メッセージ 2000/10/18
聖め、その間違いと真実
(HOLINESS : THE FALSE AND THE TRUE by H.
A. IRONSIDE)
By H.A.アイアンサイド
PART1
今、私が思い出せる限り、この忠実な記録を書くことが主に信頼する私の願望です。
このことは,キリストの中に見出されるすべて祝福されたことを私が知る前に、クリスチャンとしての歩み、最初の6年間、私が「聖め」を経験した後に起きた、私の魂と私の中にあった戦いを神が取り扱ってくださったいくつかの記録なのです。
「愚か者として話す」ことはは時々必要なこととなり、私にはわずかな疑いも感じません。
しかし、私はこのような記録を必要としていることを考えているように、すでに使徒パウロはこのことをしています。
そして、私はパウロと共にこう言う事ができます。
「あなたがたが無理に私をそうしたのです。」
新改訳聖書 コリント人の手紙第二 12章11節
もし、私が若い時に通り抜けてきた不運な経験から、他の者を救うことができる特権に預かれるのなら、私は私の読者の前でこの経験を生かし豊かに報いるべきことを思い続けています。
そして、神は私がとても若い時から、神のことばを通して私に話しかけ始められていました。
それはもし、私は永遠についての事柄が、私の思い出せる限り、現実に何であるかを感じた、あの始めの頃に戻ることが出来るなら、私は自分を疑ったことでしょう。
私の父は、私の幼い心に父の特徴が植え付けられる前に、私を選び上げました。
しかし、私は神の人として話される事以外、彼から話を聞いたことがありませんでした。
父は「 永遠の人 」としてトロント(私の出生地)で多くの者に知られていました。
父の聖書には多くの個所にチェックがされており、私にとっては貴重な財産でした。
そして私は4才で、聖書の最初の個所を暗唱するために私はその箇所を学びました。
私ははっきりとルカによる福音書19章10節の祝福された言葉を学んだことを思い出します。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
新改訳聖書 ルカによる福音書19章10節
それは私が失っていること、そしてキリストイエスが私を救うために天から来られたこと、それは私の若い日において印象付けられた最初の神の真実です。
私の母は父を失い、そのことは私にとってありえないことのように思えました。
私は子供のようにひざをかがめ、祈ったときどのように恐れていたかを覚えています。
「父よ、あなたのために生きることをよりも優先して他のことを望まないように私の子供を守ってください。
早くこの子を救ってください。そしてこの子を献身的に歩ませてください。この子の父のように…。
この子を神の御子であるイエスを喜んで迫害に耐え、世に拒まれたように苦しみを喜んで受けるようにしてください。
そして、あなたの名を汚すことから遠ざけてください。」
その言葉はまったくおなじではありませんが、私は何度もその気持ちを聞きました。
私の家にはたびたび質素な、神を敬うキリストの仕え人が来て、彼らは私に対して永遠の雰囲気を伝えようとしていました。
いまだに、彼らは私の幼い時代にあって有害な存在であることをはっきりと認識します。
彼らは注意深く尋ねます。「ヘンリー君、あなたはまだ新しく生まれていませんね?」
もしくは同じように印象強く「あなたは確実にあなたの魂は救われていますか?」と尋ねます。
たびたび、私は行き詰まります。
しかし私は答える方法を知りませんでした。
私は神の子供であることがはっきり理解する前に、カリフォルニアに住んでいました。
ロサンゼルスでは、私は最初にその束縛に耐え切れずに、世に対しての愛を学び始めました。
それでも、私は私の救いの偉大な問題について、絶えることなく関心を持ち続けました。
そして、近所に住む少年、少女たちのために私は聖書を10回通読することを試みて、その知識を教えるために準備をしていました。
しかし、彼らは救いの確証無しに私のもとを去ってゆきました。
テモテのためにパウロは書きました。
「また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」
新改訳聖書 テモテへの手紙第二 3章15節
私に不足していたのはこの後者でした。
それは私のためだと思いました。
いつも信じていましたが、いまだに私が救われていたと言えませんでした。
私がいつもイエスについて信じていたことを今、私は知りました。
私は個人的な救い主として、イエスを現実には信じていませんでした。
二つの間に大きな違いがあります。
その違いは救われているということと、失われているということの違いです。
その違いは天にある永遠と、終わることのない火の池です。
私が言っていたように、私は魂についてかなりの心配していました。
そして私が世の中に憧れていたとしても、そしていかに私が多くのひどく、下劣な罪があったとしても、私はいつも私を拘束する力を感じ、多くの事柄から私を隔離し、そのことは確かに私を他の宗教心の中に連れてゆきました。
しかし、宗教心は救いではありません。
私が14歳だった頃、ある日学校から帰ってみると私の良く知るキリストに仕えている友人がカナダから集会のために到着したということを聞きました。
私が彼を見る前に、私が若かった時、彼の求めている質問を私が良く覚えているので、彼はどのように私を迎えるのかを私は知っていました。
ゆえに、私は驚きもしませんでしたが、それでも困ってしまい、彼は叫びました。「元気かい、ハリー君、君に会えて僕はうれしいよ。君は今、もう一度生まれているかい?」
私は赤面し、私は頭をたれて、答えるべき言葉を無くしました。
その場にいた叔父は言いました。「ところで、M君、今では、彼も少しは学んでいて、日曜学校を導いているのだよ。」
「本当!!」それが彼の答えでした。
「ハリー、では君の聖書を僕にくれないかい?」
私はうれしくなって、一度は聖書のために部屋を出てゆき、しばらく部屋に残った後に帰ってきました。
私自身を取り戻すことを望んでいたからです。
私が部屋に再び入り、彼は親切に、まじめに言いました。
「ローマ人への手紙3章19節に戻って声を出して読んでくれますか?」
ゆっくりと私は読みました。
「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙3章19節
私はその言わんとしていることを感じて、言葉を無くしてしまいました。
その福音主義者は、彼もかつて宗教的でありながらも罪人であったと私に話し続けました。
神が彼にキリストに照準を定めさせるまで、彼の口を止めさせませんでした。
その言葉は彼らから出る影響力です。
私が救われたと確信した時から、私は救いの確信について話す事を慎んでいました。
そして、私は日曜学校の仕事もあきらめてしまいました。
しかし今、サタンは私の命を滅ぼそうと模索し、私にほのめかしています。
「もし、失われていて、他の宗教心の事柄について不適格であれば、なぜ、あなたは世のすべてを楽しめる限り、楽しめば良いのですが、それをせずに逆に捧げなければならないのでしょうか?」
私は、本当に熱心に彼のことばを聞き、次の6ヵ月、もしくはその頃は良心のとがめがあったにせよ、私ほど愚かなことを誰も心配していませんでした。
ついに1890年2月の木曜日の夕方に、多くの者は私より年上でしたが、ただ夕方の楽しみに没頭しているだけの、たくさんの若者がいるパーティーのために、外に出ている間、神は私に恐ろしいほどの力で話しかけました。
私は今も覚えています。
次の部屋で冷たい飲み物を得るために、しばらく居間から出てゆきました。
軽食のあるテーブルで一人立っていると、そこで驚くほど鮮明に何ヵ月も前に学んだいくつかの聖書個所が私の心の奥にある魂に思い浮かびました。
これらは箴言の最初の章に見ることが出来ます。
1章の24節に始まり、32節に至ります。
ここにある知恵は、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。忠告する者の注意拒む者への主の笑いを描いています。
ここにあるすべての言葉は私の心の中にある方法をすべて焼き尽くしてしまいました。
私自身からキリストの真実へと長い間拒んでいた私の恐ろしい罪を、私は今まで分かっていませんでした。
私のために死なれた方より、私自身の持つ強情な方法を好んでいました。
私は居間に戻って、彼らの無駄な愚かさの中で加わってくつろごうと試みました。
しかし、すべてがうつろに思え、その虚飾は過ぎ去りました。
部屋の中に永遠の光が輝いていました。
そして、私は私たちを覆っている神の裁きをいくらかでも笑うことが出来たことを驚きました。
ダモクレス(両刃)の剣がわずかに突きつけられたようです。
私たちは絶壁の上で遊んでいる人々のように思えます。
そして、私は恵みが見えるようになるまでは、もっとも不注意な者でした。
その夜、そのすべてが終わり、私は急いで家に帰って、私の二階の部屋にこっそりと入りました。
そこで電灯をつけ、私は聖書をとり、私の前に聖書を置き、私のひざの上に身をかがめました。
私は祈るべきだと何となく感じました。
しかし、「何を願い求めるべきか?」と考え、はっきりと明確に答えが返ってきました。
「どんなにか長い間、神は私のために提供し続けてくれたのに、なぜかそれを受け取っていませんでした。神に感謝します。」
私の親愛なる母は何度も言っていました。
「神と共に始まる個所はローマ人への手紙3章、もしくはヨハネの福音書3章です。」
その両方に私は立ち返りました。そしてその個所を注意深く読みました。
そして、私ははっきりと、私は「私は助けのない罪人です。しかしキリストが私のために死にました。
そしてそれがキリストに信頼するすべての者に無代価で捧げられた救いなのです。
二回、ヨハネの福音書3章16節を読んで、「これで十分だ、神よ、あなたに感謝します。あなたが私を愛し、わたしのためにあなたの御子を与え、私は私の救い主として御子に信頼し、私は私が永遠の命を持つと語る、あなたの御言葉の上にとどまります。」
その時、私は喜びに満ちるだろうと予期しましたが、それは来ませんでした。
もしかして、私が間違っているのではないかと疑問視しました。
私はキリストの愛が突然突進してくるのではないかと期待しました。
そのどちらも来ませんでした。
私は万が一にも自分が本当は救われていないのではないか恐れました。
私は再び聖書を読み返してみると、そこには間違いがありえませんでした。
神は世を愛されました。
私はその世の一部分です。
神はすべての信じる者に御子を与え、私は救い主として御子を信じました。
ゆえに私は永遠の命を必ず持っているのです。
再び、私は主に信頼し、曲がったひざを上げ、信仰の歩みを始めたのです。
神はうそをつくことがありません。
私は私が救われなければならないということを知りました。
訳者注)神は世を愛されました。しかし一個人においては裁きしかありえないのです。
多くの説教者がこのことを理解していません。
確かに神は個人的においても、忍耐深くおられるでしょう。
しかし、それが失われたものを見出す神の思いであり、神は一人として裁きを望んでいません。(世に対して)
しかし、神に逆らう個人においては神の怒りが啓示されており、神の怒りがその人の上にあるのです。
ですから、「神はあなたを愛しているから信じなさい。」というメッセージは正確ではありません。
「あなたは失われていて、神の救いを必要としている。神の救いを受け取りなさい。」なのです。
聖くされること:そのおおいなる必要
私自身が救われて、最初に抱いた大きな願いが私の心の中にこみ上げてきました。
それは猛烈な憧れで私の持った神の平和に誰か他の者を導きたいという思いでした。
その時のことは私が書くところです。
救世軍は失われた者を得ようと出かけることに専念した組織としてそのエネルギーは頂点にありました。
それはまだ一般的に、社会のために、世によって奨励される慈善団体として知られるようになる前のことです。
救い主の足元に疲れていて絶望したものを導くのがその目的と狙いでしたが、その役員と兵士はその一つさえも持っているようには思えませんでした。
私はたびたびその礼拝に出席し、現実に何回もそれに預かりました。しかし子供ではありませんでした。
聖書を引用と、罪人にキリストを信じるよう説得することによって「証言」を与えられました。
私自身がいまだに暗闇の中にいることです。
とても自然なことなのですが、その時私には救いの知識があり、私は改心した後の夜、始めて救世軍のストリートミーティングに出てゆき、そこで屋外で私の魂に現された新しい神の恵みについて始めて語りました。
私が想像することなのですが、私は14の若者で、聖書になじんでいて、そして幾分進んでいたからではなく、---少し考えすぎでしょうが、疑いをもっていません。---私は彼らからすぐに心から歓迎を受けて、すぐに「少年メッセンジャー」として知られるようになりました。
その呼ばれ方に私は恐れを感じていました。
そしてその時は、私が持っていた考えのためと言うよりは、私の心にあるプライドのために仕えていたのです。
その出来事のゆえに、私の中で新しい喜びを見つけましたが、世界中のもっとも偉大な悪人の心の中にある罪と悪事と同じ性質を、私にあるという概念にまだ達していませんでした。
私はキリストとキリストの愛の何かを知っていました。
私は私自身が小さく、何もないことを知っていました。そして私の心のうそも知っていました。
私が今、覚えているのと同じくらい、私は一ヶ月間、神の救いについての知識を楽しんでいました。
その時、私より若い私の兄弟との論争の中で、私は短気にも突然我を失い、私は熱心のゆえに怒り、相手を地面に叩き、打ち倒してしまいました。
恐怖はすぐに私の魂に満ちました。
私はいやみの効いたあざけりを必要といません。「本当に、あなたが素晴らしいクリスチャンなのですか!
あなたは救世軍に降りてゆけばいいじゃないか、あなたがいかにすばらしい聖徒になれると言うのならば!」
恥と苦い悲しみの中で私の罪を神へ告白するために心に大きな苦痛の中で、私を部屋に行かせました。
その後あからさまに私の兄弟は、私を寛大にも許してくれました。
「信仰の証し会」の中でたびたび聞くこの単語を使うと、この時から私には「上下する信仰の状態(経験)」がありました。
私は肉の欲望と欲求に対して完全な勝利を望みました。
それでも、私には私が今まで知っていた以上の悪い考えと罪深い傾向による多くの問題があったように思われます。
長い間、私はこれらの矛盾を隠し続けました。
そして、神と私自身のみがそのことを知っていたのです。
しかし、約8〜10ヶ月後に救世軍のホールで毎週持たれている「聖めの集まり」と呼ばれていることに興味を持ちました。
そして、伝道活動にも私は時には参加していました。
これらの集まりでは信仰の経験が話されましたが、それは私にとってはまさに何を必要としているかを感じるためでした。それはいろいろな言葉によって示されました。
「第二の祝福」
「聖別」
「完全な愛」
「より高い命」
「生まれつきの罪からの洗い」
そして他の表現によって...。
これらのことは十分に教えられたことでした。
神は恵み深く、悔い改める時までの犯した全ての罪を許します。
しかし、もし人が悔い改めずに罪の中に落ちているのなら、神にある贖いと平和をいつも見失っているのでしょう。その瞬間に信じる者が一生の問題として、たまたまその場所に置かれているだけのことです。
つまり、救いとは永続するものではなく、偶然その時救いを受け入れているかが問題になってきます。
したがって、救われる条件とは救いを維持してゆくことであり、その人は「聖別」と呼ばれている恵みの繰り返す業を必要としています。
この働きは罪の根と共に働き、贖いは罪の実とともにあるのです。
この第二の祝福の要因となるこのステップは、第一に「聖められる必要がある」ことに関する確信です。(ちょうど始めに、そこに救いの必要の確信があったように)
第二に神への完全な降伏、もしくは神へのあらゆる希望を持つことです。
それは聖別の祭壇の上で期待し、所有することです。
第三に、すべて生まれつきの罪を焼き尽くす精錬された火のように、信仰において聖霊が入って来て私たちに欲望と熱中する事を破壊することを要求します。
それは魂にたどり着きます
愛にある完全な魂にされます。
それはそして堕落する前のアダムと同じくらい純粋なものです。
この素晴らしい祝福を受け取りました。
イブが蛇にだまされたように、悪魔は聖別された魂をだますのです。ですから注意深さが必要とされているのです。
そして、このように、思い切った行動を起こす前に誘い出し、もう一度同じ種類の悪い原則を導入します。
そして私は純粋で疑うことができないほど、心からの注目すべき経験である証しに結び付けられました。
他の者たちが私と同じように楽しんでいるようの見えました。
それはもし私が条件を満たしているならばなのですが...。
その女性は、考え、そして言葉と行為において、今まで40年間彼女がどのように罪から離れて歩んできたのかを話しました。
もはや彼女の心は「すべてを欺き、絶望的で邪悪であると」断言しているのを知りました。
しかし、キリストの血が「生まれついての罪」の最後の一つまできれいに洗いだした時から、天の法廷と同じぐらい聖い者とされたのです。
これらの経験談の多くは手短に言いますが、他の人も似たようなことを話します。
悪い気質は完全な降伏がなされたとき根こそぎにされたのです。
聖くされることが信仰によって主張された時、邪悪な性質と罪深い貪欲はすぐに破壊されました。
私は熱心にも私は肉において、聖くされるというこの貴重な恵みを捜し始めたのです。
まじめに、私はこのアダム的な罪の無さを願い求めました。
私は私に示された、すべて不道徳なことを神にゆだねました。
こうして、私は真実に神にすべてを引き渡すようになったのです。
私は友人にも、追求することにも、喜ぶことにも希望を置くことをあきらめました。
私が考えてきたすべてのことは、聖霊と当然の祝福が訪れてくるのを妨げてきたのです。
私は本当の意味の「本を食う虫」でした。
それは私にある幼い時からの文学としての猛烈な思いでした。
しかし、私の無知な欲望は、喜んでいるか、もしくは教訓的なキャラクタの本としてすべて片づけられました。
そして、神が私に「祝福」を与えるだけならば、聖書と聖書に書かれていることだけを読むために神が約束されたことになります。
しかし、私は数週間に渡って熱心に祈ったけれども、私が捜したものを手に入れることはありせんでした。
ついに、ある土曜日の夜(私は家を離れて、救世軍のメンバーである友達といっしょに住んでいました。)、私は田舎に出かけ神を待ち、完全な愛の祝福を受け取るまで帰らないと決意しました。
私は11時の電車に乗ってロサンゼルスから12マイル離れた寂しい駅に行きました。
わたしのその駅を降り、ハイウェイにたどり着き、乾いた小川に下りました。
イチジクの木の下にひざまずき、私は何時間も苦悩の中で祈りました。
神に、私が祝福を受け取るための妨げを何も置かないようにと懇願しました。
個人的なさまざまな問題と、ここにある神への思いは私の心に問いかけられました。
私は確信に反抗してもがきましたが、しかし最後に叫んで終えました。
「わたしはすべてのことをあきらめました。
あらゆる人間、あらゆる喜び、それはただあなたのために生きること邪魔するだけです。
今、私にあきらめました。私には可能性がありません。
私はあなたに祈ります。私は祝福され続けています。」
私が今振り返ると、私がそのことを理解したその瞬間に、私は神の御心に完全に降参したことを、私は信じたのです。
しかし、私の脳と神経は今までの月日の睡眠も取っておらず、猛烈に悩み、気が緩んでおり、私はあやうく失神して地面に倒れそうです。
その時、神からの喜びは私の体全体に感動を覚えました。
これは私が慰める人からの私の心に来たものであると思いました。
私は心の中で叫びました。
「主よ、私はあなたがこのように来られて成してくださったと信じます。
私は、今それを証しします。
この御業は働いています。
このように私を聖くしてくださいました。
わたしはこのことを信じます。」
私は言葉にならないほどの幸福で満たされました。
私はすべての私の闘いが終わると感じました。
賛美に満ちた心で、私は地面から立ち上がり声を出して歌い始めました。
私は腕時計を見て、朝のおよそ3時半だと知り、私は私の経験したことを証言するために、朝の7時の祈祷会に間に会わせる為、街に急がなければならないと思いました。
私は一晩中起きていたので疲れていました。
まだ、光が私の心にあったので、私は長い距離を戻らなければならないことを忘れていました。
しかし、街へは急がなければなりません。
街に着くとちょうど祈祷会が始まり、私の新しく発見した経験によって元気がわいてきました
私の信じた神が私のためにしたことがどんなに偉大なことか。私が話すのを見てみんな喜んでいました。
その日のすべての集会に私の喜びが付け加わり、私は本当にうれしい感情で夢中になっていました。
私の問題はすべて今終わったのです。
その荒野ような生活は過ぎ去りました。
今、私はカナンの古びたトウモロコシを食べています。
もう二度と私は罪に対して心の中に描き出された問題に悩むこともないのです。
私の心は純粋でした。
私は完全に聖別された地位に満足し、そこにたどり着きました。
もう私の中には敵無しです。
私は敵を征服することに私のすべてのエネルギーを向けることができました。
私はこのように思いました。
「ああ!神の思いから比べられれば、私が私自身を知るということはなんと小さなことでしょう。
太陽の光と雲」
いままで記述してきた重大な経験の数週間の間、私は夢心地になり、幸せな状態を送りました。
しかし、それは私の架空の聖さを喜んでいるに過ぎなかったのです。
ある大きな思いが私の中に浮かびました。
しかし、それはあえて言うのであれば、だんだんと「地に戻り」始めただけのことです。
私は今の写真スタジオで働いていました。
そこではいろいろな味のある、また癖のある人たちと付き合っていましたが、何人かの者は笑い、何人かの者は黙認されているだけでした。
毎晩、私は集会に出席し、通りで、そして建物の中で話し続けました。
そして、私はすぐに気がつきました。
(おそらく、他の者はもっと気がついたでしょう。)
それは私の証しが変わってきたのです。
いままでは、私はいつもキリストを前面に出し、キリストから失われたことを中心に語ってきましたが、今では、ほとんどが私の経験が中心であることが感じられなくなり、私自身がテーマになってきたからです。
そして、私自身の印象的な献身的な、そして私自身の聖さを手本とすることを前面に出し始めたのです。
これは、私たちの同朋である、「成長したと言われる」多くのクリスチャンによって作られ、まとめられた一般的な証しの特徴です。
その恵みにある最も若い者はキリストを述べ伝えました。
その聖別された者は自分自身を述べ伝えたのです。
大好きな歌は私が語るどのような言葉よりも、よりはっきりさせることができるのです。
それは救世軍の集会でさらに多く使われて、救世軍の歌と賛美歌の中で見つけることが出来ます。
私はその見本としては見せるものはこの一つの節だけで十分です。
私は人々が聖く生きていることを知りません。
「彼らの戦いは征服されていない罪です。
十分に捧げるという事は大胆なことではなく、彼らの完全な救いは勝利を得るでしょう。」
罪に敵意を持っており、彼らには絶え間ない問題があり、自由であることに未解決なままです。
彼らについて多くの者は不平を言っています。
決して私とともに神を賛美しません。
その歌が表現していた罪深いプライドを考えること無しに、この哀れな意味の無い歌を歌ったと私が言う時に、読者は私を信じるでしょうか?
私はそれを私がいつも注意をすべき「私の経験した完全な救い」と呼びました。
時間が立ち、私は再び悪いの方へ内部的な欲求を自覚し始めました。
その思いはひどいものです。
助けを求めて、先生の所へ指導されにゆきました。
先生は「それは残念ながら誘惑です。
誘惑は罪ではありません。
あなたが悪い声に屈するのなら、あなたは罪を犯すことになります。」と言いました。
このことはわたしにしばらくの間、平安をもたらしました。
私は堕落した性質が削除されているというこのような教えを語ることは、一般的には許されているということを知りました。
その性質は取り除かれて来たと想像しているのです。
ところが私はだんだんと沈んできたのです。
私が一度避けたものをもう一度許すのです。
そして、私は私について行ってきたすべてのことをもう一度していることに気が付きました。
最初に夢中になった経験は長続きしませんでした。
その過ぎ去った歓喜とその「聖別」は兄弟たちが想像している「ただ義とされる」ということからわずかに異なるものでした。
私たちは公然と悪い行いをしていません。
したがって私たちには罪がありません。
もたらせない限り欲望は罪ではありません。
すべてが正しいと証明することはとても簡単なことです。
私はわざとこの次の4年間を飛ばします。
そのほとんど者は無知にも幸せな職務についた時代でした。
私は年齢においても、恵みにおいても非常に若かったのです。
私の罪に対しての考えは、「聖め」と同様に形成されてなく、不完全なものでした。
したがって、一般的には私は「聖め」無しに生きており、そしてもう一つの「聖め」を明らかにしたいと考えていることはとても簡単なことでした。
疑いが襲う時、私は悪魔の誘惑としてこれらのことを扱いました。
もし私が実際に罪を犯していることを明らかに気が付くならば、私は少なくとも、それが心の意図的な過失というよりも私自身の失敗として故意に行ったことではないと私自身を説得させます。
それから、私は神に告白し、隠された欠点が洗われるために祈りました。
しかし、その時16歳で私は士官候補生になりました。
すなわち、救世軍の中で将校職になるための学生です。
オークランド・トレーニング・ギャリソンの中で私が試験を受けている間、私には他のどの時間よりも多くの問題が起きました。
その厳しい規律と強制的とも言えるさまざまな感触のある若者たちの親密な交わりは、霊的な交わりの段階としては私の過敏な気質の一つとして非常につらいものでした。
私はそこでわずかに聖いと言われる歩みをしただけで、まして私は人に見られたくはありませんでした。
現実には5ヶ月間の最後の2ヶ月は、私はすべて海の上でした。
そして私の低い状態のために、すべてのことにおいて、あえて聖別された事を口にすることはありませんでした。
いままでの主からの良き楽しい経験の後で、私は永遠に失われただろうかと堕落した考えに悩まされました。
二回、私はすべての者が寝ている時、建物からそっと出て行き、寂しい場所に行き、そこで私は祈って夜を明かしました。
そして、神に「私から聖霊を取りあげないでください。すべての生まれつきの罪から完全に私を清めてください」と懇願しました。
毎回、私は「信仰によってそれを主張し」2、3週間の間は明るくいました。
しかし、私は当然のごとくに再び疑い始め、暗くなり、言葉においても考えにおいても、罪を犯していることに気が付き、時には罪深い行動を中で、恐ろしいほどの良心の咎めに至りました。
ついに私は大尉に任命され、私は再び夜を祈って過ごしました。
それは私自身が純粋に聖く歩まなければ、他の者を教え、導き出すことができないと感じたからです。
長い間、私が目的としていた制約から自由にされたという考えが思い浮かびました。
完全に内なる人が洗われ、確かに完成され、そしていま、私がいままですべての肉の欲が取り除かれたというならば、それを信じることはとても簡単なことでした。
この一つの出来事はこのような問題にあって、いとも簡単に自分自身は騙してしまいます!
この時から、私はいままでより祝福された、第二の祝福をよりまじめに主張するようになり、そして、何度も、私は親愛なる母を祝福するために、神が私を与えたということを神に祈りました。
そして、母は息子と同じくらい聖く歩むようになりました。
私が生まれる前から敬虔な母はキリストを知っていました。
そして、母は献身的にクリスチャンとしての人生を送りますが、自分の心をあまりにもよく知っていたので、罪無きことについて話すことができなかったのです。
一年間大尉として、それからキャプテンとして、私は徹底的に仕事を楽しみました。
そして、私は今の状態からしりごみするのを恐れ、喜んで困難と欠乏に窮乏に耐えました。
私は大抵、神と人の完全な愛の教理に生きているという確信を持っていました。
そして、そのために私の持つより安全な最終的な救いが生じているのです。
(注意書き:私が「キャプテン」の持つ意味を軍隊、または、任務の義務経験のない者のために説明したのです。大尉とは「キャプテン」を支える者です。
私が今振り返ってみると、なんとひどい失敗を私は見つけることが出来るでしょうか!---なんと意思を抑えることが出来ないのでしょうか!---なんと軽く、軽薄なのでしょうか!---なんと神のことばの目的がわからない者であり、なんと自己満足に浸っているものでしょうか!
ああ、人間の最高の地所はすべてが見せかけです。)
PART2 教義
訳者注)ここでは著者が使う多くの英単語の意味が問題になってきます。 |
聖書の中で教えられている聖別(sanctification)に関する私たちの質問を始めるにあたって、著者と読者がその言葉の意味をどのように理解しているかを、より明確にすることが、最初に大切なことです。
もし、著者の心の中で考えている表現を使ったとしても、読者がその文章を見て、もし、意味が間違えて読むのなら、多少なり全体的に違うことを理解してしまうからです。
その結果、同じ結論に達しないことが予想されます。
私は最初に提案します。
神学者と「聖め」(holiness)を教える者に私たちに与えられた言葉を明確に定義しましょう。
そして、それから聖書に立ち返り、これらの定義について確認しましょう。
例:汚さ、そして罪深さが何であるかということの前に、教理的理解において、聖別を、真実に、そして、完全に「聖い」とは何であるかを理解しましょう。
それはキリストの愛によって義とされた魂の上にある神の恵みの前進的な働きです。
クリスチャンはその人の堕落した性質から徐々に洗われ、ついに「大きな喜びとともに、キリストの栄光が現わされる前に完全な者」として現れます。
「これは一般的なプロテスタントの神学者によって支持される見方で正しい声明であり、また、それは「W.
W.ランド氏」よって編集され、アメリカン・トラクト・ソシエティーによって出版された聖書辞書から取られた声明です。
一般の書店売られている辞書においても、たいてい一致しており、「聖別(sanctification)は神の恵みの行為で、よって人間の愛情は清められ、高められます。」と書かれています。
このことは私たちに与えられた定義と実際に一致しています。
「聖め」(holiness)を主張する著者は非常に明確に述べています。
そして、たいてい彼らは「義とされる」ということと「聖別(sanctification)」ということの間に違いがあるということを仮定しており、そのことに注意をするころを主張しています。
私はこの「義とされる」ということと「聖別(sanctification)」されるということに関して、それを主張する者たちの根拠が何であるかを引用します。
しかし、私が過去にたびたびそのことを教えられたというよりも、わたしの使っているこの言葉を使ってそれを教えましょう。
このための私は、彼らの間でこの問題が考えられ、こjの問題に関して私が「潔白」かどうかではなく、このページを読むすべての「聖め」を告白する信仰告白者が自分自身を裁くとにより、それに気付くことを願いたいのです
彼らのいう「聖め」とは次の通りです。
義とされるその時、罪人がキリストのところへ行くとき、罪人は義とされ、罪深い習慣から自由にされることにより、恵みの働きがあると考えられています。
しかし、単に義とされただけでは、魂の中に悪い原則、「悪い木、もしくは苦い根」が残ります。
もし、クリスチャンがこの出来心に従って、故意に罪を犯すならば、その者は義とされることが取り消されてしまします。
したがって、歩みにおいて堕落する可能性は非常に少なくなるかも知れませんが、除外されるということは好ましいことになります。
この罪深い根を絶滅させることが聖別になるというのです。
それゆえに、キリストの血によって、生まれつきのあらゆる罪のゆえの性質からきれいにされ(完全な献身が作られた時、信仰によって)、聖霊の火によって精錬された者が、すべてを犠牲の祭壇に置いた時、すべて無価値なもの(罪)を焼き尽くすという考えです。
このことが本当に、真実の聖別なのでしょうか?
これは義とされたことに続く、恵みによる第二の働きでしょうか?
そして、義とされること無しに失われる可能性があるのでしょうか!
正しい定義付けをするならば、私は正しいもっとも根本的な「聖め(holiness)」の初歩的教義によって確認できると思います。
すぐに私たちはこれらのことについて、聖書は本当にこのことを述べられているかを確認すべきです。
私は最初に新旧約聖書の多くの節を見ることを決めました。
そして、これらのうちどれかを見るのなら、いずれも良い感覚と健全な教義を作る定義付けがなされます。
私は(holiness)と聖別(sanctification)が同等の言葉であることに述べているのです。
この両方の言葉は一つのギリシャ語の単語、もしくはヘブル語の名詞から翻訳されています。
12の良く知られた例は、私たちの聖書の中でどのような言葉が使われているか十分に示すことが出来ます。
(1)命とは関係ない目的(律法)において聖別は、この言葉の中で明確に教えられています。
「あなたは全焼のいけにえの祭壇と、そのすべての用具に油をそそぎ、その祭壇を聖別する。
祭壇は最も聖なるものとなる。」
新改訳聖書 出エジプト記 40章10〜11節
私たちはこれらの用具(入れ物)の性質に何か変化が起きたと想像するでしょうか?
また、これらの用具の外に何か悪い要因でもあったでしょうか?
再び、私たちは出エジプト記の19章23節を読んでみましょう。
「モーセは主に申し上げた。「民はシナイ山に登ることはできません。あなたが私たちを戒められて、『山の回りに境を設け、それを聖なる地とせよ。』と仰せられたからです。」」
新改訳聖書 出エジプト記 19章23節
神が律法を与えた時、山に何か変わった効果が生じたでしょうか?
読者のみなさん、正しく、正直に答えてください。
あなたはここで少なくとも神学、もしくは「聖め」(holiness)という定義付けが私たちのいう聖別(sanctify、もしくはsanctification)の意味を含んでいないということを認めなければなりません。
私たちが12のすべての証言を聞いた時、それは私たちがその後で見ることが何を行うべきかを意味しています。
(2)そこにどんな神の力による働きがあろうとも、また彼らの中にどんな恵みの御業が起きようとも、それらのことと関係なく、人々は自分自身を聖別することができます。
「主に近づく祭司たちもまた、その身をきよめなければならない。主が彼らに怒りを発しないために。」
新改訳聖書 出エジプト記 19章22節
祭司たちの性質が悪から善に変わって、もしくは彼ら自身の中から悪の原則を全滅させた時に、彼らは始めて祭司になったのでしょうか?
もう一度、そのことは読者の判断する範囲となります。
私は証拠を挙げます。
彼らは陪審員になるにちがいありません。
(3)人は他の者を聖別することが出来ました。
「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。」
新改訳聖書 出エジプト記 13章2節
「主はモーセに仰せられた。「あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。」
新改訳聖書 出エジプト記 19章10節
何が内面を変え、洗うのでしょうか?
それはモーセが、長子、もしくはイスラエルの人々全体に関することを実行移すことでした。
それはモーセが、のちの章がそのことを詳しく証言していますが、イスラエルの生まれつきの罪を取り除かなかったことです。
(4)人は邪悪な行為をするために自分自身を聖別することが出来ます。
「おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たちはみな、絶ち滅ぼされる。
――主の御告げ。」
新改訳聖書 イザヤ書 66章17節
これはなんとも恐ろしい聖別です。
そして、ここで身をきよめるという考えはなんと理にかなわないことでしょうか!
(5)子は父によって聖別にされました。
「『わたしは神の子である。』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している。』と言うのですか。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 10章36節
彼らは冒涜することを言いました。(当然だが、これはイエスが言ったのではない。)
そして、同じような悪がここにあります。
ある者たちが「生まれつきの性質が取り除かれ、もしくは道理にかなわずに変えられた結果、キリストのために聖別した」と言うでしょう。
それが同じようにキリストに対する冒涜です。
イエスはいままでも「聖なるものであり、...神の子と呼ばれています。」
彼らは聖くされることを望んでいません。
不信仰にも、キリストの存在においても罪の汚れをあえて教えています。
彼らは取り除かれる必要があります。
しかし、彼らの理由ゆえに彼らは交わりを拒否し、彼らの教えは聖霊の教えられたすべてクリスチャンによって嫌われています
いまだに、ユダがすべてのクリスチャンに書いているように、イエスは聖い方であり、父なる神によって聖別された方です。
私たちはその表現の意味することがキリストに関することと思うでしょうか?
それともまったく別に聖徒に関してでしょうか?
(6)主イエスは自分自身を聖別しました。
「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 17章19節
もし、与えられた定義の一方が上記のことに立つならば、その時、御父によってイエスが聖別された事実が私たちのために何を引き起こすのでしょうか?
まだ、この後にイエス自身が聖別されることがあるのでしょうか?
ここに神学と、完全主義者、そして聖書の間に大きないくつかの食い違いがあり、このことは難しいこととなるのではないでしょうか?
(7)不信者は時々聖別されています。
「なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙 7章14節
ここでは救われていないけれども、クリスチャンの生活におけるパートナーは聖別されていると言われます。
この時、このような者は生まれつきの罪から自由にされているのか、もしくはだんだんと性質が変えられた経験をしているのでしょうか?
もし、この考えがとてもばかばかしいものならば、この聖別は今考えている聖別の意味ではありません。
(8)肉に属しているクリスチャンは聖別されています。
「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、
コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。」
新改訳聖書 コリント人への手紙 1章1〜2節
「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
......あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一 3章1、3節
ここでいう肉に属している(ような)者は、今でも生まれつきの罪から自由になっていないのでしょうか?
ありえません。
それにもかかわらず、1章において聖別されたと宣言され、3章においては肉に属すると言われています。
論理的に、体系的に考えてゆくのならば、後の章の分類付けと、前者に述べられたものとは異なるとは理解することはできないでしょう。
(9)私たちは聖別されることを追い求めるように語られています。
「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 12章14節
何を理解すれば人の性質は変えられるのでしょうか?
もしくはどのくらい追いかければ、肉的な思いが取り除かれるのでしょうか?
私は私の前の状態、使徒パウロが私たちにピリピ人への手紙3章13〜16節の中で語っているように、私はいまだに完全には達成されていないところを追いかけているのです。
(10)クリスチャンは神を聖別する(sanctify-新改訳聖書(あがめる))と言っています。
「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい(聖別しなさい)。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」
新改訳聖書 ペテロ第一の手紙 3章15節
もし、私たちが聖別という言葉が、「私たちの内部を清くする」ことを、もしくは「不潔で邪悪なことから聖いもの」を作ることを意味するのなら、このような勧めを私たちはどのように理解すればよいのでしょうか?
このような定義がもっとも野蛮な突飛な行為、そして最もひどいに不合理(つまり、神は聖くないから、聖くしようということ)に導くのは明白ではないのでしょうか?
(11)人は聖別(sanctification)されることを述べられた後で聖く(holy)されています。
「イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、
父なる神の予知に従い、御霊の「聖め」(sanctification)によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。.....
あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。
それは、わたしが聖(holy)であるから、あなたがたも、聖(holy)でなければならない。」と書いてあるからです。」
新改訳聖書 ペテロ第一の手紙 1章1、2、15,16節
ここで書いてあることは一致していないように思われます。
もし、聖別(sanctification)と聖い(holiness)ことが内部的な働きを述べているのなら、ゆえに生まれつきの罪はそのことにより根絶されているはずです。
彼らがすでに全く聖別されてしまったという知識の後で、その聖別は聖さを強く勧めています。
私たちはその知識をすでに理解しているはずなので、このような勧めを必要としません。
(12)聖別はそれでも永遠に全うされると宣言されています。
「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 10章14節
完全主義者の中で誰が、納得のいくようにこのことを説明することができるのでしょうか?
何も、これら義とされた、聖別された、最も素晴らしい体験をした人々が最後に信仰から離れ、失う可能性の教理ほど、教える者たちの間で常識となっていることはありません。
ここではいまだに永遠に完成されていない人について述べているのです。
従って、彼らが失われること、もしくはいままで彼らが一度目的としていた聖別を失うようなことは決してありえません。
訳者注)「全うされた」とは過去形です。
注意深くこれらの12の証言を聞いた後で、私は読者に尋ねます。
あなたはこれらのいろいろな「聖別」という言葉に、クリスチャンの中にある性質が少しでも変えられるということのヒントになること、もしくはそこに悪が取り除かれるという意味が含まれているという使い方があると、判断することができますか?
この言葉にまったく違う意味が含まれているのは明白です。
私は明らかに正直にどんな考えをもっても、この言葉に全く違う意味が含まれているのは明白であると認めるしかないと判断できるのです。
そして、私はそれが何を意味することか、指摘することを容易なことです。
すべての神学が増大し、多くの疑問点が増えました。
しかし、私たちは開放されたのです。
そのままの動詞の「聖別される(to sanctify)の意味、そして名詞の「聖別(sanctification)」は文字通り「分離」を意味しています。
この単純な鍵は私たちの考えていた、矛盾を感じると思われたことがすべて一致に至り、すべての節の鍵を開けるでしょう。
(1)シナイ山にて律法が与えられるためにヤハゥエのために引き離され(聖別され)、幕屋で使われていた入れ物は神を礼拝するために分離(聖別)されました。
(2)イスラエルの祭司は彼ら自身の汚れから、彼ら自身を分離(聖別)しました。
(3)モーセは人々を不潔から分離(聖別)し、ヤハゥエに捧げられるために初子は引き離され(聖別され)ました。
(4)これに反して、イザヤの時代の背教者は、主から見て邪悪な働きのために彼ら自身を引き離(聖別)しました。
(5)(6)父は御子が失われた者の救い主になるために御子から引き離れ(聖別し)ました。
それは御子の地上の生涯の最後に、御子の働きは完成されるためです。
主イエスキリストは彼自身を引き離し(聖め別ち)、栄光に上がりました。
それはこのように、彼らが贖い主を拒み、十字架に掛けた世から離れようとする(聖別されようとする)神の人々の心の目的となるためでした。
(7)信じない妻、もしくは、夫、もし救われてはいるが神から離れて(聖別)されている生活におけるパートナーがいるのなら、その者はその特権と責任において、神との関係の外に置かれます。
そして、子供は同様に健全な真実の下に入って来ない者から引き離(聖別)されています。
(8)すべてのクリスチャンが、彼らの肉体、もしくは霊は、たとえ実際の状態が何であろうとも、イエスキリストにあって神のために引き離(聖別)されます。
そして、この泉からキリストのために生きる責任が湧き出ます。
この分離は日々続くものです。クリスチャンはますますキリストと似た者にされようと努めます。
(9)ある人はクリスチャンであることを告白していても聖別されつづけずに主を見ようとはしません。
なぜならば彼らは真実ではなく、神の命を持っていません。
(10)もし私たちの証言が神の栄光のために大切なものであるならば、私たちの心の中で主である神を、離れて置かれ(聖別し)なければなりません。
(11)ある者はキリストにあって神に離れて置か(聖別さ)れ、野蛮な突飛な行為、そして最もひどいに不合理から実際に分離(聖別)されています。
(12)そして、最後に神の側にあるすべて引き離(聖別)された者が、良心に関してはキリストの十字架の上で一つのささげ物によって永遠に完成されました。
彼らは最愛の人にあって受け入れられていて、永遠に連結されているのです。
鍵を得てください。あらゆる困難は消えるのです。
クリスチャン感覚で聖別(Sanctification)は二重の意味があります。
絶対的(地位)であることと、向上的(歩み)であることです。
聖霊による聖別(Sanctification);内部的聖別
前の章を閉じる際に、私は聖別が絶対的(地位)であることと、向上的(歩み)であると述べました。
絶対的な聖別はキリストの十字架の上で一つの捧げ物によるので、最初に扱われることです。
向上的な聖別は二つの方法を見ることができます。
それは「御言葉」と「聖霊」により、この方法を用いるために、何か他の助けがいるかもしれません。
聖霊による聖別は内部的です。
それはクリスチャンゆえの経験です。
しかし、それはキリストの血による永遠の聖別であり、外から経験することではなく、立場(地位)です。
それは、すべてのクリスチャンによって認められることであり、、永遠の憐れみの中にある新しい立場と関係しています?
それは変わらない、不変の地位です。
それは神の判断によると、冒涜するとは認められていません。
神の言葉による聖別はクリスチャンの外側の歩みと実際の方法について述べています。
それは聖霊による聖別のはっきりとした結果であり、生涯を通じて次第に前進するものです。
私は前に言及した最初の重要な解釈を述べている、四福音書と一緒に読むことを願っています。
教理的には、恐らく最初の血による聖別を取り上げるようになるでしょう。
しかし、経験に基づく聖霊の働きは他の知識に先行しています。
コリント人への手紙第一 6章9〜10節において神の国を受け継ぐことのない罪深い人の多くの性質について私たちは読みました。
「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一 6章9〜10節
そして、その後すぐに11節では付け加えられています。
「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一 6章11節
私たちはテサロニケ人への手紙第二 2章13節を再び読んで見ましょう。
「しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による「聖め」と、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第二 2章13節
この節はペテロの手紙第一1章2節と密接に関係しています。
「父なる神の予知に従い、御霊の「聖め」によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」
新改訳聖書 ペテロの手紙第一 1章2節
四番目にローマ人への手紙15章16節をあげます。
「 それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」
新改訳聖書 ローマ人への手紙15章16節
これらのすべての節が、聖霊による聖別を教えている真理の意味していることを、正しく理解するためにもっとも重要なことなのです。
人間の魂の中にある、最初に始める神の働きがは、聖霊に取り扱われる聖別であるということに気が付きます。
そして、イエスキリストの血が振りかけられたという信仰を通して「義とされた」という完全な知識に導かれるます。
「義とされる」ということの後に起こる「第二の祝福」は決してありえないことであり、「義とされる」という働きを離れては誰も救われてはいません。
これは学ぼうとしている読者にとっては簡単なことでしょうが、私は引用したそれぞれの個所を注意深く分析したいと思っています。
コリント人への手紙では人間の共通した罪によって特徴付けられています。
これらはエペソ人への手紙2章1〜5節に似ています。
「 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙2章2節
しかし大きな変化が彼らの中で起こりました。
以前の感情と欲求は、新しい聖い思いによって破棄されました。
邪悪な命はすでに、神の性質に似た者へと入れ替えられたのです。
この変化を何に働かせようとするのですか?
それを満たすことを教えるために、3つの表現が使われています。
そして、彼らは主イエスキリストと、そして私たちの神の聖霊の御名によって「洗い、聖別し、義」とされています。
ここで主観と目的語がお互いに密接に関係しており、主イエスの働きと性質は福音がはっきりと示されています。
イエスだけが罪人のための救い主でした。
しかし、人間への救いを適応してゆくのなら、どうしても主観的な見方になってしまいます。
人間は罪のために汚れ、「洗われなければ」ならないのです。
エペソ人への手紙 5章26節で言われている「みことばにより、水の洗いをもって」と言う言葉は明らかにそのことを述べています。
人間は神から離れ、闇の中を歩んでいます。
しかし、神の言葉が良心の上に置かれ、この愚かなそして、彼らの命の邪悪さを見て目をさますのです。
これは私が後に、より完全に取り扱うことになりますが、クリスチャンの命(生活)を通して進む道徳的な「洗い」の始まりなのです。
さて、注意深く見ていると、同じ神の言葉がすべての人に読まれても、同じ効果がすべての人に現われません。
キリストとキリストの十字架は100人のまだ受け入れていない人たちに語られます。
99人が触れることもなく去り、一人の残った者が自分の上に覆いかぶさった罪を心打ち砕かれ、神にある平和を探します。
なぜ、そこに違いがあったのでしょう?
聖霊は御言葉に力を与え、御言葉は真実に改心したすべての者の良心を耕すのです。
そして、その者はかつて所属していた無関心な集まりから分離させられ、神の働きの中へ置かれます。
聖霊が働かせた聖別にここであります。
その者が神との真実の平和を見つける前に時間があるかもしれませんが、しかし、彼は決して反抗した軽率な罪人ではありませんでした。
聖霊は、救いのためにその者を捕まえたのです。
これは私たちの聖書の最初の節の中(創世記)で美しく示されています。
この世界は創世記1章に完全に造られました(イザヤ45章18節参照)。
2章においては、何ともひどい状態の中に堕落していました。
「地は形がなく、何もなく」、やみがその表面を覆っていました。
それは、神から離れた堕落した人間の姿を見事に描いているのではないでしょうか!
その人の魂の無秩序な道徳感、暗い理解力、汚れた思いと良心、彼は罪過と罪の中でまさしく死んだ行いをしていたのです。
「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあった」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙 1章21節
この破滅された地球はこれらことをうまく表現しています。
しかし、神は地球を作り直します。
それは決められた時代の間、人間のために住むのに適した場所となります。
神はどのようにそこで行動したのでしょうか?
最初の偉大な代行者は聖霊です。そして2番目に御言葉です。
「神の霊は水の上を動いていた。(もしくは「たちこめていた」)」
新改訳聖書 創世記 1章2節
それから力ある言葉は語られました。
「神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。」
新改訳聖書 創世記 1章3節
そこで堕落した人間の救いの中に、聖霊と御言葉は行動しなければなりません。
たちこめている時間は最初に来ました。
聖霊がすぐにメッセージを通して宣言されました。
神は人間の目をさまさせ、キリストを知り、罪の力から解放させ、裁きから救われたいという欲望を人間に与えました。
このたちこめた時代、もしくはそれらの結果、心が福音に満たされ福音へと心が開かれるのです。
そして、信じるに至り、闇は散らされ、光が輝くのです。
「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第二 4章6節
このように、もはや私たちは夜の子でも、闇の子でもなく、昼間の子供なのです。
私たちはかつて闇の者でした。
でも今は、私たちは主にあって光となりました。
テサロニケ人への手紙第二2章に書かれていることに注意してください。
「神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第二 2章13節
これは神の働きでしょうか?
このことは、闇が散らされ、主イエスの名による救いの知識の光の中に至る命の言葉なのです。
その救いは選びです。しかしそれは「御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受ける」ことです
新改訳聖書 ペテロの手紙第二 1章2節
イエスの注ぎだされた血についての知識へと聖霊によって至らせられる時、義とされたという知識は今、私のものとなりました。
その信仰とは、キリストの尊い血があらゆる汚れから私の魂を洗ってくださることを理解することです。
そして、このように平和を与えます。
聖霊によって私はここに連れて来られ、キリストが従ったように私も服従の人生が始まりました。
このことは聖霊の働きの聖別による現実的な結果です。
そうです。義とされるということは自分自身の状態ではないということを理解することが重要です。
もちろん魂の中の働きでもありません。
しかし、それは私のために私の外見、私の気分や感覚から離れて行われる、外からの働きなのです。
別の言い方をすると、私の立っている立場であり、私の経験ではありません。
この二つの違いはこのように説明することができるでしょう。
二人の人が犯罪を犯し、同じ法廷に連れて来られたとします。
完全な取調べが行われ、席についた裁判官は二人とも無罪(義)とします。
彼らは自由です。
ある人は裁判の結果を聞いて、喜びに満たされます。
しかし、彼は自分を訴えるの評決に不安を感じ、その結果を恐れていましたが、今は幸せなのです。
彼が自由にされたことを知ったからです。
もう一人の男はより心配になり、暗くなってゆきました。
彼は「罪がない」という宣言を十分に理解できずに混乱してしまいました。
彼は単に最後の言葉だけを聞いており、驚きで満ちました。
彼は自分の前にそびえている忌まわしい刑務所を思いましたが、自分が無実であることを知りました。
彼は自分に起きた真実な状態をどうにか理解し、喜びに満たされるまで、彼は希望のない言葉を口にしているのです。
今、どちらの人が理解するまで、もしくは経験するまでの間、現実に義とされたということを得ていますか?
聞いて、信じた人は幸いです。
判決を誤解した人は不幸でした。
それでも二人とも同様に義とされたのです。
義とされたということは二人の中に働く働きではなく、彼らが望んでいたのは裁判官の判決でした。
そして、これは聖書が使われているか、もしくはすべての命の問題であるかは関係なく、義とされたということにあるのです。
訳者注)もちろん、このことは聖書が使われることによって保障されています。
彼らが、彼らを訴える訴えを十字架の上に付けた主イエスを信じる時、その不信仰は神に義とされ、開放されます。
クリスチャンの魂の状態とこの裁判上の行為を混同することは、ただ混乱させるだけです。
一人が「私は義とされたと感じていません!」というかもしれません。
義とされたということは感覚ということとは関係がありません。
その問題とは、神が愛する御子を十字架の上であなたの代わりに満足されたことを信じることです。
そして、それはあなたがあなたの個人的な救い主として、あなたの身代わりとしてイエスを受け取ることです。
もし、信じるなら、神はあなたを義にしたと言い、それはすでに終わったことなのです。
神はご自分の言葉を言い直すことがありません。
「福音の宣言を信じて持つ魂は、神の平安を持つのです。」
神とともに歩むのなら、そこには楽しみと喜びがあり、実際に罪に対する勝利を味わうのです。
しかし、これは地位です。現在、そこに立つことではありません。
聖霊は、神の言われるイエスキリストの流された血潮についての信仰を通して義とされたという知識に導かれた始めのときに、すぐに信者を、新しい命の力、そしてこのように日々の現実の聖め別された歩みへと聖別し、今はすべてのクリスチャンの上に留まっているのです。
この方法は哀れな外国人、すべての異教徒、約束の契約の外にあるよそ者である異邦人に捧げられているのです。
彼らは聖霊によって聖別され、神に受け入れられているのです。
その者は罪、義、裁きの説得力のあるメッセージを聞くことによって、もしくは和解を求める伝道によって、真実の心を開き、神の御子にある個人的な信仰へと導かれたのです。
私は注意しながらも私の後を追ってきた何人かの者たちに、少なくとも聖別が「第二の祝福」であると間違った解釈から離れるように教えなければならないと思いました。
それは反対に、魂にある聖霊の働きによって始められることです。
クリスチャンの命は完全へと進み、主の来られる再臨の時の完成されるからです。
その時、救われた者は神の栄光にあって、神の面前で完全無欠な罪なき体が与えられます。
そして、ペテロはクリスチャンが聖霊によって聖別されたことを書いたことを彼らに述べた後、とても適切に、あなた方を救った方が聖いようにあなた方も聖く歩むことを、そして世にあってキリストを表現することを強く勧めています。
さらにパウロはテサロニケへの手紙で聖別を確認した後、テサロニケの人たちが完全に聖別されるように祈りました。
それは聖霊による最初の聖別が完成しているのなら、矛盾していることです。
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一 5章23〜24節
「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。」
新改訳聖書 伝道者の書 3章14節
「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙 1章6節
「第二の祝福」という単語について、聖書からの引用を要求される時、完全主義者は一般的にコリント人への手紙第一を引用してくるでしょう。
そこではパウロがコリント人に書いています。(その者はパウロの手紙で何箇所かで宣言されているように聖別されました。)
そして言っています。
「この確信をもって、私は次のような計画を立てました。
まず初めにあなたがたのところへ行くことによって、あなたがたが恵みを二度受けられるようにしようとしたのです。」
その欄外を読むと「第二の祝福(a second blessing)」と書いてあります。
訳者注)私のところに製本化されたKJV訳の聖書がないためわかりませんが、このように書いてあるそうです。
この簡単な表現から驚くべき仕組みは推論されているのです。
コリントにパウロが最初に訪問した結果、義とされたということが多く教えられました。
しかし、肉の思いが彼らの中に残ったので、パウロは最初の手紙で彼らを咎め、いろいろ方法でそれを明らかにしました。
今パウロは、再び彼らの所に行くことを望んでいます。
この時、彼は福音について多くを語ることをせずに、いくつか聖い集まりを持つことを、そして彼らが聖別を得ていることを語っています。
それは確かに独自な巧妙な理論です。
しかし、そのことは、聖書を学ぶ時に、すべての者が堕落したということを基礎にしています。
それは第一の手紙にある肉にある聖徒が、すでにイエスキリストにあって聖別されたことを、聖書から学ぶ学生がそれを認める時、全ては地に落ちたのです。(コリント人への手紙第一 2章12節)
それは神の霊によって受け取ったのです。(コリント人への手紙第一 2章12節)
聖霊によって内住しています。(コリント人への手紙第一 3章16節)
そして、私たちはある期間を過ぎてそのことに気づきます。
「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」(コリント人への手紙第一 6章11節)
その時、パウロが彼らのために求めている第二の祝福とは何だったのでしょうか?
最初は、それが第二の祝福と言えるものではありませんでしたが、それは本当の意味での第二の祝福となったのです。
彼らはパウロの口から学び、神の真実をパウロの方法にてはっきりと見たのです。
ゆえに、彼らは最初の機会に彼らの中で行われたパウロの奉仕によって祝福されたのです。
羊飼いの下にある真実な心のように、パウロは再び彼らを訪問することを切望しています。
かつてパウロが彼らの中で奉仕をしました。
それは彼らが二度目に祝福、もしくは恩恵を受けとるようになるためでした。
もし、自分の心が十分に教えられていないために迷い、学ぶことではなく、聖書の中にある神の考えを読みように導かれているのなら、何よりもそれは単純なことだったのでしょうか?
彼らが改心した瞬間から、信じるものは「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ1章3節)」そして、私たちがすでに得ている良きものへと私たちを導くために聖霊が与えられているのです。
「すべては、あなたがたのものです。」とは彼らの考えでいう完全な人には書かれていません。
それはまさしくコリント人に書かれたと私たちは考えています。
しかも、使徒パウロを通して二度目の恩恵を受け取る前に書かれているのです。
キリストの血による聖別:その永遠性
ヘブル人への手紙の大きなテーマは聖別の変わらぬ立場、もしくは絶対だという教えです。
それは、現在、聖霊によって魂の中で働く働きではなく、彼がカルバリの十字架の上で罪を片づけるために、自分自身を捧げた、神の御子によって達成された、驚くべき御業の栄光の結果なのです。
主イエス・キリストと永続的に結びついたのです。
それは「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです」と書いてあるからです。
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 2章11節
それはコリント人への手紙第一1章30節と一致しています。
「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一 1章30節
それは「神がその愛する方によって私たちに与えてくださった」のです。
新改訳聖書 エペソ人への手紙 1章6節
「私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 4章17節
これは私たちの状態ではありません。
クリスチャンは今まで現実にまったく主イエスと同じような者であったことはありません。
最も高い最高の状態であってもここまで届いたことはありません。
しかし、私たちの立っている(我々の新しい立場)として、私たちは神によって「キリストと同じような者」であると思って(勘定して)いるのです。
これはすべて私たちの救い主の血が流された、そして血が注ぎだされたことを基礎にしているのです。
「ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 13章12節
私たちが罪から洗われ、神の元へと引き離される手段が他にはなかったのです。
手紙の主な論争点は、8章から10章の中で充分に展開され、そこでは二つの契約が比較されています。
古い契約は、人に要求している「完全な服従」は決して得ることはありませんでした。
それはその要求に答える力が人間の中にはないからです。
新しい契約は別の者の働きを通して、すべての祝福を受けることを保障しています。
そして、このような恵みの目的の一部分として服従という願望が湧き上がる知識へと導かれるのです。
そして、肉の特徴である儀式はそれと関係していました。
それは来ようとしている善きものへの前触れとなったのです。
それは私たちが今、この喜びへと入れられたという特権に預かる、すばらしい祝福です。
しかし、幕屋においては、神は罪深い人から離れて幕屋の中に閉じこもり、神は最も聖い場所に住まわれました。
人間は追い出されたのです。
毎年、一度だけ代表された人間、大祭司だけが神に会うためにはいりました。
それは「決して、血を携えずにはいるようなことはありません」と書いてある通りです。
しかし、律法の下にあって捧げられる、すべての犠牲は一つの罪を取り去ることはできなかったのです。
あるいは「それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません」と書いてある通りです。
ヘブル人への手紙でいう完全とは、肉の特徴、もしくは経験の完全性ではなく、良心としての完全性であることに気づくことです。
ですから、この偉大なる問題が取り上げられているのです。
汚された良心を持った汚染された罪人に、何をすることができるでしょうか?
その罪人は責める事のない良心を手に入れました。
しかし、今は神に近づくことを妨げられてはいません。
雄牛の、そしてヤギの血では神に近づくことはできず、律法の働きはとても貴重な恩恵を得ることはできません。
それはイスラエルの歴史においてはっきりと証明されていることで、繰り返される犠牲によって証明されています。
犠牲が繰り返されてもその良心を取り除くほど十分なものは、いまだに捧げられていないのです。
「もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 10章2節
少しでも「聖くされた」と告白した者でも、これらの御言葉の意味しているところへ入れられるのです。
わずかでも聖いと告白するのなら、その信仰告白者は、これらの言葉の意味しているところへの入れられるのでしょうか!
「一度は、洗われました!」
「罪の良心はありません!」
このような表現は何を意味しているのでしょうか?
ところで親愛なる読者に言いたいのです。
もし、クリスチャンの常識と言われるものに汚染されていないなら、これらのすべての問題、疑い、そして恐れからこの人たちは自由にされるでしょう。
律法の捧げ物は、罪を贖う為の大きな価値はありません。
このことは十分に証明されるゆえに、贖いは、キリストご自身が聖書の中に書かれている通りに神の御心を行うために来られたのです。
それはイエスが死へ下り、私たちの救いのために血が注ぎだされることを意味し、それを果たすためでした。
「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 10章10節
私たちの聖別と、キリストの一つの捧げ物が、一つにみなされているのに気がつきます。
私たちはその記録と、神が「私たちを聖別して下さった」と宣言してくださったことを信じます。
そこには成長も、進展もありません。
そしてこの中に第二の歩みもありません。
それが偉大なる現実、すべてのクリスチャンにある真実です。
そして、この特徴は永遠に聖別されてしまっているということです。
私たちの偉大なる大祭司がこの御業を完成されたからです。
そして、以下の節が説明しているように、決して繰り返されることがありません。
「 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 10章14節
この御言葉の率直に、もしくはより表現豊かな言葉でしょうか?
驚くべき真実の上に安らぐことをいやいやながら、もしくは恐れるのならば、その人は自分自身がそのことによって疑っていることが示されるのです。
その一つの信じる犠牲は、一回限り効果的に良心を洗います。
イエスキリストの血が注ぎだされたことにより、理解したクリスチャンは邪悪さと汚れから永遠に洗われたという保障の中に今、喜ぶことが出来るのです。
このように、はっきり言える事は良心に関する聖別は永遠に完全なのです。
この簡単な実例は、いまだにこのヘブル人に特有の「良心のきよめ」が表現していることに関して、困難に突き当たっている者たちを助けることが出来るのです。
ある人が他の人に借金をしていて、貸し主は何度も返済してくれるように要求したとしましょう。
それは、その人が分別なく資産を浪費していたからです。
そして、このことを貸し主が知ります。
その後、そのことが知らされた時、その人は悲しくなりました。
彼に借金から逃れたいという願いは起こり、彼は自制します。
彼の良心は不安で汚れています。
しかし、債務者の代わりに他の者が現れ、最も完全な方法にて解決します。
そして、困リ果てた者に全ての領収書を手渡します。
どうしてでしょうか?
なぜでしょうか?
それはかつて彼を悩ましていた問題について、良心は完全に清められたのです。
それは、このような主イエスの働きが、罪人に対する全ての神の義の要求に答えられたということを知ります。
キリストの血によって洗われ、クリスチャンは聖い方の観点において永遠に完全にされ、その働きの価値に従い、神の証言の上に安らいでいるのです。
その人は血によって聖別され、それは永遠に保たれます。
サタンの力から神の元へと立ち返り、彼は永遠に罪が赦されたのです。
そして、それはイエスキリストにある信仰によって聖別された者たちの間に相続されている保障なのです。(使徒による働き26章18節 参照)
しかし、これらの表現はこの章の後ろで使われています。
そして、それはある事を告白し、また別のことを所有していることに気付かない者たちが悩み、困ることになるからです。
このことに関してはっきりするために、節全体を調べることが必要になってきます。
ゆえに、私はすべてを引用し、述べられている表現を強調してみましょう。
「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 10章26〜29節
十字架の上で捧げられた一つの捧げ物によって聖別された者が、キリストの一つの捧げ物によって聖別された人に、認められたという事は、私たちがすでに認めているという所に進んでいるからです。
それはキリストの貴重な血によるのであり、永遠に完全とされています。
しかし、この節の中で、契約の血を認めた結果だということが同様にはっきりしてきます。
それによって、その者は聖くないこと、永遠に失われるということから聖別(分離)されています。
私たちの魂のためにこの真実の力を逃さずに、私たちにすでに明示されている「聖別の地位(理解)」に注意をはらうことは必要なことなのです。
昔のすべてのイスラエルの人々とイスラエルと関係した人々は過越しの夜に、そしてその後の荒野の中に神のために引き離されました。
しかし、このことが彼らの魂の中にある聖霊の働きを意味しなければならない必要は別にありませんでした。
その厳粛な夜、多くの人々は血の注がれた家の中にいなければなりません。
その時、神に本当の信仰を持たない保護されていない初子を打つために現れた滅びの御使いがその場所を過越してゆきました。
彼らは子羊の血によって祝福された場所に置かれ、彼らは多くの聖い特権を分かち合いという地位に置かれました。
彼らはみな「雲の下におり、みな海を通って行きました。
そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受けました。」
新改訳聖書 コリント人への手紙第一 10章1〜2節
すべての者は同じ状態にいました。
すべての者は表面的には同じ祝福に預かっていました。
しかし、荒野はテストの場所であり、すぐに誰が本当に祝福に預かっているか、またはいないかが証明されたのです。
現在、神には、どれが、イスラエルと外面的に近い位置にいると提携するためには特別の国家がないように、
現在、イスラエルに特別な国家を持ちません。
それはイスラエルと外面的に近い位置になろうとして結びつく者が現れないためです。
しかし、神はすべての部族、国語、民族、国民の中から、神の子羊の貴重な血によって、ご自身のために贖われた人々を持っています。
すべての者が告白によって、その者は表面的に血が注がれた集まりの中に入れられ、その理解において、彼らは契約の血によって聖別されているのです。
その血はキリストを信じるすべての集まりのために立っており、その集まりの現実的な本質はキリストの贖いの死を通して救いの宣言がなされたことにあるのです。
したがって、キリストを信じるすべての集まりの置かれた場所は血の注がれた家の中にあるのです。
すべての者は現実に神の前で裁かれ、神の恵みにあって真実に委ね、その家の中に残ります。
もし、誰かが外に出るのなら、彼らが現実に委ねていないことが証明され、このようにその者はすべての型としての捧げ物はキリストから離れているために、罪のために聖別されていないことがわかるのです。
これらのことは厳粛にそのような者に使徒ヨハネが語っています。
「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。」
新改訳聖書 ヨハネの手紙第一 2章19節
これらの者たちの地位状態は聖別(隔離)されました。
それは彼らが魂の中に信仰がいままで無かったので、彼らは出て行き、彼らは恵みの聖霊と、聖くないことを聖別(隔離)する契約の血を軽蔑したのです。
これらの罪は意図的であり、単に立ち上がって歩くことが出来ないということを理解することではありません。
しかし、これらの者たちは、失われた人間のための栄光あるメッセージに通じる者になったあとで、キリスト者であることをまったく放棄し、もしくは信仰を捨ててしまったのです。
しかし、信仰にとどまっているならば、魂は現にキリストの上に安らいでいて、聖別の地位は永遠にあるのです。
私たちは聖別され、そして、切り離すことの出来ないつなぎ目によって、結び合わされているので、より聖別されてゆくのです。
キリスト御自身が彼らに知恵と3つの方法をお与えになりました。
キリストは彼らの義であり、彼らの聖別であり、彼らのための罪の贖いです。
ここに聖さがあります。
ここに確立された義があります。
私たちは神に受け入れられたのです。
私たちは日々、失敗のゆえに謙遜になる必要を通して、「キリストにあって、満ち満ちているのです。」
新改訳聖書 コロサイ人への手紙 2章10節
訳者注)満ちている---prhrw 別訳---成就する。
私たちはキリストにあって成就しているのです。
それは私が実際に聖別を実行することではなく、光の中にいる聖徒たちの間にある地位に付けられた主題であり、私に与えられたものです。
それはキリストが死に、神のために私を贖ったという栄光ある事実なのです。
キリストの血はすべての、もしくはあらゆる罪から私を洗いさりました。
私は今、キリストの中に命を持ち、新しい命は決して罪に結び合わされることはありません。
私はキリストの真実の中にいます。
旧約の時代でさえ、祭司は「主の聖なるもの」という言葉によって、そしてイスラエルの全ての種族の名前は祭司の両肩と心に置かれ、その祭司職に至ったのです。
祭司は聖い場所の中でイスラエルのすべてを贖いました。
祭司は型としてイスラエルを聖別したのです。
もし、祭司が神のために受け入れられているのなら、イスラエルも受け入れられています。
人々は祭司の中に見られました。
そして、私たちの生きている大祭司のために私たちは歌うでしょう。
「私たちのためにキリストが祭司になられ、そこでは聖さが光り輝いています。
私たちのためにキリストの衣は天の汚れなき光よりも輝いています。」
私たちが、今考えているように今は拒んでいるけれど、「聖霊に教えられているクリスチャン」以外の私たちの仲間が、相応する忠実さを持ち、神のために分離された生活をするようになるのです。
神の言葉による聖別:外面的聖別
ヨハネによる福音書17章でキリストの偉大なる大祭司としての祈りの中で、私たちの主は御父によってキリストに与えられた人々のために言っています。
「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
真理によって彼らを聖め別ってください。
あなたのみことばは真理です。
あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書17章 16〜19節
この貴重な節は私たちが外面的にも聖別されるために、実際の聖別というテーマを私たちに紹介しています。
そして、そのことは神の御意思のあらわれとすべて一致していることがわかります。
まず、最初に、私たちがすでに注意を受けている聖霊の聖別にとても関連していることであり、、もし私たちの思いの中に据えられたことを私たちが知るのなら、健全に歩むことができるでしょう。
聖霊は私たちの中に働きます。
その言葉は私たちの中に働きます。
それは私たちの中に働くために用いられている仲介者です。
しかし、私たちの思いが神の働きの始めである私たちの中にある聖霊の聖別と、御言葉を実際に応用した後にある外面的な聖別とを対比する前に、この二つの聖別をはっきりとするために私は二つの解釈を故意に別々に詳しく話しているのです。
新しい誕生は神の家族へ私たちが入れられることです。
しかし、新しく生まれたのにもかかわらず、私たちは多くの出来事のために暗くなるかもしれません。
そして、私たちの当惑した心がはっきりとするために御言葉の光の必要なのです。
しかし、聖霊の聖別を通して私たちはキリストが血を注がれたという事実に至ります。
私たちの罪のためにのみ、キリストが死を贖ったと理解します。
私たちはキリストの血によって聖別され、神の御前にある私たちの新しい地位を認めることができるのです。
それは今、真実な感覚において信仰の歩みを始めることであり、その後、私たちは真実、もしくは私たちの主によって話された神の御言葉によって、日々聖別されてゆく必要を示しているのです。
日々聖別されてゆくということは、無知にも「二回目の恵みの明確な働き」と呼んでいる事ではなく、それはごく自然なことであることが証明されます。
また、「二回目の恵みの明確な働き」がはっきりと矛盾していることであり、命と呼べるものではありません。
私は、神からのみ得られる事のできる日々必要とされている個人的に教えられている場面から先に進むまで、革新的な働きは常に起きるものであり、常に起きなければなりません。
もし、その実際的に理解することによるのならば、聖別がその言葉の通りなら、私がこの言葉を完全に理解するまで、そして、わたしはこの項目以外のことを犯していたので、この解釈によれば私は決して聖別されていません。
そして、そうならば地上には決して真実な場所がありません。
ここで私はこの言葉をよりよく理解し、十分に学びましたが、私は決して満足することはありませんでした。
そして、私は神のみこころから学び、私は私の受け取った光を増し加えるために、そして昨日より今日の方が十分に仕えることができるために、私はすべて矛盾することを自分自身で日々判断することを要求しています。
このように、私は真実によって聖別にされるのです。
この目的のために主は聖別され、もしくはご自身を遠くに置かれました。
主は天に昇り、そこで、私たちの弱さを理解することのできる神とともにおられる私たちの大祭司、そして私たちの罪を理解することのできる父とともにおられる擁護者としての責任を主は所有されたのです。
主は私たちの心の目的を果たすために、今もそこにおられるのです。
私たちは今、忍耐をもって私たちのレースを走ることを要求します。
それはイエスキリストと私たちの中で働く聖霊と私たちの手の中にある御言葉に目を向けることです。
そのことにより、それを私たちの足へのランプ、そして私たちの道への光とするのです。
私たちがそれを評価しているように、私たちはその貴重な真実が聖霊の力の中に、良き物が私たちのために作り出されることによって、私たちを支配されているのです。
私たちは父なる神と私たちの主イエスご自身によって聖別されているのです。
ヨハネによる福音書17章の中でイエスは御父に要請しています。
「真理によって彼らを聖め別ってください。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書17章17節
エペソ人への手紙5章25〜26節で私たちは読みました。
「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
新改訳聖書 エペソ人への手紙5章25〜26節
ここで聖別をする者としてのキリストがあります。
それは、イエスはかつて「わたしと父とは一つです。」と言うことができたからです。
ここで聖別をする者としてのキリストがあります。
それは、イエスはかつて「わたしと父とは一つです。」と言うことができたからです。
ここで、ヨハネによる福音書のように聖別とははっきりと進歩的(革新的)です。
そして、確かにエペソ人への手紙にある水の洗いは、ヨハネによる福音書13章にあることを美しく説明しています。
そこではイエスの永遠にある御子としての交わりを十分に意識して、私たちは私たちの主を持ちます。
主は弟子たちの足を洗うため帯を締め召使の立場を取りました。
足を洗うということは私たちを清くする(洗う)方法を暗示しています。
そして、この個所全体が、イエスが天に上ってからの約束された働きを象徴的に描いているのです。
これら地のしみは、この世の道にそって歩む巡礼者の履いたくつに、簡単に感染します。
イエスはこの汚れたしみから聖徒たちの足を洗って守るのです。
イエスはペテロに言われたように、私たち一人一人に言っています。
「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書13章8節
このペテロに言われた個所にでは、イエスの贖いの働きを基礎に上に、そしてイエスが与えた命の結果として私たちはこのことを得ているののです。
また、この個所では御言葉の洗いによって聖別された者だけの日々の交わりについて語っています。
この場面全体ではイエスのペテロへの言葉「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」によって証明されるたとえです。
新改訳聖書 ヨハネによる福音書13章7節
文字通りの足は---洗われたペテロが知り、理解したことです。
霊的な足は---ペテロの悲しむべき堕落の後に主によって回復された時、彼が学んだ洗いを示してします。
その時、ペテロその御言葉の意味しているところに入れられました。
「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書13章10節
その意味を理解するのは難しいことではありません。
すべてのクリスチャンがかつて「更新との洗い(テトス3章5節)」の中に全身を水浴したのです。
その水浴は決して繰り返すことはありません。
神から生まれた者は決して滅びることはありません。
このようにすべての者は永遠の命を持ち、その結果、永遠の命は決して没収されるものではないのです。
(ヨハネによる福音書10章27〜29節参照)
もし、クリスチャンが失敗をし、罪を犯したとしても、もう一度救われ直す必要はありません。
その意味するところはもう一度水浴することです。
しかし、全身をもう一度水浴する必要ではなく、汚れた足を洗う必要なのです。
イエスは自分の聖徒たちを洗ってきれいにするのです。
(多くの者が今、知っているように、この「水浴」という単語の意味することは完全な水浴を表わし、そして同じ節の後に出てくる「洗う」とは違います。)
訳者注)louw---leloumenov---全身を洗う(完了形分詞)
niptw---niqasyai---(手や足を)洗う(不定詞アオリスト中動)
ですからbaptizw(バプテスマする---浸す)をあらわす言葉ではありません。
また、バプテスマが罪を洗うことを決してあらわしていません。
そのことはクリスチャンに言われていることです。
私たちは一度更新されました。
決してそのことは二度あることではありません。
しかし、毎回私たちが失敗するたびに、私たちは私たち自身を御言葉によって裁く必要があります。
それは私たちが日々得ている御言葉が私たちの歩みに正しい場所を与えるからです。
私たちは汚れから守られ、私たちの主であり、救い主である方との汚れない交わりを楽しむことが可能になり、私たちはこの方法によって洗われるのです。
詩篇作者は尋ねています。
「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。」
そしてその答えは「あなたのことばに従ってそれを守ることです。」
新改訳聖書 詩篇 119編9節
聖書の御言葉を調べる時に、そしてこれらの御言葉に無条件に従うためにどんな必要があるのでしょうか!
それは私たちが真実によって聖別されることなのです。
いまだにこの「第二の祝福」を告白する者の中で何度も無関心な者を見つけることがありますが、これは大変なことなのです。
なんと聖書に無知なのでしょうか!
そして、なんとも空想的ではないでしょうか!
何度も言いますが、これは明白なことなのです。
そして、このことは肉にある「聖め」を告白する者と一対をなしています。
そのことが、世にある生まれつきの罪から完全に自由にされた立場に到達したクリスチャンに可能なことが証明されているように、
テサロニケ人への手紙第一の個所で文脈から離れて、何度も考えられてきたことです。
そのことが、世にある生まれつきの罪から完全に自由にされた立場に到達したクリスチャンに可能なことが証明されているように、
テサロニケ人への手紙第一の4章3節では、文脈から離れてそのようなことが何度も考えられてきたのです。
「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一 4章3節
もし、聖別の意味することが私への神のみこころならば、だれが完全に聖くなるという私の目的を拒むことが出来るでしょうか?
確かに何もありません。
しかし、すでに私たちは、今ある最も初歩的な教科書においても聖別がそのことを意味しないということを知っています。
最初の8節すべてを読むと、完全な段落を作られており、それをあなた自身のこととして見て下さい。
そのテーマは個人的な潔白さです。
その聖別は、体の汚れた習慣から、そして好色から自分が守られる事を語っています。
そのひどい不道徳は偶像崇拝の一部を形成しており、関係しています。
ギリシャ神話は堕落した人間の熱情を神格化しました。
そして、これらのテサロニケのクリスチャンは今「偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるように」なったのです。
新改訳聖書 テサロニケ人への手紙第一 1章9節
それゆえに、新しく改心した聖徒へのこの勧めの必要になりました。
これらの者たちは、恥じ知らすにも、これらすべて汚れた事柄を習慣的におこなう者たちの間に生きていたのです。
それは、生まれつきの罪から自由にされた人に、このことを要求していると考えるべきではありません!
そして、その聖徒は神の宮であるように清い歩みをする性質を持っています。
それは肉の欲によって汚された命によらないのです。
この実際的な聖別のもう一つの解釈は、テモテ第二の手紙2章19〜22節において、私たちの前にもたらせています。
私たちはそれを牧会者の聖別というかも知れません。
それは信仰告白するクリスチャン、そして教会全体中に堕落が入ってきた時の信仰的な信仰者の見方でもあるのです。
神の家が堕落したようにその特徴で見られ、良い物と悪い物がともに混じっているところに大きな建物になってゆくのです。
その問題はもっとも厳粛な重要な問題です。
ところがここで聖書の別の箇所で、神とともに歩く者が神から聖くない者たち、そして良い物と悪い物がともに混じっている多くの集まり、たとえ、それが教会と呼ばれるものにおいて見つけられたとしても、そこから分離するように要求されています。
いまだにその者は「罪なしに歩んでいる」と証言し、多くのメンバーがそこにいます。
その者たちは教会の中で結束し、信者でない者たち、そして告白ではクリスチャンだが、聖くない歩みをし、不健全な信仰を持ち者たち(たびたび他の形を持つ集まり)と交わりを持ちます。
そのようなことのために、細かくこの箇所を調べることは良い事なのです。
使徒は背教が拡大する証拠をテモテに直接、注意しています。
彼は御言葉に反抗して言い争うことを警告しています。(テモテ第一の手紙 2章14節)また、不敬虔、そして俗悪なむだ話(テモテ第一の手紙 2章16節)についても同様です。(二人の人に、ヒメナオとピレトに注意しています。17節)
彼らはクリスチャンの教師として多くの者から認められていたために、何人かの者たちが信仰の破船に会いました。
しかし、次の章に「悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。」書かれているように、これは始まりではありません。
新改訳聖書 テモテ第一の手紙 3章13節
私は今、3章の1節にあることが、順序立てて2章の18節の問題に関連して後に続くのではないかと理解しています。
使徒は神のすべての事柄を抑制する、重大な不正の恐ろしい収穫の始めがヒメナオとピレトの中に見出したのです。
いくつかの方法をもって、これらの人々と進み、彼らを学び、彼らと交わり、彼らを肯定するなら、あなたはすぐに良き物と悪いこととを見分ける能力を失うことになるでしょう。
それは「あなたが、卑しいことではなく、尊いことを言う」ためです。
新改訳聖書 エレミア書 15章19節
しかし、すばやく侵入してくる状態の特徴を十分に描写する前に、はっきりとした教会から悪を洗い出すことが長い間の不可能だと思われていた時に、テモテの手紙では、テモテへの歩むべき道について、励ましの言葉、そして命令が与えられました。
「それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」」
新改訳聖書 テモテ第一の手紙 3章19節
ここに信仰の励ましがあり、ここに信仰の責任があるのです。
信仰は言っています。
「悪をなすままにに高くそびえさせたととしてですか?
無法に富み、そして多くの愛は冷たく塗ったとしても?
背教の中にある地にあって、神のためにあったと思われたものがすべて飲み込まれたとしても?
それにもかかわらず、キリストの宣言のゆえに「神の不動の礎は堅く置かれているのです。」
新改訳聖書 マタイによる福音書 16章18節
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
しかし、それには責任が伴います。
私は悪には進まないと主張するかもしれません?
しかし、今までいい加減な状態で、控えめだとしても、それと交わっているのではないでしょうか?
私にはそれと分離する義務があります。
そのようにするのならば、私は親しい神の子供から、キリストの最愛のしもべであることから、分離しているよう見えるかもしれません。
しかし、彼らが背教した状態を裁かないなら、このことは必要なこととなってきます。
私の責任をはっきりするために、その例が20節に与えられています。
「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。」
新改訳聖書 テモテ第一の手紙 2章20節
その大きな家は今の世にあるキリスト教世界です。
そこには良き物と悪い物があり、救われた者と失われた者、そして聖い事と聖くない事がすべて共に混じって存在しています。
テモテ第一の手紙3章15節の中で私たちの読んだ「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」
これは今まで教会のあるべき姿です。
しかし、何と教会はすぐに理想の祝福から流れ去ってしまい、違う材質からなる、違う目的のために使われる、いろいろな器が見つけられます、偉大な人間の家のようになりました。
それらは食堂の中で使われる金と銀の器であり、台所やその家の中にある他の場所で使われる木や土の器です。
たびたび、汚いことに使われることが許されていますが、良くても価値のあることから離され隠されました。
それも簡単に、傷つけられ、汚されますが、貴重なことに使われる食器となります。
ですから、誰でも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められた物、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」
このたとえ話はここに適用されます。
器は人にたとえられています。
そして、ちょうど価値ある食器が、多くの台所用具とともに汚れたままにされますが、洗われるのを待っているのです。
そして、卑しいことに使われた器から注意深く分けてゆくのです。
それで、テモテは(すべてその他に真実に働く魂)は、それから離れるようにお呼びかけられているのです。
混じった状態から「自分自身をきよめ」、テモテは「尊いことに使われる器」に自分を聖別するのです。
そして、主人に使われるために、すべて良い働きが準備されるのです。
確かにこの聖別は、魂の中に信じたとき始まる聖霊の働きと、もしくは十字架上のキリストの働きの結果とは、大変違うものです。
それは私たちが神のために永遠に移された結果です。
それは実際的な出来事であり、私たちのクリスチャンとしての集まリとしての問題として語っています。
私はより進んだ一歩を成し遂げ、私は容易にすべてを理解するのです。
大きな家の主人は友人を家に連れてきます。
主人は友人に元気づける飲物を出すことを望みます。
主人は銀の器を探しに食器棚に行きますが、そこには何もありません。
僕は呼ばれ、そのことを調べます。
なんと食器は洗われる為に台所の下に、他の家族用に器と別に分けて置かれていたのです。
主人は腹を立てて貴重な一つを片付け、すぐに器を持って帰り、集められた汚い食器から別に分けて洗うのです。
そして、このようにそれは主人が使うために分離され、洗われるのです。
それは神の人として、その者は神の真実と聖さと対立している事柄から自分自身を洗うのです。
その人は聖別され、もしくは分離されています。
そしてこの方法によって「主人にとって有益なもの」となるのです。
もちろん、そのことは最も嫌われている種類のパリサイ人のために言われているのです。
たびたびこのケースにめぐり合います。
「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」
新改訳聖書 テモテ第一の手紙 2章22節
そのようにするのなら、私たちのすべての歩みのために、聖霊の力にあって神の言葉を応用する有益な場所があるでしょう。
そして、そこに私たちは真実な足の洗いを見ることができ、御言葉を通して、私たちは新しく生まれた時に洗われたことを知るのです。
「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」
新改訳聖書 ヨハネによる福音書 15章3節
そのために服従する人に対して、洗いと回復があるゆえに、その御言葉は水にたとえられています。
私は信仰の歩みがすべて詳しく述べられていて、その中に主の教えを見つけます。
主の家族の中に、教会の中に、そして世の中にどのように働くべきか、それは私に示しているのです。
もし、私がそれに従うならば、汚れは私の命から洗い出されます。
それでも、肉体的な汚染から、私の体が水の洗いが適用されているのです。
私は決して、とても高い地位を、もしくは地上での経験することに到達しようとしているのではないのです。
ですから私は正直に言うことができるのです。
私は今、完全に聖別されているのです。
私は自分を洗うために御言葉を切望しているのはありません。
私がこの状態にいる限り、私は「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ(もしくは聖別されていなければ)、だれも主を見ることができません」と言うことが出来るのです。
新改訳聖書 ヘブル人への手紙 12章14節
この一つの節は、正しく理解されているのなら、その根によって完全主義者の神学全体が切られます。
それでもその節は「聖め」の集会において、引用されることがなく、むしろ間違って理解されているのです。
何がここに命じられるのか注意深く見てみましょう。
私たちは二つの事に追い求めることになっています。
すべての人との平和。そして「聖め」。
追い求めない者は決して主を見ることはありません。
しかし、私たちは私たちがすでに達成されたことを追い続けていません。
だれがすべての人との平和に達したのですか?
どのくらい多くの者が詩篇作者とともに叫ぶのでしょうか?
「私は平和を・・、私が話すと、彼らは戦いを望むのだ。」
新改訳聖書 詩篇 120編7節
そして、だれが「聖め」に達していると十分に感じることができるのですか?
そして「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。」と書かれている通りに、あなたでもないし、親しい読者でもないし、私でもありません。
新改訳聖書 ヤコブの手紙 3章2節
しかし、現実のすべての信者は、あらゆる真実な魂の改心、子としてくださる御霊を受けた者すべてが、「聖め」を追い求め、私たちの主イエスキリストが再び来られる時を待ち望みます。
主は「私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」
新改訳聖書 ピリピ人への手紙 3章21節
その時、私たちは私たちのゴールにたどり着くのです。
その時、私たちは絶対的に、永遠に聖くなるのです。
そして、その栄光の光景を使徒がテサロニケ人に書いています。
「悪はどんな悪でも避けなさい。
平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。
主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」
新改訳聖書 テサロニケ人の手紙第一 5章22〜24節
ここに地上のいるすべての者に対しての喜ばしい完成があります。
旅人であり寄留者のように平和と「聖め」を追い求め、このよう神の性質と聖霊の実がはっきりとされるのです。
彼らがこの世の荒野に残っている限り、彼らには日々、水の洗盤に頼ることを必要するでしょうか?
神の御言葉に洗われることが必要でしょうか?
それは昔の祭壇と神聖な場所の間の中廊に立つことです。
すべての者が天の家に集められる時
御言葉の水は汚れから自由にされるために必要ではありません。
天における「聖め」の場面ではもう洗盤はありません。
しかし、王座の前でヨハネは「ガラスの海」を見ました。
それは贖いを基礎としているので水晶のように美しいものです。
彼らは試みと争いを乗り越えてきた者です。
私たちは永遠にガラスの海のような神の御言葉の上に安らぐのです。
もう、聖別を切望しません。
私たちに神の栄光とともに極まる喜びが与えられる時、完全性をも与えられるのです。
「その時、私たちにとって、そこが私たちのいるべき場所なのです。
その時、私たちにとって、それが私たちのすべきことなのです。
その時とは今ではありません。
また、何も今はすることが出来ません。
その時、それが私たちの持つべきものとなるでしょう。」
聖別と関連している項目
ここでいままでの主張をより明白に確証することはしません。
私たちは完全にこのことを述べたからです。
それは聖別が私たちの罪深い性質の撲滅ではなく、言葉の使い方の問題だからです。
そこではそれをはっきりと考えて行く時、それは聖別された魂の場所を得ていることを前提として考えだされた、これらの教えによる働きではありません。
聖別の絶対的、そして実際の解釈を注意深く考えてゆくと、すべての告白が非現実的ではありえません。
このことは、神が単に外面的、もしくは「聖め」について関係したこと何を言っているのか考える時、そのことを吟味させられるので有益なこととなるのです。
すでに、血による聖別の書かれた章の中で、私たちはある者が確かに交わりによって聖別されたと告白し、そして、今でも非現実な歩みをしているのなら、その者は最後に背教者になるだけのことです。
同様にこのことを真実として信じる別の理解をする人々の中で、真面目な目的とする者たちは、交わりによる聖別を語っています。
それは祈る者のあこがれでしょうか?
そして、すでに得たものがいるでしょうか?
すべての者に可能なことであり、すべての者が救われるのでしょうか?
しかし、そのようなことをする前に、そしてそれを視野に入れても、彼らはすでに聖別されています。
コリント人への手紙第一の7章のこの節は、私たちにとって今、必要な個所なのです。
私たちが聖書の中で持つ、結婚に関連した最も完全な教えを含んでいます。
10節から私たちは読んでみましょう。
「次に、すでに結婚した人々に命じます。命じるのは、私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。
・・もし別れたのだったら、結婚せずにいるか、それとも夫と和解するか、どちらかにしなさい。・・また夫は妻を離別してはいけません。」
新改訳聖書 コリント人の手紙第一 7章10〜11節
このことについては、マタイによる福音書19章1〜12節に記録されているように、主はすでに明確な教えを与えています。
しかし、福音が異邦人の異教徒のあいだに広がったのですが、主の御言葉に出会うために場所が十分に与えられていませんでした。
ユダヤ人に主が語られたように、彼らにも話されなければなりません。
異邦人たち全体は神から離れて生活していたのです。
この問題はすぐに教会を煽動し始めました。
このような場合を推測しています。
(そこでは多くの者がそのようでした。)
異教徒の妻が真の神に立ち返りました。
しかし、彼女の同伴者は汚い偶像崇拝者のまま、もしくは、その逆です。
クリスチャンのパートナーは真の神に立ち返っていない配偶者との結婚関係のままでいることができ、そのパートナーは汚されてはいません。
ユダヤ人にとって、そのような状態であることはまさしく罪でした。
エズラとネヘミヤ記の時代に帰ってきた残りの者は、周りの多種多様な国々の妻を連れてきました。
その結果は混乱でした。
「彼らの子どもの半分はアシュドデのことばを話し、あるいは、それぞれ他の国語を話して、ユダヤのことばがわからなかった。」
新改訳聖書 ネヘミヤ記 13章24節
この状態は神を敬うユダヤ人リーダにとって忌まわしい出来事です。
そして、すべての違う妻たちと彼らを離すまで、ユダヤ人リーダは心に安らぎを持つことは出来ませんでした。
そして子供たちも同様に汚い物と考えられ、イスラエルの純潔のためにユダヤ人に嫁ぐことを禁じました。
彼らの手の中には旧約聖書だけがあり、もし誰か熱心な者がいたのなら、彼らはそのことに驚くことが出来たはずなのです。
エルサレムから来た善意を持った律法主義者は異邦人の集まりの中をも、扇動者のように進み、この種のすべての汚染源に対して反抗して、撲滅運動を語り、あらゆる方法によって家族を解体したのです。
それは清くない関係の結果として、異教徒の妻を追い出し、彼らの子供を勘当することを、改心した夫に相談を持ちかけることでした。
そして、クリスチャンの妻に偶像崇拝の夫の抱擁から、そしてすべての愛情に払われた犠牲になるものから逃げるように勧め、彼らの子を見捨てます。
それが神の「聖め」のための最高の犠牲なるのでしょうか?
それはこのようにちょうどこの実情を阻止するためでした。
御言葉はこれらのことを追い求め、私たちは、すでに考えてきたことはあらゆる恵みの神の霊感によって書かれたのです。
そのような時がまだ来ていなかったので、この例のない状態について主は何も話していません。
したがって、パウロは書いています。
「次に、そのほかの人々に言いますが、これを言うのは主ではなく、私です。信者の男子に信者でない妻があり、その妻がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。
また、信者でない夫を持つ女は、夫がいっしょにいることを承知しているばあいは、離婚してはいけません。
なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。
しかし、もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。そのようなばあいには、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。
なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。」
新改訳聖書 コリント人の手紙第一 7章12〜16節
ここに、私たちに並外れた恵みの力が表現されています!
律法の下では、清くない同伴者は聖別された者を汚します。
家族は神の制度です。それは国よりも古く、イスラエルよりも古く、教会よりも古いのです。
ここの個所は、聖書の他の個所とともにはっきりと神の人々として救うことは神の意志であることを表しています。
神は、ご自身が創造した自然の結び付きを無理やり引き離そうとはしませんでした。
もし神が家族の長である人間を救うならば、全ての家族のために祝福する備えがあることを示しています。
このことは個人的な責任について触れていません。
救い、それは常に真実であり、それは「血によるのではありません」。
しかし、一般的に言うならば、これらの者たちの家庭を開放することが神の考えなのです。
神は宣言しています。
一人の親の救いが他の者を聖別し、その子供も聖別されているのです。
これらの人々の中に何か変化が起きたのでしょうか?
いいえ、何もありません。
彼らは今でもまったく悔い改めず、彼らの邪悪な歩みだけを愛しています。
恵みを軽蔑し、神の裁きを恐れていません。
しかし、彼らはそれでも聖別されているのです。
完全主義者の聖別の見解はどのように同意しているのでしょうか?
ここで言われていることは、内部的な清めを意味することは御言葉が証明しているように、完全主義者の考えは地に落ちます。
現実に完全主義者はそこに語源に基づかない勝手な意味を付け加えています。
聖書に不真実な、実験的な偽りです。
今、私たちが今求めている聖別は、明白に、そして完全に適用され、残りの家族の者の状態は、一人の親の改心によって変えられます。
それは神の見方は、異教徒であることを求めているのではなく、クリスチャンになることです。
家族の者はもはや闇の中に住んでおらず、光の中に住んでいるのです。
私をここで誤解してはいけません。
私は霊的な能力または無能さを説明しながら、光とやみについて話していません。
異教徒の家の中はすべてが暗いのです。
そこには全く光がありません。
しかし、その家族の1人の親が神へと改心します。
その時、何が起こるでしょうか?
すぐに、燭台はその家に置かれます。
彼らがそれをするか、しないのではなく、その家族のすべての他の者の上に光が照らされます。
そして、彼らはその特権ある場所に置かれ、今まで真の神を知らなかったという責任を持つのです。
そして、すべてこのことは彼らの魂においては救われてはいませんが、このような働きの見方があることを理解することが出来ます。
らされた神の方法は一人の親が改心することであり、キリストの栄光ある願いは家族全体が救われることです。
看守の場合においても、神は神の僕に宣言させました。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
新改訳聖書 使徒の働き 16章31節
しかし、彼らはすぐに看守の心にこの事実を伝え、同じ方法を彼自身の時のように彼の家族にも救いの道を開いたのです。
そして、神はゆえに彼をこのように取り扱われたのです。
看守が信じた瞬間に家族の者は聖別されました。
そして、すぐに喜びが家全体に満ちました。
その時、すべてが恵みの宣言に答えられたのです。
(愛するC.H.マッキントッシュの「あなたとあなたの家(Thou
and Thy House)」によってこの主題の優れた働きを、私は心からここで推薦します。)
その時のことを手短に言うのであれば、「聖別に関して」聖書は何を教えているのでしょうか?
このテーマはたびたび、見過ごされ、無視されてきたのです。
深い威厳と家族がクリスチャンの一員であることの重要性、しかし、その者たちのすべてが救われているとは限りません。
「なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。」
新改訳聖書 コリント人の手紙第一 7章16節
一生懸命奉仕します。
日ごと休む前にも、キリストは生きており、また、祈ります。
神が彼らを聖別したことをあなたを通して知りました。
そして、彼の恵みを信頼し、彼らが彼らの必要を知る時、彼らは救われることを期待します。
わたしはここでより長くこのテーマを追及することはできません。
それは私たちの前にある、主題から注意をそらすことになるからです。
しかし、私の信頼することは最も単純なことであり、私の読者の無知を今、気付かせることが出来ます。
聖別と無罪性は、反対の意味である場合、性質を示しているはずです。
そして、この文章とともに、聖書の中にある聖別という実際の単語が使われている私の問答は終わりに至りますが、この主題を出し切ったことを意味していません。
そこには今でも、調べられている他の言葉があります。
完全主義者は同じ事を考えています。
そして、彼らは聖別されようと肉体の思いをもって、全体を破壊する、自分の気に入った神学を教えています。
続けてより多くの文章を通して、主は喜んでこれらことを取り上げられるでしょう。