐはげ落ちる。』大雨が降り注ぎ、わたしが雹を降らせ、激しい風を吹きつける。」
(エゼキエル書13章8~11節)


不注意で不誠実な職人が、石を固めずにモルタルで固めて壁を築こうとするように、これらの偽りの預言者たちは、自分たちに導きを求める同胞の士気を高めようと、偽りを信じ込ませようとしました。
このため、神は彼らに顔を向けました。
彼らは捕囚の身で死ぬ運命にあり、散らされた民が間もなく勝利のうちに帰還すると宣言した地を二度と見ることはありません。

これらのいわゆる聖見者たちの名前は、イスラエルの記録から抹消されます。
なぜなら、彼らは主の霊感を受けた代表者たちを通して与えられた主の証しを信用できないものにしたからです。
彼らの偽りが明らかになる時が間もなく来ます。
その時、彼らに欺かれていたその民が、ヤハウェの代弁者とする偽預言者たちの根拠のない主張を嘲笑します。

「すると、壁が倒れ落ちる。人々はあなたがたに向かって、『上塗りしたしっくいはどこにあるのか。』と言わないだろうか。
それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは、憤って激しい風を吹きつけ、怒って大雨を降り注がせ、憤って雹を降らせて、こわしてしまう。
あなたがたがしっくいで上塗りした壁を、わたしが打ちこわし、地に倒してしまうので、その土台までもあばかれてしまう。
それが倒れ落ちて、あなたがたがその中で滅びるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
わたしは、その壁と、それをしっくいで上塗りした者どもへのわたしの憤りを全うして、あなたがたに言う。
壁もなくなり、それにしっくいを塗った者どもも、いなくなった。
エルサレムについて預言し、平安がないのに平安の幻を見ていたイスラエルの預言者どもよ。――神である主の御告げ。――」
(エゼキエル書13章12~16節)


壁は保護と隔離を象徴します。
未練のモルタルで築かれた壁は崩壊の運命にあり、人々はカルデア人の力にさらされることになります。
その時、自称預言者である、楽観主義者たちは、偽りの預言に惑わされた者たちの嘲笑と侮蔑の的となります。

ネブカデレザルの軍勢の背後には神ご自身がおられます。
この残忍な敵を用いて城壁を破壊し、民を国から滅ぼすのは神ご自身です。
神は、彼らが悔い改めようとしない数々の罪のゆえに、激しい怒りをもって彼らに報います。
預言者たちは「平和だ」と叫びましたが、主は「平和はない」と宣言されます。
神の律法が軽視され、神の言葉が蔑まれているのに、平和はあり得ません。

「人の子よ。自分の心のままに預言するあなたの民の娘たちに、あなたの顔を向け、彼らに預言して、
言え。神である主はこう仰せられる。みなの手首に呪法のひもを縫い合わせ、あらゆる高さの頭に合うようにベールを作って、人々をわなにかける女たちにわざわいが来る。
あなたがたは、わたしの民である人々をわなにかけて、自分たちのために人々を生かしているのだ。
あなたがたは、ひとつかみの大麦のため、少しばかりのパンのために、まやかしに聞き従うわたしの民にまやかしを行ない、死んではならない者たちを死なせ、生きてはならない者たちを生かして、わたしの民のうちでわたしを汚した。
それゆえ、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、あなたがたが、人々を鳥を取るようにわなをかけたのろいのひもに立ち向かう。
それらをあなたがたの腕からもぎ取り、あなたがたが鳥を取るようにわなにかけた人々を、わたしが放す。
わたしは、あなたがたのベールをはがし、わたしの民をあなたがたの手から救い出す。
わなにかかった者たちは、もうあなたがたの手のうちにいなくなる。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。」
(エゼキエル書13章17~21節)


当時は偽預言者だけでなく、偽りの女預言者もいました。
男性が失敗した時、くりかえし神は忠実な女性を通して語られることを喜ばれました。
しかし、当時の女性たちは男性と同様に偽善的で不忠実でした。
彼女たちもまた、巧妙な預言をし、人々を罪の中に安住させようとしました。
そのため、神は彼女たちに災いを宣告しました。

「神である主はこう仰せられる。みなの手首に呪法のひもを縫い合わせ、あらゆる高さの頭に合うようにベールを作って、人々をわなにかける女たちにわざわいが来る。」
この箇所は確かに説明が難しい箇所です。
衣服に魔除けやお守りを結びつけることを指していると考える人もいれば、単に避けるべき危険がなく、災いを恐れずに安らかに眠る準備ができていることを暗示する装飾品だと考える人もいます。
「あらゆる高さの頭に合うようにベールを作って、人々をわなにかける女たち」という表現も、やや不可解です。
しかし、これは災いへの恐怖を払いのけ、陽気さと虚栄心を増大させるために、無造作に装飾することを示しているのかも知れません。

続く聖句は、この考えと一致しているように思われます。
神の啓示を受け、来るべき裁きを警告していたエゼキエルや他の預言者たちによって与えられた主の言葉に耳を傾けようとする者たちの魂がいました。
これらの偽預言者たちは不注意な牲者をひきつけるために身を飾る遊女のように、彼らの魂を捕らえるために、できる限りすべてを喜ばせようと語ったのです。

「あなたがたは、わたしが悲しませなかったのに、正しい人の心を偽りで悲しませ、悪者を力づけ、彼が悪の道から立ち返って生きるようにしなかった。
それゆえ、あなたがたは、もう、むなしい幻も見ることができず、占いもできなくなる。わたしは、わたしの民をあなたがたの手から救い出す。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。」
(エゼキエル書13章22、23節)


良心が少しでも働いている時、神の真理を悪意を持って歪曲する行為は心を痛めました。
義人たちは、悪人が肉欲に安住し、審判によってのみ目覚めさせられるのを見て、悲しみました。
しかし、その時は悔い改めるには遅すぎたのです。
常に偽りの教えを信じる人々を悪に陥れ、彼らの言葉はどのような生き方をしようと神の怒りから逃れられると信じ込ませる傾向があります。
神は、しばらくの間は真実でないものや非現実的なものに対して寛容であるように見えるかもしれません。
しかし、最終的には誤りを広める者を処罰し、神の民を彼らの手から救い出します。


14章 遅すぎた執り成し

箴言には、神が恵みによって語り、悔い改めを呼びかけているのに、人々がその声に耳を傾けないなら、人々が神に憐れみを求めても、神がその叫びに耳を傾けようとしない日が来ると記されています。
このことは、この章で強調していることです。

ユダヤ人の立場が極めて危機的状況に陥っていたことは明白でした。
カルデア軍の撤退と偽預言者たちの平和の預言の成就を期待していた者たちは、最終的に、自分たちの状況は想像していたよりもはるかに悪いと感じ始めていました。
そこで指導者たちの代表団はエゼキエルを訪ね、ヤハウェが彼らのために介入してくださる可能性について相談しました。

「イスラエルの長老たちの幾人かが来て、私の前にすわった。
そのとき、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。これらの者たちは、自分たちの偶像を心の中に秘め、自分たちを不義に引き込むものを、顔の前に置いている。
わたしは、どうして彼らの願いを聞いてやれようか。
それゆえ、彼らに告げよ。神である主はこう仰せられると言え。心の中に偶像を秘め、不義に引き込むものを自分の顔の前に置きながら、預言者のところに来るすべてのイスラエルの家の者には、主であるわたしが、その多くの偶像に応じて答えよう。
偶像のために、みなわたしから離されてしまったイスラエルの家の心をわたしがとらえるためである。」
(エゼキエル書14章1~5節)


これらの長老たちが一言も発する前に、神ご自身がエゼキエルに語りかけています。
人の見るところではなく、心の思いと意図を見分ける神は、すでにこれらの人々を、心の中に偶像を立て、罪悪というつまずきの石を目の前に置いた者として裁いておられると宣言されました。
では、なぜ彼らは神の預言者のもとに来て尋ねるのでしょうか?
彼らには神の御心を行う意志がなかったので、神に救いを求める資格はありません。
現状のままでいる限り、平和の答えは得られません。
ヤハウェは、心の中に偶像を立て、不義を執着し、その結果、国家のつまずきの石となったイスラエルの家のすべての人々は、彼らが行ってきた偶像崇拝に基づく裁きについて答える必要が無いと宣言されました。
神は、彼らが神を敬うふりをしながら口先だけで告白した内容ではなく、彼らの内面的な見方に基づいて彼らを扱います。

神はエゼキエルに、すでになされた裁きの預言をただ確認するように命じました。

「それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。悔い改めよ。偶像を捨て去り、すべての忌みきらうべきものをあなたがたの前から遠ざけよ。
イスラエルの家の者でも、イスラエルにいる在留異国人でも、だれでもわたしから離れ、心の中に偶像を秘め、不義に引き込むものを顔の前に置きながら、わたしに尋ね求めようと、預言者のところに来る者には、主であるわたしが答えよう。
わたしがそのような者から顔をそむけ、彼をしるしとし、語りぐさとして、わたしの民のうちから彼を断ち滅ぼすとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
もし預言者が惑わされて、ことばを語るなら、――主であるわたしがその預言者を惑わしたのである。――わたしは彼に手を伸ばして、わたしの民イスラエルのうちから彼を根絶やしにする。
こういう者たちは、自分たちの咎を負う。この預言者の咎は、尋ね求めた者の咎と同じである。
それは、イスラエルの家が、二度とわたしから迷い出ず、重ねて自分たちのそむきの罪によって自分自身を汚さないためであり、彼らがわたしの民となり、わたしも彼らの神となるためである。――神である主の御告げ。――」」
(エゼキエル書14章6~11節)


神は慈悲深く、民に再び神に立ち返り、偶像を捨て去り、長きにわたり彼らが追い求めてきた忌まわしい行いをことごとく裁くよう呼びかけられました。
もし、民がそうする覚悟があれば、神は彼らの叫びに耳を傾けてくださいます。
実際、イスラエルの家に属する者であれ、イスラエルの民の中に住んでいた寄留者であれ、彼らが真実に立ち返るなら、神は慈悲をもって耳を傾けてくださいます。
しかし、偶像崇拝を続けるなら、神は彼らに顔を向け、怒りを注ぐことしかできません。

神は、罪を犯し続ける者たちが諸国民にとって驚きとなり、しるしとなり、戒めとなり、イスラエルの中から断ち切られると宣言されました。
このように彼らは、神の裁きによって、自分たちが関係すべきはヤハウェであることを知ることになります。

主は、人々を惑わしていた偽預言者たちに、このことを許した責任を負わせました。
聖書の原則によれば、人が真理を拒むとき、神ご自身もしばしば彼らを偽りに引き渡されます。
大患難時代の終わりの日にそうであるように、救われるために真理への愛を受け入れない人々は、強い惑わしに引き渡され、反キリストの偽りを信じるようになります。
こうして、真理に従わず不義を喜ぶすべての者は裁かれます。

ある人が主の証を受け入れ、悔い改めと信仰をもって主に立ち返り、主の真理に従おうと努める一方で、他の人々が現代において多く見られる偽りの教えに流されてしまうのであれば、単なる偶然だと思うかもしれません。
まず、最初に神の御霊ご自身が人の必要を明らかにします。
次いで御霊がどのようにその必要を満たされたかを示してくださいます。
一方、人々が神の真理を拒み、聖霊に抵抗した場合、聖霊は彼らの心を盲目にし、偽りの教えに惑わされるままにされます。
もし、その教えに最後まで従うならば、彼らは永遠の破滅に陥るのです。

主イエスは、盲人が盲人を導く者に対して警告されました。
彼らは最終的に溝に落ちてしまいます。
神はエゼキエルに、偽りの教えに従った民は罪を負わなければならない、そして偽預言者の罰は彼の教えを信じた者たちと同じ罰を受けるべきだと宣言されました。

イスラエルの家がヤハウェから離れることの愚かさを悟り、神の裁きから神の真理に歩むことの大切さを学び、これ以上道を踏み外したり、神の目に彼らを非常に汚した物事によって二度と汚されたりしないようにするために、11節には、彼らが神に立ち返ればまだ希望があるという、示唆以上のものが示されています。
ならば、神は再び彼らを神の民として認め、彼らの神として自分たちを現します。
しかし悲しいことに、何の反応もありません。
彼らは悪の道を歩み続けました。
そのため、神は彼らを裁きに引き渡さなければならないと宣言しました。

「 次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。国が、不信に不信を重ねてわたしに罪を犯し、そのためわたしがその国に手を伸ばし、そこのパンのたくわえをなくし、その国にききんを送り、人間や獣をそこから断ち滅ぼすなら、
たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。――神である主の御告げ。――
もし、その地にわたしが悪い獣を行き巡らせ、その地を不毛にし、荒れ果てさせ、獣のために通り過ぎる者もなくなるとき、
たとい、その地にこれら三人の者がいても、――わたしは生きている。神である主の御告げ。――彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。ただ彼ら自身だけが救い出され、その地は荒れ果てる。
あるいは、わたしがその地に剣を送り、『剣よ。この地を行き巡れ。』と言って、人間や獣をそこから断ち滅ぼすとき、
たとい、その地にこれら三人の者がいても、――わたしは生きている。神である主の御告げ。――彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。ただ彼ら自身だけが救い出される。
あるいは、わたしがその地に疫病を送って、人間や獣をそこから断ち滅ぼすために、血を流してわたしの憤りをその地に注ぐとき、
たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブがいても、――わたしは生きている。神である主の御告げ。――彼らは決して息子も娘も救い出すことができない。彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。」
(エゼキエル書14章12~20節)


偽善的な長老たちが、現在の悲惨な窮状から救い出されるかもしれないという答えを待ち望んでいました。
その間、神はエゼキエルに、彼らが神が彼らのために執り成しを聞くべき場所をすでに越えてしまったことを告げるように命じました。
この地の民はあまりにも徹底的に不義に陥り、神と結ばれた契約にあまりにも不忠実でした。
そのため、神は今、彼らに対して手を伸ばし、彼らに降りかかった他の苦難に加えて飢饉にも彼らを引き渡そうとしています。
洪水前の神の傑出した証人であったノア、まさにこの時バビロンにいて将来の偉大な奉仕のために神に備えられていたダニエル、あるいは非常に厳しい試練を受けながらも見事に乗り越えた族長ヨブのような、敬虔で献身的な人々が皆この地に集まり、この地のために執り成しをしたとしても、彼らは自分の義によって救われるのは自分のたましいだけなのです。
彼らの嘆願は、背教した民にとって何の役にも立ちません。

もしも、その地の状況がひどく悪化し、野獣や凶暴な獣が増えて、そこに残されたわずかな人々の命が危険にさらされ、これらの獣のせいで誰も街道に出ようとしなくなったとしましょう。
そして、たとえ、この三人が残された民の中にいて彼らのために弁護したとしても、神は彼らが息子や娘ではなく彼らだけ救い、その地は荒廃したままにしておくと宣言されました。

もしくは、間もなく敵の剣が勝利を収め、神御自身が剣をもって地を巡らせ、人と獣を絶やせと命じたとしても、この三人がそこにいてヤハウェの前に立って民のために弁護したとしても、神は答えられません。
神は彼らの義を認めるでしょうが、彼らの祈りは他の誰にも有効ではありません。
もしくは、血なまぐさい戦争の後にしばしば起こる疫病が、生き残った人々にも甚大な被害を与え、人間と動物を絶滅させたとしたら、ノア、ダニエル、ヨブは、どんなに嘆願しても、その裁きを避けることができません。

「まことに、神である主はこう仰せられる。人間や獣を断ち滅ぼすために、わたしが剣とききんと悪い獣と疫病との四つのひどい刑罰をエルサレムに送るとき、
見よ、そこに、のがれた者が残っていて、息子や娘たちを連れ出し、あなたがたのところにやって来よう。あなたがたは彼らの行ないとわざとを見るとき、わたしがエルサレムにもたらしたわざわいと、わたしがそこにもたらしたすべての事について、慰められよう。
あなたがたは、彼らの行ないとわざとを見て慰められる。このとき、あなたがたは、わたしがそこでしたすべての事はゆえもなくしたのではないことを知ろう。――神である主の御告げ。――」」
(エゼキエル書14章21~23節)

ここで述べられている脅威となる悪と、黙示録の四人の馬の騎手との間には、密接な関係があることに気づくかもしれません。
エゼキエル書には、戦争、飢饉、邪悪な獣、そして疫病について記されています。
これらはヤハウェの「四つのひどい刑罰」と呼ばれています。
黙示録には、まず平和の白い馬、次に戦争の赤い馬、そして飢饉の黒い馬、そして疫病の死体色の馬が登場します。
これらはすべて、神が諸国民が神から背を向けたときに下す摂理的な裁きです。

しかし、22節と23節に見られるように、裁きの暗雲の中にさえ希望の虹が見られます。
そこで、神は連れて行かれる残された民について語っておられます。
彼らは自分たちと残された民に降りかかった出来事から学び、その結果、主に立ち返り、主がエルサレムに下そうとしている災いから慰められるのです。
彼らは、心から神に立ち返ったすべての人々に対する神の哀れみの証人となります。
こうして、神は義によって彼らに祝福をもたらすことができます。
彼らは、自分たちが属していた国の罪深さを悟ります。
神が主観的に行動したのではなく、彼らをそのように扱われたには十分な理由があったことを認めるのです。


5章 実を結ばないぶどうの木、イスラエル

聖書を学ぶ人なら誰でも知っているように、聖書の中では神の地上の民であるイスラエルという国家の型や象徴として、様々な植物や木が用いられています。
士師記第9章8~21節に記されているヨタムのたとえ話では、そのうちの4つが取り上げられています。
オリーブ、いちじくの木、ぶどうの木、そしていばらの木です。
エレミヤ書11章16、17節とローマ人への手紙11章で学ぶように、オリーブの木は神と契約関係にあるイスラエルを表しています。
現在、その契約は中断しており、イスラエルは諸国民の間に散らされています。
現在、異邦人はイスラエルが主に忠実であったならば得られた特権を享受しています。
しかし、将来、異邦人の不忠実さゆえに、彼らは脇に追いやられ、イスラエルは再び彼ら自身のオリーブの木に接ぎ木されます。
いちじくの木はイスラエルの国家的な側面を物語っています。
おそらく、より具体的にはユダヤ人、つまり主御自身が来られた時にその地にいたユダとベニヤミンの子孫のことです。
このいちじくの木は神のために実を結ばなかったため、呪われています。
無限の恵みによってこの国が神と彼らの土地に回復されるまで、実を結ぶことはありません。

ぶどうの木は、イスラエルが神との霊的な関係にある民として見られ、神の栄光のために義という平和な実を結ぶべきことを物語っています。
イザヤ書5章にあるように、神は彼らに立派なぶどうの木を植え、あらゆる方法で彼らを世話されましたが、彼らには実りがありません。
ホセア書にはイスラエルは空しいぶどうの木、自分のために実を結ぶことが記されています。

「イスラエルは多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木であった。多く実を結ぶにしたがって、それだけ祭壇をふやし、その地が豊かになるにしたがって、それだけ多くの美しい石の柱を立てた。」
(ホセア書10章1節)

ゆえに、主イエスは十字架にかけられる直前、イスラエルの家が荒廃したと宣言し、ご自身が真実なぶどうの木であり、主への信仰を告白するすべての人が枝であることを宣言されました。

いばらの茂みは、イスラエルが世に祝福をもたらすどころか、神の裁きの下に置かれていることを鮮明に表しています。
ローマ人への手紙2章24節に記されているように、彼らを通して神の御名は異邦人の間で冒涜されています。

「 これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。」
(ローマ人への手紙2章24節)


この章では、エゼキエルは神の立場からぶどうの木について考えるように求められています。

「次のような主のことばが私にあった。
人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。
その木を使って何かを作るためにその木は切り出されるだろうか。
それとも、あらゆる器具を掛けるためにこれを使って木かぎを作るだろうか。
見よ。それは、たきぎとして火に投げ入れられ、火がその両端を焼き尽くす。
その中ほども焦げてしまえば、それは何の役に立つだろうか。
見よ。それが完全なときでも、何も作れないのに、まして、火がそれを燃やして、焦がせば、もう、それで何が作れよう。」
(エゼキエル書15章1~5節)


ぶどうの木は神によってただ一つの特別な目的のために創造されました。
それは実を結ぶことです。
他の木と比べると、ぶどうの木は曲がってねじれた見栄えの悪い木であり、その木材はほとんど役に立ちません。
建築用の板材にすることもできず、非常に柔らかいため、遊牧民の習慣のように、テントの支柱に立てて灯りを吊るすための支柱を作ることさえできません。
燃料としてもほとんど価値がありません。
あっという間に燃え尽きてしまうからです。
長時間、火を灯し続けるには、膨大な量のぶどうの木の束が必要になります。
どんな仕事にも全く役に立ちません。
しかし、もしぶどうの木が豊かで甘美な実を結ぶなら、創造の目的を果たします。
ゆえに、神がぶどうの木をイスラエルの象徴として用いたのは、彼らと神との霊的な関係を念頭に置いてのことです。
もし、この関係が清く聖なるままに保たれるなら、イスラエルは神の誉れと栄光のために貴重な実を結びます。
いつの日か、新生したイスラエルが花を咲かせ、芽を出し、全地を果実で満たす日が来ます。
しかし、その間、私たちはこの民が諸国の間に散らされ、彼らが行くところどこでも神の怒りを買っているのを目にします。

「それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはエルサレムの住民を、わたしがたきぎとして火に投げ入れた、森の木立ちの間のぶどうの木のように、火に投げ入れてしまう。
わたしは彼らから顔をそむける。彼らが火からのがれても、火は彼らを焼き尽くしてしまう。
わたしが彼らから顔をそむけるそのとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
彼らがわたしに不信に不信を重ねたので、わたしはこの地を荒れ果てさせる。――神である主の御告げ。――」
(エゼキエル書15章6~8節)


ぶどう栽培者が自分のぶどう園から価値のないぶどうの木を根こそぎ抜き取り、火で焼き尽くすように、神はエルサレムの住民をカルデア人の手に渡し、滅ぼそうとされました。
彼らの不忠実と腐敗のゆえに、神は彼らに顔を向け、裁きの火が彼らを焼き尽くすと宣言されました。
こうして彼らは、ヤハウェが彼らの罪のゆえに彼らを罰していることを知るのです。
彼らの地は、神の聖なる名に対して犯した大きな罪過のゆえに荒れ果てていました。
黙示録には、メシアの再臨の直前、イスラエルの背教した一部の者に対する神の最終的な処遇が記されています。
メシアの再臨の際、残された民は神に認められ、パレスチナの地に再び植えられ、千年王国を通して実り豊かなぶどうの木となります。
ヨハネは幻の中で、力強い御使いが天の神殿から出て来て、鋭い鎌を手にしているのを見ました。
そして、別の御使いが最初の御使いにこのように命じるのを聞きました。

「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」
(ヨハネの黙示録14章18節)


神はイザヤを通して「甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。」(イザヤ書5章2節)と言われました。
これは、民が神の言葉と、彼ら自身のメシアである神の御子を完全に拒み、なおもその御子を認めることができなかった状況を物語っています。

御使いは地に鎌を投げ入れ、地のぶどうの実を集めて酒ぶね、神の怒りの大きな酒ぶねに投げ入れたと伝えられています。
酒ぶねは町の外まで踏みつけられ、酒ぶねから血が流れ出て馬のくつわにまで達し、六百スタディオンにも達しました。
これはパレスチナの地の実際の長さであり、この幻は、その地全体が血、つまり恐ろしい大患難時代にヤハウェから背教した者たちの血でびしょ濡れになることをはっきりと暗示しています。
その時、神の裁きが地のぶどうの木に注がれます。
その後、人の子が王国を得るために降臨するとき、生き残った者たちを自分のぶどうの木と認め、悪人たちに裁きが執行され、その地に彼らを再び置きます。

イスラエルが拒絶されたとき――主は「見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される」(マタイの福音書23章38節)と言われました。

――からヤコブが苦難に遭うときまでの間、真実なぶどうの木である主イエスご自身が、無限の恵みによって、信仰告白ではなく、実際に主と結ばれた人々を通して、父に実を結ばれました。
生けるぶどうの木には自然の枝はなく、すべては接ぎ木されなければならないことを覚えておくのは良いことです。
接ぎ木がうまくいかないところ、つまり信仰告白だけで生活がないところには実はありません。
しかし、生活において実際に結びついているところには、神に結ばれる実、つまり神の目に尊い実が結ばれます。
より多くの実が結ばれるように、主は枝を清め、適切と思われるように刈り込み、枝が多くの実を結ぶのを喜ばれます。


16章 イスラエルは神に愛されていた、しかし、信仰がありません。

この長い章は、神がイスラエルに対して最初からどのように歩んでこられたのか、そして、彼らが神の慈愛に対していかに恩知らずな反応を示したかを余すところなく概説しています。
そのため、本来であれば分割するところですが、不可能だったのです。
ここには、私たちの言葉で言えばあまりにも無作法で、忌まわしく、ひどく卑劣な、心が反感を抱くようなことが数多くあります。
しかし、罪は全宇宙で最も卑劣なものであることを私たちは忘れてはなりません。
そして、イスラエルが真実な生ける神から背を向け、周囲の諸国民の偶像を崇拝するという罪は、極めて忌まわしいものでした。
なぜなら、その偶像崇拝は、非常に堕落した不道徳な慣習と結びついていたからです。
ですから、洗練された趣味と清廉な精神を持つ人々にとっては無作法に思えるかもしれませんが、神はここで用いられた方法を用いて、この国が犯してきた罪と不義の汚れを描写しています。
注意深く言葉を選び、どんなに慎重な表現をしても、聖なる神の目に映る悪の忌まわしさを軽減することはできません。

「ついで、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。エルサレムにその忌みきらうべきわざをよく知らせて、
言え。神である主はエルサレムについてこう仰せられる。あなたの起こりと、あなたの生まれはカナン人の地である。
あなたの父はエモリ人、あなたの母はヘテ人であった。
あなたの生まれは、あなたが生まれた日に、へその緒を切る者もなく、水で洗ってきよめる者もなく、塩でこする者もなく、布で包んでくれる者もいなかった。
だれもあなたを惜しまず、これらの事の一つでもあなたにしてやって、あなたにあわれみをかけようともしなかった。
あなたの生まれた日に、あなたはきらわれて、野原に捨てられた。」
(エゼキエル書16章1~5節)

ここでイスラエルは、生まれるとすぐに両親に捨てられ、汚れの中で滅びるに任せられた、死を免れない望まれざる女児に例えられています。

カナンはアモリ人とヒッタイト人の故郷でした。
イスラエルという国家の起源は、これらの偶像崇拝的な部族にさかのぼります。
新生児に与えられる通常の世話は、彼女にとって不適切です。
その地の住民は最初から彼女を拒み、彼女を排除しようと努めています。

それにもかかわらず、次の聖句が私たちに思い出させるように、神は哀れみと愛情をもってイスラエルに目を留め、彼女のために介入しました。

「わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、『生きよ。』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、『生きよ。』と言った。
わたしはあなたを野原の新芽のように育て上げた。
あなたは成長して、大きくなり、十分に円熟して、乳房はふくらみ、髪も伸びた。しかし、あなたはまる裸であった。
わたしがあなたのそばを通りかかってあなたを見ると、ちょうど、あなたの年ごろは恋をする時期になっていた。
わたしは衣のすそをあなたの上に広げ、あなたの裸をおおい、わたしはあなたに誓って、あなたと契りを結んだ。
――神である主の御告げ。――そして、あなたはわたしのものとなった。
それでわたしはあなたを水で洗い、あなたの血を洗い落とし、あなたに油を塗った。
わたしはまた、あや織りの着物をあなたに着せ、じゅごんの皮のはきものをはかせ、亜麻布をかぶらせ、絹の着物を着せた。
それから、わたしは飾り物であなたを飾り、腕には腕輪をはめ、首には首飾りをかけ、
鼻には鼻輪、両耳には耳輪をつけ、頭には輝かしい冠をかぶせた。
こうして、あなたは金や銀で飾られ、あなたは亜麻布や絹やあや織り物を着て、上等の小麦粉や蜜や油を食べた。
こうして、あなたは非常に美しくなり、栄えて、女王の位についた。
その美しさのために、あなたの名は諸国の民の間に広まった。
それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。
――神である主の御告げ。――」
(エゼキエル書16章6~14節)


ヤハウェは幼子の国民を憐れみと優しい配慮をもって見つめられました。
敵に滅ぼされるままにせず、保護の外套をその国民に投げかけ、恵みによって引き上げ、養い、哀れみ、見捨てられた幼児が美しく美しい乙女へと成長するのを見届けられました。

主は優しい愛をもって彼女を清め、着せ、飾り立て、諸国民の中で最も恵みを受ける者、すなわち主の偉大な慈悲と全能の力の証人となされました。
こうして彼女は世界中に名を馳せ、彼女の神を知らなかった諸国民でさえ、彼女を救い主、守護者となられた主によって彼女が特別に恵みを受けていることを悟りました。
すべては主から出たものでした。
主は彼女の功績ではなく、御心の愛に従って行動されました。

次のセクションで明らかにされているように、彼女はそのような善良さに対して救い主である神への忠誠心で応じる代わりに、完全に不信心であることが証明されました。

「ところが、あなたは、自分の美しさに拠り頼み、自分の名声を利用して姦淫を行ない、通りかかる人があれば、だれにでも身を任せて姦淫をした。
あなたはまた、自分の衣服のいくらかを取り出して、自分のために、まだらに色どった高き所を造り、その上で姦淫を行なった。
こんな事はあったことがなく、あってはならないことだ。
あなたは、わたしが与えた金や銀の美しい品々を取って、自分のために男の像を造り、それと姦淫を行なった。
あなたはまた、あや織りの着物を取って、それをおおい、わたしの油と、わたしの香とをその前にささげた。
あなたは、わたしが与えたわたしのパンや、あなたに食べさせた上等の小麦粉や、油や、蜜までも、その前にささげてなだめのかおりとした。
そうしたのだ。――神である主の御告げ。――
あなたはまた、わたしのために産んだ自分の息子や娘たちを取り、その像にいけにえとしてささげて食べさせた。
あなたの姦淫はささいなことだろうか。
あなたは、わたしの子どもたちを殺し、これを焼いて、ささげ物とした。
あなたは、あらゆる忌みきらうべきことや姦淫をしているとき、かつて自分がまる裸のまま、血の中でもがいていた若かった時のことを思い出さなかった。」
(エゼキエル書16章15~22節)


高慢は人間の心に潜んでいます。
誇るべきものを何も持たない私たちは、神から与えられた成功や特別な恩恵を自分の功績だと思い込みがちです。
しかし、自分が受けていないものは何もないことを忘れてしまいます。

こうしてイスラエルは虚栄心を抱き、自分たちの美に頼るようになりました。
それは、本来であれば主なる神がイスラエルに授けた美であり、イスラエルが神だけに身を捧げるはずの美でした。
しかし、イスラエルは、その美を利用して、分離を命じられた偶像崇拝の諸国民の称賛と好色な愛情を引き寄せました。
まるで夫よりも他人を優先する不貞の妻のように、イスラエルは汚れ、穢れを帯びるようになったのです。
霊的な淫行と姦淫は、神の民とこの世との不道徳な結合です。
ヤコブがこのように言っています。

「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。
世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」
(ヤコブの手紙4章4節)


この不道徳な関係は、唯一真の神から離れて偶像崇拝へと向かうことの象徴として用いられています。
イスラエルはこれらすべてにおいて罪を犯しました。
神は預言者たちを遣わして、悪の道を捨てるよう嘆願しましたが、彼女は耳を傾けず、邪悪な淫行に固執しました。
そのため、神はもはや嘆願しても無駄な者として、イスラエルを捨て去ろうとしました。
しかし、このことを宣言する前に、神は彼女の不誠実さのさらなる証拠を示しました。

「あなたはこのすべての悪行の後――ああ。わざわいがあなたに来る。神である主の御告げ。――
あなたは自分のために小高い家を建て、どこの広場にも高台を造り、
どこの辻にも高台を築き、通りかかるすべての人に身を任せ、姦淫を重ねて自分の美しさを忌みきらうべきものとした。
あなたは、良いからだをした隣のエジプト人と姦通し、ますます姦淫を重ねてわたしの怒りを引き起こした。
見よ。わたしは、あなたに手を伸ばして、あなたの食糧を減らした。そして、あなたを憎む者、あなたのみだらな行ないによってはずかしめを受けたペリシテ人の娘たちの思いのままに、あなたを任せた。
あなたはそれでもまだ飽き足らず、アッシリヤ人と姦通した。彼らと姦通しても、まだあなたは飽き足らず、
商業の地カルデヤとますます姦淫を重ねたが、それでも、あなたは飽き足らなかった。」
(エゼキエル書16章23~29節)


主が預言者を通して嘆願したにもかかわらず、イスラエルは堕落した行いを改めるどころか、少しでも自制を示すどころか、むしろ逆の効果をもたらしました。
イスラエルは邪悪さが増し、年月を経るごとにますます忌まわしい行いを犯すようになりました。
それは、「ペリシテ人の娘たち」でさえその淫らな行いに驚き、恥じ入るほどです。
新たな偶像崇拝への情熱は飽くことを知らないようでした。
彼女はアッシリア人の下劣な自然崇拝にならい、最も忌まわしい性的不純さを伴っていました。
しかし、それでも満足しません。
なぜなら、神の御心に従い、神の御心を喜ぶこと以外に、満足は決して得られないからです。
イスラエルに対する告発は30節から34節まで続きます。

「なんとあなたの心は、あえいでいることよ。――神である主の御告げ。――あつかましい遊女のするようなこれらのことをことごとく行なって。
あなたは、どこの辻にも自分の小高い家を建て、どこの広場にも高台を造った。しかし、あなたは報酬をあざけったので、遊女のようではなかった。
姦婦は、自分の夫の代わりに、ほかの男と通じるものだ。
遊女には、すべて代価が支払われるのに、あなたは、自分のほうから持参金をすべての愛人たちに与え、彼らに贈り物をして、四方からあなたのところに来させて姦淫をした。
だから、あなたの姦淫は、ほかの女の場合と反対だ。だれもあなたを求めて姦淫をする者はいなかった。
あなたが報酬を支払い、だれもあなたに報酬を支払わなかった。だからあなたは反対のことをしたのだ。」
(エゼキエル書16章30~34節)


イスラエルは自分たちの欲望の奴隷となり、自分たちが陥った放縦な境遇を楽しもうとしながら、自由だと思い込んでいました。
彼女はそれをあらゆる束縛からの自由だと思い込んでいましたが、実際には最悪の束縛でした。
罪への誘惑に抗うにはあまりにも弱く、彼女は「姦婦は、自分の夫の代わりに、ほかの男と通じるもの」のように、狂ったように堕落の道を突き進んでいきました。

通常、娼婦と交わる者は、自分たちの官能的な欲望を満たすために代償を払うことを覚悟しています。
しかし、イスラエルはあまりにも堕落し、不道徳な欲望に飽くことを知らない者のように、そのような満足のために恐ろしい代償を払っていました。
これは確かに卑劣な光景だが、自分たちの行いが悪であるがゆえに、啓示された真理に背を向け、光よりも闇を愛することを学んだ民がどれほど堕落するかを示しています。

それゆえ、もはや裁きを延期されることは不可能でした。
神の聖さが、このような言葉では言い表せないほどの腐敗を裁くことを要求したのです。

「それゆえ、遊女よ、主のことばを聞け。
神である主はこう仰せられる。あなたは、愛人たちや、忌みきらうべき偶像と姦淫をして、自分の恥ずかしい所を見せ、自分の裸をあらわにし、それらに自分の子をささげて血を流したため、
それゆえ、見よ、わたしは今、あなたが戯れたすべての愛人たちや、あなたが恋した者や、憎んだ者をすべて寄せ集め、彼らを四方から集めて、あなたの裸を彼らにさらけ出し、彼らにあなたの裸をすっかり見せよう。
わたしは、姦通した女と殺人をした女に下す罰であなたをさばき、ねたみと憤りの血をあなたに注ぐ。
わたしは、あなたを彼らの手にゆだねる。彼らはあなたの小高い家をくつがえし、高台をこわし、あなたの着物をはぎ取り、あなたの美しい品々を奪い取り、あなたをまる裸にしておこう。
彼らは、集団をあおってあなたを襲わせ、石であなたを打ち殺し、剣であなたを切り倒そう。
そのうえ、あなたの家々を火で焼き、多くの女たちの見ている前であなたにさばきを下そう。わたしはあなたの淫行をやめさせる。あなたはもう、報酬を支払わなくなろう。
わたしは、あなたに対するわたしの憤りを静め、わたしのねたみをあなたから遠のける。わたしは心を休め、二度と怒るまい。
あなたが、自分の若かった時のことを思い出さず、かえって、これらすべてのことでわたしを怒らせたので、見よ、わたしもまた、あなたの頭上にあなたの行ないを返す。――神である主の御告げ。――あなたはすべての忌みきらうべきわざに、みだらな行ないを加えることは、もうすまい。」
(エゼキエル書16章35~43節)


裁きは神の不思議な働きです。
神は哀れみを喜びとしています。

「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」
(哀歌3章33節)


しかし、人々をその意地悪と邪悪から救い出そうとするあらゆる努力が実を結ばない時、神の怒りは必ずやその道を行くのです。

この部分で主は、もはや契約の民の行いを容認できない理由を明確に示しています。
彼らは、非難されるあらゆる卑劣な行いを犯しただけでなく、その邪悪な行いによって自分たちの子供たちをも滅ぼしていたのです。
彼らがあまりにも恥知らずな行いをしたため、神は彼らが溺愛していた「愛人」たちの前で彼らを恥じ入らせます。
神は彼らを、結婚を破った女性と同じように扱い、彼らの罪深い頭上に当然の罰を下します。
彼らは神から与えられたすべてのものを剥奪され、彼らの土地は彼らが霊的な淫行を犯した者たちによって侵略されます。
彼らが主との約束を完全に破ったため、主はもはや彼らとの約束に縛られなくなります。
神は彼らの悪行の実を彼らに報い、彼らの心の背信に応じて報いを与えようとしています。

彼らは神の言葉に従わなかったため、不自然な悪徳のせいで神が天からの火で滅ぼした平原の街と同じレベルにまで堕落していました。

「見よ。ことわざを用いる者は、あなたについてこういうことわざを用いよう。『あの母だから、この娘。』と。
あなたは、自分の夫と子どもをきらった母の娘。自分たちの夫や子どもをきらった姉妹があなたの姉妹。あなたがたの母はヘテ人、あなたがたの父はエモリ人であった。
あなたの姉は、その娘たちといっしょに、あなたの左に住んでいるサマリヤであり、あなたの妹は、その娘たちといっしょにあなたの右に住んでいるソドムである。
あなたは、ほんのしばらくの間だけ、彼らの道に歩まず、彼らの、忌みきらうべきわざをまねなかったが、ついにあなたのすべての道において、彼らよりも堕落してしまった。
わたしは誓って言うが、――神である主の御告げ。――あなたの妹ソドムとその娘たちは決して、あなたと、あなたの娘たちがしたほどのことはしなかった。
だが、あなたの妹ソドムの不義はこうだった。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き、安逸をむさぼり、乏しい者や、貧しい者の世話をしなかった。
彼女たちは高ぶって、わたしの前で忌みきらうべきことをしたので、わたしはこれを見たとき、彼らを取り除いた。
サマリヤもまた、あなたの罪の半分ほども罪を犯さなかった。あなたが彼女たち以上に多くの忌みきらうべきことをしたので、あなたのしたすべての忌みきらうべきことが、あなたの姉妹たちを正しいとした。
あなたも、あなたの姉妹たちをかばった恥を負え。あなたが彼女たちよりももっと忌みきらうべきことをして罪を犯したため、彼女たちがあなたよりも正しいとされたからだ。あなたもはずかしめを受けよ。あなたの姉妹たちを正しいとしたあなたの恥を負え。」
(エゼキエル書16章44~52節)


アブラハムが初めてソドムとゴモラの地に入った時、両方の街は繁栄していました。
しかし、彼らの罪の杯が満たされると、裁きによって滅ぼされました。
ユダは彼らと同じ性質であることを示しました。
彼女は道徳的に彼らの娘であり「あの母だから、この娘」とありました。
彼女の姉、サマリアはすでに裁かれていました。
アッシリア人は十部族を彼らの罪のゆえに捕囚しました。
しかし、ユダはこのことから学び、神の前に謙遜になり、汚れから離れるどころか、さらに大きな悪事を犯し続け、「もはや救いようがない」状態になりました。

「わたしは彼女たちの捕われ人を帰らせる。ソドムとその娘たちの捕われ人、サマリヤとその娘たちの捕われ人、また彼女たちの中にいるあなたの捕われ人を帰らせる。
それは、あなたが、あなた自身の恥を負い、あなたが彼女たちを慰めたときにしたすべての事によって、あなたが恥じるためである。
あなたの姉妹たち、ソドムとその娘たちは、もとの所に帰り、サマリヤとその娘たちも、もとの所に帰り、あなたとあなたの娘たちも、もとの所に帰って来る。
あなたは、高ぶっていたときには、あなたの妹ソドムを悪いうわさの種にしていたではないか。
しかしそれは、あなたの悪があばかれる前のことであって、今はアラムの娘たちや、その回りのすべての者、およびあなたを回りから侮るペリシテ人の娘たちのそしりとなっている。
あなたは、自分のみだらな行ないと忌みきらうべきわざの報いを受けている。――主の御告げ。――
まことに、神である主はこう仰せられる。わたしはあなたがしたとおりの事をあなたに返す。あなたは誓いをさげすんで、契約を破った。」
(エゼキエル書16章53~59節)


神の聖なる預言者たちが語った万物の回復の時(使徒の働き3章21節)には、平原の姉妹街であるソドムとその娘たちさえも復興し、砂漠はバラの花のように咲き誇ります。
これは、ユダが語るように永遠の火の報復を受けているこれらの街の罪人たちの最終的な救いを意味するのではありません。

「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。」
(ユダの手紙1章7節)


千年王国におけるこれらの街自体の再建を意味します。
その時、メシアの哀れみ深く、義なる支配のもと、新生した民が平和に暮らすようになります。
その日、イスラエルとユダは、かつて彼らがひどく軽んじた神の養いを受け「かつての祝福の状態に戻る」のです。

ユダはソドムの人々を他の誰よりも罪深い者として軽んじていましたが、彼女自身の行いは彼らよりもさらに恥ずべきものでした。
そこで主は、彼らを「誓いをさげすんで、契約を破った」として、その行いに応じて罰すると宣言されています。

しかし、これは永遠に続くものではありません。
彼らが主の前で謙遜になり、主の怒りを招いた罪を捨て去った後、いつか主は彼らを再び引き上げてくださります。

「だが、わたしは、あなたの若かった時にあなたと結んだわたしの契約を覚え、あなたととこしえの契約を立てる。
わたしが、あなたの姉と妹とを選び取り、あなたとの契約には含まれていないが、わたしが彼女たちをあなたの娘としてあなたに与えるとき、あなたは自分の行ないを思い出し、恥じることになろう。
わたしがあなたとの契約を新たにするとき、あなたは、わたしが主であることを知ろう。
それは、わたしが、あなたの行なったすべての事について、あなたを赦すとき、あなたがこれを思い出して、恥を見、自分の恥のためにもう口出ししないためである。――神である主の御告げ。――」」
(エゼキエル書16章60~63節)


イスラエルの淫らさと不誠実さを悲しく陰惨に語ったこの長い章の最後の節は貴重です。

彼らは神を忘れ、契約を破りましたが、彼らの責任に関する限り、つまりシナイで交わした法的な契約に関しては、神はアブラハム、イサク、ヤコブと交わした無条件の契約を依然として覚えています。
つまり、国家自体の失敗にもかかわらず、神はそれらの約束を果たします。
神の契約は永遠の契約であり、ダビデが言ったように「このすべては備えられ、また守られる」のです。(サムエル記第二23章5節)

神が彼らの心を御自身に立ち返らせる日には、イスラエルとユダは共に、これまで犯してきたすべての悪を恥じるのです。
そして、神が再び彼らを恵みのうちに迎え入れられる時、彼らは他の人々にとって祝福の源となります。
神の契約は成立し、かつて悪行を働いた彼らは、自分たちの罪悪のゆえに自分たちを忌みきらい、神が彼らのすべての罪悪を赦されます。
その時、「あなたの行なったすべての事について、あなたを赦すとき、あなたがこれを思い出して、恥を見、自分の恥のためにもう口出ししないためである」と表現されているように、神の恵みを喜ぶのです。

この祝福は、十字架上のキリストの御業を通してのみ、彼らに与えられるのです。
この御業についてはここでは触れられていませんが、預言書の他の箇所では、神が罪によって汚れた者たちと出会い、祝福することができる唯一の基盤として、その御業が明らかにされています。


17章 大鷲、杉、そしてぶどうの木

ここでも神は、そのしもべを通してたとえ話の形で民に語りかけます。
たとえ話の最初の部分は、ネブカデレザルによるパレスチナへのかつての猛攻とユダ王の捕囚について述べています。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。イスラエルの家になぞをかけ、たとえを語り、
神である主はこう仰せられると言え。大きな翼、長い羽、色とりどりの豊かな羽毛の大鷲が、レバノンに飛んで来て、杉のこずえを取り、
その若枝の先を摘み取り、それを商業の地へ運び、商人の町に置いた。
ついで、その地の種も取って来て、肥えた土地に植え、豊かな水のそばに、柳のように植えた。
それは生長し、たけは低いが、よくはびこるぶどうの木となった。その枝は鷲のほうに向き、その根は鷲の下に張り、こうして、ぶどうの木となって、枝を伸ばし、若枝を出した。」
(エゼキエル書17章1~6節)

大鷲には、カルデアの王が描かれています。
彼はいわば力強い翼でバビロンからイスラエルの地へと飛び立ち、「杉のこずえを」取ったのです。
つまり、ユダの王を捕虜として連れ去ったのです。
ここで述べられている商人の街とはバビロンのことです。
当時、バビロンはアジア全体の商業の中心地でした。

ネブカデレザルはエホヤキムを退位させ、少し後にその息子エホヤキンも退位させた後、エホヤキムの兄弟マタニヤを召し入れ、名をゼデキヤと改め、ユダ王国の支配者に据えました。
ゼデキヤがネブカデレザルに従属して支配することを期待していたはずです。
エホヤキンの短い治世は、ここではほとんど触れられていません。
ゼデキヤは背が低く、蔓延するぶどうの木として描かれています。
彼は、有能な支配者となるための資質を何一つ持ち合わせていません。
ゼデキヤはイスラエルの神にも異教徒の君主にも忠実ではありません。
しかし、バビロンの束縛から逃れるため、エジプトの支配者とほぼ同時に陰謀を企て始めました。
彼を柳、蔓延するぶどうの木に例えることに矛盾はありません。
この比喩は、もちろん現在ではぶどうの木に似た外観を持つ、しだれ柳と呼ばれているものを指しています。

「さて、もう一羽の大きな翼と豊かな羽毛を持つ大鷲がいた。
見よ。このぶどうの木は、潤いを得るために、根を、その鷲のほうに向けて伸ばし、その枝を、自分が植わっている所から、その鷲のほうに伸ばした。
このぶどうの木は、枝を伸ばし、実を結び、みごとなぶどうの木となるために、水の豊かな良い地に植えつけられていた。
神である主はこう仰せられると言え。それは栄えている。しかし、主はその根を抜き取り、その実を摘み取り、芽のついた若枝をことごとく枯らしてしまわないだろうか。それは枯れる。それを根こそぎ引き抜くのに、大きな力や多くの軍勢を必要としない。
見よ。それが移し植えられたら、栄えるだろうか。東風がそれに吹きつけると、それはすっかり枯れてしまわないだろうか。その芽を出した苗床で、それは枯れてしまう。」」
(エゼキエル書17章7~10節)


この二羽目の大鷲はエジプトの王パロ・ホフラであり、ゼデキヤはカルデア人の軛を振り払うために彼の協力を得るため、彼と同盟を結ぼうとしました。
しかし、神はそのような陰謀が栄えることを禁じていました。
エジプトは折れた葦のようであり、エジプトに頼ることは無駄であり、ゼデキヤがネブカデレザルへの忠誠の誓いを守っていた場合よりも、ユダにとってより悪い状況に終わる運命となりました。
ゼデキヤが見落としていたのは、神がユダをカルデア人の手に渡したのは、彼らの多くの罪と忌まわしい偶像崇拝への裁きであるということです。
彼らはくびきに屈服して頭を垂れ、反乱を企てるべきではありません。

このたとえ話の神の解釈は、次の聖句に示されています。

「次のような主のことばが私にあった。
「さあ、反逆の家に言え。これらがどういうことなのか、あなたがたは知らないのか。言え。見よ。バビロンの王がエルサレムに来て、その王とその首長たちを捕え、バビロンの自分のところへ彼らを連れて行った。
そして彼は王族のひとりを選んで、その者と契約を結び、忠誠を誓わせた。バビロンの王はこの国のおもだった者たちも連れ去っていた。
それは、この王国を低くして、立ち上がれないようにし、その契約を守らせて、仕えさせるためであった。
ところが、彼はバビロンの王に反逆し、使者をエジプトに送り、馬と多くの軍勢を得ようとした。
そんなことをして彼は成功するだろうか。助かるだろうか。契約を破って罰を免れるだろうか。
わたしは生きている、――神である主の御告げ。――彼は、自分を王位につけた王の住む所、彼が誓いをさげすみ、契約を破ったその相手の王の住む所、バビロンで必ず死ぬ。
戦争になって、多くの者を断ち滅ぼそうと、彼が塁を築き塹壕を掘っても、パロは決して大軍勢と大集団で彼をかばわない。
彼は誓いをさげすみ、契約を破った。彼は、誓っていながら、しかも、これらすべての事をしたから、決して罰を免れない。
それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは生きている。彼がさげすんだわたしの誓い、彼が破ったわたしの契約、これを必ず彼の頭上に果たそう。
わたしは彼の上にわたしの網をかけ、彼はわたしのわなにかかる。わたしは彼をバビロンに連れて行き、わたしに逆らった不信の罪についてそこで彼をさばく。
彼の軍隊にのがれた者もみな剣に倒れ、残された者も四方に散らされる。このとき、あなたがたは、主であるわたしが語ったことを知ろう。」」
(エゼキエル書17章11~21節)


イスラエルにとって理解しがたいのは、今や彼ら自身の神が彼らに敵対しているということです。
ネブカデレザルを高めて諸国に対する権威を与えたのは神であり、そのため、神は自分の意志で王を排除したり立てたりすることができるのです。

ネブカデレザル自身は、疑いなく、神の助言に気づいていません。
しかし、それでも、エホヤキンを捕虜にし、契約を交わし、エルサレムで自分の代表として支配することを厳粛に誓った操り人形の王ゼデキヤを立てたとき、彼は自分が知らなかったヤハウェの指導の下で行動していたのです。
ゼデキヤは優柔不断で狡猾な陰謀を巡らしたため、主君の怒りを買い、真実を愛し偽りと虚偽を憎む全地の裁き主である神の憤りにさらされました。
そのため、エゼキエルは、自分たちが交わした誓いを軽視しました。
この哀れなユダの王は同意した契約を破り、ネブカデレザルに捕らえられてバビロンへ連行され、そこで神を軽んじ、神の計画を妨害しようと企てる愚かさを、苦々しく悲しむことになるだろうと預言されました。
しかし、当時ユダにとってすべてが暗黒だったにもかかわらず、神はダビデに、王座に座る者を決して欲しがらないという約束を忘れていません。
それでも、やがてイスラエルの復興が起こり、ダビデの子がエルサレムとシオンの山、全地を支配することになります。

「神である主はこう仰せられる。「わたしは、高い杉のこずえを取り、そのうちから、柔らかい若枝の先を摘み取り、わたしはみずからそれを、高くてりっぱな山に植える。
わたしがそれをイスラエルの高い山に植えると、それは枝を伸ばし、実を結び、みごとな杉の木となり、その下にはあらゆる種類の鳥が住みつき、その枝の陰に宿る。
このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。主であるわたしが語り、わたしが行なう。」」
(エゼキエル書17章22~24節)


この「若枝」とは、ゼカリヤ書6章12節で「枝」と名付けられている人であり、主に代わって成長し、主の神殿を建てる人です。
彼は「偉大なダビデの偉大な子」、「ダビデの根、また子孫」(ヨハネの黙示録22章16節)であり、ゼカリヤ書3章8節で神は彼を「わたしのしもべ、一つの若枝」と呼んでいます。
イザヤは彼について「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」(イザヤ書11章1節)と預言しています。

神の定められた時に来られたイエスは、ご自分の民に拒絶されました。
しかし、力と権威をもって再臨されるとき、神の栄光と全人類の祝福のために、王国を支配し、この宇宙の諸事を管理するのです。
そして、異邦人の覇権を象徴する高い木は切り倒され、ユダの低い木は栄えるのです。
この世の王国が私たちの神とそのキリストの王国となる時です。
これは偽りのない方によって定められたことであり、ヤハウェの力の日に実現されます。


18章 神の支配の原則

聖書全体を通して貫かれている偉大な原則がいくつかあります。
その中でも特に際立っているのは、恵みと支配です。
どの時代においても、救われた人々は皆、神の無償の恵みによって救われました。
恵みとは、値しない恩恵だけでなく、正反対の恩恵に値する人々への恩恵でもあります。
神は、主イエス・キリストの贖いの御業によって、悔い改めた罪人を恵みのうちに扱われました。
その御業には、ローマ人への手紙3章24~26節に記されているように、過去と未来の側面がありました。

「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。
それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」
(ローマ人への手紙3章24~26節)


 「今までに犯されて来た罪」という表現は、「罪の赦しのため」と訳した方が適切かもしれません。
つまり、私たちが主イエスを信じる時に神が今私たちの過去の罪を赦してくださるという意味だけではなく、キリストが成し遂げると約束された御業を鑑みて、キリストが死なれる前の過去の時代に生きていた人々の罪も赦してくださったということです。
そして今、その御業が成し遂げられたことにより、神は義なる方となり、私たちの罪のために引き渡され、私たちを義とするためによみがえられた方を信じるすべての人々を義と認める方となるのです。

しかし、恵みは支配を廃止するものではありません。
今日、すべての信者は父なる神の支配の下にあります。
神は人を差別することなく、各人の行いに応じて裁かれます。

「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」
(ペテロの手紙第一1章17節)


人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるというのは、昔も今も真実です。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」
(ガラテヤ人への手紙6章7節)


これは聖徒であろうと罪人であろうと、すべての人に適応されます。
罪には現世的な結果が伴い、たとえ神が罪そのものを赦してくださっても、ダビデの場合のように、それは生涯続くことがあります。
ナタンは神の権威によってこのように言いました。

「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。」
しかし、主はこのように付け加えました。
「今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。」
(サムエル記第二12章7~15節)


この章の教え、そして同じ書の33章の教えを誤解しないために、この点を理解することが重要です。
どちらもこの世における神の支配に関するものであり、罪深い罪人がどのようにして罪から清められ、永遠に救われるかという問題とは関係がありません。

それでは冒頭部分を見てみましょう。

「次のような主のことばが私にあった。
「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。
わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。
見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。」
(エゼキエル書18章1~4節)


イスラエルの人々、特にユダは、このとき、神が先祖の罪のために彼らを裁かれているとして、自分たちに現世の裁きを下す神の正当性を疑おうとしました。
彼ら自身には、神が彼らに対して行ったような厳しい措置に値するような罪はなかったのに、「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く」と彼らは言いました。

しかし、神は、全く逆の立場から彼らに対する支配を正当化されました。
神は世界の道徳的支配者でした。
すべての人(たましい)は、神が創造されたゆえに神に従うべきです。
神は一人ひとりを、その記録や行いに応じて個別に処遇されます。
ですから「罪を犯した者は、その者が死ぬ」のです。
これは律法が宣言したことです。
神は「それを行なう人は、それによって生きる」(レビ記18章5節)と言われました。
これは天での永遠の命の約束ではなく、神の律法に従う者への地上での長寿の約束です。
律法に違反した者は死刑に処せられました。

しかし、忍耐強く慈悲深い神は、罪を犯した者にすぐに罰を下されたわけではありません。
人々との交わりにおいてくりかえし示されているように、神は悔い改めと生活の改心の余地を残しておられます。
ですから、罪を犯した者の態度が変わったという証拠があれば、神は喜んで赦しを与え、肉体の死という即時の裁きを取り消すことを示しておられます。
神と隣人に対して正義と義を行おうと努める人々がいるところにはどこでも、たとえすべての点で律法を守ったと主張できる人がいなくても、命が約束されています。

「もし、正しい者なら、その人は公義と正義とを行ない、
丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、さわりのある女に近寄らず、
だれをもしいたげず、質物を返し、物をかすめず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に着物を着せ、
利息をつけて貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を正しくさばき、
わたしのおきてに従って歩み、まことをもってわたしの定めを守り行なおう。こういう人が正しい人で、必ず生きる。――神である主の御告げ。――」
(エゼキエル書18章5~9節)


「もし、正しい者なら」、つまり、正しく行動し、正しく歩み、誠実で道徳的な生活を送っているなら、神はこれに気付き、それに応じて人を扱います。

偶像礼拝を避け、あらゆる不道徳から身を守り、すべての人と誠実に接して商売が非難されることなく、貧しい人や困っている人に慈善と思いやりを示し、すべての人と誠実に接するよう努め、神の律法の戒めを守ることによって神の律法を尊ぶなら、その人は「こういう人が正しい人で、必ず生きる」と主なるヤハウェは言われることを知るのです。
これを福音と混同してはなりません。
これは地上の祝福に関することであり、永遠の事柄に関することではありません。

しかし、5節から9節に記されているような美徳を備えた者に、神が父親に与えた恵みを当てにして、道徳に怠惰になり、生活態度にも無頓着になった息子がいたらどうなるでしょうか。
父親の正義は、神の裁きから息子を守るのに役立つでしょうか。
答えは次の段落にあります。

「しかし、彼が子を生み、その子が無法の者で、人の血を流し、先に述べたことの一つさえ行なわず、
これらのことをしようともせず、かえって丘の上で食事をし、隣人の妻を汚し、
乏しい者や貧しい者をしいたげ、物をかすめ、質物を返さず、偶像を仰ぎ見て、忌みきらうべきことをし、
利息をつけて貸し、高利を取るなら、こういう者ははたして生きるだろうか。彼は生きられない。
自分がこれらすべての忌みきらうべきことをしたのだから、彼は必ず死に、その血の責任は彼自身に帰する。」
(エゼキエル書18章10~13節)


ヒゼキヤは、前述の父親のような人物でした。
彼の不敬虔な息子マナセは、ここでの描写によく表れています。
正直な両親の子供が必ずしも父親の道を歩むわけではありません!
そうでない場合、息子は自分たちの邪悪さについて神に個人的に責任を負わなければなりません。
ですから、父親がどれほど善良であったとしても、息子が父の教えと模範から離れ、放縦、偶像礼拝、ゆすり、その他の悪徳に陥るなら、それに応じた罰を受けます。
「彼は必ず死に、その血の責任は彼自身に帰する。」
彼は自分の苦しみを他人のせいにすることはできません。
彼は自分たちの頭にそれを負わせるのです。

義なる父親の善行が、かたくなで反抗的な息子を神の支配から守ることができません。
それと同様、邪悪な父親の罪が、悔い改めて神に立ち返る息子を神が優しく扱うことを妨げることはありません。

「しかし、彼が子を生み、その子が父の行なったすべての罪を見て反省し、そのようなことを行なわず、
丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、
だれをもしいたげず、質物をとどめておかず、物をかすめず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に着物を着せ、
卑しいことから手を引き、利息や高利を取らず、わたしの定めを行ない、わたしのおきてに従って歩むなら、こういう者は自分の父の咎のために死ぬことはなく、必ず生きる。
彼の父は、しいたげを行ない、兄弟の物をかすめ、良くないことを自分の民の中で行なったので、彼は確かに自分の咎のために死ぬ。」
(エゼキエル書18章14~18節)


人々を治める義なる神は、たとえ父親がいかに邪悪で不信心であったとしても、息子の敬虔さと従順さを心に留められます。
息子が神の戒めに従い、不義な行いを避けようと努めるなら、神はそれに応じた報いを与えてくださいます。
もし、息子が父親の愚かさを通して、好色と堕落に突き進むことは実に悪であり苦い行いであること、貧しい人々を虐げたり、彼らの必要に無関心で、彼らの哀れな助けを求める嘆願に耳を貸さない者を神は不快に思われること、そして、貧しい人々に慈悲の心をもって目を向け、富を分け与え、自分たちも道徳的に清くあるよう努める者を「彼は必ず生きる」ことを学ぶなら、邪悪な父親は裁かれますが、正しい息子は神から誉められます。
ですから、彼らが自分たちの言い訳として、苦難を神のせいにするために用いたことわざは真実ではありません。

「あなたがたは、『なぜ、その子は父の咎の罰を負わなくてよいのか。』と言う。その子は、公義と正義とを行ない、わたしのすべてのおきてを守り行なったので、必ず生きる。
罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。」
(エゼキエル書18章19、20節)


この意味で、息子は父親の罪を負うことはありません。
父親が酸っぱいぶどうを食べたからといって、息子の歯がゆいわけではありません。
しかし、それぞれの行いが義、もしくは不義なものかに応じて、神はそれぞれ自分の行いについて神に説明しなければなりません。

この原則は、神がモーセに与えられた啓示と矛盾するものではありません。
神はその中で、「主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト記20章5、6節)とご自身について語られました。
不信心で不道徳な親を持つ子供たちは、恐ろしいほどの肉体的衰弱と、しばしば霊的な盲目という悪循環に陥ります。
しかし、たとえそのような子供たちであっても、自分たちの罪悪から離れるなら、神は喜んで祝福してくださるのです。
しかし、神が御言葉よりも優れているなどと、誰も思い上がってはなりません。
もし人が正義の道から不法の道へ転じることを選ぶなら、それに応じた苦しみを受けなければならないことを忘れないでください。
「悪者の悪はその者に帰する」のです。

「しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。
彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行なった正しいことのために、彼は生きる。
わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ。――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。
しかし、正しい人が、正しい行ないから遠ざかり、不正をし、悪者がするようなあらゆる忌みきらうべきことをするなら、彼は生きられるだろうか。
彼が行なったどの正しいことも覚えられず、彼の不信の逆らいと、犯した罪のために、死ななければならない。」
(エゼキエル書18章21~24節)


誰も誤解しないように、神はいわば、極めて明確かつ明確な方法でご自身をくりかえしておられます。
たとえ、どれほど神から遠く離れていたとしても、誰も絶望することのないよう、神は既に示されたことを丹念にくりかえしておられます。
神は悪人の死を喜ばれるのではなく、むしろすべての人が悪の道から立ち返り、命の道を見出すことを望んでおられます。

二つの道、悪の道と正しい生き方の道が明確に描かれています。
人はそれぞれ、どちらの道を選ぶか自分で選ぶことができます。
しかし、次のことを確信してください。
もし義から離れるなら、過去の善行はどれも死から救うことはできません。
彼は犯した罪過と、犯した罪の中で死ぬのです。

「あなたがたは、『主の態度は公正でない。』と言っている。さあ、聞け。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。
正しい人が自分の正しい行ないから遠ざかり、不正をし、そのために死ぬなら、彼は自分の行なった不正によって死ぬ。
しかし、悪者でも、自分がしている悪事をやめ、公義と正義とを行なうなら、彼は自分のいのちを生かす。
彼は反省して、自分のすべてのそむきの罪を悔い改めたのだから、彼は必ず生き、死ぬことはない。
それでも、イスラエルの家は、『主の態度は公正でない。』と言う。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。
それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。――神である主の御告げ。――悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。
あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。」
(エゼキエル書18章25~32節)


この感動的な一節にすべてが集約されています。
イスラエルの神への不満は完全に解決され、神の支配の誠実さは擁護されています。
彼らは「主の態度は公正でない」と言いましたが、実際には不公平だったのは自分たちの道です。
彼らは自分たちの苦難を神のせいにしていましたが、本来は自分たちを責めるべきだったのです。

かつて、神から離れたために神の御手によって苦しんでいたとしても、すべての祝福の源である神に立ち返るのにはまだ遅くはなかったのです。
もし、彼らが立ち返るなら、たとえ敵の中に捕らわれていたとしても、罪が彼らの破滅となることはなく、神が彼らに恵みを施したいと待ち望んでいたことがわかるはずです。
彼らが全く新しい態度をとるなら、神は義をもって、同時に憐れみと哀れみをもって彼らのために働くことができるのです。
神は彼らを切望し、死ぬ者の死を喜ばれないことを改めて思い起こさせました。
それゆえ、神は嘆願して叫びました。

「イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。」
この嘆願に応え、真実な悔い改めと信仰において神へ立ち返っていたのなら、彼らは確かに生まれ変わるのです。
しかし、この章の大きなテーマは、救いの恵みではなく、支配です。


19章 堕落したユダの王

この章でこの箇所のシリーズが終わります。
神はこの章で、かつてユダに与えられた約束がなぜ果たされなかったかが明らかにされます。
約束は民の従順を前提としていました。
しかし、民もその支配者たちも、堕落した行いによって祝福を受ける資格をすべて失ってしまったのです。
主は、この書の中でしばしば比喩的な表現を用いて語られますが、この点を明確に示しておられます。

「あなたはイスラエルの君主たちのために哀歌を唱えて、
言え。あなたの母である雌獅子は何なのか。雄獅子の間に伏し、若い獅子の間で子獅子を養った。
雌獅子が子獅子のうちの一頭を育て上げると、それは若い獅子となり、獲物を引き裂くことを習い、人を食べた。
諸国の民はその獅子のうわさを聞いた。その獅子は彼らの落とし穴で捕えられた。彼らは鉤でこれをエジプトの地へ引きずって行った。
雌獅子は、待ちくたびれ、自分の望みが消えうせたことを知ったとき、子獅子のうちのほかの一頭を取り、若い獅子とした。」
(エゼキエル書19章1~5節)


前の章で、民の罪が暴かれたのを見てきました。
今、主は彼らの王たちの邪悪さを明らかにします。
明確に挙げられているのは二人だけですが、この嘆きはゼデキヤの良心を刺激するためだったと考えられます。
しかし、ユダの最後の四人の王たちも皆、同じ邪悪な行いをしています。
ユダと首都エルサレムは、母獅子に象徴されると言えます。
神はかつてヤコブを通して「ユダは獅子の子」(創世記49章9節)と言われました。
バラムも、呪うことのできない民を同じように描写しました。
「見よ。この民は雌獅子のように起き、雄獅子のように立ち上がり、獲物を食らい、殺したものの血を飲むまでは休まない。」(民数記23章24節)
ユダ以外の部族、ガド(申命記33章20節)、ダン(申命記33章22節)にも、同じ比喩が用いられています。
しかし、エゼキエル書では、ユダ族がエルサレムに居を構える王族として述べられていることは明らかです。
この部族から、ダビデの血統を通して、ユダ族の獅子となる方が来られ、神の約束の全てが成就するのです。(ヨハネの黙示録5章5節)

敬虔な王ヨシヤの死後、その息子ヨアハズ、あるいはシャルムと呼ばれる彼が父に代わって王位に就きました。
彼こそが、ここで語られている若き獅子です。
しかし、彼は節操のない弱虫であることが判明し、パロ・ネコに捕らえられてエジプトへ連れ去られ、二度とパレスチナの地に戻ることはありません。

「これも、雄獅子の間を歩き回り、若い獅子となって、獲物を引き裂くことを習い、人を食べた。
この獅子は人のやもめたちを犯し、町々を廃墟とした。そのほえる声のために、地と、それに満ちているものはおののいた。
そこで、諸国の民は、回りの州から攻め上り、その獅子に彼らの網を打ちかけた。その獅子は彼らの落とし穴で捕えられた。
彼らはそれを鉤にかけておりに入れ、バビロンの王のもとに引いて行った。彼らはそれをとりでに閉じ込め、二度とその声がイスラエルの山々に聞こえないようにした。」
(エゼキエル書19章6~9節)


エホアハズの復帰を期待することが絶望的になったとき、エジプト王が兄に代わって王位に就けたエホヤキムが王として認められたが、11年後にバビロンへ連行されました。
そこで絶望したユダの人々は、エホヤキムの息子で、名前が父エホヤキン、あるいはエコニヤによく似た18歳の若者に頼りました。
ユダ自身が王として選んだのは父ではなく彼であったため、彼はここで述べられている若獅子のようです。
しかし、彼の治世は4か月にも満ちていません。
ネブカデネザルが再びこの地に来て、彼を鎖に繋いでバビロンへ連行し、廃位された王の兄マタニヤを代わりに王位に就け、彼の名前をゼデキヤと改めたからです。
このとき王位に就いていたのは彼でした。
ダビデの王座の栄光が失われたことを嘆き悲しむこの歌は、彼の心と良心に届くように意図されていました。
しかし、悲しいことに、彼はあまりにも利己心の道に深く入り込み、自分に向けられたメッセージに耳を傾けることができなかった。
だからこそ、彼以前の三人の王たちの運命は、彼にとって警告となるべきでした。
実際、彼の邪悪さゆえに、彼は他のどの王よりもひどい目に遭うことになりました。
息子たちは彼の目の前で殺され、彼の両目はえぐり出され、彼自身も盲目で心の傷ついた男としてバビロンへ連れて行かれることになりました。

「 あなたの母は、まさしく、水のほとりに植えられたぶどうの木のようだった。水が豊かなために実りが良く、枝も茂った。
その強い枝は王の杖となり、そのたけは茂みの中できわだって高く、多くの小枝をつけてきわだって見えた。
しかし、それは憤りのうちに引き抜かれ、地に投げ捨てられ、東風はその実を枯らし、その強い枝も折られて枯れ、火に焼き尽くされた。
今や、それは、荒野と砂漠と、潤いのない地に移し植えられ、
火がその枝から出て、その若枝と実を焼き尽くした。もう、それには王の杖となる強い枝がなくなった。」これは悲しみの歌、哀歌となった。」
(エゼキエル書19章10~14節)


哀歌のこの部分で、かつて神が用いられた比喩を用いています。
ユダはかつて実り豊かに実り、主の祝福によって広く広がったぶどうの木のようでした。
その豊かな実りは、ぶどうの房が豊かに収穫できるよう、力強い枝に支えられていました。
多くの枝を持つ大きなぶどうの木として表現されています。
しかし、神の律法に背いたことで変化が起こりました。
彼女は自分の思いのままの道を選んだため、周囲の国々は彼女の枝を枯らすことを許され、逆境の東風は彼女の実を壊滅させました。
今、彼女は荒れ果て乾ききった砂漠に植えられた、折れて枯れたぶどうの木のようになってしまいました。
さらに、裁きの火は枝と枝を焼き尽くし、ついに「王の杖となる強い枝がなくなった」のです。
彼女の最後の王は捕囚されるところでした。
そして、支配する権利を持つ主イエス・キリストが来られるまで、彼女はダビデの血統の王を知ることは決してありません。
キリストは父ダビデの王座に座り、倒れたダビデの幕屋を建て直すのです。

失われた王笏は、創世記49章10節「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う」と矛盾しているように思えるかもしれません。
しかし、ここで述べられているのは明らかに王の杖ではなく、部族の王の杖です。
ユダは平和の君シロが初めて来るまで、明確に独立した部族として存在していましたが、シロは拒絶されました。
ヤコブの預言は、主が再び来られる時に完全に成就し、民は主のもとに集まり、主を正式な王として認められるのです。


20章 ヤハウェの忠実さとイスラエルの不忠実さ

この20章の最初の節から23章まで、捕囚7年目とほぼ同時期に当たる一連の預言が記されています。
最初の預言は第五の月の十日に語られました。
この一連の預言の中で、神はイスラエルが結んだ契約に対する不忠実さを厳しく叱責し続けています。
同時に、神はご自身が彼らの先祖たちになさった約束を揺るぎなく守られることを強調されてます。

「第七年の第五の月の十日に、イスラエルの長老たちの幾人かが、主に尋ねるために来て、私の前にすわった。
そのとき、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。イスラエルの長老たちに語って言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたが来たのは、わたしに願いを聞いてもらうためなのか。わたしは生きている、わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない。――神である主の御告げ。――
あなたは彼らをさばこうとするのか。人の子よ。あなたはさばこうとするのか。彼らの先祖たちの、忌みきらうべきわざを彼らに知らせよ。
彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしがイスラエルを選んだとき、ヤコブの家の子孫に誓い、エジプトの地で彼らにわたしを知らせ、わたしがあなたがたの神、主であると言って彼らに誓った。
その日、彼らをエジプトの地から連れ出し、わたしが彼らのために探り出した乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地に入れることを、彼らに誓った。
わたしは彼らに言った。『おのおのその目の慕う忌まわしいものを投げ捨てよ。エジプトの偶像で身を汚すな。わたしがあなたがたの神、主である。』と。
それでも、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうともせず、みな、その目の慕う忌まわしいものを投げ捨てようともせず、エジプトの偶像を捨てようともしなかった。だから、わたしは、エジプトの地でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らへのわたしの怒りを全うしようと思った。
しかし、わたしはわたしの名のために、彼らが住んでいる諸国の民の目の前で、わたしの名を汚そうとはしなかった。わたしは諸国の民の目の前で彼らをエジプトの地から連れ出す、と知らせていたからだ。」
(エゼキエル書20章1~9節)


上記の日付に、イスラエルの長老たちのうち不特定多数がエゼキエルのもとに来て、彼らのためにヤハウェに伺いを立てるため、彼の前に座った。
彼らは表面上は神の言葉に従い、神の意志に従う用意があるように見えました。
しかし神の御前で真に悔い改め、罪と向き合ったことがなかったことは明らかでした。
そのため、神はそのしもべを通して、このように言われました。
「あなたがたが来たのは、わたしに願いを聞いてもらうためなのか。わたしは生きている、わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない。」
彼らは神の言葉に故意に従わず、神の真理に断固として反対していたため、祈る立場になかったのです。
そのため、神を代弁するエゼキエルは彼らの間で裁判官の役割を果たし、彼ら自身も歩んでいた先祖たちの忌まわしい行いを、紛れもない言葉で彼らの前に示さなければなりません。
神が彼らをエジプトから連れ出した日から、彼らの歴史を辿られました。
神は、彼らが契約を結んだ永遠の神、ヤハウェとしてご自身を彼らに明らかにされました。
神は、彼らを奴隷の地から救い出し、自分たちが彼らのために選んだ地、乳と蜜の流れる地へと導くと約束し誓われました。
その地は「どの地よりも麗しい地」と表現されました。

現在、パレスチナを訪れる人は、このような言葉がどのように適応できるのか理解しにくいかもしれません。
しかし、神がその民をカナンの地に導き入れたとき、神は彼らを敵に対して力づけ、そこで彼らを増やして、大きく美しい街を建設できるようにされました。
彼らが丘や谷を耕すにつれ、神の祝福が彼らの努力に注がれ、あらゆるものが豊かになりました。
しかし、パレスチナがあらゆる国々の栄光となったのは、ヤハウェがその地にご自身を現し、エルサレムにその名を定められたという事実です。
万物の創造主である神がそこで知られ、尊敬されているという知らせがエルサレムから全世界に広まり、神について学びたいと願う人々が、シバの女王のように、主の名について教えを受けるために遠方からやって来ました。
何世紀にもわたってその地は荒廃し、神殿は完全に破壊され、異教徒の神殿がその場所に建てられました。
しかし、将来、イスラエルの民が主のもとに回復され、主御自身が彼らの間に現れる時、その地は再びすべての国々の栄光となります。
その時、律法はシオンの山から発せられ、すべての国々がそこに流れ込み、新生した世界を義によって支配する王を礼拝するのです。

イスラエルの罪は、エジプトに住み、その地の偶像崇拝について明確に警告されていたにもかかわらず、不従順で反抗的な民にヤハウェの憤りが下されるほどに、その地が汚されました。
彼らはすぐに啓示された真理から背を向け、エジプトの偶像を崇拝するようになり、奴隷とされた地を去る前に神の怒りと憤りが彼らに注がれました。
実際、これらの聖句から、神がパロをそそのかして彼らを奴隷にし、彼らの生活を困難で苦しいものにしたのは、裁きのためであったことがわかります。
しかし、神はご自身の御名のために、諸国民の目の前で御名が汚されることのないように、働きかけられました。
そして、時が来ると、神は慈悲をもって介入し、民をエジプトの地から連れ出しました。
ヨセフの時代からモーセの時代まで、彼らは異国の地で別々の民族として暮らしていたと考えるかもしれない。
しかし、この一節は、ヨセフを知らない新しい王が誕生した当時とそれ以降の彼らの行動に不気味な光を投げかけています。

したがって、彼らが神がアブラハム、イサク、ヤコブに与えた啓示の多くを忘れていたことは明らかでした。
そのため、モーセによってもたらされたメッセージは、彼らの先祖の神であるヤハウェの新しい啓示として多くの人に伝わりました。
ヤハウェは、彼らの迷いにも関わらず依然として彼らを愛し、彼らの叫びを聞き、彼らを救うために降りてこられたのです。

彼らに与えられた驚くべきしるしと、神の慈愛に満ちた配慮の数々のすばらしい証拠によって、彼らは永遠に偶像崇拝をやめ、彼らを救い出してくださった神だけを敬うようになったと思われたかもしれません。
しかし、エジプトを去った後も、彼らはちょっとしたことで不従順と偶像崇拝に陥る準備ができていました。

「こうして、わたしはエジプトの地から彼らを連れ出し、荒野に導き入れ、
わたしのおきてを彼らに与え、それを実行すれば生きることのできるそのわたしの定めを彼らに教えた。
わたしはまた、彼らにわたしの安息日を与えてわたしと彼らとの間のしるしとし、わたしが彼らを聖別する主であることを彼らが知るようにした。
それなのに、イスラエルの家は荒野でわたしに逆らい、わたしのおきてに従って歩まず、それを行なえば生きることのできるそのわたしの定めをもないがしろにし、わたしの安息日をひどく汚した。だから、わたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らを絶ち滅ぼそうと考えた。
しかし、わたしはわたしの名のために、彼らを連れ出すのを見ていた諸国の民の目の前でわたしの名を汚そうとはしなかった。
だが、わたしは、わたしが与えた、乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地に彼らを導き入れないと荒野で彼らに誓った。
それは、彼らがわたしの定めをないがしろにし、わたしのおきてを踏み行なわず、わたしの安息日を汚したからだ。それほど彼らの心は偶像を慕っていた。
それでも、わたしは彼らを惜しんで、滅ぼさず、わたしは荒野で彼らを絶やさなかった。」
(エゼキエル書20章10~17節)


主御自身が彼らを荒野に導き、シナイ山で彼らに律法を与え、その定めを示し、それについて人は「行すれば生きることのできるそのわたしの定め」と言われました。
そこで、主は安息日を彼らと主との間のしるし、主がヤハウェであり、彼らを聖別する者であることを週ごとに記念する日として彼らに知らせました。
しかし、荒野においても彼らは主に背き、律法に従って歩むことを拒みました。
彼らは主の定めを拒み、安息日を汚しました。
このように彼らは祝福を受ける資格をすべて失いました。
そして、神が御自身の御名の栄光を気にかけていなかったならば、義なる神は彼らを完全な滅びに引き渡していたかもしれません。

擬人化された表現で、神は荒野で彼らに怒りを注ぎ、彼らを滅ぼすと宣言しました。
これは、モーセに民を滅ぼし、彼らをここまで導いてきた者から新しい国を起こすよう提案した時に、神がそのようにすると脅したことと全く同じことです。
しかし、モーセが彼らのために執り成しをしたとき、神は御名のために働きました。
神は、周囲の異教徒たちに、約束の地に民を導くことができないと言うことを許しません。
そのため、神は怒りの中で、成人した者はすべて荒野で滅びると誓いました。
しかし、それでも約束通り、彼らの子供たちを乳と蜜の流れる地へと導きました。

イスラエルの失敗の本当の理由は16節に記されています。
「それほど彼らの心は偶像を慕っていた。」
彼らがアロンのもとに来て「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」(出エジプト記32章1節)と叫んだ時、このことが明白に示されたかが分かります。
彼らは、人の目には見えない生ける神よりも、目に見える像を好みました。
このように彼らは偶像礼拝に陥り、神の定めを拒み、神の掟に従って歩むことを拒み、神の安息日を汚しました。
しかし、神は彼らの罪のために、時折彼らに裁きを下されましたが、それでもなお、彼らを国民として救い、彼らを完全に滅ぼすことも、荒野で完全に絶滅させることもしていません。

モーセは、古い世代に裁きを宣告した後、その子孫に従順に従って歩み、それによって祝福に入るようにと呼びかけました。

「わたしは彼らの子どもたちに荒野で言った。『あなたがたの父たちのおきてに従って歩むな。彼らのならわしを守るな。彼らの偶像で身を汚すな。
わたしがあなたがたの神、主である。わたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なえ。
また、わたしの安息日をきよく保て。これをわたしとあなたがたとの間のしるしとし、わたしがあなたがたの神、主であることを知れ。』と。
それなのに、その子どもたちはわたしに逆らい、わたしのおきてに従って歩まず、それを行なえば生きることのできるそのわたしの定めを守り行なわず、わたしの安息日を汚した。
だから、わたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らへのわたしの怒りを全うしようと思った。
しかし、わたしは手を引いて、わたしの名のために、彼らを連れ出すのを見ていた諸国の民の目の前でわたしの名を汚そうとはしなかった。
だが、わたしは、彼らを諸国の民の中に散らし、国々へ追い散らすと荒野で彼らに誓った。
彼らがわたしの定めを行なわず、わたしのおきてをないがしろにし、わたしの安息日を汚し、彼らの心が父たちの偶像を慕ったからだ。
わたしもまた、良くないおきて、それによっては生きられない定めを、彼らに与えた。
彼らがすべての初子に火の中を通らせたとき、わたしは彼らのささげ物によって彼らを汚した。
それは、わたしが彼らを滅ぼすため、わたしが主であることを彼らが知るためである。」
(エゼキエル書20章18~26節)


子供たちは両親の愚かさから、主の言葉に背を向けることは悪であり、苦い行いであることを学ぶものだと人は思うかもしれません。
しかし、彼らはすぐに父祖の特質を現し、偶像崇拝によって自分たちを否定しました。
神は何度も彼らに、御言葉に従い、御言葉を守り、それを行い、安息日を聖別するようにと懇願されました。
しかし、彼らは神に反抗し、神の証を拒絶しました。
バアル・ペオルにおける彼らの悲惨な失敗は、このことの悲しい例です。
彼らは周囲の偶像崇拝者たちと交わり、神に対して深刻な罪を犯しました。
神は怒りに燃えて彼らを打ち、モーセとアロンの執り成しがなければ滅ぼされていたのです。
神は御手を引き、再び御自身の御名のために働きかけ、異教徒の目の前で御名が汚されることのないようにされました。

しかし神は、もしイスラエルが不従順を続けるなら、諸国に散らされ、あらゆる国に追い散らされる日が来るだろうと、その民に警告しました。
この警告は、何世紀にもわたって恐ろしい現実となりました。

彼らが祝福のために定められた律法と儀式から背を向けたため、神は彼らの迷妄を選び、彼らを善良ではない律法と、彼らが救いに至ることのできない律法に委ねました。
こうして神は、彼らがモロク崇拝とそれに類する忌まわしい行いに堕落することを許し、こうして神が彼らの前から追い払った最も卑劣な異教徒のレベルにまで堕落しました。
イスラエルのその地での行いは、荒野での行いよりもさらに悪質でした。

「それゆえ、人の子よ、イスラエルの家に語って言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたの先祖は、なお、このようにして、わたしに不信に不信を重ね、わたしを冒涜した。
わたしが、彼らに与えると誓った地に彼らを連れて行ったとき、彼らは、高い丘や茂った木を見ると、どこででも、いけにえをささげ、主の怒りを引き起こすささげ物をささげ、なだめのかおりを供え、注ぎのぶどう酒を注いだ。
そこで、わたしは彼らに言った。あなたがたが通う高き所は何なのか。今日でもその名をバマと呼ばれているが。
それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたは父たちの行ないをまねて自分自身を汚し、彼らの忌まわしいものを慕って姦淫を犯している。
しかも、ささげ物を供え、幼子に火の中を通らせ、今日まであらゆる偶像で身を汚している。
イスラエルの家よ。わたしはどうして、あなたがたの願いを聞いてやれようか。わたしは生きている、――神である主の御告げ。――わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない。
あなたがたが、『私たちは木や石を拝んでいる異邦の民、国々の諸族のようになろう。』と言って心に思い浮かべていることは決して実現しない。」
(エゼキエル書20章27~32節)


ヤハウェが御言葉を成就し、彼らを荒野を抜けてヨシュアの指導のもとカナンに導き入れた後、彼らは間もなく、滅ぼすよう命じられた諸国民の道を歩み始めました。
彼らはあらゆる高い丘やあらゆる大木の下に偽りの神々や女神たちの神殿を建て、そこで神ではなく悪霊に犠牲を捧げました。
そのような行いによって、彼らは先祖の習わしに従って自分たちを汚し、霊的な淫行の罪を犯しました。
彼らはヤハウェのために決して求められなかったことを、偽りの神々のために行いました。
すなわち、自分たちの子供たちを犠牲に捧げ、モロクへの火の中を通らせ、自分たちを汚したため、もはや神は彼らを容認できなくなりました。
彼らは神に問うことを拒みました。
彼らは周囲の諸国民のようになることを求め、神は諸国民と同じように彼らを裁きの刑に処せられました。

しかし、神はアブラハムへの約束、すなわち彼の子孫にくりかえし与えられた約束を忘れてはいません。
そこでエゼキエルは33節から44節で、イスラエルの将来の回復を預言しました。
その時、彼らの過去のすべての失敗は消し去られ、彼らは主のもとに回復されるのです。

「わたしは生きている、――神である主の御告げ。――わたしは憤りを注ぎ、力強い手と伸ばした腕をもって、必ずあなたがたを治める。
わたしは、力強い手と伸ばした腕、注ぎ出る憤りをもって、あなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集める。
わたしはあなたがたを国々の民の荒野に連れて行き、そこで、顔と顔とを合わせて、あなたがたをさばく。
わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地の荒野でさばいたように、あなたがたをさばく。――神である主の御告げ。――
わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、
あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。
わたしは彼らをその寄留している地から連れ出すが、彼らはイスラエルの地にはいることはできない。
このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
さあ、イスラエルの家よ。神である主はこう仰せられる。おのおの自分の偶像に行って仕えるがよい。
後にはきっと、あなたがたはわたしに聞くようになる。
あなたがたは二度と自分たちのささげ物や偶像で、わたしの聖なる名を汚さなくなる。」
(エゼキエル書20章33~39節)


彼らのさまざまな強情にもかかわらず、ヤハウェは依然として彼らの王であり、定められた時に神の権威は公に示されます。
その日、神は彼らを散らされたすべての国民と国々から連れ出します。
力強い手と伸ばされた腕、そして背教を続ける者たちへの怒りを注ぎ、神は残された民を「諸国の民の荒野」と呼ばれる場所に連れて行き、そこで彼らと顔を合わせて裁きを受けます。
昔、神はエジプトの地に隣接する荒野で彼らの先祖たちを扱われたように、来たるべきこの日、異邦人の中に散らされた民である国民を扱われます。
なぜなら、神は彼らを依然としてご自分の民として認めているからです。
神は彼らを懲らしめ、羊飼いによって区別される羊のように、杖の下を通らせます。
その日、彼らは再び契約の絆の中に連れ戻され、神は彼らの中から反逆者と神に背くすべての者を一掃されます。
主は彼らが滞在したあらゆる地から、彼らをイスラエルの地に導き入れ、その日、彼らは主がまことにヤハウェ、彼らが共に歩むべき永遠の神であることを知ることになります。
しかし、その時がまだ来ていないことは明らかでした。
そこでエゼキエルは、尋ねに来た長老たちにこう言うように命じられました。

「おのおの自分の偶像に行って仕えるがよい。
後にはきっと、あなたがたはわたしに聞くようになる。
あなたがたは二度と自分たちのささげ物や偶像で、わたしの聖なる名を汚さなくなる。」
民として贖われる日まで、彼らは心のかたくなさに屈し、自力で生き延びることになるのです。

「わたしの聖なる山、イスラエルの高い山の上で、――神である主の御告げ。――その所で、この地にいるイスラエルの全家はみな、わたしに仕えるからだ。その所で、わたしは彼らを喜んで受け入れ、その所で、あなたがたのすべての聖なる物とともに、あなたがたの奉納物と最上のささげ物を求める。
わたしがあなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集めるとき、わたしは、あなたがたをなだめのかおりとして喜んで受け入れる。わたしは、諸国の民が見ている前で、あなたがたのうちに、わたしの聖なることを示す。
わたしが、あなたがたの先祖に与えると誓った地、イスラエルの地に、あなたがたをはいらせるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
その所であなたがたは、自分の身を汚した自分たちの行ないと、すべてのわざとを思い起こし、自分たちの行なったすべての悪のために、自分自身をいとうようになろう。
わたしが、あなたがたの悪い行ないや、腐敗したわざによってでなく、ただわたしの名のために、あなたがたをあしらうとき、イスラエルの家よ、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。――神である主の御告げ。――」」
(エゼキエル書20章40~44節)


預言者はここで、喜ばしい情景を描いています。
再び、エルサレムが神の聖なる山、「イスラエルの高い山」として認められる日、回復した民が故郷に戻り、長らく離れていた主に仕える日について語っています。
再び、彼らはささげ物と奉納物の初穂を、あらゆる聖なる物と共に神に携えて来ます。
神は彼らを民の中から集め、散らされていた国々から連れ戻した時、彼らの礼拝と感謝を受け入れてくださいます。
その時、神はすべての国々の人々の目の前で、異邦人の中で聖なるものとされるからです。
その日がどれほど近いかは、私たちには分かりません。
現在、多くのユダヤ人が不信仰のままパレスチナに帰還していることは、預言の完全な成就のための準備なのかもしれません。
しかし、これらの言葉が実際に成就する時、ユダヤ人は故郷だけでなく、ヤハウェご自身にも帰還します。
そのとき彼らは、過去の邪悪な行いを恥ずかしく思い振り返り、これまで犯してきたすべての悪行のゆえに自分たちを嫌悪します。
なぜなら、ヤハウェが彼らを、彼らの邪悪な行いや腐敗した行いに応じてではなく、神自身の心の哀れみに応じて扱われたことを彼らは知るからです。

この章の最後の節は、主が死に臨む時にエルサレムの娘たちに語られた言葉を思い起こさせます。
「彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」(ルカの福音書23章31節)
生木とは命が宿る木であり、枯れた木は死んでおり火に焼かれるだけです。
ですから、次のように記されています。

「さらに、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。顔を右のほうに向け、南に向かって語りかけ、ネゲブの野の森に向かって預言し、
ネゲブの森に言え。『主のことばを聞け。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしはおまえのうちに火をつける。その火はおまえのうち、すべての緑の木と、すべての枯れ木を焼き尽くす。その燃える炎は消されず、ネゲブから北まですべての地面は焼かれてしまう。
そのとき、すべての者は、主であるわたしが燃やしたことを見るであろう。その火は消されない。』」
そこで、私は叫んだ。「ああ、神、主よ。彼らは私について、『彼はたとえ話をくり返している者ではないか。』と言っています。」」
(エゼキエル書20章45~49節)


エゼキエルは顔を南に、すなわちイスラエルの地、特にレバノンの森に向け、ヤハウェの名において宣言するはずでした。
「主のことばを聞け。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしはおまえのうちに火をつける。
その火はおまえのうち、すべての緑の木と、すべての枯れ木を焼き尽くす。」
神は、ご自身をこのように辱めた民に対する憤りから、彼ら全体に裁きを注ぎ出します。
このようにすべての肉なる者は、まさに神が怒りをもって民を訪れ、不義を続ける者すべてが滅ぼされるまで消えることのない裁きの火を注ぎ出されることを認識します。
しかし、エゼキエルはこの厳粛なメッセージを宣べ伝えた後でさえ、民が彼の言葉の重大さを理解していないことに気づきました。
彼らにとって、イエスは単なるたとえ話を語る者でした。
彼らにはたとえ話が理解できないのです。


21章 分岐点

神は個人と諸国民の両方に対して、まず教えを与え、もし彼らが御言葉から離れるならば戒めを与えられます。
悔い改めが示されるならば、神は喜んで祝福を注ぎますが、教えや嘆願が断固とした意志に基づく拒絶が伴うならば、神は最終的に裁きを下されます。
このことはこの章で明確に示されています。
ユダに対する神の嘆願はどれも、彼らを悔い改めさせるという点では、何の役にも立たなかったことが分かります。
その結果、異邦人を滅ぼす者がこの地に降り立ち、シナイ山でヤハウェとイスラエルの間で結ばれた契約を完全に無視した者たちに復讐することを許されました。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。顔をエルサレムに向け、聖所に向かって語りかけよ。イスラエルの地に向かって預言せよ。
イスラエルの地に言え。『主はこう仰せられる。今、わたしはあなたに立ち向かう。わたしは剣をさやから抜き、あなたのうちから、正しい者も悪者も断ち滅ぼす。
わたしがあなたのうちから、正しい者も悪者も断ち滅ぼすために、わたしの剣はさやを離れて、ネゲブから北まですべての者に立ち向かう。
このとき、すべての者は、主であるわたしが剣をさやから抜いたことを知ろう。剣はもう、さやに納められない。』
人の子よ。嘆け。彼らが見ているところで腰が砕けるほど激しく嘆け。
彼らがあなたに、『なぜあなたは嘆くのか。』と言うなら、そのとき、あなたは言え。
『この知らせのためだ。それが来ると、すべての者は心がしなえ、すべての者は気力を失い、みな意気消沈し、だれのひざも震える。
今、それが来る。それは実現する。――神である主の御告げ。――』」」
(エゼキエル書21章1~7節)


2節や本書の他の箇所で使われている「人の子」という言葉は、背教の時代に神の民の中で神を代表する人物としてエゼキエルを指しています。
イスラエルのために弁護していたエゼキエルは、今やエルサレムに敵対し、イスラエルの地に下るであろう裁きを宣言するよう求められました。
イスラエルの地は異教の聖所で覆われています。
それらはすべて、唯一まことの生ける神であると宣言されたヤハウェに対する冒涜です。
彼らの多くの罪のために、神は彼らに立ち向かい、剣を鞘から抜いて彼らを民として滅ぼそうとしていました。
これは、義人と悪人の滅亡を伴います。
侵略軍が国を席巻した時、そうならざるを得ません。
義人は一時的に苦しみを受けるかもしれません。
しかし、彼らのたましいは、神が何世紀にもわたって信仰を見いだしてきたすべての人々と共に集められます。

この場合の主の剣とは、実際にはネブカデレザルが振るった剣のことです。
言い換えれば、神はその剣を彼の手に渡し、南から北に至るまですべての肉なる者に対してそれを用いるように命じました。
それは、それらの国々のすべての人々に、自分たちに下る神の裁きが何であるかを知らせるためでした。

エゼキエルはこれを宣言する使命を与えられたが、預言が成就するのを見ても、心をかたくなにしたり、内なる満足感に浸ったりしてはなりません。
むしろ、多くの罪のゆえに民がどのような苦しみを味わうことになるかを悟り、苦々しい心情の中でヤハウェの御言葉を伝えなければなりません。
御言葉を宣べ伝えながらも、彼はため息をつかずにはいられません。
聞き手たちが見守り、この心の動揺の理由を尋ねたなら、それは侵略軍のせいであり、その侵略軍の前ではすべての心が溶け、手は弱り、イスラエルのすべての人の気力はくじけ、すべての膝は水のように弱くなるだろうと答えなければなりません。
長らく受けるべき裁きを、今や何ものも止めることはできません。
しかし、神は敬虔なヨシヤ王の時代以来、この裁きを阻止されてきたのです。

預言者は8節から17節で主の剣についてさらに詳しく語っています。

「ついで、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。預言して言え。主はこう仰せられると言え。剣、一振りの剣が研がれ、みがかれている。
虐殺のために研がれ、いなずまのようにそれはみがかれた。われわれはそれを喜ぼうか。わたしの子の杖も、すべての木のように、退けられる。
その剣はみがかれて手に握られ、それは、研がれて、みがかれ、殺す者の手に渡される。
叫べ。泣きわめけ。人の子よ。それはわたしの民の上に下り、イスラエルのすべての君主たちの上に下るからだ。
剣への恐れがわたしの民に起こる。それゆえ、あなたはももを打って嘆け。
ためされるとき、杖まで退けられたなら、いったいどうなることだろう。――神である主の御告げ。――
人の子よ。預言して手を打ち鳴らせ。剣を二倍にし、三倍にして、人を刺し殺す剣とし、大いに人を刺し殺す剣として、彼らを取り囲め。
彼らの心が震えおののくように、彼らのすべての門に、つまずきをふやせ。ああ、わたしは剣の先をいなずまのようにして、虐殺のためにみがきをかける。
あなたの顔の向くところ、右に向け、左に向けて切りまくれ。
わたしもまた、手を打ち鳴らし、わたしの憤りを静めよう。主であるわたしが語るのだ。」」
(エゼキエル書21章8~17節)


ヤハウェはエゼキエルに「剣、一振りの剣が研がれ、みがかれている」と叫ぶように命じました。
つまり、戦士の手の中でひらめくとき、行く手を阻む者すべてを打つ稲妻のように、明るく輝くように磨かれたのです。

これが意味する恐ろしい状況を考えると、次のような疑問が湧きます。
「それでは、私たちは陽気に振る舞うべきなのでしょうか?」
人間の心は常に神の裁きを軽視しようとします。
そして、人々は、神の訪れによって冷静さを取り戻します。
しかし、悔い改めに導かれるどころか、しばしば不快な状況を忘れようとし、士気を保つために、あらゆる愚行や罪に加担します。
黙示録に記されている、怒りの日に互いに贈り物を送り合いながら陽気に振る舞う人々のようなものです。
イスラエルが経験し、過去半世紀に多くの国々が耐え忍んできたような時代には、軽率な陽気さよりも、冷静さと真剣な目的意識を必要としています。

「世俗的な希望や世俗的な恐怖のために、ここには笑ったりつまらないことを言ったりする余裕はありません。
この命がこんなに早く消え去ってしまいます。
今、裁判官が戸口にいます。
全人類は「容赦ない王座」の前に立たなければなりません。」

伝道者の書でメッセンジャーが語っているように、このような厳粛な時には、祝宴の家に行くよりも喪の家に行く方がはるかに良いことなのです。
しかし、人々は愚かにも、軽薄な振る舞いや陽気さへの煽動によって現実を忘れようとします。
もし、人々が真剣になるべき時があるとすれば、それは神の裁きが国中に広がり、裁きのムチが神の民に降りかかっている時です。

この磨き上げられた主の剣は、敢えて抵抗する者すべてに死をもたらすために研ぎ澄まされた。
それは、殺害者、すなわちバビロン王とその軍勢の手に渡されるためです。
彼らに立ち向かっても無駄です。
神はその民を罪のゆえに見捨てたからです。
それゆえ、エゼキエルは、民とイスラエルのすべての君主に下される裁きのために泣き叫ぶべきでした。
彼らは剣に引き渡され、太もも、つまり強さゆえに打ちのめされ、弱さゆえに打ち倒されるのです。
もはや侵略者を退けることは不可能です。
悔い改めの日は過ぎ去りました。
パロ・ネコ、そしてその前にネブカデレザルによって抜かれた剣は、今や三度目に使われることになり、人を刺し殺す剣と呼ばれます。
ユダの町々の門すべてに、このきらめく剣が向けられた。
カルデア軍が稲妻のようにこの地に降りかかる時、民の心は溶け、彼らはその盲目と邪悪さにつまずきます。
民が右に向かおうと左に向かおうと、神の怒りは彼らを見破り、侵略者の前に倒れるのです。
ヤハウェがそのように語ったからです。

18節から23節では、バビロン王が分岐点に立っているのがわかります。
ほんの些細なことで彼はパレスチナの地を侵略するために南ではなく北に向かう可能性がありました。
しかし、神自身が後者を命じたので、王の占い師は彼にその道を取るように勧めました。

「ついで、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。バビロンの王の剣が来るために、二つの道にしるしをつけ、二つとも一つの国から出るようにせよ。町に向かう道の始まりに一つの道しるべを刻みつけておけ。
剣がアモン人のラバか、ユダ、すなわち、城壁のあるエルサレムに行けるように道にしるしをつけておけ。
バビロンの王は、道の分かれ目、二つの道の辻に立って占いをしよう。彼は矢を振り混ぜて、テラフィムに伺いを立て、肝を調べる。
彼の右の手にエルサレムへの占いが当たり、彼は城壁くずしを配置し、虐殺を命じて口を開き、叫び声をあげて、城壁くずしを門に向かわせ、塹壕を掘り、塁を築く。
彼らは、何回となく誓われても、その占いはうそだと思う。だが、彼は彼らを捕えて、彼らの不義を思い出させる。」
(エゼキエル書21章18~23節)


カルデア軍には二つの道が定められていました。
一つは北へ、アンモンへと続く道、もう一つはユダの地へと続く道です。
ネブカデレザルは道の交差点で立ち止まり、アモン人の首都ラバを包囲するか?もしくはユダの首都エルサレムへ向かうか?まだ決めかねている様子が描かれています。
彼は占い師たちを呼び、どの街を最初に征服すべきか助言を求めました。
彼らは矢を振り回したり、テラフィム(幸運の玉)に尋ねたり、犠牲者をほふって肝臓を覗いたりといった様々な占術を用いて、預言を裏付け、あらゆる状況がネブカデレザルがエルサレムへ向かうべきことを示していることが示されています。
彼らは知る理由もなく、彼自身も理解していません。
結局のところ、これらすべてを支配し、高慢な王をシナルの地から導き出し、イスラエルの罪によってひどく汚された聖都へと進軍させたのは、イスラエルの神自身でした。
神ご自身が、この異教徒の王によって滅ぼされ、捕らえられるように、その罪を思い起こさせたのです。

ユダの王は次の節で直接言及されています。

「それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたのそむきの罪があばかれるとき、彼が、あなたがたの不義を思い出させて、あなたがたのすべてのわざに罪が表われるようにするため、また、あなたがたが思い出すため、あなたがたは彼らの手に捕えられる。
悪に汚れたイスラエルの君主よ。あなたの日、最後の刑罰の時が来た。
神である主はこう仰せられる。かぶり物は脱がされ、冠は取り去られる。すべてがすっかり変わり、低い者は高くされ、高い者は低くされる。
廃墟だ。廃墟だ。わたしはこの国を廃墟にする。
このようなことは、わたしが授ける権威を持つ者が来るまでは、かつてなかったことだ。」
(エゼキエル書21章24~27節)


これは旧約聖書の中で最も印象的な預言の一つです。
メシアが来臨し、長らく預言されていた王国を樹立する日まで、ダビデ王家は君主たちの邪悪さゆえに完全に廃絶されることが告げられています。
ダビデの王座に座した王たちは、あらゆる警告を受けていたにもかかわらず、神からますます遠ざかり、彼らの罪と背きはあまりにも甚だしくなり、神はもはや彼らを容認できず、民の中に住むこともできなくなりました。
それゆえ、神はこのように宣言されました。
「悪に汚れたイスラエルの君主よ。あなたの日、最後の刑罰の時が来た。」
もはや、猶予はありません。
すべての預言者の口から発せられた警告は、今や正しい裁きという結末を迎えなければなりません。
そのため、布告が発せられました。
「かぶり物は脱がされ、冠は取り去られる。すべてがすっかり変わり」
つまり、偉大なダビデのさらに偉大な御子が力と栄光をもって現れるまで、ダビデの血筋の者がダビデの王座に座ることはありません。

神はこのように言われます。
「廃墟だ。廃墟だ。わたしはこの国を廃墟にする。
このようなことは、わたしが授ける権威を持つ者が来るまでは、かつてなかったことだ。」

エルサレムの滅亡に続き、民がバビロンに連れ去られて以来、イスラエルの王座に座ると神に認められた王は現れていません。
ホセアの預言は、彼の傑出した書の3章に記されており、成就しました。
イスラエルは今も王も君主も祭司もいないままに存在しており、メシアが再び現れ、偉大な力と支配権を握るまで、この状態が続きます。

「人の子よ。預言して言え。神である主はアモン人と、彼らのそしりについてこう仰せられると言え。
剣、一振りの剣が、虐殺のために抜き放たれた。いなずまのようにして、絶ち滅ぼすためにとぎすまされた。
彼らがあなたにむなしい幻を見せ、あなたにまやかしの占いをするとき、その剣は汚れた悪者どもの首に当てられ、彼らの日、最後の刑罰の時が来る。
剣は、さやに納められる。あなたの造られた所、あなたの出身地で、わたしはあなたをさばく。
わたしはあなたの上にわたしの憤りを注ぎ、激しい怒りの火を吹きつけ、滅ぼすことに巧みな残忍な者たちの手に、あなたを渡す。
あなたは火のたきぎとなり、あなたの血はその国の中で流され、もう思い出されることはない。主であるわたしがこう語ったからだ。」」
(エゼキエル書21章28~32節)


この章の最後の節で、アモン人はネブカデレザルがエルサレムに向かったため、一時的に裁きの剣を逃れたものの、その後間もなくネブカデレザルが彼らにも襲い掛かると、彼らもまたその剣の鋭さを味わうことが分かります。
彼らはイスラエルのように神との契約関係にありませんでした。
しかし、彼らの邪悪さと腐敗はイスラエルの聖なる御方を深く怒らせ、神は彼らを裁き、憤りを注ぎ、かつて、アモン人が幾度となく迫害した神の民に向けられたのと同じように、怒りの炎が吹きかけられます。


22章 血まみれで汚れた街

神がエルサレムに御名を置き、インマヌエルの地の首都と定めたとき、神はそこを「聖なる都」と呼びました。
かつて、神の民がそこに集まり、神の聖域で礼拝し、賛美と感謝の声が香の煙とともに天に昇っていきました。
エルサレムはまさにそのような街でした。
しかし、悲しいことにこのすべては変わってしまいました。
人々の邪悪さによって、エルサレムは完全に否定され、今や神はそれを完全に見捨てようとしていました。
真実と義の都であるどころか、偽りと邪悪に満ち、聖なる砦であるどころか、モロクに犠牲として捧げられた何千もの幼子たちの血で汚れた都となっていました。
かつて、主の祭司たちが主の御名を尊んでいたまさにその場所で、偽りの祭司たちによって偶像崇拝が恐ろしい頭をもたげられていたのです。
神は、その民の間に現れている悪に対して抗議するために、何度も預言者を遣わされました。
しかし、事態はますます悪化し、今では街は完全に汚染され、神はそれを包囲している残酷な敵に街を引き渡そうとしていました。

確かに、これらすべてには、現在の信仰を告白する教会にとっての教訓があります。
使徒の働きに記されているように、また、使徒書簡と黙示録にあるアジアの七つの教会へのメッセージを注意深く読むことからも分かるように、初めのうちは、この恵みの時代の神の民は神の御言葉を喜びとし、神の真理を愛し、主イエスの御名にすがりつき、主に敬意を表そうと努めていました。
しかし、徐々に衰退が起こり、教会は異教徒の生き方に従うようになりました。
教会は、自分たちがそこから召し出されたのです。
そして、ついには、主御自身が、教会を御口から吐き出そうとしていることが宣言されています。
しかしながら、救い主が留まる限り、神のものを尊ぶ残された民が残されます。
主イエス・キリストが来られ、私たちが主のもとに集まるときに、残された民が取り去られます。
その時、キリスト教世界に残っているものはすべて神に拒まれ、最終的に主イエスが燃える火の中に現れ、神を知らない者たちに復讐するときに、神の裁きを受けることになります。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。あなたはさばくのか。この流血の町をさばくのか。それなら、これにその忌みきらうべきわざを残らず知らせ、
神である主はこう仰せられる、と言え。自分の中で血を流して、自分の刑罰の時を招き、自分の町に偶像を造って自分を汚す町よ。
おまえは自分の流した血で罪に定められ、自分の造った偶像で身を汚し、自分の刑罰の日を近づかせ、自分の刑罰の年を来させた。だから、わたしはおまえを諸国の民のそしりとし、すべての国の笑いぐさとする。
おまえの近くにいる者も、遠くにいる者も、名の汚れた、ひどくかき乱されたおまえをあざ笑う。」
(エゼキエル書22章1~5節)


エゼキエルは主の御名において裁き人として行動するよう召命を受け、エルサレムの住民に対し、彼らが主の律法を軽んじてきた数々の罪と不法行為についての神からの告発を伝えました。
都は、その内部で流された血によって、すなわち、人々が狂信的に、卑劣な悪魔の神々に捧げた、貧しい無実の人々の血によって、完全に汚されていました。
また、人々の罪に抗議した人々が同胞から憎まれ、殺害されたという、不当な裁判によって流された血についても考えることができます。
このようなさまざまなことのために、エルサレムは周辺の国々で侮辱と嘲笑の的となっていました。
新約聖書には、背教したユダヤ教を通して異邦人の間で神の名が冒涜されたと記されています。
ヤハウェの忠実さを証しし、聖なる生活によって神の言葉に対する服従と感謝を表明すべきであった彼らが、あまりにも低いところにまで堕落してしまったため、異教徒の隣人たちは驚きながら見守り、主の選民であるという彼らの主張を嘲笑しまた。

イスラエルの指導者たちの道徳的レベルがどれほど低かったかを示す項目が次々と続いています。

「見よ。イスラエルの君主たちはみな、おまえの中で暴力をふるって血を流している。
おまえの中では、父や母は軽んじられ、おまえのところにいる在留異国人は虐待され、おまえの中にいるみなしごや、やもめはしいたげられている。
おまえはわたしの聖なるものをさげすみ、わたしの安息日を汚した。
おまえのうちのある者たちは、血を流そうと他人を中傷し、ある者は丘の上で食事をし、おまえの中でみだらなことをした。
おまえの中では父が裸をあらわされ、おまえの中では、さわりのある女が犯された。
ある者は隣人の妻と忌みきらうべきことをし、またある者は嫁とみだらなことをして身を汚し、ある者はおまえの中で、自分の父の娘である自分の姉妹をはずかしめた。
おまえの中では、血を流すためにわいろが使われ、おまえは利息と高利を取り、隣人を虐待して利得をむさぼった。おまえはわたしを忘れた。――神である主の御告げ。――」
(エゼキエル書22章6~12節)


民を主への信仰へと導くはずのイスラエルの君主たちこそが、最大の罪人となりました。
罪深い町では、子供たちは両親の指導を軽視し、父母を軽んじ、宿り住む寄留者を虐げ、孤児や寡婦を不当に扱いました。
主の聖なるものを敬虔に敬うどころか、彼らは主の犠牲を軽んじ、安息日を汚しました。
彼らは偽りの告発によって罪のない者たちを死に至らしめ、高き所で異教の神々を崇拝しました。
このようなすべての異教の崇拝は、最も卑劣で忌まわしい行為と結び付けられ、彼らは理性的な人間というよりむしろ獣のように振る舞っていました。

10節と11節に述べられている恐ろしい告発について、私たちは黙想したり、読んだりすることさえためらってしまいます。
しかし、神は彼らが汚れを隠そうとしたベールを剥ぎ取り、彼らの道徳的汚れをその恐ろしさのすべてにおいて明らかにされます。
すべてのものは神の聖なる目に裸で、明らかにされており、神はここに述べられているような罪を犯した者たちを裁かずにはいられません。
賄賂、それも最悪の種類の賄賂も彼らの間では日常茶飯事でした。
役人たちでさえ、自分たちの前にいる不当に告発された者たちに対する態度を歪めるために贈り物を受け取り、自分たちが富むために無実の者たちを死刑に処しました。
強奪と貪欲はあらゆる階級の間で蔓延していました。
これらすべての悪は、エジプトから彼らを救い出し、カナンでの滞在の間ずっと彼らを見守ってきた神を忘れたことの結果なのです。

「見よ。おまえが得た不正な利得と、おまえの中に流された血のために、わたしは手を打ち鳴らす。
わたしがおまえを罰する日に、おまえの心は耐えられようか。おまえの手は強くありえようか。主であるわたしがこれを語り、これをする。
わたしはおまえを諸国の民の中に散らし、国々に追い散らし、おまえの汚れを全く取り除き、
諸国の民が見ている前でおまえにゆずりの地を与える。このとき、おまえは、わたしが主であることを知ろう。」」
(エゼキエル書22章13~16節)


イスラエルの聖なる方が、これほど罪深く、悔い改めて、自分たちがこれほど不名誉に陥れた神との関係を正したいという願望をまったく示さなかった者たちを非難しないでいられるはずがありません。

14節の挑戦は、今日、自分の道を進もうとし、悔い改めと御言葉への服従を呼びかけている神の声に耳を傾けようとしない人々に、強く訴えかけるものと言えます。
「わたしがおまえを罰する日に、おまえの心は耐えられようか。おまえの手は強くありえようか。」
 人は健康で力強い間は神の御心を誇示し、その悪行に対する裁きがすぐには執行されずに、神が忘れ去られたと考えるかもしれません。
しかし、神が怒りをもって立ち上がり、わがままで不従順な者たちに、罪と不義に対する憤りを報いる日が必ず来ます。
その時、その恐ろしい日に人の心が耐えられることはありません。
また、どんな人の手が、彼らが挑んだ神の全能の力を抑え、抵抗することはできません。
ヤハウェが宣言したことは必ず成就します。
裁きは神の不思議な業であり、神は悪人の死を喜ばれません。
しかし、神の聖さは、罪が罰せられることを要求します。

15節と16節は、なんと文字通り成就したのです。
何世紀もの間、そうです、二千年もの間、イスラエルは諸国の間に散らされ、諸国に散らされました。
やがて、彼らが耐え忍ぶよう求められた苦しみの結果として、少なくとも残された民は自分たちの罪と向き合い、不義を告白し、自分たちが突き刺した方を仰ぎ見ることになります。
その時、彼らの汚れは彼らから焼き尽くされ、彼らはヤハウェがまことに自分たちの神であることを知るのです。
その日まで、彼らはかつて主の目に貴重な宝であったにもかかわらず、諸国民の中で不純物として残されているのです。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。イスラエルの家はわたしにとってかなかすとなった。彼らはみな、炉の中の青銅、すず、鉄、鉛であって、銀のかなかすとなった。
それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたはみな、かなかすとなったから、今、わたしはあなたがたをエルサレムの中に集める。
銀、青銅、鉄、鉛、すずが炉の中に集められるのは、火を吹きつけて溶かすためだ。
そのように、わたしは怒りと憤りをもってあなたがたを集め、そこに入れて溶かす。
わたしはあなたがたをかり集め、あなたがたに向かって激しい怒りの火を吹きつけ、あなたがたを町の中で溶かす。
銀が炉の中で溶かされるように、あなたがたも町の中で溶かされる。
このとき、あなたがたは、主であるわたしがあなたがたの上に憤りを注いだことを知ろう。」」
(エゼキエル書22章17~22節)


この段落で用いられている比喩は、様々な金属をるつぼに流し込み、炉の熱にさらして溶かし、そして異なる金属を互いに分離させることを表わしています。
精錬者の顔に映った銀は、ごくわずかの量です。
なぜなら、主の声に耳を傾ける者はほとんどいなかったからです。
大部分は真鍮や鉄や鉛のような卑金属であり、神は怒りと憤りによってそれらを捨て去ることしかできません。

メシアが来られるとき、彼は銀を精錬する者として座り、そして主を讃える民が現れ、地上で彼のイメージを反映し、彼に栄光を帰すであろうことを私たちは知っています。

最後のセクションは23節から31節までを含むやや長いセクションです。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。この町に言え。おまえは憤りの日にきよめられず、雨も降らない地である。
そこには預言者たちの陰謀がある。彼らは、獲物を引き裂きながらほえたける雄獅子のように人々を食い、富と宝を奪い取り、その町にやもめの数をふやした。
その祭司たちは、わたしの律法を犯し、わたしの聖なるものを汚し、聖なるものと俗なるものとを区別せず、汚れたものときよいものとの違いを教えなかった。また、彼らはわたしの安息日をないがしろにした。こうして、わたしは彼らの間で汚されている。
その町の首長たちは、獲物を引き裂いている狼のように血を流し、人々を殺して自分の利得をむさぼっている。
その町の預言者たちは、むなしい幻を見、まやかしの占いをして、しっくいで上塗りをし、主が語られないのに『神である主がこう仰せられる。』と言っている。
一般の人々も、しいたげを行ない、物をかすめ、乏しい者や貧しい者を苦しめ、不法にも在留異国人をしいたげた。
わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。
それで、わたしは彼らの上に憤りを注ぎ、激しい怒りの火で彼らを絶滅し、彼らの頭上に彼らの行ないを返した。――神である主の御告げ。――」
(エゼキエル書22章23~31節)


ここで主は、民への怒りによって雨を降らせなかったために、イスラエルの地が汚れ、不毛な状態にあったことを再び強調しています。
さらに、いわば偽預言者たちの陰謀がありました。
預言者たちとは、主の名において語ると公言しながらも、欺き、平和のないところを平和を約束することで民を欺こうとする者たちです。
彼らの甘い言葉と偽りの預言は、多くのたましいを滅ぼし、イスラエルの宝と貴重なものを失わせました。
神ご自身が敵から彼らを守らないと宣言していません。
それにもかかわらず、夫たちがこれらの偽預言者の命令に従って国を守るために出かけたため、未亡人が増えたのです。
神殿の祭司たちは、偽善的な奉仕を続けながら、ヤハウェの聖なるものを汚しました。
もはや、神に属するものと民の日常生活にかかわるものとの区別はなくなりました。
彼らは清いものと汚れたものの区別もない状態です。
祝福のために与えられた主の安息日は、もはや重んじられることなく、むしろ汚されました。

君主たちは再び告発されます。
群れを牧するどころか、民に解き放たれた獰猛な狼のように、罪なき人々の血を流し、たましいを破壊して私腹を肥やしたからです。
預言者たちは、現代の人間に迎合する説教者のように、民が罪を犯しても居心地よくいられるように仕向け、固めていないモルタルで塗り固め、偽りの幻を見、真実の主の名において嘘を占いました。
民は頼りない霊的指導者に従い、貧しい人々や困窮している人々を助けるどころか、抑圧と略奪と苦難に身を委ねました。

このような状況下で、ヤハウェは彼らの中に、ご自分に代わって行動し、不義に立ち向かい、町の城壁を築き、その隙間を埋める人物の一人を探しましたが、一人も見つかりません。
エゼキエル自身は、もはやパレスチナではなく、カルデアのケバル川の岸辺にいたことを忘れてはなりません。
その地にも、汚れた町にも、民のために弁護する者はエレミヤ以外には一人もいません。
エレミヤのメッセージは拒絶され、彼自身も投獄されました。
そのため、民とその罪にふさわしい裁きの間に立ちはだかる者は誰もいません。
そこで神は、御怒りを彼らに注ぎ、御怒りの火で彼らを焼き尽くすと宣言されました。
そして、これらはすべて彼ら自身の傲慢さによるものであり、彼らは自分の道を進み、罪深い頭上にこれらの災いがもたらされたのです。


23章 イスラエルとユダの背教

この長い章で、神はイスラエルとユダとの論争の根拠をもう一度取り上げています。
彼らをエジプトの地から連れ出し、神に忠実であるよう命じたが、共に神に背を向け、最も下劣な偶像崇拝に従ったことが描かれています。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。同じ母の娘である、ふたりの女がいた。
彼女たちはエジプトで淫行をし、若いときから淫行をし、その地で彼女たちの胸は抱きしめられ、その処女の乳房はもてあそばれた。
その名は、姉はオホラ、妹はオホリバで、ふたりはわたしのものとなり、息子や娘たちを産んだ。その名のオホラはサマリヤのこと、オホリバはエルサレムのことである。」
(エゼキエル書23章1~4節)


「オホラ」という言葉は「彼女の天幕」を意味し、「オホリバ」は「わたしの天幕は彼女の中にある」という意味です。
「天幕」と「幕屋」はもちろん同じ意味なので、意味は明らかです。
ヤハウェは、ヤロブアムが十部族のために設けた礼拝をご自身と同一視されたことはありません。
その民が行った聖所は単に彼ら自身の幕屋でしたが、ユダはそうではありません。
神ご自身がユダの真ん中に幕屋を設け、ユダに住み、ダビデの家への服従から反抗した十部族にはそのようにされていません。
神ご自身がご自身の名をエルサレムと結び付けました。
ついに彼らは、イスラエルがアッシリアに移送されるまで、イスラエルの特徴であったのと同じ偶像礼拝に完全に陥ってしまいました。

すでに見てきたように、霊的な姦淫は偶像崇拝であり、唯一の真の生ける神から背き、偶像に身を委ねることです。
神は、イスラエルとユダ両国が神への不貞という重大な罪を犯したことを、不貞な女という比喩で表しています。
潔癖な趣味を持ち、繊細な感性を持つ人は、当然ながらこのような聖句を読むことをためらいます。
しかし、罪を描写する言葉が汚れているわけでも、神聖でないわけでもないことを私たちは忘れてはなりません。
神の目に非常に忌まわしいのは、言葉の背後にある悪であり、すべての正しい心を持つ人によって忌み嫌われるべきです。

「オホラは、わたしのものであったのに、姦通し、その恋人、隣のアッシリヤ人を恋い慕った。
彼らは、青色の衣を着た総督や長官で、すべて麗しい若い男たちであり、馬に乗る騎兵であった。
彼女は彼らと姦通した。彼らはみなアッシリヤのえり抜きの者であった。彼女は恋い慕った者のすべての偶像で自分の身を汚した。
彼女はエジプト以来の淫行をやめようとしなかった。それは、彼女の若いとき、エジプト人が彼女と寝てその処女の乳房をもてあそび、彼女に情欲を注いだからである。
それでわたしは、彼女が恋い慕う恋人たちの手、アッシリヤ人の手に彼女を渡した。
彼らは彼女の裸をさらけ出し、その息子や娘たちを奪い取り、彼女を剣で殺してしまった。こうして、彼女にさばきが下され、彼女は女たちの語りぐさとなった。」
(エゼキエル書23章5~10節)


ここで神は、北のイスラエルが犯した罪を、姦通という比喩を用いて示しています。
イスラエルは、汚れた偶像崇拝に明け暮れる隣人たちのあらゆる悪行にならい、ついには神によって見捨てられたのです。
このような出来事はすべてユダの民に有益な影響を与え、北の隣人たちに破滅をもたらした罪を忌み嫌うようになると誰もが思ったかもしれません。
しかし、悲しいかな、人の心は悪に傾きやすく、「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます」(コリント人への手紙第一15章33節)というのは真実です。
そのため、ユダはすぐに、北の姉妹イスラエルと同じ邪悪と霊的な淫らさに陥ってしまいました。
このすべては11節から21節に明確に示されています。

「妹のオホリバはこれを見たが、姉よりいっそう恋情を腐らせ、その淫行は姉の淫行よりひどかった。
彼女は隣のアッシリヤ人の総督や長官を恋い慕った。彼らはみな盛装をし、馬に乗る騎兵たちで、麗しい若い男であった。
わたしは彼女が身を汚すのを見たが、ふたりとも同じやり方であった。
彼女は淫行を増し加え、壁に彫られた人々、朱で描かれているカルデヤ人の肖像を見た。
それらは腰に帯を締め、頭には垂れるほどのターバンをつけ、みな侍従のように見え、彼らの出生地カルデヤのバビロン人の姿をしていた。
彼女はそれを一目見ると、彼らを恋い慕い、使者たちをカルデヤの彼らのもとに遣わした。
バビロン人は、彼女のもとに来て、恋の床につき、彼女を情欲で汚した。彼女が彼らによって汚れたものとなったときに、彼女の心は彼らから離れ去った。
それでも、彼女は自分の淫行をさらけ出し、自分の裸をあらわした。それで、わたしの心は、かつて彼女の姉から離れ去ったように、彼女からも離れ去ってしまった。
しかし、彼女は、かつてエジプトの地で淫行をしたあの若かった日々を思い出して、淫行を重ね、
ろばのからだのようなからだを持ち、馬の精力のような精力を持つ彼らのそばめになりたいとあこがれた。
このように、あなたはエジプト人があなたの若い胸を抱きしめ、あなたの乳房をもてあそんだあの若い時のみだらな行ないをしきりに望んだ。」
(エゼキエル書23章11~21節)


オホリバの卑劣さゆえに、聖なる神はもはや彼女の罪を許すことができません。
彼女は神の警告に従って彼女の罪にふさわしい処置を取らなければなりません。

「それゆえ、オホリバよ、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、あなたの心がすでに離れ去ったあなたの恋人たちを駆り立ててあなたを攻めさせ、四方からあなたを攻めによこす。
彼らはバビロン人、すべてのカルデヤ人、ペコデや、ショアや、コアの人々、それに加えてアッシリヤのすべての人々である。
またすべての麗しい若い男、総督、長官、侍従、議官、馬に乗る者たちである。
彼らは、軍馬、戦車、車両、および民の大集団を率いてあなたを攻めに来、大盾、盾、かぶとを着けて四方からあなたを攻める。
わたしが彼らにさばきをゆだねるので、彼らは自分たちのさばきに従ってあなたをさばく。
わたしはあなたをわたしのねたみとする。彼らは怒って、あなたを罰し、あなたの鼻と耳とを切り取り、残りの者を剣で切り倒す。
彼らはあなたの息子や娘たちを連れ去り、残りの者は火で焼き尽くされる。
彼らはあなたの着物をはぎ取り、あなたの美しい品々を奪い取る。
わたしはあなたのみだらな行ないと、エジプトの地以来の淫行をやめさせ、あなたが彼らを仰ぎ見ず、もうエジプトを思い出さないようにする。
神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、あなたが憎む者の手、あなたの心が離れ去った者の手に、あなたを渡す。
彼らは憎しみをもってあなたを罰し、あなたの勤労の実をことごとく奪い取り、あなたをまる裸にして捨て去ろう。
あなたの淫行と淫乱と売淫の恥はあばかれる。」
(エゼキエル書23章22~29節)


このような言葉は、ほとんど注釈を必要としません。
あまりにも平明なので、解説は不要です。
用いられている言葉は非常に明快なので、読者は誰でも神がなぜその民をこのように扱われたのか容易に理解できます。
神のあらゆる戒めにもかかわらず、彼らは汚れた行いを続け、神が遣わした預言者たちの訓戒を嘲笑して軽んじたのです。

「これらのことがなされるのは、あなたが異邦の民を慕って姦淫をし、彼らの偶像であなたの身を汚したからである。
あなたが姉の道を歩んだので、わたしは彼女の杯をあなたの手にも渡す。
神である主はこう仰せられる。あなたは姉の杯、深くて大きい杯を飲み、物笑いとなり、あざけりとなる。
この杯はあふれるほどに満ちている。
あなたは酔いと悲しみに満たされる。恐怖と荒廃の杯、これがあなたの姉サマリヤの杯。
あなたはこれを飲み、飲み干して、杯のかけらまでかみ、自分の乳房をかき裂く。わたしがこれを語ったからだ。――神である主の御告げ。――
それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたはわたしを忘れ、わたしをあなたのうしろに投げやったから、あなたも自分のみだらな行ないと、淫行の責めを負え。」」
(エゼキエル書23章30~35節)


神は、サマリアにすでに与えられたのと同じ裁きを彼らにも与えようとしていました。
そして、彼らにとって、生ける神から離れることがどういうことなのでしょうか?
心から悔い改めて神に立ち返るならば、喜んで彼らの罪をすべて背後に投げ捨てて下さることを知らないのです。
神から離れることがどういうことなのかを、たましいの苦しみをもって学ぶべきだったのです。

主は、彼らが主を忘れ、主の言葉を背後に投げ捨て、あらゆる偶像崇拝に身を委ねたことを叱責しています。

「主は私に仰せられた。「人の子よ。あなたはオホラとオホリバをさばくか。
それなら、ふたりに彼女たちの、忌みきらうべきわざを告げ知らせよ。
彼女たちは姦通し、その手は血に染まっている。彼女たちは自分たちの偶像と姦通し、わたしのために産んだ子どもをさえ、それらのために火の中を通らせて、焼き尽くした。
なお、彼らはわたしに対してこんなことまでし、同じ日に、わたしの聖所を汚し、わたしの安息日を汚した。
偶像のために、自分たちの子どもを殺し、その同じ日にわたしの聖所に来て、これを汚した。
彼らはなんと、このようなことをわたしの家の中でした。
それなのに、あなたがたは、遠くから来る人々を、使者を遣わして招いた。
彼らが来ると、あなたは、彼らのために身を洗い、目の縁を塗り、飾り物で身を飾り、
豪奢な寝台に横たわり、その前に食卓を整え、その上にわたしの香と油とを置いた。
そこでは、のんきなばか騒ぎが聞こえ、都会からの者に、荒野からの大酒飲みが加わった。
そして、彼らは、彼女たちの腕に腕輪をはめ、頭には、輝かしい冠をかぶせた。」
(エゼキエル書23章36~42節)

イスラエルとユダは共に、背教に伴う危険について警告を受けていました。
しかし、かつて知っていた真理から故意に背を向け、周辺諸国のやり方に身を委ねてしまいました。
彼らはヤハウェの聖所を汚し、安息日を冒涜し、神が決して彼らに求めなかったであろうことを偶像のために行いました。
すなわち、悪霊に取り憑かれた高位の祭司たちの命令で、自分たちの子供たちを犠牲に捧げたのです。
あらゆる手段を使って男を惹きつけようとする不貞な女のように、彼らは異教徒の宗教的、政治的なやり方を自分たちの生活様式に取り入れようとあらゆる努力をしました。
このように神を著しく辱めたため、神は彼らを拒絶し、彼らの頭上に裁きを下す以外に何もできません。

「そこで、わたしは、姦通で疲れきった彼女について考えた。
彼らは今、その女と姦淫をしているのではないかと。
彼らは遊女のもとに行くように、彼女のもとに行った。
彼らは、みだらな女たち、オホラとオホリバのもとに行った。
しかし、正しい人たちは、姦通した女に下す罰と殺人をした女に下す罰で彼らをさばく。
彼女たちが姦通し、彼女たちの手が血に染まっているからだ。」
まことに神である主はこう仰せられる。「わたしは一つの集団を彼らに向けて攻め上らせ、彼女たちを人々のおののきとし、えじきとする。
集団は彼女たちを石で打ち殺し、剣で切り倒し、その息子や娘たちを殺し、その家々を火で焼き払おう。
わたしはこの地からみだらな行ないをやめさせる。すべての女たちは自分自身を戒めて、あなたがたがしたような、みだらな行ないをしなくなる。
あなたがたのみだらな行ないの報いはあなたがたの上に下り、あなたがたはあなたがたの偶像の罪の罰を負わなければならない。このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう。」」
(エゼキエル書23章43~49節)


この部分を締めくくる言葉は非常に厳粛です。
ユダが陥った状況は、なんと言葉に尽くせないほど悲惨なものだったのです!
かつてヤハウェの冠に輝く宝石であった彼女は、今やどん底にまで堕ち、神は彼女を御前から追い出し、バビロンへと送り込もうとしていました。
彼女は、神を拒絶し、御言葉に耳を傾けず、諸国の異国の神々を追い求めました。
そのことが、彼女にとってどれほどの過ちであったかを、たましいの苦しみとともに知ることになります。
それらの神々は実際には神ではなく、犠牲を捧げる者を滅ぼそうとする悪魔に過ぎません。


24章 預言者の妻の死はイスラエルへの兆し

最後の4章に記された預言はすべて、エホヤキン王の捕囚7年目に語られたものと思われます。(20章1節)
24章のメッセージは、捕囚第九年の第十の月の十日に記されています。
ユダの散らされた諸族が間もなく平和のうちに故郷に帰還すると偽預言者たちが預言した楽観的な約束にもかかわらず、状況は悪化の一途を辿りました。

「第九年の第十の月の十日に、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。この日、ちょうどこの日の日づけを書きしるせ。ちょうどこの日に、バビロンの王がエルサレムに攻め寄せたからだ。
あなたは、反逆の家に一つのたとえを語って言え。神である主はこう仰せられる。なべを火にかけ、これを据え、水をこれに注ぎ入れよ。
これに肉の切れ、ももと肩の良い肉の切れをみないっしょに入れ、えり抜きの骨でこれを満たせ。
えり抜きの羊を取れ。なべの下には、まきを積み、よく沸騰させて、その中の骨も煮よ。」
(エゼキエル書24章1~5節)


ネブカデレザルは今や君主となり、エルサレムに二度目の攻めを仕掛けました。
神は彼を用いて、罪深いこの街に裁きを下そうとしています。
住民たちは、自分たちが直面している真の危険にまだ気づいていません。
再び、エルサレムを大きな鍋に、そして住民たちをその中で煮られる肉に例えています。
街を包囲するカルデア軍は、街の住民を滅ぼすまで鍋を激しく煮立たせる火のようでした。

続く節でエゼキエルはこの例えを詳しく述べ、かつてヤハウェがその名を置かれたものの、今やそのさまざまな罪悪のゆえにヤハウェに否定された、被災した街の人々に、この例えを力強く適応させています。

「それゆえ、神である主はこう仰せられる。ああ。流血の町、さびついているなべ。そのさびは落とせない。一切れずつそれを取り出せ。くじで引いてはならない。
彼女の血はまだ、そこにある。彼女はそれを裸岩の上に流し、地面にそれを流さず、これに土をかぶせようともしなかった。
わたしは、憤りをつのらせ、復讐するため、その血を裸岩の上に流させて、これに土をかぶせなかった。
それゆえ、神である主はこう仰せられる。ああ。流血の町。わたしもこれにたきぎを積み上げよう。
まきをふやし、火を燃え立たせ、肉をよく煮、味をつけ、骨も燃やせ。
なべをからにして炭火にかけ、その青銅を熱くして、その中の汚れを溶かし、さびがなくなるようにせよ。
しかし、その骨折りはむだだった。そのひどいさびはそれから落ちず、そのさびは、なお、火の中にあった。
あなたのみだらな汚れを見て、わたしはあなたをきよめようとしたが、あなたはきよくなろうともしなかった。それでわたしがあなたに対するわたしの憤りを静めるまで、あなたは決してきよめられない。
主であるわたしは言った。それは必ず起こる。わたしはそれを行なって、なおざりにせず、惜しまず、思い直しもしない。あなたの行ないや、わざにしたがって、あなたをさばく。――神である主の御告げ。――」」
(エゼキエル書24章6~14節)


エルサレムは「聖なる都」ではなく「流血の町」と呼ばれています。
なぜなら、そこは人々の偶像崇拝的な邪悪さによって、完全に汚されていたからです。
自分たちの汚物の中で煮えたぎる不快な汚物のように、滅びに定められた住民たちは、彼らが律法を軽んじ、神の恵みを蔑んだ神の復讐にさらされていました。
彼らは、救うことのできない偽りの神々に高き所で犠牲を捧げたように、裸岩の頂に血が流され、神に受け入れられるにふさわしくない汚れた者として塵に投げ込まれます。
神ご自身が彼らに対して大きな火の山を作り、彼らを救うために御腕を伸ばす代わりに、彼らの罪にふさわしい滅びへと彼らを引き渡しました。
エルサレムは再び、結婚を破った偽善的で不貞な女に例えられています。
彼女は自分の汚名と恥辱を覆い隠すために、嘘をつき疲れ果てていましたが、すべて無駄でした。
彼女の堕落は明白でした。
彼女の罪にふさわしい主の怒りに耐えるまで、彼女の汚れと淫らさは浄化されることも、清められることもできません。

神は語られたことを必ず成就されます。
神の意思を変えることも、悔い改める機会をこれ以上与えることもありません。
彼らはもはや救いようのない罪を犯しました。
ゆえに、裁きは下されます。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。見よ。わたしは一打ちで、あなたの愛する者を取り去る。嘆くな。泣くな。涙を流すな。
声をたてずに悲しめ。死んだ者のために喪に服するな。頭に布を巻きつけ、足にサンダルをはけ。
口ひげをおおってはならない。人々からのパンを食べてはならない。」
その朝、私は民に語ったが、夕方、私の妻が死んだ。翌朝、私は命じられたとおりにした。」
(エゼキエル書24章15~18節)


この節では、預言者の個人的な経験について述べています。
彼が深く愛していた妻は、突然の死によって奪われることになりました。
しかし、彼は外面的に悲しみのしるしを一切見せてはなりません。
なぜなら、彼が苦しんだように、民全体も苦しむべきだからです。
彼は死者のために泣くことを控えるよう命じられましたが、自分たちが直面しなければならない悲しみを、沈黙のうちに耐え忍ぶよう命じられました。

その日、彼はいつものように預言を続けましたが、頭上には重い雲が垂れ込めていました。
そして夕方、妻は息を引き取りました。
確かに彼の心は重かったに違いないが、朝になっても、たましいの奥底で渦巻く悲しみは何も表に出ず、ただ沈黙を守っていました。
妻への彼の真摯な愛情を間違いなく知っていた人々は、彼の無関心ぶりに愕然としました。

「すると、民は私に尋ねた。「あなたがしていることは、私たちにとってどんな意味があるのか、説明してくれませんか。」
そこで、私は彼らに答えた。「次のような主のことばが私にあった。
『神である主がこう仰せられるとイスラエルの家に言え。見よ。わたしは、あなたがたの力の誇りであり、あなたがたが愛し、心に慕っているわたしの聖所を、汚す。あなたがたが見捨てた息子や娘たちは剣で倒される。
あなたがたはわたしがするようにすることになる。あなたがたは自分の口ひげをおおわず、人々からのパンを食べなくなる。
頭に布を巻きつけ、足にサンダルをはき、嘆いたり泣いたりしないようになる。ただ、自分たちの咎のために朽ち果て、互いに嘆き合うようになる。
エゼキエルはあなたがたのためのしるしとなり、彼がしたとおりを、あなたがたもするようになる。
このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう。」
(エゼキエル書24章19~24節)


隣人たちがエゼキエルの奇妙な行動について質問したとき、エゼキエルは、エルサレムの住民とイスラエルの民全体に訪れるであろう悲しみや喪失に比べれば、自分の喪失はほんの小さなものであると説明しました。

主なる神は、彼らの行いのゆえに、神の聖所が冒涜と破壊に引き渡されることを定めました。
神の目に慕われていたイスラエルは死に渡され、その息子、娘たちは残忍で復讐心に燃える敵の剣によって滅ぼされます。
その虐殺はあまりにも凄惨で、生き残った者たちは文字通り恐怖に凍りつき、深い悲しみに言葉を失います。
ですから、彼らは預言者がたましいの苦悩の時にしたように、死者のゆえに喪服を着たり、苦悩のしるしを見せたりしてはいけません。
むしろ、彼らは自分たちの罪の中に衰弱し、自分たちが耐え忍ぶよう求められたことを嘆き悲しむ運命にあります。

このように、エゼキエルは彼らのしるしとなりました。
なぜなら、彼らは主の言葉が成就したときにエゼキエルがしたように行わなければならなかったからです。
そして、エゼキエルが、その民の告白されていない罪に対して裁きを執行するのは、主なる神であることを彼らは知る必要があったからです。

「人の子よ。わたしが、彼らの力とするもの、栄えに満ちた喜び、愛するもの、心に慕うもの、彼らの息子や娘たちを取り去る日、
その日、のがれた者が、この知らせを告げにあなたのもとにやって来る。
その日、あなたはのがれて来た者に口を開いて言え。もう黙っていてはならない。あなたが彼らのしるしとなるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。』」」
(エゼキエル書24章25~27節)


町が陥落し、大勢の人々が殺され、逃れてきた人々が助けと慰めを求めてエゼキエルのもとに来た時、もはや彼は口をきくことなく、その日に主が与えられるべき御言葉を彼らに語りかけなければなりません。
不従順の後に裁きは必ず下されるが、神は罪を告白し、捨てるすべての人に慈悲を示すことを喜ばれます。

これらすべては、確かに現代の私たちへのメッセージがあります。
クリスチャンを告白する私たちは、神の言葉に示された真理から遠く離れています。
神が立ち上がって、世の物を追い求め、神の御名を辱めた者たちを裁く時、私たちは逃れられることを期待することはできません。
この恵みの時代が終わる前に、神と神の言葉への大いなる回帰が起こり、リバイバルと祝福が訪れることを願います。


25章 周辺諸国に対する裁き

ペテロの手紙第一4章17節にはこのようにあります。

「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」
(ペテロの手紙第一4章17節)


これは、神がその民と世界とを扱う際の原則を示しています。
この章では、このことが例証されています。
裁きは主の聖所から始まりました。
主の裁きの杖は、その町と御名によって呼ばれる民の上に伸ばされました。
カルデア人の征服者は、イスラエルとユダがヤハウェへの従順の道から大きく逸脱したため、彼らに対して復讐を実行しました。
しかし、このように神の裁きが神自身の家と民に対して執行されるのであれば、神の民をはるかにしのぐ悪をもった周囲の諸国民は、逃れる望みを持つことはありません。
したがって、預言者は主の怒りがこれらの隣接する民族に降りかかろうとしていることを宣言するように命じられました。

1節から7節には、アモンに対する裁きが記されています。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。顔をアモン人に向け、彼らに預言せよ。
あなたはアモン人に言え。神である主のことばを聞け。神である主はこう仰せられる。
わたしの聖所が汚されたとき、イスラエルの地が荒れ果てたとき、ユダの家が捕囚となって行ったとき、あなたは、あはは、と言ってあざけった。
それゆえ、わたしは、あなたを東の人々に渡して、彼らの所有とする。彼らはあなたのうちに宿営を張り、あなたのうちに住まいを作り、あなたの産物を食べ、あなたの乳を飲むようになる。
わたしがラバを、らくだの牧場とし、アモン人の地を羊のおりとするとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
まことに、神である主はこう仰せられる。あなたは手を打ち、足を踏み鳴らし、イスラエルの地を心の底からあざけって喜んだ。
それゆえ、わたしは、あなたに手を伸ばし、異邦の民にあなたをえじきとして与え、あなたを国々の民の中から断ち滅ぼし、国々の間から消えうせさせる。このとき、あなたは、わたしが主であることを知ろう。」
(エゼキエル書25章1~7節)


アモン人はベン・アミの子孫であったことをご存じです。
ベン・アミはロトの私生子の一人であり、実の娘との近親相姦の結果生まれました。
娘はロトに酒を飲ませ続け、酔いつぶれて自分が何をしているのか分からなくなってしまいました。
したがって、アモン人はある意味ではイスラエルの民と血縁関係がありました。
その関係は極めて不名誉なものでした。
彼らはイスラエルから軽蔑の眼差しで見られていることを認識していたようです。
なぜなら、彼らは初期の時代から神の民の敵として数えられていたからです。

エゼキエルは、これらのアモンの民に顔を向け、預言するように命じられました。
彼らは高慢な誇りから、ヤハウェの聖所を嘲笑し、その冒涜を喜び、それが荒廃するのを喜び、神の民が捕囚されるのを見て誇って喜びました。
神は、ご自分の民の敵によるこのような行為を決して無視されません。
神は彼らの失敗を罰することは適切だと考えるかもしれませんが、敵による嘲笑は容認されません。
ゆえに、この時、神はアモン人を東方の民の所有地として引き渡そうとされました。
彼らもまたカルデア人に侵略され、その軍隊は完全に敗北するのです。
多くの民が捕囚され、大きな街は荒廃します。
古代から彼らの首都とみなされてきたラバでさえ、ラクダの厩舎、羊の群れの寝床になります。
このように、アモン人は苦い経験を通して神の憤りを思い知らされることになります。
イスラエルの地に神の裁きが下るのを見て歓喜したゆえに、彼らもまた諸国の略奪物として引き渡され、諸民族から切り離されます。
つまり、彼らはもはや独立した領土として認められなくなります。
アモンは主の憤りによって完全に滅ぼされるのです。

「神である主はこう仰せられる。モアブとセイルは、『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない。』と言った。
それゆえ、わたしは、モアブの山地の町々、その国の誉れであるベテ・ハエシモテ、バアル・メオン、キルヤタイムの町々をことごとくあけ放ち、
アモン人といっしょに、東の人々に渡して、その所有とし、諸国の民の間でアモン人が記憶されないようにする。
わたしがモアブにさばきを下すとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」
(エゼキエル書25章8~11節)


この節で預言者はモアブとセイルに注目しています。
モアブ人はイスラエルの人々とアモン人と同じ様な関係にあり、モアブ自身もロトのもう一人の娘とその実父との間に生まれた子でした。
モアブの傲慢さは他の聖句にも記されています。
彼らはヨルダン川の向こう側、死海の東の高地にある要塞の住居を誇りとしていました。
彼らは自分たちの住居が難攻不落だと考えていました。
やがて苦い経験を通して、ネブカデレザルの軍隊に対抗する力がないことを思い知ることになります。
モアブでは極めて残酷な偶像崇拝が蔓延し、モロクなどの卑しい神々に息子や娘を犠牲に捧げていました。
彼らは、民への怒りを鎮め、地に雨と祝福を与えるために、そのような供物を行っていたと考えられています。

今、彼らは窮地に陥ったとき、これらの偽りの神々が自分たちを守る力がないことに気づきました。
また、自分たちが軽んじていたのは実に永遠の神ヤハウェであったことを知るのです。

「神である主はこう仰せられる。エドムはユダの家に復讐を企て、罪を犯し続け、復讐をした。
それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはエドムに手を伸ばし、そこから人も獣も断ち滅ぼし、そこを廃墟にする。テマンからデダンに至るまで人々は剣で倒される。
わたしは、わたしの民イスラエルの手によってエドムに復讐する。わたしの怒りと憤りのままに彼らがエドムに事を行なうとき、エドムは、わたしが復讐するということを知る。――神である主の御告げ。――」
(エゼキエル書25章12~14節)


エドムもイスラエルと縁戚関係にありましたが、これまで考察してきた二つの国とは全く異なる関係でした。
創世記36章43節には「エドム人の先祖はエサウである」とあります。
つまり、エドムはヤコブの双子の兄弟の子孫であり、その名は最初の人間アダムと実質的に同じです。
彼はまさに肉の人を表しています。
彼は非常に高潔な性格の持ち主で、ある意味では陰謀を企む兄ヤコブよりも称賛に値する人物でした。
ヤコブはエサウとは異なり、主との契約を重んじていました。
神はエサウにモアブに隣接する地と死海の南を与えていました。
ここには大きな要塞街が築かれ、現在もそのいくつかは残っており、そこを訪れる旅行者の驚きと称賛の的となっています。
山々を切り開いた建築物に驚嘆すべき岩窟街ペトラは、エドムの街として残るものの、エドムが完全に滅ぼされると宣言した神の言葉の真理を永遠に記念するものとなりました。
エドムはイスラエルを憎み、本来友好関係を築くべき者たちに敵対しました。
それゆえ、神の裁きはエドムにも下ることになり、神はその怒りと憤りに従ってエドムの街に仕えました。
このように、エドムは神の復讐を知り、神の全能の力に逆らうことの愚かさを学ぶことになります。

「神である主はこう仰せられる。ペリシテ人は、復讐を企て、心の底からあざけって、ひどい復讐をし、いつまでも敵意をもって滅ぼそうとした。
それゆえ神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、ペリシテ人に手を伸ばし、ケレテ人を断ち滅ぼし、海辺の残った者を消えうせさせる。
わたしは憤って彼らを責め、ひどい復讐をする。
彼らは、わたしが彼らに復讐するとき、わたしが主であることを知ろう。」」
(エゼキエル書25章15~17節)


ペリシテ人は古来よりイスラエルの敵でした。
彼らはエジプトに起源を持つカフトルの子孫です。
南からパレスチナに侵入し、型的には世俗の人間が神の民の遺産を侵害すると述べられています。
つまり、彼らは霊的な識別力を持たない生まれながらの人間でありながら、神がご自身を啓示された者たちに対して権威を振るう者を象徴しています。
現在でもそのようなペリシテ人は数多くいます。
救われていない者たちが神の奉仕者を自称し、神の民に対して権威を振るっています。
しかし、実際には神の御国で生まれたことはありません。

ペリシテ人は幾世紀にもわたってこの地に住み、イスラエルの最盛期でさえ、この狡猾な敵を滅ぼすことは一度もできていません。
時には屈服させることもありました。
今、神が彼らを罰する時が来ました。
彼らは心底、意地悪な復讐をし、永遠の敵意をもって神の民を滅ぼそうとしたからです。
このため、彼ら自身も滅ぼされる運命でした。
彼らは、自分たちに降りかかるヤハウェの復讐の恐ろしさを知らなければなりません。
このように、彼らもまた、自分たちがイスラエルの神、ヤハウェに逆らったことを知らなければなりません。


26章 ツロに対する神の裁き

エルサレムが包囲されていた当時、ツロの町は依然として巨大で著名な商業街でした。
ツロの船は当時知られていた世界のあらゆる港を訪れ、西アジアからあらゆる種類の品物を運び、フェニキアで使える原材料を運び帰ってきました。
ツロは、神から独立して生き、島国であることで敵からの安全を誇りとする快楽主義者の町として有名でした。
しかし、ツロだけでなく、イスラエルを取り囲む他の民族にも、その邪悪さと腐敗のゆえに裁きが下されるに違いありません。

「第十一年のその月の一日に、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。ツロはエルサレムについて、『あはは。国々の民の門はこわされ、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった。それゆえ、神である主はこう仰せられる。ツロよ。わたしはおまえに立ち向かう。海の波が打ち寄せるように、多くの国々をおまえに向けて攻め上らせる。
彼らはツロの城壁を破壊し、そのやぐらをくつがえす。わたしはそのちりを払い去って、そこを裸岩にする。
ツロは海の中の網を引く場所となる。わたしが語ったからだ。――神である主の御告げ。――ツロは諸国のえじきとなり、
畑にいる娘たちも剣で殺される。このとき、彼らはわたしが主であることを知ろう。」
(エゼキエル書26章1~6節)


この預言は、前の章で記録されているように、先ほど考察した預言の約2年後に与えられました。
エゼキエルは、エルサレムに降りかかった悲嘆と悲しみをツロが喜んだため、ツロに対して預言するよう命じられました。
エゼキエルは、ツロが隣人の不幸を喜び、エルサレムに降りかかった災難がツロ自身のさらなる復興につながると考えている様子を描いています。
ツロの無慈悲な態度ゆえに、ヤハウェはツロに敵対することを宣言し、多くの諸国民を進軍させてツロを包囲させると告げられました。
まるで海そのものが破滅の都に波をぶつけているかのようです。
ツロの城壁は破壊され、塔は崩れ、その土台の塵さえも削り取られ、水の中のむき出しの岩のようになるのです。
この預言は文字通り成就し、かつてツロが位置していた岩だらけの島は、まさに今日に至るまで、ここで預言された通りの状態を保っています。
そこは今も漁師たちの網を広げる場所であり、何世紀にもわたって多くの人々を驚かせてきました。
周辺の村々は母なる街と共に滅ぼされることになっていましたが、これもまた時が来た時に実現しました。

この破壊がどのように行われたかについては、次のセクションで予測されています。

「まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、王の王、バビロンの王ネブカデレザルを、馬、戦車、騎兵をもって多くの民の集団とともに、北からツロに連れて来る。
彼は畑にいる娘たちを剣で殺し、おまえに向かって塁を築き、塹壕を掘り、大盾を立て、
城壁くずしをおまえの城壁に向けて配置し、やぐらを斧で取りこわす。
その馬の大群の土煙はおまえをおおう。彼が城門にはいるとき、打ち破られた町にはいる者のように、騎兵と、車両と、戦車の響きに、おまえの城壁は震え上がる。
彼は、馬のひづめで、おまえのちまたをすべて踏みにじり、剣でおまえの民を殺し、おまえの力強い柱を地に倒す。
おまえの財宝は略奪され、商品はかすめ奪われ、城壁はくつがえされ、住みごこちのよい家は取りこわされ、石や、木や、ちりまでも、水の中に投げ込まれる。
わたしはおまえの騒がしい歌をやめさせる。おまえの立琴の音ももう聞かれない。
わたしはおまえを裸岩とする。おまえは網を引く場所となり、二度と建て直されない。主であるわたしが語ったからだ。――神である主の御告げ。――」
(エゼキエル書26章7~14節)


ネブカドレザル(Nebuchadrezzar) ― ここでの綴りに注目してください。
最後から2番目の音節の「N」の代わりに「R」が、バビロンの町の城壁の一部を構成していたレンガに見られています。
明らかに、ネブカドレザルはこの君主の名前のカルデア語形で、ユダヤ人は彼をネブカデレザル(Nebuchadnezzar)と呼んでいました。
全世界の君主になるという野心に燃え、次々と国々に対して軍隊を率いていたとき、彼は実際には神の真理から背を向け偶像を追い求めた人々を罰するために神が使う道具であることに気づいていません。
このため、カルデア人に対抗できるほど強い勢力はありません。
彼らは当時知られているあらゆる戦争の手段を動員し、包囲した街の城壁や塔を打ち破りました。
彼らの騎兵の大隊、包囲に使用する道具を満載した荷車、そして敵を攻撃するための戦車は、彼らを侮れない恐ろしい勢力にしました。
これらの節を読むならば、ネブカデレザルの軍勢の先鋒が、彼らが滅ぼそうとした街の通りで人々を踏みつけ、勝利を収めた突撃を思い描くことは難しくありません。
彼らに抵抗することはできず、彼らの富が持ち去られるのを防ぐこともできません。
征服されたすべての国の富はバビロニア人によって略奪され、シナルの地に運び去られました。
征服された街からすべての喜びと楽しみは消え去り、彼らの間では竪琴の音さえ二度と聞こえなくなりました。
そして、これはすべて、ツロがヤハウェの選ばれた民の上に自分を高く上げさせた傲慢さと愚かさのためです。
神はまた、彼らを裸の岩、網を広げる場所にすると述べています。
さらに、ツロは二度と再建されないという宣言がなされました。
この言葉が発せられ、その成就が始まってから何千年も経ちましたが、古代のツロは今もなお、まるで存在していなかったようです。
確かに本土にも同じ名前を持つ別の街がおこりましたが、海岸から少し離れた島に建てられた偉大な海上都市に比べると、それは実に貧しく粗末なものです。

「神である主はツロにこう仰せられる。刺された者がうめき、おまえの中で虐殺が続けられ、おまえがくずれ落ちるとき、その響きに、島々は身震いしないだろうか。
海辺の君主たちはみな、その王座をおり、上着を脱ぎ、あや織りの着物を脱ぎ、恐れを身にまとい、地面にすわり、身震いしながら、おまえのことでおののき、
おまえについて、哀歌を唱えて言う。海に住む者よ。おまえはどうして海から消えうせたのか。海で強くなり、ほめはやされた町よ。すべての住民を恐れさせたその町とその住民よ。
今、島々はおまえがくずれ落ちる日に身震いし、海沿いの島々はおまえの最期を見ておびえている。」
(エゼキエル書26章15~18節)

ツロの商人たちが取引していた世界の遠方の多くの街や国々は、この偉大な商業中心地の陥落を耳にしたならば、恐れと戦慄に満たされました。
ここで述べられていることは、黙示録に記されている大バビロンの陥落に関する記述と非常によく似ています。
復興の望みはすべて絶たれ、遠方の商人たちに利益をもたらしてきたあらゆる種類の商品の取引を再開するあらゆる可能性も失われます。
彼らは深い悲しみと嘆きの声を上げ「海に住む者よ。おまえはどうして海から消えうせたのか」と叫びます。
島々の人々は、ツロ陥落の日に、自分たちの将来がどうなるのか分からず、震え上がりますす。
――ちなみに、この言葉には水に囲まれた実際の島だけでなく、海岸沿いに築かれた街も含まれます。

ツロに起こる荒廃についてのさらなる説明は、19節から21節に記されています。

「まことに、神である主はこう仰せられる。わたしがおまえを廃墟の町とし、住む者のない町々のようにするとき、深淵をおまえの上にわき上がらせ、大水がおまえをおおうとき、
わたしがおまえを穴に下る者たちとともに昔の民のもとに下らせるとき、わたしはおまえを穴に下る者たちとともに、昔から廃墟であったような地下の国に住ませる。わたしが誉れを与える生ける者の地におまえが住めないようにするためだ。
わたしはおまえを恐怖とする。おまえはもう存在しなくなり、人がおまえを尋ねても、永久におまえを見つけることはない。
――神である主の御告げ。――」」
(エゼキエル書26章19~21節)


徹底的にツロは滅ぼされ、大水がその土台を覆い尽くし、その民は穴、すなわちシェオルに落とされ、そこで地の底、すなわち地獄の底にいた昔の民と共に暮らすことになります。
言い換えれば、ツロの住民の永遠の破滅は、神が自分たち選んだ国イスラエルを嘲笑し軽んじたこれらの民を打ち破ることによって、生ける者の地に神の栄光を現される時に、この町に降りかかるこの世界の滅亡と結びついています。
彼らは恐怖の対象となり、地から根こそぎにされ、捜されても二度と見つけることはありません。
このことは詩篇の宣言する一節と一致しています。

「悪者どもは、よみ(シェオル)に帰って行く。神を忘れたあらゆる国々も。」
(詩篇9篇17節)


ツロは神を忘れ、その民をシェオルの深淵にある外なる暗闇に投げ込まれ、その結果、永遠の滅びをもたらす荒廃がツロに臨むことになるのです。


27章 ツロの運命、続き

預言者は、人々の自己満足と神からの独立の態度が、彼らをさまざまな不義へと導いたために生じた、ツロに降りかかる破滅を詳細に描写し続けています。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。ツロについて、哀歌を唱えよ。
あなたはツロに言え。海の出入口に住み、多くの島々の民と取り引きをする者よ。神である主はこう仰せられる。ツロよ。『私は全く美しい。』とおまえは言った。
おまえの領土は海の真中にあり、おまえを築いた者は、おまえを全く美しく仕上げた。
彼らはセニルのもみの木でおまえのすべての船板を作り、レバノンの杉を使って、おまえの帆柱を作った。
バシャンの樫の木でおまえのかいを作り、キティムの島々の桧に象牙をはめ込んで、おまえの甲板を作った。
エジプトのあや織りの亜麻布が、おまえの帆であり、おまえの旗じるしであった。エリシャの島々からの青色と紫色の布が、おまえのおおいであった。
シドンとアルワデの住民が、おまえのこぎ手であった。ツロよ。おまえのうちの熟練者が、おまえの船員であった。
ゲバルの長老と、その熟練者がおまえのうちにあって、破損を修理し、海のすべての船とその水夫たちが、おまえのうちにあって、おまえの商品を商った。
ペルシヤ、ルデ、プテの人々は、おまえの軍隊の戦士であり、おまえに盾とかぶとを掛け、彼らはおまえに輝きを添えた。
アルワデとヘレクの人々はおまえの回りの城壁の上に、また、ガマデ人はおまえのやぐらの中にいて、回りの城壁に丸い小盾を掛け、おまえを全く美しくした。」
(エゼキエル書27章1~11節)


これらはツロへの哀歌として描写されています。
なぜなら、裁きは決して神にとって喜ばしいことではないからです。
神は悪人の死を喜ばれませんが、神の恵み深い戒めを拒み、罪から離れようとしない者たちに怒りをもって対処しなければならない時、神の心は深く悲しみます。

ツロは海の入り口にありました。
すでに述べたように、この古代街は陸地と土手道で結ばれた島の上に築かれました。
ツロの港にはあらゆる国の船が集まり、そこからツロの艦隊が当時知られていた世界各地へと出航しました。
ツロの人々は富を誇り、贅沢な暮らしをしていました。
彼らにとって、何事も惜しくありません。
近隣の土地から杉や樫の木材を運び、壮麗な邸宅や宮殿を建て、象牙をちりばめた寝椅子にゆったりと腰掛けました。
エジプトから上質な亜麻布、遠方の島々から青や紫の布を輸入し、家を飾り、船の帆にしました。
船員は周辺の街や地方から徴兵され、ツロの舵取りは熟練した職人として認められていました。
北方のゲバルの町からは、造船業を手伝う労働者がやって来ました。
何世紀にもわたって砂漠の砂の下に埋もれていたゲバルは、最近になって考古学者によって発掘されました。
今日でも、この古代街の通りを歩き、家々の配置を観察することができます。
それは、かつての素晴らしい文明を物語っていますが、遠い昔に他国からの侵略軍によって滅ぼされました。
その廃墟の上にローマの街が築かれ、さらに十字軍によって第三の街が築かれました。
これらすべては、この世の過ぎ去った栄光の静かな証拠として、今や旅人の目に留まります。
それぞれの街の一部は残され、丘の斜面に異なる岩層が見られるように、はっきりと浮かび上がっています。

ペルシャ、ルド、プトからは船乗りたちがツロの防衛のために雇われ、アルワドの人々もまた敵から街を守るために雇われました。
12節から25節には、ツロの商人が取引していた街や地区の名前のリストがあります。

「タルシシュは、おまえがあらゆる財宝に豊かであったので、おまえと商いをし、銀、鉄、すず、鉛を、おまえの品物と交換した。
ヤワン、トバル、メシェクはおまえと取り引きをし、人材と青銅の器具とをおまえの商品と交換した。
ベテ・トガルマは馬、軍馬、騾馬を、おまえの品物と交換した。
デダン人はおまえと取り引きをし、多くの島々はおまえの支配する市場であり、彼らは象牙と黒檀とをおまえにみつぎとして持って来た。
アラムは、おまえの製品が豊かであったので、おまえと商いをし、トルコ玉、紫色の布、あや織り物、白亜麻布、さんご、ルビーを、おまえの品物と交換した。
ユダとイスラエルの地もおまえと取り引きをし、ミニテの小麦、いちじく、蜜、香油、乳香を、おまえの商品と交換した。
ダマスコも、おまえの製品が多く、あらゆる財宝が豊かなので、ヘルボンのぶどう酒と、ツァハルの羊毛でおまえと商いをした。
ダンとヤワンもおまえの品物と交換した。その商品の中には、ウザルからの銑鉄、桂枝、菖蒲があった。
デダンは鞍に敷く織り布でおまえと取り引きをした。
アラビヤ人と、ケダルの君主たちもみな、おまえの御用商人であり、子羊、雄羊、やぎの商いをした。
シェバとラマの商人たちはおまえと取り引きをし、あらゆる上等の香料、宝石、金を、おまえの品物と交換した。
カラン、カネ、エデン、それにシェバの商人たち、アッシリヤとキルマデはおまえと取り引きをした。
彼らは豪華な衣服や、青色の着物、あや織り物、多彩な敷き物、堅く撚った綱とおまえの商品とをもっておまえと取り引きをした。
タルシシュの船がおまえの品物を運んだ。おまえは海の真中で富み、大いに栄えた。」
(エゼキエル書27章12~25節)


タルシシュは、一部の人々が考えていたようにスペインだけでなく、ブリテン諸島も含む名称でした。
タルシシュからは銀や鉄だけでなく、錫や鉛も産出されていたことに注目してください。
ブリタニアという言葉自体が「錫の国」を意味しており、ツロの船の一部はジブラルタルを越えて、ごく初期の時代にブリテン島に到達したと考えられています。

ヤワンは一般的にギリシャを指すと考えられています。
一方、トバルとメシェクは黒海北部のスキタイ人部族によって定住されていました。
前者はアジア、後者はヨーロッパに居住していました。
彼らから、偉大なロシア帝国の建国者であるモスクワ人が生まれたと考えられています。

トガルマは一般にアルメニアと同一視されています。
デダンについては多少不確かですが、黒海沿岸に位置していた可能性が高くあります。
シリアとユダはそれぞれツロの北と南に位置し、ダマスカスはシリアの主要街でした。
述べられている場所の全てを確実に特定することは不可能であり、エゼキエルの預言にその名前が残っていなければ、永遠に消滅していたと思われる場所もあります。

イシュマエルの子孫が定住したアラビアは、すでに遊牧民が大小さまざまな家畜を多数飼育していた土地でした。
22節のシバは、何世紀も前に女王がソロモン王を訪ねた街であることは間違いありません。

23節から、「エデン」という名前がメソポタミアの一部を指して使われていたことは明らかです。
実際、古代エデンが位置していた地域そのものであった可能性もあります。

これらすべての地域はツロの市場に自分たちの富を注ぎ込み、その代わりに、それぞれの地域で必要な他の品物を手に入れました。

この大きな街の傲慢で独立した商人の君主たちにとって、この偉大な商業システムが破壊される可能性は何もないように思われたに違いありません。
しかし、将来の日に大いなるバビロンが一瞬のうちに倒れるように、永遠なる神に敢えて逆らった不敬虔な街ツロに、恐ろしい突然の裁きが下されるのです。

「おまえのこぎ手はおまえを大海原に連れ出し、東風は海の真中でおまえを打ち破った。
おまえのくずれ落ちる日に、おまえの財宝、貨物、商品、おまえの水夫、船員、修繕工、おまえの商品を商う者、おまえの中にいるすべての戦士、おまえの中にいる全集団も、海の真中に沈んでしまう。
おまえの船員の叫び声に海辺は身震いする。
かいを取る者、水夫、海の船員はみな、船から降りて陸に立ち、
おまえのために大声をあげて激しく泣き、頭にちりを振りかけ、灰の中をころび回る。
彼らはおまえのために頭をそり、荒布をまとい、おまえのために心を痛めて泣き、いたく嘆き、
泣き声をあげて哀歌を唱え、おまえのために悲しんで歌う。だれかツロのように海の真中で滅ぼされたものがあろうか。
おまえの貨物が陸揚げされると、おまえは多くの国々の民を満ち足らせ、その豊かな財宝と商品で地の王たちを富ませた。
おまえが海で打ち破られたとき、おまえの商品、全集団は、おまえとともに海の深みに沈んでしまった。
島々の住民はすべておまえのことでおぞ気立ち、その王たちはひどく恐れて、あわてふためいた。
国々の民の商人たちはおまえをあざけり、おまえは恐怖となり、とこしえになくなってしまう。」」
(エゼキエル書27章26~36節)


ツロの漕ぎ手たち、すなわち政治家たちは、ツロを大海原へと導き、逆境の東風が海の真ん中でツロを打ち砕こうとしました。
その時、ツロの富はすべて何の役にも立たず、宮殿、倉庫、大邸宅はすべて、ツロが滅亡する日に一斉に海の真ん中に沈むことになります。
船員、水先案内人、そして水夫たちは、遠くから燃える街を見ながら、その完全な破壊を嘆き、このように叫ぶのです。
「ツロのように海の真中で滅ぼされたものがあろうか?」
富を得る機会が今や永遠に失われたことを悟った彼らは、神自身が二度と存在すべきではないと宣言したフェニキアの大きな街の崩壊を、激しい叫びをもって嘆くのです。
一度破壊されたツロの島街は、二度と復興することはありません。


28章 ツロの超自然的な支配者

この章を注意深く読むと、二人の人物像が浮かび上がってくることが明白です。
まず第一に、文字通りのツロの王、ネブカデネザルの軍隊がツロの町を包囲し、最終的に略奪した時に実際に王座に座っていた人物です。
しかし、この地上の支配者の背後には、邪悪で超自然的な王がいます。
ツロの王の心を操り、誇りと自信で満たして、宇宙の創造主であり支配者である神が彼に送った軍隊に逆らうように仕向けました。
同じことがイザヤ書14章にも現れ、そこでは堕御使いルシファーがバビロンの王の心を支配し、霊を操っているのが見られます。
これらの章は、使徒パウロがエペソ人への手紙6章で述べた言葉に多くの光を当てています。
パウロは、クリスチャンとしての私たちの戦いは血肉に対するものではなく、霊的な戦いであると教えています。
より直訳すると「この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」(エペソ人への手紙6章12節)を通して働く悪魔の策略に対抗できるように、私たちは神の武具をすべて身に着けるよう求められています。

地上の強大な勢力の支配者たちは、政府の実権を握り、諸国を支配しているように見える者たちではありません。
彼らはしばしば、サタンの手先、御使いのような人格や力に操られた操り人形に過ぎず、神の計画の遂行を妨害するためにあらゆる手段を講じています。
彼らの努力が最終的に何の役にも立たないことは聖書から完全に明らかです。
しかし、彼らは神の聖徒たちと世界の人々に多大な困難と苦悩をもたらし、正義と不正の争いを繰り広げています。

ダニエル書10章は、この霊的な戦いについてさらに詳しく述べています。
そこには、ある神の人が3週間祈りを捧げた様子が記されています。
そして、ついに彼の願いに応えて現れた御使いガブリエルが、驚くべき宣言をします。
ガブリエルは預言者に、彼が民のために執り成しを始めた最初の日から願いは聞き届けられたと告げます。
しかし、ペルシャ王国の君主は21日間、主の御使いに抵抗しました。
この君主は確かにペルシャの王座に座していた人物ではありません。
神の民の回復という神の目的を彼が遂行するのを妨げようとしていた邪悪な御使いです。

最後の節には、もう一人の邪悪な王子について言及されています。
ガブリエルはダニエルに、ペルシャの君主と戦うために再び出かけなければならないと告げ、その後ギリシャの君主が登場します。
なぜなら、次にイスラエルはギリシャの強大な力の下にいることになり、サタンは神の民に対して邪悪を行うために、その国の支配者を支配するからです。

これらすべてを考慮すると、歴史は実に興味深い研究対象となります。
幾世紀にもわたる歴史を振り返り、諸国家の興亡、そして神に関する事柄に対する彼らの態度を観察すると、天界で繰り広げられている争いを目の当たりにすることができます。
時にはサタンが勝利を収めそうに見えても、その軍勢は不名誉な敗北を喫して後退します。
感謝することに、サタンが天界を掌握する最後の力が尽きる日が間もなく来ます。
偉大な御使いミカエルが従える御使いたちと共に、サタンとその手下たちとの最後の戦いに臨みます。
その結果、悪魔とその御使いたちは創造された天界から地上に追放され、自分の時が短いことを知り、激しい怒りを覚えます。
これが大患難時代の始まりであり、その直後に主イエス・キリストが聖なる御使いたちと共に天から現れ、人間であろうと悪の御使いであろうと、神のすべての敵に裁きを下します。

これらのことを目の当たりにすると、この章は教訓的なものとなります。
最初の10節は、地上の支配者であるツロの君主に関するものです。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。
あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言った。
あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。
あなたはダニエルよりも知恵があり、どんな秘密もあなたに隠されていない。
あなたは自分の知恵と英知によって財宝を積み、金や銀を宝物倉にたくわえた。
商いに多くの知恵を使って財宝をふやし、あなたの心は、財宝で高ぶった。
それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたは自分の心を神の心のようにみなした。
それゆえ、他国人、最も横暴な異邦の民を連れて来て、あなたを攻めさせる。
彼らはあなたの美しい知恵に向かって剣を抜き、あなたの輝きを汚し、
あなたを穴に投げ入れる。あなたは海の真中で、刺し殺される者の死を遂げる。
それでもあなたは、自分を殺す者の前で、『私は神だ。』と言うのか。
あなたは人であって、神ではない。あなたはあなたを刺し殺す者たちの手の中にある。
あなたは異邦人の手によって割礼を受けていない者の死を遂げる。わたしがこれを語ったからだ。――神である主の御告げ。――」」
(エゼキエル書28章1~10節)


この君主は、傲慢さと自己中心性の権化として描かれています。
彼はあまりにも傲慢で、自分たちを神の座に座す神、いかなる軍隊もその力を打ち砕くことのできない神であると主張しています。
しかし、彼はすぐに、心を神の心に定めていたにもかかわらず、自分が神ではなく人間に過ぎないことを悟ります。
彼は自分の知恵を誇り、ダニエルよりも賢く、どんな秘密も隠されていないと感じていました。

これ自体、非常に興味深いことです。
なぜなら、これは、ダニエルが当時、誠実で聡明な人物として多くの評判が広まっていたかを示しているからです。
彼の名声は、バビロン王国の実際の範囲をはるかに超えており、このツロの君主は、自分自身をダニエルと比較し、神がその考えと意志を知らせるためにバビロンに立てた預言者よりも自分が賢いと自負したのです。

ツロの君主は、自分が支配する街の富と商業的地位を自分の手柄としていました。
しかし、人は神の意志によってのみ権威を持つことができ、その権威が乱用されると神はそれを奪い取るということを、彼は学ぶことになりました。
ツロ人が軽んじていた異国の軍隊が、この街に攻め入り、諸国民の中でも恐るべき存在であることを証明しました。
神はツロを彼らの手に渡そうとしています。
貴族たちは穴に落とされ、君主は街を守ることさえできず、自分たちを救うこともできず、不名誉な死を迎えることになります。
これが、「私は神だ」と言った男の最後です。
彼の運命はヤハウェによって預言されており、誰もそれを変えることはできません。

11節から19節では、超自然の支配者であるツロが私たちの前に現れます。
しかし、このセクションの後半では、人間と超自然の区別が難しくなるかもしれません。
なぜなら、一方が他方に完全に支配されていたため、彼の運命はサタン自身が待ち受けている運命の描写にすぎないからです。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。神である主はこう仰せられる。
あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。
あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。
赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、しまめのう、碧玉、サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、これらはあなたが造られた日に整えられていた。
わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。
あなたの行ないは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。
あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。
そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出し、守護者ケルブが火の石の間からあなたを消えうせさせた。
あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。
そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。
あなたは不正な商いで不義を重ね、あなたの聖所を汚した。わたしはあなたのうちから火を出し、あなたを焼き尽くした。
こうして、すべての者が見ている前で、わたしはあなたを地上の灰とした。
国々の民のうちであなたを知る者はみな、あなたのことでおののいた。あなたは恐怖となり、とこしえになくなってしまう。」」
(エゼキエル書28章11~19節)


これらの言葉は地上のどのような支配者が話した言葉ではないことは明白です。
疑いなく、ここにはサタンの本来の状態と堕落が示されています。
神はサタンについて「あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった」と言うことができました。
神はなぜ悪魔を創造したのか、と人々はしばしば尋ねます。
答えは、神は悪魔を創造したのではないということです。
神は偉大な知恵と栄光を持つ純粋な霊的存在を創造されましたが、この霊が神の御座に反抗しようと企てたため、すべての御使いの中で最も偉大な者が神と人の宿敵となったのです。

預言者はこの霊の指導者について「あなたは神の園、エデンにいて」と述べています。
これは、人間が創造される以前、この栄光に満ちた存在が下等な被造物を管理していたことを示しているように思われます。
ここには私たちには解けない謎があります。
イエスご自身が「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました」(ルカの福音書10章18節)と語っています。
彼はこの世を管理するために初めから任命されていたのかもしれません。
しかし、私たちはこの点について断定的に語るつもりはありませんが、少なくともこれらの聖句はそのことを示しているように思われます。
すべての宝石は彼の覆いでした。
これらの宝石は、黙示録に記されているように、神の聖徒たちが神の御前に立つ栄光を物語っています。
そして、ここで私たちは、彼ら全員がこの偉大な御使いの指導者の衣をまとっているのを見ることができます。
御使いの軍勢の賛美を導いたのは、彼でした。
彼の太鼓と笛の細工は、彼が創造された日に天の聖歌隊を率いる準備が整っていたことを示しています。
彼は「油そそがれた守護者ケルブ」と描写されています。
つまり、彼は神の御座に仕える御使いでした。
彼をそこに置いたのはヤハウェご自身でした。
彼は神の御前に住み、火の石の間を歩き回っていました。
「私たちの神は焼き尽くす火です。(ヘブル人への手紙12章29節)と記されています。
彼は完全な者として創造されましたが、この状態がどれくらい続いたかは記されていません。
聖書はただこのように述べています。
「あなたの行ないは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。」

16節は、超自然的な支配者と王座に座る君主を密接に結びつけています。
しかし、神は続く節で、覆い隠すケルブについて直接語り、彼の堕落の秘密を明かしています。
「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。」

主イエスは、サタンが背教者であることを示してくださいます。
彼は「真理に立ってはいません。」(ヨハネの福音書8章44節)

使徒パウロはテモテに、信仰に目覚めたばかりの人、あるいは新しい人に過度の責任を負わせないようにと指示しています。
そうしないと、高慢になって悪魔の裁きに陥ってしまうからです。(テモテへの第一の手紙3章6節)
この箇所は、他の二つの聖句の鍵となる箇所です。
偉大な御使いを悪魔に変えたのは、まさに高慢でした。

既に述べたように、最後の節ではこの偉大な存在が文字通りのツロの支配者と密接に結びついており、両者を区別することはほとんど不可能です。
彼がツロの最後の君主の心を支配したがゆえに、描写されている裁きは下されることになりました。

次のセクションでは、ツロに近い街シドンの運命について述べます。
シドンはネブカデレザルによって破壊されましたが、その後再建されました。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。顔をシドンに向け、それに預言して、言え。神である主はこう仰せられる。
シドンよ。わたしはおまえに立ち向かい、おまえのうちでわたしの栄光を現わす。わたしがシドンにさばきを下し、わたしの聖なることをそこに示すとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。
わたしはそこに疫病を送り込む。そのちまたには血が流れ、四方から攻める剣のため、刺し殺された者がその中に倒れる。このとき、彼らはわたしが主であることを知ろう。
イスラエルの家にとって、突き刺すいばらも、その回りから彼らに痛みを与え、侮るとげもなくなるとき、彼らは、わたしが神、主であることを知ろう。」
(エゼキエル書28章20~24節)


この街は聖書の中でしばしばツロと結び付けられています。
イエスはこのように言われました。

「おまえたちの間に起こった力あるわざが、もしもツロとシドンでなされたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰の中にすわって、悔い改めていただろう。」
(ルカの福音書10章13節)


彼らはメシアが来るまでその働きが続くことはありません。
彼らはずっと昔に、その傲慢さと高慢さゆえに滅びていました。
私たちが既に述べたように、神の裁きは神の不思議な御業であり、神はそれを喜ばれません。
しかし、神の御心に敢えて逆らう街や国々の滅亡においてさえ、神は栄光をお受けになります。
こうしてシドンには疫病と血なまぐさい戦争が降りかかることになりました。
そして、イスラエルの家にとって長らく刺すいばら、彼らのわき腹のとげであったこの街は、滅びへと定められたのです。
しかし、神の力と偉大さは、神から離れた民を懲らしめ、邪悪な者たちに裁きを下す点に表れているだけでなく、神に立ち返る者たちを回復させる点にも表れています。
そのため、この章の最後の節には、イスラエルの将来の回復についての約束が記されています。

「神である主はこう仰せられる。わたしがイスラエルの家を、散らされていた国々の民の中から集めるとき、わたしは諸国の民の目のまえで、わたしの聖なることを示そう。彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた土地に住みつこう。
彼らはそこに安らかに住み、家々を建て、ぶどう畑を作る。彼らは安らかにそこに住みつこう。
回りで彼らを侮るすべての者にわたしがさばきを下すとき、彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知ろう。」」
(エゼキエル書28章25、26節)


これらの節は、エルサレムの荒廃とイスラエルの民が諸国に散らされたことを語る多くの聖句と同様に、文字通りに解釈されるべきです。
悔い改めた残された民がシオンへの道を尋ねる日が来ます。
そして、主は彼らに御自身を現し、最終的に彼らを再び故郷の地に定住させ、彼らはそこで安全に暮らし、家を建て、ぶどう園を植えるのです。
これは、教会が天への召しの中で栄光を得ることを描写したものではなく、回復されたイスラエルの民のためにパレスチナの地に地上に祝福がもたらされることを預言したことは明らかです。

彼らは今、不信仰のまま故郷へ帰ろうとしています。
彼らはほとんどが気づいていないが、大患難の時代において、異邦人の中で経験したことのない、より大きな悲しみへと逆戻りしています。
すべてが過ぎ去り、主イエスが彼らが長らく待ち望んでいたメシアとして彼らに啓示される時、彼らは自分たちが突き刺した者を仰ぎ見て、悔恨の情を込めてその足元にひれ伏し、ヤハウェのもとへ立ち返り、完全な平和のうちに故郷に定住することになります。


29章 エジプトへの裁き

ヨセフとその兄弟たちに友好的だったパロの王朝が終焉し、ヨセフを知らない別の王、すなわち以前の王朝を倒し、イスラエルの民を奴隷化するための措置を直ちに開始した新たな王朝が起こった時代から、エジプトはヘブライ人の敵でした。
ただし、ソロモン王の治世中のごく短い期間は別です。
これはソロモンがパロの娘と結んだ同盟によるものでした。
しかし、一般的に、エジプトは数世紀にわたってイスラエルに敵対し、イスラエルの敵と同盟を結ぶ、もしくはイスラエルを征服してエジプトの支配下にして単なる属国にしようと試みてきました。

この章に記録されている預言が記される前には、パロ・ネコがパレスチナに侵攻し、エルサレムを包囲して征服し、エホアハズ王を連れ去りました。
そして、その兄弟であるエリアキムを操り人形の王として立て、その名前をパロ・ネコからエホヤキムに変えてから、わずか数年しか経っていません。

ネブカデレザルの台頭とカルデア帝国の拡大は、エジプトの覇権に対する脅威と認識されました。
パロは当初、バビロニアの指導者の野望を阻止しようとしましたが、すぐに守勢に立たされました。

「第十年の第十の月の十二日に、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。顔をエジプトの王パロに向け、彼およびエジプト全体に預言し、
こう語って言え。神である主はこう仰せられる。エジプトの王パロよ。わたしはあなたに立ち向かう。
あなたは、自分の川の中に横たわる大きなわにで、『川は私のもの。私がこれを造った。』と言っている。
わたしはあなたのあごに鉤をかけ、あなたの川の魚をあなたのうろこにつけ、あなたと、あなたのうろこについている川のすべての魚とを川の中から引き上げる。
あなたとあなたの川のすべての魚とを荒野に投げ捨てる。
あなたは野原に倒れ、集められず、葬られることもない。わたしがあなたを地の獣と空の鳥のえじきとするとき、エジプトの住民はみな、わたしが主であることを知ろう。彼らが、イスラエルの家に対して、葦の杖にすぎなかったからだ。
彼らがあなたの手をつかむと、あなたは折れ、彼らのすべての肩を砕いた。彼らがあなたに寄りかかると、あなたは折れ、彼らのすべての腰をいためた。」
(エゼキエル書29章1~7節)


ツロでは、世界が神から独立して機能する巨大な商業システムとして捉えられている様子を見ました。
エジプトは、神が民を奴隷状態から解放する場所として、世界を別の側面から描いています。
パロはエジプトの君主であり神でした。
したがって、パロは、この時代の君主であり神であるサタンの象徴です。

ナイル川の両岸に位置し、毎年の氾濫で畑を肥沃にし、人々に食料を供給していたエジプトは、まさにこの世界を、天の恵みに依存し、神から独立して生きる世から救われていない人々の故郷として描いています。
このように、パロはここで、川の真ん中に横たわり、心の中で「川は私のもの。私がこれを造った」と言っている巨大なわにとして描写されています。
エチオピアの水をナイル川の両岸に満たし、エジプトの沖積地まであふれさせた唯一の真実なる生ける神に直接依存していることに、パロは気づいていません。
人々はこの現象に年々慣れてしまい、将来も過去と同じように必ずそうなると信じていました。
時折、ナイル川上流域の状況により、以前のように水が流れ落ちないとき、彼らは真実な神に頼らず、必要な恵みを得るために川と偶像に犠牲を捧げました。

神の目にパロは、川に横たわる大きなワニのようです。
デルタには多くの川があったため、複数形が使われています。
パロは傲慢とうぬぼれから、自分を無視する者すべてに反抗しました。
しかし、神から独立していたために、パロとその全土に破滅がもたらされるのです。
このようにエジプトのすべての住民は、イスラエルのヤハウェこそが唯一まことの神であることを知ることになります。
エジプトと同盟を結ぼうとした民は、折れた杖に頼ってヤハウェに頼りました。
彼らはイスラエルと同盟を結びましたが、不誠実であり、バビロニア軍から彼らを守る力がないことが判明したのです。
そのため、40年間、全土に裁きが下されることになります。

「それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは剣を送ってあなたを攻め、人も獣も、あなたのうちから断ち滅ぼす。
エジプトの地は荒れ果てて廃墟となる。このとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。
それは彼が、『川は私のもの。私がこれを造った。』と言ったからだ。
それゆえ、わたしは、あなたにもあなたの川にも立ち向かい、エジプトの地を、ミグドルからセベネ、さらにクシュの国境に至るまで、荒れ果てさせて廃墟にする。
人の足もそこを通らず、獣の足もそこを通らず、四十年の間だれも住まなくなる。
わたしはエジプトの地を、荒れ果てた国々の間で荒れ果てさせ、その町々も四十年の間、廃墟となった町々の間で荒れ果てる。
わたしはエジプト人を諸国の民の中に散らし、国々に追い散らす。」
(エゼキエル書29章8~12節)


剣はエジプトに向けられることになりました。
エジプトは、時より他の国々と戦うために軍隊を派遣しましたが、自国領土への侵略はほとんど経験したことのない大国でした。

少し前、パロ・ホフラはイスラエル人をネブカデレザルから救おうと、軍を進軍させてエルサレムの包囲を解こうとしたが、ネブカデレザルが再び軍勢を率いて攻めてくると、すぐに撤退してしまいました。
パロ・ホフラには助ける術がありません。
間もなく、エジプト人は侵略軍が自国の街に侵入し、行く先々で破壊と荒廃をもたらすことの意味を知ることになります。

この預言が成就し始めるまでには、与えられてから17年以上かかりました。
しかし、神の定められた時が来ると、この高慢な勢力は、かつて他の民族に与えたのと同じ戦争の恐怖を味わうことになりました。
12節と13節で語られている40年間の荒廃の始まりと終わりを正確に辿ることはできないかもしれません。
しかし、過去の記念碑がこの期間について何も語っていなくても、神の言葉は文字通り成就したという確信は持てます。

「 まことに、神である主はこう仰せられる。四十年の終わりになって、わたしはエジプト人を、散らされていた国々の民の中から集め、
エジプトの捕われ人を帰らせる。彼らをその出身地、パテロスの地に帰らせる。彼らはそこで、取るに足りない王国となる。
どの王国にも劣り、二度と諸国の民の上にぬきんでることはない。彼らが諸国の民を支配しないように、わたしは彼らを小さくする。
イスラエルの家は、これに助けを求めるとき、咎を思い起こして、もう、これを頼みとしなくなる。このとき、彼らは、わたしが神、主であることを知ろう。」」
(エゼキエル書29章13~16節)


40年が満ちると、再びエジプトは頭を上げ、周辺諸国に逃れていた多くの民が祖国に戻ることになりました。
しかし、エジプトはかつてのような大国になることは決してありません。
「彼らは卑しい王国となる」と預言されています。
15節には「取るに足りない王国となる」とあり、もはや諸国を支配することはありません。
やがて、エジプトは衰退し、周囲の諸国に頼らざるを得なくなりました。
プトレマイオス朝の時代以来、エジプトは幾世紀にもわたって、悲惨と苦悩の地となりました。
エルサレムと第一神殿が破壊された後、イスラエルから避難してきた人々もいました。
かつては、パレスチナよりもエジプトに定住したユダヤ人の方が多かった時代もあります。
しかし、エジプトは二度とイスラエルの信頼を得られる立場に立つことはありません。

エジプトの権力は、終末の時代に南の王としてその支配者が占める地位に備えて、現代においてある程度復活を遂げてきました。
しかし、英国の援助がなかったら、エジプトが諸国の中で目立つ地位を占めることができたかどうかは疑問です。

この章の最後の節は、預言がどのように成就するかを明確に伝えています。

「第二十七年の第一の月の一日に、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。バビロンの王ネブカデレザルはツロ攻撃に自分の軍隊を大いに働かせた。
それで、みなの頭ははげ、みなの肩はすりむけた。それなのに、彼にも彼の軍隊にも、ツロ攻撃に働いた報いは何もなかった。
それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはバビロンの王ネブカデレザルにエジプトの地を与えよう。
彼はその富を取り上げ、物を分捕り、獲物をかすめ奪う。それが彼の軍隊への報いとなる。
彼が働いた報酬として、わたしは彼にエジプトの地を与える。彼らがわたしのために働いたからだ。――神である主の御告げ。――
その日、わたしはイスラエルの家のために、一つの角を生えさせ、彼らの間であなたに口を開かせる。
このとき彼らは、わたしが主であることを知ろう。」」
(エゼキエル書29章17~21節)


上で示されたように、以前の預言が与えられてから17年後、神はツロに対する復讐の報酬として、エジプトをバビロン王ネブカデネザルの所有とされました。
20節に記録されているように、宇宙の支配者である神ご自身が宣言されました。
「神である主はこう仰せられる。わたしはバビロンの王ネブカデレザルにエジプトの地を与えよう。
彼はその富を取り上げ、物を分捕り、獲物をかすめ奪う。それが彼の軍隊への報いとなる。
彼が働いた報酬として、わたしは彼にエジプトの地を与える。彼らがわたしのために働いたからだ。」
高慢なカルデアの王は、自分の軍隊が神の剣であり、ヤハウェがツロに、そして後にエジプトに命じられたことを実行していることに気づいていません。
しかし、すべては預言の言葉どおりでした。
そして、過去に関する預言が文字通り成就したように、未来に関する預言もすべてしかるべき時に成就することを確信できます。

神はエジプトに裁きを執行しながらも、将来イスラエルを御自身のもとに復帰させるという約束を忘れてはいません。
最後の節はこの約束をくりかえし、イスラエルの家が芽生え、ヤハウェの民が地上において主の言葉を託された者として認められる日が来ることを保証しています。


30章 エジプトの裁きの詳細

この章で預言者は、エジプトに下るはずだった裁きについての主の言葉を宣言し続け、そのすべてが時が経て成就しました。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。預言して言え。神である主はこう仰せられる。泣きわめけ。ああ、その日よ。
その日は近い。主の日は近い。その日は曇った日、諸国の民の終わりの時だ。
剣がエジプトに下り、刺し殺される者がエジプトで倒れ、その富は奪われ、その基がくつがえされるとき、クシュには苦痛が起きる。
クシュ、プテ、ルデ、アラビヤ全体、クブ、彼らの同盟国の人々も、彼らとともに剣に倒れる。」
(エゼキエル書30章1~5節)


「ああ、その日よ!」ここで述べられている日とは、ヤハウェがネブカデネザルとその軍隊を用いて、エジプトの地の民を偶像礼拝と堕落のために罰する日です。
それは曇った日であり、特に「諸諸国の民の終わりの時」と呼ばれていました。
この表現は、主がルカによる福音書21章24節で用いられた表現とよく似ています。

「人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」
(ルカによる福音書21章24節)

一見するとこの二つの言葉は似ているように見えますが、それぞれの文脈から、その適用範囲は全く異なることがわかります。
エゼキエル書における諸国民の時とは、パレスチナの地を取り囲む諸国民、つまり、イスラエルの民が長年にわたり交易を行い、中にはひどい苦しみを味わってきた諸国民に裁きが下る時です。
ルカによる福音書21章24節で、主は「異邦人の時代」という表現を用いて、パレスチナ、エルサレムの都、そしてユダヤ人が異邦人の支配下にある全期間を指して用いられています。
これはネブカデレザルの台頭とともに始まり、今もなお続いています。
主御自身が栄光の再臨によって天から現れ、諸国民に裁きを執行し、この下層宇宙全体にご自身の天の王国を樹立する日まで続きます。

ネブカデネザルの剣はエジプトに臨むことになっていました。
エジプトだけでなく、その隣接地、エチオピア、プテ、そしてすべての混交民族、そしてクブにも臨むことになっていました。
これらはすべては、古代の名称によればエジプトと国境を接していた国々です。
エチオピアだけが、当時の名称を今も保っています。
さらに、同盟を結んでいる地の民、あるいはKJV聖書の欄外にあるように「契約の地」の民に裁きが下ることになっています。
これは間違いなく、パレスチナから逃れてエジプトの地に定住したユダヤ人を指しています。
彼らは、祖国を襲った困難な時代からの救いを期待していたが、その望みは叶っていません。
彼らはエジプトに助けを求める時に、折れた葦に頼ったのです。

「主はこう仰せられる。エジプトをささえる者は倒れ、その力強い誇りは見下げられ、ミグドルからセベネに至るまでみな剣に倒れる。――神である主の御告げ。――
エジプトは荒れ果てた国々の間で荒れ果て、その町々も、廃墟となった町々の間にあって荒れ果てる。
わたしがエジプトに火をつけ、これを助ける者たちがみな滅ぼされるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。
その日、わたしのもとから使者たちが船で送り出され、安心しているクシュ人をおののかせる。エジプトの日に、彼らの間に苦痛が起きる。今、その日が来ている。」
(エゼキエル書30章6~9節)

主は次に、エジプトの地の特定の街と地域について具体的に言及されています。
これらの地に対して主の裁きが執行され、エジプトの誇る力は打ち砕かれます。
ミグドルからセベネに至るまで、人々は剣によって倒れることになっています。
述べられているこの二つの場所は、上エジプトの北端と南端にあります。
この地全体が荒廃し、街も荒廃することになっていました。
このようにエジプト人は、かつて彼らが反抗した永遠の神、ヤハウェと交渉しなければならないことを悟ったのです。
彼らから使者は、当時エジプトの同盟国であった無頓着なエチオピア人のもとへ送られました。
彼らの国は近づきがたい地形でした。
ゆえに、彼らは他の場所で起こっている紛争には全く無関心でした。
しかし、エジプトの陥落は彼らにとって重大な前兆であり、自分たちの地に訪れる荒廃を予兆するものとなりました。

「神である主はこう仰せられる。わたしはバビロンの王ネブカデレザルによって、エジプトの富を取り除く。
彼と、彼の民、すなわち、最も横暴な異邦の民がその地を滅ぼすために遣わされる。彼らは剣を抜いてエジプトを攻め、その地を刺し殺された者で満たす。
わたしはナイル川を干上がった地とし、その国を悪人どもの手に売り、他国人の手によって、その国とそこにあるすべての物を荒れ果てさせる。主であるわたしがこれを語る。」
(エゼキエル書30章10~12節)


バビロン王の軍隊がエジプトを征服することによって、エジプトの軍勢はおとろえてゆきました。
恐るべきカルデア人の征服者たちは、エジプトに対して無駄に剣を抜くことはなく、彼らを通して国は殺された者たちで満たされました。
さらに、摂理の裁きが国土そのものに下され、デルタ地帯の川は干上がり、国土は悪人の手に売られました。
このように国土は荒廃し、かつてエジプト人のものであったものが異邦人の手に渡されます。
逃れる術はありません。
ヤハウェ御自身がそれを語られたからです。

「神である主はこう仰せられる。わたしは偶像を打ちこわし、ノフから偽りの神々を取り除く。
エジプトの国には、もう君主が立たなくなる。わたしはエジプトの地に恐怖を与える。
わたしはパテロスを荒らし、ツォアンに火をつけ、ノにさばきを下す。
わたしはエジプトのとりでシンにわたしの憤りを注ぎ、ノの群集を断ち滅ぼす。
わたしはエジプトに火をつける。シンは大いに苦しみ、ノは砕かれ、ノフは昼間、敵に襲われる。
オンとピ・ベセテの若い男たちは剣に倒れ、女たちはとりことなって行く。
わたしがエジプトのくびきを砕き、その力強い誇りが絶やされるとき、タフパヌヘスでは日は暗くなり、雲がそこをおおい、その娘たちはとりことなって行く。
わたしがエジプトにさばきを下すとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」」
(エゼキエル書30章13~19節)


エジプトは太古の昔から偶像崇拝の地であり、巨大な像は幾世紀にもわたって、その偽りの宗教の記念碑として残されてきました。
ご存知のように、実際には悪魔を象徴しているこれらの偶像に対して、神は厳しい裁きを下すことになっています。
メンフィス、あるいはノフは、そのような崇拝に捧げられた主要な街の一つでした。
その巨大な神殿と巨大な像は世界でも最大級でしたが、神はこれらの無から生まれたものを滅ぼすと宣言されました。
そして、この点に関して、「エジプトの国には、もう君主が立たなくなる」と預言されています。
この預言はまもなく文字通り成就しました。
当時エジプトを支配していた王朝が滅亡すると、二度とエジプトを支配するエジプト王は現れません。
後に、外部からの異邦人であったプトレマイオス朝が到来しましたが、彼らも最終的には滅ぼされました。
そして、それ以来、現在に至るまで、エジプトの血を引く君主がエジプトを支配したことは一度もありません。
エジプトには王がいるが、フアード王はエジプト人ではなくアルバニア人であり、現在君臨しているその息子は本物のエジプト人の血を引いていません。

パテロスは預言書において上エジプトの名称として一般的に用いられており、荒廃させられ、ツォアンが火で燃え上がります。
ツォアンは一般的に、イスラエルの民が住んでいたゴシェンの地と同一視されています。
ヒクソス王の羊飼いの王たちの首都が置かれていたこの地の一部に、ヨセフを知らない王との論争の時代に、神の厳しい裁きが下されました。

ノはノ・アモン、あるいはテーベとも呼ばれ、偶像崇拝のもう一つの大きな中心地です。
このテーベにも神の裁きが下され、テーベは空虚な廃墟と化すことになっています。
神は「ノの群集を断ち滅ぼす」と宣言しました。
神の怒りは、一般的にペルシウムと同一視されるシンに注がれます。
これらの街はすべて完全に破壊され、今日、人々はかつての偉大さの痕跡に驚嘆しています。
しかしながら、現在の状況が神の憤りの結果であることに気づいている人はほとんどいません。

オンとピ・ベセテの若者たちも剣に倒れ、町の人々は捕囚されました。
多くのユダヤ人が集まっていたタフパヌヘスでは、エジプトの力が弱まり、雲がエジプトを覆い、娘たちは捕囚されていきました。
このようにして神はエジプトに裁きを下し、人々が神がヤハウェ神であることを知るようにされました。

この章の最後の部分、20節から終わりまでで、主は、エジプトがバビロンに対して強化するためにどんな努力をしても無駄になることが明らかにされています。

「第十一年の第一の月の七日、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。わたしはエジプトの王パロの腕を砕いた。見よ。それは包まれず、手当をされず、ほうたいを当てて包まれず、元気になって剣を取ることもできない。
それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはエジプトの王パロに立ち向かい、強いが砕かれている彼の腕を砕き、その手から剣を落とさせる。
わたしはエジプト人を諸国の民の中に散らし、国々に追い散らす。
しかし、わたしはバビロンの王の腕を強くし、わたしの剣を彼の手に渡し、パロの腕を砕く。彼は刺された者がうめくようにバビロンの王の前でうめく。
わたしはバビロンの王の腕を強くし、パロの腕を垂れさせる。このとき、わたしがバビロンの王の手にわたしの剣を渡し、彼がそれをエジプトの地に差し向けると、彼らは、わたしが主であることを知ろう。
わたしがエジプト人を諸国の民の中に散らし、彼らを国々に追い散らすとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」」
(エゼキエル書30章20~26節)


パロとその軍勢はカルデア軍に完全に敗れ、エジプトへ撤退しました。
パロは軍勢を立て直し、バビロニアの指導者との新たな力比べに備えようと努めたが、神ご自身がパロに敵対することを宣言されました。
神はパロを、腕を折られた男が強大な敵に立ち向かおうとする姿に例えました。
パロがどんなに自衛の努力をしようとも、それは無駄に終わります。
彼の軍勢は滅ぼされ、彼の民は諸国に散らされます。
なぜなら、ある者を強め、別の者を倒す神は、この時、バビロン王を剣として用い、論争を繰り広げた諸国を裁いておられたからです。
ネブカデレザルによってパロの軍隊は打ち破られ、パロは致命傷を負った男として叫び声を上げます。
しかし、バビロン王の腕は、神がエジプトと近隣諸国に布告した裁きを執行するまで、神自身によって支えられていました。
なぜなら、カルデア人のリーダーの手に剣を渡したのはヤハウェだからです。
そして、預言された破滅がエジプト全土に降りかかり、エジプト人が諸国の間に散らされ、諸国に追い散らされ、惨めな捕虜生活の中でヤハウェと戦うことは無駄なことを学ぶまで、その剣は鞘に収められていません。


第31章 アッシリアの誇り傲慢と没落

この章で神は、預言者を通して、以前の預言から約2か月後に与えられたメッセージの中で、パロとその民の注意をアッシリアに既に下された裁きへと向けさせ、エジプトがそこから自己顕示欲と神からの独立の愚かさを学ぶようにされました。
アッシリアとエジプトは、バビロニア帝国が隕石のように台頭する以前、当時の世界における二大王国です。
かつて、アッシリアが世界を支配する運命にあるように思われましたが、それは神の計画ではありません。
この偉大な王国が完全に滅ぼされ、エジプトがアフリカでの卓越した王国であったように、カルデアが中東の卓越した偉大な国となった日が来ました。
アッシリアを扱った同じ神が今、エジプトを扱っておられます。
そして、神は預言された裁きが激しさを増してパロに下る前に、メソポタミアで起こった出来事から教訓を学ぶようにパロに命じました。
それは、パロ自身が神の前で謙虚になるためでした。

「第十一年の第三の月の一日、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。エジプトの王パロと彼の大軍に言え。あなたの偉大さは何に比べられよう。
見よ。アッシリヤはレバノンの杉。美しい枝、茂った木陰、そのたけは高く、そのこずえは雲の中にある。
水がそれを育て、地下水がこれを高くした。川々は、その植わっている地の回りを流れ、その流れを野のすべての木に送った。
それで、そのたけは、野のすべての木よりも高くそびえ、その送り出す豊かな水によって、その小枝は茂り、その大枝は伸びた。
その小枝には空のあらゆる鳥が巣を作り、大枝の下では野のすべての獣が子を産み、その木陰には多くの国々がみな住んだ。
それは大きくなり、枝も伸びて美しかった。その根を豊かな水におろしていたからだ。
神の園の杉の木も、これとは比べ物にならない。もみの木も、この小枝とさえ比べられない。すずかけの木も、この大枝のようではなく、神の園にあるどの木も、その美しさにはかなわない。
わたしが、その枝を茂らせ、美しく仕立てたので、神の園にあるエデンのすべての木々は、これをうらやんだ。」
(エゼキエル書31章1~9節)


アッシリア人は、レバノンの大きな杉に例えられました。
その杉は枝を広げ、森のような陰を作り、野の獣はその下に隠れ、天の鳥はその枝に巣を作りました。
後に、同じ比喩がネブカデレザルに率いられたバビロンにも用いられました。
そして、幾分異なる方法で、主イエス・キリストは後に、宗教政治による教会の腐敗の結果として発展することになる巨大な世界教会を描写するために、同様の比喩を用いました。
これは、からしの木のたとえ話に見られます。

アッシリアには、もともとエデンの園があった中東の一部が含まれていました。
そこはユーフラテス川とチグリス川という二つの川に挟まれた広大なオアシスであり、エジプトがナイル川に依存していたように、アッシリアもこれらの大河に依存していました。

中央アジアには、小さな始まりから広大な帝国が築き上げられました。
何世紀も存続する帝国と思われていた帝国ですが、権力の頂点に立つと、王たちは自分たちの優越感に溺れ、偽りの神々への依存に溺れ、ヤハウェは彼らに裁きを下されました。
ニネベとアッシリアのあらゆる大きな街は、大洪水と侵略軍の前に陥落しました。
このようにバビロンが間もなく台頭し、世界支配権を握ることになります。
エジプトはアッシリアの運命から、神に逆らって傲慢になることの愚かさを学ぶべきでした。

「それゆえ、神である主はこう仰せられる。そのたけが高くなり、そのこずえが雲の中にそびえ、その心がおごり高ぶったから、
わたしは、これを諸国の民のうちの力ある者の手に渡した。
彼はこれをひどく罰し、わたしも、その悪行に応じてこれを追い出した。
こうして、他国人、最も横暴な異邦の民がこれを切り倒し、山々の上にこれを捨てた。
その枝はすべての谷間に落ち、その大枝はこの国のすべての谷川で砕かれた。この国のすべての民は、その木陰から出て行き、これを振り捨てた。
その倒れ落ちた所に、空のあらゆる鳥が住み、その大枝のそばに、野のあらゆる獣がいるようになる。
このことは、水のほとりのどんな木も、そのたけが高くならないためであり、そのこずえが雲の中にそびえないようにするためであり、すべて、水に潤う木が高ぶってそびえ立たないためである。
これらはみな、死ぬべき人間と、穴に下る者たちとともに、地下の国、死に渡された。
(エゼキエル書31章10~14節)


この特定の箇所で、神は過去を振り返って語っておられます。
アッシリアはすでに滅亡し、来たるべき日まで二度と立ち上がることはありません。
そのため、これらの節はエジプトに直接適応できると考える人もいます。
アッシリアはメシアの支配下で復活し、イスラエルとエジプトと共にキリストの地上の王国の栄光にあずかる日が来るからです。
このことはイザヤ書19章24節に記されています。

「その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真中で祝福を受ける」
(イザヤ書19章24節)


預言者イザヤが依然として、神がアッシリアに関して成し遂げられたことへとパロに注意を向けさせ、パロがヤハウェに打ち勝つことの全く不可能さについて、切実に必要な教訓を学べるようにしたことは明らかです。
これらの節はアッシリアに下った裁きを描写し、目に見えない世界におけるその指導者たちの運命へと私たちを導きます。
「これらはみな、死ぬべき人間と、穴に下る者たちとともに、地下の国、死に渡された」と記されています。

神は詩篇9篇17節で、「悪者どもは、よみに帰って行く。神を忘れたあらゆる国々も」と宣言しています。
ここでのよみは、救われない者たちの最後の審判である火の池ではなく、新約聖書のハデス、最後の審判の日を待つ死者の霊の住む場所と同じです。
その暗い住まいには、神に敵対し悔い改めずにすべての死んだ人々、そして神の聖なる言葉をないがしろにし、神が与えてくださった啓示に従って歩む義務を忘れたすべての人々がいます。
よみは墓に過ぎないと主張する人々がいますが、この聖句はどんな墓よりもさらに深い何かを語っています。
人は墓を建ててそこに住み着くかもしれませんが、よみは肉体の死後、神に関係する霊の住まいなのです。
15節から17節がこれを裏付けています。

「神である主はこう仰せられる。それがよみに下る日に、わたしはこれをおおって深淵を喪に服させ、川をせきとめて、豊かな水をかわかした。
わたしがこれのためにレバノンを憂いに沈ませたので、野のすべての木も、これのためにしおれた。
わたしがこれを穴に下る者たちとともによみに下らせたとき、わたしは諸国の民をその落ちる音で震えさせた。
エデンのすべての木、レバノンのえり抜きの良い木、すべての水に潤う木は、地下の国で慰められた。
それらもまた、剣で刺し殺された者や、これを助けた者、諸国の民の間にあって、その陰に住んだ者たちとともに、よみに下った。」
(エゼキエル書31章15~17節)


アッシリアと同盟を結んでいた国々は、その強大な王国の長たちが剣で殺され、神の審判を受けてシェオルに下ったとき、驚きのあまり言葉を失い、恐怖に震え上がるのです。
そこで彼らは、神の前に自分たちの傲慢さについて答えなければならない日を待つことになります。

エデンの木への言及は、前述の通り、創世記に記されているエデンの位置が、後のアッシリアの位置と一致していたという事実と関係があります。
ネブカデレザルに対抗できた民は一人もいません。
カルデア軍の勝利によって滅ぼされた彼らもまた、アッシリアと共にシェオルに堕ち、かつて剣によって殺された者たちの元へと落ちていきました。
神ご自身が、カルデア人を用いてすべての国々に裁きを下すように命じました。
ゆえに、エジプトがカルデア人の力に抵抗できる望みなどありません。

「エデンの木のうち、その栄えと偉大さで、あなたはどれに似ているだろうか。
あなたもエデンの木とともに地下の国に落とされ、剣で刺し殺された者とともに、割礼を受けていない者たちの間に横たわるようになる。
これは、パロと、そのすべての大軍のことである。――神である主の御告げ。―― 」」
(エゼキエル書31章18節)


パロは中東で起こったことから学び、いかに破滅を防ごうと努めても、イスラエルの神に敵対する限り、アッシリアを襲ったのと同じ破滅に自分たちをさらすことを理解すべきです。
預言者は言っています。
「これは、パロと、そのすべての大軍のことである。」
彼らもまた、偉大な姉妹王国と同じ苦しみを味わわなければなりません。


32章 エジプトに対するヤハウェの哀歌

神の裁きは、神の権威を認めようとしない個人や国家にだけ下されます。
古来、神はモーセを通してパロに幾度となくメッセージを送り、高慢な王は神の懇願に心を閉ざし、ついには裁きが下されるに至りました。
この最後の数章で見てきたように、神はエゼキエルを通してくりかえし警告を与え、そのことが傲慢で横柄なエジプトの王パロに何らかの形で伝えられたはずです。
しかし、パロがはるか昔の先代の王のように、神から独立する態度をますます固めてしまい、何の反応も得られていません。

最後のメッセージは裁きが下る前に与えられました。
これらのメッセージは哀歌の形をとっています。
これは、後のイスラエルのように、パロが自分たちの訪れの時を知らなかったためです。
エルサレムに対する主の哀歌は、悔い改めない民に対する神の御心の表れであり、このような哀歌が私たちの前に現れています。

「第十二年の第十二の月の一日、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。エジプトの王パロについて哀歌を唱えて彼に言え。諸国の民の若い獅子よ。
あなたは滅びうせた。あなたは海の中のわにのようだ。川の中であばれ回り、足で水をかき混ぜ、その川々を濁らせた。
神である主はこう仰せられる。わたしは、多くの国々の民の集団を集めて、あなたの上にわたしの網を打ちかけ、彼らはあなたを地引き網で引き上げる。
わたしは、あなたを地に投げ捨て、野に放り出し、空のあらゆる鳥をあなたの上に止まらせ、全地の獣をあなたで飽かせよう。
あなたの肉を山々に捨て、あなたのしかばねで谷を満たし、
あなたから流れ出る血で地を浸し、その血で山々を潤す。谷川もあなたの血で満たされる。
あなたが滅び去るとき、わたしは空をおおい、星を暗くし、太陽を雲で隠し、月に光を放たせない。
わたしは空に輝くすべての光をあなたの上で暗くし、あなたの地をやみでおおう。――神である主の御告げ。――
わたしが、諸国の民、あなたの知らない国々の中であなたの破滅をもたらすとき、わたしは多くの国々の民の心を痛ませる。
わたしは多くの国々の民をあなたのことでおののかせる。
彼らの王たちも、わたしが彼らの前でわたしの剣を振りかざすとき、あなたのことでおぞ気立つ。あなたのくずれ落ちる日に、彼らはみな、自分のいのちを思って身震いし続ける。」
(エゼキエル書32章1~10節)


この章に記録されている最初のメッセージが、最後の預言から1年半以上も経った、第十二年の第十二の月に与えられたことは注目に値します。
エゼキエルはパロのために哀歌を読むよう命じられましたが、その中でパロは以前のように川の中のワニではなく、若い獅子に例えられました。
その獅子は、自分に敵対する諸国の民を滅ぼそうとしています。
また、パロはナイル川に入り、その水の中で暴れ回り、水を汚して飲めないほどに乱しています。
おそらくクジラのような巨大な海の怪物にも例えられています。
ヤハウェはパロに対して網を広げ、敵がパロに襲いかかった時にパロを無力にするのです。

興味深いことに、現代においても、アフリカの様々な部族は獅子やヒョウ、その他の野蛮な動物を狩る際、網で完全に囲むことができるように巣穴や小屋に動物を誘い込もうとします。
「獣は網の知恵を知らない」ということわざがあるからです。
獣は混乱し、網に絡まってしまい、簡単に仕留められてしまいます。
パロもそうでした。
財産を回復しようとした彼の努力はすべて苦労に終わり、やがて彼は不名誉な敗北を喫し、民は敵に屈服することになります。
その日、地は殺された者たちの血で潤されます。
神は天を覆い、星々を暗くし、太陽を雲で覆い、月が光を放たないようにすると約束しました。
天の明るい光はすべて暗くなり、全地は暗闇におおわれます。

この預言は非常に興味深く、終わりの日に世界に下る裁きに関する同様の預言を理解するのに役立ちます。
これらの言葉は文字通りに受け取られるべきものではなく、与えられた権限の破壊と、地に降りかかる破滅によって人々の心に降りかかるであろう暗い影を示しています。

裁きはエジプト人だけでなく、彼らと同盟を結んでいた多くの民にも下され、滅亡が迫っていました。
遠く離れた他の諸国民は、パロとその軍勢の惨敗を聞き、ネブカデレザルの強大な力の難攻不落さに驚き、ひどく恐れます。
神がバビロンの力に目を向けていたことは、次の節で神が明確に語っていることからも明らかです。

「まことに、神である主はこう仰せられる。バビロンの王の剣があなたに下る。
わたしは勇士の剣で、あなたの群集を倒す。彼らはみな最も横暴な異邦の民だ。彼らはエジプトの誇りを踏みにじり、その群集はみな滅ぼされる。
わたしはあらゆる家畜を、豊かな水のほとりで滅ぼす。人の足は二度とこれを濁さず、家畜のひづめも、これを濁さない。
そのとき、わたしはこの水を静める。その川を油のように静かに流れさせる。――神である主の御告げ。――
わたしがエジプトの国を荒れ果てさせ、この国にある物がみなはぎ取られ、わたしがそこの住民をみな打ち破るとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。
これは人々が悲しんで歌う哀歌である。諸国の民の娘たちはこれを悲しんで歌う。エジプトとそのすべての群集のために、彼女らはこの哀歌を悲しんで歌う。――神である主の御告げ。――」」
(エゼキエル書32章11~16節)


バビロン王の剣はヤハウェの剣でした。
なぜなら、神ご自身がネブカデレザルに、エジプトだけでなく当時の文明世界の他のすべての国々を征服するよう命じたからです。
それゆえ、バビロニア人は、エジプトの誇りとそのすべての民衆を滅ぼすべき諸国の中でも、最も恐ろしい存在として描かれています。

水辺の家畜たちも滅ぼされます。
それは間違いなく、エジプトの王であり、民が深く依存していた水牛のことです。
神は、少なくとも一時的には、人々の生活の糧となるものさえも絶滅させるよう定めました。
それは、神が彼らに対して裁きを下しておられることを、すべての民に悟らせるためでした。

神が彼らのかたくなで誤った精神を嘆かれたとき、神がエジプトを滅ぼしたためにエジプトとその大群を嘆く嘆きの声が四方八方から聞こえさせました。

「第十二年の第一の月の十五日、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。エジプトの群集のために嘆け。その民と強国の民の娘たちとを、穴に下る者たちとともに地下の国に下らせよ。
『あなたはだれよりもすぐれているのか。下って行って、割礼を受けていない者たちとともに横たわれ。』
その国は剣に渡され、彼らは剣で刺し殺された者たちの間に倒れる。その国とそのすべての群集を引きずり降ろせ。
勇敢な勇士たちは、その国を助けた者たちとともに、よみの中から語りかける。『降りて来て、剣で刺し殺された者、割礼を受けていない者たちとともに横たわれ。』と。」
(エゼキエル書32章17~21節)

この最後のメッセージが預言者を通して与えられるまで、15日が経過しました。
その中で預言者は、エジプトだけでなく、当時、神が関わっていた他の様々な国々についても具体的に語っています。
彼は、既に見たように、穴に下る者たちと共に地の底に投げ込まれることになるエジプトの民衆のために嘆き悲しむよう召されました。
それゆえ、彼らは神を忘れ、地上での試練の日々が終わりを迎え、シェオルに投げ込まれることになっていました。
預言者は、彼らが剣で殺されて、文字通り地面を覆うのを見ますが、その霊がシェオルのさらに奥深くへと落ち、そこで神の目に汚れた者たちと共に横たわるのを見ます。

「その墓の回りには、アッシリヤとその全集団がいる。みな、刺し殺された者、剣に倒れた者たちである。
彼らの墓は穴の奥のほうにあり、その集団はその墓の回りにいる。彼らはみな、刺し殺された者、剣に倒れた者、かつて生ける者の地で恐怖を巻き起こした者たちである。」
(エゼキエル書32章22、23節)

前述の通り、アッシュール、あるいはアッシリアには既に裁きが下りました。
その墓は公然と姿を現し、かつて生ける者の地に恐怖をもたらした民は穴に落ちました。
この大帝国を罰した神は、エジプトに対してもその怒りの限りを尽くしたのです。

「そこには、エラムがおり、そのすべての群集もその墓の回りにいる。彼らはみな、刺し殺された者、剣に倒れた者、割礼を受けないで地下の国に下った者、生ける者の地で恐怖を巻き起こした者たちである。それで彼らは穴に下る者たちとともに自分たちの恥を負っている。
その寝床は刺し殺された者たちの間に置かれ、そのすべての群集も、その墓の回りにいる。みな、割礼を受けていない者、剣で刺し殺された者である。彼らの恐怖が生ける者の地にあったからである。それで彼らは穴に下る者たちとともに自分たちの恥を負っている。彼らは刺し殺された者たちの間に置かれた。」
(エゼキエル書32章24、25節)


次に言及されるのは、ペルシャの古代名であるエラムです。
ネブカデレザルは既にこの国を征服し、その軍隊を滅ぼし、大勢の民を殺害しました。
彼らは前述の他の者たちと共に、地の底、すなわちよみ、シェオルに落ちていきました。
もはや、エラムは他の国々にとって恐怖の対象ではなくなりました。
ネブカデレザルの軍勢の力の前に、エラムは無力だったのです。

「そこには、メシェクとトバルがおり、そのすべての群集もその墓の回りにいる。彼らはみな、割礼を受けていない者、剣で刺し殺された者である。彼らは生ける者の地で恐怖を巻き起こしたからである。
彼らは、ずっと昔に倒れた勇士たちとともに横たわることはできない。勇士たちは武具を持ってよみに下り、剣は頭の下に置かれ、盾は彼らの骨に置かれている。勇士たちは生ける者の地で恐れられていたからである。
あなたは、割礼を受けていない者たちの間で砕かれ、剣で刺し殺された者たちとともに横たわる。」
(エゼキエル書32章26~28節)


メシェクとトバルについては、後ほど38章と39章で詳しく述べますが、創世記10章に記されているように、ヤペテの子孫である部族の名前です。
現在まで伝わっている最古の記録によると、彼らは黒海に面した地域に住み、かつては名声を博していたようですが、彼らの宿営地は破壊され、戦死者たちは武器と共にシェオルに下りました。
彼らは勇敢な戦士となった彼らのように、武器を頭の下に埋葬されました。
しかし、彼らの力はどれもバビロニア軍の前には無力でした。
逃れた者たちはさらに北へ逃げました。
後世の歴史において、彼らは黒海の北に住み、そこからカスピ海地方まで広がる遊牧民として記録されているからです。
そして、最終的には彼らは大ロシア帝国に吸収されました。
メシェクとトバルという名前は、ヨーロッパのモスクワとシベリアのトボリスクという二大街に実質的に残っていると考える人もいます。

「そこには、エドムとその王たち、そのすべての族長たちがいる。彼らは勇敢であったが、剣で刺し殺された者たちとともに、割礼を受けていない者たち、および穴に下る者たちとともに横たわる。
そこには、北のすべての君主たち、およびすべてのシドン人がいる。彼らの勇敢さは恐怖を巻き起こしたが、恥を見、刺し殺された者たちとともに下ったのである。それで割礼を受けていない彼らは、剣で刺し殺された者たちとともに横たわり、穴に下る者たちとともに自分たちの恥を負っている。」
(エゼキエル書32章29、30節)


既に述べたように、イスラエルと密接な関係にあるエドムは、ヤコブの双子の兄弟エサウの子孫です。
ヤコブの子らが苦難に陥っているのを見て喜びましたが、神はユダヤ人に復讐をもたらしたのと同じ力によって彼らを罰しました。
パレスチナ南東部のエドムの君主たちと、北方のフェニキア人シドン人もまた滅ぼされました。
彼らの力は無力に終わり、彼らは恥をかかされ、ヤハウェの声に従わなかった他の人々と共に死んでいきました。

「パロは彼らを見、剣で刺し殺された自分の群集、パロとその全軍勢のことで慰められる。――神である主の御告げ。――
わたしが生ける者の地に恐怖を与えたので、パロとその群集は、割礼を受けていない者たちの間で、剣で刺し殺された者たちとともに横たわる。――神である主の御告げ。――」」
(エゼキエル書32章31、32節)


神はこれらの様々な国々をパロの前に連れてきて、彼らの破滅を告げました。
それは、パロとその軍隊が彼らと共に完全な敗北と滅亡に陥る日が間もなく来ることをパロに知らせるためでした。
彼らはほんの少し先にシェオルに落ちたばかりです。
間もなく、パロとその民もそこに彼らと共にいることになります。
このようにして、神の預言者の声に耳を傾けなかったパレスチナ周辺のすべての国々に、神の裁きが下されたのです。

この章でエゼキエル書のこの特定のセクションは終わります。


33章 神の支配と人間の責任

注意深い読者なら、この章と3章の一部、そして18章全体との類似性に気づかずにはいられません。
なぜ、教えが重複しているのかと不思議に思う人もいるかもしれませんが、私たちは確信を持ってこのように答えます。
神がご自身をくりかえし語られるのは、神の真理が私たちの心と心に刻み込まれるためです。
私たちは神の原則を忘れやすく、神の聖なる言葉の教えの一部として見落としがちです。
教育者の間では、くりかえしは一般的に、生徒の心に特定の教訓を刻み込むための重要なプロセスとして認識されてゆきます。
ゆえに、聖書の中にくりかえしが見られる時、私たちはその箇所を注意深く検討すべきです。
神は何か重要なことを伝えたいのであり、そうでなければ、パロの夢やダニエルの幻のように、繰り返すことはなかったと理解します。
何かが繰り返されるのは、その重要性と絶対的な確実性を私たちに確信させるためです。

18章を検討する中で、すでに述べたように、これらの部分に述べられている原則は、福音に明らかにされている神の恵みを決して表すものではありません。
それらは明らかに、神の支配下、特に律法の支配下にある人間と関係があります。
神は聖なる律法を与え、それに従って歩む者は地上で長く生きると宣言されました。
一方、従わない者は自分たちに裁きをもたらし、地上での寿命が短くなることになりました。
しかし、律法の下にあっても、悔い改めの備えは必要です。
もし、人が神に立ち返り、悪の道を捨て、神の前に慎重に歩もうとするなら、神は憐れみをかけ、すぐには裁きが下ることはありません。

これらの原則は本章で明確に説明されています。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。あなたの民の者たちに告げて言え。わたしが一つの国に剣を送るとき、その国の民は彼らの中からひとりを選び、自分たちの見張り人とする。
剣がその国に来るのを見たなら、彼は角笛を吹き鳴らし、民に警告を与えなければならない。
だれかが、角笛の音を聞いても警告を受けないなら、剣が来て、その者を打ち取るとき、その血の責任はその者の頭上に帰する。
角笛の音を聞きながら、警告を受けなければ、その血の責任は彼自身に帰する。しかし、警告を受けていれば、彼は自分のいのちを救う。
しかし、見張り人が、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告を受けないとき、剣が来て、彼らの中のひとりを打ち取れば、その者は自分の咎のために打ち取られ、わたしはその血の責任を見張り人に問う。
人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。
わたしが悪者に、『悪者よ。あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もし、あなたがその悪者にその道から離れるように語って警告しないなら、その悪者は自分の咎のために死ぬ。そしてわたしは彼の血の責任をあなたに問う。
あなたが、悪者にその道から立ち返るよう警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のために死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。」
(エゼキエル書33章1~9節)


この最初の部分は3章16~21節とほぼ同じです。
再び、神は町の城壁に配置された見張り人の責任を強調しました。
見張り人は敵軍の接近を察知し、ラッパを吹いて人々に警告し、敵に不意打ちされないようにします。
見張り人が自分の役割を果たしても人々が警告に従わなければ、見張り人は自分たちの命を危険にさらし、人々は自分たちの滅亡の責任を負うことになります。
しかし、見張り人が警告を怠り、人々が敵に不意打ちされ、滅ぼされた場合、見張り人は責任を負わなければいけません。
その町の住民の血は、見張り人に帰するのです。

この哀れな、神を畏れない世界が直面する危険を知っている、ここにいる私たちにとって、これは確かに厳粛な教訓です。
私たちは神から、来るべき怒りから逃れるために人を奮い立たせるよう求められています。
もし、彼らが警告を拒むなら、私たちは自分のたましいを救うことになります。
しかし、神のさばきがさまざまな悪を行なう者に対して下されることを知っていながら、私たちが警告のラッパを鳴らさず、男も女も自分の罪のために死ななければならないなら、キリストのさばきの座で、私たちのために厳粛な報いがあります
パウロはエペソの長老たちにこう語りかけました。

「ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。」
(使徒の働き20章26節)


パウロはメッセージを伝えることに忠実ゆえに、その責任は聞き手に完全に委ねられました。
私たちも彼にならうべきです。

エゼキエル自身は神によってイスラエルの家の見張り役に任命されました。
彼はヤハウェの口から発せられる言葉を聞き、民に警告を与えていました。
彼が神の支配の原則を説き、人々がそれに耳を傾けるなら、神は裁きの剣を振り払います。
もし、人々がそれを拒むなら、エゼキエルが預言を始めてからくりかえしそうであったように、彼ら自身のたましいの喪失は彼ら自身の責任です。
しかし、エゼキエルは自由でした。
彼は神の御心を遂行し、そのことによって忠実な見張り役の要件を満たしたのです。

「人の子よ。イスラエルの家に言え。あなたがたはこう言っている。
『私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。私たちはどうして生きられよう。』と。
彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。
かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』
人の子よ。あなたの民の者たちに言え。正しい人の正しさも、彼がそむきの罪を犯したら、それは彼を救うことはできない。悪者の悪も、彼がその悪から立ち返るとき、その悪は彼を倒すことはできない。正しい人でも、罪を犯すとき、彼は自分の正しさによって生きることはできない。
わたしが正しい人に、『あなたは必ず生きる。』と言っても、もし彼が自分の正しさに拠り頼み、不正をするなら、彼の正しい行ないは何一つ覚えられず、彼は自分の行なった不正によって死ななければならない。
わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言っても、もし彼が自分の罪を悔い改め、公義と正義とを行ない、
その悪者が質物を返し、かすめた物を償い、不正をせず、いのちのおきてに従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。
彼が犯した罪は何一つ覚えられず、公義と正義とを行なった彼は必ず生きる。」
(エゼキエル書33章10~16節)

18章と同様に、ここでも原則が示されています。
その原則は、神の律法への従順さにおいて失敗したからといって、自分が絶望的な状況にあると考える必要はないということです。
人は罪のために当然裁きを受けるべきですが、主は悪人の死を喜ばれるのではなく、すべての人が悪の道から立ち返って生きることを望んでおられます。
ですから、主は迷い出た人々にこう懇願されます。
「かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。
悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」
もし、人々がこのように立ち返るなら、神は彼らを憐れんでくださるのです。

その反面、自分の義を誇る権利や、律法に従順な人生を送った後に不注意になっても良いという資格は誰にもありません。
もし、人が律法から背き、そむきの道を歩むなら、その人の義は彼を救うことはできません。
罪を犯したその日に、自分の不義に倒れてしまいます。
自分の過去の正しさを信頼し、自分の善行を自画自賛していながら、それでも将来不注意になる者は、自分に与えらえた律法への継続的な従順を要求するお方との関係、たましいの苦しみとともに学ばなければいけません。
しかし、それでも、その人がもう一度自分の道の誤りを認め、神に立ち返り、従順に歩もうとするなら、主は、その人は決して死ぬことはありません。
むしろ、人生の改革によって過去の罪は赦され、この地上で神の前に生きるであろうと宣言されています。

これはたましいの救済の問題ではありません。
もしくは、新約聖書にあるようなキリストの血による贖罪の問題ではないことを、はっきりと理解すべきです。
これは、神が地上を支配する原則に従い、律法のもとで人々との関係を示しています。

イスラエルの多くの人々は、このことに気づかず、自分たちに降りかかった災難を神のせいにし、神が自分たちの罪のために裁いていることを忘れていました。
彼らが自分たちの過ちを認めるどころか、あえて主のせいにしたことに注目すべきです。

「あなたの民の者たちは、『主の態度は公正でない。』と言っている。しかし、彼らの態度こそ公正でない。
正しい人でも、自分の正しい行ないから遠ざかり、不正をするなら、彼はそのために死ぬ。
悪者でも、自分の悪から遠ざかり、公義と正義とを行なうなら、そのために彼は生きる。
それでもあなたがたは、『主の態度は公正でない。』と言う。イスラエルの家よ。
わたしはあなたがたをそれぞれの態度にしたがってさばく。」」
(エゼキエル書33章17~20節)


常に、人間は自分の失敗の言い訳を見つけようとし、自分に降りかかる災難の責任を他人に押し付けようとする傾向があります。
まさに最初のアダムがそうでした。
アダムは率直に自分の道を踏み外したことを認める代わりに、「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3章12節)と宣言し、神に責任を転嫁しようとしました。
アダムは単に妻を責めたのではありません。
その罪は重大な罪でした。
彼は、その妻を与えてくださった神の知恵を疑ったのです。
ですから、イスラエルは、自分たちの不義が裁きをもたらしたことを認識せず、「主の態度は公正でない」と言い、厚かましくも神に責任を押し付けたのです。
神の道は正しく正当です。
公平ではなかったのは彼らの道であり、彼らはそのことを学ぶ必要がありました。

この章の残りの部分は、エルサレムの破壊に関するエゼキエルの預言のいくつかが成就したときにエゼキエルに届いたメッセージが記された明確なセクションを形成しています。

「 私たちが捕囚となって十二年目の第十の月の五日、エルサレムからのがれた者が、私のもとに来て、「町は占領された。」と言った。
そののがれた者が来る前の夕方、主の御手が私の上にあり、朝になって彼が私のもとに来る前に、私の口は開かれた。こうして、私の口は開かれ、もう私は黙っていなかった。」
(エゼキエル書33章21、22節)


エゼキエルは年々、バビロニア人の猛攻からエルサレムを守ることのできる人間の力は存在せず、神が介入しても、かつての御名を定められたこの街を救い出すことはできないと宣言してきました。
エルサレムの不義と数々の罪は天にまで達し、裁きが下されるのは必然です。

ついに捕囚十二年目の第十の月に、エルサレムから脱出した者から、エルサレムは攻め落とされ、解放の望みは絶たれたという知らせがもたらされた。
カルデアに住んでいた人々にとって、これは実に悲しい知らせでした。
彼らは、エルサレムは最終的に包囲に耐え、神が介入して民に侵略者に対する勝利を与えてくれるという希望を抱いていたが、今やその希望が虚しいものであったことを知った。

使者が来る前、エゼキエルの心はひどく動揺していました。
明らかに神は、彼が明日受け取る言葉に備えていました。
使者が到着するまでの夜、彼は黙って座っていました。
朝になってようやく何が起こったのかを知らされると、彼の口は開き、再びヤハウェの名において語り、すぐに奴隷状態から解放されて土地を占領できると期待していた者たちを叱責しました。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。イスラエルの地のこの廃墟に住む者たちは、『アブラハムはひとりでこの地を所有していた。私たちは多いのに、この地を所有するように与えられている。』と言っている。
それゆえ、彼らに言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたは血がついたままで食べ、自分たちの偶像を仰ぎ見、血を流しているのに、この地を所有しようとするのか。
あなたがたは自分の剣に拠り頼み、忌みきらうべきことをし、おのおの隣人の妻を汚していながら、この地を所有しようとするのか。
あなたは彼らにこう言え。神である主はこう仰せられる。わたしは誓って言うが、あの廃墟にいる者は必ず剣に倒れる。野にいる者も、わたしは獣に与えてそのえじきとする。要害とほら穴にいる者は疫病で死ぬ。
わたしはその地を荒れ果てさせ、荒廃した地とする。その力強い誇りは消えうせ、イスラエルの山々は荒れ果て、だれもそこを通らなくなる。
このとき、わたしが、彼らの行なったすべての忌みきらうべきわざのためにその国を荒れ果てさせ、荒廃した地とすると、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」
(エゼキエル書33章23~29節)


アブラハムはたった一人の人間に過ぎませんが、神は彼に土地を与えたとイスラエルは言いました。
彼らは大勢です。
確かにその土地は彼らの相続財産となるべきでした。
しかし、エゼキエルは、彼らが犯した罪をヤハウェの名において叱責しました。
彼らは血をまき散らして食べ、偶像崇拝の習慣によって律法を破り、罪のない者の血が流されても悔い改めもしていません。
異教徒の特徴である堕落した生活は、神の律法への忠誠を一切捨て去った者たちの印でした。
それゆえ、主は彼らを剣で倒れさせるに任せました。
もし、彼らができるなら、自衛させるのです。
主は彼らを助けることを拒否しています。
主は彼らの土地を荒廃と驚愕の地とするために引き渡しました。
彼らは殺されるか、捕囚されるかのどちらかです。

「人の子よ。あなたの民の者たちは城壁のそばや、家々の入口で、あなたについて互いに語り合ってこう言っている。
『さあ、どんなことばが主から出るか聞きに行こう。』
彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。
しかし、それを実行しようとはしない。彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。
あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。
彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない。
しかし、あのことは起こり、もう来ている。彼らは、自分たちの間にひとりの預言者がいたことを知ろう。」」
(エゼキエル書33章30~33節)


神はエゼキエルに、友に語りかけたように語りかけました。
エゼキエルが仕えた人々は、彼とそのメッセージを称賛すると公言しながらも、内心では彼をののしり、非難していました。
彼らはエゼキエルの宣べ伝える言葉に従うつもりは全くありません。
人々はエゼキエルの言葉を聞くことに興味があるようで、「さあ、どんなことばが主から出るか聞きに行こう。」と互いに言っていました。
しかし、彼らはその言葉に従うつもりは全くありません。
口では多くの愛を示しても、心は貪欲に執着していました。
エゼキエルは彼らにとって、心地よい声で非常に美しい歌を歌い、楽器を巧みに演奏する人のようです。
彼らは預言者の雄弁さと力強いメッセージを伝える方法に歓喜したが、説教者を称賛し、その言葉に歓喜しながらも、その言葉に耳を傾けない現代の多くの人々と同じ様です。
イスラエルの民も不従順の道を歩み続け、預言者の口から発せられる言葉を何一つ真剣に受け止めようとしていません。
ついに、彼らに恐ろしい裁きが下った時、神は彼らに預言者が彼らの中にいたことを知るべきだと告げました。
しかし、その時では預言者の言葉に耳を傾けてたましいを救うには遅すぎると告げました。


34章 イスラエルの真の羊飼いと偽りの羊飼いの対比

この章には、イスラエルの不名誉で利己的な牧者たちに対するヤハウェの非難が記されています。
彼らの唯一の関心事は、群れを犠牲にしてあらゆる機会を利用して私腹を肥やすことでした。
この預言の年代は記されていませんが、私たちが考察してきた預言の直後に起こったのかもしれません。
古代から、王や総督、そして祭司や預言者といった教会指導者は「牧者」と呼ばれていました。
私たちが用いる「牧師」という言葉は、単に羊飼いを意味するラテン語です。
どの時代においても、神は特定の人々に、仲間たちの物質的および霊的な必要を満たし、世話をする責任を委ねることを喜んでおられました。
この働きが、神への畏れと神の群れの人々への愛をもって行われるなら、それは豊かな報いをもたらします。
ペテロの手紙第一5章1~4節には、忠実な牧者にイエス・キリストの出現の時に栄光の冠が約束されていると記されています。

「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。
あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。
あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。
そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」
(ペテロの手紙第一5章1~4節)


旧約聖書の多くの箇所で、ヤハウェご自身はご自分の民の羊飼いとして描かれています。
詩篇23篇の冒頭の聖句の美しさは、読者の皆様に改めて思い起こさせるまでもありません。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」
(詩篇23篇1節)


また、詩篇80篇1節にはこのようにあります。

「イスラエルの牧者よ。聞いてください。ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ。光を放ってください。ケルビムの上の御座に着いておられる方よ。」
(詩篇80篇1節)


イザヤは40篇11節で同じ比喩を用いてこのように述べられています。

「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」
(イザヤは40篇11節)


エレミヤは次のように述べ、イスラエルが守られることを語っています。

「イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る。」
(エレミヤ書31章10節)


メシアはパレスチナの地に立てられる忠実な羊飼いであると預言されています。

「見よ。わたしはひとりの牧者をこの地に起こすから。彼は迷い出たものを尋ねず、散らされたものを捜さず、傷ついたものをいやさず、飢えているものに食べ物を与えない。かえって肥えた獣の肉を食らい、そのひづめを裂く。」
(ゼカリヤ11章16節)


主が実際に人々の前に現れたとき、羊のために命を捨てる善き羊飼いであることを宣言されました。
イエスの言葉を耳にした者は皆、イエスが約束された救い主、イスラエルのメシアであることを宣言しておられたことを理解したのです。
ここでエゼキエルは神から、利己的な羊飼いたちに厳粛な警告を与えるよう命じられています。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。
神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。
あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。
弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。
彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。
わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。」
(エゼキエル書34章1~6節)


羊飼いたちは、民衆の公私両面における指導者でした。
しかし、彼らの間では至る所に腐敗が蔓延していました。
彼らは群れの中の羊たちを気にかけていません。
彼らはさまざまな機会を利用して私腹を肥やし、本来深く気遣うべき人々のことを全く顧みません。
病人や病弱な人々にも手を差し伸べず、身体に障害を負ったり、その他の怪我を負ったりした人々をも顧みません。
ルカによる福音書第15章で羊飼いが行っているように、道に迷った人々を捜すこともしません。
彼らは力と厳格さをもって民を支配しました。
その結果、敵が現れると羊たちは恐れおののき、散り散りになり、やがて野の獣、つまり獣のような異邦人の勢力の餌食になってしまいました。
6節で主が用いられた表現は柔和な表現です。
羊たちがあらゆる山々や高い丘をさまよい、誰も彼らを捜し求めることも、世話をすることもできないのを嘆いています。
離散以降、イスラエルの状態は常にこのような状態であり、来たるべき日に彼らがたましいの牧者と指導者のもとに戻るまでこの状態が続くのです。

「それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。
わたしは生きている、――神である主の御告げ。――わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。
それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。
それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。
神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。
牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。」
(エゼキエル書34章7~10節)


これらの羊飼いたちが自分たちの信頼をあまりにも裏切ったため、主が彼らを罰せられます。
主は彼らのすべての悪行を注視しており、彼らがいかにして自分たちを養い、民を飢えさせているかを御存じです。
ゆえに、主はこれらの邪悪な羊飼いたちを戒め、彼らの手に御自身の羊を要求すると宣言されました。
主が彼らに課した責任を果たさなかったことについて、彼らが主の裁きの場で説明しなければなりません。
それはなんと厳粛なことなのです。
主は羊たちを彼らの手から救い出し、彼らの不誠実さを罰されます。
現在、神の民の指導者でありながら、託された群れを養うことも、迷い出た者を捜すことも怠っている人々がいます。
彼らはこのような言葉を心に留めるべきなのです。
教会の指導者のことだけを考える必要はありません。
なぜなら、指導者に権威を与えたのは神であり、神は彼らに、国家全体の利益のために権威を行使するために、権威を託された者と自覚するよう責任を負わせられているからです。
もし、そのような者でなければ、神の裁きは必ず下されます。

しかし、もしこれらの羊飼いたちが不誠実であったとしても、11節から16節にあるように、主御自身が真実なのです。

「まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。
牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。
わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。
わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。
わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――
わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」
(エゼキエル書34章11~16節)

ヤハウェご自身がご自分の羊を捜し求め、探し出されます。
散らされた羊の群れを集めようと努める羊飼いのように、神は羊を一人一人捜し求め、雲と暗やみの日においても、散らされたあらゆる場所から救い出されます。
そして、共に彼らを諸国から連れ出し、抑圧されてきた様々な国から集め、新たな国民として彼らの土地、すなわちパレスチナの地に導き入れます。
そこで神はイスラエルの山々で彼らを牧し、その地に再び豊かな恵みを与え、彼らの祝福となるのです。

このような聖句を霊的に解釈し、神が現在の御自身の民に対して示してくださる恵み深い働きにだけ適応させようとすることは、愚かさの極みです。
散らされた民は、神の定められた時が来た時に再び集められる民であることは明らかです。
その時、神は確かに彼らを良い牧草で養い、イスラエルの高地で彼らは羊の群れを見つけ、主の哀れみを喜び祝います。

「わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる」という主の言葉の明確さに注目してください。
チャールズ・H・スポルジョンは、「貧しい愚かな羊でさえ、疲れているときに横になるのに十分な理性を持っていると思うかもしれませんが、悲しいかな、キリストの群れの羊ではそうではないことが多いのです」と的確に述べています。
ダビデは「主は私を緑の牧場に伏させ」(詩篇23篇2節)と宣言しました。
そしてここでヤハウェは、「わたしが彼らをいこわせる」と言っておられます。
主は失われた者を捜し、追い払われた者を連れ戻してくださいます。
傷ついた者を包帯で包み、病気の者を強くしてくださいます。
しかし、主がご自分の羊を義のうちに牧されるその日、自給自足の者や強い者は失望します。

「わたしの群れよ。あなたがたについて、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、羊と羊、雄羊と雄やぎとの間をさばく。
あなたがたは、良い牧場で草を食べて、それで足りないのか。
その牧場の残った分を足で踏みにじり、澄んだ水を飲んで、その残りを足で濁すとは。
わたしの群れは、あなたがたの足が踏みつけた草を食べ、あなたがたの足が濁した水を飲んでいる。」
(エゼキエル書34章17~19節)


主の羊であると告白する者すべてが、実際に主の民として数えられるわけではありません。
ですから、主は真実に主を信頼する者とそうでない者を区別されます。
主は、水や緑の草原を楽しむ代わりに、川を踏み荒らし、緑の草原を汚し、こうして彼らは、ヤハウェの真実な民が飲食するのにふさわしくない状態にされてしまいます。

神の真理を軽んじ、聖書の証言を嘲笑する人々の行動の中に、まさに今日、このことの型として見ることがないことを願います。
彼らは、キリストの群れの飢え渇く人々にとって非常に大切なものを汚しているのです。
このような行動のゆえに、裁きは必ず下されます。

「それゆえ、神である主は彼らにこう仰せられる。見よ。わたし自身、肥えた羊とやせた羊との間をさばく。
あなたがたがわき腹と肩で押しのけ、その角ですべての弱いものを突き倒し、ついに彼らを外に追い散らしてしまったので、
わたしはわたしの群れを救い、彼らが二度とえじきとならないようにし、羊と羊との間をさばく。
わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。
主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。」
(エゼキエル書34章20~24節)


それぞれの働きが明らかになる日、主は真実の者と偽りの者を裁きます。
主は、御自身の民を御自身から引き離した者たちを罰し、群れを救い、彼らが二度と敵の餌食にならないようにします。
これは間違いなく、イスラエルの残された民がパレスチナの地に集められ、自分たちが突き刺した主を仰ぎ見て、「ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く」(ゼカリヤ書12章10節)の時のことを指しています。
その時、主は彼らの上に一人の羊飼いを立てられます。
それは、ご自分のしもべダビデです。
すなわち、偉大なダビデのさらに偉大な御子、私たちの主イエス・キリスト、イスラエルの唯一の真実なる羊飼いです。
その時、彼らは確かにヤハウェが彼らの神であることを知り、ダビデの家の君主が約束のメシアであることが認められます。

「わたしは彼らと平和の契約を結び、悪い獣をこの国から取り除く。彼らは安心して荒野に住み、森の中で眠る。
わたしは彼らと、わたしの丘の回りとに祝福を与え、季節にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。
野の木は実をみのらせ、地は産物を生じ、彼らは安心して自分たちの土地にいるようになる。
わたしが彼らのくびきの横木を打ち砕き、彼らを奴隷にした者たちの手から救い出すとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。
彼らは二度と諸国の民のえじきとならず、この国の獣も彼らを食い殺さない。
彼らは安心して住み、もう彼らを脅かす者もいない。
わたしは、彼らのためにりっぱな植物を生やす。彼らは、二度とその国でききんに会うこともなく、二度と諸国の民の侮辱を受けることもない。
このとき、彼らは、わたしが主で、彼らとともにいる彼らの神であり、彼らイスラエルの家がわたしの民であることを知ろう。
――神である主の御告げ。――
あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。
――神である主の御告げ。――」」
(エゼキエル書34章25~31節)


イスラエルが神と土地に回復される日には、主は彼らを契約の民として認め、自分たちの守護者となられるので、将来、彼らに災いが及ぶことはありません。
邪悪な獣は国から姿を消し、彼らは荒野や森でさえ安全に暮らすことができます。
そして、主は彼らの幸福に必要なすべてのものを整えてくださいます。
もはや、地は水分不足に悩まされることはありません。
別の預言者が預言したように、春の雨と秋の雨がそれぞれの時期に降り注ぎ、恵みの雨が降ります。
これらの言葉は多くの人々の心に訴えかけ、神がご自分の信頼する民を慰めるために喜んで送る霊的、物質的な恵みについて力強く語っています。
私たちは今日もこう歌います。

「祝福の雨が降ります。
この雨は愛の約束です。
爽やかな季節が訪れ、天の救世主から遣わされます。」

私たちは特に霊的な祝福について考えています。
来たるべきその日に、神はイスラエルに物質的にも霊的にも祝福を与え、彼らは神の哀れみを喜び、神の哀れみを賛美します。
その日、神の律法を守った人々に昔から約束されていたすべての祝福が、恵みの契約のゆえに彼らに与えられます。
敵のくびきは首から折られ、イスラエルは長きにわたり奴隷状態にあった異邦人の手から解放されます。
彼らはもはや、傲慢で軽蔑的な諸国民に容赦なく追い詰められることはありません。
恐れる者もなく、自分たちの土地で安全に暮らすのです。
何世紀にもわたって彼らが遭遇してきた災いは、もはや彼らを悩ませることはありません。
彼らの神ヤハウェはイスラエルと共におられ、その力の日に彼らのために喜びます。

最後の節はこの点を完璧に明らかにし、羊飼いと羊のたとえ話を完璧に説明しています。
ヤハウェはこのように言われます。
「あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。」


35章 エドムの破滅

神の導きの下、エゼキエルはセイル山とエドムの地に対するメッセージを伝えるために向かいます。
創世記32章3節では、セイル山はエドムと明確に結び付けられています。
そこはエサウの子孫の相続地です。

「それでエサウはセイルの山地に住みついたのである。エサウとはすなわちエドムである。」
(創世記36章8節)


エドム人はイスラエルと非常に近い関係にあったため、カデシュ・バルネアからヨルダン川の東側に向かう途中、神は民に彼らに対して剣を上げることを禁じました。

「エドム人を忌みきらってはならない。あなたの親類だからである。エジプト人を忌みきらってはならない。あなたはその国で、在留異国人であったからである。」
(申命記23章7節)


彼らはエサウの子孫と戦うのではなく、彼らの領土を通路して通行する許可を求めるようにと命じられました。
エドム人はこの許可を拒否したため、イスラエル人は目的地に到達するために、エドムの地を迂回し、はるかに遠回りの道を取るしかなかったのです。
しかし、イスラエル人は同胞であるエドム人に対して神の命令に注意深く従おうと努めました。
しかし、エドム人は最初から同胞に対して全く異なる精神を示しました。
彼らは、時々、イスラエルの敵に加担し、イスラエルに大混乱をもたらそうとしただけではありません。
くりかえし発生した国境紛争には介入せず傍観していたとしても、イスラエルのさまざまな挫折を喜び、敵の勝利を誇りました。
これらすべては神の目に留まり、神の心を激怒させました。
それゆえ、預言者イザヤ、エレミヤ、オバデヤ、エゼキエルは、エドムと後にイドマヤとして知られるようになった全土に対する神の裁きを宣告しました。
そこで私たちは、この傲慢で偶像崇拝的な民に対する裁きを宣告するこの章を検討してみます。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。顔をセイルの山に向け、これについて預言して、
言え。神である主はこう仰せられる。セイルの山よ。わたしはおまえに立ち向かい、おまえにわたしは手を伸ばし、おまえを荒れ果てさせ、荒廃した地とする。
わたしがおまえの町々を廃墟にし、おまえを荒れ果てさせるとき、おまえは、わたしが主であることを知ろう。
おまえはいつまでも敵意を抱き、イスラエル人が災難に会うとき、彼らの最後の刑罰の時、彼らを剣に渡した。
それゆえ、――わたしは生きている。神である主の御告げ。――わたしは必ずおまえを血に渡す。血はおまえを追う。おまえは血を憎んだが、血はおまえを追いかける。
わたしはセイルの山を荒れ果てさせ、廃墟とし、そこを行き来する者を断ち滅ぼす。
わたしはその山々を死体で満たし、剣で刺し殺された者たちがおまえの丘や谷や、すべての谷川に倒れる。
わたしはおまえを永遠に荒れ果てさせる。おまえの町々は回復しない。おまえたちは、わたしが主であることを知ろう。」
(エゼキエル書35章1~9節)


ヤハウェは、エサウに与えたセイル山の民がイスラエルに対して示した態度ゆえに、その地を敵視しています。
ゆえに、神はその地に対して御手を伸ばし、荒廃させ、驚くべきものとしようとされました。
街は荒廃させられ、完全に荒れ果てさせられたのです。
これは文字通り成就した預言です。
既に述べたように、エドムはイスラエルの子らにとって永遠の敵でした。
彼らは血を分けた同胞に対して自分たちの剣を取っただけでなく、残忍な敵の攻撃を受けた時には、他の者たちと結託して逃げようとしました。
報復的な裁きとして、エドムの地の山々、丘陵、谷は剣で殺された者たちで満たされました。
ペトラとテマンを中心とするエドムの街は、永遠に荒廃させられ、無人のままにされました。
それは、ヤハウェが、その言葉が覆されることのできない方として明らかにされるためです。
歴史を学ぶ者は、この預言がどのように成就したかを正確に知っています。

エゼキエルがこの言葉を語った後、数世紀の間、エドムは属国として存続し、最初はバビロン、次いでメディア・ペルシアの支配下に置かれました。
そして紀元前126年、マカバイ家のヨハネ・ヒクラノスによって征服されました。
彼は生き残ったイドマヤ人にユダヤ人になることを強制しました。
エルサレムがローマ人によって滅ぼされ、ユダヤ人が世界中に散らされた時、エドムの残党は完全に消滅しました。
今日、エドム人の祖先を特定できる人物を見つけることは不可能です。
しかし、オバデヤ書(18章)とエレミヤ書(49章13節)が預言したように、いまだに彼らの街は残っています。
これらの荒廃したエドムの街、特にペトラの通りを歩き、壁のフレスコ画がまるで昨日描かれたかのように鮮やかに描かれている家々に入ると、そこには誰も住んでいません。
神の言葉は文字通り成就しました。
やがて、主イエスが王として支配するために戻って来られ、イスラエルが主の元に回復されるとき、彼らの土地にはエドムの土地も含まれます。
しかし、エドム人自身は二度と歴史に登場していません。

「おまえは、『これら二つの民、二つの国は、われわれのものだ。われわれはそれを占領しよう。』と言ったが、そこに主がおられた。
それゆえ、――わたしは生きている。神である主の御告げ。
――おまえが彼らを憎んだのと同じほどの怒りとねたみで、わたしはおまえを必ず罰し、わたしがおまえをさばくとき、わたし自身を現わそう。
おまえはイスラエルの山々に向かって、『これは荒れ果てて、われわれのえじきとなる。』と言って、侮辱したが、主であるわたしがこれをみな聞いたことを、おまえは知るようになる。
おまえたちは、わたしに向かって高慢なことばを吐いたが、わたしはそれを聞いている。
神である主はこう仰せられる。わたしはおまえを荒れ果てさせて、全土を喜ばせよう。
おまえは、イスラエルの家の相続地が荒れ果てたのを喜んだが、わたしはおまえに同じようにしよう。
セイルの山よ。おまえは荒れ果て、エドム全体もそうなる。人々は、わたしが主であることを知ろう。」
(エゼキエル書35章10~15節)


エドムはイスラエルの苦境を見て、パレスチナの地を征服し、二つの民族を統一する好機と考えたことは明らかです。
そして、ある意味では、まさにそれが一時的には起こりました。
既に述べたように、エドムを征服したのはイスラエルでしたが、二つの民族を支配したのはエドム人でした。
このねたむと憎しみの精神ゆえに、ヤハウェはエドムにご自身を明らかにされました。
エドムは神から遠く離れ、最も卑劣な偶像崇拝に陥っていました。
神は彼らの邪悪さを裁き、彼らの罪を彼らに報いました。
このように彼らは、ヤハウェが語られたこと、そしてイスラエルの山々に対する彼らのすべてのののしりを聞かれたことを知るべきでした。
エドムはイスラエルが荒廃するのを見て喜び、自分たちが彼らに食い尽くされるために与えられたと宣言しました。
彼らはユダヤ人を非難することで、主に逆らって自分たちを高めました。
神の耳は彼らの誇りを聞き、神の心は神の民のために動かされました。
神は、ついに全地が喜びに満たされるとき、すなわち神の王国が権力を握るとき、エドムは荒廃したままであると宣言しました。
イスラエルの家の相続地が荒廃したとき、人々はそれを喜びました。
神はエドムの罪を報い、再び荒廃が訪れます。
これは、彼らが決して回復できない荒廃となります。

この厳粛な預言を深く考えるとき、いわゆる反ユダヤ主義の罪を犯したすべての人々にとっては、確かに重大な教訓があります。
イスラエルの民は、そのあらゆる罪と過ちにもかかわらず、父祖たちのゆえに愛されています。
神は、彼らに反対するあらゆる手、そして神が特別な宝として召された民を嘲笑し、侮辱するあらゆる声にも心を留めておられます。
彼らの失敗は、私たちがいかなる民とも手を組んで、彼らの状況を悪化させるようなことを正当化するものではありません。
むしろ、私たちは彼らの悲しみを和らげ、主イエス・キリストの救いに至る知識へと彼らを導くために、できる限りのことをするよう努めるべきです。
そうでなければ、イスラエルに対する態度のゆえにエドムを裁かれた神は、現在の異邦人による同様の行為を、たとえ彼らがクリスチャンを自称していても、決して見過ごすことはないと確信します。


36章 水と霊から生まれる

メシアの慈悲深く義なる支配の下、パレスチナの地に定住する国家イスラエルの栄光ある未来は、何よりもまず残された民が神のもとへ帰還することだとすでに私たちは見てきました。
彼らが御霊と御言葉によって再生されて初めて、完全な祝福に入る準備が整います。
このことはこの章で明確に示されています。
主は、ニコデモに水と御霊による新たな誕生の重要性を説いた後、これらのことを知らない彼の無知を優しく叱責された時、この聖句を念頭に置いていたはずです。
もし、ニコデモがここで与えられた教えを理解していたなら、水と御霊による新たな誕生によって人が神の国に入ることができことを救い主が語られた時、何を意味していたのかを理解できていたはずです。

この章の最初の部分は、将来民がその土地に復帰することについて述べています。
その復帰は、私たちが知っているように、不信仰ですが、今すでに始まっており、人々が心から主御自身に立ち返るまで、イスラエルに安定した平和は決してもたらされることはありません。

「人の子よ。イスラエルの山々に預言して言え。イスラエルの山々よ。主のことばを聞け。
神である主はこう仰せられる。敵がおまえたちに向かって、『あはは、昔からの高き所がわれわれの所有となった。』と言っている。
それゆえ、預言して言え。神である主はこう仰せられる。実にそのために、おまえたちは、回りの民に荒らされ、踏みつけられ、ほかの国々の所有にされたので、おまえたちは、民の語りぐさとなり、そしりとなった。
それゆえ、イスラエルの山々よ、神である主のことばを聞け。神である主は、山や丘、谷川や谷、荒れ果てた廃墟、また、回りのほかの国々にかすめ奪われ、あざけられて見捨てられた町々に、こう仰せられる。
それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは燃えるねたみをもって、ほかの国々、エドム全土に告げる。
彼らは心の底から喜び、思い切りあざけって、わたしの国を自分たちの所有とし、牧場をかすめ奪ったのだ。
それゆえ、イスラエルの地について預言し、山や丘、谷川や谷に向かって言え。神である主はこう仰せられる。
見よ。おまえたちが諸国の民の侮辱を受けているので、わたしはねたみと憤りとをもって告げる。
それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは誓う。
おまえたちを取り囲む諸国の民は、必ず自分たちの恥を負わなければならない。」
(エゼキエル書36章1~7節)


このメッセージの中で、預言者はイスラエルの山々に直接語りかけるように命じられていることに注目してください。
つまり、彼は民ではなく、むしろ土地そのものに語りかけています。
もちろん、これは、民が彼のメッセージから、神が終わりの日にパレスチナに何を用意しておられるのかを知るためです。
1900年代に起こった出来事を考えると、これらの言葉はほぼ文字通り現在に適応されますが、後にはより完全な成就が訪れるのです。
長らく荒廃していたこの地は、神がこれから行うことについて、この章で述べられていることが既に成就し始めています。

異邦人の支配が続いた長い世紀を通じて、パレスチナは荒廃してきました。
イスラエルの敵は四方八方からこれを呑み込み、ヤハウェがはるか昔にこのように言われた地を、次々と大国が支配してきました。

「地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。
地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。」
(レビ記25章23節)


バビロニア、メディア・ペルシャ、ギリシャ、エジプト、シリア、ローマ、トルコ、その他の勢力がパレスチナの領有権をめぐって争いました。
神はこれらの国々がイスラエルに対して示した激しい敵意をすべてご覧になっておられます。
しかし、彼らがパレスチナを餌食にした方法を決して見過ごすことはありません。
ヤハウェの選んだ民の地に対する彼らの態度は、神のねたむの火を燃え上がらせたためです。
神はその地を占領し、神の民を奴隷にしようとするすべての国々に対して裁きを宣言されました。
主はイスラエルに対する憤りと深い思いやりから、イスラエルが諸国民の恥辱を負ってきました。
そして、イスラエルの苦難の原因となってきた諸国民も、主の来るべき日に恥辱を受けることを誓われました。
その時、この地は異邦人の踏みつけから解放され、イスラエルの残された民は懲らしめられ、悔い改めた民として、この地に戻るのです。

「だが、おまえたち、イスラエルの山々よ。おまえたちは枝を出し、わたしの民イスラエルのために実を結ぶ。
彼らが帰って来るのが近いからだ。
わたしはおまえたちのところに行き、おまえたちのところに向かう。おまえたちは耕され、種が蒔かれる。
わたしは、おまえたちの上に人をふやし、イスラエルの全家に人をふやす。町々には人が住みつき、廃墟は建て直される。
わたしは、おまえたちの上に人と獣をふやす。彼らはふえ、多くの子を生む。
わたしはおまえたちのところに、昔のように人を住まわせる。いや、以前よりも栄えさせる。このとき、おまえたちは、わたしが主であることを知ろう。
わたしは、わたしの民イスラエル人に、おまえたちの上を歩かせる。彼らはおまえを所有し、おまえは彼らの相続地となる。おまえはもう二度と彼らに子を失わせてはならない。
神である主はこう仰せられる。彼らはおまえたちに、『おまえは人間を食らい、自分の国民の子どもを失わせている。』と言っている。
それゆえ、おまえは二度と人間を食らわず、二度とおまえの国民の子どもを失わせてはならない。――神である主の御告げ。――
わたしは、二度と諸国の民の侮辱をおまえに聞こえさせない。おまえは国々の民のそしりを二度と受けてはならない。
おまえの国民をもうつまずかせてはならない。――神である主の御告げ。――」」
(エゼキエル書36章8~15節)


エゼキエルはイスラエルの山々について語りながら、神の定められた時が来れば、大きな森が再び山々を覆い、果樹園がイスラエルの人々のために果実をもたらすだろうと預言しています。
なぜなら、これらはもうすぐ来るからです。

2000年もの間、イスラエルの山々は森林の大部分が伐採され、かつて有名だったレバノン杉もわずかに残るのみでした。
しかし、過去30年間、英国委任支配領の下で、山々の再植林に向けた大々的な運動が開始され、何百万本もの樹木が植えられました。
これはすべて、神の旧約の民が自分たちの土地に戻るための準備です。

神がイスラエルのために、単に国家としての復興以上のものを用意しておられることを知らないのなら、現在、これらの聖句が完全に成就していると考えるかもしれません。
私たちが目にしているものは、ここに示されていることと完全に一致しています。
しかし、これらのことは神が意図しておられることのほんの始まりに過ぎません。
そして、大患難時代が過ぎ去り、メシアが栄光のうちに現れた後にこれらのことは完全に成就します。
その時、町は人が住み、廃墟は再建されます。
かつて、荒れ果て、あちこちに実り豊かなオアシスがあるだけの広大な砂漠だった土地は、果樹園、ぶどう園、酪農場など、神の喜びを示す様々なものが豊かに実ります。
今、このような新たな状況は世界の驚異となっていますが、ヤコブの苦難の時は未来にあることを忘れてはいけません。
現在、行われている多くのことは、終わりの時にその地を荒廃させる戦争によって無に帰すのです。
そして、最終的にはここで示されているようにすべてが文字通り成就し、イスラエルは以前の相続地を所有し、二度と子供たちを失うことはありません。

パレスチナが巻き込まれた数々の紛争のため、諸国家はパレスチナを人々を食い尽くす者とみなされ、イスラエルの復興は不可能と思われてきました。
しかし、神の言葉は確実であり、神はすべての預言を文字通り成就させてくださいます。
来たるべき栄光の日に、この地は豊かな人口を養うことができ、彼らは王国時代を通して平和と幸福のうちに繁栄するのです。
世界の諸国家はもはやイスラエルを非難したり、つまずかせたりすることはなく、彼らが真実にヤハウェの民であることを認めます。

彼らの過去の苦しみ、そして神の怒りの杯が地上に注がれる大艱難時代の恐ろしい時に、彼らが経験する苦しみはすべて、彼らが犯した罪の結果なのです。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。イスラエルの家が、自分の土地に住んでいたとき、彼らはその行ないとわざとによって、その地を汚した。その行ないは、わたしにとっては、さわりのある女のように汚れていた。
それでわたしは、彼らがその国に流した血のために、また偶像でこれを汚したことのために、わたしの憤りを彼らに注いだ。
わたしは彼らを諸国の民の間に散らし、彼らを国々に追い散らし、彼らの行ないとわざとに応じて彼らをさばいた。
彼らは、その行く先の国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民であるのに、主の国から出されたのだ。』と言ったのだ。
わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ。」
(エゼキエル書36章16~21節)


初めに神はイスラエルにパレスチナを与えた時に、彼らを救い出した国々、そしてその領土を取り囲む国々の慣習に従わないように警告されました。
しかし、彼らはそれに耳を貸さず、その地は彼らの邪悪な行いと悪行によって汚されました。
そのため、神は彼らに怒りを注ぎました。
彼らの偶像への献酒において罪のない人々の血が流され、地はさらに汚されました。
そこで、神は義なる報復として彼らに血のバプテスマを与えました。
神は彼らを諸国民の間に散らし、地の国々に散らし、彼らの邪悪な行いに応じて裁きました。
このように異邦人の間に散らされた彼らは、心から神に立ち返るどころか、神の聖なる御名を汚したのです。
使徒パウロがローマ人への手紙の中で述べているとおりです。

「これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。」
(ローマ人への手紙2章24節)


彼らがこのように神を辱めたにもかかわらず、神は依然として彼らを監視し続け、敵が彼らを完全に滅ぼすことを不可能にしています。

それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。
イスラエルの家よ。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。
わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。
わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。
――神である主の御告げ。――
わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。
わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。
あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。
わたしはあなたがたをすべての汚れから救い、穀物を呼び寄せてそれをふやし、ききんをあなたがたに送らない。
わたしは木の実と畑の産物をふやす。それであなたがたは、諸国の民の間で二度とききんのためにそしりを受けることはない。
あなたがたは、自分たちの悪い行ないと、良くなかったわざとを思い出し、自分たちの不義と忌みきらうべきわざをいとうようになる。」
(エゼキエル書36章22~31節)


ヤハウェが行動したのは、イスラエルのためではなく、彼らが汚した神の聖なる御名の栄光のためでした。
その偉大な御名を聖なるものとするために、神は回復の約束を果たすことを誓われました。
この点についての神の言葉が成就する日が来るとき、すべての国々はヤハウェが契約を守られたという事実を認識し、神の御名は彼らの目の前で聖なるものとされます。
彼らの新生についての約束の特異性に注目してください。
主はこのように宣言されました。
「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。」
そして、ニコデモへの主の言葉に従って、このように宣言されます。
「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。
わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。」

他の聖句から、これが御言葉による水の洗いを指していることが分かります。
詩篇にはこのようにあります。

「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」
(詩篇119篇9節)


イスラエルがこの御言葉を受け入れ、その効果を発揮される時、彼らの道は清められ、神との交わりに再び入ることができるようになるのです。

「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。」と主は言われました。
これがイエスがニコデモに語られた新しい誕生です。
もしニコデモが律法学者という職業柄、預言者について熱心に学んでいたなら、イエスが水と霊によって生まれると語られた時、当惑することはなかったのです。
神の言葉は聖霊の力によって人々の心と良心に適用されることを理解していたのです。
不信仰の石の心は彼らから取り去られ、神は彼らに肉の心を与えられました。
さらに、イエスはご自身の霊を彼らの内に置き、神の定めに従って歩み、神の定めを喜ぶようにされると約束されました。
聖書がキリストの再臨を教えているのと同様に、聖霊の再臨も預言しています。
聖霊はペンテコステに来られ、信者たちを一つの体へと導き、教会に住まわせ、証しの力を与えられました。
イスラエルの復興の日に、神は高い所から注がれ、新生した民の内に宿ります。
彼らは故郷に集められ、二度とそこから追い出されることはありません。
その日、神は彼らを御自身の民として認め、彼らの神となります。
ホセア書1章9節の「ロ・アミ」の文はその時取り消され、長い離散の間、神が御自身の民として認めようとしなかった者たちも、罪を告白し、神の義を認めて神のもとに帰る時、再び、神に認められることになります。
このように、彼らはあらゆる汚れから救われ、ヤハウェは彼らに霊的な祝福だけでなく、あらゆる現世の哀れみを注ぐことを喜びとされます。
その時、彼らは放浪の年月を振り返り、自分たちの悪行と行いを思い出し、それらの不義と忌まわしい行いのゆえに、自分たちを忌み嫌うのです。

「わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではない。――神である主の御告げ。――イスラエルの家よ。あなたがたは知らなければならない。恥じよ。あなたがたの行ないによってはずかしめを受けよ。
神である主はこう仰せられる。わたしが、あなたがたをすべての不義からきよめる日に、わたしは町々を人が住めるようにし、廃墟を建て直す。
この荒れ果てた地は、通り過ぎるすべての者に荒地とみなされていたが、耕されるようになる。
このとき、人々はこう言おう。『荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった。廃墟となり、荒れ果て、くつがえされていた町々も城壁が築かれ、人が住むようになった。』と。
あなたがたの回りに残された諸国の民も、主であるわたしが、くつがえされた所を建て直し、荒れ果てていた所に木を植えたことを知るようになる。主であるわたしがこれを語り、これを行なう。」
(エゼキエル書36章32~36節)


イスラエルの将来の祝福についての神の扱いはすべて、純粋な恵みによるものです。
功績に基づくものは何もありません。
なぜなら、彼らは裁きを受けるに値するだけだからです。
彼らは自分たちの失敗と神の豊かな憐れみを思い返し、恥じ、当惑します。
主は現在の世界における彼らへの配慮によって、いかに彼らを完全に罪から清め、すべての罪を赦したことを示します。
彼らの町には人が住み、廃墟は再建され、かつて荒れ果てていた土地は肥沃な農場と果樹園で覆われます。
かつて、彼らを軽んじていた諸国民は、かつて荒れ果てていた地を見て、かつて廃墟とされていた街が再建され、人が住むようになるのを見て、「エデンの園のようになった」と驚嘆します。
これは、イスラエルの神ヤハウェの力と忠実さに対する非難の余地のない証言です。
ヤハウェは自分の言葉を決して撤回せず、「主であるわたしがこれを語り、これを行なう」と宣言されています。

「神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。
ちょうど、聖別された羊の群れのように、例祭のときのエルサレムの羊の群れのように、廃墟であった町々を人の群れで満たそう。このとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」」
(エゼキエル書36章37、38節)


将来の祝福に関するこれらの多様な約束を鑑みて、神は、ご自分の民イスラエルがこれらのことをすべて心に留め、今なお神に立ち返り、罪を告白し、御言葉の成就を速めてくださるよう神に頼ることを望んでおられます。
預言の証言は、常にたましいにこのような影響を及ぼしまう。
神の考えでは、人々を将来の出来事、いわゆる預言の成就の政治的側面にのみ集中させることではありません。
むしろ、約束された内容が、それを読み、神の前に謙虚になり、悔い改めと罪の告白をもって神に立ち返る人々の心を動かし、今なお、罪が赦され、神との交わりを享受するという祝福の現実に人々が入ることを可能にすることなのです。


37章 乾いた骨の谷

この幻は、離散の長い世紀にわたるイスラエル国民の霊的状態を私たちに示しています。
神から背を向けた彼らは、もはや民族として神のいのちを特徴としていません。
彼らは部分的に盲目になり、聖書を読んでさえ神の御心を見分けることが困難になっているだけではありません。
律法と真実な神を知らないために、かつて軽んじていた異邦人のように、罪過と罪の中で実際に死んでいるのです。

エゼキエルは幻の中で、乾いた骨で満たされた深い谷に自分が横たわっているのを見ました。
エゼキエルはこのように言っています。

「主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。
主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。
主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」
主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。
神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。
わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」」
(エゼキエル書37章1~6節)


ヤハウェから周囲を見回すように命じられた彼は、谷のあらゆる場所にこれらの骨があることに気づきました。
しかも、それらは非常に多く、非常に乾いていました。
言い換えれば、霊的な命の証拠は微塵もありません。
そこで、神ご自身が、「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか」と尋ねられました。
確かに、質問した方以外には誰も答えられません。
人間の力では、それらが生き返ることなど不可能に思えたはずです。

現在、私たちがイスラエル人一人ひとりと接して、彼らに彼ら自身のメシア、私たちの主イエス・キリストについての救いの知識をもたらせようとすることが、この世で最も落胆させる働きであることがわかります。
彼らは自分たちの聖書の偉大な真理に対して完全に死んでいます。
神の御霊がユダヤ人の上で働いたときにのみ、これらの途方もない真理を何らかの意味で理解することができます。
新約聖書にはこのように記されています。

「それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」
(コリント人への手紙第一1章21節)


そこでエゼキエルはこれらの骨について預言するように命じられました。
つまり、神のメッセージを宣べ伝え、「干からびた骨よ。主のことばを聞け」と告げるように命じられました。
エゼキエル自身、神が彼らの中に息を吹き込み、彼らが生きる日が来ると宣言しました。
神は彼らに筋を張り、肉を与え、皮膚で覆い、息を吹き込むからです。
そうすれば、彼らは再び神の愛に応え、神が主であることを知ることができます。
私たちは詩篇119篇25節にあるダビデの祈り「あなたのみことばのとおりに私を生かしてください。」を思い起こします。
そして主イエスは「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」(ヨハネによる福音書6章63節)と語られました。
ゆえに、命を与える言葉が聖霊の力で発せられると、貧しく、死んで、乾いたイスラエル人さえも生き返り、神が語られたことを知るのです。

エゼキエルは神の命令を聞くとすぐに、骨に預言、つまり説教を始め、その結果はすぐに現れました。

「私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。
すると、骨と骨とが互いにつながった。
私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。
そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。
神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」
私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。
そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。」
(エゼキエル書37章7~10節)


エゼキエルが御言葉を宣べ伝えると、雷鳴のような音が響き、大地が激しく揺れ動きました。
そして、驚いた預言者の目の前で、骨が一つ一つ組み合わさり、完全な人間の骨格が形作られました。
次の瞬間、筋と肉が彼らの上に現れ、皮膚が彼らを覆い、彼らは完全な人間の体となりましたが、息も命もありません。
再び主の言葉が預言者に臨みました。
「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。
神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」
私の知る限り、聖書の中で霊に直接祈りが捧げられているのは、ここだけです。
通常、エペソ人への手紙2章18節に見られているように、祈りは聖霊によって、あるいは聖霊の力によって、御子の御名によって父に捧げられます。

「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」
(エペソ人への手紙2章18節)


しかし、ここでは霊に直接語りかけるように命じられた明確な例が示されています。
なぜなら、ここでの「風」という言葉は、神の祝福された命を与える御霊である聖霊以外の何物でもないからです。
死者を生き返らせるのは聖霊です。
そして、この祈りに応えて、復活したこれらの体に息が吹き込まれ、彼らは非常に大きな集団のように立ち上がりました。

これらはすべて幻の中で起こったことであり、死者の文字通りの肉体的な復活を指していると解釈すべきではないことを覚えておく必要があります。
聖書がそのような復活、つまり二つの復活、一つは義人の復活、もう一つは不義人の復活を教えていることは明白です。
しかし、ここで考察されているのはそういうことではありません。
これはむしろ、ダニエル書12章2節で預言されていることが幻の中で成就しています。

「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。」
(ダニエル書12章2節)


この言葉は、今述べた二つの復活、すなわち主イエス・キリストの千年王国の前と後の復活に適応されます。
しかし、ダニエル書12章でこれらの言葉が見られる関連性から、私の判断では、そこで描かれている復活は、この章で見られるような国家的な蘇生であることは明らかです。

イスラエルは幾世紀にもわたって死んだ国民となり、異邦人の中で眠りについていました。
ヤハウェの力の日に、彼らは墓から連れ出され、散らされていた国々から集められ、非常に大きな集団として現れます。
心に信仰を見いだす者は永遠の命に入り、その日のメッセージを信じようとしない者は恥辱と永遠の軽蔑に追い込まれます。

エゼキエルの幻の説明は次の数節で明確に与えられています。

「主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。』と言っている。
それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。
わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。――主の御告げ。――」」
(エゼキエル書37章11~14節)


身元確認は完了しました。
これらの骨はイスラエルの全家です。
苦難の中で彼らは言いました。
「私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。」
しかし、彼らはまだ、ヤハウェが彼らのためにさらに良いことを用意しておられることを知りません。
神は彼らの墓を開かれます。
つまり、彼らが長い間世界中に散らされ、異邦人の支配下で苦しんできた状態から彼らを引き上げ、イスラエルの地に導き入れるのです。
その時、神が彼らを国民として新たにし、長きにわたって彼らが抜け出せなくなっていた絶望的な状態から救い出される時、彼らは確かに自分たちがヤハウェとの関係を知るのです。
その時、前の章で見たように、彼らは民として新生するのです。
神は御自身の霊を彼らの内に置き、彼らは生き、彼らを自分たちの土地に安全に住まわせます。
このように、神が彼らについて語られたすべてのことが成就します。

「次のような主のことばが私にあった。
「人の子よ。一本の杖を取り、その上に、『ユダと、それにつくイスラエル人のために。』と書きしるせ。
もう一本の杖を取り、その上に、『エフライムの杖、ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために。』と書きしるせ。
その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中でこれを一つとせよ。
あなたの民の者たちがあなたに向かって、『これはどういう意味か、私たちに説明してくれませんか。』と言うとき、
彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、エフライムの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエルの諸部族とを取り、それらをユダの杖に合わせて、一本の杖とし、わたしの手の中で一つとする。
あなたが書きしるした杖を、彼らの見ている前であなたの手に取り、
彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、イスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く。
わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。
彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。
彼らは二度と、その偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって身を汚さない。
わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを救い、彼らをきよめる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」
(エゼキエル書37章15~23節)

ソロモンの死後、国は二つの部分に分裂し、北王国はイスラエル、南王国はユダと呼ばれました。
この分裂は両民族が離散するまで続きましたが、神が彼らを再び御自身のもとに復帰させる時、イスラエルの二つの家は一つに結ばれ、二度と離れることはありません。
そこで預言者は、棒、すなわち巡礼の杖を取り、片方にユダの名を、もう片方にイスラエルの名を書くように命じられました。
これらを互いに繋ぎ合わせ、片手で持てるようにしました。
こうして預言者は来たるべき二つの王国の統一を思い描くことになりました。
捕囚の民が、このように互いに結合した二本の杖を片手に持つことの意味を尋ねたとき、彼は神から啓示された真理が告げられました。
ヤハウェがイスラエルの民を彼らが旅した諸国民の中から連れ出し、彼らを四方八方から集め、彼らの土地に導き入れ、イスラエルの山々のその土地で彼らを一つの国民とし、彼ら全員の上に一人の王を立てることを告げなければなりません。
さらに、彼らはもはや二つの王国に分裂することはなく、偶像崇拝やその他の忌まわしいものによって拒絶されることもありません。
永遠の救いによって主に救われ、罪から清められ、神によってその民として公に認められ、神を彼らの神として認めます。

これは、預言者たちの普遍的な証言によれば、イスラエルのためにこれから待ち受けている輝かしい未来です。
その日、ダビデの子であるメシアは、彼らの王であり牧者と認められます。

「わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。
彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行なう。
彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。
そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。
わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。
わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。
わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう。」」
(エゼキエル書37章24~28節)


「わたしのしもべダビデが彼らの王となり」と神は言われました。
私はこれを、ダビデ自身が復活し、王として地上に住むようになるという意味だとは理解していません。
そのように考える人もいます。
確かにその通りかもしれませんが、他の聖句を考慮すると、ダビデの子である主イエス・キリスト御自身が王となり、こうしてダビデの王座が再建されるという意味であるように私には思えています。
主イエスは地上におられた時、ご自身を良い羊飼いであると宣言し、散らされた神の子らを集めることについて語り、一つの群れとなるようにと言われました。
現在、これは主に信頼を置くユダヤ人と異邦人において真実です。
千年王国においても、主が羊飼いのように群れを養う時、イスラエル人と異邦人が共に主の義なる支配を認めています。
羊飼いとしての世話を喜ぶ時も同様です。
その時、神の律法に背く者は誰もいません。
彼らは神の定めに従い、神の掟を守り、神に属することを誇りとします。
神がアブラハム、イサク、ヤコブに契約によって与えられた地から、彼らは二度と追い出されることはありません。
彼らはその地に住み、恐れる者は誰もいません。
そして、永遠に彼らの君主となるダビデの子、メシアの哀れみ深い支配のもと、神への従順を喜びとします。
その時、エレミヤを通して神が約束されたとおり、民と平和の契約が結ばれ、イスラエルとユダとの間に新しい契約が締結されます。
これは永遠の契約であり、純粋な恵みの契約であるため、決して破られることはありません。
すでに、この契約の血はカルバリの十字架で流されていますが、イスラエルがこの恵みを受けるのは終わりの時です。
その後、神と彼らの土地への回復の後、ヤハウェは彼らの中に聖所を置かれます。
彼らをエジプトから連れ出した時、ヤハウェは彼らの心に、主が彼らの間に住まわれるよう、主のために住まいを造りたいという願いを置かれます。
荒野の幕屋は主の住まわれる住まいでしたが、それはほんの短い間でした。
ソロモンの神殿はこのように神の所有であったが、すぐに汚されました。
回復の日が来ると、主の幕屋は再びイスラエルの真ん中に建てられ、主は彼らの神となり、彼らは主の民となります。
その時、彼らは主がイスラエルを聖別し、パレスチナに再建される聖所に住む、聖別者ヤハウェであることを理解します。
聖所は世が続く限り決して破壊されることはありません。


38章 イスラエルの敵の広大な北部連合

38章と39章は、実際には一つの完全な預言を構成しています。
黒海とカスピ海の北から東はペルシャ、南西は北アフリカにまで及ぶ広大な諸国家連合に関するものです。
これらの諸国家は、終日にパレスチナの地に帰還したユダヤ民族に対し、大規模な攻撃を仕掛けるために同盟を組むのです。
近年、これらの章には多くの注目が集まり、これらの北方勢力がパレスチナの地に猛攻を仕掛ける正確な時期について、多くの無意味な憶測が飛び交っています。
ある人々は、この預言の完全な成就は、教会がまだ地上に存在し、ユダヤ人が不信仰のまま古来の地に集合している間であっても、いつでも起こり得ると考えています。
預言の計画をより明確に理解し、旧約聖書の裁きに関する預言の多くが未だ成就していないことを認識している人々は、これらの章はダニエル書9章に記されている、ダニエルの大いなる預言の最後の70週に起こるべき状況と大きく関係していると信じています。

このような人々にとって、この預言が現代、つまり69週と70週の間の大きな合間に成就するなど、考えられていません。
確かに、預言の言葉に対する深い洞察力を否定できない一部の人々は、この猛攻撃は主が実際に再臨し、パレスチナに王国を樹立した後、おそらくダニエル書12章の1290日が終わってから1335日が終わるまでの間に起こるだろうと主張し、教えています。
しかし、これは矛盾しているように思えます。
なぜなら、次の聖霊の言葉は、主の再臨がパレスチナだけでなく、驚くべきことに全世界で見られることを明確に教えているからです。

「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」
(ヨハネの黙示録1章7節)

したがって、主が実際に戻ってエルサレムにダビデの王座を据えたことを知らない大勢の人々が、この輝かしい出来事の後にイスラエルの地を征服しようと試みる勇気を持つことは想像できません。

ゼカリヤ書14章1~4節には、すべての国々がエルサレムに向かって集結する様子が記されています。

「見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。
わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。
町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。
主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。
オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」
(ゼカリヤ書14章1~4節)


これは、キリストが王として現実となり、オリーブ山に足を踏み入れる直前に起こる出来事です。
したがって、これらの北方と東方の大群は、パレスチナに侵攻する軍隊の中に含まれているはずです。
つまり、この章に描かれている猛攻は、大患難時代の終わり頃に起こることになります。

現時点では完全に明確に理解できない未成就の預言の詳細が間違いなくたくさんあることを覚えておくのは良いことです。
しかし、教会がこの場面から連れ去られ、神がイスラエルの残された者たちと交渉を始め、彼らの目が開かれて、私たちにはおそらくできない方法で自分たちの聖書を理解するようになった後に、これらはすべて明らかになります。

「さらに、私に次のような主のことばがあった。
「人の子よ。メシェクとトバルの大首長であるマゴグの地のゴグに顔を向け、彼に預言して、
言え。神である主はこう仰せられる。メシェクとトバルの大首長であるゴグよ。今、わたしは、あなたに立ち向かう。
わたしはあなたを引き回し、あなたのあごに鉤をかけ、あなたと、あなたの全軍勢を出陣させる。それはみな武装した馬や騎兵、大盾と盾を持ち、みな剣を取る大集団だ。
ペルシヤとクシュとプテも彼らとともにおり、みな盾とかぶとを着けている。
ゴメルと、そのすべての軍隊、北の果てのベテ・トガルマと、そのすべての軍隊、それに多くの国々の民があなたとともにいる。」
(エゼキエル書38章1~6節)


ゴグは「拡張」、マゴグは「拡大」を意味すると言われています。
この二つの言葉は、おそらく他の誰も支配できないほど広大な領土の支配者を指しているのかもしれません。
ゴグはロシュ、メシェク、トバルの君主とされています。

確かに「ロシュ」という言葉は聖書の中で「かしら」や「長」という意味でくりかえし使われています。
しかし、この箇所のテキストの構成から、校訂者だけでなく多くの翻訳者、ある意味では非常に保守的なジェームズ・モファットのような翻訳者でさえ、「ロシュ」という言葉を国を指すと解釈するに至っています。
ヘブライ語には母音がないことを思い出すと、ロシュは実際には私たちがロシアとして知っている土地を指していると思われます。
創世記に登場するメシェクとトバルという名前は、黒海とカスピ海地域に住んでいたスキタイ人の部族の祖先とされています。
これらの部族が、やがて広大なロシア帝国へと融合していくことになるヨーロッパとアジアの諸民族の祖先であることに疑いの余地はありません

ご存知の通り、近年のロシアは、神の啓示や霊的実在の認識に関わるあらゆるものに反対する、徹底した無神論の指導者の集まりによって支配されています。
ロシア国民は迷信にさえ陥るほどに信仰心があついにもかかわらず、革命以来、指導者たちは反宗教的な政策を掲げてきました。

終わりの日に、ロシア民族の最後の指導者は、パレスチナの地で起こっている大きな発展を貪欲な目で見つめ、そこで生み出される富の一部をロシアにも分け与えなければならないと決意するのです。
このように、預言者が私たちに示しているのは、ペルシャ、クシュ、プトの戦士たちを擁する大軍がパレスチナに向かって進軍する光景です。

クシュはエチオピアを指しているようですが、アラビア半島にもクシュという人がいました。
預言が実際に成就するまで、正確にどの民族を指しているかを特定するのは不可能かもしれません。

ヘブライ語で「プット」、あるいは「プット」は、北アフリカのリビアと同一のようです。
キンメリア人の全軍勢、あるいはKJV聖書ではゴメルと訳されていますが、これは一般的にドナウ川とライン川沿いに住み、後にゲルマン帝国を形成した部族を指すと考えられています。
そしてトガルマ、すなわちアルメニアの家系と同盟を結んだこれらの諸国は、イスラエルの山地へと進軍するにつれ、実に恐るべき大軍となります。
彼らにとって、その地を奪うことは容易なことではありません。
しかし、彼らはやがて、自分たちが対処しているのはユダヤ人ではなく、永遠の神、イスラエルの神であることを知ることになります。

7節から9節では、それらを動かす霊について述べられています。

「備えをせよ。あなたも、あなたのところに集められた全集団も備えをせよ。あなたは彼らを監督せよ。
多くの日が過ぎて、あなたは命令を受け、終わりの年に、一つの国に侵入する。
その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる
あなたは、あらしのように攻め上り、あなたと、あなたの全部隊、それに、あなたにつく多くの国々の民は、地をおおう雲のようになる。」
(エゼキエル書38章7~9節)


この大連合は、イスラエルが剣から帰還した後、つまり、後年の何日も経ってから形成されます。
長らく荒廃し続けてきたこの地は、生産性の高い果樹園、ぶどう園、酪農場、死海沿岸の化学工場、そしてユダヤ人の創意工夫によって発展する大規模な製造業によって繁栄します。
これらすべてのことは、ゴグとその仲間たちの愚かさを刺激し、彼らは地を覆う大きな雲のように降りてきます。
そして、自分たちの権威に従わせようとします。
しかし、彼らはすぐに、自分たちがしなければならないことが何であるかを知ることになります。

「神である主はこう仰せられる。その日には、あなたの心にさまざまな思いが浮かぶ。あなたは悪巧みを設け、
こう言おう。『私は城壁のない町々の国に攻め上り、安心して住んでいる平和な国に侵入しよう。
彼らはみな、城壁もかんぬきも門もない所に住んでいる。』
あなたは物を分捕り、獲物をかすめ奪い、今は人の住むようになった廃墟や、国々から集められ、その国の中心に住み、家畜と財産を持っている民に向かって、あなたの腕力をふるおうとする。
シェバやデダンやタルシシュの商人たち、およびそのすべての若い獅子たちは、あなたに聞こう。
『あなたは物を分捕るために来たのか。獲物をかすめ奪うために集団を集め、銀や金を運び去り、家畜や財産を取り、大いに略奪をしようとするのか。』と。」
(エゼキエル書38章10~13節)


城壁のない村々が点在する土地に、ほとんど武装もせずに暮らす民を征服するのは容易だと考えたこの大軍は、イスラエルの戦利品で富を蓄えようと、大胆かつ自信満々に進軍します。
しかし、ユダヤ人と友好関係を築いた一族の敵意にさらされることになります。
シェバ、デダン、そしてタルシシュの商人たちは、この事態に衝撃を受け、警戒を強め、イスラエルの防衛にあたる準備をします。

シェバとデダンはアラブ民族を指しているに違いありません。
しかし、タルシシュは一般的にヨーロッパ最西端の地を指し、スペインの一部も含まれる可能性があります。
間違いなくグレートブリテン島を指しています。
フェニキア人はかつてタルシシュから錫を入手しており、ブリタニアという言葉は前述のように「錫の地」を意味します。
ブリタニアは何世紀にもわたってユダヤ人の友好国であり、おそらく他の諸国の助けを借りてゴグの軍勢に対抗する準備を整えます。
しかし、その助けは必要ありません。
なぜなら、神ご自身がこの巨大な無神論の勢力に対処されるからです。

続く節では、ゴグの軍勢が、自分たちがただ破滅に向かっていることを知らずに、力強く前進していく様子が描かれています。

「それゆえ、人の子よ、預言してゴグに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民イスラエルが安心して住んでいるとき、実に、その日、あなたは奮い立つのだ。
あなたは、北の果てのあなたの国から、多くの国々の民を率いて来る。彼らはみな馬に乗る者で、大集団、大軍勢だ。
あなたは、わたしの民イスラエルを攻めに上り、終わりの日に、あなたは地をおおう雲のようになる。
ゴグよ。わたしはあなたに、わたしの地を攻めさせる。
それは、わたしがあなたを使って諸国の民の目の前にわたしの聖なることを示し、彼らがわたしを知るためだ。」
(エゼキエル書38章14~16節)


パレスチナに戻ったユダヤ人は、その地における自分たちの権益の確立に努めます。
多くの民族と強大な軍隊が迫っているという知らせが届くと、彼らは不安に駆られます。
しかし、その不安は取り越し苦労に終わります。
なぜなら、彼らは後日、ゴグをこの地に送り込み、裁きの刑に処すのは神であることを知るからです。
このように、彼らは「神はいない」と大胆に宣言した者たちの目に、聖なるものとされます。

その裁きがどのような形をとるかは、この章の最後の部分で明確に述べられています。

「神である主はこう仰せられる。あなたは、わたしが昔、わたしのしもべ、イスラエルの預言者たちを通して語った当の者ではないか。
この預言者たちは、わたしがあなたに彼らを攻めさせると、長年にわたり預言していたのだ。
ゴグがイスラエルの地を攻めるその日、――神である主の御告げ。――わたしは怒りを燃え上がらせる。
わたしは、ねたみと激しい怒りの火を吹きつけて言う。その日には必ずイスラエルの地に大きな地震が起こる。
海の魚も、空の鳥も、野の獣も、地面をはうすべてのものも、地上のすべての人間も、わたしの前で震え上がり、山々はくつがえり、がけは落ち、すべての城壁は地に倒れる。
わたしは剣を呼び寄せて、わたしのすべての山々でゴグを攻めさせる。
――神である主の御告げ。――彼らは剣で同士打ちをするようになる。
わたしは疫病と流血で彼に罰を下し、彼と、彼の部隊と、彼の率いる多くの国々の民の上に、豪雨や雹や火や硫黄を降り注がせる。
わたしがわたしの大いなることを示し、わたしの聖なることを示して、多くの国々の見ている前で、わたしを知らせるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」」
(エゼキエル書38章17~23節)


パレスチナの破滅は決定的となります。
イスラエルがこれらの利己的で復讐心に燃える敵の力から逃れられないように思われる時、ヤハウェご自身が彼らに対処します。
神は激怒して語り、諸国民は神がご自分の民の救出を気にかけていることを知るのです。
まず大地震が起こり、イスラエルの敵に大打撃を与え、彼らに従う者たちの心を恐れと戦慄で満たし、多くを滅ぼします。
その後、無秩序が続き、ゴグ率いる軍勢の間に疫病が蔓延します。
天から降る雹、火、硫黄といった大自然災害が、ゴグの君主率いる自信過剰な軍隊を文字通り壊滅させます。

それらの破壊の詳細については次の章で説明します。


39章 イスラエルの敵の運命

北方連合の指導者が終末の日にパレスチナの地へ進軍を命じる時、彼は間違いなくパレスチナの完全制圧のための計画を綿密に立て、圧倒的な兵力で容易な勝利を期待しています。
しかし、彼は、過去に多くの人々が学んだように、全能者の厚い盾に突撃する者は必ず敗北するということを学びます。
イスラエルの全能の守護者である彼は、彼らの強大な敵を滅ぼすことによって、ご自分の民を救おうとします。
続く節はまさにこのことを物語っています。

「「人の子よ。ゴグに向かって預言して言え。神である主はこう仰せられる。メシェクとトバルの大首長であるゴグよ。わたしはあなたに立ち向かう。
わたしはあなたを引き回し、あなたを押しやり、北の果てから上らせ、イスラエルの山々に連れて来る。
あなたの左手から弓をたたき落とし、右手から矢を落とす。
あなたと、あなたのすべての部隊、あなたの率いる国々の民は、イスラエルの山々に倒れ、わたしはあなたをあらゆる種類の猛禽や野獣のえじきとする。
あなたは野に倒れる。わたしがこれを語るからだ。――神である主の御告げ。――
わたしはマゴグと、島々に安住している者たちとに火を放つ。彼らは、わたしが主であることを知ろう。
わたしは、わたしの聖なる名をわたしの民イスラエルの中に知らせ、二度とわたしの聖なる名を汚させない。
諸国の民は、わたしが主であり、イスラエルの聖なる者であることを知ろう。
今、それは来、それは成就する。――神である主の御告げ。――それは、わたしが語った日である。
イスラエルの町々の住民は出て来て、武器、すなわち、盾と大盾、弓と矢、手槍と槍を燃やして焼き、七年間、それらで火を燃やす。
彼らは野から木を取り、森からたきぎを集める必要はない。彼らは武器で火を燃やすからだ。
彼らは略奪された物を略奪し返し、かすめ奪われた物をかすめ奪う。――神である主の御告げ。――」
(エゼキエル書39章1~10節)

ロシュ、メシェク、トバルの強力な軍隊は、イスラエルの高地を攻撃するために極北から下ってきます。
その時、彼らが直面するであろう災害にまったく対処できないことに気づきます。

前章の最後の節で描かれた出来事に続き、彼らの滅亡があまりにも徹底的なものとなり、その死骸はあらゆる種類の貪欲な鳥や野獣の餌食となると告げられています。
イスラエルは自衛の義務を負いません。
主が彼らに代わって行動されるからです。
これらの同盟国の大軍の滅亡はあまりにも恐ろしく、あらゆるものを包囲するため、彼らの武器の木材は丸7年間イスラエルの人々の燃料となります。
その間、森の木を切り倒す必要はありません。
なぜなら、燃料に関しては、イスラエルを略奪しようとした者たちの略奪品で十分だからです。
金属の戦争の時代であるこの時代に、このような預言が文字通り成就するなど奇妙だと考える人もいます、
しかし、少なくとも北方の大群が集結する地域では、来たるべき日には、様々な種類の武器や乗り物が、大部分が木材で作られていると考えます。
わたしたちは預言の細部まで完全に理解することはできないかもしれませんが、預言は時が来れば文字通り成就すると確信しています。

「その日、わたしは、イスラエルのうちに、ゴグのために墓場を設ける。
それは海の東の旅人の谷である。そこは人が通れなくなる。そこにゴグと、そのすべての群集が埋められ、そこはハモン・ゴグの谷と呼ばれる。
イスラエルの家は、その国をきよめるために、七か月かかって彼らを埋める。
その国のすべての民が埋め、わたしの栄光が現わされるとき、彼らは有名になる。――神である主の御告げ。――
彼らは、常時、国を巡り歩く者たちを選び出す。
彼らは地の面に取り残されているもの、旅人たちを埋めて国をきよめる。彼らは七か月の終わりまで捜す。
巡り歩く者たちは国中を巡り歩き、人間の骨を見ると、そのそばに標識を立て、埋める者たちがそれをハモン・ゴグの谷に埋めるようにする。
そこの町の名はハモナとも言われる。彼らは国をきよめる。」
(エゼキエル書39章11~16節)


これらの軍隊を形成した無数の人々は、あまりにも突然に死に見舞われるため、自分たちの死者を埋葬する時がありません。
その打撃は、いわば一瞬のうちにもたらされます。
死体はハモン・ゴグの谷の至る所に撒き散らされます。
それは、終末の時に様々な民族が天からの火によって滅ぼされるマゲドやイズレエルの谷とほぼ同義です。
これらの腐敗した死体は空気を汚染し、直ちに適切な埋葬措置が取られなければ、全土で恐ろしい疫病の源となります。
そのため、大規模な墓掘り隊が組織され、ゴグの軍隊が滅ぼされた地域全体を巡回し、死体を埋葬して土地を浄化することが任務となります。
最後の死体が人々の目から覆い隠されるまで、この作業は7ヶ月間続けられます。
この地域を通過する際、骨や遺体を見た者は、埋葬者がそれを見てできるだけ早く埋葬できるよう、標識を立てることが義務付けられます。
こうして土地は汚れから清められ、空気は浄化されます。

その間、死肉を食べる鳥や獣たちは、腐った死体を片付ける作業を手伝います。

「神である主はこう仰せられる。人の子よ。あらゆる種類の鳥と、あらゆる野の獣に言え。
集まって来い。わたしがおまえたちのために切り殺した者、イスラエルの山々の上にある多くの切り殺された者に、四方から集まって来い。おまえたちはその肉を食べ、その血を飲め。
勇士たちの肉を食べ、国の君主たちの血を飲め。雄羊、子羊、雄やぎ、雄牛、すべてバシャンの肥えたものをそうせよ。
わたしがおまえたちのために切り殺したものの脂肪を飽きるほど食べ、その血を酔うほど飲むがよい。
おまえたちはわたしの食卓で、馬や、騎手や、勇士や、すべての戦士に食べ飽きる。――神である主の御告げ。――」
(エゼキエル書39章17~20節)


これらの言葉を読むと、ヨハネの黙示録19章で空の鳥が神の大晩餐に招かれ、王や将軍、勇士、馬やそれに乗る者たちの肉を腹いっぱいに食べる場面を思い出す。
終わりの日に滅ぼされる様々な勢力も同様の処罰を受けることは明らかです。
神の恵みを拒み、地上の正式な王である主イエス・キリストに敵対する者たちに、神ご自身が怒りを注がれるのです。
この裁きが諸国民に及ぼす影響は、次の聖句に述べられています。

「わたしが諸国の民の間にわたしの栄光を現わすとき、諸国の民はみな、わたしが行なうわたしのさばきと、わたしが彼らに置くわたしの手とを見る。
その日の後、イスラエルの家は、わたしが彼らの神、主であることを知ろう。
諸国の民は、イスラエルの家が、わたしに不信の罪を犯したために咎を得て捕え移されたこと、それから、わたしが彼らにわたしの顔を隠し、彼らを敵の手に渡したので、彼らがみな剣に倒れたことを知ろう。
わたしは、彼らの汚れとそむきの罪に応じて彼らを罰し、わたしの顔を彼らに隠した。」
(エゼキエル書39章21~24節)


諸国民がゴグに執行される裁きを見る時、ヤハウェの栄光は諸国民の間に現されます。
イスラエルの家もまた、彼らの神ヤハウェが彼らのために介入してくださったことを認め、先祖の時代に彼らがエジプトから連れ出された時のように、主に立ち返るのです。
その時、諸国民はイスラエルの家が幾世紀にもわたる捕囚と異邦人への散り散りを通して耐え忍んできたすべての苦しみは、彼らの罪悪のためであったことを理解します。
民は神に罪を犯したため、神は彼らから顔を背け、敵の手に引き渡しました。
このように、幾世紀にもわたって彼らは剣に倒れ、彼らの汚れと数々の罪のために、神は彼らのために介入することを拒みました。
ゆえに、彼らが神に叫び求めても顔を背けました。
しかし、来たるべき日に、これらすべては終わりを迎えます。
彼らは悔い改めて神に立ち返り、神は祝福をもって彼らに顔を向けるからです。

「それゆえ、神である主はこう仰せられる。今わたしはヤコブの捕われ人を帰らせ、イスラエルの全家をあわれむ。これは、わたしの聖なる名のための熱心による。
彼らは、自分たちの地に安心して住み、彼らを脅かす者がいなくなるとき、わたしに逆らった自分たちの恥とすべての不信の罪との責めを負おう。
わたしが彼らを国々の民の間から帰らせ、彼らの敵の地から集め、多くの国々が見ている前で、彼らのうちにわたしの聖なることを示すとき、
彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知ろう。わたしは彼らを国々に引いて行ったが、また彼らを彼らの地に集め、そこにひとりも残しておかないようにするからだ。
わたしは二度とわたしの顔を彼らから隠さず、わたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐ。――神である主の御告げ。――」」
(エゼキエル書39章25~29節)


預言のこの部分から、捕囚されていたヤコブが完全に帰還するのは、ゴグとその軍勢の猛攻と敗北の後であることが明確に思われます。
これは、この二つの章で考察してきた出来事が、大艱難時代に、そして主イエス・キリストが王の王、主の主として現実化される前に起こることを明確に示すものと思われます。
その時、イスラエルは幾世紀にもわたる苦難の理由を理解し、彼らが罪を犯してきた神に悔い改めの気持ちをもって立ち返ります。
神は限りない恵みによって彼らの罪を赦し、彼らを御自身のもとへお返しになります。
そして、彼らは恐れる者なく、自分たちの土地に安全に住まうのです。
神が彼らを諸国民、すなわち長らく彼らが散らされていた異邦人の中から連れ戻します。
そして、すべての敵の地から彼らを集め、多くの諸国民の前で彼らの中で聖化されるとき、彼らはヤハウェがまことに彼らの神であること、その日に主イエス・キリストの御姿において啓示されたヤハウェであることを知ります。
彼らを捕囚に導いた方が彼らを再び集めます。
神は彼らのうちの誰一人として諸国民の間をさまよわせるままにはされません。
その時、彼らから御顔を隠し続けることもせず、限りない恵みと慈愛をもって主は彼らに目を留めるのです。
彼らが悔い改めて信仰を持つ民として神の前にひれ伏すとき、神はイスラエルの家に御霊を注ぎ、再び彼らをご自分の民として認めるのです。

これはエゼキエルの預言のもう一つの章の終わりです。
神はこの章で、ご自分の民の罪とそれに伴う苦しみを強調されましたが、同時に、主なる神を捨てることは実に悪であり苦い行いであるという重要な教訓を彼らが学んだ時に、彼らを回復するという恵みの目的も明らかにされました。
彼らは主の前で謙虚になり、悔い改め、悔い改めることによって、自分たちの罪を告白し、回復を見出します。

続く章は全く異なる特徴を持ち、ヤハウェの君が彼らの間に住むとき、回復した国民がその地で礼拝を行なうという終末的な見方が描かれています。


40章 山頂からの幻

この新しい部分をヨハネの黙示録21章9~27節、22章1~5節と注意深く比較すると、今私たちが目にしているこの章の真の性質をよりよく理解することができます。
ヨハネの黙示録では、聖なる都、新しいエルサレムが神のもとから天から下って来る様子が描かれ、クライマックスを迎えます。
これは、このディスペンセーションの将来の教会、過去の時代と患難時代にキリストにあって亡くなったすべての人々、つまりこれらすべてが天の都でそれぞれの役割を果たすことを象徴しています。
ヨハネの黙示録21章9節にはこのように記されています。

「また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。
彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。」
(ヨハネの黙示録21章9、10節)


エゼキエル書40章では、預言者は幻の中で非常に高い山に連れて行かれ、そこで南に街の輪郭を見たと語っています。
これは、エゼキエルの幻をあまり文字通りに受け取るべきではないことを明確に示しているように思われます。
天のエルサレムの幻が非常に象徴的な意味を持つように、これらの章で与えられている地上のエルサレムの幻も象徴的な意味合いを持っています。

私たちのコメントは必然的に簡潔なものとなります。
なぜなら、この幻に関係して、率直に言って、私たち自身も十分に理解していない点がたくさんあるからです。
しかしながら、私たちの注意を惹く注目すべき点がいくつかあります。
それは、神が私たちだけでなく、旧約の民の心と良心に語りかけることを意図されたということです。
私たちは改めて、聖書はすべて神の霊感によって書かれ、有益であることを思い起こしたいと思います。
ですから、これらの章は、たとえ私たちが、回復されたイスラエルが来るべき日にできるように、そこに書かれていることをすべて理解することはできないとしても、今日の私たちにとって重要性を欠くものではありません。

「私たちが捕囚となって二十五年目の年の初め、その月の十日、町が占領されてから十四年目のちょうどその日、主の御手が私の上にあり、私をそこへ連れて行った。
すなわち、神々しい幻のうちに、私はイスラエルの地へ連れて行かれ、非常に高い山の上に降ろされた。
その南のほうに町が建てられているようであった。
主が私をそこに連れて行かれると、そこに、ひとりの人がいた。その姿は青銅でできているようであり、その手に麻のひもと測りざおとを持って門のところに立っていた。
その人は私に話しかけた。「人の子よ。あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべての事を心に留めよ。わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ。あなたが見ることをみな、イスラエルの家に告げよ。」」
(エゼキエル書40章1~4節)


日付が記された最後の預言は、32章17節、第十二年の第一の月の十五日に記されたものです。

この預言はそれから13年後、イスラエル捕囚の25年目、エルサレム陥落の14年後に語られました。
その間、多くの感動的な出来事が起こり、以前の預言を聞いた何千人もの人々が亡くなっていました。
しかし、エゼキエルは依然として神に守られ、再び主からのメッセージを伝えるよう召されています。
今回は、ヤハウェの礼拝がその地に再び確立され、主御自身が民の中に臨在を現される、来たるべき栄光と関係していました。
神の幻の中で、バビロンに住んでいたエゼキエルはイスラエルの地に連れてこられ、非常に高い山の上にいました。
ヘルモン山のことを指しているのかもしれません。
しかし、明確な特定はされていません。
エゼキエルが下を見下ろすと、南に街の輪郭が見えました。
磨かれた真鍮のように輝かしい容貌の男が、亜麻の縄と測り縄を手に持ち、そこに立っていました。
これは、測り縄を手にエルサレムを測ろうとする男を見たゼカリヤの幻(2章1節)や、杖のような葦が与えられ、神殿と祭壇とそこで礼拝する者たちを測るというヨハネの幻(ヨハネの黙示録11章1節)を思い起こさせます。
そしてヨハネの黙示録21章15節では、ヨハネは金の葦を持った御使いを見ています。
御使いは新しいエルサレムとその門と城壁を測りました。
もちろん、それぞれの例で示されているのは、地上であれ天であれ、神に属するものを認識することです。

葦を持った男は預言者に言いました。
「人の子よ。あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべての事を心に留めよ。
わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ。」
ゆえに、彼が見ようとし、イスラエルの家に告げ知らせようとしている幻の中に、非常に重要なことがあるのは明らかです。

「そこに、神殿の外側を巡って取り囲んでいる壁があった。その人は手に六キュビトの測りざおを持っていた。その一キュビトは、普通の一キュビトに一手幅を足した長さであった。彼がその外壁の厚さを測ると、一さおであり、その高さも一さおであった。
それから、彼が東向きの門に行き、その階段を上って、門の敷居を測ると、その幅は一さおで、もう一つの門の敷居も幅は一さおであった。
控え室は長さ一さお、幅一さおであり、控え室と控え室の間は五キュビトであった。門の内側の玄関の間に続く門の敷居は一さおであった。
彼が門の内側の玄関の間を測ると、一さお、
すなわち、門の玄関の間を測ると、八キュビト、その壁柱は二キュビトで、門の玄関の間は内側にあった。
東のほうにある門の控え室は両側に三つずつあり、三つとも同じ寸法であった。壁柱も、両側とも、同じ寸法であった。
彼が門の入口の幅を測ると、十キュビト、門の内のり幅の長さは十三キュビトであった。
控え室の前に出た仕切りは両側ともそれぞれ一キュビトであった。控え室は両側とも六キュビトであった。
彼がその門を、片側の控え室の屋根の端から他の側の屋根の端まで測ると、一つの入口から他の入口までの幅は二十五キュビトであった。
彼は壁柱を六十キュビトとした。門の周囲を巡る壁柱は庭に面していた。
入口の門の前から内側の門の玄関の間の前までは五十キュビトであり、
門の内側にある控え室と壁柱には格子窓が取りつけられ、玄関の間もそうであった。内側の回りには窓があり、壁柱には、なつめやしの木が彫刻してあった。」
(エゼキエル書40章5~16節)


平均的な読者にとって、ヤハウェの神殿の壁と門に関するこのすべての詳細な情報は、何も興味を引く内容ではないかもしれません。
しかし、聖書のすべての箇所に重要な意味があること、そして神は啓発を目的としないものは聖書に載せることを許されていないことを思い出す必要があります。
ならば、その意味をすべて理解することはできないとしても、注意深く研究する価値のあることがたくさんあることに気づくのです。

建築家ジョン・ブルーア氏は、本書および続く章で述べられているすべての事柄は、どの建築家や建築の棟梁でも設計図上の細部に至るまで忠実に再現でき、その目的、すなわちヤハウェの聖所にふさわしい壮大な建造物を造り上げることができることを示しました。
エルサレムの将来の神殿がこれらの設計図通りに建てられるかどうかは、私たちには分かりません。
しかし、もしこれらすべてを象徴的なものとして考えるなら、神が将来のために考えておられる神殿の素晴らしさと栄光は、私たちの心に深く刻まれるはずです。
地上におけるヤハウェの聖所が天の聖所の型であることを念頭に置きながら学ぶなら「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります」(ヨハネの福音書14章2節)という主の言葉の意味をより深く理解できるのです。

ここで、続く章で述べられている様々な部屋は、神殿の奉仕において特定の時期に奉仕する祭司たちの宿泊場所として意図されています。
主はこれらの部屋を、天の父の家における安息の場の象徴として語っておられます。
ヤシの木の装飾は、あらゆる悪の力に対する勝利を暗示しています。
この幻は、ヤハウェが全地において至高の権能をもち、全世界がその比類なき力を認める時を預言しているからです。

「それから、彼は私を外庭に連れて行った。そこには部屋があり、庭の回りには石だたみが敷かれていた。石だたみの上に、三十の部屋があった。
石だたみは門のわきにあり、ちょうど門の長さと同じであった。これは下の石だたみである。
彼が下の門の端から内庭の外の端までその幅を測ると、東も北も百キュビトであった。」
(エゼキエル書40章17~19節)


これらの節について解説することはほとんど不要です。
なぜなら、それらは、上で言及した祭司のための30の部屋に関する情報を述べているに過ぎないからです。
しかしながら、読み進めていくうちに、私たちはこの幻の栄光と壮大さにますます感銘を受けることができます。
エゼキエルがそれを見つめたとき、それはまさにヤハウェがご自分の民のために用意しておられたことの驚くべき描写であることに違いありません。

「彼は外庭にある北向きの門の長さと幅を測った。
それには両側に三つずつ控え室があり、壁柱も玄関の間も先の門と同じ寸法であった。その長さは五十キュビト、幅は二十五キュビトであった。
その窓も玄関の間もなつめやしの木の彫刻も、東向きの門と同じ寸法であった。七段の階段を上って行くと、その先に玄関の間があった。
東に面する門と同様に、北に面する門にも内庭の門が向かい合っており、彼が門から門まで測ると、百キュビトであった。」
(エゼキエル書40章20~23節)

預言者の視線は北向きの外庭の門に向けられました。
彼はその門を眺め、その大きさと眺望について瞑想するうちに、窓とヤシの木が際立っていることに気づきました。
次に彼の注意は東向きの門に向けられました。
そこは日の出の地であり、そこから栄光が現れて神殿に入り、神殿をヤハウェに聖別するのです。

「次に、彼は私を南のほうへ連れて行った。すると、そこにも南向きの門があり、その壁柱と玄関の間を彼が測ると、それは、ほかの門と同じ寸法であった。
壁柱と玄関の間の周囲に窓があり、それはほかの窓と同じであった。門の長さは五十キュビト、幅は二十五キュビトであった。
そこに上るのに七段の階段があり、その先に玄関の間があった。その両側の壁柱には、なつめやしの木が彫刻してあった。
内庭には南向きの門があり、彼がこの門から南のほうに他の門まで測ると、百キュビトであった。」
(エゼキエル書40章24~27節)


次に南に目を向けると、エゼキエルは別の門を目にしました。
案内人は柱とアーチを測り、窓と階段に注目させました。
特に勝利の象徴であるヤシの木に再び注目し、こうしてエゼキエルは神殿の広大さを深く理解しました。
それは、ヤハウェと全世界との間にまだ確立されていない繋がりを象徴するものでした。
詳細は28節から31節に記されています。

「彼が私を南の門から内庭に連れて行き、南の門を測ると、ほかの門と同じ寸法であった。
その控え室も壁柱も玄関の間もほかのと同じ寸法で、壁柱と玄関の間の周囲に窓があった。門の長さは五十キュビト、幅は二十五キュビトであった。
玄関の間の周囲は長さ二十五キュビト、幅五キュビトであった。
その玄関の間は外庭に面し、その壁柱にはなつめやしの木が彫刻してあった。その階段は八段であった。」
(エゼキエル書40章28~31節)


これらの言葉について深く考えると、私たちは回廊の壮大さに感銘を受けます。
そこには、聖なる想像力によって、白い衣をまとった主の司祭たちが歩き回っている姿が見えきます。

「次に、彼は私を内庭の東のほうに連れて行った。そこの門を測ると、ほかの門と同じ寸法であった。
その控え室も壁柱も玄関の間もほかのと同じ寸法で、壁柱と玄関の間の周囲に窓があった。門の長さは五十キュビト、幅は二十五キュビトであった。
その玄関の間は外庭に面し、両側の壁柱にはなつめやしの木が彫刻してあった。階段は八段であった。」
(エゼキエル書40章32~34節)


エゼキエルの目の前に広がるのは東側の中庭であり、そこにも祭司たちの宿泊場所が見えます。
そこは大きな建物の他の部分と同様に広々としており、ヤシの木が飾られています。

「彼は私を北の門に連れて行った。それを測ると、ほかの門と同じ寸法であった。
その控え室も壁柱も玄関の間もほかのと同じ寸法で、その周囲に窓があった。門の長さは五十キュビト、幅は二十五キュビトであった。
その玄関の間は外庭に面し、両側の壁柱にはなつめやしの木が彫刻してあった。階段は八段であった。」
(エゼキエル書40章35~37節)


再び、案内人は北門に向かい、その区画にある建物の様々な部分の寸法を測ります。
これらの寸法に何らかの奥義的な意味があることは疑いようがありませんが、どんな意味があるのかを理解することは容易ではないかもしれません。
しかし、50、5、20という数字が頻繁に使われていることに気づかずにはいられません。
これらの数字は責任と結びついています。
50は言うまでもなく、ヨベルの数です。
それを構成する5と20は、神に対する責任の遂行を示しています。
しかし、この責任は、これまで誰も完全に果たすことのできていません。
しかし、私たちのために、祝福された主によって完全に果たされることを表しています。

「門の壁柱のそばに戸のある部屋があり、そこは全焼のいけにえをすすぎ清める所であった。
門の玄関の間には、全焼のいけにえ、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえをほふるために、両側にそれぞれ二つずつの台があった。
北の門の入口へ上って行くと、外側に二つの台があり、門の玄関の間の他の側にも二つの台があった。
すなわち、門の片側に四つの台があり、他の側に四つの台があり、この八つの台の上でいけにえをほふるのである。
また、全焼のいけにえのための四つの切り石の台があり、その長さは一キュビト半、幅は一キュビト半、その高さは一キュビトであった。
その上に全焼のいけにえや、ほかのいけにえをほふるための道具が置かれていた。
内側には、周囲に一手幅の縁が取りつけてあり、ささげ物の肉は台の上に置かれるようになっていた。」
(エゼキエル書40章38~43節)


これらの聖句は、多くの人々を困惑させてきました。
おそらくこの幻の完全な意味が明らかにされる日まで、決して納得のいく解決は得られないであろう疑問を提起しています。
それは、来たるべき日にエルサレムで犠牲と供え物が再び設けられるかどうかです。
大患難時代にこれが実現することは、おそらく疑いの余地がないと思います。
そうでなければ、「半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる」(ダニエル書9章27節)という獣との契約に関する言葉の意味が失われてしまうからです。
しかし、これらの犠牲は千年王国の神殿で再び捧げられ、神の国の時代を通して続けられます。
私はそのような可能性は考えられません。
ヘブル人への手紙で明らかにされた真理は、その時代に見失われることはありません。
私たちの主イエス・キリストの唯一のささげ物は、律法の摂理におけるささげ物をすべて完全に無視しました。
エゼキエルのこの幻の中では、当時まだ捧げられていた犠牲を通してキリストの贖いの業と関係した霊的な現実を描く必要がありました。
すべての預言が成就するとき、イスラエルは初めてキリストの業の本当の意味を理解し、それが律法のもとで規定されていたすべてのささげ物と対照的に応答することが、当然のごとくわかるようにされたと考えています。

「彼は私を内庭に連れて行った。内庭には二つの部屋があり、北の門のわきにある部屋は南を向き、南の門のわきのは北を向いていた。
彼は私に言った。「この南向きの部屋は、宮の任務を果たす祭司たちのためであり、
北向きの部屋は、祭壇の任務を果たす祭司たちのためである。彼らはツァドクの子孫であり、レビの子孫の中で主に近づいて仕える者たちである。」
彼が庭を測ると、長さ百キュビト、幅百キュビトの正方形であった。神殿の前には祭壇があった。」
(エゼキエル書40章44~47節)


この節で特に注目すべき点は、イスラエルが将来祝福を受ける日に、ソロモンの神殿が建てられた時代のように、神の民の賛美を導くために任命される特別なグループが存在することです。
そのため、内庭には歌い手のための部屋が設けられています。
現代においても、歌い手が内庭に居場所を見出すのは祝福されたことです。
しかし残念ながら、そうではないことが多くあります。
人々は御使いのように歌いながらも、主の御前に住まうことをほとんど知らないからです。

祭壇を管理すると描写されているザドクの息子たちは、はるぁ昔に神がエリの家族を区別し、ザドクの息子たちの中から忠実な祭司を立てると約束しています。
来たるべき時代に彼らは霊的な事柄の指導者となります。

「彼が私を神殿の玄関の間に連れて行って、玄関の間の壁柱を測ると、両側とも五キュビトであり、その門の幅は十四キュビト、その門の両わきの壁は、それぞれ三キュビトであった。
玄関の間の間口は二十キュビト、奥行は十二キュビトであった。そこへ上るのに階段があり、両側の壁柱のそばにはそれぞれ円柱が立っていた。」
(エゼキエル書40章48、49節)


最後の節は、家の玄関とその柱、そしてそこに通じる階段について述べています。
これについては特に言及することはありません。
神聖な事柄をより深く理解すれば、神の霊がここに隠しておられることをより深く説明できるようになるかもしれません。
しかし、今のところはそのような理解を示しません。


41章 ヤハウェの聖所

測りざおを持った男は、預言者の注意を特に聖所そのものに向けさせます。
聖所は、与えられた説明によれば、最も壮麗な建物ですが、ソロモンがイスラエルの神の栄光のために昔建てた神殿とは多くの点で異なっています。

「彼は私を本堂へ連れて行った。その壁柱を測ると、その幅は両側とも六キュビトであった。これが壁柱の幅であった。
入口の幅は十キュビト、入口の両わきの壁はそれぞれ五キュビトであり、本堂の長さを測ると、四十キュビト、幅は二十キュビトであった。
彼が奥にはいり、入口の壁柱を測ると、二キュビト、入口は六キュビト、入口の両わきの壁は七キュビトであった。
彼はまた、本堂に面して長さ二十キュビト、幅二十キュビトを測って、私に「これが至聖所だ。」と言った。」
(エゼキエル書41章1~4節)


内聖所の寸法はソロモンの神殿の寸法と同じであり、荒野の幕屋のちょうど2倍の大きさであることにご注目ください。
ここに挙げられている数字すべてが明確な意味を持つはずです。
しかし、この点については既に他の人々が詳しく論じており、ここで私が詳細に述べることは適切ではありません。

聖所は古来より二つの部屋、聖所と至聖所から成っています。
注目すべきは、預言者が後者に入らなかったように見えることです。
測りざおを持った男だけが、エゼキエルが見守る中、この神聖な囲いの中へと入って行きます。

建物自体の詳細については、次の節に記載されています。

「彼が神殿の壁を測ると、六キュビト、神殿の周囲を囲む階段式の脇間の幅は四キュビトであった。
階段式の脇間は三段に重なり、各段に三十あった。神殿の周囲の階段式の脇間は壁に固定してささえられ、神殿の壁は梁でささえられていなかった。
階段式の脇間の幅は階段を上るごとに広くなっていた。それは神殿の周囲にあるらせん階段を上るごとに、その段の幅も広くなり、その下の段から上の段へは中央の階段を通って上るのである。
私は神殿の周りが高くなっているのを見た。階段式の脇間の土台は、長めの六キュビトの測りざおいっぱいであった。
階段式の脇間の外側の壁の厚さは五キュビトであった。神殿の階段式の脇間と、
部屋との間には空地があり、それが神殿の周囲を幅二十キュビトで囲んでいた。
階段式の脇間の入口は空地のほうに向き、一つの入口は北向きで、他の入口は南のほうに向き、その空地は幅五キュビトで周囲を囲んでいた。」
(エゼキエル書41章5~11節)


この箇所を読むとき、建築上の配置を完全に理解しているかどうかに関わらず、これらの脇間に住まう主の祭司たちと、栄光によって神殿を満たすヤハウェご自身との間に、神聖な交わりが暗示されていることに気づくはずです。
神は、ご自分の民が近くにいることを喜ばれます。
今日のすべての聖徒は祭司であり、神は彼らが常に聖所に留まる者として、親密な交わりの祝福にあずかることを望んでおられます。
古代イスラエルにおいて、祭司たちは神殿の奉仕に特に献身する独立した家族でした。
そして、現在の神権時代が終わり、千年王国時代が到来した時も、再びこの状況が訪れると思われます。
イスラエル全体が祭司国家となる一方で、神の御前に民を代表し、聖所の奉仕を行うために任命された、独立した祭司の集まりが私たちの前に立っています。
私たちの教義においてこのようなことは、ユダヤ教への回帰であり、聖徒とキリストの現在の関係を考慮に入れていません。
言い換えれば、現代のいくつかの偉大な教会組織に見られるような、聖職者と信徒という区別は聖書にはもはや存在していません。
信者全員の祭司職とは別に、独自の祭司職を設けるという考えは、キリスト教の本質とは相容れていません。
しかし、祭司職は十字架以前のイスラエルにおいて正しい地位を占めており、イスラエルが国家として主のもとに回復される時にも、再び特別な地位を占めることになります。

神殿そのものに加えて、神の聖なる山の上にもう一つの大きな建物が建っていることが描かれている明確に描かれています。
これは以下の節に示されています。

「西側の聖域にある建物は、その奥行きが七十キュビト、その建物の回りの壁は、厚さ五キュビト、その間口は九十キュビトであった。
彼が神殿を測ると、長さは百キュビト、その聖域と建物とその壁とで、長さ百キュビトであった。
また、東側の聖域と神殿に面する幅も百キュビトであった。」
(エゼキエル書41章12~14節)


建物の描写を追って各部分をはっきりと思い描くことは困難です。
しかし、その家が壮大な規模と驚くべき美しさを誇り、主の不滅の人間性を物語る杉材で覆われ、かつて拒絶されたイエスが全地の王として君臨するときに、義の勝利と神の支配の下で享受される祝福を強調するケルビムとヤシの木で飾られているという事実は、私たちの心に印象づけられます。

「彼が神殿の裏にある聖域に面した建物の長さと、両側の回廊とを測ると、百キュビトであった。本堂の内側と、庭の玄関の間、
門口と格子窓と三段になった回廊とは、床から窓まで羽目板が張り巡らされていた。また、窓にはおおいがあった。
入口の上部にも、神殿の内側にも外側にも、これを囲むすべての壁の内側にも外側にも彫刻がしてあり、
ケルビムと、なつめやしの木とが彫刻してあった。なつめやしの木はケルブとケルブとの間にあり、おのおのケルブには二つの顔があった。
人間の顔は一方のなつめやしの木に向かい、若い獅子の顔は他方のなつめやしの木に向かい、このように、神殿全体の回りに彫刻してあった。
床から入口の上まで、本堂の壁にケルビムとなつめやしの木が彫刻してあった。」
(エゼキエル書41章15~20節)


本書のこれまでの章で見てきたように、ケルビムは神の支配、すなわち神が人々、特に神の民イスラエルに対して取る道の象徴でした。
ヤシの木は正義と勝利の両方の象徴として広く認められており、詩篇92篇では義人がヤシの木のように栄えると述べられています。
また、聖書の最後の書では、獣とその従者たちに勝利した勝利者たちが、手にヤシの木を持って神の前に立っている姿が描かれています。

したがって、この建物の描写を読むとき、私たちは、ヤハウェの義なる政府のもとですべての不正が廃止され、すべての悪の勢力に打ち勝って王が義をもって支配する日が来るという事実に感銘を受けます。

再び、21節から26節に示されている神殿について考えてみましょう。

「本堂の戸口の柱は四角で、至聖所の前には何かに似たものがあった。
それは木の祭壇のようであり、高さは三キュビト、長さは二キュビトで、その四隅も台も側面も木でできていた。
彼は私に、「これが主の前にある机だ。」と言った。
また、本堂と至聖所にそれぞれ二つのとびらがあり、
それらのとびらにはそれぞれ二つの戸が折りたたむようになっていた。
すなわち、一つのとびらには二つの戸があり、ほかのとびらにも二つの戸があった。
本堂のとびらには、壁に彫刻されていたのと同じようなケルビムとなつめやしの木が彫刻してあった。
外側の玄関の間の前には木のひさしがあった。
玄関の間の両わきの壁には格子窓となつめやしの木があり、神殿の階段式の脇間とひさしも同様であった。」
(エゼキエル書41章21~26節)


ここで述べられている祭壇とは、聖所内の祭壇、すなわち香の祭壇のことです。
外の庭で犠牲が捧げられた大きな祭壇と混同してはいけません。
この祭壇は木で造られており、主イエス・キリストの人間性を象徴しています。
そして「主の前にある机」と呼ばれています。
なぜなら、神はキリストにおいて満足を見出されるからです。
神の民に関しては、彼らの祈りと賛美を神の御前に差し出し、彼らのすべての不完全さを取り除き、ご自身の恵み深い執り成しを加えてくださるのは、神です。

私たちは、神に関する単なる人間の推測を恐れ、これらの聖句についてこれ以上コメントすることを控えます。
また、ここに示されている素晴らしい詳細について理解が不足していることを認めます。

注章:この偉大な幻全体をより深く、より納得のいくように解説されたい方は、ジョン・ブルーア氏の『(The Numerical Bible)』の注釈書をぜひご参照ください。
エゼキエル書は1冊の本にまとめられています。
故F・W・グラント氏は、エゼキエル書37章までの注釈書を執筆した後、キリストのもとに召されました。
この原稿は長年未出版のままでしたが、ブルーア氏が取り上げて編集し、38章から48章までを啓発的で納得のいく形で書き上げました。
この書も同じ出版社から入手可能です。
これらの章をより深く理解したいと願う方々に、ぜひお勧めいたします。


42章 父の家の多くの家

この章では、特に主の祭司たちの安息のための設備、すなわち神殿滞在中に奉仕者たちが宿泊する部屋や住まいについて取り上げます。
既に述べたように、これらは父の家にある多くの住まいであり、イエスが弟子たちへの最後の説教で語った天の安息の地を表しています。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。
あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
(ヨハネの福音書14章1~3節)


「彼は私を北のほうの外庭に連れ出し、聖域に面し、北方の建物に面している部屋へ連れて行った。
その長さは百キュビト、その端に北の入口があり、幅は五十キュビトであった。
二十キュビトの内庭に面し、外庭の石だたみに面して、三階になった回廊があった。
部屋の前には幅十キュビトの通路が内側にあり、その長さは百キュビトであった。その部屋の入口は北に向いていた。
上の部屋は、回廊が場所を取ったので、建物の下の部屋よりも、また二階の部屋よりも狭かった。
なぜなら、これらは三階建てであり、庭の柱のような柱がないためである。それで、上の部屋は下の部屋よりも、また二階の部屋よりも狭かった。
部屋に沿った外側の石垣は、外庭のほうにあって、部屋に面し、その長さは五十キュビトであった。
したがって、外庭に面する部屋の長さは五十キュビトであった。しかし、本堂に面する側は百キュビトであった。
これらの部屋の下には、外庭からはいれるように、東側に出入口があった。
聖域や建物に面している南側の庭の厚い石垣の中には、部屋があった。
その部屋の通路は、北側の部屋と同じように見え、長さも同じ、幅も同じで、そのすべての出口も構造も入口も、同様であった。
南側の部屋の入口も同様で、通路の先端に入口があり、東側の石垣に面し、そこからはいれる通路があった。」
(エゼキエル書42章1~12節)


神殿本体の三方、中庭に面した場所には、祭司たちの住居として適した三階建ての部屋がありました。
「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています」(詩篇84篇4節)という御言葉にあるように、神は崇拝者たちを御自身に近づけておられます。
神は、ご自分の民の賛美の中に留まることを喜ばれます。

「彼は私に言った。「聖域に面している北の部屋と南の部屋は、聖なる部屋であって、主に近づく祭司たちが最も聖なるささげ物を食べる所である。その場所は神聖であるから、彼らはそこに最も聖なる物、すなわち穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえを置く。
祭司たちは聖所にはいったなら、そこから外庭に出てはならない。彼らが奉仕に用いる服は神聖だから、それを脱いで他の服に着替えてから民の所に近づかなければならない。」」
(エゼキエル書42章13、14節)


祭司たちは神殿の境内にある、彼らのために用意された部屋、つまり広間の中で聖なるささげ物を食べました。
これは、神の祭司の家が、民の心を満たすキリストを黙想することで養われている様子を描いています。
キリストは「わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです」(ヨハネの福音書6章57節)と言われました。
すべての供え物はキリストについて語り、祭司たちはそれらを食べました。

「彼は、神殿の内側を測り終えると、東向きの門に私を連れ出し、神殿の周囲を測った。
彼が測りざおで東側を測ると、測りざおで五百さおであった。
北側を測ると、測りざおで五百さおであった。
南側を測ると、測りざおで五百さおであった。
彼が西側に回って測りざおで測ると、五百さおであった。
彼が外壁の回りを巡って四方を測ると、その長さは五百さお、幅も五百さおで、聖なるものと俗なるものとを区別していた。」
(エゼキエル書42章15~20節)


このセクションでは、幻の中でエゼキエルが神殿の境内を巡った際の最終的な測量が示されています。
これらの測量には、簡単には説明できないいくつかの難点や複雑な点があります。
しかし、原文に誤りはなく、後世の写本に矛盾が生じたとしても、それは写字生の誤りによるものです。

神殿の敷地全体は、私たちの目の前にある、四方に門のある大きな壁に囲まれた広々とした中庭です。
ここに示されている寸法から見るならば、この敷地全体は、ソロモンの神殿、ゼルバベルの神殿、そしてヘロデの神殿が建っていたモリヤ山の頂上には大きすぎます。
ですから、もしすべてを文字通りに解釈するならば、エルサレム地域で起こった自然の大変動が、この地の地形を大きく変えるであろうことを理解しなければいけません。
もし、すべてが象徴的なものならば、難しいことではありません。
神は定められた時に、すべてを明らかにしてくださいます。

中庭、聖所、祭司の居室に関する細部の一部が曖昧に見えるとしても、神の道は私たちの道ではなく、神の思いは私たちの思いではありません。
神が地上の民と、天の民のために用意しておられる多くのことは、私たちの現在の理解をはるかに超えていますが、時が来ればすべて明らかにされます。
その時まで、私たちはまだ明らかにされていない栄光を信じ、辛抱強く待ち望みます。

イスラエルの賢明な人々がこの広大な神殿とその周囲の様子や規模について思いを巡らせました。
その時、彼らは彼らの将来の祝福に対する神の計画の偉大さと、神がその計画のすべてを実行する際に払う細心の配慮に感銘を受けたはずです。


43章 栄光の帰還

これまでの章で、贖罪所の上にとどまっていた創造されない光、シェキーナの栄光が、ソロモンの神殿からゆっくりと移動し、ケルビムの間から昇り、神殿の扉へと進み、東の門へと、そしてオリーブ山へと至る様子を見てきました。
預言者は、シェキーナの栄光が天へと昇るのを見ました。
これらはすべて、イスラエルが神の訪れを知らないうちに、主が彼らを見捨てられたことを明確に象徴しています。
しかし、去っていった栄光は、イスラエルが主のもとに回復される時に再び戻ってきます。
本章ではこの点について論じます。

幻の中で、預言者はケバル川のほとりで見た栄光の神の戦車が、山の頂上から見下ろした時に目の前に広がる壮大な建造物の中に再び姿を現すのを見ます。

「彼は私を東向きの門に連れて行った。
すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現われた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。
私が見た幻の様子は、私がかつてこの町を滅ぼすために来たときに見た幻のようであり、またその幻は、かつて私がケバル川のほとりで見た幻のようでもあった。それで、私はひれ伏した。
主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。
霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。」
(エゼキエル書43章1~5節)


エゼキエルは測りざおを持った男に東の門に連れて行かれました。
そこで見上げると、イスラエルの神の栄光が日の出る道からやって来るのが見えました。
そして、大水の音のような声も聞こえました。
その光景はあまりにも素晴らしく、地はシェキーナの輝きで輝きました。
預言者はすぐに、神が都の滅亡が近いと告げた時に去っていくのを見たのと同じ栄光だと気づきました。
エゼキエルは東の門から栄光が入ってくるのを見て、敬虔に礼拝者のようにひれ伏しました。
そして、見上げると、栄光が家全体を満たしているのが見えました。

「ある人が私のそばに立っているとき、私は、神殿からだれかが私に語りかけておられるのを聞いた。
その方は私に言われた。「人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。イスラエルの家は、その民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。
彼らは、自分たちの門口をわたしの門口のそばに設け、自分たちの戸口の柱をわたしの戸口の柱のかたわらに立て、わたしと彼らとの間には、ただ壁があるだけとなり、彼らの忌みきらうべきわざによってわたしの聖なる名を汚した。そこでわたしは怒って、彼らを絶ち滅ぼした。
今、彼らにその淫行や王たちの死体をわたしから遠く取り除かせなければならない。わたしは永遠に彼らの中に住もう。」
(エゼキエル書43章6~9節)


神殿から声が聞こえ、これまで見たことのない人がエゼキエルのそばに立ちました。
その声は告げました。
「人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。」
栄光が戻る時、人々自身が祝福を受けるに値するかどうかは問題ではなく、新しい契約に定められた神の恵みの現れとなります。
主御自身が、イスラエルの家が主から離れ、汚れた不敬虔な行いをしないように、主の聖なる名を汚したり、主の聖所に恥辱をもたらしたりすることが二度とないようにされます。
その日、主の律法は民の心に刻まれ、彼らは喜んで主の御心を行うようになります。
偶像崇拝はパレスチナ全土で二度と憎むべき頭をもたげなくなります。
バアルやその他の祭司たちが、かつては神の宮の中庭やその近くに偶像を立て、繰り返して汚れていたように、もはやヤハウェの境界線によって自分たちの境界線を定めることはなくなります。
このようなことはすべて永遠に過ぎ去り、神ご自身が民のただ中に住まわれます。

「人の子よ。イスラエルの家が自分たちの不義を恥じるために、彼らに神殿を示し、彼らにその模型を測らせよ。
もし彼らが、自分たちの行なったあらゆることを恥じるなら、あなたは彼らに神殿の構造とその模型、その出口と入口、すなわち、そのすべての構造、すべての定め、すべての構造、すべての律法を示し、彼らの目の前でそれを書きしるせ。彼らが、そのすべての構造と定めとを守って、これを造るためである。
宮に関する律法は次のとおりである。山の頂のその回りの全地域は最も神聖である。これが宮に関する律法である。」
(エゼキエル書43章10~12節)


10節は、この幻全体を理解する真実の鍵、神がこの幻を与えた理由を示しています。
神はエゼキエルにこのように言われました。
「人の子よ。イスラエルの家が自分たちの不義を恥じるために、彼らに神殿を示し、彼らにその模型を測らせよ。」
このように彼らは栄光に浸りながら、しばらくの間、心を動かされ、自分たちの罪が神と自分たちを隔てていることに気づき、自分たちを嫌悪します。
もちろん、良心が働いていなければ、こうしたことは何の影響も及ぼすことはありません。
しかし、ヤハウェは、もし彼らが自分たちの行いすべてを恥じるなら、預言者は家の形、様式、出入り口、そして礼拝とその律法に関するすべてのことを知らせなければならないと言われました。
それは、神が彼らに求めるすべてのことに対して、彼らが心から喜んで従うようになるためです。

家の律法が真実な聖潔の道であったことは注目に値します。
12節には「宮に関する律法は次のとおりである。山の頂のその回りの全地域は最も神聖である。これが宮に関する律法である」と記されているからです。
神は、聖潔と義のうちに神の前を歩む者にご自身を明らかにされます。
私たちは単に知性を通して真理を学ぶのではなく、良心を通して学びます。
良心が神の言葉に対して優しく、敏感になる時、神の真理は聖霊の力によって私たちに開かれ、私たちは神の御心を理解し、神の御心を行う喜びを見出すことができるようになります。
イスラエルの将来の再生に関する多くの預言が成就するとき、イスラエルにも同じことが起こります。

祭壇の寸法は次の聖句に示されています。

「キュビトによる祭壇の寸法は次のとおりである。――このキュビトは、普通のキュビトに一手幅足したものである。
――その土台の深さは一キュビト、その回りの縁の幅は一キュビト、みぞは一あたりである。祭壇の高さは次のとおりである。
この地面の土台から下の台座までは二キュビト、回りの幅は一キュビト。この低い台座から高い台座までは四キュビト、その回りの幅は一キュビト。
祭壇の炉は高さ四キュビトであり、祭壇の炉から上のほうへ四本の角が出ていた。
祭壇の炉は長さ十二キュビト、幅十二キュビトの正方形である。
その台座は長さ十四キュビト、幅十四キュビトの正方形で、その回りのみぞは半キュビト、その縁は一キュビトであり、その階段は東に面している。」」
(エゼキエル書43章13~17節)


ここで注目すべきは、祭壇が通常のキュビトではなく、キュビトとスパンで測られていることです。
通常のキュビトは、人の肘から指先までの長さ、約18インチに相当し、これにスパンを加えると約21インチ(53センチメートル)または22インチ(56センチメートル)になります。
祭壇はこの長いキュビトで測られています。
これは、十字架の御業は人間の基準ではなく、神ご自身が定められた基準で測られるべきであることを私たちに思い出させます。
ここでの祭壇とは、犠牲の祭壇であり、十字架の御業について語られています。

この章を読み進めていくと、千年王国においてこの祭壇で主にささげ物と供え物が捧げられているように思えるかもしれません。
前述のように、過去には多くの人がこれを信じていましたし、今でも非常に敬虔な教師の中には、ささげ物は再び制定されるものの、実際には贖罪の価値を持つものではなく、記念として捧げられると考える者も少なくありません。
しかし、十字架の御業が行なわれる以前は、人々が理解していたような供え物に目を向けさせること以外に、その御業を預言的に提示する方法はなかったことは明らかです。
しかし、キリストが十字架上ですべての型を成就し、「完了した」と叫ばれた時、これらのささげ物は永遠に廃止されました。
ゆえに、この章の最後の節で語られている祭壇の儀式はすべて、主イエス・キリストがついに人々に啓示された時、人々がその働きに入り、感謝する方法を描いているのだと考えます。

「彼は私に言った。「人の子よ。神である主はこう仰せられる。祭壇の上で全焼のいけにえをささげ、血をそれに注ぎかけるために祭壇を立てる日には、次のことが祭壇に関する定めとなる。
わたしに仕えるために、わたしに近づくツァドクの子孫のレビ人の祭司たちに、あなたは、罪のためのいけにえとして若い雄牛一頭を与えよ。――神である主の御告げ。――
あなたは、その血を取って、祭壇の四本の角と、台座の四隅と、回りのみぞにつけ、祭壇をきよめ、そのための贖いをしなければならない。
またあなたは、罪のためのいけにえの雄牛を取り、これを聖所の外の宮の一定の所で焼かなければならない。
二日目に、あなたは、傷のない雄やぎを罪のためのいけにえとしてささげ、雄牛できよめたように、祭壇をきよめよ。
きよめ終えたら、あなたは、傷のない若い雄牛と群れのうちの傷のない雄羊とをささげよ。
あなたは、それらを主の前にささげ、祭司たちがそれらの上に塩をまき、全焼のいけにえとして主にささげなければならない。
七日間、あなたは毎日、罪のためのいけにえとして雄やぎをささげ、傷のない若い雄牛と群れのうちの傷のない雄羊とをささげなければならない。
七日間にわたって祭壇の贖いをし、それをきよめて使い始めなければならない。
この期間が終わり、八日目と、その後は、祭司たちが祭壇の上で、あなたがたの全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげなければならない。
そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れる。――神である主の御告げ。――」」
(エゼキエル書43章18~27節)


ここに記されているすべての箇所は、キリストを全焼のささげ物として、汚れのないご自身を神に捧げ、香ばしい香りのするささげ物として語っています。
キリストは真実な罪のためのささげ物であり、罪のない方でありながら、私たちがキリストにあって神の義となるために、私たちのために罪となられた。
まだ、イスラエルはこの現実を理解していません。
しかし、来たるべき日に彼らはキリストがこれらすべての型を成就するものであることを理解し、主との聖なる交わりの中で、キリストを和解のささげ物として喜ぶ境地に達します。
キリストは神と人を結び合わせ、ユダヤ人と異邦人を問わず、信じる私たちと同じように、彼らをも愛する御方に受け入れられるようにしてくださいました。


44章 祭司のための儀式

この章の主要テーマは、ヤハウェの祭司たちが神殿で奉仕する際の規則についてです。
これらの規則は、主に、はるか昔にモーセが与えた教え、特にレビ記に記されている教えのくりかえしです。
偶像崇拝が広まり、支配者、祭司、そして民が神からますます遠ざかっていった後、その多くは無視され、さらには明確に破られました。
ここで与えられている戒めのくりかえしは、イスラエルの清めと新生の輝かしい日に、主にささげられるであろう妨げのない礼拝を、隠された形で私たちに伝えています。

まず最初に、その時代に特別な特権と権威を持つ地位を占めることになる君主について読みます。

「彼が私を聖所の東向きの外の門に連れ戻ると、門は閉じていた。
主は私に仰せられた。「この門は閉じたままにしておけ。あけてはならない。
だれもここからはいってはならない。イスラエルの神、主がここからはいられたからだ。これは閉じたままにしておかなければならない。
ただ、君主だけが、君主として主の前でパンを食べるためにそこにすわることができる。
彼は門の玄関の間を通ってはいり、またそこを通って出て行かなければならない。」」
(エゼキエル書44章1~3節)


多くの人は、神殿の聖域の東にあるいわゆる「黄金の門」に、この預言的な幻の成就を見たと考えてきました。
しかし、ここでの東の門は、明らかに預言者が見た神殿の門です。
その門を通して栄光が戻り、神殿を満たしました。
これはヤハウェが聖所に入られる時のことです。
その門は、高位の者であろうと、敬虔さで目立った者であろうと、すべての人々に対して閉ざされることになりました。

君主は、おそらくダビデの直系子孫、つまりダビデの息子であり、門の玄関から中庭に入るが、門からは入りません。
彼は門の入り口、つまり中庭の中でパンを食べます。
このように、特別な交わりと親睦の場を享受するのです。

預言者は祭司たちの特権と責任について語り続けます。

「彼は私を、北の門を通って神殿の前に連れて行った。私が見ると、なんと、主の栄光が主の神殿に満ちていた。そこで、私はひれ伏した。
すると主は私に仰せられた。「人の子よ。主の宮のすべての定めとそのすべての律法について、わたしがあなたに告げていることをことごとく心に留め、それに目を注ぎ、耳を傾けよ。宮にはいれる者と、聖所にはいれないすべての者を心に留めよ。
あなたは、反逆の家、イスラエルの家にこう言え。神である主はこう仰せられる。
イスラエルの家よ。あなたがたのあらゆる忌みきらうべきわざは、もうたくさんだ。
あなたがたは、心にも肉体にも割礼を受けていない外国人を連れて来て、わたしの聖所におらせ、わたしの宮を汚した。あなたがたは、わたしのパンと脂肪と血とをささげたが、あなたがたのすべての忌みきらうべきわざによって、わたしとの契約を破った。
あなたがたは、わたしの聖所での任務も果たさず、かえって、自分たちの代わりにわたしの聖所で任務を果たす者たちを置いた。
神である主はこう仰せられる。心にも肉体にも割礼を受けていない外国人は、だれもわたしの聖所にはいってはならない。
イスラエル人の中にいる外国人はみなそうだ。
レビ人でも、イスラエルが迷って自分たちの偶像を慕って、わたしから迷い出たとき、わたしを捨て去ったので、彼らは自分たちの咎を負わなければならない。
彼らは宮の門で番をし、宮で奉仕をして、わたしの聖所で仕えるはずなのだ。
彼らは民のために、全焼のいけにえや、ほかのいけにえをほふり、民に仕えて彼らに奉仕しなければならない。
それなのにレビ人たちは、民の偶像の前で民に仕え、イスラエルの家を不義に引き込んだ。
それゆえ、わたしは彼らに誓う。――神である主の御告げ。――彼らは自分たちの咎を負わなければならない。
彼らは、祭司としてわたしに仕えるために、わたしに近づいてはならない。
わたしのあらゆる聖なる物、または最も聖なる物に触れてはならない。
彼らは自分たちの恥と自分たちの行なった忌みきらうべきわざの責めとを負わなければならない。
わたしは彼らに、宮のあらゆる奉仕とそこで行なわれるすべての宮の任務を果たさせる。」
(エゼキエル書44章4~14節)


かつて、ソロモンの神殿が奉献された時に満たした栄光は、後の神殿では見られていません。
しかし、ヤハウェの明白な臨在で輝かしいその宮には、主の祭司たちが自由に出入りできます。
しかし、彼らの振る舞いと服装は、その家の律法に従わなければなりません。
あらゆる偶像崇拝は永久に廃止されなければなりません。
もはや、ヤハウェの宮は汚されず、その祭司たちは異教の慣習によって汚されることはありません。
その日には、神だけが高められます。
これまでは、利己心と不従順が蔓延していました。
今後は、ヤハウェの律法は真実かつ忠実に守られ、祭司たちは神に聖別されたことを忘れてはいけません。

神の契約を知らない者は、その聖域に入ることは許されません。
そこで礼拝する者は、肉体だけでなく、心においても割礼を受けなければいけません。
肉と霊の汚れはすべて捨て去らなければいけません。
このことの真実な意味は、コリントの教会に与えられたコリント人への手紙第二6章14~18節と7章1節に示されています。
この栄光に満ちた聖所で奉仕する祭司たちに対する神の御心を表すものとして、同じ基準が示されました。

これらの規定を怠ったために、祭司とレビ人の両方に裁きが下されました。
これらに従うことは祝福の前触れであり、神がその民を常に喜ばれることを保証するものでした。
再び、私たちはすべてのささげ物がキリストとその御業の特別な側面を物語っていることを思い起こします。
ゆえに、律法の摂理のもとで命じられた犠牲とささげ物について、くりかえし読むならば、何の困難も感じることはありません。

「しかし、イスラエル人が迷ってわたしから離れたときもわたしの聖所の任務を果たした、ツァドクの子孫のレビ人の祭司たちは、わたしに近づいてわたしに仕え、わたしに脂肪と血とをささげてわたしに仕えることができる。――神である主の御告げ。――
彼らはわたしの聖所にはいり、わたしの机に近づいてわたしに仕え、わたしへの任務を果たすことができる。
彼らは内庭の門にはいるときには、亜麻布の服を着なければならない。
内庭の門、および神殿の中で務めをするときは、毛織り物を身に着けてはならない。
頭には亜麻布のかぶり物をかぶり、腰には亜麻布のももひきをはかなければならない。
汗の出るような物を身に着けてはならない。
彼らが外庭に出て、外庭の民のところに出て行くときは、務めのときに着ていた服を脱ぎ、それを聖所の部屋にしまい、ほかの服を着なければならない。その服によって民を聖なるものとしないためである。
彼らは頭をそってはならない。髪を長く伸ばしすぎてもいけない。頭は適当に刈らなければならない。
祭司はだれも、内庭にはいるときには、ぶどう酒を飲んではならない。
やもめや、離婚された女を妻にしてはならない。ただ、イスラエルの民のうちの処女をめとらなければならない。
しかし、やもめでも、それが祭司のやもめであれば、めとってもよい。
彼らは、わたしの民に、聖なるものと俗なるものとの違いを教え、汚れたものときよいものとの区別を教えなければならない。
争いがあるときには、彼らは、わたしの定めに従ってさばきの座に着き、これをさばかなければならない。
わたしのすべての例祭には、わたしの律法とおきてとを守り、わたしの安息日を聖別しなければならない。
彼らは、死人に近づいて身を汚してはならない。ただし、自分の父、母、息子、娘、兄弟、未婚の姉妹のためには汚れてもよい。
その場合、その人は、きよめられて後、さらに七日間待たなければならない。
聖所で仕えるために聖所の内庭にはいる日には、彼は罪のためのいけにえをささげなければならない。――神である主の御告げ。――
これが彼らの相続地となる。わたしが彼らの相続地である。あなたがたはイスラエルの中で彼らに所有地を与えてはならない。
わたしが彼らの所有地である。
彼らの食物は、穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえである。
イスラエルのうちのすべての献納物は彼らのものである。
あらゆる種類の初物、あなたがたのあらゆる奉納物のうちの最上の奉納物は、すべて祭司たちのものであり、あなたがたの麦粉の初物も祭司に与えなければならない。あなたの家に祝福が宿るためである。
祭司たちは、死んだものや裂き殺されたものはすべて、鳥であれ獣であれ、食べてはならない。」
(エゼキエル書44章15~31節)


サムエル記第一2章35節、サムエル記第二15章24節、列王記上2章27~35節を参照すれば、ここでザドクの子らについて何が語られているのかを理解できます。
彼らだけがこの神殿において真実な祭司の地位を与えられています。
レビの子らの他の者たちは皆、権威と奉仕の地位を与えられていますが、民の供え物を祭壇に捧げることは彼らには許されていません。
ほぼ初めから祭司職は衰退しており、神はアロンの他の子らを退け、衰退と背教の時代に忠実であったザドクの子孫を選びました。

イスラエルにおける祭司職の型としての特徴を考えるならば、これらすべての法令と儀式を注意深く考察することによって、わたしたちは多くのことを得ることができるのです。
「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカの福音書1章37節)
聖書はすべてわたしたちの学びのためにあるのです。
わたしたちの啓発に何も役立たないかのように、聖書のどれか一つとして軽視したり、軽く扱ったりすることはできません。

司祭は礼拝者であり、現在における、すべての信者は今日ではそのような者であるべきです。
したがって、神聖さの美しさをもって主を礼拝するためには、あらゆる汚れたものから身を守ることが重要となります。


45章 ヤハウェの任命

この章は、主、祭司であるレビ人、そして民のための土地の配分について、特に聖所とその庭の場所との関係で論じています。
これは、ヤハウェが聖徒たちのただ中に住まわれるという理想的な描写です。

「あなたがたがその地を相続地として、くじで分けるとき、その地の聖なる区域を奉納地として主にささげなければならない。その長さは二万五千キュビト、幅は一万キュビト。その周囲の全域は聖なる地である。
このうち、縦横五百キュビトの正方形を聖所に当て、その回りを五十キュビトの空地にしなければならない。
先に測った区域から、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトを測れ。そして、その中に聖なる至聖所があるようにせよ。
これは国の聖なる所である。これは、聖所で仕え、主に近づいて仕える祭司たちのものとしなければならない。ここを彼らの家の敷地とし、聖所のために聖別しなければならない。
また、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトの地は、宮で奉仕をするレビ人のものとし、二十の部屋を彼らの所有としなければならない。
聖なる奉納地に沿って、幅五千キュビト、長さ二万五千キュビトを町の所有とし、これをイスラエルの全家のものとする。
君主の土地は、聖なる奉納地と町の所有地との両側にあり、聖なる奉納地と町の所有地に面し、西側は西のほうへ、東側は東のほうへ延びている。その長さは一つの部族の割り当て地と同じで、この国の西の境界線から東の境界線にまで及んでいる。
これがイスラエルの中の彼の所有地である。わたしの君主たちは、二度とわたしの民をしいたげることなく、この地は部族ごとに、イスラエルの家に与えられる。」
(エゼキエル書45章1~8節)


旧約の時代、パレスチナの地はイスラエルの民の間でくじによって分割されていました。
くじは旧約聖書において、神の意思を定める方法でした。
「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。」(箴言16章33節)
この方法が最後に用いられたのは、使徒の働き1章26に記されているように、ユダの代わりとなる者を選ぶ時でした。
これはペンテコステ以前です。
それ以来、神は聖霊と御言葉によってご自分の民を導き、導かれています。

キュビトなのか、葦(リード)なのかが示されていないため、幾分曖昧な寸法が記されています。
しかし、それを読むと、まるで神が来るべき日にご自分の民のために大きなことを準備しておられることを示しているかのような、広々とした印象が心に残ります。
部族の区分は48章に記されており、昔のものとは異なります。
君主の割り当てについては既に前の章で触れましたが、ここではさらに詳しく説明されています。
すべての者は主に対して聖なる者とされなければなりません。

「神である主はこう仰せられる。イスラエルの君主たちよ。もうたくさんだ。
暴虐と暴行を取り除き、公義と正義とを行なえ。わたしの民を重税で追い立てることをやめよ。――神である主の御告げ。――
正しいはかり、正しいエパ、正しいバテを使え。
エパとバテとを同一量にせよ。バテはホメルの十分の一、エパもホメルの十分の一とせよ。その量はホメルを単位とせよ。
一シェケルは二十ゲラである。二十シェケルと二十五シェケルと十五シェケルとで一ミナとせよ。」
(エゼキエル書45章9~12節)

政府は神によって設立されています。
人々を権威ある地位に就けるのは神です。
しかし、幾世紀にもわたって、君主や支配者たちは神から与えられた特権を濫用し、責任は忘れがちでした。
後代のユダの王たちは、その義務を露骨に無視し、神は彼らを裁かれました。

ここでは、権威ある地位にあるすべての人が心に留めるべき原則が示されています。
その原則はイスラエルを支配し、王国の時代に全世界を支配するキリストと関係する人々の特徴となります。

「あなたがたがささげる奉納物は次のとおりである。小麦一ホメルから六分の一エパ、大麦一ホメルから六分の一エパをささげ、
油の単位により、油のバテで、一コルから十分の一バテをささげよ。一コルは一ホメルと同じく十バテである。
また、イスラエルの潤った地の羊の群れから二百頭ごとに一頭の羊を、ささげ物、全焼のいけにえ、和解のいけにえのためにささげ、彼らのための贖いとせよ。――神である主の御告げ。――
国のすべての民に、この奉納物をイスラエルの君主に納めさせよ。
君主は、祭りの日、新月の祭り、安息日、すなわちイスラエルの家のあらゆる例祭に、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、注ぎのぶどう酒を供える義務がある。彼はイスラエルの家の贖いのため、罪のためのいけにえ、穀物のささげ物、全焼のいけにえ、和解のいけにえをささげなければならない。」
(エゼキエル書45章13~17節)

以前と同様に、ここで与えられた指示の中に、主の権威が具現される日に君主と民が参加する礼拝の様子を見ることができます。
これらのささげ物において型として示されるキリストご自身は、主の民の心の喜びとなるのです。
十字架の血に基づいて主との交わりに導かれた人々は、主の御業の完成を永遠に記憶します。

「神である主はこう仰せられる。第一の月の第一日に、あなたは傷のない若い雄牛を取り、聖所をきよめなければならない。
祭司は罪のためのいけにえから、血を取り、それを宮の戸口の柱や、祭壇の台座の四隅や、内庭の門の脇柱に塗らなければならない。
その月の七日にも、あなたは、あやまって罪を犯した者やわきまえのない者のためにこのようにし、宮のために贖いをしなければならない。」
(エゼキエル書45章18~20節)

レビ記23章には、主の祭り、あるいは定められた時節について記されています。
ここで私たちの注意はこれらの定められた時節に向けられており、そのいくつかは千年王国においても間違いなく守られるのです。
しかし、ペンテコステの祭りは省略されています。
それは教会において完全に成就し、教会の型となりました。
新月、過越の祭、そして仮庵の祭、すなわち収穫の祭は、いずれもイスラエルの将来のすべての祝福が十字架の働きにかかっています。
そして、その結果を告げる役割を果たしています。
キリストは過越の子羊として死なれましたが、それはこの時代の教会のためだけではなく、イスラエルと諸国民全体のためです。
どの時代においても、どのディスペンセーションにおいても、救われるすべての人は、永遠に神の子羊の血にすべてがかかっています。

「第一の月の十四日に、あなたがたは過越の祭りを守り、その祭りの七日間、種を入れないパンを食べなければならない。
その日に君主は、自分のためと国のすべての民のために、罪のためのいけにえとして雄牛をささげなければならない。
その祭りの七日間、彼は全焼のいけにえとして傷のない七頭の雄牛と七頭の雄羊を、七日間、毎日、主にささげなければならない。
また一頭の雄やぎを、罪のためのいけにえとして、毎日ささげなければならない。
穀物のささげ物は、雄牛一頭に一エパ、雄羊一頭に一エパをささげなければならない。油は一エパごとに一ヒンとする。
第七の月の十五日の祭りにも、七日間、これと同じようにささげなければならない。
すなわち、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、それに油を、同じようにささげなければならない。」
(エゼキエル書45章21~25節)


収穫が集められた後に祝われる仮庵の祭りは、ゼカリヤ書14章でも見られるように、千年王国の完全な祝福を適切に象徴しています。
これらの定められた時期は、神が御子を通して成し遂げたことの記念として守られます。
しかし、犠牲やささげ物が再び制定されると考える必要はありません。
むしろ、それらが表すものは、神の民の心の永遠の喜びとなります。


46章 特別なささげ物に関する規則

聖所と、預言者が夢で見た供え物が再建されることを扱っているこの章では、新月の日と安息日に特別な立場が与えられていることに注目します。

「神である主はこう仰せられる。内庭の東向きの門は、労働をする六日間は閉じておき、安息日と、新月の祭りの日にはあけなければならない。
君主は外側の門の玄関の間を通ってはいり、門の戸口の柱のそばに立っていなければならない。
祭司たちは彼の全焼のいけにえと、和解のいけにえをささげ、彼は門の敷居のところで礼拝して出て行かなければならない。門は夕暮れまで閉じてはならない。
一般の人々も、安息日と新月の祭りの日には、その門の入口で、主の前に礼拝をしなければならない。
君主が安息日に主にささげる全焼のいけにえは、傷のない子羊六頭と、傷のない雄羊一頭である。
また、穀物のささげ物は、雄羊一頭について一エパ。子羊のためには、彼が与えることのできるだけの穀物のささげ物。油は一エパごとに一ヒンである。
新月の祭りの日には、傷のない若い雄牛一頭と、傷のない子羊六頭と雄羊一頭である。
穀物のささげ物をするために、雄牛一頭に一エパ。雄羊一頭に一エパ。子羊のためには、手に入れることのできただけでよい。油は一エパごとに一ヒンである。
君主がはいるときには、門の玄関の間を通ってはいり、そこを通って出て行かなければならない。」
(エゼキエル書46章1~8節)


安息日の特別な厳守にこれほど重点が置かれているという事実は、この幻全体がユダヤ教特有の特徴を帯びていることを示しています。
これはクリスチャンの描写ではありません。
ただ、旧約の神殿と幻に現れる神殿は、ある程度、聖霊によって神の家に建てられたすべての人々から成りたっている、神の現在の神殿を象徴しています。
その点においてだけ、クリスチャンの描写と言えます。
私たちにとって安息日は、型としての日だけでなく、旧約聖書のシステムの他のすべてのものと同様に成就であり、祝福された主御自身に見出されます。
これらの聖句や他の聖句から、教会の時代が終わり、神が再びイスラエルを取り上げられる時、律法の安息日が再び守られることは明らかです。
ゆえに、ここで私たちは特別な供え物を神の前に捧げるべき定められた日として、安息日を定めているのです。
これらのささげ物が文字通りの意味を持つかどうかについては、ここで難しい問題に直面する必要はありません。
既に述べたように、これらはすべて私たちの主イエス・キリストについて語っています。
安息日に神の前にささげ物は、来たるべき王国の時代に神の民が、今私たちの救い主であり、その時にも救い主として認められるであろう主の御人格と御業に対して抱く深い感謝の念を示すものとなります。
ささげ物に関して過度の強制がなかったことは注目に値します。
ささげ物は、各人が自分のできる限りのものを、自発的に主の前に捧げるべきものです。

新月の日は、安息日が週の終わりを告げるのと同じように、月から月への新たな始まりを告げるため、特別に強調されています。
そして、月が戻るたびに、神がその民を次の月も見守り、次の月への恵みを約束してくださる、神の哀れみ深さが新たに語られています。

「しかし、一般の人々が例祭の日に主の前にはいって来るとき、北の門を通って礼拝に来る者は南の門を通って出て行き、南の門を通ってはいって来る者は北の門を通って出て行かなければならない。自分のはいって来た門を通って帰ってはならない。
その反対側から出て行かなければならない。
君主は、彼らがはいるとき、いっしょにはいり、彼らが出るとき、いっしょに出なければならない。
祭りと例祭には、穀物のささげ物は、雄牛一頭に一エパ、雄羊一頭に一エパ。
子羊のためには与えることのできるだけのもの。油は一エパごとに一ヒンである。
また、君主が、全焼のいけにえを、進んでささげるささげ物として、あるいは和解のいけにえを、進んでささげるささげ物として主にささげるときには、彼のために東向きの門をあけなければならない。
彼は安息日にささげると同じように、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげなければならない。彼が出て行くなら、彼が出て行って後、その門は閉じられる。」
(エゼキエル書46章9~12節)


君主と民の間に築かれる幸福な関係について、これらの言葉を読むとき、私たちは感銘を受けます。
君主はその地位ゆえに特別な評価を受けますが、それでも皆は神の御前、そして神の聖域において、一つの共通の土台の上に立っています。
世俗的な名誉や人間の傲慢さの余地はありません。
すべては、神に受け入れられる唯一の基盤である贖いの土台の上に立っています。
すべての犠牲とささげ物は、このことを物語っています。

一つの門から入り、中庭を通り抜け、別の門から出て行くという指示にも、暗示的な意味があるのかもしれません。
これは私たち一人一人に語りかけ、二度と同じ道を通ることはないということを思い起こさせてくれます。
この場面を通り抜ける時、私たちは自分の足跡をたどることはできません。
神の聖霊に導かれ、栄光から栄光へと神と共に歩み続けることは、私たちにとって幸せな特権なのです。

より霊的な思いがあれば、ここには多くのことが入り込むかもしれませんが、私は、その明白で明らかな意味を超えて型を適用しようとすることに躊躇します。

「あなたは毎日、傷のない一歳の子羊一頭を全焼のいけにえとして、主にささげなければならない。これを毎朝ささげなければならない。
それに添えて、毎朝、六分の一エパの穀物のささげ物、上等の小麦粉に振りかけるための油三分の一ヒンをささげなければならない。
これが主への穀物のささげ物であり、永遠に続く定めである。
こうして、子羊や穀物のささげ物や油を、常供の全焼のいけにえとして、毎朝ささげなければならない。」
(エゼキエル書46章13~15節)


旧約の時代、幕屋での奉仕、そしてソロモンの神殿に関係した奉仕においても、全焼のいけにえは朝夕、神の前に捧げられていました。
ここでは「あなたは毎日、傷のない一歳の子羊一頭を全焼のいけにえとして、主にささげなければならない。これを毎朝ささげなければならない」と教えられています。
夕のいけにえについては他に何も述べられていません。
なぜなら、ここで述べられていることはすべて、主御自身が民の光となり、喜びの朝に悲しみや苦悩の夕べが続くことのない、栄光の日に関係しているからです。
主を知る私たちにとって、主イエス・キリストの尊さと力強い働きを黙想しながら、毎朝主を待ち望み、絶えず全焼のいけにえを神の前に捧げることは、今でも尊いことなのです。
全焼のいけにえはまさにこのことを語っています。
穀物の供え物もそれと結びついており、ご存知のように、それは十字架上で成し遂げられた御業を強調するものではなく、キリストの御人格の完全性を物語っています。
油を混ぜた上等の小麦粉の穀物の供え物によって表されるのは、受肉したキリスト、すなわち神と人が一つの位格に宿る御方であり、二度と分離されることはない御方を表してます。

「神である主はこう仰せられる。もし、君主が、贈り物として自分の相続地を自分の息子たちに与えるなら、それは息子たちのものとなり、それは相続地として彼らの所有地となる。
しかし、もし、彼が自分の相続地の一部を贈り物として奴隷のひとりに与えるなら、それは解放の年まで彼のものであるが、その後、それは君主に返される。ただ息子たちだけが、相続地を自分のものとすることができる。
君主は、民の相続地を奪って彼らをその所有地から押しのけてはならない。
彼は自分の所有地から自分の息子たちに相続地を与えなければならない。それは、わたしの民がひとりでも、その所有地から散らされないためである。」」
(エゼキエル書46章16~18節)


イスラエルの回復という偉大な日に、彼らはヨベルの年、すなわち自由の年の意味を真実に理解します。
幾世紀にもわたって、これらのヨベルが正しく守られてきたならば、神がイスラエルと世界のために、彼らがかつて経験したことのないほど素晴らしいものを用意しておられることを、常に思い起こさせてくれるものになります。
捕囚民に自由が宣言され、イスラエルの家がそれぞれの所有地に戻り、それらを完全に享受し、二度とそこから引き離されることのない時が来ます。
旧約のヨベルの律法は、千年王国においても適用されると思われます。
このようにイスラエルの家は土地を失うことはなく、寄留者たちも少なくともしばらくの間、彼らと共に土地の一部を享受することが許されます。
しかし、神はパレスチナの地について「地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから」(レビ記25章23節)と言われました。
神は契約によってアブラハムの文字通りの子孫に地を与えられました。
たとえ、他の人々がイスラエルと共にそれを楽しむことが許されたとしても、それを彼らから切り離すような将来の取り決めは許されません。

「それから、彼は私を、門のわきにある出入口から、北向きになっている祭司たちの聖所の部屋に連れて行った。
すると、西のほうの隅に一つの場所があった。
彼は私に言った。「ここは祭司たちが、罪過のためのいけにえや、罪のためのいけにえを煮たり、穀物のささげ物を焼いたりする場所である。
これらの物を外庭に持ち出して民を聖なるものとしないためである。」
彼は私を外庭に連れ出し、庭の四隅を通らせた。すると庭の隅には、それぞれまた、ほかの庭があった。
庭の四隅に仕切られた庭があり、それは長さ四十キュビト、幅三十キュビトであって、四つともみな同じ寸法であった。
その四つとも、回りは石の壁で囲まれ、石の壁の下のほうには料理場が作られていた。
彼は私に言った。「これは、宮で奉仕をしている者が、民からのいけにえを煮る料理場である。」」
(エゼキエル書46章19~24節)


エゼキエルは幻の中で、祭司たちの糧となる十分な備えが整えられているのを見ました。
出エジプト記(29章33節)には「聖別するための贖いに用いられたものを、食べる」と記されています。
主の宮の庭に住み、燔祭と穀物の供え物を食べる祭司たちは、神が御子と十字架の業について啓示された事柄によってたましいを養うという特権に恵まれた、現在の神の家族について語っています。
そして、来たるべきその日に、ヤハウェの祭司たちは、これまで経験したことのない方法で、これらすべてのささげ物の意味を理解します。
そして、群衆の目に触れない祭司の部屋の静かな中庭で、彼らは食物を準備し、主の御前でそれを味わいます。
現在、私たちがこのことをもっと知るならば、それは素晴らしいことなのです。
主イエスの神性と人性、永遠の交わり、地上における人としての完全さ、死に至るまでの従順さ、そして父なる神への栄光とイエスに信頼を置く人々の救いを聖書が明らかにしています。
イエスの御業の効果について黙想しながら、神のみの目が注がれる隠れた場所に静かに住まうことができるのです。
実に、これは豊かな食物であり、私たちはこの食物を糧にしてたましいを養い、主にあって、また主の力によって強くなることができるのです。


47章 命を与える川

「彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。
神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。
ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。」
(エゼキエル書47章1、2節)


エゼキエル書の最後の40章から48章までを熟考する中で、常に心に留めておきたい疑問があります。
この幻を、千年王国において文字通り成就する事柄を示すものとして文字通り受け取るべきなのでしょうか?
それとも、神が古代の民と世界のために用意しておられる驚くべき祝福の象徴として理解すべきなのでしょうか?
神は、この祝福を、人間の想像をはるかに超える驚くべき事柄を、民の貧しく有限な知性に少しでも理解させるために、このような形で示してくださったのでしょうか?
私たちは、黙示録の最後の章と、ここで私たちが目にする内容を対比させ、比較せずにはいられません。
この川の幻について考えるとき、必然的に私たちの注意は、神と小羊の御座から流れ出る、あの清らかな命の水の川へと向けられます。
ヨハネは、霊となって大きく高い山に登り、聖なる都、新しいエルサレムが神のもとから天から下って来るのを見ていた時、この川を幻で見たのです。
黙示録の最初の節には、神がこれらのことをご自分のしもべヨハネに遣わし、示したことが明確に記されています。
そして、「示した」という言葉は実際には「象徴した」という意味であることにも私たちは気づいています。
この驚くべき書に記された偉大な幻を文字通りに解釈しようとする人は、実にわずかです。
天にある七重に封印された巻物が、子羊のような姿をした者によって破られるのを見ることなど、誰も期待していません。
私たちが知っている巻物はこの世の権利証書であり、子羊とは神の御座に座する人、キリスト・イエスです。
また、七つの頭と十本の角を持つ野蛮な獣が、底なしの穴から実際に現れ、世界を支配することも期待していません。

この幻の中で、私たちは人間の政府がその終焉と無神論に陥った象徴を見ます。
そして、天の都の幻において、神が驚くべき美と栄光の象徴を用いて、聖徒たちの永遠の故郷の壮大さと驚くべき特質を現していることを理解できます。
そこに流れる川は明らかに、復活したキリストに対する聖霊の証しであり、その行く先々で爽快感と祝福をもたらしています。
そして、川の両岸には、驚くべき実をつけた命の木が見えます。
これは、受け入れるすべての人に霊的な癒しをもたらす福音のメッセージを物語っています。

さて、エゼキエルの幻について考察するならば、文字通りの意味への盲目的な執着をしてはいけません。
ここで展開されている多くの事柄の象徴的な性質を否定するものに思えます。
多くの人にとって、この章の川は文字通りの流れであり、千年時代に神殿の下から湧き出ています。
ヨエル書3章18節とゼカリヤ書14章8節によれば二つに分かれ、地中海と死海を結び、エルサレムの町に水のある港を与えます。
確かにこれらはすべて真実かもしれません。
しかし、エゼキエル書のこの箇所が同じことを指しているというのは、筆者には合理的ではなく、聖書の他の箇所で学ぶ内容とも一致しません。
ヤハウェの聖所の敷居の下から流れ出る川とは何でしょうか?
それは、ヨハネの黙示録第22章で既に述べられている、あの栄光に満ちた川と全く同じものなのでしょうか?
聖書はそのような川について多くの箇所で語っています。
神が休まれるところにはどこでも、川が流れているのが分かります。
エデンには文字通りの川がありました。
園から流れ出て四つの大きな流れに分かれる川です。
しかし、他の箇所では、この川は霊的な意味で語られています。
詩篇36篇8節には「あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます」とあり、詩篇46篇4節には「川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる」と記されています。
これは、将来、神殿の床から文字通りの川が湧き出るという預言ではありません。
詩篇作者が書いた当時、悔い改めて身をかがめ、神の恵みによって与えられるものを受け入れるすべての人が飲むことができ、そのような清めの川があるというのは、祝福された事実であり、今もなお事実です。
これは、新約聖書にある「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」(ヨハネの黙示録22章17節)という言葉と一致しています。
祝福された我らの主は、同じ比喩を用いてこのように言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
(ヨハネの福音書7章37、38節)


主は乾いた場所を川のように祝福し、潤すと約束されています。

「主が岩を開かれると、水がほとばしり出た。水は砂漠を川となって流れた。」
(詩篇105篇41節)


イザヤは二度、平和を川に例えています。(48章18節、66章12節)

また、詩篇作者とエレミヤは共に、水の流れのほとりに植えられた木のようである義人について語っています。(詩篇1篇3節、エレミヤ書17章8節)
我らの主イエス・キリストについて預言的に語るイザヤはこう言います。

「彼らはみな、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになり、砂漠にある水の流れ、かわききった地にある大きな岩の陰のようになる。。」
(イザヤ書32章2節)


 「彼らはみな、、砂漠にある水の流れ、、のようになる。。」
―なんと素晴らしい描写なのでしょうか!
しかし、この川が命と安らぎを象徴していることに気づくならば、これらすべては、主イエスのもとに来て飲むすべての人に命と心と良心の安らぎを与えてくださる主イエスに中心を置いていることがすぐに分かります。

参照できる聖句は数多くありますが、これらは、聖霊の力によってたましいに与えられたキリストにおける神の恵みを表わすものとして、聖書が川の象徴をどれほどくりかえし用いているかを示すのに十分です。

したがって、エゼキエルの川の幻が文字通り成就するかどうかは分かりません。
確かなのは、その幻が、神の言葉の他の多くの箇所で私たちに示され、現在もなお語りかけているのと同じ、栄光に満ちた川について語っているということです。

預言者は案内人に導かれて家の戸口まで行き、家の敷居の下から東の方へ水が流れ出るのを見ました。
彼はかつてこのような光景を見たことがありません。
幻の中ではあの中庭を通って導かれていました。
今やすべてが完成し、神は聖所に安息を見出されたかのようです。
神の栄光は家に満ち、水は神の民に潤いと祝福を与えて流れ出ていました。

これらの水は、東に面した外の門を通って庭から流れ落ち、右側に下り、ヨルダン渓谷まで流れ下る様子が描かれています。

「その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。」
(エゼキエル書47章3~5節)


文字通りの川を例に考えると、全く説明のつかない点があります。
川は、流れ込む支流によって水量が増えるにつれて、幅も深くなります。
しかし、ここではそのような支流については触れられていません。
ところが、この川は源から遠ざかるほど、より深く広くなります。
神の恵みの川も、まさにこの通りではないでしょうか!
ペンテコステの日に、弟子たちが座っていた場所全体が神の栄光で満たされ、すぐに復活したキリストの証しが始まった時、川はいかに小さな始まりに見えました。
そして、それ以来、川は流れ続け、ついには全世界を包み込む大河となったのです。

エゼキエルの案内人は一千キュビト、つまり千五百フィートを測り、預言者エゼキエルを水の中に入らせました。
水は足首まで達しました。
これはまさに神との交わりにおける人生の始まりを示しているのではないでしょうか!

「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」
(ガラテヤ人への手紙5章25節)


両足は川の中に入り、水はそれを覆っていました。
しかし、案内人はさらに一千キュビトを測り、エゼキエルを水の中を通らせました。
水は彼の膝まで達しました。
膝まで達した水が聖霊によって祈っていることを示していると言ったら、誰もが空想的だと思うはずです。
しかし、案内人はさらに一千キュビトを測り、預言者エゼキエルを水の中を通らせました。
水は腰まで達しました。
これは、神の御霊の力によってあらゆる肉欲が完全に制御されていることを示しています。
彼はさらに一千キュビトを測りました。
すると、小さな流れだったものが川となり、水位が上昇して泳げるほどになり、エゼキエルは渡ることができません。
これは確かに、神のすべての子供が聖霊に満たされて生きることを目指すべきことを示しています。

「彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか。」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。
私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。
この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。
漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。
しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。
川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」
(エゼキエル書47章6~12節)


幻の中で預言者を川岸に連れ戻すと、案内人は彼に、これまで見てきたこと、経験したことを振り返るように言いました。
エゼキエルが川岸を見つめ続けると、両岸に多くの木々が生えているのが見えました。
案内人は、これらの水は東の地域へと流れ出し、アラバ、つまりヨルダン川の平野へと流れ込み、そこから死海へと流れ込むことを説明しました。
死海は4千年の間、時が経つにつれてますます塩分濃度が高くなってきていますが、ヨルダン川から何百万ガロンもの真水が流れ込んでいます。
しかし、出口がないため、塩分濃度は下がるどころかむしろ増加し、魚は生息できなくなっています。
しかし、エゼキエルが見渡すと、この川の水が海に流れ込むと、命と癒しがもたらされるのを見ています。
以前は死と荒廃しかなかった場所に、無数の生き物が海に群がり、大群の魚が見られるようになりました。
これはすべて「この川が流れて行く所はどこででも」と書かれている通りです。
「この川がはいる所では、すべてのものが生きる」ことが教えられています。
この教えのゆえに、かつて死の海であった場所の北端から南端まで、漁師たちが川のほとりに立ち、網を広げ、あらゆる種類の魚を捕らえ、数え切れないほどの人々に豊かな食糧を供給されることになります。
泥沼や湿地は癒されるのではなく、塩に委ねられました。
これはまだ永遠の状態ではありません。
千年王国の祝福を語っています。
塩は義の保存力を物語っているからです。
永遠の状態になって初めて「以前の地は過ぎ去り、もはや海もない」(ヨハネの黙示録21章1節)ことが記されます。

黙示録に出てくる命の木のように、「その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける」という食べるための木について読むと、この描写の美しさに心が揺さぶられます。
地上に立てられたヤハウェの王座から流れ出る証しの川によって、この世界と人類全体にもたらされる祝福を、だれが測り知ることができるでしょうかか!

この章の残りの部分は、実際には48章の導入部分なので、48章と関係付けたほうがよいかもしれません。

「神である主はこう仰せられる。あなたがたがイスラエルの十二の部族にこの国を相続地として与える地域は次のとおりである。
ヨセフには二つの分を与える。
あなたがたはそれを等分に割り当てなければならない。それはわたしがかつてあなたがたの先祖に与えると誓ったものである。
この地は相続地としてあなたがたのものである。
その地の境界線は次のとおりである。北側は、大海からヘテロンの道を経て、ツェダデの入口に至り、
ハマテ、ベロタ、およびダマスコの領土とハマテの領土の間にあるシブライム、さらにハウランの領土に面したハツェル・ハティコンに至る。
海から始まる境界線はダマスコの境界のハツァル・エナンに至り、北は北のほうへ、ハマテの境界にまで至る。これが北側である。
東側は、ハウランとダマスコの間と、ギルアデとイスラエルの地の間のヨルダン川が、東の海を経てタマルに至るまでの境界線である。これが東側である。
南側は、タマルから南に向かってメリバテ・カデシュの水と川に至り、大海に至るまでである。これが南側である。
西側は、大海が境界となり、レボ・ハマテにまで至る。これが西側である。
あなたがたは、この地をイスラエルの部族ごとに割り当てなければならない。
あなたがたと、あなたがたの間で子を生んだ、あなたがたの間の在留異国人とは、この地を自分たちの相続地として、くじで割り当てなければならない。あなたがたは彼らをイスラエル人のうちに生まれた者と同じように扱わなければならない。
彼らはイスラエルの部族の中にあって、あなたがたといっしょに、くじで相続地の割り当てを受けなければならない。
在留異国人には、その在留している部族の中で、その相続地を与えなければならない。――神である主の御告げ。――」
(エゼキエル書47章13~23節)


鉛筆が街から街へ、地域から地域へと進むにつれ、地図帳の助けを借りてこれらの境界線を描き出すことができます。
それは、千年王国において、そこに住みたいと願うすべての人々のために十分な広さを持つ、拡張されたカナンの地を物語っています。
その土地は十二部族に分割されることになっています。
その多くは人間の目からは見えなくなっていますが、神には今もなお知られています。
しかし、異邦人も歓迎され、神がその日にイスラエルに与える相続地を共有することが許されます。


48章 ヤハウェ・シャマ

素晴らしい幻が消え去る前に、私たちの預言者ははるか遠くまで広がる地を見ました。
イザヤ書にはこのように記されています。

「あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。」
(イザヤ書33章17節)

「部族の名は次のとおりである。北の端からヘテロンの道を経てレボ・ハマテに至り、ハマテを経て北のほうへダマスコの境界のハツァル・エナンまで――東側から西側まで――これがダンの分である。
ダンの地域に接して、東側から西側までがアシェルの分。
アシェルの地域に接して、東側から西側までがナフタリの分。
ナフタリの地域に接して、東側から西側までがマナセの分。
マナセの地域に接して、東側から西側までがエフライムの分。
エフライムの地域に接して、東側から西側までがルベンの分。
ルベンの地域に接して、東側から西側までがユダの分である。」
(エゼキエル書48章1~7節)


七部族の相続地は、アブラハムの地上の子孫に約束された土地全体を西から東へと横切る広い帯状に描かれています。
(創世記15章7節、15章18~21節、15章18~21節、17章8節)
この契約は一度も破棄されたことがなく、今もなお揺るぎないものです。
なぜなら、それは人間の忠実さではなく、純粋な恵みに基づくものだからです。
預言者たちの普遍的な証言は、イスラエルが神のもとに立ち返るとき、再び彼らは自分たちの土地に定住し、二度と根絶されることはないということです。

ここにはカナンの北部とヨルダン川の東側の土地を所有する7つの部族が列挙されています。

「ユダの地域に接して、東側から西側までが、あなたがたのささげる奉納地となる。その幅は二万五千キュビト、その長さは東側から西側にかけて部族の割り当て地の一つと同じである。聖所はその中央にある。
あなたがたが主にささげる奉納地は、長さ二万五千キュビト、幅二万キュビトである。
祭司たちへの聖なる奉納地は次のとおりである。北側は二万五千キュビト、西側は一万キュビトの幅、東側は一万キュビトの幅、南側は二万五千キュビトの長さである。主の聖所はその中央にある。
この区域はツァドクの子孫の聖別された祭司たちのものである。彼らは、イスラエル人が迷い出たときいっしょに迷い出たレビ人とは異なり、わたしへの任務を果たしている。
彼らの地域はレビの部族の地域に接し、奉納地のうちでも最も聖なる地である。」
(エゼキエル書48章8~12節)


ユダの領地のすぐ南には、祭司たちのためにささげ物として聖所が設けられていました。
そこには神の栄光が見られました。
神は、ご自分の民の賛美の中に住まわれることを喜びとされます。
優しく愛情深い父である神は、すべての子供たちがご自分の周りに集まり、喜びに満ちた交わりと途切れることのない交わりを楽しむことを望んでおられます。

この「中央に」という表現が、ヤハウェが選ばれた者たちの中におられることに関係して繰り返して用いられているかは興味深いことです。
昔、神の住まいである幕屋は宿営の真ん中にありました。(民数記2章17節、5章3節)
神ご自身も陣営の中を歩かれました。(申命記23章14節)
神はエルサレムの真ん中に住まわれました(詩篇46篇5節)
イスラエルの聖なる方は諸国民の真ん中に住まわれました(イザヤ書12章6節、ホセア書11章9節)
エゼキエルのように将来の祝福を待ち望んでいたゼパニヤは、主が昔と同じように再び真ん中におられるのを見ました。(ゼパニヤ書3章5節、3章15節)
エゼキエルが幻の中で見たのは、何世紀にもわたる苦難と放浪の後に諸部族が平和に休息し、ヤハウェが贖われた者たちの真ん中にある聖所に住まわれるというものです。

「レビの部族の分は、祭司たちの地域に接して、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトである。すなわち、全体の長さは二万五千キュビト、幅は一万キュビトである。
彼らはそのどの部分も、売ったり取り替えたりしてはならない。その初めの土地を手放してはならない。主への聖なるものだからである。」
(エゼキエル書48章13、14節)


主に捧げられたものは、いかなる理由によっても譲渡したり、他の目的に用いたりしてはいけません。
初穂が主のものであったように、主の聖所へのささげ物も主のものなのです。
聖なるものと世のものとを混同してはなりません。
ヤハウェの称号は常に認められるべきです。

「幅五千キュビト、長さ二万五千キュビトの残りの地所は、町の一般用であり、住まいと放牧地のためである。
町はその中央に建てられなければならない。
その大きさは次のとおりである。北側は四千五百キュビト、南側は四千五百キュビト、東側は四千五百キュビト、西側は四千五百キュビトである。
また、町の放牧地は、北へ二百五十キュビト、南へ二百五十キュビト、東へ二百五十キュビト、西へ二百五十キュビトである。
聖なる奉納地に接する残りの地所の長さは、東へ一万キュビト、西へ一万キュビトである。それは聖なる奉納地に接している。
そこから収穫した物は町の働き人の食物となる。
その町の働き人は、イスラエルの全部族から出て、これを耕す。
奉納地の全体は二万五千キュビト四方であり、あなたがたは、聖なる奉納地と町の所有地とをささげることになる。」
(エゼキエル書48章15~20節)


街とその郊外は、主の領地を取り囲む広大な空間を占めていました。
人々はここで快適な住居に住み、街を取り囲む開けた土地を耕し、その労働の成果を享受し、その成果がもたらす恵みを楽しむのです。
神がその正しい地位を得る時、神の民は自分たちの利益が十分に守られることを確信します。

「聖なる奉納地と町の所有地の両側にある残りの地所は、君主のものである。
これは二万五千キュビトの奉納地に面し、そこから東の境界までである。西のほうも、その二万五千キュビトに面し、そこから西の境界までである。
これは部族の割り当て地にも接していて、君主のものである。聖なる奉納地と宮の聖所とは、その中央にある。
君主の所有する地区の中にあるレビ人の所有地と、町の所有地を除いて、ユダの地域とベニヤミンの地域との間にある部分は、君主のものである。」
(エゼキエル書48章21、22節)


君主の相続地は、聖所の近くにあり、祭司とレビ人の相続地と密接に関係しています。
このように、神の計画に従って、誰もが割り当てられた場所を持つことができ、神には混乱も無秩序もありません。

「なお、残りの部族は、東側から西側までがベニヤミンの分。
ベニヤミンの地域に接して、東側から西側までがシメオンの分。
シメオンの地域に接して、東側から西側までがイッサカルの分。
イッサカルの地域に接して、東側から西側までがゼブルンの分。
ゼブルンの地域に接して、東側から西側までがガドの分。
ガドの地域に接して南側、その南の境界線はタマルからメリバテ・カデシュの水、さらに川に沿って大海に至る。
以上が、あなたがたがイスラエルの部族ごとに、くじで相続地として分ける土地であり、以上が彼らの割り当て地である。――神である主の御告げ。――」
(エゼキエル書48章23~29節)


町の南側には5つの部族が、北側には7つの部族が描かれていたのと同様に、広い土地に居住していたことが描かれています。
注目すべきは、レビ族はかつてのように、主が彼らの受け継ぐ土地であるため、その土地の相続地を受け取る部族の中に数えられていないことです。
一方、ヨセフは、かつてパレスチナを占領した時と同様に、エフライム族とマナセ族に分けられました。
既に述べたように、レビ族は神殿付近の聖なる供え物の中に自分たちの場所を持っています。

「町の出口は次のとおりである。北側は四千五百キュビトの長さで、
町の門にはイスラエルの部族の名がつけられている。北側の三つの門はルベンの門、ユダの門、レビの門である。
東側も四千五百キュビトで、三つの門がある。ヨセフの門、ベニヤミンの門、ダンの門である。
南側も四千五百キュビトの長さで、三つの門がある。シメオンの門、イッサカルの門、ゼブルンの門である。
西側も四千五百キュビトで、三つの門がある。ガドの門、アシェルの門、ナフタリの門である。
町の周囲は一万八千キュビトあり、その日からこの町の名は、『主はここにおられる。』と呼ばれる。」」
(エゼキエル書48章30~35節)


エゼキエルは幻の町で十二の門を見ました。
それぞれの門にはイスラエルの部族の名が刻まれていました。
この場合、レビが部族の一つとして、またヨセフが別の部族として挙げられており、エフライムとマナセの区別はここでは分かりません。
ヨハネが見た天のエルサレムにも十二の門があり、そこにも十二部族の名が刻まれています。
しかし、一つは地上の光景で、もう一つは天の光景です。
アブラハムの文字通りの子孫は、一部は天に、一部は地にいます。
旧約聖書の聖徒たちは皆よみがえり、天のエルサレムに居場所を得ます。
再臨の時に地上に住む者は、アブラハム、イサク、ヤコブに約束された地、すなわちイスラエルを所有するのです。

この幻の記述は、回復された地上の街にはヤハウェ・シャマという名が付けられるという宣言で終わります。
つまり、「主はここにおられる。
なぜなら、私たちが見たように、主は栄光のうちにその聖所に戻り、王の時代を通じてその民のただ中に住むからである」という意味です。


2026/2/11


INDEXに戻る⇒